(続き)
この種の、酷いことをしている人がいたら見て見ぬふりをしてはいけない、という文脈も宇宙の基本法則によって解釈できます。酷いことをしている人は、理解が足りないのです。又、それを見ている人の側にも酷いことをしている人への理解が足りないのです。正義と悪の文脈で道徳的にこのことが語られることがありますが、決まって「悪は成敗すべき」みたいなお話になるように思いますが、そういうことではないのです。成敗してしまったら理解が進まず、それは、宇宙の法則に反していますので同じような悪がまたどこかで出現してしまいます。理解するまではそれは現れますので、理解せずに成敗したところでそれはイタチごっこになってしまうのです。
特にスピリチュアルという面でいうと自称ライトワーカーがこの種の善と悪のお話を持ち出してきて、悪に対しては見て見ぬふりをせずに成敗しなくてはならない、みたいなお話をしますけど、それは宇宙の法則に反しているのです。そういうことをすれば、理解をしようとしない人ということで自称ライトワーカーの元に強大な悪(と自称ライトワーカーが思うもの)がやってきて、逆に淘汰されてしまうこともあります。この宇宙の法則は「理解」でありますから、理解しようとせずにただ単に善と悪みたいな表面的なお話で「維持が正義、破壊が悪」みたいな単純な論理で悪を成敗しようとしている人は、必ず宇宙の法則でしっぺ返しが来ます。当人はそれは悪と戦っていると自己満足するかもしれませんが、そのような無駄な努力とも言える戦いを繰り広げている人がいるわけで、そんなことをせずとも理解さえすれば解決するのです。とは言いましてもその理解には時間がかかりますからある程度の自己防衛というのは必要で、そのための力は必要です。自称ライトワーカーのように自分の暴力を力の行使だとか何とか理屈をこねて自己正当化するのではなく、理解ができる場を作るために力を行使することこそが本当は必要なのでありますが、自称ライトワーカーは「悪がいたから成敗しても良くて力の行使は正当化される何故ならそれは暴力ではないから」みたいな勝手な論理で自分が悪とみなした相手に暴力を振るって世界の紛争を長引かせているのです。
衣食住に不自由ない平穏な暮らしをする時、多くの不都合を見て見ぬふりをする人がいて、その時、その見て見ぬふりは、どのような意味があるのか、という解釈が異なるわけです。自称ライトワーカーは善と悪の戦いをして悪を成敗しなくてはならないと思い(勘違いし)成敗さえすれば良くて理解は二の次なわけです。一方、宇宙の法則はというと理解を深める方向へと状況を追いやるのです。
(続きます)