スピリチュアル https://w-jp.net/topics/スピリチュアル/ スピリチュアル 体の感覚を観察してスローモーションのヴィパッサナー瞑想を行う https://w-jp.net/2020/1812/ <br /> 先日は座った瞑想で準備をして日常生活でヴィパッサナー瞑想を行うような感じでしたが、今日の座った瞑想ではヴィパッサナー的な感じになりました。ただ、やはり体の感覚は感じにくいのか、視覚ほどはっきりとわかるヴィパッサナー瞑想にはなっていない感じです。とは言いましても、座った時に感覚が細かくわかることで一応はヴィパッサナー瞑想になっている気が致します。<br /> <br /> ヴィパッサナー状態で視界を観察したり音を聞いたりするよりも、感覚は微細でわかりにくい感じが致します。もともとの感覚と同じといえば同じで、ヴィパッサナーになっているといえばなっているかな... という微妙な感じではあります。<br /> <br /> とは言いましても、これで、座っていても視覚のスローモーションのヴィパッサナー瞑想と同じ観察が感覚に対してもできることが一応は確認できました。<br /> <br /> とりあえず、ヴィパッサナーは視覚を中心に行うのが良さそうです。<br /> <br /> 視覚はいつもそこにありますので、最初こそスローモーションのような不思議な感じがしておりましたが、慣れてしまえばこれが普通かな... という感じで視覚を認識しております。<br /> <br /> 視覚が以前のようにコマ送りではなく細かく認識されるのがヴィパッサナー状態ですが、もしかしたら、もともとこのくらいの動体視力を持っている人にとっては当たり前のことかもしれませんね。そんな気がしてきました。<br /> <br /> と、言いますのも、日常生活上のスローモーションのヴィパッサナー状態が可能になって約3週間経ちましたが、次第にこの状態に慣れてきたからです。<br /> <br /> 私の場合は変化があったために違いを感じましたが、変化がなければおそらくは自分の認識が普通だと思うことでしょう。<br /> <br /> 日常生活を楽しめている人とそうでない人の違いはこんなところにもあるのかな... と思いました。<br /> <br /> ヴィパッサナー状態であれば日常の変化だけで人生が楽しめるのに対し、そうでなければ日常生活に変化はなくて頭の中の考えが何度も続くだけですので面白くない人生と感じて遠くの何かを追い求めたりします。<br /> <br /> ヴィパッサナー状態であればありきたりないつもの道も毎回その変化を感じて視界の微妙な変化ですら楽しむことができますが、そうでなければ同じ道としか感じずに面白くない人生になります。<br /> <br /> これは、昨日や前回と同じかどうか比べてどうこういう話ではなく、最初であっても2回目であっても10回目であっても変化を楽しむことができるのがヴィパッサナー状態ということだと思います。<br /> <br /> 思うに、ヴィパッサナー状態を封じてしまえば人間がロボットになって「消費」という罠にはまり込んで経済を回し続けるので消費させたい人にとってはヴィパッサナー状態なんて邪魔かもしれません。<br /> <br /> まあ、このあたりは、気付く人だけが気付いてラットレースから抜け出すのでしょう。<br /> <br /> Fri, 24 Jan 2020 00:00:00 +0900 くつろぎの3段階 https://w-jp.net/2020/1811/ <br /> W.E.バトラーによると、くつろぎには3段階あると言います。<br /> <br /> この行法には3つの段階がある。第一は緊張している場所をさがすこと。次には緊張をくつろがせること。そして最後に、つりあいのとれた筋肉の状態を確立することである。(中略)着実にこれを実践すれば、君は完全なくつろぎと、正しいつりあいを手に入れることができよう。(中略)これは大切なことなのである。「魔法修行(W.E.バトラー著)」<br /> <br /> 緊張している場所を探し、意図的にわざと緊張させたりすることでその緊張を理解し、意図的に筋肉をくつろがせ、最後には、同書で「つりあい」と表現されているような状態、それはくつろぎがぐったりしたものでなく意識の通ったいつでも動けるリラックス状態に達することが必要と述べられています。いわゆる「緊張と弛緩」のようなテクニックに加え、意図的に緊張をほぐすというテクニック、そして、くつろいだときにありがちなどんよりとした気持ちに落ち込むのを避ける、という重要な点を指摘しているようです。<br /> <br /> この本ではこれはかなり前のステップに書かれており、ヨガのアサナ(体操)やプラナヤーマ(呼吸法)よりも前に行うべきことであると記されています。<br /> <br /> この本はヨガの本ではありませんがヨガの体系も参考に書かれており、同著者のやり方ではこれが一番最初に来るようです。<br /> <br /> 私の場合はヴィパッサナー状態に達してからようやく「意図的に緊張をほぐす」というテクニックが(簡単に)使えるようになりましたので、ヨガのアサナも瞑想もする前の一番最初にそれをしようとしたらきっとなかなかうまくいかずに苦労していたのかな、と推測致します。<br /> <br /> Thu, 23 Jan 2020 00:00:00 +0900 座った瞑想で準備をし、日常生活でヴィパッサナー瞑想を行う https://w-jp.net/2020/1810/ <br /> 最近は日常生活上でスローモーションに見えるヴィパッサナー瞑想を行っているわけですが、座った瞑想をしてもスローモーションな感じにはならないようです。私が座った瞑想をする際は目を閉じて行っているわけですが、視覚情報がないとスローモーションを感じられないということでしょうか。<br /> <br /> 座った瞑想は、少なくとも気持ちを落ち着かせる効果はあって、日常生活上のヴィパッサナー瞑想の準備としてオーラを安定させる手段としてここ最近は効果が出ている感じが致します。<br /> <br /> 日常生活上でヴィパッサナー瞑想ができるようになったからと言って座った瞑想が必要なくなったわけではなく、今のところ、両方がそれぞれの役割を果たしている気が致します。<br /> <br /> 日常生活を送る上で不安定になりがちなオーラを座る瞑想で安定させるということと、それと同時に、発散しがちな思考を落ち着けてヴィパッサナー状態をしやすくするために座る瞑想が最近は役に立っています。単純に疲れを取る、という効果もあります。<br /> <br /> そうすれば座る瞑想が終わった後に日常生活でヴィパッサナー状態に簡単に入ることができるようです。<br /> <br /> 座る瞑想はそれはそれで有用で、色々なやり方はありますが、最近は特に眉間に集中するということもなくチベットのマントラを(古代の唱え方で)唱えるということもなく、ただ単純に、ヴィパッサナー瞑想の準備としてオーラと思考を落ち着ける、という単純なやり方に落ち着いています。<br /> <br /> 特にそれがいいとか悪いとか読んだわけでもないですし指導を受けたわけでもありませんが、自然にこんな感じになっていています。<br /> <br /> そして、スローモーションに感じるヴィパッサナー瞑想や私の最近のマイブームである日常生活中に体の緊張に気付いて意図的に緊張を解除してゆく、みたいなことを最近はしています。<br /> <br /> Wed, 22 Jan 2020 00:00:00 +0900 昼も夜も半覚醒の状態で体の緊張をリセットし続ける https://w-jp.net/2020/1809/ <br /> 今まで随分と体の緊張を続けてきたことを最近はよく感じるようになりました。<br /> <br /> 最近は、昼の日常生活において顕在意識と並行して半覚醒の意識が体を観察していて、体に緊張があるとそれに時々気が付くのでその度に強制的に緊張をリセットしてあげています。これは以前はここまで気付くことはありませんでした。時期としては景色がスローモーションで認識されて日常生活上のヴィパッサナー瞑想で無情を感じるようになった頃から次第にこの種の緊張に気付けるようになりました。<br /> <br /> 最近は夜も、全時間ではないですが時々深夜に半覚醒の意識が自分の体の緊張に気付いてその度に緊張を強制的にリセットするような睡眠の取り方をしています。熟睡で意識がなくなってしまうような睡眠から、半覚醒の睡眠に徐々に遷移してきているような気が致します。<br /> <br /> 起きているときに何か作業をしている時や歩いている時もその同様の半覚醒の意識が働き続けていて、自分の顕在意識とは別なのか一続きの別の意識になっているのか、その関係は微妙なところですが、明確な脳の働きの思考とは並行して半覚醒の意識が体の状態に気付き続けているような感じが致します。<br /> <br /> それと同じ半覚醒の意識がスローモーションのヴィパッサナー状態を作り出していて景色なども細かく認識しているように思います。ですから、必ずしも視覚で読み取っているわけではなく、ヴィパッサナー状態はおそらくはオーラが感じているという種類の感覚なのではないかと推測しています。<br /> <br /> ただ、目を閉じるともちろん視界の情報は消え去りますので、オーラが感じていると言っても、副次的なものなのかなと思います。<br /> <br /> 目で見える視覚情報の処理スピードが上がったことと、体の感覚を微細に感じられるようになったことの2点ですかね。<br /> 後者はオーラというよりは単に皮膚や内的感覚が微細になっただけとも解釈できなくはないですし、そういう面もあるかと思います。<br /> <br /> ですから、もっと細かく言うのであれば、視覚処理能力向上と皮膚や内的感覚を感じる力の向上および微細な周辺の雰囲気を感じる力(オーラ感知力)の向上、という3つに分けられるのかなと思います。<br /> <br /> この3つのうち、オーラの感知力はまだまだ低いです。以前感じたような五感以外の感覚でもあるのですが、動いてる時と動いていない時があって、動いている時でもやはり5%くらいの照度(比喩です)でしか感じません。これはまだまだのようです。<br /> <br /> そんな感じで最近は昼も夜も感知力が高まって、ここ最近は体の緊張を意識でほぐすことがマイブームになりつつあります。<br /> <br /> ストレッチ等は以前の通りヨガのアサナ(体操)とかでやりますけど、意識で緊張をほぐす、というやり方でどのくらい変化があるのかが最近の興味です。経過観察中です。<br /> <br /> Tue, 21 Jan 2020 00:00:00 +0900 ヨーガの人は「想像で出来たつもりになるな」と言うのが好き https://w-jp.net/2020/1805/ <br /> インドの文化なのでしょうかね。インドのリシケシでヨーガの先生からも誰かが言われていました。<br /> <br /> その時、ヨーガの授業でチャクラのお話になって、生徒の一人が「私は全部のチャクラを感じるわ」と言っていたことに対し、先生が「それは単なる想像だ。そんな気になっているだけに過ぎない」と言っていました。<br /> <br /> チャクラの話のみならず、スピリチュアルなお話に対してヨーガの人が同様に「それは想像だ」と言うのが一部で流行っていると言うのか文化的にそうなのか、良く耳にする気が致します。<br /> <br /> この種のお話は数十年前から聞いていますので、おそらくは最近に始まったお話ではないと思います。<br /> スピリチュアルでも数十年前からちょくちょく聞いていたように思いますが、具体的にはあまり覚えていません。<br /> <br /> まあ、このお話ですけど、それはそうなんですけど、指摘することで他人に対する優位性を植え付ける、いわゆるマウンティングに使われることが時々あるので、それはどうなんだろうなぁ〜? と思います。 マウンティングに使われてしまうくらいなら、他人が想像で語っているのを聞いたとしても「ふ〜ん」と言って聞き流している方が最近は良いようにも感じます。<br /> <br /> 知識を沢山仕入れて、何かを話している人に「それは想像よ」とか言って話の腰を折ったり、自分が「指導したい」と言う気持ちがマウンティングとして現れていることに自分が気づかずに「それは想像だよ」と指導のつもりが単なるマウンティングになっていたり・・・ そんなつまらないことになるくらいなら、この習慣なんて廃れた方がいいと思います。<br /> <br /> きっと文化的なもので、インドの文化なら合っているのかもしれません。<br /> <br /> と言いますのも、インドの人は自己主張が強くて思い込みが激しくて自信満々なので、自分が出来ていると思ったら頑なになりますのでこうして指摘することで本来の姿に立ち直らせるのも必要かと思いますが、日本のようなところで同様に指摘したとしても「何を言ってるの、この人は」となる場面が最近は多いように思います。<br /> <br /> そもそも、他人の状態を見て指導できるレベルの人はそうそういなくて、グルのレベルでないと他人の状態なんて良くわからないのに、他人の発言を想像だとか何とか言ったところで、それは本当かもしれないし想像かもしれないですし、良くわからないでしょう。<br /> <br /> まあ、そんなこんなで、他人に「それは想像だ」とか言う、古くから知られたありきたりの指摘をする人は、私はちょっと疑って見てしまいますね。<br /> <br /> インド人が言うなら文化的にもありだと思いますけどね。<br /> <br /> Sat, 18 Jan 2020 00:00:00 +0900 思考を止めただけではテクチュの境地にはならない https://w-jp.net/2020/1804/ <br /> おそらく、そういうことではないかと思います。ここ最近のお話でテクチュの境地とはおそらくスローモーションのヴィパッサナーでありサマーディでもあるという結論に至ったわけですが、テクチュの境地がそうであれば、単に思考を止めただけのお話ではないように思います。<br /> <br /> ゾクチェンでは、以前引用しましたように3つの境地があり、思考を止める境地は「シネーの境地」であり、それはそれで心地の良い境地であると説きます。実際、私もヨガを始めてしばらく後、思考が落ち着いてきて「無」の境地とか瞑想中に集中する境地を味わったわけですが、それらがおそらくシネーの境地に相当しているのでしょう。<br /> <br /> その後、私が体験したマニプラ優勢の状態とかアナハタ優勢の状態がゾクチェンでどれに相当するのかはわかりませんが、おそらくはシネーの境地とは瞑想で集中した状態のことを指すのだと思います。<br /> <br /> そして、テクチュの境地がヴィパッサナーおよびサマーディであるわけですが、私の場合、順番としては以下の順番だったと思います。<br /> <br /> 1.ゾクチェンのシネーの境地 = 良く集中できている心地よい状態 = ヨーガ・スートラのヨーガの定義の最初にある「心の作用を止滅」の段階。止滅とはインドで「シャマタ」。<br /> 2.クンダリーニ活性化、マニプラ優勢の状態。生命力(パワー)の増加。<br /> 3.アナハタ優勢の状態。よりポジティブになる。<br /> 4.ゾクチェンのテクチュの境地 = スローモーションのヴィパッサナー(観察)瞑想状態 = サマーディ<br /> 5.オーラの意識的な活用 = サムヤマ (私はまだまだこれから)<br /> <br /> もちろんこの前後や途中にも色々とありましたが、いくつかのポイントを列挙してみました。<br /> <br /> それぞれの段階において、それぞれの程度において「悟り」と呼んでも良い意識をいくつか通過してきました。<br /> <br /> シネーの境地では、さすがにこの段階では自分でも「悟り」とは思えない状況でしたが、それでもある程度の悟りの片鱗を垣間見た気がしたこともあります。その後、クンダリーニ活性化してマニプラ優勢になり、これが最終形態にしては何かが足りないという気がしてはいたもののある程度の悟りの片鱗を垣間見た感じがしておりました。次のアナハタ優勢になった時は更にポジティブになり、最終ではないことが今度も流石にわかりましたが、それでも一般的には悟りと言っても差し支えない状態になり、きっと一昔前であればアナハタ優勢でも悟りと言って良い状態だったのかと思います。今は人々の意識レベルが上がってきていますのでアナハタ優勢の人は数多くいらっしゃる気が致しますし、社会の中で活躍されている方にはこのアナハタ優勢のレベルを、本人はそれと気付かずに生活されている場合も多いような気が致します。<br /> <br /> そして今回、ここ1ヶ月くらいでスローモーションのヴィパッサナー状態に突入したわけですが、ゾクチェンの段階を勉強するとそれがようやく2段階目だということが明らかで、私が今まで悟りの片鱗を垣間見たと思っていたのは、実はまだまだだったのだ、というのが良くわかります。<br /> <br /> ですが、ゾクチェンの本を読みますとシネーの境地とテクチュの境地の間は溝が大きいとのことですが、テクチュの境地の後は一続きのようですので、一旦テクチュの境地のスローモーションのヴィパッサナー状態のコツが分かってしまえば、あとはその先に進むだけだと明確にわかりましたので迷わなくて良いです。<br /> <br /> 今までゾクチェンの本を何冊か読んできましたが謎な表現が多く、なかなか読み解くのが難しかったですが、最近になってわかりやすい本「ゾクチェン瞑想マニュアル(箱寺 孝彦 著)」が出てきて参考になりました。<br /> <br /> 本当はこういうのは師匠に見てもらうのが一番なんでしょうけど、師匠になり得るほどの人かどうか見極めるために質問を浴びせまくると逆にめんどくさがられることが多いので、今まで師匠と思えるような人に巡り合ったことはありません。べつに議論をしたいわけではなくて、師匠になってくれるほどの人であればそのくらいの質問に簡単に答えて欲しい、という気持ちの方が多いのですが、どうも、ピントがずれた回答ばかりだったりめんどくさがられたりして、師匠と思える人に巡り合ったことはないです。 私の場合、内なるガイドがいるので、それで十分と言えばそうなのですけど。<br /> <br /> Fri, 17 Jan 2020 00:00:00 +0900 生きているが生きていない人生 https://w-jp.net/2020/1803/ <br /> 昔、誰かがそう言っていたのを思い出しました。<br /> <br /> 人は、生きているが生きていない。<br /> 人は、ものを見ているが見ていない。<br /> 人は、人を見ているが見ていない。<br /> 人は、歩いているが歩いていない。<br /> 人は、食べているが食べていない。<br /> <br /> ・・・たしか、そんな感じの言葉だったと思います。<br /> <br /> とても昔、20~30年前にどこかの本で読んだのか、あるいは、誰かが言っていたのか、そんなことをふと思い出しました。<br /> <br /> どうやら、その境地とは ヴィパッサナー(観察) あるいは サマーディ のことを意味していたのだと今はわかります。<br /> <br /> ヴィパッサナー状態あるいはサマーディの状態であれば、生きていることが瞬間瞬間の経験になりますが、それ以前であれば、生は鈍い体験にしかなりません。<br /> <br /> ヴィパッサナー状態であればスローモーションで認識されるほどの細かな経験になり、それ以前であれば、コマ送りの経験になります。<br /> <br /> そのことを、昔の人は上のように表現したのかなと思います。<br /> <br /> 上の文は詩ですので論理的には何のことを言っているのかわかりませんが、それを理解するにはヴィパッサナーの状態が必要だったわけです。<br /> <br /> そういえば、この話を聞いた時、同時に次のようなことも聞きました。「頭で考えるんじゃない。感じるんだ」、と。 スターウォーズやニューエイジや禅の好きな人が言いそうな言葉ですが、感じたところでわからない人にはわからないものです。それよりも、事細かにきちんと説明してくれた方がよくわかります。<br /> <br /> 今となれば日常生活上のヴィパッサナー瞑想を経験できるようになってこのことがわかるようになりましたが、かと言って、上の詩のような文を改めてみたところで「感じる」ことでその内容を読み解くのは今ですらかなり困難です。「感じる」ことではなくて、自分の経験と照らし合わせて論理的に組み立てるとこのことを言いたかったことがわかるのであって、当時は、「ふうん。感じることでわかるんだ???」と謎な感じを受けていましたが、今わかるのは、「感じることでは理解できないので、感じようとして理解できなくても全く問題ない」と言うことでした。<br /> <br /> 今わかるのは、スピリチュアル業界にはわかるようなわからないようなことをあれこれ言う人が大勢いますので、あまり事細かに付き合う必要はない、ってことですね。詩的表現は目を引くものがありますけど、実際の感覚とは随分と違うなあ... というのが感想です。詩的表現を読むと、本当はわかっていない人が分かった感じになるのも良くない気もします。<br /> <br /> 言葉の追求をしすぎても仕方がなくて、自分の状態が先にふと変化して、その経験を元に表現をしたり、その経験に照らし合わせて書物に書かれてある内容を読み解く、と言うのが良い気がしています。<br /> <br /> コンサルとかカウンセリングと一緒で、書籍や文章というのは外側にあるものですので「確かめ」のために使う、という感じですかね。本当の理解は自分にしか作り出すことができないのだと思います。ですが、幅広い見解を持つため、あるいは、自分の状態を確認するために外部の情報は使えると思います。<br /> <br /> Thu, 16 Jan 2020 00:00:00 +0900 半眼の瞑想、座禅 https://w-jp.net/2020/1802/ <br /> 座禅では半眼で瞑想をするようで、私はヨーガ式に目を閉じてしていますが、最近になって半眼もありかな、と言う感じになってきました。<br /> <br /> 半眼あるいは普通に目を開いて瞑想をするともちろん視野に物理的な映像が見えるわけですが、おそらくは日常生活上のヴィパッサナー瞑想が可能になる以前に目を開けてしまうと雑念が多くなってしまってうまく瞑想できない気が致します。<br /> <br /> 一方で、スローモーションで見えるくらいのヴィパッサナーが可能な状態で目を開けて瞑想をすれば視野に惑わされずに視野を観察するだけのヴィパッサナー瞑想が可能になるように思います。<br /> <br /> ただ、個人的には、ヴィパッサナー瞑想をするのであれば止まった視界よりも歩きながらの変化のある視界でヴィパッサナーをした方が効果が高いかなあ、という気が今はしております。慣れると違うのかもしれませんけど。<br /> <br /> 視野をスローモーションで観察しても、座っているとさほど景色が変わりませんので変化を見極めようとしますと目を凝らして細かいところを見なくてはなりませんので、ちょっと目が疲れやすい気が致します。一方で、歩きながらであれば景色はよく変化しますのでさほど目を凝らさなくてもヴィパッサナー状態が保てます。<br /> <br /> そのような違いもありますし、座っている時は視野よりも内的な体の感覚にフォーカスした方がヴィパッサナー瞑想しやすい、という個人的な好みもあります。<br /> <br /> どちらにせよ、おそらくは目を開けて行う瞑想は中級者以上向きかなあ、という気がしております。<br /> <br /> 上に書きましたように視界に惑わされて雑念が増えやすいということもありますし、そもそも瞑想の基本である集中ができていない段階で目を開けても混乱しやすい気が致します。<br /> <br /> ただ、目を開けると言っても、目の前に絵や文字を置いて心の中に浮かべる、例えば禅の阿字観(あじかん)のようなものであれば目を開けていても実際はその映像に釘付けにするわけですから、それは初心者でもありかな、という気も致します。ただ、個人的にはそういうやり方はしてきませんでしたのでここは想像ですけど。<br /> <br /> Wed, 15 Jan 2020 00:00:00 +0900 ヴィパッサナー状態で生まれてくる子供とそうでない大人 https://w-jp.net/2020/1799/ <br /> 全員がそうかはわかりませんが、日常生活上でのヴィパッサナー状態で生まれてくる子供がそれなりにいると思います。<br /> <br /> ここで言うヴィパッサナー状態とは以前記載しましたようなスローモーション体験での観察状態のことですが、大人になればなるほどそう言ったヴィパッサナー状態は失われやすく、ヴィパッサナー状態に理解のある大人の元で育つ子供とそうでない子供との間に成長力の面で著しい差が生じるような気が致します。<br /> <br /> ヴィパッサナー状態の子供は何事もスローモーションで観察して事細かに大人に報告したりその面白さを伝えてきますが、大人は往々にしてそれほどの観察力がない、あるいは、そこまで集中する子供の態度に興味がなかったりしますから、その興味が噛み合わない場合は子供のヴィパッサナー能力は次第に薄れてゆく気が致します。<br /> <br /> 環境もそうですね。ヴィパッサナーを更に育てるような静かな落ち着いた環境であれば良いのですが、騒がしい環境では次第に子供の観察力・ヴィパッサナー力は落ちてゆきます。<br /> <br /> ヴィパッサナー力が落ちるとスローモーション体験もいつしか失われ、1秒間で数コマの認識能力に落ちてゆきます。<br /> <br /> それは集中力の低下に繋がり、学力や思考力にも影響を与えます。<br /> <br /> 大人がヴィパッサナーの子供と接する場合、そのヴィパッサナーに理解があるのかどうか、そして、そのヴィパッサナーを育てるかどうかが子供の成長の鍵になるわけです。<br /> <br /> ヴィパッサナーで観察した事項に対して事細かに大人が興味を示したり、子供の態度をめんどくさがることなく興味を持ち、もちろん怒鳴らず、からかうこともせず、当たり前だとスルーすることもせず、もちろん馬鹿にもせず、子供のヴィパッサナー能力を大切なものとして育てることができればその子供の能力は急激に開花することでしょう。そして、そのような子供は旧世代がかつて成し遂げなかった高い目標も簡単に達成してしまうような能力の高い大人に育つことでしょう。<br /> <br /> 過去、大人がかつての日本で育った環境では騒がしく、ヴィパッサナー能力を育てることが難しかったように思います。<br /> <br /> しかし、時が立つにつれて環境は落ち着き、ヴィパッサナーの土壌ができてきたようにも思います。<br /> <br /> それと時を同じくして、今までの環境では到底生活できなくて、それ故に転生を渋っていた魂たちが徐々に日本に転生してきているように思われます。その魂は今までの魂よりも数段レベルが高く、認識力も上ですので、大人は子供の能力を見極めることができないかもしれません。基本的にはヴィパッサナー能力があって、更にその上の認識がありますから、基本的には今の子供は今の大人よりも上のレベルと思った方が良い気が致します。<br /> <br /> まあ、例外もあるでしょうし、全てがそうであるとは保証はしませんけど。<br /> <br /> かつてあったようなくだらない子供のお遊びや習慣なども随分と変わってきたように思いますし。<br /> <br /> こう言うのって、世間では学校のテストの成績で頭がいいとか悪いとかそう言う面で捉えられがちですけど、そう言うことじゃないんですよね。確かにヴィパッサナー力のある子供は学校の成績も良い傾向があるような気もしますがそんなこと統計で調べた人なんておそらくこの世にいない気が致しますしね。ですから、ヴィパッサナー力と学校のテストの成績との相関関係はきちんとはわかりません。ですが、頭の良いと言われている家庭においては往々にしてヴィパッサナー力が大切に扱われているような気が致します。<br /> <br /> ですから、世間ではテストの成績が注目されがちですが、重要なのはむしろヴィパッサナー力であると思うわけです。<br /> <br /> 例えば、車で出かけたときにどの程度景色を子供が観察しているか、とか、部屋に入った時にどこまで細かく見ているか、とか、そう言うところですね。 観察していても記憶していない場合もあるでしょうし、ヴィパッサナー力と記憶力が必ずしもイコールな気はしませんけど、ヴィパッサナーで見ていた景色はそうでない景色よりも思い出しやすい気が致します。そう言う細かなところに違いが出てくるのだと思います。<br /> <br /> 一方で、ヴィパッサナー力に理解のない大人は子供のそう言う観察力を邪険に扱い、子供はヴィパッサナー力を失ってゆきます。<br /> <br /> これからは、テストの点数どうこうよりも、落ち着きやヴィパッサナー力で人を判断する時代になってゆくといいと思うのですが。<br /> <br /> Mon, 13 Jan 2020 00:00:00 +0900 サイキックな石の訓練とテクチューの境地 https://w-jp.net/2020/1798/ <br /> 古典的なサイキック能力開発方法で、石を手にしてそれと一体化することで石がどこにあったのか当てる、と言う修行方法があります。<br /> <br /> これはオーラを石と一体化させるわけですが、最近、テクチュとヴィパッサナー的な観察について気付きがあったわけですけれどもそのテクチュの境地とこの石の一体化の修行方法とで面白い一致があることに気がつきました。<br /> <br /> 古典的な修行方法では「石と一体化」をしますが、それは、テクチュやサマーディで「雑念をなくす」「対象と心を一体化する」と言っているのと同一なわけです。<br /> <br /> サマーディの定義は有名でしたのでそれはこのサイキックのお話と似ていることは気にはなっていましたが、まさかテクチュとサイキックなお話と繋がっているとは思いませんでした。<br /> <br /> サイキック能力開発方法で現世的能力を求めてはいても、実際のところ、本質というものは似たところにあるんだなあ、と言うのが興味深いです。<br /> <br /> Mon, 13 Jan 2020 00:00:00 +0900 散歩中に湧き上がってくる雑念を観察しつつヴィパッサナーに即座に立ち返る瞑想 https://w-jp.net/2020/1797/ <br /> 街を散歩する意識が昔とは随分と変わってきました。<br /> <br /> 今は、街を歩くと景色がスローモーションになってヴィパッサナー瞑想の状態ですので、その目の視野を純粋に楽しみます。スローモーションで撮ったカメラをスロー再生するかのように景色の移り変わりを楽しむと言う散歩です。<br /> <br /> 時々、ふと雑念が湧き上がってきますが、その雑念が湧き上がってきたことにも割とすぐに気付いて再度スローモーションのヴィパッサナー状態に立ち返ります。<br /> <br /> 以前、ヴィパッサナー瞑想の説明を受けた時に「雑念を観察しましょう」などと説明されたことがありますが、その説明が下手だったのかあるいは私が誤解して理解したのか、今から思えばそのように湧き上がってくる雑念を観察すること自体は本質ではなく、雑念なしにありのままに景色を眺めることが本質なのだとわかります。<br /> <br /> その本質の状態になるべく長く居座り、雑念が出てもすぐに気付いて本来の雑念なしのありのままのスローモーションに見えるヴィパッサナー瞑想状態に戻ることが清々しいのであって、散歩とはそのような状態で行うものへと最近は変わってきました。<br /> <br /> かなり以前の私の散歩は、ストレスなどのモヤモヤした気持ちを散らすために散歩しているような感じでした。今では全く違いますね。<br /> <br /> 最近は以前のようなモチベーションに基づく旅行にも興味がほとんどなくなっており、その意味としましては、以前のようにストレス解消やモヤモヤした気持ちを発散させるための旅行はもう興味がないのですが、散歩と同様に、このスローモーションのヴィパッサナー状態で様々な景色を見るのはありかもしれない、と最近は思うようになりました。<br /> <br /> Mon, 13 Jan 2020 00:00:00 +0900 ゾクチェンのテクチュの境地がヴィパッサナーのスローモーション体験 https://w-jp.net/2020/1796/ <br /> 半分は推測ですが、そういうことではないかな、と思います。先日にゾクチェンの3つの境地を引用しましたけれども、テクチュについて以下のようにあります。<br /> <br /> テクチュの境地とは、思考から離れた心の本性があらわれてきた状態のことです。(中略)むきだしになった心の働きのことを「リクパ」または「認識」と呼びます。(中略)あなたがテクチュの境地に留まり、リクパの認識が輝いているとき、対象とあなたの心を媒介していた思考は消え去ります。つまり、対象とあなたの心のあいだに設けられていた垣根が消え去るのです。対象とあなたの心の区別ができなくなり、対象があなたの心で、あなたの心が対象だという心の状態が生まれてくるのです。「ゾクチェン瞑想マニュアル(箱寺 孝彦 著)」<br /> <br /> 前半では重要なゾクチェン用語「リクパ」が出てきます。おそらくは、リクパとはヴィパッサナーのスローモーションな観察状態のことを意味しているのかなと思います。と言いますのも、その後に「媒介していた思考は消え去ります」と書いてあるからです。<br /> <br /> 更に続く説明には、「対象とあなたの心の区別ができなくなる」と書いてありますが、これはヨーガでいうところのサマーディの状態のことを言うように思います。となれば、サマーディはかなり多くの種類がありますが、このヴィパッサナー状態もサマーディの一部であるとヨーガ 的には言えるように思います。ヨーガでのサマーディの種類および定義は沢山ありますが、ヨーガ・スートラにはこのような「対象と心の区別がなくなるとき」にサマーディになる、と言うような定義が書かれてあったように思います。<br /> <br /> サマーディは悟りではなく中継地点ですが、それがゾクチェンで言うところのテクチュの境地であるとすればスッキリします。<br /> <br /> ただ、同書をみますとその1つ前のシネーの境地でも表現としては似ていますので、人によってはこのヴィパッサナーのスローモーション状態をシネーの境地だと判断する人もいるかもしれませんね。この辺りは、ゾクチェン的な視点で見るのであればゾクチェンのラマ僧に見て判断して頂くのが本当は一番良いのでしょうね。<br /> <br /> 今のところ、本を読んだ限りの推測のお話です。それでも、このテクチュの境地はとても興味深いものがあります。<br /> <br /> Mon, 13 Jan 2020 00:00:00 +0900 首都圏イヤシロチ計画 https://w-jp.net/2020/1795/ <br /> ここ数ヶ月、何度か首都圏イヤシロチ計画を進めるように内なる存在から促されてます。イヤシロチとは平たく言えばパワースポットのことですが、首都圏をパワースポットにする計画があるようです。<br /> <br /> 自主的に一人でも進める、という意味合いと、大いなる意思に参賀するように、という意味合いが半々のようです。<br /> <br /> おそらくいつもの内なるガイドとは別の存在で、グループソウルの一部の意志のようなのですが、それは集合意識ですので「私が行う」と「私達が行う」のと同一であるという意識による意志です。<br /> <br /> ですから、私が首都圏イヤシロチ計画を行う、とも言えれば、私達が首都圏イヤシロチ計画を行う、とも言えて、内容的には同一なのです。<br /> <br /> 具体的には何をすれば良いのかというと、通勤路あるいは良く行く場所に光の柱を天から降ろして建てて、日々の祈りや感謝でそれを育てるのが第一弾のようです。<br /> <br /> それは動いていても良いようで、電車でも良いみたいです。<br /> <br /> 基本的には駅が最初のターゲットで、駅に作る光の柱で人々を癒やすのが目的の1つですが、イヤシロチが本格的に起動したら線路が龍脈のような役割をして、魔法陣を作れるとのことです。<br /> <br /> 線路はもともとその意図で作られていないにしても、結界や法術を起動させるエネルギー・ルートの一部になり得るようです。<br /> <br /> もともと京都や東京には寺院による結界・魔法陣が作られていますから、近代の鉄道ルートをそのまま利用した首都圏イヤシロチ計画はなかなか面白そうな話ですね。<br /> <br /> とりあえず私は通勤路やよく行く場所で光の柱を建ててみたいと思いますが、平行世界にいる私のグループソウルならちゃんとできますけど私はそんなにうまくできませんので、この世界(タイムライン)におけるセンサーと位置を示す為のポインター役からスタートかなあ、という感じです。<br /> <br /> 古典的には神社や寺院がそのような光の柱を降ろす場所として使われておりましたが、最近はうまく機能していたりしていなかったりするようです。それと、今回の計画を意図している意識体と古くから神社や寺院でイヤシロチ化を行っていた意識体とはちょっと違うようですので、古来のイヤシロチではなく新たな魔法陣を作ろう、という意図があるようです。<br /> <br /> それはべつに対立しているというわけではなく、新たな時代に向けた実験のような位置付けでもあるようです。<br /> <br /> 例えば新宿駅や原宿駅、渋谷駅などがイヤシロチ化することを目指しています。<br /> <br /> 既に十数年前と比べては随分と浄化されてきておりますが、これから本格的に光の柱を立てていくというのが大いなる意志のようです。<br /> <br /> これは最初の柱を立てるのが難易度が高いですが、既に立っている柱を強化するのは割と誰でもできることなので協力してほしい、とのことです。<br /> <br /> 私の過去生とパラレルワールドの記憶を辿ってみますと、まず、自分のクンダリーニ覚醒を基本にして天からのエネルギーと繋がることで自分という地点と天との光の柱は作り上げることができます。ですが、それは自分という地点に対する光の柱でしかなくて、今回はとある場所に光の柱を作ることになるわけですけれども、自分の光の柱を作ることができる人が自分から光を分岐させて天に伸ばして、天から近くの地点にグイッと光の柱を分岐させることで好きな場所に光の柱を打ち立ててイヤシロチ化することができます。<br /> <br /> その光の柱は、自分の光の柱を分離させて作ることもできますし、あるいは、根本自体をちょっと離れた場所を起点にして天からエネルギーを降ろすこともできます。<br /> <br /> この光の柱の根本の先がどうなっているのか、そこのところはよく分かりません。おそらくは大いなる存在、いわゆるハイヤーセルフ、あるいはハイヤーセルフ以上の存在などと繋がっているのかな、と推測しております。<br /> <br /> その光の柱をまずは鉄道駅に何本も作るのが最初の目標で、それにより、駅を通るだけで人々が浄化されて活性化してゆきます。<br /> <br /> 駅がある程度浄化されれば、駅を通る電車やそれに乗る人によって線路が龍脈のようにエネルギー・ルートになり、魔法陣を形作ってゆきます。<br /> <br /> その光の柱を最初から作るのは難易度が高いので、駅などで光の柱っぽいものを感じたら、それに同調して、育てていってほしい、とのことです。具体的には、立ち止まらなくても良いので少し祈りを捧げるとか、心の静寂を思い出すとか、光の柱をイメージするとか、キリスト教徒であれば十字を切るとか、仏教徒であれば祈るとか、なんでも構わないので、光の柱を強化する意図を日々の活動に取り入れてほしい、とのことでした。できる範囲でやれば良いようです。<br /> <br /> 目的は「首都圏」だけのイヤシロチ化ではなくてもっと大きな範囲がターゲットで、首都圏はその一部のようです。<br /> <br /> Mon, 13 Jan 2020 00:00:00 +0900 スピリチュアルと頭痛 https://w-jp.net/2020/1794/ <br /> 色々な頭痛がありますが、頭痛はスピリチュアルで様々に解釈されるものの1つだと思います。<br /> <br /> まず、肉体的な力による緊張がある場合。特に瞑想で眉間に集中するようなやり方をしている場合は力を入れてしまうと頭痛になったりします。瞑想で眉間に集中するのは力は入れずに意識だけ集中するのですがなかなかそれがうまくいかずに無意識に力が入ってしまって緊張になり、頭痛がしてしまうことがあります。この場合は、瞑想に慣れるなどして頭の緊張をほぐします。<br /> <br /> 次の解釈としては、悪い予感などのインスピレーション。これは頭痛の場合もあれば体全体が反応する場合があります。<br /> <br /> あるいは、何か高次の存在からのメッセージだという解釈もあります。個人的にも、こういう場合もあると思います。<br /> <br /> 一般的には風邪を引いた場合ですとか、あるいは、精神医学的にはストレスによるものだ、と解釈されたりすると思います。<br /> <br /> 一方で、スピリチュアルの中でも特にサイキックな人々の中で昔から語り継がれているのが、サイキックになる予兆としての頭痛です。これは頭痛の中でも不思議な頭痛で、単に頭痛と言われていますが、ストレスの頭痛とも違えば風邪を引いた時との頭痛とも違います。<br /> <br /> このサイキックな頭痛は特にイギリス等で有名らしいのですが、日本ではあまり聞きませんね。文化的なものもあるのでしょうか。イギリスとかであれば自分の症状を表に出して表現しますが、日本ですと頭痛があっても他人に言わない気もしますからね。<br /> <br /> 例えば、スピリチュアル系の書籍では以下のように記されています。<br /> <br /> ライトボディ第八レベルでは、普通ならグリーンピース大である松果体と脳下垂体が成長し、形が変化しはじめます。それらが成長するに従って、ときどき頭のなかに圧迫感を感じるかもしれません。このプロセスのあいだ、断続的に頭痛が起こるかもしれませんし、そうでないかもしれません。「ライトボディの目覚め」<br /> <br /> 個人的には、これに該当するかどうかはまだ不明ですが、後頭部の下の中程で変な緊張と痛みがあって、どういうことかなあ? と様子を見ている感じです。 普通に病気で、脳腫瘍とかじゃなきゃいいですけど。<br /> <br /> Sun, 12 Jan 2020 00:00:00 +0900 瞑想とコーヒー(カフェイン、お茶) https://w-jp.net/2020/1793/ <br /> 昔から疑問だったのですが、ヨーガや瞑想においてコーヒー(カフェイン、お茶)を取らない方が良いとしている流派と、取る方が良い、あるいは、意見を表明していない流派があることを疑問に思っていましたが、最近、自分の中で整理がついてきました。<br /> <br /> ・ヨーガの流派の多くは、カフェイン非推奨です。例えばシバナンダ。<br /> ・瞑想の一部の流派やサークルではカフェイン推奨のようです(聞いたのは随分と昔の話なので具体的な名前は忘れました)。<br /> ・以前、テーラワーダ仏教のお話を聞きに行った時「ブッダのいた当時はカフェインが良いとか悪いとか、そういう話はなかったからそれについて指定はない」とおっしゃっていました。<br /> <br /> 個人的には、最初はカフェインは非推奨でいいのかな、と思います。後になればカフェインを取るのも自由だとは思いますが。<br /> <br /> ヨーガの先生に聞いた時は、「実際、試してみて違いを見ると良い」と言われました。誰かに言われたからやる、ということではなく、実際に確かめるというのがヨーガの基本スタンスだと理解しました。<br /> <br /> 私はもともとコーヒーはほとんど飲みませんがお茶は時々飲んでいました。お茶をずっと飲まない時もあればよく飲む時もあり、急須で入れることもあれば買うこともありました。付き合いで珈琲店に行く時は試しでコーヒーを飲んでいました。<br /> <br /> そんなこんなでカフェインについてわかるようなわからないような状態だったのですが、最近になって整理がついてきたのです。<br /> <br /> まず、カフェインの効果はヴィパッサナー瞑想の日常生活上の観察状態に似ている、ということです。しかし物質に頼っていますので反動があります。私の場合、コーヒーを飲んだ場合に、すぐ後は良いのですが1日以内に不快感を感じることが多かったように思います。コーヒーを飲まない場合と比べて違いが顕著なのでよくわかりました。<br /> <br /> 昔、ヒッピー文化の時は瞑想にも薬(今は法律で禁止)を使ったりしたようですね。強制的に意識を覚醒させても反動があるという意味では、効果の大きさはかなり違えども、薬とカフェインは方向性は同じなのかもしれません。<br /> <br /> ヨーガ的には、そう言った薬の使用は推奨しませんが、それを使うかどうかは個人の自由意志ですから他人の行動を否定しません。取りたい人は好きに取れば良いが、推奨しない、というスタンスのようです。<br /> <br /> 瞑想の一部の流派は、おそらくその覚醒効果を狙ってカフェイン推奨しているのかな、と推測していますが、具体的な話を直接聞く機会は最近ほとんどありません。<br /> <br /> ヨーガでカフェイン非推奨である理由をヨーガの先生に聞きますと、団体でそういうことになっているという理由だったり、アユールベーダ的な説明をして頂いたことがあるように思います。簡単に言えば、コーヒーなどのカフェインは刺激があるから瞑想に良くない、という理由のようです。<br /> <br /> ヨーガではカフェインのみならず、辛いものなども非推奨になっています。<br /> <br /> 個人的な経験と比べてみますと、瞑想の最初はサマタ(集中)で意識を鎮めていく必要があり、その後、ヴィパッサナー(観察)の段階に移るのですが、ヴィパッサナー状態に移行してしまえばその後で刺激物やコーヒー(カフェイン、お茶)を取ろうとも影響は少ないと思うのですが、段階としてサマタをしなくてはいけない人がコーヒー(カフェイン、お茶)を取ると瞑想の妨げになるのではないかな、と思います。あるいは、サマタを育てずにヴィパッサナーを育ててしまうことになります。<br /> <br /> これはカフェインに限らないのですが、サマタなしにヴィパッサナーだけを育てると神経過敏と言いますか、色々なことが見えるようになる一方で自分の制御が効かない状態になりやすい気がします。平たく言いますと「キレやすい」状態になり、危険だと思います。<br /> <br /> そういうことで、個人的には、やはり最初はカフェインは非推奨でいいのかな、と思います。<br /> <br /> カフェインなしに「鎮める」サマタ瞑想を最初に行って、後でヴィパッサナーに移行したら好きにすればいいわけです。<br /> <br /> ですが、ほとんどの場合はヴィパッサナー瞑想にまで行かない気がします... と言いますか、ヴィパッサナー瞑想に行ける人は、最初からそういう素養がそれなりにある気が致しますので、素養がある人はカフェイン取っても影響少ないのかもしれませんが、やはり、基本はカフェイン非推奨がいいと思います。<br /> <br /> Sat, 11 Jan 2020 00:00:00 +0900 食事をする時に食材に感謝をする https://w-jp.net/2020/1792/ <br /> 最近改めて、食事をする際に感謝して食べるという日本古来の風習の良さを感じております。<br /> <br /> それは習慣として、道徳として教え込まれてきたことですけれども、その理由を体感することは今まであまりなかったように思います。<br /> <br /> 今は、食べ物に感謝をすると食べた時の感覚が全然違います。これほど、食べ物に感謝することの効果があるとは思っていませんでした。<br /> <br /> 私はもともと雑食でしたが、最近はなるべく植物を多く取るようにしております。ただ、お肉や魚を完全に食べないわけではありません。特に日本ですと出汁や下味に含まれていますし、外食で選択肢がほとんどないこともありますし。<br /> <br /> ベジタリアンは最近の言い方ですとプラントベースダイエット(植物由来の食事)とか言われているみたいですが、自分のことをベジタリアンとは言っていません。何でも食べますが、お肉はなるべく避けることを基本にして、欲求が求めたら食べてみたりもします。しかし、大抵の場合はお肉を食べたことを後悔します。きっと気分的にはよろしくなくても栄養素的に体が欲しているのだと理解しています。<br /> <br /> 先日、植物や昆虫を傷つけるとハートが痛むということを書きましたが、その観点からしますと、動物であろうとも植物であろうとも、調理されて食卓に並ぶという点では命を奪って人間が頂くという点に関しては変わりないと思っております。ただ、動物の方がより強い怨みの念を持ちやすく、動物の肉の悪影響を人間が受けやすい気が致しますのでなるべく避けております。その点、魚が恨んでいると感じたことはありませんので動物性の栄養素を取る必要性を感じたときは地上の動物よりは魚の方を選んでおります。<br /> <br /> 植物であっても、スーパーに並んでいるようなものはオーラ的には「ふつう」と言った感じを受けることが多いです。お肉は「若干、恨みの念あり」という感じがしますが、それほど気になるほどのものではありません。<br /> <br /> それよりも、食堂やレストラン等で食事をする時は食材よりも調理人のオーラの影響を受けやすいようにも思います。<br /> <br /> まあ、そんな訳で、外食よりは自炊を好むわけですけれども、食事をする時に黒いオーラを取り込んでしまうことも多々ありました。<br /> <br /> 良いレストランに行けば場所によってはそんなこともなかったりもするのですがそれはお金もかかりますし、自炊ならマシですが外食は私は長年、そんなものかな、しょうがないな、と思って食事をしてきたわけですけれども、ふと先日の経験を思い出して、植物であろうとも命を頂いているのだし、たまに動物を食べるときは明確に命を頂いているのだから、感謝しなくてはいけないかな、と、最初は何となくそんな気がして試してみましたところ、思っていた以上に効果絶大でした。食事の時に感じる不快感が激減しました。きっと今までは未浄化のオーラを一緒に体に取り込んでしまっていたのかなと。<br /> <br /> 今までは食事をするにしても食材任せ、あるいは、レストラン任せと言った感じでありましたが、これからは、出されたものが良くても悪くても自分で食材に感謝して有り難く頂くよう心がけたいです。<br /> <br /> そうすることで実質的に不快感も減りますし、もともと美味しい食べ物はもっと美味しく頂けるのかな、とも思います。<br /> <br /> きっと今までは、オーラ的な美味しさよりは肉体的・物質的な美味しさを感じていましたが、今は肉体的・物質的な美味しさはあまり興味がなくて、オーラ的な美味しさ、それはつまり快適さとか清々しさといった種類のものですが、そっちを求めるようになってきている気が致します。<br /> <br /> Fri, 10 Jan 2020 00:00:00 +0900 オーラのざわつきを鎮める瞑想 https://w-jp.net/2020/1791/ <br /> 最近はオーラを凝縮させて後頭部に集中していたわけですが、今朝はその範囲が広がって、身体中の皮膚の表面に合わせて凝縮させるような感じになってきました。後頭部に集中させるよりは密度は薄いですが範囲は広く、日常生活向きのような感じが致します。<br /> <br /> 朝起きた時などはオーラが揺らいでいてオーラの波がざわついている感じですが、こんな感じに皮膚に合わせてオーラを安定させることを意図するとその意図通りに皮膚に合わせて安定する感じが致します。<br /> <br /> 今日は、以前書いたようなゼリーのような感覚はしていません。<br /> <br /> 後頭部への集中とかあるいはサードアイの変化で書いたような変化はこれとは関係なさそうな感じですが、そういったことを抜きにしても、日常生活を送る上においてオーラを安定させるためにこのような瞑想をするだけでも役立つような気が致します。<br /> <br /> 瞑想では止観が重要とされていて、それは止(集中、サマタ、シャマタ)と観(観察、ヴィパッサナー)のことですが、サマタが足りないとこんな感じにオーラは安定しないかもしれません。<br /> <br /> Fri, 10 Jan 2020 00:00:00 +0900 ヨガ経歴の更新(2020年1月版) https://w-jp.net/2020/1790/ <br /> 以前に書いたものに少し追記しておきます。(太文字部分を追記)<br /> <br /> <br /> ・2015年1月 インドのアシュラムで生まれて初めてのヨガ 2週間 合宿。その後しばらくブランク。<br /> ・2016年10月 日本の近所でヨガ再開。1週間ごと1回90分<br /> ・2017年8月 ヨガの頻度を上げ、ほぼ毎日90分<br /> ・2017年10月 雑念が減ってくる。ようやくヨガをしている感じになってくる。ヘッドスタンドが短時間だがようやくできるようになる。<br /> ・2017年11月 ナーダ音が聞こえ始める。ヨガをほぼ毎日し始めてから約3ヶ月後。ナーダ音が聞こえ始める1週間前から「無」を経験して寛ぐことができるようになりましたが、わずか1週間で「無」はナーダ音に置き換わりました(詳しい経緯はこちら)。<br /> ・2018年1月 第1回目のクンダリーニ体験。ムーラダーラの電気ショックと眉間の皮膚から数センチ離れた空中(アジナ・チャクラ?)でのエネルギーの爆発。ほんの少しのエネルギー。<br /> ・2018年1月 身体中がオームに包まれる経験(第1回目クンダリーニ体験の約10日後)。<br /> ・2018年2月 ヨガのアサナは元々苦手だったが、ようやく人並みにできるようになる。<br /> ・2018年2月 雑念の減るスピードが上がる。20分の瞑想があっという間に感じられるようになる。<br /> ・2018年2月 日常生活でクンバカ(息止め)が自然に起こるようになる。いわゆるケヴァラ・クンバカ(Kevala Kumbhaka)。<br /> ・2018年3月 ヨガのアサナの1つであるフルブリッジ(チャクラ アサナ、車輪のポーズ)ができるようになる。<br /> ・2018年5月 鼻の詰まりが数十年ぶりに解消された。鼻呼吸が可能になった。プラナヤーマが楽になった。<br /> ・2018年6月 植物や昆虫を傷つけるとハートが痛むようになる。<br /> ・2018年8月 ゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想合宿を経験。宗教でした。<br /> ・2018年11月 イダとピンガラの目覚め(第2回目のクンダリーニ体験)。マニプラ優勢になる。クンダリーニ本体はまだ上がっていない雰囲気。2つの光の筋が上がっただけ。仙骨か尾骨のあたりに熱を帯びて血液が激しく脈打つ。かなりポジティブになる。性欲がかなり解消されて自然な(努力のいらない)ブラフマチャリア(禁欲)の達成(性欲10分の1)。睡眠時間の短縮。声が出しやすくなる。呼吸が浅くなる。ケヴァラ・クンバカが起きなくなる。<br /> ・2019年4月後半から約1ヶ月間、お風呂場での頭からの冷たい水掛けがマイブーム。<br /> ・2019年5月 眠りの質の変化。明確な意識はまだないが多少は意識が刺激された状態のまま眠る感じに変化。<br /> ・2019年5月後半、時々音楽っぽいナーダ音が聞こえるようになる。<br /> ・2019年6月 右足首を骨折して1週間ほど入院。これから約3ヶ月は松葉杖生活。<br /> ・2019年7月 第3回目のクンダリーニ経験。アナハタ優勢になる。(五大要素の)「風(Air)」のエネルギーによる竜巻が腰から頭まで上昇。光の筋はなし。竜巻は頭の周囲で発散(頭上および前後左右に発散)。うなじの下(大椎?)に少しの熱を帯びて血液が脈打つ。ハートがジンジン。第2回目ほどの変化はなし。性欲が更に10分の1 (第2回目クンダリーニ以前と比べると100分の1) 。 悪口の根絶が起こる。骨折による痛みが常にあるので、強制的にヴィパッサナー瞑想しているような感覚。<br /> ・2019年9月 ムーラダーラの活性化。 足の気力が少し増加。足の感覚が少し敏感になる。手の感覚も足ほどではないが少し敏感になる。「におい」に敏感になる。「におい」だけで「味」も感じるようになる。淀んだ空気(の匂い?)が苦手になる。いわゆるグラウンディングの力が若干上昇。他人の淀んだオーラによる自分への悪影響が低下し、自立力が高まる。優勢なのは依然としてアナハタ。<br /> ・2019年11月 古代の唱え方でのオームとチベットのマントラを唱え始める。<br /> ・2019年12月 オーラのエネルギーがアジナ優勢に変化。<br /> ・2019年12月 日常生活上でのヴィパッサナー状態の開始。<br /> <br /> <br /> Wed, 08 Jan 2020 00:00:00 +0900 植物や昆虫を傷つけるとハートが痛む https://w-jp.net/2020/1789/ <br /> 昔のメモから記載します。<br /> <br /> [2018年6月27日]<br /> ここ数ヶ月、植物や昆虫を傷つけるとアナハタチャクラあたりが痛むようになってきました。プランタの植物をシャベルで傷つけてしまったり、ドアにいる昆虫を少し踏んでしまったりすると痛みが伝わってきます。それもかなり酷い痛みです。子供の頃は田舎暮らしで、昆虫や植物なんて何とも思わなかったのですが。何が変わったのか。ヨガで感覚が鋭くなったからかもしれません。<br /> <br /> <br /> ・・・これはその後、アナハタ優勢になった時に更に決定的になり、悪口の根絶という形になって現れました。この時はまだ、強い痛みを感じはしますがそこまで決定的ではありませんでした。<br /> <br /> 更にその後、自分のオーラが強化されたのか何なのか、痛みに強くなりました。2つの面があるかもしれませんね。感じやすくなる、という面と、強くなるという面。この時は、感じやすくなった時だったのかもしれません。<br /> <br /> このことは、植物であっても意識があるという確かな認識に至りました。そういうことはたまに耳にするわけですけれども、説明として植物も意識があると聞くのと、実際にこのように感覚を受けるのとでは自己認識にかなりの差があります。私は完全なベジタリアンではなくて植物を多めに取る食生活をしていますが、たとえベジタリアンであったとしてもこのように意識のある植物を頂いているのですからその点では動物と変わらない面も確かにあるのかな、とは思いました。植物の方が自分が食べられてしまうことに対して寛容っぽいので食べるならば動物よりも植物の方がマシ、という感じでしょうか。<br /> <br /> Wed, 08 Jan 2020 00:00:00 +0900 数十年ぶりに鼻の通りが良くなる https://w-jp.net/2020/1788/ <br /> 昔のメモから記載します。<br /> 私は子供の頃から何十年もの間ずっと左の鼻が詰まっていたのですが、当時、ヨガの手法で解消しました。<br /> <br /> [2018年5月17日]<br /> ここ数週間、ネティポットでジャラネティをしているが、それでも左の鼻が通らなくて万年鼻づまり状態は継続中です。<br /> <br /> そんな時、ふと思い立って、久々に糸というか専用のゴム糸を使ったスートラネティを試してみました。<br /> <br /> 前は、ちょっと入れただけで痛くてとても無理な感じでしたが、今日は、多少は痛いけれども工夫しながら時間をかけて喉の奥まで糸を通すことができました。喉の奥の糸は手で掴むのに失敗しましたが、それでもクネクネ動かして掃除はできます。<br /> <br /> そうしたら、翌日、鼻の通りが劇的に良くなりました! こんなにすっきりしたのは十数年ぶりかも? もっと早くやっておけば良かったです。<br /> <br /> この後、しばらく同様の手法を使って鼻の掃除を繰り返したところ、ほぼ再発しない状態になりました。<br /> <br /> 今まで口呼吸だったのが鼻呼吸できるようになりました。ヨガのプラナヤーマも楽になりました。<br /> <br /> 今から思えば、鼻が詰まっているのにヨガのプラナヤーマで鼻呼吸の呼吸法をよくやっていたなと我ながらびっくりします。いつも息が苦しくて大変でした。<br /> <br /> 今もそれほど得意ではないですけど、当時はとてつもなく大変だったように思います。<br /> <br /> Wed, 08 Jan 2020 00:00:00 +0900 日常生活中のケヴァラ・クンバカ(自然に起こる止息) https://w-jp.net/2020/1787/ <br /> 今は起こりませんが、当時、日常生活で自然に息が止まる経験を度々しましたので当時のメモから記載しておきます。<br /> <br /> [2018年2月26日]<br /> 昨夜くらいから、ベッドにいるとき、あるいはリクライニングチェアでうとうとしている時、息を「吐いた」状態で自然に息が止まってしまうことがある。クンバカ(止息)が自動的に起こる。そのままクンバカを続けても良さそうですが、そのまま続けると意識が落ちてしまって危ない感じがして早くも30秒前後で意識的に無理やり指示を出して息を吸うように指示しました。でも、うっかりしているとそのうちそのまま落ちてしまいそうです。落ちてもいいのでしょうか? うとうとしている時だけでなく、リクライニングチェアで本を読んでいても息が止まります。度々そういう感じになります。<br /> <br /> そういえば本で、自然にクンバカが起こると言う Kevala Kumbhaka のことを読んだ記憶があります。THE SCIENCE OF PRANAYAMAの第2章と3章に記述あり。Meditation and Mantraなどのヨーガスートラにも記載あり。ですが、今回の現象がこれかどうかは不明です。<br /> <br /> 睡眠時無呼吸症候群(SAS)のような気もしますが診断はしていません。<br /> <br /> [2018年3月6日]<br /> リクライニングチェアあるいはシャバアサナで息を吐き出してそのまま息が勝手に止まる時、ムーラダーラ(会陰)のあたりがモワモワ&サワサワとします。会陰だけがサワサワするときもあるし、下半身に円状のモワモワが発生して、それが太ももの上などにサワサワっと触れた後に会陰のあたりがモワモワ&サワサワとするようにサワサワの場所が移動してゆく場合もあります。どちらにせよ、多くの場合で会陰がサワサワとします。<br /> <br /> そうしていなくても度々は会陰がしょっちゅうサワサワしている今日この頃ですがが、特に上記のようクンバカすると会陰がサワサワしやすいです。頻度が上がります。<br /> <br /> それと、最近、アジナチャクラの額の部分の肌が常にピンと張っている感じ。会陰と関係があるのかないのかは不明です。<br /> <br /> <br /> その後、クンダリーニ活性化したら起こらなくなりました。<br /> <br /> 関連記事: クンダリーニ経験後、クンバカが苦手に<br /> <br /> Wed, 08 Jan 2020 00:00:00 +0900 体がオームに包まれる経験 https://w-jp.net/2020/1786/ <br /> 記載していなかったかもしれませんので、2018年1月17日のメモに基づいて記載しておきます。<br /> <br /> 第1回目クンダリーニ体験の約10日後、リクライニングチェアでうとうと寝てたら、夢の中なのかなんなのか、腰から頭の中までシンギングボールのオームのようなキーンというかウォーンという高い音に包まれて、意識がはっきりしてそのまま起きました。シンギングボウルにも色々種類があって、大きなものは低い音、小さなものは高い音が鳴りますが、これはとても高い音でした。<br /> <br /> 腰のあたりが最初にオーラに包まれて、その音はどんどん秒単位で上昇して、上昇するにつれてオーラが頭まで包まれ、頭で包まれれば包まれるほど音が大きくなり、オームのようなシンギングボールの大きな音に包まれて、音が大きくなるにつれて意識がはっきりしてきて目が覚め、そのまま起きたのです。実際のオームの音とはこういうものかもしれません? ただの夢かもしれませんけどね。<br /> <br /> 腰のあたりの時は低い音。その後、そのオーラの中心は上に移動。<br /> 上に移動するにつれ、音はだんだんと高くなりました。<br /> 胸のあたりが中心になる時は既にかなり高い金属音。<br /> 頭の方にまで移動したら金属音を通り越して、よく聞こえないような高すぎる音になったのか、あるいは、音が小さくなったのか、どちらなのかは明らかではないですが、とにかく、音が小さくなって行きました。<br /> そして、やがてはオーラが消えて、音も同じくして聞こえなくなりました。<br /> <br /> フラループのようなエネルギーが下から上に突き抜けたとも考えられますが、視界には見えていないのでフラループのような形だったかどうかはわからないです。立体的に球で包まれたのかもしれないです。<br /> <br /> Wed, 08 Jan 2020 00:00:00 +0900 第1回目のクンダリーニ体験 https://w-jp.net/2020/1785/ <br /> 記載していなかったかもしれませんので、昔のメモに基づいて記載しておきます。これは、以前にも少し言及しました。<br /> <br /> [2018年1月6日]<br /> 当日、リクライニングチェアでうたた寝していたら、急にアジナあたりの肌の上で空気あるいは電気的なバチッという小さな衝撃が走って飛び起きました。体の中ではなく、体の表面で、肌から1cmくらい離れた距離だと思います。バチッという衝撃の感覚はありましたが、電気的な刺激はほんの少しで、主に空気圧による急激な空気の動きに似ていて、風船が割れたときに”音なし”で空気だけがボンっと振動する感じ、あるいは、ダイナマイトの振動の弱いものを”音なし”でちょっとだけ感じるのに似ています。強さのボリュームは「弱」。とても微弱な刺激。<br /> <br /> これによって視界に何か変化が生まれた訳でもなく普段通りです。なんでしょう、これ。<br /> <br /> ふと思い返せば、その直前に、いわゆる(男性の)ムーラダーラの場所である会陰(お尻の穴の少し上の皮膚)にピリピリッ!と刺激があって、方向としては会陰(お尻の穴と男性性器の中間くらい)から上方向にペニスに触れるあたりまで皮膚上に上方向の電撃が走ったのを思い出しました。うたた寝状態でしたのでどのタイミングだったのかあまり覚えていないです。その強さのボリュームも「弱」。とても微弱な刺激。<br /> <br /> ほとんど寝ていたのでどっちがどの順番で起きたのか正確なところは覚えていなくて、もしかしたら時間的に離れていた可能性もあります。<br /> <br /> びっくりして飛び起きましたのでその前後のことは認識が曖昧ですが、先に下半身の電撃が走ってからアジナのショックが来たと考えると理屈に合います。<br /> <br /> ただ、よく文献で読むような衝撃的なクンダリーニ上昇というわけでもなく、単に下半身とアジナが個別に電気ショック受けたような感じで、それも、とても弱いものなので、「上昇」などというほど大そうなものではなく、単にムーラダーラチャクラに刺激が走ったことに反応してアジナにもちょっと刺激が入った、というくらいのちょっとした反応でしかなかったように思えます。ですので、これをもって「クンダリーニ上昇」などとはとても言えないようなお粗末な体験ですが、それでも、ちょっとした変化があったのは面白いです。これがいわゆる「クンダリーニ上昇」に繋がるのかな?<br /> <br /> ・・・ここまでが当時のメモです。後から思い返せば音っぽい感覚があったような気もしますが、当時のメモを見るとはっきりと「音なし」と書いてあります。衝撃は感じるのに音はあるようなないような? うとうとしていたので音を認識していなかったのかもしれません。<br /> <br /> Wed, 08 Jan 2020 00:00:00 +0900 十牛図と比較したサードアイの変化 https://w-jp.net/2020/1784/ <br /> 先日、過去性の記憶から辿るサードアイの変化について記しましたが、それと十牛図のステップが対応していることに気が付きましたので少しメモ的に記載してみたいと思います。<br /> <br /> 第一図 尋牛(じんぎゅう)<br /> 第二図 見跡(けんぜき/けんせき)<br /> 第三図 見牛(けんぎゅう)<br /> 第四図 得牛(とくぎゅう)<br /> 第五図 牧牛(ぼくぎゅう)<br /> 第六図 騎牛帰家(きぎゅうきか)<br /> 第七図 忘牛存人(ぼうぎゅうぞんにん)<br /> 第八図 人牛倶忘(にんぎゅうぐぼう)<br /> 第九図 返本還源(へんぽんかんげん/へんぽんげんげん)<br /> 第十図 入鄽垂手(にってんすいしゅ)<br /> <br /> ここで主に参考にしておりますのは「悟りに至る十牛図瞑想法( 小山 一夫 著)」という書籍です。その書籍の記述を元に、自分の記憶と感覚とをそれぞれのステップに当てはめてみたいと思います。<br /> <br /> まず第三図「見牛(けんぎゅう)」にてヨーガ・スートラの目的である心理作用の止滅を達成します。これに関しては以前から何度か書きました。更に、最近はヴィパッサナー状態に移行しました。これでおそらくは「見牛」のステップが完成したのだと思います。<br /> <br /> 次は第四図「得牛(とくぎゅう)」です。上記の書物を読みますと「真我(アートマン)」を安定させるステップと記されています。更には色々と細々な前提条件が必要のように書かれてあります。ヨーガで言うところのスシュムナという背骨に沿った主要なエネルギールートであるナディが浄化されていなくてはならず、その浄化されたスシュムナにエネルギーを通して強化するステップであると個人的には解釈しました。これはおそらく、最近やっているオーラの凝縮のステップが相当するのかなと思います。それを少し続けたところゼリーのような感覚に変わってきておりますので、上記の書物で言うところの「無形の真我を鎮める」というステップに相当するのかな、と思います。これまた同書では細かいステップが書いてありますが師匠がいることが前提の記述ですのでそのまま参考にはできませんが、所々参考になる箇所があります。同書によれば、このステップではまだ完全に真我を安定させることはできず、真我の安定に取り掛かるためのステップのようです。まとめますと「得牛」のステップはスシュムナの浄化を前提としてオーラをスシュムナに取り入れて安定・強化を開始するステップだと解釈できます。<br /> <br /> 次は第五図「牧牛(ぼくぎゅう)」ですが、上記の書物の説明を読みますと第四図の「得牛」と一続きのように思われます。同書で「真我(アートマン)の離脱」と呼ばれているステップの準備として位置付けられているようです。この「牧牛」は前の第四図「得牛」で開始した「真我の安定」を完成させるステップのようです。<br /> <br /> であれば、私はきっと今はこのステップにいるのでしょうね。このあたりは、先日書いた過去生の記憶から辿るサードアイの変化と比較しますと、頭の中に核となるものを瞑想で作り上げるステップに相当するのかな、と思います。<br /> <br /> 次の第六図「騎牛帰家(きぎゅうきか)」は、同書によれば、前の第五図「牧牛」で完全に安定した真我(アートマン)を、同書で言うところの「離脱」を行って神我(ブラフマン)と一体化させるようです。これは私はまだ未経験ですが、過去生の記憶から辿りますと、頭の中で形となって作られたサードアイ(あるいはフォースアイと呼んだ方が適切か)を頭の上から出して多次元的な視野を得るステップに相当すると思われます。<br /> <br /> 次の第七図「忘牛存人(ぼうぎゅうぞんにん)」ですが、これは過去生の記憶を辿りましてもどのような感じかあまり思い出せませんが、おそらくは多次元的な視点を持った時の状態だったかと思います。その多次元的な視点においては個というものが消滅してトータルな視点が得られるのだと思われます。<br /> <br /> 次の第八図「人牛倶忘(にんぎゅうぐぼう)」もその先の境地を示していると思われますが、私はまだまだこれからですので、現時点でここから先を知っても仕方がない気も致します。<br /> <br /> 私の過去生の記憶が本当にこれらと対応しているかどうかは分かりませんが、メモ的に記載してみました。<br /> <br /> Wed, 08 Jan 2020 00:00:00 +0900 後頭部のオーラがゼリーのような感覚に変化 https://w-jp.net/2020/1783/ <br /> 最近は先日書きましたように後頭部の下方にオーラを集めている訳ですが、その感覚が、以前は凝縮したモヤモヤしたオーラという感じでした。今日(1/8)も同じく凝縮されてはいるのですが、その感覚がモヤモヤという感じからゼリーあるいは柔らかい浮き袋あるいは水が緩く少し入った柔らかい風船のようなプニプニした感じになってきました。<br /> <br /> なんでしょう、これは?<br /> <br /> 仙道をしている高藤 聡一郎の著書に、丹田あたりにネバネバした”気”を作り出す、みたいなことが書いてあったことを思い出しました。<br /> <br /> 小周天を長いことやっていると気は全身に広がり、だんだん陽気の質が変わってくる。つまり熱湯のようにサラサラした感じから、ねばっこいベトベトした感じになってくるのだ。「秘法!超能力仙道入門(高藤 聡一郎 著)」<br /> <br /> 同書によれば、この後、仙道でいうところの「小薬」が作られ、(瞑想中の)視界が明るくなってくるという「虚室生白(きょしつせいはく)」の状態になると言います。<br /> <br /> 私の感覚がこれに該当しているかどうかは仙道のお話ですので微妙なところですが、参考になります。<br /> <br /> Wed, 08 Jan 2020 00:00:00 +0900 大天使のハイヤーセルフと大天狗 https://w-jp.net/2020/1782/ <br /> 瞑想中にハイヤーセルフのことを思っていたところ、ハイヤーセルフの姿が大天狗に重なって見えました。<br /> <br /> ・・・これって、ひょっとして大天狗とは実は大天使なのかもしれない?<br /> <br /> 気付いてみれば、羽のあるところとか、どこか似ています。<br /> <br /> 和風に解釈した天使が天狗なのかもしれないな... とふと思いました。<br /> <br /> であれば大天使は大天狗に相当するわけです。<br /> <br /> ん〜、それっぽい気がしてきました。<br /> <br /> 検索してみると、同じように思っている方が多くいらっしゃいますね。<br /> <br /> 天狗って、人間のスピリットとカラスか何かが合体した存在かとずっと思っていたのですが、天使だというのが本当なのでしょうか?<br /> <br /> ・・・と内なるガイドに聞いてみましたところ、両方ある、とのこと。<br /> <br /> なるほど・・・。<br /> <br /> 大天狗は天使の場合がほとんどで、使いの天狗は、2割くらいはカラスの化身で、他は天使とのこと。大体のお話ですけどね。イメージとして。<br /> <br /> ・・・まあ、チャネリングの情報ですので信憑性は保証しませんけどね。あとは読む方の解釈次第です。<br /> <br /> Mon, 06 Jan 2020 00:00:00 +0900 仏教の涅槃は禅定を超えたもの https://w-jp.net/2020/1781/ <br /> 仏教では禅定、いわゆるサマーディを色界(物質界)と無色界(非物質界、平たく言えば心の世界のこと)に分けていますが、涅槃はその両者を超えたものだと以下の経典から解釈致しました。<br /> <br /> 「第一涅槃関係経」―無縁―<br />  比丘たちよ、このような境地(涅槃)があります。そこには地もなく、水もなく、火もなく、風もなく、空無辺処(くうむへんしょ)もなく、識無辺処(しきむへんしょ)もなく、無所有処(むしょうしょ)もなく、非想非非想処(ひそうひひそうしょ)もなく、この世もなく、あの世もなく、月・太陽の両者もありません。比丘たちよ、私はそこに来ることも、行くことも、止まることも、没することも、生まれかわることも説きません。これは、拠り所のないもの、生起のないもの、所縁のないものです。これがすなわち苦の終わりです。(「パーリ仏典にブッダの禅定を学ぶ『大念処経』を読む(片山 一良著)」)<br /> <br /> 私は仏教を専門に勉強したわけではありませんが、涅槃について、おそらくそうであろうな... とは思っていたのですが、この経典を見ますとそれが明らかだと解釈できたわけです。<br /> <br /> まず、地・水・火・風は物質界を構成している要素ですから仏教的には「色界」のことで、平たく言えば「物質は関係ない」と言っているわけです。その後、空無辺処・識無辺処・無所有処・非想非非想処と言っていますが、これは仏教的には「無色界」のことで、平たく言えば「心の世界」になります。<br /> <br /> 仏教の世界でこれらを言う際は禅定、いわゆるサマーディとセットで語られることが多いように思います。<br /> <br /> まずは物質界(色界)の禅定・サマーディによって心を安定させ、その後、心の世界(無色界)の禅定・サマーディで心を更に安定させて行くわけです。<br /> <br /> 諸説あって、悟りのためには物質界(色界)の禅定・サマーディだけでよくて心の世界(無色界)の禅定・サマーディは任意(オプショナル)だと言う意見もテーラワーダ仏教の「悟りの階梯(藤本 晃 著) 」などを読むと書いてあったりしますけど、同書によりますと、それでも、両方の禅定・サマーディを極めてから悟りに至ることが多いようです。<br /> <br /> であれば、上記の経典を平たく言いますと、「涅槃は物質界および心の世界、両方を超えたものである」と言えるわけです。<br /> <br /> だから、色々と列挙して「〜ではない」と一つづつ語っているわけですね。<br /> <br /> この、否定形で羅列する言い方はベーダンタとも似ていますね。<br /> <br /> 心の世界を超えてしまうと拠り所がなくなり、否定形でしか表現できないものになる... というはよく理解できます。<br /> <br /> これはこれとして表現としては正しいですが、やはり、否定形の表現はよく分からないお話になってしまう気が致します。<br /> <br /> これと同じことを表現するために、ヴィパッサナー瞑想的な表現をした方がいいかな... というのは個人的な感想です。<br /> <br /> 心の世界を越えると、というのは、心の動きを止めると、ということですし、そうしますと心を超えた感覚が出てきて日常生活がヴィパッサナー状態に遷移してゆきます。<br /> <br /> それを表現すると、心を超えた感覚とは物質でもないし心でもないので否定形で表現するしか無くなってしまうわけです。<br /> <br /> なかなか表現って難しいですね。<br /> <br /> 悟りって、本当は凄く単純なことだというのが実感ですし、表現もそうあるべきだと思いますが、表現とはなかなか難しいですね。<br /> <br /> Mon, 06 Jan 2020 00:00:00 +0900 出雲の黒いオーラ https://w-jp.net/2020/1780/ <br /> 私が若い頃は出雲大社にとても興味があって、伊勢神宮にも何度か行ったのですが東京からそれよりも遠い出雲により多く行っていた時期があります。<br /> <br /> 出雲は清々しい空気ではあるのですが、明るい黒、と言う感じがしておりました。黒が明るい??? と言われても謎かもしれませんが、エネルギーの高い黒いオーラは輝いていて、それが明るく感じられるもののの、漆黒の、真珠のような深い輝く黒のオーラであると思うわけです。<br /> <br /> 一方で、伊勢神宮と言いますのは白いオーラで、いわゆる「天」を象徴した天照大神が祀られております。主観ですけど。<br /> <br /> 出雲大社の主祭神は大国主命ですが、その大元はスサノオで、地の神ですね。<br /> <br /> まあ、実際のところ、私にはその真偽はよく分かりません。<br /> <br /> 本題はここからで、少し前に、どうやら出雲のこの黒い漆黒のオーラをどうにかしなくてはならない、と言うことを伝えられました。<br /> <br /> ・・・誰がどうするのかは知りません。<br /> <br /> どうも、伊勢神宮の方は天皇家とも繋がりがあってある程度活性化して活動しているのですが、出雲大社の方はまだ眠っているようなのです。<br /> <br /> 眠っているから漆黒の黒いオーラなのか、あるいは、まだ浄化されていないからそうなのか、そのあたりにも謎が残りますが、インスピレーションで内なるガイド... と言いますか、いつもの内なるガイドとはちょっと違った存在のような気が致しましたが、そのお方がおっしゃるには、誰かがどうにかしなくてはならない、とのこと。どうにかしなくては、その後の、何かに支障があるとか何とか...<br /> <br /> ・・・・そう言われましても、何が問題で何をすればいいのかも分かりませんので、私にはどうしようもないことですけど。<br /> <br /> どなたかが何かをするのでしょうかねえ?<br /> <br /> Mon, 06 Jan 2020 00:00:00 +0900 スピリチュアルから見た哲学 https://w-jp.net/2020/1779/ <br /> 頭での思考のループは終わることがない。<br /> 矛盾を見出して思考が止まる時、思考のループから抜け出すチャンスがあります。<br /> であれば、思考に負けて抜け出す人こそが本当の勝者かもしれません。<br /> <br /> 哲学思考を続け、やがて思考の否定に達することがあります。その為の論理は何でも良いのです。論理力のある人ほど覚醒に時間がかかるかもしれません。<br /> <br /> 哲学は思考の羅列に過ぎず、次の次元に抜け出すことはない。<br /> <br /> 思考が矛盾等に突き当たって思考停止することこそが瞑想的な観点による哲学の意義になります。<br /> <br /> <br /> ・・・上記は、しばらく前に私の内なるガイドから示唆されたことです。<br /> <br /> これを聞いた時、なるほどなあ、と思ったものです。<br /> <br /> 哲学者は何かを見出そうとしているのかもしれませんが、本当の真理とは言葉を超えたところにあって、言葉の羅列のそれ自体がその地点に連れて行ってくれることはありません。逆に、とある状態があって、その説明のために言葉が使われるのであれば言葉は有意義なものになりますが、言葉が先にあるような哲学では言葉それ自体によってはどこにも到達せず、であれば、哲学の意義とは思考停止の状態に導くことだ、というのも一理あるように思います。思考停止している状態こそが瞑想での最初のマイルストンでもあるわけですから。言葉で色々と論じていたとしても真理は言葉を超えた先にあるのですから言葉どうこうにあまりこだわり過ぎる必要はないですが、それでも、言葉はガイダンスとして役に立つものですので、上記のような意義の他にも、物事をしっかりと把握して表現するという意義も哲学には一応はあるようにも思いました。<br /> <br /> Mon, 06 Jan 2020 00:00:00 +0900 天使に自由意志はない? https://w-jp.net/2020/1778/ <br /> スピリチュアルのお話を聞いたり読んだりしていますと、天使には自由意志はなくて人間には自由意志があるので人間の方が上位だ、みたいなお話を聞くことがあります。<br /> <br /> ですが、私が幽体離脱して色々見たことや思い出したことを当てはめてみますと、天使にはしっかりと自由意志があります。<br /> <br /> ・・・これは一体、どういうことでしょう?<br /> <br /> まず1つ考えられますのは、天使のいる次元と人間の存在している次元が異なるということです。<br /> <br /> 人間のいる世界は、ヨーガや古代ベーダの考えではマーヤとか言われていて幻想のような夢のようなものだと言います。その解釈は色々とあるのですが、スピリチュアル的にはこの三次元の世界は1つのタイムライン上の現実にしか過ぎなくて、同時に他のタイムラインも同時に存在しており、それは並行宇宙という意味合いのものですが、三次元世界は、それよりも上の世界からみたら確かに幻想のようなものなのです。<br /> <br /> しかし、人間からしてみたらこの三次元世界は確かな現実なわけです。<br /> <br /> 天使は次元を超えて存在しており、時折三次元世界に介入... と言いますか、とある時のとあるタイムラインに意識を合わせて観察や介入・接触をしてくることがあります。<br /> <br /> 人間からしてみたら、この1つのタイムライン上の三次元世界においていわゆる「自由意志」を行使しているわけですが、天使は更に上の視点を持っておりますので、人間がどのような、自称「自由意志」を行使したところで、天使の視点からすればタイムライン上の小さな出来事に過ぎず、違ったタイムラインも存在しますので、それを自由意志と呼ぶかどうかすらよくわからないようなものになっています。<br /> <br /> 人間の選択・自由意志によってタイムラインが作られるわけですが、タイムラインの分かれ目において天使の視点に基づいて介入が行われることがあります。それは天使がタイムラインの先読みをするということですが、先読みをした上で、人間に別のタイムラインの方向を示すのです。<br /> <br /> そうして新しいタイムラインが作られることもあれば、人間がそれに気付かずに、あるいは、人間の意思によって元のタイムラインが固守されることもあります。天使からすればどちらもタイムラインの1つに過ぎませんが、新しいことを学びたいと思っている天使はタイムラインに介入して新たなタイムラインを作ることに熱心なわけです。<br /> <br /> 三次元的な人間の自由意志というものは確実に存在しておりますが、それよりも上の階層で天使の意思が存在しているわけです。<br /> <br /> これは、天使が介入している場合のお話で、誰しもが天使と共にいるかどうかはよく分かりません。<br /> <br /> このように、天使は割と積極的に三次元の人間界に関与していますので、天使に自由意志がないというのはよく分かりません。<br /> <br /> 他に考えられますのは、童話で出てくるような植物や鉱物の精霊のことを天使と呼んでいる可能性です。いわゆる妖精ですね。<br /> <br /> 確かに天使の姿と妖精の姿はよく似ていることもありますので、植物や鉱物の精霊のことでしたら、自由意志はそんなにないかもしれませんが、とても遅いだけで一応は意思があるとは思います。<br /> <br /> 他の可能性としましては、宇宙創造のお話まで遡りまして、私自身が確かめたわけではないのですが、宇宙創造神話をチャネリングした本を読みますと天使にはもともと自由意志がなかった、なんてことが書いてあります。例えば「時を超える聖伝説(ボブ・フィックス著)」にはそのようなことが書いてありますね。宇宙創造の時のお話しでしたらそういうことも歴史的にあったのかもしれませんけど、今現在、地球に関与している天使たちにはしっかりとした、しかしながら次元の異なる意思が存在していると思います。<br /> <br /> 次元が異なるだけで、割と人間と近いものがあると思います。個人の自由意志を尊重するところもそうですし、感情面もそうですし、性格にしても割と人間に近いものがあって、情のようなものもあります。<br /> <br /> ですから、天使に自由意志はない、というようなお話を度々聞くのですが、それはどういうことか私にはよく分かりません。<br /> <br /> 一つ推測しますと、おそらくは宇宙創造の時点では多くの天使に自由意志はなく、自由意志を持った天使が現れて、それから天使に自由意志が備わったのかなと。その上で、天使は実は地球の人類の雛形でもあるので、高次元で天使が存在していて、その分霊として地上に人間が転生されたと考えるとスッキリします。地球上には天使系の人類も多くいますが他の系統もいるようですので、他の系統のことはよく分かりませんけど。<br /> <br /> <br /> Mon, 06 Jan 2020 00:00:00 +0900 クンダリーニ覚醒とスピリットの働き https://w-jp.net/2020/1777/ <br /> 今まで言及しておりませんでしたが、私の場合、クンダリーニ覚醒には私の内なるガイドのみならず、私自身のスピリット(いわゆる魂)も重要な役割を果たしていました。<br /> <br /> これはなかなか説明し辛いことですのであまりきちんと書いてこなかったのですが、自分自身のスピリットは時空を越えることができるということが基本にあって、意図として明確にそれが示されたのは私の子供の頃に幽体離脱した際に(その当時から見たら)未来に行って、ヨーガをしている自分を見てクンダリーニ覚醒に導いたのです。<br /> <br /> ですが、ここで未来とか言っていたとしても、幽体離脱して魂と言いますか意識のあるスピリットの状態になってしまえば時空を既に超えていますから、過去も未来も鳥瞰的にトータルに眺めることができて、過去とか未来とかいうのは単に視点の違いだけになります。<br /> <br /> その状態で未来に行った... と言いますか、未来の視点を見た時、自分の将来の姿が見えて、そこではヨーガをしていて、その時点での自分自身の内なるガイド... と言いますか、平たく言えば要は守護霊... あるいは高次の指導霊とでもいうべき存在の意見も参考にしつつ、私の体の中で、ヨーガでいわゆるナディと呼ばれているエネルギーのルートのうち主要なルートであるスシュムナという背骨に沿ったルート上に詰まりがありましたので、私のスピリットは未来の自分自身の体の中を掃除するかのように詰まりを取り除いたのです。<br /> <br /> その際、完全に取り除いてしまうと一気にクンダリーニが活性化してしまいますので、完全には取り除かずに多少は残し、徐々にクンダリーニ覚醒するように調整しました。このようにしたのは内なるガイドである高次の指導霊の意見でもあったのですが、一気にクンダリーニ覚醒してしまうとコントロールが効かなくなって危険なこともある、とのことでした。<br /> <br /> この高次の指導霊は私は内なるガイドとか呼んでいたりしますけど、いわゆる友人知人や元家族の霊よりも数段階はレベルの高い存在で、時空を超えています。私のことを見守ってくれている友人知人や元妻などの霊たちはそれほど時空を越えることができないのですが、内なるガイドは時空を超えた視点から指導してくれています。いわゆるハイヤーセルフと同じ階層に存在していて、オーラの量や特徴・性格こそ違どもハイヤーセルフと同じ視点で活動できる存在です。<br /> <br /> そんな感じでクンダリーニ覚醒に至ったわけですが、どうやら、単に自分でヨーガをしているだけでは数十年単位で時間がかかっていて、死ぬまで何も起きない、なんて可能性も十分にあったようです。<br /> <br /> この種の、いわゆるエーテルあるいはアストラル的な手術は今の世の中にはそれほど一般的ではないですけど、ヨーガをしていて修行だけで覚醒している人は凄いなあ... とか私なんかは思います。<br /> <br /> 私なんて、激しく修行をしたわけでもないですし、自分自身のスピリットがやったことだとはいえ、アストラル的な介入なしにはクンダリーニなんて活性化しなかったでしょうし。<br /> <br /> この種の手術は人のオーラの中に入り込んで行わないといけませんので、手術の最中にオーラがある程度混じる必要があり、オーラの質が低い人に対する手術の場合はカルマを共有してしまうというデメリットもあるようですが、私の場合は自分で自分の手術をしましたのでそのあたりはさほど問題にはならなかったように思います。<br /> <br /> たぶん、ある程度目覚めた人であれば他人の体の中を探ってナディの詰まりを取り除くことはできるのでしょうけど、オーラの接触・融合をしてカルマを抱え込んでしまうことを嫌がって手術などしたくない、という人はそれなりにいそうな気が致します。<br /> <br /> おそらく、ですが、ヨーガのグルと弟子の関係はこういうところにも効いてくるのかなと思います。グルが弟子の浄化をアストラル手術的に行ってあげることでグルは弟子の成長を促すと共に弟子のカルマをグルが抱え込んでしまう、という相互関係になるのかなと思います。であればグルと弟子の関係は密接なものとなり、グルが弟子以外に簡単に教えを説かない、というのも理解できます。<br /> <br /> とは言いましても、古代においてグルと弟子の関係はおそらくそうであったとしても、今のグルでそのようなアストラル的な施術を行えるような人はそれほど多くないような気も致します。であれば、多くの場合、形だけが残っているのかな、とも思います。<br /> <br /> Mon, 06 Jan 2020 00:00:00 +0900 とある食用豚さんの呪いと成仏 https://w-jp.net/2020/1776/ <br /> ある時、食用で飼育されて殺されて食べられてしまう豚さんはどんな気持ちなのかなあ... と思っていたら夢だったか瞑想中だったか、豚さんの姿をかなり前に見たことを思い出しました。<br /> <br /> なんで今更思い出したのかな... と思ったのですが、少しメモ的に書いておくことにします。<br /> <br /> 豚さんは、よく知られているように綺麗好きです。飼育小屋ではストレスが高くて、最終的に捕まえられて屠殺されて食べられてしまいます。<br /> <br /> 夢だったか瞑想中でしたか、とある豚さんの魂を眺めていたら、やはり飼育小屋ではストレスのある黒いオーラを発していて、屠殺された時は屠殺人を凄く恨んで黒いオーラのままあの世に旅立ったわけですが、恨みの気持ちと、自分の体がどうなってしまうのだろう... という疑問があったのでその豚さんは成仏できなくて、地上を漂っていたようです。その豚さんは、自分を食べてしまう人を呪ってやろうとまで思っていたようです。動物と言っても、そのくらいのことは考えるようです。<br /> <br /> 豚さんは屠殺人をまず強く呪い、次に、肉屋さんを少し呪い、更には、自分を食べようとする人を呪おうとしました。<br /> <br /> ある日、豚さんの魂が肉屋の空中に漂って呪いの準備をしつつ、自分を買おうとしている人を待っていました。<br /> <br /> すると、やがて、家族連れがやって来ました。<br /> <br /> その家族は、豚さんの呪う気持ちとは裏腹に、とても嬉しそうに喜びながら談笑して自分の肉を選んで買っていました。これから家に帰って楽しく食べるようです。<br /> <br /> それを見た豚さんは、恨みの気持ちが若干弱まりました。恨みの気持ちは完全には解けないものの、こんなに喜んで自分を食べてくれるなら、まあ、いいか... という気持ちになって成仏できたのです。<br /> <br /> これは、全ての豚さんの魂がこのように成仏できるとは思いませんが、私がたまたま見たのがこのような豚さんの魂でした。おそらくは成仏できなくて人間に恨みを持っている豚さんの魂も地上に多く漂っていることと思いますが、そのような未浄化の豚さんがどの程度いるかまではわかりません。この状況から察するに、苦しんで死んだ豚さんのお肉には多少なりとも呪いの念が染み込んでいると思われますので、あまり食べない方がいい気が致します。<br /> <br /> Sun, 05 Jan 2020 00:00:00 +0900 性欲と愛情、マニプラとアナハタ https://w-jp.net/2020/1775/ <br /> 性欲はマニプラでかなり制御され、アナハタに至るとほぼ超越できました。これは以前にも何度か書いたことですが、完全に性欲がなくなるというわけではありません。必要があれば性的な力を使用することができますが、暴走することがほとんどなくなる、ということです。<br /> <br /> 私の場合、クンダリーニが活性化してマニプラ優勢になるまでは性欲が制御し辛い状態にありました。男ですから夢精などで出てしまったりするわけですが、そうした行為の後には不快感やエネルギーの低下を伴いました。<br /> <br /> 今は、夢精が完全にゼロではありませんが劇的に少なくなっており、性的エネルギーが漏れることがかなり少ない状態になっています。<br /> <br /> それに伴って、愛情というものも変化して来ています。<br /> <br /> 以前は、愛や恋というものが激情とも言える強いもので、いわゆる「激しい恋」「盲目的な恋」「引き付け合う恋」という種類のものでしたが、今は、表現するとすれば「深い友情」に近いものに変わって来ています。<br /> <br /> ですから、今から恋人を探そうとしても、私のことを理解してくれる人がどのくらいいるのか微妙なところです(苦笑)<br /> <br /> 私の態度ですと、相手からすれば本当に自分を愛してくれているのか疑問に思ってしまうかもしれません。<br /> <br /> アナハタ優勢になった今は思い悩むこともかなり減っていますし、情欲としての愛情よりも普遍的な愛の方が強くなって来ていますから、自分だけを愛して欲しいと思っている人は私ですと満足できないかもしれません。<br /> <br /> この状態になると、結婚するなら恋愛で日本式に最初に「愛しています」と言ってから付き合うのは難しくて、友人から初めて仲を深めてゆくのかなあ... という感じも致します。あるいはお見合いですね。<br /> <br /> きっとこれは歳を取ったということも多少はあるのでしょうが、それよりも、タイミングとしてはマニプラ活性化とアナハタ活性化でそれぞれ優勢になったタイミングと同一でしたのでクンダリーニ 的なものの方の影響がかなり大きいと思っています。<br /> <br /> 他の方は、どうしているのでしょうかね。<br /> <br /> 今から思えば、昔のような激情としての愛も懐かしいと思うこともたまにありますが、「ま、もういいかな」という感じで、覚めて見ています。<br /> <br /> Sun, 05 Jan 2020 00:00:00 +0900 後頭部の下方から中央にオーラが広がる https://w-jp.net/2020/1774/ <br /> 今日(1/3)の瞑想は後頭部への集中から始まったのですが、そのオーラに少し変化がありました。<br /> <br /> これは先日の続きでもあるのですが、先日までは、体の外側に広がっているオーラを体の近くに留めるような集中の仕方をしておりました。ヴィパッサナー瞑想的と言いますかオーラ的には肉体の表面で揺れているオーラを肉体の近くで留めるという集中の仕方になるのですが、その焦点と言いますか支点としては眉間あるいは後頭部のあたりで行っておりました。<br /> <br /> 図で青い部分ですね。青い部分にオーラが凝縮されている感覚がありました。色は説明のためで実際に青く感じているわけではありません。黄色や緑色も説明のためのもので実際に感じているものではありません。<br /> <br /> <br /> <br /> その後、瞑想を続けておりますと、青い部分に変化がありました。特に変化を期待していたわけでもなく、変化を意図していたわけでもないのですが、急に青い部分が上方向に広がりを見せて緑色のような少し広範囲の感覚に変化しました。<br /> <br /> <br /> <br /> 緑色の範囲に広がった瞬間、意識も変化し、少し緊張が取れて楽になりました。<br /> <br /> まず黄色のオーラの状態を安定させてオーラを皮膚の近くで安定させ、それと同時に青色にオーラが凝縮している状態に移行した時点で体の感覚は随分と楽になります。それだけでも十分楽な状態なのですが、更に緑の状態に移行したことによって更に緊張が解けて楽になったのです。<br /> <br /> 更に瞑想を続けていましたところ後頭部のもっと上の方まで充満したのですが、瞑想終わりの頃には青色集中の状態に戻って... と言いますか、無意識で青色の状態に戻して瞑想を終えました。<br /> <br /> 特に何かを意識していたわけでもなく、自然にこのような変化が起こりました。興味深いことです。<br /> <br /> かなり以前は後頭部の上の方に集中するとその後に不快感が続くこともありましたが最近はそのようなことはほとんどなく、安定しております。<br /> <br /> このことがどのような意味を持っているのかはわかりませんが、変化を楽しんでいます。<br /> <br /> Fri, 03 Jan 2020 00:00:00 +0900 瞑想における集中の意味合いの変化 https://w-jp.net/2020/1773/ <br /> 古典的なヨガの瞑想では眉間のアジナ・チャクラ(サードアイ)や胸(ハート・チャクラ、アナハタ・チャクラ)に集中するように言われますが、私にとって、昔と今ではその意味合いが変わってきました。<br /> <br /> かなり昔は、集中とは雑念から引き離す行為であり、「一点」への集中という意味合いでした。眉間でしたら眉間にのみ集中し、胸のハートでしたらそこに意識を合わせる、と言う感じでした。雑念に囚われている時は集中が途切れていました。<br /> <br /> 今は、集中... と言えば確かに集中ではあるのですが、範囲が広範囲になってきました。