ここでいうエゴはスピリチュアル用語でいうエゴですのでヨーガで解釈するとアハンカーラのみですが一般スピリチュアル用語では「ブッディ+アハンカーラ」相当であり、よって、エゴはこれら2つの要素に分かれるのですが、このうち、アハンカーラの部分が聖典の勉強と理解によって自然に消える、あるいは、修行やショックなどで強制的に抑えるなどすることにより消え去った時、ブッディだけが残ります。
その時、精神は鎮まり、思考は冴え渡り、心穏やかな状態になります。
この、エゴを抑えることについてはスピリチュアルや宗教界には色々なことを言う人がいて、エゴを否定したり肯定したりと意味不明になっていますが、エゴを否定する必要も肯定する必要もなく、ただ、その仕組みを聖典の勉強をするなどして理解すればいいだけのお話なわけです。そうすれば、アハンカーラという部分、自分という錯覚というものが消え失せてブッディだけが残り、心安らかな状態になります。
それに加えて、精神の安定・浄化を加速させるために補助的にスピリチュアルな修行をしても良いですししなくてももしかしたら既に浄化ができるかもしれません。それは人によります。スピリチュアルな修行を必ずしも行わなくても、仕事やスポーツ、趣味などで極度に集中してゾーンに入り、精神が休まって高い成果を出せる状態に入ることができるようになるならば、それは精神修行をしているのと同じことなわけです。そのように、スピリチュアルを意識せずとも実は精神修行をしていらっしゃる方も大勢おられると思います。そのように、意図せずして精神の浄化が進んでいく方も大勢おられると思います。
はたまた修行をして、そして行き着く先は真我(ハイヤーセルフ)と呼ばれる「本当の自分」です。
最初は、エゴ(自我)は本当の自分とは分離していませんでした。最初は一体でした。生まれる前は、基本、誰しもがそういう状態でした。しかし、生まれてこの地上の生活を送るにつれて自我意識(エゴ)が増え、次第に、真我(ハイヤーセルフ)を忘れてしまうのです。
実際には最初から繋がってはいるのですが、その意思を感じにく状態になってしまう、ということです。そして、あまりにも分離が激しいとほぼ全くエゴ(自我)と真我(ハイヤーセルフ)との繋がりがなくなってしまうことがあります。
それでも、精神修行をするとか、趣味や仕事はたまたスポーツで極度に集中し、ゾーンに入るにつれ、次第に、心が安らいで、本当の自分である真我(ハイヤーセルフ)と繋がることができるようになってきます。
本来、エゴ(自我)とハイヤーセルフ(真我)は一体でしたし、本質で言うと全然分かれてはいないのですけど、実際の感覚で言うと、分離の状態になってしまって、お互いの意思疎通が難しい状態になってしまっているのです。
普通の人間関係でもあると思います。近くにいるのに、全く気持ちが通じ合えない人。はたまた、とても心が通じ合える人。そのように、エゴ(自我)とハイヤーセルフ(真我)とは本当は最高に通じ合える自分自身であるのに、どこか疎遠になってしまっている状態になってしまうことがよくあるわけです。
そして、その繋がり具合は人によって違っていて、とても繋がっている人もいれば、離れている人もいます。一般的には少し離れていて、分離の状態になっていることが多いように思います。その場合、ゾーンに入ることでエゴ(自我)とハイヤーセルフ(真我)を一体化させて高い成果を出す、とか、そう言うことが行われるわけです。
実のところ、ゾーンのように一時的に繋がると言うのはごく初期の段階で、何度も何度もゾーンに入っていると、やがて、ゾーンが安定してきます。ゾーンが安定してくると、少し集中しただけで必ずゾーンに入れるようになります。
更に進むと、そもそも最初から半ばゾーンのような状態になります。
そして、集中するともっとゾーンのような状態になります。
このゾーンの深さは人によって違っていて、有名な選手はとても深いゾーンに入ることができて、相応に高い成果を出すことができます。
世間では、ゾーンは成果を出すためにあるように言われていますけど、スピリチュアル的には成果は二の次で、エゴ(自我)とハイヤーセルフ(真我)を融合させることが目的なわけです。
