この世界は自由意志で何でも実現可能

2025-04-09公開 (2025-03-16 記)
トピック:スピリチュアル: カルト

<偽スピリチュアルに騙されないために理解すべきこと>

それは文字通りそうなのです。人の意思の選択によって未来は作られるのです。運命論なんて存在しないと言っても良いくらいです。では、無いはずの運命が存在しているように見えるのはどうしてでしょうか。それは意識が無知で覆われてしまっているからです。ない筈の運命が存在しているかのように見えているのです。そして、マーケティングによって運命の幻想を見せられたりそれを変えられると思い込まされるのです。それは自由意志を手放してしまった状態であり、そして大金を取られてしまうのです。

低級霊の導き、あるいは、低級な他人に煽られて自分の自由意志を明け渡さないことです。マーケティングによって「・・・になる」という宣伝が盛んに行われています。ですが、そもそも自分の意思で何にでもなれるのです。学ぶには先生が必要だとしても、煽ってくるような低級な先生にはついていかないことです。それは先生とすら言えない存在だったりするかもしれないのです。

スピリチュアルで良くある「現実を引き寄せる」「タイムラインのジャンプ」「潜在意識に働きかける」これは全て、意思の選択によって未来を作っているだけのお話なのです。それをどう解釈するかは(間違っていたとしても)人それぞれの自由に任されているのです。ですが現実はというと意思によって選択がなされたことにより未来が作られるのです。それは文字通り人間の自由意志の力です。動物や物には自由意志は存在しませんが人間には自由意志が存在しているのです。ですから、自由意志を働かせないというのであればそれは動物と同じということです。人間であれば自由意志を働かせることができます。

それはスピリチュアル・ビジネスが全て崩壊してしまうほどの真実です。ほぼ全てのスピリチュアルなセミナーは現実創造やタイムライン、はたまた潜在意識に働きかけて現実を変えようとしています。学びのためというよりはよりよい現実を作るためにスピリチュアルにすがるのです。しかし、そのようなことは本来は不要なのです。

これは、タイムラインを理解することによって納得できるかもしれません。タイムラインとはその意識が存在している時空間丸ごとがやり直す行為であり、よって、現在進行中の現実においては人間の自由意志によって何でも可能なのです。たったこれだけのことです。

ここでいう自由意志とは、高次の意識のことです。人によってはその高次の意識が表に出ていないこともあり、そうであれば潜在意識ということになりますが、実のところそれは覆い隠されているだけで、瞑想などをして顕在意識に出すことができる普通の意識なのです。その意識を使って自由意志を働かせれば現実創造ができるのです。それは高額なセミナーを受ける必要もなければ、何やらお高い仏像や宝石を買う必要も無く、お金とは全く無関係に意思によってのみ可能なことなのです。

この事実を人々が認識すれば高額なスピリチュアル・セミナーは激減するでしょう。世間ではセミナーを受ければ成長するかのような錯覚を生じさせるような煽り文句を使うことで集客・マーケティングしている人たちが大勢居て、悪いカルマを溜め込んでしまっているわけです。

となれば、普通の世の中で自由意志を働かせて選択を繰り返している人こそが正しい人ということになり、逆に、安楽に意思を働かせずにただ生きている人はスピリチュアル的に劣った人ということになります。つまり、高額セミナーで「楽な人生」を宣伝している人を本気にしてなけなしのお金を払ったところで安楽で思考も選択もしないことにより自由意志を働かせない劣った人間になるだけだということです。一方、そのようなセミナーに頼らず自由意志を働かせた人は成長します。

スピリチュアルを喧伝している人が楽な人生を煽って高額セミナーを無知なスピリチュアル初心者に売りつけ、そして、高額セミナーで儲けた主催者が他人を見下ろしたり見下したり、他者をマーケティングの手法で踊らせて銭を巻き上げるというようなことをしていたらスピリチュアル的に成長しないどころか堕落して悪いカルマを溜め込むのは明白であるわけです。

タイムラインが集合意識としてやり直しを行う時、その前の経験を引き継ぎます。実は記憶も引き継ぐのですけど、前の日のことも覚えていないような人が多いこの世の中では前のタイムラインの出来事を覚えていないか、あるいは、なんとなくそうなる気がする、くらいに思うのがせいぜいであるわけです。そして、特に疑問もなく同じ行動を繰り返すわけです。人の行動の癖や習慣というのはそうは変わりませんから、タイムラインをやり直したとしても割と同じ行動に落ち着くわけです。ですが、そうであったとしても、それぞれのタイムラインにおいて自由意志を働かせることができ、違った選択を行うことができます。

