スピリチュアル https://w-jp.net/topics/スピリチュアル/ スピリチュアル 胸の奥にある粘着テープを剥がすような感覚 https://w-jp.net/2020/2020/ <br /> 瞑想をしているといつものように段階的に静寂の意識が訪れました。そうなると同時に、体の各所の緊張がほぐれてリラックスしてゆきます。<br /> <br /> 更に瞑想を続けていると、胸のあたりに、粘着テープあるいはバッグの口に昔はよく貼ってあった剥がせるプラスチックの細かいプチプチのようなものがくっついているのが見えました。二枚のプラスチックのシートがそのプラスチックのプチプチでくっついているような感じです。<br /> <br /> なんだろう・・・? と思って観察を続けていると、どうも、そのシートは2枚に剥がせるような感じがしました。<br /> <br /> しかし、一気に外そうとしても痛い感覚があって少しの躊躇がありましたので少しづつ剥がしたところ、片側から剥がれてゆきました。そのシートが剥がれてゆくにつれて更に体の緊張が取れ、深いところの筋肉がほぐれてリラックスの度合いが深まってゆきます。やがてはそのシートの面積は次第に小さくなり、3分の1位にまで小さくなりました。<br /> <br /> シートは完全になくなったわけではないですが、胸の奥にある錆び付いた胸の扉をまた一段階、少し開いた感じが致します。<br /> <br /> その状態になってみると、ふと、体の各所に細かな針のようなものが突き刺さっているのに気が付きました。とても微細なものなので、きっと今までその存在に気付かなかったような気が致します。ただ単に緊張としてそれは体に現れていたわけですが、試しに1つ抜こうとしてみました。針ですし奥深いところにありましたのでゆっくりと動かして体の外にポイっと捨ててみます。それほど劇的な変化が現れたわけではないですが少し緊張が抜けた気が致します。<br /> <br /> なんとなく、この針はHUNTER×HUNTERでキルアが頭の針を取るシーンに似ている気が致しました。1つだけだけでなく沢山埋まっているようです。何か気がつかないところで色々としてやれているのかもしれません。<br /> <br /> これから、気がついたら少しづつこの針も抜いていきたいと思います。<br /> <br /> Sat, 15 Aug 2020 00:00:00 +0900 エネルギーヴァンパイアをする本 https://w-jp.net/2020/2013/ <br /> エネルギーヴァンパイアとはエネルギーを奪う者(物)という意味ですが、入手した本の中にはエネルギーヴァンパイアをしてくるものがあります。古本だったりもしますので前の持ち主がそうなのかなとも勘繰っていたのですが、傾向を見ると前の持ち主の場合は単にオーラが残っているだけで、エネルギーヴァンパイアの場合は本の著者であることが多いように思います。<br /> <br /> 本に前の持ち主のオーラが残っているだけの場合はしばらくすればそのオーラが発散して消えますので普通になります。<br /> <br /> 一方で、本の著者がエネルギーヴァンパイアである場合は、おそらくは本を読んだ時点で呪術が発動してエネルギーヴァンパイアするのではないかなと思います。<br /> <br /> 魔法とかは一般的には想像上の産物だと思われていますけど、普通に書いた文字であってもそこには魔術と同じような特殊な波動が込められますので、読んでその波長に同調しただけで術が発動することになります。<br /> <br /> 最近でいうととあるスピリチュアル系でそれなりに有名な著者の本がことごとくエネルギーヴァンパイアしていました。<br /> <br /> たまたまかと思っていくつかその著者の本を並べてもみましたけど、やっぱりその著者に限ってエネルギーヴァンパイアしているようでした。<br /> <br /> 瞑想中に探ってみると、どうやらその著者がエネルギーを周囲から奪い続けているようでした。瞑想中ですから本当かはわかりませんし、なりすましの別人、あるいは、イメージが重なっているだけで別の存在かもしれません。ですが、誰かがエネルギーを吸い取っているということは確かなようです。<br /> <br /> そのエネルギーヴァンパイアから管のようなものがスルスルスルっと伸びてきて私の方に触手のように絡んでくるのが見えます。とても気持ちが悪いです。さっきからエネルギー吸われている気がしていたのはこのせいだったのですね。<br /> <br /> その人はどうやらエネルギーが枯渇して周囲にオーラの触手を伸ばしているようです。<br /> <br /> スピリチュアルな能力のうち、チャクラ開花ばかりしてクンダリーニ によるエネルギーの開発が行われていないとこのようにエネルギーが足りなくなって周囲から奪い続けるエネルギーヴァンパイアになるような気が致します。<br /> <br /> この著者は松果体とかチャクラ開花のことを本で書いていますが、エネルギー的な開発が足りていなくて、実際のところエネルギーは周囲から奪うことで自分を維持しているのかな、と思いました。<br /> <br /> 本人の課題はどうであれ、私に危害を加えていることがはっきりしましたので対処をします。<br /> <br /> 放っておけば危害を加えてこないのであれば何もしないのですが、本があるだけで読者にまでオーラの触手を伸ばしてきてエネルギーを奪うのであれば問題です。<br /> <br /> 私の対処としては、瞑想中に包帯のようなものをイメージで作り出してからその人の体をミイラのようにグルグル巻きにしてオーラの触手がその人から伸ばせないようにしました。最初は隙間からオーラの触手が伸びてきて気持ちが悪かったですが、文字通りミイラのように隙間なく全身を覆うことでその動きも治りました。<br /> <br /> これでしばらくはその本人はエネルギー枯渇状態になるかもしれませんけど松果体とかチャクラ開発だけでなく自分のエネルギー開発(クンダリーニ開発)にもっと熱心になってくれればなと思います。<br /> <br /> 私が巻いた包帯がいつになれば元に戻るのかはよくわかりません。誰か気がついたら解いてくれるのではないでしょうかね。自分のオーラを動かせないのできっと自分では解けません。そのうちインスピレーションで助けを求めて来たら何かするかもしれないですけど。<br /> <br /> その後、その著者の本は全てメルカリで売っ払ってしまいましたけどね。割と有名な人なのですぐに売れてすっきりしました。<br /> <br /> こういうのは瞑想中で起こっていることなので、本当のことかはわかりません。ですけど、いいのです。単なる瞑想録ですから。<br /> <br /> Sat, 08 Aug 2020 00:00:00 +0900 雑念が多いまま死ぬと彷徨う浮遊霊になります https://w-jp.net/2020/2012/ <br /> 個人には自由がありますから求めるものになるだけです。良いも悪いもありません。<br /> <br /> 生きている間に欲望に従って生きれば死んだ後も同様の生活が続くだけのことです。死んだ後に「無」になると思っている方も大勢いらっしゃいますけど、死んだ後のことを知らないのにそんなことを信じるなんてのは無神論という宗教に入信しているのと同じことです。それもまた個人の自由で、好きにすればいいと思います。生きている間に精神的なことに興味がなくて欲望に従って生きるのも自由ですし、そうなれば死んだ後もその欲望に従って生きることになります。死んでいますけど意識は生き続けますからね。死んだ後に「無」になると思うのであればそれも個人の自由です。好きに信じればいいと思います。<br /> <br /> 雑念が多いと死んだ後も欲望を満たそうとして想像を自分の周囲に作り出して欲望を満たしているかのような「夢見」の状態が続いたり、あるいは、地上のものを手に入れようとしてちょっかいを出したりするようになります。生きている人に話しかけて「○○が欲しい」「○○がしたい」「○○は面白そう」とかけしかけて生きている人間に自分の欲望を代理で叶えさせようとしたりします。あるいは憑依して行動させるということもあります。<br /> <br /> これらは幽霊と言えばそうですけど、幽霊にも色々とあって、それは生きている人間と同じことです。<br /> <br /> 生きている人間で元気な人もいれば落ち込んでいる人もいて、欲望に生きている人もいれば清貧に安らかに暮らしている人もいます。あの世も一緒です。あの世の生活を謳歌している幽霊も大勢いらっしゃいますし、幽霊は幽霊でもふらふらとどこ行く宛もなく彷徨う地縛霊あるいは悪霊とも呼べる霊もいます。<br /> <br /> これは、宗教を信じているかどうかとは直接的には関係がありませんけど、宗教的な事柄に多少なりとも理解があれば地縛霊あるいは悪霊になりにくいのは確かだと思います。生きているうちに宗教を奇異して物欲に生きた人は死後にふらふらと宛もなく彷徨う浮遊霊になる割合が多いような気が致します。<br /> <br /> 人は完全なる自由がありますから、その人の好きにすればいいと思います。地縛霊になって彷徨うからと言って悪いことはなくて、その人の勝手にすればいいのです。<br /> <br /> 直接的には雑念があるかどうかが関係していて、心が綺麗であればあるほど死後も幸せになれます。<br /> <br /> ですから、物欲まみれの生活を送っていても最終的に満足して雑念と物欲が消えた状態で死ねば死後も幸せになれます。しかし、欲望を抱えたまま死ぬと死後もその満たされない欲求が頭の中をぐるぐると回って欲望に支配される生活を続けることになります。<br /> <br /> 生きている間は体があるので体の制約によって例えば「お腹がすいた」とか「どこかが痛い」とかで強制的に「我に帰る」ということが起きますけど、死んでしまったらそんな感覚はなくなりますので、かなりの長い間、物欲の思いにずっと囚われることになります。<br /> <br /> お腹が空いたとかどこかが痛いとかいう感覚に惑わされずに物欲の思いにずっと浸ることができるのですから、その人の好きなだけずっと浸ればいいのです。<br /> <br /> これも程度があって、かなり低い欲望を抱えていたりすると悪霊ですし、普通の人であっても「幸せな生活をもう一度送りたい」とか「良い嫁、良い旦那とまた地上で生活したい」みたいなささやかな願望もあったりします。ですから欲望とは完全に無縁ではありえないのです。<br /> <br /> 地上の方が制約が多くて欲望を解消しやすいですけど、死んだ後でも欲望を解消できなくもないです。想像すれば周囲にパッとそれが魔法のように現れますから、あっという間に欲望を実現できます。あの世には制約はないのでやろうと思えばなんでもできます。ただし、相手の魂は自由にはならないです。自分のことであれば勝手にすればいいのです。その人の自由です。<br /> <br /> ある程度の幸せな死に方をすればいいですけど、欲望と不満がかなり残っていたりすると彷徨って浮遊霊とか呼ばれたりします。それはこの地上の欲望があの世までずっと続いている人たちです。<br /> <br /> 実際、そのような霊はこの世界に大勢いるのですけど、他人のことですからどうしようもありませんし、自分に関係がないのであれば放っておけばいいのです。あの世は時空の制約を超えていますからその物欲に何百年も浸り続ければいいのです。好きなだけ浸っていてください。誰もそれを妨げたりはしません。<br /> <br /> その一方で、物欲とは関係ないところで静かに暮らしている霊もあります。あの世は広いですから、同じ意識の状態の人たちとは交流があってもその他の人たちのことは見えないことが多いです。<br /> <br /> ですから、物欲まみれの人はそれなりの世界に住みますし、それは「欲求」「妬み」「恨み」「欲望」と言った種類のものですからその霊同士でトラブルも当然起こりますけど、私なんかからすればそんな他人のことに興味はありませんし放っておけばいいと思うので口にも出しません。<br /> <br /> ただ、こちらに危害を加えてきた場合は別で、まずは「あっち行け」「威嚇」をして、それでもしつこい場合は何段階かに分けての「封印」、そして最悪の場合は「魂を消去する」という方法も取られます。そんなことはほとんどしませんけど、かなりの危害を加えてきたら相手の魂を消し去ることもあり得るわけです。これは、干渉してきた場合のお話です。<br /> <br /> ですが、基本的にはあの世は自由が基本ですので、欲望に生たければその人の好きにすればいいと思います。<br /> <br /> 私の生き方とは違いますけどね。他人のことなのでその人の好きに生きればいいと思うのです。<br /> <br /> 死後の生活に興味がなくて死後は「無」になると思っていて欲望のままに生きている人は好きにすればいいと思います。なるようになるだけのお話です。<br /> <br /> Fri, 07 Aug 2020 00:00:00 +0900 静寂の境地になる時、後頭部から下がるのか上がるのか https://w-jp.net/2020/2011/ <br /> 静寂の境地になる前の状態は大抵は後頭部およびその周辺がちょっとモヤモヤとしてます。<br /> <br /> 静寂の境地に達するとそのモヤモヤが晴れて凝縮した塊のようになるのですが、少し前であればその塊が喉を通って胸の方にまで降りていました。<br /> <br /> しかし、ここにきて、その塊が眉間のちょっと奥まったところに集まるようになりました。<br /> <br /> これは、マントラの共振の位置が変わってきたことと同期しているような気が致します。<br /> <br /> マントラの共振が胸や下半身だった頃はこの塊が胸の方に降りていたのですが、マントラが眉間で共振するようになってからは塊が眉間の奥に集まるようになった気が致します。<br /> <br /> 意識が下半身に降りていた時は思いが浮かぶごとに想念の起滅による苦の感覚が出ることがありますが、意識が眉間に集まっている時はそのような苦の感覚はないようです。<br /> <br /> 意識がまだ眉間に集まっていない時はマントラを唱えると頭の中で変化が起こりますが、意識が眉間に集まれば集まるほどマントラの効果がなくなっている気も致します。と、いうことは、マントラの効果としてはこの準備として有益なのかな、という気も致します。<br /> <br /> 新しいマントラが必要なのか、それとも、マントラの効果がある領域ではないのでしょうか。この辺りもこれから様子を見ていきます。<br /> <br /> Thu, 06 Aug 2020 00:00:00 +0900 サマーディが超感覚に繋がるという実感 https://w-jp.net/2020/2010/ <br /> 今までサマーディと言ってもスローモーションあるいは静寂の境地のようなものでした。<br /> <br /> しかし、ここにきて、ほんの少しですが視界の先に地平線のようなところまで続いている感覚が出てきたのです。<br /> <br /> 瞑想を終えて視界を確認すると、静寂の境地に至っている場合は部屋の壁がはっきりと見えてスローモーションのような感覚が出ます。それに加えて、単なる壁である筈なのにそれが地平線の先まで奥行きがあるかのような錯覚? が時々現れるようになりました。<br /> <br /> それは割と短い間隔で消えてなくなってゆく感覚ですが、これがいわゆる「彼岸の知識」というものなのかもしれません。<br /> <br /> 確かに、「彼岸の知識」というと個人的にはまだしっくりきませんが、それよりも、「地平線にまで続く感覚」ということであれば自分の感覚と合っています。人によっていろいろ言い方はあるでしょうし、もしかしたら同じことを表現しているのかもしれませんね。<br /> <br /> 目に見えている物体はそれ自体で存在していますが、それぞれの物体はそれぞれ「彼岸」あるいは「地平線の先」にまで遠く伸びていて、その地平線の先ではおそらく消えているのかなと思います。<br /> <br /> これは視界として地平線が見えているということではありません。なんとなく地平線のようなイメージはちょっと浮かびますがそれは感覚的なもので、物体そのものというよりは物体の少し背後、少しズレた背後からそのまま後方に地平線の先まで何かが伸びていて、おそらくはその地平線の先では消えているのかなと思います。<br /> <br /> 地平線の先が「無」あるいは「空」だとすれば、物体はその実態が目に見えてはいるもののその実態が「空」であるというどこかで読んだ知識と一致します。<br /> <br /> 主体の感覚は自然に静まっていき、修行者は原初的な知恵を経験する。対象が生じると同時に、それがみずからの空性の境地と同じく、空であることを認識するのである。空性と顕現の統一の境地、そしてその境地そのものと空性が、ともに存在しているということが、すべて同時に経験される。「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」<br /> <br /> この境地を垣間見たのかな、という気も致します。<br /> <br /> Wed, 05 Aug 2020 00:00:00 +0900 覚醒した意識を保つ準備としての瞑想 https://w-jp.net/2020/2009/ <br /> 静寂の意識に達した後、その意識を保ったまま生活ができるようになります。生活するうちにその状態から落ちてしまったり意識がぼんやりとしてきてしまうことがありますが、そのようなぼやけた状態から清浄な意識へと戻してあげるのが瞑想だとも言えます。<br /> <br /> ですから、清浄な意識を保てるのであれば瞑想をわざわざする必要がないとも言えます。そうは言いましても普通は瞑想をすると何某かの変化が訪れますので瞑想は有益です。<br /> <br /> この覚醒した清浄な意識は一般的には「サマーディ(三昧)」とも呼ばれていますが、ある種、スローモーションのような感覚を伴う心そのものが世界を認識している状態です。<br /> <br /> いわゆる一般的な意識においては心はぼやけていて心そのものが世界をそれほどはっきりと認識できずにいます。ぼやけた心の状態ですと想像や外部の刺激に反応して日常生活を送ることになりますが、心がはっきりして心そのもの、ゾクチェンでいうところのリクパが動き出すことによりサマーディの状態になります。<br /> <br /> そのサマーディの覚醒した意識の状態を保って生活することこそがやがていわゆる「悟り」に通じる道なのだと思います。<br /> <br /> ゾクチェンでチェルドル、あるいはシャルドルと呼ばれている状態において以下のようなことが起こります。<br /> <br /> シャルドルは(中略)海に降りると同時に溶ける雪のイメージによって表現される。この場合、雪は感覚をつうじた対象との関係、すなわち煩悩を意味し、シャルドルは、「生じると同時に解放する」ことを意味している。「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」<br /> <br /> この種の「煩悩に左右されにくくなる」状態は様々に起こり、瞑想の各段階でそれぞれに起こりますので、初期のぼやけた少しだけ左右されない状態でも同様に言えなくもありませんし、このように「生じると同時」と言えるほどの素早い解放の段階もあります。<br /> <br /> 人によっては生まれてずっと「私は煩悩に左右されにくいし欲望も少ない」という方もいらっしゃいます。それは人それぞれですしその通りの場合もあるとは思いますが、その一方で、そのように心が想像あるいは自己の理屈でそのように思っているだけで実際はそうではない場合もあります。<br /> <br /> 実際のところ、このような「即時」の解放がどのようなものなのかはなってみないとわかりませんし、まだ先があるのかもしれません。それは私にしても同様のことです。まだ私が思っている状態は段階が低いのかもしれません。そんな感じで瞑想を続けています。<br /> <br /> Tue, 04 Aug 2020 00:00:00 +0900 頭から天に向かって唱える古代のマントラ https://w-jp.net/2020/2008/ <br /> 今まではオームを唱えるとアーは眉間あるいは頭、ウは胸、ムは下腹部が反応しておりました。古代のマントラを唱えても同様で、頭から下半身が満遍なく、唱える最初は頭の方、それからマントラの最後に行くにつれて下腹部が反応しておりました。<br /> <br /> しかしながら、今日の瞑想では頭、特に眉間を中心に同じマントラが反応しておりました。<br /> <br /> 胸はまだいいのですが下腹部が反応するとそれほど心地が良くないのでマントラを唱える回数は少なめにして沈黙の瞑想の時間を長めに取っていたのですが、今日の状態ですと頭のみが反響しておりますので長くマントラを唱え続けることができます。<br /> <br /> すると、マントラの微細な部分に共鳴するようにして地響きのような振動音が音が小さく聞こえてきました。音自体は小さくて遠くで鳴っているかのようではあるのですが感覚的には頭の近くで鳴り響いているような気が致します。そのような、遠くと近くが混合しているかのような不思議な地響きです。<br /> <br /> そうこうしているとマントラが眉間に集中したり後頭部に集中したり、共鳴部が細かく変わっているのを感じます。<br /> <br /> 時々、マントラが頭の上の方にまで少し伸びていっているのを感じます。<br /> <br /> そうは言いましてもまだ頭の上の方にまできちんと繋がったというわけではなさそうな感じです。<br /> <br /> マントラを唱えていると、チベットなのか何なのか、山岳地の荒野に小さな石作りの小さな家というか半分テントのようなものが見えて、その家の前に少しふくよかな体つきをしたチベットのお坊さんが座って通りかかる人に供養しているのが見えました。<br /> <br /> ・・・誰でしょう? これ。<br /> <br /> 前世・・・? のような気もしないでもないですが確証は持てません。空は青く晴れていて、山に緑は少ないです。<br /> <br /> このマントラに共鳴した何方かでしょうかね? それとも単なる想像か。<br /> <br /> まあ、誰なのかはよくわかりませんが、今後も様子を見て行きます。<br /> <br /> Mon, 03 Aug 2020 00:00:00 +0900 0.1秒の光のフラッシュを5分おきに前方上方に見る https://w-jp.net/2020/2007/ <br /> 瞑想をして、まず眉間に集中します。その後、マントラを使って意識を安定させます。<br /> <br /> マントラで意識が眉間に定まってくると、やがて思考も鎮まってきます。<br /> <br /> 不確かなぼやけた思考はなくなり、明確な思考だけが残るようになります。<br /> <br /> それは、まるで自転車で雨上がりの水溜りを惰性で通り抜けるようなもので、足を上げて水をかぶらないように気をつけている感覚が、下の方にあるぼやけた意識に触れないように意識を上の方に持ち上げている感覚と似ているような気が致しました。<br /> <br /> 意識を上の方に集めてぼやけた意識に触れないように気をつけながら瞑想をし、眉間に意識を集めていると若干の状態の考察およびたまに思考に入ることこそあれ、雑多な管理されていない意識のループにはまり込むことはそれほどないように思われます。<br /> <br /> そうして管理された状態で瞑想を続けていると、ふと、0.1秒の光の点滅を時々感じます。<br /> <br /> 実際のところ目を瞑っておりますので、これはもしかしたら電気が不安定になったことによる照明の点滅かもしれませんし、天気によるものかもしれません。とは言いましても、それほど大きな光の点滅が度々あるようにも思えません。頻度が高すぎます。<br /> <br /> 以前はこういう光のフラッシュがあってもそれほど頻度が高くなく、瞑想の基本として「光などを見ても重要ではないので無視して良い」ということが言われていますのでそれほど気にしてなかったのですが、これほど頻度が高まるとどういうことでしょうかとちょっと気にはなります。<br /> <br /> 以前から時々見た時はそれなりに強い光だったのですが頻度は高くなく、今日見えているのはそれほど強い光ではなくてうっすらと光る感じなのですがおそらく5分おきとかに何度も見えているので頻度は高いです。<br /> <br /> 脳内の特定の箇所が活性化されてきたのか、あるいは、外で感じている何かがうっすらと光として認識さえているのでしょうか? それはまた今後、様子を見てゆきます。<br /> <br /> Sun, 02 Aug 2020 00:00:00 +0900 マニプラ優勢あるいはそれ以前の場合は思考を止める瞑想をする https://w-jp.net/2020/2006/ <br /> 一方で、アナハタ優勢あるいはそれ以上の場合は思考を観察する瞑想をします。<br /> <br /> 私が最近はこうしているというだけで、必ずそうしなくてはいけないわけではありませんし、推奨しているわけでもありません。瞑想録のようなものです。<br /> <br /> 思うに、瞑想について色々と誤解があって、思考を止めることが瞑想の基本ではあるのですけれども、観察瞑想というのも一方であります。<br /> <br /> 集中と観察が瞑想の要素であって片方だけでは成り立たないものではあるのですけれども、その基準といいますか。瞑想の段階に応じてどうすればいいのか、という基本的なスタンスのようなものが存在すると思うのです。<br /> <br /> その1つの基準がマニプラ優勢あるいはそれ以前なのか、それともアナハタ優勢以降なのかという判断基準のように思います。<br /> <br /> マニプラに至っていない場合は下位の欲望がまだかなり残っておりますので思考を止めないと高位の意識が出てこられないと思います。ですから瞑想は思考を止めるものになると思います。<br /> <br /> マニプラに至った場合でもそれなりに制御できるようになって「良き人」「倫理のある人」「立派な人」になりますが、それでも、まだ下位の欲望がそれなりに残っているような気が致します。<br /> <br /> 一方で、エネルギー的にアナハタ優勢以上になりますとそれを超えて上位の意識が優勢になりますので思考を観察する瞑想に入っていけると思うのです。<br /> <br /> Sat, 01 Aug 2020 00:00:00 +0900 サマーディのために瞑想で思考を止める https://w-jp.net/2020/2005/ <br /> 最初は思考を止めます。<br /> ヨーガスートラにあるように思考を止めること(プラスアルファ)でサマーディの状態になります。<br /> <br /> しかし、時間が経てば思考があってもサマーディを保てるようになります。<br /> <br /> ですので、訓練方法として思考を止めるというのはその奥にある深い意識を目覚めさせるために有効なわけです。<br /> <br /> ですので、よく聞くサマーディへの批判である「サマーディで思考を止めても悟りには至らない」みたいなお話はそれはそうなのですけど、瞑想においてサマーディは必ず通る道なわけです。<br /> <br /> ヨーガでいうサマーディは深い意識が目覚めてきた状態なのですけど特に仏教ではサマーディは思考を止めるだけを意味するという言葉の意味の違いがあります。<br /> <br /> コンテキストに合わせて解釈しないと相手の言っていることを誤解してしまいます。<br /> <br /> ヨーガ的にはサマーディは最上でサマーディの中にはいくつもの種類があって、それでも基本は深い意識が出てくるというところを根拠にしています。<br /> <br /> 仏教的にはサマーディは思考を止めるだけのお話でその先に観察状態であるヴィパッサナーがあります。<br /> <br /> ですけど、ヨーガ的なサマーディを仏教がヴィパッサナーと呼んでいるだけで実際には同じことだと思うのです。<br /> <br /> このことを踏まえておらずに「ヴィパッサナーはサマーディよりも上だ」みたいに言う方がいらっしゃいますけど、それは仏教の視点のお話であって、ヨーガの言い方は違うのですよね。<br /> <br /> 特にスピリチュアル初心者は自分のやっている修行などを最上で特別だと勘違いしてしまいがちですけど、本質を見ればどれも大差ないことが多いです。<br /> <br /> どちらにせよ最初は思考を停止して深い意識を目覚めさせると言う点に関しては一緒ですし、深い意識が目覚めたら思考を動かしても深い意識が同時並行に動くようになります。最初こそ思考を止めないと深い意識が出てこないですけど慣れれば深い意識と浅い顕在意識が独立あるいは強調して動くようになります。<br /> <br /> ですから、仏教やヴィパッサナーやヨーガの間で喧嘩なんてしてもしょうがないわけですね。<br /> <br /> 私なんかからすれば、宗派を1つに絞る必要性すら感じません。他の修行法をせずに自分のところだけするように言う流派も多いですけど、そんなことより多くのいいところを組み合わせて成長していけばいいと思うのですけどねえ。<br /> <br /> その辺りの囲い込みって、精神修行が根拠になっているのではなくて現実的にスタッフを確保しないと運営していけないとかコストがかかるとか会費を集めたいとか、そう言う理由だと思うのですけどね。であれば、そんなことにあまり関わる必要もないと思うのです。<br /> <br /> 師匠という意味であれば別ですけどね。深い関係を築くためには定期的に通うべきです。ですが、宗派にそれほどこだわる必要はないと思うのです。<br /> <br /> Fri, 31 Jul 2020 00:00:00 +0900 眉間で小さな雷の音を聞いた後、後頭部のあたりで圧力感による鈍い軽い頭痛がするようになった https://w-jp.net/2020/2004/ <br /> いつものように瞑想をしていると、何段階かに分けて次第に意識が鎮まって行きました。朝早かったために少し意識がうとうとしていたのですが奥底では明るい意識が段階的に出てきておりました。<br /> <br /> 普段であればそのくらいで瞑想を終えるのですが、今朝は、急に眉間で小さな雷というか大きなものが遠くで崩れて遠くから重厚「ズザザザ」という音を小さく聴くかのような感覚がして、それと同時に急に後頭部のあたりに圧力を感じて鈍い頭痛がするようになりました。<br /> <br /> 思えば、その時にはちょっとした夢を見ていて、蛍光灯のような一本の光の棒を見ていたような気が致します。<br /> <br /> 最初は何だろうと思っていたのですが蛍光灯っぽいと思い、しばらく見ていると天井にその蛍光灯が付いているのが見えました。蛍光灯はその端の2箇所が天井に止められており、最初はただ見ているだけでしたが、しばらくしていると、それが蛍光灯ではなく、光っているドアのノブのように見えてきました。天井についている光っているドアのノブです。<br /> <br /> そのドアの周囲には、何やら紐のようなものがいくつか垂れ下がっています。家の電灯をつける紐でしょうか? それにしては電灯そのものがなくて単に紐だけがあります。<br /> <br /> でも、それらの紐も興味深いですが、一番気になったのはやはり光っているドアノブです。<br /> <br /> なんだこれ・・・? 無意識のまま光っているドアノブに手を伸ばして、ちょっと引っ張ってみました。<br /> <br /> すると、ちょっと動きました。完全にドアは開くまでは動かしておらず、ちょっと片側が開いたように思います。すると、すかさず上のような雷の音が眉間からして、びっくりして手を離したのです。<br /> <br /> この状態では、瞑想のこれらのヴィジョンと眉間の感覚の両方を認識していたのです。ドアノブを見ながら眉間の奥で聞こえた音も感じていました。<br /> <br /> そうして、少し離れたところからまだ開いていない光っているドアノブを眺めていると後頭部に圧力がかかっているのを感じ始め、やがて瞑想から抜けてきました。<br /> <br /> なんだったのでしょうね。<br /> <br /> このようなイメージは、今までの経験で言うと単なる想像ではなくて実際のスピリットの状態と密接に関連しています。<br /> <br /> 解釈はまだこれから少しづつ行っていきたいと思いますが、おそらくは、「天井」についていたということは頭あるいはそれより上と関係しているような気が致します。<br /> <br /> 候補としてはアジナやサハスララですけど、この光っているドアノブは体の部位とは関係ないところで見えていましたので単に上方にあったことしかわかりません。<br /> <br /> 今後、様子を見ていきます。<br /> <br /> Thu, 30 Jul 2020 00:00:00 +0900 忖度はテレパスの特徴 https://w-jp.net/2020/2003/ <br /> 日本人は自分たちがテレパスだということを自覚していないので忖度とか言われるといけないことのように思ってしまいますが、それはお人好しというものです。テレパスであれば相手の思いは分かりますし、それに応じて勝手に何かをしてしまうということはいくらでもあります。それをダメと言われるのは、日本人であることをやめろと言われているのと同じことです。<br /> <br /> 昔、中世で魔女狩りなんてありましたけど、現代は日本人狩りの時代ですよ。周囲の国の人々は日本人というものが分からなくて気持ち悪いのです。ですから排除して消し去ってしまいたいのです。それは魔女狩りと同じ構図です。<br /> <br /> それを、お人好しにも「そうか。忖度はいけないのか」と思ってしまって自分のテレパス能力を封印してしまう人が少なからずいらっしゃいます。ほんと、日本人は温室の中で育てられた世間知らずが多いのだなと思います。<br /> <br /> テレパスであるのならば相手の思いを汲み取ることができますし、政治家でもあればそれができて当然と言えましょう。それができずに相手の忖度を攻撃するのであれば、それはテレパス狩りと言っても良いでしょう。現代の魔女狩りです。<br /> <br /> 陰陽師は幕末に惨殺されて散り散りになっていますし、一般人で神と対話できたり守護霊と対話できたり相手の気持ちを読み取ることができる人はごまんといらっしゃいますけど、あまり口に出していないように思われます。それは、そんなことを言えば変に見られるという社会の風潮もありまし、見えないものが見えると精神科に連れて行かれるという現実もあります。<br /> <br /> とは言いましても、日本人が「空気を読む」のは当然と今でも思われていますので、その点、救いがあります。<br /> <br /> 身近な人のことを思うと、その人の気持ちがわかるでしょう。そして、それを「空気を読む」というでしょう。それがテレパスの基本です。<br /> <br /> 外国人はそれがあまりできない人が多くて、珍しいが故に海外では「サイキック」と呼ばれていますけど、日本人からしたらそんな「空気を読む」なんて普通ですから、言ってみれば海外から見たらかなりの日本人がサイキックです。そんな国が存在していたら海外からしたら気持ち悪くて国と民族を丸ごと消そうとするのも分からなくもありません。<br /> <br /> 日本人はもっと、自分自身がテレパスだという自覚を持った方がいいと思いますよ。<br /> <br /> この世界は非テレパスによって支配されていますからね。日本人は自分がテレパスということをあまり言わない方がいいですし、そのための処世術を身に付ける必要があると思います。少なくとも、テレパスである日本人をこの世から抹殺しようとしている勢力があることを知っておくべきかなと思います。その目的は「日本人を全員抹殺、あるいは、日本人全てからテレパス能力をなくすこと」ですから、どちらも防ぐ必要があります。<br /> <br /> そのような視点から見ると学校教育に仕掛けられた罠ですとか政治にまつわる罠、会社などの社会構造にまつわる罠がたくさん見えてきます。ここまで理解すればあとはいくらでも自分で見抜くことができます。<br /> <br /> Wed, 29 Jul 2020 00:00:00 +0900 テレパスのテレパシーは空気を読むことと同義 https://w-jp.net/2020/2002/ <br /> テレパスというとSFで出てくるテレパシーを使える人のことですけど、テレパシーを日本語でわかりやすく表現すると「察する」とか「空気を読む」という能力です。<br /> <br /> こう言われると「な〜んだ。そのくらい私もできるよ」という方が大勢おられると思います。そ〜んなもんです。<br /> <br /> 特に日本人であればテレパスなんて当たり前に近いものです。その能力の強さに違いはあれど、かなりの人がテレパスであると言えます。<br /> <br /> 日本人であっても空気を読めない方がいらっしゃいますけど、そう言う人はテレパスではないのです。外国人で空気を読めない、と言う場合もテレパスではありません。もちろん外国人にもテレパスはいます。<br /> <br /> この社会の構造はテレパスではない人によって作られておりますので、テレパス型の社会に変革する必要を感じております。特に非テレパスのシステムは日本人には合わないでしょう。<br /> <br /> 例えば、日本社会でありがちな「リーダーシップに欠ける」とか「トップが責任を取らない(連帯責任にする)」と言うのもテレパス型社会の特徴であると言えます。テレパスですと思考がお互いに行き来しますので「わたし」とか「相手」と言う感覚が希薄になります。アイデアであっても自分のアイデアなのか相手のアイデアなのかよくわからないことになります。<br /> <br /> その人たちのところに非テレパス型の社会構造を持ってきてトップが成果を全て手に入れる資本主義システムを適用しているわけですからトップにしても「俺が決めたのではない」となるのは当然のことでしょう。テレパス型の社会は全体の思想が強調して動きますからトップの責任というよりは全体の責任になります。それ故に無責任社会になると言えます。<br /> <br /> 非テレパスのシステムにもメリットはあって、素早く大きく変えるにはリーダーシップが向いています。この辺りは一般に言われている通りです。ですけど、テレパスの人たちに向かってリーダーシップがどうこう、というお話をしても響かないのが現状なのではないでしょうか。<br /> <br /> 特に日本人は、自分たちがテレパスで他の民族の多くはテレパスではない、という自覚が必要だと思います。多くの日本人は外国人に向かって「空気が読めない人たち」とか言っていますけど、テレパスではないのでそこには超えられない壁があるのです。そんな、空気を読めるかどうかで嘆くよりも非テレパスの人たちとの付き合い方を学ぶべきかなと思います。<br /> <br /> これは単純に「外国人が空気が読めない」ということでもありますけど、その奥には、テレパスの社会かどうか、という根本が違っているわけです。多くの日本人はそれを言語が原因だとか日本人が英語を学べばコミュニケーションギャップが解消するとか思っていますけど、問題はそこじゃありませんから。テレパスかそうではないか、というのは根本的に違うということを理解すべきだと思います。<br /> <br /> テレパスは相手にもテレパスであることを期待しますし求めますけど、それを外国人に求めるのはかなり無理難題でかなりの時間がかかる(無理ではない)ということを理解しておかないと日本人が国際社会でうまくやっていくことは難しい気が致します。<br /> <br /> テレパスの基本は単に雰囲気を読むことですけど相手の思い描いている背景を読み取るなんてのも普通にできます。というか、みなさん、普通にしていますでしょう? それができない、空気が読めない、つまりはテレパスではない人がこの地球上に多くいるということは知っておいて無駄ではないと思います。<br /> <br /> Tue, 28 Jul 2020 00:00:00 +0900 静寂の意識と自然に起こる止息(ケヴァラ・クンバカ) https://w-jp.net/2020/2001/ <br /> かなり前、クンダリーニが動き出してマニプラ優勢になる前に同様に自然に起こる止息が起こっていたことがあります。<br /> <br /> その時も静寂の境地に達して心穏やかな状態になっておりましたがクンダリーニがそれほど動いておりませんでしたのでエネルギー的には低かったように思います。<br /> <br /> その低いエネルギーの状態で静寂の境地を味わい、ケヴァラ・クンバカが当時起こっていたわけですが、クンダリーニ経験後にはむしろクンバカが苦手になりました。<br /> <br /> その後もずっと基本的にはクンバカが苦手な状態が2年近く続いていたわけですが、ここにきて、段階的な静寂の境地が得られるようになってからは急に息も穏やかになってきてケヴァラ・クンバカも起きるようになってきました。<br /> <br /> 今から思えば、当時の静寂の境地はエネルギー状態が低いところでの静寂の境地だったように思います。<br /> <br /> 今は、クンダリーニが動き出してある程度のエネルギーがあるところでの静寂の境地です。<br /> <br /> 表面的にはどちらも「静寂の境地」として言い表されるものですが、その基本的な状態はかなり違うように思います。<br /> <br /> 特にエネルギーの量の差は顕著で、クンダリーニが動き出す以前はポジティブさが今ほどなかったように思います。これは、パワーが上がればポジティブになって雑念が減るというお話で、エネルギーの絶対量が増えないままに静寂の境地に達したとしてもそれはそのエネルギーレベルにおける境地の到達であって、エネルギーが増えたらその静寂の境地の難易度が高まるような気がしています。<br /> <br /> エネルギーが高まればその制御も難しくなりますし、そのエネルギーを安定させるスキルも高いものが要求されます。体の各所の制御もエネルギーが高い場合は難しいですし、呼吸や熱感の制御にしてもエネルギー量次第で難易度が変わってくるように思います。<br /> <br /> それと、以前の静寂の境地は意識がそれほど活性化されていなかったように思います。静寂を感じる意識は動いているのですが、その意識の明確さが今よりも随分と低かったような気が致します。<br /> <br /> それが、今回の静寂の境地においては常に意識が生きていて、体はというと睡眠に近い状態になったりしていびきをかくくらいになることもありますが、寝ているという感覚はあまりなくて意識が動いているように感じられる状態です。夢見に近いかもしれません。<br /> <br /> 瞑想、あるいはヨガにおける意識の状態であればすぐにこのような状態になれますし、普段の生活においても静かにしていれば割とこのような状態には入ることができます。<br /> <br /> どちらにせよ、この状態の類似点を見るに、おそらくは成長のサイクルがループになっていて割と似通っている状態をぐるぐると体験しつつ成長していくのではないかなと思います。<br /> <br /> Mon, 27 Jul 2020 00:00:00 +0900 思考を止めて超感覚の意識を目覚めさせる https://w-jp.net/2020/2000/ <br /> ヨーガスートラのような古典では「思考を停止させることがヨーガ」みたいに語られています。<br /> <br /> これは普通に読むと「思考を停止させて、それって人間と呼べるのだろうか?」みたいな疑問が生まれますし、一般的には「我思う故に我あり」とか言われていますから、理解するのが困難に思われるかもしれません。<br /> <br /> しかしながら、人間の心には2つあることを前提にすれば上記の表現は「低位の意識を停止させることがヨーガ」だということが理解できます。<br /> <br /> ヨーガやヴェーダの流派には色々あって、流派によってはこの種の批判をストレートに言っている方もいらっしゃいます。<br /> <br /> とあるインドの流派が他の流派に向かって「思考を停止させてしまって、それは人間と呼べるのだろうか」とか批判していたりします。<br /> <br /> それぞれの流派にはそれぞれの主張があるのだと思いますし、言葉の意味も流派によってまちまちです。しかしながら、文献を読むときはその流派の用語と主張を踏まえないと読み間違えます。どちらも割と似たようなことを言っているように思えるのにも関わらず自分の流派が正しいと主張していることが多いように私なんかには思います。<br /> <br /> 言い方はどうであれ、人間には低位と高位の意識があって、低位の意識は止めるべきで高位の意識は目覚めさせるべきなのです。<br /> <br /> 低位というと欲望かと思われるかもしれませんけど、欲望というよりは五感に属する感覚が低位です。五感を超えた感覚が高位です。<br /> <br /> 例えばですね、幽体離脱の事例が分かりやすいかと思います。<br /> <br /> 幽体離脱するときは、だいたい2パターンあるように思います。<br /> <br /> 1.低位の意識が麻痺状態(トランス状態)になって高位の意識だけが体から抜け出す状態<br /> 2.低位の意識が働いたままで高位の意識が体から抜け出す状態<br /> <br /> 前者のトランスは低位の意識が純化されておらず高位の意識が働くためには低位の意識を停止させなくてはならない場合にこうなります。<br /> <br /> 一方、後者の場合は低位の意識が十分に純化されておりますから低位の意識と高位の意識とが同時に活動することができます。例えば、幽体離脱して遠くの場所を見たり過去や未来を巡っているのと同時に、肉体の手を動かそうと思えば動かせますし目からは三次元の視野が見えます。この場合、両方見ようとするとどちらも薄らとしていてぼやけた感じになります。意識を五感に向ければそちらが優勢になりますし、幽体離脱の方の意識に集中すれば体のことはほぼ忘れて超感覚が優勢になります。<br /> <br /> ここでわかることは、肉体の五感を使った低位の感覚とそれを超えた高位の感覚とは別物であるということです。<br /> <br /> これらを、流派によって様々な言葉で言い表しているように思います。<br /> <br /> ・仏の心と人間の心(仏教等)<br /> ・低位の心と高位の心(スピリチュアル)<br /> ・ロウアーセルフとハイヤーセルフ(私のいうハイヤーセルフとは意味合いが異なりますが)<br /> ・キリスト意識と人間の意識(キリスト教系のスピリチュアル)<br /> ・天使(の意識・心)と悪魔(の意識・心)(キリスト教)<br /> <br /> 多くの人は低位の意識のみで生きていますから、そういう人にとっては「思考を停止させて、それって人間と呼べるのだろうか?」という疑問が出るのはもっともだと思いますが、実は意識には2つあるのだという前提に立てばこのような「思考を停止」という教えもすんなり理解できるのだと思います。<br /> <br /> Sun, 26 Jul 2020 00:00:00 +0900 思いが浮かぶごとに「苦」を感じる境地 https://w-jp.net/2020/1999/ <br /> 意識がモワッとしていて、想念が浮かぶ度に「苦」を感じることがあります。<br /> <br /> 基本は静寂の境地ですが多少はモワッとしていて、そのモヤモヤとしたところにポコポコと思いが浮かびます。その思いが大きくて完全に飲み込まれた場合は普通の雑念になるのですが、雑念というほどまでに大きくはなくて小さくポコポコと生まれては消える思いの波は大きな雑念よりも意外に「苦」として感じられるように思います。<br /> <br /> 波のない湖で小さな波が現れると大きく感じるのと同様、静寂の境地における「苦」の感覚は意外に大きく認識されるように思います。<br /> <br /> 以前は湖がかなり激しく波打っておりましたからそんな余裕もなく単に雑念を沈める瞑想をしていたわけですが、心が安心しきっているところに不意に想念の波が現れると意外にも大きなものに感じられて「苦」として認識されるように思います。<br /> <br /> その「苦」の瞬間、緊張が少し強くなります。<br /> <br /> しかし、その「苦」を見つめていると、すぐに消えてゆきます。苦が消えると共に緊張も解れます。<br /> <br /> そうしてモワッとした状態からしばらく経つと、不意に平穏の境地が現れます。<br /> <br /> おそらくは、こうして瞑想をすることで深いところにあるカルマを吸い出しているのかな、という気も致します。<br /> <br /> 過去や未来の思いもやってきます。それに付随する感情も疑似的に体験します。<br /> <br /> そのいくつかは大きなカルマで多少は激しいトラウマを伴うこともありますが、基本は全て見つめることでやがては消えてゆきます。<br /> <br /> 仏教とかですと人生は全て「苦」だ、とか言ったりもしますけど、ここでいう「苦」とは人生のことではなくて、単に、思いの波が「苦」として感じられるということです。<br /> <br /> 人生そのものが「苦」かどうかは分かりません。個人的には人生は自由に楽しめばいいと思います。ただ、瞑想においてはある種の状態においては想念は「苦」として感じられるということです。<br /> <br /> これは、瞑想状態にいる人を驚かせてはいけない、という理由にも繋がります。<br /> <br /> 日本は瞑想状態ということに対する理解が薄いですから特に子供とかは他人を驚かせたりしてふざけたりしますけど、普段の生活においても静かに暮らすべきで、驚かせたり驚かされたりするべきではありません。精神的に深刻なダメージを負ってしまうこともあるからです。このあたりの理解が日本では薄いですし、他人を貶めるための手段として驚かすという手法が使われることもあるように思います。<br /> <br /> 瞑想中の人がいる場合は大きな物音を立ててはいけない、という基本的なルールもこのあたりが根拠になっているように思います。騒がしいところで瞑想は進まないと思います。<br /> <br /> Sat, 25 Jul 2020 00:00:00 +0900 意識がモワモワっとして何を感じても「苦」に感じる境地 https://w-jp.net/2020/1998/ <br /> これは瞑想の初期に起きていた雑念による苦ではなく、意識がはっきりしてきたことによって雑念が生じる瞬間に「苦」を感じられるようになったということで、成長の証でもあります。<br /> <br /> これは、言葉で言い表してしまうと雑念もこの種の「苦」も似たり寄ったりになってしまい、違いがわかりにくいかもしれません。<br /> <br /> 雑念に押しつぶされる種類の苦しみは混沌としたものです。雑念が止めどなく出てきて雑念に翻弄され、雑念にエネルギーを奪われて疲れたり怒りや悲しみの感情が出てきたりします。それはカルマの浄化でもあります。<br /> <br /> それに対して、この種の「苦」は、それもカルマの浄化の一環ではあるのですが基本的な瞑想状態ではあまり雑念が浮かばなくなっており、それでも時々雑念が浮かんだその瞬間にその心の浮き沈みを感じて「苦」を感じるのです。<br /> <br /> その雑念は完全に表には出てくることはそれほどなくて、雑念が出てこようとした瞬間に「苦」を感じて、その雑念の出現を観察するや否やすぐにその雑念が消えてゆきます。<br /> <br /> 波のほとんどない水面に時々波紋が広がってその痛みを感じているとでも言いましょうか。<br /> <br /> 以前よりは遥かに意識が明確にはなっているものの、完全に雲が取り払われたわけではない状態。であるので、昔のどんよりとした雲に比べると随分と晴れ渡ってはいるものの、それでもちょっとモワモワっとしている意識の状態。<br /> <br /> そのモワモワっとした意識の中から時々カルマの想念が浮かび上がってきて、それを感じ取ると「苦」として認識されるようです。<br /> <br /> しかし、「苦」と言ってもすぐに消えてしまう種類のものです。<br /> <br /> これはなんだろう、と思っていたのですが、書籍を探ってみると以下のような記述がありました。形状が表面化すれば現実が潜在する、と言う昔からの教えの続きの部分です。<br /> <br /> ■壊滅智(かいめつち)ただ、全てが滅んでしまったと理解する智慧<br /> 修行の叡智が一段と発展し熟すと、念じられた対象の始まりである<生じている瞬間>は智慧の対象から消え去り、終わりである<滅する瞬間>だけが次の叡智の対象になっています。それは「すべては速い速度で滅尽してしまうのだ」と思われるほどです。「自分の念じる心でさえ、次々と尽きてしまう」ということも分かります。「ミャンマーの瞑想(マハーシ長老 著)」<br /> <br /> このミャンマーのヴィパッサナー瞑想は「現在の感覚をラベリングする」という手法を用いていますので表現がそれに沿ったものになっていますが、ここでのポイントは、生じた瞬間にすぐ滅するので滅する瞬間だけ把握できていれば十分、という理解にあります。<br /> <br /> 点灯したらすぐに消えるランプのように意識に雑念というランプが点灯したらすぐに消えてしまうため、意識には消えたという認識しか残りません。それでいいのだ、とこの教えは解いていると解釈できます。<br /> <br /> それに、この章の説明を読むと私の今のようなモヤモヤとした状態は瞑想が進んだが故に起こることで、変わらず瞑想を続けること、と記されています。<br /> <br /> 一生懸命に念じていれば、気持ちが次第に澄み切ってきて、最後は、現れてきたなってとや悟ったことだけで満足できない気持ちや不満、姿勢を変えたい気持ちは完全に治ってしまいます。「ミャンマーの瞑想(マハーシ長老 著)」<br /> <br /> Fri, 24 Jul 2020 00:00:00 +0900 オーラのためにソーシャルディスタンスを保つ https://w-jp.net/2020/1997/ <br /> コロナは割と茶番ですけどオーラのためにソーシャルディスタンスを保った方がいいと思います。<br /> <br /> 特にエネルギー・ヴァンパイアの近くに行ったらエネルギーを根こそぎ吸い取られます。<br /> <br /> スピリチュアルな成長は意識としての成長とエネルギー的な成長があり、両者が組み合わさると能力としえ現れたりしますけど、エネルギー的な成長がなくてエネルギーを外から奪い取るような形でスピリチュアルな成長をしてしまうと変なオーラになります。<br /> <br /> エネルギー・ヴァンパイアは一見すると強い光を放ってはいるものの、どこか禍々しいオーラを放つようになります。<br /> <br /> チャクラがそれほど動いていなくてクンダリーニも動いていないのでエネルギーを自分で取り入れることができません。<br /> <br /> 自分自身でエネルギーを取り入れることができないのにも関わらずアジナチャクラや松果体等が活性化してエネルギーが使えるようになった人はエネルギーをどこかから入手しようとします。<br /> <br /> 能力を使うためにはどうしてもエネルギーが必要になるわけで、自分でエネルギーを作り出すことができないので周りの人から構わず奪い取るようになるわけですね。<br /> <br /> 恐ろしいですよ。<br /> <br /> 触手がグワーーーーーーーー と伸びてきて、特にお腹のあたりからエネルギーを奪い取っていきます。<br /> <br /> 触手は、例えるならば「鋼の錬金術師」で出てきた黒い影を持つ大ボス(名前忘れました)が影を伸ばして相手を捕まえるのに似ています。感じとしてはそうですが、エネルギーヴァンパイアの場合はその触手からエネルギーをグングン吸い取ってゆきます。触手は結構速いです。<br /> <br /> オーラも禍々しく歪んでいて、他人が近づくと自動的に触手が触れてエネルギーを奪うようです。<br /> <br /> 本人はそれに気がついているのか気がついていないのか? 自覚しているとしたら大悪人ですし自覚していなくてスピリチュアリストを名乗っているのだとしたら大迷惑な人です。<br /> <br /> それは、また違うものに例えるならば、「ナルト」に出てきた「屍鬼封尽 (しきふうじん)」の術にも感じが似ています。漫画では封じるための術でしたがそこは似ていなくて、封じると言うより、相手のオーラをお腹から根こそぎ無理やり引き抜く、というところが似ています。<br /> <br /> この種のエネルギーヴァンパイアは世間によくいますけど、他人からエネルギーを奪わない限りは好きに生きればいいと思います。この世界は自由な世界ですから自分で勝手に生きるのは全く問題ないわけです。ですから、エネルギーヴァンパイアが悪いと言うよりも、他人のエネルギーを奪うことだけが問題です。<br /> <br /> 誰しもクンダリーニ覚醒がうまくいくわけでもないですし、エネルギー不足の状態でエネルギーを使おうと思ったらオーラが勝手に伸びて周囲の人から奪おうとするでしょう。エネルギー保存の法則じゃないですけどエネルギーというのは高いところから低いところに流れるのです。<br /> <br /> 能力が使えるからと言ってスピリチュアルで成長しているとは言えない、というのは有名なお話ですけど、エネルギーが足りていないのに能力を使おうとするからエネルギーヴァンパイアになるのです。<br /> <br /> この辺り、よく分かっていない人も大勢いらっしゃるように思います。<br /> <br /> セミナーとかで人を集めて顧客からエネルギーを奪って能力を保っている人もいらっしゃるようです。あるいは対談をして対談相手からエネルギーを奪って生活しているような人ですね。<br /> <br /> そのような人と関わり合いを持つべきではありません。<br /> <br /> 関わり合いを持ってしまった時の対処法としては、これは可能な人に限りますけど、可能であるならばエネルギーヴァンパイアのオーラを封印してしまえば良いです。<br /> <br /> オーラがゆらゆらと禍々しい輝きをして周囲からエネルギーを奪うのですから、そのオーラを封印してしまって、ついでにアストラルの視界と聴覚も封印してしまえばスピリチュアルな能力は一時的に封印されます。<br /> <br /> 封印できる人がどのくらいいるか知りませんけど、とある人の例で言いますと、道を歩いていて自分に危害を加えようとしている人、あるいは数分後、数十分後、あるいは翌日にエネルギーバンパイアしてくるような人がいたらあらかじめ霊的に相手を封印しちゃいます。<br /> <br /> 特に悪気がないようでしたら自分と関わり合いがなくなった頃、例えばすれ違った後に封印を解いてあげますけど、解かないとその後どうなるのかよくわかりません。ずっと封印されたままということはない気もしますけど、しばらくは封印されているように思います。<br /> <br /> それは、道を歩いていて、急に攻撃を仕掛けられたようなものです。<br /> <br /> オーラのエネルギーヴァンパイアをするということは、霊的に言えば「攻撃」ですよ。攻撃されたのだから反撃しても全く問題ありません。<br /> <br /> かと言って相手を傷つけるのは大変ですから、相手のオーラを包帯みたいなのでグルグル巻きにして全身を囲ってしまえば相手のオーラは周囲を感知できなくなりますし、エネルギーヴァンパイアもできなくなります。<br /> <br /> 本人にしてみればいきなり周囲を全く感じられなくなるので恐怖でしょうけど、それは自分が先に攻撃を仕掛けてきたのが悪いのです。<br /> <br /> 職場とかでもね、エネルギーヴァンパイアで生きている人は大勢いらっしゃいますよ。そんな人とは関わらないことです。近くの席にいて攻撃を仕掛けられているのならば相手を封印してしまえばいいのです。それは相手が悪いのですからそのくらいの自己防衛は問題ありません。<br /> <br /> Thu, 23 Jul 2020 00:00:00 +0900 錆び付いた胸の扉を開く https://w-jp.net/2020/1996/ <br /> ずっと眉間に集中する瞑想をしてきて、今まで胸に意識を合わせる瞑想はほとんど行ってきませんでした。<br /> <br /> クンダリーニが活性化してマニプラ優勢になったりアナハタ優勢になった時も基本的にはずっと眉間のアジナチャクラに集中しておりました。<br /> <br /> しかし、ここにきて統合されたチャクラとでも言えるようなハートを感じる瞑想状態に達したことでハートに意識を合わせる瞑想を試みるようになりました。<br /> <br /> 眉間の瞑想は基本として存在しており、まずは眉間に集中して意識が凪の状態になるまで瞑想した後、集中ポイントを胸のあたりに移してみました。<br /> <br /> すると、最初は慣れていないせいか、何やら古傷のような鈍い痛みが走って胸への集中を拒みました。<br /> <br /> 何だろうと思って再度ゆっくりと胸に意識を合わせてみますと、ちょうど胸のあたりに古傷のような鈍い塊のようなものがあるのがなんとなくわかります。肉眼では何もわかりませんけど、感覚的なものです。<br /> <br /> そこで、あまり無理せずにその辺りに意識を合わせてみると、意外にすぐにその胸の古傷は消えてゆきました。9割以上なくなったように思います。<br /> <br /> おそらく30分かそこらですぐになくなりました。<br /> <br /> これ、30分と言うとそんなに大したことがないと思われるかもしれませんが、今まで何度か同様に胸に意識を合わせて瞑想を試みてもしっくりこなかったので、今回、たった30分でこのような変化が現れたのは大きな変化であると言えます。個人的にはそうです。<br /> <br /> これで、眉間の瞑想以外に胸への瞑想という選択肢が増えました。<br /> <br /> 安定感で言うとまだ眉間ほどではないですが、これから少しづつ様子を見ていきます。<br /> <br /> Wed, 22 Jul 2020 00:00:00 +0900 意識を中央に合わせることで緊張が取れ、リラックスできる https://w-jp.net/2020/1995/ <br /> 頭の中で意識を中央に合わせると急に緊張が取れてリラックスできます。<br /> <br /> そもそもハタヨガのハタ(Hata0の意味はハが太陽で右側、タは月で左側です。ヨガで言うところのエネルギールートであるナディで言うとピンガラが太陽で右側、イダが月で左側です。ピンガラは熱でイダは冷のエネルギーです。<br /> <br /> これらのバランスを整えると緊張が取れてリラックスできます。<br /> <br /> これは、ハタヨガなどのヨーガにおける重要な理解の一つです。<br /> <br /> 呼吸法およびエネルギーのコントロール技法であるプラナヤーマをすることによっても左右のバランスを整えることができます。<br /> <br /> 単に体操と思ってやっていてもこれらの微細な感覚が備わってゆきます。<br /> <br /> 意識は単なる意識ではなくエネルギーの流れですから、意識が中央に合わさると違った種類のエネルギーが発生します。<br /> <br /> 一説によればイダとピンガラのエネルギーのバランスが整うとクンダリーニが生じると言われていて、私もこの考え方が正しいと思っております。<br /> <br /> 一般にはイダとピンガラの他に独立してクンダリーニのエネルギーが存在していると理解されていると思いますが、そうではなく、左右であるイダとピンガラのエネルギーを両方とも活性化してバランスを整えることでクンダリーニが動き出す訳です。<br /> <br /> 私の場合、クンダリーニらしきエネルギーは常に発生している訳ですけれども、基本の状態ですと私は左の方がエネルギーが強く、中心より少し左に引っ張られている状態です。<br /> <br /> それを、中央に揃えるように少し右側であるところの中央に少し意識をかけて動かしてあげることで急に細かな緊張が取れてリラックスできます。<br /> <br /> 最近はそもそもそんなに緊張はないですが、それでも、気がつかないところで細かい緊張が各所に残っておりますので、それらの各所の緊張も取れて更なるリラックス状態になるわけです。<br /> <br /> そして、その鍵になるのが意識の「中央」であるわけです。<br /> <br /> これは、先に意識を中央に合わせてもきっとうまくいかなくて、先に凪の状態まで持って行った後に微調整として意識を中央に合わせると緊張が取れてリラックスできるのです。最初から中央に収まる場合もありますが、私なんかの場合ですとちょっと左にずれていることが多いので調整してあげます。<br /> <br /> Tue, 21 Jul 2020 00:00:00 +0900 ナーダ音というベッドの上に横たわって寛ぐ https://w-jp.net/2020/1994/ <br /> 意識が凪の状態になるのは意識の個別の領域ごとに起こっていました。例えば眉間であればそこを中心として頭や肩などの力が抜けて寛ぐ感じです。<br /> <br /> それはそれで有益で瞑想の基本ではありますけど、その凪の状態の先に更なる状態がありました。広範囲の力が抜けた、深いところまで届く意識のリラックスです。<br /> <br /> その状態に入るにはいくつか方法があって、最初は凪の状態まで瞑想を続けて、その先で深い意識のリラックス状態に入っていました。<br /> <br /> しかし、瞑想を続けるうちにその状態が徐々に解除され、また5分くらい経つと凪の状態になるという段階的な変化が起こっていました。<br /> <br /> これ、最初のうちは階段上の変化ではあるのですが、続けていくうちにその変化分が小さくなっていって、一定以上は意識の平穏が進まない臨界点に達するのです。<br /> <br /> 変化が少ない場合は割と平準なところを行ったり来たりするところまで瞑想が達します。<br /> <br /> その行ったり来たりの状態が意識の落ち着いた状態で、それはそれで重要なのかなと思います。<br /> <br /> 意識が平穏で、行ったり来たりの幅が狭くなった状態で更に瞑想を続けてゆくと、「あれっ。これ、全身の力を抜いても平気なのでは?」という突然の理解に達します。<br /> <br /> 今までナーダ音によって強制的に意識が働く状態になっていて、それは基本として働き続けていました。ナーダ音によって眠りを許さないが故に意識が活性化され、瞑想が進んだのです。<br /> <br /> しかし、ここに来て、その「ナーダ音に引っ張られる意識」それ自体をリラックスさせることができるのでは、と、ふと突然に気がついたのです。<br /> <br /> 早速やってみると、それはまるで、ナーダ音というベッドの上に横たわる意識、という感じでした。<br /> <br /> ナーダ音が聞こえ続けていて、しかしながらナーダ音に意識が引っ張られずにリラックスするのです。<br /> <br /> 今までは、ナーダ音というベッドに横たわってしまうことを、どこか意識が拒否していました。この拒否する意識は、ナーダ音に引っ張られる意識と同類のものです。おそらくは心(チッタ)は何かにすぐに引き付けられる性質を持っており、それがナーダ音に引き付けられて雑念から引き離されるという効果はあるものの、ここに来て、雑念が減ってきたが故にその役割を一旦は停止してナーダ音にすら引っ張られない状態に意識を持っていけるようになったのではないかなと思います。<br /> <br /> ナーダ音というものに引っ張られていた心を、俗にいう「中心」に戻してあげることでリラックス状態になります。<br /> <br /> それを比喩的に表現すると、ナーダ音というベッドの上に意識が横たわる、とでも言える状態です。<br /> <br /> こうなると肩の力だけでなく全身の力が抜け、更に意識が深くなってゆく気が致します。<br /> <br /> ナーダ音は悪者ではありません。それは浄化の印です。しかし、それは補助輪のようなもので、ある程度までは役に立ちますが、ここから先はその補助輪なしで行く領域な気が致します。<br /> <br /> Mon, 20 Jul 2020 00:00:00 +0900 凪の状態の先で、深い意識の平穏と寛ぎが訪れる https://w-jp.net/2020/1993/ <br /> かつてナーダ音が聞こえ始める直前の1週間ほどの間、意識をギュッと鎮めて意識を止めることでいわゆる「無」の状態に入って安らげるようになりました。今回の平穏はその時の感覚と似ていますが、今回は意識は動いたままの安らぎです。<br /> <br /> その時はヨガをほぼ毎日し始めてから約3ヶ月後のことでしたが、夜に眠る時に非常によくリラックスできて深く穏やかに平穏の意識で眠ることができたのを覚えています。<br /> <br /> しかし、その安らぎもわずか1週間のものでした。ナーダ音が聞こえてきたのです。ナーダ音は瞑想中の眠りを許さない自動的な意識の覚醒を伴いますのでそのような「無」の感覚は無くなったのです。<br /> <br /> 最初は、このナーダ音を苦々しく思ったものでした。せっかく「無」の状態になって安らぐことができるようになったのに、どうしてこのような音が聞こえてきて静寂を邪魔するのだろうか、と。<br /> <br /> しかしながら、勉強するにつれ、私が行っていたのはヨーガ行者としては行ってはならないとされている「意識の停止状態で寛ぐ」という種類のものだったのかもしれないと思うようになりました。それをわずか1週間でナーダ音が聞こえてきて強制的に解除されてしまったのは良かったことなのではないかと今では思います。<br /> <br /> 誤解をして欲しくはないのですが、ナーダ音そのものは「ある程度の浄化がされたことによる成長の印」です。しかしながら、それはより微細な世界への扉をも開いてしまい、意識が敏感になってしまったのです。<br /> <br /> かつて、ナーダ音が聞こえる前はかなり鈍感だったように思います。感覚もそれほど微細ではなく、その当時の意識を鎮めることができて安らぐことができました。それはそれで成長だったと思います。<br /> <br /> 意識が静まると微細な世界が私の目の前に開け、そして、やがてはクンダリーニ経験もしてエネルギーは高まってゆくわけですが、微細な世界が開ける前、クンダリーニ経験をする前に「無」を体験した時に感じた安らぎと、最近私が感じている意識の平穏とが割と似通っているのです。<br /> <br /> 前回は強制的に意識を抑え込んで「無」の状態にすることでリラックスしました。意識はほぼ止まっており、ナーダ音も何も聞こえず、息の感覚だけがするくらいの意識で「平穏と安らぎ」を感じておりました。そのような深いリラックスはそれまでは意図的に作り出すことができませんでしたが、その1週間はすぐに意識を抑え込むことで簡単にその「無」の状態でリラックスすることができました。<br /> <br /> それから何年もの間、同種の「無」のリラックスは体験しておりませんでしたが、今回、意識が凪の状態になって瞑想を続けていたところ、意識は働いているにも関わらず昔体験したような「無」の時のリラックス状態がやってきたのです。<br /> <br /> リラックス状態は、ナーダ音が聞こえて以降は意識が敏感になっていてここまで深く入ることが難しかったように思います。<br /> <br /> しかし、今回は、意識が働いているのにも関わらず同様のリラックス状態になったのです。<br /> <br /> 前回の時も、今回の時も、「見る」という意味での観察は変わらない気が致します。一方で、前回は強制的に雑多な意識を抑え込んでいたのに対し、今回は自然にしていながら雑多な意識が鎮まっている、という違いがあります。<br /> <br /> 前回は雑多な意識を抑え込むことで「無」の状態を作り出し、「観察」は動いたままで深いリラックス状態を体験していました。しかしながら、ナーダ音が聞こえてきた後は意識がナーダ音に囚われてしまうためにそのような深いリラックス状態に入れずにいました。<br /> <br /> 雑念がナーダ音に引きつけられることで瞑想自体はやりやすくなったのですが、雑念を強制的に止めて「無」に入ろうとしてもナーダ音は意識では止めることができないので完全なる「無」には入れなくなってしまったのです。<br /> <br /> 今回は、雑多な意識が自然に静まる状態まで瞑想を続け、「観察」は動いたままで深いリラックス状態を体験しています。ナーダ音は変わらず聞こえていますが、ナーダ音が聞こえたとしてもそれに反応して飛びつく雑多な意識というものがそもそも鎮まっていますのでナーダ音が聞こえていたとしてもリラックスは邪魔されません。<br /> <br /> これは、似ているようでいてかなり違う状態であるように思います。<br /> <br /> 最初の状態は単に雑多な意識を強制的に抑え込んでいる状態で、それは「無」と表現するにふさわしい気が致します。もちろん言い方は流派にもよるでしょうが、「無」と呼ぶのが個人的には一番しっくりきます。それによってリラックスを体験し、そのリラックスは非常に有益だったように思います。<br /> <br /> しかしながら、微細な世界に入り、更にはクンダリーニが動き出してエネルギーが高まるにつれてナーダ音にしろ体のエネルギー的な不調にせよ様々な悩みが出てきたものでした。<br /> <br /> ここにきて、エネルギー的にも調和が取れ、意識としてもナーダ音に左右されないリラックス状態が保てるようになったように思います。<br /> <br /> ナーダ音は雑念が多い時に瞑想する際は助けになると思いますし、雑念に飛びつくような雑多な意識はナーダ音が聞こえるとそちらにしがみつくようになりますからナーダ音が聞こえ始めたら瞑想が早く進むようになります。<br /> <br /> しかしながら、それに頼っているうちはまだ雑多な心が「何かに飛びつく状態」であることには変わりがないのですね。きっとそうなのだと思います。<br /> <br /> 瞑想が進み、意識が簡単に外の刺激に飛びつかなくなった状態であれば、ナーダ音にも飛びつかなくなります。そうして意識の平穏が保たれる時にようやく微細な意識のままリラックスできるようになるのかなと思います。<br /> <br /> まだ荒い意識のままでリラックスできたとしてもより微細な意識に入ることでリラックスが妨げられ、そして、今回、微細な意識の状態でリラックスができるようになったのかなと思います。<br /> <br /> ナーダ音が聞こえなくなったわけではありませんが、ナーダ音が意識に入らなくなった状態でもあります。ナーダ音を探せばナーダ音が聞こえますが、そのことによってリラックスが邪魔されることはありません。<br /> <br /> ナーダ音が聞こえ始めてからしばらくの間に瞑想をしていた際は、ナーダ音にしがみつくことによって安らぎとリラックスを得る瞑想でした。しかし、今回は、ナーダ音が横にいて、それにしがみつくことなしに達成できるリラックスです。これは似ているようでいて、かなり違う状態であるように思います。<br /> <br /> Sun, 19 Jul 2020 00:00:00 +0900 ハートを感じる瞑想 https://w-jp.net/2020/1992/ <br /> 脳内の各所を段階的に瞑想で緩めて行くと、やがて、脳がふわふわになってエネルギーの滞りがなくなってゆきます。<br /> <br /> 頭頂から胸、そして下半身までエネルギーが充満していることを感じます。<br /> <br /> もともと胸のあたりまでエネルギーは充満していましたが、最近は割と頭のあたり、特に後頭部や眉間などに意識およびエネルギーが集まっているのを感じていました。<br /> <br /> これは、クンダリーニ覚醒後にまずマニプラ優勢から始まり、アナハタ優勢になり、そして、最近はアジナ優勢と言っても良い状態になっていました。<br /> <br /> しかしながら、瞑想で脳内の緊張がほぐれて行くと、やがてアジナ優勢というよりは頭のアジナと胸のハートが一体になって大きなオーラが体を包むような感じになってきました。<br /> <br /> これは、わかりやすく表現するならば「ハートを感じる瞑想」とでも言って良いものかもしれません。<br /> <br /> ハートを感じることが大切だとは昔から言われていることですが、ハートを感じるにしても様々なのだと思います。<br /> <br /> おそらく、人によっては生まれた最初からこのようなハートとアジナが統合されて生まれているような気も致します。<br /> <br /> しかしながら、一般人にとってはハートとアジナは融合されておらず、ハートとアジナが融合された後のハートはそれ以前のハートとはかなり違ったものであるように思います。<br /> <br /> そういえばこれは、以前読んだ本に「統合されたチャクラ」とかいう説明が書いてあったような気が致します。<br /> あるいは他の本では、「アジナに登ってから、ハートに降る」みたいなお話も書いてあったような気が致します。<br /> <br /> おそらくどちらも同じことの違う側面を表現しているのかとは思いますが、自分の感覚に照らし合わせてみると「ハートに降りる」というよりは「統合されたチャクラ」の方が表現としてしっくりきます。<br /> <br /> 流派によってはエネルギーをアジナに巡らせてからハートに下ろすような行法がありますけど、これはエネルギーを下ろすという感じではないです。それよりも、チャクラが統合されて動き出した、という感覚の方が正しいです。おそらく行法はこの状態を作り出すためのもので、行法が完成した際には統合されたチャクラの状態になるのかな、という気も致します。<br /> <br /> 私の場合はエネルギーを降ろすという行法はしていなくて、単に瞑想で各所の緊張を解いていったらチャクラが統合されました。おそらく、この辺りは色々とやり方があるのかと思います。降ろすというわけではないですが古代のマントラで上から下まで活性化させる、ということはしていました。結果としてはどちらも同じように体全体のエネルギーが活性化されるのかなと思います。<br /> <br /> Sat, 18 Jul 2020 00:00:00 +0900 脳内の各所を瞑想で緩める https://w-jp.net/2020/1991/ <br /> 瞑想をして何段階かで意識が平穏になると共に、緊張もほぐれてゆきます。<br /> <br /> その緊張は、まず肩などわかりやすいところから始まり、やがて、脳内の各所の緊張もほぐれてゆきます。<br /> <br /> 瞑想の基本は眉間に意識を合わせる、いわゆる集中を行う訳ですけれども、その場合、眉間など意識を合わせた場所の緊張が先に取れてゆきます。<br /> <br /> やがて、意識を眉間だけでなく頭頂や後頭部、そして頭の左側や右側など、ちょっと強張っていると思われる部分に意識を当てて瞑想をすることでその部分が不意に「ふっ」と段階的に緊張がほぐれて柔らかくなってゆきます。<br /> <br /> そうして行くと頭の中も次第にふわふわのスポンジみたいになってゆきます。<br /> <br /> 体がなくなるわけではありませんけど体の緊張が抜けて、意識が体の全体に広がっているのを感じます。<br /> <br /> その状態では、体が主で意識が備わっているというよりも、意識が主で体がそれに付随しているという感覚になります。<br /> <br /> Fri, 17 Jul 2020 00:00:00 +0900 サマーディという言葉の多様な解釈 https://w-jp.net/2020/1990/ <br /> ヨーガ系のサマーディと仏教あるいはヴィパッサナー系のサマーディとでは内容が異なります。<br /> <br /> 基本的な概略は以下です。<br /> <br /> ・ヨーガ系はサマーディが最上でそれより上はない。<br /> ・仏教あるいはヴィパッサナー系はサマーディは通過点であり観察状態(ヴィパッサナー)に至ってから悟りに到達する。<br /> <br /> これは、様々な誤解を含んでいます。<br /> <br /> これだけを見ると仏教が最上と読めてしまいますが、実際のところ、ヨーガ系と仏教は同じようなことを言っているに過ぎません。<br /> <br /> 特にヨーガは秘密主義で弟子にしか本質を教えませんから一般向けの説明と弟子向けの説明は異なっています。仏教は誰にでも教えますから、両者の説明を比べるならば弟子向けの説明、いわゆる秘伝・奥義とを比べなくてはならないわけです。<br /> <br /> ヨーガ系は、一般的にはサマーディは集中だと理解されていますが、実際には観察状態(ヴィパッサナー)です。今でこそ書籍に普通に書いてあったりしますが、そんなお話は弟子になってからかなり修行して瞑想が高まらないと教えてもらえないものでした。そんなわけで、色々と誤解が蔓延しているように思います。<br /> <br /> ヨーガ系でのサマーディは「人間の心を超越した仏の心」とでも解釈できるものが表れて初めて達成されます。一般的に理解されているように「ただの集中」ではありません。集中というのは一般向けの説明です。集中を高めればサマーディになるというのは間違いではありませんから一般向けの説明としてはそれで十分だと彼らは判断しているようです。<br /> <br /> 仏教はというとその一般向けのサマーディの解釈を使って理屈を組み立てていますので特に仏教を学んだ人はサマーディという言葉を集中として解釈しがちです。しかし、ヨーガのサマーディは異なる意味だということを押さえておかないと話の理解が違ってきてしまいます。<br /> <br /> 流派によって言葉の使い方が違いますのでこのあたりはコンテキストに沿って解釈しないといけませんね。<br /> <br /> 他人が話す言葉に対してありきたりの反応をすぐにしてしまうような人もいますけど、特にこの辺りの言葉は流派および話す人によっても解釈がまちまちですから言葉通りに受け取ることができず、その時、その時に応じて解釈しなくてはならないのでなかなか大変なところでもあります。<br /> <br /> Thu, 16 Jul 2020 00:00:00 +0900 目のスローモーションと全身の感覚 https://w-jp.net/2020/1989/ <br /> スローモーションのヴィパッサナーが始まり、やがて視界のコマ送りの激しさは物珍しいものではなくなってゆきました。その後、コマが細かく見えるという感覚は減って、視界がスローモーションではなくなってきました。<br /> <br /> 視界が元に戻りつつありますが、以前よりははっきりと見ています。しかしながら、どこかぼやけた感じです。<br /> <br /> 一方で、全身の感覚が微細になり、ヴィパッサナーという感じになってきました。<br /> <br /> この全身の感覚はおそらくスローモーションのヴィパッサナーが始まった頃から既に存在していたものですが、目の感覚が面白かったが故に私が目のスローモーションに着目していたのだと思います。