子供の頃は毎日が楽しくて感謝と喜びに満ちていた
最近の私は日常生活に嬉しい気持ちが満ち溢れていて何気なく感謝をして喜びが何度も湧き上がってくるような状態なわけですけれども、ふと思えば、子供の頃も同じように、日頃から何となくとも毎日が喜びに満ちていて充実していて、世界が輝いていたように思います。
それがいつしか呪われたり、それで精神的な鬱になったり、無意識のトランス状態によく陥るようになってしまったりして、なかなかに苦労しましたけど、ようやく、子供の頃の喜びに満ちた状態に戻ってきたように思います。
記憶では子供の頃はとても楽しかったように覚えているのですが、実際の状態としてそのように同じような喜びに満ちることはしばらくなくて、それを目指していたわけではないのですけど、ふと気付けば、同じように喜びの毎日の状態に戻っていました。
ふとした、何気ない日々で、例えば、単に階段を降りているだけで自分の部屋だけでなく他の家や壁、他の人の部屋、その周囲にある全てに対して「有難いなあ」と思えるわけです。
特に理由なしに、存在しているだけで、有難いのです。
存在全てが有難い、ということもできますけど、これは条件付けのある感謝ではなくて、存在そのものに対する感謝なのです。強いて言えば「満ちている」ことに対する感謝で、周囲の全てが存在している、それだけで「有難いなあ」と思えるわけです。
思えば、子供の頃は、同じように周囲の全てに対して「有難いなあ」と思っていたように思います。学校に行って全てに有り難く思いながらキョロキョロしていて、しかも、笑顔でしたので、私が同級生の女の子の方を見ると、私に笑顔で見られた女の子は(自意識過剰なのかもしれませんけど)、「あれ? 私のこと好きなのかしら?」と思ってしまったりして、私は何も気にしていなくて視線を向けただけなのに勘違いさせてしまったりすることが良くありました。最近もそういう節がなくもないのですけど流石に年ですのでそんなに勘違いされることはないですけど。
そうして幸せに生きていても、他人は構わず呪いとかで攻撃してきたり、エネルギー・ヴァンパイアがしつこくつきまとってきてエネルギーを奪おうとしてきたりしましたので、スピリチュアルが言うように「波動の法則」とやらも現実世界では必ずしも正しくなくて、確かに、現実化と言う側面では波動の法則が成り立つのですけど、カルマの種類の中にはプラーラブダ・カルマというものがあって、一度発動してしまったカルマというのはそのまま継続しますので、近くに既に存在している呪いとかエネルギー・ヴァンパイアによる攻撃とかはしっかりと対処する必要があるわけです。
子供の頃はあまり対処方法がわからなくていいようにやられてしまったわけですけれども、それもこれも、学校生活という「逃げ場のない場所」にて攻撃者が執拗に嫌がらせができるような環境が用意されていて、攻撃者が著しく優位にある環境にあったのが原因と言えます。大人でそれなりの都会に住んでいるのであれば人間関係は自分で選べますから呪ってくるような人とは付き合わなければ良いですし、エネルギー・ヴァンパイアも同様に避ければいいわけです。会社は長く勤めるべきとか世間では言われていますけど実際のところはエネルギー・ヴァンパイアが上司の場合は搾取され続けてしまいますのでそんな環境で働くべきではなかったりします。
おそらく、子供の頃は多くの人が笑顔で生活していて、やがて毒されてゆくのかなと思います。
概ね子供の頃は生活に選択肢が少なくて、精神的なことに理解の薄い大人に囲まれているとこのようなお話が理解されずに放置され、せっかくの子供の笑顔と可能性が次々に潰されているように思います。
お金と物欲と性欲にしか興味のない親の子供として生まれる場合、精神的なことが理解されずに苦労します。それはそれで私の場合は学びでした。
それがいつしか呪われたり、それで精神的な鬱になったり、無意識のトランス状態によく陥るようになってしまったりして、なかなかに苦労しましたけど、ようやく、子供の頃の喜びに満ちた状態に戻ってきたように思います。
記憶では子供の頃はとても楽しかったように覚えているのですが、実際の状態としてそのように同じような喜びに満ちることはしばらくなくて、それを目指していたわけではないのですけど、ふと気付けば、同じように喜びの毎日の状態に戻っていました。
ふとした、何気ない日々で、例えば、単に階段を降りているだけで自分の部屋だけでなく他の家や壁、他の人の部屋、その周囲にある全てに対して「有難いなあ」と思えるわけです。
特に理由なしに、存在しているだけで、有難いのです。
存在全てが有難い、ということもできますけど、これは条件付けのある感謝ではなくて、存在そのものに対する感謝なのです。強いて言えば「満ちている」ことに対する感謝で、周囲の全てが存在している、それだけで「有難いなあ」と思えるわけです。
思えば、子供の頃は、同じように周囲の全てに対して「有難いなあ」と思っていたように思います。学校に行って全てに有り難く思いながらキョロキョロしていて、しかも、笑顔でしたので、私が同級生の女の子の方を見ると、私に笑顔で見られた女の子は(自意識過剰なのかもしれませんけど)、「あれ? 私のこと好きなのかしら?」と思ってしまったりして、私は何も気にしていなくて視線を向けただけなのに勘違いさせてしまったりすることが良くありました。最近もそういう節がなくもないのですけど流石に年ですのでそんなに勘違いされることはないですけど。
そうして幸せに生きていても、他人は構わず呪いとかで攻撃してきたり、エネルギー・ヴァンパイアがしつこくつきまとってきてエネルギーを奪おうとしてきたりしましたので、スピリチュアルが言うように「波動の法則」とやらも現実世界では必ずしも正しくなくて、確かに、現実化と言う側面では波動の法則が成り立つのですけど、カルマの種類の中にはプラーラブダ・カルマというものがあって、一度発動してしまったカルマというのはそのまま継続しますので、近くに既に存在している呪いとかエネルギー・ヴァンパイアによる攻撃とかはしっかりと対処する必要があるわけです。
子供の頃はあまり対処方法がわからなくていいようにやられてしまったわけですけれども、それもこれも、学校生活という「逃げ場のない場所」にて攻撃者が執拗に嫌がらせができるような環境が用意されていて、攻撃者が著しく優位にある環境にあったのが原因と言えます。大人でそれなりの都会に住んでいるのであれば人間関係は自分で選べますから呪ってくるような人とは付き合わなければ良いですし、エネルギー・ヴァンパイアも同様に避ければいいわけです。会社は長く勤めるべきとか世間では言われていますけど実際のところはエネルギー・ヴァンパイアが上司の場合は搾取され続けてしまいますのでそんな環境で働くべきではなかったりします。
おそらく、子供の頃は多くの人が笑顔で生活していて、やがて毒されてゆくのかなと思います。
概ね子供の頃は生活に選択肢が少なくて、精神的なことに理解の薄い大人に囲まれているとこのようなお話が理解されずに放置され、せっかくの子供の笑顔と可能性が次々に潰されているように思います。
お金と物欲と性欲にしか興味のない親の子供として生まれる場合、精神的なことが理解されずに苦労します。それはそれで私の場合は学びでした。
スシュムナがアジナからアナハタまで通ると魔境がやってきた
最近、胸のハート(アナハタ)の感情が活性化され、思春期のようになってきました。
おそらくこれは仏教などで言われている魔境なのではないかと思うのです。これまでも魔境らしきものはあったように思いますけど、ここにきて、なかなか激しく魔境をここ1ヶ月くらいの間経験してきたように思います。
最近は割と克服してきたものの、スシュムナ(背骨沿いのエネルギールート、ヨーガでいうナディのうち主要なもの)が通った後に、また違った魔境が出てきました。これはおそらく、アストラルと繋がることによる感情的な魔境ではないかと思うのです。
1.頭の中でエネルギーが詰まることによる不調(いわゆる魔境) (3週間前から2週間前まで)
2.アジナから喉のヴィシュッダ、そしてアナハタまでスシュムナが通ることで感情面・アストラル面が活性化されることによる魔境(これが本来の魔境のように思えます) (直近1週間ほど)
3.アジナが多少でも開く、あるいは、サハスララが少しでも開くと魔境が解消される。(ここ数日)
アジナおよびサハスララにまで繋がってエネルギーがアジナあるいはサハスララに充満している時は魔境ではなく元気で充実しているのですが、アジナあるいはサハスララがうまく開いていない時に感情的な魔境の状態になるように思います。
おそらくこれは仏教などで言われている魔境なのではないかと思うのです。これまでも魔境らしきものはあったように思いますけど、ここにきて、なかなか激しく魔境をここ1ヶ月くらいの間経験してきたように思います。
最近は割と克服してきたものの、スシュムナ(背骨沿いのエネルギールート、ヨーガでいうナディのうち主要なもの)が通った後に、また違った魔境が出てきました。これはおそらく、アストラルと繋がることによる感情的な魔境ではないかと思うのです。
1.頭の中でエネルギーが詰まることによる不調(いわゆる魔境) (3週間前から2週間前まで)
2.アジナから喉のヴィシュッダ、そしてアナハタまでスシュムナが通ることで感情面・アストラル面が活性化されることによる魔境(これが本来の魔境のように思えます) (直近1週間ほど)
3.アジナが多少でも開く、あるいは、サハスララが少しでも開くと魔境が解消される。(ここ数日)
アジナおよびサハスララにまで繋がってエネルギーがアジナあるいはサハスララに充満している時は魔境ではなく元気で充実しているのですが、アジナあるいはサハスララがうまく開いていない時に感情的な魔境の状態になるように思います。
魔境で蘇る、忘れていた、とある女性
魔境の時、何故かはわかりませんけど、それほど仲良くもない忘れていた人(女性)が当時の思いとして感情的に湧き上がってくるのです。学生時代に2回ほどしか食事したことがなく、ほとんど忘れていて、合計しても数時間くらいしか話したことがない、そこまで知らない人であるのですけど、何故か、その時の私の良くない態度がフラッシュバックしてきて、まるで思春期の悩みの状態のようなメランコリーな失恋かのような感情が湧き上がってくるのです。実際のところ、その時のことはそこまでのことではないかなと思うのです。当時のことを思い返すと、気は合いましたけど恋愛とまでは発展していませんでしたし、結局それっきりで終わったのです。
現実としてのベースは一致しているのですが、その時に感じた感情が、フラッシュバックで出てくる内容と、実際の現実の(感情面の)記憶とが食い違っているのです。これは、今までかつてあった「現実の出来事に対するトラウマ」とは全く別のもので、「素材」としては当時の現実を使ってはいるものの、そこでフラッシュバックされる感情的な内容は、当時の思いとは食い違っているのです。これは魔境なのではないかと思います。古い物語でよく言われているように、悪魔は人間の頭の中から素材を取り出してそれっぽい物語を見せて誘惑する、と言います。おそらく、悪魔が当時の映像を使ってありもしない記憶らしきものを捏造しているのではないかと思います。悪魔の仕業なのでしょう。
この少し前まではまだ頭の中が開いていなくて、頭の中が開いていない状態では魔境というよりは単なるエネルギー的な不調だったのです。それは単なる不調であり、魔境ではありませんでした。その時点ではまだアジナからスシュムナが通っていなくて、その後、アジナからスシュムナが喉のヴィシュッダとしてアナハタまで伸びると同時に感情的なもの・アストラル的なものが活性化してきて、魔境が見えてきたように思います。
現実としてのベースは一致しているのですが、その時に感じた感情が、フラッシュバックで出てくる内容と、実際の現実の(感情面の)記憶とが食い違っているのです。これは、今までかつてあった「現実の出来事に対するトラウマ」とは全く別のもので、「素材」としては当時の現実を使ってはいるものの、そこでフラッシュバックされる感情的な内容は、当時の思いとは食い違っているのです。これは魔境なのではないかと思います。古い物語でよく言われているように、悪魔は人間の頭の中から素材を取り出してそれっぽい物語を見せて誘惑する、と言います。おそらく、悪魔が当時の映像を使ってありもしない記憶らしきものを捏造しているのではないかと思います。悪魔の仕業なのでしょう。
この少し前まではまだ頭の中が開いていなくて、頭の中が開いていない状態では魔境というよりは単なるエネルギー的な不調だったのです。それは単なる不調であり、魔境ではありませんでした。その時点ではまだアジナからスシュムナが通っていなくて、その後、アジナからスシュムナが喉のヴィシュッダとしてアナハタまで伸びると同時に感情的なもの・アストラル的なものが活性化してきて、魔境が見えてきたように思います。
スシュムナが開いて感情に敏感になった
まず、スシュムナのエネルギーにより、感情的なものを感じやすくなっているようです。感情とはアストラル界に属するものですから、今回、新たにアジナからアナハタまで繋がって活性化されたエネルギーはアストラル的なものが強いのかなと思います。この結果、歌などを聴いた時にその感情がとてもはっきりと伝わってくるようになって、例えば、たまたま見た安室奈美恵の動画などは以前とは感情面で別物のようにはっきりと感動が伝わってきました。スシュムナが開くことで感情面の感受性が強化されるようです。私が若い頃にここまで感情を感じられていたら安室奈美恵のファンになっていたかもしれません。
そうして、感情的なものを感知しやすくなっただけなら良かったのですけど、アストラルというのは様々な存在がいて、今までは私は割と封印されている状態でしたからアストラルのことが感知できない反面、一応は封印が防御膜になっていてアストラルの影響を受けにくい状態でしたから、そこまで悪魔の影響を受けていなかった状態だと言えます。それが、スシュムナにエネルギーが満ち初めて、アジナから喉のヴィシュッダ、としてアナハタまで活性化された時、特にアナハタで感情的なものを感じやすくなったのです。
私の場合、アナハタの活性化は4段階目くらいで、1段階目は普通の肉体のクンダリーニ、2段階目は創造・破壊・維持の神意識、3段階目はサハスララから入り込んできたプルシャ(神霊)、そして今回、4回目として、頭の中が緩んでアジナから喉のヴィシュッダ経由でアナハタまでエネルギーが通ったことによるアナハタの感情的な活性化が現れました。
一般的にはクンダリーニは肉体に近い方から活性化すると通説では言われていますが、今回の場合、活性化が足りていなかったアストラル的なものを改めて活性化したように思います。プルシャ(神霊)がアストラル的なものを呼び寄せた、という言い方もできるかもしれません。プルシャが入ってきた時は感情的なものはありませんでしたけど、その後、プルシャが体を再開発してアジナなど各所を活性化させて体を再構成する過程において、おそらくは今まではアストラル的・感情的な側面がまだうまく活性化できていなかったがために、プルシャが意図して体を改造することでアストラル的なものを感じやすい状態にまで活性化したのではないかと思うのです。
そして、おそらくは、アストラル的な感覚が開けたことによって魔境になったのではないかと思うのです。であれば、必然だったとも言えると思います。
そうして、感情的なものを感知しやすくなっただけなら良かったのですけど、アストラルというのは様々な存在がいて、今までは私は割と封印されている状態でしたからアストラルのことが感知できない反面、一応は封印が防御膜になっていてアストラルの影響を受けにくい状態でしたから、そこまで悪魔の影響を受けていなかった状態だと言えます。それが、スシュムナにエネルギーが満ち初めて、アジナから喉のヴィシュッダ、としてアナハタまで活性化された時、特にアナハタで感情的なものを感じやすくなったのです。
私の場合、アナハタの活性化は4段階目くらいで、1段階目は普通の肉体のクンダリーニ、2段階目は創造・破壊・維持の神意識、3段階目はサハスララから入り込んできたプルシャ(神霊)、そして今回、4回目として、頭の中が緩んでアジナから喉のヴィシュッダ経由でアナハタまでエネルギーが通ったことによるアナハタの感情的な活性化が現れました。
一般的にはクンダリーニは肉体に近い方から活性化すると通説では言われていますが、今回の場合、活性化が足りていなかったアストラル的なものを改めて活性化したように思います。プルシャ(神霊)がアストラル的なものを呼び寄せた、という言い方もできるかもしれません。プルシャが入ってきた時は感情的なものはありませんでしたけど、その後、プルシャが体を再開発してアジナなど各所を活性化させて体を再構成する過程において、おそらくは今まではアストラル的・感情的な側面がまだうまく活性化できていなかったがために、プルシャが意図して体を改造することでアストラル的なものを感じやすい状態にまで活性化したのではないかと思うのです。
そして、おそらくは、アストラル的な感覚が開けたことによって魔境になったのではないかと思うのです。であれば、必然だったとも言えると思います。
現実と食い違うフラッシュバックによる魔境にて誘惑を受けた
ここ3日ほど、現実の現象のベースは一致しているものの感情面で現実と食い違っている過去の記憶が蘇ってきて思春期のような感じやすい心の状態になって涙もろくなっていたのですけど、いい年して何をしているのかと自分で自分のメンタルの涙脆さを不思議がっていました。おそらく、これを乗り越えるのに失敗して現実ではない感情のフラッシュバックに飲み込まれてしまうと「現実をもう一度やり直し」なのではないかと思うのです。「そういう設定」の状態にまで過去まで巻き戻されて、意識がその時点になって、数十年前からまた苦しいメンタル不調をやり直すことになっていたようなのです。そこまで教えられて、「いやいや、それは勘弁してください・・・」ということもあって、魔境に何日も耐えた後、やがて心は決まり、目が覚めて、「そんな大変な思いをするより、この魔境を乗り越える方が余程楽なことでしょう」と思ってある程度まで乗り越えて今に至ります。これはいわゆる通過儀礼で、もし通過に失敗してしまうと「あぁ、あの子に悪いことをした。もう一度、やり直したい。謝りたい。今度はうまく良い関係になりたい」という願いが確定し、時間が巻き戻され、あの辛いメンタル不調な時代から何十年と別のタイムラインでやり直さなくてはいけなくなるようなのです。そういえばエリザベス・ハイチの「イニシエーション」で似たようなお話を読んだように思います。
これは呪いのようなもので、悪魔が、現実を受け入れられなくてやり直したいと思っている者の願いを叶える、ということをしているように思うのです。その役割だけを見ると悪魔なのか天使なのかもわからず、単なる、そういう時の管理者というだけなのかもしれませんが、流派によっては悪魔とも言われている存在が行く手を阻んで人生をやり直しさせようと狙っているようなのです。これは魔境です。
この魔境を克服するために、瞑想をして、何度も何度も、思春期のような感傷的な感情を無視してアジナやサハスララに集中しました。アジナやサハスララが開いていない状態ではアナハタで感情面が湧き出ていて、思春期の甘い切ない、決して実らない焦がれる恋心が(いい歳して)数十年前の記憶としてフラッシュバックしてくるのです。
たまにはこういう感情も悪くはなくて、せっかくですから数日くらいは十分に楽しみましたけど、そもそもこの映像の相手とはそういう関係ではありませんでしたのでただの妄想でしかなくて、悪魔にはそろそろ退散してもらう時期かなと思います。
アジナが活性化され、サハスララが多少は開いた状態において、そのような悪魔の作り出したフラッシュバックな感情は急に晴れて安らかになってゆきます。まだアジナもサハスララも私は不安定ですので多少の影響はありますけど8割は克服したようで、山は超えたように思います。たまにはこういう懐かしい思春期の思いも良いですけど、それにしても、まさか今さらそんな思いをするなんて予想外で、ちょっと面白くもありました。ですが、いつまでも懐かしがっていても仕方がなく、これは現実ではない、ということを確かめてからフラッシュバックの魔境を克服するのです。
ブッダは魔境において美しい女性の誘惑を受けた、などと言いますけど、私の場合、当時私がそこまで仲良くなかった子が何故か物凄く魅力的な演出になっていて、その子と何故かロミオとジュリエットあるいは身分違いの恋かのような設定になっていて、確かにその子はT大生で私はそこらの大学生でしたから身分違いと言えばそうですし当時は少し引いていたのも確かですけど、かといって、ロミオとジュリエットに見立てるのは設定としてやり過ぎなのではないか思うのです。悪魔も、魔境で演出してシナリオ作るにしても、もっと、尤もらしいシナリオの作り方があったかと思うのですけど、感情的な誘惑は真に迫っていて、しかも、「贖罪」の感情と演出も組み込まれていて、「贖罪するためには私はもっと積極的にアプローチして彼女を幸せにしてあげなくてはいけなかった。ほらみろ、貴方がしっかり幸せにしてあげなかったから、彼女はその後も恋愛に失敗して、未だに独身で落ち込んでいる」とか悪魔による説教と解説がされて少し取り込まれそうになるわけですけど、ふと我に帰って、「いやいや、その後、どうしているかなんて知らないし・・・」そもそも、数十年の間ほとんど思い出すことすらなかったほど、ほぼ完全に忘れていましたし。それに、感情面で「あれ。そうだったっけ?」と疑問もあり、「あれ。この子と私はそんな関係じゃなかったのにな? どういうことでしょう? そもそも、全くと言って良いほど失恋の感情はなかった筈。単に合わなかったというだけだった筈。気は合った時はあったけど、そもそも恋愛の状態にまでなっていないし。当時疲れていたのはこれが原因ではなくてそもそもメンタル不調だったのが理由」と思って、冷静になって考えてみると色々とおかしくて、それでも、悪魔というのは力がありますから、延々と「悲劇の2人」の演出が繰り返されて、「あの子を貴方が助けなければならないのだ」と説得して感情的な渦を作り出してその気にさせてきますけど、私の方はというと「そんな数十年前の事なんて知らないしな・・・」「そんなこと今さら言われても、あの子がどこでどうしているかも知らないし」と思うのですが悪魔は負けじと説得してきて「いやいや、偶然にも会うことはある。俺が会わせてやる。」とか言い出してその子の映像を見せて、「ほら見ろ。一軒家に両親と住んでるこの子はデートに気合い入れて行くけど2回目以降はほとんど誘われなくて、打ちひしがれているぞ」とか、昼ドラみたいなことを悪魔は言ってきます。本当ですか? 適当に映像を作ってそう言っていのではないですかね。実際のその子はとても元気にしていて私のことなんて忘れている可能性の方が遥かに高いですよ。女性は何回かしか会ったことがない男のことなんて覚えていないのが普通かと思います。こんなの、悪魔というよりは3流のシナリオライターでしょう・・・。昔ならともかく、今の、多種多様なドラマが世の中に出回っているこの状況ではこのくらいでは通用しません・・・。悪魔も残念ですね。何から何までおかしすぎます。女をずっと忘れられない男もたまにはいますけどね。たまには昼メロも良いですけどシナリオに白けます。
少し前にヨーガの瞑想で頭がクリアになり、頭の中が活性化して頭の回転が少しは良くなった気がしていました。ですので、T大生はきっと最初からこんな感じかこれ以上に頭の回転が良いのだろうな、などとその頃から思っていましたのでその関連で昔の記憶が蘇ってきて、それが「素材」として使われて魔境になっただけかもしれません。どちらにせよこの感情は古いエネルギーで、将来に活かせるお話ではありませんね。こんな当時のイメージなんて関係なくて、今はどこかの見知らぬ普通の中年の素敵なお姉様になっていると思います。そんなものです。美化しすぎです。今更会ってもその子だと判別できないかもしれないですし、会う必要もないですし、向こうは私のことなんてほぼ100%忘れていると思います。ですので、今更どうしようもなく、ただ単に、思考の為の素材でしかなかったわけです。そう思うのが適当だと思うわけです。
たまには昔の失恋を思い出すこともありますけど、この場合は、当時はそもそも失恋にすらなっていなくて、どちらかというと私の方が先に冷めてしまって相手にごめんなさい、という感じでしたし、今回映像で魅せられた内容とはそもそもの話が違っていますからね。単なる演出だと思います。私、恋愛に冷めやすかったんです。ほんと、相手に申し訳ないです。相当に酷く悲しませてしまった人がぼちぼちいます。その罪滅ぼしと慰めのためにお友達関係で仲良しを続けるくらいならいいですけど、今回のフラッシュバックは前提が現実と違っていますからね。(あ、でも、また新たに思い出したことに基づくと、また違った理解が・・・。これは後のお話に続くのです。)
このことで久々にハートのところが壊れた感じに数日間なっていましたけど、冷静になって、きちんと瞑想したらハートが修復されていきました。
スピリチュアルだけでなく小説の物語でも自分の精神から作り出した分身が自分を誘惑する、惑わす、ということはよく言われていて、似たようなことは前にも何度もあったわけですけど、久々に凝った演出を見せられました。
それに、元々私はオーラが開き気味で、いわゆる霊障で、周囲の恋愛感情までも拾ってしまって他人の恋愛を自分のことのように勘違いしてしまうこともありましたので、まあ、こんな感じのことも気のせいなんだと思います。他人のことなのに嫉妬とか失恋の感情を拾ってしまって、関係ないのに勝手に傷ついたり喜んだり好きのような感情が湧き上がったりしていて、ここに来てアストラル感覚が再度開いたら、また昔のような状態に戻ってきたような気が致します。今度は昔のように何でもかんでも無意識に拾うことはせずにきちんと判断する必要性を感じています。
魔境については本山博先生の「超意識への飛躍」などに解説があって、アストラル次元の部分的な合一が魔境と解説されています。まあ、私はせいぜいアストラル次元くらいにしか到達していない、ということだと思います。無意識の面ではサハスララからプルシャ(神霊)が入ってきたとはいえ、顕在意識で認識できるのはせいぜいアストラル次元くらいだ、と解釈しています。であれば、普通に捉えれば、私の段階は、アストラル次元が主、ということでしょう。こういうのは全ての人がアストラル次元だけでもなくカーラナもプルシャも持っていて、ですが、どれが主として動いているかの違いがあるということだと思います。
本山博先生の解説によると、魔境の場合は一応は部分的なアストラルな合一がなされているので、見えたものが現実と合一している、完全に物体や見た目では同じではないにせよ、意味として合一している、と言います。この点、私も納得することがあって、確かに、子供の頃に幽体離脱でこの相手の女の子の(その時点での)将来を確認したら、確かに恋愛下手で物事をはっきりと言いすぎて男に好かれず、頭の回転が良いものだから早口で言うので癒しを求めている男から恋愛対象に見られていないようでした。ちょっと工夫してゆっくり話したり、はっきり言わずにほのめかす言い方をすれば良いのに、自分はほのめかしてるつもりなのに、その、ほのめかし、それ自体をハッキリと早口で言うものだからほのめかしになっていない、でも、自分は頭の回転が早いのでそれに気が付かない、という、面白い状況で恋愛下手になっていて数回以降はデートに誘われず、それなりの年になるまで恋愛がうまくいかなくて打ちのめされている感じでした。まあ、これはその時点で見たものですので本当にそうなったのかどうかはわかりませんけど、ふとこのことを思い出して、そういえば、悪魔が言っていたことと同じだなぁ・・・ と思いましたので、一応、この子の将来はそうなる可能性が高いのかなと思います。同じ食事会に来ていた他の2人の背の低いT大生の子は3年生か4年生の時に堅実な男を見つけてしっかり結婚するみたいでしたけど、今回の昼メロもどきの主役のこの悲劇のヒロインは結婚できない、という役回りのようでした。実のところ、このような幽体離脱あるいは悪魔に言われた内容を現実世界と付き合わせて確認できると一番良いのです。このくらいですと合致率は大抵は低くて、良くても30%とか50%で、せいぜい10%も当たれば良い方で、全然当たっていないこともあります。そのくらいの合致率が普通なわけです。ですから、こういう記憶や悪魔の映像があったからと言って、本気にする気はそこまでないわけです。何回も何回も違う角度で見えて初めて本当かもしれない、と思い始めるくらいです。
これは呪いのようなもので、悪魔が、現実を受け入れられなくてやり直したいと思っている者の願いを叶える、ということをしているように思うのです。その役割だけを見ると悪魔なのか天使なのかもわからず、単なる、そういう時の管理者というだけなのかもしれませんが、流派によっては悪魔とも言われている存在が行く手を阻んで人生をやり直しさせようと狙っているようなのです。これは魔境です。
この魔境を克服するために、瞑想をして、何度も何度も、思春期のような感傷的な感情を無視してアジナやサハスララに集中しました。アジナやサハスララが開いていない状態ではアナハタで感情面が湧き出ていて、思春期の甘い切ない、決して実らない焦がれる恋心が(いい歳して)数十年前の記憶としてフラッシュバックしてくるのです。
たまにはこういう感情も悪くはなくて、せっかくですから数日くらいは十分に楽しみましたけど、そもそもこの映像の相手とはそういう関係ではありませんでしたのでただの妄想でしかなくて、悪魔にはそろそろ退散してもらう時期かなと思います。
アジナが活性化され、サハスララが多少は開いた状態において、そのような悪魔の作り出したフラッシュバックな感情は急に晴れて安らかになってゆきます。まだアジナもサハスララも私は不安定ですので多少の影響はありますけど8割は克服したようで、山は超えたように思います。たまにはこういう懐かしい思春期の思いも良いですけど、それにしても、まさか今さらそんな思いをするなんて予想外で、ちょっと面白くもありました。ですが、いつまでも懐かしがっていても仕方がなく、これは現実ではない、ということを確かめてからフラッシュバックの魔境を克服するのです。
ブッダは魔境において美しい女性の誘惑を受けた、などと言いますけど、私の場合、当時私がそこまで仲良くなかった子が何故か物凄く魅力的な演出になっていて、その子と何故かロミオとジュリエットあるいは身分違いの恋かのような設定になっていて、確かにその子はT大生で私はそこらの大学生でしたから身分違いと言えばそうですし当時は少し引いていたのも確かですけど、かといって、ロミオとジュリエットに見立てるのは設定としてやり過ぎなのではないか思うのです。悪魔も、魔境で演出してシナリオ作るにしても、もっと、尤もらしいシナリオの作り方があったかと思うのですけど、感情的な誘惑は真に迫っていて、しかも、「贖罪」の感情と演出も組み込まれていて、「贖罪するためには私はもっと積極的にアプローチして彼女を幸せにしてあげなくてはいけなかった。ほらみろ、貴方がしっかり幸せにしてあげなかったから、彼女はその後も恋愛に失敗して、未だに独身で落ち込んでいる」とか悪魔による説教と解説がされて少し取り込まれそうになるわけですけど、ふと我に帰って、「いやいや、その後、どうしているかなんて知らないし・・・」そもそも、数十年の間ほとんど思い出すことすらなかったほど、ほぼ完全に忘れていましたし。それに、感情面で「あれ。そうだったっけ?」と疑問もあり、「あれ。この子と私はそんな関係じゃなかったのにな? どういうことでしょう? そもそも、全くと言って良いほど失恋の感情はなかった筈。単に合わなかったというだけだった筈。気は合った時はあったけど、そもそも恋愛の状態にまでなっていないし。当時疲れていたのはこれが原因ではなくてそもそもメンタル不調だったのが理由」と思って、冷静になって考えてみると色々とおかしくて、それでも、悪魔というのは力がありますから、延々と「悲劇の2人」の演出が繰り返されて、「あの子を貴方が助けなければならないのだ」と説得して感情的な渦を作り出してその気にさせてきますけど、私の方はというと「そんな数十年前の事なんて知らないしな・・・」「そんなこと今さら言われても、あの子がどこでどうしているかも知らないし」と思うのですが悪魔は負けじと説得してきて「いやいや、偶然にも会うことはある。俺が会わせてやる。」とか言い出してその子の映像を見せて、「ほら見ろ。一軒家に両親と住んでるこの子はデートに気合い入れて行くけど2回目以降はほとんど誘われなくて、打ちひしがれているぞ」とか、昼ドラみたいなことを悪魔は言ってきます。本当ですか? 適当に映像を作ってそう言っていのではないですかね。実際のその子はとても元気にしていて私のことなんて忘れている可能性の方が遥かに高いですよ。女性は何回かしか会ったことがない男のことなんて覚えていないのが普通かと思います。こんなの、悪魔というよりは3流のシナリオライターでしょう・・・。昔ならともかく、今の、多種多様なドラマが世の中に出回っているこの状況ではこのくらいでは通用しません・・・。悪魔も残念ですね。何から何までおかしすぎます。女をずっと忘れられない男もたまにはいますけどね。たまには昼メロも良いですけどシナリオに白けます。
少し前にヨーガの瞑想で頭がクリアになり、頭の中が活性化して頭の回転が少しは良くなった気がしていました。ですので、T大生はきっと最初からこんな感じかこれ以上に頭の回転が良いのだろうな、などとその頃から思っていましたのでその関連で昔の記憶が蘇ってきて、それが「素材」として使われて魔境になっただけかもしれません。どちらにせよこの感情は古いエネルギーで、将来に活かせるお話ではありませんね。こんな当時のイメージなんて関係なくて、今はどこかの見知らぬ普通の中年の素敵なお姉様になっていると思います。そんなものです。美化しすぎです。今更会ってもその子だと判別できないかもしれないですし、会う必要もないですし、向こうは私のことなんてほぼ100%忘れていると思います。ですので、今更どうしようもなく、ただ単に、思考の為の素材でしかなかったわけです。そう思うのが適当だと思うわけです。
たまには昔の失恋を思い出すこともありますけど、この場合は、当時はそもそも失恋にすらなっていなくて、どちらかというと私の方が先に冷めてしまって相手にごめんなさい、という感じでしたし、今回映像で魅せられた内容とはそもそもの話が違っていますからね。単なる演出だと思います。私、恋愛に冷めやすかったんです。ほんと、相手に申し訳ないです。相当に酷く悲しませてしまった人がぼちぼちいます。その罪滅ぼしと慰めのためにお友達関係で仲良しを続けるくらいならいいですけど、今回のフラッシュバックは前提が現実と違っていますからね。(あ、でも、また新たに思い出したことに基づくと、また違った理解が・・・。これは後のお話に続くのです。)
このことで久々にハートのところが壊れた感じに数日間なっていましたけど、冷静になって、きちんと瞑想したらハートが修復されていきました。
スピリチュアルだけでなく小説の物語でも自分の精神から作り出した分身が自分を誘惑する、惑わす、ということはよく言われていて、似たようなことは前にも何度もあったわけですけど、久々に凝った演出を見せられました。
それに、元々私はオーラが開き気味で、いわゆる霊障で、周囲の恋愛感情までも拾ってしまって他人の恋愛を自分のことのように勘違いしてしまうこともありましたので、まあ、こんな感じのことも気のせいなんだと思います。他人のことなのに嫉妬とか失恋の感情を拾ってしまって、関係ないのに勝手に傷ついたり喜んだり好きのような感情が湧き上がったりしていて、ここに来てアストラル感覚が再度開いたら、また昔のような状態に戻ってきたような気が致します。今度は昔のように何でもかんでも無意識に拾うことはせずにきちんと判断する必要性を感じています。
魔境については本山博先生の「超意識への飛躍」などに解説があって、アストラル次元の部分的な合一が魔境と解説されています。まあ、私はせいぜいアストラル次元くらいにしか到達していない、ということだと思います。無意識の面ではサハスララからプルシャ(神霊)が入ってきたとはいえ、顕在意識で認識できるのはせいぜいアストラル次元くらいだ、と解釈しています。であれば、普通に捉えれば、私の段階は、アストラル次元が主、ということでしょう。こういうのは全ての人がアストラル次元だけでもなくカーラナもプルシャも持っていて、ですが、どれが主として動いているかの違いがあるということだと思います。
本山博先生の解説によると、魔境の場合は一応は部分的なアストラルな合一がなされているので、見えたものが現実と合一している、完全に物体や見た目では同じではないにせよ、意味として合一している、と言います。この点、私も納得することがあって、確かに、子供の頃に幽体離脱でこの相手の女の子の(その時点での)将来を確認したら、確かに恋愛下手で物事をはっきりと言いすぎて男に好かれず、頭の回転が良いものだから早口で言うので癒しを求めている男から恋愛対象に見られていないようでした。ちょっと工夫してゆっくり話したり、はっきり言わずにほのめかす言い方をすれば良いのに、自分はほのめかしてるつもりなのに、その、ほのめかし、それ自体をハッキリと早口で言うものだからほのめかしになっていない、でも、自分は頭の回転が早いのでそれに気が付かない、という、面白い状況で恋愛下手になっていて数回以降はデートに誘われず、それなりの年になるまで恋愛がうまくいかなくて打ちのめされている感じでした。まあ、これはその時点で見たものですので本当にそうなったのかどうかはわかりませんけど、ふとこのことを思い出して、そういえば、悪魔が言っていたことと同じだなぁ・・・ と思いましたので、一応、この子の将来はそうなる可能性が高いのかなと思います。同じ食事会に来ていた他の2人の背の低いT大生の子は3年生か4年生の時に堅実な男を見つけてしっかり結婚するみたいでしたけど、今回の昼メロもどきの主役のこの悲劇のヒロインは結婚できない、という役回りのようでした。実のところ、このような幽体離脱あるいは悪魔に言われた内容を現実世界と付き合わせて確認できると一番良いのです。このくらいですと合致率は大抵は低くて、良くても30%とか50%で、せいぜい10%も当たれば良い方で、全然当たっていないこともあります。そのくらいの合致率が普通なわけです。ですから、こういう記憶や悪魔の映像があったからと言って、本気にする気はそこまでないわけです。何回も何回も違う角度で見えて初めて本当かもしれない、と思い始めるくらいです。
アストラル次元が活性化されることにより感情が豊かになる
最近は主にアストラル体の部分がスシュムナに沿って活性化されてきて、今までおそらく私はアストラル体が弱くて、ここにきて、先日プルシャ(神霊)がアナハタに入ってきた時に思った意識から感じられることによると「この体は、普通に仕事をして人生を終えるには十分だが、新たな役割を果たすためには能力が足りない。体を改造する必要がある」ということですので、おそらく、プルシャが意図して、足りていない部分であるアストラルのスシュムナなど各所を割と強制的に速やかに活性化させているが故にこのような反作用として魔境のような症状が出てきているのではないかと思います。
どうやら、私の体というのは今までは並以下で、脳みそも全然使えていませんでしたし、口もモゴモゴした喋り方で、糖尿病の後遺症はあるし、全然ダメダメの体だったようです。もう一度最初からやり直した方がいいかなぁ、と、プルシャ(神霊)も私の体に入る前に悩んだようなのですけど、色々と比較検討した結果、まだ使えそう、ということでサハスララから入ってきて、強制的に体を改造しているようです。
魔境というのも私の顕在意識が感じているだけのことで、胸の奥にいるプルシャ(神霊)は意に返さず、良い年して久々にアナハタの思春期っぽいメロンコリーな思いを楽しむことで感情面での活性化を意図していたように思います。魔境と言っても囚われてしまうから魔境なのであって、感情面が豊かになることそれ自体は良いことなのだと思います。良くなっているというより普通の状態にまで回復してきているだけではありますが、それでも、以前よりは良い状態であると言えます。
うまく思春期を成長した場合、感情が豊かになるのでしょう。そのような実感があります。今さらではありますけど。
ハートが壊れた感じでは恋愛もうまくいかず、精神的に不安定になって、今はもうハートは修復されていて、特にこれらのことを思い出してもハートは痛まず、壊れた感じにはならないので、ほぼほぼ超えられたように思います。
割と一般的なパターンでは肉体の次はアストラルが活性化しますから思春期には感情面が豊かになります。私は思春期に感情を押し殺していましたので感情面が後回しになったようで、おそらく、子供の頃からの虐めなどにより感情的なものを押さえつけるように生活してきたことが原因だったように思います。次に、私はコンピュータでものを作るときにゾーンの半トランスに入るということをしていましたので、感情面よりも論理面であるコーザル(カーラナ、原因)を優先させてきたことが要因ではないのかなと思います。
どちらにせよ、ここにきて、足りていなかったアストラルな感情面が活性化されたことにより、感情という面ではようやく人並みになったと言えるように思います。
なんだかんだ言っても、私が生まれた時の目的である、この世界の葛藤や負の面を理解する、という目的に即してみればハートが壊れていた方がその目的はやりやすかったと言えますので、なんだかんだ言っても完璧な人生であると言えます。もうその目的は達成しましたので、ハートや感情を修復してしまっても問題ないわけです。ようやく、生まれる前の自分に少しずつ戻ってきた感じがあります。今まで、そもそも「生きていなかった」と思えるくらいの違いがあります。
高次の(見えない)ガイドが「完全な感情」と呼んだものへ、不健全な感情を昇華させれば良いようです。どうやら、その題材として、あり得ない状況、現実にはそうではなかった記憶を元に悪魔の誘いのようなロミオとジュリエットの数奇な運命を想像の中で再現させ、体験させたように思います。
ここ1週間の魔境を通じて、感情をそのようにして対処すべきというヒントを頂けたように思います。
どうやら、私の体というのは今までは並以下で、脳みそも全然使えていませんでしたし、口もモゴモゴした喋り方で、糖尿病の後遺症はあるし、全然ダメダメの体だったようです。もう一度最初からやり直した方がいいかなぁ、と、プルシャ(神霊)も私の体に入る前に悩んだようなのですけど、色々と比較検討した結果、まだ使えそう、ということでサハスララから入ってきて、強制的に体を改造しているようです。
魔境というのも私の顕在意識が感じているだけのことで、胸の奥にいるプルシャ(神霊)は意に返さず、良い年して久々にアナハタの思春期っぽいメロンコリーな思いを楽しむことで感情面での活性化を意図していたように思います。魔境と言っても囚われてしまうから魔境なのであって、感情面が豊かになることそれ自体は良いことなのだと思います。良くなっているというより普通の状態にまで回復してきているだけではありますが、それでも、以前よりは良い状態であると言えます。
うまく思春期を成長した場合、感情が豊かになるのでしょう。そのような実感があります。今さらではありますけど。
ハートが壊れた感じでは恋愛もうまくいかず、精神的に不安定になって、今はもうハートは修復されていて、特にこれらのことを思い出してもハートは痛まず、壊れた感じにはならないので、ほぼほぼ超えられたように思います。
割と一般的なパターンでは肉体の次はアストラルが活性化しますから思春期には感情面が豊かになります。私は思春期に感情を押し殺していましたので感情面が後回しになったようで、おそらく、子供の頃からの虐めなどにより感情的なものを押さえつけるように生活してきたことが原因だったように思います。次に、私はコンピュータでものを作るときにゾーンの半トランスに入るということをしていましたので、感情面よりも論理面であるコーザル(カーラナ、原因)を優先させてきたことが要因ではないのかなと思います。
どちらにせよ、ここにきて、足りていなかったアストラルな感情面が活性化されたことにより、感情という面ではようやく人並みになったと言えるように思います。
なんだかんだ言っても、私が生まれた時の目的である、この世界の葛藤や負の面を理解する、という目的に即してみればハートが壊れていた方がその目的はやりやすかったと言えますので、なんだかんだ言っても完璧な人生であると言えます。もうその目的は達成しましたので、ハートや感情を修復してしまっても問題ないわけです。ようやく、生まれる前の自分に少しずつ戻ってきた感じがあります。今まで、そもそも「生きていなかった」と思えるくらいの違いがあります。
高次の(見えない)ガイドが「完全な感情」と呼んだものへ、不健全な感情を昇華させれば良いようです。どうやら、その題材として、あり得ない状況、現実にはそうではなかった記憶を元に悪魔の誘いのようなロミオとジュリエットの数奇な運命を想像の中で再現させ、体験させたように思います。
ここ1週間の魔境を通じて、感情をそのようにして対処すべきというヒントを頂けたように思います。
没頭型で感情を完全に体験しつつ観照する
演劇の世界ではどうやら、役に没頭するのかそれとも典型的に役を演じれば良いのか、ということが話題になるらしく、日本では長らく没頭型が主流で教えられてはきたものの典型的が正しいみたいなお話があって、私の場合は演劇ではないですけど、演劇のこの種の考え方というのは精神を理解する上でも示唆に富んでいて、ここで言う没頭型こそが完全なる感情の状態でもように思うわけです。これはどういうことかと言いますと、我を忘れるような没頭型ということではなく、観照のある状態での完全なる感情への没頭、とでも言える状態こそが完全なる感情なのではないかと思うわけです。役者であればその両方であるわけですし、(現実世界で感情は意図的に起こすものではなくて勝手に起こるものですので典型型とかは関係ないですけど)没頭型としては、現実においてその感情に我を忘れて没頭するのかあるいは飲まれずに感情を完全に経験しつつ観照して理解するのか、という違いがあるわけです。
この段階に来るまではこの完全な感情というものは不可能で、感情を表現しても感情に振り回されて不完全な感情でいることが多かったように思います。それ故に瞑想をして静寂を保ったり無心になったり、ということをして高みを目指してきたつもりではありましたけど、どうやら、そのような静寂とか無心というのは、所詮は、この「完全なる感情」のための一要素に過ぎなかったのではないか、という気がしてきました。
そして、そのことを気づかせるために、私のガイドは意図して、あり得ないような、過去の現実とは乖離したロミオとジュリエットの物語を演出させてまでも「完全なる感情」を理解させようとしたのではないかと思うのです。
となれば、ここですべきなのは、完全なる感情を各種の感情で体現することなのかなと思います。無心になることは基礎で、静寂も基礎で、その基礎は瞑想で育てることができて、その上に、完全なる感情を体現させてゆくのが次のステップのようにも思います。
今回は現実とは乖離した物語だったことで気付きやすい状態でしたがこれからは現実の過去の事象が題材になると思われるので難易度が上がりそうな気も致します。過去の不完全な感情をこれからおそらくいくつも思い返して、かつてはトラウマ級だった出来事も含めて古いエネルギーを再現し、それらは不完全な感情でしたから、今の感覚でそれらを完全なる感情へと昇華することでそれらは解消してゆくように思います。
過去のトラウマ級の出来事も、胸の内に「壊れた感情」として一旦は再現され、やがて、それらの壊れた感情はやがて完全なる感情へと昇華します。そのために瞑想をして、ひとつづつ古いエネルギーを完全なるものへと置き換えてゆきます。
この段階に来るまではこの完全な感情というものは不可能で、感情を表現しても感情に振り回されて不完全な感情でいることが多かったように思います。それ故に瞑想をして静寂を保ったり無心になったり、ということをして高みを目指してきたつもりではありましたけど、どうやら、そのような静寂とか無心というのは、所詮は、この「完全なる感情」のための一要素に過ぎなかったのではないか、という気がしてきました。
そして、そのことを気づかせるために、私のガイドは意図して、あり得ないような、過去の現実とは乖離したロミオとジュリエットの物語を演出させてまでも「完全なる感情」を理解させようとしたのではないかと思うのです。
となれば、ここですべきなのは、完全なる感情を各種の感情で体現することなのかなと思います。無心になることは基礎で、静寂も基礎で、その基礎は瞑想で育てることができて、その上に、完全なる感情を体現させてゆくのが次のステップのようにも思います。
今回は現実とは乖離した物語だったことで気付きやすい状態でしたがこれからは現実の過去の事象が題材になると思われるので難易度が上がりそうな気も致します。過去の不完全な感情をこれからおそらくいくつも思い返して、かつてはトラウマ級だった出来事も含めて古いエネルギーを再現し、それらは不完全な感情でしたから、今の感覚でそれらを完全なる感情へと昇華することでそれらは解消してゆくように思います。
過去のトラウマ級の出来事も、胸の内に「壊れた感情」として一旦は再現され、やがて、それらの壊れた感情はやがて完全なる感情へと昇華します。そのために瞑想をして、ひとつづつ古いエネルギーを完全なるものへと置き換えてゆきます。
不完全な感情を完全な感情へと昇華する
トラウマや葛藤というと、今までは、それを解消する、無くすことを第一に考えていたように思います。トラウマという状態がある、だからトラウマを無くす必要がある。あるいは、葛藤がある、だから葛藤を無くす必要がある、というところを目指していて、それと同時に癒すということも意図していたわけですけど、傷ついた部分を修復するためのやり方が時間のかかるもので、「切り離す」という種類のものがほとんどだったように思います。それ故に、関係性も「離れる」という事象に結びつくことが多かったのです。
一方、ここに来て思うことは、アストラルな階層におけるトラウマや葛藤は無くすというよりは、それは不完全な感情であって、完全なる感情へと修復すれば良いのです。不完全な感情はどこかが欠けていて、壊れた水晶球のようなものなのです。そして、その壊れた水晶球を完全なるものへと修復すれば良いのです。
今までも、瞑想で集中をして(葛藤の雑念状態から)静寂を目指す、というのは基本的に同じことを意図していたように今更ながら思うのです。それは心の動きに着目していればそうなりますけど、同じ現象をエネルギーとして着目するならば、壊れたような不完全なオーラの揺らぎの状態から完全なる円状の壊れていないオーラ状態に戻せば感情的な問題は解決するのです。
完全なる感情の状態になるということは、感情そのものになる、と言ってしまうと語弊がありますけど、感情そのものを完全に体験しつつもそれに飲み込まれない、感情そのものを味わい尽くす一方で調和もある状態、それが完全なる感情の状態かなと比喩として思うわけです。
瞑想では、静寂とか、雑念をなくす、というところを目指しがちで、ひとまずの目標地点としてはそれで正しいとは思うのですけど、静寂になって感情を無くして無心になったところで、それは一時的な状態に過ぎないわけです。ヴィパッサナー瞑想あるいはヴェーダンタを勉強している人が「心を無くしてしまって、それでどうするというのだ」とよく言いますけど、それは、この段階に来るとそれは正しいわけです。まず基礎として静寂や無心があって、その上に、きちんと心の動きというものがあるわけです。
一方、ここに来て思うことは、アストラルな階層におけるトラウマや葛藤は無くすというよりは、それは不完全な感情であって、完全なる感情へと修復すれば良いのです。不完全な感情はどこかが欠けていて、壊れた水晶球のようなものなのです。そして、その壊れた水晶球を完全なるものへと修復すれば良いのです。
今までも、瞑想で集中をして(葛藤の雑念状態から)静寂を目指す、というのは基本的に同じことを意図していたように今更ながら思うのです。それは心の動きに着目していればそうなりますけど、同じ現象をエネルギーとして着目するならば、壊れたような不完全なオーラの揺らぎの状態から完全なる円状の壊れていないオーラ状態に戻せば感情的な問題は解決するのです。
完全なる感情の状態になるということは、感情そのものになる、と言ってしまうと語弊がありますけど、感情そのものを完全に体験しつつもそれに飲み込まれない、感情そのものを味わい尽くす一方で調和もある状態、それが完全なる感情の状態かなと比喩として思うわけです。
瞑想では、静寂とか、雑念をなくす、というところを目指しがちで、ひとまずの目標地点としてはそれで正しいとは思うのですけど、静寂になって感情を無くして無心になったところで、それは一時的な状態に過ぎないわけです。ヴィパッサナー瞑想あるいはヴェーダンタを勉強している人が「心を無くしてしまって、それでどうするというのだ」とよく言いますけど、それは、この段階に来るとそれは正しいわけです。まず基礎として静寂や無心があって、その上に、きちんと心の動きというものがあるわけです。
完全なる感情は、多くの女性にとって当たり前の感情
何やら最近、アストラルの感情的なものが湧き出てきていて、一見すると魔境だとか階梯が後戻りしたかのような気もしていたのですけど、実のところ、この段階に来て初めてアストラルなものをしっかりと完全に扱えるようになった、ということなのかなと思います。アストラルな感情をうまく扱うには自分がそれ以上の段階に達していないと無理で、次の段階のカーラナ(コーザル)くらいですとまだ翻弄されていて、プルシャがそれなりに優勢にならないとアストラルな問題をうまく扱えないのかな、という気も致します。
とは言いましても、おそらく、こんなことは世の中の多くの人にしてみれば当たり前のことで、特に健康的な女性にしてみれば当然過ぎることで、何を今更こんなことを言っているのか、と思われるかもしれません。そういう種類のものなのかなと思います。世の中の女性が若い頃から思春期にかけて学ぶ感情の多種は、おそらくは多くの男性にとっては当たり前ではなくて、それ故に、女性の感性・感情と男性との認識の間でかなりの乖離が出来ているように今更ながら思いました。
今は、ようやく、その一歩を踏み出しただけのお話で、全くもって、これが優れているとか凄い境地に達したということでもなくて、世の中の女性が当たり前のように学ぶことを今更ながらほんの少しだけ学んだだけのことのような気が致します。
散々暝想してきて、辿り着いたところはなんてことはない、割と普通のことだったわけです。
となれば、私は今までの人生を、なんともったいない感情のまま経験してきたことかなと思います。それぞれの経験を完全なる感情でしていれば違った結果になったことも多々あったでしょうし、今更嘆いても仕方がないですけど今後は完全なる感情をなるべく達成できるようにしてゆきたいですし、過去の眠っている古いエネルギーも瞑想で呼び起こして完全なる感情へと昇華する必要性を感じています。
最近の瞑想で頭のブロックがそれなりに解除されましたが、単に頭の回転が(多少)良くなったり滑舌が(多少)良くなっただけではそれだけのことで、それに加えて感情的なものを「完全なる感情」にしてこそ人間として完全になるように思います。瞑想の行き着く先は、ここにあるようです。
瞑想をしている人が行き詰まってしまうように感じるのは、静寂の境地や観照の段階の上にスピリチュアル的な何か超越を求めているから誤認したり魔境かのように思ってしまうのであり、実のところ、現実というのは多層の次元で成り立っていますので、高次もあれば低次もあり、物理的なものからアストラルの感情、そして論理に至るまで、三位一体で完全を目指すのが本筋な筈なわけです。それは大乗仏教やキリストが言っているような道徳や愛のある生き方ということであり、何か特殊な別の世界や状態になってしまうという超越的なオカルトのお話とは少し異なるわけです。
時に道に迷って、静寂の先に超越的なものがある気がしたり、何か別の世界がある気がしたりすることもあるかもしれませんけど、なんのことはない、結局はこの世界に住んでいるのであって、目指すところは三位一体であるわけです。そのことがわかってしまえば魔境なんてものもあるようでいてない、ただ単に不完全な感情というだけのお話で、魔境も含めて完全なる三位一体を目指せば良いと思うわけです。
不完全な感情が出てきたら、瞑想、あるいは、祈りによって完全なる感情へと昇華させます。ただそれだけのことです。それは、壊れた水晶球のような胸のオーラの状態を完全なる水晶球のような胸のオーラへと修復すれば良いわけです。エネルギー的な変容がそのまま感情としての修復になり、壊れた不完全な感情は完全なる感情へと変容・昇華します。
その基本が集中や静寂であり、また、アジナから喉のヴィシュッダを通ってアナハタまで背骨沿いのスシュムナを通してエネルギーを通すことでアストラルの感情が活性化して、不完全であれ完全であれ感情を正しく扱えるようになります。この、完全なる感情とは、普通の感情のほかに何か別の感情があるわけでもなく、普通の喜怒哀楽、喜びも悲しみも嘆きも楽しみといった全ての感情を完全に体験することなわけです。どこまで完全に感情を実現できるかは人それぞれであって深みは状況や人それぞれあるのだと思います。
スピリチュアルをやっていると、時に、アストラルの感情面を低いものとみなしてカーラナ(コーザル、原因)あるいはプルシャを上級というように階層的にみなしてしまいがちですけど、実のところワンネスでありますから、ヴェーダンタ的に言えば全てはイーシュワラであって全てはブラフマンでありますから、そこに高低はないわけです。高低があるように感じているのは、それはただ単に不完全な感情である、というだけのお話のようです。感情自体は知覚器官からもたらされる単なる心の動きであって、それを完全なる感情として経験すれば良いわけです。
感情が壊れているから不愉快になったり不調和をもたらすのであって、完全なる感情は(喜怒哀楽どれであっても)調和であり昇華されます。
不完全な感情には善悪がありますが、完全な感情には喜怒哀楽いずれであっても善悪はありません。実のところ悪というのは不完全なだけで、悪を排除するというよりは、悪というものは不完全なわけですから、完全なものへと修復すればいわゆる善になるわけです。これは言葉では伝わりにくいかもしれません。行為としての善悪のお話ではなくて、感情としての善悪は本来ない、というお話で、感情としてのいわゆる悪と一応言えるものは不完全な感情というだけのお話ですから、完全な感情へと修復するあるいは置き換えると良いわけです。
これを言い換えれば、不完全な感情には愛が足りないということでもあり、完全な感情というものは喜怒哀楽いずれであったとしても愛なわけです。
そのことを、あり得ないロミオとジュリエット仕立ての物語で理解させて頂きました。ドラマとしての物語としては3流であっても、このことを理解するために、あえて不自然な点をいくつか残していて考えさせるようになっており、なかなか良い構成だったように思います。
ただ、この時点では非現実的で支離滅裂と思っていたその物語が、その後、意外にも、様々な意味を持つものとして解釈、理解できるようになるのです。
とは言いましても、おそらく、こんなことは世の中の多くの人にしてみれば当たり前のことで、特に健康的な女性にしてみれば当然過ぎることで、何を今更こんなことを言っているのか、と思われるかもしれません。そういう種類のものなのかなと思います。世の中の女性が若い頃から思春期にかけて学ぶ感情の多種は、おそらくは多くの男性にとっては当たり前ではなくて、それ故に、女性の感性・感情と男性との認識の間でかなりの乖離が出来ているように今更ながら思いました。
今は、ようやく、その一歩を踏み出しただけのお話で、全くもって、これが優れているとか凄い境地に達したということでもなくて、世の中の女性が当たり前のように学ぶことを今更ながらほんの少しだけ学んだだけのことのような気が致します。
散々暝想してきて、辿り着いたところはなんてことはない、割と普通のことだったわけです。
となれば、私は今までの人生を、なんともったいない感情のまま経験してきたことかなと思います。それぞれの経験を完全なる感情でしていれば違った結果になったことも多々あったでしょうし、今更嘆いても仕方がないですけど今後は完全なる感情をなるべく達成できるようにしてゆきたいですし、過去の眠っている古いエネルギーも瞑想で呼び起こして完全なる感情へと昇華する必要性を感じています。
最近の瞑想で頭のブロックがそれなりに解除されましたが、単に頭の回転が(多少)良くなったり滑舌が(多少)良くなっただけではそれだけのことで、それに加えて感情的なものを「完全なる感情」にしてこそ人間として完全になるように思います。瞑想の行き着く先は、ここにあるようです。
瞑想をしている人が行き詰まってしまうように感じるのは、静寂の境地や観照の段階の上にスピリチュアル的な何か超越を求めているから誤認したり魔境かのように思ってしまうのであり、実のところ、現実というのは多層の次元で成り立っていますので、高次もあれば低次もあり、物理的なものからアストラルの感情、そして論理に至るまで、三位一体で完全を目指すのが本筋な筈なわけです。それは大乗仏教やキリストが言っているような道徳や愛のある生き方ということであり、何か特殊な別の世界や状態になってしまうという超越的なオカルトのお話とは少し異なるわけです。
時に道に迷って、静寂の先に超越的なものがある気がしたり、何か別の世界がある気がしたりすることもあるかもしれませんけど、なんのことはない、結局はこの世界に住んでいるのであって、目指すところは三位一体であるわけです。そのことがわかってしまえば魔境なんてものもあるようでいてない、ただ単に不完全な感情というだけのお話で、魔境も含めて完全なる三位一体を目指せば良いと思うわけです。
不完全な感情が出てきたら、瞑想、あるいは、祈りによって完全なる感情へと昇華させます。ただそれだけのことです。それは、壊れた水晶球のような胸のオーラの状態を完全なる水晶球のような胸のオーラへと修復すれば良いわけです。エネルギー的な変容がそのまま感情としての修復になり、壊れた不完全な感情は完全なる感情へと変容・昇華します。
その基本が集中や静寂であり、また、アジナから喉のヴィシュッダを通ってアナハタまで背骨沿いのスシュムナを通してエネルギーを通すことでアストラルの感情が活性化して、不完全であれ完全であれ感情を正しく扱えるようになります。この、完全なる感情とは、普通の感情のほかに何か別の感情があるわけでもなく、普通の喜怒哀楽、喜びも悲しみも嘆きも楽しみといった全ての感情を完全に体験することなわけです。どこまで完全に感情を実現できるかは人それぞれであって深みは状況や人それぞれあるのだと思います。
スピリチュアルをやっていると、時に、アストラルの感情面を低いものとみなしてカーラナ(コーザル、原因)あるいはプルシャを上級というように階層的にみなしてしまいがちですけど、実のところワンネスでありますから、ヴェーダンタ的に言えば全てはイーシュワラであって全てはブラフマンでありますから、そこに高低はないわけです。高低があるように感じているのは、それはただ単に不完全な感情である、というだけのお話のようです。感情自体は知覚器官からもたらされる単なる心の動きであって、それを完全なる感情として経験すれば良いわけです。
感情が壊れているから不愉快になったり不調和をもたらすのであって、完全なる感情は(喜怒哀楽どれであっても)調和であり昇華されます。
不完全な感情には善悪がありますが、完全な感情には喜怒哀楽いずれであっても善悪はありません。実のところ悪というのは不完全なだけで、悪を排除するというよりは、悪というものは不完全なわけですから、完全なものへと修復すればいわゆる善になるわけです。これは言葉では伝わりにくいかもしれません。行為としての善悪のお話ではなくて、感情としての善悪は本来ない、というお話で、感情としてのいわゆる悪と一応言えるものは不完全な感情というだけのお話ですから、完全な感情へと修復するあるいは置き換えると良いわけです。
これを言い換えれば、不完全な感情には愛が足りないということでもあり、完全な感情というものは喜怒哀楽いずれであったとしても愛なわけです。
そのことを、あり得ないロミオとジュリエット仕立ての物語で理解させて頂きました。ドラマとしての物語としては3流であっても、このことを理解するために、あえて不自然な点をいくつか残していて考えさせるようになっており、なかなか良い構成だったように思います。
ただ、この時点では非現実的で支離滅裂と思っていたその物語が、その後、意外にも、様々な意味を持つものとして解釈、理解できるようになるのです。
そういえば子供の頃のテレパスはこんな感じだった
ずっと忘れていましたけど、ここ最近になって、アジナからヴィシュッダ、そしてアナハタまでスシュムナにエネルギー(プラーナ)が満ち始めてからアナハタで感じる「感情」は、今となっては懐かしい、子供の頃に感じていた、テレパスの感覚でした。相手の思っていることを直感で感じて、察していたわけです。
普通の感情ならばまだしも、子供の頃はというと周囲の同級生からの怒りや嫉妬あるいは恨みあるいは嘲笑いの感情を常日頃から受けていましたので、テレパスの感じる力が長らく壊れてしまっていたように思うのです。
最初に心が壊れ出したのが幼児の頃で、父方の祖父・祖母の私に対する蔑みの見下した態度とイライラの気持ちに加えて一定度のかわいがりをしている意識がテレパスで伝わってきて、多少は癒されると同時に心が痛んでおりました。どうして孫にそんな態度が取れるのか謎ですけど、他の子供(娘)の孫にはものすごい笑顔で接していましたので、私の方の兄弟にだけ変な態度を取る祖父と祖母でした。まあ、祖母の方はそれなりに可愛がってはくれましたが私にお金を使うのが嫌だったらしく、実は裏で私の母に電話して「これだけお金を使ったよ」と言って、金額を請求していたようです。そんな祖母なんて、よそで聞いたことないです。孫にお金を使いたくない祖母ですけど、私に対する態度は割と普通だったように思います。その実で娘にはどんどんお金をあげていたようでした。今思えば異常な父方の祖母と祖父です。これは、あのような捻くれた人はどうして捻くれているのか、理解する良い教材になりました。結局、自己の捻くれた心を他者に投影しているからそう言う酷い態度を他人に対して取れるわけです。今から思えば、その祖父と祖母の別の孫たちは私の兄弟に対して見下した態度を取っていたように思います。父方の家系は割と捻くれている嘘つきが多かったように思います。
父も母も人並みに愛してくれたとは思いますが二人ともモラハラで、特に父は急にキレるので常に意見を聞いてその通りにしないといけないような環境で、母といえば色々と私に自分に決めさせるかのような体を取るけれども結局は自分たちの思い通りでないと不機嫌になってイライラし始めるので従わざるを得ず、常に両親の顔色を伺うようになってしまい、家畜のような精神状態だったように思います。なんとなれば私の頭をバンバン何度もヒステリーに叩いて、時にはそれを外で行い、他のお母さんが見ている前でやって同級生の親たちの間で噂になってしまいました。母親は「この子は反抗期もなくて大人しい、いい子だねえ」とか言っていましたけど、私の心はその頃には既に壊れていたと言えます。なるべく考えないようにして、心ここにあらずという状態でなんとなくの笑顔を作っていると母親は「この子はいつもぼおーっとしているねえ」と言っていましたが、心がここにあると急に前触れなく母親も父親もキレてくるので、心がここにあると危険なので常時心はここにあらず、という、ぼうっとした状態で生活していたのです。そうしていると母親も父親も私のことを「大人しくていい子」と思っていたらしくそれなりの愛情を注いでくれましたが、そんなことをしていたら、いつの間にか、虐げられるのと愛着とが感情で結びついてしまいました。愛情というものが虐待と結びついてしまったのです。特に若い頃は、何かと指示してくるような性格の悪いS系の女しか好きになれず、わかっていつつも、捻じ曲がった愛情でしか人を愛せない状態だったように思います。頭でどう考えてもあちらの普通の子の方が性格が良いしまともだしいい子なのに、何故か、私を虐げてきて指図してくるS女にしか興味が向かないような状態で、これはおかしいと頭でわかっていつつも性質というのは急に変えられなかったのです。この嗜好を変えるには時間がかかりました。普通の、本当に良い性格の女の人とどのように接して良いのかわからない思春期だったように思います。
この両親の呪縛から逃れるためにいくつか画策して、最初はなかなか動くことができないほどに精神を病んでいましたので、一つづつ、両親の期待が裏技られるようなことを何度もして両親を幻滅させました。おそらく、他の子供達も意識的あるいは無意識的にこのような、両親の期待をあえて裏切る、という行動を取っているように思います。私はそれが少し遅かったのです。普通の子は思春期の頃に反抗期を迎えることが多いかと思いますが、私の心はその頃は壊れていて「はい」しか言えない状態になっておりましたので、反抗する気力すらありませんでした。心が壊れていたのです。
思うに、遡ると、テレパスの感覚が最初に激しく壊れたのは幼稚園の時で、幼稚園の、確か1年目に同級生から執拗に虐められて、早くも登園拒否になりました。幼稚園に行こうとしても足が動かなくなって「幼稚園行きたくない」と言っていたように思います。思えばこの頃から両親からもそこまで理解されず「怠けている」だとか言って、私がどうして行きたくないのかすら両親は聞こうともせず、一方的に「ダメな子」「手間のかかる子」と思われていたように思います。一応はそれなりの愛情は頂いたものの、登園拒否や状況に対する理解はほとんどなかったように思います。
幼稚園の先生が計画して、同級生の全員が家に来てくれたことで一応は幼稚園に復帰しましたけど、、復帰しないといけないと言う状況で仕方なく復帰したわけですが、実は、余計なお世話だと思っていました。先生や両親は安心したようにも思うのですけど、前に虐めていた同級生は変わらず「俺たちが迎えに行かなきゃずっと家にこもってただろ。やーい」みたいに昔と変わらずネチネチくだらないことを言って、更には「おい。また登校拒否しろよ」とか虐げてくるのです。私の心はその頃から壊れていき、「いつも、感じている感情とは無関係に、とにかく、笑顔でいるしかない」と言う状況でした。幼稚園の頃から、既に精神崩壊が始まっていたと言えます。これが積み重なって、高校時代にはZガンダムのカミーユのような精神状態にまでなりましたが、この時は、そこまで重症ではありませんでした。彼が一応は仲良さそうにしている状況を見て、理解もない先生は「生徒同士仲良くやっている」と思っていたようですけど、年齢を重ねるごとに私の心は壊れていき、小学校の頃には家に帰ってくるといつも「疲れた。疲れた。疲れた」と口癖のように言っておりました。その頃から、テレパスの感覚は鈍くなって、頭もぼーっとしてきたように思います。母親はそんな私を見て「この子はいつもぼーっとしているねえ」とか言っていましたけど、もう、その頃には既に、心は壊れていたのです。
心が壊れて、小学校低学年には同級生に反撃をし、それにより虐めっ子の態度が軟化したことにより小学校の上級生の頃にはメンタルがある程度は回復しましたが、それでもかなり壊れていました。中学校でもある程度回復したのですけど、高校の環境が良くなくて、高校で心がほぼ完全に壊れてしまいました。小学校や中学校の頃は頭の回転もそんなに悪くはなかったと思いますが、高校で鬱になって頭がガンガン痛くて頭がボーっとしてクラクラするようになってから頭の回転が明らかに悪くなって、学校の先生からも「君はもっと理解が早いと思ったけどなあ」とか言われるようになりました。学校の先生は私のメンタルヘルスにそこまで興味はないようで、だんだんと、単に頭の悪い問題児扱いされることが増えていきましたが一応は現役大学合格しました。先生からは「そこだって君は受からないよ」と言われていたので驚かれましたが大学で上京してそのような田舎生活を脱出したのでした。
高校の頃まて、父親に何か言っても理解しようともせずに「うるせえ!!!」と言ってくるので言っても無駄で、母親はと言うと、私が就職して仕送りとか何か買ってもらうことばかり考えて、お金のために私を大切にしているのがミエミエでした。そんな異常な環境から脱出できたのです。
大学に入ってみると、それほど高校で致命的な問題もなく青春を謳歌している人が大勢いて、特に私のような地方出身者と東京の進学校出身者の情報格差は厳しいものがあり、彼等が話してる「◯◯はほにゃらら」という単語をそもそも聞いたことなくて何を言っているのか理解できないのです。環境と育ちの差に当時は愕然としました。とは言いましても、後から思えば、単に本人たちだけで通じるローカル表現だったかもしれないですし、はたまた、私が田舎から出た時点で私は田舎に残った人との間で同じような情報格差を作っていたのかなと思います。私は田舎に残った人たちにいろいろ教えて情報格差を無くすなど手を差し伸べることも当時はしなかったので私も同じようなものだったかもしれなくて、残酷ですけど、まあ、人生なんてそんなものでしょう。生きている世界が全く違う人たちが存在するわけです。そんなものです。当時はその情報格差を嘆いていましたけどその後はインターネットでかなり情報格差は埋まったように思います(ただ、やはり肝心のところの情報格差や運用格差はあるように思いますが)。今は、単語で聞いたこともない、なんてことは少なくはなくなって、当時は何という単語の意味がわからなかったのすら思い出せません。思えば、時折、絶望して周囲に当たってしまったことがありますが、それは私の弱さでした。今から思えば絶望を堪えてなるべく誠実な態度を取るべきだったことも多々あります。高校までは周囲に裏切られ続けましたので疑い深くなっていたということもあります。もっと人を信用したり、たとえ裏切られたりしても心を強く保つべきだったと思います。そうは言いましても、今から思えば進学校にもいろいろあって、それぞれの高校出身者しかわからないこともあって、たとえ進学校出身者であってもT大くらいになるとT大に大勢合格を出している高校出身者との間で情報格差があって疎外感もそれなりにあるようです。であれば、そんな情報格差は仕方がないので現状を受け入れていろいろ教えてもらう姿勢が大切でしたがそれはあまりできていなかったように思います。教えてもらって当然という態度は高校までは通用しても大学以降の社会では邪険にされるのです。そのあたり、どういう態度を取るべきかあまりわかっていませんでした。思えば、周囲には心が壊れている人が大勢いましたし、疲れた態度を取ってしまっていました。このあたり、都市部に通っている育ちの良い人と、私のような地方のぽっと出の、状況がよくわかっていない人との間で見えない壁のようなものを感じていました。
その後、就職しましたが、就職してからも、両親の期待をあえて裏切る行動をしました。私が就職してすぐに田舎の土地を私に買わせようとしたので実家にしばらく帰らずに電話もはぐらかしてタカリをのらりくらりとやり過ごしましたけど、新卒で奨学金も返しているのに土地なんて買える余裕などあるわけもありませんでした。田舎に土地買ってもどうしようもないですし。バブル時代とは違うのです。
世界長期旅行も割とその一つで、両親の期待を裏切って呪縛から逃れるためにも役立ちました。単純にやりたかった、と言うのもありますけど、若い頃に長期海外旅行すると両親に言ったら激怒されて縁を切る、もう連絡してくるな、みたいなヒステリーな感じになったので仕方なく若い頃は行かなかったのですけど、もう少しして、家の住宅ローンも完済して、サイドビジネスも行ってある程度の収入を確保した段階で相談もせず本業を辞めて海外長期旅行に出ました。実のところ、両親の束縛がそこまで強くなければ若い頃に少し旅行してそれで満足していたかもしれませんけど、歳を取ってお金もそれなりにありましたのでユーラシア大陸を少しと南米中心に旅行をしてバイクで南米コロンビアから最南端まで行ってきたのです。
そうしたら、両親からしてみたら今まで私が両親の思い通りに生きていると思っていたのに裏切られたと思ったらしく、父親は急に元気がなくなって家から出ずにずっと椅子で座っていたら弱っていきました。そして病気になった時に体力が持たずに早死にしてしまったのですけど、私からすれば、あんなモラハラですぐにキレてきて、話を聞こうともせず「うるせえ!!」と言っているような父親が死んでも悲しくも何ともなくて、むしろ、せいせいしたのです。死後わかったのですが、他の兄弟には色々と良く接していて、私は就職後はお小遣いなんてもらっていませんでしたけど、他の兄弟は来るたびにお小遣いをもらっていたようです。私は逆にお小遣いをあげていました。私は両親の自尊心のための精神的な奴隷および金づるだったのです。当時私は、一応は一部上場企業に勤めていておそらく父親にとって自慢の種だったのに辞めて世界旅行に出られてしまい、父親は私を理解することもなく、ただ幻滅したのです。
そのように、父親には話しても無駄ですので話しませんでしたが、母親は話すことである程度は解決しました。最初は母親は私の反抗に酷くショックで言葉を失っていたのですけど、何を今更、いい歳した大人の子供が自由意志で決断したからと言って嘆くような親がどれだけいると言うのでしょうかね。今まで、面倒だから「そうだね、そうだね」と同意して母親が決めてる風に誘導しつつスルーしていただけなのに、その時までずっと母親の指示に従って私が生きてきたとでも思っていたようです。母親からもそれなりに呪縛がありましたけど、母親にははっきりと、あなたの指示には従わない、そして、貴方(母親)の判断は決定的に間違っていることを伝えることで呪縛から逃れたのでした。母は言えば伝わるだけ父よりマシでしたけど、自分が確実にコントロールできる子供という道具を失って元気がなくなったのを感じますが、母の元気のために奴隷に戻るつもりはないのです。結局、これは表面上は他人をコントロールしたい人たち、というところもありますが、突き詰めれば、頭が悪い、ということだと思います。頭が悪いので自分がしていることの状況と意味に気が付かないのです。
こんなこともあり、私は、頭の悪い人とは基本的に付き合いたくないのです。
そのような両親からの束縛が高校まであって、大学に入って一人暮らしを始めたことにより両親や親戚及び高校までの人間関係の呪縛から離れて、ようやくメンタルの回復期に入りました。壊れていた心が少しずつ修復して、就職してから仕事関係でパワハラもありましたがそれも何とか切り抜けて、20代後半には一応の最低限の回復はできましたけど、そんな心が壊れた状況ではまともな恋愛もできなくてSの偏った人間関係しかできず、関係性は破滅や喧嘩別れがほとんどだったように思います。と言いますか、そもそも深い信頼関係まで進まずに表面的な付き合いが多かったように思います。若い頃に受けた偏った人間関係の影響は長く尾を引くのだと思います。その頃はまともな恋愛が出来ずにいたと言えます。幼い頃から周囲には親類を含めて私を貶める人が大勢いて、それと愛とが結びついてしまっていて、若い頃は、Sで貶めてくれるような人にしか愛情を感じられないような歪んだ状態でいたように思います。例えば、女性に対して「どうして、私に対してもっと命令してくれないのかな。どうして私をもっと束縛してくれないのかな」と、歪んだ愛情を若い頃は求めていたように思います。
私の中に元々あったと思われるまともな部分と、他からの影響で壊れてしまった部分、それがおそらくは当時は半々あって、まともな部分と壊れた部分が表に交互に出てくるような二重人格に近い状況が長らく続いていたような気が致します。ふと気がつくとトランスになって何か訳の分からないことを呟いていたりしました。今思えば、とりあえず症状を和らげるために精神薬でも処方してもらえればよかったと思いますが、当時は精神科というものに抵抗がありました。それでも私はITは高校からゲームを作っていてそれなりにITの仕事はできましたのでなんとか仕事はこなせて、そうこうしているうちに壊れた心は時間をかけて修復されていきました。
直近5年くらいで段階的に集中を高めて精神修行をするようにし、ヨーガをして、瞑想をして、感情を修復し、ようやくここ最近になって元のテレパスに戻ってきたように思います。
虐めや虐待というのは数十年単位で他人の人生を無駄にさせるものです。とは言いましても、私の心が壊れていた時にした何気ない発言が同級生を病ませてしまったことを思い出したのですが、勉強の相談をされた時に「もっと勉強しないとダメじゃない?」みたいに言ってしまったことがあって、それが原因で同級生が登校拒否になってしまったことがありますので、私もある程度は加害者かもしれません。生きている以上、意図しない加害者になると言うことはあるのだと思います。ですが、継続的に虐めをするのは犯罪です。
ふと思い返せば、子供の頃、同級生でテレパスは意外にいたように思うのです。割とテレパスが普通で、テレパスじゃない人は空気を読めない人という感じだったように思います。
他人の感情をよく感じると言うのは諸刃の剣で、良い感情の時は感情がよくわかっていいですけど、大して親しくない人の疲れた気持ちがいちいち伝わってくると言うのは時に変な人だったりすると苦しいものがあります。妬み、怨みを継続的に送られると心が壊れていきます。
スピリチュアルで、よく、波動の法則とか言って、波動に合う人だけ関係を持てばいい、なんてお話もありますけど、ここで言っている感情を感じると言うのは割と避けることができない状況もあって、例えば、乗り物で接するバスの運転手とか、売店のレジの販売員とか、そういう、割とどうでも良い人付き合いでいちいちその人の感情がよく伝わってくるのです。
これは、対処をどなたか先生から教わった方がいいかもしれなくて、基本は結界を張ることだとは思います。それに、付き合う人を選ぶことですかね。あとは、いいパートナーがいるとオーラが強化されてこの種の問題には強くなるのは当然ですね。今はまだ治りかけのオーラですので、まだまだ不安定のようです。基本的には、自分に近いところではアナハタのオーラを開いていて、その周囲に、一定の距離で境目を作る、内と外との壁を作るといいのだと思います。割と普通のことと言えばそうですね。古くから言われていた間の取り方は、オーラの層のお話でもあるわけです。
こうして、ようやく心がそれなりに修復されて子供の頃のテレパスに戻ってきましたのに、子供の頃のようにまた心を壊してしまわないよう、気をつけてメンテナンスして防御しつつ伸ばしていきたいと思います。
まだ、古い感情のエネルギーが時々蘇ってくるので、壊れた感情から完全な感情にして解決していきます。
仏教やヨーガで「不道徳な人と付き合ってはいけない」と言われている原則も重要で、そうは言いましても、自分の態度としては、いろいろ考えた結果、やはり、不道徳な人に対してであっても誠実な態度をするのが基本なわけです。ただし、脇を甘くしないのが大切で、きちんと拒否するなり必要なら逃げないといけません。学校や田舎では逃げ道がないので心が壊れてしまいますのでそこはどうにかする必要があります。こちらは心が壊れる一方で虐める側は元気になるわけですから、まともな方だけが損害を受けるのです。ですから、どうにかして「不道徳な人とは付き合わない」の原則を貫かなければならないわけです。この法則が第一ですから、となると社会的に良いとされていることが二の次になることもあり、例えば不登校とか会社を頻繁に変えることになったりするかもしれないですけど、それは理由によるのです。私はもう、メンタル第一と決めていますので他は二の次です。もう、二度と心を壊す状態を長く許すことはありません。(一時的なものは想定内として。)
いろいろありましたが、久々にテレパスに戻ってみたら懐かしい感じがしたのでした。ようやく元に戻れた気が致します。とは言いましても、回復して戻ったのは子供の頃の3分の1くらいですかね。まだ本調子とは言えないようです。
ただ、戻ったのは良いですけど、新しい感覚というよりは小学校の頃に戻っただけですので、別に、ものすごい境地に至ったとか、そういうことではないように思います。これを前提にして、これから再度、メンタルを一般社会に適合できるように調整する必要性を感じています。境地としては同じでも理解と運用と環境は当時とは違います。子供の頃のように定常的に虐めてくる同級生とか親戚とか近所の同級生はいないですし、理解にしても全然違いますし、運用能力だって違いますので、子供の頃に本来ならばそこから伸ばしていくべきだった境地や能力などを再度これから伸ばしてゆくのかなと思っております。
普通の感情ならばまだしも、子供の頃はというと周囲の同級生からの怒りや嫉妬あるいは恨みあるいは嘲笑いの感情を常日頃から受けていましたので、テレパスの感じる力が長らく壊れてしまっていたように思うのです。
最初に心が壊れ出したのが幼児の頃で、父方の祖父・祖母の私に対する蔑みの見下した態度とイライラの気持ちに加えて一定度のかわいがりをしている意識がテレパスで伝わってきて、多少は癒されると同時に心が痛んでおりました。どうして孫にそんな態度が取れるのか謎ですけど、他の子供(娘)の孫にはものすごい笑顔で接していましたので、私の方の兄弟にだけ変な態度を取る祖父と祖母でした。まあ、祖母の方はそれなりに可愛がってはくれましたが私にお金を使うのが嫌だったらしく、実は裏で私の母に電話して「これだけお金を使ったよ」と言って、金額を請求していたようです。そんな祖母なんて、よそで聞いたことないです。孫にお金を使いたくない祖母ですけど、私に対する態度は割と普通だったように思います。その実で娘にはどんどんお金をあげていたようでした。今思えば異常な父方の祖母と祖父です。これは、あのような捻くれた人はどうして捻くれているのか、理解する良い教材になりました。結局、自己の捻くれた心を他者に投影しているからそう言う酷い態度を他人に対して取れるわけです。今から思えば、その祖父と祖母の別の孫たちは私の兄弟に対して見下した態度を取っていたように思います。父方の家系は割と捻くれている嘘つきが多かったように思います。
父も母も人並みに愛してくれたとは思いますが二人ともモラハラで、特に父は急にキレるので常に意見を聞いてその通りにしないといけないような環境で、母といえば色々と私に自分に決めさせるかのような体を取るけれども結局は自分たちの思い通りでないと不機嫌になってイライラし始めるので従わざるを得ず、常に両親の顔色を伺うようになってしまい、家畜のような精神状態だったように思います。なんとなれば私の頭をバンバン何度もヒステリーに叩いて、時にはそれを外で行い、他のお母さんが見ている前でやって同級生の親たちの間で噂になってしまいました。母親は「この子は反抗期もなくて大人しい、いい子だねえ」とか言っていましたけど、私の心はその頃には既に壊れていたと言えます。なるべく考えないようにして、心ここにあらずという状態でなんとなくの笑顔を作っていると母親は「この子はいつもぼおーっとしているねえ」と言っていましたが、心がここにあると急に前触れなく母親も父親もキレてくるので、心がここにあると危険なので常時心はここにあらず、という、ぼうっとした状態で生活していたのです。そうしていると母親も父親も私のことを「大人しくていい子」と思っていたらしくそれなりの愛情を注いでくれましたが、そんなことをしていたら、いつの間にか、虐げられるのと愛着とが感情で結びついてしまいました。愛情というものが虐待と結びついてしまったのです。特に若い頃は、何かと指示してくるような性格の悪いS系の女しか好きになれず、わかっていつつも、捻じ曲がった愛情でしか人を愛せない状態だったように思います。頭でどう考えてもあちらの普通の子の方が性格が良いしまともだしいい子なのに、何故か、私を虐げてきて指図してくるS女にしか興味が向かないような状態で、これはおかしいと頭でわかっていつつも性質というのは急に変えられなかったのです。この嗜好を変えるには時間がかかりました。普通の、本当に良い性格の女の人とどのように接して良いのかわからない思春期だったように思います。
この両親の呪縛から逃れるためにいくつか画策して、最初はなかなか動くことができないほどに精神を病んでいましたので、一つづつ、両親の期待が裏技られるようなことを何度もして両親を幻滅させました。おそらく、他の子供達も意識的あるいは無意識的にこのような、両親の期待をあえて裏切る、という行動を取っているように思います。私はそれが少し遅かったのです。普通の子は思春期の頃に反抗期を迎えることが多いかと思いますが、私の心はその頃は壊れていて「はい」しか言えない状態になっておりましたので、反抗する気力すらありませんでした。心が壊れていたのです。
思うに、遡ると、テレパスの感覚が最初に激しく壊れたのは幼稚園の時で、幼稚園の、確か1年目に同級生から執拗に虐められて、早くも登園拒否になりました。幼稚園に行こうとしても足が動かなくなって「幼稚園行きたくない」と言っていたように思います。思えばこの頃から両親からもそこまで理解されず「怠けている」だとか言って、私がどうして行きたくないのかすら両親は聞こうともせず、一方的に「ダメな子」「手間のかかる子」と思われていたように思います。一応はそれなりの愛情は頂いたものの、登園拒否や状況に対する理解はほとんどなかったように思います。
幼稚園の先生が計画して、同級生の全員が家に来てくれたことで一応は幼稚園に復帰しましたけど、、復帰しないといけないと言う状況で仕方なく復帰したわけですが、実は、余計なお世話だと思っていました。先生や両親は安心したようにも思うのですけど、前に虐めていた同級生は変わらず「俺たちが迎えに行かなきゃずっと家にこもってただろ。やーい」みたいに昔と変わらずネチネチくだらないことを言って、更には「おい。また登校拒否しろよ」とか虐げてくるのです。私の心はその頃から壊れていき、「いつも、感じている感情とは無関係に、とにかく、笑顔でいるしかない」と言う状況でした。幼稚園の頃から、既に精神崩壊が始まっていたと言えます。これが積み重なって、高校時代にはZガンダムのカミーユのような精神状態にまでなりましたが、この時は、そこまで重症ではありませんでした。彼が一応は仲良さそうにしている状況を見て、理解もない先生は「生徒同士仲良くやっている」と思っていたようですけど、年齢を重ねるごとに私の心は壊れていき、小学校の頃には家に帰ってくるといつも「疲れた。疲れた。疲れた」と口癖のように言っておりました。その頃から、テレパスの感覚は鈍くなって、頭もぼーっとしてきたように思います。母親はそんな私を見て「この子はいつもぼーっとしているねえ」とか言っていましたけど、もう、その頃には既に、心は壊れていたのです。
心が壊れて、小学校低学年には同級生に反撃をし、それにより虐めっ子の態度が軟化したことにより小学校の上級生の頃にはメンタルがある程度は回復しましたが、それでもかなり壊れていました。中学校でもある程度回復したのですけど、高校の環境が良くなくて、高校で心がほぼ完全に壊れてしまいました。小学校や中学校の頃は頭の回転もそんなに悪くはなかったと思いますが、高校で鬱になって頭がガンガン痛くて頭がボーっとしてクラクラするようになってから頭の回転が明らかに悪くなって、学校の先生からも「君はもっと理解が早いと思ったけどなあ」とか言われるようになりました。学校の先生は私のメンタルヘルスにそこまで興味はないようで、だんだんと、単に頭の悪い問題児扱いされることが増えていきましたが一応は現役大学合格しました。先生からは「そこだって君は受からないよ」と言われていたので驚かれましたが大学で上京してそのような田舎生活を脱出したのでした。
高校の頃まて、父親に何か言っても理解しようともせずに「うるせえ!!!」と言ってくるので言っても無駄で、母親はと言うと、私が就職して仕送りとか何か買ってもらうことばかり考えて、お金のために私を大切にしているのがミエミエでした。そんな異常な環境から脱出できたのです。
大学に入ってみると、それほど高校で致命的な問題もなく青春を謳歌している人が大勢いて、特に私のような地方出身者と東京の進学校出身者の情報格差は厳しいものがあり、彼等が話してる「◯◯はほにゃらら」という単語をそもそも聞いたことなくて何を言っているのか理解できないのです。環境と育ちの差に当時は愕然としました。とは言いましても、後から思えば、単に本人たちだけで通じるローカル表現だったかもしれないですし、はたまた、私が田舎から出た時点で私は田舎に残った人との間で同じような情報格差を作っていたのかなと思います。私は田舎に残った人たちにいろいろ教えて情報格差を無くすなど手を差し伸べることも当時はしなかったので私も同じようなものだったかもしれなくて、残酷ですけど、まあ、人生なんてそんなものでしょう。生きている世界が全く違う人たちが存在するわけです。そんなものです。当時はその情報格差を嘆いていましたけどその後はインターネットでかなり情報格差は埋まったように思います(ただ、やはり肝心のところの情報格差や運用格差はあるように思いますが)。今は、単語で聞いたこともない、なんてことは少なくはなくなって、当時は何という単語の意味がわからなかったのすら思い出せません。思えば、時折、絶望して周囲に当たってしまったことがありますが、それは私の弱さでした。今から思えば絶望を堪えてなるべく誠実な態度を取るべきだったことも多々あります。高校までは周囲に裏切られ続けましたので疑い深くなっていたということもあります。もっと人を信用したり、たとえ裏切られたりしても心を強く保つべきだったと思います。そうは言いましても、今から思えば進学校にもいろいろあって、それぞれの高校出身者しかわからないこともあって、たとえ進学校出身者であってもT大くらいになるとT大に大勢合格を出している高校出身者との間で情報格差があって疎外感もそれなりにあるようです。であれば、そんな情報格差は仕方がないので現状を受け入れていろいろ教えてもらう姿勢が大切でしたがそれはあまりできていなかったように思います。教えてもらって当然という態度は高校までは通用しても大学以降の社会では邪険にされるのです。そのあたり、どういう態度を取るべきかあまりわかっていませんでした。思えば、周囲には心が壊れている人が大勢いましたし、疲れた態度を取ってしまっていました。このあたり、都市部に通っている育ちの良い人と、私のような地方のぽっと出の、状況がよくわかっていない人との間で見えない壁のようなものを感じていました。
その後、就職しましたが、就職してからも、両親の期待をあえて裏切る行動をしました。私が就職してすぐに田舎の土地を私に買わせようとしたので実家にしばらく帰らずに電話もはぐらかしてタカリをのらりくらりとやり過ごしましたけど、新卒で奨学金も返しているのに土地なんて買える余裕などあるわけもありませんでした。田舎に土地買ってもどうしようもないですし。バブル時代とは違うのです。
世界長期旅行も割とその一つで、両親の期待を裏切って呪縛から逃れるためにも役立ちました。単純にやりたかった、と言うのもありますけど、若い頃に長期海外旅行すると両親に言ったら激怒されて縁を切る、もう連絡してくるな、みたいなヒステリーな感じになったので仕方なく若い頃は行かなかったのですけど、もう少しして、家の住宅ローンも完済して、サイドビジネスも行ってある程度の収入を確保した段階で相談もせず本業を辞めて海外長期旅行に出ました。実のところ、両親の束縛がそこまで強くなければ若い頃に少し旅行してそれで満足していたかもしれませんけど、歳を取ってお金もそれなりにありましたのでユーラシア大陸を少しと南米中心に旅行をしてバイクで南米コロンビアから最南端まで行ってきたのです。
そうしたら、両親からしてみたら今まで私が両親の思い通りに生きていると思っていたのに裏切られたと思ったらしく、父親は急に元気がなくなって家から出ずにずっと椅子で座っていたら弱っていきました。そして病気になった時に体力が持たずに早死にしてしまったのですけど、私からすれば、あんなモラハラですぐにキレてきて、話を聞こうともせず「うるせえ!!」と言っているような父親が死んでも悲しくも何ともなくて、むしろ、せいせいしたのです。死後わかったのですが、他の兄弟には色々と良く接していて、私は就職後はお小遣いなんてもらっていませんでしたけど、他の兄弟は来るたびにお小遣いをもらっていたようです。私は逆にお小遣いをあげていました。私は両親の自尊心のための精神的な奴隷および金づるだったのです。当時私は、一応は一部上場企業に勤めていておそらく父親にとって自慢の種だったのに辞めて世界旅行に出られてしまい、父親は私を理解することもなく、ただ幻滅したのです。
そのように、父親には話しても無駄ですので話しませんでしたが、母親は話すことである程度は解決しました。最初は母親は私の反抗に酷くショックで言葉を失っていたのですけど、何を今更、いい歳した大人の子供が自由意志で決断したからと言って嘆くような親がどれだけいると言うのでしょうかね。今まで、面倒だから「そうだね、そうだね」と同意して母親が決めてる風に誘導しつつスルーしていただけなのに、その時までずっと母親の指示に従って私が生きてきたとでも思っていたようです。母親からもそれなりに呪縛がありましたけど、母親にははっきりと、あなたの指示には従わない、そして、貴方(母親)の判断は決定的に間違っていることを伝えることで呪縛から逃れたのでした。母は言えば伝わるだけ父よりマシでしたけど、自分が確実にコントロールできる子供という道具を失って元気がなくなったのを感じますが、母の元気のために奴隷に戻るつもりはないのです。結局、これは表面上は他人をコントロールしたい人たち、というところもありますが、突き詰めれば、頭が悪い、ということだと思います。頭が悪いので自分がしていることの状況と意味に気が付かないのです。
こんなこともあり、私は、頭の悪い人とは基本的に付き合いたくないのです。
そのような両親からの束縛が高校まであって、大学に入って一人暮らしを始めたことにより両親や親戚及び高校までの人間関係の呪縛から離れて、ようやくメンタルの回復期に入りました。壊れていた心が少しずつ修復して、就職してから仕事関係でパワハラもありましたがそれも何とか切り抜けて、20代後半には一応の最低限の回復はできましたけど、そんな心が壊れた状況ではまともな恋愛もできなくてSの偏った人間関係しかできず、関係性は破滅や喧嘩別れがほとんどだったように思います。と言いますか、そもそも深い信頼関係まで進まずに表面的な付き合いが多かったように思います。若い頃に受けた偏った人間関係の影響は長く尾を引くのだと思います。その頃はまともな恋愛が出来ずにいたと言えます。幼い頃から周囲には親類を含めて私を貶める人が大勢いて、それと愛とが結びついてしまっていて、若い頃は、Sで貶めてくれるような人にしか愛情を感じられないような歪んだ状態でいたように思います。例えば、女性に対して「どうして、私に対してもっと命令してくれないのかな。どうして私をもっと束縛してくれないのかな」と、歪んだ愛情を若い頃は求めていたように思います。
私の中に元々あったと思われるまともな部分と、他からの影響で壊れてしまった部分、それがおそらくは当時は半々あって、まともな部分と壊れた部分が表に交互に出てくるような二重人格に近い状況が長らく続いていたような気が致します。ふと気がつくとトランスになって何か訳の分からないことを呟いていたりしました。今思えば、とりあえず症状を和らげるために精神薬でも処方してもらえればよかったと思いますが、当時は精神科というものに抵抗がありました。それでも私はITは高校からゲームを作っていてそれなりにITの仕事はできましたのでなんとか仕事はこなせて、そうこうしているうちに壊れた心は時間をかけて修復されていきました。
直近5年くらいで段階的に集中を高めて精神修行をするようにし、ヨーガをして、瞑想をして、感情を修復し、ようやくここ最近になって元のテレパスに戻ってきたように思います。
虐めや虐待というのは数十年単位で他人の人生を無駄にさせるものです。とは言いましても、私の心が壊れていた時にした何気ない発言が同級生を病ませてしまったことを思い出したのですが、勉強の相談をされた時に「もっと勉強しないとダメじゃない?」みたいに言ってしまったことがあって、それが原因で同級生が登校拒否になってしまったことがありますので、私もある程度は加害者かもしれません。生きている以上、意図しない加害者になると言うことはあるのだと思います。ですが、継続的に虐めをするのは犯罪です。
ふと思い返せば、子供の頃、同級生でテレパスは意外にいたように思うのです。割とテレパスが普通で、テレパスじゃない人は空気を読めない人という感じだったように思います。
他人の感情をよく感じると言うのは諸刃の剣で、良い感情の時は感情がよくわかっていいですけど、大して親しくない人の疲れた気持ちがいちいち伝わってくると言うのは時に変な人だったりすると苦しいものがあります。妬み、怨みを継続的に送られると心が壊れていきます。
スピリチュアルで、よく、波動の法則とか言って、波動に合う人だけ関係を持てばいい、なんてお話もありますけど、ここで言っている感情を感じると言うのは割と避けることができない状況もあって、例えば、乗り物で接するバスの運転手とか、売店のレジの販売員とか、そういう、割とどうでも良い人付き合いでいちいちその人の感情がよく伝わってくるのです。
これは、対処をどなたか先生から教わった方がいいかもしれなくて、基本は結界を張ることだとは思います。それに、付き合う人を選ぶことですかね。あとは、いいパートナーがいるとオーラが強化されてこの種の問題には強くなるのは当然ですね。今はまだ治りかけのオーラですので、まだまだ不安定のようです。基本的には、自分に近いところではアナハタのオーラを開いていて、その周囲に、一定の距離で境目を作る、内と外との壁を作るといいのだと思います。割と普通のことと言えばそうですね。古くから言われていた間の取り方は、オーラの層のお話でもあるわけです。
こうして、ようやく心がそれなりに修復されて子供の頃のテレパスに戻ってきましたのに、子供の頃のようにまた心を壊してしまわないよう、気をつけてメンテナンスして防御しつつ伸ばしていきたいと思います。
まだ、古い感情のエネルギーが時々蘇ってくるので、壊れた感情から完全な感情にして解決していきます。
仏教やヨーガで「不道徳な人と付き合ってはいけない」と言われている原則も重要で、そうは言いましても、自分の態度としては、いろいろ考えた結果、やはり、不道徳な人に対してであっても誠実な態度をするのが基本なわけです。ただし、脇を甘くしないのが大切で、きちんと拒否するなり必要なら逃げないといけません。学校や田舎では逃げ道がないので心が壊れてしまいますのでそこはどうにかする必要があります。こちらは心が壊れる一方で虐める側は元気になるわけですから、まともな方だけが損害を受けるのです。ですから、どうにかして「不道徳な人とは付き合わない」の原則を貫かなければならないわけです。この法則が第一ですから、となると社会的に良いとされていることが二の次になることもあり、例えば不登校とか会社を頻繁に変えることになったりするかもしれないですけど、それは理由によるのです。私はもう、メンタル第一と決めていますので他は二の次です。もう、二度と心を壊す状態を長く許すことはありません。(一時的なものは想定内として。)
いろいろありましたが、久々にテレパスに戻ってみたら懐かしい感じがしたのでした。ようやく元に戻れた気が致します。とは言いましても、回復して戻ったのは子供の頃の3分の1くらいですかね。まだ本調子とは言えないようです。
ただ、戻ったのは良いですけど、新しい感覚というよりは小学校の頃に戻っただけですので、別に、ものすごい境地に至ったとか、そういうことではないように思います。これを前提にして、これから再度、メンタルを一般社会に適合できるように調整する必要性を感じています。境地としては同じでも理解と運用と環境は当時とは違います。子供の頃のように定常的に虐めてくる同級生とか親戚とか近所の同級生はいないですし、理解にしても全然違いますし、運用能力だって違いますので、子供の頃に本来ならばそこから伸ばしていくべきだった境地や能力などを再度これから伸ばしてゆくのかなと思っております。
穢れのエネルギーがマニプラに入らないよう防御する
先日から何故か見せられていた不完全で創作なロミオとジュリエットのような物語、どうやら、それは、どうしてそうなのかはそこまで把握はしていないですけど、どうやら「穢れ」という種類のエネルギーのようです。
このインスピレーションをもらった時、「はて? 穢れ? どういうこと?」と、謎だらけで、まだそこまで正確に理解しているわけではありませんが、どうやら、次のようなことのようです。
・古いエネルギー。現在のものではない。時空を超えて留まっていた、とあるところに眠っていたエネルギー。
・もちろん、現在のあの子が発しているわけではない。現在のあの子とは無関係。
この種の穢れは、対処してもいいし、対処しなくても良いようです。・・・とのガイドのお話ですが、「さて、どういうこと?」と言うと、次のようなことのようです。
・古いエネルギーなので、現実にはどうしようもない(ことがほとんど)。放っておけば良い。
・現実で具体的に解消できるならしても良い。それに問題はない。
・放っておけばエネルギーは時間が経つにつれて力を失って消えてゆく。力を注がないこと。このことを何度も思い返すほどエネルギーが高まる。穢れが強まる。
・このエネルギーに対して働きかけて現実を意図しても何も起こらない。と言うのは、このエネルギーは既に相手とは切り離されているので、働きかけても相手に届かない。穢れのエネルギーに届くだけ。
・想念体、思念体。今回の場合はただの穢れで単純なリピートおよび素材流用による幻覚だが、強い怨みにまで発展するとそれ自体がまるで生きているかのように(単純な)思念のパターンを持つことがあり、その場合には単純な受け答えをしているかのように振る舞うことがあるが、そこまでになることはほとんどない。基本的にはこの種のイメージは本当の意識ではなく一定のパターンを繰り返しているだけ。大して意味もないもの。
ということで、対処としては色々あるのですけど、単に穢れを防御するという意味では穢れがマニプラに繋がらないように、「方向」を見極めた上で、(オーラの)手のひらのようなもので受け止めるのと同時に、掴んで摘んで、マニプラに入らないところで(穢れを)止める、ということをすれば良いようです。
今回の場合、時折この穢れがマニプラに感じられていてどうしたものかと思っていたのですけど、割と正面からマニプラに入ってきていましたのでお腹から少し離れたところで「摘む」ことで(穢れを感じたとしても)穢れと切り離された状態になりました。まだ防御は完全ではないですけど、随分と切り離されました。
最初、「モワモワ」っとした漠然としたエネルギーを感じていただけで正体はわからなかったのですけど、ふと、これが「穢れ」というものなのかな、と思いました。
そもそも、どうしてこのような穢れが生じたかというと色々と原因があって、私の態度がその時良くなくてその子を不快にさせたということ。直接的にはそれで終わりですけど、その後、おそらくはその子はそこまで恋愛がうまくいかなくて悶々とした気持ちが穢れを増大させたのかもしれない、とインスピレーションでは来ましたけど、この子のその後は実際には知りませんのでこれは本当のことかどうかはわかりません。どちらにせよエネルギー的には古いもので眠っていたもので、これ自体にそこまで深い意味はないようです。
エネルギーに働きかけても現実が変化しないと言うことは真面目に対処しても無駄で、教訓だけ得て今後に生かせば良いようです。穢れは特に対処する必要はないとはいえ、そこに生じたエネルギーとストーリーを吟味することで教訓にすることができて、今回の場合、私の態度、立ち振る舞いがどのような問題を生じさせたのか、振り返って教訓にする良い機会になるわけです。それ以上にこの穢れに意味はなくて、まだエネルギー的には残っていますけど、教訓を得た今となっては、もう、この穢れは放っておいても良いわけです。もちろん何某かの方法で解消しても良いですけど、べつに、放っておいても問題はないわけです。いちいち解消していたらこの種の問題はキリがないですし、自分がある程度の原因を作ったとはいえ自分だけのエネルギーではないですし、時に全く自分とは関係ない穢れも多数遭遇しますから、いちいち解消していたらキリがないわけです。教訓を得てから防御して切り離すくらいで十分のようです。
同じような防御の方法は穢れだけでなく他者からオーラを伸ばされて探ってこられた時にも有効で、相手の勘繰りのオーラを伸ばしてきてそれと繋がってしまうと相手の穢れと繋がってしまったりしますので、同様に、オーラの手のひらで抑えて掴んで摘んで、ということをすれば良いようです。そうすることで相手が詮索してくるオーラと繋がらなくなり、健康を保てるのです。
このインスピレーションをもらった時、「はて? 穢れ? どういうこと?」と、謎だらけで、まだそこまで正確に理解しているわけではありませんが、どうやら、次のようなことのようです。
・古いエネルギー。現在のものではない。時空を超えて留まっていた、とあるところに眠っていたエネルギー。
・もちろん、現在のあの子が発しているわけではない。現在のあの子とは無関係。
この種の穢れは、対処してもいいし、対処しなくても良いようです。・・・とのガイドのお話ですが、「さて、どういうこと?」と言うと、次のようなことのようです。
・古いエネルギーなので、現実にはどうしようもない(ことがほとんど)。放っておけば良い。
・現実で具体的に解消できるならしても良い。それに問題はない。
・放っておけばエネルギーは時間が経つにつれて力を失って消えてゆく。力を注がないこと。このことを何度も思い返すほどエネルギーが高まる。穢れが強まる。
・このエネルギーに対して働きかけて現実を意図しても何も起こらない。と言うのは、このエネルギーは既に相手とは切り離されているので、働きかけても相手に届かない。穢れのエネルギーに届くだけ。
・想念体、思念体。今回の場合はただの穢れで単純なリピートおよび素材流用による幻覚だが、強い怨みにまで発展するとそれ自体がまるで生きているかのように(単純な)思念のパターンを持つことがあり、その場合には単純な受け答えをしているかのように振る舞うことがあるが、そこまでになることはほとんどない。基本的にはこの種のイメージは本当の意識ではなく一定のパターンを繰り返しているだけ。大して意味もないもの。
ということで、対処としては色々あるのですけど、単に穢れを防御するという意味では穢れがマニプラに繋がらないように、「方向」を見極めた上で、(オーラの)手のひらのようなもので受け止めるのと同時に、掴んで摘んで、マニプラに入らないところで(穢れを)止める、ということをすれば良いようです。
今回の場合、時折この穢れがマニプラに感じられていてどうしたものかと思っていたのですけど、割と正面からマニプラに入ってきていましたのでお腹から少し離れたところで「摘む」ことで(穢れを感じたとしても)穢れと切り離された状態になりました。まだ防御は完全ではないですけど、随分と切り離されました。
最初、「モワモワ」っとした漠然としたエネルギーを感じていただけで正体はわからなかったのですけど、ふと、これが「穢れ」というものなのかな、と思いました。
そもそも、どうしてこのような穢れが生じたかというと色々と原因があって、私の態度がその時良くなくてその子を不快にさせたということ。直接的にはそれで終わりですけど、その後、おそらくはその子はそこまで恋愛がうまくいかなくて悶々とした気持ちが穢れを増大させたのかもしれない、とインスピレーションでは来ましたけど、この子のその後は実際には知りませんのでこれは本当のことかどうかはわかりません。どちらにせよエネルギー的には古いもので眠っていたもので、これ自体にそこまで深い意味はないようです。
エネルギーに働きかけても現実が変化しないと言うことは真面目に対処しても無駄で、教訓だけ得て今後に生かせば良いようです。穢れは特に対処する必要はないとはいえ、そこに生じたエネルギーとストーリーを吟味することで教訓にすることができて、今回の場合、私の態度、立ち振る舞いがどのような問題を生じさせたのか、振り返って教訓にする良い機会になるわけです。それ以上にこの穢れに意味はなくて、まだエネルギー的には残っていますけど、教訓を得た今となっては、もう、この穢れは放っておいても良いわけです。もちろん何某かの方法で解消しても良いですけど、べつに、放っておいても問題はないわけです。いちいち解消していたらこの種の問題はキリがないですし、自分がある程度の原因を作ったとはいえ自分だけのエネルギーではないですし、時に全く自分とは関係ない穢れも多数遭遇しますから、いちいち解消していたらキリがないわけです。教訓を得てから防御して切り離すくらいで十分のようです。
同じような防御の方法は穢れだけでなく他者からオーラを伸ばされて探ってこられた時にも有効で、相手の勘繰りのオーラを伸ばしてきてそれと繋がってしまうと相手の穢れと繋がってしまったりしますので、同様に、オーラの手のひらで抑えて掴んで摘んで、ということをすれば良いようです。そうすることで相手が詮索してくるオーラと繋がらなくなり、健康を保てるのです。
子供の頃に胸の中にあった3つの光の玉は私の身代わりに砕け散った
胸の中に入ってきたプルシャ(神霊)は、子供の頃は「光の玉」と呼んでいました。
ふと、このことを思い出しました。確か、生まれる時に、普通に顕在意識で備わっている意識の他に、いざという時に回復するための緊急用として「光の玉」を3つほど持って生まれ出たように思います。そのような記憶を思い出しました。
先に書きましたように子供の頃は周囲の虐めやモラハラで苦労しましたので、早くも、小学校の高学年の頃までには3つとも使ってしまったように思います。
精神的に追い詰められて苦しくなって、精神崩壊して狂ってしまいそうになると、その直前で、この「光の玉」を使うことで急速な意識の状態の回復が起こり、精神崩壊を免れていたように思います。
その当時はそれが何か分からず、単に、生まれた時に持ってきた3つの「光の玉」として認識しておりました。
そして、小学校高学年で使い切ってしまいましたので、その後はそれに頼ることができず、高校時代にはメンタルを壊してその後、数十年に渡ってメンタルの問題を抱え込むことになってしまったわけです。
虐める側はエネルギーを奪おうとして執拗に精神を壊そうとしてきますから、光の玉なんてのは狙われるわけです。
狙われたとは言え、一応、その光の玉で当時のメンタルは助かりましたので有益だったと言えるのですが、この光の玉は使い切って終わりかと思っていました。新たに補給できるとは当時は思っていませんでした。
ですが、おそらくは、最近入ってきたプルシャ(神霊)は、私が子供の頃に認識していた「光の玉」そのもののように思うのです。そして、当時は、「光の玉を使うことでエネルギーが補給される」と思っていたのですけど、今から思えばその解釈は少し違っていて、「光の玉が破裂して壊れてしまうと、一時的にオーラが増大してメンタルは回復するが、光の玉は、使っているのではなく、壊れてしまう。壊れる時にオーラが拡散し、一時的に元気になっているだけ」というのが実態なのではないかと思うのです。
ただ、それは本来の光の玉の使い方ではなかったようにも思うのですが、そのようにも使えるものだと思います。
ゲームあるいは漫画で例えますと、エネルギーを貯めていた水晶球のようなものを使用してしまうことで使用済になり、場合によっては道具としての水晶球を物理的に壊すということもあるかもしれません。そのように、使用してしまうことで、道具は使用済の状態になって、もう使えなくなってしまう、あるいは、道具としてはもう捨ててしまうしかない、効果を発揮してしまった道具はいわゆる「壊れた状態」になってしまうわけです。
このように、子供の頃は「光の玉」として、道具のように認識していたわけですけど、実際には「プルシャ(神霊)」だったのではないかと思うのです。となれば、プルシャ(神霊)が自らの命を投げ打って崩壊し、犠牲になることで私の精神、心の崩壊を防いでくれた、というのが真実なのかもしれません。となれば、プルシャ(神霊)が(比喩として)死んでしまい、それはいわば身代わりになってくれたわけです。
プルシャ(神霊)は自分の魂の一部でもありますから基本的には崩壊しなくて消えたりはしないのですけど、おそらく、私のところに留まることができずにグループソウルに戻って行った、崩壊して私のところからは去っていった、私の胸のうちに留まることができずに体から離れてしまった、その時に、エネルギーとして私を最後に助けてくれた、ということなのではいかと今更ながら思うのです。
となれば、子供の頃は「光の玉」でメンタルが助かったと思っていて、それはそれで現象としては一応は正しくはあるのですけど、実のところ、プルシャ(神霊)が犠牲になって身代わりになってくれたので私のメンタルは崩壊せずに済んだ、というのが真実な気がするのです。
その光の玉(=プルシャ、神霊)を生まれた時には3つ持っていて、子供の頃に3つとも使ってしまってその後はメンタル(心)が壊れて数十年も心が壊れた状態のまま苦労をしてきたわけですが、ここに来て、ようやく1つ取り戻した、あるいは、新たに入ってきてくれるまでメンタルが回復した、ということのように思います。子供の頃に使ってしまったものと全く同じプルシャかどうかまではわかりませんが、質としては同じものであるように思います。
記憶を辿ると、「光の玉」が1つだけ残っている状態というのは割と弱々しくて、それは私の今の状態にも言えて、私はまだプルシャ(神霊)1つ分と言えますので、不完全な不安定な状態であるように思います。
・生まれた時 自身のメンタル➕光の玉3つ
・小学校高学年 自身のメンタルのみ(光の玉は使い切り)
・高校時代 心(メンタル)が壊れる(光の玉はもうない)
・その後 壊れた心(プルシャもない、あるいは、体から離れている状態。体にプルシャを感じられない状態)
・最近 心(自身のメンタル)➕(サハスララから入ってきた)プルシャ(おそらく光の玉と同等)
そもそも今までずっとプルシャ(光の玉)がないような状態が数十年は続いていましたので、よくもまあ、これが1つもない状態を今まで生きながらえてきたものだと自分で自分に感心致します。プルシャ(光の玉)がない人生というのは暗闇だと思います。もし世間の多くの人がプルシャ(神霊)なしで生きているのだとしたら人生において愛がなかったりするのも当然と言えるかもしれません。それはそれで機械的な人生を相応に過ごすのだと思います。
記憶を辿ると、光の玉が3つあると感受性にせよ感覚にせよ別物ですので、今の段階はまだまだ最初の不安定な段階でしかないように思うのです。当時、光の玉を2つ使ってしまって1つしか残っていない時点で既にかなり危機的なメンタル状態で、光が薄くなり、影が多くなってしまっていたように思います。それは今の私の状態とも(おそらく)一致します。
気をつけなくてはいけないのは、また今後、この光の玉(=プルシャ)を使ってしまうような(光の玉が壊れてしまうような)メンタル不調になってしまわないようすることだと思います。そういうこともあって、少し前から、「このプルシャ(光の玉、神霊)を大切にしてください」、というメッセージを受けているのだと思います。
子供の頃の「光の玉」を思い出すことで、実はそういうことで、子供の頃の理解が違っていたのかもしれなくて、(まだ仮説ですけど)おそらくこの新解釈が正しいのではないかと思います。
であれば、今後、そこまで精神的に疲れる行動は控えて、メンタル最重視で生きるようにする必要が(今まで以上に)あるということだと思います。
しばらく思い違いをしていて、どうやら私は無自覚的にプルシャを子供の頃と同じように扱っていて、光の玉(プルシャ、神霊)についつい頼っていたように思います。だから、その態度を改めさせるために一旦光の玉(プルシャ)を引き抜いて素のままに戻してからプルシャに頼らないように学ばせたのかなと思います。むしろ、肉体および精神のマインドはプルシャを守るのが役割なわけです。器としての体はプルシャ(神霊、光の玉)を守るのが本来の役割なわけで、プルシャは胸の奥に「雛人形」のように、あるいは「精霊のように」微笑んでいますから、プルシャを頼るのはよっぽどのことなのです。基本はプルシャは頼らないのです。プルシャは光り輝いていて、肉体とマインドの私は胸の奥におわせますプルシャを祀っているようなものなのです。最近の脇の甘かったお話も、このあたりを学ばせるために用意されたシナリオではないかと思うのです。
通説ではプルシャは一つですが、おそらく、プルシャ(光の玉)は3つとか持てて、しかも3つが上限ではなくてもっと持てるのですけど、おそらく3つもあればとりあえず十分のように思います。実際のところ、普段は3つとか数は意識しないですけどね。
3つあるいはある程度にまでメンタルとプルシャ(神霊)が強化されるまでまだまだ先があるようにも思います。
今は1つ目で、そもそも体の方が追いついていなくて全然使えていませんので今は体を再構成していて、2つ目以降は体の受け入れ準備がそれなりにできてからになるような気がしていて、今はまだ準備の段階のような気が致します。
ふと、このことを思い出しました。確か、生まれる時に、普通に顕在意識で備わっている意識の他に、いざという時に回復するための緊急用として「光の玉」を3つほど持って生まれ出たように思います。そのような記憶を思い出しました。
先に書きましたように子供の頃は周囲の虐めやモラハラで苦労しましたので、早くも、小学校の高学年の頃までには3つとも使ってしまったように思います。
精神的に追い詰められて苦しくなって、精神崩壊して狂ってしまいそうになると、その直前で、この「光の玉」を使うことで急速な意識の状態の回復が起こり、精神崩壊を免れていたように思います。
その当時はそれが何か分からず、単に、生まれた時に持ってきた3つの「光の玉」として認識しておりました。
そして、小学校高学年で使い切ってしまいましたので、その後はそれに頼ることができず、高校時代にはメンタルを壊してその後、数十年に渡ってメンタルの問題を抱え込むことになってしまったわけです。
虐める側はエネルギーを奪おうとして執拗に精神を壊そうとしてきますから、光の玉なんてのは狙われるわけです。
狙われたとは言え、一応、その光の玉で当時のメンタルは助かりましたので有益だったと言えるのですが、この光の玉は使い切って終わりかと思っていました。新たに補給できるとは当時は思っていませんでした。
ですが、おそらくは、最近入ってきたプルシャ(神霊)は、私が子供の頃に認識していた「光の玉」そのもののように思うのです。そして、当時は、「光の玉を使うことでエネルギーが補給される」と思っていたのですけど、今から思えばその解釈は少し違っていて、「光の玉が破裂して壊れてしまうと、一時的にオーラが増大してメンタルは回復するが、光の玉は、使っているのではなく、壊れてしまう。壊れる時にオーラが拡散し、一時的に元気になっているだけ」というのが実態なのではないかと思うのです。
ただ、それは本来の光の玉の使い方ではなかったようにも思うのですが、そのようにも使えるものだと思います。
ゲームあるいは漫画で例えますと、エネルギーを貯めていた水晶球のようなものを使用してしまうことで使用済になり、場合によっては道具としての水晶球を物理的に壊すということもあるかもしれません。そのように、使用してしまうことで、道具は使用済の状態になって、もう使えなくなってしまう、あるいは、道具としてはもう捨ててしまうしかない、効果を発揮してしまった道具はいわゆる「壊れた状態」になってしまうわけです。
このように、子供の頃は「光の玉」として、道具のように認識していたわけですけど、実際には「プルシャ(神霊)」だったのではないかと思うのです。となれば、プルシャ(神霊)が自らの命を投げ打って崩壊し、犠牲になることで私の精神、心の崩壊を防いでくれた、というのが真実なのかもしれません。となれば、プルシャ(神霊)が(比喩として)死んでしまい、それはいわば身代わりになってくれたわけです。
プルシャ(神霊)は自分の魂の一部でもありますから基本的には崩壊しなくて消えたりはしないのですけど、おそらく、私のところに留まることができずにグループソウルに戻って行った、崩壊して私のところからは去っていった、私の胸のうちに留まることができずに体から離れてしまった、その時に、エネルギーとして私を最後に助けてくれた、ということなのではいかと今更ながら思うのです。
となれば、子供の頃は「光の玉」でメンタルが助かったと思っていて、それはそれで現象としては一応は正しくはあるのですけど、実のところ、プルシャ(神霊)が犠牲になって身代わりになってくれたので私のメンタルは崩壊せずに済んだ、というのが真実な気がするのです。
その光の玉(=プルシャ、神霊)を生まれた時には3つ持っていて、子供の頃に3つとも使ってしまってその後はメンタル(心)が壊れて数十年も心が壊れた状態のまま苦労をしてきたわけですが、ここに来て、ようやく1つ取り戻した、あるいは、新たに入ってきてくれるまでメンタルが回復した、ということのように思います。子供の頃に使ってしまったものと全く同じプルシャかどうかまではわかりませんが、質としては同じものであるように思います。
記憶を辿ると、「光の玉」が1つだけ残っている状態というのは割と弱々しくて、それは私の今の状態にも言えて、私はまだプルシャ(神霊)1つ分と言えますので、不完全な不安定な状態であるように思います。
・生まれた時 自身のメンタル➕光の玉3つ
・小学校高学年 自身のメンタルのみ(光の玉は使い切り)
・高校時代 心(メンタル)が壊れる(光の玉はもうない)
・その後 壊れた心(プルシャもない、あるいは、体から離れている状態。体にプルシャを感じられない状態)
・最近 心(自身のメンタル)➕(サハスララから入ってきた)プルシャ(おそらく光の玉と同等)
そもそも今までずっとプルシャ(光の玉)がないような状態が数十年は続いていましたので、よくもまあ、これが1つもない状態を今まで生きながらえてきたものだと自分で自分に感心致します。プルシャ(光の玉)がない人生というのは暗闇だと思います。もし世間の多くの人がプルシャ(神霊)なしで生きているのだとしたら人生において愛がなかったりするのも当然と言えるかもしれません。それはそれで機械的な人生を相応に過ごすのだと思います。
記憶を辿ると、光の玉が3つあると感受性にせよ感覚にせよ別物ですので、今の段階はまだまだ最初の不安定な段階でしかないように思うのです。当時、光の玉を2つ使ってしまって1つしか残っていない時点で既にかなり危機的なメンタル状態で、光が薄くなり、影が多くなってしまっていたように思います。それは今の私の状態とも(おそらく)一致します。
気をつけなくてはいけないのは、また今後、この光の玉(=プルシャ)を使ってしまうような(光の玉が壊れてしまうような)メンタル不調になってしまわないようすることだと思います。そういうこともあって、少し前から、「このプルシャ(光の玉、神霊)を大切にしてください」、というメッセージを受けているのだと思います。
子供の頃の「光の玉」を思い出すことで、実はそういうことで、子供の頃の理解が違っていたのかもしれなくて、(まだ仮説ですけど)おそらくこの新解釈が正しいのではないかと思います。
であれば、今後、そこまで精神的に疲れる行動は控えて、メンタル最重視で生きるようにする必要が(今まで以上に)あるということだと思います。
しばらく思い違いをしていて、どうやら私は無自覚的にプルシャを子供の頃と同じように扱っていて、光の玉(プルシャ、神霊)についつい頼っていたように思います。だから、その態度を改めさせるために一旦光の玉(プルシャ)を引き抜いて素のままに戻してからプルシャに頼らないように学ばせたのかなと思います。むしろ、肉体および精神のマインドはプルシャを守るのが役割なわけです。器としての体はプルシャ(神霊、光の玉)を守るのが本来の役割なわけで、プルシャは胸の奥に「雛人形」のように、あるいは「精霊のように」微笑んでいますから、プルシャを頼るのはよっぽどのことなのです。基本はプルシャは頼らないのです。プルシャは光り輝いていて、肉体とマインドの私は胸の奥におわせますプルシャを祀っているようなものなのです。最近の脇の甘かったお話も、このあたりを学ばせるために用意されたシナリオではないかと思うのです。
通説ではプルシャは一つですが、おそらく、プルシャ(光の玉)は3つとか持てて、しかも3つが上限ではなくてもっと持てるのですけど、おそらく3つもあればとりあえず十分のように思います。実際のところ、普段は3つとか数は意識しないですけどね。
3つあるいはある程度にまでメンタルとプルシャ(神霊)が強化されるまでまだまだ先があるようにも思います。
今は1つ目で、そもそも体の方が追いついていなくて全然使えていませんので今は体を再構成していて、2つ目以降は体の受け入れ準備がそれなりにできてからになるような気がしていて、今はまだ準備の段階のような気が致します。
清楚系ビッチと本当に良い女性を見分けて愛を理解する
この状態の変化と感覚と理解は主に2023年GWの1週間およびその前後に起こったものものですが、この間に心境は大きく変化して愛をよりよく理解できるようになったように思うのです。若い頃に割と定期的に観光に行っていた出雲へ再度久々に行くことで昔の心境を追体験し、当時の状況をよりよく理解する手助けになりました。
昔、とある田舎育ちの男が上京してきました。そして、中年にもなったある時、ふと、昔の懐かしくも辛い出来事を思い出して、まるで現実に今起きているかの如く再体験し、思春期の十数年の葛藤と愛と憎しみなどの入り混じった感情の海に次々と襲われたのでした。そして、当時を思い出すだけでなく、現在の認識とともに当時を再解釈して新たな理解へと至ることになるのです。それは、受けた印象を再解釈するという(相手と自分という分かれた状態における二分性のある)普通のことだけでなく、テレパスの特徴を活かして相手の視点と重なるようにして(二分性なく)相手が当時思っていたことや状況を文字通り相手の視点を通じて(いわゆるワンネス状態を通じて)理解し、その新たな理解という前提のもとで過去の状況を再解釈して全く違った理解に至ることができるようになったのです。
いい年して何やってるんだかと言う気も致しますけど、(この変化により)感情体が反応して、周囲の全ての人々に対して満遍なく喜びと親しみを感じます。言葉の表現としては前々から(一応は)こんな感じにはなってはいたのですけど、最近の変化としてはこれに加えて感情が感じすぎて、まるで思春期になっているのです。若い頃、特に高校時代までは周囲の人に嫌がらせを受けたり虐めや執拗な誹謗中傷および罵りや嘲笑を受けていましたのでその後も長らく心が壊れてしまっていましたが、今は人間関係を選べますので基本的に安全な状態であります。人間関係の良い思春期であればもっと楽しかったかと思うのです。ただ、おそらく同じような楽しさは年を取ってからでも可能なのではないかと思うのです。今更な感もありますが。そして、ようやく周囲の知人たちの葛藤をそれなりに理解しました。特に高校の当時は思春期というよりも心が壊れていて心が崩壊する寸前でかろうじて持ち堪えていただけのように思います。そして、それが思春期だということなのかもしれないですけど、高校時代は心が壊れた思春期、今も思春期のような敏感なところは同じですが、今は心がかろうじて持ち堪えている思春期、という違いがあります。
そんな回想と再解釈が心の中に自然と出てきたのです。
それは、今に思春期になったという側面もありますが、それと加えて、かつての古いエネルギーが奥の方に未解消のままずっと押し込まれていて、それが出てきているのを処理した、と言う側面もあったように思います。記憶とエネルギーが甦ると共に物悲しい思春期の状態になります。この古いエネルギーを解決する必要を感じます。
最近古い記憶から出てきたロミオとジュリエットの劣化版みたいな創作物語は、それ自体は半ば創作ではありますけど、どうやら、幾つかのシナリオが結びついてごっちゃのイメージになってエネルギーとして存在していて、ベースとなっている素材それぞれは正しいのですけど、おそらく、周囲の知人、特に女性で時々、「とても悲しそうな、うつむいた表情」とか「ちょっと半分怒り気味だけれども、自分を押さえていて、それでいて、悲しげ」な人が時々いて、当時の私はその人たちのことを理解できなくて「なんでそんなに悲しそうなのだろう?」「なんでそんなに幾つもの感情が入れ混じっているのだろう」と、その女性たちの感情が理解できなかったのです。
まあ、流石に、具体的なやり取りがあって悲しげであれば一応は理解できていたわけですけど、そこまで実感がなくて、そうかもしれない、と思っていたくらいだったわけです。一方で、悲しげではあるけれども自分のことで悲しんでいるとは全く思っていなかった人たちが実はもしかしたら私のことで恋心が破れて悲しかった、と言う場面も、今更ながら思い出すと、そのような事もあったように思います。(他者からみると、そんなの自意識過剰かと思われるかもしれませんが。)
今、この古いエネルギーを処理しつつ、自分がそれらを一つ一つ(多分に創作ではありますけど)一応のストーリーを疑似体験することで、どうやら、これら女性たちが抱いていた感情はこう言うものだったのだと、今更ながら理解することができたように思います。
恋心を抱いているものの振り返ってくれない時に、人は、ああいう「物悲しい表情」をするのです。ドラマとかですとわかりやすいですけど、現実世界では、わかりやすい場合もあれば、微妙でわかりにくい場合も多々あるわけです。ちょっと仲良くなってそのまま恋愛に発展したいと向こうは願ってはいつつも私の方はというと気にせず友達扱いですから、その(異性の)友人の気持ちとしては「あれ。このまま恋愛してれるのではないの? もう好きになってしまったじゃない。 この気持ち、どうしてくれるの。 責任を取ってよ。 この気持ち、一体、どうすればいいの」と思って、「物悲しい気持ちと、少しの怒りと、その怒りを抑える自制心。普段は怒るような自分ではないのに悲しくて切ない怒りを抑えられない。不甲斐ない自分に対しても情けなくて悲しくなるし、恋が届かないことで余計に悲しくなるのです」と言う混在した感情があのような顔の表情と表現になっていたのではないかと思うのです。これは、怒りとは別の言葉を使った方がいいと思うのですがとりあえず怒りの一種なわけです。怒りと言うより憤りと言う方が良いかもしれません。特に体の関係があったわけでもなく、プラトニックな恋心が砕かれた可哀想な乙女が私の周囲にいたわけです。これは自意識過剰でしょうかね?
