世界平和のためだと言いくるめて自身の為に人間を使役する神様たち

2025-04-03公開 (2025-04-02 記)
トピック:スピリチュアル: カルト

神様と言いましても唯一神や創造神のことではなく人格を持った高級霊あるいは英霊はたまた神話に出てくるような神であったりします。それら神々がこの地球上において勢力争いをしているのです。それが現実です。そして、それぞれの神々が世界平和のためだとか良いことを言って自分自身の影響力を地球上に広めるために信奉者たる人間たちを集め、教育し、そして使役させて地球上に結界を張り、その影響力を強めようとしているのです。それを人間の側は呑気にも「世界平和のため」だとか思って結界張りに一生懸命になっているのです。

そうして結界を張る時に既存の勢力と縄張り争いになり、そこで不均衡が生まれます。それが時にネガティブな影響として現れることがあり、それを神様は「悪魔がいる」とかいって封じ込めようとします。実際はどっちもどっちで、単に縄張り争いをしているだけなのにも関わらず人間の側は無知なもので「世界平和のために悪魔を封じ込めた」とか呑気に信じ込んでいたりします。

封印術、あるいは結界術というのは諸刃の剣で、それを張るということは「分ける」ということをするわけです。そこに境界線を生み、分断を生じさせます。術を使う当人としてはその中を守ると思っているかもしれませんが、それは自身が信奉する神にとって影響力が強い土地を作り出すと言う効果があるのであって、それは当然術者自身のオーラと合致していますので当人にとっては心地の良い土地を作り出すということです。

しかしながら傍目から見れば今までなかったところに分断たる線を作り出してその中には異端者のオーラが注ぎ込まれるということで、それらが編み目のように自然の方程式に沿って作られた時、オセロの目がひっくり返されてしまうかのようにその中の土地は術者が信奉している神々の影響下に落ちてしまうのです。

そうして分断を生みつつも、最終的にその土地を全て支配下に収めることができれば平和が確かに訪れることもあり得ますが大抵の場合はもともとその土地にいた神々の反発を生みますので、そうはうまくはいかないのが常かと思います。

そのように結界を張ったり分断を生み出すことで影響力を高めようとする神様はそれほど高級ではなくて、それ故にそのように人間を使役して自身の影響力を高めようとしているわけです。その使役がうまく行っている場合もあればそうでない場合もあり、概して人間の側は無知ですから神様の本当の目的は知らされず、呑気に使役されているだけなのです。

本当に上等な神様というのは「光、それのみ」これしか言いません。術とかを使って小賢しく影響力を高めようとしているのは割と低級な神様でありますけど、概して不勉強なスピリチュアルな人はそのような小賢しい神様に道の途中で誘われて道を踏み外してしまうのです。

ヨーガ・スートラに、ヨーギーが道を進むと神様の誘惑があるがそれを退けなければならない、みたいな忠告がありますがそれは真実で、スピリチュアルがある程度進むと神様の声が聞こえるようになって「自分はついにここまで来た」と思い上がったりしますけど、その存在の目的がそうして結界を張ったり術を使って世界平和だと聞かされてそれに使役させられるのだとしたら、その表面上の目的および本当の目的を疑った方が良いわけです。

大抵の場合、日本の場合ですと日本の有名な神様あるいはそれほど有名ではない神様の場合もありますけどそのような日本の神様がどこかの段階で神社などでコンタクトをしてきます。スピリチュアルにそこそこ熟練したもののまだ悟ってはいない無知な人を見つけては使役させようとする神様が大勢いらっしゃるわけです。そしてその目的としては自身の影響力を高めよう、というところにあるわけです。影響力というのはオーラの強さであり、信奉者が増えて祈りの念が集まれば集まるほどこの世界における影響力を強めることができるわけです。最初は小さなところでもその影響力を時間をかけて高めようと大小様々な神様がそれぞれ術者たる被使役者を見つけては神様自身のために働かせようとしているのです。そして、そのような、それほど高級でもない神様は目的をはっきりとは言わずに世界平和だとか濁して伝えるのです。それは概略としては間違ってはいませんので、被使役者が疑問を呈しなければそのままうまく言いくるめられてしまうのです。

