・カルマ → 行動あるいはトラウマ → エゴによる認知の歪み → 二元性の善悪に基づく争いの継続
・カルマ → 行動あるいはトラウマ → 高次の意識による認知 → 味わい、昇華する。ワンネスたる統合
カルマと言いましても普通の「行動」に結びつく温和なものが大半ではありますが、その一方で、トラウマをもたらす種類のものがあります。今世での過去の行動により深く眠ってしまったカルマが今世のうちに出てくればトラウマなどとして今世の辛い記憶として蘇りますが、それがいわゆる来世へと引き継がれた時にそれは原因不明の葛藤やトラウマとして顕現するのです。
そして、そのトラウマの原因たるカルマへの対処として、まず、二元性の争いの方を見ていきましょう。この場合、まずは分離が起こります。その原因に対して「私ではない」という初動たる認識から始まり、やがては、分離を引き起こし、ものによっては「悪なので成敗すべし」という結論へと至ります。そして、いつ終わるとも知れない争いと分離を繰り返します。時には自分の中での葛藤に終始するでしょうし、時には、その自己の感情やトラウマを周囲に投射して周囲に悪を見て、悪に対する(他人に対する)正義と自称する戦いを始めます。それは実際には心理学でいうところの投影あるいは投射というもので、本当の他者を見ているわけではなく、自分の内面の姿の投影として他人を見ているわけです。この場合、他人に悪を見るということは自分の中に悪があるということであり、実際には他人が悪ではないのにも関わらず悪と見出して戦いを繰り広げるのです。善と悪が存在し、自らは善の側であるので悪は成敗すべしという、分離の二元性における善の側の立場をとり続けるのです。時に自覚して自らが悪だと認知する人もいますが、それも立場が違うだけで同じ事です。分離により二元性の善悪が生まれて善と悪の争いが続きます。
一方、ワンネスたる統合によるカルマの対処としては、それは自分のものではないかもしれないけれどもそのカルマを感情も含めて感じつつ味わい、そして、昇華するのです。それで終わりです。簡単なものです。
トラウマやカルマに対して、どうしてこれほど異なるアプローチや努力の違いが出てくるのでしょうか。それはまず知識が足りないということ、そして、認知の不足です。
知識という点においては、スピリチュアルでなくても心理学を学べば投射あるいは投影という効果は学べますから、周囲に見ているものが必ずしも周囲そのものではない、ということはすぐにわかりそうなものです。ですがスピリチュアルな人というのは厄介で、そのように知識を入れるとエゴの抵抗およびエゴは巧妙に自分を言葉巧みに騙そうとしますから、そのような知識が入った瞬間にエゴの自己防衛反応が瞬時に働き、「私は分かっています。ですから、私はきちんと自己や周囲を見ることができています。」というように、自己欺瞞により真実を覆い隠してしまうのです。これはスピリチュアル初心者にありがちなことではありますが、気をつけていないといつの間にかこの罠に落ちることもありますので常に気をつけるくらいでもいいように思います。
そして、認知の不足に関しては、それはトラウマなどの葛藤がマインドの周囲に黒い雲のように覆い隠されてしまっている状態ということでもあり、そうなると、真実を見ることができないわけです。曇りの日に太陽を見ることができないように、真実というものがどこにあるのか見失ってしまいます。それが認知の不足ということでもあり、仏教では無知と言い、インドではアヴィディャー(Avidyā)とも言います。そのような状態では自らのエゴが本当の自分であるかのように振る舞っていますから、プライドを傷つけるようなことに関しては防御反応が働くわけです。
そのように、実際はとても簡単なことであるのにエゴがあるとカルマへの対処は難しくなり、他者へとその葛藤を投射することで善(自分)と悪(相手)が生まれ、善が悪を滅ぼして統合するという自称ライトワーカーのストーリーになり、争いが継続されます。
エゴをなくすというのは一見するとスピリチュアルなことのように思われるかもしれませんけど、実際には認知の歪みをなくすということであります。エゴがあると真実をありのままに見ることができませんから、スピリチュアルに限らず仕事においても支障が出たりします。一方、真実を見ることができればスピリチュアルだけでなく仕事も成果が上がります。そのように、一見するとスピリチュアルと仕事は無関係のように思えて実際はその必要とする能力というものは似通っているわけです。
