宗教観において、自分は神様なのかどうか、の違い

2024-10-04公開 (2024-09-28 記)
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

流派によっては、自身を神と同一とみなしている教えもあります。その一例を挙げますとインドのヴェーダの教えにおいてアートマンという自己とブラフマンという全体とが同一、という考えがあったりします。はたまた、キリスト教の諸派において三位一体を全ての人が体現する、という教えもあります(キリスト教の基本的な教えは、三位一体はキリストのみが可能とすることを基本としており、三位一体を認める、認めない、その範囲において諸説ある)。また、仏教においても神性を自らの中に見出す、という考え方や修行の目標もあったりします。

これらは、一部においては普遍的な考え方であったり、はたまた、修行の目的地点であったりします。

まず最初に、自己は神様なのかどうか、という点で大きく分かれ、そうであったとしても最初からそうなのか、そのように変化をするのか、という違いがあるわけです。

ここからは私の解釈でありますが、この種のお話において、自己が神様、というのは、本質的なところでは誰しもがそうであると考えております。基本はインドのヴェーダの教えである(個としての)アートマンと(全体としての)ブラフマン、それは同一である、という考え方です。これは変化するものではなく、最初からそうであり、ただ無知によって自己の本質を知らない、という考え方を基本にするとこの辺りのことを理解できるように思います。ですので、この考えに基づきますと、最初からそうであったとしても、無知によって、自己の本質を見失ってしまっているのです。それにより、物理的な次元において物質的なものを重視するような、いわゆるジーヴァ(ヴェーダ用語)としてのエゴを自分だと思い違えてしまっているのです。それは無知ということでもありますし、誤った自意識が育ってしまうということでもあります。

そして、ここで重要なのは、ジーヴァとしての自分とは誤った自尊心の塊、エゴの権化であり、その無知を取り除けばアートマンとブラフマンを知ることができるのです。ここで言っている「知る」とは知識によって知ることはもちろんですが、ヴェーダの流派のコンテキストでその「知る」を読み解くと、単に頭で勉強で理解するのみならず、輪廻転生の歯車から抜け出て「自由(モクシャ)」になるという意味も含まれています。

ですから、勉強でこのあたりの仕組みを勉強して理解したとしてもヴェーダンタのコンテキストにおける「知る」にはならないことが多いのですが、ただ単に紙面で勉強した人は、ただ単に枠組みを理解しただけで「理解した」と思い込んでしまうことが多々あるように思います。

日本の大学などでインド哲学を勉強した人と話をする機会が時々あったのですが、この辺りのコンテキストを理解せずに、ただ知的にヴェーダンタの生死観を理解しただけで全てを理解したかのように思い込んでいたりしました。やはり、きちんとした流派において師匠について教えを請わないと、ズレた感覚で理解してそれが絶対だと思い込んでしまうことがあるようです。それが大学などでしたらその勘違いも顕著で、(一応は言葉の内容的にはそれなりに正しいとはいえ)インドの流派とは異なったコンテキストで理解しているような状況を見たことがあります。この辺り、教えてもらった先生がそういうのならば、基本的にはそれが正しいのです。ですが、インドの流派はそれぞれ違った教えがあり、一様ではないのにも関わらず、日本の大学で学んだ人はあたかもインドのヴェーダンタの流派が全て同じで自分は全てを理解しているかのような思い違いをしてしまうことが散見されるのです。

さて、その例を挙げたことで何が言いたかったかと言いますと、アートマンやブラフマンを理解することは、ジーヴァとしての自分の認知から実際に離れる必要があるのです。それはすなわち、エゴを捨てることです。自分がエゴであるという自覚から始まり、その自己という認知を超越して神の意識に少しでも近づくことです。この過程なくして大学などでインド哲学を勉強したとしてアートマンやブラフマンを本当の意味で理解したことにはならず、単に机上の空論、単なる頭の理解でしかないのです。

インドの流派においては「頭による理解」というようなことを説きますので、それを聞いて「ああ、私はわかっている」と思いがちなのですが、実のところ、それだけに終わらず、実際にエゴをなくして自己という観念を捨ててアートマンの意識を知って初めてようやくインドの流派でいうところの「知る」という状態になるわけです。ですから、日本の大学でインド哲学を勉強したところでこのあたりのことが伴っていなければ、それはインドの流派でいうところの「知る」の意味にはならないのです。

さて、ここで元々である、自己は神なのかどうか、というところに戻ります。確かに、それは自覚していようといまいと、実際にはそうなのです。ですから、それは正しいと言えます。しかし、実際にその意識に自分が自覚的になれるかどうかは別問題なのです。

ここで例を挙げますが、とある流派においては「人は神なのです」と教えています。それはアートマンとブラフマンというコンテキストにおいてはそれは正しいと言えますが、実際、それはエゴを拡大させるという効果が大きいのです。ですから、正しいと言えば正しいと言えども、そのようなことを教えてしまうのは悪影響の方が大きいように思うのです。観察すると、「自分は、人が神であることを知っている」ということにより、自己のエゴをなくすことに対して中途半端になってしまう、自己のエゴをなくす必要がこれ以上は不要だと勘違いしてしまう、自分は既にそれなりの境地に至っているのだと思い違いをしてしまう、精神的な成長が止まってしまう、という悪影響の方が大きいように思うのです。それならば、人は人として生きて、エゴを捨てる、という生き方をした方がよほど謙虚になれて精神的な成長ができるように思います。確かに正しくても、それは、人のためにならないお話であるように思うのです。将来において人々の意識が成長した世界においては違うかもしれませんが、少なくとも今は、それは害のある説明であるように思うのです。