輪廻転生と魂の分裂・融合、そして昇天

2023-12-16 記
トピック:スピリチュアル: 輪廻転生

<これは本当のことかどうかはわかりません。現在の理解をまとめたものです>

▪️前置き
一般に理解されている輪廻転生そのものは存在しないと言っても良いのですがそれに近しい現象はあるにはあって、その基本はというと、魂(幽体)がそのまま転生する場合と、昇天した後にグループソウル(類魂)と一体になり、改めて分霊を作って転生する場合があるわけですが、それに加えて、魂(幽体)の分裂、という現象を加えるとわかりが良いと思います。

▪️分裂
死ぬと、(自分の中と言っても良いが、自分自身である)魂のレベルが割と一定の場合は1つの個体として保持され、一体として同じような道を辿ります。

一方で、(自分の、あるいは、誰かの)魂のレベルが割と一定ではなく(波動的に)上下に幅がある場合、かつ、それが「量」としてそれなりの質量のようなものを持つ場合、魂が死後に分裂し、それぞれ見合った階層でそれぞれの死後の過程を辿ります。

このように、分離をするかしないか、という過程が死後にまずあります。

肉体を持っていますと肉体が魂を結び付ける働きをしていますのである程度の波動の幅があっても肉体に全てが結びついていますが、魂になって波動体になると同じような波動同士でないと一体になっていることができませんので分離する、という側面があります。死後は意識がそれほど働いていませんので、この過程は割と自動的に行われるように思います。相当に意識を持って一体でいようと意識していない限りそうなりますし、はたまた、上位の意識の意思により分離される、という場合もあります。例えば、死後、グループソウルのワンネス意識からすれば、死後の魂がワンネス状態であるグループソウルに戻ってきてほしいと思って呼び寄せるわけです。しかし、重い波動の部分は上昇することができずに分裂するのです。これは必ず分離するかどうかはわかりませんが、グループソウルの意思によって大きく変わる部分もあれば、システム的にそうなるという面もあるように思います。

▪️昇天
まず、昇天できるほどに純化されている魂の場合、グループソウルに統合され、一体の状態、ワンネスに戻ります。これは、死後に魂が丸ごと純粋な場合です。あるいは、分裂して上澄みの部分だけが昇天する場合もあります。昇天してグループソウルに統合した後、グループソウルの意思に基づいて分霊が作られ、個別の魂として活動することもあります。これがグループソウルも含めた転生のようなものです。

▪️天国
そして、中間的なものとして(実際はもっと細かくも分かれるのですが)、ぼちぼち純粋な魂は地上を彷徨ったり、いわゆる「天国」に行って霊界の豊かな楽しい生活を送ります。これも同様に、魂の丸ごとがぼちぼち純粋な場合と、分裂した後にぼちぼち純粋な場合とがあります。分かれるためにはそれなりに(オーラ、魂としての)総量がないといけないのも同様で、概ね、総合的に見てぼちぼち純粋な場合は天国に行きます。この場合、しばらく天国で過ごした後に昇天してグループソウルに統合そしてワンネスになる場合もあれば、また地上に転生する場合もあります。天国にいる状態で幾つかの霊に分かれる、はたまた、分霊を作る、もしくは、天国にいる状態で、(基本的には自分にゆかりのある魂を)統合して一つになる(複数の魂を1つにまとめる)ということも時々あります。

▪️浮遊霊
更には、下層のものとして、単なる「思い」の塊、想念の塊、残骸のようなもの、影のようなもの、いわゆるアストラル(感情的)な質量の塊があります。そのような下層のゴミのようなものが魂(幽体)には付随していて、この場合、元は人間であっても欲望に塗れた価値観を持ち、食欲や性欲はたまた支配欲など、強欲な性格を持った部分が下層の魂として存在するわけです。この場合も、魂が丸ごとそうである場合と、分離した結果、残った部分がこれである場合とがあるわけです。この場合、いわゆる悪霊あるいは浮遊霊のような状態になって、意思をあまり持たず、盲目で、ぼやけた意識の、目覚めていない意識状態のままそこらを漂うことになります。天国にはいきません。この世の階層に近い世界にいるわけですが、実際のところ、本当に隔離されているわけではなくて、その人が盲目で暗闇の中にいるというだけで、近くには普通に楽しく暮らしている人もいるわけですが、その人はものが見えない状態ですので周囲を認知できないのです。その当人にとってみれば闇のような暗い世界、欲望だけが集まっている下層の霊界のようなところにいるように認知されますが、実際は、それほど隔離されているわけでもないのです。それは地上に割と近いところにあって、地上の人間に時折影響を及ぼしています。これがそのまま、あるいは、ある程度集まって1つの魂として転生する場合もあって、そうなると、人間であっても獣のような欲望に塗れた人格として転生します。

▪️生きている間の分離と合流
実は生きている間にも魂の一部が抜けたり合流したりすることがあって、魂が少しでも抜けると重々しい状態になって意識が朦朧となり、文字通り、(程度にもよりますが)意識が抜けた状態になります。はたまた、魂が合流した場合は生き生きとした状態になります。スピリチュアル業界ではウォークインと言ったりもしますが、必ずしも入れ替わる場合だけでなく、合流して一つにまとまる、という場合も普通にあります。はたまた、意図せずして他人のオーラをもらってしまってその人の性質の幾分かを譲り受けてしまう、ということも普通にあります。

これに加えて、生きていると、他者とのオーラの接触ということも起こります。それは必ずしも魂の接触ではないものの、人によってはオーラが広範囲にまとまりなくふらふらと広がっており、それが他の人のオーラと接触することによってその部分が文字通り「融合」され、お互いにカルマやトラウマあるいは良い部分など、全てにおいて一旦同一化された後に(距離を持つことで)また分離する、お互いにお互いのオーラを交換し合う、ということが起きて、これは、量としては1回1回は少ないものの、何度も何度も繰り返せばそれが魂の外郭部分に影響を与えて、低次のみならず高次の部分までもが他者と交換し合い、それによって自分が(他者からオーラをもらって)気分が良くなることもあれば(他者にオーラを取られて)苦しむこともあるのです。これは転生そのものではないですが、多少ながら他者と転生を共有している、という見方もできて、カルマとは転生の原因ですから、カルマを交換するということは他者と転生を(わずかながら)共有する、ということにもなるわけです。

