世間で思われているような前世ではないですけど前世のようなもの、あるいは、グループソウルの記憶とも言えるものにおいて、私のカルマ的なところの原点として、悪霊への対処に疲れ果てていた人生がいくつもあるかと思います。
その系統は割と魔女的な生活を送っており、人生を重ねる度に少しずつ波動が下がってきてしまっており、その度に、周囲の悪霊みたいなものと空間を共有するようになって、その対処に疲れてきてしまっていたように思うのです。
その記憶を辿ると、どうも、「人生を重ねる度に、街に悪霊が増えたなぁ・・・」と思っていたように思います。当時は「増えた」という感覚で理解していたのですが、今から思えば、悪霊は昔からいて、ただ、私との波動階層の重なりが変わった、私の波動が少しずつ下がってきてしまったのでそれに応じて悪霊と時空が重なる場面が増えた、ということなのかなとも思います。片方、あるいは、両方かもしれません。
いずれにせよ、その人生においては悪霊との対処に疲れ果てていて、悪霊が近寄ってきたら封印したり消滅に近いことをさせたり追っ払ったりして、いわゆるエクソシスト的なことをしつつも、その日常に疲れ果てていたように思うのです。
実のところ、この種の悪霊への対処というのは(このような方法では)キリがなくて、そのように、悪霊に対処するという意識においては、いわば、永遠に続くもの、ともいえます。
一方、悪霊と世界を共にしない、という生き方を今は選んで、それでも時折は悪霊や変な闇落ち精霊あるいは妖怪に取り憑かれたりすることもありますけど、基本的には悪霊とは接しない、という生活をできているように思います。
それは基本的には自らの波動を上げる、というその1点において悪霊と空間を異にすることができます。そもそも生きる世界が違うわけです。
それでも悪霊は近寄ってくることはありますけど、悪霊の気持ちからすると、付け入る隙がない人にはそもそも近付かないのです。ですから、基本的には波動を高くして脇を甘くしないことが大切なわけですけど、それでも、攻撃的な悪霊などは取り憑いてくることがありますので対処も時には必要ですけど、悪霊にしても、弱くてエネルギーを吸い取りやすい、簡単なターゲットに取り憑くのが効率が良いわけですから、意識を保ってしっかりとしていれば、そうそう取り憑かれることはないわけです。
そして、その後、その対処に疲れた人生を解消するために相談したのがとある霊界の導師で、霊界のマントを纏うことで霊能力を封じて生まれる、というスパルタな方法を提案されて、今はまさにその人生の中にいるわけです。
今思うに、世間で、エクソシストと呼ばれている人たち、あるいは、そう自分では言わないまでも世間の「悪霊」と戦っているような人たち、「光と闇」の戦いの中で「光」の側に自分たちがいると思っている人たちの中には、私の前世(のようなもの)の中で悪霊との戦いに疲れ果てていた姿と重なるものがあるのです。
エクソシストあるいはヒーラーとも言われている人たちの中にはライトワーカーを標榜して闇の勢力と戦うことを生きる目的にしている人たちがいますけど、そういう人を多少ながら横目で拝見すると、どこか、(私の前世(のようなもの)の姿のように)「疲れている」ところがあるのです。
光と闇の戦いも随分と長く続いていて、実のところ、ライトワーカーと呼ばれる人たちも入れ替わりがあって、中には闇落ちする人がいたり、あるいは、闇と思われていた人が光の側に移ったりしているように思います。
これら、光と闇、という対立軸は、その階層では必ず存在していて、スピリチュアルで言われているように、それはコインの面と裏、光があれば必ず闇がある、という関係でありますから、いくら光が闇と戦っても、闇は決してなくならないのです。
私が以前に書きましたように「霊界のマント」を帯びてどん底まで自分を叩き落とした時、それはいわば、光と闇が融合する過程でした。自分の中の光と、外から執拗に虐められたりする闇とが自らの中で統合していく過程において、今まで光の側として闇と戦っていた階層を超えて、次の階層を見出すヒントになったように思うのです。これは、他の人にはなかなか理解しづらいことかもしれません。
結果、光と闇の対立軸を超えて、その世界もまた言葉では「光」の世界と言えばそうなのですけど、対立軸のある次元における光と、その先にある、光と闇が統合された次元における光、とは決定的に異なって、その、統合された次元には光も闇もないのですけど、それでも、言葉としてこのことをどう言い表そうかとするとやはり「光」というのが適切のように思うのです。それは実は闇でもあるのですけど、そう言ってしまうと誤解がありますので、やはり光というのが適切のように思うのです。
そのように、この世界には実はエクソシストは普通にいるのですが、その光と闇の対立軸を超えた世界にいる人もまたこの世界にいるわけです。