高次の世界では基本的に嘘はつけませんので、正しいことを言わなければなりません。ですから世界平和というとざっくり正しいことでありますけど、もっと具体的には自身の影響力を高めるというのが神様の目的であるわけです。そこまで神様に突っ込んで聞くことができればきちんとそのことを教えてくれます。

スピリチュアルにある程度の見識があるのであれば、そうして「力」を基本にして行動するような神様はそれほど高級ではないとわかります。とは言いましても神様ですからそれなりの力を持っており、怒らせると祟りがある可能性もあります。特に神様の手助けを得た後に指示を断るとそのようになることがあり、よって、最初から「力」を基本にした関係を神様とは結ばないことです。そのように「力」を主張する神様はいわゆるアストラル界の神様で、そこまで上等ではないのです。このあたりが、スピリチュアルをきちんと勉強していないと見分けがつかないのです。

世の中の常識に縛られて、術が使えるだとかパワーを感じるだとか、そのような肉体次元に近い「気のオーラ」あるいは「アストラルのオーラ」の強さで従う神様を選んでしまってスピリチュアルな成長が止まってしまうことが非常に多いのです。

そのような神様はそこまで生きている人間と違いはなく、地上で縄張り争いをするために人間を使役して結界やら術を使わせて自身のオーラを強めようとしているだけなのです。結果として世界を統一すれば世界が平和になると思っている神様が大勢いて、そういう理解なのであればこの地球上で生きている人間が第二のローマを目指して世界統一しパックス・ロマーナを再現させようとしているのとそうは変わらないのです。それを見えない世界、アストラル界で繰り広げている神様が大勢居るのです。そのような神様に「力」で魅せられて使役させられている存在が大勢居るのです。そしてその力を持ってして自身のスピリチュアルな成長がなされたのだと自尊心を高めて特別感を感じているような、そこまで高級でもないスピリチュアルな人がこの世界には大勢いるのです。

そこに平和や悟りを望むという面もあるにしても、それよりは、スピリチュアルな目に見えない世界でこの地球上の争いを繰り返しているという面が強いのです。勢力争いとはそういうことです。そして、この目に見える世界での争いをしつつそうした目に見えない世界での争いも行われているのです。人によっては目に見える物理世界の争いを避けつつも目に見えない世界での争いを選んでいる人もいます。はたまた、目に見える世界と見えない世界の両方で争いを繰り広げている方もいます。そのどちらも、実のところ、そうは変わらないのです。

そして、影響力を高めるために、あたかもスピリチュアルで平和になるかのように喧伝しておきなら実は争いを目に見えない世界でしているという、欺瞞と嘘に塗り固められたスピリチュアルというのも存在しているのです。

そのどちらも、「力(パワー)」というところを根源としており、力を求める者は力に滅ぶ、との格言にあるように、スピリチュアルな目に見えない世界で力を追い求める者は同様に目に見える世界でも力を求めるようになり、結果、スピリチュアルな考え方がこの世界の争いを継続させるという構図になっているのです。

この物理世界の争いを避けてスピリチュアルな世界に入る人が一定数いて、その場合においても、大抵の場合はスピリチュアルな目に見えない世界においても争いが続いていることに幻滅してスピリチュアルを辞めるような人が大勢居るのです。スピリチュアルの喧伝で平和だとか耳障りの良いことを言っておきながら結局は見えない世界で争いをしているという欺瞞に溢れたスピリチュアルがこの世界には横行しているのです。