あまり勘違いさせないよう気をつけているつもりではありますけど、相手の恋心とかコントロールできませんし、仕方がないと言えばそうなのですけど。 私の方は割と惚れっぽい性格をしていますので目線や表情が反応してしまうことがあって、女性はそのサインに敏感に気付いて恋心に反応するものの、私の方はと言うといつものことで女性に反応してしまって自分でもその自分の無意識での反応の多さに気がつく度に「しまった」と思っているくらいですから、全員と恋愛するわけにもいかないのです。 ですから、なるべく、勘違いさせ始めてしまっているような女性とは距離を取るようにして要るのですけど、それはそれで、その子を悲しませてしまったりするわけです。 ほんと申し訳ないです。
今更ながらですけど、あの子とかあの子は実は私を好きではなくてただ単に優しく接してくれていただけだったとか、一方で、私があまり気にしていなかったあの子とかは(私を見る表情や感情から判断すると)私のことが好きだったのではないか、と言うことが今更ながらに理解できるようになって、何を今更理解してどうするのかというお話もあるにはあるのですけど、このまま理解せずにずっと過ごすよりは遥かに良かったのではないかと思うのです。
ここ最近見せられていたストーリーそれ自体は実はそこまで意味がなくて、多少あるとすれば「当時は心が壊れていて、感情体が未成熟だったために恋愛モードに入ることが難しかった。だからあの子と恋愛に発展しなかったのは、それは、もう仕方がない。そんなもの。当時は、以前書きましたように幼い頃の偏屈な愛され方によって自分を虐めてくるSっ気のある偏った女性しか愛情を感じれず、普通の、本当の良い子に対する接し方がわからなかった。酷い態度を取ってしまった」という教訓はあるにはあるものの、それは過去に既に終わった教訓としての個人的なお話であって、今更どうしようもないですし、当時の私の感情体はその程度でしたから恋愛モードに入ることができず、よって、私の当時の状態からしたら「そんなもの」ですので、このお話はもう終わりなのです。それよりむしろ、最近出てきた創作のストーリーというものは更なる幾つかの状況を理解するための「教材」のようなものだったように思うのです。少し前に分析しましたように、素材としては個別は正しくても、全体としてはどう見ても整合性が取れていなくて現実と一致していませんから、現実の対処というよりは、思春期や若かった頃に周囲にいた人たちを理解するための素材としての創作物語という意味が大きかったのではないかと思うのです。
そうして物語の内容を理解した後に現実を再度見てみると、どうやら、かつての(異性の)知人たちの中で本当に「いい子」と言うのが絞れてくるようなのです。もっと早くそれに気がついていれば良かったのですけど、本当にいい子は目立たなくて、それでいて、実はかなりいい子なわけです。当時からわかっていれば女性を見る目も違いましたね。たくさんいい子がそこらじゅうにいたように思います。
若い頃は自分では女性を見る目があるとか思っていましたけど、なんのことはない、そうでもなかったようです。若い当時は見た目とか性格とか全てを求めていてなかなか相手を選べませんでしたけど、今更ながら思うのは性格重視にしておけば良かったと思いますね。見た目も性格もどちらも良いのが一番ですけど、顔というのは個性でもありますし、基本は性格重視で良いわけです。
古い思春期のエネルギーが湧き上がってきていて何だろうとしばらく思っていて、そこまで意味ないのではないかともしばらく思っていて、早くこの古いエネルギーを解消したいと思っていたのですけど、実はかなり重要な知見がその感情の中にあって、これもまた、無駄なものではなかったようです。無駄なものなど何もない、という格言はその通りなのかもしれません。
最近湧き上がってきていた不安定な思春期の感情というものは自分がもう一度体験するために現れてきたものではおそらくなくて、それよりは、当時のエネルギーを理解するために湧き上がってきていて、今、その学びを終えたところで当時のエネルギーはいつの間にか収束して落ち着いてきています。とは言いましても、感情体が最近は発達してきているように思いますので、(いい年して)恋愛はしやすい状態になっているとは思います。
この悲しみと微妙な憤りは嫉妬とか独占欲と思うかもしれませんが違うのです。私も以前は独占欲かと思っておりました。しかし違うのです。他者がいるいないに関わらず、引きちがれる思いが悲しみを生むのです。そして、どうしようもない思いが弾けて、最後、恋が実らずに恋が苦だけ砕けた時に、ちょっとした憤りとちょっとした怒りのようなものが現れて、それを相手についついぶつけてしまうこともあって、相手にぶつけてしまうと、愛する相手を傷つけてしまったと言う自分への幻滅と、相手にきっと誤解されて、酷い人だと思われたという気持ちとが一緒に現れて、恋が破れると同時に、もうこの人の前に出ることはできない、恋はもう実らない、と言う悲しい気持ちで失恋するのです。そのように、恋心からの悲しみと微妙な憤りがあるのだと思います。このあたり、私は理解か足りなくて、周囲の女の子は、どうして私に時々ヒステリーになってくるのだろうと当時は思っていたのですけど、全然恋心がわかっていなかったようです。
その一方で、もう少し違った形での愛もあるように思います。それは、「理解したい、理解されたい」と言う思いで、それによっても恋心と似た思いをもたらすかもしれませんが、恋心より弱い気が致します。これによっても、同じような悲しみと疎外感による憤りをそれなりに感じるかもしれません。あるいは、対立軸における関係で、認められたいと言う思いか、恋心かのように勘違いしてしまい、同様に悲しみと憤りが生じるかもしれません。
これは、おそらく、段階の差なのです。
最初は対立軸にあっても、やがて知りたい、理解したい、理解してほしいと言う気持ちになり、それが愛の基本形で、そこから信頼関係が生まれるわけです。その途中のそれなりの信頼関係から始まる場合もあります。
若い頃は愛がわからない気がしておりましたけど、今思うのは愛とか恋とはいきなり一目惚れのようにするものではなくて育てるものなわけです。一目惚れは、実際にその人に恋をしていると言うよりは、似た顔や関係のある古いエネルギーが刺激されて出てくると一目惚れと呼ばれる気が致します。ですから一目惚れしたと思っていてもその古いエネルギーの力かなくなってしまうと恋が覚めるわけです。
一方、最初はよく分からなくても、誠実な人であれば関係性は育てればよくて、それが恋になると思うわけです。
そして、恋に落ちるとは自他同一なわけで、自分も相手も一緒になってよくわからなくなるからこそ恋なわけです。このあたり、瞑想で同じような境地がありますけど、恋に落ちる方が瞑想を極めるより実は簡単かもしれません。瞑想では愛とか言っていますけど、要は恋なわけです。
今思うのは、多くの私の周りにいた女性たちは私以上に私の状態を当時わかっていて、私が当時は自分に精一杯で恋愛どころではなく、それ故にその時はタイミングではなく、最初からわかっていたからこそ私のことで悲しんでくれてそれほど近づいてこなかったのではないかと思うのです。女性は割と生まれながらのサイキックな人が多くて、そうして全てを見抜いて恋心が叶わないことを知って悲しむ人がいる一方で、それほど感の良くない女性もいて中途半端に好意を持ったりされたこともあったわけですけれども、感の悪い人はそこそこな人でそれでも割と普通のことですから悪いことはないですけど、もっと感の良い人はいくらでもいるわけです。実のところ私を私自身以上にもっとはっきり理解してくれていた人は他にいたと言うことだと思いますし、私が相手にすべきだったのはそのような人でした。
瞑想が深まって周囲の人誰それ構わず親しみを感じるようになったのも、最近は思春期のような気がしていたのも、瞑想も恋も境地としては「自他同一」であって同じようなものだとすれば周囲の人に対して(初見であったとしても)恋心に似た感情を感じてしまうのは当然と言えるかもしれません。
特別な関係になることはなくても、一見で少し話すくらいの間柄であっても、もしも片方でもこの境地であったならば即座にプラトニックな恋に似た状態に落ちることができて、そのプラトニックな恋はその瞬間のことだけでその後はすぐに離れるわけですから、そのプラトニックな恋に似た状態はその瞬間のわずか数分であったとしても人生に活力を与えてくれるわけです。恋に似た感情の瞬間も甘酸っぱいですし、その後、すぐに離れてしまうことも、これまた切なくて恋心をくすぐられるわけです。そのような短いプラトニックな関係は打算もなく利害関係もなく、純粋な恋でいられます。お互いに恋とは認識しないでもよくて、良い人と気持ちを交わし合えただけでもこの世界は充実したものになると思うのです。
今回のことは単に後悔というだけでなく、様々な理解と知見と感情をもたらしてくれました。愛や恋というものに対する違った理解を私にもたらしてくれました。
そうして理解が生じた時、ここ最近度々あれほど私の感情を揺さぶって翻弄しようとしてきたロミオとジュリエット風の感情的な物語は急に意識の後ろへと後退しました。感情を正しく理解することで、それらの感情が完全へと近づきました。それぞれの感情の扱い方、理解の仕方、そのほとんどが理解違いあるいは理解不足だったわけで、これらは単に浄化だとか祓うかとかでも一応は対処は可能ですけど、理解によって完全なる感情と理解に少しだけ近づいた気が致します。
このことで本当に良い子というのはどのような人かが理解できてきたわけですが、その逆についての理解も深まって、これは副次的な理解ではあるのですけど、性格が嫌な人ですとか、あるいは「清楚系ビッチ(の素質)」とかもそれなりに判別できるようになりました。高校に入学した時に1年次の生徒会で一緒だった女の子の同級生がいて、振る舞いがしっかりしていて顔立ちも素敵で、私はその時点でかなり惚れかけていたのですけど、高校入学から数ヶ月のある日、突然、顔が変わって、それまでは誠実そうな顔立ちそのままでしたのに、急に、いつも薄ら笑いを浮かべているようになって、しかも、他のヤンキーっぽい女の人と一緒につるむようになって、更には、その前後では目元が明らかに違っていて、以前は目に「かすみ」があったような感じだったのに、それが消えて、目が開いていて、目線も何か浮いている感じになったのですが、今から思えば、あの頃にあの子は処女を失って、更には、そのまま清楚系ビッチになった瞬間だったのかなと思います。変になった時点でこの子には幻滅して好きではなくなりました。
他にも、中学時代から好きな気がしていた子がいて、その子は流石に中学時代は処女だったと思いますけど、その後、きっと清楚系ビッチになったのではないかなぁ、という気がしております。噂では、東京に出てきてからすぐに寝る女になったそうで・・・。それはそれで悲しいですが、そのような人だということが見抜けなかったということは私の見る目がなかったのです。最近は割とこのような人も判別できるようになって、男としては女性に対する幻想が解けて微妙に悲しくもあるのですけど、まぁ、変な女、特に清楚系ビッチに捕まるよりはいいかなと思います。ほんと、私は今まで女を見る目がなかったですね。今まで、私は女を見る目があるつもりでいましたけど、そうでもなかったようです。清楚系ビッチが見分けられるようになったからと言って、それが必ずしも正しいとも限りませんが、なんとなく判別できるようになったと言うことです。それにより、信用できないかもしれない人が弾かれて、信頼できる可能性の高い女の人が浮き彫りになるように思います。判断できるのは本当にその時点で清楚系ビッチかどうかではなく、清楚系ビッチの素質があるかどうかですので、環境や意思によってそうならない場合も多々あるとは思います。
今から思えば、あの時のあの子とか、私が女の子に相手にされなくて悲しんだとある状況すらも、ものによっては悲しむ価値すらなかったりしたわけです。例えば、私が好意を持った時に急にイラつき視線で見下して来たとある清楚系ビッチは、そもそも私が嘆く価値もない人だったわけです。この過去の古いエネルギーがふとフラッシュバックで再度湧き上がってきた時、一体なんだと思ったのですけど不意に答えが降りてきて、あの時、あの清楚系ビッチが私に対して思ったことが今の私に降りてきました。それは、あの清楚系ビッチがどのように思ったのか、あの子の視点としての理解と風景が降りてきましたので、そのことを認識した結果、はっきりと、私が嘆く必要もない、と言うことを理解したのです。あの子は、ただ単に、自分が可愛いことを自覚しているのでお金持ちのATM旦那を探しているだけでした。それ故に、自分が好きかどうかはあまり重要ではなく、私への返答が(見下しながら)「へえ、(貴方と)付き合ってどうするの?」と言う返答だったのは、「(男と付き合うことによって)手に入れるもの」をあの子は考えていたということで、実質的なATMを手に入れることがあの清楚系ビッチの目的だったわけで、であれば私はあの子からしてみたら雑魚でしかなかったと言うことで、あの子に何を言われようとも私が嘆く価値もなかったわけです。
はたまた、とある尻軽女は男を馬鹿にして(ゲラゲラ笑いながら)「男って大変だねー」と見下していて、私がいるところで面と向かってそんなことを私などに対して言えるあの女は軽率で男を見下していると感じていましたけど、その後、その子がふと妊娠して結婚したと聞いたのですが子供が産まれて何年も経たないうちにその子の浮気がバレて離婚したらしく、あのような子であれば、おそらく、男は馬鹿だから浮気しても平気だと思ったのか、あるいは、男にばれるわけはないと思ったのか、浮気しても離婚になんてならないとたかを括っていたのではないかと推測できます。あの子のそれまでの発言からすれば、そう考えるのが妥当です。随分といい会社の旦那だったのに放り出されて、あの清楚系ビッチはこれからどうするのですかね。当時は「この子なんなんだろう」ってよくわからなかったのですけど今から見れば清楚系ビッチそのまんまで女としても人としても信用できないです。どうやら、私が多少ながら好意を抱いた人のうちそれなりの割合で清楚系ビッチがいたようです。
危ないことが何度もありましたけど清楚系ビッチに引っかからなくて本当に良かったと思います。最初から金目当てですから清楚系ビッチにずっとATMし続けるか、あるいは離婚して財産分与か養育費と言うパターンになるわけです。仕草が可愛かったり愛想が良かったり床上手ならそれはもはら才能ですから清楚系ビッチに男が群がるのでしょう。そう言う清楚系ビッチを自慢する男がそれなりにいて、私からすれば、なんとも見る目がないなと思いますけど、まあ、人生なんてそんなものですから好きにすれば良いのです。清楚系ビッチには最初から近づかないのが良いと個人的には思いますが、これはあくまでも個人的な意見であって、誰かへの推奨ではありません。多くの清楚系ビッチは結婚の条件に「ずっと〇〇してくれるならいいよ」みたいな金銭面での無理難題を押し付けて男は了承しているようですので、そう言う男は自業自得と言えると思います。そんな無茶な約束、よくやるなぁ、と、私なんかは思ってしまいますが。そりゃ、私みたいな警戒している人は見向きもされないどころか邪魔者か雑魚扱いで見下されるのも当然でしょう。そういえば以前、私に会話が普通に聞こえてるのにも関わらず女同士で私のことを話題にして「えー、お金無さそうじゃない?」みたいに言っていたりしたので清楚系ビッチはほんと頭おかしいです。聞こえていても構わずそう言う会話するってことは私は完全に舐められているわけで、聞こえたとしても私のような男は雑魚だから問題ないと思っているのでしょう。そんな綺麗どころの清楚系ビッチよりも普通で信頼できる人の方がパートナーには良いと思えるわけです。
このような理解も、最近は割とテレパスになっていることが理解の助けになって、長らく謎だったあの子の発言の本音が時空を超えてテレパスでその子の側になって気持ちを理解しいて心の声をその子の立場に立った視点で聞くことで、相手の子の本当の気持ちを知ることができるわけです。その結果、たとえば先に書きましたように嘆く必要も元々なかったようなくだらない本音が聞けたりして、幻滅あるいは幻滅すらする価値もない清楚系ビッチの女に悩んでいたと言うことがわかったりするわけです。これはすぐ答えが返ってはこないですけと、疑問を投げておけばガイドが調べてそのうちふと答えを教えてもらえます。確認のしようがないですし、相手にしてみればそんな恥ずかしいことを認めるわけもなく、よって、確かめようがないためにそれが間違っている可能性ももちろん多々ありますが、仮説としても整合性が取れていますので、そういうことかな、と思います。私が元々思いもよらなかったことが真実だったりしますし、私の中の想像とも違っていて、もし私の中の想像だとしますと私の中のイメージやら願望を組み合わせたものが出てきたりするわけですが、このテレパスはそのような私自身の願望やイメージとは違って、その子の側からの視点での気持ちと心の声がテレパスによってわかるわけです。テレパスでわかるのは「相手」の視点での感覚なわけですから、それはかなりの確度があるわけです。それはただ単に「見ている」「認知している」と言うだけの状態であり、そこに「想像」はないわけです。そして、時に、自分が理解していたことと大きく違っていて愕然とすることもあります。普段の生活では「受け取り側」として相手の念を感じて解釈しますけど、テレパスの状態では「相手の視点」として、相手がどのように思ったのか、相手の心の内が、その瞬間だけ相手の心と重なるようにして思ったことを理解できますので、それ抜きの場合の「受け取り手の視点」とは大きく違った、相手の側から立った主観として相手の考えを直接的に理解することができるわけです。
こうしてみると、それまでスピリチュアルで言われた常識、「トラウマを受け入れましょう」みたいなのはかなり嘘であることがわかります。テレパス視点でいうと、トラウマとは「相手からのいわれのない誹謗中傷の念」でありますから、そんなものは、逆に、受け入れない方が良いわけです。この種の「トラウマを受け入れましょう」とかいうのは、エネルギーヴァンパイア側の、勝者側からの視点であって、「あなたたちはエネルギーを与える供給側なのだから大人しくしていなさい」という言説を、そうは直接は言いませんけど、周りくどく、それっぽく言っているだけなのだと思います。
一方で、自分が悪いトラウマというのもなくはないですけど、どちらかというと、相手から植え付けられているトラウマの方が多いように思います。まあ、この辺りは人によりますし、そもそも行動があまりよくない人は自分の行動に対して自分自身にトラウマを感じる、なんてのはそのそもないわけです。ですから、トラウマというのは、他者から植え付けられたものが多いように思います。他者からの念の中には正当なものもあって、正当なものは直していく必要があるとはいえ、付き合う相手にもよるとは思いますが、私の若い頃の場合、かなりの割合で理不尽で不合理で身勝手な怒りと呪いを他人から投げかけられて飛ばされていて、それを無防備に受け止めていたように思うのです。
私が清楚系ビッチに関してトラウマを感じていた理由は、そのような清楚系ビッチが表情では笑顔でいつつも心の中あるいは時に直接的な言葉や表情で私に対して拒絶と誹謗中傷の念を送ってきたり態度をしていたからなのであって、それ故に、清楚系ビッチが送ってくる念によって私がトラウマになっていたのであって、私は割と被害者なのですから、それに対して私が自分が悪いとか思う必要すらなかったわけです。そのことが、今回、ようやく(子供の頃以来で)テレパスの状態に戻ってきたことで相手が私に対して思っていたことが(相手視点で、発信側の視点で)はっきりと認知できるようになり、それはリアルタイムではなくて時差がありますけど、一旦、その視点が降りてきて理解してしまえば、ほとんどの場合において私はトラウマを感じる必要すらなかったことがわかるわけです。あのような清楚系ビッチ(複数人、大勢)に対して、私がトラウマを感じる必要もなかったし、その価値もなかったわけです。私は特に若い頃は清楚系ビッチに惹かれることが多くて、人生を無駄にしていたように思います。
私がスルーしていた人の中て何人もの良い子がいたわけですけど、判断力がないとこういうことになります。なんと無駄で思い悩む必要のないことに悩んでいたり、それによって自分が無駄に悩んでいたせいで行動すべき時に行動できなくて、相手の女の子に対して(きちんと行動できなくて)申し訳ないことをしていたのかと思います。
中学や高校あるいは大学時代にこの理解に至っていれば人生もかなり違っていたかと思いますが、まぁ、仕方がないですね。人生なんてそんなものです。
例えば、大学の1年次に合コンで会ったT大生のあの子とか、当時は「この子、よくわからない。あまり好みの顔じゃないな。話が合わない。すれ違いの話多すぎ」とか思っていましたけど、今から思えば、真面目でいい子だったことがわかるわけです。あるいは、高校の同級生の大人しいあの子も、私は普通に友人で特に恋愛の感情はなかったのですけど、いい子だったことがわかるわけです。
大学か社会人になってから合コンであった子が「幾つかの曲聴くと涙出てくる」みたいなことを言っていて当時はスルーしていましたけど、それは要はハートが開いている印で、とてもいい子であったわけですが私は当時はそれに気づかなかったわけです。
一方、中学に好きだったような気がしていた子は私とは深い関係はなかったのですけど東京に出てきてから誰とでもすぐに寝る女になったらしいので清楚系ビッチなわけです。高校時代に好きだった子はちょっと性格に難があったりしたのですけど、これもSの清楚系ビッチです。どうやら私は清楚系ビッチにばかり惹かれる性質があったようで、私に女を見る目が当時からあればもっと違った人生があったと思います。
就職先では上司(男)などの妻が清楚系ビッチだったりして、うまいこと金づる男を捕まえたのだなぁ、と思うこともありました。でもまぁ、本人たちが納得しているなら好きにすれば良いと思います。 わざわざ指摘するほど野暮ではないですし、割とどうでも良いです。それに、最初は金づるのつもりでもそのうち本当に愛し合う場合もありますし、逆もあると思います。
清楚系ビッチとは別に単純にS..X好きな女の子もいて、それはそれで清楚系ビッチとは区別すべきで、高校時代の同級生のとある女の子は、私とその子とは体の関係はなかったですけどぼちぼち普通に仲が良くて、話すことがめちゃくちゃオープンで、「そろそろ就職先考えてるけど、S..X好きだから、なんとかランド、ってとこは気持ちの良いことしてお金たくさんもらえるみたいだから、あれ、就職先によくない? 卒業したらあそこで働こうかなあ」とか嬉しそうに私とか周囲の男友達に対しても公言していて、そう言いつつあの子が誰としているのか私は知りませんでしたし、それ以上の関係ではありませんでしたけど、その後、実際には地元の公共の宿のスタッフに就職することになって、それでも尚「(スタッフとして働いている時に)宿泊者と目があってドキドキして部屋に潜り込むとかあると面白いなあ」みたいに本気か冗談かよくわからないことを言っていたのですけど、この子の場合は単純で、特に飾っているわけでもなく、正直なわけです。裏のある清楚系ビッチと、単純に性的なことが好きで正直な子とはまた別なように思います。
清楚系ビッチは必ずしも浮気するわけではなくてS..Xが好きとは限らなくて、要は清楚系ビッチとは男を操ろうとする綺麗どころの女性なわけで、清楚系ビッチかどうかは性格と気質によるのだと思います。清楚系ビッチは精神構造的に男のいじめっ子と同じような構造をしていて、態度は清楚そうに洗練されている一方で、自分が気に食わないことがあればイライラし始めて急にブチ切れるのです。ブチ切れるのは男も女もそこは変わらずモラハラなわけです。清楚系ビッチにイライラされてブチ切れられて睨みつけられて「あっち行け」の視線と念を飛ばされたことが多々ありましたけど、ほんとに清楚でいい子ならそんな態度は取らないわけです。私はほんと女を見る目がなくて清楚系ビッチに騙されまくっていました。当時は私が罪悪感のようなものに苛まやされていましたけど、実のところ、そんな清楚系ビッチのことで悩む必要も悩む価値もなかったわけです。
私が幼稚園の頃に最初の虐めにあって精神を病んで以来、執拗にネチネチと精神を蝕んでくる虐めっ子になんとか対処して生きてきましたが、そうしているうちに、思考停止になっていて、もはや周囲や人生に幻滅していて、関係性を切ることを意識し続けていて、やがてはメンタルが壊れて、周囲の人に対する理解が及んでいなかったのだと思います。若い頃はいじめっ子は男でしたけど、やがて高校や大学では清楚系ビッチと遭遇して、時間とメンタルを随分と無駄にしました。
当時は、若い頃から色々なことに対して周囲の人たちや大人たちからの刷り込みにより「お前(私)が悪い」と思わされてきましたけど、加害者が自分自身の行動を正当化して被害者に納得させ、被害者自身が原因だと思い込ませることはよくあることで、割と典型的な虐めと虐待、奴隷化のパターンにハマっていたように思います。そうして、長らく、周囲からの評価により私が悪いかのように思わされてきましたけど、どう考えても私ではなくて虐めてきた同級生が悪いのです。幼稚園の頃にしてみれば登校拒否の原因を作った同級生が悪いですし、小学校低学年の頃は近所の虐めっ子に近くの川で頭を水の中に押し付けられて「溺れさせる遊び」をやらされていて、急に頭を川の中に押し込められたり足を引っ張られて溺れさせようとしたりしながらその上級生は「ゲラゲラ」笑っていたのです。とある時には、その上級生は私を虐めるために電気シェーバーを私の足とか手に当ててジョリジョリするものですから、そこだけ毛が濃くなって、同級生にそのことを指摘されてネチネチと馬鹿にされていたりしました。どう考えても私は悪くなくて同級生や近所の子(上級生)が悪いのに、私が悪いんだと、私がおかしいのだと思わされ、私がやられるのが悪いのだと思い込まされていました。周囲の大人や先生も理解がなくて、「この、ぼおーっとしている子」としか思われていなかったように思います。今から思えば、保護施設にでも逃げ込めば良かったかと思いますが、保護施設に入ったら大学にも行けなかったかもしれませんので、一応は大学に通わせてくれましたので、そこは結果オーライと言えるかもしれません。
清楚系ビッチに私が悪いかのように睨まれて私は「雑魚クズ視線」を受けてゲラゲラ目の前で馬鹿にされて、それでも、なんだか私が悪い気がしていましたが、どう考えても清楚系ビッチの性格とやり方が不誠実なわけで、あんな清楚系ビッチのために私か悩む必要も悩む価値もなかったわけです。清楚系ビッチは言われもない怨みの念を時々送ってきたりしますので、清楚系ビッチとは最初から関わり合いを持たないのが良いのです。清楚系ビッチと体の関係を持つなんてとんでもないですし、話をすることすら避けた方が良いです。
そもそも、清楚系ビッチは私を小馬鹿にしつつ恋愛対象になると思っていたようですけど、私からしたら、馬鹿にしてくるような相手は決して恋愛対象にはならないのに、どこをどう考えたら、小馬鹿にすることで恋愛対象になるとでも思っているのでしょうかね・・・。まぁ、子供時代に「好きな子を虐める」なんてのはありがちみたいですので、そういうことをされたのかもしれないですけど、された方からしたらただ単に嫌な子という印象しか残らないので恋愛対象からは外れます。それで相手にされなくて勝手に落ち込んでいた人もいましたけど、なんだかなぁ、という感じではあります。確かに、そういう清楚系ビッチは魅力に溢れていて、ついつい惹かれてしまうという面もあったことは確かです。ですけど、惹かれつつも、「この人はダメ」という見えないバリアのようなものが張られていて、ものすごく興味をそそられつつも、同時に、バリアによって拒絶状態にある、という相反する状態になっていました。清楚系ビッチに惹かれないよう、誰か見えない人が守ってくれていたのですかね。
一方、本当に良い人はいて、必ずしも綺麗でもなくて素朴な人でしたけど、当時は容姿が良くない人が周囲の人によって番付されることも普通にあって、その、周囲の評価を気にしてしまい、感覚に従って行動できなくて、いわゆる番付の低い子と仲良くなりにくくて躊躇してしまう風潮があったと思います。そんなの気にしなければ良かったのにと思います。本当に良い子というのは顔とは関係なくて、性格が重要なわけです。
そういえばふと思い出したのですが、とある綺麗どころの清楚系ビッチのビジネスパートナーの女が執拗に私に会いたがってきて、なんだか急にしつこくて怪しかったので会わなかったら「お前はそれでも男か」とか言ってきて、その言い分はというと、「女が誘っているのに(私がその女を)抱かないお前はほんとに男か」、と言うような感じで罵ってきました。私が抱こうとしないことで苛ついていたようです。そのまま喧嘩になりましたが、その女はヒステリーになって「あなた(私)なんていなくても良い。私がやっているんだ。儲かっているだろうから、もっとお金出しなさい。嫌なら貴方は辞めればいいじゃない。」とか言って来ましたので、そこまで言うのならと言うことで逆にその女をビジネスから追い出して、アカウント停止してシステムへのアクセス権も全部無くしたらヒステリーになっていましたけど、実際のところ、出資にせよポジションにせよ全部私が用意したのに自分さえいれば良いから私なんていらないなんて、虫の良いお話です。Too good to be true であります。詳しい状況は話が長くなりますので簡潔に述べますと、あの勘違い女はこっそり企てるわけでもなく面と向かって私に「出ていけ」と言ってきましたけど、乗っ取りを公言しているようなもので、そう言われたら、こちらとしては追い出すしかありません。資本を持っているオーナーと雇われ社長との違いもわからないようで、サーバ管理も私なのに私がいなくなってどう運営していくのかすらわかっていないほど頭が悪く、自分が運営している(風に見える)からあのビジネスの成果は自分の手柄でこれは自分がやっているビジネスだから貴方(私)は出ていけ、あるいは、お金をもっと自分によこせ、みたいに要求してきたのですけど、サーバ管理も手間がかかるしコストももちろんかかっていて、広告も馬鹿にならないほどかかっていて、あの女が要求してくるほどそもそも儲かっていないわけです。と言いますか、まだ投資ステージですので利益があるように見えても初期投資が嵩んでいるわけで、まだトータルで儲かっていないお金を目の前にあるんだからよこせとか言ってくるほど状況がわかっていなくて、そもそも自分が半分飾りで私にポジションを与えられていると言うこともわかっていないような勘違いしている頭の悪い女はいらないのです。あのように私が言われるということは、私があの女に舐められていたということでしょう・・・。
そして、あの女は自分の状況がよくわかっていないことに加え、私を舐めて托卵を企ててきたのです。
托卵させようとしたり怒鳴りつけてくる清楚系ビッチが悪い醜い人である筈にも関わらず、私が時に清楚系ビッチに怒鳴られたり非難されたりして、まるで私が悪いかのような扱いを受けるのです。清楚系ビッチはドヤ顔で整然と怒鳴りつけてきますので、私は怒鳴られるとその瞬間、「そうかなぁ」とか考えてしまいますけど、どう考えてもあそこであの女を抱くのは違和感ありすぎますし、要求してくるような過大なお金を払うほどそもそも儲かっていないですし、あの女は資本と雇われ者と言う関係も分かっていないのですけど、あまりにも自信満々で正当性を訴えてきますので私は思考停止してしまいそうになり、感情から言うとあの女が正しいかのような印象を受けてしまい、私の方が悪いかのような錯覚を受けてしまうのですけど、どう考えても、そんな過大な利益供与はおかしいですし、托卵させようとしてくるような清楚系ビッチの方が悪い人としか思えないのです。何故に、私が怒鳴られてゲラゲラ笑われるような扱いを受けて非難されないといけないのでしょうか。托卵させられるのを拒否したところで、一体、何を咎められると言うのでしょうか。意味不明です。清楚系ビッチのような勘違い女を受け入れる男も世の中にはいるでしょうし、そのような生き方は私とは無縁のところで勝手にやってくれればよくて、ですから、清楚系ビッチを否定してはいなくて、清楚系ビッチの相手をして幸せな男も世の中にはいるでしょうから、好きにしてくれれば良いのです。清楚系ビッチは私に関わらないでください。意味不明すぎて頭がクラクラします。
あまりにも矢継ぎ早に早口で怒鳴られて非難されると、ついつい「そうかなあ。そうした方がいいのかなぁ。私が悪いのかなぁ」とか思ってしまうのですけど、それはテレパスの特徴で、相手の思想についつい同調してしまうのです。一旦、距離を取って、冷静に考えれば、全くもって、相手の言い分が間違っていることがわかるわけです。
思えば、清楚系ビッチの強面な押しに屈して結婚して後悔してしまっていた人が職場に何人もいました。「もっと結婚する前に考えれば良かった・・・」みたいに言っていて、とある人は「結婚した時は良かったけど恐妻になった」、だとか、また他の人は、何年も女性と付き合っていたら「結婚しないなら、時間を無駄にしたことになる。時間を返して」みたいに言われて結婚したが後悔している、みたいに、誠実さが欠けている自分勝手な清楚系ビッチと結婚してしまうと男は苦悩の日々を過ごすことになります。私もその1人になる可能性がありましたが、運よく回避することができたわけです。
どうして、こうも、私の周囲に(私をカモに見ている)清楚系ビッチが次々に現れるのか・・・。よくわかりません。 引き寄せの法則なのでしょうか。 それとも、私の脇が甘いのでしょうか。
思えば、あのビジネスパートナーの女は私に対して「ニヤリ」と言う顔を以前から時々していたのですが、清楚系ビッチが私を見た時に見せる「ニヤリ」という顔は、営業が高いものを売りつけようとしたり、上司が部下を奴隷扱いする時に見せる「ニヤリ」という顔つきと、よく似ています。とても気持ち悪いです。私は最近は、この、気持ち悪い「ニヤリ」を見たら全力で逃げるようにしています。
私は清楚系ビッチからしたらいいカモのようなのです。そして、カモが逃げようとすると、営業の人であればイラついて買わせたり契約させようと押し込んでくるのと同様に、清楚系ビッチもイラついて思い通りに私を行動させようとするのです。私が態度を引いて一歩でも逃げようとするとイラついたり怒鳴りつけてブチギレてくるようなところもカモ扱いしてくる営業職と清楚系ビッチは似ています。そのようなことがある度、私の心は病んで、頭がクラクラしてくるのです。このように、私をカモとして見ているような清楚系ビッチとは最初から関わり合いを持たない方が良いのです。
実のところ、あのビジネスパートナーの女と上記のようなやり取りがあった時点では流石に托卵を狙っているとは気付いていなくて単に過大な要求をしてきて威圧的でとても違和感があるから避けて遠ざけただけですが、その顛末がわかったのは半年後でした。とあるつてから連絡が入って、「あの子、親戚の同年代の男の子供を身ごもったらしいよ。私、妊娠を聞いた時に最初は貴方の子供かと思ったけど、親戚の子を身籠るなんて、あの子はもう幸せになれない」とか聞いてようやく違和感の理由がわかったのです。妊娠の大体のタイミングもその子は知っていて、托卵させるにはあのタイミングは割とドンピシャであることもわかりました。妊娠の月数をきっちり見たら合わないことがわかる筈ではありますが、割と誤差で誤魔化せるとでも思ったのでしょう。それにより、はっきりと、あの女は托卵させたくて私と寝たかったと言うことだろう、と、かなりの確率で違和感の理由が判明したわけです。托卵は私の単なる想像でもなく、実際に本当にそれを狙っていた、と言うことが、この、とあるつてから詳しく状況を聞いたことで判明しました。
であれば、あの清楚系ビッチのビジネスパートナーの女にとって私は都合の良いカモだったのでしょう。ほんと、頭がクラクラします。肉食の清楚系ビッチはかなり強引なようです。そもそもあのビジネスパートナーとは一度も寝たことがないですし、最初からそういう関係ではないのですが、周囲からは関係性を噂されていました。それまでもあの子が何か企んでいそうな怪しいことはありましたけど、あの時は特に、何か強引でおかしかったのです。怪しかったので距離を取った結果、後で状況を知ったらかなり頭のおかしい強引なSの清楚系ビッチだったようで、ほんと私は見る女を目がないなぁ・・・ と思います。そのつてから詳しく聞いたことによると、親戚と夜な夜な楽しんでいた・・・ とのことで・・・。頭がおかしいのではないでしょうか。単純に他の男がいるだけならまだしも、親戚と夜な夜な遊んでいた、なんて、どのような頭の構造をしているのか意味不明で、一般的な道徳が欠如していて全く理解できません。三親等より離れていれば結婚できるとは言いますけど、親戚とそういう関係にはあまりならないのではないでしょうか。 頭がクラクラして、吐き気がします。 私は一体、あの子の何を見ていたのでしょうか。
この女は、関係が良好な時はずっと「感謝している」とか言っていたのに、いざ関係が破綻すると時折メールが来て「貴方と関わってから全てがうまくいかなくなった。あなたのせいだから責任取って」とか矛盾した意味不明なことを後になってつらつらと言ってくるようになりましたので返事もせずに当時は無視しました。あの女の人生がうまく行かなくなったのは私のせいではなくて望まれない親戚との子を孕んだからだと思いますが・・・。なぜに私が托卵を拒否したらこれほどまでに恨まれるのかよくわかりません。もはや、錯乱していて意味が通っていないのです。こういうことがありましたから、私は頭の悪い女とはあまり付き合いたくないのです。
この女が托卵を企んだように、私が少し良くしてあげていると図々しく付け込んでくる清楚系ビッチが多すぎます。かと言って、親切にしないというのも性に合いませんので、尽くし過ぎることなく、脇を締めた態度を取る必要性を感じます。それと、誰かに奉仕をするときは見返りを求めずに行えばそれに対して相手が何も返してくれなかったとしても私の心は傷付かずに済みますので、そのように、誰かに何かを与えるときはあらかじめ条件設定するか約束をし、条件や約束がないのであれば特に見返りを求めないようにしています。それもまた、学びの1つです。勝手に期待しても相手は違うことを考えているのです。私から見ると図々しく付け込んできているように見えても清楚系ビッチからしたら「それが当然」と思っていたりしますから、そのように、認識の違いすぎる女、例えば托卵して育てさせようとか企むような女とは関わり合いを持たない方が良いのです。まず清楚系ビッチは避けて、関わる人に対しても脇を締めることの必要性を感じます。
良い女性というのは与えることと受け取ることとのバランスを取るように思えますけど、清楚系ビッチは一方的に受け取って自分の利益を最大化しようとするところが違います。受け取ったらそれに見合う分のお返しをしようとするのが良い女性あるいは割と標準的な、普通の人だと思うのですけど、清楚系ビッチは旦那や周囲から自分が受け取るものを最大化しようとして、バランスを一方的に崩して受け取るだけ受け取ることを考えて、時に、自分の思い通りに利益が得られないと不機嫌になったりするのです。これは程度問題でもありますけど、度を超しているのが清楚系ビッチの特徴であって、清楚系ビッチは「だって、あなたが良いと言ったじゃない。同意したのでしょ?」というところで自己を正当化するという特徴があって、そもそもの基本としてバランスを考えるのが良い子なのであって、バランスを無視して同意したかどうかで考えるのが清楚系ビッチ、という違いがあります。良い子であれば、確かに同意をしたといえばそうであったとしても、それに見合うものを与えられているかどうか、というところが基本の価値基準にあるわけですけど、清楚系ビッチにはそのバランスの感覚が欠如していたり足りなかったりするわけです。そこが、清楚系ビッチと良い子との違いになるわけです。要は、清楚系ビッチは図々しいわけです。そして、自分が望むように利益を得られなければブチギレたり無視したり見下したり「お前は男じゃない」扱いしたり非難したり未練もなくすぐに離れていきます。どのような具体的な行動に出るかは人それぞれであったとしても、利益のバランスという面では一方的でバランスを欠いているのです。
そのような、数々の、意味不明な色々なことがあったとしても基本は「人生は全て完璧」ですから、これら全てが学びになっているのです。悪い見本のようなお話ばかりでしたけど、脇を締めて、なるべく君子危うきに近寄らず、と言うことでなんとか生き延びています。
どうやら、今まで、私はずっと、清楚系ビッチのような綺麗な人に対して憧れる感覚を「恋」だと認識していたように思います。ですが、今更の話になってしまうのですけど、それは恋といえばそれはそうなのですけど、割と本能的な性的な視覚的な愛だったように思うのです。
そのようなことがある一方で、私が今まで恋だと認識していなかった相手、むしろ「よくわからないな」と思っていた感覚、あまり相手にしてもらえない時に悲しくなる感覚、相手を理解したい、相手に理解してもらいたい、それらが実は恋と呼ぶに相応しいものだったものなのかもしれない、と、今更ながら自分のかつての状態を認識し始めました。となれば、今までの私の認識および行動が根本的に間違っていたことになります。
恋は盲目、なんて言いますけど、盲目な恋にしても2つあって、肉体や性欲に近い愛は、割と初歩的な愛のように思うのです。肉体に近い盲目の愛と、「よくわからない」と言う感覚に基づく本当の恋があるわけです。肉体や見た目に近いところで盲目だったり憧れるような恋も一応は恋であって、それにドンピシャ当てはまっていたのが清楚系ビッチで、相手の笑顔を今から思い返して分析してみると、あの清楚系ビッチの笑顔は私のことを好きになってくれていたのではなくて、「この人、私のことが好きみたい。やったー」という感じの表情だったように思うのです。それは理解し合うという種類というよりは、「好きなら私に尽くしてくれますよね」という種類のものです。
この種の清楚系ビッチを好きになってしまうと、願望が満たされているうちは基本は大人しい子だったりしますけど、時に、どこかで「どうして、これをしてくれないの」みたいなところで清楚系ビッチがイライラし始めたり、急にキレたりして私の心が蝕まれたり、あるいは、時に、清楚系ビッチの本命は他にいたりしますから、浮気されたりします。私が好きになっていた(と思っていた)相手は、割とこのいずれかのパターンに当てはまっていたように思います。
今から思えば、そのことをよくわかっていた周囲の人たちがいて、ある時、「もっとよく考えた方が良いですよ」みたいに忠告してくれていたのかなと思いますけど、私は「そんなことない。大丈夫。私は誰それが好きです」とか思っていたのですけど、実は私は恋とかをそこまで深く理解していなかったようなのです。清楚系ビッチに対して憧れて好きになる感覚を恋だと思い込んでいたわけです。ほんと、一体、今まで何を理解して何をしていたのだろう、という感じです。
今更ながら思うのは、それは恋と言えばそうだけれども、一方的な憧れをしているだけであって、不完全な愛、歪んだ愛なわけです。そこに確かな「(相互)理解」は(あまり)ないわけです。
そうではなくて、恋愛の基本は相手を理解することであって、お互いに理解して、そこから関係性が発展していくわけです。それはそうで、当たり前と言えば当たり前なのですけど、このことが、いまいちわかっていなかったと言えます。このことを理解した上で、今更ながらに思うのは、今まで私が恋をしていたと思っていた清楚系ビッチとは実はそこまで恋をしていたわけではなくて、一方、今まで私が「好き」と認識していなかった相手が、実は(私が)恋していた、ということです。とは言いましても、昔のことですので100%の確信ではなく、おそらくそうであろう、という理解ではあります。一旦、このような結論が出かかっても、「自分で、自分が恋をしていたことに気付かないなんて、そんなことが本当にあるのだろうか」と今だに疑問に思ってしまうのですけれども、実際、そうだと思うのです。
私の記憶を辿ってみると、今まで「好き」と認識していなかった相手、例えばT大生のあの子とかを実は(私は)(おそらくは)好きだったのではないかと思うのです。当時は「なんだろう。よくわからない」と思っていたわけですけれども、何十年も経って、今更ながら「あ。あれは、(私が)好きだったんだ」とふと気がついて、ほんと当時は自分で自分のことがわかっていなくて態度にせよ言動にせよ、うまく表現および行動できていなかったように思うのです。当時、あのT大生の子にあんまり相手にされなくて凄く悲しく感じたのですけど、そのことを当時は「ああ、なんだか住む世界が違うから相手にされないんだ」とか思って、それで悲しいのかなと思っていたのですけど、実はそっちではなくて、好きになりかかっていたのにも関わらずあまり相手にされなかったので悲しかったのではないかと思うのです。私があの子の顔を見て、それから、あの子がこちらに振り向いて目と目が合った瞬間に自分でも理解できない悲しい感情と涙が急に出てきて、その時、何が起こったのか頭で理解できずに取り乱しそうになるのを必死で意識で押さえつつも半ばパニックになりかけて涙と表情が爆発しかけて顔を必死で手で隠したりしましたけど、それを当時は上記のように解釈していたわけですが、今から思えば、当時の自分の解釈は間違っていて、自分で自分のことをよくわかっていなかったのです。頭では「別に、好きではない」と思っていた、あるいは、そう自分に言い聞かせようとしていて、体の方が反応してしまっていたので頭と体の反応がちぐはぐになっていてパニックになりかけていたわけです。本当に信頼すべきは体の反応だったわけで、であれば、私はあの子が好きだったのではないかと思うのです。好きでないのであれば顔を見ただけで涙が出たり泣きそうになったりはしないですからね。自分の感情に対する理解が間違っていましたし、その基本の理解が間違っていたが故に、自分が行動すべきことに対する認識も全く間違ってしまっていたわけです。
私が恋のアプローチをすべきだったのは清楚系ビッチではなくて、誠実な相手、理解し合える相手だったわけです。中学や高校時代あるいは大学を思い返してみれば、何人もの清楚系ビッチを好きになっていたり、一方で、(顕在意識で)好きと認識していなかった相手のことが実は好きだったりしたわけです。顔立ちとか化粧の完璧さとかは本当に好きかどうかはあまり関係ないように思えます。清楚系ビッチは化粧は上手で顔立ちも良いですけど、それと、私が本当に好きになるのかは関係がないように思えるのです。顔立ちは、ある程度、最低限のところで、生理的に無理ということでなければ割と許容範囲は広いように思えます。当時は、周囲の影響もあってか、ついつい顔で選びがちでしたが、その選び方は間違っていました。それよりも、もっと、感覚を信頼すべきだったのです。感覚で「好き」の反応が体に現れても、頭の理性で考え直して「いや、好きではないよね。うん」と、理性を優先させてしまい、結果、清楚系ビッチにばかりアプローチするような人生を送っていました。
清楚系ビッチに対してはドキドキして恋しているかのような感情がありますけどそれは割と肉体的な愛で、本当にもっと(高次の)ハートで好きな場合は、もっと知的で根源的なのです。
私自身が誰かに対して恋の反応をするのは稀でしたが、今から思えば、自意識過剰なだけかもしれません。私は割と鈍感で周囲の女の子を同じように逆の立場で悲しませていたことも時々あったように思います。実際のところ、本当にしっかりとした関係になるには、その、「悲しい」反応が出てしまうと少し遅くて、「悲しい」反応が出る前にお互いにアプローチすることが理想のように思います。人によっては「悲しい」反応が1回でも出た瞬間に離れてしまいますから。
こうして、私がかつてそこまで認識していなかった相手、顕在意識で「好き」と認識していなかった相手が実は(高次のハート、性的な感覚より根源的、知的に)好きだった相手で、今までかつて(顕在意識で)好きと認識していた相手が実はそこまで上等な恋でもなかった、ということに今更ながら気付かされたわけです。自分自身の中で、自分の感覚に対する理解が、間違っていたことに今更ながら気がついたわけです。頭では「私はハートでの愛を知っている」つもりになっていて、実は、そうでもなかったわけです。
例としては、最初に就職した時に別の部署にいた仲の良い女の子はおそらく私のことをハートで本当に好きになってくれていて、でも、私の方はというとその時点ではそこまでハートの愛を知りませんでしたから、私の方はもっと肉体的な盲目的な愛でしかなくて、それ故に、噛み合わなかったのです。その子は私に対して何か不満があるらしく、その不満というのは、おそらく、ハートで愛してくれていないから不満があったのではないかと思うのです。私の方の愛のレベルが低かったわけですね。その、噛み合わない気持ちが、あの子の、時折見せる、とても悲しそうな、理解し合えない悲しさだったように今更ながら思うわけです。
・自分:低い愛(肉体の愛) と 相手: 低い愛(肉体の愛) → 清楚系ビッチ(の場合がある)。何かおかしくなる可能性が高い。嫉妬、束縛の愛。
・自分:低い愛(肉体の愛) と 相手:ハートの愛(知的な愛) → 噛み合わないか、相手が妥協あるいは(自分を)理解してくれればうまくいくが、相手には理解し合えない悲しさが残る。
・自分:ハートの愛(知的な愛) と 相手:ハートの愛(知的な愛) → 理想
・自分:ハートの愛(知的な愛) と 相手: 低い愛(肉体の愛) → 噛み合わないか、自分が妥協あるいは(相手を)理解すればうまくいくが、自分には理解し合えない悲しさが残る。
表にしてみれば当然のようにも思えますし、昔からこの種の表は時々見た気もしますが、実際、実感はなかったわけです。人は、この種の説明を聞いてしまうと頭で理解して「そうですか。わかりました。ハートで愛します」なんて勝手に解釈してしまって、あたかも自分がわかっている気になってしまうものです。ですが、実際、わかっていなかったわけです。スピリチュアルの分野ではこの種の「頭で理解してわかった気になる」という落とし穴が割と沢山あって、あまり知識を重視せず「まずやってみる」ことも時には重要になってきます。今回、頭ではわかっていたつもりでも、実は、全然わかっていませんでした。
思春期のような心境を取り戻したことで、単にかつての心境に戻るだけでなく、新たな理解をももたらしてくれて、その理解により過去がようやく精算できて、何が正しくて何が正しくないのかを判断できるようにようやくなって、人の見極め、良い人とそうでない人、誠実な人と不誠実な人を見極められるようになって、かつての心境を乗り越えることができ始めたような気が致します。
このような感じのことがここ一週間で走馬灯のように蘇ってきています。いつまでも昔に生きていても仕方がないのはそうなのですけど、ここしばらくは振り返りの時期だったように思うのです。人生においては、そう言う時期もあるように思います。
そうして、これらの理解が起こった時、ハートがより一段、高い次元で開き始めたように思います。ハートの感受性が高まり、と同時に、何故か、何もなくても涙が出てきます。ここのところ、過去に恋愛したことに関するフラッシュバックが久々にやってきていて、最初は厄介だなというくらいにしか思っていなかったのですけど、終わってみれば、かなり重要な理解と状態に達したように思います。
最初、ロミオとジュリエットの劣化版みたいな物語を現実とは少し乖離した形の創作ストーリーでフラッシュバックで見せられていたわけですけど、最初はあまり理解できなくて、単なる創作ストーリーだと思っていて、単に素材を繋ぎ合わせた記憶の断片と思っていたのですけど、実のところ、このあたりを理解するためにあのフラッシュバックが何度も何度も来ていたのであれば、私のガイドはこの理解を私にもたらすために根気よく教育用の教材を提供してくれていたのだと思います。その理解の元、改めてロミオとジュリエット風の創作物語を見直すとまた違った理解に至ります。創作のごちゃ混ぜかと思っていたのですが、実は、意外に現実を反映しているのかもしれません。どちらにせよ、私の見る目は変わりました。
これにより、人生の恋愛に対する指針が一新され、愛すべき人、そうでない人、(私に対する)肉体的な愛の感情を持つ人に対しての接し方、(私に対して)ハートで愛してくれる人に対する接し方、相思相愛の理想系、というものがおぼろげながらに見えてきたように思います。そう考えると、今までの人生において、理想の相手になり得る人は数えるくらいしかいなかったことがわかります。そのことが、ようやく、見えてきたように思うのです。
今まで、私はハート(アナハタ)の愛がどのような感覚なのかあまり知らなかったようです。時折それが現れても、そのことを受け入れる準備が整っていなかったように思うのです。解釈として、ハートの愛がどのようなものなのか間違って解釈していたのでした。
あの時の感情がハートの愛だとは解釈できなかったのです。好ましい良い愛だと言う解釈を顕在意識の思考としてできていなかったのです。今まで何度か何人かの相手にハートの愛をしていたかと思いますが、どれもうまくいかなかったように思います。それにはパターンがあって、その感情がハートの愛だと自分で解釈できずに、「いや、これは違う」と頭が解釈していたので、頭と感覚が分離しており、その愛はうまくいかなかったのです。頭では「この子にはそんなに興味ない」と思っていたとしても、何故か感情の方で反応してしまっていたりして、感情で反応しているのに頭で「違う」とか「興味ない」と思ってしまっていると恋愛も当然ながらうまくいかず、そうして相手と齟齬になると意味不明に涙が出てきたりして、そのことが顕在意識の頭では理解できなかったわけです。その時、顕在意識のマインドの思考がどうにか屁理屈をつけて理解するために「それっぽい理由」をつけて一応は理解していたわけですけども、本当に理解してはいなかったのです。実態と理解とが分離していますから変な感じになってしまっていました。例えば、「あぁ、やっぱりT大とか行く子と私は生きている世界が違うんですね」と、それっぽく解釈して悲しくなっていたわけですけれども、実は、そういうことではなくて、単純にハートで好きだったように今更ながら思うのです。どう考えてもこの子は好みじゃないし好きではない・・・ と頭では解釈しているのですけど、感覚の方はというと、その理解とは異なるのです。自分で自分のことを解釈できていなかったわけです。だから、態度として「うーん、よくわからない」と言う態度になって、「別に、そんなに綺麗でもないと思うし、好みの顔ではないし」と思いつつも「なんだかこの子だけ特別な感じがする(きっと住む世界が違うんだ)。なんだこれ。私はこの子を好きではない筈」と無理やりそれっぽい解釈をしていたわけですけれども、頭で感情を理解できていなかったわけです。
当時も今も、スピリチュアルでは「肉体に近い性欲よりも、ハートの愛の方が好ましい」みたいなことが言われていて、頭でそれっぽく理解して「そうか。ハートの愛が良いのですね。それはそうですね。」と解釈して、頭だけで「はい、わかりました」とわかったつもりになって、あたかも自分がハートの愛を知っているかのように思っていましたけど、実は、そうでもなかったようです。時折、何人かの相手にハートの愛をしたように思うのですけど、それは本当に時々で、しかも、当時はそれが愛だと頭で理解できていなかったのです。ですから、本当は好きになるべき相手に対してそっけない態度を取ったりスルーしていたりしました。話し始めてから途中までは頭での解釈が入っていませんでしたから無意識で「あれ、なんだこれ」と、なんだか合う感じがしていましたのに、途中で不意に我に返って、頭で考え出して、じっくりとその子の顔とかを観察すると、「あれ。なんだろこれ。好みの顔じゃないし、好きじゃないや」とか思ってしまっていて、実は感覚の方が正しいのに、その感覚を頭が邪魔して恋愛がうまくいかなかったわけです。「ん。私、今まで何していたんだろ。あれ。この子。うーん。ん、ん、ん。よく見ると、そうでもない。好みの顔でもなかったりするし。どう言うことだろ」と急に白けた感じになって、白けたというよりは頭が感覚の邪魔をして、大抵の場合はそれが相手にも伝わって不機嫌にされたり相手が違和感感じたりして恋愛がうまくいかなかったりするわけですけど、今から思えば、一時的にそれなりのワンネスであるハートの愛の状態だったわけで、であれば、その無意識こそが優先されるべきで、頭で感覚の邪魔をすべきではなかったわけです。その時の状態が顕在意識で理解・解釈できていなかったのです。だから、愛とか結婚とかは「勢いだ」とか言われるのも、ハートの愛であれば、それはそうなのだと思います。
肉体的な性欲あるいは容姿の愛はもっと下の丹田のあたり(マニプラとかスワディスタナ)の感覚で、マニプラの愛でもそれなりに愛ではあるのですけど、割と「束縛・情の愛」なわけです。私は、この、マニプラの束縛・情の愛をいわゆる清楚系ビッチに対して感じていたわけですけれども、当時はそれがマニプラの愛だと気付かず、実はマニプラの愛をハートの愛だと解釈していて、どの感情がハートの愛だということを頭で理解できていなかったのです。ハートの愛というと言葉では何やら立派ですけど、実のところ、なんであれ都合の良いように解釈してしまって、低い段階の愛でも頭で「これはハートの愛」と思って解釈してしまっていたように思います。どれがハートの愛なのか、わかっていなかったのです。違うものをハートの愛だと解釈してしまっていたのです。
この辺り、おそらくは私の母親の影響が強くて、私の母親は束縛が強くてマニプラの愛なわけですけど、束縛の愛は母からとても沢山頂いたように思えて、それは有り難い愛なのですけど、とは言っても、どこまで行ってもそれはマニプラの束縛の愛なわけで、母親からはハートの愛はそれほどもらえていなかったように思います。そのことにより、愛とはこのようなものだ、という解釈が、私の中で当時に出来上がってしまっていたように思うのです。世間で愛はハートとか言われていて、実はハートの愛ではなかったのにも関わらず、自分が知っているだけの感覚がハートの愛だと思ってしまっていたわけです。感覚として知らないものを理解するときに、時に人は頭でわかったつもりになってしまいます。そういうことが起きていたように思います。
比較として、マニプラの愛よりハートの愛の方が「より知的」になるように思います。ですから、マニプラの束縛の愛あるいは肉体に近い愛に慣れている方からしたら、ハートの愛というのは割と冷めたものに見えてしまったり、あるいは、そもそも、それが愛だと頭で解釈できなかったりするわけです。
当時、冷静になって頭で考えると「あれ。私の好みはこういう子じゃないはず。いつもの(特に清楚系ビッチに対する、束縛系の愛の)ドキドキな感じとは違う」と思って、頭で「ん・・・。何か違う。これは愛ではない」と解釈して自分の感情を抑えたり騙したりしてしまっていたわけですけれども、それは解釈違いだったわけです。そのように頭と感情とが一致していないと感情面で不安定な意味不明な状態になって、たとえば急に悲しさが爆発してしまったりして、急に涙が出てきて泣きそうになる時があっても頭ではそれが何なのか顕在意識では理解できなかったりしたわけです。心と意識が分離された状態で顕在意識のマインドで勝手な解釈をしてしまうと、その間違った解釈が故に正しい行動ができなかったり、感情を知らず知らずのうちに押し殺してしまっていたわけです。その古い感情が随分と長い間私の奥底に眠っていて、最近になって、ようやく「正しい」理解を得たように思います。
マニプラの愛は束縛をしてきて、それはそれで愛なわけですけれども、ハートの愛になるともっと自由で束縛があまりなく、お互いに相手とより深く繋がりつつも尊重し合っているように思うのです。
思えば、最初、1週間くらい前から古い感情が出てきて一時的な思春期のような状態になっていた時、蘇ってきた記憶のフラッシュバックで現れる解釈がこのような「間違った当時の解釈」と食い違っていたため、最初は「要素ごとは昔のものを使っているけれども、解釈が異なる、現実と異なる。単なる教材のような気がする。頭の中で創作してしまった物語なのでしょう。」と思っておりました。でも、実は、それすらも私の解釈違いで、フラッシュバックで見せられたのは割と正しい姿で、私の昔の解釈がかなり間違っていたようなのです。となると、私は、全然わかっていなかったということが今更ながらわかります。当時は自信家で、よく理解できているつもりでいましたけど、なんてことはない、全然わかっていなかったようです。(今でも、まだ色々と、そういうことはあるかもしれません)
こうして改めて思うと、マニプラの愛が悪いものではなく、私が清楚系ビッチに感じていた愛はそれなりのマニプラの束縛の愛だったように思います。それはそれで、そのような愛の形もあるのだと思いますし、それにより深い愛を感じることは確かだと思います。束縛したいとか、束縛されたい、だとかいう感情は、それはそれなりに深く繋がることができてお互いに幸せなのだと思います。疎遠な愛よりも遥かに良いわけです。束縛の愛であったとしても愛をあまり知らない状況より良くて、それはそれできちんとした愛であるわけです。そのような愛が、清楚系ビッチによる束縛の愛かと思うのです。であれば、特に悪いことはなく、そのような人の愛し方もあると言うことで、それはそれでお互いに幸せな状況なのかなと思います。私自身、そのような愛を長らく幸せだと思っていましたから、苦しいことがあったとしても、それはそれで幸せなのだと思います。
また違った関係性のパターンがあって、相手はハートあるいはそれ以上の崇高な存在だとして、自分は今だにマニプラの束縛の愛しか知らない場合、相手を困惑させてしまうように思います。思えば、昔、全く違う場面において、私が気になって近づいた女性の方が困惑して、その女性がどう反応したら良いのかわからない困った状態で(遠回しに)拒絶される時があって、それはおそらく、私の愛がマニプラの束縛の愛だった一方で、その人はハート以上の愛を持っているから感覚が合わずに困惑し、そのくらいの良い人になると怒るとかはっきりと断るということはせずになるべく繋がろうと一旦はしてくれるのですけどうまく感覚や感情が繋がらず、困惑したまま、ちょっと視線をずらすようにして遠回しに拒絶した、ということがあったように思います。それなりに段階が同じですと繋がる部分があるのですけど、この時は、女性の意識レベルが高すぎて私と繋がれる部分をあまり持っていなかったように思うのです。女性からしてみたら「ちょっと、よくわからない。無理」という感じだったかと思います。そういうこともあるかと思います。
私は今まで束縛の愛、マニプラの愛の段階にいて、ハートの愛を度々経験しつつも、そこになかなか踏み出せなかったように思うのです。おそらく私は、この種のマニプラの束縛の愛からハートの愛へと踏み出す、過渡期にいたように思うのです。それ故に、今まで習慣になってしまっていた愛し方についつい固執してしまい、ハートの愛の形を頭で理解できておらず、よって、行動もちぐはぐになり、ハートの愛をうまく体現できていなかったように思うのです。本当に愛すべき人が何人も目の前に現れていたのに、そのことを理解できていなかったわけです。
今回、今までの人生を振り返ることにより、ハートの愛を理解して、今まで出会った人の中で誰を愛するべきではなかったのか、実は誰を愛して大切にすべきだったのか、それを認識できたように思います。今まで清楚系ビッチにばかり惹かれていましたが、愛すべきだったのは誠実な人だったわけです。そう言う出会いも多数ありましたが、認識が至らず、スルーしてしまっていたかと思います。あんないい子たちに、若い頃の私はなんて失礼な態度を取ってしまったのだろうかと思います。何人もの、スルーしてしまった良い子たちに謝りたいと思います。
ハート(アナハタ)の愛の場合、愛が伝わらないと悲しくなるように思います。特に相手がまだハート(アナハタ)の段階にない場合、相手の愛がマニプラ段階ですと、ハート(アナハタ)の愛で繋がることができなくて悲しくなるわけです。あの時のあの良い子たちと仲良くなるべきだったと今更ながら思ったりもするわけですけど、実際、当時の状態ではその愛に応えられるほどの段階に至っていなかったわけです。私の方に準備が整っていなかったわけです。あの良い子たちはハートの愛の段階で、しかし、私の方は時折そこに達するかどうかという過渡期で基本はマニプラの束縛の愛でしたから、あの良い子たちは私の状態を見て、ハートの愛で繋がることができなくて悲しんでいてくれたのだと思います。段階が違うのですから関係性がうまくいかなかったのも当然であると言えます。
このような理解が私の中に現れると共に、今までよりハートが少しだけ開いて胸の敏感な部分が顕になり、時折、その敏感なハートが外界を興味深そうに伺っているのを感じます。ハートが以前より周囲の感性を敏感に感じ取っていることを感じます。更には、頭頂のサハスララの方にまで更にオーラが充満するようになり、まだサハスララは開ききっていないような感じではありますが、それでも、安定度は増したように思います。この状態で、愛に対する理解度が増したように思うのです。その結果、今まで、申し訳ないことを沢山した、という思いが次々に湧き出てくるのです。これは若い頃のお話ですから、体の関係とかはなくて、心だけのお話、プラトニックなお話です。特に深い関係になる以前のお話で、淡い気持ちをないがしろにして女の子を悲しませてしまったことに対する申し訳なさのお話なわけです。私は割と、純粋な乙女の気持ちを無視してスルーしてしまっていたように思うのです。そして、そのような人たちの中に本当にいい子たちが沢山いたのですが、本当に大切にすべきだったのはそのような人たちだったわけです。
そうは言いましても、私なんて恋愛下手でとても鈍いのですから、女の人の方からはっきりと気持ちを言ってくれても良かったとは思いますが、やはり女の人の方からそう言うことは言いにくいですよね。それは仕方がないです。いい子ほど自分の気持ちを表現するのを躊躇してしまっていて、いい子の気持ちほど男の方が気付いてあげる必要がある気も致します。
これは、色々と理屈もありますけど、平たくいえば「私は今まで(それほど)ハート(アナハタ)の愛を知らなかった」と言うことだと思います。感覚で時折そのような状態になることはあっても、恒常的なハートの愛の状態ではなかったように思うのです。ぐるりぐるりと理解を何度も何度もし直すことにより理解が少しずつ深まってきているように思います。
理解が改まったことにより、今後の振る舞いや考え方も根本的に変わることと思います。今更ながらという感もありますが気付かずに一生を終えるよりましで、せめてこれからでも認識を新たにして生きてゆきたいと思います。
この新たな目で世間を見ると、「本当に良い人」と言うのはそこら中にいて、愛に満ちた生活を送っているということがわかります。そのような人はスピリチュアルな変な理屈などとは無縁だったりして、それでも、愛を知っているわけです。むしろ、スピリチュアルで成長したとか傲慢になっている人の方が愛を知らないことが多くて、愛を知るという基本的で本質的なところまで達しているスピリチュアルな人というのは意外にそこまで多くないような気も致します。スピリチュアルな人は「情報」とか「知識」を重視しがちですけど、それよりも、普通の生活を大切にして、愛ある生活を心がけている人の方がよほどスピリチュアルであるように思います。まあ、両方あるのが理想ではありますが。
スピリチュアルな人は、情報とか知識とかで学ぶことでこのハートの愛の状態を目指しているのだと思います。であれば、ハートの愛を知るまでは学びの途中ということですから、いくら知識を得て立派になった気がしてもそれは気のせいで、ハートの愛を知らないのであればその程度であるわけです。それでも、知識や学びというものは人を愛に向けて成長させてくれますから無駄ではないのですけど、ハートの愛に達していないのにも関わらず既に自分はそれなりの境地に達したと思って傲慢になってしまうスピリチュアルな人がそれなりにいる、ということだと思います。それよりも、そこら中にいる「本当に良い人」の方がよほどハートの愛に満ちた生活をしているわけです。前々から思っていたことではありますけど、スピリチュアルというのは割と「悟っていない人」向けのものだったりするわけです。本当に悟っているならば修行とかスピリチュアルとか関係ないわけです。
私は今まで、瞑想で至った「至福」とか「満ちている」という感覚の境地で割と満足していましたけど、このハートの「愛」を少しでも知ったなら、そのような(個人的な)至福だとか(個人的な)満ちているという感覚は、まだまだ途中のものだったことがわかるわけです。
これらの新たな理解に達して、愛と言う基本的で本質的な事柄の整理ができたことにより人を見る目というものも変わったのと同時に、自分が心がけるべきところも変わったように思うのです。
まずハートの愛と言うものを知り、それにより、周囲の人のことも理解できるようになる、と言うことだと思います。よく言われているように、自分より下の精神レベルの人しか理解できないわけで、自分がハートの愛を知らなければ他人が愛を持っているかどうかわからない、と言うのも当然のように思います。
清楚系ビッチと本当に良い女性を見分けるには、まず自分が愛を知る、と言うこと。そのような、とても単純なお話だと思うのです。これは相応と言うもので、束縛の愛(マニプラの愛)と言う形も存在していますから、それが悪いわけでもなく、それであったとしても十分、それはそれなりの愛だと思うのです。束縛の愛も、苦しい部分があったとしても、それはとても強い愛なわけです。未だそこに至っていない人も大勢いるわけで、マニプラの束縛の愛にしても相応に素晴らしい愛なわけです。
一方、その次の段階、まず自分がハート(アナハタ)の愛を知ることで束縛の愛(マニプラの愛)より一歩先に出て、その時、本当に良い女性を見分けて見つけることができるように思うのです。
又、愛の状態で生きる、ということは、テレパスで生きる、ということとほぼ同じことであるように思います。愛によってテレパスになるわけです。ワンネスですね。それは自他同一の境地でもあります。
こうして、小学生以来しばらくぶりに状態が戻ってきて、テレパスに戻りつつ、当時は感覚だけでしたけど今は感覚と共に理解も伴い、ハートの愛を理解することで本当に良い女性をある程度は見分けることができるようになり、再度、生活が充実したものになってきたように思うのです。
ヨーガや瞑想をして、静寂だとか、至福だとか、色々言ってはきましたけど、なんてことはない、結局、行き着く先は普遍的なハートの愛だったわけです。そしてそれは、瞑想だとかスピリチュアルだとか色々と言わずとも多くの人が自然に実践している普通のことだったわけです。その、普通のことを私は知らなかった、忘れていたわけです。忘れていたが故に、それが何やら大層なものであるかのような気がしておりましたが、なんてことはない、普通の愛こそが知るべきものだったわけです。思い出してみれば、私がかつて小学生の頃に抱いていた気持ちと割と同じものだったわけです。長らく、その感覚を忘れていたのです。
ハートが開き、感情が豊かになり、なんてことはない普通の愛の感覚こそがヨーガやスピリチュアルで言われていることそのものだったことを理解した時、今までいかに自分の認識が足りていなくて普通の愛の感覚に欠けていたかを実感したわけです。そしてそれは、この状態に達する前までは別物かのように思っていたことが、実は同じものだった、ということをはっきりと認識できるまでに成長したわけです。
ヨーガやスピリチュアルをして、静寂の境地など各種の状態に達することで、あたかも自分が成長して優れた人間になれたかのような錯覚に陥っていたわけです。実のところ、そんなヨーガやスピリチュアルをしなくても普通に愛に満ちて生活して日々の辛い生活を過ごしながら愛を実社会で実践している人は大勢いるわけで、本当に素晴らしくて凄いのはこの難しい社会の中で愛を実践している人たちなわけです。それに比べたら、限られた環境の中でヨーガやスピリチュアルでちょっと成長していい気になっていた私など小童に過ぎなかったわけです。スピリチュアルや宗教が気持ち悪いと感じたり偽善的だと感じる要因の一つとして、この普通の愛に到達することなしに愛を語る人がいるから、という側面もあるように思うのです。
どうやら、このハートの愛に関する理解に達するまでは、まだ十分に愛というものを知らなかったように思います。ずっと忘れていたように思うのです。表現として「愛を知る」とは言ったりしますけどこれは比喩表現であって、知的に何かを暗記して勉強したということではなく、これは、愛の状態に至った、ということを一応「知る」と比喩的に表現しているわけです。愛は勉強して「知る」というものではないのですけど愛の状態になりさえすればその状態に対する「理解」は得られますのでその状態の認識に対して「知る」と比喩的に表現するのは間違いではないように思うのです。これがあたかも知的な理解かのように誤解してしまうような「愛を知った」という表現は割と誤解があって不適格ではある気もするのですけど、そうは言いましても愛の状態になりさえすれば比喩表現として「愛を知る」と表現してもわかっている人からしたらそう誤解はないと思いますし、以前よりも愛というものに対する理解が深まったように思うのです。そのように、まずハートの愛の状態になることで、世間で言われている愛の状態に関する理解がその通りだったという理解に至ったわけです。
愛で生きる、ということの第一歩を踏み出せたように思うのです。それも全て、私を愛してくれた(そして悲しんで涙を流してくれた)多くの女性と、私が好きになることができた何人かの女性たちのおかげでもあります。そしてそれは、異性を愛するということだけでなく、万人に向けての普遍的な愛へとも繋がっていると思いますし、また、元々の、あるべき姿に戻った、と言うことでもあると思います。
ハートの愛というものは人の根本であって、誰しもが持っているものだと思います。それが社会生活を過ごすにつれて曇らされ、認識が歪み、いつしかハートの愛というものがわからなくなっても、ハートの愛を求め続けていればやがてそのハートの愛の状態に戻ってこられる、ということだと思うのです。
数週間前から現実と食い違うフラッシュバックによる魔境かと思っていたのですけど、フラッシュバック自体は割と現実で本当のことで、私の解釈が違っていた、と言うことだったようにも思うのです。今、解釈も含めてかなり理解が正しいものに修正され、苦しさはありません。この正しい理解へと至った基礎が、不完全な感情を完全な感情へと昇華すると言うところだったかと思います。
スピリチュアルでは時折、意識は1つしかない、みたいなことが言われます。これは、時折、意識には高次と低次があるとスピリチュアルで言われていることと矛盾するように一見すると見えるかもしれませんが、それは、過渡期では分かれているように主観では感じられるけれどもこの段階になると意識は1つなのです。比喩として「完全な感情」とでも言える段階になると意識は1つに感じられるように思います。
スピリチュアルに全く目覚めていない状態では低次の意識である普通の思考するマインドしか感じられない状態ですけど、少し目覚めてくるとその通常の低次の意識の他に高次の意識が別のものとして存在しているような主観の感覚が現れてきます。まだスピリチュアルでそれほど成長していない場合は高次の意識と低次の意識が離れていて線のようなものでかろうじて繋がっているように感じられて、その過渡期の状態の時は2つの意識があると錯覚していてその主観としてはそれほど間違いではなくて、低次の自分であるところの普通の思考するマインドが高次の意識を感じている状態では分離感と共にある程度の一体感があるわけです。低次と高次と分かれてはいるものの、それなりの一体感があって、一体といえばそうですし、分かれていると言えば、それもそうなわけです。そのように、低次と高次の意識が分かれている、という段階があるのですけど、それは理屈から言っても実際から言っても錯覚で、本当は、最初から1つなわけです。高次の側からすると最初からワンネスですけど、低次の自分が分離を錯覚していただけなわけです。そのような過渡期を超えて、高次の意識と低次の意識との分離感がなくなると「完全な感情」と比喩される状態になって、その時、愛とかワンネスとか新たな認識・状態に至るように思うのです。この時、文字通り、意識は(低次も高次もなくて)1つであり、自らの意識においてもワンネスになるのです。そしてそれがそのままハートの愛の状態なわけです。
このことにより、過去のかつての認識が実際と食い違っている、と言うことに多々気がつきました。それらを次からの記事で羅列させて頂きます。
昔、とある田舎育ちの男が上京してきました。そして、中年にもなったある時、ふと、昔の懐かしくも辛い出来事を思い出して、まるで現実に今起きているかの如く再体験し、思春期の十数年の葛藤と愛と憎しみなどの入り混じった感情の海に次々と襲われたのでした。そして、当時を思い出すだけでなく、現在の認識とともに当時を再解釈して新たな理解へと至ることになるのです。それは、受けた印象を再解釈するという(相手と自分という分かれた状態における二分性のある)普通のことだけでなく、テレパスの特徴を活かして相手の視点と重なるようにして(二分性なく)相手が当時思っていたことや状況を文字通り相手の視点を通じて(いわゆるワンネス状態を通じて)理解し、その新たな理解という前提のもとで過去の状況を再解釈して全く違った理解に至ることができるようになったのです。
いい年して何やってるんだかと言う気も致しますけど、(この変化により)感情体が反応して、周囲の全ての人々に対して満遍なく喜びと親しみを感じます。言葉の表現としては前々から(一応は)こんな感じにはなってはいたのですけど、最近の変化としてはこれに加えて感情が感じすぎて、まるで思春期になっているのです。若い頃、特に高校時代までは周囲の人に嫌がらせを受けたり虐めや執拗な誹謗中傷および罵りや嘲笑を受けていましたのでその後も長らく心が壊れてしまっていましたが、今は人間関係を選べますので基本的に安全な状態であります。人間関係の良い思春期であればもっと楽しかったかと思うのです。ただ、おそらく同じような楽しさは年を取ってからでも可能なのではないかと思うのです。今更な感もありますが。そして、ようやく周囲の知人たちの葛藤をそれなりに理解しました。特に高校の当時は思春期というよりも心が壊れていて心が崩壊する寸前でかろうじて持ち堪えていただけのように思います。そして、それが思春期だということなのかもしれないですけど、高校時代は心が壊れた思春期、今も思春期のような敏感なところは同じですが、今は心がかろうじて持ち堪えている思春期、という違いがあります。
そんな回想と再解釈が心の中に自然と出てきたのです。
それは、今に思春期になったという側面もありますが、それと加えて、かつての古いエネルギーが奥の方に未解消のままずっと押し込まれていて、それが出てきているのを処理した、と言う側面もあったように思います。記憶とエネルギーが甦ると共に物悲しい思春期の状態になります。この古いエネルギーを解決する必要を感じます。
最近古い記憶から出てきたロミオとジュリエットの劣化版みたいな創作物語は、それ自体は半ば創作ではありますけど、どうやら、幾つかのシナリオが結びついてごっちゃのイメージになってエネルギーとして存在していて、ベースとなっている素材それぞれは正しいのですけど、おそらく、周囲の知人、特に女性で時々、「とても悲しそうな、うつむいた表情」とか「ちょっと半分怒り気味だけれども、自分を押さえていて、それでいて、悲しげ」な人が時々いて、当時の私はその人たちのことを理解できなくて「なんでそんなに悲しそうなのだろう?」「なんでそんなに幾つもの感情が入れ混じっているのだろう」と、その女性たちの感情が理解できなかったのです。
まあ、流石に、具体的なやり取りがあって悲しげであれば一応は理解できていたわけですけど、そこまで実感がなくて、そうかもしれない、と思っていたくらいだったわけです。一方で、悲しげではあるけれども自分のことで悲しんでいるとは全く思っていなかった人たちが実はもしかしたら私のことで恋心が破れて悲しかった、と言う場面も、今更ながら思い出すと、そのような事もあったように思います。(他者からみると、そんなの自意識過剰かと思われるかもしれませんが。)
今、この古いエネルギーを処理しつつ、自分がそれらを一つ一つ(多分に創作ではありますけど)一応のストーリーを疑似体験することで、どうやら、これら女性たちが抱いていた感情はこう言うものだったのだと、今更ながら理解することができたように思います。
恋心を抱いているものの振り返ってくれない時に、人は、ああいう「物悲しい表情」をするのです。ドラマとかですとわかりやすいですけど、現実世界では、わかりやすい場合もあれば、微妙でわかりにくい場合も多々あるわけです。ちょっと仲良くなってそのまま恋愛に発展したいと向こうは願ってはいつつも私の方はというと気にせず友達扱いですから、その(異性の)友人の気持ちとしては「あれ。このまま恋愛してれるのではないの? もう好きになってしまったじゃない。 この気持ち、どうしてくれるの。 責任を取ってよ。 この気持ち、一体、どうすればいいの」と思って、「物悲しい気持ちと、少しの怒りと、その怒りを抑える自制心。普段は怒るような自分ではないのに悲しくて切ない怒りを抑えられない。不甲斐ない自分に対しても情けなくて悲しくなるし、恋が届かないことで余計に悲しくなるのです」と言う混在した感情があのような顔の表情と表現になっていたのではないかと思うのです。これは、怒りとは別の言葉を使った方がいいと思うのですがとりあえず怒りの一種なわけです。怒りと言うより憤りと言う方が良いかもしれません。特に体の関係があったわけでもなく、プラトニックな恋心が砕かれた可哀想な乙女が私の周囲にいたわけです。これは自意識過剰でしょうかね?
