二元性の世界で善を振る舞い争いを続けている自称ライトワーカー

2024-10-21公開 (2024-10-11 記)
トピック:スピリチュアル: カルト

そのような団体があるのです。その人たちは聞く耳を持たず、「維持が善」であると標榜し、善のため維持のため自称ライトワークを行うのです。ワンネスを誤って理解し、逆にスピリチュアルのワンネスを揶揄して見下し、ワンネスでは何もかも起こる一体の世界であるので危険、と、ワンネスに対してある種の恐怖を抱いているのも特徴です。

この世界全てがワンネスであればそれは区切るものがなく、部分というものがありません。それは、この世界で起こっている創造も破壊も全てがワンネスであるということです。もちろん維持もワンネスの一部であるわけですが、何故か、この種の自称ライトワーカーは維持のみをことさらに特別視するのです。それは過去から伝わった間違った教えであるのにも関わらず、それを絶対視するのです。そして、間違っているということを教えてもらっても聞く耳を持たず、逆に、(指摘してきた人が)分かっていない、自分たちが世界を維持しているのだ、自分たちは古代から受け継いできた教えを持っている、などと意見を誇示することが多いように散見されます。

ワンネスがあったとして、それは破壊や維持および創造を全て含んでいる、ということはその自称ライトワーカーの見解においても概ね一致しているようです。ですが、ワンネスより下の顕現化された概念(あるいはその階層の世界)において、特に、ワンネスより一段か数段下の、それでもワンネスにかなり近い階層において、最初が「維持」であってそれ故に維持することが善である、と解釈しているようなのです。

それは傍目から見たら中途半端な解釈に見えてしまいます。何故に、ワンネスの解釈に基づくのではなく途中の階層の維持の部分のみをことさらに取り上げてそれこそが善であると解釈するのでしょう。傍目から見たらご都合主義の解釈のように見えてしまうのですが、当人たちは信じ込んでいるようです。

実際、その図を少し見せてもらったことがあって、なるほど、確かにそのような解釈もできなくもないと思いましたが、説明文を読むとそこには「創造と維持」と書いてありました。これらのキーワードを読んで、そこの人は「維持」である、と解釈していたようです。

ですが、客観的に傍目から見るとそれは維持というよりは「創造」の側面の方が強いと感じられます。創造があって維持があってやがては破壊が起き、それでも破壊の後には創造があり、また維持や破壊、そして再度の創造、というようにそのサイクルを根底で支えていてサイクルを成り立たせているものこそが本当の維持であり、サイクルが遙かに続く強い力、根底にあるものこそを本当は見いだすべきであり、表面的な維持という意味をことさらに取り上げてこの世界の維持というものをライトワークと称していくら行ったとしても、創造と維持と破壊がこの世の理であるが故に、維持のみを努力で支えたところで、砂に作ったお城が強い力で流されるのと同じように、やがてはとてつもない力で破壊と創造がやってくるわけです。そして、そのような破壊のことを自称ライトワーカーは「悪」と呼んでいるようです。

「善が強まれば、悪も強まる」とは時々耳にするお話です。それは、このように、割と無駄な努力でもある「維持」をことさらに儀式などをすることで頑張ることで少しでも持続させようとしているのです。ですが最終的には、そのように維持の状態が高まれば高まるほど破壊のエネルギーも蓄積され、やがて大きな波となって破壊が押し寄せてきます。それを悪とみなすことこそが人間の誤った解釈、仏教用語でいうところの「無知(無明)」であるわけです。

仏教あるいは他の教えにおいても、「変わることがない」とはよく教えられます。よって、「維持」というのは存在しない、と言うこともできます。一見すると維持のように見えても細かく見ていけばそれは何かが変化しているわけで、常に創造と破壊を繰り返している、という見方もできますし、そのように教えている流派もあります。仏教でいう「無常」ということでもあります。

二元論の世界に留まっていると破壊と維持および創造という見た目の世界に振り回され、自分が維持のライトワークをしているという自尊心が高まっていい気になったりしますけど、実のところ、それを遙かに超える大きな力が働いていて、「無常」の一環でしかないのです。であれば、わざわざそのような無駄な努力である「維持」のライトワークをせずとも、無常を理解するだけで良いのです。そうすれば悟りにも至ることができます。

