サマーディ(三昧)における合一の三段階

2023-09-09 記
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

▫️合一
まず、強力な意識あるいは光と結ばれて、やがてその繋がりが強くなり、自分が神になったかのような、そうでもないような、合一体験をしばし繰り返します。

この時点ではまだ神様の世界に目覚めたわけではなくて、でも、合一の始まりなわけです。

自分のもともとあった自我の意識より遥かに大きな意識が入ってきて、ある意味、それに圧倒される、今まであった自意識は観念して降参する、自分というものを、もっと大きな意識に明け渡す、それを少しずつ行うが、多少は抵抗がまだ発生して、抵抗しても無駄である状態がしばらく続き、自尊心のエゴが悲しくなって涙を流して「自分」という意識が消え去ってゆく、そのような、もっと大きな意識に飲み込まれていく段階だと思うのです。

▫️魔境
大きな意識に飲み込まれると、今まで抑圧していたり隠れていた様々な古い感情が湧き出てきます。この段階が、いわゆる魔境あるいは魔と言われている段階に相当するように思います。

これ以前ではあっても、長い時間をかけて雑念やトラウマを解決するべく精神修養を続けてきたとしても、この段階でようやく全てに向き合って、ほぼ全ての過去の経験をイメージで思い出して再体験する期間があるように思うのです。

実のところ、これは自分自身にとっては意味があるものの他人にとってはそれほど価値のないことも多く、支離滅裂だったり、現実に即していないこともあったりはするかと思いますが、そのような非現実も含めて現実に即した様々なイメージや誘惑にさらされる時期のように思うのです。

一般的には、とてつもなく深い恐怖や暗闇の深淵、はたまたドラクエの最後のボスの質問のように「この世の王にしてやる」みたいな、神を装った悪魔の誘惑があったりするようです。

私の場合は恐怖というよりもむしろ、過去の悲しい思い出が数十年分まとまって数週間にわたって出てきて、その余韻も含めると数ヶ月にわたって魔境を経験していたように思います。

▫️ダルマメガ・サマーディ(法雲三昧)
光が入ってきて、それと一体になる。
実のところ、上に書いた合一と似ている部分も多いように思います。
このあたり、定義が曖昧で解釈も多様ですから、広義における合一のことだと解釈していいと思います。


そして、これらの状態が半年とか数年続くと、やがて、意識が統合されてきて、顕在意識のまま神の意識であるワンネス、サマーディ(三昧)を認知できるようになるように思います。

最初は、神意識であるハイヤーセルフあるいはプルシャのようなものが入ってくるとそれに圧倒されて、ただ単に神意識が入ってきた、とだけしか概ね感じられず、それだけでも至福の極地でもあるわけですが、それはまだワンネス意識としてきちんと目覚めた状態ではないわけです。

おそらくは、私は、この最後の段階にそろそろ入り始めてきていて、多少ながらワンネスのサマーディ(三昧)の次の階層で認知できるようになってきたように思うのです。

以前は、これがワンネスでサマーディ(三昧)かなと思う状態には幾度となくなってきたわけですけど、思うに、それはまだまだ精度が低かったように思うのです。ワンネスとしての認知としてもそうですし、自覚として「そうかな? たぶん、そう」と自分で疑問符がつくくらいの認知でしかなかったように思うのです。

ここにきて、「あぁ、これが本当のワンネスだ。これが本当のサマーディだ」と思えるような状態にようやく達しつつあります。

この認識には、アジナがそれなりに開かないと到達しないように思うのです。アジナは今までも多少は開いてきたわけですが、ここにきて、アジナの少なくとも頭の下半分が十分に開けてきて、以前から少しずつ段階的に開いてきたわけですが、今までの開きは十分ではなくて、ここにきてようやく、ワンネスといえるほどにまでアジナが開けてきたということかな、と思っております。

アジナはまだ完全に開いているわけではなさそうですし、サハスララの開きも中途半端ではありますが、一応のワンネスのサマーディ(三昧)ではあるのかな、という気がしております。