<br /> <br /> 雑念が減ってきて体の各所を随時観察できるようになり、日常生活上のヴィパッサナー瞑想も可能になってきたのと時期を同じくして、瞑想中に集中しようとするとかつての集中とは異なってきているのを感じます。<br /> <br /> それは、以前のように針の1点に集中すると言う種類のものではなく、体全体を覆っているオーラの揺らぎを抑える、と言う種類のものに変わってきたように思います。<br /> <br /> ですから、焦点として... と言いますか、ある種の力点と言いますか、支点のような役割として眉間などを集中のポイントとして利用する必要は多少はあるのですが今までのようにそこだけに意識が行くわけではなく、ヴィパッサナー状態で体全体を観察しつつ、支点としての眉間を使いつつ、体全体のオーラに起きている細波のような振動を抑えて静かにしてゆく、と言う意味合いで集中の力を瞑想中に使用するようになってきたように思います。<br /> <br /> それは以前とは変わらず「集中」と呼ぶこともできますし、説明が難しいですので言葉として表現する時はやはり「集中」と言ってしまうことが多いと思いますし、説明の時間があまり取れない時は「集中」と表現しておけばとりあえず良くて、それほど間違っているわけではないのですが、1点に集中すると言う意味合いにおいての「集中」とはちょっと違った集中の使い方を最近の瞑想ではするようになってきました。<br /> <br /> 瞑想の初期段階においては雑念を抑えるために集中(サマタ)が重要で、やがてそれは観察状態(ヴィパッサナー)に移行したように思いますが、ここに来て、ヴィパッサナー瞑想の中に再度、ちょっと違ったサマタ(集中)っぽい要素が入ってきたことが興味深いです。<br /> <br /> Fri, 03 Jan 2020 00:00:00 +0900 ヴィパッサナー瞑想における体の観察 https://w-jp.net/2020/1772/ <br /> 先日の続きです。日常生活上でヴィパッサナー瞑想をするようになって感じたことは、世間のヴィパッサナー瞑想で「歩き瞑想(歩行瞑想)」とか様々なヴィパッサナー瞑想がありますが、私が最近になって感じた状態になるまではそれは本来のヴィパッサナー瞑想ではないような気がしてまいりました。<br /> <br /> 私はテーラワーダ協会の方式とゴエンカ式とプラユキ・ナラテボー式のヴィパッサナー瞑想を経験したことがありますが、その導入としては皮膚の感覚を使うというものでした。しかし、おそらくはそれは導入で、本来のヴィパッサナー瞑想はオーラの動きを感じるものなのではないか... という気がしております。これは識者に確かめたわけではありませんが、おそらくそうなのではないかなと個人的には思います。<br /> <br /> 雑念が減って日常生活がスローモーションで見えてくるようになればヴィパッサナー瞑想でよく言われているように日常生活での瞑想(観察瞑想、ヴィパッサナー瞑想)も容易にできるでしょうが、そうでなければ、例えば「歩き瞑想」をしたところで、それは単に歩いていることとそうは変わらないと思います。...まあ、その瞑想が無駄だとは言いませんけど、違いを感じることは難しいように思います。<br /> <br /> 今になってわかることは、やはり最初は雑念の減少、いわゆる浄化が重要なのだということです。<br /> <br /> そして、浄化できて雑念が減ってきた時にようやくヴィパッサナー瞑想が始まるわけです。<br /> <br /> Fri, 03 Jan 2020 00:00:00 +0900 大天使の分霊のオーラの割合 https://w-jp.net/2020/1771/ <br /> 有名な大天使がハイヤーセルフだったりする人は割とこの地上に多く転生しているわけですが、そうは言いましても、大天使の本体と分霊との間にはかなりの差があります。<br /> <br /> 先日、分霊とハイヤーセルフについて書きましたが、どの程度の差があるのか示さないと誤解があると思いました。きっと数値化するのがわかりやすいと思います。<br /> <br /> こう言うのは感覚的なものですので数字できっちりと示すのは難しいのですが、私のハイヤーセルフであるとある大天使のオーラが10,000だとして、その大天使から分霊が時と場合によりけりで 300〜1000体ほど地上に降りており、それぞれの分霊のオーラは1〜3ほどだと思います。例外的に大きいオーラを持っていたとしてもせいぜい10くらいです。<br /> <br /> これをパーセントで示しますと、大体の場合は0.1% ~ 0.3%ほどのオーラ量の分霊なわけで、時々、聖者とも言える人の場合にのみ1%くらいの濃いオーラを持った分霊が地上に転生するわけです。私の場合は 0.15%(あるいは1.5%?) くらいですかね? 何となくの感覚ですけど。<br /> <br /> ですから、自分が大天使の生まれ変わりだとか思うのは恥ずかしいから他人には言わない方が良いと思います(苦笑)<br /> <br /> 分霊ですから一応は一部ではありますけど、分霊になった時点で個別の意識を持ちますから。<br /> <br /> 多くの場合は再度、その帰るところであるグループソウルのところに戻っていきます。グループソウルとは視点を変えればハイヤーセルフのことですから、最終的には大天使のところに戻るわけです。その意味では同じと言えなくもない、と言う程度のお話ですが、分霊の所有している英知や判断力は大天使には遠く及びません。<br /> <br /> 流石に分霊でありますのでその大天使に由来する能力が出やすかったり、その大天使にゆかりのある存在たちに守られたり導かれたりする、と言うことはありますし、本体であるハイヤーセルフの意思が分霊に託されて実行されることもよくあります。そうは言いましてもオーラ量に差がありますし、傾向は似ていても、分霊としては個別の意識を持っているわけです。<br /> <br /> ちなみに、時々、分霊がピンチになるとハイヤーセルフからオーラを分けたりすることもあるようです。ですが、それは結局はハイヤーセルフを少し弱らせることにもなります。最終的にそのオーラを使って分霊が学びを深めてくれれば良いのですが、無駄になることもあります。<br /> <br /> そのように、ハイヤーセルフが分霊のオーラの量をコントロールしつつ目的を果たしてゆくようです。<br /> <br /> オーラの量的にはそうであっても、私の場合、以前に書きましたように他の使命の途中で溜め込んだカルマの解消が目的ですので本体のハイヤーセルフの黒いオーラを集めて作った分霊ですので他の分霊とはちょっと違います。他の分霊は使命優先ですから明るいオーラで生まれて、使命の途中で黒いオーラであるカルマを溜めて帰ってきますが、私の場合、黒いオーラが優勢の状態で生まれて来ました。ですのでどん底を経験してからハイヤーセルフのところに戻るのが目的なのですが、そもそものハイヤーセルフの意思を辿りますと、最初は私の元である黒いオーラは粉々にして消滅させてしまおうかと思っていたようです。ですが、消滅させるよりも多少の明るいオーラと混ぜて地上に転生させ、回復できるのであればそれはそれでよし。ダメであれば分離させるかやはり消滅させるか、という選択肢の元で私が地上に生まれたのです。もともと消滅するかもしれないオーラを元に生まれた私ですからダメ元という面もあって、どん底からの経験で人類を理解したい、という意図もあったようです。他の分霊は最初から目覚めた状態で生まれて来ますので人類の悩みというものがよくわかりませんが、どん底から経験すればどうして人類が悩んでいるのか理解できるだろう、と考えたのです。そうしたいくつもの意図があって私が生まれて来ましたので、私の場合、今世の目的はカルマの解消であって、特に人類に影響するような使命は持っていないわけです。私の場合、オーラの総量としてはそれなりで生まれて来たように思いますが黒いオーラでしたので消耗が激しく、生まれた後に随分とオーラの量が減ってしまったように思います。<br /> <br /> Thu, 02 Jan 2020 00:00:00 +0900 日常生活上のヴィパッサナー瞑想で無情を感じる https://w-jp.net/2020/1770/ <br /> ヴィパッサナー瞑想とは観察瞑想のことですが、これに関連しまして 先日に視界がスローモーションで認識されるということを書きましたが、スローモーションで視界を認識すると、いかに細かなことであっても無情であることを実感できるようになってきたように思います。かすかな風であっても何かを揺らし、動きが生じます。<br /> <br /> ただし、ここで言っている無情とは仏教での解釈とは異なるかもしれません。言葉通りに無情であることを感じる、と言うことです。<br /> <br /> それは言葉で表現すると「感じる」ということではあるのですが、以前の私が五感で「感じる」ということをいくら努力しようとしても現在のヴィパッサナー状態には至らなかったように思います。ですから、言葉上では「感じる」という言葉が近いとも言えますし、「感じる」という言葉は間違っている、とも言うことができます。私の持っている言葉が貧弱なのかなかなか表現がし辛いのですが、ヴィパッサナー状態とは「目が、感じる」とでも言えば良いでしょうか。もちろん目は視覚ですので「見る」ための感覚器官ではあるのですが、見ているだけなのに、体全体が何かを感じ取るのです。それは、皮膚の感覚としての「感じる」とはまた違ったものです。ですから、この感覚を「目から入ってきた情報を元に、体全体の内側と外側が満遍なく感じる」と言うことはできますが、その「感じる」とは、「皮膚の感覚を感じる」と言うことではないのです。<br /> <br /> この種のヴィパッサナー状態になった時、体全体の内側と外側とで満遍なく無情を感じるのです。人の肉体はオーラに包まれているのですが、そのオーラの方が何かを感じているのです。<br /> <br /> それは、オーラが感覚器官として働いている、とも言えるかもしれません。目から入ってきた情報... と言いますか、もしかしたら目はフォーカスのための導入にしか過ぎず、実際に感じているのは体全体、いわゆるオーラの方であるように思います。<br /> <br /> このヴィパッサナー状態であれば、体全体のオーラで敏感に外部を察知し、外部の細かな動きに反応して自分のオーラがその変化を読み取り、無情を感じとるのです。<br /> <br /> これは、まず最初の基本で「頭の思考」をある程度止めないとヴィパッサナー状態になりませんので、雑念や思考で頭の中がグルグル回っている人はできないと思います。ですから、最初はヴィパッサナー瞑想ではなくサマタ瞑想(集中瞑想)で雑念を減らしていくわけですけれども、その辺りについては以前少し書きました。<br /> <br /> 世間の社会を生きると言うのは世知辛いもので、思考をグルグル回すことしか知らない人が大勢いますので、そう言う人と仕事やプライベートで関与してしまいますと簡単にヴィパッサナー状態が失われてしまって、以前のようなパラパラアニメのような1秒に数コマも認識できないような空間認識能力に落ちてしまいますから困ったものです。<br /> <br /> ここから更にヴィパッサナー瞑想を深めるためには世間との関わりを制限すべきなのかもしれません。<br /> <br /> Thu, 02 Jan 2020 00:00:00 +0900 大天使はその分霊を多数この地上に派遣している https://w-jp.net/2019/1768/ <br /> 有名な大天使に限らず、強大な力と影響力を持つ大天使は地上に何かを働きかける際に直接メッセージを送ることはほとんどなく、分霊を通して地上にメッセージを送られます。それは分霊が地上近くに行ってメッセージを睡眠中や瞑想中のイメージと共に送られることもあれば、分霊が地上に転生して使命を果たすこともあります。大天使の本体がそうして転生した分霊に対してメッセージを送ることもあります。目覚めている分霊の場合は大天使の本体と相互にコミュニケーションを取りながら使命を果たすこともありますが、それよりも、単なるメッセージとして受け取って行動することの方が多いように思います。<br /> <br /> 大天使は多数の分霊をこの世に送り出していますから、自分のハイヤーセルフが有名な大天使だと言う方が多数いても不思議ではないと言いますか、それが当然なのだと思います。ハイヤーセルフと自分としての分霊が一対一かのような印象がニューエイジ思想の中に刷り込まれているように思いますが、私の認識では、ハイヤーセルフは多数の分霊を作り出していると思います。<br /> <br /> 大天使から分霊が生まれる際、分霊の側から見るとグループソウルから分離したかのような感覚になります。このあたりは以前にも少し書きました。ハイヤーセルフとしての意識が存在して、ハイヤーセルフがグループソウル相当で様々な思考を統合しており、ハイヤーセルフの意思はあるにせよ、グループソウルと分霊個々という階層で経験した意見や思考もまた存在していて、確固としたハイヤーセルフの意識とグループソウルの中にある分霊としての意識とは表裏一体と申しますか、全体と個としての関係になっているわけです。<br /> <br /> 例えば私が枝分かれした有名な大天使にしても、地上の私の分霊に対して、本体のハイヤーセルフとしての大天使はざっと私の300倍から1000倍のオーラとエネルギーを有していると思われます。ですから、私なんてのは大天使からしてみたらほんのささやかな小さな存在であり、ハイヤーセルフとは自分といえばそうなのですが、とても自分とは言えないくらいオーラもエネルギーも違います。<br /> <br /> そうは言いましても私の分霊はハイヤーセルフの一部だった訳で、その記憶の一部を共有していたり、あるいは、もともとの目的が完遂したら元に戻る・・・、つまりは、ハイヤーセルフと再度一緒になる・・・、見方を変えれば、グループソウルとまた一緒になる、ということを期待・予定されているわけです。<br /> <br /> その分霊はそれぞれに目的があって分霊になるわけで、地上の社会のためですとか精神的啓蒙ですとか色々と目的があるわけですが、大天使の大いなる意図があって、それから分霊が作られるわけです。<br /> <br /> そうしてみますと、私の運命や思考や人生は自分で考えているというよりは大天使の意志の手のひらで踊っている小さな存在に過ぎないわけです。<br /> <br /> 特殊能力にしても、必要ならば与えられますし、不必要ならば普通の人として暮らす... と言いますか、不必要ならば能力は発現しないでしょう。<br /> <br /> 地上に生まれて、あたかも自由意志があるような気がずっとしておりましたが、最近、次第に、自由意志とはあるように見えるだけで幻想で、大いなる意思に左右されているのだという認識が強くなってきました。<br /> <br /> 確かに、細かな部分では自由意志は存在しますが、大いなる意思に個人の意思が従わないのだとしたらしつこくその運命の方にかなり強引に方向転換させられるような気がしております。<br /> <br /> 今年も終わりですが、来年は、更なる導きがありますように。よいお年を迎えることができますように。<br /> <br /> Mon, 30 Dec 2019 00:00:00 +0900 過去生の記憶から辿るサードアイの変化 https://w-jp.net/2019/1767/ <br /> 最近、アジナ優勢になったり一瞬だけホログラムのように感じるサードアイの経験をしましたけど、過去生の記憶を辿りますとサードアイあるいはフォースアイ(4th eye, 第四の目)とも呼ばれるものは、かなり便利な代物です。どうも、私の場合は内なるガイドの導きにより、サードアイは問題が多いという理由でサードアイをあまり活性化させずにフォースアイを目指している感があります。まあ、それは気のせいで、これがサードアイなのかもしれないですけど。<br /> <br /> サードアイは割と霊的なものを見分ける目で、霊を見たりすることができるわけですけど、俗にいうフォースアイは現実そのものから時空を超えて認識できる能力のようです。まあ、私の場合、今生でそれを活性化させるのは必須ではないようですけど。<br /> <br /> そのフォースアイは、最初、頭の真ん中あたりで作ります。ゲゲゲの鬼太郎の目玉おやじの目のように... と言っても体はついていなくて目玉だけですけど、アストラルの目を頭の真ん中あたりでまず作ります。そうすると、まずぼんやりと周囲が認識できるようになります。<br /> <br /> その後、その目の構造が強固になったら少しづつ頭の上から出したり戻したりします。最初は少し出して、安定しないようであれば戻したりします。<br /> <br /> やがては、その目が頭の上に常に常駐できるようになります。この時点で、ほぼ360度の視野ができます。ただし、単眼ですので距離感が掴みにくいのが弱点です。後ろから来るものがどのくらい離れているのかは、最初は肉眼とで見比べて慣れる必要があります。慣れれば、しっかり見れば距離が分かりますがなかなか直感的に距離は分かりません。単眼ですので仕方がないですが、慣れてくればそれなりに実用になります。<br /> <br /> 頭の上で常駐するのに慣れてきたら、その目を動かしてみます。少し体から離して、自分の体を眺めてみることもできます。ヨガのポーズを周囲から自分で確認できたりするのでここまで行ければかなりこの目は役に立ちます。<br /> <br /> その後、更に慣れて来ると時空を越えることができます。<br /> <br /> ・・・とまあ、そうは言いましても、私はできませんけどね。幽体離脱した時に覗き見たグループソウルの過去生の記憶を辿ったまでのことです。<br /> <br /> 順番としては、まずクンダリーニを活性化させて、瞑想をして、頭のアジナにまでエネルギーを充満させて、その後、上のように頭の中に目を作ります。<br /> <br /> ・・・真似してみてできなくても保証はしません(苦笑)<br /> <br /> Sun, 29 Dec 2019 00:00:00 +0900 視界がスローモーションで認識される https://w-jp.net/2019/1766/ <br /> と言いましても時間の経過速度はそのままの筈ですが、まるで映画のスローモーションのようにコマ割りで視界認識されるようになってきました。<br /> <br /> 今日は足首骨折のリハビリも兼ねて高尾山に登ってきました。ですが、リハビリというより普通にスタスタ登れました。去年お世話になった御札を返してスッキリしたのです。<br /> <br /> この高尾山、霊験高らかということですけどメインのお寺にある願い事をするための紐は大勢が触りすぎていて、大勢が憑き物を落とそうとしてその紐に触るので同様に不意に触ると逆に悪いものが逆流してきて憑かれそうになるという罠があるにはあるのですが紐を触らなければ山としては高いエネルギーに満ちていると思いますのでよく通っています。お店がお正月モードになっていました。<br /> <br /> 最近はヨガや瞑想によって観察力が高まってきたのか、景色のコマ割りが以前より増えた気が致します。時間の経過速度は以前と同じ筈ですが景色が細かくスローモーション映像のように認識されることが多くなり、なんてことはない景色もゆっくり映像のように綺麗に見えます。遠くに行かなくても自分が変わるだけで世の中は綺麗に見えるものかもしれません。<br /> <br /> かなり前は、例えばハイキング等で一歩ごとに3コマ程度のコマ割り認識されていたような気が致します。<br /> <br /> 例えば、以下の3コマです。<br /> ・右足、後ろ<br /> ・右足、中央<br /> ・右足、手間<br /> <br /> 今は、これが更に分割されて24コマくらいのスムーズな映像として認識されます。ハイキングするうちに疲れて認識力が弱まりましたが、それでも15コマとか8コマとかで認識されました。このコマ数はニュアンスですのでしっかり数えたわけではありませんが、趣味で動画編集した時にコマ数を変えるとスムーズさが変わることは直感的にわかりますので、それと比べるとだいたいそのくらいということです。<br /> <br /> 昔は、一体どれだけ無意識で生活していたのだろうかと思います。これはヨーガで言うところのいわゆるタマスな状態で認識力が弱まってコマ数が落ちていたわけですが、ヨーガや瞑想をするにつれて認識力が高まってコマ数が増えてきたような気が致します。<br /> <br /> 以前の、それほど認識力が高まっていない頃であっても、例えば長く瞑想をして一時的にこのような認識力が高まったこともありますけど急な変化は戻りやすいのでそれ以来それほど認識力が高まった感じはしていませんでした。<br /> <br /> それが、ここ最近になって認識力が高まって、なんてことはない景色がコマ割りのスローモーションのように... と言っても時間の経過はそのままなのですが、時間の経過速度はそのままでもまるでスローモーションのようにコマ割りで認識される、ということです。今は、コマ割りというよりスムーズなスローモーション動画が通常速度で認識されます。何言ってるか通じないかもしれませんが、例えば、普通の動画は1秒30コマ(30fps)ですが、それ以上のコマ数を撮影できるハイスピードカメラを用意して撮影し、それを通常の1秒30コマ(30fps)で再生するとスローモーション動画になるのですが、認識としてはそのようにスローモーション動画の細かいコマ割りで認識されるのですが時間経過としては通常の速度のまま、ということです。認識力が高まってきたのだと思います。<br /> <br /> 瞑想を長くして集中力を激しく高めた時にも同様になったのですがそれは一時的で、しかも相当の集中力が必要で不安定なものだったのですが、今回は努力とかほとんどいらなくて... と言いますか、意識しなくてもナチュラルな自然な状態で集中力と観察力が高まった状態ですので特別の努力が不要で、普段の生活において観察力高まっている感じです。<br /> <br /> 例えば、普段歩く時に体が上下して視界が少し上下しているわけですけれども、以前であれば1秒に数コマくらいしか認識しておりませんでしたのでその上下移動がほとんど認識されなかったのですが、今はその視界の上下移動がスムーズに認識されるので、視界が常に上下に揺れ続けていて、近くの風景、例えば木の葉っぱとかを見ようとすると常に上下に揺れているので、その自分の揺れで自分が酔っ払ってしまいそうな感覚に陥ってしまいます。自分の視界で自分が酔っ払う、って一体どういうことでしょう(苦笑)あんまり移動したくなくなっちゃいます。こうなると、視点の移動方法を工夫しないといけないですね。歩いているだけなのに、まさかの酔っ払いなんて(苦笑)ちょっと視点を変えつつ移動するか、見るものを変えつつ歩かないといけないですね。検索したら「スマホの使いすぎ」とか出てきたり... そういう原因かもしれないので注意が必要ですね。まだまだ様子見です。<br /> <br /> 関連しているのか何なのか、この認識力高まったの同時期から、夜に寝ようとしても意識が動いていて体だけ休む時間帯が寝て1〜2時間の間に生じるようになりました。最初はただ単に寝られないだけかとも思っておりましたが、これは意識が夜でも目覚めていて体だけ休まる、という状態だと解釈すれば好ましい変化であるように思います。時間前後寝るとして、最初の1〜2時間がそんな感じになりつつあります。<br /> <br /> 私が昔に幽体離脱してグループソウルの過去生を覗き見た時、とある中世ヨーロッパでの人生の中で女性として生まれていたときに同様に夜は意識だけ起きていて体だけ寝ていた、という経験をしていましたので、それと見比べるのならば、きっとやがては寝ている間ずっと意識が目覚めて体だけ休める状態に移行するのかな、とも思います。<br /> <br /> こういうのって、スポーツ選手が体験するスローモーションの「ゾーン」みたいな体験に似ている気もしますので、スポーツ選手がヨガや瞑想をしたらパフォーマンスが上がるのではないかとか思うこともありますが、どうなのでしょうかね。私はもともとぶきっちょでおっちょこちょいですのでスポーツとは無縁ですけど、以前よりはマシになった気も致します。主観でスローモーションで見えるようになったとは言ってもスポーツ選手の動体視力は桁外れにもの凄いですから、それと比べたら私の今の状態なんて子供みたいなものだと思いますから比べることなんて全然できませんけどね。ただ、個人的に、以前と比べるとそのような変化があった、ということです。<br /> <br /> 続き: 日常生活上のヴィパッサナー瞑想で無情を感じる<br /> <br /> Sun, 29 Dec 2019 00:00:00 +0900 ハイヤーセルフとグループソウルの関係 https://w-jp.net/2019/1765/ <br /> ハイヤーセルフという言葉は謎めいていまして、様々な意味で使われているように思います。<br /> <br /> 一般的には「高次の自分」という訳が適切のような気もしますが、以前に少し書きましたように「本当の自分」という意味や「魂」という意味、あるいは「無意識(個人的無意識、集合的無意識)」のことを意味することもあります。<br /> <br /> 以前は私はハイヤーセルフというと漠然と「魂」「高次の自分」「内なるメッセージの主」みたいな感じで捉えていましたが、最近はちょっと違った見方をしております。<br /> <br /> まず、肉体があって、意思や思考が備わっている、いわゆる「個人」という主体が存在します。<br /> <br /> それは個体としていわゆる「魂」というものもセットになっているわけですけれども、その魂の上位概念として「グループソウル」というものが存在します。<br /> <br /> グループソウルは以前に転生についての記事で言及しておりますが、魂が一旦グループソウルに合流してから再度分割して分霊を作って転生する場合と、魂(分霊)がグループソウルに合流せずにそのまま転生する場合とがあります。<br /> <br /> そのグループソウルは、そのグループで一つの意識体を構成しているのです。<br /> <br /> 私の場合、子供の頃に幽体離脱してその辺りのことを知るに至ったわけですが、その時の理解をふと思い出すと、上記のようにグループソウルとしての分霊ができるサイクルがある一方で、そのグループソウルは更に上位の意識の体の中で起こっていたことをふと思い出したのです。<br /> <br /> その上位の意識体は地球の軌道上に漂っていて様々な地球の活動を監視や他の意識体に対して指示をしているような、割と有名な名前を持つ意識体ではあるのですが、グループソウルの概念はその意識体の体の中で起こっていたことをふと思い出しました。<br /> <br /> と、いいますか、ことあるごとに思い出してはいたのですが、割とスルーしていてすぐに忘れてしまっていて、それほど重要なことではないと受け止めていたのですが、ふと思えば、グループソウルとその上位の意識体の関係のことってほとんど聞いたことがないな... と思ってこの度、記事にしてみました。<br /> <br /> その上位の意識体こそが、もしかしたら本当にハイヤーセルフと呼ぶに相応しいものなのかなあ、という気も致します。<br /> <br /> グループソウルはそれで意識を持っており、グループソウルはそれはそれで広い世界と広い意識を持っているので、グループソウルの一部だけでも意識を持っています。ですから、グループソウルがハイヤーセルフとして意識を持っていると言えなくもないのですが、むしろ、グループソウルを統括するものとして・・・ といいますか、ハイヤーセルフの体がグループソウルの母体そのものになっていて、ハイヤーセルフはグループソウルそのものと言ってもよく、ハイヤーセルフとしての統括した意識体が存在しているのです。<br /> <br /> ハイヤーセルフがグループソウルそのものだとしたら、グループソウルから分霊が生まれるというのは、言い換えれば、ハイヤーセルフから分霊が生まれて私という存在が地上に生まれてきている、とも言えるのです。<br /> <br /> これは、ボヤッとしたイメージでグループソウルの存在を論じるよりもよほど具体的でわかりやすい構造だと思いますし、私が幽体離脱した時の経験からして、これが真実だと思います。<br /> <br /> 今までこの上位の意識体のことを私はハイヤーセルフとは呼んではいなくて、私の魂が分離した大元の意識体、というように言ったりしていましたが、このグループソウル相当の大元の意識体をハイヤーセルフと呼ぶ方が適切かな... と最近思うようになったわけです。<br /> <br /> 認識自体は前からあったので特別に違いがあるわけではないのですが、言い方だけのお話ですね。<br /> <br /> この大元の意識体がハイヤーセルフだとすれば、ハイヤーセルフはかなり遠くて崇高な存在です。<br /> <br /> そして、そのハイヤーセルフの近くにいて任務を遂行したり世の中に尽くしている、私のハイヤーセルフと同系統で相応に同じレベルあるいはその近くのレベルにいる意識体が、今私のガイドとして付き添ってくれているようです。<br /> <br /> その一方で、私の肉体の意識体と同系統といいますか割と近い存在として過去生で一緒だった人たちが守護霊として近くに大勢いたりするわけですけれども、その友人知人や家族だった守護霊たちと比べて、ハイヤーセルフの近くにもともといた意識体のレベルは相当に高いわけで、頼りになるわけです。<br /> <br /> とは言いましても、色々と事情があって、私の今世の目的は以前書きましたようにカルマの解消ですので、その目的に沿って指導が行われてきたわけです。<br /> <br /> 世の中の理といいますか、あの世の理がわかってきますと随分とスッキリしますし、目的が達成できたらグループソウル(=ハイヤーセルフ)のところに戻るのだとわかってしまいさえすれば人生も楽になります。<br /> <br /> 私という存在はその目的を達成するべくして分霊になったのであり、帰るところがあるわけですからね。<br /> <br /> ただ、そのハイヤーセルフに戻る一方で、今生で知り合ってあの世のコミュニティにいる友人知人や家族だった霊たちのことも気遣う必要があるのでハイヤーセルフのところに戻ったらお終いではありませんけど。人によってはこれを執着と呼ぶかもしれませんけど、コミュニティを簡単に捨てることはできませんしね。<br /> <br /> Sat, 28 Dec 2019 00:00:00 +0900 空を見上げ、星の海に思いを馳せる https://w-jp.net/2019/1764/ <br /> 来年から公開されるスタートレック・ピカードのトレーラーを見ていたら、ふと急に思いがこみ上げてきて、星を見上げていました。<br /> <br /> <br /> <br /> ピカードが宇宙艦隊を引退し、任務を離れて暮らしている姿。<br /> その後、宇宙の平和のために立ち上がる姿。<br /> <br /> アメリカ人の気高い姿が旧世代から新世代へと変わり、意識が宇宙や世界的なものに変わってきているのを感じます。<br /> <br /> その変化を、もう年寄りであるパトリック・スチュワートが描いているのは興味深いです。過去の作品であるスタートレックTNGでは古き良きアメリカの気高い生き方を描いていました。今回の作品で、それが変化したように思います。<br /> <br /> アメリカン・ヒーローの姿の変化。<br /> <br /> 今までは他者の為だとか英雄になる文脈でアメリカ人の誇りが語られていました。これからは他者どうこうよりも、自らの中から湧き上がる貢献の気持ちが行動の原動力になる時代なのかなと思いました。<br /> <br /> 日本人が想像するアメリカン・ヒーローが道徳的なものから本質的なものへと変容し、自らの中で湧き上がるものになる・・・ ということは、「頭」と「体感(本質)」とが一致しているということです。今までは頭でヒーロー的なものを目指して体感(本質)がなかなかついてこないというアメリカンヒーローの姿が目立ちましたが、ここにきて、本質(体感)と頭の両方が他者への貢献を目指すという姿に変わってきたように思いました。<br /> <br /> であれば、これからは必然的に他者との分かち合いの時代になります。<br /> 人々がその意識についていけるかどうか? そこが鍵になると思いました。<br /> <br /> これから、仕事での終業時間が半分になる時代に徐々に移行してゆくと私は思っておりますが、そのために必要なのは分かち合いの精神であり、本質から分かち合うというスタンスがなければワークシェアリングは実現しません。<br /> <br /> 単純な仕事は減り、単に生きるための仕事は減るとなれば、全体の仕事の時間は減ることになるでしょう。<br /> <br /> しかし、分かち合いの精神がなければ一部の「全く働かない人」と「激務で奴隷のように働く人」とが二分されてゆき、ワークシェアリングは実現できないでしょう。<br /> <br /> 分かち合いは道徳的に正しいと誰でも頭で考えるとはいえ、実際にそれができる人はそうそういません。<br /> <br /> スタートレックは昔から未来の姿を示す道標として存在しており、かつてはピカードがTNGシリーズにおいて理想的な宇宙との関わり方を描いてきました。<br /> <br /> これからピカードが新シリーズで表現するのは、確かに物語としては人気が必要ですのでアクションや戦闘シーンもあってそちらが話題にはなると思いますが、もともとスタートレックで描きたかったのは次世代の人生観や宇宙的な意識のありようであり、少なくともトレーラーにおいてそのあたりのピカードの意識が表現されているように思いました。<br /> <br /> 次作のピカードではそのあたりに期待したいところです。<br /> <br /> <br /> まあ、一般的にはそのあたりの解釈にはなるのですが、もともと宇宙にルーツのある人たちに向けて、以下のような隠れたメッセージが含まれているように思いました。<br /> <br /> 「貴方(視聴者)は、今はこのピカードのように地上に暮らしていて、かつて宇宙を駆け巡って様々な冒険をしていたことを忘れてしまっています。貴方はピカードのように地上の何不自由のない生活を平和に謳歌しているかもしれません。あるいは、宇宙の生活は遠い過去のこととして現在の生活とは無関係のように思っているかもしれません。しかし、そろそろ思い出してみてください。ピカードのように、貴方にはできることがあるのです。今、地上の人として一般人として生活をし、いくら貴方が宇宙への任務への復帰を希望してかつての団体に願い入れたとしても、ピカードのようにそれは表面的には拒否されることでしょう。あまりにも地上の生活と宇宙の生活は違いすぎますし、宇宙で活動するための訓練も長い間、受けてきていません。それはそうでしょう。しかし、ピカードのように思いを強くしてください。それを宇宙の友人たちは期待しています。どのような関与になるのか、何も起こらないのか、何かが起こるのか、それは人それぞれです。しかし、貴方がピカードのように空を見上げ、宇宙的な意識を持ち、世の中への貢献が自らの内から湧き上がってくるようになった時、何がしかのアプローチが宇宙からあるかもしれません。空を見上げ、かつての姿に思いを馳せて、他者や社会および世界や宇宙への貢献の思いを抱きしめてください。貴方のそのような思いを期待しています。」<br /> <br /> ・・・そんな感じのメッセージが込められているような気が致しました。もちろん製作者に問い合わせても「そんなことはない」と言われるだけでしょう、このようなメッセージは製作者の意識の中に、それとわからないように込められるものなのです。アーティストの頭の中に隠されたメッセージを込めることなど宇宙の人たちには簡単なことです。<br /> <br /> 新シリーズのピカードがアメリカで来年に放映され、この隠れたメッセージが拡散した時、アメリカがまた一歩、次のステージに向けて変革するような気も致します。これは全員が覚醒するという種類のものではありませんが、一部の視聴者はこのメッセージを受け取って新たな意識に変わってゆく気がしております。<br /> <br /> Fri, 27 Dec 2019 00:00:00 +0900 右腕に絡まっていた見えないものを引き抜く https://w-jp.net/2019/1753/ <br /> ここしばらく右腕に緊張がありましたので瞑想中に右腕を探ってみまして、右腕に絡まっている強張っているものを引っ張り出したら緊張がほぐれました。<br /> <br /> これは何かの憑依なのかそれともネガティブなものが絡みついていたのか、そこのあたりはよくわかりません。いつしかにも同じように右腕から心臓にかけて何かが憑依していたのを引き抜いたことがあったのですが、その時よりは傷が浅いです。その時は心臓にまで触覚のようなものが到達していましたが、今回は右腕だけでした。<br /> <br /> 引き抜いた後、その傷口を意識の糸で縫うようにしたら傷口のあたりのオーラが安定しました。縫う時は、ピリピリした感覚があって痺れていました。<br /> <br /> その後しばらく右腕が不自由で、痺れの感覚が数日は続いていたかと思います。<br /> <br /> 引き抜いた翌日は大分良くなりまして、数日経過したらほぼ回復。1週間くらいしたらほぼ普通に戻りました。<br /> <br /> それでも、左腕と比べますと左腕はオーラがかなり安定しているのに対し、右腕は左腕ほどは安定していません。<br /> <br /> 今まであまり気にしておりませんでしたが、オーラの状態を全身細かくチェックするようなことを定期的にした方が良いかもしれないですね。<br /> <br /> おそらくはオーラに亀裂が入っていて何かの意識体かネガティブなオーラが入り込みやすい状態になっていたのかなという気がしていますので。<br /> <br /> <br /> <br /> Sun, 15 Dec 2019 00:00:00 +0900 神聖幾何学のラビリンスを歩く時の感覚 https://w-jp.net/2019/1752/ <br /> ヨガのアシュラムに遊びに行った時、神聖幾何学のラビリンスがありましたので何度か歩いてみました。<br /> <br /> <br /> <br /> 歩くと、体の各所がグリグリと線のように今歩いている場所に対応して体内感覚があるのが面白かったです。<br /> <br /> 体の中を(小周天のような縦回転ではなく)横回転でエネルギーの感覚がありました。<br /> <br /> 最初はお腹の左右それぞれに縦方向に動く感覚があって、次は胸からお腹にかけての外側を左右それぞれ縦方向に動く感覚、ただし最初のお腹とは逆回転でした。<br /> そして一旦頭(確か右寄り?)に感覚が表れたのち、喉へ。そして眉間から頭上(右寄り)に行ってから中央でゴール。<br /> <br /> 戻る時も同様でした。<br /> <br /> <br /> <br /> 数日後再度試しましたところ、歩いている時にチベットのお経のような低い声でオーン、ウァーン、カー厶、みたいな長い音が後頭部の斜め上で聞こえていました。遠くでの音なのでしょうか? 空耳? 風切り音の上に乗っているような音で聞こえていました。音には指向性があるようで、ラビリンスの入り口の少し左側の方向から聞こえているようでした。耳で聞こえるというよりは上に書きましたように後頭部の斜め上の空中あたりが反応して聞こえているようでした。聞こえているのはラビリンスを歩いている時だけでした。<br /> <br /> 体の感覚は前回と同様にあって横回転していました。<br /> <br /> 体の感覚は毎回同じようにありますので、歩くだけで体内のエネルギーが活性化される興味深いラビリンスだと思いました。<br /> <br /> チベットっぽいお経が聞こえたのは一度だけでした。<br /> <br /> Sat, 14 Dec 2019 00:00:00 +0900 オーラの接触の程度 https://w-jp.net/2019/1751/ <br /> どの場合にどの階層のオーラ接触なのか解明はできておりませんが、何種類かオーラ接触の種類があるようです。<br /> <br /> 肉体が近づくときにオーラが接触します。オーラの接触はなるべく少ない方が良いので自分のオーラを自分の体の近くに密着させるように意図するのをお薦めしますが、多少は混じってしまいます。お互いにオーラが体の近くに密着していればさほど危険はなく、現代人はこのようにオーラを無意識に自分の体に密着させているような気がいたします。<br /> <br /> 一方で、オーラと言いますかエーテルコードとか呼ばれたりするオーラの糸が相手と繋がる場合がありますが、どうも、これは体の近くにあるオーラよりも凝縮した形態のような気がしてきました。<br /> <br /> 体の周囲にふわふわと広がっているオーラがそのまま伸びるというよりは、もっと体に近い根幹部分が意思の力で線のようになって伸びるのかな、と。<br /> <br /> 両方共オーラと言えばそうなのですが、ふわふわとしたオーラと線のようになっているオーラとは性質が異なります。<br /> <br /> そもそも、あまり精神訓練を行っていない人のオーラとある程度の瞑想などをした人のオーラは異なっていて、それは精神訓練のみに限らず勉強だったり生活習慣にもよるのですが、精神的に安定している人ほどオーラの「分かれ目」がしっかりしていて、精神的に未熟なほどオーラの分かれ目がぼやけていてオーラが発散しているような気がいたします。<br /> <br /> オーラを線のように伸ばすことができるのはある意味誰でもできますが、ある程度の精神訓練をしてオーラの分かれ目がくっきりしている人は明確なくっきりとした線を伸ばすことができますが、もともとのオーラがぼんやりしている人はぼやけた線というか太いぼやけた線のようなオーラしか伸ばすことができないわけです。<br /> <br /> この線のようなオーラは、普通のオーラと同じかなと思っていたのですが、どうも、意志で動く部分はオーラの階層が違うのかな、という気がしてきました。なんとなくですけどね。<br /> <br /> ヨーガとか神智学とかですと人間とオーラは複数階層に分かれていて、肉体に近い方から魂の根源に近い方まで階層が分かれています。オーラというと肉体以外のところ全てを指したりしますけど、肉体に近い部分のオーラが意志を反映できる気もしなくて、もっと根源の、例えば神智学で言うところのコーザル体(原因体)あるいはメンタル体みたいなところが意志で動いて、その周囲にアストラル体とかがくっついて動くのかな、という感じがしてきています。意志で動かすという意味ではコーザル体というよりメンタル体の方が感覚に近いかもしれません。<br /> <br /> それとも、このような分類は名目的なもので、ヨーガでいうところの3種類しかない、というのが実態なのかもしれませんけど。<br /> <br /> 感覚で知覚できるのは、基本的には<br /> ・五感による肉体<br /> ・意志によるオーラ<br /> この2つだけであり、その他には<br /> ・見る者<br /> もいたりしますけど、見るものはオーラを含めて鳥瞰的に見ているだけです。<br /> <br /> これらのうち、「意志によるオーラ」が最近、意志によって動く気がする部分と動かない部分があるような気がしておりまして、それがオーラの階層による違いなのか、あるいは、単にその部分のオーラが淀んでいて制御が効かない状態、いわゆるヨーガでいうナディ(エネルギーの通路)が詰まっている状態なのか、どちらなのだろうか、と気になっておりまして、どちらかというより、両方あり得るのかな、という気がしてきておりまして、であれば、オーラの階層があるのかな... という感じになってきております。これは瞑想中の微細な感覚の違いですので、実際は違う意味を帯びているかもしれません。<br /> <br /> まあ、このあたりを探っていくのも興味深いといえばそうなのですが。<br /> <br /> Sat, 14 Dec 2019 00:00:00 +0900 チャクラの核がマントラやチャンティングで出来てくる https://w-jp.net/2019/1750/ <br /> 最近、マントラやチャンティングに体が反応しやすくなっています。<br /> <br /> 例えば先日のチベットのマントラであれば頭の中が反応して活性化して核のようなものができつつありますし、チャンティングの種類によってはハートが反応したりします。<br /> <br /> どうも、チベットのマントラが頭の中を貫いたかのような感じになっていて、喉はまだ詰まり気味ではあるものの、喉を通り越してハートのあたりに感覚が続くようになりました。<br /> <br /> これは、以前からアナハタ(ハート)優勢になってきた感覚ともちょっと違っていまして、アナハタ優勢になったときはふわふわとした熱感がマニプラ優生からアナハタ優勢になったのに対して、今回は熱感というよりは核のようなものがアナハタに生じた感じです。<br /> <br /> 以前アナハタ優生になったときはマニプラとアナハタの間がブロックされていてアナハタにエネルギーが行っていなかった状態からそのブロックが外れてアナハタ優生になったのに対し、今回の場合はそのアナハタ優生な状態のまま更にアナハタに核のような感覚が生じたわけです。<br /> <br /> その核のような感覚は、チベットのマントラを唱えてから頭の中にできつつある感覚と似ているのですが、頭の中にできつつある核よりもハートの方がしっかりした核です。<br /> <br /> その核がチャンティングに反応するようになりました。それは熱感というよりもチャンティングに共振するような感じです。チャンティングのマントラやシュローカに共振してブルブル細かく震えて、核が強まる感じになります。<br /> <br /> 更にチャンティングをしたりチベットのマントラを瞑想中に唱えたりしますと、頭の中に感覚が出てくるのは以前の通りですが、最近はそれだけでなくアナハタにもなにか核がの感覚が出てきました。マニプラやスワディスタナにもアナハタほどではないにせよ微妙な核の感覚が出てきています。<br /> <br /> これがいわゆるチャクラというものなのでしょうかね?<br /> <br /> 今まで、マニプラやアナハタあるいはムーラダーラが活性化して熱感が出ることでそれがチャクラかと思っておりましたが、まさかこのように核のようなものが出来てくるとは思いませんでした。<br /> <br /> クンダリーニ活性化後は、以下の順番で熱感等が変わってきています。<br /> 1. マニプラ中心の熱感(後から思えばアナハタは未活性化だがクンダリーニ活性化以前と比べたらアナハタもそれなりに活性化)<br /> 2. (風のルンと比喩する体験後に)アナハタ優生の熱感<br /> 3. ムーラダーラの活性化(依然としてアナハタ優生)<br /> 4. (チベットのマントラにより)チャクラの核の感覚が出てくる<br /> <br /> さて、今後どうなりますか。楽しみです。<br /> <br /> Fri, 13 Dec 2019 00:00:00 +0900 心の歌の聞こえ方 https://w-jp.net/2019/1749/ <br /> 先日のハヌマーン神の歌の聞こえ方もそうですが、特に瞑想中、あるいは普段の生活においても、心の声や歌の聞こえ方が「離れて」聞こえる場合と内なのか外なのかよくわからずに共振しているように聞こえる場合とがあります。<br /> <br /> 例えば、先日の瞑想中のハヌマーン神の場合は視覚的に見えて聴覚的にも聞けましたが、「離れて」認識されました。<br /> これは夢と同じような見え方ですね。<br /> <br /> 一方で、散歩中にハヌマーン神の歌を思い出していたらふと昔はどんな曲を聞いていたかなと思いついてMisiaや浜崎あゆみの歌を思い出したのですが、最初は「離れて」認識されたのですが昔のことを思い出すと内と外のない「共振」状態になったり、その状態が交互に入れ替わったりして、状態の変化を感じました。そういえば昔は割とこの共振の聞こえ方が多かったのですが、最近は「離れた」聞こえ方になっていた、という変化を認識したのです。<br /> <br /> 「離れて」聞こえている場合はその相手の波動に飲み込まれまれませんが、共振している場合は飲み込まれます。<br /> 物事をしっかり見極めるには「離れる」見方が必要ですね。共振してしまうと感覚が飲み込まれてしまいます。<br /> <br /> なんとなくですけど、おそらくはエネルギーが高まっているときは「離れた」見方ができますね。<br /> エネルギーが落ちるとオーラの境目が曖昧になって「共振」状態になりやすい気が致します。今回の場合は昔のことを思い出して波動が一瞬落ちると同時に共振状態に落ちて、意識を戻すと「離れた」状態に戻ることが認識できました。<br /> <br /> その違いは、おそらくですが、オーラの伸ばし方にも関係しているような気がしてきました。<br /> <br /> オーラを対象物に「線」で伸ばすと「離れる」見方になるような気がいたします。このオーラについてはいつしかオーラとカフナ式みたいなお話をした時と関連しています。<br /> <br /> 一方で、オーラを「太く」全体的に楕円のように伸ばしていくと共振してしまうような気がいたします。原理的にはその部分のオーラが一緒になり過ぎてしまうのだと思います。<br /> <br /> 「線」で伸ばすと相手のオーラと多少は混ざりますが「離れて」いますので相手のことが分かる一方でそれほど飲み込まれないのだと推測しています。<br /> <br /> このオーラの使い方、まだまだ奥が深そうですね。<br /> <br /> 基本的にはオーラをあまり混ぜたくはないですので、なるべく細くオーラを伸ばすにしても多少は混ざってしまいますが、どうやら指向性の波動だけ送ったり受け取ったりすることで心の声や歌および相手の状態がわかるかもしれません。もうちょっとこの辺りを探ってみたいですね。<br /> <br /> どうやら、オーラを接触させて混ぜて相手のことを知ることができるのはそれはそれとして手法としてはあるのですが、波動だけ読み取ればいいのかもしれません。<br /> <br /> あるいは、私が勘違いしているだけで、波動と言ってもオーラの更に微細な部分な部分というだけでオーラの一種だとすれば、最初はオーラをガッツリ混ぜていたものが、慣れるにつれてオーラの微細な波動だけ見れば済むようになるのかもしれないですね。<br /> <br /> このあたりは更に様子を見てゆきたいと思います。<br /> <br /> Thu, 12 Dec 2019 00:00:00 +0900 ナーダ音は瞑想中の眠りを許さない https://w-jp.net/2019/1736/ <br /> 先日のタマスな瞑想のお話の続きです。<br /> <br /> タマスな瞑想は眠りに似ていて、ちゃんと瞑想しているのかタマスの「無」の中に落ち込んで眠りのように無意識になってしまっているのか特に最初は見分けがつかないことがあったように思います。無意識で時間が凄く過ぎているのでしたらタマスな瞑想に落ち込んでいる可能性があると思います。<br /> <br /> 最初は雑念がそもそも多いのでこの種のタマスな無意識な状態にすらならなかったように思います。タマスな無意識、いわゆる「無」の状態で安らぐことができるのは、それはある程度の成長であると思うわけです。<br /> <br /> しかし、その「無」の状態にいつまでも落ちていたら成長がない、というのも確かだと思います。古来、ヨーガの古典はこの種の眠りに陥ることを諫めておりましたが、私が思いますに、ずっと落ちているのはよろしくないものの、通過点としては通る道なのかなと思っております。<br /> <br /> そして、私の場合ですが、先にも書きましたようにこの種の「無」の瞑想で無意識に寛げるようになってから割とすぐ、数日か1週間経ったか経たなかったくらいでナーダ音が聞こえてきましたので、その時点で、「無」の瞑想に落ちることをナーダ音が妨げるようになってしまったのです。<br /> <br /> これは当時としてはなんだろう、と疑問に思ったものです。せっかく「無」の心地よい眠りのような無意識の瞑想ができるようになったのに、早々にナーダ音がその邪魔をするようになったのですから。<br /> <br /> しかし、今から思えば「無」とはタマスな無意識の瞑想に眠りのように落ち込んでいたわけであって、ナーダ音が無意識の眠りに落ち込むのを助けて意識が保つように助けてくれていたように思います。<br /> <br /> ですから、ナーダ音は最初は妨げかとも思ったのですが、今から思えば意識を保つための助け舟だったわけです。<br /> <br /> その意識の保ちとはヴィパッサナー的な観察瞑想に繋がるのですが、瞑想の目的地は「無」になって無意識に落ち込むことではなく、全てをあるがままに見つめて、見つめつつも心は風のない水面のように平らに保つことでありますので、その目的地に到達するためにナーダ音はとても助けになったわけです。<br /> <br /> ナーダ音は瞬間瞬間に変化して心を惹きつけて離しませんから瞑想中はナーダ音に集中する瞑想から始めました。これはハタヨガプラピディカにも書かれてあるナーダ音を観察する瞑想です。<br /> <br /> やがて雑念が減り、心が穏やかに平らな水面になるにつれ、ナーダ音に心が引き寄せられなくなりました。心がナーダ音を聞いてはいますし、存在を意識することはあるのですが、以前のようにナーダ音に心を縛り付けておく必要はもはやありません。<br /> <br /> しかし、特に最初はナーダ音が意識を保つ助けになりましたし、雑念から心を救ってくれる助け舟になっていたわけです。<br /> <br /> Fri, 29 Nov 2019 00:00:00 +0900 チベットの第三の眼の伝説 https://w-jp.net/2019/1735/ <br /> 図書館でチベット関係の書籍を探っていたところ、面白い記述を発見しました。<br /> <br /> チベットの伝説によると、昔は全ての男女が第三の眼を使うことができた。その当時は神さまも地球の上を歩き、人間と雑居していた。人間は、神さまの方がよりよくものを見抜くことができるということを忘れ、神さまにとってかわろうと、とんでもないことを考え出し、神さまを殺そうとした。その罰として、人間の第三の眼は閉じられてしまったのだ。「第三の眼(ロブサン・ランパ 著)」<br /> <br /> ネットで調べると同書は偽書の疑いが投げかけられており著者にも疑問符がつくようですが、そうであったとしてもこの伝説はおそらく実際のものであるかな、と推測致します。チベット人の知り合いはいませんので確認することはできませんが、機会があれば聞いてみたいものです。<br /> <br /> 同書には眉間の骨を砕くくらいの穴を開けて特別な薬草を流し込む秘法が描かれており、それにより第三の眼の能力を最大限に引き出す様が描かれていて興味深いですが、本当に骨を砕くくらい穴を開ける事例があったのかどうかはよく分かりません。その結果、オーラを見ることができたり他人の意思を読み取ったりすることができるようになったようですが、そのような能力はチベットの事例でよく見かけますので実際にそのような人はいて、今もいるのだろうとは思いますが、骨を砕く秘法のことはよく分かりません。そういう流派もかつていたのかもしれませんが。<br /> <br /> 他の書籍で単に薬草を額につけるくらいのお話は読んだことがあります。額につけるだけでも激痛の薬草だと描かれてあったような気が致します。<br /> <br /> Thu, 28 Nov 2019 00:00:00 +0900 タマスな瞑想あれこれ https://w-jp.net/2019/1734/ <br /> 先日タマスな瞑想について言及しましたけど、語弊もあったかもしれませんので少し書いておきます。<br /> <br /> タマスな瞑想になるのは主に2時期ある気が致します。<br /> <br /> ・ナーダ音が聞こえる前、雑念が多い時期から雑念を抑えて「無」の瞑想になる時のタマスな瞑想<br /> ・ナーダ音が聞こえた後、雑念もかなり減って雑念がほとんどない瞑想になった時。エネルギーのレベルがまだ比較的低い状態の時。自身はサットヴァな瞑想をしていると思っているかもしれない状態。後から見ると比較的タマスな瞑想。相対的にタマスな瞑想だが割とサットヴァが増えてきている状態。これをタマスと呼ぶかどうかは微妙だがタマスと呼べなくはない瞑想。<br /> <br /> タマスとかラジャスとかサットヴァとかは主観的なものですので、なかなか誤解があるような気もしています。<br /> <br /> 私の場合はタマスな「無」の瞑想に入って数日か1週間前後くらいですぐにナーダ音が聞こえ始めましたので、最初「無」のタマスな瞑想に入れたときは「こんな安らぎの瞑想があるのだ」と喜んでタマスな何も感じない、それを安らぎといえば安らぎでもある瞑想に入っていたのですが、1週間前後したらすぐにナーダ音が聞こえ始めてタマスな瞑想に入るのを遮るようになりましたので、最初はナーダ音がむしろ邪魔に思う時もありました。最初は、タマスな瞑想に入るのを邪魔する音だと思っておりました。<br /> <br /> ですが、今から思えばそれはタマスな瞑想でしかなくて、ナーダ音を観察することで雑念が消えてゆく体験をしたわけです。<br /> <br /> タマスな瞑想をいくらしていても一時的に心が止まるだけで、タマスな瞑想を抜ければまた雑念が復活します。それはそれで安らぎの瞬間ではあるのですが、一時的なものであるわけです。<br /> <br /> その後、ハタヨガプラピディカにも記載されているナーダ音の観察を続けてようやく雑念が本格的に減り、現在に至るわけです。<br /> <br /> 続き: ナーダ音は瞑想中の眠りを許さない<br /> <br /> Wed, 27 Nov 2019 00:00:00 +0900 ゾクチェンの3つの境地 https://w-jp.net/2019/1726/ <br /> 先日の続きです。<br /> <br /> 「ゾクチェン瞑想マニュアル(箱寺 孝彦 著)」によりますと、ゾクチェンには3つの境地があるようです。<br /> <br /> ・シネーの境地<br /> ・テクチュの境地<br /> ・トゥガルの境地<br /> <br /> 同書からポイントを書き出してみます。<br /> <br /> ■シネーの境地<br /> くつろぎ。穏やかさ。<br /> インドの言葉で「シャマタ」<br /> 想念や雑念の減少<br /> 集中の対象がある。<br /> <br /> ■テクチュの境地<br /> 突破、の意味。シネーの境地の突破。二次元的な心の動きの突破。<br /> 集中していない。<br /> 思考や分別が消え去っても存在している「むきだしの心」の働きである「リクパ」という認識能力が働き始めた状態。<br /> 対象と心の区別ができなくなる。<br /> <br /> ■トゥガルの境地<br /> 跳躍、の意味。<br /> ティクレ(光滴)が見え始める。ティクレとは光が輝き出すこと。瞑想の初期に現れた光とは別物。<br /> 輪廻から涅槃への跳躍<br /> 実体性から空性への飛躍。<br /> <br /> さて、ここまで読むと、見えてくるものがあります。シネーの境地とはいわゆるタマスの瞑想のことかなと思います。そして、テクチュの瞑想はラジャスの瞑想。そしてトゥガルはサットヴァな瞑想に相当すると解釈できそうです。仮説ですけどね。<br /> <br /> 瞑想をしても多くの場合はタマスの瞑想であるシネーの境地で止まっている、とは同書でも指摘されています。とは言いましても、それはそれで心が穏やかになって、瞑想を始める以前と比べたら随分と爽やかに人生を過ごせますので、一般社会を快適に過ごすにはそのくらいで十分なのかもしれませんが。<br /> <br /> テクチュの境地では上に記しましたように「対象」と「心」の区別ができなくなる、とありますので、これは一般的なサマーディの定義と似ているように読み取れます。サマーディは色々な種類がありますが、一般的には「見るもの」と「見られるもの」の区別がなくなって一体化する状態だと解釈されていますので、一般的なサマーディ相当がテクチュの境地なのかなと読み取れます。<br /> <br /> そして、同書によればテクチュの境地の瞑想を続ければ一続きのものとしてトゥガルの境地に導かれるとありますので、まずはテクチュの境地に至るところが一つの壁であるようです。<br /> <br /> 続き: テクチュの境地がヴィパッサナーのスローモーション体験<br /> <br /> Thu, 21 Nov 2019 00:00:00 +0900 ちゃんとタマスな沈み込むような瞑想に熟練する https://w-jp.net/2019/1725/ <br /> 先日のお話の続きです。<br /> <br /> 例えばマントラ瞑想とかですといきなりラジャスな瞑想を目指している気が致しますが、私の経験では、いきなりラジャスな瞑想はうまくいかないような気がしております。これは人によるのですかね? もともとタマスだったりするとうまくいくのかもしれないですけど。<br /> <br /> 私の場合は(同じような人も多いとは思いますが)、最初はタマスというよりも混沌とした状態の瞑想でした。雑念が入り混じれて、タマスなのかラジャスなのかよくわからない状態でした。最初は私はその雑念が入り混じっている状態をタマスかと思って解釈しておりましたが、どうやらタマスはもっと重々しい状態ですので、最初の瞑想状態はタマスですらなかったのかな、と今では思います。<br /> <br /> その混沌とした瞑想状態から初めて、最初は「集中」をして「グイッ」と状態を安定させるわけです。<br /> <br /> そして、状態が安定してくると雑念も減ってくるわけですが、そこで「無」とも言える状態に次第に近づいていくわけですが、その、押しつぶされたというか愚鈍な状態こそがタマスなのかな、と今では思います。<br /> <br /> ですから、ヨーガをしている人の一部の間でタマスがよくないことのようなお話になっていて、まるでタマスが悪者になっていますけど、タマスというのは成長のレベル1のことなのかな? と今では考えております。<br /> <br /> ヨーガや瞑想を始める前はレベル0ですので、タマスがレベル1だとしたらラジャスがレベル2、サットヴァがレベル3、サットヴァすらない平穏な状態がレベル4となり、タマスはレベル1ですのでそれ以上のレベルから見たら確かに低いレベルですけどヨーガや瞑想を始める前からしてみたらそれなりに高いレベルなわけです。<br /> <br /> 実際、その「無」の愚鈍な瞑想状態ですらもそれ以前の雑念が入り混じっている状態と比べたら遥かに平穏で清々しい境地に至ることができている(筈)ですので、タマスのレベル1すらもそれなりの境地なのかなぁ、と思う次第です。<br /> <br /> ですから、タマスは悪いかのような扱いをしてタマスな瞑想を避けるべきではなく、むしろ最初はきちんとタマスな瞑想に熟達してから次のラジャスな瞑想に移るのがいいのかな? と最近は思うようになってきました。<br /> <br /> まあ、これも割と仮説といいますか試行錯誤の上での現時点での判断ですけどね。<br /> <br /> 最初からラジャスやサットヴァな瞑想を目指してもうまくいかないような気が致します。あるいは、ラジャスやサットヴァのつもりでも実はタマスな瞑想している人もそれなりにいるような気も致しますが、どうなのでしょう。<br /> <br /> 一方、サイキックやスピリチュアルである程度の「能力開発」を目的に修行した方などはいきなりラジャスになって能力が現れたことにより本人の目的は達成できたのかもしれないですが、タマスを経て来ていないので精神不安定になってしまっているような気も致します。スピリチュアルでいわゆる「キレやすい」性質を持った人は、もしかしたらこの種の人かなあ... というのが現時点での仮説です。<br /> <br /> もちろん、やはりタマスはタマスでしかなくてサットヴァな瞑想でなくては上質な落ち着きのある性質は出てこないのでしょうが、ラジャスやサットヴァだけでは不安定になるのでタマスも必要なのかなあ、という気がしています。<br /> <br /> ヨーガの人はサットヴァを目指すことが多いですけど、タマスやラジャスも悪者ではなくて、そもそも目的地としてはサットヴァすらも超えた場所であるわけで、その境地に達したあとはおそらくタマスもラジャスもサットヴァもさほど変わらない性質として鳥瞰できるのかなあ、という感じで理解しています。<br /> <br /> サットヴァのことを言う人は、以下の2種類に分かれる気が致します。<br /> ・タマスとラジャスを排してサットヴァになってゴール。<br /> ・(タマスとラジャスを排するかどうかはともかくとして)サットヴァになり、ついにはサットヴァすら超越する。<br /> ですから、このあたりはコンテキスト次第で読み取るしかないのかな、と言う感じが致します。<br /> <br /> Thu, 21 Nov 2019 00:00:00 +0900 タマスな瞑想から始まってサットヴァな瞑想へ https://w-jp.net/2019/1724/ <br /> 先日チベットのゾクチェンの瞑想を引用しましたけど、「テクチュウ(突破する)」と「トゥカル(跳躍する)」のそれぞれのステップは先日引用したヨーガや古神道の瞑想法とも繋がっているような気がしてきました。<br /> <br /> チベットでは「テクチュウ(突破する)」で清々しい清浄なる空(くう)に至り、「トゥカル(跳躍する)」でそれを超えると言います。<br /> 一方、ヨーガではまず最初に「集中」から始まってタマス(惰質、暗性)的な瞑想から入ってゆきます。<br /> <br /> ヨーガでは割とタマスが悪いことのようなイメージで語られることが多いような気が致しますが、ゾクチェンの瞑想と結びつけるとそれもまた一つのステップのように読み解けます。<br /> <br /> ゾクチェンではまず最初に「テクチュウ(突破する)」から入り、それ以前の雑念の多い状態に比べるとかなり平穏で清々しい状態に達します。<br /> ヨーガでもまず最初に「集中」から入り、雑念を抑えて無の状態の瞑想にまずは達します。<br /> <br /> 先日引用しましたように、ヨーガではこの最初の無の瞑想はタマス優位の瞑想だと解釈することができます。<br /> <br /> 割とヨーガでは否定的に語られることが多いタマスですが、瞑想の最初の段階では必ず(おそらく、必ずだと思われる)、このタマスの瞑想にまず辿り着きます。<br /> <br /> タマスの瞑想であったとしても、元の雑念の多い状態に比べればかなり心は落ち着いており、それはそれは清々しいものです。ですから、タマスの瞑想であっても恥じることはなく、それは一つの到達点であると思うわけです。<br /> <br /> このタマスの瞑想は、おそらくチベットのゾクチェンでは「テクチュウ(突破する)」で到達する清々しい境地であると思われます。<br /> <br /> と、言いますのも、本屋でゾクチェン関係の書籍を探っていましたところ、「テクチュウ(突破する)」は確かに素晴らしい境地に導くけれども、「トゥカル(跳躍する)」で超えた先の境地はもっと清々しくて素晴らしい境地である、というようなことが書かれてあったからです。更には、ゾクチェンの完成にはもういくつかステップがあるようでした。<br /> <br /> であれば、この「トゥカル(跳躍する)」とは、ラジャス(激質、動性)のことであると推測できます。<br /> <br /> もしこの推測が正しいとすれば、ヨーガにせよゾクチェンにせよ、最初はタマスの瞑想から始まる、ということなのだと思います。<br /> <br /> ヨーガで悪者扱いされがちなタマスですが、瞑想においてはきっとそれが最初のステップなのだと思います。<br /> <br /> <br /> ・集中して雑念を減らし、タマスの瞑想に入って「無」の清々しい境地に至る。ゾクチェンの「テクチュウ(突破する)」、「集中」の瞑想。ある種のサマーディ。<br /> ・感情や感覚を奮い立たせて「軽い振動」を与え、タマスからラジャスの瞑想に至る。ゾクチェンの「トゥカル(跳躍する)」、古神道の振魂(という私の解釈)。ある種のサマーディ。<br /> ・更に浄化を進め、ラジャスからサットヴァ(純質、善性)な境地に至る。ゾクチェンの上の段階。古神道の鎮魂(という私の解釈)。ある種のサマーディ。<br /> ・サットヴァすらなくなる境地がある筈。ゾクチェンの更に上の段階。古神道にも該当がある筈。ある種のサマーディ。悟り?<br /> <br /> <br /> サマーディには多くの種類があってそれぞれどれが該当するのか確認するのが困難ですが、「魂の科学(スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ著)」には3つのグナそれぞれにまつわるサマーディが解説と共に記されています。<br /> <br /> こうして見ますと、タマスの瞑想も悪いことはないんだな、ということが今更ながらよくわかります。<br /> <br /> ただ、「魂の科学」によりますとタマスの瞑想に至ったらその先に進まなければ成長はないようですので、タマスの瞑想でサマーディに入って何時間、何日間も思考が停止した状態で瞑想を続けられたとしてもそれが新たな知恵を生み出すことはなく、ラジャスやサットヴァな瞑想(あるいはサマーディ)によらなくては更なる精神的な成長をすることは難しいようです。それを教えてくれるのがグルの役割の1つでもあるようです。<br /> <br /> Wed, 20 Nov 2019 00:00:00 +0900 奮い立たせてタマスを浄化する古神道の振魂 https://w-jp.net/2019/1723/ <br /> 先日の続きです。<br /> <br /> 古神道の「振魂(ふるたま、ふりたま)の法」が先日の感覚を高ぶらせる瞑想に似ている事に気が付きました。古神道にも流派がありますのでそれぞれ異なるようですが、「神道の神秘(山蔭 基央 著)」によりますと「鎮魂の法」の前段階としてこの振魂が行われることもあるようです。<br /> <br /> 鎮魂とは先日少し書きましたオーラを凝縮させる方法が一般的な解釈ですが、古神道的な本義は他にあるようです。その前段階としてこの振魂が行われる流派があるようです。<br /> <br /> 振魂とは、身体的には「軽い振動」を与える事で一種の神がかり状態に導くものでもあるようですが、そのような目を引く意味は本義ではなさそうですのでとりあえず置いておいて、私はそれよりも、ヨーガでも行われるような緩急をつけた筋肉の緊張と弛緩でリラックスする方法に似ているとも思いましたし、この振魂の本質はと言いますと、先日気付きましたようにタマスをより効果的に浄化する作用にあるように思われました。<br /> <br /> 古神道の鎮魂は高級な神霊界などに接触あるいは導き入れる法のことでもあるようですのでそれはサットヴァな状態であると解釈すれば、その前段階としてラジャスの状態に導くために振魂がタマスを浄化するというのは理に叶っているように思われました。<br /> <br /> まとめますと<br /> <br /> ・タマスを浄化してラジャスの状態にするのが古神道の振魂(という私の解釈)。「軽い振動」を与える。<br /> ・ラジャスをサットヴァにするのが(本来の)古神道の鎮魂(という私の解釈)。呼吸法(ヨーガでいうプラナヤーマ)。<br /> <br /> とすれば、様々なスピリチュアルな手法で最初に軽い運動をしたり振動っぽい働きを体にさせたりするのはこれと同じようにタマスを浄化してラジャスにする効果があるのだと解釈できます。<br /> <br /> ヨーガのアサナ(体操)ももちろんそうですし、ヨーガのプラナヤーマ(呼吸法)の中には激しい呼吸をするものもありますけど、物によっては同様にタマスを浄化してラジャスにする効果のプラナヤーマもあれば、ラジャスをサットヴァにするためのプラナヤーマもあるのだと思います。<br /> <br /> 滝行なども、精神を強くするという意味合いももちろんあるのでしょうけど、この「軽い振動」を与えることが目的なのかもしれないですね。滝行でタマスをラジャスにしてサットヴァまで持っていくのはなかなか厳しそうにも思えますが、どうなのでしょう。滝行は大勢滝壺で死んでいるとも言いますしね。滝行で生命を危険に晒すよりは本質である「軽い振動」でタマスを浄化していけば十分な気も致しますが、どうなのでしょう。いろいろ流派があってやり方もそれぞれですので、体系に組み込まれているのだとしたら滝行はそれぞれの流派の意義があるのでしょうけど。<br /> <br /> そういえば50年かもっと昔には「霊動法」とか言われるものも流行ったようですね。自分ではしたことがありませんが、1冊だけ本は持っています。見たところ、霊動法は振魂に似ているような気も致しますが、どうなのでしょう。同じ古神道の系列ですので同じように見えたりもしますが。<br /> <br /> このラジャスの状態が先日の「魂の科学(スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ著)」の解釈における「動性(ラジャス)優生の三昧(サマーディ)」と同じ段階なのだとすれば、それで繋がる世界は物理的な世界(の精妙な部分)であって、「善性(サットヴァ)優位の三昧(サマーディ)」のように高次の世界と繋がっているわけではないようですので、ラジャスの段階である振魂ですとか霊動法でそれほど良くない魂と繋がったり低級霊(狐や狸)が出てきたりするのも理に叶っている気が致します。霊動法にも色々あって、上達すればサットヴァなものに繋がったりもするようですが、見たところラジャスの事例が多いように見受けられます。<br /> <br /> 霊動法とよく似た事例として、大本教の出口王仁三郎の伝記である「大地の母」に面白い話が載っていたのを思い出したのですが、古神道の行法をして高級霊が来たかと思ったら狸か何かに騙されて埋蔵金の大捕物をした挙句何もなくて大恥をかいて信用を失った、みたいな話もあるようです。これは、振魂や鎮魂あるいは霊動法のような内容だと本からは読み取れますが、さほど熟練しておらず、試行錯誤的にしていたらよくわからない状態になったようですが、おそらくはタマスを浄化してラジャスになった段階で低級霊と繋がったのかな、と解釈できます。ですから、この種の「お告げ」なんてものはよくよく気をつけないといけないと思います。本当にサットヴァな状態に達する前は、このような、霊界からの「いたずら」に翻弄されたりもするのかな、と思います。<br /> <br /> ヨーガ・スートラでも、悟りに達する前は様々な神々やその他の霊からの誘惑があるが、一切を退けなくてはならない、とあります。それはひょっとしたら、この種のラジャスな段階では特に気をつけなさい、ということかもしれません。<br /> <br /> Wed, 20 Nov 2019 00:00:00 +0900 暗性優生のサマーディと動性優生と善性優位 https://w-jp.net/2019/1722/ <br /> 訳によって微妙に表現は異なりますが、これはタマス優生のサマーディ、ラジャス優生のサマーディ、サットヴァ優生のサマーディのことです。<br /> ヨーガやアユルベーダでは3つのグナとしてタマス(惰質、暗性)、ラジャス(激質、動性)、サットヴァ(純質、善性)が言われていますが、サマーディにもその質の違いがあるようです。<br /> <br /> ヨーガ行者のスワミ・ヨーゲシヴァラナンダは「魂の科学」にて以下のように述べています。<br /> <br /> ■暗性(タマス)優位の三昧(サマーディ)<br /> 暗性とは、粗雑であるとか暗く不活発である、といった性質のことです。(中略)この境地にある時、私たちの意識は2時間から12時間もうつろなまま(Shunya Bhava)でいることもあります。(中略)この状態は、いわば深く寝入ってしまったようなものだと言うことができると思います。(中略)この境地においては、重要な知識とか役に立つような経験をするとかいうことが全くありません。(中略)導師につかずに自分一人で修行を続け、心素の働き(Vritti)を制御しようとしている者は、ほとんどの場合、この暗性優位の空虚な三昧境にまず入って行きます。私(スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ)の場合も、何年もの間この空虚三昧のみを経験しておりました。(中略)智恵と分別が得られる三昧によって出なければ、解脱を目指す探究心は満足させられないのです。「魂の科学(スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ著)」<br /> <br /> このあたりに私の次の段階へのヒントがありそうです。<br /> <br /> ひとまず雑念は抑えることができて晴々とした瞑想ができるようになりましたが、時折、人と接することで他人のタマスを受け取ってしまい、暗闇に包まれてしまうことが最近よくありました。そんな時、改めて上記のようなタマス優生の瞑想のことを意識するようになったのです。赤の他人のタマスなら拒否して終わりですけど、最近あった身内の不幸で他の身内がタマスに落ち込んでいたりしますとどうにかして回復させてあげる必要がありますよね。そんな時に否応なしにタマスを受け取ってしまいました。まあ、これは仕方がないですね。<br /> <br /> 今までのように、タマスを浄化してサットヴァにするのも良いですが、どうも時間がかかるな... と思っておりました。そこで、同書にヒントがありました。<br /> <br /> ■動性(ラジャス)優生の三昧(サマーディ)<br /> 動性とは、感情を高ぶらせ、奮闘し、執着するといった性質のことです。この動性優位の三昧境では、善性が動性を助けますので、精妙な事物の知識を得ることができます。「魂の科学(スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ著)」<br /> <br /> ここでピンと来ました。<br /> <br /> 他人のタマスを受け取ってしまったりしてタマスが増えた時、浄化してサットヴァにする手の他に、ラジャスを高めると言う手段があるのだと。<br /> <br /> なんでこんな単純なことに気が付かなかったのでしょう。<br /> <br /> タマスからサットヴァを目指すとは良く言いますが、その途中にあるラジャスを軽視していたかもしれません。そもそも瞑想でラジャスをどう使うかなんて、本でも読んだり誰かに教えてもらわないと気づきにくいですよね。<br /> <br /> タマスを浄化してサットヴァにすると言う手はもちろんありますが、タマスにラジャスの要素を加える、例えば感情を高ぶらせたりすることでタマスのどんよりとした瞑想からラジャスの瞑想に一旦持っていって、それからサットヴァの質を加えて浄化すればタマスをそのまま浄化してサットヴァにするよりも簡単にサットヴァまで持っていくことができそうです。<br /> <br /> この、段階的な瞑想は、灯台足元暗しとでも言うのでしょうか。3つのグナの説明としては「ふむふむ」と理解していても、それを瞑想に応用するところまで気付きませんでした。<br /> <br /> まあ、サマーディとまでは行かないまでも、普通の瞑想でも同じような要素を応用できるかな、と思っております。<br /> <br /> 感情を高ぶらせると言いましても、感情的になって叫ぶとかそう言うことではなくて、もはや既にそれなりの瞑想の静けさがありますので、体、特に上半身にちょっと力を入れてそのまま細かくブルブルブルっと細かな振動を入れて静電気と言いますか感覚がちょっと高まった状態を作り出すだけでも随分とタマスが消えて行きます。感情を高ぶらせると言うよりも感覚を高ぶらせる、静電気を作り出す、と言う感じでしょうか。<br /> <br /> そういえば、同じような感情の高まりの瞑想手法、どこかで見たことがあるような... 何でしたっけ。忘れましたけど、そういえばこんな瞑想方法もありましたね。どのくらい同じかはちょっと思い出せませんけど、なかなかこの静電気の手法はタマスに効果的かもしれません。今後もタマスをもらってしまった時は試してみたいと思います。<br /> <br /> 続き: 奮い立たせてタマスを浄化する古神道の振魂<br /> <br /> Tue, 19 Nov 2019 00:00:00 +0900 ジャンヌダルクの魂 https://w-jp.net/2019/1721/ <br /> 夢で見たお話です。本当のことかどうかはわかりません... 夢ですから。<br /> <br /> 元々、ジャンヌダルクの魂はフランスの未来を案じていました。<br /> ジャンヌダルクは神様の分霊ですので、神様自身が案じていたとも言えます。<br /> <br /> 神様は、フランスがイギリスに攻められ続けている状況にイライラしていました。<br /> <br /> しっかり戦えばイギリスなんて追い返せるのに、フランス軍は根性がないのです。騎士道精神が足りないとでも言いましょうか。戦う気力で負けているのです。<br /> <br /> イライラしていた神様は、霊視で未来を確認しました。<br /> <br /> ・・・このままでは、フランスの未来は暗い。本来計画していたフランスの未来が消えてしまう。<br /> <br /> フランスは将来に重要な役割を果たさなくてはならないのに、イギリスに支配されてしまったら、その元々の計画が消えてしまう。<br /> <br /> ・・・どうやら、フランスがここまでイギリスに攻められたことは神様にとっても想定外だったようです。そんなことってあるのですね。<br /> <br /> そこでジャンヌダルクを分霊として転生させ、ジャンヌダルクは神の声を聞いてフランスを救った、ということのようです。<br /> <br /> この神のイライラは、そのまま分霊であるジャンヌダルクに引き継がれていて面白いですね。神と言っても性格があるのですね。<br /> <br /> ...まあ、夢ですけどね。<br /> <br /> Mon, 18 Nov 2019 00:00:00 +0900 今生の目的はカルマの解消 https://w-jp.net/2019/1720/ <br /> これまた夢で見たお話。本当のことかどうかはわかりません。<br /> <br /> 人によって今生の目的は違うと思いますが、私の場合、カルマの解消が目的です。<br /> 使命が目的だったりしますとカルマを貯めてでも使命を達成しようとしますし、私の場合、前世までの数多くの生では使命の達成を優先してきました。<br /> <br /> 他人のスピリチュアルな指導をしますと弟子のカルマを背負いますし、国の運命を変えたりしますと大きなカルマを背負います。<br /> そうしてかなりのカルマが溜まってしまい、いつか解消しなくてはと思って後回しにしてきたのですが今生でようやくカルマの解消を目的に、そのためだけに生きることにしました。<br /> <br /> 私の場合、並行世界(パラレルワールド)がいくつかあって、最初は裕福な家庭に生まれて生きましたがカルマが解消されずに失敗し、時空を逆戻りして再設定してからパラレルワールド2を開始し、何度か試した後に今の人生を選んだようです。結果、かなり厳しい生活を約40年間過ごしましたが、ほとんどのカルマは解消されて及第点に至ったような気が致します。<br /> <br /> 単一の人生ではなくて類魂(グループソウル)のカルマを色々と背負い込んだのでルーツが異なる様々なカルマが入り混じっており、複合した問題に対処せざるを得ない状況になることも多くて苦労しました。<br /> <br /> 今もまだカルマが多少残ってはいますが、類魂(グループソウル)と一旦溶け合ってカルマを分散しさえすればそれぞれ解消できる程度のカルマにまで減ったので今生の人生は目的を既に達成したと言えます。<br /> <br /> 先日記載したヒンドゥのグルの人生においても、その人生では弟子を覚醒させることができなかったので後悔のカルマを背負ってしまい、今生では一からステップを踏むことで弟子が何に悩んでいたのかをひとつづつ確かめよう、という意図がありました。ですから、スピリチュアルを学んでいるというよりはスピリチュアルの悩みを理解するという点に重きを置いており、そのためには自分自身が悩んだ状態にならなければ根元から理解できない。であれば自分をどん底まで一旦突き落とす必要がある、ということで子供の頃から自分を谷底に突き落とした人生だったようです。かなり苦労しましたが、今は平気です。<br /> <br /> 思えば、類魂(グループソウル)の過去生の記憶を辿るとこのような悩みをかつてしたことがなく、自分が悩んだことがないので弟子が何に悩んでいて弟子にどのように成長したら良いかわからず、アドバイスする方法がよくわからない、という悩みが共通してあるようでした。ですから、私が今生で悩んで様々に突き止めたことを類魂(グループソウル)は興味津々で待ち構えているようです。類魂(グループソウル)は今は分離していますので私が知り得たことを完全にはわからず、私が死んでから類魂(グループソウル)と一旦溶け合うことで私の得た知識を完全に共有するのです。その時を類魂(グループソウル)は心待ちにしているようです。<br /> <br /> 私が今生でそのような悩みの多い人生を選び、カルマの解消に集中することにした結果として前世までに付き合いのあったスピリチュアルな友人や弟子たちとは今生ではほとんど付き合いがなくなっているのですが、本来は、このようなカルマの解消をする予定ではありませんでした。今の時代はいわゆるアセンションとか言われている時代で、大きな変革が訪れる予定だったわけですけれども、私の類魂(グループソウル)が過去生で様々に活動することであまりにもカルマを溜め込んでしまったために、肝心の自分が重くなりすぎてアセンションの対応が厳しいかもしれない状況になりつつあったのです。ですから、本来は今生も同様のスピリチュアル活動を続けたい意向ではあったわけですけれども、仕方なく私は今生はカルマの解消に集中することにしたわけです。そして、それが約40年かかりました。今は精魂使い果たしていてそれほどパワーは残っていませんが、それでも、ある程度の元気さを保っています。<br /> <br /> 実は、この計画変更のために、周囲の人々には苦労をかけました。<br /> <br /> 本来は今生もスピリチュアル活動をする予定でしたが今生はカルマの解消に費やすことにしたために、本来は私が指導したり導いてきた人たちのスピリチュアルなレベルを今生のアセンションに間に合うように引き上げるのではなく、スピードアップして前世の段階までにある程度のレベルまで引き上げておくことにしたのです。私は大丈夫と判断したのですが、もしかしてこれに少し無理があったのかもしれません。<br /> <br /> それを決めるまでは割とゆっくりと指導してきたわけですけれども、私のカルマ解消の時間を作るためにスピードアップすることに決めた後は、ビシバシと指導することにしました... 今も世界の一部のスピリチュアルなスクールでスパルタがあったりするのは、私の類魂(グループソウル)の過去生が厳しく指導したからかもしれません。またもや変なカルマを作ってしまったかもしれません... でも、少なくともそれで各自のスピリチュアルなレベルは早く成長した筈です。<br /> <br /> そうして、なんとか今生では知人や弟子たちが自分たちでアセンションまで行けるような状態になったかと思って私は今生でカルマの解消に集中したわけです。<br /> 私がいなくてもかつての友人知人や弟子などの他のスピリチュアルな活動家が活躍することでなんとかなる筈でした。私が今生を生まれる前あるいは生まれた後に霊視や夢で見ていた状況では、そのような計画になっていました。元々は私の類魂(グループソウル)がそのまま成長に付き添う予定でしたが、私が今生でカルマの解消に集中するために準備して、霊視した段階では、大丈夫と判断したわけです。<br /> <br /> ...しかし、最近、どうも、何かで止まっているような気がしています。<br /> <br /> 予定していた東海地震も起こらないし関東大震災もまだ起こっていません。ただ遅れているだけかもしれませんが、どうも何かおかしいです。東京オリンピックは震災で開催しない筈なのに、このままでは開催しそうです。元々東京オリンピックは震災のために開催しなかった筈なので、その影響もあってか、理由は違どもマラソンやいくつかの競技が東京から他の場所(札幌)に移動し始めているのが興味深いです。スピリチュアル的な観点から言えば、震災が理由で移動することはなくても移動するという衝動と言いますかその計画の青写真みたいなものはそのまま引き継がれるのかもなぁ... というところを興味深く見ています。東京オリンピックがなくなった場合にどうなっていたのかはわかりませんが、いくつかの競技は復興及び震災復興の応援のために札幌とかで開催する青写真があったのかもしれないですね。<br /> <br /> 私は今生では現世に影響を与える予定はなくてひっそりと暮らすだけですのでこうして適当にブログでも書いているくらいなのですが、このまま変革が中途半端で失敗に終わるのであれば、スピリチュアルな変革を助けるためにもしかしたら私が何かしないといけなくなるのかも... という気もしてきています。そのくらい、危機感とまでは言わないですけど、何か違和感を感じています。<br /> <br /> 私のやり方はちょっと荒っぽくって、例えるならジャンヌダルクや織田信長のように性急なたちがありますので私が何かしたら刺される可能性が高まるのでどうしたものかなとも思いますし、今のところ特に何かするつもりはないのですが。<br /> <br /> それでも、私のガイドが私に行動するように導いてきたら従うような気もしますが、今のところは生まれた時に私に与えられた使命というか目的である「カルマの解消」をしていさえすれば良い、と思っています。<br /> <br /> ま、基本は夢で見たお話ですけどね。私のような個人が何かできるわけもないですし。<br /> <br /> Mon, 18 Nov 2019 00:00:00 +0900 最近、霊視による未来予想は外れやすいです https://w-jp.net/2019/1719/ <br /> 私のグループソウル(類魂)の記憶を辿ると色々と経験していて、未来を霊視できる過去生もいたりします。<br /> <br /> 例えば100〜200年くらい前に北インドの中部、バラナシの南東あたりの小さな村でグルになって小さなヒンドゥ寺院の長だった人がいましたけど、その周囲では未来を予知できる聖者としてそれなりに有名でした。<br /> <br /> もともとその人生ではヒンドゥのグルを体験して弟子を教えて霊的成長を促すと共に自分も学ぶことが目的だったわけですけれども、まず生まれる前に、グルとして経験できそうな場所を探したのです。既にグルがいるとこを探して弟子になって長年修行するコースもあったのですが、その時は、かなり昔に捨てられて廃墟になっていた寺院を選んでその近くに生まれることにしました。もちろん生まれる前からある程度の一生を霊視して未来予想して、だいたいこんな感じになるということを計画してから生まれたのです。<br /> <br /> 生まれてから自由に動けるようになったら、まずその廃墟の掃除から初めました。綺麗にして祈りを捧げて、転がっている岩などを整理したりしました。<br /> <br /> 歳をとって青年になった頃には、その廃墟が随分と綺麗になったことで周囲の人々にも自分の存在を知らしめることができました。ここで、この廃墟に足跡を残したわけです。そして、成人になった時に出家を選びましたが、家族はそんな姿を見ていましたので反対はしませんでした。<br /> <br /> 成人後は、まず他のグルの弟子に数年間ついて修行し、続いて別のグルに数年間ついて修行し、修行は終了としました。他のグルに長年ついて修行するよりは、早く自分の寺院を持つことを選んだわけです。<br /> <br /> 修行をするにつれて霊視は研ぎ澄まされ、他人の過去や未来も見通せるようになりました。<br /> <br /> 過去については、出身地や過去の問題などが主でした。未来については運勢や将来の安全などを見通したりしました。<br /> <br /> 中年になる頃まで、ほぼ百発百中です。外れたことはほとんどありませんでした。<br /> 名前や、出身地などを言い当てました。<br /> <br /> 弟子がやってきた時は、「おお。お主を待っておった。○○村から来た○○ではないだろうか?」と言って相手を驚かせた事もしょっちゅうでした。<br /> <br /> 日々の祭事(ヒンドゥ教のプージャ、火の儀式)では村人がやってきて、運勢を尋ねられました。○○はうまくいくだろうか、とか、結婚についてとか、そのような、今日でも人々が尋ねたくなるようなことをグルに尋ねては答えていたのです。<br /> <br /> お参りに来た人々が置いていくお布施で食べ物を購入してその寺院の人々は暮らしていました。<br /> <br /> ですから、昔は、霊視による未来予想はそうそう外れなかったのです。<br /> <br /> 唯一、一回だけ、近くの村のお婆さんが訪ねた運勢が外れて、安全を脅かされて危険な目に遭ったという事でしたが、再度霊視しても危険なことにあうわけもありませんでした。<br /> <br /> どうやら、霊視での未来予測はほぼその通りなのですが、偶発的に「事故」は起こるようなのです。<br /> <br /> 「ついうっかり」ですとか「たまたま」という部類の事故は霊視では防ぎきれないようです。<br /> <br /> 成功する筈でも自分の意思で成功を妨げることもできます。<br /> 失敗する筈でもどうにか成功する、ということもあるかと思います。<br /> <br /> ですが、普通の場合は大抵の霊視は当たりました。過去においては。<br /> <br /> これは類魂が過去に体験したお話ですので今の私の何%かくらいの話ですけど、記憶のほんのちょっとが残っているのです。<br /> <br /> ですが、最近は、かなり状況が異なってきているように思います。未来が割と固定されたものではなくなり、相当、未来が書き換わっているような感じが致します。<br /> <br /> と言いますのも、どうやら未来を霊視で見通せる人が増えたからなのかな... という気がしてきております。<br /> <br /> であれば未来を見た上で自分の行動を変える人も増えるでしょうし、結果として大きな未来も変わってゆくでしょう。<br /> <br /> 時代は変わったのかな、と最近は思っております。<br /> <br /> 昔はほんと単純でしたけどね。<br /> <br /> 基本は昔と変わりませんけど、意図して未来を変えることができる人が増えて、その人が影響力を持つようになったような気がしてきております。<br /> <br /> 過去には、この寺院が実在して残っていないかな... と思って地図を探したこともありましたけど、よくわかりませんでした。私が今生でそれを探し当てて現地に行ったとして、それで学べるものが何もないのであれば私のガイドもそこに導いたりはしないのかなとも思います。何かそこに決定的な何かがあって学べるのであればきっとガイドは私を導くのでしょうが、今のところその兆候はないです。<br /> <br /> Mon, 18 Nov 2019 00:00:00 +0900 ゾクチェンの修行法を記した「イェシェ・ラマ」 https://w-jp.net/2019/1717/ <br /> 「知恵の遙かな頂(ラマ・ケツン・サンポ 著)」によりますと、イェシェ・ラマという本にゾクチェンのことが詳しく書かれてあると言います。原本は入手できていませんが興味深いです。<br /> <br /> ゾクチェンの瞑想は2つでできていて、「テクチュウ(突破する)」と「トゥカル(跳躍する)」でできており、イェシェ・ラマに詳しく述べられていると言います。<br /> <br /> テクチュウの瞑想は心の雑念を取り払って清々しい清浄なる空(くう)を体験することが目的で、そのために特別なマントラを唱えたりもするようです。<br /> <br /> 同書には以下のように記されています。<br /> <br /> テクチュウでは目が見たり、耳が聞いたりするイメージや、自分の心に浮かんでくる感情や思考という形をとるイメージのすべてを「突破(これがテクチュウという言葉の意味だ)」して、チベットの空のように雲一つない真っ青で透明な本性を持った、裸の状態にある心に、たどり着いていくために、激しい瞑想をおこなう。そして、それができるようになると今度は、青空や太陽をみつめながら、「跳躍(トゥカルとはそういう意味を持っている)」の瞑想に入っていく。「知恵の遙かな頂(ラマ・ケツン・サンポ 著)」<br /> <br /> その時の経験を、同書では以下のように述べています。<br /> <br /> 透明な空性(くうしょう)からは、途切れることなく、光の滴がわきあがってくるのだ。(中略)裸の心が、ありありと体験される。そのまっただ中から、今度はトゥカルの瞑想が、空性のはらむダイナミックな運動の本性を、光の体験として、私たちの前にしめすのである。「知恵の遙かな頂(ラマ・ケツン・サンポ 著)」<br /> <br /> このあたりを読むと、やはり「空(くう)」の次は光の体験が続くのだな、ということがわかります。<br /> <br /> 具体的にどうすれば良いのかは謎が残りますが、そのうち他の書籍も調べていきたいと思います。他のスピリチュアルとそこまで変わらないのかもしれませんが、何かヒントが眠っているかもしれませんし。<br /> <br /> Fri, 15 Nov 2019 00:00:00 +0900 ゾクチェンとヴェーダンタ https://w-jp.net/2019/1715/ <br /> これら2つに共通点があるような気が致しました。<br /> <br /> ゾクチェンとはチベットにおけるボン教の最高の教えですが、「チベッタン・ヒーリング(テンジン・ワンギェル リンポチェ 著)」によりますと、ゾクチェンの境地とは清らかな境地、空(くう)と光明の状態だと説明されています。更には、現象というものに対していわゆる無常のような境地も説いています。実際には境地というよりも現象の説明と言った方が良いでしょうか。<br /> <br /> これは、どこかヴェーダンタに似ています。おそらくは根本は共通なのでしょう。ヴェーダで解く世界観と、チベットのボン教が説く世界観とが私の中で奇妙な一致をしたのです。もちろん完全に一緒ではありませんが、本質は同一だと直感でピンと来たのです。<br /> <br /> 以前から何冊かゾクチェン関係の書籍を読んだりヴェーダの勉強をぼちぼちしてきましたが、今まではこれら2つが共通だと思うようなことはなかったように思います。<br /> <br /> それが、ここに来てその本質が同一だと思うようになったきっかけは、上で参照した書籍の説明でした。<br /> <br /> ゾクチェンとは何なのか・・・ それを簡単に説明するのはとても困難です。上の書籍はそれでもわかりやすく述べていると思います。私の手元にある他の本は、私にはそのニュアンスをしっかり引き出すことができませんでしたが、上の書籍でようやくピンときた感じが致します。<br /> <br /> ゾクチェンの説く「空性」とは、確かにそれは人が悟ることができるものではあるのですが、それよりも、この世界の本質が「空(くう)」であり、いわゆる無常であり、それがそのまま「光明」であり、スピリチュアルでよく言われている「この世界は光でできている」ということであり、全てが光り輝いているという本質を説明しているのがゾクチェンという教えのようです。人が悟ると言うよりも、この世界のありようを説明しているものだと思うのです。そして、それが自分と関連したときに光明だとか悟りだと言われたりする。<br /> <br /> ダライ・ラマなどもゾクチェンを説明していますが、それは仏教的な観点から説明されており、読み解くのがとても困難です。それよりもチベット古来のボン教の教えは仏教化されていないような気がしていまして、仏教化されたゾクチェンとしての解説を読むよりもボン教のゾクチェンを読んだ方がすんなり理解できるような気が致します。<br /> <br /> どちらにせよ本質は一緒なのかな... というのを改めて感じています。<br /> <br /> 今回はボン教のゾクチェンとヴェーダンタとの一致を見たわけですけれども、そうとなれば、仏教の本質も同じ筈ですし、もちろんヨーガの行き着く先も同じ(というかヴェーダンタそのもの)です。<br /> <br /> 上の本とは別ですが、ボン教のゾクチェンにある1つの詩を引用します。<br /> <br /> 多様な現象の本性は、不二だ。<br /> ひとつひとつの現象も、心の作り出す限界の彼方にある。<br /> あるがままのものを定義できる概念などありはしない。<br /> にもかかわらず、顕現はあらわれ続ける。すべてよし。<br /> 一切はすでに成就しているのだから、努力の病を捨て去り、あるがままで完全な境地の中にとどまること、それが三昧だ。<br /> 「ゾクチェンの教え(ナムカイノルブ 著)」より<br /> <br /> これはゾクチェンやヴェーダンタの知識がないとすぐに理解するのは難しいですが、各所にヴェーダンタ的な要素およびヨーガ的な要素が現れていて興味深いです。<br /> <br /> 三昧はサマーディのことですから、本来はヨーガのサマーディも同様の理解に辿り着くことができる筈です。サマーディと言うと色々と種類がありますが、この詩の意味のサマーディであればゾクチェンやヴェーダンタの境地と同一のサマーディであるわけです。<br /> <br /> ゾクチェンはもともとチベットに長く伝わっている教えで、本来は宗教によらないと言います。であればこそダライラマがゾクチェンに通じていたりもしますし、ヴェーダンタの本質がゾクチェンによく似ていたりするのも当然なのかもしれません。