(続き)
他者への無理解、それは、文明の平均的な価値観に対して低すぎても理解できないし高すぎても理解できない、そのような状況であったと言えます。その構造は今も同じなのではないでしょうか。
そして、他者への無理解に対して、無理解が存在するということに無頓着でいて気付かぬまま他者に対して節制と称して同調圧力をかけた結果、同じ価値観の人はそれで安泰である一方で、異なる意識段階(それは上下というだけでなく軸の違った価値観をも含む)の人にとっては苦しい抑圧となったのです。
現在のスピリチュアルにおいても画一的で「こうすればよい」「これが良い価値観」「スピリチュアルならばこう考える筈」という同調圧力があり、それに反する人はスピリチュアルではない、とさえする風潮があります。そのような同調圧力こそがスピリチュアルおよびその根源たる宇宙のとある流派の人たちの根本問題であり、そのように、他者への無理解こそが分断を生み、同調圧力を発生させ、争いに発展することもあるのです。
では、どうしたらよいでしょうか。無理解というものは、理解できない状況というのは意識段階が違えば必ず発生しますから、本当の意味で理解することは完全には不可能であり、その前提に立った上で、「理解できないものがある、ということを前提にする」ことが必要のように思います。
実のところこの宇宙はワンネスでありますので自分が理解しなくても他の意識体が理解すればそれで良い、という面もあります。ですから、自分のカルマではないものに対してあれこれ口出しする必要もないのです。自分が関係するものはカルマで引き寄せられますし、自分の課題であれば関与して理解すれば良いのです。その時、他者に対して必ず無理解があることを前提にしさえすれば同調圧力や他者に対して節制を要求するということもなくなってゆくでしょう。
時にリソースの取り合いになったりして節制をお願いするというのは別のお話で、ここで言っているのは道徳的な観点からのお話です。リソースに限界があるのであればトレードオフが働きますが、制限のない思想的なお話においては各人の学びの自由があり、それを尊重すれば争いはなくなるのです。
そして、それこそが「善と悪」の二元論を克服することでもあります。
このように理解を基本にすれば「善が悪を滅ぼして統合する」というような荒っぽい乱暴な無理解により「善」が勝利するというようなオリオンのカルマから続く古典的なシナリオを描こうとする人も少なくなってゆくことでしょう。