ワンネスを対象化して理解しないこと

2025-02-16公開 (2025-02-15 記)
トピック:スピリチュアル: 理解

希に学者や大学でインド哲学等を勉強した人で、ワンネスや「全体」を学問的に「対象化」して理解したつもりになっている人が散見されます。それらの人々の特徴としては、何やら時にケラケラと笑いながら「・・・そんなことをせずとも、理解できる」と言って、自分たちがインド哲学やら何やらを理解していると自信有り気に自称するのです。その説明を聞くと確かに理屈としては「全体」のことを語っていて何やらそれっぽくも聞こえるのですが、それは、対象化された理解なのです。

そこで語られているワンネスやら「全体」の知識とは文字通り「全体」なわけですから、対象化した時点でワンネスや全体ではなくなってしまうのです。しかし、学問でインド哲学やらを勉強した人は、そのように対象化された「全体」の知識で自分たちが「理解した」と自称しているのです。それは、インド哲学で言っているところの本当の「理解」とは程遠いものです。そういった知識も必要ですが、対象化した理解とは初歩的な段階で現れるもので、まだ始まりに過ぎません。それなのに、学者や大学で勉強した人は自分たちのことを「理解した」と強弁し、時に「理解できている自分のことを理解できない貴方は頭が悪い」ことを表現および認知を押しつけるためにケラケラと笑ってみせるのです。本当に理解したのであれば認知を押しつける必要もないのでそのようなケラケラとした態度にはならない筈ですが、何故か、学問の場で学んだ多くの人に共通してそのようにケラケラした態度が散見されるのです。これはおそらくは日本の大学や学問の分野で頭による理解をした人がそのような集合意識を形成しているのだと思われます。これらの分野はそれほど専門家の人数も多くありませんから、同じような態度が伝染しているように思われるのです。

一方、実践者あるいは宗教者はそのような「頭」での理解をした後に、「では、本当にワンネスというのはどういうことなのだろうか」と探求を続けます。学者や大学で勉強した人はそこまで行き着かないか、あるいは、頭で理解しただけで理解したと思い込んでいるのです。そのように、実践者と学者の間ではかなりの理解の隔たりがあるのですが、それでも、学者や研究者はエゴが強いですから「自分たちは理解している」と強弁し、時にそれを押し通すためにケラケラと笑って他者を見下したりしながら実践者のことを「そんなことをしないでも理解できる」と見下したり実践者の足を引っ張ったりするのです。

はたまた、インドで勉強してきた人すらも同様の態度である場合があります。インド哲学を学んだとして、その初歩的な理解を得たところで止まっているのですが当人たちは理解したと思い込んでいるのです。インドの古い物語に、賢者から真実の知識を教えてもらったデーヴァ(神様)とアシュラ(悪魔)がそれぞれ理解をして、デーヴァはというと理解したことが本当に真実なのだろうかと自己研鑽を続けてやがて本当の知識に辿り着いた一方で、アシュラの方はというとその知識を完全に理解したと思い込んで真実の知識に辿り着かなかった、という割と有名なお話があります。そのようなことが現実でも普通に度々起こっているのです。

そのように多少かじった人ですら惑わされる状況ですから、精神的修行の分野に自信がない状態でそこらの研究者や学者あるいは中途半端な修行者と話すのは時に有害で、関わったところで「そんなことをしなくても理解できる」と心を折られてしまって精神修行が滞ってしまうことがあるのです。それはヨーガやインド哲学あるいは何でも良いですがいかなるものにもあてはまります。そのようなこともあり、スピリチュアルな分野では「秘密にする」ということがよく行われてきました。スピリチュアルを始めたばかりの人は特に、ある程度の確信を得るまでは心が弱く、様々な誘惑や障害に負けてしまうことがあります。ですから、自分がやっていることを他人に話さない、あるいは、信頼できる師匠にのみ話をする、ということが伝統的に行われてきたのです。そのように、精神修行とはとても精妙で壊れやすいものなのです。まだ確信がないうちに上のように学者にケラケラ笑われて強弁されたら数年単位で停滞するかもしれないのです。

本当にワンネスや全体を理解しているのであれば他者もそのワンネスや全体の一部であることを理解している筈です。他者に対して足を引っ張るような態度を取れるのは、ワンネスの意識に到達しておらず、あくまでも理屈の上で構造的にワンネスという概念があると理解しているだけなのです。

一方、修行者はやがて本当のワンネスの意識に辿り着きます。そのような意識というものは絶対的に存在しています。そのために瞑想をしたり様々な修行を行うのです。

本当にワンネスを知っていて近道を知っている人もいるでしょう。しかしそのような人は希です。近道を知っていてケラケラと笑って真実を教えてくれる人もいるにはいますが、ほとんどいないと言って良いと思います。大抵は、自分の知識に慢心して真実に至ったと思い違いをしているのです。

そのことを分かった上で、ある程度の抵抗やミスリードがあるかもしれないという前提の上で他者に聞くためにはそれなりに自分の方に判断力がないと惑わされてしまいます。多少の進歩の後で他者の見解を聞くことはためにはなるでしょうが、信頼できる先生がいなければ色々な人に聞いたところで迷ってしまうだけかと思われます。

