精神分析で投射と呼ばれているような構造が自己肯定感の低さと組み合わさると周囲の環境に対して否定的な見解を持つのです。
結果、左寄りの人たちは「環境」「政治」「歴史」など全てにおいて自己への肯定感の低さを周囲に投射(あるいは投影)して周囲の環境に対して不満を撒き散らすわけです。
そして、そのような投影は特に若い人に顕著なのは自己肯定感が低いことと関係していて、歳をとるにつれて自己肯定感が高まると自然と周囲への不満は消えてゆくわけです。環境は何も変わったわけではないのに周囲の環境に対して不満を漏らすことは(かなり)なくなります(完全にとは言いませんが)。
心理学で投影あるいは投射と言われている作用はよく知られたもので、それは心理学においては「作用」として知られているわけですけど、ヨーガ的に解釈をするならば、自分が浄化されていない、自分に汚れがついているが故に、自分という鏡に映った周囲のものが歪んで見えてしまい、周囲に対して不満を漏らしてしまうわけですけど、実際、汚れているのは自分自身なわけです。
ですから、若い時に環境活動やら左巻きの活動をしているのは自己肯定感の低さと関連していますからある程度は仕方がない面もあるのですが、歳をとってから延々と左巻きの活動をしているのは恥ずかしい、というのは、この辺りの心理作用にも理由があるわけです。
左巻きの人たちが内輪揉め(内ゲバ)をよくするのも、結局は、突き詰めれば自分自身の問題を周囲に見ているからであって、それぞれが見ているものが違っていて、同じ環境というものを見ていても、自分の不浄な部分を周囲に投影して見てしまっているわけです。それゆえに、同じものを見ても「ああでもない、こうでもない」と意見が分かれて、結局、そのような自分自身の問題というのはそれぞれですからまとまることはなくて、最終的に、そのような「個(を周囲に投影した環境家、など)」をまとめるのは「力」でしかなくて、理屈でまとめるのがかなり困難なわけです。
同じように見えても、左巻きの人たちと保守のやり方および有り様はかなり異なっていて、左巻きの人は投射(あるいは投影)の機能によって基本的な理念がなんとなく同じでなんとなく違うという感じで一応はまとまるものの分裂を繰り返す、という具合なのに対し、保守の方はというと「ありのまま」を見ようとしていて、保守というのは自分が純粋になってありのままを見ることによって物事を解決していこう、という違いがあるわけです。
ですから、左巻きの人たちは往々にして「保守の人は、単純すぎる(だから古い、俺たちが新しい)」みたいな「革新」を主張するのに対し、保守の人たちは基本的な純粋な精神と古来からの伝統を重んじる、という違いが出てくるわけです。
このような表層に出てくる現象の元を突き詰めてゆくと、まず、保守の人は古来から繋がる歴史という面ももちろんあるのですけど、それよりも、人間本来の形に立ち戻ろう、というところを基本にしています。それに対し、左巻きの人たちは上記のように自分自身の問題やら葛藤やらを周囲に(心理学でいうところの)投射・投影することによって周囲の全ての環境に問題を見ていますから、本来はどこに問題があるのかというと当然のことながら(左巻きの人たちの)自分自身の中にあるのであって、周囲の環境の問題では(必ずしも)なかったりするわけです。そのような左巻きの人たちは自分自身と周囲の環境の違いというのを認識できなくて自分も周囲の環境も一体として見ていますから、本当に周囲の問題であることもあるのですけど、その周囲の問題と、自分自身の問題とを結びつける傾向にあるわけです。
左巻きの人たちと保守の人たちが、本当の周囲の環境という1点において協力体制を作ろうと思えばできないこともないのですが、左巻きの人たちと関わると本来はその人の個人の問題であることを周囲に投射して周囲の環境の問題だということで周囲を糾弾したり問題のテーマを本質から見誤ったりしますから、面倒なことになりますので左巻きの人とは関わらない方が良いのです。
本当に環境やら何やらを良くしようとするのであれば、まず自分自身を浄化して清浄な状態にし、それで、(完全というのは無理にしても)ある程度まで自分から周囲への精神の投射を抑えて、そして、結果としてようやく環境のありのままの姿を見ることができるように思うのです。
一方、自らの浄化をせずともデータを元にありのままの姿を明らかにする、という方法もあるかと思います。それは一般的に行われている分析方法で解析すれば良いわけですが、それを行なっている過程で、自らが(投射により)見誤っていた事柄が明らかになる、ということもあるでしょう。
いずれかの方法で真実を見れば良いわけですけど、どちらにせよ、短絡的な左巻きの活動は、政治にせよ文化にせよ経済にせよ、いずれにしても自己肯定感の低さに起因しているわけで、例えばそれがマスコミの日本叩きにも底通しているわけです。マスコミは日本叩きをしているというよりは、本質はというと、その記事を作った人、会社、それに関わる人のうちの一定が、自己肯定感の低さを周囲の環境に投射することで「日本は・・・だ」みたいなネガティブな記事を拡散するわけです。それは本当の姿というよりは、それを書いた人の自己肯定感の低さを表しているだけで、それを読んだところで、大した価値はないわけです。
左巻きの活動というのは所詮はそのようなものですが、それでも、大衆がその気になるとフランス革命のように政権を倒すまでの力が出て、時に社会にとって危険であると言えます。そうした扇動をして誰が得をするのかというと、それを煽った黒幕、シナリオを書いた人が一番得をするわけですけど、少し前なら、左巻きの共産国に日本を売り渡そうとしている売国奴が(政府転覆後には)政権の主役に出て(世界各国の共産国のトップのように)富を独占する、というところが主たる目的であったように思うのです。そのようなくだらない個人的な目的のために人々が踊らされてしまうのはとてもつまらないお話ではあるのですが、しっかりと物事を見抜かないと、フランス革命のように、不必要な、ただ単に誰かの利益にしかならない、踊らされた挙句に人々の暮らしは何も変わらず、ただ、王様がいなくなってしまった、という悲しい状況になるわけです。ですから、本質はつまらないものであったとしてもこの種の扇動には気をつけていないといけなくて、扇動に対してはそれを抑えるなり黙らせるなり反論するなり、何某かの対処が必要に思います。