宇宙の理を創造・維持・破壊および善悪で捉える思想

2024-07-25 記
トピックスピリチュアル

インドのヴェーダ哲学あるいはシバ派などの流派においては宇宙の理を3つに分けて考えることがあります。

・創造 ブラフマ
・維持 ヴィシュヌ
・破壊 シバ

神様の名前は比喩的なもので、属性としてそのようなものがあり、宇宙の原理としてそれらが継続して続いている、というものです。それは思想だけでなく瞑想やら儀式でその理と一体化し、いわゆる解脱、サマーディあるいはモクシャ(自由)へと至ることを修行や理解により目指しています。あるいは、もともとそうであったことを体得するに至るのが修行者の目的であったりするわけです。

これはあくまでも世の中の真理であり、それに介入する意図は基本的にはないのがインド哲学の特徴です。基本的には個人的なところから理解あるいは解脱、サマーディ、モクシャがなされ、それを目指して人々が修行するわけです。

一方、大師と呼ばれる方々がいて、それらの人たちは世界の平和や各種の動きに盛んに働きかけています。そうは言いましても、基本的にはこれら3つの属性はありのままとして捉えられます。

と、言いますのも、そこには特に善悪はないからです。創造があるところには前もって破壊があり、創造と破壊の間には維持があり、維持と創造の間には破壊があるわけです。それは宇宙の理であり、そのバランスを崩すということはしません。

バランスを崩すのは人間の一方的な価値観で、特定の価値観に重きを置くとそうなります。例えば、創造に重きを置くと維持や破壊に対して嫌悪感を覚えるかもしれません。維持に重きを置くと創造や破壊に対して嫌悪感を感じたりもすることがあるでしょう。一方、破壊に重きを置くと創造や維持というものが嫌らしく感じられてしまうこともあるかもしれません。どちらにせよ、それら3つの動きのいずれかに対して人間的な執着があるが故に、エゴの行為として、どれか一つの属性を良いものとみなしてしまうわけです。ここに、善悪が生まれます。

大師くらいのレベルになると(あるいはもっと手前の段階でも)、これら3つの属性とはありのままである、ということを理解します。創造や破壊というもの、はたまた維持というもの、それら全てが同じ土俵の上に乗っていて、特に善悪はないということを理解します。そのような境地に達するわけです。

ですが、そこに達していない人は、例えば創造や維持を善とみなして破壊を悪と見なしたりします。創造するためには破壊がそれなりに必要なわけですが、その創造と破壊の循環の美しさを理解していない人がそれなりに多くいるわけです。

一般常識では以下のように解釈されると思います。
・創造と維持を善とみなす
・破壊を悪とみなす

ですが、これは一面を見ているのであり、実際は、3つの属性というものは等価なわけです。その時、創造も維持も破壊も等価に解釈されます。偏っていずれかに重きを置くのはエゴの仕業です。ましてや善悪でこれらを捉えるのは人間に近い階層であるエゴを基準にして物事を見ています。それは「執着」のなせる技です。

善と見なす場合は、その対象に執着しているとみなすことができます。一方、悪と見なす場合は、それとは異なる対象・対立軸に執着していると見なすことができます。以下のようになります。

・創造を善とみなす人々 は、そのもの(創造)に執着しています。
・維持を善とみなす人々 は、そのもの(維持)に執着しています。
・破壊を善とみなす人々 は、そのもの(破壊)に執着しています。
・破壊を悪とみなす人々 は、その対立軸(創造や維持 and/or)に執着しています。
・維持を悪とみなす人々 は、その対立軸(創造や破壊 and/or)に執着しています。
・創造を悪とみなす人々 は、その対立軸(破壊や維持 and/or)に執着しています。

このうち、創造は破壊と組みになっておりますので、以下のように読み替えることができます。

・維持を善とみなす人々 は、そのもの(維持)に執着しています。
・創造と破壊を善とみなす人々 は、そのもの(創造と破壊)に執着しています。
・維持を悪とみなす人々 は、その対立軸(創造や破壊 and/or)に執着しています。
・創造と破壊を悪とみなす人々 は、その対立軸(維持)に執着しています。

