スピリチュアルで度々聞かれるマウンティングに「それって、地球あるいは人間の教えでしょう。(私たちの学んでいる、私たちが信奉しているのは)宇宙から来た、あるいは、銀河の教えです」みたいなお話があります。
この種のお話を聞く時に注意すべきポイントが幾つかあります。
・自らの内に真理を見いだすのか、外に見いだすのか
・聞いたお話なのか、実際に体験したお話なのか
・知識だけのお話なのか、体験を伴うのか
・エネルギーを(自らの)外からもらうというお話なのか、エネルギーを(自らの)内から湧き出させるというお話なのか
・エネルギーを外からもらうというお話なのか、あるいは、自ら作り出すというお話なのか
・(他者との関係における)ヒーリングなのか、あるいは(他者との関係を伴わない)自己の癒やしなのか
・自己と他者との間にヒエラルキーの意識はあるのか
・瞑想の目的が、雑念を取り払うことなのか、あるいはエネルギーワーク(自己の癒やし)なのか
とは言いましても、この種のお話になりますと各種の言い訳が氾濫していて、質問したり指摘しても、ごにょごにょとよく分からないお話あるいは、筋道が通っているようでいて実はそうでもない、ハッキリと断言しつつも実はそこまできちんと決まったお話でもない、というように、本筋を見失いがちになったりします。
上記のように、地球と宇宙とを分離して考えている時点でワンネスから離れていて分離した二元論の意識であるわけです。逆に、このようにワンネスの視点から指摘をすることは野暮なことになってしまいます。ですから、上のように言う人のことはほおっておけばよいわけです。たとえ指摘したとしても、逆に、上のように言う人たちはワンネスのことを揶揄して見下したりしてきすから、関わり合いを持たない方が良いのです。例えば少し前に(直接目の前で)見聞きした実例で言いますと、どこかのスピリチュアルのセミナーのモノマネをして「ワンネスがどうのこうの・・・」とか揶揄して馬鹿にしていたりしました。見るに堪えないです。そのような例を挙げるまでもなく、上のように言う人たちは二元論に立っていてワンネスに至っていない、ということが分かります。
実のところ、本当は内も外もなくワンネスなのです。ですが、二元論に立っている人にはそれが理解できない、実感できないのです。ですから、ワンネスを荒唐無稽な想像あるいは単なる愚かなお話であると考えるのです。
この種のお話は本当にそうならなければわからないわけですから、ワンネスに至っていない段階でそのように「ワンネスなんて存在しない」と表現するのは正直といえばそうであるわけです。ですから、ワンネスを理解していないのにも関わらずワンネスを語る人よりは幾分かはマシであるわけですが、それでも、ワンネスがないと言い切るのは時期尚早であるわけです。
と言いますのも、数学の証明問題を学べばすぐにわかりますように「ない」ということを証明するのは全ての場合を網羅しなくてはならず、かなり難しいわけです。ですが、ワンネスを否定する人はただ単に「自分が理解できないから、自分が感じられないから」という理由で否定することがほとんどだと思うのです。注意深い人であれば、個人の意見として「ワンネスというものがあるのかもしれないけれども、自分には分からない」とだけ言う筈です。それが、人々の前に立って講師という立場でありながわ「ワンネスなんてない」みたいなお話を断言しつつ、それだけでなくモノマネで揶揄して見下して聴衆の笑いを誘うなど、スピリチュアル講師の風上にも置けない人が堂々と講師をしていたりします。
