大体の場合は先に入門した門人あるいは先生が幅を効かせることになって、それは指導という面においては有効ではありますけど、ことあるごとに「貴方、⚪︎⚪︎を受けた? 何年?」と問い正して、受講年次によるヒエラルキーを明確に意識させた上で指示系統としてもそのように従わせようとする人がスピリチュアル団体には一定数いるわけです。
そのような人は大抵の場合、「スピリチュアルなエゴ」が拡大していますから、自分が優れた存在であるという自負、それは幻想であることがほとんどなわけですが、スピリチュアルな初心者だからこそちょっと勉強してコースを卒業したくらいで自分がスピリチュアルで優れているかのような錯覚を抱いているわけです。
本当にスピリチュアルに上達した場合は、むしろ、周囲の人のほとんどが実は悟っているかのような錯覚を覚えるという段階を経て、そのあとは、割と正確に周囲の人の成長段階を図ることができるようになります。
0.スピリチュアル的な無知(アヴィディヤ、無明)の状態。
1.成長したかのような錯覚。スピリチュアルなエゴ(自我)の拡大。
2.周囲の全ての人が悟っているかのような錯覚
3.無を経由して有を知る。周囲の人々の(割と)正確な(大まかな)成長段階の把握
このうち、1の段階にいてあたかも成長したかのような錯覚を覚えている人がスピリチュアル業界には大勢いて、そのような人が団体にいた場合、先にセミナーや講師などの資格を取ったことにより自分がヒエラルキー的に上位だと錯覚し、新しく参入してきた人を顎で使ったり頭ごなしに命令したり怒鳴りつけたり見下したりする、ということがよく起こります。
これは割と少なからず必然で、完全に避けることは難しく、それ故に、スピリチュアル的な素養というものが大切で、もともとそのような横暴な性格でなければセミナーや資格を取ったとしても横暴になることはなく、一旦そのようにスピリチュアル的なエゴが拡大して自尊心が拡大してしまったならば、むしろそのスピリチュアル団体から一旦は出た方が幸せなのではないかと私などは思うのです。
社会を知るだとか、ヨーガ的にいうならば「カルマヨーガ」だとか色々と理由はつけられますけど、要は、1の段階でハマってしまって抜けることができないのならば、一旦は環境を変えたほうが良い、ということだと思います。1の段階というのはセミナーを受けようが資格を取ろうが、どちらにせよ初心者のレベルでしかなく、知識は拡大して色々なスピリチュアルなことを知ってはいても、エゴが拡大している状態ではなかなか次の段階へは進まないわけです。
そのようなハマり状態の人が次の段階へと進むには、団体を抜けるとか、大きくショックな出来事が起こるとか、何某かのきっかけが必要なことがほとんどのように思えるわけですが、謙虚であってハマることがなければ素直に次の段階へと進むこともできるというのに、意外にも1の段階から抜け出せない人が多いように思うのです。
一旦ヒエラルキーを作ってしまうと命令系統ができてしまい、指示を出す、指示に従う、という関係性ができてしまいますからスピリチュアル的な成長が阻害されます。そこも良くない点です。
会社によくいるお局様のように、困った勘違いのシニアがいて、ヒエラルキーを元に怒鳴りつけてきたり他人を軽視して、スピリチュアルな団体だというのに基本ができていないわけです。
そういう時、介入として、時折、激しいショックを与える役割の人が一時的に出て、激しく揺さぶることにより疲れさせてスピリチュアルな団体から抜けさせる、ということがよくあるように思うのです。それは抜けたからと言って悲しいことではなく、1のハマり状態から抜けるには世間の一般社会に戻ってニュートラルなところで人間関係を再構築する必要があって、今までお局様としてスピリチュアル団体の中で幅を効かせていた人が一般社会に入ることで最初はとても苦労することでしょうけど、それでも、エゴを克服するためにそのような選択をする人も割と大勢いるように思うわけです。
実のところ、スピリチュアル団体でエゴが拡大して、自分が大声で誰かを怒鳴りつけたり命令していたとしても自分をスピリチュアル的に優れた人だと思い込んでいる人は割と大勢いて、もちろんそれは錯覚なわけですけど、自分のエゴに気が付かないほどに盲目だということです。
