それと知らずして、何か、何か、瞑想がうまくできた気になってしまうのです。わかっていても、それでも、何か良い境地に達したような錯覚に陥ってしまうのです。頭では魔境と思っていても、初歩のうちは、魔境ではなくて本当に瞑想できたかのように思い込んでしまうことは割とよくあることです。でありますから、この知識がなければ安易に何か素晴らしい境地に達したのではないかという慢心が生まれます。瞑想を始めて間もない頃に現れるそれはごく初歩的な魔境であり、初期の段階においてはイメージが作り出した願望あるいは幻影に過ぎないことがほとんどです。
世の中には、「最高の瞑想」と称する手法があったりしますが、その手法を注意深く見るとイメージを使ったりしていますが、そのように、イメージを使って何かするところには巧妙にこの種の魔境の落とし穴があったりするわけです。
それは、理屈の上では魔境ではないように一見すると見える、しかし、論理や頭というのは騙されますから、うまく理屈をこねて、あたかも自分がうまくできている、崇高な境地に達したかのように思い込んでしまうわけです。その錯覚、魔境というものを利用してうまく「最高の瞑想」というものが出来上がっていたりします。イメージというのはうまく使えば瞑想の助けになりますが、魔境としての幻影に囚われてしまうとそこで停滞してしまいます。ましてや、「最高の瞑想」などという煽り文句に惹かれるような人であればなおさらその危険性があります。
例えば、とある流派では、「雑念をイメージで川で流す」ということをしています。これを私が始めて聞いたのは30年ほど前のとある宇宙人系のコミュニティでしたが、どうやらそれがオリジナルではなくて、かなり昔から原型としてのアイデアは瞑想の業界では存在していたのだということをその後知ることになりました。最近でも、とある、最高の瞑想と謳っている瞑想の手法が実はこれで、謳い文句は何であれ、手法としては昔からそれほど変わらないのかなと思います。
さて、その、雑念をイメージで川で流す手法というのは、うまく出来ればそれは良い効果を発しますが、私の見たところ、そうすることで雑念を映像化する能力が高まってしまい、何がしかの幻影をうまく生み出す能力となり、雑念を作り出すマインドが素晴らしいイメージを作り出すことで、あたかも自分が素晴らしい境地に達したかのような錯覚を覚えてしまうわけです。マインドがマインドを騙す、というのは瞑想の初心者が陥る、よくある落とし穴です。これは魔境でありますし、そもそも、元々の方針である「流す」がうまくできていればこうはならないのですが、イメージをきちんと作り出すことで、そのイメージとしての雑念が肯定されてそのまま残り続けてしまうわけです。そして、その境地からなかなか抜け出ることができない、という状況に陥ります。
そのイメージ化すらも本当は捨てて放棄していかなくてはならないのに、イメージ化したところで止まってしまうわけです。そして、そのことに本人は気付かずに長い時間を勘違いのまま(時に何年という長い間を)過ごすことになるわけです。
こうして、慢心が育ちます。傲慢になります。それは魔境ということです。
適切に傲慢と慢心を指摘して修正してくれるグルの存在が不可欠と言われるのはこういうところにも理由があって、グルと言ってもそうでもない人も多いですけど、しっかりとしたグルというのは弟子のこのような勘違いにも気がついてくれるわけです。
(流派の内情は知りませんが傍目から見ると)禅の曹洞宗などはこのような勘違いを指摘することに長けているように思います。その他、指定して直す、ということをしている流派もありますが、指摘するということで上下関係が生まれてしまってヒエラルキーの変な関係になることも多く、この辺りはなかなかうまくはいかない、良いグルというのは少ない、という印象です。
雑念がとても多い時、そうであれば、川に流すとかイメージ化するという手法も助けになるでしょう。しかし、そのような、「対象のある」瞑想は、ごく初期に行うものです。何かにしがみついていて始めて瞑想ができる、という段階であれば、迷わず、何がしかにしがみつけば良いのです。
自分の瞑想の段階を、適切に見極める必要があるように思います。雑念が多くて瞑想が難しい場合、映像化が得意であれば川を思い浮かべて流す、という方法が有効に働くこともあるでしょう。あるいは、音に関する認知が得意ということであれば内なる音であるナーダ音に集中することも瞑想の助けになります。
あるいは、マントラを何度も何度も唱えてそれに集中するということも助けになります。
拝めている神様の名前を唱える、あるいはその姿をイメージするという手法も時には有効になります。(神様などの)文字を何度もイメージで書くことを続ける、ということも有効です。
そのように、最初は、何がしかの助けによって瞑想を行うわけです。
そして、そのうち、(徐々にではありますが)そのような助けなしに瞑想が可能になります。澄み渡った意識が広がるにつれ、通常の顕在意識の下(あるいは奥、ともいう)に広がる、広い、満ちた、大きな意識というものが現れてきます。そうなると、瞑想というものもその奥の意識が主体となります。その段階に至ると、(徐々にではありますが)イメージ化とかマントラなどの助けは次第に不要になります。なくても瞑想状態に至ることができるようになります。そして、日常生活も瞑想の延長線になります。
日常生活が瞑想の延長線でありますから、もちろん、その時には「雑念をイメージの川に流す」なんてのは普通はしないわけであります。ですが、澄み渡った意識は広がっていて、それは瞑想状態ということでもあります。
その、澄み渡った意識の時に、想像などはありません。あるがままを認知しています。
一方、魔境に陥っている人は、日常生活においても幻想を見ています。
ある意味、この世界を生きている人の多くは、宣伝やらマーケティングやらによって幻想を見せられ続けている状態であるとも言えるわけです。
瞑想は、そのような覆いを取り払うものです。
ですから、自分のイメージで覆いを作るというのは、他人が作った(マーケティングや宣伝などの)イメージよりは多少はマシではありますがそれでも覆いであることには変わりがなくて、その覆いを取り払うことが瞑想なわけです。