ただ、伝え方が文化によって異なるだけで、本質は同じということなのでしょう。<br /> <br /> Wed, 13 Nov 2019 00:00:00 +0900 チャクラを開く際の体験 https://w-jp.net/2019/1714/ <br /> チベットの古代ボン教の教えによりますと、以下のようにあります。<br /> <br /> チャクラが開く際に必ずしも何らかの体験が起こるわけではない。「チベッタン・ヒーリング(テンジン・ワンギェル リンポチェ 著)」<br /> <br /> これに関して、以下のように説明されています。<br /> <br /> ・西洋の人は感情と関連づける文化のため感情的なカタルシスを伴うことがある。<br /> ・チベットの文化ではエネルギー的な現象として現れる。震え、揺れ、ひきつけ、発汗、めまいなどが起こることがある。<br /> ・起こるにまかせ、消えていくにまかせなさい。<br /> ・何かが起こるということは浄化の体験にほかならず、それにしがみつく必要はまったくない。<br /> 「チベッタン・ヒーリング(テンジン・ワンギェル リンポチェ 著)」より<br /> <br /> これは興味深いですね。<br /> <br /> 西洋の、例えば神智学に代表されるスピリチュアルではチャクラを開くことやその経験を重視していますが、チベット的には経験は重要ではないとのことです。<br /> <br /> それに、同書を読みますと、チャクラの位置付けがヨーガとも多少異なるように感じられます。<br /> <br /> ヨーガではエネルギーのルートであるナディとチャクラを、もちろん関連はしていますが別のものとして定義しているように思えます。<br /> <br /> 一方、同書によりますとチベットの古代ボン教では、脈管(ナディ相当と思われる)とチャクラをそれほど区別しておらず、中央脈管(ヨーガで言うスシュムナ相当と思われる)が樹の幹で、チャクラは枝、と比喩されています。<br /> <br /> 確かに、ヨーガでもそのように解釈できますが、その点はチベットの古代ボン教の方がよりはっきりと述べているように理解しました。<br /> <br /> であれば、西洋の神智学やスピリチュアルのようにチャクラを開くとどうなるか、みたいな神秘的なお話はチベットの古代ボン教にとってはあまり興味がなく、むしろ、何か起こったならばそれは浄化の体験であるから執着する必要はなく、必ずしも起こるわけではない、ということのようです。<br /> <br /> 体験をさほど重視しない、というのはヴェーダンタ的な観点とも似ていて興味深いですね。<br /> <br /> チベットの古代ボン教では脈管(ナディ相当)とチャクラを開くのは浄化の一環であり、浄化の結果として現れる、同書が言うところの「広々としたこだわりのない心と開放感」や「空の体験」こそが大切だと言います。<br /> <br /> 身体的な変化や、イメージの顕現、あるいは感情の解放といった体験があろうがなかろうが、最終的には空の体験とともに伝統の教えが伝える叡智のさまざまな面が体現されるのだ。空の体験とともにこだわりのない広々とした心やポジティブな質があなたを満たす。「チベッタン・ヒーリング(テンジン・ワンギェル リンポチェ 著)」<br /> <br /> チャクラの体験は書物に色々と書かれてありますけれども、それは確かに「サイン」として参考にできますが、必ずしも体験が起こるわけではなく、最終的な「空の意識」「広々とした心」が実現できさえすれば、過程はそれほど気にしなくて良いのかな、というところが最近ようやく譜に落ちて来た感じが致します。<br /> <br /> 私事になりますが、どうも、今までステップを素早く進まずに一つ一つ確かめるようにしてヨーガなり瞑想なりをして来たのは、もしかしてこのことを理解するためだったのかな、という気が致します。このことを理解していなかったからこそ、一つ一つ確かめながら進んできたのかなと。この最終的な理解が正しいということが真にわかっていたならば途中の体験をひとつづつ確かめながらゆっくり進む、なんてことをわざわざしなくても良かった・・・ といますか、そんな確かめながら進むなんてことをそもそもせずに高速でステップを終えていたことでしょう。 今回の人生では色々と課題が設定されていて、その一つは、このステップを学ぶと言いますか理解することが目的でしたが、ようやくステップを小刻みに歩んで理解が進み、最終ステップまであと一歩、という気が致します。(実はまだまだなのかもしれないですけどね)こう言ってはなんですが、前世では、私はそれほど悩みがなくて、それ故に、他人の悩みがよく理解できない人だったような気が致します。今生では無理やり自分を問題の中に放り込んで、色々なステップを踏ませることで人々が抱えている悩みを理解したり、ヨーガのステップを最初から1つ1つ理解しよう、とした生前の広大な計画があったように思っています。ですから、きっと私は意図的に自分をよくわからない状態に貶めていたのだと思いますが、ようやくここにきて、きっと前世ではそうだった、晴れやかな状態に戻って来たのかな、という感じがして来ています。まあ、これは言い出すともっと複雑なのですけど、単純に短く記すとこんな感じです。<br /> <br /> <br /> <br /> Tue, 12 Nov 2019 00:00:00 +0900 世界の30%が自分のことのように感じられる https://w-jp.net/2019/1712/ <br /> 最近は、身の回りの出来事や出会う人々のうち30%ほどが自分の分身のように感じられます。<br /> 70%はやっぱり他人なわけですが、30%は自分だと思う... と言いますか、そもそも空間が同一で繋がっているあるように感じられるのです。<br /> <br /> 世界と言っても地球のことではなく、世界地図のことでもないのです。あくまでも、私の生活の周囲の現実のうちの30%という意味で、世界の隅々の30%がそう感じられるわけではありません。<br /> <br /> 空間が繋がっている、とでも言いますと、まるで線が伸びているかのように印象付けてしまうかもしれませんが、そのような線があるわけではありません。透明の空気のようなところですらも「なにか」がぎっしりと詰まっていて、物質があるところにもその「なにか」が詰まっていて、空気の部分であろうと物質の部分であろうと関係なく身の回りの生活の空間の認識できる範囲すべての30%が自分であるように感じられるのです。<br /> <br /> この30%というのは、「ここは感じられるけれどもここは感じられない」とかいうものではなくて、半透明にホログラフィック的に全体が満遍なく30%くらいの濃度と言いますか濃さと言いますか、そのように空間全てがおそらく均一の濃度で大体30%くらいは自分で感じられている、という意味です。<br /> <br /> これは主に瞑想中にそう感じられるわけですけれども、明示的に瞑想をしていなくても意識が瞑想状態に近ければ同じように感じられます。<br /> <br /> ですから、完全に周囲の全てが自分と感じられるわけではないにせよ、多少ながらすべて自分である、という現実を認識しながら生活する今日このごろなわけです。<br /> <br /> これは、頭で考えるとなかなかに複雑に思えてしまうかもしれませんが、感情的にも意識的にも、かなり淡々としています。<br /> <br /> そもそも最近の瞑想ではどんどん雑念が減って透明な感覚の、いわゆる「無」の瞑想を続けることが多くなってきていますので、その延長線上で、他人の姿が意識に入ってきたとしても雑念がひとつあるのとそうは変わらないのです。ですから、世界の30%が自分として認識したとしても、それはホログラフのように半透明で認識されて惑わされることもあまりなく、それでいて他人や周囲の環境が自分として認識できるので今までとは違った意識の持ち方ができるのです。<br /> <br /> これは、マニプラ的な「情緒」の繋がりとは異なる感じです。淡々としていて、それでいて、しっかりと繋がっている感覚です。<br /> <br /> こうなると、もはや以前の私の振る舞いをすべてやり直したくなるくらい意識が変わってきてしまっているわけですけれども、流石にやり直すことができるわけもなく、これからの振る舞いを意識的に新しいものに適合していくくらいしかできないわけですけれども。<br /> <br /> 以前の意識で作ってしまった古い習慣を取り除いて新しい習慣に作り直してゆく時期に来ているのかもしれません。<br /> <br /> もしかしたら仕事のありようも同様で新しい習慣に作り直すといいますか選択し直してゆく時期に来ているのかもしれません。<br /> <br /> Sun, 10 Nov 2019 00:00:00 +0900 ナーダ音の外側に広がる世界 https://w-jp.net/2019/1711/ <br /> 今までは呼吸ですとかナーダ音に意識を合わせて気持ちを落ち着かせていわゆる「無」に近く瞑想をしてきたわけですけれども、それに加えてエネルギーワークも重要なのはそうなのですが、無の瞑想とエネルギーワークを続けていたところ、どうやらナーダ音や感覚の外側に、比喩で言いますと「地平線が見えそうなくらいずっと平らに続く世界」が広がっているような気がしてきました。<br /> <br /> 先日見えたような論理思考と体の感覚と想念の世界が真ん中くらいにポツンポツンと存在していて、その、体と言いますか感覚といいますか、いわゆる「わたし」の世界の外側にもっと広い世界が広がっているようです。<br /> <br /> ただ、その外側の世界がどのようになっているのかはまだ見えません。ただ、暗闇と言うか、単に地平線っぽいものがシルエットで見えるだけです。もしかしたら何かがありそうな、山のようなシルエットを感じることもあります。<br /> <br /> 瞑想を続けると、次第に雑念が消えてゆき、雑念の力が微かになり、雑念の頻度も下がり、簡単に呼吸や雑念を力を入れずに観察することができるようになっています。<br /> <br /> その状態では、観察する対象が先日書きましたように「半透明」な感じになっていて、あるようなないような、不思議な感じです。<br /> <br /> 世界は「外側」と書きましたが、もしかしたら重なっているのかもしれません。ですが、今のところは「外側」のようにも感じます。<br /> <br /> 視線が前を向いているとして、肉体の目で見える範囲があるとします。瞑想中は目を瞑っていますから肉眼は見えていないのですが、目を開けると見えるはずの範囲の外側に何かを感じて、意識を、比喩的に言うならば「ちょっと引いて、それから、ちょっと右側(あるいは左側)を見る」と、普段見ている世界の「外側」がそこにあるような気がするのです。<br /> <br /> その「外側」とは、ナーダ音の響いている外側の世界でもあります。<br /> <br /> ですが、上に書いたように、まだそれははっきりとは見えないのですが。もうちょっと様子見ですけど、この種の「実験」「興味本位」「探究心」の気持ちすらも最近は消えてきていて、更に瞑想を続けたらどうなってしまうのでしょう、という感じではあります。<br /> <br /> Sun, 10 Nov 2019 00:00:00 +0900 トラウマは向き合うことで消える https://w-jp.net/2019/1710/ <br /> 先日の続きです。<br /> <br /> トラウマは否定せずに味わうと消える、というお話でしたけれども、プレアデスのワークの中にも似たようなお話しが書いてありました。<br /> <br /> つらく感じたときには、それを無理に追い払おうとしないで、その気持ちと一緒にいてあげることが大切なの。うんと深く呼吸して、もっとその気持ちを感じるようにしてごらんなさい。すると本当に魔法のように、数分後に突然そのつらい気持ちがなくなって、いつ消えてしまったのかもわからないくらいよ。(中略)だけど、そのつらい気持ちが消えてなくなるまで十分に感じてあげなければ、それはそのまま身体の奥深くに居すわって、あなたたちが気がついてくれるのをずっと待ちつづけるわ。だから、それが戻ってくるのをこわがっているよりも、いま感じてあげるほうがいいのよ。「プレアデス覚醒への道(アモラ・クァン・イン著)」<br /> <br /> これは、スピリチュアルなワークであることはもちろんですが、同書によればむしろ「瞑想」の一部として紹介されています。<br /> <br /> ヨーガ的な瞑想においては雑念の観察が重視されていて、「雑念は重視せず、受け答えせず、受け流す」というのが基本ですが、プレアデス系では観察というよりも「味わう」という感情面に重きが置かれている印象を受けます。表現を変えれば「癒し」ということにもなりますが、「癒し」にはヨーガ的な「観察」が基本として横たわっているような気が致しますし、逆に、ヨーガ的な「観察」の根底には「癒し」といいますかヨーガ的には「パワー」「エネルギー」と言うべきポジティブな力が横たわっていて、言葉こそ違ども、「癒し(パワー、エネルギー)」と「観察」とは密接な関係があるのだな、と思いました。流派によって重視すべきところは違えども、それはその流派の気質の違いによるもので、基本はどちらも一緒なのかなと思いました。<br /> <br /> 流派によりますが一部のヨーガあるいは一部のスピリチュアルでは「観察」のみに重点を置いている気がしないでもありませんし、逆に、一部の流派は「癒し」あるいは「エネルギー」に重点を置きすぎている場合もあるように思いますが、その重点に目をとられて基本を押さえていないと先には進めないのかな、と言う気が致しました。<br /> <br /> 「観察」のみをしていてエネルギー不足でしたら成長しにくそうですし、エネルギーを高めても「観察」が不足していたらそのエネルギーの使い方に無理・無駄・ムラが生じて転んでしまいそうです。<br /> <br /> 両方大事ですね。<br /> <br /> 外から眺めただけですので勘違いかもしれませんが、例えばヴィパッサナー瞑想の一部の流派は観察重視のような気も致しますし、クリヤヨガの一部の流派はエネルギー重視のような気が致します。<br /> <br /> 余談になりますが、クリアヨガはヨガの中でも特殊で、瞑想の観察や集中ということには重きをおかず、エネルギーを高めれば良いというスタンスが特徴的です。クリアヨガは流派が分裂していて色々ありますので全てがそうかはわかりませんが。<br /> <br /> スピリチュアルでは「癒し」と言う観点からエネルギー・ワークが突出している流派が多い気も致します。<br /> <br /> それぞれの特徴がありますので自分に合ったところを選べば良いのかなとは思いますが、それでも、基本は「観察」と「エネルギー」かな、と最近は思います。そもそも対比するものでもない気もしますしね。どっちを選ぶとか、そう言うものではない筈なのに、何故か分離して見えてしまっていますね。両方大切だと思います。<br /> <br /> トラウマの話に戻しますが、トラウマは「観察」だけでは消えず、「エネルギー(癒し)」だけでも消えず、「観察」と「エネルギー(癒し)」の両方があって初めて消えるのかな、とそう思います。<br /> <br /> 個人的な経験で言いますと、すぐに1回の瞑想で消えるような軽いものはトラウマとは言わない気が致します。トラウマのうち少しを味わって消して、次の瞑想でまた少し味わって消して、を繰り返すのかなと思います。<br /> <br /> ちょっとしたわだかまりであれば瞑想中にちょっとこの種のワークをすれば消えてしまいます。<br /> <br /> 本来は、可能であれば子供の頃からこのようなワークに親しんでトラウマをそれほど溜め込まないのがいいかとは思います。<br /> Sun, 10 Nov 2019 00:00:00 +0900 プレアデスのエネルギー・ワークと白隠禅師の軟酥の法 https://w-jp.net/2019/1709/ <br /> 書籍を探っていたところ、プレアデス系のワークに似たようなものがありました。<br /> <br /> <br /> 「プレアデス覚醒への道(アモラ・クァン・イン著)」<br /> <br /> これはオーラを保護する方法のようです。グラウンディングして、オーラの卵を作るレッスンのようです。そして、同書によれば「境界の色」をイメージすることをお勧めするとのことです。色は時々の状態や目的によって多少異なるようです。<br /> <br /> ・基本は黄金<br /> ・その上に、目的に応じて色を重ねる。不安定な時は高貴なブルー。外出したり人を迎える時はスミレ色。<br /> ・ある程度のレベルに達すればこれらは不要になるが、それまではこの「境界」は有用<br /> <br /> 詳しくは同書を参照して頂ければと思いますが、ヨーガのプラクティスや他のスピリチュアルのワークにも通じるものがあります。色に対する言及はスピリチュアル系に多い気が致します。<br /> <br /> 以前少し言及しました白隠禅師による禅病に対する対処法である「軟酥の法(なんそのほう)」がとてもよく似ている気が致します。白隠禅師は白幽という仙人から授かったとのことですが、案外根幹はスピリチュアルと似たところなのかもしれないですね。単なる推測ですけど。<br /> <br /> Sat, 09 Nov 2019 00:00:00 +0900 無の瞑想と暖かい光 https://w-jp.net/2019/1708/ <br /> 最近の瞑想は息を観察しているかあるいは微かな思いや考えを観察するくらいで、とても静かな、いわゆる”無”とも言える状態で瞑想をしています。その上で、エネルギー・ワーク的に天のエネルギーを下ろしたり地のエネルギーと繋がったりしているわけです。<br /> <br /> その状態でハートに目を向けると、ふと大広間と雛壇のような階段の上に王様が座るような椅子があるのが見えました。これが、スピリチュアルやヨーガやベーダで言われている「ハートの奥の小部屋」なのでしょうか?<br /> <br /> それが見えている状態で瞑想を続けましたところ、ふと、2つの空間が重なって存在しているように感じたのです。<br /> <br /> 1つは、以前書いたような論理思考と体の感覚と想念・思念が感じられる空間。<br /> もう1つは、草の茂った原っぱに太陽の暖かい光が挿している空間。<br /> <br /> その2つが、重なって存在していて、お互いが半透明のホログラフのように目の前に同時に存在しているのです。この時点になったら、大広間と椅子は見えなくなっていました。<br /> <br /> これは一体どういうことでしょう? ちなみに、今は夜です。<br /> <br /> 無の瞑想に関してはここ最近ずっとそんな感じで、雑念が出ても観察しているだけで、周囲に広がった無の漆黒の空間の中で、私が中心にいる瞑想をしています。<br /> <br /> 一方、時々その同じ空間のどこかがパッと明るく感じられることは度々あったのですが、本日のように、2つの空間が重なって存在しているように感じられたのは初めてでした。<br /> <br /> これは興味深いです。<br /> <br /> しかも、その空間だけでなく、ハートの奥の小部屋も関係しているようです。<br /> <br /> 空間が重なったというのが正しいのか、あるいは、ハートの奥の小部屋に入った事による変化なのかもしれません。<br /> <br /> このハートの奥の空間は人によって見え方が違うようで、一定の空間で見える人もいればそうでもない人もいるようです。私はまだ見え始めたばかりな感じです。あるいは気のせいかもしれないですけどね。まだまだ様子見です。<br /> <br /> Thu, 07 Nov 2019 00:00:00 +0900 緊張と瞑想中の光 https://w-jp.net/2019/1707/ <br /> 先日に意識体に憑依されてからちょっと体に緊張が走っていたわけですけれども、瞑想をするにつれて緊張が取れてきました。<br /> <br /> その時ふと気がついたのですが、どうやら緊張が解消される瞬間に瞑想中の場合は視界に光を感じるようですね。<br /> <br /> 緊張というものがエネルギー的な淀みなのかあるいはエネルギー的な凝縮なのか、その具体的なところはわかりませんが、少なくとも緊張が解けることと光を感じることの間には多少の相関関係があるような感じがしてきました。<br /> <br /> ヨーガにおける瞑想の基本としては瞑想中に見聞きすることは重要ではないので気にしない、ということはもちろんあるわけですけれども、それでも、多少はこのように相関関係があるのかもしれないな、と気が付きました。<br /> <br /> ただし、これは本当に「たまたま」かもしれませんけどね。それでも、多少の相関関係はあると思うのです。<br /> <br /> <br /> Thu, 07 Nov 2019 00:00:00 +0900 床屋で取り憑いてきた意識体 https://w-jp.net/2019/1706/ <br /> 昨日床屋に行ったとき、散髪中に急に緊張が走って顔が強張ったので周囲をぐるりと「切る」動作をしました。以前に書いたように、イメージで刀のようなものを作って、それを体の周囲に回してオーラのケーブルを切る動作です。それと、結界のようなものも意識して作ってみました。<br /> <br /> それで多少は回復したのですが、すぐにまた元に戻ってしまいました。<br /> <br /> 久々に、この種の「顔が強張る」ほどの状態になりました。これはやばい。<br /> <br /> そのまま帰宅したのですが、調子はそんなによくありません。<br /> <br /> 翌朝、目が覚めてみるとどうも調子が悪く、体の中で何かが詰まった感覚になっています。<br /> <br /> 最近は骨折でヨガのアサナもしていないし、何か変なものでも食べたかなぁ... カット野菜はやはり薬品漬けで良くないのかな? とか思っていたのですが、どうやら今回はそれが原因ではなさそうです。<br /> <br /> 今朝の瞑想で体の中を探ってみると、右肩から心臓のあたりに緊張と詰まりがあるように思われましたので、意識の「手」でそのあたりを探って、塊のようなものを摘んでゆっくりと右肩の方に抜いてみました。<br /> <br /> すると、急に右肩の緊張が取れて右肩が動くようになりました。心臓のあたりの詰まりも取れてきました。<br /> <br /> どうやら、意識体が取り憑いていたようです。 いや〜、怖い怖い。<br /> <br /> 緊張は顔に来ていたのですが、瞑想で探ってみると体の左は普通なのに対して右側、特に右肩から肘にかけての筋肉が硬っていて、それが心臓にまで到達していたのです。右肩を中心に取り付いていて、パイプのようなものを心臓に伸ばしてエネルギーを奪い取っていたようです。引き抜いたら、それ以上は抵抗することなく何処かへと去って行きました。<br /> <br /> 床屋で髪の毛を切っているときに理容師を経由して侵入したのかなあ? と推測しています。<br /> <br /> 床屋は顧客のオーラを指から吸い取りやすい、とはどこかで聞いたことがありますね。髪の毛というのはオーラの交換が起こりやすい場所なので、髪の毛を触る理容師は顧客のネガティブを受け取りやすいのだとか。<br /> <br /> もしかしたら、顧客に取り憑いていた意識体が理容師に移って、それが私に取り憑いてきたのかもしれないですね。<br /> <br /> 床屋に行った後に具合が悪くなることが以前も度々あったのですが、今回は特に酷かったです。<br /> <br /> 意識体を引き抜いた後も右手に筋肉痛のような感覚と痺れた感覚が残っています。部屋の中に意識は感じないのでどこかに行ってしまったようですが、油断大敵ですね。久々にこの種の憑依がありました。<br /> <br /> 最近は身内の葬儀などで疲れていてヨガのアサナも瞑想もそれほどできていなかったので脇が甘くなっていたかもしれないですね。<br /> <br /> Mon, 04 Nov 2019 00:00:00 +0900 論理思考は独立して機能している https://w-jp.net/2019/1705/ <br /> 先日の続きです。<br /> <br /> 内なる雲が晴れ渡り、体の感覚と想念をそれぞれ独立して観察している状態では、論理思考が独立して働くようです。この論理思考はヨーガで言うブッディかもしれませんが、確証はありません。<br /> <br /> 今までは、想念や雑念あるいは論理的思考やいわゆる”考え”など、全てがごっちゃになっており、雑念と”考え”との差が”観察”と言う観点からすれば違いがさほどない状態でした。<br /> <br /> もちろん雑念は取り止めがなくて”考え”はロジックに基づいたものではありますのでその内容は別物ですが、”観察”と言う観点からしたら、両方とも同じような感じで想念として観察されていました。雑念で噂話や昔話はたまた流行のことを思い描いて想念になるのと、何かの課題を下に順序立てて結論を出す際に、内的感覚としてはさほど違いがなかったのです。<br /> <br /> それが、最近の瞑想では内面が晴れ渡り、雑念と論理思考が別に働いていることが明らかになったのです。<br /> <br /> 今日の瞑想では空間の中に認識されたのですが、比喩的に言い表しますと以下のようになります。<br /> <br /> <br /> <br /> ・視点は、空中から見下ろしている。(実際は地上の平面があるわけではなくその奥も空間が続いているので、これはあくまでも比喩です)<br /> ・地上(比喩)に、”体の感覚”が動いている。<br /> ・”体の感覚”の少し横で、”雑念”が認識されている。<br /> ・少し浮いたところ、少し座標がずれたところで論理思考(ヨーガで言うブッディ?)が働いている。<br /> <br /> 論理思考(ブッディ)だけでなく、”体の感覚”と”想念”も空間上でこのように別物として認識されています。<br /> <br /> 今までは”体の感覚”も”想念”も”論理思考(ブッディ)”も主観的に把握していましたが、今回の空間では客観的に観察されたと言えるかもしれません。まさか実際に空間として認識されるとは思ってもいませんでした。<br /> <br /> スピリチュアルで「宇宙」だとか「世界」だとか「空間」みたいな言葉を色々なところで聴きはしますけど、それはあくまでも比喩だと思っていたのですが、今回は実際に、いわゆる映像として空間が認識されました。(映像と言うと2次元という印象で聞こえてしまうかもしれないですけど)3Dのホログラフィックな空間としての映像として認識されました。<br /> <br /> Sun, 03 Nov 2019 00:00:00 +0900 内なる雲が晴れわたり、観照へ https://w-jp.net/2019/1704/ <br /> 最近の瞑想では内なる雲が晴れわたり、夜明けのように光を感じるようになりました。<br /> <br /> 長い夜がいよいよ明けるのでしょうか。<br /> <br /> 以前ですと瞑想における「観察」はいずれか1つが対象になっていました。体の感覚を観察するときは感覚のみ。想念・雑念を観察するときも基本的にはそれだけの観察でした。<br /> <br /> しかし、最近の瞑想では2つ以上の観察に変わってきました。<br /> <br /> 例えば、体の感覚と想念の両方を観察できています。聞こえる音・声も観察できていますので3つ以上とも言えるかもしれません。瞑想はあぐらを組んで目を瞑っっているので視覚情報はありません。<br /> <br /> 瞑想中、以前はヴィパッサナー瞑想をしていたとしても体の感覚の観察をしているときは基本的にそれだけ意識しており、想念や雑念の観察あるいは雑念に囚われているときはそれだけの観察でした。<br /> <br /> 今でも雑念に囚われることがゼロではありませんが、基本的には想念や雑念と体の観察および外の音の観察が同時にできています。<br /> <br /> おそらくは、これは内面が晴れ渡ることにより可能になったことなのかな? と思っております。<br /> <br /> ヴィパッサナー瞑想は本来こういうものなのかもしれないですね。<br /> <br /> この状態を「力が抜けた」と言うこともできるかもしれませんが、エネルギー的には高まった状態です。<br /> <br /> 以前は力が入っていてエネルギーが少なくて観察がうまくできていなかったのかな、とも思います。<br /> <br /> 以前との違いですが、以前は感覚を観察したのと同時ではなく時系列で反応的に想念や雑念が観察されていましたが、今は両方が独立して反応しているのを観察している、と言う違いがあります。以前は、体の感覚を観察してサワサワする肌感覚とかチクリとする感覚などを感じることとに精一杯で、感覚がトリガーとなって想念や雑念が発生すると感覚は観察できずに想念や雑念に囚われて、次はまた体の感覚の観察に戻って、と言う行ったり来たりを繰り返していました。当時はそれが観察だと思っていました。今の状態は、体の感覚と想念・雑念が並行に存在していることを同時に観察できています。現象としてはさほど違いがありませんが、観察の仕方に違いがあります。そして、これが可能になったのは、おそらくは上記のような状態になってからだと思うのです。<br /> <br /> マハリシ・マヘーシュ・ヨーギーの弟子であるボブ・フィックスは以下のように記しています。<br /> <br /> 瞑想がはかどり、ストレスやカルマの記憶が消え始めると、内なる空がじつに澄み渡る。「ある瞑想家の冒険(ボブ・フィックス 著)」<br /> <br /> 光は、スピリチュアルやヨーガでよく言われていることで、やがて光源状態になると言われています。私はここ最近しばらくアナハタ優勢ですが、光というのはわかるようでいてわかりませんでした。ここに来て、例えばスワミ・ヨーゲンヴァラナンダが「魂の科学」で言うところの「光輝状態の始まり」が始まりつつあるのかもしれないです。<br /> <br /> 「魂の科学」によれば、クンダリニーの覚醒は2つの形態があると言います。<br /> <br /> (1) 生気の上昇(Pranottana)<br /> (2) 光輝状態の始まり<br /> <br /> 同書によれば生気の上昇とはチャクラで光を伴わずに動き出すことで、覚醒すると光り輝くと言います。<br /> <br /> どうやら私は「生気の上昇」としてのクンダリーニ覚醒をしてオーラがアナハタ優勢になっていたとしても、光輝状態にはまだなっていなかったのかな、と推測しています。<br /> <br /> ボブ・フィックスは上の引用文の後に次のように記載しています。<br /> <br /> 知覚にともなう感覚も高まり、色彩はより鮮明に見え始める。結果として生じるそんな変化が、新たな次元の扉をあけ、見るものや知りたいことをすべて知覚する能力をひらく。それを知覚の鋭敏化と呼んでも良い。「ある瞑想家の冒険(ボブ・フィックス 著)」<br /> <br /> と、言いますのも、本日この観察状態で瞑想を続けていたところ、ふと目の前に学生服っぽい服を着た人のシルエットが見えて、私の方に近づいてきてすれ違いました。それだけのことですけど、これは何でしょう? たまたま通り過ぎただけかもしれません。この部分に関しては様子見ですね。単なる想像かもしれませんけど、何かが横切ったのかもしれません。<br /> <br /> とは言いましても、ボブ・フィックスは次のように記しています。<br /> <br /> しかし瞑想で重要なことは、感覚に生じる種々の妨げを超えて、無限の静寂に吸収される能力だ。(中略)空(くう)は、宇宙を超越している。完全に意識があって、完全に目覚めている。空にいるとき、私たちは宇宙を超え、それをとりかこむ無限の空間にいる。空に慣れてくると、宇宙を外側から観察しているような感じがする。(中略)この体験が、いわゆる観照だ。「ある瞑想家の冒険(ボブ・フィックス 著)」<br /> <br /> 確かに、言われてみれば本日の瞑想は観照(のほんの入り口)のようなものだったかもしれません。わずかながらの経験ですが、随分と瞑想は奥深いものだなと改めて思いました。まさかこのような状態を経験できるとは思ってもいませんでした。<br /> <br /> 内面が澄み渡ると知覚が鋭敏になりつつ光輝状態になり、観照に至る、と。 そう言うことなのかなと解釈しました。<br /> <br /> Sun, 03 Nov 2019 00:00:00 +0900 ハートに寄り添うことを妨げるトラウマ https://w-jp.net/2019/1703/ <br /> 人は誰でもトラウマがあるように思いますが、ハートに入る、あるいはハートに寄り添う時にトラウマが妨げることがあるようです。<br /> <br /> 私の場合、トラウマは次第に小さくなってきていますが未だゼロではありません。ゼロってことがあるのですかね? とも思ったりもしますが。<br /> <br /> そのトラウマの対処法として、以前は時間をかけてネガティブな感情に向き合ったわけですけれども、最近は、トラウマが出てきたらその状態を保持したまま否定せずに味わう(?)ことでネガティブが消えていくようになりました。そろそろ本格的にトラウマがゼロになってゆく前触れかなとも思っていますけれども。以前はトラウマが出たら一旦否定の反応が反射的に自律的に出て、その後にネガティブな反応が出ていましたが、最近は、トラウマが出たら意識的に否定の反応を抑えて否定の反応が出ないようにし、トラウマの状態をあえて維持して味わうことで否定の反応なしにトラウマを味わうようにすることでトラウマを理解し、その状態を味わっているとやがて緊張がほぐれていってトラウマが解消してゆくプロセスを経験できるようになりました。<br /> <br /> もしかしたら、これが仏教で言われている、ブッダが伝えたいわゆる「魔境」かもしれない、とも思っているわけですけれども。魔境かもしれないと言うのは仮説ですが。<br /> <br /> このトラウマは、一般的には、ハートに入ることを妨げているようです。<br /> <br /> ヨーガ、ヴェーダ、あるいはスピリチュアルなどではハートのいわゆるアナハタ・チャクラ(ハート・チャクラ)の奥には更に小さな空間があると言います。私の場合、アナハタ優勢にはなってはいるのですが、この、アナハタの中にある小さな空間、いわゆる聖なる空間に入ることができないでいます。<br /> <br /> ハートの中に入れなかったり、入ってもそこにいられなかったりするのには理由があります。(中略)人生においてトラウマを経験した人々、なかでも特に人間関係や愛情に関して否定的な経験があると、ハートの聖なる空間に入るときに再びその痛みを味わうようです。するとその痛みがつらすぎて、そこにいることに耐えられないのです。「ハートの聖なる空間へ(ドランヴァロ メルキゼデク著)」<br /> <br /> これは確かにそうかもしれない、と感じます。<br /> <br /> 最近は私の次の課題は何かなと探っていたのですが、ハートのこの辺りが次の課題かなあ、と思っている次第です。<br /> <br /> Sat, 02 Nov 2019 00:00:00 +0900 スシュムナを地に伸ばして錨にし、グラウンディングする https://w-jp.net/2019/1702/ <br /> 先日のように、天と地のエネルギーを上下に伸ばした後に何をするべきかと思って書籍を探ったところ、この記述がありました。<br /> <br /> 意識を素早く体内のプラーナ管に移し、それをイメージのなかで地球の核にまで伸ばすというものです。(中略)地球深くに固定されるように意図するだけで、プラーナ管を地球の核にグラウンディングさせることができます。「ハトホルの書(トム・ケニオン著)」<br /> <br /> ヨーガで言うスシュムナを同書ではプラーナ管と呼んでいるようです。<br /> <br /> これを意図してやってみたところ、あっさりとグラウンディングできました。これは良いです。<br /> <br /> と、言いますか、以前は同様にグラウンディングしようとしたら地のエネルギーの気持ち悪い、泥のようなエネルギーが登ってくるのであまりグラウンディングしたいとは思わなかったのです。多少は地のエネルギーを取り入れつつも、天のエネルギーを取り入れることでその気持ち悪さを中和するような感じでした。<br /> <br /> しかし、今日、このエクササイズをしたところ、気持ち悪さもなくあっさりとグラウンディングできました。<br /> <br /> この違いはなんでしょう?<br /> <br /> 先日の時点で、天のエネルギーがすんなりと入ってくるようになりました。これが大きいのではないかと思います。<br /> <br /> それ以前は天のエネルギーが途中で詰まってうまく降りてこない状態でしたので地のエネルギーが優勢でしたが、先日に天のエネルギーがすんなり降りるようになってからは地のエネルギーと天のエネルギーのバランスが取れたように思います。<br /> <br /> この状態であれば地のエネルギーにアクセスしても気持ちの悪さを感じず、すんなりグラウンディングできました。<br /> <br /> グラウンディングは大事だとはよく言われていますが、地のエネルギーだけでなく天のエネルギーもグラウンディングに意外に重要なのだと思いました。<br /> <br /> Fri, 01 Nov 2019 00:00:00 +0900 天のエネルギーを真っ直ぐ下ろして取り入れる瞑想 https://w-jp.net/2019/1701/ <br /> ここ最近は天のエネルギーを上半身に満たしたり、地のエネルギーを取り入れたりしていたわけですけれども、天のエネルギーを取り入れるときはグルグルと回転させて下ろす必要がありました。<br /> <br /> ここ最近の瞑想で、スシュムナを上下に延長したパイプ、一部のスピリチュアルで言われている、自分の上下に繋がるパイプのようなものを感じるようになりました。今までは自分の体の範囲しか把握できていなかったのです。<br /> <br /> その感覚を探っていくと、どうも頭の上のサハスララの上のあたりにゴミのようなものがパイプに詰まっているのを感じ、ここしばらくの瞑想ではその周囲のエネルギーを上下に動かして詰まりを取ろうとしていたのです。瞑想中でそれが取れた感覚はなかったのですが、ふと先日に瞑想をしてその辺りを探ってみたら、いつの間にかその詰まりのゴミがなくなっていて、パイプの中を上下にエネルギーがスムーズに動くようになっていました。<br /> <br /> その状態で瞑想をすると、以前のようにグルグルと天のエネルギーを回して下ろすことなしに、そのまま真っ直ぐ素直に天のエネルギーが降りてくるようになりました。<br /> <br /> 地のエネルギーも同様です。意識するだけで地のエネルギーと天のエネルギーが入ってくるようになりました。<br /> <br /> どうやら、今までは何かが詰まっていて流れが悪くなっていたからグルグルとエネルギーを回転しなくてはいけなかったのかな、と解釈しています。<br /> <br /> であれば、これからは地のエネルギーも天のエネルギーも素直に取り入れることができるのでしょう。<br /> <br /> ■一部のスピリチュアルで言う「カー」<br /> 例えば「ハトホルの書(トム・ケニオン著)」には以下のような図が記されています。<br /> <br /> この図ですと上下の線が切れていて横から入るように見えますけど、私の場合は上下のパイプがそのまま真っ直ぐ上下に伸びている感じです。<br /> <br /> ■上の突っかかりが取れると、緊張しにくくなった<br /> 今までは、瞑想して眉間やサハスララに意識を合わせるとそこに圧力のようなものが生まれて、瞑想を終える前にその意識を頭の下半分あるいはハートなどに下ろしてから瞑想を終えないと不快感が残ってしまうことがありました。場合によってはそれは緊張としても残り、肉体的にはそれは多少の血圧上昇に結びついていたように思います。<br /> <br /> ■緊張と血圧上昇<br /> このように、頭の緊張が残ると血圧上昇することに気づいたのは、たまたま病院で足の骨折のリハビリを受診したからです。リハビリ前に血圧を測るのですが、この緊張状態では血圧が高いことに気がついたのです。<br /> <br /> ■今は、緊張していた頃の癖が残っている状態<br /> 前は眉間や頭上に意識を合わせると緊張していましたので、体がそれを覚えているので抵抗を試みるのですが、そもそも緊張がなくなっているのに抵抗だけが癖として残っている状態です。体としては、昔の感覚がある筈だけれども感覚がない、と言う感じで体が不思議がっています。おそらくこれは、いつも反応していた体が、その反応の元がなくなってしまったが故に反応しなくても良いのに反応しているだけですので、そのうちこの癖はなくなってゆくのかなと思います。<br /> <br /> これで、眉間への集中が、よりしやすくなりました。ただ、どうやらエネルギーが強く流入するようになりましたので、その点、あまり長く集中できない感じになりつつありますけど。集中というよりは軽く意識を当てて観察するだけでいいのかもしれません。これは今後、様子見をします。<br /> Wed, 30 Oct 2019 00:00:00 +0900 地縛霊と守護霊は紙一重 https://w-jp.net/2019/1700/ <br /> 先日の続きです。<br /> <br /> 死んだ後、地上への欲望に縛られると地縛霊になり、天へと帰ることができれば守護霊や高級霊になります。<br /> <br /> 地縛霊は黒いオーラを帯びていて、それはまるで地獄の黒い炎のように見えます。これはもしかしたら仏教でいう地獄の烈火として言い伝えられているものかもしれませんが、オーラが黒くなってゆらゆら揺れているので炎のように私には見えました。<br /> <br /> ■霊を繋ぎ止める<br /> 身内がいよいよ死ぬとなった時、そのまま死んでしまうと霊がどこかに夢見の状態のままフラフラと行ってしまい、行方不明になって救われないと直感で感じましたので、そうなってはいけないので私のオーラと結んで繋ぎ止めておくために私がインドのリシケシで買ってきた木のブレスレットをお守りとしてつけたまま火葬してもらうことにしたのでした。<br /> <br /> そうして身内は火葬して骨壺になってしまったわけですが、その魂はちゃんと繋ぎ止められていました。<br /> <br /> その身内はもともと素行があまり良くないと言いますか、割と一般的な人でしたので世間的な欲望に沿って生きていて、一般社会ではそんなものかなと思ったりもするのですが、そのように悟っていない状態で死んでしまいますとなかなか苦労しそうなことが直感でわかりました。<br /> <br /> 上で書きましたように、まず、死んだ後に未だに地上への未練が残っていますので地縛霊になる可能性が非常に高いです。<br /> <br /> 欲望があってもそれほどでなければ身内が迎えにきて天に登ることもできるのですが、聞く耳を持たない性格ですとか、自分が死後の世界を受け入れないでいると苦労するようです。死んでいるのに死んでいないと思い込んだり、死んだら無になる筈だからとか思い込んでいて身内の呼びかけに答えなかったりするようです。<br /> <br /> ■黒いオーラ<br /> 今回の場合は身内の霊が黒いオーラで囲まれて地獄の黒い炎のようになっていました。このままですと周囲が見えなくて、本人は眠りの状態のように延々と欲望のイメージと言いますか夢のようなものを見るループに落ち込んでしまい、抜け出すことが困難になってしまうかもしれません。<br /> <br /> 人によっては多少は人生の振り返りなんてするようですけど、それはこのようなループに落ち込んでいる場合のことで、ある程度悟っている魂の場合は人生の振り返りなんて生きているうちに済ませていますのでそのまますんなり天に登ることができるようです。<br /> <br /> 今回の場合、まず私が木のブレスレットで結び付けておきましたので、葬儀が終わって家に帰っていたら、どことなくずっと繋がっているのを感じました。ここまでは想定通りです。<br /> <br /> ■夢見のループ<br /> そして、とりあえずその晩は寝たら、その身内が死後の霊の状態で見ているであろう映像が私の夢と繋がって延々とループで見せられました。これはキツい(苦笑)<br /> <br /> まあ、霊が苦しんでいたり悲しんでいたりしないのが幸いですけど、このままループを続けたら更に何も見えない暗闇にもっと落ち込むかもしれません。その危険性があると思いました。<br /> <br /> ■瞑想で状態を見極める<br /> ですので、翌日、瞑想をして状態をまず見極めることにしました。<br /> <br /> そうしたら、まさに上に書いたように魂が黒いオーラを帯びていて地獄の黒い炎のようにゆらゆらと揺れて私の視界全体を覆うくらいの大きさで漂っていたのが直感で見えたのです。しかも、かなりドロドロとしたオーラを帯びていて、そのままにしておいたら地縛霊になってしまうかもしれないと直感で思いました。私の肌がゾゾゾっと感じるくらいの黒い濁ったオーラです。<br /> <br /> 瞑想に入ってすぐにこれが見えたのでちょっとビビりました。<br /> <br /> 他人でしたら自分との間に結界を張ったり九字切りしたりして追い払うところですけど、身内ですので、色々と試してオーラを浄化してみることにしたのです。<br /> <br /> ■浄化する<br /> 最初試したのが、自分のオーラから光を放って地縛霊になりかけの霊に変化がないか見極めました。結果、少しだけ肌感覚に変化があって、最初はかなり肌にゾゾゾっと感じていたのが、少し弱まりました。オーラがちょっとだけ浄化されたようです。<br /> <br /> 次に、ヨーガのマントラを心の中で唱えてみました。これもちょっと効果があるようですが、一定以上の変化はなさそうに感じました。<br /> <br /> 次は、アジナから光を出すイメージをしてみました。これは効果があるのかないのか不明でした。<br /> <br /> そして、先日から行っていたように天のエネルギーを下ろして、自分にではなくその霊の黒いオーラに浴びせたところ、これはかなり効果がありました。何度も何度も行わないと変化がなかなか現れませんでしたが、ひとまず、応急処置としてはかなり浄化ができたかなと思っております。<br /> <br /> 最初感じた肌のゾゾゾっというおぞましい感覚はほとんどなくなりました。<br /> <br /> まだ完全ではないにせよ、いきなり1日で悟るわけもないですし、地縛霊を防ぐという意味ではとりあえず十分ではないでしょうか。<br /> <br /> ■顔が見えるようになる<br /> 霊が黒いオーラに包まれていた時は顔が全く見えなかったのですが、今は半分眠っているような細い目の顔が見えるようになりましたので、まだ意識としては寝ているのかもしれませんけどオーラは浄化されつつあるように思います。先ほどの瞑想である程度の天のエネルギーを充填したので、身内の霊は割と元気になった感じです。<br /> <br /> まあ、まだ霊はこのまま寝ている状態がしばらく続くと思いますので、迎えが来るまでは度々このようにして天のエネルギーを満たしてあげて地縛霊になるのを防ごうかな、と思っております。<br /> <br /> ■葬儀での住職の役割<br /> おそらくは、本来のお寺の住職の葬儀における読経の役割はこんなところにあるのかなぁ、と思ったりしますけど、全員がその能力があるようにも思えませんから微妙なところです。能力があったとしてもお経を何回か唱えたくらいで救われるとも限りませんからね。やらないよりマシというくらいかもしれませんけど。単に見様見真似で唱えても効果があるように思えませんし。<br /> <br /> ■オーラを食する<br /> この種の黒いオーラを帯びている人は自分で地や天のエネルギーを取り入れることができないので、他人のオーラをもらうしかないようです。ですから生きている間は肉を食べたり植物を食べたりしていたわけですけれども、死んでしまうとどうしていいのか最初はわかりませんのでどんどんと黒くなっていくような気が致しました。死んだ後の状態に慣れれば同じように周囲からエネルギーを貰えばいいみたいですけど、オーラを閉ざしているというかエネルギーの通り道が詰まっているとうまく取り入れられないようです。<br /> <br /> そんなこんなで死後にエネルギーを取り入れることができなくて黒いオーラになってしまっていたわけですが、お寺の住職や葬儀でお祈りをする時のエネルギー供給は意外に重要なのかもしれませんね。<br /> <br /> 悟っていればあまり関係ないみたいですけど、悟っていないと死後すぐにエネルギーを供給してもらうのは重要なのかなあ、と今回のことで思いました。<br /> <br /> ■紙一重<br /> ですから、もしかしたら地縛霊と天に登る霊(やがて守護霊や高級霊になる)は紙一重なのかなあ、という気がしました。<br /> <br /> ■職業としてやるのは微妙<br /> これ、今回は身内ですから良いですけど、他人ですとオーラが混ざるので色々なものを拾ってしまうので嫌だなあ、と思いました。実力のある住職とかスピリチュアルのヒーラーとかは時々こういうことしてたりしますけど、めちゃくちゃ大変な割に相手には理解されにくいので大変そうです。<br /> <br /> Mon, 28 Oct 2019 00:00:00 +0900 霊とマニプラ https://w-jp.net/2019/1699/ <br /> 胃のあたり、いわゆるマニプラ、ソーラプレクサス・チャクラと霊との間には関係があるようです。<br /> <br /> ヨーガの大家、本山博先生は以下のように説明されています。<br /> <br /> マニプラチャクラの目覚めは、霊の世界にヨギを目覚ませるように思います。「密教ヨーガ(本山博 著)」<br /> <br /> 実はここ数週間、特に先週から身内の入院・危篤・葬儀まで立て続けに起こり、人の死に立ち向かいました。親戚の葬儀に参列するのと入院中や最後の瞬間に立ち会うのとではかなり認識の違いがありました。親戚の葬儀に参列するだけでは人の死に対して深く思い描く機会も少なかったのですが、今回のことで色々と学びもありました。<br /> <br /> ■マニプラで霊を感じる<br /> 人の最後の瞬間に立ち合い、葬儀をしていると、特に、胃のあたりにジワジワと感じるものがあって、胃のあたりが弱まるのを感じました。胃のあたりにあるのは、いわゆるマニプラ・チャクラです。これは、単に疲れというだけではないと思います。何かメッセージを受信しているような、そんな感じです。疲れてうとうとしている時とか夜の夢の中でイメージを感じたのです。その時、死んだ霊が漂って見ている世界を私が垣間見たような気が致します。それは、死んだ霊が見ている場面を私が感じる、ということです。<br /> <br /> 死んだ霊が特に苦しんでいるというわけではなさそうなのですが、故人の職業の最中に見たであろう視界が色々と延々と見えてくるのです。延々と続いていて、これは夢と言っても、死んだ霊が実際に自分が生きていた頃を回想しているのかなあ... と思いました。それがマニプラのあたりを伝わってイメージとして伝わってくるのです。<br /> <br /> 少なくとも苦しんでいるわけではなく、もうしなくても良い自分の職業を死後の世界でも続けているのかなぁ... と思うと、目覚めていない魂はこうなるのかな... とちょっと悲しくなりました。でも、苦しんでいるわけではないのが救いです。<br /> <br /> 時々、その故人の顔が思い浮かびます。これはきっと、思い浮かぶというよりは実際に漂っている、あるいは、そこに眠っているのかなと思います。苦しんでいるわけではないのですが、まだ意識は眠っている感じです。そのうち目が覚めるのでしょうか。49日になるまで霊は地上を漂うと言いますけど、どうなのでしょう。最長が49日、というお話もありますね。<br /> <br /> ■私の感情<br /> 入院中、意識が少し戻ったりして動いていた体が少しづつ弱まって遺体に変わってゆく最後を何日にもわたって看取るのは初めてでしたので色々と思うことがありました。<br /> <br /> ここ数週間でいわゆる喪失感、悲しみ、思い出などを次々と体験することになったわけですが、勉強したり瞑想したりしてあの世のことや世界のことを学ぶのは必要だとしても、実際に直面してみるとわかるものがあります。<br /> <br /> 頭では霊は転生するとか理解していたとしても、実際の感情面やマニプラのレベルでは喪失感や共感、悲しみといったものをしっかり感じるわけです。アナハタ以上のレベルではそのような悲しみはありませんけど、アナハタ以上の感覚で安定した感覚を保ちつつも下半身のマニプラ以下ではしっかりと悲しみを感じているわけです。人間というのは一枚岩ではなくて、悲しみが全身を覆うのではなく、チャクラによって状態が違うのだな、と今回は学びました。<br /> <br /> もしかした人によっては全身同じ、という人もいるのかもしれませんが、私の場合はこんな感じでした。もしかしたらアナハタが閉じ気味でマニプラ優勢の場合は感情が優先するのかもしれませんけど。<br /> <br /> アナハタ以上の高い波動の神の世界の視点だけで人間が生きているわけではなく、低いマニプラ以下の視点もあるのが人間で、アナハタ以上の高い波動だけでなく低いマニプラ以下の波動も持っているからこそこの地上を生きられるのであって、マニプラにおける感情としての悲しみを感じるのも必要なのだと改めて思いました。<br /> <br /> 人によってそのバランスは違っているにしても、アナハタ以上の高い波動だけ持っていてマニプラの悲しみがない人間というのも何だか違う気がしますし、そもそも人間界に生まれるということは様々な感情を味わうことを学ぶことでもある筈ですから、マニプラもしっかり動かしてみるのがいいのかな、という気も致します。<br /> <br /> それでもきっと、やがては人類の成長はアナハタ以上に進んでいくのでしょうけど、今の世界ではまだまだマニプラ的要素はこの世界で生きるのに必要かなと思います。<br /> <br /> ■やがて迎えがやってくる<br /> 私が子供の頃に幽体離脱して理解したことに基づきますと、死ぬとやがて縁のある人(霊)が迎えにきます。<br /> ですから、きっと今はまだ死んだばかりで夢見のような状態で微睡んでいるのだと思います。<br /> <br /> Mon, 28 Oct 2019 00:00:00 +0900 初見の人と接した際に自らの知らない面が出てくるのではなく自分が相手の鏡になっているだけ https://w-jp.net/2019/1698/ <br /> 先日のオーラ融合による想念受信のお話の続きです。<br /> <br /> オーラ接触すると相手の想念が伝わってくるわけですが、例えば初見の人と接した時にふとしたことで自分が今まで思いもよらなかった考えが心に浮かんでくることがあります。<br /> <br /> 具体的には、私が数ヶ月前に少し話した女性の場合ですと、一言二言話しただけで相手の女性の悩みが伝わってきました。その女性は割と資産家らしく、お金目当ての男性がわらわらと近づいてくるようです。その悩みのオーラがブワッと私の方に降りかかってきて、私の心の中にこの女性を食い物にしている男性のイメージがポンと浮かんできたと同時にその女性も何かトラウマを思い出したように苦しみ出して少しヒステリーになったのですぐにその場を離れたのですが、これはオーラ接触によりその女性の悩みが伝わってきた例ですね。この女性はアルコール依存症のようで、まだ50歳前後だと思うのですが少し手が震えていました。お金持っていても不幸せなことがあるんですね。<br /> <br /> オーラの基本的な知識と観察力があればこれは相手のオーラに含まれる想念だとすぐにわかるわけですけれども、そうでなくとも、それ以前あるいはその後数ヶ月経っても私は同様の思いを描いたことがありませんのでこの想念は相手の女性にまつわる物だったとわかるわけです。ですが、オーラや想念に関する知識がない人ですともしかしたら「ああ、これが私の本性なんだ」と思ってしまうかもしれません。<br /> <br /> 実のところ、ヨーガ的な「私」というのは「思い(想念)」ではありませんので、何を思おうがそれは自己の本質とは無関係なわけです。ヨーガ 的な「私」というのは純粋な観察者ですので、思いとは関係ないわけです。<br /> <br /> ですが、一般的には「何を思うか」によって「私」が形作られています。ですから、一般的にはこのような場合に「ああ、私って実は凄く醜い人間なんだ」と思ってしまうかもしれませんが、それはヨーガ的に言えば間違いなわけです。だって、単に相手のオーラと接触してその情報が入ってきただけですから。<br /> <br /> 誤解して欲しくないのですが、「それなら、何を思ったっていいんですね。上のように女性を食い物にしていいんですね」と思う人がいらっしゃるかもしれませんが、微妙に違います。「何を思っても良い。女性を食い物にしたらそのカルマに巻き込まれますが、それも貴方の自由です。」と言ったところでしょうか。本質を理解していればわざわざそんな面倒なトラブルに巻き込まれることを選択しないとは思いますが、自分の行為のアリバイとして理屈を捏ね回したとしても、結局は自分の行為の尻拭いは自分で取るわけですから、好きにしてください、としか言いようがありません。言い訳をしても何も変わらないわけです。<br /> <br /> 誤解の話はこのくらいにして元の話に戻しますが、その女性はオーラが不安定で発散していたから周囲の他人のオーラと次々に接触していたわけですね。<br /> <br /> オーラの働きを一度理解したならば、このようなことがあったらまず正しく理解して、その想念は自分のものではないことを理解して、あとはくよくよ考えないことです。一般人ですと「あぁ、私ってそんな人間だったんだ...」とくよくよずっと考え続けるかもしれませんが、「考える」ことによってどんどんと自分の性質がそれに近づいていきますので考え続ける方が危険です。<br /> <br /> これらはオーラの働きとしても説明できますし、昔ながらの古典的な例えですと「鏡」だと説明されます。自分は相手を映し出す鏡だ、というわけですね。<br /> <br /> ですが、鏡の説明は色々と誤解がありますので、私個人としては鏡よりもオーラの法則の方が説明としてしっくりきます。<br /> <br /> Sun, 20 Oct 2019 00:00:00 +0900 歯痛や疲れている時は予知の感覚が働かないようです https://w-jp.net/2019/1697/ <br /> 数日前から親知らずの根本が痛み出して抜く予定なのですが、歯が痛いと予知能力が鈍りますね。<br /> <br /> 旅行中に疲れているとスリなどにあいやすいのと同じで、スリにしても元気ですと予知能力が働いてあらかじめ避けられますけど、疲れていると予知能力が働きません。と言いますか、働いているとは思うのですが感知能力が鈍ってしまっているようです。<br /> <br /> ここ数日、自転車に乗ったら他のバイクや自転車の動きが読めずに衝突しそうになったり、歩行者をひっかけそうになったり、ほんの1km前後の移動でしかないのですが、その間に何回か危ない場面がありました。こんな短い距離でそんな頻繁に危ない状況になることは今までほとんどなかったのです。<br /> <br /> ただでさえ歯が痛くて注意散漫になっている上、普段の予知の感覚が働かないので、二重の意味で危なかったです。<br /> <br /> 親知らずを抜いて数日は痛みが続くようなので、抜いた後もしばらく気をつけたいと思います。<br /> <br /> この状態でする瞑想もあまり深くは入れませんので、しばらくは瞑想も軽くするだけですね。<br /> <br /> 病気の時は精神的な成長のチャンスの筈なので良い方向に捉えたいです。<br /> <br /> <br /> [追記 10/19]<br /> 下の親知らずを抜きました。油断大敵。親知らずって怖いですね。<br /> 抜く3日くらい前から親知らずの周辺が智歯周囲炎と言う炎症になって夜もあまり眠れないくらい辛い痛みが数日続き、単なる虫歯かと思っていたら親知らずが原因でした... 親知らずを舐めていました。こんなに辛くなるとは。痛くなったので無理言って当日に診察してもらったら、腫れているし当日は時間がなくて抜けないので抗生物質と痛み止め(ロキソニン)を処方してもらって、その数日後、ようやく昨日抜いてもらいました。<br /> 抜いたら、炎症の痛みはほとんどなくなりました。こんなにスッキリするのならばもっと早く抜いておけばよかったです。<br /> でも、抜いたことによる傷口と炎症がまだ残っているせいか、今日は抜いたところを中心にとても熱っぽいです。脇の下の熱が37.0度なのに口の体温は37.7度もあります(苦笑) 額も熱いし。<br /> 今まで、下の親知らずは抜かない方がいいと言われていたので抜かなかったのです。ブラッシングでマッサージすればなんとかなると言われていたのですが、今回はブラッシングでは無理と言われて抜くことにしました。<br /> 結果としては、抜いて良かった! のですが、今日は熱でツライ...<br /> 来月はもう片方の(下の)親知らずも抜いてもらいます。こっちはもっと埋まっているらしいです...<br /> <br /> 今は、痛みが出たり出なかったり、不思議な状況が続いています。<br /> ・施術中:麻酔の針が気持ち悪い。もともと血が苦手。歯医者も苦手ですが、私が行ったところは新しいのでそれでも痛まない方らしいです。昔はどれだけ辛かったのでしょう...<br /> ・施術後1時間くらい:同じく気持ち悪い。寝込みたいくらい。<br /> ・2時間後:急に気分が良くなってきた。痛みもない。炎症の痛みもなし。<br /> ・その夜:快適<br /> ・翌日の午前中〜午後:快適<br /> ・翌日の夕方:夕食後、急に熱が出てきて上記のように変化<br /> ・と思ったら、その1時間後くらいに急に熱が治ってきたのです。なんだこれ... 過渡的な反応だったのでしょうか... まだ微熱がありますけど。今日は調子が良かったのでちょっと外出して買い物などしていたので抵抗力が落ちていたのかもしれないです。あるいは、食べたものが傷口に挟まったとか、飲み物が炎症に反応したとか。どちらにせよ、あと数日は無理せず落ち着いていた方が良さそうです。<br /> <br /> 私の症状よりももっと酷い場合は大学病院とかで入院する人もいるらしいです。私はそれでもまだ軽傷のうちに歯医者行って薬もらって抜いてもらったのでこのくらいで済みそうです。これが長期旅行中だったりしたらもっと怖かったですね。<br /> <br /> 今年は骨折にしろ何にせよ身体的には辛いことが続いています。一方、精神的には進歩が見られるので辛いことも精神的な成長の糧かなとも思っています。<br /> Thu, 17 Oct 2019 00:00:00 +0900 偶発的な霊視 https://w-jp.net/2019/1695/ <br /> 神智学協会のC.W.リードビーターによりますと、完全な目覚めには至らなくても偶発的に透視が起こると言います。<br /> <br /> 完全な目覚めに至らなくても、人はしばしばアストラル的領域を垣間見ることがある。特別に強い波動は、蛇の火が全く活動していなくても、いつでもチャクラを活動させることがあるからである。また蛇の火がいくらか活動を始めて、発作的な透視がしばらく生じることもある。(中略)次第に深く掘り下げてゆくことによって、この火の表層が刺激されるだけに止まらず、火の核心そのものが全面的に活動するまでに至るのである。「チャクラ(C.W.リードビーター 著)」<br /> <br /> これは私にも覚えがあって、ふとした拍子に他の人のオーラの表層にとてもはっきりと視覚的にその人の生活の一面を垣間見たことがあります。10秒前後続きました。その間、一瞬消えることはありましたが10秒ほどの間、ずっとその人の生活の一部が見えていました。<br /> <br /> それはたしかクンダリーニ覚醒の第2回目、マニプラ優勢になったばかりの頃だったと思います。その後はそんなこともありませんので、おそらくは一時的にアジナかどこかが活性化して透視の能力が出たのかなと思います。これぞ偶発的な透視、というものだと思いました。ちょうど1年くらいまえの事ですかね。<br /> <br /> 一種の勘のようなものでしたら以前からずっとありましたし、直感としての透視であれば想像上のものであってずっとありましたけど、その時はまるで物理的なディスプレイが現れたかと思 うくらいはっきりと肉眼で見えるかのように見えていました。<br /> <br /> てっきり、透視ができるようになっても想像とか夢とか、その種の直感的なものかとばかりずっと思っていましたので、その時は、まるで肉眼で見えるかのように見えたのには驚きました。こういう風に見えることもあるんだ、と。<br /> <br /> その人はちょっと情緒不安定でしたのできっとオーラが発散していて読み取りやすい状態になっていたのかなぁ、という気もしますし、相手の守護霊があえて見えやすくしていた可能性もあるにはありますけど。<br /> <br /> どちらにせよ、あんなにはっきり見えたことには驚きました。<br /> <br /> とは言いましても、おそらくあれは肉体のレベルに近い、いわゆる低いレベルの透視だったのかなぁ、と今は思います。見えているのは単に生活の一部ですし、深い洞察やその場面の裏側に横たわっている背景までが見通せるわけでもありません。ただ単に過去の一場面を見たというだけで、それはそれで面白いことではありますけど、見たからと言ってその人や私の精神的成長の役に立つかと言われると、ほとんど役に立たないと思われるわけです。<br /> <br /> おそらくは本当の上位の透視はそんな生活の場面ではなくもっと深いところが見えるのだと思っています。<br /> <br /> そこまで行くのはまだまだ遠い道のりな気がしますけど。<br /> <br /> <br /> <br /> Sun, 13 Oct 2019 00:00:00 +0900 寝るときに聞こえた不気味な呟く声 https://w-jp.net/2019/1694/ <br /> 寝る時に体が帯電していてハートから電気というかオーラが身体中に飛び出てゆらゆら動いているような感じになっていました。<br /> <br /> 今日は遠出をしたので疲れたのかな... と思ってそのまま寝ようとしたのですが、その状態で目を瞑っていたら、何やら意識が「後ろ」に次第に引き込まれていって、視線も後ろに行く感じで、まるで(スタートレックやスターウォーズでの)「ワープ」の逆方向(後ろ方向へ進む)のような感じになっていました。<br /> <br /> そして、ふとその速度が上がって意識が圧縮された不思議な感じになったかと思ったら、おそらくオーラというか幽体がちょっと体からズレた状態になったのでしょうかね。幽体っぽいものがちょっとだけ頭の上、頭の斜め上方向にズレた感じになりました。<br /> <br /> 何とも中途半端な感じで幽体離脱っぽくなったかな??? と思っていたのですが、その状態はあまり心地の良いものではありませんでしたのでおそらく30秒もしないうちに意識的に感覚を戻して元に戻ったのですが、その何十秒かの間に、ちょっと不気味な感じになりました。<br /> <br /> 特に不気味だったのが、頭の右上すぐのところで、明らかに他の意識体の声で、まるで念仏のようにブツブツと呟く声が聞こえてきていたのです。ちょっとゾッとしました。内容的には延々と、途切れなく「アリガトウゴザイマスアリガトウゴザイマスアリガトウゴザイマスアリガトウゴザイマス...」と繰り返す感じなのですが、こんな均等のトーンで繰り返す内容でもないので、まるで感情の入っていない念仏のようで不気味です.... 何だこれ...<br /> <br /> まるでホラーでした(苦笑)<br /> <br /> Fri, 11 Oct 2019 00:00:00 +0900 電車で眠くなったら座席に結界を張る https://w-jp.net/2019/1693/ <br /> 以前の話の続きです。<br /> <br /> オーラのケーブルを切りつつ、意識すればそれは結界にもなります。<br /> <br /> 本日電車に乗っていたら、席が空いていた時は快適だったのですが人が増えてきたら何処かからエネルギーを抜かれている感じがしてきました。具体的にはちょっと眠い感じになったのですが、眠くなったらそれはエネルギーを抜かれている可能性があります。<br /> <br /> 何となくイメージできますよね。元気であればそんなに眠くはなりませんが、エネルギーがなくなってきたら回復のために眠くなるのです。<br /> <br /> ですから、電車に座っていて急に眠くなってきた場合。それも、人が少ない時は何でもなかったのに急に眠くなったのであれば、それはエネルギーを抜かれている可能性があります。<br /> <br /> そんな時、普通の人は何の手立てもなく抜かれるがままなのがこの世の中です。エネルギーとかオーラに関する知識がありませんからね...<br /> <br /> エネルギーを抜かれているのならば、それはオーラのケーブルが繋がっているということですので、例えば自分が座っている座席の四方を囲んで意識の「刀」でぐるりと一周すればケーブルは切れます。<br /> <br /> 今日の場合も同様にして急に眠気がなくなりましたので、オーラのケーブルは切れたようです。<br /> <br /> それだけでは再度ケーブルが繋がるかもしれませんので、意識して薄い壁のようなものを作って結界にしました。これは、単にそうイメージするだけで効果がある筈ですが、他の人がうまくできるかどうかは知りません。<br /> <br /> この種のエネルギーの移動ってよく行われていることですけれども、エネルギーが枯渇している人は何かで無駄遣いしているかあるいはまた他の人に抜かれているので、エネルギーをあげてもキリがないのですよね。<br /> <br /> エネルギーを抜かれるのを防ぐのは「分離の意識だ」っていう人もいますけど、それは相手がスピリチュアルな人の場合だけであって、この世の中はエネルギーを高めていこうとしている人とエネルギーを奪って消費しようとしている人とに二分されると思いますので、前者にエネルギーを与えるのはたまには良いですが後者に与えても無駄にするだけです。後者は、例えるならば水道の蛇口が全開になっている人、あるいは、お風呂の栓が止まっていないのにお湯を貯めようとしている人なのですから、いくらエネルギーを注ぎ込んでも抜けてしまって貯まらないのです。であれば、エネルギーを与える前に本人のエネルギーの無駄使いあるいはエネルギーの他の人への奪われを阻止してからエネルギーを注ぎ込まないと状況は良くならないですよね。ですから、私は外で見知らぬ人にエネルギーを抜かれたらすぐにオーラのケーブルを切ってエネルギーを奪われるのを阻止しているのです。エネルギーを与えるのならば意識的にしたいですし、相手が、自分の意思でエネルギー的でスピリチュアル的な成長をしていこうと思っていなければあまり意味がないように思います。<br /> <br /> <br /> Fri, 11 Oct 2019 00:00:00 +0900 癒しとはエネルギーの高まり https://w-jp.net/2019/1686/ <br /> 女性的に言えば癒しですし、男性的に言えば男らしさ。それがエネルギーの高まりです。<br /> エネルギーの高い女性に近づけば癒しを感じますし、エネルギーの高い男性に近づけば男らしさを感じます。<br /> <br /> 男性性、女性性という視点を取っ払えば、両方ともエネルギーの高まりです。<br /> <br /> ですから、女性がエネルギーの高い男性に近づけば癒しを感じてエネルギーをもらって女らしくなるのです。<br /> 逆に、男性がエネルギーの高い女性、女らしい女性に近づけば自分がエネルギーを受け取ることで男らしくなるわけです。<br /> これはあくまでも例でわかりやすく男と女の話で言っているだけで、LGBTのパターンもあると思います。<br /> <br /> 私の場合、ヨガを始める前はエネルギーが少ない状態で、様々な葛藤や問題があってエネルギーのルート(ヨガ的に言うナディ)が詰まった状態で生活していましたのでエネルギー枯渇状態だったこともあります。ヨガを始める前は旅行などでエネルギーチャージをしていましたが、ヨガを始めてから体の各所のエネルギーの詰まりが少しづつ取れてきてエネルギーが通るようになってきました。<br /> <br /> それで多少はエネルギーが入るようになったのですが、根本的に変わったのはクンダリーニの覚醒です。<br /> 最初は下半身が熱くなってエネルギーが高まりました。これだけでかなりエネルギーが高まりました。ヨーガ的に言うところのマニプラ・チャクラが優勢の頃です。<br /> <br /> 次に胸が引いてエネルギーの質が変わりました。ヨーガ的にいうとアナハタ・チャクラが優勢になりました。<br /> その後、頭のあたりまでエネルギーが通ってきました。<br /> <br /> この時点までは下の方のエネルギー、いわゆる地のエネルギーを使っていました。<br /> <br /> しかし、頭までエネルギーが通った後、少しだけですが天のエネルギーを使えるようになってきました。<br /> 地のエネルギーのように本格的な覚醒はしていないものの、天のエネルギーを少しづつ体にまで下ろしてエネルギーを満たせるようになってきて、体のエネルギーの質が変わってきています。<br /> <br /> 色々と「愛」だとか「平和」だとか言われていますけど、結局のところ、エネルギーが高まればほとんどは解決するのかなあ... という気も最近してきています。<br /> <br /> 物理的世界でも世界の抗争の原因はオイルなどのエネルギーの奪い合いでしょう。<br /> <br /> 精神的にも他人のエネルギーを奪ったり奪われたりという争奪戦が繰り広げられていますけど、世界の構図も人間の構図も一緒なのかなあ... という気も致します。結局はエネルギー問題なのかな、と。<br /> <br /> 人間のエネルギーも他人から奪ったりしている人、いわゆるエネルギー・ヴァンパイアもいますけど、世界にも他人のエネルギーを奪っている人がいますよね。<br /> <br /> 本当はエネルギーなんてそこらに溢れていて奪う必要なんてない... というところに状態が進んでいけば世界の抗争も人間の争いもほとんど解決するような気が致します。<br /> <br /> Sun, 06 Oct 2019 00:00:00 +0900 テレパシーとオーラ融合による想念受信との違い https://w-jp.net/2019/1685/ <br /> 先日 オーラの交換について書きましたが、オーラ交換をするとオーラに含まれている情報が伝わってきます。一方で、テレパシーによるコミュニケーションもあります。以前、テレパシーについても少し書きました。<br /> <br /> ■オーラ交換(融合)の場合<br /> 自分が意図的にエーテルの筋(オーラの筋)を伸ばしていって情報交換する場合もあれば、他人のオーラと混ざって情報が伝わってくる場合もあります。無意識に他人のオーラと混ざる場合もありますし、他人が意図的にこちらに接触してくる時にこちらが気付く場合もあります。<br /> <br /> 一番単純な場合では、浮いているオーラと自分のオーラが接触する場合です。この場合、自分の体のちょっと外側、体の周囲の50cm~1mほど離れたあたりでオーラの接触があって、そこから情報が伝わってきます。<br /> <br /> 今日の瞑想中にあったことで言いますと、頭のちょっと上、50cm前後離れたところでフワフワっとエネルギーの反応があって思考といいますか想念が化学反応のように出てきて、情報が入ってきました。その想念はおそらくそこらへんの空中に浮いてプカプカとどこかから飛んできたものですので、情報的はとりとめのない単なる雑念だったのですが、まあ、今日はそんなオーラの雑念を受け取りました。<br /> <br /> ■テレパシーの場合<br /> 一方で、今日の瞑想中に首の後ろあたりで直接的な想念も受信しました。これは、感じが違います。いきなり想念が出てくる感じです。<br /> <br /> 上記のオーラ交換(融合)の場合は科学反応みたいなザワザワした感覚があって、それは一瞬の間ですがその感覚があった後に状態が落ち着いて、続いてすぐに情報が伝わってきます。一方、こちらのテレパシーの場合は何もない空間にいきなり声が浮き出てくる感覚です。音の出ていなかったスピーカーがいきなり振動して声が聞こえるのに似ています。その受信機は、もしかしたら首の後ろにあるのかもしれません。<br /> <br /> 喉のヴィシュッダ・チャクラは声だけでなく耳の方も司っていてテレパシーの送受信の機能があると言われていますけど、今回の場合、喉からはちょっとだけ離れてはいますが、オーラは体と重なっているとはいえ少しズレたりすることもありますのでこのくらいは誤差かもしれませんし、あるいは、ちゃんとその場所に何かがあるのかもしれません。どちらにせよ、首の後ろの少し上のあたりで想念を受信したのですが、それは体の外側で感じるものとは別物でした。<br /> <br /> その首の後ろは体の内側ではなないのですが、オーラ的に言えばオーラの外縁部ではありませんのでオーラ的には内側と言えると思います。オーラの外縁部から情報が伝わってくるという感じではありませんでした。<br /> <br /> もともと昔から悪い予感や見えない存在からの何かの忠告がありそうな時には喉仏のあたりがグリグリとしていましたので、喉仏には何かがあって、そこがヴィシュッダ・チャクラかなあ、と前から思っていたのですが、今日の瞑想でテレパシーっぽいものを受信したのは喉仏ではなく首の後ろでした。何か違いがあるのでしょうか。<br /> <br /> テレパシー受信した時、その直前と直後はラジオのノイズのようにザワザワした感じで音量ONでボリューム有りの状態で、声になって聞こえている間だけ意味のある日本語で聞こえました。前後が音量ゼロだったわけではなく、前後共に音量があって、ラジオで言うところのチューニングされている状態のノイズから急にチューニングが合って音量がゼロに近づくと同時に声が聞こえ始めて、声が終わるとまたチューニングが外れて音量はそのままでラジオのようにノイズが聞こえているような感じでした。ノイズと言うのは比喩で、ラジオのようにうるさい感じではなくて、ノイズはノイズですけれども意味のないザーーと言う感じのノイズになると言うことです。<br /> <br /> ナーダ音の高周波がテレパシーになるのかどうか・・・? は、そこまで気付きませんでした。一部のスピリチュアルやヨーガではナーダ音がそのうち意味のある声として聞こえてくると言われたりしていますけど、今回のは急でしたのでその変化までは気付けませんでした。<br /> <br /> ■宇宙人のテクノロジーによるテレパシー<br /> 一方で、子供の頃に宇宙船の宇宙人とテレパシーをした時は、おそらくはそれは能力というよりも宇宙人のテクノロジーでそういう機械があって、その機械を使えば誰でもテレパシーできるのだとは思いますが、その場合は頭の上方、斜め上の50cm前後から響いて、指向性スピーカーのように内なる声として、上から聞こえる声として聞こえていましたね。これは、能力で行うテレパシーともまた違ったものかもしれません。想念的なものを指向性で飛ばしているような気がいたします。だから、上から下にテレパシーが聞こえるのだと思いますし、範囲も半径1mくらいにいれば他人でもそのテレパシーを盗み聞きできてしまいますので、使い方に制限のあるテレパシーの技術なんだなあ、と思います。これはテレパシーというよりも想念を使った指向性スピーカーと思った方が良さそうですね。<br /> <br /> <br /> 宇宙人のテクノロジーはもはや検証できませんのでとりあえず置いておくとして、オーラの融合はたぶんそんな感じかなあ、と思っていて、これからもっと謎解きしたいのは首の後ろあたりで感じたテレパシーですね。オーラの交換によるテレパシーですと毎回情報交換するのも大変ですし、情報の伝達も一方的になりますし、そもそもオーラ交換なんてそう度々したくないですし。単に感覚的なもの・振動的なものだけでテレパシーできた方がオーラ交換するよりも健全な気も致します。<br /> <br /> 首の後ろだけでなく後頭部のあたりで感じることもありますので、これは何なのかなぁ、と。そういう違いについても少し観察をしてゆきます。<br /> <br /> <br /> Sun, 06 Oct 2019 00:00:00 +0900 マインドフルネスな欧米企業と頭の回転を重視する日本企業の違い https://w-jp.net/2019/1684/ <br /> マインドフルネスな欧米企業には例えばグーグルなどがありますが、以下のように業務の効率を最大化しています。<br /> <br /> <br /> ・雑念を取り払い、彷彿状態(トランス状態)を作り出す。<br /> ・インプットを「ありのまま」(雑念に囚われる事なく)受け取ります。<br /> ・必要な事項のみを(雑念に囚われることなく)高速に処理(論理思考)します。<br /> ・アウトプットを「ありのまま」(雑念に囚われる事なく)作成・提供します。<br /> ・「思考していない状態」(マインドフルネス)を受け入れている。オンとオフの切り替えがうまい。<br /> ・行動よりも結果で評価。<br /> <br /> <br /> よって、グーグルでは仕事は「とても楽しい」ものになります。<br /> <br /> 一方、多くの日本企業の場合は、以下のようになるでしょう。<br /> <br /> <br /> ・雑念の溢れる中で必要な事のみをピックアップする。例えば居酒屋などで世間話を挟みながら必要な情報を引き出す。<br /> ・インプット(見聞きする事)に雑念が含まれる。思い込みや自分の拘りなどで入力データが曇る。<br /> ・雑念が論理思考を邪魔して正しい論旨を組み立てることに時間がかかる。雑念で論理が捻じ曲げられる場合すらある。<br /> ・アウトプットに雑念が含まれる。思い込みや自分の拘りが含まれる。出力データが曇る。<br /> ・「思考していない状態」(マインドフルネス)は「働いていない」「怠けている」と判断されて評価が下がる。オンとオフの切り替えが下手。常に手を動かしていないと評価が下がる。<br /> ・無駄な頭の回転だったとしても動き続けることが評価される。結果での評価ではなく行動自体が評価される。結果主義(結果を評価する主義)ではなく努力評価主義(努力自体を評価する主義)。<br /> ・そもそもマインドフルネスができないし、何なのか分かっていない。自分の思考や会話を止めたら雑念が止めどなく出てくるので思考を途切れさせるのを嫌がる。よって、マインドフルネスができる人のことを嫌う。思考を次々に出せる人こそが頭が良いと勘違いしている。<br /> ・結果、日本企業が益々マインドフルネスから遠ざかる。<br /> ・であるから、日本企業の業務効率は改善しない。<br /> <br /> <br /> ちょっと極端なこともありますし、そうでない会社も色々とあるとは思いますが、私の知っている限りではこんな感じだと思います。<br /> <br /> 日本企業ではマインドフルネスはいわば「敵」ですので、マインドフルネスを妨げるような行為、例えば騒音ですとか大声を出すとか、そういう行為も思いっきり許容されます。<br /> <br /> 悲しいくらい日本企業はマインドフルネス的ではありませんね。<br /> <br /> ■創造性とマインドフルネス<br /> 他から持ってきた理屈を論理思考することと、新しい事を創造するのはやり方が根本的に違います。<br /> <br /> <br /> ・他から持ってきた理屈を論理思考することは、一見すると「知識があって」「頭が良い」「頭の回転が良い」とみなされますが、それだけです。やがてはAIに取って代わられるかもしれません。日本企業で評価される頭の良さとはこれです。頭や口をフル回転させてグルグルと思考を動かし続ければ続けるほど「頭が良い」とみなされます。<br /> ・新しい事を創造するには、一旦「停止」する事が必要です。それはマインドフルネスです。思考を停止させ、自分の奥底から「出てくる」瞬間を「待つ」必要があります。その時、「何もしていない」期間が必要なのです。<br /> <br /> <br /> 後者は、時々異論があるかもしれません。「いや、世の中に出ている新しいものというのは、実際には昔のものの組み合わせに過ぎない」と。確かにそれは基本としてはその通りではあるのですが、2つのものが「組み合わさる」時は、組み合わせ方にセンスがいるわけで、そのセンスが生まれ出る根本のところがマインドフルネスなわけです。ロジックで生み出そうとする場合は組み合わせの何千もの組み合わせの中から最適なものを選ばなければなりませんが、マインドフルネスで答えを「内」から「出てくる」ことによりロジックを超えたところで「創造」することができます。<br /> <br /> ここで色々と誤解があって、新製品を作った時の組み合わせ方すらも既に世の中にある応用だとすればそれはここで言う「創造」ではなく単なるロジックの組み合わせということになります。これは、後から見ると全てこう見える、ということもあります。後から見て分析をしたらその組み合わせ方は他の何かの応用でしかない、ということになることがほとんどです。ですが、ここでいう創造とはそういうことではなく、あらかじめ勉強したり知ることなしに「内」から「浮かび上がってくる」ものを意味しているのです。<br /> <br /> 多くの場合、組み合わせすらもノウハウ化されていて発明のノウハウ化などもされており、「組み合わさり方」すらも既に世の中にあるのであれば、そのノウハウを使って作った新製品や新サービスは一見すると新しい創造ですが、本当は創造ではなくて組み合わせて見た目を変えているだけです。まあ、一般的にはそれでも創造と言いますし商売では十分かもしれません。<br /> <br /> マインドフルネス的な「創造」とは、もっと経験的で彷彿的なものです。結果としては似たようなものができてしまうかもしれませんが、全く新しいものができるかもしれません。その、創造の幅の広さがマインドフルネス的な創造のメリットです。<br /> <br /> グーグルがマインドフルネスで新しい事を創造しようとしているのはそのレベルで何かを作ろうとしているのであって、組み合わせで見た目が新しいものを作り出すのであれば他の企業がいくらでもやれると思います。そのあたりが一流と二流の違いという事でしょうか・・・。<br /> <br /> その筋の一流は瞑想をしてマインドフルネスを理解しますが、三流は瞑想をしないしマインドフルネスもよく分からないのだと思います。二流は何となく分かっているという人でしょうかね。<br /> <br /> どちらにせよ、日本でマインドフルネスは当分理解されないでしょうし、やろうとすら思わないでしょう。日本企業の闇は深過ぎます。もう1世代変われば随分と違ってくるでしょうが。<br /> <br /> 日本の場合、アイデアは自分で浮かぶものではなくて奪うものになっているような気がいたします。以前少し会議のアイデアとオーラの関係について書きましたけど、本来、同レベルの人が集う会議で浮かび上がってくるアイデアに自分も相手もないのです。日本では飲み会などで相手のオーラをふにゃふにゃにして引き出してアイデアを奪うようなことが日常茶飯事で行われているような気が致します。そんな状況が続くとすれば今後も日本の状況はそうそう変わらないでしょうね。<br /> <br /> Sat, 05 Oct 2019 00:00:00 +0900 シュタイナーの説く「境域の守護者」 https://w-jp.net/2019/1683/ <br /> シュタイナーは以下のように述べています。<br /> <br /> 高次の世界に向かって上昇するとき、私たちは「境域の守護者 Huter der Schwelle」と出会うという重要な体験をします。境域の守護者は1人ではなく、実際には「境域の小守護者」と「境域の大守護者」の2人がいます。「いかにして高次の世界を認識するか(ルドルフ シュタイナー 著)」<br /> <br /> 最初に遭遇する「境域の小守護者」について、以下のように描写しています。<br /> <br /> 恐ろしい幽霊のような存在が学徒の前に立っています。「いかにして高次の世界を認識するか(ルドルフ シュタイナー 著)」<br /> <br /> これは、先日の瞑想の中で見たぞっとする小悪魔のことかもしれません。同書の説明は以下のように続きます。<br /> <br /> どんなに恐ろしい姿をしているとしても、それは学徒自身の過去の人生の結果であり、学徒の外で独立した生活を営むようになった、学徒本人の特性なのです。(中略)このように、自分自身が霊的な存在を生み出した、と初めて感じることこそが、すでに学徒にとって意味深い体験になります。このとき学徒はまったく恐怖を抱かないで、恐ろしい姿を見ることに耐えなければなりません。「いかにして高次の世界を認識するか(ルドルフ シュタイナー 著)」<br /> <br /> そして、この状態で行う活動は全て、個人的なものだけでなく家族や民族や人種にまで影響を及ぼすとのことです。ですので、この状態に達したら民族や人種の使命のために働くべきだ、とも述べられています。そして、以下のような警告が記されています。<br /> <br /> 目の前に広がる暗闇を自分自身で照らし出さなくてはならない、ということを理解するまで、あなたは私の領域を超えてはなりません。(中略)これまであなたが頼りにしてきた、導き手たちのランプは、これから先の未来においては存在しないのです。「いかにして高次の世界を認識するか(ルドルフ シュタイナー 著)」<br /> <br /> これらは最初読んだ時は単なる比喩表現かと思って流して読んでいたのですが、改めて読み返してみると、先日見た小悪魔に通じるものがあって興味深いです。<br /> <br /> 私の場合は、これが見えたかと思ったらすぐに消えてしまったので、超えたのか何なのかはいまいちよくはわかりませんが。すぐに消えてしまったということは通って良いということだと理解して良いのかどうか。どうでしょうかね。<br /> <br /> このあたりは様子見です。<br /> <br /> Thu, 03 Oct 2019 00:00:00 +0900 Youtubeで見たスピリチュアルなスクール https://w-jp.net/2019/1679/ <br /> とあるスピリチュアルなスクールの映像をYoutubeで見ていて、「ふ〜ん。そんなに遠くもないし、通ってみるのもいいかもね〜。でもお高そう」とか思っていたら、急にその映像のイメージと本人の声が頭の中に現れて、「え〜? 貴方、来る必要ないじゃない。べつに来ても良いですけど。(来るものは拒んでいないので)」みたいなかなりリアルなテレパシーが伝わってきました。<br /> <br /> さすがこういうスクールしていると普通にテレパシーで伝えてきたりするのですね・・・。受講候補生まで感知するとは。<br /> <br /> ただの白昼夢かもしれませんけど、本人の声と瓜二つでYoutubeの感じと凄く似ていたので、可能性としては本当に本人(おそらくそうかな?)か、あるいは内なるガイド・守護霊がそれっぽいイメージを使って伝えてきたのかもしれません。<br /> <br /> まあ、何となく言わんとしていることは分かりましたので、(今のところ)通うことはないかな。<br /> <br /> Mon, 30 Sep 2019 00:00:00 +0900 魂(幽体)がそのまま転生する場合と、一旦グループソウル(類魂)と一体になってから分霊を作って転生する場合がある https://w-jp.net/2019/1677/ <br /> 先日の「死んだらどうなるのか?」と「魂と性別とLGBT 」のお話の続きです。<br /> <br /> 先日のお話は死んだらどうなって、霊体が結合したり分霊になったりするお話ですが、それとは別に、幽体の魂がそのまま転生する場合もあります。と言いますが、それが大多数です。<br /> <br /> カウントの仕方にもよるのですが、赤ちゃんの生まれる数の割合で言いますと幽体がそのまま(結合・分霊というプロセスを経ずに)転生する場合の方が遥かに多いように思います。残りは残りは前記のように一旦グループソウルと融合してから分霊になって再度生まれる、とかその他の場合ですね。<br /> <br /> ですから、死んだ後の魂がどうなるのかは諸説あるわけです。転生があるのかないのか? というお話も、あるようでいてないような・・・。全てはものの見方次第です。<br /> <br /> ・幽体がそのまま転生する場合:輪廻転生そのものですね。これが大多数です。<br /> ・幽体と魂(霊体)が一旦グループソウルと融合してから分霊を作って転生する場合:一旦「個」がなくなるので、これを輪廻転生と呼ぶのかは微妙なところです。これは少数のパターンです。<br /> <br /> 発達した魂ほど後者のパターンで一旦グループソウルと一体になってから転生しているような気が致します。人間としての人生にどっぷり浸かっているほど前者のパターンで幽体のまま(結合・分霊というプロセスを経ずに)転生しているような気が致します。<br /> <br /> 魂(霊体)はグループソウルとしての意識もあって、グループソウルの意識は人間の意識を拡大したものですので、それが人間相当だとするとグループソウルが転生を繰り返している、という見方もできます。グループソウルの一部が転生を繰り返して、分霊が1回だけでなく複数回転生してからグループソウルに帰る感じですね。分霊が単体で転生を繰り返すのは何十回やもっと長いこともあるようです。これは流石に把握しきれませんけど。<br /> <br /> 夢で見たここ1,000年くらいのグループソウルの記憶に基づいて言いますと、同じ意識を持った例が度々記憶の各所で出会っていますので、きっと少なくともそのくらいは個別の魂が転生を繰り返すのかな、とも思います。<br /> <br /> 一方で、かなり発達した霊は目的別にグループソウルから分離して各個の使命を果たし、終わったらグループソウルに戻ったりしているようです。<br /> <br /> Sun, 29 Sep 2019 00:00:00 +0900 カタカムナ的な雑念の停止方法 https://w-jp.net/2019/1673/ <br /> オリジナルの記載は眠る時の工夫についてですが、起きている状態で似た仕草として「目を上に向ける」をしただけで簡単に雑念が停止しました。<br /> <br /> (前略)・・・これによって眼球が自然に上方に回り、思考作用が停止状態となる。「カタカムナの道(関川 二郎 著)」<br /> <br /> この仕草、まるでクリヤ・ヨガのババジの肖像画を思い出します。<br /> <br /> <br /> 「Kriya yoga Darshan(Swami Shankarananda Giri著)」より<br /> <br /> クリヤ・ヨガと言えばケチャリ・ムドラですが、私は舌は届かないもののなんとなく舌を上に上げてみましたが、舌を動かすだけでは雑念とは関係ないようです。一方で、眼球を上に上げるだけで雑念が止まります。<br /> <br /> これは、意外に使えます。盲点でした。あまりこんなことしないですからね・・・。他の人も同様にして雑念が止まるかどうかは知りませんが。<br /> <br /> カタカムナ的には眼球が上がるのは結論であって意識的にやらないようですけど、まあ、それはそれとして。<br /> <br /> この仕草は、星が見える場所で宇宙を眺める姿勢に似ていますね。<br /> <br /> 普段の生活で上を見ていると「あの人どうしたのだろう?」と思われてしまうかもしれないですけど。そこまで力一杯上を向かなくても、ちょっと上方向を向けるだけでも十分雑念は止まるような気が致します。<br /> <br /> これはいい情報でした。<br /> <br /> 最近は普段の生活で雑念にそれほど振り回されなくなったとはいえ、雑念を消す方法がいくつもあるに越したことはありません。<br /> <br /> 息に集中することでも雑念は消えますけど、目を上に向けるやり方の方がそれよりも簡単な気がしました。<br /> <br /> ただ、息に集中・観察した方がずっと瞑想っぽくなる感じではありますが。私の場合、息に集中する場合は心臓あたりの胸の動き全体に意識を合わせますので、そのままアナハタへの瞑想に繋がるので息に集中・観察した方が瞑想の時は良さそうです。一方で、瞑想中以外の場合などで単純に思考をすぐに止めたい場合は上を向く方法が良さそうです。<br /> <br /> <br /> <br /> Thu, 26 Sep 2019 00:00:00 +0900 トニー・パーソンズの悟り https://w-jp.net/2019/1672/ <br /> 私はこの人は知りませんでしたがたまたま図書館の関連図書リストに表示が出たので借りてざっと読んでみました。<br /> <br /> この人の悟りの経験は公園で起こったと記されています。<br /> <br /> 歩きながら、起こるか起こらないかわからない未来の出来事に対する期待で頭が完全に占領されていることに気がついた。(中略)自分が歩くのを観察している自分から、歩きがただあるということへの移行が起こった。(中略)ありとあらゆるものから時間がなくなり、私はもう存在していなかった。私は消え、経験する者はいなくなっていた。(中略)いついかなる場所でも、私は静寂、無条件の愛、一元性(ワンネス)に完全に包まれ、抱擁されている。「オープン・シークレット(トニー・パーソンズ 著)」<br /> <br /> これ、アナハタ優勢になって少し後に記したこの記事「雑念が減り、『いま』に生きる」の内容に似ていますね。<br /> <br /> 「自分が歩くのを観察している自分」とは文字通りでは解釈が困難ですが、その前後の文脈を読み取ると次のように解釈できます。<br /> <br /> ・最初は、雑念が多い状態だった。<br /> ・雑念が消えたとは明記してありませんが、雑念が消えたと解釈できます。雑念が消える前が「自分が歩くのを観察している自分」だとすれば、雑念が消えた後が「歩きがただあるということ」の状態であり、前者から後者への移行がこの公園で起こったと解釈できます。<br /> ・その結果、「時間がなくなり」、「私はもう存在しなくなる」「私は消え、経験する者がいなくなる」という状態になった。<br /> <br /> 本人は「何もしていないのに起きた」と記していますが、私には彼が偶然にヴィパッサナー瞑想に入ったように見えます。であれば、何もしていないのではなく、文字通りしっかり「観察」をしたのだと思います。本人は修行とかをしなくていきなりその状態に入れたので修行方法とかわからないようですけど。<br /> <br /> これは、本人が「勝手に自動的に起きた」と思っているだけで、物凄く合理的な話だと私なんかは思います。修行方法もきちんとありますし。<br /> <br /> 一昔前であればこのくらいでも「悟りを開いた」とか言って団体作ったりセミナーしたりしていたのかもしれないですけど、最近ならこのくらいは割と普通に達成できる段階のような気が致します。悟りにも色々な段階がありますね。<br /> <br /> 雑念のうち「過去」に関するものは自分のカルマというかサムスカーラという「印象」によって何度も呼び起こされますし、「未来」に関する雑念は想像で期待なんかをして頭の中で想念が何度も繰り返されるわけです。この二つを止めれば「いま」に生きて同様の状態になるのは明らかです。ヴィパッサナー的なお話でもありますし、ヨーガのお話でもあります。<br /> <br /> まあ、何度か詳しく書いた気がしますので繰り返しませんけど。<br /> <br /> <br /> Thu, 26 Sep 2019 00:00:00 +0900 魂と性別とLGBT https://w-jp.net/2019/1669/ <br /> 魂には性別はありませんが、幽体は肉体がないだけで人間とほぼ同様ですので性別があります。<br /> <br /> ですので、幽体のコミュニティには人間の地上界の生活と同様の男女関係があります。<br /> 女性がご飯を作ったり旦那が寛いだり。女性たちが楽しそうに歓談したり。<br /> お金の煩わしさもありませんので、ある意味、理想的な社会とも言えます。<br /> ただ、本来は制限はないのですが、「思い込み」で制限を作っていたりします。<br /> <br /> 性別もその制限だ・・・ とまでは言いませんが、性別というのは、ある意味、幽体にとってみれば「思い込み」みたいなものになります。<br /> <br /> 幽体の上の霊界などに行くとグループソウル(類魂)の概念があって、魂がグループソウルと一旦溶け合ってから再度分霊を作る、みたいなことになりますが、幽体の段階では基本的にそれぞれの幽体は個別の幽体としての体を保持しており、幽体同士が結合したり分霊をしたり、ということはあまりありません。意識的にあるいは無意識的に結合や分霊が行われたりもしますが、それは割合としては少ないように思います。<br /> <br /> 魂が霊界のレベルでグループソウルと溶け合う時、幽体としての記憶もある程度は保持されます。ですが、分離した時は、幽体の時の体もそれぞれの割合で分割されます。<br /> <br /> これは、幽体のレベルでも実は結合や分霊ということは同様に行われるのですが、霊界のレベルに意識が達しないとそのような選択肢がなかなか生じないからのようです。<br /> <br /> このあたり、理解がこんがらがるかもしれませんが、意識が幽体のレベルでは結合や分離という概念がほとんど出てきません。というのも、幽体では「分離」の意識状態だからです。幽体の意識状態で結合・分離をするのと霊界で結合・分離をした時と「現象」としては同じなのですが、幽体の意識レベルではその選択肢が出てこないということです。