あまり勘違いさせないよう気をつけているつもりではありますけど、相手の恋心とかコントロールできませんし、仕方がないと言えばそうなのですけど。 私の方は割と惚れっぽい性格をしていますので目線や表情が反応してしまうことがあって、女性はそのサインに敏感に気付いて恋心に反応するものの、私の方はと言うといつものことで女性に反応してしまって自分でもその自分の無意識での反応の多さに気がつく度に「しまった」と思っているくらいですから、全員と恋愛するわけにもいかないのです。 ですから、なるべく、勘違いさせ始めてしまっているような女性とは距離を取るようにして要るのですけど、それはそれで、その子を悲しませてしまったりするわけです。 ほんと申し訳ないです。
今更ながらですけど、あの子とかあの子は実は私を好きではなくてただ単に優しく接してくれていただけだったとか、一方で、私があまり気にしていなかったあの子とかは(私を見る表情や感情から判断すると)私のことが好きだったのではないか、と言うことが今更ながらに理解できるようになって、何を今更理解してどうするのかというお話もあるにはあるのですけど、このまま理解せずにずっと過ごすよりは遥かに良かったのではないかと思うのです。
ここ最近見せられていたストーリーそれ自体は実はそこまで意味がなくて、多少あるとすれば「当時は心が壊れていて、感情体が未成熟だったために恋愛モードに入ることが難しかった。だからあの子と恋愛に発展しなかったのは、それは、もう仕方がない。そんなもの。当時は、以前書きましたように幼い頃の偏屈な愛され方によって自分を虐めてくるSっ気のある偏った女性しか愛情を感じれず、普通の、本当の良い子に対する接し方がわからなかった。酷い態度を取ってしまった」という教訓はあるにはあるものの、それは過去に既に終わった教訓としての個人的なお話であって、今更どうしようもないですし、当時の私の感情体はその程度でしたから恋愛モードに入ることができず、よって、私の当時の状態からしたら「そんなもの」ですので、このお話はもう終わりなのです。それよりむしろ、最近出てきた創作のストーリーというものは更なる幾つかの状況を理解するための「教材」のようなものだったように思うのです。少し前に分析しましたように、素材としては個別は正しくても、全体としてはどう見ても整合性が取れていなくて現実と一致していませんから、現実の対処というよりは、思春期や若かった頃に周囲にいた人たちを理解するための素材としての創作物語という意味が大きかったのではないかと思うのです。
そうして物語の内容を理解した後に現実を再度見てみると、どうやら、かつての(異性の)知人たちの中で本当に「いい子」と言うのが絞れてくるようなのです。もっと早くそれに気がついていれば良かったのですけど、本当にいい子は目立たなくて、それでいて、実はかなりいい子なわけです。当時からわかっていれば女性を見る目も違いましたね。たくさんいい子がそこらじゅうにいたように思います。
若い頃は自分では女性を見る目があるとか思っていましたけど、なんのことはない、そうでもなかったようです。若い当時は見た目とか性格とか全てを求めていてなかなか相手を選べませんでしたけど、今更ながら思うのは性格重視にしておけば良かったと思いますね。見た目も性格もどちらも良いのが一番ですけど、顔というのは個性でもありますし、基本は性格重視で良いわけです。
古い思春期のエネルギーが湧き上がってきていて何だろうとしばらく思っていて、そこまで意味ないのではないかともしばらく思っていて、早くこの古いエネルギーを解消したいと思っていたのですけど、実はかなり重要な知見がその感情の中にあって、これもまた、無駄なものではなかったようです。無駄なものなど何もない、という格言はその通りなのかもしれません。
最近湧き上がってきていた不安定な思春期の感情というものは自分がもう一度体験するために現れてきたものではおそらくなくて、それよりは、当時のエネルギーを理解するために湧き上がってきていて、今、その学びを終えたところで当時のエネルギーはいつの間にか収束して落ち着いてきています。とは言いましても、感情体が最近は発達してきているように思いますので、(いい年して)恋愛はしやすい状態になっているとは思います。
この悲しみと微妙な憤りは嫉妬とか独占欲と思うかもしれませんが違うのです。私も以前は独占欲かと思っておりました。しかし違うのです。他者がいるいないに関わらず、引きちがれる思いが悲しみを生むのです。そして、どうしようもない思いが弾けて、最後、恋が実らずに恋が苦だけ砕けた時に、ちょっとした憤りとちょっとした怒りのようなものが現れて、それを相手についついぶつけてしまうこともあって、相手にぶつけてしまうと、愛する相手を傷つけてしまったと言う自分への幻滅と、相手にきっと誤解されて、酷い人だと思われたという気持ちとが一緒に現れて、恋が破れると同時に、もうこの人の前に出ることはできない、恋はもう実らない、と言う悲しい気持ちで失恋するのです。そのように、恋心からの悲しみと微妙な憤りがあるのだと思います。このあたり、私は理解か足りなくて、周囲の女の子は、どうして私に時々ヒステリーになってくるのだろうと当時は思っていたのですけど、全然恋心がわかっていなかったようです。
その一方で、もう少し違った形での愛もあるように思います。それは、「理解したい、理解されたい」と言う思いで、それによっても恋心と似た思いをもたらすかもしれませんが、恋心より弱い気が致します。これによっても、同じような悲しみと疎外感による憤りをそれなりに感じるかもしれません。あるいは、対立軸における関係で、認められたいと言う思いか、恋心かのように勘違いしてしまい、同様に悲しみと憤りが生じるかもしれません。
これは、おそらく、段階の差なのです。
最初は対立軸にあっても、やがて知りたい、理解したい、理解してほしいと言う気持ちになり、それが愛の基本形で、そこから信頼関係が生まれるわけです。その途中のそれなりの信頼関係から始まる場合もあります。
若い頃は愛がわからない気がしておりましたけど、今思うのは愛とか恋とはいきなり一目惚れのようにするものではなくて育てるものなわけです。一目惚れは、実際にその人に恋をしていると言うよりは、似た顔や関係のある古いエネルギーが刺激されて出てくると一目惚れと呼ばれる気が致します。ですから一目惚れしたと思っていてもその古いエネルギーの力かなくなってしまうと恋が覚めるわけです。
一方、最初はよく分からなくても、誠実な人であれば関係性は育てればよくて、それが恋になると思うわけです。
そして、恋に落ちるとは自他同一なわけで、自分も相手も一緒になってよくわからなくなるからこそ恋なわけです。このあたり、瞑想で同じような境地がありますけど、恋に落ちる方が瞑想を極めるより実は簡単かもしれません。瞑想では愛とか言っていますけど、要は恋なわけです。
今思うのは、多くの私の周りにいた女性たちは私以上に私の状態を当時わかっていて、私が当時は自分に精一杯で恋愛どころではなく、それ故にその時はタイミングではなく、最初からわかっていたからこそ私のことで悲しんでくれてそれほど近づいてこなかったのではないかと思うのです。女性は割と生まれながらのサイキックな人が多くて、そうして全てを見抜いて恋心が叶わないことを知って悲しむ人がいる一方で、それほど感の良くない女性もいて中途半端に好意を持ったりされたこともあったわけですけれども、感の悪い人はそこそこな人でそれでも割と普通のことですから悪いことはないですけど、もっと感の良い人はいくらでもいるわけです。実のところ私を私自身以上にもっとはっきり理解してくれていた人は他にいたと言うことだと思いますし、私が相手にすべきだったのはそのような人でした。
瞑想が深まって周囲の人誰それ構わず親しみを感じるようになったのも、最近は思春期のような気がしていたのも、瞑想も恋も境地としては「自他同一」であって同じようなものだとすれば周囲の人に対して(初見であったとしても)恋心に似た感情を感じてしまうのは当然と言えるかもしれません。
特別な関係になることはなくても、一見で少し話すくらいの間柄であっても、もしも片方でもこの境地であったならば即座にプラトニックな恋に似た状態に落ちることができて、そのプラトニックな恋はその瞬間のことだけでその後はすぐに離れるわけですから、そのプラトニックな恋に似た状態はその瞬間のわずか数分であったとしても人生に活力を与えてくれるわけです。恋に似た感情の瞬間も甘酸っぱいですし、その後、すぐに離れてしまうことも、これまた切なくて恋心をくすぐられるわけです。そのような短いプラトニックな関係は打算もなく利害関係もなく、純粋な恋でいられます。お互いに恋とは認識しないでもよくて、良い人と気持ちを交わし合えただけでもこの世界は充実したものになると思うのです。
今回のことは単に後悔というだけでなく、様々な理解と知見と感情をもたらしてくれました。愛や恋というものに対する違った理解を私にもたらしてくれました。
そうして理解が生じた時、ここ最近度々あれほど私の感情を揺さぶって翻弄しようとしてきたロミオとジュリエット風の感情的な物語は急に意識の後ろへと後退しました。感情を正しく理解することで、それらの感情が完全へと近づきました。それぞれの感情の扱い方、理解の仕方、そのほとんどが理解違いあるいは理解不足だったわけで、これらは単に浄化だとか祓うかとかでも一応は対処は可能ですけど、理解によって完全なる感情と理解に少しだけ近づいた気が致します。
このことで本当に良い子というのはどのような人かが理解できてきたわけですが、その逆についての理解も深まって、これは副次的な理解ではあるのですけど、性格が嫌な人ですとか、あるいは「清楚系ビッチ(の素質)」とかもそれなりに判別できるようになりました。高校に入学した時に1年次の生徒会で一緒だった女の子の同級生がいて、振る舞いがしっかりしていて顔立ちも素敵で、私はその時点でかなり惚れかけていたのですけど、高校入学から数ヶ月のある日、突然、顔が変わって、それまでは誠実そうな顔立ちそのままでしたのに、急に、いつも薄ら笑いを浮かべているようになって、しかも、他のヤンキーっぽい女の人と一緒につるむようになって、更には、その前後では目元が明らかに違っていて、以前は目に「かすみ」があったような感じだったのに、それが消えて、目が開いていて、目線も何か浮いている感じになったのですが、今から思えば、あの頃にあの子は処女を失って、更には、そのまま清楚系ビッチになった瞬間だったのかなと思います。変になった時点でこの子には幻滅して好きではなくなりました。
他にも、中学時代から好きな気がしていた子がいて、その子は流石に中学時代は処女だったと思いますけど、その後、きっと清楚系ビッチになったのではないかなぁ、という気がしております。噂では、東京に出てきてからすぐに寝る女になったそうで・・・。それはそれで悲しいですが、そのような人だということが見抜けなかったということは私の見る目がなかったのです。最近は割とこのような人も判別できるようになって、男としては女性に対する幻想が解けて微妙に悲しくもあるのですけど、まぁ、変な女、特に清楚系ビッチに捕まるよりはいいかなと思います。ほんと、私は今まで女を見る目がなかったですね。今まで、私は女を見る目があるつもりでいましたけど、そうでもなかったようです。清楚系ビッチが見分けられるようになったからと言って、それが必ずしも正しいとも限りませんが、なんとなく判別できるようになったと言うことです。それにより、信用できないかもしれない人が弾かれて、信頼できる可能性の高い女の人が浮き彫りになるように思います。判断できるのは本当にその時点で清楚系ビッチかどうかではなく、清楚系ビッチの素質があるかどうかですので、環境や意思によってそうならない場合も多々あるとは思います。
今から思えば、あの時のあの子とか、私が女の子に相手にされなくて悲しんだとある状況すらも、ものによっては悲しむ価値すらなかったりしたわけです。例えば、私が好意を持った時に急にイラつき視線で見下して来たとある清楚系ビッチは、そもそも私が嘆く価値もない人だったわけです。この過去の古いエネルギーがふとフラッシュバックで再度湧き上がってきた時、一体なんだと思ったのですけど不意に答えが降りてきて、あの時、あの清楚系ビッチが私に対して思ったことが今の私に降りてきました。それは、あの清楚系ビッチがどのように思ったのか、あの子の視点としての理解と風景が降りてきましたので、そのことを認識した結果、はっきりと、私が嘆く必要もない、と言うことを理解したのです。あの子は、ただ単に、自分が可愛いことを自覚しているのでお金持ちのATM旦那を探しているだけでした。それ故に、自分が好きかどうかはあまり重要ではなく、私への返答が(見下しながら)「へえ、(貴方と)付き合ってどうするの?」と言う返答だったのは、「(男と付き合うことによって)手に入れるもの」をあの子は考えていたということで、実質的なATMを手に入れることがあの清楚系ビッチの目的だったわけで、であれば私はあの子からしてみたら雑魚でしかなかったと言うことで、あの子に何を言われようとも私が嘆く価値もなかったわけです。
はたまた、とある尻軽女は男を馬鹿にして(ゲラゲラ笑いながら)「男って大変だねー」と見下していて、私がいるところで面と向かってそんなことを私などに対して言えるあの女は軽率で男を見下していると感じていましたけど、その後、その子がふと妊娠して結婚したと聞いたのですが子供が産まれて何年も経たないうちにその子の浮気がバレて離婚したらしく、あのような子であれば、おそらく、男は馬鹿だから浮気しても平気だと思ったのか、あるいは、男にばれるわけはないと思ったのか、浮気しても離婚になんてならないとたかを括っていたのではないかと推測できます。あの子のそれまでの発言からすれば、そう考えるのが妥当です。随分といい会社の旦那だったのに放り出されて、あの清楚系ビッチはこれからどうするのですかね。当時は「この子なんなんだろう」ってよくわからなかったのですけど今から見れば清楚系ビッチそのまんまで女としても人としても信用できないです。どうやら、私が多少ながら好意を抱いた人のうちそれなりの割合で清楚系ビッチがいたようです。
危ないことが何度もありましたけど清楚系ビッチに引っかからなくて本当に良かったと思います。最初から金目当てですから清楚系ビッチにずっとATMし続けるか、あるいは離婚して財産分与か養育費と言うパターンになるわけです。仕草が可愛かったり愛想が良かったり床上手ならそれはもはら才能ですから清楚系ビッチに男が群がるのでしょう。そう言う清楚系ビッチを自慢する男がそれなりにいて、私からすれば、なんとも見る目がないなと思いますけど、まあ、人生なんてそんなものですから好きにすれば良いのです。清楚系ビッチには最初から近づかないのが良いと個人的には思いますが、これはあくまでも個人的な意見であって、誰かへの推奨ではありません。多くの清楚系ビッチは結婚の条件に「ずっと〇〇してくれるならいいよ」みたいな金銭面での無理難題を押し付けて男は了承しているようですので、そう言う男は自業自得と言えると思います。そんな無茶な約束、よくやるなぁ、と、私なんかは思ってしまいますが。そりゃ、私みたいな警戒している人は見向きもされないどころか邪魔者か雑魚扱いで見下されるのも当然でしょう。そういえば以前、私に会話が普通に聞こえてるのにも関わらず女同士で私のことを話題にして「えー、お金無さそうじゃない?」みたいに言っていたりしたので清楚系ビッチはほんと頭おかしいです。聞こえていても構わずそう言う会話するってことは私は完全に舐められているわけで、聞こえたとしても私のような男は雑魚だから問題ないと思っているのでしょう。そんな綺麗どころの清楚系ビッチよりも普通で信頼できる人の方がパートナーには良いと思えるわけです。
このような理解も、最近は割とテレパスになっていることが理解の助けになって、長らく謎だったあの子の発言の本音が時空を超えてテレパスでその子の側になって気持ちを理解しいて心の声をその子の立場に立った視点で聞くことで、相手の子の本当の気持ちを知ることができるわけです。その結果、たとえば先に書きましたように嘆く必要も元々なかったようなくだらない本音が聞けたりして、幻滅あるいは幻滅すらする価値もない清楚系ビッチの女に悩んでいたと言うことがわかったりするわけです。これはすぐ答えが返ってはこないですけと、疑問を投げておけばガイドが調べてそのうちふと答えを教えてもらえます。確認のしようがないですし、相手にしてみればそんな恥ずかしいことを認めるわけもなく、よって、確かめようがないためにそれが間違っている可能性ももちろん多々ありますが、仮説としても整合性が取れていますので、そういうことかな、と思います。私が元々思いもよらなかったことが真実だったりしますし、私の中の想像とも違っていて、もし私の中の想像だとしますと私の中のイメージやら願望を組み合わせたものが出てきたりするわけですが、このテレパスはそのような私自身の願望やイメージとは違って、その子の側からの視点での気持ちと心の声がテレパスによってわかるわけです。テレパスでわかるのは「相手」の視点での感覚なわけですから、それはかなりの確度があるわけです。それはただ単に「見ている」「認知している」と言うだけの状態であり、そこに「想像」はないわけです。そして、時に、自分が理解していたことと大きく違っていて愕然とすることもあります。普段の生活では「受け取り側」として相手の念を感じて解釈しますけど、テレパスの状態では「相手の視点」として、相手がどのように思ったのか、相手の心の内が、その瞬間だけ相手の心と重なるようにして思ったことを理解できますので、それ抜きの場合の「受け取り手の視点」とは大きく違った、相手の側から立った主観として相手の考えを直接的に理解することができるわけです。
こうしてみると、それまでスピリチュアルで言われた常識、「トラウマを受け入れましょう」みたいなのはかなり嘘であることがわかります。テレパス視点でいうと、トラウマとは「相手からのいわれのない誹謗中傷の念」でありますから、そんなものは、逆に、受け入れない方が良いわけです。この種の「トラウマを受け入れましょう」とかいうのは、エネルギーヴァンパイア側の、勝者側からの視点であって、「あなたたちはエネルギーを与える供給側なのだから大人しくしていなさい」という言説を、そうは直接は言いませんけど、周りくどく、それっぽく言っているだけなのだと思います。
一方で、自分が悪いトラウマというのもなくはないですけど、どちらかというと、相手から植え付けられているトラウマの方が多いように思います。まあ、この辺りは人によりますし、そもそも行動があまりよくない人は自分の行動に対して自分自身にトラウマを感じる、なんてのはそのそもないわけです。ですから、トラウマというのは、他者から植え付けられたものが多いように思います。他者からの念の中には正当なものもあって、正当なものは直していく必要があるとはいえ、付き合う相手にもよるとは思いますが、私の若い頃の場合、かなりの割合で理不尽で不合理で身勝手な怒りと呪いを他人から投げかけられて飛ばされていて、それを無防備に受け止めていたように思うのです。
私が清楚系ビッチに関してトラウマを感じていた理由は、そのような清楚系ビッチが表情では笑顔でいつつも心の中あるいは時に直接的な言葉や表情で私に対して拒絶と誹謗中傷の念を送ってきたり態度をしていたからなのであって、それ故に、清楚系ビッチが送ってくる念によって私がトラウマになっていたのであって、私は割と被害者なのですから、それに対して私が自分が悪いとか思う必要すらなかったわけです。そのことが、今回、ようやく(子供の頃以来で)テレパスの状態に戻ってきたことで相手が私に対して思っていたことが(相手視点で、発信側の視点で)はっきりと認知できるようになり、それはリアルタイムではなくて時差がありますけど、一旦、その視点が降りてきて理解してしまえば、ほとんどの場合において私はトラウマを感じる必要すらなかったことがわかるわけです。あのような清楚系ビッチ(複数人、大勢)に対して、私がトラウマを感じる必要もなかったし、その価値もなかったわけです。私は特に若い頃は清楚系ビッチに惹かれることが多くて、人生を無駄にしていたように思います。
私がスルーしていた人の中て何人もの良い子がいたわけですけど、判断力がないとこういうことになります。なんと無駄で思い悩む必要のないことに悩んでいたり、それによって自分が無駄に悩んでいたせいで行動すべき時に行動できなくて、相手の女の子に対して(きちんと行動できなくて)申し訳ないことをしていたのかと思います。
中学や高校あるいは大学時代にこの理解に至っていれば人生もかなり違っていたかと思いますが、まぁ、仕方がないですね。人生なんてそんなものです。
例えば、大学の1年次に合コンで会ったT大生のあの子とか、当時は「この子、よくわからない。あまり好みの顔じゃないな。話が合わない。すれ違いの話多すぎ」とか思っていましたけど、今から思えば、真面目でいい子だったことがわかるわけです。あるいは、高校の同級生の大人しいあの子も、私は普通に友人で特に恋愛の感情はなかったのですけど、いい子だったことがわかるわけです。
大学か社会人になってから合コンであった子が「幾つかの曲聴くと涙出てくる」みたいなことを言っていて当時はスルーしていましたけど、それは要はハートが開いている印で、とてもいい子であったわけですが私は当時はそれに気づかなかったわけです。
一方、中学に好きだったような気がしていた子は私とは深い関係はなかったのですけど東京に出てきてから誰とでもすぐに寝る女になったらしいので清楚系ビッチなわけです。高校時代に好きだった子はちょっと性格に難があったりしたのですけど、これもSの清楚系ビッチです。どうやら私は清楚系ビッチにばかり惹かれる性質があったようで、私に女を見る目が当時からあればもっと違った人生があったと思います。
就職先では上司(男)などの妻が清楚系ビッチだったりして、うまいこと金づる男を捕まえたのだなぁ、と思うこともありました。でもまぁ、本人たちが納得しているなら好きにすれば良いと思います。 わざわざ指摘するほど野暮ではないですし、割とどうでも良いです。それに、最初は金づるのつもりでもそのうち本当に愛し合う場合もありますし、逆もあると思います。
清楚系ビッチとは別に単純にS..X好きな女の子もいて、それはそれで清楚系ビッチとは区別すべきで、高校時代の同級生のとある女の子は、私とその子とは体の関係はなかったですけどぼちぼち普通に仲が良くて、話すことがめちゃくちゃオープンで、「そろそろ就職先考えてるけど、S..X好きだから、なんとかランド、ってとこは気持ちの良いことしてお金たくさんもらえるみたいだから、あれ、就職先によくない? 卒業したらあそこで働こうかなあ」とか嬉しそうに私とか周囲の男友達に対しても公言していて、そう言いつつあの子が誰としているのか私は知りませんでしたし、それ以上の関係ではありませんでしたけど、その後、実際には地元の公共の宿のスタッフに就職することになって、それでも尚「(スタッフとして働いている時に)宿泊者と目があってドキドキして部屋に潜り込むとかあると面白いなあ」みたいに本気か冗談かよくわからないことを言っていたのですけど、この子の場合は単純で、特に飾っているわけでもなく、正直なわけです。裏のある清楚系ビッチと、単純に性的なことが好きで正直な子とはまた別なように思います。
清楚系ビッチは必ずしも浮気するわけではなくてS..Xが好きとは限らなくて、要は清楚系ビッチとは男を操ろうとする綺麗どころの女性なわけで、清楚系ビッチかどうかは性格と気質によるのだと思います。清楚系ビッチは精神構造的に男のいじめっ子と同じような構造をしていて、態度は清楚そうに洗練されている一方で、自分が気に食わないことがあればイライラし始めて急にブチ切れるのです。ブチ切れるのは男も女もそこは変わらずモラハラなわけです。清楚系ビッチにイライラされてブチ切れられて睨みつけられて「あっち行け」の視線と念を飛ばされたことが多々ありましたけど、ほんとに清楚でいい子ならそんな態度は取らないわけです。私はほんと女を見る目がなくて清楚系ビッチに騙されまくっていました。当時は私が罪悪感のようなものに苛まやされていましたけど、実のところ、そんな清楚系ビッチのことで悩む必要も悩む価値もなかったわけです。
私が幼稚園の頃に最初の虐めにあって精神を病んで以来、執拗にネチネチと精神を蝕んでくる虐めっ子になんとか対処して生きてきましたが、そうしているうちに、思考停止になっていて、もはや周囲や人生に幻滅していて、関係性を切ることを意識し続けていて、やがてはメンタルが壊れて、周囲の人に対する理解が及んでいなかったのだと思います。若い頃はいじめっ子は男でしたけど、やがて高校や大学では清楚系ビッチと遭遇して、時間とメンタルを随分と無駄にしました。
当時は、若い頃から色々なことに対して周囲の人たちや大人たちからの刷り込みにより「お前(私)が悪い」と思わされてきましたけど、加害者が自分自身の行動を正当化して被害者に納得させ、被害者自身が原因だと思い込ませることはよくあることで、割と典型的な虐めと虐待、奴隷化のパターンにハマっていたように思います。そうして、長らく、周囲からの評価により私が悪いかのように思わされてきましたけど、どう考えても私ではなくて虐めてきた同級生が悪いのです。幼稚園の頃にしてみれば登校拒否の原因を作った同級生が悪いですし、小学校低学年の頃は近所の虐めっ子に近くの川で頭を水の中に押し付けられて「溺れさせる遊び」をやらされていて、急に頭を川の中に押し込められたり足を引っ張られて溺れさせようとしたりしながらその上級生は「ゲラゲラ」笑っていたのです。とある時には、その上級生は私を虐めるために電気シェーバーを私の足とか手に当ててジョリジョリするものですから、そこだけ毛が濃くなって、同級生にそのことを指摘されてネチネチと馬鹿にされていたりしました。どう考えても私は悪くなくて同級生や近所の子(上級生)が悪いのに、私が悪いんだと、私がおかしいのだと思わされ、私がやられるのが悪いのだと思い込まされていました。周囲の大人や先生も理解がなくて、「この、ぼおーっとしている子」としか思われていなかったように思います。今から思えば、保護施設にでも逃げ込めば良かったかと思いますが、保護施設に入ったら大学にも行けなかったかもしれませんので、一応は大学に通わせてくれましたので、そこは結果オーライと言えるかもしれません。
清楚系ビッチに私が悪いかのように睨まれて私は「雑魚クズ視線」を受けてゲラゲラ目の前で馬鹿にされて、それでも、なんだか私が悪い気がしていましたが、どう考えても清楚系ビッチの性格とやり方が不誠実なわけで、あんな清楚系ビッチのために私か悩む必要も悩む価値もなかったわけです。清楚系ビッチは言われもない怨みの念を時々送ってきたりしますので、清楚系ビッチとは最初から関わり合いを持たないのが良いのです。清楚系ビッチと体の関係を持つなんてとんでもないですし、話をすることすら避けた方が良いです。
そもそも、清楚系ビッチは私を小馬鹿にしつつ恋愛対象になると思っていたようですけど、私からしたら、馬鹿にしてくるような相手は決して恋愛対象にはならないのに、どこをどう考えたら、小馬鹿にすることで恋愛対象になるとでも思っているのでしょうかね・・・。まぁ、子供時代に「好きな子を虐める」なんてのはありがちみたいですので、そういうことをされたのかもしれないですけど、された方からしたらただ単に嫌な子という印象しか残らないので恋愛対象からは外れます。それで相手にされなくて勝手に落ち込んでいた人もいましたけど、なんだかなぁ、という感じではあります。確かに、そういう清楚系ビッチは魅力に溢れていて、ついつい惹かれてしまうという面もあったことは確かです。ですけど、惹かれつつも、「この人はダメ」という見えないバリアのようなものが張られていて、ものすごく興味をそそられつつも、同時に、バリアによって拒絶状態にある、という相反する状態になっていました。清楚系ビッチに惹かれないよう、誰か見えない人が守ってくれていたのですかね。
一方、本当に良い人はいて、必ずしも綺麗でもなくて素朴な人でしたけど、当時は容姿が良くない人が周囲の人によって番付されることも普通にあって、その、周囲の評価を気にしてしまい、感覚に従って行動できなくて、いわゆる番付の低い子と仲良くなりにくくて躊躇してしまう風潮があったと思います。そんなの気にしなければ良かったのにと思います。本当に良い子というのは顔とは関係なくて、性格が重要なわけです。
そういえばふと思い出したのですが、とある綺麗どころの清楚系ビッチのビジネスパートナーの女が執拗に私に会いたがってきて、なんだか急にしつこくて怪しかったので会わなかったら「お前はそれでも男か」とか言ってきて、その言い分はというと、「女が誘っているのに(私がその女を)抱かないお前はほんとに男か」、と言うような感じで罵ってきました。私が抱こうとしないことで苛ついていたようです。そのまま喧嘩になりましたが、その女はヒステリーになって「あなた(私)なんていなくても良い。私がやっているんだ。儲かっているだろうから、もっとお金出しなさい。嫌なら貴方は辞めればいいじゃない。」とか言って来ましたので、そこまで言うのならと言うことで逆にその女をビジネスから追い出して、アカウント停止してシステムへのアクセス権も全部無くしたらヒステリーになっていましたけど、実際のところ、出資にせよポジションにせよ全部私が用意したのに自分さえいれば良いから私なんていらないなんて、虫の良いお話です。Too good to be true であります。詳しい状況は話が長くなりますので簡潔に述べますと、あの勘違い女はこっそり企てるわけでもなく面と向かって私に「出ていけ」と言ってきましたけど、乗っ取りを公言しているようなもので、そう言われたら、こちらとしては追い出すしかありません。資本を持っているオーナーと雇われ社長との違いもわからないようで、サーバ管理も私なのに私がいなくなってどう運営していくのかすらわかっていないほど頭が悪く、自分が運営している(風に見える)からあのビジネスの成果は自分の手柄でこれは自分がやっているビジネスだから貴方(私)は出ていけ、あるいは、お金をもっと自分によこせ、みたいに要求してきたのですけど、サーバ管理も手間がかかるしコストももちろんかかっていて、広告も馬鹿にならないほどかかっていて、あの女が要求してくるほどそもそも儲かっていないわけです。と言いますか、まだ投資ステージですので利益があるように見えても初期投資が嵩んでいるわけで、まだトータルで儲かっていないお金を目の前にあるんだからよこせとか言ってくるほど状況がわかっていなくて、そもそも自分が半分飾りで私にポジションを与えられていると言うこともわかっていないような勘違いしている頭の悪い女はいらないのです。あのように私が言われるということは、私があの女に舐められていたということでしょう・・・。
そして、あの女は自分の状況がよくわかっていないことに加え、私を舐めて托卵を企ててきたのです。
托卵させようとしたり怒鳴りつけてくる清楚系ビッチが悪い醜い人である筈にも関わらず、私が時に清楚系ビッチに怒鳴られたり非難されたりして、まるで私が悪いかのような扱いを受けるのです。清楚系ビッチはドヤ顔で整然と怒鳴りつけてきますので、私は怒鳴られるとその瞬間、「そうかなぁ」とか考えてしまいますけど、どう考えてもあそこであの女を抱くのは違和感ありすぎますし、要求してくるような過大なお金を払うほどそもそも儲かっていないですし、あの女は資本と雇われ者と言う関係も分かっていないのですけど、あまりにも自信満々で正当性を訴えてきますので私は思考停止してしまいそうになり、感情から言うとあの女が正しいかのような印象を受けてしまい、私の方が悪いかのような錯覚を受けてしまうのですけど、どう考えても、そんな過大な利益供与はおかしいですし、托卵させようとしてくるような清楚系ビッチの方が悪い人としか思えないのです。何故に、私が怒鳴られてゲラゲラ笑われるような扱いを受けて非難されないといけないのでしょうか。托卵させられるのを拒否したところで、一体、何を咎められると言うのでしょうか。意味不明です。清楚系ビッチのような勘違い女を受け入れる男も世の中にはいるでしょうし、そのような生き方は私とは無縁のところで勝手にやってくれればよくて、ですから、清楚系ビッチを否定してはいなくて、清楚系ビッチの相手をして幸せな男も世の中にはいるでしょうから、好きにしてくれれば良いのです。清楚系ビッチは私に関わらないでください。意味不明すぎて頭がクラクラします。
あまりにも矢継ぎ早に早口で怒鳴られて非難されると、ついつい「そうかなあ。そうした方がいいのかなぁ。私が悪いのかなぁ」とか思ってしまうのですけど、それはテレパスの特徴で、相手の思想についつい同調してしまうのです。一旦、距離を取って、冷静に考えれば、全くもって、相手の言い分が間違っていることがわかるわけです。
思えば、清楚系ビッチの強面な押しに屈して結婚して後悔してしまっていた人が職場に何人もいました。「もっと結婚する前に考えれば良かった・・・」みたいに言っていて、とある人は「結婚した時は良かったけど恐妻になった」、だとか、また他の人は、何年も女性と付き合っていたら「結婚しないなら、時間を無駄にしたことになる。時間を返して」みたいに言われて結婚したが後悔している、みたいに、誠実さが欠けている自分勝手な清楚系ビッチと結婚してしまうと男は苦悩の日々を過ごすことになります。私もその1人になる可能性がありましたが、運よく回避することができたわけです。
どうして、こうも、私の周囲に(私をカモに見ている)清楚系ビッチが次々に現れるのか・・・。よくわかりません。 引き寄せの法則なのでしょうか。 それとも、私の脇が甘いのでしょうか。
思えば、あのビジネスパートナーの女は私に対して「ニヤリ」と言う顔を以前から時々していたのですが、清楚系ビッチが私を見た時に見せる「ニヤリ」という顔は、営業が高いものを売りつけようとしたり、上司が部下を奴隷扱いする時に見せる「ニヤリ」という顔つきと、よく似ています。とても気持ち悪いです。私は最近は、この、気持ち悪い「ニヤリ」を見たら全力で逃げるようにしています。
私は清楚系ビッチからしたらいいカモのようなのです。そして、カモが逃げようとすると、営業の人であればイラついて買わせたり契約させようと押し込んでくるのと同様に、清楚系ビッチもイラついて思い通りに私を行動させようとするのです。私が態度を引いて一歩でも逃げようとするとイラついたり怒鳴りつけてブチギレてくるようなところもカモ扱いしてくる営業職と清楚系ビッチは似ています。そのようなことがある度、私の心は病んで、頭がクラクラしてくるのです。このように、私をカモとして見ているような清楚系ビッチとは最初から関わり合いを持たない方が良いのです。
実のところ、あのビジネスパートナーの女と上記のようなやり取りがあった時点では流石に托卵を狙っているとは気付いていなくて単に過大な要求をしてきて威圧的でとても違和感があるから避けて遠ざけただけですが、その顛末がわかったのは半年後でした。とあるつてから連絡が入って、「あの子、親戚の同年代の男の子供を身ごもったらしいよ。私、妊娠を聞いた時に最初は貴方の子供かと思ったけど、親戚の子を身籠るなんて、あの子はもう幸せになれない」とか聞いてようやく違和感の理由がわかったのです。妊娠の大体のタイミングもその子は知っていて、托卵させるにはあのタイミングは割とドンピシャであることもわかりました。妊娠の月数をきっちり見たら合わないことがわかる筈ではありますが、割と誤差で誤魔化せるとでも思ったのでしょう。それにより、はっきりと、あの女は托卵させたくて私と寝たかったと言うことだろう、と、かなりの確率で違和感の理由が判明したわけです。托卵は私の単なる想像でもなく、実際に本当にそれを狙っていた、と言うことが、この、とあるつてから詳しく状況を聞いたことで判明しました。
であれば、あの清楚系ビッチのビジネスパートナーの女にとって私は都合の良いカモだったのでしょう。ほんと、頭がクラクラします。肉食の清楚系ビッチはかなり強引なようです。そもそもあのビジネスパートナーとは一度も寝たことがないですし、最初からそういう関係ではないのですが、周囲からは関係性を噂されていました。それまでもあの子が何か企んでいそうな怪しいことはありましたけど、あの時は特に、何か強引でおかしかったのです。怪しかったので距離を取った結果、後で状況を知ったらかなり頭のおかしい強引なSの清楚系ビッチだったようで、ほんと私は見る女を目がないなぁ・・・ と思います。そのつてから詳しく聞いたことによると、親戚と夜な夜な楽しんでいた・・・ とのことで・・・。頭がおかしいのではないでしょうか。単純に他の男がいるだけならまだしも、親戚と夜な夜な遊んでいた、なんて、どのような頭の構造をしているのか意味不明で、一般的な道徳が欠如していて全く理解できません。三親等より離れていれば結婚できるとは言いますけど、親戚とそういう関係にはあまりならないのではないでしょうか。 頭がクラクラして、吐き気がします。 私は一体、あの子の何を見ていたのでしょうか。
この女は、関係が良好な時はずっと「感謝している」とか言っていたのに、いざ関係が破綻すると時折メールが来て「貴方と関わってから全てがうまくいかなくなった。あなたのせいだから責任取って」とか矛盾した意味不明なことを後になってつらつらと言ってくるようになりましたので返事もせずに当時は無視しました。あの女の人生がうまく行かなくなったのは私のせいではなくて望まれない親戚との子を孕んだからだと思いますが・・・。なぜに私が托卵を拒否したらこれほどまでに恨まれるのかよくわかりません。もはや、錯乱していて意味が通っていないのです。こういうことがありましたから、私は頭の悪い女とはあまり付き合いたくないのです。
この女が托卵を企んだように、私が少し良くしてあげていると図々しく付け込んでくる清楚系ビッチが多すぎます。かと言って、親切にしないというのも性に合いませんので、尽くし過ぎることなく、脇を締めた態度を取る必要性を感じます。それと、誰かに奉仕をするときは見返りを求めずに行えばそれに対して相手が何も返してくれなかったとしても私の心は傷付かずに済みますので、そのように、誰かに何かを与えるときはあらかじめ条件設定するか約束をし、条件や約束がないのであれば特に見返りを求めないようにしています。それもまた、学びの1つです。勝手に期待しても相手は違うことを考えているのです。私から見ると図々しく付け込んできているように見えても清楚系ビッチからしたら「それが当然」と思っていたりしますから、そのように、認識の違いすぎる女、例えば托卵して育てさせようとか企むような女とは関わり合いを持たない方が良いのです。まず清楚系ビッチは避けて、関わる人に対しても脇を締めることの必要性を感じます。
良い女性というのは与えることと受け取ることとのバランスを取るように思えますけど、清楚系ビッチは一方的に受け取って自分の利益を最大化しようとするところが違います。受け取ったらそれに見合う分のお返しをしようとするのが良い女性あるいは割と標準的な、普通の人だと思うのですけど、清楚系ビッチは旦那や周囲から自分が受け取るものを最大化しようとして、バランスを一方的に崩して受け取るだけ受け取ることを考えて、時に、自分の思い通りに利益が得られないと不機嫌になったりするのです。これは程度問題でもありますけど、度を超しているのが清楚系ビッチの特徴であって、清楚系ビッチは「だって、あなたが良いと言ったじゃない。同意したのでしょ?」というところで自己を正当化するという特徴があって、そもそもの基本としてバランスを考えるのが良い子なのであって、バランスを無視して同意したかどうかで考えるのが清楚系ビッチ、という違いがあります。良い子であれば、確かに同意をしたといえばそうであったとしても、それに見合うものを与えられているかどうか、というところが基本の価値基準にあるわけですけど、清楚系ビッチにはそのバランスの感覚が欠如していたり足りなかったりするわけです。そこが、清楚系ビッチと良い子との違いになるわけです。要は、清楚系ビッチは図々しいわけです。そして、自分が望むように利益を得られなければブチギレたり無視したり見下したり「お前は男じゃない」扱いしたり非難したり未練もなくすぐに離れていきます。どのような具体的な行動に出るかは人それぞれであったとしても、利益のバランスという面では一方的でバランスを欠いているのです。
そのような、数々の、意味不明な色々なことがあったとしても基本は「人生は全て完璧」ですから、これら全てが学びになっているのです。悪い見本のようなお話ばかりでしたけど、脇を締めて、なるべく君子危うきに近寄らず、と言うことでなんとか生き延びています。
どうやら、今まで、私はずっと、清楚系ビッチのような綺麗な人に対して憧れる感覚を「恋」だと認識していたように思います。ですが、今更の話になってしまうのですけど、それは恋といえばそれはそうなのですけど、割と本能的な性的な視覚的な愛だったように思うのです。
そのようなことがある一方で、私が今まで恋だと認識していなかった相手、むしろ「よくわからないな」と思っていた感覚、あまり相手にしてもらえない時に悲しくなる感覚、相手を理解したい、相手に理解してもらいたい、それらが実は恋と呼ぶに相応しいものだったものなのかもしれない、と、今更ながら自分のかつての状態を認識し始めました。となれば、今までの私の認識および行動が根本的に間違っていたことになります。
恋は盲目、なんて言いますけど、盲目な恋にしても2つあって、肉体や性欲に近い愛は、割と初歩的な愛のように思うのです。肉体に近い盲目の愛と、「よくわからない」と言う感覚に基づく本当の恋があるわけです。肉体や見た目に近いところで盲目だったり憧れるような恋も一応は恋であって、それにドンピシャ当てはまっていたのが清楚系ビッチで、相手の笑顔を今から思い返して分析してみると、あの清楚系ビッチの笑顔は私のことを好きになってくれていたのではなくて、「この人、私のことが好きみたい。やったー」という感じの表情だったように思うのです。それは理解し合うという種類というよりは、「好きなら私に尽くしてくれますよね」という種類のものです。
この種の清楚系ビッチを好きになってしまうと、願望が満たされているうちは基本は大人しい子だったりしますけど、時に、どこかで「どうして、これをしてくれないの」みたいなところで清楚系ビッチがイライラし始めたり、急にキレたりして私の心が蝕まれたり、あるいは、時に、清楚系ビッチの本命は他にいたりしますから、浮気されたりします。私が好きになっていた(と思っていた)相手は、割とこのいずれかのパターンに当てはまっていたように思います。
今から思えば、そのことをよくわかっていた周囲の人たちがいて、ある時、「もっとよく考えた方が良いですよ」みたいに忠告してくれていたのかなと思いますけど、私は「そんなことない。大丈夫。私は誰それが好きです」とか思っていたのですけど、実は私は恋とかをそこまで深く理解していなかったようなのです。清楚系ビッチに対して憧れて好きになる感覚を恋だと思い込んでいたわけです。ほんと、一体、今まで何を理解して何をしていたのだろう、という感じです。
今更ながら思うのは、それは恋と言えばそうだけれども、一方的な憧れをしているだけであって、不完全な愛、歪んだ愛なわけです。そこに確かな「(相互)理解」は(あまり)ないわけです。
そうではなくて、恋愛の基本は相手を理解することであって、お互いに理解して、そこから関係性が発展していくわけです。それはそうで、当たり前と言えば当たり前なのですけど、このことが、いまいちわかっていなかったと言えます。このことを理解した上で、今更ながらに思うのは、今まで私が恋をしていたと思っていた清楚系ビッチとは実はそこまで恋をしていたわけではなくて、一方、今まで私が「好き」と認識していなかった相手が、実は(私が)恋していた、ということです。とは言いましても、昔のことですので100%の確信ではなく、おそらくそうであろう、という理解ではあります。一旦、このような結論が出かかっても、「自分で、自分が恋をしていたことに気付かないなんて、そんなことが本当にあるのだろうか」と今だに疑問に思ってしまうのですけれども、実際、そうだと思うのです。
私の記憶を辿ってみると、今まで「好き」と認識していなかった相手、例えばT大生のあの子とかを実は(私は)(おそらくは)好きだったのではないかと思うのです。当時は「なんだろう。よくわからない」と思っていたわけですけれども、何十年も経って、今更ながら「あ。あれは、(私が)好きだったんだ」とふと気がついて、ほんと当時は自分で自分のことがわかっていなくて態度にせよ言動にせよ、うまく表現および行動できていなかったように思うのです。当時、あのT大生の子にあんまり相手にされなくて凄く悲しく感じたのですけど、そのことを当時は「ああ、なんだか住む世界が違うから相手にされないんだ」とか思って、それで悲しいのかなと思っていたのですけど、実はそっちではなくて、好きになりかかっていたのにも関わらずあまり相手にされなかったので悲しかったのではないかと思うのです。私があの子の顔を見て、それから、あの子がこちらに振り向いて目と目が合った瞬間に自分でも理解できない悲しい感情と涙が急に出てきて、その時、何が起こったのか頭で理解できずに取り乱しそうになるのを必死で意識で押さえつつも半ばパニックになりかけて涙と表情が爆発しかけて顔を必死で手で隠したりしましたけど、それを当時は上記のように解釈していたわけですが、今から思えば、当時の自分の解釈は間違っていて、自分で自分のことをよくわかっていなかったのです。頭では「別に、好きではない」と思っていた、あるいは、そう自分に言い聞かせようとしていて、体の方が反応してしまっていたので頭と体の反応がちぐはぐになっていてパニックになりかけていたわけです。本当に信頼すべきは体の反応だったわけで、であれば、私はあの子が好きだったのではないかと思うのです。好きでないのであれば顔を見ただけで涙が出たり泣きそうになったりはしないですからね。自分の感情に対する理解が間違っていましたし、その基本の理解が間違っていたが故に、自分が行動すべきことに対する認識も全く間違ってしまっていたわけです。
私が恋のアプローチをすべきだったのは清楚系ビッチではなくて、誠実な相手、理解し合える相手だったわけです。中学や高校時代あるいは大学を思い返してみれば、何人もの清楚系ビッチを好きになっていたり、一方で、(顕在意識で)好きと認識していなかった相手のことが実は好きだったりしたわけです。顔立ちとか化粧の完璧さとかは本当に好きかどうかはあまり関係ないように思えます。清楚系ビッチは化粧は上手で顔立ちも良いですけど、それと、私が本当に好きになるのかは関係がないように思えるのです。顔立ちは、ある程度、最低限のところで、生理的に無理ということでなければ割と許容範囲は広いように思えます。当時は、周囲の影響もあってか、ついつい顔で選びがちでしたが、その選び方は間違っていました。それよりも、もっと、感覚を信頼すべきだったのです。感覚で「好き」の反応が体に現れても、頭の理性で考え直して「いや、好きではないよね。うん」と、理性を優先させてしまい、結果、清楚系ビッチにばかりアプローチするような人生を送っていました。
清楚系ビッチに対してはドキドキして恋しているかのような感情がありますけどそれは割と肉体的な愛で、本当にもっと(高次の)ハートで好きな場合は、もっと知的で根源的なのです。
私自身が誰かに対して恋の反応をするのは稀でしたが、今から思えば、自意識過剰なだけかもしれません。私は割と鈍感で周囲の女の子を同じように逆の立場で悲しませていたことも時々あったように思います。実際のところ、本当にしっかりとした関係になるには、その、「悲しい」反応が出てしまうと少し遅くて、「悲しい」反応が出る前にお互いにアプローチすることが理想のように思います。人によっては「悲しい」反応が1回でも出た瞬間に離れてしまいますから。
こうして、私がかつてそこまで認識していなかった相手、顕在意識で「好き」と認識していなかった相手が実は(高次のハート、性的な感覚より根源的、知的に)好きだった相手で、今までかつて(顕在意識で)好きと認識していた相手が実はそこまで上等な恋でもなかった、ということに今更ながら気付かされたわけです。自分自身の中で、自分の感覚に対する理解が、間違っていたことに今更ながら気がついたわけです。頭では「私はハートでの愛を知っている」つもりになっていて、実は、そうでもなかったわけです。
例としては、最初に就職した時に別の部署にいた仲の良い女の子はおそらく私のことをハートで本当に好きになってくれていて、でも、私の方はというとその時点ではそこまでハートの愛を知りませんでしたから、私の方はもっと肉体的な盲目的な愛でしかなくて、それ故に、噛み合わなかったのです。その子は私に対して何か不満があるらしく、その不満というのは、おそらく、ハートで愛してくれていないから不満があったのではないかと思うのです。私の方の愛のレベルが低かったわけですね。その、噛み合わない気持ちが、あの子の、時折見せる、とても悲しそうな、理解し合えない悲しさだったように今更ながら思うわけです。
・自分:低い愛(肉体の愛) と 相手: 低い愛(肉体の愛) → 清楚系ビッチ(の場合がある)。何かおかしくなる可能性が高い。嫉妬、束縛の愛。
・自分:低い愛(肉体の愛) と 相手:ハートの愛(知的な愛) → 噛み合わないか、相手が妥協あるいは(自分を)理解してくれればうまくいくが、相手には理解し合えない悲しさが残る。
・自分:ハートの愛(知的な愛) と 相手:ハートの愛(知的な愛) → 理想
・自分:ハートの愛(知的な愛) と 相手: 低い愛(肉体の愛) → 噛み合わないか、自分が妥協あるいは(相手を)理解すればうまくいくが、自分には理解し合えない悲しさが残る。
表にしてみれば当然のようにも思えますし、昔からこの種の表は時々見た気もしますが、実際、実感はなかったわけです。人は、この種の説明を聞いてしまうと頭で理解して「そうですか。わかりました。ハートで愛します」なんて勝手に解釈してしまって、あたかも自分がわかっている気になってしまうものです。ですが、実際、わかっていなかったわけです。スピリチュアルの分野ではこの種の「頭で理解してわかった気になる」という落とし穴が割と沢山あって、あまり知識を重視せず「まずやってみる」ことも時には重要になってきます。今回、頭ではわかっていたつもりでも、実は、全然わかっていませんでした。
思春期のような心境を取り戻したことで、単にかつての心境に戻るだけでなく、新たな理解をももたらしてくれて、その理解により過去がようやく精算できて、何が正しくて何が正しくないのかを判断できるようにようやくなって、人の見極め、良い人とそうでない人、誠実な人と不誠実な人を見極められるようになって、かつての心境を乗り越えることができ始めたような気が致します。
このような感じのことがここ一週間で走馬灯のように蘇ってきています。いつまでも昔に生きていても仕方がないのはそうなのですけど、ここしばらくは振り返りの時期だったように思うのです。人生においては、そう言う時期もあるように思います。
そうして、これらの理解が起こった時、ハートがより一段、高い次元で開き始めたように思います。ハートの感受性が高まり、と同時に、何故か、何もなくても涙が出てきます。ここのところ、過去に恋愛したことに関するフラッシュバックが久々にやってきていて、最初は厄介だなというくらいにしか思っていなかったのですけど、終わってみれば、かなり重要な理解と状態に達したように思います。
最初、ロミオとジュリエットの劣化版みたいな物語を現実とは少し乖離した形の創作ストーリーでフラッシュバックで見せられていたわけですけど、最初はあまり理解できなくて、単なる創作ストーリーだと思っていて、単に素材を繋ぎ合わせた記憶の断片と思っていたのですけど、実のところ、このあたりを理解するためにあのフラッシュバックが何度も何度も来ていたのであれば、私のガイドはこの理解を私にもたらすために根気よく教育用の教材を提供してくれていたのだと思います。その理解の元、改めてロミオとジュリエット風の創作物語を見直すとまた違った理解に至ります。創作のごちゃ混ぜかと思っていたのですが、実は、意外に現実を反映しているのかもしれません。どちらにせよ、私の見る目は変わりました。
これにより、人生の恋愛に対する指針が一新され、愛すべき人、そうでない人、(私に対する)肉体的な愛の感情を持つ人に対しての接し方、(私に対して)ハートで愛してくれる人に対する接し方、相思相愛の理想系、というものがおぼろげながらに見えてきたように思います。そう考えると、今までの人生において、理想の相手になり得る人は数えるくらいしかいなかったことがわかります。そのことが、ようやく、見えてきたように思うのです。
今まで、私はハート(アナハタ)の愛がどのような感覚なのかあまり知らなかったようです。時折それが現れても、そのことを受け入れる準備が整っていなかったように思うのです。解釈として、ハートの愛がどのようなものなのか間違って解釈していたのでした。
あの時の感情がハートの愛だとは解釈できなかったのです。好ましい良い愛だと言う解釈を顕在意識の思考としてできていなかったのです。今まで何度か何人かの相手にハートの愛をしていたかと思いますが、どれもうまくいかなかったように思います。それにはパターンがあって、その感情がハートの愛だと自分で解釈できずに、「いや、これは違う」と頭が解釈していたので、頭と感覚が分離しており、その愛はうまくいかなかったのです。頭では「この子にはそんなに興味ない」と思っていたとしても、何故か感情の方で反応してしまっていたりして、感情で反応しているのに頭で「違う」とか「興味ない」と思ってしまっていると恋愛も当然ながらうまくいかず、そうして相手と齟齬になると意味不明に涙が出てきたりして、そのことが顕在意識の頭では理解できなかったわけです。その時、顕在意識のマインドの思考がどうにか屁理屈をつけて理解するために「それっぽい理由」をつけて一応は理解していたわけですけども、本当に理解してはいなかったのです。実態と理解とが分離していますから変な感じになってしまっていました。例えば、「あぁ、やっぱりT大とか行く子と私は生きている世界が違うんですね」と、それっぽく解釈して悲しくなっていたわけですけれども、実は、そういうことではなくて、単純にハートで好きだったように今更ながら思うのです。どう考えてもこの子は好みじゃないし好きではない・・・ と頭では解釈しているのですけど、感覚の方はというと、その理解とは異なるのです。自分で自分のことを解釈できていなかったわけです。だから、態度として「うーん、よくわからない」と言う態度になって、「別に、そんなに綺麗でもないと思うし、好みの顔ではないし」と思いつつも「なんだかこの子だけ特別な感じがする(きっと住む世界が違うんだ)。なんだこれ。私はこの子を好きではない筈」と無理やりそれっぽい解釈をしていたわけですけれども、頭で感情を理解できていなかったわけです。
当時も今も、スピリチュアルでは「肉体に近い性欲よりも、ハートの愛の方が好ましい」みたいなことが言われていて、頭でそれっぽく理解して「そうか。ハートの愛が良いのですね。それはそうですね。」と解釈して、頭だけで「はい、わかりました」とわかったつもりになって、あたかも自分がハートの愛を知っているかのように思っていましたけど、実は、そうでもなかったようです。時折、何人かの相手にハートの愛をしたように思うのですけど、それは本当に時々で、しかも、当時はそれが愛だと頭で理解できていなかったのです。ですから、本当は好きになるべき相手に対してそっけない態度を取ったりスルーしていたりしました。話し始めてから途中までは頭での解釈が入っていませんでしたから無意識で「あれ、なんだこれ」と、なんだか合う感じがしていましたのに、途中で不意に我に返って、頭で考え出して、じっくりとその子の顔とかを観察すると、「あれ。なんだろこれ。好みの顔じゃないし、好きじゃないや」とか思ってしまっていて、実は感覚の方が正しいのに、その感覚を頭が邪魔して恋愛がうまくいかなかったわけです。「ん。私、今まで何していたんだろ。あれ。この子。うーん。ん、ん、ん。よく見ると、そうでもない。好みの顔でもなかったりするし。どう言うことだろ」と急に白けた感じになって、白けたというよりは頭が感覚の邪魔をして、大抵の場合はそれが相手にも伝わって不機嫌にされたり相手が違和感感じたりして恋愛がうまくいかなかったりするわけですけど、今から思えば、一時的にそれなりのワンネスであるハートの愛の状態だったわけで、であれば、その無意識こそが優先されるべきで、頭で感覚の邪魔をすべきではなかったわけです。その時の状態が顕在意識で理解・解釈できていなかったのです。だから、愛とか結婚とかは「勢いだ」とか言われるのも、ハートの愛であれば、それはそうなのだと思います。
肉体的な性欲あるいは容姿の愛はもっと下の丹田のあたり(マニプラとかスワディスタナ)の感覚で、マニプラの愛でもそれなりに愛ではあるのですけど、割と「束縛・情の愛」なわけです。私は、この、マニプラの束縛・情の愛をいわゆる清楚系ビッチに対して感じていたわけですけれども、当時はそれがマニプラの愛だと気付かず、実はマニプラの愛をハートの愛だと解釈していて、どの感情がハートの愛だということを頭で理解できていなかったのです。ハートの愛というと言葉では何やら立派ですけど、実のところ、なんであれ都合の良いように解釈してしまって、低い段階の愛でも頭で「これはハートの愛」と思って解釈してしまっていたように思います。どれがハートの愛なのか、わかっていなかったのです。違うものをハートの愛だと解釈してしまっていたのです。
この辺り、おそらくは私の母親の影響が強くて、私の母親は束縛が強くてマニプラの愛なわけですけど、束縛の愛は母からとても沢山頂いたように思えて、それは有り難い愛なのですけど、とは言っても、どこまで行ってもそれはマニプラの束縛の愛なわけで、母親からはハートの愛はそれほどもらえていなかったように思います。そのことにより、愛とはこのようなものだ、という解釈が、私の中で当時に出来上がってしまっていたように思うのです。世間で愛はハートとか言われていて、実はハートの愛ではなかったのにも関わらず、自分が知っているだけの感覚がハートの愛だと思ってしまっていたわけです。感覚として知らないものを理解するときに、時に人は頭でわかったつもりになってしまいます。そういうことが起きていたように思います。
比較として、マニプラの愛よりハートの愛の方が「より知的」になるように思います。ですから、マニプラの束縛の愛あるいは肉体に近い愛に慣れている方からしたら、ハートの愛というのは割と冷めたものに見えてしまったり、あるいは、そもそも、それが愛だと頭で解釈できなかったりするわけです。
当時、冷静になって頭で考えると「あれ。私の好みはこういう子じゃないはず。いつもの(特に清楚系ビッチに対する、束縛系の愛の)ドキドキな感じとは違う」と思って、頭で「ん・・・。何か違う。これは愛ではない」と解釈して自分の感情を抑えたり騙したりしてしまっていたわけですけれども、それは解釈違いだったわけです。そのように頭と感情とが一致していないと感情面で不安定な意味不明な状態になって、たとえば急に悲しさが爆発してしまったりして、急に涙が出てきて泣きそうになる時があっても頭ではそれが何なのか顕在意識では理解できなかったりしたわけです。心と意識が分離された状態で顕在意識のマインドで勝手な解釈をしてしまうと、その間違った解釈が故に正しい行動ができなかったり、感情を知らず知らずのうちに押し殺してしまっていたわけです。その古い感情が随分と長い間私の奥底に眠っていて、最近になって、ようやく「正しい」理解を得たように思います。
マニプラの愛は束縛をしてきて、それはそれで愛なわけですけれども、ハートの愛になるともっと自由で束縛があまりなく、お互いに相手とより深く繋がりつつも尊重し合っているように思うのです。
思えば、最初、1週間くらい前から古い感情が出てきて一時的な思春期のような状態になっていた時、蘇ってきた記憶のフラッシュバックで現れる解釈がこのような「間違った当時の解釈」と食い違っていたため、最初は「要素ごとは昔のものを使っているけれども、解釈が異なる、現実と異なる。単なる教材のような気がする。頭の中で創作してしまった物語なのでしょう。」と思っておりました。でも、実は、それすらも私の解釈違いで、フラッシュバックで見せられたのは割と正しい姿で、私の昔の解釈がかなり間違っていたようなのです。となると、私は、全然わかっていなかったということが今更ながらわかります。当時は自信家で、よく理解できているつもりでいましたけど、なんてことはない、全然わかっていなかったようです。(今でも、まだ色々と、そういうことはあるかもしれません)
こうして改めて思うと、マニプラの愛が悪いものではなく、私が清楚系ビッチに感じていた愛はそれなりのマニプラの束縛の愛だったように思います。それはそれで、そのような愛の形もあるのだと思いますし、それにより深い愛を感じることは確かだと思います。束縛したいとか、束縛されたい、だとかいう感情は、それはそれなりに深く繋がることができてお互いに幸せなのだと思います。疎遠な愛よりも遥かに良いわけです。束縛の愛であったとしても愛をあまり知らない状況より良くて、それはそれできちんとした愛であるわけです。そのような愛が、清楚系ビッチによる束縛の愛かと思うのです。であれば、特に悪いことはなく、そのような人の愛し方もあると言うことで、それはそれでお互いに幸せな状況なのかなと思います。私自身、そのような愛を長らく幸せだと思っていましたから、苦しいことがあったとしても、それはそれで幸せなのだと思います。
また違った関係性のパターンがあって、相手はハートあるいはそれ以上の崇高な存在だとして、自分は今だにマニプラの束縛の愛しか知らない場合、相手を困惑させてしまうように思います。思えば、昔、全く違う場面において、私が気になって近づいた女性の方が困惑して、その女性がどう反応したら良いのかわからない困った状態で(遠回しに)拒絶される時があって、それはおそらく、私の愛がマニプラの束縛の愛だった一方で、その人はハート以上の愛を持っているから感覚が合わずに困惑し、そのくらいの良い人になると怒るとかはっきりと断るということはせずになるべく繋がろうと一旦はしてくれるのですけどうまく感覚や感情が繋がらず、困惑したまま、ちょっと視線をずらすようにして遠回しに拒絶した、ということがあったように思います。それなりに段階が同じですと繋がる部分があるのですけど、この時は、女性の意識レベルが高すぎて私と繋がれる部分をあまり持っていなかったように思うのです。女性からしてみたら「ちょっと、よくわからない。無理」という感じだったかと思います。そういうこともあるかと思います。
私は今まで束縛の愛、マニプラの愛の段階にいて、ハートの愛を度々経験しつつも、そこになかなか踏み出せなかったように思うのです。おそらく私は、この種のマニプラの束縛の愛からハートの愛へと踏み出す、過渡期にいたように思うのです。それ故に、今まで習慣になってしまっていた愛し方についつい固執してしまい、ハートの愛の形を頭で理解できておらず、よって、行動もちぐはぐになり、ハートの愛をうまく体現できていなかったように思うのです。本当に愛すべき人が何人も目の前に現れていたのに、そのことを理解できていなかったわけです。
今回、今までの人生を振り返ることにより、ハートの愛を理解して、今まで出会った人の中で誰を愛するべきではなかったのか、実は誰を愛して大切にすべきだったのか、それを認識できたように思います。今まで清楚系ビッチにばかり惹かれていましたが、愛すべきだったのは誠実な人だったわけです。そう言う出会いも多数ありましたが、認識が至らず、スルーしてしまっていたかと思います。あんないい子たちに、若い頃の私はなんて失礼な態度を取ってしまったのだろうかと思います。何人もの、スルーしてしまった良い子たちに謝りたいと思います。
ハート(アナハタ)の愛の場合、愛が伝わらないと悲しくなるように思います。特に相手がまだハート(アナハタ)の段階にない場合、相手の愛がマニプラ段階ですと、ハート(アナハタ)の愛で繋がることができなくて悲しくなるわけです。あの時のあの良い子たちと仲良くなるべきだったと今更ながら思ったりもするわけですけど、実際、当時の状態ではその愛に応えられるほどの段階に至っていなかったわけです。私の方に準備が整っていなかったわけです。あの良い子たちはハートの愛の段階で、しかし、私の方は時折そこに達するかどうかという過渡期で基本はマニプラの束縛の愛でしたから、あの良い子たちは私の状態を見て、ハートの愛で繋がることができなくて悲しんでいてくれたのだと思います。段階が違うのですから関係性がうまくいかなかったのも当然であると言えます。
このような理解が私の中に現れると共に、今までよりハートが少しだけ開いて胸の敏感な部分が顕になり、時折、その敏感なハートが外界を興味深そうに伺っているのを感じます。ハートが以前より周囲の感性を敏感に感じ取っていることを感じます。更には、頭頂のサハスララの方にまで更にオーラが充満するようになり、まだサハスララは開ききっていないような感じではありますが、それでも、安定度は増したように思います。この状態で、愛に対する理解度が増したように思うのです。その結果、今まで、申し訳ないことを沢山した、という思いが次々に湧き出てくるのです。これは若い頃のお話ですから、体の関係とかはなくて、心だけのお話、プラトニックなお話です。特に深い関係になる以前のお話で、淡い気持ちをないがしろにして女の子を悲しませてしまったことに対する申し訳なさのお話なわけです。私は割と、純粋な乙女の気持ちを無視してスルーしてしまっていたように思うのです。そして、そのような人たちの中に本当にいい子たちが沢山いたのですが、本当に大切にすべきだったのはそのような人たちだったわけです。
そうは言いましても、私なんて恋愛下手でとても鈍いのですから、女の人の方からはっきりと気持ちを言ってくれても良かったとは思いますが、やはり女の人の方からそう言うことは言いにくいですよね。それは仕方がないです。いい子ほど自分の気持ちを表現するのを躊躇してしまっていて、いい子の気持ちほど男の方が気付いてあげる必要がある気も致します。
これは、色々と理屈もありますけど、平たくいえば「私は今まで(それほど)ハート(アナハタ)の愛を知らなかった」と言うことだと思います。感覚で時折そのような状態になることはあっても、恒常的なハートの愛の状態ではなかったように思うのです。ぐるりぐるりと理解を何度も何度もし直すことにより理解が少しずつ深まってきているように思います。
理解が改まったことにより、今後の振る舞いや考え方も根本的に変わることと思います。今更ながらという感もありますが気付かずに一生を終えるよりましで、せめてこれからでも認識を新たにして生きてゆきたいと思います。
この新たな目で世間を見ると、「本当に良い人」と言うのはそこら中にいて、愛に満ちた生活を送っているということがわかります。そのような人はスピリチュアルな変な理屈などとは無縁だったりして、それでも、愛を知っているわけです。むしろ、スピリチュアルで成長したとか傲慢になっている人の方が愛を知らないことが多くて、愛を知るという基本的で本質的なところまで達しているスピリチュアルな人というのは意外にそこまで多くないような気も致します。スピリチュアルな人は「情報」とか「知識」を重視しがちですけど、それよりも、普通の生活を大切にして、愛ある生活を心がけている人の方がよほどスピリチュアルであるように思います。まあ、両方あるのが理想ではありますが。
スピリチュアルな人は、情報とか知識とかで学ぶことでこのハートの愛の状態を目指しているのだと思います。であれば、ハートの愛を知るまでは学びの途中ということですから、いくら知識を得て立派になった気がしてもそれは気のせいで、ハートの愛を知らないのであればその程度であるわけです。それでも、知識や学びというものは人を愛に向けて成長させてくれますから無駄ではないのですけど、ハートの愛に達していないのにも関わらず既に自分はそれなりの境地に達したと思って傲慢になってしまうスピリチュアルな人がそれなりにいる、ということだと思います。それよりも、そこら中にいる「本当に良い人」の方がよほどハートの愛に満ちた生活をしているわけです。前々から思っていたことではありますけど、スピリチュアルというのは割と「悟っていない人」向けのものだったりするわけです。本当に悟っているならば修行とかスピリチュアルとか関係ないわけです。
私は今まで、瞑想で至った「至福」とか「満ちている」という感覚の境地で割と満足していましたけど、このハートの「愛」を少しでも知ったなら、そのような(個人的な)至福だとか(個人的な)満ちているという感覚は、まだまだ途中のものだったことがわかるわけです。
これらの新たな理解に達して、愛と言う基本的で本質的な事柄の整理ができたことにより人を見る目というものも変わったのと同時に、自分が心がけるべきところも変わったように思うのです。
まずハートの愛と言うものを知り、それにより、周囲の人のことも理解できるようになる、と言うことだと思います。よく言われているように、自分より下の精神レベルの人しか理解できないわけで、自分がハートの愛を知らなければ他人が愛を持っているかどうかわからない、と言うのも当然のように思います。
清楚系ビッチと本当に良い女性を見分けるには、まず自分が愛を知る、と言うこと。そのような、とても単純なお話だと思うのです。これは相応と言うもので、束縛の愛(マニプラの愛)と言う形も存在していますから、それが悪いわけでもなく、それであったとしても十分、それはそれなりの愛だと思うのです。束縛の愛も、苦しい部分があったとしても、それはとても強い愛なわけです。未だそこに至っていない人も大勢いるわけで、マニプラの束縛の愛にしても相応に素晴らしい愛なわけです。
一方、その次の段階、まず自分がハート(アナハタ)の愛を知ることで束縛の愛(マニプラの愛)より一歩先に出て、その時、本当に良い女性を見分けて見つけることができるように思うのです。
又、愛の状態で生きる、ということは、テレパスで生きる、ということとほぼ同じことであるように思います。愛によってテレパスになるわけです。ワンネスですね。それは自他同一の境地でもあります。
こうして、小学生以来しばらくぶりに状態が戻ってきて、テレパスに戻りつつ、当時は感覚だけでしたけど今は感覚と共に理解も伴い、ハートの愛を理解することで本当に良い女性をある程度は見分けることができるようになり、再度、生活が充実したものになってきたように思うのです。
ヨーガや瞑想をして、静寂だとか、至福だとか、色々言ってはきましたけど、なんてことはない、結局、行き着く先は普遍的なハートの愛だったわけです。そしてそれは、瞑想だとかスピリチュアルだとか色々と言わずとも多くの人が自然に実践している普通のことだったわけです。その、普通のことを私は知らなかった、忘れていたわけです。忘れていたが故に、それが何やら大層なものであるかのような気がしておりましたが、なんてことはない、普通の愛こそが知るべきものだったわけです。思い出してみれば、私がかつて小学生の頃に抱いていた気持ちと割と同じものだったわけです。長らく、その感覚を忘れていたのです。
ハートが開き、感情が豊かになり、なんてことはない普通の愛の感覚こそがヨーガやスピリチュアルで言われていることそのものだったことを理解した時、今までいかに自分の認識が足りていなくて普通の愛の感覚に欠けていたかを実感したわけです。そしてそれは、この状態に達する前までは別物かのように思っていたことが、実は同じものだった、ということをはっきりと認識できるまでに成長したわけです。
ヨーガやスピリチュアルをして、静寂の境地など各種の状態に達することで、あたかも自分が成長して優れた人間になれたかのような錯覚に陥っていたわけです。実のところ、そんなヨーガやスピリチュアルをしなくても普通に愛に満ちて生活して日々の辛い生活を過ごしながら愛を実社会で実践している人は大勢いるわけで、本当に素晴らしくて凄いのはこの難しい社会の中で愛を実践している人たちなわけです。それに比べたら、限られた環境の中でヨーガやスピリチュアルでちょっと成長していい気になっていた私など小童に過ぎなかったわけです。スピリチュアルや宗教が気持ち悪いと感じたり偽善的だと感じる要因の一つとして、この普通の愛に到達することなしに愛を語る人がいるから、という側面もあるように思うのです。
どうやら、このハートの愛に関する理解に達するまでは、まだ十分に愛というものを知らなかったように思います。ずっと忘れていたように思うのです。表現として「愛を知る」とは言ったりしますけどこれは比喩表現であって、知的に何かを暗記して勉強したということではなく、これは、愛の状態に至った、ということを一応「知る」と比喩的に表現しているわけです。愛は勉強して「知る」というものではないのですけど愛の状態になりさえすればその状態に対する「理解」は得られますのでその状態の認識に対して「知る」と比喩的に表現するのは間違いではないように思うのです。これがあたかも知的な理解かのように誤解してしまうような「愛を知った」という表現は割と誤解があって不適格ではある気もするのですけど、そうは言いましても愛の状態になりさえすれば比喩表現として「愛を知る」と表現してもわかっている人からしたらそう誤解はないと思いますし、以前よりも愛というものに対する理解が深まったように思うのです。そのように、まずハートの愛の状態になることで、世間で言われている愛の状態に関する理解がその通りだったという理解に至ったわけです。
愛で生きる、ということの第一歩を踏み出せたように思うのです。それも全て、私を愛してくれた(そして悲しんで涙を流してくれた)多くの女性と、私が好きになることができた何人かの女性たちのおかげでもあります。そしてそれは、異性を愛するということだけでなく、万人に向けての普遍的な愛へとも繋がっていると思いますし、また、元々の、あるべき姿に戻った、と言うことでもあると思います。
ハートの愛というものは人の根本であって、誰しもが持っているものだと思います。それが社会生活を過ごすにつれて曇らされ、認識が歪み、いつしかハートの愛というものがわからなくなっても、ハートの愛を求め続けていればやがてそのハートの愛の状態に戻ってこられる、ということだと思うのです。
あとがき
数週間前から現実と食い違うフラッシュバックによる魔境かと思っていたのですけど、フラッシュバック自体は割と現実で本当のことで、私の解釈が違っていた、と言うことだったようにも思うのです。今、解釈も含めてかなり理解が正しいものに修正され、苦しさはありません。この正しい理解へと至った基礎が、不完全な感情を完全な感情へと昇華すると言うところだったかと思います。
スピリチュアルでは時折、意識は1つしかない、みたいなことが言われます。これは、時折、意識には高次と低次があるとスピリチュアルで言われていることと矛盾するように一見すると見えるかもしれませんが、それは、過渡期では分かれているように主観では感じられるけれどもこの段階になると意識は1つなのです。比喩として「完全な感情」とでも言える段階になると意識は1つに感じられるように思います。
スピリチュアルに全く目覚めていない状態では低次の意識である普通の思考するマインドしか感じられない状態ですけど、少し目覚めてくるとその通常の低次の意識の他に高次の意識が別のものとして存在しているような主観の感覚が現れてきます。まだスピリチュアルでそれほど成長していない場合は高次の意識と低次の意識が離れていて線のようなものでかろうじて繋がっているように感じられて、その過渡期の状態の時は2つの意識があると錯覚していてその主観としてはそれほど間違いではなくて、低次の自分であるところの普通の思考するマインドが高次の意識を感じている状態では分離感と共にある程度の一体感があるわけです。低次と高次と分かれてはいるものの、それなりの一体感があって、一体といえばそうですし、分かれていると言えば、それもそうなわけです。そのように、低次と高次の意識が分かれている、という段階があるのですけど、それは理屈から言っても実際から言っても錯覚で、本当は、最初から1つなわけです。高次の側からすると最初からワンネスですけど、低次の自分が分離を錯覚していただけなわけです。そのような過渡期を超えて、高次の意識と低次の意識との分離感がなくなると「完全な感情」と比喩される状態になって、その時、愛とかワンネスとか新たな認識・状態に至るように思うのです。この時、文字通り、意識は(低次も高次もなくて)1つであり、自らの意識においてもワンネスになるのです。そしてそれがそのままハートの愛の状態なわけです。
このことにより、過去のかつての認識が実際と食い違っている、と言うことに多々気がつきました。それらを次からの記事で羅列させて頂きます。
愛とイライラ
思い返せば、当時、大学の同級生のとある女の子はどうもきつい性格をしているなぁ・・・ と思っていましたが、どうやら、私がその子をちょっといいなと思いつつも煮え切らない態度だったためにその子はイライラしていたわけですが、当時の私は「あまり性格の良い子ではないような」と思ってちょっと距離を取っていたわけですけど、今からわかるのは、これは性格が原因ではなくて、私のことがハートで好きなのにも関わらず私の方にそこまで脈がなくて微妙に「良いな」と思っている程度だったがために、その子の気持ちに答えてくれない私に対してイライラしてちょっときつい態度を取られていたのではないかと思うのです。
高校時代にちょっときつい性格をしていた元気の良い子も似たようなもので、私は割とその子をスルーして単なる友達扱いでしたから時々爆発されていましたね。はたまた、同じく高校のとある子は、ちょっと仲良くなったもののそれ以上は普通の友達でしたから、この場合、ちょっと悲しそうな半泣きの顔を時々していて、当時私は「なんだろ。どうしたんだろ」と思っていましたけど、実は、恋が破れて悲しんでいた顔だったようです。当時は女の子の気持ちが理解できていなくて、恋をしたときの女の子の気持ちがわかっていませんでした。ほんと私は鈍感だったと思います。
他にも、大学生の時に上級生でいいなと思った子がいたのですけど、その子は悲しむとかいう顔はほんの少しで、基本は単に私が好意を持っているのを見てにこやかにしてくれていて、当時は単にちょっと話す程度でしたけど、思うに、この子の場合は自分に好意を持たれて嬉しい、という感情に加えて、あまり進展しないのが少し悲しい、という感じだったのかなと思います。このパターンは、片方が恋をしてもう片方が受け止める、という愛の形ではないかと思うのです。両思いで両方ともハートで相手を愛するのが一番ではありますけど、少なくとも片方がハートで相手を愛することができればもう片方がそれを受け止めて、関係性はうまくいくように思われます。もちろん、受け止める側にその自覚と「受け止める」と言う選択があってのことではありますが。
思えば、私にしても周囲にしても、両思いで両方ともハートで相手を愛する、ということを絶対条件にしている人が私の周囲には割と多かったように思うのです。自分が誰かをハートで好きになっても、相手が自分をハートで愛してくれていないとわかると「脈なし」でアプローチもせずに撤退してしまう人がかなり多かったように思うのですが、そのようにハートで両思いになるのはなかなか現実的には難しくて、ですから、少なくとも片方がハートで誰かを愛しているのであれば、もう片方はそれを「受け止める」と言うので十分だと今なら思うのです。もちろんそれは誠実な性格があってのことですが、誠実な人を好きになった上で、誠実な人がハートの愛を受け止めてくれるのであれば、パートナーの関係はうまくいくと思うのです。そのような関係の人も実のところ世の中に多くいるように思うのです。むしろ、両思いよりもそのパターンの方が遥かに多いと思うのです。それはそれで、お互いに十分に幸せだと思うのです。そもそも、ハートがあまり開いていない人がハートで愛するというのがまず難しいわけで、女性であれば稀にハートが開いている人がいるにせよ、特に男であればハートが開いているのはなかなか稀でありますから、片方だけでもハートの愛があれば割と十分のようにも思うのです。
これらの理解に基づいて逆の立場に立ってみれば私の周囲の女性の気持ちもなんとなく想像できて、私の気持ちをスルーしていた女性がぼちぼちいたのですけどそれはその女の子がそこまでハートの愛を知らなかった、ということなのかなと思います。本当に良い人は、誰かに好意を持たれた時に悪くは思わないですし、鈍感で気付かないという場合を除けば、ハートの愛を知っている人が(誰かの)自分への好意に気付いた場合は(その人に対して)そうそう悪い扱いはしないわけです。一方、ハートの愛を知らない人が誰かから好意を持たれてもスルーする場合が多いように思います。この理解は私の自分のかつての行動に基づいていますので人によって多少違うかもしれません。とは言いましても、昨今は変な人が多いので、若い頃の学生生活では正直で良くても、ある程度の年になったら意図的にスルーする方が良いかもしれませんが。
当時私は割ときつい性格の女性を避ける傾向があって優しい人がいいなと思っていたわけですけど、本気で私のことを好きになってくれる人ほど普段は一般的に優しい反面、なぜか私の前では一転してきつい性格になりがちだったように思います。当時はそのことが理解できなくて、表面上は良く振る舞っているけれども実際はきつい性格なのかと解釈してしまい、表面上は優しく接してくれる清楚系ビッチにばかり引っかかって失敗してしまっていたように思います。清楚系ビッチは実際はきつい性格だけれどもそれは人に見せないで、誰それ構わず、私の前でも表面上は優しい性格なわけです。本当に私のことを思ってくれている人は、むしろ、きちんと向き合ってくれたり、しっかり見て考えてくれたり、時にきつい言葉で言ってくれる人の方が私のことを考えてくれていたわけで、当たり障りのない世間話や定型の褒め言葉でなんとなく私をいい気にさせるような会話上手の女の子たちは私のことをそこまで深く愛してくれているわけでもないと今なら思えるのです。しかしながら、当時、私はというと表面上のことしか見えていませんでしたから、会話上手な清楚系ビッチに惹かれてことごとく失敗していたのでした。
思えば、私のことを本気で好きになってくれていた人がたくさんいたのですから、その人の愛を私は受け止めるだけで良かったようにも思います。自分が恋をしなくても恋を受け止めるだけで十分に幸せな人生を送れたようにも思います。実のところ私が自分から恋をするということは本当に少なくて、と言いますか、上に書きましたように、私は恋というものが何なのかあまりよくわかっていなくて、大体が、ちょっといいなと思うか、あるいは、清楚系ビッチに惹かれて(それは恋ではない)なんとなく好きな感じになってしまっていただけだったように思います。好きかも、と思うことはありましたが、勘違いだったことが多かったように思います。ですから、今から思えば、本当に私が恋をしたのは数えるくらいだったかなと思います。
一般的に、私に対してイライラしている子を誰がしか見た時に私は「ちょっと性格の悪い子」とずっと思っていたわけですけど、その内実はというと、とても(私が)好きだからこそイライラしていると言う場合もあって恋というのはそう言うものだと最近になって理解できたわけです。そういう子は私に対して笑顔でいるわけでもなく、私が視線を向けても目が合うとすぐに逸らしてそっぽを向いたりするので、私としては別になんとも思っていなくてスルーしていたわけですけど、今から思えば、私の方を見ていたのは「なんなのこの人」と思っていて、私が気がついて目を向けて視線が合うと「プイッ」としていたのかなと思います。逆の立場で、当時、自分自身がいざそのような行動に衝動的に出てしまっていた時も自分自身の行動を自分で理解できていなかったと言えます。当時、「あれ。私って、こんな性格の悪い人だったんだ。なんで私ってこんなにイライラしているんだろ」と、落ち込んでしまっていたりしました。視線が合っても「プイッ」としてしまっている自分がいて、「あれ。何これ?」と自分の行動が理解できないでいました。具体的には、例のT大の子が私の相手をあまりしてくれなかった時、私はついついそういう態度を取ってしまい、次第に声が大きくなってきてしまって、時々その子をびっくりさせてしまい、それで、まんまるな可愛い目で私の方を「どうしたのかしら?」と見つめられてしまうと、自分がしてしまったことに対しての自己嫌悪と、誤解されてしまったかもしれないという悲しさと、そこまで相手にされていないことに対する悲しみとが相乗効果で襲ってきていたのでした。まあ、自分で「プイッ」としていたら振り向いてくれないのは当然なわけですけど。そもそも、向こうも煮え切らない態度でしたから、私が「もうっ! もういい!」と思っていたわけですけど、もっとゆっくり構えていても良かったのかなと思います。その理解を元に別の子たちとの数々の状況を思い返すと、きっと私のことを好きになって時折ちょっときつい態度を私に対して取ってしまった女の子たちも割と似たような状況だったのかなと思います。であれば、私がそうであったように、数々の女の子達にしても、顕在意識においては私(相手)を好きだとは自覚せずに自然にそのような態度に出ていたという場合も多かったのかなと思います。今回、改めて回想して理解し直すまで、自分があのような行動を取った理由までは自覚していませんでしたし、実のところ、「あれ。私って、あの子のこと、自分が思っている以上に好きだったのかも。あのイライラは、そういうことだったのかも」と今更ながら気づいたところもあります。自分の気持ちに気がつかない、というのは、自他共に、思いの外多いように思います。それと、感覚で好きかも、と思っても、頭でそれを理解できずに混乱して取り乱した挙句、「あり得ない」と否定してしまうことも多いように思いますが、頭での判断より感覚の方を優先させるべきだったと言えます。心が整理できていて安定していないと恋愛も上手くいかなくて自滅することが多いように思います。態度と気持ち、それに発言とが合致していないわけですから、相手の立場としても、そのような人をどう扱っていいのかわからないのも当然でしょう。混乱する女性に対峙する、という場面であればたとえば高校時代に「あだち充」を勧めてきた同級生の子がいて、私が仲良くしたいと思っているのに私が近づくとその子は何やら混乱し始めて態度と発言とが意味不明でOKなのかNGなのかよくわからず進展しませんでしたし、逆の立場、自分が混乱する、という状況はT大生の子に対して私が混乱してしまって態度と発言が意味不明になってしまって上手くいかなかった、ということがありました。自分がその立場になってみて分かったのですが、好きかもしれない状態になると、頭の中が真っ白になって論理回路が上手く動かなくて発言が意味不明になったり相手の言葉が(そもそも解釈も難しくなって)よく理解できなくなって、顔と存在しか意識に入ってこなくなり、そのような状態では発言も行動も意味不明になるのです。そうなると、相手としては「なんだろ、この人。よくわからない」という感じになって、恋愛の経験が豊富な人なら「あー、私のこと好きなのかな」と思ったりもするわけですけど、若いと状況が理解できなくてスルーしてしまうわけです。
今から思えば、まず自分が相手を好きかどうか判定して、ハートで相手が好き或いは好きになる可能性があるとすれば相手が煮え切らない態度であろうが何であろうがとにかく誘ってしまえば良いわけです。両思いになるまで待つ必要はそこまでなくて、片方がその気なら、そして、相手がいい子で、その子がまんざらでもなさそうならば誘うに十分かなとも今なら思うわけです。相手が煮え切らない態度なのは最初であれば割と当然で、そうだからとして「プイッ」としてしまうのは早計すぎて、慌てずじっくりと関係性を深めていけば良いわけです。
今更それに気がついたとしましても数十年前のことですのでそれから連絡も取っていないですしおそらく顔も変わっていて、もはやすれ違っても気付かないかもしれないですから、今のところ、単なる思い出以上のものではないわけですが。一般的には、この種の思い出は単なる思い出で、今更、どうこうなるわけでもありません。どうこうなる、と考える方が普通はおかしいわけで。音信不通になって何十年となるのに今更何か不思議なことが起こるとすればそれは高次の介入の可能性の方が高いわけで。介入がなければ何も起きないのが普通ですから、自分がどうこう考えても仕方がない話でもあります。
高校時代にちょっときつい性格をしていた元気の良い子も似たようなもので、私は割とその子をスルーして単なる友達扱いでしたから時々爆発されていましたね。はたまた、同じく高校のとある子は、ちょっと仲良くなったもののそれ以上は普通の友達でしたから、この場合、ちょっと悲しそうな半泣きの顔を時々していて、当時私は「なんだろ。どうしたんだろ」と思っていましたけど、実は、恋が破れて悲しんでいた顔だったようです。当時は女の子の気持ちが理解できていなくて、恋をしたときの女の子の気持ちがわかっていませんでした。ほんと私は鈍感だったと思います。
他にも、大学生の時に上級生でいいなと思った子がいたのですけど、その子は悲しむとかいう顔はほんの少しで、基本は単に私が好意を持っているのを見てにこやかにしてくれていて、当時は単にちょっと話す程度でしたけど、思うに、この子の場合は自分に好意を持たれて嬉しい、という感情に加えて、あまり進展しないのが少し悲しい、という感じだったのかなと思います。このパターンは、片方が恋をしてもう片方が受け止める、という愛の形ではないかと思うのです。両思いで両方ともハートで相手を愛するのが一番ではありますけど、少なくとも片方がハートで相手を愛することができればもう片方がそれを受け止めて、関係性はうまくいくように思われます。もちろん、受け止める側にその自覚と「受け止める」と言う選択があってのことではありますが。
思えば、私にしても周囲にしても、両思いで両方ともハートで相手を愛する、ということを絶対条件にしている人が私の周囲には割と多かったように思うのです。自分が誰かをハートで好きになっても、相手が自分をハートで愛してくれていないとわかると「脈なし」でアプローチもせずに撤退してしまう人がかなり多かったように思うのですが、そのようにハートで両思いになるのはなかなか現実的には難しくて、ですから、少なくとも片方がハートで誰かを愛しているのであれば、もう片方はそれを「受け止める」と言うので十分だと今なら思うのです。もちろんそれは誠実な性格があってのことですが、誠実な人を好きになった上で、誠実な人がハートの愛を受け止めてくれるのであれば、パートナーの関係はうまくいくと思うのです。そのような関係の人も実のところ世の中に多くいるように思うのです。むしろ、両思いよりもそのパターンの方が遥かに多いと思うのです。それはそれで、お互いに十分に幸せだと思うのです。そもそも、ハートがあまり開いていない人がハートで愛するというのがまず難しいわけで、女性であれば稀にハートが開いている人がいるにせよ、特に男であればハートが開いているのはなかなか稀でありますから、片方だけでもハートの愛があれば割と十分のようにも思うのです。
これらの理解に基づいて逆の立場に立ってみれば私の周囲の女性の気持ちもなんとなく想像できて、私の気持ちをスルーしていた女性がぼちぼちいたのですけどそれはその女の子がそこまでハートの愛を知らなかった、ということなのかなと思います。本当に良い人は、誰かに好意を持たれた時に悪くは思わないですし、鈍感で気付かないという場合を除けば、ハートの愛を知っている人が(誰かの)自分への好意に気付いた場合は(その人に対して)そうそう悪い扱いはしないわけです。一方、ハートの愛を知らない人が誰かから好意を持たれてもスルーする場合が多いように思います。この理解は私の自分のかつての行動に基づいていますので人によって多少違うかもしれません。とは言いましても、昨今は変な人が多いので、若い頃の学生生活では正直で良くても、ある程度の年になったら意図的にスルーする方が良いかもしれませんが。
当時私は割ときつい性格の女性を避ける傾向があって優しい人がいいなと思っていたわけですけど、本気で私のことを好きになってくれる人ほど普段は一般的に優しい反面、なぜか私の前では一転してきつい性格になりがちだったように思います。当時はそのことが理解できなくて、表面上は良く振る舞っているけれども実際はきつい性格なのかと解釈してしまい、表面上は優しく接してくれる清楚系ビッチにばかり引っかかって失敗してしまっていたように思います。清楚系ビッチは実際はきつい性格だけれどもそれは人に見せないで、誰それ構わず、私の前でも表面上は優しい性格なわけです。本当に私のことを思ってくれている人は、むしろ、きちんと向き合ってくれたり、しっかり見て考えてくれたり、時にきつい言葉で言ってくれる人の方が私のことを考えてくれていたわけで、当たり障りのない世間話や定型の褒め言葉でなんとなく私をいい気にさせるような会話上手の女の子たちは私のことをそこまで深く愛してくれているわけでもないと今なら思えるのです。しかしながら、当時、私はというと表面上のことしか見えていませんでしたから、会話上手な清楚系ビッチに惹かれてことごとく失敗していたのでした。
思えば、私のことを本気で好きになってくれていた人がたくさんいたのですから、その人の愛を私は受け止めるだけで良かったようにも思います。自分が恋をしなくても恋を受け止めるだけで十分に幸せな人生を送れたようにも思います。実のところ私が自分から恋をするということは本当に少なくて、と言いますか、上に書きましたように、私は恋というものが何なのかあまりよくわかっていなくて、大体が、ちょっといいなと思うか、あるいは、清楚系ビッチに惹かれて(それは恋ではない)なんとなく好きな感じになってしまっていただけだったように思います。好きかも、と思うことはありましたが、勘違いだったことが多かったように思います。ですから、今から思えば、本当に私が恋をしたのは数えるくらいだったかなと思います。
一般的に、私に対してイライラしている子を誰がしか見た時に私は「ちょっと性格の悪い子」とずっと思っていたわけですけど、その内実はというと、とても(私が)好きだからこそイライラしていると言う場合もあって恋というのはそう言うものだと最近になって理解できたわけです。そういう子は私に対して笑顔でいるわけでもなく、私が視線を向けても目が合うとすぐに逸らしてそっぽを向いたりするので、私としては別になんとも思っていなくてスルーしていたわけですけど、今から思えば、私の方を見ていたのは「なんなのこの人」と思っていて、私が気がついて目を向けて視線が合うと「プイッ」としていたのかなと思います。逆の立場で、当時、自分自身がいざそのような行動に衝動的に出てしまっていた時も自分自身の行動を自分で理解できていなかったと言えます。当時、「あれ。私って、こんな性格の悪い人だったんだ。なんで私ってこんなにイライラしているんだろ」と、落ち込んでしまっていたりしました。視線が合っても「プイッ」としてしまっている自分がいて、「あれ。何これ?」と自分の行動が理解できないでいました。具体的には、例のT大の子が私の相手をあまりしてくれなかった時、私はついついそういう態度を取ってしまい、次第に声が大きくなってきてしまって、時々その子をびっくりさせてしまい、それで、まんまるな可愛い目で私の方を「どうしたのかしら?」と見つめられてしまうと、自分がしてしまったことに対しての自己嫌悪と、誤解されてしまったかもしれないという悲しさと、そこまで相手にされていないことに対する悲しみとが相乗効果で襲ってきていたのでした。まあ、自分で「プイッ」としていたら振り向いてくれないのは当然なわけですけど。そもそも、向こうも煮え切らない態度でしたから、私が「もうっ! もういい!」と思っていたわけですけど、もっとゆっくり構えていても良かったのかなと思います。その理解を元に別の子たちとの数々の状況を思い返すと、きっと私のことを好きになって時折ちょっときつい態度を私に対して取ってしまった女の子たちも割と似たような状況だったのかなと思います。であれば、私がそうであったように、数々の女の子達にしても、顕在意識においては私(相手)を好きだとは自覚せずに自然にそのような態度に出ていたという場合も多かったのかなと思います。今回、改めて回想して理解し直すまで、自分があのような行動を取った理由までは自覚していませんでしたし、実のところ、「あれ。私って、あの子のこと、自分が思っている以上に好きだったのかも。あのイライラは、そういうことだったのかも」と今更ながら気づいたところもあります。自分の気持ちに気がつかない、というのは、自他共に、思いの外多いように思います。それと、感覚で好きかも、と思っても、頭でそれを理解できずに混乱して取り乱した挙句、「あり得ない」と否定してしまうことも多いように思いますが、頭での判断より感覚の方を優先させるべきだったと言えます。心が整理できていて安定していないと恋愛も上手くいかなくて自滅することが多いように思います。態度と気持ち、それに発言とが合致していないわけですから、相手の立場としても、そのような人をどう扱っていいのかわからないのも当然でしょう。混乱する女性に対峙する、という場面であればたとえば高校時代に「あだち充」を勧めてきた同級生の子がいて、私が仲良くしたいと思っているのに私が近づくとその子は何やら混乱し始めて態度と発言とが意味不明でOKなのかNGなのかよくわからず進展しませんでしたし、逆の立場、自分が混乱する、という状況はT大生の子に対して私が混乱してしまって態度と発言が意味不明になってしまって上手くいかなかった、ということがありました。自分がその立場になってみて分かったのですが、好きかもしれない状態になると、頭の中が真っ白になって論理回路が上手く動かなくて発言が意味不明になったり相手の言葉が(そもそも解釈も難しくなって)よく理解できなくなって、顔と存在しか意識に入ってこなくなり、そのような状態では発言も行動も意味不明になるのです。そうなると、相手としては「なんだろ、この人。よくわからない」という感じになって、恋愛の経験が豊富な人なら「あー、私のこと好きなのかな」と思ったりもするわけですけど、若いと状況が理解できなくてスルーしてしまうわけです。
今から思えば、まず自分が相手を好きかどうか判定して、ハートで相手が好き或いは好きになる可能性があるとすれば相手が煮え切らない態度であろうが何であろうがとにかく誘ってしまえば良いわけです。両思いになるまで待つ必要はそこまでなくて、片方がその気なら、そして、相手がいい子で、その子がまんざらでもなさそうならば誘うに十分かなとも今なら思うわけです。相手が煮え切らない態度なのは最初であれば割と当然で、そうだからとして「プイッ」としてしまうのは早計すぎて、慌てずじっくりと関係性を深めていけば良いわけです。
今更それに気がついたとしましても数十年前のことですのでそれから連絡も取っていないですしおそらく顔も変わっていて、もはやすれ違っても気付かないかもしれないですから、今のところ、単なる思い出以上のものではないわけですが。一般的には、この種の思い出は単なる思い出で、今更、どうこうなるわけでもありません。どうこうなる、と考える方が普通はおかしいわけで。音信不通になって何十年となるのに今更何か不思議なことが起こるとすればそれは高次の介入の可能性の方が高いわけで。介入がなければ何も起きないのが普通ですから、自分がどうこう考えても仕方がない話でもあります。
愛と視線
実際のところ、小学校の頃にしても、今にしても、普通に生活しているだけでとても幸せで楽しくで、何気なく笑顔で歩いていて、ふと景色を見てそこに「たまたま」誰かがいたら、私は実際私はその子には気付かず見ていないかあるいは景色の一部としてしか見ていないのにも関わらず、その子が勝手に「私のことを見つめている? 私に微笑みかけている? 私のこと好きなのかしら?」と勘違いしてしまうことが多くて、小学校や中学校ではとても困りました。特に子供は自意識過剰な子も多いようで・・・。実のところ私としてはあまり目の焦点があっていなくて、よく見えていなくて、ただ単に自分が幸せだから笑顔で景色を見ながら暮らしているだけなのに、女の子が勝手に「ああ、私のこと好きなんだー?」と勝手に盛り上がって、私は鈍感ですからしばらくそれに気付かず、しばらくして、女の子からハートマークで見つめられていることにふと気がついて、「あれ? あの子、なんだろ?」と思っていたら、向こうが私を好きになったと言うよりは私が先に見つめたからそれに笑顔で答えている、と言うことに後々になって気がついて、そのように、意図せずして好意を持っているかのような状態で生きていると大勢に対して好意のサインを与えている状態になって、二股みたいな扱いをされることも時々ありました。そのように、女の子から視線が来るような状態になると、どうやらその女の子を片思いで好きらしい見知らぬ男が嫉妬の炎を燃やして遠くから私を睨みつけられていたりする、ということも割とよく起こりました。いや、これは自意識過剰とかではなくて本当のことです。そして、私がよくわからず鈍感で女の子をスルーしていたらいつの間にかその女の子(実のところ、そこまで知らない子も多い)がイライラし始めて、女の子の側としては、女の子の方から好きになったと言うよりは私の視線が原因な訳で、私の気持ちが変わったのかと思うことも多かったようで、私が鈍感でスルーしているうちにいつの間にか険悪な雰囲気になってきたりしました。いやいや、私は良くわかりません・・・。勝手に女の子が自分で盛り上がって勝手に傷ついて勝手にイライラして・・・。よくわからないですけど、ごめんなさい。そのような子と特に仲が良いわけではないので私は困るし、そんな状況を横で見てイラついている片思いの男からはガンつけられたり嫌がらせを受けたり恨まれたりするしで、いいことありませんでした。女の子の方にたまたま目を向ければ「私が好きなのかしら?」と思われるし、男の方を見れば「何だこいつ、ホモなんじゃないか」と勝手に思われたりするような状況でした。据え膳食わぬは男の恥なんて言いますけど、積極的になっている風に見える女の子と仲良くしない私を見てホモなんじゃないかと噂を流す人もいたりして迷惑でしたが、今から思えば、それは私の視線が勘違いさせていたり、あるいは、嫉妬のなせる技なわけです。いやいや、小学校の私に一体どんな行動を求めているのでしょうか。小学生なんて何もできないですよね。そのように噂を流したり色々と思い描く人は、想像力が豊かすぎはしないでしょうか。それと、当時は気が付きませんでしたがそのような噂を流す人の一部は本人が男の場合は実はその気のある人だったりして、BLの世界のことなんて当時は知りませんでしたけど、あの種の発言、例えば「君は同性が好きなのですか? 君はホモなのかい?」みたいな微妙な表現はBLではどうやらイベント発生のフラグらしく、遠回しに私をBLに誘っている時もあったのかもしれませんけど私は基本的に鈍感ですから全く気付かずスルーしていて、男の子のピュアな気持ちに全く気付かず、「はあ? 何を言ってるんだろ?」と思うばかりで、時に男の同級生が悲しそうな表情をしていたのが当時の私には意味不明で理解できなかったのですけど、ひょっとしたらBLだったのかもしれません。気付いてあげられず申し訳ありませんでした。女の子のピュアな気持ちに鈍感で、男の子のこれまたピュアな気持ちにも全く気が付かず鈍感で、当時はこれまた申し訳なかったと思います。私はただ単にいつも笑顔で楽しく幸せな気持ちで生活していただけなのです。 最近、改めて小学校の頃のような愛を思い出したのですが、その小学校の頃のように、何がなくても普通に幸せで景色を見ても見なくても目の焦点が合っていても合っていなくても全ての存在・空間に対して笑顔になります。そのように、特に理由なくいつも笑顔でいると、日常生活で普通に話しかけた人に、この年になっても今更ながら昔のようにちょっと勘違いされることが多くなった気が致します。私は普通に笑顔で生活しているだけなのですが勘違いされてしまうことがあり、表情の作り方に困ってしまいます。また昔のように誰かを嫉妬や怒りの状態にしてしまわないように気を付ける必要がありそうですけど、そうは言いましてもさすがにこの年でそこまで心配はないと思うのですが、一応気をつけようと思っています。例えば、つい先日はハイキングに行った時に話しかけてきた同年代の見知らぬ女性がどこか恥ずかしげにしていて、もちろん、それ以上のことは何もなかったわけですけど、ピュアな気持ちは何歳になってもあるのだと思います。
小中高時代の苦労
思えば、小学校3年か4年の頃に教室の座席で先生が私の隣に知恵遅れの子を何ヶ月も半年も長い間ずっと座らせたことがあって、その子は授業中もずっと情緒不安定でぶつぶつと意識朦朧として周囲に意味不明なことを話しかけるような人でしたけど、隣に座っていると、とにかく疲れるのです。私はあまり影響されないように我慢しているのですけど、おそらくは、私のオーラを数ヶ月とか半年とかかけて吸われ続けて、オーラを吸われるにつれてその子は元気になって大人しくなっていって、私はというとその子の情緒不安定なオーラを受け取ってしまって、私の方が精神不安定になってきてしまいました。この経験から思うことは、この種の、知恵遅れの情緒不安定の人は普通の生徒から隔離すべきだと思うのです。そうしなければ普通の子と知恵遅れの子の情緒が融合するかあるいは入れ替わってしまい、知恵遅れの子がまともになる一方で、普通の子が情緒不安定になったりします。これは私の実体験に基づくものですので正しいと思います。一見すると知恵遅れの子が元気になっていきましたので担任の先生は喜んでいましたけど、こちらとしてはいい迷惑で、とにかくその後、長年に渡ってずっと情緒不安定を引きずったように思うのです。今なら、知恵遅れの情緒不安定の人が近くの席になったら席を変えて欲しいと先生に訴えます。先生からしたら「そんな失礼なこと言うなんて!」と思うかもしれませんけど、そのことで被害を被るのは子供の方ですから、子供を守るためにも、知恵遅れの情緒不安定な子供は隔離すべきなのです。元々、そのための特別教室が別にあったように思うのですけど、何故かはわかりませんがその時は知恵遅れの子が同じ教室で授業を受けていたのです。先生にしても色々と試行錯誤していたのかもしれませんけど、私としては被害を受けました。その小学校の情緒不安定になる経験が私のメンタルの防御を弱らせ、その後、周囲からの虐めに対しても悪影響を強く受けるようになったように思うのです。
一方、家はというと、父の態度が良くないとわかっていつつも高校までは一緒に住んでいましたのと、兄もこれまたクズっぷりが凄くて、父と兄から日課のようにゲラゲラ私はずっと笑われていて自己肯定力を日々削られていた上に父や兄と顔を合わせればいつもムカムカムカムカして、そうすれば、そうしてムカついている私の顔を見ては父と兄は私を更にバカにしてゲラゲラ更に見下す、というループの繰り返しでした。そのように話が全く通用しない程の父と兄のクズっぷりで、文字通り、「話しても無駄」とずっと思って、いつしか、父と兄には「本当のこと」は話さなくなり、父や兄が私をバカにしやすいような、当たり障りのない、ただの通説の、浅い考えを適当に返答して、父からは、これまた中卒の考えるようなテレビの言っていることの受け売りをドヤ顔で言われる、というような関係になっていきました。私が何か言ったところでバカにしてくるか怒鳴ってくるかぶん殴ってくるような父でしたから、おとなしく、父が気持ちの良くなるような平凡な内容しか口に出せなかったのです。実のところ、意識的にそう答えていたというよりは自然にそうなっていたわけですが、しっかり考えて回答すると父はそれを理解できないのか何なのか気分を害して不貞腐れたり上記のようにゲラゲラ笑って「何を言ってるんだ」みたいな対応をしてくるのですけど、父が自分で理解できないだけなのに「何を言っているんだ」とゲラゲラ笑える神経が私にはそもそも理解できないですけど、そんな、言葉の通じない家族といるうちに自然と、父への対応は、父でも理解できて父でも返事を返せるような浅い内容しか言わないようにいつの間にか無自覚的に変わっていったように思います。コミュニケーションにおいて「相手が理解できるように表現する」と言うのは基本ですけど、父でも理解できるように簡単なことしか言わなくなった結果、それでますます父は私が頭が悪いと思い込んだようなのです。それで、父から「⚪︎⚪︎だぞ」とかいう、中卒が考えるような浅い考えをドヤ顔で私に説教するようになり、それに対して私は「うん」としか答えられないような関係になっていったのです。それですから、父や兄や母からしたら私は考えの浅いバカだと更に思い込んでいだことでしょう。かと言って私が何かいえば父は「うるせえ!!」と怒鳴りつけてきたのでした。ですから、何も言わずに過ごすか、当たり障りのないことしか話さなくなったのです。最初はそれでモラハラ被害を避けられるので良かったですけど、実のところ他のご家庭では両親ともっと深い会話をしているようで、中学と高校時代に深い会話を両親とせずに、ただ父や兄からずっとゲラゲラ笑われていたことで他の同年代の人と比べてコミュニケーション能力に差ができてしまい、大学に入ってようやく普通のコミュニケーション能力をつけ始めましたので他の人に遅れをとっていたように思います。
幼い頃から当たり前のように叩かれていて気にも止めていなかったのですけど、確か、中学の頃だったかと思いますが母が同級生の女の子の母親と話をしている時に私が待ちきれず情緒不安定になって母に「ねー、行こうよー」と言って母の服を引っ張ったりしたのですが、そのことで母がヒステリーになって「まったく! 話してると言うのに! 引っ張るな! この子はっ!」とキーキー声を上げながら私の頭を何度も叩き、私がその持つ手を離して黙って大人しくするまで叩き続けたのでした。母が何度も私の頭を叩いたら私が精神衰弱になって頭がぼうっとして意識が朦朧として、立ったまま「ぐったり」して斜め下を呆然と見て大人しくなったのですけど、その時に母が話をしていた私の同級生の母親は目をまん丸に開いて私を凝視してすごく驚いて、全身から驚きのオーラが出て、少し前屈みになりながら子供の背の低い私の顔を覗き込むようにして、離れるまでずっと私の顔を凝視していたように思います。それまで私は叩かれるのが当然でしたから「どうしてこの同級生のお母さんは心配そうにしているんだろう。何だろう」と、よく状況を理解できないでいました。そんなに酷いことなのか、当時、よくわかっていなかったのです。
その後も、その同級生の母親には会うたびに「この子は大丈夫かしら」と心配そうに観察されました。私はそんな同級生の母親を見て、「あ、普通の家のお母さんはああいう感じなんだ。なんだか、普通な感じで、優しそう。あのお母さんの子供になりたいな・・・」とか思ったことも度々ありました。そんなことがあってからは同級生の間で「かわいそう」と噂になって、割とこのことは当時同級生の父母の間で有名だったようです。私の母はというと、言うこと聞かないとご飯はもらえないし、家からは追い出されるし、機嫌を損ねると叩かれるし、叩かれる回数は流石にそこまで多くはなかったですけどご飯を作ってもらえないことはしょっちゅうで、ご飯を食べないと元気がなくなって抵抗する気力も失っていったのですけど、あるとき私の母は同級生の母親たちの間で「かわいそう」と言う噂になっていること聞いたことで、叩かれることはそれ以来、中学の頃からなくなりましたけど、その改心なのか何なのか、何故か「ご飯が足りない」と解釈するようになって「かわいそうだとか言われているから、沢山食べなさい」と言うようになり、実際にご飯の量が増えて、言われるがまま食べたらものすごく太って体が重くなり、それで糖尿病かわからないですけど体が重たくなって頭がぼうっとするようになりました。砂糖いっぱいの甘いジュースとか糖分たっぷりの野菜ジュースを何本もたっぷり「健康のため」とか言って飲まされて糖尿過多になって頭がますますぼうっとして動かなくなって頭痛もする、というサイクルを繰り返していました。そうして沢山食べる習慣にしておいて、いつも沢山食べないとお腹が膨れない状態にしておきながら、ふと母親の機嫌を損ねると急に「ご飯抜き」になるものですから、普段沢山食べている反動で、いざ食事がなくなるとものすごくお腹が空いて、一層フラフラになって動けなくなって、そうすると、母親に何も抵抗できなくなってしまうのでした。体が大きくなり、また、同級生の母親の間で噂になったことで母親から叩かれることはなくなったものの、相変わらずヒステリーとイライラは今まで以上に酷くなっていったように思います。苛つきを私を叩いて解消できなくなったものですから、それがヒステリーとイライラの方に回ったようで、その点、更に酷くなって、そのくらいなら叩かれていた方がマシだったかもしれません。ヒステリーは、絶対的に抵抗が不可能なほど強力なヒステリーでした。私は何も言えなくなり、そうして、飼い慣らされた挙句、いつしか、母親の許可がないと動けない、母親がダメと言うことは何もできない、一見すると「大人しい子」になっていましたけど、実のところ、既にその頃にはメンタルが崩壊していました。
意識はぼうっとして朦朧とし、頭がガンガン痛く、何も考えないようにしていても雑念で頭の中が一杯になっていました。言葉で罵られ、物理的に頭を叩かれたり殴られ、更には食べ物による空腹と糖分過多という複数要因があって何も考えられない状態になり、頭痛と意識の朦朧と雑念の多い状態になっていたように思うのです。一つだけでも大変なのに、よくこれで生きていたと我ながら当時の自分に驚きます。学校へ通う足が動かないこともあったので、意識を片足に集中してその片足を一歩動かし、またもう片足を動かして2歩目を踏み出します。少しこれを繰り返すとなんとか歩けますので学校に行けます。幼稚園の時に早くも登校拒否をしたのですけど、小学校とか中学校の時は家にいても母親がいますので、学校よりも家の方がマシではあるのですけど家に居ても母がだんだんイライラしてきて朝に「学校行け」と命令されて追い出されますので、何も抵抗できない私はとりあえず家を出て、足はほとんど動かないですけど、家に戻ることもできず、仕方なく、足を一歩づつどうにか動かして学校に行ったのでした。まあ、こんな状況では自分に余裕がなさすぎて恋愛なんて到底無理なわけです。こんな状況で近寄ってきたり仲良くなれるのは、ちょっと変わった女の子、私をイジってくるようなSの女の子が多かったのですけど、それは、今思えば、まともな普通の恋愛ではなかったのです。
母は私に対して「強烈な怨念」で行動を制限して、あたかも自発的に動くと言うことにして私がそうするまで目の前で怨念をネチネチと送ってくるのですけど、例えば、私が同級生に勉強を教えているのを授業参観の時に見たら、私の方を見て「チッ、チッ」と言う表情と手振りを遠くからしてきていて、何だろうと思って家に帰ったら母がものすごく不機嫌になっていてキーキー顔で「ちょっと! なんで勉強なんて教えているの! 他の子が頭良くなるなんて、そんな、他の人のためになることをして、あなたは一体、何を考えているの!! 勉強を教えることなんて辞めなさい!」と、何度も何度もヒステリーに言ってきたのですけど、友人を助けていて褒められるどころか怒られて、そう何度も何度もことあるごとにリピートで夜な夜な言われて、毎日のように同じことを繰り返しネチネチとイライラして同じことで愚痴って「勉強を教えるな」とヒステリーに話す不機嫌な母の近くにいると私の頭は朦朧として意識が薄くなっていました。濃い味付けのものばかり食べるようになり糖分過多で元気がなくなり、普通のものを食べても味がしなくなるのでますます糖分が多いものを食べるようになって糖尿病のようになって眠気が増し、糖尿病の症状と思われる強烈な抗し難い眠気に昼間に襲われるようになって、そうしていると神経衰弱になってあまり考えられなくなり、そうして眠気と頭のぼうっとした状況で私が意識が朦朧としているところに母は何度も何度も繰り返しヒステリーに同じことを繰り返し言って、私はというと既に意識が朦朧としていましたから、その度に私はいつも「はい」としか回答できないのでした。何度も何度も同じことをその後もしつこく言われて、「教えるな」「助けるな」ということを母から念入りにしつこく言われ続けました。
まず、そんな母のヒステリーで「教えるな」と念入りに何度も何度も罵倒された最初の翌日、学校に行ってその同級生が質問に来ても、私の頭の中には母がヒステリーに「教えないように!」とキーキー声で言っていた場面が再現されて頭が朦朧として意識が昨日と同じように薄くなって神経衰弱になって、頭が働かなくなって、私は意識が半分失っていましたから、心の中で「もう、どうでもいいや・・・」と神経衰弱になって意識が朦朧としたまま友達を無視・スルーして母の言いつけを守ったものですから友達は無視されたと思って機嫌を損ねてしまって、その友人がその後何年にもわたって根に持って私を睨みつけてくるようになりました。私の態度も悪かったですけど、その友人にしても勝手なもので、私が一方的にずっと教えていたのに、一回教えなかったら不機嫌になって、その後、もう私を無視してくるようになって、貸し借りで言ったら私の方が遥かに貸しがあるのに、状況に無理解にも程があって、よくもまあ、自分の方が教えてもらう方の立場であるのにも関わらず教えてくれていた人をそこまで恨むことができる人が世の中にはいるなんて世間は広いなと思うのですけど、今から思えば、特に教育を受けていない普通の人の感覚は直接的に思ったままを思うだけですので、そんなものだと思います。多少は頭が良ければ「どうしてだろう」とか考えるわけですけど、そういうことを色々考えずに、直接的に「教えてくれない人を恨む」なんて、とても短絡的ではありますけど、割と普通の感覚なんてそんなものかな、と今なら思います。
道徳的な教えは「人を助けましょう」と言いますけど、母の教えは「他人なんて助けるな」というものでした。母は一応は良い家の育ちでしたけど、自己中なモラハラのメンヘラ女だったように思うのです。実のところその友人の質問というのは授業中でしたので私も多少迷惑だったのは事実で、とにかく授業中ずっと聞いてきて迷惑していたという面もあるにはありますけど、今から思えば、状況をちゃんと友人に説明して「授業中に聞かないで」と言えば良かったのに、私は母のヒステリーに翻弄されて頭が朦朧としていて金縛りにあうように体と思考が動かずに指示に従ってしまい、何も喋れなくなっていました。既にその頃には母親にも父親にも「何を言っても無駄」の関係になっていて、母や父に何か言っても「何言ってるのこの子は」という感じでゲラゲラ見下されるのが常で何も聞いてもらえませんでしたのと、父親にはゲラゲラ笑われて見下されるかぶん殴られるか「うるせえ!」とブチギレられるのどちらかでしたので、もう、話す気力もなくて、私は既に精神衰弱になっていて、人生に対しても投げやりになって「もう、どうでもいいや」と思って、母が望むような冷たい態度を友人にしてしまっていたのでした。
母の怨念とヒステリーが子供をここまで縛るという実例だと思います。実のところ、勉強なんてものは教える方がよほど勉強になって、聞くだけでなくアウトプットをすることで教える方こそが劇的に理解が高まるわけですけど、母親は所詮は高卒でしたから勉強なんてそこまでできなくて、母親は大学に行けそうなくらい高校では勉強ができたらしいので自分ではプライドがあって勉強はできるつもりでいたようですけど昔は男が優先して大学に行かせてもらえず、女の母は家業の手伝いをさせられて、それ故に勉強に対するコンプレックスがあって、そんな状況ですから効率の良い勉強の仕方とか本当に勉強ができる人の姿というものを知りませんでしたから、母が思うところの勝手な優秀な子供の像に合わせて私の行動はがんじがらめに縛られてきたと言えます。当時ですら私は「人に教えると自分が勉強になるのに」と思っていたように思いますが口答えは全く許されず、確か、同様のことを言ったら「全く、何を言っているのこの子は(アホねえ)」という見下しの態度とヒステリーな回答が常でしたから意見を言うことすらヒステリーな母に対しては不可能で、大人しく「はい」と答えて、しかも、私から表面上で「その通りです、お母さん」という回答を私が母にすることで母は上機嫌になって、「そうでしょ。お母さんは正しいんだから」という、根拠の大してない自信を強めて行ったのでした。私が心のうちで「何を言ってるんだか、この母は」とずっと思っていることも知らずに勝手に自信を強めて私への強制を強めて行ったのでした。本当に、勉強ができない、勉強をしない頭の悪い母というものに苦しめられました。とは言いましても花の勉強(生け花、フラワーアレンジメント)には熱心でそれなりの資格を取っていましたから、特定の方向への特性はあったかと思いますが、地頭が良くなかったのかなと思います。他人の意見を聞かずに一方的に自分の意見を教えつけてそれが100%正しいと思い込むような頭の悪さでした。