以前のタイムラインの記憶を引き継ぎ、以前の結果があまり良くなければ別の選択肢を選べるのです。それは予感という形でも現れますけど、実は過去の記憶だったりします。

一方で、未来のひな形としての現実も存在していますが、多くの場合人々が認知するのは未来のひな形の方ではなくて、過去の記憶のように思います。そして、過去の記憶を見て「そうなる気がする」と言っているのです。実際に行動すればそうなる場合もありますし、その結果がよくなければ別の選択をすれば良いのです。予言が当たるとか外れるとか、そういうことでもないのです。単純に、良い選択を繰り返すのです。それが自由意志を働かせるということです。

ですから、スピリチュアルとか気にせずに自分の目でしっかりと見て自分の頭できちんと考える、そういう姿勢での行動ができているとしたらスピリチュアルとは言わずともそれはスピリチュアルな人間であるわけです。それは頭の良さとかは関係なしにその人相応にしっかりと見て考えて、ということを行えば良いのです。そしてそれが自由意志を働かせるということなのです。

それができているのならば、わざわざスピリチュアルとか言う必要もないかもしれないくらいなのです。

人の自由意志は守られていて、その選択は尊重されます。その選択がどのような結果を生もうともその自由意志による行動は許容されるのです。そして、結果は相応にやってきます。自分の選択の結果を受け取るのです。であれば、現在いる環境について誰に責任転嫁できましょうか。これは集合意識とも関連してきますので、必ずしも自分一人の責任とは限りません。自分が分霊として分かれて生まれる前の大元であるグループソウルの選択かもしれないからです。ですから必ずしも今居る環境について自分を責める必要は無く、ある程度は、いわゆる自分以外の意識も働いているのです。その上で、自分が分霊として生まれた時にある程度の運命を受け入れ、そして、選んだ環境で今生きているのです。

その環境で、自由意志を働かせるのです。それは、ある意味「義務」とも言えます。選択をして自由意志を働かせるのは義務と言っても良いのです。安楽な中に平凡あるいは何もしない人生というのは、自由意志を持ちながら働かせない行為であるとも言えるのです。とは言いましても、大抵の人は日々の中で選択をしており、安楽を求めている人がいたとしても実際にずっと安楽という状況はほとんどないでしょう。であれば、そこまで心配する必要はないのです。

人はすべからずして選択をし、自由意志を働かせます。それは全ての人が基本的に行っていることです。

一方、安楽な人生を喧伝して「よりよい人生」とやらを煽って他人から大金を巻き上げようとしているような、良い人を装ったそうではない人は他人の自由意志を奪ったという悪いカルマを溜め込むのです。

そのような、世界に貢献していないカルトあるいは高額セミナーのスピリチュアルは一見すると良い人風を装っており、わかりにくい状況ではありますけど、そのようなものを頼らずとも人は元から自由意志を持っており、スピリチュアルな成長はできるのです。高額セミナーは「これを受けなければ絶対にスピリチュアルな成長はない」とか煽ってきますけど、そのような宣伝に騙された結果、大したものを得なかった人が山ほどいるわけです。あるいは、「目に見えて凄そうな、実はスピリチュアルの成長でも何でもない神秘体験」を売り物にして、実は成長していない、ということも度々あるのです。と言いますのも、それは思考停止を伴うからです。依存を生み出し、そして、やがては選択をするのを辞めるのです。誰かあるいは団体に従うことにより、自由意志を行使することを辞めてしまうのです。

それよりは、自由意志を働かせ続ける事の方がスピリチュアル的な成長に繋がるのです。高額セミナーではそれが手に入らないことがほとんどなのです。結局は自分で行わなくてはならないのです。高額セミナーにこのことを言っても「実際に行動しなければ変わりません」などと突き放されるのがせいぜいでしょう。であれば、何故にそんな高額セミナーに大金を払って思考停止するのでしょうか。無駄ではないでしょうか。

そのように、自己の自由意志を他人に明け渡してしまうから高額セミナーに乗せられてしまうのです。自由意志を持てば自己啓発セミナー等で大金を払って自分を明け渡すことは不要なわけです。

スピリチュアルな明け渡しとは神に対して行うものであり、団体や個人など高額セミナーに対して明け渡すことではありません。神を標榜している団体もありますけど、神とは個人的な関係であり、そこにお金は不要なのです。それがわかっていれば高額セミナーを煽られて受講してお金を失うなんてことにはそうそうならないのです。

