変わらないことへの執着により物質を悪とみなす

2024-09-06公開 (2024-08-24 記載)
トピック:スピリチュアル: カルト

一部の宗教あるいは思想グループにおいては「維持を善」とみなし、「破壊を悪」とみなす風潮があります。更には、長く維持するものこそが善であり、儚いものを悪とみなす、という風潮さえあります。その結果、時間軸の長い方である精神を善とみなし、時間軸の短い方である物質を悪とみなすようになりました。これはまったく、過去の宗教の思い違い、理解不足、無知によるものです。とは言うものの、宗教や思想グループにおいてそのような価値観が続けられてきたために、その価値観が継続しているわけです。

最初は善悪ではなく、ただ単に「執着」があった。そのように言い伝えられています。特に物質は変わりやすく、儚いものです。それ故に、物質に対する執着が最初にあったわけです。失うことに対する恐れ、悲しみ、妬み、憎しみ。そのような感情が最初にありました。そして、その根本はというと、変わってしまう現実に対して受け入れられずに、変わらないことを願う「執着」があるわけです。この時点では善悪ではありませんでした。

そして、時間が経つにつれ、「変わらない」という永遠を求める気持ちが生まれ、変わらないものとは物質ではないものであり、それは精神あるいは意識であり、よって、精神的なものを尊ぶ気持ちが生まれたわけです。これ自体は尊いものなわけで、目に見える物質が全てという価値観から、精神的なものを大切にするという段階に入るわけです。そのような価値観が生まれてきても、それまで持っていた物質的な価値観が完全になくなったわけではありません。物質を失うことに対する恐れ、憎しみ、妬み、嫉妬、苦しみというのはその後も続くわけです。そして、その辛い気持ちが、物質に対する恐れ、そして悪という価値観を育むようになります。

その根本を辿れば、人が変化を恐れる、今あるものにしがみつく、その「執着」により、形があって儚いものを悪とみなすという歪んだ思想が生まれたわけです。よって、その善悪とは、人間の価値観が生み出したものであり、本来そのような善悪が存在していたわけではありません。


■本来、物質と精神に善悪はない

物質と精神(あるいは意識)、これらは本来、対のものです。流派によっては精神と言ったり意識と言ったりしますけど、物質と意識(あるいは精神)とが対になります。ひとつの解釈としては、精神というともう少し具体的な思考や心を意味し、意識の方が普遍的、精神とは具体性および過渡的な傾向があるといえます。

対になるもの:
・物質
・精神あるいは意識(流派により表現は異なる)

ヨーガ的に解釈すれば物質がプラクリティ、精神がプルシャに対応してこれらは対になっていて離れることがないと説明されています。インドのヴェーダにおいても似たような考え方があって、物質と意識(アートマンあるいはブラフマン)は常に一体であり離れることがないと解釈されます。ここで、アートマン(あるいはブラフマン)は永遠であり壊れることがなく満ちている意識であると言われます。これらのお話で善悪のお話(価値観)は全く出てきません。と言いますのも、これらは価値観(人間の解釈により作り出されたもの)ではなく、世界の有り様を示している現実なわけで、そこに人の解釈が入り込む余地はないわけです。

本来の姿は、精神(あるいは意識)と物質とは対になっており、どちらが善だとか悪だとか、そのような価値観とは無縁のものです。


本来はそのようなものである筈なのに、執着により、物質が悪になってしまったのです。(あくまでも一説です)


■善悪と秩序

善と悪とは幾つかの解釈がなされますが、概ね、秩序と結びついていると言えます。

・善:秩序をもたらすもの
・悪:混沌をもたらすもの

本来はその解釈は正しい筈なのに、善悪の間違った価値観を持ち出すと以下のように歪んで解釈されてしまいます。

・(低次の解釈)善:維持するもの、変わらないもの、光 → これこそが秩序をもたらすものである、という幻想。
・(低次の解釈)悪:破壊するもの、変わるもの、闇 → これこそが秩序を破壊するものである、という幻想。

これは一見すると正しくても、一段階、階層の低い解釈です。幻想であるとも言えます。もう一つ、階層が上がれば先のような解釈になります。

・善:秩序をもたらすもの。創造・維持・破壊の秩序・バランスをもたらすもの。
・悪:混沌をもたらすもの。創造・維持・破壊の秩序・バランスを壊すもの。

ですから、世の中のライトワーカーと自称する人たちが「維持のための(光の)戦い」を繰り広げていたとして、それは低次の解釈ではライトワーク(そして善であると自称される)であっても、もう一つ上の階層から見たら「創造・維持・破壊の秩序・バランスを壊すもの」として悪と解釈される場合もあるわけです。維持だけに偏ってしまったら破壊から創造へと至るダイナミックさが世の中から失われ、空虚な世界になってしまいます。維持のバランスが失われている時は維持をすることがバランスをもたらすものでありますが、維持に極端に偏っている時になおさら維持に固執するのはバランスを崩すことであるわけで、そうなると、動きの少ない、変化の少ない社会になってしまいます。そのような生気の抜けた、抜け殻のような世界を作ったとして、それが本当に「善」なのでしょうか。当人たちは満足で善を謳っていたとしても、世の中が空虚になってしまって、それが本当に人類の幸せと言えるのでしょうか。それは個人の価値観で判断されることではなく、集合意識で決まりますので、ある意味、主観的であるともいえて、集合意識が求めるように世の中は変わりますけど、自称ライトワークで善をしていると称する人たちはその流れに逆らっていて、いわば世の中の悪である場合も実際のところはあるわけです。

その根源を辿れば、人の勝手な解釈により維持を善とみなしているところにあり、更に辿れば(現状への)「執着」こそがそのような価値観を生んでいるわけです。それは人間が生み出した価値観であります。一方、世界・宇宙のダイナミックさはそのような人の勝手な価値観を超えています。

本来の人類貢献とは創造・維持・破壊のバランスをもたらすところにあり、よって、その3つのいずれの形をも取ります。

自称ライトワークを行っている人は「争わない」ことを基本としていつつも、悪に対しては争っても良い、それは必要な戦いである、として戦いを許容するどころか時に推奨しています。それは具体的には、「破壊」や「創造」という動きを悪とみなすことに対して「維持」を善とみなして行うワークであり、時に、同じような人たちと価値観の違いに基づいて衝突します。お互いに自分をライトワーカーだと自称して、相手をダークサイドだとみなすのです。実のところ、その階層で争っているということは、寄り経つところが違うだけで同じレベルにあると言えます。自称ライトワーカーはダークサイドのメンバーがいると称して敵視していたりしますが、それは、御本尊が違うだけのお話で、背後で導いている存在が自分たちの価値観を広めて影響力を高めるという目的が裏に隠れていてもそれをメンバーには知らされていないので呑気にライトワークと称して善と思い込んでいる活動を行っているのです。そのように、同じ階層で考えていても世の中の争いは終わらないといえます。

もっと大切なのは、「維持」を善とみなすことではなく、創造・維持・破壊のバランスをもたらすこと。それはというと「統合」の考え方にあるわけです。光と闇の統合、善と悪の統合を行うことが必要になります。その価値観にまで登らなければいつまで経っても自称「善」のワークによって更に争いが続く、という状況は今後も続いてしまうわけです。