自他同一、ワンネスがサマーディ(三昧)

2023-09-09 記
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

これは文字通り、そのままなのです。ですから、理屈でもなくて、単なる教科書の法則でもなくて、単なる物理法則でもなくて、文字通りそのまま自他同一でワンネスのことなわけです。

言葉にしてしまえばなんてことはない、割とスピリチュアルや精神世界で言われていることそのままで、言葉としては特に目新しさもないのです。しかしながら、実際にそれを体験すると、文字通りそのままでありますから、古くから多くの人に言われてきたことは、そのまま、その通り真実であることがわかるわけです。

とは言いましても、これは、まだまだ、限られた領域におけるワンネスだと思うのです。ヴェーダンタ的に言うのであれば、まだアートマン(真我)としてのワンネスだと思うのです。

とは言いましても、本当に「全体」としてのブラフマンというのはこの小さな人間が生きているうちに経験することはほとんどないと思いますから、あくまでも、ある程度の限られた領域におけるワンネスをアートマン(真我)として経験しているように思うのです。

このあたり、流派によっては区別がなくて、理屈から言えば確かにアートマン(真我)はブラフマンそのものですからアートマン(真我)が「全体」という理屈は一応は成り立つのですけど、この生きている人間が本当に「全体」というレベルに達することはなくて、そこには乖離がありますから、そこはやはりアートマン(真我)が便宜上の「個」に相当するものとして「個」としてのワンネスの状態にあるのかなと思います。

ここで、ワンネスなのにどうして「個」なのか、それは矛盾しているのではないかと思われる方もいらっしゃるかもしれませんけど、アートマン(真我)としての存在はまだ範囲が限られたという意味において便宜的に「個」という表現を用いており、その一方で、ブラフマンは「全体」ですから、どちらもワンネスではありますけど、そこには乖離があるわけです。

ここで言っているのは、ある程度の範囲が限られたワンネスとしてのアートマン(真我)のことであり、それは、文字通り、自他同一なわけです。

理屈だけで言ってしまうとヴェーダンタ学派が言うようにアートマンとブラフマンは同一であるからアートマンは「全体」だ、ということも一応は言えてしまうのですけど、実際にはこれら2つが異なる表現になっているのは実態としても適切で、あくまでも我々の個別の意識は範囲が限られた中におけるワンネスですから、本当に「全体」になることは、少なくとも我々の短い人生の中ではほとんどあり得ないのです。