こうしてみると、4つのうち、2つづつの執着の対象が同じであることがわかります。それら2つの執着しているものだけを取り出すと以下のようになります。

・創造や破壊(and/or)に執着しています。
・維持に執着しています。

これは興味深いことに、善悪の一部の流派の思想と一致しています。例えば以下のような解釈です。

・維持が善
・破壊が悪

この思想を私の(見えない)ガイドに確認すると、以下のようなことを教えてくれました。

維持が善、というのは、元々は長寿思想である。滅ぶというのは自己が老いて死ぬということ。それを避けようとして、死を恐怖するあまり維持が善という思想に結びついている。そのような善悪の観念を言っている流派の多くが死に体する恐怖を有しており、特に西洋の流れの流派においては人は生まれ変わることがない、輪廻転生がない、ということを基本にしており、肉体が朽ちる恐怖と善悪の観念とが強力に合致していて、なかなか切り離すことができないでいる。一方ではそれらの教義において魂は永遠不滅などと教えられてもいるがそれは肉体とは離れたところで分離した精神で理解されており、本質において死の恐怖を克服するに至っていない。そうとなれば肉体に対する執着が発生し、その執着が善悪という観念で固定化し、周囲に存在している物事に対し、ありのままの創造・維持・破壊を見るというよりは自らの観念を周囲に投射して維持が善で破壊が悪であるという間違った(執着に基づく)判断を下す。

そうなると、宇宙の調和を乱して維持だけの属性が突出し、創造や破壊の属性が少なくなってきて、一見すると安泰ではあるが動きの少ない社会に移行する。そうなると、維持ばかりの状況を打破しようと破壊と創造を試みる者が現れるが、それはあくまでも創造・維持・破壊の1つの側面であり本来は善悪がないのにも関わらず、肉体への執着によって破壊(とそれに続く創造)を悪とみなし、悪であるのだから、断固として阻止しようと立ち上がる。これがよくある、「(誤った)光の側」の活動をしている、勘違いしたライトワークである。そのようなことを考える本人は様々な理屈でもって執着などもっていないとエゴを誤魔化す傾向があり、本人はそうではなくて教義なのだとか、宇宙の真理だとか考えて善悪を捉えるが、実際には執着でしかない。

とのことです。維持が突出すると宇宙のバランスを崩す。そうなると、崩れたバランスを戻すためにいずれかの方向に世界を戻す、という動きもあるようで、それは上記のような執着に基づく善悪を遙かに超えた、善悪のないところでの働きかけであるようです。

この差は傍目から見るととても微妙でわかりにくくて、スピリチュアルを少しかじった人であれば執着は良くない、というのは徹底的にすり込まれていますから自身ではそうではないと思っていることが大半で、教団の先生や指導者ですらそうだったりしますから、自身が行っている行為が善悪を超えていると思いがちなわけです。ですが、本当に善悪を超えているのであれば創造も維持も破壊も全て必要であるのですから、時に創造や破壊の属性が世の中に足りなければ破壊と創造をもたらすものにもなり得ますし、維持の属性が世の中に足りなければ維持をもたらすものにもなり得るのが本来の姿であるのにも関わらず、いずれかの属性に偏ってしまうわけです。それが執着であるわけですが、そこに気がつくことができていないわけです。

そこには本来は善悪はなくて、バランスだけがあります。ですが、人間の側の勝手な判断で維持が善としてしまう、それは執着ではあるのだが教義やら何やらでその真実を覆い隠してしまう、というのが現状のようです。

