定義としては元々そうなのですけど、今まで、このことを「雑念」と大雑把に解釈しておりました。しかしながら、ここに来て、確かにヨーガ・スートラのヴィリッティは定義そのままの「波」と解釈するのが正しいように思えてきました。
瞑想が進んで静寂が深まりますと、心の中の微細な波にも気がつくようになります。
実際のところ、少し前までは、この細かな「波」がある状態が普通で、この「波」が更に静まる状態というものを知らなかったわけですけど、その、波がわずかにある状態において心の中の雑念が消えた状態のことを、今まで、ヨーガ・スートラの「心の死滅(ヴィリッティ、波を抑制すること)」と解釈していました。
しかし、その解釈は瞑想がそれほど進んでいない時はそれはそれで一応の真実を表しているのですが、実際のところ、ヨーガ・スートラの一番初めのヨーガの定義で言わんとしていることは、まさに、文字の意味そのものだと思うのです。
(2) ヨーガは、心(チッタ: Chitta)がさまざまの形(ヴィリッティ(ス): vrittis)をとるのを抑制することである。
「ラージャ・ヨーガ(スワミ・ヴィヴェーカーナンダ 著)」P117
この最初の定義は、世間では割と「雑念」あるいは「心」のことと解釈されていて、私もそう解釈していたわけです。と言いますのも、サンスクリット語のチッタが表すのはいわゆる心のことでもありますから、「心の声を止めること」「思考を止めること」などと解釈されてきたわけです。それはいわば、「心のコントロール」こそがヨーガである、という解釈であり、それほど間違ってはいないものの、本質とは若干ずれているように思うのです。
そのように、「思考を止める」という解釈に基づいた場合はヴェーダンタ学派がヨーガ・スートラを批判する口実のように「思考をやめて、それで、一体、どうするというのか」というお話が出てくるのですが、それは確かに、「思考を止める」と解釈してしまうとその通りおかしな話になるわけですが、文字通り、「波」を止める、と解釈すれば矛盾はないのです。
ヴィリッティというのは文字通り「波」ですから、奥底に眠っている、横たわっている「波」なわけで、その波は海のように基本的にずっと動いていて、多少の波の大きさの違いはあれど、基本的にずっと波打っているわけです。そして、世間一般的にはこの「波」は「思考のこと(考え、雑念)」と解釈されてきたわけですけど、それは確かに初期段階ではそういう見方も正しいのですが、ヨーガ・スートラの文そのものの意味をそのままストレートに解釈するのがおそらくは正しくて、この「波」とは思考や雑念のことというよりはむしろ、心の底に横たわっている「波、そのもの」をそのまま意味しているように思うのです。
ですから、実のところ、ヴェーダンタ学派が言うように、「思考をしていてもしていなくてもアートマンは不変」と言っているのは正しくて、思考をしていてもしていなくてもこの「波」は奥底にずっと存在し続けますから、波が静かな状態で思考をすることももちろん可能ですが、波が激しいと思考をするのが相応に難しくなる、という、とてもわかりやすいお話だと思うのです。波が静かであれば思考をせずにありのままを認知することもできますし、一方、必要があれば思考することも、もちろん可能なわけです。
その根本はというとヨーガ・スートラもヴェーダンタも同じで、心の波(ヴィリッティ)を停止させた時に真実に至る、という点なわけです。言い方としてヨーガ・スートラでは「心の死滅」と言ったりヴェーダンタではアンタッカラナ・シュッディ(内面の浄化)と表現は違えども同じことで、到達点としてもヨーガ・スートラではプルシャ(純粋観察者)と言ったりヴェーダンタではアートマン(真我、あるいはブラフマン)と言ったりして、それぞれの学派ではお互いに違いがあるように思われてはいることも多々ありますけど、実のところ、同じことなわけです。
心の波が収まり、静寂になり、更に、心の中の波(ヴィリッティ)が一段と静まると不二の感覚が現れ、ワンネス、あるいは、プルシャ、はたまたアートマンを知るわけです。
それを踏まえると、少し前からヨーガ・スートラの「心の死滅」を達成できたかなと思っていた状況は、実は微かに垣間見ただけで、まだ完全には達成できていなかった、ということにもなります。最近になってようやく、多少ながらその状態に達成しつつあるのかもしれません。