では、スピリチュアルな人は何を求めたら良いのかというと、まずは何が正しいのかをきちんと勉強することです。その上で、自身のいまいる立ち位置を知ることです。

なんだかんだ言っても自分という存在はその生まれた元となるグループソウルとなる存在が居て、自分が生まれた目的というものが存在しています。基本はそれに従って生きることです。とは言いましても、その目的が実は大したことではない場合もあります。それに気がつくにはやはり勉強が必要で、それと、自分の頭でしっかりと考えることです。自身の生まれた目的はグループソウルの目的でもあります。自身の生まれた目的はグループソウルの意思が作り出したものであるとも言えますが、そもそもグループソウルとは自分が分霊として生まれる前の統合された存在そのものでありますから、自身がグループソウルとして決断して、そして分霊として分かれた時にその意思を受け継いだということでもあるわけです。そこに目的を与える側と与えられる側という分離や区別はないのです。存在として別になるべくして分霊が作られますが、元々は一つであるということです。そのような過程で作られた目的というものがあります。それがわかったとして、実はグループソウル自体の理解がそれほど高くない場合もあります。その時は、地上に生まれた分霊としての人間が新たな見地を手に入れてグループソウルにフィードバックするのです。一方、グループソウルが高い知恵と英知を持っていて地上に生まれた分霊が本来の目的を忘れているだけの場合もあります。こちらの方がパターンとしては多いかもしれませんね。どちらの場合においても、自分の属するグループソウルから与えられた(というより分霊として目的を持って生まれた)目的を忘れてしまっている人が一定数いて、その場合に、他の神様に言いように使われている場合も多々あるわけです。

落とし穴にはまって途中で神様の声とやらに従っても結局は他者たる神様の利益のために使われただけだった、ということになってしまいます。そういうお役目であれば全うするのも自身の利益になる場合もありますので、それは人それぞれになります。一方、あまりよく分かっていないうちに使役させられていて(他の)神様の利益のためになっただけだった、という徒労に終わる結果になることもあり、その場合、(他の)神様のオーラが増えてその神様の影響力が強まる結果になるだけということも多々あるのです。

使役させられた当人としては(他の)神様に一時的にでも仕えることで多少なりとも利益を享受するでしょうが、そのくらいのお話なのです。この社会においても良い会社で労力を提供して利益としての賃金を頂くでしょう。それを同じようなものです。それが自身の本懐とは違った目的であるとしても、多少の世の中への貢献になるのです。それはこの世界で仕事を選んで仕事についているのとそうは変わらないのです。

それがカルトや新興宗教という形になることもあれば、個人的な繋がりである場合もあります。

一方、当人が生まれてきた目的というものがあり、それが特定の神様への使役である場合もなくはないですが大抵の場合は別にあります。とは言いましても直近の転生ではそこまで深い理由がない場合もありますが、その根本まで辿ればもっと深い思慮というのが多くの場合で存在しているわけです。瞑想で自身のことについて「そこまで辿れますか」と問いかけをしてみると良いととある神様は言われます。そこまで辿った時、何をすべきかがわかってくるのです。

その途中で、何やら力のある存在である神様やら何やらの甘言に誘われて神様に使役することを選んでしまうと、その本当の目的から逸れてしまうことにもなりかねないのです。

神様と言っても色々なのです。自分の理解および成長の度合いに応じて、相応な神様と付き合うということなのです。ですから、道の途中で力を求めるようなことをすれば力を強めようとしている存在(神様)に遭遇し、願いは叶えられるのです。そしてそれがスピリチュアルな本懐だと思い込むのです。それって本当にスピリチュアル的に素晴らしいことでしょうか。その判断をつけられるようになるまでは、単純に神様に奉仕して喜ぶようなスピリチュアルな人生が待っているのです。一見したら素晴らしく思えることが、本当のスピリチュアルの本懐はそうではない、ということにどれだけの人が気がつけるでしょうか。

