宇宙の根本の行動原理が「理解」だとして、それを妨げるものは疎んじられます。
誰か他人に対して制限を加えることは理解を妨げることになるため良くないことであると基本的には考えられます。基本的に、というのは、状況によっては他人を制限した方が理解が進む場合があるからです。例えば、どうしようもなく乱暴で暴力的で聞く耳を持たない人がいる場合は警察などが介入して行動を制限することは必要に思います。そのような犯罪の場合を除けば、通常の生活においては他人を操ることはその人の自由な思考と行動を妨げることになるため、それは基本的な宇宙の動機である「理解」を妨げることになっているわけです。
それと混同されてしまうかもしれないですが物理的な社会に住んでいること自体で(物理という)制限があることそれ自体は学びの役に立つわけですが、その一方で、他者を強制することは学びの妨げになるわけです。
これは、世間一般で言われているような「基本的人権の1つである自由」とはまた違った文脈で理解するべきお話で、確かにざっくばらんに言えば基本的人権の自由は正しくもあるのですが、その前提条件として「理解」なのか「他人に迷惑をかけてはいけない」のどちらに重きを置くのかで根本的原理が異なってきて、例えば「理解」に根本原理を置くのであれば基本的人権の「自由」とは理解を促進させるためのものということになりますが、一方、「他人に迷惑をかけてはいけない」という文脈における「自由」であれば、それは、他者と関わりを持たずに自分は好きにやるので相手も好きにやれば良いという分離の状態を許容することになりそのことで理解が進まないことになるわけです。
これは必ずしも一緒にいた方がいいというわけでもなく、分かれて暮らした方がいいわけでもなく、時と場合によるわけで、一緒にいた方が学びが進むのであれば一緒にいるべきだし、分かれて暮らすことで理解が進む場合もあれば、それぞれ違った興味を持って理解を深めたい場合は分かれて暮らした方が良いわけです。
特に、知的指数が異なる集団同士が近くに居住しますと生活習慣の違いによりトラブルが起きて、考え方が違いすぎるがためにお互いに理解できない状況も招きますので、基本的は同じくらいの知的指数の集団がまとまって暮らすのが良いように思われます。理解という点で言えば離れていても少しづつわかり合えますが、生活習慣となると日々のお話ですので、理解はできても近くに暮らすのはきつい、という時もあるわけです。
平等、という点に関しても、もし「他人に迷惑をかけてはいけない」を歪んで解釈して「皆が完全に同一であれば他人に迷惑はかからない」という共産国家のような考えになってしまうことがあり、人はもちろん抵抗しますけどそれを強権国家が強制することにより同一の暮らしをさせられ、毎日同じような暮らしをすることで人々から考える力および生きる力が失われ、「理解」が進まない状況に落ち込むわけです。全員を平等に強制してしまうことは人々の行動を妨げ、結果、「理解」を阻害するわけです。各個人がしたいことができなくなり、自由がなくなり、理解が進まない、理解が妨げられる状態になり得るわけです。
とは言いましても、「理解」の根本原理以外は状況によって変わりますのでこれは一例にすぎなくて状況次第であるわけですが、概してそういうことだと思われます。