そのものの本ではないのですが別の書物で紹介されていましたので抜粋して引用します。
1.世俗的な執着、欲望が強い状態
2.世俗的なものとの戦いと浄化の段階
3.謙虚、世俗的なものからの離脱.霊的な慰安
4.神秘的生活.黙想、時折の神の感得
5.神との単純な(完全ではない)一致
6.世俗的な人間的自我からのより大きな開放、神とのより高い一致。神の言葉を聞き、神の姿を霊眼で見る.
7.心と神とが1つになる状態
(本山博著作集1 P283より)
更には、この段階で生じる霊眼、霊視についても言及しています(同書P287-288)。それによると、基本的な霊視である想像的示現は6段階より前でも生じるが、より高度な霊視である知的示現は第6段階以降でしか起こらないと言います。
基本的な霊視である想像的示現では肉体で見るよりももっと明瞭に霊的対象を見ることができるようになる。一方、より高い霊視である知的示現では肉眼や霊眼でも姿を見ることはできないけれどもはっきりとイエス・キリストの存在を自己の魂の内に感じることができるようになる、と言います。
これは、霊視と一概に言っているものが視覚に頼らない、ということでもあります。霊視というと映像で見る、ということでもありますが、聖テレジアは姿と言いつつも姿が見える方は段階が低い、と定義しているのです。それよりも、神様との合致をする方が程度が高いと定義しているのです。
同書の解説によると、見る、ということは主観と客観の対比があり、分かれています。いわゆる主と客があるわけです。
一方、知的示現では、神と魂(あるいは心)とがより深く合一している。初歩的な霊視である想像的示現だけが起こる段階であってもそれなりの合一がなされているが、知的示現が起こる段階ではその合一が深くなっている、というのです。霊的な感受においても、想像的示現の段階ではまだ受ける力が弱い、知的示現になると魂が根底から揺さぶられるほどの力を感じると言います。
また、想像的示現だけがある段階では、人間の自我の無意識の部分が神あるいは霊的なものであるかのように感じられるのに対し、知的示現が起こる段階では純粋な神の御心の示現があるのみである、と言います。
・・・この内容を解釈すると、6段階に至ったかどうかというくらいの段階では想像的示現のみであり知的示現がまだ起こらず、よって、神との合一がまだ不十分であり、自分の自我の無意識の部分が神意識であるかのように感得される、ということだと思います。一方、6段階が安定あるいは7段階においては神と自分との合一がかなりのところまで進み、それにより、姿が見える見えないに関係なく神と自分の意識が合一している、ということだと思われます。
こうしてみると、キリスト教のこのような階梯もヨーガや仏教と根底は似通っていて、共通点が多くあるように見受けられます。
更には同書には、このような霊能という段階で留まらずに究極の合一に向けて努力修行を続けるべき、という記載もあります。これはヨーガ的な考え方でもあり、霊能とは悟りに付随する結果であり、霊能を追い求めずに悟りを求める、とはよく言われることです。
精神修行の目的は究極のワンネスの達成でありこの世界そのもの、究極の存在との合致です。であれば、その途中の霊能など些細なものであると言えます。
私はというと基本的には4番くらいの段階ですかね。5もなくもないですが6とかはまだまだこれからのように思います。
ヨーガあるいは神智学的な枠組みに当てはめると以下だと解釈しました。
・1が物理世界
・2〜4がアストラル界(感情が主)、2がアストラル下界、4はアストラル上界、3はその中間
・5〜6がコーザル界
・7がプルシャ
いわゆる世間でスピリチュアルと称されているもの、あるいは、霊能力と言われているものはアストラル界で2〜4あるいは一部が5くらいまでかと思います。
一方で、6になると能力的なものから離れ、いわば世間から離れ、見ようによっては「解放された」あるいは「世捨て人」のような暮らしあるいは意識状態になるかと思います。
7くらいになると解脱と言って良いかと思います。
静寂の境地はそれぞれの段階で現れて、1と2の間での静寂の境地、2と3の間での静寂の境地、動揺に3と4の間、4と5、5と6、6と7、というように、静寂の境地が深まってゆくものと思います。
そのような解釈です。