限界を決めなければ限りなく神に近づく

2024-10-19公開 (2024-02-09 記)
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

段階的に、限界を超えるごとに神に近付きます。

「これはできない」「これは無理」など、そのような限界は、本来ないわけです。そのように、自分あるいは周囲から思い込まされた限界によって自分の意識が制限され、本来は神(の一部)である意識に限界を作ってしまっているわけです。

それは、はっきりとした限界という形を取っているとは限らず、他の形で限界を作ってしまっていることもあります。例えば、「理解で悟る」みたいなお話は、自分自身で「理解」という段階に自分自身の限界を作ってしまっているのです。理解を超えた神としての人間の生きようにまで到達することを「理解」という限界を作ることによって自分で制限してしまっているのです。その「理解」という、別の形として置いてある限界を突破することができれば、また一歩、神へと近づくのです。ですが、「理解でしか神を知ることができない」だとか「理解でしか真理は得られない」というような限界を他人あるいは自分で作ってしまうと、それが限界であるということにすらなかなか気付けず、結果、その限界をなかなか突破できないことになるのです。

はたまた、一部の能力系サイキックの世界では、他人の心を読むだとか未来を読むだとかリモートビューイングなどで、歴史上あるいは講師と弟子の長年の関係において、大体の限界を決めていることが多いように思います。例えば、他人の心を読む程度に限界を設ける、だとか、未来を読む精度に限界を設ける、はたまた、リモートビューイングの精度に限界を設けてしまっていることがあります。確かに、現実問題、かなり正確に読める人はほとんどいない、完全に正しく読める人は一人もいないと思いがちで、大抵の場合は多くの人の人生にとってそれが真実であるとはいえ、自分で決めた限界があると、その限界を突破することができずに成長が停滞するのです。

はたまた、瞑想の静寂の境地においても、一旦は達成したと思っていた境地がそれが限界で既に達成したと思い込んでしまうと、それが限界となり、その限界をなかなか超えられない、という状態になるのです。

他の能力のお話で言うと、昔の能力者で空を飛ぶなんて言うのは割とありふれたお話だったわけですけど、今の人は「人間は空を飛ぶことができない」と言う限界を自ら作ってしまっていて、結果、空を飛ぶことができないわけです。

神に近づくとは言いましても人生の時間には限りはありますのである程度のところまで、と言うことにはもちろんなるのですが、それでも、心持ちとして限界を決めているかどうかはスピリチュアルな成長に大きく違いが出てくるわけです。

自我がある以上、限界と思われるものはどうしても出てきます。ですが、そこは限界を「これが終わりではないかもしれない」と言う気持ちでいることで、限界が限界でなくなり、ふと限界を越えることができる時が何度もやってくるのです。

▪️限界を決めない、と言うお話と、無我

実のところ、限界を決めない、というお話は、無我になることと密接に関係しています。自我が強く残っていると限界が作られます。一方、限界を決めないと言うことは無我な状態なわけです。その徹底の度合いには個人差があるものの、その徹底度合い、その定着度合いに応じて、限界を容易に突破できたり、無我な状態を維持しやすくなるわけです。

▪️無我になれば、魂の全てが昇天する

自我が残っていると純粋で無我の部分と自我の部分が切り離され、無我の部分は昇天してグループソウルに合流しますが、自我の部分だけが地上あるいは天界に残されて(小さな)輪廻転生のサイクルを繰り返します。この場合、昇天した無我の部分はもちろん幸せなわけえすが、地上あるいは天界に残された自我の部分は「惨め」で「ちっぽけ」な自分としての人生を再度繰り返すことになります。

ですから、地上の生活を送っているうちに無我になっておくのは重要で、とは言いましても完全である必要はなくて、全て丸ごと昇天できるほど無我になっていれば良くて、ある程度の自我は一緒に昇天できるのです。

人生の終わりの時において苦しみがほとんどなくて幸せで無我でいられると言うのは幸せで、そうなれば丸ごと昇天してグループソウルに帰って輪廻転生の(大きな)1サイクルを終えます。グループソウルとしての、コーザル体(カーラナ、原因)としての1サイクルを終えるわけです。それが一番、望ましい状態です。

▪️無我で神に近づきつつ、死後の昇天を目指す

人生において無我の生活をし、限界を設けない、あるいは、限界と思われるものを突破するように人生を意図します。そうすることで、次第に、神に近づきます。結果、死ぬ時は幸せでいっぱいで、無我で至福に満ちた状態で死ぬことができればそのまま丸ごと昇天します。

そうなれば、人生は楽で、幸せで、しかも、死後に地上に残されてしまう可哀想な自我もなく、自分という魂あるいはスピリットとも言える存在を丸ごと昇天させて、自分が、大元であるグループソウルに帰ることができるのです。それが大団円な人生なわけです。


大切なのはこの2つです。

・限界を考えないこと。(無我になること)
・自分を神と思うこと。

これは誤解があるかもしれなくて、ただ単純に自分のことを神と思うのであれば傲慢になってしまうのです。一方、無我になって限界を越えるということそれがそのまま神の意識と直結していて、それはコインの両面のようなものなのです。無我になって限界を考えない状態というのは神意識でありますし、神意識というのは無我であり限界を考えない状態なわけです。片方だけを考えてしまうと変なことにもなってしまうのですけど、両面だと考えれば、それは当然のことであるわけです。

この状態に至ることがある程度でもできれば、死後に分離せず丸ごと昇天して(小さな)輪廻転生のサイクルを脱します。それは、ヴェーダンタでいうモークシャ(自由)ということでもあります。