ですから、死後に分離したり融合したり、という部分が大きいものの、生きている間に魂の融合や分離も少しずつ起きているわけです。

▪️「器」としての人間
これに加えて、「器」としての人間があって、器があって初めてそこに魂が入ることができるわけですが、盲目な人はそこまで自分の意思を持たない一方で、それなりに目覚めた人は自分で人生を選んで転生することになります。そして、器の側としては個人の意思があります。

これらは割とシステムのようなもので動いていて、機械的、法則として動いています。ですから、それぞれが自由に動いているように見えても、割と、理に叶って動いているのです。ですから、基本的なシステムの上に、個々の意思で持って融合するか分裂するかが決まるわけです。基本はシステムですので否応なくそうなってしまうこともあれば、ある程度は個人の意思が反映されるわけです。

▪️地上に残された浮遊霊
このようなシステムですから、下層の、浮遊霊のようなもの、影のようなもの、いわゆる幽霊、地上に残された不浄化の念のようなものは、実は、必ずしも未浄化霊というほどでもない場合も多々あるわけです。世間の一般の常識からすれば「死後はどうなるか」という1点で理解されていますけど、実のところ、死後はそれぞれの波動階層に分離されますから、誰であれどうしても不浄の部分を持っていて、不浄の部分は、それなりに、残骸として地上のどこかに残されるのです。そして、大抵の場合は時間があればそのようなものは風化して形を失い(エネルギーを失い、力を失い)、形のないエネルギー、いわゆる自然へと帰っていきます。ですから、地上の人が霊が見える人だったとして「幽霊が漂っている」と思っていても、大抵の場合、気にする必要はないのです。

割と人間の階層に近い、いわゆる残骸のようなものはその人の本来の意識を持っていることはほとんどなくて、想念体として(スピリチュアル的にはアストラル体)の感情としての残骸のようなものが残されることが多いように思います。それは複雑な思考の体系を持っていないのですが、と言いますのも、高次の意識はそのような場合には既に分離されてしまって残骸だけが残ってしまっている場合もあるからです。

この浮遊霊を助ける方がいいのか、放っておいて風化を待つ方がいいのかは、場合によりけりだと思います。浮遊霊の持っている意識の残骸が価値がないほどの単なる欲望や機械的な反応といった低次の感情であれば、それは放っておいて風化を待っても良いように思います。一方、浮遊霊であっても一定のオーラの総量を持つまでに融合が進んだ場合、それは、低次であったとしてもそれなりの(欲望の)意識を持つことがあって、これはその欲望に正直に動きますので放っておいても風化はなかなかせず、悪影響が大きいことになります。浮遊霊というのは厄介で、往々にして明確な意識を欠いていて基本的な欲求しかありませんので、それが強いオーラになるまで集合した場合、妖怪のような純粋な悪としての存在にまで成長することがあります。

空間的に余裕があって、単純な「想念の残りかす」のようなものが時間とともに風化できるのであれば放っておいても良いと思います。しかし、土地が浄化できる以上の浮遊霊・・・・ というよりは、単なる想念の残りかすのようなものが散乱している場合、それはもはや、高次の意識が抜けてしまった「抜け殻」である場合も多々ありますし、抜け殻とは言ってもそれなりの想念の力を保持しておりますので、何かの条件が重なってそれらが融合して一つになると強い力を持つことになりますし、誰かがたまたま通りすがりにその想念を拾ってしまった場合はその想念があたかもその人がそう願ったかのように勘違いして振る舞ってしまうことになり、生きている人がその「残りかす」「抜け殻」の想念をベースにして更に強い想念を発するようになってしまう、ということもあります。

人が多く死んだ土地には浮遊霊と言いますか「抜け殻」としての想念が多く漂っていて、時間が経つとそれはある程度は風化しますが、ある程度は誰か生きている人が拾うことで元の場所からなくなります。

世間で行われている「火による浄化」はこの種の想念の「残りかす」を消滅させる行為ですので、単に浄化として理解しているとしても、実際は、意図せずして、浮遊霊と同じようなものを自分の近くで消滅させて浄化しているわけです。一般には、自分のオーラを浄化させるだとか、空気を良くする、というように理解されているとしても、実態は、そこらで漂っている(意志を持たない)浮遊霊(の一部)を浄化していることでもあるわけです。

ですから、不浄化霊を成仏させる、なんてお話は眉唾で、確かに、その人が丸ごと欲望まみれで魂の全体が重々しくて天国にすら行けずに彷徨う場合もあるにはあるでしょうけど、それほどまでに欲望まみれの人が成仏できないのは自業自得なのではないでしょうか。そんな人が気軽に成仏できるのだとしたら修行なんていらなくなってしまいます。何事も分相応でありますから、生きているうちに欲望まみれで生きているのならば死後に天国に行けなかったり昇天できないのだとしても、それが相応であると言えます。この世界は割とシステムで動いていますから、そういう人であっても高次の純粋な意識が含まれているのだとしたら、その部分だけが分離して、高次の意識だけが昇天するなり天国に行って、残りの部分が浮遊霊として地上に残ります。ですから、不浄化の浮遊霊のことはそこまで気にする必要はなくて、あくまでも高次の部分、少なくとも天国に行けるくらいの意識とだけ相手をすればいいわけです。

未浄化の部分と天国に行ける部分とが混ざり合っている人(だった魂)の場合、未浄化の部分が重しになって天国に行けない、と言うこともあります。それなりのオーラの総量があれば未浄化の部分と天国行きの部分に分かれるのですが、そこまでの質量がない場合は分裂せずにいて、しかも天国に行くことができない、天国に行くには重い状態になりますので、未浄化の部分を浄化(と言うより実態は消滅に近いこともありますし、切り離すだけの場合もあります)してあげると天国に行ける場合もあります。

