ワンネスの階梯では個(私)がなくなる恐怖を感じる

2025-01-30公開 (2025-01-17 記)
トピック:スピリチュアル: 理解

それを人によっては「悪」と呼びます。ワンネスを恐怖するのです。ワンネスになることで「自分(私)」が無くなってしまうという恐怖を感じるのです。そして、その恐怖を他者に転写・投射・投影して「悪」を感じるのです。ありもしない「悪」を他者の中に感じてしまうのです。

そして、ワンネスを避けることに非常な努力を払い、「悪は滅ぼさなくてはならない」という認知の歪みを発生させ、実のところそれはワンネスによって「自分」がなくなってしまうという恐怖を他者に転写・投射・投影して、ワンネスに至ることを恐怖している自分自身が他者に対して「悪」という幻想を抱き、自己正当化するために「正義あるいは善のために悪を滅ぼす、悪を成敗する、悪と戦う」という勝手な論理を組み立てる人がこの世の中には存在しているのです。

それは、エゴ(幻想の自分)を守るための論理の鎧であり、その鎧を守るためにあれこれと理屈をこねて自己正当化しているのです。そのような、エゴがあるのにも関わらず自分のエゴを理屈でもって覆い隠して自己正当化し、それで自分はというと自称ライトワーカーとして悪と戦っている、と自己主張してその戦いに参加しない他者は間違っていると言ったり、地球が滅ぶのを自分たちは救っているのだと主張しています。実のところ、それは自己のエゴを覆い隠すための都合の良い論理でしかないのです。

やがてそのエゴは肥大化し、他者から指摘されることを恐れ、指摘あるいは本当のことが明るみに出る、はたまた、それに気付いてしまいそうな状況になると極端な拒否反応と叫び、雄叫び、ヒステリーな態度になって他者を糾弾、自己正当化のために悪魔(デーモン)を持ち出したりして、とにかく自分のエゴを守ることに必死なのです。当人はというと「光が強まるほど闇も強まる」というようなどこかで聞いたような昔から使い古された文言を言ったりします。実のところ、これはというとエゴの抵抗のことなのです。エゴというものは本当は存在していない幻想による「私」という概念ですが、(エゴが残っている人が言っているところの)「光が強まる」というのは実はエゴが強まるということなのです。そして、「闇も強まる」と言っているのは、本当の私であるこの世のワンネスたる意識の源が近づいてきていることに対してエゴが恐怖をしているのです。エゴは本当は存在していないがために、ワンネスを知ってしまうとエゴがなくなってしまうので、それで、エゴが恐怖し、エゴが自分を守るために「闇も強まる」というような都合の良い論理を組み立てているだけなのです。

そのように、光と闇で物事を語る人は二元性の世界に生きており、ワンネスに到達していないのです。それどころか、そのような自称ライトワーカーはワンネスというもの自体を否定したり、あるいは不思議な論理でワンネスを回避しようとします。例えば「ワンネスというのは善も悪も内包しているので危険」というようにワンネスを避けるべきものとして捉えています。

さて、ここまでエゴの鉄壁の守りとワンネスの関係を垣間見ましたが、それでは、どのようにしてエゴを克服してワンネスに至ることができるかを解説致しましょう。とは言いましてもそれはとても簡単なことでもあり、人によっては(簡単だからこそ)とても難しいことだったりします。

その鍵は「ワンネスに飛び込む」ことです。そうすればエゴは消え去ります。エゴは恐怖するでしょうが、それは最初だけのことです。エゴが消え去った後は平穏な世界に至ります。そこには善も悪もありません。たったそれだけのことです。そして、ワンネスに至った後にこの世界を見て、それで秩序を語ることもできます。その時の秩序はワンネスに至る前とは別物です。ワンネスに至る前は二元性による善と悪の世界観であり、誰かが正しくて誰かが悪い、という価値観に基づいています。一方、ワンネスに至った後は調和のみがあります。良いも悪いも内包した調和が基準になるわけです。かといって罰のようなものがないわけではなくて状況を整理するための大岡裁きのようなものは行われます。個をベースとした西洋の価値観においては誰かが正しくて誰かが悪い、という二元性を帯びます。一方、ワンネスを基準とした価値観においてはその原因にそこまで重きをおかず、原因も確かめられますが、未来にどのようにしたら良いのか、というところに焦点が当てられます。罰にしても将来を見据えたものになります。いたずらに保障を持ち出すことはなく、状況に応じて相応の行動が求められるくらいです。それが人にとってはとてつもない負担だったりしますが、その義務を果たすことで人として成長し、調和に至るのです。そこには二元論としての善と悪あるいは悪は滅ぼすべきといった価値観は存在しないのです。

エゴがある状況でエゴを隠し、様々な理屈をこねくり回して二元性の善と悪を正当化しているのが自称ライトワーカーやカルト、そして様々な二元性のある宗教の状況であると言えます。

ワンネスに至るというのは、そのエゴが(ワンネスに至る前に)恐怖するのです。そして、飛び込んでしまえば楽になるのに、エゴがいつまでも抵抗しているのです。たったそれだけのことが、多くの人にとっては難しいのです。簡単なことができないのです。そして二元性の論理に逃げ込み、善と悪の戦いが継続します。悪を滅ぼすという単純なストーリーが自称ライトワーカーたちによって正当化され、ワンネスが卑下されるのです。

階梯として、以下のような段階を経ます。
・個としての自立
・エゴ(あたかも存在している私、自我)の成長
・エゴの克服、エゴがなくなってしまうことに対する恐怖
・ワンネス(の各段階)

ワンネスは一回で全てが達成されるわけではなく、各段階にて少しづつエゴの克服がなされ、恐怖を感じたり、はたまた感情的葛藤あるいは感情の爆発、涙や各種を伴う感情を伴うこともあり、そうして少しずつワンネスが深まっていきます。

この自然な過程を避けてエゴを守り、光と闇のストーリーに逃げることでエゴが自己正当化するストーリーを描いている人が一定数いるわけです。ワンネスに至れば光も闇もなくなり統合されたワンネスになります。段階を通じてそれは深まっていきます。そうなれば、光が闇を滅ぼすというストーリーは出てこないのです。ワンネスが光も闇も超越するということでもありますが、それは別に光を支配するとか闇を支配するとかいうことではなくて、光に勝つということでもなくて、闇に買つということでもなくて、光と闇の二元性の世界はありのままにこの世の中に存在するけれども、それを超越したワンネスがそれら二元性の世界の中にも貫いているということなわけです。ですから、ワンネスに至ったかと言ってこの世界の二元性の善と悪の戦いが何かすぐに変わるということはないのですが、それに対する理解が変化し、そして、その二元性の戦いに参加することもなくなります。二元性の戦いは結局はどちらかが正義でどちらかが悪になってしまい、争いの連鎖が終わることはありません。そのような二元性すらも貫いているワンネスがあって、そのワンネスを理解した上でこの二元性の世界を見てみれば、全く違った理解が生じるのです。そして、そのワンネスの理解こそがこの世界が平和になる鍵なのです。

この世界の平和は二元性に基づく善と悪の戦いで善が悪に勝利することによって達成されるのではありません。二元性の世界は善であっても悪であってもエゴが自己主張しているという点に関しては同じであり、そこに調和があるように見えても「悪を滅ぼす」という観点がある以上、恒久的な平和はやってこないのです。

ワンネスだけがこの世界を平和に導く鍵です。そして、ワンネスに至る前にエゴが恐怖を感じて「悪」のように見えてしまうというエゴの抵抗を乗り越えることこそがワンネスに至る鍵なのです。