スピリチュアル団体が嫌われる理由の1つがこれで、入会あるいは入信はたまた講師などの資格を取っていない一般参加者のうちは「お客様」として扱われますが、会にいる歴史が長ければ長いほどお客様ではなくなり、次第に強い言葉で命令あるいは指導(という名の罵倒)が行われるようになったりするわけです。もちろんこれは団体にもよりますけど、一見すると平和そうな団体であっても、その一部にはこの種の困った人はいるわけで、割と避けることが難しいように思います。
実のところ、0の段階から1の段階へと至るまでは誰しもが割と素直なわけで、その入門段階の人にそこまで害はないと言えます。一方、ある程度の経験を経て、スピリチュアルな体験もして、知識もぼちぼち仕入れて、となると1の段階でスピリチュアルなエゴが拡大して、そこで停滞する、人によっては何世代もそこで留まって次に進めない、というハマりの状況も割とあるように思うのです。
このような状態においては、解決策は次のようになるかと思います。
A.入門して、1の段階に至ったら、一旦は団体を離れる。一般社会を経験して、十数年後に、また1からスピリチュアルを学び直す。
B.このような罠に嵌らないよう注意している団体に参加する。きちんとこのような段階を学べる団体に入門する。
C.そもそも入門せず、一般参加者のまま学ぶ。(例えば、カトリックの洗礼を受けない。灌頂などの儀式を受けない)
どちらの場合も成長は困難のように思えて、普通に入門するとかなりの確率で1の段階にハマってしまうように思いますし、最初は素直な人であったとしても先生として扱われてヒエラルキーの中で指示系統に従っているといつの間にかスピリチュアルなエゴが拡大し、そこからなかなか抜けられないと思うのです。
一般参加者のままでいると、大抵の場合はきちんと入門するよう勧められ、入門しなければ教えられないことがあるから、とか色々と理由をつけて入門させようとしますが、確かに入門したら学べることはあるのはそれはそうなのですけど、入門したが最後、ヒエラルキーの中に組み込まれてしまうのです。
スピリチュアル的には、人はヒエラルキーの中にいるわけではないのに、何故か、団体に入ってしまうと半ば強制的にヒエラルキーに組み込まれてしまって、団体によっては入門しない人はお客さんであるわけですけど、人によってはその区別ができていなくて、一般参加者や生徒さんを一番下とみなす人もぼちぼちいますから入門しなかったとしてもどちらにせよヒエラルキーから逃げられないわけですけど、それでも、一般参加者のままでいれば入門してがっちりヒエラルキーに組み込まれるよりはマシなわけです。
この種の、スピリチュアル的な自由というのは特に初心のうちは何よりも大切で、スピリチュアルなことを学ぼうと思ってもヒエラルキーに組み込まれてしまうと成長が阻害されてしまうわけです。この種のヒエラルキーはとても地球的で、本来はスピリチュアル的にはヒエラルキーなんてないわけですし、あるとしても入門の順番とは全く異なった順番になるわけですけれども、どちらにしても入門の順番で決まるヒエラルキーはおかしいわけです。手順としての享受における先生と生徒の関係はあれど、霊格は入門とは関係がないわけですが、先人が幅を効かせるのはスピリチュアル団体に限らずよくあることのように思います。
ですので、そのような問題のある団体の場合、深入りせず、基本は一人でいるのがよくて、必要な時だけ「場」を使わせてもらう、生徒として参加をするのが良いように思います。自分が何も知らない風にしていた方が良くて、先生から聞くだけにしていれば基本、良いわけです。
▪️1の段階における自己正当化の罠:
(条件付きの状況・環境で、一時的であっても)経済的に制約がない状態になると、エゴが拡大して自己正当化するという罠に嵌ることがあります。これは一般社会であれば経済的な制約がありますから仕事を失ったり評価が下がったりして相応の報いを受けるわけですが、スピリチュアルな団体において先に参入したというだけで地位が自己正当化され、しかも、経済的には他のところ、例えば専業主婦だったり何らかで賄う状況にあるとすればエゴが拡大しても報いというものをすぐには受けず、自己正当化が許容されてしまう状況になるわけです。そうして、まだまだスピリチュアル初心者であるにも関わらず自分が偉いかのような錯覚を覚えて、一方で、知識は増えますからますます尊大になって、キレやすくなって、それでいて他人には厳しい、他人に対しての怒りの沸点が低い(自称)スピリチュアル(上級者という自負)が生まれるわけです。
