当時のオリオン大戦の武装、規模、人員の数、どれを取ってみても地球上にそれに比類するものはなく、光の側と呼ばれていた人たちが勝ったのかも負けたのかもよく分からない状態になっていた当時の思い出がここ地球で再現されているのです。
これは表現が微妙で、必ずしも再現というわけでもないのですが、当時のカルマを持った人たちが、ここ地球で、同じ事をしているのです。
自称ライトワーカーあるいは光の戦士などと称して悪を討ち滅ぼす、そのような二元論に基づく単純な構図により自らの暴力を「力の行使であって暴力ではない」として正当化し、この地球上で正義による統一を成し遂げようとしています。
しかしながら、それはあくまでもオリオン大戦の失敗に基づく繰り返しをしているだけであり、今の地球に住んでいる人はその自覚はないかもしれませんが、何故その時に失敗したのか、それを学ぶために同じことを地球で追体験しているように思うのです。ですから、傍目から見ておかしく見えてもそれを妨げない方が良くて、当人たちが自分たちが行っていることを自覚して学び尽くすまでその遊びは続くのです。そう、それは遊び・・・ と言って良いほど当時とは違っていて、当時は武装を持った軍隊および具体的な行動が伴いました。今は具体的な武装なしに、スピリチュアルなものとして効果が当人たちはあると思っている儀式(リチュアル)を駆使して世界を救おうとしています。ですが、それは当人たちにかけられた幻想、いわば夢の世界を生きているのです。
当時、オリオン大戦での記憶、それがこの地球に住む状態においても周囲に投射され、本来ないものであるリチュアルの効果というものを生み出しているのです。確かに多少の効果および周囲へのオーラの影響はあるのですが、それは、無念にも統一の夢が破れ去ってしまったオリオンにおける記憶を投影しているに過ぎないのです。
そして、この地球上の出来事は「夢」であると時々スピリチュアルでは語られるように、本来の人生というのは宇宙の方にあって、この地球では制限の元、お互いに学ぼう、という目的を共有して、大した武器も持たずにライトワーカーごっこをしているのです。それは本来のオリオンの時代と比べたら夢のような儚い、小さな、影響力をほとんど持たないものです。ですが、このような体験をすることにより自身が行ってきたライトワークというものがどのような破壊的結果をもたらしたのか、学ぶことができるのです。
二元性のあるライトワークというのは善と悪に分かれ、自身の側が善であり悪は滅ぼすべき、という単純な構図になります。それが時と場合により関係性が複雑になるにせよ、基本的な構造は単純なわけです。
(続きます)