「思考を止める」方が良いと思うのは波動が低いから

2025-03-24公開 (2025-03-12 記)
トピックスピリチュアル

波動が高くなれば思考があるかどうかはあまり関係なくなってくるのです。それは文字通りそういうことであって、体感および実際にそうなるということであって、言葉や論理であれこれこねくり回して頭で理解することではないのです。波動が高まれば一瞬でそうだとわかるお話なのです。波動という言葉がわかりにくければ、それはエネルギーということです。エネルギーに満ちあふれれば思考があるかないかなどあまり関係なくなるのです。そういうときは概して雑念も減りますが、思考や雑念が出てきたとしてもその波動に相応しいものでありますから、それはさほどの障害にならないのです。雑念や思考が煩わしいと思うのは自身の波動が低いことが主たる原因なわけです。

一つは波動の高さ、もう一つはオーラ・エネルギーの強さです。

波動の高さは高低がそのまま体の波動の高低とある程度は一致して、これはヨーガやスピリチュアルで一般的に言われていることは基本的には正しくもあるのですが、位置と波動とは相対的なもので、オクターブのように段階的に同じ場所が使われるわけです。ですから、オクターブとはスピリチュアルでは言わないですけど楽譜と音符で例えるなら低いオクターブでの上のチャクラよりも高いオクターブでの下のチャクラの方が波動が高い、ということが起こるのです。スピリチュアルではよく丹田あるいはスワディスタナ・チャクラ等が焦点になりますけど、どのオクターブでの話なのかはコンテキストによって変わるわけです。

人によって元々持っているエネルギー量というのは違っていて、波動の高さも違っています。概して男性は低くて女性は高いわけですけど、そのように違いがある上で、女性であっても低い波動に落ちてしまっている方もいます。一方、男性であっても高い波動に上がることはできるわけです。

ただし注意しなくてはならないのは、必ずしも高い波動の方が良いということでもないのです。この世の中は物理的なものから高次元のものまで存在しており、それは等価なのです。その点を忘れてしまうと波動の低いものや人を見下して蔑む、という誤解や行為に及んでしまいます。高次元と低次元との調和が取れているのがこの世界の姿であり、低い波動にはそれなりに相応の苦しみがありますが、それは波動に相応の世界がそれぞれあるということです。その、それぞれの世界で学びを深めているのです。貴方の波動はどこにありますか。同じ地球であっても、相応の世界に人は重なるようにして住んでいるのです。なので、自分と同じくらいの波動の人と惹かれ合うのです。

まず最初に低い波動から行きますと、獣に近いような波動があります。獣を上等にしたような波動があって、そのような状態ですと雑念も多いですしスピリチュアルな理解もなかなか進みません。こうなると「思考を止める」ということがスピリチュアルな成長にとって重要になったりします。

その波動も少しずつ高くなるにつれて雑念に苦しまなくなりますけど、ある程度まではやはり「思考を止める」方が良い状態が続きます。この段階では、思考を止めていわゆるナーダ音を聞く瞑想が助けになったりします。いわゆる集中瞑想の段階です。これは一応の「静寂の境地」に達するまでそれは続くのですけど、静寂に達したとしても、その上の波動領域にある「意識」に目覚めるにはこれまた少し壁があります。その上の「意識」に目覚めるのは最初は一時的なものであり、分離がまだ残り、いわゆる「2つの心」という状態になります。低次の心と高次の心がそれぞれ分離して存在しているという状態になります。

やがては低次の心と高次の心とが融合してゆくのですが、実のところ融合のように見えて低次の心の動きが弱くなり高次の心の方が優勢になってゆく、というプロセスなのです。そうなってくると「2つの心」が少しずつ「1つの心」に変容していくのです。これが高次に対して段階的に起こってゆくのです。最初は2つに分かれているのです。そして、それぞれの段階において2つの心が現れて1つの心になる、ということを繰り返していくのです。まず最初に起こる2つの心が一番変化としては大きく、それが概ね「低次の心」と「高次の心」、などと呼ばれています。

そして、「思考を停止する(方が良い)」と言われているのは、この、低次の心の方のことなのです。そして、高次の心の方はそもそも広大で静寂を基本としており、常に満ちていて、それは(満ちているということでありますから)「無くなることがない」という意識なのです。そのような意識に目覚めたら、もはや「思考を止める」ということが何故に必要というのでしょうか。その広大な目覚めた意識は常に存在して開いているが故に、そのように「止める」ということがない意識であるわけですので、本質的にそのようなことはあり得ないのです。あり得るのは「意識が曇る」ということはありますけど、高次の意識がそうして曇るということは低次の意識に切り替わるということでありますからそのような意味において「止める」ということは望ましくないことであることは明らかであるわけです。そのように「止める」ということなしに高次の意識を働き続けることこそが目覚めた意識を活性化させるために有用であり、そうであれば、「思考を止める」ことなど重要ではないどころか全くもって不要と言ってもいいことがすぐに理解できるかと思います。とは言いましても時には強い低次の意識と接触することにより一時的に影響を受けることもありますのでそのような意味において低次の意識の働きを抑えるあるいは離れるために(低次の)思考を一時的に止めるということは時には効果があるとしても、それすらも基本的には目覚めた意識にとっては不要で、あたかも強い太陽の光に照らされた水滴がみるみるうちに自然と自ら蒸発するかのごとくそのような雑念も心の中から消え失せてゆくのです。そのような浄化の力のある心をもっていうということが高次の心に目覚めるということでありますから、そうであればこそ、「思考を停止する」ということは高次の意識に目覚めさえすればそこまで重要ではなくなってくるのです。