<br /> <br /> 意識的に目を強く使っていたということで、目への興味が減って行ったことによりそれほど視界にエネルギーが行かなくなったのかなと思います。<br /> <br /> それと同時に、目に対しても形状が表面化すれば現実が潜在する、と言う昔からの教えが適用されるのかなと思います。初めは現実が表面化していて現実がスローモーションに見えていたのですが、その後、視界の形状・表面的な印象が小さくなっていって、「捉え所のないもの」(本質)が表面化してきているが故に視界がぼやけて見えるようになったのかなと思います。<br /> <br /> 最初はこの視界の明確さのなくなりは衰退なのかなとも思ったのですが、昔ながらの教えに従うならばこれは衰退ではなく成長なのだと思います。<br /> <br /> そのように目の感覚がぼやけてきた一方で、全身の感覚が出てきました。<br /> <br /> この感覚は皮膚の感覚とはちょっと別にあって、その感覚はというと、全身をコントロールしている微細体が確実に存在しているという実感に繋がるものです。<br /> <br /> 今までは微細体を熱感やら皮膚の感覚やらエネルギーの高まりとして感じていたわけですが、それが、微細体としての感覚が表れてきた、とでも言いますでしょうか。<br /> <br /> 私の体を動かす時に、体を動かすというよりは微細体を動かすと体も動く、という感じが少しづつ出てきています。<br /> <br /> この感覚でわかったことは、おそらくはこれが普通のことであり、基本は微細体と肉体がロックされていて外れないようになっており、幽体離脱とかはかなりイレギュラーなことなのかなと思いました。<br /> <br /> ここ数ヶ月は色々と試しましたが、一番効果があるのは何段階かに分けて意識の平穏をもたらす瞑想ですね。これが、この感覚へと繋がっている気が致します。<br /> <br /> Wed, 15 Jul 2020 00:00:00 +0900 意識の平穏が5分、10分おきに何度も現れる https://w-jp.net/2020/1988/ <br /> 一歩進んで、ゆっくりと少しづつ後退して、また一歩進んで、を繰り返しているのかもしれません。<br /> <br /> 遥か昔は、意識の平穏が瞑想中に現れることはそうそうなかったように思います。<br /> <br /> 最近は、調子が悪くても1時間、普段は5分から15分もすれば意識の平穏の段階的な変化が訪れます。<br /> <br /> その後、日にもよりますが、何度も連続して5分おきくらいに起こる時もあります。<br /> <br /> 瞑想中ですので時間は曖昧ですが、1時間とか30分の間に何回も連続して起こっていたりしますので大体そのくらいだなというのがわかります。<br /> <br /> そうしていますと、時々、意識といいますかオーラの塊が後頭部あたりから頭頂にまで登っていってサハスララのあたりに達するのがわかります。その後、オーラは静かに頭の上に抜けてゆきますが、それに要する時間は、だいたい1分前後になるでしょうか。<br /> <br /> 意識の平穏は、マントラを唱えていない時の方が来やすい感じです。<br /> <br /> ですので、基本的な流れとしては、まず意識の平穏によって凪の状態にした後、マントラを唱えるという順番にしています。<br /> <br /> このあたりはそれほど厳密ではなく、なんとなくその時の調子によって変えています。<br /> <br /> オーラが不安定だなと思ったらマントラは唱えずに意識の平穏の瞑想をして、凪の状態がやってきたらまたその状態を確認し、更なる凪が必要と思ったら意識の平穏の瞑想を継続。どこかのチャクラ、特にアジナや後頭部などの活性化をしたいと思ったならば何かのマントラを唱えてそこを活性化させます。<br /> <br /> 一旦、凪の状態にした後にマントラを唱えるのと最初からマントラを唱えるのとでは効果がかなり違うように感じています。<br /> <br /> 特に、凪の状態にした後のアジカリムン(アジマリカム)は効果的です。「アー」だけも良いです。<br /> <br /> マントラによって反応するチャクラが違いますので、私は最近はアジナと後頭部のみ活性化するマントラを選んでいます。<br /> <br /> Tue, 14 Jul 2020 00:00:00 +0900 形状が表面化すれば現実が潜在する、と言う昔からの教え https://w-jp.net/2020/1987/ <br /> ヨーガの世界では、例えクンダリーニが活性化してもやがて「普通に戻る」と言うお話があります。あるいは、歓喜が現れても「やがて普通に戻る」と言うお話があります。<br /> <br /> これは、普通に聞いてしまうと「後退」のように見えてしまうかもしれませんが、実際は、これは進歩であると言います。<br /> <br /> その理屈を説明するのは難しいのですが、仏教の教えを使って説明するとこうです。<br /> <br /> 修行の未熟なうちは、見えたり、聞こえたり、または触れたりした時に、形などの形状が先に立ち、はっきり現れてきます。「ミャンマーの瞑想(マハーシ長老 著)」<br /> <br /> 一方で、段階が進むとはっきりした形としての現れは減ってゆき、チラリチラリと滅する想念が認識できるようになります。<br /> <br /> これは、最初に感じた時は「調子が悪い」とか「うまく瞑想ができていない」「後退したのではないか」と思うかもしれません。私もそうでした。しかしながら、ヨーガでの体験談にもあるように、あるいは、仏教でこのようなお話から読み取れるように、それは正しい成長の過程であることがわかります。<br /> <br /> そのことを、昔からの言い伝えで以下のようにいいます。<br /> <br /> 形状が表面化すれば現実が潜在する。<br /> 逆に、<br /> 現実が表面化すれば形状が潜在する。<br /> 「ミャンマーの瞑想(マハーシ長老 著)」<br /> <br /> 形状 → 表面上の物や形、印象<br /> 現実 → 全ては滅するという本質<br /> <br /> 表面上の印象や形状が表れているときは本質は潜在し、本質が認識されているときは表面的な印象や形状が捉えられなくなる、ということのようです。<br /> <br /> これは、同書によれば「念が清浄になった」と言うことだそうです。<br /> <br /> はっきりと感じられなくなったことが実は「清浄になった」ことを示すのだと言うお話は、言われないとなかなか気付けないような気も致します。<br /> <br /> 私の場合、これらの状態になった時に一旦は後退したのではないかと思って色々とやってみました。普段通りの瞑想やヨガだけでなく、試しにテレビゲームなどの修行の妨げになるようなことにも熱中してどうなるか試してみたことがあります。<br /> <br /> そこでわかったのは、やはり、モヤモヤとした昔の(ヨガでいう)タマスな愚鈍な状態と、これらの「うまく言えないけれども、うまく瞑想ができない、何か調子が悪い状態」とは明確な違いがあるということでした。<br /> <br /> 一旦、テレビゲームをしてタマスな状態を一時的に作り出した時に昔ながらの懐かしいタマスを思い出し、その後、再度、瞑想をして清浄な状態まで再度一歩一歩状態を確かめながら元の不思議な状態まで変化を確認したことがあります。<br /> <br /> それでやはりわかったのは、「不思議なモヤモヤとした何となく調子が悪い状態」はやはり、いわゆるタマスな愚鈍な状態とは明らかに異なるということです。<br /> <br /> 夜は意識がはっきりしていますし朝は割と早起きできますし、それでいて以前のような愚鈍なタマスな状態とは違った不思議なモヤモヤとした感じです。<br /> <br /> そこらの瞑想やヨガの先生に言っても、きっと理解されないでしょうから特に相談はしていないです。言ったところで「タマスですね」と言われるだけな気がします。ですが、これは表面上は微妙な違いですが内面は非常に違うものであると思われるのです。<br /> <br /> 「清浄になったからこそ、不思議な、何か調子が悪い状態」が生まれるのだ、ということは確かにあるのだと思います。<br /> <br /> Mon, 13 Jul 2020 00:00:00 +0900 意識を眉間に合わせるのが瞑想の基本 https://w-jp.net/2020/1986/ <br /> 雑多な心を眉間に合わせ、<br /> それと同時に<br /> 微細な意識を眉間に合わせる。<br /> <br /> 両方合わせて「集中」と言ったりします。<br /> 後者は「眉間を観察」と言えなくもないですが伝統的にこれらは「眉間に意識を集中」と言うことが多いです。<br /> <br /> この「集中」は力を入れることではありませんし、「集中だけで観察しない」というわけでもありません。<br /> <br /> 実際のところ、雑多な心であっても観察の作用がそこに含まれていますし、<br /> 微細な意識であってもそれは観察だけでなく「思う」という心理作用もそこに含まれています。<br /> <br /> 同じような心の作用が雑多な領域で五感と関連して働く場合と、微細な領域で細かな変動を感じて働く場合とがあって、その両方とも意識と呼ぶこともあれば、場合によって片方を心と呼んだり「観察」と呼ぶこともあります。<br /> <br /> ですから、最初の言葉は以下のように言い換えることができます。<br /> <br /> 雑多な心で眉間に集中しつつ観察する。<br /> それと同時に<br /> 微細な意識で眉間に集中しつつ観察する。<br /> <br /> ですが、瞑想においては前者は集中という色合いが強くて後者は観察という色合いが強いために最初のように解釈する方が適切かと思います。<br /> <br /> この辺り、流派によって言い方が異なっていますので文脈に即して理解する必要があると思います。<br /> <br /> 特にヨーガの場合はこれらの瞑想を「集中」と説明していますけど、実際には上のようなものです。<br /> <br /> 流派によっては一定以上の教えを門下生以外には教えないという方針を取っているところも多く、ヨーガなどはその傾向がありますので、一般者が質問したら「瞑想とは集中することだ」と答えて詳しくは教えないことが多いように思います。実際のところ初学者向けの回答としてはそれで十分なのですが、それ故に一般人からヨーガの瞑想はそんなものだと誤解されている面もあります。<br /> <br /> ヨーガにせよその他の流派にせよ、奥義はそう簡単に人に教えないと思います。<br /> <br /> 奥義の本質は教えないにしてもその根幹なものは常に表に出ていますので、その本質に気がつくかどうかの違いしかないわけです。瞑想で言えば「瞑想は集中である」という言葉を聞いて「ふーん」と思うのか、その奥に奥義を見出すのか、その違いとも言えると思います。<br /> <br /> もっと細かく言うのであれば、以下のようになります。<br /> <br /> 雑多な心を眉間に合わせる。これはゆったりとした集中で良い。<br /> それと同時に<br /> 微細な意識を眉間に合わせる。これははっきりと認識するようになるべく集中する。<br /> <br /> 後者は最初はその感覚があまりありませんが、やがて感覚がはっきりしてゆきます。後者のためには集中が必要です。<br /> しかしながら前者はゆったりと眉間あたりに置くだけで十分です。<br /> <br /> 後者を集中しようとするとどうしても前者にも力が入ってしまいますが、それはなるべく力が入らないようにします。<br /> <br /> 理想的には、微細な意識だけに集中するようにします。その時、雑多な心は既にゆったりと弱いものになっている筈ですのでなすがままにさせておきます。その時、「観察」は常に働いています。<br /> <br /> 雑多な心は観察だけしてなすがままに任せる。<br /> それと同時に<br /> 微細な意識を眉間に合わせて集中する。微細な心で観察は常に行う。<br /> <br /> このような感じになるよう最近は瞑想を試みています。<br /> <br /> Sun, 12 Jul 2020 00:00:00 +0900 雑念があっても深い平穏なる意識は段階的にやって来る https://w-jp.net/2020/1985/ <br /> 意識の平穏は段階的に訪れるわけですが、雑念があってもその雑念と独立して雑念の背後で深い平穏なる意識がやって来ます。<br /> <br /> 先日書きましたように平穏なる意識の変化は3秒ほどの短い時間で起こるわけですが、平穏なる意識がやって来る前と後の、変化の数秒間があったとして、その変化が起こる前から湧き出ている雑念を観察しながら変化の数秒間が起こり、雑念が継続していながら深いところで意識が平穏になる、ということが起こります。<br /> <br /> 雑念はおそらくは深い意識から湧き出ていますので、平穏なる意識に達したならばその後は新たな雑念が出にくくなります。しかしながら、変化が起こる前から継続していた雑念は変化後も少しの間、継続するようです。<br /> <br /> この状態は、集中と観察が同時に行われています。<br /> 集中だけではありませんし、観察だけでもありません。<br /> <br /> 雑念を抑え込む必要はなくて、意識は眉間に集中しています。雑念は耳で聞こえるのと同様に、雑念が聞こえてしまうのですからあまり気にかけなければいいだけです。雑念は表面的な心の声でしかありません。それは「自分」ではありませんし、一時的なものでしかありません。<br /> <br /> 意識を眉間に集中し、雑念は聞かないようにしていれば、肉体の耳で聞こえる音が気にならなくなるのと同様に雑念も気にならなくなってゆきます。<br /> <br /> それが流派によって「定(三昧)」と言われたりもする状態のようです。雑念や心の声より奥にある意識が働いている状態です。<br /> <br /> 雑念や議論・理屈を考える心は表面的な意識で、その奥に、深くて広がっている意識があります。<br /> <br /> ヨーガスートラの段階におけるダーラナ(集中)は表面的な意識での集中であり、ディヤーナ(瞑想)は表面的な意識から深い意識への遷移の途中の状態。そしてサマーディ(三昧)になると深い意識が働き始めます。<br /> <br /> 深い意識で眉間に集中します。そうすると、段階的な変化が起こります。<br /> <br /> 多くの流派で「雑念とは戦わないようにしましょう。観察していれば雑念は消えてゆきます」と言われていますが、基本的にそれは正しいです。ただし、本当に雑念が強力で体力を奪われてしまうような場合は戦うのではなく「消す」ということはした方がいいと思います。<br /> <br /> それ以外の場合は、深い意識で集中して瞑想をすれば平穏な意識が現れ、雑念もそれに応じて少なくなってゆきます。<br /> <br /> 世間で集中瞑想と観察瞑想とが「どっちが優れているか」みたいなお話になっていたりしますけど、瞑想とは両方の面がありますので両方必要です。<br /> <br /> 集中というのは「深い意識を自在にコントロールすること」です。<br /> その時、深い意識は雑念や五感を「観察」しています。<br /> <br /> ■その他諸々のお話<br /> 前者をサマタ瞑想(集中瞑想)と呼んだり、後者をヴィパッサナー瞑想(観察瞑想)と呼ぶ人もいるかもしれません。ですが、両方なければどちらも成り立ちません。ぶっちゃけ、どちらの瞑想であっても一緒だと私なんかは思います。単に、その流派の呼び方が違うだけなのだと思っています。<br /> <br /> 例えば、<br /> サマタ瞑想(集中瞑想)のよくある批判として「集中だけしていても何も起こらない」というお話があります。それは、まだ深い意識が働いていないだけです。ざっくり言えば「修行が足りない」ということです。それを瞑想のせいにしてしまうその人が未熟なだけです。<br /> <br /> 他によく聞くのは、<br /> ヴィパッサナー瞑想(観察瞑想)は変になる人が多い、というお話があります。これはね、基礎であるサマタ瞑想(集中瞑想)をジャンプしてヴィパッサナーの真似をしているから意識がおかしくなるのですよ。五感で観察することをヴィパッサナーだと思い違いをした人が皮膚の観察を観察したり、あるいは、「体全体を感じましょう」「周囲を感じましょう」みたいな上級のお話を真に受けて五感しか働いていない人がヴィパッサナーの真似事をするから五感だけが敏感になってすぐにキレやすくなったりするのです。<br /> <br /> 瞑想は自分の心の中で行うものですからね。初心者ほどすぐに「私はできている」と思いがちですし、最近は特に宗教的な歴史伝統から切り離されたところでテクニックだけマインドフルネスとかで教えているところがありますけど、歴史が浅くて瞑想を教えているところは危険だと思いますよ。何かあったときに対処できませんよ。<br /> <br /> 例えばね、有名なところでいうとクンダリーニ症候群とかになったらマインドフルネスで対処できますか? 「そんなことになるわけがない。実証されていない。マインドフルネスは安全だ。」と言われて終わりなのではありませんか。「安全な筈」というお話と、実際に何か起こった時にどうするかは別のお話です。瞑想とは自分の中で行われるものですから正しい瞑想なのかそうでないのか判断するにはそれなりの人が必要で、マインドフルネスで教えられているような「テクニックや理論を教えてくれるだけの先生」では不十分なことは明白です。<br /> <br /> マインドフルネスは宗教じゃないから安全だと思っている方が大勢いらっしゃいますけど、それは逆で、瞑想をして宗教的なお話に踏み入ることがタブーとなっているから伝えられていることが浅くて、現世利益優先で、本質的なところが教えられていないわけです。マインドフルネスは精神を安定させるセラピーでその目的は仕事の効率をアップさせることというところだと思いますが、宗教的な知見に踏み入らないと本質はわからないものです。マインドフルネスが宗教じゃないからいいと言っている人は、自分の意識の限界を自白しているようなものです。宗教にしても思想にしても、深く理解してゆけばどれも一緒という理解に達するので、「宗教だからいけない」「マインドフルネスは宗教じゃないからいい」とか言っているのであれば理解が浅いということです。自分で理解して経験させる宗教もあれば盲目的に信じさせる思想もあります。どちらも似たようなものです。利益目的の宗教もあればそうでない宗教もあります。利益目的の思想もあればそうでない思想もあります。瞑想にしても似たようなもので、もの次第です。法人格があるかないかというところは違っていますけど。<br /> <br /> 各所で瞑想のお話を聞く時、流派のテクニックにつけられた名前のお話をしているのか、あるいは、本質におけるお話をしているのか、用語があまり統一されておらずコンテキストによって読み替えなくてはいけないのでなかなか理解が大変だったりします。そういうこともあって、色々と落とし穴に落ちている人が散見されます。本質がわかっていればお互いに分かり合える筈だと思いますけどね。本質はそうそう変わりませんよ。<br /> <br /> とは言いましても、個人的には、成功も失敗も含めて全て人生は完璧だと思っておりますので、そうして色々な瞑想を体験したり学習したりして人生を楽しむことができたら全てオッケーだと思います。<br /> <br /> 瞑想にまつわる色々な面倒なお話もありますけど、基本的には人それぞれ好きにすればいいと思っています。<br /> <br /> この記事は自分の記録も兼ねていますので後で理解が変わるかもしれませんし、それはそれでオッケーです。<br /> ですが今のところ私は前半部分に書いたように瞑想を理解しています。それをどう解釈するのも好きにすればいいと思います。<br /> <br /> Sat, 11 Jul 2020 00:00:00 +0900 意識の平穏は何段階かに分かれて瞑想中に現れる https://w-jp.net/2020/1984/ <br /> 意識の平穏は何段階かに分かれて瞑想中に現れる<br /> <br /> 雑多な意識が平穏になり、凪の状態になるとしばらくその状態が保たれます。やがて、その状態から更なる平穏なる凪の状態に遷移します。更にしばらくすると次なる凪の状態へと遷移します。<br /> <br /> その意識の遷移は直線的なものではなく、一定時間経つと段階的に変化するものです。<br /> <br /> <br /> <br /> 変化に要する時間は3〜5秒程度の短いもので、駒やゴムが収束するかのように一気に変化をします。<br /> <br /> 例えば、このような時間軸です。<br /> <br /> 1時間:(日にも程度にもよりますが瞑想後よりは)雑多な意識状態で瞑想開始。基本的にはこの間は同じ状態で続きます。<br /> 3秒:最初の変化。平穏な状態が訪れる。静寂の境地。凪の状態。<br /> 10分:最初の変化後の状態で瞑想。<br /> 3秒:更なる変化。更に平穏な状態に変化。<br /> 5分:その状態で瞑想<br /> 3秒:更なる変化。更に平穏な境地に変化。<br /> <br /> 何段階起こるかはその時次第ですし時間があるかどうかにもよります。<br /> 最近は、この変化が起きたタイミングで瞑想をやめるようにしています。<br /> <br /> ■緊張のほぐれ<br /> 変化が起こる時、体の各所の緊張も同時にほぐれます。<br /> それは、緊張をほぐそうとして意識的に行っているわけではなく、意識の変化と共に自動的に同時に起こります。<br /> <br /> 例えば上の例に則して言うならば、瞑想を開始して最初の1時間は緊張をもともと多少は意識しておりましたが、それは緊張というよりも意識の雑多な状態として認識されており、意識が揺れ動いている状態が体の緊張として現れている感じです。そして、次の3秒間で意識が平穏になると同時に体の緊張も瞬時に自動的に解かれます。<br /> <br /> 体の緊張は意識の緊張が原因で起こっており、意識の緊張が解ければ自動的に体の緊張もほぐれるということだと思います。<br /> <br /> 意識が静寂になって凪の状態になれば自然と体の緊張もなくなります。その変化も同時に起こりますので、瞬時に変化します。<br /> <br /> これは、逆であるところの「体の緊張がほぐれるから意識が静寂になる」のではありません。意識の変化と体の緊張の変化はほぼ同時に起こりますので識別が難しいですが、私が瞑想中に観察したところによると、意識が先に変化して瞬時に体の緊張もほぐれるのだと理解しています。<br /> <br /> これは、整体などで体をほぐすことによってリラックスな精神状態を得ることを否定しているわけではありません。瞑想における上記の状態の変化を説明しているだけです。<br /> <br /> Fri, 10 Jul 2020 00:00:00 +0900 意識が凪の状態になり、そこでオームを唱える https://w-jp.net/2020/1983/ <br /> 海が凪(なぎ)の状態で風がなくなって穏やかな水面になるのと同様、瞑想をしていると不意にふっと意識の凪の状態が訪れます。それは清浄な意識のことでもあります。<br /> <br /> 清浄といえばそうなのですが、それよりも凪と言った方が正確かと思います。これを「透明」とか「無」とか言う人もいらっしゃるかもございませんが、何もなくなったわけではないのは明らかですので「無」と言うのは語弊があるような気が致します。意識はあるのですが意識が凪の状態になるのです。意識の波立ちが穏やかになっていることをはっきりと感じ取ることができます。<br /> <br /> その状態になってから心の中でオームを唱えるとオームが体のどの部分に反応するのかがよくわかります。<br /> <br /> アーは眉間。<br /> ウは胸<br /> ムは下腹部<br /> <br /> もともとオームは古代において3節で唱えていたと言いますから、私の場合、アーだけ頭の中で唱えると心地が良いです。<br /> <br /> 意識が凪の状態になり、アーを唱えると眉間がザワザワとした感触になります。<br /> <br /> このザワザワとした感触はマントラを唱えたりアサナ(ヨガの体操)をしたりするとそのような感触が出ることもありますし、瞑想中に感触が出ることもございます。<br /> <br /> しかしながら、このように意識を凪の状態にしてアーだけを唱えるととても純粋に眉間が反応しているように思われるのです。他のマントラではこの感触を長く続けることができますが、このように意識が凪の状態でアーだけを唱えると強すぎる感もあります。そのくらい眉間に反応が出ています。無理して続けようとするとクラクラして来るくらいです。<br /> <br /> 色々と試したところ、この2ステップがとても効果的で自らの意識を変えてゆくのに良いような気がしています。<br /> <br /> どう変わるのかはこれからのお話ですが。<br /> <br /> なんとなく直感としてこの2ステップが良いように思えたのです。<br /> <br /> 1.意識に凪の状態が来るまで瞑想する。この時はまだマントラを唱えない。<br /> 2.凪の状態でマントラを(心の中で)唱える。<br /> <br /> こうすることで、マントラが単なる心の詠唱ではなく深いところに直接的に働きかけるようになるような気が致します。<br /> <br /> Thu, 09 Jul 2020 00:00:00 +0900 ジョブスは神の怒りを買って処分された https://w-jp.net/2020/1982/ <br /> 一緒にアップルを立ち上げたウォズニアックは神の如き人格なのに対してジョブスは人を煽って世界の不幸を加速させたが故に神の怒りを買って処分されたようです。<br /> <br /> ・・・瞑想中で見たお話ですので本当かどうかはわかりません。ファンタジーだと思っておいてください。<br /> <br /> どうやら、とある神はジョブスに苛ついていたようです。<br /> <br /> 他人と分かち合うことをせずに世界を煽りに煽って自分の製品を高値で売り抜ける手法は神の本意にはそぐわないようです。<br /> <br /> 実際、アップルの製品は半分はアップルマークがついている故のブランド価格ですし、寡占化してしまえばソフトのサブスクリプション等で利益は思うがままです。<br /> <br /> 良い製品を出すということは問題ではありません。<br /> <br /> 問題なのは、良さを煽ることでアップル製品が買えない数十億の人たちの不満を増大させるという点にあります。不満、妬み、恨み、怒り。そのようなものをジョブスが世界中にばら撒いているのです。それも数十億人の単位で不満をばら撒いているのであれば神も懸念します。<br /> <br /> 本人はそのつもりがないのかもしれませんが、やっている行動が多数に影響を与えてこのような不幸を世界中に大量生産すると神の怒りを買うということのようです。<br /> <br /> アップル製品を半額以下のお手頃価格にしてライセンス料金も良心的な価格にし、更には財産を人に分け与えるということをジョブスには期待されていたようですが、そのようなことをせずにプレミアをつけ続けたが故に神の堪忍の尾が切れたということのようです。<br /> <br /> 神は、そのような独占を加速させるジョブスを許さなかったようですね。<br /> <br /> ジョブスを神格化している人も大勢いらっしゃいますけど、神そのものというよりは、神によって選ばれ、やがて神の怒りを買って処分された人間だ、ということのようです。<br /> <br /> ジョブスが禅を学んで実践していたというお話はよく聞きますけど、それも神によって導かれたもののようです。しかし、それを個人的に実践はしていても他人と分かち合うという精神を広く発揮できなかったが故に処分されたようです。<br /> <br /> 影響力が大きい人はそれなりに大きなものが求められるということですね。<br /> <br /> iPhoneのようなインスピレーションはそれが可能な人には神が与えることがありますが、往々にして自分のアイデアだと思いがちのようです。しかし、それは実際は神が与えたものなのですよね。<br /> <br /> それを勘違いして自分のものとして利益を享受したら神に処分されるということのようです。<br /> <br /> 処分とは言っても、そこは神ですから、「もう十分だ」ということのようです。これ以上続けると独占と利益重視の王国が堅固になるため、それはさすがに許容できないということのようです。今でも既に許容範囲を超えていますが、更に堅固になることは絶対に許されなかったようです。<br /> <br /> このように、神に選ばれたものの使命を果たした後は変な方向に行かないように早急に早死にする方は大勢いらっしゃいます。聖人のような方ほど早死にするとはよく言ったもので、それは、聖人が不幸にあうというよりは聖人がこの世に生きていると堕落してしまうのでそれを避けるために早めに死ぬという面もあります。それは自身のスピリットが自分のためにそのように選ぶ場合もありますし、ジョブスのように他の神の怒りを買って処分される場合もあるようです。<br /> <br /> Wed, 08 Jul 2020 00:00:00 +0900 30分から1時間の瞑想で意識が集約し、清浄な意識が現れる https://w-jp.net/2020/1981/ <br /> ヨーガスートラにおけるヨーガの定義<br /> <br /> (1-2) 心の作用を止滅することが、ヨーガである。<br /> (1-3) そのとき、見る者(自己)は、それ本来の状態に留まる。<br /> 「インテグラル・ヨーガ(スワミ・サッチダーナンダ著)」より<br /> <br /> 前半は、心の雑多な荒い面を鎮めること。<br /> 後半は、心を鎮めることができたならその奥に清浄な意識が現れてくる、ということを示しています。<br /> <br /> ですから、ヨーガスートラへのよくある批判である「心をなくしてしまったらその人は人間と言えるのだろうか」みたいなお話は当てはまらないわけです。<br /> <br /> これは、前半は主にダーラナ(集中)とディヤーナ(瞑想)のことを言っていて、後半はサマーディ(三昧)のことを言っています。<br /> <br /> 肉眼だけでなく、心の眼によって目標がしっかりと捕獲された時、それをまことの精神集中と呼ぶのであって、即ちそれがディヤーナ(ダヤナ)の達成である。「ヨガ行法中伝(関口野薔薇著)」<br /> <br /> ダーラナは主に肉眼や心による1点集中。それを進めるとその対象が心に占めた状態であるディヤーナに達します。その後、「見る者(自己)」が現れてくるのがサマーディです。<br /> <br /> このあたり、様々に誤解があって、ディヤーナ相当でも自分がサマーディだと思っている方もいらっしゃいますし、流派によっても何と呼ぶか様々なようです。サマーディ以上のものがあると言っている方もいらっしゃいますし、サマーディが最高だと言っている方もおられます。<br /> <br /> しかし、ヨーガスートラの最終地点をこのように「自己(アートマン)」の顕現だとするのならば確かにその先もあるでしょうが、とりあえずの終着地としては十分ではないでしょうか。<br /> <br /> その境地にすらなかなか達しないのですから、あまり理屈でどうこういうよりもその時間だけ修行したらいいと思うのです。<br /> <br /> 確かに「自己(アートマン)」の顕現が悟りそのものではないですが、悟りへと辿り着く中間地点であることは間違いありませんのでヨーガスートラは良い道しるべになると思います。否定する必要は全くないと思います。<br /> <br /> サマーディは上級者は日常的に状態を保つことができるようですが私なんかですと時々瞑想をして30分なり1時間なりして意識を清浄に保つ必要がありますね。<br /> <br /> その時は、最初は意識が多少もやっとしていて、30分なり1時間なり瞑想をすると急に意識が収束し、そして、清浄な意識が現れてきます。<br /> <br /> それは全く異なる2つの質です。<br /> <br /> もやっとしている、と言っても比較した時のお話であって普段はあまりそうと気が付きません。瞑想をしてその意識が収束して初めて今までがモヤッとしていたことに気付く、という種類のものです。<br /> <br /> そのサマーディはいわゆるスローモーションのヴィパッサナーの境地でもあるわけですが、疲れや日常生活の行動が原因でその境地から少しずつ解除されてゆくのですよね。ですから定期的に瞑想をして再度、清浄な意識に戻してあげないといけません。<br /> <br /> 上級者だとそんな必要もないのかもしれませんけど私には定期的なメンテナンスが必要です。<br /> <br /> このサマーディについて参考になる一節を引用します。<br /> <br /> 単に生理的機能として観たる「人間の心」は、決してサマディの境地には移行し得ない。人間には「生理的な心」とは別に、それに超越した「仏の心」というものがあり、此の仏心が自己顕現を行うことによって飲み、サマディの心境が顕れて来るのである。「ヨガ行法中伝(関口野薔薇著)」<br /> <br /> この本はつい先日入手したばかりですが、まさに今まで私が「そうなのではないか」と思っていた内容がズバリ書かれてあって本質的です。自分の中で組み立てられていた仮説が裏付けられた気が致します。<br /> <br /> 一体この著者はどのような人だろうと思ったのですが、どうやらあのヨガナンダ師の弟子だそうです。であればこの見解も納得です。ここまでの見解を出せる人はそうそういないと思います。<br /> <br /> Tue, 07 Jul 2020 00:00:00 +0900 観察ではなく集中こそが瞑想の基本 https://w-jp.net/2020/1980/ <br /> 息を観察する瞑想とかありますけど、観察よりも集中こそが瞑想に必要になります。<br /> <br /> 最近は理屈っぽい人が多くなっていて、ヴィパッサナー瞑想なども有名になったりして観察瞑想とか言われていますけど、瞑想の基本は観察ではなくて集中です。<br /> <br /> 瞑想の宣伝文句で「集中瞑想は本質ではなく、観察瞑想こそが本質」とか宣伝されていますけど、そういう謳い文句に流されない方が身のためです。<br /> <br /> 瞑想というものは何千年も歴史があって、瞑想というのは集中瞑想が基本です。<br /> <br /> その基本をないがしろにして「実は瞑想は集中のことではなくて観察のことなんですよ!」なんていう煽り文句に騙されてしまうと痛い目を見ます。<br /> <br /> 特に瞑想なんてのは自分の内面で行うものですから、気がつかないうちに混乱をきたしてしまうこともあります。<br /> <br /> 上のような無責任な宣伝文句に惑わされて「観察瞑想」とやらをしてしまった結果、集中が疎かになってしまって精神的なダメージを受けてしまう方が多くいらっしゃいます。<br /> <br /> この辺り、やはり歴史というものは重要で、歴代に渡って瞑想をされてきた流派と最近ぽっと出てきて瞑想を教えている人とは一味も二味も違うと思います。<br /> <br /> 瞑想とは何か? を聞いたときに「集中です」と答える人は本質がわかっています。<br /> <br /> 「観察です」という答えも間違いではないです。ですが、基本は集中です。<br /> <br /> 実際のところ、瞑想とは両方です。<br /> <br /> 特に初心者向けには「瞑想は集中です」と言っても間違いではないですし、「はじめての瞑想」なんていうお話であればそう言い切ってしまっても問題はないと思います。<br /> <br /> それを、どこから持ってきたのかはそれぞれですけど「ブッダ伝来」とか理屈をつけて「観察瞑想」こそが本質だ、なんて言い出している方がいらっしゃいます。<br /> <br /> 人々は物珍しいものに惹かれるのでしょうね。そう煽られれば「そうか。集中瞑想は本質じゃないんだ。観察瞑想こそが本質なんだ」とか思ってしまうでしょう。<br /> <br /> 確かにね、中級者以上であれば観察瞑想が本質です。<br /> <br /> しかし、ほとんどの人は瞑想初心者でしょう。質問で「瞑想とは何か」とか「瞑想は集中ですか、観察ですか」なんて聞いている時点で初心者ですよ。であれば「瞑想とは集中です」という回答で十分だと思いますよ。<br /> <br /> 書物で瞑想をかじった人は「集中です」と言われると「古典」だとか「古い」とか思ったりして、ガッカリしたりするようです。<br /> <br /> しかしですね、やっぱり瞑想は「集中」なのですよ。そこのところがわかっているかどうかが大きいのです。<br /> <br /> 「瞑想が集中なんて言っている人は古い。瞑想は観察だ」とかいう人は瞑想の初心者確定です。そんなこと言うのは初心者だけです。<br /> <br /> ぐるぐると大回りして、最後に「ああ、やっぱり瞑想は集中だった」と気付く人もそれなりにいらっしゃいます。<br /> <br /> であれば、最初から古典である「瞑想は集中」から始めれば早いと思うのですけどねえ。人は、新しくて物珍しいものに惹かれますからね。「瞑想は集中ではなく観察だ!」と煽られれば「そうだ」と思ってしまうのでしょうね。<br /> <br /> 瞑想とか精神世界って落とし穴がいっぱいで、簡単に誰かを精神的な奴隷にできてしまいますから、何某かで煽ることで引き付けたい、という人もいらっしゃるのでしょうね。あるいは、何か単に瞑想について勘違いしているだけかもしれませんね。どちらにせよ、そんな煽り文句など放っておいて、古典的な瞑想である「集中」から始めるのが早道だと思うわけです。<br /> <br /> 例えば、息を観察する瞑想。これは、息に集中する瞑想のことです。中級者以上は息を観察する瞑想ですけど、初心者にとっては息に集中する瞑想のことです。<br /> <br /> 瞑想において「力を入れない」なんて言われますけど、これまた中級者以上のお話です。<br /> <br /> 初心者は瞑想においてかなり力を入れて集中しないと意識がさまよってしまいますから頑張って集中する必要があります。そんなものです。「ほんわかと観察しましょう」なんてお話を本気にしたらいつまで経っても瞑想の効果が出ないです。特に急いでいないのならばいいですけどね。悩みを早く解決したいなら集中から入るべきです。<br /> <br /> 皮膚を観察する瞑想なんてのも同じことです。これも中級者以上が観察で初心者は皮膚に集中する瞑想です。<br /> <br /> どちらにせよ、皮膚の観察をしたところで五感の範疇ですから、強い弱いの違いがあっても全て集中瞑想とも言えますし全て観察瞑想とも言えます。所詮は割合が違うだけです。それを集中瞑想だとか観察瞑想だとか分けることこそ意味がないと言えば意味がないわけです。<br /> <br /> 五感を超えたところの意識が現れてくる段階があって、それをヴィパッサナー(観察)瞑想とも言うことができますが、そんなのは先の先のお話であって、皮膚をいくらやんわりと観察したところで所詮は五感の観察ですから、観察だとかに拘らず、基本である集中瞑想をしっかりやればいいと思うわけです。<br /> <br /> Mon, 06 Jul 2020 00:00:00 +0900 サードアイとフォースアイ https://w-jp.net/2020/1979/ <br /> 第三の目(サードアイ)とはよく言われていますけど、目といいつつ、実際のところ肉眼のような視界ではなく直感力が鋭くなります。ですので、肉眼のように微細な霊界が見れるようになるわけではありません。<br /> <br /> その先にある、俗に言うフォースアイであれば周囲も見られますし時空も超えられます。周囲から自分を外側から見る能力はサードアイではなくてフォースアイの能力です。<br /> <br /> ただし、そのことをサードアイと言っている方もいらっしゃいます。この辺りは流派によってそれぞれですね。<br /> <br /> 先日、リシケシ在住のスワミの講和を聞きましたがサードアイは視界のことではなく直感力およびポジティブな力のことだとおっしゃっていました。ですから、サードアイによって視界が開けると言うわけではないようです。<br /> <br /> この辺りは、実際の姿は同一でも、その表現が異なるわけです。<br /> <br /> 流派によっては直感力やポジティブ力のことはサードアイだとはいいませんけど、先日私が聞いたリシケシ在住のスワミのお話だとそんな感じでした。<br /> <br /> 私個人の言い方ですとこのスワミに似ていて、直感力みたいなものはサードアイの範疇で、時空を超えたり自分の周囲を自由な視点で見るのはフォースアイ的なものの力です。<br /> <br /> サードアイまででも時空を越えることはできますが受動的なものになります。自分で探しに行くというよりは直感を受け取る力になります。直感を送る方は時空を超えた先の未来の自分だったり過去の自分だったり守護霊のスピリットだったりするわけですが、それを受け取るのがサードアイの能力です。送る能力もあるにはありますけどこのくらいですとそんなに力は強くないと思います。大体の感覚を送ったり受信したりする能力がサードアイの基本的な能力です。<br /> <br /> その先にあるフォースアイは、最初の場所としてはサードアイのあたりで近いですがクリスタルのコアのようなものがアストラルで作られて、そのクリスタルが周囲を見たり時空を超えたりします。飛行機やドローン、あるいは地球の外に浮かぶ人工衛星や宇宙船みたいなもので、離れたところからの映像を自分のサードアイに送信します。それがフォースアイです。<br /> <br /> これはサードアイとしての基本的な送受信能力に加えてアストラルのクリスタルの両方が作られて初めて発揮する能力です。前者だけですとサードアイですし、後者のこともサードアイと言ったりもしますけど私はフォースアイと呼ぶ方がしっくりくると思っています。<br /> <br /> サードアイは英語で「3番目の目 3rd Eye」、フォースアイは「4番目の目 4th Eye」です。フォースと言ってもジェダイのフォースではないのです。語呂合わせがいいのでそう言うことにしてしまってもいいかもしれないですけどね。<br /> Sun, 05 Jul 2020 00:00:00 +0900 プレアデスの宇宙船で暮らした時のお話 https://w-jp.net/2020/1978/ <br /> ・・・ファンタジーだと思っておいてください。<br /> <br /> 私のグループソウルの過去生において、宇宙船に暮らしたことがあります。<br /> <br /> 前にも少し書いたような気が致しますが、その時は確かヨーロッパの方で教会かあるいはそれに類する思想家のような立場で暮らしており、ある程度は有名になっておりましたので宇宙人が定期的に観察をしており、やがて、宇宙船が降りてきてコンタクトしてきたのです。<br /> <br /> 実際のところ未来予知の能力もそこそこありましたので子供の頃からそれは予感しており、それが来た時は実物を見て驚きはしましたし感動もしましたが予見が実現したという思いも同時にありました。<br /> <br /> それはたぶんプレアデス系の宇宙船だったのではないかと思うのですが彼らはとても長寿で、その時に知り合った人たちは未だ存命のような気が致します。たぶん200年は経っているとは思いますが。<br /> <br /> 宇宙船と言ってもかなり広く、いわゆるアダムスキー型のような円盤の形をしておりますが円周は数キロはあったように思います。広すぎず、かと言って狭すぎない程度です。<br /> <br /> 子供が大体10人くらいいて、家族ぐるみで生活をしていたように思います。人数は数百人くらいだったでしょうか? 選ばれたメンバーが母星から遥々と遠征してきており、定期的に補給物資を運ぶ輸送船が来ていたりしていましたが基本的には独立して活動しておりました。<br /> <br /> その時、どうやらプレアデス系の宇宙船は地球との関与を久々に再開したばかりで、人間を知りたがっていました。<br /> <br /> この背景は半世紀前に話題になったスイスのビリーマイヤーによるコンタクト記録などに詳しいですが、最近の書物ですと「プリズム・オブ・リラ」などにもその背景が描かれております。細かいところは当たらずとも遠からずという感じで、基本的には参考になると思います。<br /> <br /> いわゆる宇宙艦隊といいますか宇宙連合が組織されていて、人間型宇宙人の一角をプレアデスが占めております。そして、地球だけでなく他の星の精神的成長を助けたりしています。<br /> <br /> 例えば、私もその後、宇宙艦隊のメンバーになって他の星に転生したことがあります。<br /> <br /> 具体的には、卵に手足がちょこんとついていて可愛い目と口がついているような生命体でしたが、今の地球のようにエゴが前面に出ていて自尊心が強く独占欲が強く、その星の生命体の精神を向上させるというミッションでした。<br /> <br /> 宇宙連合のメンバーは宇宙船から惑星を観察したり、時には上記のように実際にその星に転生したりして任務を全うしました。<br /> <br /> もちろん、この地球に転生をしてきている人も大勢いらっしゃいます。<br /> <br /> 人間の転生とプレアデスの転生はちょっと変わっていて、人間の場合は転生の時点でグループソウルといいますかハイヤーセルフといいますか根元と一旦一緒になってから再度分裂して転生をする、ということを行っておりますので前世と今世の魂が同じようでいて異なる質として生まれます。<br /> <br /> 一方、プレアデスの場合はまず寿命がとても長く、転生するにしても同じ魂がそのまま新たな肉体に宿る、あるいはアストラル体のまま生き続ける、という選択をするように思います。<br /> <br /> ですから、プレアデスの人からすると人間の転生は不可解で、どうして前世であのような資質を持っていた人が来世でこのようになるのか、そこのところが最初は理解できなかったようです。その辺りもプレアデス人の興味を引くところで、地球人はプレアデス人にとって興味深い観察対象だったと言えます。<br /> <br /> プレアデス人は地球の軌道上から地球を観察しているわけですが、基本的に地球は「野蛮で危険なところ」という認識です。ですから、地球に転生をしたいという人に対しては「やめたほうがいい。危ない」というのが常でした。<br /> <br /> プレアデス人の気質は何事にも興味を持つ探求心を持っており、技術にも優れておりましたので工作による改造やら趣味やら、とても人間臭いところを感じました。<br /> <br /> プレアデス人は地球の人が思うような神のような存在ではなく、親しみのある愛情豊かな人間であると言えます。実際、向こうも自分たちのことをそう思っております。<br /> <br /> それはアメリカ人のオープンな気質とも似ています。<br /> <br /> プレアデスの技術はアストラルな面にも及んでおりますので、地球の観察をする時は観察対象の人が頭の中でどのようなことを考えているかを読み取ります。口でどのようなことを言おうとも、どのような時であれ頭の中まで観察できますので本気になって調べられたら誰であろうと頭の中まで裸にされてしまいます。それが技術の差です。<br /> <br /> そんなことをしていますと地球人の恥ずかしいところもよく目にしてしまうわけですが、それを読み取ったとしても恥ずかしいことは相手に言わない、あるいは、見て見ぬふりをする、という紳士の誇りというか紳士の名誉のような不文律がありますし、地球人の恥ずかしい面を見たところでプレアデスの人は気にも止めません。プレアデスの人は相手を貶めて辱めるようなメンタルにはありませんから、そこは安心して良いと思います。<br /> <br /> その後、私はプレアデスの居住星の方でも転生したことがありますけど、プレアデスの人はメンタルが平穏すぎて地球育ちの人が生きるには純粋すぎてちょっと息苦しい感じを受けました。透明な水の中で生きられない魚の気持ちがわかりました。<br /> <br /> プレアデス人の性に対する感覚も違っていて、プレアデスの人にとって性とは子供を作る手段であり、地球の人のように性でコミュニケーションを取るというよりも性を超えた普遍的な愛の先に子供という選択があって、子供を作るために性を用いる、という感じでした。よって、性的な接触は最低限しかありませんし、地球人のように性的欲求のためにコトを行う、ということはあまりないようです。それよりも、語り合ったり近くにいたりという純粋な愛情表現が優先されているように思われました。<br /> <br /> ですので、地球の人がプレアデスの世界で暮らすのはおそらく窮屈で欲求不満になってきついと思います。あまりプレアデスのような世界に憧れるよりは今いるこの地球で満足に暮らすほうが幸せだと思います。上の世界を夢ていたとしても、今いる世界が自分に一番あっているのだと思います。<br /> <br /> 地球の場合は幼い頃から学びを続けて大体40歳前後で真実を悟り、それ以前の生活とは変わるような気が致します。一方で、プレアデスでの場合は幼い頃からかなりの真理を悟っている気が致します。プレアデスの環境は地球の人が学ぶべきことを学べない環境ですので辛いと思います。<br /> <br /> プレアデスの世界は、ヨーガ的基準で言うとアナハタ以上の世界です。地球の聖者と言われている人がプレアデスでの普通です。聖者だらけの世界に生きたら、普通の人は苦しいと思いますよ。<br /> <br /> メンタル的にはそのくらいの違いはあっても、人の資質としては上のようにオープンで気軽で楽しい人たちばかりです。<br /> <br /> 宇宙船の司令室は宇宙戦艦ヤマトのように天井が高くなっており、どちらかというと銀河英雄伝説に出てくる自由惑星同盟の戦艦の司令室の方がイメージに近いですね。広さはそこまでではありませんけど感じとしては似ています。<br /> <br /> SFはファンタジーだと思われていますけど、意外に現実に即しているとよく思わされます。スターウォーズなんてオリオン大戦そのものですよね。<br /> <br /> Sat, 04 Jul 2020 00:00:00 +0900 後頭部が脈打ち、鼻頭がピリピリする https://w-jp.net/2020/1977/ <br /> 最近の瞑想では頭の各所に反応・感覚が出ているわけですが、特に最近は後頭部が脈打って、鼻頭がピリピリするようになりました。<br /> <br /> 瞑想中にマントラを唱えると特にその反応が出ます。<br /> <br /> 古代のマントラを唱えると頭から下半身まで満遍なく反応が出て特に下半身に強く出るので最近は古代のマントラは数回唱えるだけにしていて、最近は「アジカリムン(アヂマリカム)」がお気に入りです。<br /> <br /> このマントラを唱えると後頭部のあたりに反応が出てグリグリと動き出しそうな感覚が現れます。<br /> <br /> 時々、試しに後頭部の中で筋肉を動かして水平に回転させたり横に寄せてみたりしてストレッチっぽいこともしてみています。後頭部の下の方がやりやすいですが、それより少し上のあたり、つむじの内側辺りでも同様に脳内ストレッチしてみたりしています。<br /> <br /> そうして日々の瞑想をしていたら、血行が良くなったのか何なのか、後頭部の、つむじの少し下寄りの表面近くで脈打つ感覚が現れるようになりました。<br /> <br /> 以前から何度か、うなじや各所で脈動を感じることがありましたので似たようなものかなとは思います。<br /> <br /> おそらくは、もともとそのあたりでエネルギーが滞っていて、エネルギー的にその箇所が活発になったのかなと思います。瞑想の効果ですね。<br /> <br /> 視界にも変化が現れていて、最近は基本的にいつもヴィパッサナー状態ではあるのですがその濃淡といいますか見え方には微妙な違いがあって、具体的には自分の意識がクリアであればあるほどはっきりと視界が細かくスローモーションで感じられます。補足しておきますと、時間が遅くなるわけではなく細かいコマでスムーズな動きで感じられるということです。それを比喩的にスローモーションと表現しています。<br /> <br /> 瞑想で脳が活性化すればするほど視界が細かいコマで感じられてスローモーション画像のように細かいコマをリアルタイムで見ている感じになるわけですね。時間経過は変わらないですが感覚的にスローモーション動画のように意識には認識されるということです。<br /> <br /> それは意識の状態に対応していて、ちょっと眠気があってぼっとしている時はそれなりの認識ですし、瞑想後にはっきりとした意識の時ははっきりとしたコマで視界が認識されます。<br /> <br /> その辺りの認識と、脳のあたりで脈打つ感覚が連動しているのがよくわかります。瞑想で頭が活性化すればするほど認識が細かく微細になるわけです。<br /> <br /> 認識が微細になるためには意識が静まる必要があるわけで、スローモーションで認識されたからと言ってそれで意識が特別に活性化するわけでもなく淡々とした・・・ というと語弊がありますが、意識は活性化しているのですが、それは激しい意識や感情を目的としたものではなく、一瞬で認識が入ってきて一瞬で識別するという瞬間・瞬間が連続するということです。<br /> <br /> ですから、最初ヴィパッサナーが始まった頃は割と驚きと物珍しさで意識が多少高揚しましたが、慣れてきた今は割と淡々と識別を行っている感じです。<br /> <br /> そうしてヴィパッサナーに慣れてきた今は、更に脳が活発化してきて、脈打つこともありますし、鼻頭がピリピリすることもよくありますけど、それも慣れたもので、違和感がなくなってきています。<br /> <br /> このくらいになると瞑想始めた頃のようなワクワク感による期待というのはほとんどなくなってはいますけど、おそらくはまだ先の境地があることがよくわかりますので、違う意識における期待というのは多少はあります。それは一般的に言われているような期待とは違って予測に近いもので、期待するというよりは予測が感じられて、予測を感じた意識が「はい。そうですか」と思っているだけですので、それを期待と言えばそうなのかもしれないですけどよくある一般的な期待とは異なるものです。<br /> <br /> 細かい変化ですけどまだ先があるということがわかります。<br /> <br /> この種の脈動やピリピリという感覚はその人の状態を知るための「ヒント」あるいは「しるし」として使えそうですね。<br /> <br /> Fri, 03 Jul 2020 00:00:00 +0900 スピリチュアルも宗教も思想も全部一緒 https://w-jp.net/2020/1976/ <br /> よく分かっていない人だけが分けたがります。<br /> <br /> 思想も「信じなくてはならない」という誤解があります。<br /> 宗教も「信じなくてはならない」という誤解があります。<br /> スピリチュアルも「信じなくてはならない」という誤解があります。<br /> <br /> 例えば思想の「唯物論」にしても、単なる論ですのにあたかも絶対的な真理として語る人がいます。それは宗教みたいなものです。<br /> <br /> ダーウインの「進化論」にしても科学の絶体的な真理みたいに日本では語られていますけど、単なる論です。科学というのは証明が必要ですから実際に進化論を証明するには何万年もかかります。タイムマシンでも発明しない限り証明は遥か先のことになりますから、所詮は理論に過ぎません。<br /> <br /> 科学の大御所といえばノーベル賞ですが、進化論のような生物学でノーベル賞なんて聞いたことがありません。進化論なんてそのようなものなのに絶対的な真理だと思い込まされていて、「信じなくてはならない」という圧倒的な雰囲気に飲み込まれているのが日本です。これは宗教とそう変わりがありません。外から見たら、進化論を信じなくてはならない宗教団体のようなものです。<br /> <br /> 思想は単なる表面的な思いですので人間の頭が作り出したものです。<br /> <br /> 宗教にしても表面的なものがあって、それは人間の頭が作り出したものです。<br /> <br /> スピリチュアルにしても表面的なものは人間の頭による創造物です。<br /> <br /> 思想はもともとはピタゴラス派のように神秘主義の団体によって形成されたものですので、宗教みたいなものです。思想が科学だと思っている人も多いですが、思想は宗教みたいなものです。<br /> <br /> スピリチュアルにしても誰かの頭によって作られたものです。であればスピリチュアルも宗教みたいなものです。<br /> <br /> どちらにせよ、作った当初は柔軟で本質に近いものでしたが、時間が経つにつれて形骸化してもともとの本質が失われるが故に避けられるようになるわけです。<br /> <br /> 今でこそ宗教が避けられていますが、宗教が作られた当初は現在の「思想」とかの意味に近かったと言えます。<br /> <br /> 今でこそスピリチュアルに新しいイメージがありますが、宗教が作られた当初、あるいは、思想が作られた当初は新しいイメージがありました。<br /> <br /> 何であれ、新しく作られるものに対しては良いイメージがあって、古いものは避けられるということです。そして、新しいものは生きていて、古いものは死んでゆくということです。<br /> <br /> 思想も古くなり、死んでゆき、宗教も古くなり、死んでゆき、やがてはスピリチュアルも古くなり、死んでゆきます。<br /> <br /> しかし、思想を選んだとしても宗教を選んだとしてもスピリチュアルを選んだとしてもその本質は変わらないわけです。<br /> <br /> 宗教は1つだけ選ばなくてはならないと思っている人がいらっしゃいますけど、この世の中の徒弟制度にしても流派にしても、かなりのものが「1つだけ選ばなくてはならない」ものだらけですので、宗教だけ避けているのも何だかなあ、という気が致します。<br /> <br /> 昔から新興宗教みたいなものは多くありましたし、今更になって増えたわけでもありませんし。昔は宗教というよりもミステリーサークルみたいな神秘主義の集まりだったものが今は宗教団体という形を取っているだけです。<br /> <br /> 昔からカルトはいましたし、カルトは宗教団体だけのものではなく思想団体にも多くみられました。<br /> <br /> 思想も宗教もそれほど変わりがないと言えます。<br /> <br /> 昔はミステリーサークルでしたが、今はそのような任意団体だけが宗教になっているわけではなく、宗教団体を隠れ蓑にした税金対策みたいな変な団体もいたりして、宗教法人というものが利益のためにも使われている点が純粋ではないとは言えますが、昔からそういう資金流用とかはありましたので今に始まったことではありません。<br /> <br /> 「信じなくてはならない」という宗教は実際のところそれほど多くありません。初心者向けに「信じなくてはならない」と言っているだけで、実際は、本人が理解して経験しなくてはならないことだらけです。<br /> <br /> 中級者以上になったら「信じなくてはならない」なんて言われません。<br /> <br /> 思想にしても自分で考えるでしょう。<br /> 宗教にしても自分で瞑想して本質とは何かを考えて理解しようとするでしょう。<br /> スピリチュアルにしても自分で探索して自分の頭で理解・体験しようとするでしょう。<br /> <br /> どれも大差ないと言えます。<br /> <br /> もっと拡張すれば、ヨーガとかも広義における思想・宗教・スピリチュアルに含まれます。<br /> <br /> もちろん仏教もそうですし神道もそうです。キリスト教も同じです。一神教にせよ多神教にせよ、単に伝え方が違うだけで本質は同じです。<br /> <br /> ただ、住んでいる環境や人の性質に応じて違った様相が現れているだけのことです。<br /> <br /> 思想にせよ宗教にせよ、何某か導く人は現れますし、その人を先生と呼ぶかグルと呼ぶか教祖と呼ぶか教授と呼ぶか博士と呼ぶかはそれぞれですけど、大差ないと言えます。<br /> <br /> どちらにせよ、他人を従属したいと思っている団体はその程度ですし、本質を見極めたいと思っている団体にしてもそれぞれです。<br /> <br /> 自分の宗教があるから他の宗教はできない、みたいな方もいらっしゃいますけど、本質は同じですのであまり拘らなくてもいいのではないかと私なんかは思いますけど、1周目であれば1つの宗教なり思想なりにどっぷり使った方がいいと思うのも確かです。<br /> <br /> 最初は1つの流派でとことん極めて、その理解を元に他の流派の理解を深めてゆくのもいいかと思います。<br /> <br /> どちらにせよ、本質は変わりません。<br /> <br /> Thu, 02 Jul 2020 00:00:00 +0900 瞑想は経験が先に来て説明が後に来る https://w-jp.net/2020/1975/ <br /> 流派によって定義が様々で、サマーディとかヴィパッサナー等の用語に差異があります。<br /> <br /> 例えば、今日ネット配信で見たスワミジ(Swami Muktananda Yati)が言うには以下のようなものでした。<br /> <br /> ・サマーディは思考を止めること。(パタンジャリのヨーガ・スートラの定義)<br /> ・ヴィパッサナーは息を観察すること。ヴィパッサナーはサマーディへの入り口で体験する。<br /> <br /> 流派によって色々な言い方があるんですね。それに、きっと相手によって簡単な説明を選んでいるような感じです。<br /> <br /> 話を聞いていると、どうも、サマーディとかヴィパッサナーと言う言葉の意味がこのスワミジは違うみたいですね。<br /> <br /> 世間では、サマーディ1つだけで悟れるとかヴィパッサナー1つだけで悟れると言う誤解が溢れていますけど、このスワミジはサマーディやヴィパッサナーを瞑想の一面を表す説明として用いています。<br /> <br /> 瞑想の説明としてはもっと複雑で、サマーディと言うのは瞑想の一面である「思考を止める」と言う説明だけに使っており、一方、ヴィパッサナーは息を観察すると言う説明だけに使っています。<br /> <br /> こう言う視点もあるのですね。<br /> <br /> 何やら、世間ではサマーディとヴィパッサナーの対決みたいになっていてどちらが優れているのかとかどちらで悟れるとか、そんなくだらないお話に熱心になっている人がいますけど、本質は瞑想そのものですから、瞑想の一面を説明するためにサマーディとかヴィパッサナーと言う言葉を使う場合もあるのですね。<br /> <br /> まずは瞑想してみて、説明としては色々することが出来て、その時に瞑想の要素としてサマーディとかヴィパッサナーという言葉が使われるだけで、サマーディやヴィパッサナーがゴールではないわけですね。<br /> <br /> 言葉の定義としては私が普段使っているものとは違いますが、説明の内容からはこのスワミジはとてもよくわかっているという印象を受けます。<br /> <br /> ですから、言葉の定義なんて本当はどうでもいいと言えばその通りなのかもしれないですね。<br /> <br /> ・・・このスワミジ(Swami Muktananda Yati)、私が通ったアシュラムのゆかりのスワミジみたいですけど会ったことがありませんので詳しくは知りません。誰かに聞けば知っているでしょうけど。<br /> <br /> Wed, 01 Jul 2020 00:00:00 +0900 我思わなくても我あり https://w-jp.net/2020/1974/ <br /> よく「我思う故に我あり」なんて言われてますけど、実際には、我思わなくても我あり、なのですよ。<br /> <br /> だって、思考を止めたらあなたの体が消えてしまいますか? 消えないでしょ。<br /> <br /> 思考を止めても全く安全なのですよ。<br /> <br /> 「我思う故に我あり」なんて言ってるから精神病が生まれるのですし、あまり考えないで反射的にしか物事を捉えられない人が量産されます。<br /> <br /> 実際のところ、思わない時に何をしているかというと「じっくりと見る」ということをしています。思っている間は「じっくりと見る」なんてことはできないです。<br /> <br /> ヨーガとかゾクチェンではその状態を「むきだしの心(が物事を観察する)」とか言ったりします。<br /> <br /> 頭でグルグルと物事を考えているときに「じっくりと見る」なんてことできないですよ。頭でグルグルと延々に回転させてできることは過去のノウハウを取り出すことだけで、「じっくりと見る」なんてのは不可能です。<br /> <br /> この辺りが、本当の知恵者と小賢しい子知恵を働かせる人との違いですよね。<br /> <br /> 頭でグルグルと回転させて反応的に生きていたら物事の真の姿は見抜けなくて小賢しい知恵しか出てきません。しかもそれは自分が生み出したというよりは何処かから拾ってきた知恵でしかありませんから自分で生み出したものではない分、たちが悪いです。というのも、自分で生み出していませんから責任感が薄くて、愛着も少なくて、実行時にもやり遂げる責任感が足りず、自分がやっているという主体者意識にも欠けることになります。<br /> <br /> 小賢しい人はそれでいて知恵は回って自分のエゴを満足させようとしますから更に厄介です。こういう人が国や故郷及び自分がいる会社を売ったりするのですよね。小賢しい知恵者に権限を与えてはいけないですし、それでいて不遇だと思ってしまった小賢しい知恵者が工作することにも気を付けていなければなりません。最初から小賢しい人はグループに入れないことですよね。それでも多少は入ってきてしまうのが小賢しい人の厄介なところですけど、いくつも防波堤を築くことです。<br /> <br /> 物事を聞いたときにすぐ反応が返ってくる人は頭が良いと言えば良いですが、「我思う故に我あり」と思っているのか「我思わなくても我あり」と思っているのか、そこが大きな違いになります。<br /> <br /> 単純に頭の回転が早くて「我思わなくても我あり」と思っている人は優秀ですが、頭の回転が早くても「我思う故に我あり」と思っている人は小賢しいだけの人です。<br /> <br /> これ、小さな違いに見えるかもしれませんけど、かなり大きな、絶対的な違いであって、そうそう超えられない壁になるほどの大きな違いです。<br /> <br /> 安全策を取るのであれば、頭の回転を抜きにして自分というものが何だと考えているのかを焦点にするべきかもしれませんね。今の社会はそうはなっていませんけどね。<br /> <br /> 瞑想的に考えるならば、現時点で頭の回転がそれほどではなくても、瞑想をして行くに連れて頭の回転は早くなります。ですから、本当に瞑想を突き詰めることができる環境があるのであれば根本的な「自分は何だと考えているのか」のみが重要になるのですけど、これはこれで、必ずしも瞑想でそこまでの境地にたどり着けるとは限らないのが困ったところです。<br /> <br /> 瞑想でそこまでの境地にたどり着くことが出来なくても、「我思わなくても我あり」ということを知っておくだけでも有益だと思います。<br /> <br /> <br /> 思考がなくなると貴方はいなくなるのかどうか? という点に関しては哲学者が様々に答えを考えてきました。ですけど、所詮はそれは頭で考えた答えなのですよね。<br /> <br /> 例えば意識だけのことを取り上げてみると、思考を止めたら貴方がなくなってしまうのならば、しばらく思考を止めた後にもう一度思考を開始することができるのはどういうことでしょう? 思考が自分で、思考が止まったら自分がなくなるのならば、なくなるというのはゼロですから、もう二度と思考できなくなってしまうわけでしょう。それとも、思考がなくなったら貴方というものはなくなってしまうけれども、また思考をしたら貴方が再度作られる、ということですか? だとしたら、前の貴方と新しい貴方との関係は何でしょう? 繋がりがあると考える哲学者と繋がりがないと考える哲学者がいるらしくて、前の思考と後の思考は繋がっていると考える哲学者と、前の思考と後の思考とは全く別の自分だと考える哲学者がいたりします。<br /> <br /> ・・・・こんな話を延々と聞いて、何か貴方の役に立ちますか? 単に頭の中でごちゃごちゃ考えているだけですよ。普通の人はそんな哲学者のグルグル思考に付き合う必要はないですよ。<br /> <br /> ヨーガは、もっと単純な答えを用意しています。<br /> <br /> 思考が止まっても再度思考ができるということは、思考よりも根本のところに異なる根元の何かがあるということですよ。その根元の方をヨーガでは「私」と呼んでいて、ヨーガでは思考は「私ではない」としています。<br /> <br /> だとしたら、「我思わなくても我あり」なのは当然でしょう。<br /> <br /> Tue, 30 Jun 2020 00:00:00 +0900 我思う故に我ありと教えられて思考をフル回転させようとする愚かさ https://w-jp.net/2020/1973/ <br /> 子供の頃に先生から習ったでしょう。「我思う故に我あり」とか説明されて、「心が自分なんだ」「思いが君なんだ」「思考が君なんだ」と教えこまされたでしょう。 それ、嘘ですから。<br /> <br /> いわゆる「頭の良い人」とは思考をフル回転させることができる人だと習ったでしょう。<br /> <br /> 延々と思考が続いて論理がフル回転し、話をし出したら止まらない人。いますよね。<br /> <br /> 学校の教育では「答え」を出す必要がありますから「問題」がインプットで頭をフル回転させて「答え」を出す機械の人間が頭が良いとされます。<br /> <br /> それ自体は問題ないのですが、フル回転しなければ「自分」がいなくなってしまう、という根本理解が問題です。<br /> <br /> だって、「我思う故に我あり」ですからね。<br /> <br /> 頭を回転させていなくて思考していなければ「私がない」ってことになってしまいますから、私が存続するためには必死になって頭をフル回転させる訳です。<br /> <br /> 思考を止めてしまったら「私」がいなくなる、ってことですから。<br /> <br /> ・・・これが、普通の教育で教えられることです。<br /> <br /> 「思考を止めるな」と教わります。・・・学校にもよるかもしれませんけど、少なくとも受験や勉強ではこの辺りが根本的思想になっていると思います。<br /> <br /> 思考を止めると私がいなくなってしまうのでしょうか? という子供の質問に対して先生は「そうだ」と答えたり、曖昧な答えでぼかします。子供は素直ですから、思考が私であるならば先日私が思い描いた残忍な思考や下ネタも全てが自分だと思って嫌悪感に浸ります。<br /> <br /> この辺りの、「自分とは何か」という教えが、ヨーガやヴェーダで教えられているところと、学校教育で教えられている「我思う故に我あり」とで全く異なっています。<br /> <br /> 学校教育では「我思う故に我あり」ですから思考がなくなったら自分が消えて無くなり、残酷な考えを抱いたら自分が残忍だということであり、下ネタを思い描いたら自分がすけべだということになります。しかも、思考を止めたら自分がなくなってしまいますから考えを止めずに24時間ずっと思考を続けていることを強要します。・・・・まあ、先生によるのかもしれませんけどね。<br /> <br /> 昨今ではネットでの情報も増えて学校の先生のお話を真に受けることも少なくなったかもしれませんけど、一部ではまだこんな意味不明な教育が行われているように思います。<br /> <br /> その愚かさの根本は、思考が自分だと思っている点です。じゃあ、思考がなくなったら自分もなくなるのでしょうか? 一部の教育者は思考がなくなったら自分がなくなると思っています。それが自我であると一部の教育者は主張します。<br /> <br /> 実際、考えるべきことはそんなに多くないのに、「自分」を失わないために思考を頭の中に詰め込んで24時間ずっと頭を動かし続けるというこの社会・・・・。まともではありませんよ。<br /> <br /> その思考の中に、マスコミが埋め込む宣伝を入れたら消費者は一斉にそれを買うので会社は大儲けするでしょうし、戦争やヘイトスピーチ、いくらでも他人が大衆をコントロールできるようになります。<br /> <br /> 根本には、「我思う故に我あり」という間違った考えが浸透しているから大衆コントロールが簡単になっているのですよね。<br /> <br /> 何かの疑問やトピックに対しては全て答えを用意しておいて、その答えこそが正しいとすり込みさえすれば「反応」しかしないようになり、大衆の反応が予想可能になり、商売にせよ政治にせよいくらでも掌で踊らせることができるようになります。<br /> <br /> その根本は「我思う故に我あり」だと思っているから、自分の頭を自分でコントロールできていないのですよね。ヨーガ的に言えば思考なんてのは一時的なものであって「自分」ではないです。思考を自分だと思っているから自己が汚れたとか自分が間違っているとか勘違いをするのですよ。<br /> <br /> 最近はこういうことを教えてくれる人も多いので、昔ほどは教育で汚されることも少なくなった気もしますけどね。それでも、特に年配に昔の教育の弊害が残っているような気が致します。<br /> <br /> Mon, 29 Jun 2020 00:00:00 +0900 精神病のエネルギーヴァンパイアは隔離すべき https://w-jp.net/2020/1972/ <br /> これは、精神病を卑下するように言っているのではありません。精神病はオーラの境目が曖昧で激しく揺れ動いているために近くに誰かが近づくと精神病患者のオーラが健常者と混ざってしまって病気が移ってしまうからです。<br /> <br /> 特定病原菌にかかった患者は隔離するでしょう。病原菌であれば三次元の物体で隔離できますのでやりやすいですがオーラの場合はある程度は壁も通り抜けますので絶対的な距離を保たなければ周囲の人のオーラが破損してゆきます。<br /> <br /> 昔と違って学校などでは精神病患者と健常者が同じ教室で過ごすようになって来ているようですが、私も子供の頃にオーラが不安定な人の横の席に座らされてオーラを延々と引き抜かれたことがあります。横にいるだけでオーラが奪われて、私が精神的に不安定になってイライラしやすくなる一方で、どんどんとその知恵遅れの人の症状が回復してゆくのです。<br /> <br /> まったく、いい迷惑です。<br /> <br /> これは、先日書いたようにオーラを混ぜてはいけないと言う宇宙の法則に反しています。<br /> <br /> 生命体はそれぞれの進化の度合いがあってそれぞれの学びがありますから、オーラを奪うことでその学びを飛び越えてしまうと「抜け」ができてしまうのです。<br /> <br /> 私もどうしてこんな宇宙の法則ができたのかその根元までは知りませんが、どうやら地球以外では広く行き渡っている法則のようです。<br /> <br /> ですから、精神病患者は単に動物から人間になる成長過程を学んでいるだけであってそれが悪いことではなくて卑下する必要もなくてそれなりに生活しさえすればいいのに人間は平等だからとか言う訳の分からないイデオロギーに洗脳された教育現場で「知恵遅れの動物人間」と「普通の人間」とを隣に座らせたら普通の人たちの精神が不安定になるのも当然と言えます。<br /> <br /> その状況を見て「学級崩壊」とか言っていますけど、一体、どこをどう見て学級崩壊だと嘆いているのかサッパリわかりません。<br /> <br /> そもそもの原因は精神の成長段階が異なる人たちを同じ部屋に詰め込むから学級崩壊と呼ばれていることが起こるのです。<br /> <br /> 今の学校教育は最悪ですよ。<br /> <br /> 昨今、コロナでネット授業になってホッとしている人も多いのではないでしょうかね。<br /> <br /> 近くにいるだけで精神が病む人がいて、その人と対面で会う必要がありませんからね。<br /> <br /> 今の学校教育、もっと言えば社会のほとんどでエネルギーヴァンパイアが有利なようにできています。嫌がらせをして精神病でいた方がエネルギーが奪えると言う社会構造が出来上がっています。<br /> <br /> まずは教育から変えないといけませんよね。<br /> <br /> 子供はある程度は耐えてしまいますけど、耐える必要はないと私は考えます。<br /> <br /> 合わない人とは付き合う必要がありません。<br /> <br /> 学校の先生に「誰々君は友達がいなくてかわいそう」とか言われても、エネルギーヴァンパイアと友達のふりをしてエネルギーを奪われ続けるよりは友達なんて作らない方が良いです。そのような多様性を学校の先生は理解する必要があります。先生はあまりにも1つのステレオタイプに合わせようとしすぎます。学校や先生によるところは大きいとは思いますけど、所詮は人間ですから子供のことなんて真には分からないのです。子供は、そんな程度の先生を信じすぎないことですね。特に、友達と仲良くしましょうとか言ってくる先生には要注意で、複雑な人間関係を理解していない、魂として成熟していない若い魂である可能性があります。<br /> <br /> 動物上がりの動物人間とどうやって理解し合えと言うのでしょうかね。学校の先生が言うことは訳が分かりませんよ。<br /> <br /> 先生の強制や、会社での強制で動物上がりの動物人間と付き合った結果、まともな人の精神が崩壊するのです。<br /> <br /> そうして、精神が崩壊した人を指して「あいつは頭がおかしい」とか、まさにその動物人間が状況も理解せずにエネルギーヴァンパイアしつつ他人を蔑むのが現在の社会の姿です。頭がおかしいのは動物人間であるのに、そんな動物人間と付き合って精神が疲れてしまったまともな人が頭がおかしいと動物人間に言われると言う奇妙な現象が起きています。<br /> <br /> ですからね。最初から動物人間のような精神病のエネルギーヴァンパイアとは付き合わないことですよ。<br /> <br /> 子供の頃から、最初から付き合わないことです。会社でも付き合わないことです。<br /> <br /> 学校では登校拒否していいし、会社であればすぐに辞めてもいいです。<br /> <br /> ちょっと前なら人生に困りましたけど、今はいくらでも手がありますし、やがてはそう言う子供がどんどんと増えて行きますから、お互いに同じような子供たちでシステムを作り上げてゆくことと思います。<br /> <br /> その時、新しいシステムに入ることができるのはまともな人間だけであり、エネルギーヴァンパイアの動物人間はそのシステムに加わることを拒否されることになります。<br /> <br /> そろそろその入れ替わりの時期なのでは、と思います。<br /> <br /> エネルギーヴァンパイアしてこの世の春を謳歌していた動物人間たちは、そのうち、いつの間にか自分たちの居場所がなくなっていることに気が付くと思いますよ。<br /> <br /> エネルギーヴァンパイアにエネルギーを与える人がいるから現在の社会が継続するのです。まずは意識の中で「私はもうエネルギーを奪わせません。私はもうエネルギーを奪いません。」と宣言しましょう。そうすることで自分のエネルギーの動きが変わっていって、自分をカモだと思っている人が少しづつ減ってゆきます。<br /> <br /> エネルギーヴァンパイアは、親切かどうかとは関係がないですよ。親切そうに見せておいて他人のエネルギー、他人の労力、成果を奪おうとしている人はいくらでもいます。そう言う人は全員、エネルギーヴァンパイアです。奪われることを拒否して、「自分でやってください」と宣言することです。<br /> <br /> 「仲良くしましょう」みたいなのはエネルギーヴァンパイアの常套句です。そんなことを言う人がいたら気を付けましょう。<br /> <br /> 本当に仲良くすべき人はそんなこと言わなくてもお互いに分かりますよ。まずは、エネルギーヴァンパイアのエネルギー供給元であることを辞めることからですね。そうして自立して、それからようやく本当に仲良くすべき人が現れます。自立していない人には仲良くとかそう言うお話はありませんからね。<br /> <br /> まずはエネルギーヴァンパイアを拒否し、次は、自立することですね。<br /> <br /> 見分け方として、一見良い人のように見えるが何か違和感を感じる人がいたとします。違和感があるので仲良くするのをやんわりと拒否したら「潰す」とか脅してくるのがエネルギーヴァンパイアです。分かりやすいでしょう? 最初に感じた違和感を大切にしましょう。騙されないことですよ。<br /> <br /> 自立するまでは仲良しごっこを拒否すると言うのも手ですね。子供は、本当の自立が何かすら分からないかもしれませんから、社会がわかるようになるまで他人には気を付けることです。<br /> <br /> 大人は、子供に向かって「友達と仲良くしましょう」なんて無責任なことを言わないことです。よく見て友達は選ばせましょう。そうしないと同質化してエネルギーヴァンパイア化してしまいます。それが子供というものです。<br /> <br /> 多くの人は、エネルギーヴァンパイアして他人からエネルギーを奪うことが自立だと勘違いしていますからね。それって自立じゃなくて他に依存していることに気がついていないんですよね。世の中、その程度ですよ。その程度の認識で自立だとか言っている人が大勢います。<br /> <br /> まあ、この世の中は難易度高いですからね。かなりの場合にゲームオーバーになりますからね。本来の目的を達成できずに寿命を迎えます。そんなものですよ。<br /> <br /> 子供が変になったとしても、あまり嘆かないことです。難易度高いゲームに挑む子供が失敗しても、そんなものだと思った方が気が楽かもしれません。<br /> <br /> 親も同類なら逆にエネルギーヴァンパイアになることが成功だと思ったりしますからね・・・。勝手にしてくれ、って感じです。私に関与しないでください。<br /> <br /> 今の世の中で子供を育てるのはなかなか難易度が高いですからね。今の時代に子供は作らない方がいいと私なんかは思います。前世まで普通でも、この時代に生まれたらおかしくなる可能性が高いですから。<br /> <br /> Sun, 28 Jun 2020 00:00:00 +0900 スピリチュアルな人は印象で他人をすぐに判断しがち https://w-jp.net/2020/1971/ <br /> そうでない人も大勢いらっしゃいますけど、割と昔からスピリチュアルな人ほど他人をすぐに初印象で判断しがちな気が致します。特に生まれながらに能力がある人たちがその傾向が強い気が致します。