最近は、それでもたまに昔の辛い記憶が不意に蘇ってくることがありますが、今は1回だけはっきりと見るのみで、その再生が終わるとさっぱり忘れてしまったような状態になって、数分前、十数分前に自分が何を思い出していたのかすらもほとんど思い出せなくなるくらいサッパリとした記憶の再生になりました。一応、あのことについて思い出していた、ということはわかりますけど、具体的には何を思い出していたのかすらあまり(再度)思い出せないくらい、過去の記憶の再生は1回きりになっています。
少し前は、もう少しだけ再生して忘れる、という感じでしたけど、今は、ほとんど1回きりなことが多くて、せいぜい数回とか、20分とか、そのくらいの間で様々な関連事項を思い出して、その後は、サッパリしたものです。何を1回と考えるかですけど、流石に1回は言い過ぎで、記憶の再生とかは細々としたところまで見ると多様な角度で見ますから、同じ角度からは1回だけ、というお話で、同じトピックを何回か、例えば10回以下くらいは違う角度から何度も再生したりします。そして、全てを見終わったら、もう満足で、それっきりです。
かなり以前、特に数十年前は何度も何度も何日も何週間も何ヶ月も延々とトラウマの映像と記憶がリピートしてきて、鬱か鬱以上の極度の緊張と葛藤を強制的に強いられる日々でした。
10年前くらいもそれなりにリピートしていました。
5年くらい前も回数は減るもののリピートはありました。
少し前まで、リピートそれ自体はあるにはありましたけど、かなり減っている状態でした。
今は、記憶が(時折)蘇ってはくるものの、それを頭の中で体験すれば、辛い感情を感じているのは割と短い時間だけのお話ですぐに終わります。辛かった記憶、かつてはトラウマ級だった記憶ではあっても、その辛い状態を記憶の中で多少は追体験した後、やがて消えてゆきます。
これを「手放し」と言えばそうでしょうし、「癒し」と言えばそうでしょう。言い方は色々とあれど、記憶と共に眠っている辛い感情の最後の残りの部分、未だにこの種のトラウマ(の記憶、残骸)が残っているのは驚きで、それは執着でもあるのかなと思いますけど、そのような辛い感情が、特にお腹のあたりで湧き上がってきてザワザワとした感覚を感じている時に、「これを手放します」と言ってその通りになるように意図します。その古い感情は、散々、何百回、何千回、何万回と繰り返しリピートしてきた古い記憶でありますので、そのような古い感情はもう不要ですので、手放すことを宣言します。
そして、実際、その通りになります。この種の葛藤には何某かの学びがあるものですけど、何万回と記憶が繰り返し再生された結果、もう学びは終えて、不要な記憶は手放すわけです。
その学びとは、例えば以下のようなものです。
・他人の価値観を受け入れない。他人の(自分勝手な)(私への)判断や印象を(私が)(不用意に)受け入れることを辞める。
・「脇が甘い」状態だったこと。それを辞める。
・(例えば私を散々馬鹿にしてきた同級生などは)(低俗すぎて)私が相手にするほどの価値もないし、私が(その相手を)(言い返して)罵る価値もない(言い返して罵ったら私も同レベルに落ちる)、いくらでも低俗な人が世界にはいること、分相応な相手と(基本は)付き合えば良い、ということ。
・私を馬鹿にしてくるような人たちのために(私が)落ち込んであげる必要はない。(そのような人のために、私が落ち込んであげる)価値も(そのような人たちには)ない。(わざわざ、そんな人たちのために、何かしてあげる必要はない。私が落ち込んであげる、なんてことをしてあげるほどの価値もない人が世の中にはいる、ということ。わずかな関わりをするのも無駄で、ましてや、時間をかけて、その人たちのために、私がわざわざ落ち込んであげる、なんていうことをする価値すらもない人がこの世にはいる、ということ。本人たちは低俗な世界で他人を馬鹿にしながら分相応に生きているのですから、本人は好きに生きれば良いですけど、私に関わらないで、ということ。)
などなど、昨日に蘇ってきた記憶は高校時代の数学の授業での、私を馬鹿にしてくる先生と同級生との場面ですけど、ああいう人と関わり合う価値もないので、このようなことになるのでした。
・学びは、そういえば、こういうものであった。(記憶と共に、かつての学びを再確認する)
・もう、学び終えたので、この古い記憶は「手放します」。そう宣言し、実際、そうなります。
自分の過去の行動であれば何某かそこに学びはあるはずで、学び終えたら、古い記憶に伴う各種の辛い感情は手放せば良いのです。