この世界には荒っぽい能力者がいて、浮遊霊を片っ端から消滅させている人がいます。側から見ると霊を消滅させるなんてとんでもない人だと思われるかもしれませんし、私もそう思っていた頃があります。しかし、そのような浄化作用は割と誰しもが行っていることで、体についた不浄なものを洗い流す、ということに関してはオーラだけでなく肉体としてももちろん同様で、それを浮遊霊に対しても行っていて、不浄なものを無に返す、という行為が実は浄化でもあるのだとしたら、一見すると荒っぽい行為に見えたとしても世の中の役に立っているという面もあるわけです。ただし、一見するとただの不浄霊で「誰かのオーラの残りかす」のようなものであったとしても、時に、それが誰かが意図的に学びとして行っている場合もあって、時に見分けが難しいこともありますので、誤射を避けるという意味において、基本は未浄化霊のようなものであっても(見分けがつかない、よくわからないのであれば)放っておくのが良いかと思います。

浮遊霊と言っても本当に抜け殻の場合と、多少は意識が残っている場合があるわけです。地上にいる霊能力者は、これらの違いがわかる場合もあれば、わからない場合もあります。物質に近い方が見やすいのは一般的にそうと言えばそうも言えなくもないですけど、それよりもむしろ、波動に近いものが見える、という方が正しくて、この種の浮遊霊や抜け殻は割とこの世に近いところにあるので、それらの割と普通の人間に近しい波動に共振する人はそのようなものが見えることもありますし、一方、それより上の、天国に住んでいて一時的に地上に来ているような(多少は)浄化されている霊を見るには自分も相応に浄化されている必要があります。霊能力者の波動が低ければ浮遊霊くらいしか見えませんし、その場合は、天国にいる霊(一時的に地上に降りてきている霊)は光り輝く存在として見えて、あまりよく見えません。自分の波動が高まればそのような天国にいる霊のことも見えるようになりますけど、そのくらいになりますと存在の波動の差が大きくて、ようやく天国に行けるくらいの霊と、グループソウルに合流する直前くらいの霊(昇天が間近の霊)、グループソウルから分離してきたばかりの霊、などでは波動の違いがあります。よって、必ずしも天国にいる霊が一律で見えるわけではなくて、姿が見える場合もあれば、波動の違いが大きいと、これまた同様に、単なる光の存在としてのみ感受される場合もあります。そして、ここで未浄化霊と言っているのは、天国に行くことができないくらいの重い波動の霊のことを言っているわけで、それは死後に丸ごとそうである場合もありますし、死後に分離して残された抜け殻がそうである場合とがあります。

そして、一見すると未浄化霊、浮遊霊、悪霊のように見えたとしても、質量としてその内側に中間的な部分(天国に行ける)や高次の部分(昇天できる)を所持していたりします。その高次の部分を含めて消滅させるのはやりすぎですけど、未浄化の部分を消滅させることで中間的なものや高次の部分が表面に出てきますので、重い質量の部分である未浄化の部分を消滅させるのは一見すると荒々しく見えるかもしれませんけど実は理に叶ったやり方であるようにも思えます。とは言いましても、そのようなことができる人はそう多くはありませんし、気をつけて粗大な未浄化の部分のみ消滅させるというやり方をしなければ間違って一緒に微細な部分をも消滅させてしまうということもあり、そうなれば良くないカルマを積むわけですから、一般的には手を出さない方が良いことではあります。

放っておけば基本的には自然に風化するので、集まって悪霊になるとかでなければ自然に風化するに任せれば良いわけです。死後に肉体が形を失うのと同様に、抜け殻のような(霊体のようにも一見すると見える)浮遊霊、悪霊の類は時間が経てば消えていきます。

基本は、波動の法則が成り立ちますから、自分の波動を高くしておけばそれほど未浄化霊とは関わり合いを持たないので、このような浮遊霊や悪霊の世界は気にしなくて良い、気にしなくて良くなるまで自分の波動を高める、ということを優先させれば良いと思います。

このような未浄化霊であったとしても周囲の助けがあれば波動が死後に(多少は)高くなって天国に行ける場合もありますが、それは確かに身内など知り合いであればそのような助けによって救われるということもあるでしょう。それはミクロな視点において救われた、ということでもあります。一方、マクロな視点に立ってみると、そのような未浄化霊を助けるまでもなく、既に、高次の部分は分離して死後に天国に行くなり昇天してグループソウルに帰っておりますので、いわば「残りかす」のような未浄化霊の(ように見える)部分を助けることがどれほど意味のあることなのか、わかりません。例えば、人生を生きた上での経験や知見のうち(割合は人によって違うにせよ)9割が死後に天国あるいはグループソウルに帰るとしたら、残りの1割がたとえば未浄化霊のようにして地上に残されたとして、その1割を助けることがその浮遊霊の助けになると言えば一応はそうですけど、マクロな視点からしたら些細なことなわけです。

そして、時に、地球の管理者が「この世界には、未浄化の部分が多くなってきた」と判断したのならば、システムとして、一旦全てを洗い流して綺麗にしてリセットし、またやり直すことも過去には何度もありました。これが地球規模での大災害になって大勢が一見すると死ぬわけですけど、実のところ、中間的な部分(天国)と高次の部分(グループソウル)には影響がなくて、文明はリセットされますけど、魂の部分に関しては影響がないわけです。大災害というのはあくまでも文明と未浄化の部分を洗い流すことにあります。このようなリセットはない方が良いわけですけど、あったとしても、魂の方にはさほど影響はないわけです。こうして、文明を新たにやり直す場合もありますし、一部のタイムラインのみリセットにして、大勢の魂が別のタイムライン(パラレル、似たような地球)に大量に移動する、ということもあります。霊の視点からしたらどちらも見えて、選択ができますので、面白そうな方を選ぶわけです。未開の大地での開拓と成長が好きならリセット後の世界を選ぶかもしれませんし、現在のような過渡期が好きならそれを選ぶ、など、それぞれの人(魂)の選択によって行く場所を自らの意思で変えるわけです。そうは言いましても、霊によって見えている範囲も違いますし、霊の世界は「知り合い」として関わった人との結びつきが強く働きますから、「誰かが知っている世界」に行くことが多くなります。時に、未開の惑星を興味深く探索する場合もあります。全ては自らの選択によっていかようにもなると言えばそうですけど、それでも、基本はグループソウルの意思に従うことが多いように思います。