それと合わせて、確かに元々のヴェーダの思想においては維持だけを特別視するきらいがあって、創造・維持・破壊と3つの属性に分かれてはいるが維持の属性だけ、いわゆるヴィシュヌの属性だけが世の中全てである(ヴェーダでいう)イーシュワラの思想と結びついてヴィシュヌあるいはイーシュワラを特別視することがあり、それはそれで理にかなっているお話ではあります。ですが、ヴェーダでそのように維持とヴィシュヌあるいはイーシュワラを謡っているのは階層が一つ違うのであり、創造・維持・破壊という3つの属性と同じ階層のことではなくて、その奥に、全てを生かす存在としてのイーシュワラあるいは(イシューワラの比喩としての)ヴィシュヌの存在がある、ということを言っているのであって、創造・維持・破壊のうちで維持だけが特別で善であるとか、そういう話では全くないわけです。私の(見えない)ガイドがいうには、昔の人がこのあたりを勘違いして同じ階層のことだと思い違いをして善悪の話にしてしまったのかなぁ、みたいな雑談的なお話を聞いたりしますが、遙か昔のことですので、過去の人がどのような経緯でそうなったのかは今となってはわからないようです。経緯はともあれ、元々の思想がこうであるのですから、古代に様々に派生して世界に分かれた思想で善悪が誤って解釈されていても不思議ではない、と言います。

ヨーガやヴェーダでは、ワンネス、それら善悪を超えた世界へと到達することを目指しています。それは割と世間一般では夢見がちなお話と捉えられがちではありますけど、そのような世界はきちんと存在します。

少し前にも書いたことと関連しますが、初心者は周囲を悪と見なし(そして周囲に対して優越意識を感じ)、中級者は周囲を善とみなし(そして周囲の人全てが悟っているかのような錯覚を感じ)、上級者(の入り口から)は善悪を超越してワンネスへと(徐々に)至っていくことができるわけです。

善悪とは、道の過程で感じる、一時的な錯覚であるとも言えます。

そして、維持を善と捉えた時、思想に歪みができ、長寿思想が堅固なものとなり、俗に言うゾンビ状態になります。思想のみならず、実態としての肉体、精神が長寿思想に染まってゆきます。確かにこの世の本質は永遠不滅ではありますが人の仮初めの姿としては滅びがあります。しかしながら、長寿思想により死を恐れていると、魂あるいはスピリットが永遠であるという幻想(それは本当のことではありますが、当人にとってはまだ幻想でしかない)にしがみつくのです。そして、永遠といいつつ死を恐れる、という、矛盾した状態になります。それでいて、当人は、もう理解している、と自分で自分を評価したりする。本当に不死というものを理解しているのならばそれは悟っているということでもあり、死を恐れることはありません。しかしながら、口で永遠を語り平穏を語り知識で身を守ったところで、本当に理解して生と死の循環をありのままに受け入れることには困難がつきそうわけで、その困難は実は困難でも何でもなくて簡単なことではあるのですが、生にしがみついているとそれが困難になってしまうわけです。そのように、矛盾した状態で長寿を願う、しかしながら自身のエゴの部分は理屈で否定したり見ないようにする、というのがゾンビ化状態とも比喩できて、矛盾した面と、若さにしがみつく、死を恐れないといいつ恐れる、という、分離した状態であることに対する、気持ち悪さがあるわけです。その気持ち悪さは、ゾンビのように、腐敗した生が続いているが故の、腐敗臭なわけです。そのような、気持ちの悪い結社あるいは教団が実際に存在します。そして、そのような教団あるいは結社がそれなりにこの地球で影響力を持っていて、世界を動かしているのです。ですから、今は気持ち悪くても、ひとまずはその実態を理解することがその団体や構成員を正しい理解へ導くために必要なことかと思います。

その根本をまず理解して、そもそもの原因を辿ればなんてことはないことです。今更、現代にもなって善と悪の戦いを続ける必要もないように思います。


■宇宙の創造と破壊を無常、維持を基底として捉える思想

前述の通り、宇宙の理を創造・維持・破壊で捉える思想がある一方で、創造と破壊を無常と捉える仏教のような思想もあります。その場合、維持というものは基底になるわけです。