実際のところ、そのようなスピリチュアル団体は経済的な制約を持たない人が経済以外の理由で関わっていることも多く、例えば「認められたい」という気持ち、あるいは「居場所」を求める気持ちが形を変えてスピリチュアルの団体との関わりになり、例えばボランティアをすれば認められる、居場所が与えられる、という割と素朴な気持ちで関わっている人がいる一方で、エゴが拡大して、ボランティアを束ねるという「操作」に対する満足感を得たかったり、スピリチュアル上級者という妄想を他人に認めさせるために「先人」「お局様」として居座っている場合が多々あるわけです。
男であれば大抵は一般社会での仕事がありますからそこでこのような幻想も打ち砕かれて勘違いもそこまでしないことが多いように思いますが、女性の場合は経済的に旦那に任せっきりだったり、若いうちは甘やかされて育ったりしますから自尊心が拡大しやすく、中年以降に「スピリチュアル上級者」として扱われなければすぐにブチギレるような沸点の低いスピリチュアルな人が増産されていくわけです。これはもう、構造的な問題かと思います。
スピリチュアルな団体がNPOあるいは宗教法人という体を取っている以上、そこに参入の障壁は少なくて、希望すれば入れてしまうということは、準備の整っていない人も入って来られると言うことで、最初に入ったというだけの理由でスピリチュアル初心者が幅を効かせるという状況が生まれやすくなっているのだと思います。
昔のスピリチュアルであれば、そもそも弟子になるために師匠の許可が必要で、準備の整っていない弟子は取ってもらえませんでした。NPOや宗教団体という構造自体が、この種の問題を引き起こしているのだと言えます。
それでも、中心にスピリチュアルに優れたグル(師匠)がいればそこまで問題は大きくならないと言えます。
この種の団体は、NPOや宗教法人という性格上、経営としては損益分岐点がかなり低いため、なかなか潰れず、かなり長い期間、存続します。その結果、勘違いしている人が(自分の過ち、自分の勘違いを正すために)「学ぶ」機会が限られていて、喧嘩して疲れて出ていくか、あるいは、会そのものが成り立たなくなって解散、というところでようやく学ぶこともあるのかなと思います。
どちらにせよ、1周目のスピリチュアルとしてはこの種の問題にそのままぶち当たることも多く、一旦はスピリチュアル団体から離れて頭を冷やして、2周目とかにやり直すのも良いかなと思います。
▪️頭の良さ、の重要性:
このような場合でも「頭の良さ」というのは重要で、かなりの場合、1番の「エゴの拡大の罠」に嵌っている人はあまり頭が良くないわけです。頭が良ければ「あれ、おかしいな」と違和感に気が付くわけですけど、実際にあった具体例で言いますと「ミッションとビジョン」の違いがわかっておらず、誰かが「毎日の業務(フロー、単発)に一生懸命になっていて現状それが100%近い状況なので、ストックを増やしていって収益の平準化と安定化を図るべき」という(経営的に)尤もな発言をしたかと思えば、ヒエラルキーが高い御局様は「心地よい環境を作ってもらうことが目的なのに、話がずれている」みたいに、理解していないのは御局様であるのにも関わらず自分の無知に気付かず皆はわかっていない、的な、トンチンカンな発言をして経営指南を頭から否定した挙句、ヒエラルキー上層部のメンバーが「べつに、毎月が回ればそれでいいかな」みたいな、短期的な視点に終始していて、長期的視点があまりなく、長期視点をしても否定されてしまうのです。更には「だったら、あなたがやればいいじゃない」みたいな、多くのNPOで聞く決まり文句も飛び出します。
この発言は一見すると最もそうに見えてしまいますが、これはキーワードで「あなたがやればいいじゃない」などと言う人には基本的に関わってはいけないのです。この発言を言う人とは距離を置くようにしています。
▪️「魚は貴方が取ってあげなさい」と言うNPOアルアル