▪️天国
一方、天国に行けるようなぼちぼち純粋な魂の場合は人間に近い思考が必ず残っていて、この場合は地上を漂うというよりは天上の世界、いわゆる天国とか天界とか呼ばれているところで住んでいて、時折、地上に転生している知り合いのところに降りてきて色々と話しかけたりします。この場合は霊と言っても人間と変わりがなくて複雑な思考ができますし、感情もあります。霊の状態ですと、人(霊)によっては多少は時空を越えることができて、未来のことなども多少は教えてくれたりします。これが世間で言われている輪廻転生に近いところではありますけど、天国はまだ中間的な世界で、実のところ地上の人間と比べても肉体を持っているかどうかくらいの違いしかなくて、霊の状態ですと想像力というものが強いために想像したらすぐに目の前に想像することができるファンタジーの世界ではありますので物質化・実体化という点では地上と大きな違いがあるとはいえ、意識という面では地上の人間とそこまで変わらないのです。

天国に行けるくらいの意識を持った霊の場合は指導霊的なこともできて、誰かに付き添って色々とヒントを与えたりすることもあります。その導き方は人(霊)それぞれで、指導の仕方にも色々とあるように、霊だって肉体がないだけで意識は生きている人と変わりませんから、指導霊としてのやり方も千差万別なわけです。


▪️グループソウルと分霊
カルマの縛りから解放されると昇天できます。その中間的なものとして天国がありますけど天国はまだ(ここで言う)昇天には相当しなくて、天国に行くことも昇天といえばそう言えるとは思いますけど、天国は昇天というほどのことでもなく割と普通に行けて、天国に行った後に、満足と愛の至福が十分に満たされたら天国にいる状態から更に昇天してグループソウルに帰還します。昇天する時は、文字通り、光の柱に包まれて、(天国にいる時に既に宙に浮いているわけですけど)更に上昇して(天国より)更に上の(それもまた天国と呼べるかもしれませんけど)世界、それはグループソウルの世界ですが、そこに上昇して合流、ワンネスになります。

昇天するにはかなりの浄化がなされていないといけませんけど、多少のカルマ(条件付けの部分)がわずかに一緒に上昇します。そしてそれが、わずかながらであったとしても次の行動へのきっかけになることも多少はありますが、基本的には、条件付けから離れた自由な部分がグループソウルを形成します(少なくとも私の場合はそうです)。これは私の属しているグループソウルはそうですけど、おそらくは、カルマの条件付けの部分が大きいグループソウルもあるように思えます。

グループソウルでは集合意識が働きますので、グループソウルの意思に基づいて分霊が作り出されることもあります。その時は、今まで分霊が知見を集めたことに基づいて判断されたり、はたまた、世の中を見て必要だと思ったことがグループソウルの意図に基づいて分霊が作り出されます。


▪️解脱、あるいは、ヴェーダンタのモークシャ(自由)
個人的な解釈に基づきますと、死後に昇天してグループソウルに合流できることが解脱あるいはモークシャ(自由)に相当すると思います。これはそれらの流派の解釈ではなくて個人的な解釈です。天国に行くことが解脱と解釈する流派もあるとは思いますけど、天国は割と普通に行けますし、そこにいる人は割と生きている人間とそこまで意識で変わりませんので、解脱というと(グループソウルへの)昇天が相当するのが合っているように思えます。


▪️大きな潮流
これは各自の意識、意思というものが関わっている以上、そこには大きな潮流のようなものがあって、例えば、高次の意識を持った人が多く転生して良い文明を興したかと思えば、その後、高次の意識が地球に興味を失って、低次の部分を切り離して高次だけ自分の星(あるいは世界、次元)に帰ってしまい、低次の意識だけが残されて、低次の意識の世界に次第に遷移する、ということが起こっている、あるいは、起こる可能性を感じるのです。そうなると、最初は高次の意識が降りてきて文明を作ったとしても、次第に、「分離」が起きて、高次の部分は学び終えて昇天してグループソウルに戻る一方で、低次の意識は分離後に地球に残される、という現象が起きるわけです。

このような状態であっても新たな高次の意識が降りてくるわけですが、それは各自の自由意思に委ねられておりますので個別で見たら自由なわけですが、それでも、全体としての潮流はあるわけです。

今は、この地球上において、高次の意識もあれば、低次の意識が優勢になっている状態であると言えます。それは必ずしも悪いことではなくて、高次の意識にしても低次と結びつくことで学ぶことがありますし、今は低次の意識であったとしても、元はといえば高次の意識と一体だったけれども残置物のように低次の部分が残されている場合があるわけです。


▪️グループソウルとしての「人格」と宇宙人
グループソウル全体としても「大きな人格」のようなものを持っており、その中には魂のコアのようなものが無数にありますからそれぞれの意識があるのですけど、それを束ねるものとしての人格があります。ですから、それぞれのグループソウルごとに考え方や理解が違っていて、それぞれのグループソウルでそれぞれ異なった(大きな)人格を成しています。

これは集合意識ともまた違っていて、文字通り、本当にそういう「大きな魂」を持った存在がいて、それは必ずしも土地と結びついているわけではなく、一見すると普通の人のようにも見える霊人が、そのオーラの総量としてはとてつもなく大きい場合があって、時には普通の人の数千などの魂を束ねるグループソウル(相当)だったりします。それは、実のところ、オーラの総量と知見においてはとてつもない違いがあるものの、この世は「大きなものの形が、小さいものの形にも宿る、逆もまた同様」と昔から言われているように、グループソウルとしての(魂とも言える)霊人と、個別の分霊としての魂あるいは霊人もしくは肉体に宿った魂、とでは、(オーラの総量や知見での違いは大きくあるものの)、存在としての形としては同じなわけです。そのような、大きな魂を持った存在がこの宇宙にはいて、地球に関与している魂の場合は地球の軌道上に(宇宙服など不要で)普通に素のままで(霊人として)漂っているわけですけど、その分霊が地上に多く転生してきているわけです。