ワンネスたる統合というとスピリチュアルかのように思われるかもしれませんが、要は真実を見るということでありますので、実は世間一般で必要とされる姿勢なわけです。
高次の認知というのもスピリチュアルだけのことのように見えるかもしれませんが、これまた本当に優秀な人はことごとく高次の認知を有しています。直感や思考力が早いということはそれは高次の認知が働いているということです。
ざっくばらんに言ってしまえば、頭がそれほど良くなくて認知能力が低い人が二元性の善悪とか勧善懲悪のような自称ライトワーカーのストーリーを真実だと信じ込むわけです。その一方、人生や社会とはそんな単純な善悪で片付けられないという思いに至って複雑なこの社会をありのままに理解しようともがいたり苦労して少しずつで良いので認知や知識を増やそうと思っている人こそがワンネスたる統合にやがて至るわけです。究極のワンネスというのはこの短い人生においては不可能ではあるにせよ、ワンネスに近づくように段階を超えていけるわけです。二元性の善悪の段階にいる人は、この成長の可能性を捨ててしまっているか、諦めてしまっているのです。
善悪の領域にいる自称ライトワーカーは、このようなワンネスのアプローチを時に嘲笑したり揶揄して見下したりします。その姿はとても子供っぽくて単純です。そして、時に自分の内なるエゴに対峙することを恐れて他者に対して敵対心をむき出しにします。自分はライトワークをしていると自称し、自分は悪を滅ぼす正義の味方であるとして、ライトワークで悪に立ち向かわない他者を嘲笑することさえあります。そして、このような思考が世界の紛争の思想的な支えになっていると言えます。
一方、この世の複雑さを受け入れた大人は人生や社会とは複雑だと理解し、お互いの立場を理解しようとします。それは統合ということでもありますしスピリチュアル的にいえばワンネスとも言います。それを一般社会での人生経験で学ぶこともあれば、スピリチュアルで学ぶこともある。そのくらいの違いしかないとも言えるわけです。
お互いに学ぶべき箇所
現状、この2者の見解が平行線を辿っており、これまた統合に至っていない、そのような状況でもあるように思います。実際は、自称ライトワーカーの行動力は見習うべきです。一方、理解とワンネスの立場も好ましいものです。今は自称ライトワーカーには理解が足りず、ワンネスの立場としては行動が足りないのです。それぞれどこか偏っていて、統合に至っていない、それが現在の状況かと思います。
ここまでわかればやるべきことは明白で、自称ライトワーカーは本当のライトワーカーになりたければワンネスを学んで実際にワンネスを経験するのです。そして、既にワンネスに至っている人は行動力を身につけます。
先日書きましたように、この地球が何度も地球の管理者にNOを突きつけられてリセットおよびやり直しを命じられている状況は、このあたりが鍵になって次の段階へと進む許可が得られるように思うのです。
ただ、その状況になるのはすぐには難しいように思われます。自称ライトワーカーたちはワンネス的な「理解」に重きを置きません。自称ライトワーカーは自分たちの教義を正しく学ぶことこそが「理解」だと考えており、敵を理解しようとはしていないようです。そして、「理解など生ぬるくニューエイジ的な空想であり、悪というものは絶対的に存在する。よって悪を滅ぼさなくてはならない」として強固にその理想を思い描いています。一方、ワンネスの側としては行動が甘いのは昔も今も変わらないようです。
ここまでわかればやるべきことは明白で、自称ライトワーカーは本当のライトワーカーになりたければワンネスを学んで実際にワンネスを経験するのです。そして、既にワンネスに至っている人は行動力を身につけます。
先日書きましたように、この地球が何度も地球の管理者にNOを突きつけられてリセットおよびやり直しを命じられている状況は、このあたりが鍵になって次の段階へと進む許可が得られるように思うのです。
ただ、その状況になるのはすぐには難しいように思われます。自称ライトワーカーたちはワンネス的な「理解」に重きを置きません。自称ライトワーカーは自分たちの教義を正しく学ぶことこそが「理解」だと考えており、敵を理解しようとはしていないようです。そして、「理解など生ぬるくニューエイジ的な空想であり、悪というものは絶対的に存在する。よって悪を滅ぼさなくてはならない」として強固にその理想を思い描いています。一方、ワンネスの側としては行動が甘いのは昔も今も変わらないようです。