プルシャとの合一は一瞥だった

2024-09-30公開 (2024-09-28 記)
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

改めて、以前起こったプルシャと思わしき意識体が頭頂のサハスララから入ってきた時のことを思い起こしましょう。当時はそれのことをプルシャだと認識し、そのような面ももちろんあるのですが、目覚めた意識という意味においては一瞥だったように思うのです。そもそもプルシャとは普遍の存在でありますから文字通り周囲に満ちていて永遠の存在なわけです。であれば、自身が意識していようがいまいが全ての人にプルシャは存在すると言っても良いわけで、それに自覚的であるかどうか、という違いでしかないように思うのです。そのような意味で、プルシャと思われた意識体が入ってきた時は、確かに(一時的に)プルシャとしての認識があったように思います。一方、それはというと、自身の意識を永久に変えてしまうものであった一方で、割と一瞥であった、とも言えるように思うのです。

本山博先生の著作によると、プルシャが入ってきて自覚が出るまで数年はかかると言います。入ってきた時の衝撃はあって、その後、オーラと意識は永久に変わってしまった反面、その意識が安定して自覚的になるにはそれなりに時間がかかるように思うのです。そのような意味において一瞥であったように思います。一方、質としては同一であったとしても、その規模や深さにおいては限られていて、地域的な意識にまで未だ広がっていないように思うのです。

そして、今思うと、確かにプルシャとの意識はあったとしても、それなりに、その一つ手前のカーラナ(カラーナ、原因)の意識も含まれていたように思います。これは当然で、どちらかというとプルシャ2割、カーラナ8割だったようにも思うのです。それだとしても強いエネルギーの意識体の力で私の意識は活性化されました。そして、自己という意識も薄れていきました。

書物によると、カラーナの次元までは少し怠けると下がる、と書いてあります。一方、プルシャの段階は一旦上がったら下がらない、とあります。これは確かに頷ける記述ではありますが、プルシャを体験すると下がらないとはいえ、メンタル面で涙もろくなったりセンチメンタルになったりすることは多々あるように思うのです。それを巫女の巫病と呼んだり禅では魔境と呼んだりするように思います。それた多々続きました。ですので、確かにプルシャを知ると下がらない、というのは確かに基本的にはそうであっても、精神面では不安定になったりすることはあるように思うのです。これはとても微妙なお話で、すぐには理解がしていただけないかもしれません。プルシャを一瞥するまでは、精神的に、オーラそのものが不安定になって壊れてしまう時が多々あったように思うのです。一方、プルシャを知った後では、基本的にはオーラが保たれていて、その上で、精神が不安定になることがあるのです。言葉で言うと似たようなものと思われるかもしれませんが、大きな違いがあるわけです。

それは、例えるなら、精神が確かであっても傷を負ったり何かぶつけたりすると痛みを感じて精神が不安定になったりするようなものです。プルシャを知った後の精神不安定とは、(傷が原因ではないとはいえ)それに似たようなところがあるのです。それはまさに機械的、物理的、法則的なもので、なるようにしてなる、そして、時間が経ったりその原因を取り除けば精神の不安定さは(傷が治るのと同じように)治っていくものなのです。それは、意識されていない人も多いかもしれませんが、人によっては当たり前のことだったりします。しかし、当たり前ではない段階と言うのがあるわけです。

精神の基盤自体が不安定あるいはオーラの基礎が揺れていたりオーラ的な破損があったりすると精神をいくら安定させようとしても安定しません。それは精神に疾患があると言うことでもあります。人は自分のことには無自覚なことが多いですから、人によっては最初から問題ないかもしれませんし、問題があるかもしれません。精神に問題がないいうことは、それなりの段階にいるということなわけですが、自身のことですのでその段階に無頓着なことが多々あります。よって、最初からプルシャに相当する意識に自覚的な人もそれなりにいるわけです。その一方で、プルシャに相当する意識に自覚的ではない人もいて、どの段階すらも自身ではよくわからない人もいます。日本の場合は精神に優れた人も多いですから、特に修行をしなくても(生まれる前からの善行により)最初からプルシャの段階で生まれる人もいます。一方で、それに達していなくて、そして、自身の段階に無頓着な人もいます。ですから、自覚的あるいは無自覚の両方の場合において、精神が安定的であればそれはそれなりに目覚めているわけです。当然といえば当然の、当たり前すぎることと言っても良いかもしれません。一方、(自覚的かどうかに関わらず)精神が不安定である場合もあるわけです。

さて、そのように多種多様な段階の人がいる段階で、精神の基盤ができていない人の不安定さと、精神の基盤ができている人の不安定さとは、雲泥の違いがあるのです。精神の基盤ができていない人は、時折調子が良くて、相応に調子の悪い日々が続きますが、その原因はよくわからなかったりします。一方、精神の基盤ができている人は、基本的に調子が良くて、時折、風邪にかかる或いは怪我をするが如く理由があって(理由にいつも自覚的とは限りませんが)何某かの調子が悪い状態が一時的に訪れるわけです。これは大きな違いです。

そして、プルシャを一瞥すると、基本的に精神の安定を得るのです。そして、数ヶ月の期間であったとしてもその精神の基本的な安定の上で巫病や魔境のような精神不安定を体験したりします。プルシャ以前では、精神の基盤自体が崩れ去ってしまうほどの不安定さであるのに対し、プルシャ以降では、基本的な基盤が安定した上で、部分的に不安定になってセンチメンタルになったりするのです。これは大きな違いです。