何度となく繰り返される人生。最初は何の疑問も持っていなかったように思います。何か少しの違和感がありつつも、それで良いと思っておりました。人生の終わりに私の目の前に人生ゲームをクリアできたかどうか結果が表示されましたが、いつも目の前が薄暗くなりバッドエンド。正しい感動のエンディングではありませんでした。そして人生やり直しになります。それを何十回も繰り返してきました。とても幸せな人生であった筈なのに、そうなってしまうのです。社会的にも立場があり、妻にも愛され、何も問題ない筈でした。しかし、いつまで経ってもゴールに達しない状況で、私はこの時空に囚われていたのです。
そこでやがて方向転換をしようと思い立つわけですが、それでも、最初は小さい修正に留まりました。最初はゴール条件がわからず、いろいろ試してみました。自分ではうまくいったと思えた人生であっても終わってみるとまたバッドエンドになってしまうのです。生まれる前に志を立てても、きっとその志の決意が弱かったのでしょう。志を果たすことなく普通の幸せな人生に取り込まれて、なかなか動き出すことができませんでした。それはそれで優しい妻に恵まれて幸せな人生だったのですが、それでは志は果たすことができなかったのです。そして、そのうち元々の志を忘れ、幸せな人生の日々を過ごすことになったのです。志を忘れてしまったものの、何かが足りない、何か心にひっかかるものがありました。美しく女神のような理想的な妻がいつつも、何か大切なことを忘れてしまっていて、時折そのことを思い出すも、何が志かも忘れてしまっていたのです。
そこで、どうなれば正しいゴールになるのか再検討しました。今までは自分の自己実現が目的でそれを果たしてもバッドエンドになるということでした。最初は、もっと大きなことをすれば正しいゴールになるのかと思っていました。しかし、それなりの成果を果たしてもまたしてもバッドエンドになってしまうのです。そこで少しの修正や安定的な環境では駄目だということに気づき、そもそもの立ち位置を見直すことにしました。そして気がついた正しい答えは、自分の元々の成り立ちです。何故、自分がこの地球にいるのか、それを思い出したことで、目的というものがそもそもあるのではなく、自身が地球の未来を選択していける、ということでした。それは安直に地球を救うこと以上に、地球を滅ぼすのも救うのも自らの選択次第ということでした。そのようなことは、かつて思いもよらないことでした。自らの意識は地球の意識および宇宙の意識に繋がっているため、(高次の)自分の意識というものの選択は深いところで地球の選択でもある、ということに気がついたのです。であれば、(高次の)自分の選択として地球はもう滅亡すべきと思えばそうなるし、平和になることを選択すればそうなるのです。今はというと、(高次の)自分としての意識は明確な選択をしていない、それ故に流されてしまっていた、ということにも気がつきました。ゴールがわかったとて、まだその実現には至りません。
その時の何十回もの転生は、一旦は高次のグループソウルに昇天することで一連の連鎖を終えました。それはそれで幸せな人生だったわけですが、志を果たすことはできなかったのです。そこでかつての私であるともいえるグループソウルの集合意識は、再度、分霊を作ることにしました。過去の記憶や経験を踏まえ、違った人生を計画したのです。その分霊はまず1つの人生を生きます。江東区付近でそれなりに恵まれた家に生まれることでこの世の有り様を学び、その後、再度同じ時代に転生してから、本来の志を果たそうとしたのです。その(分霊にとっての)2回目の転生においても手探りで、最初はやはりうまくいきませんでした。どうも、エゴが強くなってしまうのです。エゴの強さによりなかなか覚醒には至りませんでした。
そういうことであれば、と思い、徹底的にスピリチュアルな条件付けをしてから生まれたのです。それも、最初は手探りでした。そうして大きくやり直した後の多くの人生においてスピリチュアルな自己実現を成し遂げても、またバッドエンドになり続けたのです。幾つも試したスピリチュアルでも駄目となると、その行き詰まり感にはたはた疲れ果てました。思えば、その答えがスピリチュアルな話だと思ってしまったことが勘違いだったのですが、その時点ではまだ気がつきませんでした。
そこで、それまでは避けていた、自分が嫌だと思う状況の設定をしてから人生をやり直したのです。これが今の私の人生です。人生の前半は苦労をする辛い環境に置くことでエゴを克服して人生の中盤以降の覚醒を目指すことにしたのです。それはかなりの実験でした。うまく行く見込みはほとんどないと当初は思っていたのですが、意外にもそこに突破口があったのです。この人生においても何度も途中からやり直したり微調整を行いました。単純にスピリチュアルで地球の未来の選択をするというよりは、基礎が重要だったのです。身についてしまっていたエゴを徹底的にそぎ落とすような環境に生まれることが重要だったのです。繰り返しなされる人生の中で、今まで価値がないと思っていた素朴な低次な荒い乱暴な出来事や思考の中に意外にも未来を紡ぐための答えがありました。それまで避けていた人々の苦悩の中にこの世界の争いの火種があり、それを理解することで解決の鍵をも得たのです。
