30年近く前、「情緒ではなくエクセル計算が環境問題を解決する」と言っていたおじさんがいました。割と共産主義的な考え方を持っており、「環境を救うには計画経済しかない」と言い、言葉では共産主義とは言わずとも中身はそれのようなことを主張していたように思います。環境問題をしている人たちの中で共産主義とか言うと反感を買いますのでその言葉は言わずにその内容をほのめかして喧伝していたのでしょう。今から思えばずる賢い人です。
環境問題には情緒的に関わっていた人もいましたが、そのおじさんは計画経済と言うくらいですからトップダウン方式で経済をコントロールするしかない、みたいな、全体主義の思想の持ち主だったのです。
さて、そのような全体主義は宇宙の「理解」という根本原理に即してみるとどうなりますでしょうか。まず、全体主義というものが理解を生み出すかどうかがポイントになります。その全体主義の総体が生み出す理解が、個人主義の総体が生み出す理解よりも多いのか、少ないのか、というお話です。これにより全体主義が正当化されるかどうかが決まります。
宇宙の根本原理の「理解」とは、平和や情緒があればそれで良いというわけでもありません。そんなことを言えば何も変わらない状態が続くことこそが平和で最上ということになってしまいますが、活発な生命の交流がなければ新たな理解というものはなかなか生まれないわけです。情緒的に安定していて平穏な気持ちに達していればそれでいいというわけでもなく、そこに理解というものを生まないのだとしたら宇宙の根本原理とそぐわず、平穏な状態からはじき出されてしまうのです。
ですから、情緒というものもそれだけでは理解には結びつかず、全体主義というのもそれだけで理解に結びつくかどうかはわからない以上、全体主義が良いかどうか個人主義が良いかどうかというのは他の要因と必ず一緒にしなければ判断できないものであるわけです。その時々の状態に応じて、総体として理解をどの程度生み出すかが焦点になるわけです。全体主義であったとしても、個人主義であったとしても、理解を多く生み出せばそれは良い社会ということになり得ます。今は全体主義が圧政とセットになっているため概して個人主義の方が理解を多く生み出すという状況になっているわけで、エクセルおじさんのように全体主義および計画経済を取り入れれば環境は守られるかもしれませんが、行動を制限して均一化された社会を目指すということであれば人々の自由な交流を阻害し、その社会に生まれる理解は減り、分化は停滞し、それは宇宙の根本原理とそぐわないということになります。
エクセル環境おじさんのように、環境など他のことを隠れ蓑にしつつ他の自分の目的を達成しようとするずる賢い人が一定数いるわけですが、そのような子悪人が多くの人を騙して社会の上に立つと均一化された停滞した社会を生み出すことが往々にしてあるわけです。
このような子悪人が上に立つことで社会が混乱するわけですが、それは既に環境だけでなく政治においても起こっているように思われます。中心に子悪人がいて、それを応援している人が本質に気付いておらず単純な善意で応援していたりしますから厄介で、子悪人が多くの人を騙しつつ善人が子悪人を守るという構図になっていたりするわけです。その結果として子悪人が作るのが均一化された(一見すると)平和な全体主義になり、概して暴力により支配し、時に虐殺も行います。表面的には平和と言いつつも自由のない社会であり、そこに理解というものが生まれず、ただ(一見すると)平穏な日々を過ごすことになります。それは共産主義国家において均一化された平穏な貧乏な暮らしを多くの人が過ごすという状態であり、それはある程度の平穏はあるでしょうが、新たな理解はあまり生み出さないのです。子悪人が求めているのはその程度のものであるわけですが、その小さな考えを持った子悪人が力を生むことで、社会から理解というものが生まれにくくなるわけです。
目的を「環境」だとか「平和」というところに置いてしまうと、子悪人のようなずる賢い人にミスリードされてしまうこともあるわけです。
社会というのは主義によってのみ存在するわけではありませんから、時に、全体主義の方が多くの理解を生むという場合もなくはないでしょう。とは言うものの、主義というのは、宇宙の根本原理の「理解」と直接的に結びついてはいないように思われます。であれば、個人主義か全体主義かという論点は、「理解」という点に関して言えばあまり答えはないように思われます。惑わされてブレないためには、根本のところが「理解」にあるのか、求める先に理解が広がっていくのか、それとも均一化された社会で理解が止まるのか、そこを見極めると主義主張が正しい方向かどうか見極めができるように思うのです。