善悪の対立と善悪の統合とは異なるもの

2024-09-04公開 (2024-08-23 記載)
トピック:スピリチュアル: カルト

これらの違いが世間一般ではあまりよく理解されていなくて混同されて解釈されているように思います。善悪の対立とはライトワーカーがダークサイドを打ち倒す、というストーリーであり、善悪の統合とは光と闇の統合のことです。

これらは、階層で理解するとわかりやすいです。

・低次元:善悪の対立、光と闇の対立、ライトワーカーとダークサイドの対立、維持を善とみなす、破壊を悪とみなす
・高次元:善悪の統一、光と闇の統合、ライトワークとダークサイドの対立の解消、創造・維持・破壊を等価なサイクルとみなす

一部では(低次元の解釈を元に)間違ったように解釈されていて「ライトワーカーがダークサイドに打ち勝つことで光と闇の統合がなされる」と言われる時がありますが、これはよくある勘違いです。そう解釈したくなる気持ちもわからなくはないですし、そのようなストーリーで語られることも多いのが光と闇の対立です。どうしても、「光が勝つ」という次元で物事を考えてしまいがちです。ですが、それはあり得ないことです。と言いますのも、(この文脈・コンテキストにおいては)「光というのは精神」であり「闇というのは物質」というのが本質だからです(必ずしもこの世界観は普遍的なものではありません)。(この視点においては)物質がなくなることがないように、精神もなくなることがありません。ですから、光が勝つということはあり得ないわけです。同様に、闇が勝つということもあり得ません。統合だけがあり得ます。

そもそも、最初から統合されている状態であるのに、人々が無明・無知であるから対立があるかのように勘違いしているだけなのです。それは全くもって人間の認知の問題なわけです。

ですから、認知が歪んでいて無明・無知である場合には(いわゆる)低次元の解釈として善悪の対立や光と闇の対立が存在し、よって、ダークサイドとライトサイドの対立が存在するわけです。ライトワーカーは精神を重んじて、更には「継続・維持」というものを重視します。

一方、ダークサイドというのは実は存在しないともいえて、世間一般にダークサイドと呼ばれているものは、(自身の)ライトサイド以外のものなのです。ですから、上記のように、認知の歪みにより「継続こそが善」「精神こそが善」「破壊が悪」「物質的なものは悪」とみなす、ライトサイドの認知こそがダークサイドというものの形を作り上げているものと言えます。

よって、お互いにライトワーカーと自称している人たち同士がお互いに相手をダークサイドと呼び合う状況もあるわけです。

一般にライトサイドは「維持」「精神」を重視します。その一方で、それ以外の人たちは本当の「ありのまま」を重視する人たちでもあり、それ故に「バランス」を感じることが基本になります。ありのままとは、創造・破壊・維持の全ての側面において世の中の見せかけの現実は動いている、ということを理解することです。

一方、その全て(創造・破壊・維持の全ての側面)の根底に「変わらないもの」が存在しています。そういう意味では、その、変わらないものこそが「(本当の)維持」であるとも言えるわけで、そのコンテキストで言えばそれは正しいのですが、その「維持」という解釈が人々によって異なってしまっているわけです。本当は1つの解釈である筈のものが、人々によって都合良く解釈されてしまっているわけです。

・見せかけの世界(変わるもの) → この階層における「維持」は見せかけのもの → これを重視するのが(一部の)ライトワーカー。
・本当の世界(変わらないもの) → これこそが、本当の「維持」 → これは、見せかけの世界における「創造・破壊・維持」の根底にあるため、見せかけの世界のそのような動きに囚われない、自由、ありのままの働きをする。

この2つの世界があることを認識することは重要です。インドのヴェーダンタではこのあたりのことが語られていて、変わらないものとしてのブラフマンが「全体」として根底に存在し、それは満ちた存在であり破壊されることのない永遠の存在なわけです。それこそが「私」の本質でもあるわけです。ですから、本質は絶対に破壊されることはありません。

しかし、見せかけの世界であるこの地上の現実は破壊や創造というものが存在し、見せかけの維持というのは永遠ではなくやがて破壊と創造という循環のサイクルを巡ります。それこそが「ありのまま」であるわけです。

ちなみに、不思議な解釈でライトワーカーと自称する人たちの一部は、その、「見せかけの維持」をすることこそが「善」であると(不思議な)主張をしていたりします。それらの人にとっては統合された世界感を受け入れることが難しく、「統合された世界(の階層)は創造・維持・破壊の全てが含まれるために破壊も起きてしまう。破壊を防ぐにはどうのこうの・・・」という、口を濁したような、歯切れの悪い説明にて、おかしな解釈をしており、それはというと、根本を辿れば人間の側の「執着」という単純な話であるのに、自分のエゴを守るためにあたかも世界がそのようにできているから仕方なく自分たちが「維持」というライトワークをして世界を救っているのだと言わんばかりの団体もあったりします。

ですが、ライトワーカー以外からしたら、それは、ただ単に創造・維持・破壊のサイクルの1つでしかなく、維持があればやがては破壊そして創造という次のサイクルに続くものであるわけです。しかし、自称ライトワーカーと称する人たちは、その、はかない「維持」に「しがみつく」わけです。

そして、「破壊」を「悪」とみなし、悲しみます。

それは一見すると人間的な感情で、見せかけの世界に囚われていると言えます。そして、それこそがこの世界で「(自称)ライトワーク」をしているという(一部の)人の一面であると言えます。(全てのライトワーカーがそうではありません)