<br /> <br /> 他人を理解する時に印象はある程度は参考になりますけど、深いところまで見ていないことがほとんどです。しかし、それでも人をすぐに判断してしまうという過ちをよく犯します。そして、時々、それが絶対的に正しいと思っていたりするのです。<br /> <br /> 本当にある程度他人を理解しようと思ったら、幽体離脱して他人の人生の過去と未来をある程度見る必要があります。それは時空を超えた活動でありますので時間でそのまま言い表すことは難しいですが、エネルギー的な消費量と幽体離脱の時の活動を普通の時間経過と合わせてみた場合は、だいたい3時間くらいで基本的なことは把握できます。<br /> <br /> スピリチュアルな人が他人の印象を読み取って他人を理解したと思っているのは単なるファーストインプレッションであって、表面的な基本的な性質であり、それで読み取ったイメージを自分の好きなように解釈してしまうという過ちを犯しがちです。<br /> <br /> 実際のところ、人間というものはもっと複雑な生き物です。<br /> <br /> 基本的なことを理解するだけでも大体3時間はかかります。カウンセラーで優秀な人たちは翌日に来る相談者のことを前夜に3時間ほどかけて把握する、ということを行います。<br /> <br /> そして、実際のカウンセリングで確認しつつ1時間なり数時間なり再度かけるわけです。<br /> <br /> そこまでして、ようやく他人の内面に入り込んで現在の解決方法まで導き出してあげることができます。<br /> <br /> それは、スピリチュアルな人がインスピレーションを元にして簡単に他人を判断してしまうのとは全く次元の異なる作業でもあります。<br /> <br /> 次元は異なりますけど、やっていることは割と似ているとも言えます。<br /> <br /> 印象で判断する、と言うのは幽体離脱においてもそれはそうです。そうして周囲から観察して判断するしかないわけですけれども、葛藤が作り出された大本の出来事にまで遡ってその時の時空に移動し、その人が感じた感情や表情を近くで観察して大本の原因を突き止めるわけですから、幽体離脱なしに印象を対面で受け取るのとは全く違うものです。<br /> <br /> そのほかに、他人の中に潜り込んでオーラを同一にすることで相手を理解する、という方法もありますけど、宇宙の波動の法則からするとそれは他人への干渉になりますので世界によっては厳密に禁止されていたりします。地球じゃ割と野放しですけど、一人一人の成長や学びは違うのですから他人に迷惑をかけますし自分の成長も滞ってしまいます。オーラを同一にして他人を理解すると言う方法を抜かせば幽体離脱して時空を超えて過去の根本原因を観察すると言う方法が最上です。<br /> <br /> それでも、他人の更に奥底を知るにはまたその大本の原因にまで遡らなければなりません。それは3時間では足りないかもしれませんし、見逃す可能性もあります。ですが、基本的には3時間で十分でしょう。慣れれば1〜2時間で基本的なことはわかります。そうして他人を理解することができたとしても、所詮はそれは他人の人生であり、他人の経験ですから、それを知ったところでどうなるものでもない・・・ ということもあります。そもそも、他人のことなんて気にする必要がない、と言う理解に達するわけですね。<br /> <br /> ですが、その理解に達するまではスピリチュアルで他人の印象をすぐに判断しがちで、それで他人がわかったつもりになってしまうわけです。それはスピリチュアルの病理みたいなもので、誰しもが初心者のうちは通る道なのかもしれませんね。<br /> <br /> Sat, 27 Jun 2020 00:00:00 +0900 今後来るスピリチュアルな世界に備えて論理思考を磨く https://w-jp.net/2020/1970/ <br /> いずれ50年100年経った時にはスピリチュアルな世界になります。歴史を見ると今の時代が異常なだけで昔からスピリチュアルというか陰陽道というか魔法というか魔女の系統と言いますか、そのような超常的能力を使いこなす人々は一定数いました。<br /> <br /> 前世紀までに魔女狩りで魔女は減り、日本の陰陽道は明治政府の弾圧により惨殺され、今や残っているのは大した能力のない人たちだけです。本当に能力のある人は表に出ないか、あるいは、今生では能力を持たずに転生しています。そもそも能力がないのが一番安全ですからね。能力というのはいくらでも出し入れできるのですが、いったん生まれたら基本的に変えることはできません。<br /> <br /> それは、ある意味、今後来るべきスピリチュアルな世界に備える、ということでもあるかもしれません。<br /> <br /> 次の世代あるいはそのまた次の世代になる頃には再度、スピリチュアルが当たり前の時代になります。<br /> <br /> その時、今の時代に培った論理思考能力であるとかビジネス遂行能力とスピリチュアルが組み合わさって能力が倍増することになります。<br /> <br /> 昔のスピリチュアルな世界はどちらかというと論理思考が弱かったものでした。インスピレーション重視で物事の本質が全てわかったような気がしていたものでした。<br /> <br /> 今の時代はスピリチュアルを否定して論理思考に偏っていますが、それは、今までスピリチュアルで生きて来た人が論理思考を訓練する良い機会を与えていると言えると思います。<br /> <br /> 実際、今の時代に論理思考を避けてスピリチュアルを貫いている人は次の世代になってもそれを継続することが見えています。<br /> <br /> むしろ、今の時代に論理思考にどっぷりと浸かってスピリチュアルを軽視している人たちが来世になってスピリチュアルな能力を開花させ、論理思考とスピリチュアルを統合して限りない能力を発揮してゆくのが見えます。<br /> <br /> ですので、今は次のスピリチュアルな時代に備えるための重要な期間であると思うのです。<br /> <br /> 論理思考を毛嫌いせずに、今の時代は論理思考でだけ生きることができる稀有な時代であることを喜んで、論理思考をどんどんと学べば良いのです。<br /> <br /> 例えばコンピュータなど論理思考を学ぶ良い教材です。そのような仕事について論理思考を高めることで今までスピリチュアルな人に欠けていた論理思考を養うことができます。<br /> <br /> 私の場合にしてもまさにこれで、前にも書きましたが私の魂はいくつかのカルマの統合として成り立っていて、主たる魂は前世まででも男性でビジネスとかもしてきましたが論理思考より印象を重視するきらいがありました。このままでは次のスピリチュアルな時代において論理思考が足りないと思い、コンピュータを仕事にすることにしたのです。はっきり言って、今までの流れからしたら真逆です。かなり苦手な部類に入りますが、小学生の頃からコンピュータに触れて趣味でプログラミングなどもしたことで論理思考能力を養いました。他の人はもっとすぐに学ぶことができたりしましたが、私は時間がかかりました。それでも同年代の人よりはコンピュータに詳しいですが、それは単に長くやってきたからです。それだけ今世ではコンピュータを重視しました。<br /> <br /> いくつかの前世では会社経営とか貿易ビジネスとか様々して来ましたが、どちらかというと人付き合いを重視していたように思います。今世では、特に苦手な論理思考を養うためにコンピュータを仕事に選んだと言えます。そして、それが次に来るスピリチュアルな時代に備えることになるわけです。<br /> <br /> 今の時代に論理思考を鍛えた人とスピリチュアルなまま通り抜けた人とでは、次の世代においてスピリチュアルが当たり前になった時に「論理思考+スピリチュアル」なのかスピリチュアルだけなのかで大きな違いになります。<br /> <br /> 今は、今後来るスピリチュアルな世界に備える時期だと思います。<br /> <br /> その時になればスピリチュアルな方は大勢の方に自然に訪れますから、今から心配する必要はないと思います。スピリチュアルが普通に語られるようになりますのでスピリチュアルな能力を伸ばしやすくなります。<br /> <br /> Fri, 26 Jun 2020 00:00:00 +0900 神と話をしていない人が天意とか世の中の万人のための国づくりだとか言う茶番 https://w-jp.net/2020/1969/ <br /> チベットが崩壊する際に中国側について政権崩壊を助けた役人にしても、維新で江戸幕府を倒した役人にしても、みんな、世の中のためだとか万人のためだとか成長のためだとか天意だとかを持ち出して正当化したんですよ。<br /> <br /> ですけどね、神様とお話をしましたか? ってとこが重要なのですよ。いくら本人が天意だとか国民のためだとか世の中のためだとか万人のためだとか人民解放だとか言っても、神様と話をしていなければ茶番なのですよ。<br /> <br /> 昔は神様がその意思を地上に降ろして万人を支配・・・ と言うと言葉は悪いですけど、人々を導いていました。それを支配と見るのか見守ってると思うのか、歴史の場面においては厳しい選択もしましたけど、人々が幸せに豊かに暮らせるために王族が判断していたのが歴史なのですよ。そして、そこには必ず神との対話というものが含まれていて、王族の選択においては欲望というものは二の次でした。<br /> <br /> 王族は贅沢をしていたじゃないか、とか言う人がいますけど。そりゃ、こんな野蛮な地上の面倒を見るのだから安全で多少の健康的な食物だって取りますよ。昔に比べれば随分と地上の人々の食生活も改善されましたし、その第一は王族の食生活も良くなって行きましたけど、歴史を見ればどんどんと豊かになって食べるものにせよ家にせよ、良くなって来ていますよ。それを不公平だとか言うのが浅ましいのですよ。誰によって人々の生活は良くなりましたか? ってとこの理解が抜けています。<br /> <br /> まあ、昔の王族はそんな感じでしたけど、今の政治家は神様と対話していませんので、自分の欲望を最大限に満たすためにまず政治をして、それから、有権者を煽って欲望に走らせていますよね。豊かになります! と叫んだり不安を煽ればある程度の票は取れます。<br /> <br /> 昔の王族は、もっと毅然としていましたよ。民がどう思っているかを知りたがることはあっても、民に政策を尋ねたことはありませんでした。王族ですから、何でも自分たちで決めて行っていました。それを見て民は喜んだり不満やらを言ったりもしましたけど、それでも、王族が決めたことにはある程度の納得が伴っておりましたので、今のように非難合戦になることはほとんどなかったように思います。<br /> <br /> 王族も大変なのですよ。何をしても民から色々と言われます。そこは昔も今も一緒です。<br /> <br /> 例えばローマにおいては皇帝は普通に一人で町を歩いたりしていました。意外ですか? 王族と言っても割と普通だったのですよ。町で、人々から様々な不満や意見を聞いたりしました。その頃でも、人間出身の政治家と言うか王族と神の系統の政治家というか王族がいまして、神と話をしている人とそうでない人がいました。<br /> <br /> 神と話をしたところで神と話ができない人間には何のことかわかりませんし、最近だと「神の名を借りた不届き者」とか言って粛清の理由になったりしますからね。最近は神と話をして政治をしいても言わない人がほとんどでしょうし、そもそも神と話ができる政治家はほとんどいないと思います。<br /> <br /> その点、人間出身の政治家の方が民主主義に向いていますよね。欲望あるいは不安を煽って票を集めればいいのですからね。不安の方は十歩譲っていいとしても、欲望はよろしくないです。<br /> <br /> どちらにせよ、神と話をしていないという時点で茶番ですけどね。<br /> <br /> 昔の政治家は、大きく分けると神と話ができるかできないか、という点でかなりはっきりと線が引かれていました。<br /> <br /> 例えばね、チベットでは政治が宗教によって行われていた、なんて言われていますけど、宗教というよりも神と対話できる人たちが国を支配していたのです。<br /> <br /> その一方で、頭は多少回って賢いが神と話ができない小役人が大してない知恵を働かせて国の転覆に加担し、中国がそのような小賢しい役人を利用してうまく政権を奪ったのがチベットの騒乱です。チベットにはしばらく騒乱がありませんでしたし、神と話ができる人たちは神と話ができない人たちを軽視しすぎたのでしょうね・・・。そのような小役人が何をしでかすか、想像力が足りなかった。小役人からすれば知恵のある自分の意見が取り入れられないのはおかしくてチベット権力者は遅れているので自分たちがどうにかしなくてはならないと思い違いをしたのでしょうね。そもそもチベット権力者は神と話をしていたのであって小役人のことなんてどうでも良かったのです。小役人にしてみれば、チベット権力者が神と話をしているということが想像のお話としてしか理解できず、本当のことだとは思えなかった。そこに、超えることができない壁があったのですね。神の声を聴ける者と聞けないものの間で、理解の溝が深くなりすぎていたのです。<br /> <br /> 神がついていて話ができるのに対処できなかったのはどうしてでしょう? というお話もありますけど、そこは謎ですね。私が知るべきことではないようです。理由はあるようですけどね。あまり言いたくない感じです。どうやら、チベットの歴史と関連があって、内輪揉めみたいな面もあったようですね。神にしても、チベットの権力者のことを苦々しく思っていたという面もあったようです。だから、一旦は中国の思い通りにさせてみよう・・・ という選択に至ったのかもしれません。あるいは、もっと大きな判断があったように思います。それは今回のトピックと離れるので一旦は保留します。<br /> <br /> 中国は内輪揉めしている内情につけ込んだ上、不遇の境遇にあると思い込んでいる小役人と繋がってうまく動かし、チベットを簡単に転覆させました。<br /> <br /> 日本においても、不遇の境遇にあると思い込んでいる岩倉具視みたいな小役人と繋がってうまく動かし、江戸幕府を簡単に転覆させました。この種の、小賢しい小役人は本当に要注意ですよ。今でも政治家や官僚にいるでしょう? 神と会話できないのに妙に小賢しい人たちが。<br /> <br /> 日本の場合は、一般的には維新は自身で立ち上がって討幕に至ったなんて言われていますけど、それ、嘘ですから。後から自己正当化のために政府が作り出したストーリーですから。勝者が歴史を作る、っていうやつです。外国からの工作にしてやられたが、その後、何とか外国の植民地になるところは防いだ、というのが真相です。<br /> <br /> 日本の場合岩倉具視みたいな小役人が暗躍して政権転覆を企んだ、というのがチベットの構図と似ています。政権の中枢ではなく、自分では能力があると思っていて不遇の境遇にあると思い悩んでいる人を狙うという点がチベット騒乱にしても維新にしても共通点ですよね。両方とも、外部からの工作がないとあんなにうまくクーデター成功しませんよ。どちらも、小賢しい小役人を外部からうまく操って政権転覆させているのが共通点です。<br /> <br /> チベットは中国に併合されましたけど、日本の場合は併合が免れたのは不幸中の幸いで、江戸幕府の転覆においては外国の謀略にしてやられて惨敗。歴史というのは勝者が作りますから維新は良かったなんて言われていますけどそれは勝者の作り出した都合の良い歴史でしかなくて、実際は、日本の古来から栄えて来た神道とか修験道といった霊的能力者を個別に抹殺し、特に有名どころは宗家から一族の有力者を始末してお家断絶させたのです。そうして精神的・超常的能力を扱うのが当たり前だった文化を崩壊させ、不思議な能力を表立って使わせないようにしました。天皇ももちろん、その力を封じられました。本当に大切なことを天皇に教えないようにしたのです。神との対話ができることなど王族にとっては当たり前のことでしたが、それも表立って言うと始末の対象になりました。<br /> <br /> 今の日本で有力な超能力者と言われている人たちは、一昔前の能力者が見たら鼻で笑われるくらいの能力しか持っていないですよ。そのくらい、日本で能力者は排除されました。維新の頃に多くが抹殺されましたから、そんなのは維新の一部としか思われていません。<br /> <br /> 神と話ができる能力者が表に出にくい状況で、昔のことを知らない呑気なYotuberがノコノコとチャネリングしていたりしますけど、政府の方で能力者のリストがきちんと作られていて政府の意図にそぐわない集団活動が見受けられた場合は始末の対象になりますからね。よくもまあ、こんな怖い世の中で顔を出して自分の能力をひけらかすものですね。それだけ有力なバックがいて見えない世界から守られていたりするのですのかね? ならばいいですけど。<br /> <br /> 安全のために現代に何の能力を持たずに生まれて来ている人もそれなりにいらっしゃるような気がいたします。能力というのは必要性があって現れますから、不要と判断すれば出て来ません。安全のためとあれば尚更です。<br /> <br /> 能力者が裏に隠れ、精神的なことも言いにくくなった現代。<br /> <br /> チベットにしても日本にしても精神的な文化は20世紀でかなりの部分が既に破壊されたのです。日本は日本語がそのまま残っていて国というものは残ってはいますけど、昔からあった神道等の能力者が表に出にくい状況になっています。<br /> <br /> 古くあった神道の家系も後継がいなくて断絶したりしていますしね。<br /> <br /> そりゃ、マスコミが煽りに煽って神道や精神的なものを「古い」とか言い続けたら何も知らない若者が感化されてそういうものから離れてゆきますよね。国を破壊するには若者から、とはよく言ったものです。教育で考え方を変えてしまえば本当に大切なものは守られなくなり、引き継がれなくなります。<br /> <br /> 何とか外国の侵略は防いだにせよ、国の形は歪められ、江戸時代まではある程度続いていた、神との対話によって政治を行うという形態は明治政府以降には無くなってしまいました。そして、その政府が今も継続しているのです。<br /> <br /> 明治政府は人間の作った政府です。そして、今の政府もそうです。そこに神との対話はありません。人間の欲求と不満を餌にして自身の権力欲などを拡大させるために政治家になろうとしている人がほとんどです。<br /> <br /> それでも日本の場合に救いがあるとすれば、個別の政治家を見てみると、神と対話はできないにせよ、ある程度の真面目さがある人がポツリポツリいることです。自民党は色々言われていますけど、各所各所を見ると何とかうまくやっている面もあると思いますよ。それが神の意図と合っているかどうかはまちまちですけど、それはしょうがないですしね。<br /> <br /> 今は、神の意図としてはこのまま人間たちが自分たちの力でどのくらいできるのかどうか、高みの見物をしているようですね。<br /> <br /> Thu, 25 Jun 2020 00:00:00 +0900 神の潮流と人が神に挑戦する潮流 https://w-jp.net/2020/1968/ <br /> 神は昔から人類を治めてきて、王族やら何やらとして一応は民の上に君臨する、という形式を取っていました。神と一般人は魂がそもそも違っていて、神はあの世で神様同士が知り合いですから国の行く末をどうするのか話し合いが持たれていたのです。<br /> <br /> 最近は国の姿も変わってきて、人間が統治をする場合も多々ありますけど、ほとんどが茶番ですよね。人間が統治をすると戦争か経済主義による他国搾取とか、何某かの競争で欲望を満足させる方に動きます。人間の欲求は「食う、寝る、遊ぶ」ですから、その欲求を満足させる方向に国の政策が動くわけです。<br /> <br /> かつて、神あるいはその代理人が国を治めていた時代がありました。これは神聖ローマ帝国みたいな宗教に基づく帝国のことではなくて普通の王族が神の魂の眷族だった頃のことですが、その頃は神の意思をあらかじめ教育されてから転生してその意図を実現するために国政を司ったのでした。<br /> <br /> 今の人間の政治は「食う、寝る、遊ぶ」の欲求に基づいていますが、昔の政治は「そこそこに食う、そこそこに寝る、そこそこに遊ぶ、最重要なのは精神的な成長」という根幹が徹底していました。<br /> <br /> 今の民主主義とやらを見ても、最後の精神的な成長がないがしろにされていて経済成長やら自由やら武力やらが論点になっています。それでは政治は救いがないです。政治が欲求を満たすための場になってしまっているわけです。昔、国王が治めていた時代は精神的な成長が第一で、次に「食う、寝る、遊ぶ」がありました。<br /> <br /> これは宗教という観点よりも、もっと根元のお話です。道徳や精神性と言っても良いです。神道にも通じるものがあります。神の意図は精神性の向上ですから、それが国の形として最初に来たのです。かと言って宗教というわけでもありません。<br /> <br /> 実際は宗教は誤解されていて、本当の宗教はもっと純粋な崇高な意識であるわけですが、本当の宗教という意味であれば王国はそれを目指していたと言えます。しかし、昨今の宗教とは違う姿であるわけです。<br /> <br /> 民主主義なんてのは茶番で、人類に欲望を追究させるためのシステムですから、多数決で物事を決めれば決めるほど政治は低俗なものになるのは当然のことです。<br /> <br /> ここで言っている神とは独裁者のことではなく、神の意思と疎通できる人が政治を行うべき、と言っています。<br /> <br /> 昨今では政教分離が政治の基本なんて言われていますけど、実際のところ、昔から政治は神と深く結びついていますから、政教分離なんてのは人類に低俗な欲求を追求させて精神性を崩壊させ家畜同然に操りたいと思っている人たちの口実として使われているだけなのです。昔も今も、本当にわかっている人は政教分離なんて嘘だなんてわかっていますよ。そんな野暮なことを口に出しては言わないでしょうけどね。<br /> <br /> 政教分離は、今は欲求を追求する口実になっていますけど、おそらくは元々は世俗的な宗教の影響を排除するための口実として用いられていたと思いますよ。その場合でも本当の意味における宗教と政治は密接に繋がっていたと思います。少なくとも王族が国を治めている間は本来の神と政治とは密接に結びついていました。時代が下るにつれて権力競争に明け暮れる世俗的な宗教が政治に介入することが多くなって、その悪い影響を排除するために政教分離が謳われたのであって、元々は欲望を追求するための口実ではなかったのです。理屈が全く違う文脈で使われて自己正当化に使われているのですよね。<br /> <br /> 政教分離をやめて神の意思に基づく政治とか言う人が少ないのは、今が民主主義のシステムだからですよ。大衆は自分の欲求を満足させたいので欲求を拡大するにはうるさい事をいう神なんていない方が好都合でしょう。神のことを言う政治家がいたら政教分離とか言い出して非難して追い出すでしょうしね。いい口実になるだけです。政教分離と民主主義システムは欲望を追求するためにお互いが補完し合っています。<br /> <br /> ですけどね、民主主義も茶番ですし、政教分離も茶番ですよ。そろそろみんな、それに気がつき始めたんじゃないですかね。<br /> <br /> こういうのがね、神の潮流と、人が神に挑戦する潮流との違いですよ。神の潮流は人をより高いところに導こうとしている。人が神に挑戦する潮流は自分の欲望を満たしたいだけですよ。今は後者が優っているのです。<br /> <br /> 政治家がなんであれほど権力に卑しいかというと、システムとして力が集まっているからですよね。力とはもちろんお金で、お金を生み出すものは税金や特別会計および日本銀行の印刷機です。 税金に関して言えば今後は税制も減っていきますので日本の政治家の力も減って行きます。それでも特別会計で税金の範囲を超えてお金は使い放題なわけですし、税金とは関係ないところで日本銀行はお金を刷れるわけです。刷ったお金は株式市場などにどんどん流れて行っています。お金余りの時代です。<br /> <br /> こう言うお話は有名で、人々はこのシステムを嘆いたり批判したりしていますけど、本当に神と繋がった人であれば現状をまず理解してそのシステムを最大限活用して自分の意思を実現させようとします。例えば、神の意識があれば株式市場で相場を張ってお金を無尽蔵に抜き取るなんて簡単な事です。そして、その抜き取ったお金を世の中に回せばいいのです。政治家の手なんて借りずにね。そんなアイデアはいくらでも浮かびます。<br /> <br /> 例えばね、一つのアイデアとして、そうしてお金を作ってばら撒いたり事業を次々に起こして人々を豊かにするという手があります。そうして、お金なんて誰でも十分に持っている状態にしてしまえばいいのです。お金が有り余っていれば政治家に擦り寄る必要もないですし、政治家も権力を操って面白がることもできなくなります。政治家が無視される世の中になるのが理想です。神の意識がちょっと本気を出せばそんなのは簡単なことです。<br /> <br /> もう1つ手があって、人々が周囲の困っている人を助けるようになれば政治が弱体化して行きますけど、それはきっとしばらくはないでしょうね。<br /> <br /> おそらくね、神様は、現状のように人間に欲望を追求させたらどうなるのか興味があるのではないでしょうかね? だから本気を出さずに観察だけしている。そんな気が致します。<br /> <br /> 今の政治は神に基づくものではなくて欲望に基づくものですからね。本来、そんなことは人間自身に任せておけばいいのです。欲望と政治とは本来は無関係であるべきです。<br /> <br /> 昔からね、政治は国王や王族同士で話し合われて行われていて、国民はほとんど関係がなかったのですよ。それでもうまく回っていました。国民の意見を聞いても欲望ばかりで、満足度や困っていることを聞くという点では意味がありますけど政策を任せてもできるわけがないですよ。<br /> <br /> 国民が困っていたら政治が助ける、というのは昔から行われてきましたけど、助けるというのはあっても欲望の追求を政治が推進することは真っ当な王族はしなかったものですよ。その基準としては、「豊かではないが貧しいというわけでもない」という程々のところで安定させて、人々の欲望を拡大させない方向に調整するのが政治の役割でした。<br /> <br /> 政治は雲の上で行われているものでしたが、今は選挙で政治家になることができて、一般人が自身の権力欲やら財産のために政治家をしています。政治家が欲望を追求していれば政策も欲望を満足させるものになります。<br /> <br /> 政治もマスコミもショー化してきて、欲望中心の政治になっています。<br /> <br /> 今の世の中、本当に政治を行っている人もそこそこいますが、ショーとしてそれっぽい事を言う人が多くなってきています。<br /> <br /> このあたり、神様もどうしようか迷っているようです。人間の作った仕組みをうまく使って制御するか、あるいは、今の政治より更に上に仕組みを作ることも考えているようです。<br /> <br /> 後者に関しては、わざわざ作らなくても既に神界というかあの世には既にありますけどね。それを地上に下ろすための形作りをもっと進める計画もあるようです。<br /> <br /> 私は今生では基本的に高みの見物というか特に使命はありませんので見ているだけですけどね。ほんと政治は茶番を繰り広げていますよね。<br /> <br /> Wed, 24 Jun 2020 00:00:00 +0900 度々取り憑かれている意識体を引き抜く https://w-jp.net/2020/1967/ <br /> もうこれは定期的な現象になってしまっていますけど、ここ最近日常的なヴィパッサナー状態が安定しないな... と思っていて瞑想中に確認しましたところ、何やら透明な意識体が体の右半身に取り憑いていました。またですか。<br /> <br /> 最近は体の中から違和感を感じていて、何だろう... と思っていました。<br /> <br /> そこで、瞑想中に、オーラの手で体の各所を掴むようにしてゆっくりと体の右側に引き抜くようにしたら急に右肩の緊張が取れました。<br /> <br /> 更に、「私の魂の由来ではないものは体から出て行ってください」と念じたら、何やらおぼろげにお爺さんのような魂の炎のような、白黒の半透明な魂の炎にお爺さんの顔が写っているかのようなものが見えたので「出て行ってください」と言ったのです。<br /> <br /> それだけでなく、どこで拾ってきたのか虫のような変なものが体の各所に挟まっていたり埋まっていたりして、非常に気持ち悪い!!! 普通の人はこんなの気にしないでしょうから、もっと埋まっていたりするのでしょうね。<br /> <br /> その気持ち悪いものをオーラの手で掴んだり探ったりして一つづつ引き抜きました。それで更に楽になりました。<br /> <br /> 体の各所を探って、大きなものは取れた感じです。<br /> <br /> こういうのって、外に出ると気付かずに拾ってきてしまう感じなので定期的な掃除が欠かせない感じが致します。<br /> <br /> 一旦引き抜いた炎のお爺さんはなかなか近くから離れないようでしたから「まとわりつくようならば消滅させますよ」と言ったら渋々と離れて行ったようですが、こういうのってしつこいですから度々チェックが必要です。いきなり消滅させるのはよろしくなくて、きちんと警告を何度かしてそれでも警告を無視するのならばこちらに落ち度はありませんから消滅なりなんなりしてあげるのが良いですが、そんな場合でも全部を一気にするのではなく部分的に消滅させればびっくりして逃げてゆくことがほとんどです。<br /> <br /> Tue, 23 Jun 2020 00:00:00 +0900 神様は地震を起こすか迷っている https://w-jp.net/2020/1966/ <br /> 昔のように家が脆弱で甚大な被害が出るのであれば神様はもう地震を起こしていると思います。最近は耐震構造や免震構造ができてきましたので、本来ならば満遍なく万人に影響が出るように地震を起こしたいのですが免震構造を持つビルなどに住む裕福層だけが被害を免れるような状況になってしまいますので地震を起こすかどうか迷っているようです。<br /> <br /> パラレルワールドにおいていくつも実験をして、ちょっとした関東直下型地震、もう少し強いパターン、更に強力な直下型地震を試しましたが、相当に強く揺らさないと免震構造を持つビルを倒壊させるには至らず、そうなると都心の被害もかなり甚大なものになってしまい、人々を目覚めさせるという意図から外れたものになってしまうようです。<br /> <br /> 本来、地震とか災害というものは人々の慢心を諫めるために神々によって用いられていたもので、神が滅ぼそうと思った時の地震と諫めるための地震とはレベルが相当違うということです。<br /> <br /> 滅ぼそうと思った時はアトランティスのように土地そのものが消滅したりします。一方、日本の場合は諫めるための地震ですからそれなりの揺れで構わないわけです。しかし、特に精神的に目覚めて欲しい裕福層に影響がなくて、被害がない分、むしろ裕福層が更に助長するような状況は避けたいと思っているわけです。<br /> <br /> ですから神々が手加減をしているというか、そこそこの揺れで十分と思っていたからこそそこそこの地震で済んでいたわけですが、最近は人間の方が勘違いをし始めて「人間の叡智が地震に打ち勝った」とか思い始めているわけですから、ちょっとそれはどうかなあ、とも考えているようです。所詮は人間なんて地球の薄い皮の上に住んでいるのですから自然には逆らえないのですけど、その辺りがよくわかっていないようです。<br /> <br /> ですが、神々の意図はあるにせよ、三次元的な地球の大陸プレートの移動とかもありますので起こることは自然に起こるわけで、その延長線上で起こるべき地震は起こるのかな、というところです。それが関東大震災やら東海地震だったりするわけですが。<br /> <br /> Mon, 22 Jun 2020 00:00:00 +0900 瞑想中、頭のてっぺんに感覚が現れる https://w-jp.net/2020/1965/ <br /> 少し前までは頭の真ん中から下半分にかけてのみ感覚が出ていて、てっぺんの辺りは感覚がほとんどありませんでした。<br /> <br /> 時々、頭の上の方にまでエネルギーが行くこともありましたけど、砂浜で時折強い波が上の方まで上がってくるのと同じで、時々そういうことがあるだけで基本的には頭の上の方は感覚がありませんでした。<br /> <br /> しかし、ここ最近、頭の上の方にまで感覚が出てきました。<br /> <br /> 一番のてっぺんにだけまだ感覚が出ていませんけど、頭の9割は感覚が出てきたように思います。<br /> <br /> つむじより少し上の辺りに少しだけ感覚がない部分が残されていて、しかし、その周囲を感じてみますとちょっとだけぽっこりとオーラが上の方に押されたかのように膨らんでいるのを感じます。<br /> <br /> 少し前までは同じように頭までオーラが届いた際もそのまま体の前面を下に降りて行っていましたので、まるで小周天のように背中から頭、そして体の前面へと回転していました。<br /> <br /> しかし、ここ最近は頭でオーラが止まって、上の方に圧力をかけています。<br /> <br /> かなり昔に小周天を試した頃はちっちゃな感覚がモゾモゾと動くくらいでした。その後、クンダリーニ覚醒後は小周天がよくわからなくなって、単にエネルギーが上下するだけの感覚になっていました。それが、ここに来てしばらくは、本当の小周天っぽくなってきたところでした。しかし、それがまた、動かなくなりました。<br /> <br /> 瞑想で動かなくなった頭の上のオーラを観察していると、その圧力は上の方に継続してかかり続け、やがて何か隙間を見つけたのか何なのか、エネルギーが上の方に少しづつ抜けてゆきました。<br /> <br /> 上へのルートが完全に開いたというわけでもなく、時間をかけると少しづつ抜ける、という感じです。<br /> <br /> これは、クンダリーニがマニプラ優勢からアナハタ優勢になった時の遷移に似ています。その当時は、最初マニプラ優勢でエネルギーがなかなかアナハタに上がらない状態でした。瞑想をしてもマニプラでエネルギーが溜まっていて、時間をかけると少しだけアナハタに抜ける、という状態でした。その時は、まだアナハタに感覚がなかったのです。<br /> <br /> 今回においては頭の9割に感覚は出ているものの頭の上、サハスララの上の感覚は出ていません。やっていることが同じだとすれば、次第にサハスララを超えて上の感覚が出始める前兆なのかな、とも思います。 <br /> <br /> アナハタ優勢になった時はその変化は一気に来ましたので、今はサハスララのところでブロックされていてその上に行くことができなくて、やがて、時が来たら一気にサハスララを超えられるのかな??? と思っていますが、どうでしょうね。<br /> <br /> 少し前にインスピレーションが与えられて、ある程度の次のレベルに達するにはあと3年だと瞑想中に言われたのでそんなに慌てることもないですね。3年って意外にあっという間ですしね。<br /> <br /> そう言えば似たような物語を読んだことがあって、「貴方はあと〇回の転生で悟る」と言われた2人のうち、一人はそんなに転生が必要なのかと嘆いて、もう一人はたった○回でいいのかと喜んだらその瞬間に悟ったという割と有名と思われるお話がありますけど、私はどっちかというと「あとたった3年でいいのね」って感じでした。3年で悟るかどうかは言われてなくて単に次のレベルってだけですけど、それでも十分です。<br /> <br /> Sun, 21 Jun 2020 00:00:00 +0900 霊能力を持っている人を怒らせてマスコミ産業は衰退した https://w-jp.net/2020/1964/ <br /> マスコミはインタビューの一部を取り上げて本来の意図とは違った報道をして面白おかしく視聴率優先でネタを作り上げていますけど、そのネタにされて捏造報道されてしまった方はたまったものではありません。<br /> <br /> そう言う被害者本人、あるいはその守護霊が能力を持っていたりしますと、かなりの確率で仕返しされます。<br /> <br /> 直接的には無害で何も言い返さなかったりするかもしれませんけど、わからないようにしつこくしつこく仕返しをしたりします。<br /> <br /> ですから、捏造報道をする人は気をつけた方がいいと思います。特に矢面に立つ人は真っ先に狙われます。本人はきっと、単に運が悪かっただとか思うだけで原因はわからないでしょうけど、人に恨まれるってのはそう言うことです。<br /> <br /> 狙われた方は「正々堂々と言ってこい」とか思うかもしれませんけど、正々堂々と抗議したのに貴方が無視したから能力を使ってことごとく人生を破壊しに行っているわけで、最初の1回目の警告を無視したらもうそれで終わりなのです。<br /> <br /> 2度目の警告があると思わない方が良いです。<br /> <br /> 最初の警告をした時に「なんだこいつ」と思って無視したら最後、人生が破綻するまで足を引っ張ったり転ばせたりします。呪われる、とはそう言うことです。<br /> <br /> マスコミ産業はそのような恨み・呪いが蔓延していますから、足の引っ張り合いや転ばし合いを繰り返すことでどんどんと衰退して行っています。<br /> <br /> 本来のマスコミの在り方は「真実の報道」と言うことでしたが、今はもやはやそれは自己正当化のための言い訳あるいはアリバイにしかなっておらず、実態は捏造報道が蔓延しています。それは視聴率優先ということですが、本来の根っこの思想が固まっていないからそのようなことになっているのでしょう。「面白さ」と言いつつも他人の足を引っ張ることに喜びを見出すマスコミ関係者がマスコミを崩壊させて行っていると言えます。<br /> <br /> 真実の報道がしたいと思っているマスコミ関係者もいらっしゃいますけど、このような足を引っ張る人たちが生み出した恨み・呪いはその直接的原因を作り出した人のみならず業界全体を呪ってそれらしき人を次々に巻き込みますから、特に能力のある人が恨んだり呪ったりしたら業界が丸ごと転ぶことになります。<br /> <br /> 現状のマスコミはそんな感じなのではないでしょうか。バブル時代のテレビには二度と戻らないでしょうし、それは本人たちが自分で招いた結果であるわけです。<br /> <br /> そんな業界のことなんて私はあまり気にしていなくて好きにすればいいと思っていて、放っておけばいいとしか思っていないですけど、ただ、一つ言えることは、人に呪われたり恨まれたりするようなことをしない方がいい、ということです。<br /> <br /> 呪いというのは厄介で、一度呪われたらかなりの長い期間、引きずりますからね。マスコミの捏造報道が原因で被害者から呪われて人生を棒に振った人がかなりいると思いますし、人だけでなく会社が潰れることだってあります。<br /> <br /> むしろ、力のある能力者の場合は人ではなく会社を狙いますから、会社が傾くような呪いをかけて不祥事やら被害やらが出たりするようになります。実際、世間を騒がせている有名どころはそういう呪いが原因のところもあると思いますよ。<br /> <br /> まあ、あんまり他人に呪われるようなことをしないことです。特に高貴な人、能力のある人を怒らせない方がいいと思います。そういう人はそうそう怒らないですけど怒って呪ったりしたらかなり怖いです。そんじょそこらの上場企業が傾くなんて普通にありますからね。<br /> <br /> 20年くらい前にね、NHKの記者と話をしたことがあって、私が「NHKの中には捏造報道や中韓よりの人がいますよね」と言ったら、その記者は「NHKの人全員が捏造報道をするとか全員が中韓寄りだなんていう貴方とはもう話をしません」とか言ってきて、この人は一体何を言っているんだろう? と呆れ返ったことがあります。私は「NHKの中にはそういう人がいますよね(一部にはそういう人がいますよね)」と言ったのであって「全員」がそうだとは一言も言っていないのにNHK記者は文脈を取り替えて自己正当化してきたのです。<br /> <br /> NHK記者は言葉の専門家でしょう。言葉の専門家が他人の言っていることを正しく理解しないでどうやって仕事をしているのでしょうかね。<br /> <br /> 私の文脈を読み取ることができなかったのであれば記者として基本的な日本語理解能力が欠けているということで問題外ですし、わかっていて文脈をすり替えたのであれば自己正当化あるいは目的の記事を作るためには現実をねじ曲げても良いというスタンスがそこにあることがわかります。どちらにしても記者としてまともだとは思えません。こうして捏造記事が作られていくのだなあ、というのがよくわかった出来事でした。マスコミの捏造記者には関わらない方がいいですね。他人の話を理解するよりも自分の主張のために現実をねじ曲げるのだということがよくわかった出来事でした。知らないマスコミの記者とはそもそも話をしない方がいいですよ。自分のエゴが強すぎて、主張を通すために他人のあら探しをするような人たちでした。あんなの、誰にも相手されなくなってゆくのではないでしょうか。日本企業は甘いですよね。なんで首を切らないのでしょうか。<br /> <br /> 私は呆れたくらいですみましたけど、これを大々的に日本中に報道されたらかなり怒って仕返ししていたでしょうね。直接的に三次元的には何もしないですけど呪って、例えばアクセルを踏み間違えさせて崖から転落させるとか自動車運転中に気を散らせてトラックに衝突させるとか、やろうと思えばいくらだってできますからね。<br /> <br /> まあ、それほどの恨みや仕返しをする時はこちらもそれなりの覚悟を持ってしますから普通はしないですけどね。その人が本来する筈だった目的とか全部キャンセルになってしまうわけですから、そんじょそこらの恨みや呪いじゃそこまではしませんけど、そうして始末されていく人も実際、この世の中にはいるわけです。<br /> <br /> 人に仕返しするよりも会社にダメージを与える方がジワジワと効いていいですよね。<br /> <br /> そう言えば20年くらい前に悪徳商法に引っかかって会社を遠回しに潰したこともありますが・・・ それは呪いだけじゃなくてネットの力も使いましたけどね。そうして会社も簡単に傾くので、甘く見て他人に呪われない方がいいと思います。案外、会社は脆いもので、すぐに傾きます。<br /> <br /> Sat, 20 Jun 2020 00:00:00 +0900 ゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想は五感を鋭くするサマタ瞑想(集中瞑想) https://w-jp.net/2020/1963/ <br /> 数年前に受けたゴエンカ式はヴィパッサナー瞑想(観察瞑想)と謳っていますが、実際には五感、特に皮膚の感覚を使った集中瞑想(サマタ瞑想)です。<br /> <br /> ですから、ゴエンカ式をやればやるほど五感が鋭くなって細かな感覚に敏感に反応するようになり、それがコントロールできる範囲を超えてしまうと禅病の如く、怒りの沸点が低くてすぐにキレてしまうようになるわけです。<br /> <br /> 受けた時は何故にゴエンカ式を受けた人のエゴがそれほどまでに拡大して自尊心あるいは自虐心の塊になって他人に対してすぐにキレたり精神混乱になったりするのか理解できずにいました。<br /> <br /> たわいのないことを言うだけですぐに大声を出してキレたり自己嫌悪に陥ったりする受講者を見て、なんだこれ・・・ と疑問に思っていたものでした。<br /> <br /> 今、数年経ち、その謎がほとんど解けたように思います。<br /> <br /> ヴィパッサナー瞑想は五感を超えたものですが、ゴエンカ式は五感、特に皮膚の感覚でヴィパッサナー瞑想をしていると思い違いをしているのです。<br /> <br /> 皮膚の感覚をいくら敏感にしたところでそれは五感のお話で、それは本来なら分類するのであれば集中瞑想(サマタ瞑想)に分類されるのです。<br /> <br /> 受講した時はその辺りの言説が微妙に理解し難く思いましたが、そのように捉えてみるとゴエンカ式の説明の内容に納得がいきます。<br /> <br /> ゴエンカ氏は瞑想はしておりましたがヴィパッサナーの領域にまで達したのかあるいは達しなかったのか、それは分かりません。本人が到達していてもうまく伝えることができなかった、ということはあります。ですが、少なくともあそこで行われているのは単なるサマタ瞑想(集中瞑想)であって、ヴィパッサナー瞑想ではありません。<br /> <br /> こんなことを本人たちに言っても激しく否定されるだけでしょうから、そんな野暮なことは本人には言いませんけどね。そもそも私がゴエンカ式を受けたことすら他人に言いたくはないほどゴエンカ式の人はエゴが増大して、「私も受けた」とでも言おうものなら自分の優越感が傷つけられたかと思って私を精神的に延々と攻撃してくることすらありますから、ゴエンカ式を受けたなんて言わずに単に他人のゴエンカ式経験者に対しては「そうなんだ。どうでした?」というくらいにしておいて、自分が受けたことを言わない方がいいと思います。ゴエンカ式を受けた人でめんどくさい人が多すぎます。<br /> <br /> ヴィパッサナー瞑想は五感を超えているのに五感がその入り口なのかどうかというと、確かに最初はサマタ瞑想(集中瞑想)で心を落ち着かせる必要があります。ですがそれはあくまでも集中瞑想なのであって、ヴィパッサナー瞑想ではありません。<br /> <br /> 思うに、そうそうヴィパッサナーなんて辿り着かないのですからヴィパッサナーなんて言う必要すらないと思います。あそこで行われていることのほとんどはサマタ(集中)瞑想に属することです。<br /> <br /> ヴィパッサナー瞑想は各種の流派がありますが、ゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想だけが皮膚の感覚をヴィパッサナーだと思っているわけです。<br /> <br /> 他のヴィパッサナー瞑想は基本的に次のように考えています。<br /> <br /> ヴィパッサナー瞑想は、思考を止めて、事実をありのままに観ることができれば、一切のドゥッカ(苦)から解放されるだろう、という理論に基づいています。「ブッダの瞑想法(池橋優雄著)」<br /> <br /> これは、半分はサマタ(集中)瞑想のことです。サマタ(集中)瞑想をしてからヴィパッサナー瞑想に入るのです。ミャンマーのマハーシ長老によるヴィパッサナーも同様のようです。<br /> <br /> 確かに、ゴエンカ式でも似たような段階が取られています。最初の3日くらいは息を観察するサマタ瞑想、そのあとはヴィパッサナー瞑想だと言っていますけど、実際のところは両方ともサマタ瞑想(集中瞑想)であるわけです。そこがゴエンカ式の大きな勘違いです。ヴィパッサナー瞑想だと思ってやっているのは実際はサマタ(集中)瞑想なのです。<br /> <br /> ヴィパッサナー瞑想の流派の中には、手法として体の感覚を観察するという瞑想をする流派があります。しかしそれはヴィパッサナー瞑想に入るための方便(手法)ですので、それ自体がヴィパッサナー瞑想ではありません。<br /> <br /> 流派としてヴィパッサナー瞑想をしていて、最初に体の観察をする瞑想を教えられたからと言ってそれがヴィパッサナー瞑想であるとは限らないですし、流派によっては、最初からヴィパッサナー瞑想を教えてもわからないからヴィパッサナー瞑想っぽいサマタ瞑想をヴィパッサナー瞑想として教えているところがあります。本人に気付かせるという意図があるのかもしれませんね。全てをわかっていながら皮膚の感覚をあえて本来の意味とは違ってヴィパッサナー瞑想だと言っているところもあるということです。<br /> <br /> そんな中、ゴエンカ式だけが皮膚の感覚をヴィパッサナーだと思っています。<br /> <br /> ここが、ゴエンカ式とその他の流派の違いです。<br /> <br /> ですから、ゴエンカ式をしたところで五感が鋭くなるだけで混乱し、エゴが拡大して他人にキレやすくなるわけです。<br /> <br /> Fri, 19 Jun 2020 00:00:00 +0900 鎌倉の低地が津波で流され、渋谷のビルが傾く https://w-jp.net/2020/1962/ <br /> 瞑想中で見たことですので、本当かどうかはわかりません。単なるメモ書きです。予言ではありません。先日の続きです。<br /> <br /> この正月に鎌倉の鶴岡八幡宮を初詣した際、境内を出て鎌倉駅に歩いていくと周囲の街並みが津波で流されているビジョンを見ました。これは関東大震災なのかあるいは東海地震による津波なのかまではわかりませんが、鎌倉駅周辺の低地は津波で流されるようです。鶴岡八幡宮の周囲の低地が影響範囲で、それより上の北鎌倉駅の方までは行かないようです。<br /> <br /> 鎌倉市のハザードマップを見ると鶴岡八幡宮の周辺までは来ないことになっていますね。鶴岡八幡宮と鎌倉駅の中間地点くらいまではハザードマップの津波避難対象地域に入っていますが、私の見たビジョンでは鶴岡八幡宮の周囲まで津波が来ていました。どちらにせよあのあたりは低地ですからそのくらいの誤差はあるのかもしれません。<br /> <br /> 鎌倉の神社巡りをした際にどこかで読んだのですが過去には鶴岡八幡宮の低地まで津波が来たこともあるようですのでその辺りまで流されても不思議ではありません。鎌倉市のハザードマップが楽観的すぎるだけなのかもしれないです。<br /> <br /> 渋谷の方はコロナで人の減ったところを通りかかったわけですが、何かゾッとするものを感じました。<br /> <br /> この感覚は、あの時に似ています。<br /> <br /> 東北地方太平洋沖地震の起きる数年前、釜石などの太平洋岸を旅行した時に感じた「気の無い土地」の感覚です。当時は「なんだこれ???」と思ったものでした。土地から生気が抜けて、気の抜けた、単なる三次元的な物体だけが残された町のように感じたのです。釜石あたりのホテルに泊まった時も変な感じでした。<br /> <br /> 渋谷の雰囲気は、まだそこまでではありませんが、方向性は似ています。<br /> <br /> 渋谷に関しては単なるコロナでの影響なのか、あるいは本当に地震の影響があるのかまではわかりません。コロナ後にもう一度行って感覚を確かめてみる必要がある気がします。<br /> <br /> もともとの感覚では、ビルが傾くのは横浜あたりまでであって、渋谷も多少は揺れますけど倒れるほどではないと思っていました。それでも老朽化したビルは耐震に問題が出て建て替えの必要が出てくるのかもしれませんね。そこまでは分かりませんけど、ひとまずこれは感覚のメモ書きとして残しておきます。<br /> <br /> Thu, 18 Jun 2020 00:00:00 +0900 自我が戸惑った後、時間が経てば自我が静まる https://w-jp.net/2020/1961/ <br /> 先日の続きです。自我が戸惑う段階に来て、その後は特にすることはありません。瞑想でその戸惑いを静かに観察し続けるだけです。そうすると、ふとした瞬間に ふっ と戸惑いが消えて自我が鎮まります。その時は、特に力は必要ありません。<br /> <br /> シャマタ(集中)の境地においてはある種の集中「力」が必要でした。最初は特別に強い力が必要で、同じシャマタでも次第に力が要らなくなってゆきます。<br /> <br /> そうしてヴィパッサナーあるいはカニカ・サマーディになってもまだ多少の力は必要ですが、ここに来て、ようやく力が不要な状態になります。<br /> <br /> 不要とは言っても、お盆を片手で持っているかのような、あるいは、頭の上に荷物を載せているかのような体幹によるしっかりとした土台が瞑想の力として必要にはなりますが、それは力を入れているというよりは、心の体幹がどっしりとしていて、もはや特別な努力が要らなくなる、と言った種類のものです。<br /> <br /> ですから、その体幹を力とは言わないですけど、体幹がしっかりしていることで心が揺れ動かなくなり、それにより、意識で力を加えなくても心が安定しているのです。<br /> <br /> その状態になれば、自我が最初は戸惑ったとしてもやがては戸惑いが薄れ、自我が自分の安全さに気付くかの如く自我が鎮まってゆきます。<br /> <br /> それは丸い鉄の玉が磁石によって引き寄せられているかの如く、自我それ自体は何者かによってきちんと制御されている状態になります。<br /> <br /> この状態をなんというのか微妙なところです。ヴィパッサナーと呼ぶこともできるでしょうし、サマーディの一形態と呼ぶこともできるかもしれません。<br /> <br /> 今まで自我が何某か反応をしていたことに対しても自我が表面的には反応しなくなり、むしろその奥にある真我と呼ぶべきかあるいは潜在意識と呼ぶべきものだけが受け答えをするようになります。<br /> <br /> その時、奥にある潜在意識が反応する度に自我が「自分は答えなくても良いのですよね?」と言わんばかりに、都度、戸惑いを見せます。これは単なる戸惑いを言葉で表現しているだけですので自我がこのように意識を発するわけではなく、単に、戸惑いが広がるのみです。この段階では、自我はいわゆる「待て」の状態で待機しています。それでも、周囲で何が起こっているのだろう、と気になって戸惑いを見せるのです。<br /> <br /> 真我と自我の関係は、まるで飼い主とよく躾けられた犬との関係に似ているような気が致します。真我が自我に対して「伏せをして待て」と命令すれば、まるで犬が、飼い主の意図はわからないまでもそれに従って、それでいて犬ですから周囲が気になって仕方がない、という、その関係によく似ているような気が致します。<br /> <br /> 戸惑いはするものの、自我は雑念に対しては何も反応しなくて良いのだと訓練されていますから戸惑うだけで終わりで、深い潜在意識が少し反応を見せたり見せなかったり、時によって色々です。<br /> <br /> <br /> 昔からよく聞く例え話で、真実を知るためには「力を抜かなくてはならない」とか、「握り締めてしまうから真実を失う。握りしめる手を緩めなくてはならない」みたいなお話は、ひょっとしたらこの段階のことを表現しているのかもしれません。<br /> <br /> Wed, 17 Jun 2020 00:00:00 +0900 特定の人や会社と付き合うことを守護霊が拒絶させることがある https://w-jp.net/2020/1960/ <br /> 面接や何かの機会で誰かに会う時、守護霊がそのお付き合いをしない方がいいと判断したら何某かの方法で関係を絶たせようとします。<br /> <br /> 例えば、就職の面接に向かうとします。守護霊がその会社に入らない方がいいと判断したら面接の直前から具合が悪くなって顔色が悪くなり、表情は硬くなり、言葉も出なくなって面接に落ちます。面接官からしたらそんなことはわかりませんから「この人はダメな人」と嘲笑って面接を落とすこともあるでしょうし、面接に赴いた人は自分のことに自信がなくなるかもしれません。ですが、それは往々にして守護霊が「ここはダメ」と判断しているのです。その判断は守護霊がすることもありますし、自分のハイヤーセルフというかグループソウルがすることもありますし、自分のスピリットが時空を超えていわゆる過去あるいは未来からインスピレーションを送っている時もあります。<br /> <br /> 面接なんてのは呼ばれれば割と通りますけど守護霊が介入してきたらほぼ通らないです。<br /> <br /> 本来であれば応募する前にインスピレーションを感じるべきことではありますが、何となく見過ごしてしまったり関係性で断れずに関わりを持ってしまいそうになった時に、いざとなればどうにかして関係を持たないように介入してくるということです。<br /> <br /> 面接官あるいは相手の立場からしたら、そんな初対面の人の判断をファーストインプレッションでするわけですけど、相手の態度がおかしかったら自分が拒否されていると思った方がいいと思います。この世の中に、変な人はそんなにいませんよ。<br /> <br /> 割と面接官は自信家ですので相手を判断して「この応募者はこのような人でした」とレポートを出すわけですけど、月日が経つにつれて実際の姿と違っていることが分かってきて、世間では「面接なんて意味あるのか」と言われたりしますけど、面接はやっぱり必要だと思います。そこで応募者を選別していると思っている会社側は、実際は応募者によって選別されているわけです。<br /> <br /> この一時的なことが原因で面接官が応募者を見下したとしたら、応募者は単に入社しなければいいだけのことです。面接官は往々にして人事担当者ですから、そんな人生経験が足りなくて見る目のない人事がいる会社にでも入ったら人事評価で正しく見られることはありませんから入社しないのが正解なわけです。面接官が業務担当者だったとしても同じことで、上司に正しく評価されないのであれば入社しない方がいいわけです。<br /> <br /> 会社は応募者を選別していると思っているかもしれませんが、実際は応募者によって会社が選別されているということです。<br /> <br /> とてもいい会社に見えてもその人の人生に不利益だと思えば守護霊は面接でどうにかして失敗させたりします。普段しないのにどうしてあんな変な態度を面接でしてしまったのだろう・・・ と思い悩むよりも、それは失敗して良かったのだと思った方がいいです。<br /> <br /> どんな会社にいようとも、それは、その環境が一番良いからそこにいるわけです。<br /> <br /> ・・・確かに、本当に単純に失敗した、ということはあります。入社する筈だったのにできなかった、ということはあります。単純なアクシデントの失敗はあります。ミッション失敗で入社できなかった、ということはあります。でも、実際はそこまで難易度は高くありませんので、本来入るべきところには入れます。合わないと感じるところは守護霊が避けさせていることがほとんどです。・・・とは言いましても、積極的に関与してくる守護霊と、見守る方針の守護霊がいたりしますので、この表現はちょっと語弊があるかもしれませんが、少なくとも守護霊の意思は働きます。<br /> <br /> 人付き合いにしても同様で、異性とのお付き合いや結婚などは顕著にそれが働きます。<br /> <br /> ですから、初対面の人への振る舞いで何か失敗して関係が作られなかったとしてもそれを自分のせいだと自責の念に駆られる必要はあまりないですし、変な人と会ったとしても、初対面だけで相手を判断するよりは自分が避けられているのだと思った方が良いです。<br /> <br /> ・・・実際は、本当に根本から変な人は一目でそうだとわかりますし、何か一時的におかしくなって関係を持たないように相手が拒否しているのだな、というのもはっきりとわかります。これらを見分けることができないのは人生経験が足りない、とも言えるかもしれませんね。ただ、見分けられていると思っていても初対面で見間違えることがあります。120%の自信があって相手を判断していると思っていても明らかに間違っている場合も多々あります。そんなもんです。<br /> <br /> ですから、安全のためにも相手をそう簡単に判断しない方がいいと思うわけです。そもそも相手の人生なのですから、あなたがどうこう思い悩んだり卑下したりする必要はなくて、放っておけばいいだけのお話です。<br /> <br /> 印象を受け取ったら、それは相手の姿ではなく自分あるいは自社がそう相手から判断されていると思った方がいいと思います。相手にいい印象があれば、相手が自社あるいは自分にいい印象を持っているということ。逆も同様。それは一時的な姿でしかないわけです。<br /> <br /> 人生の奥深さがわからなくて簡単に相手を判断してしまう人も多いので、そういう人と会って自分や自社が表面的に判断されたら、逆に相手の人生経験の浅さを思ったりもします。とは言っても、それすらも実際は本質とは関係ない、所詮は雑念ですので、根本的にはやはり、単に相手は放っておけばいいだけのお話です。<br /> <br /> 実際のところ、会社の面接であればそのように守護霊が強く関与して拒絶させるような人は積極的に会社に入れるべきだと思いますけどね。いわゆる「運の強い人」でもあるわけで、様々に強運や縁を呼び込む人材であるわけです。守護霊に拒絶されているのだから会社の方に問題があるか、あるいは、応募者のやりたいことに合わないわけですから、あまり深く考えずに「縁がなかったのだ」、と思うくらいで十分かもしれないですね。<br /> <br /> Tue, 16 Jun 2020 00:00:00 +0900 ヴィパッサナーを超えた瞑想で自我が戸惑う https://w-jp.net/2020/1959/ <br /> 瞑想の階梯において最初はシャマタ(集中)があり、それは自我が押し留められて自我が一時的に消滅している状態における静寂でした。<br /> <br /> そのシャマタ(集中)にも2種類あって、最初はゾーンでの激しい歓喜から始まって静かな歓喜に変化してゆくわけですが、静かな歓喜の状態にある程度留まるとその先はスローモーションのヴィパッサナー(観察)瞑想あるいはカニカ・サマーディ(瞬間定)と呼ばれる状態に遷移するわけですが、その先で、次第に自我を留めおく力が不要になってくると自我が動き出して戸惑うようになります。<br /> <br /> シャマタ(集中)の瞑想をしている間は自我が止まっていますので歓喜が湧き起こります。自我が止まると歓喜になるのかと思いきや、慣れてくると歓喜が治ってゆき、やがてはヴィパッサナーあるいはカニカ・サマーディと呼ばれている状態になるわけですが、その状態ではまだ力がどこか入っていて自我をコントロールしている力が入っているわけですね。<br /> <br /> おそらくは、そのあたりが自我とそれ以上の存在、いわゆる非我とか無我とかあるいは真我(アートマン)との主従の入れ替わりの段階なのかなと思います。<br /> <br /> ヴィパッサナーあるいはカニカ・サマーディの段階ではまだ自我の方が主で真我(アートマン)はあまり動いておらず、せいぜい奥深くの感覚で何となくそれがあるという感じ、あるいは、ヴィパッサナーによって観察しているのがアートマンなのだと何となく認識している段階です。<br /> <br /> ヴィパッサナーあるいはカニカ・サマーディを超えた段階で真我(アートマン)が主になって、その段階では自我が従へと入れ替わるのだと思います。<br /> <br /> すぐに完全に入れ替わるというよりは、そのあたりの段階でようやく自我のコントロールが不要になって自我を縛っている手綱を緩めることができるのだと思います。<br /> <br /> そうして、真我(アートマン)が自我をコントロールするにあたって、自我としては今まで認識していなかった何ものかに自分がコントロールされるのだという、えもいわれぬ不安で戸惑うわけです。<br /> <br /> それが、私の瞑想で最近起こっています。<br /> <br /> この段階になると、もはやシャマタ(集中)の時のようにどっぷりと瞑想の中に沈み込むというか落ち込むというか時間を忘れて瞑想だけに浸って時間を過ごすという感じではなくなり、意識が常に起きているので自我の戸惑いを幾度となく常に認識するようになります。<br /> <br /> 昔のように瞑想に落ち込むという感じでもなく、そうなる気配もなく、ただ意識がずっと動き続けるので、もはや瞑想として座る必要もないのではないかと時には思ってしまいますが、それでも座ると多少は違うので座ることは続けています。<br /> <br /> この戸惑いは、瞑想を始めた時の雑念に惑わされる混乱とは全く別のものです。<br /> <br /> 自我がもはや雑念に囚われなくなって、自我が何も活動しなくても良い、と真我(アートマン)から指示されて、それでも時々は雑念に囚われもしますが、自我が何もしなくても良くなって戸惑う時間の方が雑念によって惑わされている時間よりも多くなってきているような感じがいたします。<br /> <br /> 人によってはこれを恐怖と表現するのかもしれませんが、恐怖というほど怖いわけではなく、ただ単に、自我がどうしていいのかわからず戸惑っている、という感じを受けます。<br /> <br /> おそらくはしばらくすれば自我は自らが何もしなくても安全だと分かって落ち着くのかな・・・ という気がしています。きっと時間の問題なのかなと。まだしばらく様子を見てみたいと思います。<br /> <br /> Mon, 15 Jun 2020 00:00:00 +0900 否定形で非我を表現すると自我が分かったつもりになる https://w-jp.net/2020/1958/ <br /> 非我と自我とは似て異なるものなのに、否定形で表現すると自我が分かったつもりになるので満足してしまいますが、実際は非我と自我は相入れないものなので自我が非我を理解することはありません・・・ というと語弊がありますが、非我が現れ始めた後であれば非我と自我がわかり合うことができますが、非我が出てくる前に自我が非我を理解することはありません。その場合、否定形で非我を表現したところで自我が分かったつもりになるだけです。<br /> <br /> 自我が理解するのはそれはそれで重要な一歩ではあるわけですが、実際に分かったのとは異なる状態ということです。<br /> <br /> ですので、分かったつもりになるのは大切なわけですけれども、その理解と非我が働き始めるのとは異なる状態だということです。<br /> <br /> たまにはボーディダルマの言葉を引用してみましょう。<br /> <br /> この無心が仏だ。この無心を超えて仏は見出せない。この無心を超えて悟りや涅槃は求めえない。「無心」とは、本性の実在、因果の不在をいう。自らの無心が涅槃だ。「ボーディダルマ(和尚OSHO)」<br /> <br /> 原文には「心」と書いてあるところを解説者が「無心」と置き換えて説明しています。<br /> <br /> 心が自我だとすれば原文のままですと自分の自我がそのまま悟りや涅槃ということになってしまいます。<br /> <br /> ・・・確かに、それは最終的な理解においては正しいのですけど、実際はそこまでの意識にない人がほとんどでしょうからこうして否定形を用いることで自我を超えた何ものかが存在することを表現しているわけです。<br /> <br /> そうすることでまず自我が納得して、それから、それを実感するために瞑想するなりして確かめるわけです。<br /> <br /> Sun, 14 Jun 2020 00:00:00 +0900 未来が見えたところでそれを指摘するなんて野暮なことはしない https://w-jp.net/2020/1957/ <br /> 所詮はゲームなのですから失敗しようが成功しようがあまり変わりがないことです。明日失敗することが見えていたとしてもそれをわざわざ指摘するなんて野暮なことはしないです。<br /> <br /> 深刻になる、というゲームをみんなが真剣にやっているのにそれを邪魔しちゃ悪いでしょ。遊ぶ時はとことん遊べばいいのです。<br /> <br /> 芸能人とかでも、おそらくは未来が見えていそうな人はいらっしゃいますよ。<br /> <br /> それで、人によっては自覚があって未来が見えると自分で言う人もいるし、単に勘が鋭いと思っているだけの人もいます。自分で未来が見えると思っていても実際には勘が鋭いと思っているだけの人より能力が劣っている場合もあります。<br /> <br /> 基本的には、みんな何某かの予知能力があると思っていた方がいいですし、わかっていて選択しているのですから、放っておけばいいのです。それもまた勉強というか遊びです。<br /> <br /> 勉強というと教訓のように聞こえてしまいますけど、教訓なのはそうだとしても、もっと広い視野で見ればそれは単なる人生のお遊びにしかすぎないわけです。<br /> <br /> ですから、他人から見て失敗のように見えることがあっても、それをわざわざ指摘なんてするのは影響を与えたいというエゴの仕業かあるいは人生というものがよく分かっていないのです。<br /> <br /> 放っておけばいいんです。この世界は自由なのですから、成功して楽しむ人もいれば失敗して深刻になることで遊んでいる人もいるんです。もちろんその瞬間においては苦しかったりするかもしれませんけど、それはその人が人生の選択をしてそうなったのです。<br /> <br /> この世の中は残酷ですので成功もキリがなければ失敗もキリがないです。<br /> <br /> 実際、誰かからの助けなんてのはあるようでいてなくて自分で助かろうと思えば一瞬で助かるわけですが、そもそもの動機は何かというと「知りたい」というところにたどり着きます。<br /> <br /> 悩んでいる人がいるのを見て「なんで悩んでいるのだろう?」と思ったら、人生のとある時、あるいは未来において自分が同じ悩みに落ち込んでその悩みを深く知ることができるようになります。<br /> <br /> 一方で、金持ちを見て「お金儲けの何が面白いのだろう?」みたいに「知りたい」と思えばそうなります。金持ちも楽しいばかりじゃないということがわかれば金持ちに興味がなくなり、自分もお金がそんなには必要じゃないと分かったりするかもしれません。<br /> <br /> そんな感じで、失敗するということは基本的には失敗を知りたいからするわけです。<br /> <br /> ですから、失敗してその失敗を深く知りたいと思っている人の邪魔をすることはないわけです。失敗することが目的なはずなのにそれを邪魔しては悪いです。放っておくべきであるわけです。<br /> <br /> とは言いましても、そうではなく、単に、本当のアクシデントによる失敗というものはあります。これは、指摘して構いません。目的とは違いますからね。<br /> <br /> ですが、普通の人はその差なんてわからないのではないでしょうか?<br /> <br /> ですから、基本的には他人の未来が分かったとしても放っておけばいいわけです。<br /> <br /> Sat, 13 Jun 2020 00:00:00 +0900 どうやら、天変地異で地球を浄化するタイムラインがあるようです https://w-jp.net/2020/1956/ <br /> 少し前にアセンションとかパラレルワールドについて書きましたが、どうやらタイムラインのうちの1つでは以下のようになるようです。<br /> <br /> ・・・夢でみたお話ですのでファンタジーだと思ってください。<br /> <br /> 天変地異で地球を浄化し、そこに、いわゆる「面倒な」スピリチュアリストが移住する。このパターンでは宇宙船が生き残りを助けに来ます。そして、死亡した大勢の魂は前に書きましたように500年前に枝分かれした別のパラレルワールドに遷移します。<br /> <br /> どうやら、これが少し前までの既定路線だったようですね。<br /> <br /> 今は現在のタイムラインでどうにかなるのでは・・・ というところを模索しているようです。<br /> <br /> ですが、今後、神様の気持ちが変わって、遅れはしたけれどもやはり既定路線で行こうか・・・ となる可能性もそれなりにあるようです。<br /> <br /> 実際はパラレルワールドが作られるだけですので、現在の地球を継続するパターンも残ります。というのも、人口増による破滅や混乱がどのような結果をもたらすのか神様が学びたいと思っていますから。<br /> <br /> 神様はタイムラインを切り替えできますから、知りたいと思ったらタイムラインをどんどん増やしてゆきます。このまま人間に任せたらどうなるのかな・・・? という、「知りたい」という欲求で神様のタイムラインが作られてゆきます。<br /> <br /> 一方で、メインになるタイムラインを切り替えもします。<br /> <br /> 意識は時空を超えていますから、メインではないタイムラインは継続はしますが神様の意思が希薄な世界になります。実際は神様は沢山いて、そちらのタイムラインに興味を持っている神様もいらっしゃるのでメインとかそうでないかというのは神様にとっての主観ですのでそれほどメインとかそうでないとかは気にする必要はないと思いますが、説明としては、メインとそれ以外が存在するわけです。力を持った神様が決めると他の神様もそれに従いますからね。<br /> <br /> と、いうことで、まとめます。3つのパターンに分かれます。<br /> <br /> ・今の地球が継続するタイムライン。<br /> ・天変地異で今の地球の地上は破壊され、生き残りは宇宙船が助けに来て、その後の地球で「面倒な」スピリチュアリストと共に暮らすタイムライン。<br /> ・上記の天変地異によって死亡した人たちの多くは500年前に枝分かれした、日本がカリフォルニアも含む太平洋沿岸の多くを支配しているタイムラインに移る。<br /> <br /> 2番目に行きたい人たちがアセンションとか言っている気もしますね。確かにアセンションと呼んでも良いような時期が来てはいますけど、それは、単に意識が変わるだけであって、天変地異とはさほど直接的な関係はないような気が致します。<br /> <br /> Fri, 12 Jun 2020 00:00:00 +0900 ゾーンでの激しい歓喜とその先の静かな歓喜 https://w-jp.net/2020/1955/ <br /> アスリートやコンピュータエンジニアリングなどではゾーンと呼ばれている歓喜を伴う極度の集中状態がよく知られています。人によっては一生に一度だけかもしれませんが、瞑想をしますと割と簡単にその状態に至れるようになります。<br /> <br /> 瞑想をしない場合は仕事や趣味などに没頭してそれと一体になることでゾーンに入ります。<br /> <br /> 私の場合はもともとスピリチュアルで子供の頃に幽体離脱とかしていたわけですけれどもその頃はまだ瞑想をしていたわけではなくて、むしろ、コンピュータのプログラミングを集中して行うことでゾーンに入って歓喜を得ていたような気が致します。<br /> <br /> 仕事においてもゾーンに入っていたわけですが、昔にも少し書いたように日本の会社は集中できない環境でことあるごとにゾーンを破るような人が話しかけてきますから、ゾーン中に(意図的にせよそうでないにせよ)ゾーンを急に破るような人が多い場合は精神的にも不安定にもなります。<br /> <br /> このあたり、日本であまりにもゾーンの理解が薄くて日本の仕事は単なる単純作業でしかないことが多い、ということの現れだと思います。<br /> <br /> ゾーンに入ると入る前の理解を超えたものが自然に現れてきて、ゾーンに入る前の計画以上のものが手に入りますから、周囲からしてみるとそれは本人がやったようには見えなくてただ何処かから持ってきただけに見えるのですよね。<br /> <br /> 実際、ゾーンに入ることで自分の意識が広がって、ある意味、時空を超えて未来からの観点も含めて微細なイメージを受け取って次々に判断や新たな視点が繰り広げられて行きますので、ゾーンに入ったことのない人やゾーンにほとんど入れないような人には理解できないでしょう。<br /> <br /> そんな中でも、割とコンピュータはゾーンに入りやすい気が致します。<br /> <br /> 日本の企業の習慣はゾーンに入っている人の集中を途切れさせてしまいますのでゾーンに入ること自体が危険ではあります。ゾーンをことあるごとに途切れさせてしまうと、時々いるような、ちょっと精神不安定なコンピュータエンジニアができてしまうのです。本人が悪いのではなく会社の環境が悪いことが多いような気が致します。このあたり、日本の企業がいかにゾーンに対して理解がないのか、ということの現れだと思います。だから、日本の企業の生産性が上がらない。<br /> <br /> 一方、幸いにしてゾーンが妨げられずに歓喜の状態で作業が続けられた場合、それは効率的な結果をもたらすわけです。<br /> <br /> これは、瞑想でいうところの「集中」「シャマタ」という状態です。瞑想において極度の集中をすれば歓喜に至ります。<br /> <br /> ですから、瞑想をしていなくても仕事で極度の集中をして歓喜に至ることができればそれは瞑想でシャマタをしているのと同じことになります。<br /> <br /> そして、そのゾーン状態を続けていると、年単位の時間経過が私の場合には必要でしたが、やがて、その歓喜が静まって行きます。<br /> <br /> これは私だけの状況ではなく、一般的にもそうであるようです。<br /> <br /> 歓喜が鎮まったからと言って特に不幸になったわけでもなく、次第に、静かな歓喜がそれに取って代わるようになりました。<br /> <br /> この当時は瞑想をしておりませんでしたので、激しい歓喜から静かな歓喜に移行するのはゾーンを体験するごとに次第に少しづつ遷移する、という感じのゆっくりとした遷移ではありました。しかし、はっきりとした変化であり、元に戻ることはありませんでした。<br /> <br /> もともとの激しい歓喜の状態こそがおそらくはゾーンと一般的に呼ばれているもので、静かな歓喜もゾーンと呼んでも良いのかもしれませんが、それはもはやわざわざゾーンとは呼ばなくても良い気が致します。<br /> <br /> これらの2つのゾーンが実際にはあるのですが、前者のゾーンであったとしても、日本の企業ではあまり知られていないように思います。<br /> <br /> Thu, 11 Jun 2020 00:00:00 +0900 ヴェーダにおける4つの意識の状態 https://w-jp.net/2020/1954/ <br /> ヨーガあるいはヒンドゥ教では意識の4つの状態を言い表しています。<br /> <br /> ・目覚めの状態(ジャーグラト)<br /> ・夢見の状態(スワプナ)<br /> ・熟睡の状態(スシュプティ)<br /> ・覚醒意識(第四の状態、トゥーリヤ)<br /> <br /> 具体的にはマーンドゥーキヤ・ウパニシャッドにて次のように記されています。アートマンとはざっくりいうとヨーガでいう魂のようなものです。<br /> <br /> ■アートマンの四位<br /> ・覚醒位(jagarita-sthana)における普遍位(vaisvanara)<br /> ・夢眠位(svapna-sthana)における光明位(tajiasa)<br /> ・熟睡位(susupta-sthana)における識所成我(prajna)<br /> ・第四(caturtha)位の我、聖音オーム(om=a.u.m.)、吉祥、絶対不二(advaita)<br /> 「ウパニシャッド(辻 直四郎 著)」より<br /> <br /> 原典の翻訳には以下のようにあります。<br /> <br /> ・アートマンの第一のすがたは(中略)ヴァイシュヴァーナラである。覚醒状態にあり、(中略)、感覚器官からよろこびを受け取って、それを享受する者である。<br /> ・アートマンの第二のすがたは、その精神的な状態における普遍的人格、タイジャサである。(中略)彼は夢見状態にある。(中略)自分の過去の行為が思考期間に残した微細な印象を享受する者である。<br /> ・アートマンの第三のすがたは、熟眠状態における普遍的人格、プラージュニャである。プラージュニャは夢を見ず、欲望を持たない。(中略)あらそいも不安も経験しないのだから、彼は至福に満ちており、至福の経験者である、と言われる。プラージュニャは全てのものの主である。彼はすべてのものを知っている。彼はすべてのものの心臓に住む。彼はすべてのもののはじめである。彼は全てのものの終わりである。<br /> ・第四のすがたは、(中略)感覚を超え、理解を超え、表現を絶したもの、それが第四のすがたである。(中略)それはアートマンである。<br /> 「ウパニシャッド(日本ヴェーダンタ協会 著)」<br /> <br /> こうしてみますと、一般的に言われている最初の定義と実際の内容とでかなりの違いがあることがわかります。<br /> <br /> 最初の4つの定義は割とヨーガ業界では有名で色々なところで語られていると思います。<br /> <br /> 私が思うに、特に4つ目の「トゥーリヤ」はスピリチュアル業界で有名で、おそらくは和尚ラジニーシ(OSHO)が講話でことあるごとに繰り返して本にも多数載っていることでこのトゥーリヤが超越状態を意味することが広く知れ渡ったのだと私は思っています。<br /> <br /> しかし、実際に本文を見てみると、ちょっと意味合いが違うことがわかります。<br /> <br /> 第四の状態を目指すというのは確かにそうですが、実際は、それぞれの状態全てにきちんと重きが置かれるべきだと思うわけです。3つそれぞれをきちんと理解して体験して、そして初めて第四の状態に導かれてゆくのであって、最終目的地の第四の状態をいくら繰り返したところで覚醒には至らないのかな、と今では思います。確か20年以上前のスピリチュアルやニューエイジのブーム時代には和尚ラジニーシ(OSHO)の講話の本が人気になってトゥーリヤという言葉も一般的になったかと思いますが、その時は、このような細かな説明は聞かなかったような気が致します。私が読み飛ばしていただけかもしれませんが。<br /> <br /> 簡単にポイントを記載すると、以下のようになります。<br /> <br /> ・目覚めの状態(ジャーグラト)アートマンの一面、ヴァイシュヴァーナラ。感覚器官を受け取る者。<br /> ・夢見の状態(スワプナ)アートマンの一面、タイジャサ。微細な印象を受け取る者。<br /> ・熟睡の状態(スシュプティ)アートマンの一面、プラージュニャ。至福の存在。<br /> ・覚醒意識(第四の状態、トゥーリヤ)これこそがアートマン。<br /> <br /> 第四の状態であるトゥーリヤがアートマンであるとはどういうことでしょうか? 聖典の本文によると、以下のように続きます。<br /> <br /> すべての言葉を超えたこのアートマンは、オームという音節である。この音節は分割できないが、3つの文字、すなわちア・ウ・ムから成っている。「ウパニシャッド(日本ヴェーダンタ協会 著)」<br /> <br /> 同書によれば第一から第三までの状態がそれぞれア・ウ・ムであり、第四の状態であるトゥーリヤがアートマンであるところのオームだと言うのです。<br /> <br /> であれば、これらの意味もはっきりとします。<br /> <br /> 和尚ラジニーシ(OSHO)の講話は、当時は「トゥーリヤという凄い状態があるのだな」と思って読んでいましたが、今から読むとインパクトのあるところだけを取り出して弟子たちを喜ばせていたという面もあるのかな... というショービジネス的な面が見え隠れしているのが見て取れます。スピリチュアルで2周・3周・4周くらいしてくると色々な視点が持てるものです(苦笑)<br /> <br /> 参考までに神智学から見たこれらの状態の定義を記載しておきます。