<br /> <br /> 一方、意識が霊界のレベルになると結合や分離が自然に行われます。<br /> <br /> それは、例えるならば空中に浮かんでいる雲、あるいは、空中に浮かんでいる水の塊のようなものがグループソウルだとして、最初はそれと溶け合うのです。これが結合です。結合後は、個別の意識は一旦はなくなり、グループソウルの意識だけになります。その後、グループソウルとしての意思が働いて一部分を分離して分霊を作り、独立した意識体としての霊体・幽体を作り出します。<br /> <br /> この時、元になった幽体が男か女かで男女比が一旦は固定されます。<br /> <br /> 男女比が10:0や0:10ということはあまりないように思います。8:2ですとか2:8、あるいは6:4や5:5になるかもしれません。<br /> <br /> グループソウルが分霊を作り出すとき、「意図」が必ずあって、目的が設定されます。<br /> その目的に即して分霊が作られますので、男女比は色々なものになります。<br /> <br /> 生まれてきた時は前世での幽体の性質を受け継ぎますので、肉体として男か女かというお話に加えて、男の比率が高いか女の比率が高いかというお話が加わります。<br /> <br /> そして、生まれてきた目的がそこに重なります。<br /> <br /> 生まれてきた目的は色々ですが、どちらの性別がやり易いか? というお話がまずあります。その上で、現在の幽体の性質が関係してくるわけです。これは、色々なパターンが考えられます。<br /> <br /> ■幽体は男が優勢だが、女の性を学ぶために女性として生まれる場合。逆の場合も同様。<br /> この場合、生まれてから少女時代はきっと「男っぽい女の子」でしょう。ですが、女性の性を学ぶために「私は女なんだ」と「自覚」して女性を生きるかもしれませんし、そうではないかもしれません。最近ではLGBTとか言われていますように、この場合は「私って体は女性だけど実は男だ」と開き直るかもしれません。それが良いかどうかは本人の意図次第です。本人の生まれてきた目的が性別と関係なければそれはそれでいいかもしれませんが、女性の性を学ぶ筈だったのが開き直って学ぶのを辞めてしまったら人生失敗になるわけです。生まれてきた時に決めた目的がわからなければこのあたりの良し悪しはわかりませんし、生き方は自分が決めることですから他人がどうこういう必要もないのですが、本人のスピリットは本来の目的を達成したいと思っている筈です。<br /> <br /> 例えば、生まれた時は幽体は男が優勢でも、女性として生まれて女性の性を学ぶにつれて女性の性質が優勢になってきたりします。幽体の性質は意思で変えることができるようです。<br /> <br /> ■女として生まれたかったが、女として生まれると差別があるので仕方なく男として生まれる場合。<br /> 幽体の性質としては女ですが、この地球では女として生まれると出来ないことや、あるいは性的な虐待などが原因で男性を選ぶ場合があるようです。この場合はLGBTになったりならなかったり色々のようです。<br /> <br /> ■幽体の性質が男で、男を極めたい<br /> これは好きにしてくれればいいと思います。<br /> <br /> ■幽体の性質が女で、女性を極めたい<br /> これも素敵なことです。女神を目指しているのでしょう。<br /> <br /> ■性別のない状態<br /> LGBTなどにも性別がない分類がありますが、男女の性質が拮抗している場合はそのようになるかもしれません。<br /> 一方で、魂のレベルが上昇すると同様に性別がなくなってゆくように思います。<br /> <br /> とは言いましても、肉体を持って生まれているのですから性別は必ず付きまとうように思います。それが6:4なのか4:6なのかはともかく、魂として成熟すればするほど、肉体があるのだからとりあえず肉体の性別で生きよう、というところに落ち着いてゆく気が致します。<br /> <br /> と言いますのも、エネルギーの質は男女でやっぱり違うからです。<br /> <br /> 魂が性別を基本的には選びますので、その性で体験できることを学ぶのが基本だと思います。<br /> ただ、上記のようにその他の様々な障害によって違う性を選んだり、あるいは、生まれた時の性と生きる目的の性が異なっていたりします。<br /> <br /> ですから、最近のLGBTのお話はちょっと乱暴な気がしていまして、生まれた時に男が優勢な女の子がそのまま男が優勢でいいのかどうかと言ったら、それは本人の魂の目的を確認してみないと分からないわけです。人が迷いに迷って自分がLGBTだと選択して心が男の女を生きることを選んだとして、それが生まれた目的に反していなければそれは目的の障害にならない程度で自由意志の範疇になりますが、生まれてきた目的が違う性を体験して学ぶことだったのにそれを忘れて学ぶことを中止してしまったら魂の目的は達成できなくなります。最近のLGBTは、どうも、生まれてきた時の性質でその人の心の性を判断しているような気が致しますが、性の選択はそんな単純なものではないと思うのです。<br /> <br /> そのように、異なる性を学ぶ筈だったのにLGBTになってしまった人も一定数いるように思います。これは、自分の性に対する無自覚から来るものです。周囲の人々が「君は女っぽい」とか「君は男っぽい」とか言うのも、本来の目的から目をそらせて忘れさせてしまうように思います。本質から言えば、「女っぽい? だからどうした!」と言うことです。同様に「男っぽい? だからどうした!」と言うことです。<br /> <br /> 一方で、性的虐待や仕事を極めるためなどに性を選んでLGBTになる人もいるような気が致します。これは幽体のレベルで前世から問題を抱え込んで問題を引き継いでいたりもするようですし、あらかじめ未来を予知して、未来の障害を避けるためにあえて違った性を選ぶ場合もあるようです。どのような理由で性を選択したのかはなかなか個人的なお話になりますので難しいところがあります。女性ですと社会が生き辛かったり性的虐待があったりする世の中ですので、LGBTで問題を避けるというのはありなのかもしれないとも思います。<br /> <br /> 女性で綺麗な顔立ちで楽に生きたい、と言う欲求はある程度あって、そのように容姿や性別を選ぶ人もいるようです。まあ、それは好きにすればいいと思います。<br /> <br /> 幽体のレベルでは、前世で男性あるいは女性を生きていないのであれば基本的に前世の性別の性質を引き継ぐように思います。<br /> <br /> 一方で、霊体のレベルで結合・分離をした場合は男性と女性が複雑に絡み合うので、性別がよく分からない場合も多いように思いますし、性別があったとしても6:4とか7:3とかになると思います。<br /> <br /> 基本は肉体の性別を生きるのがいいとは思いますが、この世界は複雑ですから、LGBTみたいなのもありかなと思っております。ただし、魂の目的に反していない限りにおいて、です。<br /> <br /> <br /> 続き: 魂(幽体)がそのまま転生する場合と、一旦グループソウル(類魂)と一体になってから分霊を作って転生する場合がある<br /> <br /> <br /> Tue, 24 Sep 2019 00:00:00 +0900 高次のスピリットは人間の悩みはよくわからない https://w-jp.net/2019/1668/ <br /> 先日のオーラ原理主義のお話の続きです。<br /> <br /> これも度々聞くことですけど、まあ、そういうことです。<br /> <br /> 神社とかもそうですね。神社には色々な神様が祀られていますけど、高級な神様ほど人間の悩みなんてわかりません。人間の魂が祀られている神社であれば、まあ、多少はわかりますけど、時代が違いますから最近の悩みはよく分からない気がします。たま〜にそうでない神様もいるみたいですけど。<br /> <br /> 位が高い神様であるほど大きな願いを叶えようとしています。神社に行ったら「人類の平和」「世界平和」「家族が健康に」とか、大きな願いをすると良いと思います。<br /> <br /> 低い神様は人間的な問題を解決してくれることもありますが、人間らしく見返りを要求してきます。その要求に応えなかったりすると呪われたりしますから簡単に神社でお願いなんてしない方がいいですね。お稲荷さんとかは人間と獣が混ざったような存在みたいですから、これにもあんまりお願いとかしない方がいいみたいですね。天狗とかもいますけど、天狗も修験道の行者とカラスとか何かの獣が混ざったような存在ですから、まあ、普通の人はあんまり関わり合いにならない方がいいと思います。色々と面倒な事があると思います。<br /> <br /> 神様とか言っても、基本は人間の付き合いとそうそう変わらないと思います。<br /> <br /> 頼りにすべきなのは高次のスピリットなわけですが、まあ、悩みを解消してもらうというよりはエネルギー的な助けになる事が多いように思います。細かなことは人間の方がわかりますから好きにすればいいと思います。<br /> <br /> エネルギーが高まればポジティブになりますし行動的にもなります。問題も解決して行くでしょう。<br /> <br /> まあ、基本はこんなところで、度々聞くことではありますが、今回はちょっとした神様の小話を一つ。<br /> <br /> 神様や高次のスピリットは人間の悩みがよく分からないわけですけど、人間の悩みを知るために次元を落として転生する事があります。<br /> <br /> その時は、高次の部分を切り離して人間として生まれるわけですが、まあ、そうは言いましても元は神様なわけですから多少はその名残があるわけです。オーラの感じですとか。<br /> <br /> そして、先日書いたようにオーラの波動を「知りたい事」に合わせて調整していくわけですが、まあ、人間の事がよく分からない神様は最初は「人間としては比較的高い波動」から始めるわけです。ですが、もちろん神様にとってはそれは「低い波動」なわけです。それでも、人間としては高い波動ということにはなります。<br /> <br /> あとはどこまで波動を下げるか? という問題ですが、あまり下げすぎると分離してしまって元のスピリットに戻る事ができないようなので、戻る事ができるギリギリのところまで下降します。潜水艦で最高深度まで潜って水面にまで戻ってくるようなイメージですね。最初は教師とか創造的な仕事で地球に慣れて、そのうち、いわゆる「阿修羅」とかについて学ぶためにもっと下降することもあるようです。戦いの神なんていう表現もありますけど、全部とは言いませんけどこうやって下降していった神のスピリットだったりするわけです。<br /> <br /> 現代で言いますと、悩んでいる「赤いオーラ」もその種の人だったりする事があるわけです。これは先日書いた通りではありますけど。<br /> <br /> ですから、スピリチュアルな人はオーラの色で他人をすぐ判断したがる人がたまにいますけど、それが意図通りなのかどうかは本人のその人生での計画を知らないとオーラを見ただけでは分からないという事ですね。<br /> <br /> 人生は「失敗」がつきもので、計画内の失敗と計画外の失敗があって、計画内の失敗は問題ないわけです。<br /> <br /> <br /> Tue, 24 Sep 2019 00:00:00 +0900 逆卍(万字)っぽい渦が回転している夢を見た https://w-jp.net/2019/1665/ <br /> 最初は他愛のない夢でした。登場人物は私以外に3〜4人だったかと思います。 私が寝転んでいる前で他の人たちが少しいがみあって何か騒いでいるような状況でしたが私は最初は無視して寝ていました。でも、そのうち私が「何だか目障りだなあ」と思い始めたらそれがその人に伝わったのか、急に私に近づいて威嚇してきたのです。ここまでは視点は寝ている私の主観でした。<br /> <br /> その人が私の近くに来た時、体が接近してきたのでちょっと驚きました。すると、急に遠くの方からズゴゴゴゴという音というか響く低い声で「オオオオーーーイ」とどこかのお寺の住職か修行僧っぽい人かあるいは仏教系の世間慣れしてる神様に呼ばれた気がして、何だろう? と思った瞬間に視点が主観から2人を見下ろして俯瞰する位置のバードビューにググっと切り替わって、そうかと思ったらすぐさま2人の体が空中に持ち上げられて空高く浮かんで行きました。この時点で、その2人以外は視界から消えました。<br /> <br /> すると、2人を囲むくらいの大きさの球状の何かが同じところに出てきて、それが出てくると同時に2人の体の形は分解してなくなり、体は見分けがつかない状態になり、やがては球状のまばら模様の「何か」になりました。すると黄色い光を上に出し始めました。やがてそれが回転し出して、すぐにまばら模様から逆卍のようなシルエットになり、尖っている方を先頭にして右回り・時計回りで渦のように回転を始めたのです。<br /> <br /> 逆卍のようにカクカクしていなくて、根元の方が太くて先っぽが長い形でしたが、出ているところは4つだったと思いますので、割と逆卍に似ていますが、同じではありません。ですので、ヒトラーのハーケンクロイツ(鉤十字)ではありません。<br /> <br /> 何でしょうこれ??? 数分間、見ていたかと思います。そうして、やがて目が覚めました。<br /> <br /> ・・・まあ、夢ですけどね。 今のところ特に変化はなしです。<br /> <br /> 最初はチャクラ関係かなと思ってチャクラのヤントラを再確認してみましたが、特に該当なし。<br /> <br /> Wikipediaを見ますと、逆卍はヒトラー以外にも色々使われているのですね。<br /> <br /> ・ヒンドゥー教万字 (逆卍)<br /> ・ジャイナ教旗 (逆卍)<br /> ・フィンランド空軍の国籍識別標(1918年 - 1944年)  (逆卍)<br /> ・ラトビアの国籍識別標(1926年 - 1940年) (逆卍)<br /> <br /> 「かつては洋の東西を問わず幸運のシンボルとして用いられていた。」と書いてあります。いいですねえ。<br /> <br /> こういう夢を見ると、様々なところで使われているシンボルは実在的な効果があるのかなぁ、とも思えてきますね。<br /> <br /> まあ、そうは言いましてもこれは夢ですし、様子見です。<br /> <br /> <br /> Sun, 22 Sep 2019 00:00:00 +0900 オーラ原理主義と表面的なリーディングで誤解する人 https://w-jp.net/2019/1663/ <br /> 最近、この種の人々を見なくなりました。<br /> <br /> 私が近寄らなくなっただけで、どこかには生息しているのかもしれませんけど。20年くらい前はオーラ原理主義という、オーラの状態で他人を判断する人が多かったような気が致します。それと、スピリチュアル的なリーディング、いわゆる他人のオーラを読み取る技術ですけれども、ちょっと表面的なオーラを読み取って他人のことが分かったかのような気になってそれが他人の全てだと判断して断定的なカウンセリングあるいは聞いてもいない勝手な一方的な助言をしてマウンティング(自分の方が優位だとわからせるため意識的あるいは無意識的に発言すること)している人が時々いて、謝意していましたね。<br /> <br /> まあ、去年に1人そういう人を見かけたくらいでした。その人は生まれつきそのような神道系の家系で色々見えないものが見えたり守護霊の修験道のおっちゃん修行僧の霊が色々と指導していた感じでしたけど、ちょっと読み取るとそれが他人の全てだと判断する感じでしたね。どうやら、生まれつきそういう能力があると読み取った内容が全てだと思う傾向があるようにも思います。まあ、私に言わせれば、読み方が「浅い」んですけど、ちゃんと勉強していなくて生まれつきでやっている人とかはそれが全ての真実だと思ったりしてしまうのも仕方がない気も致します。<br /> <br /> オーラ原理主義も割と似たところがあって、「その時」の他人の状態で他人の全てを判断してしまう傾向がありますね。<br /> <br /> まあ、オーラというのは輝いた方がいいのはそりゃそうなのですけれども、生きていれば色々と葛藤やカルマを作ってしまったりしますので、ある時はそのカルマを返さなきゃならないのです。<br /> <br /> その返さなくてはならないカルマが「赤い」オーラに関連したことであるのならば、一時期あるいは長い期間になるかもしれませんけど、一旦はその「赤い」オーラにならないとその「学び」は終了しないわけです。そうして初めてカルマが解消される訳です。 ・・・・まあ、普通の解消の仕方のお話をしていますよ。 ですから、普通の生活で、社会常識的にと言いますか、道徳的に正しいと思われるやり方で成長をするのであれば、自分の奥底に眠っているカルマを再生させて解消するには一旦は色々なオーラを身に纏わなければならないのです。<br /> <br /> その学びの途中で「いい感じ」に「赤いオーラ」を身に纏っているのに、それを指摘して「貴方のオーラは赤い」「貴方のオーラは淀んでいる」とか言われても、「大きなお世話」な訳です(苦笑)<br /> <br /> まあ、それを本人が自覚しているかどうかは別ですよ。学びをする為にはある意味「無知」に一旦ならないと色々な愚かなことはできないことがありますので、人生の計画で「意図的に」無知になることをタイムライン上に意図している場合があります。ですから、計画通りにオーラの波動を落として「赤い」オーラになることもある訳です。<br /> <br /> そもそも、人間として生まれる為には高い波動のままでは3次元世界に適応できませんので、高い波動を持った魂が人間として生まれるということは、そもそもその時点で「低い波動を味わう」「低い波動を学ぶ」為に生まれてくることを選択している訳です。それなのに、今更「赤い波動がどうのこうの・・・」とか言われても、「だからどうした!」という感じである訳です。<br /> <br /> それとは別に、本当に人生の計画を踏み外して、計画では赤いオーラを持つ予定はなかったのに、しくじったり、ついうっかりした失敗が繰り返される、あるいは、本当の事故で赤いオーラを持ってしまうことがあります。そうであれば、確かにヒーラーなどの助けを借りて本来の道に戻る為に赤いオーラを早急に解消する必要があるかもしれません。<br /> <br /> こういうことは、結局はその人の人生の計画が分からなければ今の状態がどうなのか判断がつかない訳です。手っ取り早いのが守護霊に聞くことですね。守護霊もあまりわかっていなくてハイヤーセルフが決めている場合もありますけど、守護霊の方が少なくともリーディングの読み手よりは理解が深い筈ですから。<br /> <br /> 赤いオーラを解消する方法としては、普通の現実の問題解決方法と割と似ています。<br /> <br /> 問題を生じさせている原因を取り除いて、活力を与えて、本来の道へと歩ませれば良いわけです。<br /> <br /> 計画通りで赤いオーラになっている場合、まだまだ赤いオーラを強めて淀ませる計画なのにその途中でヒーラーが割り込んで直してしまったら、喜ばれるどころか計画が台無しになって逆に恨まれるかもしれません。回復期であればヒーラーが助けになるのはアリだと思います。上に書いたように計画外の問題であればヒーラーが普通に直せば良いと思います。<br /> <br /> 問題を生じさせるということは、理解を深めるということですから、理解を得た後は回復させれば良いのです。その為に必要なのは、基本的にはパワーです。赤いオーラになる為にもパワーが必要ですし、回復させる為にもパワーが必要です。<br /> <br /> オーラ原理主義が行き過ぎると他人の「汚れ」を極端に嫌う潔癖主義になってしまいますね。そして、ちょっとでも汚れた人を見つけると指摘してマウンティングすることで自分の立場を優位に保とうとして優越感に浸る・・・。 ほんと、めんどくさい人たちです(苦笑) 最近見なくなって、ほんとせいせいしてます。<br /> <br /> 表面的なリーディングで誤解する人も減っているのは、昔は生まれつきや独学の人が多かったように思いますが、最近はスピリチュアルな学校も増えたのが原因かもしれません。良いことですね。基本的なスピリチュアルなルールは割と一般常識に通じているものがありますが、スピリチュアルなルールが広まるにつれて、めんどくさい人が減るのは良い傾向だと思います。<br /> <br /> 上で「普通のカルマの返し方」と言及しましたけど、じゃあ、普通じゃないカルマの返し方はあるのか? と言いますと、いわゆるクリヤ・ヨガ的な考え方で、「パワー(エネルギー)を増やせば意識は向上する」という方法と、あとは、邪道なやり方で「オーラを切り離して他人に押し付ける(自分の学びはなくなる)」あるいは「オーラを切り離して消滅させる(学びはなくなる)」という方法があります。<br /> <br /> 厳密に言いますとパワーを上げるやり方は「普通のカルマの返し方を超高速に行う」ということではありますが。クリヤ・ヨガは割とユニークなアプローチを取っていて、葛藤の解消とか雑念とか日常生活を良くするなどの優先度が他のヨガの流派よりも優先度が低くて、クリヤ・ヨガ的には「エネルギーの増加がそれらのほとんどの問題を解消する」、というアプローチを取っているようです。ですから、カルマにしても、エネルギーを高めれば素早く解消できるわけです。<br /> <br /> オーラを切り離した後、それを誰かに押し付けるのはお勧めしませんけど、ヨーガで言う「火の儀式」(プージャ、真言宗で言うホーマ)でカルマのついたオーラを燃やしてしまうこともできます。<br /> <br /> 同時にそんなに沢山は学びができませんし、オーラはそこら中に浮いていて歩いているだけでも拾ってしまいますので、自分がフォーカスしている学びのテーマ以外は燃やしてしまっていいように思います。<br /> <br /> まあ、燃やす儀式もそんなにもできませんので、少なくともお祓いを(自宅でも)したり、以前書きましたように、周囲のオーラのケーブルを切るくらいはしたほうがいいと思います。<br /> <br /> このあたり、魂の遍歴によっても異なるかもしれませんね。下から上に上がる成長の人、つまりは虫や動物・獣から始まって餓鬼や阿修羅を終えて人間、そして更に上を目指す人は赤いオーラから高いオーラになるように歩んでいるわけです。一方で、元々が高い波動のスピリットで人間界を学ぶために波動を一旦落として地上に転生している人は、どの程度まで波動を落とすかによって学びが変わってくるわけです。割と高い波動で学ぶことを終えたら、次は、もっと波動を落として学ぼうとすることがあっても不思議ではないと思います。と言うか、実際、そのような人も多いように感じます。<br /> <br /> まあ、色々と書きましたけど、そのあたりまで読み取ってリーディングのカウンセリングするならともかく、その時点の瞬間のオーラや表面的な印象でカウンセリングしたところで相手のためにならないし、相談者が否定したとしたら以下のような誤解が生じるわけです。<br /> <br /> ・リーディングした人「この相談者は、自分を誤魔化している。私が読み取った内容は正しい。」<br /> ・リーディングされた人「このスピリチュアルカウンセラーは読み方が浅い。説明するのも面倒だから、もういいや」<br /> <br /> まあ、そうとすれば、カウンセリングなんてそうそうできないと思いますけどね。ある意味、カウンセリングできる人っていうのはその程度のレベルだとも言えます。かなり分かってくれば、段々とカウンセリングなんてできなくなる筈です。<br /> <br /> だって、究極的に言えば「何でもいい」のですからね。好きにすればいいのです。それでもカウンセリングするのであれば、前にも書きましたように、やはり主体は相談者であって人生を作るのは本人であるという基本に立った上で、本人が見えていない部分を補完するというコンサルタント的なところに落ち着くのではないでしょうか。<br /> <br /> こうなると、もはやスピリチュアルなのかコンサルタントなのかよくわからなくなってきますけどね。本当に優れたスピリチュアリストと優れたコンサルタントは割と似通っている気も致します。<br /> <br /> ですから、相手を指摘するだけ指摘してハイおしまい、みたいなスピリチュアルカウンセリングは微妙なわけです。指摘したとしても、「だからどうした!」という感じですよね。面白いだけで終わっていたらスピリチュアルは発展が止まると思います。きっとこれからのスピリチュアルはもっと実在的になっていく気が致します。<br /> <br /> 続き: 高次のスピリットは人間の悩みはよくわかりません<br /> <br /> <br /> <br /> Sat, 21 Sep 2019 00:00:00 +0900 オーラのケーブルを切る実例 https://w-jp.net/2019/1664/ <br /> 以前から何度かオーラのケーブルを切ると言うお話をしましたけど、最近の実例です。<br /> <br /> ・出かけた後、少し調子が悪いなと思って瞑想中に体の中を探っていたら、心臓あたりのアナハタに肉眼では見えないオーラの針のようなものが刺さっており、瞑想中に手のようなイメージでそれを引き抜いて捨てたら気分が回復した。どうやらその針からオーラのケーブルが伸びていて、エネルギーを奪っていた模様。ステルス性の高い半透明な針とケーブルですかね? いつついたのやら。恐ろしい。<br /> ・しばらくぶりの友人と昼食を食べて会食したら、その昔からの友人はどうやら問題を抱えているらしく、オーラのケーブルからエネルギーを抜かれてしまってぐったりしてしまいました。この場合はすぐにケーブルを切るわけにはいかないので困りますね。別れた後に切っておきましたけど。<br /> ・近所の学園祭に行ったら、バザーの本を手に取るタイミングが重なった学生さんがびっくりして、どうやらその人はオドオドして緊張してしまったらしく(思春期の子供にはありがち・・・)、その後すぐに上半身の緊張が高まった状態になったが、これは原因がわかっているので、その人から私に伸びているオーラのケーブルを切ることで数分で回復。<br /> <br /> Fri, 20 Sep 2019 00:00:00 +0900 夢で見たグループソウルの占い師たち https://w-jp.net/2019/1650/ <br /> 私のグループソウルには占い師が大勢いて、かなり昔の人生も一応記憶しています。<br /> <br /> ・・・・まあ、一般的にはこれは夢ということにしておきましょう。夢で見た内容をいくつか書いてみたいと思います。<br /> <br /> ■スペインの南東部の港町の女占い師<br /> 当時の地名までは覚えていないのですが、場所的にはムルシア(Murcia)かもう少し南寄りだったか、そのあたりだったと思います。小さな占い店をして生計を立てており、魔女につきものの「水晶球」で占っていました。おそらく中世の、15世紀前後のような気がいたします。大航海時代の初期のイメージです。<br /> <br /> 当時の水晶球は天然のものがそれなりの安い価格で出回っており、最初に使ったのは直径15cmくらいの天然の水晶球で、次に手に入れたグレードの高い水晶球は直径20~25cmくらいあったように思います。天然ものですので少しクラックが入っていましたが良い水晶球でした。<br /> <br /> 水晶球をギュッと覗き込んで透視をするのです。<br /> 水晶のかけらにわずかに反射した画像を読み取って占いをしていました。<br /> <br /> 占いをするときは、相談者に占いたい内容を強くイメージしてもらい、そのイメージを鍵にして内容を辿っていきます。<br /> <br /> 例えば、次のようなものを占いました。<br /> <br /> ・使いたいバッグが行方不明になったので、どこにあるのか探して欲しい。→ 家の裏にある蔵を開け、扉から一歩進んだところから左手を伸ばし、肩より少し上の高さに、他のもので隠れるようにして置いてある。→ これは晩年なのでかなりの確度で当てています。かなり自信があるので、間違っていたら次の鑑定は半額で良い、とまで提案しています。もちろん正解。相談者が扉を開けて発見するところまでリモートビューしていたようです。<br /> ・親戚の結婚について、将来を見て欲しい。→ 良くもなく悪くもなく、60%の相性。お互いに色々と不満はあるけれども、お互いにそれなりに尊重しあって生活するでしょう、という鑑定結果。これも水晶球を使いますが、リモートビューの応用で未来の姿も垣間見ることができたようです。実際の結婚式の状況や、家庭内での口喧嘩などをいくつか観察して、その結果として60%と出したようでした。<br /> <br /> この水晶球は今ではかなりの値段がつくと思います。どこに行ってしまったのかはわかりません。<br /> <br /> ■透視の限界を感じた占い師<br /> 先日 書いたのと同じ人生ですが、この時、透視の限界を感じました。<br /> <br /> この時できた透視は以下の二つです。<br /> <br /> ・リモートビュー的な過去と未来の透視(上の水晶球の透視と種類は同じ)<br /> ・幽体離脱して詳しく状況を確認する透視<br /> <br /> その人の過去と未来を見ることができて、それはまあ、当たるのですが、この人生で感じたのは「当たるからと言って、その人の人生が良くなるわけでもない」という理解でした。前者のリモートビューだけでも確度はかなり高くて当たりますし、後者の方法ですともっと詳細に「近づいて」観察できますので、より具体的な理解になります。<br /> <br /> 前者だけでも割と十分ですが、後者を組み合わせることで確度的にはかなりのものになったのですが、カウンセリングという観点からすると、当たるということ自体はさほど重要ではない・・・ という理解に落ち着きました。<br /> <br /> むしろ、当たるかどうかなんて関係なくて、本人の理解と生き方があれば、リモートビューで教えてあげるなんて人生の邪魔なだけでは・・・ という理解に達します。<br /> <br /> 占いに来る人は過去を言い当てられてはしゃいだりびっくりしたり・・・ それだけです。本気で人生を変えようという気がある人は占いなんて来ないようです。こちらはリモートビューして過去や未来のタイムラインを教えてあげたとしても、それが相談者の役に立っていないのでは、というのがこの人生での学びでした。<br /> <br /> 実際、今も思うのが、過去が見れても関係なく、未来が見れても関係なく、それよりも、もっと大切なものがあって、大切なものとは人生観とか本当の世界の姿とか心や本当の自己(アートマン)についての理解とか、そのあたりこそが重要なのであって、過去や未来を見てチートしてもさほど人間性の成長には役立たないのでは・・・ と思います。<br /> <br /> 実際のところ、自分がリモートビューの練習をしたりするのは自分の成長のためにはなりますけど、それはリモートビュー自身にさほど重要性はなくて、過程が重要なのだと思います。リモートビューで相談者の何かを当てても、それは、それほどの意味を持たないということです。<br /> <br /> であれば、大切なのはそんな能力に惑わされずに、瞑想するなり祈るなりスピリチュアルな勉強をするなりした方が良いと思うわけです。それが、グループソウルの過去の人生を思い出したことによるレッスンです。<br /> <br /> ■グループソウルと転生について<br /> グループソウルというのはお互いに人生を共有しているわけですけれども、死んだらそのままの魂が再度体に宿って転生する場合、すなわちその転生ではグループソウルとの合流がない場合と、グループソウルに一旦合流してから再度グループソウルから魂が分離して転生する場合とがありますので、私の一部といえばそうなのですがほんの一部のお話なのです。<br /> <br /> 私の今回の人生では能力は邪魔と判断されたようですので、少なくとも現時点までは能力とかは出てきていません。今のところ予定通りなわけです。<br /> <br /> それに、能力があると危険ですしね。私のグループソウルの1人はナチスに誘拐されて投獄され、拷問を受けながら戦局をリモートビューさせられていたようでしたし。 拷問も酷くて、逃げられないように頭に輪っかのようなものをかぶせて、輪っかと頭蓋骨をネジで何箇所もとめて鎖で繋がれました。寝る時に寝返りをうって頭を刺激すると痛くて飛び起きるほどの激痛があったようです。ほんと、人間って信じられないくらい残酷なことができるので、恐ろしいです。<br /> <br /> 今も、なまじ能力がある人は危険だと思います。世の中で有名になる能力者はそれほどでもないですけど、隠れている人の中には相当の能力者がいると思います。<br /> <br /> 自分の能力で見るよりも、天使などにお願いして必要なことだけ聞く方が安全と言えます。天使とチャネリングできるチャネラーが拷問を受けてチャネリングを強要されて何かの情報を引き出そうとしても天使はチャネラーを見捨てるでしょうし。そのあたり、天使はめちゃくちゃクールです。本人の能力ですと拷問に屈するかもしれませんが、能力を持たずに転生して、必要な時だけチャネリングした方が安全と言えます。 今の世の中、案外、まだ色々と危険なことがありますからね。<br /> <br /> この時の魂は今はグループソウルで分散されて、分霊がその時の拷問の苦痛をそれぞれ、いわゆるインナーチャイルドのように記憶を保持して癒しています。拷問されたことにより人間に極端な恨みを持つようになったらきっと復讐していたのだと思いますが、今はそんなことはなく、落ち着いているようです。能力者の恨みと復讐は、国の運命をも左右するくらいしつこく強力に復讐するでしょうし、リモートでやりますので出所が不明で解決が困難になったまま国が滅亡したり指導者が不慮の死を遂げることになりますので、能力者を拷問するなどして恨みを買わない方がいいと思いますけどね。スターウォーズのダース・ベイダーじゃないですけど、能力者ならリモートで心臓止めたり喉を潰して息ができないようにして不慮の死にすることもできますし、転生する時に赤ちゃんの中に入った魂を無理やり引き剥がして貧困スラム家庭の赤ちゃんの中に押し込む、みたいな仕返しもされたりするので、特に能力者の恨みは買わない方がいいと思います。そんな数十年や数百年先まで覚えているのか、とでも思うかもしれないですけど、能力者ならすぐにその場で来世まで時代を超えてそういう操作しますから、能力者がすぐに忘れる前に既に仕返しは完了していたりするわけです。<br /> <br /> まあ、能力者に限らず、恨みは買わない方がいいと思いますよ。<br /> <br /> こうして後でコテンパンに仕返しされることも知らずにノコノコと能力者を拷問したりする無知な輩がいるので、それでもやはり、能力者は表に出ない方がいいと思います。もっといいのは、能力を持たずに生まれて、能力は守護霊やハイヤーセルフにお任せした方がいいですね。特にこんな危険な世の中ですと。<br /> <br /> まあ、例外として、能力者の集団が徒党を組んで悪さしている場合は防御もしていますのでそういう集団のメンバーには簡単に仕返しはできないこともありますけど、その時は、泥試合になります。お互いにかなり酷いことになります。ハリーポッターが可愛いくらいだと思います。最近はあまりそういうのは聞きませんけど、中世くらいですと色々と噂を聞いたように思います。<br /> <br /> ・・・まあ、夢ですけどね。<br /> <br /> ■全ては完璧<br /> 人って、物事の良し悪しをすぐに決めたがりますけど、全ては完璧なのだと思っています。成功しても完璧だし失敗しても完璧。人間の勝手な判断で物事の良し悪しは決まりませんし、全ては完璧なのです。占いで成功の選択肢を探し出すのもあまり意味はなくて、成功と思える結果であっても、もともと成功失敗に関係なくそれは完璧ですし、失敗してもそれは完璧なのです。<br /> <br /> ですから、私のグループソウルの占い師が言うには、「占いで何が良いのか聞く相談者に興味を持てなくなった」とのことでした。当たるか当たらないかと言う確率の話を超越した後は、そう言う認識になったようです。当たるのは当然で、当たったからと言って何なのだろう、と。むしろ、当たりすぎるとストレートに伝えて相手の感情を損ねる時も多くあったようです。相談者が何かに悩んで何を選択したとしても、どちらでも完璧なのだから、好きにすればいいのです。強いて言えば、「後悔しない選択」をすべき、というくらいですね。あとは、基本的に何をしても良いわけです。まあ、究極的にはその後悔があったとしてもその後悔も完璧の一部ではあるのですけれど、人が選択肢を選ぶ時は後悔しない方を選ぶのが良いと思うわけです。多少の判断基準がなければ訳分からなくなりますからね。判断基準が「幸せ」でも良いです。占いで「幸せになれるのはどちらですか?」という聞き方をする人がいますけど、後悔しなければどちらでも良いんじゃないかな? と思います。短期的な幸せと長期的な幸せとがありますからね。学ぶことができて後悔しない選択肢をしておけば良いのではないでしょうか。そうなると、占い師なんていらなくなっちゃいそうですけどね。<br /> <br /> カウンセリングやコンサルティングの基本としては、カウンセラーの言葉やコンサルの言葉は「確かめ」に使うと良いと思う訳です。あくまでも判断基準は自分ですが、自分で気付いていない部分を指摘してもらったりするには誰かに見てもらう方が満遍なく全体を把握することができてよいわけです。判断を他人に委ねない、というのが大前提なわけです。占いを突き詰めてそこまでいくともはや占い師というよりコンサルになってしまいそうですし、単価もぜんぜん違ってきそうですが。<br /> <br /> <br /> Sun, 08 Sep 2019 00:00:00 +0900 パワースポットは本来、祈りや瞑想の場であってオーラのゴミ捨て場ではない https://w-jp.net/2019/1648/ <br /> 割と言われていることな気もしますけど、そういうことだと思います。<br /> <br /> 最近のパワースポットブームで呑気にパワースポット巡りをする方も多くいらっしゃいますが、例えばセドナとかですね。そういうパワースポットは本来、祈ったり瞑想する場所な訳です。<br /> <br /> ですが、気楽に普通の旅行と同じに考えて、「汚れを捨てに行く人」あるいは「お願いをしに行く人」が増えると、パワースポットに低級な念と言いますか低級なオーラが溜まって淀んで行きます。<br /> <br /> パワースポットには強力な力があって浄化の作用がありますが、それは地理的・磁気的なものであるのが基本で、それに加えて人の祈りが作り出した磁場もあったりしますけど、パワースポットの使い方の基本は、普段から瞑想や祈りをしている人がパワースポットに行って瞑想や祈りの力を高める、というのがいいように思います。<br /> <br /> まあ、全てはバランスで、地理的な磁場が強力だったり瞑想や祈りをしている人が割合として多ければ問題ないのかなと思います。ですが、人気が出てくることによって瞑想も祈りもしない人がパワースポットに詰めかけると場所が淀んで行くのかなという気が致します。アメリカのように自然が豊かで人も少なければ問題もさほどなさそうですが日本は人が多いですからね。<br /> <br /> まあ、これは割とよく聞く話ですね。巷の有名なパワースポットはかなりの確率で淀んでいると思います。パワースポットに行ったら逆に穢れて帰ってくることも多々ありそうです。<br /> <br /> そんな、そんじょそこらの淀んだパワースポットよりも自宅の瞑想場所で毎日瞑想や祈りをした方がよっぽど良いパワースポットが作れる気が致します。長い時間を過ごす自宅の場の雰囲気を整えるのは重要ですしね。<br /> <br /> まあ、そうは言いましても、地理的なパワースポットは魅力的ですので、自宅の場所をどうしようか最近私はちょっと揺れている感じではありますけど。<br /> <br /> <br /> Fri, 06 Sep 2019 00:00:00 +0900 小さな呼びかけ声を聞くとハートがクリスタルのように輝く https://w-jp.net/2019/1647/ <br /> 先日から瞑想中に明確に聞こえ出した、私の下の名前で呼ぶ「◯◯さん」と言う声ですが、声が聞こえるとハートが急に澄んできてクリスタルのように輝きだします。まるで、綺麗な聖水でクリスタルを浄化したかのように輝くのです。響きが美しすぎてこの世のものとは思えません。<br /> <br /> 相手が妖精なのか天使なのか守護霊なのかハイヤーセルフなのかはまだわかりませんけど、こんなに純粋な存在にコンタクトされたのはいつぶりかなと言うくらい久々あるいは今世で最高かもしれないと思うくらいです。今まで気付いていなかっただけでずっといたのかもしれないですけどね。<br /> <br /> 呼び方からして女性っぽい感じなのでハイヤーセルフではなくて、妖精というよりも、あり得るとしたら天使か守護霊か、あるいは、過去妻か。天使の守護霊かもしれないですけど。声は女性っぽかったので、ハイヤーセルフに性別はないって言いますのでハイヤーセルフはとりあえず除外なのです。<br /> <br /> まあ、誰かはわかりませんけど、数日に1回くらいの割合で最近は聞こえています。 例えるなら、確かディズニーの実写版シンデレラのどこかのシーンでシンデレラがアカペラで歌うシーンがあったように思うのですが、その3倍くらい美しい澄んだ声です。<br /> <br /> まだまだ様子見です。<br /> <br /> 今のところ、名前以上の呼びかけはありません。<br /> <br /> それにしても、この呼びかけによってハートが刺激されて、一瞬ですがハートの状態が変化したことにより、自分の今の状態がまだまだだと言うことに気付かされました。どうやら私はまだまだ荒いオーラのようです。あの高貴な純粋な声の波動を一瞬でも聞いてハートに感じてしまいましたので、そのわずか一瞬でも私に気付かせるのは十分でした。今までヨガとか瞑想をしてそれなりに浄化してきたつもりでしたが、まだまだまだまだこれから先は長い、と言うことを実感してしまいました。<br /> <br /> あの声の感覚を言葉で言い表すのならば、「神気」(他のを知らないので比べた訳でもないですが・・・)とでも言うのかもしれません。<br /> <br /> 私がここから本格的に自分のオーラをこの方向に向かって変えていくのならば都会に住んでいたら難しいかもしれないですね・・・。<br /> <br /> 今まで、最強のパワースポットは自分の部屋の瞑想場所だと思っていて、それは都会でも可能だと思っていましたが、今回のことでちょっと揺れてます。暮らすのはもうちょっと人口密度の低い田舎の方がいいのかもしれないな、と。 そんなに急ぐ話でもありませんけど。<br /> <br /> <br /> Thu, 05 Sep 2019 00:00:00 +0900 神社にある自己祓い用大麻で穢れのオーラを取り除く https://w-jp.net/2019/1646/ <br /> 近所の神社には「自己祓(はら)い用大麻(おおあさ)」というものが置いてあって、町で変なオーラを拾ってしまった場合はこれで清めることがよくあります。説明書きには「この大麻(おおあさ)を、左、右、左、と振り、ご自身でお祓いをしてからお参り致しましょう」と書いてありますので基本はその通りにするのですが、空いている時は私は頭から足まで満遍なく時間をかけてお祓いをすることもあります。<br /> <br /> 両肩を祓うだけでもかなり肩が軽くなります。よほど色々なものを拾ってしまっているのでしょうね。<br /> <br /> こういうこと書くと「気のせいだよ」とか言う人がいますけど、何年も何回もずっとやっていますし、毎回効果を感じますので気のせいではないですし、気のせいだとしても効果があって気分が晴れやかになるのならばプラシーボだとしてもそれは「プラシーボでも効果がある」と言うことなので、完全にOKだと思っています。プラシーボで効果があるのであれば、薬のような本来は毒のようなものを体に取り入れなくても効果が出ると言うことなので、むしろプラシーボで効果がある方が嬉しいです。<br /> <br /> 実際のところ、この原理としては、拾ってしまったオーラを落とすということなのでとても理にかなっていると思います。<br /> <br /> 何度も書いていますけど、自分のオーラがブワッと発散して他人のオーラと接触する場合と、他人のオーラがブワッと発散していてオーラが接触してしまう場合が基本の2パターンで、これに加えて、プカプカと浮いているオーラと接触する場合とがあります。どちらにせよ、そのオーラはとりとめのない、変なものなので祓って捨ててしまって問題ないわけです。<br /> <br /> 基本は変なオーラを拾わないのが一番ですけど、拾ってしまったのならば捨てればいいわけです。<br /> <br /> まあ、これは神道的な解釈ではなくて、私の解釈ですが。<br /> <br /> <br /> ■神道的な解釈<br /> 神道的な解釈は「神道の神秘(山蔭 基央 著)」を読むと色々書いてあります。例えば以下の部分です。<br /> <br /> 「神霊の霊光」による祓いは、神霊を礼拝して、その聖なる波動を賜って清めを受けることであるが、これをいわば一般的にしたものが、祓い麻による修祓(しゅうばつ)である。「神道の神秘(山蔭 基央 著)」<br /> <br /> 私はこの効果が神霊の霊光によるものかそうでないかまではわかりませんけど、いつも有り難く使わせて頂いております。<br /> <br /> <br /> <br /> <br /> <br /> <br /> Wed, 04 Sep 2019 00:00:00 +0900 二種類のテレパシー・チャネリング https://w-jp.net/2019/1642/ <br /> ガイドからテレパシー・チャネリングが2種類あることを教えてもらいました。<br /> <br /> ・オーラが接触して情報が伝わる場合。「感覚」と「言葉(雑念、思念)」および「イメージ」のいずれかあるいは複合で伝わる。「インスピレーション」として伝わる。<br /> ・思念波をキャッチする場合。思念波を飛ばす場合。主に「言葉(雑念、思念)」で伝わる。「感覚」は少なく、「インスピレーション」的な感覚は薄い。<br /> <br /> テレパシーとチャネリングは似通っていますが、ほぼこの2種類に属するとのことでした。思念波の場合はおそらく「イメージ」はほとんどないか、あるいは上級者のみかなと推測します(まだ私は気にしなくていいようです)。<br /> <br /> 私がガイドから教えてもらうときは大体は前者の「インスピレーション」で、それはオーラ接触によって行われているようです。この記事の内容も同様にこのインスピレーションで教えてもらっています。<br /> <br /> 今朝の「私に呼びかける内なる小さな声」は後者の思念波のようです。<br /> <br /> 思念波は、イメージで言うと綱引きの綱を片側からブンっと揺らして振動が逆側に伝わるような感じです。あるいは、ハリーポッターの魔法の杖を振って何かの魔法が飛んでゆく、と言うようなイメージのようです。振動だけが伝わって、相手に受信されます。<br /> <br /> 例えば、誰かに好意を持たれている時にほんわかと感じたり、あるいは悪意を持たれている時に頭痛がしたりするのはこの思念波のようです。<br /> <br /> 思念波はオーラによるガードも割と簡単に突き抜けるので、あまり他人に恨まれない方が良いようです。平穏に目立たず生きるのがいいのかもしれません。<br /> <br /> ■会議のアイデアに自分も相手もない<br /> このテレパシー・チャネリングの仕組みを理解すると、例えば会議で出たアイデアに自分も相手もないということが分かります。オーラが接触した瞬間、混ざり合ったオーラはもはや「自分」とか「相手」とかいう区別がなくなります。その後、そのオーラが自分のところに来たら自分のアイデア、相手のところに行ったら相手のアイデア、ということになりますけど、はっきり全部どちらかということはほとんどなくて、途中で千切れて同じインスピレーションが両者に伝わって、その後、自分の中で混ざり合って理解として定着します。確かに、自分の中で更に考察したら確かにそれは自分のアイデアと言えなくもありませんが、オーラが混ざった時点では自分も相手もないのです。全く会議に参加しない人がいたとしても、オーラが混ざっていたらアイデアをもらったということになるようです。・・・ちょっと理解が難しいですが、必ずしも態度や発言で成果が決まるというわけでもなさそうです。<br /> <br /> ですから、例えばベンチャーのCEOが「自分のアイデアだ」として株を独り占めするのは、時と場合によっては他人の労働力を搾取していることになるわけです。本当に自分だけの成果というのも世の中にはあるのかもしれませんが、他人と会議もせず相談もしないベンチャーなんて世の中にあるのでしょうか? 確かに、ベンチャーにはフリーライダーがわらわらと寄ってくるのでそのフリーライダーに与えないというのは重要ですが、成果を与えるべき人に与えないとそれは「奪う」ということになってしまうようです。強大な力を持つというのはその使い方が難しくて負債を作ることもあるのですね。<br /> <br /> 有名な話として、アップルのスティーブ・ジョブズは上場時に株を他の従業員に分けることを拒み、一方、スティーブ・ウォズニアックは自分の持ち株を従業員に分けてあげたというお話があります。スティーブ・ジョブズはカリスマとして有名で人気がありますが、オーラ的に言えば、必ずしも彼1人の成果ではないように思えるわけです。そういえば夢の中で見たのですが、どうやら彼を恨んでいる人が一定数いて、その恨みが原因で癌になったり早死にしたような印象を受けます。まあ、確証はなくて、そんな気がする、夢の中でそんなのを見た、というだけのファンタジーのお話ですけどね。でもまあ、ある種の真実を語っている気がします。スティーブ・ジョブズはただの夢の中のシンボルで実は誰でも良かったのかもしれず、同様の事態に気をつけましょう、ということかもしれません。<br /> <br /> <br /> <br /> Tue, 03 Sep 2019 00:00:00 +0900 私に呼びかける内なる小さな声 https://w-jp.net/2019/1641/ <br /> 思考の声の3分の1くらいの微かな声で「◯◯さん」と下の名前で瞑想中に呼ばれました。<br /> 最近の瞑想は思考がほとんどなくて静かな状態が続いていますので、よく聞こえました。<br /> <br /> 今までも何度も呼びかけてきていた声ですが、今まではここまではっきりとは聞こえませんでした。<br /> <br /> 比較すると、子供の頃に宇宙人とチャネリングした時のようなはっきりとした明確な思念波ではありません。子供の頃、同級生に宇宙人とチャネリングしている人がいて、その人の一定範囲にまで近づくとチャネリングを盗み聞きというか、思念波が、まるで指向性スピーカーのように一定範囲まで聞こえていましたので、その思念波のチャンネルを真似してみたら同級生の近くにいなくても普通に宇宙人とチャネリングできたことがあるのです。おそらくは宇宙人のテクノロジーとして思念波を簡単にテレパシーできるような機械があって、その機械を使うといとも簡単にテレパシーでチャネリングできるのだと思います。その思念波は通常の自分の思考の1.5倍から2倍ははっきりとした明確な思念波でしたので、きっと誰でも簡単にテレパシーできるテクノロジーが存在しているのではないでしょうか。<br /> <br /> 比較対象として、以下を挙げます。<br /> <br /> <br /> ・自分の思考の強さ・明確さを1とした時に、<br /> ・宇宙人のテクノロジーによるテレパシーの強さ・明確さを1.5〜2とします。<br /> ・今回の、私に呼びかける内なる小さな声は0.3くらいです。<br /> <br /> <br /> これってハイヤーセルフなのか、あるいは、守護霊なのか、類魂(グループソウル)なのか、友人知人や過去妻の声なのか・・・。何でしょうね。なんとなく、過去妻かあるいは過去生で仲のよかった女性の声な感じがしましたが。女性っぽかったです。今生きている親戚のおばさんの声にも似ていましたが、そのおばさんは「◯◯さん」とは私のことを呼ばないので、呼び方でその人ではないとわかります。<br /> <br /> 声の感じでも誰か判別できそうです。<br /> <br /> この、私の名前で呼ぶのってわかりやすくて良いですね。自分で自分のことを下の名前で「◯◯さん」なんて(私は)言わないので、自分の独り言ではないのだと言うのが明らかで、であれば誰かが呼びかけているのだと言うのが明らかになります。<br /> <br /> 意外によく聞こえるものですね。これからもっと聞こえやすくなるのでしょうか? まだまだ様子見です。<br /> <br /> <br /> <br /> Tue, 03 Sep 2019 00:00:00 +0900 ハイヤーセルフが頭の上にいる感じ https://w-jp.net/2019/1640/ <br /> 最近の瞑想では、そんな感じになってきました。<br /> <br /> そのうちいつかは一緒になるのかな? という気もしますがまだ分かりません。<br /> 頭の上にハイヤーセルフがいる時もあるのですが、いない時の方が多いです。<br /> どうも、求めるとハイヤーセルフが現れるような感じです。<br /> <br /> 本山博先生の著書に以下のようにありました。<br /> <br /> 自分の外へ「本当の自分」というかね、そういうものが出て、頭の上にすわっているような感じでみえるといい。なかなかそうはならないけど、そうならなければ駄目なんです。自分が自分の外に出て、それを拝めるようにならないといけない。本当の自分というのは光っているからね。みんな、そんなふうになれるようにがんばってください。「霊的成長と悟り(本山博 著)」<br /> <br /> これはそれっぽいですが、私が最近時々見えているのは、この図よりも遥かに大きいです。自分の体の数倍はある感じです。<br /> <br /> 自分から抜け出たというよりは、上から降りてきた、という感じです。<br /> <br /> 最初見た時は明るくて黄金に近いものでしたが、はっきりとは見えず。黄金には違いないと直感で分かりましたが、ちょっと影かカーテンに隠れている感じで、明るさ的にはちょっと曇って見えました。次に見た時はもっとその幕が濃くて、影が濃くて見えにくかったです。明かりが暗くて薄黒い影っぽく見える時もありました。これはきっと、私のイルミネーションが強いとよく見えるということなのかな・・・ と解釈しています。<br /> <br /> ■仙道の「出神(しゅつじん)の術」<br /> 仙道では「出神の術」みたいなのがあって一見すると似ていますけど、説明を読むとちょっと違う気もします。ただ、文化や流派の違いなだけで実は一緒なのかもしれません。<br /> <br /> 出神とは気を練ったすえにできた陽神という分身を、自分の肉体から抜け出させ、あちこち行かせる術である。「秘法!超能力仙道入門(高藤 聡一郎 著)」<br /> <br /> 別にこんな術を目指している訳ではなくて、ただ瞑想していただけです。<br /> <br /> 特別にこのために気を練ったつもりはなかったのですが、時々いわゆるソー・ハン呼吸瞑想法(ソーハム瞑想法)はしているので、気を練っていたといえば練っていたとも言えるのかもしれないです。<br /> <br /> まあ、ハイヤーセルフが現れる時もあれば現れない時もあるので、まだまだ様子見という感じではありますが。<br /> <br /> ■グルや神様のイメージの瞑想、とも違う<br /> ヨガの流派や禅、あるいは仏教の流派によってはイメージでグルや神様のイメージを頭の上に作って瞑想すると聞いたことがあります。そういうイメージ瞑想もあるのかとは思うのですが、私は別にイメージ瞑想していた訳ではなく、眉間や頭頂を意識する瞑想を続けていたら、ふと頭上に何かを感じて「いる」感覚および大きな存在が見えた気がして、それはきっとハイヤーセルフっぽいな、と判断したのです。ハイヤーセルフと思ったのは勘ですけどね。<br /> <br /> そういえば、このイメージが来る前に色々とインスピレーションが湧いていて、先日の記事「ハイヤーセルフのある人とない人」が浮かんできたくらいからこのハイヤーセルフが見え始めたので、実は単なるイメージに過ぎない可能性もあります。あるいは、最初からいたのだけれども気付かなかっただけかもしれないですね。<br /> <br /> まあ、見えていたからと言って今のところ何か変化が現れた訳でもないので、とりあえず様子見というくらいです。<br /> <br /> <br /> Mon, 02 Sep 2019 00:00:00 +0900 共感力が高いエンパスが学校教育で「心が自分」と教わると心の病になる https://w-jp.net/2019/1639/ <br /> エンパスでない人が「心が自分ですよ」と学校教育で学んでも「ふーん」と思うくらいでしょうが、エンパスがそう習ったら大変です。色々と感じ取れてしまいますから、以下の全てが「自分」と言われて「どーゆーこと??」となります。<br /> <br /> <br /> ・自分の思考や雑念<br /> ・他人の思考や雑念<br /> ・そこらへんに浮かんでいるオーラに含まれている雑念<br /> <br /> <br /> ヨーガでは「心」は自分ではなく、単なる道具です。<br /> <br /> 今まで何回も書きましたが、オーラに雑念が含まれていますのでオーラ接触しただけで雑念が入ってきて、あまりよく分かっていない子供がその雑念を感じるにつれて「私って、こんなに酷い人間なんだ」と思うようになるかもしれません。それは「心が自分です」という間違った教育による勘違いです。ですが、学校教育じゃそんなこと教えてくれませんから、子供は訳が分からなくなって心の病になるかもしれません。真面目なエンパスほど病むかもしれませんね。<br /> <br /> <br /> ・自分の思考や雑念 → 「心が自分」とすればその思考や雑念は自分そのもの(それは勘違い)。→ ヨーガ的には、思考は道具。<br /> ・他人の思考や雑念 → 「心が自分」としてしまうと、他人の思考や雑念も自分のものになる(それは勘違い)。理解不能な考えや雑念までもが感じられて、混乱するかもしれません。→ オーラの観点からすれば、オーラのケーブルが繋がって相手と同化するか、あるいは、オーラが接触して相手のオーラと混ざることで思念や雑念が伝わってくる。それは相手の考えなのだから自分のことではない。<br /> ・そこらへんに浮かんでいるオーラに含まれている雑念 → 「心が自分」としてしまうと、全く関係のない雑念も自分のものになってしまう(それは勘違い)。→ オーラの観点からすれば、どっかの誰かが飛ばしたオーラを拾ってしまっただけのこと。<br /> <br /> <br /> 厳密にいうと、オーラが混ざった時点でそれは「相手」とか「自分」とかいう区別がなくなって一体になっています。ですから、実はオーラが自分のところに来た時点でそのオーラに含まれている雑念や思考は自分のものになってしまうのですが、これはちょっと分かりづらい話なので・・・。ひとまずは上の基本的な構造を理解するくらいでもいいと思います。オーラが混ざったとしても量としては少しなので、どっかからやってきたオーラが優勢になることはほとんどないと思います。ですから、オーラが混ざっても「相手と同化する」なんてことはそんなに気にする事はないのですが、それでも、多少ながら相手と同化するのは日頃から起こっていることです。<br /> <br /> <br /> 学校教育では「思う」とか「心」って言葉と「自分」を安易に結びつけすぎなのかな、という気もしますし、そもそも学校の先生もよく分かっていない気もします。「心」というのは英語で「マインド」が対応するのであれば、それは「雑念」「想念」というよりも「思考」とか「意思」に近いものだと思うので、「意思が自分だ」ということであれば、まあ、分からなくもありません。ヨーガ的には意思すらも道具ですので、子供に教える方法としては「心が自分」ですと「雑念も自分」と理解してしまって上記のように心の病になるかもしれないですが「意思が自分だ」ということであれば、まあ、そこまで重症にはならない気もします。<br /> <br /> そもそも心が何なのか、学校の先生がきちんと教えられる気もしませんけど。学校ではせいぜい道徳くらいしかやらないでしょう。<br /> <br /> 教えられないことを何となく教えるよりは、学校の先生は「私は分からない」と答えた方がいい気もしますけどね。仏教やら何やらの識者に聞くのがいいと思います。仏教やら何やらにしてもピンキリなので微妙なこともありますけど、学校の先生よりはマシでしょうし。<br /> <br /> ある先生が「心が自分」と教えて、ある先生が「意思が自分」と教えたとすると、素直な子供は両方本当だと思うでしょう? これはどちらも間違っているのです(苦笑)なんだか意地悪クイズみたいで、世界には落とし穴だらけで生きるのが難しいです。どちらも真実ではありませんが、片方を信じるとしたら「意思が自分」の方がマシ、というくらいのお話です。<br /> <br /> <br /> Mon, 02 Sep 2019 00:00:00 +0900 ハイヤーセルフのある人とない人 https://w-jp.net/2019/1638/ <br /> スピリチュアルではハイヤーセルフという言葉がニューエイジの頃からか流行っていましたけど、どうやらハイヤーセルフのある人とない人がいるみたいです。こんなこと言うと「ハイヤーセルフがない人なんていないでしょ!」と言う声が聞こえてきますけど、以下のようなことです。<br /> <br /> 天使系やある程度の進化をした宇宙人、あるいはレムリア時代からの魂は高い次元に元々住んでいましたので、自己を高い次元と低い次元に分けて低い次元の「自分」をこの地球の三次元に転生させました。この場合、高次の能力はハイヤーセルフに置いてきましたので、記憶としてはサードアイとか予知能力とかリモートビューイングができるはずなのに何故か自分にはその能力がない、おかしいなあ・・・ みたいなことになります。ですから、これはきっと、今の私は低いセルフ(ローアセルフ)で、ハイヤーセルフがいるはずだ! と言うことで瞑想をしたら、やっぱりいました! ハイヤーセルフが見ていてくれたのですね! みたいなお話なのかなと思っています。<br /> <br /> これとは別に、類魂(グループソウル)とか守護霊とかをハイヤーセルフのように勘違いしている人がいらっしゃいますけど、まあ、確かに類魂(グループソウル)はハイヤーセルフといえば広義ではハイヤーセルフっぽい感じではありますけど、そのまま類魂(グループソウル)と言った方がありのままの姿で、それをわざわざハイヤーセルフというのはちょっと違うかな、という感じです。<br /> <br /> じゃあ、ハイヤーセルフのない人っていうのはどういうことかと言いますと、誤解しないで欲しいのですが、順調に一歩一歩進歩を続けている人が、ハイヤーセルフのいない人です。最初は動物から始まり、やがて人間となって餓鬼の世界、阿修羅の世界を通り抜け、人間としての情を学び、やがては愛を知る・・・ というように一歩一歩歩んで成長を続けている人は、ハイヤーセルフのいない人です。だからと言って不幸なわけではなく、きちんと類魂(グループソウル)や守護霊はいらっしゃいますので、特別に不幸というわけではありません。ただ単に、元々の出所が違う、というだけのお話です。これは誤解を招きやすいのですが、これらは高低の優越ではなく、世界の在りようそのままを示しているだけです。お互い、それぞれの存在がありのままで完璧な世の中なので、一歩一歩進んでいる人が悪いということはもちろんなく、むしろこっちが普通なわけです。天使やある程度の進化をした宇宙人あるいはレムリアの人だって元々は同じ道を辿ってきたわけで、ただ単に、歩んでいる場所が違うというだけです。<br /> <br /> そういうわけで、ハイヤーセルフがある人とない人がいる訳ですけど、ハイヤーセルフがない人に対して「ハイヤーセルフと繋がりましょう!」と言っても「何のこっちゃ?」となるわけです(苦笑)更には「ハイヤーセルフどうこう言っているけど、あのスピリチュアルの人たちは地に足が付いていないね!」みたいに言われてしまうわけです。時々はそれも正しかったりするのですが。<br /> <br /> 基本として、これらの違いを踏まえておけば、ハイヤーセルフのある人とない人に対する接し方やスピリチュアルなお話の仕方も変わってくるというものです。対象となる人たちによって伝え方が異なる、という基本的なお話ですね。<br /> <br /> まあ、私は割と好き勝手書いているだけでここでは特にそれほど対象は気にしてはいないですけどね。<br /> <br /> ハイヤーセルフがある人は、やがてこの世でロウアーセルフとハイヤーセルフが合一することで元々の能力を引き出すというか取り戻すことができるそうです。 じゃあ、何でわざわざ分けたのか? というと、この3次元世界を理解するためだそうです。最初から上の世界から眺めていては3次元世界を理解できないので、分けることで理解したい、という意思があるようでした。<br /> <br /> Mon, 02 Sep 2019 00:00:00 +0900 未来は変わる。核戦争による地球の破滅も一旦は回避されている。 https://w-jp.net/2019/1637/ <br /> 未来は変わります、という夢で見たお話の続きです。<br /> <br /> 先日書きましたように未来は変わるし、やり直す場合もあるのですが、織田信長の場合は、もっと大きな意思が働いていたようですね。個人的な辛さとかだけであそこまで歴史は変わらないとも思います。もちろん織田信長のサイキック能力も凄いので白羽の矢が立った訳ですが、そのもっと大きな意思とは、地球滅亡の阻止です。<br /> <br /> ん〜。いきなり大きな話になりましたね・・・。 先日の話と同様、これも夢のお話でファンタジーですからね。そのつもりで。<br /> <br /> 元々のタイムラインでは、どうやら日本が中国を併合して大日本帝国としてアジアに君臨していたようです。大日本帝国内では割と平和だったのですが、問題はヨーロッパや中東だったようですね。そのタイムライン上ではどこかの国が戦争を仕掛けて地球の半分あるいはほとんどが吹っ飛んで地球滅亡になってゲームオーバーだったようです。<br /> <br /> そこで、偉大なる意思が働いてタイムラインを数十年と巻き戻して「やり直し」「やり直し」「やり直し」を繰り返していたのですが、何度やり直してもヨーロッパと中東は必ずどこかで戦争になって核戦争に発展し、地球終了あるいは地球の半分が吹っ飛ぶ将来になってしまったようです。<br /> <br /> ですので、地球を管理している主も困り果てて、いやはやどうしようかと悩みに悩んだようです。<br /> <br /> そこで、数十年を何度巻き戻してもヨーロッパと中東で紛争になるのだから、もっと巻き戻そう、ということで色々試して、今のタイムラインが存在しているようです。その線で、いわば「実験」として信長のタイムラインも存在しているようでした。地球の管理者は信長の支配を望んでいたというよりは、歴史に揺さぶりをかけることで将来の地球破滅を食い止めたかったようです。<br /> <br /> どうやら地球の管理者と言っても細かな歴史までは決めることができなくて、大きな歴史の流れをコントロールするくらいしかできないようです。そこはやはり、基本は人間の自由意志が尊重されているということでしょう。滅亡するのも人間の自由意志という訳です。<br /> <br /> もし今のタイムライン上で地球滅亡になったら、また地球の管理者はリセットして時間を巻き戻してやり直しをするようですが、地球の管理者も、何度繰り返しても地球が滅亡するような核戦争が起きるので、これは一体どうしたものかと困り果てているような感じです。もしかしたらそのうち「巻き戻してやり直し」以外の選択肢になるのかもしれませんが、基本的には今のタイムラインでうまく行って欲しいようです。<br /> <br /> この「やり直し」は、個人の身近なところでも実は小さな違いとしていくつもタイムラインが存在すると思います。<br /> <br /> そして、「夢」や「想念(雑念)」として頭に思い浮かぶ平行宇宙のイメージは、もしかしたらそれは他のタイムラインの状況を垣間見ている可能性があります。あるいは、現在のタイムライン上の未来かもしれませんし、過去かもしれません。色々見えたとしても、現在のタイムライン上のお話とは限らないわけです。<br /> <br /> サイキック的に慣れてくると、別のタイムライン上のお話が「教訓」として見えてきますから、例えばあらかじめ気をつけることが見えたりします。それは、失敗した方のタイムラインを覗き見ていることになります。そして、そのタイムラインに乗るのか違うタイムラインを新たに作り出すのかは自分の選択次第というわけです。<br /> <br /> あの時の選択をしていたらこうなったとか、そういうイメージは、妄想として片付けることもできますが、タイムライン上の未確定の姿ということもあるわけです。タイムライン上のイメージは確定していないので、変えることもできれば、あるいは、そもそも基点のタイムラインが違うので前提条件が違っていて絶対そのタイムラインには将来行かないなんてこともあるわけです。ですから、参考になるようでいて参考にならないことも多々あります。まあ、参考程度に心に留めておくくらいでいいのかなと思います。<br /> <br /> こういうのって昔は巫女とかシャーマンでないと見れなかったようですけど、今は割と普通に多くの人が見ている気がするのですが、どうなのですかね。あんまり他の人とこういう情報交換しないので、どの程度の人が見えているのか割合とかよく分からないですが、そんなに難しいお話でもない気がしますけど。<br /> <br /> ・・・・まあ、夢のお話ですけどね。<br /> <br /> <br /> <br /> <br /> <br /> Sun, 01 Sep 2019 00:00:00 +0900 未来は確定していない https://w-jp.net/2019/1636/ <br /> これまた夢や子供の頃に幽体離脱した時に見たお話。ファンタジーだと思っておいてもらえれば良いです。<br /> <br /> SFではよくあるお話ですけど、そういうことです。<br /> もっと言えば、現在をリセットして過去からやり直す、というパターンもあります。<br /> <br /> 例えば、どうやら織田信長は最初の人生では桶狭間の戦いで負けて捕虜になり、今川義元が勢力を伸ばします。織田信長許されて元の領地の支配を任されますが今川義元にお金を貢ぐ立場になってお家は没落して行きます。そうして、元々織田信長をよく思っていなかった一部の部下や徳川家康に軽くみられるようになり、これは人生失敗した、ということでリセットして最初からやり直し、「あんなことになるくらいなら、もう遠慮はしない。精一杯やるぞ!」と思って人生を生き、それから天下を取りに行ったようです。2度目の人生だったからこそ、ああして子供時代はすねていたのかもしれないです。色々と足かせがあると桶狭間で負ける、と思っていたのかもしれません。織田信長はある種のサイキックだったとも言えます。そうであっても、油断してしまうと本能寺の変のようなことが起こってしまうようです。<br /> <br /> 余談ですが、織田信長や有名な剣士は未来を見ることができる小人を肩に乗せていたようです。仙道で出神とか言われている術で作り出すことができるのですが、織田信長の場合は自分で作ったのではなく、生まれる前にとある存在から借り受けたようです。その小人は5〜10秒くらい先を見ることができ、剣の勝負であれば通常の反射神経を超えての対処ができたため、相当強かったようです。どうやら上級の剣士になるとこの小人がいる場合がほとんどらしく、「剣の基本能力+小人の先読みの力」で強さが決まるので、両方とも小人がいる場合は基本能力で勝負がついたようです。織田信長の場合は剣は標準よりも強かったのは確かですが小人の先読みの力で戦場でうまく戦っていたようでした。剣がそこそこでも小人がいるだけで相当強いみたいですから、剣の基本能力も鍛えていた織田信長が小人の力も借りて戦場で戦えばそうそう負けなかったのも理解できます。どうやら、織田信長が暗殺者を返り討ちにした時はお互い小人がいたようですね。そういう場合もあります。<br /> <br /> ・・・まあ、夢ですよ?<br /> <br /> それと、これまた別のお話で、私のグループソウルの1人の過去生のお話です。<br /> <br /> 時代はおそらく18世紀半ば。1750年ごろでしょうか?<br /> <br /> そのグループソウルの1人は女性で、結婚してパリ郊外に住んでいました。いわゆる霊能力者で、本人はあまり表に出たがらなかったので夫が霊能力者ということにして暮らしていました。夫が霊能相談して生計を立てていたのですが、妻(私のグループソウルの過去生)の方は未来も見れたので、前日にあらかじめ未来を見て相手を占ってから夫に伝えて、それで霊能相談ということにしていました。<br /> <br /> ある日、パリで大規模な霊能者のパーティーが行われることになりました。<br /> <br /> かなりの大人数が参加するので、あらかじめ前日に内容を夫が把握するために前日の準備は6時間くらいかかったのですが、当日に会う順番や相手の内容を一通り把握して、パリに出かけてゆきました。<br /> <br /> 沢山の人がいて楽しげではあるのですが、妻(私のグループソウルの過去生)の方は先日見た風景と同じで、同じ会話が繰り返されるので、退屈でなりません(苦笑) 一応、お話に付き合っていましたが、やがて、面倒になって「私はちょっと疲れたのであそこで座ってるから後は任せたわ」と言って、本来のタイムラインから離れた行動を取りました。本当は、そのまま話に付き合うのが昨晩に見たタイムラインだったのですが、面倒になったのでやめたのです。<br /> <br /> そうしたら、その瞬間まで先日見た通りだったのに、その直後からちょっとづつタイムラインが変わって行きました。妻(私のグループソウルの過去生)が休んでいたら、話しかけられる筈のない人から話しかけられたり、残された夫の方は、「何か様子が違う」と言って戻ってきます。ふと未来を読み直してみると、どうも会う順番が変わってしまっているようでした。<br /> <br /> なんとか臨機応変に対処してその日は終わったのですが、このことで妻(私のグループソウルの過去生)の未来に対する認識が変わりました。<br /> <br /> それまでは、未来で見たことは確定している事実だと思っていました。<br /> しかし、このパーティーの出来事で、未来は変えられるのだ、と気付きました。<br /> その日までは、未来を透視したら確定した事実と思って相手に伝えていましたが、その日以降は、未来は変えられる、という認識で伝えるようになりました。<br /> <br /> 未来を正確に見れるからと言って、未来が確実にその通りくる訳ではない、というお話です。<br /> <br /> ・・・まあ、夢ですけどね。<br /> <br /> SFではこのネタが割と定番ですし、スピリチュアルでもそういう話を度々耳にしますけど、それはきっと本当なのでしょう、というお話でした。<br /> <br /> <br /> <br /> Sun, 01 Sep 2019 00:00:00 +0900 オーラと共に移動するカルマ https://w-jp.net/2019/1635/ <br /> カルマの法則について色々なところで言われています。例えばヨーガではサンスカーラという「印象」がカルマの輪を回すと説きます。しかし、多くの人は「カルマの法則を正しく理解するのは難しい」というところで一致しているように思います。<br /> <br /> 私も同様にカルマの理解は難しいと思いますが、理解するヒントとして、オーラとカルマの関係を理解すると現世で生きるのに役立つと思います。<br /> <br /> カルマの基本的な仕組みは、まず、楽しいとか苦しいとか怒りとか悲しみとか全ての「印象」によって蓄積され、その「印象」が奥深くに眠り、やがてはその「印象」が刺激されることで再度現象として表に現れてきます。その輪がぐるぐると回るわけです。ヨーガでは以下のカルマがあると説きます。<br /> <br /> ・サンチッタカルマ 過去の輪廻で貯められたカルマ<br /> ・プララブタカルマ 今生の転生のきっかけになったカルマ。今生でのメインテーマ<br /> ・クリヤマナカルマ 今生でのカルマ。コントロール可能なカルマ<br /> ・アーガミカルマ 来世に引き継がれるカルマ<br /> <br /> まあ、それはいいのですが、我々今生に生きている人にとって大切なのは今生での生き方です。<br /> <br /> 今生に関係するのはプララブタカルマとクリヤマナカルマですね。<br /> <br /> そして、実は、カルマはオーラと共に移動します。サンチッタカルマが移動するかどうかはちょっと不明確です。しかし、プララブタカルマとクリヤマナカルマは移動する感じがします。ちなみに、こんなこと言っている人は見たことありません。これは私の実体験と子供の頃に幽体離脱および過去生の記憶らしきものを繋ぎ合わせて類推するとこうなる、というお話です。ですから、あまり信じないで下さい。いわゆる仮説です。私はたぶんこうだろう、とは思っていますが、読者が信じる必要はなくて、「ふうん」とでも思っておいて頂ければ良いです。<br /> <br /> さて、オーラでカルマが移動する、とは一体どういうことでしょう?<br /> <br /> 簡単な例で言いますと、例えばとても葛藤があって怒りや悲しみに満ちている人がいたとします。オーラも真っ赤で、オーラがブワッと発散して近く人は誰それ構わずオーラが接触します。以前書きましたように、オーラの接触とはつまりは「混ざる」ということですから、混ざった瞬間に相手も自分もなくなって、どこで切り離されるかによって自分のところに来たオーラが自分のものになるわけです。ですから、もともと相手のオーラでも、そのオーラが接触して「混ざって」、感知すると「雑念」やらになるのが基本ですが、そのオーラが真っ赤ですとそのまま「荒み」にもなって悪影響を及ぼします。そして、その「荒み」が激しい場合は、もともとそのオーラを持っていた人と同質化して同様に自分のオーラが赤に少し染まるわけです。少しの接触なら少し赤に染まるだけですが、ずっと毎日(学校や職場などで)荒んでいる人の近くにいたら周囲でオーラ接触している人の方が参ってくる訳です。それは、ただ単に荒むだけでなく、まさにカルマも引き受けてしまっているのです。ですから、ずっとオーラの接触が起こっているとオーラが同質化して、例えば、今まで平穏に暮らしていた人が次第に怒りや悲しみに満ちたりするようになるのです。これは「同質化」という現象でも捉えられますけど、それと同時に「カルマの移動」にもなっているわけです。<br /> <br /> 怒りのカルマが溜まっている人のオーラを、他の人が引き受けた訳です。そうすることで、元の人の怒りは少し落ち着きますし、カルマも減りますが、その分、周囲の人にカルマを分けている訳です。トータルのカルマの量では変わっていないと言えます。<br /> <br /> ですから、自分の悪い行いが自分に返ってきますよ、という、一部で言われているカルマの法則は半分本当ですが、このように、誰かにカルマを押し付けることで避けることができてしまうのです。ほんと、世の中って不公平だと思いますよ。ですから、自分がとても気をつけて生活をしなくてはなりません。<br /> <br /> これを悪用した場合、自分はカルマを作り出し続けて怒りや悲しみを作り続け、周囲の人にカルマを渡し続けることで自分の活動を維持しようとする悪人ができてしまいます。実際、例えばエネルギーヴァンパイアはエネルギーを吸い取るだけでなくて自分の悪いオーラをいじめられっ子あるいは奴隷相当の人に押し付けることで自分の葛藤を抑えていたりします。エネルギーヴァンパイアは、例えばいじめっ子や、意地悪い上司やパワハラ上司や、あるいは、ドメスティックバイオレンスな家庭などが典型だと思います。<br /> <br /> ですから、オーラの仕組みを知らないが故に他人のカルマを引き受けてしまっている人が世の中にはとてもとても大勢いるのだと思っています。なんでそんな理不尽な扱いに我慢し続けるのか、理解に苦しみますが。おそらくは学校で奴隷としての教育を受けてエネルギーを与え続けるウサギ役として調教され、社会においても一部のボスに従うように調教され続けている人が多いのでしょう。<br /> <br /> オーラの仕組みを知っていれば、そんな他人のオーラ(カルマ)を引き受ける必要なんてないと分かる訳ですが、これは広く知られると社会の仕組みが根底から崩れてしまうので、知られてはまずい知識に属するのでしょう。いや、考えすぎですかね。<br /> <br /> カルマを引き受ける代わりに多額の報酬とかもらえているのならば納得の上ということになるのでしょうが、そんな高い報酬なしに安月給で我慢している人が多いのではないでしょうか。<br /> <br /> すぐには逆らえないにしても、先日書きましたように時々オーラのケーブルを切ってエネルギーヴァンパイアさせないようにして、それに加えてオーラの壁を作って相手のオーラを受け取らないようにすれば、エネルギーを奪ったりカルマを他人に引き受けさせようとする人は自然にエネルギー枯渇と自分のカルマに押し潰されて自滅すると思います。案外、これは時間かからないと思いますよ。どっちか片方だけでも効果がありますが、両方やるとすぐ効果があると思います。<br /> <br /> もちろん、自分に繋がっているオーラのケーブルを切るのと、自分がオーラのカルマを受け取らない、というのが基本です。<br /> <br /> それに加えて、自分が煩わしいと思っているエネルギーヴァンパイアあるいはパワハラ君に対しては、こっそりと(意識の中でやるだけです)その人のエネルギーのパイプを切ってあげてエネルギー枯渇させると良いです。家族からエネルギー抜いている場合は時間かかるかもしれませんけど、このご時世、そんなに我慢し続ける家族も少なくなっていると思いますが。そうすることで、勝手に自滅していく場合がほとんどだと思います。<br /> <br /> これ、みんながやるだけで意外に世の中変わっていくと思いますよ。<br /> <br /> ■それじゃ、ヒーラーはどうなの?<br /> この仕組みが分かった時、「じゃあ、ヒーラーは悪者の延命をしているだけなのですか?」という疑問が浮かんできました。これに対して私のガイドから回答があったのですが「ヒーラーは、何に対して奉仕するのか、という目的意識が重要になります。目的は、例えば、苦しんでいる人を助けたい、とか、そういうことになるでしょう。ヒーラーのレベルに対してこのくらいの荒みならば良い方向に導ける、という程度問題があって、本当の悪者、すなわち自分のキャパシティを超えている者に対しては体が無理だと拒絶する筈です。理屈で言えば無制限に受け入れて良い方向に導けるべきですが、そうは言っても、キャパシティの問題はあるでしょう。ヒーリングする時にはオーラの接触があって、ある程度は同質化しますが、どの程度の同質化を許すのかはヒーラーとしてコントロールできなくてはなりません。無制限に相手の荒みを受け入れてしまうようなヒーリングは避けるべきで、ヒーリングの質と量をコントロールできるのがヒーラーの技術として必要になります。」とのことでした。納得です。まあ、私はヒーラーではないですけどね。<br /> <br /> <br /> <br /> Sat, 31 Aug 2019 00:00:00 +0900 心は相手を映し出す鏡。ヨーガの心のオーラ的な解釈 https://w-jp.net/2019/1634/ <br /> スピリチュアルやヨーガ(あるいはヴェーダ)では心(ヨーガで言うところのチッタ)は相手や対象物を映し出す鏡のようなものだと言われています。<br /> <br /> 例えばヨーガスートラの解説書には以下のようにあります。<br /> <br /> 人間は心に映った自分の像を自分とみなす。「インテグラル・ヨーガ (パタンジャリのヨーガ・スートラ) (スワミ・サッチダーナンダ 著)」<br /> <br /> 心が歪んでいたら歪んだ自分だと考え、晴れやかな心であれば晴れやかな自分と考え、喜びに満ちた心であれば喜びに満ちた自分だと考える・・・。そのように一般教育では教わります。しかし、これは誤解だとヨーガは説きます。真の自分は心ではない。真の自分は心に影響されず、心は道具であるから、心がいかように動いても真の自分に影響はないと説きます。喜んでいる時でも落ち込んでいる時でも真の自分は不変であるとヨーガ(あるいはヴェーダ)は説きます。<br /> <br /> ”見る者”つまり真のあなたは、あなたの鏡である”心に映る”。しかし、普通あなたは、真の”自分”を見ることができない。心に色が着いているからだ。「インテグラル・ヨーガ (パタンジャリのヨーガ・スートラ) (スワミ・サッチダーナンダ 著)」<br /> <br /> よって、心を落ち着かせて波のない水面のようにすれば真の自分を見出せる、というのがヨーガの説くところです。まあ、これはこれとしてヨーガでは割と通説になっていると思うのですが、現象としては確かにそうなのですが、鏡と言いつつも鏡っぽくない時もあるので、ちょっと腑に落ちない部分もありました。<br /> <br /> ですが、これをオーラ的に解釈すれば割とスッキリすることに気が付きました。<br /> <br /> ■心とオーラの関係<br /> 以前から数回に分けて書きましたようにオーラが伸びて相手のオーラと混ざると相手のことがわかる、という仕組みですが、これってそのまんまこの「鏡」の話ですね。流派がちょっと違って、オーラは割とスピリチュアルな話で心(チッタ)はヨーガなので割と別々の話として理解していましたが、ふと閃いて両方を比べてみたら割と同じことを言っているのに気がついたのです。そりゃそうですよね、真実は同じ筈ですから。<br /> <br /> ヨーガスートラでは「心の作用を止滅させることがヨーガ」と述べられていて、それがそのままヨーガの定義になっています。いくつかの訳を引用します。<br /> <br /> (2) 心の作用を止滅することが、ヨーガである。<br /> (3) そのとき、見る者(自己)は、それ本来の状態に留まる。<br /> 「インテグラル・ヨーガ(スワミ・サッチダーナンダ著)」より<br /> <br /> (2) ヨガとは心の活動を抑えることです。<br /> (3) その時(思考波が静止している時)、知覚者は自分自身の真の状態に留まります。<br /> 「Meditation and Mantra (Swami Vishnu-Devananda著)」より翻訳<br /> <br /> (2) ヨーガは、心(チッタ: Chitta)がさまざまの形(ヴィリッティ(ス): vrittis)をとるのを抑制することである。<br /> (3) そのとき(集中したとき)、見る者(プルシャ)は、彼自身の(変られていない)状態におちついている。<br /> 「ラージャ・ヨーガ(スワミ・ヴィヴェーカーナンダ 著)」より。<br /> <br /> ■オーラ的なヨーガスートラ定義の解釈<br /> 上記のヨーガスートラの有名な文をオーラ的に読み替えると以下のようになると思います。<br /> <br /> 「自分のオーラの動きを安定させること(がヨーガ相当)です。<br />  その時(オーラの動きが安定して体の近くに留まっている時)、見る者(自己、プルシャ)は落ち着いた状態になる。」<br /> <br /> ヨーガスートラで言う「心が作用している時」とは「オーラがふらふらと発散して動いている時」あるいは「オーラが線のように伸びて相手に繋がっている時」とオーラ的には解釈できそうです。であれば、オーラを安定させてオーラと相手(対象)との接続(ケーブル)を切ることで自己が落ち着いた状態になる、と言うのはオーラ的にみてとてもわかりやすいです。<br /> <br /> ■鏡について<br /> 「鏡」についても同様で、オーラが線のように伸びたり、あるいは不意にオーラが接触して相手(対象)と繋がると相手の情報が伝わってくるのですから、相手の情報が伝わってくる現象を「鏡」と比喩することもできるわけです。私的には「鏡」の比喩よりもオーラの動きで考えた方が随分と分かりやすくてしっくりきます。これは個人差もあるのかもしれませんので、分かりやすい方で理解すればいい気もします。<br /> <br /> オーラと心の動きの関係を理解すればヨーガスートラもすっきりと理解できそうです。<br /> 古典って昔の言葉で読み解くのは難解ですけど、真実がそんなに複雑なわけもないので、実際のところはシンプルなんだな、と言うのが実感です。<br /> <br /> もともと引っかかっていたのは、「鏡」と言いつつも「鏡」のように作用しない時も多々あるので、本当に「鏡」なの??? と言う疑問がズーーっとあったのです。おそらく、子供の頃からずっとこの「鏡」の例えを微妙に思っていました。初めて聞いたのはいつかはもはや覚えていないですけど。半分本当っぽいけど、そうでもない気もしていましたので。識者に聞いても「まあ、鏡というのは比喩ですからねえ」と曖昧な返事しか貰えず。比喩だからなんとなくの理解でいいのかな・・・ と、少しモヤモヤしていたのですが、オーラで考えるとあっさり解決したのです。<br /> <br /> 最初から「鏡」なんて言わずにオーラで説明してくれればこんなに悩むこともなかったのに(苦笑)<br /> <br /> <br /> Sat, 31 Aug 2019 00:00:00 +0900 レムリア時代のアセンション https://w-jp.net/2019/1633/ <br /> 夢で見たファンタジーのお話ですけど、私、おそらく古代レムリアの時代に一度アセンションしてます。 そういう夢を見ました。<br /> <br /> その時、民族の大多数が一気にアセンションしたので、私は特別に修行しているわけでもなかったのですが皆の意識に合わせることで一緒に自然にアセンションしていました。 あれれれれ? って感じで、一気に世界が変わったのです。<br /> <br /> 当時はおそらく今みたいな3次元の世界ではなく、もっとふわふわとした、いわゆる幽体あるいはアストラル体に近い世界だったと思いますので、その世界でアセンションと言っても、少し雰囲気が変わる、みたいな感じ(それでも大きな違いですが)だったように思います。一段階上がるわけですから、それはそれは大きな違いではありますが、今の世界のように3次元ではないのでずっとアセンションしやすい世界だったように思います。<br /> <br /> 近い将来にアセンションが再度あるとしたらまた体験したくて生まれてきているという面も少しありそうです。<br /> <br /> ・・・繰り返しますけど、これは夢のお話ですよ?<br /> <br /> そのまま上の世界で暮らすこともできたのですが、地上の世界に興味があったので地上をふらふらと様子を見に遊びにきて、そのうち興味本位で転生を繰り返した魂が私の過去生みたいです。<br /> <br /> ですから、私の場合は一旦アセンションした後に下の次元に下降した訳です。<br /> <br /> 昔は理由が興味本位だと思っていましたけど、言い換えればそれは学びがまだ必要だったということでもありますね。レムリアの時はみんなと一緒のアセンションだったので一部まだ学び足りない、遊び足りない部分があったのかなと。なので再度、地上に遊びに来た訳です。真面目に言い換えれば「学ぶため」とも言えますけど、学ぶというよりはむしろ遊ぶため、という感じですね。<br /> <br /> そろそろまたアセンションがあるとかないとか言われていますけど、3次元の世界がなくなるような気はしませんね。3.5次元くらいのふわふわした感じの世の中に変わる可能性はある気がしますけど、基本はそう変わらない気もします。(この次元数は単なる比喩なので厳密な数字ではありません。)<br /> <br /> 2つの将来像が見えるのですが、1つはアセンションしない未来で、もう1つはアセンションする未来です。<br /> <br /> どうやら、未来がどうなるのかまだ確定していないような感じです。どうなるのでしょうね。<br /> <br /> ■コギ族のマモス<br /> 本当かどうかはわかりませんが「ハートの聖なる空間へ( ドランヴァロ・メルキゼデク 著)」という本には、1999年までに起こる筈であった大変革がマカバによって回避された事が書いてあります。それによると、元々の計画ではテクノロジー中心文明の人は地球の別次元に行き、先住民族や自然派の人が物理的な地球を受け継ぐ筈だったそうです。この回避は、肯定的なこととして受け止められています。<br /> <br /> これがアセンションと関係があるのかどうかは記載がありませんが、私の夢の内容を踏まえますと、アセンションはこれとは無関係のような感じです。<br /> 大改革が回避されたとしても、それでも、やはりアセンションがあるかどうかは未確定のようです。<br /> <br /> 可能性はまだ半々で、アセンションがずっとないか、あるいは、あるとしても、誰しもがもはやアセンションなど起こらないと思うようになるほど遠い未来に起こる感じです。おそらく、あるとしたらあと数十年以内でしょうか。<br /> <br /> 上のような大改革はなくても、天変地異はあるかもしれないです。それも含めて、まだ未確定のような感じです。<br /> <br /> ・・・・夢ですよ。<br /> <br /> 夢を見たのはいつ見たのか覚えていないくらい昔で、たぶん子供の頃だったと思います。 でも、ふとした時に思い出すのです。<br /> <br /> <br /> Fri, 30 Aug 2019 00:00:00 +0900 オーラと子供の教育 https://w-jp.net/2019/1632/ <br /> 先日のオーラと雑念 の話とその続きのお話 を踏まえた、子供の教育のお話です。<br /> <br /> 学校で子供が苦しんでいるのも、オーラの知識がない大人の理不尽な対応のせいである場合も多い気がします。<br /> <br /> 例えば、学校で「仲良く」というのは本来オーラを安定させて体の近くに留めて「自分」を確立してから自由意志を持って相手と繋がるべきであるのに、学校教育では表面上の仲良さを重視していますのでオーラ的に言えば「オーラを繋げる」教育をしていますので、しっかりしていた筈の真面目な子も悪い子に引っ張られて落ちて行き、いじめっ子がエネルギーヴァンパイアになって支配する構図を助長しています。ここでポイントになるのは「自由意志の尊重」であり、支配体制を作るような関係は避ける必要があるのです。<br /> <br /> 学校というのは社会の縮図であり、社会が支配体制であるが故に学校もその支配体制を維持する為に「オーラを繋げる」「自由意志を尊重しない」という教育になっているのだと思います。きっと学校の先生はこれに反論するでしょうが、オーラ的に言えばそうなっています。<br /> <br /> あるべき国のあり方や、グループのあり方、友達のあり方、学校のあり方。基本的に考え方は同一で、「自由意志の尊重」「オーラの安定、独立」というところを元にすれば、自ずと解決策は出てきます。例えば国であれば「自由意志が尊重される単位で国を分割する」ということになりますし、学校でも「自由意志が尊重される単位でクラスを分割する」ということになるでしょう。<br /> <br /> 子供の自由意志やオーラを無視し、ごちゃ混ぜにして「仲良く」とか言う言葉でオーラをつなげてしまって表面上は仲の良い従属関係を作り、自由意志をなくしてハイハイ従わせる為の教育が世間にまかり通っていますので子供が苦しんでいるのだと思います。<br /> <br /> ただ、社会もこの構図で出来ていますので、子供が抜け出たとしても大人になってから社会の一員で働くのが辛くなってしまうのが困ったところ。子供だけでなく社会の仕組みもこの種の隷属関係を抜け出ないと大人も子供も生き辛い世の中が続くと思います。<br /> <br /> 問題の基本は、大人も子供も対多数が「瞑想をしない」ところにあると思います。瞑想をすることでオーラの発散を抑えてオーラを体の近くに安定させることが全ての基本であるべきなのに、それをしないからオーラが発散したままになり、おかしくなるのです。<br /> <br /> 「いじめ」と言う現象だけを見ていてもこのあたりはわかりません。いじめっ子の目的は言葉では色々と説明があるでしょうし、本人の自覚はないかもしれませんが根本は「オーラのパイプを繋げてエネルギーを吸い取ること」が目的です。その根本を理解しさえすれば、「いじめる(あるいは、嫌がらせ、あるいは、怒鳴る)」とか言う行為は「エネルギーのパイプを繋げる、あるいは、維持する為の手段」になりますから、「いじめる」という行為は従わせる為の「手段」であり、いじめられっ子が大人しく従っている間は「いじめる(あるいは、嫌がらせ、あるいは、怒鳴る)」行為をする必要がないわけです。いじめっ子からすればエネルギーヴァンパイアをする為あるいは維持する為にこそ行動が必要であり、最初は頻繁ないじめが必要かもしれませんが、一旦エネルギーのパイプを繋げてしまえば時々いじめをすればいいだけですから、維持だけでしたら影で時々嫌がらせをするだけでもいいわけですからね。であれば、学校の先生なんてほとんど気付けなくなる場合もあるでしょう。<br /> <br /> 時々は大人が代わりにこのエネルギーのケーブルを切ってあげる必要があると思いますけどね。大人は子供のそのくらいの面倒は見るべきだと思います。「いじめ」という行為を見抜けなくても、オーラに対する理解さえあれば、要はエネルギーヴァンパイアを防げば良いのですから生徒1人1人をしっかりと自立させれば良いわけです。その為に、時々はエネルギーのパイプを切ってあげて、オーラを安定させる助けをすれば良いわけです。色々と現象としては出てくるとは思いますが、根本は結局これだと思います。<br /> <br /> 大人は「いじめる目的は何なのだ?」と子供を問い詰めるかもしれませんし、子供は色々な回答をするかもしれませんけど、そんなこと聞かなくても根本はエネルギーヴァンパイアであることがほとんどです。場合によっては本人の混乱でそういうことしている場合もあるかもしれませんけど、継続的な「いじめ(あるいは、嫌がらせ、あるいは、怒鳴る)」であればほとんどの場合エネルギーヴァンパイアが目的でしょう。<br /> <br /> 大人がこの根本の理解をせずに表面上の仲良さだけを見ていても子供の苦しみは分かりません。基本は、いじめっ子といじめられっ子がいたらお互いに引き離して接触させないことです。表面上の仲良さなんてのも不要です。接触を断ちます。今の学校では「無視」と思われてしまって悪い印象になるのかもしれませんが、オーラ的に自立してきちんと対応できるようになる為には接触させるべきではないのです。数ヶ月あるいは数年という単位になるかもしれませんが。それをしなければ、エネルギーヴァンパイアの関係になるかあるいは不登校になるのかのどちらかです。この場合、自立するまでは「仲直り」などは不要で、きちんと自立するまではむしろ「しばらくの間、お互い相手には接触しないという同意」が必要になります。<br /> <br /> 学校の先生がこのことに理解がなくて改善が見られなければクラス替えの要求あるいは転校しても良いと思います。<br /> <br /> あるいは、今の学校はクラス全員の同質化を前提にしていますから、そもそも変な人がいない学校に行くことですね。田舎では難しいかもしれませんけど。<br /> <br /> 子供が孤立していた時、この種のオーラに理解のない大人は事あるごとに「仲良く」させようとしますけど、オーラの理解があれば「仲良く」なんてのは大きなお世話どころか、害が大きいことがわかるでしょう。オーラに理解のない大人の薄っぺらな「仲良く」なんて、多くの場合、子供からしたら従属関係の強要になってしまうのです。<br /> <br /> 教師が教育をとても勉強すればこのあたりも問題なくなるのかもしれませんが、そんなに色々と勉強しなくても、このオーラの法則さえわかっていれば他の法則を次々に自分で導き出せる筈です。実際、日本の学校では学級崩壊が問題になっていますし、であれば、教師はそんなに勉強できていないのが実情なのではないでしょうか。オーラの法則は簡単ですので、ただ単にその存在を受け入れて理解するのはあっという間です。でも、もしかしたら素養がないとその簡単な法則すら理解できないのかもしれませんけど。<br /> <br /> やっぱり、学校教育から精神世界を追い出してしまったのが問題ですよね。であれば、偏りは色々とあるのかもしれませんけど宗教系の学校、キリスト教とか仏教とか、そういう母体があるところに行かせるのが無難なのかもしれません。精神的な素養がない教師に教えられた子供は荒みますから。<br /> <br /> <br /> Fri, 30 Aug 2019 00:00:00 +0900 霊視とオーラ https://w-jp.net/2019/1631/ <br /> 先日の霊感・霊視のレベルに関する記事の続きです。<br /> <br /> 低級な霊視はオーラが発散している場合にオーラが接触して不意に起こることがあります。<br /> <br /> 以前、オーラと雑念について書きましたが、オーラには各種の情報含まれていますのでオーラが接触した時に入ってくるいわゆる「雑念」とは、いわば相手の状態なわけです。オーラは最初に感覚として入力され、その感覚を心で読み取ることで雑念として言葉として現れてきたり、あるいは、単にその感覚を味わったりします。どちらにせよ、そのオーラの接触により相手のことが分かるわけです。それは、低級な霊視であるとも言えます。<br /> <br /> 単なる感覚や雑念として伝わってくることが多いとは思いますが、受け取る側にその素質があれば映像として見える時もあります。