そのような状況下で高校時代は(特に具体的な理由もなく)自分が出来損ないの人間かのように刷り込みされて自信のない人生を送ってきましたけど、大学に入学したら周囲からそのような態度を受けることはバッタリなくなって、「あれ。自分って、割と普通かも。どう考えても父と兄の方がおかしい」と考えるようになったものの、かと言って、高校までに受けた刷り込みはなかなかなくならなくて、自分より優秀な人を見ると劣等感の当時の刷り込みが蘇ってきて特に具体的な理由もなく落ち込んでしまい、人生の多くの場面で苦労をしました。私がこの種のことを誰かにいうと「そんな、家族のことを悪くいうなんて、あなたはおかしい」と言われて、まるで私が悪いかのように言われることも多かったように思いますけど、どう考えても私は悪くなくて父や兄が異常なわけです。モラハラの被害を家族から受けていて、加害者の家族のことを訴えると「家族のことを悪くいう貴方はおかしい」と言われて、もう、どうしようもない状況でした。そうして悩んでいる間もずっと父や兄からは罵倒されたり嘲笑されてきましたから、あたかも私に何か問題があるかのような気にさせられていたのでした。この種の、特に家族からの執拗なモラハラによる継続的な(具体的な理由のない)罵倒・中傷はその後の人生に暗い影を投げかけます。父にしても兄にしても、時々再会して私の顔を見るだけで(特に具体的な理由もなく)目がギョッと見開いて口は横に開いて鼻はちょっと高くなって目線も高くなって私を見下してゲラゲラ笑ってくるような品のなさでした。そんな父や兄と会うだけで気持ち悪くなって、しかし、なかなか抵抗せずにヘラヘラと笑って、あたかも「喜んでいる」風を自然に装ってしまって抵抗できないほど私のメンタルは奴隷になっていたように思うのです。母とは基本的に仲が良かったとは思いますが、時折、非常に母が不機嫌になって「まったくっ! この子は!!」と言いながらヒステリーになって手を振り上げ、私の頭を上から勢いつけて手で何度もバンバン叩いて、その叩き方にしても「わなわな」と手を振るわせながら上に力をこめて振り上げて、そこで一瞬止めて、しっかりと頭の上にバンっ! と振り下ろす、ということを何度も何度も行うのです。
当時テレビで流行った受験母インタビューに「隣の子もライバル」というのがあって私の母もそれに倣って同級生を敵視していましたけど、こういう言葉が嘘だと見抜けない時点で母は頭が悪いわけです。これは枠が小さい難関の学部だけのお話で、進学校でT大のほにゃらら学部狙いとかで隣の同級生もお互い合格ラインギリギリのような場合だけのことであって、そういう場合でも受かる子は受かるし受からない子は受からないだけなので、ましてや同じ学校から同じ学部を受けて両方ともギリギリなんて状況は普通はないのでこんなこと考えるだけ全く無駄なのですけど、そんな確率統計の基礎の概念もわからないで他人を助けるなとヒステリーに意見を押し付けてくるメンヘラ母は、どこかおかしいのです。むしろ、教える機会ができてラッキーであると言うのが本当のところで、教えてもらいたいという人が周囲にいるのは幸運であるし、それなりに勉強をしていないと教えられないため他人に教えることで自分の理解も深まり感謝もされ勉強もできるようになるのであって、他人を助けないよう子供に強制するような見当違いの母の子供は孤立するばかりか、人を教えるという機会を奪われることで自分の理解が深まるチャンスを失い、結果、勉強を自分一人でしなくてはならなくなります。そのような子供は母からヒステリーな制約と鬱のような悶々とした念を植え付けられて心労が増え、雑念が増えて集中できなくなり、受験失敗の確率が増えるわけです。要は、頭の悪い親の元に生まれると苦労すると言うわけです。こんなことは実際に統計で数字を出さずとも自明なことで、希望校の受験者数と同級生の同学部志願確率を考えれば同級生がどこを志望していようが全くの誤差でしかなくて、そもそも同じ教室で同じ大学の同じ学部を狙うことすら稀ですしましてやそんな状況で成績が拮抗していることなんてほとんどないですし、同級生が原因で自分が落ちるなんて万が一にもないのですから、そんなくだらないこと考えているくらいなら英単語の一つでも多く覚えた方が良いわけです。こんな見当違いなことで本気で同級生を敵視して「助けるな」「教えるな」とヒステリーになっていた母は本当にどうかしてますが、私が何か言っても私を馬鹿にするように見下して「何言ってるの」と聞く耳を持ちませんでしたから、そもそも、頭が根本的に悪い人には何を言っても聞く耳を持たないので無駄なのです。いくら言っても理解しないしヒステリーが酷くなるだけですので母には話しても無駄だと長らく思っていたわけですが、それでいて自分は頭が良いつもりなので始末が悪いです。そのうち、私は母が望むような発言しかしなくなって、母がいい気になって私が馬鹿に思えるような頭の悪そうな発言をあえてして母を喜ばせるようになっていました。これは意図的にしたと言うよりは無意識にそうしていたことで、おそらく、精神の防御反応だったのだと思います。色々と意見を聞く感じにして、実際は私が自分で大体は答えが出ていても、母が自分で選んだ風にすると母は「ほら、お母さんの言った通りでしょ」と自信満々になって機嫌が良くなるのです。このパターンで高校時代はずっと過ごしていましたから、一見すると仲の良い家族に見えたかもしれませんが、上京して一人暮らしをして離れた視点で見てみると高校時代は色々とおかしかったことに次々と気がつくようになったわけです。私は自分で一つ一つ気づくしかありませんでしたけど、そもそも親の頭が良ければ最初からこのような苦労はしないわけです。頭の悪い人と付き合うと人生で苦労する、と言うのはつくづく思いますが、そうは言いましてもこれは相対的なお話ですので私よりずっと頭の良い人は世間にはいるわけで、私が逆の立場で誰かを困らせいたこともあったかもしれません。あまりにも知性が離れた人とは会話が成立しませんので分相応ではあるわけですけど、分相応の範疇でなるべく自分より頭の良い人と付き合いたい、と思うわけです。
こういうことがありましたから、私はパートナーには「(ある程度の)頭の良さ」を求めるのです。頭の悪い女性と付き合うととことん時間を無駄にしますし、母のようにヒステリーが1回でもあったら高確率でブロックして縁を切ります。そのくらいヒステリーな女というものは私の人生に影を投げかけるのです。人生訓としてもそうですし、ヒステリーな人やネチネチと粘着質の怨念で他人を動かそうとしてくるようなメンヘラ女には関わり合いたくないのです。
実のところ、ずっとこのような環境で育ちましたから私も20代の頃までは割と似たように他人に対して決めつけの判断をしてしまうことが時々あり、それは反省すべき点だと思います。分相応だったかもしれなくて、自分がしているように、周囲からも同じような決めつけの判断をされていた面もあったように思うのです。それを周囲から(母のように強制力のある人から)執拗にやられることで、私自身の反省を促す、という点も多少はあったのかなと思います。そうだとしてもきつい20代でした。
今から思えば、頭を何度も何度も母から叩かれたり、それに加えて同級生からは幼稚園の頃から嫌がらせをされて、小学校でも執拗に虐めの嫌がらせでゲラゲラ下品に笑いながら頭をバンバン継続的に長期に渡って叩かれ、仕返しをしようにもいじめっ子は喧嘩が強く、空手をやっていたり、はたまた野山で動いていて体力がある相手なので敵わず、例えば同級生はブチギレたら空手の高速パンチが飛んできたりしたわけです。喧嘩では叶わないので言葉で対抗していたら同級生の女の子から私は言葉が悪いと言われて落ち込んだり、そうして仕返しもしにくくなり、すぐにキレる同級生からは頭をぶん殴られたりしていた結果、おそらくはいつしか双極性障害になっていたように思うのです。あれはメンタルの病気と思われていますけど実のところ脳の機能の障害らしく、頭を叩かれたことで脳に障害が出ていたように思うのです。そう考えるのが妥当のように今は思います。単にメンタルの病気と考えるにはどう考えても色々と辻褄が合わずおかしいのです。双極性障害の状況に加えて更にメンタルを病ませる状況が重なって影響していたように思うのです。脳の障害であれば脳の機能を回復すれば治るわけで、瞑想で眉間に集中して頭のブロックを外す、頭の各機能を再度動かす、と言うことをしてきましたので、それによって脳の機能が回復して障害が治ると言うのも理にかなっているのです。メンタルの問題と長らく思ってきましたけど、実のところ、継続的に頭を強く叩かれたことによる機能障害と考える方が妥当なのです。そう考えると、私の頭を継続的に叩いてきた同級生(複数)は罪深くて地獄行きのレベルだと思います。頭を叩かれなくなってからは少しずつ回復していきますが、頭を使おうと思って集中すると頭痛がしたり、ゾーンに入るとトラウマが出てきて意識を失いそうになったり、トランスに急に落ちて意識を失って何か意味不明のことを口走る、と言うのは、確かに霊的な霊障という場合もあるにはあったのでしょうけど、基本的には脳の障害が基本にあったと考える方が妥当なのです。私の場合、明らかに幽体離脱のような霊的なお話と、単に脳の障害とが複合してあったように思うのです。母は、私の頭をバンバン叩いて私を大人しくさせようとしているかと思えば急に猫撫で声になって「この子は将来的に稼いで(母に貢いて)くれるのだから大切にしなきゃ」とか堂々と偏屈な愛情を私に注ぐようなメンヘラかつ金目当てのモチベーションで、それに加えて一応は情もありましたから私の中で情愛と虐めとが感情で結びついてしまい、情と虐めの区別が若い頃はあまりつかなかったのだと今更ながら思うわけです。私は他の母親を知りませんでしたから母とはそんなものだと思っていましたが上京してから他の人を知ったら明らかに私の母はおかしかったわけです。一応は母は私に愛情を注ぎ込んでくれましたから私への虐めと相殺してプラマイゼロですね。母は育ちが良かったので慣れない貧乏な環境にて苦労していたので同情の余地がありますが、同級生や上級生の虐めは同情の余地がなくて、同級生や近所のいじめっ子は獣のような魂を持った人、人間の形をした獣だったのだと思います。人間の心を持っていない獣のような獣人間に何を言っても無駄なわけです。ここだけ読むと酷いことを言っていると思われるかもしれませんけど、川や海で泳いでいると密かに近づいてきて足を底の方に引っ張って溺れさせようとすることを執拗に何年も何年も続けて、反省もなく、いつもゲラゲラ下品に笑って馬鹿にして、威圧して反論させず、睨みと凄みで黙らせる、というような人はどこからどう見ても獣人間であるわけで、人間の形をした獣であるわけです。人の顔を平気でパンチしたり、人の心を持っていない人が大勢いました。今思えば、そのような獣だらけの動物園で酷い環境を経験して底辺の環境と野蛮な人たちがこの世界にいることを学んだのだと思います。ただ、後から思えば、それでも戦後の混乱の貧困と力が全ての時代よりはましで、戦後と比べたら昭和の後期は獣人間が多くいたとしても全体としては好景気が社会を支えていてそれなりに幸せだったと言えるかもしれません。
一方、家はというと、父の態度が良くないとわかっていつつも高校までは一緒に住んでいましたのと、兄もこれまたクズっぷりが凄くて、父と兄から日課のようにゲラゲラ私はずっと笑われていて自己肯定力を日々削られていた上に父や兄と顔を合わせればいつもムカムカムカムカして、そうすれば、そうしてムカついている私の顔を見ては父と兄は私を更にバカにしてゲラゲラ更に見下す、というループの繰り返しでした。そのように話が全く通用しない程の父と兄のクズっぷりで、文字通り、「話しても無駄」とずっと思って、いつしか、父と兄には「本当のこと」は話さなくなり、父や兄が私をバカにしやすいような、当たり障りのない、ただの通説の、浅い考えを適当に返答して、父からは、これまた中卒の考えるようなテレビの言っていることの受け売りをドヤ顔で言われる、というような関係になっていきました。私が何か言ったところでバカにしてくるか怒鳴ってくるかぶん殴ってくるような父でしたから、おとなしく、父が気持ちの良くなるような平凡な内容しか口に出せなかったのです。実のところ、意識的にそう答えていたというよりは自然にそうなっていたわけですが、しっかり考えて回答すると父はそれを理解できないのか何なのか気分を害して不貞腐れたり上記のようにゲラゲラ笑って「何を言ってるんだ」みたいな対応をしてくるのですけど、父が自分で理解できないだけなのに「何を言っているんだ」とゲラゲラ笑える神経が私にはそもそも理解できないですけど、そんな、言葉の通じない家族といるうちに自然と、父への対応は、父でも理解できて父でも返事を返せるような浅い内容しか言わないようにいつの間にか無自覚的に変わっていったように思います。コミュニケーションにおいて「相手が理解できるように表現する」と言うのは基本ですけど、父でも理解できるように簡単なことしか言わなくなった結果、それでますます父は私が頭が悪いと思い込んだようなのです。それで、父から「⚪︎⚪︎だぞ」とかいう、中卒が考えるような浅い考えをドヤ顔で私に説教するようになり、それに対して私は「うん」としか答えられないような関係になっていったのです。それですから、父や兄や母からしたら私は考えの浅いバカだと更に思い込んでいだことでしょう。かと言って私が何かいえば父は「うるせえ!!」と怒鳴りつけてきたのでした。ですから、何も言わずに過ごすか、当たり障りのないことしか話さなくなったのです。最初はそれでモラハラ被害を避けられるので良かったですけど、実のところ他のご家庭では両親ともっと深い会話をしているようで、中学と高校時代に深い会話を両親とせずに、ただ父や兄からずっとゲラゲラ笑われていたことで他の同年代の人と比べてコミュニケーション能力に差ができてしまい、大学に入ってようやく普通のコミュニケーション能力をつけ始めましたので他の人に遅れをとっていたように思います。
幼い頃から当たり前のように叩かれていて気にも止めていなかったのですけど、確か、中学の頃だったかと思いますが母が同級生の女の子の母親と話をしている時に私が待ちきれず情緒不安定になって母に「ねー、行こうよー」と言って母の服を引っ張ったりしたのですが、そのことで母がヒステリーになって「まったく! 話してると言うのに! 引っ張るな! この子はっ!」とキーキー声を上げながら私の頭を何度も叩き、私がその持つ手を離して黙って大人しくするまで叩き続けたのでした。母が何度も私の頭を叩いたら私が精神衰弱になって頭がぼうっとして意識が朦朧として、立ったまま「ぐったり」して斜め下を呆然と見て大人しくなったのですけど、その時に母が話をしていた私の同級生の母親は目をまん丸に開いて私を凝視してすごく驚いて、全身から驚きのオーラが出て、少し前屈みになりながら子供の背の低い私の顔を覗き込むようにして、離れるまでずっと私の顔を凝視していたように思います。それまで私は叩かれるのが当然でしたから「どうしてこの同級生のお母さんは心配そうにしているんだろう。何だろう」と、よく状況を理解できないでいました。そんなに酷いことなのか、当時、よくわかっていなかったのです。
その後も、その同級生の母親には会うたびに「この子は大丈夫かしら」と心配そうに観察されました。私はそんな同級生の母親を見て、「あ、普通の家のお母さんはああいう感じなんだ。なんだか、普通な感じで、優しそう。あのお母さんの子供になりたいな・・・」とか思ったことも度々ありました。そんなことがあってからは同級生の間で「かわいそう」と噂になって、割とこのことは当時同級生の父母の間で有名だったようです。私の母はというと、言うこと聞かないとご飯はもらえないし、家からは追い出されるし、機嫌を損ねると叩かれるし、叩かれる回数は流石にそこまで多くはなかったですけどご飯を作ってもらえないことはしょっちゅうで、ご飯を食べないと元気がなくなって抵抗する気力も失っていったのですけど、あるとき私の母は同級生の母親たちの間で「かわいそう」と言う噂になっていること聞いたことで、叩かれることはそれ以来、中学の頃からなくなりましたけど、その改心なのか何なのか、何故か「ご飯が足りない」と解釈するようになって「かわいそうだとか言われているから、沢山食べなさい」と言うようになり、実際にご飯の量が増えて、言われるがまま食べたらものすごく太って体が重くなり、それで糖尿病かわからないですけど体が重たくなって頭がぼうっとするようになりました。砂糖いっぱいの甘いジュースとか糖分たっぷりの野菜ジュースを何本もたっぷり「健康のため」とか言って飲まされて糖尿過多になって頭がますますぼうっとして動かなくなって頭痛もする、というサイクルを繰り返していました。そうして沢山食べる習慣にしておいて、いつも沢山食べないとお腹が膨れない状態にしておきながら、ふと母親の機嫌を損ねると急に「ご飯抜き」になるものですから、普段沢山食べている反動で、いざ食事がなくなるとものすごくお腹が空いて、一層フラフラになって動けなくなって、そうすると、母親に何も抵抗できなくなってしまうのでした。体が大きくなり、また、同級生の母親の間で噂になったことで母親から叩かれることはなくなったものの、相変わらずヒステリーとイライラは今まで以上に酷くなっていったように思います。苛つきを私を叩いて解消できなくなったものですから、それがヒステリーとイライラの方に回ったようで、その点、更に酷くなって、そのくらいなら叩かれていた方がマシだったかもしれません。ヒステリーは、絶対的に抵抗が不可能なほど強力なヒステリーでした。私は何も言えなくなり、そうして、飼い慣らされた挙句、いつしか、母親の許可がないと動けない、母親がダメと言うことは何もできない、一見すると「大人しい子」になっていましたけど、実のところ、既にその頃にはメンタルが崩壊していました。
意識はぼうっとして朦朧とし、頭がガンガン痛く、何も考えないようにしていても雑念で頭の中が一杯になっていました。言葉で罵られ、物理的に頭を叩かれたり殴られ、更には食べ物による空腹と糖分過多という複数要因があって何も考えられない状態になり、頭痛と意識の朦朧と雑念の多い状態になっていたように思うのです。一つだけでも大変なのに、よくこれで生きていたと我ながら当時の自分に驚きます。学校へ通う足が動かないこともあったので、意識を片足に集中してその片足を一歩動かし、またもう片足を動かして2歩目を踏み出します。少しこれを繰り返すとなんとか歩けますので学校に行けます。幼稚園の時に早くも登校拒否をしたのですけど、小学校とか中学校の時は家にいても母親がいますので、学校よりも家の方がマシではあるのですけど家に居ても母がだんだんイライラしてきて朝に「学校行け」と命令されて追い出されますので、何も抵抗できない私はとりあえず家を出て、足はほとんど動かないですけど、家に戻ることもできず、仕方なく、足を一歩づつどうにか動かして学校に行ったのでした。まあ、こんな状況では自分に余裕がなさすぎて恋愛なんて到底無理なわけです。こんな状況で近寄ってきたり仲良くなれるのは、ちょっと変わった女の子、私をイジってくるようなSの女の子が多かったのですけど、それは、今思えば、まともな普通の恋愛ではなかったのです。
母は私に対して「強烈な怨念」で行動を制限して、あたかも自発的に動くと言うことにして私がそうするまで目の前で怨念をネチネチと送ってくるのですけど、例えば、私が同級生に勉強を教えているのを授業参観の時に見たら、私の方を見て「チッ、チッ」と言う表情と手振りを遠くからしてきていて、何だろうと思って家に帰ったら母がものすごく不機嫌になっていてキーキー顔で「ちょっと! なんで勉強なんて教えているの! 他の子が頭良くなるなんて、そんな、他の人のためになることをして、あなたは一体、何を考えているの!! 勉強を教えることなんて辞めなさい!」と、何度も何度もヒステリーに言ってきたのですけど、友人を助けていて褒められるどころか怒られて、そう何度も何度もことあるごとにリピートで夜な夜な言われて、毎日のように同じことを繰り返しネチネチとイライラして同じことで愚痴って「勉強を教えるな」とヒステリーに話す不機嫌な母の近くにいると私の頭は朦朧として意識が薄くなっていました。濃い味付けのものばかり食べるようになり糖分過多で元気がなくなり、普通のものを食べても味がしなくなるのでますます糖分が多いものを食べるようになって糖尿病のようになって眠気が増し、糖尿病の症状と思われる強烈な抗し難い眠気に昼間に襲われるようになって、そうしていると神経衰弱になってあまり考えられなくなり、そうして眠気と頭のぼうっとした状況で私が意識が朦朧としているところに母は何度も何度も繰り返しヒステリーに同じことを繰り返し言って、私はというと既に意識が朦朧としていましたから、その度に私はいつも「はい」としか回答できないのでした。何度も何度も同じことをその後もしつこく言われて、「教えるな」「助けるな」ということを母から念入りにしつこく言われ続けました。
まず、そんな母のヒステリーで「教えるな」と念入りに何度も何度も罵倒された最初の翌日、学校に行ってその同級生が質問に来ても、私の頭の中には母がヒステリーに「教えないように!」とキーキー声で言っていた場面が再現されて頭が朦朧として意識が昨日と同じように薄くなって神経衰弱になって、頭が働かなくなって、私は意識が半分失っていましたから、心の中で「もう、どうでもいいや・・・」と神経衰弱になって意識が朦朧としたまま友達を無視・スルーして母の言いつけを守ったものですから友達は無視されたと思って機嫌を損ねてしまって、その友人がその後何年にもわたって根に持って私を睨みつけてくるようになりました。私の態度も悪かったですけど、その友人にしても勝手なもので、私が一方的にずっと教えていたのに、一回教えなかったら不機嫌になって、その後、もう私を無視してくるようになって、貸し借りで言ったら私の方が遥かに貸しがあるのに、状況に無理解にも程があって、よくもまあ、自分の方が教えてもらう方の立場であるのにも関わらず教えてくれていた人をそこまで恨むことができる人が世の中にはいるなんて世間は広いなと思うのですけど、今から思えば、特に教育を受けていない普通の人の感覚は直接的に思ったままを思うだけですので、そんなものだと思います。多少は頭が良ければ「どうしてだろう」とか考えるわけですけど、そういうことを色々考えずに、直接的に「教えてくれない人を恨む」なんて、とても短絡的ではありますけど、割と普通の感覚なんてそんなものかな、と今なら思います。
道徳的な教えは「人を助けましょう」と言いますけど、母の教えは「他人なんて助けるな」というものでした。母は一応は良い家の育ちでしたけど、自己中なモラハラのメンヘラ女だったように思うのです。実のところその友人の質問というのは授業中でしたので私も多少迷惑だったのは事実で、とにかく授業中ずっと聞いてきて迷惑していたという面もあるにはありますけど、今から思えば、状況をちゃんと友人に説明して「授業中に聞かないで」と言えば良かったのに、私は母のヒステリーに翻弄されて頭が朦朧としていて金縛りにあうように体と思考が動かずに指示に従ってしまい、何も喋れなくなっていました。既にその頃には母親にも父親にも「何を言っても無駄」の関係になっていて、母や父に何か言っても「何言ってるのこの子は」という感じでゲラゲラ見下されるのが常で何も聞いてもらえませんでしたのと、父親にはゲラゲラ笑われて見下されるかぶん殴られるか「うるせえ!」とブチギレられるのどちらかでしたので、もう、話す気力もなくて、私は既に精神衰弱になっていて、人生に対しても投げやりになって「もう、どうでもいいや」と思って、母が望むような冷たい態度を友人にしてしまっていたのでした。
母の怨念とヒステリーが子供をここまで縛るという実例だと思います。実のところ、勉強なんてものは教える方がよほど勉強になって、聞くだけでなくアウトプットをすることで教える方こそが劇的に理解が高まるわけですけど、母親は所詮は高卒でしたから勉強なんてそこまでできなくて、母親は大学に行けそうなくらい高校では勉強ができたらしいので自分ではプライドがあって勉強はできるつもりでいたようですけど昔は男が優先して大学に行かせてもらえず、女の母は家業の手伝いをさせられて、それ故に勉強に対するコンプレックスがあって、そんな状況ですから効率の良い勉強の仕方とか本当に勉強ができる人の姿というものを知りませんでしたから、母が思うところの勝手な優秀な子供の像に合わせて私の行動はがんじがらめに縛られてきたと言えます。当時ですら私は「人に教えると自分が勉強になるのに」と思っていたように思いますが口答えは全く許されず、確か、同様のことを言ったら「全く、何を言っているのこの子は(アホねえ)」という見下しの態度とヒステリーな回答が常でしたから意見を言うことすらヒステリーな母に対しては不可能で、大人しく「はい」と答えて、しかも、私から表面上で「その通りです、お母さん」という回答を私が母にすることで母は上機嫌になって、「そうでしょ。お母さんは正しいんだから」という、根拠の大してない自信を強めて行ったのでした。私が心のうちで「何を言ってるんだか、この母は」とずっと思っていることも知らずに勝手に自信を強めて私への強制を強めて行ったのでした。本当に、勉強ができない、勉強をしない頭の悪い母というものに苦しめられました。とは言いましても花の勉強(生け花、フラワーアレンジメント)には熱心でそれなりの資格を取っていましたから、特定の方向への特性はあったかと思いますが、地頭が良くなかったのかなと思います。他人の意見を聞かずに一方的に自分の意見を教えつけてそれが100%正しいと思い込むような頭の悪さでした。
そのような状況下で高校時代は(特に具体的な理由もなく)自分が出来損ないの人間かのように刷り込みされて自信のない人生を送ってきましたけど、大学に入学したら周囲からそのような態度を受けることはバッタリなくなって、「あれ。自分って、割と普通かも。どう考えても父と兄の方がおかしい」と考えるようになったものの、かと言って、高校までに受けた刷り込みはなかなかなくならなくて、自分より優秀な人を見ると劣等感の当時の刷り込みが蘇ってきて特に具体的な理由もなく落ち込んでしまい、人生の多くの場面で苦労をしました。私がこの種のことを誰かにいうと「そんな、家族のことを悪くいうなんて、あなたはおかしい」と言われて、まるで私が悪いかのように言われることも多かったように思いますけど、どう考えても私は悪くなくて父や兄が異常なわけです。モラハラの被害を家族から受けていて、加害者の家族のことを訴えると「家族のことを悪くいう貴方はおかしい」と言われて、もう、どうしようもない状況でした。そうして悩んでいる間もずっと父や兄からは罵倒されたり嘲笑されてきましたから、あたかも私に何か問題があるかのような気にさせられていたのでした。この種の、特に家族からの執拗なモラハラによる継続的な(具体的な理由のない)罵倒・中傷はその後の人生に暗い影を投げかけます。父にしても兄にしても、時々再会して私の顔を見るだけで(特に具体的な理由もなく)目がギョッと見開いて口は横に開いて鼻はちょっと高くなって目線も高くなって私を見下してゲラゲラ笑ってくるような品のなさでした。そんな父や兄と会うだけで気持ち悪くなって、しかし、なかなか抵抗せずにヘラヘラと笑って、あたかも「喜んでいる」風を自然に装ってしまって抵抗できないほど私のメンタルは奴隷になっていたように思うのです。母とは基本的に仲が良かったとは思いますが、時折、非常に母が不機嫌になって「まったくっ! この子は!!」と言いながらヒステリーになって手を振り上げ、私の頭を上から勢いつけて手で何度もバンバン叩いて、その叩き方にしても「わなわな」と手を振るわせながら上に力をこめて振り上げて、そこで一瞬止めて、しっかりと頭の上にバンっ! と振り下ろす、ということを何度も何度も行うのです。
当時テレビで流行った受験母インタビューに「隣の子もライバル」というのがあって私の母もそれに倣って同級生を敵視していましたけど、こういう言葉が嘘だと見抜けない時点で母は頭が悪いわけです。これは枠が小さい難関の学部だけのお話で、進学校でT大のほにゃらら学部狙いとかで隣の同級生もお互い合格ラインギリギリのような場合だけのことであって、そういう場合でも受かる子は受かるし受からない子は受からないだけなので、ましてや同じ学校から同じ学部を受けて両方ともギリギリなんて状況は普通はないのでこんなこと考えるだけ全く無駄なのですけど、そんな確率統計の基礎の概念もわからないで他人を助けるなとヒステリーに意見を押し付けてくるメンヘラ母は、どこかおかしいのです。むしろ、教える機会ができてラッキーであると言うのが本当のところで、教えてもらいたいという人が周囲にいるのは幸運であるし、それなりに勉強をしていないと教えられないため他人に教えることで自分の理解も深まり感謝もされ勉強もできるようになるのであって、他人を助けないよう子供に強制するような見当違いの母の子供は孤立するばかりか、人を教えるという機会を奪われることで自分の理解が深まるチャンスを失い、結果、勉強を自分一人でしなくてはならなくなります。そのような子供は母からヒステリーな制約と鬱のような悶々とした念を植え付けられて心労が増え、雑念が増えて集中できなくなり、受験失敗の確率が増えるわけです。要は、頭の悪い親の元に生まれると苦労すると言うわけです。こんなことは実際に統計で数字を出さずとも自明なことで、希望校の受験者数と同級生の同学部志願確率を考えれば同級生がどこを志望していようが全くの誤差でしかなくて、そもそも同じ教室で同じ大学の同じ学部を狙うことすら稀ですしましてやそんな状況で成績が拮抗していることなんてほとんどないですし、同級生が原因で自分が落ちるなんて万が一にもないのですから、そんなくだらないこと考えているくらいなら英単語の一つでも多く覚えた方が良いわけです。こんな見当違いなことで本気で同級生を敵視して「助けるな」「教えるな」とヒステリーになっていた母は本当にどうかしてますが、私が何か言っても私を馬鹿にするように見下して「何言ってるの」と聞く耳を持ちませんでしたから、そもそも、頭が根本的に悪い人には何を言っても聞く耳を持たないので無駄なのです。いくら言っても理解しないしヒステリーが酷くなるだけですので母には話しても無駄だと長らく思っていたわけですが、それでいて自分は頭が良いつもりなので始末が悪いです。そのうち、私は母が望むような発言しかしなくなって、母がいい気になって私が馬鹿に思えるような頭の悪そうな発言をあえてして母を喜ばせるようになっていました。これは意図的にしたと言うよりは無意識にそうしていたことで、おそらく、精神の防御反応だったのだと思います。色々と意見を聞く感じにして、実際は私が自分で大体は答えが出ていても、母が自分で選んだ風にすると母は「ほら、お母さんの言った通りでしょ」と自信満々になって機嫌が良くなるのです。このパターンで高校時代はずっと過ごしていましたから、一見すると仲の良い家族に見えたかもしれませんが、上京して一人暮らしをして離れた視点で見てみると高校時代は色々とおかしかったことに次々と気がつくようになったわけです。私は自分で一つ一つ気づくしかありませんでしたけど、そもそも親の頭が良ければ最初からこのような苦労はしないわけです。頭の悪い人と付き合うと人生で苦労する、と言うのはつくづく思いますが、そうは言いましてもこれは相対的なお話ですので私よりずっと頭の良い人は世間にはいるわけで、私が逆の立場で誰かを困らせいたこともあったかもしれません。あまりにも知性が離れた人とは会話が成立しませんので分相応ではあるわけですけど、分相応の範疇でなるべく自分より頭の良い人と付き合いたい、と思うわけです。
こういうことがありましたから、私はパートナーには「(ある程度の)頭の良さ」を求めるのです。頭の悪い女性と付き合うととことん時間を無駄にしますし、母のようにヒステリーが1回でもあったら高確率でブロックして縁を切ります。そのくらいヒステリーな女というものは私の人生に影を投げかけるのです。人生訓としてもそうですし、ヒステリーな人やネチネチと粘着質の怨念で他人を動かそうとしてくるようなメンヘラ女には関わり合いたくないのです。
実のところ、ずっとこのような環境で育ちましたから私も20代の頃までは割と似たように他人に対して決めつけの判断をしてしまうことが時々あり、それは反省すべき点だと思います。分相応だったかもしれなくて、自分がしているように、周囲からも同じような決めつけの判断をされていた面もあったように思うのです。それを周囲から(母のように強制力のある人から)執拗にやられることで、私自身の反省を促す、という点も多少はあったのかなと思います。そうだとしてもきつい20代でした。
今から思えば、頭を何度も何度も母から叩かれたり、それに加えて同級生からは幼稚園の頃から嫌がらせをされて、小学校でも執拗に虐めの嫌がらせでゲラゲラ下品に笑いながら頭をバンバン継続的に長期に渡って叩かれ、仕返しをしようにもいじめっ子は喧嘩が強く、空手をやっていたり、はたまた野山で動いていて体力がある相手なので敵わず、例えば同級生はブチギレたら空手の高速パンチが飛んできたりしたわけです。喧嘩では叶わないので言葉で対抗していたら同級生の女の子から私は言葉が悪いと言われて落ち込んだり、そうして仕返しもしにくくなり、すぐにキレる同級生からは頭をぶん殴られたりしていた結果、おそらくはいつしか双極性障害になっていたように思うのです。あれはメンタルの病気と思われていますけど実のところ脳の機能の障害らしく、頭を叩かれたことで脳に障害が出ていたように思うのです。そう考えるのが妥当のように今は思います。単にメンタルの病気と考えるにはどう考えても色々と辻褄が合わずおかしいのです。双極性障害の状況に加えて更にメンタルを病ませる状況が重なって影響していたように思うのです。脳の障害であれば脳の機能を回復すれば治るわけで、瞑想で眉間に集中して頭のブロックを外す、頭の各機能を再度動かす、と言うことをしてきましたので、それによって脳の機能が回復して障害が治ると言うのも理にかなっているのです。メンタルの問題と長らく思ってきましたけど、実のところ、継続的に頭を強く叩かれたことによる機能障害と考える方が妥当なのです。そう考えると、私の頭を継続的に叩いてきた同級生(複数)は罪深くて地獄行きのレベルだと思います。頭を叩かれなくなってからは少しずつ回復していきますが、頭を使おうと思って集中すると頭痛がしたり、ゾーンに入るとトラウマが出てきて意識を失いそうになったり、トランスに急に落ちて意識を失って何か意味不明のことを口走る、と言うのは、確かに霊的な霊障という場合もあるにはあったのでしょうけど、基本的には脳の障害が基本にあったと考える方が妥当なのです。私の場合、明らかに幽体離脱のような霊的なお話と、単に脳の障害とが複合してあったように思うのです。母は、私の頭をバンバン叩いて私を大人しくさせようとしているかと思えば急に猫撫で声になって「この子は将来的に稼いで(母に貢いて)くれるのだから大切にしなきゃ」とか堂々と偏屈な愛情を私に注ぐようなメンヘラかつ金目当てのモチベーションで、それに加えて一応は情もありましたから私の中で情愛と虐めとが感情で結びついてしまい、情と虐めの区別が若い頃はあまりつかなかったのだと今更ながら思うわけです。私は他の母親を知りませんでしたから母とはそんなものだと思っていましたが上京してから他の人を知ったら明らかに私の母はおかしかったわけです。一応は母は私に愛情を注ぎ込んでくれましたから私への虐めと相殺してプラマイゼロですね。母は育ちが良かったので慣れない貧乏な環境にて苦労していたので同情の余地がありますが、同級生や上級生の虐めは同情の余地がなくて、同級生や近所のいじめっ子は獣のような魂を持った人、人間の形をした獣だったのだと思います。人間の心を持っていない獣のような獣人間に何を言っても無駄なわけです。ここだけ読むと酷いことを言っていると思われるかもしれませんけど、川や海で泳いでいると密かに近づいてきて足を底の方に引っ張って溺れさせようとすることを執拗に何年も何年も続けて、反省もなく、いつもゲラゲラ下品に笑って馬鹿にして、威圧して反論させず、睨みと凄みで黙らせる、というような人はどこからどう見ても獣人間であるわけで、人間の形をした獣であるわけです。人の顔を平気でパンチしたり、人の心を持っていない人が大勢いました。今思えば、そのような獣だらけの動物園で酷い環境を経験して底辺の環境と野蛮な人たちがこの世界にいることを学んだのだと思います。ただ、後から思えば、それでも戦後の混乱の貧困と力が全ての時代よりはましで、戦後と比べたら昭和の後期は獣人間が多くいたとしても全体としては好景気が社会を支えていてそれなりに幸せだったと言えるかもしれません。
母方の親戚の夫婦がおかしかったお話
親戚も今から思えばかなりおかしくて、叔父は当時私の家に対して「お前たち(の家庭)はおかしい」と言ってきていましたが、当時の私はそれを真に受けて「叔父の家は普通で、私の家庭はおかしい」と思い込まされてきたわけですけど、上京して客観的に見ると、親戚は世間体が良かっただけで実態はかなりおかしい家だったことがわかるわけです。狭い環境にいると、自分たちがおかしいということにも気付かないのだと思います。母はというとそんな叔父(母の弟)に対して色々と文句を言っていて険悪な仲になってゆき、どっちもどっちだったのかなと思います。当時、母はまだまともな方だと思っていましたけど、上京してから冷静になって客観的に事実を積み上げてゆくと、母も相当におかしい人なんだなと思います。母は父方の家を毛嫌いしていて「(父方の)叔母と叔父は隠し事をする」とか言ってブチブチ文句を繰り返してヒステリーな恨みを募らせていましたけど、私から見れば母も隠し事をしていて、どっちもどっちかなと思います。私から見れば、母の兄妹全てがそれなりにおかしくて、父方の兄妹も全てそれなりにおかしくて、兄も相当変で私を(理由なく)見下してきますし、どうしてこうも、全方位的に変な親戚と家族に囲まれて育ったのだろうかと、その人員配置の「変さ」の完璧さに惚れ惚れするくらいです。近所には変ないじめっ子の家系の農家があって、そこの家族全てが性格の悪い嫌な人たちで私とか母に嫌がらせをしてきますし、家族にせよ親戚にせよ、ここまで完璧に逃げ場のないくらい全方位的に変な人を各所に配置できるのは高次の明示的な意志の介入としか思えないのです。偶然であればポツリポツリとそういう人がいるくらいですけど、偶然を超えて、ここまで完璧に逃げ場のないほど要所要所に変な人を親戚に配置できるのは、高次の介入と考える方が自然なのです。そのような、完璧に変な人に囲まれた幼少期から高校時代までを過ごし、メンタルが崩壊していたのです。
その叔父はというと「彼女ができたら連れて来い。顔と体を評価してやるぞ。顔立ち何点、目が何点、口元が何点、って細かくチェックして、OKかどうかサイン送ってやるぞ。鼻がひん曲がったブサイク連れてくるなよ!」とか女性蔑視の酷すぎることを平然と言ってOKサインとかNGサインとかしたり手で鼻を抑えて曲げるような仕草を面と向かってしてくるような品のない、モラルの低い貧相のなさで、その親戚の叔母は地元では美人でしたから、その美人の叔母も一緒になってニコニコして当然かのように振る舞って叔父の話を横で聞いているような常識のなさでしたけど、当時は、その親戚があまりにも堂々としていて自慢げに話していましたから私はずっとその親戚がまともな常識人のような気がしていました(そんなわけないのですけど)。ですから長らく、よくわからないけど、そんなものなのかな、と思っていましたけど、上京してから思い返すとあの親戚は相当におかしかったことがわかったわけです。私は状況がわからず、それを恥ずかしげもなく合コンで試して痛い目を見ました。当時は親戚から刷り込まれるように何度も何度もそのようなことを言われていましたから上京してから合コンなどで女性たちと対峙した時に最初は状況がよくわからなくて、「なんだこの状況。これが合コンというものかな。」よくわからないままに言いつけを守ってとりあえず上から下までジロジロと見て「⚪︎点」とかつけてみたら、それをされた女性は私の視線にバッチリ気がついたらしく、物凄く怪訝な顔をされて嫌がられて、「あ、これって失礼なことなんだ」とその時になって初めて気がついたのですけど、実のところ、そのような女性の「怪訝そうな顔」すらその理由が何なのかわからないほど女性の表情が読み取れなくて、最初はとにかく「何だか、よくわからない」と言うだけで、後々になって、「あ、あの時は、私がジロジロ見たから嫌がられたのか・・・」とかなり後になって気がついたのです。田舎にいて閉ざされた人間関係の中に住んでいると異常なことにすら気が付かなかったわけです。こういうことを言うと「そんなの、当たり前だろ。相手に気が付かれないように見るんだ!」と思う人がいるかもしれませんけど、すいません。よくわかっていませんでした。私は高校まで親戚のような変だったり不思議だったりする人との付き合いの方が多くて、あまりにも普通な世間一般の人間関係のことがよくわからないでいたのです。私は当時、普通の常識人との交流が限られていて、特に女性関係は変なことばかりでしたから、当時は「そんなものかな」と思って何気ない行動でジロジロ見て、もちろん嫌われてしまったわけです。 私が精神崩壊していて他人とその種の普通の交流というものが向こうから避けられていた節もありますし、実のところ田舎の常識人というのはその田舎での常識というだけで都会だと通用しないようで、都会だと非常識な人たちが多かったように思います。田舎にいればそれなりに通じるのかもしれませんけど。そのように、田舎だったからなのかもしれませんけど、都会の場合と女性の距離感が違って、田舎だと最初から距離が近いように思いますけど、都会ではもっとジェントルマンに特に最初は振る舞わないと心の距離が縮まらないのだと後から学ぶわけですけど、当初は、「何だか、都会の女の人は距離が遠いな」と思っていました。ここが人生の分かれ道で、単純に田舎の価値観を適用させて「あの女の子たちは疎遠だ」と思うのか、それとも都会の人の距離感を学ぶのかでその後の行動が変わってきますし、はたまた、自分がジロジロ見て失礼な行動を取ってしまった時も「このような失礼な行動は取らない」、とその時思うのか、あるいは、「あ、気が付かれないようにすればいいんだ」と思うのかでその人のモラルと考え方がわかるわけです。高校時代までは人も少ないですしほとんど知った顔で、実際、割と距離が近かったので実際に近くに行って同級生の顔から体まで真正面から堂々とジロジロ見るとその女の子は「あー、この男の人(私)、私に気があるのかな!」という感じで割と喜んでくれてその後の会話が弾んだりするわけですけど(もちろん人によりますが)、そもそも、最初のステップとして心理的距離が既に近いのでジロジロ見られることが好意として解釈されていたのかもしれません。都会ではまず最初に心理的バリアがあって、田舎よりも一歩手前から始まりますから、そのような壁がある状態でジロジロ見られると「嫌! 失礼!」と思われるようでした。都会でも高校だとどうなるのかはよくわかりません。あるいは、私の田舎の高校時代やその親戚などあの地方が特殊だったのかもしれませんし、時代的なものもあったかもしれません。今ではおそらく全国的に、ジロジロ見られると失礼、と言う方がおそらくは普通で、であれば、そもそも、あの親戚の言いつけが根本的におかしい、と後から思ったのでしたけど、頭のブロックを外すには時間がかかりました。実際、親戚と顔合わせした時に上から下までジロジロ見て品定めされたらかなり不愉快かなとは思いますが・・・。どうなのでしょう。その後もしばらくこれは私の中での精神面のブロックになっていて行動と考えを制限していました。重要なのは性格であって顔は標準以上であって生理的に無理でなければそれで良いと言うところに落ち着くまでは時間がかかったわけですけど、幼い頃に何度も何度も刷り込まれたこの親戚の非常識な当時の発言によって私の行動は縛られていました。今から思えば、なんてくだらない、どうでも良いことによって頭と行動にブロックがかかっていたのだと思うわけです。
その叔父はというと「彼女ができたら連れて来い。顔と体を評価してやるぞ。顔立ち何点、目が何点、口元が何点、って細かくチェックして、OKかどうかサイン送ってやるぞ。鼻がひん曲がったブサイク連れてくるなよ!」とか女性蔑視の酷すぎることを平然と言ってOKサインとかNGサインとかしたり手で鼻を抑えて曲げるような仕草を面と向かってしてくるような品のない、モラルの低い貧相のなさで、その親戚の叔母は地元では美人でしたから、その美人の叔母も一緒になってニコニコして当然かのように振る舞って叔父の話を横で聞いているような常識のなさでしたけど、当時は、その親戚があまりにも堂々としていて自慢げに話していましたから私はずっとその親戚がまともな常識人のような気がしていました(そんなわけないのですけど)。ですから長らく、よくわからないけど、そんなものなのかな、と思っていましたけど、上京してから思い返すとあの親戚は相当におかしかったことがわかったわけです。私は状況がわからず、それを恥ずかしげもなく合コンで試して痛い目を見ました。当時は親戚から刷り込まれるように何度も何度もそのようなことを言われていましたから上京してから合コンなどで女性たちと対峙した時に最初は状況がよくわからなくて、「なんだこの状況。これが合コンというものかな。」よくわからないままに言いつけを守ってとりあえず上から下までジロジロと見て「⚪︎点」とかつけてみたら、それをされた女性は私の視線にバッチリ気がついたらしく、物凄く怪訝な顔をされて嫌がられて、「あ、これって失礼なことなんだ」とその時になって初めて気がついたのですけど、実のところ、そのような女性の「怪訝そうな顔」すらその理由が何なのかわからないほど女性の表情が読み取れなくて、最初はとにかく「何だか、よくわからない」と言うだけで、後々になって、「あ、あの時は、私がジロジロ見たから嫌がられたのか・・・」とかなり後になって気がついたのです。田舎にいて閉ざされた人間関係の中に住んでいると異常なことにすら気が付かなかったわけです。こういうことを言うと「そんなの、当たり前だろ。相手に気が付かれないように見るんだ!」と思う人がいるかもしれませんけど、すいません。よくわかっていませんでした。私は高校まで親戚のような変だったり不思議だったりする人との付き合いの方が多くて、あまりにも普通な世間一般の人間関係のことがよくわからないでいたのです。私は当時、普通の常識人との交流が限られていて、特に女性関係は変なことばかりでしたから、当時は「そんなものかな」と思って何気ない行動でジロジロ見て、もちろん嫌われてしまったわけです。 私が精神崩壊していて他人とその種の普通の交流というものが向こうから避けられていた節もありますし、実のところ田舎の常識人というのはその田舎での常識というだけで都会だと通用しないようで、都会だと非常識な人たちが多かったように思います。田舎にいればそれなりに通じるのかもしれませんけど。そのように、田舎だったからなのかもしれませんけど、都会の場合と女性の距離感が違って、田舎だと最初から距離が近いように思いますけど、都会ではもっとジェントルマンに特に最初は振る舞わないと心の距離が縮まらないのだと後から学ぶわけですけど、当初は、「何だか、都会の女の人は距離が遠いな」と思っていました。ここが人生の分かれ道で、単純に田舎の価値観を適用させて「あの女の子たちは疎遠だ」と思うのか、それとも都会の人の距離感を学ぶのかでその後の行動が変わってきますし、はたまた、自分がジロジロ見て失礼な行動を取ってしまった時も「このような失礼な行動は取らない」、とその時思うのか、あるいは、「あ、気が付かれないようにすればいいんだ」と思うのかでその人のモラルと考え方がわかるわけです。高校時代までは人も少ないですしほとんど知った顔で、実際、割と距離が近かったので実際に近くに行って同級生の顔から体まで真正面から堂々とジロジロ見るとその女の子は「あー、この男の人(私)、私に気があるのかな!」という感じで割と喜んでくれてその後の会話が弾んだりするわけですけど(もちろん人によりますが)、そもそも、最初のステップとして心理的距離が既に近いのでジロジロ見られることが好意として解釈されていたのかもしれません。都会ではまず最初に心理的バリアがあって、田舎よりも一歩手前から始まりますから、そのような壁がある状態でジロジロ見られると「嫌! 失礼!」と思われるようでした。都会でも高校だとどうなるのかはよくわかりません。あるいは、私の田舎の高校時代やその親戚などあの地方が特殊だったのかもしれませんし、時代的なものもあったかもしれません。今ではおそらく全国的に、ジロジロ見られると失礼、と言う方がおそらくは普通で、であれば、そもそも、あの親戚の言いつけが根本的におかしい、と後から思ったのでしたけど、頭のブロックを外すには時間がかかりました。実際、親戚と顔合わせした時に上から下までジロジロ見て品定めされたらかなり不愉快かなとは思いますが・・・。どうなのでしょう。その後もしばらくこれは私の中での精神面のブロックになっていて行動と考えを制限していました。重要なのは性格であって顔は標準以上であって生理的に無理でなければそれで良いと言うところに落ち着くまでは時間がかかったわけですけど、幼い頃に何度も何度も刷り込まれたこの親戚の非常識な当時の発言によって私の行動は縛られていました。今から思えば、なんてくだらない、どうでも良いことによって頭と行動にブロックがかかっていたのだと思うわけです。
虐めとリベラルの平等感と同調圧力の関係
小学校の休憩時間に後ろから近づいてきて私の頭をバンバン叩いてからゲラゲラ笑うような頭のおかしい同級生がいたのですが、おそらく、当時流行っていた「8時だよ全員集合」とか「とんねるず」の品のない番組を見て真似をしていたのだと思いますけど、番組を作っている方は面白い番組のつもりなのかもしれないですけど同級生に同じことをゲラゲラ笑いながら真似されて継続的に虐めを受ける方は人生を数十年単位で無駄にすることになりますので、あのような、他人を馬鹿にすることを正当化するような品のない番組を作っていた人は(私が閻魔大王なら)地獄行きにするほど罪深いことだと思います。番組を作っている人間の品のなさがわかります。後から学んでわかったことですけど、テレビみたいなマスメディアは社会の階級間の垣根を取り払う効果があって、チャップリンなんかがその好例ですけど、もともと教養のない階層が行なっていた風習がマスメディアの流行と共に共有され一般化したのと同様に、もともと品のない階層ではある種の虐めが当然のこととして平然として行われていたものが一般化した結果として社会を混乱に陥れ、結果、私のような被害者が多数生まれたということなのだと思います。昔は割と階層の違う人たちと社会において交わることが少なくてあのような品のない虐めは下級階層でもともと行われていたとしても分相応だったものが学校という均一化された共同生活において階層関係なしに同じ空間を共有した結果、もともと関わることのなかった人たちと関わることで、このような品のない虐めが当然のようにされる、という状況が生まれていたのかと思います。
これで学んだことは、世間一般には人は平等とか言われますけど実のところ獣のような人間はそこら中にいて、人の頭を継続的に叩いても何とも思わないような酷い人間、程度の低い人間は大勢いるわけです。一方、良い人というのはいるわけですけど、それらの人が平等なわけはないのです。同じ信念を持って同じ理解を持つ人たちの間で平等と見做しましょう、というだけのお話な訳で、例えば「力の強い方が正しい」と考えるような人がいたとしたら同じ考えを持つ人たちの間で平等なだけであり、はたまた「非暴力」という共通の理解を持てる人たちがいるとしたら同じ考えを持つ人たちの間でだけ平等なのであって、それらは独立していて、関係性を持たないのです。関係性がないのですから、どちらが正しいというわけでもなく、両方正しくて、それは、お互いのそれぞれのグループの中でその同意は正しい、というお話な訳です。ですから、同意がなされていればという条件下で同じ程度のグループの中でそれは正しいということは、それは例えば、暴力であってもそうなわけで、力が強い方が正しいという同意がお互いに(一方的ではなく)なされていればそれは平等ですから問題ないわけです。ただ、同意がないのに巻き込まないで欲しいのです。グループが違う人の間、つまりは暴力が強い方が偉いと考える人と非暴力の人たちの間で平等というのは成り立たないわけですから、お互い、関わり合わずに生きる方が良いのです。そもそも、生きる世界が違うわけです。力が正義と考える世界はあるでしょうから本人の好きにすれば良いわけですけど、学校という小さな世界では複数の世界が混在していて他者の世界観に巻き込まれてしまい、被害者が生まれてしまうわけです。若い頃は多少はそういうのも有益な面もあって自分と違う世界を垣間見るのも時には勉強にはなりますけど、程度を超えると対処が難しくなるわけです。
世間一般で「あの人は獣」というと表現的にとても失礼に聞こえたりしますけど、経験上、実際に私が被害者でそれを体験したのですから、世間には獣のような人間は確実に存在しているのだと断言できます。ついつい、スピリチュアルの世界では「皆さん、良い人(=地球上のすべての人は平等)」という前提にしがちですけど、獣のような人と自分が平等なわけはないのです。ここは大切な点です。とは言いましても世間体もありますから面と向かって「あなたは獣のような人」なんて野暮なことを言ったりしません。そもそも、話があまり通じないから人ではなくて獣と言っているのですから話したり理解し合う以前の問題なわけです。話がそれなりに通じたらもう獣ではないのです。話が通じないのであれば、ただ単に、話もせず、酷い人からそっと静かに距離を取って、関わらないようにするだけのお話です。仏教などで言われている「不道徳な人とは付き合ってはいけない」という法則はここでも正しいわけです。お互い、住む世界が違うのですから、好きにさせておけば良いのです。色気を出して「自分があの酷い人を改心させてあげよう」なんて思うのはエゴで、そのような思い上がった気持ちは多くの場合で打ち砕かれることでしょう。住む世界が違うのですから、放っておけば良いのです。この世界はそのような人でも生きていられるほどに寛容的です。そもそも、この世にはどちらも独立して生活できるほど広くて寛容なのですから、お互い、それぞれの世界で好きに楽しく満足して暮らせばいいのです。ですから「人間平等」なんてあってないようなものなのですけど、モラルのない人からしたら「人間平等」なんてスローガンは好都合で、本来ならば相手にもされなくて住む世界が違う人でも特によくわかっていない子供であればこのスローガンひとつで一応は相手にしてくれますから平等とかモラルだとかリベラルだとか耳障りの良いことを言って近づいてきて虐めたり搾取したりできるわけです。結局、程度の低い人というのは要は自分が満たされていなくて他人が羨ましく見えて嫉妬した上でどうにかして利益を享受したいからそんな適当なこと言って懐に入り込もうとしているだけなので、そんな下層の品のない下心のあるずる賢い人とは距離を取って、要は脇を甘くしないでいる姿勢が大切なわけです。マスコミとかテレビはその出自からして階級社会を壊す役割があってリベラルで平等なことを標榜しますけどこのご時世にそんなこと本気にする必要はなくて、未だに階級を破壊しようとマスコミが頑張っている結果、本来の目的ではなくてずる賢い人の言い訳ばかりに使われて、世の中、特に子供に対して混乱を与えているわけです。それは良い面もありますけど特に子供の生活環境にとっては数十年単位でトラウマにさらされるほどの悪影響があるように思います。大人ならともかく、子供は階級に応じたモラルのある同質な人たちと安全な環境で暮らすことが必要に思います。親に経済力があるならそれなりの人が通う私学や進学校に行くとかすれば割と同質な人たちとの環境で守られますけと、田舎ですとそもそも選択肢がなくて、凄く良いか凄く悪いかの両極端になってしまうように思います。
リベラルは「人は皆平等」というお題目を掲げているわけですけど、上記のように世間には獣のような人が紛れているためにそんなことはあり得なくて、あくまでも同質の人たちの中での平等があるというだけのお話なわけです。リベラルはアメリカのリンカーン大統領の宣言とかがよく引用されますけど、あれはあくまでもキリスト教徒の中での平等であって、それは結局は、同質の人たちでの平等を謳っているに過ぎないわけです。最近はその引用を理解せずに単純に万人の平等みたいな解釈で引用する人がいるものですから話がややこしくなっています。この種の、同質の人たちの平等、ということであれば、実はリベラルも保守もそう変わりがないのです。ただ単に自分の都合の良いように解釈して自分の主張を認めさせるために違った言説を使っているだけであり、実のところ、どちらも同質の人たちの間での平等が実際のところではあるけれども、お題目として万人の平等を謳っているのか保守層の保護を謳っているのかの違いしかないわけです。そのことを踏まえると、いかにリベラルが偽善的かも見えてきて、リベラルの言う万人の平等はというと、実際に世の中に悪魔のような人がいる以上はその理論は基本的には破綻していて、それでも、ルールだとか法律だとか犯罪とか異質者とかいう「除外のためのカテゴリ」を幾つも作って大勢の人を排除することで「人は皆平等」のお題目をなんとか保とうとしているのが今のリベラルの姿だと理解すれば、少なくとも私が経験した数十年前はというとそのような「除外カテゴリ」を作らずして誰でも同じ教室に放り込むような日本の教育現場はリベラルですらなくてただ単に管理されていないだけの状況であったと言えます。本当にリベラルであるならばリベラルに徹すれば多少はマシだったのですけど方針が一貫していなくて、リベラルであれば同質の人以外は異質として排除して「皆平等」のお題目を保とうとするべきであるのにも関わらず、結局は日本の社会はリベラルではないものですからそのようなことはせずに、自分たちがよくわかっていないリベラルという旗印を一応は掲げながら、どうしたら良いのか現場もよくわかっていない、という状況だったかと思います。そして時は流れ、最近は、学校で暴れたりメンタルを壊すとすぐに隔離されて施設に送られるようになったと聞きますので、リベラルの基本的な原則に従って異端を排除するという方針になってきたのだと思います。一旦隔離されて施設に送られてしまうと大学進学も難しくなりますので社会復帰は難しくなり、リベラルの原則に大人しく従う人以外は異端者として排除されることとなり、社会から多様性が失われるばかりか、たとえば、単に虐められていて被害者だった人が少し反撃したら隔離されて施設に送られるという状況も普通にあるとすれば学校にもう救いはなくて、自分の子供を日本で育てたくはない、という気持ちにもなります。そもそも私は学校での虐めの被害者ですから、ずるく虐める側に優位なこの状況は、救いがないとお思います。数十年前も救いがありませんでしたけど、昨今の状況はもっと遥かに救いがなくなっているように思います。これはただ単に虐めだけの問題ではなく、リベラルの偽善と同調圧力いうところにも繋がってきます。
これで学んだことは、世間一般には人は平等とか言われますけど実のところ獣のような人間はそこら中にいて、人の頭を継続的に叩いても何とも思わないような酷い人間、程度の低い人間は大勢いるわけです。一方、良い人というのはいるわけですけど、それらの人が平等なわけはないのです。同じ信念を持って同じ理解を持つ人たちの間で平等と見做しましょう、というだけのお話な訳で、例えば「力の強い方が正しい」と考えるような人がいたとしたら同じ考えを持つ人たちの間で平等なだけであり、はたまた「非暴力」という共通の理解を持てる人たちがいるとしたら同じ考えを持つ人たちの間でだけ平等なのであって、それらは独立していて、関係性を持たないのです。関係性がないのですから、どちらが正しいというわけでもなく、両方正しくて、それは、お互いのそれぞれのグループの中でその同意は正しい、というお話な訳です。ですから、同意がなされていればという条件下で同じ程度のグループの中でそれは正しいということは、それは例えば、暴力であってもそうなわけで、力が強い方が正しいという同意がお互いに(一方的ではなく)なされていればそれは平等ですから問題ないわけです。ただ、同意がないのに巻き込まないで欲しいのです。グループが違う人の間、つまりは暴力が強い方が偉いと考える人と非暴力の人たちの間で平等というのは成り立たないわけですから、お互い、関わり合わずに生きる方が良いのです。そもそも、生きる世界が違うわけです。力が正義と考える世界はあるでしょうから本人の好きにすれば良いわけですけど、学校という小さな世界では複数の世界が混在していて他者の世界観に巻き込まれてしまい、被害者が生まれてしまうわけです。若い頃は多少はそういうのも有益な面もあって自分と違う世界を垣間見るのも時には勉強にはなりますけど、程度を超えると対処が難しくなるわけです。
世間一般で「あの人は獣」というと表現的にとても失礼に聞こえたりしますけど、経験上、実際に私が被害者でそれを体験したのですから、世間には獣のような人間は確実に存在しているのだと断言できます。ついつい、スピリチュアルの世界では「皆さん、良い人(=地球上のすべての人は平等)」という前提にしがちですけど、獣のような人と自分が平等なわけはないのです。ここは大切な点です。とは言いましても世間体もありますから面と向かって「あなたは獣のような人」なんて野暮なことを言ったりしません。そもそも、話があまり通じないから人ではなくて獣と言っているのですから話したり理解し合う以前の問題なわけです。話がそれなりに通じたらもう獣ではないのです。話が通じないのであれば、ただ単に、話もせず、酷い人からそっと静かに距離を取って、関わらないようにするだけのお話です。仏教などで言われている「不道徳な人とは付き合ってはいけない」という法則はここでも正しいわけです。お互い、住む世界が違うのですから、好きにさせておけば良いのです。色気を出して「自分があの酷い人を改心させてあげよう」なんて思うのはエゴで、そのような思い上がった気持ちは多くの場合で打ち砕かれることでしょう。住む世界が違うのですから、放っておけば良いのです。この世界はそのような人でも生きていられるほどに寛容的です。そもそも、この世にはどちらも独立して生活できるほど広くて寛容なのですから、お互い、それぞれの世界で好きに楽しく満足して暮らせばいいのです。ですから「人間平等」なんてあってないようなものなのですけど、モラルのない人からしたら「人間平等」なんてスローガンは好都合で、本来ならば相手にもされなくて住む世界が違う人でも特によくわかっていない子供であればこのスローガンひとつで一応は相手にしてくれますから平等とかモラルだとかリベラルだとか耳障りの良いことを言って近づいてきて虐めたり搾取したりできるわけです。結局、程度の低い人というのは要は自分が満たされていなくて他人が羨ましく見えて嫉妬した上でどうにかして利益を享受したいからそんな適当なこと言って懐に入り込もうとしているだけなので、そんな下層の品のない下心のあるずる賢い人とは距離を取って、要は脇を甘くしないでいる姿勢が大切なわけです。マスコミとかテレビはその出自からして階級社会を壊す役割があってリベラルで平等なことを標榜しますけどこのご時世にそんなこと本気にする必要はなくて、未だに階級を破壊しようとマスコミが頑張っている結果、本来の目的ではなくてずる賢い人の言い訳ばかりに使われて、世の中、特に子供に対して混乱を与えているわけです。それは良い面もありますけど特に子供の生活環境にとっては数十年単位でトラウマにさらされるほどの悪影響があるように思います。大人ならともかく、子供は階級に応じたモラルのある同質な人たちと安全な環境で暮らすことが必要に思います。親に経済力があるならそれなりの人が通う私学や進学校に行くとかすれば割と同質な人たちとの環境で守られますけと、田舎ですとそもそも選択肢がなくて、凄く良いか凄く悪いかの両極端になってしまうように思います。
リベラルは「人は皆平等」というお題目を掲げているわけですけど、上記のように世間には獣のような人が紛れているためにそんなことはあり得なくて、あくまでも同質の人たちの中での平等があるというだけのお話なわけです。リベラルはアメリカのリンカーン大統領の宣言とかがよく引用されますけど、あれはあくまでもキリスト教徒の中での平等であって、それは結局は、同質の人たちでの平等を謳っているに過ぎないわけです。最近はその引用を理解せずに単純に万人の平等みたいな解釈で引用する人がいるものですから話がややこしくなっています。この種の、同質の人たちの平等、ということであれば、実はリベラルも保守もそう変わりがないのです。ただ単に自分の都合の良いように解釈して自分の主張を認めさせるために違った言説を使っているだけであり、実のところ、どちらも同質の人たちの間での平等が実際のところではあるけれども、お題目として万人の平等を謳っているのか保守層の保護を謳っているのかの違いしかないわけです。そのことを踏まえると、いかにリベラルが偽善的かも見えてきて、リベラルの言う万人の平等はというと、実際に世の中に悪魔のような人がいる以上はその理論は基本的には破綻していて、それでも、ルールだとか法律だとか犯罪とか異質者とかいう「除外のためのカテゴリ」を幾つも作って大勢の人を排除することで「人は皆平等」のお題目をなんとか保とうとしているのが今のリベラルの姿だと理解すれば、少なくとも私が経験した数十年前はというとそのような「除外カテゴリ」を作らずして誰でも同じ教室に放り込むような日本の教育現場はリベラルですらなくてただ単に管理されていないだけの状況であったと言えます。本当にリベラルであるならばリベラルに徹すれば多少はマシだったのですけど方針が一貫していなくて、リベラルであれば同質の人以外は異質として排除して「皆平等」のお題目を保とうとするべきであるのにも関わらず、結局は日本の社会はリベラルではないものですからそのようなことはせずに、自分たちがよくわかっていないリベラルという旗印を一応は掲げながら、どうしたら良いのか現場もよくわかっていない、という状況だったかと思います。そして時は流れ、最近は、学校で暴れたりメンタルを壊すとすぐに隔離されて施設に送られるようになったと聞きますので、リベラルの基本的な原則に従って異端を排除するという方針になってきたのだと思います。一旦隔離されて施設に送られてしまうと大学進学も難しくなりますので社会復帰は難しくなり、リベラルの原則に大人しく従う人以外は異端者として排除されることとなり、社会から多様性が失われるばかりか、たとえば、単に虐められていて被害者だった人が少し反撃したら隔離されて施設に送られるという状況も普通にあるとすれば学校にもう救いはなくて、自分の子供を日本で育てたくはない、という気持ちにもなります。そもそも私は学校での虐めの被害者ですから、ずるく虐める側に優位なこの状況は、救いがないとお思います。数十年前も救いがありませんでしたけど、昨今の状況はもっと遥かに救いがなくなっているように思います。これはただ単に虐めだけの問題ではなく、リベラルの偽善と同調圧力いうところにも繋がってきます。
リベラルの多様性の扱い
- リベラルは「多様性(同質化の前段階としての多様性)」→「(多様性を捨て去る)同質化(理想は地球規模での同質化)」→「同質な者たちの間での平等、あるいは、同質化できないのならば切り捨てて”社会の外側”に除外者を切り離す、あるいは最初に戻って啓蒙のやり直し」という過程を経ます。
- 保守は「多様性」→「ある程度の同質のグループ(あるいは地域)での区分け」→「(グループや地域内での)平等(グループ間での多様性の担保)」という過程を経ます。
- リベラルであれば「人は皆平等」という旗印の元、異質はものは排除してなかったことにする、存在しないものとみなす、という方針を取ります。それで人類平等という原則を守れるからです。一見すると平等のように見えて、異質なものを切り捨てるわけですからかなり残酷です。アメリカの社会を見れば見捨てられた人が大勢いることがすぐにわかるでしょう。これは、私からすればリベラルの偽善のように見えます。同調圧力があり、同調しなければ異端と見做して排除するわけです。日本の公共教育は地域別にそこに住んでいる人を「ごちゃ混ぜ」するのが基本ですから基本的にこの構造で動いているかと思います。最近は学校でメンタルを壊すとすぐに引き離されて何かの施設に隔離されると聞きますから、階層の違う人たちと一緒の学校になって低級な人たちから執拗な虐めを受けてメンタルを壊すというパターンの被害者が後を経たないように思います。地域や学区にもよりますが悪ければ動物園のような環境で子供は育つことになります。子供は混乱し、虐めを受けたり、時には自分の子供が虐めの加害者になったりもします。リベラルの親は上記の基本的な挙動に従いますから、子供が道を外れて異質なものになったら「そんな子は自分の子供ではない」と切り捨てます。リベラルは潜在的に残酷なわけです。子供は、親に見捨てられないために同調圧力のストレスのある心配な生活を送るようになり、潜在的に「親に愛されていない」という悩みを抱えることになります。リベラルの本質は同質化と同調圧力そして異質な者の排除にあるわけです。もちろん、表立ってリベラルは自分でそんなこと言わないですけど、行動を見ればそうだと判断できるわけです。リベラルな人がいう「分ける」とは「除外する、排除する」という意味なわけですけど(本人はそんな酷いことはもちろん言いませんけど)、行動と判断としては、そうなっていると思えるわけです。この「除外する」という原則があるが故に「社会から除外された人を助ける」という立ち位置の人も必要になりますけど、そもそも、除外するという行為があるからこそ助けるという行為も必要になるわけですから、最初から除外しなければ助けるという行為も不要になるのですけど、割と除外する人と助ける人というのが対になって依存関係になって強く結びついているるように思えて、リベラルで「⚪︎⚪︎を助ける」という人たちに違和感を感じるのもこの辺りが原因なわけです。本来はリベラルという「除外を生成する構造」こそが問題なのに、そこには切り込まず、対処の忙しさに明け暮れて疲弊する人たちを量産するわけです。あるいは、関わったからこそこの構造に気がついてリベラルの偽善に嫌気を差して活動を辞める、という人も私が若い頃に見たNGOやNPO活動ではそれなりにいたように思うのです。
- 保守であれば、人を同質な階層あるいはグループに分割して、そのグループ内での平等という方針を取ります。一見すると差別的のように(リベラル的な観点からすると)見えるかもしれませんけど、それぞれの階層あるいはグループの中で適切に分相応に対処され、同質な人たちの間で同じような精神レベルで管理されます。これは中にいる人にとって幸せな状況です。異質な人は他のグループに移ることができます。一見すると排除のように見えるかもしれませんけど、単に移るだけで、同質な人たちの中で幸せに過ごすことができます。日本はもともとはこちらだったかと思いますし、今でも多少この流れは残っているとはいえ、主流ではないように思います。家が都市部で家庭が裕福で勉強もそこそこできれば私学に通うことで守られた環境に入れるというのは多少の救いかと思います。学校というとリベラルな教育方針のところが多いわけですけど、私学の教育方針がリベラルであったとしても私学で階層やグループがそもそも分離されている環境にいられるというだけで子供が保守的な環境を享受できるという構造的メリットがあるわけです。その構造を自覚していようがいまいが子供は保守的構造によって守られるわけで、教育上リベラルかのような思想を教えられるかどうかは二の次であるわけで、先生が言葉上は一応はリベラル風なことを言っていつつも運用は保守な場合も日本では多いように思います。この場合、子供は温室に育って、大きくなってから守られていたことに気がつくわけです。多少はリベラルであっても実態が保守であれば同質なグループの中では子供の多少のやんちゃやはみ出した態度も大目に見られます。
リベラルと多様性は反比例する
- リベラルは上記の通り本質的に画一化を基本とした構造があるわけですけど、それ故に、たとえば多様性が大切と言ってはいるものの、それは往々にして精神の「投射」の機能において自身の問題を周囲の環境に見ていることが多いのです。自身の精神が成熟していない場合には自身の問題を他人や環境の中に見てしまうことが精神の投射なわけですが、それ故に環境問題やら多様性の問題やらを社会問題化してロビー活動をしたり条例を制定させようと躍起になるわけですけど、その根本が投射であることに気がついていない状態で活動に熱心になっているか、あるいは、気付いたら最後、急に醒めて活動から距離を取って冷ややかになるのが特徴です。リベラルな活動家は割と内ゲバが多くて活動家同士で争うことが多いのも同じ根本に根ざしていて、投射でありますから、活動家同士の中に問題を見てしまって活動家同士で争ってしまうわけです。その根本はというと、自身の精神がまず成熟していなくて、それ故に多様性を認めることができていないのにも関わらず、その自身の問題を他者や周囲の環境に対して(精神の)投射を(無意識に)行ってしまうが故に自身の問題としてではなく、環境や政治の問題として他者や環境あるいは政治を攻撃するという構造になってしまっているわけです。リベラルはまず解決すべきは自身の精神の問題であって、精神が成熟すれば自然に保守になるように思います。
- 保守は最初から分割して分相応に人を育てるということをします。「人は皆平等」などというあり得ないお題目は本気では信じてはおらず、世間がそう言っているから一応は同意しているものの、色々と言い換えをしてその本質を明らかにしようとしています。例えば「人は平等ではあるけれども、品位には差があります」とか有名な人が言っていましたけど、一応はリンカーンの言うような平等というのは社交辞令で同意しつつも本気でそれを信じてはいないのです。
リベラルな親の子供は時にそのように動物園のようなごちゃ混ぜの環境で精神と身の危険に晒されていたりしますが、本当に子供に必要なのは安全な環境であって、であれば、階層別、グループ別に分割した環境が必要なわけです。安全な環境というのは、例えば、同級生に急に後ろから頭をバンバン叩かれてゲラゲラ笑われるようなことがない環境というのが安全な環境であって、階層やグループをごちゃ混ぜにした動物園のような環境で精神が未熟な人と一緒に暮らすと子供はメンタルを壊すだけです。時々、リベラルな親の勝手な思想で「動物園のような環境こそが多様性を育てる」みたいなことを言って子供をその勝手な思想に付き合わせますけど子供としはいい迷惑で、それでも子供はよくわかりませんから、親が「これが良い」という環境に対して、親が望むように「いい環境だった」とか口では答えますけど、それは親の同調圧力に子供が屈しているだけで、そんな子供の気持ちもわからないほど一部のリベラルな親は見識が狭くて歪んでいるわけです。
まともな親であれば、例えば親に「後ろから貴方の子供の頭をバンバン執拗に継続的に叩いてゲラゲラ笑うようなキチガイの子供と同じ教室で自分の子供を育てたいと思いますか」と聞いたら、大抵の親はそんな環境は嫌だと思うわけです。時に極端なリベラルの親は「差別はいけない」だとか「人は皆平等」とか言って子供を動物園に送り込むわけですけど、それは周囲に対するポーズと(自身の主張に対する)アリバイ作りなのであって、そんなことのために子供を動物園に送り込んで子供の精神を病ませるような親は終わっていると言えます。
ほとんどの親は、本質的にリベラルではなくて保守なわけです。本当にリベラルであるならば動物園のような環境で子供を多様性の元で育てることを由とするのであって、そうすると苦労するのは子供で、時に子供が参ってしまって精神をおかしくしますけど、上記の通り、本当にリベラルな親というのは道を外れた子供というのを切り捨てますからその時は「そんな子は私の子供じゃない」と言って見捨てたりします。そして、うまく自分の都合の良く育った子供だけ「自分の子供」として見ますから、結果、「やっぱり自分の教育方針は間違っていなかった」と思い込むわけです。
これほど酷い親が本当にいるのかと、疑問に思われる方もいらっしゃるかもしれません。確かに、私の親もここまで極端ではありませんでしたけどある程度はこの性質があって、ことあるごとに特に母親はヒステリーになって「もうこの子はダメだ」という見放し発言を何度も何度もされてきました。
そして、大学時代や20代前半に関わったNPO活動やNGO活動においては左翼的・リベラル的な思想を持つ人とも多分に接してきて、そのような人たちの話を聞いていると、概ね、こういうことだったのではないかと理解できるのです。
結局、リベラルというのは精神が未熟であって、自分の問題を他者に投射していて、自己擁護に長けていて、問題が起きて自分の思い通りにならないと自分の子供であっても切り捨てるほど冷酷で容赦ないのです。左翼が内ゲバをよくするのも頷けます。
リベラルは本質的に許容範囲が少なくて画一的な社会を目指していて、多様性に欠けている、という本質を持つわけです。そして、その本質に気付かずに他者や環境や政治に自身の未熟な精神を投射しているが故に社会問題として扱うが、実はそれは自身の精神が未熟なだけのお話なわけで、そんな話に付き合わされる周囲の人は迷惑ですし混乱しますし、時間を無駄にする一方なわけです。
リベラルだとか平等とかよりも、もっと大切な基本的なものは安全な環境であり、安全な環境とは隔てられた守られている環境であり、温室であり、安全は特に子供に必要なもので、それは動物園のような環境とは真逆のものです。
このようなことをリベラルにいうと「そんなことはわかっている。当然だ」とか言いますから更に混乱してしまうのですけど、リベラルの人は周囲から色々と反論されていますから一応は知識はあることが多くて、しかし、頭でわかってはいても、本当にはわかっていないことが多いかと思いますが、本人はわかっているつもりな場合が多いように思います。こういうことを左翼とかリベラルな本人に言うと長々と反論されたり私が逆に見下されたり色々と嫌がらせをされたりしますけど、リベラルや左翼の特徴というのは「頭でわかっているつもりになっているだけで、本当にわかってはいない。それなのにも関わらず自分は100%理解していると思っている。自分の主張は完全に正しいと思っている」という傲慢な性質を持つため、話しても無駄で、結局、ヒステリーになって大声で喚き散らし、最終的には「面と向かって対峙しろ。お前は直接言えないくせに」とか言って最終的には喧嘩と啖呵の強さというところに辿り着きます。要は喧嘩早くて、行き着くところはというと、どれだけ腕っぶしが強いか、というところに辿り着くわけです。リベラルの本質というのは下級市民の反逆でありますから、色々と理解とか平等とか言っていても結局行き着くところは暴力なわけです。大人になってから喧嘩を売られたら逃げるに決まっているのに、暴力から逃げたら「逃げるのか」と啖呵をふっかけられたりして、こちらが怖がっているとゲラゲラ下品に笑われたり見下されたりして怖い思いをしますからリベラルや左翼とは最初から付き合わないのが良いのです。ネット社会になってから、よく「面と向かうと何も言わないのに、メールやチャットで長々と書く人がいる」と言うお話を聞くことが増えましたけど、これは保守とリベラルの双方がそう言うことがあってもそれぞれ意味が違っていて、保守の人がいうのは文字通り直接の会話が大切と言うことで特に異論はないですけど、リベラルの方はというとこのようなことを言って暴力できる距離にまで相手を呼び寄せたいだけなのですから、保守のこのような言葉は真に受けても良いですけどリベラルのこのような言葉は誘い出しているだけですので違和感のある怖い誘いに乗ってはいけないのです。
そのリベラルの見分け方としては、そもそも世界が平等とかいう幻想を抱いているかがポイントで、世界が平等という原則の元にそれに合わない人を排除して切り捨てて平等とピースという幻想をかろうじて保持しつつ、幻想を打ち砕く真実に対して特に臆病でビクビクして、真実を突きつけられるとヒステリーや時に暴力的になることもあるのが左翼やリベラルなわけです。
リベラルにまつわる多様な意味不明なことがありますけど、要は、頭が悪いとこういう構造に気が付かない(学校の勉強は割とできる場合も多々ありますが、地頭の問題)、というお話なのだと思います。なまじ中途半端に頭の良い人は個別論でそれっぽく理屈を擁護したりしますけど全体を見れば辻褄があっていなくておかしいことがわかるわけで、リベラルは概して自信家ですから自分の頭の良さに自信があったりしますけど、全体像が見抜ける人こそが本当に頭が良いのであって、個別論がいくらできて様々なことを知っていたとしても、それは中途半端な頭の良さであり、単に小賢しいだけのように思えるのです。それ故に、私は頭の悪い人とは付き合いたくないのです。頭が悪いとこのような全体像に気が付かずに個別論で留まってしまい、個別は確かにリベラルのお話は正しく見えるかもしれませんけど根本のところでおかしいわけで、それを見抜けるのが本当に頭の良い人なわけです。なんだかんだ言っていて、リベラルは根本のところで多様性が何たるかをわかっていないので多様性とか言っているわけです。リベラルの多様性はというと、自分の理想でもある絶対的に正しい価値観の世界に統一されるべきだという基本姿勢にそぐわないものを多様性と言っているのであって、言葉では多様性が大切とか多様性を保護するとか口では言っておきながら、実態はというと自分以外の価値観を切り捨てるのであって、例えば子供が自分の意向に反した行動とすると「自分の子供じゃない」と言って残酷にも切り捨てたりするわけで、許容範囲がとても狭いわけです。リベラルは自分の価値観を守って他者に自分と同じ価値観を持たせて自分と同じ価値観の世界を広げる、というところに根本の行動原理があるわけで、外面を良くするために多様性を大切にしたり保護したりしていますけど、それはバランスを欠いていて、要は偽善なわけです。このようなおかしなリベラルを見抜けるのが本当に頭の良い人なわけです。一方、保守であればそもそも多様な世界があることが前提になっていますからお互いの世界を侵食しないように気をつけるわけです。保守は最初から多様性を尊重している一方で、リベラルの方はというと多様性を尊重とか言いながら他の文化に侵食しているのです。リベラルの姿勢はとても偽善的であります。
リベラルは頭で同意をしているだけで、本質のところで理解していないが故に行動が変わらず、結局、今までの活動や思想が継続するわけです。そして、自分とは違う世界に住んでいる人がいることに極限まで理解が届かず、多様性とか色々と言って勉強しているつもりになって、驚きや知識などはそれなりに入れていても根本のところで、自分とは全く違う世界に住んでいる人がいるというところが根本のところでわかっていないんドS。
この辺り、(根本のところで)理解できない人には結局(いくら頭で理解していようとも、根本のところで)理解できないのだ、というところが肝になるわけです。やはり、同質の人たちだけの間でしか理解し合えないことはあるのだと思います。
左翼やリベラルの人の理屈はそれはそれで理解できなくもないですけど、リベラルの行動というものは何を言っても変わらないわけですから、頭では一応はお互いに理解し合えてはいるのですけど、結局、性質そのものが違うわけですから、住む世界が違うということだと思います。頭で理解していても、自身の姿というのはそうそう変わりませんから、自身にあった世界で生きればいいわけです。多少の理解はできても、世界が違えば理解と常識が根本に異なることに思いが及ばないのがリベラルの特徴なわけです。上記の通り、リベラルの世界とは自分の世界が世の中全てに広がっていて世界は1つでありリベラルが定める1つの世界から外れるものは例外として除外するのがリベラルのあり方です。保守はそもそも多様な世界があることを前提としていますから人類皆平等なんてあり得ないと思っています。今は言葉上では両者とも似たようなことを言っていたりしますけど、根本はこういうことだと思います。
住む世界が違うのですから別に暮らせばいいわけで、混ぜる必要はないのです。お互いに否定する必要もなく、お互いが、それぞれ自由に暮らしていけるほどこの世界は許容の幅が広くて、それ故に、あまりお互いに関わらず別の環境で生きればいいわけです。リベラルな人が動物園みたいな環境がいいと誘ってきても拒否すればいいだけのお話で、住む世界が違うのですから、お互い、好きにすればいいわけです。この世界は自由で全てが肯定されていますから、自分の好きなように生きればいいわけです。何も否定する必要はないわけで、リベラルはリベラル同士で好きに生きればいいわけです。
それと関連して、よく世間では「きちんと論理立てて説明されれば必ず理解できる」みたいなことが当然のように語られていますけど、これもまたリベラルの傲慢な考えであって、世界が違えば理解は表面的にしかできず、根本のところまでお互いに理解できるわけがないのです。「お互いに理解できる」なんていうのはマスコミの時代に社会階層がごちゃ混ぜになったことによる錯覚のようなもので、実際には、そんなことないわけです。多少、近いレベルの人たちで分かり合える、というのはありますけど、何段階か階層が違うと理解が難しいわけです。マスメディアの時代においてチャップリンに代表されるように階層がごちゃ混ぜになり、それ故に、階層が低くても多様な人々と接する機会が増えたことにより今まで知る由もなかったことを知ることになる元低層階級の人が多少は出てくるのはそうなのですけど、そもそも昔は階層が違えば接する機会がなくて理解する機会すら与えられなかったのにも関わらず、たまたま運よく知る機会が与えられたからと言ってなんでも理解できるとか公言するのは、自分のラッキーさを棚に上げた発言であり、それは一般化はできないものであり、そもそも一般的には下層な人は失礼で傲慢ですから、ラッキーな人はさておき、基本的には階層が違えば接点は少なくて、階層がごちゃ混ぜになる昭和の時代は終わりになって、今は元の安定した階層の時代に戻りつつありますから、階層が違う失礼な人の相手はしない方が良いのです。実際、階層が違えば理解や常識は大きく異なり、そもそも住む世界が違う人たち同士の間の理解には限界があるわけで、それを踏まえずに、なんでも理解できると思っているところが傲慢なわけで、そんな傲慢な人たちとそもそも付き合う必要はないのです。 きちんと言葉で説明をしたとして、頭で理屈はロジックで理解できたとしても、特に愛のあり様に関しては理解に壁があるわけです。いくら頭で説明されて頭で理解できたとしても、ハートの愛が当たり前の世界の住民とそうでない世界の住民にとっては常識や理解に大きく差があります。そう易々と根本まで深く理解できるわけはないのです。説明することで理解し合えるとかいうのは同じ世界に住む階層の間でのみ成り立つことなわけです。例えば、頭をバンバン叩いてゲラゲラ笑うことが当然のように思う人たちの階層は同じような人たちで好きにやれば良いわけで、そのような人たちにいくら道徳を説いたり人の頭を叩くことがいけないことだと説明したとしても逆ギレされたり聞く耳を持たない場合も多いでしょうし、言って聞かせて一応は頭で理解できたとしても、それが腑に落ちて身についたかというと、頭の理解だけですぐ身につく訳はないのです。理解したと口で言った翌日にまた同級生の頭をバンバン叩いてゲラゲラ下品に笑ってきたりもするでしょう。そのようなことは実際に私の実体験で起こりましたから、言っても無駄な人、先生などが何を言っても無駄な獣のような人というのは絶対的に存在しているわけです。住む世界がそもそも違うのですから、「理解がどうのこうの」みたいな面倒なことを言う必要はなくて、別々に暮らせば良いのです。
また、リベラルがそのように「きちんと論理立てて説明されれば必ず理解できる」というときは、一見すると「俺はお前を理解する」という風に見せておきながら実のところは逆で「お前は、俺様リベラルのいう賢い知識をしっかりと聞いて理解するんだぞ」という、押し付けがましい、傲慢な同調圧力である場合が多々あります。これは私がNPOやNGO活動しているときにそれなりの人数に同様の傾向がありましたので割とリベラルや左翼に一般的な傾向かと思います。実際、歪んだ考えであることもあるのですけど、それでも傲慢にもあれこれと執拗に同意と理解を迫ってきて、会話を拒否すると「お前は向き合わないやつだ」とかあれこれと人格否定をしてきますけど、そもそも、考え方を絶対的に同意させるまで延々と執拗に追いかけ回すストーカーもどきの行動をする方がおかしいわけで、そのストーカーもどきを拒否したところで、なぜに私が非難される必要があるというのでしょうか。リベラルは考え方が合わない人を排除することで自分たちの画一的な思想を守る、という実例だと思います。
そもそも住む世界が違うのですから考え方も理解も違うのが当然なのに考え方や生き方を統一させようとするところがリベラルはおかしいわけです。リベラルは多様性とか言いつつもそうして多様性を否定する行動をするところがおかしいのです。リベラルが多様性を受け入れるときにはパターンがあって、「とても遠くの世界」であれば多様性を受け入れるのですけど、近くのことになると多様性ではなく同質化と排除のパターンになるわけです。
似た理屈で、マスメディアの時代には、ロミオとジュリエットに代表されるように「恋愛や結婚も身分の階層の垣根を超えて」みたいなことが宣伝されましたけど、これまたトラブルを引き起こします。そもそも住む世界が違う人の間では常識が違いますから、ある程度は同じ階層の、ある程度同じ常識を持っている人と結婚する方がいいに決まっているのです。同じ階層の中にも色々な人がいますから多様性はいくらでも担保できます。世の中には男女は山ほどいるのですから、割と同じくらいの階層からパートナーを選ぶとしても何も不都合はないと思います。
左翼やリベラルは長い時間をかけて精神を成熟させていき、時に、世界を見ることで世界は最初から多様性に満ちていて多くの世界があってそれぞれの世界がそれぞれ違って住んでいることをようやく理解するわけですけど、実際のところ、そうして到達する理解というのは保守が最初から言っていたことであり、その理解に達すると自分が今まで保持していたリベラルな思想に幻滅してリベラルを捨てるわけです。その時、人はリベラルから保守になるわけです。多くの場合において若い人がリベラルで歳を取ると保守になると言いますけど、若い頃は世界が平等などという幻想に短期間であっても憧れるのは若者の青春みたいなもので時にそういう青年期も悪くはないですけど、ある程度の人生経験を積んだなら人は皆平等とかいう思想は幻想ではないことに気がつくわけで、年取っていつまでもリベラルでいるのはちょっと理解が足りないように思うのです。
リベラルのいう多様性なんていうのは自分たちの視野の狭さをカバーするための言い訳であって、世界がフラットで皆同じ世界に住んでいると思っているのがリベラルの本質なわけで、自分たちの思想に同調しない人は異端として排除するのがリベラルのやり方なわけです。
若い頃はこういうことを私が言ってもリベラルの人は色々と言ってきて混乱していましたけど、結局、その人の言葉と実際の行動と本質は何かを理解することで、言葉では色々と言っていても本質はどうなのかが理解できるようになったことで悩むことが少なくなりました。
世界がフラットであるわけはなく、住む世界が同じわけはなくて、それぞれ別の世界に住んでいて、それでいて実は皆同じワンネスなわけです。見た目とは関係なく、多様性があって、多様性のあるままで既にワンネスなのが本質なわけです。
リベラルな人は、口では色々と言いつつも考え方や思想を合わせようと同調圧力があって、実際はそのような同意や同調が全くなくても最初からワンネスであるのが本質であるにも関わらず、リベラルな人は同じような考えに同調してこそワンネスだと考えている点が大きく違うわけです。同調圧力のヒステリーが頭痛の種であるだけでなく、考え足らずの間違った行動で色々とロビー活動などをして社会の仕組みを変えようと画策してきて、一部のそういったリベラルな人の行動によって大勢に迷惑をかけているわけです。例えばトイレを男女で一緒にするなんて頭が悪すぎます。
リベラルな人は、自分の主張が相手に理解されるまで延々と勝手に主張を繰り返したりして、相手が理解しないと仲間外れにしたり馬鹿にし始めるのです。それは、端的に言えば自分が頭が良いと思っていて傲慢ということでありますけど、もっと深いところでは、リベラルは多様な世界が存在するということを本質のところで理解できないのです。こういうと「何を言っている。俺たちリベラルは多様性を尊重した社会を目指している」とか言いますけど、そもそも、今既に多様性に満ちた素晴らしい世界であって、リベラルの頭の中でだけ分断が生じているのです。リベラルが自分たちで混乱して多種多様なことを言っているのでわかりにくくなっていますけど、リベラルは多様性を理解していない、という基本を押さえればリベラルの有り様はすっきり理解できるのです。
スピリチュアル的には世界が別々であっても最初からワンネスで最初から最後まで世界は元々ワンネスというのが本質なわけですけど、そう言わなくても保守からすれば特に分断なんて最初から起きていないわけですがリベラルな人はそれが理解できなくて、なぜか分断が起きていると思い込んでいて、ワンネスのためには何か行動が必要だと思い違いをしているわけです。何も行動しなくても、別々の世界に住んでいても最初からワンネスなわけです。リベラルな人がリベラルのいうところのワンネスを実現するために世界を統一しようとして世界に争いが生じているのであって、そんな世界統一などしなくても最初からワンネスなのでありますから、別々の世界でお互いに必要最小限の関わりでそれぞれの世界で平和に過ごせば良いということがリベラルな人には理解できないのです。
じゃあ、実際、今起きている世界の紛争はどうなのだと言いますと、それをリベラルだとか保守だとかファシズムだとかいう枠組みで理解するのが間違いな訳です。リベラルな人はあれこれ理屈をつけて分断があるとか多様性を認めることが必要だとか色々言いますけど、戦争なんてそんな理屈よりも、ただ単に巻き込まれたから憎しみがお互いに倍増しているだけのお話です。であれば、理屈をどうこう言わずに、もっと巨大で大きな力で紛争を抑え込めば良いだけのお話です。戦争という力の暴力にはより大きな力で封じ込めれば平和になります。ただそれだけのお話なのに、リベラルは紛争などがあるとそれを煽って格差をネタにして喜んで(もちろん表立ってはそう言わないですけど)一見すると悲しい風のことをことさらに語ったりするわけです。それは偽善的でもあるのですが、その好例がバイデンです。
リベラルが抗争を格差だとか分断だとか言っているのは、後に述べますように混乱とコントロールという点に関してそう言うのがメリットがあるからであって、本当にそれが問題というよりは、混乱をある程度まで煽れば大衆をコントロールしやすくなるのでリベラルはそのような状況を利用しているだけなのです。直接的に武器を売らなくても紛争に乗じて人々の不安を煽るならば戦争に加担していることになりますけど表面上はもちろんそうは言わないところがリベラルのずるいところであるわけです。これは、内情を知っている人と、内情を知らずに社会的にそのように教育を受けただけな人と、その中間として薄々気がつき始めている人がいるわけですから全員が悪というわけではないのですけど、本質的にリベラルにはこのような方向性があるということです。
他には、リベラルな人が移民とか色々言っていますけど移民をたくさん入れると国を混乱に陥れたりするのは当然なわけで、そもそも移民とは住む世界が違うのでありますから基本は移民は受け入れずに元の国で暮らして貰えば良いだけのお話です。移民を大量に入れたら動物園になるだけのお話ですけど、そんなこともリベラルな人は考えが及ばずに、例えば「この地球に国境はいらない」などとお花畑のことを平然と行ったりするのです。例えば、もし国境がなくなったとしてインド人がわらわらと世界中に溢れ出したら街は汚れて汚物だらけになってゴミは放置されて腐臭がそこらでするようになり、大変なことになります。リベラルな人は呑気にも「そんなことにはならない」とかお花畑のことを言ったりしますけど、現実は多くのインド人と日本人の生活は違いすぎて一緒には暮らせないわけです。もちろん、違う階層の間であっても多少の行き来がありますけどそれはほんの僅かであり、全くボーダーがなくなってごちゃ混ぜにするのはあり得ないわけです。基本は、お互いの世界でそれぞれに暮らすことが平和にも繋がるわけです。
それに加えて、リベラルが多様性やら平等をいうのは、そうして格差を強調すれば話題になって、自身に目が向くことで自身の利益になるからです。更には、実のところ、リベラル本人はそうは表立っては言いませんけど、「他人を混乱の状態へと叩き落とすことができる」、ということによるリベラル側への利益が実は大きくて、自覚しているかしないかに関わらず、それが本当の目的なのです。一旦、他人を混乱の状態に落としてしまえば他人をコントロールするのは簡単ですから、とにかく悲しい厳しい辛い状況や格差を強調して他人を混乱状態に引き込むのです。そうして、自身はいい人を装いつつ他人をコントロールする立ち位置に立つことができて、その本質が故にリベラルとマスコミが強く結びつているのも当然であると言えます。リベラル本人が自覚してやっているのであれば極悪人ですし、自覚していないのであればその程度なわけで、どちらにせよ、他人を混乱に落としつついい人ぶって同調圧力を加えて他人をコントロールするリベラルは罪深いと言えます。
精神崩壊した高校時代
実のところ、高校時代の私のメンタルはアニメのZガンダムのカミーユのラストほどではないですけどある程度はあのように精神崩壊の状態だったように思います。授業中は口を「ぽかーん」と開けて、数学の先生からは口をぽかんと開けてバカっぽくしているところを指摘されてバカにされていたり「お前は大学はどこも絶対受からない」と教室で皆の前で「絶対に」を強調されて何度も公言されていましたけど実際には受かって、どうせまぐれかギリギリだろとか捨て台詞を何度も言われたわけですけど、私は当時、目の焦点があっていなくて、かろうじて意識を失わないように半分寝ぼけたような朦朧とした状態でいつも生活していたわけですけど、同じ教室の性格の悪い女の子からは頻繁に「ばーか」と言われていましたし、同じ教室の性格の悪い男からは頻繁にゲラゲラ笑われていました。私はかろうじて精神崩壊しないようにギリギリのところで心を繋ぎ止めていたわけですけど、辛い高校時代が基本にあったように思うのです。ですが、記憶を辿ると、そのような辛い記憶は全然出てこないのです。アニメのカミーユは、確かラストで記憶喪失になって辛い頃の前しか覚えていない状態になるのですけど、実のところ、私も高校と大学の辛い記憶は私の中で消してしまって、ほとんど思い出せないのです。記憶を消しゴムで消してしまったかのように同級生の顔と名前が思い出せなくて、かろうじて、仲の良かった人や好きだった子の名前ですらかすかにわかるかわからない程度で、最近は、そのような人ですら、思い出すのが困難になりつつあります。時間が経つことで記憶が薄れるのは普通だとしても、大学に入ってからは高校までの記憶を積極的に記憶を消そうとしていて、卒業してからも、大学までの記憶を積極的に消そうとしていました。選択的に記憶を消すというよりは(好きだった子とかの記憶も含めて)まとめて時代ごとにバッサリ消していたように思います。ですから、たしか好きだったような気がしていた子であっても、今となっては、ほとんど思い出せないのです。その時代が丸ごと辛すぎて、記憶からバッサリと消えているのです。私は、過去の人生をリセットして人間関係にせよ記憶にせよ何度もやり直す、ということを特に若い頃は繰り返していて、その度に、過去の記憶を積極的に消していたように思います。ですから、この話で出てくる同級生にしてもT大の子にしても、辛いことがある度に記憶を消していましたから、ここ数十年、思い出すことすらほとんどなかったわけです。自分では、今まで「記憶なんて忘れっぽくて、そんなものかな」と思っていたり、私は記憶障害なのかもしれないと疑ってこともありますけど、記憶力それ自体であれば私は小学校の頃は教科書を暗記するほど記憶力が良かったわけですし、地の記憶力は良かったはずなのに高校時代はメンタルを壊して記憶が困難な状態になって、そうであれば、高校時代の記憶が思い出せないのは、今から思えば、それは精神疾患だったのではないかと思うのです。その初期症状は小学校の頃に始まって、(少し前に書きましたけど)私は生まれた時から胸の奥に光の玉を3つ持っていたと思っていて、同級生に虐められたりとても辛いことがあって精神萎縮になった時、それが一つづつ、文字通り「壊れて」、その結果、その壊れた光の玉から溢れ出た愛のオーラによって精神が回復する、ということを繰り返してきたように思うのです。これは気のせいではなくて、実際、その、光の玉が壊れた時のことを思い出すことがあり、本当に胸の奥で何かとても大切なコアみたいなものが割れて壊れて、大切な人が身代わりになって死んでくれたのかと思うくらい何か大切なものを失った気がして、涙が出るくらい悲しかったのと引き換えに自分の精神がある程度だけ一時的に回復しました。しかし、長期的に見れば精神がどんどんと弱っていったのです。それは他の人に言わせると「気のせい」「そんなことないでしょ」とか言いますけど、他の人の意見なんて関係なくて、誰がなんと言おうと現実だったように思います。それは私のとても大事な精神が壊れるのと同意で、壊れると一時的に気持ちは回復はするものの光の玉が1つづつ壊れるごとにグラウンディングが段階的に弱まった状態になって、小学校の頃に早くも3つ共壊れてしまったのでグラウンディングがほぼ失われてしまったわけで、精神が不安定な状態になってしまったのです。そんな状況では勉強もうまくできません。その後、小学校高学年と中学の時代はなんとかやり過ごしましたけど高校時代に同じように精神的に苦しい状況になったら、そのまま精神崩壊してしまったのでした。アニメのカミーユの最後ほどではないにせよ、高校の教室で上の空で少し上を焦点も合わずになんとなく見ていて、頭はちょっとフラフラ動いていて、口は「ぽかーん」として意識が朦朧としていて、教室の窓をよく見ていて、いつも「もう無理。早く卒業が来ないかなあ」と思っていたように思います。母からは「口を閉じなさい。馬鹿っぽい」とよく言われていましたけど、家でも精神崩壊していました。そのような状況では勉強も進まないのは当然で、受験科目だけ最低限やっていて、それに加えて、プログラミングの趣味だけは熱心にやっていました。そのような記憶が一応はあるのですけど、自分のことのように感じられず、ただ記憶があるだけになっています。あまり思い出せないのです。意図的に過去の記憶を消すように心がけていたように思うのです。その、一旦は忘れてしまっていた記憶の中に、同級生で私がおそらく好きだった子の記憶や、大学時代にすれ違いをした子との記憶があるわけです。そうして、すっかり記憶を消していたと思っていたのに、意外に思い出せるものだな、と、今回思いました。奥の奥の方に記憶を押し留めてしまっていて、今の今まで、出てこれなかったのかもしれません。
今から思えば、よくこれで自殺しなかったものだと自分に驚きます。たぶん、若い頃から軽く100回から1000回は自殺しようかと毎日のように思い込んだと思いますが一度も実行には移しませんでしたので、おそらく、高次からのサポートがあったように思うのです。小学校の頃は学校へ行く足が重くて、片足づつ意識を集中してかろうじて一歩一歩足を動かしてかろうじて学校へ通っていて、登校だけで緊張でクタクタになってしまって、学校では常に緊張して、家に帰ったらようやく少しは休めて、いつも家で「あー、疲れた。疲れた。疲れた。疲れた」とずっと言っていたら母はいつも「若いのに疲れたなんて、何言ってるの」と、全く理解を示してくれませんでした。学校へ行く度に精神を削られて、毎週のように「あぁ、自殺しようかなあ」とか考えていたように思います。自殺するにも相当の覚悟と意思が必要で、当時は流されるまま、そんな自殺するほどの意思も持てずに毎日を奴隷のような精神で暮らしていたように思います。そんな状況でも、私の背後にはおそらく常時5人くらいの過去性の妻(過去のグループソウルの分霊のかつての妻と言った方が正しい)が近くにいてサポートしてくれていて、いわゆる天界にはもっといて時々入れ替わってサポートしてくれていて、その子達が精神的な支えになっていてくれて、それで自殺を思い留まっていたようにも思います。私が精神崩壊して意味不明になっていてもずっと過去妻たちは献身的にサポートしてくれていましたので、人の愛、特に女性の愛というのはとても強いものだと思います。
小学校の頃に何度か精神崩壊になり、高校では重症になったわけですが、当時から、今も時々、私はもしかしたら誰かに呪われていて、よく、頭の中に不意に「し⚪︎、⚪︎ね、⚪︎ね、し⚪︎」と言う想念がやってきて襲われて、その呪いの言葉の意識が頭を占有したまま朦朧として自分の口から呪いの言葉を発してしまうくらい意識を失ってトランスに落ちることも頻繁にありました。今でもたまにそのような悪魔のような意識がやってきますけど、気が付いたならばキリスト教のやり方「悪魔よ、退け」と念じてみたり、はたまた、単に意識を強く持つことでそのような悪魔(的な意識)を退けています。この種の意識は不意にきますので、おそらく、そのあたりに「ぷかぷか」と殺意の念が浮かんでいるように思うのです。想念というのは雲のように漂いて、この殺伐とした時代においてはそこら中に殺意の想念が浮いていて、それと接触すると、殺意の念が急に頭の中に入ってくるのです。昔は今より遥かに霊媒体質でしたから、そのような想念に接触すると対象が良くわからない単なる殺意と言葉が急に現れるわけですけど、当時はそれは自殺衝動に繋がっていて鬱に頻繁になっていたように思います。実のところ何か対象があるわけでもない、具体的でもない単なる殺意の念であっても、それに囚われると自分に対する自殺衝動に繋がってしまうわけです。今となれば、それはただ単に殺意の想念の雲と接触してしまっただけだと分かりますけど、昔は、良くわかりませんでした。その種の悪魔的想念は拒否して離れれば良いわけです。それに加えて、特に小学校の頃は同級生や他の学年の人に壮絶に睨まれて殺意の念を継続的に受けていて、それが深くオーラの各所に今だに刺さっているようにも思います。最近でも油断していると一時的に5秒くらい殺意の念と言葉に包まれて朦朧として一時的に意識を失いトランスになり、その状態で殺意の意識が占有して口から呪いの言葉を発してしまうことがありますので、最近は特に、そのようなことがないように脇を締めて生きるようにしています。短時間の5秒とかのトランスはまだあったとしても以前のように完全に意識が失われることはほとんどなくて、意識を保ったままトランスになりかけるところを堪える、と言うことが最近は多いのですがそれでも半トランスで変なことを口走らないよう、特に、誰かが近くにいる時にそのようなトランスに陥らないよう、気を使います。私がトランスに陥ると、私に親しい人は割と私が時々そうなるのを知っていますので、きちんとは状況はわからないまでもそれなりに理解してくれて、私が単に疲れているのかなくらいに思ってくれますが、そこまで親しくない人だと「私に対して呪いの言葉を発しているのかな。私が近くにいてはダメなのかな。私がそんなにいけないのかな」と、誤解されてしまうこともありますので、それほど親しくない人と接する時は気を使います。特に若い頃は、自分が何を言っているのかすら覚えていないことがよくありましたし、長い時間の無意識のトランスに落ちて体と口が勝手に動いてしまうこともよくありました。
思うに、この種の、悪魔的な想念に囚われてそのまま急に自殺してしまったり、不意に予測不可能な行動を取って自分だけでなく周囲を巻き込んでおかしな状況になる、と言うことは世間ではそれなりにあると思うのです。動機として自分のオーラに眠っている場合は対処が少しずつ可能ですが、雲のようにそこらに浮いている悪魔的な想念はなかなか避けようがなく、いつ来るかも予測が難しく、事故のようなものですので、あらかじめ知識を入れておいて、そのような悪魔的な想念に急に囚われた時は、そういうものだとして理解と対処をすべきだと思います。急に誰かが自殺衝動に陥った時、周囲の人は単純に「あの人はおかしい。自殺願望、あるいは、殺意のある人」として捉えるのではなく、きちんと状況を理解して、悪魔のような想念を祓ってあげる必要があると思うのです。本人にしても、そのような殺意のある悪魔的想念に襲われた時に「このようなことを考えるなんて、自分はなんて悪魔みたいな人間なのだ。なんて自分は醜い人間なんだ。生きている価値もない人間なんだ」と解釈すると本当にそのまま自殺したり殺人鬼になったり犯罪者になったりします。一方、正しく解釈して、「このような悪魔的な想念は私のものではない。悪魔よ、退け」とするならば精神を健康に保つことができるわけです。基本的には、疲れていればいるほどこの種の悪魔的想念が入り込みやすいので、あまり疲れないような生活を心がけています。
ちなみに、テレパスの状態で過去に関わった多くの人の本心を探ると、かなりの場面で他人から私は「⚪︎んでくれ」と思われていたことがわかります。殺気と呪いの言葉を何度も何度も投げかけられていたようです。私は割と目立つようで、それでいて、態度もあまり良くありませんでしたから、そのように思われていたのかなと思います。
この種の問題と状況を理解して対処できるようになるために長らく学ばされてきた、という面もあったのかもしれません。悪魔的想念に囚われてトランスに陥っている人をよく観察すれば視点が合っていなくて意識が一時的に遠くに行っていることがわかりますから、特に祓う、と言うことをしなくても、大抵の場合は体をゆすってあげたり、頬に少し触れてあげて意識を戻して正気に戻るきっかけをあげるだけで回復するには十分だったりします。それで回復しないのはよっぽどのことです。
細かく説明するとこういうことではありますけど、この種の問題が起きるのはオーラの防御が壊れて、精神が崩壊しているからであって、ざっくばらんに言えば「私は呪われている」ということだと思います。同性からの嫉妬、妬み、怒り、異性からのヒステリー、そのような念による呪いが私にかけられ、それによってオーラの防御が崩壊し、精神崩壊し、その結果、そこらに浮いている悪魔的想念が入り込みやすくなって影響を受けやすくなり、自殺衝動に駆られていたわけです。
「誰が言っているかでなく、言っている内容で判断すべき」とは子供の頃から思っていたわけですけど、そんな、私に色々言ってきている人の論舌は、どうも、根拠がないわけです。そのように、よくわからない人たちは自分たちの自己肯定感を高めるために私を貶めようとしていたわけで、そんなくだらない論舌に付き合うことで私は自己肯定感を著しく下げていたわけですけど、そんな人の話に付き合うのは時間の無駄だったなぁ、と今なら思うわけです。今から思えば、初心を徹底することで、「言っている内容、それだけで判断して、その現実は正しくない」と判断しても良かったと思うわけですけど、モラルがない人はネチネチとしつこく迫ってきて思考力を奪って鬱にさせていきますし、反論するといきなりキレて怒鳴りつけてきたりすぐに手が出てきてぶん殴られたりしていましたから私は発言をすることも反論することができなくなっていき、ついつい受け入れてしまっていたのです。だから、学のない頭の悪い人とは私は今でも付き合いたくないのはそのためです。自分の意見を通すために暴力を振るったり怒鳴りつけてくる人たちに若い頃は囲まれていて、田舎でしたから学校はほぼ1つしかなくて、逃げ場がありませんでした。中学までは選択肢は1つで、高校で2つ選択肢がありましたが往復3時間のところにある自称進学校に通うのは前に書きましたように遠くて移動に疲れるのでしたくないですし、そもそも、そこに通うバスで意地の悪い気持ち悪い虐めっ子といつも一緒に通うことになる可能性が高かったために積極的に避けました。田舎とか家族とか限られた人間関係ですとその狭い社会での意見が当然で正しいかのように思わされてしまうわけですけど、実のところ、かなり偏った偏見であることに上京してから気がついたわけです。そして、それは気が付いた後も、既に壊れてしまった精神は回復にかなりの時間を要しました。他人の勝手な意見に付き合わされた挙句、時間をずいぶんと無駄にしてきたわけです。我ながら、世間知らずで、いい人すぎました。世の中にはどうしようもなく頭が悪かったり捻くれて他人を貶める人がいて、そのような人は心理学の投射なんて理解していませんから自分が思ったことがそのまま現実だと思って当然の如く接してきますから、例えば私が何か言うと「お前、なんて酷いことを言うやつだ」とか私に対して逆ギレしてきて、あたかも私が悪いように言ってきますので当時は「そうかなあ」と思ってしまっていましたけど、実のところ私の方が正しいと今では思うのです。本当に完全に100%とまではいかないまでもかなりのところまでその通りなのだから仕方がなくて、仏教で言われているように「不道徳な人とは付き合ってはいけない」が正しくて、不道徳な人に何を言っても無駄で、不道徳な人に何か言ったら恨まれたり仕返しされたりあらぬ噂を立てて私が悪者扱いされたりしますので、そのように、ひねくれている人とは距離を置くべきだったのです。とにかく、認知が歪んでいるひねくれ者とは関わり合いにならない方が良いのです。田舎の小さなコミュニティではそれが難しい時もありますけど、そのように、逃げられない環境を知る、という意味においても勉強になりました。逃げられない子供は本当に辛いと思います。虐めやモラハラなどでどちらが加害者か被害者か一見すると外から見分けがつかないことがある、と一般的に言われているのも、不道徳な人は自己肯定感が高いために他者を貶めていてもそれに気が付かないのだと思います。そのように、自分がしていることすら自分で理解できていないような頭の悪い不道徳な人というのは徹底的に避けるべきなわけです。世の中には、言っていることが支離滅裂で意味不明な人が大勢いて、まともに取り合う必要のない人が大勢いるわけです。一方、本当にいい人というのは目立たずしてたくさんいて、そういう人と仲良くなれば良かったわけです。人を見る目と理解する頭が大切なわけで、要は頭が良ければ人生は幸せになれる、ということだと思います。であれば、当然、パートナーにもできるだけ頭の良い人を選ぶのが良いわけです。ただ、あまりにも差があると、逆の立場で、その、頭の良くて良い子の貴重な時間を奪ってしまうことにもなりますので、なるべく同等の人を選ぶのがお互いのためになる気が致します。であれば、頭の良いパートナーを選ぶためには、まず、自分がしっかりと勉強すべき、ということにもなるわけです。あとは、相手が自分を選んでくれるか、ですね。
今から思えば、よくこれで自殺しなかったものだと自分に驚きます。たぶん、若い頃から軽く100回から1000回は自殺しようかと毎日のように思い込んだと思いますが一度も実行には移しませんでしたので、おそらく、高次からのサポートがあったように思うのです。小学校の頃は学校へ行く足が重くて、片足づつ意識を集中してかろうじて一歩一歩足を動かしてかろうじて学校へ通っていて、登校だけで緊張でクタクタになってしまって、学校では常に緊張して、家に帰ったらようやく少しは休めて、いつも家で「あー、疲れた。疲れた。疲れた。疲れた」とずっと言っていたら母はいつも「若いのに疲れたなんて、何言ってるの」と、全く理解を示してくれませんでした。学校へ行く度に精神を削られて、毎週のように「あぁ、自殺しようかなあ」とか考えていたように思います。自殺するにも相当の覚悟と意思が必要で、当時は流されるまま、そんな自殺するほどの意思も持てずに毎日を奴隷のような精神で暮らしていたように思います。そんな状況でも、私の背後にはおそらく常時5人くらいの過去性の妻(過去のグループソウルの分霊のかつての妻と言った方が正しい)が近くにいてサポートしてくれていて、いわゆる天界にはもっといて時々入れ替わってサポートしてくれていて、その子達が精神的な支えになっていてくれて、それで自殺を思い留まっていたようにも思います。私が精神崩壊して意味不明になっていてもずっと過去妻たちは献身的にサポートしてくれていましたので、人の愛、特に女性の愛というのはとても強いものだと思います。
小学校の頃に何度か精神崩壊になり、高校では重症になったわけですが、当時から、今も時々、私はもしかしたら誰かに呪われていて、よく、頭の中に不意に「し⚪︎、⚪︎ね、⚪︎ね、し⚪︎」と言う想念がやってきて襲われて、その呪いの言葉の意識が頭を占有したまま朦朧として自分の口から呪いの言葉を発してしまうくらい意識を失ってトランスに落ちることも頻繁にありました。今でもたまにそのような悪魔のような意識がやってきますけど、気が付いたならばキリスト教のやり方「悪魔よ、退け」と念じてみたり、はたまた、単に意識を強く持つことでそのような悪魔(的な意識)を退けています。この種の意識は不意にきますので、おそらく、そのあたりに「ぷかぷか」と殺意の念が浮かんでいるように思うのです。想念というのは雲のように漂いて、この殺伐とした時代においてはそこら中に殺意の想念が浮いていて、それと接触すると、殺意の念が急に頭の中に入ってくるのです。昔は今より遥かに霊媒体質でしたから、そのような想念に接触すると対象が良くわからない単なる殺意と言葉が急に現れるわけですけど、当時はそれは自殺衝動に繋がっていて鬱に頻繁になっていたように思います。実のところ何か対象があるわけでもない、具体的でもない単なる殺意の念であっても、それに囚われると自分に対する自殺衝動に繋がってしまうわけです。今となれば、それはただ単に殺意の想念の雲と接触してしまっただけだと分かりますけど、昔は、良くわかりませんでした。その種の悪魔的想念は拒否して離れれば良いわけです。それに加えて、特に小学校の頃は同級生や他の学年の人に壮絶に睨まれて殺意の念を継続的に受けていて、それが深くオーラの各所に今だに刺さっているようにも思います。最近でも油断していると一時的に5秒くらい殺意の念と言葉に包まれて朦朧として一時的に意識を失いトランスになり、その状態で殺意の意識が占有して口から呪いの言葉を発してしまうことがありますので、最近は特に、そのようなことがないように脇を締めて生きるようにしています。短時間の5秒とかのトランスはまだあったとしても以前のように完全に意識が失われることはほとんどなくて、意識を保ったままトランスになりかけるところを堪える、と言うことが最近は多いのですがそれでも半トランスで変なことを口走らないよう、特に、誰かが近くにいる時にそのようなトランスに陥らないよう、気を使います。私がトランスに陥ると、私に親しい人は割と私が時々そうなるのを知っていますので、きちんとは状況はわからないまでもそれなりに理解してくれて、私が単に疲れているのかなくらいに思ってくれますが、そこまで親しくない人だと「私に対して呪いの言葉を発しているのかな。私が近くにいてはダメなのかな。私がそんなにいけないのかな」と、誤解されてしまうこともありますので、それほど親しくない人と接する時は気を使います。特に若い頃は、自分が何を言っているのかすら覚えていないことがよくありましたし、長い時間の無意識のトランスに落ちて体と口が勝手に動いてしまうこともよくありました。