<br /> <br /> ・ジャーグラト(Jagrat)は普通の、目が覚めている時の状態。<br /> ・スヴァプナ(Svapna)はアストラル体の中で働き、その経験を脳に刻印しうるような夢意識。<br /> ・スシュプティ(Sushupti)はメンタル体の中で働く意識で、その経験を脳に伝えることはできない。<br /> ・トゥリヤ(Turiya)は三昧(サマーディ)の状態で、ブッディー体(純愛と叡智)の中で働く意識であるが、脳とは離れすぎているため、簡単に思い出しうるものではない。(中略)深い瞑想(三昧、サマーディ)によってのみ連携あるいは思い出せる。<br /> 「神智学大要 第2巻 アストラル体[上](A・Eパウエル 著)」<br /> <br /> これらは神智学におけるアストラル体等の定義を知らないとなかなか読み辛いものにはなっているものの、内容的に違う面から語れていて示唆に富んでいると思います。<br /> <br /> Wed, 10 Jun 2020 00:00:00 +0900 関東大震災が先で東海地震が後 https://w-jp.net/2020/1953/ <br /> こういうのはそれぞれ個別の物語としてインスピレーションが来ることが多いですが、それと関連した他のストーリーを元に推測すると、どうやら関東大震災が先で東海地震が後と考えるのが筋が通っているように思えてきました。<br /> <br /> 先日、関東大震災と東海地震は2021年1月後半かなというお話をしましたが、どうやら関東大震災が1月後半で、東海地震は初夏の、おそらく6月か7月頃なのではないかと思います。<br /> <br /> ・・・とは言いましても、これは予言ではありません。ただのインスピレーションのメモ書きです。<br /> <br /> 大抵は当たりませんからね、こういうの。<br /> <br /> インスピレーションには2つあって、1つは想念形態として地上にぷかぷか浮いているものをキャッチするケース。もう1つはその奥に眠っている、まだこの世に形として現れていない形態を読み取るケースです。<br /> <br /> 前者の場合は想念形態ですから誰かが勝手に想像したものをキャッチしただけですのでまず当たりません。後者にしても人々の思いや歴史のタイムラインの選択によってすぐに未来は変わりますから、そんなには当たりません。地震なら当たるだろうと思われるかもしれませんが、どの未来のタイムラインを選ぶかという点において神の選択がなされますので、神の選択いかんによってはタイムラインが変わる・・・ というか、別のタイムラインが選択されるわけです。<br /> <br /> ですから、我々人間からしたら当たるか当たらないかしか分からないわけですけれども、前者であればまず当たりませんし、後者であっても神様が別の選択をしたならば当たらないわけです。<br /> <br /> というわけで、こういう地震とかのお話は、話半分くらいに聞いておくので十分だと思います。<br /> <br /> 関東大震災の震源は前にも書いた通り三浦半島近辺で横浜あたりまで大きな被害が出ます。東海地震は愛知と静岡などに被害が出ます。三重県や和歌山も被害が出ますけど被害が大きいのは静岡や愛知とかですね。湾岸の平地があるところが危ないです。これは自治体の津波予想が割と当たっていますので、自治体で津波予報の範囲に含まれている人は早めに引っ越した方がいいと思います。<br /> <br /> 今回は割と時間に猶予がありますので、逃れようと思えばいくらでも逃れられるはずです。<br /> <br /> → 続き<br /> <br /> Tue, 09 Jun 2020 00:00:00 +0900 否定的思いを打ち消すために反対である肯定的思いを用いるのは悪いことか? https://w-jp.net/2020/1952/ <br /> 最近は色々と理屈っぽい人が多くなって、古典に書かれてあるこの手法を否定する人がそれなりに世間にいるように思います。<br /> <br /> 大元のお話はヨーガスートラに記載されています。<br /> <br /> 2.33 否定的想念によって撹乱されたときは、反対のもの(肯定的想念)が念想されるべきである。「インテグラル・ヨーガ(スワミ・サッチダーナンダ著)」<br /> <br /> これは古典ですが、最近の精神セラピーでも同様の手法が取られていると思います。<br /> <br /> しかし、意外にもこれを否定する人が多いのです。言わんとしていることはわからないでもありませんが、しっかりと理解していないように思われるのです。<br /> <br /> まず、これを否定する人の言論は以下のようなものです。<br /> <br /> ・思いは否定されるべきではなく観察されるべきものだ。<br /> ・否定的想念を肯定的想念で打ち消すのは本当の瞑想ではない。それは間違っている。<br /> <br /> これらの発言には共通点があって、おそらくはヴィパッサナー瞑想やスピリチュアルな本で学んで感化されて、しかしながらきちんと理解していないのかな、という印象を受けます。<br /> <br /> まず、はっきりさせておくべきことは、意識の段階においてそれぞれ何が正しいのかが違うということです。<br /> <br /> 瞑想は「集中」と「観察」の両方の要素がありますが、集中が出来ていない人に観察だけを示唆しても瞑想はうまくいきません。<br /> <br /> 否定的想念が出てきたらそのまま放っておけばなくなる、というのは中級者以上のお話です。否定的想念が出てきたら反対の想念(肯定的想念)を出して打ち消す、というのは初心者のお話です。<br /> <br /> このヨーガスートラの話を聞くとすぐにヒステリーになって否定しだす人がぼちぼちいて、なぜそんなにヒステリーになるのか私には全く理解できませんが、そのようにヒステリーに否定する人が実際にこの世の中にいますので、そのような人は瞑想の段階としてはまだ理解が全然足りていないのかな、という印象を受けます。<br /> <br /> 確かに、瞑想の意識が進んでヴィパッサナー状態になると否定する必要もなくて観察すれば良いですし、否定的想念を肯定的想念で打ち消すのは本当の瞑想ではないという人の意見も分からなくはないですけど、私なんかからすればどちらも瞑想で、それぞれ深さが違うだけだと思うのです。<br /> <br /> そんなにヒステリーになって否定することもないと思うのですけどねえ。<br /> <br /> そういえば最近手に入れた本で以下のような記述がありました。<br /> <br /> 真の瞑想とは強いることなき自然なものである。物質的なことであれ霊的なことであれ、瞑想から何かの見返りを得ようと、決まった時間に決まった想いに心を集中させることによって、対立するすべての想いを打ち消そうと悪戦苦闘するのが瞑想ではない。「チベット永遠の書(テオドール・イリオン著)」<br /> <br /> これ、読む人によって違った印象を与えるでしょうね。<br /> <br /> 瞑想をよく分かっていない人が読むと「偽物の瞑想があるんだ! 私は真の瞑想を知っている」と思って、偽物の瞑想を吊し上げてヒステリーになってしまうこともあるでしょう。同書では著者が大袈裟に「真の瞑想」とか「偽の瞑想」とか書いているので、これを読んでいる人は真に受けて偽物を吊るし上げようとするかもしれないですね。こういうのはいけないですね。理解不足ですね。<br /> <br /> 瞑想をよく分かっている人が読むと、「そりゃそうです」としか思いません。特に凄いことが書いてあるわけでもないし、当たり前のことです。<br /> <br /> このような、何か凄いことのような印象を与える宣伝が一部でなされていて、それによって不愉快な思いを受ける人がそれなりにいるのは悲しいことです。<br /> <br /> 以前にも書きましたけど、瞑想に不慣れな最初は力を入れて集中して思いを打ち消すのです。そういうものです。その後、やがてはヴィパッサナー状態になってゆきますけど、それは瞑想がそれなりに進んだ後のお話です。<br /> <br /> Mon, 08 Jun 2020 00:00:00 +0900 チャクラは左回転、かも https://w-jp.net/2020/1951/ <br /> 今日の瞑想では、ふと気がつくと空から落ちていました。空から手を広げて大の字になって頭から地上に落ちてきていました。地上まであと数百メートルになった時、ふと手とお椀(何故か持っていた)を前に向けたらその中に風が入り、やがて周囲が光に包まれて落下が止まり、空を浮き始めました。そして再度、地上の空高く舞い上がったのです。<br /> <br /> その時、何か渦のようなものが見えました。<br /> <br /> <br /> <br /> 白黒で、私の顔の真正面から見ると円のように見えましたが、渦が左回転(反時計回り)をして、中心が手前(私の方)に向かってぐるぐると竜巻のように伸びているのが見えました。<br /> <br /> その光を浴びたことによって浄化されたような感じになったのです。<br /> <br /> この渦巻がチャクラかどうかはわかりませんけど、昔、本で見たチャクラの図に似ている感じです。<br /> <br /> <br /> 「チャクラ(C.W.リードビーター 著)」<br /> <br /> この渦巻は、かなりの速さで回転していることがはっきりと分かりました。<br /> <br /> 花弁らしきものはありませんでした。同書にはチャクラごとに図がありますが、回転のくびれ部分を数えて花弁、としているのですね。花弁がないということはアジナチャクラだったのかもしれませんね?<br /> <br /> アジナチャクラの色について以下の記述があります。<br /> <br /> アジナチャクラの光色(オーラ)について、サッチャナンダは興味深いことを述べています。つまり、人によっては透明に見えるというが、自分には煙色、または黒色に見えるというのです。リードビーターは、エーテル体のアジナチャクラのオーラは黒紫色だと言っています。多少のちがいはあっても、二人の間には、暗いという点で一致が見られます。この黒または煙色の光色は、サッチャナンダによると、アストラル体のオーラだということです。「密教ヨーガ(本山博 著)」<br /> <br /> これは、前に引用した瞑想中に見えるアストラル体の色とも繋がります。<br /> <br /> 同書と照らし合わせると、私が見た白黒の回転は「浅い精神集中の状態におけるアストラルの色」に相当するような気が致します。<br /> <br /> 確かに、その時はちょっと疲れていてうつらうつらしていましたので、瞑想というよりもちょっと意識が飛んでいましたのでそういう状態でこそ白黒(灰色)で見えるのかもしれません。<br /> <br /> となれば、チャクラの回転が見えるということはあまり集中できていなくてよろしくない、という解釈にもなります。<br /> <br /> とは言いましても、このあたりは本質ではなくてただのメモ書きですので、あまり気にすることでもなさそうです。結局のところ、もっと意識が進まないと正解もよくわかりませんしね。見えたところで今のところなんてことはないです。<br /> <br /> Sun, 07 Jun 2020 00:00:00 +0900 昔から、世界の統治は一部の霊たちによって行われてきた https://w-jp.net/2020/1950/ <br /> 霊の集会があって、国の行末はそこで話し合われた上で自薦あるいは他薦で国王あるいは首相が転生して国を収めてきました。<br /> <br /> 民主主義になってもそれは同じで、基本的にはとある霊の集団が基本的には今も国を治めています。<br /> <br /> その集団にもいくつかあって、中国を統治している霊の集団だとかフランスからイタリア周辺までを管理している集団、イスラム圏、などいくつかあります。<br /> <br /> それぞれのやり方はあるにせよ、地上で争っているのとは異なり、霊の集団同士は互いに人材の交流も頻繁にあったりしてかなり仲が良いです。お互いがお互いを尊重しあって、例えばローマで皇帝をした人が中国の皇帝になったりしています。<br /> <br /> ですから、民主主義なんて幻想で、建前がそういう形にしているだけです。<br /> <br /> 国民の興味は「食う、寝る、遊ぶ」ですから、統治なんて興味がないでしょう?<br /> <br /> 統治と言っても、国を治める基本はここで、人々が楽しく幸せに暮らすための方策を考えているわけです。統治というのは苦労が多くて、自分のためだと思っていたらやっていられないことが多いわけですが、それでも人々の幸せのために統治する人が必要なわけです。<br /> <br /> 国のトップやそれを輩出した霊の集団の真意はそこにあったとしても、権力の周囲には自分の利益のために近付いてくる権力・金銭の亡者がうようよしていますから、それらの人のことをまともに聞いていたらまともな統治ができないわけです。<br /> <br /> 霊の集団や皇帝が平和を望んでいてもその取り巻きたちが愚かで自分のことしか考えないと中国のとある皇帝のように取り巻きから何も知らされないままいきなり反乱が起きて国が潰れてしまうことすらあります。<br /> <br /> 民主主義なんて本当に真面目に実行していたら国がいくつも簡単に潰れてしまうわけです。<br /> <br /> 民主主義が生まれたのはフランス革命からで、それは霊の集団の真意ではありませんでした。いわゆるアクシデントで生まれたのが民主主義で、基本はとある霊の集団が今も国を治めているわけです。<br /> <br /> 普通の人がいくら考えたところで「食う、寝る、遊ぶ」以上の政策ができますか? 民主主義は衆愚政治になる、とよく言われますが、それは正しいです。民主主義という形であったとしてもトップはそれなりの人が今もついています。<br /> <br /> ただ、霊の集団がいくら考えたとしても地上の人々との考えとはちょっとズレていることが多い気がします。政治家たちがズレているというよりは、霊の集団がズレていることもそれなりにあるような気が致します。政治家のエゴでズレる場合も多々ありますけどそれは当たり前で、それと合わせて、霊の集団がちょっとズレている場合もあるわけです。<br /> <br /> 平凡な政治家を操作してうまく政策を実行させるのも霊の集団の役目だったりします。ですから、普通な政治家であったとしても役目として霊の集団にその後に選ばれることがあればその時は非凡な才能を発揮したりもするわけです。<br /> <br /> Sat, 06 Jun 2020 00:00:00 +0900 能力があっても他人に言わない https://w-jp.net/2020/1949/ <br /> スピリチュアル業界とかヨーガとかしていますと、ちょっとした能力がある人を時々見かけます。<br /> <br /> スピリチュアルな人は割とオープンで自分のことを他人に言ったりしますけど、ヨーガの人は能力があっても他人に言わない、というのが歴史的・文化的・伝統的にそうみたいです。<br /> <br /> ヨーガの人に言わせると、能力は修行の妨げになるとかエネルギーの無駄使いだとか色々言っていますけど、物事はもっと単純なんですよ。<br /> <br /> それは、能力を見せてしまうと面白がってくる野次馬が単に面倒なだけです。それが理由の90%くらいで、ヨーガの人とかがしたり顔で論じてくるような、能力は修行の妨げだとかエネルギーの無駄使いだとか・・・ そういうのも確かにありますけど、それよりは、野次馬がめんどくさい、というのが見せない理由だと思いますよ。<br /> <br /> あるいは、見せている能力はほんの一部、という場合もありますね。<br /> <br /> どちらにせよ、大そうな理由はあんまりないです。<br /> <br /> たぶん、多くの人はそんなものじゃないかな・・・。<br /> <br /> 昔は魔女狩りとか有力者に誘拐されて能力を使われたりしましたのでリスクがかなりありましたが今はお金で動いてくれる有力者がたくさんいますしそのような人がどこにいるのか情報も出回っていますから、以前のように誘拐リスクもほとんどありませんしね。昔はこのような怖い理由で能力を言わなかった人も多かったです。<br /> <br /> 例えばナチスが魔女をさらって遠隔視をさせていたりしましたからね。怖い時代でした。<br /> <br /> 今は、単に面倒なだけ、という理由が多いのではないですかね。あるいは、今後また怖い時代が来ると予見して言わない人もいるかもしれないですね。<br /> <br /> Fri, 05 Jun 2020 00:00:00 +0900 人はみんな神様! とか思っていても実際には鉱物霊とかもいます https://w-jp.net/2020/1948/ <br /> 割合は少ないですけど鉱物霊とかもいますし、人の魂の出どころを知らないと神様なんて安易には言えません。<br /> <br /> 人の魂は神様と一緒で万能なのに忘れているだけ! とか言っている人がいますけど、そういう人がいるというだけで、そうでない人もいます。<br /> <br /> 現実として自分の立場はそうは変わらないですし、鉱物霊とまでは言いませんけど、精霊出身だったり妖精出身だったり爬虫類出身だったりするわけです。割合として国ごとに同じ出自の人が多いのであまり気にすることはないですけど、多種多様な魂が混在している、という表現の方が実態に近いです。<br /> <br /> 神様は分け隔てなく全てに行き渡っている・・・ とか言う人がいますけど、それは確かにそうですけど、あまり個人には関係のないことかなとも思います。知識として知っておけばそれはそれでいいですけどね。相手に与えたものは返ってくる・・・ それは本当ですし、そのくらいの知識でとりあえずは十分かと思います。<br /> <br /> 人はみんな神様とか思ってしまうと分け与えたりすることに躊躇しなくなってゆきますけど、変な人の相手をしていたらキリがありませんし、割合として奪う人がこの世界に多いので、そんな人の相手をしていたら持ちません。<br /> <br /> 自分と分かり合える人と静かに暮らすくらいがちょうど良いと思います。人はみんな神様なのは根元においてはそうでしょうけど、魂としては出自がそれぞれ違いますから、合わない人とはやっぱり合わないのです。<br /> <br /> Thu, 04 Jun 2020 00:00:00 +0900 神様はここ500年をリセットするかどうか迷っている https://w-jp.net/2020/1947/ <br /> 昨年、パラレルワールドで織田信長がアメリカ西半分を日本の領土にして平和に国家を作り上げたというお話をしましたが、今回もそれに関連したお話です。<br /> <br /> ・・・夢で見たお話です。現実ではないですよ? ファンタジーだと思っておいてください。<br /> <br /> その時のお話は色々とごちゃ混ぜになっていましたが、まず、織田信長にまつわるパラレルワールドはいくつかあります。時系列に並べます。パラレルワールドは時空を超えている筈なのに時系列というと変に聞こえるかもしれませんが、最初にこのパラレルワールドを試して、それでうまく行かなかったからもう一度、という感じでパラレルワールドは時系列で作られます。<br /> <br /> 1.まず普通に織田信長で謙虚に生きてみた。今川に敗れ、命は助けられてそのまま尾張の領主でいられたが今川に上納金を納めなくてはならず困窮。桶狭間の時に部下が今川に通じていたりして、その部下がことあるごとに小馬鹿にしてきて、更には、他の武将にも見下される。それで、「こんなに謙虚に生きているのに周囲は私を馬鹿にする。見ていろ!」と思って歴史をリセット。やり直し。<br /> 2.今度は色々と試してみる。大体の筋道はわかってきたところで再度リセット。<br /> 3.本能寺の変で討死。これもまた失敗でリセット。(これは現在のタイムラインではありません。)<br /> 4.あらかじめ天皇や武内宿禰に本意を伝え、本能寺の変を回避。北海道のアイヌの長老で一番力のある人物を呼び寄せて北海道を併合。アイヌは土地の所有とかが当時はよくわかっていなかったので、今後100年(50年だったかも)は和人が北海道の土地を所有することを禁止し、商取引で不平がないように監視官を派遣。アイヌの若者を教育のために呼び寄せ、逆に、教育者を北海道に派遣してアイヌの教育を行う。アイヌを優遇しすぎとの声もあったが北海道をスムーズに併合し、アイヌの助けも借りてアラスカやアメリカ西海岸への移住を開始。やがてはアメリカ東部から迫ってくる白人と衝突するが西洋諸国に書簡を送ったり兵を派遣したりしてアメリカ西半分を勢力下に収める。織田信長の死後は自らの意思で中国が併合したいと言い出し、中国も日本になる。しかし、前に書いたようにこのタイムラインでは西洋で争いが絶えず、核によって地球が破滅、あるいは、大陸の大半が吹っ飛ぶのでこのタイムラインも断念。<br /> 5.本能寺の変のあたりまでは同じで、明智光秀に連絡して「俺を倒したことにして天下はお前にやるよ」と言って織田信長は死んだことにし、本人はバチカンへ。明智光秀は天下を守れなかった。これが今のタイムライン。<br /> <br /> と、話は長くなりましたが、現在のタイムラインについても神様は「微妙だな〜」と思っていて、どこか不満げです。<br /> <br /> 話は飛びますがスタートレック(ディープスペースナイン)の物語の中で、時空の乱れに巻き込まれた宇宙船が惑星に不時着し、その後300年の繁栄をしたが、実はその時空の乱れは300年前にタイムスリップするワームホールで、300年後にその惑星の軌道上にやってきた宇宙船と300年後の子孫がお話をする・・・ というストーリーを思い出しました。宇宙船の乗組員は惑星に降り立ち、300年後の子孫と話をします。その間に作られた歴史があるわけです。しかし、宇宙船のその後の行動如何によってはその未来は無くなる訳です。300年の歴史が消えてなくなるのです。この物語には他の要素も含まれていますが、私が興味深いと思ったのはこの部分です。この視点が、神様の視点によく似ているのです。<br /> <br /> 神様は、ここ500年の現在のタイムラインを捨てて、上記4のタイムラインに戻そうかと悩んでいます。<br /> <br /> その世界は少なくとも日本と太平洋沿岸の諸国は平和で穏やかな生活をすることができています。4では日本やその周辺諸国はとても良い状態です。織田信長の政策により文化や宗教は各地で尊重されることになり、政治と宗教の分離がなされ、宗教は宗教だけをするようになります。国は国民の細かいところに口を出さず、地方分権による、合衆国のような緩い統治方法になっています。仕組みや制度だけ統一して領内の流通は自由化することで国はどんどんと豊かになりました。4での日本はローマのような黄金期であるわけです。<br /> <br /> ただ、4で問題なのは、西洋諸国が核戦争をして地球を吹っ飛ばしてしまうことです。<br /> <br /> 今のタイムラインも微妙になってきましたので、このまま続けるか、あるいは、4のタイムラインにした上で、西洋諸国が問題なのであればそこにテコ入れをしようかどうしようか・・・ と神様は悩んでいるようです。<br /> <br /> そうなれば、現在のタイムラインは下層に追いやられて、単なるアストラルのただの「想像」に近いものになり、一方で、上記4の世界が現実になります。その場合は、時間も巻き戻されますから、西洋諸国で核戦争を起こさせないために大師たちを使った介入が行われることになるでしょう。<br /> <br /> しかし、それすらもうまくいくかどうかはわかりません。狂人というのはどこにでもいるもので、核戦争が一度も行われていない世界で核の力が強大になれば世界で初めての実戦での核爆発によって大陸が吹っ飛ぶこともあるわけで、それがショックが大きければ地球の地軸がずれたり地があり得ないほどに割れて人類のほぼ全てを消滅させることにもなるわけです。そのようなタイムラインは実際にあります。<br /> <br /> と、いうことで、とりあえずは生き延びている今のタイムラインを微妙ながらに続けるのか、あるいは、4に戻して核戦争を回避するのか。そこが神様の悩みどころのようです。<br /> <br /> Wed, 03 Jun 2020 00:00:00 +0900 非我を働かせる、とは良い表現 https://w-jp.net/2020/1946/ <br /> 最近入手した本が意外に瞑想について詳しく書いてありまして、元カトリック教徒の外国人が禅を習った記録とのことですが、そこに「非我を働かせる」と言う表現がありました。<br /> <br /> これはヴィパッサナー状態(観察状態)を示すのにとても良い表現だと思います。そうですか。こう言う表現方法がありましたか。<br /> <br /> そういえばOSHOの本で「無心」と言う表現をしていましたね。西洋の人や、インド人であっても西洋に受け入れられる人の表現は否定形が多いのかもしれませんね。否定形で表すことによって西洋の人に「そうか」と理解されるのかもしれません。<br /> <br /> 日本人にとっては「ふむふむ」と言う感じですし、実際にそれがどう言うことなのか、わかるようでいてわからなかったりする気もします。<br /> <br /> 「非我」にせよ「無心」にせよ、心を超えた何か、あるいは、心ではない何かをどうにかして表現しようとしているように思います。<br /> <br /> ただ単に「非我」「無心」としてしまうと何某かの境地であるように理解されてしまい、それはトランス状態か何か、彷彿状態か何かだと理解されてしまうかもしれません。<br /> <br /> しかし、「非我を働かせる」と表現すればそれは「行動」が伴いますので、超感覚および超思考が働く世界であると言うことが明らかになるわけです。<br /> <br /> それは、顕在意識での行動ではありませんので行動とは言っても違う種類の行動であるわけですし、行動と言うと肉体と五感による活動と理解されてしまいますので私なんかは行動という言葉はあまり使わないようにしておりますが、同書のコンテキストから言えば「非我を働かせる」というのはとてもわかりやすい表現になっているわけです。<br /> <br /> 「非我」ですから通常の心ではなく、しかも、それが活動する、ということは、それができているかどうかが読む人にとって自分で判断できると思うのです。<br /> <br /> 読んでいる人ができているつもりにならずに、これは何某か、自分が知らない何かであるということを理解するには「非我を働かせる」という表現は十分だと思います。<br /> <br /> というのも、この種のスピリチュアルは色々なところで語られていますので、なんとなく自分が高次な意識を持っているかのように錯覚しがちだからです。しかし、「非我を働かせる」という表現は錯覚させないだけのはっきりとした表現になっていると思います。<br /> <br /> 「自我の妨げなしに、行為の秘めた力が働くにまかせる」ということを私は学んでいたのでした。私が学んでいたのは「自我を働かせない」ということではありません。私が学んでいたのは「非我を働かせる」ということでした。「生きているのは、もはや私ではない」ということが、ようやく日々の生活に現れつつありました。「禅入門(イレーヌ・マネキス著)」<br /> <br /> Tue, 02 Jun 2020 00:00:00 +0900 水晶で瞑想と同様の効果 https://w-jp.net/2020/1945/ <br /> 石にも色々あって、形が良くてもパワーストーンではない場合があります。<br /> <br /> 昔、インドで安い石を大量に買って帰ったことがありますけど、それはインドの疲れた石、と言う感じでした。石には現地のオーラが宿るのですね。インドならインド人の感じがしますし、他の土地もそうです。<br /> <br /> 現地の人がそこらで拾った石が外国人には高く売れるらしくてインド人はたいそう喜んでいました。<br /> <br /> かなり昔に水晶が良いと聞いてなんとなく買ってみた水晶は何にもパワーがありませんでした。ですので、水晶と言っても色々のようです。<br /> <br /> 今回は、なんとなくメルカリで購入してみたのです。前は形を重視したのですが、今回は量重視で安いさざれ石を買ってみました。<br /> <br /> すると・・・ これが驚く効果があったのです。<br /> <br /> 部屋にあるだけで、特に頭のあたりに瞑想の効果が出ています。置いておくだけでも効果がありますが、ザラザラと少し動かすだけで更に効果が出ます。<br /> <br /> 仕事中にPCを使っているとどうしても頭にモヤモヤ感が出てきてしまいますが、今回の水晶さざれ石が近くにあるだけでもやもや感が一気に解消したのです。<br /> <br /> これはびっくり・・・。 瞑想で解消しようとすると数時間はかかる効果です。それがものすごく安い水晶でこんな効果が現れるとは。<br /> <br /> 水晶が近くにあるだけで頭、特に後頭部がピリピリしています。首の方や背筋および両肩の方にまでその電気が続いているような感じです。肩こりにも良さそうです。水晶を近づけて少しザラザラと動かすだけで体の各所の血の巡りも良くなりそうな気がします。<br /> <br /> 今回買ったのは500gで送料込千円くらいのブラジル産です。ブラジルと言っても広いですが、今回のは当たりでした。同じものを1kgくらい追加で買ってみます。<br /> <br /> Mon, 01 Jun 2020 00:00:00 +0900 マスコミの役割は真実を明らかにすることだった https://w-jp.net/2020/1944/ <br /> 昔、ジャーナリズムというともっとプライドがあって隠された真実を世の中に広めるという使命感がありましたが今は単なる煽りの道具と化していて、真面目にやっている方々がはなはだ迷惑しているように思います。<br /> <br /> 真面目な方が真実の報道をしている一方で、目立つジャーナリストが煽り記事を広める風潮は今に始まったことではないですけど、そこはやはり歴史的なものがあるのでしょうね。海外ではジャーナリストの歴史としてまず最初にカリスマ的な報道記者がいてその周辺にジャーナリズムのあり方の思想が出来上がってきたのに対し、日本の場合は輸入してしまって単なる宣伝の道具として扱われてきたという大きな違いがあると思います。<br /> <br /> まず最初に思想的なものがないとマスコミの報道も煽りの道具になってしまうのでしょう。<br /> <br /> 既にシステムとして煽りの道具が機能しており、システムが一人歩きして巨大になって制御不能なほど日々動き続けており、そこにはもはや人間の意図が存在せずに、ジャーナリストはシステムの一部としての煽りの機能を持たされているようにも感じます。<br /> <br /> 最初は煽りによって人の目を向けさせるとか世の中を扇動するという意図があったように思いますが、既にシステムとして煽りこそが目的と化しており、目的が存在せずに煽りだけが日々繰り返されるだけの生産性のない状況を生み出しているように思います。<br /> <br /> 日本には戦争がありませんけどアストラルな想念の世界を見てみると戦争に類似したことは起こっており、人々のうっぷんや妬み、怒り、そのようなものがそこら中にぷかぷか浮いていて雲のように漂っており、そこを通過するだけで怒りや悲しみといった感情に支配されてしまうことがあります。オーラが不安定なほどそのような漂う想念の雲の影響にさらされやすいです。<br /> <br /> ですから、用もなくそこらを歩き回るのは、実はあまりお勧めできないです。想念を拾ってしまって不愉快になったりしますからね。<br /> <br /> 今、マスコミはそのような害毒の想念の雲をばらまく機能になってしまっているわけです。マスコミが煽り記事を出すこと自体は無視すればいいのですが、このように、煽り記事に影響されてしまった人々がそこら中にばらまく不快な想念の雲はとても迷惑です。<br /> <br /> 昔は報道機関といえば特別でしたが、今は自分で直接的に広報することができますし、記者にしても会社に属する必要が減っていって個人で発信する方が思想がよくわかって良いわけです。<br /> <br /> そもそも「公平」な報道なんていうのは本人が思想的に公平なところを目指していることが前提になるわけで、その目的が自身で明らかになっていないのであれば公平なんてのはただの言い訳にしか過ぎないわけです。<br /> <br /> 昔のジャーナリストが言っていた「公平」というのは「事実だけを言う」ことではなくて、個人の思想に基づいて双方を判断することでありましたので、相対的なものであるわけです。事実だけを言うジャーナリズムが正しいと思うのならそうすればいいですし、個人の思想を公平と呼んで双方を判断するならそうすればいいわけです。<br /> <br /> 「事実」あるいは「個人の価値観の元の公平な双方の視点」であるなら、煽りよりもよっぽど良いです。<br /> <br /> そのような観点がないなら、今後ますますジャーナリズムは不要なものとして扱われてゆくでしょうね。<br /> <br /> これは、煽り記事に反応する人が減るなら自然消滅するでしょうし、増えるならば大師が手を下して人知れずジャーナリズム解体のプロジェクトを発動させるでしょうね。どちらになりますかね。<br /> <br /> 大師は自分では世の中の動向がわかりませんので目となってこの世に普通に転生している人たちの視点を参考にします。そのような人が誰かは一般的にはわかりませんけど、実は「目」である人に意見が届くように視点や意見を日々発信するのはどの人であっても大切なように思います。<br /> <br /> Sun, 31 May 2020 00:00:00 +0900 コロナで動き出す世界情勢 https://w-jp.net/2020/1943/ <br /> 世界は多極に向けて動き出しているわけですが、人によっては多極の方が安全だと言っている人もいらっしゃいますが、理屈では多極の方がいいとなるのはそうなのかもしれませんけど、実際は多極で地域紛争が多発するようになります。<br /> <br /> 頭のいい方が多極のそれぞれの頭を努めれば確かに論者がおっしゃるように多極で平和な時代が来るということもあるのかもしれませんが、実際は、多極になるとしょぼい頭のリーダーが小さな国・地域を治めることになりますから政治も経済も貧弱になって地域紛争が多発するようになります。何事も理屈通りにはいかないのですよね。<br /> <br /> 今までは大国が世界を分割統治していましたがこれからは小さな国が自国中心主義になります。それを言って理想的だとか多極になって世界が平和になるだとか今まで紛争を起こしていた大国がいなくなるから世界は平和になるんだとか言っている方がおられますが、実際は、地域紛争が多発するようになります。<br /> <br /> これは、理屈がどうこう、と言っているのではありません。理屈で説明されると確かに地域主義で多極になると平和になる、というお話は「ふむふむ」と聞くことができて、確かにそうなると面白いかもしれません。しかし、実際にはならないんですよね。なんでその通りになるのかなんて私には知ったことではありません。ならないものは仕方がない。現実がそうなのだから受け入れるしかないわけです。これは、今後数年かけてその傾向が出始めて、5年から10年経つと世界が不安定になります。時期はもうちょっと前後するかもしれませんが、コロナ前の世界がいかに大国の意図の元で平和を保っていたのかが後になってよくわかるはずです。<br /> <br /> 大国の加護を失った世界は不安定になります。<br /> <br /> しかし、その不安定も悪いばかりではなくて、人口の増加もある程度は抑制されますし、新たな平和の芽、あるいは、今まで経済中心で自己の欲望を満足させるばかりだった人々の目を覚まさせることにもなります。<br /> <br /> ラストチャンスとまでは言いませんけど、目覚めるチャンスでもあるわけです。<br /> <br /> 人口が抑制されなくては地球に人類が生き残る術はなくて、人口抑制のためには中国のように子供を制限する方法もあるわけですけれども、強制ではなく日本のように自然に減るのが一番ではありますが、他の国々を見るとまだ人口は増え続けているわけです。それでいて貧しいから助けろとか言っているわけですけれども、まず大前提として人口を抑制してくれないと助けても助けてもキリがないわけです。<br /> <br /> こういうこというとキリスト教の聖書を持ち出して神は増やせとおっしゃられたとか言ってくる人がいますけど、神はもっと気まぐれですよ。今は増やせとおっしゃられていません。減らせとも言われていません。今、神は人口に興味がないようです。遥か昔、人が少なかった頃のお話と今のお話を同一にしても仕方がないですよ。<br /> <br /> 個人的には、神が人口のことに気がついてこれ以上人を増やさないようにするべきだと思いますけどね。たぶん、神は今はもう人を増やせなんて言っていません。<br /> <br /> 神にも色々あって、本当の神は自由で、好き勝手するものです。言ったことを永遠に守れなんていう神は本当の神ではないですよ。神は気まぐれで人を増やそうとおっしゃられたり、あるいは、気まぐれで増やすなとおっしゃられる。神なんてのはそういうものです。神はこの世界を自由気ままに好き勝手に作って楽しんでいます。<br /> <br /> この地球に人が増えすぎだと神が思えば増えなくなるし、減らそうと思えば減ってゆきます。今は、神はそこにあまり興味がないようです。<br /> <br /> Sat, 30 May 2020 00:00:00 +0900 世界に介入を続ける大師たち https://w-jp.net/2020/1942/ <br /> 一部のオカルトで言われていますけど、そういう大師達が実際にいます。<br /> <br /> フリーメーソンとは関係がなくて、あれはただの組織です。しかし、そのメンバーに大師が関わっていたことがあります。組織自体は大師とは無関係で、むしろ特定の個人との関係があります。<br /> <br /> 一部はヒマラヤにいたりしますけど、割と普通の一般社会に紛れ込んでいます。一部はインドのスワミみたいな出家者ですけど、そうでない人、例えば普通のビジネスマンだったりもします。<br /> <br /> ヒッピーに大師がいるかどうかはわかりませんけど、似たような格好をしている大師はいます。ヒッピーは真似しているファッションであって、ヒッピーになったからと言って大師になれるわけではありません。<br /> <br /> 世界の政治を動かしている人は表には政治家ですけど、政治家の思念に影響を与えて政治を動かすなんて大師たちにとってはお手のものです。<br /> <br /> ただ、どのあたりを動かせば良いのかまでは大師本人には細かくはわからないので、主に2つの手段を持って選択を行っています。<br /> <br /> 1つは、監視役の魂から現状を読み取る。<br /> もう1つは、とある大天使が判断し選択した上で大師に実行を委ねる。<br /> <br /> 前者は、世の中を監視して理解を深めるために転生した、大師と同じグループソウルに属する分霊です。<br /> <br /> その分霊の意識を大本である大師の大師のグループソウル、それは時にハイヤーセルフとも呼ばれる根元の魂ですが、その魂がいわゆる大天使であり、全ての分霊の意識を勘案した上で決断し、実行は大師などに任せるわけです。<br /> <br /> とある大天使の分霊が大師として転生し、分霊である大師および監視役の魂が目になって、グループソウルであるハイヤーセルフであるところのとある大天使が判断し、それを大師に実行させるわけです。<br /> <br /> ですから、大本である大天使、それは大師のハイヤーセルフでもあるわけですが、その大天使がこの世界を動かしているとも言えます。<br /> <br /> 地球には多様な存在が関与していて、地球外生命体も多く来ております。<br /> <br /> その大天使は基本的には地球の衛星軌道上に滞在して地球を空から監視しておりますので最初は気付きにくいのですがやがては大天使の存在に気がついて多数の地球外生命体の訪問も受けているようです。<br /> <br /> Fri, 29 May 2020 00:00:00 +0900 悩みも所詮はゲームの1つ https://w-jp.net/2020/1941/ <br /> 人生にはもともと悩みなんてないですけど、悩むというゲームを皆さんでしているだけです。<br /> <br /> 盲目にならないと夢中になれないですし、盲目にならないと悩むなんてこともできないです。もともと清々しいですが、没入感みたいなものは盲目になるからこそ熱中できるわけです。<br /> <br /> スピリチュアルでは「盲目をやめましょう」とか「清々しく」とか言われていますけど、確かにそれは本来の姿ですけど、単に今の皆さんは一緒になって悩むというゲームをしているだけですので、実際はあまり心配することでもないと思います。<br /> <br /> スピリチュアルな人が「このままだと地球ガーー」とか「悩みの想念ガーーー」とか言って煽ってますけど、煽って楽しいの優越感でもあるわけで、やはりそこにも「分離」の意識が働いているわけですね。<br /> <br /> 悩んでいる人は楽しくて悩んでいるのです・・・ というと語弊がありますが、本来のスピリットは悩みという状態を観察したくて肉体の三次元の意識が悩みという状態に囚われているわけです。<br /> <br /> 確かに、その状態に長くいると元の状態に戻れなくなったりしますので、元の状態を取り戻すためのスピリチュアルというのはありです。<br /> <br /> ですが、それは分離の意識とかではなくて、人生は全てどちらも正解であるけれども、再度、自由で選択のある状態に戻っていこう、というお話であるわけです。<br /> <br /> 悩みだけでなく、熱中して没入感と共に楽しめるのがこの三次元世界であるわけです。所詮はゲームです。<br /> <br /> Tue, 26 May 2020 00:00:00 +0900 一番大切なのは命なのかそれ以外か https://w-jp.net/2020/1940/ <br /> どうやら歴史上、一番大切なものは命なのかそうでないのかで人々は意見を交わしていたようです。<br /> <br /> 人間の体に魂が宿っておりますので命が三次元の物体ということであればそうではありませんけど魂というレベルからしたら確かに命が一番大切です。しかし、命は継続しますけどそれ以外の状況もありますので単純に三次元的な命を延命させる方が良いとも限りません。<br /> <br /> 人間として生まれてくるためには多大なエネルギーが要りますので簡単に肉体を捨てるべきではありません。それは大前提です。ですから自殺は基本的にはいけません。良い場合もあるのかもしれませんが私にはわかりません。<br /> <br /> 自殺とまではいかないでも、高次のスピリットあるいは守護霊の選択として死ぬ方向に導かれる時があります。それを自殺と言うのかなんと言うのかは微妙なところです。<br /> <br /> 例えば、今世の学びを終えて次の学びに行くために大きく環境を変える必要がある時は、生きたまま環境を変えることができないほどの場合、あるいは、生きている環境が閉ざされていて次の可能性がないと高次のスピリットが判断した時に死という洗濯をする場合があります。それは鬱になって自殺するとかそういうお話ではなくて、遥かな未来を見据えて、将来そのまま生きていたら来世にも渡って悪影響があると高次のスピリットが守護霊の意見も参考にしつつ決定することであるわけです。<br /> <br /> ですから、三次元的な命は最高の価値ではなく、一時的なものであるわけです。しかしながら、簡単に捨て去っていいものでもないわけです。<br /> <br /> Mon, 25 May 2020 00:00:00 +0900 不平等なのが当たり前 https://w-jp.net/2020/1939/ <br /> なんていうと世間では風当たりが強いようですけど、平等なのは社会のシステムのことであって、人は不平等なのが当たり前です。<br /> <br /> まず親が違いますし兄弟も違いますし親戚、生まれた場所、周囲の環境、時代、全然違うのに平等だなんて思うから不平不満が生まれるのです。<br /> <br /> 競争社会にしてラットレースさせるために平等だなんて言い出したのでは? とも勘ぐってしまいます。<br /> <br /> 例えばアメリカ建国宣言の神の元の平等というのはキリスト教の信者が平等ということであって、それを真に受けて平等だなんて思わない方がいいです。それ自体は競争社会とは関係ないように見えても、実は影響しているなんてことはよくあります。<br /> <br /> スピリチュアル的な観点で言いますと、人間は死んでも終わりませんから、死んだら友人知人のところにまず帰って、そこで一緒に楽しく暮らす場合もあればグループソウルと合一してから再度分霊になる場合もあります。であれば、その友人知人やグループソウル繋がりの人が助けてくれるのは当然ではないでしょうか。それを不平等とか言っていたら何にもできなくなってしまいます。<br /> <br /> 転生について色々言われていて、死んだら神様のところに戻って3つの人生から選べと言われるような場合もあるでしょうけど、私の場合は割と自分で人生を選んでいて、例えば、友人知人や元妻の霊たちが楽しく暮らしている時に一緒に転生しよう、ということになると一緒の街に生まれたり家族として生まれたりするわけです。<br /> <br /> 家族として生まれるとお互いにサポートするでしょうし、家が違っていてもそのような前世からの繋がりがあると妙に助けてくれたりもするでしょう。<br /> <br /> 仲の良かった人が転生する場合は一緒にあの世で生活している人たちの全員が転生するということはほとんどなくて一部の人が転生しますから、あの世に残った人は転生してきた人をサポートするわけです。それが、人生の節目ごとに不思議な導きという形で現れるわけです。<br /> <br /> それを傍目から見ると恵まれているだとか不平等だとか言うかもしれませんけど、実際は単に仲の良かった人の人生が幸せになるように助けているだけです。<br /> <br /> 人生というのは一つの生で終わりませんから、来世も仲が続くような関係が理想だと思います。<br /> <br /> 他人を見て不平等だとか言う人については、本人が妬むと言うことであれば本人の問題ですから放っておくしかありませんね。関わりを持つべきではありません。<br /> <br /> 他人を妬んで他人を遠ざければ来世まで繋がるほどの人と人との繋がりは生まれませんが、他人を大切にすればそれは今世だけでなく来世にも生きてきます。<br /> <br /> 利益のために他人に親切にする人は友人も同様に利益のために他人に親切にすると言う人が近寄ってくるでしょうし、一方で、無私で奉仕する人の周囲には無私の人が集まってくるでしょう。それが基本です。<br /> <br /> ただまあ、後者の場合は他人からただのカモだと思われるリスクがありますので現世ではなかなかやりにくいですけどね。<br /> <br /> Sun, 24 May 2020 00:00:00 +0900 スピリチュアルが手段になってしまっている人がいます https://w-jp.net/2020/1938/ <br /> どのくらいの確率かわかりませんけどスピリチュアルが何かの目的を達成するための手段になってしまっている人がそれなりにいるような気が致します。<br /> <br /> スピリチュアルとは、この世のあり様を明らかにするだけのことであり、この世のあり様とは、世界の成り立ち、特に自分自身の成り立ちを理解するだけのことです。<br /> <br /> 行動に関して言えば、何をしてもいいのです。生き方なんて、好きにすればいいのです。<br /> <br /> この世の成り立ちや、特に自分自身の立ち位置、過去と未来の行末の真実を理解することがスピリチュアルであって、何かの目的を達成することがスピリチュアルではないのです。<br /> <br /> スピリチュアルはほぼ全てを包括していますのでその小さな小さな一部として目的達成というのがあると言えばあると言えなくもないですけど、その程度のものです。何をするかなんて、勝手に好きに自由にすればいいだけです。わざわざスピリチュアル を持ち出すこともありません。<br /> <br /> 女性であれば祈願をして現世利益を得ようとしたり男性であればビジネスの成功を願ったりするスピリチュアルは、ほんと自分の可能性を自分で摘み取っているようなものだと思います。<br /> <br /> だって、本当のスピリチュアルであれば好きに生きればそんなのはすぐ叶うのに、祈願をしたり誰かに頼んだりグッズを買ったり、そんなのは、スピリチュアルというゲームを楽しむという点において楽しいのであって、本来は、そんなの全部、自分の好きにできてしまうものです。<br /> <br /> この地球上でスピリチュアルというゲームが生まれて、そのゲームにのっとって行動すると面白い! それは否定しないです。 でも、それは所詮ゲームですから、ゲームをゲームとわかっていておもちゃで遊ぶのと、ゲームなのに本気になってスピリチュアルにのめり込んでいるのとはかなり違います。<br /> <br /> 今、流行っているスピリチュアルは一つのゲームという点において面白くて、そのゲームを提供してくれた人には感謝してもいいくらいですが、それと、本来の意味でのスピリチュアルは全く別物だということを認識しておいた方がいい、というお話です。<br /> <br /> 所詮はこの地球上の出来事はみんなゲームなのですから、スピリチュアルというゲームを楽しむ、というくらいがちょうどいいと思います。<br /> <br /> Sat, 23 May 2020 00:00:00 +0900 アセンションとかわざわざ言わなくても既にこの世は壮大なパラレルワールド https://w-jp.net/2020/1937/ <br /> 何やらアセンションとか流行りましたけど、遥か以前から既にこの世界はパラレルワールドが無数に存在しておりますので、単にマーケティングの文句でしかないか、あるいは、瞑想中に受け取ったヴィジョンをそのように解釈した人(時にチャネラーと言う)がいた、というだけだと思います。<br /> <br /> そうは言いましても、確かにこのあたりでだいたい2つのパラレルワールドのどちらに移行するか意識が変革する人が多いのは確かです。<br /> <br /> 移行.... と言いましても、この地球の三次元はこの現在のパラレルワールドではそのまま継続します。<br /> <br /> 現在の一つのパラレルワールドのまま留まるか、あるいは、別の面のパラレルワールドに移動するのか、その選択を迫られる人が多いことは確かです。多くは選択するというよりは自然にそのようになるわけで、それをアセンションという言葉で表したりすることもできるでしょう。<br /> <br /> とは言いましても、この三次元が消えてなくなるということではなく、現在のパラレルワールドとは違うパラレルワールドに意識が一気に移動する、ということです。それは時空を超えておりますので時間で言い表すことは難しいのですがそれほどかかりません。数分あるいは数十分、あるいはもっと長いかもしれませんが、何ヶ月というわけではありません。<br /> <br /> この際、アセンションというと意識が高い人が別のパラレルワールドに行くという固定概念がありますけど、実際は、意識で言いますと3階層に分かれます。一方で、物理次元で言いますと2つです。<br /> <br /> ■物理次元<br /> ・三次元の今の地球<br /> ・地球に人間がまだおらず、森林・荒野・海など自然が豊かな状態<br /> <br /> ■意識の次元<br /> ・マニプラに達していない人たち。情欲がコントロールできない人たち。<br /> ・マニプラに達した人たち。比較的成熟した情欲やそれなりの知識・認識がある人たち。<br /> ・アナハタやアジナ、それ以上に達した人たち。<br /> <br /> 大きく分けて以下の分類になります。<br /> ・三次元の今の地球はマニプラに達していない人。<br /> ・自然が豊かな地球はマニプラに達した人。<br /> <br /> では、アナハタやアジナに達した人はどうするのかというと、どちらでも好きに選んで人生を楽しむのです。<br /> <br /> 自然が豊かな地球を選んだマニプラな人たちは情欲にまみれており、いわば「分離」の世界を生きている人たちです。それでいて自分たちを高級な意識のある存在だと思っている、いわゆる「スピリチュアルで勘違いをしている厄介な人たち」でもあるわけです。実際はマニプラ程度ですと情欲を完全にコントロールできてはいないのですが、ちょうどこのくらいの段階では下級の情欲と上級の情欲の中間地点でありますから、あたかも自分が情欲を完全に制圧してコントロール下にあるかのような勘違いをしてしまうわけですね。そのように制圧だとか高級意識だとか、いわゆる「分離」の意識を持ってしまうのがマニプラの段階なわけです。そのような人がパラレルワールドの1つである自然の豊かな地球を選びます。<br /> <br /> ですから、自然豊かな地球は人間関係がことのほかめんどくさいです。スピリチュアルな規律に対して他人を指摘してぶつぶつ言う人がそこら中にいて、まだまだ完全に悟ったわけでもないのに他人と自分を比べて不満を言ったり他人をあげつらったりする面倒なスピリチュアリストが大勢いるのが自然豊かな地球のあるパラレルワールドです。<br /> <br /> そう言う人はまた何千年、何万年かけて成長してゆく必要があるのだと思います。長い長い旅路の始まりを自然豊かな地球で始めるわけですね。それはまさに「再出発」であると言えます。<br /> <br /> 地球を抜け出して自分たちの世界に閉じこもるのが自然豊かな地球のパラレルワールドのパターンだと思います。<br /> <br /> 一方で、それよりはまだマニプラに達していない人が今の地球に残った方が幸せかもしれません。色々とこの地球には面白いことがあって、多様性もあります。<br /> <br /> アナハタやアジナに達した人は人生や意識ごとにそれぞれの地球を選びますが、多くは現在の地球に残っている、あるいは、残ることを選択するような気が致します。この現在の地球の方が多様性があって面白いですからね。<br /> <br /> アセンションとか言う意識に乗っかって分離の意識に囚われると地球の別の面のパラレルワールドに囚われてしまって何千年、何万年も変化のない時を過ごすことになります。<br /> <br /> 変化がなくて着実な進歩を時間をかけて歩むのか、変化にまみれた多様性な世界で多くのことを次々に体験してゆくのか。どちらが良いのか?<br /> <br /> どれを選ぶのも自由ですけどね。 人それぞれに選択があって、好きにすればいいのです。<br /> <br /> Fri, 22 May 2020 00:00:00 +0900 次元上昇とか高次の世界とか考えるだけ無駄 https://w-jp.net/2020/1936/ <br /> 確かに高次の世界もありますし、地球よりももう少し意識が進んだ世界も存在していて、それは地球の別の面(パラレルワールド)だったり別の星系の惑星だったりするわけですけれども、そういうところに移ろうと思って生活してもあまり意味がないと思います。<br /> <br /> 基本的には類魂(グループソウル)および仲の良い仲間・友達の霊魂たちは一緒に生活をしていて、引っ越す時も割と一緒ですし、バラバラになることもありますけど、割と縁があってまた一緒になったりします。ですから、住む場所を大きく変える時も基本的には同じ仲間・友達・グループソウルと一緒にごそっと移るのが割と一般的だと思います。<br /> <br /> 新しい世界に移ったとしても、その仲間たちは今まで通り楽しく暮らすわけですね。<br /> <br /> ですから、自分が次元上昇だとか高次の世界に行くんだ! とか思って暮らすよりも友人知人の気の合う仲間やグループソウル繋がりの人たちと仲良く暮らしているくらいで割と十分のような気が致します。引っ越す時は集合意識でそれとなくそんな感じになって、わざわざ行くぞとか決断しなくても自然にそうなりますから。<br /> <br /> それに、次元上昇だとか高次の世界とかいう表現って割と「分離」の意識ですよね。自分がどこかに行くと思っている時点で「今、この時点。この瞬間」に生きていられていないのでは? という感じを受けてしまいます。<br /> <br /> それでも、一人だけトコトコと高次の世界に行って生まれてみることはできます。私も随分と前にそうしたことがありますけど、繋がりのある仲の良い友達もいないですし、何より、意識が違いすぎていて、なんだか合わないです。やっぱり、自分が今いるところが一番ちょうどよくて今この地球に転生しているのだなあ、とその時はつくづく思って、すぐに地球に戻ってきましたよ。<br /> <br /> 地球上でも意識の差があって、明らかにうざったくて勝負好きだったり情欲にまみれていたり食欲を我慢できなかったりする意識が割と低めの人たちがいるわけですけれども、惑星全体が高次の意識で満たされている平穏な世界に地球の人が転生してまず思うのは、どこか疎外されている、という感じだったと思います。どこかで私以外の同じような経験をした人と話したような気がしますが、その時にも似たようなことを言っていた気がしますね。<br /> <br /> 高次の世界に地球の人が転生すると、まず、うざったがられます(苦笑)<br /> <br /> 地球で意識の低い人たちをうざったく思うのと同様に、地球である程度の意識を向上させたと自分では思っている人であっても高次の世界に行くとその世界の平均よりは劣っていますから、多くの人たちに意識が下の人として見られ、そのように扱われます。<br /> <br /> 地球にいる人の場合はだいたいはお腹のあたり、いわゆるマニプラ優勢で「(低い)感情」が優勢の人が多いですから、惑星によっては平均がアナハタ以上だったりしますから、そういうところにマニプラの低次の意識で行ったりするとうざったがられたりするわけですね。地球だとマニプラは中間より少し上くらいだと思いますけど、惑星によって平均が違いますから、世界が移った瞬間に下層に位置づけられたりするとなかなか精神的に厳しいと思います。<br /> <br /> ブッダの本を読んでいると、どこそかの意識に達した人はそれより上の世界に一度転生をして、それから戻ってくる.... みたいなことが書かれてありましたけど、もしかしたらそれはこういうことかもしれません。そのうちこの本意を確かめてみたいとは思ってはいますが今はブッダのお話は仮説です。<br /> <br /> そんなわけで、そんなに高次の世界だとか考えない方がいいと思いますし、そんなことよりも、今の人生を楽しく暮らした方がいいと思います。<br /> <br /> Thu, 21 May 2020 00:00:00 +0900 周囲と自分を混ぜれば混ぜるほど自分が消えてゆく https://w-jp.net/2020/1935/ <br /> セワ(混ぜる)によって周囲の空間と自分のむきだしの心(リクパ)を混ぜてゆくと、次第に自分がなくなってゆく感じがします。特に瞑想中というわけでなくても、普段の生活において自分がなくなってきて、以前に比べると30%減になった感じが致します。これは感覚的なもので、もっと前と比べたら50%減と言えるかもしれませんが、特にここ半年くらいで一気に30%くらい自分の存在がなくなって透明になってきた感じが致します。<br /> <br /> おそらく完全にゼロになることはないのでしょうが、少なくとも自分というものが消えてゆく感じがします。<br /> <br /> この感覚が今のところ自分の体くらいまでで周囲の物体はまだ存在しておりますが、それがどう変わるのかも今後、観察していきたいと思います。<br /> <br /> これらを表現すれば「周囲と自分を混ぜる」という言い方になるのでしょうが、ここで誤解があって、もっと正確に表現すれば「自分の体も含めた、自分の体およびその周囲と、それを観察しているむきだしの心(リクパ)とを混ぜる」となるわけです。<br /> <br /> 比喩的に昔から「周囲と自分を混ぜることで自分がなくなります」なんてことがスピリチュアルやらニューエイジやらで言われているわけですけれど、そのまま文字通り捉えてしまうと「自分という体」と「周囲の物体や他人」とを混ぜようとしてしまうわけですが、そのように文字通り読んでしまうと間違った理解になってしまうわけです。<br /> <br /> 元々こういうことを言い出した人が言葉の表現にもっと気をつければ良かったのだと思いますが既に広まってしまったこのような、一見すると「わかりやすい」表現は実際はちょっと違うものなのだと思います。「自分という体と周囲の物体や他人」を混ぜようとしても混ざりませんし、せいぜい体を密着させて濃厚接触するくらいでしょうし、その本質であるところを理解するまでにはなかなか行きつかないような気が致します。<br /> <br /> もう少し進んで「自分の心と周囲の物体や他人の体や心と混ぜる」というところに辿り着いたとしても、そこには自分の体すらも「外」であるという理解が抜けていますから、いつまで経っても何も起こらないし何も理解できず、逆に、他人のオーラに影響されやすくなって脆弱になってしまうかもしれません。<br /> <br /> 文字通り読むことでそのような誤解が生じてしまう危険性があるわけですけれども、スタート地点としてまず瞑想から入ってシネーの境地、テクチュの境地に達して、それからようやく自分も含めた周囲の空間とむきだしの心(リクパ)とをセワ(混ぜる)ことをすることで自分というものが消えてゆくのだと思います。<br /> <br /> それ以前に周囲と混ぜるというようなことを試みても無駄どころか、害が多いような気が致します。<br /> <br /> Wed, 20 May 2020 00:00:00 +0900 自然に瞑想を続けるだけで良い https://w-jp.net/2020/1934/ <br /> そんなことが言えるのはいわゆるヴィパッサナー状態であるテクチュ以降です。一般受けは良いですけど、こんなことを言う人のことを真に受けていたら成長しません。<br /> <br /> 少し前まではこのことがしっくりこなくて、「何かをしなくてはいけないのでは?」と言う思いが常にどこかにありました。それはそれでその時々としては正解で、何かをしなくてはいけないと思うのであればそれは正解だったと思うのです。<br /> <br /> ですが、世間一般で「わかりやすい」教えというものがあって、例えば瞑想であれば特に難しいことを考えなくてもただ座って自然に瞑想を続ければ良い、みたいなお話があるわけですけれども、それは最初は理解しやすいですけど、実際やってみるとそんなにうまくいくわけでもないわけです。<br /> <br /> この種の「簡単」なお話は、「最初」と「ある程度の経験者」にとって有益なのではないかなと思います。<br /> <br /> 最初のとっかかりとしては簡単でよくて、次第に、その簡単な境地こそが本質だとわかってゆくのだと思います。<br /> <br /> 最初は本に書いてある「三昧(サマーディ)を続けるだけで導かれてゆく」ということを読んでも「なんのこっちゃ」という感じでしたけど、最近は、特に難しいことをしなくても日々、瞑想が少しづつ深まってゆくような気が致します。厳密には日々というよりも数日あるいは1週間とかことあるごとに違いがわかるようになってゆくわけですけれども、比喩の表現としては日々深まってゆく、と言っても間違いではないと思います。<br /> <br /> ゾクチェンでセワ(混ぜる)というお話にしても、読んだときは「どういうことでしょう?」と思ったものですが、実際やってみてふに落ちると「あれ。特に特別なことを言っているわけでもなくて、自然に導かれてゆく状態を事細かに段階わけして説明していただけでした」ということに気づいたわけです。<br /> <br /> ですから、どこかの本に書いてあったように、おそらくはテクチュ以降は特別な努力なしに自然に瞑想が深まってゆくのだと思います。<br /> <br /> Tue, 19 May 2020 00:00:00 +0900 周囲の空間と自分のむきだしの心とを混ぜる https://w-jp.net/2020/1933/ <br /> チベット語でセワ(混ぜる)は特にゾクチェンで二元論を終わらせるための有効な手段であるわけですが、今まで、その感覚がわかるようでいてよくわからない状態でいました。<br /> <br /> スローモーションのヴィパッサナー(観察)が始まって以来、なんとなく周いと混ざるような意識が周囲まで通っているような感覚があったわけですが、それがいわゆる「セワ(混ぜる)」ということなのかなと思っておりました。<br /> <br /> しかし、スローモーションのヴィパッサナー状態ではそんな感じにおそらくなっているだろうな、ということはわかるのですが、意識的にセワ(混ぜる)をする感覚が今まで掴めずにいました。<br /> <br /> 「むきだしの心(リクパ)」とはヴィパッサナー状態で現れる心の本質であるわけですが、それがあって初めて物事をありのままに観察できるわけです。それを、ヴィパッサナー状態でそうなっているだろうということはわかるのですが、意識的にセワ(混ぜる)するという感覚が今まで掴めずにいたのです。<br /> <br /> しかし、今日、ふと気がついたのですが、ここでいうセワ(混ぜる)とは周囲の目に見える物体ではなくて、普遍的にこの世界に広がっている空間と混ぜることなのではないか、とインスピレーションがあったのです。自分で気がついたのか、あるいは、密かに守護霊が微かな示唆をしてくれたのか、どちらなのかは不明です。<br /> <br /> とにかく、そう気がついたからには試してみたわけです。<br /> <br /> 元々、セワ(混ぜる)という言葉を読んだ後に試したのは目に見える周囲の物体とセワ(混ぜる)することだったわけですが、それを、周囲にある、何もない、単なる空気の空間と混ぜるということをしてみました。<br /> <br /> 空気の空間とセワ(混ぜる)をしてみますと、目に見える物体よりは少しやりやすい気がしました。<br /> <br /> そんなものかな・・・ と思っていましたら、ふと、それよりも近くに、自分の体という物があるではないか、と気がつきました。<br /> <br /> ですので、空気の空間から自分の体へとセワ(混ぜる)対象を変えました。<br /> <br /> すると、流石に自分の体ですので、更にやりやすくなりました。<br /> <br /> 理屈で言いますと、自分の体であってもそれはこの地上に一時的に存在しているものですので「本当の自分」ではありません。本当の自分、ヴェーダンタでいうところのアートマンとかそういう自己の本質、ざっくり言えば魂とかそういうものですけど、魂とかから見たら自分の体であっても外側で、自分の体すらも観察する対象なわけです。<br /> <br /> このあたりは盲点でしたね。自分の体と周囲の何もない空気の空間とをまずは手掛かりにセワ(混ぜる)すると良さそうです。<br /> <br /> Mon, 18 May 2020 00:00:00 +0900 関東大震災と東海地震は2021年1月後半 https://w-jp.net/2020/1932/ <br /> 2021年1月20日か28日。関東大震災と東海地震は割と連続して起こります。どちらが先かは分かりません。<br /> <br /> これは今日(5月8日)の瞑想中のインスピレーションで受けたことですけど、こういうのってそんなに当たりませんのであまり気にしない方が良いです。<br /> <br /> 単なるメモ書きですね。<br /> <br /> 夢で見たことだと思っておいてください。<br /> <br /> 心配する必要はないです。来るのならば、それはその時です。どうにかなりますよ。死ぬ人は死にますし生き残る人は全く無傷です。気にしても仕方がありません。<br /> <br /> 大きな建物から物が落ちて来ますので、ビルとかの横を歩かない方がいいと思います。<br /> <br /> 東海地方の沿岸部は津波で流されます。自治体が出している津波予想は割と当たりますので、それらの危険地域に住んでいる方は引っ越しすべきだと思います。<br /> <br /> 東海地震の震源は紀伊半島沖で、関東大震災の震源は大正の時と割と似ていて相模湾付近です。東京も揺れますけど、最近の建物は丈夫ですので古い建物は倒れますけど新しい耐震設計の建物は割と平気だと思います。<br /> <br /> 基本的にはそんなに心配することでもないかなと思いますがそれでも津波の被害は甚大だと思いますし、相模湾付近も相当の被害が出ます。<br /> <br /> こういうのって、特に今回の場合はあらかじめ人々に危険信号がインスピレーションで長らく伝えられていますので、それに従って安全なところに引っ越せばそれほど危険はないと思います。<br /> <br /> まっ、こういうのは話半分に聞くくらいがちょうどいいのです。<br /> <br /> → 続き<br /> <br /> Sun, 17 May 2020 00:00:00 +0900 人との付き合いは死で終わるものではない https://w-jp.net/2020/1931/ <br /> 一般的には死ぬと消えて消滅すると思われておりますが、死んでも意識は幽体でそのまま継続しますので人との付き合いは死で終わるものではありません。<br /> <br /> 死んだ後は、仲の良かった人や妻や親しい親族などとあの世で楽しく暮らすことになります。金銭などの条件付けを超えたところの付き合いは死で終わるものではありません。<br /> <br /> 死ぬと金銭や住宅・食事などの制限から解き放たれますからそれらの制約のために仕方なく一緒に暮らしていた場合は死んだことをきっかけに離れて付き合いがなくなります。特に死後は、金銭や損得関係で生きていた人の人間関係は寂しいものになると思います。<br /> <br /> 人間関係において、他人を操るような強制・操作・共依存をしていた人の場合は例外として関係が続く場合もございますが、そのような関係は基本的に断ち切って自立すべきのものですので、死んで強制・操作・共依存から逃げようとしても無駄であり、生きているうちにこれらは克服する必要があるものです。<br /> <br /> 世の中は多様で、人を操ることで自身に利益をもたらそうとしている人が大勢いらっしゃいます。そういう人とは付き合わないことです。<br /> <br /> 金銭や損得関係は、他人を操ってはいけない、という基本的なルールを守る限りは自由にすべきだと思います。他人が必要としている金銭は基本的に与えるべきなのですが、上記のように人を操ろうとしているレベルの人とは付き合わないようにすべきだと思います。<br /> <br /> まれに、間違えてお金を与えてしまってカモ扱いされてしまったが故に死後も付き纏われる場合がございます。このような人は罠を仕掛けて落とし穴に落として自滅に導かせて二度と近づかないようにしたりします。他人を操ったり他人をカモにして生きる人がこの世には大勢いらっしゃいますので、時空を超えて遠目が効く人はあらかじめ人を見極めて付き合う人を見極める必要があります。<br /> <br /> そうは言っても勘違いや間違いもありますので、後になって失敗だったと気付くこともありますが、それはそれで良いレッスンでもあります。<br /> <br /> あまりにもしつこいと、例えば津波で家や店舗を全て流して一人だけ生き残らせて、一見すると命は助かったので運が良かったように見えますがその後の数十年を生活保護で暮らすことになりますので数十年の清貧な生活を余儀なくされます。それはそれで私なんかからすれば幸せなことのように見えるのですが、贅沢をしたい本人にとってはさぞかし辛いことでしょう。このように、欲深くてしつこく付き纏う人には本来進むべき方向に歩めるように導きがあるわけです。<br /> <br /> これは今後、東海地震で津波によって私の幼少時代の同級生が被るであろう将来のことですが、まあ、結果として謙虚になるでしょうから、私からしたら彼にとって良いレッスンだと思えたりするわけです。津波に飲み込まれて死ぬ方がすぐに解放されて幽体になるのでもしかしたら楽かもしれないのですが、体一つで生き残ることで津波の後の人生をいわば修行のように密かに暮らすことになるわけです。<br /> <br /> まあ、調子に乗って他人をカモ扱いしているとこのように一瞬でどん底に突き落とされるような罠に落ちますので、他人をカモ扱いなんてしない方がいいと思います。<br /> <br /> Sat, 16 May 2020 00:00:00 +0900 霊界の警察が自殺者を捕まえて牢獄していた時代があった https://w-jp.net/2020/1930/ <br /> 厳密には霊界というよりも幽体に近いところで起こっていたところです。中世くらいですかね。そのくらいまでは存在していました。<br /> <br /> 今は、自殺しても放置です。<br /> <br /> 世間で言われている天国とか地獄とかいうのは絶対的なものではなくて、幽界に近い霊界において人の思いがそれらを作り出したとも言えます。<br /> <br /> 人々が「地獄というものがあるんだ」と最初に思い込んで、その想念形態として地獄という場所が作られたわけです。そのきっかけはキリスト教などの地獄の教えが元になっているわけですが、地獄がもともとあったわけではなく、人々が想像することで地獄が作られたわけです。<br /> <br /> ですから、地獄のイメージが強かった中世以前には地獄という世界が実際にあの世に存在していて、今はその世界は割と瓦礫と化しているように思います。<br /> <br /> その世界を作るのは人の思いだけではなくて、死後の人が実際にその維持に関わりました。地獄の門番であるとか地獄で人々を罰する役目だとか、そのような存在は人々がそうなりたいからその役割が実際に存在したのであって、どこかの神様が用意したものとはちょっと違ったように思います。<br /> <br /> 例えば人が自殺すると死後の霊(幽体)のところに槍のようなものを持った幽界の警察がビューン! と勢いよく飛んできて自殺した霊を捕まえて牢獄の中にしばらく閉じ込めることになります。少なくとも昔はそうでした。<br /> <br /> 今はそのシステムが崩壊したのか、あるいは、単に見落としなのか、あるいは、自殺が多すぎて賄い切れないのかなんなのか、基本的には自殺者は放置されているようです。<br /> <br /> Fri, 15 May 2020 00:00:00 +0900 神様や守護霊だってよく嫉妬します https://w-jp.net/2020/1929/ <br /> 神様と言ってもピンキリで、守護霊に近い神様もいます。<br /> <br /> 例えば、私がとある女の人とお話をした時に守護霊である元修験道者が嫉妬したようで、インスピレーションで私の欠点のようなものをその女の人に伝え、それを感じた女の人が私の欠点(とも言えない些細なこと)を指摘して、私を遠ざけようとしたわけです。<br /> <br /> まあ、実際のところ、私はその女の人をそんなに何とも思っていたなかったわけですけれども。それに、その指摘にしても理由があってのことで、表面的なことは分かっていても背景の奥深いところは見抜けていないんだなあ、と思ったものでした。<br /> <br /> 逆もあって、私の守護霊というかいつも一緒にいる霊の中には過去生の元妻や仲の良かった女の人たちがいるのですが、その人が私が話をする女の人に嫉妬することもあります(苦笑)<br /> <br /> まあ、嫉妬とは言わないまでも、相手をしっかりと見抜いて、「この人はだめ!」という強烈なインスピレーションを送ってくることはしょっちゅうです。<br /> <br /> 「なんだかうまくいかないなぁ〜?」と思うときは大抵、このような干渉があります。<br /> <br /> 守護霊は、グループソウルであるハイヤーセルフからの指示というかお願いで守護についている本当の意味での守護霊と、単に仲良かったという理由で近くに一緒にいる霊たちがいて、広義ではどちらも守護霊と言われると思いますが、前者は本当に気をつけて過去や未来を見通した上で人生を見守っていて、後者は単に一緒にいて遊んでいたり、あるいは家族のように心配している、という違いがあります。<br /> <br /> もちろんそれぞれの守護霊にもレベルの差はありますし、後者であってもそのうち前者のような役割を担うこともあります。<br /> <br /> もともとハイヤーセルフからの指示というかお願いがどのようなものであったかにもよります。まず目的が設定されて、それに従って目的達成を目指すのが前者で、後者はお友達や家族として幸せを願っている、という違いがあります。後者はハイヤーセルフの目的とかはあまり認識していなかったりします。普通の家族がそのまま近くにいて見守っているのが後者です。<br /> <br /> ですから、後者のような守護霊が嫉妬することもありますし、時には、前者に近い人であっても嫉妬することがあります。<br /> <br /> まあ、どうやら嫉妬はどこまで行っても人間から切り離せないようです(苦笑)<br /> <br /> 感覚的には、上位の神に近づくと嫉妬はなくなるような気が致します。嫉妬があるうちはまだまだ人間的な感覚に囚われているという印ですね。<br /> <br /> Thu, 14 May 2020 00:00:00 +0900 瞑想は駒あるいはモーターを回すようなもの https://w-jp.net/2020/1928/ <br /> 最初は回転する力が要りますが回り始めてしまえば軽い力で回り続けます。<br /> <br /> あるいは、長いゴム紐あるいは縄跳びの紐をピンと引っ張るときのようなもの、とも言えるかもしれません。長いゴム紐を軽く引っ張ってもゆらゆら揺れているだけですがある程度のテンションをかけると細かく揺れ動くようになります。最初は引っ張る力が要りますが、ある程度のテンションがかかってしまった後は維持するのにさほどの力を要しません。<br /> <br /> 駒が回る時に最初に力がいるのと同様に、瞑想においても、最初は「集中(サマタ)」という力が必要です。<br /> <br /> 瞑想が進むにつれて努力が次第に不要になってゆき、やがては「観察(ヴィパッサナー)」の状態に辿り着きますが、それは長い道のりであったりもします。これは人によります。人によってはなかなか辿り着かないでしょうし、あっという間に辿り着く、あるいは、生まれながらにその状態を知っている人もいらっしゃいます。<br /> <br /> 瞑想初心者の場合は集中(サマタ)から始めるわけですが、人によっては、誰が教え始めたのかは知りませんが「観察だけしていればいい」という教えに固執していたりします。そのような人は「雑念は放っておけば次第に消える」と主張するわけですが、それが真実なのは中級者以上の、特に観察(ヴィパッサナー)の領域で迷走をしている人たちにとっての身であり、初心者がそのようにしたら雑念が増大して精神に混乱を来すようになります。<br /> <br /> ゴム紐を力を入れずに引っ張ってもふにゃふにゃのままですし、力を入れずに駒を回そうとしてもすぐに止まってしまいます。瞑想も同じようなものです。最初は集中(サマタ)という力が必要です。<br /> <br /> バガバッドギータというインドの聖典においてもクリシュナが瞑想の手ほどきの中で「外にあるものを外に保つ」というようなことを言っていますけど、いわゆる「集中(サマタ)」とこのことは、割と似ています。雑念が入ってきたら、それは自分ではないのだから集中することで外側に保って内に入れないようにするわけです。説明として外と内という言葉を使っていますが、それがわかりにくければ、単に雑念を集中によって止める、という理解でいいと思います。<br /> <br /> どちらにせよ、瞑想は「雑念を受け流すこと」というお話が誤解されていて、これは確かに真実ですが、雑念は力を入れて消すのが基本で、受け流すのはその先のお話になるわけです。<br /> <br /> Wed, 13 May 2020 00:00:00 +0900 見えない存在をことごとく神様だと思ってしまう人が多い https://w-jp.net/2020/1927/ <br /> 単なる意識体です。大抵の場合は幽体です。生きている人間とそう変わりません。「神様から言われた」とか言って特別視する必要は基本的にはありません。<br /> <br /> 現実と一緒で素晴らしい人や神々しいオーラの意識体に言われたら感動したり感銘を受けたりしますので、そのように人と霊を同格に置くのはいいですけど見えない存在だからと言って神様扱いを毎回する必要はないわけです。<br /> <br /> 守護霊の中にはそれなりに修行している人がいて、修験道であるとかお坊さんなどで長らく修行して守護霊をしていると人間からすればまるで神であるかのように素晴らしい教えを説いたり神々しいオーラを放ったりしていますが、それを神と呼ぶかどうかは人それぞれです。<br /> <br /> 物事は全て程度問題でありますから、特に日本ですと神格化された人物を神様として拝んだりしますので、そのような場合も神とみなすことは個人の自由です。好きにすればいいと思います。<br /> <br /> ただ、それを持ってして他人に「神様がこう言っている」と主張してくる人がたまにいて、そういう人の発言には「聞く人は謝意すべきだ」という含意が含まれていて、確かに正しい主張も混じっているので話半分に聞いていればそれは十分なのですが、いわゆるゴッドとしての一神教的な神様としての主張として守護霊の意図を伝えている人もいらっしゃいますので、そういう一神教的な部分はどうなのかなあ、とも思ってしまいます。<br /> <br /> 神様であっても単なる意識体の1つだ、という基本が分かっていないといわゆる一神教のようになってしまうのかもしれませんね。<br /> <br /> 精神的に高度に発達した意識体の発している意思あるいは意見だ、ということが分かってしまえば人間と接するのと実はそうは変わらないのに、神様に言われたからと言ってそれを100%信じなくてはならないとか100%従わなければならないとか思っている人が多すぎます。<br /> <br /> 神様という言葉を特別視しすぎているんですよねえ。見えない存在はピンキリで、神々しい存在もいればキツネやタヌキもいて人を化かしたりしますしね。見えない存在をことごとく神様だと思う必要はないですし、いかに素晴らしい意見で神のように見えたとしてもそれは一つの意識体ですから、人と人とが接するように意識体と接すればいいのです。<br /> <br /> ですから、基本は人と接することであれば拝めたり全て言いなりに従ったりする必要はなくて、あくまでも聞き手側の自由意志で全てを選択していけばいいわけです。<br /> <br /> まあ、そうは言いましても、実際に神々しい存在に対峙したらなかなかそうはうまくはいかないですけどね。