「変わらないもの」を誤解して捉えると善悪が生まれる

2024-07-26 記
トピック:スピリチュアル: カルト

前述のように、「変わるもの」と「変わらないもの」とは、階層が本来は異なるわけです。ですが、時折、維持という属性が混乱して伝えられていて、維持という属性が人間の勝手な解釈により一人歩きしてしまいます。

そして、そこに宗教的な善悪の観念が加われば、維持というものを善とみなし、破壊(や創造)を悪とみなす、という風潮が現れます。それは実のところこの地球の歴史の根幹に長らく存在していた秘密結社の活動動機にもなり得ました。今もそのような、例えば昔はゾロアスター教であったような善悪の観念に基づいて、現在においてもその価値観を引きずって善悪の戦い、言い換えれば光の側と闇の側の戦いが背面下で続いています。

ですが、それは元をたどればまったくの誤解、無知に基づいているものです。

元はというと、些細な誤解でした。遙か昔のことですので確証はないものの、そのように言い伝えられています。

そして、その誤解の根幹はというと、執着です。前記の通り、維持に執着して、無くなることを恐れ、創造と破壊というダイナミックな動きを悪とみなしたのです。

今ある、見えるものに執着し、それが無くなったら怖い、自尊心が損なわれる、悲しい、という、非常に人間的な感情がその活動力の原点になっています。

更には、そのような秘密結社は様々な理屈を使いこなして、本来は間違った教理を、自身を納得させるための道具として使い、うまく自分を誤魔化したのです。そのような教団あるいは結社であればある程度はこのような真理は教えられています。しかし、それらの真実の教えと、善悪とを捉える価値観とが本質的なところで合致していなくて、不協和音、不調和をもたらしているのです。そして、その不調和を自分で誤魔化すために様々な口実を用いているのが実情です。

よって、ゾロアスター教やその流れを組む善悪に基づいた教団あるいは結社は、どこか、気持ちが悪いのです。その気持ちの悪さとは真実を歪めて解釈しているから、どこか、オーラが歪んでいるのです。

それは、元を辿れば、真実というものをありのままに受け入れられていない、理解していない、ということです。それは仏教的に言えば「無知」ということで、仏教用語の「無知」はサンスクリットの対訳はアヴィディャー(Avidyā)であります。ヴェーダ哲学では「理解」によりこの無知(Avidyā)を克服する、無知を破壊する、ということを目指しています。それは無知からの脱却です。しかし、人は傲慢にも自分は全てを理解していると思いがちです。

そして、その真実を知ってか知らずか、善悪の戦いこそがこの世の中の理だと理解して、実際に善の存在(善の結社)、悪の存在(悪の結社)として活動している人たちもいます。

前述の通り、宇宙の理からすれば創造・維持・破壊のいずれも等価です。ですから、言うなれば、本来はバランスを崩すものが「悪」であるとも言えるわけです。そうなれば、「善」とはバランスをもたらすものであるわけで、バランスをもたらす際に創造するかもしれませんし維持するかもしれませんし破壊をするかもしれません。見かけ上はいずれであろうとも、バランスをもたらすものが本来の「善」である、とも言えるわけです。

しかし、ゾロアスター教などの各種の流れを組む現代の秘密結社は「(見かけ上の)維持」を「善」と定義し、「(見かけ上の)破壊」を「悪」と定義しています。ここに歪みが生じるわけです。

実際のところ、本来の(宇宙を維持している)善とはそのいずれの属性にも偏らないものです。そのいずれをも、創造であろうと破壊であろうと、バランスを取り戻す、バランスをもたらすために必要な限りにおいて行うものであるのに対し、歪んだ秘密結社は(見かけ上の)維持を善とみなすのです。そして、(見かけ上の)破壊を行うものに対して悪として断固とした態度を取ります。

それは一見したら善であり光の存在であるかのように見えるかもしれませんが、そのように、1つの属性に偏ることはバランスを崩している姿であるとも言えるのです。そうして片方の属性にこだわっていると、やがては極端に逆の属性に墜ちるということもあり得ます。光の存在と思っていた人が急に闇堕ちする。あるいは、闇と思っていた人が光の存在のようになる。そのようなことが普通にあり得ます。

実のところ、そのような揺れ動く階層においては個人には葛藤が起き、自身の中で光を守ろうという動きや、闇に徹する、という働きが起こります。しかし、それは往々にして、エゴの抵抗あるいは執着でしかないわけです。その時、スピリチュアルな人ほど「光の存在でいるために葛藤を手放す」ということをしてしまいがちです。スピリチュアルやニューエイジで「葛藤は手放せ」と長らく教えられて、そう刷り込まれてきた結果、何でもかんでも葛藤を手放して、ここから先へと進むことができなくてつまずいている人が大勢いらっしゃるように思います。

自分の頭で考えるべき問題(の葛藤)は、手放してはいけないのです。ここが落とし穴です。多くの人が、光と闇の戦いの真実について疑問を持っています。しかし、スピリチュアルな刷り込みにより、その根源を考える前に葛藤を手放してしまっている人が大勢いるのです。