この世界には宇宙の「非干渉の法則」があって惑星の運命はその惑星の住民に委ねられていますけど、例外規定があって、その惑星の住民として転生する場合は禁止事項に当てはまりませんので、(宇宙人の)分霊による転生、ということが行われているわけです。その場合、基本はその惑星の住民としての意識がありますので、その上で、各グループソウル(というか宇宙人)の意図が反映されるわけです。宇宙人と言っても、長い間、ずっと地球に関与しているのですから、波動の法則により、その宇宙人の波動は割と地球の波動に近い人であり、そこまで手の届かない存在でもなく、単に「良き人たち」であると思えば良いと思います。宇宙人にもいろいろあって、基本が霊人の人と、物質があるけれども地球の軌道上では宇宙船が非物質化している場合とがあります。

宇宙の存在にはいろいろな形態があって、霊人でいてグループソウルと分霊、という形式を取っている人と、割と長い期間、ずっと同じ魂をなるべく保持し続けようという存在がいて、やり方にも違いがあります。私の属するのはグループソウルと分霊を頻繁に作る方ですけど、どうやらそうではない場合もあるようで、その、私と違うやり方をしている方についてはそこまでわかりません。単なる私の勘違いで実はそこまで違いがないのかもしれませんが、そこまで他のグループソウルについては詳しくはありません。あくまでも自分のグループソウルでの出来事についての知見になります。


▪️集合意識
集合意識というのはグループソウルとごっちゃにされることがありますけど別物で、人々の想念が増えて一定の方向にまとまった時、それが集合意識として固定化され、共通認識(コンセンサス)が作られます。その結果、それを感じ取った存在たちが、いわゆる「許可」を得た形になって、それが実現かする「可能性」が生まれるわけです。実際にはその後で、それを働きかけるデーヴァ(神々)たちの意識と思考、選択があるわけですけど、少なくとも集合意識で「許可」を出していないと現実は起こらない(ことが多い)わけです。もっと巨大な力を持った存在による意識が動くことがあって、その場合は集合意識での許可をも超えて(例えば大災害などが)起こるわけですけど、集合意識の場合はもう少し力が弱くて、あくまでも雰囲気における「許可」とコンセンサスなわけです。

ですから、時にスピリチュアル業界で聞こえる「集合意識によって未来を作る」というお話は、地上の人間の「許可」のお話なわけです。集合意識そのものが、そのまま直接的に未来を作るというほどの力はなくて、集合意識というのはあくまでも「許可」の部分であり、その許可が出ていれば、周囲の存在、より高次の存在、巨大な力を有した「管理者」がその許可に基づいて、仕事(働きかけ)がしやすくなる、という種類のものなわけです。

集合意識というのは魂の集合ではなくて、いわば思考の「抜け殻」としての想念の(結果の)集合体ですから、それ自体は高次の意識を持たないわけです。ですが、それでも集まればそれなりの力になって、基本は「許可」になりますが、時に、人々を煽ることで感情を昂らせ、集合意識そのものはそこまでの力は持たないものの、その集合意識に同調した(肉体を持った)人々が実際に「行動」を起こすことで物理的な面における変化をもたらすことはあります。例えばフランス革命がそうなわけですけど、集合意識そのものにはそこまでの力はなくても、この世界は「モノ」の影響がとても強い世界ですから、集合意識に基づいて(肉体を持った)人間が行動をすれば世の中が変わるということは(もちろん)あります。(これは割と普通のことだと思います)

そして、その集合意識はグループソウルではなくて、あくまでも想念形態としての集合であるわけです。


▪️システムとしての潮流
そして大切なのは、これはシステムとして動いている以上、人々の波動が全体の傾向として良くなるのも悪くなるのも、一旦動き出したらなかなか変えられないことであるわけです。戦争から悲しみや憎しみが作られてまた違う戦争が起こる、というサイクルはこのようなシステムを元にしてそれが起こりますから、地上に苦しみの念が蓄積されてしまうわけです。一方、良くなる方にしても一旦動き出したらどんどんと良くなる、というサイクルが起こります。一時的に波動が異なる人がすれ違うことがあれど、基本的には波動の法則により同じような波動の人同士が結びつきます。

そのような安定方向への動きに対して、分離の動きも起こります。スピリチュアルでは統合を善とみなして分離を悪とみなす風潮が一般的にはありますが、実のところ、どちらも高次元(神と言っても良い)の動きであり、創造・破壊・維持の働きの1つでしかなくて、そのようなスピリチュアルな観念を超えてシステムとして高次元(神)の仕組みが存在するわけです。ですから、統合する動きも高次元(神)の動きであり、分離にしても高次元(神)の動きであり、(一見すると善と悪があるように見えても)(高次元、神の観点からすると)全ては完璧なわけです。


▪️システムの中で賢く生きる
このような動きにおいて、システムを理解した上で、うまく波に乗れば良いわけです。何をしても完璧であるわけですから、誰がどのような選択をしようともそれは完璧なわけで、(良くない行動をしたらカルマとして戻ってくるだけですから)、調和に従った行動を取れば良いわけです。波動が良ければそれに相応な行動になりますし、盲目な人は相応な(そうだとしても神の意思に従った)行動になるわけです。分離や破壊など、一見すると神に反しているような行動であっても高次の次元からすれば学びであり、全ては完璧なわけです。そうは言いましても、自分がわかっていつつ不幸な人生を選ぶ必要はありませんので、幸せな人生を選べば良いわけです。