今、私が半生を過ごすにおいて、かつて避け続けていたものと真正面から向き合うという苦行・スパルタ的なことをしてある程度は克服した結果、今の状況が必ずしも理想通りの克服に達したとは言えないまでも、少なくとも、記憶にあるような苦労は今はもうないわけで、それなりに効果があった方法だったように思うのです。ですが、実際のところ、他の人にはそこまでお勧めはしませんが、一つの効果のある方法だと思うのです。
そして、振り返りと、周囲にいるエクソシスト的な人を見て思うのは、そうやって自分が光だと思っている間は闇と戦い続けなくてはならず、その苦労と戦いは文字通り永遠に繰り返されてしまう、ということです。光は闇に決して勝てず、また、闇も光には絶対に勝てない、というのもそれは表裏一体であるからです。その階層にいる間は、光の立場のライトワーカーが闇と戦う、という構図は永遠に繰り返されてしまいます。
特にわかりやすいのが日本の神界の神々で、荒ぶる神とか母性愛の神とか色々いて、一方、悪霊や悪魔のような存在もいるわけです。それは日本ではあまり対立軸としては語られませんけど、神様にも色々いて、お互いに、相手を敵にして戦っているわけです。そのように、対立軸上にいる神々というのがいて、その一方が時に悪魔のように扱われることもあります。それは全て「人格神」であり、明確な意識を持った神様の世界です。
その上に、「ただ、光あるのみ」の世界があって、それは、光だけでなく闇も統合した、言いようによっては「闇のみ」とも言えるようなもので、それは闇と言ってしまうと語弊がありますけど、言い換えると、創造・破壊・維持の統合された世界があって、それを光のみと言うことも一応できますし闇のみと言うこともできますし、「満ちているもの」と言うこともできます。そのように、善悪としての神や対立軸を克服した世界があって、それは波動階層としても表現することができますけど、対立軸の存在しない、統合された領域、波動領域、周波数の領域、とある次元の領域、と言うものが存在するわけです。
私がかつて過去の記憶の中で苦しんでいたのは、おそらくは元々を辿ればその統合された世界(としての心理状態)に住んでいたように思いますが、やがて精神の波動が転落して、善悪の世界に落ち込んでしまい、結果、善と悪の対立軸が見える世界に落ち込んでしまい、光と闇が対立するエクソシスト的なことも当時は行っていたように思うのです。
それは、仏教でいうところの天国と地獄の世界でもあって、地獄というのはどこか遠くにあるわけではなくてこの地球の時空に重なっていて、と同時に天国も重なっていて、自分の波動を合わせれば地獄にもなって魑魅魍魎や妖怪と接触することもあればその一方で天国もあって、波動の違いともいえますけど、まだ天国と地獄の違いを感じている間は2つに分かれた世界を生きているのであり善と悪が存在しますが、その後、統合された創造・破壊・維持の領域、光あるのみ、満ちているだけ、という領域に波動を合わせれば、そこにはもはや魑魅魍魎や妖怪はいないか、いても影響されないわけです。
とは言いましても生きている人間ですから上だけ片方だけの波動領域だけになるということはなくて多種多様な波動階層にアクセスできるわけですけど、それでも、高い波動が主でいることによりマインドも安定することはもちろんのこと静寂な状態で日常生活を過ごすことができるわけです。
その際、低い波動領域と接触することもありますけど、それは過去の経験のエクソシスト的なもので対処できなくもないですし、基本はそういう悪魔的領域・地獄の領域の波動とは接しないことで、日常を平和に過ごすことができるわけです。
元々、私の転生の時の目的の1つとして、そのような平穏な日々を暮らすことができるようになること、というものも入って、それは、ある程度達成されたと言えます。
エクソシスト的な人生を送っている人は自分たちの人生が戦いに満ちていて、そういうものだと受け入れているのかもしれませんけど、もし聞かれたならば、別の人生も可能だ、ということをわかっていただきたいです。実のところ、そういうエクソシスト的な人は霊的な能力に優れていて自尊心もそれなりにありますから、きっと私などが何を言ってもあまり聞く耳を持たないと思います。それはきっと当然かと思います。
おそらく、私の記憶の中にあるように、エクソシスト的な人生に疲れ果てて、どうにかしてこの光と闇の戦いの連鎖を抜けたい・・・ そう思った時は、一つの選択肢として、(転生する前、あるいは、そういう能力者がいれば生きている間にでも)霊界のマントなり何なりを使って霊能力を封印して生きられると光と闇の戦いの階層を抜ける突破口になるかと思います。
そういう経緯がありますので、今回の人生は割と任務から離れて、自己のカルマを解消する時間に当てたとも言えます。かつては任務ばかりでこういう人生は慣れませんが、たまには良いものです。そして、それだからこそ、条件付けを離れて自由に動けるのです。そこが、私に期待されているところかと思います。