よく誤解されるのが、「これを理解すれば良い」みたいなお話ではなくて理解そのものが本質なわけです。
たとえば形而上学とか宗教の教義とか、それは最初の手助けにはなりますけどゴールではなく、ゴールと思うと成長が止まったり傲慢になったりするのです。自分がどれそれを知っているから既に成し遂げた、みたいに思うことは本質的に間違っているわけです。
以前に私の周囲で見たあるあるな風景が、宗教学を勉強して宗教の成り立ちを知ることにより「既に自分は知っている」と思い違いをすることです。ヨーガやインド哲学、はたまた仏教など、大学で勉強して、そのことで「既に知っている」「そんなことをしなくても理解できる」みたいに他人に対して言う人が時々います。その前提にあるのが「・・・を既に知っている」という、「対象」のあるお話であり、それはどこそこの宗教理論ですとか教義ですとか、それを知っているから「既に理解している」と当人は思っているのです。
どうも、両親が宗教を信奉していたり大学で学んだりしている人にこのような傾向が多いように思えて、しばらく時間をかけて学んだことにより「自分は知っている」という思考パターンにはまってしまっているのです。
例えば、両親がそれぞれ創価と似たような宗教だった人の子供は「自分は両親が宗教に熱心だったので、自分は宗教って何だろうと思って大学で宗教を学んだ。」みたいに言っていて、当人は信仰を持っていなくて自分は宗教に騙されなくなった、みたいなことを言っていましたけど、そのように、宗教の家庭に育った人や宗教系の大学という環境においては「・・・を学んで理解すること」という、対象のあるお話しかしないわけです。
そこに一応は「理解」というお話は出てくるにしても、誰かがまとめたお話を理解するということであり、根本原理である「理解」とはそういう次元のお話ではないのに、根本原理に辿り着かずに何かを理解することで自分は達成したと思い違いをするのです。
何かを理解するには対象が必要ですが、その対象が明らかなものであるものを理解しただけで十分と思うのがこれらの人々の特徴です。
確かに、何かを理解するには対象というものが必要で、相対化というものが前提にあります。ですから、理解に達するには対象というものが必ず出てくるわけですけど、ここで言っているのは、宇宙の根本原理というのは理解が及ばないところにある、という点なわけです。
途中までは理解できても、あるところから、理解できない地点に達し、そこで「まどろんで」いるものを対象化し、そして、時間をかけて理解する、と言う過程を経るわけです。
ですから、あらかじめ対象が明らかなものを理解する、ということと、最初は「まどろんで」いるものを対象化して理解する、ということには雲泥の差があるわけですが、世の中の人々は前者をもってして「理解」は十分としているわけですが、宇宙の法則の理解というのは前者ももちろん含みますけどむしろ後者のような姿勢なわけです。
最初は分からない、というのも、対象化されていないわけです。誰かがある程度まで進めた理解に達するというのは割と簡単で、ですが、本当の理解はというとそこではなくて、言葉にならない部分を対象化して理解という形にすることなわけです。そしてそれは一段階では終わらず、宇宙のワンネスに辿り着くまで永遠に続きます。ですから理解には終わりがないとも言えて、「既に達成した」なんてことは言えないわけです。
言えるとしたら、「理解」そのものが宇宙の根本原理であるということはいえて、それは誤解のあるお話ではありますけど、ある程度は原理を示してはいるわけです。