この世のシステムは自然の摂理のように安定方向に進みますから、その安定方向というのは(一見すると悪のように見える人であったとしても)調和の方向へと進みます。ですから、たとえ不調和に見えたとしても少しずつ調和に向かっているわけです。もともとそれなりに波動が高い人はもっと高みを目指します。悪に向かっているような人は盲目なだけで自分に正直なわけですが、神からすると悪の人生はそこまで価値はなかったりします。


▪️神が悪を操るというレアケース
稀に、悪であっても、他の目的のために動かされている場合があります。それはケースバイケースです。英雄を殺す愚者、みたいなケースは実はこういう場合が多々あります。英雄それ自体は神が降りたものであることがほとんどですが、神が寿命を終えて後は他の人に任せるような場合に、他の人を神が操って英雄を殺す、ということが行われます。例えばジャンヌダルクが裁判で死刑になったようなケースです。

はたまた、悪のように見える行為であったとしても、それは神が「知りたい」という希望を反映してのものであり、全ては学びであるところの悪の場合もあります。その場合、神が学び終えれば急にその悪は「理解」と共に解消します。当人にとっては「目が覚める」ということになりますけど、実際のところは、その場合、(稀ですが)神が意識を下ろしてその実験をさせられていることがあるわけです。ですから、当人は「なんて愚かなことをしていたのか」と後悔するかもしれませんけど、実際のところは、神が知りたかったので、そのような不思議な思考を実体験で行動として行うことで結果を顕現させていたわけです。それは個人の人にとっては愚かな行為であったとしても、神にとっては「知る」という目的によって行われたことなわけで、学び終えれば、それの愚かな行動を取らなくなります。人生や理解は無数に数多くありますから、それぞれの場合において次々に学びが行われているわけです。そいうう場合も稀にあります。この場合、神が理解した筈なのに何故にまた同じような過ちが各地で繰り返されるのか、というお話があります。その理由としては、地上の人間の大部分は神と切り離された人生を送っていて、神が理解しても地上の人はそれぞれの観念、自分の価値観で動いている故に、神が理解したところで、地上の人間の行動はなかなか変わらないからです。まずシステムとして盲目な感情の想念が地上に蓄積しており、それに接触するなどして囚われると同じような問題を引き起こす、という面があります。特に、地上の盲目な人間はそれに簡単に影響されます。

また一方、神様が理解したとしても、地上の人と関わりがあって意思を持つような神様は割と低次の神様ですので、神様であってもそこまで広範囲のワンネスでもなく、限られた範囲でのワンネスなわけです。範囲は限られていても、神様は神様です。ですから、その(限られた範囲の)神様はまた上位の集合の神様のようなもの(上位の階層、神様にとっての更に高次の神様)に対して理解を共有しなければその知識は共有されないのです。しかしやがて上位の階層として理解が浸透し、地域的、世代的なところで共通認識が起こり、次第に問題は解消されていきます。


▪️翻弄される大衆
このようなシステムの中で、多くの人が翻弄されて、波に飲まれて天国に行ったり地上を彷徨ったりしているのが現状です。そして、すぐに昇天できる人はそこまで多くないように思います。システムがわかったなら、少なくとも天国に行けて、できれば昇天できるような人生を送るのが幸せだと私は思います。どう思うかも各自の自由意志が尊重されますので各自好きにすれば良いのですが、システムを知ったら(少なくとも)天国、そして可能であれば昇天を目指すのだと(個人的には)思います。


▪️各種の心理的な問題を真面目に考えすぎる必要はない
ですから、自分が抱えている問題は多種多様な原因によって発生しますので、自身の心理的な問題を真面目に捉えすぎる必要はないわけです。どこかから拾ってきてしまった想念で苦しむ場合もありますので。


▪️人口削減、みたいなお話とはあまり関係ない
昨今で陰謀論の界隈で噂されているこの種のお話とはほとんど関係がありません。大抵の場合は人間の側のエゴのお話ですから、輪廻のサイクルとは無関係です。ごく稀に、上記のように物質に近いところだけを大洪水などで一旦洗い流す、と言うことがこの世界では何回か行われてきましたけどそれは魂の削除でもなくて人口削減でもなくて、単純に、一旦、粗大な物質の部分だけリセットして文明をやり直す、というだけのお話です。中間的な部分(天国に行ける霊、魂)や更に高次のグループソウルはそのまま引き継がれて、大災害の影響を受けません。大災害の影響を受けるのは物質的な文明だけです。ですから、昨今、世間で騒がれている人口削減の陰謀論と輪廻転生のサイクルとは関係がないのです。


▪️人間は、魂の器
ですから、受精卵ができて胎児になった後に魂がお腹の中に入ってくるという、それ自体が、肉体は器であることを示しているわけです。生まれる時に宿った魂が基本となるわけですが、特に高次の部分は肉体から部分的に離れることがあります。離れる、という現象は世間でも(特に沖縄で)マブイを落とす、などと言ったりしますし、本州でも場所に限らず似たようなことは起こります。そして、魂(のかけら)が体に戻ってくる、ということもあります。

魂の一部でも体から離れると、意識が朦朧とした状態になります。そして、魂が一部でも戻ってくると、意識がはっきりしてきます。意識とは肉体に宿っているのではなく魂の機能の一部でありますから、魂(そしてオーラ)が少なくなると相応にメンタルは弱くなりますし、多くなると強くなります。

特にショックなことがあったり、耐えられない環境にいたりすると、ショックであれば突発的、あるいは、メンタルで耐えられない状況においては心が壊れて、高次の部分が体から(部分的にでも)体から離れてしまいます。それはある種、浮遊霊あるいは生き霊のようになって、本来は体の中に留まっているべき魂が体から離れてしまうわけです。完全に離れてしまうと肉体が死に至ったり、あるいは、機械的反応をするだけの痴呆のような状態になってしまいます。

この時、魂の視点からすると、幽体離脱したかのような状態になって、そこまで重症ではない場合は魂の方が肉体に戻ろうと思えば戻れる状態であることがほとんどです。しかし、あまりにも分離が激しくて波動が合わなくなってしまった場合、(あるいは、レアケースですが、魂が留守にしている場合に低級霊が入ってしまったりすると、)戻ろうとしても弾かれるような状況になってしまいます。