それはもう、しょうがないです。人生経験と同じだと思います。<br /> <br /> Tue, 12 May 2020 00:00:00 +0900 「知識」を「行動」との対比で比喩的に表現するヴェーダンタ https://w-jp.net/2020/1926/ <br /> ヴェーダンタでは「知識」が重要で「行動」は不要であると説いているようです。このあたりは先日も少し書きました。<br /> <br /> ヴェーダンタの人がいう「知識」は、一般的には「知恵」「叡智」と読み替えると良いと思います。<br /> <br /> ヴェーダンタの人は「知識」というものは本来、単に知っているというだけでなく応用できて深い知識があることだと言いますし、それはそれで正しいと思うのですが、一般的には知識というと軽く扱われており、単に知っていることを意味しているので、個人的には知識じゃなくて知恵と訳せばいいと思うのですが、割と軽く扱われる「知識」という言葉を選んでいるようです。<br /> <br /> ですので、ヴェーダンタの人が「知識」という時は「知恵」のことなんだな、と読み替えるといいと思います。<br /> <br /> こんなことをヴェーダンタの人に直接言ったら「知識だ」と言われるだけなので、そんな野暮なことを本人に言う必要はありません(苦笑) 単に、自分の心の中で「知恵」に読み替えて理解すればいいだけです。<br /> <br /> いいんです。それで。 一般人に「知識」が大事と言っても「何のこっちゃ?」と思われるだけですから。<br /> <br /> ここで知識と言っているのは、以下のポイントにおいてです。<br /> <br /> ・魂・スピリットに関する知識は肉体による行動を伴わない。しかし、魂・スピリットによるオーラ的な行動・活動は伴う。<br /> ・真実を見抜くこと。幻想に惑わされない。<br /> <br /> まあ、ヴェーダンタの人は細かく用語を使っていろいろ言いますけど、物事は単純です。<br /> <br /> ヴェーダンタの人の主張に「理解さえすれば行動せずに解脱できる」と言うのがありますけど、そう言っている本人たちが一生懸命修行していたりします。本人たちはその行動を「行動ではない!」と言っているだけですので、あまり突っ込まない方がいいと思います。<br /> <br /> ただ単に、「行動」と言う言葉に敏感になっているだけですので、そっとしておいてあげましょう。スピリチュアルにはいろいろな流派があって、例えばこのように「行動」をとにかく毛嫌いして時にはヒステリックになる流派もあるのです。まあ、その人だけかもしれませんけど。<br /> <br /> 本来の意味としては上記のように「肉体の行動を超えたものである」と言う点だけだと思うのですけど、それを曲解して、肉体の行動に制限を加えてしまうのはせっかく肉体があるのそれに制限を加える意味がわかりません。使いたくなければ使わなければいいし、使いたければ使うだけです。それを、教義を持って行動に制限を加えて何が楽しいのでしょう? 自分を縛って精神修行していると言うのであればわかりますが。<br /> <br /> 三位一体なんて言われていたりしますけど、魂・スピリットと体とは繋がっているのですから、体だけ邪険にせずに全部、それぞれ必要な時に好きなように使ってあげればいいだけだと思うのですが。<br /> <br /> とりあえず、ヴェーダンタの主張としては修行のために一時的に行動を制限しているのだ、と理解する事にします。確かに、一時的には静かに過ごして精神を落ち着かせる必要があるのでじっとしている必要性もわかります。しかし、ヴェーダンタはそれこそが彼岸の悟りへの知識だと説いているので混乱しますけど、一般人向けにはそのように語っているだけなのかもしれないですね。そのような方便(手法)を用いて初学者を黙らせて静かに座らせる効果はあるかもしれません。<br /> <br /> この地上世界はスピリットが活動する自由な場所ですので、自由に制限を加えるのも自分の自由ですし、修行のために行動を制限するのは好きにすればいいと思います。<br /> <br /> Mon, 11 May 2020 00:00:00 +0900 魂の成り立ちを理解してどこから魂が生まれてどこに行くのか知る事 https://w-jp.net/2020/1925/ <br /> 悟りへの過程で「幸せ」だとか「平穏」などと言うものも達成されますが、それと合わせて、自分の魂の成り立ちを事実として確信してわかるようになります。<br /> <br /> 魂、いわゆるスピリットの認識が生まれ、スピリットとしての見識が生まれ、スピリットとしての視界が生まれ、スピリットとしての聴覚が生まれ、世界をスピリットの統合体として理解し、それらのスピリット、特に自分のスピリットがどこから生まれてどこへ帰ってゆくのか、どこへ行くのか。その過去と未来を知ることができるようになります。<br /> <br /> 確かに、「光の世界に入る」だとかゾクチェンでいうトクガルの境地だとか言うのもありますけど、その辺りになってくると自分のスピリットが動き出して自分が何者なのかをはっきりと認識し、それゆえに迷いもなくなり、自らが生まれた理由も行き先も知る事になるわけです。<br /> <br /> ですから、その内容はもちろん人ごとに違うわけで、自分の場合の成り立ちと行き先をはっきりとスピリットとして認識できるようになって、その上で、単なる運命論とかではなくて自分の頭できっちりと考えて自分のスピリットがどこへ向かうのか考えることができるようになります。<br /> <br /> ですから、「心の平穏」だとか「心の平和」とか言うのは、割と補助的なものになると思います。もちろん「集中力(サマタ)」とか「観察(ヴィパッサナー)」なんてのも悟りの一面を現しただけです。<br /> <br /> スピリットとしての認識が生まれれば肉体としての五感は一段階「別」のものとして認識されますが、それは別にスピリットから見て上とか下とか階層で言い表すものではなくて、単に違うものとして五感が存在しています。スピリットからの視点が出てくればヴィパッサナーとかになりますけど、それが優越であるわけでもなくて、単に、それぞれの視点があるだけです。<br /> <br /> そもそも死んだ後はスピリットとしての視点だけになって肉体は滅びますので、ほとんどの人はスピリットとしての聴覚や視覚を持っています。ですから、特に心配しなくても誰でもスピリットとしての認識力はあるわけですけれども、人によっては「この人生の間は使わないで頑張ってみます」みたいなお約束をしていて、そのような人が実はかなりいますのでスピリットなんてないと思っていますけど、単にその視点を意図的に封じ込めて地上での肉体の学びができるようにしているだけで、実際はほとんどの人は大差ないのです。<br /> <br /> ただ、そうしてしまうとスピリットとしての視点を忘れてしまって、ちゃんと霊界に戻ればその封印を解いてもらえるのに幽界に留まって再度転生を繰り返したりしているものですからスピリットとしての視点が解放されずに人間的な生活を繰り返すわけです。<br /> <br /> 死んだ後は幽体になって割と肉体と同じような姿、しかし、自分が一番お気に入りの年齢で存在するようになります。大体は若い時の姿ですかね。そこから再度生まれたり分霊を作って分霊が転生したりしますけど、その状態だと霊界の事をあまり認識できていませんので地上の肉体としての生活を繰り返してしまうわけです。<br /> <br /> どちらにせよ死んだらみんな悟れる可能性があるわけですが、生きているうちに混迷を極めてしまうと死んでも悟れません。地上を彷徨う亡霊になってしまったりするわけです。<br /> <br /> できれば生きているうちにこの世の理を理解して自分が来た場所と行くべき場所を見極めることができれば大体は悟ったと言っていいと思います。<br /> <br /> これ、単なるスピリチュアルのお話に聞こえるかもしれませんけど、単に勉強して知識として知っていることでもなければ信じることでもありませんし、チャネリングのようなもので頭の中にインスピレーションを与えられることでもないです。本当に自分のスピリットが物事や空間だけでなく時空をも超えて見通して直接的に周囲や過去・未来を認識して理解することなので、そうそうできないです。ここまで来れば、自分の魂・スピリットの生まれた成り立ちや目的・行き先までもがクリアになって悩みもほぼなくなるのです。とは言っても日常の小さな悩みは必ずありますのでそれはなくなりませんが、大きな視点ができる事により小さな事に悩まされにくくなるのです。<br /> <br /> これらのことがわかれば実は善も悪もないと言うこの世の理が理解できて、自由になるのです。この段階での自由は常人には理解しがたいです。何をしてもいい、と言うのは、スピリットの理に従って生きると言うことでありますし、その状態になれば実は人間の顕在意識は何ら自由意志を持っていない事にも気づくわけです。ですから、悟った後は肉体の頭での自由な選択ではなくスピリットが自由に行動するようになります。肉体の頭はスピリットの選択に従うようになりますから一見したら肉体の頭は従属状態のように見えるかもしれませんが、ずっと昔から、そもそもの原初の状態の最初からそもそも肉体の頭は自由意志を持っておらずスピリットの意思があるだけだったのに自由意志があるように幻影で見えていただけだと気づきます。ですから、肉体の頭が自由に何をしてもいい、と言うのではなくて、スピリットがしたいように自由に生きるようになるわけです。それがこの世の理であり、それを理解したら本当に自由になるのです。<br /> <br /> それを仏教では涅槃の知識だとか輪廻転生からの解放だとか言っていますけど、同じ事だと思います。スピリチュアルな観点と仏教の観点が違うだけで、割と同じことを語っているように思います。ヨーガやゾクチェンにしても修行の個人的認識の観点から語っているだけで、行き着く先は同じだと思います。ヴェーダンタだって先日書いた仮説が事実だとすればウパニシャッドはいわゆる「彼岸の知識」を伝えているわけで、同じ事だと思います。<br /> <br /> 悟り自体は単純ではありますが、単純であるが故に何をもって悟りとするのか、その判断が難しいこともあります。<br /> <br /> 平穏さも基本的にはやってきますが、疲れや体調不良と同じように精神的な疲れももちろんありますから常にMAX状態にいるわけでもありません。基本的には世間の雑多な出来事にそれほど惑わされなくなります。このような一時的な状態を見て悟りと判断するのは判断を誤らせる事になります。本質的なところでは悟りは能力とは関係がないですし一時的な状態とは関係がありませんが、よりわかりやすくて間違いのない判断基準としては、普遍的なスピリットの理を真に理解できたかどうか、と言う点で悟りを判断した方がいいようにも思います。それ自体が悟りというわけではないにせよ、悟れば高確率でこれらのことも理解して把握できるようになりますから、それなりの確度で悟りを客観的に判断できるような気が致します。<br /> <br /> Sun, 10 May 2020 00:00:00 +0900 神の審判に逆らい逆上する人たち https://w-jp.net/2020/1924/ <br /> 神に善悪はなくて、ただ選択と行動があるだけです。神が善だけを行うというのは幻想で、神は何をしても良いのです。今の神様は人々に精神的なゆとりと成長を期待しておりますので、人間が調子に乗って他人や自然などの環境をないがしろにすると「立ち止まりなさい」というメッセージとして災害や人災が起こります。大抵の大きな災害の背景には手引きしている霊的な存在がいて、その霊的な存在が高次の存在なら神と言われることもありますが、同じことです。<br /> <br /> 本当に上位の神になると人間界のことなんて興味がありませんので人間は放っておかれます。<br /> <br /> 人間界に介入してくる神はそれよりもちょっと人間に近い神で、人が成長する過程で神に近づいた魂たちです。例えば有名どころでいうと松下 幸之助とかですね。ああいう偉大なことをした人は神に近づきます。もともと神に近かったというのもあります。<br /> <br /> 人間が死後に神に近づいて、更に成長すると神と呼ばれるようになります。そのような、半人半神の存在が人間界に介入してきます。そして、それは善悪はあまり関係なくて、その魂の意図を実現させるために介入してきます。<br /> <br /> 大抵の場合、人間は災害の意図を理解できませんから、そのような災害があっても単に謙虚になるか自然を更に支配しようとするのかのどちらかに揺れ動くことになります。そこで人が振り分けられるわけですね。<br /> <br /> どちらがいいというわけでもなく、好きな方を選ぶわけです。<br /> <br /> その災害を神の審判と言うのならばそうでしょうし、単なる自然災害だと思うのならばそれはそのような意識で生きることになります。その人にとってはそれが真実で、それぞれ、そのような意図を実現したい神がそれぞれにつく事になります。直接的、間接的ではあっても神の意図があって、それぞれの神に振り分けられてゆくわけですね。<br /> <br /> 今までの中世以降の歴史は、神の審判があると神に逆上する、と言う事の繰り返しでした。<br /> <br /> まず神の意図を謙虚に受け止めて他人に伝える人がいますが、それを聞いた人は謙虚さがそれほどないことが多く、謙虚さがそれほどない人が神の意図を更に他人に伝えるとそれを聞いた人が逆上する、と言うことの繰り返しでした。<br /> <br /> 神は純粋な形でこの世に現れることはなくて、濁った中に現れるわけですね。<br /> <br /> 他人の中に神を見た時に、人間としての悪い部分を見てしまってもキリがなくて、神の部分だけを見ればいいわけです。人間としての部分は切り捨てればいいと思います。そうしないといつまでも逆上するループにはまり込んでしまいます。<br /> <br /> Sat, 09 May 2020 00:00:00 +0900 馬陰蔵相とムーラバンダ https://w-jp.net/2020/1923/ <br /> 馬陰蔵相(ばいんぞうそう)とは性器が子供の頃のように戻ることですが、クンダリーニが動き出してマニプラ優勢になった時に性欲10分の1、アナハタ優勢になった時に更に10分の1になったわけですけれども、その時も馬陰蔵相っぽい状態になってきましたのでその状態が馬陰蔵相なのかと思っていたわけですけれども、最近、更に子供の頃のようになって、もっとそれっぽくなってきました。<br /> <br /> それと同時に、足の太ももから下方の感覚が透明になってきて意識が腰よりも上、温感はアナハタ優勢で、意識は胸から頭にかけてが優勢になってきています。<br /> <br /> 下半身が透明でエネルギー的に最低限になってきており、それと馬陰蔵相と、ヨーガでいうムーラバンダっぽい状態になってきました。<br /> <br /> ムーラバンダ(ムーラ・バンドハ)とはエネルギー・ロックの技法であるバンダ(バンドハ)の主要な3つのうちの1つですが、男性なら会陰、女性ならもうちょっと内側の部分でエネルギーを漏らさないようにすることです。<br /> <br /> ムーラバンダが完成すると精が漏れなくなるというお話があって、今まで時あるごとに試してみましたがムーラバンダがしっくりきませんでした。<br /> <br /> しかし、今、馬陰蔵相の状態が進むにつれ、まさにこの状態がムーラバンダなのではないか? という気がしてきました。<br /> <br /> 実際にはヨーガではムーラバンダは手法の1つで意識的に行うものですが、特に意識的に行っていなくても、日常生活をある程度はスローモーションのヴィパッサナーをしながら生活していますと、その状態においては、毎日ではないにせよ、時あるごとに下半身からエネルギーが漏れていない、ということを認識することができるのです。<br /> <br /> これがムーラバンダの真意であるとすれば、ムーラバンダが完成すると馬陰蔵相になる、あるいは、馬陰蔵相の状態はムーラバンダと同等、と言えるように思います。<br /> <br /> 今のところ、なんとなくそんな気がするだけです。<br /> <br /> 今後、書物等で裏を取っていきたいと思います。<br /> <br /> Fri, 08 May 2020 00:00:00 +0900 十牛図は幽体離脱してグループソウルと合流する秘術の書なのか https://w-jp.net/2020/1922/ <br /> 十牛図にはいくつかバリエーションがありますけど、どうして「離脱」とか「再合一」とか書かれてあるのか不思議に思っておりました。<br /> <br /> しかし、今朝のシャワー中及び瞑想においてインスピレーションが降りてきて、どうやらこれは幽体離脱してグループソウルと一体になり、再度自分の魂が分離して肉体に戻ってくる秘法を説明したもののように思えてきました。そのようなイメージがありました。<br /> <br /> であれば色々と明確に説明がつきます。<br /> <br /> もともと十牛図は意識の成長過程を説明するものだと思っておりましたが、上のように読み替えるとスッキリします。<br /> <br /> 最初は瞑想をして意識を統一してオーラを体の中に収めるようにして安定させます。<br /> <br /> 次に、魂と幽体(オーラ)を意識的に動かせるようにします。<br /> <br /> そうしたら、幽体を体から離脱させます。<br /> <br /> 次に、グループソウルの元へと向かいます。基本的には上方に登ってゆき、グループソウルが見えてきたら、自分の意思でそれと合流するかどうかを選びます。<br /> <br /> 合流することを選んだらその中に入ります。その場合、魂の核は残りますがオーラはグループソウルと混ざり合い、自分の意識がグループソウルと溶け合うと共にグループソウルの叡智も流れ込んできます。グループソウルとしての集合意識が存在しているのと同時に、自分の個別の魂としての意識も存在しています。<br /> <br /> その後、離脱を選んだらグループソウルから核としての魂とその周囲のオーラが分離します。<br /> <br /> そして、最終的に肉体に戻ってきます。これが合流とか再合一とか説明されている段階です。<br /> <br /> このように考えるならば難しい十牛図も随分とスッキリします。<br /> <br /> であるならば、実のところグループソウル自体にも意識の高低がありますので、この秘法で得られる効果はグループソウルとしての集合意識に接続することで幅広い見識を得られる、という点にあります。<br /> <br /> このあたりは、おそらくはウパニシャッドも同じ観点なのかな、という気が致します。まだ個人的な仮説ですけどね。<br /> <br /> よくウパニシャッドとかで言われているように「ブラフマンは全知全能」というのは確かに概念としてはそうでしょうけど、人間が認識できるものとしてはグループソウル相当であって、ブラフマンとの合一、というのも実際に可能なのはグループソウルの範疇に限られているわけです。<br /> <br /> みたところ、私の属しているグループソウルは私からすると全知全能に見えなくもないですがそれでも色々とわからないことや認識不足があったりして、だからこそ分霊としての私が地上に来ていたりするわけです。<br /> <br /> 宇宙のありようを見ますと、ブラフマンとか言って一括りにできるほど小さくはなくて、宇宙の広がりはまさに無限大なわけです。それを、瞑想をして宇宙と一体になる... というのは人間の意識でみたらそう思えるかもしれないでしょうけど、実際はグループソウルとの合一だと思うのです。その先の次元に行くにはこの小さな人間の意識ではかなり難しいのではないでしょうか。<br /> <br /> これは人間の可能性を卑下しているわけではなくて、もともとグループソウルから目的があって分霊となって生まれてきて、その自分というスピリットは自由意志を持って創造的なことが行える偉大な存在なわけです。そのグループソウルと再合流するも自由ですし、個別の魂(スピリット)として生きてゆくのも自由。しかし、スピリットとしての意識が認識できるのはそこまでだと思うのです。少なくとも人間としての意識が認識できる範囲としては限界のような気が致します。ただ、それでもかなり十分であると思うのです。<br /> <br /> 色々と仮説ではありますが、このように考えると随分とスッキリします。これは今後もまた様子をみてゆきます。<br /> <br /> Thu, 07 May 2020 00:00:00 +0900 思念波を防御して跳ね返す五芒星 https://w-jp.net/2020/1921/ <br /> 最近関わっているちょっとしたプロジェクトでとある事に関してどうするか軽く議論になったのですが、コロナのこんな状況で相手はストレスを抱えていたらしく、ちょっとヒステリーな反応がその時あって、その後も思念波を週末にかけて私のところへ送ってきていました。<br /> <br /> 私にとってはもう終わった事だったのですが、どうやら向こうはネチネチと考えていたようです。男のくせにめんどくさい・・・。こんなコロナ籠りの状況じゃちょっと同情もしますけど。<br /> <br /> 瞑想していない人はこういうとき弱いですよね。<br /> <br /> とは言いましてもこちらは守らなければなりません。<br /> <br /> 何か体に刺さっていないかな? と思って瞑想中に探ってみましたが見つかりません。<br /> <br /> どうやら、思念波だけが飛んできているようです。<br /> <br /> 最近、陰陽道に関する動画をちょっと見たのを思い出して、それを真似て試しに五芒星を瞑想中に頭の上の方に意識で書いてみましたところ、急に思念波が止まりました。<br /> <br /> これにはびっくりです!<br /> <br /> 自分ではここまで期待していなかったのですが、急に思念波が止まりました。意図としては「思念波を跳ね返して送り主のところに戻してください」と指示をしながら五芒星を書いたので、どうやらその指示通りに術が効いているみたいです。<br /> <br /> 特別に誰かに学んだわけでもなくて、なんとなく試してみた術でこんなに効くとすればしっかりとした術はもっと効き目があって怖いんだな・・・。と、ちょっと思いました。<br /> <br /> まあ、自分で出した思念波を自分で受けるわけですから自業自得でしょう。私が気にすることでもないです。プロジェクトで後でネチネチやってくるかもしれないですけどね。男のくせに面倒な・・・。<br /> <br /> Wed, 06 May 2020 00:00:00 +0900 体の震えとプラナヤーマ(呼吸法) https://w-jp.net/2020/1920/ <br /> シヴァ・サンヒターの中にプラナヤーマで段階に達した「しるし」が記されています。<br /> <br /> ・汗<br /> ・震え<br /> ・蛙のように飛び跳ねる<br /> ・空中歩行<br /> ・睡眠時間が短くなる<br /> ・排泄の減少<br /> ・無病、無憂<br /> 「続ヨーガ根本経典(佐保田 鶴治著)より<br /> <br /> この中で、特に「汗」と「震え」はヨーガの先生にとって生徒たちのプラナヤーマの進捗を図るための重要な「しるし」として認識されていると思います。おそらくこの2つは特に有名なのではないかと。<br /> <br /> その先の「蛙のように飛び跳ねる」は先日のダルドリーシッディっぽい感じのことでしょうし、その先の空中歩行はただの比喩なのか本気なのかはちょっとわかりませんけど睡眠時間は私の場合クンダリーニ覚醒後に短くなっており、その他も昔に比べればそうだと言えます。<br /> <br /> プラナヤーマをすると身体中のエネルギー(ヨーガでいうプラーナ)が動きますから、それによって汗が出たり、エネルギーが詰まっていたりすると震えが出ます。<br /> <br /> 特に、息留めの「クンバカ」をすると体にエネルギー的な詰まりがある場合に震えが出ます。ですから、エネルギー的な詰まりを取るにはクンバカは有効なわけです。<br /> <br /> 蛙のように飛び跳ねる、というのは、私が思うにはおそらく震えと同じようなものだと思います。特に詰まりが硬い場合に電気ショックみたいに飛び跳ねるのかな、と私は思っています。<br /> <br /> 私の場合は飛び跳ねるほどの電気ショックはたまにあるくらいで、エネルギー的な詰まりがあっても大抵は震えるくらいです。<br /> <br /> 汗は最初のうちは出ましたけど、最近は出ませんね。<br /> <br /> 流派によっては汗はエネルギーが溜まっているので洗い流さない、としていますが、それはこのシヴァ・サンヒターの記述に基づいていると思います。<br /> <br /> 個人的には汗かいたらすぐに軽くシャワー浴びてしまいますけどね。不衛生の方が嫌です。<br /> <br /> Tue, 05 May 2020 00:00:00 +0900 集中(サマタ)瞑想を否定する流派 https://w-jp.net/2020/1919/ <br /> サマタ瞑想でまず行き着くのはいわゆる「止(シャマタ)」の境地であり、ゾクチェンでいうところのシネーの境地であって、その先にテクチュの境地やトゥガルの境地があります。仏教やヨーガではそのシネーの境地に相当する状態を通ってからその先のテクチュやトゥガルの境地に達します。<br /> <br /> しかし、サマタ瞑想を頑なに否定する流派がこの世の中には存在しています。サマタ瞑想、例えばヨーガ・スートラ等で述べられている静寂の境地を否定して、頑なに、時にはヒステリックに、時にはマウンティングしてサマタ瞑想を否定する方がいらっしゃいます。これはある程度は根拠があって、サマタ瞑想のシネーの境地を通らずにいきなりテクチュの境地やトゥガルの境地に達することも可能なわけです。ただ、一般的にはそれは難しく、普通はシネーの境地を通るのが無難かと思います。<br /> <br /> テクチュや最終的なトゥガルの境地はヴィパッサナーの状態であり、特に、ヴィパッサナー系の流派やヴェータンタの流派がそのような主張をしています。その主たる主張では、「(シネーの境地で)心を停止させたら、それは人間と言えるのだろうか?」みたいなことが言われていて、それはそれで理に叶っています。<br /> <br /> 一部の仏教やヨーガ派の人たちはシネーの境地に相当する状態で心を停止させさえすれば最上の状態になると誤解して信じ切っておりますので、そのような誤解している人たちに対する反論としては正しいです。しかし、どちらもお互いの一面を見ているだけでしかなく、仏教やヨーガ派の一部の誤解している人たちはシネーの境地の先をきちんと見てテクチュやトゥガルの境地に進むべきですし、ヴィパッサナーやヴェーダンタを信奉している人たちの中には仏教やヨーガを誤解している点があることを学ぶべきです。<br /> <br /> 仏教やヨーガであってもシネーの境地相当が最終的な悟りだとは言っていませんし、シネーの境地であるシャマタ(止)が最終的な悟りだというのは良くある誤解でしかありません。その、良くある誤解を持ち出して「それは悟りではない」とか外から指摘しているように思えるのです。<br /> <br /> お互いに色々と言い合っていますけど、普通はシネーの境地ですらなかなか辿りつかないので、要らぬ心配でもあります。その先のテクチュの境地であるいわゆるヴィパッサナーな状態も同様だと思います。<br /> <br /> であれば、相手の流派についてどうこういうのは時間の無駄ではないでしょうか。<br /> そんな論争する暇でもあったら自分の修行でもしたらいいと思います。<br /> <br /> と、言いますのも、どちらにせよシネーの境地あるいはテクチュの境地に達すれば理が分かるわけですから。<br /> <br /> 世の中には生まれながらにある程度の境地にいる人がいて、そのような人が例えばシネーの境地が生まれながらに当たり前だったりするとシネーの境地を否定してテクチュの境地のヴィパッサナーだけを良しとするかもしれませんけど、一般的にはシネーの境地を通るのが普通だと思います。<br /> <br /> 世の中にはシネーの境地すらうまくできない人が大勢いらっしゃいますから、シネーの境地であるシャマタ(止)を否定しても、それは修行者を混乱させるだけかもしれないわけです。基礎としてシネーの境地があってその境地が最終的な悟りではないことを示唆するために否定するのならばわかりますが、全く否定してしまうのは違うと思います。シネーの境地を否定したら、ふにゃふにゃの集中できない状態しか残りません。<br /> <br /> 生まれながらにきちんとシネーの境地で集中できていて、その上で、自分が当たり前なことに気が付かずに集中することを否定してしまって相手を混乱させている方がいらっしゃる一方で、受けた教えを盲目的に信じてシャマタ(止、集中)を否定している方もいらっしゃいます。前者は勘違いなので仕方がないかなあ、とも思うのですが、後者はちょっと微妙ですね。<br /> <br /> スピリチュアル初心者でも運良く最初から本物の教えを受けることがあるわけで、それが高度なヴェーダンタですとかテクチュやトゥガルの境地だったりしますと、それは確かに集中(サマタ)ではありませんので、教えをする過程においてその説明の表現では集中(サマタ)瞑想を否定したりもしますけど、それは通過点としてのサマタ瞑想を否定しているわけではなくてただ単に説明してるだけなのですが、スピリチュアル初心者はその辺りのことを良くわかっていないのかなんなのか、言葉通りにサマタ瞑想を否定してしまったりするわけです。<br /> <br /> 流派として伝統的にサマタ(集中)を否定している流派もありますけど、おそらくは創始者あるいは過去のどこかの点でそこのマスターがそのように説明したのでしょうね。きっと創始者やマスターはわかっていると思いますけど、流派として伝統的な団体になってしまうと伝言ゲームで教えが異なってきたりもしますよね。<br /> <br /> シネーの境地は基礎ですから、その先を語って説明する時にはシネーの境地を否定する表現になってしまったりもしますけど、階梯としてのシネーの境地を否定するかどうかは別の問題であるわけです。<br /> <br /> 生まれながらにある程度の境地にある人は自分の認識としてはシネーの境地を通らずにテクチュの境地であるいわゆるヴィパッサナーの境地に達したりするでしょうし、そうなればシネーの境地を否定するかもしれませんが、それを言ったところで、瞑想の初心者を混乱させるだけだと思うのです。<br /> <br /> ただでさえこの辺りはごちゃごちゃしていてわかりにくいのに、このようにサマタ(集中)瞑想を否定する人たちが一定数いて、集中を否定するような説明があると初心者が訳わからない状況に陥ったりします。<br /> <br /> その上、集中を否定するようなヴィパッサナーの流派の教えを見てみるとぜんぜんヴィパッサナーじゃなくてサマタ(集中)瞑想を自分たちでしていたりしますし。実態が集中瞑想なのに集中瞑想を否定しているなんてわけがわからないです。まあ、全てではなくて、そういうところもあった、ということです。<br /> <br /> 学ぶ側としましては、自分の感覚と比べて理解できるところだけ理解して、不思議なところは判断を保留する態度が必要だと個人的には思います。<br /> <br /> スピリチュアルや宗教では基本的にこのような態度が必要だと思います。宗教と言うと盲目的に信じることだと思われていますけど、信じるかどうかは自分次第です。私はある程度は信じた方が成長は早いと思いますけど信じるかどうかは自由意志に委ねられていますし、信じた内容が正しいかどうかを考えても良いわけです。瞑想なんてのは心の中の出来事ですから、きちんと自分の内面と向き合わないと変な流派に囚われてしまったりしまいますしね。<br /> <br /> この辺りは人によりますので好きにすればいいと思います。この世は自由の世界で、良くなるのも悪くなるのも全部自分次第で、いかようにもなります。<br /> <br /> Mon, 04 May 2020 00:00:00 +0900 仏教の「空」はゾクチェンのシネーの境地 https://w-jp.net/2020/1918/ <br /> スピリチュアルや仏教で「空」という言葉は人気がありますけど、この言葉は幅が広すぎていまいち掴み難いところがありましたが、ふとパラパラとゾクチェンの本をめくっていたらその対応が書かれておりましてはっきりしました。<br /> <br /> 「空」は「集中(サマタ)」している静寂(シネー)の境地に対応するようです。<br /> <br /> すべての仏教の伝統において、修習には二つの段階がある。すなわち<静寂な境地(シネー)>(「止 」zhi-gnas)と<直観的洞察(ラントン)>(「観」lhag-mthong)である。(中略)シネーは空に、またラントンは光明に対応する。「ゾクチェンの教え(ナムカイノルブ 著)」<br /> <br /> 同書はゾクチェンの本ですが、仏教にも造詣が深いように思います。<br /> <br /> 仏教だと「止」と「観」の対応で語られていますけど、ゾクチェンの3分割の方が明確な気が致します。<br /> <br /> (仏教の)顕教において、ラントンは(中略)静寂の境地の修習の後、自動的に生じてくると考えられている。これに対して、密教においては、ラントンは、変化の修行における悟りの一定の段階と考えられている。「ゾクチェンの教え(ナムカイノルブ 著)」<br /> <br /> この対応も興味深いです。どちらにせよシネーの境地の後にラントン(テクチュの境地)到達するわけですね。ラントンはチベット語で、サンスクリットでいうとヴィパッサナー(観察)に対応するようです。であれば以下のような対応になると思います。<br /> <br /> ・仏教の空 → 「サマタ」(集中)。チベット語(ゾクチェン)で「zhi-gnas」。ゾクチェンのシネーの境地。<br /> ・仏教の光明 → 「ヴィパッサナー」(観察)。チベット語(ゾクチェン)でラントン(lhag-mthong)。ゾクチェンでのテクチュの境地やトゥガルの境地。覚醒の境地。<br /> <br /> 完全な対応ではないにせよ、概念的に上記のような対応だということが読み取れます。<br /> <br /> 仏教の「空」は色々な人が様々に語っていてどうも掴み所がなくて不思議な感じがしていたのですが、ゾクチェンの階梯に合わせると明確になった気が致します。同様に「光明」の意味も明らかになりましたね。<br /> <br /> 日本語で「光明」というとまるで悟ったかのような印象を受けてしまいますが、光明がヴィパッサナーだとすれば光明そのものが悟りではないですね。とは言いましても悟りに近づくための重要な一歩ではあるわけですが、日本語で「光明を得た」というとそのまま悟ったかのような印象を受けてしまいますけど、光明がヴィパッサナー(観察)に対応するのだとすればまだ続きがあるということですね。<br /> <br /> Sun, 03 May 2020 00:00:00 +0900 守護霊は自分のスピリットなのかどうか https://w-jp.net/2020/1917/ <br /> スピリチュアルで、「守護霊は自分の過去生あるいは未来生なのではないかと思う」という記述を読みましたが、確かに、そのような場合もあります。いわゆる守護霊・・・ と言うと混乱がありますが、このコンテキストにおける守護霊という意味で言いますと、自分のスピリットの場合もあれば別のスピリットの場合もあります。<br /> <br /> 一方で、一般に言われているように個別のスピリットが守護霊がつく場合もあります・・・。というか、守護という意味では必ず誰がしかついています。<br /> <br /> ですから、意識するしないに関わらず自分のスピリットではない他人としてのスピリットが守護霊がついているのが基本です。<br /> <br /> それとは別に、自分自身へのインスピレーションとして時空を超えた自分のスピリットが語りかけてきたりイメージや概念を送ってくる場合があります。<br /> <br /> どちらもあります。<br /> <br /> ですから、「守護霊は自分の過去生あるいは未来生」というよりも、自分のスピリットが時空を超えてコンタクトしてきているということです。<br /> <br /> 生まれる場合に計画をした場合にはその計画の途中でインスピレーションを与えることもありますし、未来生から過去を修正するためにインスピレーションを与えることもあります。未来も過去もあってないようなものですから、未来であっても気付きさえすればタイムラインは変わります。ですが、基本は未来に対する介入がほとんどのように思います。<br /> <br /> 過去を変えられるという観点はほとんどの人は持っておられないでしょうし、やらないと思います。実際はさほど違いがありませんけど、基本は、生まれる前に計画をしてその過程で人生に介入をしてインスピレーションを与え、その時のことが守護霊として認識されるが実際は自分の生まれる前のスピリットからのメッセージだった、ということだと思います。実際は時空を超えておりますのでスピリットからしたら過去も未来もありませんけど、基本はこんな感じになると思います。<br /> <br /> それとは別に、見守るという意味での普通の守護霊もついていますし、守護霊からのインスピレーションも同じようにあります。<br /> <br /> ですから、そのスピリチュアリストが言うように守護霊が自分の過去生か未来生だと思うのも自由ですけど、そんなこと言ったら混乱するだけですので、私は普通に「自分のスピリット」と「守護霊」と言うだけがすっきりして良いと思っています。<br /> <br /> Sat, 02 May 2020 00:00:00 +0900 環境問題より精神的な成長を優先すべき https://w-jp.net/2020/1916/ <br /> 環境第一の方には申し訳ありませんが、一部の人が頑張っても世界の人口は増え続けておりますし多くの方が貧困から脱出するごとに大きなエネルギーを使うようになりますので環境問題は解決しません。<br /> <br /> このままではあと300年ほどで地球に作物が育たなくなり、海の魚も激減し、世界の人口は今の10分の1くらいにまで落ち込みます。<br /> <br /> それは予想されておりますし、未来を見れる方がタイムラインを覗いてもそのようなことが確認できます。そのタイムラインは存在しております。ただ、他のタイムラインも存在しております。<br /> <br /> 半世紀ほど前でしょうか。アメリカなど主要国のトップに善意の宇宙人がコンタクトしたことがあります。<br /> <br /> 地球上の戦争をやめて、富を分配して平和に平等に暮らすようにするのであればクリーンなテクノロジーを提供すると提案されたのです。<br /> <br /> しかし、当時の支配者は支配を辞めたくありませんでしたし庶民を助けるどころか奴隷化したいと思っておりましたからその提案を拒否し、他の宇宙人とコンタクトをしたり宇宙船を攻撃したりしてテクノロジーを手に入れたわけです。<br /> <br /> 環境問題はテクノロジーが生み出した悲劇ですから、テクノロジーで解決すれば良いわけです。地球のテクノロジーの多くは生え抜きの地球人というよりも宇宙から来た優れた魂が生み出したもの・・・ と言いますか、宇宙からのインスピレーションを受けて発明したものですから、環境問題の解決を宇宙からの助けに頼っても問題ないと思うのです。<br /> <br /> このあたりは割と有名で多くのところで噂されておりますが、かなりの部分で真実です。<br /> <br /> 今の環境問題は問題を煽って環境に対する優越感や罪悪感を植え付けることで問題解決しようとしている場面が多いですが、精神的な成長と共に育つ環境意識とは全く別物です。地球に住めなくなると言って他人を貶めようとしたり、和やかな環境で他人の環境と比べて優越感を感じることは本質的ではないどころか、最終的に争いを産んで環境を全て壊すことになります。<br /> <br /> 精神的な成長をすれば環境にも気を使うようになり、かなり質素な生活に満足するようになります。質素ですが清潔な生活です。<br /> <br /> 宇宙人が助けるとか言っても、メシアではありません(苦笑)<br /> ただ単に手助けしてくれるだけで、自分の足で立つ必要があります。<br /> <br /> 環境のテクノロジーは環境だけでなくエネルギー供給にも革命が起きますので、環境問題は解決し、人類は平等になります。少なくともその基盤ができます。<br /> <br /> 今は石油に頼っておりますので、石油がなくなると人類の文明は死滅すると思っている人が多いですが、意外にそうでもないです。<br /> <br /> 宇宙人に頼ってしまうと人間の自立心や自尊心が損なわれると思っている人もそれなりにいますが、意外にそうでもないです。ノーベル賞の学者の研究結果で人類生活が改善されてきましたが、それは自立心や自尊心とは全く関係がないでしょう? それと同じことです。<br /> <br /> 地球で環境問題をしようとすると経済のお話や格差のお話に繋がって利権や政治のお話になってしまいます。それでは解決しません。<br /> <br /> 現代の環境問題を解決しようとするより、地球上から戦争を無くして、貧困もある程度までなくすことで宇宙からの手助けに頼った方が環境問題の解決は早いと思います。<br /> <br /> 戦争と貧困の解決ができなければ地球の環境は数百年で上記のようになるだけです。現実というのは残酷なもので、争いを続けていればそのタイムラインに入っていく、というそれだけのことです。<br /> <br /> 注意しなくてはならないのは、自尊心や自立心を失ってはならない、ということです。宇宙からやってくるメシアを求めるような依存する気持ちを持ってはいけないのです。ただ単に、ノーベル賞と同じような枠が貴方から遠いところに1つ新たに出来上がるだけです。ですが、それは全て、戦争をこの地球からなくせるかどうかにかかっており、そのためには環境問題よりも精神的な成長と解決を目指した方が早いと思うのです。<br /> <br /> 環境破壊の原因で一番大きなものはエネルギーです。食事や自然農法で解決はしないですし、循環型社会とか言っても解決しません。環境を叫びながら自然農法したところでガソリン使う車にいつも乗って生活している間は永久に解決しなくて、残念ながら、現在のタイムラインに乗ってそのまま進めば数百年後には地球に作物が育たなくなります。その時はその時で、そんなものだと思うだけかもしれないですけど。<br /> <br /> 環境破壊の原因はエネルギー産業にあり、エネルギー問題を解決するのはテクノロジーであり、テクノロジーは戦争さえなくせば宇宙から援助してくれると言っているのだから助けを借りれば地球は楽園になります。テクノロジーが原因で環境破壊されたのだからテクノロジーでしか直せません。<br /> <br /> テクノロジーを辞めて自然に帰ろう、という運動もありますけど、そういう人だってたいてい車には乗っていたり物流に頼っていますし、そのように豊かな自然のある場所はどんどんと減ってゆきますので後ほど力のある人たちに強引に武力で奪われてゆくようになります。力のないネイティブアメリカンは簡単に虐殺されたでしょう?<br /> <br /> 精神的な観点で自然農法とか環境とか叫んでもテクノロジーの環境破壊の前には無力です。<br /> 精神的な観点で環境は良くしたいですけど環境を良くするにはテクノロジーが必要です。<br /> <br /> 一部の人が精神的に向上しても環境破壊する人が大勢いたら宇宙の人は助けてくれません。ですが、条件として既に提示があって、戦争さえ無くして貧困を(ある程度)解消すれば援助してくれるというのですから、このあたりで現在の支配者層が考え方を変えなければ地球は住みにくい場所に変わります。<br /> <br /> おそらく、地球の支配者層は現在のところ宇宙の提案を受け入れるつもりがなくて、疫病や戦争で人口を大幅に減らそうとしているように思われます。その選択をするのであれば、一部の大天使の召使いが手間をかけてそれらの魂を死後に捕まえて来世にスラム街の貧困家庭の赤ん坊の中に放り込むことになります。自業自得ではないでしょうか。<br /> <br /> 支配者層というと人間というイメージがありますが、それだけ大きなことをするにはある種の大きな霊的な存在がついていないとできない筈なんですよね。それを竜と呼ぶか神様と呼ぶのか悪魔と呼ぶのか堕天使と呼ぶのか天使と呼ぶのか人それぞれですけど、いないと大きな人口削減もできない筈なのですよね。大虐殺も実は世の中の人々への神の審判な場合もなくはないです。ソドムとゴモラの件もありますしね。表面的に支配者層を一括して悪者にもできないのです。しかし、そのような大虐殺の実行者になるにはそれなりの悪の心がないとできませんから神が背後で手引きしていたとしても実行者は悪に染まるようです。<br /> <br /> Fri, 01 May 2020 00:00:00 +0900 同調圧力に屈しない、あるいは逃げる必要性 https://w-jp.net/2020/1915/ <br /> 特に義務教育の現場では同じ人と長く付き合いますので同調圧力が生まれ、先生もそれに加担しますので同調圧力に屈しないのは並大抵のことではありません。人は自由意志がありますから付き合う人を選べるのが本当ですが、義務教育あるいは狭いコミュニティにおいては他人を強制・操作・共依存に落とし込もうと言う罠が沢山あります。<br /> <br /> 子育てであれば子供が警告を発しているサインを見逃さないことが重要ですが、親が同調圧力に加担している場合もあります。<br /> <br /> 子供は親を選んで生まれてきたなんて言いますけど、そう言う人もいる、と言うお話であって、全てではありません。<br /> <br /> なんとなく生まれた場合は、適当にそこらの親を選んだだけです。<br /> <br /> よくスピリチュアルで言うように「母親を選んで生まれてきたのです!」なんて大そうな選び方をする場合ももちろんありますけど、半分以上の場合は なんとな〜く 選んだと言うのが現状です。<br /> <br /> ですから、親も なんとな〜く でしょうし、子供が生まれても なんとな〜く です。 そんなもんです(苦笑)<br /> <br /> 意識的に霊的成長を願って親を選ぶ場合ももちろんありますけど、その場合はわざわざこんなこと言わなくても本人はわかっています。<br /> <br /> 選ぶと言うことで言えば、厳しい環境に自分を突き落とすことで社会勉強をする場合もあります。<br /> <br /> 宗教や精神的なこと、あるいは自然に基づくことに興味を持っている親を選んでいる場合は、人生ゲームの難易度は「スーパー・イージー」です。まあ、それで十分です。別に悪いことではありません。それで全く問題ありません。<br /> <br /> なんとな〜く 選んだ場合は人生の難易度は「ノーマル」です。<br /> <br /> 宗教や精神的なことを否定する唯物論の親の子供として生まれる場合は人生の難易度は「ハード」です。<br /> <br /> ドメスティック・バイオレンスの親の子供として生まれる場合の人生の難易度は「エクストリーム」です。<br /> <br /> 人生ゲームは、一つ間違えるとライフが1つ減ります。なくなるとゲームオーバーです。そんなもんです。<br /> <br /> ただ、復活の呪文みたいなのがあって、ライフがゼロになってもある程度は復活したりしますけど、難易度は変わりません。<br /> <br /> 私の場合はこの復活の呪文は胸の中にある「光の玉」で認識していて、生まれる時に私の場合は3つ持って生まれました。そして、小学校の頃までに早速その3つを使い果たしてしまいました(苦笑)私の場合、難易度は「ハード」でした。<br /> <br /> エクストリームの人生は私には無理ですねえ・・・、きっと。エクストリームでゲームオーバーで死亡する人は致し方ない気も致します。人生ゲームの難易度が高すぎます。<br /> <br /> 難易度「ノーマル」以上ですと周囲に強制・操作・共依存をしてくる人がわらわらと寄ってきますので、それに囚われてしまったらライフがどんどんと減ってゆきます。<br /> <br /> 人生の第一目的は生き残ることですから、立場が悪ければ逃げればいいのです。そして、ゲームのように、うまく立ち回れる場所で活動すればいいわけです。相手の術中にはまってライフを奪われ続ける必要はないわけです。<br /> <br /> 強制・操作・共依存をしてくる相手は「逃げるな」とか言ってくるでしょうけど、それこそ相手の思う壺で、相手のルールにのっとる必要は全くなくて、人生ゲームは自分でルールを作れますから自分のルールで生きればいいわけです。強制・操作・共依存をしてくる相手は自分のルール上に相手を乗せたいだけで、相手のことを思っているわけではありませんから、そこは見抜く必要があります。<br /> <br /> 古典のヨーガスートラや仏教の四無量心(慈悲喜捨)のうち「捨」として語られていることに、「不徳の人に会ったら無関心になりましょう(捨)」と言うことがあります。これが正しいのであって、相手と付き合う必要はないのです。相手は選べばいいだけです。<br /> <br /> オーラ的にも相手に関心を持つとオーラ融合してしまって相手と一緒になって落ちてしまいますから関心を持たない方がいいですし、瞑想という観点からもそのような不徳な思いに囚われずに流してしまうことが正解です。<br /> <br /> この世は魑魅魍魎の世界ですから、修羅たちが争っているところに混ざる必要は全くないわけです。<br /> <br /> Thu, 30 Apr 2020 00:00:00 +0900 本物のスピリチュアル人はお金に困らない https://w-jp.net/2020/1914/ <br /> お金に困らないので、たまにお金に困った状態に興味があって自分で損を出してみて貧乏な状況を意図的に苦しんで楽しむことはありますけど基本的にはお金には困りません。<br /> <br /> スピリチュアル人は意図的に貧乏になることで貧乏人を理解しようと思うことはありますけど何も考えなければお金には困りません。<br /> <br /> 転生の時に本当に全く考えなしに生まれてきた場合はお金に困ることがあります。それは計画が悪かったのであって、自分のスピリチュアルとは関係がありません。<br /> <br /> お金がないからスピリチュアル的にも問題が出てくるのであって、逆ではありません。<br /> <br /> ただ単に、人生の計画を生まれる前にそれなりにしていなかったから貧乏になるのであって、スピリチュアルに問題があるから貧乏になるわけではありません。貧乏になって苦しむから生活が乱れてスピリチュアルに問題が出てくることがあるだけのことです。<br /> <br /> ですから、貧乏の理由をスピリチュアルな原因だと言ってくる人物には要注意です。<br /> 高い物を買わせようとして「これを買えばスピリチュアルが高まってお金に困りません」と言ってくる人は偽物の可能性が高いです。<br /> <br /> お金はただ単に現実の生きる道具でしかありませんから、人生計画に基づいてお金が入ってくるかどうかが決まるだけです。<br /> <br /> 最初の転生では考えなしに生まれてお金に困ることもありますけど何度か転生していればある程度は人生の計画を立てますのでお金には困りません。<br /> <br /> どちらにせよ、本人のスピリチュアルとお金とは関係がないです。<br /> ただ単に、お金が流れてくる場所に自分がいるかどうかのお話です。<br /> <br /> 自分の居場所を生まれる前に計画して決めたかどうかはスピリチュアルなお話ですが、生まれた後にスピリチュアルかどうかとお金が入ってくるかどうかはあんまり関係がないです。<br /> <br /> 本当は十分なのに欲望が高まってお金が不十分だと言っている方も多いような気が致します。であればそれはスピリチュアルが高まって欲望が減れば現状のお金に満足すると言う理屈も成り立ちますけど、高額なスピリチュアルグッズとは関係がありません。<br /> <br /> 同じお金使うなら高額なスピリチュアルグッズの代わりに普通にいい値段する良い日用品を買った方がいいと思います。<br /> <br /> Wed, 29 Apr 2020 00:00:00 +0900 カニカ・サマーディ(瞬間定)の解釈 https://w-jp.net/2020/1913/ <br /> ヴィパッサナーの本を読んでいたところ、カニカ・サマーディ(瞬間定)と言うものがあると記述がありました。<br /> <br /> サマーディの強力な集中がサティ(気付き)の精度と速度を矢のように鋭くし、一瞬一瞬の事象に撃ち込まれ、その本質を暴き出していく...。「ブッダの瞑想法(地橋 秀雄著)」<br /> <br /> これは、以前に長い瞑想をした時に何気ない山の木々の景色が映画のスローモーションのように綺麗に見えた時のことを指しているのか、あるいは、最近のスローモーションのヴィパッサナー状態を指しているのか、どちらでしょうね。<br /> <br /> おそらくは、カニカ・サマーディ自身は前者のことを意味していて、深まると後者のヴィパッサナーになるのかな、という気が致します。であれば、次のように解釈できます。<br /> <br /> カニカ・サマーディでは強烈な「集中」が必要で状態がまだ不安定ですが、それでも、スローモーションで物事が感じられるくらいの強烈な気付きと集中があります。それはヴィパッサナーと呼ぶというよりもカニカ・サマーディの漢字にあるように「瞬間」のサマーディだとすれば状態を正確に表しているような気が致します。ただ、状態としてはあくまでもサマーディで「集中」が優勢です。ヴィパッサナーの観察する力はその集中に頼り切っているのがカニカ・サマーディだと思います。<br /> <br /> その後、集中の努力がそれほどいらないヴィパッサナーに移行するわけです。そのように解釈するのが理に叶っていますし、自分の感覚とも一致するような気が致します。<br /> <br /> 瞑想中だけのサマーディからある程度は日常生活まで続く断続的なカニカ・サマーディになり、やがては日常生活で集中の努力がそれほど必要ないサマーディになるとヴィパッサナーと呼ばれるのかな、と思います。<br /> <br /> 同書によりますと、この状態はサマーディの後に訪れる「ウペッカー<捨>」の状態であると言います。<br /> <br /> 心に入ってくるすべての対象を公平に、等しい距離をもって眺め、無差別平等の精神に貫かれた明確な無関心の状態を保つ。ウペッカー<捨>「ブッダの瞑想法(地橋 秀雄著)」<br /> <br /> これはいわゆる「七覚支」のうちの1つですが、解釈としてヴィパッサナー的な観点から記載されている点が興味深いです。言っていることは本来は1つの筈ですけど観点が違うと気づきがあります。<br /> <br /> この「捨」の境地は、今よりも前、アナハタ優勢になった頃にも「捨」と言えばそう言えるかな、と思えたこともありますが、今のスローモーションのヴィパッサナー状態の方がより「捨」と呼ぶに相応しい気が致します。アナハタ優勢になった頃は完全な「捨」と言うよりもまだ「喜」が混ざっていたような気が致しますし、意識としてスローモーションで感じられるような奥深くまで浸透するかのような意識ではなかったように思います。<br /> <br /> 七覚支は一つづつの力をそれぞれ個別に伸ばすと言うよりは総合的に少しづつ全体的に伸ばしてゆくものなのかもしれません。であれば、「捨」に関しても以前より進歩したと言えるのかもしれません。<br /> <br /> 厳密には言葉的に違うことなのかもしれませんが、「捨」をカニカ・サマーディあるいはヴィパッサナーの段階と当てはめてみるとそれなりに一致するような気も致します。<br /> <br /> Tue, 28 Apr 2020 00:00:00 +0900 安土城の蛇石を軽くした信長公 https://w-jp.net/2020/1912/ <br /> グループソウルの記憶を頼りに安土城の蛇石のストーリーを辿ってみます。<br /> <br /> 最初、信長公は大きな石に大勢が潰されて死んでしまったとの報告を受け、半分は怒り、半分は嘆き悲しみます。何をしているのか、と。<br /> <br /> そして本人が陣頭指揮に立つのですが、その時、足元の木の配置が明らかにおかしかったのでまずそれを直させました。これはきっと現代人が見ればすぐに気がつくことです。<br /> <br /> 更には、織田信長公はもともとシッディ(超能)がありましたがこの頃には全国から尊敬を集めておりましたので力が集まるようになっており、その力を使って蛇石を軽くして運ばせたのです。<br /> <br /> バランスが崩れそうになると更に軽くして踏ん張らせ、動き出すと緩めると言う具合で、完全に浮かせてしまうと大騒ぎになりますし力の使いすぎで疲れ果ててしまいますので運べるくらいのちょうど良い力で石を軽くしたわけですね。<br /> <br /> フロイス公が城にやってきた時は同様の力で身近な物を浮かび上がらせ、フロイス公を感嘆させました。そして、フロイス公の口から「信長公のお力はローマ教皇にも匹敵すると思います」とまで言わせます。<br /> <br /> 歴史上名を馳せた人物には少なからずこのような力があるようにも思います。<br /> <br /> ・・・これは夢でのお話で現実とは異なります。と言うことにしておきます。<br /> <br /> Mon, 27 Apr 2020 00:00:00 +0900 信じるところから全ては始まる https://w-jp.net/2020/1911/ <br /> 他人に依存したり操作されたりしなければ信じると言うことは力になります。信じると言うと抵抗があるかもしれませんが、「覚える」と言い換えてもいいと思います。最初は文献などをなぞって、その内容をまずは信じてみて内容を掴み取るわけです。<br /> <br /> その後、違うと思ったら捨てても構いません。一旦信じたらずっと信じ続けなくてはならないものではなく、その後の「検証」が大切ですから、確かめることを怠らなければ信じることは力になります。<br /> <br /> 最初はスピリチュアルと言っても右も左もわからない状態であればまずは信じてみるしかないでしょう。<br /> <br /> これは、例えば科学のお勉強でも同じことが言えると思います。まずは教科書の内容を暗記することから始めるでしょう。それと同じことです。<br /> <br /> 学校のお勉強は「覚える」と言って、スピリチュアルのお勉強は「信じる」と言っているだけのことです。<br /> <br /> 似たようなものです。<br /> <br /> 学校のお勉強は科学的と言いますけど、学校ではその根本のところは教えてくれませんから、学校で学ぶことはほとんどが「覚える」ことです。<br /> <br /> 科学の根本と言いますと量子論や数学の整数論とかになってゆきますけど、大学でもきちんとこの辺りをやる人も少ないのではないでしょうか。それでいて学校で覚えるだけ覚えて科学的だとか言っていますけど、根本を理解しなければそれは所詮は覚えているだけのレベルで、科学的と言うよりも、ただ単に科学の理論を覚えて使っているだけのことです。<br /> <br /> 一方で宗教も根本を考えるのはなかなか難しく、最初は覚えることから始まります。それを信じると言っているだけのことで、科学とそう変わりません。<br /> <br /> どちらも根本まで行きつけばいいのですが根本までたどり着かない場合はどちらも暗記でしかありません。<br /> <br /> それでも科学であっても宗教であってもそれなりに理解が深まりますし学はつきますから、無駄ではありません。<br /> <br /> であれば、根本まで行き着かずに「覚える」「信じる」と言うレベルであっても十分ではないでしょうか。<br /> <br /> Sun, 26 Apr 2020 00:00:00 +0900 自分とスピリットの自分とグループソウルとしての自分 https://w-jp.net/2020/1910/ <br /> 顕在意識としての普通の自分という意識。<br /> 時空を超えた幽体としてあるいはスピリットとしての自分。<br /> そして、スピリットとしての自分が分かれた元であるグループソウルとしての自分がいます。<br /> <br /> ニューエイジのスピリチュアル以降はハイヤーセルフという言葉がよく使われるようになり、これらの一部がハイヤーセルフだったりするのですが、ハイヤーセルフと言った時、何を意味するのかコンテキストごとに異なるので読み解く必要があると思います。上の中でいくつかの部分がハイヤーセルフと呼ばれたりします。<br /> <br /> また、流派によっては更にロウアーセルフ(低次の自己)という概念があったりします。このロウアーセルフは曲者で、ロウアーと言いつつも地球意識のことを意味していたりします。それって大きな意識だからロウアーというのも違和感ありますけど、いわゆるグラウンディングとしてのロウアーセルフということなのかもしれません。<br /> <br /> 言い方としては多様であっても、あるものは同一です。<br /> <br /> 顕在意識としての自分は安全を確保する基本的な欲求から所有する感覚としてのエゴを持ち合わせています。<br /> この顕在意識とスピリットとしての自分は、見ている観点が少し違うだけで割と一緒です。普段はその両者がごっちゃになっています。<br /> <br /> 肉体に関連した意識の部分と、スピリットとしての時空を超えた部分の両方があります。<br /> 幽体離脱する時は肉体の感覚、視覚などがなくなってスピリットの側だけになります。<br /> あるいは、うまくやると肉体の感覚を少し残したまま、肉体の安全を確保しつつスピリットを自由に動かすこともできます。<br /> <br /> ですから、顕在意識としての普通の自分とスピリットとしての自分は一緒と言っても良いのですが、顕在意識は時空を超えにくいのに対してスピリットは時空を超えます。<br /> <br /> ニューエイジでハイヤーセルフというとき、「高次の自分」という意味で使われますので、それは、スピリットとしての自分の場合とグループソウルとしての自分の場合とがあります。<br /> <br /> スピリットとしての自分は普段は顕在意識で肉体と結びついておりますので、スピリットとしての自分としての意識になった時、それは変性意識であったりするわけですが、その時のスピリットをハイヤーセルフと呼んだりしますが、同じ自分の一面です。<br /> <br /> 一方で、自分のスピリットが分かれた大本であるグループソウルとしてのスピリットをハイヤーセルフと呼ぶこともありますが、グループソウルは細かなことに口出ししないのでニューエイジでハイヤーセルフと言ってもグループソウルでないことがほとんどです。<br /> <br /> 人によってハイヤーセルフの定義がまちまちで、私なんかからするとスピリットとしての自分は単に自分のスピリットであってハイヤーセルフではないと思うのですが、あまりにも肉体との結び付きが強い人はスピリットとしての自分ですら特別に感じてハイヤーセルフとか言って特別視するのかもしれませんね。この場合のハイヤーセルフと言っても基本は自分の意識ですから、まだまだ自分の限界から超えてはいません。<br /> <br /> グループソウルとしてのハイヤーセルフは他の人はハイヤーセルフとは言っていない気がしますけど、これこそハイヤーセルフと呼ぶにふさわしいと私なんかは思います。<br /> <br /> 私のスピリットが分かれた大本であるグループソウルとしてのハイヤーセルフは、いわゆる「人の形」としての意識体として存在していて、グループソウルとしての意識もあれば、個別のスピリットの個々の意識も統合しています。これこそハイヤーセルフと呼ぶにふさわしいと思うわけです。<br /> <br /> 一方で、自分のスピリットはハイヤーセルフと言うよりも単に自分のスピリットであって、ハイヤーと呼ぶほどではないと思います。<br /> <br /> ですが、多くの人は自分のスピリット、いわゆる自分の意識の一面をハイヤーセルフと呼んでいたりしますので、他人がハイヤーセルフと言う時は何を意味しているのかコンテキストを読み解く必要があると思います。<br /> <br /> Sat, 25 Apr 2020 00:00:00 +0900 給与を増やせば売り上げが増える https://w-jp.net/2020/1909/ <br /> 人は、ものを売る時に販売側が「きつい顔」をするあたりが最安値になりますから、給与を増やせば最安値が切り上げられ、売り上げが伸びます。<br /> <br /> 欲しい人たちはただ単に安く買いたいだけですから、いくらであっても構わないわけです。高ければ高いところ、安ければ安いところで流通するだけのことです。<br /> <br /> デフレ商売に関わっている人は自分が売る場合も相手に顔色を見られますから、儲かっているところからは、売主が「きつい顔」をする寸前まで値下げ圧力がかかります。安いところで流通すれば回り回って自分の実入りが減ることになります。<br /> <br /> 多くのところでは「きつい顔」が基準になっていますので、給与を増やせば増やすほど「きつい顔」が切り上げられて売り上げが伸びるわけです。逆に給与を減らせば減らすほど売り上げは下がります。<br /> <br /> ですから、営業の立場で言うときつそうな表情をいかに表現して相手の同情を誘うのが鍵になるわけです。<br /> <br /> 経済学では給与は固定費で減らすもので価格は下げた方がいいと思われていますが、実際は、価格なんてあってないようなものです。「雰囲気」で価格は決まります。<br /> <br /> 既に・・・、そしてこれからも価格の二分化は続いて、デフレ経済に関わる人と価格が保たれた商売をする人とで別れるような気が致します。<br /> <br /> デフレ経済は営業が必要で営業コストがかかって価格圧力にさらされて売り上げが下がり続け、一方では営業コストがほとんどいらなくて価格圧力が少なくて給与も上がって売り上げも上がり続けるわけです。<br /> <br /> こうなると保証はしませんし、これは経済学というよりも心理学的な解釈かもしれませんが、別に、私は心理学を専門で学んだわけではなく、そういうインスピレーションが今日の瞑想で降りてきた、というだけのことです。<br /> <br /> Fri, 24 Apr 2020 00:00:00 +0900 ジョブスの伝説のスピーチを真に受けてはいけない https://w-jp.net/2020/1908/ <br /> スタンフォード大学の卒業式で2005年に行った伝説のスピーチを真に受けて、良いも悪いも全ては繋がっている、とか思っている人がいらっしゃいますけど、それは条件付きです。そして、条件に合う人も大勢いますし、合わない人も大勢いらっしゃいます。<br /> <br /> スティーブ・ジョブズはその講演の中で、その時々で最悪と思える出来事が起きたが最終的にはそれは繋がっていた、というお話をしています。他にもトピックがありますけど、今回のお話はここのことだけです。<br /> <br /> 人生というものは不思議で、良いことも悪いことも全てが完璧です。それはそうです。<br /> <br /> 一方で、人生の計画という点から言いますと、どれだけ用意周到に準備してきたのかは別のお話です。<br /> <br /> あまり準備せずに人生をスタートさせて、なるがままに任せた場合であっても、それは完璧なのです。<br /> <br /> 一方で、生まれる前のスピリットの状態で未来を確認しつつ準備をしてから生まれてきた場合でも、それもまた完璧なのです。<br /> <br /> おそらくジョブスは後者の場合だったと思います。<br /> <br /> ですが、後者であっても程度に差があって、そこそこの準備で生まれてきた場合はジョブスみたいな成功はほとんどないと言っていいと思います。<br /> <br /> 本人の準備がそこそこでも周囲のスピリットが準備する場合もありますが、それは稀です。基本的には本人が準備をします。<br /> <br /> あまり準備せずにこの世界を遊びにきた人がいて、その人が失敗したりするとリカバリーする場合はその時の守護霊が頑張ってリカバリーしたりしますが、それは、ジョブスがいうようにあらかじめ用意されたものではありません。<br /> <br /> 人生は全てが完璧で何をしても良いのですから、計画という点に関しても、どれだけ準備しても良いのです。<br /> <br /> と、いうことで、ジョブスのスピーチを真に受けて、失敗も全ては次へのステップだとか思ってしまわない方が良いと思います。<br /> <br /> ただ、それすらも全て包括的に完璧ではあります。ですから、計画せずに失敗した、ということも完璧の一部なわけですが、ジョブスがいうように、計画された失敗ではないのです。<br /> <br /> 人生というのは、ある意味、残酷なもので、結果がはっきりと出ます。その時に、安易にジョブスのような言葉に惑わされない方がいいと思います。<br /> <br /> Thu, 23 Apr 2020 00:00:00 +0900 死霊は右の肩に憑く https://w-jp.net/2020/1907/ <br /> 私は度々、右肩が弱くてそこに絡まっている見えないものを引き抜くと言うことをしていますけど、陰陽師の解釈に基づくとそれは死霊だとのことです。<br /> <br /> 確かに、自分で生気を作り出すことができずに吸血鬼のように他人の生気を引き抜くことでしか生きられないのだとしたら死霊である可能性が高いです。<br /> <br /> 死霊が人に憑く際は、人の肩の右側に、そして、生霊は人の肩の左側に憑きます。「陰陽師の使命(安倍成道 著)」<br /> <br /> 実際のところ、私に取り憑いていたのが死霊かどうかはわかりません。ですが、このような解釈もあるのだな、と言うところが興味深いです。どうしたらこれを確かめることができるのですかね?<br /> <br /> 同書によれば、陰陽師は死霊を取り除くのではなく存在を消し去ってしまうようです。<br /> <br /> 私がやったのはただ単に引き抜いただけであとはその見えない意識体はどこかへ行ってしまいましたけど、陰陽師だったら消されていたのかもしれませんね。消す場合は慎重に行う必要があって、害が出ている場合にのみ消すようです。<br /> <br /> 前にも書いたような気がしますが、私の魂の記憶を辿りますと、幽体でこの地上界を探検していたら急に殺気を感じて消されるかもしれない、と思ったことがあります。それがこの種の人々なんだと思います。とても恐ろしいです。何十と言う転生で積み重ねてきた英知を丸々と消し去ってしまうわけですから。<br /> <br /> 同書によれば害を及ぼす死霊だけ消すとありましたけど、世間にはもっと荒っぽい人がいて、霊が漂っていたら片っ端から消す人がいます。そう言う人にも判断の基準はあるのでしょうけど、その基準がとても低い人もいて、霊でこの地上界を彷徨うのは実はかなりおっかないことだったりします。<br /> <br /> Wed, 22 Apr 2020 00:00:00 +0900 瞑想中に見えるアストラル体の色 https://w-jp.net/2020/1906/ <br /> ヨーガ行者の本山博先生はアストラル体の色について記述しています。<br /> <br /> アストラル体の3つ色(オーラ)<br /> 1. ムーラダーラチャクラでは、アストラル体は無色である。<br /> 2. アジナチャクラでは黒色である。<br /> 3. サハスララチャクラでは、光り輝いている。<br /> 「密教ヨーガ(本山博 著)」<br /> <br /> 同書によれば、これは精神集中の3つの異なる状態に該当すると言います。<br /> ・浅い精神集中では煙柱。<br /> ・雑念が消えた集中では黒色。<br /> ・やがて光り輝くようになる。<br /> <br /> 先日の漆黒の闇はおそらくアジナチャクラに関係しているものかな、と言う気も致しますが確信はありません。<br /> <br /> 光は外の光かもしれないので、光は進歩の判断に適していないような気もしています。単に筋肉の緊張で光を見ることもありますし。<br /> <br /> ヨーガの瞑想の基本としては何を見ても重要ではないので気にしない、と言うことはありますけど、こう言うのは「しるし」として役立つ時があるのです。<br /> <br /> Tue, 21 Apr 2020 00:00:00 +0900 とあるお寺の家系に生まれた人の物語 https://w-jp.net/2020/1905/ <br /> 夢を見ましたよ。<br /> <br /> あるところに由緒正しきお寺とその一族がいました。<br /> その夢は霊界のお話と現世との繋がりのお話ですので場面は霊界から始まります。<br /> <br /> お寺の一族は霊としてもその一族が代々引き継いでおり、霊界の一族の大御所と言いますかお節介おばさんみたいな人(霊)が半分仕切っていました。<br /> <br /> ある日、その一族のところにどこからか霊がやってきました。<br /> <br /> どこから来たのかもわからない、どこぞの馬の骨ともしれないわからない霊ですけど、仕切っているお節介おばさんの霊に対して「勉強したいので一族の家族として転生させてください」と熱心にお願いしました。お節介おばさんは、これは一体どうしたものかと思い、この、どこぞの馬の骨ともしれ訳の分からない魂を家族にとして転生して面倒見るのはどうなのかと考えましたが勉強したいという熱心な願いを聞き入れる事にしました。<br /> <br /> そうして勉強したいと言って転生した筈ですが、生まれてからはその願いを忘れたのか何なのか一向に仏教の勉強をせず、世間の俗物的な快楽に身を任せてお金儲けに励んでいるではありませんか。お節介おばさんはそれを見て「やれやれ。あの願いは何だったのかしら」と思っていました。それだけならまだしも、自分はほとんど修行していないのにも関わらず自分が一族の家族というだけで自分自身が何か偉いものだと勘違いし始めました。<br /> <br /> 身近な家族がそんな態度をたしなめる為に「我が一族の名を辱めることは避けるように」と忠告したところ、その本当の意味は「君のように修行していない人は語る資格はない」「君が生まれる前に立てた誓いを思い出して勉強しなさい」というところだったのに、こともあろうか、「自分はこの一族に生まれたのだから優秀で他の者より生まれながらにして優れている」、と勘違いをし始めます。「血筋によって優越が決まる血統主義」かのごとく思ってしまったわけです。<br /> <br /> それを霊界から見ていたお節介おばさんは「この、どこぞの馬の骨とも知れぬ者が修行もせず勘違いをするようになってしまった」と嘆きました。お節介おばさんは、「やれやれ、この勘違い坊主をどうしたものか・・・ 」と思っていたところ、自分のところで修行するのではなく、もっと緩いヨガをさせるように計らうことにしたようです。<br /> <br /> お節介おばさんは、それでとりあえず様子を見ることにしましたが、お節介おばさんは昔を思い出して、これは教訓だったのだと理解しました。この坊主が来た時、きっと受け入れるべきではなかった。本性を見抜くべきだった。表面的に礼儀正しくてもその裏で何を求めているのか、この坊主の一生を霊界から見ていたことで理解することができた。この坊主は自らの欲望を達成するために、体のよい看板(家柄)が欲しかっただけなのだ。<br /> <br /> だが、幸いなことに、そのような不逞なやからでも我が一族の霊気にさらされることのよって次第に改心し、霊的な理解を少しづつではあるが獲得しつつある。全ての人間は霊的に目覚める素質がある、というのもお節介おばさんが学んだことのひとつだった。<br /> <br /> 今はまだ勘違いをして困ったちゃんの状態ですが、お節介おばさんは面倒見が良いのでそんな坊主でも優しく見守っているようです。でも、次の転生で一族の者として再度生きるのは今の状態では許可できないみたいですけど。であれば今生の幸運を生かして最大限に学ぶべきなのでしょうね。<br /> <br /> おしまい。<br /> <br /> これはたしか数年前に見た夢で、ふとメモを発見したので載せてみました。これは実在の人物のお話で、こんな夢のお話を本人に言うなんていう野暮なことはしていませんけど、時々、謎な人と会うことがあって、これはどういうことでしょう??? と思っていると瞑想ですとか夢ですとかでこうして答えをくれる時があるのです。<br /> <br /> もちろん瞑想や夢ですから正解とは限りませんし、本人に言う必要のないことではありますが、上記のようなことであるとすれば態度や考え方など全てスッキリ説明がつきます。多様な人がいて、それぞれの人生で学びをしているのですね。<br /> <br /> 血筋や家族・親戚はとても助けになりますが、そうであっても、やはり本人のありようが一番重要と言うことなのだと思います。<br /> <br /> その一方で、由緒正しき血筋に変な人を招いてはいけない、と言う教訓でもあるように思います。この場合、お節介おばさんの脇が甘かったのだ、と言うメッセージも含まれていました。そのおかげでお節介おばさんは人生を通じて苦労を背負うことになりましたが、このようなお話は割とこの世界に溢れているような気も致します。とは言いましても、お節介おばさんの方はエネルギーに満ちているようですので苦労を苦労とも思わずこなすことができますので特に問題ではないようです。<br /> <br /> 人生の中では色々な人と会いますけど、それぞれ違った人生観を持っています。興味を持てばこのように人生の背景に関する知識が私のところへやってきますけど、その知識を得たからといって、それが悟りの知識に結びつくわけではありませんから、最近は他人の人生に対する興味はあまりありません。ですので、これを見たからといって感想は「ふうん」と言うくらいですけど。人生は自由ですから、他人は好きに生きれば良いと思っています。<br /> <br /> Mon, 20 Apr 2020 00:00:00 +0900 クンダリーニはイダとピンガラによって生じる https://w-jp.net/2020/1904/ <br /> ヨーガではナディというエネルギーのルートのうち、主要な3つとしてイダとピンガラ、そしてスシュムナのことに言及しています。イダは背骨の左側で月の癒す力、ピンガラは右で太陽の活力、そしてスシュムナは背骨に沿った悟りの力が備わっていると言います。<br /> <br /> クンダリーニはこのうちスシュムナを通ると言います。<br /> <br /> しかし、私がイダとピンガラの覚醒を経てマニプラ優勢の状態に至り、その後、アナハタ優勢になったわけですが、明確に認識できたのはイダとピンガラでスシュムナとクンダリーニというものがどれに相当するのか、いまいちはっきりと認識できておりませんでした。<br /> <br /> この後、また別にクンダリーニの力が生じるのかな・・・? とも思っておりましたが、どうやら、イダとピンガラによって生じる力のことを比喩としてクンダリーニと表現するようです。<br /> <br /> これは、私の感覚と一致します。<br /> <br /> 個別にクンダリーニが存在するのではなく、明確に存在するのはイダとピンガラで、そのバランスによって生じるエネルギーをクンダリーニと呼ぶのだとすれば、確かに、ヨーガで左右のバランスを重視している理由も肯けます。<br /> <br /> 呼吸には、2つのチャンネルがあり、それは、ピンガラという右鼻孔呼吸とイダという左鼻孔呼吸とである。両鼻孔から一緒に流入する時はスシュムナ呼吸と呼ぶ。(中略)スシュムナチャンネルは中央のチャンネルで、呼吸がイダとピンガラに同量に引き出されるとクンダリーニが昇るところである。(中略)スシュムナは、太陽エネルギーと太陰エネルギーの合流箇所であり、そこでクンダリーニを形成する渦が出来るところである。「ヨガの真義(M.ドーリル著)」<br /> <br /> ヨーガの本、例えばハタヨガプラピディカを読むと、イダとピンガラとスシュムナを個別のものとして記載してあることに気付きます。もしかしたらこれらの知識は古来から秘密にされていたもので、最近になって本で出回るようにはなりましたが古典にすら書かれていない、口伝の部分だったのかもしれません。<br /> <br /> 実際のところ、これらが本に書かれてあったとしても、通説で言いますとイダとピンガラとスシュムナは別ですから、私はわざわざ通説をひっくり返そうとは思いませんし、一般的にはそういう理解でいいと思います。<br /> <br /> 私のやり方は本を見てその通りにするというよりは、本はある程度に参考にはしますが、むしろ本は「確かめ」のために使っています。まずやってみて、自分の変化が先に起きて、その自分の変化とは何だろう、ということで本を調べるのです。<br /> <br /> 今回の場合もこの本を信じるとかそういうことはなくて、私の感覚に一致する表現を探した、ということです。上記の表記は私の感覚と一致します。<br /> <br /> まあ、長らくおそらくはそうなのではないかな、とも思っていたのですが、最近になって、その確信が深まってまいりました。<br /> <br /> Sun, 19 Apr 2020 00:00:00 +0900 瞑想中、漆黒の雲に包まれる https://w-jp.net/2020/1903/ <br /> 普段の瞑想では薄明かりを感じることが多いのですが、今日は、最初はいつものように薄明かりを感じていたのですが、ふと目の前に黒い雲が現れ、それが顔の周りを包み込んで視界が急に暗くなり、そのまま漆黒の闇に包まれました。<br /> <br /> その雲は、雲というよりも見た目は黒い脳味噌のような有機的な鼓動を打っており、雲であるような脳味噌のような有機的な黒い雲でした。それが顔の周囲、頭のあたりまで包み込んで私を深い意識に送り届けているような感じでした。<br /> <br /> 今までの瞑想で「無」というと意識がなくなる感じでしたが、これはまた違った「無」とも言えるもので、ですが、意識は依然としてしっかりあって、それでいて意識が深いところに導かれてゆきました。<br /> <br /> それは「無」というと語弊があるかもしれません。それよりも、「漆黒」と呼んだ方が的確かもしれません。漆黒の雲あるいは漆黒の磁気嵐の中に意識が入り込んだ感じが致しました。<br /> <br /> その意識状態でいると、今までの瞑想とはまた違った、電気的に意識が常に刺激されている感じが致します。<br /> <br /> 特にそれでトランス状態になるとか彷彿状態になるとか変性意識になるとか、そういうことはないのですが、ただ単に、漆黒の中に意識が入り込む... というか、意識が漆黒の状態に導かれてゆくような感じが致しました。<br /> <br /> 雲は電気を帯びており、まるで雷雲のような感じも致します。