人霊の導きに従うのか、神様の導きに従うのか

2023-09-09 記
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

これは大きな違いであるわけですけど、人霊であってもアストラルの体になって長い時間を過ごしているとそれなりの力や見識および予見力を持って、そこらのへなちょこな修行者を圧倒するほどの知見と神々しさを持っていたりするものです。その際、割とありがちなのが、それはあくまでも修行の進んだ人霊であるのにも関わらず神様のように拝んでしまったり、その導きの声に従って道を外れてしまうことが意外によくあることだったりします。

まず大前提として押さえておかなくてはならないことは、人霊あるいはアストラルの存在、はたまたカーラナ(カラーナ、コーザル、原因)の存在であったとしても、それは神様ではなくて、物体の側に属している意識体であって、物体を超えた世界の神様ではないのです。アストラルやカーラナの意識体の場合はカルマにまだ縛られていて、悟ってはいないわけです。とは言うものの肉体のくびきから解き放たれてそれなりの自由な状態になって時空も多少は越えられるようになる意識体もあったりして、そこそこ未来の予見もできたりすると、その導きを受けた地上界の人間はまるで神様が導いてくれているかのような気がして、それに従ってしまうことが往々にしてあります。そうして新興宗教の教祖が生まれたり、はたまた、何某かの信奉者が生まれるわけですけど、かと言ってそれが悪いということはなく、何事も、分相応にできているわけで、その見識の人だからこそ、そのような意識体に付き従う、ということもあるのだと思います。

一方、カルマの制約から解き放たれた、物体から解き放たれた神様というのはもちろんいて、そのような神様というのは意識体というよりも純粋な光、神々しさ、それのみなわけです。全てがワンネスでありますから、何をいうでもなく、全てを許容して光に包んでくれるのが神様の特徴です。

ですから、小難しいことを言って従わせようとしたり、命令したりしてくるのは人霊などのアストラルの存在であることが多くて、生まれたことのないアストラルの存在のこともありますけど、あれこれ言ってくるのは地上の生活に縛られた存在であることが多いわけです。

スピリチュアルな団体にしても、どの程度の意識体はたまた神様に導かれているのかによって教えがかなり異なってきます。

アストラルな存在が導いている団体、はたまた、カーラナの存在が導いている場合は、特にアストラルな存在の場合は、命令をしてきたり、自分(アストラルの存在)に従うように強制が入ってきたりします。そして、指示に従っていれば良いことがあるが、従わなければ罰があったり、はたまた、従わなければどうにかなる、というような脅し文句が多少ながら入ったりするのがアストラルの存在の特徴です。このような脅しの入るアストラルな存在、はたまた、脅しはなくても命令してきたり従うように圧力をかけてくるような存在は、そこまで上等の存在ではないのですけど、何故か、このような存在に盲目的に従ってしまう人が意外に多いのです。それもこれも、本当の神様というのがどのような存在なのかということを知らないのが一つの原因かと思います。

神様というのは、上に書きましたように、純粋な光、神々しい光、それのみなわけです。それは言葉だけではなく、強烈な根源のエネルギーが満ち満ちていて、創造性と維持と破壊のエネルギーの混合になっています。

神様の本質というものを勉強していなければ、何が本物の神様かという点について見誤ります。

例えば、良いことだけを言って偽物の光と甘い言葉に満ち溢れていて「何でも許容」という教義の団体があったとしても、それは大抵の場合、偽善的な教祖が作った団体でしかなかったりします。本当の神様というのは光そのものではあるけれど、現実に対してはとても厳しい、創造もあれば維持もあって、破壊すらある、物事を作り出すには破壊が必要だし、創造したものを維持する力にも満ち溢れています。

人霊の方はとにかくまやかしが多くて、見識がないと見誤ることが本当に多いように思います。

それよりも、本物の神様に出会えたなら、それはそれは幸せだと思うのです。そのような団体かどうかを見極めることが必要に思います。

具体例を言いますと、1年ほど前にセミナーを受けた、「受講しなければスピリチュアルの成長はない」と煽る悪徳教師が例に挙げられます。このように、威圧的はたまた脅しをかけて受講させ、指示に従わせようとするのが力を持ったアストラル体の特徴で、このセミナーの団体はそれなりの魔術的手法を使って、それはそれで確かに多少の効果があることは事実ですけど、それは、ある程度長く生きたアストラル体であればそれなりの力を持つのは当然で、その力というのはそんじょそこらの霊能者より遥かに強くて、ちょっと喧嘩をしようとしても必ず負けてしまうほどの力を持ったアストラル体の存在は数おおくいるわけです。ですから、魔術的手法が嘘だとは言いませんけど、考え方の点で「俺が」「俺が」「ここだけ」「他は偽物」みたいに、自尊心丸出しのことをペラペラと講師が言って煽ったり他を否定している時点で、大したことはないとわかるわけです。繰り返し言っておきますが、魔術的手法はそれなりに本当だとは思いますが、導きが神様ではなくて、アストラルの存在、悟ってはいない、カルマに縛られている存在が導いている、という特徴が随所に出ているわけです。

他の例で言いますと、私は外国のとあるスピリチュアルな団体に1週間ほど滞在した時、そこのホールに居着いている意識体を感じたのですが、誰だろう? と思ったら言葉で「シバだ」(インドの神様の名前)と返ってきて、私は、ちょっと疑問に思ったわけです。本当の神様が、そんな、名前で「シバだ」なんて言うだろうか、と。本当の神様ならば、シンプルに神々しさと光と共に創造・破壊・維持のエネルギーを感じるわけですけど、この場合、普通に人間の修行者っぽい感覚しか受けませんでしたので、おそらく、昔の修行者が天界に上がれずに(成仏できずに)地上に留まって導きっぽい振る舞いをしているだけなのかな、と思います。

このお話には続きがあって、そこでボランティアで働きながら修行をしている人がその意識体に「出家しろ」と言われたらしく、その言葉を本人だけでなく周囲の人も聞いて、「こんなことを言っている」とお互いに言い合って、それで、その気になってしまった子がいるわけですけど、こういう大切なことを、アストラルの意識体に言われて決めるという時点で神様の本質というのをあまりわかっていないのだと思います。

よくあることではありますけど、見えない存在に言われてしまうと何か特別な気になってしまって、盲目的に受け入れてしまう意図がそれなりにいるわけです。ですけど、言葉や指示があるということはアストラルな存在あるいはカーラナの存在でしかないわけですから、それは、見識は多少深いとはいえ基本は生きている人間とは変わらないのですから、人が誰か他の人に言われたり指示はたまた推奨されたからと言って盲目的にそれに従うということはそれほどないと思うのですけど、それなのに、何故か、見えない存在に言われたら何か神秘的な気がして割と盲目的に従ってしまう、ということがよく起こるのです。それを利用してアストラルな存在は自分に付き従う人、信者を増やして更に力を増大させるわけです。付き従う間はそれなりに利益も得られるでしょうが、カルマを超えていないアストラルの存在は利益に対して何某かの要求をしてくるのが常で、実のところ、後でかなり厄介なことになりますので、あまり関わらない方が良いと言えます。

それよりも、純粋な神様の導きに従って修行する方が余程安全ですし、成長も早いように思うのです。