そして、スピリチュアルではそのように表現しますけど、ここでいうエゴ(自我)はヨーガであればアハンカーラですし、それがハイヤーセルフと合一すると聞くと意味不明に感じられてしまうかもしれません。
この部分に関しては、一般スピリチュアル用語の「エゴ」は、ヨーガでいうチッタ(心)あるいはヴェーダンタでいうジーヴァ(仮初の私)に相当して、それらが高次のハイヤーセルフ(ヨーガでいうプルシャ、ヴェーダンタでいうアートマン)と合一するわけです。
ですから、その前段階として、分離を解消するための手法としての修行が色々とあって、そのどれも、精神を浄化するという点が共通しています。そして、ある程度の浄化がなされてハイヤーセルフとの分離が解消すると少しずつ合一していくわけです。
この観点からすると、段階が幾つもあります。
1.生まれたばかりの、(エゴとハイヤーセルフの)分離のない状態(幼児〜幼少期)
2.物心が生まれ、(エゴとハイヤーセルフの)分離が始まる段階(思春期以前)
3.自我が生まれ、(エゴとハイヤーセルフの)分離のある状態(思春期以降)
4.自我(エゴ)が錯覚だと学び、分離を解消しようと試行錯誤する段階(青年期)
5.自我(エゴ)とハイヤーセルフ(真我)の解消をする段階(中年期以降)
人と環境によっては最初から大人にならず合一状態を保っている人もおられるかもしれませんし、時期として違うパータンもあるかもしれませんが、概ね、このようになるのかなと思います。
とは言いましても、自分で学んでそう意図して行動しなければ死ぬまで分離状態のまま苦しい人生を終えることになるのが普通かと思います。
自分がどの程度の分離にあるかにもよりますが、軽微であればそこそこの修行、重症であればそれなりに厳しい段階を経て、再度、合一の状態に持っていくのがスピリチュアルの道なわけです。
▪️エゴ(ジーヴァ)とハイヤーセルフ(真我、プルシャ)の合一
基本的には、「背中」から最初はハイヤーセルフと繋がり、やがて、繋がっているだけでなくハイヤーセルフの実態(としてのオーラ、創造・破壊・維持の性質を持った、自分自身の神意識の部分)が(背中の方から)近づいてきて、やがて、ジーヴァ(ヴェーダンタでいう仮初の自分という意識、エゴ)と合一します。
そこに至る前に、ある程度の自身の浄化がなされている必要があり、そうして初めてハイヤーセルフが近づくことができます。
ハイヤーセルフとエゴが分離している状態、それは割と普通の人の意識がそうであるとも言えますけど、必ずしも完全に分離しているわけではなくて、人それぞれ、状態は違うように思います。分離はしていないけれどもオーラが少なくて盲目、という場合もあるように思われます。
ですから、ハイヤーセルフとエゴが分離していたとしても、エゴの側に多少のハイヤーセルフの部分が混じっているのが普通のように思うのです。そして、エゴの部分に定着できずに離れてしまった部分が近くに遊離しているわけです。
・エゴにハイヤーセルフがどの程度定着しているか
・エゴに定着できないハイヤーセルフがどの程度、分離してるか
・オーラの量
分離しているハイヤーセルフと繋がることがチャネリング(の1つ)です。
他の意識体(人、霊体)とテレパシーをすることもチャネリングですが、エゴとハイヤーセルフとが繋がることもチャネリングと言われているので混乱ポイントの1つとも言えるかもしれません。スピリチュアル用語で意味が多様に使われているところです。
実態はというとエゴの側の分離したジーヴァとしての意識が分離したハイヤーセルフとチャネリングするわけです。それをリーディングと呼ぶ人もいますし、違う言い方をする人もおられるかもしれません。ですが、実態としてはそうなわけです。
このチャネリングは、そもそも、エゴとハイヤーセルフが分離をしている、という前提に立っています。
・ハイヤーセルフが(外に)いる場合(=エゴとハイヤーセルフが分離している状態)
・ハイヤーセルフが(外に)いない場合(=エゴとハイヤーセルフが合一している状態)