「魚を取ってあげるのか、あるいは、魚の取り方を教えてあげるのか」というのはよくある命題ですが、魚の取り方を教えてあげているのに、魚を貴方が取ってあげればいいじゃない、と(御局様などの)ヒエラルキー上部にキレ気味に見下されながら非難される、というのはNPOアルアルです。私は若い頃に5年ほどNPOに関わりましたのでこの種のNPOアルアルは頻繁に目にして、スピリチュアル団体でも同じようなことに遭遇して、それゆえに、スピリチュアルであろうともNPOには関わりたくないのです。
変わりに魚を取ってあげるならわざわざそこのNPOとしての活動にする必要はなくて、ヒエラルキー上部の御局様のうるさい人に何か言われる筋合いはなくて自分で勝手にやりますし、そうなればNPOへの収入はゼロなのは当然で、全て変わりにしてあげるのにNPOに収益をあげる、なんて虫のいいお話はこの世界には存在しなくて、最初はそうしたとしても、すぐに変なことに気がついて辞めてしまうのが普通です。
人によっては、堂々と、あたかも正当なことかのように「NPOでは、発言して提案したら、君がやるんだよ」と、正しいような正しくないようなことを当然かのように言う人がそこかしこにいます。おそらく、少なくとも東京のNPOではこれが常識になっているのでしょう。
そのようなことを言われて最初はやってみたものの、丸投げなのに利益はNPOに入るというのはおかしいと違和感を感じて独立する人が稀にいますが、こうして独立して起業した人を横目で見たヒエラルキー上層部は何を勘違いしたのか「あの人は、NPOに全く利益を還元しない(アイデアを貰ったのだから、還元すべき、という理屈らしい)」などと罵っていたりしたのを目にしましたけど、勘違いしているのはヒエラルキー上層部の方なわけです。丸投げで利益だけもらえる、なんて too good to be true なお話は存在しないのです。確かに、勉強のためにNPOの環境は役だったでしょうが、アイデアがあればそのまま簡単に起業できるとでも思っているのでしょうか。起業してうまくいくまでにはいくつも壁があります。世間知らずにも程があります。
NPOが成長しないのはこのあたりの構造にも起因しているように思います。せっかくNPOに「魚の取り方」を教えてあげるという人が来ても、すぐに「だったら、貴方がやればいいじゃな(貴方が魚を代わりにとってあげればいいじゃない、貴方がやるべき)」と突き放すような各種NPOは、もう少し社会を学んだ方が良いかと思います。
又、NPOやNGOではかなりの場合で「大企業はダメ、小さな会社が良い」と言う幻想を抱いていて、特に工業製品なんて大量生産なのですから小さいところに頼むより大きなところに頼んだ方が品質も値段も安定していてコスパが良いことがほとんどであるのにも関わらず、例えば「無印良品やユニクロは大企業だから」とか言って小さな零細を選ぶ傾向があるように思います。確かにそういうところはウイグルの問題があったりしますけど小さいところはそれはそれで問題が多くて、小さい零細は一見すると安いように見えても他にコストが乗ってきたり、品質が悪かったり、他所で品質チェックで弾かれた商品を安く出していたりして、実は無印やユニクロの品質チェックで弾かれたものを安く流していたり、零細はピンキリで、狡いことをして利益を出しているところも多く、大抵はいいことがないわけです。そう言うことを指摘したことがあるのですが、その時、御局様は怒りの沸点が低くてすぐにブチギレて「自分はこれをやってきたんだ!! 黙ってろ!!」と、部屋に響き渡るような怒号で非難されたこともあります(割と最近ですけど)。これは普通のNPOではなくてスピリチュアル団体のヒエラルキー上部の御局様からそう言われたのですけど、普通に言ってくれればいいのに、一言二言目にいきなり怒りの沸点に達してブチギレる人がNPOのみならずスピリチュアル団体にそれなりにいるわけです。本当に世間知らずの無礼なスピリチュアル上層部です。
私としても、最初すぐにその人が怒りの沸点が低いイライラ系の御局様だとわかった時点で関わり合うのをやめて距離を取れば良かったのにそうしなかったのがいけなくて、黙っていれば良かったところを余計な口出しをしたのがいけない、というのもあります。そこは反省するところです。「不道徳な人とは関わってはいけない」という原則を厳密に守れなかった私がしっぺ返しを受けた、というのは、この世の法則として当然とも言えます。