教えが地球なのか銀河なのか、そういう由来というお話というものはあるとしても、人々の認知は由来のことではなく、自分の内なのか外なのか、というようにすり替えて受け止められてしまうことが多いように思います。元々は由来のお話であるのにも関わらず、そこに着目して、そこにこだわりを持っている人は、何故か、本来の文字通りの由来のことではなく、自らの内(それは人間あるいは地球ということ)ではなく外側(それは宇宙ということ)に重みを感じてしまうようなのです。それが、実際にそう言っている人のニュアンスと会話の前後のコンテキストから読み取れました。これは場合にもよるかもしれませんし、会話の流れにもよりますが、今まで聞いた限りでは、これは文字通りの由来のお話ではなく自らの外に真理を見いだす、大きなものに委ねる、大きなものに頼る、というお話であるように感じられました。由来ということが、文字通りの「教えの伝統」のことではなく、「自らの外にある偉大なことを頼る」というお話にすり替えて話されているようなのです。
となれば、この種のお話を聞いた時に「その教えがどこから来ているのか」を話題にしたところで話がかみ合わず、会話がすれ違うわけです。それよりも、「それでは、貴方の大切にしているものは、自らの内なのか、あるいは、外なのか」を話題にした方が物事の本質に近づけるのです。
そして、大抵、そのように宇宙や銀河を信奉している人は自らの外に真理を見いだそうとしています。
一方、世間で一般に存在しているスピリチュアルや宗教あるいは真理を求める人たちも、割と外に真理を求めようとしています。
と、いうことは、地球だとか宇宙だとか人間だとか色々と言っていたりしても、自らの外に真理を見いだそうとしている、という1点に限って見れば同じなわけです。
上のようにマウントを取るのは、直接的にはそれはワンネスに至っていない、ということでもありますけど、それに加えて、真理を自らの外に見いだそうとしている、ということでもあるわけです。
一部の流派、例えばヨーガや一部のスピリチュアルは自らの内に真理を見いだそうとしています。そして、最終的には、自らの神聖を認識し、やがては、その自らの神聖が実は世の中全てを生かしている力である、いわゆる神と同質のものであることを悟るわけです。これこそがワンネスであるわけですが、二元論でいるうちはまだそこに辿り着いていないわけです。
ヨーガでは自らの自意識(エゴ)はジーヴァと呼ばれています。ジーヴァは本当には存在しないもの、本当の自分に頼って存在しているものと言われています。そして本当の自分とはアートマンであるわけですが、その個としてのアートマンは全体としてのブラフマンと同一であるわけです。ただし、最初はジーヴァとして自意識が主でありアートマンとしての自覚はなく、もちろんブラフマンとしての自覚はないわけです。やがてアートマンの自覚が目覚め、多少なりともブラフマンの自覚が芽生えると(限られた範囲における)ワンネスに至るわけです。
このワンネスとは、上の例で言い換えると、自分と地球とが一体になる、あるいは、自分と地球と宇宙・銀河とが一体になる、ということです。それは意識の程度に応じてどの程度までがワンネスになるかということは異なりますけど、程度は異なれ、ワンネスであることには違いがないのです。
それは同一ということでありますから、「人間か、宇宙か」という、どちらを選ぶかという二元論ではないのです。ましてや「人間か、銀河か」というお話でもないわけです。どちらも同一であるわけですから、人間と宇宙がイコールというお話なのです。
ワンネスとは宇宙との一体感のお話であるわけですから、その意識はもちろん宇宙から来ているとも言えますし、元々宇宙の意識である、ということもできます。ということは、教えというのは宇宙のものである、とも言えるわけです。この状態では、教えが人間由来なのか地球なのか宇宙
由来なのか、というお話をすること自体が愚問で、宇宙の意識なのですから宇宙由来に決まっていますし、そもそもワンネスであるわけですから、由来でマウンティングすること自体が不要なわけです。宇宙由来なのかどうかが気になっていたりマウンティングしたり、それを理由に本物かどうかを判断したり、見下したり、というのは全てスピリチュアル初心者がやるようなことで、本筋ではないのです。
二元論に立っていると、どうしても「与えてもらう」ということを重視するようになります。救世主を求める思想が強く表れてきます。自らの内の神聖を見いだす、という趣旨のことはどの流派にもそれなりにあるとしても、救世主の方に重きを置いて自らの神聖よりも救世主の方がより神聖であると思いがちになります。