それはスピリチュアルや二元論で語られるような「正義が悪を討ち滅ぼす」というな単純なお話ではありませんでした。映画やドラマで見るような「世界を救う」とかいう英雄のお話でもありませんでした。一つの考えや団体あるいは思想家が全ての答えを持っていませんでした。その考えが固定的であればあるほど争いが起こることも学びました。低い教え、高い教え、それぞれが階層的に織りなすことで秩序というものが保たれます。高次の考えのみならず低次の考えもそれなりに秩序があることを学びました。ワンネスから分離状態の宇宙が作られたのはワンネスが自らを理解するためであり、2つに分かれることで自身を外から眺めて理解しようとしたのです。であれば無数に分離した状態でお互いに理解できないのも致し方ないという前提の元に、少しずつでも理解を進めてゆくという姿勢が基本になることを知ったのです。スピリチュアルな教えは多数あれども、その根幹は共通していることも学びました。私はもう、一つの教えにこだわることはなくなりました。今ここに至り、宇宙の原則は「理解」であり、宇宙は無限であるからこそ個人が全てを理解することは現実的には不可能であり、よって多様性とは理解のための分離状態であり、であれば他者や物事を完全に理解することは不可能であり完全な理解である必要はなく、自分が理解できる範囲で個々が理解を増やしてゆけば良いわけです。宇宙の根本原理が理解を増やすことであるとすれば理解を増やさない行為こそが宇宙にとっていらない行為であり、宇宙が欲するのは理解を増やす行為ということは理解を増やさないような行為および社会は宇宙から存続を否定されるということでもあり、それに沿う形で文明や社会あるいは環境の変化も起こることを理解しました。よって、理解を増やす方向に社会を持って行けば未来が紡いでいけることを理解したのです。そこに正義や悪という観念は出てこず、ただ理解が増えるかどうかという観点で宇宙は動いていることを理解したのです。この方向性で行動すれば良いことに気がついた時、私は今後の人生の再設計を迫られました。
そして、改めて行動をした時、それもまた大した意味もなく空しいものであることを感じたのです。自分が良いと思っていたことをしたのにも関わらず終わった時に空しい結果になり、人生ゲームの終わりで目の前にやはりバッドエンドが表示されたのです。ただ、以前のバッドエンドとは違い、多少の光明もそこに見ることができました。その行動は、今から思えば、どこか自尊心から来る行動で、その行動の源泉はというと世間の宣伝やマーケティングに踊らされた形での「良い社会」「良い行動」の規範に従っていて、それはというと、特定の人々の利益に供する行動だったのです。要は、自分はいいことをしているつもりでいて、他者の利益のために行動していたのです。それは大した意味がないことに気がつき、空しさを覚えたのです。それがバッドエンドであることは明白でしたが、当時は気がつかなかったのです。
そして、次にやり直した人生では空しい行動を辞めてみました。この世は利益を追求するゲームであるとすれば、それと離れ、何もしないことこそが正解かと思い直したのです。その人生を終わってみると、行動した時と比べて心は平穏でした。心は満たされました。ただ、世界は平和にはなりませんでした。ただ、それでも、世界には人々の自由がありました。一見すると酷い世界に見えても、人々が自由に行動することは良いことではないかと思い立ったのです。行動しないことで、世界のありのままを肯定する機運を得たのです。これは一つの発見でした。であれば、世界平和などわざわざ達成する必要もないのではないか、と、そう思いさえもしました。
その後、自身に向き合いました。そして得た答えは、世界のありのままを肯定し、自分の心の平穏を満たし、世界の平和を達成すること、それら全てを満たすことができてようやく正しいエンヂィングを迎えることができることに気がついたのです。それに気がつく前は、世界のありのままを肯定するならば自分が行動してはならず、自分が世界を変えるなどエゴの所作だと思っていたのです。ただ、それは世界と自分とが分離しているが故の解釈であり、それすらも二元性のある観念による解釈だったのです。この世はワンネスでありますから、そのような躊躇や遠慮、行動しない理由というものもエゴの抵抗であることにも気がついたのです。であれば正しい行動とは何でしょうか。ワンネスの行動です。世界と自分が一体であれば、その行動に何の躊躇があるでしょうか。その行動原理が世間的に良いこと(それはマーケティングの宣伝である)ではなく、自分の心の内から発した衝動であれば、それは肯定される筈です。何故ならば心というものはワンネスに繋がっており、分離の状態ではエゴだが高次に繋がることで地域の意思あるいは国の意思、民族の意思、地球の意思と繋がることができるからです。まずは小さな範囲から始まり、大きな行動へと繋げてゆくこと。そのような行動は肯定されることに気がついたのです。そうであれば、行動することに何の躊躇がありますでしょうか。・・・このようなことに気がつくための今回までの人生の転生であったといえます。新たな理解の元、現在および過去もタイムラインは書き換えられてゆきます。そして、目的を達成すればこの時空から解放されるのです。今の人生は、その途中にいると言えます。
既に未来図はある程度はできていて、ある意味、ブループリントとしては既に一応の目標は達成しているかのようにも見えます。そして、それを過去に戻って修正するためにやり直しているとも言えます。しかし、油断はできません。ブループリントがあるからといって、また、やり直したとしても必ず成功するとは限らないからです。しかしながら、以前の細かな失敗を修正するためにやり直しているともいえて、そのために、他のことに目を瞑り主目標だけを達成しようとした時と比べて若干回り道をしているようです。自分のことながらそう考えられます。そのように、らせん状に山を登るかのようにスピリチュアルの世界を様々に探求し満足しているのです。違うように見えても結局は同じことであることを学びながら今を生きています。
もはや、他人のマーケティングに踊らされてずる賢い他者の利益に供することはしません。スピリチュアルの本質を学び、理解します。そして、私のルーツを知ることによりどのように行動すべきかの指針および目標を得て、誰の利益のために行動すべきかも明らかになりつつあり、それを更に明らかにするために、そして、その結果を見極めるために選択と行動を繰り返している現状であると言えます。
(2025年1月現在)