ようやく小周天あるいは全身周天の完成に近づく

2024-06-01 記
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

ヨーガの本山博氏や仙道の高藤 聡一郎氏の著作において小周天というものが基本の行法として出てくるわけですが、その基本としてはエネルギーを線のように体の各所に通す、というものです。体の中心軸に沿って体の後ろから上げて前から降ろすのが基本なわけですが、それに加えて、より大きなエネルギーを通すことでルート的なものではなく体全体が光り輝くエネルギーを発するようになる、という段階があるわけです。

その先には大周天と呼ばれているような段階があるわけですけど、書物の記述だけを読んで比べてみますとあたかも自分がその入り口にいるかのような錯覚を覚えてしまった過去もあるわけですが、今になってみますと、どうやら今に至ってようやく小周天あるいは全身周天の完成に近づいたという段階であって、まだ大周天には至っていない、とみなすのが妥当のように思えてきました。

今の段階は、ようやく体の中の各所にエネルギーが通り始めて、特に頭の中はというと今まで線のように各所を通っていたくらいで、全体が通っていたというわけではありませんでした。今もまだ完全ではないのですけど、少なくとも、以前のような状態ではまだまだ今の状態と比べることができない程だったように思います。

そして、クンダリーニのエネルギーの理解も以前とは変わってきました。クンダリーニはよく背骨沿いに上昇するというような解釈がされることがありますが、1回通ったとしても、それは一時的なものに過ぎず、それによってエネルギーが通るきっかけにはなるものの、その後、継続して開き続くことができなければ不安定になってクンダリーニ症候群になってしまうのだと思います。

ですから、神智学系の人が好んで引用する一文は真実であるわけです。

  • 「それ(クンダリニー)はヨーガ行者には解脱を、愚者には束縛を、与える。」(「神智学大要 第1巻 エーテル体」(アーサー E.パウエル著))
  • 「クンダリーニの覚醒は、ヨギには解脱を与え、愚者には苦悩のくびきを与える」(「チャクラ」(C.W.リードビーター著))
これはハタ・ヨガ・プラディーピカ(Hatha Yoga Pradipika)3章107番(バージョンによっては106番)が元ネタと思われるわけです。原文には以下のようにあります。

  • 「クンダリー・シャクティはカンダの上方で眠っている。このことは、ヨーギーにとっては解脱の因となり、痴人には束縛の因となる」(ヨーガ根本教本(佐保田 鶴治著)の訳。これは3章の106番。107番ではなく。)
  • 「クンダリーニ・シャクティはカンダ(ナディが結合して離れている臍の近くの場所)の上に眠っています。 それはヨーギにムクティ(解放)を、愚か者には束縛を与える。 シャクティを知っている人は、ヨガを知っている人です。」(ハタ・ヨガ・プラディーピカ(Hatha Yoga Pradipika、Swami Vishnu-Devananda著))
  • 「クンダリーニ・シャクティはカンダの上で眠っている。このシャクティはヨーギにとっては解放の手段であるが、無知な人にとっては束縛となる。」(Hatha Yoga Pradipika (Swami Muktibodhananda著, Swami Satyananda Saraswati監修) )
今の私の理解としては、クンダリーニを解放するのは体の各所の浄化がなされてエネルギー・ルートが通った後にすべきものであり、それ以前であっても突発的に起こることがあり、修行をしていなくても、修行がそれほど進んでいなくても起こることがあって、それは眠っていたエネルギーが何某かの刺激や経験により一時的に目覚めるわけですが、そのエネルギーを使える器がなければ、扱える以上のエネルギーが出てきている状態というのは危険なわけです。

今思うのは、小周天が完成する、あるいは、全身周天が出来つつある状態においてエネルギーが体の各所に通る、その状態になってからクンダリーニが活性化すれば安全である、という理解です。それ以前に目覚めてしまった場合は適切なグルの元、安全な環境にて手当する方が良い場合もあるように思われます。

ヨーガ系の団体ではクンダリーニを危険なものとみなしていることが多いのですが、それは、クンダリーニの行法を行ったことによって精神的に混乱をきたした人が歴史的に大勢いたからなのではないかと思うのです。力を求めてクンダリーニを覚醒したとしても、体が浄化されていない人(=それはつまり、愚かな人、ということですが)はエネルギーをうまく扱うことができず、苦悩のくびきとなってしまう、というのはハタヨガ・プラディーピカのいう通りなのだと思います。

よって、まず目指すべきは小周天の完成、あるいは全身周天と呼ばれる状態であって、それは名前が違えどもどのような流派にもおそらくは同じようなものがあって、瞑想で達成しても良いですし、行法で達成しても良いですし、仙道であってもヨーガであっても仏教であってもこれが一つの段階の目安になると思うのです。