今までは,特にこの部分が堅くて何度も何度も緩めてきましたが、肉体的には多少は緩んでもエネルギーがほとんど通らなかったのです。それが数日前から急に不意にエネルギーが通り始めて、鼻根にエネルギーが通ったのとほぼ同時に頭頂のサハスララにも光るエネルギーのようなものが感じられるようになりました。光るというのは感覚的なもので視覚的なものではないですが、なんとなく光っているような気がする、というものです。言い換えればエネルギーの強さと言ってもよいですが、そのような強いエネルギーが鼻根および眉間を通って頭頂のサハスララまで通っているように感じるのです。

まだ完全に通ったとは言いがたく、先日も朝起きたら閉じ気味だったりしたのですが概ね1時間ほど瞑想をすると不意にこの部分が開いてサハスララが同調して活性化するようです。
この部分が通っていなくても不調というほどでもないのですが、はやり通った時と通っていない時を比べるとエネルギー的な差がありますので、ここが通ったことによる活性化エネルギーを一旦知ってしまうと、やはり通っていない時は少し物足りない感じで、エネルギー的な差を感じるわけです。こうなれば、なるべく通った状態を維持したいと思うわけですが、瞑想をすれば1時間かそこらで大体は高確率で開くことができていますので、一旦開いたからには閉じたとしてもまた開きやすいのかなと思います。最初こそ開きにくいとしても、徐々に開きやすくなって、やがて意識せずとも開きっぱなしになるような予感があります。
この部分を意識する時によく思い出すのがヨガナンダの自叙伝で、その中でヨガナンダの師匠のスリ・ユクテスワがこの部分を解説している部分があって、「原語ナシカグラム(鼻の先)の真の意味は、いわゆる鼻の頭ではなく、鼻の上のことだ。つまりそれは眉間の霊眼の位置をいっているのだ(P189)」という説明があって、それは肉体で言うと鼻根から上の部分だとすると今回緩んでエネルギーが通りだした箇所と酷似しています。
又、本山博先生の著作にはアジナ・チャクラ(サードアイ・チャクラ)が気のレベル、アストラルのレベル、カラーナ(カーラナ、コーザル、原因)のレベル、プルシャのレベルでそれぞれ目覚めた場合の解説があるのですが、私の状態と見比べると記述的にはアストラルからカラーナに移行するところに該当するような気がしますが、それもまだ中間的な段階で、プルシャのレベルではチャクラは存在しないわけで、そこまで行く必要があるわけです(プルシャより上もあるようです、個を超えた段階)。とは言いましてもまずはチャクラを目覚めさせないとチャクラの存在しないレベルには達することができないわけで、まずはこの段階を超える必要がありそうです。
段階としては、本山博先生の著作にはカーラナの段階で眉間から光が出る、と書いてあるのですが、昔にそれを読んだ時には前方向に出るのかと勝手に想像していたのですが方向までは書いていないので上方向のサハスララに光が出るのもこれに該当するのかもしれません。とすれば最近の鼻根あるいは眉間からの光はカーラナ(カラーナ、コーザル)の段階に該当するのかもしれません。可能性の一つとしてですが。
開いた翌日から数日間は朝は閉じ気味できちんと開き直すには1時間ほどの瞑想を必要としていた感じですが、その後は10分ほどでもそれなりに開くようになり、瞑想においてその開き具合もしっかりと徐々にですが確実なものに変化してきているのを感じます。最初は鼻根の付近から上下のみだったものが、左右にも広がってきているのを感じます。
・・・そうして顔の前面が通った後も、一晩経つと翌日には少し堅くなっているのでまた鼻根から始めて額、そして頭頂へと緩めていきます。そうして何度かサイクルを繰り返していると顔の前面がそれなりに緩みましたので、特に意識してそうしたわけでもないのですが自然と顔の前面の少し内側を次は緩ませるような瞑想になりました。鼻に近い下側から始めて、呼吸と共にオーラを少しずつねじ込んで行きます。端の方からオーラを何度も入れて緩みが進むにつてその部分がふかふかな感じになっていきます。そのようにして、額の奥の方までそれなりに緩ませ、そして、頭頂の少し内側も緩ませていきます。程度としては鼻の上側はぼちぼち緩んだものの頭頂に近い方はまだ堅く、また、鼻の下側の奥はまだそれなりに堅さが残っているようです。課題はありつつも、瞑想を始める前と比べたら各所が緩んだことを感じるわけです。そうして、ひとつずつ緩みを深めていきます。本山博先生の著作に「・・・らっきょうの皮を剥くようなものだ」と書かれてあったことの意味はおそらくこういうことで、頭の外側から少しずつ活性化させていく、ということかと思います。