まるで自然に水が流れるがごとく軽やかに心の動きは流れ、そして、水面に現れた波紋のようにやがては自然とそれは静まるのです。

エネルギーは基本的に下からあるいは上から現れます。下から来るものはグラウンディング、上から来るものもグラウンディングといえばそうですが天あるいは宇宙から降りてくるエネルギーであり、その両方から成り立ちます。下からのエネルギーは主に体の各所に現れ、上からの天あるいは宇宙のエネルギーは頭の各所から入ってきます。

最初は下からエネルギーを取り入れることで活性化することが基本ですが、そうであっても、眉間からエネルギーを取り入れて左右のバランスを整えることがその支えになります。どちらが先というわけでもないのですが、ヨーガの呼吸法で左右のバランスを整えつつ下からのエネルギーを取り入れることで最初は活性化します。

そして最初に現れるのは強い地のエネルギーです。クンダリーニとも言います。マグマのような荒々しい波動が最初に現れ、やがてそれが少し上昇すると共にハートと混ざり、初歩的な愛と基本的なワンネスを体感します。そしてやがては頭の方にまで一旦はエネルギーが上がるものの、この最初の段階におけるエネルギーはまだ荒いために天のエネルギーと合流するための起爆剤にしかなりません。それでも、その荒いエネルギーを頭まで上げることでエネルギーを活性化します。このくらいですと、多少の基本的なワンネスと静寂を感じるものの、まだまだ雑念も多く、「思考を止める」ということがそれなりに有効な状態になっています。

周囲でヨーガを修行されている方を見ると、大抵、このクンダリーニを経験しないままずっと過ごす方が大半で、一部の人はクンダリーニを体験するものの、頭に到達した段階で終わるか、あるいは、無理に頭にエネルギーを上げたことにより頭が熱くなりすぎ、いわゆるクンダリーニ症候群になって終わってしまっているように思うのです。そして、これがクンダリーニあるいはクンダリーニ・ヨーガの最終地点だと思って、自分が「成し遂げた」と思って、そこで止まってしまっているように思うのです。これは致し方ないことかと思うのですが、大体の場合、この2段階ほどが到達地点のように思うのです。

・クンダリーニ経験がない
・クンダリーニ経験がある、しかし頭に到達しただけ、クンダリーニ症候群

そして、この段階を超えるには、人間の低次の意識の方ではなく、高次の方からの働きかけが必要であるように思うのです。低次の私であるロウアーセルフからしたら、ここまでしかできないように思うのです。そして、この段階で十分な人は大勢いるわけで、そうであれば、そうして一生を終えるのもその人の器だと思うのです。ですから、そこに特段に落胆する必要はなく、そういう人生を送るのが運命とまでは言わないですけど運命に近いものあるいは、選ばれなかった、ということなのかなと思うのです。

そして、その違いは何かというと、オーラの総量だと思うのです。クンダリーニ・ヨーガ等でもオーラを強めることができますけど、そもそもこの地上に生を受けた時に持ってきたオーラ以上のものにはなかなかなり辛いのが現実で、基本的には同じオーラで生活するか、疲れてしまうなどしてオーラを消費あるいはオーラが漏れて離れて言ってしまうことの方が多いのであり、オーラを増やすというのはなかなかやりにくい現状があります。そうして増やせるオーラというのも自然界に満ちているオーラであればそれなりに取り込めるものの、人間の意識たる高次のオーラというのは自然界から取り入れるのではなく、自らに縁のある、自らが分霊として現れた以前の大元であるグループソウルからのオーラの追加の援助がなければ、そういうオーラの強化というのは起きないように思うのです。そして、人の人生というのはグループソウルの「意図」を起点として分霊が作られたことによって始まるわけですから、基本的には一生のうちにオーラが増えるということはなく、自分のオーラの総量を基準として人生を終えるわけです。ですから、クンダリーニ・ヨーガ等をしたとしても自分のオーラの総量としては基本的に変わりませんから、一時的に高めたオーラを扱う程の人格および体というものはなかなかできにくいわけです。人間の体に近い気の次元であればオーラを増やすことができますし食べ物や筋肉の増加に伴って気の次元のオーラも強まりますけど、高次のオーラというのはなかなか増えていかないわけです。