他の例としては、例えばストックとして「NPOで書籍を出版して、自分たちで出版会社を作ってISBN番号を発行できるようにして、10年後に向けて収支を安定させましょう」と提案をしたら、全く理解していない同じヒエラルキー上部の御局様(上で書いた、ブチギレてきた人と同一人物)が堂々と「本なら前に売っていたじゃない。本なら誰々さんが出しているじゃないの」とか見当違いのことを言ってきたので私が「他人の本を売っても仕方がないですよ」と軌道修正したところ、指摘されたことが癇に障ったらしくてイライラして、私を睨みつけて「だったら貴方がやればいいじゃない」というお決まりの捨て台詞を吐いてきました。 よその出版社に頼んだら利益の大半を持っていかれて印税くらいしか入らないのに対し、自分たちでISBN番号を取って流通に流すようにすれば利益のほとんどはNPOに入るというのに、その辺りの構造も理解せずして頓珍漢なことを言って、理解もせず「貴方がやればいいじゃない」とか言いますけど、例えば私が出版会社を作ってそこから本を出したとして、利益は当然に会社に残るわけで、その利益をNPOに差し出すなんて虫のいいお話はあり得ないわけです。NPOの収支を安定させたいならNPO自身がやるしかないのに「貴方がやればいいじゃない」というお決まりの文句で突き放すのでは話が進まないです。また、NPOの一員として私がやるという話であっても、無給でそんなフルタイムの仕事をするような奇特な人は少ないですし、最初は無給でやり始めてもすぐにおかしいことに気がついて途中で辞めるのが普通です。スタッフがやるか、あるいは、NPOが資金を出資して株式会社を作って収支を独立させ、そこから株主あるいは家賃収入としてNPOにお金を流せば良いわけです。このようなことを言うと、NPOをしている人は「株式会社」と言う言葉すら聞くのを嫌がる人が一定数てヒステリーな反応になったり、全く理解しない状況も生まれます。
実のところ、そこらのNPOが「世のため」とか言っているよりも、多くの株式会社の方がよほど世のため人のために貢献しています。どういう言う前にしっかりと自分の仕事をしなくては世の中への貢献なんて成り立ちませんから、NPOに参加している人たちが、別のところで経済的な支えを得つつNPOで自己肯定感を高めたいだけに参加していたりすると、このように不思議な状況になって、NPOで自己肯定感を高めたいだけの人は経済活動がむしろない方が有難くて、経済活動がない、ということ自体が人を惹きつける原動力になっていたりするわけです。
この場合、団体の収益を安定化させましょう、と言う種類の提案は受け入れられず、理解されない、と言うのも、NPOに参加している人の多くの原動力が「経済活動から離れたところ」と言うところにあって、その一方で、他で経済的安定を得ていることを前提にしているわけですから、わざわざNPOで団体の収支を安定させるとかいう、会社っぽいお話をしても嫌悪感を持って拒否される、と言うのも当然なわけです。
この例においては、ヒエラルキー上部が何かを言われても「貴方がやればいいじゃない」という決め文句をして突き放し、結果、ヒエラルキー上層部は自己正当化して自尊心を高め、一見すると威厳があって凄そうに見える反面(実際、イベントなど見知らぬ人から尊敬を持って扱われたりする)、その一方で、すぐにキレるような、怒りの沸点の低い人というのが実態なわけです。それでいて周囲には「従順」を要求して、少しでも不愉快な行為を見つけると「心地の良い空間」とかいうお題目を取り出してきて、自分のキレやすさを棚にあげて周囲を非難しまくります。そして、そのような人が教えるスピリチュアルはどこから本筋から離れていて、「お互いに傷つかない社会を作る」と言いつつも、実は自分が傷つきたくないだけ、という前提が見え隠れしていたりします。そのように、とてもつまらない人がそのスピリチュアル団体のヒエラルキー上部にいたりするわけです。
