瞑想で雑念がなくなるとはどういうことか

2025-04-17公開 (2025-03-18 記)
トピックスピリチュアル

瞑想やスピリチュアル修行にて雑念がなくなることを目標にされている方が一定数いらっしゃいます。これは本当に可能なことでしょうか。

雑念がなくなるのではなく、雑念に惑わされなくなる心境こそが目指すべきものです。このことを「雑念がなくなる」と比喩で言っている場合が多いと思うのです。実際に雑念がなくなる境地というのもなくはないですが高次元の意識というものはそれでも働き続け、止まるのは低次の意識のみなのです。

人のマインドというのは複数の機能から成り立っていますが、瞑想という観点から言えば以下が重要になります。

・思念波を「聞く」という機能
・周囲の現象により過去の記憶やカルマが「反応」し、雑念を「発する」という機能
・「思考する」という機能

このうち、瞑想をしてマインドが純粋になった場合でも「聞く」という機能は残り続けます。誰かの思考だったり、近くに思考の「雲」のようなものが流れていたらそれに反応してしまうような状況です。これは雑念と言えばそうでありますが、社会生活を送っている以上は決してなくならないものです。なくならないとはいえ、自身の波動が高まればラジオのチューナーのように低い波動の音(声)は聞こえなくなってゆきます。それでも、自身の波動に呼応した声のようなものは聞こえるわけです。

一方、カルマや記憶としての反応による雑念は瞑想を続けて自身がクリアになればなるほど少なくなっていきます。人の一生は短いためゼロになることはなくても、かなりのところまで純粋になることも可能です。多数の人生で積み上げてきたカルマは膨大ですので眠っているカルマの全てを今世で解消するということは難しく、ほとんど不可能に近いとはいえ、少なくとも今世に持ち込んだカルマを解消すればひとまずそれで十分であると言えます。完全にゼロになるのは理想的ではありますが、実質、なくなることは現実的ではないと言えます。

そして、「思考」する機能はヨーガでいえばブッディということになりますけど、これは意図を持って思考や分析をすることであり、知性の大元であります。これも無くなりません。

よって、瞑想で雑念をなくすというのはカルマや記憶としての浄化の面のことであり、他のものは残り続けます。ですから、よく瞑想のお話で「何も考えない」みたいなことを聞いたりしますが、これら3つをごちゃ混ぜにせず別々に捉えると良いのです。それが出発点です。

最初は、これら3つの区別なしに、ただワンネスがあり、思考がなくなる瞬間あるいは一定期間の安らぎを体験します。瞑想などで「あるがまま」と言われているような状態であり、その時、「対象」「行為」「行い手」という区別がなくなり、それら3つ(対象・行為・行い手)が一体となります。サマーディあるいは三昧とも言います。そのようにワンネスの状態では、思考も何もかも消え失せるのです。そして、それが「雑念をなくす」「思考をなくす」ということでもあります。

とは言いましても、それは最初の段階です。やがて、実は思考があってもワンネスであることに気がつくようになります。

実は、最初の段階においては「対象・行為・行い手」が一体になるとはいいつつも、「行為」の面はあまり出てこないのです。最初は「対象」と「行い手」が一体になり、しかし、「行為」という側面はなかなか出てこないのです。それはというとこの世界は三次元世界の物理的な側面が強いという性質があるからであり、行為をするというのは物質的なものを動かすということに結びつくため、物理的な性質が強く出ることにより「対象」と「行い手」という側面が奥に引っ込んでしまうのです。ですから、「行為をしていない時」に最初はワンネスは現れます。

それは物質的な側面のみならず、思考においても同じなのです。

思考をしている時、最初はワンネスから引き離されます。ワンネスのまま思考をするのが難しいのです。ですから、ワンネスをするには沈黙の誓いや静寂というものが必要でした。それはそれで良いのですが、必ずしもワンネスには沈黙や静寂が必要ではないのです。

ワンネスを体感するくらいになりますと自然と沈黙や静寂が伴いますので、基礎は十分に備わっています。カルマや記憶の解消も進んでおり、雑念も減っています。ですから基本的には無心でいられるのですが、それだからこそ、そのようなワンネスが進めば進むほど、雑念としての思考に惑わされない強いワンネスが実現できているのです。

最初は思考を止めるということが重要でした。それはそれで正しいのですが、必ずしも思考を止める必要はないのです。思考を止めなくてはワンネスになれないのだとしたら思考を止めるという自己の判断に従えば良いのであり、思考を止めなくてもワンネスになれるほどワンネスが強固であればワンネスを日常生活にまで広げれば良いのです。

そのくらいになりますと雑念があったとしてもその雑念は短期のものでしかあり得ません。雑念が不意に聞こえたとしても、ワンネスの力によって静寂に強烈に引き戻されます。雑念の雲がそのあたりに飛んでいて自分のところにやってきても、ワンネスのハートのオーラによって雑念が消え失せるのです。掃除機がゴミを吸い込むかのごとく、静寂な清浄な状態に自動的に立ち戻るのです。あたかも水滴が強い太陽の光で蒸発していくかのような自然な成り行きを辿ることができるのです。最初はそれらの浄化の力は弱く、雑念がなかなか消えない、という状態を辿ります。やがてその浄化の力は強まり、雑念が出ても瞬時に自然に自動的にそれは流されてゆくのです。

瞑想の注意で「雑念が出ても追わない、流す」という手法が古典的に伝統の中で語られてきています。その瞑想の手法は案内でもありますが、それと同時に、到達点でもあるのです。最初は努力を持ってそれを成し遂げようとします。しかし、瞑想が深まり浄化も進み、そしてワンネスに至ると最初に教えられたその瞑想の注意や案内あるいは手法といったものが、実は「行為」ではなく「自然とそうなる状態」に気付く、実際にそうなるのです。意図せずとも雑念が消え失せる、それは自己のオーラによって雑念が浄化される。そのような状態の時、「雑念があるかないか」など、どれだけ重要だというのでしょうか。雑念があったとして、その原因は他者による思念だったり、原因は様々です。それらを全て取り除こうと努力することに、どれだけの価値があるというのでしょうか。

高次の魂によってそれらの雑念は浄化され、光の中に消えてゆきます。であれば、むしろ雑念を多く浄化する人ほど人々に貢献しているという一面もあるのです。であれば、「雑念をなくすこと」にどれだけの意味があるでしょうか。最初は、それに意味があります。ですが、その「雑念をなくすこと」は、途中までのお話なのです。

やがてその雑念の正体を見極めると、その出所によっては決してなくならないものであることに気づき、よって、雑念のありなしにさほど注意を払わなくなるのです。そして、そうであっても自らのハートのオーラによって雑念は自然に自動的に解消され、自分の意識は静寂に導かれてゆくのです。

光の中に立ち返ること。そうすればワンネスも静寂も達成されます。そして様々な瞑想での目標も同時に達成されますが、そうなったら、もはや瞑想の細かなお話などさほど興味がなくなるのです。

光に立ち返り、光を強め、光との繋がりを強くすること。そうすれば、雑念の問題は消え失せるのです。