一つの例として、とある神様が中国の皇帝に生まれ変わり、世直しをしようとした時のお話があります。その時、あの世で神様が会議をして「どうしようか、困った。困った。どうにかならないか。」と、良い策もなく困り果てていました。
世の中は混乱し、貧困、不満、争いが絶えない状況でした。
そこで、他のとあるヨーロッパの国の国王あるいはローマ帝国の皇帝として成果を上げたことのある神様が手を挙げて、「それなら俺がやってやろうか」と立候補したのです。
そして生まれたわけですが、なかなか状況は難しく、そのような神様ですら手こずったのです。
皇帝の周囲にいる宦官たちはそれほど深い考えもなく、皇帝が言うことに「はい。その通りでございます」というばかり。皇帝は状況が良く見えなくなっていきました。時に、とても荒ぶれた口調と態度で進言してくる者もいましたが、そのどれが本当のことなのか見えなかったようです。
そして、とある時、「うむ。人々が幸せに暮らすには、このように、皆が統一した暮らしをすれば良い。」として、今で言う計画経済のようなものを計画しました。皇帝からすれば、そうすれば人々が物を奪い合うことなく平和に満ちて暮らせるだろうと思ったのです。
しかし、人々の反応は違いました。贅沢品や今まで食べていた嗜好品を得られなくなることに不満が増大したのです。皇帝はその反応に驚き、「そのようにすれば皆が幸せになれるのに、何がどうして不満なのだ」と思ったのです。
今から思えばローマ時代は単純な時代でした。人々は食事に苦労しなければそれで満足だったのです。ですから、人々に満遍なく食料を行き渡らせることができれば人々は大抵は満足しました。一方、それより時代の進んだ中国においては人々の要求はもっと多種多様であったわけです。
そのような時代背景の理解もそうなのですが、そもそも、根本として、人々の暮らしを統一しようという試みそのものが、宇宙の法則たる「理解」と反する行為だったということです。
実のところこの時の皇帝はその後、大規模な人民の反乱に遭い、殺されてしまいました。そして、殺された後、神様たちは「うーん。やっぱりあの○○ですら駄目だったか・・・。」と残念がりました。
そして、その神様はというと「私は、人民のことが理解できていなかった。しばらく下野しようと思う。一般人として転生して普通の生活をすることで、人々が何を求めているのか学びたい。」と言い、実際、そうしたのです。真面目な神様です。
それは最初は人民のことを学ぶ、という、文字通りのことでした。しかし、やがては根本原理たる宇宙の法則の「理解」に辿り着きます。「そうか。私は今まで、人民に好きにさせる自由が大切なのかと思って学んでいたが、それは表面的なことで、一番重要なのは人々が理解を増やすことができるかどうかである。よって、皇帝あるいは王の役割とは人々が学びを深めることができる社会の基盤を作ることなのだ」という確信を得たのです。
それは割と最近のことのようです。
神様がこの確信を得ることで国の支配の有り様も大きく変わる予兆があるわけです。