一般に言われている無意識はヨーギーにとっての意識

2025-04-16公開 (2025-04-13 記)
トピックスピリチュアル

これは、ヨーガをしている人が「意識」と言う時に通常の言葉での「意識」とコンテキストが違っているのです。ただ、それは悪気があるわけではなく、ヨーガを進めていくと顕在意識の範囲が広がって無意識が狭まってくるのです。自分が認識できないという意味における無意識は残るわけですが、それでも、意識の範囲が広がるが故に、通常のコンテキストでの「意識」とヨーギーの言う「意識」という言葉にその意味するところが異なってくるわけです。

ですから、一般の人にとっての無意識のうち幾分かはヨーギーの意識になって、それでも無意識の部分が残る、というのが真実ではあるのですが、それはというととても高度なお話になってきてしまいますので、ざっくばらんに、一般の人にとっての無意識はヨーギーにとっての意識、ということでひとまずはよろしいかと思います。

・(全ての人にとっての、普通の)顕在意識
・一般の人の無意識 & ヨーギーにとっての意識(顕在意識)
・(全ての人にとっての)無意識

この3分類があるわけです。とは言いましても、ヨーギーと言ってもその修行の進み具合はそれぞれで、とても修行が進んだヨーギーもいればそうでもないヨーギーもいるわけで、そうなりますとこの分類はもっと細かかかったり人によるということになりますけど、大きく分けてこのような分類が当てはまるように思います。

大体の場合において、一般の人にとっての無意識とは極度の集中状態であるゾーンのような状態を指します。これはというとヨーギーにとっての集中状態であり、その集中を基本として対象と一体になるのです。これはというと瞑想の基本的な状態でありますが、そこまで瞑想が進んでいない、初歩的な状態であります。ですが、この初歩的な状態ですら一般の人にとってはスポーツの競技や勉強・研究などがとても捗るような特殊な状態であり、とても有用なわけです。

そして、それを更に超えて常に集中しているような、もう一歩先の状態になります。これがサマーディと言ったり(本当の意味における)瞑想(ディアーナ)と言ったりします。

そのような瞑想状態とは一般の人にとっては無意識状態でありますが、ヨーギーにとっては意識の状態なのです。

その意識の範疇として個なのか全体なのか、という区分はありますが、ひとまず、個を超えるというところで一旦は意識と無意識の境目になっていることがほとんどです。よって、個としての意識を超えるならば一般の意味における無意識ということになり、と同時に、ヨーギーにとっての意識ということになるわけです。

ゾーンにしても何かに集中することでその行為と一体になるわけで、それは物理的には「他」である筈なのにも関わらずその時は一体感を感じるからこそそれはゾーンという特殊な状態であると認識されているわけです。ゾーンでは集中による一時的な一体感ではありますが、それが高まると常時ゾーンのような状態になり、そしてそれが瞑想ということなのです。瞑想ということだけでなく、そのような意識こそが自己を成り立たせており、しかもそれが自他同一の鍵となっている、その意識自体が全てであるからこそ無意識というものが実は意識であるという、まるで矛盾しているかのような論理が実は真実であるというところに行き着くのです。それは元からそうであるがゆえに、限られた個という意識にとっては変容ではあっても、元々あった大いなる意識からしたら何も変化はないのです。そのような広大な意識に繋がることこそが瞑想なわけです。