精神的な修行をする場合、特に最初は肉体および思考するマインドの側から働きかけをするのですが、それは、肉体側の視点から見た場合、「高次の意識が入ってきやすくする」、という効果があるわけです。肉体はどこまで行っても器でしかなくて、高次の意識がどれだけ入ってくるか、沢山入ることができるまでに純化できるかどうか、というところがポイントで、入ってくる、ということの他に、(いくらスピリチュアルに優れた人であっても)肉体から高次の意識が「抜ける」ということはいくらでも起こって、それは文字通り「一瞬」で起こることもあります。

高次の意識が抜ける時、それは往々にして、肉体の側のマインドがエゴという誤った感覚によって自尊心が高まった時に起こって、高次の意識からするとそのような個人のエゴは煩わしいものでしかなくて、エゴがあればあるほど高次の意識がマインドに届きにくくなるわけですから、ある程度までは辛抱強く意識を高次からマインドへと働きかけますけど、ある程度スピリチュアルがわかった人は特に相応にエゴが強くなるということがありますから、高次の意識が離れることで肉体は器でしかなくて、マインドにしても割と低次の働きであることを自覚させるわけです。高次の意識が抜けた瞬間、意識は重くなり、悲しくなり、人生に暗雲が立ち込めます。思考する(低次の)マインドは、「自分は肉体のちっぽけな存在だ」ということを意識して、器は器でしかないことを自覚するわけです。そして、器としての肉体および思考するマインドが「自分が優れている」というエゴという錯覚を捨てて、考えを改めて、高次の意識の意図を汲み取って人生に反映させます、と謙虚になると、また、高次の意識が戻ってきてくれることがほとんどです。

スピリチュアルでは、最初はハイヤーセルフ(あるいはアートマン)が自分の周囲に漂っている、というような言い方をすることがありますが、これは、自分の魂が体の中に収まっていなくて、分離している状態が割と今の人間では普通だからです。それを、自分の体と融合させて、体の中に収める、という段階を踏むことで(低次の)思考するマインドと、高次の意識とが融合します。もともと一つではあるのですけど、分離していて、それを融合する過程がスピリチュアルなわけです。

この融合は肉体が魂の器であるから起こるわけですけど、この種の「融合」はいろいろなスピリチュアルや精神的な流派で言われていて、ヨーガであれば「ダルマ・メガ・サマーディ」ですし、真言宗ですと大日如来との一体化がおそらくそれに相当するでしょうし、スピリチュアルな流派ではハイヤーセルフとロウアーセルフ(思考するマインド、低次であるエゴ)融合、みたいに言われていて、表現は違えども共通項があります。

輪廻転生の視点から言えば、高次の意識というのは肉体が形になる前から存在して、肉体の死を迎えた後も存在し続けるものです。しかし、肉体に近い想念体系としての「残りかす」「抜け殻」のような中間的なものは肉体が焼却炉で燃やされて灰になっても微細なものとしてしばらくは残って、数十年とかあるいはもっと漂うこともありますが、基本的には時間が経つにつれて力を失って消滅していきます。

ですから器としての肉体は死を迎えるとなくなるわけですけど、中間的な想念体系である「抜け型」のような意識、一般的に幽霊とか浮遊霊とか言われているものがそれに相当する場合もありますけど、それよりも、もっと機械的と言いますか、雲のような、単なる、モヤモヤっとしたものが「抜け殻」であるわけです。

そして、高次の意識がその抜け殻に伴っていることはほとんどないにしても、中間的な意識が残っている場合があって、その場合は、幽霊や浮遊霊っぽくなります。まだ意識が明確でなくて、意識があるけれども天国に行けるほど意識が純化されていない場合、浮遊霊のような感じになって地上を彷徨います。死後に、特に自殺をした場合に最後の動きを無限に再生する場合もこれですね。ですが、基本的には時間が経つとエネルギーを失って風化しますので、あまり気にする必要はなかったりします。

そのように、一見すると未浄化霊のように見えることであったとしても、大抵の場合は単なる「抜け殻」であって、機械的な動きをしているだけあり、高次の意識はそこから抜け出て天国に行ったり(稀にそのまま昇天する場合もなくもなくて)、どちらにせよ、そのような「抜け殻」に高次の意識は残っていないことがほとんどです。未浄化霊の場合は中間的な意識にしても大半が抜け出ていて、ほんの少しの中間的な意識が「重さに引きづられて一部が残ってしまった」というくらいのものであることが多く、機械的な動きをしている霊がいたとしても、大した価値がなかったりします。それは文字通り、中間的な意識や高次の意識が既に抜け出てしまった「抜け殻」(と、ほんの少しの、引きづられるようにしてこびりついている若干の中間的な意識)でしかないわけですから、そこに意義を見出す必要はあまりないわけです。

生きている間に頑張ってもらった肉体は死後に償却されてなくなりますけど、今まで長い間生きてきた間に貯めた想念体系としての「抜け殻」はそれなりに強いエネルギーを持っていることがあって、それが地上に「機械的な動き」として、いわゆる「念」のような形で残され、数十年、数百年単位で地上の人間に影響を及ぼすことがあります。

ですが、それはそのまま(天国に行ける程度の)中間的な意識というわけでもなく、ましてや、昇天できるほどの高次の意識というわけでもなく、あくまでも想念の抜け殻が地上に残っているだけですので、そこまでの深い意味を見出す必要はないわけです。そのように、実態としてはそうであっても地上の人間に長い期間、影響を及ぼすことがありますので、必要でしたら対処した方が良いわけです。

この種の、地上に残ってしまった「抜け殻」としての念は、魂の輪廻転生のサイクルの本筋とはあまり関係がありませんけど、それでも、昔に生きた人の念としてのエネルギーが次の世代の人間に影響を及ぼすことがあるわけです。これは魂としての輪廻転生サイクルではないにせよ、肉体に近いオーラの影響として、ほんの僅かではありますが、長い時間をかけて少しずつ他の人に同じエネルギーが転写されることになり、そういう影響があるのであれば、一応、輪廻転生のマイナーなサイクルの1つとして数えても良いのではないかと思います。


