スピリチュアルで時々語られる、「理解」こそが真理あるいは自由になる鍵だというお話も、「理解」という言葉が出た時点で核心に迫っているものの、必ずしも真理そのものというわけでもないわけです。
実のところ、真理の理屈を知っていてもこの世界の幻想(マーヤー)に囚われていて真実が見えていないような人は山ほどいます。「・・・によって、真実を知っている」と謳う人は、例えば大学で宗教学を学んだ人ですとか、どこかの流派で理屈を学んで理解しようとも、その理解そのものが真実というわけでもないのです。宗教学を学んだ人は他の流派を揶揄するために「そんなことをせずとも、・・・で理解できる」みたいなマウンティングを取る場面をたまに見るのですが、そのように、大学のようなところで知識を入れて理解したとしても真実がわかっていない場合が多々あるわけです。
こういうことを言うと、すぐに答えを知りたい人が「じゃあ、答えは一体何なのだ」と(時に少し苛ついて)聞くことがあります。そのように、「何か」に答えがあると思っている時点で目的をはき違えているのです。答えとは「何か」そのものではなく、何かを探し求める姿勢の方で、理解を求める姿勢とも言ってもよく、確かに姿勢そのものだけでは答えではないものの、無限とも思える答えを深掘りすることこそが「理解」ということなわけです。ですが、人は往々にして何かを聞いて理解しただけで「私は真理を知っている」と思いがちです。
割と有名なヨーガあるいはヒンドゥのお話で、神々と悪魔が共に聖者からこの世の真理を聞いた、という場面が出てきます。その時、悪魔の方はというと聖者の言葉をそのまま理解して、「そうか。俺は真我なのか。俺は理解している。これが真実だ」と思い、慢心し、真実には至りませんでした。神の方はというと、「これが真実なのか。これはすぐに理解できる。・・・しかし、本当に自分は理解しているのだろうか。これが真実なのだろうか。」と内省し、更に探求を続け、本当の真実を見出しました。探求を続ける者のみが本当の解放と真理を手に入れるのです。
これは、世間でもよくあるお話です。
話を聞いて「そうか。理解した」とすぐ思い込んでしまう人はそこで終わってしまい、本当の理解というものに辿り着きません。一方、「理解した気がするが、本当のところには、まだ達していない気がする」というように自らの状況を見極めて修行あるいは探求を続けると真実に到達するわけです。
特にスピリチュアルに関しては顕著で、理解はすぐにできても本当にその状態になるには何年もかかるのが常です。そのように時間のかかることに嫌気をさして術だとかイニシエーションだとか手っ取り早い方法に何十万あるいはそれ以上を払い、大して効果の出ない状況でお金だけがなくなる、という悪手を打つ人がそれなりにいるわけです。スピリチュアルは時間がかかるのに、手っ取り早く成長できるというマーケティング戦略を信じてしまうような脇の甘い人がそれなりにいるわけで、それがスピリチュアルの表現を落としています。
「理解するだけで成長できる」「儀式を受けるだけでオーラが何倍にもなる」みたいな宣伝文句はスピリチュアル初心者ホイホイみたいなもので、そういうところで痛い目を見てスピリチュアル大嫌いになるか、あるいはお金がなくなるまで続けるか、大体が2択で、一部は自分が講師になって続けたりしますけど、大抵は効果がないのにあると信じ込んでいるプラシーボ効果である場合が多いわけです。
効果を出せる人も中にはいますけど、それは儀式を学んだおかげというよりは最初からの素養であることがほとんどのように思えますから、そこらのスピリチュアルスクールで学んだとしても時間がかかるものと思った方が良いわけです。ましてや、「理解すればそれで良い」というお話は、ものによっては確かにそういうコンテキストで真実も語られますけど、一般的にその話を聞いて易々とその通りにはならないわけです。
実際は、真理というものはとある段階に達成したとしてもまだ先の深いものがあり、それは人間の一生という短い時において究極に達することはあり得ません。ですから、一生探求し続けるつもりでいるくらいがちょうど良いのではないかと思います。