思うに、この種の、悪魔的な想念に囚われてそのまま急に自殺してしまったり、不意に予測不可能な行動を取って自分だけでなく周囲を巻き込んでおかしな状況になる、と言うことは世間ではそれなりにあると思うのです。動機として自分のオーラに眠っている場合は対処が少しずつ可能ですが、雲のようにそこらに浮いている悪魔的な想念はなかなか避けようがなく、いつ来るかも予測が難しく、事故のようなものですので、あらかじめ知識を入れておいて、そのような悪魔的な想念に急に囚われた時は、そういうものだとして理解と対処をすべきだと思います。急に誰かが自殺衝動に陥った時、周囲の人は単純に「あの人はおかしい。自殺願望、あるいは、殺意のある人」として捉えるのではなく、きちんと状況を理解して、悪魔のような想念を祓ってあげる必要があると思うのです。本人にしても、そのような殺意のある悪魔的想念に襲われた時に「このようなことを考えるなんて、自分はなんて悪魔みたいな人間なのだ。なんて自分は醜い人間なんだ。生きている価値もない人間なんだ」と解釈すると本当にそのまま自殺したり殺人鬼になったり犯罪者になったりします。一方、正しく解釈して、「このような悪魔的な想念は私のものではない。悪魔よ、退け」とするならば精神を健康に保つことができるわけです。基本的には、疲れていればいるほどこの種の悪魔的想念が入り込みやすいので、あまり疲れないような生活を心がけています。
ちなみに、テレパスの状態で過去に関わった多くの人の本心を探ると、かなりの場面で他人から私は「⚪︎んでくれ」と思われていたことがわかります。殺気と呪いの言葉を何度も何度も投げかけられていたようです。私は割と目立つようで、それでいて、態度もあまり良くありませんでしたから、そのように思われていたのかなと思います。
この種の問題と状況を理解して対処できるようになるために長らく学ばされてきた、という面もあったのかもしれません。悪魔的想念に囚われてトランスに陥っている人をよく観察すれば視点が合っていなくて意識が一時的に遠くに行っていることがわかりますから、特に祓う、と言うことをしなくても、大抵の場合は体をゆすってあげたり、頬に少し触れてあげて意識を戻して正気に戻るきっかけをあげるだけで回復するには十分だったりします。それで回復しないのはよっぽどのことです。
細かく説明するとこういうことではありますけど、この種の問題が起きるのはオーラの防御が壊れて、精神が崩壊しているからであって、ざっくばらんに言えば「私は呪われている」ということだと思います。同性からの嫉妬、妬み、怒り、異性からのヒステリー、そのような念による呪いが私にかけられ、それによってオーラの防御が崩壊し、精神崩壊し、その結果、そこらに浮いている悪魔的想念が入り込みやすくなって影響を受けやすくなり、自殺衝動に駆られていたわけです。
「誰が言っているかでなく、言っている内容で判断すべき」とは子供の頃から思っていたわけですけど、そんな、私に色々言ってきている人の論舌は、どうも、根拠がないわけです。そのように、よくわからない人たちは自分たちの自己肯定感を高めるために私を貶めようとしていたわけで、そんなくだらない論舌に付き合うことで私は自己肯定感を著しく下げていたわけですけど、そんな人の話に付き合うのは時間の無駄だったなぁ、と今なら思うわけです。今から思えば、初心を徹底することで、「言っている内容、それだけで判断して、その現実は正しくない」と判断しても良かったと思うわけですけど、モラルがない人はネチネチとしつこく迫ってきて思考力を奪って鬱にさせていきますし、反論するといきなりキレて怒鳴りつけてきたりすぐに手が出てきてぶん殴られたりしていましたから私は発言をすることも反論することができなくなっていき、ついつい受け入れてしまっていたのです。だから、学のない頭の悪い人とは私は今でも付き合いたくないのはそのためです。自分の意見を通すために暴力を振るったり怒鳴りつけてくる人たちに若い頃は囲まれていて、田舎でしたから学校はほぼ1つしかなくて、逃げ場がありませんでした。中学までは選択肢は1つで、高校で2つ選択肢がありましたが往復3時間のところにある自称進学校に通うのは前に書きましたように遠くて移動に疲れるのでしたくないですし、そもそも、そこに通うバスで意地の悪い気持ち悪い虐めっ子といつも一緒に通うことになる可能性が高かったために積極的に避けました。田舎とか家族とか限られた人間関係ですとその狭い社会での意見が当然で正しいかのように思わされてしまうわけですけど、実のところ、かなり偏った偏見であることに上京してから気がついたわけです。そして、それは気が付いた後も、既に壊れてしまった精神は回復にかなりの時間を要しました。他人の勝手な意見に付き合わされた挙句、時間をずいぶんと無駄にしてきたわけです。我ながら、世間知らずで、いい人すぎました。世の中にはどうしようもなく頭が悪かったり捻くれて他人を貶める人がいて、そのような人は心理学の投射なんて理解していませんから自分が思ったことがそのまま現実だと思って当然の如く接してきますから、例えば私が何か言うと「お前、なんて酷いことを言うやつだ」とか私に対して逆ギレしてきて、あたかも私が悪いように言ってきますので当時は「そうかなあ」と思ってしまっていましたけど、実のところ私の方が正しいと今では思うのです。本当に完全に100%とまではいかないまでもかなりのところまでその通りなのだから仕方がなくて、仏教で言われているように「不道徳な人とは付き合ってはいけない」が正しくて、不道徳な人に何を言っても無駄で、不道徳な人に何か言ったら恨まれたり仕返しされたりあらぬ噂を立てて私が悪者扱いされたりしますので、そのように、ひねくれている人とは距離を置くべきだったのです。とにかく、認知が歪んでいるひねくれ者とは関わり合いにならない方が良いのです。田舎の小さなコミュニティではそれが難しい時もありますけど、そのように、逃げられない環境を知る、という意味においても勉強になりました。逃げられない子供は本当に辛いと思います。虐めやモラハラなどでどちらが加害者か被害者か一見すると外から見分けがつかないことがある、と一般的に言われているのも、不道徳な人は自己肯定感が高いために他者を貶めていてもそれに気が付かないのだと思います。そのように、自分がしていることすら自分で理解できていないような頭の悪い不道徳な人というのは徹底的に避けるべきなわけです。世の中には、言っていることが支離滅裂で意味不明な人が大勢いて、まともに取り合う必要のない人が大勢いるわけです。一方、本当にいい人というのは目立たずしてたくさんいて、そういう人と仲良くなれば良かったわけです。人を見る目と理解する頭が大切なわけで、要は頭が良ければ人生は幸せになれる、ということだと思います。であれば、当然、パートナーにもできるだけ頭の良い人を選ぶのが良いわけです。ただ、あまりにも差があると、逆の立場で、その、頭の良くて良い子の貴重な時間を奪ってしまうことにもなりますので、なるべく同等の人を選ぶのがお互いのためになる気が致します。であれば、頭の良いパートナーを選ぶためには、まず、自分がしっかりと勉強すべき、ということにもなるわけです。あとは、相手が自分を選んでくれるか、ですね。
高次からの介入とT大の子
ちなみに、このお話で出てくるT大の子、当時は、なんでこんなに自分と全く違う世界の人が何度も私の前に来るのだろう・・・。と思っておりました。頭の回転が私より段違いで、地頭が良くて話す時も早口で私の2倍の速度で話しますから、あの子にしてみればおそらく普通に話しているつもりでも私は耳と頭が追いつかなかったりして頭が真っ白になっていたりしました。当時は上京したばかりで酒にも慣れておらず、今より酒に弱くてちょっと飲んだだけでも頭がクラクラして頭が動いていなかったというのも多少はあったと思いますが、早口で礼儀正しく論理立てて返されてそれでも理解できない時はハテナマークが頭の中でぐるぐると「なんのこと???」と回転していたように思います。それに、慣用句が難しく、表現が賢すぎて理解が追いつかないので、コミュニケーションが難しくて、住む世界が違うように感じたのです。私が理解違いをした時も、あの子はその頭の良さで早口で説明してくれて、「なるほどなあ」と思ったものでした。単に自分の理解という意味で頭が良いだけでなく、私に向き合ってくれて説明をきちんとしてくれる頭の良さがある女性はとても素敵です。私は自分より頭の良い女性にドキドキします。当時の私はそこまで勉強していなくて頭も悪かったですし、私が何を言っても冷静にクールに礼儀正しく(早口で)返答してくれて、育ちの良さも感じました。根が真面目で、雑談をするというよりは真面目に返してくれるような感じでした。当時は私も雑談が下手で他愛のない当たり障りのない話を振ったりもしたのですけど、そういう雑談にはあまり興味がないようで、私の話題の選び方はちょっとイマイチだったようで、なんとなくどこかで見聞きした話を単発で振っても話題がありきたりすぎて淡々と素早く返されたりして、話題の選び方に対しても考え方や興味の範囲および育ちの違いというものの違いが見て取れました。他愛のない話をするにしても、教養のある子にはそれなりの教養のある雑談が合っているようです。それにしても、どうしてこんな賢くて優秀な性格の良い子が私のような平凡な(そして当時は割と無礼な)人の前に何度か現れたのか、当時は、全然理解できなかったのです。とは言いましても、せいぜい3〜4回ほどグループで食事をしたくらいですけど、私にはとても不似合いなあの子がなんでまた目の前にいるのか、そこが、よくわからなかったのです。当時は、「なんでまたこの子がいるのだろう・・・?」と、とても、不思議でいました。まあ、結局、住む世界が違いすぎて、礼儀正しく接してはくれるものの、私のような庶民の人の相手はあまりしてくれないかな・・・ と思っていたのでした。
当時はまだまだ受験期の影響があって学歴コンプレックスと偏見があって、高学歴の女の子と会うと自身の劣等感が湧き上がってくることに加え、時々、一部の女性からは明らかに見下されて情けない思いをしていた、と言うこともあるにはあったのですけど、ただ、そのような、学歴のコンプレックスはこの場合は割と末子のお話だと思うくらいの様々な背景があるようでした。
瞑想中やレム睡眠中に将来の可能性について選択肢を見せられたのですが、30%の確率(=勝率、難易度が少し高め)で、このことが将来の布石と言いますか、伏線になっているようです。はっきり言って、可能性を見せられたと言っても現実離れし過ぎていて「ほんとですか?」と思って信じられないですし、そのタイムラインになるためには色々と超えなくてはいけないハードルがあるようで、そのどれも無茶振りなハードルばかりです。前提として、とある「私の(新しい)使命」として設定されつつものがあるのですけど、その絡みでこの子が関係してくるような感じなのです。その使命があるからこそ、その絡みで20年ほど前にこんな伏線をあらかじめ設定していたようなのです。将来の布石のために、年取ってから出会うよりも、若いうちに一度会っていた方がお互いに理解できて良い・・・ ということのようなのです。かと言って、それまではお互いにやるべきことがあるのと、まだタイミングとしては早いということで、ずっと一緒にいるというよりは、一時的に顔合わせをさせたようなのです。ですから、あの時、意識に雲がかかって半分トランスのような状態になって認知できなくなり「なんだこれ? 」と、意識が朦朧としていたのは、どうやら、必要以上に仲良くならないように、高次のスピリットの介入があって意識が覆われ、認知と行動にブレーキがかかったようなのです。思えば、あの子が話している言葉が、時々、全く耳に入ってこなくて、内容を全く認知できなくて、そもそも単語すら意識で認識できないところが会話のフレーズごとにあって、実のところ「あいうえお」すら認知できない会話があって一体あれは何だろうかとずっと思っていて、きっと私の頭が悪いので慣用句や言葉が理解できないのだとずっと思っていましたけど、確かにそういう面もあるとは思いますが、流石に「あいうえお」すら認知できないというのは状況としておかしくて、聞き慣れない表現や方言でしたら慣れるまで頭が認知できない、認知しにく、ということは一般的にはあるわけですけど、その前後で会話をしていて、特定のところだけ無音状態になったかのようになって「あいうえお」すら認知できなくなるなんて、ちょっと、状況として特殊すぎます。そのように認知が急にそこ開け途切れることはそれまでもそれからもなかったことで、他に気を取られて聞いていない、なんていうお話ではなくて、集中して聞いているのに認知に入ってこないので、それは、どうやら、スピリットが「そこは理解しない方が良い」「今はそこまで」「今はそれ以上近付かないためにもそこの部分は理解しない方が良い」と判断して、認知と理解を制御して遮断していたようなのです。会話の認知するにはある程度の意識の同調と準備が必要で、その前提部分が一時的に取り除かれていたようです。それまでしばらく会話してきて認知のベースはできているはずなのに急に部分部分の会話だけ「あいうえお」すら認知できないということがあって不思議に思っていたわけですが、どうやら、全ては高次のスピリットの手のひらで踊らされていた、ということだったようです。
この話は更に詳細に教えてもらったのですけど、そう言われても、「本当ですかね?」と、疑問に思ってしまいます。更には、あの子と最後に別れるときに私に急にとある感情と表情が湧き上がってきた時も、どうやら、高次のスピリットが意図して私の理解できない行動を取った(取らせた)ようです。それに加えて、潜在意識では「しばらく会えません」ということもわかっていましたから、しばらく数十年のお別れで悲しくなったようです。確かに、(高次の説明で)そう言われるとそうかもしれませんけど、本当かどうかは分かりません。こういうのは単なる想像の場合も多々ありますのでそこまで信じる必要はないのですけど、可能性として否定する必要はないと思っています。本当にそうなったとしたら、神様というか、運命を作っている高次のスピリットの采配は私の思慮を遥かに超えているということになります。ただ、流石に現実離れしすぎていて詳しくは言えませんし、信じきれてもいません。私はここ数十年で色々と苦労をしましたけど、これが本当であれば、運命を司っている高次のスピリットは、遥か昔から伏線を張っていたことになります。きっとあのまま仲良くなっても上手くいかなかったでしょうし、私はそれどころではない状況にその後なりましたし、あの子としてはそれでも良かったのかもしれませんけど私は対応できなかったと思います。そして、今後と繋がってくるわけです。もし、これが現実になるのであれば高次の見えない世界の存在を信じざるを得ません。もともとある程度は信じていますけど、確度が格段に高まるわけです。現時点では単なるインスピレーションですので本当かどうかは分かりませんけど、もしそれが運命であり使命であるのであれば、それを選ぶのが良いと思っています。アファメーションでは「わかりました。それが高次の意思であるならば、その選択肢を受け入れます」と誓って、その運命を受け入れる選択をしましたので、もし本当ならばその方向に人生が進むかもしれません。私からすると運命ですけど、高次からしたら運命ではなくて高次それ自身の意思な訳です。そのような意思による運命があったとして、その時点ではそれはあくまでも高次の意思でしかなくてまだ現実化していませんから、もしそのように運命が進まなかったとしても、それはそれです。現時点では、可能性を受け入れた、というくらいです。その可能性を選ぶなら、今、何をしなくてはいけなくて、何をしない方が良いのか、も、明らかになってきたように思います。将来の可能性を見せられた今、本当かどうか判断できずに、なかなか混乱しています。若い頃の時点での確率が30%なのか今の時点で30%なのかはわかりませんけど、おそらくトータルに見て30%ということだと思います。現時点ではルートに乗っていて、そうなる可能性はそれなりにあるようです。確かに、あの時の状況は何か不思議な感じで、どうして私があのような気持ちと行動を取ったのか当時は理解できずにいて、当時の思い違いにしても、それが思い違いだとは気付かずに最近までずっと当時の理解のままいたわけですが、今更ながら、当時の理解は間違っていて、更には、どうしてずっとあのような思い違いを当時していたのかもようやく理解したわけです。今更ながら謎が解けた感じです。当時の行動にせよ、当時の思い違いにせよ、全て、高次のスピリットが意図していたことで、全て完璧だったわけです。高次のスピリットの意図を今更ながらに理解しました。
当時のことを思い出したのですが、確か、当時も同じように(このことがあった後のとある夜に)行動の理由と未来の状況をスピリットに見せられて、「これこれ、こういう理由で貴方はこのような行動を取ったのですよ」と、当時、納得したのを思い出して、その内容が今回、また別途、最近になって高次のスピリットの視点で教えられた内容と一致しておりましたので、数十年前の理解と今の理解とが一致して、それ故に、やはり高次のスピリットの介入があったことが確かだと思わされるわけです。当時は「ふうん・・・。それならば納得だけど、本当かなぁ」と思っていたように思いますが、すっかり忘れておりました。今回も内容的には割と似たような感じではありますが、別の視点で同じことを教えられて、別々の理解で得たものが、実は、数十年前に見せられて理解した内容と一致していましたから、本当になりそうな予感はあります。実のところ、その飲み会で他の女の子もいて、その他の子は声を掛ければお付き合いOKしてもらえたようなのですけどその場合は数年後に私が捨てられてその別の子は官僚と付き合ってやがて結婚するみたいでしたし、どうやら私はその別の子にお遊び相手として選ばれる可能性もあったらしくて、と言うのもその子は高校まで勉強ばかりしていてT大に受かったものだから早く恋愛とかしてみたかったようで、本当に好きな相手を探すと言うよりは、早く色々してみたい、という興味が勝っていたようで、そういう可能性もあったようです。かと言って、その別の子にしてみれば結婚は別だったようで。そうとわかると、なんだかなぁ、という気持ちになって。しかも、他の男に結局は負けるみたいになってショックな未来になるとわかって、一方、そのタイムラインの場合はあちらの子との関係がどうのこうの・・・ と言う感じになって進展しないので、高次のスピリットの選択としては、その別の子とは親密にならない、という選択をしたようでした。本当かどうかはわかりませんけどね。未来が分かり過ぎてしまうと最初から「まあ、別に、いいかな」みたいに思ってしまうことが多くなってしまうのですけど、今から思えば「そうは言っても、最終的に捨てられるとはいえ、それまでの数年間は楽しく過ごせるみたいだし、お互いに初めてのことだらけで良い経験になるし、最後は悲しい(ことがわかっている)とはいえ、それはそれでいいのでは」みたいに柔軟な考えになっていて、当時にもっと選択肢に幅を持たせても良かったのかな、とは思います。別に、ずっと長く付き合うばかりが良いとも限らないわけですし。世の中、知らない方が良いこともあるようです。ただ、普通に仲良くなるだけならどちらの子も良い子で普通に幸せだったようですけど今回の場合は使命のために最初の子とあらかじめ顔見知りになっておいて、将来的に信頼関係を深めることができるベースを作る目的があったようです。と言うのも、歳を取ってから出会う場合はこの子がしっかりしていてガードが固いためプライベートな信頼関係を作るのはかなり難しいようでしたので、使命のために、わざわざ、大学時代に同級生も含めた介入があったようです。
本来は関係性が重要になってくるのは中年以降で、それまでは割と選択の自由があったわけですけどあまりにも早く近づくと精神の未熟さなどで関係が破綻するためにしばらく付かず離れずの状態を高次が介入して作り出していたようです。私はあまり気が付かなかったのですけど1〜2年おきに道端でニアミス、それも、必ず反対車線ですれ違うように高次が介入して仕向けていたので、あの子からすると「道で見かけるのに、なぜか、いつも届かない。」という状態になって、あまりにも続くので、見かけた瞬間に写真を撮るようになったようです。・・・とは言いましても、まだ現実での答え合わせをしていませんので「本当ですかね?」という気もしますが。確かに、言われてみれば、時折、強烈な視線がどこかからやってくる時が道端で時々あった気もしますが・・・。私は割と鈍感なので申し訳ないです。
それと合わせて、幾つかの私の女性との関係性も、最終的なこの子との関係がうまくいくためにあらかじめ経験を積むように追加で設定されていたような気がしてきました。私の性格から言ってあまり関わりのなさそうな清楚ビッチと何故か不思議と関係を持ったりしたのは、どうやら、そのまま何もせずにいると最後にあの目的の子と近づいた時に私があまりにも床下手で関係がいまいちになる危険性もあったようで、床の経験を多少は積ませる、という意味もあったようでした。
私は最初、自分が幸せになれるかどうかという視点で理解したわけですけど、実のところ高次のスピリットの意思としては順番がまるで逆で、幸せかどうかはもちろん大切ではあるけれど二の次で、使命を果たすためにはどうすれば良いか、そのために、高次の意識としては段階的に近づくという選択肢も考えたようですけど、いきなり本命の子に近づくのが無理ならば、せめて本命の子の友達と最初は仲良くなって次に本命のあの子に近づくことができればそれでも良かったようですがあの子は真面目ですので自分の友人の(元)彼氏と自分が付き合う、というのは選択肢としてあまりなかったようで、そのルートはうまくいかないようなので友人の別の子は選ばずに、割と一途なルートを選択し、かと言ってその場ですぐにくっついてはいけなかったようで、一旦は信頼関係の基礎を作れば十分だったようで、今回のような割と極端は不思議な状況を選んだのでした。本命の子はガードが硬いので、近くにいる他の子から乗り換えるなんてのは理解できないようで、最初から割と一途でないと落ちないようでした。ちょっとでも私が気持ちを逸らしたり「どうなんだろ」と思っていたりすると訝しげにして「うーん」って思っていたようでしたので、根が真面目なのでしょう。付き合う前の相手のことをちゃんと見るのなんて普通だと思いますが、この子の場合は最初から相手が自分に本気でないと満足しないようで、私が八方美人だと落ちないようでしたから、印象に残るように、高次の方が色々と画策したようでした。年を取ってから初対面の場合は仲良くなるのは難しいので、若い頃にちょっと難しい選択をしてとりあえず顔見知りになったようです。そう高次のスピリットから教えられて指示されたら「はあ、そうですか・・・。面白いことを考えるものですね。本当かどうかわからないですけど、そう言う指示なら仕方がない。そうは言っても、数十年も経てばお互いにわからなくならないのかな」と疑問もありつつも従わざるを得ないです。と言いますか、そもそも、その指示と違う行動は私は取れなくて、指示と違う行動を取ろうとすると体が動かなくなるので結局は従うしかないわけですけど、そうは言いましても、最善の選択肢のようですので、それで全く問題ないわけですが。どおりで、私とは住む世界が違う優秀ないい子が不意に突然目の前に(一時的に)現れたわけです・・・。なんでこの子はここにいるのだろう、と当時はずっと不思議に思っていましたが、そう言うことだったのかもしれません。もちろんこれは話が飛びすぎていて本当かどうかはわかりませんけど。ただ、色々と書きましたけど、未来に起こるであろう(起こるかもしれない)奇想天外なことと比べたらこのことですら序の口なわけで。
更に補足。私は昔は自分のことを鈍感だと思っていて、今もそれなりに鈍感ではありますけど、この、鈍感というのは感覚のお話というよりも、自分が理解できる感情と感覚であれば他者も理解できる、ということなのかなと思います。ですから、鈍感というよりは、自分が知らない感覚と感情は理解できない、というお話なわけです。一応は感じていても、それを解釈できない状況を鈍感と言うのかな、と思うわけです。かつての私は愛をあまり知らなくて、それ故に、他の人から愛されていたとしてもその愛をうまく感じられない、鈍感な状態、それはつまり、自分が愛をそこまで知らないので他者の感情と感覚を理解できない、と言う状態だったのかなと思います。それが鈍感と言うことであって、自分が愛を知れば他者の愛も理解できて、その愛の深まりに応じて鈍感ではなくなってゆくように思います。それと、鈍感と言うよりも、状況に応じて「この人とはこれ以上仲良くなってはだめです」と言う時に、強制的な介入が入って意識が朦朧として認知ができなくなる、と言うことが度々起こっていたようにも思います。これは鈍感といえばそうですけど、鈍感と言うより(高次からの)介入ですね。生きている私の方は「幸せ」だとか「充実」だとかを考えるわけですけど高次からの介入はいつも使命優先で、基本的に私の気持ちなんてあまり意に介さずに整然と介入してきます。私の方はというと「全くもう。あの子と仲良くなりたかったのに」と思っても高次の方は「はいはい。使命があるからね。あの子とはだめでしょ」といつも私の意向はスルーされます。使命と言ってもそれは高次からしたら使命と言うだけで、私の方はというと(高次に設定されたことさえこなしていればあとは)割と自由のようで、あまり肩肘張らず普通に仲良くすれば良いようです。まず初めに高次のスピリットが様子を伺って見初めた上で「いいな」と思った人が打診されるわけで、使命を遂行できそうな人に(高次が)声をかけるわけですから、単に使命でだけ、ということではないわけです。割と嗜好が反映されています。ですから、向こうも(少なくともスピリットのレベルでは)高次からの使命に同意している筈ですけどそれをどのくらい(顕在意識で)自覚しているかはわからなくて、割と一般的には高次からの使命というものに対して無自覚なことが多いと思いますから、特に最初は様子見ですね。そもそも、数十年ぶりに再開しなければ何も始まらないわけで、全くの杞憂になる可能性も多々あるわけですけど。当時は何回か食事したくらいで、そこまで長い深い付き合いでもないですから、そんなに久々だと顔が変わっているかもしれなくて誰かわからないかもしれないな、と、ちょっと心配しています。私の顔は割と認識しやすいと思いますので、おそらく向こうから私を見つけてくれることになるとは思いますが。そのように、一応は可能性を高次から見せられてはいるのですけど、この種のことは自分がそれに同意しなければ起こらないですし、こちらが同意したとしても相手が(顕在意識あるいはスピリットのレベルで)同意しない可能性もあったり、あるいは、他からの介入が更にあってうまくいかないこともありますから、本当に高次から指示されたような奇想天外なことになるのかどうか、実際のところはまだよくわかりません。現時点では、一つの可能性としてある、というくらいです。
そのように、大学時代の同級生にしても、高次のスピリットに、この目的のために誘導されていたことがわかりました。当時、周りには大学がたくさんあるのに、一時期合コンがことごとくT大の女の子とばかり設定されていたことがあってとても不思議だったのですけど、どうやら、目当ての子が参加するまで何度も何度も同級生をも巻き込んだ高次の介入があったようでした。あの時期、T大生の女の子ばかり来ていた謎が解けました。毎回「なんだこれ? 不思議だ・・・。またか・・・。なんでT大ばかり? こんなマイナーな大学の合コンにどうしてT大の子が来るのだろう? 他の大学の子が来てもいいものだけど」と、ずっと不思議に思って、時に、あまりにも偏っていておかしいので訝しく思っていたりもしたのでした。どうりで、何度も合コンがあるにも関わらずカップルはそこまでできなくて、T大の女の子たちは礼儀正しくも何か意識に壁があったのは、おそらくは、本来の予定ではくっつく予定のない人たちもこの目的のために巻き込まれて呼ばれていて、カップルになる予定はなかったのでカップルができにくかったわけで、合コンが設定されたのは高次の事情によるものなので実際にはほとんどカップルができなかったのだと思います。私はそれを側から見ていて、当時はよく理解できずに勘違いをしていて「何だこれ。T大の女の子たち、そこまで本気でもなさそうなのに、どうしてこんなに大勢が合コンに来ているのだろう? みんな、なんか、礼儀正しいけど本気ではなさそうで、ひょっとして冷やかしかなぁ? T大とは言わずに東京の大学とか周りくどく自分のこと言って自分のこと隠しているし、煙に巻いているようで、これは、単に様子見に来ただけかなぁ。そうだよね、うちの大学なんてT大の女の子に相手にされないでしょ。」と、とても不思議に思っていたり訝しく思っていたのですけど、実のところ、あのT大の女の子たちはいい子たちで、ただ単に、高次の設定によって目的の子が参加するまで違和感のないように他の子も巻き込まれて自分の意思かのように思わされてそれっぽく参加していただけだったようです。そうであれば、あの、どこか礼儀正しくも意識に壁があって踏み込んでこないT大女子たちの態度も理解できるというものです。別に、変に企んでいたとかはなくて、性格が捻じ曲がっているとかもなくて、みんないい子で、ただ単に、高次の設定によって巻き込まれていただけだったわけです。一応は表の理由としては、誰かがストレートにその理由を聞いたら「最近はIT革命と言われていてITバブルもあるし、情報学部に興味がある」と言っていましたので表向きはそういう理由だったのでしょうが、実のところ、高次が設定したために巻き込まれたようでした。本当にそうかどうかは確かめようがないですが、高次から降りてきた情報を解釈すると、そのようなことだったようです。完全に信じているわけではないですが、理に叶っていて、腑に落ちます。
その、高次の設定したイベントが終わったらばったりと不思議な合コンは設定されなくなり、はたまた、別の合コンに顔を出すとそれは設定も何もなくて普通の現実で、その現実はというと、どうやら私は「地方出身者」ということで都内に家がある人に比べて格下の扱いをされるようで、服装も汚かったですから、東京に家もなくてお金もなければ相手にされず、大抵の場合に存在しないかのように空気として扱われて体よくスルーされることが多くなり、であれば、やはり、あの時期が特殊だったのだと思います。今から思えば女の子にスルーされて相手にされないのも当然だったように思います。同じような男なら、普通は、東京に家のある方を選びますよね。特に性格どうこう関係なくて、普通の感覚ならそうすると思います。その現実を、上京した当初はよくわかっていませんでした。単に非モテかと思っていましたけど、実のところ、足ぎりされていた、と、そういうことだったわけです。まあ、そういうのはあまり気にしていない子もいたかもしれないですが顔に出さないだけだったかもしれず、割と基本スルーされていたと思います。基本的な属性が悪い場合は普通に関係性を作るのは難しくて、高次の設定と仕込みがなければなかなか関係性は作れないのかな、と今更ながら思います。思えば、対比として、かなりそういう物質的な傾向の高いところへと一時的に(高次に設定されて)連れて行かれて(底を見せられて)、そういう三高狙いの人も当然の如く大勢いることを学ばせられたのかなとも思います。特定の時期は、それがあまりにもコントラストがはっきりしていました。一方で、誠実は人はたくさんいるわけです。
ちなみに、私と同じ大学の同期だった男が目的のT大の子と高校の同期で、合コンは彼が設定したわけですけど、実のところその同級生の男の人は私の行った大学と似つかないほど優秀で、何もなければ本当はもっと良い大学に行くのが彼の既定路線だったわけですけど、高次から介入があって、当人の頭の中にIT系を学ぶという目的をインプットしてあの大学にわざわざ通うようにさせたのでした。何もなければ私の行った大学なんて偏差値だけを見たらT大生から見向きもされないようなところでしたけど、当時は95年でIT革命が盛んに言われておりましたのでITをしている人には雑多な人がいて、そのようにITを目指す偏差値の高いアーリーアダプターも引き寄せていたわけです。その同期の男の人は高校の同期で信頼されていて、目的の女の子からも信頼されていましたので高次はその男の人に目をつけたのでした。目的があって、かなり頭が良いのにわざわざ偏差値の低いあの大学に入ったあの男の人は同期から目的意識があるということでリスペクトされていたわけですけど、その男の人の通う大学までも変えさせて目的のT大の子を巻き込むように仕向けたわけです。この時は、高次がこの男性の意識に介入して大学までも変えさせましたのでその後のフォローもしていて、本来ならば良い大学に入って良い就職先を見つけるのが既定路線だったようですので、割とあの大学の就職先としては似つかないような、元々行く筈だった就職先と同じかそれよりもちょっと良い職につけるように再度の高次からの介入があって元の路線に戻したそうです。この場合、同期の男の人はとても「いい人」で気遣いもできる優秀な人ですので、お礼としての意味も含めて就職先を高次から介入して支援したようです。
実のところ、似たようなお話は各所にあって、私に介入してくる高次のスピリットは割とやんちゃで無茶振りを発揮してくるのですけど、関わった人が良い人である場合はもっと良い状況になるように介入してくれます。逆の場合もあって、悪い人の場合はとことん悪い方向に向かうように介入する場合もあるのですけど、この場合は良い方向に介入してお礼をしたわけです。
様々な可能性を内包しつつも実際のところこれらの伏線が本当かどうかはわかりませんが、どちらにせよ、これらのことを思い出して思索し直した結果、愛というものを理解できてきたように思いますのでその点は少なくとも無駄ではなかったと思います。感情も含めて正しく理解することの大切さを改めて実感できたように思います。私の人生は失敗も含めて全て完璧だとは思ってきましたが、幾つかの伏線が将来にも本当だとすれば完璧すぎます。ただ、こういう直感がやってきても、将来のことに関しては現実として現れてくるまでは「そうかもしれない」と思うくらいです。確かに、見せられた可能性が実現するのであれば未来は充実したものになりそうです。この伏線は、個人的なものというよりはもっと大きな目的に即したもののようで、実のところもっと具体的に見せられてはいるのですけど、そうは言いましても、私自身そのイメージで伝えられたような大層な状態にはまだ全然至っていないですから、学生時代に一旦出会ったことは将来の使命に対しての伏線としての顔合わせ以上のものはなかったわけです。使命が本当かどうかはわかりませんけど、一応、可能性として、そういうこともあるかもしれない、と判断は保留しているところです。
一応簡単に書いておきますと、(本当かなぁ、と言う感じですけど)将来は私は今では考えられないほど資産を持つようになるらしく、別でまた書きますけど、とある団体に寄付をするようになるものの、その団体はそこまでお金を使いきれず、かと言って何もしなければ死ぬ時に手付かずのまま国庫に入ってしまうため、資金を有効活用しようと思って考慮したところ、次世代に向けた新たな商社、特に女性向けの女性による商社のようなものが作れると良いと思って誰かいい人がいないか商社やコンサルのオフィスを眺めていたところ、とても優秀なあの子が目に留まって、しかも見た目と性格も好みでしたからあの子に決めて、最初は直接、歳を取ってからアプローチしたところ相手にされず、タイムラインを遡ってやり直して熱烈にアプローチしたら一応は付き合ったり結婚までは行けたみたいですけど、歳を取ってからのあまりにも不自然とも思える熱烈さにあの子の気持ちが引いてしまって困惑状況になってしまうようなのでそのような無理のある線はやめた方が良いと判断。どうすれば振り向いてもらえるかを思索し、それでは、ということで、若い頃から付き合えば良いじゃないか、と思ったところ若いと精神が未熟でうまくいかず、はたまた、まずあの子の友達の彼氏になってから、ある程度精神が落ち着いてからあの子(本命)に近づくことを考えたが、そういう、乗り換えるとか軽いノリは好きではないようで、乗り換えに失敗するようでしたのでその線も無し。おそらく一途でないと振り返ってもらえない、と言うことで、大学の若い頃にまず顔合わせして、その後はお互いにやることがありますので一旦は離れて、実のところ使命で重要になってくるのは中年以降ですので、それまでは時折、道端で見かける程度にして、それなりに歳を取ってから再開できるように設定した・・・ とのことですけど、実際のところ、どうなのでしょうね。将来のことはわからないですね。それに、「道端で見かける」ってどういうこと? と思いますけど、実際、文字通りのようで、あの子は私に気づいていて道端で私の写真を記録として撮っていたりもするようです。そんなこと言っても、東京には何人住んでいると思っているのでしょうかね・・・。生活圏が意外に近いのかもしれませんけど、見たところ、そうでもない感じがします。となれば、本当に道端ですれ違っているのだとしたら高次の介入と考えるのが自然です。
これらと関連して、大学2年か3年の頃(T大の子との合コンが大学1年の時でだったと思いますがその1〜2年後)に実際にあったことの内実を瞑想中やレム睡眠中に見せられました。というか、思い出した、と言った方が正確でしょうか(もちろん本当のことかどうかはわかりませんが)。その、20代前半のある日、私は休日(あるいは平日だったかもしれませんが)に日比谷公園から有楽町駅の方に歩いた後に数寄屋橋交差点かどこかを渡っていて、ふと、誰かが急に目の前で止まってぶつかりそうになって驚いて避けたように覚えているのです。実のところ私は、ただ単に誰かとぶつかりそうになった、としか当時は思っていなかったのですけど、今更ながら瞑想やレム睡眠中で見せられたの時の情景を思い出すと、もしかしたら、あの時、私が驚いて避けながら一瞬だけ振り向いて見たあの顔、T大生のあの子だったような・・・? そして、片手をちょっと上げて呼び止めていたような? 私の方の顔を見ていたような? もしかして、私を見かけて私の前に来て立ち止まったということですかね??? 10年以上前のことで、当時は全く気が付いていなくて、ぶつかりそうになって驚いただけのことで顔とかほとんど見ていませんでしたけど、向こうは、私を認識していたということですかね??? いや、謎です。 ぶつかりそうになった瞬間はただ小パニックで驚いてそれどころではありませんでしたけど、30分後くらいに「あれ? あの子?」と、少し思い出した気もしますが・・・。 時既に遅し。 我ながら鈍感すぎます。こんなに人が大勢いる都会でばったり会うことなんて確率低すぎますけど、確証はありませんし、私が気付かず驚いたままよく見ずにスルーしてしまったので会話していませんけど。ああいうときは目線や仕草だけでなくしっかり名前を言ったり肩叩いて話しかけてくれても良いのにとは思いますけど、数回食事したくらいでしたから私の名前は覚えてもらえていなかったかもしれません。おそらく、向こうにしても、久々すぎて私だという確証はなかったのかな、という気も致します。私はもともと人の顔を覚えるのが苦手で、特に女性は化粧しているので顔の見分けとか困難だったりしますので、無視したのではなくて、単に気づいていなかっただけです。 後で思えば、確かにあの子だった気もしますが。 いや、鈍感すぎて本当に申し訳ないです。それに、当時はまだまだ東京が珍しくて、日比谷とか有楽町とか銀座なんて散歩したら「わー! キラキラしたビルとか電車の高架とかが珍しい! 交差点も大きい! 人がたくさん歩いてる! やっぱり銀座はキラキラしてる!」みたいに田舎者のお上りさんがキョロキョロしながら歩いていて、視線はあの子の方にちょっとは向いていたのかもしれませんけど景色が珍しくてキョロキョロするばかりで大勢歩いている人の顔とかほとんど目に入っていませんでした。そんな状況で急に目の前に立ち止まっても驚くばかりで意識がそこに向かないですし、人の顔とか認知できません。単純に、「やっぱり都会は人が多いなあ。気をつけて歩かなきゃ。ぶつかりそうになっちゃった」としか思っていませんでした。理解してください。いや、本当にそうだったかは確かめようがありませんが、そうだったとしたら申し訳ないです。これ以外にも、その後、街中で、向こうが私を認識していた場面が何度かあったような・・・? これまた確かめようがないですが、腑に落ちるわけです。もしかしたら、何度か、写真も撮られてるかも? 意外に生活圏が近いのかもしれません。私の方は気がついていなかったのですけど、実は1〜2年おきに道端ですれ違いのニアミスを繰り返していて、私の方は気付かない一方であの子は毎回きちんと気がついていて、あの子は「どうしてこんなに見かけるのだろう・・・」 と思うようになって、やがて、写真を撮ったりして記録に残しているような・・・・??? と言う直感を受けましたけど、本当ですかねえ? もし本当に再開するようなことがあったら、その時のお楽しみですが。 ひょっとして、つい先日、日比谷の交差点に自転車で通りかかった時、交差点の向こう側で道路に向かって(こっちに向かって)写真を撮っていた子がそうだったのですかね? いや、まさかね。 チラ見しただけで顔とか見ませんでしたが・・・。何やら写真撮ってる子がいるな、と一瞬目に入りましたが・・・。うーん? それ以前のことは全くわかりません。 日比谷とか有楽町の付近がホットスポットかもしれないです。いや、まさかね。これは瞑想のお話ですから。現実だとしたら卒倒ものです。まあ、あまり本気にせず様子見とします。瞑想で見たことは単なる想像の場合も多いですしね。それはそれで、現実ではないとしても話としては面白いです。想像でも面白いし、現実ならもっと面白いのです。
あのT大の子が当時に使命のことをどれだけ自覚していたかどうかはわかりませんけど、女性というものは男性よりも勘が鋭くて将来のことも見抜きますので、20%の確率であの時点で使命にある程度は自覚的で、であれば、あの子が私に対して不機嫌になったのは、私があまりにも不甲斐なくて目覚めていなくて使命にもほとんど自覚がないので、使命に無自覚な私に対して不機嫌になったのかもしれないですね。そういう可能性はあります。あるいは、その後に気がついたパターン。こちらの方があり得ますね。使命を果たす相手というのはある程度の自覚があれば誰がそうかなんてすぐにわかりますけと、使命で実際に動くのはそれなりに年を取ってからのことですから、ひとまずはそれぞれのスキルを磨くのが第一なわけで、最終的な役目を果たすには一旦は離れた方が良かったわけです。感情から言えばくっついていた方がいいはいいわけでが、それだと最後まで上手くいかないのです。あれから何十年も経っていますし、勘の良い女性なら既に使命に自覚的になっているかもしれませんね。
とまあ、そんな気もしますが、どうでしょうかね。ほんとかどうかはわかりませんけどね。
それと、この件はもっと別のタイムラインにも関係しているらしく、前のタイムラインで一旦は仲良くなったものの猫かぶりの子だったようで、今回のタイムラインで最初にかなり激しくぶつかることで本心を曝け出させたのでした。思えば、前のタイムラインでは猫かぶりの様子がどうも腑に落ちなくてずっとモヤモヤとしていて、今回のタイムラインをやり直すことが決まった時に、ちょうど良いのであの子の本性も確かめようと思ったのでした。ですから最初の食事の時に私が随分と不思議な態度と訝しい表情をしたのですが、当時はその背景をよくわかっていませんでしたけど、今思えば、それはそもそも以前のタイムラインに由来しているようでした。
更にわかったことですが、ある程度の慣れと労力は必要ですけどタイムラインの改変をするためには全てやり直す必要はないようです。ただ、基本は全部やり直すことのようですが、ある程度の独立した事象であれば要所要所で介入して改変することも可能らしく、それは、一部を改変したところでそのオーラと言いますか雰囲気のようなものを記憶(としか言いようがないのですが、いわゆる普通の記憶ではないのですが)しておいて、それを、要所要所で復元して思い出しつつタイムラインの改変をそこにだけ行うことができるようです。ただ、ちょっと混ざってしまうようなうまくいかない感じのこともあるようですけど、今回のあの子に関しては全てをやり直すと大変なので要所要所だけ入れ替えをしたようです。
大雑把に言ってしまうと、経済的にそれなりに裕福なタイムラインですとスピリチュアルな成長に限界があったようで、何回か行ったタイムラインで人生の限界を感じていたために「やり直し」を決断したわけですが、その際、ものは試しで思いっきり人生のどん底に突き落としてみたらどうだろう、と思って決断し、人生の若年期に周囲に酷いモラハラや虐めや暴力をする人をこれでもかというほど家族や親戚に隅々まで配置した結果、意外にそれが効果的でスピリチュアルな面を見直すことができて様々な理解に至ったわけです。実のところ、人生の若年期を見ると今までの裕福なタイムラインの方が遥かに波動(オーラ)は良いのですけど裕福なことで傲慢になってしまい中年以降にスピリチュアルな成長がなかなか難しい状況になっていました。今回のタイムラインでは若年期の波動(オーラ)は最悪でとことんどん底に落ちたわけですけど、そのことで理解したことはというと、「この地球の現実は、自分が地の底まで一旦落ちないと理解できない」ということです。高い波動の天使や神様のような状態からあれこれと掲示をしたところで、実際に自分がどん底まで降りないと理解できないことがあるのです。そして、一旦落ちてから再度上がってくる、ということが今回の人生(タイムライン)での課題だったわけです。
それと関連して、どうやら、今までの幾つかのタイムラインでは既に例のT大生の子と親密な関係を持つに至っていて、それ故に、今回のタイムラインではそこまで何かあったわけではないのに何故か色々とニアミスを起こしたり気にかけてくれていたりしたのは、前のタイムライン(いわゆるパラレル)での繋がりがあの子とあるからのようなのです。そのタイムラインでは上記のように猫かぶりで本心がいまいちわからない子でしたけど関係はそれなりに深まっていたわけですが、今回、タイムラインをやり直すと決まったからには、ちょうど良い機会なので本心をあぶり出す、という意図もあって最初に不思議な対応をして、それで、あの子の素の姿がようやくわかって、それで、猫かぶりではあっても、根は良い子ということがようやく理解できて、それで、以前のタイムラインからの積年の謎であったあの子の素顔がようやくわかったわけです。別のタイムラインでも基本的に仲が良かったと思う反面、あの子が猫を被っている気がしていて本性の素の部分がよくわからなくてモヤモヤしていたように思うのですが、今回では大学1年の若いうちに接触することにより素の部分がわかったことで昔年の疑問が解消したわけです。初めてあった時にそれが起こりましたので最初はそれがどのようなことを意味しているのか当時は自覚できずにいたのですが、どうやら、実は色々と関係が深い子だったようです。
また違うとあるタイムラインにおいては、私の方は予定通り資金を調達したのにも関わらずあの子の役割であるビジネススキルとノウハウの取得が疎かになったためにそのタイムラインは高次から「失敗」とみなされたようでした。それぞれ役割があって、私は資金調達、あの子はビジネス、という役割の筈だったのに、若い頃に資金調達ができたとあるタイムラインではあの子は働く気がなくて専業主婦になってしまって、その後、本来の役割を少しずつ思い出してビジネスしようとしたものの(新卒でコンサルとかに入ればノウハウが身についたのにも関わらず、新卒では専業主婦だったために)改めて自分で色々とやろうとしたものですからうまく行かなくてストレスが溜まってしまい、資金をうまく活用できなかったようです。そのように、私の方が早期で成功したとしてもあの子が専業主婦になってしまってうまく行かない、というパターンもあったようです。実のところ、私の方としてもそのタイムラインでは資金こそ調達できたもののそのタイムラインでは色々と葛藤があってモヤモヤとしていましたので、今のこのタイムラインのようにスピリチュアルが進まずに心境穏やかではなかったのでした。それを踏まえると、お互い、中年になるまではそれぞれノウハウやスキルや資金調達ができるように努力した上で、途中から一緒になることで資金とビジネスのスキルをそれぞれ生かすのが良い、と高次は判断したようです。
高次の判断によると、どうやら、他の子とかですと金目当てとか一方的な愛だとか略奪愛だとか妻がキレるようになったりと様々な問題が出てくる一方で、例のT大生の子に関しては問題がなくて、しかも実は使命も設定されているということで、もし私が他の子と私が結婚してしまうとそれは高次からすると(人生ゲームにおいてプレイヤーが間違った選択をしたことによる)バッドエンドのようなのです。ですから、(人生ゲームの)理想的なエンティングを迎えるためには超えなくてはいけないハードルが幾つもあるようで、まず、あの子を振り向かせないといけない、という大きなハードルがあって、更には、経済的に突き抜けないといけない、更にはあれやこれや・・・、みたいな無茶な要求を高次はしてきています。単に結びついただけではダメで、お互いに自分の役割を果たせなければそれはバッドエンドになります。私は資金調達ができるようにならなければバッドエンドで人生やり直しでしょうし、あの子にしてもビジネススキルを身につけなければバッドエンドのようです。そのように、何か失敗したら人生やり直しかもしれなくて、まあ、どうなることやら、という感じでもあります。
そのための基盤を固めるためにも一旦どん底に落ちたとも言えるわけで、今回、どん底に落ちたことで(これに限らず)今までのタイムラインではわからなかった様々な謎が解けてきているわけです。
それと、(私はツインソウルとかは割と否定派なわけですけど)もしかしたらあの子は私のツインソウルと言っても良い魂を持っているかもしれなくて、と言いますのも服のセンスとか多種多様な表情を持っているところとか、一概に理解できない複雑な精神なところとか、手の仕草とか、どうも、私に似すぎているのです。「いわゆる」ツインソウルとは、実のところ、同じグループソウルから分離した分霊同士、と言うことでありますけど、魂的にかなり近いか、あるいは、それなりに長い関係があったのではないか、とも思うのです。そのくらい、どこか波動が近しいのです。あのような人とは今までにほとんど会ったことがありませんでした。
更には、ごく最近になって、旅行中の別府で私がレストランからホテルに帰る道を歩いている時に通りかかった駐車場に停まっていた車に乗っていた子が妙に視線をこちらに向けていた気がしていて、私はあまり気にせず通り過ぎたのですが、今から思えば駐車場に停めていたにしては車の位置が変で、車のバック駐車が苦手なのか何なのか車を斜めにしたまま中途半端な状態で、少し動くような動かないような、挙動不審の車が駐車場に中途半端に停めてあっていたのですけど、おそらく切り返しをしたいと思っていたら歩行者が来たので通り過ぎるのを待っていたのかなと思うのですが、その運転手が、今から思えばあの子だったかもしれません。 これは考えすぎですかね。 まさかあんな遠くで会うとは思えない、という気もします。ですが、一応はメモです。
当時はまだまだ受験期の影響があって学歴コンプレックスと偏見があって、高学歴の女の子と会うと自身の劣等感が湧き上がってくることに加え、時々、一部の女性からは明らかに見下されて情けない思いをしていた、と言うこともあるにはあったのですけど、ただ、そのような、学歴のコンプレックスはこの場合は割と末子のお話だと思うくらいの様々な背景があるようでした。
瞑想中やレム睡眠中に将来の可能性について選択肢を見せられたのですが、30%の確率(=勝率、難易度が少し高め)で、このことが将来の布石と言いますか、伏線になっているようです。はっきり言って、可能性を見せられたと言っても現実離れし過ぎていて「ほんとですか?」と思って信じられないですし、そのタイムラインになるためには色々と超えなくてはいけないハードルがあるようで、そのどれも無茶振りなハードルばかりです。前提として、とある「私の(新しい)使命」として設定されつつものがあるのですけど、その絡みでこの子が関係してくるような感じなのです。その使命があるからこそ、その絡みで20年ほど前にこんな伏線をあらかじめ設定していたようなのです。将来の布石のために、年取ってから出会うよりも、若いうちに一度会っていた方がお互いに理解できて良い・・・ ということのようなのです。かと言って、それまではお互いにやるべきことがあるのと、まだタイミングとしては早いということで、ずっと一緒にいるというよりは、一時的に顔合わせをさせたようなのです。ですから、あの時、意識に雲がかかって半分トランスのような状態になって認知できなくなり「なんだこれ? 」と、意識が朦朧としていたのは、どうやら、必要以上に仲良くならないように、高次のスピリットの介入があって意識が覆われ、認知と行動にブレーキがかかったようなのです。思えば、あの子が話している言葉が、時々、全く耳に入ってこなくて、内容を全く認知できなくて、そもそも単語すら意識で認識できないところが会話のフレーズごとにあって、実のところ「あいうえお」すら認知できない会話があって一体あれは何だろうかとずっと思っていて、きっと私の頭が悪いので慣用句や言葉が理解できないのだとずっと思っていましたけど、確かにそういう面もあるとは思いますが、流石に「あいうえお」すら認知できないというのは状況としておかしくて、聞き慣れない表現や方言でしたら慣れるまで頭が認知できない、認知しにく、ということは一般的にはあるわけですけど、その前後で会話をしていて、特定のところだけ無音状態になったかのようになって「あいうえお」すら認知できなくなるなんて、ちょっと、状況として特殊すぎます。そのように認知が急にそこ開け途切れることはそれまでもそれからもなかったことで、他に気を取られて聞いていない、なんていうお話ではなくて、集中して聞いているのに認知に入ってこないので、それは、どうやら、スピリットが「そこは理解しない方が良い」「今はそこまで」「今はそれ以上近付かないためにもそこの部分は理解しない方が良い」と判断して、認知と理解を制御して遮断していたようなのです。会話の認知するにはある程度の意識の同調と準備が必要で、その前提部分が一時的に取り除かれていたようです。それまでしばらく会話してきて認知のベースはできているはずなのに急に部分部分の会話だけ「あいうえお」すら認知できないということがあって不思議に思っていたわけですが、どうやら、全ては高次のスピリットの手のひらで踊らされていた、ということだったようです。
この話は更に詳細に教えてもらったのですけど、そう言われても、「本当ですかね?」と、疑問に思ってしまいます。更には、あの子と最後に別れるときに私に急にとある感情と表情が湧き上がってきた時も、どうやら、高次のスピリットが意図して私の理解できない行動を取った(取らせた)ようです。それに加えて、潜在意識では「しばらく会えません」ということもわかっていましたから、しばらく数十年のお別れで悲しくなったようです。確かに、(高次の説明で)そう言われるとそうかもしれませんけど、本当かどうかは分かりません。こういうのは単なる想像の場合も多々ありますのでそこまで信じる必要はないのですけど、可能性として否定する必要はないと思っています。本当にそうなったとしたら、神様というか、運命を作っている高次のスピリットの采配は私の思慮を遥かに超えているということになります。ただ、流石に現実離れしすぎていて詳しくは言えませんし、信じきれてもいません。私はここ数十年で色々と苦労をしましたけど、これが本当であれば、運命を司っている高次のスピリットは、遥か昔から伏線を張っていたことになります。きっとあのまま仲良くなっても上手くいかなかったでしょうし、私はそれどころではない状況にその後なりましたし、あの子としてはそれでも良かったのかもしれませんけど私は対応できなかったと思います。そして、今後と繋がってくるわけです。もし、これが現実になるのであれば高次の見えない世界の存在を信じざるを得ません。もともとある程度は信じていますけど、確度が格段に高まるわけです。現時点では単なるインスピレーションですので本当かどうかは分かりませんけど、もしそれが運命であり使命であるのであれば、それを選ぶのが良いと思っています。アファメーションでは「わかりました。それが高次の意思であるならば、その選択肢を受け入れます」と誓って、その運命を受け入れる選択をしましたので、もし本当ならばその方向に人生が進むかもしれません。私からすると運命ですけど、高次からしたら運命ではなくて高次それ自身の意思な訳です。そのような意思による運命があったとして、その時点ではそれはあくまでも高次の意思でしかなくてまだ現実化していませんから、もしそのように運命が進まなかったとしても、それはそれです。現時点では、可能性を受け入れた、というくらいです。その可能性を選ぶなら、今、何をしなくてはいけなくて、何をしない方が良いのか、も、明らかになってきたように思います。将来の可能性を見せられた今、本当かどうか判断できずに、なかなか混乱しています。若い頃の時点での確率が30%なのか今の時点で30%なのかはわかりませんけど、おそらくトータルに見て30%ということだと思います。現時点ではルートに乗っていて、そうなる可能性はそれなりにあるようです。確かに、あの時の状況は何か不思議な感じで、どうして私があのような気持ちと行動を取ったのか当時は理解できずにいて、当時の思い違いにしても、それが思い違いだとは気付かずに最近までずっと当時の理解のままいたわけですが、今更ながら、当時の理解は間違っていて、更には、どうしてずっとあのような思い違いを当時していたのかもようやく理解したわけです。今更ながら謎が解けた感じです。当時の行動にせよ、当時の思い違いにせよ、全て、高次のスピリットが意図していたことで、全て完璧だったわけです。高次のスピリットの意図を今更ながらに理解しました。
当時のことを思い出したのですが、確か、当時も同じように(このことがあった後のとある夜に)行動の理由と未来の状況をスピリットに見せられて、「これこれ、こういう理由で貴方はこのような行動を取ったのですよ」と、当時、納得したのを思い出して、その内容が今回、また別途、最近になって高次のスピリットの視点で教えられた内容と一致しておりましたので、数十年前の理解と今の理解とが一致して、それ故に、やはり高次のスピリットの介入があったことが確かだと思わされるわけです。当時は「ふうん・・・。それならば納得だけど、本当かなぁ」と思っていたように思いますが、すっかり忘れておりました。今回も内容的には割と似たような感じではありますが、別の視点で同じことを教えられて、別々の理解で得たものが、実は、数十年前に見せられて理解した内容と一致していましたから、本当になりそうな予感はあります。実のところ、その飲み会で他の女の子もいて、その他の子は声を掛ければお付き合いOKしてもらえたようなのですけどその場合は数年後に私が捨てられてその別の子は官僚と付き合ってやがて結婚するみたいでしたし、どうやら私はその別の子にお遊び相手として選ばれる可能性もあったらしくて、と言うのもその子は高校まで勉強ばかりしていてT大に受かったものだから早く恋愛とかしてみたかったようで、本当に好きな相手を探すと言うよりは、早く色々してみたい、という興味が勝っていたようで、そういう可能性もあったようです。かと言って、その別の子にしてみれば結婚は別だったようで。そうとわかると、なんだかなぁ、という気持ちになって。しかも、他の男に結局は負けるみたいになってショックな未来になるとわかって、一方、そのタイムラインの場合はあちらの子との関係がどうのこうの・・・ と言う感じになって進展しないので、高次のスピリットの選択としては、その別の子とは親密にならない、という選択をしたようでした。本当かどうかはわかりませんけどね。未来が分かり過ぎてしまうと最初から「まあ、別に、いいかな」みたいに思ってしまうことが多くなってしまうのですけど、今から思えば「そうは言っても、最終的に捨てられるとはいえ、それまでの数年間は楽しく過ごせるみたいだし、お互いに初めてのことだらけで良い経験になるし、最後は悲しい(ことがわかっている)とはいえ、それはそれでいいのでは」みたいに柔軟な考えになっていて、当時にもっと選択肢に幅を持たせても良かったのかな、とは思います。別に、ずっと長く付き合うばかりが良いとも限らないわけですし。世の中、知らない方が良いこともあるようです。ただ、普通に仲良くなるだけならどちらの子も良い子で普通に幸せだったようですけど今回の場合は使命のために最初の子とあらかじめ顔見知りになっておいて、将来的に信頼関係を深めることができるベースを作る目的があったようです。と言うのも、歳を取ってから出会う場合はこの子がしっかりしていてガードが固いためプライベートな信頼関係を作るのはかなり難しいようでしたので、使命のために、わざわざ、大学時代に同級生も含めた介入があったようです。
本来は関係性が重要になってくるのは中年以降で、それまでは割と選択の自由があったわけですけどあまりにも早く近づくと精神の未熟さなどで関係が破綻するためにしばらく付かず離れずの状態を高次が介入して作り出していたようです。私はあまり気が付かなかったのですけど1〜2年おきに道端でニアミス、それも、必ず反対車線ですれ違うように高次が介入して仕向けていたので、あの子からすると「道で見かけるのに、なぜか、いつも届かない。」という状態になって、あまりにも続くので、見かけた瞬間に写真を撮るようになったようです。・・・とは言いましても、まだ現実での答え合わせをしていませんので「本当ですかね?」という気もしますが。確かに、言われてみれば、時折、強烈な視線がどこかからやってくる時が道端で時々あった気もしますが・・・。私は割と鈍感なので申し訳ないです。
それと合わせて、幾つかの私の女性との関係性も、最終的なこの子との関係がうまくいくためにあらかじめ経験を積むように追加で設定されていたような気がしてきました。私の性格から言ってあまり関わりのなさそうな清楚ビッチと何故か不思議と関係を持ったりしたのは、どうやら、そのまま何もせずにいると最後にあの目的の子と近づいた時に私があまりにも床下手で関係がいまいちになる危険性もあったようで、床の経験を多少は積ませる、という意味もあったようでした。
私は最初、自分が幸せになれるかどうかという視点で理解したわけですけど、実のところ高次のスピリットの意思としては順番がまるで逆で、幸せかどうかはもちろん大切ではあるけれど二の次で、使命を果たすためにはどうすれば良いか、そのために、高次の意識としては段階的に近づくという選択肢も考えたようですけど、いきなり本命の子に近づくのが無理ならば、せめて本命の子の友達と最初は仲良くなって次に本命のあの子に近づくことができればそれでも良かったようですがあの子は真面目ですので自分の友人の(元)彼氏と自分が付き合う、というのは選択肢としてあまりなかったようで、そのルートはうまくいかないようなので友人の別の子は選ばずに、割と一途なルートを選択し、かと言ってその場ですぐにくっついてはいけなかったようで、一旦は信頼関係の基礎を作れば十分だったようで、今回のような割と極端は不思議な状況を選んだのでした。本命の子はガードが硬いので、近くにいる他の子から乗り換えるなんてのは理解できないようで、最初から割と一途でないと落ちないようでした。ちょっとでも私が気持ちを逸らしたり「どうなんだろ」と思っていたりすると訝しげにして「うーん」って思っていたようでしたので、根が真面目なのでしょう。付き合う前の相手のことをちゃんと見るのなんて普通だと思いますが、この子の場合は最初から相手が自分に本気でないと満足しないようで、私が八方美人だと落ちないようでしたから、印象に残るように、高次の方が色々と画策したようでした。年を取ってから初対面の場合は仲良くなるのは難しいので、若い頃にちょっと難しい選択をしてとりあえず顔見知りになったようです。そう高次のスピリットから教えられて指示されたら「はあ、そうですか・・・。面白いことを考えるものですね。本当かどうかわからないですけど、そう言う指示なら仕方がない。そうは言っても、数十年も経てばお互いにわからなくならないのかな」と疑問もありつつも従わざるを得ないです。と言いますか、そもそも、その指示と違う行動は私は取れなくて、指示と違う行動を取ろうとすると体が動かなくなるので結局は従うしかないわけですけど、そうは言いましても、最善の選択肢のようですので、それで全く問題ないわけですが。どおりで、私とは住む世界が違う優秀ないい子が不意に突然目の前に(一時的に)現れたわけです・・・。なんでこの子はここにいるのだろう、と当時はずっと不思議に思っていましたが、そう言うことだったのかもしれません。もちろんこれは話が飛びすぎていて本当かどうかはわかりませんけど。ただ、色々と書きましたけど、未来に起こるであろう(起こるかもしれない)奇想天外なことと比べたらこのことですら序の口なわけで。
更に補足。私は昔は自分のことを鈍感だと思っていて、今もそれなりに鈍感ではありますけど、この、鈍感というのは感覚のお話というよりも、自分が理解できる感情と感覚であれば他者も理解できる、ということなのかなと思います。ですから、鈍感というよりは、自分が知らない感覚と感情は理解できない、というお話なわけです。一応は感じていても、それを解釈できない状況を鈍感と言うのかな、と思うわけです。かつての私は愛をあまり知らなくて、それ故に、他の人から愛されていたとしてもその愛をうまく感じられない、鈍感な状態、それはつまり、自分が愛をそこまで知らないので他者の感情と感覚を理解できない、と言う状態だったのかなと思います。それが鈍感と言うことであって、自分が愛を知れば他者の愛も理解できて、その愛の深まりに応じて鈍感ではなくなってゆくように思います。それと、鈍感と言うよりも、状況に応じて「この人とはこれ以上仲良くなってはだめです」と言う時に、強制的な介入が入って意識が朦朧として認知ができなくなる、と言うことが度々起こっていたようにも思います。これは鈍感といえばそうですけど、鈍感と言うより(高次からの)介入ですね。生きている私の方は「幸せ」だとか「充実」だとかを考えるわけですけど高次からの介入はいつも使命優先で、基本的に私の気持ちなんてあまり意に介さずに整然と介入してきます。私の方はというと「全くもう。あの子と仲良くなりたかったのに」と思っても高次の方は「はいはい。使命があるからね。あの子とはだめでしょ」といつも私の意向はスルーされます。使命と言ってもそれは高次からしたら使命と言うだけで、私の方はというと(高次に設定されたことさえこなしていればあとは)割と自由のようで、あまり肩肘張らず普通に仲良くすれば良いようです。まず初めに高次のスピリットが様子を伺って見初めた上で「いいな」と思った人が打診されるわけで、使命を遂行できそうな人に(高次が)声をかけるわけですから、単に使命でだけ、ということではないわけです。割と嗜好が反映されています。ですから、向こうも(少なくともスピリットのレベルでは)高次からの使命に同意している筈ですけどそれをどのくらい(顕在意識で)自覚しているかはわからなくて、割と一般的には高次からの使命というものに対して無自覚なことが多いと思いますから、特に最初は様子見ですね。そもそも、数十年ぶりに再開しなければ何も始まらないわけで、全くの杞憂になる可能性も多々あるわけですけど。当時は何回か食事したくらいで、そこまで長い深い付き合いでもないですから、そんなに久々だと顔が変わっているかもしれなくて誰かわからないかもしれないな、と、ちょっと心配しています。私の顔は割と認識しやすいと思いますので、おそらく向こうから私を見つけてくれることになるとは思いますが。そのように、一応は可能性を高次から見せられてはいるのですけど、この種のことは自分がそれに同意しなければ起こらないですし、こちらが同意したとしても相手が(顕在意識あるいはスピリットのレベルで)同意しない可能性もあったり、あるいは、他からの介入が更にあってうまくいかないこともありますから、本当に高次から指示されたような奇想天外なことになるのかどうか、実際のところはまだよくわかりません。現時点では、一つの可能性としてある、というくらいです。
そのように、大学時代の同級生にしても、高次のスピリットに、この目的のために誘導されていたことがわかりました。当時、周りには大学がたくさんあるのに、一時期合コンがことごとくT大の女の子とばかり設定されていたことがあってとても不思議だったのですけど、どうやら、目当ての子が参加するまで何度も何度も同級生をも巻き込んだ高次の介入があったようでした。あの時期、T大生の女の子ばかり来ていた謎が解けました。毎回「なんだこれ? 不思議だ・・・。またか・・・。なんでT大ばかり? こんなマイナーな大学の合コンにどうしてT大の子が来るのだろう? 他の大学の子が来てもいいものだけど」と、ずっと不思議に思って、時に、あまりにも偏っていておかしいので訝しく思っていたりもしたのでした。どうりで、何度も合コンがあるにも関わらずカップルはそこまでできなくて、T大の女の子たちは礼儀正しくも何か意識に壁があったのは、おそらくは、本来の予定ではくっつく予定のない人たちもこの目的のために巻き込まれて呼ばれていて、カップルになる予定はなかったのでカップルができにくかったわけで、合コンが設定されたのは高次の事情によるものなので実際にはほとんどカップルができなかったのだと思います。私はそれを側から見ていて、当時はよく理解できずに勘違いをしていて「何だこれ。T大の女の子たち、そこまで本気でもなさそうなのに、どうしてこんなに大勢が合コンに来ているのだろう? みんな、なんか、礼儀正しいけど本気ではなさそうで、ひょっとして冷やかしかなぁ? T大とは言わずに東京の大学とか周りくどく自分のこと言って自分のこと隠しているし、煙に巻いているようで、これは、単に様子見に来ただけかなぁ。そうだよね、うちの大学なんてT大の女の子に相手にされないでしょ。」と、とても不思議に思っていたり訝しく思っていたのですけど、実のところ、あのT大の女の子たちはいい子たちで、ただ単に、高次の設定によって目的の子が参加するまで違和感のないように他の子も巻き込まれて自分の意思かのように思わされてそれっぽく参加していただけだったようです。そうであれば、あの、どこか礼儀正しくも意識に壁があって踏み込んでこないT大女子たちの態度も理解できるというものです。別に、変に企んでいたとかはなくて、性格が捻じ曲がっているとかもなくて、みんないい子で、ただ単に、高次の設定によって巻き込まれていただけだったわけです。一応は表の理由としては、誰かがストレートにその理由を聞いたら「最近はIT革命と言われていてITバブルもあるし、情報学部に興味がある」と言っていましたので表向きはそういう理由だったのでしょうが、実のところ、高次が設定したために巻き込まれたようでした。本当にそうかどうかは確かめようがないですが、高次から降りてきた情報を解釈すると、そのようなことだったようです。完全に信じているわけではないですが、理に叶っていて、腑に落ちます。
その、高次の設定したイベントが終わったらばったりと不思議な合コンは設定されなくなり、はたまた、別の合コンに顔を出すとそれは設定も何もなくて普通の現実で、その現実はというと、どうやら私は「地方出身者」ということで都内に家がある人に比べて格下の扱いをされるようで、服装も汚かったですから、東京に家もなくてお金もなければ相手にされず、大抵の場合に存在しないかのように空気として扱われて体よくスルーされることが多くなり、であれば、やはり、あの時期が特殊だったのだと思います。今から思えば女の子にスルーされて相手にされないのも当然だったように思います。同じような男なら、普通は、東京に家のある方を選びますよね。特に性格どうこう関係なくて、普通の感覚ならそうすると思います。その現実を、上京した当初はよくわかっていませんでした。単に非モテかと思っていましたけど、実のところ、足ぎりされていた、と、そういうことだったわけです。まあ、そういうのはあまり気にしていない子もいたかもしれないですが顔に出さないだけだったかもしれず、割と基本スルーされていたと思います。基本的な属性が悪い場合は普通に関係性を作るのは難しくて、高次の設定と仕込みがなければなかなか関係性は作れないのかな、と今更ながら思います。思えば、対比として、かなりそういう物質的な傾向の高いところへと一時的に(高次に設定されて)連れて行かれて(底を見せられて)、そういう三高狙いの人も当然の如く大勢いることを学ばせられたのかなとも思います。特定の時期は、それがあまりにもコントラストがはっきりしていました。一方で、誠実は人はたくさんいるわけです。
ちなみに、私と同じ大学の同期だった男が目的のT大の子と高校の同期で、合コンは彼が設定したわけですけど、実のところその同級生の男の人は私の行った大学と似つかないほど優秀で、何もなければ本当はもっと良い大学に行くのが彼の既定路線だったわけですけど、高次から介入があって、当人の頭の中にIT系を学ぶという目的をインプットしてあの大学にわざわざ通うようにさせたのでした。何もなければ私の行った大学なんて偏差値だけを見たらT大生から見向きもされないようなところでしたけど、当時は95年でIT革命が盛んに言われておりましたのでITをしている人には雑多な人がいて、そのようにITを目指す偏差値の高いアーリーアダプターも引き寄せていたわけです。その同期の男の人は高校の同期で信頼されていて、目的の女の子からも信頼されていましたので高次はその男の人に目をつけたのでした。目的があって、かなり頭が良いのにわざわざ偏差値の低いあの大学に入ったあの男の人は同期から目的意識があるということでリスペクトされていたわけですけど、その男の人の通う大学までも変えさせて目的のT大の子を巻き込むように仕向けたわけです。この時は、高次がこの男性の意識に介入して大学までも変えさせましたのでその後のフォローもしていて、本来ならば良い大学に入って良い就職先を見つけるのが既定路線だったようですので、割とあの大学の就職先としては似つかないような、元々行く筈だった就職先と同じかそれよりもちょっと良い職につけるように再度の高次からの介入があって元の路線に戻したそうです。この場合、同期の男の人はとても「いい人」で気遣いもできる優秀な人ですので、お礼としての意味も含めて就職先を高次から介入して支援したようです。
実のところ、似たようなお話は各所にあって、私に介入してくる高次のスピリットは割とやんちゃで無茶振りを発揮してくるのですけど、関わった人が良い人である場合はもっと良い状況になるように介入してくれます。逆の場合もあって、悪い人の場合はとことん悪い方向に向かうように介入する場合もあるのですけど、この場合は良い方向に介入してお礼をしたわけです。
様々な可能性を内包しつつも実際のところこれらの伏線が本当かどうかはわかりませんが、どちらにせよ、これらのことを思い出して思索し直した結果、愛というものを理解できてきたように思いますのでその点は少なくとも無駄ではなかったと思います。感情も含めて正しく理解することの大切さを改めて実感できたように思います。私の人生は失敗も含めて全て完璧だとは思ってきましたが、幾つかの伏線が将来にも本当だとすれば完璧すぎます。ただ、こういう直感がやってきても、将来のことに関しては現実として現れてくるまでは「そうかもしれない」と思うくらいです。確かに、見せられた可能性が実現するのであれば未来は充実したものになりそうです。この伏線は、個人的なものというよりはもっと大きな目的に即したもののようで、実のところもっと具体的に見せられてはいるのですけど、そうは言いましても、私自身そのイメージで伝えられたような大層な状態にはまだ全然至っていないですから、学生時代に一旦出会ったことは将来の使命に対しての伏線としての顔合わせ以上のものはなかったわけです。使命が本当かどうかはわかりませんけど、一応、可能性として、そういうこともあるかもしれない、と判断は保留しているところです。
一応簡単に書いておきますと、(本当かなぁ、と言う感じですけど)将来は私は今では考えられないほど資産を持つようになるらしく、別でまた書きますけど、とある団体に寄付をするようになるものの、その団体はそこまでお金を使いきれず、かと言って何もしなければ死ぬ時に手付かずのまま国庫に入ってしまうため、資金を有効活用しようと思って考慮したところ、次世代に向けた新たな商社、特に女性向けの女性による商社のようなものが作れると良いと思って誰かいい人がいないか商社やコンサルのオフィスを眺めていたところ、とても優秀なあの子が目に留まって、しかも見た目と性格も好みでしたからあの子に決めて、最初は直接、歳を取ってからアプローチしたところ相手にされず、タイムラインを遡ってやり直して熱烈にアプローチしたら一応は付き合ったり結婚までは行けたみたいですけど、歳を取ってからのあまりにも不自然とも思える熱烈さにあの子の気持ちが引いてしまって困惑状況になってしまうようなのでそのような無理のある線はやめた方が良いと判断。どうすれば振り向いてもらえるかを思索し、それでは、ということで、若い頃から付き合えば良いじゃないか、と思ったところ若いと精神が未熟でうまくいかず、はたまた、まずあの子の友達の彼氏になってから、ある程度精神が落ち着いてからあの子(本命)に近づくことを考えたが、そういう、乗り換えるとか軽いノリは好きではないようで、乗り換えに失敗するようでしたのでその線も無し。おそらく一途でないと振り返ってもらえない、と言うことで、大学の若い頃にまず顔合わせして、その後はお互いにやることがありますので一旦は離れて、実のところ使命で重要になってくるのは中年以降ですので、それまでは時折、道端で見かける程度にして、それなりに歳を取ってから再開できるように設定した・・・ とのことですけど、実際のところ、どうなのでしょうね。将来のことはわからないですね。それに、「道端で見かける」ってどういうこと? と思いますけど、実際、文字通りのようで、あの子は私に気づいていて道端で私の写真を記録として撮っていたりもするようです。そんなこと言っても、東京には何人住んでいると思っているのでしょうかね・・・。生活圏が意外に近いのかもしれませんけど、見たところ、そうでもない感じがします。となれば、本当に道端ですれ違っているのだとしたら高次の介入と考えるのが自然です。
これらと関連して、大学2年か3年の頃(T大の子との合コンが大学1年の時でだったと思いますがその1〜2年後)に実際にあったことの内実を瞑想中やレム睡眠中に見せられました。というか、思い出した、と言った方が正確でしょうか(もちろん本当のことかどうかはわかりませんが)。その、20代前半のある日、私は休日(あるいは平日だったかもしれませんが)に日比谷公園から有楽町駅の方に歩いた後に数寄屋橋交差点かどこかを渡っていて、ふと、誰かが急に目の前で止まってぶつかりそうになって驚いて避けたように覚えているのです。実のところ私は、ただ単に誰かとぶつかりそうになった、としか当時は思っていなかったのですけど、今更ながら瞑想やレム睡眠中で見せられたの時の情景を思い出すと、もしかしたら、あの時、私が驚いて避けながら一瞬だけ振り向いて見たあの顔、T大生のあの子だったような・・・? そして、片手をちょっと上げて呼び止めていたような? 私の方の顔を見ていたような? もしかして、私を見かけて私の前に来て立ち止まったということですかね??? 10年以上前のことで、当時は全く気が付いていなくて、ぶつかりそうになって驚いただけのことで顔とかほとんど見ていませんでしたけど、向こうは、私を認識していたということですかね??? いや、謎です。 ぶつかりそうになった瞬間はただ小パニックで驚いてそれどころではありませんでしたけど、30分後くらいに「あれ? あの子?」と、少し思い出した気もしますが・・・。 時既に遅し。 我ながら鈍感すぎます。こんなに人が大勢いる都会でばったり会うことなんて確率低すぎますけど、確証はありませんし、私が気付かず驚いたままよく見ずにスルーしてしまったので会話していませんけど。ああいうときは目線や仕草だけでなくしっかり名前を言ったり肩叩いて話しかけてくれても良いのにとは思いますけど、数回食事したくらいでしたから私の名前は覚えてもらえていなかったかもしれません。おそらく、向こうにしても、久々すぎて私だという確証はなかったのかな、という気も致します。私はもともと人の顔を覚えるのが苦手で、特に女性は化粧しているので顔の見分けとか困難だったりしますので、無視したのではなくて、単に気づいていなかっただけです。 後で思えば、確かにあの子だった気もしますが。 いや、鈍感すぎて本当に申し訳ないです。それに、当時はまだまだ東京が珍しくて、日比谷とか有楽町とか銀座なんて散歩したら「わー! キラキラしたビルとか電車の高架とかが珍しい! 交差点も大きい! 人がたくさん歩いてる! やっぱり銀座はキラキラしてる!」みたいに田舎者のお上りさんがキョロキョロしながら歩いていて、視線はあの子の方にちょっとは向いていたのかもしれませんけど景色が珍しくてキョロキョロするばかりで大勢歩いている人の顔とかほとんど目に入っていませんでした。そんな状況で急に目の前に立ち止まっても驚くばかりで意識がそこに向かないですし、人の顔とか認知できません。単純に、「やっぱり都会は人が多いなあ。気をつけて歩かなきゃ。ぶつかりそうになっちゃった」としか思っていませんでした。理解してください。いや、本当にそうだったかは確かめようがありませんが、そうだったとしたら申し訳ないです。これ以外にも、その後、街中で、向こうが私を認識していた場面が何度かあったような・・・? これまた確かめようがないですが、腑に落ちるわけです。もしかしたら、何度か、写真も撮られてるかも? 意外に生活圏が近いのかもしれません。私の方は気がついていなかったのですけど、実は1〜2年おきに道端ですれ違いのニアミスを繰り返していて、私の方は気付かない一方であの子は毎回きちんと気がついていて、あの子は「どうしてこんなに見かけるのだろう・・・」 と思うようになって、やがて、写真を撮ったりして記録に残しているような・・・・??? と言う直感を受けましたけど、本当ですかねえ? もし本当に再開するようなことがあったら、その時のお楽しみですが。 ひょっとして、つい先日、日比谷の交差点に自転車で通りかかった時、交差点の向こう側で道路に向かって(こっちに向かって)写真を撮っていた子がそうだったのですかね? いや、まさかね。 チラ見しただけで顔とか見ませんでしたが・・・。何やら写真撮ってる子がいるな、と一瞬目に入りましたが・・・。うーん? それ以前のことは全くわかりません。 日比谷とか有楽町の付近がホットスポットかもしれないです。いや、まさかね。これは瞑想のお話ですから。現実だとしたら卒倒ものです。まあ、あまり本気にせず様子見とします。瞑想で見たことは単なる想像の場合も多いですしね。それはそれで、現実ではないとしても話としては面白いです。想像でも面白いし、現実ならもっと面白いのです。
あのT大の子が当時に使命のことをどれだけ自覚していたかどうかはわかりませんけど、女性というものは男性よりも勘が鋭くて将来のことも見抜きますので、20%の確率であの時点で使命にある程度は自覚的で、であれば、あの子が私に対して不機嫌になったのは、私があまりにも不甲斐なくて目覚めていなくて使命にもほとんど自覚がないので、使命に無自覚な私に対して不機嫌になったのかもしれないですね。そういう可能性はあります。あるいは、その後に気がついたパターン。こちらの方があり得ますね。使命を果たす相手というのはある程度の自覚があれば誰がそうかなんてすぐにわかりますけと、使命で実際に動くのはそれなりに年を取ってからのことですから、ひとまずはそれぞれのスキルを磨くのが第一なわけで、最終的な役目を果たすには一旦は離れた方が良かったわけです。感情から言えばくっついていた方がいいはいいわけでが、それだと最後まで上手くいかないのです。あれから何十年も経っていますし、勘の良い女性なら既に使命に自覚的になっているかもしれませんね。
とまあ、そんな気もしますが、どうでしょうかね。ほんとかどうかはわかりませんけどね。
それと、この件はもっと別のタイムラインにも関係しているらしく、前のタイムラインで一旦は仲良くなったものの猫かぶりの子だったようで、今回のタイムラインで最初にかなり激しくぶつかることで本心を曝け出させたのでした。思えば、前のタイムラインでは猫かぶりの様子がどうも腑に落ちなくてずっとモヤモヤとしていて、今回のタイムラインをやり直すことが決まった時に、ちょうど良いのであの子の本性も確かめようと思ったのでした。ですから最初の食事の時に私が随分と不思議な態度と訝しい表情をしたのですが、当時はその背景をよくわかっていませんでしたけど、今思えば、それはそもそも以前のタイムラインに由来しているようでした。
更にわかったことですが、ある程度の慣れと労力は必要ですけどタイムラインの改変をするためには全てやり直す必要はないようです。ただ、基本は全部やり直すことのようですが、ある程度の独立した事象であれば要所要所で介入して改変することも可能らしく、それは、一部を改変したところでそのオーラと言いますか雰囲気のようなものを記憶(としか言いようがないのですが、いわゆる普通の記憶ではないのですが)しておいて、それを、要所要所で復元して思い出しつつタイムラインの改変をそこにだけ行うことができるようです。ただ、ちょっと混ざってしまうようなうまくいかない感じのこともあるようですけど、今回のあの子に関しては全てをやり直すと大変なので要所要所だけ入れ替えをしたようです。
大雑把に言ってしまうと、経済的にそれなりに裕福なタイムラインですとスピリチュアルな成長に限界があったようで、何回か行ったタイムラインで人生の限界を感じていたために「やり直し」を決断したわけですが、その際、ものは試しで思いっきり人生のどん底に突き落としてみたらどうだろう、と思って決断し、人生の若年期に周囲に酷いモラハラや虐めや暴力をする人をこれでもかというほど家族や親戚に隅々まで配置した結果、意外にそれが効果的でスピリチュアルな面を見直すことができて様々な理解に至ったわけです。実のところ、人生の若年期を見ると今までの裕福なタイムラインの方が遥かに波動(オーラ)は良いのですけど裕福なことで傲慢になってしまい中年以降にスピリチュアルな成長がなかなか難しい状況になっていました。今回のタイムラインでは若年期の波動(オーラ)は最悪でとことんどん底に落ちたわけですけど、そのことで理解したことはというと、「この地球の現実は、自分が地の底まで一旦落ちないと理解できない」ということです。高い波動の天使や神様のような状態からあれこれと掲示をしたところで、実際に自分がどん底まで降りないと理解できないことがあるのです。そして、一旦落ちてから再度上がってくる、ということが今回の人生(タイムライン)での課題だったわけです。
それと関連して、どうやら、今までの幾つかのタイムラインでは既に例のT大生の子と親密な関係を持つに至っていて、それ故に、今回のタイムラインではそこまで何かあったわけではないのに何故か色々とニアミスを起こしたり気にかけてくれていたりしたのは、前のタイムライン(いわゆるパラレル)での繋がりがあの子とあるからのようなのです。そのタイムラインでは上記のように猫かぶりで本心がいまいちわからない子でしたけど関係はそれなりに深まっていたわけですが、今回、タイムラインをやり直すと決まったからには、ちょうど良い機会なので本心をあぶり出す、という意図もあって最初に不思議な対応をして、それで、あの子の素の姿がようやくわかって、それで、猫かぶりではあっても、根は良い子ということがようやく理解できて、それで、以前のタイムラインからの積年の謎であったあの子の素顔がようやくわかったわけです。別のタイムラインでも基本的に仲が良かったと思う反面、あの子が猫を被っている気がしていて本性の素の部分がよくわからなくてモヤモヤしていたように思うのですが、今回では大学1年の若いうちに接触することにより素の部分がわかったことで昔年の疑問が解消したわけです。初めてあった時にそれが起こりましたので最初はそれがどのようなことを意味しているのか当時は自覚できずにいたのですが、どうやら、実は色々と関係が深い子だったようです。
また違うとあるタイムラインにおいては、私の方は予定通り資金を調達したのにも関わらずあの子の役割であるビジネススキルとノウハウの取得が疎かになったためにそのタイムラインは高次から「失敗」とみなされたようでした。それぞれ役割があって、私は資金調達、あの子はビジネス、という役割の筈だったのに、若い頃に資金調達ができたとあるタイムラインではあの子は働く気がなくて専業主婦になってしまって、その後、本来の役割を少しずつ思い出してビジネスしようとしたものの(新卒でコンサルとかに入ればノウハウが身についたのにも関わらず、新卒では専業主婦だったために)改めて自分で色々とやろうとしたものですからうまく行かなくてストレスが溜まってしまい、資金をうまく活用できなかったようです。そのように、私の方が早期で成功したとしてもあの子が専業主婦になってしまってうまく行かない、というパターンもあったようです。実のところ、私の方としてもそのタイムラインでは資金こそ調達できたもののそのタイムラインでは色々と葛藤があってモヤモヤとしていましたので、今のこのタイムラインのようにスピリチュアルが進まずに心境穏やかではなかったのでした。それを踏まえると、お互い、中年になるまではそれぞれノウハウやスキルや資金調達ができるように努力した上で、途中から一緒になることで資金とビジネスのスキルをそれぞれ生かすのが良い、と高次は判断したようです。
高次の判断によると、どうやら、他の子とかですと金目当てとか一方的な愛だとか略奪愛だとか妻がキレるようになったりと様々な問題が出てくる一方で、例のT大生の子に関しては問題がなくて、しかも実は使命も設定されているということで、もし私が他の子と私が結婚してしまうとそれは高次からすると(人生ゲームにおいてプレイヤーが間違った選択をしたことによる)バッドエンドのようなのです。ですから、(人生ゲームの)理想的なエンティングを迎えるためには超えなくてはいけないハードルが幾つもあるようで、まず、あの子を振り向かせないといけない、という大きなハードルがあって、更には、経済的に突き抜けないといけない、更にはあれやこれや・・・、みたいな無茶な要求を高次はしてきています。単に結びついただけではダメで、お互いに自分の役割を果たせなければそれはバッドエンドになります。私は資金調達ができるようにならなければバッドエンドで人生やり直しでしょうし、あの子にしてもビジネススキルを身につけなければバッドエンドのようです。そのように、何か失敗したら人生やり直しかもしれなくて、まあ、どうなることやら、という感じでもあります。
そのための基盤を固めるためにも一旦どん底に落ちたとも言えるわけで、今回、どん底に落ちたことで(これに限らず)今までのタイムラインではわからなかった様々な謎が解けてきているわけです。
それと、(私はツインソウルとかは割と否定派なわけですけど)もしかしたらあの子は私のツインソウルと言っても良い魂を持っているかもしれなくて、と言いますのも服のセンスとか多種多様な表情を持っているところとか、一概に理解できない複雑な精神なところとか、手の仕草とか、どうも、私に似すぎているのです。「いわゆる」ツインソウルとは、実のところ、同じグループソウルから分離した分霊同士、と言うことでありますけど、魂的にかなり近いか、あるいは、それなりに長い関係があったのではないか、とも思うのです。そのくらい、どこか波動が近しいのです。あのような人とは今までにほとんど会ったことがありませんでした。
更には、ごく最近になって、旅行中の別府で私がレストランからホテルに帰る道を歩いている時に通りかかった駐車場に停まっていた車に乗っていた子が妙に視線をこちらに向けていた気がしていて、私はあまり気にせず通り過ぎたのですが、今から思えば駐車場に停めていたにしては車の位置が変で、車のバック駐車が苦手なのか何なのか車を斜めにしたまま中途半端な状態で、少し動くような動かないような、挙動不審の車が駐車場に中途半端に停めてあっていたのですけど、おそらく切り返しをしたいと思っていたら歩行者が来たので通り過ぎるのを待っていたのかなと思うのですが、その運転手が、今から思えばあの子だったかもしれません。 これは考えすぎですかね。 まさかあんな遠くで会うとは思えない、という気もします。ですが、一応はメモです。
上京後のメンタルの回復
当時、もはや、自殺とか死ぬとかいう気力すらなくて、ただぼうっと意識がぼやけていたのです。自殺とか言うのは相当の気力が必要と思うのですけど、一瞬自殺を思い立っても次の瞬間には違う雑念がわらわらと出てきて混乱しているので、自殺というところにすら行き着かないのです。ただただ混乱していて、もはや、何も集中してできない状態になっていました。母に対して愛情を感じてはいましたけど、何かしようとすれば父親から馬鹿にされ、父親からは時々殴られ、母親からも今で言うところのモラハラを受けて時折叩かれたりして「ダメな子」扱いされて罵られたりしてきました。母からは何故か「この子は大学に行って、お金を沢山稼いでお母さんにお小遣いくれんだから大切にしなきゃ」ということを何度も何度も目の前で言われていて、今から思えばこの母のモチベーションは気持ち悪いのですし、それを心の中で思うのならばともかく本人の目の前で何度も何度も言うのは変な母だと思うわけですけど、とにかく、母親が私を可愛がるモチベーションというのはそこだったようです。世間で他の人と話をすると、そんな母親は聞いたことがない、と言うのです。まあ、心の中でそう言うことを思っている人はいるでしょうけど・・・。愛情はそれだけではないとは思いますけど、モチベーションがあまりにも現世利益すぎます。幼い頃、長らくそうした家族の中にいると、いつの間にか、愛情と怒鳴られる・叩かれる、そして、「与える」、ということが結びついてしまうようになり、その後、女性から厳しくされないと愛情のように感じられないような、女性から命令されて縛られないと愛情と感じないような、女性にうまく利用されていることに喜びを感じてしまうような、女性から求められたらなんでも与えないといけないような、何か与えて女性が喜ぶことがモチベーションになるような、貢ぐ君のように利用されているのがわかっているのにも関わらず与える行為に喜びを感じるような、報われないのに女性に尽くそうとしてしまう状況で(報われる状況よりも)報われない状況の方にむしろ喜びを感じるようになってしまったり、私が尽くすときに、心の半分で報われたいと思いつつも心の奥で「私の気持ちを拒否して虐げてほしい」と思うような、気持ちを受け入れてほしいと思いつつも拒否して欲しいと同時に思うような歪んだモチベーションがあることを隠しながら尽くそうとしている心の闇に敏感に気付かれて本当に良い女性に引かれたり、ストレートに気持ちを表現できない、ストレートに人を愛せない、歪んだメンタルを育ててしまったと言えます。(そうは言いつつも、言うほど沢山実際に尽くしていたわけではないですが)その後、本当に良い子が現れてもその束縛ゆえにまともな恋愛が難しく、逆に、束縛してくるような変な女にばかり惹かれて、その束縛から逃れるには上京してから長い年月を要しました。どう考えても良い子が目の前にいるのに体が何故か反応しなくて一定以上惹きつけられず、体の反応はというと変なモラハラのメンヘラ女やS女あるいは搾取女にばかり惹きつけられてしまうのです。この生理的反応にはしばらく悩みました。どうして、時々目の前に現れるような素晴らしい子のことを好きになれずに、変な子にばかり惹かれるのだろう、と長らく思っていたのです。それに、本当に素晴らしい女性は私などが近くにいると不幸に巻き込んでしまうでしょうから、素晴らしい女性は他の良い男を見つけて幸せになって欲しい、とも思っていました。自己肯定感がとても低かったわけです。本当に良い女性に対しては少し好きになりつつあったとしても行動にはブレーキがかかっていました。ちなみに、高次のガイドの解説によれば、報われないというようなショックを与えなければハートが開かないほどにハートが閉じていたのでそのように願っていたという面もあった、とのこと。元々の歪みの原因それ自体に加え、違う理由で報われない状況を望んでいたので歪みが強化されていた、ということでした。
田舎で私を蔑んでいたのと同種の人間も世の中にぼちぼちいて、上京後、特に私のことを知るわけでもなく初見だったり大した知り合いでもないのに私の顔を見るやいなや「あっ、こいつ! 見つけたぞ! やったぜ! 都合の良いカモ発見!」と言う表情をしてすぐにゲラゲラ笑って見下すような態度を取ってくる人がそれなりにいて、同種の人間はそこら中にいるのだなと思いました。それでも、流石に、大学卒業して働き出す頃までには「これはおかしい」と気付き始めて少しずつ抵抗を始めるのですけど、抵抗をすると今度は逆に、抵抗している私が悪いかの如く言い出す親戚などがいて、私が親戚から笑われて不機嫌にしていると、ニヤニヤと見下し笑いをしながら「お前は四面楚歌だ。周りを見てみろ。お前の態度は何だ。お前は敵だらけだ」(これは本当にそう言われたことです)とか小馬鹿にしてくるのですけど、どう考えても私は何もしていなくて、私はかつて周囲の親戚や父そして兄の誹謗中傷のゲラゲラ笑いを以前は大人しく受け入れていたわけですけど、それに抵抗して不機嫌な態度を取るだけで私が悪いかのように堂々と言ってくるような親戚付き合いだったわけです。私が大人しく笑われていた昔の状況に戻って猫か犬のようにバカのような振る舞いをしていろ、とでもいうのでしょうか。昔のように大人しくしていないから、という理由で親戚は見下して接してくるわけです。大学に入って上京した頃からその関係性が少しずつ変わって、たまに実家や親戚に帰ったときにそのような理由のない誹謗中傷を甘んじて受けずに「(わずかながらでも)イラついて」少しずつでも抵抗していることに対して「お前は四面楚歌だ」とか親戚は言ってきているわけですから、どう考えても、理由のない誹謗中傷を繰り返す親戚や兄や父が悪いわけです。親戚の中では私が悪いことにさせられて、四面楚歌だと言われ、親戚や父や兄からは「お前(私)がおかしい」、という扱いをずっとされてきて、時には面と向かってそう文字通り「(お前は)おかしい」と言われてきたわけです。どう考えても、私は何もしていないのに、何故か、私をゲラゲラ笑ってくる人がそこら中にいて、そのような変な環境に長くいるとついついそれが当たり前かのように思うようになってしまい、よくわからないけど皆がそういうのならばそうなのかな、と思って思考停止して当時は受け入れてしまっていました。
そのような変なメンタルは高校卒業して住居を離れることで少しずつ回復していきますけど、それでも、しばらくは、特に父や兄、そして親戚および同様にモラハラしてくる人に対して抵抗することが不可能な状態で、おとなしく他人に従って中傷を受け入れるかの如く「にこやかに」しているしかなく、今から思えば、完全に当時は精神的に飼い慣らされていたといえます。抵抗することすらできなくて、そもそも、抵抗する気力も出ずに、ただ、(全く根拠のない)父や兄、そして親戚からの誹謗中傷と見下されることを甘んじて受けていた若い頃がありました。このような状況では本来のハートの愛もうまく感じられず、はたまた、メンタルが崩壊しているので勉強もうまくできない、という状態だったと言えます。
母は、ことあるごとに私に田舎の土地を買わせようとしたり私からの仕送りが欲しいことをほのめかして出費させようと画策してきましたけどのらりくらりとかわしていましたらそのうちイライラしてきたらしく、更には鬱のようになって、私に電話をした時の母の鬱のメンヘラオーラが「ぐわっ!」と私の上に乗ってくるようになり、私は毎回の如く数日寝込むか、あるいは、学校や会社に行っても数日間は頭痛がして頭がクラクラして朦朧として意識が遠のきそうになる状態が続くようになり、学業にせよ仕事にせよ母が足を引っ張りました。とにかく、母の強力なメンヘラパワーの威力を毎回の如く思い知りました。毎回、母がネチネチとお金がないだとか土地が欲しいだとか執拗にメンヘラパワー炸裂で私を困らせたとしても、私は流石に電話の向こうですからのらりくらりとかわしていたわけですけど、そうしているうちに、更にどんどんと母の鬱とメンヘラがますます強固にエスカレートしていって、やがては面倒になって私は「うるさい! もうかけてくるな!」と言って、しばらくはメールだけのやり取りにしましたら、それはそれで田舎ではメンヘラが加速したらしいのですけど、割と自業自得であります・・・。もう、ああいう母にはつける薬がないのです。きっと私に期待しているのがいけないのでしょうから、当時はそこまで自覚はなかったのですけど、今から思えば、あえて色々と失敗したり失望させたりして母の期待を削ぐことをしていたように思います。例えば高校にしても大して勉強もしなかったですし、大学も行く気がほとんどない状態で、世間はIT革命と言われているのに大学の意味のない勉強を強制させられてバイトも親に禁止され、どうせなら大学をやめてITベンチャーにでも就職してしまった方がストックオプションも貰えて今頃大金持ちだったかもしれないと今では思うのですが、そのようなことをほのめかすものなら母から烈火の如く怒り狂ったメンヘラパワーで「一体、何を考えてるの!!!!」というブチギレと共に逆らうことのできない状態になって、本当のことを言うこともできない心理状態になって、母が回答として「何言ってるの」と呆れるであろう答えをなんとなく作り出して馬鹿っぽく「これこれがしたい」と考えなしのように振る舞うことで母の機嫌をなだめ、案の定、母からは「そんなことしてどうするの!」と想定通り呆れられて「母の言うとおりにしておきなさい」と言うことになったのですけど、そもそも、本心を打ち明けられるほど母は私に信用されていないので、本当に何がしたいのかすら母には言えない状況だったのです。本当のことを言って母から否定されたら本当に精神が崩壊して高校時代のように精神崩壊してしまうかも知れませんでしたので、母に本当のことは言えず、とりあえずの、馬鹿っぽいそこらにある回答をとりあえずしてお茶を逃がし、いつものように「ほらみろ、アホな息子は母に従っておけば良いの」と言う型通りのパターンにあえてはめることで母の機嫌をなだめたのでした。
そして、せっかくのチャンスをいくつも逃し、結局、私は悶々としてつまらない大学になんとなく通って、なんの変哲もない就職をするに至ったのでした。大学の当時はITバブルで、その頃にしては珍しかったストックオプションをもらってWeb系のバイトに就いていたこともあるのですけど、その筋でもう少し積極的になっていれば違った人生になっていたと今なら思うのです。無理解で束縛する母のおかげでチャンスを逃したのですけど、母にそんなこと説明しても昔ながらの価値観に縛られているメンヘラに何を言っても無駄ですし、私も当時はそこまではっきりと状況をわかっていたわけではありませんでしたので確信を持って決断できませんでしたので、まあ、私は私なりに分相応だったのかなと思います。せっかく、母が望むように私がお金持ちになれるチャンスを母が自らの束縛によって逃したのですから、自業自得とも言えます。その後しばらく経ってこの種のことをチラッとほのめかしたことがありますけど、どのくらい母が理解しているか不明ですけど。私と母の信頼関係なんてその程度のものですけど、一方、母の方からすると私のことをよく知っているつもりのようですが、メンヘラの束縛の母の子供への理解なんて実際はその程度だと思います。
ちなみに、今では、結局、母は私にあまりお金をもらえなかったことで幻滅しつつも半ば諦めているようで、今は症状としては並程度のメンヘラ母になっていて、以前ほどの問題にはなっておらず、割と普通の関係になっているのですが、当時はこんな感じで問題が大きかったのです。愛は基本に家族愛など身近なところが基本になっていて、家族や親戚の愛が歪んでいるとその後ずっと問題が生じるように思うのです。最近に至っても時々強度のメンヘラになっていて、もうめんどくさいので「ハイハイ」と言って電話を切っても母はそれに慣れたのかそこまで問題になることはなくなりましたけど、昔は、メンヘラに対して私が長々と付き合わないと次が大変でメンヘラが倍増していて大変だったのです。今は割と回復してきましたけど、おそらく死ぬまで治らないでしょうね。
母に限らず、私は他人から色々言われていましたけど、話は簡単で、他人が自分の思い通りに動くのが当然と思っているような人がこの世にはそれなりにいて、本人が思っているように誰かが動かないと「おかしい」と思うような種類の人なわけです。ただそれだけのお話で、そのような人の考え方の方がおかしいのです。この種類の人は自身の考えを堂々と主張してきますので、ついつい受け入れそうになってしまいますけど、そこは気をつけて、相手がこの種類の人であれば、そのようなおかしな人の意見なんてどうでも良いので、おかしな他人の意見なんてスルーすれば良かったわけです。例えば、据え膳食わぬは男の恥なんて言葉がありますけど私に好意を持ってくれている女を気付かずスルーしたとして、その子を片思いしている他人から「お前は(あの子の気持ちに答えないなんて)おかしい(俺だったら受け入れるぞ)」と言われたりしますけど、私からしたら、そんなの知ったことではないわけです。その人にとっては据え膳を食うのが当然かもしれないですけど、実のところ私は鈍感でその時そもそも気づいてもいませんでしたし、今更そう言われても「え?」と言う感じで、私はあの子には興味がなかったわけです。他にも、親戚や父および兄から、私が全く理解できないこと、実のところ、何に対して笑われていたのかすらほとんど思い出せませんけど、大した理由でもないこと、あるいは、理由も言わずに顔だけ見られてただゲラゲラずっと笑われていた結果、いつしか、親戚から(大した理由なしに)ただ笑われるという関係性が出来ていたように思うのです。それはとても異常な状態でしたが、当時は、何が何だかよくわかりませんでした。私の周囲の人は、私のよく分かっていないことを、あたかも当然かのように、分かっていない私が悪いかのように言っててきたわけですけど、相手にする必要はなかったわけです。言い返すには相手の主張を理解する必要がありますが、そもそも、勝手に相手が思っていることがほとんど理解できませんでしたので言い返すことはできず、かと言って、勝手に相手が一方的に思っている勝手な主張でしたので、取り合う必要はあまりなかったわけです。色々言われましたけど、何を言われたかというと大したことではなく「結婚してない」だとか「彼女がいない」だとか、そんなことばかりで、結局、最後に言いたいのは「(私は)ダメなやつだ」と言うところに帰着していましたから、おそらくは、親戚や父および兄は自己肯定感が低いために誰か私のように言いやすい相手に対して不満をぶつけて優越感・自己肯定感を高めていたのかな、という気も致します。本人にそういう歪んだ理由があるからと言って他人を理由もなく誹謗中傷して嘲笑して良いことにはなりませんけど。私は言いやすい相手だったのかなと思うのです。私を中傷して見下してきた理由はというと大体は「結婚」でしかなくて、それしか理由にならないくらいつまらない親戚たちの相手を長々としてきたわけですけど、一応は愛情もありましたから、愛情と虐め、愛情とS、とが若い頃に結びついて、特に若い頃は、歪んだ愛情しか愛情として感じられなくなってしまったのです。精神が崩壊して以降はハートの愛がよくわからない状態になって、ハートの愛で誰かを愛することが長らくできなかったのです。
そうして、いつしか、私に近づいてくる女性を警戒するようになってしまったのですが、それはというと、私に対する好意があって本当に私を好きになってくれているのか、あるいは、私をカモと思って操る対象と思って近づいているだけなのか見分けが付かず、よくわからないので、警戒して距離を置いてしまう、という防御反応だったように思うのです。前者であれば良い子なのですが後者であればヒステリーなS女のいわゆる清楚系ビッチですから、それを警戒して「女が怖い」時期が長らくあったように思うのです。良い女性と清楚系ビッチとの見分けが長らくつかなかったのです。
私はというと気になる女性がいたとしてもまず警戒して入りますから必要以上にいきなりは近付かなくて、そのような煮え切らない態度に対して女性の方はというと時にイライラしたりもするのですけど、そのようにイライラした女性の態度を見ると警戒センサーが反応して少し離れるのですけど、そうすると女性の方は更に機嫌を損ねていつも怒ったようになって、それは私の解釈としては「怖い女の子」と思っていたわけですけど、それは実のところ誰にでも恋をしたら芽生える苛つきの感情だったわけで、そのことに当時は理解が及ばなかったわけです。警戒するとイラつかれて更に警戒して距離を取ると更に不機嫌になる、というループにより、仲がなかなか深まらない、いつしか避けるようになる、という状況が多かったように思います。一方、一見すると優しそうに接してくる清楚系ビッチは私を利用したり手駒にしようとしたり、はたまた、空気のような存在で何も意識していなかったりするわけですけど、そのように、見た目は優しい清楚系ビッチにばかり惹かれてスルーされたり嫌がられたり手痛い仕打ちも時には受けたように思います。当時の私は、本来は、そのように、私のことを好いていてくれてちょっと苛ついていることもある女性の方をどちらかといえば大切にすべきだったわけですけど、清楚系ビッチの方が良い子のような気がしていました。人を見る目がなかったわけですね。更に、本当に本当に最高に良い子は苛つきもしなくてただ悲しむわけですけど、そう言った子は稀ですがいたように思いますが、そういう子に対しても警戒した視線だけで気にしたまま何事もなく終わっていたことも多々ありました。
これはおそらく、異性の親にDVを受けて育った子はこう言う傾向がある場合もあるように思うのです。私は中学の頃までは母親に叩かれて育ちましたから女性に対して愛着と警戒心の両方があるのです。思えば、逆の立場もあったように思えて、例のT大生の子が私を警戒して横目でチラッ、チラッと見て様子を伺いつつ、本心を出すべきか、煮え切らない態度で、どのような態度をすべきか悩んでいたのは、ひょっとしたら、あの子も少なからず心の傷があったのかもしれないのです。今から思えば仕草の各所にそのような心の闇を見て取れるわけです。T大とかに入るには相当に勉強が必要で、もしかしたらずっと勉強していたのかもしれないですし、多分に両親からの強制があるとも聞きますし、T大といえば華やかそうに見えて実は心の闇を抱えている人がいてもおかしくはないようにも思います。年次を重ねて卒業とかすればそう言うのは概ね解消されるのでしょうけど、特に大学1年生では心の闇が残っていても不思議ではない、と今なら思うわけです。当時は、その辺りもよくわかっていませんでした。とは言いましても、これは瞑想中やフラッシュバックで再体験したことに基づく理解ですので、本人に確認すれば全く違ったことだったかもしれませんけど、もはや確かめようがないことであります。
ちなみに、私の親戚は私が上京して以降、私のように言いやすい相手が身近にいなくなったことで新たに身近な人を中傷し始めたようで、例えばとある親戚のおじさんは、こともあろうか嫁さんを馬鹿にし始めて、嫁さんは小馬鹿にされ続けたら「ムスッ」とし始めて、夫婦仲が険悪になったそうです。やがて、自営業も辞め、以前は羽ぶりが良かったですけど今は年金らしになって萎縮した生活を送っていたようですが、その後、周囲の人に当たり散らすようになって、精神がおかしくなった扱いを周囲からされています。はたまた、別の親戚のおじさんも当時は私を小馬鹿にしていましたけど今は反省したのか小さくなって萎縮しています。他にも、散々私を結婚とか仕事とかで馬鹿にしてドヤ顔をしていた人は今は離婚してIT仕事をやめて配達とか掃除のアルバイトをしているようで、あれだけ私に色々と上から目線で言ってきていたのは一体なんだったのだろう、と思うのです。私のことを思ってというよりは、単に自己肯定感を高めたかったのが大部分だったのではないかと思うのです。
あのようなくだらない親戚と付き合うのは本当に時間の無駄だったように思うことも最近は多くて、そういう点においては最低限の付き合いにしておいた方が良かったと今なら思いますが、そうは言いましても、当時は居場所がなくて、見下されたとしてもある程度の居場所を求めていました。そのように、愛情と誹謗中傷が私の中で幼い頃から繋がってしまっていたのです。
こうして見ますと、他人に対して見下したりドヤ顔をするのは、例え相手が子供であろうとも、しない方が良いと思うのです。子供は一気に成長して大きく変貌する可能性がありますし、そもそも、そのような態度は品がありません。子供に対して見下すと私がされたようにその後に何十年にも渡って子供に対して悪影響を及ぼしますし、可能性を阻害します。それよりも、可能性を認めてあげた方が良いと思うのです。歳を取ってからも可能性があるのですから、子供の可能性は無限大なわけです。
そのような環境にいると、私にも、その種の行動の「癖」が少しずつ移ってしまい、つい癖が出て他人を小馬鹿にしてしまってトラブルになることが若い頃は多かったように思います。元々私にはそのように他人を嘲笑う素養はなかった筈ですけど、長らくそのような態度をされていたら、時々、つい同じようなことを自分でしてしまっていることがあって、自己嫌悪に陥りつつも、自分でどうしようもできない自分の無意識の反応に困っていました。ですので、単に私が嘲笑される、という理由だけでなく、自分の中に同じような素質が少しずつ育ってしまっていることにショックを受けて落ち込んだりしていました。その都度、つい態度に出てしまったとしても自分で自分の行動を認識し、きちんと頭で考えた上で、よくない態度を出さないようにする、という基本的なところを修正することはなかなか難しく、その後、数十年にわたって苦労しました。これはおそらく今でも完全には直すことができていなくて、今後の課題になっている感じではあります。親戚や父および兄は他人の不幸に対して笑って喜ぶような人たちで、特に父と兄は他人の不幸は蜜の味らしくて、私が何か失敗すると目をまん丸にしてゲラゲラ大声で見下してきていましたから、ついつい私も当時は同調してしまっていて、そのような態度が私にも多少は移ってきてしまっていたように思います。いまだに、そのような、よくない態度を修正することに苦労しているという面もあるのですが、一方で、愛の形にも歪んだ影響を与えていて、特に若い頃は、この種の、私を虐げてくるSの女にばかり惹かれてしまうという歪んだ愛情を持つようになっていて、自分でそれはおかしいと気づいていましたけどなかなか好みと嗜好を直すことができなくて苦労しました。どう考えても性格の悪い女に惹かれたり、とてもいい子である筈で心では惹かれているのに虐げてくるS女以外はどこかブレーキがかかってしまって、逆に、「どうして私を虐げてくれないの」という歪んだ要求を「(Sではない)本当にいい子」に対してしてしまい、女の子を困らせてしまったこともあったように思います。若い頃にモラハラや虐めを受けると障害に渡って苦労しますし、被害というだけでなく、自分がついついそれを真似して行なってしまうこの種のよくない態度は人間関係において妨げになります。
そもそも育ちの良い人はそんな失礼な態度は全くしませんから、人の良さというのは基本的な育ちの良さに立脚しているのだと思います。勉強をすればするほど環境が変わって育ちの良い人が増えますから、勉強をすることで環境が良くなって付き合う友人も良くなって、そうなると良いパートナーにも巡り会えるわけです。良い人は概して頭の良いパートナーを選びますから、自分が良い人から選ばれるようになるには、まず、自分がよく勉強する必要があるわけです。勉強をすることでトラブルを避けることもできますし人間関係およびパートナー選びにも影響してくるわけです。頭の良さは顔に出るわけで、綺麗さというのもある程度は必要だとは思いますけど生理的に無理なほどでなければ顔はそこまで重要ではなくて、それよりも頭の良さと性格の良さが重要なわけです。ですから、頭の良い人と出会って自分がそのような人から選ばれるためにも、若い頃からしっかりと勉強をすることが大切なわけです。一方、一旦、よくない人間関係を作ってしまって問題を抱えてしまうと大人になってからこの種の基本的なところを治すのはなかなか難しいと思います。
今は、この2つの相反した感情が同時に出てきて少し困っています。昔の癖の感情で多少ながら嘲笑の気持ちも出てきてしまって自分でもその感情をどうにかしたいと思う一方で、特に最近は愛と慈悲の気持ちも出てきて涙が出てくるような感覚・感情になることも多くなってきていて、どうせなら片方だけの感情であればわかりがいいのですけど、悲しみが出て同情する一方で昔の癖の嘲笑のような気持ちも少し今だに出てきてしまって、若い頃に受けた虐めの影響からまだ完全には脱しきれていないようで時に自分の感情の複雑さに困ることがあります。最近はそれでも昔の癖が問題になることが少なくなりましたので大体の場合は大丈夫なのですが、時折、昔の癖が表に出て誰かに誤解されやしないかと注意しつつ生活しています。
私の場合は一応は母が育ちが良かったので、母の育ちと性格の良さと、父と兄の育ちと性格の悪さの両方を受けて育っており、その結果、私はというとある程度は母の礼儀正しさがある一方である程度は父と兄のぶっきらぼうな失礼さも多少はあって、その両方が私に受け継がれているわけで、その状況はというと私が生まれる前に立てた計画(=グループソウルが私に設定した計画)である「下層の人間の心理を理解して、底辺の人がスピリチュアルで成長する筋道を見つける」という目的に即していて、父や兄そして一部の親戚のような底辺の人間が如何にひねくれていて他人に嫉妬したり見下して生きているのかの状況を踏まえた上で、一旦自分自身を同じどん底に突き落とすことでそのような底辺の心理を理解し、その状況から精神を高揚させて元の状態にまで戻る、ということを今回の人生では意図していて、今の状態で、ほぼそれは達成されたと言えます。本当かどうかはわかりませんけど、私という分霊が分かれる前のグループソウル的な存在の意図としては、「人々が悩んでいてスピリチュアルな成長を望んでいるが、その筋道が見えない」と思っていて、と言いますのも、そもそも、たとえ誰かがスピリチュアルな成長を望んでいたとしても精神が底辺のままだと苦しいままで、誰かに助けを求めても、その答えを持っている人があまりいなかったわけです。そこで、私という分霊が分かれて作られて、自分自身を一旦どん底に落とすことで底辺の心理を理解し、そこから這い上がる筋道を見出したのでした。今回の、愛を知る、という理解もその筋道に沿ったもので、愛を知らない人生の場合は数々の理解違いをしてしまう、ということをよく学ぶことができたと思います。私の場合はこのように最初から設定した目的がありましたけど、普通の場合はこのような回りくどいことは不要で、普通に最初から愛を知れば良いと思います。
おそらく、私は基本的に脇が甘かったのかなと思います。脇が甘かったが故に、他人の勝手な意見を受け入れてしまい、混乱してしまったように思うのです。不道徳な人の意見に対しても私は受け入れの姿勢を作っていましたけど、不道徳な人の意見を受け入れるべきではなかったわけです。長く悩んできましたけど、結局、ひねくれた人とは距離をおくべき、という、ごく簡単なお話を理解したわけです。ハートの愛を知るというのは道徳的で徳があって礼儀のあるところでのみ可能なことであって、底辺の人はそれなりの性的な情愛に生きていてそれはそれで十分に幸せなわけですから、お互い、関わらずに自分の幸せを生きれば良いわけです。これらは比べるものでものでもなくて、分相応というものですから、自分に正直に、自分が一番心地の良い愛の形を取ればそれが幸せなわけで、他人をとやかくいう必要はないわけです。
単にハートの愛を知るということだけではなく、人には理解の違いがあって、段階に応じてそれぞれ違った形の愛があって、それぞれの幸せがある、ということがよく理解できたように思います。
どうも、私は多くの人を好きになって(体の関係はさておき、普通に会話や趣味とかで)多くの女の子と仲良くなってきたような気がしていたのですけど、実のところ、恋に落ちるということは数えるくらいしかなかったわけで、ようやく愛と恋とを知って、今更ながら、違う世界に生まれ出たような気分であります。