アストラル的な低次の力を持った存在とは、例えばフリーメイソンが崇めるバフォメットという神のようなおぞましい存在です。神といいつつ半分は悪魔のようでいて、それはまるで指輪物語で出てくるような冥界の王あるいは神々のような存在であったりするのです。それは神といいつつ天国の神ではなく地獄にいて力を行使している神々であったりするのです。それが悪魔かというと必ずしもそうではなく、その低次の世界、例えるなら指輪物語の舞台のようなアストラルな世界においての神々であり、その同じ世界にもっと邪悪な悪を持った悪魔も存在しているわけです。ですからその世界においては神様ではありますが、その世界自体が低い波動の次元に存在していて、あくまでもその世界で力を持った神様ということなのです。神様ですからそれなりに力を持っていて、そんじょそこらの人間が関わったらすぐに屈服してしまうくらいの力を持っています。ですから力は強いのですが、あくまでも低次の世界における神様なのです。

低次の世界の神様は縄張り争いをしていて、その世界における神様同士が仲が悪いこともあり、他の神様のことを悪魔と呼ぶこともあれば本当に悪の存在を文字通り悪魔ということもあります。どちらにせよその世界の神様というのは神と悪魔が半々くらいの存在でありますので、程度が違う程度のお話なのです。

一方、高次の世界においては確かに光は強まりますが、それはパワーとはまた違ったものです。その見分けがつくには勉強と見識が必要なわけです。

低次のスピリチュアルはワンネスというものを理解できず、卑下したりします。例えば「ワンネスというのは善も悪も内包している危険なもの」としてワンネスを遠ざけます。又、「(ワンネスなどではなく)この世界には歴然として善と悪とが存在していて、善のために悪を滅ぼさなくてはならない」と公言したりします。二元性の戦いという世界に留まってしまっているわけです。そして、その戦いこそがこの世界の本質であるとさえ説いたりします。それは低次のスピリチュアルにとっては真実であり正直なことは美徳ではありますが、そうは言いましても、その理解はあまり高くない波動から出たものであるわけです。

本当のスピリチュアルは、とても単純なのです。波動を高めること、光を見出すこと、自身が光であるということ。これだけなのです。ですから高次な神様は「光、それのみ」しか言わないことが多く、身をもってその波動を示すことで神様の顕現を示してくれます。そして人間の側としてはその波動を受けて自由意志を働かせれば良いのです。神様が高次で、人間が低次としての意思を示して働かせるのです。こう言ったところで、高次と繋がることなしに好き勝手にして良いとエゴが勘違いして分離の意識状態のまま誤って自己肯定してしまう人が大勢居て、その勘違いもまた、高次の神様の意思とは反しているのです。そのように勘違いすることも多々ありますので、本当の高次の神様と繋がるまでは、低次の力を持った神様に使役するのも一つの勉強としてその人に必要なことなのかもしれません。

また、上にも書きましたが、自分の出自たるグループソウルがどの程度かによって自らの理解も変わってきますしその行動規範も学びも全てが変わってきます。自分に相応な行動をとるべきだということです。

・・・とは言いましても、このようなことを言ったとしても、大抵の場合はこの地球上の生活に追われて日々の賃金を稼ぐことに精一杯あるいはそれに夢中で、スピリチュアルに目覚めたとしてもスピリチュアルで現世利益を享受することを目的としてしまうことがほとんどであるように思えます。そうなれば力のある神様が目の前に現れたら自身の利益のために神様に仕えるというのも自然な成り行きになってしまうのです。それは一見すると正しくも当人には思えるようなことであったとしても、神様に仕えるのも会社で社長に仕えるのもそう変わらないのです。現実は悲しいもので、そうして、神様にいいことを言われて「世界平和のため」だとか言われて神様に仕えている人が一定数いるのです。そしてそれは結局は縄張り争いでありその神様を強化するような方向に動かされるわけです。呑気な人間は言われるがまま術を使い結界を張り、その神様の利益のために行動し続けるのです。神様に仕えているということでエゴが強まり、しかしながら、程度としてはそのような神様はアストラル界の存在で、気やアストラル界のオーラが強まることはあっても、悟りには程遠いのです。

それが、「力(パワー)」というものに惹かれた人の悲しい行き先の一つであるように思えます。