そのように、NPOに深く関わっている人の一部にとってのモチベーションが「お金から離れること」であり、「お金」という言葉から離れることで心の安寧を得ることができるわけで、収支とか経営方針のお話をすること自体が悪だと見做されてしまうわけです。世間知らずが集まるとこうなります。ただ、そういう人の中には何故かお金を持っている人もいたりしますから、NPOにお金が足りなくなると寄付でまかなう、ということが起こって、自己正当化できる(歪んだ)環境が維持されるわけです。本当にお金が足りなくなれば固定費削減のために移転もあるでしょうけど、どちらにせよ、経済活動をなるべくしない、というところにこだわりがあるようです。そういう人たちにとっての「傷つかない空間」「心地の良い空間」というのは、経済活動を行わない空間、という意味でもあるのであって、経済の収支にまつわる提案をした私が忌み嫌われるのも当然と言えば当然なわけです。
(一部のコアな方々の)元々のモチベーションがそこでありますから、そもそも、求められてもいないのに余計な口出しをしたから激しく罵られて拒否されたのも当然なわけで、自業自得と言えます。最初から口出ししなければよかったわけです。これは、一見すると「自分でやらないなら、口出ししない方が良い」という意味のように見えるかもしれませんけどそういうことではなくて、「NPOがそもそも経済活動を求めていないのだから、求めていないものを与えようとするような、余計な口出しをしない方が良い」という意味で、私のしたことは余計なことだったわけです。
▪️NPOは無償の労働力の狩場
また、それと同時に、NPOというのは、無償あるいは安価な労働力の狩場になっているのです。無知な人々が好意でしてあげるボランティアの行為を利用して利益を享受しようと目論んでいる人が一定数いるわけです。それ故に、狩場で狩をしている人たち(無償で動いてくれる人を探している人たち)に向かって何か提案をしても「あなたがやればいいじゃない」と言う人が一定数いるのは当然なわけです。大勢は流されるまま文化的にそのように言ったり、はたまた、自分の仕事を増やしたくないからそう言うという素朴な理由なのに対し、狩場として明確な目的があって参加している人にはそう言う理由があります。そのような人は、自分が動くと言うよりも、自分のために動いてくれるボランティアが欲しいのであって、誰かのために(=その人、呼びかけ人、その本人のために)「行動」する人が欲しいのでありますから、自分が何かやるように言われても上記のようなことを言って拒否し、一方で、他人に対しては行動を呼びかけるわけです。「大衆のため」とか色々良いことを言いつつ、個人の利益のために動いてもらおうとする人が一定数います。NPOでよく「行動だ!」とスローガンを耳にするのは、他人を都合よく操作して労働力として働いてもらうための煽り文句なのだと言えます。とは言いましても、NPO団体そのものが表立ってそういうことを言うわけもありませんし、このことをよくわかっていないで「そんなものかな」と思っているだけの人も多く、真似して同様に言っていたとしても意図がそこまでないことも多いわけですので無自覚であればそこまで罪はないのですけど、労働力の狩場として明確な目的で参加している人も一定数いるわけです。ですから、「あなたがやればいいじゃない」と言う言葉は「あなたも、私のように、このNPOをうまく利用して(無償の)労働力を刈り取ってあなたの利益を享受すればいいじゃない」と遠回しに煽っている場合すらあるわけです。本当に、気持ち悪いです。表立っては良いことを言いつつ、NPOが無償の善意の労働力の狩場として狙われているのです。社会経験を積めば、このような気持ち悪い構造だと言うことがわかって、踊らされて労働力にされていただけだったことに幻滅してNPOから離れることが多いのも当然だと言えます。
例えば、上に書いた書籍販売にしても、NPOそれ自体で出版するのが最適であるのにも関わらず、自社の出版として出したがる人がいい顔してわらわらとNPOに近寄ってきます。それは大手であれば出版部数も伸びますし多少はNPOの利益にもなるでしょうが、零細の場合は部数もたかが知れていて利益の大半が会社(出版社)へ行くことになりますのでNPOにお金は微々たるものしか降りてこないわけです。そのように、いい顔してその人の会社(出版社)で出版させて利益を享受するための狩場としてNPOが存在しているという側面もあって、文字通り狩場ですから、NPOが儲かることはなかなかないのです。本来、NPOにとって一番良いのはNPO自身が出版社のようになって沢山本を出すことで、NPOそれ自身あるいはNPOが所持する別会社を作ってそこから出版すれば良いのです。