<br /> <br /> 「無」と言えばナーダ音が聞こえ出す1週間前くらいにも無の中に入り込む経験をしましたけど、その時は意識が停止するいわゆる「ラヤ」状態だったように思います。<br /> <br /> 今回も似たような「無」ではあるのですが、質としてはおそらく同じ「無」であっても無に包まれた際にも意識が明確なままである、という点が違います。昔は無に包まれるとそのままラヤ状態になって意識がなくなっていましたが、今は起きています。<br /> <br /> 懐かしい「無」に再開した感じが致しますが、その時は本当に真っ黒で漆黒でしたが今回は電気を帯びていて微かに電気のほとばしりが雲の所々に見えるところが違います。<br /> <br /> 瞑想はどこまで行っても色々な変化が次々に現れてきますね。<br /> <br /> Sat, 18 Apr 2020 00:00:00 +0900 観察すると雑念が消失するチェルドル https://w-jp.net/2020/1902/ <br /> ゾクチェンに基けば、テクチュの境地において不二の境地であるサマーディの状態に止まり、ヴィパッサナー(観察)をすることにより雑念が消失すると言います。<br /> <br /> チェルドルとはサマーディにおいて現れてくる3つの能力のうちの最初のものであると言います。<br /> <br /> 最初の能力であるチェルドルにおいては、自己解脱の過程は、まだわずかな力しか持っていない。チェルドルは、「観察すると、それはみずからを解放する」ということを意味し、水滴が太陽の光を浴びて蒸発するのにたとえられている。「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」<br /> <br /> ゾクチェンのシネーの境地までは瞑想をした場合にここまでの力はまだなく、瞑想を長い期間繰り返すことで自らの想念を少しづつ浄化してゆきます。シネーの境地とは「集中(シャマタ)」の境地であり、雑念を押さえ込むことで安定に至る境地です。その後にテクチュの境地であるサマーディがあるわけですが、このチェルドルはサマーディの段階を示しています。<br /> <br /> ゾクチェンに基けば、サマーディの基本的な境地がこのチェルドルであると言います。<br /> <br /> ただ、個人的な感覚に基づきますと、サマーディの最初においてはこのチェルドルすらもかなり不安定だったように思います。というか、そこまで観察できていなかったのかもしれません。サマーディというかスローモーションのヴィパッサナーで観察をする際に、最初はとにかくサマーディ状態を維持するために努力が必要で、チェルドル的な感覚はあまりありませんでした。<br /> <br /> チェルドルのように「太陽の光を浴びて水滴が蒸発する」というよりは、最初に想念をちょっとした努力で断ち切ってからサマーディのヴィパッサナー状態に入るという感じでした。<br /> <br /> それが今は、ヴィパッサナーに入るための努力の必要度がかなり下がってきましたので、割と簡単にヴィパッサナーに入れるようになり、そのおかげで、ヴィパッサナーに入った時の「特別感」が抜けてきました。割と日常の感覚になりつつあります。<br /> <br /> おそらくは、子供の頃から最初からヴィパッサナー状態の人が一定数いて、その人はこれがヴィパッサナーだとはわからないのではないか? という気も致します。であれば、瞑想の上級者がサマタ瞑想(集中瞑想)を否定してヴィパッサナー(観察瞑想)のことだけを語るのも理解できなくもありませんが、やはり、一般人にとってみれば瞑想といえばサマタ瞑想(集中瞑想)から入ると思うのです。<br /> <br /> そうしてヴィパッサナー(観察)状態にいる時に、そのヴィパッサナー・サマーディ(不二の意識による観察)を維持する努力が減ってくると、その意識をより繊細な部分に向けることができるようになったような気が致します。<br /> <br /> その時に、このチェルドル的な感覚が見えてきたのです。<br /> <br /> 例えば、朝起きた時にオーラが不安定だったり、ちょっとした雑念、例えば過去の記憶だったり性的なイメージだとかが湧き上がってきた時に、このチェルドル的な能力によって観察をすると、まさに上記のごとく、水滴が太陽の光を浴びるかのように想念がバラバラに消失してゆくのがわかるのです。<br /> <br /> 水滴が太陽の光を浴びて蒸発するのは物質界ですとかなり時間がかかりますけど、これは比喩だと思いますし、私の場合、実際に想念がバラバラになるのは十数秒から数十秒かかります。早ければ5秒くらいですが、せいぜいそのくらいです。<br /> <br /> 関連: 想念が20秒かけて消えてゆくのを観察する<br /> <br /> Fri, 17 Apr 2020 00:00:00 +0900 銀河系の形のように部屋の隅々まで広がるオーム https://w-jp.net/2020/1901/ <br /> 銀河系の中心を自分として、銀河系の周囲に星々が広がるかのように自分の周囲にオームが広がってゆくのを感じます。<br /> <br /> 今まで・・・ というか、ふと気がついたのですが、昔は割と眉間への集中のためにオームやマントラを使っておりましたが、次第に集中が不要になってきました。以前にも似たようなことを書いたかと思いますが、最近はその度合いが増えました。<br /> <br /> 最近でもオーラが発散しがちな時は眉間への集中でオーラを凝縮させていたわけですが、今日のことで言いますと、集中しなくてもオーラが割と凝縮されて安定しています。であれば集中が不要であると言えます。<br /> <br /> その状態でオームを瞑想中に座禅を組んだまま心の中で唱えると、今までは眉間が反応していた、ということはあったのですが、周囲に広がる感じはあまりありませんでした。今朝は、自分が銀河の中心にいて部屋全体あるいはそれよりもちょっと広い範囲までオームが響き渡るのを感じました。それは静けさと共に広がるオームです。<br /> <br /> 瞑想中の状態の違いと言えば、目の筋肉の使い方が変わりました。<br /> <br /> 以前は集中する時はどうしても目の筋肉が入ってしまいましたが、今は、目を開けた状態から軽く目を閉じるだけになりました。<br /> <br /> 禅で半眼の瞑想をしたりするようですが、目を緊張させないという観点からは似ている気が致しました。ただ、半眼ですと周囲が見えてしまいますので、それよりは目を閉じた方が私はやりやすいです。半眼の時は強制的に目の緊張が解除されますが、目を閉じると緊張しがちという難点はありますけど、今は割と目に力を入れないようになってきています。<br /> <br /> もともとヨーガの瞑想の基本として、眉間に意識は集中するけれども筋肉の力は入れない、というのは言われています。そうではあるのですが、瞑想を続けるうちにどうしても力が入ってしまうのです。ですからそのような注意がされているわけですけれども、最近は集中がなくてもオーラが安定しておりますので眉間の緊張も取れてきた、ということだと思います。<br /> <br /> ヴィパッサナー状態になるためにはリラックスをして意識の緊張は解く必要があるわけですけれども、ヴィパッサナー状態を維持するためには緊張を解くための逆方向の力とでも言いましょうか、そのような維持する努力が今までは必要だったわけですが、最近は、維持する努力が次第に不要になってきた、ということも言えると思います。<br /> <br /> ふとしたことでヴィパッサナー状態になり、最初は努力が必要でしたが、努力が不要になる、ということかと思います。<br /> <br /> 勘違いして欲しくはないのですが、ヴィパッサナー状態それ自体は努力とは無関係に起こります。意識の深いところで観察が起こります。それはそれとして依然として観察が存在し続けるのですが、観察する認識を妨げる顕在意識を抑えるために顕在意識と同じレベルでの抑える努力が必要なのであって、ヴィパッサナーの観察する意識に対して努力をすることはできません。<br /> <br /> 顕在意識で見ていたものを、より潜在意識に近いところで見るのがヴィパッサナーであると言えます。そして、顕在意識を抑えた時にだけヴィパッサナー状態になる... と言いますか、ヴィパッサナーの観察は顕在意識とは無関係に常に現れ続けますが顕在意識が働いているとヴィパッサナーで識別するのを妨げますので顕在意識を押さえる必要がある、ということです。<br /> <br /> そして、今回の場合、その、潜在意識を抑える力が次第に不要になってきた、ということです。そのことにより、普段の生活でヴィパッサナー状態を維持することが以前より容易になってきたと言えます。不要になってきたと言っても力が抜けてきたということですので程度問題であってゼロにはなっておりませんのでヴィパッサナー状態を維持するためにはまだ弱い努力が必要で、まだ先があると言えます。<br /> <br /> Thu, 16 Apr 2020 00:00:00 +0900 会社員は現代の奴隷 https://w-jp.net/2020/1899/ <br /> 奴隷なのですから、コロナのような事態になって困ったら国なり雇い主が給与を保証すべきなのです。このような時にだけ自由人や資本主義を持ち出して自己責任論を掲げるのは信頼すべき雇い主ではありません。<br /> <br /> 国はそのトップにいるのですから現代の奴隷の生活を保証するべきなのです。<br /> <br /> 奴隷というと悪いイメージがありますが、古来の奴隷はそれほど悪くなく、自由がないが故に収入の心配や基本的な衣食住の心配をしなくても済みましたので、意外に気楽なものでした。<br /> <br /> 例えば中世の北イタリアでミケランジェロが所有していた農園で言いますと、農園の管理者はある程度頑張ってもらっていましたが、小作人は毎日の農作業や畑の見回りをするだけで気楽なものでした。確かに、年によって農作物の出来不出来がありますので領主であるミケランジェロに収める税金が重く感じることはありましたけど、気の利く領主であればその年の税金は軽くするなどしていくらでも対処してあげたものでした。ですから、多少の苦労はあったとしても意外に奴隷や小作人は気楽なものでした。領主によっては作物量をどんどん増やそうとして苦労をかけていたところもありましたが、それは現代も変わらないのではないでしょうか。<br /> <br /> 今の会社員の方がよっぽど奴隷より酷い扱いを受けています。<br /> <br /> まず、資本主義という原則によって奴隷ではなくなってしまいましたから、実際は大して選択肢のない自由という中から自由で選んだという大義名分の元で働かされ、収入については自己責任と言いつつ月給制のサラリーで自由な報酬を得られることなく永遠に「生活が維持できる最低限の収入」で働かされるのです。そういう人が多すぎます。<br /> <br /> 奴隷や小作人であっても結婚して子供を作ることが安心してできましたが、現代の会社員は結婚にも躊躇しますし子供を育てることにも経済的に躊躇します。であれば奴隷の方が待遇が良かったとも言えるのではないでしょうか。現代と中世では子供の死亡率や働き手の数という観点が違いますが、その点を加味しても、奴隷や小作人の方が気楽だったと言えます。<br /> <br /> 本来ならば、古来のやり方であればそのような奴隷・小作人階級に相当する人たちは領主や国王から厚い手当を受けていたものです。特にこのようなコロナ騒ぎにおいてはそうでした。<br /> <br /> 今は自己責任とか資本主義とかが叫ばれすぎて、奴隷の良さが忘れられています。<br /> <br /> ただ、奴隷とは言わないまでも、昭和時代は会社員が賛美されていましたのは、結局のところ、多くの民衆は奴隷になって誰かの下で使ってもらうことで安心したいのだと思います。<br /> <br /> それは、決して悪いことではないと思います。自分の手に余る自由を手に入れたからと言って幸せになれるとは限りません。<br /> <br /> 奴隷というと酷い扱いを受けたというイメージが先行しておりますが、意外に奴隷は丁寧に扱われています。奴隷を買うのもお金がかかりますし、衣食住を維持するのにもお金がかかります。奴隷が役に立つようになるまでには教育のコストもかかります。そうであれば、そのように育てた奴隷を粗末に扱って殺したり逃げ出されたりするよりは丁寧に扱って楽しく暮らして成果を上げてもらった方が良いのではないでしょうか。これは、今の社会にも言えると思います。<br /> <br /> 既に会社員というものが社畜として語られていますので、イメージとしては既に奴隷と同じようになっています。であれば、会社員が奴隷だということに躊躇する必要がない時代になったとも言えます。昭和であれば同じことを言えばとんでもない事だと糾弾されていることでしょう。今でも年寄りには糾弾されそうですが、多くの現役世代は会社員が奴隷だと言われても違和感ないのではないでしょうか。<br /> <br /> 奴隷が悪いと言っているのではなく、既に会社員は奴隷なのですから、国が保証すべきだ、と言っているのです。<br /> <br /> 見た目を取り繕って自由だとか資本主義を掲げていても、結局は、この国は一部の上流階級が大勢の奴隷を従えている社会なのです。<br /> <br /> ある程度の自由を与えた方が楽しく自発的にやってくれるから、という理由で資本主義を掲げているだけで、全てを自由にさせる気はないのです。<br /> <br /> であれば、このような時にお金をばらまいて奴隷の生活を保証するのは国の役目なのではないでしょうか。<br /> <br /> Tue, 14 Apr 2020 00:00:00 +0900 本質と顕在意識の乖離がないことがサティア(正直) https://w-jp.net/2020/1898/ <br /> ヨーガ・スートラという古典の聖典にはサティアについて書かれてあります。<br /> <br /> この言葉は正直を守り通すことを現している「解説ヨーガ・スートラ(佐保田 鶴治著)」<br /> <br /> 2-36) 正直(サティヤ)に徹した者には、行為とその結果がつき従う。「インテグラル・ヨーガ(スワミ・サッチダーナンダ著)」<br /> <br /> 2-36) 誠実の境地に定住すると、そのヨーギーは、彼自身および他者のために、あるはたらきをしないでそのはたらきの果実を手に入れる力を獲得する。「ラージャ・ヨーガ(スワミ・ヴィヴェーカーナンダ著)」<br /> <br /> サティアは割と最初の方に出てきますし、日本でも「嘘をつかないこと」として道徳として語られていますので割と当たり前のこととしてスルーしてしまいがちですが、この当たり前とも思えるところにサマーディへの鍵が眠っているような気も致します。<br /> <br /> これは、道徳として当たり前であっても、実行するのは難しいことです。解説書を見ますと基本的には「嘘をつかないこと。正しく話すこと」として説明されています。しかし、本質は、それよりもずっと瞑想的・サマーディ(二元性の克服)的であると思うのです。<br /> <br /> 以下は神智学系の解釈です。<br /> <br /> 真実であるためには、(触覚できる、客観的な、もしくは言葉という)形態が神性をどの程度まとっているかを正しく見抜く能力が必要である。また、真実をありのままに伝える形態を構築する能力も必要である。(中略)そしてそれは、(このスートラで述べられている)能力につながる。「魂の光(アリス・ベイリー 著)」<br /> <br /> ここに、「神性」とあります。サティア(正直)であるためには、神性を見抜く必要がある、というのです。であれば、サティアは単に「嘘をつかないこと」よりもずっと深いものであると言えます。そして、神性を見抜くことは単に基礎でしかない、と言います。<br /> <br /> そうであれば、神智学系の以下の意訳の方がしっくり来ます。<br /> <br /> 2-36) すべての存在に対して完全に真実になったとき、言葉と行動の効果が直ちに現れる。「魂の光(アリス・ベイリー 著)」<br /> <br /> あるいは、本質と顕在意識の違いがないことであると言っても良いと思います。その方が、単に「嘘をつかないこと」というよりも意味が明確であると思うのです。<br /> <br /> Mon, 13 Apr 2020 00:00:00 +0900 強制・操作・共依存の時代の終わり https://w-jp.net/2020/1897/ <br /> 昭和は強制・操作・共依存の全盛期であり、平成まではその影響が強い時代でした。<br /> <br /> 令和になり、コロナになり、いよいよその影響力が減ってゆきます。<br /> <br /> 強制・操作・共依存ではパワハラ・圧力が当たり前のものになっていました。<br /> <br /> 平成に生まれて令和で社会人になった人は既に上記のような社会に生きていませんから、昭和時代から生き残っている会社に入社してすぐに辞めたとしても咎めるべきではありません。むしろ、昭和時代の会社であるのにあたかも健全であるかのような会社説明会をしている会社は本質と表現が一体になっておりませんのでやがて力を失ってゆくでしょうし、そのような会社を選ぶような方も勉強だったと言えるでしょう。<br /> <br /> まだ政権が大企業重視で日銀が月に1兆円もばら撒いて株を買い支えている状況ではまだまだ旧体制の大企業は存続するでしょうが、いきなり梯子を外される時が来るでしょう。いつまでも実体のない企業は存続できません。<br /> <br /> そして、梯子を外される時とは、旧体制の強制・依存・共依存が不要になった時でもあり、新たな軸が作られた後であれば政権も躊躇なく旧体制の大企業を縮小しようとするでしょう。ということは、新体制の会社が出てくれば旧体制は弱体化するということでもあります。<br /> <br /> 旧体制とは強制・依存・共依存に結びついたものであり、会社のシステムおよび社会のシステムも根強くそのために最適化されておりますから、それが崩れる時はかなりの痛みを伴いますが、このコロナの騒ぎはチャンスとも言えます。<br /> <br /> であれば、このコロナで旧体制が弱ったチャンスを見て新体制が力を伸ばせばいいわけです。<br /> <br /> 旧体制においては「プロセス」が重視されてきましたが、言い換えれば「強制・操作・共依存」のプロセスを重視するということでした。更に言い換えると「パワハラによる無抵抗の強制・無意味なプロセスを強制することで他人を思考停止させ操作する・判定者を曖昧にすることによる共依存」などが相当します。<br /> <br /> 新体制においてはある意味、旧来とは違った「成果主義」になり、プロセスであるところの「強制・操作・共依存」は重視されません。<br /> <br /> 旧来は成果主義が評価と結びついておりましたが新体制においては評価とは結び付かず、単に、プロセスを重視しないというだけのシンボルとしての成果主義になります。<br /> <br /> 生きるだけであれば生活費は割と十分な時代になりますから、贅沢をしたい人は十分に努力して頂くとして、そうでない人は自分の興味に基づいた仕事を選ぶようになります。それが報酬と結びつくかというとそうでもない時代ですが、努力や結果とは別の軸で、ふとしたことで大きな報酬が得られる時代になります。本来は人生とはそういうものですがサラリーマンになるのが当然と思われている時代には失われてしまったことが取り戻されるようになります。サラリーマンでは浮き沈みがない分、自由を奪われ、報酬も一定になります。しかし、本来は、成果や努力と報酬とはある程度の相関関係しかなく、ふとしたことで大きな報酬を得られることがあるのです。そのように、普段の小さな報酬に気にすることなく時々の、成果や努力とは無関係な報酬の方が遥かに大きな時代になります。となれば、日常生活における小さな収入など気にならなくなってゆくのではないでしょうか。<br /> <br /> これらの変化は意識の変化が先に現れ、現実は後追いになります。であれば、今のうちから強制・操作・共依存の関係は断ち切ってゆくべきです。<br /> <br /> それらのループにはまり込んでいて、他人に対して盲目的になって奴隷のように付き従っている人は、小さなところから抵抗を始め、「じぶん」というものを取り戻す必要があります。<br /> <br /> スピリチュアルや宗教では「自分をなくす」ことを盛んに言われていたりしますけど、実際は、「自分が強くなって、自分が広がって、自分がなくなる」という順番ですので、自分が消え去って奴隷のように無抵抗になることがスピリチュアルや宗教ではないのです。<br /> <br /> そして、その新たなる秩序はもしかしたらスピリチュアルや宗教というところから出てこないかもしれません。しかし、言っていることは同じことだったりします。時代の変化に敏感な人であればビジネスであっても時代の要求に応えるものになります。その基本が、昭和の価値観である強制・操作・共依存のループから断ち切ることであり、ようやく令和になって、このコロナがその良いきっかけになると思われるのです。<br /> <br /> Sun, 12 Apr 2020 00:00:00 +0900 コロナの終息後 https://w-jp.net/2020/1896/ <br /> 私が昔、子供の頃に幽体離脱して未来を見たり夢の中で再度確認したことなどを思い出しますと、このコロナ騒ぎは数ある災害のうちの1つ、という分類だったような気が致します。世間はコロナで何やら騒いでいますが、いつの間にか普通の日々に戻っていくような気が致します。東北大震災があっても多くの人は普通の日常に戻りましたし、今回のコロナも当事者が長く問題と関わる一方で、そのほかの人々はまた普通の日常に戻るような気が致します。<br /> <br /> タイムライン上でどのくらいの時間軸だったかは覚えておりませんので、この騒ぎがどのくらい続くのかはわかりません。<br /> <br /> ただ、このコロナ騒ぎによってまた世界が一つ変化し、「祈り」が重視される世界へと変わっていくような気が致します。<br /> 例えばキリスト教の世界だけでなくスピリチュアルやその他の宗教も同様に「祈り」が今まで以上に意識される世界になるように思います。<br /> <br /> 世界はもともと宗教が動かしていて、それはこれからも続くわけですが、日本においては一般大衆が唯物論で上層階級が精神世界に生きるという分離状態になっておりましたが、コロナ後は日本の一般大衆も「祈り」や一般的な宗教全般に対する許容度が増えるように思います。<br /> <br /> 実際のところ、宗教の理解がない人というのは人間として未熟で、精神的に成長すればするほど宗教的な理解が深まるものです。ですから、いわゆる盲目的な信じる宗教としてではなく本来の祈りの部分を理解できる人が増えて自然に宗教が受け入れられるようになってゆくと思います。宗教のことが理解できないと宗教が盲目的な信じるものだと思ってしまいがちですが、宗教とは本来は自己成長のためのものです。精神的な高みに上り詰めた(ということは本来はあり得ないですが比喩として)人がいて、それから学ぶのが宗教であって、信じて盲目になることが宗教ではないのです。まあ、これは色々なところで語られていると思いますが、そういうことだと思います。<br /> <br /> まだ今はその過渡期で宗教というものに対する抵抗が根深いですが、そのうち宗教というものとスピリチュアルというものの垣根が取り払われて行って日本の神道のように自然な姿で数々の宗教というものが語られる土壌がこのコロナの静けさの中で育ってゆくような気が致します。<br /> <br /> とは言いましてもそれが十分に育つにはあと20年くらいはかかりそうな気が致しますが、大震災などで人知を超えた力を目の当たりにすることで自然や精神的なものに目を向ける人が更に増えることと思います。<br /> <br /> と、いうことで、私はそれほどコロナに心配はしておりませんが、その次があります。東海地震と太平洋側への津波、そして関東大震災が続きます。どっちの地震が先だったかははっきりとは覚えていませんが割と連続するように思います。そして東京オリンピックの中止。まあ、このくらいは不幸のうちに入らないかもしれません。その後は、かなり悲惨な世界情勢になります。ただ、日本は震災で疲弊することになり、世界の競争に取り残されるが故にそれが幸いして争いの中心にはなりません。その間に日本が精神性を取り戻すわけですが。<br /> <br /> そして、イスラエルなど中東問題も出てきます。ただ、このあたりは本当に面白くて、本当はタイムラインを全部見てしまおうかとも思ったのですが「先を知ってしまうと人生面白くなくなるよ?」と言われたので一部は楽しみに取っておいているわけですが。映画やドラマだって結論を先に知りたくはないでしょう? 今後の世界情勢は更に劇的に変化しそうです。<br /> <br /> Sat, 11 Apr 2020 00:00:00 +0900 瞑想中に聞こえてきた真言宗っぽいマントラ https://w-jp.net/2020/1895/ <br /> 古代のマントラを唱えていましたところ、それに被せるように違うマントラが頭に響き、それと同時に、そのマントラがもともと掲げてあった真言宗のお寺の映像記憶が蘇ってきました。<br /> <br /> マントラ<br /> 「オーム、アジカリムン(アジカリウム? アジカリアム? アヂマリカム?)」<br /> <br /> どこのお寺だったでしょう? 真言宗っぽいのですが、真言宗の神様のマントラ一覧には空らしきものは見当たりません。私が最近旅行した先で撮ったそれっぽい写真の記録をいくつか確認してみましたが載っていません。<br /> <br /> 古代のマントラを唱えていた時は頭上から下半身まで満遍なく反応していたのですが、こちらのマントラでは主に眉間が反応します。<br /> <br /> 今回は、あぐらで座ってプラナヤーマの呼吸法をしながらクンバカをして古代のマントラを心の中で唱えていたら上記のマントラが聞こえてきたのです。<br /> <br /> 一瞬聞こえただけですので、本当の発音をきちんと確認したいのですけど、これの出所がわからないので困ってしまいます。<br /> <br /> そういえば、足首を骨折して入院中に病院の椅子から窓の外を眺めている時にもマントラが聞こえてきました。<br /> om rama sri rajinisi namaha<br /> om sri bagabante namaha<br /> <br /> まあ、この後、退院した後にアナハタ優勢になったわけですので、今回もマントラが何かの鍵を握っているかもしれないですね。<br /> <br /> ・・・書籍にも載っている気がして、家にある蔵書を色々と調べてみました。すると、真言宗ではなく神道系の書籍に載っていました。<br /> <br /> 「アヂマリカム」「神道の神秘(山蔭 基央 著)」<br /> <br /> この本では祝詞「大神呪(だいじんじゅ)」の最後に載っており、「オーム」はついておりませんでした。私が聞こえたのはオーム付きです。<br /> <br /> この言葉の意味は載っていませんね。神道系の筈なのに私がヴィジョンで見たのは真言宗っぽいお寺でした。まあ、お寺も神社も昔はそんなに区別ありませんでしたので一緒といえば一緒かもしれませんけど。<br /> <br /> ですが、私が聞こえて眉間に反応があるのは最初の方で、本の通りに読んでも微妙な感じです。本のまま師匠なしに真似すると危ないかもしれないので微妙に発音を変えているのかもしれませんし、あるいは、人によって合う合わないがあるのかもしれませんが。<br /> <br /> Fri, 10 Apr 2020 00:00:00 +0900 みんな悟っている https://w-jp.net/2020/1894/ <br /> アナハタ優勢になって以来、万人が悟っているように感じるわけですけれども、悟っている筈なのにおかしな行動するのはどうしてでしょう、というのが最近の謎でした。<br /> <br /> 悟っている筈なのに何かに悩んでいたり、誰かを罵ったり、小さなことでマウンティングして優越感を感じたり... 悟っているのでしょう? なんでそんなことするのでしょう?<br /> <br /> これって、私が見えている錯覚なだけなのかもしれません。そんな疑問を長らく持ってきました。<br /> <br /> 世界というものは「わたし」という鏡を通じて映し出されたものであり、そこにあるのは真実の姿ではないような気もしてきました。<br /> <br /> よく、ヨーガでは3グナと言ってタマスが視界を覆い隠して愚鈍にしている、なんていいますけど、タマスだけでなく活動的性質であるラジャスや純粋な性質を持つサットヴァですら視界を覆い隠して活動的にしたり純粋にしたりする性質を持つのではないかという気がしてきました。<br /> <br /> どうも、最近のヴィパッサナーを続けるうちに、それらの性質が何物なのかという理解があらわになってきたような気が致します。<br /> <br /> 具体的には、以前は単純に「みんな悟っている」と思っていたわけですけれども、その後、ヴィパッサナー状態でスローモーションの認識を続けるうちに、どうやらスローモーションのヴィパッサナー状態においては「みんな悟っている」という感覚がないことに気が付いたのです。<br /> <br /> それよりも、スローモーションのヴィパッサナーに相応しいのは「ありのまま」という感覚です。<br /> <br /> と、いうことは、ですよ。このスローモーションのヴィパッサナー状態はゾクチェンでいうところの「むきだしの心(リクパ)」であるわけで、その状態で「みんな悟っている」という感覚がないということは、「みんな悟っている」という感覚は本来の状態ではなく錯覚であった、という仮定が成り立つわけです。<br /> <br /> 「みんな悟っている」という感覚が本来の状態であればスローモーションのヴィパッサナー状態において同様に「みんな悟っている」という感覚がある筈です。それがないということは、その感覚は上記のように覆い隠している性質による錯覚であったのではないか、と思うわけです。<br /> <br /> 「みんな悟っている」という感覚は、私にとって全ての人がいわゆる清浄な明確な明らかな意識を持っていると知覚されているわけですが、現実はそんな筈はないので、そのように認識しているのであれば錯覚なのではないかと推測できるわけですが、今まではその根拠がいまいち不明確でした。<br /> <br /> しかし、最近のスローモーションのヴィパッサナー状態で観察を続けるうちに、やはり上記のようにそれは錯覚なのではないか、という認識が育ってきました。<br /> <br /> それよりも、上記のように「ありのまま」という言葉の方が今はしっくりきます。<br /> <br /> ゾクチェンの詩に以下のようにあります。<br /> <br /> 多様な現象の本性は、不二だ。<br /> ひとつひとつの現象も、心の作り出す限界の彼方にある。<br /> あるがままのものを定義できる概念などありはしない。<br /> にもかかわらず、顕現はあらわれ続ける。すべてよし。<br /> 一切はすでに成就しているのだから、努力の病を捨て去り、<br /> あるがままで完全な境地の中にとどまること、それが三昧だ。<br /> 「ゾクチェンの教え(ナムカイノルブ 著)」<br /> <br /> であれば、「全て悟っている」という心の作り出す幻影を捨て去り、あるがままの境地である三昧(サマーディ 、ヴィパッサナー)に留まることの方が大事であることがわかります。<br /> <br /> <br /> <br /> Thu, 09 Apr 2020 00:00:00 +0900 ネイティブアメリカンでセージ(薬草を扱う医師)として生きる https://w-jp.net/2020/1893/ <br /> 私はしばらく忘れていましたけど、子供の頃に幽体離脱した時に過去生も見て、セドナ近くでネイティブアメリカンとして生まれ、セージ(薬草を扱う医師)をしていたことを思い出しました。<br /> <br /> 思い出したきっかけは、私が少し前にセドナに旅行した時のスピリチュアルなカウンセラーの一言です。特に過去生を聞いたわけでもないのですが、見てもらったら「あなたは昔、ここに住んでいたことがあります」と言われて、その一言で色々と思い出したのです。<br /> <br /> 記憶は幽体離脱後にもしばらくあったのですが、さすがに何十年も経っておりましたので忘れていました。それが、ふとした一言で思い出したのです。<br /> <br /> 私は数字として年代は大雑把にしかわからないのですが、そのカウンセラーは約270年前と言っておりましたので1720年前後かと思われます。<br /> <br /> これは、私の記憶とも被ります。おそらく1700年ごろに生まれて1720年頃はまだ若くて妻も子供もいて、おそらくは30歳前後で白人が攻めてきて銃で殺されたかと思います。妻や子供も皆殺しで、私は幽体で空から家族が白人に殺されるのを見ておりました。泣き叫んで白人が乗った馬から逃げようとした妻が行く手を阻まれて子供もろとも銃で殺されたりしました。<br /> <br /> ですから、最初にアメリカに旅行や出張で行った時はその時の記憶が出てきてしまい、白人を許す気になれなかった、ということもあります。今は落ち着いてきてそうでもありませんが、どうも、時々、私を殺した白人の顔がチラつくことがあります。<br /> <br /> 当時、私が生まれた頃の村は平和そのものでした。白人が来ることもほとんどありませんでしたが、青年になって家族を持って子供も生まれた頃、白人がぽつぽつとやってくるようになりました。<br /> <br /> 最初から攻めてきたわけではありません。最初は普通にやってきて、ことあるごとにインディアンの文化を馬鹿にして行ったのです。私は薬剤を扱うセージでしたが、白人は唯物論者でしたので、葉っぱなんか飲んで治るわけがなく、化学物質を使わないと治らない、と言ってことあるごとにインディアンの薬を馬鹿にして笑い物にして帰っていったのです。<br /> <br /> あの人たちのやり方ですが、最初は薬を無料で配るのです。そして、そのうち頼るようになったらお金や何かをごっそり持っていくようになるのです。今回の場合、トレードで財産を奪うよりは銃で丸ごと奪った方が効率的だという判断になって村ごと虐殺されたようです。<br /> <br /> まあ、それでも虐殺までは10年かもっと時間の猶予があったと思います。さすがに奥地までは一気に攻略できないでしょうし、攻めるとすれば一気に来るでしょうし、攻め始めたら警戒されるので調査の段階では奥地までそれとなく来ていたのでしょう。<br /> <br /> 薬を無料で配られた時、私はその村のセージ(医者)でしたので、古来から伝わる薬剤の代わりにその化学の薬を代わりに村人に配るようになりました。実際、よく効いたわけです。<br /> <br /> 私はよく効くと思ったのですが、特に村の老人、お婆さんやお爺さんのような年代に言わせると、昔ながらの薬の方がいい、と言っていました。私はセージ(医者)でしたので、そういうものかな、と思って、それで効果があると言っているのだから... ということで希望に沿った薬を調合していたように思います。<br /> <br /> 今、医者と言うと診断をして薬を調合して... というあたりになりますが、当時のネイティブアメリカンの医者は、もう1つありました。「祈り」です。<br /> <br /> まあ、「祈り」とは言っても随分と騒がしいもので、踊りや歌のようなマントラのような不思議なメロディを何時間も口ずさんだり太鼓のような楽器を使ったりして踊りながら患者を励ます、というものでした。<br /> <br /> 日本で想像する「祈り」というとキリスト教徒が教会でするような静かな祈りですが、この場合の祈りは念を口に乗せて口ずさんで音に出し、患者の生命エネルギーを高揚させて魂というかオーラのレベルで治療するというものでした。<br /> <br /> メロディはさすがにほとんど覚えておりませんが、雰囲気だけは覚えております。随分と騒がしくて、村中に響き渡るものでした。それを、患者の具合が良くなるまで続けるのです。手を上下に上げ下げしたり半腰になって患者のベッドの周囲を歩き回ったりして、面倒を見るこちらも汗だくになるくらい大変なことでした。<br /> <br /> 時には半日、時には1日中面倒を見て、その間、患者が苦しんでいたらそれを助けるために踊りや祈りの歌を頑張り、精神的に助けていたわけです。薬だけでも治ることもありましたが、辛い時に近くにいて心の助けになるための職業だったわけです。<br /> <br /> それで、治ったらその家族から報酬として、物々交換のお金相当のような対価をもらったのです。<br /> <br /> 踊りといえば、祭りもとても楽しいものでした。足腰がものすごく強いので、半腰になって足や腰を物凄く細かくとても長い間激しく動かし続ける踊りを村人みんなでキャンプファイヤーの周囲で行うのです。<br /> <br /> 特に子供の頃は白人も来ていなくて、とても平和で、毎日が幸せだったように思います。特に祭りの日は最高でした。<br /> <br /> そうして成人になり、セージ(医者)を職業として選び、村の医者から調合法を学び、独り立ちして、妻をめとり、子供が生まれて、そして、白人が攻めてきて村人丸ごと虐殺されたわけです。<br /> <br /> アメリカにいる白人は、おそらくは私のような記憶を持った人に長らく恨まれているのではないかと思います。私は特別に白人を恨んでいるわけではありませんが、時折、その時の記憶が出てくることがあります。<br /> <br /> そういえば、村の長老は古来から伝わる秘密を代々受け継いでおりました。<br /> <br /> 私はそれほどの年齢でもありませんでしたし、それを引き継ぐ家系に生まれた訳でもありませんでしたのでその秘密の詳細は聞いたことはなかったのですが、噂は聞いてことがあります。それは星々を渡り歩く知識だったり未来の予言だったりしたと思います。<br /> <br /> 私は恐らく、殺される運命をあらかじめ知っていながら、それで十分かな、ということで転生を決めたような気が致します。 スピリットは時代を行き来できて時間を超えられるわけですけど、その時のスピリットの視点として前の人生の終わりの頃になるのが割と多いように思います。時空を超えることもできましたけど、選択肢としては時代に沿って経験することの方が多いような気が致します。<br /> <br /> 確か、その前の人生ではヨーロッパあたりで数学者か科学者か、頭をよく使う職業を選んでいたかと思います。それ故に、頭ばかり重視する人生を続けてきたためにバランスを取り戻したいと思い、自然と共に生きるネイティブアメリカンとしての人生を選んだようです。それを選んだ時代は既にアメリカに白人が詰めかけておりましたが、そのタイミングで転生したとしてもギリギリ、ネイティブアメリカンとしての人生を生きられて自然と共に生きる生き方を学ぶことができるので、殺されることを承知で転生したようです。<br /> <br /> ですから、ある意味、殺されることも受け入れてから転生を決めたわけですが、そうして決めて受け入れて転生したとしても、実際に殺されるとかなり後味悪いもので、後に引くことになります。殺されることは、さすがに理屈ですんなりと割り切れるものではありません。<br /> <br /> まあ、それはあくまでも過去のお話で、今は基本的にそんなこと気にしないで生きているわけですが、ふとしたことでネイティブアメリカンとしての人生を思い出すことがあるわけです。<br /> <br /> 家は茅葺っぽい感じの円錐でしたが、襲撃の日、私は家の中で薬か何かの準備をしていました。<br /> <br /> ふと、周囲から騒がしい音がして悲鳴が聞こえ始め、何事かと思って家の外に出たら、村人が逃げ回っていて馬に乗った白人に次々に殺されていました。<br /> <br /> 白人たちはネイティブアメリカンを馬鹿にした顔つきと喜びの雄叫びをあげながら銃を突きつけ、抵抗する者もあったが次々に銃で殺されていき、私の周囲で地獄絵図のような虐殺が行われていました。それを茫然と私は眺めていました。<br /> <br /> 抵抗することもできましたが、あっという間に殺されている武力の差や馬による機動力の差があり、何より、この日をあらかじめ予見していたために今日が最後の日だと悟りました。<br /> <br /> 他の村人には雄叫びをあげながら追いかけていた白人が、ふと、私の目の前にとぼとぼとゆっくり馬に乗って歩いてきました。逃げもしない私を観察しにきたようだった。その白人の顔はそれなりに覚えていますが、逃げもしない奇妙なものを見る見つき... という感覚が30%ほど入った無表情で私を観察していました。逃げれば雄叫びをあげて追いかけるだろうが、逃げもしないのでどうしたものか、という感じが伝わってきました。<br /> <br /> 逃げを誘っているのはよくわかりましたので、私はこれが最後の時だと悟り、真っ直ぐに立ったまましばらくその白人の顔を見つめ、やがて、目を瞑りました。<br /> <br /> そうすると、数十秒しただろうか。急に銃声が目の前で鳴り響き、私の頭、恐らくは眉間か顔に銃が1発貫通し、そのまま倒れてお亡くなりになったのです。一撃でした。何時も経たないうちにすぐに魂というか幽体が体から抜け出し、私の体を上から見下ろし、私を殺した白人の姿も同様に見下ろしていました。<br /> <br /> 私の家族が殺され、村人も虐殺され、私を殺した白人は全てを殺した後、馬に乗って、同じような無表情で立ち尽くしていました。<br /> <br /> その後、村のあった場所に白人が入居してきました。それは勝利の人たちであり、その家族もある種の笑いというかネイティブアメリカンに勝利したという、人を踏みつける心を持った人々だった。アメリカはこうして作られていったのでしょう。その白人たちが、今、こうしてアメリカを支配しているのです。野蛮な白人。それがその時の印象でした。<br /> <br /> 楽園のようだった村は消えて無くなり、白人の街だけが残りました。それが、私の住んでいた村で起こったことでした。<br /> <br /> ・・・まあ、こういうのは、単なる夢かもしれませんし、子供の頃にどこかで見た映画を思い出しているだけかもしれません。本当かどうかはわかりません。しかし、あのリアリティはなかなか映画を見ただけで再現できるものだとは思わないのです。<br /> <br /> Wed, 08 Apr 2020 00:00:00 +0900 ピエタ像に宿った魂 https://w-jp.net/2020/1892/ <br /> ミケランジェロがピエタ像を作った時、もちろん肉体としては人間として生まれているわけですが、背後にいるスピリットの意図としては、そういう像を作ってその中でしばらく休憩したい、という気持ちがあったようです。<br /> <br /> 作成後、実際にスピリットが像に宿りました。しかし、あまりにも周囲が騒がしいのでゆっくりと休むことができず、結果としてはそこから出ることにしたようです。ですが、一部はまだ残ることを選んで、未だに魂がピエタ像に宿っているようです。<br /> <br /> 本当かどうかはわかりませんがミケランジェロのグループソウルに織田信長もいて、争いで疲れてバチカンで余生を過ごそうと思ったのに教皇が金の亡者で失望し、ミケランジェロにしても教皇の度重なる無茶な要求に疲れており、スピリットは時空を超えておりますので時系列としては前後するのですが、ミケランジェロに像を作らせて、ミケランジェロ自身の余生... と言いますか、時系列で並べると死後にスピリットが像に入る、というようにも見えるのですがスピリットは時空を超えておりますのでミケランジェロが像を作りながらそのスピリットがインスピレーションを与えて像を作らせてその中に死後の、と言いますか、時空を超えて同時代に存在している... という言い方も本当は違ってスピリットは時空を超えて普遍的に存在しているのですが、そのスピリットがミケランジェロのピエタ像の制作に関わって、その中に入って休もうとしたようなのです。<br /> <br /> 実際に入ったのは、色々とあって疲れておりましたので、休みたかった、ということのようです。ゆっくり休むための場所として、彫刻の中であればゆっくりと休めるのではないか、と思ったようです。<br /> <br /> 実際、ある程度は休めたものの、それだけで悟りを得られるほどの安らぎは得られなかったようです。数十年、あるいはもっと短かったでしょうか。一部は数百年のような気も致しますが、少しずつそこから抜け出て、一部はグループソウルに合流したり、あるいは別の転生をしているようです。<br /> <br /> どうやら、まだ一部のスピリットはピエタ像に残って眠っており、それはある種の謎というか鍵を握っているとのことです。いま、ピエタ像はバチカンにあるようですが、そのミケランジェロのピエタ像に約500年の間眠り続けているスピリットが、今後、動く可能性があるとのことです。<br /> <br /> 動くとするならば、ミケランジェロや織田信長、あるいはジャンヌダルクなどの系統を継いだ魂として何か使命を帯びる可能性がありそうです。<br /> <br /> Tue, 07 Apr 2020 00:00:00 +0900 コロナ後、地のエネルギーの淀みが減りました https://w-jp.net/2020/1891/ <br /> 以前は割と地のエネルギーに気持ちの悪いものを感じておりまして、天のエネルギーを主に取り入れようとしていたわけですが、コロナ後は地のエネルギーの淀みが減ったような気が致します。<br /> <br /> いわゆるグラウンディングというものですが背筋に沿って天と地をエネルギーの柱で結ぶわけですが、地の方に伸ばすと気持ち悪いものが入ってきますので下側にはあまり伸ばさないようにしておりました。<br /> <br /> しかし、ここ最近は下に伸ばしても平気です。さすがに愛に満ちているという感じではまだないようですが、おそらくは、地球というか私の住んでいる地域に溜まっている悪いものが随分と減ったような気が致します。<br /> <br /> これはたまたまタイミングが合っただけかもしれませんが、おそらくはコロナによって経済活動が滞ることによって人々の活動が抑えられ、それによって、悪しき想念の放出も減っているのではないかと思います。<br /> <br /> テレビやネットではコロナの悪い恐ろしいニュースが溢れていますけど、実際のところ現時点ではそれほど深刻な事態には日本の場合はまだなっておらず、その前段階の嵐の前の静けさなだけかもしれませんけど、それでも、波動的に見ると随分とこの地域の土壌は浄化されたように思います。<br /> <br /> おそらくは、テレビやネットの悪い情報もネガティブ要因としてあるのですけれども、通常の経済活動などが原因によるネガティブの方が量としては遥かに大きいのではないでしょうか。テレビやネットのネガティブ情報が減ったとしても、もともと通常運転で垂れ流していた不満やネガティブや怒りの想念が激減したために総量としてはネガティブが減ってきているのではないかと思います。<br /> <br /> まず通勤によるストレスが激減しておりますし、勤務時間にしても適正な管理ができるようになった職場も多くあるように思います。もちろん職を失った方も大勢いらっしゃいますが、それはあくまでも経済活動のお話で、経済的には悲惨な不況がやってきていることは事実だとは思いますが、その結果として人々の活動が停止してゆっくりになり、それ故に土地に撒き散らすストレスも減っているのではないかと思います。<br /> <br /> もともと地球がオーバーユース(使い過ぎ)で悲鳴を上げておりましたので、しばらくは休憩のための病気とも解釈できるのではないでしょうか。<br /> <br /> 人の命は大切で、人命は助けるべきだとは思いますが、ここのところの経済活動により、例えばアマゾンでは毎日、東京都ほどの土地の森林が失われていると言います。それが経済活動がストップしたことで緩やかになるとすれば、そのアマゾンの生態系に住んでいた生物を救ったことにもなりますから、全てはバランスであると言えます。アマゾンはおそらく、直感がいうところによれば、ある程度であれば熱帯地方であるので雨季などに森林は復活するとのことで、そこまで心配はいらないのですが、生物の方は可哀想であると言えます。まあ、アマゾンは復活する力があるものの、さすがに毎日、東京都ほどの森林が失われると取り戻せなくなるのでこのあたりで休憩を入れたのは良かったようです。まあ、これは夢の中で言われたことですので本当のことかどうかわかりませんけどね。<br /> <br /> 少なくとも、私の住んでいる日本の都市圏においては、土地のエネルギーが少しずつ回復してきていると言えます。<br /> <br /> 少し前から首都圏イヤシロチ計画なんて言われていますけど、今回のコロナは計画には含まれていなかったようですが、それでも、コロナによって随分と土地が浄化されたことによりイヤシロチ計画が随分と進んでいると言います。これまた夢や瞑想で聞いたことですので本当のことかどうかわかりませんけどね。<br /> <br /> Mon, 06 Apr 2020 00:00:00 +0900 エネルギーの柱が下方まで通じる https://w-jp.net/2020/1890/ <br /> 先日の続きです。<br /> <br /> そうして古代のマントラを唱えていると胸のあたりにまで感触が出てきたわけですが、そのまま続けていましたところ、お腹のマニプラのあたりも同様になってきました。そうするうちに会陰のムーラダーラまで伸びて行きました。頭から会陰まで、濃紺はありますがエネルギーの柱が繋がったような気が致します。<br /> <br /> いわゆるチャクラ、後頭部の松果体あるいは脳下垂体の近くや胸、お腹が特に濃い部分です。<br /> <br /> マントラの後半部分で頭から下半身まで繋がる感じでしたのでそこだけ繰り返し唱えたりしました。<br /> <br /> そうこうするうちにマントラの全体を唱えたりしましたところ、頭の上の方にまで少し感触が出てきました。<br /> <br /> このマントラが載っていた書物によりますと、マントラの前半部分は高次の意識を表していて、後半部分がそれよりは低次の意識に影響を与えると言います。少し前まで前半部分と後半部分の区別をあまりしていなかったのですが、ここ数日は後半だけ唱えてみたりしてその違いを感じ取りました。<br /> <br /> 同書では、音節数によって繋がるものが違うと言います。同マントラは現代では6音節と4音節ですが、古代の唱え方ではオームはAum(アウム)と二音節になり、前半部分は7音節、後半部分は6音節になると言います。<br /> <br /> そして、それこそが意識の変貌を司る鍵だと言うのです。<br /> <br /> ”蓮華の宝石”の目覚め、活発化は、一部の者によって次の様に考えられている。すなわち、第六感の目覚めは、マントラムの第二句(オーム・タット・サット・オーム)を正確に唱えることによって、その人の肉体および心に聖なるものの悟りと霊的知覚、霊的意義を受けさせてくれる。これが第三の目の一つの開眼であり、第三の目を開くと、その人の五官感覚のほかに霊的な感覚が加えられるのである。しかし、もし、第七感を目覚めさすと、つまり、蓮華の中の宝石を見出すと、感覚の世界を超えて上昇し、すべての存在の絶対的根源と一体となる。これが最も望ましいことなのである。「ヨガの真義(M.ドーリル著)」<br /> <br /> これは、最初に読んだときはそんなものかな、と思っていたのですが、ここ数日の感覚の変化を見ますと、なかなかこの記述は本物のような気がしてまいりました。<br /> <br /> Sun, 05 Apr 2020 00:00:00 +0900 古代のマントラによる瞑想で胸に変化 https://w-jp.net/2020/1889/ <br /> 古代のオームの唱え方でマントラを唱えていましたところ、胸のあたりに感触が出てきました。<br /> <br /> もともとクンダリーニがアナハタ優勢になって以降は胸のあたりにエネルギーは満ちていたのですが、今日は、その中心に核というか空間というか部屋というか、心臓の形をした空間がぽっかりと浮かんできた感じが致します。<br /> <br /> 特に胸のアナハタを意識していたわけではなくて、基本は眉間や後頭部の方の松果体の周辺を意識してマントラを唱えつつ瞑想していたわけですが、この古代の唱え方をする際はいつも頭の中の何かがバリバリと割れて破片に別れるような感じをしているわけですが、それが今日は胸のあたりで起こりました。<br /> <br /> マントラを唱える前は特にそこが強張っているだとかそういう感触はなくて、瞑想を始めるとまるで地震の時に地面が揺れるかのようにもともと止まっていたものが液状化現象のようにグラグラと動き出して割れ目が現れるのですが、今日は、それが胸のあたりで起きました。<br /> <br /> このマントラで以前はアジナ優勢に変化したわけですが、その後はそれほどこのマントラを重視していなくて頭頂のあたりが開いた際もこのマントラに頼りきっていたわけでもないのですが、どうやら、効果を見るとこのマントラの効果が地味に効いていたような感じも致します。<br /> <br /> 古代のチベットのマントラは前半と後半があって、どうやらアジナとかに効くのは前半部分のような感じが致します。後半部分はアナハタに効く感じですね。個人的な感触による主観ですけどね。<br /> <br /> その後、その感覚は変化して、割れ目というよりは流動的な塊が頭の中と胸の中にできた感じです。<br /> <br /> 更に様子を見てゆきます。<br /> <br /> Sat, 04 Apr 2020 00:00:00 +0900 神道による簡単な審神者の方法 https://w-jp.net/2020/1888/ <br /> 審神者(さにわ)とは霊感によって得られた知見が正しいかどうか判断することで、古来は古神道などで神託が正しい神によるものなのかそれとも邪霊や獣のいたずらなのか判断することです。<br /> <br /> 水を使った方法とか流派ごとに色々あるようですが、以下のような簡単な方法があるようです。<br /> <br /> 「汝と今の私に、何の関わりがあるのか」と問いかける。「神道の神秘(山蔭 基央 著)」<br /> <br /> これは山陰神道によるもので、普通の人でも簡単に見極めができるいい方法のような気が致します。<br /> <br /> 同書には更に以下のようにあります。<br /> <br /> 初期の雑念は他愛もないものだが、修行が進んでくると、まことしやかに立派な言葉が心に湧いてくる。実はそれも雑念であることがほとんどである。思いつきが、神の掲示や霊示の形で湧いてくるから始末が悪い。だから、霊示・掲示を受けたと思われる時には、それを審判(審神・さにわと言う)しなければならない。「神道の神秘(山蔭 基央 著)」<br /> <br /> 水を使った方法は遥か昔に見聞きしたものではっきりとは覚えていないのですが、波の立たない状態の水を桶のようなものに用意して、その表面を眺める、みたいなものだったような気も致します。<br /> <br /> きっと他にも色々と方法があるのではと思いますが、古神道にはそれほど詳しくありませんのでこのくらいです。<br /> <br /> スピリチュアルや魔女系ですと審神者ってあまりしない気が致しますね。魔女系の場合はちゃんと視界(というか霊視)で相手(というか霊)を見つつ話をしたり体を抜け出て幽体離脱で見極めますのでかなり正答率が高いと思いますし。<br /> <br /> Fri, 03 Apr 2020 00:00:00 +0900 料理の痛みと食べる感覚 https://w-jp.net/2020/1887/ <br /> 先日の続きです。植物を傷つけるとハートが痛むようになってしばらく経ちますが、生ものの料理をするのもなかなか厳しくなってきています。<br /> <br /> 例えば、レタスやキャベツ。何日か置いて野菜の意識がなくなったものならばいいのですが、新鮮であれば新鮮であるほど葉っぱをちぎったり包丁で切った時に「痛い! 痛い!」と野菜がその度に何度も叫び、それが私のハートに突き刺さって苦しいです。最初は大声で叫んで、そのうち失神するかのように痺れた感覚が伝わってきます。レタスよりキャベツの方が痛がる感じが致します。<br /> <br /> ですから、何日か冷蔵庫に入れておいて大人しくなってからキャベツやレタスを食べることにしています。栄養的には新鮮な方がいいのかもしれないですけどね。<br /> <br /> お肉に関しては既に死後しばらく経っているので、その点、料理の時に「痛い」と叫んで来ることはないように思います。しかし、先日のようにお肉や卵など動物性の食材は「恨み」がこもっている時があるような感じがいたします。ですので、なるべく避けております。<br /> <br /> ですから、料理をする際には新鮮な食材を避け、食べる際には動物性のものを避ける、という感じがいい気がしております。<br /> <br /> アユールベーダによると牛乳やチーズなどはあまり良くないと言うお話も聞きますけど、栄養バランス的には私はチーズをよく取っています。チーズは「痛い!」と叫んだりしませんからね。美味しく頂けます。<br /> <br /> 野菜にしても、ものによって叫んだり叫ばなかったり。お芋系は大人しい感じが致します。お米も問題ないですね。小麦も平気な感じです。<br /> <br /> 自然野菜の信奉者やベジタリアンの人は野菜の選び方で新鮮なものを選んだりしますけど、私は上記のような理由で新鮮な野菜はものによっては苦手です。食べる方は平気ですけど。<br /> <br /> 新鮮な野菜で誰かに料理を作ってもらって自分は食べるだけ、と言うのがいいのかもしれません。<br /> <br /> 料理で自然食を推す人がいますけど、これは物質とオーラを別に考えるべきで、物質的には自然食は色々と混ざっていてバイ菌が増殖しやすいので食材の管理や調理に気を付けなくてはならず、実は物質的には工場で作られた食材の方が安全で栄養価が高かったりします。<br /> <br /> しかし、実際のところ食べ物で取り入れているのはオーラの方が重要で、食べ物に備わっているオーラの量で見たら自然食の方が遥かに多いです。ですので、食材としては危険であっても自然食のオーラの方が好ましいことが多いです。<br /> <br /> 自然食の方が人間の手が一つづつ作っていますので、作っている人間のオーラが食材に乗ります。冷凍食品であってもフライパン等で温めるだけで美味しさが違うのは料理人のオーラが冷凍食品の中に宿るからです。<br /> <br /> 安全と栄養価を考えるならば工場の食品ですが、オーラ的には手作り料理になるわけです。<br /> <br /> 人間は意外に丈夫ですので、新鮮な自然食品が入手できて調理にも手間をかけられるのであればそうすれば良くて、ですが、料理をする際に上記のように食材が痛がりますのでそれにも本当は気をつけるべきだと思います。<br /> <br /> 肉食はかわいそうだからベジタリアンだと言う人もいて、基本的には同意しますけどベジタリアンにしても食材が痛がるのですからある程度は一緒だと私なんかは思います。それは程度問題でもあって、どちらにせよ人間は何かを食べないと生きられないのですから食べるならなるべく植物の方がいいと思います。<br /> <br /> これを人間が生きる上で必ず犯す罪のようなものだと解釈したこともありますし、それがいわゆる「原罪」のようなものだと言うような解釈もできるのかもしれませんけど、植物の中には人間に食べられても気にしないものも多い感じなので、まあ、いいのかな、と最近は一応解釈しております。この辺りはまだ謎が多いですけどね。結局は食物連鎖の理屈は正しいのかなと思ったりもしますが。今後、まだまだ様子見のところです。<br /> <br /> Thu, 02 Apr 2020 00:00:00 +0900 聖なる器としての体 https://w-jp.net/2020/1885/ <br /> 先日の続きです。<br /> <br /> 体も同じこと。体を浄化してゆくとそれは聖なる器となり、神... というかスピリット、自らの高次の自分、自らのグループソウル、言い方は多様だが同じことで、そのようなものを受け入れる器になることができる。<br /> <br /> 私の内なるガイドによりますと精神修行の基本はここにあって、高次のスピリットを受け入れることができる器になるまでが第一段階とも言えるようです。<br /> <br /> その次がスピリットとしての人生を開花させる段階であるようです。<br /> <br /> いわば、器としての自分を育てるまでが低次の自分であり、それはヨーガなどの階梯に合わせるとサマーディ段階まで。サマーディの後にアートマンとの合一とか呼ばれている段階がありますが、これは言い方を変えると神が器に宿る段階とのことです。<br /> <br /> ヨーガの定義には以下のようにあります。<br /> <br /> 1.3) 心の作用が死滅されてしまった時には、純粋観察者である真我は自己本来の状態にとどまることになる。「ヨーガ根本経典(佐保田 鶴治著)」<br /> <br /> この後半部分は多様に解釈できますが、神智学系の書物には以下のようにあります。<br /> <br /> 内なる神の認識に目覚める。(中略)魂との合一。「魂の光(アリス・ベイリー 著)」<br /> <br /> これは、文字通りそういうことなのかなと思います。<br /> <br /> 魂は最初からあるが覆い隠されていて、この段階になることで合一... と言いますか魂の意識、内なる神の認識に目覚めると言うことかなと思います。<br /> <br /> まず最初に自らの器を作り、それから神の認識に目覚めるのだと解釈できます。<br /> <br /> Tue, 31 Mar 2020 00:00:00 +0900 コロナとその続き https://w-jp.net/2020/1884/ <br /> 先日、あるお方がコロナでお亡くなりになる予感がしたわけですけれども、今日まで、きっとそれは気のせいだろうと思っておりました。しかし、NYの状況を見て、東京もNYのようになる前夜のような気がしてきました。<br /> <br /> そんな時、本日3月29日に雪が降ったのは神様のお恵みなのだろうと思います。本来は花見で大勢が外に出てコロナ大拡散になるところを雪で家に留めることで拡散を防止したのです。これを見ると、神様の意思としては日本人をそれほど殺したくはないのだな、と解釈致しました。そうでなければこのタイミングで花見の週末に雪を降らせたりはしないでしょう。<br /> <br /> ただ、最近の瞑想ではそれとは別に、もっと厳しいメッセージが降りてきています。<br /> <br /> ベーシックインカムは前回にも言及したわけですけれども、10万円とは行かなくても最低7万円くらいがボーダーラインだ、と言うメッセージを受けました。言葉と言うよりはインスピレーションに近いものです。家賃と基本的なインフラ料金がベーシックインカムの基準のようです。食事は働いて稼いで食べなさい、との意図のようです。もちろん贅沢品も自分で稼ぎなさい、と言うことだと思います。<br /> <br /> どうやら、神様の意図としては、人は殺したくはないけれども神の意図にそぐわないような世界は是正していくつもりで、コロナは他の神が起こしたことであるけれどもこの機会を利用するとのこと。だからコロナで殺したくはないがベーシックインカムなど神の意思が実現することを祈っている、とのことでした。<br /> <br /> 神は自身が直接この世界に手を出せなくて、人間の自由意志が尊重されている世界です。ですから何にせよ人間の同意が必要なのですが、神の意図を実現するためには何でもするよ、と、毅然とした態度で意思を示されました。<br /> <br /> コロナは他の神が起こしたので巻き込まれてしまい、収束を待ちますが、こちらの神の意図としては本来は地震と津波が得意技で、上記に示した月7万円のベーシックインカムのような神の意図がある程度実現されるまでは容赦しない、と言うことです。<br /> <br /> ですから、コロナが収束しても第二弾、その次、があるかもしれないとのことです。コロナでは人を殺したくなようなのですが、地震や津波ならばそれは神の選択の結果であるのでオーケーみたいです。今はまだ国民自身による目覚めを待っている状況で、地震と津波の決断を下す前に他の神が巻き散らかしたコロナがやってきたのでそれは意図していない部分のようです。もちろん上の方では繋がっていますが、日本に影響を与える神々はまだ選択をしていないようです。<br /> <br /> 日銀が3月に1兆3000億円も日経ETFを購入して上場企業およびそのオーナーにお金をばら撒きましたが、国民は飢えております。これは神の意思にそぐわないとのことです。具体的に言うならば、ソフトバンクのオーナーやユニクロのオーナーの懐を肥やすことは神の意思にそぐわない、とのことです。そうして勘違いをさせるから投資で失敗するのだ、と言うのもメッセージのうちの1つで、日銀が株価操作をしなければ勘違いを防いで身の丈にあった投資をしていてこんな火傷もしなかった筈だ、とのことです。日銀の政策が上場企業を勘違いさせて、それ故にこの状況で破綻の危機に直面しているようです。それを更に日銀が買い支えるのは神の意思にそぐわないようです。と言うか、そんなことに神は関心がないようです。<br /> <br /> 国民の10人の1人に10万円配っても1兆2000億円ほどで、日銀が3月にばらまいた金額とほぼ一致します。<br /> 神の意思としては共産主義にもしたくないようで、共産主義のような全体主義はよろしくないがある程度の生活の基盤は必要だとのことです。<br /> <br /> 現在の為政者が間違いに気付くまで新たな災害、それは人の命をなるべく奪わない方向でやりたいと思っていますが、次の事態を用意しているとのことでした。そして、現在の経済の仕組みでやりたい放題はさせない... と言いますか、勘違いをすれば必ず自滅するとのメッセージも頂きました。特に神が直接手を下さなくても、背伸びをして勘違いをすれば勝手に転ぶので放っておきなさい、とのことです。<br /> <br /> ・・・・これは私個人との見解とは基本的には別物ですが、同意するところも多いです。<br /> <br /> こう言うメッセージってどんな存在が言っているのかすぐにはわからない面もありますので、鵜呑みにすると危険です。古来は古神道などの「審神者(さにわ)」で見極めたものですけど、このメッセージは、まあ、一部は真実であると思うものの、全体的にその通りかどうかはまだわかりません。一部は私の意見が混ざっている部分もありそうな感じです。<br /> <br /> ただ、以前から私は東京オリンピックはないと思っており、その理由がコロナではなくて関東大震災の地震によるものでしたのでコロナが起きたときは予想が外れたと思っておりました。しかし、中止ではなく延期になったことでまたもや予想が当たる機会が増えました。おそらく関東大震災が起きたら早々に東京オリンピック中止を宣言するだろうと思います。あっけないくらいすぐに中止になると思います。この最後の部分は夢や幽体離脱で見たような気もしますが未来は変わりますので絶対にそうなるとは限らないのです。<br /> <br /> Mon, 30 Mar 2020 00:00:00 +0900 場をパワースポットに育てる https://w-jp.net/2020/1883/ <br /> 最近はパワースポット巡りが流行っているわけですけれども、それは精神的なものへの入り口として機能してはいますが、その先に、場を育てるというステージがあるわけです。<br /> <br /> パワースポット巡りというのは消費の文化で、場所に溜まっているエネルギーを分けていただくということです。そこに竜神や神様が座っていらっしゃって、そのエネルギーを感じたり場所の清浄な空気を感じにいくことです。<br /> <br /> パワースポット巡りは古くからは巡礼であり、祈りの気持ちを込めて行うものですが、最近は観光やスポーツ的になっているような気も致します。観光やスポーツで巡礼をする人が増えるほど神様や竜神が機嫌を損ね、そこに神様や竜神がいなくなってしまうとパワースポットではなくなってしまいます。<br /> <br /> 最初の最初は観光やスポーツ的でも構わない、と神様はおっしゃいます。しかし、来る人の割合が問題とのことです。少しの人が観光やスポーツ的で巡礼をしたところで、大多数が祈りの気持ちを持っていれば問題ない、ということです。そのくらい、神様は大目に見て下さいます。そのくらいの細かなことは神様は気にしません。ただ、割合が重要です。あまりにも観光やスポーツ的な人が増えると神様は不機嫌になります。不機嫌が過ぎると、そこから離れてしまいます。<br /> <br /> そもそも、最初に神様や竜神様はいらっしゃらなくて、最初は祈りだけがありました。<br /> <br /> その祈りが場を清浄にし、その範囲が広がることで神様や竜神様がいらっしゃることのできる土台が出来上がりました。そうして出来上がった場に、神様や竜神様が降りてきていただけたわけです。<br /> <br /> その土台である祈りをないがしろにしてパワースポット巡りと称してエネルギーを奪うような気持ち・・・ 本人はそうは思ってらっしゃらないかもしれませんが、祈りなくしてご利益だけを求めるような気持ちで参拝する人が増えれば増えるほど場は乱れてゆきます。そうするうちに清浄な空気はなくなり、神様や竜神様は何処かへ行ってしまわれるのです。<br /> <br /> このようなことはどうやら日本の各地で起こっているようで、登山禁止の巡礼の山にスポーツの登山で登る人が増えたことにより神様が怒って何処かへ行ってしまわれた、というような噂も耳にします。きっと本当のことなのでしょう。<br /> <br /> 逆に、自分の家やなんてことのない神社や仏閣であっても祈りの気持ちを込めて場を清浄にすれば神様は降りてきていただけるのです。<br /> <br /> それは建物の素晴らしさとはあまり関係がなく、清潔さというものは必要ですが、基本的には場の雰囲気、清浄な空気というものが神様が降りてきてくださる前提条件になります。<br /> <br /> 自分の家であるとか、精神的な鍛錬の会場は祈りを込めた人々が清浄にするにつれてどんどんとエネルギーが高まってゆきます。そうして神様が降りてきて頂けるようになるわけです。場を育てて、エネルギースポットに変えるわけです。<br /> <br /> 古来からの有名なパワースポットは現代のパワースポット巡りで想念の「ゴミ捨て場」になっているところが多くあります。そこで祈りを込める人が少なくなったからです。一方で、ゴミを捨てる人より祈る人の方が多い場所、それはエネルギースポットに変わってゆきます。<br /> <br /> 基本は自宅で、自宅がパワースポットになり、精神的な鍛錬な会場もパワースポットになります。<br /> <br /> それが基本で、パワースポットのエネルギーの高さを求めて彷徨うことは、上記のように現代はパワースポットが想念のゴミ捨て場になっているがためにあまりお勧めできない、と私の内なるガイドは示唆します。それでも、道を求めてパワースポットを巡ることは有益なのではないかと私は思ったりもするのですが、そこは、好きにすればいい、というのが内なるガイドの指示です。あまりパワースポットに行き過ぎずに、たまに導かれてゆくのは良いということなのかな、と理解しております。<br /> <br /> Sun, 29 Mar 2020 00:00:00 +0900 サマーディの不二の意識とシッディの謎解きの続き https://w-jp.net/2020/1882/ <br /> ヨーガでシッディと呼ばれるいわゆる超能力は悟りに至る副産物でありそれ自体を追い求めるものではないと良く言われます。ヨーガスートラでもそのようなシッディを求める態度を諫めております。<br /> <br /> 単語 シッディ は通常は力という意味だが、それは実際には進歩したヨーギの達成を意味 する。ヨガの力を習得することが目標ではないということを理解するのは生徒 にとって重要です。実際にそうではなく、そうすべきではありません。 それらは神に至るための努力の副産物です。 力だけを求めている人は自我に縛ら れ、最終的にこの浄化の欠如のために苦しんでいます。初心者の学生にとってはヨガの力を持つことはなかなか魅力がありますが、これは、力によって堕落 することがあるという理解に置き換えられます。最終的にそこで得られた力は、誠実なヨギにしてみたら単なる気晴らしや誘惑に過ぎないのです。「MEDITATION and Mantras(Swami Vishnu-Devananda著)」<br /> <br /> それはそうだなと思うのですが、実際、サマーディやヴィパッサナーとシッディとの関係が今ひとつ腑に落ちないでいました。<br /> <br /> 基本的にはサマーディから現れるとなっています。ゾクチェンによる理解でも同様になっていました。<br /> <br /> 今回は、そのゾクチェンの続きです。<br /> <br /> 前回では基本的な理解としてサマーディと二元論を超えてサマーディに至ることが確認できました。理論的にはそれでスッキリしました。<br /> <br /> 同書を更に読み込んでいくと、現在の自分の状態との対比がよく分かります。仏教でもヨーガでも悟りやサマーディが語られていますが、ゾクチェンほど悟りに至る境地を詳しく表現しているものを見たことがありません。<br /> <br /> ゾクチェンでは、基本的なサマーディ・ヴィパッサナー状態に達した後に何をすることで悟りに近づくのか明確に記してあります。<br /> <br /> 前回にも引用しましたが、まず、基本的な自分のサマーディ(三昧)の境地を日常生活のすべての行動に溶け合わせていくことが必要だと説明されています。<br /> <br /> 「セワ(sre-ba)」は、チベット語で「まぜる」ことを意味している。自分の三昧(サマーディ)の境地を日常生活のすべての行動に溶け合わせていくのである。「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」<br /> <br /> その後、前回に引用したようなチェルドル、シャルドル、ランドルと言う3つの能力が育ってくると言います。3つの能力を読むと色々と書いてありますけど、要はサマーディが深まってくる、と言うお話だと思います。<br /> <br /> そして、明確に以下のように記してあります。<br /> <br /> 二元論の幻影は終わり、主体と客体の再統合をつうじて、修行者には五つの神通(ンゴンシェ mngon-shes)、つまり五つの「高度の知覚」があらわれてくる。「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」<br /> <br /> ここで現れるシッディは仏教やヨーガとほぼ共通のもので、千里眼などの能力です。似たような説明はヨーガや仏教にもありましたが、ゾクチェンはことのほか分かり易いです。<br /> <br /> この経験が悟りに向かって深まっていくにしたがって、いくつかの能力があらわれてくる。だが、そういった能力がそもそも何なのかを理解するには、いかにして二元論の幻影が、諸感覚の主体ー客体の二極化によって維持されているのかを理解する必要がある。(中略)まず、視覚の場合を例にして考えてみよう。視覚は、視覚的な形態として知覚されるものと相互依存的に生じてくるし、また逆に、知覚される視覚的な形は、視覚能力と共に生じてくる。それと同じように聴覚と音はともに生じてくる。(中略)意識と存在は相互依存的に生じる。(中略)主体は潜在的に対象をふくみ、逆に対象は主体をふくみながら、二元論の幻影が自己を維持しているということ、そしてついには、意識をふくむあらゆる感覚が一体となって、知覚主体と切り離された外的世界の幻影をうみだしているようすが理解できる。「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」<br /> <br /> このお話、それ自体はヨーガや仏教でも語られています。しかし、シッディとは割と切り離された文脈で説明されているように思います。ゾクチェンではこの説明がシッディとサマーディのお話と有機的に繋がっているところが単なる理屈だけでなく実践者が多くいて生きている流派であることを感じさせるのです。<br /> <br /> まずサマーディ(ヴィパッサナー)の基本的な状態で二元論の克服の入り口に至り、次に日常生活とサマーディを統合することで「観察(ヴィパッサナー)、サマーディの別の面」に至り、観察(ヴィパッサナー)・サマーディによって「解放する(二元論の克服)」(チェルドル、シャルドル、ランドルの3つの能力)ことを深め、二元論の幻想が解かれる過程でシッディが現れ、そして悟りに至るわけです。<br /> <br /> ヨーガでは二元論の幻影の克服のお話が割と早い段階で論されますし割と有名なお話のようにも思いますが、それは本来はサマーディ後のお話であるわけです。<br /> <br /> この順番であるならばサマーディや二元論の克服なしにシッディだけ求めても無駄な努力に終わることが明らかです。可能であるとすればそれは修行ではなく魔術や秘術の類ですから私はあまり興味がありません。一方で、せっかく二元論を克服しかけたのにシッディに囚われると悟りへの道を踏み外すと言うのも良く分かります。<br /> <br /> ヨーガスートラなどではすごく簡単に、サマーディを達成すればシッディが得られる、としか書いておらず、仏教でも似たようなものだったのでなかなかに謎めいていたのですが、ゾクチェンはしっかりと書いてくれています。<br /> <br /> であれば、私は日常生活におけるヴィパッサナー(サマーディ)をこのまま続ければ良いことが分かります。<br /> <br /> Sat, 28 Mar 2020 00:00:00 +0900 経済活動とエネルギー https://w-jp.net/2020/1881/ <br /> 昨今はデフレ商売が大人気で、安い単価を回転数上げて販売することで利益を出すという経営手法が盛り上がっているようです。例えば床屋が従来は散髪2,000円のところを短い時間にして1,000円にして回転数を上げたり、レストランやバーを立食にすることで回転率を上げようとしています。<br /> <br /> 経済のことは経済学者が好きに論じればいいとは思いますが、私の興味があるのはエネルギー的な部分です。<br /> <br /> もともと美容師が1時間をかけて1人散髪して客が来なければ暇をしていた状況と、客が途絶えずに1時間に3人も4人も扱う状況ではエネルギー的には前者の方が消費が少ないです。<br /> <br /> 長い時間をかければ体力は使うにしても、体に宿っているエネルギーは平準するまで高い方から低い方に流れますから、1人散髪するとエネルギーがザーっと片方から片方に流れて平準します。1時間をかけて1人散髪するのであれば1時間に1回ですみますが、1時間に3人も4人も散髪する場合、エネルギーの移動が1時間に3回も4回も起こるわけです。<br /> <br /> ましてや、そのような安いお店に来るお客は、言ってはなんですが客層も悪いですのでエネルギーも割合に低いことが多く、美容師のエネルギーはどんどんと吸い取られてゆきます。<br /> <br /> 美容師のエネルギーが下がっている時にそのような散髪屋に行くと、お客の方がエネルギーが高いということにもなりますから美容師にエネルギーを吸い取られます。デフレ商売のお店に行くことは、安いように見えて実はエネルギーも提供していることになりますから、いわば、エネルギーをお金の変わりに支払っていることにもなります。<br /> <br /> 散髪屋だけでなく、コンビニや雑貨店にしても同じことです。マッサージ屋などは人に触れますので同様のエネルギー移動が起きやすいです。人に触れなくても接客して近くに行くだけでエネルギーの移動は短時間であっても起こりますし、散髪やマッサージのように体の部分が接触する場合はかなりのエネルギー的な平準が起こります。<br /> <br /> エネルギーで分かりにくければ、時間と考えても良いです。長時間労働でいくら稼いでも、時間というのは万人に共通で増やすことができませんから、お金よりも実は時間の方が価値があるのです。その、最も価値の高い時間を提供してわずかながらのお金を手に入れるということが価値ある行動でしょうか。<br /> <br /> 経済の理屈だけ言って回転数を上げると儲かる、というのは、従業員を犠牲にして成り立っているわけです。<br /> <br /> であれば、デフレ商売というのは従業員を犠牲にして成り立つ商売である、という視点がエネルギー的には成り立ちます。お金的にはそれなりの報酬が与えられているのかもしれませんが、それはバランスというもので、エネルギーよりも報酬の方が良いというのであればそうすればいいと思います。しかし、デフレ商売で客単価が低ければ賃金もそれなりなことが多いのではないでしょうか。<br /> <br /> デフレ商売がそういう構造であれば、デフレ商売的には時間をなるべく長く働いてもらった方が会社は儲かりますし、従業員は賃金はぼちぼち増えますが、従業員のエネルギーは吸い取られて行って枯渇します。<br /> <br /> デフレ商売のお店の従業員が疲れた表情をしていることが多い気が私はするのですが、きっとこのようなことであろうと思っています。<br /> <br /> 従業員のエネルギーを吸い取るのであれば、それは次々に「安い」「若者」を注ぎ込む必要がありますので、人口が増えている時代の商売方法、あるいは、ある程度蓄えのある中年を使い捨てにする商法であるように思えます。少なくともエネルギー的な観点からはそう思えます。<br /> <br /> 私は経済学者ではありませんが、エネルギー的な観点から良いと思われる商売方法の基本は以下です。<br /> <br /> ・お金の仕組みはそのまま。<br /> ・お金の位置付けを、今の「権利」から「歯止め」に変える。<br /> ・お金を、贅沢に歯止めをかけるためのものにする。<br /> ・お金を稼ぎたい人の自由は今まで通り守る。<br /> ・贅沢をしたい人の権利は守る。<br /> ・基本的な生活は安価にする。<br /> <br /> これだけで、労働時間は短くなり、おそらくは6時間労働で済むのではないでしょうか。<br /> <br /> 更には、理想的には以下のような仕組みも取り入れたらいいかと思います。<br /> <br /> ・年間百万円くらいはベーシックインカムにて与える。<br /> ・週の決まった時間にボランティア無償活動で地域の共同作業を行う。<br /> ・現在の公共事業をある程度はこのボランティア無償活動に置き換える。<br /> <br /> このくらいまで行ければ、生活がガラリと変わると思います。<br /> <br /> 今、日本で資本主義に対してどうこう言っている人の中には人々の価値観に訴えかけている人が多すぎると思います。例えば、お金を稼ぐことに対する価値観や、お金を稼がないことに対する価値観、自由な時間を費やすことに対する価値観をベースにしていてはいつまで経ってもシステムの同意を得られることはないと思います。