そのように、「維持を善」とみなして善と悪の対立という価値観を元にライトワークをする人がいる一方で、善と悪の統合を目指して動いているグループがいます。これもまたライトワーカーと称されますが、異なる人たちです。

これは、似ているようでいて全く異なる思想です。

ただ、そうは言いましても、やはり、本人がこの違いに無自覚な場合も多いのです。ですから、問い質してもそこまで明確な答えがあるとは限らず、話してもやがてスピリチュアルの知識で「どちらも正しい」「同じ考え」と解釈しがちのように思います。ですが、実のところ、この違いはとても大きいのです。

・対立軸に基づく思想 → 光と闇の戦い、光の勝利による平和、闇が消えることで争いが終わる、維持のための戦い、破壊するものを悪と見做す
・統合に基づく思想  → 争いを止める、平和

本人がこの違いに無自覚だからこそ、「光と闇の戦いをしつつ統合を説く」というような、ごちゃ混ぜの人がスピリチュアル業界には多く散見されます。何でもかんでもそれっぽいものを自分の考えとして取り入れてしまっているわけですね。ですが、実はこれらは階層が違うのです。統合を説くのであれば争いはしない筈なのに、統合を目指していると語りつつ光による勝利を目指してダークサイドと戦う、というような人がぼちぼち散見されます。それは理屈として筋が通っていないのに、本人は気がついていないわけです。

ライトワーカーというとき、どちらの思想を元に行っているのか見極めることが重要です。

・善悪の対立 → 低次元
・維持を善とみなす → 低次元
・破壊を悪とみなす → 低次元
・善と悪の統合 → 高次元
・光と闇の統合 → 高次元
・創造・維持・破壊を等価なサイクルとみなす → 高次元

ダークサイドを打ち倒して光が勝つことを目指したり、あるいは、維持を善とみなして活動をしているのか。それとも、善と悪の統合、光と闇の統合を目指しているのか、そのあたりで団体や個人の立ち位置が判断できるわけです。

実のところ、統合を目指している人はライトワーカーと称することもできますが、特にライト側を示しているわけでもありません。光も闇も統合されるのですから、光という言葉はその段階には不適格なわけです。ライトというときは、光と闇の片面に寄り添っているにすぎません。しかし、統合というときは光も闇も全て含まれるわけです。

歴史的な経緯によりそのような統合もライトワークと呼ばれることがあり、言葉に混乱があります。ですが、本来は、統合はライトワークというのは不適格であるわけです。とは言いつつも、経緯もありますからライトワークと言ってもそこまで支障がないように思います。ですから、ライトワークというのは2つの意味があるわけです。

・(低次元における)光と闇の戦い、という価値観に基づく光の側の活動
・(高次元における)光と闇の統合

実のところ、高次元になれば、闇と思っていた存在であってもそれは統合された存在となり、光も闇もなくなります。ですから、高次元においてはライトワーカーもダークサイドも混在しているともいないとも言えて、それは調和しているのです。そして、低次元においてだけ対立が存在します。低次元においても高次元においてもそれは存在しているわけですが、低次元においては対立という形を取り、高次元においては調和という形を取ります。

ですから、ライトワーカーというときに、これらの階層のどこを基準にして行動しているのか確認することが重要なのです。ただし、本人が無自覚なことも多いですから、本人が意見や質問に「同意するかどうか」ではなく、はたまた「本人の言葉(それは往々にしてスピリチュアル本からの引用になる)」でもなく、「本人の行動」そして「本当の行動指針」「考え方」を知ることで、どちらの階層に根ざしているのかがわかります。確かに、これらは0-100ではなく中間という移行期の人もいらっしゃいます。とは言っても、基本的にはどちらかで安定しているわけです。言葉で統合を説いていたとしても、その言葉の意味を本当に理解していないかもしれません。言葉で色々と統合を語りつつも、行動としてダークサイドと戦うという行為をしているならば、その「統合」の説明はただ単に人を説得させるための社交辞令あるいは本心を隠した説明あるいはあまり理解していないだけであるかもしれないわけです。このあたりを見抜くには人生経験が必要になります。言葉でいくら言っても、行動というところに本心は現れるわけです。しかも、他人のみならず本人が自身の行動指針に無自覚な場合も多いので、各自が自覚的になるしかないわけです。無自覚であれば、いつの間にか光と闇の戦いという対立軸に巻き込まれることにもなりかねません。

そして、ライトワークと称する行動をする以前に、自分は何を求めているのか、自分の役割は何か、すべきことは何か、それを見極めることが重要なわけです。一番大切なのは、生まれる前に決めてきた使命・役割です。とは言いましても、人は生きているうちに学びます。そして、生まれた時の役割が実は間違った価値観に基づいていた、と気がつくこともあります。ですから、生まれた時の役割というのはあくまでもその時点での理解に基づく使命や役割であって、本来は、学ぶにつれて変更を加えていくものなわけです。たとえ、最初は光と闇の対立を目的として、そして光の勝利のために生まれてきたとしても、統合こそが本来の道であると気がついて理解したのならば生き方を変える自由も人間にはあるわけです。それこそが人間の自由意志なわけで、自由意志は尊重され、妨げられず、その選択と行動は宇宙に受け入れられます。

そうすることで、この世界を支配している「光と闇の戦い」という世界観に終止符をうち、統合に向けて世界が動き出せるように思います。



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