ハイヤーセルフと融合するスピリチュアルな前提条件

2024-04-18 記
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

前述のように、もともと子供の頃に魂が分離していたからこそ、ここにきて、ハイヤーセルフとの融合というものが起きているわけです。

となれば、スピリチュアルで言われている、ハイヤーセルフとの融合というものがない人もいる、ということがわかります。生まれた時から現在まで精神的にも肉体的にも健康で生きられている人であれば最初から自分の魂を分離させずに生きてこられたわけで、そうなれば、もともと分離していないのですから、融合もないわけです。

ふと思い返せば、私の属するグループソウルの分霊たちの記憶の欠片の中を辿ってみると、今回のように、ハイヤーセルフとの融合(あるいはプルシャとの融合と言っても良い)をしたような例は一つもないように思うのです。それぞれの人生を送る前にはグループソウルから分霊ができて、その後、その分霊がそのまま、分離することもなければ、融合することもなく、一生を終えていたように思うのです。

確かに、死後に昇天する時にはある程度の分離があって、重い部分が分離されて・・・ ということがなくはないですが、むしろそういう場合の方が少なくて、大抵の場合は、死後に、そのまま、すべての魂をそのまま連れて天国を漂ったり昇天してグループソウルに戻っていたように思うのです。

であれば、ヨーガやスピリチュアルなどで言われているハイヤーセルフとの融合だとかプルシャとの融合、はたまたダルマメガサマーディと言うような種類のものは、特殊な場合にのみ起こるもので、基本的には起こらないのではないか、と言う理解が生まれてきました。

実のところ、それを経験して最初の頃は誰しもがそう言う状態になるのかと思っておりましたが、どうも、他の人の事例や、様々なことを勘案するに、そのように、もともと分離が(子供の頃に)あったからこそ、(中年の)今になって融合、と言うことをしている、その必要がある、と言うことなのではないかと思うのです。

最初から健康的で分離がなければ融合がない、という、割と当然のことであるようにも思います。

ただ、今回の場合、子供の頃に分離したが故に、割とグループソウルから引き継いだ過去の部分が記憶にしてもオーラにしても冬眠状態のように数十年を飛び越えた形で継続しており、割と浦島太郎な部分もありますけど、それでも、今まで生きてきた部分のオーラもしっかりありますので日常生活や仕事は不自由なくできているわけです。

こんなことを言うと不思議がられるかもしれませんが、記憶喪失かというとそうでもないのですけど、今まで数十年生きてきた記憶はどこか遠くの世界での出来事のようにも感じられて、ゲームの中の出来事、あるいは、別の人の人生だったのではないかとも思うくらいです。各種の物理的な証拠や状況から察するにそれらの過去は現実だったと思うわけですけど、それでも、数十年の間ずっと私の体から離れて保管されていたオーラの意識からすると違って見えて、この世界は新鮮で、見慣れている筈なのに興味深い世界であるようにも感じられる、二面性のある認知になっています。

人格、そして、記憶の両面において、過去の人格や記憶はあるものの、保管されていたかつての人格が優勢になり、記憶の方はというと現在の記憶が薄められて記憶が曖昧になりあまり覚えていない感じになり、再度、世界を確かめているような感じになっています。浦島太郎、あるいは、ジキルとハイドと言う感覚が時折していて、人格が、子供の頃に苦労して精神崩壊した以前の状態に戻りつつあるようにも思います。

スピリチュアルな成長の過程において、魂・意識の分離がある程度まで解消するともともと分離していた魂や意識(いわゆるオーラ)が自分の中に戻ってこられる状態になって、いわゆるハイヤーセルフと融合できる前提条件が整うわけですけど、そのような、同じ程度のスピリチュアルの意識状態にまで成長したとして、もともと何か辛いことがあって魂・意識が分離していたのであればその時点でハイヤーセルフ(あるいはプルシャ)との融合が起こるけれども、そもそも最初から分離していないのであればハイヤーセルフとの融合が起こらない、何故ならば最初から一つだったから、ということなのかと思います。