この時、原理は雑念の時と同じです。受取手次第で読み取れる情報が変わってきます。<br /> <br /> ですから、雑念がオーラと関係があるのと同様に、霊視もオーラと関係があります。<br /> オーラの接触で雑念が不意に起こるのと同様に、オーラの接触で霊視が不意に起こることがあります。<br /> <br /> そして、このオーラの接触は、なるべく避けるべきです。<br /> <br /> ■オーラの発散について<br /> 前にも書きましたが、いわゆる霊媒・ミディアム・サイキックな人の中にはオーラが発散して周囲に広がっている人がいますので他者のオーラや漂っているオーラと不意に接触して数々の情報が入ってきますが、本来はオーラを発散させるのではなく、オーラを体の近くにギュッと密接させておくべきなのです。<br /> <br /> オーラを発散させておくとオーラがアンテナになって感覚が鋭くなった気がするかもしれませんが、本来の鋭さとは、ほんのちょっとの接触で多くの情報を引き出せることを言うのであって、やたらとオーラを接触させて情報を無秩序に拾うことを鋭いとは言わないと思います。<br /> <br /> ■霊障<br /> 前の記事で、エーテルというかオーラの筋がスススッと伸びて情報を拾うことと、その時に、オーラが混ざって相手にも自分のオーラが若干残るし、情報を得る時に相手のオーラが自分と混ざる、というような事を書きましたけど、いわゆる霊媒・ミディアム・サイキックが霊障のような症状に悩むのはこのオーラの発散と混合が原因であることが多いです。<br /> <br /> 自分のオーラが発散している場合と相手のオーラが発散している場合とがありますが、少なくとも自分のオーラは何とかしたいところですよね。<br /> 相手のオーラが発散している時は、変な雰囲気を感じたら近寄らないことです。ですが、自分のオーラが発散していたら周囲の人のオーラと次々とぶつかってしまうのでどうしようもありません。<br /> <br /> オーラが発散しないように気をつけていたとしても、カウンセリングで霊視する際には相手のオーラと混ざるので相手の邪気を受け取ってしまうと霊障のような症状に悩むことがあるかもしれません。<br /> <br /> ■「鋭く」「少し」オーラを混ぜて情報を取る<br /> カウンセリングで相手を見るためにオーラを混ぜる際、ほんのちょっとの自分のオーラで「鋭く」相手のオーラのサンプルを取ればいいのに、ごっそりとオーラを混ぜると相手の邪気もごっそり受け取ってしまうわけです。<br /> <br /> まあ、自分がサイキック能力があると思っていてもこの種のオーラの仕組みが分かっていない人も大勢いらっしゃるようですので、あまりオーラの接触なんて気にしていないような人も多い感じではありますが。<br /> <br /> 霊視は、ほんのちょっとのオーラで霊視すればいいのに、ごっそりとオーラ接触しないと情報が取れないようでは、そんな状態でカウンセラーになってカウンセリングするのはまだ早いんじゃないかな・・・ と個人的には思いますが。<br /> <br /> ■意外にこのあたり知られていない?<br /> この種のオーラの仕組みについては意外にスピリチュアル系の人もあんまり言っていなくて、私個人としては子供の頃に幽体離脱して色々な事をその時に勉強したのでもはや常識みたいなものですが(まあ、子供の頃はしばらく忘れていたりもしましたが)、意外にこのオーラ関係の知識が世の中にないなあ・・・ と言うのが印象です。<br /> <br /> 大雑把な知識はあるにしても、どっか微妙にズレているというか。まあ、私の理解も完全ではないとは思いますけど。<br /> <br /> ■基本は、オーラを発散させない事<br /> まず、個人の自分のオーラを体の近くに留める、というのは基本ですよね。<br /> <br /> ■次に、オーラをどう使うのか?<br /> オーラが発散しなくなったら、次は、オーラをどう使うのか? というお話。<br /> <br /> ■オーラのケーブルを切る<br /> オーラのケーブルを繋げたら、切るのが基本。<br /> 勝手に繋がってしまったら、切るのが基本。<br /> <br /> 有名どころで言うと「九字切り」みたいなものがありますけど、そんな大層な事をせずとも、意識の刀で全方向軽く接続を切るだけですし、それは体を動かさずとも意識で行うだけですし。九字切りしている人はめっちゃ気合い入れてるイメージですけど、そんなに気合いもいらなくて明確なイメージがあればいいだけです。<br /> <br /> そういえばカバラ十字とかも四方に結界を張ってますね。<br /> 最近のスピリチュアルですと卵のような殻を体の周囲に作って鏡のようにする、みたいなのもありますね。<br /> 常に防御できる力とイメージの持続力があればいいですけど、多くの人はそんなに意識が続かないでしょうし、一般人は都度切るくらいの方がいいとは思いますが。<br /> <br /> 私が意識していなかっただけで、それぞれの伝統で実は似たような手法があるのかもしれないですね。<br /> 儀式は残ったけれどもその意味が失われた、という事もあるかもしれません。魔法的に「結界」とかいう言葉はよく聞きますね。<br /> <br /> ■邪気<br /> 邪気を受け取ってしまったら、切り離せる場合は切り離します。<br /> エネルギーを入れることがすなわちヒーリングですので、そうして邪気を解消することもできます。<br /> <br /> ■オーラの知識の重要さ<br /> オーラの知識はかなり重要で、これを知っていれば例えば学校での子供の対処も色々と変わってきますし、社会での人との対処方法もかなり違うものになります。<br /> <br /> <br /> 案外、スピリチュアルな人でもこの辺りのオーラの知識って手薄な気がしてきました。<br /> <br /> <br /> Fri, 30 Aug 2019 00:00:00 +0900 霊感・霊視のレベル https://w-jp.net/2019/1630/ <br /> 「神道の神秘(山蔭 基央 著)」で述べられている山陰神道では「霊視」の段階を以下のように分けているようです。<br /> <br /> 1.妄想 ヴィジョンが霞んだ白黒の映像で現れる。的中率は3割以下<br /> 2.幻想 カラーの映像。的中率5割以下<br /> 3.思通(しつう)白黒の中の透明映像。的中率7割以上<br /> 4.観通 山陰神道の先代がわずかに垣間見た程度<br /> 5.霊通 辿り着ける人はほとんどいない<br /> 6.神通 辿り着ける人はほとんどいない<br /> 「神道の神秘(山蔭 基央 著)」より<br /> <br /> 同書によればたいていの霊能者は2番の「幻想」であり、人によってはこの段階で喜んで自らを神のように勘違いするが、そのような勘違いはしないよう諌めている。<br /> <br /> ■低級霊に注意<br /> 狐や狸などの低級霊でも多少の未来は見ることができます。同書ではその辺りも警告しています。<br /> <br /> ■大地の母<br /> 出口王仁三郎と大本教のドキュメンタリーである「大地の母(出口 和明 著)」を昔パラパラと読んだ時に狐に騙されるお話が載っていました。お告げで金銀財宝が埋まっていると言われて探しに行き、大騒ぎをしたものの結局見つからず、狐に騙されていたのだろう、とか、そういうお話だったと思います。<br /> <br /> 昔から、色々なところで色々な人が「狐や狸に騙される」とかいうお話をしているのを聞いたり読んだりしていましたが、おそらくはその話の出所はこの大本教かなと思います。<br /> <br /> ■審神(さにわ)<br /> 神道にはこれらの低級霊を見分けるための審神という伝統があります。<br /> 神道の場合は独立した1人が担当しますが、現世において低級霊に惑わされないためにも誰しもが基本的な審神ができる方が良いと思います。<br /> <br /> 神道的には色々とあるのでしょうが、とりあえず素人が心がけるべきは、「言葉のまやかし」です。一見して高級に見えるメッセージであっても、そこから感じ取れる高級な神妙な清々しい雰囲気がなければさほど高級な存在ではないでしょう。高級な存在であればあるほど神社と同様の清々しい雰囲気を醸し出しています。言葉に惑わされず、雰囲気を感じると良いと思います。<br /> <br /> Thu, 29 Aug 2019 00:00:00 +0900 眉間と鼻頭とアジナチャクラ https://w-jp.net/2019/1629/ <br /> 書物や流派によりアジナチャクラが何処なのか諸説あります。<br /> <br /> <br /> ・眉間(あるいは鼻頭)<br /> ・脳下垂体<br /> ・松果体<br /> <br /> <br /> 脳下垂体も松果体も頭の中央付近の近くにありますが脳下垂体の方が目に近くて松果体の方が頭の中心にあります。<br /> <br /> ■松果体がアジナと言う説<br /> 「密教ヨーガ(本山博著)」には以下のようにあります。<br /> <br /> アジナは脊髄の終わったところに対応して位置し、三つのナディが合流して、ちょうど糸のように結び目のようになっています。この結び目は、ルドラ・グランティまたはシヴァの結び目と呼ばれています。肉体の上ではアジナは松果腺に対応するといわれます。体表の部分では、眉間がアジナと密接な関係にあります。そのため、アジナに精神集中する場合、ふつうは眉間に集中します。「密教ヨーガ(本山博著)」<br /> <br /> これがヨーガで割と一般的な認識のように思います。<br /> <br /> ■脳下垂体がアジナで松果体がサハスララと言う説<br /> 流派によってはこの論も時々目にします。<br /> <br /> ■アジュナ(アジナ)と第三の目が異なると言う説<br /> 「伝導瞑想(ベンジャミン・クレーム著)」には以下のようにあります。<br /> <br /> アジュナ・チャクラは第三の目ではありません。第三の目(心眼)は実際に頭の内部にありますが、アジュナ・チャクラは前面にあります。第三の目、心眼というものは、その弟子自身の活動によって創造されるものです。鼻柱の背後に位置する脳下垂体はアジュナ・チャクラに関係しており、頭の中心にある松果腺は頭部センター(頭の頂点)に関連しています。「伝導瞑想(ベンジャミン・クレーム著)」<br /> <br /> 伝導瞑想は私は詳しくありませんが、この流派は独特の言葉の定義があるようです。用語はヨーガの定義そのものではありませんが、内容は興味深いです。以下のように続きます。<br /> <br /> 瞑想は、これらの分泌腺の活動を徐々に増大します。脳下垂体と松果腺の活動が瞑想を通じて活発になるにつれ、各々から発する輝き、光が拡がり、両者の間に磁気的接触ができ、二つのセンターが重なり合うところに一つの場ができます。そこに第三の目が生まれるのです。そして高度な霊視が利くようになります。これはアジュナ・チャクラそのものとは異なったものです。「伝導瞑想(ベンジャミン・クレーム著)」<br /> <br /> これは興味深い記述です。用語を抜きにしてこの内容を踏まえますと、脳下垂体と松果体の両方が重要になるわけですね。この流派の瞑想方法は以下のように説明されています。<br /> <br /> ですから、伝導瞑想をするとき、あなたは注目を第三の目に保持するのではなく、眉間にあるアジュナ・チャクラに保つのです。そこに何か圧迫を感じるのは、エネルギーがそのセンターを通じて流れているからです。「伝導瞑想(ベンジャミン・クレーム著)」<br /> <br /> この指示は「密教ヨーガ(本山博著)」の内容と類似していて興味深いです。<br /> <br /> ■眉間と鼻頭<br /> バガバッド・ギータの6章は瞑想について記載されており、6章13節には「鼻先を凝視する」と書かれてあります。このことをもって、流派によっては眉間ではなく鼻頭に集中しているようです。その流派には流派なりのやり方がありますのでとやかく言うことではありませんが、「あるヨギの自叙伝」でスリ・ユクテスワは以下のように説明しています。<br /> <br /> 言語ナシカグラム(鼻の先)の真の意味は、いわゆる鼻の頭ではなく、”鼻の上”のことだ。つまりそれは眉間の霊眼の位置をいっているのだ。「あるヨギの自叙伝( パラマハンサ・ヨガナンダ 著)」<br /> <br /> ここでもやはり、眉間の集中のことが言及されています。<br /> <br /> アジナチャクラの位置については諸説あれども、実際のところは何処も変わらなくて、言い方が違うだけなのでしょう。いわゆる第三の目が脳下垂体と松果体の間にできるとすれば諸派によってアジナチャクラが脳下垂体だったり松果体だったりするのも頷けます。どちらも半分当たっているということでしょう。<br /> <br /> ■神智学<br /> 「神智学大要 第1巻 エーテル体(アーサー E.パウエル 著)」には、眉間がアジュナー(アジナ)であると書かれています。<br /> <br /> 同じ神智学系の「チャクラ(C.W.リードビーター 著)」にもアジナーが眉間だと書かれています。<br /> <br /> ■13チャクラ システムにおける脳下垂体と松果体<br /> 「フラワー・オブ・ライフ 第2巻(ドランヴァロ・メルキゼデク著)」には脳下垂体と松果体と13チャクラ システムに関する興味深い洞察が記載されています。<br /> <br /> どうも松果体が「見る」とき、すなわち脳下垂体にエネルギーを投射するとき、第三の眼の知覚が生じるようなのです。「フラワー・オブ・ライフ 第2巻(ドランヴァロ・メルキゼデク著)」<br /> <br /> これも、上記の伝導瞑想の記述と類似していて興味深いです。<br /> <br /> <br /> Thu, 29 Aug 2019 00:00:00 +0900 イグナチオ・デ・ロヨラ(イエスズ会創立者)の内的理解 https://w-jp.net/2019/1628/ <br /> 世俗的な思いは心を虚ろにし不安にするが、霊的な思いは深い平安と喜びをもたらす。不安に満ちた虚ろなあらゆる思いをかき立てるのは悪魔で、静かな喜びを伴う霊的反省を呼び起こすのは神であるという結論に達した。(中略)キリストは王であり、聖人たちはその騎士、そして人間の心は悪魔と神との決戦の戦場である。「イエズス会の歴史(上)(ウィリアム・V・バンガート 著)」<br /> <br /> これはイエスズ会を創設した第一人者であるイグナチオ・デ・ロヨラの基本的な理解のようです。彼が執筆した「霊操(れいそう)」はキリスト教における基本文献の一つになっているようですので、これは彼だけでなくキリスト教を理解する助けになりそうです。<br /> <br /> 「霊操」の日本語訳はいくつかバージョンがあるようですが、手元にあるホセ・ミゲル・バラのバージョンには以下のようにあります。<br /> <br /> 霊操とは、良心の糾明(きゅうめい)、黙想、口祷(こうとう)と念祷(ねんとう)のあらゆる方法を意味する。散歩したり歩いたり走ったりするのを体操と言うが、同じように、霊魂を準備し整えるあらゆる方法を霊操と言うのである。その目的は、まず、乱れたあらゆる愛着を捨てることであり、その後、霊魂のたすかりのために、自分の生活を整えることについて神のみ旨を探し、確かめることである。「霊操(イグナチオ・デ・ロヨラ、ホセ・ミゲル・バラ 著)」<br /> <br /> 同書にはこれ以外にも興味深いことが記載されていて、例えば心の有り様を表現しています。<br /> <br /> 自分の心に現れてくる考えに3種類あることを前提とする。1つは自分のものであり、ただ自分の自由な望みから生まれるものである。他の2つは外からのものであり、一つは善霊から、一つは悪霊から来る。「霊操(イグナチオ・デ・ロヨラ、ホセ・ミゲル・バラ 著)」<br /> <br /> これを理解するとキリスト教の基本的な立場が理解できます。古典的なキリスト教にはハイヤーセルフあるいはアートマンのような概念はなくて、自分かそれ以外か、と言う分類なのですね。この場合、いわゆるハイヤーセルフは善霊に含まれているのでしょう。<br /> <br /> <br /> Wed, 28 Aug 2019 00:00:00 +0900 体のオーラに取り憑いているエネルギー体 https://w-jp.net/2019/1627/ <br /> ここ数日はちょっと体が重くて瞑想しても微妙な感じでしたので、瞑想中に体のオーラを探ってみました。すると、やっぱりいました。<br /> <br /> まず、アナハタチャクラに爬虫類のカマキリみたいなのが取り憑いていてエネルギーを吸っていたのでイメージ上の腕で片側を持ってゆっくりと引き抜いたらハサミで威嚇されました(汗)引き抜いてポイっと捨てたら随分と気分が楽になりましたね。肩の辺りには顔だけの亡霊っぽいのがくっついていました。おー、怖い怖い・・・。これは、意識したら発見されたのに気付いたらしくて自分から離れていきました。肩が重い感じがなくなりました。首には何やら赤い腫れ物のような、血の充血した塊みたいなのがくっついていました。これは取り除くというよりはエネルギーを当てて治す必要がある部分のようです。頭が硬かったのですが、前頭葉の左側からカラスのような黒い鳥が何十匹もバタバタと音を立てて出てきて飛んでゆきました。頭の上には鳥の巣があって、最初は可愛いペンギンの子供かと思ったのですがガチョウの子供のようで、餌を欲しがっていましたので座っている横に移動させました。右脳には可愛いキタキツネと深海魚っぽい魚と縮尺小さめのクジラがいましたので出てきてもらいました。<br /> <br /> 体の色々なところに動物がいるなんて、古事記とかインドの神話っぽいです。瞑想中のお話ですけどね。<br /> <br /> これで、随分とスッキリしましたね。<br /> <br /> こういうのはイメージでしかないですけど、アストラルの世界は何でもありですので、何か混沌としたエネルギーが具現化して取り外しやすくなったのだ、と解釈しています。きっと、本当にそれ自体が寄生していたのではなくて、エネルギー的なものが溜まったかあるいはどこかから拾ってしまって、それが分かりやすい形でイメージ上で具現化したのだと思っています。エネルギーがその質に応じて具現化するのはよくあることです。誰かの術の可能性もありますけど、おそらくは自然発生的なものかなと。<br /> <br /> そういえば、アナハタ優勢になる前日くらいにも似たようなことをしましたね(該当記事)。以前と同様、プラシーボかもしれないですけどそれで効果があるなら全然OKなのです。この種のセラピーも世の中にはあって効果が出ていますしね。人間には科学的に分からないことも多いのですから、科学で証明された以上のことがあっても不思議ではないのです。<br /> <br /> <br /> Tue, 27 Aug 2019 00:00:00 +0900 2つの喜びの謎 https://w-jp.net/2019/1617/ <br /> 感情の喜びと、感情を超えた喜び。<br /> <br /> 感情の喜びはマニプラに結びついている。<br /> 感情を超えた喜びはアジナに結びつている(と推測)。<br /> <br /> 私の場合は後者はまだです。<br /> 先日のカウンセリングやセミナーで見聞きした内容を踏まえますと、アジナへの鍵は「喜び」にありそうです。<br /> <br /> クンダリーニに結びつけると、クンダリーニが覚醒してマニプラ優勢になった頃は、とにかく楽しくてポジティブでした。「熱」という感じです。それは内から湧き出る喜びでした。感情が豊かになりました。<br /> <br /> その後、アナハタ優勢になった今は、マニプラ優勢の時ほど楽しい感情はないですが「暖」という静かな感覚があります。風のような清々しさがあります。清々しさと「暖」は相反するように思うかもしれませんけど、熱感としては「暖」で、感覚としては清々しいので合ってます。清々しいと言うより雑念が少ない、と言った方がわかりが良いかもしれません。<br /> <br /> これからアジナに行く鍵は何かと思って探っていましたが、書物によってはアジナより上は「冷」と結びつけられているので、前は「感情を抑えるのかな・・・?」と思っておりましたが、そうではなく、どうやらアジナ以上への鍵は「喜び」にあるのだとわかってきました。<br /> <br /> マニプラ優勢の時は割と外へと発散する感じでしたが、アナハタ優勢にて少し内側に留まるようになりましたので、この方向性であれば次はもっと内側になるのかなと思います。熱感で言うと外が「熱」であれば中間は「暖」で内は「冷」なのは理にかなっています。オーラの外・内が熱感に対応するとすれば、オーラが内に収まった際のアジナの感覚が「高い波動」「喜び」「満ち溢れる」あたりにある気がしてきました。アナハタ優勢の話と同様に、熱感としては「冷」でも感覚として喜びというのはあり得ると思います。まだ仮定ですけど。<br /> <br /> どうやら「古事記」にもそのあたりの鍵があって、天岩戸の物語はアジナの目覚めを象徴しているのだと先日のセミナーで聞きましたので、なるほどなあ、と思っております。天岩戸は、外の喜びを感じて扉(アジナ)が開く、というお話ですので、天岩戸が開く前は真っ暗で何も見えないのは当然なのだと妙に納得しています。<br /> <br /> <br /> Thu, 22 Aug 2019 00:00:00 +0900 神界の住民と日本人の関係(夢で見たお話) https://w-jp.net/2019/1616/ <br /> いわゆる神界と呼ばれている世界に昔、遊びに行ったことがあります。夢ですけど。<br /> <br /> ■神界の住民と昭和的な日本人<br /> ここが神界か、と思って様子を見たのですが、雰囲気は意外に日本と同じでしたね。昭和的な日本人とでも言いますか。その時に知り合ったおじちゃん・おばちゃんが私の両親として転生したわけですけど。<br /> <br /> 繰り返しますけど、夢ですよ?(笑)<br /> <br /> そこの住民はちょっと頑固だったり、ちょっと人をからかうところなども、まさに日本人(苦笑)<br /> 噂話とか、楽しく過ごすところなども日本人な感じです。<br /> <br /> それより下の餓鬼界とか阿修羅の世界ですと争いや妬みなどが充満しているようですけど、神界になるとそういう低次の欲望は克服されているものの、それでも、他人との軋轢は多少はあるようです。日本の住民の多くは神界出身なのではないかな・・・ と思います。 日本は神の国とか言ったりしますけど、神界と日本は魂の転生で繋がっているようです。<br /> <br /> ですから、神界の住民は天使のような高貴な存在というわけではないようですね。<br /> それよりも、ちょっと頑固な昭和のオヤジ、というイメージが合っています。<br /> 神界にいる女性も日本の元気なおばちゃんみたいな人が多いです。九州の元気なお母ちゃんだったり。みんなパワフルです。<br /> 神界の住民は活力に溢れている気がします。<br /> <br /> ■神界と天使<br /> 天使はまた別のようですね。名前だけで比べますと神界と天使とを結びつけてしまうかもしれませんが、神界と天使は直接的には関係なさそうです。もちろん天使は色々なところに出現しますので神界にもいますけど、神界の住民は日本人ぽい魂が多いのです。<br /> <br /> 50年以上前の私が生まれる前の話ですけど、神界に天使がいるとナヨナヨしている感じを受けるらしくて、ちょっと小馬鹿にされたり、ちょっと疎んじられたりします。その点、日本の社会で天使っぽい人が疎んじられるのと似ている感じがしますね。天使にとって神界や日本はそれほど心地の良い場所ではなさそうです。神界にしても日本にしても、昭和の頑固オヤジっぽい人が人気のようです。今の神界も少しは変わったのかもしれないですけど。<br /> <br /> 今ではそうでもなくなりましたけど、昭和の頃は可愛いものに対してバカにする風潮がありましたよね。ちょうちょとか、妖精とか、花とか、女らしくて美しいのに対する興味は平成とか令和になってから重視されている気がしますけど、昭和の頃はそれよりも元気さ優先だったように思います。昭和の頃は女性の女らしさも男らしさの視点から解釈されていましたが今は女性の視点でそのまま解釈されていますよね。日本の住民と神界の住民とで精神の程度がシンクロしていると言いますか、魂が生まれ変わりによって入れ替わりを繰り返しているのだと思います。<br /> <br /> ですから、天使の住む天使界は別にありますね。アンドロメダな気もしますけど。<br /> 天使界は、地球の進化過程のライン上とはちょっと別な気がするんですよね。<br /> 神界は地球に近い話ですけど、天使界はちょっと離れている気がします。<br /> <br /> ■日本の神々と神界<br /> 神界の中で力をつけて神のように扱われるようになった存在もいれば、もともと大天使から派生して神として扱われる存在とがあるようです。<br /> 神界の生え抜きと天使の神との違い、とでも言いますか。ですので、日本の神々は神界の中でも力のある魂たちとそれぞれ対応しているのが基本ではありますが、日本の神々は必ずしも神界にいるわけではないのです。地上の日本人は「日本の神々」と一括りにしてしまいがちですけれども、神界の神々と天使の神々とで別になっているわけです。<br /> <br /> <br /> これは、夢とは言っても実際には子供の頃の幽体離脱の時に知った内容とその後見た夢で知った内容とを統合しています。<br /> 30年くらい前の話なのでどこからどこまで幽体離脱で知ってどこが夢で知った話かは詳しくは覚えていないのですが、だいたいこのような内容だったと思います。<br /> <br /> <br /> <br /> Wed, 21 Aug 2019 00:00:00 +0900 死んだらどうなるのか? https://w-jp.net/2019/1615/ <br /> 割と色々なところで言われていますけど、死んだらどうなるのでしょうか? というお話です。<br /> <br /> ■死んだらどうなるのか?<br /> 死ぬと魂が体から抜け出ます。<br /> 死んだら無に戻るわけではありません。<br /> <br /> 死ぬことを異常に恐れている人も大勢いらっしゃいますけど、死ぬこと自体はそこまで大変なことでもありません。<br /> 死ぬこと自体よりも、やりたいことを果たせずに死ぬことの方が強いカルマを来世に残すような気が致します。<br /> やり残して途中で死んだり殺されたりしたらその後悔や恨みの念が残ります。そして、それはカルマとして来世にまで引き継がれます。<br /> <br /> 体が死んで魂が抜け出ると、周囲の景色が見えます。そして宙に浮かんで葬式などを眺め、参加している人々が悲しんでいるのかそうでもないのか、何を話しているのかも含めてぷかぷかと浮かびながら観察することになります。よくある臨死体験みたいなものですね。それと同じようになります。<br /> <br /> ですから、自分が男だったとして、妻が夫(自分)の死に対して喜んでいたら夫の魂は「ムキー」ってなるわけです(苦笑)<br /> 逆も同様で、自分が女だったとして、夫が妻(自分)の死に対して悲しんでいないなら夫の愛が本物じゃなかったことに悲しむわけです。<br /> <br /> ですから、死ぬ時まで、そして、死んだ後も結婚相手は好きでいるのが理想ですよね。<br /> そこまでお互いに好き合うのであれば、死んだ後もあの世で一緒に暮らすことになります。<br /> <br /> ■死後の幽界のコミュニティ<br /> あの世の寿命はとても長いので、友人知人や元妻・元夫などの集まるコミュニティは割と巨大になっていくことがあります(苦笑)<br /> <br /> 例えば、元妻が何十人もいたり・・・。それはそれで大勢、ワイワイガヤガヤやって楽しいですけどね。地上みたいにお金の制約もないですし、特に苦労もなく楽しくずっと過ごすことが出来ます。<br /> <br /> 結婚相手が嫌いなら、死ぬと同時にバイバイです。それもまた自由。<br /> <br /> 魂に戻ったらその状態でどこにでも行くことが出来ますけど、基本は友人知人や元妻・元夫など仲が良い人たちがいるところで暮らすことになるのです。<br /> <br /> ちなみに、死んだ時には、ある程度意識が進んだ魂であれば全て心得ていますので移動も自由自在で自分でみんなのいるところまで移動しますが、そこまで目覚めていない魂の場合は誰かが迎えに来ますので迎えにきた人(というか魂)に付いて行って懐かしい人たちと再会します。<br /> <br /> 目覚めの具合にもよりますが、あまり目覚めていないと死んだ後に周囲が見えなくて「真っ暗」で、ほんの少し先までしか見えなかったりします。目覚めの度合いに応じて遠くが見えます。たまに臨死体験で「真っ暗だった」とか言っている方がいらっしゃいますけど、どの程度見えるのかは精神の目覚めのレベル次第かなあ、という気がします。<br /> <br /> 死んだ後、かつての友人知人や元妻・元夫のところに戻るのは嫌だー と思えば、好きにすれば良いです。今生で生きている間に知り合った、気の合う異性とずっと共に過ごしても良いのです。まさに自由です。自由意志次第です。気の合う人たちと一緒にずっと暮らして、また地上に生まれたいと思ったら好きなように生まれ変わります。<br /> <br /> 生前に仮面夫婦を続けていて嫌で嫌でしょうがなかった元夫や元妻と一緒に暮らす必要はありません。<br /> <br /> ■死後の姿<br /> ちなみに、死後の体は自分の好きなように変化できますので、自分が一番美しかった年齢の姿でいることが多いように思います。<br /> ですから、めちゃくちゃ美人さんであればずーっと美人さんの姿のままです。素晴らしい世界。<br /> ちょっとコンプレックスあれば姿を変えるのも自由自在ですけど、割と特徴はそのまま、ということが多い気がします。そうでないと相手が誰なのかよくわからなくなってしまいますし。<br /> <br /> ■精神的な自立が大切<br /> ただし、生前に精神的に従属させられてしまった人の場合は死後もその関係が続く場合があります。<br /> ですから、精神的な自立というのは何よりも大切だと思います。死後まで精神的に従属して強制・操作の関係を続けるなんて嫌ですよね?<br /> <br /> ■幽界から地上を助ける<br /> ちなみに、ある程度のサイキックの力があればあの世から地球の出来事が覗けます。なんとなーく、感じるわけです。何かあれば友人知人や元妻・元夫たちが地上にまで降りてきて、地上に生まれ変わった人の手助けをします。それは、生きている時の手助けも死んだ瞬間(魂が抜け出た時)の手助けも同様です。基本は、友人知人や元妻・元夫たちが助けてくれます。<br /> <br /> 守護霊だけが守っている場合もありますけど、こうして友人知人や元妻・元夫たちが気になって地上の様子を見に来ていることも多いのです。守護霊は地上の生活に疎いこともありますので、地上の生活に詳しいのは友人知人や元妻・元夫の方です。<br /> <br /> 仏教とかで言いますとこのように人間の形が残っている死後の世界は割と低層の世界で、いわゆる幽界なわけですけど、そうは言っても、基本はこのように低い世界である幽界と地上を何度も何度も往復するのが基本なのではないかと思います。そうして、ある程度の浄化と言いますか、ある程度のレッスンを積んでレベルが上がったら更にもう一つ上の類魂のところに戻って、そして再度分霊を作って地上へと降りたり、あるいは、違う世界へとスピリットとして肉体としての体を持たずに生まれ変わったりするようです。<br /> <br /> 仏教では霊の気配があると未浄化霊とか悪霊の扱いをして成仏させようとしますけど、それは無駄だと思います(苦笑)<br /> 成仏というのは何度も何度も何百回も(何千回も?)転生してようやく次の世界へと行くわけですから、そりゃ、幽界に大勢の魂がいて当然なわけです。幽界の魂がいなくなるわけがありません。<br /> <br /> ■守護霊<br /> 守護霊ですけど、割と低い世界である幽界の霊が守護している場合もあるようですけど、それでもかなり修行を積んだ幽界の霊が付いているようです。割合まではわかりませんけど、本当に強力な守護霊は幽界ではなくて霊界のスピリットの方だと思います。人それぞれ、幽界の守護霊がついていたり霊界の守護霊がついていたりするようです。<br /> <br /> 修験道の修行者だったり仏教の行者だったり神道の巫女のような守護霊がついている場合は幽界の中でも上位のクラスの守護霊になりますね。一方、霊界の守護霊ですと地上のことに疎かったりしますけど色々とスピリチュアル的には頼りになります。<br /> <br /> ■生まれる時の計画<br /> どんな人生を送るのか詳しく計画して生まれてくる場合もあれば、なんとなく面白そう、ということで生まれてくる場合もあります。<br /> そして、死ぬ時に残ったカルマを幽体が引き取ります。<br /> ですから、生きている間に苦しい生活はしない方が良いです。それは来世まで引きずりますから。<br /> ということであれば、生まれる時に興味本位だけでなく、きちんと計画した方が良いです。経済的な面だけでも、最低は。<br /> <br /> ■感情や情愛に支配された世界<br /> 幽界はそれほど高い世界ではありませんので、感情や情愛が強い魂が多いです。<br /> 私の属しているコミュニティもその傾向が強くて、みんなワイワイ楽しく暮らしていつも笑っています。<br /> それ以上の世界へとやがては行くわけですけど、幽界のコミュニティであっても十分楽しいところなわけです。<br /> まあ、時には嫉妬とかも出ますけど、基本的にはみんないい人ばかりです。<br /> <br /> ■魂の消滅のお話<br /> それとは別に、ちょっと怖い話をします。<br /> <br /> 地上に生まれている修行者・能力者たちの中には荒っぽい人がいて、空中を幽体の魂が飛んでいると誰それ構わず攻撃して「無」に戻してしまう人がいます。こうなってしまうと魂が根元まで消滅してしまい、生まれ変わりすらできません。まさに文字通り「消滅」です。こんな荒っぽいことはすべきではないと個人的には思うのですが、そのような方が実際いらっしゃるのですから危険性を表明しておくのは無駄ではありません。<br /> <br /> これは地上に体を持って生まれてきている場合は特に心配はいりませんが、体がなくて幽体で地上を彷徨っている時はこのような荒っぽい人に消滅させられてしまう危険性があるということです。ですから、例えば幽体離脱してふらふらとそこらをうろつくのは、実はちょっと危険があるのです。死後に幽体の魂で人の姿をして地上をうろつくのも同様の危険があります。そうそうこんな荒っぽい人はいないですけど、いるにはいるので、運が悪いと遭遇するかもしれません。<br /> <br /> 守護霊として誰かについているのならば攻撃されることはほとんどないようですけど、一人で(1人の魂で)うろついていると未浄化の浮遊霊や悪霊と思われてしまって攻撃される危険性があるということです。消滅してしまうと生まれ変わることが出来ませんので、注意が必要です。知り合いの人生を手助けするなど守護霊的な立場で地上に関わる分にはさほど危険はないと言えます。<br /> <br /> 地上を探検して楽しみたいのならば幽体の霊のままでなくて、生まれてくるのが一番だと思います。三次元の制約はあって色々と大変ではありますけど、この種の「消滅」の危険性はありませんし。何百もの転生の経験が全て無に戻ってしまうと残念という言葉では言い表せないほどの悲劇になってしまいますから。<br /> <br /> <br /> これは私が子供の頃に幽体離脱した際に知ったことを元にしています。<br /> 本当かどうかは保証しません。ただの夢かもしれませんしね。<br /> <br /> <br /> 続き: 魂(幽体)がそのまま転生する場合と、一旦グループソウル(類魂)と一体になってから分霊を作って転生する場合がある<br /> <br /> <br /> Wed, 21 Aug 2019 00:00:00 +0900 私に必要なのは、もっと楽しむこと https://w-jp.net/2019/1614/ <br /> 癒しフェア(東京ビッグサイト)のブースでカウンセリングをいくつか受けました。<br /> <br /> 私に必要なこととして 共通して言えることは、「もっと楽しむこと」だそうです。<br /> <br /> サイキックの方にチャクラも見てもらいましたが、ヴィシュッダまでは活性化しているけれどもアジナとサハスララが淀んでいるとのこと。<br /> <br /> これからアジナに上がっていくためのヒントが「楽しむ」であって、楽しめば頭のてっぺんからポーンと突き抜ける、みたいなことを伺いました。<br /> <br /> こういうのは当たっている時もあれば外れている時もありますので検証が必要ですが、何人かに聞いて共通したお話でしたし、自分でもそれっぽく感じましたので、まあ、当たっているのかなと。確かに、最近はちょっと深刻さが増えていましたので、もっと楽しむことが必要かなと。<br /> <br /> 語弊があるかもしれませんけど、アナハタが優勢になって以降は基本的には元気でポジティブなんですけど、それはあくまでもハートがポカポカとしているとでも言いましょうか。ハートは活性化しても、頭のアジナはちょっとまだ重たいとでも言いましょうか。もともと頭の深刻さがそれなりにあったのです。<br /> <br /> 最初はマニプラ優勢から始まって、その時は「熱」で元気な状態で、次はアナハタ優勢で「暖」で元気でポジティブで、それでもまだアジナはそれほど活性化されていなくて、今後のヒントとしてカウンセリングしてみたらアジナとサハスララのためのポイントが「楽しむ」というキーワードだったのです。<br /> <br /> 以前にも書きましたが、アナハタ優勢になるまでは頭の中の感覚はそれほどなくて、アナハタ優勢以降に頭の中の感覚が出てきましたので以前より頭は随分と活性化されてきてはいるのですが、サイキックの方に見てもらったら、それでもまだアジナとサハスララはそんなに活性化されていないというお話でしたので、妙に納得しました。<br /> <br /> そんなわけで、最近は夢の中で楽しんだり、天使界の物語を思い出したり、宇宙に思いを馳せたり森に行ったりして楽しむよう心がけたいと思っています。まだ足首の骨折が完治していないのであまり遠出はできないですけど。<br /> <br /> <br /> ちなみに、サイキックの方は当たり外れがありますけど、最近は勘でなんとなく良し悪しがわかりますのでそんなにハズレは引きません。以前は色々と試しましたけど。<br /> <br /> ついでにカウンセラーの方に簡単にヒアリングしましたけど、生まれつき素養のある方もいればそうでない方もいて、素養がもともとそれほどなくても学校に通って能力磨いた方が今回は多かったです。サイキック系のスクールの講師をしていらっしゃる方のカウンセリングも受けましたが、それっぽかったですね。<br /> <br /> ■サイキックなカウンセラーとの付き合い方<br /> 基本は、「確かめ」に使うのが良いです。自分の瞑想や夢で見た内容が合っているかどうかの確かめにサイキックなカウンセラーは役に立ちます。ですので、答えが自分の認識と同じかどうか質問してみると良いでしょう。もちろんカウンセラーが間違っていることもありますが、自分が間違っていることもあります。どれが正しくてどれが間違っているのか? 最初は判断が難しいですけれども、カウンセラーというのはサイキックに限らず「確かめ」に使うものだと私は思います。コンサルタントも同じですよね。あくまでも自分が主体で、コンサルタントはその補助なわけです。<br /> <br /> <br /> Tue, 20 Aug 2019 00:00:00 +0900 マリア姫とミカエル <夢で見た天使界の物語> https://w-jp.net/2019/1613/ <br /> その世界では王様と騎士、それにお姫様が王国を治めていました。<br /> 遥かに広がる田園風景。ぽつんぽつんと家があり、そして、城下町があり、お城がありました。<br /> <br /> <br /> <br /> その世界の人は、地球上の人とは違って、より霊体に近い存在でした。<br /> 傷もしばらくすれば治りますし、頭から背筋の部分がコアになっていて、体がほとんどなくなってしまってもコアがある程度残っていれば1週間くらいで復活できるような人たちでした。ですから、意図的に誰かが極限にまで粉々にして破壊してしまわない限り、不死にも近い長い寿命を持っていました。<br /> <br /> 地球の人間から見たら、もしかしたらそれは神々、あるいは、天使のように見えたことでしょう。ここでは、様相および性質の類似からひとまずその生命体を天使としておきますが、キリスト教の天使と同一とは限りません。<br /> <br /> ある城下町に、貴族の天使たちが大勢住んでいました。いわゆる大天使たちです。<br /> 後に貴族や王族になる何人かの天使。そして、城下町や農村には商人や農民たちが住んでいました。<br /> <br /> 貴族の1人は天使の長のような立場で、友人たちはその天使を慕っておりました。仮にその天使をルシファーとしておきましょう。<br /> もう1人、自由な心を持ち、遊び心を持った天使ミカエルがいました。<br /> (キリスト教の聖書の伝説とは関係がないです。夢ですから)<br /> <br /> ルシファーは、日本で言うアマテラスオオミカミのような太陽神に象徴される強力な天使で、その礼儀正しさと秩序を保つ正義感に溢れておりました。イメージとしては徳川家康のような感じです。<br /> <br /> 一方、ミカエルは遊び心を持ち、千里眼の能力を持ち、テレポーテーションの能力を持っていました。<br /> ミカエルはルシファーを始め、他の天使たちと遊ぶのを楽しんでおりました。<br /> 両方とも性別は男性です。<br /> <br /> 皆、大天使の貴族ですので、かなりの高貴な魂を持っており、一人一人がとても住民に尊敬されていました。<br /> ですが、そんな優れた生命体、天使のような存在であっても色々と問題は起こるようです。<br /> <br /> ■ミカエルのいたずら<br /> ある日、ルシファーがミカエルのいたずらに不快感を示しました。<br /> <br /> ミカエルは、遥か昔は千里眼もテレポーテーションの能力も持っていなかったのですが、遥か古代のある日、その能力が開花したのです。そして、その開花した能力で遊んでいたところ、ルシファーがそのいたずらに怒り出したのです。その当時、ルシファーやその他の天使に千里眼やテレポーテーションの能力はなく、それらの能力はミカエルだけのものでした。<br /> <br /> ミカエルは千里眼の能力が現れただけでなく、気分的にも爽快になり、何事をも楽しむようになります。以前よりも遥かに強く深く楽しんだのです。<br /> <br /> ルシファーの友人たちは、ミカエルの変貌ぶりに驚き、理解に苦しみ、やがて、きっとミカエルは悪の心を持ってしまったのだろう、と考えるように至ります。これは実際のところ、誤解ではあるのですが。<br /> ミカエルはただ遊んでいただけですので、そんなルシファーたちの不快感に気付きつつも遊びを続けました。<br /> <br /> 次第に、ミカエルは自分や自分を慕う天使たちと共にとある田園地方に引越しをし、その地方を治め始めます。<br /> ミカエルとルシファーの派閥はそれぞれ分断し、しばらくはその状態で月日が流れました。<br /> <br /> やがて、時々ミカエルとルシファーが接触する度に問題が生じるようになります。<br /> ミカエルの発言を、ルシファーが事あるごとに不快感を示すようになり、戦争の一歩手前にまで事態は進展します。<br /> <br /> ■天使界での戦争勃発<br /> ミカエルは戦争するつもりもありませんでしたが、戦争の火種は住民たちが起こしました。<br /> ある日、ルシファーの農民の軍隊が大挙してミカエルの田園地帯に攻め入ったのです。<br /> <br /> 大天使たちは強大な力を持っており、魔法で戦うことができました。<br /> 一方、農民の軍隊たちは一兵卒として槍や剣で戦いました。<br /> <br /> 最初の戦いは農民の軍隊が衝突し、多くの住民が倒れました。<br /> 霊体に近い存在ですので傷ついても復活できるとは言っても、コアの部分までやられてしまうと復活できません。<br /> ルシファーの軍隊は、ミカエルの農村の住民をコアまで破壊し、復活できない状態にしてしまいます。これが、ミカエルを怒らせました。<br /> <br /> 当初、農民の軍隊の人数は多くなく、せいぜい数百人の軍隊が攻め合う程度でした。<br /> ですので、ミカエルに従う大天使たちが加勢に入って農民の軍隊を助ける、というような状況になったのです。<br /> <br /> ある程度、情勢が決まれば撤退していきました。<br /> <br /> ルシファーの軍隊はテレポーテーションできませんし、千里眼もありませんでしたので、ミカエルは千里眼で敵の進軍を察知し、交戦地帯に数人の大天使と共にテレポーテーションすることで、実際はミカエル側の軍勢はとても少ないのにも関わらずミカエル側は進軍を食い止めていました。<br /> <br /> ミカエルはルシファーに対して怒りはあまり持っておりませんでしたが、住民を復活不可能なまでにコアを破壊する行為は許し難いと思っておりました。<br /> <br /> ミカエルの戦法として、防御を続けて相手が引くまで要所を守るという方法が取られました。前線の敵をテレポーテーションで丘の向こうにまで移動させれば前線の敵の数は減ります。そのうちに敵が諦めてくれるのを待ったわけです。とは言いましても農民兵は数が多かったため、テレポーテーションで敵を遠くにいちいち移動させていてはらちがあきません。そうこうしているうちに、次々にミカエルの農村の住民はコアをやられていくことになります。<br /> <br /> そんな争いを繰り返しているうちにお互いの住民の中に怒りが蓄積されてゆきます。<br /> <br /> 人数の多さに対処しきれなくなり、コアがやられる住民が増えるにつれ、ミカエルはテレポーテーションではなく、住民を宙に浮かせてバラバラに引き裂くことで敵を恐怖させ、撤退させることを選択します。戦局が長引けば長引くほどお互いの犠牲者が増えるばかりです。それよりは、1人の敵をバラバラに引き裂くことで敵を撤退させることができれば、その方が良いと考えました。<br /> <br /> ミカエルの気持ちとしては、こんな戦いは意味がないと思っておりましたが、ルシファーは農民兵がバラバラにされたことを聞いて怒り狂い、ルシファーの周囲の天使たちもミカエルは堕天使になってしまったのだと噂し始めます。ミカエルについてきた天使たちがミカエルの気持ちを本当に正しく理解していたかどうかはよくわかりません。ある程度は理解していたと思いますが、それでも、敵との戦いで気持ちは精一杯だったと言えるでしょう。<br /> <br /> その後、戦いがあっても、農民兵が進軍するとすぐにミカエルがテレポーテーションし、今で言うところの悪魔サタンのような恐ろしい格好をして農民兵を戦わずして退却させていました。「バラバラにしてやるぞ」と脅せば農民兵は退却するだろうと考えたのです。<br /> <br /> これはすぐに効果が現れ、農民兵の戦いはやがてなくなってゆきます。<br /> <br /> 一方で、ミカエルは悪魔として知られるようになります。ミカエルにサタンのイメージが熟成されつつありました。<br /> 実際のところ、ミカエルはそれでもまだ、遊んでいただけでした。やがて遊びも終わって、元の平和な日々に戻るだろうと楽観視していたのです。しかし、そう簡単にはいきませんでした。<br /> <br /> ■マリア姫<br /> その頃、ルシファーの陣営に、とても高貴なお姫様がいました。そのお姫様は、仮にマリアとしておきましょう。<br /> <br /> ミカエルは戦いの最中にも、そのお姫様のマリアがとても気になっており、ある日、千里眼でマリアが部屋に入ったところを見計らってテレポーテーションでマリアに会いに行きました。マリアは突然のミカエルの訪問に驚き、おののきました。ミカエルは、話に来ただけだと言い、マリアの素晴らしさをとうとうと述べ始めます。「その高貴な精神、美しい姿、類稀なる意志の強さ。そなたは私の妻に相応しい・・・」マリアは突然のプロポーズに驚き、回答は保留します。戦時中ですから、敵方に嫁ぐなど考えたこともなかったでしょう。ミカエルが一歩二歩と間合いを詰めると、ミカエルがそのまま自分をさらって行くのかと思って、ドアから逃げようとするマリア。それに気づいたミカエルは、「いや、さらいに来たのではない・・・。話に来ただけだ。わかった。この線からそちらには行かないと約束しよう」と言って、しばらく話をしたい旨を伝えます。<br /> <br /> 実際のところ、マリアにはボーイフレンドがいました。騎士の天使で、アークトゥルスに象徴される勇者の魂を持った男でした。マリアは「私にはボーイフレンドがいます」と伝えました。ミカエルはもちろんそれを知っており、それでも考えておいてくれないかと伝えたのです。マリアは、「考えておきます。しかし、今後、私の部屋には来ないで下さい」と言います。ミカエルはそれに対し、「しかし、他のところでは誰かがいるので私がいることを見られたら厄介なことになる。マリア姫が部屋に入るタイミングで、私が今いるところにテレポーテーションするというお約束はどうだろう」と提案し、了解を得ます。マリアはもう一つ注文を付けます。「千里眼の能力で私の部屋を覗かないで頂けますか?」と言い、それも了承します。<br /> <br /> ミカエルは戦時中、堕天使と見なされておりました。ですので、何もかも他人に強要する悪い天使なのだと誤解されていたのです。その事も理解してもらうために、ミカエルは説明しました。「マリア姫は私のことを誤解しておる。私は自由を重んじている。マリア姫の自由意志に反して結婚を強制したりはしない。マリア姫がアークトゥルスと結婚したいというのならばそれで構わない。全てはマリア姫、お主の意志次第なのだ」と伝えました。<br /> <br /> ミカエルは再度テレポーテーションでその部屋を離れましたが、ミカエルが屋敷の中に直接テレポーテーションしてきたという事実はルシファーの陣営を恐怖させました。<br /> <br /> 実際のところ、ミカエルの力を持ってすればルシファーが油断している時にテレポーテーションして一撃で仕留めることもできたのですが、そのようなことはミカエルはしたくありませんでした。そのまま戦局が治ってくれればと思っていたのです。<br /> <br /> その後、何度かマリア姫の部屋で話がありましたが、マリア姫は返事をせず、やがてはボーイフレンドのアークトゥルスが物陰に隠れてテレポーテーションして来たミカエルを襲うようになりましたのでやがてマリア姫の部屋での対話はなくなりました。<br /> <br /> 戦局は変わり、農民兵は戦わなくなり、天使同士が戦うようになりました。マリア姫の恋人のアークトゥルスとミカエルも戦いました。実際のところミカエルの方が実力は何倍も上だったのですが、もはやミカエルに戦う気は失せていました。<br /> <br /> ルシファーの陣営は士気が高まり、士気というより怒りに近いものに変わってゆきます。<br /> <br /> 戦いだけで言えばミカエルは勝つことができました。しかし、両陣営に多大な被害が出ます。ミカエルはそのようなことをしたくありませんでした。そこで、ある時、マリア姫の恋人のアークトゥルスに捕まることにしたのです。ミカエル側の陣営は驚きました・・・。そのようなことがあるわけがない。<br /> <br /> しかし、それで戦いは終わったのです。<br /> <br /> ■終戦<br /> ミカエルは捕らえられ、ルシファーの前で辱めを受けました。<br /> <br /> 周囲を見渡すと、戦いの功労者であるアークトゥルスの横にマリア姫がいました。ミカエルからしたら屈辱の敗北で、マリア姫もミカエルを一旦は見放した状態でしたが、それでも戦いは終わったのです。ミカエルはそれで良しとしました。ミカエルは反逆者として裁かれました。<br /> <br /> ミカエルの領土はルシファーの領土に併合され、住民たちもそれに従いました。<br /> ミカエルは遠くの丘の上にある牢獄に収容されることになりました。その牢獄にはアークトゥルスが結界を張って逃げられないようにしました。<br /> <br /> 月日は流れ、数年。穏やかな日が戻ってきました。ただミカエルを除いて。<br /> <br /> ミカエルは牢獄でずっと座り、自らの内に眠っている怒りを見つめて瞑想していました。<br /> 流石のミカエルも、この戦いで精神が苦しんでいたのです。<br /> <br /> ミカエルは堕天使として扱われ、時にはサタンとして罵られました。地球上にあるサタンの伝説はこの時のミカエルの評価によるものです。<br /> <br /> ・・・時々、ルシファーやアークトゥルス、マリア姫が見にやってきました。そして、時々ミカエルを罵ったのですが、ミカエルはそれに耐えました。時々、牢獄の結界を破るのではないかと思われるほどの怒りがミカエルから発せられましたが、ある時まで、それは破られることはありませんでした。<br /> <br /> 実際、ミカエルだけでなく、ルシファーやアークトゥルスも友人たちを失って悲しんでいました。<br /> <br /> ある日、アークトゥルスが来て、怒りをミカエルにぶつけました。お前があのような戦いを仕掛けなければ私の友人は死ななかったのだ、と。ミカエルからしてみればルシファーとの誤解がきっかけであり、農民兵の暴走から始まった戦争でしたが、身近な友人を失った悲しみをアークトゥルスはミカエルにぶつけに来たのでしょう。<br /> <br /> 前回はアークトゥルスの怒りを我慢しましたが、2度目は我慢しませんでした。<br /> 時期にしても、終戦からしばらく経っており、もう牢獄の中にいる必要はないとミカエルは自身で判断したのです。<br /> <br /> アークトゥルスが張った結界など、ミカエルにとって脱出は容易でした。<br /> しかし、アークトゥルスは自分がミカエルを実力で破ったと思っており、ミカエルより力が上と思っていますから、とても驚きました。<br /> アークトゥルスは「ミカエルが結界を破れる筈はない・・・」と思い、脱獄者は死刑でしたし、友人たちが亡くなったことでとても怒っていましたので、アークトゥルスの強力な魔法でミカエルを灰にしようとします。 ・・・しかし、その強力な魔法は効きません。これにもアークトゥルスはとても驚き、動揺します。<br /> <br /> ミカエルは言います。「手加減したのだろう? お主は優しい。私が復活できるように、懲らしめるくらいの威力に手加減したのだろう? 構わぬ。私はもう消えて無くなってしまっても良いのだよ。お主の優しい心で手加減などしなくても良い。リミッターを外せ。私が許すのだ。力の限りで私を復活できなくなるくらいまで粉々に吹き飛ばしてはくれないか? 私からのお願いだ。」<br /> <br /> 実際はアークトゥルスはほぼ全開でしたので動揺していますが、「きっとそうだ。気付かぬ内に手を緩めたのだ」と思いました。そして、「わかった」と言い、再度、最大の力の魔法でミカエルを吹き飛ばそうとします・・・。<br /> <br /> 魔法により砂埃が立ち、ミカエルの姿は砂埃に隠れました。きっと吹き飛んだ筈です。魔法が終わり、砂埃が消え、吹き飛んだ筈のミカエルの姿がまだそこにあった時、流石にアークトゥルスは驚きました。しかも、ミカエルは全く防御をしていなかったのです。<br /> <br /> ミカエルとの力の差を見せつけられ、しかも、茶番に付き合わされたアークトゥルスは混乱しました。<br /> <br /> ミカエルがそれに続きます。「クックック・・・。それで終わりか? それではこちらから行くぞ?」<br /> <br /> アークトゥルスは防御しましたが、全く防御が役に立ちません。アークトゥルスの体がどんどんと崩壊して行きます・・・。やがて、アークトゥルスの頭だけが残りました。コアである頭の部分が残っていれば復活ができるのです。もちろん頭まで吹き飛ばすことができましたが、ミカエルは手加減したのです。<br /> <br /> 決着がつき、一部始終を見ていた門番にミカエルが伝言をお願いしました。<br /> <br /> 「戦争は実際のところ私が勝つことができたのだが、犠牲を少なくするためにあえて捕まったのだ。アークトゥルスの首を見ればその真実が理解できよう。<br />  この戦いは何故起きたのか、それが理解できるだろうか? 多くの者たちは私(ミカエル)が戦いを仕掛けたと言うが、私は元々戦うつもりがなかった。戦いは、お主たちの心の中で生まれたのだ。私は、お主たち(ルシファーたち)の行動に対して、なるべく被害がないように対処していただけだ。<br />  私はこれから別世界へと行く。そこは地球という美しい星だ。地球の面倒を見ることに決めた。この天使界はしばらくルシファーに任せる。<br />  何かあったら、私を呼ぶが良い。」<br /> <br /> ■ミカエル、地球へ<br /> そうして、人間の月日で言うと何十億年、何百億年もの遥か昔、天使界からミカエルが銀河を超えて地球にやってきたのです。おそらくは天使たちはアンドロメダ銀河から地球へとやって来ました。<br /> <br /> 実際のところ天使は5次元以上の存在ですので人間的な時間の感覚は薄いので、月日で言うと近代とも言えますし遥か昔とも言えます。それは天使にとって重要ではありません。遥か昔に、このようにしてミカエルがこの地球へとやってきました。<br /> <br /> 天使界では、ミカエルが牢獄から脱獄したことで住民たちがパニックに陥ります。<br /> 捜索をしましたが、天使界には見つかりません。<br /> <br /> もともとミカエルについていた天使たちはミカエルの元に集いました。地球に天使たちが続々と集結することになります。<br /> <br /> 天使界は随分と寂しくなりましたが、それでも大勢の天使たちが天使界で暮らしていました。天使界ではやがてミカエルのことは忘れられ、伝説になって行きます。とは言いましても、天使は長齢ですからルシファーもずっと健在でした。<br /> <br /> しばらく後、天使界に再度、争いの火種ができました。<br /> <br /> 今度は、別の王がルシファーに対立したのです。やがて争いになるのは時間の問題でした。<br /> <br /> 地球の面倒を見て楽しんでいたミカエルは千里眼でそれを察知しました。<br /> そこで、天使界のルシファーに使いを送ることにしました。次のような内容です。<br /> 「ルシファーよ。別の王との間で問題があるようだな。私が問題を解決しよう。それで仲直りとはいかないだろうか」<br /> <br /> 伝言者がルシファーに伝え、ルシファーが同意しました。<br /> そうして、ルシファーとミカエルの謁見が実現したのです。<br /> <br /> ミカエルが謁見の間に現れ、ルシファーに提案します。<br /> 「私が敵の王をここに連れてこよう。それで仲直りと行こうではないか」<br /> <br /> ルシファーは合意します。<br /> <br /> ミカエルは歩いて謁見の間から出て、扉を閉めたらすぐにテレポーテーションし、敵の謁見の間の王の前に片膝をついて跪き、謁見の仕草をしました。<br /> 敵の王は突然の謁見に驚き、いつの間に来たのか気付かなかったので「なんだ、お前は」と問いただしました。<br /> <br /> ミカエルは顔を伏せたまま、「〇〇王でいらっしゃいますか?」と聞き、「そうだ」と回答があるやいなや、「私はミカエルと申します。私とルシファーの元にご同行頂けますでしょうか」と言うとすぐに駆け寄り、敵の王と共にルシファーの元にテレポーテーションしたのでした。<br /> <br /> ミカエルの謁見が終わったばかりのルシファーの謁見室は、諸侯が周囲の柱の近くにたむろして噂話をしておりました。これからどうなるのだろうか、と。<br /> <br /> そんな噂話が終わらぬうちにルシファーの前に敵の王がミカエルと共に差し出されたのですから、ルシファーおよび諸侯の驚きは想像以上で声が出ないほどでした。<br /> <br /> 警備兵が敵の王に気付き、敵の王を捉えようとしたのをミカエルが静止し、敵の王に問いただしました。「再度尋ねる。お主は〇〇王でいらっしゃいますでしょうか?」「いかにも。私は〇〇王だ」。そこでミカエルはルシファーの方を向き、「どうでしょう。〇〇王をここにお連れいたしました。これで仲直りということでよろしいかな?」と聞き、ルシファーの「うむ」という気迫のない返事で仲直りしたのでした。<br /> <br /> ミカエルは一旦そのまま立ち去ろうとしましたが、ルシファーの衛兵が〇〇王を捉えようとしたのを見て、次のように提案しました。<br /> <br /> 「どうかの? これは私からのお願いなのだが・・・。今回はお互いに誤解などあったのだろう。何も武力を使う必要はないではないか。話し合いで解決したら如何だろうか?」と聞き、この理解しがたい状況に呆気に取られていたルシファーと敵の王は「わかった」と同意したのでした。<br /> <br /> ミカエルは謁見の間から離れるために再度歩き出したのですが、ふと、横の遠くの柱の近くにマリア姫と恋人のアークトゥルスがいるのに気が付き、話しかけます。<br /> 「おお。アークトゥルス殿ではないか。心配したぞ。ちゃんと復活できたのだな。手加減して頭を吹き飛ばさずにおいたが、きちんと復活できるか心配しておったぞ。ワハハハハ・・・」<br /> すると、アークトゥルスは自信を失い、俯いたのです。マリア姫はそんなアークトゥルスを見て動揺しました。<br /> <br /> ミカエルはそれを見届けたら、「では、さらばだ!」と叫んでテレポーテーションして去りました。<br /> <br /> 天使界はその後、ルシファーが長らく治めましたが、やがて、ルシファーの権威が落ち、新たな王が望まれるようになってゆきます。<br /> <br /> と言うのも、天使界の住民は遥かに進んだ精神性を持っておりましたので、やがてはミカエルの気持ちを正しく理解するに至ったのでした。元々の争いの原因はルシファーを始め住民たちの中に眠っていた不和が原因であり、ミカエルはそれを映し出す鏡として、私たち住民全員の不和を大天使ミカエルにぶつけてしまっただけなのだ。問題は私たち一人一人の中に眠っている不和こそが争いを作り出しているのだ、と。<br /> <br /> この理解に至ることにより、天使界ではミカエル待望論が巻き起こります。<br /> <br /> ミカエルはその後ずっと地球に留まり、他の星系から来た多くの生命体と共に地球を見守り、時に分霊を地球に降ろして地球の行く末をコントロールしてきました。数多くの宇宙の存在が地球に関わっていますが、そのような高度に発達した存在であってもミカエルの存在に気付くまではかなりの時間を要したようです。今もミカエルはこの地球に関与し続けています。<br /> <br /> やがて、天使界の様相も変わるに連れ、ある日、マリア姫がミカエルのところにやって来ました。ミカエルからしたらマリア姫は敵方でしたのでしばらくは様子を見ていましたが、その後、かなりの長い間、マリア姫はミカエルと共に地球を見守っています。ついにマリア姫もミカエルを選んだのです。<br /> <br /> 天使界もすっかり変わり、かつての天使界の大戦争も伝説として語られるようになりました。<br /> ミカエルにしても、ルシファーにしても、アークトゥルスにしても、今は争ってはいません。<br /> そもそも、皆、かなり高い精神性を持った優れた存在たちなのです。<br /> <br /> ミカエルの分霊は、時には哲学者、時には科学者、時には武将、時には政治家、時には宗教家としてこの地球を導いて来ました。<br /> 同様に、他の天使の分霊もこの地球を導いて来ました。<br /> <br /> 天使界で新たな王が望まれるようになってからはルシファーの王国は既になくなり、王不在の期間が長く続いていました。<br /> 今、ミカエルが王として天使界への帰還が待ち望まれています。<br /> 地球の人類の精神性がある程度の成長を果たし、周囲からの手助けが不要になった時、ミカエルは天使界に帰ります。<br /> <br /> その時、ミカエルはマリア姫と結婚し、天使界の王になるのです。その時は、どうやら近いようです。<br /> <br /> <br /> ・・・・夢ですよ。夢に加えて、私が子供の頃に幽体離脱した時に見聞きしたことを融合しています。流石に30年前くらいの話ですので細かいところはうろ覚えですけど。 まあ、夢だと思ってください。 夢にしてはよくできたお話ですけど。名前は仮です。<br /> <br /> そして、マリア姫(の分霊?)が私の守護霊の1人なのです。<br /> <br /> <br /> <br /> Mon, 19 Aug 2019 00:00:00 +0900 夢で登った霊山とこの世のものとは思えない巨大な大仏 https://w-jp.net/2019/1612/ <br /> 夢でとある霊山にやってきました。すごくリアルな夢で、まるで現実のようです。<br /> <br /> <br /> <br /> 電車に揺られ、バスに乗り、山のふもとで降り、そこからまる一日の山登り。最初はトンネルの階段を登ります。まだ朝で真っ暗です。<br /> <br /> <br /> <br /> ショルダーバッグには水が500ml入っています。トンネルになっている階段を出て登山道かと思っていたらいきなり頂上付近に出ました。<br /> <br /> まる一日登るつもりで朝早く出たのでまだそこは真っ暗です。ライトをつけて標識を見ると、すぐそこにお寺があるようです。<br /> <br /> 近づくとチケット売り場の電気がつき、チケットを売ってくれました。持っているパンフレットを手に、今はどこかをチケット売り場の人に訪ねたらパンフレットが違うらしく、別の厚いパンフレットをくれました。山の各所には50を超えるお寺がぎっしりあるようです。<br /> <br /> ちょっとだけ明るくなってきて、薄っすらとお寺や何かが見えてきました。ひとまずすぐそこにあるお寺に入ろうとして、ふと上を見上げると、とてもとても大きな仏像がお寺の中から顔を出しています。この世のものとは思えない(夢ですけど 笑)大きさと立派さです。<br /> <br /> <br /> <br /> そのお寺にはエレベーターもあるけれども階段もあると言われ、階段から登ることにします。その一階には食堂がありました。食堂には、何故かコイン式双眼鏡のコイン入れだけぽいものが食堂の席についていました。なんだこれ?? 食堂はまだ朝早くてやっていないようで、ひとまず上に登ることに。階段を登っていると朝日が登ってきたようで、日の光を感じました・・・<br /> <br /> <br /> <br /> 朝日を見ようと階段を登っていたら、いいところで目覚しが鳴って起きてしまいました。うーん。登ったところの景色を見たかった・・・。そのうちまた夢で見れるかな。<br /> <br /> <br /> <br /> Mon, 19 Aug 2019 00:00:00 +0900 トランステック(TransTech)と古神道の出会い https://w-jp.net/2019/1611/ <br /> 癒しフェア(東京ビッグサイト)で見かけた興味深いブース。<br /> <br /> <br /> <br /> neten(ネッテン)と言うブースでは古神道を技術で再現すると言うコンセプトにて手軽に瞑想状態を作り出す機械を数多く出していました。私は購入しておりませんが、ちょっと試したところ少しネガティブなものが「抜けた」とでも言いましょうか、少しだけ「お祓い」と同じ効果があったような、なかったような? 展示会ではガヤガヤしていますし、確実な効果がわかったかどうかは微妙なところですが、なんとなく効果があったような気がしました。(主観です)<br /> <br /> 同じノウハウを使ったお水を飲んだらピリピリと感じるものがあって、機械の方よりも水の方が効果ありそうな気もしましたが、ウォーターサーバーはかなりのお値段ということで簡単に手が出る価格ではありませんでした。<br /> <br /> 無料講演会を聞きましたが、古神道の基本的な概念が使われていて、なるほどなー と妙に納得しました。<br /> <br /> 今回の癒しフェアの講演会をいくつか聞きましたが、時代的なものなのか、人々が同期して成長しているのか、無意識というか無というか全体というか、意識より上のレベルに関するお話がこれに限らず多かったような気がします。ですので、他で聞いた話がこっちでも繋がっていて、同じことを違う面から言っていたりして、シンクロしているところも興味深かったです。みんな同じ壁を同時期に超えてきていて、一斉にスイッチが入ってきている感じですね。<br /> <br /> ここの機械は買いませんでしたけど、これに限らず今シリコンバレーで流行してきている TransTech というジャンルは今後とも注目していきたいです。<br /> <br /> <br /> Sun, 18 Aug 2019 00:00:00 +0900 5つの代表的な宇宙人の特徴 https://w-jp.net/2019/1610/ <br /> 「癒しフェア」(東京ビッグサイト)に行ってJCETIという団体の公演を聞きました。中で、興味深いことを言っていました。うろ覚えですので間違っているかもしれませんけど。<br /> <br /> ■シリウス出身者<br /> 猫のような顔(!)<br /> ヨガを好む(!)<br /> <br /> ■プレアデス<br /> 有名<br /> <br /> ■アルクトゥルス(アークトゥルス)<br /> 映画のアバターみたいな顔のイメージ。公演者のグレゴリー・サリバンもここの出身<br /> <br /> ■アンドロメダ<br /> 天使(!)<br /> <br /> ■オリオン<br /> 太鼓や祭り好き<br /> オリオン大戦(宇宙戦争)の生き残り<br /> <br /> <br /> <br /> これが真実だとは私は言いませんけど、動物占いのように星座で人の特徴が表せられるところが興味深いです。シリウスが猫のような顔でヨガを好む、というのは知っている人にその特徴がいくつか見受けられて面白かったです。公演者もアークトゥルス出身だと自分で言っていて、「それっぽい」感じでした。アンドロメダが天使、というのは、なるほどなー と妙に納得。オリオンが太鼓や祭り好き、というのはオリオンビールじゃないですけど、イメージ合ってます。<br /> <br /> この団体はよくわからないですけど、その団体が出版していた 「UFOテクノロジー隠蔽工作」は昔買って(ざっと読んだけですけど)家に置いてあったので方向性は理解したのです。と言うのも、「伯家神道の祝之神事(はふりのしんじ)を授かった僕がなぜ ハトホルの秘儀 in ギザの大ピラミッド(保江 邦夫 著)」という本の中で紹介されていましたので興味本位で買ってみたのでした。 <br /> <br /> 私が子供の頃に幽体離脱して過去生を見た時に宇宙人との繋りもあったので、個人的には宇宙人は親しみがあるものの、今生では直接的な繋がりはないです。そういえば、子供の頃の同級生の父親が翻訳の仕事(ボランティア?)でスイスのUFOコンタクティのビリー・マイヤーとか言う人の本を訳していて、同級生の友人がしきりにその内容を私に自慢(苦笑)してくるのがうざったかったことはありますけど。そう言えば大学生の頃に興味でUFO見学会(苦笑)とかに行ったりもしましたっけ。懐かしい。<br /> <br /> そう言えば思い出したのですが、小学生の頃の同級生の1人が宇宙人らしき人とチャネリングしていて、その人の一定範囲に入ると指向性スピーカーのように思考が漏れてきていて、こちらから話しかけるとそのチャネルを流用できたりしましたっけ。盗み聞きというか盗み思念キャッチとでも言いましょうか(苦笑)。こちらから話しかけたら「誰だ、君は?」とか言われたり。その時は子供なのでその後、変なこと言ったらチャネル切られちゃいましたけど。今から思えば、宇宙船のテクノロジーで強制的にチャネルをオープンしてチャネリングできるのだと思います。子供の頃に簡単にできたので、宇宙人の方からやろうと思えばいとも簡単にチャネリングできると思います。ですから、チャネリング自体は大したことではないですね。めちゃくちゃはっきりした思念波なので、子供の頃で瞑想していなくても明らかに「それ」とわかりますし。ハイヤーセルフの声というか意思の方を読み取るのは難易度がそれよりは高いとは思いますけど、宇宙人とのチャネリングは向こうがテクノロジーでチャネル開いてくれたら誰でも(文字通り誰でも)できると思います。選ばれて役割が与えられたら誰でもできるので、チャネリングしていても特別とは思わないことですね。チャネリングしていて優越意識が育ってきたらお役御免でチャネル切られて終わりだと思います。その人の意識を高める目的でチャネリングしている場合もあれば、役目のためにチャネリングしてくる場合もあると思うので、宇宙人はこちらより何枚も上手ですから、まあ、チャネリングがあっても小手先でどうこうせずに基本に素直でいればいいと思います。そう言えば、「ある瞑想家の冒険( ボブ・フィックス 著)」の中で、著者の師匠のマハリシ・マヘーシュ・ヨーギーがチャネリングに否定的な見解を締めしていましたけど、基本はそうだと思います。普通の肉体のおしゃべりと変わらない、というのが基本ですし。<br /> <br /> 過去生では、その頃はたぶん中世くらいでその宇宙人にとって地球は未知の場所で、地球を知るために地球人とコンタクトしてきて、その時に私の過去生が宇宙人と接触したり、その後、半生を宇宙船で過ごしたり、その後の転生で宇宙船に生まれたり、任務で他の惑星に転生したり・・・ そんな記憶というか幽体離脱した時にそんな過去生も見ましたけど、実際のところどこまで本当かどうか分かりませんからね。宇宙人はもっと昔から地球にコンタクトしている気もしますし。その団体というかグループがその頃からコンタクトを始めたのか、あるいは、私のただの想像の夢でしかないか。まあ、証拠もないですしね。<br /> <br /> 今生では特にその系での使命があって地球に生まれてきたわけではない感じですし。これから何かあるなら、それはそれでいいですけど。<br /> <br /> そう言えば、「アルクトゥルス人より地球人へ」という本は昔買って、興味深く読みました。<br /> <br /> ■マインドフルネス<br /> その団体が出している本で、マインドフルネス瞑想が強調されていました。<br /> 代表者のグレゴリー・サリバンに話を聞いたところ、どうやら最終的な目的は人類の意識を高めることのようです。<br /> であれば、方向性は理解できます。<br /> <br /> ■ハイヤーセルフ<br /> そもそも私のグループソウルというかハイヤーセルフはあっちの世界から来たのだし、地球からみたら宇宙人に分類されるのかも。まあ、大したことではないですけど。あの世界を地球の言葉で何というのか当てはまる言葉を知りませんけど。たぶんアレ、ってのはありますけどね。<br /> <br /> Sat, 17 Aug 2019 00:00:00 +0900 スピリチュアルの3つの系統。インド系、キリスト教系、薔薇十字系 https://w-jp.net/2019/1609/ <br /> 「いかにして高次の世界を認識するか」(ルドルフ シュタイナー 著、松浦 賢 訳)の訳者あとがきによると、霊的な訓練を行うには大きく分けて三つの流れがあると言います。<br /> <br /> ・インド系<br /> ・キリスト教系(グノーシス系)<br /> ・薔薇十字系(神智学等)<br /> <br /> インド系は自我を消し、全てをグル(師匠)に委ねます。<br /> キリスト教系は、キリストの鞭打ちや十字架の磔などを想像して追体験します。この時、キリストが究極のグル(師匠)とみなされ、人間のグルは仲介役になります。特に感情の強い人に有効とのことです。<br /> 薔薇十字系では自我と自由と自主性が重んじられ、グルは存在せず、友人として助言する師がいるだけとのことです。<br /> <br /> どちらにせよ最終的には慈悲の心や人類への貢献の気持ちが芽生えるとのことで、最終地点は同じのようです。<br /> <br /> <br /> 私はインド系とスピリチュアル系の中間くらいな感じです。必ずしも全てグルに委ねているわけでもなく、というか、確固としたグルがいるわけでもなく、それでいて基本はインド系で自我をなくす手法を取りつつも方向的にはスピリチュアル系です。私自身はインド系かなと思っていましたが、グルに委ねないという点で、私はその点では薔薇十字系なのかもしれないです。<br /> <br /> キリスト教系は私自身はしたことがありませんが、イエズス会の創立者の1人の書いた「霊操(イグナチオ・デ・ロヨラ 著)」という書物には具体的な瞑想方法(修行方法)が書かれてあって興味深いです。<br /> <br /> スピリチュアル系がどれに入るのかは微妙なところですが、どちらかというと薔薇十字系(神智学等)になるのだとは思います。スピリチュアル系はいいとこ取りなので、良いところはどれでも取り入れるのだと思います。自我をなくすと言ってもグルに委ねるわけでもなく、キリストの追体験をして神を知ることをしているスピリチュアリストもいますし、自我と自主性を重んじるスピリチュアリストも大勢いますので、薔薇十字系6割+キリスト教系2割+インド系2割、というところでしょうか。肌感覚的なものですが。<br /> <br /> <br /> <br /> Fri, 16 Aug 2019 00:00:00 +0900 雑念とオーラとエーテルコード https://w-jp.net/2019/1605/ <br /> 先日のオーラ交換の記事の続きです。<br /> <br /> 同じ仕組みで、雑念も伝わってきます。<br /> 例えば、遠くで誰かがこちら(私、自分)の噂話をしていたとします。<br /> その際、エーテル体(幽体)が細い線になって伸びてきています。<br /> ですから、噂をすれば相手も気付くのです。よほど鈍感ではない限り。<br /> <br /> こういうのはいわゆる「雑念」ではあるのですけれども、雑念は必ずしも「自分(私)」が原因ではないのです。ですから、雑念が現れたとしても、あまり深刻になる必要はないのです。<br /> <br /> オーラが千切れて飛んできてそれをキャッチしてしまっただけでも雑念は発生します。<br /> ましてや、付き合いのある人が噂話をすれば自分(私)とその人の間にケーブルが繋がるので雑念が入り込んでくるのです。<br /> その雑念がポジティブなら聞いていてもいいのですが、ネガティブな場合は意図的にそのケーブルを「切る」と良いです。やり方は、そう念じるだけで良いです。具体的にカッターのようなものを画像でイメージして、ケーブルっぽいものを切るようにイメージしましょう。それだけで十分効きます。エーテルの世界は念次第でどうにでもなりますから。<br /> <br /> これを、人によってはエーテルコードとか言ったりします。<br /> <br /> 雑念くらいならいいのですが、ネガティブな噂話、しかもそれがこちらを馬鹿にするようなものでしたらかなりきついです。相手がこちらのくだらない噂話をしたりこちらのことをバカにしていたりしますと、その不快な感覚がケーブルを伝わってきます。同じく思念波でやり返すと相手にそれが伝わるのですが、前の記事で書いたように、結局はそれはオーラの交換でしかないのでお互い同じくらいのところに落ちてゆきます。であれば、やり返すべきではなく、落ちないための対処方法は「切る」しかないですよね。<br /> <br /> 相手が精神的な成長を目標にしているのならばともかく、そこらの一般人の噂話に付き合う必要はありません。たとえそれが雑念の上であったとしても。本当にその人と一蓮托生とまではいかないまでもある程度一緒に歩むつもりがあるならばネガティブな雑念に付き合うのも時にはありかもしれませんが、基本的には「切る」のがいいと思います。<br /> <br /> なんでこんなことを書いたかと言いますと、そろそろお盆の長期休みに入りますのでみなさん仕事がなくなって噂話に熱が出る時期だからです(苦笑)<br /> <br /> せっかく長期休みだと思って瞑想でもしてみたら、どっかの誰かが噂話していて雑念が途切れない、なんてことになったら不幸ですので対処方法をちょっと書いてみました。<br /> <br /> 他の対処方法として、オーラで「鏡」のような銀のシールドを卵の形のように360度張り巡らす、という方法もあるみたいですけど、これは初心者は全方向にこんなシールドするのは難易度が高いと思います。挑戦してみてもいいと思いますけど、初心者はきっとうまくいかないです。<br /> <br /> それよりは、雑念が現れたら「切る」方がよっぽど簡単です。<br /> <br /> ちなみに、自分で作り出してしまっている雑念でしたらこの対処方法じゃ駄目ですけどね。雑念の原因は大きく分けて二つあって、どっかから流れてくる(この記事の場合)と、自分の中に眠っている場合です。前者は防御すれば良いですけど、後者はきちっとカルマの元になっているヨーガで言うところのサムスカーラという「印象」に向き合って瞑想するのがいいと思います。<br /> <br /> なんとなくそれと分かった時に切るのが基本ですけれども、そうでなくても、毎日してもいいかもしれません。いつの間にかネガティブなものに繋がっているなんてこともありますから。スピリチュアルって楽しいイメージですけれども、実は結構怖いことも多いのです。<br /> <br /> 悪意を持っている相手でしたら徹底的に対処した方が良いですけどね。でも、雑念程度ならばこんなものです。<br /> <br /> <br /> Mon, 12 Aug 2019 00:00:00 +0900 オーラの交換と浄化と心のふらつき https://w-jp.net/2019/1603/ <br /> ■オーラの交換<br /> 誰かを気にする時、エーテル体(幽体)が伸びてゆき、一部が混ざる。<br /> 混ざることにより相手のことがわかる。<br /> 接続を切り離すと、自分に相手のオーラが残る。相手にも自分のオーラが残る。<br /> <br /> よって、相手を思うだけでオーラ交換がなされる。<br /> これが基本的な仕組み。<br /> <br /> エーテルの筋を自分が伸ばす場合もあれば、向こうから伸びてくる場合もある。<br /> <br /> であれば、自分があまり汚れずに相手を知るには細いエーテルの筋を伸ばす。<br /> 鋭く、細く意識する。なるべく少ないオーラで相手と繋がり、少ないオーラの交換で多くを知る。<br /> <br /> 又、意識しなくとも誰かの近くにいだけで自然にオーラ交換が行われます。<br /> <br /> ちなみに、憎い相手を思えば思うほど同一化するのもこの仕組み。<br /> 逆に、自分より精神的に進んでいる人と付き合うと成長するのもこの仕組み。<br /> <br /> この真実性はオーラが見えなければわからないかもしれないですが。<br /> <br /> ■カフナ式<br /> 上記は私が子供の頃に幽体離脱した時に知ったことですが、似たようなことが「精神世界の教科書(松村 潔 著)」にも書いてありました。<br /> <br /> カフナ式に言えば、エーテル体をターゲットに突き刺す。すると自動的に内容物は漏れ出てくる。この時に、対象をじっと見ている体制で情報は入ってくる訳ではない。(中略)ターゲットにエーテル体という情報ケーブルを接続した後、情報は他者的に流れ込んでくるのではなく、あたかも自分の体験として受け止められる。<br /> <br /> このカフナ式の説明が私の内容にとても似ています。ちなみにこの後、著者は量子論だとか自我とか自己意識だとかに結びつけてこのことを説明していますけど、カフナ式の話はそういうことでもなくて単純にオーラの使い方と性質を言っているだけだと思います。量子論はオーラの元になっている分子の一つ一つのもっと細かなお話ですし、自我だとか自己意識というのもかなり微細なお話ですけど、このカフナ式のエーテルの話はかなり肉体に近いオーラの性質のお話だと思います。エネルギーの法則的なところに似ていると思います。ケーブルが繋がれば情報が流れるしエネルギー的に高いところと低いところが混ざり合って一定に落ち着く、という単純なお話です。<br /> <br /> 完全に混ざり合うことはほとんどないですが、心を許せば許すほど同一化します。繋がって勝手に同一化するのが基本で、自分が許せばそれが加速される、という感じです。<br /> <br /> ■愛し合う人<br /> 恋人同士が同一化するのも同じ仕組みです。<br /> <br /> ■奪う人、奪われる人<br /> 他人の活力を奪って活動する人の仕組みも同じ。周囲にエネルギー供給者を配置して、強制あるいは操作あるいは共依存で離れないようにした上でエネルギーを吸い取る。パワハラな人ほど出世するのもこの仕組み。周囲からパワーを奪う仕組みを構築している。<br /> <br /> ■「個」が重要<br /> だから、精神的に成長すればするほど「個」が重要になる。そうでないと足を引っ張られる。個を重視するのは穢れを避けるため。エネルギーを奪われないようにするため。精神的に成長すればするほど「根源」と繋がって落ち着いてゆきますが、穢れた人との接触が成長を妨げるようになってゆきます。<br /> <br /> ■他人を気にするのをやめる<br /> であれば、電車の中で他人を気にするのはやめる。そうすると穢れが抑えられる。エネルギーのレベルが低い人との付き合いは辞める。そうすることでエネルギーを奪われないようにする。他人からエーテルの筋が伸びてきた場合は意思で叩き落とします。そうすることで穢れを妨ぎます。あるいは鏡のような防御膜を作ってエーテルの筋突き破らせないようにします。あるいは守護霊にお願いしてエーテルの融合が起こらないように監視してもらいます。最後のはそう心の中でお願いするだけです。<br /> <br /> そこまで行かなくても、基本的には細々とした雑念に惑わされるのはやめる。テレビのニュースもあまり気にしない。芸能人にウキウキしない。<br /> <br /> 芸能というのは、その人を(遠隔であっても)気にかける人が多ければ多いほどオーラ同一化して芸能人のエネルギーが高まるのです。その最たるものが戦前の昭和天皇で、日本全国民のエネルギーを集めて奇跡が行えたと言います。戦後に天皇に対する信仰が薄れればエネルギーレベルも下がり、奇跡を起こせなくなったのも当然と言えます。<br /> <br /> 人々がこれらのことに無頓着ですので、例えば品のない芸能人が脚光を浴びることで善人からエネルギーを奪い取るシステムが長らく構築されてきました。芸能ほどではないですが会社の上司部下というシステムもエネルギーを奪い取る構造が見て取れます。<br /> <br /> 本来はエネルギーを奪わないシステムが必要なのですが、この世の中はそうはなっていません。奪い合うシステムに組み込まれている人はなかなか抜け出せない。精神的に穢れている人ほど他人の共感を必要としていますが、共感すれば共感した側も闇に引きずり込まれてゆきます。引きずり込まれるということはカルマでもあるわけですけれども。<br /> <br /> ■精神不安定とオーラ<br /> オーラが混ざるのは、精神的に混乱している時が一番混ざりやすいです。ですから、とても嫌なパワハラ上司が純粋な部下と溶け合って両方の中間くらいに落ち着く、みたいなことがよく起こりえるわけです。精神的に未熟で他人から奪うことで生きている上司がいたとして、その上司を助けようとしても実際はオーラが混ざり合うのです。混ざり合わずにお互いがそれぞれ成長するか、あるいは混ざるか、の二択ではあるのですが、助けるという選択をしただけで助ける方も引きずり込まれてゆきます。<br /> <br /> ■学校教育とオーラ<br /> ですから、特に子供は付き合う相手を選ばなくてはなりません。朱に混じれば赤くなる、というのは真実ですから。<br /> <br /> 学校教育はその点、協調を重視していますから精神性にとっては最悪です。エネルギーヴァンパイアの隣の席を強要されたらどんどん穢れてゆきます。その一方でエネルギーヴァンパイアは回復してゆくでしょうけど、巻き込まれる方はいい迷惑です。拒否できませんし。虐待に近いですよ。一旦混じり合うと、かつて精神的に安定していた人が穢れて簡単に落ちてゆくのです。学校が荒れているのも当然ですよね。真面目だった人がキレるようになるのも同じ仕組みです。そりゃ、穢れを貯め続ければキレもしますよ。<br /> <br /> これからネガティブが世界的に増加するでしょうが、付き合う相手を選ぶのがますます重要になってくるでしょうね。学校選びも重要。同じ学校の生徒は同レベルに均一化します。<br /> <br /> 社会や学校で、エネルギーを奪いたい人は言葉巧みに「交流」だとか「社交性」とかいう罠を張ってきますが、それが本物なのかあるいは強制・操作・共依存のエネルギーヴァンパイアなのか見極める必要があります。子供はなかなか厳しいですけど、登校拒否と転校をもっと気軽できるシステムが必要だと思いますし、学校内でも同一化を先生が強要せずに学校というジャングルの中でそれぞれのグループを守るような運用が必要ですよね。社交とかは同程度のレベルの人の間で行えばいいのです。程度の低い人ほど社交だとか人付き合いとか言ってエネルギーを奪ってゆきますから気をつけねばなりません。<br /> <br /> ■防御法<br /> エーテルの管が延びてきたら、それを避けるかエーテルの何かで防御します。ブログではなかなか書けませんが、守護霊に聞けば教えてくれると思います。エネルギー的なストーカーへの対処は迅速に。何か違和感があれば瞑想してエーテルの管をまず切ること。気付かぬうちにエネルギーのパイプを繋がれていてエネルギーを抜かれている時があります。基本は、エネルギーのパイプを断ち切る、と意識するだけで良いです。<br /> <br /> 世の中には酷い人がいて、平気で足を引っ張ってきます。そのような人への対処は色々と考えられますが、直接対応しますとこのような同一化で自分も引きずり込まれますから、それよりも、守護霊に頼んでその人が自主的に離れるよう仕向けた方がいいと思います。もちろん自分で精神的なバリアを張って物理的に離れるのが大前提ではありますけど。精神的に奴隷にならないようにするのも大事です。最終手段として攻撃あるいは封印に近い方法もありますけどお勧めはしませんしできる人も限られてきます。<br /> <br /> ■経済的自立の必要性<br /> 穢れないためには、経済的自立も本当に重要です。経済的自立していなければ上司の強要に精神的に屈服せざるを得なくて穢れてゆきます。<br /> <br /> ■パワハラとカルマ<br /> メンタルやられる人はかなりの高確率で他人の穢れを沢山引き受けたと思われますし、パワハラでメンタル壊す人の場合は上司の穢れを引き受けているわけですから、本来は上司自身にその穢れを引き受けさせるべきなのです。実際はオーラが部下に移って部下がカルマの償いをすることになります。<br /> <br /> これって、道徳的に考えると上司が何か罰則を受けそうな気もしますけど、部下が「受け入れる」ことをしたがためにカルマは部下に移るわけです。カルマの法則って時に不平等に見えますね。上司は穢れを作り続け、カルマは部下が引き受けるわけです。部下がパワハラで退職しても上司は部下を取り替えるだけです。この世の姿は仮の姿で自分も相手も実は一緒ですからこんなことも起こり得るわけです。まあ、一旦仕組みをわかってしまえばパワハラ上司には関わらずに会社辞めるか部署移動するのが一番だとわかるわけですけど。そんなカルマをわざわざ引き受ける必要はないわけです。基本は自由意志に基づきますので、カルマを引き受ける代わりに高い給与をもらうことを受け入れるとか、そういう判断はできます。ただ、世間では安月給とパワハラが結びついていることが多いように思いますので、この種のカルマの引受は割に合わない気が致します。<br /> <br /> ■2種類の人:穢れの人と浄化の人<br /> この世の中は2種類の人でできていて、穢れを作り出す人と穢れを浄化する人がいます。穢れは誰でも作りますし、浄化もしています。1人の人を一定期間見たときに、穢れを作り出すよりも浄化する方が多ければ「浄化の人」で、浄化よりも穢れを作る方が多ければ「穢れの人」です。数式は「既に溜まっている穢れ」+「穢れの増加」 ー「穢れの浄化」のようになります。穢れが段々と増えるか、段々と減るのかの違いです。「浄化の人」が世界に必要ですが、「穢れの人」の方が勝っている気がします。であれば世の中に穢れはどんどんと増えてゆきます。これからどんどん危なくなっていきそうです。<br /> <br /> ■付き合う相手を選ぶ。自分を成長させるのが基本。他人にカルマを渡さない。<br /> メンタル的に不安定で穢れを増加させるような人とは付き合うべきではなく、個人のすべきこととして自分自身の浄化と心の平静を訓練し、心のふらつきをなくすように努めるべきです。メンタル的な不安定を解消させるために他人と交わるのは穢れを分散させているだけであり、穢れの正しい浄化方法ではありません。今はこの辺りの理解が低いために穢れを引き受ける方が意図せずして穢れを引き受けているだけで、仕組みがよく理解されたら、穢れている人とは誰も付き合いたくなくなると思います。既にその兆候は現れてきていて、底辺のオーラを持った人には近づき難くなっていますよね。底辺のオーラの人とも等しく付き合いなさいとか言うのは学校の先生と道徳の授業くらいで、実際には、そのような穢れを引き受ける必要はなくて、単に離れているべきです。基本は自分の浄化をすることですから、自分の浄化すらできていない人と付き合う必要はないわけです。<br /> <br /> ■オーラを鎮める<br /> オーラが発散していると周囲の穢れたオーラと混ざってしまいますから、以前書いたようにオーラを体の近くに留める必要があります。実際は、その記事のようにお腹に集めるというよりは、皮膚の近くに留める、という感じです。HUNTER x HUNTER の「纏(テン)」の方がイメージに近いです。<br /> <br /> ■穢れは誰のもの?<br /> ですから、穢れている人がいた時、それがその人自身が作った穢れなのか、もらってしまった(貰うことを強要された)穢れ(=カルマ)なのか、という点が重要になるわけです。自分で作った穢れを他人に引き受けてもらいたい人とは付き合うべきではありませんが、他人から穢れを引き受けてしまった人は単に可哀想な人です。後者は助ける意義がありますが、前者は孤立させて自分で穢れを対処させるべきです。実際には複合要因になるわけですけれども。上の数式に加えますと、「既に溜まっている穢れ」+「(自分が原因の)穢れの増加」 ー「(自分による)穢れの浄化」+「他者からもらった穢れ」ー「他者に引き取ってもらった穢れ」のようになります。<br /> <br /> ■穢れを引き受ける人<br /> 時々、他人の穢れを引き受ける役割を持った宗教関係者のような方もいらっしゃいますが、なかなか大変な役割を引き受けてご苦労かとは思いますが、穢れを大量生産して何とも思わない人(本人は苦しんでいるのでしょうが)の苦労を引き受けても、当人は現状のままでいいと思うだけなのでよろしくないと思うのですけれども。それよりも、本人の穢れは本人に任せてカルマの何たるかを本人にわからせる方がよっぽど世のためになるかと思いますけど。まあ、カルマを引き受けるのもその人の自由ですので私が禁止はできないのですけれども。この世は自由意志が優先される世界ですから。<br /> <br /> ■全部自分のせいだと思わなくて良い<br /> 自分で作り出す穢れよりも、拾ってきたり押し付けられた穢れの方が大きいのが現代では普通です。社会がストレスに溢れていて、穢れがバケツリレーのように人から人へと移っています。街を歩けば穢れを拾い、誰かが自分の穢れを引き受けてくれたりします。それが普通の人たちの人生で、社会に翻弄されて生きる人生が大半です。ですから、穢れを自分でなるべく作らないようにして、穢れをなるべく浄化するのは基本ではありますが、穢れを全部自分が原因だと思う必要はないです。<br /> <br /> ■オーラを発散させない<br /> スピリチュアルのことを一旦知ったのならばオーラを発散させずに生活することを基本にします。他人のオーラが発散しているのはどうしようもありませんから、なるべく人混みには近づかない。混雑している電車にはなるべく乗らない。穢れがつかないように人混みでは他人に興味を持たず、自分のオーラをより皮膚に近付けて他の人となるべくオーラが混ざらないように気をつけます。<br /> <br /> ■波動の法則よりもオーラ接触の方に気をつける<br /> よく聞くお話で「似た者同士の法則」だとか「波動が似ていると引き付け合う」だとか言われることがありますけど、もちろんそれもありますが、それよりも、自分のオーラが発散しているか相手のオーラが発散していてオーラ同士が接触して穢れが移ることの方が現代ではよほど多いと思います。昔は人口も少なかったので波動の法則とかの方が重要だったかもしれませんが今は都会の電車も満員ですし道に人が溢れています。地球の人口は爆発してきています。現代においては波動の法則よりも、単にオーラが接触してしまうことで起こる現象の方を気をつけた方がいいと思います。<br /> <br /> <br /> 続き: 雑念とオーラとエーテルコード<br /> <br /> <br /> Sat, 10 Aug 2019 00:00:00 +0900 ゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想は宗教でした[千葉で受講] https://w-jp.net/2018/1478/ <br /> <br /> <br /> そもそも原始仏教ですから宗教そのものですよね。何故に無宗教を名乗っているのか疑問ですが、最近の新宗教はそんなものでしょう。<br /> <br /> ここには信仰と教義があって、異論を許さないので実質は宗教だと判断しました。<br /> 瞑想手法それ自体はアリだと思いましたが、ここに信頼できる指導者はいませんでしたので宗教としても微妙です。<br /> <br /> 私は色々と気付くところがあって面白かったのですが、多くの参加者が混乱してメンタルをやられていましたので、瞑想初心者がいきなりこんな長い瞑想をすべきではないと強く思いました。初心者が長い瞑想を行うと不快な思いが心を支配して混乱をきたすためとても危険です。怒りの沸点が下がってしまって日常生活に支障をきたすかもしれません。一番の問題点は、ここに信頼できる指導者がいないことです。混乱した人を適切に処置せず、処置する意思もなくスルーする方針のようですので、特に初心者はいきなりここで長い瞑想をやらない方が良いと思います。心に混乱をきたしている方に対する運営側のケアは皆無でしたので、知人に聞かれたとしても私がここを勧めることはないでしょう。<br /> <br /> 各種の問題はきちんとした瞑想指導者、グルの存在がいれば適切に方向修正できるものだと思いましたが、信頼できる指導者がいなかったのが何よりも問題だと思いました。<br /> <br /> 長い瞑想を初心者にさせるべきではないとつくづく思いました。瞑想に興味があるなら近所の信頼できる瞑想指導者に定期的に指導を受けるのが良いと思います。瞑想初心者がここに行く意味はあまりないと思いました。ここには、瞑想や精神世界につきものの各種の落とし穴にハマっている人が多く見受けられました。<br /> <br /> 精神世界の初心者によくあることですが、自分のやっている精神修行、例えばこのゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想について特権意識を育ててしまっている人も見受けられました。その特権意識も精神的な混乱の1つで、特権意識やら何やらにしがみつかないと心の平静を保てないのでしょう。であれば、それは「瞑想できていない」ということになるのですが、そのような指導をきちんとしてくれる感じではありませんでした。<br /> <br /> 他のヴィパッサナー瞑想も色々ありますし、指導者がきちんとしているところに定期的に通うのがいいと思いました。その後で、そのグルがここを勧めるならやってみてもいいかもしれませんが、いきなり初心者がこんな長い瞑想を受けたら混乱をきたすか特権意識を持つか、何がしかおかしくなる可能性があります。<br /> <br /> 無宗教を謳っていますが、それは表面上のことで、実際のところは原始仏教を基本にしておりますのでまさに宗教そのものです。<br /> ゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想は上座部仏教(小乗仏教)ですので大乗仏教と違って勧誘はほとんどありません。勧誘がないから宗教ではないと思っている人もいらっしゃるようですが、宗教かどうかはそんなところで決まるわけではありません。<br /> <br /> ゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想は原始仏教なので「神」の概念が希薄なだけで実際のところ宗教であり、いわば「神の概念がない宗教」だと思いました。神を拝めていないから宗教ではないと言う理解は正しくはありません。原始仏教では神を拝めるのではなく自分自身が悟りを開くために修行するのでありますから、それは宗教なのではないでしょうか。方針なり教義なりに帰依するところがあるのでここは宗教です。ここが宗教ではないとしたら仏教も宗教ではなくなります。<br /> <br /> 無宗教を装っていますが、それは単に方便に過ぎませんね。ちゃんと宗教の教義が存在しますし、教義ですから議論など受け付けずに一方的に押し付けますし、他の瞑想などの他の精神修行をしている人を歓迎しないところはそんじょそこらの宗教よりもよほど宗教です。