今になって思うのが、世の中にはハートの愛をそこまで知らない人が大勢いて、それでも(マニプラの)情愛は割と知っていたりする状況なわけです。そのように、ハートの愛を知っている人が少数派の状況で相手に(上位である)ハートの愛を求めてもなかなか難しいため、考える必要があると思うのです。相手がハートの愛を知らない場合、特に若い時は「あぁ、私に脈がないんだな」と思って撤退しがちだった気が致しますけど、それはなかなか厳しい要求だったわけです。そもそも自分の方がハートの愛をそこまで知らなかったりするのに、相手にはハートの愛を求めるわけで、それは分不相応というものだったかと思います。
人によっては恋愛に「ときめき」を求めますけど、実のところ、自分のハートが開いていれば割と誰でもお相手はいると思うのです。ときめきを求めている人というのは普段はハートが開いていないと言っているに近くて、ハートが開いている人が「ときめき」とか、それほど言わないように思うのです。特別のときめきを特定の人に感じるということはもちろんあるでしょうけど、わざわざ「ときめき」とか言うまでもなく普段からそれなりにハートが開いている人が一定数いるわけです。そのようにハートが開いている人は恋愛市場で早く売れて、売れ残りはハートがそれほど開いていない人が多くなりますから、年を重ねてから「ときめき」がどうのこうの、とか言い出す人が結婚できていないのもある程度は当然のことのように思うのです。そんな「ときめき」よりも、もし誰かに言い寄られたら、それだけで感謝するので十分だと思うのです。お相手に「ときめかないから、お断りする」なんて、そもそもハートが普段開いていないような段階の人にわざわざアプローチしてくれた人に失礼だと思うのです。もちろん誠実さと言うものは根底になくては話になりませんけど、誠実な人から言い寄られたら、その時点でときめかなくてもOKを出して良いと思うのです。一方、普段からハートがそれなりに開いている人は(容姿がそこそこであれば)相手をいくらでもその気にさせて十分にモテるでしょうからこんな心配は不要だと思います。パートナーには、ハートが普段から開いている人を選ぶのが良いわけです。日本にはいくらでもそのような素晴らしい女性がいます。パートナーを選ぶ時、自分が恋をするかどうか、と言うよりも、相手が誠実かどうかを基本にして、もし自分が恋に落ちることができたらラッキー、もし相手のハートが開いているのならば更に良い、くらいに考えても良い気が致します。そのあたりは相手とのバランスですね。自分もそれに見合った段階にいないと相手に迷惑をかけてしまいます。
身の程をわきまえて、分相応に考えることが必要なわけです。世間を見ると、私のように、ハートの愛あるいは情愛を相手に求めている人は恋愛に悩んでいることが多くてそもそも結婚できなかったり結婚生活に不満で離婚したりする一方で、特に恋をするというほどでもなく「良い人」とくっついて結ばれるというパターンも意外に多くてそれなりに幸せなように思うのです。世間からしたら、そんなもの、なのかもしれないですけど、おそらく、恋愛がうまくいかない人は、相手に高望みして例えばハートの愛などを求めているのかなと思うのです。相手の態度に前提条件をつけてしまっているわけです。それ故に自分からなかなかアプローチしなかったり、相手がアプローチしてきた時に高いハードルを設けて拒否してしまっていたりするわけです。はたまた、結婚生活の相手の態度にハードルを勝手に設けたりしてしまっているわけです。そこまでハードルを上げずに、自分がその人を好きならばアタックするというのを基本にして良いと思いますし、片方が愛しているならそれで十分のように思うのです。当然といえば当然と思われるかもしれないですけど、無意識のうちに、相手に求める前提条件「相手が自分を(ある程度)好き」というものを高くハードル設定してしまいがちですが、そのハードルは低くするか、いっそのこと思い切って取り外してしまっても良いと思うのです。その代わりに、「相手にモラルと常識があるかどうか」を判断するのが良いようにも思います。こういうのは、最低限、片方がハートでパートナーを愛していれば関係はうまくいくと思うのです。ハートの愛を知らない人にハートの愛を求めてもなかなか難しいため、最低限、モラルと常識を求めれば良いと思うのです。そして、付き合ううちに、モラルのある人であれば、多少の情と愛が目覚めてきて、それで十分に幸せになれると思うのです。
一方、情愛すら知らない相手をハートで愛してしまうと延々と搾取され続けますし、パートナーが情愛を知っていたとしても他の目的の方を向いているのならば貴方が報われることはなく、ハートの愛を知っている貴方は「与える一方」になりがちですから搾取されているという感覚もなく延々とお金を吸い取られ続けるパターンにハマりますから注意が必要です。そのように常識やモラルがない相手をハートで好きになってしまうと自分が「貢ぐ女、あるいは、あからさまなATM男」になって搾取されてしまうパターンに陥ることもあるかと思います。これが情愛でのレベルで起こると途中で気がついて怒ったり離れたりしますけどハートで愛してしまうと厄介で、身も心もボロボロになるまで搾取されることになります。良い人(ハートの愛を知っている人)ほど悪い男・悪い女に騙されるパターンもここ。ハートで愛した後に、割とハートのまま無意識でアプローチしてしまいがちですけど、相手に常識とモラルがあるか、少なくとも情愛を相手が持っているかどうかを確かめて、情愛を持っていたとしてもその情愛が自分の方に本当に向いているかどうかを接近する前にしっかりと確かめて考えることが重要かなと思います。私の母は割と裕福な家の出でしたけど、父の家は街で一番の貧乏の家で、父は明らかに母の家の財産狙いで、実際、父と父方の親戚に財産を搾取し続けられて無駄使いされ、母はいつも泣いていました。そのようなパターンにハマらないように気をつけるべきだと思います。昨今の、ホストにハマって借金抱えてしまうパターンもここかなと思います。私の父は、飲む・打つ・遊ぶ(買う)、を全てする上にモラハラで私を怒鳴りつけたり些細なことですぐに他人をゲラゲラ笑って見下してくるクズっぷりで、最終的に、財布に数万円しか財産を残さず銀行口座はほとんど空っぽの状態で病気で早死にしましたけど、傍目から見たら割と楽しそうにしていて貧乏神と疫病神を掛け合わせたような人でしたが、いつも父は金だ金だとは言っていて、それも母がお金の面で支えて泣きながら苦労していたわけで、よくもまあ、あんな底辺のクズ男と50年近くも母は結婚を続けていたと思います。間違ったパートナーを愛してしまうと苦労して人生を棒に振るわけです。(特に昔の昭和の)女性は強すぎるので支えてしまうのかなと思います。この母に似たのかわかりませんけど、私も時々、どうしようもないクズ女にそれと気付かず好意を寄せてしまうことがあり、例えば托卵されそうになったり、危ないことがありました。
田舎で私を蔑んでいたのと同種の人間も世の中にぼちぼちいて、上京後、特に私のことを知るわけでもなく初見だったり大した知り合いでもないのに私の顔を見るやいなや「あっ、こいつ! 見つけたぞ! やったぜ! 都合の良いカモ発見!」と言う表情をしてすぐにゲラゲラ笑って見下すような態度を取ってくる人がそれなりにいて、同種の人間はそこら中にいるのだなと思いました。それでも、流石に、大学卒業して働き出す頃までには「これはおかしい」と気付き始めて少しずつ抵抗を始めるのですけど、抵抗をすると今度は逆に、抵抗している私が悪いかの如く言い出す親戚などがいて、私が親戚から笑われて不機嫌にしていると、ニヤニヤと見下し笑いをしながら「お前は四面楚歌だ。周りを見てみろ。お前の態度は何だ。お前は敵だらけだ」(これは本当にそう言われたことです)とか小馬鹿にしてくるのですけど、どう考えても私は何もしていなくて、私はかつて周囲の親戚や父そして兄の誹謗中傷のゲラゲラ笑いを以前は大人しく受け入れていたわけですけど、それに抵抗して不機嫌な態度を取るだけで私が悪いかのように堂々と言ってくるような親戚付き合いだったわけです。私が大人しく笑われていた昔の状況に戻って猫か犬のようにバカのような振る舞いをしていろ、とでもいうのでしょうか。昔のように大人しくしていないから、という理由で親戚は見下して接してくるわけです。大学に入って上京した頃からその関係性が少しずつ変わって、たまに実家や親戚に帰ったときにそのような理由のない誹謗中傷を甘んじて受けずに「(わずかながらでも)イラついて」少しずつでも抵抗していることに対して「お前は四面楚歌だ」とか親戚は言ってきているわけですから、どう考えても、理由のない誹謗中傷を繰り返す親戚や兄や父が悪いわけです。親戚の中では私が悪いことにさせられて、四面楚歌だと言われ、親戚や父や兄からは「お前(私)がおかしい」、という扱いをずっとされてきて、時には面と向かってそう文字通り「(お前は)おかしい」と言われてきたわけです。どう考えても、私は何もしていないのに、何故か、私をゲラゲラ笑ってくる人がそこら中にいて、そのような変な環境に長くいるとついついそれが当たり前かのように思うようになってしまい、よくわからないけど皆がそういうのならばそうなのかな、と思って思考停止して当時は受け入れてしまっていました。
そのような変なメンタルは高校卒業して住居を離れることで少しずつ回復していきますけど、それでも、しばらくは、特に父や兄、そして親戚および同様にモラハラしてくる人に対して抵抗することが不可能な状態で、おとなしく他人に従って中傷を受け入れるかの如く「にこやかに」しているしかなく、今から思えば、完全に当時は精神的に飼い慣らされていたといえます。抵抗することすらできなくて、そもそも、抵抗する気力も出ずに、ただ、(全く根拠のない)父や兄、そして親戚からの誹謗中傷と見下されることを甘んじて受けていた若い頃がありました。このような状況では本来のハートの愛もうまく感じられず、はたまた、メンタルが崩壊しているので勉強もうまくできない、という状態だったと言えます。
母は、ことあるごとに私に田舎の土地を買わせようとしたり私からの仕送りが欲しいことをほのめかして出費させようと画策してきましたけどのらりくらりとかわしていましたらそのうちイライラしてきたらしく、更には鬱のようになって、私に電話をした時の母の鬱のメンヘラオーラが「ぐわっ!」と私の上に乗ってくるようになり、私は毎回の如く数日寝込むか、あるいは、学校や会社に行っても数日間は頭痛がして頭がクラクラして朦朧として意識が遠のきそうになる状態が続くようになり、学業にせよ仕事にせよ母が足を引っ張りました。とにかく、母の強力なメンヘラパワーの威力を毎回の如く思い知りました。毎回、母がネチネチとお金がないだとか土地が欲しいだとか執拗にメンヘラパワー炸裂で私を困らせたとしても、私は流石に電話の向こうですからのらりくらりとかわしていたわけですけど、そうしているうちに、更にどんどんと母の鬱とメンヘラがますます強固にエスカレートしていって、やがては面倒になって私は「うるさい! もうかけてくるな!」と言って、しばらくはメールだけのやり取りにしましたら、それはそれで田舎ではメンヘラが加速したらしいのですけど、割と自業自得であります・・・。もう、ああいう母にはつける薬がないのです。きっと私に期待しているのがいけないのでしょうから、当時はそこまで自覚はなかったのですけど、今から思えば、あえて色々と失敗したり失望させたりして母の期待を削ぐことをしていたように思います。例えば高校にしても大して勉強もしなかったですし、大学も行く気がほとんどない状態で、世間はIT革命と言われているのに大学の意味のない勉強を強制させられてバイトも親に禁止され、どうせなら大学をやめてITベンチャーにでも就職してしまった方がストックオプションも貰えて今頃大金持ちだったかもしれないと今では思うのですが、そのようなことをほのめかすものなら母から烈火の如く怒り狂ったメンヘラパワーで「一体、何を考えてるの!!!!」というブチギレと共に逆らうことのできない状態になって、本当のことを言うこともできない心理状態になって、母が回答として「何言ってるの」と呆れるであろう答えをなんとなく作り出して馬鹿っぽく「これこれがしたい」と考えなしのように振る舞うことで母の機嫌をなだめ、案の定、母からは「そんなことしてどうするの!」と想定通り呆れられて「母の言うとおりにしておきなさい」と言うことになったのですけど、そもそも、本心を打ち明けられるほど母は私に信用されていないので、本当に何がしたいのかすら母には言えない状況だったのです。本当のことを言って母から否定されたら本当に精神が崩壊して高校時代のように精神崩壊してしまうかも知れませんでしたので、母に本当のことは言えず、とりあえずの、馬鹿っぽいそこらにある回答をとりあえずしてお茶を逃がし、いつものように「ほらみろ、アホな息子は母に従っておけば良いの」と言う型通りのパターンにあえてはめることで母の機嫌をなだめたのでした。
そして、せっかくのチャンスをいくつも逃し、結局、私は悶々としてつまらない大学になんとなく通って、なんの変哲もない就職をするに至ったのでした。大学の当時はITバブルで、その頃にしては珍しかったストックオプションをもらってWeb系のバイトに就いていたこともあるのですけど、その筋でもう少し積極的になっていれば違った人生になっていたと今なら思うのです。無理解で束縛する母のおかげでチャンスを逃したのですけど、母にそんなこと説明しても昔ながらの価値観に縛られているメンヘラに何を言っても無駄ですし、私も当時はそこまではっきりと状況をわかっていたわけではありませんでしたので確信を持って決断できませんでしたので、まあ、私は私なりに分相応だったのかなと思います。せっかく、母が望むように私がお金持ちになれるチャンスを母が自らの束縛によって逃したのですから、自業自得とも言えます。その後しばらく経ってこの種のことをチラッとほのめかしたことがありますけど、どのくらい母が理解しているか不明ですけど。私と母の信頼関係なんてその程度のものですけど、一方、母の方からすると私のことをよく知っているつもりのようですが、メンヘラの束縛の母の子供への理解なんて実際はその程度だと思います。
ちなみに、今では、結局、母は私にあまりお金をもらえなかったことで幻滅しつつも半ば諦めているようで、今は症状としては並程度のメンヘラ母になっていて、以前ほどの問題にはなっておらず、割と普通の関係になっているのですが、当時はこんな感じで問題が大きかったのです。愛は基本に家族愛など身近なところが基本になっていて、家族や親戚の愛が歪んでいるとその後ずっと問題が生じるように思うのです。最近に至っても時々強度のメンヘラになっていて、もうめんどくさいので「ハイハイ」と言って電話を切っても母はそれに慣れたのかそこまで問題になることはなくなりましたけど、昔は、メンヘラに対して私が長々と付き合わないと次が大変でメンヘラが倍増していて大変だったのです。今は割と回復してきましたけど、おそらく死ぬまで治らないでしょうね。
母に限らず、私は他人から色々言われていましたけど、話は簡単で、他人が自分の思い通りに動くのが当然と思っているような人がこの世にはそれなりにいて、本人が思っているように誰かが動かないと「おかしい」と思うような種類の人なわけです。ただそれだけのお話で、そのような人の考え方の方がおかしいのです。この種類の人は自身の考えを堂々と主張してきますので、ついつい受け入れそうになってしまいますけど、そこは気をつけて、相手がこの種類の人であれば、そのようなおかしな人の意見なんてどうでも良いので、おかしな他人の意見なんてスルーすれば良かったわけです。例えば、据え膳食わぬは男の恥なんて言葉がありますけど私に好意を持ってくれている女を気付かずスルーしたとして、その子を片思いしている他人から「お前は(あの子の気持ちに答えないなんて)おかしい(俺だったら受け入れるぞ)」と言われたりしますけど、私からしたら、そんなの知ったことではないわけです。その人にとっては据え膳を食うのが当然かもしれないですけど、実のところ私は鈍感でその時そもそも気づいてもいませんでしたし、今更そう言われても「え?」と言う感じで、私はあの子には興味がなかったわけです。他にも、親戚や父および兄から、私が全く理解できないこと、実のところ、何に対して笑われていたのかすらほとんど思い出せませんけど、大した理由でもないこと、あるいは、理由も言わずに顔だけ見られてただゲラゲラずっと笑われていた結果、いつしか、親戚から(大した理由なしに)ただ笑われるという関係性が出来ていたように思うのです。それはとても異常な状態でしたが、当時は、何が何だかよくわかりませんでした。私の周囲の人は、私のよく分かっていないことを、あたかも当然かのように、分かっていない私が悪いかのように言っててきたわけですけど、相手にする必要はなかったわけです。言い返すには相手の主張を理解する必要がありますが、そもそも、勝手に相手が思っていることがほとんど理解できませんでしたので言い返すことはできず、かと言って、勝手に相手が一方的に思っている勝手な主張でしたので、取り合う必要はあまりなかったわけです。色々言われましたけど、何を言われたかというと大したことではなく「結婚してない」だとか「彼女がいない」だとか、そんなことばかりで、結局、最後に言いたいのは「(私は)ダメなやつだ」と言うところに帰着していましたから、おそらくは、親戚や父および兄は自己肯定感が低いために誰か私のように言いやすい相手に対して不満をぶつけて優越感・自己肯定感を高めていたのかな、という気も致します。本人にそういう歪んだ理由があるからと言って他人を理由もなく誹謗中傷して嘲笑して良いことにはなりませんけど。私は言いやすい相手だったのかなと思うのです。私を中傷して見下してきた理由はというと大体は「結婚」でしかなくて、それしか理由にならないくらいつまらない親戚たちの相手を長々としてきたわけですけど、一応は愛情もありましたから、愛情と虐め、愛情とS、とが若い頃に結びついて、特に若い頃は、歪んだ愛情しか愛情として感じられなくなってしまったのです。精神が崩壊して以降はハートの愛がよくわからない状態になって、ハートの愛で誰かを愛することが長らくできなかったのです。
そうして、いつしか、私に近づいてくる女性を警戒するようになってしまったのですが、それはというと、私に対する好意があって本当に私を好きになってくれているのか、あるいは、私をカモと思って操る対象と思って近づいているだけなのか見分けが付かず、よくわからないので、警戒して距離を置いてしまう、という防御反応だったように思うのです。前者であれば良い子なのですが後者であればヒステリーなS女のいわゆる清楚系ビッチですから、それを警戒して「女が怖い」時期が長らくあったように思うのです。良い女性と清楚系ビッチとの見分けが長らくつかなかったのです。
私はというと気になる女性がいたとしてもまず警戒して入りますから必要以上にいきなりは近付かなくて、そのような煮え切らない態度に対して女性の方はというと時にイライラしたりもするのですけど、そのようにイライラした女性の態度を見ると警戒センサーが反応して少し離れるのですけど、そうすると女性の方は更に機嫌を損ねていつも怒ったようになって、それは私の解釈としては「怖い女の子」と思っていたわけですけど、それは実のところ誰にでも恋をしたら芽生える苛つきの感情だったわけで、そのことに当時は理解が及ばなかったわけです。警戒するとイラつかれて更に警戒して距離を取ると更に不機嫌になる、というループにより、仲がなかなか深まらない、いつしか避けるようになる、という状況が多かったように思います。一方、一見すると優しそうに接してくる清楚系ビッチは私を利用したり手駒にしようとしたり、はたまた、空気のような存在で何も意識していなかったりするわけですけど、そのように、見た目は優しい清楚系ビッチにばかり惹かれてスルーされたり嫌がられたり手痛い仕打ちも時には受けたように思います。当時の私は、本来は、そのように、私のことを好いていてくれてちょっと苛ついていることもある女性の方をどちらかといえば大切にすべきだったわけですけど、清楚系ビッチの方が良い子のような気がしていました。人を見る目がなかったわけですね。更に、本当に本当に最高に良い子は苛つきもしなくてただ悲しむわけですけど、そう言った子は稀ですがいたように思いますが、そういう子に対しても警戒した視線だけで気にしたまま何事もなく終わっていたことも多々ありました。
これはおそらく、異性の親にDVを受けて育った子はこう言う傾向がある場合もあるように思うのです。私は中学の頃までは母親に叩かれて育ちましたから女性に対して愛着と警戒心の両方があるのです。思えば、逆の立場もあったように思えて、例のT大生の子が私を警戒して横目でチラッ、チラッと見て様子を伺いつつ、本心を出すべきか、煮え切らない態度で、どのような態度をすべきか悩んでいたのは、ひょっとしたら、あの子も少なからず心の傷があったのかもしれないのです。今から思えば仕草の各所にそのような心の闇を見て取れるわけです。T大とかに入るには相当に勉強が必要で、もしかしたらずっと勉強していたのかもしれないですし、多分に両親からの強制があるとも聞きますし、T大といえば華やかそうに見えて実は心の闇を抱えている人がいてもおかしくはないようにも思います。年次を重ねて卒業とかすればそう言うのは概ね解消されるのでしょうけど、特に大学1年生では心の闇が残っていても不思議ではない、と今なら思うわけです。当時は、その辺りもよくわかっていませんでした。とは言いましても、これは瞑想中やフラッシュバックで再体験したことに基づく理解ですので、本人に確認すれば全く違ったことだったかもしれませんけど、もはや確かめようがないことであります。
ちなみに、私の親戚は私が上京して以降、私のように言いやすい相手が身近にいなくなったことで新たに身近な人を中傷し始めたようで、例えばとある親戚のおじさんは、こともあろうか嫁さんを馬鹿にし始めて、嫁さんは小馬鹿にされ続けたら「ムスッ」とし始めて、夫婦仲が険悪になったそうです。やがて、自営業も辞め、以前は羽ぶりが良かったですけど今は年金らしになって萎縮した生活を送っていたようですが、その後、周囲の人に当たり散らすようになって、精神がおかしくなった扱いを周囲からされています。はたまた、別の親戚のおじさんも当時は私を小馬鹿にしていましたけど今は反省したのか小さくなって萎縮しています。他にも、散々私を結婚とか仕事とかで馬鹿にしてドヤ顔をしていた人は今は離婚してIT仕事をやめて配達とか掃除のアルバイトをしているようで、あれだけ私に色々と上から目線で言ってきていたのは一体なんだったのだろう、と思うのです。私のことを思ってというよりは、単に自己肯定感を高めたかったのが大部分だったのではないかと思うのです。
あのようなくだらない親戚と付き合うのは本当に時間の無駄だったように思うことも最近は多くて、そういう点においては最低限の付き合いにしておいた方が良かったと今なら思いますが、そうは言いましても、当時は居場所がなくて、見下されたとしてもある程度の居場所を求めていました。そのように、愛情と誹謗中傷が私の中で幼い頃から繋がってしまっていたのです。
こうして見ますと、他人に対して見下したりドヤ顔をするのは、例え相手が子供であろうとも、しない方が良いと思うのです。子供は一気に成長して大きく変貌する可能性がありますし、そもそも、そのような態度は品がありません。子供に対して見下すと私がされたようにその後に何十年にも渡って子供に対して悪影響を及ぼしますし、可能性を阻害します。それよりも、可能性を認めてあげた方が良いと思うのです。歳を取ってからも可能性があるのですから、子供の可能性は無限大なわけです。
そのような環境にいると、私にも、その種の行動の「癖」が少しずつ移ってしまい、つい癖が出て他人を小馬鹿にしてしまってトラブルになることが若い頃は多かったように思います。元々私にはそのように他人を嘲笑う素養はなかった筈ですけど、長らくそのような態度をされていたら、時々、つい同じようなことを自分でしてしまっていることがあって、自己嫌悪に陥りつつも、自分でどうしようもできない自分の無意識の反応に困っていました。ですので、単に私が嘲笑される、という理由だけでなく、自分の中に同じような素質が少しずつ育ってしまっていることにショックを受けて落ち込んだりしていました。その都度、つい態度に出てしまったとしても自分で自分の行動を認識し、きちんと頭で考えた上で、よくない態度を出さないようにする、という基本的なところを修正することはなかなか難しく、その後、数十年にわたって苦労しました。これはおそらく今でも完全には直すことができていなくて、今後の課題になっている感じではあります。親戚や父および兄は他人の不幸に対して笑って喜ぶような人たちで、特に父と兄は他人の不幸は蜜の味らしくて、私が何か失敗すると目をまん丸にしてゲラゲラ大声で見下してきていましたから、ついつい私も当時は同調してしまっていて、そのような態度が私にも多少は移ってきてしまっていたように思います。いまだに、そのような、よくない態度を修正することに苦労しているという面もあるのですが、一方で、愛の形にも歪んだ影響を与えていて、特に若い頃は、この種の、私を虐げてくるSの女にばかり惹かれてしまうという歪んだ愛情を持つようになっていて、自分でそれはおかしいと気づいていましたけどなかなか好みと嗜好を直すことができなくて苦労しました。どう考えても性格の悪い女に惹かれたり、とてもいい子である筈で心では惹かれているのに虐げてくるS女以外はどこかブレーキがかかってしまって、逆に、「どうして私を虐げてくれないの」という歪んだ要求を「(Sではない)本当にいい子」に対してしてしまい、女の子を困らせてしまったこともあったように思います。若い頃にモラハラや虐めを受けると障害に渡って苦労しますし、被害というだけでなく、自分がついついそれを真似して行なってしまうこの種のよくない態度は人間関係において妨げになります。
そもそも育ちの良い人はそんな失礼な態度は全くしませんから、人の良さというのは基本的な育ちの良さに立脚しているのだと思います。勉強をすればするほど環境が変わって育ちの良い人が増えますから、勉強をすることで環境が良くなって付き合う友人も良くなって、そうなると良いパートナーにも巡り会えるわけです。良い人は概して頭の良いパートナーを選びますから、自分が良い人から選ばれるようになるには、まず、自分がよく勉強する必要があるわけです。勉強をすることでトラブルを避けることもできますし人間関係およびパートナー選びにも影響してくるわけです。頭の良さは顔に出るわけで、綺麗さというのもある程度は必要だとは思いますけど生理的に無理なほどでなければ顔はそこまで重要ではなくて、それよりも頭の良さと性格の良さが重要なわけです。ですから、頭の良い人と出会って自分がそのような人から選ばれるためにも、若い頃からしっかりと勉強をすることが大切なわけです。一方、一旦、よくない人間関係を作ってしまって問題を抱えてしまうと大人になってからこの種の基本的なところを治すのはなかなか難しいと思います。
今は、この2つの相反した感情が同時に出てきて少し困っています。昔の癖の感情で多少ながら嘲笑の気持ちも出てきてしまって自分でもその感情をどうにかしたいと思う一方で、特に最近は愛と慈悲の気持ちも出てきて涙が出てくるような感覚・感情になることも多くなってきていて、どうせなら片方だけの感情であればわかりがいいのですけど、悲しみが出て同情する一方で昔の癖の嘲笑のような気持ちも少し今だに出てきてしまって、若い頃に受けた虐めの影響からまだ完全には脱しきれていないようで時に自分の感情の複雑さに困ることがあります。最近はそれでも昔の癖が問題になることが少なくなりましたので大体の場合は大丈夫なのですが、時折、昔の癖が表に出て誰かに誤解されやしないかと注意しつつ生活しています。
私の場合は一応は母が育ちが良かったので、母の育ちと性格の良さと、父と兄の育ちと性格の悪さの両方を受けて育っており、その結果、私はというとある程度は母の礼儀正しさがある一方である程度は父と兄のぶっきらぼうな失礼さも多少はあって、その両方が私に受け継がれているわけで、その状況はというと私が生まれる前に立てた計画(=グループソウルが私に設定した計画)である「下層の人間の心理を理解して、底辺の人がスピリチュアルで成長する筋道を見つける」という目的に即していて、父や兄そして一部の親戚のような底辺の人間が如何にひねくれていて他人に嫉妬したり見下して生きているのかの状況を踏まえた上で、一旦自分自身を同じどん底に突き落とすことでそのような底辺の心理を理解し、その状況から精神を高揚させて元の状態にまで戻る、ということを今回の人生では意図していて、今の状態で、ほぼそれは達成されたと言えます。本当かどうかはわかりませんけど、私という分霊が分かれる前のグループソウル的な存在の意図としては、「人々が悩んでいてスピリチュアルな成長を望んでいるが、その筋道が見えない」と思っていて、と言いますのも、そもそも、たとえ誰かがスピリチュアルな成長を望んでいたとしても精神が底辺のままだと苦しいままで、誰かに助けを求めても、その答えを持っている人があまりいなかったわけです。そこで、私という分霊が分かれて作られて、自分自身を一旦どん底に落とすことで底辺の心理を理解し、そこから這い上がる筋道を見出したのでした。今回の、愛を知る、という理解もその筋道に沿ったもので、愛を知らない人生の場合は数々の理解違いをしてしまう、ということをよく学ぶことができたと思います。私の場合はこのように最初から設定した目的がありましたけど、普通の場合はこのような回りくどいことは不要で、普通に最初から愛を知れば良いと思います。
おそらく、私は基本的に脇が甘かったのかなと思います。脇が甘かったが故に、他人の勝手な意見を受け入れてしまい、混乱してしまったように思うのです。不道徳な人の意見に対しても私は受け入れの姿勢を作っていましたけど、不道徳な人の意見を受け入れるべきではなかったわけです。長く悩んできましたけど、結局、ひねくれた人とは距離をおくべき、という、ごく簡単なお話を理解したわけです。ハートの愛を知るというのは道徳的で徳があって礼儀のあるところでのみ可能なことであって、底辺の人はそれなりの性的な情愛に生きていてそれはそれで十分に幸せなわけですから、お互い、関わらずに自分の幸せを生きれば良いわけです。これらは比べるものでものでもなくて、分相応というものですから、自分に正直に、自分が一番心地の良い愛の形を取ればそれが幸せなわけで、他人をとやかくいう必要はないわけです。
単にハートの愛を知るということだけではなく、人には理解の違いがあって、段階に応じてそれぞれ違った形の愛があって、それぞれの幸せがある、ということがよく理解できたように思います。
どうも、私は多くの人を好きになって(体の関係はさておき、普通に会話や趣味とかで)多くの女の子と仲良くなってきたような気がしていたのですけど、実のところ、恋に落ちるということは数えるくらいしかなかったわけで、ようやく愛と恋とを知って、今更ながら、違う世界に生まれ出たような気分であります。
今になって思うのが、世の中にはハートの愛をそこまで知らない人が大勢いて、それでも(マニプラの)情愛は割と知っていたりする状況なわけです。そのように、ハートの愛を知っている人が少数派の状況で相手に(上位である)ハートの愛を求めてもなかなか難しいため、考える必要があると思うのです。相手がハートの愛を知らない場合、特に若い時は「あぁ、私に脈がないんだな」と思って撤退しがちだった気が致しますけど、それはなかなか厳しい要求だったわけです。そもそも自分の方がハートの愛をそこまで知らなかったりするのに、相手にはハートの愛を求めるわけで、それは分不相応というものだったかと思います。
人によっては恋愛に「ときめき」を求めますけど、実のところ、自分のハートが開いていれば割と誰でもお相手はいると思うのです。ときめきを求めている人というのは普段はハートが開いていないと言っているに近くて、ハートが開いている人が「ときめき」とか、それほど言わないように思うのです。特別のときめきを特定の人に感じるということはもちろんあるでしょうけど、わざわざ「ときめき」とか言うまでもなく普段からそれなりにハートが開いている人が一定数いるわけです。そのようにハートが開いている人は恋愛市場で早く売れて、売れ残りはハートがそれほど開いていない人が多くなりますから、年を重ねてから「ときめき」がどうのこうの、とか言い出す人が結婚できていないのもある程度は当然のことのように思うのです。そんな「ときめき」よりも、もし誰かに言い寄られたら、それだけで感謝するので十分だと思うのです。お相手に「ときめかないから、お断りする」なんて、そもそもハートが普段開いていないような段階の人にわざわざアプローチしてくれた人に失礼だと思うのです。もちろん誠実さと言うものは根底になくては話になりませんけど、誠実な人から言い寄られたら、その時点でときめかなくてもOKを出して良いと思うのです。一方、普段からハートがそれなりに開いている人は(容姿がそこそこであれば)相手をいくらでもその気にさせて十分にモテるでしょうからこんな心配は不要だと思います。パートナーには、ハートが普段から開いている人を選ぶのが良いわけです。日本にはいくらでもそのような素晴らしい女性がいます。パートナーを選ぶ時、自分が恋をするかどうか、と言うよりも、相手が誠実かどうかを基本にして、もし自分が恋に落ちることができたらラッキー、もし相手のハートが開いているのならば更に良い、くらいに考えても良い気が致します。そのあたりは相手とのバランスですね。自分もそれに見合った段階にいないと相手に迷惑をかけてしまいます。
身の程をわきまえて、分相応に考えることが必要なわけです。世間を見ると、私のように、ハートの愛あるいは情愛を相手に求めている人は恋愛に悩んでいることが多くてそもそも結婚できなかったり結婚生活に不満で離婚したりする一方で、特に恋をするというほどでもなく「良い人」とくっついて結ばれるというパターンも意外に多くてそれなりに幸せなように思うのです。世間からしたら、そんなもの、なのかもしれないですけど、おそらく、恋愛がうまくいかない人は、相手に高望みして例えばハートの愛などを求めているのかなと思うのです。相手の態度に前提条件をつけてしまっているわけです。それ故に自分からなかなかアプローチしなかったり、相手がアプローチしてきた時に高いハードルを設けて拒否してしまっていたりするわけです。はたまた、結婚生活の相手の態度にハードルを勝手に設けたりしてしまっているわけです。そこまでハードルを上げずに、自分がその人を好きならばアタックするというのを基本にして良いと思いますし、片方が愛しているならそれで十分のように思うのです。当然といえば当然と思われるかもしれないですけど、無意識のうちに、相手に求める前提条件「相手が自分を(ある程度)好き」というものを高くハードル設定してしまいがちですが、そのハードルは低くするか、いっそのこと思い切って取り外してしまっても良いと思うのです。その代わりに、「相手にモラルと常識があるかどうか」を判断するのが良いようにも思います。こういうのは、最低限、片方がハートでパートナーを愛していれば関係はうまくいくと思うのです。ハートの愛を知らない人にハートの愛を求めてもなかなか難しいため、最低限、モラルと常識を求めれば良いと思うのです。そして、付き合ううちに、モラルのある人であれば、多少の情と愛が目覚めてきて、それで十分に幸せになれると思うのです。
一方、情愛すら知らない相手をハートで愛してしまうと延々と搾取され続けますし、パートナーが情愛を知っていたとしても他の目的の方を向いているのならば貴方が報われることはなく、ハートの愛を知っている貴方は「与える一方」になりがちですから搾取されているという感覚もなく延々とお金を吸い取られ続けるパターンにハマりますから注意が必要です。そのように常識やモラルがない相手をハートで好きになってしまうと自分が「貢ぐ女、あるいは、あからさまなATM男」になって搾取されてしまうパターンに陥ることもあるかと思います。これが情愛でのレベルで起こると途中で気がついて怒ったり離れたりしますけどハートで愛してしまうと厄介で、身も心もボロボロになるまで搾取されることになります。良い人(ハートの愛を知っている人)ほど悪い男・悪い女に騙されるパターンもここ。ハートで愛した後に、割とハートのまま無意識でアプローチしてしまいがちですけど、相手に常識とモラルがあるか、少なくとも情愛を相手が持っているかどうかを確かめて、情愛を持っていたとしてもその情愛が自分の方に本当に向いているかどうかを接近する前にしっかりと確かめて考えることが重要かなと思います。私の母は割と裕福な家の出でしたけど、父の家は街で一番の貧乏の家で、父は明らかに母の家の財産狙いで、実際、父と父方の親戚に財産を搾取し続けられて無駄使いされ、母はいつも泣いていました。そのようなパターンにハマらないように気をつけるべきだと思います。昨今の、ホストにハマって借金抱えてしまうパターンもここかなと思います。私の父は、飲む・打つ・遊ぶ(買う)、を全てする上にモラハラで私を怒鳴りつけたり些細なことですぐに他人をゲラゲラ笑って見下してくるクズっぷりで、最終的に、財布に数万円しか財産を残さず銀行口座はほとんど空っぽの状態で病気で早死にしましたけど、傍目から見たら割と楽しそうにしていて貧乏神と疫病神を掛け合わせたような人でしたが、いつも父は金だ金だとは言っていて、それも母がお金の面で支えて泣きながら苦労していたわけで、よくもまあ、あんな底辺のクズ男と50年近くも母は結婚を続けていたと思います。間違ったパートナーを愛してしまうと苦労して人生を棒に振るわけです。(特に昔の昭和の)女性は強すぎるので支えてしまうのかなと思います。この母に似たのかわかりませんけど、私も時々、どうしようもないクズ女にそれと気付かず好意を寄せてしまうことがあり、例えば托卵されそうになったり、危ないことがありました。
人生の目的「底辺を理解する」とその成就
底辺の階層の人は集中というものを知りませんから、集中する人、集中している人、集中しようとする人を馬鹿にする傾向があるのです。ましてや、集中している人の後ろから近づいて頭をバンバン叩きながらゲラゲラ笑う人さえもいます。そして、何か言われたらキレて怒鳴りつけたり暴力を振るったりネチネチと虐めたりします。
今まで、どうしてこんな酷い家族と周囲の人たちの元に生まれたのだろうかと思っていたのですけど、幽体離脱でタイムラインを見た時に判明したのは、どうやらこれ以前に検討した当初の計画のタイムラインでは東京で育ってぼちぼちの大学に行く選択肢もあったようなのですがそのタイムラインではエゴが拡大してしまい、自尊心がどうしようもないほど膨らんでしまったがために、今回、最終的に選んだタイムラインではエゴの拡大を妨げるような環境を設定したようでした。そのことにより自己肯定感も下がってしまいましたけど、エゴの拡大を防ぐ方を優先したのでした。ですから、実際のところ、いつも父に小馬鹿にされて見下されて笑われてはいましたけど想定通りで、そんな父は中卒で学もなければ品もなく、それでもバブル景気で人並みに稼いでいたようですけど母の実家からの援助でなんとかしていた状況で、一方、兄にもいつもゲラゲラ見下されていましたけどそんな兄もこれまた頭が良くなくせいぜい専門学校に行った後に若い頃はゲームとかを作っていたようですけど正社員というわけではなく短期で働いていたりして、やがてスキルも人間関係も足りずに今はIT業界からは離れてITとは無縁の職になって配達とか掃除とか派遣やバイトの職で食い繋いでいます。この兄は、当初の計画ではいなくて一人っ子だったのですけど、タイムラインを検討しているときに「IT系の技術を身につけたいけど、なかなか難しいなあ」と思っていたら、どこからやってきたのか知りませんけどふと目の前に兄の魂が現れて「俺が兄弟になって教えてやろうか」というものだから、当初「ん? 誰これ? どこから現れたの? 何者?」と訝しげに思ったのですけど、他に心当たりもなかったのでお願いしたら、目的のIT系のことは教えてもらったのですけど、いかんせん性格が微妙で頭があまり良くなくてトラブルになったりしたのですけど、それでも、若い頃は一応のITスキルを教えてもらえましたから、まぁ、これはこれで良かったかなと思っています。今はもうその当初の目的は達成したので、もう、兄とは常識的な付き合いだけの関係だけが残っていますね。はたまた、特定の親戚にいつも見下されてゲラゲラ笑われていたのですけどそんな親戚は高卒で自営業で、自営業も技術で生きているわけですから立派だとは思いますけど学としてはやっぱり高卒で、考えが浅くて、私を見下して嘲笑する理由は何かというと「結婚していない」だとか「彼女がいない」だとか、今から思えば「だから何?」と思えるような、とてつもなくくだらない理由で嘲笑されていたわけですけど、それでも、当時は、大勢の人から同じようなことを言われて、まるで私が悪くて私に問題があって私がおかしいかのように思い込まされていたのでした。どう考えても、私がゲラゲラ笑われる筋合いのない人たちに執拗に見下されてバカにされて自尊心を失わされていたのですが、後で分かったのは、それも全て、実は私が高次であらかじめ環境を設定していて、あの人たちは私の目的に即して使われていたという面もあり、私の自尊心とエゴが拡大して制御不能などうしようもない人にならないように、あらかじめ押さえ込んでいてくれたのです。表面上はとてつもなく酷い父と兄と一部の親戚でしたけど、それすらも、私の助けになっていたのです。それらの、割とどうしようもない人たちは例外なく今は威勢を失って小さくなっていますので、結局は、つまらない人たちだったのだなと思います。そのように、頭が悪くて世間知らずな人だけが他人を簡単に見下したりゲラゲラ笑ったりできるのだと思います。東京に出てきてから多くの人と付き合って思ったのは、育ちの良い人は他人を尊重していて馬鹿にしたりしませんし、他の人の話をしっかりと聞いて多様な立場を理解しますし、振る舞いが立派ですから、育ちの良い人は根本的に態度が違うのです。おそらく、私は何から何まで世間知らずでしたから、今までの人生で底辺から上流まで満遍なく知ることで、この世の姿を知ることができた点においては有用だったと思います。
この辺り、少し前にも書きましたけど、(もちろん確証はないのですが)私の属するグループソウル(の分霊)には霊的指導者が多くて、相談にやってくる人の、特に低級な低俗な人たちと接するときの悩みが理解できず、回答に困るということが多かったようです。どうして、人々はそんなに悩んでいるのかを理解できなかったわけです。そこで、グループソウルはその謎を解くために分霊をどん底の環境に叩き落として、自ら(分霊が)どん底を経験することで底辺を理解し、そこからスピリチュアルの階梯を一つづつ登ることで悩んでいる人たちがどのように成長したら良いのか道筋を立てる、ということを意図していたのでした。そして、そのために作られた分霊がまさに私だったわけで、これはかなり難しい、成功率の悪い、分の悪いミッションだったわけですが、ミッションを失敗していたら私はもしかしたらグループソウルから見捨てられるか、あるいは、悪くすれば私の分霊は消滅、という結果もあり得ました。今のところミッションは成功していてその心配はないわけですけど、ですので、これらのくだらない人たちとの繋がりも自らがメンタルを壊したことも全て計画通りだったわけで、今となってはもはや、その経験は二度としたくはありませんけど、そのような底辺を知る経験も、人生において良い知識と理解として蓄積できたわけです。
今まで、どうしてこんな酷い家族と周囲の人たちの元に生まれたのだろうかと思っていたのですけど、幽体離脱でタイムラインを見た時に判明したのは、どうやらこれ以前に検討した当初の計画のタイムラインでは東京で育ってぼちぼちの大学に行く選択肢もあったようなのですがそのタイムラインではエゴが拡大してしまい、自尊心がどうしようもないほど膨らんでしまったがために、今回、最終的に選んだタイムラインではエゴの拡大を妨げるような環境を設定したようでした。そのことにより自己肯定感も下がってしまいましたけど、エゴの拡大を防ぐ方を優先したのでした。ですから、実際のところ、いつも父に小馬鹿にされて見下されて笑われてはいましたけど想定通りで、そんな父は中卒で学もなければ品もなく、それでもバブル景気で人並みに稼いでいたようですけど母の実家からの援助でなんとかしていた状況で、一方、兄にもいつもゲラゲラ見下されていましたけどそんな兄もこれまた頭が良くなくせいぜい専門学校に行った後に若い頃はゲームとかを作っていたようですけど正社員というわけではなく短期で働いていたりして、やがてスキルも人間関係も足りずに今はIT業界からは離れてITとは無縁の職になって配達とか掃除とか派遣やバイトの職で食い繋いでいます。この兄は、当初の計画ではいなくて一人っ子だったのですけど、タイムラインを検討しているときに「IT系の技術を身につけたいけど、なかなか難しいなあ」と思っていたら、どこからやってきたのか知りませんけどふと目の前に兄の魂が現れて「俺が兄弟になって教えてやろうか」というものだから、当初「ん? 誰これ? どこから現れたの? 何者?」と訝しげに思ったのですけど、他に心当たりもなかったのでお願いしたら、目的のIT系のことは教えてもらったのですけど、いかんせん性格が微妙で頭があまり良くなくてトラブルになったりしたのですけど、それでも、若い頃は一応のITスキルを教えてもらえましたから、まぁ、これはこれで良かったかなと思っています。今はもうその当初の目的は達成したので、もう、兄とは常識的な付き合いだけの関係だけが残っていますね。はたまた、特定の親戚にいつも見下されてゲラゲラ笑われていたのですけどそんな親戚は高卒で自営業で、自営業も技術で生きているわけですから立派だとは思いますけど学としてはやっぱり高卒で、考えが浅くて、私を見下して嘲笑する理由は何かというと「結婚していない」だとか「彼女がいない」だとか、今から思えば「だから何?」と思えるような、とてつもなくくだらない理由で嘲笑されていたわけですけど、それでも、当時は、大勢の人から同じようなことを言われて、まるで私が悪くて私に問題があって私がおかしいかのように思い込まされていたのでした。どう考えても、私がゲラゲラ笑われる筋合いのない人たちに執拗に見下されてバカにされて自尊心を失わされていたのですが、後で分かったのは、それも全て、実は私が高次であらかじめ環境を設定していて、あの人たちは私の目的に即して使われていたという面もあり、私の自尊心とエゴが拡大して制御不能などうしようもない人にならないように、あらかじめ押さえ込んでいてくれたのです。表面上はとてつもなく酷い父と兄と一部の親戚でしたけど、それすらも、私の助けになっていたのです。それらの、割とどうしようもない人たちは例外なく今は威勢を失って小さくなっていますので、結局は、つまらない人たちだったのだなと思います。そのように、頭が悪くて世間知らずな人だけが他人を簡単に見下したりゲラゲラ笑ったりできるのだと思います。東京に出てきてから多くの人と付き合って思ったのは、育ちの良い人は他人を尊重していて馬鹿にしたりしませんし、他の人の話をしっかりと聞いて多様な立場を理解しますし、振る舞いが立派ですから、育ちの良い人は根本的に態度が違うのです。おそらく、私は何から何まで世間知らずでしたから、今までの人生で底辺から上流まで満遍なく知ることで、この世の姿を知ることができた点においては有用だったと思います。
この辺り、少し前にも書きましたけど、(もちろん確証はないのですが)私の属するグループソウル(の分霊)には霊的指導者が多くて、相談にやってくる人の、特に低級な低俗な人たちと接するときの悩みが理解できず、回答に困るということが多かったようです。どうして、人々はそんなに悩んでいるのかを理解できなかったわけです。そこで、グループソウルはその謎を解くために分霊をどん底の環境に叩き落として、自ら(分霊が)どん底を経験することで底辺を理解し、そこからスピリチュアルの階梯を一つづつ登ることで悩んでいる人たちがどのように成長したら良いのか道筋を立てる、ということを意図していたのでした。そして、そのために作られた分霊がまさに私だったわけで、これはかなり難しい、成功率の悪い、分の悪いミッションだったわけですが、ミッションを失敗していたら私はもしかしたらグループソウルから見捨てられるか、あるいは、悪くすれば私の分霊は消滅、という結果もあり得ました。今のところミッションは成功していてその心配はないわけですけど、ですので、これらのくだらない人たちとの繋がりも自らがメンタルを壊したことも全て計画通りだったわけで、今となってはもはや、その経験は二度としたくはありませんけど、そのような底辺を知る経験も、人生において良い知識と理解として蓄積できたわけです。
愛を知る前段階としての自己肯定感
今思うのが、愛を知る前段階として自己肯定感があって、少なくとも自己肯定感があれば一応の恋愛はできるように思うのです。その自己肯定感は仮初のものかもしれませんし物理的あるいは幻想かもしれませんけど、少なくとも自己肯定感があれば誰かと恋愛することは一応は可能なわけです。思えば、父や兄、そして一部の親戚は自己肯定感を高めるために私を執拗にネチネチと口で虐げて私がおかしくて自身が正しいかのように(大した根拠もなく)自己暗示を繰り返していたのではないかと思うのです。そのような仮初めの自己暗示にであっても恋愛はできると思うのですが、正しい愛、少なくとも情愛がなければ恋愛は長続きしないと思うのです。自己肯定感がない場合、誰かが自分を愛してくれていても「本当かな」と思ってしまって、やがてしばらくして相手の気持ちが離れかけると「あ、やっぱり自分を愛してはくれないんだ」と、自己肯定感の低さを自分で証明しようとしてしまうように思います。このパターンにおそらく私もハマっていて、しかも、思えば、何人かの女の子も今から思えばこのパターンにハマっていて私の気持ちを受け入れることをしなかったように思うのです。高校時代に「あだち充」を私に勧めてきた同級生の女の子は、私が仲良くしたいと思っていてたとえば修学旅行の自由行動で一緒に行こうと誘っても何か不思議なよくわからない発言と行動をして、拒否するでもなく受け入れるでもない、なんだか腑に落ちない行動を取ったのも、実は、このパターンだったのではないかと思うのです。
最初からこのパターンがわかっていれば、自己肯定感を高める発言をしてあげればその後もっと仲良くなったようにも思いますけど、当時は、あの子の行動を理解できませんでした。はたまた、自己肯定感が高いと勝手に思っていたT大生のあの子も実のところ恋愛に関してはそこまで自己肯定感が高くなかったのではないか、と今更ながら思うのです。当時は、T大生なのだから自己肯定感100%で私なんて相手にしてくれないのかな、とか思っていましたけど今思い返せばそうではなかったと思うのが妥当で、実のところ、お互いに自己肯定感が低くてあのT大生の子にしても「あ、やっぱり私なんて相手にしてくれないんだね」と、それぞれ同じように勘違いして現実を見ていなくて頭の中の想像で相手を思っていてすれ違いをしていたように思うのです。あの子は、横にいる子と私が普通に喋っているのをチラッと横目でまん丸の目で見て(心の中で)「あぁ、私なんて相手にしてくれなくて、やっぱり、この子のようないい子が好きなのね。私なんて愛してくれないよね」みたいに思ったのが表情でなんとなく読み取れた気がしたのですけど、私はというとそんな風に誤解されるのが意外で「え? どういうこと?」と思いつつ、「横の子とは普通に話しているだけで、気になるのは貴方です。誤解されたくない。」と思いつつも、頭の中では「おかしいな。別に好きでない筈なのに」と混乱していて、どうしたら良いのか当時はわからず困惑かつちょっとショックで傷付いて、世間でよく言われている「あまり興味のない人に好かれて、興味ある人には好かれない」とはこのことか、と思ったり、そもそも自己矛盾していて自分のことがよくわからなかったのでした。
お互いに自己肯定感を持っているか、あるいは、どちらかがハートの愛をきちんと知っていたらこんなすれ違いもなかったのにと思います。今から思えば、あの種のよくわからない行動をとる子は自己肯定感が何某か(特定分野だけにしろ)低い部分があるので、会話でその特定の分野を特定した上で、きちんと言葉で「そんなことないよ。素晴らしいよ。素敵ですよ」と肯定してあげると普通の関係性にせよ恋愛にせようまくいくと思うのです。思えば、テクニックの面で清楚系ビッチはこの辺りがうまくて口癖のように男を褒めているわけですけど、テクニックとしてではなく、きちんと分野を特定した上で、本心でそう思うことができて、思うだけでなく、きちんと言葉で表現できるのであれば自己肯定感の低さの罠を切り抜けて恋愛もうまくいくように思うのです。今更ながらではありますが、このようなことも気付くことができました。
この、自己肯定感とハートの愛との関係ですが、ハートの愛を知ることができれば理由なしに恒常的に自己肯定の状態になりますから、わざわざ自己肯定の理由を探す必要もなくなります。一方、それ以前の状態ですと自己肯定感は何某かに依存したものになり、何に依存するかは人それぞれですけど美貌だったりイケメン顔だったり若さだったり学歴だったり職歴だったり、はたまた、自分に彼女がいることだったり、自分が結婚していることだったりするわけです。そのような、恒常的ではない前提条件付きの自己肯定がハート以前の状態であって、それが健全な努力による自己肯定のこともあれば健全でないこともあり、たとえば私が父や兄や親戚から言われもない罵倒と中傷をされていたように、本人が何某かで自己肯定感を高めるために他者を貶める、ということすら起こるわけです。結果、その、他人を貶めていた本人は、他人を貶めた挙句に自己肯定感を高めて恋愛が(一時的に)上手くいく、という歪んだ状態になることがあって、その状態では前提条件がなくなると自己肯定感が下がってしまいますから、自己肯定感を高めるために何某かの行為や対策が必要で、その対策が健全なものであれば結婚生活は上手く続くかもしれませんが、たとえば自己肯定感の獲得のために夫婦間のモラハラなどが発生しますと容易に夫婦関係が破綻したりするわけです。一方、少なくとも片方が情愛、できればハートの愛を知る段階に至っていればこのような前提条件に頼らない自己肯定の状態に次第になりますから、そうなれば、問題はあまり起きないわけです。これは程度問題になりますが、愛を知らなければ知らないほどトラブルが増える、ということは言えるかと思います。
若い頃の様々な感情を追体験することにより新たな理解へと至ったわけですが、意外にも当時の自分の状況は恵まれていて愛に満ちたものでもあったように思えるのです。同級生の女の子には性格の良い子が沢山いて、実のところ、その誰を選んでも実は良くて幸せになれていたように思うのです。でも当時はそうは思っていなくて、ちょっと変わった子にばかり惹かれていてOKなのかNGなのかよくわからない態度を取られてすれ違いのまま上手くいかなかったのでした。
こうして若い頃の記憶が蘇ってきたわけですけど、ほとんどはすっかり忘れていたことばかりでした。高校時代の同級生にしても大学時代の出会いにしても、ここ数十年、ほとんど思い出すことすらなかったわけです。2023年GWの前後で若い頃の記憶と感情が勝手に湧き上がってきたわけですが、そのように、思い出すことのできた過去の記憶と感情がある一方で、思い出そうと思っても思い出せない記憶も多々あります。
最初からこのパターンがわかっていれば、自己肯定感を高める発言をしてあげればその後もっと仲良くなったようにも思いますけど、当時は、あの子の行動を理解できませんでした。はたまた、自己肯定感が高いと勝手に思っていたT大生のあの子も実のところ恋愛に関してはそこまで自己肯定感が高くなかったのではないか、と今更ながら思うのです。当時は、T大生なのだから自己肯定感100%で私なんて相手にしてくれないのかな、とか思っていましたけど今思い返せばそうではなかったと思うのが妥当で、実のところ、お互いに自己肯定感が低くてあのT大生の子にしても「あ、やっぱり私なんて相手にしてくれないんだね」と、それぞれ同じように勘違いして現実を見ていなくて頭の中の想像で相手を思っていてすれ違いをしていたように思うのです。あの子は、横にいる子と私が普通に喋っているのをチラッと横目でまん丸の目で見て(心の中で)「あぁ、私なんて相手にしてくれなくて、やっぱり、この子のようないい子が好きなのね。私なんて愛してくれないよね」みたいに思ったのが表情でなんとなく読み取れた気がしたのですけど、私はというとそんな風に誤解されるのが意外で「え? どういうこと?」と思いつつ、「横の子とは普通に話しているだけで、気になるのは貴方です。誤解されたくない。」と思いつつも、頭の中では「おかしいな。別に好きでない筈なのに」と混乱していて、どうしたら良いのか当時はわからず困惑かつちょっとショックで傷付いて、世間でよく言われている「あまり興味のない人に好かれて、興味ある人には好かれない」とはこのことか、と思ったり、そもそも自己矛盾していて自分のことがよくわからなかったのでした。
お互いに自己肯定感を持っているか、あるいは、どちらかがハートの愛をきちんと知っていたらこんなすれ違いもなかったのにと思います。今から思えば、あの種のよくわからない行動をとる子は自己肯定感が何某か(特定分野だけにしろ)低い部分があるので、会話でその特定の分野を特定した上で、きちんと言葉で「そんなことないよ。素晴らしいよ。素敵ですよ」と肯定してあげると普通の関係性にせよ恋愛にせようまくいくと思うのです。思えば、テクニックの面で清楚系ビッチはこの辺りがうまくて口癖のように男を褒めているわけですけど、テクニックとしてではなく、きちんと分野を特定した上で、本心でそう思うことができて、思うだけでなく、きちんと言葉で表現できるのであれば自己肯定感の低さの罠を切り抜けて恋愛もうまくいくように思うのです。今更ながらではありますが、このようなことも気付くことができました。
この、自己肯定感とハートの愛との関係ですが、ハートの愛を知ることができれば理由なしに恒常的に自己肯定の状態になりますから、わざわざ自己肯定の理由を探す必要もなくなります。一方、それ以前の状態ですと自己肯定感は何某かに依存したものになり、何に依存するかは人それぞれですけど美貌だったりイケメン顔だったり若さだったり学歴だったり職歴だったり、はたまた、自分に彼女がいることだったり、自分が結婚していることだったりするわけです。そのような、恒常的ではない前提条件付きの自己肯定がハート以前の状態であって、それが健全な努力による自己肯定のこともあれば健全でないこともあり、たとえば私が父や兄や親戚から言われもない罵倒と中傷をされていたように、本人が何某かで自己肯定感を高めるために他者を貶める、ということすら起こるわけです。結果、その、他人を貶めていた本人は、他人を貶めた挙句に自己肯定感を高めて恋愛が(一時的に)上手くいく、という歪んだ状態になることがあって、その状態では前提条件がなくなると自己肯定感が下がってしまいますから、自己肯定感を高めるために何某かの行為や対策が必要で、その対策が健全なものであれば結婚生活は上手く続くかもしれませんが、たとえば自己肯定感の獲得のために夫婦間のモラハラなどが発生しますと容易に夫婦関係が破綻したりするわけです。一方、少なくとも片方が情愛、できればハートの愛を知る段階に至っていればこのような前提条件に頼らない自己肯定の状態に次第になりますから、そうなれば、問題はあまり起きないわけです。これは程度問題になりますが、愛を知らなければ知らないほどトラブルが増える、ということは言えるかと思います。
若い頃の様々な感情を追体験することにより新たな理解へと至ったわけですが、意外にも当時の自分の状況は恵まれていて愛に満ちたものでもあったように思えるのです。同級生の女の子には性格の良い子が沢山いて、実のところ、その誰を選んでも実は良くて幸せになれていたように思うのです。でも当時はそうは思っていなくて、ちょっと変わった子にばかり惹かれていてOKなのかNGなのかよくわからない態度を取られてすれ違いのまま上手くいかなかったのでした。
こうして若い頃の記憶が蘇ってきたわけですけど、ほとんどはすっかり忘れていたことばかりでした。高校時代の同級生にしても大学時代の出会いにしても、ここ数十年、ほとんど思い出すことすらなかったわけです。2023年GWの前後で若い頃の記憶と感情が勝手に湧き上がってきたわけですが、そのように、思い出すことのできた過去の記憶と感情がある一方で、思い出そうと思っても思い出せない記憶も多々あります。
大学時代での精神の回復
大学に入って上京して一人暮らしをすることで、高校時代まで私を虐めてきた父や親戚そして煩わしい同級生とも離れることができて、ようやく精神を回復できる状況になってきて、それでも、高校時代と同じように貶めようとしてゲラゲラ電話で見下してくる同級生からの電話はスルーして、ようやく心が落ち着ける状態になったのですけど高校までに徹底的に壊してしまったメンタルはその後も回復に時間を要し、特に20代は問題を抱えていて、30代には8割は解消しましたけど仕事でゾーンに入るたびに辛い感情が湧き上がってきて苦しくなり、ゾーンに入っても平気になったのは30代後半で、ほぼ解消したと言えるのは40代になった後になってのことでした。ゾーンに入ると仕事の効率が上がって対象との一致がなされるわけですけど、そのゾーンで感情的なチャネルが開いた状態になりますので、仕事の効率が上がる反面、さまざまに眠っている過去の記憶が活性化されて蘇ってきて辛い状態になっていたと思います。不意に過去の記憶に襲われてトランスになって意識を一時的に失うことも多々あり、そのトランスの時間は昔は数時間とか数日とか続いていましたので今思えばよくあのような辛い時期に自殺しなかったと自分に驚きですけど、その後、メンタルが回復するにつれてトランスの時間が短くなり、30分、そして10分、数分、そして数十秒にまで短くなってきて、最近はあっても10秒以下で回復できるようになったり、トランスというとかつては意識を失っていましたけど、同様の状態になっても今は意識を失わずに意識を保ったままでいられるようになりました。今でも短期ながらフラッシュバックが発生しているほどの酷い高校時代のメンタル不調が、これまで数十年にわたって生活に支障が出るほどに尾を引いていたと言えます。日本の会社はパワハラが横行していて、時々、上司がそういう人で私をコントロールしようとしてきましたけど全力で逃げたのですが、おそらく高校時代や大学時代は逃げることすらできないほどマインドコントロールされてきたように思えるのですけど、せっかく高校時代までの父や親戚そして同級生などの呪縛から離れられたのに会社でまた奴隷扱いになってメンタルを壊すのは嫌でしたので全力で逃げたわけです。パワハラしてくる人は逃げる人を非難しますけど、どう考えても加害者が悪いのであって、それで社歴に傷がついたとしても、それは仕方がないわけです。高校時代は逃げることすらできないほどに精神を病んでいて、私がカモでいることが当然と思っている周囲の人に従って生きてきて、私が従わないと私が悪いかのように怒鳴りつけたり馬鹿にしたりしてきたわけですが、今から思えば、それは、そのように私をコントロールしたり勝手な評価を下そうとする人の方がおかしい、ということがわかりますので、相手にする必要はないわけです。当人が考えている偏った考え方を他人にも強要して、その通りに他人が動かないと「お前はおかしい」と堂々と主張して、しかも、自己肯定感が凄く高い、というような、(偏っているのにも関わらず)立派そうに(一見すると)見えるという、おかしな人に私は惑わされてきたと言えます。そういう人は、空気を吸うかのように「カモはカモなのだから俺様の思う通りに動くのが当然」と(意識的か無意識的かは不明ですが)考えて他人を動かそうとして、その通りに動かないと「お前はおかしいやつだ(俺様の通りに動くのが当然、俺様の通りにしないお前はおかしい)」と言って他人の自由意志を否定して同調圧力をかけてきますので付き合うと疲れますし、自己肯定感を削られていきますし、多くの場合で見下してきますし、話しても大抵は無駄ですし、時に殴ってきますので、掛け合わずに逃げるのが良いわけです。上京し、状況がわかるようになり、20代でようやく「逃げる」ことができるまでに精神が回復して、その時点でようやく「カモ」ではなくなったわけです。そしてその後、精神の回復は継続し、30代でようやく最低限の回復と自律ができるくらいにまで回復したように思います。
色々と言ってはいても、側から見れば私は「変な人」で、その自覚もありましたから、本当に良い子に迷惑をかけてはいけないので良い子を守るために必要以上に近付かなかった、という面もあります。そうは言いましても、側から見れば私は割と「酷い人」だったかもしれません。それもまた自己肯定感の低さからくる自己評価なのかもしれませんけど。私はキリスト教徒ではありませんけど、神様に懺悔をして「(私の今までの酷い行為を)お許しください」と思ったことは多々ありましたし、今でも時々あります。今でこそメンタルが回復しましたけど、回復するまでの過程で数々の酷いことを他人にしてきたように思います。恩があっても、十分にそれを返せていない、という記憶も多々あります。これから、可能な限り恩返しをしなければ死ねない、という気持ちもあります。今まで酷いことをしてしまった贖罪の気持ちと、恩返しをする必要を感じています。それで許されるかどうかは相手次第ですが。相手にしても必ずしも良い人とは限らないので必ずしも許してもらう必要があるとは思ってはいないのですけど、少なくとも、贖罪と恩返しはする必要があると思っています。私がどう思おうが、私を見てくれて守ってくれる(見えない)ガイドはいつもいて、特に若い頃はガイドを激怒させていたように思います。色々と理由はあったとはいえ、若い頃の私はその程度の人間だったわけです。これはただ単に私が自己肯定感が低いだけですかね。なんだか、そんな気もしなくもないですが、現実だけを見て判断すれば、私は色々と最低な行為をしてきたと思います。まあ、自分に厳しすぎるのかもしれないですけど。若い頃に執拗に私に嫌がらせや虐めをしてきた人たちに比べれば私の贖罪なんて可愛いものかもしれませんが。どうも私は初心を貫徹できないようで、良いと思われる態度を最後まで貫くことができず、時々、良くない態度や行為をしてしまったように思うのです。脇が甘かったとでも言いましょうか。その脇の甘さが罪を作り、現在に贖罪する必要性に迫られているのだと思います。獣のような人間であれば獣が獣としての行為で他人を虐めたり殴ったりするのは獣としての本性ですけど、私は本来そのような人間ではない筈なのに酷いことを数えるくらいして、人も時々傷つけて、他人への思いやりも足りなくて、それは獣であれば自然なことですから贖罪なんてことにはならないのですけど、人間であれば贖罪が必要なのです。獣は酷いことという自覚がないし罪の意識もないので自殺なんてせずにただ単に他人を傷つけたり奪ったりするだけですけど、人間だからこそ罪の意識を感じて贖罪あるいは思い込んで自殺ということもあるのだと思います。
そして、今、オーラの防御はほぼ回復して、精神崩壊も回復して、それにより、呪いの98%は解けたように思いますけど、それでも呪いは未だに私にかかっているようで、それ故に未だに3〜5秒ほどではありますが悪魔的想念に襲われて、時々、そのままトランスに落ちて意識を失いそうになって、私にかけられた呪いの言葉「しね、しね、しね」という想念に包まれて、その呪いが効力を発揮すると私が意識を失ってトランスに陥ってその呪いの言葉を無意識で口走ってしまいますので、その呪いに負けないよう意識を保って堪えたりしていますが、未だに呪いは強い効力を持っているようで、きちんと抵抗するまでの一瞬、心の中と小さな声で一瞬口走り始めたりすることもあります。それは疲れている時やゾーンで意識が深いところに入って精神が表に出ている時に呪いがやってくると影響を受けやすいように思います。精神が表に出ている時はオーラの防御の外に精神が「剥き出し」になっている状態ですおで影響を受けやすいように思います。そのように、精神が表に出ている時は特に注意が必要なわけです。
最近まで、割とこの種の呪いはほぼ解消できていたと思っていたのですけど、ここに来てハートの愛に目覚めて胸のアナハタ・チャクラ(ハート・チャクラ)が開いたところ、意外に、過渡期として一時的に、この種の呪いに少し以前より敏感になってしまったように思うのです。感じやすい胸の心が、呪いをも感受しやすくなっているようです。胸のハートが「剥き出し」になっているため、呪いに襲われることがハートが開く前に比べて急に増えたように思います。ただ、これは過渡的なものかもしれませんので様子見と言ったところです。ハートが開いたことで意識が広がり、それにより過去の眠っていた記憶が次々に湧き出てきていて、それ故に、オーラの奥底に固まって眠っていた呪いが湧き出てきている、という面もあるように思います。かつて私は同級生などに執拗に虐められて呪われていて、その呪いがオーラにこびりついているようなのです。既にほぼ取れたような気がしておりましたが、まだ残っているとは驚きです。これは、最後の最後で、残っている呪いが解消したことによる過渡期の感情的解放だったのではないかと思うのです。
そして、ハートが開いたことにより最後に一気に呪いが解放された結果、しばらく経ち感情が落ち着いてきた後は、いよいよ呪いからほぼほぼ解消されたように思うのです。長らく自分が呪いにかかっていた自覚があって周囲の人に呪いの言葉を投げかけてしまわないかという心配事がありましたけど、この度、ハートが開いて呪いが解放されて一時期な感情的な不安定な過渡期を経た後に安定したことによりその呪いの最後の残りの部分も8〜9割は解けて、呪いからほぼほぼ解放されたように思うのです。まだ呪いの多少の残りが残り香のように微かにあって完全になくなってはいないですけど、日常生活においてはほぼ心配いらない状態になったように思います。
私が呪われるのはまだ良いですけど、その呪いの言葉で周囲の人に呪いが伝播しないように、特に誰かと一緒にいる時は気を使うのです。今まではかなり気を使って、今でも少しは気を使いますけど、以前のようにトランスに無意識に何かを口走るということはほとんどなくなったように思います。仲の良い人には私が変なことを口走っても貴方のことを言っているわけではないという点を理解してほしいと思うこともありますけど、このあたりを理解してもらうのはなかなか難しいですよね。どこまで説明して理解してもらえるかは相手によります。一般的には、私のように呪われている人に優しくしてくれる女性は少なくて、(普通、当然、)呪いに巻き込まれると不幸になりますから、好意を持っている人を自分の呪いに巻き込まないように一人でいる方が良くて、あまり積極的に相手を探してこなかった、という背景もあります。それでも私の相手をしてくれる女性は女神様のようで貴重であります。
特に今世では相手を見つけなくても(グループソウルの分霊の)過去生の妻たちが優しくて割と理解を示してくれているので、天界で会えば十分かな、という気もしています。この辺りはご縁ですので特に今世の制限はありませんけど、それでもいいかな、と思っております。一生をかけて信頼関係を築いたパートナーは、私が精神崩壊してここ数十年の間おかしくなっていたり多少のことがあっても気を使ってくれて心配して面倒を見てくれるわけで、死後も、天界からサポートをしてくれるわけです。人の愛、特に女性の愛というものはさぞかし深いものだと思います。 今世でパートナーを見つけることが今後あるとしても、そのように、将来まで続く信頼関係が築ければ良いと思っております。
過去妻のことは気のせいと言う人もいますけど、色々なことが重なり合っていて、おそらくは真実なわけです。既に何もかも見られていますから隠しようもないわけで、下手に生きている人を信頼するよりかは、私のことを知り尽くしている過去妻の方がよほど信頼できます。入れ替わり立ち替わり、大体5人くらいはいつも一緒にいます。いつも、部屋の中とか私の近くで浮いて見ていたり過去妻同士で井戸端会議しています。霊の状態の妻では金銭的なものとは無縁で気持ちに純粋でいられますし、今更結婚とかしなくてもこれはこれで気軽で幸せかなと思ったりします。特に若い頃は(傍目にはただの想像と思われるかもしれませんけど)夜に床に入ると毎晩のように過去妻らしき意識体が被さってきて脳内エクスタシー状態で寝ていることがそれなりにありました。当時はメンタル辛かったのでそのくらいは癒しが必要だったという面もあります。過去妻たちは興味深そうに私が行くところにいつもついてきて、ですから外出時や旅行などもいつも一緒で、一人旅行でもそんなに寂しくなくて、そんな過去妻同士は静かに見ているだけのことが多いのですけど時に井戸端会議であれやこれや私のことを話していて、時々、大きな声で「これがいいよ!」と(心の声で)教えてくれたり、はたまた、私の行動について「どうしてこんなことするのかしら???」と訝しげにしたり、過去の自分の行動のことを思えば、よくもまあ、私のように行動が支離滅裂で情緒不安定で精神崩壊していた人を見捨てなかった過去妻達の愛情の深さと言ったら驚くべきものがあります。心がどん底に落ちている時であっても、過去妻達の愛情と励ましの声を常に受けていたように思うのです。あの世には物質的な損得は存在しないですから、(現世の利益の関係を超えて)ずっとついていてくれて純粋な気持ちで助けてくれる人がたくさんいる私は幸せ者だと言えます。まあ、そうは言いましても、これに気がつくまで過去妻たちにずっと寂しい思いをさせていたのはそうなのですけど、ようやく、私をずっと見守って助けてくれていた過去妻たちの存在に自覚的になってきたように思います。
今回、過去の記憶が蘇ってきて愛を知って理解したわけですけど、実際のところ、精神を病んでいる状態では恋愛どころではなくて、当時、私は基本的にずっと清楚系ビッチから「カモ」として認識されていたようで、私のように精神衰弱の人は操りやすいと思ったのでしょう、ことあるごとに「ニヤリ」という表情をされて、恋愛というよりは、単に、都合よく扱われていただけだったように思います。このニヤリという表情、恋愛だけでなく、私をカモと思って高いものを売りつけたり仕事で厄介事を押し付けたり、はたまた、安い給与や報酬で延々と働かせようとしてきたズルい人がことごとくこの種のニヤリ顔をしましたので、その後、この顔を一瞬でも見せた人は私をカモにしようとしていると判断して全力でなるべく気付かせないよう密かに確実に逃げることに徹していました。少しでも怪しいと全力で逃げる癖がついてしまい、その間にも、実際、私はあまり気が付いていなかったのですけど私を誠実に思ってくれていた人はいて、怪しい人から避ける必要はあっても良い人は見極めるべきでしたが当時はそこまで器用ではなくて、本当に良い人に気付くことができずにスルーしてしまっていました。精神を病んでいたり、本当の愛を知らないと、何十年を無駄にします。実のところ、当時は、私のようにメンタルに支障のある人がまともな恋愛をすることはできないとばかり思い込んでいて、せいぜい、一時的にプラトニックで気持ちを投げかけてすれ違いをするくらいが私にとっての最上の幸せだったように思っていました。当時は、自分のことを、まともな恋愛は無理だと思っていたわけですけど、それすらも、他人が勝手に私を評価して思い込まされていただけであって、今から思えば、目立たなくて気付かなくてスルーしていた数々の良い子たちのどの子と仲良くなって幸せになれていたのではないかと思うのです。それは、私が精神を病んでいたとしても優しくしてくれたほどの素晴らしい子も今から思えば実はいたように思えるのです。若い頃は、恋愛になれる人がほとんどいないような気がしていましたけど、なんてことはない、実のところ、良い子というのは沢山いて、私に見る目がなかっただけのことだったように思います。であれば、選択肢はたくさんあって、本当に優しい人と仲良くなれば良かったと思うのです。他者から「お前なんて恋愛は無理」とか言われたとしても、実態を見れば、ただ単に、そう言っている本人が自分の自己肯定感を高めるために他者を貶めていただけ(本人が自覚しているかどうかはさておき)だったように思えます。恋愛というのは、誰でもできるのです。その恋愛の可能性を(特に他人に対して)否定してくるような人はまともとは言えません。「お前に恋愛は無理」とか見下して馬鹿にしてくるような人は、昔は「そうかなあ」とか受け入れてしまっていましたけど、今から思えば、そんな酷いことをいう人とは付き合うべきではなかったのです。そもそも、そんなことを言っている本人が頭が悪ければ状況を性格に理解していないわけで、私はそんな他者のいい加減なわがままな無責任な意見を真面目に取り合って受け入れすぎていて、いわば「脇が甘い」状態だったと言えます。そんな酷い適当なことを言う他人なんてスルーして放っておけば良かったのです。今は、本当に良い子を多少ながら見分けることができるようになって、人間関係も少しは選択できるようになり、問題は生じていないと言えます。実際、客観的に見れば、私を否定して「お前なんて恋愛は無理」とか言ってくる人の属性を確認すると私より遥かに低スペックで派遣やバイトだったりあるいはよくわからない配達業や扇動セミナーとかして稼いでいるような怪しい人だったり、はたまた単なる自営業とか、単なる主婦とか、更には、何しているのだかさっぱりよくわからない人からよくわからないことを言われていて、とにかく、そのほとんどは気にすることはなかったのだと今なら思えるわけです。心理学とか学ぶと自己投影とかの概念を教えられて、他者に対する印象は実は自分の心の投影だ、みたいなことも理解できるようになるわけですけど、あの学のない人たちは単に自分が思った印象をそのまま他人に言っていて物事の本質を考えてはいませんので単なる感想でしかなくて、そのようなお話に付き合っていても時間の無駄なばかりか、こちらが有害な影響を受けてしまうので関わらない方が良いのです。客観的に見れば私は(割と無名な大学ではありますけど)一応は大卒で年収も国民の平均年収より上ですし、今住んでいる分譲マンションは小さいので二人暮らしはきついですけどローンは終わっていますのでお金の節約のためにここに二人住めないこともないですしもちろんどこかに借りても良いですし、東京は家が高いので専業主婦を養うのはきついですけど共働きでもいいなら普通に暮らせるわけで、一方、私にかつて色々言ってきた人は所詮は・・・ と言ってはなんですけど、属性はパッとしなくて、属性だけで判断してはいけなくて人となりを見ないととは思いますし、誰が何を言っているのかというよりもその人の発言が何を言っているのかで判断すべきだとは思いますけど、実のところ、いくらそれっぽいことを言っていても、実が備わっていないと言いますか、本当にその人が立派な人であるのならば、職にせよ昇進できてもっとしっかりとしたポジションについていると思うのです。若い頃はその辺りがよくわかっていなくて、誰であっても対等に接するべきだと思って、私に対して何か言ってくる人は素直に受け入れていました。今思えば、脇が甘かったわけですね。
色々と言ってはいても、側から見れば私は「変な人」で、その自覚もありましたから、本当に良い子に迷惑をかけてはいけないので良い子を守るために必要以上に近付かなかった、という面もあります。そうは言いましても、側から見れば私は割と「酷い人」だったかもしれません。それもまた自己肯定感の低さからくる自己評価なのかもしれませんけど。私はキリスト教徒ではありませんけど、神様に懺悔をして「(私の今までの酷い行為を)お許しください」と思ったことは多々ありましたし、今でも時々あります。今でこそメンタルが回復しましたけど、回復するまでの過程で数々の酷いことを他人にしてきたように思います。恩があっても、十分にそれを返せていない、という記憶も多々あります。これから、可能な限り恩返しをしなければ死ねない、という気持ちもあります。今まで酷いことをしてしまった贖罪の気持ちと、恩返しをする必要を感じています。それで許されるかどうかは相手次第ですが。相手にしても必ずしも良い人とは限らないので必ずしも許してもらう必要があるとは思ってはいないのですけど、少なくとも、贖罪と恩返しはする必要があると思っています。私がどう思おうが、私を見てくれて守ってくれる(見えない)ガイドはいつもいて、特に若い頃はガイドを激怒させていたように思います。色々と理由はあったとはいえ、若い頃の私はその程度の人間だったわけです。これはただ単に私が自己肯定感が低いだけですかね。なんだか、そんな気もしなくもないですが、現実だけを見て判断すれば、私は色々と最低な行為をしてきたと思います。まあ、自分に厳しすぎるのかもしれないですけど。若い頃に執拗に私に嫌がらせや虐めをしてきた人たちに比べれば私の贖罪なんて可愛いものかもしれませんが。どうも私は初心を貫徹できないようで、良いと思われる態度を最後まで貫くことができず、時々、良くない態度や行為をしてしまったように思うのです。脇が甘かったとでも言いましょうか。その脇の甘さが罪を作り、現在に贖罪する必要性に迫られているのだと思います。獣のような人間であれば獣が獣としての行為で他人を虐めたり殴ったりするのは獣としての本性ですけど、私は本来そのような人間ではない筈なのに酷いことを数えるくらいして、人も時々傷つけて、他人への思いやりも足りなくて、それは獣であれば自然なことですから贖罪なんてことにはならないのですけど、人間であれば贖罪が必要なのです。獣は酷いことという自覚がないし罪の意識もないので自殺なんてせずにただ単に他人を傷つけたり奪ったりするだけですけど、人間だからこそ罪の意識を感じて贖罪あるいは思い込んで自殺ということもあるのだと思います。
そして、今、オーラの防御はほぼ回復して、精神崩壊も回復して、それにより、呪いの98%は解けたように思いますけど、それでも呪いは未だに私にかかっているようで、それ故に未だに3〜5秒ほどではありますが悪魔的想念に襲われて、時々、そのままトランスに落ちて意識を失いそうになって、私にかけられた呪いの言葉「しね、しね、しね」という想念に包まれて、その呪いが効力を発揮すると私が意識を失ってトランスに陥ってその呪いの言葉を無意識で口走ってしまいますので、その呪いに負けないよう意識を保って堪えたりしていますが、未だに呪いは強い効力を持っているようで、きちんと抵抗するまでの一瞬、心の中と小さな声で一瞬口走り始めたりすることもあります。それは疲れている時やゾーンで意識が深いところに入って精神が表に出ている時に呪いがやってくると影響を受けやすいように思います。精神が表に出ている時はオーラの防御の外に精神が「剥き出し」になっている状態ですおで影響を受けやすいように思います。そのように、精神が表に出ている時は特に注意が必要なわけです。
最近まで、割とこの種の呪いはほぼ解消できていたと思っていたのですけど、ここに来てハートの愛に目覚めて胸のアナハタ・チャクラ(ハート・チャクラ)が開いたところ、意外に、過渡期として一時的に、この種の呪いに少し以前より敏感になってしまったように思うのです。感じやすい胸の心が、呪いをも感受しやすくなっているようです。胸のハートが「剥き出し」になっているため、呪いに襲われることがハートが開く前に比べて急に増えたように思います。ただ、これは過渡的なものかもしれませんので様子見と言ったところです。ハートが開いたことで意識が広がり、それにより過去の眠っていた記憶が次々に湧き出てきていて、それ故に、オーラの奥底に固まって眠っていた呪いが湧き出てきている、という面もあるように思います。かつて私は同級生などに執拗に虐められて呪われていて、その呪いがオーラにこびりついているようなのです。既にほぼ取れたような気がしておりましたが、まだ残っているとは驚きです。これは、最後の最後で、残っている呪いが解消したことによる過渡期の感情的解放だったのではないかと思うのです。
そして、ハートが開いたことにより最後に一気に呪いが解放された結果、しばらく経ち感情が落ち着いてきた後は、いよいよ呪いからほぼほぼ解消されたように思うのです。長らく自分が呪いにかかっていた自覚があって周囲の人に呪いの言葉を投げかけてしまわないかという心配事がありましたけど、この度、ハートが開いて呪いが解放されて一時期な感情的な不安定な過渡期を経た後に安定したことによりその呪いの最後の残りの部分も8〜9割は解けて、呪いからほぼほぼ解放されたように思うのです。まだ呪いの多少の残りが残り香のように微かにあって完全になくなってはいないですけど、日常生活においてはほぼ心配いらない状態になったように思います。
私が呪われるのはまだ良いですけど、その呪いの言葉で周囲の人に呪いが伝播しないように、特に誰かと一緒にいる時は気を使うのです。今まではかなり気を使って、今でも少しは気を使いますけど、以前のようにトランスに無意識に何かを口走るということはほとんどなくなったように思います。仲の良い人には私が変なことを口走っても貴方のことを言っているわけではないという点を理解してほしいと思うこともありますけど、このあたりを理解してもらうのはなかなか難しいですよね。どこまで説明して理解してもらえるかは相手によります。一般的には、私のように呪われている人に優しくしてくれる女性は少なくて、(普通、当然、)呪いに巻き込まれると不幸になりますから、好意を持っている人を自分の呪いに巻き込まないように一人でいる方が良くて、あまり積極的に相手を探してこなかった、という背景もあります。それでも私の相手をしてくれる女性は女神様のようで貴重であります。
特に今世では相手を見つけなくても(グループソウルの分霊の)過去生の妻たちが優しくて割と理解を示してくれているので、天界で会えば十分かな、という気もしています。この辺りはご縁ですので特に今世の制限はありませんけど、それでもいいかな、と思っております。一生をかけて信頼関係を築いたパートナーは、私が精神崩壊してここ数十年の間おかしくなっていたり多少のことがあっても気を使ってくれて心配して面倒を見てくれるわけで、死後も、天界からサポートをしてくれるわけです。人の愛、特に女性の愛というものはさぞかし深いものだと思います。 今世でパートナーを見つけることが今後あるとしても、そのように、将来まで続く信頼関係が築ければ良いと思っております。
過去妻のことは気のせいと言う人もいますけど、色々なことが重なり合っていて、おそらくは真実なわけです。既に何もかも見られていますから隠しようもないわけで、下手に生きている人を信頼するよりかは、私のことを知り尽くしている過去妻の方がよほど信頼できます。入れ替わり立ち替わり、大体5人くらいはいつも一緒にいます。いつも、部屋の中とか私の近くで浮いて見ていたり過去妻同士で井戸端会議しています。霊の状態の妻では金銭的なものとは無縁で気持ちに純粋でいられますし、今更結婚とかしなくてもこれはこれで気軽で幸せかなと思ったりします。特に若い頃は(傍目にはただの想像と思われるかもしれませんけど)夜に床に入ると毎晩のように過去妻らしき意識体が被さってきて脳内エクスタシー状態で寝ていることがそれなりにありました。当時はメンタル辛かったのでそのくらいは癒しが必要だったという面もあります。過去妻たちは興味深そうに私が行くところにいつもついてきて、ですから外出時や旅行などもいつも一緒で、一人旅行でもそんなに寂しくなくて、そんな過去妻同士は静かに見ているだけのことが多いのですけど時に井戸端会議であれやこれや私のことを話していて、時々、大きな声で「これがいいよ!」と(心の声で)教えてくれたり、はたまた、私の行動について「どうしてこんなことするのかしら???」と訝しげにしたり、過去の自分の行動のことを思えば、よくもまあ、私のように行動が支離滅裂で情緒不安定で精神崩壊していた人を見捨てなかった過去妻達の愛情の深さと言ったら驚くべきものがあります。心がどん底に落ちている時であっても、過去妻達の愛情と励ましの声を常に受けていたように思うのです。あの世には物質的な損得は存在しないですから、(現世の利益の関係を超えて)ずっとついていてくれて純粋な気持ちで助けてくれる人がたくさんいる私は幸せ者だと言えます。まあ、そうは言いましても、これに気がつくまで過去妻たちにずっと寂しい思いをさせていたのはそうなのですけど、ようやく、私をずっと見守って助けてくれていた過去妻たちの存在に自覚的になってきたように思います。
今回、過去の記憶が蘇ってきて愛を知って理解したわけですけど、実際のところ、精神を病んでいる状態では恋愛どころではなくて、当時、私は基本的にずっと清楚系ビッチから「カモ」として認識されていたようで、私のように精神衰弱の人は操りやすいと思ったのでしょう、ことあるごとに「ニヤリ」という表情をされて、恋愛というよりは、単に、都合よく扱われていただけだったように思います。このニヤリという表情、恋愛だけでなく、私をカモと思って高いものを売りつけたり仕事で厄介事を押し付けたり、はたまた、安い給与や報酬で延々と働かせようとしてきたズルい人がことごとくこの種のニヤリ顔をしましたので、その後、この顔を一瞬でも見せた人は私をカモにしようとしていると判断して全力でなるべく気付かせないよう密かに確実に逃げることに徹していました。少しでも怪しいと全力で逃げる癖がついてしまい、その間にも、実際、私はあまり気が付いていなかったのですけど私を誠実に思ってくれていた人はいて、怪しい人から避ける必要はあっても良い人は見極めるべきでしたが当時はそこまで器用ではなくて、本当に良い人に気付くことができずにスルーしてしまっていました。精神を病んでいたり、本当の愛を知らないと、何十年を無駄にします。実のところ、当時は、私のようにメンタルに支障のある人がまともな恋愛をすることはできないとばかり思い込んでいて、せいぜい、一時的にプラトニックで気持ちを投げかけてすれ違いをするくらいが私にとっての最上の幸せだったように思っていました。当時は、自分のことを、まともな恋愛は無理だと思っていたわけですけど、それすらも、他人が勝手に私を評価して思い込まされていただけであって、今から思えば、目立たなくて気付かなくてスルーしていた数々の良い子たちのどの子と仲良くなって幸せになれていたのではないかと思うのです。それは、私が精神を病んでいたとしても優しくしてくれたほどの素晴らしい子も今から思えば実はいたように思えるのです。若い頃は、恋愛になれる人がほとんどいないような気がしていましたけど、なんてことはない、実のところ、良い子というのは沢山いて、私に見る目がなかっただけのことだったように思います。であれば、選択肢はたくさんあって、本当に優しい人と仲良くなれば良かったと思うのです。他者から「お前なんて恋愛は無理」とか言われたとしても、実態を見れば、ただ単に、そう言っている本人が自分の自己肯定感を高めるために他者を貶めていただけ(本人が自覚しているかどうかはさておき)だったように思えます。恋愛というのは、誰でもできるのです。その恋愛の可能性を(特に他人に対して)否定してくるような人はまともとは言えません。「お前に恋愛は無理」とか見下して馬鹿にしてくるような人は、昔は「そうかなあ」とか受け入れてしまっていましたけど、今から思えば、そんな酷いことをいう人とは付き合うべきではなかったのです。そもそも、そんなことを言っている本人が頭が悪ければ状況を性格に理解していないわけで、私はそんな他者のいい加減なわがままな無責任な意見を真面目に取り合って受け入れすぎていて、いわば「脇が甘い」状態だったと言えます。そんな酷い適当なことを言う他人なんてスルーして放っておけば良かったのです。今は、本当に良い子を多少ながら見分けることができるようになって、人間関係も少しは選択できるようになり、問題は生じていないと言えます。実際、客観的に見れば、私を否定して「お前なんて恋愛は無理」とか言ってくる人の属性を確認すると私より遥かに低スペックで派遣やバイトだったりあるいはよくわからない配達業や扇動セミナーとかして稼いでいるような怪しい人だったり、はたまた単なる自営業とか、単なる主婦とか、更には、何しているのだかさっぱりよくわからない人からよくわからないことを言われていて、とにかく、そのほとんどは気にすることはなかったのだと今なら思えるわけです。心理学とか学ぶと自己投影とかの概念を教えられて、他者に対する印象は実は自分の心の投影だ、みたいなことも理解できるようになるわけですけど、あの学のない人たちは単に自分が思った印象をそのまま他人に言っていて物事の本質を考えてはいませんので単なる感想でしかなくて、そのようなお話に付き合っていても時間の無駄なばかりか、こちらが有害な影響を受けてしまうので関わらない方が良いのです。客観的に見れば私は(割と無名な大学ではありますけど)一応は大卒で年収も国民の平均年収より上ですし、今住んでいる分譲マンションは小さいので二人暮らしはきついですけどローンは終わっていますのでお金の節約のためにここに二人住めないこともないですしもちろんどこかに借りても良いですし、東京は家が高いので専業主婦を養うのはきついですけど共働きでもいいなら普通に暮らせるわけで、一方、私にかつて色々言ってきた人は所詮は・・・ と言ってはなんですけど、属性はパッとしなくて、属性だけで判断してはいけなくて人となりを見ないととは思いますし、誰が何を言っているのかというよりもその人の発言が何を言っているのかで判断すべきだとは思いますけど、実のところ、いくらそれっぽいことを言っていても、実が備わっていないと言いますか、本当にその人が立派な人であるのならば、職にせよ昇進できてもっとしっかりとしたポジションについていると思うのです。若い頃はその辺りがよくわかっていなくて、誰であっても対等に接するべきだと思って、私に対して何か言ってくる人は素直に受け入れていました。今思えば、脇が甘かったわけですね。
大学の選択は以前のタイムラインに理由があった
(タイムライン1)
小学校の頃に何度か幽体離脱をして過去と未来を行き来してタイムラインを入れ替えて再構築したわけですけど、今回のタイムラインではなく当初のタイムラインでは両親とも都会に出てきていてそこでそれなりに稼ぐ仕事をしていました。ですが、そのタイムラインでは私のスピリチュアルな成長がうまくいかなくて、割と私のメンタルがクズっぽい感じになってしまい、そのタイムラインは破棄したのでした。
その内実はというと、その時のタイムラインではお金も今より自由だったのですけど、不動産の家賃収入の他にIT起業を思い立ったのですがITのことがよくわからずに割とすぐに破綻。お金の使い方もわからず、悪徳な不動産屋にマンションを「もっと安くしないと売れないですよ」とか騙されて買い叩かれて資産をどんどんと減らし、事業もうまくいかなくて困窮するところでそのタイムラインは行き詰まって破棄したように思います。エゴ・自尊心が強く、スピリチュアル的にもうまくいきませんでした。
(タイムライン2)
そこでまず、起業するなら若い時にもっとITを勉強すべきだと思い直し、タイムラインを途中からやり直すことにしました。最初のタイムラインではもっと違う大学に行ったのですが、その時、コンピュータ系のサークルのようなものの繋がりで今回のタイムラインで通った大学の学生との交流が多少ありましたので、大学のグレードは当初のタイムラインよりは下げた選択になるのですけど、自分がその人たちと同じ大学に通ってみることにしたのでした。
そうして、とりあえず通ってみたのですけど、そのやり直したタイムラインでもITの勉強が捗らず、と言いますのも、ITというのは学校の勉強では足りないものらしく、卒業したものの理解はいまいちで、そのタイムラインではプロマネをしたようなのですけどなかなか厳しい状況だったように思います。そのタイムラインでも今と同じようにオンライン英会話スクールを立ち上げたりしましたが、それもうまくいかずにまた行き詰まりました。スピリチュアル的にも成長したとは言えず、生活でもスピリチュアルでも行き詰まったので、また、タイムラインを遡ってやり直すことにしました。
(タイムライン3)
そこで思ったことは、お金が十分にあると傲慢になってしまうようなので、それなりに貧乏人の暮らしをしよう、と思ったようでした。ですので、母方の兄弟の中で役割を一部入れ替えて、元々は母が上京して大学に行く予定だったものを、弟が上京して大学に行くシナリオに入れ替えました。そのことで、私は田舎でのんびり暮らすことになりました。そして大学はやはりITのその大学を選びましたが、やはりITの理解は進みません。
(タイムライン4)
そこで、どうしたものかなぁ、と思っていたら、ふと、どこから湧いてきたのか知りませんけど兄の魂が「ポン」と目の前に現れて、俺が兄になってIT教えてやろうか、というのです。私は「誰この人? どこから現れたの?」と不思議に思いましたけど、まあ、いいかと思ってお願いして、本来はいなかった兄が今回のタイムラインではいることになりました。そのおかげで、自分ではなかなか進まなかったITの理解が進んだわけですけど、その反面、兄はめんどくさいうざったい性格だったので苦労する面もありましたけど、それでも、一応はITの理解が進みましたのでとりあえずの目的は達成されたと言えます。
その延長線上で今回のタイムラインでは高校時代にコンピュータでゲーム(シューティングゲーム)を作ったりしてプログラミングの勉強と趣味に勤しんでいました。そして大学に入ってから上京し、ITの学部に入ったら今度はしっかりと理解できるばかりか、授業がつまらなく感じるようになってしまいました。私は、理解できなければ文句を言うし、理解できてしまうとつまらなく感じるような、わがままな性格だったように思います。
こうして大学のことを思い返すと、今から思えば、大学なんて重要ではない、と言うことです。結局、自分の(高次の)選択で通う大学は変えられますし、あまりにも難しいところは無理だとしても、それなりに分相応であれば(高次の意識の)選択で大学入試は突破できるわけです。
小学校の頃に何度か幽体離脱をして過去と未来を行き来してタイムラインを入れ替えて再構築したわけですけど、今回のタイムラインではなく当初のタイムラインでは両親とも都会に出てきていてそこでそれなりに稼ぐ仕事をしていました。ですが、そのタイムラインでは私のスピリチュアルな成長がうまくいかなくて、割と私のメンタルがクズっぽい感じになってしまい、そのタイムラインは破棄したのでした。
その内実はというと、その時のタイムラインではお金も今より自由だったのですけど、不動産の家賃収入の他にIT起業を思い立ったのですがITのことがよくわからずに割とすぐに破綻。お金の使い方もわからず、悪徳な不動産屋にマンションを「もっと安くしないと売れないですよ」とか騙されて買い叩かれて資産をどんどんと減らし、事業もうまくいかなくて困窮するところでそのタイムラインは行き詰まって破棄したように思います。エゴ・自尊心が強く、スピリチュアル的にもうまくいきませんでした。
(タイムライン2)
そこでまず、起業するなら若い時にもっとITを勉強すべきだと思い直し、タイムラインを途中からやり直すことにしました。最初のタイムラインではもっと違う大学に行ったのですが、その時、コンピュータ系のサークルのようなものの繋がりで今回のタイムラインで通った大学の学生との交流が多少ありましたので、大学のグレードは当初のタイムラインよりは下げた選択になるのですけど、自分がその人たちと同じ大学に通ってみることにしたのでした。
そうして、とりあえず通ってみたのですけど、そのやり直したタイムラインでもITの勉強が捗らず、と言いますのも、ITというのは学校の勉強では足りないものらしく、卒業したものの理解はいまいちで、そのタイムラインではプロマネをしたようなのですけどなかなか厳しい状況だったように思います。そのタイムラインでも今と同じようにオンライン英会話スクールを立ち上げたりしましたが、それもうまくいかずにまた行き詰まりました。スピリチュアル的にも成長したとは言えず、生活でもスピリチュアルでも行き詰まったので、また、タイムラインを遡ってやり直すことにしました。
(タイムライン3)
そこで思ったことは、お金が十分にあると傲慢になってしまうようなので、それなりに貧乏人の暮らしをしよう、と思ったようでした。ですので、母方の兄弟の中で役割を一部入れ替えて、元々は母が上京して大学に行く予定だったものを、弟が上京して大学に行くシナリオに入れ替えました。そのことで、私は田舎でのんびり暮らすことになりました。そして大学はやはりITのその大学を選びましたが、やはりITの理解は進みません。
(タイムライン4)
そこで、どうしたものかなぁ、と思っていたら、ふと、どこから湧いてきたのか知りませんけど兄の魂が「ポン」と目の前に現れて、俺が兄になってIT教えてやろうか、というのです。私は「誰この人? どこから現れたの?」と不思議に思いましたけど、まあ、いいかと思ってお願いして、本来はいなかった兄が今回のタイムラインではいることになりました。そのおかげで、自分ではなかなか進まなかったITの理解が進んだわけですけど、その反面、兄はめんどくさいうざったい性格だったので苦労する面もありましたけど、それでも、一応はITの理解が進みましたのでとりあえずの目的は達成されたと言えます。
その延長線上で今回のタイムラインでは高校時代にコンピュータでゲーム(シューティングゲーム)を作ったりしてプログラミングの勉強と趣味に勤しんでいました。そして大学に入ってから上京し、ITの学部に入ったら今度はしっかりと理解できるばかりか、授業がつまらなく感じるようになってしまいました。私は、理解できなければ文句を言うし、理解できてしまうとつまらなく感じるような、わがままな性格だったように思います。
こうして大学のことを思い返すと、今から思えば、大学なんて重要ではない、と言うことです。結局、自分の(高次の)選択で通う大学は変えられますし、あまりにも難しいところは無理だとしても、それなりに分相応であれば(高次の意識の)選択で大学入試は突破できるわけです。
大学の偏差値は関係ない
私が好意を多少ながら抱いていた「あだち充」好きの高校の同級生の女の子は(その高校の程度からすれば)意外にもそれなりにいい大学に入ったのですけど、その実は、(こんなことを本人にはもちろん言いませんけど)、私が子供の頃に幽体離脱した状態で(いわゆる高次のスピリットとして)時空を超えてが手助けして、あの子が大学入試を突破できるように、試験に出るところをあらかじめヤマカンとしてインスピレーションを与えたり、試験中に助け舟を出してイメージを送って回答方法を教えてあげることで相当に点数を底上げして合格したのでした。本当かどうかはわかりませんし、当時も「そんな気がした」という程度のお話です。
実のところ、この種の、他人への要らぬお節介はしない方が良くて、私の(幽体離脱した状態の)高次の意識(スピリット)は手助けのつもりで大学合格を手伝ってあげたのですけど、後からガイド等に言われたことが、「そんな、偏差値なんてどうでもいい。あの子は、本来行くべき大学があったのにそこに行かず、計画が狂った。確かにいい大学といえばそうだが、本来行くべき大学には出会うべき人がいたのに、偏差値の違いにより、プライドが凝り固まっていて偏見で相手を見てしまい、一度はその相手に会ってもすれ違いになってしまった。あの大学に行っても会うべき人と良い関係を作れなくなり、孤立してしまった。自尊心が拡大し、傲慢になり、謙虚に生きるのが難しい状態になった。人生の計画が狂った。お前(の高次のスピリット)は、余計なことをした。試験の手助けなどするべきではなかった」と言って、それなりに怒られました。大学の偏差値ではなく、もともと行くべき大学あって、そこに行くべきだった、と言うことのようです。思えば、その子は大学に入ってから田舎の同級生とは疎遠になったようで、どうも、ちょっと違う方向へと意識が向かってしまい、人生を間違ってしまったようです。良かれと思っても、余計なお世話はしない方が良いようです。良い大学に入るように仕組んでしまって、本当に申し訳ないです。
本当かどうかはわかりませんけど、(インスピレーションで教えられたことに基づきますと)その子は、その後、学力が分不相応だったために科目でC判定ばかりが出てかろうじて卒業するものの、プライドがあるので良い会社の面接をたくさん受けても成績が悪いのと傲慢さが表情に出てしまっていたためにことごとく落とされて第一希望のみならず各種の上場企業も全落ちししたようです。田舎からすれば東京にあるそれなりに良い大学とはいえ、東京の中で比べたら割と普通の大学で、良い会社は性格の良し悪しも見ますから、傲慢な女性はとってもらえなかった、ということのようです。面接の時くらい大人しくもしていられないくらい顔に出ていた、ということだと思います。
その子は彼氏もいたのですがその子の傲慢さに男の方に嫌気が出て捨てられて、就職もまともにできず、そこそこの会社ならいくらでもとってくれたでしょうにプライドがそれを許さず、小さい会社での仕事は不満だらけで、あまり続かなかったようです。そして田舎の実家の料理屋も古くなってきて廃業し、実家にも帰れず、困り果て、プライドがあるので生活レベルを落とすことはできなくて、(本当かどうかはわかりませんけど)その後、闇堕ちして、裸になって子作りのようなことをする夜のお仕事をして人生を呪ってしまうようになったようです。
これも、元を辿れば、不相応の大学に入ってしまったことが原因で、相応の大学に入って普通の大学生活を送って、会うべき人と会っていればこんなことにはならなかった、偏差値がなまじ良い大学に入ったがために人生を狂わせた、ということのようです。本当かどうかは分かりませんけど、色々な場面で、そういう情報が降りてきましたのでメモです。
まあ、そうは言いましても、物語として出来すぎていますので、私の妄想かな、という気も致します。一応メモです。妄想ではあっても、教訓として、偏差値を基準にした余計なお節介はしない方が良い、というのはその通りかと思いますので、そのことを教えるために何か都合の良い素材を頭の中から引っ張り出して使って、分かりやすい物語として(悪魔が)見せてくれた、というくらいのお話のようにも思います。
実のところ、この種の、他人への要らぬお節介はしない方が良くて、私の(幽体離脱した状態の)高次の意識(スピリット)は手助けのつもりで大学合格を手伝ってあげたのですけど、後からガイド等に言われたことが、「そんな、偏差値なんてどうでもいい。あの子は、本来行くべき大学があったのにそこに行かず、計画が狂った。確かにいい大学といえばそうだが、本来行くべき大学には出会うべき人がいたのに、偏差値の違いにより、プライドが凝り固まっていて偏見で相手を見てしまい、一度はその相手に会ってもすれ違いになってしまった。あの大学に行っても会うべき人と良い関係を作れなくなり、孤立してしまった。自尊心が拡大し、傲慢になり、謙虚に生きるのが難しい状態になった。人生の計画が狂った。お前(の高次のスピリット)は、余計なことをした。試験の手助けなどするべきではなかった」と言って、それなりに怒られました。大学の偏差値ではなく、もともと行くべき大学あって、そこに行くべきだった、と言うことのようです。思えば、その子は大学に入ってから田舎の同級生とは疎遠になったようで、どうも、ちょっと違う方向へと意識が向かってしまい、人生を間違ってしまったようです。良かれと思っても、余計なお世話はしない方が良いようです。良い大学に入るように仕組んでしまって、本当に申し訳ないです。
本当かどうかはわかりませんけど、(インスピレーションで教えられたことに基づきますと)その子は、その後、学力が分不相応だったために科目でC判定ばかりが出てかろうじて卒業するものの、プライドがあるので良い会社の面接をたくさん受けても成績が悪いのと傲慢さが表情に出てしまっていたためにことごとく落とされて第一希望のみならず各種の上場企業も全落ちししたようです。田舎からすれば東京にあるそれなりに良い大学とはいえ、東京の中で比べたら割と普通の大学で、良い会社は性格の良し悪しも見ますから、傲慢な女性はとってもらえなかった、ということのようです。面接の時くらい大人しくもしていられないくらい顔に出ていた、ということだと思います。
その子は彼氏もいたのですがその子の傲慢さに男の方に嫌気が出て捨てられて、就職もまともにできず、そこそこの会社ならいくらでもとってくれたでしょうにプライドがそれを許さず、小さい会社での仕事は不満だらけで、あまり続かなかったようです。そして田舎の実家の料理屋も古くなってきて廃業し、実家にも帰れず、困り果て、プライドがあるので生活レベルを落とすことはできなくて、(本当かどうかはわかりませんけど)その後、闇堕ちして、裸になって子作りのようなことをする夜のお仕事をして人生を呪ってしまうようになったようです。
これも、元を辿れば、不相応の大学に入ってしまったことが原因で、相応の大学に入って普通の大学生活を送って、会うべき人と会っていればこんなことにはならなかった、偏差値がなまじ良い大学に入ったがために人生を狂わせた、ということのようです。本当かどうかは分かりませんけど、色々な場面で、そういう情報が降りてきましたのでメモです。
まあ、そうは言いましても、物語として出来すぎていますので、私の妄想かな、という気も致します。一応メモです。妄想ではあっても、教訓として、偏差値を基準にした余計なお節介はしない方が良い、というのはその通りかと思いますので、そのことを教えるために何か都合の良い素材を頭の中から引っ張り出して使って、分かりやすい物語として(悪魔が)見せてくれた、というくらいのお話のようにも思います。
人の皮を被った獣はエネルギーヴァンパイアで人になる
執拗に近づいてきてあれこれ理屈をつけて納得させた上で、「いい人」とオーラを交換することで獣は人になれるのです。逆に、「いい人」は獣のオーラを押し付けられたことにより数十年単位でメンタルの不調を抱えることになります。
獣こそが「人との交流は大事」と言い、世間やマスコミはたまたリベラルの教育者がそれに同調することによりそれが正しいかのように皆が思い込まされていますけど、それは、獣の方から見た論理な訳です。奪い取る側こそがこのようなことを言って、本来は平穏で暮らせる筈の「いい人」からエネルギーを奪い取るのです。
ですから、守る側の論理としては「獣とは関わらない」とすべきであり、確かに「人同士」であれば同じレベルですから関わりも良いでしょうけど人と獣は混ざり合う必要はないのです。
犬や猫などの愛玩動物がいますけど割と犬や猫はいい波動だったりすることも多いですが、人の皮を被った獣は愛玩動物よりも酷くてハイエナのようなものですから関わらない方が良いのです。
私の場合、具体例で言いますと、小学校の頃に、知恵遅れでいつも情緒不安定でぶつぶつとずっと何か言っていた子を(先生の采配で)隣の席にずっと座らされたことがあって、その時、半年以上の長期間に渡ってずっとオーラを吸い取られ続けて、隣にいると、とにかく疲れて疲れてたまらなくて、逆に、その子は時間が経つにつれてどんどんと元気になっていって情緒不安定が治っていった、ということがありました。学校の先生はその子の情緒不安定が治ってきて喜んでいましたけど長期間に渡ってオーラを吸われ続けた私は被害者ですから、何もいいことがなかったのです。その後、その子の情緒不安定さがある程度まで私に移ってきてしまい、私は勉強や物事に集中するのがなかなか難しくなり、成績も落ちました。とにかく、私にとっては酷いことしかなかったわけです。
はたまた、就職した際に私が配属になった部長がメンタル不安定で、何かあるとすぐにフロア全体に響き渡るような声で怒鳴りつけてブチギレるような人で、とにかく関わり合いたくなかったのですけど、そのうち私が疲れてきてしまって、その部長の圧力に屈しそうになって、ついつい、部長の理屈に「同意」をしてしまったのです。それまでは線を引いていて、とにかくこの部長と(オーラが)接触しないように気をつけていたのですが、社交辞令が半分だったかとは思いますが、たとえ社交辞令であったとしても「同意」を多少でもしてしまうと、そこでオーラの「交換」がなされるようなのです。その時、明らかに私にはわかったのですけど、その部長と私との間にオーラの線ができてしまい、あの部長のメンタル不安定のオーラの一部が私に入ってきて、逆に、私のオーラがあの部長の中に入っていき、その結果、私はメンタル不安定になって、逆に、あの部長は「ちょっとだけ」メンタルが安定していい人になったのです。その部長は状況がわかっていたのかどうかわかりませんけど、あの部長としては部下の面倒を見てやったつもりだったのかもしれないですけど私からしたらいい迷惑で、被害しかないわけです。その部長は、それまではパワハラし放題でしたけど、ちょうどその時に中途で入ってきた人からは「あの部長はいい人だな」とか言われていて、私は実は色々とその部長に言ったことがその部長にはそれなりに応えたらしく、その上、私のオーラをもらったことで一時的に「いい人」になったようでした。私はその部長と関わり合いを持ちたくなかったのですけど、あまりにも執拗にネチネチとブチギレるものですから私は疲れてしまい、ついつい、「(部長、貴方は)生理的に受け付けない。気持ち悪い。」と本音を言ったら、いつも怒鳴りまくっているパワハラ部長であってもそう言われたら流石にショックらしく、ちょっと態度を見直したようです。ですが、そういう人の本質は変わらないようで、私が耐えきれずにその会社を辞めた以降もパワハラを行ったようで、退職に追い込まれたとかなんとかいう噂を聞きましたけど本当のことかどうかはわかりません。
そのように、獣のような人はいて、色々と理屈をつけて「共感」を取り付けてエネルギーヴァンパイアしようとしてきますけど、獣とは関わらない方が良いのです。はたまた、自分が導いてあげよう、などという高慢な邪な気持ちはほぼ必ず失敗しますから、世界が違うのですから放っておけば良いのです。おそらく、導く、というのは、自分が一旦、そのレベルまで落ちないとできないのです。自分が高みにいたまま導いてあげよう、などというのはスピリチュアル的な傲慢なようにも思います。導くなら、自分もその立場に一度落ちて、そこから一緒に高みを目指すというのならありだと思いますが、そこまでして助けよう、などという人はほとんどいないのではないでしょうか。自分が高いところから見下ろして導く、などというのは傲慢だということであれば、世界が違うのですから放っておくのが良いと思います。
人生は全て完璧なのですから、それぞれ、違う世界で生きればいいのです。そんな獣の人生であっても、獣同士であればそれは問題がないのです。人が獣の世界に関わる必要はないのです。獣同士が喧嘩をしていても、それを人間は基本的には関与しないのと同じことです。
獣こそが「人との交流は大事」と言い、世間やマスコミはたまたリベラルの教育者がそれに同調することによりそれが正しいかのように皆が思い込まされていますけど、それは、獣の方から見た論理な訳です。奪い取る側こそがこのようなことを言って、本来は平穏で暮らせる筈の「いい人」からエネルギーを奪い取るのです。
ですから、守る側の論理としては「獣とは関わらない」とすべきであり、確かに「人同士」であれば同じレベルですから関わりも良いでしょうけど人と獣は混ざり合う必要はないのです。
犬や猫などの愛玩動物がいますけど割と犬や猫はいい波動だったりすることも多いですが、人の皮を被った獣は愛玩動物よりも酷くてハイエナのようなものですから関わらない方が良いのです。
私の場合、具体例で言いますと、小学校の頃に、知恵遅れでいつも情緒不安定でぶつぶつとずっと何か言っていた子を(先生の采配で)隣の席にずっと座らされたことがあって、その時、半年以上の長期間に渡ってずっとオーラを吸い取られ続けて、隣にいると、とにかく疲れて疲れてたまらなくて、逆に、その子は時間が経つにつれてどんどんと元気になっていって情緒不安定が治っていった、ということがありました。学校の先生はその子の情緒不安定が治ってきて喜んでいましたけど長期間に渡ってオーラを吸われ続けた私は被害者ですから、何もいいことがなかったのです。その後、その子の情緒不安定さがある程度まで私に移ってきてしまい、私は勉強や物事に集中するのがなかなか難しくなり、成績も落ちました。とにかく、私にとっては酷いことしかなかったわけです。
はたまた、就職した際に私が配属になった部長がメンタル不安定で、何かあるとすぐにフロア全体に響き渡るような声で怒鳴りつけてブチギレるような人で、とにかく関わり合いたくなかったのですけど、そのうち私が疲れてきてしまって、その部長の圧力に屈しそうになって、ついつい、部長の理屈に「同意」をしてしまったのです。それまでは線を引いていて、とにかくこの部長と(オーラが)接触しないように気をつけていたのですが、社交辞令が半分だったかとは思いますが、たとえ社交辞令であったとしても「同意」を多少でもしてしまうと、そこでオーラの「交換」がなされるようなのです。その時、明らかに私にはわかったのですけど、その部長と私との間にオーラの線ができてしまい、あの部長のメンタル不安定のオーラの一部が私に入ってきて、逆に、私のオーラがあの部長の中に入っていき、その結果、私はメンタル不安定になって、逆に、あの部長は「ちょっとだけ」メンタルが安定していい人になったのです。その部長は状況がわかっていたのかどうかわかりませんけど、あの部長としては部下の面倒を見てやったつもりだったのかもしれないですけど私からしたらいい迷惑で、被害しかないわけです。その部長は、それまではパワハラし放題でしたけど、ちょうどその時に中途で入ってきた人からは「あの部長はいい人だな」とか言われていて、私は実は色々とその部長に言ったことがその部長にはそれなりに応えたらしく、その上、私のオーラをもらったことで一時的に「いい人」になったようでした。私はその部長と関わり合いを持ちたくなかったのですけど、あまりにも執拗にネチネチとブチギレるものですから私は疲れてしまい、ついつい、「(部長、貴方は)生理的に受け付けない。気持ち悪い。」と本音を言ったら、いつも怒鳴りまくっているパワハラ部長であってもそう言われたら流石にショックらしく、ちょっと態度を見直したようです。ですが、そういう人の本質は変わらないようで、私が耐えきれずにその会社を辞めた以降もパワハラを行ったようで、退職に追い込まれたとかなんとかいう噂を聞きましたけど本当のことかどうかはわかりません。
そのように、獣のような人はいて、色々と理屈をつけて「共感」を取り付けてエネルギーヴァンパイアしようとしてきますけど、獣とは関わらない方が良いのです。はたまた、自分が導いてあげよう、などという高慢な邪な気持ちはほぼ必ず失敗しますから、世界が違うのですから放っておけば良いのです。おそらく、導く、というのは、自分が一旦、そのレベルまで落ちないとできないのです。自分が高みにいたまま導いてあげよう、などというのはスピリチュアル的な傲慢なようにも思います。導くなら、自分もその立場に一度落ちて、そこから一緒に高みを目指すというのならありだと思いますが、そこまでして助けよう、などという人はほとんどいないのではないでしょうか。自分が高いところから見下ろして導く、などというのは傲慢だということであれば、世界が違うのですから放っておくのが良いと思います。
人生は全て完璧なのですから、それぞれ、違う世界で生きればいいのです。そんな獣の人生であっても、獣同士であればそれは問題がないのです。人が獣の世界に関わる必要はないのです。獣同士が喧嘩をしていても、それを人間は基本的には関与しないのと同じことです。
学校の道徳で「仲良くしましょう」と言うお話に同意すると苦労する
これは子供たちごちゃ混ぜの動物園状態にしてリベラルの思想を持った大人たちが自己満足して子供達が苦労するというお話か、あるいは、これまた理屈だけのお話で「ごちゃ混ぜにすることで均一にする」(そんなこと起こるわけがない)という前提のお話ですから、それに真面目に付き合ってリベラルの自己満足に付き合う必要はないのです。
このようなお話に「同意」してしまって自分をわざわざ動物園の混乱の渦に陥れる必要はないのです。このようなことを言われても、人には自由意志がありますから、それを受け入れるかどうかの選択があるわけです。ですが、学校などで何度も何度も執拗に言われたり当然かのような同調圧力を受けたりすると自分の自由意志よりも同調圧力を優先してしまうことがよくあり、その結果、このようなお話に「同意」してしまうと困難な人生を強いられることになります。