実のところ、そうであるからこそ、現在の自分の状態を元にして少しでも高次の波動に近づける、波動を上げる、高い波動のオーラを育てて増やす、ということがスピリチュアルな成長の基本であり、そうではなく一気にオーラを増やそうとする行為は割と邪道な方法であるわけです。世の中にはシャクティパッドやイニシエーション等でオーラを与えて急激な成長を施すということもありますが、そのような効果は一時的であり、自身の中のオーラに「分離」をもたらし、そこには着実な理解が備わずに何段階か高い波動を得たわけですから、何かの拍子で波動が落ちるような経験をしたら転がり落ちてしまうわけです。一方、一つづつ段階を踏んで成長した場合は何かの拍子で波動が落ちても理解が伴っていますから踏ん張りや回復が容易であるわけです。ですから、基本的にはオーラを与えられて成長する、という方法は邪道であり、一般的ではないということを押さえておく必要があります。

そして、上記のクンダリーニ経験にしても、元々の波動が高くてオーラ量も多い場合は特にクンダリーニ症候群にならずスムーズに覚醒に至るように思うのです。

基本はそこまでで、それ以上のことはないように思うのです。

ただし、自らの大元であるグループソウルからの働きかけ、あるいは、自らに寄り添うガイド、はたまた自らの高次の側面であるスピリット、いわゆるハイヤーセルフと呼ばれているような存在からの高次の側からの働きかけによりその壁を突破することができます。それは顕在意識の側のロウアーセルフの呼びかけに呼応するようにして行われ、助けとして降りてくるのです。このようなことがヨーガであればプルシャと呼ばれるかもしれませんしスピリチュアルであればハイヤーセルフ、はたまたキリスト教徒であればイエス・キリストを各自の内にて感じることだ、と思われるかもしれません。いずれにしましても高次の側からの接触が行われたということであり、それによりロウアーセルフとしての肉体および顕在意識の側は救われるのです。

そうして、元々高い波動あるいは多くのオーラを持っていたか、あるいは、そうしてグループソウルあるいはハイヤーセルフからの呼びかけにより波動とオーラが高まった人は、次の段階へと進みます。

その時、私の場合では「背中」から少しずつ高次のハイヤーセルフが近づいてきて、やがては融合しました。更には、頭頂からオーラの強い塊が強制的に強引に入ってきたというようなこともありました。それによりワンネスももう1段階深まり、ハートが活性化しました。ただ、これは誰にでもあるかどうかどうかはわかりません。書籍を見ると「背中」から繋がるというような記述がありますので、ある程度は共通性があるのかと思います。

そしてオーラが強まるとオーラが体中に満ちるようになって、手のひらや足先までオーラを感じ、そこからオーラが出たり入ったりすることを体感できるようになります。これはその前の段階でも起こりますが、よりはっきりとした自然な意識を体の各所で感じるようになります。

更には、オーラが頭の中に入り込み、頭が活性化し始めます。最初はランダムに頭の各所が緩み、少しずつ、しかし着実に緩みは進みます。

そして、やがては書籍「フラワー・オブ・ライフ」で語られていたように、頭の中にルートが作られます。背骨沿いに首にまで伸びたエネルギールートを起点として、そのまま直進して上昇するルートが基本となり、それから枝分かれするようにして、首のあたりから眉間に近いところである鼻根(びこん)に続くルートが開拓されます。額や頭頂など各所も緩みますが、特にポイントであるのは以下のように思います。

・鼻根(びこん)
・頭の中央(脳下垂体と松果体)
・後頭部
・頭頂

特に頭の中央は昔からよく語られていた重要な箇所で、特に神智学では、通常の人の場合は第6と第7のチャクラ(アジナとサハスララ)は脳下垂体に関連している。その一方で、第7のチャクラが松果体に関連している人もいる、と言います。(「チャクラ」P94より)。

これはどういうことかと今の私の理解を言いますと、眉間・特に鼻根から伸びたエネルギーのルートが延びてそれを受ける場所が脳下垂体のように思うのです。そして、鼻根が活性化するとある程度は頭頂のサハスララも活性化しますので、それで、眉間および鼻根を経由してアジナ(アジナ、第6)やサハスララ(クラウン、第7)を見るのだと思います。私はようやくこれを実感し始めたばかりでその先はまだですが、おそらくは更に段階が進めば松果体とサハスララの繋がりをよりよく感じることになるのでしょう。

そして、実のところ、このくらいの段階になりますと、また一層、「思考を止める」ということの意味が変わってくるのです。特に鼻根のあたりにエネルギーが通るようになってサハスララへの繋がりが強化されると、「思考を止める」ということの必要性がまた、一段階、不要になってくるのです。それはというと、それだけグラウンディングが強まるということでもあり、静寂の力および安定力が強まるということでもあります。この鼻根は開き始めたばかりでまだ弱く、塞がりがちになることもありますけど、鼻根から脳下垂体までの間のルートを瞑想で何度も何度も開き直してあげることで静寂およびグラウンディングが強まります。

私の段階としては現状はこの辺りまでですけど、今では更なる先の段階が確信を持って見えつつあります。瞑想およびヨーガあるいはプラーナヤーマのような呼吸法をしつつ、この先を進んでいきます。そして、段階を超えるごとに「思考を止める」ことの必要性も減ってきているのです。