心理学など、宗教以外の学問の分野であれば「何故」の質問について徹底的に答えてくれますが、ここは質問をしても質問を遮って一方的に「そんなことより、指示されたことだけをしていれば良い」と圧迫してくるので、とても宗教的です。ここが宗教なら宗教でもいいので、最初から無宗教なんて言わずに宗教だと言えば良いのです。無宗教なんていうから変なことになるのです。<br /> <br /> ただのセミナーに見せかけていますし、上座部仏教(小乗仏教)ですので勧誘はないですが、思想は宗教なのです。大乗仏教でしたら他人を助けることが自分を助けることに繋がるので勧誘がありますが、上座部仏教(小乗仏教)は他人を助ける前に自分が悟らないと助けられないという思想ですので勧誘は基本的にないわけです。でも、手段が違うだけでどちらも宗教ですよね。特に戦後は、宗教法人なのに宗教ではないと主張する団体もあったり、宗教ではない団体なのに宗教っぽい団体がいたりしますよね。ここが無宗教だなんて信じ込むのは世間知らずか、自分が信ずる宗教が他にあるので方便をわかっていつつもその理屈に乗っかって受講する人か、宗教嫌いかだと思いますよ。でも、他の信仰をここの人に明かしたらいい顔されないでしょうけどね。だって宗教ですから。明確に、他の瞑想をしている人は拒否する方針が書かれてありますし、実際に話をした際もそうでした。「他の瞑想」と書かれてありますが、自分たちが宗教を名乗っていないから「他の宗教」と言えないだけで、実質的には「他の宗教や他の瞑想は拒否します」と言うことだと理解すればいいと思います。ですから、排他的なところもしっかり宗教なのです。そんじょそこらの宗教よりもよほど宗教していますよ。これは、ある意味、褒め言葉です。堂々と宗教を名乗ったら良いと思いますよ。新規受講を考えている方は、ここが宗教だと思っていた方がいいと思いますよ。やっている本人たちは激しく否定するでしょうけど、それをあえて聞くのは野暮というものです。<br /> <br /> <br /> <以下、細かく記載しますが、とても長いです><br /> <br /> <br /> ■予習<br /> ゴエンカ式ヴィパッサナー (Vipassana) 瞑想 受けることにしたのでまずは予習です。<br /> <br /> 昔、私がインドのダラムサラに旅行した時に偶然に瞑想センターの前を通りかかり、その時は何なのかよくわからなかったのだが閉ざされた門から奥を覗き見た時のとてつもないオーラに圧倒されて、「よく分からないが、ここは凄いところだ」と思って後ほど調べてみたらそれがヴィパッサナーの瞑想センターだったのです。<br /> <br /> 本当はそこで受けようかと思っていたのですが最初の説明は日本語で聞いた上で疑問点も日本語でクリアにして正しいやり方を知った方がいいなということでまずは日本で受けることにしました。ダラムサラであれば日本語の音声テープが聞けるという話だったので一通りの説明は日本語でわかりそうでしたし、時期が合えば日本人のスタッフも常駐しているという噂のダラムサラでしたが、スタッフ事情に詳しい友人がいるわけでもなく、であれば、必ず日本人がいるとも限らないので、まずは日本で受けてみようと思ったわけです。英語は普通に話せるので英語で受けても良かったのですが、この種の専門用語の説明を英語で聞いてどこまで理解できるか微妙だったのです。<br /> <br /> 結局、日本で色々と本を読んで予習したので今となってはインドで受けても良かったかなという感じではあるのですが、ダラムサラはまたの機会があれば受ければいいので、とりあえず日本で受けます。<br /> <br /> ヴィパッサナーに関する説明などは色々と本やWebがあるのでそれを見てもらうとして、いくつかメモ的にだけ書きます。<br /> <br /> *** 予習です。まだ受けていませんので間違っているかもしれません。 ***<br /> <br /> ■瞑想の種類<br /> 大分類としてサマタ瞑想(集中の瞑想)とヴィパッサナー瞑想(観察、気づきの瞑想)があります。<br /> <br /> サマタ瞑想:集中型の瞑想。瞑想の対象に意識を集中して対象と合一させる。主体と客体が融合した意識の状態がサマーディ。<br /> ヴィパッサナー:狭義では、気付き(サティ)による瞑想。広義では、サティやサマタ瞑想及び道徳など広範囲の事柄を含む。<br /> <br /> ■最初の3日<br /> 息に意識を集中する。本によっては「鼻腔に意識を集中する」と書いてあるが、意識の集中よりも息に意識を集中することが本質のようです。<br /> <br /> 「ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門」を予習で読んだら「鼻腔に意識を集中する」と理解したのですが、バンテ・H・グナラタナ著の「マインドフルネス」を読んだら、本質は息を観察することのようです。後者の著書「マインドフルネス」の説明はとても分かりやすくて本質が書かれてあるように思えました。<br /> <br /> この最初の3日間は、基本的な集中(サマタ)を育てるためのもの。ヴィパッサナーに入るための準備期間。<br /> <br /> ■4日目以降<br /> 段階を追ってヴィパッサナーを実習してゆく。指導者の指示に従って進めるとのこと。本には詳しく書いていないが、意識を体の各所に当てたりするらしい。<br /> <br /> ■最終日<br /> 期間中にヴィパッサナーのほんの一部でも垣間見ることができればラッキーで、何も意識が変わらずに終わる人もいるようですが、それでも、やり遂げれば何がしかの変化はある筈だそうです。<br /> <br /> ■ゴエンカ式のヴィパッサナー<br /> ヴィパッサナーにも流派があるようなのですが、有名なのはゴエンカ式。<br /> <br /> ■ヨガとヴィパッサナー<br /> ゴエンカ式のヴィパッサナー瞑想はヨガの瞑想と相入れないようです。<br /> ただし、ヨガの体操の部分とヴィパッサナー瞑想は一緒に行っても良いとのことです。<br /> <br /> これはちょっと微妙なところです。<br /> <br /> ゴエンカ式のヴィパッサナーをしている団体の主張として相入れないと言っているのです。<br /> 一方、ヨガの方からすれば、人に合う瞑想は色々あるのですから、好きなものをすれば良いというのが基本にあって、ヨガ式をするのであればマントラとかそれをすべき、という、かなり懐の広い解釈です。<br /> <br /> ■[受講前にまとめた] 現在までの私<br /> 今から約2年前にヨガを始めたのですが、ヨガを始めてから瞑想も始めました。ヨガは段階を追ってサマーディを目指すので、とても理論的です。とは言いましても、しばらくは瞑想も「こんな感じなのかな? 」と、腑に落ちない感じでやっていました。ヨガを始めてから約1年、ヨーガスートラなど書物を漁ったり、センターで瞑想したりしていたらちょっとしたレベルアップがあって、ある時、思考を「止める」と言ったら正しいのか微妙なところですが、「意識が呼吸だけに向いていて考え事がない状態での至福」を感じられるようになり、それを境にして、瞑想がとてつもなく楽しくなってゆきました。<br /> <br /> 瞑想を始める前、あるいは最初は、心が勝手にお喋りして止まらない状態が普通です。呼吸に意識を向けなさい、と言われても、それが最初は出来ているかどうか見分けがつかないことが多いです。そんな時の状態は、だいたい2種類に分けられます。1つ目は「呼吸を観察しているぞ」と心の中でお喋りをして観察している気になっている状態。これは観察できていないです。もう1つの状態は、呼吸を絶え間無く観察し続けて、一瞬一瞬の呼吸の感覚が絶え間無く認識できて、その間中ずっと『心のお喋りをしない』状態を保てているのであれば、観察できています。<br /> <br /> 前者の状態は、割と昔から瞑想で「できていない例」で言い伝えられていることです。心が自己主張し始めて「私は呼吸を観察できている」「瞑想できている」と言い出すのです。心(エゴ, マインド)が自己主張して「私はできている」と言い出すのです。本当に観察できているのであれば、そのような心の動きすらも見つめて、そのまま受け流すことができるようになるわけです。観察できているのであれば、心の動きに惑わされない「静けさ」の雰囲気がその人から漂ってきます。人によっては、その静けさから「高貴な匂い」を漂わせることもあります。これは全て感覚的なものですが、その絶対的な認識は、明らかに「違い」として現れます。最終的な悟りに達していなくても、観察があまりできない人と、それなりにできる人とは、やはり雰囲気が違うものだと思います。これは、オーラの違いとしても現れます。オーラは一次的な感情の乱れによっても変わりますから、オーラがそのまま意識のレベルにはならないのですが、ある程度の判別にはなります。観察できていない人のオーラは大抵濁っていますが、観察できている人のオーラは基本的に綺麗で、日々の生活で時々汚れますがすぐに綺麗な状態に戻ります。<br /> <br /> 昔から、私は瞑想とは関係なしにサマーディをしていたのですが、最近になるまでそれがサマーディだったのだとは知りませんでした。サマーディとはどのような状態なのかずっと分からずにいたのですが、ヨーガスートラに書かれた段階を追って瞑想をするにつれ、サマーディ自体は昔から度々経験していたことを知ったのです。とは言いましても、サマーディにも多くの種類があり、私が何かに打ち込む時に現れるサマーディ、主体と客体が一体化するような種類のサマーディは割と低い段階のサマーディであることも知りました。それはそれである程度(とは言ってもかなりの)至福ではあるのですが、それだけではとても「悟り」などと言えるような種類のものではありません。仏教でもサマーディは段階に分かれています。<br /> <br /> 又、ヨガを始めて少し経った頃から「ナーダ音」が聞こえるようになりました。これは、ある程度の浄化が進んだ「しるし」とされています。(詳しくはこちらを参照)<br /> <br /> クンダリニーに関しては上がっていないものの、俗に「まどろみ型クンダリーニ」と言われるような小さな小さなクンダリーニ経験はしたことがあります。ムーラダーラ・チャクラ(会陰)に電気ショックが走って、その後、アジナ・チャクラ(眉間のサードアイ)に抜けて小さくボンッと爆発するようにしてエネルギーが抜けたことはありますが、噂に聞くような本格的なクンダリーニ経験という訳でもなかったですね。今年の1月6日のことです。クンダリーニは1回で大爆発を起こして上がる場合と少しづつ何度も上がる場合とがあるようなので、後者だとすれば最初の1回目としてはこんなものかもしれません。かと言って、特別何かが変わった訳でもないのですが。今のところ。おそらくはクンダリーニそのものが上がったと言うよりも殻が割れて準備が整ってきた、と言うくらいのものだったと思います。あるいは、(クンダリーニそのものではなく)クンダリーニのシャクティ(性力)が上がったと言う解釈もできますが、そのあたりの明確な判断はできません。<br /> <br /> 今までそれと認識することはなかったですが、生活の中で「集中」という意味でのサマーディは数多く経験していたように思います。ただし、そのサマーディは、サマーディ中は至福になるものの、サマーディを終えてしまうと元に戻る、という一時的なものでした。<br /> 20年以上前から、例えば自転車で旅行している時にたまに訪れる至福の状態ですとか、プログラミングを組んでいる時にロジックと一体になることによるサマーディ。などなど。20年前の私は、言葉として「サマーディ」とは言わないものの、似たような状態を求めていました。<br /> サマーディの体験はカタストロフィに似たものがあって、通常の状態とのギャップが大きければ大きいほど至福が大きくなる、という種類のものでした。ですから、元々ストレスが多かった私にとってサマーディ状態はとてつもない至福だったわけですが、歳をとるにつれ、通常の状態が落ち着いてくるとサマーディ体験は割と軽いものになってゆきました。サマーディ体験を連ねるにつれて、至福の状態に対して違和感も感じるようになってゆきました。このサマーディが永続的になるのかどうかという点に関しても疑問でしたし、サマーディ状態そのものに対しても、外界からの刺激にとても弱いサマーディの状態でしたので24時間続けるには不向きだったのです。サマーディ状態はちょっとした外乱や敵対的勢力の意思で簡単に崩されるだけでなく、驚かされたりすると心身の奥底までとてつもない傷を負いますから、仕事場や外で行うのは危険なことだと思うようになりました。アメリカのように個室ならばいいのですが、日本だと集中している時に意識に邪魔が入ると心にとつてもないダメージを負います。実際に深いダメージも受けたことも多々あります。日本の職場は意識の集中状態に対する認識が薄くて、むしろ、相手を驚かせるほどの元気さが逆に評価されるような「集中できない」「サマーディには危険な環境」の職場や日常生活で無理やりサマーディを追い求めていた訳です。10年くらい前からは、「このままでは危ないと」いう認識に至りましたので色々と環境を変えたり、職場を離れて個人活動することで精神的な安定を取り戻してゆきました。サマーディは、集中力を使って無理矢理に一体状態を作り出しますので、その状態においてはとても能力が高まって、例えばプログラミング等の能力が飛躍的に高まりますが、それは非常に脆いものであるわけです。最近はそれを「ゾーン」状態とも言うのかもしれません。その頃は、自宅あるいは安心できる環境以外ではサマーディ状態にはならないようにしていました。とは言いましても、多くサマーディを体験していると、普段の状態にもそのサマーディが浸透してくるようで、それほど能力低下もなく普段の活動はこなせましたが、やはり集中して結果を出すにはサマーディの方が良いようです。<br /> <br /> というわけで、こんな状態で、ヴィパッサナー (Vipassana)瞑想 受けてきます。さて、どうなりますか。<br /> <br /> <br /> <br /> ■受講しました<br /> <br /> ヴィパッサナー瞑想合宿終了。11泊12日。<br /> 毎日色々な発見があって一人で面白がっていました。<br /> <br /> <以下は個人的な勝手な感想です><br /> <br /> ■面白かった点<br /> <br /> <br /> ・アーナパーナ瞑想は、集中を養うための瞑想という説明だったが、実際には、ヨガでいうところのナディ、気功で言うところの気脈を開く瞑想なのかな? と感じた。<br /> ・アーナパーナ瞑想で主要ナディであるイダとピンガラが実在することを鼻からマニプラ・チャクラ(臍のあたりにあるソーラープレクサス・チャクラ)まで始めて実感。<br /> ・アーナパーナ瞑想で主要ナディであるスシュムナ(背骨に沿って存在)が鼻からアジナ・チャクラ(眉間のサードアイ・チャクラ)、ヴィシュッダ・チャクラ(喉のスロート・チャクラ)、アナハタ・チャクラ(胸のハート・チャクラ)くらいまで通じている感覚があった。<br /> ・意識を当てて緩めるというヨガ手法に通じるものがあった。<br /> ・長く座っていられるようになった。股間が開いてきた。背筋が真っ直ぐになってきた。<br /> ・ヴィパッサナー瞑想は浄化の為の瞑想という説明だったが、それよりも、体内エネルギーのワークのような感じがした。体内エネルギーを感じたり動かしたりして、詰まりを取り除くことで結果として浄化が起こるのかなと。<br /> ・4日目くらいから森の景色が変わってきた。最初は森を見ても狭い範囲しか見えていなかったのが広範囲を同時に見れるようになり、風に揺れる葉の動きが視界全体でそれぞれ動いているさまを俯瞰すると、まるでアメリカ国立公園の美しい風景を見ているようで、千葉の単なる田舎であっても「この世界、自然はなんて美しいのだ」と感じることができた。同じ景色を初日はありふれた日本の田舎だと思っていたので、見方一つで随分と変わるものだなと思った。そういえば似たようなことを南米旅行中に感じたかもしれないことを思い出した。日本にいても見方一つで世界は美しくなるのだなと改めて思いました。視界があまりにもはっきりしてきたため、視界上部を遮っているまつ毛が微妙に視界の邪魔になってきて、まつ毛を切ってしまおうかとも思ってしまったくらいでした。<br /> <br /> <br /> ■席の割り当てについて<br /> <br /> <br /> ・席が狭いので近くにエネルギーヴァンパイアがいたらかなり疲れる筈。今回はいなかったけれども、運が悪いと消耗しそう。と言うのも、席は最初に一方的に指定されてしまって固定なので。<br /> <br /> <br /> ■瞑想方法の指導者(先生)はいるけど精神的グル(導師)はいない<br /> <br /> <br /> ・指導者はいるけどグルがいないから皆が勝手にやっているという感じ。指導者はいて、決められたやり方を守るように指導はするけれども、個人ごとの状態を見るわけではなさそうなので、私はちょっと微妙に思った。グルであれば個人の状態を見て適切な指示を下す筈。<br /> ・指導者はグルではないです。私が指導者に対して質問をして回答を得た後、確認のため「私はこんな感じの経験をしました。まず最初に...」と説明しようとしたら言葉を遮られ、「そんなことはするな。試すな。言われたことだけをやれ」と一方的に言われて、自分のことを説明する感じではなかった。一段上に座っているところから話しかけられるので、話を聞いてもらうという感じではない。この一方的な感じは弟子に寄り添うグルではなく、単にやり方を教えつける「教師」でしかない。<br /> ・指導者は外国人。何となくホームシックっぽい? ある程度の真理を得ていると言う感じでもなく、海外にいるそこらのおっちゃん。オーラもあまり感じない。よくいる教師という感じ。<br /> ・指導者に質問をした時、鼻でフッと笑って見下している感じが伝わってきて微妙だった。瞑想指導者と言えばそれなりに高い瞑想の境地にあって静寂の極致にあるのかなと勝手な想像をしていたのですが、実際には、瞑想初心者(スピリチュアル初心者)にありがちな特権意識が育ってしまっている感じでした。瞑想でその特権意識を無理やり抑えているけれども指導をする時は顕在意識が出てくるのでエゴが見え隠れするのかなあ、という気もしました。グル(精神的指導者)というよりも、テクニカルな瞑想手法を教えてくれる教師と思った方が良さそう。<br /> <br /> <br /> ■アーナパーナ瞑想が軽視されている印象<br /> <br /> <br /> ・アーナパーナ瞑想からヴィパッサナー瞑想に移行するタイミングは人それぞれ違う筈で、それをグルが見極めると本当は良さそう。指導者はいるけどグルはいない。人によっては何年もアーナパーナ瞑想でもいい筈。全然集中できなかったと落ち込んでいる人がいました。<br /> ・アーナパーナ瞑想はここでは割と軽視されているような印象ですが、実際のところ、かなり奥深いと思いますよ。<br /> <br /> <br /> ■イダとピンガラおよびスシュムナの感覚<br /> <br /> イダとピンガラはヨガで言うナディ(エネルギーの通り道、気道)で、スシュムナ(背骨に沿って存在)の周囲をぐるぐる回って存在しています。この3つのナディが主要なものです。一番重要なナディがスシュムナ、次にイダとピンガラです。<br /> <br /> <br /> ・書籍によってイダとピンガラの経路は微妙に違いがあるのでどれが正解なのかよく分からなかったのですが、今回感じた自分の実感と照らし合わせてきっとこれだ、と言う感覚を掴むことができました。<br /> ・スシュムナも今まであまり感じることはなかったのですが今回は少し感じました。<br /> <br /> <br /> ■本来はサマーディを極めた後に行う瞑想<br /> <br /> <br /> ・ブッダの瞑想。本来は集中のサマーディを極めてからやる瞑想だがそれ以前にしてしまってもそれなりの効果はありそうですが、あまりにも早すぎると魂の密度が薄くなって空っぽになってしまいそう。何故そう思ったのかと言うと、ヴィパッサナ受講者やスタッフの、特に女性を見ていてそんな気がしたから。存在が薄い感じがします。ヴィパッサナー瞑想は本来は、奥底に最後に残ったサンスカーラ(カルマの種)を浮かび上がらせる瞑想なのでしょう。95%浄化されている人が残りの5%を浄化するために奥深くのサンスカーラ(カルマの種)を浮かび上がらせるのでしょう。でも、50%浄化されている人が残りの50%を浄化しようとしたら空っぽになり兼ねません。後者であればヴィパッサナーの前にアーナパーナ瞑想なり何なりで浄化をまずすべきなのかなと。オーラ的に説明すると、まずは自分のオーラをしっかりと中心に集めて安定させてからでないと次のステップに進むべきではないと思います。精神やオーラの安定がアーナパーナ瞑想で、それだけをすべき段階の人が先走って次の段階であるヴィパッサナー瞑想をするから空っぽになるのかな、と。 とは言いましても、勝手に私がそう思っただけですけどね。行うべき瞑想を見極められるグルがいれば素晴らしいのに、グルがいないのが残念なところ。他のヴィパッサナーはどうなのかな。ゴエンカ式ではないヴィパッサナーもあるので。<br /> <br /> <br /> ■他瞑想をしている人に対する態度<br /> <br /> <br /> ・他の瞑想をしている人はあんまりウェルカムじゃないのは噂通り。<br /> ・ヨガをしたら聞こえるようになったナーダ音について聞こうと思っていたのですが、指導者に他の質問をした際にヴィパッサナー以外を聞ける雰囲気でなかったので結局聞かなかった。コースマネージャーにも聞こうとしたが、前置きとしてヨガ瞑想していると言ったら一方的に話を遮って話し始めて、ヨガ瞑想してるならそれをすれば良くて、両方するのは良くないですよ、と言われて一方的に壁を作られたのでこのような特殊なことを聞く感じではなかった。<br /> ・ゴエンカ式のヴィパッサナーは他の瞑想をしている人を拒絶しますが、どうやらテーラワーダ式のヴィパッサナーやキリスト教的ヴィパッサナーはそうでもないっぽいです。<br /> ・私は、「手法」としては他の瞑想と組み合わせることは基本的に問題ないと感じましたが、それよりも、この宗教団体モドキの「教義」によって禁止されているのだと理解しました。宗教団体モドキですから、教祖モドキが禁止と言えば禁止なわけです。<br /> ・ゴエンカ式ヴィパッサナーやっている人は指導者をグルとは言わないみたいですが、グルっぽいゴエンカ氏あるいはグルっぽい人に従うのなら、それはそれで良いでしょう。それも一つの選択です。でも、ゴエンカ自身が「自分はグルではない」と言っているようだから受講者自身がグルを頼ることができなくなり、理屈を自分でこねなくてはならなくなり、自分で他の瞑想がダメな理由を言わなくてはならず、それ故に、ドツボにハマっているような気がします。受講者は、それがわかるレベルにはそうそう達しないでしょう。グルであれば「グルがそう言っている。私はグルを信頼している」で終わりなのに、変に理屈をつけてドツボにハマる。だからヒステリーになる。グルグルと回ってしまうわけです。ゴエンカ氏も罪作りですね。<br /> ・上に書きましたように、ヴィパッサナー瞑想をすることで自然がとても美しく見えてワクワクしている気分で最終日を迎えたのにも関わらず、コースマネージャーにちょっとヨガ瞑想のことをたったの「1分」質問しただけで簡単に半ギレされて軽く怒鳴られて、それは私にとって予想外のことだったのでハートに防御が入っていなくてかなり神経がやられてしまった。1分でキレるなんておかしいでしょ。よって、その半ギレによって「自然がとても美しく見えてワクワクする気分」がどこかに吹き飛んでしまい、コースマネージャの半ギレをそのまま受け取ってしまったオーラが最終日は私の中に少し残ってしまった。よって、私と話した他の人もそのどす黒いマネージャーのオーラを間接的に受け取ってしまっていたかもしれない。他の精神ワークをしてはいけないと言う禁止事項があったので通常であればこんな時にするような浄化などをすることができず、仕方なく期間中に教わったことで対処しようとしたが、それだと半ギレされて受け取った黒いオーラを完全に浄化するには至らなかった。やれやれだ... 勘弁してくれ。ゴエンカ師はよく怒鳴っていたというので、おそらくゴエンカ式は怒鳴るのが許されているのでしょう。それが最初からわかっていればそもそもここに行かなかったかもしれないのに。怒鳴ることが正当化されているような団体はロクでもないです。<br /> ・私の昔からの知り合いで、京都のセンターが出来る以前から瞑想していて、建設のために寄付したような人であっても同様のことを言われて足が離れたと聞いていましたので、千葉と京都とどちらも同じ方針のようです。ゴエンカ氏が明確にそう言っていますし、規約でも「他の瞑想をしている人は奉仕者として参加できない」と言っています。その、私が話を聞いた、他の瞑想をしている人は、「今回は参加しても良いですが、どちらか片方の瞑想だけにして下さい。何があっても責任を取れません」と言われたのだとか。次回はマネージャ次第で参加を断られる可能性を示唆しているっぽい感じだったそうです。責任のことを言うのは、やはり、集中して瞑想を続けると窮地に陥る時も多々あるのでしょう。瞑想に関しては危険性は確かにあるので、自身が把握していない瞑想をしている人に関しては責任が取れない、というのはわかります。であれば、そう言えば良いのであって、他の瞑想についてゴエンカ氏がつらつらと問題点を連ねるのは微妙です。それよりも、自分たちがやっている手法以外のことは分からないので責任が取れないから受講させることはできない、ということであればはっきりとそう言ってくれた方がわかりが良いです。グダグダと理由をゴエンカ氏が並び立てるよりよっぽどわかりが良い。瞑想には確かに多くの危険性があると思うので。講義の中でも安全性について説明が多くありました。グルがいれば安全なやり方を組み合わせて弟子にやらせることができるのですが、それでも瞑想であるからには危険性は残るでしょう。それだけの覚悟が本来は瞑想に必要なわけですが、それを技術的な手法にしてしまったのは一長一短ありますね。ここのヴィパッサナーやっている人が他の瞑想がいけない理由をいくら連ねても説得力に欠けます。それを判断できるのはグルのレベルの人だけなのですから、素直に「自分はよく分からないけれども、グルのゴエンカ氏がそう言っているので従っている」とでも言ってくれた方がよほど素直でわかりが良いです。同様に、グルにヴィパッサナーを勧められたのだとしたらその理由を真似っこして言うのではなく、そのまま「グルが勧めたのでやっている」とだけ言えばいいのであって、グルが言った理由をおうむ返しで言っても説得力がないのです。グルが自分にヴィパッサナーを勧めたと言う人が受講者にいて話をしたのですが、他の瞑想のことを馬鹿にしてくる感じでした。他の瞑想は意味がなくて、日本人にはヴィパッサナーだと信じ切っており、他の瞑想をしている人を見下している感じでした。せっかくヴィパッサナーを10日間受けたのに結果がこれでは残念すぎます。これも素直に「グルが私に勧めたので、私はグルに従っている」と言えばそれで十分なわけです。グルは貴方にそう言ったのであって、他の人に勧めたわけではないのですから、ヴィパッサナーが貴方に良いとグルが言ったとしても、グルとしては他の人に言ったわけでは決してないでしょう。それを、他人も同様と思ってしまうのであれば、その受講生は所詮はそのレベルです。<br /> ・そう言うわけで、他の瞑想をしている人に対しては組織は意外に排他的。いや、噂どうりなのかも。他の人の話を聞くと、「そのことを言うと面倒なので最初から他の瞑想していることを言わないで参加する」と言う人や、奉仕者をしている人であっても同様に「言わずに参加している」と言う人もいます。私は正直に直球の質問をしてみたら、上のように、あっけなく壁を作られてしまいました。<br /> <br /> <br /> ■かつて、ブッダの時代はヴィパッサナー瞑想は特別だった。<br /> <br /> <br /> ・ゴエンカ式ヴィパッサナーは、ブッダの時代にまで遡って、ブッダの時代にはヨーガよりブッダの方が優れていたと主張し、だから今でもブッダの手法が優れていると主張しています。何故かは知らないが、今もヨーガは当時のままであることを前提に話をしています。ゴエンカ式ヴィパッサナーと比べるべきは当時のヨーガではなく現在のヨーガではないのか?<br /> ・ヨーガはブッダの時代を経てシャンカラチャリヤや大勢の偉人により柔軟にブッダの意見を取り入れており、ヨガの瞑想はもはやブッダの時代のように「集中のみ」ではなくなっています。というか、ヨガの瞑想が集中というのはある種の誤解というか分かりやすさのための初心者向けの方便であって、最初はそういう理解で良いけれども、聖典(古典)の解説書や修行が進んでいる人の本を読むとそんな薄っぺらではないことがわかります。各種の書物を読むと、ブッダの言っているヴィパッサナーの手法もヨガ瞑想には余すところなく取り入れられており、ゴエンカ式ヴィパッサナーの言うところの「ヨーガは(マントラなどで)集中しか行わない単純な瞑想」なんてのはかなりの偏見に満ちています。ヨーガにとって「(マントラへの)集中」は瞑想のほんの始まりにすぎない。<br /> ・現代においては、ヨーガと原始仏教を区別することにそれほどの意味があるとは思えない。どちらも古典ではないか。<br /> ・私には、ヴィパッサナー瞑想とヨガ瞑想がそれほど違うとは思えない。もちろんやり方は違うが、本質は同じではないか。これは、私が短くも瞑想を体験して、特にナーダ音に関する認識を経て感じた現時点での結論。<br /> <br /> <br /> ■ヨガ系の人から見たヴィパッサナー瞑想<br /> <br /> <br /> ・マントラなどのヨガ瞑想も集中系(サマタ系)だとよく言われますが、それは「最初」だけの話で、瞑想が進むにつれヴィパッサナー瞑想になってゆきますので、実際のところ、ヨガ瞑想とヴィパッサナー瞑想はそうは変わりません。<br /> ・ヨガ系の人の話を聞くと、ヴィパッサナーについて概ね肯定的。他の瞑想者の参加を拒否しているのはヴィパッサナー側のみ。ヨガ系の人はあまり「よくない」ということを言わなくて、「良い」と「凄く良い」しか言わない人が多いので、そういう意味でヴィパッサナーを「良い」と言っている人が多い感じです。もちろん「凄く良い」と言っている人もいて、ヨガをしていても、瞑想に関してはヴィパッサナーが良いと言っている人も中にはいるようです。ヨガ系の人の基本スタンスとしては、合う合わないは人によってそれぞれあるのですから、色々と試してみて自分にあったものを選べば良い、と言います。ヴィパッサナーの人も説明としてはそういうのですが、ヨガの人はナチュラルにそのことを言うのに対して、ヴィパッサナー側は少しヒステリー気味に反応してくるところが、何故なのかはよく分からないところです。言葉としては同じだけれども、ナチュラルの程度に差があります。<br /> ・ブッダが生きていた時代はたしかにヨガ瞑想と言えば集中系(サマタ系)でサマーディを求める瞑想でしたので、ブッダの時代でいえばヴィパッサナーとそれ以外の瞑想、という対比は成り立ちます。しかし、既にブッダの時代から2500年以上経っていますから、ヨガ瞑想もヴィパッサナーを取り入れており、今や、そう変わらないと思います。ゴエンカ式は古典に基づいていますから、今のヨガ瞑想ではなくブッダの時代のマントラなどのヨガ瞑想を題材にあげてヴィパッサナーの良さを論じています。ここに誤解の生じる点があるわけです。<br /> ・あまり勉強せずにただゴエンカ式の説明だけを聞いた人は、ヨガ瞑想とは集中系(サマタ系)だからゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想が優れていると思ってしまうかもしれません。その思考は「集中しか行わないサマタ瞑想、サマーディ瞑想」と「ヴィパッサナー瞑想」の対比に簡単に陥ります。それは、「ブッダの時代のヨガなどの瞑想」と「ブッダ式ヴィパッサナー瞑想」を比べているわけです。実際のところヨガ瞑想はブッダ式ヴィパッサナーをも取り入れて、今やヴィパッサナーと言っても遜色ないのですが、それでも、ゴエンカ式を信奉する人の中には「ヨガ瞑想はただのサマタ瞑想で集中しかしない」などと言う人がいます。<br /> ・ゴエンカ式ヴィパッサナーをしている人がこういう点を知らないだけならいいんですけど、上に書きましたように、(ゴエンカ式)ヴィパッサナー瞑想こそが最上で他の瞑想は駄目なんて言っている人は、自分の無知で他人を馬鹿にしているのであり、とても愚かだと思います。<br /> ・最初に述べたように、精神世界の初心者は特権意識を育ててしまうことがよくあります。せっかく悟りを目指すヴィパッサナー瞑想しているのに特権意識が育つなんて、とても残念すぎます。初心者はある程度仕方がないのかもしれないです。誰しもが通る道なのかもしれません。<br /> <br /> <br /> ■グルの不在<br /> <br /> <br /> ・瞑想手法や哲学はブッダに沿っているし良いものだとは思いますが、やはり、弟子の見極めができるグルがいないのがとてつもなく残念。もっと遥かに良くなる素質がある気がしました。グルはいないけれども伝統を変えずにひたすらに守っている、と言う感じです。それはそれで悪くはないし、必要なことではあるように思いますが、ちょっと物足りない。守るために多くのものを捨てている印象。<br /> ・指導者がきちんと補って追加説明をすればいいのに、ただ座っているだけで、ゴエンカ氏のオーディオを「プレイ」するスイッチをカチっと入れるのが日課であり、質問時間は細かく聞く感じでは全然なくて壁がある。教科書を読んで聞かせるだけのただの平凡な教師でしかない。<br /> <br /> <br /> ■昔習った、体系化されていない、広義のヴィパッサナー瞑想<br /> <br /> <br /> ・20年ほど前にスピリチュアル系で心の観察による瞑想を習ったことがあったので、懐かしい感じを受けた。それは、仏教のヴィパッサナーほどは体系化されていなかったが、おそらく、その大元はテーラワーダ仏教などの「動きながら全てを把握する瞑想」だったのかなと。それは広義ではヴィパッサナー瞑想に含まれるのかなと。食事をするのも瞑想、歩くのも瞑想、思想を観察して受け流すのも瞑想、という感じは、仏教系ほど専念されてはいないけれども、ポイントは同じ感じでした。ですので、すんなりと入っていけました。ただ、ヴィパッサナーの場合は心の観察だけではなくて感覚が重要としているのが違うところで、講和の中でその点を重視しています。<br /> <br /> <br /> ■心の観察だけでなく、体の感覚を使う<br /> <br /> <br /> ・ヴィパッサナー瞑想では心の観察だけでなく、体の感覚を使います。前者の心の観察は特に初心者にとっては観察における強弱だけの問題なので集中のサマーディがあるなしに関わらず頑張って心の観察をするか、あるいは慣れてくれば自然に観察しさえすれば良いのですが、後者の体の観察は、いわゆるオーラの観察でもあるわけで、集中のサマーディがあるなしで大きく違ってくる印象を受けました。集中のサマーディが達成、あるいは、ある程度の集中ができる場合はオーラが体の周辺に留まります。その留まっているオーラが体の各所を海流のようにうねうねと各方向に波打っては消えてゆくのを観察するのがヴィパッサナー瞑想なのですが、集中ができない状態ではオーラが針のように周辺に発散してしまって周囲に不快な印象を撒き散らし、本人はと言うと激しい思想の流れで苦しいだけのように思います。そこは頑張って集中するのでしょうが、であれば、そのような人にはヴィパッサナーではなく10日間ずっとでもアーナパーナ瞑想で観察だけさせていれば良いと思うわけです。その方がずっと成長するはずです。少なくとも、アーナパーナ瞑想で息を観察して最低5秒間は息だけを観察して無心になれるくらいでないとヴィパッサナーに入るべきではないのかなあと個人的には思いました。無心と言っても、無理やり抑えているのと自然に心が落ち着いた無心とは随分と違うのですが、どうにかして5秒間も無心にできないのであればまずは集中を学ぶべきでしょう。<br /> <br /> <br /> ■ヨーガでは段階的に瞑想に進む<br /> <br /> <br /> ・ヨーガでは段階的に瞑想に進みますが、ヴィパッサナーは最後のステップとして使えるのではと思いました。既に瞑想はある程度できていて、その先に使う瞑想ですね。ですから、きっと多くの人にとっては、ヴィパッサナー瞑想をしているつもりでいるが実際は本当のヴィパッサナー瞑想ではなく単なる集中の瞑想に実質なっているのではないかな、と思いました。最近はヴィパッサナーとかマインドフルネスが流行っているのでこれが人気になっていますけど、本来は瞑想と言うと集中から始めるわけです。<br /> ・ヨーガの目的はヨーガスートラにあるように「心の制御(死滅)」と言うことで、その8段階の最後にはサマーディがありますが、そのサマーディは一つの到達点ではあるのですがそれがそのまま悟りではありません。ヴィパッサナーではサマーディを「基礎」として悟りへと至らしめる瞑想であるわけですが、まず、ヨーガスートラで言うところのヤマやニヤマと言った道徳的な面、あるいは仏教でいうところのシーラによる基礎があって、その上に集中のサマーディがあり、サマーディで「心の制御(死滅)」があってようやくこのヴィパッサナーに至るわけです。このことをは頭ではとりあえず理解すべきでありますが、本質は体験して見ないと分からないので、まだヴィパッサナーの段階に至っていない人がいたずらにこの瞑想をしてもさ迷ってしまうのでしょう。何人かに話を聞きましたが、明らかに迷っている人が見受けられました。本来はグルがいて適切な導きをするべきなのですが、基本的に各人に任されていて放置なのでケアはなされません。単に場とやり方の指導をするだけなので、適切な効果を出せない人も多いのでしょう。<br /> <br /> <br /> ■サマーディの集中の度合い<br /> <br /> <br /> ・仏教ではサマーディに8段階あるようで、サマーディは集中を極めること、と広義では説明されていました。印象としては、仏教のサマーディは集中9割観察1割と言う印象です。ヨーガのサマーディはコンテキストによって様々ですが、集中9割と言うことはないように思います。ヨーガのサマーディはコンテキストによって集中3〜7割を意味している印象ですので、仏教で「サマーディをしているだけでは悟れない」と言っても、それは「集中9割の瞑想をしても悟れない」と言う意味に置き換えると良さそうです。ヨーガではサマーディにはいくつも種類があるので、言葉だけでは分からず、きっとグルの言うニュアンスを聞かないとどれを指しているのかよく分からない気がします。ヨーガでは、最初は強い集中から初めて心が落ち着かせ、心が落ち着いてきたら次第に集中を弱めて行って観察を増やして行くのかなと。ヨーガでは強弱のバランスを取るのに対して、ヴィパッサナーは手法自体を切り替えているのかなと。ヴィパッサナー瞑想合宿においては集中はアーナパーナ瞑想、観察はヴィパッサナーと役割を分けていましたが、もっとアーナパーナ瞑想が注目されても良いのではと思いました。<br /> <br /> <br /> ■メッターバーバナ瞑想をして愛を広める?<br /> <br /> <br /> ・ヴィパッサナーの最後にメッターバーバナ瞑想をして周囲に愛を広げる、と言うことでした。これって、講義の中で散々批判していた「自分の周囲にカバーをして覆い隠してしまう瞑想」そのものでは? と思いました。 ちょっと矛盾を感じます。自分のやっていることを誤魔化すために他を批判するのは良くあることですけど。実際、スタッフなども薄っぺらいカバーをしている人が散見されました。スタッフは単なるボランティアなので普通の人とあまり変わらないとはいえ、この方法に共感したのだからそこからある種の傾向は見て取れるでしょう。私はメッターバーバナ瞑想そのものは素晴らしいと思いましたが、単に、主張に一貫性がないなと思っただけです。精神世界は何でもありですから、こう言う小さな違和感を見逃してしまうと間違った方向に導かれると思います。<br /> ・勝手な想像ではありますが、メッターバーバナ瞑想は、ブッダはヴィパッサナー瞑想をした結果として「そのような状態になった」という種類のもので、元々は瞑想ではなかったのではないかなと受講中にイメージが降りてきました。悟りを得た後、愛の状態になったのかなと。受講中は調べ物などもできないですし、指導者にやり方以外のそのような余談を聞くフレンドリーな雰囲気ではなかったので聞いていないので本当のことはわかりませんけどね。そういうわけで、メッターバーバナ瞑想には違和感があります。あくまでもヴィパッサナー瞑想で悟りを得たら愛が溢れた状態になったのであって、メッターバーバナ瞑想で愛を想像するのは上に書いたように「心にカバーをかける」種類の瞑想なのかなと思いました。このあたりが、ヴィパッサナーのスタッフに違和感を感じた理由かもしれません。宗教ではないと言っておきながら、どこか宗教チックな盲目的な雰囲気なのです。個人的な主観的な印象ですけどね。メッターバーバナ瞑想で覆いをかけて、異論を唱える人は追い出すような雰囲気です。相談しようとして話すだけでも何か不思議な拒絶反応があるので、おかしな感じです。あそこのスタッフのようになりたい、とは思いませんでした。惹かれません。指導者にも魅力を感じませんでした。うまくヴィパッサナー瞑想ができない人をそのまま返すと問題になるのでメッターバーバナ瞑想をくっ付けて取り作った、と言うようにも想像できてしまいます。どちらにせよ、講義の内容とこのメッターバーバナ瞑想の間には違和感があります。再度繰り返しますが、メッターバーバナ瞑想それだけならば異論はありません。そう言う愛の瞑想も「アリ」だと思います。ただ、講義の内容と矛盾している、と言うお話です。こう言う矛盾を見逃すと精神世界において囚われることになりかねません。<br /> <br /> <br /> ■ダラムサラとの比較<br /> <br /> <br /> ・元々は、私がインドのダラムサラを旅行している時に通りかかった瞑想ホールがヴィパッサナーとは知らずに凄いオーラだけを感じて、「これは何だろう」と思って調べてヴィパッサナー施設だったという話から受講を考えました。それ以前にも何度かヴィパッサナーのことは聞いていましたが受けるほどではなく、実際に施設を見て受けようと思ったのでした。ですので、本当はダラムサラで受けようかと思っていたのですが、最初の1回は説明を日本語で聞きたかったので日本の千葉で受けたのでした。雰囲気としては、日本のそんじょそこらよりは良いけれども、ダラムサラの圧倒的なオーラと比べると寂しい感じです。日本ではもう受けることはないかな。<br /> <br /> <br /> ■今回の受講生は真面目?<br /> <br /> <br /> ・今回は、他の回と比べて随分と真面目な受講生だったらしいです。初めての参加だったので良くわかりませんが。<br /> <br /> <br /> ■同じことはヨガでも達成できる<br /> <br /> <br /> ・10日間座る環境はなかなかないので貴重ですし良い経験にはなりましたが、これを受講しなくても同じようなことはヨガで達成できそうな気がしました。そういう意味では、ヨガの良さも再認識しましたし、一度に長く座ることの良さもありました。確かに、最終的な悟りのためにはこのような瞑想も必要なのかもしれませんが、この世の99.99999%の人は悟りなど遥か遠い筈です。であれば、間違いの少ない瞑想をした方が良いです。<br /> ・もともとヨガをしていましたので、これを受けなくても、実はヨガで十分だったのかもしれないです。ヨガをしていなければかなり劇的な差があったのかもしれませんが、もしかしたらとてつもない致命的な落とし穴にハマって一生を台無しにしていた可能性もあります。ヨガをしていたからこそ致命的で絶望的な破壊的な結果を避けられたのは確かだと思っています。だからこそ、初心者にゴエンカ式は勧めません。<br /> <br /> <br /> ■怒りの沸点が低い<br /> <br /> <br /> ・ヴィパッサナー愛好者の中には、いらつきや怒りの沸点が異常に低い人がいます。会場でも会ったし、上に書いたマネージャーもそうでした。過去の受講生にもそういう人がいました。これはどういう事でしょう? ヨガにせよヴィパッサナーにせよ、非暴力は基本的な道徳として語られています。ヴィパッサナーであればシーラ、ヨガであればヤマのアヒムサーです。それは物理的に傷付けないだけでなく、言葉で傷付けないことも含まれます。更には、思考で相手に悪い思念を送らないことも含まれます。ヴィパッサナー愛好者が悟りのために努力する過程で簡単にキレて相手を傷つけるのは基本的な道徳に反しています。こういう矛盾点は精神世界ではきちんと押さえないと変な方向に進む。違和感があるということは、何かが間違っているのだと思います。<br /> ・ヴィパッサナー瞑想を本来の形であるところの深いサムスカーラ(カルマの種)を浮かび上がらせるための瞑想としてではなく、葛藤を手早く捨て去るための瞑想として使っている人が多いのでは、という気がしました。だから葛藤はなくなってもその根っこにある葛藤の種であるサムスカーラ(カルマの種)を根絶するところに至らず、単に表面的な葛藤を消し去って終わりになる。すぐに表面的な葛藤を捨て去るようになると、葛藤をきちんと受け止めることに慣れなくなる。根源の種が残っているから慣れない葛藤がやって来ると簡単にキレる。怒りの沸点が低くなるのはこういうことなのかなと。<br /> ・精神世界には怒りの原因を遠ざけてピースを保とうとする人が少なからずいるのです。怒りの原因を否定しまくって自分の周囲をピースっぽく保ちたいけれども不愉快なことがちょっとでもあるとすぐにキレる、という感じです。ピースのことを履き違えているのかなと。そう言う人たちが言うピースかどうかなんてのは所詮は感情レベルですから、本当に客観視できれば感情は重要ではないとわかるし、もちろん成長すればピースな状態は増えるけれども、それは不愉快を否定して得られるものではない。むしろ、不愉快は過去のサムスカーラ(カルマの種)を明らかにしてくれる重要な大切なものです。精神世界に凝っている人の中には不愉快を避け続ける人がいるけれども、普段はピースでもちょっと傷つけられてすぐにキレるのは本当のピースではない。種のサムスカーラのうちに滅することができれば良いですが、出てきてしまった現象には対峙するしかないわけです。否定ではなく、しっかりと見て理解する。キレて避けていたら、何度でも同じレッスンがやって来ます。<br /> ・この種の人々は、ピースをネタにしてヒエラルキーを作ることがあります。他人の葛藤を指摘してヒエラルキーを作るような人たちはピースのことを履き違えています。ちょっと引っ掻かれただけで崩れるようなピースを一生懸命守りつつ、同様の考え方をした同等レベルの人が集まってピースのヒエラルキーを作っている団体が精神世界には一定数います。ここは完全にそうだとは言い切れませんが、少しその傾向が垣間見られました。<br /> <br /> <br /> ■やはり、グルの不在が根本原因<br /> <br /> <br /> ・上にも書きましたように、手法はいいのだからグルがいて適切なタイミングで適切な瞑想を与えたり支持するのであればとても効果的だと思います。ですから、とてつもなく惜しいです。もっと良くなる筈なのに勿体無いです。こういうのは人の意識と密接に関わっているのでタイミングがとてつもなく重要なのに、思想面の制約を優先させてしまっているからグルの存在を否定してしまい、結果、グルがいないがゆえに変な方向に行ってしまう人が後をたたないのでしょう。<br /> ・きちんと効果を判断できて、適切な時期に受けるのであれば効果はあります。でも、グルがいないのであればそれはほとんど雲を掴むようなものなのでは? だからこそ惜しいです。ホント。<br /> <br /> <br /> ■無宗教の仮面を被った宗教団体<br /> <br /> <br /> ・ヨーガでは神様がいるので守られている感じがあります。ヨーガとヴィパッサナーのどちらも「宗教ではない」と言っている点に関しては同じですが、その立ち位置が随分と違う気がしました。ヨーガでは多神教、ヴィパッサナーは無神教寄りの印象です。ヴィパッサナーでは「悟った人」と言う意味での「ブッダ」を頂点に置いていますのでそれは非人格化されているのですが、非人格化の手法としてヨーガでは多神教、ヴィパッサナーでは無神教を選んだと言うことであれば重点の置き方が違う気がします。ヨーガでも仏教でも世界を「ブラフマン」などと読んで「全てが神」と言う世界観を作っている一方で、その点は変わらないのですが、ヴィパッサナーでは「ブッダ」を頂点に置くと同時に非人格化かつテクニック化しています。ここのヴィパッサナーでは「全てが神」と言う視点が薄くて、「自身が悟る」と言う「テクニック」にフォーカスしているわけです。これは他の宗教を信仰している方でも参加できるようにする配慮だった筈が、やがては多神教という視点を失わせてしまったという感じでしょうか? 推測ですが。<br /> ・ヴィパッサナーは無宗教をうたっていますが、実際は、思想を矛盾なく組み立てるためには無宗教にせざるを得なくて、だから無宗教と言っていますが、その思想以外を排除しているので立派な宗教だと個人的には思うのです。例えば、個人がそれぞれ悟る必要があるからグルの存在が否定されて指導者だけがいます。グルがいないから個人に沿った修行が与えられずに決めたれたカリキュラムを受講生が選ぶスタイルになっています。思想を絶対化している宗教が仕方なく無宗教を標章しているのだと判断しました。おそらく関わっている本人たちは否定するでしょうが。思想を優先させすぎてシステムがうまく動いていないように見える。もしかしたら小さくゴエンカ氏がやっていたときはじグルっぽく指導していたのかもしれないが、今となっては決まったシステムを維持するだけの団体になっているような気がした。とある詳しい人に聞いたら、やはり組織が大きくなると硬直化するし、やっぱりきちんと指導できるグルがいないのですかね、と言っていました。ゴエンカ氏はグルなのにグルではないと自分では言っていたのではないか。そして思想を優先させてしまい、本来いた筈のグル相当の自分がいなくなっておかしなことになっています。単なる理屈でグル不要と言っているだけであればグル相当の人を違う呼び名でも良いから担当させるべきでは。<br /> ・詳しい人が言うには、ヴィパッサナーは大乗仏教とも違って無我の思想に基づいているためにその後出てきたヨガのシャンカラチャリアと違って見えるそうです。時代の違いを思えば、ヴィパッサナーはブッダの時代のものですから当時は未分化だったり説明が不十分な点もあるでしょう。技法を復活させるつもりが、古い時代の思想も復活させてしまって混乱を導いているのかもしれません。後の時代の人々の努力は無視してブッダに帰依しているのでしょう。でも、本当は帰依なのに思想的に帰依と言えないから色々な矛盾が出てくる。後の時代のシャンカラチャリアのような偉人の努力もここには反映されていないわけです。<br /> ・思想で無宗教を謳っているので本来は受講生の疑問や異論を受け止めるべきだと思うのですが、実態は宗教なのに思想的に無宗教と言わざるを得ないためにシステムとして指導者のエリアを厳密に分け、手法以外の質問は一切受け付けない仕組みにしたのでしょう。質問を受け付けてしまうと矛盾が明るみに出て、本当は根拠が「ゴエンカ氏を信じる」ところにあるのにも関わらずそのゴエンカ氏本人から「宗教ではないので信じずに自分で判断しなさい」と言われているので自己矛盾に陥り、キレるのでしょう。自己矛盾から目を逸らして生きていたのに、その自己矛盾を突きつけてくる人に対してキレて壁を作る。たしかに精神世界には面倒な人が多くいますが、ほぼ初対面で二言三言話しただけの私にいきなりキレてくるのはどういう事でしょう。一般のボランティアならともかくマネージャーの態度がそれですし。ありのままを言ってもらえた方がわかりが良いです。例えば「ゴエンカ氏は自分で判断するようにと言っていますが、自分はまだ理解が十分ではないので、ゴエンカ氏の意向に反してはいるが今のところはゴエンカ氏の発言を信じて活動しています。だから、これこれのことは、私はまだはっきりとはわからないが、ゴエンカ氏がそう言っているので従っている。」というように。それは「二兎を追う者は一兎をも得ず」みたいなことわざを半ギレになりながら言われるよりもずっとわかりが良いのです。でも、それができないんですよね、おそらく。<br /> ・ある程度の瞑想の境地に達したら、自分が怒鳴ったらそのダメージは相手ではなく自分の方に大きく跳ね返ってくることを体感的に知っていますので、一定レベル以上の人は他人を傷つけることができなくなる筈なんですけどね。怒鳴ることができるのであれば、そういうレベルなのでしょう。ヨガで言うヤマのアヒムサ(非暴力)、ヴィパッサナー瞑想でのシーラがなければいくら瞑想しても上に境地にたどり着くことはないのかな、と思います。ここで言っている「自分に大きく跳ね返ってくる」とはカルマのような理論的な話ではなくて、頭で理屈で考えることではなくて、体感的に、その怒鳴った瞬間に体と心で瞬時にその通りに大きく跳ね返ってくる結果を、文字通りそのままの意味で体感することを意味しています。<br /> <br /> <br /> ■グラウンディングとヒステリー<br /> <br /> グラウンディングとはスピリチュアル用語で、地面あるいは地球を信頼して繋がりを作り、繋がりを保つことです。<br /> <br /> <br /> ・ここのヴィパッサナー瞑想は「アーナパーナ瞑想」「ヴィパッサナー瞑想」と「メッターバーバナ瞑想」で成り立っていますが、いわゆるグラウンディングに関するワークが抜けているため、エネルギーが頭に集まりがち。指示されていない精神的なワークを自分ですることは許されていないため、10日間の間ずっと頭にエネルギーが偏ることになる。普通であればグラウンディングしてエネルギーを下におろすような状況でも自分でのワークは許されていないので頭にエネルギーが溜まりがちになる。瞑想の指示は「観察するように」とだけなっていて、「エネルギーを動かす」とはなっていないので、頭に溜まっているエネルギーを何日も観察することになるのです。これは健康に悪いです。こんな時もグルがいれば適切な指示がされる筈ですが、機械的で硬直的なカリキュラムでは危ないです。上達して軽く観察するだけの状態であれば問題ないのかもしれませんが、「観察できていない箇所があったら数分観察しなさい」と指示があるので、意識をそこに集めると頭にエネルギーが多少集まります。単に私が力を入れすぎなだけかもしれないですが、ヴィパッサナー初心者だからこそうまくできていない時のケアが必要な筈で、実際はそのようなケアは皆無ですので、10日程度なら致命的にはならないとはいえ、それなりに危険です。ヒステリー気味になっていた人もいました。<br /> ・7日目くらいまでは面白かったのですが、8日目くらいから飽きてきて集中が途切れたところをバランス若干崩してしまいました。それでも色々と発見があったので興味深かったのは確かですが。もっと柔軟性のあるスケジュール、あるいはグルがいれば一旦休憩とか柔軟にできたと思うのですが。そういえば、他の人はグループ瞑想以外の自由瞑想時間にホールにいなくて部屋で寝ていたりしたので、私も全てに参加せずに少し休めば良かったのかもしれません。<br /> <br /> <br /> ■クンダリーニ<br /> <br /> <br /> ・クンダリーニに関係する体験はありませんでした。いつもあるようなムーラダーラ(会陰)の感覚は変わらずありました。上に書いたように各種ナディのエネルギーの流れは感じましたが、ムーラダーラからのクンダリーニは感じませんでした。<br /> <br /> <br /> ■浄化<br /> <br /> <br /> ・ヴィパッサナーの目的は「心の浄化」なのですが、思っていたより変わりませんでした。上に書いたようにグラウンディングに関する不具合で、逆にちょっとエネルギーのバランスを崩してしまいました。自分でそれを補正するような精神的ワークが禁止されていましたので安定を崩したままになり、ちょっと微妙でした。<br /> <br /> <br /> ■ヴィパッサナー瞑想によるマインドコントロール<br /> <br /> <br /> ・最近は職場でヴィパッサナー瞑想を薦める場合があるとのことですが、もし上司がパワハラや虐待の常習犯で部下にこのヴィパッサナー瞑想を受けさせるとしたら、その目的はおそらくマインドコントロールでしょう。その場合、部下は瞑想についての知識などほとんどなく受けることになるでしょうから、結果としては本来の深いサムスカーラ(カルマの種)を浮かび上がらせる瞑想としてではなく、表面的な葛藤を取り除くに留まる。表面的な葛藤を取り除くためにヴィパッサナー瞑想を使用した場合、一見するとピースになって良い結果を生み出したように見えるが、おそらくは上記のように怒りの沸点が下ってストレス耐性は下がるでしょう。そこに上司のパワハラがぶつかれば簡単に心が折れて従順になるでしょう。上司からすれば部下のストレスをうまく取り除いた上に自分に都合の良いようにマインドコントロールできてイエスマンができあがるわけだからパワハラ上司からすればとても有り難いセミナーだと言える。この種の瞑想はある程度の信頼関係がある環境で生活することを前提にしているため、もし強いストレスとピースを交互に与えられると仕事場ならばパワハラ、子供であれば虐待になるわけですが、臨界点を超える前に再度ヴィパッサナー瞑想を受けさせればとりあえずのストレスは解消され、再度搾取できるようになる。精神世界は明るくてピースなイメージがあるが、そこにつけ込んで搾取しようとしている人々も詰めかけているため、気を付けないと精神的に奴隷になって一生他人に搾取され続ける可能性があります。それに気付かないでいる人も多い。このヴィパッサナー瞑想それ自体は悪いものではなく、使い方によっては強力な結果を生み出すが、そのようなパワーのあるところに搾取者が近寄ってくるのは世の常かもしれません。それに気付いて搾取されないようにするのも精神世界における一つのレッスンであるわけです。<br /> <br /> <br /> ■ゴエンカ氏はよく怒鳴り散らしていた<br /> <br /> <br /> ・ゴエンカ氏はよく怒鳴り散らしていたようですので、この団体は怒鳴る風土なのかもしれませんね。ゴエンカ氏は自身が怒鳴ってもケロっとしていたようですので、ここでも、怒鳴った方はケロっとしているのかも。些細なつまらないことで怒鳴られるなんて、そんな団体とはつきあっていられません。無宗教の皮をかぶった宗教団体ですから、教義に合わないことに対しては怒鳴っても良いのでしょう、としか解釈できません。宗教団体で良くあるように、私が何を言ったところで、私を悪者にして自分たちを正当化するだけでしょうから、何を言ったとしても無駄です。聞く耳があるのであれば言葉を遮って半ギレになったりしないです。自分たちが主張しているように宗教団体ではなくて手法を教えているだけの団体であれば聞く耳があって改善してゆく意思がある筈ですが、やり方を信じるか信じないかの2択であればそれは宗教です。自分たちでは「10日間受けた後、これが良いかどうか判断しましょう」と言っていますのでこの言葉だけを見れば非宗教ですが、実際のところ、疑問に答えようとしなくて、疑問の内容をしっかりと聞こうともしなくて、やり方だけ伝えて、不都合があれば怒鳴ってマインドコントロールしようとするのであれば、それは宗教でしょう。こう言う団体とは、言っても無駄とわかったまま付き合うか、離れるかの2択です。でも、マインドコントールにかかってしまった人はこの2択すら選べないです。ヨーガなど他の瞑想をしていながら隠して奉仕者したり受講したりしている人は前者なのでしょうね。でも、そういう2重性を持ったまま瞑想をするのは良くないと思いますけど。心を隠したまま瞑想をしたところで成長はなかなか難しいと思います。その点に関しては、もし隠すのであれば「二兎を追う者は一兎をも得ず」と言うマネージャーの話は確かに正しいと思いますが、私の感覚では、単なる使い分けだけの問題なので他の瞑想と適材適所で使えば良いと解釈できたので、隠したりはしないです。そんなことを言うと無宗教の皮を被った宗教団体のここに激しく拒絶されるのでしょう。ここは、他の瞑想と使い分けようとする人がいれば、ゴエンカ氏のように躊躇せず怒鳴ってくるのでしょう。宗教団体と怒鳴るのが組み合わされるのは、ほんと最悪ですよ。愛とムチの使い分けですから、それって「虐待」「悪い意味での躾け」「パワハラ」の種類ですからね。心が萎縮して、言うことをハイハイ聞く人ができても仕方がないです。どうも、それをやられたかのような萎縮している奉仕者がちらほら見られました。上に書きましたように、多少のマインドコンロールが入っているのかもしれません。宗教団体に入る人は自ら望んでマインドコントロールされ、それで心の平安と自分では思い込んでいる状態に落ち込んで行くのですから、他人がどうこう言っても仕方ありませんけど。<br /> ・最終日に参加者の心のケアをせずにそのまま解散にして終了になったのですが、私としてはこの「放置」とも言えるやり方を見て、かなりこのシステム及び団体に疑問を感じた。最終日(帰る日の1日前)の夜以降は指導者との質問の時間がなくて、生活場所も分かれているから指導者との接点もなく、かと言ってマネージャーに話をしたら半ギレされてまともに対応してもらえないし、結局、多くの人は参加者同士でとりとめのない話をしていたような感じで、最重要の瞑想に関する肝心な質問を最後の最後でできずに参加者はそのまま解散になっていたのが印象的だった。最終日の昼間までの普通の質問時間における他の参加者の質問もいくつか聞いていたが、指導者が外国人だからか何なのか、いまいち的を得ない返答で、質問者は「は、はあ・・・」みたいな感じで納得度が低かったのも印象的。途中での理解度がその程度なのですから、そんな参加者のケアを最後の最後でこそしっかりと行うべきなのに、最後の対応を放棄してしまう団体のあり方は、私の常識にはそんな終わり方なんてないのでかなり衝撃的でした。「放置してしまっていいんだ!?何だそりゃ?」てな感じのショッキングな最終日でした。上に書きましたように、思想的に個人を重要視しているからグルの存在を認めないのでしょうね。上に書いたように実際はゴエンカ氏が「グルではないと自分では言いつつも実質はグル」だったのですから、であれば、ゴエンカ氏がいなくなった後も「実質的なグル」が必要なのにそれを欠いているのでしょう。<br /> ・質問時間の質疑について「哲学的議論はせずに、瞑想のやり方の質問だけにすること」と注意書きがあるが、多くの人は哲学的議論をしたいのではなくて、ただ単に納得したいだけだと思いますよ。それを「哲学的議論」とか言って質問者を切り捨てているところにこの団体の化けの皮が見え隠れします。結局は「やり方」しか教えません、と言いさえすえば済むのに、哲学的議論とか言って話を誤魔化しています。確かに講義オーディオでは仏教的な話を聞かせていますが、それはただの録音であって生きた講義ではない。その生きた講義及び教えをするための指導者かと思っていたのに、指導者は座っているだけで、講義は録音オーディオを流すだけで、質問タイムには「やり方」の質問しか受け付けないというのであれば、自分たちが言葉でいくら誤魔化していても、単に「やり方」しか教えないと言うのがこの団体の方針なのでしょう。だから、最終日(帰る1日前)の午後以降は指導者への質問タイムがないのです。そもそも指導者とは生活エリアが分かれているので終わった後に個別に質問したり挨拶したりもできない。なんとも「放ったらかし」の印象を受ける。10日間(前後も合わせれば12日間)も拘束する合宿で、最後のこの放ったらかしはかなりショッキングです。凄く違和感があります。運営側はそれでいいと思っているのだろうか? ゴエンカのシステムが生まれた国では後のフォローがあったのかもしれないが、フォローも大してない日本で、自ら勉強したり再度瞑想会などに参加しないと理解も進まないような合宿で、最後の最後にも微妙な面を突き付けられました。これは、他の人に勧めることはできないです。上に書きましたように、個人主義だから個人が勝手にやればいい、と言う趣旨なのでしょう。実際は宗教団体なのに、思想的に個人主義だからシステムとして放置するのでしょう。そう言う主義主張の、非宗教の皮を被った宗教団体ということでしょう。こんなことをいくら言っても、おそらくキレられたり怒鳴られたりするのが想像できるので、わざわざこんな非宗教の皮を被った宗教団体に指摘することはしません。私はここの実態がわかったので、この団体は自分たちで勝手にやっていてくれればいいのです。私は、この団体に何か言いたいのではなく、私が理解したことを書いているだけです。もっと変な団体はいくらでもあるし、この国は自由の国なのですから、誰しもが自分の好きに信仰すればいいのです。無宗教ですと言われてハイそうですかと考えもせず信じ込むことも個人の自由なので好きにすればいいのです。<br /> <br /> <br /> ■ゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想者は他人に興味がない?<br /> <br /> <br /> ・長くヴィパッサナー瞑想をやっているように見受けられる女性マネージャーがボソッと「色々な人がいますねえ」と興味なさそうに呟いていたが、他人に対するゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想者の基本的なマインドの持ち方をよく表しているような気がしました。自分がまず悟ろうとする上座部仏教がベースになっているからでしょうか? 他人にあまり興味がないように見受けられました。ですから、精神的に混乱をきたしている人がいても放置なのでしょう。会場はただの「場」であって、他人と交流する場所ではないと最初の説明オーディオで言っていましたが、文字通り、そう言うことなのでしょう。それは、他の参加者との交流だけでなく、指導者との交流すらもする場所ではない、と言うことのようです。基本的にここは「放置」が方針のようです。<br /> ・私なんかは、精神的に混乱をきたしている人を放置する方針の運営側に対してイラっとしてしまうたちなので、こことはあまり合わないですね。方向性の違いですかね。世の中にはこういう方針の団体もあるのですね。もっと変な団体も山ほどあるので、たまたま人生の通りすがりに見た変わった景色だと思うことにします。<br /> <br /> <br /> ■ヴィパッサナー瞑想依存症?<br /> <br /> <br /> ・もしかしたらこのような浅い瞑想を繰り返すことでヴィパッサナー瞑想依存症になるかもしれない。やがては何かがおかしいと気付けば良いのですが、気付かない人もいるかもしれない。精神世界には数多くの落とし穴があるので、ハマって成長が鈍化することもあるかもしれません。結局は自己責任ではあるのですが、致命的で取り返しのつかない落とし穴が多いのも精神世界です。何世代もかけて培ってきた英知を無駄にすることもあるかもしれません。<br /> <br /> <br /> ■浄化の2つの道<br /> <br /> <br /> ・魂のオーラは、光を注ぎ込んで浄化するか消滅によって浄化させるかの2択です。レッスンを活かして成長の糧にするのが光による浄化、もうどうしようもないオーラを切り離して無に返すのが消滅による浄化。しっかりと奥底の種であるサムスカーラを見て理解するのが光による浄化です。安易に葛藤を切り離して無に返すのは消滅による浄化です。後者にはレッスンによる学びがありませんから、上に書きましたように、同じようなことが起こると沸点が低くキレてしまいます。成長とは学びですから、一見すると浄化されていてピースでもその実態がどうなのかがとてつもなく重要だと思うわけです。<br /> ・レッスンが重要とわかっている人は、一時的な葛藤も仕方がないものとして受け止めます。消滅による浄化を常にしている人はちょっとの葛藤も悪として受け止めますから、後者のようなコミュニティの中では非常に些細なことで傷付かないように気を付け合うことになります。お互い沸点が低くてすぐにキレますからね。そして、ちょっと葛藤がある人を責め立てることでヒエラルキーを作る。前者のようなコミュニティでは許容範囲がとてつもなく広いために葛藤も一時的なものとして受け入れられますから、そのピースさは後者とは別次元のものになります。そもそも前者のようなコミュニティでは他者の葛藤にそこまで興味がなくてそれぞれが自分のピースを楽しんでいますから、多少の葛藤はそもそも問題にならないのです。後者のような許容範囲の狭いコミュニティはピースのために多大な努力を払い、そしては疲れてゆくのでしょう。そんなコミュニティがあるなんて、ほんと世界は広いです。両方とも一見するとピースに見えるが見分け方は簡単です。前者は独立した個々個人がピースで他人にはあまり干渉しない。後者はピースをネタにヒエラルキーを作っています。前者は風通しが良くて気持ちがいいが、後者はピースと苛つきが交互に来る。後者のコミュニティでは相手の問題を指摘することでヒエラルキーを形成しようとする。後者のコミュニティからは独立が失われ、依存によるピースのヒエラルキーが形成される。前者のコミュニティには意見の多様性があり、それでもピースを保つよう個々が努力しています。後者のコミュニティでは意見の多様性が失われ、考える力を失い、リーダーの意見に従うことが正しいとされるようになる。これはまさに宗教ではないか? であれば後者を宗教と呼んでも差し支えないでしょう。私はこのヴィパッサナー瞑想団体を非宗教の皮をかぶった宗教団体の実態だと認定しました。<br /> <br /> <br /> ■やはり、無宗教の皮を被った宗教団体<br /> <br /> <br /> ・この種の団体に関わっている人は自分ではおかしい点を絶対に認めなくて、いろいろと理屈をこねてきます。話を聞くと「そうかなあ?」と思ってしまうこともありますが、所詮は宗教ですので違和感を感じたら離れることが重要です。もしかしたらマインドコントロールされてしまって離れにくいかもしれません。それも全て自身のカルマですね。<br /> ・良いことも悪いことも全てカルマですが、やってきたカルマはレッスンとしてそこから学ばないと再度やって来ます。カルマを捨てているつもりが、実際には感情を切り離しているだけだから上記のように変になるんですね。一般的に宗教に関わっている人は変ですが、ここは非宗教なのに宗教っぽいのです。こればっかりは言葉でいくら説明してもわからない人にはわからないかもしれませんね。<br /> ・私は宗教もOKだと思っていますので、ヴィパッサナー 瞑想が宗教を名乗っても全く問題ありません。近代に入ってから、無宗教と主張している宗教団体が数多くありますしね。そう言うのも全て宗教だと私は思っていますから、ヴィパッサナー 瞑想が今更宗教だと言い出したところで何ら驚きません。<br /> <br /> <br /> ■日本と海外のヴィパッサナー瞑想<br /> <br /> <br /> ・私が参考にした人は全て日本人ですし日本での受講なので、他の国のことはわかりません。<br /> ・私が直接は知らないとあるインド人のグル(あるいはただのヴィパッサナー瞑想の先生)がヴィパッサナーは日本人向きだと言っていたと小耳に挟みましたが、インド人がどれだけ日本人のことを理解しているのか疑問です。とある人はそのインド人グルの言葉を真に受けて他の瞑想を小馬鹿にしていましたが、そんなところを見ると、どうもその考えは底が浅いように思います。深い考えであれば伝え聞くだけでも叡智が伝わってくる筈です。日本人なら簡単にマインドコントロールにかかるから効果が出やすいので日本人向きだと言っているのならばあり得ます。表向きはそうは言わないでしょうけどね。一応はグルなのに瞑想に対してそこまで深い理解がないだけかもしれません。効果だけを注目するのであれば、日本人にとってヴィパッサナーやマインドフルネスは効きすぎて危険な部類の瞑想に属するのかなとも感じます。あるいは、なんとなく勧めるために言った発言を日本人が曲解しているだけかもしれません。上に書きましたように、ヨガ瞑想を本当にやっている人であればヨガ瞑想は結局のところヴィパッサナー瞑想に通じていて、どちらもそうは変わらないことを知っている筈なのですがおかしいですね。発言の奥を見れば「おかしい」と感じ取れる筈なのに、インド人がそう言ったからと言って、さほど深い理解もせずにそれをそのまま受け止めて自分の意見にしてしまうのでは、瞑想に対する理解もその程度なのでしょう。<br /> <br /> <br /> ■よく分からずヴィパッサナー瞑想を受けた方がラッキーな効果が出る?<br /> <br /> <br /> ・私が通っているヨガのクラスで一緒になる子が昔海外でヴィパッサナー受けたことがあるそうなので話を聞いてみたのですが、最後の方までずっと頭の中でお喋りが続いてトラウマとかが出てきて大変だったと言っていました。察するに、これは本来のヴィパッサナー瞑想ができていなくてアーナパーナ瞑想の呼吸観察による心の観察が最後までずっと続いたのだと思われる。この子は最後には落ち着いてきたとのことだったが、であれば、本来ならばグルが見極めてアーナパーナ瞑想だけずっとやらせるべきだった。何人かの知り合いの感想といくつかのブログの記事を見る限り、ヴィパッサナー瞑想と言いつつも最後までアーナパーナ瞑想の心の観察だけを行ったと思われる人が随分と多いように思える。どこまでヴィパッサナー瞑想を理解しているかはそれぞれですが、効果を見る限り、アーナパーナ瞑想の効果を見てヴィパッサナー瞑想の効果だと言っているように思える。ヴィパッサナー瞑想は瞑想初心者がいきなりはできないと思いますよ。いわば、始めての瞑想チャレンジで運任せでこのセッションを受けてラッキーなことに危険な方向に行かずにたまたまアーナパーナ瞑想の効果が出てヴィパッサナー瞑想が良かったという的外れな感想をしている人が見受けられます。これは本来危険なことで、よくわからず生半可にヴィパッサナー瞑想してしまうと上に書いたように表面的な葛藤を無くすために使ってしまい、変な方向に向かいます。実際、英語がなまじできるが故に海外で理解して受けてしまってキレやすくなった子もいました。元々はカバーをかけていたのが表に出やすくなってしまったのでしょうか。海外で説明が英語でよく理解せずに受けてしまった方が単なる心の観察がメインになるような気もしますので、もしかしたらその方が危険は少ないのかもしれません。ヴィパッサナー瞑想ではなく、アーナパーナ瞑想10日間したと言ったほうが良さそうなブログも多々あるわけです。よくわからずに受けた方がヴィパッサナー瞑想がピンと来なくて実質アーナパーナ瞑想していたけれども自分はヴィパッサナー瞑想していたつもりでした、という感じですかね。きっと自分ではそうそう気付かないでしょうけど。それは結果としてラッキーだっただけで、危険性は依然として存在するわけです。本来瞑想は危険を伴うのでグルの指導が欠かせないのです。一方で、準備ができていないのにヴィパッサナー瞑想をしてしまっておかしくなったりキレやすくなる人も多くいるわけです。ゴエンカ氏の時代にはそれも「なるようにさせておきなさい」と放置したようですので、方針は変わっていないのかもしれません。きちんとグルが見て指導すれば良いのですが、ゴエンカ氏がそうだったのであれば今後も方針が変わることを期待できませんから、準備がある程度できた人以外はヴィパッサナー瞑想は避けた方がいいと思うわけです。ラッキーに期待して受講するのはお勧めできません。<br /> <br /> <br /> ■「悟り」なんて求めない<br /> <br /> <br /> ・「悟り」なんて遠いこと言ってる人はどこかフラフラしていたり、ちょっと胡散臭いことが多い。ここは、胡散臭いとまではいかないが、キレやすいのでフラフラしていると言って良いでしょう。胡散臭くはないので、そこは自制が効いているのでしょう。自制が効いている点は評価できるのでは。悟りなんて遠いこと言っている割にはフラフラ度合いが低いので、頑張っているような感じも受けます。ゴエンカ式に惚れ込んで、無宗教の皮を被った宗教として信仰を深めてゆけば、本当にある程度の浄化ができるのでは、とは思いました。ただ、色々書いたような落とし穴を避けることができればの話ですが。宗教団体には、そう言う面もあるでしょう。どんなにおかしく見えても、それで救われる人もいるわけです。どんなことであれ、実際にやってみると言う段階が先にあり、それをやってみた結果、理解をしたら最後には「手放す」と言う段階に来て、そして卒業してゆくわけです。私が違和感を感じたからと言って、他の人の行動をとやかく言うつもりはありません。それぞれに学びがあってやっていることでしょう。<br /> ・少なくとも自分は現時点では日本ではもう受けるつもりはありませんが、組織や指導に問題はあったとしてもそれを頼らずに受けるのであれば苗床としての場としては使える訳です。そういう観点からまた受けるかもしれませんが、今のところ受講予定はありません。それでも日本は微妙なので受けるとしたら海外ですかね。ヨガでも効果は同様だとわかりましたのでわざわざ受けない可能性も大いにあります。もともとは悟りのための瞑想ですが、99.9999999%は悟りなんて無理ですし、私が求めているのは悟りではなく「ある程度の」浄化ですので。ヴィパッサナー以外にも多くの選択肢があります。<br /> ・いくら悟りを語ったり求めたりしても、基本的な道徳のシーラやアヒムサーができていなければそれは単に心のエゴを増大させるだけの結果になるのでしょう。いわゆる「聖者のエゴ」が拡大して、「私は聖者だ。私は悟っている」みたいなことを言い出す最悪のエゴが育つことになります。そして、自分の考えにそぐわなかったりしたらキレて怒鳴って相手を追っ払い、心の静寂を保つのでしょう。実態は宗教ですから自分たちの考え方にそぐわなければ怒鳴ってもいいと思っているのでは。であれば、誠に滑稽だと思います。ルールに従って大人しくしていれば安泰に過ごせるということであれば、実態は宗教です。上に書いたように私は宗教もOKだと思っていますので、素直に宗教だと名乗ればいいのです。宗教であれば、ルールは「宗教だから」「これが教義だから」で終わりなのです。なまじ非宗教の仮面を被っているから変なことになる。実態は宗教なのに、非宗教を名乗っている宗教が本当に多いです。素直に宗教を名乗ればいいのですよ。こんなのを見て「宗教とは無関係」とか本気で言っているのは世間知らずだけだと思いますよ。わかっている人は「あー、ここも実態は宗教か」と思って、思っても何も言わない人がほとんどだと思いますよ。<br /> <br /> <br /> ■再受講?<br /> <br /> <br /> ・色々と違和感はありますが、色々とわかったこともあったので、私はまたいつか機会があれば海外のダラムサラとかで受けてもいいかなと思いました。でも、ヴィパッサナー運営側が他瞑想をしている人を拒否してくるなら微妙ですが。それか、他の方式のヴィパッサナー瞑想も良いかもしれません。<br /> ・私の場合、ここは宗教なのに無宗教を装っている「嘘」が見えてしまうので、その嘘が見えてしまった以上、ここに深入りすることは私の心に嘘をつくことになりますので千葉のここに通うのは今の所ないですね。海外でやるとしても、再受講生用の3日間コースとかですかね。ダラムサラが日本と違うのかどうかという点に興味が少しあります。<br /> <br /> <br /> ■他のテーラワーダ仏教 論者<br /> <br /> <br /> ・後日、タイのテーラワーダ仏教論者のプラユキ・ナラテボー師 のセミナーを受けましたが、同じヴィパッサナー瞑想とは思えないほどスタンスも説明も違って見えました。もちろん「気付き」と言う意味においては同じなのですが、こちらは他の瞑想を否定しないですし、かなりオープンです。ゴエンカ式とはかなり別物に見えます。ゴエンカ式だけを見てヴィパッサナー瞑想があーだとはとても言えないですね。ゴエンカ式はヴィパッサナー瞑想の代名詞のようになっていますが、あくまでもゴエンカ式の瞑想がたまたまヴィパッサナーだったと思った方が良さそうです。ゴエンカ式は無宗教をうたっておきながら宗教っぽい盲目的な感じで、プラユキ・ナラテボー師は仏教バリバリの筈ですが宗教っぽくないオープンな感じです。<br /> <br /> <br /> ■サマタ瞑想のサマーディを否定していい気になっている人たち。実際はサマーディは悟りの役に立つ。<br /> <br /> <br /> ・この種の人種がゴエンカ式には多少ながらいるような気がしました。サマーディには「物」と同一化するサマーディと非物質と同一化する概念上のサマーディがあり、藤本晃氏の本によると前者は悟りの役に立つが後者は悟りに役に立たないと言う。同書によると、サマタ瞑想のサマーディなしにヴィパッサナー瞑想で悟りを求めることは可能だがとてつもなくハードルが高く、仏教の経典にはまず「物」に対するサマーディを経てから何段階かを辿り、悟りに辿り着くという。やはり、ブッダ自身はサマーディを否定しておらず、後の解釈を行った人物がサマーディを否定しているのだとわかる。その理由は、否定することで優越感に浸れるから、と言うのが一定数あるのでは。或いは、単に無知なだけか。もちろん、私の理解が間違っている可能性もあるし後者の無知は責められるものではないが、前者の優越感は愚です。そんなことで瞑想をしても迷走するだけ。一方、確かに、サマーディの彷彿感に浸ってしまって成長が妨げられることも大いにあるので、サマーディの落とし穴に関する危険性は間違ってはいない。やはり、問題の根本原因はこのようなことを正確に教えてくれるグルがいない、と言うところに結局辿り着くのかもしれない。<br /> ・サマーディは段階があり、最初は彷彿感があるが、次第にその彷彿感が減って行くそうです。これは私の体験でも確かにそうだと思いますし、幾つかの書籍でもそのようなことを読んだ気がします。彷彿感が減るのは後退ではなく進歩だそうです。最後には彷彿感のほとんどない統一に至るそうです。「物」に対するサマーディで彷彿感がない段階まで至った後、悟りに向かうのがブッダの説いた道だそうです。だとすると、サマーディをある意味で否定しているゴエンカ式は悟りを語りつつも本当は悟りではなく現世利益を目的としているのかもしれません。<br /> ・色々書きましたが、ゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想が悟りを求める瞑想とは言いつつも、多くの人は実は悟りなんて求めていなくて、単に楽になりたいだけだとすれば、その要求はとりあえず満たしているので、これで十分と思っているのかもしれません。本気であればこんな違和感なんてすぐに気付くでしょうから。<br /> <br /> <br /> ■初心者の長い瞑想は危険<br /> <br /> ヨガ系の「瞑想と霊性の生活3(スワーミー・ヤティシュワラーナンダ著)」に以下のようにあります。<br /> <br /> 初心者には、瞑想だけをおこなう修行法は固く禁じられるべきである。私たちの僧団では、決してこれを許さない。あなたが自分のさまざまの思いを完全に制御することができない間は、霊的生活の初期においてあまりにも多く瞑想することはあなたにとって危険である。こころを静めようとすると、禁じられた不快な思いが心中に浮かびはじめて混乱を引き起こす。これらは、あなたを圧倒してしまうことさえある。初期の段階では、瞑想に割り当てる時間は短くするのがよい。残りの時間は、仕事、奉仕、または勉学に費やされるべきである。<br /> <br /> この発言の前提は集中系(サマタ系)のサマーディ瞑想ですが、ヴィパッサナー瞑想の指導者は違う見解を持っているかもしれません。それでも、これは示唆に富んだ発言だと思います。特に初心者は集中系(サマタ系)と観察系(ヴィパッサナー系)の違いもよくわからないでしょうし、長い瞑想をいきなりするのは危険だと思います。と言うのも、10日目に話をした何人かは明らかにこの種の混乱に陥っている事が容易に見て取れたからです。何人かはストレスフルになっていましたし、自己嫌悪に陥っている人もいました。それに対してスタッフや指導者のケアはほぼゼロで、放置です。指導者は最終日は顔を出さないですし、解散の時間になったらさっさとタクシーでスタッフもそそくさと帰宅していました。こんな状況であれば尚更、知り合いにはこんな放置するのが方針のヴィパッサナー瞑想合宿なんて薦められないのです。この日本は自由の国なので、やりたければ好きにやればいいです。それは基本です。知り合いに勧めないと言うだけのことです。<br /> <br /> どちらにせよ、大半の98%の人はそれほど深い瞑想の境地に達することができないのですから、短い期間であればとりあえず何をやっても大差ないと思われます。やりやすいものをやれば良いのです。長い時間を瞑想して窮地に陥る危険があるとしても、ここは自由の国ですから好きにすればいいのです。 <br /> <br /> 瞑想は本来神秘行に属するものなのですが、この団体は、単に表面的なストレス解消が目的なのかもしれないですね。そんな気がしてきました。そう思った理由は、奉仕者が話をしているのを最終日に聞いた時に、浄化が目的みたいなニュアンスを何人かから聞いたからです。であれば、単に葛藤を捨てるだけのことですから上記のように感情を切り離す瞑想で十分なんでしょうね。カルマの根であるサムスカーラを根絶する本来のヴィパッサナー瞑想の使い方ではないですけど、表面上の葛藤を切り捨てるためにヴィパッサナー瞑想を使うのであれば、それもまた個人の自由ですしね。「浄化」という言葉は色々と解釈できますが、このように私が判断したのはその人となりとその口調ですので、あくまでも主観的な判断です。ふわふわとしていて存在が薄い感じでしたので、上に書きましたように、葛藤をすぐに切り捨ててしまって空っぽになっている人なのかなあと思いました。別にそれを否定するわけでもなくて、物や手法が世界の各地を移動する時にその目的が変わることもよくありますから、日本に来た時に、説明は同じだとしても、その活用方法が異なってしまうのも、それはそれで文化としてよくあることですし、私としては否定もしませんし、単に興味深く眺めるだけのことです。表面的なストレス解消が目的であれば、それはそれで好きにすればいいんじゃないでしょうか。でも、瞑想のお題目としてはたいそうなことを言っていますけどね。実際はそんな実態なのでは。とは言っても、上に書きましたように、瞑想初心者は葛藤に圧倒されてしまって危険な状況に陥ることも多々あると思いますけどね。それもまた、自由の国の自由な選択で起きている喜劇であるわけです。私は気付いたことを書いているだけで、他の人に変わってほしいなどとは思わないですが、本来の目的と表面的なお題目が違うのであればお題目を変えて、きちんとストレートに表現すべきだとは思っています。表面的な葛藤をなくす瞑想です、とはっきり言えばいいのです。サムスカーラという種を燃やしてカルマで転生がどうのこうのなんて言っても、そんな瞑想はそうそうできないでしょう。あそこにいた指導者ですらそういうレベルではないことが一目でわかりますし。<br /> <br /> ■共通点は「体験」<br /> <br /> 私の内なるガイドが言うには、「体験」に基づくのであれば共通点が見えてくるだろう、とのことです。確かに、言葉や論理では違って見えても、「体験」であれば似たものが見えてくるはずです。各種の状態や認識を言葉にすると違って見えるかもしれませんが、本質はきっと同じなのだと思います。 又、よくある例えですが、精神的成長という「山」を登る道はいくつもあるので、登った先の頂上からの眺めは同じであるわけです。見た目の違いで他の手法を区別したりしますが目的地は同じなわけです。精神的訓練をしてゆけば何がしかの経験がある筈で、それこそが共通点になる筈だと思います。<br /> <br /> ヴィパッサナー瞑想も各種ヨガ瞑想も本質はそうは変わりません。少なくとも私はそう思います。<br /> <br /> ■その後、インドのリシケシでヴィパッサナー瞑想の瞑想会を主催している人と話をしました<br /> 日本でヴィパッサナー瞑想というとゴエンカ式ですがリシケシでヴィパッサナー瞑想というと単に沈黙の瞑想を意味するらしいです。リシケシでヴィパッサナー瞑想の瞑想会を主催している人と話す機会があったのですが、「ゴエンカなんて知らない」って言われました。ヴィパッサナー瞑想を主催していてもゴエンカなんて知らないそうです。日本とはヴィパッサナー瞑想の意味するところが違うのかもしれないですね。興味深いところです。<br /> <br /> ■ゴエンカ氏から直接指導を受けたインド人の瞑想指導者と話をしました<br /> 私が千葉で受講した約4か月後、インドのリシケシでヨガを勉強した際にインド人の瞑想指導者と話をする機会がありました。そのインド人はゴエンカ氏から直接指導を受けて数ヵ月の瞑想をし、現在はヴィパッサナー瞑想のみならず各種の瞑想指導をしていました。話を聞いたところ、いくつか分かったことがありました。<br /> <br /> <br /> ・「どうしてゴエンカ式はヴィパッサナー瞑想と他の瞑想を組み合わせてはいけないのか?」と聞いてみました。回答としては2つ。1つはテクニカルな話で、ヨガのプラナヤーマとヴィパッサナー瞑想は手法的に同時にはできない、というのが1点。もう1点は、ゴエンカ氏は本気だったので自分のヴィパッサナー瞑想をとことん突き詰めてそれだけを集中して行いたかったので他の瞑想をしている人に入ってきてほしくなかった、という背景を聞きました。ゴエンカ式の説明で、私はてっきりテクニカルな話をしていると解釈していたのですが、どうやらテクニカルな話は重要ではなくて、むしろ、ゴエンカ氏の意図が反映されてあのような他瞑想を排除する規約になっているようですね。テクニカルな話であれば理屈でもって変わることもありそうですが、ゴエンカ氏の意図であればカリスマのゴエンカ氏が亡くなった今となっては他瞑想を排他する規約は半永久的に続きそうですね。<br /> ・ゴエンカ氏から直接指導を受けたインド人もまた、怒りの沸点が低かった。私がいくつか質問をしたところ不愉快な表情になって苛ついて声の調子が変わり、やがては私の言葉を遮り始めましたので、ゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想をしている人の多くが怒りの沸点が低くてキレやすいというのは、このようにゴエンカ氏から直接指導を受けて瞑想指導をしているような人であってもそうであるのですから、多くの場合に当てはまりそうです。おそらくはゴエンカ式をすると何らかの理由で怒りの沸点が下がる可能性がある、と思った方が良さそうです。ゴエンカ式をしているのであれば怒りの沸点が低い可能性がある、とも心の片隅に止めておいた方が良さそうです。そうでないと簡単にキレられてこちらが謝意してしまいますから、ゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想をしている人には不用意に近付かない方がいいかもしれない、と改めて思いました。瞑想は心のピースを育てるためにしている筈なのに怒りの沸点が下がってしまってしまう人が多発しているということは、それは、手法のどこかが間違っているのだと思うわけですが、本人たちは現状に問題点を感じないのでしょうか? 不思議なところです。<br /> <br /> <br /> ■ネパールでゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想を受けたドイツ人と話をしました<br /> 上で書いた瞑想指導者と話したのと同時期に話をする機会がありましたが、この人もどちらかというと怒りの沸点が低くて、エゴが強くて、それでいてピースな環境を求めているタイプ。ピースは自らの内にあると言いつつもそのことがよく分かっていなさそうなタイプで苛つく沸点が低くてその度にピースを語っていました。めんどくさくてあんまり付き合いたくないタイプです。<br /> 自分がゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想を受けたことを誇りにしているらしく、ゴエンカ式は最も厳格で厳しいんだみたいなことを他の人に自慢していました。瞑想って自慢するようなものじゃないと私は思うんですけどね。瞑想を自慢している時点で既に瞑想のステージがあんまり進んでいないことを自ら暴露しているようなものです。上にも書きましたが、精神世界(スピリチュアル)の初心者によくありがちな落とし穴で、自分があたかも凄いような錯覚を感じてしまうのは、それが錯覚だとしても初心者はなかなかそれに気付けないものです。<br /> ゴエンカ式の経験者の中にはこのような精神錯乱者が度々いるので、きっと多くの人がうまく瞑想できずに10日間を過ごして、最終的に「俺はやり通したんだ」というエゴが拡大したり、あるいは、精神錯乱になったり、あるいはその混合タイプになったりするのでしょうね。<br /> 上にも書きましたが、ある程度瞑想が出来てからでないと10日間なんていう長い瞑想はしない方がいいと思うんですけど。エゴが駆り立てて「チャレンジ」する人もいるみたいですけど、そんな「チャレンジ」なんて言ってる時点で瞑想初心者ですから辞めておいた方がいいと思います。このドイツ人みたいにチャレンジの結果を誇りにしてエゴが拡大でもしたら逆効果ですし、エゴ拡大だけならともかく精神錯乱したら日常生活に支障が出ますしね。<br /> 私がそのインド人に「私も受けたよ」と言ったら自分のプライドが傷つけられたのか何なのか敵意のある視線と苛ついた表情、それに突き刺さるような思念波を送ってきていきなり頭痛がしました。余計なことを言わずに「凄いですねー」とか言って適当に流しておけば良かったですよ。なんでちょっと話しただけでその後もことあるごとに恨みの視線と攻撃的な思念波を受けなきゃならないのか。こっちが被害者ですよ。ゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想の経験者とはあまり関わり合いもたない方がいいなあ、と改めて思いましたよ。私も自分がヴィパッサナー瞑想経験したなんてあまり他人に言いたくなくなってきます。<br /> <br /> ■インドやネパールでは宗教が生活に根付いている<br /> インド周辺国では宗教が生活に根付いていて日本で言うところの宗教的な概念は薄く、例えばインドはヒンドゥー教徒が多いと言われていますがヒンドゥー教は日本で言うところの宗教団体はなくて生活の一部であり神道のようにあって当たり前のものです。ネパールやミャンマーも宗教が根付いていますから、それらの国の人がゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想を宗教ではない、というのは分からなくもありません。しかし、日本から見たらそれは原始仏教でありますから、明らかに宗教なわけです。日本の人が神道を道徳的なものとして理解している一方で海外から見たら興味深い宗教であるのと同様の構図なのかなと思います。ふと気付けば、ゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想をしている人はゴエンカ氏の言葉を真に受けて「宗教ではない」と言っているようにも思えますので、「原始仏教だから宗教でしょう」と言い返すのは大人気がないのかもしれません。とりあえず「そうですか」と答えておけばいい気もします。<br /> <br /> 私は宗教を否定しておらず、むしろ肯定していますので、ここが宗教なら宗教でもかまわないのです。<br /> <br /> 少し勉強すればここが原始仏教だと気付く筈なので、もしそれに気付かずにゴエンカ氏の言葉を真に受けて宗教ではないと思っているのだとしたら(そんな人は稀だと思いますが)やっていることと言っていることが合っていないということになりますから、行動と思考が分離した状態ではいくら瞑想をしても一定以上の境地に達することはないのではと推測いたします。思考と行動が一体になって初めて高い境地に達するのだと思います。原始仏教の時代には宗教という概念は希薄でしたし、人々に強制もしておらず、自由意思で修業をしたわけですから、強制や脅しがないという点では良いのですが、原始仏教を基本として精神的修業をする団体ということであればそれは宗教ですよ。堂々と宗教を名乗ったら良いと思います。最近は宗教を名乗らない宗教が多いですよね。<br /> <br /> ■サマーディ(集中)瞑想とヴィパッサナー(観察)瞑想<br /> (ゴエンカ式ではなく)テーラワーダ仏教(スリランカ上座仏教)の識者が書いた「沙門果経」(アルボムッレ・スマナサーラ著)を読んだところ、当時のブッダが置かれていた状況およびサマーディ瞑想(集中によるサマタ瞑想)とヴィパッサナー(観察)瞑想の位置付けがよく分かりました。少し引用します。<br /> <br /> 当時はサマーディ瞑想で禅定に達した修行者が、輪廻転成を乗り越えて解脱に達するためにヴィパッサナー(観察)瞑想に入ったのです。現代ではそのような回り道はしないで、ヴィパッサナー瞑想を実践しています。ヴィパッサナー瞑想だけで、集中力やさまざまな智慧など、解脱に必要な条件はそろうのです。「沙門果経」(アルボムッレ・スマナサーラ著)より<br /> <br /> ゴエンカ式のところでマネージャーにこの辺りのことを聞こうとしたらキレられたのですが、こちらのテーラワーダ仏教はとても理性的っぽい感じで好感が持てます。こちらが本物な気がします。<br /> <br /> ■生命力(パワー)が上がれば集中力(サマタ系)も観察力(ヴィパッサナー系)も高まる<br /> その後、再度のクンダリーニ経験(詳しくはナーダ音の記事を参照)をしたりインドのリシケシでクリヤ・ヨガを行ったところ、この認識に至りました。<br /> <br /> ここで言っている生命力(パワー)とはエゴのことではなく、根源から湧き上がってくる力、基本的な生命力のことを言います。観察系瞑想と集中系瞑想があると言われていますが、それは瞑想の2つの側面をそれぞれ表しているだけであって、体のパワーが高まれば観察も集中もどちらも高まるし雑念も消えるのかなと。<br /> <br /> 絶対的な視点から見ると観察系瞑想も集中系瞑想も同一で並列ですが、個人から見た相対的な視点からすれば個々の性質に応じてどちらがやりやすいかという方向性があるので、相対的には観察系瞑想と集中系瞑想で良しあしが発生するのかなと。そこで言う良しあしとは人それぞれ向いているか向いていないかという個人的な視点だけであって、向き不向きあるいは好みの問題で良しあしが発生するが、絶対的にはどちらも同一なのかなと。「こっちが良い」とか言うと、あたかももう片方が悪いかのような印象を与えてしまいがちですが、そこで言う良しあしとは、単に個々の指向を言っているだけなのかなと。たとえば、もしかしたら集中が苦手ならば観察系瞑想が得意かもしれないし、そうなれば観察系瞑想が良いとその人は思うかもしれないが、集中が苦手だからこそ集中系瞑想をすべきかもしれない、という面もある。逆もまたしかり。人によっては片方だけやって一生を終えるかもしれないし、両方やるかもしれないが、瞑想は内面で起きていることなので、集中瞑想やっていても観察は高まるだろうし、観察瞑想やっていても集中が高まるでしょうから、どっちもあまり大差ないのかなと。テクニックとしては色々あるのでそれぞれ良しあしはあるだろうけれども、概念としては観察系も集中系も視点が違うだけなんだと理解しました。<br /> <br /> 生命力(パワー)っていうのはクンダリーニだったり他のものだったりするようですが、どちらにせよ、目的は観察や集中ではなくて、観察や集中はアクション(行動)であってHow to(どのように実行するか)だからテクニックの部類なんですね。目的はパワーを高めることなのかな、と。パワーというと語弊があるかもしれないので、生命力を高める、と言った方が分かりやすいかな。生命力を高めることが目的で、その手段として観察瞑想や集中瞑想がある。<br /> <br /> もっと言えば、その根本はと言うと気脈(ナディ)開発なのかな、と。そんな気がしました。見方にもよりますが、気脈(ヨガで言うところのナディ)開発の観点からすればいろいろな瞑想の本質が見えてくる。結局のところ想念観察だとか観察瞑想とか言うのは結果というか現象や経験のお話であって、大切なのは気脈(ナディ)を開発してエネルギーアップすることであり、エネルギーアップすれば自然に雑念も消える。とある瞑想では想念観察とか全く言わないで気脈(ナディ)の開発に焦点をフォーカスしていたりします。<br /> <br /> 元気になればネガティブが消えるのは誰しもが経験して知っていることだと思いますが、それが高度なレベルで起きたときに覚醒だったり神経験がきっと起こるのであって、想念観察したり観察瞑想したからと言って覚醒するわけでもないのかな、と。重要なのは元気になること、というシンプルな点が実はかなり奥深いのかなと。<br /> <br /> 集中系(サティ)とか観察系(ヴィパッサナー)とかに長らく惑わされてきましたが、最近、本質は結局ここなのかな、という気がしてきました。<br /> <br /> <br /> → 関連記事: サマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想と”意”と”識”<br /> <br /> <br /> Thu, 02 Aug 2018 00:00:00 +0900 ハイヤーセルフ、ミドルセルフ、ロウアーセルフ https://w-jp.net/2017/1454/ <br /> ■ハイヤーセルフの一般的な解釈<br /> 時代によって意味するところが変化しています。<br /> <br /> ・1990年代のニューエージブームにおける意味:「本当の自分」と言う自我<br /> ・現代主流で使われている意味:魂<br /> <br /> このことを理解するには、1990年代の時代背景を理解する必要があります。<br /> <br /> 当時は物質社会に生きる人々の多くが行き詰まりを感じており、その行き詰まり感からニューエイジブームが生まれました。そこでは、本来は統一感のある唯一の自我である自分自身が「物質社会に邁進する自分」と「それではいけないと感じて真実の生き方を求めている自分」に分離されていました。その分離が社会現象として起こっていましたので、共通認識として存在したわけです。ですから、ハイヤーセルフと言えば後者の「真実を求めている自分」と言う自我のことを指していました。そして、ハイヤーセルフが魂との橋渡しをしていたのです。<br /> <br /> 以下のような構図です。