それに、「同意」してしまうとオーラ的にも多大な悪影響が出ます。動物園の獣のような人間、人の皮を被った人間たちと「仲良くしましょう」と言うことに半強制であろうと言えども一旦「同意」をしてしまうと、その結果、獣のようなオーラを持つ人たちと、自分の間にオーラの線ができてしまいます。その結果、獣のようなオーラが自分の体に入り込んできてしまうのです。一方、自分のまともなオーラが獣たちの中に入っていって、獣たちは多少なりとも「まとも」になります。一方、自分はというと獣のオーラが入ってきてしまって、それは一旦混ざり合ってしまうと抜くことが基本的にはできませんから、相当の長い期間に渡って苦労することになります。
このようなお話に「同意」してしまうと、獣のような人間と同一化してしまうわけです。
ですから、最初から「同意」しないことです。リベラルな大人の勝手な理屈と自己満足と不見識さに付き合う必要は全くないわけです。
そのことで、リベラルな先生から「よくない子」「反抗する子」とか思われるかもしれませんけど、学校の成績がそこそこ良ければ放っておかれますから、リベラルの先生の意味不明な論理とは距離を置くのが良いと思われます。
このようなお話に「同意」してしまって自分をわざわざ動物園の混乱の渦に陥れる必要はないのです。このようなことを言われても、人には自由意志がありますから、それを受け入れるかどうかの選択があるわけです。ですが、学校などで何度も何度も執拗に言われたり当然かのような同調圧力を受けたりすると自分の自由意志よりも同調圧力を優先してしまうことがよくあり、その結果、このようなお話に「同意」してしまうと困難な人生を強いられることになります。
それに、「同意」してしまうとオーラ的にも多大な悪影響が出ます。動物園の獣のような人間、人の皮を被った人間たちと「仲良くしましょう」と言うことに半強制であろうと言えども一旦「同意」をしてしまうと、その結果、獣のようなオーラを持つ人たちと、自分の間にオーラの線ができてしまいます。その結果、獣のようなオーラが自分の体に入り込んできてしまうのです。一方、自分のまともなオーラが獣たちの中に入っていって、獣たちは多少なりとも「まとも」になります。一方、自分はというと獣のオーラが入ってきてしまって、それは一旦混ざり合ってしまうと抜くことが基本的にはできませんから、相当の長い期間に渡って苦労することになります。
このようなお話に「同意」してしまうと、獣のような人間と同一化してしまうわけです。
ですから、最初から「同意」しないことです。リベラルな大人の勝手な理屈と自己満足と不見識さに付き合う必要は全くないわけです。
そのことで、リベラルな先生から「よくない子」「反抗する子」とか思われるかもしれませんけど、学校の成績がそこそこ良ければ放っておかれますから、リベラルの先生の意味不明な論理とは距離を置くのが良いと思われます。
人は、悲しすぎる時に笑顔になる
お目当ての子も含めて複数人で食事をしている時にとても辛くなって、気になる子には何故か自分が素っ気ない態度を取ってしまって誤解されて、自分の態度が原因であるのにも関わらずそっぽを向かれて悲しくなって、それでいて、他の子にも自分というものがそこまで相手にされずに表面上の作り笑顔をされているのと同時に偏差値が下に見られて社交辞令の笑顔でスルーされている状況が情けなくて耐えきれなくて、どうしようもなくて最初は精神衰弱になるわけですけど、一定の閾値を超えて耐えられなくなると、笑顔になるのです。笑顔でいなければ精神が崩壊してしまうほど感情は一杯一杯で、その時、私の心はというと「あぁ、もう、耐えきれないけど・・・。まだ2時間近く時間はあって、せっかく来たこの子達と何も喋らないのも何だし、つまらない思いをさせて返してしまうのは申し訳ない。もう、せめてもの、おもてなしをしよう。そして、帰ろう」と思ったように思います。そして、精神崩壊寸前のところで笑顔になって、にこやかに、「ご趣味は何ですか?」みたいに話を戻して、その子達は困惑して顔が少し強張りつつも、なんとか、少しずつ打ち解けてくれたように思います。それでも、私の精神がそんな状況でしたから恋愛なんて無理かなとも思っていたわけですけど、実のところ、そのような精神衰弱の状態であれば、相手方から押せば私は簡単に落ちた状態だったように思うのです。とは言いましても女性の方から積極的になることなんて少ないですからその時は何もなかったですけど、逆の立場で、打ちひしがれている女性がいたら、男性が優しくしてあげれば良い子も簡単に落ちるかのような(逆の立場での)精神状態だったように思います。その私の姿を見て本命の子は困惑していましたけど、もしかしたら、悲しくて笑顔になっている状況を、ただ単純に、他の子たちに対して笑顔になっているかのように解釈されてしまったかもしれませんね。そう言うことではないのですけど、笑顔というものは解釈が難しいように思います。自分ですら自分の笑顔の理由を当時はよく理解できないでいましたし、ましてや、周囲から見て笑顔の理由を読み取るのはなかなか難しいように思うのです。この時の笑顔の特徴を言葉で表すなら「ガチャピンの目」になっているところでしょうか。
今から思えば、この「笑顔」は、私が母や親戚や同級生から執拗にイジられて嘲笑されて非常に辛くて精神が崩壊しかけていた時に自然に「笑顔」が出ていた時と同じだったように思うのです。この時、私は、自分が受け入れてもらえない悲しさと辛さ、誤解されてしまってそのまま関係性の修復が不可能だと悟ったことによる悲しさで精神が崩壊しかけ、そして「笑顔」を作っていたように思うのです。その視線はあの時に一緒だった女の子たちに一応は向けられていましたけど、それは決して、恋愛によって笑顔になっていたわけではなく、本命の子に理解されていなくて誤解されていたが故の悲しさで笑顔になっていたのであって、実のところ、こんな回りくどいことせずに、本命ならばズバリと言葉で言えば良かったと今なら思うわけですけど、当時は自己肯定感も低かったですし、そもそも、自分の気持ちすら自分でうまく解釈できなくて、ですから、自分が本当に誰が好きなのか、自覚すらしていなかったのです。結局、笑顔でいたり、はたまた、感情を抑えてクールにしていられることができずに最後に悲しい感情が込み上げてきて抑えきれずに爆発してしまって変な姿を見せてしまい、そんなんですから一緒だった子たちには不思議がられただけで、もちろん、そのまま何もなかったのですけど、今から思えば、こういうことだったのかなと思うわけです。自分の感情と気持ちすら理解できていない人に恋愛は難しいのかなと思います。まあ、そのように難しいからこそ恋愛できる機会は貴重だということも言えるかもしれませんが。
きっと同じように、私以外にも、虐められている人が「喜んで」いるかのように見える場面というのはあると思うのです。このように、精神が崩壊しかけていて神経衰弱になっている時に感情が耐えきれなくなって、感情が壊れてしまって「笑顔」になっている時があるように思うのです。人の気持ちというものがよくわからない人は他人の笑顔を見て単に「喜んでいる」と解釈し、例えば、人の気持ちがわからないイジメっ子などは「虐められている人は、喜んでいた」とか釈明したり、はたまた、いじめっ子がいじめられっ子に対して「俺が好きなのだろ? お前ホモだろ?」とか勘違いの釈明をしますけど、実のところ、精神が崩壊していると「笑顔」になるように思うのです。そうでもして感情のバランスを取らなければそのまま精神が本当に崩壊して気が狂ってしまうほどに辛い思いをしているからこそ、自分の精神を守るようにして「笑顔」になるように思うのです。それを見て、いじめっ子は「喜んでいる」と解釈したり、はたまた、勘違いにも程があるのですが「自分が好きなのだろ? ホモみたいに笑って気持ち悪い奴だ」みたいに思ってイジリがエスカレートするわけです。人の気持ちを理解できないような獣のような人間はこの世に大勢いるもので、この種の「悲しい笑顔」を全くと言って良いほど理解できない人も、世間には大勢いるわけです。
一般的にはそのようなことがあって、類似の状況として、特に虐められていたというわけではないにせよ、とても自分が情けないと思うような状況に置かれると同じように非常に悲しくなって、ついつい「笑顔」になってしまう、という点は同じなのかなと思うのです。
ちなみに、当時、会に誘ってくれた男の同期から「私が(本命の方ではなく)別の方の二人を好きなのか」と勘違いされたのですが、私がこうして悲しい笑顔をしていたからでした。悲しい笑顔でも、傍目には「好き」の笑顔に見えたりするようです。
似たようなお話で、マザコンは一般的には母ベッタリの気持ち悪い男として理解されていまけど、おそらくそれは同じ文脈で理解できて、母との関係の間に(母からの)虐めがあることが基本にあって、母親ですから情がありつつも虐められているのでかなりの部分で子供としてはかなり極限まで悲しいから表面上は笑顔でいて仲が良いように見えるのかなと思うわけです。そのいびつな愛情が故にマザコンは気持ち悪く周囲から見えるのではないかと思うのです。子供は母から虐待に近い虐めを受ける一方で、母の思い通りになってさえいれば一応の愛情は受けることができますので愛情も一応はあって、それでいて、子供からしたら母親に見捨てられそうになっていて悲しくて精神が崩壊しそうになりつつも、その悲しい感情が自分の精神を崩壊させてしまわないよう「悲しい笑顔」をしていて、でも、傍目にはそれは悲しい笑顔のようには見えなくて単純に「好き」の笑顔に見えて、それを見た母親はその笑顔に喜んで、子供の方からしても、母親が自分のことを見てくれている、母親が自分を見捨てないでいてくれることに対して歪んだ喜びを感じるというような状況、それがマザコンのようにも思うのです。マザコンは世間で言われているように「母のことが好き」な状態というよりは精神が壊れている病気の状態のように思うのです(あくまでも個人的な意見です)。
また、マザコン状態で母から精神が縛られている場合には、「興味を持っている女性に視線が定期的に向いてそれっぽい態度を取るが、母からの許可がないので行動できない。母からの反応が怖くて母に話すことができない」という異常な状態になります。一般的に言われているように、マザコン男は最低で、マザコン男の相手はしない方が良いわけです。マザコン男と付き合おうとしても時間がかかったり結局誘われなかったり、母の束縛を解くのに時間がかかったり、はたまた、母に変わって彼女から束縛されたいという歪んだ欲望を叶えようとしてきますから女性も苦労しますし、結局、そんな恋は上手くいかないのです。マザコンは精神の病なのですから、まず病気を治療してからでないと恋愛は難しいと思います。
おそらくこれは必ずしも母親と男の子供の間で起こるわけではなくて、母親と女の子との間でも似たような状況は起こるように思います。母親と女の子との間の依存関係も意外にマザコンと似ているのではないかと今なら思うのですけど、私は男ですのでこの女の子のパターンに関してはあくまでも推測になります。男にせよ、女にせよ、親の束縛を受けている子供は自分のやりたいことができず、良い子の場合は親に合わせてマザコンになるか親と一緒にいる依存性の女の子になったり、あるいは、子供が親や人生から逃げて引きこもりになることもあるように思います。その時、ある程度の愛情を最初から知っている人なら「悲しい笑顔」になるように思うのです。愛情を知らない子供の場合はそのような「悲しい笑顔」にならず、ただ単に引きこもったり怒り狂ったり暴力を振るうように思うのです。愛情を知らなければ学校においても「悲しい笑顔」なんていう周囲から理解するのが難しい状態にならず、ただ単純にわかりやすく束縛を離れるために暴力を振るったりするように思います。子供にもともと暴力の素養がある場合には「悲しい笑顔」にあまりならないように思うのです。子供がおかしくなるのは、おそらくは、親の虐めが最初にあるように思うのですが、親に虐められたとしても子供に暴力の素養がなければ大人しくして「悲しい笑顔」をしますし、素養があれば親から虐められたときに暴力で仕返しをすることもあるでしょうが、そもそも、親が優しくても子供に暴力の素養があれば暴力を振るうようになるかもしれません。親だけが酷いのか、それとも、親も子供も酷いのか、というパターンで複数に分けることができるように思います。とは言いつつも、子供が時折キレたとしても、酷い親の環境にいたらある程度子供がキレるのは仕方がない面もあるように思います。昨今では子供が暴力を振るったらすぐに隔離されて施設に入れられると言いますけど、親が原因のことも多々あるのに子供だけ隔離させるなど、なかなか可哀想に思います。他の子供への悪影響を避けるためには隔離も理解できなくはないですけど、施設に入れられて人生終了に近い状況になるのは救いがありません。
そして、このような束縛を離れるために反抗期で反抗が可能であればその時期に反抗して子供は自由になりますが、反抗期になるべき時期に両親に強く押さえつけられて精神崩壊してしまうとその後に上記のようにマザコンになって「悲しい笑顔」をするようになり、自由意志を失うように思うのです。母依存の娘になる場合もおそらく同じですかね。その状態で恋愛など不可能とも言えて、恋愛するのに母の意見を聞いたりデートに母が口を出したり付いてきたり、母が良いと言った相手なら付き合うなんていう気持ち悪い状況はこのような母の束縛と精神の病が原因であるように思えるのです。世間で言われているようにマザコン男とか母に依存している女には関わらない方が良いと思うのです。母が相手を気に入れば子供は結婚できますが、気に入らないと無理なわけです。
他には、私の身近な例で言いますと、父方の祖母とその娘(私から見ると従兄弟のおばさん)の間柄がおそらくそれで、父方の祖母と祖父がその娘をおかしいくらい溺愛していて祖父と祖母はお金をその娘にばかり使い込んでいて私の家族の方からは搾取される一方でした。
そのように、これを基本形として捉えると各種の不思議な状況もよく理解できるわけです。
今から思えば、どうして私の家族が父方の祖母と祖父からそこまで可愛がられないのかがよくわかります。基本的に、祖母にせよ祖父にせよ父にせよ、割と同じパターンで理解できるのです。表面上は「不道徳な人」として今まで理解してきて「不道徳な人とは付き合ってはいけない」という文脈で父方の祖父と祖母を今まで理解してきたわけですけど、それよりも、今回の文脈に沿って、祖父と祖母はその娘(私から見ると叔母)を束縛してコントロールできているから可愛いのです。父は一見すると自由人でしたがそれは自分が自由という意味で、父はその両親(私から見ると祖父と祖母)からは自由でいましたから、そうであればもちろん、コントロールできないわけですから祖父と祖母からしたら父は可愛くないわけです。それは当然であると言えます。父は自分は自由人であるのにも関わらず自分の子供、それは私に対しては束縛をしてきましたから、これまた同じ文脈で理解できて、父は束縛している限りにおいて子供が可愛いのです。父にせよ母にせよ、祖父にせよ祖母にせよ、同じ文脈、「束縛できている限りにおいては可愛い」という法則が成り立つわけです。この理解はとてもスッキリしますし、ただ単に「不道徳な人とは付き合ってはいけない」という理解よりも深い理解なわけです。ですから、1世代ごとあるいは兄妹など割と交互にそれは現れて、父と祖父・祖母の間が疎遠ならば父と子供(私)の間が束縛の関係、というように、束縛される関係、あるいは、離れる関係、というように「束縛できるから可愛い」と「束縛できないから可愛くない」が交互に現れるように思うのです。私の場合、最初は父から多少は可愛がられてはいたと思いますが、私が父からの束縛から離れたら急にそっけなくなって、実家に帰ってもあまり話さなくなりました。まあ、束縛の愛なんてそんなものだと思います。
母の束縛というのは、直接的に虐めたり指示するだけではなく、子が母の望まない行動を取ったり取ろうとするとヒステリーになって喚き散らし、しいては急にそっけない態度を取り始めて興味を失い、「もう勝手にしろ」と言って不貞腐れ、返事もしないようになり、それでいて母は鬱のようになって悶々として子に対する怒りと憎しみを募らせて呪いにまで発展しそうになります。その呪いが積もり積もってやがては自分に降り注ぐことを感じ取った子は恐ろしくなって、その呪いに屈するが如く、「私が悪かった」と観念し、母の言う通りにする、あるいは、なるべく努力するように改心すると母は多少機嫌を良くし、「ほらみろ、母が正しいでしょ」と言うような勘違い発言で自身の決断と行動を肯定するのです。その後も母は鬱とイラつきを繰り返して子供を悩ませます。母に怒られるだけならともかく呪われてはたまらないと、仕方なく子供は母に従い、やがて、思考力を失ってゆき、そして「(母にとって)良い子」が出来上がるわけです。それがマザコン男だったり母べったり女だったりするわけです。これは母の呪いでもありますが、病気なのはむしろ母なわけです。しかし一般的には子がおかしいと見られ、子は悩みますが、子を呪うような母など放っておけば良いのです。あるいは、大学卒業するまで授業料だけ出してもらってあとはスルーするくらいでもいいと思うのです。こういうことを表立って言うと「親のことをそんなふうに言うなんて、なんて酷い子供なんだ」と思われるかもしれないですけど、明らかにこの場合は親の方が悪いのです。私も長年、道徳的風習と同調圧力によりこのような声を出せずにいました。私が悪いものかとずっと思い込まされてきましたけど、どう考えても私は悪くはないのです。子を呪って行動を制限して鬱になったりするような親など最低限の社交辞令の付き合いで十分だと思います。
今から思えば、この「笑顔」は、私が母や親戚や同級生から執拗にイジられて嘲笑されて非常に辛くて精神が崩壊しかけていた時に自然に「笑顔」が出ていた時と同じだったように思うのです。この時、私は、自分が受け入れてもらえない悲しさと辛さ、誤解されてしまってそのまま関係性の修復が不可能だと悟ったことによる悲しさで精神が崩壊しかけ、そして「笑顔」を作っていたように思うのです。その視線はあの時に一緒だった女の子たちに一応は向けられていましたけど、それは決して、恋愛によって笑顔になっていたわけではなく、本命の子に理解されていなくて誤解されていたが故の悲しさで笑顔になっていたのであって、実のところ、こんな回りくどいことせずに、本命ならばズバリと言葉で言えば良かったと今なら思うわけですけど、当時は自己肯定感も低かったですし、そもそも、自分の気持ちすら自分でうまく解釈できなくて、ですから、自分が本当に誰が好きなのか、自覚すらしていなかったのです。結局、笑顔でいたり、はたまた、感情を抑えてクールにしていられることができずに最後に悲しい感情が込み上げてきて抑えきれずに爆発してしまって変な姿を見せてしまい、そんなんですから一緒だった子たちには不思議がられただけで、もちろん、そのまま何もなかったのですけど、今から思えば、こういうことだったのかなと思うわけです。自分の感情と気持ちすら理解できていない人に恋愛は難しいのかなと思います。まあ、そのように難しいからこそ恋愛できる機会は貴重だということも言えるかもしれませんが。
きっと同じように、私以外にも、虐められている人が「喜んで」いるかのように見える場面というのはあると思うのです。このように、精神が崩壊しかけていて神経衰弱になっている時に感情が耐えきれなくなって、感情が壊れてしまって「笑顔」になっている時があるように思うのです。人の気持ちというものがよくわからない人は他人の笑顔を見て単に「喜んでいる」と解釈し、例えば、人の気持ちがわからないイジメっ子などは「虐められている人は、喜んでいた」とか釈明したり、はたまた、いじめっ子がいじめられっ子に対して「俺が好きなのだろ? お前ホモだろ?」とか勘違いの釈明をしますけど、実のところ、精神が崩壊していると「笑顔」になるように思うのです。そうでもして感情のバランスを取らなければそのまま精神が本当に崩壊して気が狂ってしまうほどに辛い思いをしているからこそ、自分の精神を守るようにして「笑顔」になるように思うのです。それを見て、いじめっ子は「喜んでいる」と解釈したり、はたまた、勘違いにも程があるのですが「自分が好きなのだろ? ホモみたいに笑って気持ち悪い奴だ」みたいに思ってイジリがエスカレートするわけです。人の気持ちを理解できないような獣のような人間はこの世に大勢いるもので、この種の「悲しい笑顔」を全くと言って良いほど理解できない人も、世間には大勢いるわけです。
一般的にはそのようなことがあって、類似の状況として、特に虐められていたというわけではないにせよ、とても自分が情けないと思うような状況に置かれると同じように非常に悲しくなって、ついつい「笑顔」になってしまう、という点は同じなのかなと思うのです。
ちなみに、当時、会に誘ってくれた男の同期から「私が(本命の方ではなく)別の方の二人を好きなのか」と勘違いされたのですが、私がこうして悲しい笑顔をしていたからでした。悲しい笑顔でも、傍目には「好き」の笑顔に見えたりするようです。
似たようなお話で、マザコンは一般的には母ベッタリの気持ち悪い男として理解されていまけど、おそらくそれは同じ文脈で理解できて、母との関係の間に(母からの)虐めがあることが基本にあって、母親ですから情がありつつも虐められているのでかなりの部分で子供としてはかなり極限まで悲しいから表面上は笑顔でいて仲が良いように見えるのかなと思うわけです。そのいびつな愛情が故にマザコンは気持ち悪く周囲から見えるのではないかと思うのです。子供は母から虐待に近い虐めを受ける一方で、母の思い通りになってさえいれば一応の愛情は受けることができますので愛情も一応はあって、それでいて、子供からしたら母親に見捨てられそうになっていて悲しくて精神が崩壊しそうになりつつも、その悲しい感情が自分の精神を崩壊させてしまわないよう「悲しい笑顔」をしていて、でも、傍目にはそれは悲しい笑顔のようには見えなくて単純に「好き」の笑顔に見えて、それを見た母親はその笑顔に喜んで、子供の方からしても、母親が自分のことを見てくれている、母親が自分を見捨てないでいてくれることに対して歪んだ喜びを感じるというような状況、それがマザコンのようにも思うのです。マザコンは世間で言われているように「母のことが好き」な状態というよりは精神が壊れている病気の状態のように思うのです(あくまでも個人的な意見です)。
また、マザコン状態で母から精神が縛られている場合には、「興味を持っている女性に視線が定期的に向いてそれっぽい態度を取るが、母からの許可がないので行動できない。母からの反応が怖くて母に話すことができない」という異常な状態になります。一般的に言われているように、マザコン男は最低で、マザコン男の相手はしない方が良いわけです。マザコン男と付き合おうとしても時間がかかったり結局誘われなかったり、母の束縛を解くのに時間がかかったり、はたまた、母に変わって彼女から束縛されたいという歪んだ欲望を叶えようとしてきますから女性も苦労しますし、結局、そんな恋は上手くいかないのです。マザコンは精神の病なのですから、まず病気を治療してからでないと恋愛は難しいと思います。
おそらくこれは必ずしも母親と男の子供の間で起こるわけではなくて、母親と女の子との間でも似たような状況は起こるように思います。母親と女の子との間の依存関係も意外にマザコンと似ているのではないかと今なら思うのですけど、私は男ですのでこの女の子のパターンに関してはあくまでも推測になります。男にせよ、女にせよ、親の束縛を受けている子供は自分のやりたいことができず、良い子の場合は親に合わせてマザコンになるか親と一緒にいる依存性の女の子になったり、あるいは、子供が親や人生から逃げて引きこもりになることもあるように思います。その時、ある程度の愛情を最初から知っている人なら「悲しい笑顔」になるように思うのです。愛情を知らない子供の場合はそのような「悲しい笑顔」にならず、ただ単に引きこもったり怒り狂ったり暴力を振るうように思うのです。愛情を知らなければ学校においても「悲しい笑顔」なんていう周囲から理解するのが難しい状態にならず、ただ単純にわかりやすく束縛を離れるために暴力を振るったりするように思います。子供にもともと暴力の素養がある場合には「悲しい笑顔」にあまりならないように思うのです。子供がおかしくなるのは、おそらくは、親の虐めが最初にあるように思うのですが、親に虐められたとしても子供に暴力の素養がなければ大人しくして「悲しい笑顔」をしますし、素養があれば親から虐められたときに暴力で仕返しをすることもあるでしょうが、そもそも、親が優しくても子供に暴力の素養があれば暴力を振るうようになるかもしれません。親だけが酷いのか、それとも、親も子供も酷いのか、というパターンで複数に分けることができるように思います。とは言いつつも、子供が時折キレたとしても、酷い親の環境にいたらある程度子供がキレるのは仕方がない面もあるように思います。昨今では子供が暴力を振るったらすぐに隔離されて施設に入れられると言いますけど、親が原因のことも多々あるのに子供だけ隔離させるなど、なかなか可哀想に思います。他の子供への悪影響を避けるためには隔離も理解できなくはないですけど、施設に入れられて人生終了に近い状況になるのは救いがありません。
そして、このような束縛を離れるために反抗期で反抗が可能であればその時期に反抗して子供は自由になりますが、反抗期になるべき時期に両親に強く押さえつけられて精神崩壊してしまうとその後に上記のようにマザコンになって「悲しい笑顔」をするようになり、自由意志を失うように思うのです。母依存の娘になる場合もおそらく同じですかね。その状態で恋愛など不可能とも言えて、恋愛するのに母の意見を聞いたりデートに母が口を出したり付いてきたり、母が良いと言った相手なら付き合うなんていう気持ち悪い状況はこのような母の束縛と精神の病が原因であるように思えるのです。世間で言われているようにマザコン男とか母に依存している女には関わらない方が良いと思うのです。母が相手を気に入れば子供は結婚できますが、気に入らないと無理なわけです。
他には、私の身近な例で言いますと、父方の祖母とその娘(私から見ると従兄弟のおばさん)の間柄がおそらくそれで、父方の祖母と祖父がその娘をおかしいくらい溺愛していて祖父と祖母はお金をその娘にばかり使い込んでいて私の家族の方からは搾取される一方でした。
そのように、これを基本形として捉えると各種の不思議な状況もよく理解できるわけです。
今から思えば、どうして私の家族が父方の祖母と祖父からそこまで可愛がられないのかがよくわかります。基本的に、祖母にせよ祖父にせよ父にせよ、割と同じパターンで理解できるのです。表面上は「不道徳な人」として今まで理解してきて「不道徳な人とは付き合ってはいけない」という文脈で父方の祖父と祖母を今まで理解してきたわけですけど、それよりも、今回の文脈に沿って、祖父と祖母はその娘(私から見ると叔母)を束縛してコントロールできているから可愛いのです。父は一見すると自由人でしたがそれは自分が自由という意味で、父はその両親(私から見ると祖父と祖母)からは自由でいましたから、そうであればもちろん、コントロールできないわけですから祖父と祖母からしたら父は可愛くないわけです。それは当然であると言えます。父は自分は自由人であるのにも関わらず自分の子供、それは私に対しては束縛をしてきましたから、これまた同じ文脈で理解できて、父は束縛している限りにおいて子供が可愛いのです。父にせよ母にせよ、祖父にせよ祖母にせよ、同じ文脈、「束縛できている限りにおいては可愛い」という法則が成り立つわけです。この理解はとてもスッキリしますし、ただ単に「不道徳な人とは付き合ってはいけない」という理解よりも深い理解なわけです。ですから、1世代ごとあるいは兄妹など割と交互にそれは現れて、父と祖父・祖母の間が疎遠ならば父と子供(私)の間が束縛の関係、というように、束縛される関係、あるいは、離れる関係、というように「束縛できるから可愛い」と「束縛できないから可愛くない」が交互に現れるように思うのです。私の場合、最初は父から多少は可愛がられてはいたと思いますが、私が父からの束縛から離れたら急にそっけなくなって、実家に帰ってもあまり話さなくなりました。まあ、束縛の愛なんてそんなものだと思います。
母の束縛というのは、直接的に虐めたり指示するだけではなく、子が母の望まない行動を取ったり取ろうとするとヒステリーになって喚き散らし、しいては急にそっけない態度を取り始めて興味を失い、「もう勝手にしろ」と言って不貞腐れ、返事もしないようになり、それでいて母は鬱のようになって悶々として子に対する怒りと憎しみを募らせて呪いにまで発展しそうになります。その呪いが積もり積もってやがては自分に降り注ぐことを感じ取った子は恐ろしくなって、その呪いに屈するが如く、「私が悪かった」と観念し、母の言う通りにする、あるいは、なるべく努力するように改心すると母は多少機嫌を良くし、「ほらみろ、母が正しいでしょ」と言うような勘違い発言で自身の決断と行動を肯定するのです。その後も母は鬱とイラつきを繰り返して子供を悩ませます。母に怒られるだけならともかく呪われてはたまらないと、仕方なく子供は母に従い、やがて、思考力を失ってゆき、そして「(母にとって)良い子」が出来上がるわけです。それがマザコン男だったり母べったり女だったりするわけです。これは母の呪いでもありますが、病気なのはむしろ母なわけです。しかし一般的には子がおかしいと見られ、子は悩みますが、子を呪うような母など放っておけば良いのです。あるいは、大学卒業するまで授業料だけ出してもらってあとはスルーするくらいでもいいと思うのです。こういうことを表立って言うと「親のことをそんなふうに言うなんて、なんて酷い子供なんだ」と思われるかもしれないですけど、明らかにこの場合は親の方が悪いのです。私も長年、道徳的風習と同調圧力によりこのような声を出せずにいました。私が悪いものかとずっと思い込まされてきましたけど、どう考えても私は悪くはないのです。子を呪って行動を制限して鬱になったりするような親など最低限の社交辞令の付き合いで十分だと思います。
マザコンは母による子への虐待である
マザコンは男の問題であるのはそうなのですけど、むしろ母の問題であり、母による子への虐待であるということが広く認知・理解される社会になれば良いなと思います。少なくとも姑問題で嫁いじりが問題にはなってきましたけど、実のところ根は同じで、姑が嫁を束縛することに対して抵抗が許されるのに、母が子を束縛することに対して抵抗が今だに許されない状況にあります。母の束縛とヒステリーにより母に何も抵抗できない子供はかなり多いと思うのです。そのような子供を解放しなければ結婚も増えないし子供も増えないわけで、実のところ、母の束縛が少子化の要因の1つになっているようにも思うのです。これは、特に多くの母にとっては自分のこととして理解しにくいかもしれないですが、子供が結婚しない、恋愛できない原因が母にあるわけで、しかもそれは母の虐待であるわけですから、本人はそれが躾だとしか思っていないでしょうから虐待と言われても否定するでしょうし、実際、私の母が私の頭を執拗に強く叩いたり食事を与えない状況に対して私の同級生の両親から虐待だと指摘されても母はそれを躾だと弁明していましたから、その事実を受け入れ難いのも仕方がないかもしれません。ですが、母がどのように弁明しようが、それは虐待なのです。執拗に頻繁に叩けばもちろん虐待ですし、(世間的にはそこまで認知されていないとは思いますが)頻繁にヒステリーと怒りで行動を制限してきても姑いびりと同じで(母から子への)虐待と判断できると個人的には思います。
そのような束縛の状態が長く続くと子供の自由意志はなくなって、最初は「悲しさ」がある笑顔でしたがやがて慣れてしまい、その感情が普通になって、「悲しさ」が一見すると表からは消えていって、ただ笑顔のような状態だけが残ってしまい、普通の笑顔と見分けがつかなくなるのです。これは、状況を理解するのが難しいかもしれません。悲しさというのは「拒否」された時に現れますが、拒否されずにずっと相手(母など)の望むように行動していればそのように拒否されることはほとんどなくなり、母の言う通りに動いている限りは拒否されずに「笑顔」だけでいられるのです。そうして、一見すると笑顔である子供が実のところ精神が病んでいて、それが外からは見分けがつかない、と言う状況になっていたりするわけです。
ですから、この種の「悲しい笑顔」に気付けるのは過渡期だけで、安定してしまって子供が母の思い通りに動くようになってしまうと「笑顔」しか残らないので、気付くことが難しいように思います。母からすると「いい子」に見えるので、過渡期を過ぎると子の心の闇に気がつくのが難しくなるわけです。
母は他人を束縛するほど精神が幼くて、子供は「悲しみ」が生じるほど繊細ということは、魂の年齢で言えば子供の方が成熟しているとも言えるわけで、このような場合、肉体の年齢で言うと母がもちろん上ですけど、魂の年齢、魂の成熟度からしたら子供の方が遥かに上なのかもしれません。であれば、魂の幼い母が魂の成熟している子供の気持ちを理解することはほとんど不可能なようにも思います。
そのような束縛の状態が長く続くと子供の自由意志はなくなって、最初は「悲しさ」がある笑顔でしたがやがて慣れてしまい、その感情が普通になって、「悲しさ」が一見すると表からは消えていって、ただ笑顔のような状態だけが残ってしまい、普通の笑顔と見分けがつかなくなるのです。これは、状況を理解するのが難しいかもしれません。悲しさというのは「拒否」された時に現れますが、拒否されずにずっと相手(母など)の望むように行動していればそのように拒否されることはほとんどなくなり、母の言う通りに動いている限りは拒否されずに「笑顔」だけでいられるのです。そうして、一見すると笑顔である子供が実のところ精神が病んでいて、それが外からは見分けがつかない、と言う状況になっていたりするわけです。
ですから、この種の「悲しい笑顔」に気付けるのは過渡期だけで、安定してしまって子供が母の思い通りに動くようになってしまうと「笑顔」しか残らないので、気付くことが難しいように思います。母からすると「いい子」に見えるので、過渡期を過ぎると子の心の闇に気がつくのが難しくなるわけです。
母は他人を束縛するほど精神が幼くて、子供は「悲しみ」が生じるほど繊細ということは、魂の年齢で言えば子供の方が成熟しているとも言えるわけで、このような場合、肉体の年齢で言うと母がもちろん上ですけど、魂の年齢、魂の成熟度からしたら子供の方が遥かに上なのかもしれません。であれば、魂の幼い母が魂の成熟している子供の気持ちを理解することはほとんど不可能なようにも思います。
母による強制を克服する
振り返ると、T大生の子たちとの食事会においても最初は悲しさがあったのですけど、どうせ相手にされないわけだし(と、自己肯定感の低さから勝手に判断して)、だけど時間もあるし、せっかくだからもてなそう、と思って相手が望むように振る舞っていたら私から(悲しい)笑顔だけが見えて、一見すると(本命ではない)2人のことが好きで笑顔でいるかのように見えていたのかなとも思いますが、実のところ、もう既に悲しさを通り抜けてしまっていたのでそのように見えたと思うのです。最初の10分か15分くらいは「悲しい笑顔」をしていたかと思いますが、やがて感情を失って、感情を失いつつも顔は「笑顔」で・・・ というと矛盾しているように聞こえてしまうかもしれませんけど、精神が崩壊して感情を失っているからこそ、自然と無意識に生物的反応によって「笑顔」が出てしまっていたわけです。精神崩壊していたり崩壊しかける状態における笑顔、とも言えるかもしれません。実のところ、既に母との関係においてこの種の「どうでも良い、悲しい」時の「笑顔」は幾度となく作り上げられていましたので、いつものパターンに当てはまって、どこかガチャピンのような悲しい(一見すると悲しく見えないかもしれないですが)笑顔を作っていたのです。そしてそれは多分に相手を勘違いさせたりしますけど、実のところ、本当には笑ってはいない、実のところ悲しいわけです。このような複雑な気持ちは、多分にして、相手の女性からは「めんどくさい人」として捉えられるようで、あまり相手にされることはなく、実際、母からの束縛のあるような男に女は近づくべきではないと思いますので、多くの女性の直感は正しいのだと思います。
このようなところを通り抜けて、理由がなくてもただ幸せ、という恒常的な至福を瞑想やスピリチュアルで長年追い求めてきたように思うのです。
また、この種の母からの強制・マザコンは道徳や世間体にも暗い影を投げかけるのですが、日本人であれば恥の感覚を教えられて「恥じることないように」と言うことを少なからず教えられるわけですけど、母からの束縛を受けている子供の場合、恥の感覚よりも母の束縛から離れることを優先します。例えば道徳的に良くないとされているテストの不正ですとか不健全な性の形ですとか、あるいは、テストにあえて落第して親の期待に対して幻滅させようとします。はたまた、急に海外の長期旅行に出かけて母が望むキャリアから外れることで母を幻滅させたりします。実際、母の束縛がなければそのような行動を取らないような人であっても、母からの束縛を逃れるというその1点のために極端な行動を取って母を幻滅させるのです。道徳や世間体に泥を塗られた母は怒り狂い、得てして「ダメな子」扱いして幻滅しますけど、そうして幻滅して初めて子供に向き合うことができる可能性がある、と言うことを子供の方はよくわかっていますので、まずは母に幻滅してもらうために子供は自分の貴重な時間を長期に渡って無駄にするわけです。その後、母が自分(子供)を捨てるかもしれず、そのリスクはあってもあえて母を幻滅させるのです。本来は子供だけであればすることのなかったであろう愚かな行動を意図的あるいは無意識的に行うことで母の束縛から逃れようとするわけです。その程度は母の束縛がどの程度強いかに比例するように思えて、束縛が強ければ強いほど極端な行動に出るように思います。母に言葉で言っても理解してもらえず、いきなり極端な行動に出なければ母の束縛から離れられないのですから、もう、子供からすればそれが最後の手段だったりします。それが愚かな方向に極端に向かうこともあれば、優秀な人は良い方向に極端に振れたりします。私の知っているとある優秀な人は、おそらくは両親から同じようにかつて束縛されていて最初は親の言う通り銀行に入ったのですけど本当は国連に行きたくて、でも国連に行くためには実務経験や資格が必要で、大学卒業後にそちらに行きたかったのですけれどもその道のりはなかなか難しいので最初は親の期待通りに銀行に入ったけれども銀行で幻滅し、結局は銀行を割とすぐに辞めて親をある意味幻滅させ、その後、本来やりたかった国連に向けて海外の現地採用で経験を積み、難しい資格も取って、更には追加で外国の大学院に行き、その後、見事、国連に就職していました。おそらくは両親からの束縛もあったのかと思いますが、親を幻滅させるにしても、本当に優秀な人は親の期待を超えてくるということだと思います。そこまで行かなくても、あえて失敗して親を幻滅させることで束縛から逃れる、というのはよくある話だと思うわけです。ちなみに、この優秀な男はその後LGBTを公言したのですけど、私から言わせれば、それはメンタルが束縛されているからそう感じるだけで、オーラは明らかに男ですので、メンタルの問題が解消すれば肉体通りの性に彼は戻ると勝手に思っていますので、特に本人にそれを言うわけではないですけど、どうなるか経過観察しているところです。メンタルの不調は性自覚にも結びついていて、自分がLGBTと判断したとしても、実のところ、それは両親からの束縛により性の目覚めが遅れているだけの場合も多々あるように思うのです。
このようなところを通り抜けて、理由がなくてもただ幸せ、という恒常的な至福を瞑想やスピリチュアルで長年追い求めてきたように思うのです。
また、この種の母からの強制・マザコンは道徳や世間体にも暗い影を投げかけるのですが、日本人であれば恥の感覚を教えられて「恥じることないように」と言うことを少なからず教えられるわけですけど、母からの束縛を受けている子供の場合、恥の感覚よりも母の束縛から離れることを優先します。例えば道徳的に良くないとされているテストの不正ですとか不健全な性の形ですとか、あるいは、テストにあえて落第して親の期待に対して幻滅させようとします。はたまた、急に海外の長期旅行に出かけて母が望むキャリアから外れることで母を幻滅させたりします。実際、母の束縛がなければそのような行動を取らないような人であっても、母からの束縛を逃れるというその1点のために極端な行動を取って母を幻滅させるのです。道徳や世間体に泥を塗られた母は怒り狂い、得てして「ダメな子」扱いして幻滅しますけど、そうして幻滅して初めて子供に向き合うことができる可能性がある、と言うことを子供の方はよくわかっていますので、まずは母に幻滅してもらうために子供は自分の貴重な時間を長期に渡って無駄にするわけです。その後、母が自分(子供)を捨てるかもしれず、そのリスクはあってもあえて母を幻滅させるのです。本来は子供だけであればすることのなかったであろう愚かな行動を意図的あるいは無意識的に行うことで母の束縛から逃れようとするわけです。その程度は母の束縛がどの程度強いかに比例するように思えて、束縛が強ければ強いほど極端な行動に出るように思います。母に言葉で言っても理解してもらえず、いきなり極端な行動に出なければ母の束縛から離れられないのですから、もう、子供からすればそれが最後の手段だったりします。それが愚かな方向に極端に向かうこともあれば、優秀な人は良い方向に極端に振れたりします。私の知っているとある優秀な人は、おそらくは両親から同じようにかつて束縛されていて最初は親の言う通り銀行に入ったのですけど本当は国連に行きたくて、でも国連に行くためには実務経験や資格が必要で、大学卒業後にそちらに行きたかったのですけれどもその道のりはなかなか難しいので最初は親の期待通りに銀行に入ったけれども銀行で幻滅し、結局は銀行を割とすぐに辞めて親をある意味幻滅させ、その後、本来やりたかった国連に向けて海外の現地採用で経験を積み、難しい資格も取って、更には追加で外国の大学院に行き、その後、見事、国連に就職していました。おそらくは両親からの束縛もあったのかと思いますが、親を幻滅させるにしても、本当に優秀な人は親の期待を超えてくるということだと思います。そこまで行かなくても、あえて失敗して親を幻滅させることで束縛から逃れる、というのはよくある話だと思うわけです。ちなみに、この優秀な男はその後LGBTを公言したのですけど、私から言わせれば、それはメンタルが束縛されているからそう感じるだけで、オーラは明らかに男ですので、メンタルの問題が解消すれば肉体通りの性に彼は戻ると勝手に思っていますので、特に本人にそれを言うわけではないですけど、どうなるか経過観察しているところです。メンタルの不調は性自覚にも結びついていて、自分がLGBTと判断したとしても、実のところ、それは両親からの束縛により性の目覚めが遅れているだけの場合も多々あるように思うのです。
戦争に負けそうになり悲しすぎて笑顔になる人がいたのではないか
想像ですが、第二次世界大戦末期、おそらくは悲しすぎるので笑顔になっていた人が一定数はいたのではないかと思うのです。
私の祖母が戦争の初期にトラック諸島へ看護婦として赴任しており、当初は良かったが次第に戦況が悪化して祖母が帰った船の後はみんな沈められてしまって、良い時に行ってギリギリ帰ってきたと言っていましたが、楽しい思い出もあったようで、私としては当時それを聞いた時は単純に楽しかったのかなと理解していたのですが、おそらくは、悲しすぎて、その悲しみを和らげるための人間の生理機能あるいは防衛反応として笑顔になるのかなと今なら思うのです。
戦況が悪化すると手当するどころではなくて、診療所に担ぎ入れてから横たわらせて、大丈夫ですかと聞くのが精一杯で次々に人が死んでいったと言います。
その筋で行きますと、知覧の特攻平和会館を見学した時も、末期に「ほがらか隊」という部隊がいたり、一見すると普段通りの装いで特攻に行った人たちが描かれておりますが、私は3回ほど見学していて、若い頃に行った時はそのまま単純に笑顔として受け止めていたのですけど、今になって思うに、この種の笑顔というものは単純な笑顔ではなく、悲しみが限界を通り越してしまったからこそ笑顔で微笑むしかない、という種類のものだと思うのです。
昨今、左翼の方々はいろいろなことをおっしゃいますが、おそらく、これら特攻隊のエリートの方々は学もあって、軍人同士のネットワークもありますから戦況もよく分かっていたことと思います。それでも、死ぬしかない状況に置かれた時にはあれこれ言ってもしょうがなく、笑顔になって死ぬ、と、そういうことなのではないかと思うのです。
そこまで行かなくても、現代において人が生きている上で、悲しすぎるからこそ笑顔になる、という場面はあるように思うのです。絶望に打ちひしがれて笑顔になるしかない、という状況の笑顔は単純に見れば笑顔ですが、人の複雑な感情が入り混じった笑顔であり、そうそう見られるものではないと思うのです。
この極限状態の笑顔を体験した人は、一歩、人として成長できるように思うのです。
そして、体験せずとも、多少なりとも、この種の笑顔を理解することで、自分そして他人の感情への理解が深まるように思うのです。
最初は、単純な怒りや憤りも出てくるかもしれません。どうしようもなく打ちひしがれて、怒りや憤りをしたところでどうしようもない、と察した時に、まず、とてつもなく悲しくなります。
戦争の体験を語る人の中で、怒りや憤りを語る人はまだ初期段階で、それを通り過ぎると、悲しくなると思うのです。
そして、悲しみすらを通り過ぎると、やがて、笑顔になるのです。悲しみが耐えきれないほど深まり、悲しみすらも小さいと思えるほどの絶大な失望感に苛まされて、そして、笑顔になるしかない、という状況なわけです。
これを側から見て、単純に「喜んでいる」と思うのは単純すぎるわけですが、人の感情の機知を知らない人は、他人のこの種の感情を理解できないわけで、例えば、おそらくは虐めなどで「だって、あいつ、喜んでいた」とかいう苛めっ子は、この種の悲しみと笑顔の関係を理解できていないと思うのです。
事業が失敗した時に笑顔になるのも同様で、自信が打ち砕かれてお金も失い、悲しさを通り過ぎて、笑顔になるしかない、という状況があるわけです。
失恋もそういうことがあるかもしれなくて、笑顔になるしかないこともあるかもしれません。
笑顔が単純に笑顔として理解される状況というのは実は実生活にはそれほど多くはなくて、単純な人間だけがそのような単純な笑顔をするわけですけれども、複雑な笑顔というのは、それなりに人生経験を積まないと理解できないと思うのです。単純な人間というものは複雑な笑顔を理解できないわけで、複雑な笑顔を理解できるのは複雑な人間のみなわけです。獣のような野蛮な人間の笑顔というのはそれ相応ですし、複雑な笑顔というのは例えば芸能で舞台に立つ人というものはそのような複雑な笑顔を表現しようとしているわけですが、それを見る側にもそれなりの素養が必要になってくるわけです。
そのように、人生経験を積んだ、それなりの素養のある人こそがこの種の笑顔を理解できるように思うのです。
私の祖母が戦争の初期にトラック諸島へ看護婦として赴任しており、当初は良かったが次第に戦況が悪化して祖母が帰った船の後はみんな沈められてしまって、良い時に行ってギリギリ帰ってきたと言っていましたが、楽しい思い出もあったようで、私としては当時それを聞いた時は単純に楽しかったのかなと理解していたのですが、おそらくは、悲しすぎて、その悲しみを和らげるための人間の生理機能あるいは防衛反応として笑顔になるのかなと今なら思うのです。
戦況が悪化すると手当するどころではなくて、診療所に担ぎ入れてから横たわらせて、大丈夫ですかと聞くのが精一杯で次々に人が死んでいったと言います。
その筋で行きますと、知覧の特攻平和会館を見学した時も、末期に「ほがらか隊」という部隊がいたり、一見すると普段通りの装いで特攻に行った人たちが描かれておりますが、私は3回ほど見学していて、若い頃に行った時はそのまま単純に笑顔として受け止めていたのですけど、今になって思うに、この種の笑顔というものは単純な笑顔ではなく、悲しみが限界を通り越してしまったからこそ笑顔で微笑むしかない、という種類のものだと思うのです。
昨今、左翼の方々はいろいろなことをおっしゃいますが、おそらく、これら特攻隊のエリートの方々は学もあって、軍人同士のネットワークもありますから戦況もよく分かっていたことと思います。それでも、死ぬしかない状況に置かれた時にはあれこれ言ってもしょうがなく、笑顔になって死ぬ、と、そういうことなのではないかと思うのです。
そこまで行かなくても、現代において人が生きている上で、悲しすぎるからこそ笑顔になる、という場面はあるように思うのです。絶望に打ちひしがれて笑顔になるしかない、という状況の笑顔は単純に見れば笑顔ですが、人の複雑な感情が入り混じった笑顔であり、そうそう見られるものではないと思うのです。
この極限状態の笑顔を体験した人は、一歩、人として成長できるように思うのです。
そして、体験せずとも、多少なりとも、この種の笑顔を理解することで、自分そして他人の感情への理解が深まるように思うのです。
最初は、単純な怒りや憤りも出てくるかもしれません。どうしようもなく打ちひしがれて、怒りや憤りをしたところでどうしようもない、と察した時に、まず、とてつもなく悲しくなります。
戦争の体験を語る人の中で、怒りや憤りを語る人はまだ初期段階で、それを通り過ぎると、悲しくなると思うのです。
そして、悲しみすらを通り過ぎると、やがて、笑顔になるのです。悲しみが耐えきれないほど深まり、悲しみすらも小さいと思えるほどの絶大な失望感に苛まされて、そして、笑顔になるしかない、という状況なわけです。
これを側から見て、単純に「喜んでいる」と思うのは単純すぎるわけですが、人の感情の機知を知らない人は、他人のこの種の感情を理解できないわけで、例えば、おそらくは虐めなどで「だって、あいつ、喜んでいた」とかいう苛めっ子は、この種の悲しみと笑顔の関係を理解できていないと思うのです。
事業が失敗した時に笑顔になるのも同様で、自信が打ち砕かれてお金も失い、悲しさを通り過ぎて、笑顔になるしかない、という状況があるわけです。
失恋もそういうことがあるかもしれなくて、笑顔になるしかないこともあるかもしれません。
笑顔が単純に笑顔として理解される状況というのは実は実生活にはそれほど多くはなくて、単純な人間だけがそのような単純な笑顔をするわけですけれども、複雑な笑顔というのは、それなりに人生経験を積まないと理解できないと思うのです。単純な人間というものは複雑な笑顔を理解できないわけで、複雑な笑顔を理解できるのは複雑な人間のみなわけです。獣のような野蛮な人間の笑顔というのはそれ相応ですし、複雑な笑顔というのは例えば芸能で舞台に立つ人というものはそのような複雑な笑顔を表現しようとしているわけですが、それを見る側にもそれなりの素養が必要になってくるわけです。
そのように、人生経験を積んだ、それなりの素養のある人こそがこの種の笑顔を理解できるように思うのです。
束縛による愛は帝国主義における皇帝と臣下
規模は違えども、構造は同じであることがわかります。
・母の子への束縛(による母から子への愛)
・姑の嫁への束縛(による姑の嫁への愛)
・父の子への束縛(による父の子への愛)
・夫の妻への束縛(による夫からの妻への愛)
・妻の夫への束縛(による妻からの夫への愛)
・(帝国主義における)臣下の皇帝への束縛(による皇帝から臣下への愛)
そのいずれも、忠誠を誓っている限りにおいては束縛の愛がある関係であることがわかります。
一方、その内実はというと束縛されている方は従順になっているか、はたまた、反逆を目論んでいたりして緊張関係があるわけです。
忠誠がなければ憎しみに変わる点においても共通です。
例えば、指示に従わない嫁を姑は敵視します。
言うことを聞かない子供を(束縛する系の)母や父は憎しみを持って接します。
束縛する系の夫は妻が言うことを聞かないと憎悪の念を膨らませます。
尻に敷く系の束縛系妻は夫が言うことを聞かないとヒステリーになります。
いずれも同じ構造をしているわけです。
はたまた、完全に精神が奴隷になっている場合は「悲しい笑顔」をしてかろうじて精神崩壊を防ぎつつ一見楽しそうに暮らしている点も同様です。
・母の子への束縛(による母から子への愛)
・姑の嫁への束縛(による姑の嫁への愛)
・父の子への束縛(による父の子への愛)
・夫の妻への束縛(による夫からの妻への愛)
・妻の夫への束縛(による妻からの夫への愛)
・(帝国主義における)臣下の皇帝への束縛(による皇帝から臣下への愛)
そのいずれも、忠誠を誓っている限りにおいては束縛の愛がある関係であることがわかります。
一方、その内実はというと束縛されている方は従順になっているか、はたまた、反逆を目論んでいたりして緊張関係があるわけです。
忠誠がなければ憎しみに変わる点においても共通です。
例えば、指示に従わない嫁を姑は敵視します。
言うことを聞かない子供を(束縛する系の)母や父は憎しみを持って接します。
束縛する系の夫は妻が言うことを聞かないと憎悪の念を膨らませます。
尻に敷く系の束縛系妻は夫が言うことを聞かないとヒステリーになります。
いずれも同じ構造をしているわけです。
はたまた、完全に精神が奴隷になっている場合は「悲しい笑顔」をしてかろうじて精神崩壊を防ぎつつ一見楽しそうに暮らしている点も同様です。
辛すぎることがあるとすぐに記憶を失う
思えば、幼稚園の頃に虐めにあって悲しすぎて笑顔でいるしかなかった時、はたまた、小学校の時に男のくせに執拗に陰険にネチネチと女みたいに同級生からしつこく嫌がらせを受けた時、その時、割と早い段階で記憶を失っていたように思うのです。早い時にはその日の夜に寝ると同時に記憶を失っていて、前日にその同級生から虐めを受けたり、はたまた、激しく口論したりやり返したことを、割とすぐに忘れて翌日に普通に振る舞っていたように思います。
当時は、自分のことを切り替えが早いのか、あるいは、忘れっぽいだけかと思っていましたけど、これは精神を守るための防御機能だと思うのです。特に高校時代は精神崩壊してZガンダムのカミーユのようになったわけですが、それ以前でもその兆候はあって、小学校の頃から前日のことを覚えていない、物忘れが激しい、と言うことが頻繁にあったように思うのです。ただ、学校の勉強では教科書を丸暗記とかしていましたので記憶力それ自体はそこまで悪くなかったように思うのですが、辛いことはすぐに忘れていました。
時には、先日喧嘩した友人に以前のように気軽に話しかけて、自分は昨日のことを全然あるいは微かにしか覚えていなくて、友人はまだ怒っている・・・ と言うこともありました。実のところ、その友人は友人というほどでもなくただの同級生なわけですけど、良かった時の記憶だけが残っていて、悪かった記憶はどんどんと忘れてしまうのです。執拗に虐めを受けて、それは辛かったわけですけれども、私がすぐに忘れるものですから同級生や近所の同級生などの苛めっ子はニヤニヤして私をカモにしてネチネチと、男のくせに女のように気持ち悪く虐めてきていたのです。世の中にあそこまで気持ちの悪い男がいるのかと思うくらい信じられないほど気持ち悪いのです。
ですが、もはや、私を虐めてきた人の顔はうっすらとは覚えていますけど顔はほとんど出てこなくて、名前は早急に忘れてしまって、「そんな人いたかなぁ?」と思うくらいです。これは、人間の防御機能だと思うのです。
こと、私を虐めていた人に関しては、ほんとどうでも良いことらしく、記憶からバッサリ消えてしまっています。記憶からここまですっかり消えていて、トラウマにもならず、フラッシュバックも起こらず、思い出そうと思っても思い出せないのです。覚えている価値のあることは今でも覚えていますし、治すべきこと、あるいは、何かキーとなる出来事に対してはふと思い出したり、はたまた、トラウマとなってフラッシュバックが浮かび上がってきていたわけですけど、私を虐めてきた人の記憶はほとんど残っていないのです。もう幼少期の友人との繋がりは少ないので確認はしていないのですけど、タイムラインが書き変わってそれらの辛い過去は苛めっ子もろとも消えてしまったのでは・・・ と思えるくらい全く記憶に残っていないのです。いくら思い出そうとしても思い出せないので、きっと、虐めというのは思い出す必要もないほどくだらなくて意味のない、記憶している価値もないことなのだと思います。
だからと言って、私が執拗に虐めを受けていたことは事実なわけですが、人の防御機能により、顔も名前もその発言もすっかり記憶からさっぱりと消えてしまっているのです。となれば、高校時代にカミーユのような精神崩壊になる以前であっても小学校の頃からその兆候はあったと言えるのです。
当時は、自分のことを切り替えが早いのか、あるいは、忘れっぽいだけかと思っていましたけど、これは精神を守るための防御機能だと思うのです。特に高校時代は精神崩壊してZガンダムのカミーユのようになったわけですが、それ以前でもその兆候はあって、小学校の頃から前日のことを覚えていない、物忘れが激しい、と言うことが頻繁にあったように思うのです。ただ、学校の勉強では教科書を丸暗記とかしていましたので記憶力それ自体はそこまで悪くなかったように思うのですが、辛いことはすぐに忘れていました。
時には、先日喧嘩した友人に以前のように気軽に話しかけて、自分は昨日のことを全然あるいは微かにしか覚えていなくて、友人はまだ怒っている・・・ と言うこともありました。実のところ、その友人は友人というほどでもなくただの同級生なわけですけど、良かった時の記憶だけが残っていて、悪かった記憶はどんどんと忘れてしまうのです。執拗に虐めを受けて、それは辛かったわけですけれども、私がすぐに忘れるものですから同級生や近所の同級生などの苛めっ子はニヤニヤして私をカモにしてネチネチと、男のくせに女のように気持ち悪く虐めてきていたのです。世の中にあそこまで気持ちの悪い男がいるのかと思うくらい信じられないほど気持ち悪いのです。
ですが、もはや、私を虐めてきた人の顔はうっすらとは覚えていますけど顔はほとんど出てこなくて、名前は早急に忘れてしまって、「そんな人いたかなぁ?」と思うくらいです。これは、人間の防御機能だと思うのです。
こと、私を虐めていた人に関しては、ほんとどうでも良いことらしく、記憶からバッサリ消えてしまっています。記憶からここまですっかり消えていて、トラウマにもならず、フラッシュバックも起こらず、思い出そうと思っても思い出せないのです。覚えている価値のあることは今でも覚えていますし、治すべきこと、あるいは、何かキーとなる出来事に対してはふと思い出したり、はたまた、トラウマとなってフラッシュバックが浮かび上がってきていたわけですけど、私を虐めてきた人の記憶はほとんど残っていないのです。もう幼少期の友人との繋がりは少ないので確認はしていないのですけど、タイムラインが書き変わってそれらの辛い過去は苛めっ子もろとも消えてしまったのでは・・・ と思えるくらい全く記憶に残っていないのです。いくら思い出そうとしても思い出せないので、きっと、虐めというのは思い出す必要もないほどくだらなくて意味のない、記憶している価値もないことなのだと思います。
だからと言って、私が執拗に虐めを受けていたことは事実なわけですが、人の防御機能により、顔も名前もその発言もすっかり記憶からさっぱりと消えてしまっているのです。となれば、高校時代にカミーユのような精神崩壊になる以前であっても小学校の頃からその兆候はあったと言えるのです。
私が教室で間違える度にゲラゲラ笑って私を馬鹿にする同級生と一部の先生
前記の通り、同じ教室の同級生と一部の先生とが一緒になってゲラゲラ馬鹿にしてきていて、とても居心地の悪い、気持ち悪い高校生活を送ったわけですが、その後、その先生はあまりにも私を馬鹿にしたことが職員の間で問題になったらしく、私が1年次の最後に急遽、転勤を言い渡されて、その時にようやく自分の行動の間違いに気づいたらしく、その時には既に私はその先生を見限って無視していましたけど、急に私のことを「オドオドと」した態度で接しようとしてきました。しかし、それまで散々私を馬鹿にし続けて、同級生の一部もそれに同調して先生と生徒が一緒になって私が問題を間違える度にゲラゲラ馬鹿にし続けるような状況を助長してきたのに、今更、何を取り繕うというのでしょうか。ただ、そんな学校でも、職員会議などにおいては自浄作用が多少なりとも働いていたようです。
そしてその後、その同級生は、こともあろうか、何を勘違いしたのか、卒業してから私に電話してきても同様のゲラゲラ態度で小馬鹿な態度でマウンティングしながら嫌らしい憎たらしい話をしてきましたので、これまた、電話がかかってきた翌日くらいに携帯電話を解約してスッキリしました。
本当に本当に、馬鹿な人とは付き合いたくないのです。ただ馬鹿なだけでなく、根拠なく他人を見下したりゲラゲラ笑っても良いと思っているような、いわば、頭の構造がまともではない人とは関わり合いたくないのです。
そしてその後、その同級生は、こともあろうか、何を勘違いしたのか、卒業してから私に電話してきても同様のゲラゲラ態度で小馬鹿な態度でマウンティングしながら嫌らしい憎たらしい話をしてきましたので、これまた、電話がかかってきた翌日くらいに携帯電話を解約してスッキリしました。
本当に本当に、馬鹿な人とは付き合いたくないのです。ただ馬鹿なだけでなく、根拠なく他人を見下したりゲラゲラ笑っても良いと思っているような、いわば、頭の構造がまともではない人とは関わり合いたくないのです。
高校時代は明らかに認知に障害が出ていた
そうして、ことあるごとに周囲からゲラゲラ笑われたり暴力振るわれそうなストレスフルな環境に身を置いていると、ちょっとしたことでも頭の中にパニックとトラウマが浮かび上がるようになってしまい、まともに勉強できない状態になっていました。成績も上がらないですし、授業中に先生が言っていることや黒板に書いてあることが認知できなくなって、問題文の日本語なら普通に読めば良いだけなのに、例えば数学の問題文がうまく読めなくなって(内容が認知できなくなって)、「あれ、それ、どういうこと?」みたいに言うと、例の同級生がゲラゲラ笑って見下してきたり、先生も一緒になってケラケラ薄ら笑いをして小馬鹿にしてくるので、余計にパニック症状とトラウマが頭の中に出て、文字が認知できずに思考が働かなくなってしまっていたのです。そして、後でふと我に返ると普通の日本語の問題文なだけで、なんてことはないのですけど、同級生と一部の先生の前では特にパニック障害が出て思考ができなくなっていました。
それでも趣味でやっていたゲーム作りの時はプログラミングに超集中することでゾーンによりトラウマもパニックも克服していましたけど、その一方で、学校の授業など単調な時間においてはパニック障害が出ていたのです。授業の問題など何かに集中したり理解したり暗記しようと頭に力を入れて集中すると、何か、頭が壊れているような感じになって、不意にパニックに襲われて目の前が何某かのイメージとトラウマで包まれて、授業中でも何でも急にトランスのような意識が不明確な状態に落ち込んでしまうのです。それを避けるために必要以上の「集中」を必要として、とても疲れる日常を送りました。ですから、中学時代までと比べて暗記や理解に異常に時間を要するようになり、勉強が捗りませんでした。何せ、暗記しようと集中するとパニック症状が不意にすぐにでますし、理解しようと思ったり、解法を考えようとすると、これまたパニック症状が出て勉強が全然できなくて、やがてパニックへの対処だけで疲れてしまって、寝てしまうのでした。
あの同級生たちと先生は、人を馬鹿にして足を引っ張っていた、とも言えます。そのような低俗な人もこの世の中にそれなりにいるわけです。他人を馬鹿にしても平気という低俗な人たちは自らの生き方に正直に生きているだけなのだと思います。ですから、低俗な人には低俗な人なりの生活があるわけです。しかし、他人をゲラゲラ笑っても平気でそれを喜ぶような人たちと付き合うと、こちらが損するだけですので、低俗な人は低俗な人同士で貶めあってもらえばよくて、文字通り、そういう低俗な人との関係は切るのが良いわけです。
高校時代はひたすら我慢して、大学に入ったら速攻で関係を切りましたけど、それはよく言われているように「すぐに関係をリセットしたがる人」というよりは、高校時代に3年間もの間ずっと我慢し続けて「大学に入ったら、このくだらない同級生と縁を切れる」と思って我慢し続けた結果、ようやく結実したことなわけです。それが「高校時代の人脈とのリセット」であるわけで、数年間にも及ぶ思考と決断に基づいたものであり、決して、行き当たりばったりのものではないわけです。
時に、「人間関係のリセットは良くない」みたいな文脈で語られることもありますけど、このように、他人を馬鹿にしても平気な人たちと付き合って一体何になるというのでしょうか。時間の無駄にしかなりませんしメンタルを壊す一方ですので離れる一択なわけです。そこに疑問の余地はありません。そもそも、あの友人や先生の顔や声を聞くだけで当時はパニック障害が再発していましたので、まずメンタル回復させるには「離す」しかなかったわけです。
見方を変えれば、そもそも、最初から友達ではなかった、と言うこともできます。同級生をゲラゲラ笑って足を引っ張った挙句、同級生の認知を歪めてパニック障害に陥らせるくらいまで他人を馬鹿にし続けてもなお、他人を更にゲラゲラ笑ってそのような他人を見下して喜ぶような人は外道以下であり、友達でもなんでもありませんから、関係を切るというより、そもそも、あの同級生が勝手に友達だと思っていただけで、こっちは初めのうちから友達だと思っていなくて、他の人はもっと酷いので、仕方がないので多少はマシな人と話し相手になって、友達の風を装っていただけなわけです。そもそも友達だと思っていなかったのですから、そもそも人脈のリセットというより最初から友達ではなかったわけで、同級生が勝手にゲラゲラ笑ってそれでも友達だと勘違いしていただけのお話なわけです。そのように解釈もできます。もう昔のことですので忘れているお話が多いですけど、当時も、大した友達ではなかったように思います。
客観的に見ても、「あの同級生が私をゲラゲラ笑って見下すのは先生の同意の元に許されて」、その逆は全くなかった、という状況は、明らかにおかしいわけです。あのような状態で私が(同級生が私を馬鹿にする状況を)受け入れると言うのは全くおかしいわけで、拒否して同然なわけですが、同級生にせよ、学校の先生にせよ、馬鹿にする態度を受け入れなければ「お前は馬鹿だから」とかいう態度で、先生も一緒になって同級生と私を馬鹿にしてきたわけです。先生も常識知らずの下層の人間だったわけですし、同級生にしても同様なわけです。
そもそも、私のメンタル的にあの同級生と同じような態度で他人を馬鹿にすると言うのは下品すぎて真似など到底できないものでしたが、あの先生は同級生たちはそもそも自分の発言を下品とも何とも思っていないような、そもそも私とは住む世界が違う下層の人間だったように思います。
私が何かちょっとでも言うと「私のその態度に対して、同級生がブチギレるかとてつもない大声でゲラゲラ見下し始める」と言う状況で、有言無言の圧力および時に暴力によって私の発言は遮られたり否定されたり、エスカレートするたびに大声で更にゲラゲラ教室に響き渡るような声で下品な笑い声を隣の教室に聞こえるくらいまでの音量で同級生が私を見下して馬鹿にすることが「先生の同意」の元に行われていたわけです。
高校卒業まではそのような環境にいてひたすら耐えていて、大学入学で上京と同時にようやく関係を断ち切ることができたわけです。
そもそも、私を散々馬鹿にしていた同級生は結局Fランぽい(当時でも)偏差値45くらいの聞いたことのない大学に一応合格して入学しましたが、(大学だけでその人のことは計れませんけど)散々私を何年間にも渡って継続して馬鹿にしてきた相手が所詮はその程度だったわけで、なんと、くだらない相手に長らく悩まされていたのだろうかと思います。あのような、頭も良くないし態度も悪いし口も悪いしゲラゲラ見下して笑うことを当然と思うような人とは付き合う必要が全くなく、私が思い悩まされる価値も全くなく、まさに、(私が本来住みたい平和な世界とは)全く違う世界の住民であり、それは、下層の、底辺の世界であり、私は底辺を垣間見たのだと言えます。
他人をゲラゲラ見下して笑うような底辺の世界があることは否定しませんので、そのような底辺の人は、底辺の人同士で周囲を馬鹿にし合って足を引っ張りながら勝手に誰かを馬鹿にしていい気持ちになって自己満足して毎日を楽しく暮らせば良いのです。知らぬが仏、という言葉もありますし、きっと、毎日を楽しく暮らすことができるでしょう。分相応な生活ですので、それは、とても素晴らしいことだと思います。
ですが、私とは全く関わらないで頂きたいです。くだらない人との関わり合いで時間を無駄にするのは御免です。
そもそも頭が悪い人と付き合いたくない、というのが男女問わず基本でありますけど、他人を見下して笑って貶めて足を引っ張るような人とは絶対関わり合いたくないです。高校時代は逃げ場がなかったので仕方なく話し相手として付き合っていただけで、大学に入って「(人間関係の)選択の自由」ができたら、速攻、離れる相手であるわけです。
それでも趣味でやっていたゲーム作りの時はプログラミングに超集中することでゾーンによりトラウマもパニックも克服していましたけど、その一方で、学校の授業など単調な時間においてはパニック障害が出ていたのです。授業の問題など何かに集中したり理解したり暗記しようと頭に力を入れて集中すると、何か、頭が壊れているような感じになって、不意にパニックに襲われて目の前が何某かのイメージとトラウマで包まれて、授業中でも何でも急にトランスのような意識が不明確な状態に落ち込んでしまうのです。それを避けるために必要以上の「集中」を必要として、とても疲れる日常を送りました。ですから、中学時代までと比べて暗記や理解に異常に時間を要するようになり、勉強が捗りませんでした。何せ、暗記しようと集中するとパニック症状が不意にすぐにでますし、理解しようと思ったり、解法を考えようとすると、これまたパニック症状が出て勉強が全然できなくて、やがてパニックへの対処だけで疲れてしまって、寝てしまうのでした。
あの同級生たちと先生は、人を馬鹿にして足を引っ張っていた、とも言えます。そのような低俗な人もこの世の中にそれなりにいるわけです。他人を馬鹿にしても平気という低俗な人たちは自らの生き方に正直に生きているだけなのだと思います。ですから、低俗な人には低俗な人なりの生活があるわけです。しかし、他人をゲラゲラ笑っても平気でそれを喜ぶような人たちと付き合うと、こちらが損するだけですので、低俗な人は低俗な人同士で貶めあってもらえばよくて、文字通り、そういう低俗な人との関係は切るのが良いわけです。
高校時代はひたすら我慢して、大学に入ったら速攻で関係を切りましたけど、それはよく言われているように「すぐに関係をリセットしたがる人」というよりは、高校時代に3年間もの間ずっと我慢し続けて「大学に入ったら、このくだらない同級生と縁を切れる」と思って我慢し続けた結果、ようやく結実したことなわけです。それが「高校時代の人脈とのリセット」であるわけで、数年間にも及ぶ思考と決断に基づいたものであり、決して、行き当たりばったりのものではないわけです。
時に、「人間関係のリセットは良くない」みたいな文脈で語られることもありますけど、このように、他人を馬鹿にしても平気な人たちと付き合って一体何になるというのでしょうか。時間の無駄にしかなりませんしメンタルを壊す一方ですので離れる一択なわけです。そこに疑問の余地はありません。そもそも、あの友人や先生の顔や声を聞くだけで当時はパニック障害が再発していましたので、まずメンタル回復させるには「離す」しかなかったわけです。
見方を変えれば、そもそも、最初から友達ではなかった、と言うこともできます。同級生をゲラゲラ笑って足を引っ張った挙句、同級生の認知を歪めてパニック障害に陥らせるくらいまで他人を馬鹿にし続けてもなお、他人を更にゲラゲラ笑ってそのような他人を見下して喜ぶような人は外道以下であり、友達でもなんでもありませんから、関係を切るというより、そもそも、あの同級生が勝手に友達だと思っていただけで、こっちは初めのうちから友達だと思っていなくて、他の人はもっと酷いので、仕方がないので多少はマシな人と話し相手になって、友達の風を装っていただけなわけです。そもそも友達だと思っていなかったのですから、そもそも人脈のリセットというより最初から友達ではなかったわけで、同級生が勝手にゲラゲラ笑ってそれでも友達だと勘違いしていただけのお話なわけです。そのように解釈もできます。もう昔のことですので忘れているお話が多いですけど、当時も、大した友達ではなかったように思います。
客観的に見ても、「あの同級生が私をゲラゲラ笑って見下すのは先生の同意の元に許されて」、その逆は全くなかった、という状況は、明らかにおかしいわけです。あのような状態で私が(同級生が私を馬鹿にする状況を)受け入れると言うのは全くおかしいわけで、拒否して同然なわけですが、同級生にせよ、学校の先生にせよ、馬鹿にする態度を受け入れなければ「お前は馬鹿だから」とかいう態度で、先生も一緒になって同級生と私を馬鹿にしてきたわけです。先生も常識知らずの下層の人間だったわけですし、同級生にしても同様なわけです。
そもそも、私のメンタル的にあの同級生と同じような態度で他人を馬鹿にすると言うのは下品すぎて真似など到底できないものでしたが、あの先生は同級生たちはそもそも自分の発言を下品とも何とも思っていないような、そもそも私とは住む世界が違う下層の人間だったように思います。
私が何かちょっとでも言うと「私のその態度に対して、同級生がブチギレるかとてつもない大声でゲラゲラ見下し始める」と言う状況で、有言無言の圧力および時に暴力によって私の発言は遮られたり否定されたり、エスカレートするたびに大声で更にゲラゲラ教室に響き渡るような声で下品な笑い声を隣の教室に聞こえるくらいまでの音量で同級生が私を見下して馬鹿にすることが「先生の同意」の元に行われていたわけです。
高校卒業まではそのような環境にいてひたすら耐えていて、大学入学で上京と同時にようやく関係を断ち切ることができたわけです。
そもそも、私を散々馬鹿にしていた同級生は結局Fランぽい(当時でも)偏差値45くらいの聞いたことのない大学に一応合格して入学しましたが、(大学だけでその人のことは計れませんけど)散々私を何年間にも渡って継続して馬鹿にしてきた相手が所詮はその程度だったわけで、なんと、くだらない相手に長らく悩まされていたのだろうかと思います。あのような、頭も良くないし態度も悪いし口も悪いしゲラゲラ見下して笑うことを当然と思うような人とは付き合う必要が全くなく、私が思い悩まされる価値も全くなく、まさに、(私が本来住みたい平和な世界とは)全く違う世界の住民であり、それは、下層の、底辺の世界であり、私は底辺を垣間見たのだと言えます。
他人をゲラゲラ見下して笑うような底辺の世界があることは否定しませんので、そのような底辺の人は、底辺の人同士で周囲を馬鹿にし合って足を引っ張りながら勝手に誰かを馬鹿にしていい気持ちになって自己満足して毎日を楽しく暮らせば良いのです。知らぬが仏、という言葉もありますし、きっと、毎日を楽しく暮らすことができるでしょう。分相応な生活ですので、それは、とても素晴らしいことだと思います。
ですが、私とは全く関わらないで頂きたいです。くだらない人との関わり合いで時間を無駄にするのは御免です。
そもそも頭が悪い人と付き合いたくない、というのが男女問わず基本でありますけど、他人を見下して笑って貶めて足を引っ張るような人とは絶対関わり合いたくないです。高校時代は逃げ場がなかったので仕方なく話し相手として付き合っていただけで、大学に入って「(人間関係の)選択の自由」ができたら、速攻、離れる相手であるわけです。
高校時代に私が取った資格
私は高校時代に経済産業省が実施しているIT資格である「第二種情報処理技術者試験」(通称「2種」)というものを取りました。今は名前が変わって基本情報技術者試験が相当しますけど、これを高校3年次の春に取得し、同じ頃にどこかがやっている情報処理検定試験の1級も取得しました。それでも数学の先生は私のことを認めずに小馬鹿にしながら「どうせギリギリだろ」とか言って、私が資格に合格したことを納得しようとしませんでした。大人にしてみれば2種(=今の「基本」)はそこまで難しいものではないですけど高校時代に取るとするとそれなりにITを勉強しないと取れないのは当たり前で、私の場合はゲームを作るためにBASICという言語やアセンブラという言語を独学で色々と勉強していましたから、流石に設備がないデータベースとかサーバキャパシティを計算する問題は机上だけで勉強するしかなかったですけど、アルゴリズムなど基本的な考え方は自分でゲームを作るときに身につけていましたので、試験の勉強ももちろんして、わからないところは試験の場でなんとか考え抜いて回答して、確かに、そこまで答案の出来に自信はありませんでしたのでギリギリだったというのは自分でもそんな気がしていましたけど、とにかく、合格はしたわけです。こうして資格を取っても周囲の同級生や学校の先生の私への評価は変わらなかったわけですが、と言いますのも、当時はIT技術がまだまだ黎明期で、その資格がどのくらいの難易度なのか理解している先生はほぼいなかったのではないでしょうか。難易度はというと基礎レベルですからプロにしてみれば初歩の内容ではありますけど、それでも、高校生からしてみたらそこそこのレベルなわけです。
他には、(これまた大人にとっては大したことはないですけど)英検の2級(準二級ではなく2級)を高校3年次に取ったのですが、英語の先生にしても私を散々とネチネチと「お前は丸暗記だから理解ができていない」とか授業中に何度も何度も大声で指摘してきていてとにかくストレスだったのですけど、私が英検2級を取ったら英語の先生の生徒に対する評価の順番が狂ってしまって、先生が目をかけていた生徒の英語が優秀だと授業中に誉めていたのにも関わらずその子達がことごとく2級に落ちて準2級止まりで、先生が「お前はダメだ」と面と向かって指摘していた私が2級を受かってしまったものですから英語の先生がバツの悪い感じになってしまい、私を避けるようになりました。こういう場合もあります。
学校の先生にせよ、同級生の一部にせよ、教室や何某かで散々と私を馬鹿にし続けていた人の成績がことごとく私より低くて、一体、これは、どういうことなのだろう、と思ってしまいます。おそらく、頭が悪いから、他人を指摘して他人を馬鹿にしていい気持ちになっているのだろうと思います。そんな、他人を指摘して小馬鹿にしている時間があったらその時間に勉強でもしたら良いのに、と思ってしまいます。
私はというと当初の目的であったITの勉強を心置きなく自宅で熱中することができましたので満足で、シューティングゲームも高校時代に(アセンブラで)2つ作り上げることができて、実のところ、シューティングゲームというのは敵の移動が螺旋状やら直線やら様々な動きを伴うのでその軌跡を計算するために数学の知識も使って、紙にグラフを書いて、数学のグラフとプログラミングを突き合わせて、あーでもない、こうでもない、と、単に数学のグラフを勉強するだけでなく実践的に私がやりたいことをサインとかコサインとかも考えながらプログラミングに落とし込んで行ったのでした。
実のところ、受験勉強はそれほど真面目にしていたわけでもないですけど、私が受かった大学の入試ではそのものズバリ、軌跡のグラフに関する問題が多く出て、考え方がシューティングゲームを作る時のものに似ていましたので割と得意分野で、それなりに回答できていたように思います。他の大学の入試では確率問題とか全然興味ありませんでしたからボロボロで、不安定でしたけど、少なくとも、ゲームを作る関係で勉強した数学の分野は入試でも役立ったのでした。
英語は、どちらにせよ将来に必要と思ってコツコツとやっていましたけど、得意というわけでもありませんでしたが、ぼちぼち入試でも取れたのかなと思います。
私と、私を高校時代に散々馬鹿にしてきた人を見比べる時、結局、客観的な判断基準を頼るのが良いと思うのです。私はIT資格に2つも合格しているし片方は国家資格でもありますし、一方、同級生でパソコンクラブだった人で同様の資格を取った人はいませんでした。英検にしても一応2級を取れて、私を馬鹿にしてきた同級生より英語はできたかと思います。(ただ、英語のスピーキングとヒアリングに関しては確かに女性陣の方がよくできていたかと思います。)大学の入試にしても私をゲラゲラ執拗に馬鹿にしてきた同級生は偏差値45のFランに行きましたので、これまた、私より成績が低かったということになります。
これは、本当に、一体、どういうことなのでしょう、と思ってしまいます。客観的な「資格」とか「試験」の結果をどう見比べても私より頭の悪そうな人から執拗にゲラゲラ笑われて見下されて、結果、どうして私が鬱になってメンタル壊すまで執拗に虐められなければならないのでしょうか。確かに、私も、そこまで学校の勉強はしていなくて、世間を見回すと優秀な人は山ほどいますので私など大して頭が良いとはいえず、大学もそんなに良いところではありませんでしたし、資格を取ったからといって高校生からしたらぼちぼちというだけで一般的には基礎のレベルの資格でしかありませんけど、それでも、明らかに私より程度の低い人からどうしてそこまで馬鹿にされ続けなくてはならないのか、理解に苦しみます。
結局、私を小馬鹿にしてきた人は専門学校に行ったり高卒で就職したりFランだったり・・・。そういう頭の悪い人だからこそ、平然と他人を馬鹿にできるのだと思います。同級生で、(成績とは関係なく)まともな人も大勢いましたので全員がこうだったわけではなく、ごく一部の人のお話でしたが、それでも、そういうキツい嫌らしい性格の人に長らく高校時代に悩まされてきたのでした。
一応、こうなった理由としてはスピリチュアルなものがあるにはありますけど、一般的に、このような虐めを平然として平気という人はメンタルがまともではありませんので、本当に、相手をしない方が良いのです。
他には、(これまた大人にとっては大したことはないですけど)英検の2級(準二級ではなく2級)を高校3年次に取ったのですが、英語の先生にしても私を散々とネチネチと「お前は丸暗記だから理解ができていない」とか授業中に何度も何度も大声で指摘してきていてとにかくストレスだったのですけど、私が英検2級を取ったら英語の先生の生徒に対する評価の順番が狂ってしまって、先生が目をかけていた生徒の英語が優秀だと授業中に誉めていたのにも関わらずその子達がことごとく2級に落ちて準2級止まりで、先生が「お前はダメだ」と面と向かって指摘していた私が2級を受かってしまったものですから英語の先生がバツの悪い感じになってしまい、私を避けるようになりました。こういう場合もあります。
学校の先生にせよ、同級生の一部にせよ、教室や何某かで散々と私を馬鹿にし続けていた人の成績がことごとく私より低くて、一体、これは、どういうことなのだろう、と思ってしまいます。おそらく、頭が悪いから、他人を指摘して他人を馬鹿にしていい気持ちになっているのだろうと思います。そんな、他人を指摘して小馬鹿にしている時間があったらその時間に勉強でもしたら良いのに、と思ってしまいます。
私はというと当初の目的であったITの勉強を心置きなく自宅で熱中することができましたので満足で、シューティングゲームも高校時代に(アセンブラで)2つ作り上げることができて、実のところ、シューティングゲームというのは敵の移動が螺旋状やら直線やら様々な動きを伴うのでその軌跡を計算するために数学の知識も使って、紙にグラフを書いて、数学のグラフとプログラミングを突き合わせて、あーでもない、こうでもない、と、単に数学のグラフを勉強するだけでなく実践的に私がやりたいことをサインとかコサインとかも考えながらプログラミングに落とし込んで行ったのでした。
実のところ、受験勉強はそれほど真面目にしていたわけでもないですけど、私が受かった大学の入試ではそのものズバリ、軌跡のグラフに関する問題が多く出て、考え方がシューティングゲームを作る時のものに似ていましたので割と得意分野で、それなりに回答できていたように思います。他の大学の入試では確率問題とか全然興味ありませんでしたからボロボロで、不安定でしたけど、少なくとも、ゲームを作る関係で勉強した数学の分野は入試でも役立ったのでした。
英語は、どちらにせよ将来に必要と思ってコツコツとやっていましたけど、得意というわけでもありませんでしたが、ぼちぼち入試でも取れたのかなと思います。
私と、私を高校時代に散々馬鹿にしてきた人を見比べる時、結局、客観的な判断基準を頼るのが良いと思うのです。私はIT資格に2つも合格しているし片方は国家資格でもありますし、一方、同級生でパソコンクラブだった人で同様の資格を取った人はいませんでした。英検にしても一応2級を取れて、私を馬鹿にしてきた同級生より英語はできたかと思います。(ただ、英語のスピーキングとヒアリングに関しては確かに女性陣の方がよくできていたかと思います。)大学の入試にしても私をゲラゲラ執拗に馬鹿にしてきた同級生は偏差値45のFランに行きましたので、これまた、私より成績が低かったということになります。
これは、本当に、一体、どういうことなのでしょう、と思ってしまいます。客観的な「資格」とか「試験」の結果をどう見比べても私より頭の悪そうな人から執拗にゲラゲラ笑われて見下されて、結果、どうして私が鬱になってメンタル壊すまで執拗に虐められなければならないのでしょうか。確かに、私も、そこまで学校の勉強はしていなくて、世間を見回すと優秀な人は山ほどいますので私など大して頭が良いとはいえず、大学もそんなに良いところではありませんでしたし、資格を取ったからといって高校生からしたらぼちぼちというだけで一般的には基礎のレベルの資格でしかありませんけど、それでも、明らかに私より程度の低い人からどうしてそこまで馬鹿にされ続けなくてはならないのか、理解に苦しみます。
結局、私を小馬鹿にしてきた人は専門学校に行ったり高卒で就職したりFランだったり・・・。そういう頭の悪い人だからこそ、平然と他人を馬鹿にできるのだと思います。同級生で、(成績とは関係なく)まともな人も大勢いましたので全員がこうだったわけではなく、ごく一部の人のお話でしたが、それでも、そういうキツい嫌らしい性格の人に長らく高校時代に悩まされてきたのでした。
一応、こうなった理由としてはスピリチュアルなものがあるにはありますけど、一般的に、このような虐めを平然として平気という人はメンタルがまともではありませんので、本当に、相手をしない方が良いのです。
高校で別のクラスだった同級生の女の子のその後
この子は面と向かって私の方を見ながらニヤニヤと見下した態度を取って、言葉には言わないまでも表情がわかりやすくて、ほとんど話したことはなかったですけど、いつもすれ違う度にニヤニヤニヤニヤ気持ち悪い見下し顔をしてきた女でしたけど、その後、私が大学に通っている頃にふと同じ県のとある温泉(スーパー銭湯系)に立ち寄った際、マッサージコーナーで施術しているのを見て一瞬目が合いましたけど私は興味がないのですぐに目を逸らしました。
いつもニヤニヤ私を見下してきた女は、高卒で就職したようです。マッサージ師が低級な仕事だとは言いませんけど、少なくとも大学には行っていないで早々に就職していたわけで、家庭の事情があったのかもしれませんけど、それなりの頭の良さがあれば事務職なり何なりに就くはずですし、今から思えばその子は頭の悪い人が集まるクラスにいましたので、結局、他人をニヤニヤ見下すことができるのは、頭が悪いからそのような下劣な態度を取っても何とも思わない、という面もあると思うのです。
そのように、頭が悪くて、くだらない、私が気にする必要もない、私とは関係のない、私が思い悩まされる価値も全くない人に悩まされることで高校時代は無駄に時間を消費させられていたわけです。本当に時間が勿体無かったです。
いつもニヤニヤ私を見下してきた女は、高卒で就職したようです。マッサージ師が低級な仕事だとは言いませんけど、少なくとも大学には行っていないで早々に就職していたわけで、家庭の事情があったのかもしれませんけど、それなりの頭の良さがあれば事務職なり何なりに就くはずですし、今から思えばその子は頭の悪い人が集まるクラスにいましたので、結局、他人をニヤニヤ見下すことができるのは、頭が悪いからそのような下劣な態度を取っても何とも思わない、という面もあると思うのです。
そのように、頭が悪くて、くだらない、私が気にする必要もない、私とは関係のない、私が思い悩まされる価値も全くない人に悩まされることで高校時代は無駄に時間を消費させられていたわけです。本当に時間が勿体無かったです。
「友達とは付き合わなければならない」などということはない
「友達とは付き合わなければならない」などという、いじめられっ子にしてみれば割と戯言である種類の言葉を本気にして本当に渋々付き合う必要はないわけです。
他人を貶めてゲラゲラ笑って見下すような程度の低すぎる人がこの世界にはいますので、ただ単に「同じ地域に住んでいるから」だとか「同じ学校の同級生だから」「同じ保育園だから」「同じ幼稚園」だから、などと言う、大人の都合でしかない勝手な理由によって「友達とは付き合わなければならない」などと言う戯言と付き合う必要は全くないのです。
同質の思考レベルの人は同等の考えと価値観を持つ人と付き合うべきで、友達もそうあるべきなわけです。可能であるなら学校それ自体がそのような棲み分けがなされるべきで、都会における学校の棲み分けはある程度はそれで区分けがなされているように思えますが、田舎はそもそも学校の数が少ないですので全員同じ学校に放り込まれて動物園状態になるわけで、そのようなごちゃ混ぜ状態で、たとえば、同級生の後ろから近づいていきなり頭をバンバン叩いてゲラゲラ奇声を上げながら大喜びしているような程度の低い人間は「人間の皮を被った獣」のような人なのですから、そのような動物園で、人間の姿をした獣と「(同級生とは)仲良くしなければならない」「(同級生とは)付き合わなければならない」なんてのは大人の勝手な都合なわけです。学校の先生からしたらそれが評価基準なのでしょうが、子供からしたら、獣の相手を延々としなくてはならなくなり、メンタルを壊します。
本当に本当に、とてつもない無駄な時間を費やしてきたと思いますけど、そうは言いましても、元を辿れば私が「この世界の底辺を知りたい。この世界で悩んでいる人の気持ちとその理屈を理解したい」と願ったが故にこのような動物園の獣たちと同じ教室で過ごすことになったわけで、「全ては自らが願った通りに実現する」ということは正しいのだと思います。
今はもう、その目的は達成されましたので、このような動物園で過ごす必要はありません。ですから、獣のような人間が近づいてきても付き合わなければ良いだけです。
学校などでどうしても表面上は付き合わなければならないのだとしたら、社交辞令だけして必要以上に付き合わなければ良いのです。
他人を貶めてゲラゲラ笑って見下すような程度の低すぎる人がこの世界にはいますので、ただ単に「同じ地域に住んでいるから」だとか「同じ学校の同級生だから」「同じ保育園だから」「同じ幼稚園」だから、などと言う、大人の都合でしかない勝手な理由によって「友達とは付き合わなければならない」などと言う戯言と付き合う必要は全くないのです。
同質の思考レベルの人は同等の考えと価値観を持つ人と付き合うべきで、友達もそうあるべきなわけです。可能であるなら学校それ自体がそのような棲み分けがなされるべきで、都会における学校の棲み分けはある程度はそれで区分けがなされているように思えますが、田舎はそもそも学校の数が少ないですので全員同じ学校に放り込まれて動物園状態になるわけで、そのようなごちゃ混ぜ状態で、たとえば、同級生の後ろから近づいていきなり頭をバンバン叩いてゲラゲラ奇声を上げながら大喜びしているような程度の低い人間は「人間の皮を被った獣」のような人なのですから、そのような動物園で、人間の姿をした獣と「(同級生とは)仲良くしなければならない」「(同級生とは)付き合わなければならない」なんてのは大人の勝手な都合なわけです。学校の先生からしたらそれが評価基準なのでしょうが、子供からしたら、獣の相手を延々としなくてはならなくなり、メンタルを壊します。
本当に本当に、とてつもない無駄な時間を費やしてきたと思いますけど、そうは言いましても、元を辿れば私が「この世界の底辺を知りたい。この世界で悩んでいる人の気持ちとその理屈を理解したい」と願ったが故にこのような動物園の獣たちと同じ教室で過ごすことになったわけで、「全ては自らが願った通りに実現する」ということは正しいのだと思います。
今はもう、その目的は達成されましたので、このような動物園で過ごす必要はありません。ですから、獣のような人間が近づいてきても付き合わなければ良いだけです。
学校などでどうしても表面上は付き合わなければならないのだとしたら、社交辞令だけして必要以上に付き合わなければ良いのです。
電波が圏外で高校時代の同級生の連絡が届かなかった
上京した最初は固定電話を「遊びに使うから」「勉強にはいらないから」とかいう意味不明な理由で親に買ってもらえなくて、最初はポケベルとかいうものを渡されたのですがこれが私の住んでいるちょっとした郊外では圏外なのかあるいはたまたま場所が悪くて文字化けしたカタコトの文字しか届かなくて、全く読むことができませんでした。
上京したての頃に、親のところに連絡があったらしく、複数人から「⚪︎⚪︎ちゃんから連絡があったから連絡先教えたよ」とか言うのですけど上記の通り固定電話がありませんでしたのでポケベルに連絡が入ったらしいのですが全く読めず、連絡を返すことができないでいました。
不愉快な高校の同級生が多々いる一方で、連絡を取っても良いと思っていた同級生もそれなりにいたわけですが、こうして、誰それ関係なく、私が望むことなく勝手に連絡がことごとく途切れてくれたのでした。
その後、携帯電話に変えてから時間差で1年後か2年後くらいに連絡先を聞いてくれた高校時代の知人の子がいたのですが、その後いろいろあって、ヒステリーになられるとか様々なめんどくさいことがありましたので電話番号を変えて関係を切りました。頭の悪いヒステリーな女とは(友達であっても)付き合いたくないのです。
そもそも、そのポケベルは兄のお下がりで上京したての頃に「これ、お前にやるよ」とか言われて使ってみたもののほとんど使えず、そのように、ほとんど圏外で使い物にならないものを弟(私)に渡して使えと言ってくるほど兄は頭が悪いのです。渡す前に、私の生活圏で圏外かどうかなんて考えていないのでしょう。私が後ほど「ほとんど使えないから返す」とか言うとゲラゲラ笑いながら「お前の住んでいるところは田舎だ」とか馬鹿にしてきたのですが、渡すときに圏外かどうか気にしないで渡した上に、それが全然使えなければ兄の方が謝ってもいいくらいのことなのに、こともあろうか、私の方をゲラゲラ笑ってきたのです。これは、かなりの常識知らずです。兄弟や親類であっても、ポケベルとか連絡に重要なのに圏外で使えないものを渡したら謝る気持ちが多少はあってもいいものを、いざ使えないとなったら、ゲラゲラ笑って住所を馬鹿にしてくるのですから、この兄の頭がどれほど悪くて常識がなくて気持ち悪くて性格がトコトン悪いと言うことがこのことだけでもわかります。兄に何を言っても無駄ですので、兄がこうして私を馬鹿にしてきても私はスルーです。兄と関わると、こうして、損なことばかりが起こって、変なことが起こっても私の方が馬鹿にされて笑われるだけなので、兄とは最初から関わらない方が良いのです。兄は準備が悪くて要領が悪く、物事を後付けで「そうだよ、そうだよ」とか言って最初からわかっていた風に言うけど、そもそも、頭の構造がどこか壊れていて、おそらく、知恵遅れなのです。知恵遅れなのにわかった風を装うので、相手にしていられないのです。その上、私をゲラゲラ笑って見下して喜ぶという、おまけ付きです。
こうして、私は損な役回りを受けて、ポケベルは使えず、一部の、連絡を取ってもいい系の同級生とまで上京後にほとんど連絡が途切れたのでした。
上京したての頃に、親のところに連絡があったらしく、複数人から「⚪︎⚪︎ちゃんから連絡があったから連絡先教えたよ」とか言うのですけど上記の通り固定電話がありませんでしたのでポケベルに連絡が入ったらしいのですが全く読めず、連絡を返すことができないでいました。
不愉快な高校の同級生が多々いる一方で、連絡を取っても良いと思っていた同級生もそれなりにいたわけですが、こうして、誰それ関係なく、私が望むことなく勝手に連絡がことごとく途切れてくれたのでした。
その後、携帯電話に変えてから時間差で1年後か2年後くらいに連絡先を聞いてくれた高校時代の知人の子がいたのですが、その後いろいろあって、ヒステリーになられるとか様々なめんどくさいことがありましたので電話番号を変えて関係を切りました。頭の悪いヒステリーな女とは(友達であっても)付き合いたくないのです。
そもそも、そのポケベルは兄のお下がりで上京したての頃に「これ、お前にやるよ」とか言われて使ってみたもののほとんど使えず、そのように、ほとんど圏外で使い物にならないものを弟(私)に渡して使えと言ってくるほど兄は頭が悪いのです。渡す前に、私の生活圏で圏外かどうかなんて考えていないのでしょう。私が後ほど「ほとんど使えないから返す」とか言うとゲラゲラ笑いながら「お前の住んでいるところは田舎だ」とか馬鹿にしてきたのですが、渡すときに圏外かどうか気にしないで渡した上に、それが全然使えなければ兄の方が謝ってもいいくらいのことなのに、こともあろうか、私の方をゲラゲラ笑ってきたのです。これは、かなりの常識知らずです。兄弟や親類であっても、ポケベルとか連絡に重要なのに圏外で使えないものを渡したら謝る気持ちが多少はあってもいいものを、いざ使えないとなったら、ゲラゲラ笑って住所を馬鹿にしてくるのですから、この兄の頭がどれほど悪くて常識がなくて気持ち悪くて性格がトコトン悪いと言うことがこのことだけでもわかります。兄に何を言っても無駄ですので、兄がこうして私を馬鹿にしてきても私はスルーです。兄と関わると、こうして、損なことばかりが起こって、変なことが起こっても私の方が馬鹿にされて笑われるだけなので、兄とは最初から関わらない方が良いのです。兄は準備が悪くて要領が悪く、物事を後付けで「そうだよ、そうだよ」とか言って最初からわかっていた風に言うけど、そもそも、頭の構造がどこか壊れていて、おそらく、知恵遅れなのです。知恵遅れなのにわかった風を装うので、相手にしていられないのです。その上、私をゲラゲラ笑って見下して喜ぶという、おまけ付きです。
こうして、私は損な役回りを受けて、ポケベルは使えず、一部の、連絡を取ってもいい系の同級生とまで上京後にほとんど連絡が途切れたのでした。
高校卒業後に上京した同級生の女の子の大学時代の不倫
上京してからしばらくした後、遅れて連絡してきた、私と同じく上京してきた同級生のとある女の子と、上京して2年目か3年目の頃だったかと思いますが当時は時々連絡を取っていて、ただの友達でしたけど、なぜか私の部屋に来てちょっとした世話をかきたいらしくて食事やら掃除を時々ちょっとしたりしてくれていたことがありました。そうして、世間話をしていたら恋愛話になって、次のような話を聞かされました。
その同級生の女の子は、大学に入った後、合コンで知り合った大学生の男と付き合っていたけどベッドで濃厚接触しようとしたらお互いに初めてでうまくできなかったが、その後、(遊び目的っぽい飲み会みたいな出会いの後に)年上の男と当日すぐにしたらできた、(その女の子は)初めてだったので相手も驚いていた。その関係は少し続いていたが相手は既婚者だったので一旦辞めた。でも、その男はその子にとって初めての男だったので未練があって、会うだけ会おうということになって会ったら、そのまままた濃厚接触してしまって、(当時の)今もまだ続いている。既婚者だが、相手の男は、奥さんとは別れる、と言っている。(その子にしてみれば、初めての相手なので)大切な人だと思っている。どうしよう。
みたいな、相談なのか、あるいは、ただ単に肯定してもらいたいだけなのかよくわからない微妙な話を聞かされて当時困ったのですけど、これは、当時もよく知られた有名な「浮気男の定型文」で、よくもまあ、こんなテンプレートのような分かりやすい嘘に騙される頭の悪い女もいるのだな・・・ と当時思ったものです。「奥さんとは別れるから」みたいな男の譫言は、ただ浮気して遊びたいだけの男が口にするお話なわけです。でも、その子にしてみれば大切な人だと思っているようで・・・。でも、それはただの浮気です・・・。遊ばれているだけです・・・。
今からすれば、そんなのはよくあるお話ですし、そもそもこういう相談をする女はアドバイスは求めていなくてただ単に聞いて欲しいだけ、あるいは、肯定して欲しいだけですのでアドバイスなんていらないのですけど、当時の20歳ほどの若い私はそこまで気が回らなくて、思ったそのまま、「それは浮気男のよくある言い訳では。遊ばれているだけだと思う。」みたいなことをストレートに言ったら怒っちゃってヒステリーになってきたわけです。
おそらく90%以上の確率でただの浮気男で、学生であろうとも奥さんから数百万の慰謝料を請求されてもおかしくないレベルなわけです。元々が出会い系のようなところで出会っている時点で最初から怪しい関係ですし、本気である可能性はとてつもなく低いのです。でも、上京したてで世間を知らない若い女はすぐに騙されてしまうわけですね・・・。
そして、せっかく指摘してあげたらヒステリーになったわけですけど、それは、そもそも余計なお世話で、「良かったね。一緒になれると良いね」みたいな社交辞令を言っても良かったのかもしれませんけど、それは私の主義ではないのです。そして、私は既に当時から「ヒステリーな女とは関わり合いを持たない」ということをモットーにしておりましたので、その理由がなんであれ、上記のようにヒステリー対応をされた数日後に携帯電話を解約して連絡を断ち、スッキリしました。ヒステリーだけでもNGですけど、ここまで頭の悪い女とは友達であっても付き合いたくないのです。
その同級生の女の子は、大学に入った後、合コンで知り合った大学生の男と付き合っていたけどベッドで濃厚接触しようとしたらお互いに初めてでうまくできなかったが、その後、(遊び目的っぽい飲み会みたいな出会いの後に)年上の男と当日すぐにしたらできた、(その女の子は)初めてだったので相手も驚いていた。その関係は少し続いていたが相手は既婚者だったので一旦辞めた。でも、その男はその子にとって初めての男だったので未練があって、会うだけ会おうということになって会ったら、そのまままた濃厚接触してしまって、(当時の)今もまだ続いている。既婚者だが、相手の男は、奥さんとは別れる、と言っている。(その子にしてみれば、初めての相手なので)大切な人だと思っている。どうしよう。
みたいな、相談なのか、あるいは、ただ単に肯定してもらいたいだけなのかよくわからない微妙な話を聞かされて当時困ったのですけど、これは、当時もよく知られた有名な「浮気男の定型文」で、よくもまあ、こんなテンプレートのような分かりやすい嘘に騙される頭の悪い女もいるのだな・・・ と当時思ったものです。「奥さんとは別れるから」みたいな男の譫言は、ただ浮気して遊びたいだけの男が口にするお話なわけです。でも、その子にしてみれば大切な人だと思っているようで・・・。でも、それはただの浮気です・・・。遊ばれているだけです・・・。
今からすれば、そんなのはよくあるお話ですし、そもそもこういう相談をする女はアドバイスは求めていなくてただ単に聞いて欲しいだけ、あるいは、肯定して欲しいだけですのでアドバイスなんていらないのですけど、当時の20歳ほどの若い私はそこまで気が回らなくて、思ったそのまま、「それは浮気男のよくある言い訳では。遊ばれているだけだと思う。」みたいなことをストレートに言ったら怒っちゃってヒステリーになってきたわけです。
おそらく90%以上の確率でただの浮気男で、学生であろうとも奥さんから数百万の慰謝料を請求されてもおかしくないレベルなわけです。元々が出会い系のようなところで出会っている時点で最初から怪しい関係ですし、本気である可能性はとてつもなく低いのです。でも、上京したてで世間を知らない若い女はすぐに騙されてしまうわけですね・・・。
そして、せっかく指摘してあげたらヒステリーになったわけですけど、それは、そもそも余計なお世話で、「良かったね。一緒になれると良いね」みたいな社交辞令を言っても良かったのかもしれませんけど、それは私の主義ではないのです。そして、私は既に当時から「ヒステリーな女とは関わり合いを持たない」ということをモットーにしておりましたので、その理由がなんであれ、上記のようにヒステリー対応をされた数日後に携帯電話を解約して連絡を断ち、スッキリしました。ヒステリーだけでもNGですけど、ここまで頭の悪い女とは友達であっても付き合いたくないのです。
悪徳業者をホームページを作って破滅させたお話
今からすると懐かしいお話ですが、二十歳前後で当時流行っていた会員制クラブの会員権商法に引っかかってしまい、ローンを組んでしまったが謳い文句のサービスは受けられなかったので叛逆し、ホームページで被害者の声を集めて、結果、私の貢献がどの程度かはわかりませんが、その会社は廃業に至りました。私は早急に消費者センターに相談して返金要求し、せいぜい10万以下くらいの被害で済んだように覚えていますが、タイミングが悪いとローンだけ残ってしまった人もいたかと思います。この時も、一旦は信じたものに裏切られるという経験を経て傷ついたわけですが、今から思えば、何から何まで怪しいわけで、私も、当時はとんだ世間知らずだったわけです。理屈から言えば儲かるお話な筈でしたが、そもそも嘘だったわけで、嘘を見抜く力が足りませんでした。これにより、詐欺師の笑顔を見抜く見識を得ることができたわけです。それは清楚系ビッチの笑顔も詐欺師と似たようなものですので、清楚系ビッチを見分ける見識とも繋がります。
私は、「怒る」ということが、未だによく理解できない
人生の中で、怒ったことは数えるくらいしかなくて、物事をハッキリと言うときに怒っているように見えることは多々あったかもしれませんけど感情的にそうでもなくて、そもそも、私には「怒る」という感情が生まれつきなかったように思いますので、他の人がブチギレたり怒ったりしている状況がよく理解できないのです。
おそらくは、多くの人は、ストレスでトラウマに至る前に何かにブチギレて感情を外に放出して、時に誰かに怒りの感情ぶつけることでストレスを解放して外に出してしまうことでストレスを解放しているのではないかと思うのです。
ですが、私の場合、ストレスを抱え込むたちで、そもそも怒りの感情というものがどういうものなのか本質的に知らなくて、私が頑張って意図的に怒ってみせたりしても普通の人のように怒ることができなくて、何かおかしな不思議な怒りに他の人には見えるらしくて、怒っている状況が怒っていることにならなくて、ジョークを言っているように聞こえてしまうようで、言われた方は大声でゲラゲラ笑い始めてしまうのです。ですから、私はそういうことを繰り返すうちに、「下品な人、失礼な人とは、そもそも、関わること自体が無駄。何を言っても無駄」と思うようになりました。言葉で説明したり苦情をしてもほとんど聞き入れてもらえないような頭の悪い人とは関わり合いたくないのです。
私の場合、怒りという感情やブチギレということ、そのこと自体、何のことなのか未だにそこまで理解していなくて、そもそも、他人とその基本的な部分でギャップがあるわけです。
一方、本当にくだらない相手、説明しても理解してもらえない頭の悪い相手に対しては「呆れ顔」はよくしましたので相手を怒らせることはよくあったように思いましたが、そうであれば、そもそも住む世界が違いますので、別々に暮らして、お互いに、(なるべく)関与しなければ良いのです。お互いに別の世界に住むのが平和というものです。
ブチギレることが当然で他人に対して普通に怒鳴りつけることが日常になっている人と、怒りの感情というものをそもそも持っていなくて本質的に理解できない人とでは、そもそも人としてのベースが違うわけです。日常を怒りで過ごしている人は分相応に同じような人と暮らせば良いわけですから、怒りの感情をそもそも本質的に持っていない人はそういう人たちと暮らせば良いわけです。お互いに、関係しなければ良いのです。
私は当時も今もストレスによるイライラは(程度は違えども)あっても、怒るとかブチギレるという感情は未だにそこまでよく分からないのです。おそらく、もうこれ以上理解する必要はないのかなと思います。今まで散々、周囲のブチギレに付き合ってきましたので、もう、ブチギレる人とは距離を取って暮らすので十分かなと思います。「私は、ブチギレる人とは距離を取って関わらないように生きることを宣言します。」と、明確に宣言します。
他人のことはよくわかりませんので、実は他の人も似たようなものなのかもしれない、と思うことは時々ありますが。
おそらくは、多くの人は、ストレスでトラウマに至る前に何かにブチギレて感情を外に放出して、時に誰かに怒りの感情ぶつけることでストレスを解放して外に出してしまうことでストレスを解放しているのではないかと思うのです。
ですが、私の場合、ストレスを抱え込むたちで、そもそも怒りの感情というものがどういうものなのか本質的に知らなくて、私が頑張って意図的に怒ってみせたりしても普通の人のように怒ることができなくて、何かおかしな不思議な怒りに他の人には見えるらしくて、怒っている状況が怒っていることにならなくて、ジョークを言っているように聞こえてしまうようで、言われた方は大声でゲラゲラ笑い始めてしまうのです。ですから、私はそういうことを繰り返すうちに、「下品な人、失礼な人とは、そもそも、関わること自体が無駄。何を言っても無駄」と思うようになりました。言葉で説明したり苦情をしてもほとんど聞き入れてもらえないような頭の悪い人とは関わり合いたくないのです。
私の場合、怒りという感情やブチギレということ、そのこと自体、何のことなのか未だにそこまで理解していなくて、そもそも、他人とその基本的な部分でギャップがあるわけです。
一方、本当にくだらない相手、説明しても理解してもらえない頭の悪い相手に対しては「呆れ顔」はよくしましたので相手を怒らせることはよくあったように思いましたが、そうであれば、そもそも住む世界が違いますので、別々に暮らして、お互いに、(なるべく)関与しなければ良いのです。お互いに別の世界に住むのが平和というものです。
ブチギレることが当然で他人に対して普通に怒鳴りつけることが日常になっている人と、怒りの感情というものをそもそも持っていなくて本質的に理解できない人とでは、そもそも人としてのベースが違うわけです。日常を怒りで過ごしている人は分相応に同じような人と暮らせば良いわけですから、怒りの感情をそもそも本質的に持っていない人はそういう人たちと暮らせば良いわけです。お互いに、関係しなければ良いのです。
私は当時も今もストレスによるイライラは(程度は違えども)あっても、怒るとかブチギレるという感情は未だにそこまでよく分からないのです。おそらく、もうこれ以上理解する必要はないのかなと思います。今まで散々、周囲のブチギレに付き合ってきましたので、もう、ブチギレる人とは距離を取って暮らすので十分かなと思います。「私は、ブチギレる人とは距離を取って関わらないように生きることを宣言します。」と、明確に宣言します。
他人のことはよくわかりませんので、実は他の人も似たようなものなのかもしれない、と思うことは時々ありますが。
清楚系ビッチは愛の偉大さと比べたら些末なこと
清楚系ビッチは基本的に、男を見下して小馬鹿にしている女性のことであるとも言えます。それを自覚した上で表面上には見せない場合と、自分のそういった心理状態に無自覚で単に道徳的に振る舞っている場合とがあるわけですけど、男性からしたら大差ないわけです。女性の側としてはおそらくはそこまで深く意図せず無意識的あるいは当然のものとして男性を見下して男性の好意や受け身の姿勢につけ込んでいる場合がほとんどであるように思えて、清楚系ビッチは自分に自信がありますから男は何でも自分に尽くすのが当然と思っており、尽くさなければ冷たく当たったり、無視したり、時にヒステリーになるわけです。最初は清楚そうに見えた人が時間が経って仲良くなるにつれて男を見下した関係性が当然の如くなってゆくと女性の表情にもそれが明確に現れて男性からも見分けるのが容易になり、男の方が気づいて呆れたり冷たい態度を取ったりすると清楚系ビッチは面と向かって男性を非難し始め、自己を正当化するわけです。男性からの不満が溜まって表情に出ただけで清楚系ビッチにとってはその表情が自分への反逆と解釈され、今まで見下していた男が心理的に少しでも反逆したことを許せないと言う感情が湧き起こり、男性の反発にキレて、男性に対して「なんて酷い男」と言ったり、女性の側が男にネチネチと問い詰めてモラハラをし始めるが、それがモラハラだという自覚がない、女性が自分のしていることの非常識さに気がつかない、と言う状態になって、男性が悪いかのように問い詰めて、時に男性が謝っても許してもらえず、男性からしたら何が悪いのか理解できず、関係が破綻したり、逆に男性の方がモラハラ認定される、というように、清楚系ビッチは自分が意図的に悪いことをしている自覚はないことが多く、しかし、意識的ではないからこそ、男性に対して酷い態度を取れたり、被害者面できるわけです。このように地雷がたくさん埋まっている清楚系ビッチを相手にするべきではなく、本当に良い女性はたくさんいるのですから、そちらとの関係性を深めれば良いのです。
ただ、そのような理解すらも、愛そのものの理解に比べれば些末なことであると言えます。
それに、このようなことは0ー100のお話ではなくて、何が優勢かというお話な訳で、完全に100%男を見下して愛が0%というのは稀で、少なくとも生理的に受け付けるからこそ、近くに一応はいられるわけです。であれば、愛が20%とかかもしれませんけど、愛がなくはないわけです。それに、この種の女性は男を見下していて「男は女の本心はわからない」と思っていたりしますけど、確かに、そのような完全に鈍感な男というものがいるのは確かですけど、それにしても分相応というもので、その程度の男とくっつく女というだけのお話ですし、それに、男は意外に敏感で、全てをわかった上で、それでも女を愛しているから托卵も黙って受け入れる、という男も中にはいるわけです。女にしても望んで妊娠したわけでもない場合もあって悩んでいたりして、そんな時、何もわからず托卵を受け入れてくれたように見える男が実は全てをわかっている、なんてことは意外にぼちぼちあるように思うのです。「托卵であろうとも、この女性が近くにいて結婚してくれるならそれでいい」なんて歯の浮くようなセリフはおそらくは日本の男性は言わないでしょうけど、言わなくてもだいたいそういうことだとわかっていてくれる男性がいたとしたら貴重で、女性は二度と裏切らないようにそのような男性を大切にすれば良いわけです。
ただ、確かに、とても愚かで男を極限まで見下している清楚系ビッチがいることも確かで、そのような場合でも、(男の側が)愛を理解すればそもそも清楚系ビッチと本当に良い女性とを容易に見分けることができるようになりますし、自分が愛の状態になれば相応しい女性も自ずとわかるものだと思います。何事も分相応というもので、清楚系ビッチと関係があるということは自分もその程度ということですから、自分が成長すれば自ずと清楚系ビッチとは疎遠になってゆきます。
脇が甘くて多少なりとも清楚系ビッチに甘い顔を見せてしまうと図々しくつけ込まれていきますからきちんと線引きが必要のように思います。とある昔の出来事を思い出しましたが、返事にしても、社交辞令で合意かのような返答をとりあえずしてしまうとそれにつけこまれて色々と小馬鹿にしてきたりしますので、道徳に欠けていることの多い清楚系ビッチに対しては勘違いされないようきちんと返答を選ぶ必要があるかと思います。曖昧な答えでスルーしているのに清楚系ビッチはその心理を見抜けずに「はっきり言いなさいよ!」とかイライラしてきたり小馬鹿にしてきたりすることがあって、こっちがスルーしているということにも気付けないとある清楚系ビッチは心理的に幼いのかな、という印象が当時その時にありました。その清楚系ビッチは性欲は強くてそっちは魅力的だったりしましたけど、結局、愛という点に関する理解はまだまだで、性欲は強くてすぐに寝る女みたいでしたけど、反面、男や他人への理解は薄く、ただし自己肯定感は高くて自分は愛を知っていて文学をたくさん読むから人の心がわかると思っていてスピリチュアルもわかっていると自称する人でしたけど、実際のところは多少はスピリチュアルとはいえ自分のことが第一の現世利益的な考え方でしたので、結局は、ハートの愛に達していなければ頭でどう考えていても大差なくて、ポイントはというとハートの愛に実際に達しているかどうかで良い子かどうかが決まると思うのです。清楚系ビッチはハートの愛に達していない、ということができます。性的魅力があってすぐに寝るような子でもハートの愛がわかっていない、という場合もあるわけです。この辺り、一見するとハートの愛を持っていそうに見えてしまうのですけど、言動が文学からの受け売りだったり、怒りの沸点が低くてすぐにヒステリーになる具合あったり、男を見下す目線を見ることで、そのような女性であってもハートの愛がわかっていないということが読み取れるわけです。
良い子はハートの愛がまだ弱かったりしますけどそれはハートの愛が育つ素養があるということでもあって、良い子かつハートの愛が育ってハートの愛に達すれば最上のパートナーになるわけです。ハートの愛がまだそこまでなくても良い子ならパートナーとして十分に及第点に達していると思うのです。一方、清楚系ビッチが男にヒステリーになっていたとしたらハートの愛に達するのは難しいような気が致します。実のところ、元清楚系ビッチであろうともハートの愛に達すれば劇的に良い子に劇的に変わるわけで、それほどハートの愛は偉大なわけですけど、そうは言いましても、普段から怒りを溜めて生活をしていたらハートの愛に達するのは難しいようにも思います。それよりも、良い子がパートナーと信頼関係を結んでハートの愛に目覚めていく方が容易なわけで、であれば、パートナーとしては清楚系ビッチよりも単純に「良い子」を選べば良くて、要は、素養のある子を選べば良いわけです。信頼関係を構築して、深い関係を続けていると、不意にハートのチャクラ(アナハタ・チャクラ)あるいはもう一段下のマニプラ(ソーラプレクサス)などが開いてハートの愛あるいは情愛に目覚めることになります。その時の女性の反応としては、チャクラが開く前はどこか躊躇があって心を開き切っていない部分があったのに対し、チャクラが開いて心が開くと急にハートが輝き出してエネルギーが倍増し、顔が明らかに明るくなり、心が開き、距離感が急に近くなります。女性は、男性と信頼関係を結ぶことで割と容易にチャクラが開いてハートの愛に目覚めることができるように思うのです。その時、ハートの愛に目覚めるのが一番ではありますけど、開くのが情愛であってもそれなりの良い愛情に目覚めることができるわけです。女性が、男性との信頼関係を持つことでチャクラを開くという神秘のステップは、古来から誰となしに本能で教えられることなく普通に行われてきたことのように思います。このステップを経ずしてハートを開かずに生きている人は、人生の神秘を体験していない、ということにもなって、せっかく生まれたこの体を有効活用していないということにもなって、とても勿体無いと思うのです。異性との関係を経ずして生まれながらにハートが開いている方もいらっしゃいますけど、(まだハートが開いていない場合は)異性との信頼関係によってハートが開く場合が多いように思います。
そして、そのようなハートの神秘と素晴らしさに比べれば、清楚系ビッチなど些末なお話であると言えます。
ハートの愛は素晴らしく、それ故に、それ以前の愛しか知らない人、それ以前の愛が優勢な人を蔑んだりしません。何でも包み込んで愛してくれる、それがハートの愛なわけですから、たとえ、それ以前の愛しか知らない清楚系ビッチがいたとしても、それは些細なお話なのです。