そのように依存の状態においては、具体的に「与えてもらう」という顕現としてヒーリングという形を取ります。エネルギーを与えてもらって満足するわけです。
ですが、実のところ、瞑想をすればエネルギーは自らの内から無尽蔵に湧き出てきますので、ヒーリングで他者から与えられるより遙かに効率よくエネルギーを高めることができます。確かにエネルギーの差というものはありますので、その差を体験するためのヒーリングというのは時には有用ではありますが、依存や救世主指向が強い人は定期的にヒーリングを受けて自らをメンテナンスしたりしています。瞑想はどのようなスピリチュアルでも一定は行いますけど、瞑想における自己ヒーリングではなく、他者からもらうということをするわけです。
瞑想は、最初はただ単に雑念を取り払って平穏になる、という程度のお話ですが、やがて、雑念が減ったり、あるいは、雑念に惑わされなくなるとその程度に応じてエネルギー・ワークのようになってきます。そうするとその瞑想で湧き上がるエネルギーによって自己の癒やしが自動的に起こるわけです。
結局、スピリチュアルの本筋というのはここにあるわけで、自分の内側から湧き出るエネルギーによって自らの神聖を見いだし、やがてはそれが外側に広がってゆき、やがては究極的には全宇宙となるわけですが、最初からそうはならないので、まずは自らの周囲からワンネスは始まり、地域的なもの、国、大陸、と広がった後に地球の意識になり、そして太陽系、銀河系、宇宙、というように広がっていくわけです。
ですから、広がる、ということはその起点としての自分というものもその範囲にもちろん含まれているわけで、ワンネスであるわけですから、そこに分離がないのです。
最初のお話に戻りますと、文字通りに捉えるとやはり「由来」はどこか、というお話になります。では、確かにその由来が地球なのか宇宙なのか、というお話は、あるにはあります。それはある程度はポイントになりつつも、本当の意味で由来ということであれば、割とどの著名な教えも根源を辿れば宇宙に辿り着いたりするわけです。例えばインドのヴェーダやヨーガは宇宙人から教わった、というお話もありますし、エジプトにせよ何にせよ、古代の教えと宇宙人とは意外に多く関連が出てきます。ですから、私に言わせてみれば由来が宇宙かどうかなんてことでは全くマウンティングにならないどころか、自らの無知を知らしめているに過ぎないわけです。どちらにせよ、そのようにマウンティングしたり宇宙の教えが優れているとか言う二元論の立場に立っているだけでスピリチュアル初心者なわけですけど、実のところ、そのような迷惑なお話が氾濫している現状でありますので、特にスピリチュアルの初心者は「由来」のお話に惑わされないのがよろしいかと思われます。
これは、由来でマウンティングしてくる人たちのことであり、文字通り由来のお話だけであればこんなことはないわけです。
そんな雑念に左右されることなく、まずは瞑想です。瞑想が進めば、そんな由来がどうこうというお話など些末なことでしかないことがわかるわけです。由来というのは何にせよありますし実のところ由来というのは教えを見極めるために重要な一要素であります。とは言いつつも、それはマウンティングの要素にはならないのです。どちらにせよ、由来を由来としてありのままに捉えることが必要なわけですが、雑念が沸き起こって優越意識が出るのであればそれはまだ瞑想が進んでいないということであります。瞑想が進めば、物事をありのままに捉えられるようになってきます。
そうして更に瞑想が進めば、雑念を取り払う瞑想を超えて、瞑想がエネルギーワークになり、自己の癒やしが(自動的に)起こり、やがてはワンネスを見い出すのです。それは、真理を内に見出す、ということでもあります。内でもありながら外でもある、という、一見すると矛盾して見えるようなお話が本当になってきます。このことが本当であるということがワンネスによって見出されるわけです。