<br /> <br />  物質的な自我(メイン) 真実を求める自我(ハイヤーセルフ, まだ覚醒されていない意識) 魂<br /> <br /> 当時は、物質的な自我が魂に近づくためにハイヤーセルフと言う概念を必要としていました。<br /> しかし、この分離が解消されてバランスの整った状態になると、ハイヤーセルフと言う概念は消滅します。本来、どちらも自我だからです。<br /> 自我の分離が解消されると、単に自我と魂との繋がりになります。 このとき、ハイヤーセルフと言う言葉は行き場を失い「魂」を指すように意味が変化します。<br /> <br />  自我 魂(ハイヤーセルフ?)<br /> <br /> ハイヤーセルフの元々の意味は消滅しつつあるものの、慣習でハイヤーセルフと呼ぶようなことは続いています。昔と同様に「真実に近い認識を持つ自我」を指す時もあるのですが、それよりも、直接的に「魂」をハイヤーセルフと表現している場合が最近は増えているような気がします。ですので、最近書いた文章ではコンテキストによってどちらを意味しているのか認識する必要があります。<br /> <br /> ハイヤーセルフとのチャネリングの多くは魂に「直接」繋がったものではなく、「物質的欲求など常識の枠を取り去った時に自分の自我が真実に基づいてどのように考えるか」と言う自我とのコミュニケーションであることが多かったように思います。<br /> <br /> そうしてゆくうちに自我の分離が解消され、自我が透明な心を取り戻した場合には「魂に繋がる」と言う意味におけるハイヤーセルフとのチャネリングに移行してゆくこともあるのですが、それは元の意味とは異なってきます。ハイヤーセルフと言うのは元々「自我の分離」を前提とした概念が基本にあったのです。<br /> <br /> ■ハワイの先住民族によるハイヤーセルフの解釈<br /> 書籍「フラワー・オブ・ライフ」によると、ハワイの先住民族の解釈では「3つ」の層があります。<br /> <br /> ・ハイヤーセルフ(高次自己)<br /> ・ミドルセルフ(中位自己)<br /> ・ロウアーセルフ(低次自己)<br /> <br /> これは、一般的な「自己とハイヤーセルフ」という2層解釈とは異なっています。<br /> <br /> 2次元性の意識がミドルセルフ。<br /> ロウアーセルフは地球。端的に言うとロウアーセルフとは「無意識」。無意識は地球上全ての人と繋がっている。ユングの言う集合無意識。<br /> ハイヤーセルフは「すべてのもの」。<br /> <br /> 同書によると、ロウアーセルフに繋がってからでないとハイヤーセルフと繋がることはできないとのことです。<br /> ハワイ先住民によると、地球は2〜6歳くらいの子供であり、ロウアーセルフと繋がるためには無邪気に子供になって遊ぶ必要があるとのことです。スピリチュアリストがグラウンディングを重要視したりインナーチャイルドを「癒す」と言う言葉で表現しているのは、実はこのことのようです。「癒す」と言うと個人の心に傷があるかのような誤解をするかもしれませんが、傷があろうがなかろうが地球と繋がるためには無邪気になって遊ぶ必要がある。そのことをインナーチャイルドとか表現しているようですが、本質はインナーチャイルドではなくて地球と繋がるというところにあるようです。<br /> <br /> そして、地球であるロウアーセルフと完全に繋がった時、地球が貴方にハイヤーセルフと引き合わせてくれるとのことです。<br /> Tue, 21 Nov 2017 00:00:00 +0900 クンダリーニ症候群、或いは禅病 https://w-jp.net/2017/1452/ <br /> 「クンダリーニの覚醒は、ヨギには解脱を与え、愚者には苦悩のくびきを与える」(*1)<br /> <br /> クンダリーニ症候群(または禅病)を調べてみました。<br /> <br /> 症状<br /> ・体の中に熱が篭ってしまい、注意散漫になったり日々の生活に支障を生じる<br /> ・頭痛、神経過敏、高血圧、不整脈、集中できなくなる<br /> ・熱が篭る場所としては下半身、心臓(ハート)、頭など。強烈な熱感或いは圧迫感を伴う。<br /> ・手足が冷たくなる<br /> ・涙が止まらなくなる<br /> ・時に幻覚・妄想・不眠症を伴う<br /> ・いわゆる自律神経失調症のような症状<br /> ・時には死に至る<br /> <br /> 症状の原因としては以下<br /> ・グランウンディング(地に足をつける)が足りない<br /> ・体の中のエネルギーの流れが滞っている。ネガティブな思想がエネルギーの流れを遮っている。<br /> <br /> 解決法<br /> ・エネルギーを体の中で循環させる。<br /> ・円天法などと呼ばれている方法で、背骨を伝わってムーラダーラ(Muladhara)チャクラからサハスララ(SAHASRARA)チャクラまでエネルギーを上げた後に、体の前面を通ってエネルギーが下に降り、またムーラダーラチャクラから循環させるようにしてバランスを取ります。エネルギーを体の前から下に下ろす場合はグラウンディングを意識します。<br /> <br /> この円天法はシンプルですがとても効果があります。クンダリーニ症候群の人は体の中に熱が篭っている状態なので、上記のようなエネルギー循環をするだけで劇的に回復したり、数週間で回復したりもできるようです。<br /> 円天法は一部のヨガでは基本に含まれていますので、クンダリーニ症候群とまでは行かないまでも体の中にエネルギーが滞っている場合など普段からして頂ける方法だと思います。<br /> <br /> エネルギーのブロック要因は各チャクラ特有のもののようです<br /> ・下半身のムーラダーラ(Muladhara)チャクラ。性的欲求の克服が必要。過去生も含めたカルマの克服が必要。<br /> ・下半身のスワディスタナ(Svadishthana)チャクラ。性的欲求の克服が必要。無意識で眠っているカルマの克服が必要。<br /> ・ハート(心臓)のアナハタ(Anahata)チャクラ。ネガティブな感情が渦巻いているとここで詰まってしまいますので楽観的になることが重要。<br /> ・喉のヴィシュッダ(Visuddha)チャクラ。<br /> <br /> このようなクンダリーニの覚醒は本来は師匠について行うべきものですが、時に、準備ができていない人に偶発的に覚醒してしまうことがあり、様々な症状が出てしまうとのことです。特にムーラダーラ(Muladhara)チャクラやスワディスタナ(Svadishthana)チャクラが目覚めるとあらゆる抑圧された感情が爆発的に現れ、いわゆるクンダリーニ症候群になりやすいそうです。このような時は適切な指導者が必要です。<br /> <br /> クンダリーニのエネルギーは、広く一般には下半身から頭に向かって上昇するもの、というシンプルな捉え方をされていると思います。しかし、この一般的な理解だけですとエネルギーが頭で詰まってしまうのです。場合によっては頭上にあるサハスララ・チャクラが開いてエネルギーが外に出ることで事なきを得る場合もあるようですが、エネルギーが抜けずに詰まってしまうとクンダリーニ症候群とか禅病などと言われているものになってしまいます。<br /> <br /> クンダリーニは背骨を通って上昇します。そこで頭の上に抜けたところから、次は体の前を通って下に回します。この部分がいわゆる「グラウンディング」と呼ばれているもので、地に足をついた生活をしているほどグラウンディングでエネルギーが下に回ります。ふわふわした生活をしているとなかなかエネルギーが下に下がりません。社会生活を投げ出して神秘主義に没頭した場合などもグラウンディングし辛いかもしれません。<br /> <br /> 円天法は色々とバリエーションがあるようですが、単純に体の前後を回すだけも効果があります。バリエーションによっては、体の後ろと前をそれぞれ通過させた後に再度頭まで背中を伝わって持ち上げ、次は体の内面を通って丹田まで下ろす、というようなやり方もあるようです。<br /> <br /> どちらにせよ円天法の基本は背中から上昇して体の前面から下降(グラウンディング)です。たったこれだけでクンダリーニ症候群あるいは禅病の症状が改善されるようです。<br /> <br /> 文献:<br /> タオ人間医学<br /> 密教ヨーガ<br /> <br /> ■追記<br /> その後、ナーダ音について調べていた時に意外にもクンダリーニついても色々とわかってきました。詳しくはこちらに記しますが、ざっくりと言うと、ヨーガで言うところのナディ(体にあるエネルギーの通り道、経脈)のうち、背骨に沿って存在しているスシュムナが不純物で詰まっているとクンダリーニ症候群になるようです。<br /> <br /> 円天法そのものがクンダリーニ症候群を防ぐというよりも、円天法のような行法はいわゆる浄化(クリア)に類する物で、クンダリーニを目覚めさせる前に各種のクリアをして浄化をしてからクンダリーニを目覚めさせないととてつもない混乱を引き起こす、ということのようです。詳しくは上記リンク先の最後の方に記してあります。<br /> <br /> ■追記2<br /> その後、クンダリーニ経験ぽいことが起きました。上リンク先と同じナーダ音に関する記事のページに追記してあります。<br /> <br /> ■追記3<br /> 最近気付いたのですが、意識が頭頂にズレてしまうとクンダリーニ症候群と言いますか意識がぼうっとしてしまう気がします。そんな時は意識を後頭部に動かすというか後頭部まで下ろしてあげると落ち着いていわゆるグラウンディング状態になって意識がはっきりしてクンダリーニ症候群っぽく無くなります。これそのものがクンダリーニ症候群という訳でもなさそうですが、単に小周天をするだけではなくて意識をどこに据えるかで随分と感覚が変わるのだなと思いました。<br /> <br /> 通常、いわゆるグラウンディング状態では魂というか意識の居所が後頭部にある気がします。前はそんな意識の場所なんて認識しなかったと言いますか、どこにあるのかもよくわからなかったのですが、最近は意識の場所が分かってきて、意識を体のどこかに向けると意識の居所がちょっと動いたりします。<br /> <br /> スピリチュアル系のワークで「地球を感じましょう」とかイメージするのともちょっと違っていて、確かに地球をイメージすると意識が多少は下方に下がるのでそれにつられて意識も頭頂から後頭部に下りるかもしれないですけど、地球をイメージするかしないかに関係なく、単に意識の居所を意思の力でグッと頭頂から後頭部まで下ろしてあげるとグラウンディング状態になる気がしました。<br /> <br /> これは私の場合であって、他の人も同じようになるかどうかはわかりません。<br /> <br /> 後頭部の上の方にビンドゥ・チャクラというのがありますけど、そこではなくて、もっと下の、いわゆる松果体のあたりがグラウンディングの位置ですね。更に下のヴィシュッダ・チャクラの近く、マイナーですけどチブーカム・チャクラ(Chibukam Chakra)のあたりまで下げても安定しています。ヴィシュッダ・チャクラまで下げてしまうと下げすぎな感じです。チブーカム・チャクラは「瞑想ヨガ 魂のやすらぎ(ワスデーヴァ・ナイア・アイアンカー著)」に書かれてあるものであまり他では見ないですが著者のアイアンカー家ではこのように伝えられているそうです。チブーカム・チャクラはヴィシュッダ・チャクラと松果体の中間より少し下寄り後方ですね。<br /> <br /> ■追記4<br /> 「ヨーガの極意(小山一夫著)」には、クンダリーニ 症候群あるいは禅病への対策としてリードピータ師の書籍を引用して「瞑想を終わる時には、クンダリーニ をムーラダーラへと戻す」と書いてあります。原文の「チャクラ(C.W.リードビーター 著)」を確認してみますと、以下のようにありました。<br /> <br /> クンダリーニ は、ヨギが瞑想のために意思を集中するに連れて、少しづつ、チトリニ気道を昇ってゆく。一度くらいでは大して昇らないが、次にはもう少し昇るから、これを何度もくり返す。(中略)瞑想を終わるときには、同じ道を通ってクンダリーニ をムーラダーラ(根のチャクラ)へと戻す。ただしある場合には、心臓のチャクラまで戻す。「チャクラ(C.W.リードビーター 著)」チトリニ気道とはスシュムナ(主要ナディ)の中にある気道のこと。<br /> <br /> 私の場合、ムーラダーラに戻すよりも後頭部の方が落ち着きます。というか、ムーラダーラまで戻すと逆にバランス崩すような予感がするので後頭部に戻すようにしています。<br /> <br /> <br /> <br /> (*1) ハタ・ヨガ・プラディーピカ(Hatha Yoga Pradipika)3章107番より。訳は「チャクラ」(C.W.リードビーター著)による<br /> Sun, 03 Sep 2017 00:00:00 +0900 スピリチュアルの「3倍返しの法則」 https://w-jp.net/2017/1434/ <br /> スピリチュアルの世界で、他人を恨んだり妬んだりすると自分に3倍で跳ね返ってくる、という法則がある。同様に、他人を判断すると自分に3倍で跳ね返ってくる、という法則もある。どちらも、その思念を飛ばせば自分に戻ってくる、という法則だ。<br /> <br /> それが実感できる人にとっては「その通り」で終わりなのだが、感覚に敏感でないとその意味するところは不明かもしれない。<br /> <br /> でも、考え方としては単純です。<br /> <br /> 他人を恨んだり妬んだり判断する時、その時必ず「集中」する筈です。その集中は、意識的にせよ無意識的にせよ、自らの波動を相手に合わせて行われるのです。自らの波動をラジオのようにチューニングしてわざわざ低くしてしまい、自らの波動が相手の低い波動に合ってしまうのです。ですから、跳ね返ってくる、というよりも、自らが低い波動にチューニングされてしまい、同様のトラブルが次々と舞い込むようになる、というわけです。ミイラ取りがミイラになる、というわけです。<br /> <br /> ですから、何か嫌なことがあっても、すぐにそれを「手放す」ことは重要です。手放さなければ、自らがその低いオーラと同調してしまいます。<br /> <br /> スピリチュアルな理解に従えば、「想い」とは単なる感覚器官の1つに過ぎず、「自分」ではありません。<br /> 例えば騒がしい土地を訪ねて騒音がとても煩い時に、人はその騒音を自分自身だとは思わないですよね。騒がしい土地だ、賑やかな場所だ、と思う筈です。それと同じことです。<br /> <br /> スピリチュアルな理解がない場合、「想い」が自分自身だと勘違いしています。別の言葉で言えば、「心が自分自身だと勘違いしている」とも言えます。心は周囲を感じるための道具でしかない、というのがスピリチュアルな立場です。「自分」とは心を超越したものであり、心の感情とは無関係に永遠に存在します。「魂」とも言えます。魂は心ではありません。魂は心を超越したものであり、心がポジティブになっていてもネガティブになっていても、魂は変わらずそこにあります。<br /> <br /> 魂が自己であり、心は感覚器官でしかありません。しかも、魂は実のところ周囲の人々と繋がっています。ですから、近くにいる人が怒っていたり妬みを感じていれば、まるで自分が感じるかのごとく怒ったり妬みを感じてしまうものなのです。もし自分が誰かに関して怒りや妬みの感情を発するならば、周囲の人に対して心の騒音を撒き散らしているのと同様になるのです。であれば、周囲の人はイライラし始め、同じような感情を発するようになるかもしれません。そして、その感情は自分に返ってきます。それがいわば「3倍返しの法則」になるわけです。<br /> <br /> そして、ある程度の内面の純化が起こった後は、上記のプロセスが加速します。他人に対してネガティブな思いを発すると、即座に自分に返ってきます。純化していなければ自らの思いは強くないのでネガティブな思考であっても届きにくいし、戻って来るときもそれなりです。しかし、純化されている状態でネガティブな思考を発するとその思いは強いので、自らに返って来る思考も強烈になります。純化すればするほどネガティブな思考を避けるべきです。その状態になれば、自ずとこの法則がわかりますから誰に言われなくてもネガティブな思考は避けるようになります。<br /> <br /> ネガティブな思考を発すると自分の心が曇りますので思考の力も弱まります。純化が進めば進むほどネガティブな思考を避けるようになり、思考の力も強くなります。この世界はよくできていると思います。<br /> Sat, 02 Sep 2017 00:00:00 +0900 科学と宗教、そして唯物論 https://w-jp.net/2017/1431/ <br /> 現実が1から100あるとする。<br /> 科学とは理論が証明された1から20の範囲を扱うものであり、時が経つにつれて20から21、22へとその範疇を増やしてゆく。範疇を増やす行為こそが研究であり、科学者が日々行なって謎を究明している。<br /> <br /> 科学の立場からすれば、証明されていない21から100までの範疇は「わからない」と言うのが科学としての正しい立場になる。<br /> 或いは、科学の立場から「仮説」を立てて証明を試みたりする。<br /> 証明された事実(1から20の範囲)と、証明されてはいない仮説(21から100の範囲)を扱って、仮説を証明して科学の範疇を増やしてゆくのが科学の基本的な立場だ。<br /> <br /> 一方で、宗教とは1から100全てを扱うものだ。だから、科学的に証明されているとは限らない。<br /> <br /> <br /> ここで話が終われば明確だ。<br /> <br /> しかし、厄介なことが現実には生じている。特に厄介なのは「唯物論」だ。<br /> <br /> 科学の立場からすれば、証明されていない理論は「仮説」或いは「わからない」としか言えないが、証明されていない内容に対して「間違っている」或いは「存在しない」と判断するのが唯物論だ。<br /> <br /> 科学的に証明された内容と宗教が矛盾している場合に科学的立場を主張するのは普通の科学の立場であり、論理的矛盾もなく、倫理的矛盾もなく、何の問題もない。ここで唯物論が問題になるは、科学の基本的スタンスを歪めて、科学が将来的に証明するかもしれない内容に対しても「存在しない」などと判断してしまう点にある。<br /> <br /> 例えば、ほんの数十年前まで「思いの力」は科学としては「仮説」或いは「わからない」とされてきたが、一部の人が科学的証明を試みてきて今は「思いの力」は存在することが科学的に証明されている。その一方で、唯物論者は長らく「そんなもの存在しない」と切り捨てていた。科学の立場と唯物論は異なるものであり、唯物論に立ったが最後、科学的進歩は終了してしまう。何故なら、科学が既に証明した内容以外は存在しないと自ら諦めてしてしまうからだ。ここに進歩はない。唯物論者は科学的進歩の在りようには目を瞑り、誰かが科学的に証明したら自らのスタンスを変えることで癌のように生き残る。<br /> <br /> 本来の科学の立場は最初に書いたように「仮説」或いは「わからない」と言う前提に立って科学の範疇を増やしてゆこうと努力し研究を続けてゆくものなのに、唯物論は世界の在りようを貶めるだけでなく、科学的進歩をも否定している。この隔たりはとてつもなく大きい。<br /> <br /> 唯物論は、形を変えた宗教として現在に存在しており、特に日本においては、あたかも唯物論こそが本来の科学の姿であると世間で信じられているという、おかしなことになっている。<br /> <br /> 科学が発展してきたヨーロッパやアメリカなど、たいていの国では唯物論など大っぴらに語られてはいない。<br /> 宗教的な理解および振る舞いがない人は、いくら頭が良くても尊敬されないのが世界のスタンダードだ。<br /> そして、宗教的な理解とは、上に書きましたように、科学の範疇と宗教の範疇をしっかりと分離して区別するところにある。<br /> 宗教の範疇と、科学の範疇と、それぞれわきまえているということだ。<br /> <br /> 本来の科学としては、上に記したように「証明されていない事項は、本質的には『わからない』としか言えず、言えるのは仮説のみ」であるのにも関わらず、科学で証明されていないからと言って「存在しない」とみなしてしまう唯物論は、科学の皮を被った宗教でしかない。<br /> <br /> <br /> これが科学だけでなく宗教的にも多いな影を投げかけている。特に大きなものは「人の魂は存在するのかどうか」だ。<br /> <br /> 科学の立場からすれば、魂の存在とは「仮説」でしかなく、本質的には「わからない」としか言えない。<br /> 一方で、宗教の立場からすれば魂は絶対的に存在しているものだ。<br /> <br /> 唯物論的な立場としては、魂は科学で証明されていないので存在しないとみなす。魂が死後も継続するかどうかは宗教によっても解釈が違うが、魂が存続して転生輪廻が存在するとしている宗教の立場に立った場合、もし唯物論の立場になって「魂は存在しなくて生き物が死とともに終了する」と考えるのであれば、人間とは「偶然に生まれた単なる肉の塊」でしかなくなり、人から尊厳は失われてしまう。そこに根ざさなくても尊厳は存在すると考えるかもしれない。しかし、肉の塊でしかないのならばどうして人を殺すのがいけなくて人を傷つけることもいけないのか、という基本的な道徳に対する答えに対して延々と論理で対応しなくてはならなくなってしまう。唯物論では人間とは頭で考える論理的な生き物になってしまい、単なるロボットやコンピュータと変わらなくなってしまう。<br /> <br /> 一方で、宗教の回答はそうではない。多くの宗教において、人間の本質は魂であり、魂は論理を超えたものであるという立場を取っている。<br /> <br /> Fri, 01 Sep 2017 00:00:00 +0900 スピリチュアル遍歴 https://w-jp.net/2013/1594/ <br /> ■小学生<br /> 小学校の頃に全身が光に包まれて体から抜け出していわゆる幽体離脱をし、守護霊やハイヤーセルフと出会い、未来を探検して自分の人生を俯瞰して再設計をする経験を二回以上体験する。私の過去生のある程度の遍歴や、今生に何のために生まれたのかを知る。今生の目的や、いわゆる並行世界(パラレルワールド)における数々の失敗や、どうして今回この時間軸(複数ある並行世界のうちの1つ)を選んだのか、という見解を鳥瞰的に知る。自分の過去の人生における繋がりを知る。他にも細かな不思議な出会いや出来事がありました。過去の記憶と思われるものもかなり思い出しました。もちろん確証はそれほどありませんが、相手が覚えていなくても過去生との繋がりのわかる子供時代でした。それには過去の人生における妻や友人ももちろん含まれます。私の場合、過去生の妻の繋がりが多いようです。思うに、過去生の記憶を持っている人って、世間で思っているよりもかなり多い気がするのですが・・・。教育で過去生なんてないと教えられますから気のせいだと思っている人も多い気がしますが、少なくとも、私の周囲には過去生を覚えている人はかなりいたと思います。未来にそうなる気がしていても、実は並行世界を見ていることも多いのだという事を知りました。そんな感じで当時からスピリチュアルには興味がありましたが田舎では大した書物もなくて当時はネットもなくて情報も少ないながらも多少ながら神秘体験を経て一旦は成長しますが次第に環境諸々に潰されてマイナス面が強い日々を過ごします。<br /> <br /> ■宇宙人とチャネリング<br /> 子供時代、同級生に宇宙人とチャネリングしている人がいました。本人はそんな事他人に言いませんでしたけど、一定の距離に近くと指向性スピーカーのように思念波を盗み聞きできてしまうのです。どのくらい音漏れ(思念漏れ?)に本人たちは気づいていたのですかね・・・。宇宙人(と言っても人型なので割と人間と同じ)のサポートで、他の人がどんな状態なのかとか、将来どうなのか、とか、基本的なスピリチュアルについて学んでいるようでした。ある日、興味本位でそのチャネルに横から繋いで宇宙人とチャネリングした時に「なんだお前は?誰だ?」って言われて、宇宙人は全生徒のことを調べ尽くしているらしくてその人しか知らないことを教えてくれましたけど、私がそのことをネタにくっだらないことしたら宇宙人を怒らせてチャンネル切られちゃいましたけど。同じく同級生の父親が、宇宙人とコンタクトしているスイス人のビリー・マイヤーの本の翻訳をしていたりしました。時代的にもニューエイジですけど、普通こんなに面白い人が沢山同級生にいるものですかね?<br /> <br /> ■過去妻(過去生での元の妻)<br /> 過去生での元の妻も複数人、同級生にいましたし。本人はそれに気付いていたり気付いてなかったり。あの世では割とこの世と同じように生きているのですけど、地上に生まれたら過去生の事をかなり忘れてしまうものなのかもしれないです。あの世で話したことを覚えていたり覚えていなかったり。そうそう。あの世でも嫉妬や横恋慕はあるもので、私が地上で結婚して妻(の魂)と一緒にあの世に帰って行くと、過去生の妻の中には嫉妬する人もいたりして・・・。大抵は仲良くしてくれるのでいいのですが、時々面倒に感じてしまって。ほとんどの過去妻はとてもいい人なのですけど、それでも、時々嫉妬はするものです。そんな人が地上に生まれてきて同級生や1学年違いとかで同じ地域に生まれると、それはそれであの世とこの世が連鎖した変な恋物語になったり・・・。あれまあ。なんてことでしょう。ただでさえこの世の恋は面倒なのに前世からの繋がりなら、もっと厄介です。他の人は、前世との繋がりとか知らずに苦労していたりするかもしれないですけど、私の場合は思いっきり理由も何もかもわかっていますから、よくあるように他人に責任を被せて被害者面もできず・・・。私のカルマですね。過去妻からのアプローチは割と激しかったのですが、私は今生で達成すべきことがあるので独身を貫く・・・ と言いますか、メンタル的にそんな余裕も次第になくなってゆきます。<br /> <br /> 過去妻の半分くらいは、私が新しい妻を連れて行っても気にしないで楽しくやってくれるのですが、4分の1くらいは何も言わないですがちょっと不満もあるらしく、残りの4分の1は積極的に「私を連れてって」って言ってくる感じです。でも、どうも私の輪廻転生の回数も残り少ない(ひょっとしたらこれが最後かも)感じで、過去妻の世話をどうしようかと言う感じです。過去妻はいい子が多いですけどまだ地上で学ぶことが多い子もそれなりにいるので。<br /> <br /> 過去妻だけでなく仲の良かった人も一緒に暮らしている感じで、来るものは拒まず、と言う感じです。どうやら男とは喧嘩したりするので男はいなくて、いるのは過去妻だらけです・・・。チャネラーとかにリーディングしてもらうと、「出てくるのが女の人ばっかり!?」とか驚かれてしまいます。<br /> <br /> ■ニューエイジ<br /> 大学時代からはUFOやニューエイジ等に興味を持ち、各種団体に顔を出しますが、本質には到達せず。この頃、小学校の時に自分で俯瞰した将来像を度々垣間見たので体験が本物であったことを実感する。過去生で私が女だった頃に夫だったこともある人(チャネラーになってました)と会いましたね。一目見ただけで色々思い出しましたが、過去生で辛いことを私がその人にしてしまったので私とは距離を置いてました。まあ、性別も変わっていますしね。<br /> <br /> ■恋愛と性欲<br /> 性欲は割とコントロールできない方でした。恋愛も、基本的に誰でも好きになってしまう方でした。ヨガを始めてから次第に性欲のコントロールが可能になって、性欲がよりポジティブなエネルギーへと変容しました。<br /> <br /> 小学生は恋愛のことはよく分からなかったですが過去妻が言い寄ったり仲良くなったりもしましたが今生では私の計画がありましたのでそこで恋愛や結婚をしてしまうと計画に支障が生じるのでそれは断ち切りました。中学生の頃は周囲との葛藤があったりして恋愛どころではなく、高校生も同様でした。このあたり、並行世界を垣間見ると、高校生のあの子と恋愛になっていたら将来ああなって結婚するものの、最終的には仲が険悪になって全部私が悪いことになって離婚で、周囲には私だけが咎められるし最悪なので根本から切ったりしました。<br /> <br /> 大学時代は恋愛というよりも他人を小馬鹿にする性格の悪い女をとっちめるためにあれこれ気を回していたらいつの間にか好きなような気になってしまったけれども実は好きでもなんでもなかった、という経験もしました。恋愛かと思ったら勘違いでした、というようなことも人生にはあるようです。<br /> <br /> 大学卒業後は恋愛どころではなかったです。何人か候補もいましたけど、やはり並行世界を垣間見るとあまりよろしくない将来が見えたのでやめました。どうやらそれが正しかったことがわかったのはヨガを始めてからです。<br /> <br /> 性欲が割と理想的な形で昇華されたのはヨガを始めて数年後のことで、それまでは性欲に悩まされ続けました。<br /> <br /> ■大学時代<br /> 大学時代はマイナス面の強い性格のために周囲との軋轢を生む。この辺りは時代的なものも影響していたかもしれません。自分ではどうにかしてマイナス面をプラスに持って行きたくても、高校時代までのストレスがヘドロのように固まってこびりついていたので大学時代でそれを全て浄化するには至らず。自分の意思とは無関係にマイナスが体から出てしまう日々。当時は、私の内なるガイドにたまに怒鳴られていたと思います。大学時代に、とてもスピリチュアルに詳しそうだが違和感のある偽覚者と出会い、自分の判断力をつける重要さを実感します。他人に強制したり他人を操作したり共依存な関係になってはいけないというレッスンを学ぶ日々。辛いメンタル時代でしたしそれがレッスンでしたが、時々、それに私が押し潰されそうになっている時、きっと私のガイドはそんな私を見てイライラしていたのでしょうね。人によってはガイドがつきっきりで教えられる場合もあるようですが、私の場合は課題の1つに自主性を養うことが入っていましたのでガイドの案内は最小限でした。このあたりはその後、私が生まれてきた理由を瞑想で探ることで納得したので今は解決済です。<br /> <br /> ■スピリチュアル受難の時代<br /> 大学時代にスピリチュアルの「頭での理解」を一応しますが、覚醒にはほど遠い状態。大学時代にオウム事件があり、大学卒業してからもしばらくはスピリチュアルや精神世界というだけで馬鹿にされたり見下されたり嫌われる時代で、なかなか厳しい時期でした。<br /> <br /> ■過去の夫<br /> 私が過去生で女だった時に夫で、私の心を貶めて奴隷状態にして何も考えさせないようにして「ハイ」と言うまで精神的に追い詰めて奴隷化してきた過去生での夫と大学時代にばったり出会い、私は二度と関わり合いたくありませんでしたし男で相手も男でしたので会ったのは1回きりでそれ以上は何もなかったのですが、一瞬にして私は(おそらく相手も)過去のことを思い出しました。相手からすれば、カモをようやく探し出したのに今世では男同士だったのにカモにすることができなかった、と言う残念な気持ちがはっきりと伝わってきました。過去生ではその男が私をいわゆる「強制」「操作」していたわけですが、そのような状態には二度とならない、と言うレッスンだったと思います。この男に限らず、私を見ると精神的にカモだと思って強制・操作してくる男(だけでなく女も)がいたりして、私を見るだけでそう言う男は私をカモだとすぐに認識できるらしくて、ニヤニヤと気持ちの悪い顔をして近寄ってくるのがおぞましかったです。ですから、大学時代のレッスンとしては他人に強制されたり他人に操作されない、と言うのがありました。この「強制」「操作」「共依存」からほぼ解消されるのはその20年後の40歳前後になってからなわけですが、その間、他人を強制・操作しようとする人に会うことが度々あって、その度に自立を保つのが大変でした。いつも、精神的に折れそうになると助けが入ったり相手が勝手に失敗して目の前からいなくなったりして、見えない存在の導きを強く感じました。おそらくは見えない存在はやろうと思えばそんな厄介な相手をトコトンまで完全に潰すことが簡単にできるのですが、私に学ばせるためにギリギリのところまで手は下さずに私の成長を見守っているようでした。まあ、今でも私は割と脇が甘いのですけど、それでも、生まれた時に決めた及第点のレベルはクリアしている感じですので、とりあえず良いかな、と思っています。<br /> <br /> ■カルマの解消<br /> 私の過去生においては対外的に成し遂げないといけない使命がいくつもありましたが、使命を優先させて結果重視にしたことで軋轢を産んでカルマを貯めてしまっていたのですが、そのようにして貯めたカルマを今生で返したのです。ですから、今生では私の成し遂げないといけない使命はほとんどなく、カルマをある程度(と言っても大量ですが)解消すればとりあえずの人生の目的は達成されたことになります。解消するカルマのうちには「貧者の気持ちを知ること」も含まれていましたので、あまり過去生で体験したことのないバランスシートを体験してなかなか辛かったこともありましたが、良い経験だったと思います。<br /> <br /> まあ、カルマと言っても、私のグループソウルが溜め込んだものですので、私個人としてそれほど罪やカルマの重荷を感じる必要はない、と言われています。今生の目標としては全てではなくある程度のカルマ解消さえできればOKですし、残ったカルマもグループソウルで吸収して分散してそれぞれの分霊が対処すれば良いくらいにまで薄まる予定ですので。色々と過去生のカルマがトラウマのような形で思い出されますけど、それを全て1人で抱え込む必要はないようです。とは言いましても今生はそれなりにキツくて、グループソウルの分霊の中でもかなりカルマの苦しみは辛かった方だったようですが。他の分霊は使命重視で動いていますが、私はカルマの解消を重視している、という違いはあります。<br /> <br /> ■過去生での使命とお金<br /> 使命がある時は使命優先でお金はどんどん入ってきますが、今回はカルマの解消が優先ですのでそのような貧者の気持ちや弱者の気持ちを知ることが重視されています。今生では貧困を知ることが課題の1つでもあったために今生には付いてこないように過去妻たちには理解してもらったのですが、今生で付いてきても苦労をかけてしまうから結婚はできないと言ったのに興味本位で地上に転生して付いて来る人がいたりして、ちょっと困りました。私の過去妻は育ちが良い子ばかりですし基本的にお金は困らない人生を送ってきた人がほとんどですので今生で私がしようとしていることに付き合わせるのは難しいですし。基本的に、過去妻の多くにはお金の制約をかけたことはほとんどなくて、ほとんどの妻にお金は好きに使うように言ってありましたので過去妻はお金のない人生にはあまり慣れていないので。まあ、最近はそれでも無制限とはいかなくてそれなりに制約があることが多かったですが、基本的には、それほどお金に不自由はなかったと思います。<br /> <br /> ■輪廻転生と類魂・グループソウル<br /> よく輪廻転生がどうこう、と言われていますけど。輪廻転生はあります。昔から輪廻転生は言われていましたし、最近のスピリチュアルではグループソウルとかの概念があります。宗教によっては輪廻転生はありませんが、個人的には人間の魂の輪廻転生はあると思っています。パターンは二つです。<br /> <br /> パターン1:魂がそのまま輪廻転生する<br /> パターン2:一旦グループソウルに合流してから分霊を作って輪廻転生する。<br /> <br /> 大きく分けてこれらの2パターンがあって、魂がそのまま他の体に入って生まれ変わるケースと、類魂(グループソウル)と一緒になってから再分裂してから体に入る場合とがあります。私の今生の場合は後者のパターンで、過去生の記憶は必ずしも自分の魂100%の過去生ではありません。<br /> <br /> ですので、輪廻転生はどちらか一方ではありません。スピリチュアリストによっては必ず一旦グループソウルに合流してから輪廻転生するとか、あるいは、グループソウルなんてない、という人もいらっしゃいますが、両方パターンがあります。これは私の過去の記憶や幽体離脱した時に得た知見によるものですので、証明しろと言われても難しいです。信じないなら信じないで問題ありません。<br /> <br /> ■グループソウルと過去生の遍歴<br /> 小学校の頃の幽体離脱で私の類魂(グループソウル)の根源も見ました。全部は書ききれないですし、ものによっては微妙なものもあるので。ただの夢かもしれませんし。私の今の魂の40%はしばらくここ日本で転生を続けていた男(ビジネスマン)の魂で、その魂はそれなりに学びを終えて、一旦は一つ上の段階の世界に移ったのですがその世界で自分がまだ足りていないことを知って、再度学習するために地上に生まれてくる時に、一旦類魂(グループソウル)と一緒になってから再分裂したのです。他の40%は女だった魂。残りの20%は雑多なカルマを持った各種の魂で、判別が難しいですね。でも、大体の系統はありますけどね。女の人生だったり別の男の人生だったり、色々とくっついています。歴史上に名前を残した人もいますけど、無名ももちろんいます。別に私の今の魂100%がそのままではないので自分の過去生だとはなかなか言いにくいですけどね。<br /> <br /> 類魂(グループソウル)にも意思があって、今回の私の転生の意図としては、これまでの使命において使命を優先させたことによって溜めてしまったカルマや学びが足りないところを学ぶ、と言う課題が設定されました。はっきり言って、今回は私の苦手なところばかりをここぞとばかりに課題として詰め込みましたので、かなり大変な人生でした。おそらくは、今まで類魂(グループソウル)が生きてきた全ての人生の中でもトップクラスに苦しい人生だったように思います。きっとそれは類魂(グループソウル)も認めてくれると思います。「そうそう」と言う同意の意思がどっかから聞こえてきますよ(苦笑)ですから、過去で使命を持った人生よりもかなり今の魂は貧弱です。カルマ解消重視ですから。<br /> <br /> ■ヴェネチアあたりの教会の大司教<br /> とても申し訳なく思っている過去生があって、たぶんヴェネチアあたりの教会で大司教だった時があるのですが、その時に、昨今でも問題になっている「キリスト教で神の名の下に恐怖を植え付けてしまう」問題の根源を作ってしまったような感じで、とても後悔しています。今の庶民としての人生ではそれを変えることはなかなか難しいですけど。神の意志に従って正しく生きないと神罰が下ると言うような内容で人々を恐怖に陥れてしまいました。その当時、人々のモラルが問題になっていましたが、教化の仕方がまずかったと思っております。死んだ後に、葬式の儀式の時に無人で鐘を鳴らし、その数年後と十数年後、合計3回くらい、私が見守っていることを示すために鐘を揺らして知らせたように思います。まあ、これも、ただの夢かもしれませんけどね。教会の記録を調べて裏を取りたいと思いましたけど、教会もたくさんありますし、そのような記録の調べ方もわかりません。<br /> <br /> ■宇宙船で暮らした時のお話<br /> まあ、本当かどうかはわかりませんけど、幽体離脱した時や夢の中で知ったお話。私のグループソウルの分霊の1人が中世にヨーロッパで聖職者か論者か何かをして暮らしていましたが、まだ地球人に詳しくない宇宙人が地球人調査のために接触してきて中年以降の半生は宇宙船で暮らしました。その宇宙人は人型でした。その次の転生も宇宙船で生まれましたけど、その時はそのまま生まれ変わった訳ではなくて一旦グループソウルに合流してから再度分霊になって転生。その時はなかなかやんちゃな人生だったようで、子供の頃から他の宇宙人の子供とよく喧嘩になって困らせていたりしました。時期的には割と最近のお話です。次の転生は地球に生まれたいなあ・・・ って感じで次に地球に(今回)生まれました。そのまま生まれたというよりは、やっぱり一旦グループソウルと合流してから分霊になったので上に書いたようにパーセンテージで言うとそのまま私自身ではないですけどね。そういえば、その時の任務で他の惑星の霊的成長を助けるために私の魂がその星の生物の体に入ったこともありました。地球よりも同じか若干それよりも精神的な成長が遅れている星で、嫉妬や争いが絶えない星で苦労しました。まあ、今世では今のところ宇宙船との絡みはないですけど、可能なら任務に戻ってもいいかなと言う気もしていますが。最近は地球で動くスタッフも増えてきたようなのでそれほど人手不足な気もしませんが、実際どうなのでしょう?<br /> <br /> 魂が連続で肉体は一時的なものですので、例えば他の星の任務に就くために転生する場合は今の肉体を分子に至るまで消滅させてから魂が移動してターゲットの肉体に宿ります。この時は寿命を待つ訳ではなくて肉体がなくなれば魂だけになるので自分で移動して赤ちゃんに宿る訳です。帰ってくる時は普通に寿命を迎えてから魂が宇宙船にまで戻ると、元の体を再構成した中に魂が宿ります。記憶とかは魂が持っているので記憶は継続しているわけです。ちなみに、その惑星の生物はタマゴのような形に小さな手と足がついたようなキュートな生物でした。漫画に出てくるような(苦笑)まあ、単なる夢かもしれないですけどね。でもまあ、若い頃にUFO関係の団体を巡った時に絡みのある記憶を持った人とも出会ったりしたので、私一人の記憶という訳でもなさそうです。<br /> <br /> ■私につきまとう、しつこい魂<br /> 私をカモだと思ってしつこく私の人生の周りに転生してくる魂もあって、最近ではその対処方法も慣れたもので、近くに住んでいても基本は無視でか、引っ越すことで無関係です。まあ、他人をカモにして生きている人もいるのですね。あまりにもしつこいので、私の近くに来ると酷いことが起きるように罠を仕掛けたりするようになりましたけど。いつまでもカモで大人しく従っていると思ったら大間違いなのです。まあ、その辺りも今回の人生のレッスンの一つでカルマ解消の必要があるのですよね。<br /> <br /> うまく計画通りに行けば、いずれ起こる東海地震の津波でその人の家は流されて、本来はその人も津波に流されて死ぬ運命にあるようですけど、私は慈悲深い(皮肉です)のでインスピレーションを送ってその人を助けることにします。地震が起こる少し前に買い物に行くように仕向けて車に乗らせ、家から離れて安全な高台に逃れさせます。優しいでしょう?(皮肉)ですが、きっと死んでいた方が楽で、家を無くして財産も無くして避難所生活になって残りの数十年を暮らしますので、生きられるとはいえ、辛い人生になる筈です。それで、私につきまとってもしょうがない、とついに諦めてくれる筈です。命を助けることでしつこい縁を切ることもできるなんて、なんて素晴らしいのでしょう。うまく行くといいですけど。<br /> <br /> 私をカモだと思って近づいてくる人は、私は表立ってはそんなに拒否はしないですけど、こんな感じで裏でその人の人生を大きく変えることで私から突き放します。どうやら私にはこのようなやり方が合っているようです。当人は私がそんなことしているなんて考えもしないでしょうから恨みがこちらに来ることはほとんどないでしょうし。私がしている、と言っても、私の顕在意識がしているわけではなくて、私のグループソウル(類魂)がそのあたりに手を回してチャチャっとやってくれるような感じで、私の顕在意識は後から知らされるだけですけど。私のグループソウル(類魂)の方が何枚も上手なのだと思います。そりゃそうですよね。私はカルマ解消のために弱点を集めて転生することでカモなところだけをさらけ出して生きているだけで、グループソウルの方は基本的に私より何倍も優秀なのだと言うのはよく分かります。私がカモに見えても、それはレッスンを受けるためであって、私を本当にカモだと思って近づいてくる人は基本的に裏からしてやられていると思いますし、程度を超えてくる人に対してはこっぴどくやり返していたり私の知らないところで私から離れるように調整しているようです。ほんと、私のグループソウルはそのあたりプロフェッショナルだと思います。私の今世の顕在意識がほんのちっぽけの凡人に見えてくるくらい私のグループソウルは優秀すぎるのです。まあ、実際、私の今生は割と凡人ですけどね。それはカルマの解消のために仕方がないです。<br /> <br /> あとは、私の過去妻たちも私の周囲の人々に怒ったりします。特に、私に近寄ってくる変な虫(女)には睨みつけて頭痛起こして退散させたりします(苦笑)ですから、私に近づいて仲良くなる女性は、私だけでなく、私の過去妻にも気に入られないといけないのです。きっとこれはハードルが高いです(苦笑)基本的に、めちゃくちゃいい子であることが第一条件なのですが、態度が上辺だけかどうかは過去妻がその女につきまとって調査しますから全てお見通しなのです。いやー、チェック厳しいです。でもまあ、上に書きましたように、今生では目的がありますから私は独身を貫きましたので、気の回しすぎではあるのですけど。<br /> <br /> ■お墓はいらない<br /> そうそう、そんな感じですので、実際のところ「墓」はいらないのかなと思っております。死んだ後に墓に行くことなんてほとんどないと思います。大抵は類魂たちのところに行って賑やかに楽しそうに暮らすでしょうから。<br /> <br /> ■地球の人口<br /> グループソウルという観点からすれば分霊も合体も可能ですので、魂の人数という観点からは地球の人口が増えたとか減ったとかはそれほど気にしなくても良いと思っています。地球の許容量としてどうなのか、というお話はあります。津波や地震やポールシフトで大量に死んだとしても、確かに一時的には息苦しいとか傷が痛いとかはもちろんありますけど、魂という観点からは継続するので、その点は心配しなくとも良いと思います。<br /> <br /> ■他人の立場で考えること<br /> 生まれ変わりは存在しますし、必ずしも現在の家系に生まれ変わるとは限らないと言いますか、むしろ現在の家系に再度生まれる方が珍しいので、現世でしこたまお金を溜め込んでも来世にはあまり関係がありません。とは言いましてもグループソウル(類魂)の繋がりがありますし、優秀なグループソウル(類魂)がいるのであれば来世の計画も立てますのでそうそう変なことにはなりませんが。例えば、やろうと思えば酷い魂を赤ちゃんの体から無理やり引っぺがして貧困家庭に放り込む、みたいなことも可能なのです。ですから、あまり他人に恨みを買うようなことはしない方がいいと思います。そこまでされるとなるとよっぽどのことだとは思いますけど。<br /> <br /> ■男女の違い<br /> 魂には本来性別はありませんが、何度も転生を繰り返すうちに「慣れ」とでも言うべき性的な特徴ができてきます。それは、グループソウルに一旦合流した時もそのコアの部分はそれほど混じらずに残ります。グループソウルから分霊が分離する際は、元になった部分が元々男だったのか女だったのかによって大体の性の特徴がまずできます。9対1の場合もあれば6対4だったりすることもあります。性別は、来世での使命や目的に従って選ぶのが基本です。ですので、目的に応じた性別と魂の前の性別が一致するときもあればしない時もあります。基本は納得して性を選ぶので生まれてから次第にその性別になって行くのですが、そうでない場合もあります。最近では性別が二つでなくて細分化されていますが、本来、性別は自分で選んで生まれるものであれば選んだ性別を全うするのが基本ですが、女で生まれると使命が果たし辛いので男性を選んだり、あるいは、女性で生まれると虐待が怖いなどの理由で男性を選ぶ場合もあるようです。これらの幾つかの場合は、例えば、魂の以前の性別と今世で本来生まれたかった性別と実際の肉体の性別とが一致しないなどの理由により昨今のように複雑な性が生まれているように思います。とある男性の場合は本来は女性で生まれたかったのだが並行宇宙での未来のアストラル・ビジョンによるともし女性で生まれていたら性的虐待で苦しんだり男性から強制されたりするのが嫌で男性を選んだ、みたいな場合もあるようです。今生の酷い世の中の問題を避けるために性を選ぶ、という場合もあるようです。そのような複雑なケースも最近はありますが、本来の平和な世の中になれば自分がなりたい性別に生まれることにより複雑な性は減って行くはずだと思います。そのほかには、国の政策や社会的事情で特定の性別が少なくて違う性別で生まれると言うケースもあるにはあるようですが。たまに聞くように、列に並んで順番で用意された体に入る、みたいなお話もあるのかもしれませんが私はよくわかりません。私の場合は基本的に自分やグループソウルが人生を設計していますので。この世の中には色々な出自の魂がいますので、そのように順番で決めると言うグループもあるのかもしれませんので、特に否定はしませんけど。<br /> <br /> ■男と独占欲<br /> 友人にせよ夫にせよ何にせよ、男として生まれると独占欲が強くなるらしくて、そう言う人は男だろうと女だろうと私は好きではないのです。それでも女性はそのあたりをなんとかしてくれるのか、あるいは私との相性が良いだけなのか、女性の方が独占欲は少ない気がします。そう言うこともあってか、死後の世界の私の周囲には女性が多い(というかほとんど)のようです。男は独占欲があるし強制・操作しようとするのでめんどくさいのです。<br /> <br /> ■就職後<br /> 就職後はスピリチュアル受難な時代でしたしスピリチュアルな余裕もなく仕事で心が疲れてゆく日々ですが、何回か転職をすることで一応落ち着きます。<br /> <br /> ■コンピュータとスピリチュアル<br /> コンピュータも意外にスピリチュアルな面もあって、日本ではそうでもないですけどシリコンバレーとかですと瞑想は割と普通ですしいわゆるゾーンとか言われている集中と判断力が高まった状態で楽しく仕事をすることもあるので、一般にはコンピュータとスピリチュアルは遠いと思われがちで日本の場合はスピリチュアルではないIT業界が大部分ですけど、一部では割とそうでもないのかなと思っています。このあたりもレッスンの1つで、私は過去生までスピリチュアルに偏っていましたので論理的思考を強化するためにコンピュータを学ぶことにしたようです。論理的思考が弱いと理屈が通らないことを情緒的に誤魔化してしまうことが過去生であったようで、矯正すべき課題の1つでありました。私の周囲に同様に誤魔化しがちな人が度々出現したのも、自分の悪い点を客観的に知るために近くに現れたのだと思っております。<br /> <br /> ■ヨガ<br /> そして、インドから帰任する直前に生まれて初めてヨガを少し行い、その後ブランクはありますが世界一周後にヨガを再開し、今に至ります。子供の頃の幽体離脱で人生の目的を知った訳ですが、知ることと、実際にそれを行うのはとても違いましたので、かなり苦労しました。今回はカルマの浄化の集大成としてかなり課題を詰め込んでおり、過去生で少しづつ溜め込んでいたマイナスを一気に解消しようという目的がありましたので、かなり大変でした。<br /> <br /> ■及第点<br /> だいたい40歳くらいまでにカルマの解消の合格点は一応クリアしたのかなと思っております。平行世界での失敗を踏まえたり、今生で達成せずに魂を分離していわゆる分霊を作って別の人生で特定のレッスンをクリアする、などということも行なっていたようです。「ようです」というのは、私の顕在意識はその辺りは関与しませんので、並行世界とかの調整や分霊を作るという決断はハイヤーセルフというか私の無意識というか魂のレベルで行なっていますので、私の顕在意識は時折その事を知って「あ、そうなんだ」と思うだけだからです。<br /> <br /> [2019/7/28追記]<br /> ■ヨガ<br /> 今は意識のレベルアップが課題ですので、最近の興味はヨガばかりの毎日です。そんなこんなで、教えてはいませんが勉強のために全米ヨガアライアンスの先生の資格 RYT200 をインドのリシケシで取りました。ここしばらくは日々の瞑想が日課です。ヨガをしてから浄化の印であるナーダ音が聞こえ始め、その後、いわゆるクンダリーニ経験を経て、今に至ります。ようやく、今まで犠牲にしていたものが報われた、という気持ちです。今まで何十年もメンタルで苦労していましたが、ここに来て晴れやかな気持ちになり、気力も充実して、平穏な日々を過ごせるようになりました。これこそが、私が今生でクリアしようとしていた課題で、カルマの解消でした。大体の及第点は取ったのだと思っております。でも、ここがスタート地点で、ここから始まるという感じもありますけど、まだ何が始まるのかはちゃんとは分かりません。<br /> <br /> ■ヨガ遍歴<br /> <br /> <br /> ・2015年1月 インドのアシュラムで生まれて初めてのヨガ 2週間 合宿。その後しばらくブランク。<br /> ・2016年10月 日本の近所でヨガ再開。1週間ごと1回90分<br /> ・2017年8月 ヨガの頻度を上げ、ほぼ毎日90分<br /> ・2017年10月 雑念が減ってくる。ようやくヨガをしている感じになってくる。ヘッドスタンドが短時間だがようやくできるようになる。ヨーガで言うプラティヤハーラの段階。<br /> ・2017年11月 ナーダ音が聞こえ始める。ヨガをほぼ毎日し始めてから約3ヶ月後<br /> ・2018年1月 第1回目のクンダリーニ体験。ムーラダーラの電気ショックと眉間の皮膚から数センチ離れた空中(アジナ・チャクラ?)でのエネルギーの爆発。ほんの少しのエネルギー。<br /> ・2018年 肉食の頻度が減ってゆく<br /> ・2018年11月 第2回目のクンダリーニ体験。クンダリーニ本体はまだ上がっていない雰囲気。2つの光の筋が上がっただけ。仙骨か尾骨のあたりに熱を帯びて血液が激しく脈打つ。かなりポジティブになる。性欲がかなり解消されて自然な(努力のいらない)ブラフマチャリア(禁欲)の達成(性欲10分の1)。性欲に悩まされることが激減する。睡眠時間の短縮。声が出しやすくなる。ムーラダーラ・チャクラからマニプラ・チャクラが優勢。時間が経つにつれてマニプラ・チャクラ優勢に。ようやく「普通」になった、という感じがしました。<br /> ・2019年1月 インドのリシケシでハタヨガTTC200卒業<br /> ・2019年 ベジ食の率が高まる。雑念がかなり弱まり、ヨーガで言うダーラナ(集中)と思われる段階へ。<br /> ・2019年7月 第3回目のクンダリーニ経験。 (五大要素の)「風(Air)」のエネルギーによる竜巻が腰から頭まで上昇。第2回目のような光の筋はなし。竜巻は頭の周囲で発散(頭上および前後左右に発散)。うなじの下(大椎?)に少しの熱を帯びて血液が脈打つ。ハートがジンジン。第2回目ほどの変化はなし。性欲が更に10分の1 (第2回目クンダリーニ以前と比べると100分の1)になり、性欲に悩まされることがほとんどなくなる。アナハタ・チャクラが優勢。頭の中も血液が鼓動して微細な振動がして活性化。瞑想の質が高まる。ヨーガで言うディヤーナ(瞑想)と思われる段階へ。<br /> <br /> Fri, 01 Mar 2013 00:00:00 +0900 スピリチュアル: ヨーガ https://w-jp.net/topics/スピリチュアル: ヨーガ/ スピリチュアル: ヨーガ 意識的に緊張を解くと、緊張にまつわる記憶が出てくる https://w-jp.net/2020/1808/ <br /> 最近は、瞑想中にヴィパッサナーで体を観察していると肩や股関節など色々な箇所に緊張があることに気付くようになって、それを意図的に解除するようにしています。<br /> <br /> 解除する際、その緊張にまつわる様々な記憶が出てくるようです。<br /> <br /> 体というものは随分と昔の記憶まで保持しているもので、体と言いますかオーラと言いますか、記憶のよりどころになっているようです。そのような知識を以前仕入れたことがあるのですが、ここにきてそれを実感し始めているという感じでしょうか。<br /> <br /> その緊張はなかなか解除しにくいもので、例えば肩の緊張を一旦は解除しても割とすぐに緊張が戻ってきてしまいます。<br /> <br /> ですので、何度も何度も緊張を解除する必要があるのですが、流石に何度も解除すると少しづつほぐれて行くようです。<br /> <br /> 右肩、左肩、を繰り返して行くと、やがてはニュートラルな状態でも以前よりほぐれてきたような気が致します。股関節も同様ですね。<br /> <br /> あまり意識していなかったところに緊張があり、それ故に筋肉が緊張していたようです。<br /> <br /> この種の緊張は自分で気がついていなかったものが多く、たとえ自分ではリラックスできていると思っていても実は緊張があった、ということを実感しています。<br /> <br /> 以前仕入れた理論ですと緊張には原因があって、その原因を解消しなければ緊張は継続する、というようなお話だったかと思いますが、それはそうだなあ、と実感し始めています。ですので、まずはヴィパッサナーで体の緊張をほぐして、ほぐす際に出てくる過去の記憶を観察して、その記憶を味わって消して行き、記憶が解消されたら緊張も根本からほぐれる、という順番かなあ、という感じです。<br /> <br /> Mon, 20 Jan 2020 00:00:00 +0900 日常生活のヴィパッサナー瞑想で体の緊張に気付いて解除する https://w-jp.net/2020/1807/ <br /> 普段の生活でなるべくヴィパッサナー状態を保つように心がけて生活していたところ、細かな体の緊張に良く気がつくようになりました。<br /> <br /> 私はヨガのアサナ(体操)が苦手な方なのですが、もしかしたら、この日常の緊張が理由で体が硬くなっているのかもしれません。<br /> <br /> まだ変化は見て取れませんが、ひとまず、緊張に気がついたら意図的に力を抜いてあげるようにしています。<br /> <br /> 一説にはこの種の緊張は過去の記憶やトラウマなどが筋肉や奥深いところ、ヨーガで言うところのサムスカーラという「印象」に深く染み込んでいて、それが緊張に現れると言います。ですから、本来はその大元に向き合う必要があるにはあるのですが、それはそれとしても、ひとまず筋肉の緊張は気づいたら取り除くようにしています。<br /> <br /> ちょっと前まではこれほど自分の緊張に気付いていませんでしたが、ヴィパッサナー状態になるとかなり自分の状態が日常的に見えてきますね。この種の緊張の意図的な解除をしばらく続けてみて、ヨガのアサナ(体操)に変化が起きるかどうか観察してみたいと思います。<br /> <br /> これは別にアサナ(体操)のためにしているわけではなくて、気付いたから解除する、という単純なお話です。緊張がほぐれてアサナ(体操)がうまくできるようになるというのは補助的な副次効果のお話ですね。<br /> <br /> 同じ場所であっても何度も何度も緊張の解除をしないといけない感じです。一度解除しても少しすると無意識で緊張が強まっていますので再度解除して... の繰り返しのような感じですね。でも、何度か解除しているとほんの少し筋肉が柔らかくなったようなそうでもないような...? これは続けてみてどう変化するか様子見するような感じですね。<br /> <br /> Sun, 19 Jan 2020 00:00:00 +0900 ヴィパッサナー状態ではナーダ音は意識から消え去る https://w-jp.net/2020/1806/ <br /> 最近は景色を眺めて思考なしにスローモーションのように眺めるヴィパッサナー瞑想を良く行っているわけですが、視界にのみ意識を集めるとナーダ音が意識から消え去ることに気がつきました。<br /> <br /> 視界から再度耳の方に意識を移すと再度ナーダ音が聞こえ始めます。<br /> <br /> これは興味深いです。<br /> <br /> 今までも何かに集中したり思考をしている時はナーダ音のことが意識から消えていましたが、これほど意識的にナーダ音が消せるようになったのはここ最近のことです。<br /> <br /> 消せる... と言うのは語弊があります。ナーダ音は聞こうと思えばいつでもそこにありますが、視界にだけ意識を集めるとナーダ音が意識から消え去るのです。<br /> <br /> 今までは、その意識の切り替えがそれほどうまく出来ず、一旦ナーダ音に意識が行ったらその後、消すことが困難でした。<br /> <br /> しかし、今は、ある程度のリラックスと集中ができる精神状態という前提条件はつきますが、景色を眺めてスローモーションのヴィパッサナーに入れるような状態であれば割とすぐに視界にのみ意識を集中してナーダ音を意識から消せるようになりました。今までは他のことに気を取られて付随的にナーダ音が意識から消えていましたが、今は、意図して集中してそのようにすることができるようになりました。これは小さなようで大きな違いのように思います。<br /> <br /> 更に少し試してみたところ、その意識の集中は視界のみならず、例えば、物理的な音に集中すれば意識からナーダ音を消すことができました。同様に、体の感覚、例えば歩いている時や自転車に乗っている時の足の感覚などに意識を集中したらナーダ音を意識か消すことができました。<br /> <br /> ただ、音は視覚や感覚と比べて難易度が高い気が致します。<br /> <br /> 以前から、例えばクラシックコンサートを聞きに行った時に聴覚に集中すると必ずナーダ音が被って聞こえてきてしまうことが悩みだったのですが、今回のテクニックと言いますかやり方を使えば純粋に音としてのクラシックを楽しめるかもしれません。今度、試してみたいと思います。<br /> <br /> 以前はこれは無意識に行っていて、そうなっているという現象自体は以前から確かめていたことでありますけど、今回の違いは、ヴィパッサナー状態を意図的に作り出すことで意図してナーダ音を意識から消すことができる、という点になります。<br /> <br /> 以前、ハタ・ヨーガ・プラディーピカーの「音のないところ」についての記述を引用しましたがそれによると、音のないところがヨーガで言うところのアートマンだ、と言われています。<br /> <br /> 意識がヴィパッサナー状態になって視覚・聴覚・感覚が意識を占めると音がなくなる、というのは、アートマンと意識が一体になる、という解釈も成り立ちます。個人的な推測ですけれども。<br /> <br /> ヴィパッサナー状態でナーダ音それ自体に意識を向けることができて、それによってもちろんナーダ音を観察することもできますが、景色や聴覚や感覚を感じるのとナーダ音それ自体に意識を向ける時とではちょっと違う感じが致します。ヴィパッサナー状態でナーダ音を観察し始めた瞬間にヴィパッサナー状態が解除されるような気がするのです。主観ですが。<br /> <br /> ハタ・ヨーガ・プラディーピカーによれば、ナーダ音が聞こえるところはシャクティ、いわゆる力・パワーに過ぎない、と言われています。ですから、ヴィパッサナー状態でシャクティであるナーダ音を観察しようとしてもアートマンから離れてしまってヴィパッサナー状態が解除されてしまう・・・ というのは、一応は理に叶っているような気も致します。ただ、どこにもこんなこと書いておらず、私の感覚でのお話になりますが。<br /> <br /> 一方、それは気のせいでヴィパッサナー状態でナーダ音を観察できているのだとしても、何も困ることはありませんが、やはり、ヴィパッサナー状態でナーダ音に意識を向けるのは何かちょっと違う感じがしております。おそらくは、ナーダ音を観察するのは中間的な意識で、ヴィパッサナーで観察するのはナーダ音を聞いているのよりもちょっと上位の微細な意識なのではないかなと思います。<br /> <br /> 以前、ヨーガでいう4種類の音について引用しましたが、通常の耳で聞こえる音がヴァイカリーで、次のマディヤマーが「聞こえる音と聞こえない音の中間」で、おそらくこのマディヤマーがナーダ音だとすれば、ヴィパッサナー状態ではそれよりも高い微細な意識状態になっているのだと推測できます。おそらくはパシャンティー(パシュヤンティー)の段階なのかな、と。パシャンティーは耳で聞こえる音ではなく「観える音」と比喩されていますので、ヴィパッサナー状態に相応しい気も致します。<br /> <br /> この段階のお話は諸説あって、ヴァイカリーとマディヤマーの間がナーダ音という説もあるようですが、今回のお話で言えば同じことです。一方、アナハタ・ナーダが「真我(コーザル体)」で聞こえる音というお話もあるようで、それは良いとしても、それを元にアナハタ・ナーダがパシャンティーやパラーが相当するのではないかと推測したこともありますが、その推測は今思えばしっくりきません。<br /> <br /> 今回のヴィパッサナー経験に基づきますと、上記の分類にしておくのがスッキリしそうです。<br /> <br /> 以前の一覧に追記します。(太字部分)<br /> ・ヴァイカリー 通常の耳で聞こえる音<br /> ・マディヤマー 聞こえる音と聞こえない音の中間。神妙な囁きのような音。ナーダ音<br /> ・パシャンティー(パシュヤンティー) 耳で聞こえる音ではなく「観える音」。スローモーションのヴィパッサナー瞑想で認知されるもの。<br /> ・パラー 聞こえない音、沈黙の音というような意味であるが、宇宙の始原的な響きであり、瞑想の最も深い部分<br /> <br /> Sat, 18 Jan 2020 00:00:00 +0900 ゾクチェンをヒントにしたサムヤマの謎解き https://w-jp.net/2020/1801/ <br /> 以前からサムヤマは謎でしたが、最近、ゾクチェンの見解をヒントにしてサマーディの解釈ができましたので、その解釈を元にするとサムヤマの謎が少し解けてきた気が致します。<br /> <br /> まず、その解釈ではサマーディとはありのままに観察(ヴィパッサナー)することであるわけですが、別の視点からすると、ヴィパッサナー瞑想とはオーラの動きを感じるものであると思うわけです。<br /> <br /> で、あれば、サマーディとはヴィパッサナー瞑想でありオーラの動きを感じる瞑想であるわけです。<br /> <br /> それを前提としましてサムヤマですが、サムヤマとはヨーガスートラで述べられているもので、ダーラナー(集中)・ディヤーナ(瞑想)・サマーディ(三昧)が同時に起こることだと定義されています。(関連: サムヤマの謎(サンヤマ、綜制))<br /> <br /> これは、文字通り読んだのであれば「ヨーガ スートラのステップの3つを同時に行うこと」であり、意識を集中して集中を持続させて瞑想してサマーディも同時に行うこと... としか読めません。その謎は解けないわけです。<br /> <br /> ですが、これを上記の解釈に基づきますと、サマーディとは上記のようなことですから、そのオーラのお話が前提になってダーラナー(集中)とディヤーナ(瞑想)があるとすれば、それは、サマーディ以前のダーラナー(集中)とディヤーナ(瞑想)とは別物であるわけです。<br /> <br /> 具体的には、おそらくはこれは、順番は逆に解釈するといいのではないかと思います。<br /> <br /> 1.まず、普通のダーラナー(集中)による意識(心)の集中<br /> 2.普通のディヤーナ(瞑想)で意識(心)による集中と観察<br /> 3.サマーディ = ヴィパッサナー瞑想 = オーラを感じる瞑想<br /> 4.サマーディ + オーラのディヤーナ(瞑想)でオーラを凝縮させて対象を観察する。<br /> 5.サマーディ + オーラのディヤーナ(瞑想) + オーラのダーラナー(集中)で対象を更に絞る。これがサムヤマ。<br /> <br /> これがサムヤマだとすれば、やっていることは明白です。オーラの制御をして、オーラを伸ばして対象を知ると言うお話なのかなと思います。以前、オーラのお話の中でオーラと言うかエーテルの線(管)が伸びるとかそう言うお話をしましたが、それが自由自在にできる段階がサムヤマなのでしょう。おそらくは。<br /> <br /> ここに来て、ゾクチェンとヨーガのみならず、スピリチュアルまでもが繋がってきました。<br /> <br /> Tue, 14 Jan 2020 00:00:00 +0900 サマーディとは思考なしに対象をありのままに観察(ヴィパッサナー)すること https://w-jp.net/2020/1800/ <br /> サマーディという言葉が神秘的に語られ、その内容が昨今は迷走しているように思われます。<br /> <br /> サマーディに到れば悟るかのような誤解がスピリチュアル業界に多く見受けられ、その一方で、サマーディとは一体なんぞや? というところが様々に解釈されているような気が致します。<br /> <br /> このお話は先日のゾクチェンにおけるテクチュの境地の続きですが、テクチュの境地の説明を元にすれば、サマーディとは本来、思考が止まって対象をありのままに認識(ヴィパッサナー)する状態であると言えます。<br /> <br /> これは、半分は私の解釈ですので、他の人に言っても通じないかもしれません。<br /> <br /> ヨーガ・スートラには以下のようにあります。様々な訳がありますのでいくつか引用します。<br /> <br /> (1-41) そのヴリッティ(ス)がこうして無力になった(制御された)ヨーギーは、(さまざまの色の対象の前におかれた)水晶のように、うける者、うけること(の道具)、およびうけられるもの、(「自己」、心、および外界の対象)が集中して同一になる。(スワミ・ヴィヴェーカーナンダの「ラージャ・ヨーガ」より)<br /> (1-41) 自然の透明な水晶がかたわらに置かれた物の色や形をとるように、作用が完全に衰微したヨーギーの心は、澄明・静然となって、知る者と知られるものと知との区別のない状態に達する。この瞑想の極点が、サマーディ[三昧]である。「インテグラル・ヨーガ (パタンジャリのヨーガ・スートラ) (スワミ・サッチダーナンダ 著)」<br /> (1-41) [定(じょう)の定義と種類] かくして心の作用がすべて消え去ったならば、あたかも透明な宝石がそのかたわらの花などの色に染まるように、心は認識主体(真我)、認識器具(心理器具)、認識対象のうちのどれかの上にとどまって、それに染まる。これが定と呼ばれるものである。「ヨーガ根本経典(佐保田 鶴治著)」<br /> <br /> ヴリッティとは心の揺らぎのことで、1-40番までは心を鎮める方法が記されており、その最後にこうして心が鎮まった際にサマーディが現れる、と記されています。<br /> <br /> その説明の中に、ヨーガの説明でよく見かける3つの要素、「見るもの(Seer、Self、プルシャあるいはアートマン)、見られるもの(Seen、Prakriti、プラクティ)、見る手段・道具(Seeing, Instrument of Seeing)」があります。<br /> <br /> この説明はなかなか謎めいていて読み解くのが難しく、そのまま読むと神秘的なトランス状態の認識だとか色々な解釈ができてしまいますが、ゾクチェンの定義を流用しますとこの説明は明らかです。<br /> <br /> その意味するところは、「思考なしに、見る者が見る対象をありのままにスローモーションのようにはっきりと観察(ヴィパッサナー)すること。」となります。その状態がゾクチェンで言うところのテクチュの境地に相当するものだとすれば、サマーディとヴィパッサナーとテクチュの境地とはほぼ同一の境地を表現しているのだと解釈できます。<br /> <br /> その前提に立てば、ヨーガ・スートラのサマーディの定義もよく理解できます。<br /> <br /> サマーディの定義は以前、いくつか引用しました。その中の幾つかを引用します。<br /> <br /> (3-3) 静慮(じょうりょ、瞑想、ディヤーナ)が、外見上、その思念する客体ばかりになり、自体を無くしてしまったかのようになった時が、三昧とよばれる境地である。「ヨーガ根本教典(佐保田 鶴治 著)」<br /> (3-3) それ(瞑想、ディャーナ)がすべての形をすてて、意味だけを映すようになったとき、それがサマーディである。(スワミ・ヴィヴェーカーナンダの「ラージャ・ヨーガ」より)<br /> <br /> こうしてサマーディの定義だけを見ると神秘的なイメージが拡大され、サマーディがまるで悟りそのものであるかのような誤解も生じたりするかもしれませんが、ゾクチェンのテクチュの境地を前提にしますと、これはいわゆるヴィパッサナー状態であると解釈できます。以前少し書きましたように、これは単なる視覚による観察ではなく、オーラによる観察とも言える状態なのかなと思います。<br /> <br /> その前提でヨーガ・スートラを読むと、また違った解釈ができてなかなか面白いです。<br /> <br /> サマーディには色々と種類があるようですが、おそらくはこれが基本になるのではないかなと。<br /> <br /> またもや1つ、謎が解けてきました。<br /> <br /> ただし、これは主観的な個人的な解釈ですけれども。<br /> <br /> Mon, 13 Jan 2020 00:00:00 +0900 オーラのエネルギーがアジナ優勢に変化 https://w-jp.net/2019/1763/ <br /> 特に大きな経験やカタストロフィーがあったわけではないのですが、以前書きましたように特にチベットのマントラを古代の唱え方をしてそれが定着して頭の中の感覚がなくなってきておそらくブロックが頭の中なくなってきたことにより、エネルギーがアジナに集中しやすくなって体全体のオーラ分布においてアジナが優勢になってきたような気がいたします。<br /> <br /> 過去においてはアジナ集中すると意識が不安定になったりしたこともありましたが、最近はアジナ優勢の状態でも割と安定しています。<br /> <br /> アナハタ(ハート)もかなり優勢ですので、一日のうちでアナハタ優勢とアジナ優勢とが交互に入れ替わっているような感じでしょうか。<br /> <br /> 瞑想でハートやアジナに集中しましょうというお話があるますけど、このくらいの状態になりますと瞑想してアジナに集中するとかなりエネルギーが高まるのを感じます。<br /> <br /> 目に肉体的な力が入らないように時々注意しますが、肉体的な力がなくても意識がアジナに集中しているのを感じます。<br /> <br /> 先日書いたようなサードアイ的な感覚はそれ以降出てきていませんけど。この延長線上でそういう状態が出るのか出ないのか? 常用できるようになるのか、それともたまたまの出来事だったのか? どうなるのか? それもお楽しみの1つです。<br /> <br /> Wed, 25 Dec 2019 00:00:00 +0900 瞑想状態の表現のポエム化 https://w-jp.net/2019/1758/ <br /> 理屈で表現できることが減ってきて、次第にポエム化している気が致します。先日の意識の鎮まりに関してもそうですし、この種の瞑想状態は論理で表現しようとしても似たり寄ったりになってしまい、ポエム化してしまった気が致します。<br /> <br /> 意識の状態を定義できるものなどありはしない、と誰かがポエムしていた気が致します。ゾクチェンの詩でしたでしょうか。究極の意識の状態を定義できるものなどありはしない。ありのままを定義できるものなどありはしない。であればポエム化するのも致し方ないのかな、という気も致します。<br /> <br /> 瞑想をするにあたって初期は集中(サマタ)だとか観察(ヴィパッサナー)だとかが重要になってきますけど、意識が鎮まってきた場合はどちらも微細になってきて、集中している気もするけれども集中しているわけではない気もする、観察している気もするけれども観察していない気もする、そんな状態になってきているような気が致します。それは感覚が微細になってきた、ということではありますけど、言葉で言い表そうとしますとやはりポエムになってしまうわけですね。<br /> <br /> もはや、この状態を表現するにはポエム化に頼るしかないのだとしたら、これ以上表現しても、私がかつてそうであったように瞑想系のポエムを見ても「なんじゃこりゃ」としか読者は思わないでしょうし、であればポエム化の表現は控えるべきなのか、それとも、それでもなんとなく書くべきなのか、微妙なところであります。<br /> <br /> そもそもこのブログは読者向けというよりは自身の瞑想録という意味合いも強いですので、そうであれば、あまり気にせずポエム化するのもありかな、という気もしております。<br /> <br /> そういうわけで、ポエム化するかもしれません。<br /> <br /> あるいは、バガヴァッド・ギーターを読む方にシフトするかもしれません。<br /> <br /> はたまた、記事の頻度を減らす可能性もあります。<br /> <br /> どうなることやら。まあ、心配はしていないですけどね。<br /> <br /> Fri, 20 Dec 2019 00:00:00 +0900 意識の更なる鎮まりでヴィパッサナー状態が容易に https://w-jp.net/2019/1757/ <br /> もはや、同様の鎮まりが何度もあって表現としては似たようなものになってしまいますが、更に意識が鎮まった後、ヴィパッサナー瞑想が自然になりました。<br /> <br /> それにより、体の感覚を静かに観察する瞑想を更に自然に行えるようになりました。<br /> <br /> そうですね・・・、違いを表現するのであれば、以前は湖のような意識の上に風が吹いてさざ波が時々立っていたとすれば、今回は、そよ風が吹いて波紋が広がる、という違いに例えられますでしょうか。<br /> <br /> 瞑想中、体を観察してヴィパッサナー瞑想をする際も、以前は体の感覚を観察していても自分の感覚が浮かび上がる感覚はそれほどなかったのですが、今回は、体の感覚が各所にぽつぽつと感じられて、その他の場所は空っぽになっており、まるで体がなくなって部分的に感覚が残っている、というような感じになっています。その空っぽの感覚により、ちょっと体が浮かび上がっているような感覚になっています。もちろん実際の体は浮いてはいませんけど。<br /> <br /> 頭の意識が更に鎮まった結果、更に努力なしに体の感覚を観察できています。<br /> <br /> この意識の鎮まりのレベルは、その時々においては過去最高を更新していますのでその時点ではとても鎮まってこれ以上の鎮まりはないかのように思えたりもするのですが、実際のところ、更なるレベルまで鎮まってみると今までの鎮まりのレベルはそこまでではなかった、というように気付けました。<br /> <br /> 同様の鎮まりのレベルの向上が何度もあり、であれば、今現在の意識の鎮まりが最後だと思う必要もないのかな... という気にもなってきました。おそらく更なるレベルというのは存在しているのでしょうし。<br /> <br /> この段階に達して、ようやく日常生活でのヴィパッサナー瞑想が少し可能になってきたかな、という感じが致します。<br /> <br /> 瞑想の達人は特別に座って瞑想をしなくても日常生活で瞑想しているとはよく聞くことではありますが、さすがに完全なるその実践はまだ難しいにせよ、おそらくそのことが可能なのでしょう、ということが直感でようやくわかって、あと少しで手の届きそうなところにあることがなんとなくわかってきました。<br /> <br /> Thu, 19 Dec 2019 00:00:00 +0900 チベットのマントラでの脳内感覚がなくなる https://w-jp.net/2019/1755/ <br /> 最近、チベットのマントラを唱えても脳内の感覚がなくなってきました。先日以降頻繁に古代の唱え方でチベットのマントラを瞑想中に唱えてきましたが、特にここ数日は脳内でグリグリ動くような感覚を感じなくなってきました。<br /> <br /> 瞑想中に脳内を観察したところ、今まで古代の唱え方でチベットのマントラを唱えて脳内で感じていたのは頭の中にブロックがあったから感覚として感じられていたのではないか? そして、ブロックが解除されたら感覚がなくなったのではないか? そんな気がしてきました。であれば感覚がないからと言ってマントラの効果が無くなったわけではなく、マントラは効果があって、脳内の感覚が動く際の抵抗がなくなってきたということでしょう。脳内の感覚は古代の唱え方でチベットのマントラを唱える前とは変わってきており、今は脳内に何かが充満したような感覚がしております。<br /> <br /> 何日かこの瞑想状態を続けましたら、時々少し脳内に抵抗を感じましたがすぐにその抵抗が消えてエネルギーが満ちた状態になりましたので、やはり上の仮説はそうなのだと思った次第です。<br /> <br /> これはいつしか「天のエネルギーを下ろして瞑想する際に頭に充満させた時と同方向ではありますが、天のエネルギーを降ろした時の脳内のエネルギー密度は今ほどは濃くなかったような気が致します。もともと天のエネルギーである程度エネルギーを満たした状態になっており、その状態で古代の唱え方でチベットのマントラを唱えることにより頭のエネルギーの密度が更に高まった、という感じが致します。<br /> <br /> この状態を続けたらどうなるのか、様子を見たいと思います。<br /> <br /> <br /> <br /> <br /> <br /> Tue, 17 Dec 2019 00:00:00 +0900 目を閉じていても視界をホログラムのように感じるサードアイ https://w-jp.net/2019/1754/ <br /> ヨガの呼吸法であるプラナヤーマを目を閉じて行っていましたところ、照度5%くらいの暗い視界が現れてきました。暗いのではっきりとは見えないのですが「見えている」感覚がはっきりあったのです。<br /> <br /> その時は、頭の上に左右2つの見えない角が出ているような感覚がありました。それは頭の上の両目それぞれの斜め上あたりの2箇所、右目の右上と左目の左上あたりにそれぞれ感覚があるのです。その部分にエネルギーが集まっているような感じです。ただ、この角のような感覚自体は今までも何度かあったのですがその時は視界が現れることはありませんでした。<br /> <br /> <br /> <br /> ホログラムは照度5%ですので正面に何かが微かに見えますが何があるかは認識できません。とても暗いです。明らかに目の感覚とは別物とわかります。目よりも遥かにエネルギー消費量が少なくて楽なのに周囲が何となく認識できるのです。<br /> <br /> ただ、まだ暗いので役には立たないのですが。<br /> <br /> 目を開けると目にエネルギーが大量に使われているのを感じ、目を閉じるとホログラムが前方に広がる感じです。<br /> ですから、うまく見れるようになって慣れることができたならば目を瞑ったまま生活した方が疲れないのでは? とも思ってしまいます。そのくらいエネルギー消費量が少ないです。<br /> <br /> このホログラムの感覚は数分から10分くらいで消えました。と言いますか、うっすらと見えていた時はそれと気づきませんでしたので、もっと時間的には長かったのかもしれませんが、変化に気付いてから状態から抜けるまでがおそらく数分から10分くらいだった、ということです。<br /> <br /> 眉間という感じではないのでサードアイ(アジナ)ではないかもしれません。書物によっては第四の目とかも書かれていますし、このあたりは謎が多そうです。<br /> <br /> これは五感以外の感覚です。<br /> <br /> 瞑想で言われていることで「意識の拡大」とかいうポイントがありますけど、このホログラムが意識の拡大なのでしょうかね?<br /> <br /> 今までは五感で周囲を感じることを意識の拡大だと思っておりましたが、この五感を超えたホログラムの方が「意識の拡大」というに相応しい気もしますが、その一方で、これは五感ではない視野でホログラム状に見ているだけで、意識が拡大したわけではない気がいたします。今後、視野だけでなく意識として拡大されて認識されるのでしょうか?<br /> <br /> このホログラムは先日の瞑想中に見た意識のホログラムとは違って、随分と現実的です。目の前の世界と繋がっている感じがしました。見方や見ている起点および見ているもの、全てが違います。<br /> <br /> この時、後部は見えませんでした。指向性のものなのでしょうか?<br /> <br /> 今まで五感で周囲を感じていましたが、五感以外のものがあることが明らかになりました。確実にこれは五感ではない新しい種類の感覚器官です。<br /> <br /> ホログラムが見えていた(感じていた)時はエネルギーの流れにとても敏感になっていました。<br /> <br /> 上で照度5%と書きましたが、照度ではなくフォーカスが合っていなくてぼやけて重なっているのかもしれません。<br /> <br /> 私の過去生と平行世界の記憶を辿りますとこの種のサードアイは単眼ですので距離感が掴みにくかったような記憶があります。単眼ですから焦点も合わせにくかった気もします。ただ、記憶によるとサードアイは360度全方向見れた気がしますけど今回は前だけでした。意識を向けている方だけが認識されるのは普通の目と一緒ですが。<br /> <br /> また後日経験すると良いのですが。<br /> <br /> <br /> これは、マハリシ・マヘーシュ・ヨーギーの弟子であるボブフィックスの体験に似ているかもしれません。<br /> <br /> わたしの意識内に現れるものは何であれ、透明でホログラフ状だった。わたしはあらゆる対象の内側を見ることができるのと同時に、外側の四方からと上から下までも見ていた。知覚するたびに幾つかの感覚がともなっていたので、見るのと同時に感じることができた。「ある瞑想家の冒険(ボブ・フィックス 著)」<br /> <br /> ここまで熟練はしていませんが、この種の瞑想状態を垣間見たのかもしれません。<br /> <br /> Mon, 16 Dec 2019 00:00:00 +0900 ヨガセンターでの朝瞑想中にハヌマーン神降臨 https://w-jp.net/2019/1748/ <br /> ヨガでは瞑想中に何かを見聞きしても重要ではない、と言うのが基本にあるにはあるのですが、こんな感じの瞑想体験もしました、と言う記録です。<br /> <br /> とある朝、いつものようにヨガセンターで瞑想をしていました。11月30日のことです。<br /> <br /> 最近はチベットのマントラを古代の唱え方で心の中で繰り返す瞑想を試していますが、それをしていたところ、急に目の前に視界が見えてきて祭壇とその前の席の上で踊っているハヌマーン神が現れました。<br /> <br /> <br /> <br /> インドの踊りは体とか頭をクネクネ動かして、頭も首のところから左右に動かしたりするのですが、このハヌマーン神は人間ではあり得ないくらいのクネクネした動きをしていました。正面と左側にそれぞれとても立派なインド風の祭壇があって、その前でハヌマーン神が踊っていたのです。<br /> <br /> インドでは「はい」を答える時に首を左右に振るのですが、それを首の限界を超えて動いている感じです。もののけ姫の「首振りコダマ」の首の動きをもうちょっとゆっくりした感じと言えばわかるでしょうか。<br /> <br /> しかも、そのハヌマーン神はそのヨガセンターでいつも歌っている歌を踊りながらアカペラで詠唱しているではありませんか。<br /> <br /> それに、何とも言えない、低くて響き渡る、いい声!!! こんな声で呼びかけられたら女はもちろん、男だって男惚れしてしまいそうなくらい透き通っていて低くて爽やかな声で歌っているのです。<br /> <br /> 頭の動きと体の手足の動きがあり得なくて、しかもヨガセンターの定番曲をアカペラでいい声で詠唱しているのです。動きと歌を見ると、とても和かで自然に笑顔と笑いが出てきそうなくらい楽しげですが、声だけを見るととてもいい声で惚れ惚れとしてしまいます。<br /> <br /> 神様ってそんな声なのだと言われればそうかなぁ、と思ってしまいます。<br /> <br /> 絵だと祭壇がうまく書けませんでしたのでなんとなく描いてありますが、実際に見たものはとても立派で、ハヌマーンもかなりの男前でした。<br /> <br /> こう言うのって、ヨーガ的には「重要ではないので無視すること」とか言われていたりします。<br /> <br /> 一方、スピリチュアル的には「そのイメージは守護霊が分かりやすいイメージを使ってメッセージを伝えてきている場合が多いです。」とも言われています。守護霊は姿を自在に変えられますので有名な神様は使いやすいようです。受け取り手が「凄い神様が出てきた」と勘違いしてしまうことも多いようですが、大抵は守護霊が姿を変えている場合が多いようです。守護霊にも上位と下位があって、現れた映像と言葉の波動およびメッセージの内容から判断する必要があるようです。神道で言うところの審神者(さにわ)ですね。<br /> <br /> まあ、今回は特にメッセージ的なものもありませんし、どこかの守護霊・スピリットがハヌマーンのような分かりやすい姿を借りたのかなあ... と推測しています。今回、名前を聞きませんでしたからね。名前をちゃんと聞けば答えてくれる場合が多いとも聞きますが、あまりにも楽しい踊りと歌でしたので笑いながら見とれていたら終わってしまいました。<br /> <br /> 実は、瞑想の後に「あれ? どんな声だったかな?」と心に思ったらその時の声で再度答えてくれたので、やはりハヌマーン神そのものというよりは守護霊・スピリットが答えてくれたのかなあ、と思っていますが、このように推測すると「違う違う」と言う感覚が内に現れてきますので、まだ私はこの正体を突き止めてはいないようです。となればハヌマーンそのものではなく、何か別の存在で、守護霊でもない何者か、と言う可能性も出てきます。まあ、そのうちわかるのでしょうか。どうでしょうかね。ハヌマーン系統の分霊あるいはゆかりのある存在っぽい気もしています。<br /> <br /> Wed, 11 Dec 2019 00:00:00 +0900 瞑想とは心穏やかな状態で対象を観察すること https://w-jp.net/2019/1747/ <br /> 見ようによっては、そのように瞑想を捉えることができそうです。流派によってはそのように言っていたりするようです。<br /> <br /> 単に物事を論理的に思考することとは違って、まず前提条件として心が穏やかになって心が鏡のように静かな状態になる必要があります。その上で、対象をその心の中にそっと置く(比喩表現)ことで、対象を様々な角度から眺めて深く理解することができるわけです。それが瞑想だ、という流派があるのも納得です。<br /> <br /> ここで言う「心が穏やか」とは、ヨーガ・スートラで言うところの「心の作用の死滅」です。定義はいつしか引用していましたが、そのまま読むと「心を停止させて何も考えないようにして、何か意味があるのだろうか?」と思ってしまうかもしれませんが、ここで言っているのは心の「揺らぎ」を止めましょう、と言っているだけですので、より高次の観察能力的なものは死滅できません。<br /> <br /> 例えば、以下のような説明が神智学ではなされています。<br /> <br /> 想念の停止はより高い次元で働くための必要な予備行為である。(中略)パタンデヤリはヨーガをチッタ・ヴリティ・ニロドウハ chitta-vriti-nirodha であると定義したが、それはチッタ(精神)のヴリティ(渦)のニロドウハ(制限)という意味である。(中略)ヨーガとはメンタル体内におけるすべての波動と変化を抑制することである。「神智学大要3 メンタル体(アーサー・E. パウエル著)」<br /> <br /> ヨーガ・スートラの言う状態を達成できたならば、外部の刺激によって心が揺れ動くことはなくなり、静かな水面のように静かで清々しい心が保たれることになります。<br /> <br /> その静かな状態で、より上位の意識が「意図」を持って対象を選び、その対象の観察を行うのが瞑想だと言うわけです。<br /> <br /> より高い意識とは神智学で言うところのコーザル体のブッディ(Buddhi, 覚, 理性)であり、下位であるメンタル体が静かな状態になるとコーザル体が出てきます。<br /> <br /> ヨーガ・スートラのよくある誤解としてコーザル体のブッディ(Buddhi, 覚, 理性)を死滅させると思ってしまう方がいらっしゃいますが、そう言うことではないようです。死滅させるのはチッタ(Citta, 心)に現れる「想いの波」であるヴリッティ(Vrtti, 波)です。<br /> <br /> チッタ(Citta, 心)のヴリッティ(Vrtti, 波)を死滅(停止)させた状態で対象を静かに観察して深く理解する、と言うのが瞑想だと言うのもこう言うことであれば納得です。<br /> <br /> Tue, 10 Dec 2019 00:00:00 +0900 古代の唱え方でのチベットのマントラ瞑想による変化 https://w-jp.net/2019/1733/ <br /> 先日の続きです。<br /> <br /> 翌日。マントラを唱えたらすぐに眠気。数回マントラを唱えたところで眠気が消え、その後は眉間の奥、頭の中で何かが生まれたような圧迫感。その後、ポーンと水滴が1つ落ちる音と感覚。音のない静かな水面に水滴が落ちたときのような音と感覚。実際あったのは音と感覚のみで、水滴が落ちたイメージを見たわけではなく、感じた音と感覚を例えるならそのようなものだった、と言うことです。その後、微妙な少しの不快感と軽い吐き気で瞑想を続けられなくなり、その日(早朝)の瞑想は終了。<br /> <br /> その後、数日経ちました。その間、何度かチベットのマントラ瞑想を試みていましたが、今までは眉間と頭の中で圧力と、それに伴う不快感がありました。それはドリーン・バーチューの言う以下のようなことかもしれませんし、そうでないかもしれません。<br /> <br /> 鈍い頭痛のような圧力か、痛みの感覚を感じるはずです。でも、心配しないでください。この感覚は単に、第三の目のまぶたをしばらく使っていなかったため、さびついているからなのです。「エンジェル・ガイダンス(ドリーン・バーチュー著)」<br /> <br /> しかし、本日はその不快感が消え、代わりに、頭の中に「熱」が出て来ました。マントラを唱えると出てくる熱です。<br /> <br /> 今まではマントラのバイブレーションが不規則な感じがしていましたが、ここに来て安定して来ました。<br /> <br /> その翌日。眉間の熱感というか圧力が、朝起きても継続していました。<br /> <br /> このマントラを唱え始めた後の変化ですが、ここ数日、以前より少し勘が働きやすくなった気が致します。勘がわかりやすくなったと言いますか。<br /> <br /> 例えば、街に出て何を食べようかと思って歩いていたら、左の方に感覚が現れるのでその方向に行ってみます。そこに○○○○があるということなので角をそのように曲がり、そして左のビルに感覚を感じて、どうやらここで食べましょう、ということのようなので見てみると思っていたのと違うお店がありました。あれ?ここですか? と思ってよく見てみると、最初に感じた○○○○はグループになっていて、こんなお店もやっているようですのでそこもグループの一店舗でした。ふーむ。そういうことね... インスピレーションって、特に新しい物事に関しては伝えにくいようなので既存のイメージを使って分かりやすく伝えることってよくあるんですよね。まあ、そういうこと自体はよくあったので珍しいことではないのですが、今回、その感覚が分かりやすくなりました。感度が高まったと言いますか。これはこのマントラを試した後の効果です。<br /> <br /> 良いものとダメなものの感覚が、よりはっきり見えるようになりました。これは以前との比較ですから相対的なものではありますが。<br /> <br /> Tue, 26 Nov 2019 00:00:00 +0900 古代のオームの唱え方 https://w-jp.net/2019/1732/ <br /> スピリチュアリストのドリーン・バーチューは第三の目を開くトレーニングとして古代のオームのマントラを勧めています。<br /> <br /> (エジプトの)神官は、自分の生徒たちに「オーム」の3つの音節、「アー」「ウー」「ンー」という3つの音節をはっきり注意深く発音するように教えていました(「オーム」は英語では”Aum”と書き、"Ahh" "Uuuu" "Mmm" の3つの音から成る)。古代の調子で唱えてみると、第三の目のあたりで振動が感じられるでしょう。それを心の中で唱えてみてください。「エンジェル・ガイダンス(ドリーン・バーチュー著)」<br /> <br /> 同様のことは大白色聖同胞団という団体の文献にも記載されています。<br /> <br /> 例えば、(チベットのマントラである)オーム・マニ・パードム・オームは、Om-Man-i-Pad-Me-Om と六音節を持っていたと考えられていた。しかし、これは正しくない。Om (オム)は、一音節ではなく、正しく発音すると Aum (アウム) と2音節になり、(中略)ア・ウム、マ・ニ、パ・ドム、フム、ア・ウム、タット、サット、ア・ウムと唱えるのである。「ヨガの真義(M.ドーリル著)」<br /> <br /> これを試してみましたが、早速、眉間および頭の中心部分に反応がありました。<br /> <br /> ドリーン・バーチューでは3音節、「ヨガの真義」には2音節という違いこそあれ、単に「オーム」と唱えるよりは区切って唱えた方が効果がありそうです。<br /> <br /> ヴェーダの勉強会においてオームの発音について習ったことがありますが、オームはもともと2つに分かれていて、それをサンディ・ルール(連音変化のルール)で繋げて読む、ということでした。ですから現代においては繋げて読むのが正しいのだとは思いますが、古代の読み方の方が効果がありそうな感じが致します。<br /> <br /> 今までは息を観察する瞑想が中心でしたが、ここ数日チベットのマントラを上記の発音で唱えてみたところ、変化を感じています。ただ、効果がありすぎるのか、ちょっと意識が疲れやすい気も致します。今までにない眠気が出て来ます。<br /> <br /> 今までマントラ瞑想の効果に疑問が多少なりともあったのですが、このチベットのマントラを古代の唱え方で試したところこのような状態になって来ましたので、マントラ瞑想の効果を見直しているところです。<br /> <br /> 以前ですとマントラ瞑想は単なる「集中」の対象でしかなかったと思います。しかし、このマントラによる内的な変化は大きいような気が致します。これ、効果がありすぎるかもしれませんので自分でやるのは注意深くしないと危険なような気も致します。本来はグルから伝授されるべきものだ、というのも理解できます。<br /> <br /> マントラにはそれぞれ効果があって、正しく唱えないと効果がないとはよく言われていることですが、有名なマントラであっても古代の唱え方と比べると違っている、なんてこともあるのですね。私にはどちらが本当に正しいのかの判断は付きかねますが、古代の唱え方の方が私の体が反応しています。<br /> <br /> 続き: 古代の唱え方でのチベットのマントラ瞑想による変化<br /> <br /> Sun, 24 Nov 2019 00:00:00 +0900 クンダリーニ経験が起こらない人 https://w-jp.net/2019/1731/ <br /> 先日、クンダリーニはシンボル(象徴)だという記事を書きましたが、それを踏まえますと、いわゆるクンダリーニ経験が起こらない人もいることがわかります。<br /> <br /> クンダリーニ経験とはもともとエネルギーが低かった人がエネルギー上昇する経験ですので、生まれながらにエネルギーが高い人、あるいは、子供の頃に無意識のうちにエネルギーが高まった人とかはもはやいわゆるクンダリーニ経験とは無縁かもしれないわけです。<br /> <br /> もしかしたら昔のインドは同じくらいのスピリチュアルなレベルの人たちが在住していた関係で「経験」も似たり寄ったりだったのかもしれませんが、今の世の中、特に日本には生まれながらにかなりのスピリチュアルなレベルで生まれて来た人たちが大勢いるような気も致しますし。<br /> <br /> 私の場合、おそらく前世までは上記の理由でずっとクンダリーニ経験とは無縁だったような気が致します。私のグループソウル(類魂)を探って見ても、基本的にはエネルギー活性化した状態で生まれて来ているように思います。来世や並行世界を探ってみると子供の頃にクンダリーニ経験していたりします。<br /> <br /> 私の今世の場合、前にも少し書きましたが今世の目的がカルマの解消で一旦どん底に落ちないとカルマの経験ができない・・・と言いますかどん底に落ちることがカルマの発芽でもあったわけで、カルマの解消の目的およびカルマの結果としてどん底に落ちたわけですけれども、その過程で、一旦はエネルギーのルート、ヨーガで言うところのナディが詰まってエネルギーが通わない状態にして低いエネルギーの状態に自らを追い込んだと言いますかカルマの発芽によりその状態に導かれたわけです。<br /> <br /> その後、カルマの解消を40年ほど行って、その後、カルマはもう十分に経験したので満足して、カルマ的生活から抜けるためにヨーガ等を始めて、そしてしばらくしてクンダリーニ的経験をしたわけですけれども、それはやはり、もともとエネルギーのルート(ナディ)が詰まってエネルギーが枯渇していたからこそルートが開いてエネルギーが高まる際にクンダリーニの経験があったのだと思うのです。<br /> <br /> クンダリーニの経験とはカタルシスのようなもので、今まで抑圧されていたものが吹き出して活性化する経験ですから、もともと抑圧されていなかったりもともとエネルギーが高まった状態でしたらクンダリーニ経験は起こらないのだと思っています。もしかしたら更に上位のクンダリーニがあるのかもしれないですが、それは更に上のレベルかなとも思います。<br /> <br /> 人によってクンダリーニ経験が異なるのも、エネルギーのルート(ナディ)がかなり詰まっていたり一部詰まっていたり状態が違うでしょうし、ルートが通り出してエネルギーが高まるにしても一部だけ高まる場合とかあるでしょうし、であればクンダリーニ経験があったりなかったり経験が独特だったりするのも理解できます。