こういうことをいうと「自分勝手に生きるのは良くない」みたいな的外れのコンテキストで指摘してくる人がいるかもしれませんけど、意識というのは高次まで繋がっていてそれは集合意識でもあるわけです。ですから周囲の人のことも意識して気を遣って生きることが基本になります。「自分勝手」などというのは高次元に繋がっていない人のお話なのです。自分の意思で生きるというのは高次元の意識で生きるということですから、高次元が周囲と繋がっているということはそこに「自分勝手」というのは存在しないわけです。高額セミナーを受講しても高次元に繋がることはなく、変な低級霊に繋がって操られるのがせいぜいです。そこに高次の神は存在しないことがほとんどなわけです。

・自身の意識が低次なら → 高次に繋げることが課題。低次の意思はエゴなので自由意志は抑制する。
・自身の意識が高次なら → 自由意志を働かせる。それは(程度に応じて)集合意識

どちらの場合においても自己啓発セミナーやカルトは役に立ちません。せいぜい「それは自分でやらなくてはなりません」みたいなことを言われて自己責任に転嫁され、高額セミナーの運営者は結果の責任を取らないことがほとんどであるように思います。意識が低次であるなら課題は高次に繋げることであり、それは自己啓発セミナーやカルトは役に立たないことがほとんどだからです。あたかも答えや手法を教えてくれるかのごとく喧伝してマーケティングしておきながら最後の最後は「自分でやらなくてはならない」と言って突き放すのが自己啓発セミナーやカルトなのです。そうして結局は自己啓発セミナやカルトの主催者は責任を取らないのです。「自分が行動していない」みたいな言い訳をして、結局、当人の責任としてセミナー主催者の責任は放棄するのがほとんどなのです。その程度の高額セミナーや自己啓発セミナーなのです。

スピリチュアル初心者向けに、これらのことすら分からない人向けのセミナーをマーケティングで煽って高い効果を謳って高額セミナーや自己啓発セミナーを募集しているのが現実かと思います。実際は自分でやることであるわけですから、その宣伝は過剰であることがほとんどであるように思います。

結局、自分でやらないといけないのであれば高額セミナーである必要はなく、修行や鍛錬のできる「場所」が必要なわけです。何故なら、高額セミナーでは定期的に通うことが困難だからです。高額セミナーや自己啓発セミナーは概して短期で「手法」を教えて、後は自分でやるように突き放します。そういうセミナーやカルトは役に立たないのです。それなりの安価で継続的に通うことができなければ大抵の場合はスピリチュアルな成長は難しいのです。

スピリチュアルな成長には時間がかかるものです。であるからして、大切なのは「場所」であり、「手法」は二の次と言ってしまうと語弊がありますけど、どんなに効果のある手法であったとしてもそれなりの時間を要するものなのです。技に溺れる、とはよく言ったものです。スピリチュアルな手法でシャクティパットやイニシエーション等、オーラを与えるということをしてあたかも瞬時に成長したかのように錯覚させることを時折行ったりします。ですが、それは単にオーラの刺激を与えているだけで、大抵の場合はさほどの役には立たないのです。時に効果が一時的にあったりもしますし、それで覚醒する人もいるとは思いますが、大抵の場合はすぐに元に戻ってしまうわけです。それですとスピリチュアルな本質的な成長とは結びつかないのです。何故かというと、そのように与えられたオーラではスピリチュアルな成長に関する自身の理解が欠けてしまうがために、自己の立ち位置を見失ってしまうのです。

そのように他者からオーラを与えることなしに、「場所」を提供して継続的に成長させることが本当のスピリチュアルな成長には必要なわけです。スピリチュアルな成長には時間がかかりますが、それは高額セミナーや自己啓発セミナーでは実現できないことがほとんどなわけです。全部が全部偽物だとは言いません。と言いますのも、そう「全て」と言い切るなら全てを網羅しなくてはならず、全事例の列挙は不可能だからです。ですから客観的な全否定は不可能であるわけですが、大抵の場合は高額セミナーは役に立たない、本質的ではないように個人的には思えます。

オーラを与える手法としてはシャクティパット、イニシエーション、ヒーリング等がありますが、単に与えられても受ける側に準備が出来ていなければ一時の体験で終わってしまうわけです。一方、理解した上でエネルギーを感じることには相応の意味があります。とは言いましても,初心者にとってはそこまで意味のあることではなかったりします。一時の経験としては受けるのも良いかもしれませんが、それでスピリチュアルな成長がすぐにできるわけでもないのです。そのようなものに50万円とか高いお金を払う価値はないわけです。

若い頃にカルトに騙されるのは若気の至りであり、多少の学びが必要な方もいらっしゃるかもしれませんし、そうではないかもしれません。どちらにせよそのことで様々なことを学ぶわけです。騙されないだけの知恵があればそれでよし、騙されたとしても自己の学びに繋げれば良いように思うのです。