無と空、自我にとっての無

2025-03-08公開 (2025-03-02 記)
トピックスピリチュアル

自我は仮初めの私、幻想である私という感覚による錯覚であり、それが無くなったところで実態としての意識は存在する(よって「有」あるいは「色」)、そしてそれが空であるのです。自我がなくなるということが「無」であり、自我がなくなっても「存在」しているので「有」あるいは「色」であるわけで、それらを内包した全体の流れが「空」として表されるわけです。

空という概念は人によって様々な段階をそう呼んでいるように思われます。突き詰めれば空とは限りのない意識でありますから、それは言葉通りに「限界がないという」であればこそ言葉の概念や人の観念によって制限されるようなものではなく、無限であるが故に空であるわけですが、人は往々にして「空」という概念を自分が理解できる範囲という制限の中に押し留めようとします。その「制限」はエゴの所作でもあります。そのような所以もあってか、何が空なのか、人によって解釈が異なってくるわけです。それは究極的なところでいえば無限であるが故に人の認知で捉えようのないものであればこそ「理解」としてしか表現することができないものであるとも言えます。本当の意味における「無限」に達するのはこの短い人間の一生においては事実上不可能であり、よって、ある程度の「空」の到達がその目的地になるわけです。そこで究極的な宇宙全体という空の広がりを垣間見ることはあっても本当に宇宙全体とただ一つになる、ということはなく、認知としてそういう感じがしたとしても、それは海の中に川が流れ込むように、大海と水が一つになるというお話であり、意識として認知が本当に宇宙全体そのものまで広がることはなくても、宇宙と繋がればワンネスを感じられる、ある程度の認知の広がりを感じる、ある程度の宇宙を感じられる、そういうお話であるわけです。そして、それでも十分なわけです。ある程度のワンネスを知って、究極的なところは「理解」として認知するに留める。そういうお話なわけです。

そこまでの境地に達した人が少ないが故にその本当の空の段階の手前ですら「空」と呼んでいる場合があるように思われます。この「空」の段階の奥行きはきりがないお話、どこまで行っても到達点のないお話、突き詰めればどこまででもいけるお話でありますから、ひとまずのゴールとしての空という概念はありつつも、究極的なところは別にある、と捉えた方がいいように思うのです。その前提に立てば、空というお話を神秘的に飾り立てる必要もないわけです。ですので、本来はと言うと空とは無限であるのにも関わらず、世間では、ほとんどの場合、空であっても中間的な状態なのです。

その実体はというと有(或いは色)であるのですが実態としての無限としての有とこの現象界における見た目上の物質の有とは異なるのです。全ては満ちているのですから有であるのですが、この物質界に見える「有」としての存在は見せかけの「有」であって永遠ではなく、心の認知という観点からいうと無あるいは空と認識される状態があって、それを超えるとまた有なのですがこちらは無限としての「有」なのです。最初、普通の顕在意識の認知においては有と言えば有なののですが、最後の段階の有と最初の段階の有とは似ているようでいて別物・・・ というと語弊があって実は同じものでもあるとも言えるのですが、一応は別として捉えた方が理解がしやすいのです。この世界はワンネスであるが故に全ては同一ではあるものの、認知の段階としては最初の段階の有と最後の段階の有とは異なるのです。

・顕在意識の、普通の「有」。現象界における物質的な認知。「見せかけの有」、永遠ではないものを「有」と誤認する。ヨーガでいうマーヤーの世界。
・自我がなくなる、自我が一時的に停止するという観点における「無」、マインドの一時的な停止に伴う自我の一時停止。
・中間的な状態、認知としては「無」であると感じつつも「存在」(それは最終段階の「有」でもある)を感じる、もやもやとした、どちらともつかない状態、それが「空」(これを空とは呼ばずに魔境と呼ぶ人もいる)
・完全なる「有」としての認知、あるいはこれを「空」と言う人もいる。マインドの奥底に存在する「意識」を認知する段階。サマーディとも言う。

このように、日本では仏教あるいは般若心経のような認知があるために「有」「無」「色(形、物質)」とがわかりにくいお話になっています。それよりもヨーガ的な解釈をしてそれに応じて仏教および般若心経的な解釈をした方が分かりやすいのです。

・マーヤーの世界。永遠ではない世界。 これが顕在意識が認知する普通の「有」であるが錯覚であるが故に本当の「有」ではない(始まりと終わりがある、永遠ではない)
・自我を仮初めの私、永遠ではない私、錯覚している私(ジーヴァ) 錯覚により「有」と「無」を認知する。
・本当の私(真我、アートマン) これは無限で永遠に存在する「(本当の)有」。個としての私。 空に相当
・全体(ブラフマン) 全体としての私。 空に相当

この枠組みで考えると般若心経の「空即是色」のようなお話も理解できるのですが、それは文字通り本当に同一というお話ではなく、このような枠組みにおいて全体にあたるブラフマンは文字通り全てであるからこの世界の全てもブラフマンであり、ブラフマンは全てであるが故に般若心経のように「空は色(物質)と同じ」表現したとしてもそれは間違いではない、というお話なのです。