そして、とても誤解されている点が、「理解」という言葉です。一般的に学問や研究者の言う理解とは「対象」についての理解です。しかし、ヨーガやインド哲学でいう「理解」とはワンネスの質の1つなのです。ですから、そのような構造および構成になっているということを理解するということは、ワンネスというのは理解そのものであるということを理解することなのです。それは理解といいつつも、感じることでもあり、意識そのものが理解の質そのものであることを体感的に直感的に実感かつ理解することなわけです。それを全て理解という一言で言うこともできますが、学者や研究者が言うところの相対化された理解とは全く異なるものなのです。

表現として間接的知識(ニャーナ、あるいはパロークシャ・ニャーナ)と直接的知識(ヴィッニャーナ、アパロークシャ・ニャーナ)という言い方があります。学問で学ぶのが間接的知識で、直接的に真理を知る(=ワンネスを知る)ことが直接的意識であるわけです。これらのうち、一般的には学者や研究者は間接的知識を得ることで「知識を得た」と言うわけですが、本当に必要なのは直接的知識の方なわけです。間接的知識は対象化できますが、直接的知識というのは対象化できないものです。よって、西洋の論理的思考の分析手法は往々にして対象化を伴いますので間接的知識をベースにした学問的な分析となり、ワンネスを直接的に知ることとは相性が悪いのです。むしろ学問など学ばずに直接的にその知識に飛び込む方がよほど真理に近づける場合も多々あります。

ワンネスの意識というのは、ワンネスそれ自体が意識ということでもあります。満ちていて永遠でなくなることのない意識、それがワンネスです。その意識そのものが理解でもあるわけです。意識がワンネスであり、ワンネスが理解そのものでもあるわけです。ワンネスを対象化してワンネスを理解するということではありません。対象化した時点でそれはワンネスではなくなってしまいます。ワンネスそのものの質の1つに理解というものがある、ということです。と言いましてもそれはワンネスでありますから質の1つという言い方も語弊があって、確かに質の1つという見方もできますけど、それはワンネスでありますから全体でもあり、そうであれば、ワンネスの全体が理解そのものである、とも言えるわけです。ワンネスは意識でありますから、意識そのものが理解そのものである、とも言えます。これらは全て違ったものであるかのように見えて実は同じ事を言っていて、ワンネスとは全体でありますからそれは意識でもありますし理解でもあるのです。

このようなことを学者や研究者はそれぞれ別にして相対化して考えるので本質がわからなくなるのです。一見するとそれっぽい理屈を出して、その理屈を聞くと「あれ、この人わかっているのかな」と思えても、態度やその他の箇所で「あ、やっぱりわかっていないみたい」と見抜くことができるのです。そのように見抜くためにはワンネスとは本当はどのようなものなのかを知っていないと学者や研究者の強弁に惑わされてしまいます。

ワンネスとは対象化できず、全体であるからこそワンネスなのです。不二の意識、という言い方もできます。

それは見方を変えれば、不変であるということでもあります。仏教などでいう無常ということでもあります。意識は現れは消える、変わらないものは何もない、意識であれ物質であれ何も変わらないものはない。そのようなことを理解することがワンネスへの入り口でもあります。

そして、ワンネスの世界とは変わることがない世界です。この物質界は変化があります。一方、ワンネスの世界というのは物質ではありません。それは意識の世界です。満ちていて変わることがありません。

思考というのは意識よりも物質に近いところに存在しており、思考は消えたりしますが、意識は常に満ちています。思考というのは波(サンスクリットでVritti)であり現れたり消えたりしますが、その奥底には意識というものが変わらず存在しています。その意識というものがワンネスそのものであり、この世界に満ちています。空間にも世界にも宇宙にも意識というものが満ちています。そのことを理解するのがワンネスなわけです。

ですから、言ってしまえば、どのような知識ですらこのワンネスの前では効力を失う、ということでもあります。学者が「そんなことをしなくても理解できる」というとき、そこには「知るべき知識」というものがあります。ですが、ワンネスの知識というのはそのように対象化できないものなのです。インド哲学をインドで学んできた人が同様に言う時ですら、ワンネスを本当に理解していない場合は同様になってしまうことがあるのです。学問的に理解することは相対的な知識であり、直接的な知識とは「定義できないもの」でもあります。

この、「定義できないもの」を理解することがワンネスの理解には重要で、例えばゾクチェンの詩にあるように、無限の多様さとは元々二元論によって対象化されたこの世界の枠組みの遙か彼方にあり、そのどれ一つとして限りある概念の定義の枠に収まりきらない、ということでもあります。よって、ワンネスとは定義できないものであるわけです。このことを理解すれば、学者たちが「これをすれば知ることができる」という知識というものが本当の知識ではないことを即座に理解できる筈ですが、そこは当人たちのエゴが強い場合は「自分たちは知っている」という自己防御が働いて自分たちが無知だということを受け入れることができず、よって、結果としてヒステリーになったりケラケラ笑ってエゴによる自己防御の態度に出るのです。本当にワンネスの知識を得ているのならばそのような自己防御も不要なわけです。

学問的にも、ワンネスとは全体であるのだから対象化できず、よって、ワンエスを知るのは直接的に知るしかない、ということは理解できる筈です。しかし、学者や頭のいい人はこの文そのものを理屈として理解はするものの、直接的知識に至らないのです。そこに壁があります。そして、自己のエゴがあるために「自分は知っている、理解している」と強弁するのです。強弁こそせずとも、知識を得たことでそれを知っているとエゴが思い込むのです。

対象化することをやめ、直接的に理解すればワンネスとはとても簡単なことです。それは強弁する必要もないし、当たり前になってしまえば、ただそれだけのお話なのです。