葛藤が起きた時、葛藤を手放せば良い、と考えるのはスピリチュアルをしている人のよくある落とし穴です。 そういうと誤解がありますけど、瞑想で意識をクリアにするために雑念を手放してクリアにする際に葛藤を手放す、というのは問題ないのですが、自身の価値観および考え方、根幹の部分に葛藤がある場合は手放さずにその原因を追及した方が良いのです。それを放置すると自身の中で意識が分離した状態になります。他人から押しつけられた価値観やコマーシャルのようなマーケティングで刷り込まれた雑念や葛藤は手放すべきですが、自身がどのように考えるか、その矜持というと語弊があるかもしれませんけど根幹の部分で自己矛盾が生じていたら手放して終わりにしてはいけなくて、徹底的にその原因を突き止めるべきなわけです。そのような意味で、葛藤が起きた時に、その葛藤が価値観が原因だったりしても往々にして人は「その葛藤は手放せば良い」と考えてしまいがちですが、そうではなく、根本的な価値観については熟考が必要なわけです。

人は、このような理屈を聞くと、「いや、自分は、世界の悪のバランスを正すために光の活動を行っている」と言う人がいます。一方で、対立する立場の人から同じようなお話を聞いて、お互いに、相手が闇の存在だと言い合っていたりします。お互いに、自分こそが光で、相手が悪だと、お互いに言い合っているのです。このように、同質の者たちが立場を変えて善と悪の対立軸になっていることがあり、それは、目で見える価値観や善悪、はたまた維持や破壊、創造、という価値観に囚われて生きているのです。それは、視点として階層が低いと言えます。

そのような、光や闇に拘ったり、創造や破壊あるいは維持という価値観、そして善悪に基づいて光の活動を行っている・・・ というのは、自己の価値観に基づいて行っているのです。自己が、周囲に対してどう思うか、それが行動のモチベーションになっています。周囲や世界の人々が闇と思うことに対する対立軸として自身のライトワークを位置付けたり、周囲に対する嫌悪感あるいは優越意識が自身のライトワークの原動力になっています。そのような階層においては、自身の価値観を周囲に投影して、自身の価値観と戦っている、自身の価値観に勝とうとして(自身ですから)決して勝てない戦いを延々と繰り広げているのです。心理学的に言えば、自身の心を周囲に投射して、その、投射した自身の姿に対して戦いを繰り広げているのです。

そのように、対立軸によって善悪などの価値観を捉える生き方、視点においては救いがありません。と、言いますのも、本来のワンネスは善悪をも含んだものであるからです。しかし、往々にして、人は勝手に「善のみのワンネス」と解釈してしまいます。

もう1つ上の階層に登ると、善悪の階層はたまた創造・維持・破壊という階層から離れて、そのバランスを取ることこそが真理であるという理解に至ります。実際には個人がそのようなことをせずとも宇宙は勝手にバランスを取る方向に動きます。ですから、基本は放っておけば良いわけですが、人間の勝手な執着によってバランスを崩した際にそのバランスを戻すものが存在しているわけです。それが本当の善であり、本当の善は必ずしも維持だけでなく創造や破壊も行うのです。そして本当の善とは根底にある基底としての維持に基づいて宇宙の維持を司ります。その宇宙の維持というのは、表面上には創造・維持・破壊のいずれにもなり得ます。

しかし、人は往々にして、善悪に物事を分け、自身が光の側、善の側、維持の側にいるという幻想にすがります。そして、時に、その誤解がとても大きな力を持ってくるのです。誤解や無理解による善悪の判断がこの地球の歴史を動かす原動力になっていると言えます。そして、誤解している間は人々の戦いは続くといえます。逆に、本来の意味をそれらの結社あるいは教団などが理解した時に、ようやくこの地球が統一されて平和になる基礎が整うわけです。

維持が善とみなして破壊を悪とみなしている状況では世界平和は訪れません。その根底にあるのは人間の執着であり、執着を離れて、ありのままに捉える人が増えた時には争いが減り、世界は平和になります。このことを、表面上は理解している人は大勢いても、ひとつ下の階層で考えると「執着を捨てれば善になる」のように、偏った考え方になってしまいます。そうではないのです。全てが等価なのです。創造も維持も破壊も、全てが等価で、それこそがバランスなのです。

世界平和というと光の側になって戦う、という理解をしている人が一定数いますけど、そういうことではないのです。光の側で戦うというのも、根底は、執着であるわけです。維持に体する執着というものが光の存在、というものを成り立たせています。

創造・維持・破壊というのは等しく必要であり、バランスこそが宇宙の真理です。そのように理解した時、光の存在だとか闇の存在だとかいう「分離」が解消され、地球の争いが止み、地球に平和が訪れます。実のところ、平和のために戦うという善の存在のマインドもこの地球の争いを継続させている一端とも言えます。

直接的に争いを辞めさせることも時に必要だとしても、もっと重要なのは人々の基本的な認知であり理解であり、それらが変わった時、劇的に世界は平和になってゆくでしょう。