他の人が持っている会社から本を出したところで手間がかかるばかりで、ほとんど儲かりません。これらのことをNPOに提案したところで理解されず、そもそも資金もなくて、人材もいないわけですが、それはもちろん、NPOが無償の労働力の狩場となっているわけですから焼け野原に残っている人はそう多くはないのです。NPOに関わる元々のモチベーションのうちの主要な1つが「経済活動から離れることで気持ちよくなること」であるわけですから、NPOにいるのは割と浮世離れした人か労働力の狩場として利用している人など変わった人が多くなり、まともな話ができないわけです。それに、NPOを狩場として利用している人はその本当の目的が見抜かれそうになると大笑いしたりゴニョゴニョ言って誤魔化そうとしたりして、それに大抵の人は流されてしまいますので本当の理解になかなか辿り付かないわけです。この辺りでも、頭の良さというのが大切になってきます。NPOは世間知らずの人が運営していることも多いですから、いい顔した人にすぐに良いようにコロッと騙されます。先日話した「詐欺師の笑顔」もNPOではよく見ることができます。
似た別の例でいうと、零細の印刷会社に印刷を頼んだ時に最初は「すごく安くできますよ」といいことばかり言われていたのに、発注して出来てみれば荒いジェットインクで素人が印刷したかのようペラペラな印刷物が出てきて皆が文句を言っていたのですが、その同じ人に問い正すと「綺麗にやるにはもっとお金がかかります」とか後出しでサラッと言われる有り様で、(ずるい)零細はこうことが割とよくあるので(最初は特に)信用し切れないのです。うまいこと言われて、してやられたわけです。こんなことは普通にあります。
▪️全ては学び
何事も学びの機会ですから、私があれやこれやと指摘したり、あのスピリチュアル団体のNPOのために代わりにしてあげたところで、それはあそこの人たちのためにはならないのです。学びの機会を奪ってしまうのは良くないことです。そういう意味においても、私の提案は余計なお世話だったわけです。もともと、放っておけば良かったわけです。
スピリチュアル団体が経営に困っても自業自得ですし、とは言いましても人々が無給で働いていれば損益分岐点はとても低いですから継続は容易で、寄付に頼って運営を続けるにしても、それはそれで傍目から見ていて特殊な環境というのは観察対象として面白くて、自尊心が拡大してキレやすくなり怒りの沸点が下がり続ける一方でスピリチュアル上級者を自称するという歪んだ状況は歪んだスピリチュアルの典型例として実在のモデルにできるわけです。歪んだ人がヒエラルキー上部の中心部にいて、本人はそこまで自覚がない場合が多いようですのでそこまで罪はないにせよ、新規参入してくる素朴で素直で本当に良い人のやる気を搾取し、使い捨てにする、という構図がこのスピリチュアル団体のみならず、社会運動や環境活動を標榜しているNPOに共通して起こっていることです。悪気なくそのように使い捨てにしている場合が多いのが厄介な点です。それは構造的な問題でしょう。であれば、自分がノコノコと新規参入してやる気搾取の対象にされてしまわないよう、気を付けるべきなわけです。
このように、スピリチュアル団体の先生ヒエラルキーに巻き込まれると、つまらない人に関わらなくてはならなくなって、自分の成長が遅れるわけです。ですから、基本的には、スピリチュアルなヒエラルキーの構造を持つ団体とは関わらないか、受講生として生徒として参加するくらいに留めておいた方が良いわけです。最近はスピリチュアルな情報は多く出回っていますし、結局、根幹のところは自分で瞑想するなどして掴むものですから、団体に求めるものは「場」だけであって、先生からの教授というのは最小限でいいようにも思います。最近はヒエラルキー構造なしに教えてくれる先生もいますし、団体として関わるのではなく、先生それぞれの個人的な関係で教えてもらうのはありだと思います。
そのように構造的に問題がある団体であったとしても下の先生はいい人であることも多く、場として時々、利用させてもらうのはありかと思います。そういう「場」は現代には少ないですし、運営している人たちに色々と問題はあったとしても場としては貴重なわけですが、ヒエラルキーに巻き込まれる必要はないわけです。