▪️小さいもの、大きなもの
小さいものの形と、大きなものの形や構造が似ている、ということは自然界においてよくあることです。魂の構造も、それに似た階層構造をしています。

生きている人間が魂を持つとして、それが属するグループソウルがあります。グループソウルは生きている人(分霊)の集合体でもあり、分霊は一時的に分離はしていますが、基本的に自分が属するグループソウルに戻る運命にあります。そうではない場合もありますが、基本的にはそうする意図を持つのが普通です。

このグループソウルは、生きている人間からしたらグループソウルのようにも見えますし、解釈によってはハイヤーセルフと言うこともできますけど、ハイヤーセルフというのは個人の魂の高次元の部分を意味するのが基本ですので、確かに自分自身の戻るところという意味においてはハイヤーセルフというのもそこまで間違いでもないのですけど、そこは誤解があるところですからグループソウルと言った方がわかりが良いように思います。

そのグループソウルは文字通り集合体なわけですけど、そのグループソウルそれ自体で1つの大きな人格(文字通り)をなしています。必ずしも霊体として大きいわけではないのですが、凝縮度、密度が違っていて、同じような霊体に見えたとしても、数多くのミクロコスモスのような意識が数多く詰まっているのがグループソウルとしての特徴です。実際のところ、見た目としての大きさは霊体としては変えることができますので見た目の大きさはあまり関係がなくて、見た目よりも、そこに詰まっている魂の量や密度が重要になってくるわけです。そのように、凝縮された形でのグループソウルがいて、それは個人の分霊からしたらグループソウルですけど、それは1人でもあるわけです。

そのグループソウル相当が1つの意識、一つの魂でもあって、それが、(必ずしも巨大とは限りませんが)1人の霊人として、(もちろん、宇宙人でもある)存在しているわけです。

そのように、高次の意識の集合体としてのグループソウルがあって、それもまた実は1人の人格であるわけです。

それが1人の人格であるとするならば、更に高次元というものもあって、地域的な神様(のような)意識、というのが空間に満ちています。それはおそらくは更には何階層にもなっているのでしょうけど、私が認知できるのはここまでですので、ひとまず、そのような認識で話を進めます。

・(空間を司る)神
 創造神と言っても良い。
 人格はないように認知されるが実はあるのかもしれない、そこは窺い知れないところ。
 未知の領域ではあるが、空間そのものを司る、宇宙を司る神としての存在、意識もうっすらと感じる。創造・維持・破壊、の3つの動きの統合

・(地域的、分野など、限定された)神(=グループソウル、人格神)
 (上記の)創造神の分け御魂、創造神の分霊。
 (創造神と同様に)創造・維持・破壊、の3つの動きが、限定された範囲において働く。

・分霊 (=私のハイヤーセルフ、スピリット)
 (上記)グループソウルから分かれた1つの分霊(が私のハイヤーセルフ)
 (ヴェーダンタにおける)アートマン相当(真我)
 (創造神やグループソウルと同様に)創造・維持・破壊、の3つの動きが、ごく限られた範囲において働く。

・顕在意識(思考するマインド、錯覚された自分という意識(=エゴ))
 ハイヤーセルフとは分断された(と錯覚している)自分(という意識)
 (ヴェーダンタにおける)ジーヴァ(錯覚した自分)
 (創造神、グループソウル、ハイヤーセルフと同様に)自分のごくごく限られた範囲において創造・維持・破壊の3つの動きが働く。
 思考の波、思念派、想念を発する。時に残留思念を作り出す。


このような階層において、それぞれ、顕在意識がかくあるように、高次の意識もあって、それぞれ、階層ごとに認知できる範囲において判断を下しつつ、人生を生きているわけです。

そして、下層の部分はサイクルが早いですけど高次になればなるほど長くなって、高次の側は次元を超えて多種多様な人生を選択しています。

ですから、高次の視点からすると輪廻転生はない、という表現も一応は可能なわけですが、どこかで区切った場合、それ以下の階層で輪廻している、という視点はあるわけです。


▪️個人としての立ち位置
このように概観を眺めてみると、世の中で理解されている輪廻転生もそこまで正しいわけではないものの、ある程度の現実を表現しているとも言えて、一方で、輪廻転生はないとしている流派が言っていることも、それはそれで、多少の真理を描き出しているように思うのです。実際のところ、輪廻転生のようなものはもっと細かいお話で、(自覚しているかどうかはともあれ)他者と触れ合う時にすらわずかの前世の交換は起きているわけです。

このような小さなサイクルがある一方、大きなところで、大元となる魂の輪廻、というところに軸を置いても良いのかなと思います。基本はグループソウルにあって、望めば自分ではないグループソウルと融合することもできますけど基本は元々自分が分離した大元である、縁のあるグループソウルと融合するのが基本になります。そして、グループソウルから分霊が作られるわけです。グループソウルそれ自体も「意識」をグループ全体として持っていて、個々に意識はありますので1つの意識ではなくてごちゃ混ぜの意識ではありますけど、それでも、全体としての「大きな意識」がそれら個別の意識を統合しているわけです。そして分霊になる時は1つのコアのようなものが中心になって周囲のオーラを集めて分霊になるわけですが、時に、小さなコアをいくつか束ねて生まれることもあり、この場合、精神分裂病のようにも見える複数人格を持ったりしますが、時間が経つにつれて1つのコアに統合されてゆくのが普通です。そのコアがいわゆる人格でもあって、基本はグループソウルのほとんどが割と同じような性格になりますけど、一応、転生するとなるとそのコアが基本になるわけです。

このような、グループソウルとしての輪廻、分霊、そして死後の分裂というサイクル、そして神の意思の観点とで理解すれば輪廻転生の全体像も見えてくるかと思います。