大概、当人たちは良いことをしているつもりでいて、それは地球の管理者のお眼鏡にかなわなかったのです。例えば、隣の国から奴隷を助ける活動をしていて、それで満足していたり、自分の国の平和に安楽に暮らすだけで隣の国にある地獄のような状況を助けなかったのです。その状況に置かれた人にとっては、そんなことは不可能だと思ったことでしょう。隣の国の奴隷制度を止めさせるなど、無理だと思ったことでしょう。無理かどうかとか、困難だからとか、そういうところは、地球の管理者は感心がありません。関心があるのは結果です。奴隷を酷く使っている国があるとして、それを放置していたら、それを助けるのが無理かどうかとか関係なく、このままでは良くならないと思ったならば世界はリセットされるのです。自分の国で、安全なところにいて、少しばかりの親切や善行をしたところで、地球の管理者は満足しないのです。たとえ奴隷を解放する運動をしていて地球的にはとても素晴らしい善行をしていたところで、その程度では地球が継続できなかったのです。それが、かつてのタイムラインで起こったことです。自己満足しようが何を言い訳にしようが、地球の管理者はそんな勝手な論理は目にも止めないのです。結局は、酷い国が放置されたからこそ、かつてのタイムラインの地球は破棄されて凍結状態になったのです。
今回も似たようなことが起こる可能性がありますが、まだ世界が継続するチャンスは残っています。その時、勘違いして「善と悪の戦いにおいて善が勝利しなくてはならない」みたいな自称ライトワーカーの見当違いの見解で悪の国や団体を滅ぼそうとしてもそれは間違った努力であり、本当に地球の管理者が求めているのは「理解」であることを踏まえれば何をしなくてはならないのか自ずとわかることでしょう。
世界に平和が訪れないのは見て見ぬふりをする大衆が問題だ、みたいなことが良く言われます。それは概略としてはその通りなのですが、では何故それが問題かというと、理解が進まないのが根底の問題ということであるのに、多くの人は平和そのものが問題あるいは目的であるかのように勘違いしてるのです。それぞれの人によって平和の意味するところが違っていて、自分あるいは誰かが平穏に暮らしたいための平和というのは実は最終的なお話ではなくて、平和は理解のための前提条件なので平和が必要なのであって、理解がないのであればお互いに関与しないということですからその平和にそこまで意味はないとも言えて、理解のない平和は不調和を生み出して争いを生みますから、理解のなさと平和のなさは表裏一体であるわけです。お互いに関わらなければ良い、関わらなければ平和になる、みたいなお話もありますけど、それは宇宙の法則に反していますから必ず揺さぶりがかけられ「理解」する方向に動かされます。それが必ずしも戦争になるとは限りませんけど、その理解のなさが大きすぎると戦争や紛争にもなるわけです。