<br /> <br /> と、いうことで、スピリチュアルなレベルを判断するにも、クンダリーニのような「経験」は一つの「しるし」にはなりますが、それだけで判断はできないのだと思います。<br /> <br /> 基本は、クンダリーニ経験の有無よりもエネルギーがどれだけ高まっていてどれだけ瞑想の「集中」「観察」ができているのか、といったところが判断材料になるのかなと思います。<br /> <br /> ヨーガをやっている人の中には最初からエネルギーが高まっていてクンダリーニ活性化後のような状態のように見受けられるのに「私はまだクンダリーニ経験がない」と思っている人がいらっしゃいますが、必ずしもクンダリーニ経験があるわけではない、と私なんかは思います。<br /> <br /> 一方で、クンダリーニ経験なんてなくても元々エネルギーが高まっていてスピリチュアルな霊視や霊聴ができる人もいらっしゃるような気が致します。<br /> <br /> ですから、クンダリーニ経験があるのは素晴らしいことですが、私自身の経験から思うにも、クンダリーニ経験があったからと言って完全にエネルギーが高まったわけではなくて、書籍なんかを読むと多くの場合はクンダリーニの一部が動き出しただけだと言われていますし、私なんかの場合もそうでしたし、クンダリーニどうこうよりももっと高いレベルが存在するのだと思っています。クンダリーニ後の完全にエネルギーが高まった状態こそが目的地であるとすれば、クンダリーニ経験の有無よりもエネルギーが高まった状態こそが注目されるべきでありますし。<br /> <br /> Sun, 24 Nov 2019 00:00:00 +0900 パワーが上がればポジティブになって雑念が減る https://w-jp.net/2019/1730/ <br /> 最近は瞑想手法の「集中」だとか「観察」だとかの話が多くなって、基本のところをあまり言及していない気がしましたのでちょっと言及します。<br /> <br /> 「集中」とか「観察」とかいう「感覚」「行動」を元に分類するのは心理学的とでも言いましょうか。瞑想やヨーガにそういう面はあります。特に仏教は心理学的に内的感覚を分析している気が致しますし、ヨーガでも内的な観察を重視していますから「集中」とか「観察」とかいうお話が出てきます。<br /> <br /> しかし、それと同じくらい重要な視点として「パワー」のことがあります。<br /> <br /> 男性的に言えば「パワー」ですし、女性的に言えば「癒し」だったり、中性的に言えば「エネルギー」とか言ったりしますが、同じことです。<br /> <br /> パワー(癒しの力、エネルギー)が高まればポジティブになって雑念が減って「集中」も「観察」もできるようになります。<br /> パワーが高まらずにやっている集中と観察ですと高い瞑想状態に入ることは難しいかと思います。<br /> <br /> パワーが高まらなくても行える瞑想として昔から「トランス」とかの手法がありますが、トランスとはオーラを不安定にさせて異常な状態を作り出すことで霊能力やその他の能力、あるいは他の霊に自分を操作しやすくするような特殊な状態を作り出すことであり、トランスは王道とは言えません。むしろ自分がトランスしにくい状態にするのがヨーガや瞑想の王道になります。<br /> <br /> パワーが高まるには体の中のエネルギーのルート、ヨーガで言うナディを活性化する必要があります。そして、ナディが活性化することを、ヨーガ的には「浄化が進む」とか言ったりします。ナディが汚れで詰まっているので浄化することによりエネルギーが通りやすくなり、パワーが高まるのです。<br /> <br /> そして、俗に言うクンダリーニが活性化してポジティブになり、集中力も観察力も高まります。<br /> <br /> ですから、流派によっては集中とか観察とかよりもパワーを上げること、あるいは、癒しの力を増大させること、あるいは、エネルギーを強めること、などを重視しています。どれも見方が違うだけで一緒ですが。<br /> <br /> そして、エネルギーが高まれば観察力が高まり、いわゆる観察瞑想のようなことも可能になってゆくわけです。<br /> <br /> それぞれの流派にやり方があって、それぞれのやり方に落とし穴やメリットがあると思います。<br /> <br /> エネルギーを高める方法ですと最近記述した「タマスの瞑想」「無の瞑想」「眠り込むような瞑想」と言った落とし穴には落ちにくい気も致します。<br /> 流派によってはヨガのアサナ(体操)を軽視していますが、瞑想だけ行っているとこの種の落とし穴に落ちやすい気も致します。<br /> 瞑想だけで精神修行する場合は特にグルが必要なのかなとも思います。何せ、瞑想は目に見えないものですから。<br /> <br /> 私の場合、最初はヨガのアサナ(体操)から入って、瞑想も少しはしていましたがクンダリーニが少し活性化した後に瞑想が急にしやすくなって瞑想にのめり込んで行きました。<br /> ある程度のパワーがなければ瞑想がうまくできないような気も致します。<br /> <br /> どちらにせよ、最近は瞑想のことばかり書いて来ましたのでパワーに対する言及が不足している気が致しましたので少し書いて見ました。<br /> <br /> Sat, 23 Nov 2019 00:00:00 +0900 ヨーガ・スートラのディアーナ(瞑想)とゾクチェン https://w-jp.net/2019/1729/ <br /> 先日ゾクチェンの3つの境地を引用しましたが、タマスな瞑想についての記事を踏まえますとヨーガ・スートラの瞑想について別の視点が現れて来ます。<br /> <br /> ヨーガ・スートラでは以下の段階で瞑想が進んでゆきます。<br /> ・ダーラナ(集中)<br /> ・ディアーナ(瞑想)<br /> ・サマーディ(三昧)<br /> <br /> ■ヨーガ・スートラでのディアーナ(瞑想)<br /> ヨーガ・スートラではディアーナ(瞑想)について様々な解釈がなされていますが、そのうちの幾つかは以下のようなものです。<br /> <br /> ・心が12秒間集中することができるなら、それはダーラナーであり、十二のそのようなダーラナーはディャーナであり、そして12のそのようなディャーナあ、サマーディであろう。「ラージャ・ヨーガ(スワミ・ヴィヴェーカーナンダ 著)」<br /> ・瞑想では、時間には何の意味もない。そして空間も失われる。あなたは自分がどこにいるのかを知らない。(中略)真の瞑想では、身体さえも忘れ去れられる。あなたは時間と空間を超える。(中略)心が身体意識を超える。「インテグラル・ヨーガ (パタンジャリのヨーガ・スートラ) (スワミ・サッチダーナンダ 著)」<br /> <br /> これを読む限り、ヨーガ・スートラの瞑想とはダーラナ(集中)の延長線上ということになります。<br /> そしてその後にはサマーディが来ます。ヨーガ・スートラではサマーディについて以下のように記しています。<br /> <br /> ・サマーディ(三昧)とは、ディアーナ(瞑想)そのものが形を失ったかのようになり、その対象がひとり輝くときのことである。「インテグラル・ヨーガ (パタンジャリのヨーガ・スートラ) (スワミ・サッチダーナンダ 著)」<br /> <br /> ヨーガ・スートラではサマーディについて様々に記述されていますが、ディアーナ(瞑想)からサマーディへの飛躍があり過ぎような気がしています。<br /> <br /> 又、ディアーナ(瞑想)を文字通り実行するには誤解が入り込む余地があり過ぎます。このあたりはグルがいれば回避できる問題なのかもしれませんが、文章を読むだけですと以下のような落とし穴にはまる可能性があるような気が致します。<br /> <br /> ・ディアーナ(瞑想)でタマスな瞑想に嵌まり込んでそれで終着地点だと思ってしまい、次の段階へ進めなくなる。とは言いましても瞑想をする前に比べたら十分に清々しい境地ですのでこれが無駄とは言いませんが。<br /> ・ディアーナ(瞑想)が「無になること」「意識をなくすこと」「眠りのような無意識になること」が最終地点だと勘違いする可能性がある。<br /> <br /> この状態は落とし穴ではあるものの、一旦はその境地に達する必要があると私なんかは思っております。ただ、その境地に留まらずに次のステップに進めばいいのですが、そこが終着地点だと勘違いしてしまうと成長が止まってしまうのかなと思います。瞑想を始めた最初は雑念が多くてダーラナ(集中)から初めて雑念を抑えていくのが普通だと思いますし、であればその方法を進めてゆけば「無」「意識をなくすこと」「眠りのような無意識になること」に一旦はたどり着き、そこを超えて先に進むはずです。それらの状態は否定する必要はなくて、単なるマイルストン(道標)として使えばいいわけです。ヨーガ・スートラの記述をそのまま真に受けますとそのような落とし穴もありますが、基本はそれでいいのかなと思います。おそらくヨーガ・スートラで重きを置いているのはダーラナ(集中)くらいまでで、その先はわかるようでいてわからない記述になっていますので、この辺りは実践しつつ確かめてゆくものなのでしょう。<br /> <br /> ・ヨーガ・スートラで述べられている瞑想(ディアーナ、タマスな瞑想)とサマーディ(三昧)の間に飛躍がある。あるいは、ヨーガ・スートラで述べられているディアーナ(瞑想)に2種類ある。<br /> <br /> 飛躍があるとはどういうことかと言いますと、上に引用しましたように「ダーラナ(集中)の延長」という記述もあれば、「意識と時間を失う」というタマスな瞑想的な解説もあれば、その一方で、瞑想とは観察だ、という記述や解説も多くあります。<br /> <br /> ■集中と拡大<br /> 解釈によっては、ダーラナ(集中)が「集中」でディアーナ(瞑想)が「拡大」だとする説もあるようです。<br /> <br /> 凝念(ぎょうねん、ダーラナ)は集中的であるのに対して、静慮(じょうりょ、ディアーナ)は拡大的である。「ヨーガ根本経典(佐保田 鶴治著)」<br /> <br /> ■ゾクチェンを踏まえたヨーガ・スートラのディアーナ(瞑想)とサマーディ(三昧)<br /> ヨーガ・スートラだけではよくわからない部分も、ゾクチェン等の知識を踏まえますと別の視点が現れてきます。<br /> <br /> ・ヨーガ・スートラで述べられているディアーナ(瞑想)はゾクチェンの「シネーの境地」に相当。いわゆる「タマスな瞑想」に相当。沈み込むような瞑想。想念や雑念の減少。寛ぎ。穏やかさ。インドの言葉で「シャマタ」。「無」の境地。これはダーラナ(集中)からディアーナ(瞑想)に移行した最初の兆候だと解釈できます。多少は観察できていますが、まだ集中が優勢な状態。<br /> ・ヨーガ・スートラで述べられているディアーナ(瞑想)の別の側面はいわゆる「ラジャスな瞑想」あるいは「拡大的」な瞑想。ゾクチェンの「テクチュの境地の入り口」だと解釈できます。「一点集中」から「観察」へ移行し始めた段階です。<br /> ・ヨーガ・スートラで述べられているサマーディ(三昧)はいくつかありますが、低次のサマーディ(三昧)はゾクチェンの「テクチュの境地」。いわゆる「サットヴァな瞑想」。「観察」の瞑想。集中していない。「対象」と「心」の区別がなくなる。<br /> ・ヨーガ・スートラで述べられている高次のサマーディ(三昧)はゾクチェンの「トゥガルの境地」に対応。<br /> <br /> こうしてゾクチェンの段階を踏まえますと、ヨーガ・スートラをそのまま解釈しただけでは見えないものが見えてきます。<br /> <br /> Sat, 23 Nov 2019 00:00:00 +0900 クンダリーニは上がるのか下がるのか? https://w-jp.net/2019/1728/ <br /> 一部のスピリチュアルで、クンダリーニはアジナまで上昇したら下降してアナハタ(ハート)に到達する、というようなお話を度々聞いたり目にしたりします。これは、クンダリーニが活性化した後はそうなのでしょうが、クンダリーニが活性化する前に、「活性化させるために上下する」というお話をこの度初めて書籍で読みました。<br /> <br /> 大白色聖同胞団(グレート・ホワイト・ブラザーフッド、Great White Brotherhood)という神智学やニューエイジ系の活動をしている団体が出している書籍の中に、以下のような記述がありました。松果腺は頭の真ん中あたりにあります。<br /> <br /> 人間はクンダリーニを上げる前にエーテルエネルギーを降ろさねばならないのである。「ヨガの真義(M・ドーリル 著)」<br /> <br /> クンダリーニーの力が脊柱最下部付近から頭の方へと上昇する前に、まず、松果腺から(宇宙力が)肉体に入り、松果腺から肉体の他の内分泌腺に下りてゆき、それから上へと昇るのである。「秘教真義(M・ドーリル 著)」<br /> <br /> とは言いましても、私の場合、こんなこと意識していませんでしたけどね... こうしていればもっと簡単だったのでしょうかね。もし最初から私がこのように言われていたとしてもグル等の指示がなければどうしたら良いのかわからなかったかもしれないですけどね。<br /> <br /> とは言いましても、思えば、いつしか書きましたけどクンダリーニが本格的に活性化する前にムーラダーラの電気ショックと額の前の空間(アジナ付近)でのボンっという爆発を経験していますので、もしかしたらその爆発がここでいう宇宙力(エーテルのエネルギー?)が体に入った時だったかもしれません。<br /> <br /> 先日引用しましたように同書ではクンダリーニはエーテル的エネルギーと言っています。一方、上の引用文ではクンダリーニを上げる前に「エーテルエネルギー」を下すと記載されています。そして、松果腺から(宇宙力が)肉体に入り、下る、との部分は「ヨガの真義」の記述と同じことを言っているのだとすれば宇宙力とはエーテルエネルギーのことであると解釈できます。エーテルエネルギーであれば宇宙力とはクンダリーニのことですから、言い方が3つ「クンダリーニ」「エーテルエネルギー」「宇宙力」とありますが、全て同じ種類のエネルギーであると解釈できます。結局はクンダリーニとはシンボル的な表現ですからこんな感じになるのでしょうかね?<br /> <br /> となれば、最初にエーテルエネルギーが下るときもエネルギーを感じても良さそうなものですが、私はこの種の「下るエネルギー」は意識していませんでした。もしかしたら単なるエネルギーの変化としてスルーしていたのかもしれませんけど、もはや覚えていません。あらかじめこのように言われていたらどれがそうなのか意識してチェックしていたかもしれませんので、惜しいことをしました。<br /> <br /> Thu, 21 Nov 2019 00:00:00 +0900 クンダリーニはシンボル(象徴) https://w-jp.net/2019/1727/ <br /> 「ヨガの真義( M.ドーリル 著)」に基づきますと、そのように説明されています。<br /> <br /> これは、他の書籍、例えば「魂の科学(スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ著)」などにも同様のことが書かれてありますが、「ヨガの真義」にはよりはっきりとそのように記されています。<br /> <br /> エーテル的エネルギーをヨガ行者たちはプラナ的エネルギー、プラナ的力と呼んでいる。プラナという語は、訳するとエーテル的ということになる。(中略)クンダリーニというものは、エーテルエネルギーで形成されているのである。クンダリーニは引き出されたエーテル的エネルギーにすぎないのである。「ヨガの真義( M.ドーリル 著)」<br /> <br /> というように、クンダリーニの解説をしています。<br /> <br /> これはある程度ヨガを勉強すれば割とすぐに理解できることだとは思いますし、私自身の経験からもそのように思います。<br /> <br /> 蛇が登ったというよりはエネルギーが通り出した、という表現の方がより実感に近いですし、それが蛇かと言われれば蛇かもしれませんが、蛇かどうかはよくわかりませんし。<br /> <br /> <br /> <br /> Thu, 21 Nov 2019 00:00:00 +0900 ヨーガ・スートラにおける心理作用の止滅 https://w-jp.net/2019/1718/ <br /> 久々にヨーガ・スートラのお話です。<br /> <br /> ■ヨーガの定義<br /> ヨーガの有名な聖典の一つであるヨーガ・スートラではヨーガの定義として以下のように記されています。<br /> <br /> 1.2) ヨーガとは心の作用を死滅することである。「ヨーガ根本経典(佐保田 鶴治著)」<br /> <br /> 一般的には、このヨーガの定義は「雑念をなくすこと」と説明されているような気がいたします。<br /> <br /> ただ、聖典の解釈をし始めるとなかなか混乱するところではあります。<br /> <br /> ■ヨーガで得るもの<br /> そして、ヨーガをした結果として以下のようになると記されています。<br /> <br /> 1.3) 心の作用が死滅されてしまった時には、純粋観察者である真我は自己本来の状態にとどまることになる。<br /> 1.4) その他の状態にあっては、真我は、心のいろいろな作用に同化した形をとっている。<br /> 「ヨーガ根本経典(佐保田 鶴治著)」<br /> <br /> 真我とはヨーガやベーダでいうアートマンです。<br /> この書籍は古くから存在しており、日本で一番よく知られた定義だと思います。<br /> <br /> ■解釈いろいろ<br /> 同化した形をとっている、というのは、昔からよくある例え話で、心は鏡のようなものだ、というお話だと思いますが、最初これを読んだときはわかるようでいてわからず、そんなものかなと思ったのですが、どうやら、ヴェーダの文化やヨーガの考え方ではちょっと解釈が違うようです。<br /> <br /> ヴェーダやヨーガ(ほぼ同じですが)の考えに基づきますと真我(アートマン)は変化せずに永遠のものであり、上記のような変化は起こりません。スワミ・ヨーゲシヴァラナンダの「魂の科学」によりますと、真我(アートマン)のすぐ近くに心が存在していて、心自体は輝いていないが心は真我(アートマン)の光を受けて輝き、心が色々な形を取る、と言います。<br /> <br /> 上に記されたヨーガの定義も書籍によって解釈が違います。<br /> <br /> 上記は誤解を与えそうな誤訳なのかな... と今は思います。同書はヨーガが人気になる30年以上も前からずっと存在している本ですので、そのようなこともあるでしょう。今と違って一つ一つ調べていった時代だと思いますし。<br /> <br /> こちらも古い本ですが、インドのヨガ ニケタンを作ったスワミによる本では以下のように解釈されています。<br /> <br /> ヨーガとは心素の働きを死滅させることである。「魂の科学(スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ著)」P272<br /> <br /> ここでは、明確に心素という言葉を使っており、同書での心素とは Chitta のことです。同書P207によれば以下のように分類されます。<br /> <br /> ■内的心理機関(Antaḥkaraṇa Chatushtaya)<br /> ・意思(Manas)考えたり空想したりする心理的能力<br /> ・理智(Buddhi)意思を統率し判断決定能力を有する<br /> ・我執(Ahankara)自我意識<br /> ・心素(Chitta)心理作用の源<br /> <br /> そもそもヨーガの定義 1.2 の原文は Yogas Chitta Vritti Nirodha のようになっており、二ローダが死滅という意味でブルッティが振動とかそういう意味ですから、同文の目的語は心素(Chitta)であると言えます。<br /> <br /> このあたりは色々な書籍で様々に記されていて、それぞれを読んでも「そんなものかな」とそれぞれスルーしたりなんとなく「ふむふむ」と読んだことが多かったのですが、最近になってどれが正しくてどれがちょっと違うのか、肌感覚が出てきた感じであります。<br /> <br /> ■よくある誤解いろいろ<br /> よくある誤解の1つとして、ヨーガの定義を理智(Buddhi)と勘違いしてしまうことがあると思います。ヨーガ・スートラへの批判として、「考えることをやめてしまったら一体どうするのだ」というのがありますが、そもそもそれは誤解です。ヨーガ・スートラの目的は心素(Chitta)の動きを抑えることですので、考える作用である理智(Buddhi)は残ります。<br /> <br /> 他の誤解としては、そうは言っても心素(Chitta)の心理作用は死滅なんてできない、というお話があります。これもその通りで、完全に死滅することはできず、新たに現れてきますが、それでいいという解釈です。スワミ・ヨーゲシヴァラナンダによる「魂の科学」によりますと、この「死滅」という言葉は様々に誤解を与えており、いくつかの種類のサマーディ(三昧)で心素(Chitta)を一時的に停止させることはできるし、それが悟りの助けにもなるが、最終的に心素(Chitta)の作用が永久になくなってしまうわけではない、ということが記されています。<br /> <br /> ■死滅というよりは浄化<br /> 個人的な解釈ですが、ヨーガの定義にある二ローダは直訳の「死滅」ではなく「浄化」と解釈すればわかりが良いです。<br /> その後に続く内容的にもそんな感じですし。最初のキャッチフレーズとしてわかりが良い表現を表に持ってきたのかなぁ... という気も致します。<br /> <br /> Mon, 18 Nov 2019 00:00:00 +0900 イダとピンガラの覚醒 https://w-jp.net/2019/1696/ <br /> ■スシュムナ、イダ、ピンガラの通説<br /> ヨーガではエネルギーの通り道、いわゆる経絡のようなものをナディと呼んでおりますが、これら3つは主要なものです。<br /> 以下はヨーガ行者の本山博先生の書籍に載っている図です。「密教ヨーガ(本山博 著)」より<br /> <br /> <br /> <br /> このように、スシュムナは背骨に沿っていて、イダとピンガラはそれら周囲を螺旋状に回っています。イダが左、ピンガラが右です。<br /> これがヨーガにおける通説だと思います。<br /> <br /> ■クンダリーニの比喩<br /> インドのリシケシにあるヨガニケタンを創設したスワミ・ヨーゲシヴァラナンダによると、以下のように記されています。<br /> <br /> 脊髄は、中空の管のようになっており、その一般的な形は蛇のような形をしていると言って良いでしょう。ですから、脊髄中にある光り輝く微細な導管が、比喩としてクンダリニーという名前で呼ばれているとも言えるわけです。「魂の科学(スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ著)」<br /> <br /> <br /> <br /> 体の左右にそれぞれスシュムナを図示したものが描かれています。右に描かれている2番が実際にスワミが霊視したもので、左に描かれている3番が通説でヨーギに伝えられているものです。そこに類似性を見て取れます。<br /> <br /> ■イダとピンガラの比喩<br /> イダとピンガラは上図の通りグルグルと螺旋状に回っているとのことですが、私は自分の経験として螺旋状のものを認識できておりません。<br /> <br /> と、言いますか、ちょうど1年くらい前に経験したクンダリーニっぽい経験ですが、どうもこれはクンダリーニではなくイダとピンガラの目覚めだったのではないかと最近思うようになってきました。<br /> <br /> 鍵になるのは、当時の記事にある以下の部分です。<br /> <br /> 腰あたりに2つの小さなエネルギーが発生し、左右それぞれ1本づつ光のエネルギーの光線が腰から目の上の頭蓋骨あたりに向けて2〜3秒かけて真っ直ぐ上昇し、頭蓋骨に当たってちょっと曲がったところで停止。そのまま10秒ほどエネルギーの筋はそのまま保っていたのですが、やがてエネルギーが消えてゆきました。(過去記事より引用)<br /> <br /> こう思うようになったのは、上と同じスワミ・ヨーゲシヴァラナンダによる記載です。<br /> <br /> ■イダとピンガラは直線<br /> スワミ・ヨーゲシヴァラナンダは以下のような図を示しています。「魂の科学(スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ著)」より<br /> <br /> <br /> <br /> スワミは、同書でスシュムナのことは多く記載しておりますが、イダとピンガラが螺旋だとか真っ直ぐだとか、そのあたりに関する記述は見つかりません。スワミは自分の記載は実際に瞑想して霊視したものだと言っておりますので、この図も正確な筈です。それとも、本当はグルグルとスシュムナの周りを回っているのにも関わらずこのような真っ直ぐな図を描いたのでしょうか? そうは思えません。であれば、イダとピンガラは真っ直ぐだ、というのがスワミの主張のような気が致します。<br /> <br /> であれば、私の違和感もなくなります。<br /> <br /> 約1年前にあったクンダリーニっぽい経験ですが、1本ではなく2本の光の筋が「真っ直ぐ」登ったので、これがクンダリーニなのかイダなのかピンガラなのかはっきりと判別できずにいました。<br /> <br /> このスワミ・ヨーゲシヴァラナンダの記述が正しいのであれば、私の約1年前の経験はスシュムナではなくイダとピンガラが目覚めたのだ、と解釈できます。<br /> <br /> このあたり、以前に少しSwami Satyananda Saraswatiの言及を引用しました。同氏のKundalini Tantraによると、スシュムナからクンダリーニを上げることが通例のようになっているけれども、古典には必ずしもスシュムナから上げる必要はないと記載しており、ピンガラからは外部に働きかける力を得て、イダは魔女のような透視能力、スシュムナは生きながらの解脱を得る、と書いてあります。<br /> <br /> 私は今のところそんなすごい変化はまだありませんけど、以前よりも自分の状態に納得がいった感じです。<br /> <br /> その後、真っ直ぐ中央を駆け上るようなクンダリーニ上昇は経験しておりませんけれども、オーラの優勢は上の方に少しづつ変わってきておりますので、私の場合、スシュムナは少しづつ活性化してきているのかなぁ、と思っております。<br /> <br /> ■スシュムナから目覚める人と、イダとピンガラから目覚める人がいる?<br /> 以前引用したゴーピ・クリシュナによるクンダリニー体験ですが、彼はどうやらピンガラから最初上げて死にそうになったようです。<br /> <br /> ヨーギの中にはイダとピンガラより前にいきなりスシュムナから上げる人がいて、だからイダとピンガラに関する記述が少ないのかなぁ... という気がしました。そうであれば納得がいきます。<br /> <br /> 私の場合、おそらくはイダとピンガラを同時に活性化したのでおかしくならなかったのだと思います。もともと私の内なるガイドから説明があって、いきなりスシュムナを活性化させると不安定になるのでこの方法でやるよ、とのお話でしたので、それはこういうことだったのか、とようやく納得できました。内なるガイドの案内なしにイダとピンガラどちらからか活性化させていたらおかしくなっていたかもしれませんし、いきなりスシュムナを活性化させたら、それこそ危険だったような気が致します。<br /> <br /> その上で、おそらくはスシュムナが目覚めればイダとピンガラも(少しづつ)目覚めるし、イダとピンガラが目覚めれば(少しづつ)スシュムナも目覚めるのかな、と思います。そんな気がしています。<br /> <br /> であれば、私の場合はまずイダとピンガラが目覚めた後、少しづつスシュムナが目覚めてきているのかなと思います。<br /> <br /> ■スシュムナ、イダ、ピンガラ、いずれも真っ直ぐだが、行法あるいはエネルギー操作の方法として「回転」がある<br /> そういうことかな? という気も致します。<br /> <br /> ■スシュムナの先は螺旋状になっている<br /> スワミ・ヨーゲシヴァラナンダは以下のように記載しております。<br /> <br /> クンダリニーは(中略)ちょうど蛇のように男根状のものの回りを三巻半しながら、全体が貝殻のような形となって眠っております。「魂の科学(スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ著)」<br /> <br /> このことは通説でも多くのヨーギが言っておりますが、スワミ・ヨーゲシヴァラナンダが言うのですから、それはそうなのでしょう。<br /> <br /> であれば、イダとピンガラがグルグルと回っていると言う通説は間違いであるが、クンダリーニが螺旋状に蛇のように眠っている、と言うのは正しいのだと思います。<br /> <br /> だから、ヨーガのクンダリーニ覚醒行法で螺旋状の動きが重要になってくるのかな、と思います。<br /> <br /> きっと、その行法がごっちゃになってイダとピンガラが回転しているかのような誤解が生まれたのかな... という気も致します。<br /> <br /> まあ、仮説ですけどね。<br /> <br /> ■時系列<br /> 以前に書いたものを少し修正しておきます。<br /> <br /> <br /> ・2015年1月 インドのアシュラムで生まれて初めてのヨガ 2週間 合宿。その後しばらくブランク。<br /> ・2016年10月 日本の近所でヨガ再開。1週間ごと1回90分<br /> ・2017年8月 ヨガの頻度を上げ、ほぼ毎日90分<br /> ・2017年10月 雑念が減ってくる。ようやくヨガをしている感じになってくる。ヘッドスタンドが短時間だがようやくできるようになる。<br /> ・2017年11月 ナーダ音が聞こえ始める。ヨガをほぼ毎日し始めてから約3ヶ月後<br /> ・2018年1月 第1回目のクンダリーニ体験。ムーラダーラの電気ショックと眉間の皮膚から数センチ離れた空中(アジナ・チャクラ?)でのエネルギーの爆発。ほんの少しのエネルギー。<br /> ・2018年11月 イダとピンガラの目覚め(第2回目のクンダリーニ体験)。マニプラ優勢になる。クンダリーニ本体はまだ上がっていない雰囲気。2つの光の筋が上がっただけ。仙骨か尾骨のあたりに熱を帯びて血液が激しく脈打つ。かなりポジティブになる。性欲がかなり解消されて自然な(努力のいらない)ブラフマチャリア(禁欲)の達成(性欲10分の1)。睡眠時間の短縮。声が出しやすくなる。<br /> ・2019年7月 第3回目のクンダリーニ経験。アナハタ優勢になる。(五大要素の)「風(Air)」のエネルギーによる竜巻が腰から頭まで上昇。光の筋はなし。竜巻は頭の周囲で発散(頭上および前後左右に発散)。うなじの下(大椎?)に少しの熱を帯びて血液が脈打つ。ハートがジンジン。第2回目ほどの変化はなし。性欲が更に10分の1 (第2回目クンダリーニ以前と比べると100分の1) <br /> ・2019年9月 ムーラダーラの活性化。 足の気力が少し増加。足の感覚が少し敏感になる。手の感覚も足ほどではないが少し敏感になる。「におい」に敏感になる。「におい」だけで「味」も感じるようになる。淀んだ空気(の匂い?)が苦手になる。いわゆるグラウンディングの力が若干上昇。他人の淀んだオーラによる自分への悪影響が低下し、自立力が高まる。優勢なのは依然としてアナハタ。<br /> <br /> Mon, 14 Oct 2019 00:00:00 +0900 集中の瞑想から観察の瞑想へ https://w-jp.net/2019/1692/ <br /> ■初心者の瞑想<br /> 集中します。集中がこの段階での瞑想です。眉間などに集中します。この段階では、小難しい理屈は考える必要ありません。<br /> この時、あまり長い瞑想をしないようにします。不快感が出てきたらすぐに瞑想を中断します。<br /> <br /> ■瞑想に少し慣れた状態。観察ができてくる前<br /> 心だけが存在していて、観察できていない状態が長い間続きます。雑念が多い状態です。<br /> 心がロジックで「観察している」と自分を誤魔化したりする段階です。<br /> この段階でも、あまり長い瞑想はしません。<br /> 古典的には瞑想はグル(霊的教師)につくべきだ、とされておりますので、気をつけて行いましょう。<br /> <br /> ■観察ができてくる<br /> 観察が全く違う視点で現れてきます。観察しているのは心ではなく、心が観察しているのではなく心の背後に観察者が存在していることを理解します。<br /> <br /> ■観察ができてくると、瞑想とは集中のことではないと理解できてくる<br /> 瞑想のきっかけに集中が使われます。しかし、その後は集中しません。集中することで意識を統一してふらつかないようにした後、観察をするのがこの段階での瞑想です。<br /> <br /> 一般にはサマタ瞑想(集中瞑想)とヴィパッサナー瞑想(観察瞑想)とがあると言われていますが、これは流派の違い、あるいは、段階の違いで表現が異なってきます。流派によっては同じことをサマタ瞑想と呼んだりヴィパッサナー瞑想と呼んだりします。しかし、本質はどちらも変わりません。その筈です。<br /> <br /> 瞑想のために、最初は集中を行います。この段階における集中は瞑想の目的ではなく、手段です。<br /> <br /> 観察の瞑想(ヴィパッサナー瞑想)に辿り着くには手段としての集中が必要です。その集中瞑想をサマタ瞑想と呼ぶかもしれませんし、流派によっては集中であってもヴィパッサナー 瞑想と呼ぶかもしれません。呼び方は流派ごとに違えども、やっていることはそう変わりありません。最終的に瞑想の目的は「観察」になります。サマタ瞑想(集中瞑想)であってもそれは観察になっていくのです。このあたりは以前にも少し書きました。<br /> <br /> 本質はサマタ瞑想でもヴィパッサナー瞑想でも一緒なのですが、観察については流石にヴィパッサナー瞑想の方が詳しく述べられている気が致します。例えば以下の文章です。<br /> <br /> ヴィパッサナーの目的は、何にも妨げられることなくひたすら呼吸に集中することではありません。(中略)ヴィパッサナーの目的は、途切れることなく気づくことです。気づく、この気づくことによってのみ、覚ることができるのです。「マインドフルネス 気づきの瞑想(バンテ・H・グナラタナ 著)」<br /> <br /> 視点が違うだけでサマタ瞑想も同じです。サマタ瞑想の目的は眉間やハートや呼吸に集中することではありません。サマタ瞑想の目的も同様に、途切れることなく気づくことです。言い方が違うだけのお話です。 時々、このことで言い争いになったりしているようですけど、私は、表現が違うだけだと思っております。<br /> <br /> ですから、一般的に瞑想は集中から始めますが、瞑想とは本来、観察のことです。<br /> <br /> 一般的には集中だけであっても瞑想と呼ばれますし、観察も瞑想と呼ばれます。ですから、瞑想と言った時に何を意味するのかコンテキストによって異なってきます。<br /> <br /> 瞑想においてはまず集中することで心を落ち着かせていわゆる雑念を抑え、体の感覚などを観察するのです。あるいは、瞑想中に雑念が出てきたら集中して雑念を抑え、そして再度観察して瞑想を再開するのです。<br /> <br /> その時、眉間に集中したりハートに集中したり息に集中したりします。流派や、人によってやりやすさが異なるでしょうから先生の指示に従うかあるいは選んでも良い流派の場合は選びますし、先生がいなければそれぞれ試してみたりすると良いでしょう。<br /> <br /> <br /> 何度か書いたことではありますが、改めて少し書いてみました。<br /> <br /> Thu, 10 Oct 2019 00:00:00 +0900 地のエネルギーを取り入れる瞑想 https://w-jp.net/2019/1691/ <br /> 以前はクンダリーニの地のエネルギーを頭まで上げつつ天のエネルギーを取り入れて瞑想したわけですけれども、その時、地のエネルギーとは言いましても下半身にあるクンダリーニのエネルギーを使っていたわけですが、ここに来て地下から地のエネルギーを取り入れてみました。今まで地下のエネルギーを使うのは避けていたのです。と言いますのも、以前にも少し書きましたように地下のエネルギーはちょっとネバネバしていてちょっと腐臭といいますかおしっこの匂いがする子供のようなエネルギーですので、ムーラダーラ経由で下半身に取り入れるとお腹が拒否反応を示していたからです。<br /> <br /> 今日、改めて試してみようと思ったのは、天のエネルギーを下半身まで循環させていたので少し違うかなと思ったから試してみたわけですが、結果はといいますと、ある程度は読み通りでした。この状態で地のエネルギーを地下から取り入れるとそれほど不調にはなりませんでした。<br /> <br /> ですが、しばらくすると体の地のエネルギーが若干優勢気味になってきたのか頭がクラクラしてきましたのでバランスを取るために天のエネルギーを取り入れようとしたわけですが、一旦地のエネルギーが優勢になるとなかなか天のエネルギーが優勢にならなかったです。<br /> <br /> 今回試したことにより、今までと違って地のエネルギーも使えることがわかったわけですが、注意が必要なこともわかりました。<br /> <br /> 今まではムーラダーラから自然に流入してくる地のエネルギーが下半身で少しづつ体と順応するに任せていたわけですが、意識的に地のエネルギーを取り入れることもできるわけですね。<br /> <br /> ですが、そのエネルギーの質というものが違いますから、そこは注意が必要なようです。<br /> <br /> 私の場合、上半身が天のエネルギーが優勢でないとフラフラするような感じが致します。他の方はどうなのか知りませんけど。<br /> <br /> Wed, 09 Oct 2019 00:00:00 +0900 ハートを意識する瞑想 https://w-jp.net/2019/1690/ <br /> 最近はハートのあたりがザワザワといいますかチリチリと微細な静電気を帯びた感じになってきています。<br /> 一方で、以前のように眉間に集中しても大した変化はなく、眉間の肉体的な集中感はありますがザワザワ感はほとんどありません。今はザワザワ感はハート中心になってきています。あとは時々、ムーラダーラの会陰で静電気のザワザワ感があるくらいです。<br /> <br /> ハートのザワザワ感を感じて瞑想していると、体の背骨に沿ったいわゆるスシュムナというエネルギー・ルートを感じることができます。<br /> <br /> 特に、喉のあたりに圧力を感じます。以前度々感じたような喉のイガイガ感ではなく、単なる圧力です。喉がプクッと膨らんだような感じですので、おそらくは喉のヴィシュッダ・チャクラのあたりにまでエネルギーが充満してきているのかなと感じます。<br /> <br /> この状態で下半身のエネルギーを回転させてから頭まで上げると、前日書いたような理由からエネルギーが軽くなっていると思われて頭の中でエネルギーがすぐに発散しました。同様に、天のエネルギーを頭から入れて胸のあたりまで詰めようとしても、エネルギーがハートのザワザワ感のあたりで発散してその周囲にすぐに吸収されてしまう感じになりました。<br /> <br /> ですので、今はエネルギーを詰めるという感じではなく、それぞれ地のエネルギーも天のエネルギーもハートの外側の上下でそれぞれ動いていて、ハートがそれらを統合している、という感じになってきています。<br /> <br /> 以下を違和感ない程度にそれぞれ統合して行なっている感じです。<br /> <br /> ・天のエネルギーをサハスララから入れて上半身に満たす。<br /> ・天のエネルギーを下半身や体の隅々まで浸透させてエネルギーを柔軟にする。<br /> ・天のエネルギーと混ざって柔軟になったクンダリーニの地のエネルギーを頭まで上げる。<br /> ・ハート(アナハタ)が地のエネルギーと天のエネルギーを統合する要になる。<br /> <br /> これをしばらくすることでエネルギーが満ちてエネルギーの質も均一化されてくると、次第に天のエネルギーを降ろさなくても充実した感じになってきました。その状態で瞑想をしたのですが、呼吸を吸った時にエネルギーが下半身から頭まで上がり、吐く時に頭から下半身に下ろすようにすると身体中が満たされた感じになって行きました。それでいて以前のように頭のあたりに違和感があったりせず、調子が悪くなることもありません。<br /> <br /> ■これぞ小周天あるいはソーハム瞑想法?<br /> 今まで小周天やソーハム瞑想法(ソーハン瞑想法)をしてきたつもりでしたが、この状態になってようやく小周天あるいはソーハム瞑想法(ソーハン瞑想法)と言えるのかな、という気になってきました。<br /> <br /> この状態ですと、エネルギーの束のようなものが背骨のいわゆるスシュムナというエネルギー・ルート上に充満して充実した感じになっています。そのエネルギーの束の中で上下にエネルギーが循環するのです。<br /> <br /> 小周天のように体の表面を回るという感じではないので、小周天とは言わないのかもしれません。最初の頃に試した小周天は体の表面を空気の集まったようなコインくらいの大きさのものが動く感じでした。今はそんな空気の集まりはなくて、体全体をスシュムナ沿いに上下にエネルギーが動いている感じです。<br /> <br /> ■全身周天<br /> 「秘法!超能力仙道入門(高藤 聡一郎 著)」によると、小周天の後は古典的には大周天ですが、同氏が全身周天と呼ぶものがその中間にあるといいます。<br /> <br /> やがて陽気は、小周天のときのような線状の感じから、棒状の太い感じに変わってくる。(中略)陽気はだんだん太い感じになり圧力をもつ。(中略)小周天を行い頭部に陽気を上げただけで、あとはひとりでに、陽気が腕や足の末端まで流れていくようになる。(中略)全身に満ちた陽気はどんどん強まり圧力をもってくる。「秘法!超能力仙道入門(高藤 聡一郎 著)」<br /> <br /> これはよくわかります。今の状態はエネルギーの圧力が高まってきています。比べてみると、私の場合はもうちょっと手足の先まで満遍なくエネルギーを充満させた方が良いようなことが書かれてあります。私はどうも背骨のスシュムナを意識しすぎているというか周囲までまだ気が回っていないようです。<br /> <br /> これは陽気が体の奥のほうまで達したことを意味する。(中略)ここまでくると、普通は、ひとりでに陽気が体から空間に放射しはじめる。(中略)この空間は、自分の意識ともつながっていて、その縁に触れた気をすばやくキャッチできる。(中略)ここまで達すれば、全身周天はほぼ完成である。あとは、この生体エネルギー的空間を、意識でコントロールできるようにするだけである。「秘法!超能力仙道入門(高藤 聡一郎 著)」<br /> <br /> このあたりは私の場合、まだのようですね。それとも、表現の違いだけで、オーラの接触による雑念の感知とかがこれを意味しているのであればある程度できているとも言えますが。どうなのでしょう。まあ、とりあえずこれはあまり気にせずスシュムナにエネルギーを通す瞑想を続けてみたいと思います。<br /> <br /> <br /> <br /> <br /> Wed, 09 Oct 2019 00:00:00 +0900 天のエネルギーと混ぜたクンダリーニを頭に上げる https://w-jp.net/2019/1689/ <br /> 先日の続きです。先日の時点では、クンダリーニの地のエネルギーは下半身から胸まで、天のエネルギーは上半身、というように区分けをするのが良さそう、と言うお話でした。一方、以前書きましたように天のエネルギーを体中に満たして緊張をほぐす、みたいなことは度々瞑想中に行なっていました。<br /> <br /> 今日、ふと気づくとクンダリーニの地のエネルギーが天のエネルギーと混ざっていて、随分と違う感じでしたので試しにその混ざったエネルギーを頭まで上げてみましたところ、違和感なく上げることができました。<br /> <br /> 順番としては以下になります。<br /> <br /> ・天のエネルギーを身体中に満たして緊張を解す。天のエネルギーをクンダリーニの地のエネルギーと混ぜる。<br /> ・その後、天と地のエネルギーが混ざった状態のクンダリーニを頭まで上げる。<br /> <br /> これをすると、随分と頭の中が充実した感じがして、なおかつ、以前にクンダリーニの地のエネルギーを上げた時のような違和感はほとんどありません。<br /> <br /> 天のエネルギーは軽いので天のエネルギーを上半身に満たしてもそれほど活発な感じにはならないのですが、この混ざったエネルギーは随分と力があって尚且つ天の軽いエネルギーの質も兼ね備えていますので、体にとてもよく合っている感じが致します。<br /> <br /> 以前のようにふらつく感じや違和感、不快感などがほとんどありません。以前は気をつけて行わないと瞑想後にまで緊張感が残ったり目の緊張や意識が合わなくなったりしていわゆる禅病っぽい感じになることもありましたが、今日はそんなことありませんでした。<br /> <br /> ■ムーラバンダでせき止めたエネルギーを使うとどうなるか?<br /> 先日書きましたようにムーラバンダはムーラダーラでエネルギーを止める効果がありますが、天のエネルギーとクンダリーニの地のエネルギーを混ぜる時にムーラバンダして試してみました。・・・結果、うまくいきませんでした。ムーラバンダがうまくいっていないのか、あるいは、しない方がいいのかもしれません。<br /> <br /> やりたかったことは、天のエネルギーから下ろす時にムーラバンダして下半身のエネルギーを充満させてからムーラバンダしたまま頭まで上げると良いのではないかと考えたのですが、実際には、天のエネルギーを下ろそうとしたら下半身のエネルギーが既にそこに詰まっているので下半身のエネルギーがムーラダーラ経由で地下に少し逃げていかないと天のエネルギーが入るスペースができない感じでした。天と地が混ざったクンダリーニを頭まで上げるときにムーラバンダした時にうまく上がらなかったのは、おそらくはムーラバンダしていなければエネルギーを上げる時に下半身にエネルギー的空白ができますのでそこにムーラダーラ経由で地のエネルギーが入ってくるのに対し、ムーラバンダしてしまうと地のエネルギーが入ってこれないからエネルギーが動き辛いのではないかと思いました。エネルギーのルートであるスシュムナが土管あるいは注射器のようなものだとすればムーラバンダしていると言うことは土管の片方が閉じられているようなもので、もう片方を動かしてエネルギーの圧力が高まったり弱まったりするよりはもう片方も開けておいて圧力を調整できる状態にした方がエネルギーが動きやすいのは当然なのかなと言う気がしました。これは実験してみてそう感じたことです。<br /> <br /> <br /> <br /> Tue, 08 Oct 2019 00:00:00 +0900 ムーラバンダが完成すると精が漏れなくなる https://w-jp.net/2019/1688/ <br /> ヨーガでそう言うお話がありますけど、私的には、それっぽい感じでエネルギーを止めてしまうと流れが悪くなって下半身の調子が逆に悪くなります。ヨーガのこういった行法はグルの元で行わないと危険と言われていますけど、うまく行うことができていないのかもしれません。ですので、私はムーラバンダはせずに下へのエネルギーは半解放状態で常に繋げています。<br /> <br /> ムーラバンダというのはヨーガである3つのバンダのうちの1つで、ムーラダーラ・チャクラのあたり(男性は会陰、女性は膣の奥、子宮の入り口)で行うエネルギー・ロックで、エネルギーの引き上げ効果があります。<br /> <br /> その効果として、一部の流派では精が漏れなくなるとか、エネルギーが漏れなくなる、というような解釈をしているようです。その原典がどこに書かれていたのか忘れてしまいましたのですぐには見つけられませんけど。<br /> <br /> その流派のグルに付けばその流派なりの体系があってうまくいくのかもしれませんが、私が試したところでは、ムーラダーラあたりは地のエネルギーと繋がっていて、常にエネルギー交換できる状態にしておかなければ体の中に溜まった悪いエネルギーが外に出ていかないような気が致します。<br /> <br /> ある程度は地のエネルギーから体に取り込まないと体のエネルギーが枯渇してしまいますので完全に閉じるべきではなく、逆に、あまりにも解放してしまうと地のエネルギーが高まって重い感じになってしまうので開けすぎは良くなく、程々に、体の悪いエネルギーが出ていけるくらい解放にしておくのが良さそうな感じです。<br /> <br /> これは、おそらくエネルギーの質にもよるかと思います。ヨーガを始める前はエネルギーの質が「軽い」「発散しがち」(語弊があるかもしれません)という感じでしたので、この状態ではエネルギーが体に保持されにくかったように思います。一方で、ヨーガを始めてから次第にエネルギーの質が「密度のある」「粘着性のある気体」(語弊があるかもしれません)のように変わってきましたので、ムーラダーラから地のエネルギーと繋がっていてもそれほどエネルギーが漏れることはない感じです。<br /> <br /> きっと、エネルギーの質によってムーラバンダで固定してエネルギーを高めるべき時と、そうでもない時があるのかな、という気も致します。<br /> <br /> ムーラバンダについて、ハタヨガプラピディカには以下のように記されています。<br /> <br /> (3-61) [ムーラ・バンダ] カカトで会陰部を圧してコーモンを収縮し、アパーナの気を上方へ引き上げるならば、それはムーラ・バンダとよばれるムドラーである。「ヨーガ根本経典(佐保田 鶴治著)」<br /> <br /> 他にもバンダがありますけど、それらは全てエネルギー制御のためのものです。<br /> <br /> 今までバンダは割とスルーしていましたけど、エネルギー制御という視点から見たらなかなか理に適っている理屈だと今更ながら思うようになりました。<br /> <br /> Mon, 07 Oct 2019 00:00:00 +0900 クンダリーニを頭まで上げてから心臓に戻す https://w-jp.net/2019/1687/ <br /> どの書籍かは忘れてしまいましたので後ほど見つけたら記録したいと思いますが、流派によってはクンダリーニを頭まで上げた後に心臓に戻す流派があるようです。詳しくはグルの指示がなければこの種の行法はすべきではないとは思いますが、これを私なりに解釈すると以下のようになります。<br /> <br /> まず、クンダリーニは以前書きましたように「地のエネルギー」ですので、アナハタくらいまでは適応しますが頭より上には適応し辛く、不安定になることがあると思います。おそらくはクンダリーニが危険と言われている所以はこの辺りにあるのかなと思います。エネルギーに対する感度が上がっていなければこの不調の原因を特定することは難しいように思います。<br /> <br /> ですから、クンダリーニの地のエネルギーを頭に上げるためには段階的に、まずはマニプラで体に順応させ、アナハタで波動を上げて、それからようやく頭に上げる方がいいとは思いますが、何度か書きましたように、それよりは頭には天のエネルギーを下ろした方がよりスムーズでスッキリするように思います。<br /> <br /> サハスララのルートが開いていなければ天のエネルギーが使えませんので、まずはクンダリーニの地のエネルギーを使うことになるでしょう。おそらくはその段階で危険性があるのです。地のエネルギーを頭まで上げることと、頭で地のエネルギーを使うことがまず危険です。更には、地のエネルギーでサハスララのルートを開くことも危険で、少しづつ注意深く行わなくては危ないのかなと思います。<br /> <br /> そうして、地のエネルギーでサハスララへのルートが開けてきたら天のエネルギーにアクセスできますので、あとは地のエネルギーを上げることをやめて天のエネルギーを使って上半身を満たしてエネルギー・ルート(ヨーガで言うところのナディ)を開拓して行くのがいいのかな、と解釈しています。<br /> <br /> ですから、クンダリーニ的にはこのように、最初は頭まで上げて、後ほどアナハタまで戻す、みたいなニュアンスにもなるのかなと思います。<br /> <br /> サハスララへのルートができていなくて天のエネルギーを使えない状態でクンダリーニの地のエネルギーを頭まで上げてアナハタへと戻す、と言うのは、ずっと頭に地のエネルギーを貯めておくと不安定になることがあるので、それはそれで理に適っているような気が致します。そして、サハスララへのルートができたあとは「天のエネルギーを代わりに上から下ろして上半身に満たす」と言うことなのかなと思います。前者はまさに指示そのままですけど、後者も、見方によっては同様に、もともと頭まで上げていたエネルギーをアナハタ(胸)まで戻す、と解釈できなくもないですので、時間軸が短いものと長いもの、両方の視点でどちらもクンダリーニを頭まで上げてからアナハタ(胸)まで戻す、みたいな解釈もできそうです。後者は私の解釈では「戻す」のではなくて、「頭まで上げないようにする」と言うことですけど、神秘行ではあえて(?)分かりにくい表現を使っていたりしますし、まあ、そう言う言い方もできるのかもしれない、と言うくらいに思っています。<br /> <br /> ・クンダリーニ(地のエネルギー)が使える状態で、天のエネルギーがまだ使えない状態:毎回の瞑想の中でクンダリーニ(地のエネルギー)を頭まで上げて、同じ瞑想の中で胸(アナハタ)あるいは下半身(マニプラ、あるいはムーラダーラ)まで戻す。<br /> ・クンダリーニ(地のエネルギー)と天のエネルギーの両方が使える状態:クンダリーニ(地のエネルギー)は胸(アナハタ)まで上げる(流派によってはマニプラとアナハタの中間まで上げる、としているような雰囲気もあります?)。天のエネルギーをサハスララから入れて頭に満たした後にアナハタまでその一部を降ろし、同エネルギーを身体中の隅々まで浸透させる。塊を降ろすと言うよりは頭に充満させた後は水が滴り落ちるかのごとく上から下へ、体の隅々まで浸透させる。<br /> <br /> ですから、一部の流派でクンダリーニのエネルギーをサハスララ(頭のてっぺん)から外に逃がす、みたいなことはしなくてもいいのではないかな... と個人的には思います。何故なら、そもそもクンダリーニの地のエネルギーを使うよりも天のエネルギーを使う方が波動が高くて良いと思うからです。地のエネルギーはアナハタ(胸)まで上げて、上半身は天のエネルギーを使う方がより安定するような気が致します。<br /> <br /> そもそも、クンダリーニというのは見ようによっては俗称だとも解釈できると思っていまして、背骨のエネルギー・ルート(ヨーガで言うスシュムナ)が開いたときにそこを流れるエネルギーを比喩的に表現したものですので、そのエネルギーが地から来るものもあれば天から来るものもあるわけでして... 地のエネルギーだけを使わなければならないなんて縛りはそこには無いはずです。 であれば、天のエネルギーの方が合っていそうであれば使う、と言う、ただそれだけのお話です。<br /> <br /> <br /> Mon, 07 Oct 2019 00:00:00 +0900 瞑想中に一瞬見えた小悪魔の影 https://w-jp.net/2019/1682/ <br /> 先日 の続きです。<br /> <br /> 今日も天のエネルギーを頭のサハスララから下ろして体に満たし、体の組織の塊の隙間に光を通して緊張をほぐす瞑想をしました。<br /> <br /> その時、上から水が体を通って各所を満たすのと同時に、スポットライトのように各所を照らす作業も行うわけですが、ふと体のどこかに洞窟っぽい空間が見え、洞窟の奥が暗闇になっていて、そこをスポットライトで照らしたらシルエットのような黒い雲が見えて目も光って見えたのです。その姿は羽の生えた小悪魔のように見えました。コオロギが立ち上がった姿に似ているかもしれません。中腰なのかもしれませんがシルエットで霧状なのでよくわかりません。一瞬ゾッとしたのですが、スポットライトを照らしてよく見ようとしたら姿は消えてしまいました。どうしたことでしょう。もはや、探しても見つかりません。<br /> <br /> そうこうしているうちに、胸のあたりの少しの緊張が解けて柔らかくなってきました。緊張があるとは思っていなかったところに実は緊張があったようで、胸の少し左あたりの緊張が解けたような気が致します。胸のあたりに何かブロックがあったのかもしれません。<br /> <br /> これは何かのガーディアンだったのでしょうか??? 謎です。 姿はゾッとしたのですが、特に怖い感じはしませんでした。<br /> <br /> どうやら、小悪魔は消えてしまったか、あるいは、退散してしまったように思います。もはや気配も全く感じません。<br /> <br /> ■体が消える感覚<br /> 天のエネルギーで体を包んでいると、次第に体が消える感覚になってきました。完全には消えませんが、存在が軽くなった感じです。<br /> 体がほぐれていくにつれてこんな感じになってゆきました。<br /> <br /> ■母親のテレパシー? 虹色の波紋?<br /> 今日も、日常生活中に事あるごとに天のエネルギーを頭のサハスララから取り入れていました。<br /> <br /> そんなとき、ふと私の母親が私を呼びかけるテレパシーっぽい感覚を受信しました。ただ単に私の名前を呼んでいるだけですが、その時、頭の上3分の1くらいが不思議な感じに光りつつ、そこの中で母親の声がリアルにしていました。イメージはありません。声を聞いている間、頭の上3分の1が活発に動きつつ虹色っぽい感じで不思議に光っていました。完全な虹色ではないのですが虹色がかかったふにゃふにゃな波紋のような感じに見えました。だいたい5〜10秒程度の間だったと思います。<br /> <br /> 声が聞こえる事はあっても、こんな感じで頭の中が活動的になった事は今までほとんどなかったように思います。何か今までとは違う感じを受けます。まだ1回だけですけどね。<br /> <br /> 肉体が光ったわけではなくて瞑想中にそんな感じに認識したということです。<br /> <br /> ■体をほぐす<br /> 先日に続いて、体の各所に天のエネルギーを通して少しづつほぐしていっています。これはもうちょっと時間がかかりそうです。と言いますか、ずっと定期的に続けるべきものかもしれません。<br /> <br /> <br /> Wed, 02 Oct 2019 00:00:00 +0900 首や肩の力が抜け、上半身がよりニュートラルな瞑想 https://w-jp.net/2019/1681/ <br /> 先日の続きです。<br /> <br /> 今朝の瞑想では肩の力が一段と抜けていました。おそらくは首のあたりのエネルギーのブロックが解消されたことによるものかなと思います。<br /> <br /> 天のエネルギーを頭に降ろすと頭の中にまず入るのですがすぐに首を通じて胸のアナハタあたりまで充満するのを感じます。先日に首のあたりのブロックが解消される前は頭だけでエネルギーが溜まっていて少し下に漏れるという感じでしたが、今朝はスムーズにエネルギーが首を通ります。そうして何度か天のエネルギーを頭に下ろし、胸のアナハタあたりから順にエネルギーを充満させ、頭まで天のエネルギーで満たした状態で瞑想をしました。<br /> <br /> サハスララはエネルギーが通るようになったとはいえ、まだ完全ではない感じです。それでも、何度もエネルギーを下ろそうとすれば少しづつエネルギーが入ってきます。<br /> 外のエネルギーをあまり簡単に取り入れない方がいい時もありますので、このくらいでちょうど良いのかもしれませんが。<br /> <br /> 天のエネルギーとは言いましても、地球の周辺のエネルギーですので、大気汚染みたいなものも少し混ざっていて、必ずしも純粋なエネルギーではない感じです。それでも、地のエネルギーに比べれば随分と上等な感じが致します。<br /> <br /> この状態で瞑想をすると、肩の力が抜けているのを感じました。首が自然な角度で頭がちょこんと上に乗っています。ブロックがあった時は頭が割と前に倒れがちでした。<br /> <br /> 特に上半身がよりニュートラルになった感じです。<br /> <br /> 今日は昨日と同様に事あるごとに日常生活の中で天のエネルギーを頭から取り込んでいました。<br /> <br /> これとどのくらい関係があるのかわかりませんが、今日はその他にも以下のことが起こりました。<br /> <br /> ・リクライニングチェアで意識が朦朧としている時にどこかの知らない女の人の全く心当たりのない会話が聞こえた。声のみ。すぐに内容は忘れてしまいました。<br /> ・瞑想中、体の各所が静電気を帯びていた。先日とはまた違った場所。例えば胡坐をかいている足の裏とか、腕とか。あとは全体的にほんわりとした感じです。<br /> ・頭の中で火花かプラズマがバチバチと鳴るような音がした。1〜2秒程度。映像はなし。この時、意識は普通にありました。<br /> <br /> ■天のエネルギーで緊張をほぐす<br /> 天のエネルギーを体に通していると、体が少しづつ柔らかくなるのを感じます。<br /> <br /> 瞑想中は眉間に集中していたとしても肉体的には力を入れないのが基本ではあるのですが、こわばりが多少なりとも瞑想中はできてしまっているようで、今までは度々口を大きく開けたり目を見開いたりして緊張を解いていたのですが、今日の瞑想で天のエネルギーを頭から入れて体に下ろしていると、顔の表情が柔らかくなって筋肉が解けていくのを感じます。<br /> <br /> 顔だけでなく、体の各所、例えば股関節なども緊張が解けるのを感じます。すぐに開脚がすごくできるようになるわけではないのですが、感覚的に緊張が解けてゆく感じです。<br /> <br /> 肉体が大きめの細胞の塊で構成されている隙間に天のエネルギーが細かく入り込んで潤滑油のようになっている感覚があります。まだまだ緊張が解け始めたばかりですが、これからもっと緊張が解けてゆくのだとすれば素晴らしいです。<br /> <br /> Tue, 01 Oct 2019 00:00:00 +0900 天のエネルギーを上半身に満たす https://w-jp.net/2019/1680/ <br /> 天のエネルギーを下ろすのは瞑想中でなくても日常生活しながらでも簡単にできる感じですので、思い出す度に度々エネルギーを下ろしていました。<br /> それと共に、今まで使っていた地のエネルギーと言いますか下半身のエネルギーと天のエネルギーの質の違いが分かってきました。<br /> <br /> お腹のあたりに溜まっているムーラダーラやマニプラなどのエネルギーは質的に地中のエネルギーを少し純化したものですね。<br /> <br /> 地のエネルギーはお腹のエネルギーよりももっと泥っぽくて、ちょっと子供っぽい匂いがします。ちょっとオシッコ臭い子供のような匂いとヘドロの匂いとが合わさったような、あまり快適ではない匂いです。それが地のエネルギーとそのエネルギーの「匂い」です。地中にあるエネルギーですね。<br /> <br /> その「地」のエネルギーを純化して、匂いがかなりなくなっている状態のものがお腹のあたりに溜まっています。それを更に純化したものが胸のアナハタにあって、更に純化したものが頭のあたりにあるようです。ですので、以前にも書きましたように下半身のエネルギーをサハスララにいきなり上げるのではなく一旦頭の下半分・前半分くらいに集めてから改めてサハスララに上げる、というようなことを以前はしていたわけです。そのことで、比較的荒いエネルギーをいきなりサハスララにあげるのではなく段階的に純化しつつ上げることができていたわけです。その時は天のエネルギーにはまだ繋がっておらず、サハスララのエネルギー・ルートが開いていない状態でしたのでそうやって下の方からサハスララにアクセスしようとしていたわけです。そうして、後頭部のあたりにブロックのような硬い部分があり、それにエネルギーをぶつけて柔らかくしてブロックを解除し、越えようとしていたわけです。<br /> <br /> 今はそのブロックが(全部かどうかは分かりませんが)一応は外れてエネルギーが通るようになりましたので、地のエネルギーを頭に上げるよりは、エネルギーの質的に言っても天のエネルギーをサハスララ経由で頭に入れる方がスッキリするような気がしてきました。<br /> <br /> そうしているうちに、天のエネルギーを頭だけでなく上半身にも少しづつ満たすようになりました。<br /> <br /> ここで、以下のことが起こりました。<br /> <br /> ・エネルギーを何度も頭に充満させていたら、眉間の少し奥あたりで頭痛がしました。偏頭痛とは違う頭痛で、不思議な頭痛です。これが噂に聞く、スピリチュアルな成長に伴う頭痛というものでしょうか? 単なる普通の頭痛かもしれませんので様子を見ています。<br /> ・首の後ろあたりにエネルギーを下ろした瞬間に突き刺すような痛みが一瞬走り、やがて消えました。「ライトボディの目覚め」によりますといくつかの原因が考えられ、エーテル的に何かがブロックしている場合、あるいは、成長に伴う痛みである、と解説されています。<br /> <br /> ■エネルギー酔い<br /> 天のエネルギーを頭に使い出したら地のエネルギーを頭に上げる気がほとんどしなくなりましたが、試しに再度下半身から地のエネルギーを頭まで上げてみたところ、泥っぽいエネルギーが頭に入ってきた瞬間に少しヘドロの匂いを感じ、少し吐き気がして若干のエネルギー酔いみたいな感じになってしまいました。つい先日まで上げていた地のエネルギーの筈なのにこんなに違いを感じるなんて不思議です。<br /> <br /> 今までは天のエネルギーが使えなかったから仕方なく地のエネルギーを使っていただけで、エネルギーの質が違うので地のエネルギーは本来頭に合わないような気がしてきました。頭には天のエネルギーを詰めるのが良さそうです。もしかしたら今までサハスララの瞑想で安定感を失っていたのは地のエネルギーの質が原因なのかもしれません? 以前にサハスララに関する瞑想の記事などでも書きましたようにサハスララに集中する瞑想には色々と注意が必要ですが、もしかしたら、それはエネルギーの質とサハスララがほとんどの人には開いていないから、というところが本当の理由なのかもしれません。まあ、私も完全に開いた感じはしていなくて少し開いたというくらいな気がしていますが。<br /> <br /> 天のエネルギーを使っていてもまだ慣れないせいか少し空間が揺れている感じが続いていますが、天のエネルギーであれば地のエネルギーの時のような吐き気はありません。エネルギー酔いはちょっとはありますが。エネルギーを高めることによる酔いはどちらのエネルギーでもありそうな感じです。地のエネルギーは少し匂いと吐き気があるということなのかもしれません。<br /> <br /> 仮説ですが白隠禅師の禅病もこの辺りを使って説明できるかもしれません。エネルギーの質とサハスララの状態によって吐き気があったりエネルギーが詰まったりしていると禅病っぽくなることは多いにあるような気が致します。<br /> <br /> ■内なるガイドのヒント<br /> 内なるガイドが言うには、この天のエネルギーを使う時にある程度の純化を済ませて雑念を落としておかないとうまくエネルギーが流れない、とのことです。<br /> <br /> 瞑想で天のエネルギーを使う手法は数多くありますが、先に心の平穏を達成しておかなければ感覚が鋭くなるにつれて段々と苦しくなる、とのことです。その例として、超感覚が目覚めたいわゆるサイキックが能力を優先させたことにより情緒不安定に悩んでいる、などの事例があるようです。本来は天のエネルギーの活用の前に心の平穏を達成しておくべきで、そうであれば何ら苦しむことなく先に進める筈なのに、能力を優先させたことにより苦しんでいる人が大勢いる、とのことでした。<br /> <br /> 心の平穏、いわゆるヨーガスートラ的に言えば心の死滅ですしヴィパッサナー的に言えば観察瞑想なわけですが、そのレベルの心の平穏が先でないと苦しむだけだ、とのことでした。<br /> <br /> ■首の突き刺す痛みとエネルギーのブロックの関係<br /> 首の突き刺す痛みがあった後、首のエネルギーが上下に通りやすくなったような気がします。であれば、首にあったエネルギーのブロックが一つ外れたということのような気が致します。<br /> <br /> 先日まで胸単体および頭単体でそれぞれエネルギーが充満してプクッとした感覚があって、特に頭の方はエネルギーが高まるにつれて圧力が高まっている感じがありました。それは、上方向にはサハスララにブロックがあって、下方向にはおそらく首のあたりでブロックがあったのかなと思います。首のあたりのブロックは半分ブロックされていたような雰囲気です。エネルギーは一応下から頭にまで入っていましたから。<br /> <br /> 首の突き刺す痛みがあってエネルギーのブロックが外れたことにより、頭でプクっとした圧力の感覚はあまりしなくなりました。おそらくは、先日までは頭のエネルギー(の圧力)を高めることでサハスララと首のブロックを押して崩そうとしていたような状態だったのかなと思います。それが今日はブロックが一段と外れて、エネルギーが上下に通りやすくなったのかなと思います。<br /> <br /> ■覚醒でもなく、ぼーっとしているわけでもなく、愚鈍でもなく、彷彿でもなく、落ち込んでおらず、喜んでおらず、目は覚めているが活動的でもなく、眠りでもない瞑想<br /> この天のエネルギーを使って瞑想をしていたら、このような状態になりました。意識ははっきりしているのですが、ピカーっと光るような覚醒状態ではなく、かと言ってどんよりとしたぼーっとした愚鈍な感じでもなく、かと言って彷彿でもなく、かと言って落ち込んでいるわけではなく、かと言って喜んでいるわけでもなく、活動的というほどでもなく程々に目が覚めており、眠りではない、そのような不思議な瞑想になっています。なんでしょうこれ・・・。言葉で言い表すのがとても難しいです。<br /> <br /> 基本として、この瞑想の間は想念がかなり減っていて「いま」に生きている状態であるわけですが、状態を言い表そうとすると上記のようになってしまうのです。<br /> <br /> 昔は「いま」に生きる瞑想をすればある程度の彷彿と永遠を感じていたわけですが、どうも、今日の「天のエネルギー」を使った瞑想ではそんな感じになりませんでした。<br /> <br /> なんでしょうね、これ。<br /> <br /> 仮説では、おそらくは世界が広すぎて認識できていないのかな、と。昔は割と世界が狭くて「いま」に生きたとしてその人生観といいますか瞑想の世界は割と狭くて、狭いとは言いましても広くて永遠っぽい空間を認識することができて「彷彿」とか「永遠」とか思っていたわけですが、今はあまりにも広い空間に投げ出されてしまったので、一体どういうことかさっぱりわからない・・・ という状態なのかな? と。そういう仮説です。<br /> <br /> まあ、相変わらず様子見なわけですが。<br /> <br /> <br /> Mon, 30 Sep 2019 00:00:00 +0900 天のエネルギーを頭に充填させる瞑想 https://w-jp.net/2019/1678/ <br /> 先日の続きです。 天のエネルギーを頭まで下ろして充満させ、その状態で瞑想を続けてみました。エネルギーを下ろさないと少しずつ漏れているのか消耗しているのか、エネルギーの圧力が少しづつ弱まっていく感じですので度々エネルギーを再充填させながら瞑想をしたのです。<br /> <br /> 今のところ大きな変化はないのですが、突然少しだけ頭がブルブルブルっと震えましたね。何でしょうか。頭の真ん中あたりの感触も同時にありました。<br /> <br /> 瞑想中はそのくらいだったのですが、瞑想を終えてみると、両目の脇の少し下の内側、頬の上あたりがプクッとした感覚が残っていました。何でしょうね。鏡を見ても変化は自分ではよくわかりませんでしたが、目がぱっちりとしたかもしれません。今日だけのことなのか明日もこんな感じなのかはこれからの様子見です。<br /> <br /> 噂ではサイキックは目の脇あたりで見分けがつくと言いますけどね。まあ、わからないでもありませんけど、自分の顔ではそんな感じはしないです。<br /> <br /> その他にあったのは以下です。<br /> <br /> ・頭の真ん中あたりで、唾を飲み込む時と似たような感触。何かが一瞬だけ膨らんだような?<br /> ・先日と同じように後頭部に鈍く刺すような感触(痛くはないですが)<br /> ・後頭部、口の周り、鼻の横などにザワザワとした細かい振動と微小な静電気のような感覚。<br /> <br /> 天のエネルギーを下ろす瞑想を始めてから先日のサハスララに集中する瞑想における注意で少し言及したような不快感も時々出ていて、その度にグラウンディングしていました。サハスララに集中する瞑想は注意が必要で、天のエネルギーを下ろす時はサハスララを通過させるので同様の注意が必要なのかなと思います。ただ、エネルギーがここ最近は通るようになっておりますので、サハスララが詰まっていた頃に比べれば似たような症状の対処もしやすい感じが致します。<br /> <br /> まだ決定的な何かがあったわけではないので、まだまだ様子見といったところです。<br /> <br /> <br /> Sun, 29 Sep 2019 00:00:00 +0900 天のエネルギーをサハスララを通じて体まで下ろす https://w-jp.net/2019/1676/ <br /> 今朝の続きです。下半身のムーラダーラやアナハタなどのエネルギーを回転させてから頭のあたりまで上げることにより、まず後頭部がプクッというかちょっと硬い感じになってエネルギーが充満している状態になりました。その後、もっとエネルギーを貯めて眉間のあたりまで満たそうと思ったのですが、なかなかエネルギーが溜まらなくて頭の下半分くらいまでは溜まるのですがなかなか眉間にまでエネルギーが充満した感じにはなりませんでした。<br /> <br /> そこで、いわゆるソーハン瞑想法のように下半身のエネルギーだけでなく天(宇宙、星々)のエネルギーを使うことにしました。ソーハン の場合はソーでエネルギーを下半身から頭のあたりまで上げてハンで頭から下半身まで降ろすのが基本ですが、流派によってはハンで天のエネルギーを体まで降ろすことをするように記憶しておりますので、それを真似て色々と試してみました。<br /> <br /> 今日、うまくいったのは息を吸うタイミングで天でグルグルと右回り(天を見上げて時計回り)に回した後に息を吐くタイミングで頭のあたりまで降ろす方法です。夜の空の星々やスタートレックに出てくるような宇宙船をイメージしつつ回転させてから、天のエネルギーを頭のてっぺんを通って頭まで降ろすのです。これで、頭の中に天のエネルギーが簡単に充満しました。一部は首より下まで入る感じですが、基本的には頭でエネルギーを受け止めている感じです。<br /> <br /> 実は、同じようなチャレンジは以前からずっとしていたのですが、こんなにもちゃんとエネルギーが降りてきたのは今日が初めてでした。頭のあたりに何かブロックがあったのかもしれません。今までは、同様の動作でエネルギーを体に取り入れようとしてもエネルギーがほとんど入ってきませんでした。なんとなく、頭の上のあたりで遮られている雰囲気が今までありました。<br /> <br /> 今日、こうして天(宇宙、星々)のエネルギーが多少なりとも使えるようになったことで、エネルギー的な自由度を得た気が致します。ただ、完全に通ったというほどではないにせよ、天のエネルギーへのアクセスルートができたことは大きい気が致します。<br /> <br /> 今まで、最近感じているエネルギーがどこからやってきているかの自覚はあまりなかったのですが、これまではおそらく「地(地球)」のエネルギーが大きかったように思います。マニプラ、アナハタ、ムーラダーラあたりですね。<br /> <br /> 今日、天のエネルギーにアクセスできるようになったのと同時に、登頂のサハスララあたりがすっきりした感じが致します。<br /> <br /> 同時に、登頂あたりにもピリピリした感覚が出てきました。<br /> <br /> かと言いましても、特にこれと言って実生活における変化はあまりないのですが、そういえば、今日スーパーに買い物に行った帰り道、自転車に乗ると同時に事故に気をつけるようにとのインスピレーションを受けましたね。<br /> <br /> この種のインスピレーションは以前からあったのですが、今日のは明確に分かりやすいものでした。シグナルの強度が強くなったというわけではなく、強度は昔と同じくらいではあるのですがセンサーの感度が上がったという感じでしょうか。明らかにそれと分かりました。<br /> <br /> この時、今日はお試しでドラゴンクエストウォークをやっており、自転車に乗る前に目的地や敵をちょっと確認したのでした。流石に自転車に乗りながらスマホは使いませんけど、頭がゲームのことに気を取られて、どのあたりが次の目的地かなとか考えながら自転車に乗っていたら注意散漫になって事故って軽い怪我をするという警告でしたのでゲームは終了させ、スマホはバッグの中に入れて家に帰ることにしたのです。<br /> <br /> そして、どんなタイミングで事故るかまではわからなかったので注意深く周囲を見ながらゆっくり自転車で帰ったのですが、おそらくタイミング的にビルの工事現場から急に作業員が出てくるタイミングが危ない感じでした。警告を無視していたら自転車で衝突して自分が自転車から転げ落ちて怪我をしていたと思います。<br /> <br /> まあ、そんな感じで、感度は良くなっていますね。スピリチュアルですとサハスララはクレアコグニザンス(透知)みたいな能力で言い表わされていますけど、今日のはそんな感じかもしれません。<br /> <br /> そう言えば今日、瞑想で落ち気味だった時に大音量のブザーが鳴って飛び起きましたね。これは昔から度々あります。<br /> <br /> Sat, 28 Sep 2019 00:00:00 +0900 後頭部のジリジリ感によるエネルギーの高まり https://w-jp.net/2019/1675/ <br /> 先日 の記事の続きです。最近は瞑想中に後頭部がジリジリというかザワザワした感じが続いています。<br /> <br /> よく観察してみますと、瞑想の最初はジリジリ感はないのですが、下半身のエネルギーを回転させてから頭の方へと上昇させることをすると後頭部がジリジリするという相関関係があることに気がつきました。1回エネルギーを上昇させた後そのまま見守っていると、やがて後頭部のジリジリ感がなくなってゆきます。そこで再度下半身のエネルギーを回転させてから上昇させると後頭部が再度ジリジリし始めます。<br /> <br /> エネルギーの強さによってその感覚も変わるようです。ジリジリ感がなくなったら次のエネルギーを上げるというサイクルですと同じくらいのジリジリ感が続きますが、なくなる前に次のエネルギーを上げるくらいの少し早いサイクルに変えてみたところ、ジリジリ感から圧迫感のようなものに変わりました。後頭部が少しパンパンになった感じです。<br /> <br /> このパンパンになった感じは、先日の下腹部のプクッとする感覚や、胸のアナハタ付近がプクッとした感じに似ています。今日は下腹部も胸もさほど変化がなくて最初からある程度プクっとしている感じで変化はないのですが、その感覚が似ているということは下腹部やアナハタのプクっとした感じはエネルギーが溜まった感じのような気がしてきました。<br /> <br /> ということは、以下3箇所にエネルギーが溜まりつつあると言えます。<br /> <br /> ・下腹部 マニプラ等  先日、最初にプクッとした<br /> ・胸 アナハタ  先日、(マニプラがプクッとした後に)ザワザワ感に続いてプクっとした<br /> ・後頭部 ザワザワ感がしばらく続いた後、(先日アナハタがプクッとした感じがした後に続いて)今朝プクッとした<br /> <br /> この後頭部のエネルギーの高まりが進むとどうなるのか・・・? はこれからのお楽しみです。<br /> <br /> Sat, 28 Sep 2019 00:00:00 +0900 瞑想でアジナ・チャクラを想う https://w-jp.net/2019/1674/ <br /> 先日の瞑想中のザワザワ感に関する記事の続きです。最近の瞑想では、後頭部にエネルギーを通すことを意識してやっています。頭の力を抜いた状態で、眉間から後頭部にかけて広範囲を意識しています。エネルギーの通し方は以前 書いたように分割して上げています。<br /> <br /> 今日の瞑想で、いつものように下半身のエネルギーを意識で回転させてから上昇させると、ちょっと違った感じになりました。今日はエネルギー上昇と共に急にお腹がプクッと膨らんだ感じになり、(目は瞑想中は閉じているのですが)急に視界が明るくなり、エネルギーが頭に来たことで両耳のあたりがツーンとした感じになりました。両耳はトンネルや飛行機の中で気圧が変わった時の感覚に似ていますが、ツーンとする場所は両耳の付近だけです。両耳がツーンとした後、両耳の、特にまぶたのあたりがピリピリと帯電している感じになりました。そして、鼻の左側(頬の上、目の下)あたりがピリピリと帯電しました。その後、前頭葉から登頂にかけての部分が明るくなったような気がしました。その状態でしばらく瞑想を続けていると、今まで視界になかった筈の左上の部分に何かモヤモヤとしたイメージが出てきた気もするのですがまだよく見えません。いつものように度々、会陰のムーラダーラのあたりでピリピリとした感覚がありました。<br /> <br /> 視界が明るくなるのは度々起こってはいるのですが、今までは外の明るさの変化によるものなのか瞑想によるものなのか区別がつきにくい感じでした。しかし、今回はタイミング的に様々なことが同時に起こった感じでしたので、やはりこの視界の明るさは瞑想によるものだ、という理解に変わってきています。<br /> <br /> お腹がプクっとした感じは、本山博先生の「密教ヨーガ」のアジナチャクラに関する説明の中でさらっと以下のように言及してあります。<br /> <br /> (前略)・・・そして、スワディスタナのあたり、下腹部が鉄のように固くなります。「密教ヨーガ(本山博 著)」<br /> <br /> 鉄というよりはプクっとした感じですが、まあ、ニュアンスは似ているかなと思いますので何がしかアジナと関係があるのかもしれませんし、ないのかもしれません。その後、お腹だけでなく胸もちょっとプクっとした感じになりました。<br /> <br /> 見えている光は、どうもアジナ・チャクラのヤントラに似た形のような気がしてきました。これは、「密教ヨーガ(本山博 著)」によるとイダ・ピンガラ・スシュムナの3つのナディの合流点だと言います。<br /> <br /> <br /> 「密教ヨーガ(本山博 著)」より<br /> <br /> 又、スワミ・ヨーゲシヴァラナンダの解説によれば以下のようにあります。<br /> <br /> アージュナー・チャクラ。瞑想中、この光は丸く視えたり、ランプの炎のように視えたりします。また時には、このアージュナー・チャクラの形が白く光る2つの花弁の形にも視えたりします。(中略)このアージュナー・チャクラがなぜ2枚の花弁によって描かれているかと申しますと、それは眉間で、スシュムナーを中心にしてイダーとピンガラーという3つの導管が1つに合流しているからです。(中略)そしてこれら3つの導管が合流している眉間の少し上、頭蓋骨の空間内にブラフマランドラがあります。ですから、行者がアージュナー・チャクラに上手に瞑想できるようになれば、続いてブラフマランドラ内のサハスラーラ・チャクラへと入ってゆくこともできるようになります。「魂の科学(スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ著)」<br /> <br /> 私の場合、2つの花弁というよりもヤントラの形に似て、真ん中に大きな白い光、その左右にチョコンとそれぞれ光がくっついている感じです。とは言いましても、ぼやけていますのではっきりとした形があるわけではないのですが。<br /> <br /> 今日初めて、頭の上の方の光に気がついたと言いますか、恐らくは昔からあったのですが、今日初めてそれをちゃんと意識して認識できました。<br /> <br /> もともとシルエットのように見えていたのですが、光がつくことで形が浮かび上がってきた感じです。今までも微妙に光っていたのですが外の光が目蓋を突き抜けて見えているだけなのかわからなかったのです。今日も確信とまではいきませんが、まあ、やっぱりこれはそうなんだなと思った次第です。いつも常時光っていると言えばそうなんですが明示的にエネルギーを上げてあげると光るんだな、と。そうは言いましても、ぼんやりと光っているくらいの感じですが。もっと明るくなるのかどうかはわかりません。この場合、スシュムナから供給されるエネルギーが重要なのかなと思います。であれば、スシュムナを浄化してエネルギーが通る状態にしておくのは非常に重要ですね。<br /> <br /> 左上に見えたぼんやりとしたイメージは、夢で見た私のグループソウルの前世の体験に基づくといわゆるアジナの霊視・リモートビューに相当するのだろうとは思いますが、まだ意味のある映像は見えていませんのでこれは仮説の段階で様子見中です。<br /> <br /> どこかの本で、左上は過去で右上は未来とかいうお話もありましたが、どうなのでしょうかね。夢で見た私のグループソウルの過去生では何も使わずに「斜め上」を見ていたり、あるいは水晶球を使っていましたが水晶球の場合は水晶球の中に見えていましたね。<br /> <br /> まあ、見えるときは太陽のように見えるって言いますから、それに比べたら全然な感じですけど。<br /> <br /> そういえば、肉眼で光が見える場合と霊眼で見える場合とがある、ってどこかに書いてありましたね。単なる集中だけでも光が見えることがあるとか。ですから、やっぱりヨーガの基本で言われるように、瞑想中に見えたり聞こえたりしたことは重要ではないのであまり気にすることはない、というのはそうなのでしょうね。<br /> <br /> Fri, 27 Sep 2019 00:00:00 +0900 瞑想中に感じる各所のザワザワ感 https://w-jp.net/2019/1671/ <br /> 瞑想中、ムーラダーラ(会陰)とアナハタと後頭部にそれぞれザワザワした静電気のような感覚があります。これはエネルギーの高まりあるいはエネルギーの通過だと思っております。<br /> <br /> ムーラダーラはヨガを初めた最初の頃からよくザワザワしていましたが、ここ最近はかなり長い時間続きます。アナハタは以前はこんな感じになりませんでしたが、ここ最近はザワザワします。後頭部もここ最近からです。<br /> <br /> 後頭部に関してはスピリチュアル系の以下の記述がありました。<br /> <br /> ライトボディ第7レベルでは松果体と脳下垂体が開き始め、額か後頭部に圧迫を感じるかもしれません。「ライトボディの目覚め」<br /> <br /> まあ、圧迫といえば圧迫ですね、この感覚は。<br /> <br /> この第7レベルでは以前 引用しましたようにハート・チャクラ(アナハタ・チャクラ)が優勢になって、はるかに「いま」のなか行動するようになると言いますので、私の今の段階に近いと思われます。<br /> <br /> それとは別に、今日の瞑想では頭のてっぺんの少し内側(頭頂葉?)の感覚が出てきました。今までそこは感覚がなかったのですが、感覚が出てきたということに加えて中の方で血液の脈動を感じるようになりました。場所的には松果体に近いところではありますが、どうなのでしょうかね。松果体であれば何か変化があっても良さそうですが、まだ明確な変化はありません。<br /> <br /> まあ、様子見といったところです。<br /> <br /> この他にも、アナハタ優勢になって以降はかなり頻繁に両耳の上にザワザワ感がありますが、日によります。<br /> <br /> ■後頭部のジンジンする刺激<br /> 本日瞑想していたら、ザワザワ感だけでなく時々、チクチクとまではいかないですがジンジンと言いますか鈍い刺激が後頭部の中心の先っぽ、ツボで言いますと脳戸(のうこ)のあたりか、あるいはそのちょっと上で刺激がありました。玉枕(ぎょくちん)というツボは2つあるみたいですけどその中間のあたりですね。何でしょうね。しばらくしたら治りましたけど、感覚は続いています。<br /> <br /> これは、以下のことかもしれませんし、そうでないかもしれません。<br /> <br /> ライトボディ第8レベルでは、普通ならグリーンピース大である松果体と脳下垂体が成長し、形が変化しはじめます。それらが成長するにしたがって、ときどき頭のなかに圧迫感を感じるかもしれません。このプロセスのあいだ、断続的に頭痛が起こるかもしれませんし、そうでないかもしれません。(中略)このプロセスでは脳が文字通り「成長する」地点があるので、一人ひとりに合ったやり方をしてください。あなたの脳は大きくなりつつあるのです。「ライトボディの目覚め」<br /> <br /> そうであれば良い前兆ですが、関係ない感じであれば病院で診察してもらうつもりです。とりあえず日常生活に支障はないのでそのままです。<br /> <br /> ■両耳の上のザワザワ感<br /> これも同書に説明があり、両耳ではなくて右耳のお話ですが、右耳の少し上で過去の記憶にアクセスするための構造が活性化されるとのことです。これはまだ自覚はありません。<br /> <br /> Thu, 26 Sep 2019 00:00:00 +0900 色界禅定と無色界禅定は一続きで意識の拡大に繋がる https://w-jp.net/2019/1670/ <br /> そんな気がしてきました。先日書きましたようにテーラワーダ仏教では色界第四禅定で悟りでチベット仏教では無色界禅定を最後まで経験してから悟りになっているようですが、どこから悟るかというお話はひとまず置いておいて、少なくとも、色界禅定と無色界禅定とは一続きのような気がしてきました。<br /> <br /> 色界第四禅定については以前定義を引用しましたが、第四禅定で平安(捨)な心になります。<br /> その状態は、平安ではあるものの、心がまだどこかにしがみ付いている状態だと思うわけです。<br /> <br /> 順番を追って第一禅定から辿りますと、第一禅定で集中力を使って心を対象に強力な意思でしがみ付くと言いますかくっつけて思考を沈めます。第二禅定になりますとそこまで力を入れなくても集中できるようになり、第三禅定、第四禅定と進むにつれて努力なしの集中状態が可能になりますが、それでも、まだ少しは何かにしがみ付いているのです。<br /> <br /> 「色界禅定」というのは「瞑想の対象に物質的な何かがあること」という定義がされているようですが、そうは言いましても瞑想は心の中で行うものですから、そのまま読むと「心で行う瞑想なのに物質的な何かがある、とは一体どういうこと?」と思ってしまいますが、ここは読み替えて、「何がしかの対象に集中してしがみ付いているのが色界禅定」と考えると良いと個人的には思っています。まあ、個人的な解釈ですので他所で言っても通じない気もしますので、仮説だと思っておいてもらっても良いと思います。<br /> <br /> その仮説に基づきますと、色界では心が、例えば「息」「眉間」あるいは「マントラ」に集中することでしがみ付いているのです。<br /> <br /> しかし、無色界になると、しがみ付くことなしに落ち着いて観察することができるようになるのです。この「観察」を同じく「集中」と呼ぶこともできるのかもしれませんが、そこに「しがみつき」はありませんので、まあ、集中と言えば集中状態なのかもしれませんが、しがみ付くことなしに対象を観察できるようになるのが無色界なのだと個人的には思います。<br /> <br /> であれば、色界で最初は強烈な意思の力でしがみ付いて心を制御していたものを、色界第一禅定から色界第四禅定に至るにつれて段々としがみ付く力を弱めて、ついに無色界に到達してそのしがみ付く力が不要になる、とすれば、これは色界と無色界の禅定は一続きのものなのではないでしょうか。<br /> <br /> 比喩的に言えば、色界では「掴んでいた」ものを、無色界にいたることで「手放す(手放し)」が行われたのだ、と表現することもできると思います。<br /> <br /> スピリチュアルな人が時々「手放しましょう」とか言っているのは、もしかしたらこの無色界の禅定の状態を表現しているのかもしれませんね。であれば、それなりに高度な状態を表現しているのであって、なかなかこの種の「手放し」はできないように思います。スピリチュアルな人の「手放し」が全てこれかどうかはわかりません。きっと違うと思います。<br /> <br /> ■無色界第一禅定、空無辺処定(くうむへんしょじょう)<br /> 最初の段階では、私の場合は自分が中心で「卵状の漆黒の空間」に囲まれているような気が致しました。<br /> <br /> ■無色界第二禅定、識無辺処定(しきむへんしょじょう)<br /> この説明は、以下のようになっています。<br /> <br /> 先の(無色界第一禅定の)空無辺処定の虚空とは「物質がない」ということなのですが、その虚空でも、まだ心の外側に意識されているものです。「虚空の無辺を認識できたのだから、自分の意識も無辺になった。では今度は意識の無辺を認識してみよう。」と、空無辺処を超えて、今度は「識は無辺である」と認識するのです。対象ではない、でもまだ心の外側を認識した空無辺処定を今度は依りどころ(対象ではありません)にして、空無辺処定のお陰で無辺になった識を、無辺だと認識するのです。空無辺処定より一段高いこの禅定で、とうとう心は外の何ものにも依らない心になるのです。 「悟りの階梯(藤本 晃 著) 」<br /> <br /> ・・・何が書いてあるのか解読困難ですが、自分の瞑想体験と比べて意訳しますと、単純にこれは「意識の拡大」のことかな、と解釈致しました。<br /> <br /> 色界第四禅定から「手放し」をして無色界の最初の段階に至ることで「卵状の漆黒の空間」が自分の周囲に認識されたのですが、これは要は「境目がある状態」なのだと思います。無色界第二禅定の場合はこの「境目」がなくなるかあるいは「卵状の漆黒の空間」が拡大するのだと思います。<br /> <br /> 私の場合、以下の手順でこの状態に至りました。<br /> <br /> 1.息を頼りに色界禅定に入る<br /> 2.息にしがみ付いている心を「手放し」をすることで無色界第一禅定「空無辺処定」相当であると思われる「卵状の漆黒の空間」を認識する。<br /> 3.「卵状の漆黒の空間」より外を認識しようと意思を働かせる。まずは一方向から始め、少しづつ意識を拡大してゆく。例えば左方向から初めて部屋の壁まで至ることで意識を拡大し、右の意識を拡大して部屋の壁に至り、上、前方、後方、とそれぞれ繰り返すことで部屋の大きさまで意識を拡大しました。方向によっては部屋の外まで伸びましたが、今のところ私はこのくらいが限界のようです。<br /> <br /> 「ダライ・ラマ智慧の眼をひらく」によりますと無色界禅定の定義が若干異なっています。こちらに基づきますと、いわゆる「意識の拡大」まで済ませた状態が無色界第一禅定の「空無辺処定」であるように読めます。<br /> <br /> 第四の禅定に到達しおわってから、修行者は「すべての構成要素(ダルマ、諸法)は限りのない空間に似ている」という観念を発展させ、触覚・視覚・物質的な構成要素を微細なものにいたるまで完全に離れる。修行者はこのことに心を専注し、それを発展させなければならない。それの発展のうえに、かれは無限の空(くう)の領域の禅定(空無辺処定、くうむへんしょじょう)を完成する。これを完成してから、修行者は「意識は限りのない空間に似ている」という観念を発展させなければならない。 「ダライ・ラマ智慧の眼をひらく」<br /> <br /> この表現は、まさに「意識の拡大」ではないでしょうか? 段階ごとの定義が微妙に異なるとは言え、「意識の拡大」が遠からず無色界禅定の最初の段階に関連しているような気が致します。<br /> <br /> <br /> Wed, 25 Sep 2019 00:00:00 +0900 カタカムナ的な松果体の解釈 https://w-jp.net/2019/1667/ <br /> 「カタカムナの道(関川 二郎 著)」では神智学と比較しつつカタカムナ的な松果体と脳下垂体の解釈をしています。<br /> <br /> 人間の性行為には、脳下垂体に刺激を与えて受胎の準備を整えさせる性行為(6次元の性)と、松果体に共振作用を与えて眠れる機能を目覚めさせる性行為(12次元の性)とがある。 「カタカムナの道(関川 二郎 著)」<br /> <br /> ■アジナと低次元の悟り<br /> これを基本として、タントラ・ヨーガの手法とカタカムナの手法を比較しています。<br /> <br /> タントラ・ヨーガの修法では(中略)クンダリーニを目覚めさせる刺激を与え、さらには想念を丹田(示数・6)に集中してクンダリーニの上昇を促す手法は明らかに眉間チャクラ(6)の開眼を目指すもので、言うなれば低次元(6次元)の悟りである霊視、霊聴に繋がるものである。「カタカムナの道(関川 二郎 著)」<br /> <br /> ここで言う6と12という数はカタカムナ的な読み時に使う数字のようです。次元数などは比喩として、ここでポイントになるのは、カタカムナ的にはアジナ・チャクラの開眼を低次の悟りとしている点です。<br /> <br /> これは興味深い解釈です。<br /> <br /> 同書では眉間チャクラ(6)の開眼を目指す方法として「(胡座のシッダアサナで)会陰をかかとで刺激」を紹介しており、タントラ・ヨーガの手法として記載されてはありますが、この手法はタントラ・ヨーガだけでなく体操のアサナや瞑想を行うラージャ・ヨーガや仏教などでも広く知られている手法ですので、カタカムナ的に言わせればそれらは全て低い次元の悟りであるアジナ・チャクラを開くためのものだと解釈できます。<br /> <br /> ■松果体と色情<br /> 同書では、アジナ・チャクラの脳下垂体と対応して、サハスララだとは明記がないものの松果体について以下のように記載しています。<br /> <br /> 松果体の目覚めによって色情の欲求はかえって抑制されるので、それほどの忍耐を必要とすることなく「接して漏らさず」のマイナス・エントロピーの性が自然な形で営まれることになる。 「カタカムナの道(関川 二郎 著)」<br /> <br /> 同書によれば、男性と女性との接し方によって6次元の脳下垂体を共振させるか12次元の松果体を共振させるかの違いがあるとのことです。<br /> <br /> ■カタカムナ的な脳下垂体と松果体<br /> 同書においては以下のような対応であると解釈できます。<br /> <br /> ・脳下垂体 アジナ・チャクラに対応<br /> ・松果体 (おそらく)サハスララ・チャクラに対応<br /> <br /> 何がアジナで何がサハスララなのかは流派によって異なりますので、これは同書の解釈、と言いますか、同書にサハスララと明記はしておらず「頭頂チャクラ」として言及されているところから私がこのように解釈しました。<br /> <br /> ■ヨーガ手法への注意<br /> 同書では、ヨーガの手法について以下のように注意をしています。<br /> <br /> ヨーガのポーズでは情欲が刺激される方向に働くため(中略)情欲に負けてクンダリーニの下降を招いて恐るべき淫獣と化したり、あるいは苦痛に耐えて目標とする空性大楽の境地を垣間みることで「われついに道を極めたり」と錯覚して慢心に陥る等の弊害が伴うことになる。「カタカムナの道(関川 二郎 著)」<br /> <br /> ヨーガの道を誤れば確かにこのようになりますし、この本が書かれたのは遥か昔でしたので昔は今よりももっとこういう人が多かったのかもしれません。今もそれっぽい人がいる感じではありますけど、そんなに目立たない気もします。時代背景を理解すれば理解できますが、現代社会にこんなヨーガ行者はほとんど残っていないと思います。まあ、いるところにはいるのかもしれませんが。<br /> <br /> ■松果体を共振させるべき<br /> 同書の細かいところを読み解くのはなかなか難しいところではありますが、脳下垂体を刺激するのではなく松果体を共振させるべき、と書いてあるように読めます。<br /> <br /> 脳下垂体と松果体はすぐそこにありますので区別もなかなか難しいところでありますし、何がアジナ・チャクラなのかも以前記載しましたように流派によって色々ですので、アジナがどうのこうのと論じても仕方がありませんが、カタカムナ的に言えば脳下垂体がアジナ・チャクラのようですので、アジナというよりは脳下垂体のこういった性質について興味深いレポートがある、として私は読んでいます。<br /> <br /> ■松果体と自然な禁欲<br /> 流派によってはアジナ・チャクラを目覚めさせれば努力のいらない自然な禁欲(ブラフマチャリア)が達成できると書いてあって、その流派のアジナ・チャクラの定義はよくわかりませんがそれが松果体だと仮定すればこちらの話と繋がってきます。<br /> <br /> 私はアジナではなくクンダリーニ活性時にマニプラ優勢になった時とアナハタ優勢になった時にそれぞれ大きな禁欲のステップアッ