ハート以前の人は煮え切らない態度を取ったり時に気持ちだけでも浮気したり自分に夢中の時もあったかと思えば時に夢中というわけでもなかったり、とにかく何某かが欠けていて、それは情愛かそれ以前の愛の段階にいるわけですけど、一旦、そういう人を好きになってしまったら、全てを受け入れるか、はたまた、苦しいけれども諦めるしかないように思うのです。例え、そういう(ハート以前の状態の)相手が自分を好きかのような態度を取ったとしてもハートの愛を知らない人であればその本人のレベルにおける「好き」(ハート以前の「好き」)でしかありませんので、例えば情愛だったり、はたまた性愛、あるいは所有欲における愛だったりするわけです。これらはどれ1つということはなくて複合ではあるのですけど、どの段階が優勢かによって愛の形が変わってくるわけです。ですから、ハートの愛がゼロではないにせよ、他の愛の方が(時に、遥かに)優勢なわけです。そして、ハートの愛が優勢の人が、それ以前の段階の愛が優勢の人を愛してしまったならば、それは仕方がありませんので受け入れるか、あるいは、キッパリと諦めた方が良いと思うのです。中途半端で付き合った挙句に、とても無理な要求をして「どうして(ハートの愛で、ハートの愛を前提として)もっときちんと接してくれないの」とか言われたとしても、そもそもハートの愛を知らない人にとっては困惑するだけなのです。このような場合、上位の愛を知っている人であればそれ以前の段階の愛の形も理解できるわけですから、先に進んでいる方が相手をより理解するという形にするか、あるいは、段階が合わないことがわかったのであれば仕方がないので離れるか、どちらかしかないように思うのです。理解なくして近くにいても喧嘩になって不仲になって離れるわけで、最初から付き合わないか、付き合うなら理解を元にした関係にする他はないように思います。
それに、今になってようやく気が付きましたが、多くの場合、清楚系ビッチに何を言っても無駄なのです。綺麗で良いボディの若い女の子にはそれなりの需要がありますから、本人に自覚がなければ必ず自己正当化する選択をして他人の言葉、特に男の言葉に聞く耳を持ちませんし、占い女子や恋愛相談するスピリチュアル女子を見ればわかりますように、意見を求められたとしても多くの場合は自己肯定してもらいたいだけですので、私は今まで、ついつい真面目に対応して回答してしまっていましたが、清楚系ビッチが求めている回答は「自己正当化」ですので、それ以外の回答を受け付けないか、あるいは、不機嫌になって自己正当化してもらえるまでヒステリーになるわけです。おそらく、私が今まで清楚系ビッチのことをよくわかっていなかっただけで、世間の多くの人は私なんかよりもよほど清楚系ビッチの生態を理解していて、何を言っても無駄だと理解しているからこそ、世間では「女性から相談されても、女性は回答を求めてなんていなくて同意してもらいたいだけ」という一般常識は大抵において正しいわけです。
多くの場合において一般女性のスピリチュアルというのは自己正当化と引き寄せの法則で自分の人生が豊かになってお金や従順なパートナーに恵まれることを望むわけですから、男のスピリチュアルのように自己成長を説いたとしても多くの場合には糠に釘で、求めているものが違いますから、話が通じないわけです。
これが悪いと言っているわけではなくて、女性とはそういうものなのだと思いますし、それで既に女性はそれなりのスピリチュアルを達成できるわけですし、私の属するグループソウルから分かれた分霊の女性の人生を見ても、多くの場合は「ほほほん」と不都合ない生活をしていますので、女性で生まれたならば恵まれて生きて幸せのままに寿命を迎えればそれでいいのかなと思います。そうして私自身の属するグループソウルの分霊の人生を見ると、随分と私の今の男の人生と比べて気ままに幸せにほとんど不都合なく生きていますから、女性の生き方というのはそれはそれで苦労なく恵まれているものだと思います。女性はそうして不都合ない幸せな人生を謳歌すれば良いのだと思います。
どんなにスピリチュアルが成長しても、どうしても男の生き方と女性の生き方というものは変わってきて、同じグループソウルからの分霊であったとしてもお互いの生き方の根本は違っているのですが、それはもう、何十年とその性別で生きてきているのですから違って当然で、そんなものかな、と理解するしかないと思うのです。それが悪いわけでもなく、それぞれの性別の特質かなと思います。
ただ、そのような理解すらも、愛そのものの理解に比べれば些末なことであると言えます。
それに、このようなことは0ー100のお話ではなくて、何が優勢かというお話な訳で、完全に100%男を見下して愛が0%というのは稀で、少なくとも生理的に受け付けるからこそ、近くに一応はいられるわけです。であれば、愛が20%とかかもしれませんけど、愛がなくはないわけです。それに、この種の女性は男を見下していて「男は女の本心はわからない」と思っていたりしますけど、確かに、そのような完全に鈍感な男というものがいるのは確かですけど、それにしても分相応というもので、その程度の男とくっつく女というだけのお話ですし、それに、男は意外に敏感で、全てをわかった上で、それでも女を愛しているから托卵も黙って受け入れる、という男も中にはいるわけです。女にしても望んで妊娠したわけでもない場合もあって悩んでいたりして、そんな時、何もわからず托卵を受け入れてくれたように見える男が実は全てをわかっている、なんてことは意外にぼちぼちあるように思うのです。「托卵であろうとも、この女性が近くにいて結婚してくれるならそれでいい」なんて歯の浮くようなセリフはおそらくは日本の男性は言わないでしょうけど、言わなくてもだいたいそういうことだとわかっていてくれる男性がいたとしたら貴重で、女性は二度と裏切らないようにそのような男性を大切にすれば良いわけです。
ただ、確かに、とても愚かで男を極限まで見下している清楚系ビッチがいることも確かで、そのような場合でも、(男の側が)愛を理解すればそもそも清楚系ビッチと本当に良い女性とを容易に見分けることができるようになりますし、自分が愛の状態になれば相応しい女性も自ずとわかるものだと思います。何事も分相応というもので、清楚系ビッチと関係があるということは自分もその程度ということですから、自分が成長すれば自ずと清楚系ビッチとは疎遠になってゆきます。
脇が甘くて多少なりとも清楚系ビッチに甘い顔を見せてしまうと図々しくつけ込まれていきますからきちんと線引きが必要のように思います。とある昔の出来事を思い出しましたが、返事にしても、社交辞令で合意かのような返答をとりあえずしてしまうとそれにつけこまれて色々と小馬鹿にしてきたりしますので、道徳に欠けていることの多い清楚系ビッチに対しては勘違いされないようきちんと返答を選ぶ必要があるかと思います。曖昧な答えでスルーしているのに清楚系ビッチはその心理を見抜けずに「はっきり言いなさいよ!」とかイライラしてきたり小馬鹿にしてきたりすることがあって、こっちがスルーしているということにも気付けないとある清楚系ビッチは心理的に幼いのかな、という印象が当時その時にありました。その清楚系ビッチは性欲は強くてそっちは魅力的だったりしましたけど、結局、愛という点に関する理解はまだまだで、性欲は強くてすぐに寝る女みたいでしたけど、反面、男や他人への理解は薄く、ただし自己肯定感は高くて自分は愛を知っていて文学をたくさん読むから人の心がわかると思っていてスピリチュアルもわかっていると自称する人でしたけど、実際のところは多少はスピリチュアルとはいえ自分のことが第一の現世利益的な考え方でしたので、結局は、ハートの愛に達していなければ頭でどう考えていても大差なくて、ポイントはというとハートの愛に実際に達しているかどうかで良い子かどうかが決まると思うのです。清楚系ビッチはハートの愛に達していない、ということができます。性的魅力があってすぐに寝るような子でもハートの愛がわかっていない、という場合もあるわけです。この辺り、一見するとハートの愛を持っていそうに見えてしまうのですけど、言動が文学からの受け売りだったり、怒りの沸点が低くてすぐにヒステリーになる具合あったり、男を見下す目線を見ることで、そのような女性であってもハートの愛がわかっていないということが読み取れるわけです。
良い子はハートの愛がまだ弱かったりしますけどそれはハートの愛が育つ素養があるということでもあって、良い子かつハートの愛が育ってハートの愛に達すれば最上のパートナーになるわけです。ハートの愛がまだそこまでなくても良い子ならパートナーとして十分に及第点に達していると思うのです。一方、清楚系ビッチが男にヒステリーになっていたとしたらハートの愛に達するのは難しいような気が致します。実のところ、元清楚系ビッチであろうともハートの愛に達すれば劇的に良い子に劇的に変わるわけで、それほどハートの愛は偉大なわけですけど、そうは言いましても、普段から怒りを溜めて生活をしていたらハートの愛に達するのは難しいようにも思います。それよりも、良い子がパートナーと信頼関係を結んでハートの愛に目覚めていく方が容易なわけで、であれば、パートナーとしては清楚系ビッチよりも単純に「良い子」を選べば良くて、要は、素養のある子を選べば良いわけです。信頼関係を構築して、深い関係を続けていると、不意にハートのチャクラ(アナハタ・チャクラ)あるいはもう一段下のマニプラ(ソーラプレクサス)などが開いてハートの愛あるいは情愛に目覚めることになります。その時の女性の反応としては、チャクラが開く前はどこか躊躇があって心を開き切っていない部分があったのに対し、チャクラが開いて心が開くと急にハートが輝き出してエネルギーが倍増し、顔が明らかに明るくなり、心が開き、距離感が急に近くなります。女性は、男性と信頼関係を結ぶことで割と容易にチャクラが開いてハートの愛に目覚めることができるように思うのです。その時、ハートの愛に目覚めるのが一番ではありますけど、開くのが情愛であってもそれなりの良い愛情に目覚めることができるわけです。女性が、男性との信頼関係を持つことでチャクラを開くという神秘のステップは、古来から誰となしに本能で教えられることなく普通に行われてきたことのように思います。このステップを経ずしてハートを開かずに生きている人は、人生の神秘を体験していない、ということにもなって、せっかく生まれたこの体を有効活用していないということにもなって、とても勿体無いと思うのです。異性との関係を経ずして生まれながらにハートが開いている方もいらっしゃいますけど、(まだハートが開いていない場合は)異性との信頼関係によってハートが開く場合が多いように思います。
そして、そのようなハートの神秘と素晴らしさに比べれば、清楚系ビッチなど些末なお話であると言えます。
ハートの愛は素晴らしく、それ故に、それ以前の愛しか知らない人、それ以前の愛が優勢な人を蔑んだりしません。何でも包み込んで愛してくれる、それがハートの愛なわけですから、たとえ、それ以前の愛しか知らない清楚系ビッチがいたとしても、それは些細なお話なのです。
ハート以前の人は煮え切らない態度を取ったり時に気持ちだけでも浮気したり自分に夢中の時もあったかと思えば時に夢中というわけでもなかったり、とにかく何某かが欠けていて、それは情愛かそれ以前の愛の段階にいるわけですけど、一旦、そういう人を好きになってしまったら、全てを受け入れるか、はたまた、苦しいけれども諦めるしかないように思うのです。例え、そういう(ハート以前の状態の)相手が自分を好きかのような態度を取ったとしてもハートの愛を知らない人であればその本人のレベルにおける「好き」(ハート以前の「好き」)でしかありませんので、例えば情愛だったり、はたまた性愛、あるいは所有欲における愛だったりするわけです。これらはどれ1つということはなくて複合ではあるのですけど、どの段階が優勢かによって愛の形が変わってくるわけです。ですから、ハートの愛がゼロではないにせよ、他の愛の方が(時に、遥かに)優勢なわけです。そして、ハートの愛が優勢の人が、それ以前の段階の愛が優勢の人を愛してしまったならば、それは仕方がありませんので受け入れるか、あるいは、キッパリと諦めた方が良いと思うのです。中途半端で付き合った挙句に、とても無理な要求をして「どうして(ハートの愛で、ハートの愛を前提として)もっときちんと接してくれないの」とか言われたとしても、そもそもハートの愛を知らない人にとっては困惑するだけなのです。このような場合、上位の愛を知っている人であればそれ以前の段階の愛の形も理解できるわけですから、先に進んでいる方が相手をより理解するという形にするか、あるいは、段階が合わないことがわかったのであれば仕方がないので離れるか、どちらかしかないように思うのです。理解なくして近くにいても喧嘩になって不仲になって離れるわけで、最初から付き合わないか、付き合うなら理解を元にした関係にする他はないように思います。
それに、今になってようやく気が付きましたが、多くの場合、清楚系ビッチに何を言っても無駄なのです。綺麗で良いボディの若い女の子にはそれなりの需要がありますから、本人に自覚がなければ必ず自己正当化する選択をして他人の言葉、特に男の言葉に聞く耳を持ちませんし、占い女子や恋愛相談するスピリチュアル女子を見ればわかりますように、意見を求められたとしても多くの場合は自己肯定してもらいたいだけですので、私は今まで、ついつい真面目に対応して回答してしまっていましたが、清楚系ビッチが求めている回答は「自己正当化」ですので、それ以外の回答を受け付けないか、あるいは、不機嫌になって自己正当化してもらえるまでヒステリーになるわけです。おそらく、私が今まで清楚系ビッチのことをよくわかっていなかっただけで、世間の多くの人は私なんかよりもよほど清楚系ビッチの生態を理解していて、何を言っても無駄だと理解しているからこそ、世間では「女性から相談されても、女性は回答を求めてなんていなくて同意してもらいたいだけ」という一般常識は大抵において正しいわけです。
多くの場合において一般女性のスピリチュアルというのは自己正当化と引き寄せの法則で自分の人生が豊かになってお金や従順なパートナーに恵まれることを望むわけですから、男のスピリチュアルのように自己成長を説いたとしても多くの場合には糠に釘で、求めているものが違いますから、話が通じないわけです。
これが悪いと言っているわけではなくて、女性とはそういうものなのだと思いますし、それで既に女性はそれなりのスピリチュアルを達成できるわけですし、私の属するグループソウルから分かれた分霊の女性の人生を見ても、多くの場合は「ほほほん」と不都合ない生活をしていますので、女性で生まれたならば恵まれて生きて幸せのままに寿命を迎えればそれでいいのかなと思います。そうして私自身の属するグループソウルの分霊の人生を見ると、随分と私の今の男の人生と比べて気ままに幸せにほとんど不都合なく生きていますから、女性の生き方というのはそれはそれで苦労なく恵まれているものだと思います。女性はそうして不都合ない幸せな人生を謳歌すれば良いのだと思います。
どんなにスピリチュアルが成長しても、どうしても男の生き方と女性の生き方というものは変わってきて、同じグループソウルからの分霊であったとしてもお互いの生き方の根本は違っているのですが、それはもう、何十年とその性別で生きてきているのですから違って当然で、そんなものかな、と理解するしかないと思うのです。それが悪いわけでもなく、それぞれの性別の特質かなと思います。
愛とワンネス(=サマーディ)とテレパスの関係
ワンネスはヨーガではサマーディ(三昧)の状態に対応していて、「見るもの」と「見られるもの」と「見る行為」の3つの区別のない状態でもあります。これら3つは通常の意識状態では分かれていますが、ワンネス(あるいはサマーディ)の状態においては3つが同一になっているわけで、それが他者との間で起こるのであればテレパスの状態でもあるわけです。
そしてそれは、ハートの愛に基礎があるように思います。
子供であれば割とこれが無意識に無制御に起こっている場合があって、子供の頃に自分と他人の区別がつかない子というのは一定数いて苦労したりするわけですけどある程度育てば自他の区別がついてくるわけです。
自他の区別がない状態はいつもそうであるわけではないにせよ、ある程度まで成長した上で、意図的に他者のことを思ってワンネスに至ればいわゆるテレパスの状態になって相手の立場での考え方、背景などがわかるわけです。ある程度の経験を積むとワンネスの切り替えができるようになり、必要な時だけ目標を定めてワンネスの状態になって相手の思いを知ることができるようになるわけです。そしてそれはサマーディということでもあり、テレパスということでもあります。
知ろうと思えば他者のことが知れるわけですけど基本的に他者のことを知る必要はなくて、テレパスだからと言って何でも他人のことがわかるわけでもなく、むしろ、成熟した大人であれば、特にそれは、貴族の名誉みたいなもので、色々できたり知ることができるとしても自身を律して道徳的に振る舞って、むやみやたらにテレパスを使わない、という生活が基本にあるべきだと思います。
ですから、世間で、スピリチュアルで他人のことを見抜いて有名な人やサイキックのようにズバズバ当てて周囲から称賛されている人が必ずしも人格的に優れているかというとそうでないのも納得で、ワンネスな人は基本的にその能力はむやみやたらに使いませんし、であれば、他者の考えなんて見抜けない、見抜かないのが普通であります。スピリチュアルな成長とは当てっこゲームのような占いやショーとは本来は無縁で、人格を育てるものであります。
誰かがテレパスだったりワンネスであったとして、この動物園のような世界に生きていれば、ワンネスであればあるほど雑多な人を避ける、付き合う人を選ぶ、というのも一つの基準になるようにも思うのです。
そしてそれは、ハートの愛に基礎があるように思います。
子供であれば割とこれが無意識に無制御に起こっている場合があって、子供の頃に自分と他人の区別がつかない子というのは一定数いて苦労したりするわけですけどある程度育てば自他の区別がついてくるわけです。
自他の区別がない状態はいつもそうであるわけではないにせよ、ある程度まで成長した上で、意図的に他者のことを思ってワンネスに至ればいわゆるテレパスの状態になって相手の立場での考え方、背景などがわかるわけです。ある程度の経験を積むとワンネスの切り替えができるようになり、必要な時だけ目標を定めてワンネスの状態になって相手の思いを知ることができるようになるわけです。そしてそれはサマーディということでもあり、テレパスということでもあります。
知ろうと思えば他者のことが知れるわけですけど基本的に他者のことを知る必要はなくて、テレパスだからと言って何でも他人のことがわかるわけでもなく、むしろ、成熟した大人であれば、特にそれは、貴族の名誉みたいなもので、色々できたり知ることができるとしても自身を律して道徳的に振る舞って、むやみやたらにテレパスを使わない、という生活が基本にあるべきだと思います。
ですから、世間で、スピリチュアルで他人のことを見抜いて有名な人やサイキックのようにズバズバ当てて周囲から称賛されている人が必ずしも人格的に優れているかというとそうでないのも納得で、ワンネスな人は基本的にその能力はむやみやたらに使いませんし、であれば、他者の考えなんて見抜けない、見抜かないのが普通であります。スピリチュアルな成長とは当てっこゲームのような占いやショーとは本来は無縁で、人格を育てるものであります。
誰かがテレパスだったりワンネスであったとして、この動物園のような世界に生きていれば、ワンネスであればあるほど雑多な人を避ける、付き合う人を選ぶ、というのも一つの基準になるようにも思うのです。
テレパスで腹黒さを確認することで愛のなさを反面教師にし、本当の愛を理解する
合コンで、ある時に、ちょっと気になる別の子がいたのですけど、その子は一見すると礼儀正しく接してはくれたのですけど特に仲良くなることはなくて、当時はよくわからなかったのですけどここにきてテレパスで当時その子がどのような気持ちだったのか見ることができて、どうやら、あの礼儀正しい子は表情に出さずとも心の中で私を小馬鹿にして見下していたようで、当時に表情からはわからなかった、本性の気持ち悪さを今更ながら知りました。私はそのことに当時全く気づきませんでしたの、人を見る目が本当になかったのかなと思います。テレパスで見たあの子の感情はとても気持ち悪くて、波動も悪く、ぜんぜんいい子ではありませんでしたけど、当時はいい子のような気がしていて、ちょっと気になって少し好意を寄せていたりしましたが、テレパスで見るとお腹の中が真っ黒で、実は文字通り腹黒い子だったようです。今更ながらちょっとショックです。よく、慣用表現で「腹黒い」なんて言いますけど、テレパスで当人の内情を探ると本当に本当にお腹の辺りが黒くなっているのが見えますので、腹黒い、という表現は表現としてぴったりなわけです。まさに真実そのままです。文字通り、本当に腹の中が黒い人がいるのですけど、顔の表情からはなかなかわからなくて今更ながら驚きました。逆もあって、一見すると当時は清楚系ビッチのように思っていた人でも今更ながらテレパスで内情を見てみるとそうでもなくて割と普通の子がいたり、はたまた、このように、見た目は普通なのに実は腹黒い、と言うことがテレパスにはわかるわけです。それは(外部からの)印象とかいうお話ではなくて、テレパスで見るときは視点がまさに「その子」になりますので、対象の子と「自己同一視」した状態になって、その子そのものになって、本人がどう思っているのかを本人の視点で見るわけです。内側から、いわば重なって見ますので、かなり正確な状態がわかるように思います。これは、よくある「(割と物理的な)オーラの接触」とは異なっていて、時空を超えていますから、危険はないわけです。相手のことを相手の視点としてその気持ちを知ることができるのはテレパスの利点ではありますけど、時に、このように、残酷で辛い現実を知ることもあります。何も知らずに表情だけ見て心地よくなっていた昔は「知らぬが仏」だったようです。ちなみに、これは私はいつでも誰に対しても自由に見れるわけではなくて、高次から見せられている、という感覚があります。必要な場面を一つづつ見せられて理解を整理させられているようですけど、時々、このように、清楚そうに見えるのに実は残酷で腹黒い子の内面を見せられてショックを受けることもあります。これが現実というものです。当時はメンタルを壊していてかなり波動が悪くて体全体が重かったですので、当時の自分には分相応の相手だったかもしれません。とは言いましても、そこまであの子に相手にされませんでしたけど。
霊視やテレパスで見たことは本当のことかどうかはわかりませんけど、あの子は、一見すると見た目は普通でしたけど、実のところ、誰とでもすぐ寝るような子で、まさにビッチと呼ぶのが相応しい、あそこまで清楚系ビッチと呼ぶのに相応しい人はいないのではないか、と言うほど夜の生活が乱れているような子だったようです。もしかしたらあの風景は、夜のお仕事のそういう部屋で働いている子だったのかもしれません。
今から思い出すと、そういえば、合コンの途中まで私はあの子に興味を持っていたのですが、1時間くらいした時にあの子のそう言う姿がチラリチラリとヴィジョンで見えて、それで、「あれ? この子って、すぐに裸になって、汚いことして、誰とでも寝るような子なのか・・・」と思って、それに気がついて急に興味を失ったら、あの子は「あれ? どうしたのかな?」みたいな表情をしていましたけど、それは、本性に気付いてしまったので興味を失ったわけで。
当時はただ単に「すぐ寝る子」としか思わなかったわけですけど、今、再度、その風景を思い出してみると、どうもあれは、単にすぐ寝る子と言うよりは、夜の、そう言う仕事をしている人だったのかなぁ、と思うわけです。そう言う部屋で、すぐに裸になってやりまくるような感じでした。
見た目は清楚そうに振る舞っていてもオーラは隠せないですし、オーラの汚れは理由にもよりますけど、その理由が夜の仕事で色々な人から黒いオーラをもらっているからだとすれば腹黒いのも当然だと言えます。夜のお仕事で体を接触すると高確率でオーラの交換がなされますから、腹黒くもなるわけです。
実のところ魂の根源は誰でも清浄で汚れることはないわけですけど、その周囲の個別の魂には色があって、そのまた周囲である物体のオーラの中にこれらの腹黒いオーラがあるわけです。それを踏まえて、単に腹黒いという場合でも主に2種類あると思っていて、根源は誰でも清浄なのでさておき、その周辺の魂の色が暗い場合と明るい場合があるのです。そして、体に近いオーラが黒いものが混ざっている場合です。組み合わせで4パターンあるわけですけど、そのうち、腹黒いパターンは2つで、魂が暗くて腹黒いパターンと、魂が明るくて腹黒いパターンです。前者は魂の本質から言ってまだ成長過程で本質的に腹黒く、上の女の子の場合はこのパターンです。一方、魂は明るいのだけれども周囲の影響で腹黒いオーラを植え付けられるパターンがあるように思うのです。私はどちらかというと後者の意味で周囲から腹黒いオーラを植え付けられていた、いわば黒いオーラのゴミ箱にされていたように思うのです。そうして黒いオーラを私に吸い取らせて捨てた周囲の人は至極元気になって、私は黒いオーラを受け取って鬱になる、という搾取の関係性が周囲で私にモラハラしてくる人たちとの間でオーラの交換という点においてパターンがあったように思うのです。
私自身のお腹を同じテレパスで見て見ますと今でもぼちぼち灰色のような斑点が私のお腹にありますので客観的に見て自分の状態が未だにそのくらいであることがわかるわけですけど、おそらく、この私の灰色の斑点のオーラは若い頃に虐められて少しずつ蓄積したものに加え、特に大きいのは、若い時に密着した女の子からもらってしまったものがまだ少し解消されずに残っているように思います。おそらく、私のこの腹黒いオーラは生まれながらにはなかった筈で、生きているうちに関係性によって他者などからもらってしまったように思うのです。であれば、特に深い体の関係を持つのは特に気をつけた方が良いと思うわけです。おそらく、私がこの灰色の斑点のオーラをもらってしまった人の心当たりがあるとすれば、ほんの短期間しか付き合いがなかったわけで、それでも、その後、ずっとオーラが残り続けるので関係は短期間であろうとも悪影響が長く続くように思います。今の若い人はお持ち帰りなどで体の関係をすぐに結んだりしますけど、腹黒いオーラをもらったり、あるいは逆に自分の腹黒いオーラを誰かに渡すことで自分が楽になる、という、ババ抜きゲームを繰り返しているようにも思うのです。私は最近はそういう体の関係はあまりなくて、もっぱらヨガや瞑想で波動の解消に努めてきたわけですけど、そうして浄化を進めてきた自分の状態ですらまだこのくらいだとすると、本当にお腹の中のオーラまでもが清らかな人は稀なのかもしれません。そうなると、昔ながらに言われている、貞潔を守ることの意味が、違った観点で理解されます。生まれながらに綺麗なオーラを保つことは、自分が浄化するだけでなく、付き合う相手も選ぶ必要があって、それは必ずしも貞潔を守るだけではなく、深い関係を持つということは相手のオーラに自分が深く影響されるということです。
このように、テレパスで知ることのできる相手の思考や状態というものがあるわけですけど、じゃあ、理解とか言わずに最初からこれで見たらいいじゃないかというお話もあるのですが、高次の(見えない)ガイドの解説によると、そうではなく、理解することが今回の人生の課題だった、と言います。テレパスで知ることができるのはあくまでもその時点での状態で、それは、普通に目で見て物理的に近くにいて知ることのできる情報が増えたに過ぎず、その情報を正しく理解するためにはテレパスだけでは不十分で、テレパスだけでは一時的な状態を元に相手を間違って理解し、誤解に基づく判断や評価を下してしまうことがあるようです。正しく見る、という点においてテレパスは有用ですが、得た情報を元に考えるのはテレパスも普通の人も変わらないということのようです。それは理に適っています。いくらテレパスできたところで理解と判断力がなければうまく動けませんから、理解を重視した、というのは至極真っ当なことであると思います。テレパスですとついついそれに頼って判断してしまい、事前に割とトラブルは避けることができるのですが、それでは大体の場合において浅いところでの理解しか生まれませんし、テレパスの面でパスしていても理解が足りないと判断ミスをして致命的な結果になったりします。金銭的な面だけでなく、物理的に被害を受けたりすることもあります。テレパスに頼ると理解が浅いために表面上は平気そうな場面でついつい油断してしまうわけです。そのような、危険な場面が多々あって、パラレルの時間軸においてパラレルの自分が実際に被害にあって苦しんでいる姿も見えます。今回、地上の人生はほぼ終わりにしてもともといた世界に帰ることを自覚しているのですが、全てを終わらせて理解した上で心置きなく地上を離れるため、理解を深めるために数十年の間は一時的にテレパスを抜きにして理解を得るために苦労した、という面もあったように思います。
高校時代に「あだち充の漫画とか読んで」と言ってきていた少し仲良かった子がいたのですけど、思うに、私が愛というものを当時はよく知らなかったのでもっと違う接し方をしてきてほしい、と言っていたのだと思います。私からするとあまり気兼ねせず話せて仲良くて、周りから見ると「あれ? あの子のこと好きなの?」と思われていたと思いますけど実のところ私にはそこまで自覚症状はなくて、しばらく仲の良い状態が続いたわけですけど、ある日、口論して喧嘩するようなことがあって、私が話しかけても「もう! 」みたいな態度を取ってプンスカするようになってしまいました。今となっては何があの子を怒らせたのか思い出せませんけど、おそらく、今からすれば、とてもくだらないことで、怒って当然のことを言ったように思うのです。私からすると「何をそんなに不機嫌なのだろう」としばらく思っていて、修学旅行で自由行動の時に、道の真ん中で、たまたま人が1人でポツンといるその子を見つけたので私が近づいて、割と皆に見られるような状況で「一緒に回ろうよ」みたいに私が道の真ん中で言ったものだから「いや、ちょっと、それは!」みたいにその子は挙動不審になってオドオドして、拒否しているのかOKなのかいまいちわからない状況で、たぶん拒否されているのかな??? と言うよくわからない態度で、「あれ? なんだこれ。そんなに嫌われているのかな?」と、女心がよくわからない状況で、とにかくその時は混乱して、実のところ私は自分があの子を好きという自覚もあまりない状態でしたから、その気持ちをどうしていいのかわからずに、頭がぐるぐる混乱したまま、気持ちと態度だけが行き場を失ってその後に私の方こそが混乱した態度を取ってしまう1日になってしまい、あたかも、他の子に対して好きかのような態度を取ってしまって他の子を勘違いさせてしまって申し訳なかったこともありました。自分のあの子への気持ちが行き場を失ってしまって挙動不審の意味不明な状態になってしまったのだと思います。その子を遠くから見ると、これまた1日中ずっと挙動不審になっていて、あの子にしても混乱して自分の態度がよくわからない状況になっていたのかなぁ、という気も致します。お互いに挙動不審同士で、とにかく、当時は変な2人だったように思います。誰かを好きになる時は、割と大抵、好きだという自覚症状がなくて、頭が混乱して意味不明になってしまっていたように思うのです。今から思えば、まあ、私はあまり愛というものをはっきりと知らない状態だったんだなと思うわけです。当時からきちんと愛を知っていれば女性に対する接し方もかなり違っていたのかなと思います。当時、あの子のことを好きだったのか? と言われると、「うーん。よくわからない。そうだったかも」という感じです。好きか嫌いかで言えば好きの方に分類されますので、高校時代のピュアな感情からすれば「好き」に入れていいのかなと思います。どちらかというと、仲良く過ごしたい、という気持ちの方が強かったですかね。周りから見ると、どうも微笑ましい感じだったかなと思います。好きかどうかというお話と愛を知っているかどうかは別のお話で、一応は「好き」であったと判断して良いかとは思うのですけど、それに加えて、愛を知らなかったので態度と言葉が何か良くなかったのかなと思います。誰かと良い関係になるためには「好き」という感情だけでは不十分で、ベースとして愛を知っていることが必要なのかなと思います。今から思えば中学にせよ高校にせよ性格の良い子がたくさんいたように思います。割と単純で素直な子が多かったですかね。中学や高校のようにあまり世間を知らない状態ですと清楚系ビッチへ分化する以前の状態の場合もあって、最初は純朴な状態から、世間を知った後に清楚系ビッチになるかどうか、が分かれ目になる場合もある気が致します。田舎で住んでいてそもそもそのような環境がなくそのまま過ごす場合もあれば、素養があって上京した時に清楚系ビッチになる(いわゆる、デビューする)人もぼちぼちいたように思うのです。あるいは、上京しても全く変わらない人も多かったように思います。それは素質によるわけです。
今から思えば中学や高校時代の同年代は半分以上はいい子でしたけど私が好きになるのは「割と変な子」が多くて、周囲から「あなた、変な子ばかり好きになるね」とよく言われていました。特に、仲の良い女の子(特に好きとかではない)によくそんなことを言われていました。それより、普通に親しかった普通の子が実は普通にいい子で、そういう、普通にいい子をいい子だと見る目が当時からあれば良かったと今では思いますし、そういう普通にいい子を当時に好きになれれば良かったと今更ながら思います。このあたりも、当時は人を見る目がなかったと言いますか、要は愛をあまり知らなくて、ちょっと変わった子にばかり惹かれていました。まあ、傍目からみれば、ちょっと面白い青春とも言えるかもしれませんけど、当時はそこまで楽しい時代とは思っていなくて辛い時期ではあったのですけど、時間を経て思い返してみれば意外と当時の印象を美化している自分がいて、辛いことは忘れてしまって、当時楽しかったことや甘い思い出ばかりが心に残っていて、当時はメンタルを壊していた筈なのに、そのような辛い思いは自分の中で理解されて解消し、良い思い出ばかりが残っているように思います。以前は、このような心境にはなれませんでした。今は当時の状況を少なからず理解できるようになり、何が大切だったのかが見えてきたように思うのです。そういえば、高校時代の同級生の大体の女の子は良い子だった一方で、ごく一部の女子が私のことを小馬鹿にしつつも私に好意を持たれていると思い込んでいたようで(そんな気が私はしていて)、私はそれについて特に言い返したりせずにスルーしていましたけど、私は、男(私)を小馬鹿にするような女は基本的に恋愛対象ではないですし、それでも何を思ったのか何人かの女子は私がその子に好意があって答えているかのような態度を時々取っている気がしたのです。当時は女性の心理があまり理解できなくて、そういうイジるそぶりをたまに少しされるのは可愛く思う時もありましたけど、継続的にやられたらうざったいだけでした。子供が好きな子を虐めるのと同じ心理なのかと思いつつも、基本的には煩わしく思っていました。今から思えば、それもまた青春の時代の良い思い出の1つなわけですけど、今から思えば、好きになるべきはそのような少し変わった子の方ではなく、普通の良い子の方を好きになるべきだったように思うのです。
当時の私の愛は2つあって、1つは見た目や表面上の態度を見た時に好きだと思い込むことでしたがこれは本当の愛ではなくて、一方、時折現れていた本当の愛はまだ当時は限定されていて、それは数少ない特定の異性に対する愛で、勇気を持って飛び込むことで開くような恋で、割と制限された特定の相手に対する愛したが、今は、瞑想において(割と)普遍的な愛を開いて愛を知った、愛を理解した、という違いがあります。それは実のところ同じ愛なわけです。全く別物のように聞こえるかもしれませんが、実のところ、同じものであることがこうして理解できたわけです。一時的に昔のことがフラッシュバックで追体験させられて、もはや忘れていた数々のことを今更ながら思い出すことで今となってはどうしようもない失恋のような心理状況を再現させられていたわけですけど、それは割と一時的なトリガーのようなもので、そのことで、普遍的な愛とは何かを理解するきっかけになったかと思います。数十年前のことを思い出したところで、もはや、どうしようもないのですけど、それでも、理解のためには役立ったわけです。その結果、おそらくかつては知っていた、そして、しばらく忘れていたであろう普遍的な愛というものを思い出して、おそらくそれは小学校や中学校の時の心理状態と同じだったかと思うのですけど、そうなると、私は最近は割といつも恋をしているような心理状況になっていて、視線で誰かを勘違いさせないように気をつける必要も出ています。とは言いましても年も年ですからそうそう勘違いされることはないので若い時ほど心配は不要なのですが。若い頃、特に小学校や中学校の頃は視線でよく同級生や近しい歳の子を勘違いさせていて申し訳なく思ったことも多々ありました。私が何気ない視線で自分が自分に愛していて微笑んでいると、相手は「私を見つめて微笑んでくれているから、きっと私のことが好きなんだ」と勘違いさせてしまって、ふと気がつくと何やら視線が集まっている、しかし私には自覚がない、ということが多々ありました。さすがに今はいい歳ですのでそういうことはないですけど、視線を勘違いさせないよう気をつけたりします。そのベースになっているのが、普遍的な恋・普遍的な愛なのか、あるいは、特定の相手に対する愛・恋なのか、と言う違いなわけです。そういう違いがありますので、以前は恋を「する」(愛の状態になる)、今は愛を知る、愛を理解する、という違いがあります。行為なのか、状態なのか、と言う違いがあるわけです。同じ愛ではありますが、一時的なものなのか割と普遍的なものなのかの違いがあるわけです。この前段階として「至福」だとか「満ちている」と言う状態、瞑想の階梯があったわけですけど、瞑想は普遍的な愛を開きますので良いとは思いますが一般の人は瞑想なんてそれほどしませんし瞑想はなかなか難しさもありますから普通に(ハートで)恋に落ちて誠実な恋愛をするだけで愛を知るのは割と十分なのかもしれません。これは肉体的な愛ではなくて(それがあっても良いですが)ハートでの愛ですので年齢には関係なくて、歳を取って恋をしても良いと思います。私の場合、小学校や中学校の時は割と普遍的な愛の状態に生きていて特定の人に対する恋はほとんどなかったように思います。一方、高校時代と大学時代はメンタルをやられていて愛の状態から落ちることが多くなっていましたから、その状態ですと、一時的に誰かに恋をするということがあったかと思います。ですから、恋を「する」という意味では思春期なわけですけど、実のところ愛の状態で生きるのは小学校や中学校の時代の方ができていたと思うのです。そしてその状態を思い出して理解して、普遍的な愛の状態にようやく最近になって戻ってきたと思うのです。普遍的な愛の状態で生きていると恋を「する」というのはあまりなくて、受け入れる方が多くなるように思います。この状態では、自分が相手を好きかどうかもある程度は重要ですけど、ある程度OKなら受け入れるだけでも割と良いように思うのです。そうでないと、恋を「する」なんてのを待っていたり選択していたらずっと独り身だったりということもあるでしょうし。芸能人で言うと石田ゆり子さんなんてそんな感じで普遍的な愛を持っていらっしゃると思うのですよね。ですから、確か本人は「恋とかよくわからない」とおっしゃっていますが、普遍的な愛で常に生きていると恋を「する」とか言うのはよくわからない、というお話だと思います。以前にも似たような状態になっていたような気がしたことがありますけど、愛の深さと、その理解の程度、というところには大きく違いがあるかと思います。今後もまた更に愛の理解が深まる可能性もありますが、一旦は、小学校や中学校の頃の状態にまで戻ってきたことで目処がついたと言えると思います。今更といえばそうですけど、愛を知れて(理解できて)良かったと思います。
霊視やテレパスで見たことは本当のことかどうかはわかりませんけど、あの子は、一見すると見た目は普通でしたけど、実のところ、誰とでもすぐ寝るような子で、まさにビッチと呼ぶのが相応しい、あそこまで清楚系ビッチと呼ぶのに相応しい人はいないのではないか、と言うほど夜の生活が乱れているような子だったようです。もしかしたらあの風景は、夜のお仕事のそういう部屋で働いている子だったのかもしれません。
今から思い出すと、そういえば、合コンの途中まで私はあの子に興味を持っていたのですが、1時間くらいした時にあの子のそう言う姿がチラリチラリとヴィジョンで見えて、それで、「あれ? この子って、すぐに裸になって、汚いことして、誰とでも寝るような子なのか・・・」と思って、それに気がついて急に興味を失ったら、あの子は「あれ? どうしたのかな?」みたいな表情をしていましたけど、それは、本性に気付いてしまったので興味を失ったわけで。
当時はただ単に「すぐ寝る子」としか思わなかったわけですけど、今、再度、その風景を思い出してみると、どうもあれは、単にすぐ寝る子と言うよりは、夜の、そう言う仕事をしている人だったのかなぁ、と思うわけです。そう言う部屋で、すぐに裸になってやりまくるような感じでした。
見た目は清楚そうに振る舞っていてもオーラは隠せないですし、オーラの汚れは理由にもよりますけど、その理由が夜の仕事で色々な人から黒いオーラをもらっているからだとすれば腹黒いのも当然だと言えます。夜のお仕事で体を接触すると高確率でオーラの交換がなされますから、腹黒くもなるわけです。
実のところ魂の根源は誰でも清浄で汚れることはないわけですけど、その周囲の個別の魂には色があって、そのまた周囲である物体のオーラの中にこれらの腹黒いオーラがあるわけです。それを踏まえて、単に腹黒いという場合でも主に2種類あると思っていて、根源は誰でも清浄なのでさておき、その周辺の魂の色が暗い場合と明るい場合があるのです。そして、体に近いオーラが黒いものが混ざっている場合です。組み合わせで4パターンあるわけですけど、そのうち、腹黒いパターンは2つで、魂が暗くて腹黒いパターンと、魂が明るくて腹黒いパターンです。前者は魂の本質から言ってまだ成長過程で本質的に腹黒く、上の女の子の場合はこのパターンです。一方、魂は明るいのだけれども周囲の影響で腹黒いオーラを植え付けられるパターンがあるように思うのです。私はどちらかというと後者の意味で周囲から腹黒いオーラを植え付けられていた、いわば黒いオーラのゴミ箱にされていたように思うのです。そうして黒いオーラを私に吸い取らせて捨てた周囲の人は至極元気になって、私は黒いオーラを受け取って鬱になる、という搾取の関係性が周囲で私にモラハラしてくる人たちとの間でオーラの交換という点においてパターンがあったように思うのです。
私自身のお腹を同じテレパスで見て見ますと今でもぼちぼち灰色のような斑点が私のお腹にありますので客観的に見て自分の状態が未だにそのくらいであることがわかるわけですけど、おそらく、この私の灰色の斑点のオーラは若い頃に虐められて少しずつ蓄積したものに加え、特に大きいのは、若い時に密着した女の子からもらってしまったものがまだ少し解消されずに残っているように思います。おそらく、私のこの腹黒いオーラは生まれながらにはなかった筈で、生きているうちに関係性によって他者などからもらってしまったように思うのです。であれば、特に深い体の関係を持つのは特に気をつけた方が良いと思うわけです。おそらく、私がこの灰色の斑点のオーラをもらってしまった人の心当たりがあるとすれば、ほんの短期間しか付き合いがなかったわけで、それでも、その後、ずっとオーラが残り続けるので関係は短期間であろうとも悪影響が長く続くように思います。今の若い人はお持ち帰りなどで体の関係をすぐに結んだりしますけど、腹黒いオーラをもらったり、あるいは逆に自分の腹黒いオーラを誰かに渡すことで自分が楽になる、という、ババ抜きゲームを繰り返しているようにも思うのです。私は最近はそういう体の関係はあまりなくて、もっぱらヨガや瞑想で波動の解消に努めてきたわけですけど、そうして浄化を進めてきた自分の状態ですらまだこのくらいだとすると、本当にお腹の中のオーラまでもが清らかな人は稀なのかもしれません。そうなると、昔ながらに言われている、貞潔を守ることの意味が、違った観点で理解されます。生まれながらに綺麗なオーラを保つことは、自分が浄化するだけでなく、付き合う相手も選ぶ必要があって、それは必ずしも貞潔を守るだけではなく、深い関係を持つということは相手のオーラに自分が深く影響されるということです。
このように、テレパスで知ることのできる相手の思考や状態というものがあるわけですけど、じゃあ、理解とか言わずに最初からこれで見たらいいじゃないかというお話もあるのですが、高次の(見えない)ガイドの解説によると、そうではなく、理解することが今回の人生の課題だった、と言います。テレパスで知ることができるのはあくまでもその時点での状態で、それは、普通に目で見て物理的に近くにいて知ることのできる情報が増えたに過ぎず、その情報を正しく理解するためにはテレパスだけでは不十分で、テレパスだけでは一時的な状態を元に相手を間違って理解し、誤解に基づく判断や評価を下してしまうことがあるようです。正しく見る、という点においてテレパスは有用ですが、得た情報を元に考えるのはテレパスも普通の人も変わらないということのようです。それは理に適っています。いくらテレパスできたところで理解と判断力がなければうまく動けませんから、理解を重視した、というのは至極真っ当なことであると思います。テレパスですとついついそれに頼って判断してしまい、事前に割とトラブルは避けることができるのですが、それでは大体の場合において浅いところでの理解しか生まれませんし、テレパスの面でパスしていても理解が足りないと判断ミスをして致命的な結果になったりします。金銭的な面だけでなく、物理的に被害を受けたりすることもあります。テレパスに頼ると理解が浅いために表面上は平気そうな場面でついつい油断してしまうわけです。そのような、危険な場面が多々あって、パラレルの時間軸においてパラレルの自分が実際に被害にあって苦しんでいる姿も見えます。今回、地上の人生はほぼ終わりにしてもともといた世界に帰ることを自覚しているのですが、全てを終わらせて理解した上で心置きなく地上を離れるため、理解を深めるために数十年の間は一時的にテレパスを抜きにして理解を得るために苦労した、という面もあったように思います。
高校時代に「あだち充の漫画とか読んで」と言ってきていた少し仲良かった子がいたのですけど、思うに、私が愛というものを当時はよく知らなかったのでもっと違う接し方をしてきてほしい、と言っていたのだと思います。私からするとあまり気兼ねせず話せて仲良くて、周りから見ると「あれ? あの子のこと好きなの?」と思われていたと思いますけど実のところ私にはそこまで自覚症状はなくて、しばらく仲の良い状態が続いたわけですけど、ある日、口論して喧嘩するようなことがあって、私が話しかけても「もう! 」みたいな態度を取ってプンスカするようになってしまいました。今となっては何があの子を怒らせたのか思い出せませんけど、おそらく、今からすれば、とてもくだらないことで、怒って当然のことを言ったように思うのです。私からすると「何をそんなに不機嫌なのだろう」としばらく思っていて、修学旅行で自由行動の時に、道の真ん中で、たまたま人が1人でポツンといるその子を見つけたので私が近づいて、割と皆に見られるような状況で「一緒に回ろうよ」みたいに私が道の真ん中で言ったものだから「いや、ちょっと、それは!」みたいにその子は挙動不審になってオドオドして、拒否しているのかOKなのかいまいちわからない状況で、たぶん拒否されているのかな??? と言うよくわからない態度で、「あれ? なんだこれ。そんなに嫌われているのかな?」と、女心がよくわからない状況で、とにかくその時は混乱して、実のところ私は自分があの子を好きという自覚もあまりない状態でしたから、その気持ちをどうしていいのかわからずに、頭がぐるぐる混乱したまま、気持ちと態度だけが行き場を失ってその後に私の方こそが混乱した態度を取ってしまう1日になってしまい、あたかも、他の子に対して好きかのような態度を取ってしまって他の子を勘違いさせてしまって申し訳なかったこともありました。自分のあの子への気持ちが行き場を失ってしまって挙動不審の意味不明な状態になってしまったのだと思います。その子を遠くから見ると、これまた1日中ずっと挙動不審になっていて、あの子にしても混乱して自分の態度がよくわからない状況になっていたのかなぁ、という気も致します。お互いに挙動不審同士で、とにかく、当時は変な2人だったように思います。誰かを好きになる時は、割と大抵、好きだという自覚症状がなくて、頭が混乱して意味不明になってしまっていたように思うのです。今から思えば、まあ、私はあまり愛というものをはっきりと知らない状態だったんだなと思うわけです。当時からきちんと愛を知っていれば女性に対する接し方もかなり違っていたのかなと思います。当時、あの子のことを好きだったのか? と言われると、「うーん。よくわからない。そうだったかも」という感じです。好きか嫌いかで言えば好きの方に分類されますので、高校時代のピュアな感情からすれば「好き」に入れていいのかなと思います。どちらかというと、仲良く過ごしたい、という気持ちの方が強かったですかね。周りから見ると、どうも微笑ましい感じだったかなと思います。好きかどうかというお話と愛を知っているかどうかは別のお話で、一応は「好き」であったと判断して良いかとは思うのですけど、それに加えて、愛を知らなかったので態度と言葉が何か良くなかったのかなと思います。誰かと良い関係になるためには「好き」という感情だけでは不十分で、ベースとして愛を知っていることが必要なのかなと思います。今から思えば中学にせよ高校にせよ性格の良い子がたくさんいたように思います。割と単純で素直な子が多かったですかね。中学や高校のようにあまり世間を知らない状態ですと清楚系ビッチへ分化する以前の状態の場合もあって、最初は純朴な状態から、世間を知った後に清楚系ビッチになるかどうか、が分かれ目になる場合もある気が致します。田舎で住んでいてそもそもそのような環境がなくそのまま過ごす場合もあれば、素養があって上京した時に清楚系ビッチになる(いわゆる、デビューする)人もぼちぼちいたように思うのです。あるいは、上京しても全く変わらない人も多かったように思います。それは素質によるわけです。
今から思えば中学や高校時代の同年代は半分以上はいい子でしたけど私が好きになるのは「割と変な子」が多くて、周囲から「あなた、変な子ばかり好きになるね」とよく言われていました。特に、仲の良い女の子(特に好きとかではない)によくそんなことを言われていました。それより、普通に親しかった普通の子が実は普通にいい子で、そういう、普通にいい子をいい子だと見る目が当時からあれば良かったと今では思いますし、そういう普通にいい子を当時に好きになれれば良かったと今更ながら思います。このあたりも、当時は人を見る目がなかったと言いますか、要は愛をあまり知らなくて、ちょっと変わった子にばかり惹かれていました。まあ、傍目からみれば、ちょっと面白い青春とも言えるかもしれませんけど、当時はそこまで楽しい時代とは思っていなくて辛い時期ではあったのですけど、時間を経て思い返してみれば意外と当時の印象を美化している自分がいて、辛いことは忘れてしまって、当時楽しかったことや甘い思い出ばかりが心に残っていて、当時はメンタルを壊していた筈なのに、そのような辛い思いは自分の中で理解されて解消し、良い思い出ばかりが残っているように思います。以前は、このような心境にはなれませんでした。今は当時の状況を少なからず理解できるようになり、何が大切だったのかが見えてきたように思うのです。そういえば、高校時代の同級生の大体の女の子は良い子だった一方で、ごく一部の女子が私のことを小馬鹿にしつつも私に好意を持たれていると思い込んでいたようで(そんな気が私はしていて)、私はそれについて特に言い返したりせずにスルーしていましたけど、私は、男(私)を小馬鹿にするような女は基本的に恋愛対象ではないですし、それでも何を思ったのか何人かの女子は私がその子に好意があって答えているかのような態度を時々取っている気がしたのです。当時は女性の心理があまり理解できなくて、そういうイジるそぶりをたまに少しされるのは可愛く思う時もありましたけど、継続的にやられたらうざったいだけでした。子供が好きな子を虐めるのと同じ心理なのかと思いつつも、基本的には煩わしく思っていました。今から思えば、それもまた青春の時代の良い思い出の1つなわけですけど、今から思えば、好きになるべきはそのような少し変わった子の方ではなく、普通の良い子の方を好きになるべきだったように思うのです。
当時の私の愛は2つあって、1つは見た目や表面上の態度を見た時に好きだと思い込むことでしたがこれは本当の愛ではなくて、一方、時折現れていた本当の愛はまだ当時は限定されていて、それは数少ない特定の異性に対する愛で、勇気を持って飛び込むことで開くような恋で、割と制限された特定の相手に対する愛したが、今は、瞑想において(割と)普遍的な愛を開いて愛を知った、愛を理解した、という違いがあります。それは実のところ同じ愛なわけです。全く別物のように聞こえるかもしれませんが、実のところ、同じものであることがこうして理解できたわけです。一時的に昔のことがフラッシュバックで追体験させられて、もはや忘れていた数々のことを今更ながら思い出すことで今となってはどうしようもない失恋のような心理状況を再現させられていたわけですけど、それは割と一時的なトリガーのようなもので、そのことで、普遍的な愛とは何かを理解するきっかけになったかと思います。数十年前のことを思い出したところで、もはや、どうしようもないのですけど、それでも、理解のためには役立ったわけです。その結果、おそらくかつては知っていた、そして、しばらく忘れていたであろう普遍的な愛というものを思い出して、おそらくそれは小学校や中学校の時の心理状態と同じだったかと思うのですけど、そうなると、私は最近は割といつも恋をしているような心理状況になっていて、視線で誰かを勘違いさせないように気をつける必要も出ています。とは言いましても年も年ですからそうそう勘違いされることはないので若い時ほど心配は不要なのですが。若い頃、特に小学校や中学校の頃は視線でよく同級生や近しい歳の子を勘違いさせていて申し訳なく思ったことも多々ありました。私が何気ない視線で自分が自分に愛していて微笑んでいると、相手は「私を見つめて微笑んでくれているから、きっと私のことが好きなんだ」と勘違いさせてしまって、ふと気がつくと何やら視線が集まっている、しかし私には自覚がない、ということが多々ありました。さすがに今はいい歳ですのでそういうことはないですけど、視線を勘違いさせないよう気をつけたりします。そのベースになっているのが、普遍的な恋・普遍的な愛なのか、あるいは、特定の相手に対する愛・恋なのか、と言う違いなわけです。そういう違いがありますので、以前は恋を「する」(愛の状態になる)、今は愛を知る、愛を理解する、という違いがあります。行為なのか、状態なのか、と言う違いがあるわけです。同じ愛ではありますが、一時的なものなのか割と普遍的なものなのかの違いがあるわけです。この前段階として「至福」だとか「満ちている」と言う状態、瞑想の階梯があったわけですけど、瞑想は普遍的な愛を開きますので良いとは思いますが一般の人は瞑想なんてそれほどしませんし瞑想はなかなか難しさもありますから普通に(ハートで)恋に落ちて誠実な恋愛をするだけで愛を知るのは割と十分なのかもしれません。これは肉体的な愛ではなくて(それがあっても良いですが)ハートでの愛ですので年齢には関係なくて、歳を取って恋をしても良いと思います。私の場合、小学校や中学校の時は割と普遍的な愛の状態に生きていて特定の人に対する恋はほとんどなかったように思います。一方、高校時代と大学時代はメンタルをやられていて愛の状態から落ちることが多くなっていましたから、その状態ですと、一時的に誰かに恋をするということがあったかと思います。ですから、恋を「する」という意味では思春期なわけですけど、実のところ愛の状態で生きるのは小学校や中学校の時代の方ができていたと思うのです。そしてその状態を思い出して理解して、普遍的な愛の状態にようやく最近になって戻ってきたと思うのです。普遍的な愛の状態で生きていると恋を「する」というのはあまりなくて、受け入れる方が多くなるように思います。この状態では、自分が相手を好きかどうかもある程度は重要ですけど、ある程度OKなら受け入れるだけでも割と良いように思うのです。そうでないと、恋を「する」なんてのを待っていたり選択していたらずっと独り身だったりということもあるでしょうし。芸能人で言うと石田ゆり子さんなんてそんな感じで普遍的な愛を持っていらっしゃると思うのですよね。ですから、確か本人は「恋とかよくわからない」とおっしゃっていますが、普遍的な愛で常に生きていると恋を「する」とか言うのはよくわからない、というお話だと思います。以前にも似たような状態になっていたような気がしたことがありますけど、愛の深さと、その理解の程度、というところには大きく違いがあるかと思います。今後もまた更に愛の理解が深まる可能性もありますが、一旦は、小学校や中学校の頃の状態にまで戻ってきたことで目処がついたと言えると思います。今更といえばそうですけど、愛を知れて(理解できて)良かったと思います。
外面の良い作り笑顔をする、誤解されがちな誠実な子を理解する
実のところ、母方の祖母は「いい人」だとずっと思っていました。その祖母と同居していた叔父も良い人だと思っていて、叔父の方は割とわかりやすくて上京後に距離を置くことになったのですけど、祖母の実態はなかなか見抜けずにいました。この祖母は太平洋戦争の時にトラック諸島で看護婦をしていて、初期に行っていたので戦況が悪化する前に任務終了で帰ってきたために生き延びた人ですけど帰る直前は治療どころではなくて死体の数を数えたりする方が多かったそうです。そういう状況でも楽しいことはあったようで、とても大きな葉っぱに水滴がついていて、揺らすと水滴が落ちてきたり、みたいな遊びをして最初の頃は皆んな笑って過ごしていたそうです。子供の頃はこの発言をそのまま受け止めていて、単純に、楽しいことがあった、と、理解していたわけですけど、思うに、辛すぎる状況では人は笑顔になるわけです。辛いが故の笑顔なわけです。この基本を押さえておくと、笑顔だからと言って喜んでいるかと言うとそうでもない場合も多々ある、と言うことが理解できるわけです。そして、そのような経験をした人は、自分を隠すため、あるいは、習慣のように、自分の心を隠す笑顔をするようになるように思うのです。今から思えば、祖母のしていた笑顔はいつもこれが基本にあったのではないかと思うのです。当時は単純に祖母はいつもにこやかにしていたと思っていたのですけど、実のところその家は自営業で外面を良くしないといけないと言うこともあり、笑顔が板についていたのではないかと思うのです。それだけでなく、過去の辛い出来事が過ぎ去って平穏な日々を過ごすことで笑顔になっていたと思うのです。この種の、複数が入り混じった状況における笑顔というのは、複数の面が含まれているのです。そして、時が経つにつれてこの祖母は色々とズルいところがあることが判明して、私の母に対しても色々と小馬鹿にしたり上手いこと手伝わせて、陰で悪口を言っていたりもしたようです。ですから、外面は良いけれども狡い人、というのが本性だったようです。当時はここまで見抜けませんでした。
これを踏まえると、T大の例の子の横にいた2人の女の子のこともよくわかります。当時はこの2人は単純に作り笑顔をしていて、本性を見せていない、よくわからない子、何を考えているのかを見せずに、当たり障りのない回答をしている、心を開いていない子だと思っていました。初対面だとそんなものなのでしょうけど、当時は、あまりにも距離のある会話で、社交辞令が主で、表づらは良いですけど、よくわからないな、と思っていました。今から思えば、初対面だからというよりも、これは私の父方の祖母と同じパターンなわけです。心はそこまで通じ合うことなく、距離が常にあって、実のところ避けられていて、でも、多少の可愛さ、それは下に見るという意味の可愛さですけど、自分に尽くしてくれそうな、自分を慕ってくれる人がいると喜ぶ、というタイプの女性だったように思うのです。作り笑顔を良くする子だった反面、本性が見えにくく、猫を被っているといえばそういうことで、目の前にいる男(私)を好きかというと(当然ながら)そうでもなく、でも、笑顔は絶やさないわけです。
母方の祖母にせよ、T大生の目的の子の横にいた2人せよ、この種の女性のことは長らくずっと「いい子、いい女性」と単純に認識してきました。ですが、今から思えば、これらの女性は、道徳的に信頼できる子、普通の子、パートナーとしてアリな子、結婚相手としてアリな子、でも、ハートの愛には目覚めていない、ということなのかなと思います。普通にパートナーになるには全然アリで、結婚したらその真面目な性格と誠実な態度で、不満はそれほどないと思います。ただ、ハートの愛にはそこまで目覚めていなくて、もしかしたら関係を続けるうちに目覚めることもあるかもしれませんけど、この時点では目覚めていないわけです。それでもパートナーとしては全然ありで、その理由はというと、誠実だからです。最高なのは誠実かつハートに目覚めている人なわけですけどそういう人は少なくて、それでも、誠実であるのならばパートナーとして十分だと思うわけです。この2人はどちらも外面が良くて、でも、調子に乗ると本性が見えて、やんちゃな姿が所々に見え隠れしました。本人は隠しているつもりだったりするのでしょうけど、割とわかりやすいです。そういう、わかりやすいところからも、2人が良い子だとわかるわけで、外面を良く見せようとはしているけど、本性はもっとやんちゃで、それが悪い意味ではなくて、やんちゃな良い子が頑張って外面を良く見せようとしているのが微笑ましいわけです。本人はきちんとしているつもりでも、ここは当時からそう思っていたので、割とわかりやすいわけです。当時は、何か隠し事のある子かなぁ、とか勘ぐってもみたわけですけど実のところおそらくそこまで具体的な意図で作り笑顔で隠そうとしているわけでもなく、割と単純で、当時は勘ぐりすぎたかなぁ、と思ったりもするわけです。この種の笑顔が本当の究極の意味で誠実かというとそうでもないわけですけど、十分に誠実なわけです。その内実はというと、基本的な性格も良くて、本性はやんちゃだとしても男の前で女が誠実そうに淑やかに振る舞う努力をするのは女性として普通だと思いますからそれはそれで良くて、ハートの愛に目覚めていないとしても、割とそれで十分のようにも思うのです。当時は、本性を隠している子、と思っていたりもしたわけですけど、そこは、「そりゃそうだ」という程度のお話で、そこまで気にする必要はなかったわけです。ハートの愛をパートナーに求めるのは敷居が高くて、ある程度まで誠実なら、例えやんちゃな本性があったとしても、別に、そこまで気にすることはないように今なら思うのです。
母方の祖母は狡い人だったのに、そういう人はパートナーとしてありなのかどうか、という点についてですけど、それは程度問題だと思うのです。この世界に完全に聖人な人はいませんし、そもそもハートの愛に目覚めた人は稀ですから、そこは妥協するところとして、この種の人は狡いところが多少はあって、たとえば専業主婦狙いだったりとか、はたまた、自分の利益に寄与するように誘導するだとか、さまざまなことがあるでしょうけど、このクラスの人であれば、そんなものだろうと思うのです。それに、それを毛嫌いしてしまうと辛いですけど、そんなものだ、と思えば、そこまで苦にならないものです。ただしここにはマイ・ルールがあって、パートナーは、お互いの間では誠実でいる必要があって、外の人に対しては多少の狡さがあっても目を瞑りますけど、パートナーが自身に対して狡いことをしてきたら(多少は見て見ぬふりをしますが)、あまりにも図々しい場合はパートナーとの関係を続けるのは難しいのかなと思います。自身が許容できる範囲で、多少の誠実を持つ人と暮らすのが良いのではないでしょうか、とも思うわけです。
これを踏まえると、T大の例の子の横にいた2人の女の子のこともよくわかります。当時はこの2人は単純に作り笑顔をしていて、本性を見せていない、よくわからない子、何を考えているのかを見せずに、当たり障りのない回答をしている、心を開いていない子だと思っていました。初対面だとそんなものなのでしょうけど、当時は、あまりにも距離のある会話で、社交辞令が主で、表づらは良いですけど、よくわからないな、と思っていました。今から思えば、初対面だからというよりも、これは私の父方の祖母と同じパターンなわけです。心はそこまで通じ合うことなく、距離が常にあって、実のところ避けられていて、でも、多少の可愛さ、それは下に見るという意味の可愛さですけど、自分に尽くしてくれそうな、自分を慕ってくれる人がいると喜ぶ、というタイプの女性だったように思うのです。作り笑顔を良くする子だった反面、本性が見えにくく、猫を被っているといえばそういうことで、目の前にいる男(私)を好きかというと(当然ながら)そうでもなく、でも、笑顔は絶やさないわけです。
母方の祖母にせよ、T大生の目的の子の横にいた2人せよ、この種の女性のことは長らくずっと「いい子、いい女性」と単純に認識してきました。ですが、今から思えば、これらの女性は、道徳的に信頼できる子、普通の子、パートナーとしてアリな子、結婚相手としてアリな子、でも、ハートの愛には目覚めていない、ということなのかなと思います。普通にパートナーになるには全然アリで、結婚したらその真面目な性格と誠実な態度で、不満はそれほどないと思います。ただ、ハートの愛にはそこまで目覚めていなくて、もしかしたら関係を続けるうちに目覚めることもあるかもしれませんけど、この時点では目覚めていないわけです。それでもパートナーとしては全然ありで、その理由はというと、誠実だからです。最高なのは誠実かつハートに目覚めている人なわけですけどそういう人は少なくて、それでも、誠実であるのならばパートナーとして十分だと思うわけです。この2人はどちらも外面が良くて、でも、調子に乗ると本性が見えて、やんちゃな姿が所々に見え隠れしました。本人は隠しているつもりだったりするのでしょうけど、割とわかりやすいです。そういう、わかりやすいところからも、2人が良い子だとわかるわけで、外面を良く見せようとはしているけど、本性はもっとやんちゃで、それが悪い意味ではなくて、やんちゃな良い子が頑張って外面を良く見せようとしているのが微笑ましいわけです。本人はきちんとしているつもりでも、ここは当時からそう思っていたので、割とわかりやすいわけです。当時は、何か隠し事のある子かなぁ、とか勘ぐってもみたわけですけど実のところおそらくそこまで具体的な意図で作り笑顔で隠そうとしているわけでもなく、割と単純で、当時は勘ぐりすぎたかなぁ、と思ったりもするわけです。この種の笑顔が本当の究極の意味で誠実かというとそうでもないわけですけど、十分に誠実なわけです。その内実はというと、基本的な性格も良くて、本性はやんちゃだとしても男の前で女が誠実そうに淑やかに振る舞う努力をするのは女性として普通だと思いますからそれはそれで良くて、ハートの愛に目覚めていないとしても、割とそれで十分のようにも思うのです。当時は、本性を隠している子、と思っていたりもしたわけですけど、そこは、「そりゃそうだ」という程度のお話で、そこまで気にする必要はなかったわけです。ハートの愛をパートナーに求めるのは敷居が高くて、ある程度まで誠実なら、例えやんちゃな本性があったとしても、別に、そこまで気にすることはないように今なら思うのです。
母方の祖母は狡い人だったのに、そういう人はパートナーとしてありなのかどうか、という点についてですけど、それは程度問題だと思うのです。この世界に完全に聖人な人はいませんし、そもそもハートの愛に目覚めた人は稀ですから、そこは妥協するところとして、この種の人は狡いところが多少はあって、たとえば専業主婦狙いだったりとか、はたまた、自分の利益に寄与するように誘導するだとか、さまざまなことがあるでしょうけど、このクラスの人であれば、そんなものだろうと思うのです。それに、それを毛嫌いしてしまうと辛いですけど、そんなものだ、と思えば、そこまで苦にならないものです。ただしここにはマイ・ルールがあって、パートナーは、お互いの間では誠実でいる必要があって、外の人に対しては多少の狡さがあっても目を瞑りますけど、パートナーが自身に対して狡いことをしてきたら(多少は見て見ぬふりをしますが)、あまりにも図々しい場合はパートナーとの関係を続けるのは難しいのかなと思います。自身が許容できる範囲で、多少の誠実を持つ人と暮らすのが良いのではないでしょうか、とも思うわけです。
男女と愛のあるなしパターン
愛があるかないかは実のところ男女に関係がなくて、以下の組み合わせがあるように思います。
ハートの愛があると視線を向けただけで異性が「あれ。私のこと好きなのかしら?」と勘違いしてくれるようになるのは男女とも共通で、男女ともハートの愛を持っている人は視線に気をつける必要があるように思います。何気なく視線を向けただけで色々と勘違いされてしまうとさまざまに面倒なことに巻き込まれます。
男+愛がない(愛を知らない男)
男+愛がある(愛を知っている男)
女+愛がない(愛を知らない女)
女+愛がある(愛を知っている女)
男+愛を全く知らない(情愛を知らない、ハートの愛を知らない)
男+情愛がある(ハートの愛を知らない)
男+ハートの愛がある(情愛を超えたハートの愛を知っている)
女+愛を全く知らない(情愛を知らない、ハートの愛を知らない)
女+情愛がある(ハートの愛を知らない)
女+ハートの愛がある(情愛を超えたハートの愛を知っている)
- 愛を知らない束縛DVモラハラ男 →よくあるトラブルメーカー。モラルに欠けている男の場合も。外面が良い場合もあり。怒りの沸点が低い。避けるべき。結婚するまで普通でも結婚するとモラハラに豹変するパターンの場合あり。裏表の違いが激しい場合あり。
- 情愛がある人情男 →ぼちぼちいる。悪くはないが時に面倒。束縛あり。パートナーとして標準的。外面が良い場合もあるが、表裏はそこまで違わない。
- 包み込むハートの愛がある男 →ほとんどいない。時にホモと勘違いされるがホモとハートの愛とは完全に異なる。割と理想的な男性。このようなパートナーを見つけた場合は離さないことをお勧めする。万人に向けた愛のある男。表裏の違いは少ない。
- 愛を知らないモラハラ女 →よくある。性的に魅力のある清楚系ビッチはここに分類。時にレズと勘違いされる。モラルに欠けている女の場合も。外面が良い場合もあり。怒りの沸点が低い。避けるべき。結婚するまで清楚で優しくても結婚すると豹変して恐妻家になるパターンの場合あり。裏表の違いが激しい場合あり。
- 情愛がある人情女 →ぼちぼちいる。悪くはないが時に面倒。束縛あり。パートナーとして標準的。外面が良い場合も多いが、表裏はそこまで違わない。
- 包み込むハートの愛がある女 →少ないが多少いる。理想的な女性。時にレズと勘違いされる。このような女性が振り向いてくれたら離さないことをお勧めする。万人に向けた抱擁的な愛。表裏の違いは少ない。
ハートの愛があると視線を向けただけで異性が「あれ。私のこと好きなのかしら?」と勘違いしてくれるようになるのは男女とも共通で、男女ともハートの愛を持っている人は視線に気をつける必要があるように思います。何気なく視線を向けただけで色々と勘違いされてしまうとさまざまに面倒なことに巻き込まれます。
男は、自分が彼女や妻を第一に好き、と言う態度をきちんと表明すべき
何度もパラレルで確かめた挙句、このような結論に辿り着きました。ですから、男としては、「男(自分)が好きだから、女性にいてほしい」という態度でいるべきであって、逆に「女の子の方が、自分(男)を好いてくれているのでしょう?」みたいに「女性が好きだから、男がいてあげる」的な発言や態度をすべきではないのです。
実態としてもその通りですし、「(愛の)確かめ」としてもそのような言動や行動をすべきではないのです。基本的に女性は「男が求めているから、いてあげる」という態度が基本で、結婚となりますと男性の経済的な部分を頼りにしますから、男としてはそれを嘆くべきではなく、男としては、女性の愛を確かめようとして女性の財布を(たまにでも)頼るべきではなく、お金はすべて男性が出すべきなわけです。好きであれば当然な態度であって、女性に近くにいてもらえるなら男がそうして当然という立場でいるべきかと思います。
実のところ、この辺りの確証がつかなくて、パラレルで何度か確かめました。
例えば、お金がない状態で付き合ったらどうなるか、とか、お金があってもないふりをしてみたらどうなるか、みたいなことをパラレルでいくつかのシナリオでT大生の子とか、その子の友人とかで試したわけですが、どちらの場合も、お金があまりないという前提だと、最初は良くても、そのうち不満が溜まってきてイライラになったり他の男に移られてしまっていました。
例えば、上に書いた、T大生の友人とまず付き合ってみたパターンの場合は、おそらく女性というのはある程度はサイキックでパラレルの記憶も持っていますから、付き合う時点では(そのパラレルの)私がお金持ちか何かストックオプションでお金を得た記憶が(その子に)あったらしくて、それ目当てで付き合ったのにも関わらず実際にはそうらなかったので(私が)捨てられて、数年後に、官僚の旦那を見つけて私は捨てられた、と言うパターン。基本的にはいい子だったわけですけど、そうであっても、お金がそれなりにないと嫌なようです。
はたまた、T大生の子とは、私があまりお金がなければそもそも興味がなくて付き合ってもらえなかった、というパターン、あるいは、他のパラレルでは、T大生の子とそれなりにうまくいっていたかに見えても(私が)お金がない風にしていたらイライラしてきてキレるようになった、というパターン。
こうして、「(私に)お金がないパターン」は全滅した結果、上のように、女性に「お金がなくても愛があれば」みたいな幻想・ロマンを感じるのは辞めました。
ロマンはなくなっても、お金がありさえすればとても良い女性が近くにいてくれるわけですから、それで十分なわけです。それが現実です。
こうして分かったのは、結局、女性というものは大体は男性のお金で幸せを感じるわけですから、男性の側からすると「お金なしの純粋な愛」とかいうロマンを求めがちですけど女性は現実的ですから、男性のロマンに女性を付き合わせる必要はなくて、女性にはお金を与えれば良いわけです。それが悪いという風潮が世間で宣伝されていますけど、そのような宣伝こそ社会を混乱させるためのデマであって、そのようなデマに惑わされずに、家族なのだからお金は共有すればいいわけです。
身も蓋もないお話になってしまいますけど、「お金なしの純粋な愛」なんて子供の頃だけ成り立つもので、大人になったらそれは無理、という、ごく当たり前のお話なわけです。大人の場合は「ある程度のお金に支えられた純愛」なわけです。(お金目当てだけの場合は論外です)
パラレルをいくつも見て、それと、うまく行った(グループソウル経由の)過去生(もどき)の繋がりの過去妻たちの人生を見ても、基本的には男が裕福であるべきで、そうであるからこそ、女性はお金に苦労せずして幸せに生きれるわけです。私の周囲にいてくれる過去生(もどき)の繋がりの過去妻たちは、あの世のスピリット(霊)の状態ではもちろんお金は必要ありませんから、地上でずっとお金に苦労せずして生きられた過去妻たちは、死後も、文字通り、損得なしに助けてくれます。死んであの世でスピリット(霊)の状態になればお金なしの純愛になりますけど、生きている以上はお金が必要ですから、であれば、お金は妻に自由に使ってもらえばよくて、「お金がなくても」なんていうのは、気持ちだけのお話ですから、本当にお金がないと困ってしまう、という、当たり前のお話なわけです。地上に生きていてもお金に不自由しなければ純愛になりますし、死後はお金が不要になりますから純愛だけが残ります。
生きている間はお金が必要ですから、妻にはお金を必要なだけ不自由なく使ってもらう、というのが良いわけです。
そのように、様々なことを確かめた結果、私が裕福になる前に本命のT大生の子と再開してもうまくいかなくて破綻するだけ、ということのようですので、それまでは、ちょっとした距離を取って車道の反対側とかの近距離で1年に1度くらいニアミスを繰り返しつつ顔を見せ、忘れられないようにしつつ、実際に再開するのはしばらく先延ばしにしておくのが最善策、ということのようです。
それ以前の時期に再開してもうまくいかない、ということは何度か試して出した結論ですから、推論というよりは、実際にやってみた結果そうだったということで、もしかしたら何度もまたチャレンジすればうまくいくパターンもあるのかもしれないですが、高次のスピリットの判断としては、中年期に再開することで良い、としたようです。
それが人生の計画の上で最善ということであれば、今すぐにあの子との再開を目指す必要はなくて、時期が来たら自然と再開するようですから、それまでは自分が今やるべきことを精一杯やれば良いようです。
実態としてもその通りですし、「(愛の)確かめ」としてもそのような言動や行動をすべきではないのです。基本的に女性は「男が求めているから、いてあげる」という態度が基本で、結婚となりますと男性の経済的な部分を頼りにしますから、男としてはそれを嘆くべきではなく、男としては、女性の愛を確かめようとして女性の財布を(たまにでも)頼るべきではなく、お金はすべて男性が出すべきなわけです。好きであれば当然な態度であって、女性に近くにいてもらえるなら男がそうして当然という立場でいるべきかと思います。
実のところ、この辺りの確証がつかなくて、パラレルで何度か確かめました。
例えば、お金がない状態で付き合ったらどうなるか、とか、お金があってもないふりをしてみたらどうなるか、みたいなことをパラレルでいくつかのシナリオでT大生の子とか、その子の友人とかで試したわけですが、どちらの場合も、お金があまりないという前提だと、最初は良くても、そのうち不満が溜まってきてイライラになったり他の男に移られてしまっていました。
例えば、上に書いた、T大生の友人とまず付き合ってみたパターンの場合は、おそらく女性というのはある程度はサイキックでパラレルの記憶も持っていますから、付き合う時点では(そのパラレルの)私がお金持ちか何かストックオプションでお金を得た記憶が(その子に)あったらしくて、それ目当てで付き合ったのにも関わらず実際にはそうらなかったので(私が)捨てられて、数年後に、官僚の旦那を見つけて私は捨てられた、と言うパターン。基本的にはいい子だったわけですけど、そうであっても、お金がそれなりにないと嫌なようです。
はたまた、T大生の子とは、私があまりお金がなければそもそも興味がなくて付き合ってもらえなかった、というパターン、あるいは、他のパラレルでは、T大生の子とそれなりにうまくいっていたかに見えても(私が)お金がない風にしていたらイライラしてきてキレるようになった、というパターン。
こうして、「(私に)お金がないパターン」は全滅した結果、上のように、女性に「お金がなくても愛があれば」みたいな幻想・ロマンを感じるのは辞めました。
ロマンはなくなっても、お金がありさえすればとても良い女性が近くにいてくれるわけですから、それで十分なわけです。それが現実です。
こうして分かったのは、結局、女性というものは大体は男性のお金で幸せを感じるわけですから、男性の側からすると「お金なしの純粋な愛」とかいうロマンを求めがちですけど女性は現実的ですから、男性のロマンに女性を付き合わせる必要はなくて、女性にはお金を与えれば良いわけです。それが悪いという風潮が世間で宣伝されていますけど、そのような宣伝こそ社会を混乱させるためのデマであって、そのようなデマに惑わされずに、家族なのだからお金は共有すればいいわけです。
身も蓋もないお話になってしまいますけど、「お金なしの純粋な愛」なんて子供の頃だけ成り立つもので、大人になったらそれは無理、という、ごく当たり前のお話なわけです。大人の場合は「ある程度のお金に支えられた純愛」なわけです。(お金目当てだけの場合は論外です)
パラレルをいくつも見て、それと、うまく行った(グループソウル経由の)過去生(もどき)の繋がりの過去妻たちの人生を見ても、基本的には男が裕福であるべきで、そうであるからこそ、女性はお金に苦労せずして幸せに生きれるわけです。私の周囲にいてくれる過去生(もどき)の繋がりの過去妻たちは、あの世のスピリット(霊)の状態ではもちろんお金は必要ありませんから、地上でずっとお金に苦労せずして生きられた過去妻たちは、死後も、文字通り、損得なしに助けてくれます。死んであの世でスピリット(霊)の状態になればお金なしの純愛になりますけど、生きている以上はお金が必要ですから、であれば、お金は妻に自由に使ってもらえばよくて、「お金がなくても」なんていうのは、気持ちだけのお話ですから、本当にお金がないと困ってしまう、という、当たり前のお話なわけです。地上に生きていてもお金に不自由しなければ純愛になりますし、死後はお金が不要になりますから純愛だけが残ります。
生きている間はお金が必要ですから、妻にはお金を必要なだけ不自由なく使ってもらう、というのが良いわけです。
そのように、様々なことを確かめた結果、私が裕福になる前に本命のT大生の子と再開してもうまくいかなくて破綻するだけ、ということのようですので、それまでは、ちょっとした距離を取って車道の反対側とかの近距離で1年に1度くらいニアミスを繰り返しつつ顔を見せ、忘れられないようにしつつ、実際に再開するのはしばらく先延ばしにしておくのが最善策、ということのようです。
それ以前の時期に再開してもうまくいかない、ということは何度か試して出した結論ですから、推論というよりは、実際にやってみた結果そうだったということで、もしかしたら何度もまたチャレンジすればうまくいくパターンもあるのかもしれないですが、高次のスピリットの判断としては、中年期に再開することで良い、としたようです。
それが人生の計画の上で最善ということであれば、今すぐにあの子との再開を目指す必要はなくて、時期が来たら自然と再開するようですから、それまでは自分が今やるべきことを精一杯やれば良いようです。
T大の子との、そもそものお話
最初のきっかけはというと、死後に財産を活用して欲しくて財産を託せるパートナーを探していたというのが出発点で、託せる人がいない場合は国庫に入ってしまったり、寄付した先がうまく財産を活用できないのが悩みだったようで、その部分だけ切り出してタイムラインのやり直しを検討したようです。 一旦はそれなりに人生がうまくいっても、私が死んでしまったら財産をうまく活用してもらえない、というところに悩みがあったようです。ですから、時空を超えたスピリットが、その部分をなんとかするために(時空を遡って)パートナーを探したのでした。
意図としては、財産を活用できるパートナーがまずいた上で、そして、できるならば、「女性」が生き生きと生きられる社会にするために女性が中心となった会社を作ると良いのでは、というアイデアがあったようでした。ですから嫁が社長で、子供はいない方が良くて、次の社長も女性が基本で、若い世代の女性に受け継いでもらう。特に優秀な(東大卒などの)女性に引き継ぐ、というところに目的を設定したようです。
ですから、表面に見えているところの好きとかそうでないかみたいなのはこの大きな目的から比べると些末なことで、結局は財産を託すわけですから、そうなれば、お金なんて好きに使ってもらえれば良いわけです。本当にそうなるのかは分かりません(失敗するかもしれません)けど、一応、計画としてはそのようになっているようです。であれば、愛を知るとかいうお話は確かに重要ではありますけどそれは個人的なことで、それよりも、もっと大きな目的が先にあったということのようです。
(私の)死後に財産を託して女性のための財団・グループ会社のような一大勢力を作るのが大きな目的としてあって、そのためにまず人材探しの段階で、幽体離脱の状態でマッキンゼーのようなコンサル会社のオフィスをいくつか巡るなどして誰か適任者の女性がいないか探していたところ、とても利発で優秀で、外資系コンサル会社から表彰されたりもしているほど成果も出していて、それでいて、顔立ちが好みで、性格が素直な、いい子を見つけて、それから時間を遡って伏線を張ってアプローチしたようなのです。歳をとってからアプローチしてもあの子に違和感を抱かせてしまって完全に信用してもらえなかったり、距離がある関係だったようでしたので、もっと若い頃から近づくことにしました。
そして何度かタイムラインをやり直して、他の要因も色々あったために、大きく人生をやり直すことにしました。それまではある程度裕福な状態のタイムラインでしたけど、一旦は貧困のどん底に落ちた方が学びが大きい、という考えに至りました。スピリチュアルの成長のためと、この世の底辺を理解するという目的、そしてカルマの精算のために、若い時代の何十年に渡って割と貧乏な生活をすることにしたのです。その結果として、今までは割とお金目当てで近づいてきてくれたあの子も、この機会を用いてお金のない状態で接触してどのように反応するか確かめたところ、あまり反応は良くありませんでした。ですので、一旦は顔見知りになる程度で若い頃はそれだけで終わって、1年に1度くらいニアミスして忘れさせないようにする程度にしておいて、中年以降の再会までは一旦保留したわけです。
あの子はもともと優秀ではありましたけど、目的をきちんと果たすことができるようになるため、更に優秀な成績になるように子供の頃から(見えないスピリットの)家庭教師のようなものがついて勉強をサポートしていたりもしたことがあったようです。ですから、ある意味、あの子は私のスピリットから目をつけられていたわけですが、それは私の勝手というわけではなくて、あの子のスピリットにも同意を取っている筈で、目的のために協力するという同意を取っているからこそ、介入できているわけです。一方的な介入というのは良くないですけど、同意を取っているわけで、かと言ってあの子が自覚しているかどうかは分かりません。
そもそもの目的からして大きいわけですから、(個人的な)純愛かどうかなんてのは(それはそれで個人としては大切でありますけど、大目的からした)実は小さなお話で、(あの子が)お金目当てかどうかなんてのも小さなお話で、結局、あの子がきちんと財産の管理をして会社にお金をしっかりと入れて、女性のための会社の運営をしてくれて次の世代の女性の社長へとバトンタッチして、末長く、女性が生き生きと生きられるようなグループ(の会社)を作った上で、女性のための分野にお金をきちんと回してくれるのならば、それ以外のことは些末なことなわけです。
どうやら、根本の目的はこの辺りにあったわけで、その周辺にある目にみえる細かな現象、お金目当てかもしれないとか、そういうのは個人的なお話なので些末なことで、女性が生き生きと生きられるような社会を作るために、次世代へと繋がるようなグループ会社を繋いて財産を回して欲しい、という意図があってあの子と接触したわけで、そこに根本理由があったようなのです。
本当にそうなるかどうかはわからないですけどね。夢みたいなお話であります。このお話は一旦このくらいにしておきます。
意図としては、財産を活用できるパートナーがまずいた上で、そして、できるならば、「女性」が生き生きと生きられる社会にするために女性が中心となった会社を作ると良いのでは、というアイデアがあったようでした。ですから嫁が社長で、子供はいない方が良くて、次の社長も女性が基本で、若い世代の女性に受け継いでもらう。特に優秀な(東大卒などの)女性に引き継ぐ、というところに目的を設定したようです。
ですから、表面に見えているところの好きとかそうでないかみたいなのはこの大きな目的から比べると些末なことで、結局は財産を託すわけですから、そうなれば、お金なんて好きに使ってもらえれば良いわけです。本当にそうなるのかは分かりません(失敗するかもしれません)けど、一応、計画としてはそのようになっているようです。であれば、愛を知るとかいうお話は確かに重要ではありますけどそれは個人的なことで、それよりも、もっと大きな目的が先にあったということのようです。
(私の)死後に財産を託して女性のための財団・グループ会社のような一大勢力を作るのが大きな目的としてあって、そのためにまず人材探しの段階で、幽体離脱の状態でマッキンゼーのようなコンサル会社のオフィスをいくつか巡るなどして誰か適任者の女性がいないか探していたところ、とても利発で優秀で、外資系コンサル会社から表彰されたりもしているほど成果も出していて、それでいて、顔立ちが好みで、性格が素直な、いい子を見つけて、それから時間を遡って伏線を張ってアプローチしたようなのです。歳をとってからアプローチしてもあの子に違和感を抱かせてしまって完全に信用してもらえなかったり、距離がある関係だったようでしたので、もっと若い頃から近づくことにしました。
そして何度かタイムラインをやり直して、他の要因も色々あったために、大きく人生をやり直すことにしました。それまではある程度裕福な状態のタイムラインでしたけど、一旦は貧困のどん底に落ちた方が学びが大きい、という考えに至りました。スピリチュアルの成長のためと、この世の底辺を理解するという目的、そしてカルマの精算のために、若い時代の何十年に渡って割と貧乏な生活をすることにしたのです。その結果として、今までは割とお金目当てで近づいてきてくれたあの子も、この機会を用いてお金のない状態で接触してどのように反応するか確かめたところ、あまり反応は良くありませんでした。ですので、一旦は顔見知りになる程度で若い頃はそれだけで終わって、1年に1度くらいニアミスして忘れさせないようにする程度にしておいて、中年以降の再会までは一旦保留したわけです。
あの子はもともと優秀ではありましたけど、目的をきちんと果たすことができるようになるため、更に優秀な成績になるように子供の頃から(見えないスピリットの)家庭教師のようなものがついて勉強をサポートしていたりもしたことがあったようです。ですから、ある意味、あの子は私のスピリットから目をつけられていたわけですが、それは私の勝手というわけではなくて、あの子のスピリットにも同意を取っている筈で、目的のために協力するという同意を取っているからこそ、介入できているわけです。一方的な介入というのは良くないですけど、同意を取っているわけで、かと言ってあの子が自覚しているかどうかは分かりません。
そもそもの目的からして大きいわけですから、(個人的な)純愛かどうかなんてのは(それはそれで個人としては大切でありますけど、大目的からした)実は小さなお話で、(あの子が)お金目当てかどうかなんてのも小さなお話で、結局、あの子がきちんと財産の管理をして会社にお金をしっかりと入れて、女性のための会社の運営をしてくれて次の世代の女性の社長へとバトンタッチして、末長く、女性が生き生きと生きられるようなグループ(の会社)を作った上で、女性のための分野にお金をきちんと回してくれるのならば、それ以外のことは些末なことなわけです。
どうやら、根本の目的はこの辺りにあったわけで、その周辺にある目にみえる細かな現象、お金目当てかもしれないとか、そういうのは個人的なお話なので些末なことで、女性が生き生きと生きられるような社会を作るために、次世代へと繋がるようなグループ会社を繋いて財産を回して欲しい、という意図があってあの子と接触したわけで、そこに根本理由があったようなのです。
本当にそうなるかどうかはわからないですけどね。夢みたいなお話であります。このお話は一旦このくらいにしておきます。
愛とパートナーの種類の組み合わせパターン
パートナーとの繋がりは、幾つかのパターンに分けられると思います。
1.自分が情愛しか知らない、ハートの愛がよくわからない場合。
1−1.誰かが自分をハートで愛してくれている(ような気がする)場合、誰かが熱心に自分にアプローチしてくれている場合、それを受け入れる。この場合、パートナーが自分を一方的に愛しているかのような関係になる。自分はそこまでの愛を知らないわけなので、自分をハートで愛してくれているパートナーに感謝する。この時、やってしまいがちなのが、自分がその子を好きではないので断ってしまうこと。相思相愛なんてそうはないので、実際、悪い人でなければ受け入れるのを基本にすべきだと思います。常識のある人がハートで自分を愛してくれていて、それでいて常識とモラルがあるのであれば、そんないい人はなかなかいませんので、その相手に感謝すべきだと思います。(大勢、ピュアに私のことを思ってくれていた人をもっと受け入れるべきだったかもしれません)
1−2.自分が誰かを情愛で愛したのならば相手にアタックしても良い。あとは相手次第。相手がハートの愛を知っていて受け入れてくれれば関係はうまくいきます。一方、相手が情愛しか知らず、ハートの愛を知らない場合はトラブル多発の傾向があるように思います。アタックする前に、相手に常識とモラルがあるかどうかを見極めることが重要のように思います。(これで失敗した事も多々あったように思います)
1−3.相手にハートの愛を(自分や相手がハートの愛を知らないのにも関わらず)求める場合、なかなか厳しい。自分がハートの愛を知らないのに相手にそのハートの愛を求めるというのは分不相応というものですが、意外にこのパターンが多いように思います。それで、十分に愛してくれないと不満になったりします。贅沢なのですよね。(例えば、高校時代の、あだち充のような恋愛に憧れていた同級生の女の子はこのパターンだったかもしれません)
1−4.相手がハートの愛を知らず、情愛で自分を愛してくれている場合。分相応。相手にモラルと常識があるのであれば受け入れて良いパターンだと思います。
2.自分がハートの愛を知っている場合。(恒常的、あるいは、一時的、特定の相手に限定される場合も含む)
2−1.誰かが自分をハートで愛して熱心にアプローチしてくれた場合は上記とほぼ同じ。自分を愛してくれたことに感謝して、受け入れることを基本に考える。この関係は、最初は片思いのようなものであっても、やがて相思相愛に発展する可能性が高いように思います。割と理想的な状況のように思います。
2−2.自分が誰かをハートで愛したのならば相手にアタックしても良い。あとは相手次第。上記とほぼ同じ。アタックする前に、相手に常識とモラルがあるかどうかを見極める。相手がハートの愛を知らない場合はトラブルが発生する可能性があるが、少なくとも情愛を知っている相手であればそこまでの問題は生じないが、その情愛が自分に本当に向いているかどうかを確かめることが重要かと思います。相手に常識とモラルがない場合は搾取される関係になる可能性があるので注意が必要のように思います。
2−3.ハートの愛を知らない相手にもハートの愛を求める場合。これもやりがちな気が致しますけど、なかなか現実的には厳しい気が致します。自分が一方的にパートナーをハートで愛して、パートナーはそれほど熱心でないとしても、少なくとも誠実で真面目でモラルがあるならそれで十分とした方が良いように思います。
2−4.相手がハートの愛を知らず、情愛で自分を愛してくれている場合。上と同様、相手にモラルと常識があるのであれば受け入れて良いパターンだと思います。
私の場合は(今回の理解に至る前は)基本はパターン1(時々、特定の相手にパターン2)でしたが割と鈍感でスルーすることが多く、今から思えば、もっと受け入れたり、自分に好意を持ってくれている女の子に感謝したりして、もっと女の子と仲良くしても良かったのではと思っています。今更ながら割と恒常的なパターン2に移行しましたが、実践の機会が今からどれだけあるかはわかりませんけど。思うに、あだち充の描くような恋愛は(割と恒常的な、安定した、割と普遍的な)ハートの愛を知っているパターン2の方で、なかなか現実にはあれが万人に対してできる人は限られるように思います。実際のところ、少なくとも片方がハートの愛を(少なくともパートナーに接する際の心情として)知っていれば(そしてもう片方のパートナーがモラルある人ならば)十分とした方がいいように思うのです。
こう書くと、情愛があたかも低いものかのように誤解されてしまうかもしれませんけど、情愛はそれなりに清くて愛に満ちた状態なわけです。情愛は束縛する愛ではありますが、それは情の愛が強いということなわけです。世の中にはこのレベルの愛すらも知らない人が大勢いて、おそらくは私の父や兄あるいは一部の親戚(特に父方の親戚)はこの情愛すらもあまり知らなくて、それ故にいつもひねくれた感情を持っていて、時折、特定の相手にだけ一時的に情愛が目覚める、という状態だったかと思います。上に記載した階梯は情愛からハートの愛への階梯ですが、同じように情愛以前と情愛の段階の間にも定義できて、父や兄は(情愛以前から)情愛を知る、という学びの段階にいたように思うのです。そして、情愛が当たり前のものになった後、ハートの愛を学ぶわけです。
これら、恋愛の非対称性がありますので、自分がモテたいと思うのであれば、より上位の愛をまず自分が理解することで、相手には同等かそれ以下が基本になるという法則が容易に成り立つわけです。例えば自分がまずハートの愛に達することができれば同等のハート以下の人からモテるようになります(パターン2−1、2−4)。自分が情愛のレベルに達したならば、情愛のレベル以下の人からモテるようになります(パターン1−4)。相手に何か特別なもの、例えばハートの愛などを高望みする(パターン1−3)よりも、自分と同等のパートナーと満足して暮らすというのが分相応ですしお互いに幸せだと思うのです(パターン1−4、2−1)。一方、自分よりも高い愛を知っている人から好意を持たれたのならば、そのような幸運に感謝して、それを受け入れれば良いわけです(パターン1−1)。
ハートの愛を知っている人がパートナーの場合はそれほど問題は起こりません。ただ、ハートの愛は温かい一方、クールでもあり、自分が情欲以前までしか達成していない場合はパートナーには物足りないかもしれません。情愛を知っている段階ではハートの愛ほどではないにせよそれなりの愛を知っていますので、情愛の段階の人は多少の束縛はあるものの、パートナーにした場合にこれまたそこまで問題は起こらないように思います。一方、情愛もそこまで知らず、性欲までしか知らない場合はトラブルが多発し、よって、いわゆる清楚系ビッチもこの段階(ハートの愛を知らず、情欲もそこまで知らずに学習中な、性欲までが優勢の段階)に多く生息するのだと思います。世の中には性愛もよく知らずに単なる所有欲・生存欲で生きていて性欲を学んでいる方も多少はいらっしゃいますので、それよりは性愛(が安定する段階)は上等なわけですけど、それでも、性愛までの段階以前の場合はトラブルが多発するわけです。これは段階が一瞬で完全に一気に切り替わるというよりは多少はオーバーラップして(重なって)いるように思います。その人のメインの段階がどこにいるかによって生き方と考え方、態度・振る舞い、そして愛の形が変わってくるわけです。
1.自分が情愛しか知らない、ハートの愛がよくわからない場合。
1−1.誰かが自分をハートで愛してくれている(ような気がする)場合、誰かが熱心に自分にアプローチしてくれている場合、それを受け入れる。この場合、パートナーが自分を一方的に愛しているかのような関係になる。自分はそこまでの愛を知らないわけなので、自分をハートで愛してくれているパートナーに感謝する。この時、やってしまいがちなのが、自分がその子を好きではないので断ってしまうこと。相思相愛なんてそうはないので、実際、悪い人でなければ受け入れるのを基本にすべきだと思います。常識のある人がハートで自分を愛してくれていて、それでいて常識とモラルがあるのであれば、そんないい人はなかなかいませんので、その相手に感謝すべきだと思います。(大勢、ピュアに私のことを思ってくれていた人をもっと受け入れるべきだったかもしれません)
1−2.自分が誰かを情愛で愛したのならば相手にアタックしても良い。あとは相手次第。相手がハートの愛を知っていて受け入れてくれれば関係はうまくいきます。一方、相手が情愛しか知らず、ハートの愛を知らない場合はトラブル多発の傾向があるように思います。アタックする前に、相手に常識とモラルがあるかどうかを見極めることが重要のように思います。(これで失敗した事も多々あったように思います)
1−3.相手にハートの愛を(自分や相手がハートの愛を知らないのにも関わらず)求める場合、なかなか厳しい。自分がハートの愛を知らないのに相手にそのハートの愛を求めるというのは分不相応というものですが、意外にこのパターンが多いように思います。それで、十分に愛してくれないと不満になったりします。贅沢なのですよね。(例えば、高校時代の、あだち充のような恋愛に憧れていた同級生の女の子はこのパターンだったかもしれません)
1−4.相手がハートの愛を知らず、情愛で自分を愛してくれている場合。分相応。相手にモラルと常識があるのであれば受け入れて良いパターンだと思います。
2.自分がハートの愛を知っている場合。(恒常的、あるいは、一時的、特定の相手に限定される場合も含む)
2−1.誰かが自分をハートで愛して熱心にアプローチしてくれた場合は上記とほぼ同じ。自分を愛してくれたことに感謝して、受け入れることを基本に考える。この関係は、最初は片思いのようなものであっても、やがて相思相愛に発展する可能性が高いように思います。割と理想的な状況のように思います。
2−2.自分が誰かをハートで愛したのならば相手にアタックしても良い。あとは相手次第。上記とほぼ同じ。アタックする前に、相手に常識とモラルがあるかどうかを見極める。相手がハートの愛を知らない場合はトラブルが発生する可能性があるが、少なくとも情愛を知っている相手であればそこまでの問題は生じないが、その情愛が自分に本当に向いているかどうかを確かめることが重要かと思います。相手に常識とモラルがない場合は搾取される関係になる可能性があるので注意が必要のように思います。
2−3.ハートの愛を知らない相手にもハートの愛を求める場合。これもやりがちな気が致しますけど、なかなか現実的には厳しい気が致します。自分が一方的にパートナーをハートで愛して、パートナーはそれほど熱心でないとしても、少なくとも誠実で真面目でモラルがあるならそれで十分とした方が良いように思います。
2−4.相手がハートの愛を知らず、情愛で自分を愛してくれている場合。上と同様、相手にモラルと常識があるのであれば受け入れて良いパターンだと思います。
私の場合は(今回の理解に至る前は)基本はパターン1(時々、特定の相手にパターン2)でしたが割と鈍感でスルーすることが多く、今から思えば、もっと受け入れたり、自分に好意を持ってくれている女の子に感謝したりして、もっと女の子と仲良くしても良かったのではと思っています。今更ながら割と恒常的なパターン2に移行しましたが、実践の機会が今からどれだけあるかはわかりませんけど。思うに、あだち充の描くような恋愛は(割と恒常的な、安定した、割と普遍的な)ハートの愛を知っているパターン2の方で、なかなか現実にはあれが万人に対してできる人は限られるように思います。実際のところ、少なくとも片方がハートの愛を(少なくともパートナーに接する際の心情として)知っていれば(そしてもう片方のパートナーがモラルある人ならば)十分とした方がいいように思うのです。
こう書くと、情愛があたかも低いものかのように誤解されてしまうかもしれませんけど、情愛はそれなりに清くて愛に満ちた状態なわけです。情愛は束縛する愛ではありますが、それは情の愛が強いということなわけです。世の中にはこのレベルの愛すらも知らない人が大勢いて、おそらくは私の父や兄あるいは一部の親戚(特に父方の親戚)はこの情愛すらもあまり知らなくて、それ故にいつもひねくれた感情を持っていて、時折、特定の相手にだけ一時的に情愛が目覚める、という状態だったかと思います。上に記載した階梯は情愛からハートの愛への階梯ですが、同じように情愛以前と情愛の段階の間にも定義できて、父や兄は(情愛以前から)情愛を知る、という学びの段階にいたように思うのです。そして、情愛が当たり前のものになった後、ハートの愛を学ぶわけです。
これら、恋愛の非対称性がありますので、自分がモテたいと思うのであれば、より上位の愛をまず自分が理解することで、相手には同等かそれ以下が基本になるという法則が容易に成り立つわけです。例えば自分がまずハートの愛に達することができれば同等のハート以下の人からモテるようになります(パターン2−1、2−4)。自分が情愛のレベルに達したならば、情愛のレベル以下の人からモテるようになります(パターン1−4)。相手に何か特別なもの、例えばハートの愛などを高望みする(パターン1−3)よりも、自分と同等のパートナーと満足して暮らすというのが分相応ですしお互いに幸せだと思うのです(パターン1−4、2−1)。一方、自分よりも高い愛を知っている人から好意を持たれたのならば、そのような幸運に感謝して、それを受け入れれば良いわけです(パターン1−1)。
ハートの愛を知っている人がパートナーの場合はそれほど問題は起こりません。ただ、ハートの愛は温かい一方、クールでもあり、自分が情欲以前までしか達成していない場合はパートナーには物足りないかもしれません。情愛を知っている段階ではハートの愛ほどではないにせよそれなりの愛を知っていますので、情愛の段階の人は多少の束縛はあるものの、パートナーにした場合にこれまたそこまで問題は起こらないように思います。一方、情愛もそこまで知らず、性欲までしか知らない場合はトラブルが多発し、よって、いわゆる清楚系ビッチもこの段階(ハートの愛を知らず、情欲もそこまで知らずに学習中な、性欲までが優勢の段階)に多く生息するのだと思います。世の中には性愛もよく知らずに単なる所有欲・生存欲で生きていて性欲を学んでいる方も多少はいらっしゃいますので、それよりは性愛(が安定する段階)は上等なわけですけど、それでも、性愛までの段階以前の場合はトラブルが多発するわけです。これは段階が一瞬で完全に一気に切り替わるというよりは多少はオーバーラップして(重なって)いるように思います。その人のメインの段階がどこにいるかによって生き方と考え方、態度・振る舞い、そして愛の形が変わってくるわけです。
回想による魔境の物語の終焉
GWの前後に若い頃の10数年分の記憶の強制的なフラッシュバックがあって再体験を行い、現在の見識を元に再解釈をしてきましたが、大体のところで整理がついたように思います。
今回、愛というものを考え直して理解することにより、新しく生まれ変わって、意識は新たになり、ハートの愛というものを(はっきりと)知り、世界が全く違ったものになり、世界は素晴らしいことを(より)実感できるようになりました。これに至る前であっても瞑想で静寂だとか至福だとかを感じて割とこの感覚の初歩的なところを体感していたわけですが、以前に感じたそれらの初歩的な感覚は意識にまだ雲がかかっているかのような淡い感覚で、今回、本当に(ハートの)愛を知って世界が変わったと言える段階にようやく達し、閾値を超えて違う世界へと生きているかのような感覚になったように思うのです。
世間を見ると、本人は自身の愛の段階をそこまで理解しないで結婚している人も意外に多いように思う一方で、特にスピリチュアルと言っていなくても普通の生活において真実のハートでパートナーや子供を愛している人も相当数いるわけです。恋愛の非相対性があって恋愛の理解が男女で異なる上にそれぞれの理解の段階も異なり、結婚のメリット・デメリットが重なって、経済的利益だとか子供欲しさだとか自慢だとかステータスとかが絡み合って結婚に至るわけですが、ハートで愛して結婚という場合もそれなりにあるように思うわけです。そのような、素晴らしい世界に最初からいたわけです。ですから、私が特別になったというわけではなく、今まで何か欠けていた状態だったものがようやく普通になっただけなのです。素晴らしい世界というのが普通なわけです。
小学校の頃に執拗な虐めを受けてハートにある光の玉がパリンと涙を流しながら壊れて以来、メンタルを壊し、私の心は私の体から離れてしまい、体にはほんの少しの精神しか残っていない状態になり、精神衰弱のままずっと生きてきましたけど、ようやくその光の玉を修復し、今まで体に戻れなくて近くや遠くを遊離して離れていた精神が戻ってきて、光の玉が壊れる前くらいの状態にまで精神が回復し、精神衰弱を脱し、再度、ハートの愛を感じられるようになりました。光の玉は私の精神そのものでもあり、どうやら、小学校の頃に光の玉が壊れてから、私はこの世界としっかり繋がることができていなかったように思うのです。ずっと精神が肉体から分離していて、文字通り、この体に精神がきちんと宿っていない状態だったように思うのです。ですから、光の玉が壊れた以降は、肉体の感じる意識がずっと朦朧としていたわけです。今回、この体にようやく精神が戻ってきて、精神が体をきちんと使い始めたのです。今までずっと、精神がほんの少しだけ体に繋がっている状態で、意識のほとんどが眠っていた状態だったと言えます。それは、この体に精神がきちんと宿った、ともいうことができるかと思いますし、その同じ状態こそがハートの愛を知っている状態でもあると思うわけです。子供の頃にあった光の玉は3つで、今はまだ1つ回復したくらいですので先があるように思いますが、それでも、ひとまずの大きなハードルを超えたと言って良いと思います。光の玉(プルシャ、神霊、純粋精神)がサハスララから入ってきた時はまだ入ってきただけで、体としっかり順応していなかったように思います。今回、ハートが開けて、より一層、プルシャ(純粋精神)が体に順応したように思います。肉体の顕在意識から見た視点からすると精神が失われていて朦朧としていた、ということになりますけど、一方、プルシャ(純粋精神)の方の視点からすると、精神がずっと肉体から離れていた、ということかと思います。小学校の頃に私から離れた精神がようやく体に戻ってきたのです。ヨーガやヴェーダンタの理屈から言ってもプルシャは壊れることがありませんけど肉体から離れることはあって、数十年の間、精神が体にきちんと宿っていない状態だったように思うのです。そしてそれが精神虚脱の状態であり精神崩壊の状態だったわけです。それが今回、ようやく精神を回復しました。精神が体の中に戻ってきたのです。そして、そのことで、ハートの愛を感じられるようになったのです。元々、小学校の頃まで感じられていた感覚を、今回、取り戻したわけです。今から思えば、精神が体になければハートの愛もわからないし、恋愛もうまくできないのは当然だったと言えます。主に肉体でだけ生きていた状態だったわけです。完全に精神がないと死んでしまいますが、今思うに、小学校の頃と比較して20%くらいの散漫な精神でここ数十年は生きていたように思うのです。そうであれば、意識が朦朧としていても当然だったと言えます。今は、戻ってきたとは言ってもせいぜい50%くらいでしょうか。まだ本調子とはいかないようです。そんなメンタル崩壊していた私が生きながらえたのは、それでも私を見捨てずに心配しながらいつも見守って私の周囲にいてくれた(グループソウル繋がりの)過去の人生からの繋がりのあるいわゆる過去生の妻達(私の一つ前の分霊の妻達、私と同じグループソウルの分霊の妻たち)のスピリットのおかげによるところも大きいと思います。
これはカタルシス(浄化)だったのだと思います。アリストテレスが言ったように、人生における悲劇を、哀れみと恐怖そして愛を持って追体験することによりカタルシスを成し遂げることができたわけです。
こうして今思うのは、自分がハートの愛を知っていればパートナーは割と間口が広がって、誠実で信頼できる人であれば割と誰とでもうまくいくように思うのです。あるいは、ハートの愛を知っている人にアプローチすればかなりの確率で受け入れてもらえたりもするわけです(私がそう思っているだけかもしれませんけど)。
様々な可能性がここ数週間の間で湧き上がってきて、過去の出来事に対する様々な理解に導かれていきました。過去だけでなく、未来の可能性も示唆されました。実際のところ、瞑想で未来を見せられたところでそれがどの程度将来の現実性があるのかはそれぞれで、本当に未来に現実化したらその時に振り返ってみて「あぁ、あの時のことは正しかったのだ」と、現実が起こってから瞑想を振り返る、というので十分だと思うのです。スピリチュアルに慣れていない人がやりがちなのが「瞑想で見たから、こうなる筈。それを待ちます」みたいなことで、これをすると割と実現せずに時間だけが過ぎ、「あぁ、あれは勘違いだった」と後になって後悔することになります。これは、順番が逆なのです。瞑想で解釈した理解はそれはそれとして今後に生かす一方で、瞑想で見た予知を否定する必要はありませんが基本はスルーし、現実は今までと変わらず普段通り生きれば良いわけです。ですから、様々な可能性が湧き上がったとはいえ、それによって、自分の生活が大きく変わることはないわけです。
一番大切なのは愛というものに対する理解で、これは今後の自分の生き方を大きく変えるものであり、情報とか予知とかは二の次でそこまで重要ではなく、ハートの愛を理解できた、ということが一番なわけです。「ハートの愛があって、世界は素晴らしくて、そもそも世界は愛に満ちていて、(多くの)人々は優しくて輝いているのです。」 それが、ここ数週間の人生の振り返りで得た一番大切な教訓と理解になります。
今回、愛というものを考え直して理解することにより、新しく生まれ変わって、意識は新たになり、ハートの愛というものを(はっきりと)知り、世界が全く違ったものになり、世界は素晴らしいことを(より)実感できるようになりました。これに至る前であっても瞑想で静寂だとか至福だとかを感じて割とこの感覚の初歩的なところを体感していたわけですが、以前に感じたそれらの初歩的な感覚は意識にまだ雲がかかっているかのような淡い感覚で、今回、本当に(ハートの)愛を知って世界が変わったと言える段階にようやく達し、閾値を超えて違う世界へと生きているかのような感覚になったように思うのです。
世間を見ると、本人は自身の愛の段階をそこまで理解しないで結婚している人も意外に多いように思う一方で、特にスピリチュアルと言っていなくても普通の生活において真実のハートでパートナーや子供を愛している人も相当数いるわけです。恋愛の非相対性があって恋愛の理解が男女で異なる上にそれぞれの理解の段階も異なり、結婚のメリット・デメリットが重なって、経済的利益だとか子供欲しさだとか自慢だとかステータスとかが絡み合って結婚に至るわけですが、ハートで愛して結婚という場合もそれなりにあるように思うわけです。そのような、素晴らしい世界に最初からいたわけです。ですから、私が特別になったというわけではなく、今まで何か欠けていた状態だったものがようやく普通になっただけなのです。素晴らしい世界というのが普通なわけです。
小学校の頃に執拗な虐めを受けてハートにある光の玉がパリンと涙を流しながら壊れて以来、メンタルを壊し、私の心は私の体から離れてしまい、体にはほんの少しの精神しか残っていない状態になり、精神衰弱のままずっと生きてきましたけど、ようやくその光の玉を修復し、今まで体に戻れなくて近くや遠くを遊離して離れていた精神が戻ってきて、光の玉が壊れる前くらいの状態にまで精神が回復し、精神衰弱を脱し、再度、ハートの愛を感じられるようになりました。光の玉は私の精神そのものでもあり、どうやら、小学校の頃に光の玉が壊れてから、私はこの世界としっかり繋がることができていなかったように思うのです。ずっと精神が肉体から分離していて、文字通り、この体に精神がきちんと宿っていない状態だったように思うのです。ですから、光の玉が壊れた以降は、肉体の感じる意識がずっと朦朧としていたわけです。今回、この体にようやく精神が戻ってきて、精神が体をきちんと使い始めたのです。今までずっと、精神がほんの少しだけ体に繋がっている状態で、意識のほとんどが眠っていた状態だったと言えます。それは、この体に精神がきちんと宿った、ともいうことができるかと思いますし、その同じ状態こそがハートの愛を知っている状態でもあると思うわけです。子供の頃にあった光の玉は3つで、今はまだ1つ回復したくらいですので先があるように思いますが、それでも、ひとまずの大きなハードルを超えたと言って良いと思います。光の玉(プルシャ、神霊、純粋精神)がサハスララから入ってきた時はまだ入ってきただけで、体としっかり順応していなかったように思います。今回、ハートが開けて、より一層、プルシャ(純粋精神)が体に順応したように思います。肉体の顕在意識から見た視点からすると精神が失われていて朦朧としていた、ということになりますけど、一方、プルシャ(純粋精神)の方の視点からすると、精神がずっと肉体から離れていた、ということかと思います。小学校の頃に私から離れた精神がようやく体に戻ってきたのです。ヨーガやヴェーダンタの理屈から言ってもプルシャは壊れることがありませんけど肉体から離れることはあって、数十年の間、精神が体にきちんと宿っていない状態だったように思うのです。そしてそれが精神虚脱の状態であり精神崩壊の状態だったわけです。それが今回、ようやく精神を回復しました。精神が体の中に戻ってきたのです。そして、そのことで、ハートの愛を感じられるようになったのです。元々、小学校の頃まで感じられていた感覚を、今回、取り戻したわけです。今から思えば、精神が体になければハートの愛もわからないし、恋愛もうまくできないのは当然だったと言えます。主に肉体でだけ生きていた状態だったわけです。完全に精神がないと死んでしまいますが、今思うに、小学校の頃と比較して20%くらいの散漫な精神でここ数十年は生きていたように思うのです。そうであれば、意識が朦朧としていても当然だったと言えます。今は、戻ってきたとは言ってもせいぜい50%くらいでしょうか。まだ本調子とはいかないようです。そんなメンタル崩壊していた私が生きながらえたのは、それでも私を見捨てずに心配しながらいつも見守って私の周囲にいてくれた(グループソウル繋がりの)過去の人生からの繋がりのあるいわゆる過去生の妻達(私の一つ前の分霊の妻達、私と同じグループソウルの分霊の妻たち)のスピリットのおかげによるところも大きいと思います。
これはカタルシス(浄化)だったのだと思います。アリストテレスが言ったように、人生における悲劇を、哀れみと恐怖そして愛を持って追体験することによりカタルシスを成し遂げることができたわけです。
こうして今思うのは、自分がハートの愛を知っていればパートナーは割と間口が広がって、誠実で信頼できる人であれば割と誰とでもうまくいくように思うのです。あるいは、ハートの愛を知っている人にアプローチすればかなりの確率で受け入れてもらえたりもするわけです(私がそう思っているだけかもしれませんけど)。
様々な可能性がここ数週間の間で湧き上がってきて、過去の出来事に対する様々な理解に導かれていきました。過去だけでなく、未来の可能性も示唆されました。実際のところ、瞑想で未来を見せられたところでそれがどの程度将来の現実性があるのかはそれぞれで、本当に未来に現実化したらその時に振り返ってみて「あぁ、あの時のことは正しかったのだ」と、現実が起こってから瞑想を振り返る、というので十分だと思うのです。スピリチュアルに慣れていない人がやりがちなのが「瞑想で見たから、こうなる筈。それを待ちます」みたいなことで、これをすると割と実現せずに時間だけが過ぎ、「あぁ、あれは勘違いだった」と後になって後悔することになります。これは、順番が逆なのです。瞑想で解釈した理解はそれはそれとして今後に生かす一方で、瞑想で見た予知を否定する必要はありませんが基本はスルーし、現実は今までと変わらず普段通り生きれば良いわけです。ですから、様々な可能性が湧き上がったとはいえ、それによって、自分の生活が大きく変わることはないわけです。
一番大切なのは愛というものに対する理解で、これは今後の自分の生き方を大きく変えるものであり、情報とか予知とかは二の次でそこまで重要ではなく、ハートの愛を理解できた、ということが一番なわけです。「ハートの愛があって、世界は素晴らしくて、そもそも世界は愛に満ちていて、(多くの)人々は優しくて輝いているのです。」 それが、ここ数週間の人生の振り返りで得た一番大切な教訓と理解になります。