<br /> <br /> 例えば、苦しい生活の感情に訴えてあまり働かなくても良い世界の価値観を訴えたとしても、それは働くことで裕福になってきた価値観を持つ人の心には響かないわけです。<br /> <br /> システムとしては、価値観に訴えるものではなく、多くの選択肢を生み出すことができるものである必要があります。<br /> <br /> であれば、現在のように挑戦をしたい人はいくらでも挑戦できて、お金を稼いで贅沢をしたい人はいくらでも贅沢ができるが、お金とは別のところで幸せを追求したい人に対しても選択肢を与える世界こそが豊かな世界であると思うのです。<br /> <br /> そのために、例えば上記のようなちょっとした価値観の転換をするだけでこの世界は随分と幸せで豊かになると思います。<br /> <br /> エネルギー的な転換は、現在ヒエラルキーの頂点に立って搾取している人にとっては苦痛かもしれませんが、どちらにせよ、死んでしまえば次の転生がどのような経済状況かなんてわからないのですから全員がそれなりに幸せに暮らせる人生にしておくことこそが回り回って自分の幸せに繋がると思います。以前にも書きましたが、あまりにも恨まれている場合は次の転生で裕福な家庭の赤ちゃんとして魂が入った後にですら無理やりひっぺがしてインドとかのスラム街の赤ちゃんの中に魂を放り込まれる、なんてこともありますから、あまりヒエラルキーの頂点で恨まれるような人生を歩まない方がいいと思います。あの世には時間とかあんま関係ないですから瞑想状態あるいは幽体離脱というかスピリットがその気になれば時空を超えてすぐにでも来世のこういう操作ができてしまいますから、まあ、恨みを買うようなことはしない方がいいと思います。<br /> <br /> まずは、現在の支配者層による意識の転換が必要ですね。国民にお金を渡したら働いてくれなくなってしまうのではないかという心配は実のところあまり必要なくて、年間百万円くらいでしたら欲望を満たすことができませんので欲望のある人は働き続ける筈ですし、家庭があって子供でもいたら絶対足りませんし、あくまでも社会のベースとしてのベーシックインカムであるわけです。その分、無償のボランティア活動をしなくてはならない社会に遷移することで実際の労働人口は増えるかもしれません。今現在に働いていない人もボランティアとして駆り出されるわけですからね。そのように、実体経済とは違うところで緩い労働をしてもらっても十分現在の世の中は回ると思います。それほど物が足りない時代でもありませんし、ある程度の労働さえすれば世の中は普通に回ります。意外に平気なものです。慣性で長時間労働していただけで、意外にそんな働く必要がなかったのだと気付きさえすればいいだけだとも言えます。<br /> <br /> 激しく働きたい人の権利さえ侵害しなければ十分に自由を満喫できる世界へと移行できる筈です。<br /> <br /> コロナなんていいきっかけで、なし崩し的にベーシックインカムの月10万円支給の世界へと突入してしまえば時代は一気に変わります。<br /> <br /> 日本よりアメリカが先にやってしまうかもしれないですね。<br /> <br /> Fri, 27 Mar 2020 00:00:00 +0900 ミケランジェロと織田信長のグループソウル https://w-jp.net/2020/1880/ <br /> 1年ほど前に、割と当たる系のスピリチュアル・カウンセラーに見てもらったときにふと過去生のことを聞いたらそのうちの1人がミケランジェロだと言われました。<br /> <br /> 実際のところ、私が子供の頃に幽体離脱した時にいくつかの過去生を見ましたがミケランジェロには気付いておりませんでしたので、これが本当のことかどうかはわかりません。基本的にスピリチュアルなカウンセラーはコンサルと一緒で、自分がまだ意識していない分野を「指摘」してもらうか、あるいは「確かめ」に使うものだと思っておりますので、この場合は前者になります。ですから、スピリチュアル・カウンセラーに言われたからと言ってホイホイ軽く喜んで過去生がミケランジェロだとは思ったりしません。そういう信じる行為ってあまり意味ありませんから。<br /> <br /> ちなみに、今の私は芸術とかやりません。興味はありますがセンスがないと自分では思っております。絵は下手ですし音楽のセンスもイマイチな感じです。<br /> <br /> 過去生、と言われてはいますが、これはグループソウルの中にそのような人生があった、と読み替えて理解しました。魂(幽体)がそのまま転生する場合と、一旦グループソウル(類魂)と一体になってから分霊を作って転生する場合がありますので。<br /> <br /> そのように言われた時、私のグループソウルの中にミケランジェロがいるかどうか自分では把握しておりませんでしたので、ふとした時に探ってみました。<br /> <br /> すると、自分のグループソウルかどうかはわかりませんが、なんとなくその時のミケランジェロの気持ちのようなものがトレースできてきました。<br /> <br /> まあ、確かに、性格とか気難しいところか、私のグループソウルに似ている部分がなくもないです。ですが、そのような性質はどこにでも見られるといえば見られますからね。それだけでグループソウルだとは判断できないです。<br /> <br /> 記憶を辿ると、いくつか出てはきます。<br /> <br /> 例えば、貴族でしたので荘園を持っていて、連絡してから行くと綺麗にしてあるのに何処かに寄った帰りにふと立ち寄ると荒れていて管理人を叱り付けたこととか。それを何度か繰り返したら管理人も小作人もしっかり作業するようになったとか。どうやら急にアポイントなしで行くのが重要だったようです。<br /> <br /> それとか、有名なピエタ像を作った時は未来を透視しながら彫ったこととか。ミケランジェロ的には、大理石とその未来の姿をトレースしつつ良いデザインになるべく彫っていったようです。未来を見るのは確認のためで、基本的には頭の中で映像をイメージしつつ構図を決めていました。<br /> <br /> そのような作成スタイルでしたから、弟子の希望があったとしても同様に頭の中で映像をイメージできないような弟子希望に対してはなす術がなかったようです。頭の中でイメージしろ、と言っても弟子の中にはそもそもそれができない人も大勢いた... と言いますかその大多数がそうだったわけで、頭の中でイメージして構図を決めるミケランジェロのスタイルについていけなかったようです。<br /> <br /> サン・ピエトロ大聖堂の広場か何かを作った時も頭の中でイメージを先に作ってスケッチしたので理想的な設計にするのも容易だったようです。芸術家は頭の中でのイメージが先に必要のようですね。<br /> <br /> 女性関係はあまり噂がなかったミケランジェロでしたが、基本的に芸術が興味の本筋でしたのでそれに集中していた感じです。後年に付き合いのあった未亡人に関しては、気高さと礼儀正しさそして美しさに惹かれたようです。<br /> <br /> まあ、記憶を辿れることとグループソウルかどうかは別のお話で、私のグループソウルとの関係は結局は今のところ分からずじまいです。なんとなくそんな気もしないでもないですけど、そのくらいです。<br /> <br /> 昔バチカンに旅行した時にピエタ像は見ましたし、ダビデ像も見て素晴らしいと思いましたが自分のグループソウルの記憶はその時は出てこなかったような気が致します。<br /> <br /> まあ、必要があれば思い出すでしょうし、特に思い出さなくても問題ないお話でもあります。<br /> <br /> <br /> ・・・その数日後、ふと思い出しました。というか、伝わってきました。<br /> <br /> ミケランジェロがピエタ像を制作している時、同人が生まれる前に人生を計画して... と言いますか、グループソウルというかツインソウルに近い魂の片割れが手助け... というかほとんど自分自身の魂というかスピリットというか霊人ではありますので手助けというか高次の自分、いわゆるハイヤーセルフと言いますか、ミドルセルフと言いますか、そのような高い視点を持ったスピリットが共同作業していたようです。<br /> <br /> ミケランジェロがピエタ像を制作する際、スピリットがあらかじめ青写真を描いていました。それは理想的な女性とイエスの姿だったわけですが、その青写真をミケランジェロに伝え、その上で、大理石のどの部分を使えば理想的な模様になるのかスピリットが細かく確認しつつ、スピリットも未来と現在を行き来して... と言いますか未来を確認しつつインスピレーションをミケランジェロに送っていたようです。ですから、ミケランジェロが未来を見れたというよりはこの場合はスピリットの方が未来を見てミケランジェロに伝えていた、という構造のようです。<br /> <br /> スピリットはかなりピエタ像に入れ込んでおり、かなり苦労して構図を作って細かく確認してミケランジェロに何度も何度も伝えて... ということをしていたようです。エネルギー的にはかなりのものが必要であり、どうやら、ピエタ像それ自身に自分が入りたい、という意識も多少はあったようです。ですからいまピエタ像を見てもまるで生きているかのような気がするのは、実際、そこにスピリットが入り込んでいるからだと思います。この、入り込んでいるスピリットはミケランジェロのグループソウルのスピリットと、それに類した、共感をしたスピリットのようです。ただ、この試みはある程度は成功しましたが、あまりにも多くの人に見られたが故に他の人のスピリットも入り込んだり、あるいは、意識が他の人に多少抜かれたりして、スピリットにとってはあまり快適な結果になっていないようです。<br /> <br /> ですからピエタ像は特別で、その後もスピリットは手助けをしましたが、スピリットにも興味の方向はありまして、手助けをするのは相当なエネルギーを必要としますので次のピエタ像ですとかスピリットがそれほど興味の持てない作品の場合はそこそこの手助けあるいはミケランジェロ自身が頑張って作る、というような場合もあったようです。<br /> <br /> ミケランジェロと織田信長は生存期間が被っておりますがどちらもグループソウルの一部だとすると、ミケランジェロが教皇に対して時には反抗的な態度を取っていたことも理解できます。時代的には後にはなりますがもしかしたら... 確証はないですけど織田信長本人は本能寺の変を逃れてバチカンに行ったような気もしておりまして、その時に教皇が意外に金で動く人ということを知って、ある意味、幻滅もしつつ本性を知っていた可能性もあります。上の位をもらうためにはかなりの財産を寄付する必要があったようで、織田信長が持ち込んだ財産をどんどん教皇が寄付という形で奪ってゆきました。そうは言っても教会ですから純粋に神を求めている人もいて、そのようなところで織田信長は感化されたようです。今まで織田信長は、自分の命令には必ず従うという人をあごで使ってきたわけですが、人望という面で、もっと学ぶものがあるという認識が生まれた頃に寿命を迎えたようです。織田信長の教皇に対する評価は「金の亡者」で、寿命で死んだ時に「財産のほとんどを取られた」と言って憤っていたように思います。そんなグループソウルが、魂の世界では時空を超えておりますからグループソウルに合流して、ミケランジェロの魂に教皇に対する印象を与えていたようです。だからミケランジェロは教皇に対してどこか反抗的な部分があった。<br /> <br /> 一般的な輪廻転生の考え方ですと生存期間が被っているだけであり得ないことになってしまいますが、あの世は時空を超えておりますので、もしやり直しのレッスンが必要であれば同じ時代に遡って再度生まれることも普通にありますし、時代を遡ることもあります。ですので、この場合は順番としては織田信長が先で、時代は遡りますがミケランジェロが後だったような感じも致します。<br /> <br /> ....まあ、このあたり、確証はないです。もっと検証が必要なところです。<br /> <br /> 順番としてはその前後にヴェネチアあたりで大司教もしていたような気も致しますので、何気に色々とキリスト教とは関わりが深い感じです。今はキリスト教徒ではないですが。<br /> <br /> Thu, 26 Mar 2020 00:00:00 +0900 オーラの塊を使って体の各所にエネルギーを通す https://w-jp.net/2020/1879/ <br /> 最近は瞑想でオーラを凝縮させているわけですけれども、その凝縮したオーラの使い方として、最初は頭の後ろから頭頂にかけてのエネルギーのルートや体の前面を通るルートを開拓しておりました。<br /> <br /> その後、色々と試してみて、例えばお腹にまで下ろしたエネルギーを使って足の方まで通してみたところ、足の感覚が高まりました。あるいは、頭のエネルギーを肩の方に動かして手先まで往復させたりすると、手の感覚が敏感になったりしました。<br /> <br /> これは、以前からヨーガ等で手先や足先の感覚を高める方法として似たようなものはありましたが、それはただ単に意識を通すというもので、今回の場合はあらかじめ頭で凝縮したオーラを体の各所に移動させてエネルギーのルート、いわゆるナディを開拓するという点が異なります。<br /> <br /> 最近はヴィパッサナー状態で視界や体の感覚を観察したりしているわけですけれども、それも、今回のようにエネルギーをあらかじめ通してあげるとよく観察できるようになる気が致します。<br /> <br /> 観察の粒度も細かくなったような気も致します。<br /> <br /> 例えば、食事をする時に箸の動きが細かく把握できるようになったりしました。<br /> <br /> そうして瞑想をここ何日か続けておりましたところ、手足だけでなく、背骨の、いわゆるスシュムナのルートにも凝縮したエネルギーを通してみました。<br /> <br /> すると、どうしたことでしょう。背中の、ちょうど心臓の後ろくらいのところにエネルギーを通そうとしたら激しい抵抗があって、一気にトラウマが吹き出してきたのです。子供の頃からあったトラウマも含めて出てきましたので急に目を開けて立ち上がってしまったくらいのトラウマが出てきました。<br /> <br /> こんなところに眠っていたのですね。<br /> <br /> 確かここは、中学校時代に金網を通り抜けようとしたら背骨をひっかけてしまって背骨を傷つけた箇所だったと思います。そうした損傷と、おそらくはエネルギー的な淀みができてしまっていて過去のトラウマがそこに溜まりやすくなっていたのだと思います。<br /> <br /> そういえば、以前は肩や胸の横にトラウマが眠っていたことに気づいたこともありますが、この背骨の部分に眠っていたトラウマはそれなりに巨大でした。とは言いましても過去に退治してきたものと比べるとそれほどでもないのですが、久々に中くらいのものを発見した感じです。<br /> <br /> それがあったのは1日だけで、次の日にエネルギーを通しましたら多少のしこりがあるくらいでエネルギーは通りました。<br /> <br /> おそらくはスシュムナ、あるいはその周囲を通ってエネルギーがお腹から頭頂まで達し、頭頂のエネルギーの状態がまた少し変わった気が致します。<br /> <br /> 頭で凝縮したエネルギーは一度凝縮してしまえばある程度の凝縮をその後も保つようで、このようなことにも使えることがわかりました。<br /> <br /> それとは別に、<br /> 今までは両肩に刺さっていた見えないものを引き抜くとかエネルギーを吸い取る意識体とか取り憑いてきた意識体とかに対して引き抜くような対処をしていたわけですけれども、この凝縮したエネルギーがあれば体の中から意識体を外に押し出すこともできそうな感じです。内側から防御膜を作るような感じでしょうか。これはまだ様子見段階ではありますが、使えそうな気がしております。<br /> <br /> Wed, 25 Mar 2020 00:00:00 +0900 秘術を用いてクンダリーニを開花させない方が良い https://w-jp.net/2020/1877/ <br /> クンダリーニとは自然に動き出すものですから、秘術を用いて無理に動かそうとしない方が良いと思います。そうして無理に動かすからクンダリーニ症候群になったりもするわけです。<br /> <br /> 私も以前はクンダリーニのことが謎で色々と調べもしましたし、簡単なものは少し試したりもしました。しかし、あまり深入りしないでいて良かったと思っております。<br /> <br /> ヨガにしても私がやっているのはごくごく初歩の呼吸法(プラナヤーマ)と簡単なアサナ(体操)くらいですし、いわゆる上級の呼吸法(プラナヤーマ)はあまり興味がありませんし、そもそも私は鼻の通りが悪い上に最近はクンバカが苦手ですので上級なんてとても無理です。クンバカの持続時間には計算式があって、特にクンダリーニ覚醒後はエネルギーが高まりましたので「器」が足りなくなってクンバカがすぐに苦しくなってしまいます。30秒持てば良い方です。クンダリーニ覚醒前は1分数十秒はいけたと思います。もともとクンバカ苦手でしたけど、クンダリーニ覚醒後は全然長く保てません。<br /> <br /> 私がやっていることはせいぜいそんな簡単なプラナヤーマ(呼吸法)とアサナ(体操)くらいです。ですから、秘術というほどでもありませんが、それでも十分だと言えます。<br /> <br /> それは、そもそもクンダリーニの覚醒には秘術は必要ない、ということが理解できたからです。<br /> <br /> クンダリーニの覚醒方法には2種類あると思います。<br /> <br /> ・秘術を用いる。ヨーガや魔術などスピリチュアルな手法。<br /> ・浄化する<br /> <br /> 前者の手法は、浄化せずともクンダリーニ覚醒しますが、制御が難しくなってクンダリーニ症候群になったりします。<br /> 後者であれば自然にクンダリーニが活性化します。<br /> <br /> そもそも、順番として2つの潮流があると思います。<br /> <br /> ・クンダリーニを活性化させてから浄化する。<br /> ・浄化してから(自然に)クンダリーニ活性化させる。<br /> <br /> ヨーガや魔術、スピリチュアルで盛んに行われているのは前者の方で、まずクンダリーニを活性化しようと秘術を用います。<br /> <br /> しかし、私の理解したところによりますと、浄化をすればクンダリーニは自然に動き出すのです。<br /> <br /> クンダリーニという特別なエネルギーがあるわけではなく、体の中のエネルギーが高まる時に感じるものを俗にクンダリーニと呼んでいるだけのことです。<br /> <br /> ですから、最初からエネルギーが高まっている人はクンダリーニ経験が起こらないわけです。<br /> <br /> 思いますに、エネルギーが元々低い人や浄化されていない人がクンダリーニ経験をするように感じられます。最初からかなりの浄化された状態でいる人はクンダリーニ経験が起こらない、というのが私の理解です。私の周囲にも、いつまで経ってもクンダリーニ経験起こらないと言っている人がいて、実のところは既に子供の頃からかなり浄化済の人でしたのでエネルギーが高まっており、いわゆるクンダリーニ経験後とさほど変わらないエネルギーをお持ちのお方もいらっしゃいます。ですから、クンダリーニ経験にこだわる必要は全くないのだと思います。<br /> <br /> 男の場合は概してエネルギーが低いのでクンダリーニ経験を経ることが多いように思います。一方、女性は最初からエネルギーが高まっている場合が多いような気が致します。<br /> <br /> クンダリーニ経験のことが話題になるのは男性のことが多いというのも、このあたりの事情があるのかもしれません。ヨーガはそもそも男性のものであったわけで、それはこのような事情で男性がエネルギーを高めるための手法として生み出されてきた、という歴史的背景もあるのではないかと推測致します。そう考えるのが筋が通っています。<br /> <br /> 最近ではヨーガのグルであっても浄化を重視している人も増えてきたようですが、インドでは秘術を重視してクンダリーニ活性化させている方が大勢いらっしゃる感じが致します。私がインドのリシケシで通ったスクールのグルもそんな感じでしたね。<br /> <br /> 男のヨーガのグルがどこか浄化されていない部分を残しながらもクンダリーニが活性化して能力(シッディ)が現れたりしている状況を見て、私はどこか疑問に思っていました。それが、最近はふに落ちるようになりました。上記のように、秘法を用いてクンダリーニを活性化することはできますので、それ故に、ヨーガのグルが浄化し切ることなしにクンダリーニを動かすことができるのだと思います。<br /> <br /> それを良しとするのか、本流ではないと見なすのか、それは各人の判断によると思います。私の場合は、浄化こそが重要と思いますので秘法を用いてクンダリーニ活性化することにあまり興味はありません。<br /> <br /> 秘術を用いてクンダリーニを開花させない方が良いというのは私の意見であって、秘術を用いたいのならば自分の好きにすれば良いと思っています。ですから、他人にどうこうすべきというつもりはありませんが、私は、クンダリーニより浄化が先だと思っておりますし、浄化せずにクンダリーニ覚醒させるから取り返しのつかない問題が起きるのだと思っています。<br /> <br /> インドのとあるグルの物語でも浄化を重視して、秘法に頼ってはいませんでした。これが正しい姿なのだと思います。<br /> <br /> 基本はそうなのですが、クンダリーニを動かす秘術は避けるべきであっても、エネルギーのルート、ヨーガでいうナディの浄化の行法は有用だと思います。ですから、ヨーガの全てが悪いわけではなく、魔術の全てが悪いわけでもなく、スピリチュアルの全てが悪いわけではありません。まあ、当然ではありますが。<br /> <br /> ナディの浄化に相当する行法は行うとすれば、瞑想もそうですし、呼吸法のプラナヤーマや体操のアサナにしても浄化が目的であれば十分に役に立ちます。危ないのはクンダリーニを無理に動かそうとすぐ秘術であり、例えばヨーガのバストリカ呼吸法や一部の魔術の手法になります。<br /> <br /> まあ、そうは言いましても、止めてもやる人はやるでしょうし、別にそれを止める義理もないですし、もしかしたらうまく行くかもしれませんし、そういうのは個人が好きにすればいいのだと思っています。<br /> <br /> Mon, 23 Mar 2020 00:00:00 +0900 インドのとあるグルの物語 https://w-jp.net/2020/1876/ <br /> 私のグループソウル(類魂)の中にかつてインドでヨーガのグルをしていた魂がいます。私の一部でもあるので私の過去生と言えなくもないですが今の私が受け継いでいるのはせいぜい5%から多くて10%くらいかなという気も致します。<br /> <br /> その人生の前はヨーロッパの方でいわゆる魔女をしており、当時のヨーロッパでは魔女狩りなどにもあったりして苦労した魂もあったのですが、分岐としては、魔女狩りに合う前に分霊になって分かれて行った方の魂がインドでグルをしたようです。その後、一部の分霊はヨーロッパで魔女狩りにあったりナチスに囚われて透視させられたりもしておりましたが、グルをしていた方の魂は割と平穏に暮らしたようです。<br /> <br /> それまではヨーガのグルなどをしたことはなく、初めての人生でしたがモチベーションとしては2つあったと思います。1つは、より上位のハイヤーセルフから人類の成長のためにグルをしなさいという掲示がまずあって、それを魂が受けて、たまにはヨーガのグルも面白そうだ、という顕在意識で判断してグルをする転生を選んだようです。このように、上位からの指示がインスピレーションとしてあって、それを元に顕在意識で判断するというのは生きている人間においてもありますが、魂においてもそれは同様のようです。<br /> <br /> そうしてヨーガのグルをすることにしたのですが、それまではヨーガのグルをしておりませんでしたので、基本はヨーロッパの方で生活していた魔女の考え方が基本にありました。よって、ヨーガのグルとは言っても伝統的なハタヨガのように体術・ポーズ(アサナ)は重視せず、瞑想とチャンティングの詠唱で浄化することを基本にしていたようです。<br /> <br /> 場所はインドの中北部、バナラシからそれほど遠くはなかったような気もしますし、ビハール州だった可能性もありますけど転生する場所を探すときに空中から見た鳥瞰図ですと、おそらくはバナラシから南西方向に数百キロ、ナーグプルまでは行かない範囲のどこかだったような気も致します。<br /> <br /> 既にグルがいるところは伝統的なハタヨガを重視している傾向がありますので避け、既に廃れている寺院がある町を選びました。その寺院を拠点にしようとしたのです。あらかじめタイムラインを先まで確認してその寺院を自分の寿命が尽きるまで使えることを確認し、近くのそこそこ裕福な家庭を選んで転生しました。<br /> <br /> 最初からそのような目的がありましたので、子供の頃からその寺院には足しげく通い、掃除をしたり瞑想したりして自分が管理している場所であるという印象を周囲の人にアピールしました。もちろん誰のものでもなくて廃墟の寺院ですけど、段々と、そのような共通認識が出来上がっていったのです。<br /> <br /> そうして成人になる日に、家長に対して「出家をしたいのです」と伝え、家長もおそらくそうだろうとは思っていたのでしょう。ちょっと答えに詰まりましたが、すぐに「わかった。良いよ」と答えてくれて、出家しました。<br /> <br /> いきなり寺院のグルになることは流れとして適切ではなかったため、近くのアシュラムに修行に行くことにしました。たしか、著名なヨーギの元で2年修行し、その後、また違う著名なヨーギの元で3年前後修行し、スワミとしての伝授を受けてからもといた町に帰ってきたように思います。<br /> <br /> もっと長く修行しても良かったのですが、あまり長く留守にするともともと目をつけていた寺院を取られてしまいかねないのと、元々、人類の成長のために多くの弟子を育てることが目的でありましたので、ある程度の区切りをつけてから生まれ育った町に帰ってきました。<br /> <br /> 実のところ、生まれた時からリモートビューイング(千里眼)や未来予見の能力は持っておりましたが、特にそれを他人に言うことはなく、修行して身に付けた、ということに致しました。だって、その方がそれっぽいでしょう? (笑)それに、弟子たちにとってみても、修行すればそのような能力が身につくのだという多少なりのもちーベーションにもなることでしょう。能力が生まれつきだとか言ってしまったら、そりゃあもう、救いがありません(苦笑)<br /> <br /> 実際のところ、弟子たちの中で千里眼や未来予知の能力まで完全に身に付けた人は私が生きている間はいませんでしたけど、それでも、クンダリーニの覚醒をしてマニプラやアナハタ優勢、そして一部はアジナも活性化して直感がかなり鋭くなる、という弟子も現れました。ですので、グルとしての人生はそこそこ成果が出たのかな、と思っております。その魂が思っています、ということです。<br /> <br /> 時には弟子たちが来ることを予見して、姿を見るなりその出身地を言い当てたりしました。そのくらいは簡単です。大体は的中します。90%~95%くらいは当たったと思います。<br /> <br /> 例えば弟子がアナハタ覚醒する時には予感があって、他の弟子に少し豪華な食事をあらかじめ用意させたりしました。あと数日中にお祝いがあるので用意しておくように言って、食材を少し多めに買わせておいたりするのです。<br /> <br /> 今までやんちゃで、ちょっと浮ついていたような弟子であってもアナハタ覚醒するとかなり落ち着きが出て、大人の貫禄、聖者の貫禄がそれなりに出てくるものです。マニプラですとまだ元気になったくらいで落ち着きは今一歩ですが、アナハタくらいが聖者と凡人との境目になっているように思います。<br /> <br /> 日々行っていたことは、ハタヨガの体操も基礎として行ってはいたものの、上に記しましたように重視していたのは瞑想とチャンティングです。<br /> <br /> 瞑想は、最初は私が前に座って静かに座る瞑想をします。少し様子を見ながら、弟子が落ち着いていないようであれば名前を言って近くに座らせ、例えば指を顔の前に出して指を見るように言い、それを見て集中して心を落ち着かせるように言ったりしました。見るだけでは不十分な場合は口に出してマントラを唱えたりもしました。そうして、弟子の心が落ち着いたら静かに席に戻って瞑想を続けるように言うのです。<br /> <br /> そうして、どのくらいの時間でしょう・・・。おそらくは1時間かそのくらいだったかと思いますが、当時はきちんとした時計がありませんでしたので時間は大体だったように思います。頃合いになると瞑想を解き、チャンティングを行います。いわゆるバジャンとか言われている詠唱をみんなで行います。<br /> <br /> 私は、はっきり言って、歌はそれほど上手くはなかったように思います。<br /> <br /> そのうち、弟子の中で歌が上手い人がいて、度々、歌ってもらっていたように思います。その弟子は褒められて照れていましたが。その弟子はちょっと褒めすぎてちょっと有頂天になったりもしましたが、それでも、アナハタが覚醒したらかなり落ち着きが出て聖者っぽくなりました。途中の態度がどうであれ、アナハタさえ覚醒してしまえばかなりの弱点は克服されるのかなあ... という気も致します。どこか子供っぽかったその弟子も、アナハタ覚醒後は意識がガラリと変わって落ち着いた表情になっておりました。<br /> <br /> そんな中、どこにも不肖の弟子というのはいるもので・・・・。瞑想していてもどこか苦しそうな表情をずっと浮かべ続け、近くに呼んで集中の手伝いをしてあげてもなかなか成長しない弟子がいました。やはりセンスの違いがあるのだなぁ... と思って見守っていたのですが、そんな不肖の弟子であっても、その弟子の場合は、どこか人懐っこくて可愛げがあるのです。いやはや、グルであっても愛着はあるようです(苦笑)<br /> <br /> 不肖の弟子ではあってもことあるごとに頼ってくるので可愛い弟子だったように思います。他の人からも親しまれていました。ですが、瞑想のセンスはいまいちでした(苦笑)<br /> <br /> まあ、そんな不肖の弟子であっても10年以上続けていれば少しづつ成長するもので、他の人よりは成長が遅くとも、着実に進歩が見られたように思います。ですから、不肖の弟子であっても諦める必要はないと思います。<br /> <br /> 私は未来が見通せましたので、この弟子は死ぬまでに大体このくらいの境地まで達することができるな・・・ というのが見て取れました。<br /> <br /> 弟子の中にはかなりの境地に達してグルとして免許皆伝になり生まれ故郷に帰って行く者もいましたが、その不肖の弟子はそこまでの境地に達することができないのがわかってしまったが故に、ちょっと甘くして早めの免許皆伝を与えたこともありました。このことは以前、別件で少し書きました。<br /> <br /> 流石に千里眼はどの弟子も無理でしたが、ゾクチェンで言うところのシネーの境地に相当する瞑想状態にようやく達したのがその不肖の弟子で、他の弟子はその上のテクチュの境地、いわゆるサマーディやヴィパッサナーに達しておりましたのでレベルはかなり違うのですが、シネーの境地に相当する集中状態ができればとりあえず一般的なグルとしてはやっていけるように思いました。<br /> <br /> まあ、そのグルが今世でもどうやらヨーガのグルをしており、いわゆるスワミになっていることに以前気がついたのですが、相変わらず、あの人懐っこさというか仕草の可愛さはおそらく昔のままだったように思います。向こうはこちらのことに気がついていないようでしたけど、まあ、こんなこと言ってもしょうがないので言っていません。向こうが気がついたら話すかもしれませんが、話したところでどうしようもないので話す必要もないのです。<br /> <br /> どうも、見るからにその当時に到達した意識より上にはまだ行けていないようでした。ですがまあ、基本はできているので良いかな、と。<br /> <br /> 弟子はもっとたくさんいてそれぞれなのですが、中には、能力をもらったらすぐに故郷に帰るつもりで来たが自分が修行しないといけない上に時間がかかることを知って不愉快になり、数ヶ月もしないうちに出て行くような弟子もいました。まあ、そういう人はどこにでもいますので帰ってもらうしかありません。<br /> <br /> その寺院では日々、町の人々の相談を受け付けていました。今もよくある人生相談で、就職や結婚や引越しや、様々な相談事にのっていたのです。未来予知して千里眼でしたので大体のことは的中して正確に伝えることができましたが、それでも、たまには間違うこともあったようで、その原因はわからないことがほとんどでした。上に書きましたように大体90%~95%は的中ですけど、時々、間違えます。<br /> <br /> 間違えるというよりは、おそらく、時間差の間に誰かの意思が入ってタイムラインをねじ曲げられてしまったのだ、という理解をしております。こればっかりは仕方がありません。人々がタイムライン上で大人しくしてくれる場合が多いとはいえ、常にそうとは限りませんし。<br /> <br /> 特に現代ですとタイムラインをねじ曲げられることが増えているように思いますので、昔より当たらなくなったような気が致します。<br /> <br /> そうして相談に乗って、お布施をもらって資金にしておりました。お布施は金額が自由でしたが弟子たちと共に生活するには不自由なかったように思います。<br /> <br /> 時々、遠くから著名な方も見えられて、なかなか楽しいグル生活だったように思います。<br /> <br /> ・・・まあ、証拠とかはないので、とりあえず、夢のお話と思っておいて頂ければと思います。<br /> <br /> Sun, 22 Mar 2020 00:00:00 +0900 天使と悪魔 https://w-jp.net/2020/1875/ <br /> キリスト教などで天使と悪魔が語られていますが、実際のところ、両方とも天使だったりします。ですが、それはなかなか理解し辛いのではないでしょうか。<br /> <br /> 以前に夢で見た天使界の物語を載せましたけど、このお話は天使と悪魔に関する示唆に富んでいます。<br /> <br /> 一見すると戦いに勝って「善」の名乗りを上げたルシファーは、その時は完全なる「善」となり、戦いにわざと負けたミカエルは当時「悪」とみなされました。<br /> <br /> しかし、実態はというと、ミカエルはただ防戦していただけであり、ルシファーは相手の中に悪を見ていた... というか、ルシファー自身の心の中の闇こそが悪魔だったのです。<br /> <br /> ミカエルは何とも思っておりませんでしたが、ルシファーはミカエルと話をするごとに不機嫌になり、ミカエルが悪魔だと主張するようになってきました。その不和が王国に広がり、やがては戦いが始まり、戦乱の渦に飲み込まれたのです。<br /> <br /> 悪魔がいるのではなく、自身の中にこそ悪魔がいた、ということです。悪魔という存在を自らの心の中に作り出してしまい、それを相手に投影していたのです。<br /> <br /> この時は、ミカエルは完全なる善でしたが、ルシファーの中にあったわだかまりや怒りが相手に投影され、この場合はミカエルを悪と認識したということです。<br /> <br /> このようなことは現実でもよく起こっています。<br /> <br /> 天使と悪魔という対比だけでなく、善と悪も似たようなものです。<br /> <br /> そうは言ってもミカエルもルシファーも大天使ですから、我々人間からすればどちらも手の届かない崇高な存在であります。<br /> <br /> そのような存在であっても不和が生じ、天使と悪魔と分かれたりするようですが、その姿は、実際とは異なるということだと思います。<br /> <br /> 世間一般では、戦いに勝つと善であり負けると悪とみなされます。この場合は戦いに勝ったルシファーが善でありミカエルが悪とみなされ、それゆえに、ルシファーが天使でミカエルが悪魔とその時はみなされました。<br /> <br /> ですが、実際の姿としては、ミカエルにわだかまりや怒りはなく、ミカエルこそが天使でした。そして、怒りに震えていたルシファーこそが悪魔とも言える存在になっていたのです。<br /> <br /> ですから、天使と悪魔という存在は表裏一体で、時と場合、見方によってそれは変化するわけです。<br /> <br /> ミカエルは堕天使あるいは悪魔というレッテルを一時は受けたわけですが、それからもわかるように、悪魔というものが必ずしも悪い存在ではないことがわかります。<br /> <br /> それよりも、ルシファーのように天使を名乗りながら怒りに満ちた存在の方が厄介です。<br /> <br /> 天使も悪魔も、割と人間と近い部分があるように思います。<br /> <br /> 今はどちらも天使で通っており、それでいいと思います。このあたりの複雑な事情はなかなかに理解が難しいですし、悪魔と見る判断そのものが視界を曇らせる気も致しますし。<br /> <br /> Sat, 21 Mar 2020 00:00:00 +0900 全集中の呼吸はクンダリーニとテクチュのサマーディ・ヴィパッサナー状態 https://w-jp.net/2020/1874/ <br /> 漫画「鬼滅の刃(きめつのやいば)」で「全集中の呼吸」と言うのが出てきますが、本編で詳しい解説はないものの、私個人の勝手な解釈と言うか想像ですとこれはクンダリーニとサマーディの融合状態ですね。<br /> <br /> ちなみに、私は武術とかやりません。勝手な想像です。よもやま話です。たまにはこう言う話もいいかなと。<br /> <br /> まず、呼吸と言っていますけどこれはヨーガとかでも良く呼吸が言われていて、ヨーガスートラやハタヨガプラピディカでも「呼吸」が大事と言われていますけど、この「呼吸」は翻訳の妙で、実際はプラーナと言う微細なエネルギーの制御になります。呼吸で空気を取り入れると言う面もありますが、プラーナを取り入れて力にするのです。<br /> <br /> であれば、全身呼吸とか言っているのは、プラーナを全身に巡らせることになります。いわゆる気やオーラのことです。<br /> <br /> 気脈とか経絡とか言われているエネルギーのルートを、ヨーガではナディと呼んでいます。その主要なものが背骨沿いにあるスシュムナとその左右にあるイダとピンガラですが、漫画ではここまでは説明していませんでしたね。<br /> <br /> まずクンダリーニがそのスシュムナを通るのが第一歩で、その後、体全身に気脈と言うかエネルギーを通します。そうしてエネルギーの通り道であるナディが全身で活性化します。<br /> <br /> そうして活性化すると、まず最初は集中状態に達します。この順番は集中が先だったり活性化が先だったりしますが、ともかく活性化と集中が実現します。この集中状態はチベットのゾクチェンで言うところのシネーの境地と言われているもので、いわゆる普通の集中状態を意味します。この状態ではまだ全身に意識が通っていません。<br /> <br /> その後、ゾクチェンで言うところのテクチュの境地に達すれば全身に意識が通った状態になり、漫画で言われているいわゆる「全集中の呼吸」といわれている状態に到達します。<br /> <br /> 剣で集中して刃を振るうのがゾクチェンのシネーの境地。<br /> 体全体に意識が通って全集中の呼吸をするのがゾクチェンのテクチュの境地で、これはサマーディとかヴィパッサナー状態と言い換えても良いです。<br /> <br /> 全集中常中とか言われているのはテクチュの境地が高まって日常的にサマーディ(ヴィパッサナー)を保てるようになった状態を意味します。最初は意識しないと全集中の呼吸が保てませんが、そのうち普通になるわけです。ですから、漫画の中では実際に息の呼吸で全集中の呼吸を24時間するような描画をしていますが、実際にはこれは呼吸というよりもエネルギー的なものですから、全身にエネルギーが満ちてサマーディ(ヴィパッサナー)状態が常時保てるようになったらそれでいいわけです。訓練の仕方も、ああいうスパルタもあるのかもしれませんけど、それよりも瞑想した方が手っ取り早いような気も致します。<br /> <br /> そうして、物語の中で「日の呼吸(ヒノカミ神楽、始まりの呼吸)」とか言われているのはゾクチェンの次の境地であるトゥガルの境地であり、いわゆる悟りに近い状態になります。<br /> <br /> まあ、漫画ですので完全に一致しているわけではなくて、本当にその境地に達していたら主人公の表情も本来は違う筈なんですけど、そこは漫画ですし面白くドラマティックに描かないと人気が出ないでしょうからそこまでは突っ込みませんけど、それでも、この漫画はこのあたりを勉強したかもしれない人が書いているのではないかと思わされますので興味深いです。<br /> <br /> この辺りを踏まえますと、漫画の中の鬼殺隊のメンバーのほとんどがクンダリーニ覚醒者で構成されていることになります。更には、「柱」と言われている主要メンバーはゾクチェンのテクチュの境地以上を極めていることになります。<br /> <br /> 主人公である竈門炭治郎(かまどたんじろう)が悟りの境地に近いトゥガルの境地を達成して「日の呼吸」を使い、これからきっと鬼の親分を退治することになるのかなと思います。ここはまだ物語は進行中ですので想像ですけど、そうであれば全体として辻褄が合います。<br /> <br /> 漫画に色々と求めすぎてもなんですが、時代的に、人の心の中に入り込んでいる鬼をどのように人一人が退治してゆくかと言うテーマに沿って解釈すると、この時代にこの漫画が人気が出ているのも興味深いものがあります。<br /> <br /> まあ、漫画のよもやま話なので厳密性を求められてしまうと困りますが、なんとなく気になったところをつらつらと書いてみました。<br /> <br /> <br /> <br /> Fri, 20 Mar 2020 00:00:00 +0900 サハスララの早すぎる開きはオーラを流出させる https://w-jp.net/2020/1873/ <br /> 最近の意識の集中を解いても発散しない意識として表現できるような意識の集中・凝縮の状態、および、いわゆるルドラ・グランティの解放に伴う現象について、瞑想中に私の内なるガイド(内なるグル)から解説がありました。<br /> <br /> それによりますと、今回の場合は上記のように意識が凝縮された状態でサハスララへのルートが開いたから良いが、ゾクチェンで言うところのテクチュの境地を前提として発散しない意識を到達していなければサハスララからオーラが抜けやすいので危険、とのことでした。<br /> <br /> クンダリーニ解放時にサハスララまでエネルギーが到達してサハスララが開いてしまう方がいらっしゃいますが、その場合、往々にしてテクチュの境地には達していないため、危険な状態になり得る、とのことでした。<br /> <br /> テクチュの境地に達していない、シネーの境地までの集中では日々の日常生活においてあまりにも集中が途切れてしまい、サハスララが開いている場合はサハスララからあまりにもオーラが漏れてしまう可能性があるとのことでした。<br /> <br /> サハスララが開いた場合は、まだテクチュの境地に達していない場合は速やかに達するか、あるいはグルがいるならばグルの元で監視下に置かれるべきとのことです。<br /> <br /> サハスララが開いていなくてクンダリーニだけが開いた場合はそれはそれで厄介で、エネルギーが抜けないので体の中に溜まってしまって湯気が出るようなぼうっとした状態、いわゆるクンダリーニ症候群になる可能性もありますが、その危険性よりも早期にサハスララが開いてしまった方の危険の方が大きいようです。<br /> <br /> 私の場合、いつしかにも言及しましたが、完全にクンダリーニを解放せずに一部を解放させると言う手法を取って、そのおかげでサハスララは閉じたままで今まで来たために割と安全だったようです。閉じていても危険なことがあるのですが、私の場合は今まで閉じていた方が安全だったと言う判断があったようです。<br /> <br /> どちらにせよグルの監視がある方が安全なのですが、ここで言う前提として、そこまで見ることができて対処ができるグルが必要ですので、グルがいたとしても何もわからない、何も対処できないようなグルでしたらあまり関係ありません。<br /> <br /> 実際のところ、そこまでできるグルはそうそういませんし、一般的には、問題が生じた場合はサハスララを閉じてあげるくらいしか対処方法はないような気が致します。できるならば、のお話ですが。ですので、サハスララを開けるなんて他人にはお勧めしません。<br /> <br /> この種の行法は危険で、人間にせよ内なるグルにせよ、何某かのグルがいないと大変だなと今回思いました。<br /> <br /> Thu, 19 Mar 2020 00:00:00 +0900 集中するという意味合いにおいて1つの流派を続けた方が良い https://w-jp.net/2020/1872/ <br /> 精神修行においては1つの流派を続けた方が良いとはよく言われていることです。それは宗教的な意味合いで独善的であっては良くないですが、それでも、1つの流派を続けることのメリットはあると思います。<br /> <br /> 精神修行ではある種の「型」と言うものがあって、マントラや座り方や体操の仕方および儀式のやり方まで様々なものがあります。<br /> <br /> そのような儀式はある種の法則性で成り立ってはおりますが、主に文化的背景が強いためにもともと精神性が高くして生まれた人であってもそのような作法はそれぞれの生で学び直す必要があります。<br /> <br /> キリスト教にはそのやり方があり、ヨーガにもそのやり方があり、修験道や仏教にもそれぞれのやり方があります。<br /> <br /> ですから、昨今の宗教はどれをやっても最終的な解脱に基本的には辿り着くはずなのですが、色々やっていると型を学ぶところで労力を使いすぎてしまい、ゴールには行き着くのが難しくなるのだと思います。<br /> <br /> 宗教や流派の問題点として自身の派閥に絶対的な信頼を置いてしまうが故に独善的になったり自身の流派が最高だと考えてしまうような弊害もありますが、それでも、自分の流派に集中することは良いことだと思います。<br /> <br /> 基本はどれをやっても良いのですが、本来の修行ができるためにはある程度の慣れと修練が必要というわけです。その準備段階に意外に時間がかかるためにあれこれやらずに1つだけに絞った方が本来の修行が効率よくできると思うのです。<br /> <br /> まあ、実際には流派によっては辿り着いている境地が違いますから本当に上を求めるのならば選ぶ必要があるのかもしれませんが、そこまで辿り着く人はそれほどいませんし、近所でやりやすいところを選ぶので十分だと思います。近所で師匠が見つけられるのならばそれが一番です。あまり最高の師匠とか求める必要はなくて、型を教えてくれて基本を教えてくれる師匠がいれば大抵の場合は十分のように思います。<br /> <br /> このあたりは、人間の師匠に関していえばなかなか見つけるのが難しいですが、霊界の師匠は割と大勢いるように思いますので、導きがあればそのような指導霊をつけるのが一番のようにも思います。霊界の指導霊くらいになりますと流派なんてそれほど関係ないみたいですので、流派が違っていても色々と教えてくれます。<br /> <br /> 何せ、人間の指導者とは比べ物にならないくらい通し目が効きますし、物事の道理や今必要な事柄など明確に教えてくれるので、まあ、そういうこともあって、私なんかが思うには、近所で通いやすくさえあれば流派はどこでもいいのかな、とは思うわけですけれどもあまり色々探すよりは1つを集中した方がいいかな、と思ったりもするわけです。<br /> <br /> Wed, 18 Mar 2020 00:00:00 +0900 頭から体の前を通ってお腹までエネルギーのルートが通る https://w-jp.net/2020/1871/ <br /> 最近の瞑想は集中というより凝縮という化学反応になってきています<br /> <br /> かなり以前は瞑想をする際に、例えば眉間であるとかお腹であるとか胸などに集中をした場合、心の動きを押さえつける役割としての集中でした。<br /> <br /> 最近の、特にテクチュの境地になってからの集中は、意識は集中するのですが、それよりも「集める」という方が正しいものになってきています。<br /> <br /> ただ、特別に「集めよう」と意識しているわけではありません。<br /> <br /> 意識を、例えば眉間に集中して・・・ と言いますか、単に意識を眉間に「置く」というくらいの感覚ですが、そのように意識を眉間に置いた場合、瞑想を始めるとすぐに周囲のオーラが規則性を持って安定し始めます。・・・そんな気がしてきます。<br /> <br /> そうして30分とかもう少しか瞑想を続けていますと、意識はそのままなのですが、急激にオーラが眉間のあたりに凝縮されてくるのを感じます。特別にそのように動くように意識したわけでもありませんが、意識を眉間に置いておく状態、いわゆる集中という状態を続けますと、そのように、意識というかオーラのようなものが眉間および体の内側に沿った形で、特に眉間や胸のあたりに凝縮されることがわかるのです。分かる、と言っても良いですし、感じる、と表現しても同じことです。感じて、分かるのです。<br /> <br /> 例えるならば、流しやプールに入った水と排水溝があった時、排水溝から少しだけ水を下に流すと、排水溝のあるところを中心にして水が渦巻きのように回転し始めます。遠くに葉っぱを浮かべてもゆっくりゆっくりとしか動きません。葉っぱが排水溝に近づくと急に動きが早くなって排水溝に勢いよく流れ込んでいきます。それと同じで、瞑想を初めて30分くらいはゆっくりとしか動かないのですが、最後は急激に凝縮するのです。<br /> <br /> そのようにして最近は瞑想を続けていたわけですが、その凝縮した感覚で瞑想を続けていますと、やがて、そのエネルギーが飽和して近くに流れ始めました。<br /> <br /> 最初は、眉間から下方向に流れて喉に入り、胸の前を通ってお腹のあたりまで届きました。そして、ムーラダーラのある会陰のあたりも脈打って反応してエネルギーが通じているのを感じたのです。<br /> <br /> かなり以前にクンダリーニのエネルギーが解放されてマニプラやアナハタのエネルギーがそれぞれ優勢になった段階においては、特別に前とか後ろとかそのようなことを意識はしておりませんでした。その際は、体の内部がエネルギーに満ちた感じをしており、今もそれは変わらないのですが、今回は、その体の内部に満ちたエネルギーとは独立して体の前面にエネルギーのルートが通ったような気が致します。<br /> <br /> まず最初にそうして眉間のアジナから喉のヴィシュッダ、そして胸のアナハタの前面、そしてマニプラ。マニプラは前面と言うより内部な感じでした。そして会陰のムーラダーラもいつも通りの内部な感じでした。<br /> <br /> ですから、今回新たにエネルギーが通ったルートは眉間のアジナからマニプラまでの前面ルートだったと解釈して良いと思います。アジナからアナハタまでは前面、アナハタからマニプラにかけては上半分が前面で下半分が斜めに横切って内部のマニプラに接続されているような感じでした。<br /> <br /> そして、それだけでなく、アジナから後頭部にかけて真っ直ぐ伸びるルートおよび後頭部から頭頂に向かってのルートも更に活性化してきたように思います。少し前に頭の頭頂が割れたような感じになったところからエネルギーの交換がされているような感じです。頭頂だからといってそれがサハスララとは限りませんが、まあ、頭頂の感覚があります。<br /> <br /> これで、基本的な部分に関しては頭頂から前面を通って下半身までルートが通ったように思います。<br /> <br /> 今は体の中はポカポカしていますし、今回のことで前面にもエネルギーが通り始めましたが、背後に関してはそれほど明確なエネルギー・ルートがありません。背後についてはまだまだ様子見と言ったところです。<br /> <br /> それでも、とりあえず小周天あるいは大周天っぽい真似事でぐるりとエネルギーを回転させてみましたらそれなりに通りました。眉間から体の前面を通って下半身にたどり着いた後、背後というよりは体の中の背骨のあたり半径10cm前後の大きさでぐるりと頭までエネルギーが通りました。エネルギーが通る時、特に胸のあたりで骨をボキボキ鳴らすのと同じような感覚で何かがちょっと動いたような感じがしました。物理的には動いていない筈ですけどね。これが小周天なのか大周天なのかよくわかりませんが、小周天っていうともっとちょろっとしたエネルギーのような気もしますし、かといって大周天は定義が色々でイマイチ判断がつきにくいですが、大周天ぽい感じだった、とでもしておきます。<br /> <br /> Tue, 17 Mar 2020 00:00:00 +0900 信仰心とは信じることではなく疑わない心 https://w-jp.net/2020/1870/ <br /> よく「信じなさい」とか宗教で言われていますけど、私にはそれがどういうことなのかわかりません。信じて何かが変わるとも思えません。確かな教えがあって、それを信じなさいと言うのですが、教えは概ね正しいとは思ったりもしますが、信じるのではなく納得するものだと思うのです。<br /> <br /> 納得した上で、疑わなくなるのです。<br /> <br /> その最終的な状態を信仰心と呼ぶのであれば、それはきっとそうなのでしょう。<br /> <br /> しかし、教えがあるから信じなさい、と言うのはちょっと違う気が致します。<br /> <br /> ですから、信仰心があるからと言って宗教とはちょっと違うと思うのです。<br /> <br /> 例えば、山岳信仰があるからと言ってそれが宗教とは限らないでしょう。<br /> 自然崇拝みたいな考え方はどこにでもあって、それが宗教とは限らないわけです。<br /> <br /> それが迷信だとか言われたりしますけど、迷信というよりもむしろ、納得した上で疑わなくなる心が崇拝や信仰を生み出すと思うのです。<br /> <br /> ですから、そのようにして生まれた信仰心が必ずしも宗教とは限らないわけです。<br /> <br /> 個人的には団体のみならずそのような信仰心も含めて全て宗教だと思っていますが、一般的に宗教というと団体のことを指すわけです。<br /> <br /> ヨーガとかでも、信じなさいとは言っていません。教えを一つづつ確かめなさい、とヨーガでは言われていて、その結果、疑わなくなってくるのです。それを信仰心と言えばそうかもしれませんし、ヨーガは自身のことを宗教ではないと言っていますが、このように信仰心のことだけを取り上げてみると個人的には宗教と言っても良いのではないかなと思ったりもします。<br /> <br /> 個人的には精神修行の分野は全て宗教みたいなものだと思っていますからヨーガも神道も修験道も全て宗教みたいなものだと思ってはいますが、その中でも、信仰心の取り扱いについて様々だと思います。<br /> <br /> 信じれば救われる、と言っている宗派もあれば自分で確かめて確信を持ちなさい、と言っている宗派もあって、色々です。<br /> <br /> ですがまあ、個人的には「信じれば救われる」というのはよくわからなくて、このように、確かめた上で疑わなくなる、という文脈において信仰心を捉えています。<br /> <br /> Mon, 16 Mar 2020 00:00:00 +0900 魑魅魍魎の世界がこの世の真の姿 https://w-jp.net/2020/1869/ <br /> 多くの人は物質を見てこの世は美しいだとか言っていますが、実際には魑魅魍魎の世界です。アストラルな視力を使えばこの世は見るもおぞましい世界であることがわかるのです。<br /> <br /> 昔は森が広がっていて妖精が住んでいたりもしましたが、今はどこも人で埋め尽くされていて、そこかしこに魑魅魍魎がたむろしているように思われます。<br /> <br /> 神智学で言うところのアストラル視力あるいはメンタル視力があったとして、魑魅魍魎が見えるのはアストラル視力によってです。メンタル視力は時空をある意味超越していて時間の枠組みに囚われず、過去・現在・未来とまでが一続きで様々なタイムラインを眺めることができます。一方、アストラル視力ですと魑魅魍魎などいわゆる霊の姿が見えます。<br /> <br /> その他にエーテル視力というものもありますけど、これは肉体に近い視力です。以下まとめます。<br /> <br /> ・肉体の視力<br /> ・エーテル視力:肉体に付随する視力。肉体に近いオーラを見る。エクトプラズムを見る。<br /> ・アストラル視力:霊を見る。魑魅魍魎を見る。<br /> ・メンタル視力:時空を超えたタイムラインを見る。例:パリ郊外での人生のお話<br /> ・ブッディ視力:過去・現在・未来が同時に存在している。完全な先見力。私は未経験。<br /> <br /> 仏教やヨーガ等で「瞑想中に見えるものは重要ではない」というのはアストラル視力のことを言っているのではないかと私なんかは思います。魑魅魍魎を見たところで意味はないですからね。ですから、ヨーガスートラでも「悟りに近づくと神が誘ってくるが、誘いを退けること」と書いてあります。<br /> <br /> 私の場合、女性バージョンで生まれた時は上記のリンク先のようにメンタル視力で先読みをして各種のタイムラインを把握することは容易だったように思いますが、男性バージョンで生まれるとあまり能力が使えません。せいぜいアストラル視力までです。<br /> <br /> 私の場合、女性の時と男性の時で使える能力に違いが出ています。魔女と言うと女性のことですし、これはきっと一般的にもそうなのではないでしょうか。体の構造に違いがありそうです。女性の場合は特殊な訓練をさほどしなくても能力が普通に出るように思います。<br /> <br /> このアストラル視力ですけど、数百年くらい前までであれば人口密度もそれほど高くなく魑魅魍魎もぼちぼちいるくらいで避けることも容易でしたが、最近はそこら中が魔物の巣窟のようになっていて歩いているとすぐに魑魅魍魎とぶつかるくらいの酷い状況になっていると思います。<br /> <br /> そもそも人間の方が怖いので魑魅魍魎とすれ違ったりしても肉体にさほどの危害はないのですが、なんとも気持ちが悪いものがあります。人通りが少なければ魑魅魍魎を避けて歩きますが、混雑している場合は仕方なく魑魅魍魎と体が一瞬重なって通過したりします。<br /> <br /> まあ、通り抜けてすれ違うくらいであれば基本的に害はないようです。なんとも気持ちが悪いですけど、肉体があるとそこに魂とオーラが殻で保護されていますので安全のようです。<br /> <br /> この種のアストラル視力は厄介で、心を惑わせますし、一般の人には見えないものが見えるようになったことで優越感も生まれやすく、はっきり言って修行の邪魔になるだけで大して役に立たないものです。<br /> <br /> 以前にも余談で少し書きましたけど、この厄介なアストラル視力を閉じるために特殊な霊界の布を用いたマントを使った転生方法があります。生まれる前にあらかじめその特殊なマントで包み、アストラル視力を封じ込めるのです。<br /> <br /> アストラル視力がないと魑魅魍魎と接触してしまう可能性があるために、そのマントはある程度のアストラル的な防御膜の役割も果たします。ですので、ちょっと魑魅魍魎とすれ違ったくらいでは影響を受けないようになります。<br /> <br /> それでも、魑魅魍魎はしつこく迫ってきますし言葉巧みにエネルギーを吸い取ろうとしてきますので、このマントを使った修行方法は危険と隣り合わせになります。<br /> <br /> アストラル視力で魑魅魍魎が見える場合、子供の頃にそれが判明したら精神病院に連れて行かれて見えなくなるまで薬漬けにされる可能性もありますので、アストラル視力のある人が呪術を得意とする家系ではないところに転生して生まれる場合などはこのようなマントを使う場合もあります。<br /> <br /> アストラル視力を持っている人は割とそこら中にいるように思われます。それがアジナチャクラの力だとか言われていますけど、古来、呪術を得意としてきた家系、神道系や仏教や陰陽師の家系には珍しくないと思います。王族にも多いと言う噂を聞きます。<br /> <br /> アストラル視力を持っていて精神病院に連れて行かされるのは庶民の家庭が多いと思います。<br /> <br /> そのような守られていないところに飛び込んで普通の人生を送るのは、まさに修行であるわけです。命がけの修行です。それを、このようなマントを使って行う人がいるわけで、昔はよく使われていたようですけれども、最近はあまり使われなくなったと管理者の人が嘆いていました。<br /> <br /> アストラル視力は上に書きましたように魑魅魍魎が見えて、時には神様の姿も見えるかもしれませんが、基本的にはあまり役に立たないことが多いです。<br /> <br /> いわゆる「修行」にはあまり役立ちませんね。上に書いたように、おごりの心が生まれたりして修行の邪魔になることが多いように思います。アストラル視力くらいですと精神的にも未熟で、まだこの世の利益に絡めとられていることが多いように思います。<br /> <br /> その上のメンタル視力が持てるくらいにまで成長すると心は平安で、物事を超越した視点を持てるように思います。<br /> <br /> オーラ的にも、アストラル視力があるくらいですとオーラが弱くて魑魅魍魎にエネルギーを奪われたり不安にさせられたりしますが、メンタル視力があるくらいにまでエネルギーが高まってオーラが純化されれば魑魅魍魎に影響されることもほとんどなくなると思います。<br /> <br /> それを目指すのであれば、このような特殊な霊界の布を使ったマントを使ってアストラル視力を制限するのは有用であるように思います。<br /> <br /> 私の場合、今世では目的達成のために有用と思ってこれを使っています。・・・たぶんそうだと思っています。そうなっていることを知ったのは子供の頃に幽体離脱した時ですが、昔はその意図が完全に理解できていませんでしたけど、今では確かに有用だと理解しています。本来は今生全てをマント強制使用で過ごすつもりでしたが、意外に早くカルマ浄化の目的を達成できましたので、今後どうしようかな... とは思っていますが。今はマントが体にロックされていて、特殊なマントラを唱えるとロックが解除されてるようになっていますが、私は覚えていなくて守護霊に聞かないといけないのですが、どうしましょうかね、と言うところです。<br /> <br /> Sun, 15 Mar 2020 00:00:00 +0900 バクティでヴィパッサナー状態に至る https://w-jp.net/2020/1868/ <br /> ヨーガではカルマ・ヨガという奉仕の道が推奨されており、その先に礼拝するバクティがあります。カルマヨガで奉仕をするうちに奉仕の対象までもが神格化して現れると言います。<br /> <br /> その時、バクティはヴィパッサナー状態のように無心になって対象と自身の区別がつかなくなります。それはサマーディ状態と同じことです。奉仕が主体なしに目的なしに自動的なものになり、必要だから行う、という単純な、それでいて当然のものになります。<br /> <br /> そのことを、バクティの人は奉仕だとか神格化だとか礼拝だとか表現しているのかな、と思うのです。<br /> <br /> ヨーガでカルマヨガの奉仕をしている人を見ていると、特に最初は迷いが多くて、本当にこんなことをしていて意味があるのだろうか、と思い悩むことがあります。その悩みは当然で、本当の意味を理解していないか、あるいは、きちんと説明されていなかったりするようです。<br /> <br /> NPOのボランティアとかですと奉仕や現状へのストレスおよび必然性からの要望がモチベーションになったりしますけど、いわゆるボランティア疲れというものがあって、それはヨーガでのカルマヨガの疲れと共通している部分があるような気が致します。<br /> <br /> NPOのボランティアは割と救いがないと言いますか、宗教的な考えなしに無心の心に辿り着くことはなかなかないのではないかと思います。ボランティアで長く続いている人は何がしかの宗教的バックグラウンドがあると思います。あるいは、私なんかはボランティアにしばらく関わり合いましたけど、見た目上は奉仕しているように見せかけて利益を目的にしている団体なんかもありましたね。ですから、NPOは救いがあまりないかな、という気がします。宗教的な思想のバックグラウンドがないとNPOは方向性を見失うと思います。一部はそういう思想があったりしますが、そういうところは海外発祥が多い気が致しました。日本は変なところで唯物思想が蔓延っていますよね。<br /> <br /> 一方、ヨーガでのカルマヨガの本質は奉仕ではなく、最終的な悟りが目的ですので救いがあります。奉仕を目的にしてしまうと実際、奉仕の対象というのは限りがなくていつまで経っても終わらず、永遠に問題が解消しないというジレンマに陥ってしまいます。NPOはその点、救いがないです。基本的にNPOもカルマヨガも「解決」のない問題に取り組むことが多いですが、NPOは解決できないのに永遠に取り組んでボランティア疲れになって去って行き、一方で、カルマヨガも真実を見出せなければ疲れて去っていきます。それでも、カルマヨガの方には救いがあると思います。<br /> <br /> ヴィパッサナー状態に至るためにはいわゆる心を浄化する必要があって、バクティの人は奉仕と集中で浄化するわけです。ラージャヨガの人は瞑想で浄化するわけですけど、割と同じことです。モチベーションとしてどちらを取るかという違いがあるくらいだと思います。<br /> <br /> 見方によって階梯のつけ方が違っていて、バクティ的に言えば理屈ありの奉仕から無心の奉仕へ、となり、ラージャヨガ的に言えば雑念の多い集中状態から雑念のほとんどない無心の瞑想状態、いわゆるヴィパッサナー・サマーディ状態にどちらにせよ辿り着くわけです。<br /> <br /> 説明する人によって、瞑想なんて必要ないと言うかもしれませんが、やっていることは割と似通っているように思われるのです。<br /> <br /> カルマヨガはその点で救いがありますが、NPOは救いがなくて、ボランティアの無償のパワーをNPOが吸い取ることでNPOが存続するという方程式になっていますからエネルギーがなくなったボランティアは捨てられていきます。一部の親分は自身のエネルギーを無償のボランティアスタッフから頂いて君臨し続けるわけです。まあ、そうではない団体もあるかもしれませんが、私が見てきたのはそういうところが多かったです。それでも、エネルギーをもらい続ければある程度は無償のボランティアスタッフから感化を受けて、最初はボランティアスタッフを使い捨てくらいにしか思っていなかった親分が随分と心変わりすることもあったのは意外でしたが。そういう意味で、ボランティアスタッフは無償活動をしてエネルギーを与えるという役割を果たし、親分はそのような場を提供することで成長をしているのかもしれません。ですが、そうして成長できるのは割と例外的な人だけだったように思います。<br /> <br /> NPOもカルマヨガも、最初は「奉仕することで感謝されたい」みたいな単純なところが動機になります。カルマヨガは続きがありますが、NPOはそこで終わりです。でしたらNPOボランティアより普通に仕事したらいいんじゃないかと私なんかは思ってしまいます。普通の経済活動の方がよほど人々を助けるように思います。お金を正当な報酬としてあげられますしね。相手の自尊心も奪いませんし、自立を助けます。<br /> <br /> カルマヨガは続きがあって、瞑想もしながら無私の奉仕みたいな境地に至り、それは人によってはヴィパッサナーあるいはサマーディと呼ばれている状態なのですが、そこに辿り着き、本当の奉仕の意味を知るわけです。<br /> <br /> ボランティアで宗教的意味を語ることがタブー視されている日本のこの状況で、しかも、ことあるごとに著名なNPO活動家が「思想なんかよりもエクセルシートの方が人を救う」と言って唯物論を語るこの現状では、海外のようにボランティアと宗教的意味を結びつけるのは難しいと思います。思想的にとても貧相な日本の状況は、それでも、現状の年寄りの世代が亡くなれば次第に若い世代の感覚で平常感覚を取り戻していくような気も致します。<br /> <br /> それを待つこともできるかもしれませんが、既にカルマヨガではそのようなところが解決されていますし、そもそも目的が違っていますから、誰かを助けたいのであればボランティアとか言っていないで普通にお金を使って経済活動をするなりして助ける方がよっぽどためになると思っているのは上に書いた通りです。ボランティアなんて言って自分の行動に制約をかけているだけだと思います。相手のために一番ためになるのが何なのか選択肢を探した時にお金を使って経済活動した方がいいのであればそうすればいいのであって、ボランティアとかいう枠で選択を狭めるのは、ただ単に自分のわがままでしかないかもしれないのです。まあ、ボランティアは私はそんな感じに思っていますけど、ボランティアであれば目的は問題の解決ですが、カルマヨガでは行動を補助として自分が悟ることが目的ですので、似ていてもかなり別物になります。<br /> <br /> とは言いましても、悟る人が増えれば究極的にはボランティアで解決したい問題もかなり解決するとは思います。それが本質というものだと思います。ですから、遠回りであったとしてもカルマヨガ等で悟った人を増やした方がいいとは思います。<br /> <br /> Sat, 14 Mar 2020 00:00:00 +0900 教会は、ただ神だけを説くべきだった https://w-jp.net/2020/1867/ <br /> 私のグループソウル(類魂)に大航海時代のヴェネチアで大司教だった魂がいますが、その魂は、教会に恐怖という概念を残してしまったことに後悔しているとのことでした。<br /> <br /> 本来ならば神だけを説くべきだったのに、世相に対して教訓を説いたために恐怖が乗ってしまった、というのです。<br /> <br /> 日本ではそうでもない気もしますが、ヨーロッパの特にカトリック系の教会では独自の教訓として戒めのお話だとか悪魔の話だとかを聞かせるので、教会や天使・悪魔に対して怖い印象を植え付けられている人がそれなりにいらっしゃいます。<br /> <br /> そのことを、とても後悔していました。<br /> <br /> ・・・まあ、類魂ですので部分的には私の過去生でもあるわけですけれども、確かに、過去の記憶を辿っていきますと、私自身、本当の神を当時はそこまで深く理解していなかったのかもしれない、という気も致します。<br /> <br /> それなりに純化されていて聖職者としてやっていくだけの精神状態にあったとしても、本当に神を知るということはなかなか難しいことでありますし、知っていたとしてもその深さを追求していったら限りがありませんし、それを他人に伝えるという点で誤解があったりして難しい面があると思います。<br /> <br /> 第一に自分自身が純化すべきという点で、当時の教会には部分的にヨーガの知識も入ってきていたような気が致します。当時の司祭たちもヨーガの真似事をして、ヨーガはキリスト教の助けになる、という理解でいたようです。特にヨーガを否定することなく、受け入れていたように思います。<br /> <br /> 思えば、私の類魂の大司教の一つ前の代の大司教がとても素晴らしい方で、はっきり言って私の類魂よりも素晴らしいと思える方で、誰しもが聖人だと認める輝きを持っており、人格も備わって、街の人々から尊敬されておりました。そんな聖人の後に続いて大司教になったわけですが、前代に対しての比較意識や気負い、新しいことをしなくてはいけないという焦り、あるいは、当時の世相に心を惑わされていた、という面もあったかもしれません。<br /> <br /> そんなこともあり、当時、神の教えを説く時に当時の荒れ始めた世相に対して教訓として怖いことを説いたために現代に至るまで教会で恐怖を植えつけてしまうような風潮が残ってしまいました。<br /> <br /> 今から思えば、ただ神だけを説くべきだったのです。<br /> <br /> 世相は心惑わす現象であり、そのようなところにコメントしたところで本質的ではなく、心の平安は自分自身の中にあるのだから、心の平安を作るために教会はあるべきだったのです。<br /> <br /> もちろん、そのような面もありましたし、祈りもありましたし、聖歌隊も浄化のために役立っていました。<br /> <br /> しかし、それと同時に、恐怖という一面を教会に持ち込んでしまったのです。<br /> <br /> それが、今日に至るまで特にカトリックの教会で「教訓」と消して恐怖を信者たちに植え込んでしまっており、それが故に天使などの導きを素直に受け取ることができない状況を作ってしまっている、という点について酷く後悔しています。<br /> <br /> 当時のヴェネチアは大航海時代の終わりを感じる黄昏の時期であり、まだまだ繁栄してはおりましたが商人たちが他の街に進出することで次第に衰退するのが肌に感じられる時代だったように思います。<br /> <br /> そんな時代を反映してか、世相は廃退的になり、例えば音楽がクラシックからロックに近い早いテンポのものに変わったり、激しいダンスのようなものが流行したり、落ち着いて生活するのではなく激しく表情を出す風潮に変わっており、それに対して教会は危機感を感じていました。<br /> <br /> 教会は、そのような廃退的な世相を良くない風潮だと判断しており、もっと落ち着いて、文化的で、精神性の高い暮らしをするように人々を教育したかったのです。精神的に落ち着いた暮らしこそが神の道であると説きたかったのですが、世相に対してコメントしてしまったが故に、本来説きたかったこととは違う印象を与えてしまいました。<br /> <br /> その結果として、人々が廃退的な暮らしを反省するのではなく教会や神に対する恐怖心が育ってしまい、それでも教会は尊敬されておりましたが、一部の人の中に拭うことのできないわだかまりが残ってしまったように思います。<br /> <br /> 教会の説き方として、廃退的な暮らしぶりを指摘してそれは良くないから神の道が好ましい、ということを説明すると、聞き手の方は廃退的な暮らしに対する指摘だけが心に残ってしまってわだかまりが残ってしまったのでした。神を知っていれば廃退的な暮らしが望ましくないと分かるわけですが、既に廃退的な暮らしに片足を突っ込んでいるような人に対して指摘したとしても恐怖心が育つだけのことでした。<br /> <br /> これは、うまく教育できなかったこととして後悔になっているわけですが、流石に、廃退的な世相という大きな流れに対して道徳的な生活を呼びかけるというのは焼石に水とでも言いますか、なかなか難しいところではあったようにも思います。<br /> <br /> 当時の感覚としては、教会がうまく教育できないから人々が廃退的な方に向かってしまっているのだ、と感じておりました。実際そういう面もあったのかもしれませんが、大きな時代の流れだったのかもしれません。<br /> <br /> そうして、一部には理解されたものの、多くに恐怖を植え付けてしまったわけですが、やり方としては、それほど良いものではなかったように思います。<br /> <br /> 当時、廃退的な文化を背景に、神をないがしろにする風潮が既にありました。このような、神をないがしろにする風潮は現代に限ったものではないようです。神は信用できなくて笑い飛ばすものだ、という風潮が既に一部にありました。唯物論の走りだったかもしれません。<br /> <br /> 一部の廃退的な人たちは、例えばロックに近い踊りを広めて人々を集め、人々が笑顔になるのを見て「これこそが本当の人間の生き方だ」と思いました。それは今も世界中で行われていることです。そうして、聖職者たちの中にも「そうかもしれない」と思う人たちが出て、やがては神の生き方で落ち着いて暮らすよりも、ロックな方を選ぶ人も出てきました。<br /> <br /> 私の大司教は、しばらくはその風潮を眺めてどういう状況なのか判断を長らく保留しておりましたが、やがて、首謀者らしき人物がかつての聖職者たちを見てニヤニヤした顔つきで見下しているのを発見し、「これは良くない」と判断して廃退的な風潮を更に激しく追求し始めましたが、多くの人々はそれが理解できず、そうこうしているうちにヴェネチアは衰退し、多くの人々がヴェネチアを離れて行きました。<br /> <br /> 死後しばらくして、ヴェネチアは静かな港町になりました。かつての廃退的なロックも消え失せ、静かな港町になったのです。皮肉なものです。衰退して静かな世界を取り戻したのです。しかし、当時に指摘した風潮は広く世界に広まってしまいました。<br /> <br /> 今から思うに、やはり、神のみを説くべきだったのです。<br /> そして、神を説くためには自分自身が誰よりも神と共にあるべきだったのです。<br /> 他人に何かを伝えるのは難しく、全てを伝えるのは不可能に近いですが、それでも、自分がまず深く理解すれば何分の1かは伝わると思うのです。<br /> <br /> その基本に忠実になるべきだったのであって、恐怖だとか教訓だとか、そういうものに頼るべきではなかった、というのが今の元大司教の魂が考えていることのようです。<br /> <br /> その後、その大司教の魂はいわゆる「聖者」として認定されているようです。裏を取ろうと思って史実を調べようと思いましたが、良くわかりませんでした。<br /> <br /> 聖者認定されるには奇跡を起こす必要があって、この場合、死後の葬式の時に誰も動かしていない、直径1mあるかないかの鐘を魂の状態で動かして何度も鳴らすことで奇跡を起こしました。実は鐘というのは振り子の法則が使えますので何度も何度も力をかければ少しづつ動くので、実際のところ、死後に動かしやすいものの1つかなと思います。<br /> <br /> その時、同僚たちは私をそれほど聖者とまでは思っていなかったのですが、鐘がなったことにより「おお・・・。○○大司教は聖者だったのか・・・」と認識したようです。<br /> <br /> そして、死後の何周忌かの時、おそらく7周忌くらいの時にも同様に鐘を付きました。その時も驚きが起こりましたが、反応としては「○○大司教は我々を見て守って下さっている」という印象だったようです。そして、たしか30周忌くらいにも同様に鐘を鳴らしましたが、この時はこの出来事が予想されていたのか、誰も驚くことなく列席者が並んで静かに頭を垂れて感謝を捧げておりました。<br /> <br /> 私くらいの魂でもこのくらいのことができますので、意外に「奇跡」というのは敷居が低いのかもしれません。<br /> むしろ、私よりも遥かに悟った人ならば、わざわざそんな奇跡なんて起こさないような気も致します。<br /> <br /> それよりも、神を知って神を伝えることの難しさの方が遥かに上のような気が致します。<br /> <br /> Fri, 13 Mar 2020 00:00:00 +0900 3つのグナとコーザル体 https://w-jp.net/2020/1866/ <br /> クリヤヨガは他のヨガの体系と少し異なった理論を展開しているように思います。それによりますと、3つのグナはそれぞれ以下と関連があると言います。<br /> <br /> ■3つのグナ<br /> タマス:物質・肉体<br /> ラジャス:(神智学で言う)アストラル体、心<br /> サットヴァ:(神智学で言う)コーザル体<br /> 「Kriya yoga Darshan(Swami Shankarananda Giri 著)」<br /> <br /> これに更に、瞑想の境地の対応付けを私の理解に基づいて付け加えます。<br /> <br /> ■3つのグナと瞑想の境地(私の理解)<br /> タマス:物質・肉体<br /> ラジャス:(神智学で言う)アストラル体、心、ゾクチェンのシネーの境地。精神的な集中。禅定。サマタ瞑想。(一部の)サマーディ<br /> サットヴァ:(神智学で言う)コーザル体、ゾクチェンのテクチュの境地。ヴィパッサナー。(本来の)サマーディ<br /> <br /> ヨーガでは3つのグナを超えたところを目指します。一般的にヨーガをしている人はサットヴァな清浄な境地を目指しますが、サットヴァの清浄な状態すら超えたところに更なる境地、いわゆる解脱だとか悟りだとかモクシャ(解放、自由)と言われている境地があると言います。<br /> <br /> この、3つのグナを超えた境地はゾクチェンのトゥガルの境地に対応しているのではと思います。いわゆる悟りであるわけですが、悟りというと手に届かないものに思えてしまいますが、こうして段階的に並べてみるとそのステップが明らかになるわけです。<br /> <br /> 最初はラジャスですのでいわゆるサマタ瞑想で精神的な集中をしてゾクチェンのシネーの境地の平安な状態を目指します。<br /> <br /> その後、サットヴァに達したらそれはゾクチェンのテクチュの境地ですので更なる平穏な状態になるわけです。<br /> <br /> ゾクチェンに基づきますとテクチュの境地からその先のトゥガルの境地までは一続きですので、ラジャスからサットヴァの境地に上がることができさえすれば着実に悟りだとかモクシャだとか言われている状態に辿り着くと思われるのです。・・・まあ、このあたりはまだ仮説ですが。<br /> <br /> 最近は言葉が混乱してきて3つのグナとかサットヴァが様々な意味で使われていますので判断が難しいのですが、上記の区分で考えた場合、ゾクチェンのテクチュの境地に相当するサットヴァな意識に到達するのはそれなりにハードルが高いのかなと思われます。それはヴィパッサナーやサマーディと同等の意識状態であるわけですが、なかなかそこまで到達できないような気もします。<br /> <br /> そうは言いましても、道は割と単純で、脇道があるようでいてそれほど脇道もなくて、流派がたくさんあるように見えて実際はどれも基本はこの道ですので、実は精神修行というのは基本は凄くシンプルなのではないかなあ、というのが最近の実感です。<br /> <br /> 人の嗜好に応じて色々試したり好きなものを選べばいいとは思いますけど、そこで鍛えられる根幹の部分は同じのような気が致します。<br /> <br /> Thu, 12 Mar 2020 00:00:00 +0900 意識の集中を解いても発散しない意識 https://w-jp.net/2020/1865/ <br /> 瞑想中、最初は頭の中に集中しました。<br /> <br /> それは頭の中にオーラの塊を集めて凝縮あるいは固定させて発散させないように注意している状態ですが、ふと、その集中を解いても平気な気がしました。