二元論の自称ライトワーカーは悟りの世界を幻想あるいはそもそもそのような価値観をそこまで認めていません。自称ライトワーカーにとって重要なのは自分が如何に技を使えて周囲に影響を与えることができるのか、その影響範囲と強さに興味があります。ですから悟りの道に向かうのではなく能力というものに強く惹かれます。悟りの道を揶揄して見下し、自らの能力を高めることこそが世界平和の自称ライトワークに繋がっているのだと自負しています。ですが、実のところ、それは割と無駄な努力であるわけですが、それでも、人間が努力をすれば多少は(周囲の)世界を変えられますから、それでライトワークをしたと自己満足するのです。

実際は、その自称ライトワーカーたちは善のための維持をすると称した争いを繰り広げています。永遠に続く争い、とは言いつつも当人たちはそれは自分の意思ではなく、善のための力の行使だと言い張っています。そのような面もあるにはあるのでしょうが、実のところ、自分の力を行使したいがための言い訳、自分のエゴを覆い隠すための言い訳としてそのような理屈をこねて暴力や争いをしている場合もあるように思われます。平和が良いなら争わなければいいのに、戦っておきながらそれは暴力ではなくて平和のための力の行使だ、と言うのです。それは同じように主張して世界の各地で戦争を起こしている国の言うこととそこまで変わらないように思います。そうして世界のため平和のための戦争を起こして、その結果、人々が紛争で苦しむのです。そこに救いがあるのでしょうか。さすがに自称ライトワーカーは自分たちでは戦争や紛争を起こさないとしても、術のようなものあるは言説を使って同様に争いを繰り広げているのです。それは代理戦争のようなものでもあります。

そのような自称ライトワーカーは自分たちの教えを帝王学として位置付けていたりします。その解釈のユニークで面白いのですが、自分たちの活動は奴隷ではなくて、世間の一般の経済活動は(他人を助けるような職業であったとしても)全ては奴隷たちの仕事である、と解釈しています。そして、奴隷を解放するがごとくライトワークに参加するように働きかけていて、そうすればお金に不自由しなくなる、と主張しています。では、それらの人はお金を使わないのかというと逆で、タワマンに住んで好きな車に乗ったり高い家や家具および豪華な服を取りそろえて、金満生活をしています。それでいて他人の経済活動は奴隷の仕事と見下すのです。セミナーは高い金額を取り、それで自分たちが贅沢な暮らしをしているようですが、そうして自分たちが使うお金や自分たちの経済活動のことは奴隷とは言わず、他の人たちだけが奴隷であるようです。そして、奴隷が作ったコンピュータやスマホあるいは家や家具を使うことは何も気にしていないようです。奴隷が支えてくれる生活を満足する、という帝王学のようです。

その自称ライトワーカーを見ていると、そこに携わった人がことごとく、お金が尽きるまでセミナーを受け続けて、セミナー受けたいけどお金がない、と言っている人を度々目にします。帝王学を教えているならお金に苦労しないと思いきや、受講者からお金を巻き上げて中心にいる人がお金を稼いで良い暮らしをする、というビジネスモデルのようです。ライトワークなのかスピリチュアルビジネスなのかよく分かりませんね。

それでも、多少は理屈のようなものもあって、おそらくどこかで多少は学んだことはあるのでしょう。ですが理論体系に統一性がなくて、カバラだったりゾロアスターの善悪だったりヨーガだったりキリスト教だったりユダヤだったり、古代の教えと宣伝しつつも、最近の自分たちの考えが混ざっていて何が古代の教えなのかよく分からない感じなのです。

このような、ご都合主義のライトワーカーはよくいて、最初は自分の理解が進んでいないのでそれは仕方がないのです。ですが、団体を作って教えていたり活動をしているのであればそれはよくなくて、教義があってしかるべきですが、それは50万円とかのセミナーを幾つも受けないと教えられない、というのです。しかも煽って受けさせて、受けたとしても何も理解も変化もない、みたいなとぼけたお話なのです。

そもそも、どこかで聞きかじった話が最初にあったのでしょう。ワンネスだとか善だとか悪だとか、中途半端な理解で、それでいて古代の知識を標榜する。そのような人はいるものです。

それでも、この世界は、そのような勘違いや中途半端な人が回している、とも言えます。それ故に、今までは多少の力を持っていたのです。これからは分かりません。

ワンネスに達していないのに力を持っている、と言う人はいるものです。それは儀式をして力を引き出す、悪魔的な存在です。(実際の悪魔は誤解されている面があるのですが、ここで言っているのは、能力のみを追い求める、エゴが強い、という意味における比喩的な悪魔です)そして、そのような人は世界を変える、影響力を与える、ということに(間違った)使命感を持っています。それは世界をミスリードすることがあり、危険です。