ですから、エゴとハイヤーセルフが合一していたらチャネリングも何もなくて、ただ単に自分の(合一された)意識があるだけです。エゴとしての顕在意識とハイヤーセルフとしての高次の意識とが一体になっている、とは言いましても顕在意識で認知できる範囲には浄化の度合いに応じて限界がありますけど、それでも、相応の段階までハイヤーセルフの意識が顕在意識として現れることができるわけです。
▪️同じグループソウルの分霊によるサポート(付き添い)
合一したように見えても、まだ外側に自分の分霊のような存在がいる(ような気がする)場合もあります。その場合は、そもそも生まれる前に自分から分かれてサポート役として付き添っている自分の分身(というより、大元から分かれた、別々の個体)だったりする場合もあります。それは、実態としては同じグループソウルの分霊ですからハイヤーセルフと似ていてほとんど見分けがつかない場合もありますけど、それでも、一応、それは別物として、ハイヤーセルフではない、と捉えるのが自然かと思います。
▪️意識体(オーラ、ハイヤーセルフ)(の一部)が抜ける(ウォークアウト)、追加で入る(ウォークイン)
一方、生まれた後に、必要に応じて、オーラが体から抜ける、あるいは、オーラが体に追加される、という場合があります。ここでいうオーラはエネルギーの量を伴った実態であり、それは意識でもありますから、オーラが減ると意識が相応に朦朧となって、逆に、オーラが増えると相応に意識が明確になります。
それは、合一のお話と似ているようで違っていて、合一の場合はそもそも分離が激しくてエゴにハイヤーセルフが近づけないから分離しているということを前提として合一に持っていくわけですが、この場合、完全に抜けたり入ったりします。
その理由としては色々とあります。
ハイヤーセルフ(の一部)が抜ける場合(ウォークアウト)
・その肉体での使命が終わったのであとは寿命を全うすれば良い場合。
・個人の得た知見(の一部)を(一旦)グループソウルにフィードバックする
ハイヤーセルフ(の一部)が(追加で)入る場合(ウォークイン)
・新たな任務(使命)遂行のための意識(グループソウルの分霊)を入れる場合
この種のことはスピリチュアル業界でウォークインですとかウォークアウトのように言われることがありますけど、その文脈においては宇宙人が地球の体を借りる、みたいなお話であることが多いですけど、似たようなことは自分の属するグループソウルとの間では稀に行われるように思います。
実際のところ、一生変わらない人の方が多いようにも思いますが、その人の役割によって、必要であればこのようなことも行われます。
オーラが抜ける場合は、意識的に抜けるのであれば首の後ろとかサハスララなど割と後方から全体的に分離して体から離れます。
オーラが入ってくる場合、頭頂のサハスララから背骨沿いのルートを通って胸及びお腹に入ってきて既存のオーラと合一します。
▪️葛藤によるハイヤーセルフの分離
似たようなお話で紛らわしいのですが、本来はエゴとハイヤーセルフが一体になっているべきところを、葛藤やトラウマあるいは強いショック等によって分離状態になってしまうことがあります。これは上記のウォークアウトに現象としては割と似ているのですが行為が意図的ではなく、そうせざるを得ないが故に分離してしまう場合になります。
・精神的ショックにより心が折れる、心が壊れる場合
・エゴの葛藤が激しいのでハイヤーセルフが嫌がって体から出ていってしまう場合。
この場合、分かれた部分はしばらく肉体(+エゴ)の近くに留まりますが、あまりにも分離が激しいと諦めてグループソウルに戻ってしまうこともあります。
ある程度の距離を保ったまま肉体(+エゴ)の近くにいて導き続ける、というのが今の地球での現代人では多いパターンのようにも思います。
これらのパターンのうち、オーラが追加で入るかどうかは使命などによりますので、必ずしもあるとは限りません。
一方、エゴとハイヤーセルフとの合一は、(現在分離状態であるならば)スピリチュアルの成長に必ず必要なものになるわけです。