このような捉え方は実のところインドのヴェーダ文献にも記述があるわけですが、特にシバ派などの流派においては創造・維持・破壊という3つの循環で捉えることが多いように思います。これら3つの属性が均等であるものの、維持の属性だけが根底としてあり、宇宙を司るイーシュワラあるいはバガバーンという大いなる、全ての場所および過去現在未来すべての時間において普遍の満ちた存在が根底として存在しており、それが維持の属性である、というのです。ですから、3つの属性とはなっているものの、実は維持という属性だけが基底になっているのです。一方、表だっては3つの属性ということになっておりますので、表面上はそれが見えないようになっています。聖典を学ぶことでそれら基底の働きを知ることができるわけです。

この場合、維持というものが2つの階層に存在していることになります。1つは創造・維持・破壊という(見かけ上の)階層における維持であり、もう1つは、創造の基底としての維持、(見かけ上の)維持の基底としての(階層の異なる)維持、破壊の基底としての維持、という、2つの維持があるわけです。

さて、そのように、3つの属性(創造・維持・破壊)と基底としての維持、という捉え方がある一方で、創造と破壊を無常そして維持を基底として捉える考え方があります。

・(見かけ上の)3つの属性(創造・維持・破壊)、そのうち1つ(維持)が基底でもある (ヴェーダ的捉え方)
・(見かけ上の)創造と破壊としての無常、その基底としての維持(あるいは寂静) (仏教的捉え方)

このように捉えた時、どちらも正しいと言えます。見かけ上の創造・維持・破壊はその根底である寂静ともいえる普遍の世界からしたら「変わるもの」であり、永遠ではないものであり、変化するものです。見かけ上で「維持」とはなっていますが、実際のところは「変化するもの」として解釈されます。それがヴェーダ的な捉え方です。

一方、仏教はもう少し違った解釈をしていて、ですが、どちらにせよ「変化するもの」としては同一なわけです。これにより、上記は以下に再分類されます。

・変わるもの(見かけ上の創造・維持・破壊)(見かけ上の創造と破壊としての無常)
・変わらないもの(維持、寂静、無限、過去現在未来全ての時間において存在し続けるもの)

このような視点としては同じであると言えます。


■「変わらないもの」は全ての場所・時空に満ちている

さて、前記の通り、「変わるもの」と「変わらないもの」と分類すれば、この地球上に存在するものは実は全てこの2つの両方を持っていると言えます。(このように分類してしまうと、常識的に考えると「変わるものと、変わらないものに、分ける」としてしがいがちだったりしますが)前述のように、変わるもの、とは見かけ上のものであり、変わらないもの、というのはその基底に存在しているものです。

そして、実のところ、「変わらないもの」というのは、「全て」に「満ちて」います。

ですから、私たちの体や周辺の物体、環境、地球、宇宙、全てが「変わらないもの」でもあるわけです。というのも、見かけ上は全て「変わるもの」である一方で、それら全てを支えているものは「変わらないもの」であるからです。

よって、全てのものは「変わるもの」であると同時に、「変わらないもの」である、ということです。これが真理です。


例えば、以下のようなことです。

・人は生まれてお亡くなりになる。その根底に未来永劫、変わらないものが存在しています。それは永遠であり満ちているものです。
・文明は生まれては滅亡する。その根底にも変わらないものが永遠に存在しています。
・星は生まれては滅亡する。その根底に永遠に存在して満ちているものがあります。
・宇宙も生まれてはやがて滅亡する。その根底に存在しているなにかがあります。

そして、ヴェーダ文献によれば、この根底にあるものは「意識」であると言います。全てを生かしているもの、それが「意識」であり、その意識は満ちていて時間を超えて(過去・現在・未来)存在しています。


満ちている状態、それがヨーガでいうサマーディ(三昧)でもあります。それは「状態」であるが故に、行動によって行うものではありません。常に満ちているわけですから、行動に左右されずに、常に、過去現在未来すべての時において、はたまた、全ての場所に満ちています。

とは言いつつも、個人の認知がそれを感じられるかどうかは別のお話で、個人の認知がその状態を感じるためには最初は修行のようなものが必要だったりするわけです。最初は一時的なものであったとしても、やがて、常時そのような満ちた至福の状態にいることができるようになってゆきます。