おそらくは、昔はスピリチュアルというのは個人的な関係だったのかなと思うのです。それがいつしか団体になって、ヒエラルキーになって、おかしくなっているように思うのです。
▪️参入に障壁を設けるのも良い
こうして思うのは、団体は何であれ、参入に「審査(試験)」が必要かもしれないということです。昔ならスピリチュアルなグルに弟子入りするにはグルの許可がいたことも多かったですが、今は割とどこのスピリチュアル団体でも誰でも入れてしまいます。NPOはそのほとんどの場合で誰もが入会できてしまい、そのことで、変な人も多く入ってきてしまうことになります。結果、NPOの乗っ取り、みたいなお話も昔に5年ほどNPOに関わっていた頃にはたまに耳にしました。
NPOは以下2つに本来分かれているが区分が曖昧のように思います。
・運営側(参入障壁あり)
・ファン(参入障壁なし)に
NPOに入会のための試験(面談)をつけるのも1つの手ですが一般常識的にそのようなことは少なくて混乱をもたらしますので、(自分でやるなら)NPOでやるより普通の株式会社や合同会社などにするのが参入に制約を設けるという点において良いように思います。登記をしていればそうそう乗っ取られることはありません。その上で、ファンクラブのようなNPOをその下に作るのも良いでしょうが、少なくとも運営に関わるには制約があるべきで、誰でも参入すべきではなく、ましてや「年数」で測られるようなものではない方が良いわけです。
スピリチュアル団体は以下3つにに本来分かれているが区分が曖昧のように思います。
・「グルと弟子という1対1の関係(参入障壁あり)」
・「運営団体(=弟子=参入障壁あり)」
・ファン(参入障壁なし、ボランティア)
別に悪気が無くても(頭の悪い人が)「年数」で大きな顔をして団体を混乱に陥れる、というのはよくあるお話だと思うのです。
そもそもグルと1対1の関係性における弟子であればそこまで問題は起きにくい筈ですので、グルの「許可」があって初めて弟子になって、その上で、運営のためには皆が協力する、ということであれば修行における進み具合と運営とが切り離されますのでそこまで問題にはならないように思います。
今の問題は(最近のスピリチュアル団体は)弟子入りみたいなものが許可なく(あっても形式的なもので)誰でも参入できてしまうところに問題があって、更には、どんな人でも求めさえすれば入れてしまった結果、団体に所属している期間とスピリチュアルな進み具合とが混同されてしまうわけです。団体に長く居さえすればスピリチュアルに優れているかのように扱われる風潮が問題なわけですから、弟子としての関係性と、運営としての扱いを分ければ良いわけです。運営であれば長くいる方がわかっているのは当然でありますから、運営のベテランはいても良いわけですが、それは修行としての進み具合とはあまり関係がないわけです。
昔は、(大抵の場合は)グルへの弟子入りは個人的にお願いをして許される、というものでした。今は割と知識が公になっていますけど、昔ながらのやり方はそれなりに意味があってのことだったのかもしれません。今もおそらく基本は同じが良くて、今は割と弟子をスクールのように応募しているところが多いですから希望すれば誰でも入れて審査なんて必要ないわけですけど、本来、グルの許可が必要だと思うのです。
そもそも弟子を取っていないグルも多くて、昔は、そのように弟子を取っていないグルのところに押し入りで頼み込んだり家事の手伝いをしたりして空いた時間に教えをもらっていた時代もあったように思います。本来、そのくらいでもいいように思うのです。
もう一歩進んで、一般的なスクールも含んだお話にすると以下のようになるかと思います。
・普通のスクール(受講生はお客様。参入障壁なし)
・運営団体(会社あるいは任意団体)(参入障壁あり)
・ファンクラブ(参入障壁なし)
・(カジュアルな)グルへの弟子入り(参入障壁なし)現代風
・(昔ながらの)グルへの弟子入り(参入障壁あり)古風
これらの区分けが曖昧で、「スピリチュアル団体に長く居れば、それだけで優れた人」かのような風潮が一部の団体にはあって、それに巻き込まれると自身のスピリチュアルな成長が遅れるように思うのです。
きちんと、これらを区分けして、整然と運営している団体であればそれほど問題がないと言えますが(そう思いますが)、私はそのようなスピリチュアル団体を未だ知りません。