究極なワンネスは宇宙がそのサイクルを終えて1つに収束する時まで訪れないわけですが、概念および基本論理としてのワンネスは普遍的に現時点においても有効なわけです。
時に、ワンネスを否定するような流派やカルトもありますけど、確かにワンネスという言葉そのものは1つということでありますから宇宙の終わりに至るまではそれは存在しないというのはある意味その通りとも言えるわけですが、そうでなくても、この宇宙は元々ワンネスでありますから、宇宙が分裂して2つになり複数になりという分離のプロセスを辿っていったとしても、それは、あたかもそのように見えるだけで、本当に存在しているのはワンネスのみ、ということでもあるのです。今この世界が実態があるかのように思えるものは幻想であり、本当に存在しているとは言えない、ということでもあります。それはワンネスの側が本当の存在とすればそれ以外の仮初めの姿は存在していない、というお話であり、あたかも存在している、というのはインド哲学でマーヤーと呼ばれたりするものでもあるわけです。
この世界があたかも存在しているかのように認知されるマーヤーであるとしたら、本当に存在しているのはワンネスの方なのです。
マーヤーもなくなり完全なワンネスに収束する時が宇宙の終わりの時であるわけですけど、そのような長い時のことをあまり考えてもあまり仕方がない面もあって、生きている今の時間軸においてはその究極のワンネスやってこないわけです。マーヤーもワンネスに収束する究極の状態は遙か先であり、その究極のワンネスを除けば、マーヤーは存在しているわけです。よって、あたかも存在しているかのように見えるマーヤーと、実在という意味におけるワンネスは、それぞれ、今でも既に存在しているとも言えて、マーヤーはあたかも存在しており、ワンネスは実在として存在しているわけです。
そして、元々はワンネスであり、実は今もワンネスなわけです。それは実在という意味においてです。ワンネスの側は変化せず一定で満ちている意識です。時間軸において変化がなく満ちています。
一方、マーヤーは物質のことでもあり、あたかも存在していて、物質は創造と維持と破壊の過程を辿ります。
であるとすれば、変化のしない意識のワンネスは常に存在していると言えます。そして、あたかも存在しているかのように見えるマーヤーは自身を知るために分裂を繰り返し、学びを続けています。
このように、意識たるワンネスがあって、あたかも存在している物質としてのマーヤーとが組み合わさっているのがこの世界であり、マーヤーが存在しているのは意識たるワンネスが「知りたい」という欲求によって生まれたのが根本原理であり、そうであるとすれば、宇宙の根本原理とは「理解」であるとこれまた理解して探求を続けていくことこそが人々のあるべき姿なわけです。