<br /> <br /> その直感に従って集中を少しづつ解いてみました。<br /> <br /> すると、実際に頭の中にオーラがほぼその形を保ったまま維持されていたのです。確かに周囲の形は少し崩れた感じですが、基本的な形は保持しています。<br /> <br /> ヴィパッサナー状態になってからは意識的に体の緊張を解除してきたわけですけれども、それはあくまでも体の緊張であって、精神的な緊張を解いているわけではありませんでした。<br /> <br /> 体の緊張は精神的な緊張と繋がっていますので体の緊張を解けば精神的なストレスや緊張も解除されますが、今回のように精神的な緊張あるいは意識的な集中を意図的に解除できたのは初めてでした。<br /> <br /> おそらくは体の緊張も精神的な緊張も似たようなものではありますが、その微細さとやりやすさが違うのです。<br /> <br /> オーラの塊を集めるのはそれは緊張というよりも発散させないようにして周囲との無意識的な接触を防ぐという意味もありますし、微細な感覚を出しやすくするという意味もあると思います。各種の意図があって、そのために集中ということをしていたわけですが、その集中はそれ自体が目的ではなくてオーラを集めることが目的だったのかなと思います。<br /> <br /> 今までは集中それ自体が何か意味があるような気がしておりましたが、目的はオーラを凝縮させることであって、集中とはその手段に過ぎないのだとすれば、オーラが十分に凝縮して発散しにくくくなったらその集中を解いてあげても良いのかなと思います。<br /> <br /> おそらくは定期的に集中してオーラを凝縮させてあげる必要があるのですが常に集中している必要はなく、意図的に集中したり解除したりしてあげる必要があるのかなと思います。<br /> <br /> そのやり方が、肉体の緊張を解くやり方と割と似ていると思うのです。<br /> <br /> ヴィパッサナー状態になってまず最初は肉体の緊張を解いて行ったわけですけれども、その同じやり方がオーラの凝縮の際の集中と集中解除とに応用できたわけで、その両者が方法において繋がっていたわけです。<br /> <br /> 剣術の奥義書に「緊張を解く」「リラックスする」とか書いてあると言いますけど、私は剣術はできませんし奥義書も読んだことありませんので単なる想像になってしまいますけど、それはひょっとしたらこういうことを意味しているのかもしれない、とちょっと思いました。ここは仮説ですけど、それっぽい気もします。<br /> <br /> 緊張を解くとかリラックスには二段階あって、肉体の緊張を解くというお話と、今回のように精神的な緊張を解くというお話があるのだと思います。<br /> <br /> そして、精神的な緊張を解くというお話はオーラの凝縮および意識の改革に更に繋がっていくと思うのですが、この最後のあたりはまだこれから検証していくところで、まだまだ様子見といったところです。<br /> <br /> Wed, 11 Mar 2020 00:00:00 +0900 別々ということが分からなくなることが同一の意識 https://w-jp.net/2020/1864/ <br /> スピリチュアルやヨーガでは「他者や周囲の物と同一だと感じられる意識の状態になります」と言われたりします。<br /> <br /> ヨーガではこの状態のことをサマーディと呼び、スピリチュアルではトランス状態だとか天使と繋がっている状態だとかハイヤーセルフと繋がっている状態だとかキリスト意識だとか様々に表現されていますが、きっとそれらは同じ状態を様々に表現しているのだと思われるのです。<br /> <br /> ただ、表現の違いと言えばそうなのかもしれませんが、私の最近のスローモーションのヴィパッサナー状態やサマーディの状態を率直に言い表しますと「同一である」という意識状態ではありません。かと言って「別々だ」という意識状態でもありません。言い表すならば、「同じかどうか分からない。別々かどうかもわからない」という意識状態になっています。これをきっと便宜上「いわゆる同一の意識」としているのかなと思います。<br /> <br /> 最初は「別々」という意識状態なわけですが、そのうち「いわゆる同一」という意識状態に達します。ただ、それはもともと「別々」だったので「同一」と一応解釈しているだけで、実際はきっと「同一かどうかすらわからない。別々かどうかもわからない」状態であって、それを便宜上「同一」と表現しているに過ぎないと思うのです。<br /> <br /> 実際にはそれとは別に「同一な気がする」という前段階があって、そこでワンステップ踏んでから「同一(同一か別々かわからない)」の状態に進むわけですが、その前段階はとりあえず置いておいて、ここでは本来の意味における「同一」が実際は「同一か別々かわからない意識」のことなのだと解釈しています。<br /> <br /> 1.別々<br /> 2.同一な気がする(サマーディの前段階)<br /> 3.いわゆる同一、サマーディ。同一かどうかすらわからない。別々かどうかもわからない。<br /> <br /> 自分の実際の意識を観察すると、まず、分離の意識では「別々」は明確にわかります。・・・たぶんわかった筈です。最近はあまり分離の意識にならないので昔の記憶に基づいたことですけど、たぶん、明確に別々だったような気が致します。<br /> <br /> 次に「同一」というものですけど、既に繋がってしまっているのでどこに切れ目があるのかがわかりません。意識がそこにまで通ってしまっているから同一な気もしますが、同一かと聞かれたらそうかもしれない、というくらいにしか答えられません。自分の体のどこが同一なのかも良くわからないのと同様に、サマーディの状態で周囲のものや人を観察した時に同一か別々なのか良くわからない状態になるのであって、周囲のこれとこれが同一だ、みたいな明確な意識を持てるわけではないと思います。明確な意識というのは分離の意識ですのでそれは「同一」の意識ではないと思います。<br /> <br /> 意識の状態はクリアですけど、分離しているかどうかという点に関しては非常にわかりにくいと言いますか、その、「良くわからない」という状態そのものが古来から「同一の意識」と呼ばれてきたのかな、と解釈しています。<br /> <br /> 意識で説明しますとわかりにくいかもしれませんので肉体を例にして説明しますと、例えば自分の体を見てみた時に、肉体の一部が他の一部と同一かどうかを判断することなんて出来ないと思います。どちらもいわゆる「(肉体の)自分」と言われていますが、例えば、右腕と左腕がどちらも「じぶん」であることをどうやったら知ることができるのでしょうか。それは難しい・・・ と言いますか、「良くわからない」「なんとなく同一な気がする」というくらいの認識になるのではないでしょうか。肉体と外を分けて、右腕と左手も両方とも内側だから両方とも自分だ、という理屈は成り立ちますが、ここで言いたいのはそういうことではありません。ここで言いたいのは、サマーディの状態で自分と周囲が同一になることと、自分の体の一部と一部が同一であることは似たような認識になる、ということです。<br /> <br /> 理屈を抜きにして認識だけを使った場合、自分の体の一部と他の一部が同一であるかどうかは明確に同一であるかどうかは「認識」出来ず、「認識」できるのは「同じかどうかわからない。別々かどうかわからない」という認識になって、それを便宜上「同一」と呼んでいるに過ぎないと思うわけです。<br /> <br /> サマーディも、似たようなものです。周囲と明確に「同一」という意識になるのではなく、「同じかどうか分からない。別々かどうかもわからない」という意識になったらそれはサマーディだと思います。言い換えれば、「じぶん」という意識が良くわからなくなったらサマーディと言っても良いかもしれません。<br /> <br /> Tue, 10 Mar 2020 00:00:00 +0900 演劇・芸能が瞑想だという実感 https://w-jp.net/2020/1863/ <br /> ヴィパッサナー以降、日々の生活が芸の動きのようです。・・・テレビのように見た目よくはできませんのできっと傍目には変わりがないのでしょうが。<br /> <br /> 手の動きをトレースしてみると弧のような動きがあって、手を回すときはぐるりと体を中心にスムーズに回転します。<br /> <br /> ・・・まあ、そりゃそうだと言われればそうなんですが、ヴィパッサナー状態ですとその細かな部分をスローモーションに近い状態で感じることができますので、体がロボットのようにうまく動くのがわかって面白いのです。<br /> <br /> 昔、色々な方が芸能や演劇のことを瞑想だと言っていらっしゃいましたが、確かにそうかなあ、という気が最近は致します。<br /> <br /> 特別に芸をしなくても、日々の生活の割と普通の動きが既に劇になっているような気も致します。<br /> <br /> このあたりはヴィパッサナー状態次第でありますのでヴィパッサナー状態でない時はそうでもないのですが、ヴィパッサナー状態でありさえすれば視界だけでなく体の動きもつぶさに観察することができるわけです。<br /> <br /> 流石に視界と体の感覚両方をきちんと観察するというわけにはいかなくて、どちらを主に観察するのか選ぶかあるいは半々くらいで過ごしたりしますけど、視界や内的感覚の全てが「じぶんではない」・・・と言うと語弊がありますが、「観察されるもの」として体が存在しているのです。<br /> <br /> その「観察されるもの」からしてみたら、体も視界の先にある物体もさほど差がなく、どちらも同じように感じられるのです。<br /> <br /> かつて、演劇は最高のスピリチュアルだと言った人がいました。たしか和尚ラジニーシだったような気もしますが、たしかにヴィパッサナーは演劇そのもののような気が致します。当時は「そんなものかな」と20年くらい前に思った記憶がありますが、今思うには、当時は全然今の状態を分かってはいませんでしたね。<br /> <br /> ダンスや演劇も、やってみたら結構面白いのかもしれません。日本舞踊なども。<br /> <br /> ただ、私はもともとそちらの素養はありませんのでどうかなぁ・・・ という気もしますけど、ジムのダンスくらいならしてみても面白いのかもしれません。以前とは違った感覚を楽しめそうです。<br /> <br /> Mon, 09 Mar 2020 00:00:00 +0900 トラウマを頭の中から摘んで抜き出す https://w-jp.net/2020/1862/ <br /> 今朝、意識がヴィパッサナーに近い状態で頭の周辺のオーラも静かになっており、意識の深いところを見通せる状態になっておりました。<br /> <br /> すると、今までもやがかかって見えにくかったトラウマがすぐ手の届くところにあるような気がしましたので、オーラの手で摘んで、感触を確かめながら少し引っ張ってみましたところ動いた気がしましたのでそのまま引き抜いてみました。<br /> <br /> 今までもトラウマを引き抜こうとしたことはありますが、ヴィパッサナー状態で意識が静かになっていない状態ですとなかなかうまく引き抜けなかったような気が致します。<br /> <br /> この種のトラウマはいわゆるトランス状態と言いますか集中状態と観察状態が合わさった状態になると障害になるもので、どうにかしたいと思っておりました。<br /> <br /> 意識の深いところに横たわっていて、何かを観察&集中して作業する時に妨げになっていたのです。<br /> <br /> ここでいう観察&集中状態とは、観察のヴィパッサナー状態を保ちつつある種の集中を同時に行って物事をつぶさに観察したり考察したりすることを指します。<br /> <br /> トラウマは、その作業の妨げになるのです。<br /> <br /> 意識の深いところに潜って作業を行いますのでいわゆる「答え」がすぐに出てくる状態で、作業の方も意識が直接行いますので素早く行えるのですが、その状態ですとトラウマが出てきやすいのです。<br /> <br /> トラウマは出てくる時と出てこない時があって、関連した時に出てくる、あるいは、特定の状態に似てくると出てくるような周期性と言いますか癖のようなものがありましたが、今回、ふとしたことでそのトラウマが浮かび上がっていましたので、摘んで抜き出してみましたのです。<br /> <br /> 場所は、後頭部のあたりに浮かんでおりましたので後頭部の方から摘んで抜き出しました。<br /> <br /> トラウマは基本的に向き合うことで消えるわけですけれども、最後に残った小さな根のようなものの一部を抜き出した感じが致します。<br /> <br /> 完全には抜き取れなくて、だいたい3分の1から2分の1くらいは取れたかな、という感じです。<br /> <br /> 以前は肩のあたりに絡まっていた意識体を抜き出したりしたこともありましたが、やっていることは似たようなものです。意識体なのか、あるいは固まってしまった意識の固定部分なのか、という違いがあるくらいです。<br /> <br /> 意識体の場合は割と柔らかくて、手に持つときに感触を確かめて、千切れないように引き抜く必要がありました。<br /> <br /> 今回は、イメージで「取っ手」のようなものが感じられて、取っ手の先にコンクリートのブロックのようなものがついていました。そのコンクリートのブロックが何かの穴を塞いでしまっているような感じで、オーラの手でゆっくりと感触を確かめつつその「取っ手」を掴んで、一生懸命、そのコンクリートのブロックを持ち上げようとしたのです。<br /> <br /> ちょっと浮いたかな・・・ という感じで、ちょっとは取れたかな・・・ と思ったのですが、その後の様子を見ると、上記のように3分の1から2分の1くらいの解消でした。まあ、あの重いコンクリートを片付けるにしては上出来だったかもしれません。<br /> <br /> ですが、重いコンクリートですから油断していたらその周囲にまた泥が溜まってしまいそうですので、また度々、トラウマを引き抜いて行こうと思います。<br /> <br /> Sun, 08 Mar 2020 00:00:00 +0900 卵が うらめしや〜 と叫んだ https://w-jp.net/2020/1861/ <br /> とある日、卵を割ったら黄色い黄身の向こう側に「ひよこ」の姿がうっすらと見えた気がして、それと同時に恨みと呪いの念が卵の殻の中から見えない煙のように出てきて「うらめしや〜」と言っているような気がして、ゾッとしました。<br /> <br /> ううう。今まで卵はあまり気にせず食べていたのですが、今後、ちょっと食べにくくなってしまいました。<br /> <br /> お肉は食べる量を減らしていたわけですけれども、それでも、卵はあまり気にせずに食べていました。栄養分ありますし、お肉の栄養の代わりに卵で取ろうと思っていたわけです。しかし、今回その卵にも「うらめしや〜」と叫ばれてしまいましたので、ますます食べ物の選択に困る事態になってしまいそうです。思い出すだけでちょとしたトラウマになりそうです。<br /> <br /> これ、安い卵だからこんななのでしょうかね・・・。高い卵は違うのでしょうかね・・・。そう言うのは多少あるかもしれませんね。ぎゅうぎゅう詰めで暮らす親鳥のストレスの気持ちが卵にまず植え付けられて、卵それ自体にしても生まれることができずにそのまま食べられてしまうのですから、恨みもしそうです。<br /> <br /> お肉はかなり微妙で牛肉はマシですが鶏肉も物によっては酷くて豚肉は全然ダメなことが多いです。ですから選択肢がない時を除いてお肉はあまり食べないのですが、卵は食べていたのです。<br /> <br /> 植物にしても、実は植物にも命があって包丁で切られる時に「痛い痛い」と言っている気がして、食べた時に微妙な感じを受けることがあります。<br /> <br /> アナハタが優勢になって以降、植物や昆虫を傷つけるとハートが痛むようになってしまったわけですけれども、お肉だけでなく植物を食べても微妙に感じることがあって、普通に食べる分には割と大丈夫なのですが、スーパーで並べられている植物を見ると痛ましく思うこともあります。<br /> <br /> ですから・・・、何を食べたらいいのか、最近は選択に困ります。<br /> <br /> ベジタリアンがいいのかと思えば実際、上記のようにそう言う単純なお話ではないことがわかります。お肉は一番悪いですが、ベジタリアンがいいのかと言えば必ずしもそうではないようなのです。<br /> <br /> これは、日本の栽培の仕方にもよるのかもしれませんし、有機栽培などでは違うのかもしれませんし、同じ有機栽培でも農地によっても異なるのかもしれません。農法は同じでも育てる人が違えば味と言いますかオーラは変わってくると言うのは理にかなっています。<br /> <br /> 植物にもオーラがあるようで、感情もあるようですので、日本のそこらで売っている植物がそんな感じで痛がってお皿に出されている、と言うことなのかもしれません。<br /> <br /> 自分で料理するとそのあたりはマシですが、外で食べることも多いですしね。<br /> <br /> 卵料理屋とかで食べると普通に美味しかったりしますので、卵の種類にもよるかもしれません。恨みを持っていて呪われている卵もある、と言うことなのかもしれませんし、植物にしてもストレスを抱えた植物というのがあっても不思議ではありません。<br /> <br /> 人間は食べないと生きられない生き物ですので、食べるという行為が既に業を積んでいるのかもしれないと思うことも最近はありますが、そのあたりはよく分かりません。あまりにも業を強調しすぎるとキリスト教のように罪の意識で人間の奴隷かのように使われてしまうかもしれませんので、そのあたりの説明には注意が必要そうです。自分で実感してわかるようになるまではあまり人に言わない方がいいことの1つかもしれませんね。<br /> <br /> これは、他人にこうしろとか、何を食べた方がいいとか、何を食べない方がいいとか、そういうことを言うつもりはありません。ただ単に、私は最近こういうことがあって、卵を食べるのがちょっと苦手になりました、というだけのお話です。きっと今後も卵を食べるでしょうが、昔とは変わってしまった、ということです。<br /> <br /> やはり、処方箋は食事をする時に食材に感謝をするくらいしかないのでしょうかね。ベジタリアンで感謝して食べるのが今のところ一番良さそうです。<br /> <br /> Sun, 08 Mar 2020 00:00:00 +0900 透視能力者の礼節 https://w-jp.net/2020/1860/ <br /> ・勝手に(相手の運命などを透視して)見ない。<br /> ・勝手に(守護霊に)聞かない。<br /> ・勝手に(守護霊などと)話さない。<br /> ・勝手に(見聞きした内容を、本人、あるいは他の人に)喋らない。<br /> ・聞かれていないのに(本人に)答えない。<br /> <br /> 生まれながらの能力者にこれらの基本的な社会人としてのマナーが欠如している人が散見されますが、よろしいことではありません。生まれつきではない場合は多少は社会人経験も積んでいるでしょうからこのようなことは少ない気も致します。ですが、大切にすべき点は同じです。<br /> <br /> まあ、興味本位で近くにいる人のオーラをちょっと見るくらいはついつい見てしまったというくらいで悪気もないのでそれほど咎められることでもありませんが、それでも、あまり良いことではありません。<br /> <br /> 見るだけならともかく、そのことで本人に何か指摘したりすべきではありません。<br /> <br /> これは、基本的な礼節です。<br /> <br /> 本人はその人生を生きているのですから、本人が気付くまでそのレッスンは続くのです。<br /> <br /> それを、上から視点で「こっちだ」というのは本人のレッスンが「やり直し」になってしまう危険性もあるくらいの迷惑な行為で、せっかく守護霊や本人たちが状況を整えて勉強できるようにしたのに透視能力者の余計な一言でセッティングが台無しになってしまうことさえあるのです。<br /> <br /> 例えるならば、ドラマの撮影のセッティングの場面に無関係な人が映り込んでしまって撮り直しになってしまうような残念なことであるわけです。ドラマの撮影に関わる全員が大迷惑を被るわけです。人は全てそのようなドラマのようなものですから、人の人生に関わる守護霊一同がとてつもない迷惑を被る場合があるのです。場合によっては守護霊に恨まれる場合もあるかもしれません。守護霊と言っても程度がいろいろあって、ちょっと道徳があるくらいの普通の人が死後に守護霊(見習い)になる場合などは恨みを持つ場合があるかもしれませんから注意が必要です。<br /> <br /> 他人のレッスンはどうであろうと、それを「体験」するまでは終わらないのですから、放っておけばいいのです。勝手に指摘するのは、足を引っ張るようなものです。<br /> <br /> 一方で、本人の希望でカウンセリングする場合はその時限りで、聞かれた範囲に対して答えるのはOKです。<br /> <br /> 基本的なルールはビジネスや心理学におけるカウンセリングと同一です。<br /> <br /> あくまでも本人が人生の主人公であって、主人公が行き先を決めているのであって他人が指図する必要はないのです。<br /> <br /> 勝手に指図するとしたらそれはエゴであり、傲慢であり、余計なお世話なのです。<br /> <br /> カウンセリングの場合は、あくまでも参考意見として伝えるだけです。本人が最終的な決断を下すわけです。<br /> <br /> ただ、スピリチュアルには依存症の人もいて、他人に決めてもらいたい人が一定数いますが、それはあまり良いことではありません。依存症の人に決断をお願いされてもそれは断るべきことだと私なんかは思います。<br /> <br /> 相談者が依存症であるのならば、自分で決断できるようになるというのがまず解決すべきレッスンかもしれないのです。時には冷たく突き放す必要があるかもしれませんし、決断してくれないからと言って恨まれるかもしれませんが、どちらにせよ、自分で決断することができるこの世界の自由意志の大切さと人間の基本的な意思について理解してもらう必要があるわけです。<br /> <br /> カウンセラーや透視能力者は往々にして先を話しがちで指摘しすぎる傾向がありますので、そこは気をつける必要があると思います。<br /> <br /> 個人的には、スピリチュアルなカウンセリングもそんなに意味はないような気もしております。意味があるとすれば目に見えない世界があることを「確認」するという点や、自分の出した答えが正しいかどうかを「確認」するためには使えるかな、と思っております。最近は主に後者ですね。答えの「確かめ」にスピリチュアルなカウンセラーを使うのはアリだと思います。<br /> <br /> スピリチュアルなカウンセラーになって相談を聞くのはそれなりにリスクがあります。求める答えではなかった場合の回答であった場合に恨まれたり、願い事を叶えてくれないとわかると、これまた恨まれたりします(苦笑)<br /> <br /> ですから、スピリチュアルなカウンセリングで相談されるのは損な立場だなあ、と思うわけですが・・・ それよりも、一般的な人生の教訓である、例えば仏教の八正道とか説いていた方がよっぽど世の中のためになるのではないかと最近なんかは思います。ヨーガのヤマ・ニヤマのような基本的な道徳ですね。<br /> <br /> いくらスピリチュアルに理解があって興味があっても現世利益を追求するのなら意味がなくて、そこから八正道のような基本的な道徳のお話につながらなければスピリチュアルも意味はなくて、むしろ透視なんかなくても八正道がありさえすれば十分なんじゃないかとも最近は思います。<br /> <br /> 透視能力者は、本質的なところで本当のスピリチュアルの本筋で役立っていないのでは、という気も致します。 本質なのは、やはり八正道のような基本的な部分であると思うのです。<br /> <br /> と、いうわけで、透視能力者は礼節をもって、基本的には引っ込んでいるべきだなあ、と私なんかは思うわけです。<br /> <br /> Sat, 07 Mar 2020 00:00:00 +0900 ヴィパッサナー瞑想と称してサマタ瞑想を行う人たち https://w-jp.net/2020/1859/ <br /> ヴィパッサナーと思考の停止について以前書きましたけど、おそらくはヴィパッサナー瞑想の流派は分かっていながらヴィパッサナー瞑想と称して実質はサマタ瞑想をさせているのだと思われます。<br /> <br /> これはおそらく、弟子たちが望むからそうさせているのかな、という気も致します。グル(霊的指導者)がサマタ瞑想をするように弟子に指示する一方で、他の人がヴィパッサナー瞑想をしているのを横目で見ている古参の弟子がサマタ瞑想だけずっとしていることに待ち切れずに要望して、まだ準備が整っていないのにも関わらずこのままではサマタ瞑想もままらないためにヴィパッサナー瞑想と称して弟子たちを満足させて実質はサマタ瞑想を続けさせるというグル(指導者)たちの知恵がかつてあって、今はその形だけが残っているという面もあるのかなあ... と想像致します。<br /> <br /> と、言いますのも、私のグループソウル(類魂)の中にかつてインドで霊的グルでスワミだった魂もいるのですが、その時の弟子たちの様子を思い出してみますと、やはり不肖の弟子のはいるもので、それでも、出来が悪くても可愛い弟子にはちょっとした位を与えたりするような情けとでも言いますか同情とでも言いますか、そういうのはあったように思います。その時のスワミは未来を見通せましたので将来的にその弟子がどのくらいの境地まで達することができるかわかりましたので、それも勘案して、この子は今後将来をかけてもこのくらいの境地までしか達することができないので、このくらいで位を与えてあげようか... という気持ちになったこともあったようです。<br /> <br /> ですから、瞑想法にしてみても、今はサマタ瞑想だとかヴィパッサナーだとか言われていますけど流派によってはそこまでの区別はなくて、サマタ瞑想でなくてもチャンティング(聖典の詠唱)とかして心を清めれば同じことであるわけです。ですから、ヴィパッサナーをしたいという弟子に対して「そうかそうか。こうしたら良いよ」と伝えて、それが本来のヴィパッサナーとは若干違ったものだとしても弟子の成長のためになるのならば良しとする、グルの愛がそこにあったように思います。<br /> <br /> まあ、色々な流派があって、それぞれの事情がありますので全てはわかりませんけど、こういう面もあったのかなと思います。<br /> <br /> そして、今は形だけが残っていて、流派によってヴィパッサナー瞑想と言っているけれども実質はサマタ瞑想が行われているような気が致します。<br /> <br /> その形を本気にして、サマタ瞑想なしにヴィパッサナーだけをしていればいいと解釈して「集中」をないがしろにしている流派もあるように思いますし、その一方で、全て分かった上でサマタ瞑想をヴィパッサナーと称している流派もあるように思います。<br /> <br /> 最近入手したテーラワーダ仏教の本には、このあたりの矛盾が如実に現れていました。おそらくはテーラワーダ仏教は全てわかった上であえてサマタ瞑想をヴィパッサナー瞑想だと称している節があると私なんかは思います。私の勝手な解釈ですけど。<br /> <br /> 例えば、本の最初の方に次のようにあります。<br /> <br /> 落ち着いた状態、サマーディ(禅定)を整えた上でヴィパッサナー瞑想に入ります。(中略)ヴィパッサナー瞑想は、サマーディ(禅定)状態を前提とする瞑想だということを覚えておいてください。「自分を変える気づきの瞑想法(アルボムッレ・スマナサーラ著)」<br /> <br /> それなのに、実際の具体的な説明のところには以下のように記されています。<br /> <br /> ヴィパッサナー瞑想の試みは、「一切の思考を停止する」チャレンジです。思考を停止させる努力によって心のくもりが晴れ、「智慧」があらわれます。智慧は、何か特別な努力によってあらためて育てるものではありません。ヴィパッサナー瞑想によって私たちのなすべきことは、思考、妄想をストップさせることだけなのです。つまり、考えないようにするのです。「自分を変える気づきの瞑想法(アルボムッレ・スマナサーラ著)」<br /> <br /> これ、テーラワーダ仏教はヴィパッサナー瞑想と称していますが、内容的にはサマタ瞑想・集中瞑想そのものです。ヨーガスートラの目的である心理作用の止滅と同じことをヴィパッサナーと称して説明しているように思えるのです。<br /> <br /> そうして、テーラワーダ仏教では具体的な方法として、今の瞬間に何が起こっているのかを実況中継する、という方法を示しています。実況中継するということは今の状況に対して具体的に「思考」するということです。心・マインドで文章にして表現を試みるということです。これは五感および心・マインドに集中しないとできませんからヴィパッサナー瞑想ではなくサマタ瞑想・集中瞑想の部類に入ります。それを、おそらくはあえてヴィパッサナー瞑想と称しているように思えるわけです。<br /> <br /> 実際、最後のQ&amp;Aで「ヴィパッサナー瞑想にはいくつもやり方があるのですか」というセクションにてサマタ瞑想からヴィパッサナー瞑想に入るやり方などが紹介されており、ここを読む限り、この著者はよくわかっている、というエキスパートの印象を受けます。ですから、私は上記のように「あえて」ヴィパッサナー瞑想と称しているのでは、と解釈したのです。<br /> <br /> どのように称したところで最初はサマタ瞑想なのですから、やりやすい方法をすれば良いのではないか、と私などは思うのです。<br /> <br /> グループソウルのかつてスワミだった魂の意見を聞くと、どうやら、瞑想はある程度のセンスが必要とされるので説明をそのまま受け取ってどう解釈するかは人それぞれであり、どのような説明であろうともセンスのある人は成長するのだから、どの流派であっても弟子にとってはさほどの違いはなく、好みの問題があるだけだ、とのことです。まあ、それはそうだろうなとは思います。<br /> <br /> であれば、サマタ瞑想と説明されていてもセンスがあればヴィパッサナーに辿り着くし、逆に、ヴィパッサナーと称してサマタ瞑想を指示されていたとしてもセンスがあれば本質に気がつくわけです。まあ、それはそうだなと思うわけですが・・・。<br /> <br /> ・・・センスとか言い出した時点で、もう、一般向けには救いがない気がするのは私だけでしょうか。かつてスワミだった魂が言うには、センスがない人に何をやらせても一生成長しないので、もう、こればっかりは仕方がなく、それでも無駄ではないので次の人生に繋げるために何かを続けさせることは有意義だ、とのことでした。まあ、一生涯かけて弟子の面倒を見たスワミだからこそ言える言葉なのかもしれません。<br /> <br /> まあ、私もそうだろうなとは思ってはいてもさほど救いがないのであまり口に出したくはありません。スパルタ式で指導したイギリスの過去生というかグループソウルの魂がいたのですが、スパルタ式ならば成長が早いのは確かでしたが、その後、その弟子たちの流派がスパルタを真似して今まで続いていて微妙な感じになってしまっているように思いますのでそれも良くないとは思ってはいます。2つの人生の修行を1つの人生で終わらせるためにはスパルタ式が必要だったわけですが、禍根を残してしまいます。<br /> <br /> アシュラムなどでつきっきりで指導するのならばともかく、一般向けに公開するのであればある程度は妥協するしかないのかな、という感じも致します。<br /> <br /> かと言って、甘くしてしまったが故にその弟子が今世に至っても未だ同じくらいの境地にしか達することができていないのを見たりすると、やっぱりスパルタすべきだったかな... とも思ったりするようです。<br /> <br /> まあ、私は今世ではそんな立場にはありませんので指導の悩みには無縁ですけど。<br /> <br /> Fri, 06 Mar 2020 00:00:00 +0900 視界だけでなく体の動きも細かく感じるヴィパッサナー https://w-jp.net/2020/1858/ <br /> まるでロボット・ダンスをしているかのようです。さすがにテレビで見るくらいの凄い動きはできませんけど普段の生活の体の動きが細かくスムーズな挙動として認識されます。<br /> <br /> 以前は視界だけでしたが、今は腕や体の動きもスムーズに認識されます。まだ全身がそうだと言うわけではありませんが、かなり動きを認識できています。<br /> <br /> 歩く時。<br /> 腕を動かす時。<br /> 体の角度を変える時。<br /> <br /> 特別に意図して意識しなくても意識されるのです。自然な認識です。<br /> <br /> 2ヶ月前にスローモーションのヴィパッサナー状態が始まった時、主に視界における変化でした。体の感覚も微細に細かく感じられるようにはなりましたが、今日ほどスムーズには認識できてはいなかったように思います。<br /> <br /> おそらくは先日のルドラ・グランティかなと思われる意識の変革以降にこのように認識力が高まったような気が致します。<br /> <br /> ヴィパッサナー瞑想というと体の感覚を観察する瞑想として理解されることが多いと思います。皮膚の感覚ですとか息を観察することがヴィパッサナー瞑想であるという説明を耳にすることが多いですし、私もかつてはそのように思っておりました。<br /> <br /> しかし、今思うのは、意思でわざわざ観察するのは本来のヴィパッサナー瞑想ではないということです。リラックスして意思なくしてヴィパッサナーが自然に自動的に働く状態が本来のヴィパッサナーであって、それはもはや「行動」ではないのです。観察するという「行動」があるうちはそれは本来のヴィパッサナーではなく、観察しているのが結果と言いますか「状態」であるならばそれはヴィパッサナーになり得るのです。この違い、言葉で言い表すのはなかなかに難しいです。<br /> <br /> 「意思」で「観察しよう」と思っているのは「行動」であり、わざわざ観察しなければ観察できないのだとしたらそれは本来のヴィパッサナーではないということです。<br /> <br /> 本来のヴィパッサナー状態とは、そのような「意思」なしに観察されるものです。それを「状態」と呼ぶこともできますが、明確な行動としての意思はなくても観察している「なにか」、「見るもの」は存在しています。<br /> <br /> 理屈としては何かを観察する時は「見るもの」が必要です。それは確かに存在しています。普通に「見るもの」というと「見る対象=見られるもの」が存在しますが、この種のヴィパッサナー状態では「見るもの」も存在するのは確かですが、「見られるもの=見る対象」が「自らと不可分のもの」として感じられるわけです。<br /> <br /> 通常、人の意識が五感を使って周囲を見たり観察する時はその対象との間に明確な区分が存在します。「見るもの」と「見られるもの」は別物です。<br /> <br /> 世間一般でよく聞くヴィパッサナー瞑想は五感を使って周囲を観察したり息を観察したり皮膚の感覚を使って観察したりします。そこには、五感を使った「見るもの」と「見る対象」の区別があって、それが一体になることはありません。感覚をずっと観察しているとその読み取る内容が微細になって細かく知ることができるようになりますが、それは本来のヴィパッサナー瞑想ではなく集中して観察しているのですから集中瞑想、サマタ瞑想であると私なんかは思うわけです。<br /> <br /> 五感を使ったヴィパッサナー瞑想は観察していると言いながら実は集中をして瞑想をしているのですが、それがヴィパッサナー瞑想だと言ってしまうところに混乱があって、観察という言葉を使ってしまうとバイアスが生まれ、「集中」という意義が失われ、意義が失われるだけならばいいのですが、「集中してはいけない」という理解が生まれ、「集中することに対する否定の意識」が生まれているようなヴィパッサナーの流派もあるように思われます。<br /> <br /> 実際には、ヴィパッサナーと説明されて瞑想をするが実はサマタ瞑想をしているのだということはおそらくはその流派の上級者・グルにとっては当たり前のことではないかなと私なんかは推測しています。ですが、これまた推測ではありますが、サマタ瞑想をしようがヴィパッサナーと称してサマタ瞑想相当をしようがどちらにせよ高い境地に行き着くことはあるし、逆に、これはある種のセンスというところになってしまうのですが、辿り着かない人はどうやっても辿り着かないのだから、まあ、あまり手法をどうこうしてもしょうがない... という境地にグルは達しているのではないかと思います。<br /> <br /> ですから、よく言われているように瞑想は色々と手法があって、向き不向きがあるので自分に合ったものをするのがいい、というのは真理なのかなと思います。<br /> <br /> 私なんかはストレートなのを好みますのでヴィパッサナー瞑想と説明されながら実質はサマタ瞑想をするよりは直接にサマタ瞑想をした方がいいと思うたちです。<br /> <br /> ヴィパッサナー瞑想はサマタ瞑想で意思が確かな安定したものになったのちに出てくるもので、上にも書きました通り、その時は対象と自分自身の区別がつかなくなっています。それをヴィパッサナーの流派はヴィパッサナーと呼びますが、ヨーガ系の流派は同じことをサマーディと呼ぶ、という、ただそれだけのことだと思います。<br /> <br /> 手法としてのヴィパッサナー瞑想はやり方だけのお話であり実質はサマタ瞑想をしているのだとすれば手法を真似ているだけの時はまだサマーディ状態ではないのは明らかです。<br /> <br /> ステップ的には以下のようになると思います。<br /> <br /> 1.サマタ瞑想をして眉間などに集中する、あるいは手法としてヴィパッサナー瞑想を真似て五感を使った観察をして集中する(説明で集中とは言われないかもしれないが実態は集中瞑想・サマタ瞑想)。<br /> 2.ヴィパッサナー瞑想に移行する。同じ状態をヨーガの人はサマーディと呼ぶ。<br /> <br /> 非常に明快でシンプルです。<br /> <br /> 実際、ヴィパッサナー/サマーディ状態とはサマタ瞑想をして雑多な意識・いわゆるマインド・思考を抑えた時に出てくる状態ですので、五感を使って観察するのとはかなり違った状態になります。<br /> <br /> ヴィパッサナーとサマーディが同じだというのは私の解釈です。他所ではほとんど聞いたことがありません。流派が違うのでそのような混ぜた解釈を行っている人はあまりいない気もします。<br /> <br /> 前にも書きましたが、思考を停止させるだけではサマーディ(三昧)にはならないということもありますのでサマタ瞑想をしているだけではヴィパッサナーにそのまま遷移することはなくて、いわゆる浄化が進んでいかないとヴィパッサナーの観察力が出てこないとは思います。<br /> <br /> これらを右脳と左脳で解釈されている方もいる気が致します。サマタ瞑想が論理的思考を司る左脳の動きを止めるための瞑想で、左脳の動きが止まった状態を前提として右脳の動きを活性化させ、右脳的な観察力が出てくるとヴィパッサナーになる、という表現もできる気が致します。私はあまりこういう言い方はしませんけど、人によっててはこの方が理解しやすいかもしれません。<br /> <br /> サマタ瞑想をしているだけではヴィパッサナー状態にならない、というお話も、左脳の動きを止めるだけで右脳が動きだすとは限らない、という解釈ができます。左脳の動きを止めることに加えて右脳が動きだすと初めてヴィパッサナー状態になるわけです。<br /> <br /> Thu, 05 Mar 2020 00:00:00 +0900 アジナ・チャクラは二度開く https://w-jp.net/2020/1857/ <br /> 思えば最初、眉間の皮膚の少し離れたところでの圧縮された空気が解放されて膨張してボンっとエネルギー的に解放された時から始まりました。<br /> <br /> その後、エネルギーは下半身に降り、クンダリーニとして上昇、そして、アジナ近くまでエネルギーが満ちてきたかのようです。<br /> <br /> おそらくは、アジナ・チャクラは二度開くのではないでしょうか。<br /> <br /> 最初は割れ目が入り、エネルギーが下半身に降ります。<br /> <br /> 次は、上昇してきたクンダリーニがアジナ・チャクラを開きます。<br /> <br /> そんな予感が致します。まだ確証はないですけど。<br /> <br /> 以前、クンダリーニは上がるのか下がるのか? の中で引用しましたけど、松果腺(松果体)はいわゆるアジナ・チャクラ(解釈や流派によってはサハスララ)とも言われているところですけれども、松果腺に入って一旦下に降りた後に再度松果腺にまで戻ってくるとすれば、感覚としてはアジナ・チャクラが二度開くと言うような感じになるのかなと思います。<br /> <br /> 意識がまず霊界から呼び降ろされ、全身に流れ入るということが、人に宿る神がその全能力を顕現する前に必要だということである。「秘教真義(M・ドーリル 著)」<br /> <br /> 実際のところ、ヨガを初めてすぐの頃からアジナ・チャクラの刺激はずっと続いておりました。<br /> <br /> それが実際にいわゆる世間で噂されているアジナ・チャクラが開くことと同義であるのか今までよくわからずにいました。<br /> <br /> 上に書きましたように眉間で圧力の爆発のようなことも起きましたが、おそらくはそれが最初の開いた経験であり、そこからエネルギーが入ってきて下半身に降り、今再度アジナのあたりが焦点になってきたように思います。<br /> <br /> であれば、やがて、本格的にアジナが開いていくのかなと思います。<br /> <br /> それが噂されているように本当に超能力の扉を開くかどうかは分かりませんし、それは割とどちらでも良くて、そのような能力より、ただ単に、この先に何があるのかな? と言う自然な歩みに従っている感じです。<br /> <br /> Wed, 04 Mar 2020 00:00:00 +0900 せきを切ったかのように喉に流れ込む頭のエネルギー <ルドラ・グランティ> https://w-jp.net/2020/1856/ <br /> 本日の瞑想中、急に喉に上から下へと流れてくる強いエネルギーを感じ、一体何事かと思いました。観察してみると、エネルギーが頭の上の方から喉を通じて胸の方に流れ込んできて、お腹や下半身の方までじんわりと浸透して行っているではありませんか。その中でも、最も喉に強い感覚がありました。<br /> <br /> 今までエネルギーが下から上に移動するようなことがあっても、上のエネルギーが下に浸透するなんてことは初めてでびっくりしました。以前に何度か体験したような強烈なクンダリーニ経験とはまた違い、確かなエネルギーの流れではあるのですがじんわりとしたゆっくりとしたエネルギーの流れです。<br /> <br /> 最初は喉のヴィシュッダチャクラに何かが起こったのかと思ったのですが、どうやらそうではなさそうです。観察してみると、頭の上半分の中の方が、何かが崩れたような、崩壊したようになっていました。まるで、そこにあった岩が幾つかに割れて崩壊したかのようです。その頭の上半分の崩壊と共に、崩壊した割れ目からエネルギーが頭の上から下へと滲み出ているように感じられました。そうして、喉から体の方までエネルギーが降り始めたのでしょう。完全にエネルギーが通るようになったわけではなさそうですが、今までそこにほとんど通っていなかったエネルギーが通り始めたように思います。<br /> <br /> これが頭頂より上の方から来ているエネルギーかどうかは分かりません。頭頂の髪の毛がザワザワとした感覚はありますが、頭頂より上には感覚がありませんのでそこから来ているエネルギーなのかもしれませんが、感覚的には、エネルギーは頭の上半分、眉間あたりに忽然と現れてそこから下へと流入しているように感じられます。<br /> <br /> 今日の瞑想では目を瞑ったまま意識を集中(サマタ)して思考を止めつつ、周囲の観察をしてヴィパッサナー状態を断続的に保っていました。<br /> <br /> 最近はだるまさんのようなオーラの状態で、眉間など頭の上だけ感覚がなくて、両手で頭の上を支えているようなオーラの感覚がしていました。<br /> <br /> それはまるで、中東やアフリカのテレビ番組で見るような、頭の上に水をくむ「かめ」を持った人が両手を頭にあげている姿のようで、瞑想中は両手は膝にのせるか前で組むかしてあぐらをかいているのですが、肉体の手はそのようにしていても、オーラの手で頭の上に手のひら2つを水を組むかあるいは「かめ」を両手で支えるような形にして頭を支えているような感覚がしておりました。<br /> <br /> 感覚としてはそんな不思議な感じでしたが、ポイントは、頭の上に感覚がない、と言う点と、オーラで頭の上を支えようとしている点です。<br /> <br /> ここ数日は食生活と意識および仕事などから来るエネルギー的な若干の詰まりと意識の不調が少しあり、そのエネルギー的な解消もしたいと思って瞑想しておりましたが、具体的にそのための瞑想をしたわけではなく、普通の瞑想をしておけば問題ないと言う判断でした。<br /> <br /> 今回の現象はもっと根本的なところでエネルギー的な変化が起きたような気が致します。<br /> <br /> もしかしたらこれがヨーガで言うところの「ルドラ・グランティ」なのかもしれません。グランティとは体に3つあるエネルギーのブロック・結節で、ルドラ・グランティは頭のアジナ・チャクラの中にあります。今回は一気にそれが解放されたと言うことではなさそうですが、少なくとも、ブロックが解除され始める兆しを感じ取った感じです。じわりじわりとエネルギーが通ってきているのを感じます。<br /> <br /> これがルドラ・グランティなのだとすればアジナ・チャクラが活性化される前兆なのかもしれません。まあ、まだ喜ぶのには早いですが。<br /> <br /> ひとまずの変化としては意識がよりクリアになって最近のエネルギー的な不調がかなり解消されたと言うことと、ヴィパッサナーのスローモーションの識別力が瞑想前に比べると若干高まったことくらいです。<br /> <br /> ですので、今回の出来事が直接的にそのまま大きな変化を意味しているわけでもなさそうですが、前兆としてはなかなかに大きなもののような気が致します。<br /> <br /> このあたり、表現で誤解があるかもしれません。この変化が起こる前は十分に元気だと思っていたのですが、変化してみると意外に違う、という感じです。<br /> <br /> その数日後に行った瞑想では、空気の圧力のようなものが後頭部のあたりから数分かけて徐々に眉間にまで移動し、眉間に圧力のようなものが集まりました。特に力を入れているわけではありませんが、その圧力のところを意識していたのは確かです。圧力がどこに移動するのか観察していただけで自動的に眉間にまで移動しました。<br /> <br /> この動きは、遥か前に「小周天」というものを試していた時に背筋に沿って圧力が移動したのと似ていますし、他の日に瞑想していた時にマニプラあたりからアナハタあるいはヴィシュッダのあたりまで圧力が移動した時の感覚に似ています。<br /> <br /> その時の感覚と照らし合わせると、おそらくはまだ開通していないエネルギーのルート、ヨーガ的に言えばナディの開通が徐々になされてきていると解釈できます。<br /> <br /> 以前は背筋の皮膚の表面だったりもうちょっと体の中の背骨のあたりがその対象だったわけで、その後しばらくしてクンダリーニが動き出したりしたわけですけれども、おそらくは今回も同様で、後頭部から眉間にかけてのルートがまだ開いていなくて少しづつ開通し始めているのだと解釈できます。<br /> <br /> 眉間にまで移動した後は圧力がその眉間に集まり、その幾分かは分散して喉の方にまで降りていっているような感じです。ですから、最初の時にせきを切ったかのように喉にエネルギーが流れ込んだのはこのルートだったのかなと思います。クンダリーニは下から上に上がるということになっておりますが、今回のエネルギーは逆で、上から下に向かうエネルギーです。クンダリーニの上昇エネルギーは常にありますので、質の違うエネルギーが上から下、下から上とそれぞれあって、各所で混ざり合う感じです。波が上から下に伝わる感じがしています。<br /> <br /> ヨーガの概要ではクンダリーニは真っ直ぐ頭上まで上がるということになっておりますが、ヨーガの流派たとえばクリヤヨーガあるいはスピリチュアルの流派によっては眉間から後頭部は主要なエネルギールート(ナディ)があることになっております。例えば「フラワー・オブ・ライフ 第2巻(ドランヴァロ・メルキゼデク著)」によると眉間のあたりはこのようになっています。<br /> <br /> 同書では「半歩」として壁が描かれておりますがヨーガ的には「グランティ」と呼ばれる主要なエネルギーのブロックでここはルドラ・グランティに相当します。<br /> <br /> 今回の頭の中での「岩の崩壊」がルドラ・グランティの解放だとしたら、ようやく私の中でこの部分のナディ(エネルギー・ルート)が開通し出したということだと解釈できます。<br /> <br /> これにより、眉間の集中が新たな感覚に変わりました。眉間にその「圧力」のようなものが集まり、今までのように「眉間の周囲で支えているが眉間そのものはさほど感覚がなく、時々ざわつく程度」のような感覚から、「眉間そのものが圧力のようなものを保持する」感覚に変わりました。<br /> <br /> 圧力が定期的に後頭部から時間をかけて眉間にまで移動し、眉間に圧力が溜まってゆく感じです。<br /> <br /> 以前のと比較してみますと、おそらくは「圧力」と感じている間はまだ十分に開いていない初期の状態かと思われます。十分に開いたら圧力と言うよりはそのあたりが常にエネルギーに満ちた感じになるのかなと。<br /> <br /> 今後、これを更に観察していきたいと思います。<br /> <br /> <br /> <br /> Tue, 03 Mar 2020 00:00:00 +0900 テクチュでの観察がヴェーダンタの「知識」に繋がる https://w-jp.net/2020/1855/ <br /> ヴェーダンタによって悟りの道を歩んでいる人は、「行為ではなく知識でのみ悟ることができる」とよく言います。<br /> <br /> これは、なかなかに謎めいた発言です。<br /> <br /> ヴェーダンタを勉強している人は、規律に従って服装や食べ物を選び、聖典を勉強してチャンティングをしてマントラを唱えて「知識」で悟ろうとしていますが、本人は自分たちのことを「修行」しているとは言わず、周囲から「修行している」と言われると「私たちは修行していない」と言いますので外目からは何のことかわかりません。<br /> <br /> 同様に、ヴェーダンタの人たちは独自のヴェーダンタの瞑想をしたりもしていますが、瞑想では悟りに至らない、と言います。一見、訳がわかりません。悟りに不要なら瞑想なんてしないと思うのですが瞑想はするようです。否定しておいて実際は瞑想をしています。ヴェーダンタ独自の瞑想というものがあるようです。<br /> <br /> これはヴェーダンタの教義に則った答弁をしているので、色々と読み替えてあげないといけません。<br /> <br /> ここで謎なのは以下の3つです。<br /> ・知識<br /> ・修行・行為<br /> ・瞑想<br /> <br /> ヴェーダンタは基本的に「奥義書」であるウパニシャッドを基にしていますので、他人にわかりやすいかどうかは気にしていないようです。それよりもむしろ聖典に基づいた正確さを大切にしているようです。<br /> <br /> まず「知識」ですが、辞書には「ある事について理解すること。認識すること。」とあります。これは記憶力の良さだけでなく理解の深さや応用力をも意味していますが、そのような読み方をするとヴェーダンタ的な文章では読み違えると思います。ある意味それは正しくもあるのですが、ひとまずそのようには読まない方がいいと思います。<br /> <br /> 「知識」と書いてあった場合は、「曇りなく認識すること。ありのままに見ること」と読み替えると良いと思います。<br /> <br /> ・・・ヴェーダンタを勉強している人がこれを見たら「違う」と言いかねない気もしますが、まあ、そのまま「知識」と読むよりは随分と分かりがよくなると思います。最終的には「知識」そのままで読めばいいとは思いますが、最初から文字通り読んだらよくわからない気が致します。<br /> <br /> ヴェーダンタの人たちは物事の本質を確かめようとします。<br /> <br /> よく聞く例え話で「ロープと蛇」がありますが、暗闇にあるロープを見て蛇だと勘違いして怖がるのは真実を見ておらず、真実を見ればロープなので、ロープだということが知識だ、というお話はありますが、どうもこの例え話は誤解が多いような気が致します。<br /> <br /> このロープの例え話を聞いて理解するポイントは2つあって、1つは「科学のように物事を分析して行けば悟ることができる」「知識を積み上げれば悟ることができる」というところと、もう1つは上記にも書いたように「曇りなく認識すること」という点です。<br /> <br /> ヴェーダンタの人はこの両方を言っている気がしますが、私は前者は結果であって、重要なのは後者だと解釈しています。ただ、前者と後者との繋がりを理解するのはなかなか難しい気がしています。前者はロープと蛇のお話そのもので科学の考え方そのもののように見えますが、後者の認識は無視されがちな気も致しますし、ヴェーダンタの論者に聞くと「気付きとかは関係ない。知識だけが必要」とか言われたりしますのでますます混乱しかねません。<br /> <br /> ヴェーダンタの人はもしかしたら前者のことだけを言っているのかもしれませんが、私なんかからすれば後者も重要だと解釈しています。<br /> <br /> 後者に関していえばゾクチェンのテクチュの境地で認識を続ければ物事をよりはっきりと識別するようになり、やがては曇りが完全になくなり、その時に見るものは全てありのままの「知識」になる、ということかな、と思います。<br /> <br /> おそらくはほとんどの人、悟っていない人の認識には曇りがあって、「知識」の周囲を覆い隠しています。悟ると曇りが完全に晴れて「知識」が明らかになる、ということだと思います。<br /> <br /> ヴェーダンタの人は「知識」だけで悟ることができると言いますけど、私はそれは言い方だけの問題だけであって、確かにテクチュの境地はヴィパッサナーであり観察ですので、それは「行為」とは言いませんので、形式として瞑想していてもそれはテクチュ以前の時のように「行為」とは言い難い面もあります。それでも肉体と意思を伴っておりますのでそれは「行為」と呼んでいいと私なんかは思うのですがヴェーダンタの人は頑なに「行為ではない」と言い、「知識」でのみ悟ることができると主張しますが、私に言わせてみれば同じことです。<br /> <br /> 修行や行為は「知識」という建前・お題目を抱えたらお題目が大事になってしまっているのかな・・・ という気もしますし、あるいは、単に言い方の問題かもしれません。そこは重要ではないと思います。<br /> <br /> 瞑想に関しても、ヴェーダンタの人はサマタ瞑想(集中瞑想)を「行為」と呼んで、「知識」の理解を深める瞑想を「行為ではない」と言っていますので、言い方だけの問題かなと思います。まあ、ヴェーダンタの人に対してあんまりこういう指摘はしませんけどね。本人たちがそういう言い方をしているのであれば、それに沿って理解してあげればいいだけのことで、相手の言い方を変える必要は全くないわけですので。私はただ単に理解したいだけですので。<br /> <br /> どうも、ヴェーダンタの言っていることは前提としてゾクチェンで言うところのテクチュの境地を求めているような気が致します。<br /> <br /> テクチュの境地とは「むきだしの心」の働きである「リクパ」という認識能力が働き始めた状態であるとゾクチェンでは定義しています。<br /> <br /> ヴェーダンタは幅広いですし時間がかかるのででそれ以前から勉強していても無駄にはならないと思いますが、本当にヴェーダンタが理解できて面白くなるのはテクチュの境地でリクパ(むきだしの心)が動き出してからかなあ、と言う気もします。<br /> <br /> このあたりは分かりにくい気がしますのでもう少し書きます。認識を3段階に分けましょう。<br /> <br /> 1.ゾクチェンのテクチュ以前の状態。認識が暗闇あるいは雲に包まれている。ロープを蛇と思ってしまう段階。何かを見て他の何かを思い浮かべてしまう状態。ヴェーダンタで言う「知識」が暗闇あるいは厚い雲で覆い隠されている状態。<br /> 2.ゾクチェンのテクチュの状態。雲が晴れてきたがまだ完全には晴れていない状態。若干、思い違いをしてしまう段階。いわゆる気付き、アウェアネス、観察、ヴィパッサナーが出てきた状態。ヴェーダンタで言う「知識」が若干の雲で覆い隠されている状態。<br /> 3.ゾクチェンのトゥガルの状態。雲がほぼ完全に晴れた状態。物事をありのままに見ることができる状態。ヴェーダンタで言う「知識」が即座に現れてくる段階。<br /> <br /> そうであれば、行うべき瞑想も段階によって変わってくると私なんかは思います。<br /> <br /> 1の段階:集中のサマタ瞑想で心を安定させる段階。ゾクチェンのシネーの境地およびテクチュの境地を目指す段階。<br /> 2の段階:ヴィパッサナー瞑想を行い、いわゆる「むきだしの心(リクパ)」で物事を観察し始める段階。<br /> 3の段階:ゾクチェンによると2の続きで到達できる。<br /> <br /> であれば、ヴェーダンタの言っていることは以下のように解釈できます。<br /> <br /> 1の段階:ヴェーダンタは「知識」でのみ悟ることができると言ってはいますが、この段階にあってはヴェーダンタは理解できないと思います。であればヴェーダンタは本来の意味の知恵という「知識」ではなく単なる「知っているか知らないか」と言う知識でこの段階では理解されます。それは無駄ではありませんが、この段階では、ヴェーダンタはヴェーダンタの人が言うところの「考える道具」になるのかな、と思います。特殊な用語によるヴェーダンタという世界のフレームワークを頭で理解する段階だと思います。ヴェーダンタの内容を自分の認識で確かめることができないので、「知っているか知らないか」と言う知識に留まるのかなと。それはそれで将来のためあるいは次世代に受け継ぐために無駄ではないとは思いますが、私なんかにしてみれば物足りなく感じます。<br /> 2の段階:ヴェーダンタが理解され始める段階。ヴェーダンタの言っていることは、ゾクチェンで言うところの「むきだしの心(リクパ)」で識別可能かなと思います。この段階においては、ヴェーダンタの言う「知識」は「知っているか知らないか」と本来の意味である「ありのままに認識」と言う意味の半々になるのかなと。部分的にヴェーダンタの内容が理解し始める段階かなと。あるいは、物事を「何度か」はっきりと観察することにより「徐々に」知識が現れてくる、まだ弱い知識の段階なのかなと。<br /> 3の段階:この段階には私はまだ至っておりませんが、おそらくは、2の段階がもっと素早く起こる状態になるのかなと。物事を何度も見ずとも瞬時に奥深くまで把握して即座に深い「知識」に至ることができる段階なのかなと。そうであれば、もはや「観察」などと言うものは瞬時のもの、あるいは、ほとんど時間を要せずにすぐに「知識」として現れてくるのかなと。<br /> <br /> この1の段階と3の段階を比べるとどちらも「知識」であることがわかります。<br /> <br /> 1の段階では「知っているか知らないか」と言う「知識」で、それは、識別や観察とかとはあまり関係がありません。<br /> <br /> 一方で、3の段階では「観察・識別」を通り過ぎたところにある、もはや観察・識別が瞬時すぎてあたかも不要かのように見えるほど当たり前になっている状態における「知識」なわけです。<br /> <br /> この2つの「知識」はかなり違うものであるのにも関わらず一見すると同じように見えることもあり、どちらも「知識」と表現しているので混乱が生じている気が致します。<br /> <br /> ・・・まあ、そうは言いましても、ヴェーダンタを勉強した人などそうはいない気がしますので混乱も一部の現象かもしれませんが。<br /> <br /> ヴェーダンタの人は「知識」と言いながら1と3をごちゃ混ぜにしているような気が致します。あるいは、表現は正しい筈なのに聞こえ手が間違って解釈しているのかもしれません。<br /> <br /> 例えば、ヴェーダンタの人は「正しく理解すればそれだけでいい。知識だけで悟ることができる」とか言いますけど、それは3の段階では確かにそうですけど1の段階ではそうはならないわけです。1の段階で得られるのは悟りではなく理解です。<br /> <br /> 3の段階においては「行動」などは不要で修行も不要です。だって、既に「到達」しているのですから。 ・・・私はまだ到達していないのでここは想像ですけど、おそらくはそうなんじゃないかと思います。<br /> <br /> 1の段階と3の段階の橋渡しがあるとすれば、それはやはり「修行」であると思うわけです。<br /> <br /> しかし、ヴェーダンタの人は「修行なんていらない」と言って、「知識だけあれば悟ることができる」と言いますが.... 私なんかから言わせれば、それは3の段階のお話で、到達した人が「不要」と言ったからと言って、そりゃ、3の段階で不要と思うだけで、それなら1の段階まで降りてきてそう言ってくださいよ、と私なんかは思いますが。悟っている人が悟っていないところまで降りてきて「やっぱり不要でした」と言うのなら納得できますけど、3の段階で「不要です」とか言ってもよく分かりませんし、私は上記のように橋渡しが必要だと思っています。<br /> <br /> そもそも、ヴェーダンタの悟った人のお話を読んでいますと、自分がどうして悟ったのかよく分かっていない人が散見されます。<br /> <br /> インドの聖者で生まれてその後しばらくして悟った人とか、自分が何をしていて何が大切で何が不要なのかよく分からずに自分にとって不要と言っている人がヴェーダンタの人だったりして、なんだかよく分からない感じです。ヴェーダンタ系のインドの聖者の中には、生まれながらにテクチュの境地でその後すぐに悟っている人もいるような気もしますがどうでしょう。<br /> <br /> ですから、私なんかが解釈するには、悟ってしまえばヴェーダンタは当たり前のことなんでしょうけど、悟るための良い手法だとは思えない、と言うところです。<br /> <br /> これまでにも何度か書いたように、1から3に至るにはいくつかの段階を経る必要があると思うのです。<br /> <br /> その結果、3の段階がヴェーダンタ的に「知識」と言うのならばきっとそれはそうでしょうし、そこは否定はしません。<br /> <br /> おそらくは・・・、ヴェーダンタの考え方として「行動は不要」「知識で悟る」と言っているが故に、それが教義と化してしまって本来の修行を修行と呼べずに他の表現で言うしかなくなった、と言う文化的なお話なんじゃないかな、と言う気もしますが... どうでしょう。 やっていることは瞑想にチャンティングに教義に従った食生活などですから、修行そのものだと思うのですが、ヴェーダンタの基本的な考え方と相容れないから他の呼び方をしているだけで、本質的には修行だと私なんかは思います。<br /> <br /> 例えば、ヴェーダンタのチャンティングは聖典の勉強ってことになっていますけど、古典的なヴェーダンタやサンスクリットの授業では教室に黒板がなくて教科書もなくて先生の発音を集中して聞いて暗記して復唱して... と言うやり方になりますので、それはめちゃくちゃスパルタで集中力を必要とする激しい修行だと思いますけど、どうでしょうか。それは、本人たちは勉強と言っていますけどヨーガの瞑想の集中瞑想(サマタ瞑想)さながらの激しい集中が要求されますので、形は違どもサマタ瞑想をして1番目の段階を修行しているように私なんかには思えます。<br /> <br /> そうして極度の集中力を身につけて2番目の段階の観察力に至ってヴェーダンタの教えを理解する、と言うのは手法としては理に叶っているとは思いますが、それが今のこの甘やかされた世の中で本当に可能かどうか.... 古典的なヴェーダンタの教室には黒板もなくて教科書もノートもペンもなくて全部暗記することを要求されますが・・・・ まあ、現代人には無理では? とも思いますが。<br /> <br /> 私がインドのリシケシでヴェーダンタの先生に教えてもらった時は、その先生はヨーガスートラやバガバッドギータを暗唱できましたけど、その先生ですら現代では教科書を使っていましたし。古典的な手法に従うのならば、教えに直接関係のないところで実は重要な能力を育てていることもある、と言うのが私の見立てですので、もしヴェーダンタの教えに完全に従うのであれば「メモなし」「黒板なし」「教科書なし」「全て暗記」まで古典的なやり方を真似すればきっとそれでも悟れるとは思いますが... そこまでしている人が現代にいるのでしょうか?<br /> <br /> 現代でもチャンティングはしますしその発音や意味などは勉強しますので、時間をかければ同様の効果があるのかもしれません。それをヴェーダンタの人は勉強と呼びますが、私なんかが見るとそれは修行であると思うのです。1番目の段階であれば修行、2段階以降は修行ではなくなる、と言う解釈もできますが、やはり広義では修行だと思うのです。<br /> <br /> そう言うわけで、私なんかが思うには、やはり1から3に至るには修行が必要だと思う次第です。<br /> <br /> Mon, 02 Mar 2020 00:00:00 +0900 精神が安定する静かな環境の大切さ https://w-jp.net/2020/1854/ <br /> ある程度の成長をすれば環境にさほど左右されなくなるとか言っている人もいますけど、まあ、あまり本気にしない方がいいと思います。基本的には人は環境に左右される生き物です。<br /> <br /> 同化してしまうと左右されないと言うかその基準にはまり込むので影響されない気がするだけで、成長もしなければ落ちにくい状況になるのかなと思います。<br /> <br /> 精神的な訓練には自分を変えることが必要で、そのためには静かな環境が必要だと思うわけです。<br /> <br /> 今の時代は山の中にこもらずに街で修行する時代だとか言う論調が数十年前から流行っていて、ことあるごとにそう言うこと言っている人がいますけど、あまり真に受けない方がいいと思います。<br /> <br /> たしかにある程度の成長がなされた後はいいでしょうが、数年間は静かな環境で過ごさなければならない人の方が多いと思います。最初はそんなものです。それが普通です。<br /> <br /> 思えば、前世の記憶で誰かに相談された際、心安らかに暮らす環境がないことをその人は訴えておりましたが、私はたぶんそのことを十分に理解せずに環境の重要さを抜きにして精神的修行を解いたような気も致します。<br /> <br /> その人の修行がうまくいかないことを他の理由に求めてしまっていました。<br /> <br /> しかし、今から思えば、それは環境が必要だったのです。そんな簡単な答えであっても、恵まれた環境にいる人は相手の環境への想像力が足りなくなってしまうのだと思います。<br /> <br /> であれば、ヨガのアシュラムとかで静かな環境にしばらく暮らすことは有用ですね。<br /> <br /> 昔も有用さを理解していたかと思いますが、最近になってより実感が湧いてきた気が致します。<br /> <br /> Sun, 01 Mar 2020 00:00:00 +0900 意識の虚脱感と軽い恐怖と共に光が滲み出る https://w-jp.net/2020/1853/ <br /> 朝、3時頃にふと目覚めて体を観察すると、最初は風邪の初期症状かと思いました。<br /> <br /> 体が少し弱っているような気がしたのですが、熱はありません。<br /> 最初は、意識も少し弱っているような気がしました。<br /> <br /> ですが、試しに視線を動かしてみるとスローモーションのヴィパッサナー状態は保たれておりましたので基本的な「識」の感覚は動いているようです。ですから、意識がタマスになって認識力が8fpsとかに落ちているわけでもなさそうです。そこは普通のようです。<br /> <br /> では、この状態は何でしょう?<br /> <br /> 意識の虚脱感・・・ と言えばそうですが、無力感、と言い換えてもいいかもしれません。<br /> <br /> ですが、上記のようにヴィパッサナー状態が保たれておりますのでタマスの愚鈍などんよりとした感覚に落ち込んでいるというわけでもなさそうです。<br /> <br /> おそらくは・・・ エゴの抵抗かな、という気がしております。抵抗が強いと激しい風邪になったり気分がどんよりとしてしまうのかなと。<br /> <br /> 体も軽く緊張しておりますので、気が付いたら意識的に解除してリラックス状態に戻してあげたりしています。<br /> <br /> 軽い風邪のような症状ですが、体を観察しておりますとオーラが体の表面でざわついており、そのオーラはまるで光のようです。<br /> <br /> そのざわつきは意識と同調しているかのようで、瞑想中のように集中はしておりませんので自然にそよ風で軽く吹かれている雲や霧のような感じになっております。<br /> <br /> 思えば、昔はこのオーラの感覚は「ざわつき」の「感覚」として認識されておりました。<br /> <br /> ですが、今朝は、何故かそれは「光」だと思いました。<br /> <br /> スピリチュアルでは「人は光の存在だ」とか「光を感じましょう」とかよく言われていますけれども、理屈ではわかっていても、いまいちピンと来ていませんでしたが、今日は自然に「あ、これは光だ」と識別できました。<br /> <br /> おそらくは・・・ エゴの抵抗が少なくなってきて、オーラの中の愚鈍なタマス・無明のような質が減ってきたので体の光が少しづつ滲み出てきているのかな、と、そんな気が致します。<br /> <br /> エゴの抵抗は、若干の軽い虚脱感と少しの恐怖と喪失感が伴っている感じですが、それを補うかのごとく光を感じています。<br /> <br /> こうなれば、今からどちらへ進むのかは明らかで、光の世界へと進むのだとしたらエゴの抵抗である虚脱感や恐怖や喪失感はきっと一時的なものかな... と思っております。<br /> <br /> 今は、もうちょっとこの状態で様子を見ます。<br /> <br /> 特に抵抗するでもなく、きっとこれは良い変化なのですから、このままこの先まで進めればと思います。<br /> <br /> Sun, 01 Mar 2020 00:00:00 +0900 想念が20秒かけて消えてゆくのを観察する https://w-jp.net/2020/1852/ <br /> 本日の瞑想中、急に子供の頃に遊んだゲームのBGM(音楽)が流れてきて懐かしい思いに3〜5秒ほど浸りました。久々に遊んでみてもいいかなという思いに包まれたわけですが、特に否定することもなく、同意することもなく、そのBGMを聞いていました。<br /> <br /> メロディが2〜3周するまでは普通に流れていました。<br /> <br /> すると、どうやらそれは体のどこかに眠っていた想念だったのか何なのか、急にふとその思いが弱まって行きました。<br /> <br /> 思いが弱まる、というのは、想念が弱まっていった、ということです。<br /> <br /> 具体的には、聞こえていた音楽が想念だったわけですが、その音楽の心の中の音量が小さくなっていって、1秒ごとに5%ほどボリュームが小さくなるようなゆっくりとした音量変化で20秒ほどかけて音楽が消えていったのです。<br /> <br /> 少し前に、論理思考は独立して機能しているみたいなお話を書きましたが、その中の表現を使いますと、想念や雑念は割と体の感覚に近くて、今回の音楽はこの種の雑念・想念として現れていました。<br /> <br /> 一方で、それを眺めている「見ている」という感覚は別にあって、いわゆる「観」、「アウェアネス(気付き)」、「ヴィパッサナー(観察)」という表現で言い表されるものがその音楽を聞いていたわけです。<br /> <br /> それは聞いていたわけですが、瞑想的な表現としては「眺める」という言葉を使っても同じことです。今回は映像はなくて音楽だけだったわけですが、瞑想的にはそんな時も「眺める」とか言ったりすると思います。まあ、文化的なものかもしれません。瞑想は集中(サマタ)と観察(ヴィパッサナー)ですので観察というと映像的なイメージがどうしても強くなってきてしまいますが、音楽を観察する場合は「聞く」であったとしても「見る」という表現を使ったりします。<br /> <br /> ヨーガの理屈からいうと「見る」という機関は全ての五感を代表していて、「見る」という機能が他の全ての機能そのものだ、というような説明もありますので、そう言った観点からも「見る」という表現は間違いではありません。<br /> <br /> まあ、理屈はそういうことではありますが、今日の瞑想では、音楽が不意に現れて、それが割と長い時間をかけて消えていったわけです。<br /> <br /> 瞑想の説明で「雑念が浮かんでもそれと戦ったりせずに観察するとその想念は力を失ってやがて消えて行きます」みたいなお話がヨーガではよくありますけど、これは、私が思うには中級者以上のお話だと思います。<br /> <br /> サマタで集中する力がつき、更にヴィパッサナーで観察する力がついて初めてそれが可能になるのかな、と私なんかは思うわけです。<br /> <br /> そうなる前は、雑念が浮かんできたら「ギュッ」と念を込めて意識的に雑念を止めるくらいしか方法がないと思うのです。<br /> <br /> どうも、ヨーガやその他の方法は初心者に優しくない(苦笑)と言いますか、中級者以上向けのお話を初心者にも適用させていて、それが混乱を招いているような気も致します。<br /> <br /> 例えばヴェーダンタも中級者以上のお話なのに最初から知識だけで悟れるわけもないですしね。<br /> <br /> 私なんかが思うには、最初はヨーガでサマタ瞑想(集中瞑想)でゾクチェンの言うところのシネーの境地に至って、その後にヴィパッサナー状態に達したらヴェーダンタにしても適用可能になるかと思うのですが、どうも、段階を踏んで成長すると言う観点が薄い... と言いますか、本人たちには明確なのかもしれませんが、どうもわかりにくかったです。<br /> <br /> まあ、その話などもおいおい。<br /> <br /> Sun, 01 Mar 2020 00:00:00 +0900 スローモーションのヴィパッサナー状態を妨げる習慣 https://w-jp.net/2020/1851/ <br /> いくつかの習慣により、いわゆるスローモーションのヴィパッサナー状態が妨げられるようです。<br /> <br /> ・食べ過ぎ<br /> ・お肉<br /> ・きのこ類?(要検証)<br /> ・揚げ物類(天ぷら等)<br /> <br /> これはヨーガでよろしくないと言われている食べ物と被る部分があります。<br /> <br /> 最近のスローモーションのヴィパッサナー状態に至る前は、そこまで影響はなかったように思います。<br /> <br /> ですから、ヨーガ等で言われている食事の習慣は文化的なものが大きいのかな、と思っておりました。今までは。<br /> <br /> 食生活においては、教理とは関係なく自然にお肉は食べなくなってきておりましたし、食事の量も減ってきておりました。ですので、自然に変わる食生活に従えば良いのかな、というくらいに思っていたのですが、どうやら、ここに来て自然以上に遥かに食生活に影響を与えている習慣があったことに気付かされました。<br /> <br /> まあ、それも含めて自然な変化だと言えばそうなのかもしれませんが、これは明確にわかる感覚ですので、以前のようになんとなく食べなくなる、という感覚よりもはっきりとしたものです。<br /> <br /> 明確にヴィパッサナー状態が妨げられますので、はっきりと良くないことが分かるのです。<br /> <br /> きのこ類は微妙で、多少は影響がある感じです。お肉は牛肉はマシですが豚肉はかなり悪いですね。鶏肉もそんなに良くないです。<br /> <br /> 感覚的なものとしてお肉は避けてきており、お肉くらいしか選択肢がない時は仕方なく食べても後悔することが多く、お酒も飲みたくなくなって最近はゼロなのです。<br /> <br /> 今までは、害があるとは言っても具体的にはちょっと気分が重くなるという程度でしたが、最近はスローモーションのヴィパッサナー状態という具体的な状態が判断の基準になってきておりますので、そうした害のある食べ物を取り入れると明確にヴィパッサナー状態が妨げられるのが分かるわけです。<br /> <br /> ですから、たまに聞くお話として、「ある程度に達したら食事は何を取っても良い」みたいな話は、少し前まではもうそんな段階なのかもしれないと思ったりしたこともありましたが、どうやら全然そんな状態ではないことがわかりました。<br /> <br /> 最終段階に至っても食事に影響されないなんてことがあるのでしょうかね? なんだか、影響されないなんてことは永遠にない気がしてきました。<br /> <br /> 理屈を考えてみれば当然で、食事を取るということはそのもののオーラを取り入れるということですから、淀んだオーラの食物を取り入れれば自分のオーラが淀むのは当然のことであるわけです。<br /> <br /> もちろん、淀んだオーラも純粋なオーラもそれよりも上の階層から見たら同じ「わたし」なわけですが、そんなレベルは私はまだ知りませんし。<br /> <br /> であれば、この地上に住む以上は相手のオーラを取り入れることが食事という行為である以上、永遠に食事に気を付けるというのがいい気がしてきました。<br /> <br /> おそらくは、このあたりが理解できない人向けに「何を食べてもいいんですよ」と過去のグルが言った大衆向けの説明から始まったお話の気もします。<br /> <br /> 生活習慣で言えば身の回りの環境もそうですね。大衆向けの説明に「どんな生活をしてもいいのですよ」とは言っても、実際には清潔で純粋な環境でなければヴィパッサナー状態は失われて行きます。これもオーラで説明がつきますし、そんな説明しなくても感覚的に当然だと思うわけですが、それでも、「理解」を求める大衆向けには「それでいいんですよ」と言ってあげる必要があるような気がします。<br /> <br /> 一方で、良いこと良くないことは明確な基準があって、分かる人は従えばいいのだと思います。<br /> <br /> その辺りも、従う従わないという選択は自由意志が尊重されているわけですし、自由に生きればいいわけです。<br /> <br /> Sat, 29 Feb 2020 00:00:00 +0900 まことの悟りが現れる前兆 https://w-jp.net/2020/1850/ <br /> ゾクチェンの3つの境地に当てはめればテクチュの境地の後にトゥガルの境地があるわけですけれども、おそらくは私はテクチュにいてこれからトゥガルかな、ということはここ数ヶ月の考察で推測してきたわけですけれども、最近の心が水面のように穏やかになるのは比喩ではないという経験あるいはヴィパッサナー的な「識」の状態に関して、面白い記述を本に見つけました。<br /> <br /> 同書では、ヴィパッサナー的な識の経験の説明として、禅宗の一派である黄檗宗(おうばくしゅう)の「鉄眼道光(てつげんどうこう)」の発言を引用して以下のように述べています。<br /> <br /> 心が澄みわたった大空のようになる体験はいまだ悟り体験ではない。それは単なる識を仏性/心の本性と誤解しているのである。(中略)この識はその全体が本来の心であるにせよ、無明の眠りが付着しているゆえに、「ただちに本来の心である」とは言いがたい。「本来の心である」とは言いがたいにせよ、やはり、もろもろの妄想がもはや去ってなくなっている状態であるので、ひたすら迷いであるわけでもない。もし修行者がここに行き着くならば、いよいよ精励して修行するが良い。やがてまことの悟りが顕れるはずの前兆である。「悟り体験を読む(大竹 晋 著)」<br /> <br /> これは、ゾクチェンでいうところのテクチュからトゥガルへと至る説明と類似しているような気が致します。<br /> <br /> ゾクチェンではテクチュが「むきだしの心」が現れてきた状態ということになっていますが、上記の記述と照らし合わせてみますと、「むきだしの心」「本来の心」がテクチュの状態で現れてはきたものの、まだ若干、汚れと言いますか無明と言いますかタマスと言いますか、流派によって言い方は異なれどもまだ少し汚れが残っている状態がテクチュであり、ゾクチェンのトゥガルあるいは悟りの状態に至るにはもう一段階、必要ということでしょう。<br /> <br /> ですが、ゾクチェンの説明にもあったのですがテクチュとトゥガルは一続きでテクチュに至ることができればトゥガルに自然に導かれてゆくという記述を読んだと思いますので、そうであれば、上記の仏教的解釈においても同様に「前兆」とあるように一続きで導かれてゆくのかな、とも思います。<br /> <br /> 妄想の闇は晴れたにせよ、「まだここではない」と心得て、捨て置きせず、また喜びもせず、悟りを待つ心もなく、ただ無念、無心のまま、ひたすら務めて行けば、忽然として真実の悟りが顕れてあらゆる法を照らすさまは、あたかも百千の日輪が一度に出現するかのようである。「悟り体験を読む(大竹 晋 著)」<br /> <br /> なるほど。道はここに示されたような気が致します。<br /> <br /> Fri, 28 Feb 2020 00:00:00 +0900 幽体離脱中に2000年問題を回避したお話 https://w-jp.net/2020/1849/ <br /> 何度か書いておりますように子供の頃に幽体離脱をして過去と未来とを長い間彷徨って真理を見たりハイヤーセルフや守護霊たちから学んだりしたわけですけれども、その時、あるいは、その後に夢の中でいわゆる2000年問題に対処したことを思い出しました。<br /> <br /> その頃、私はまだ学生で卒業するかどうかという頃でしたが、時代はインターネットによるITバブルと2000年問題で盛り上がっていたように思います。<br /> <br /> 具体的には、その時代に対処したわけではない... というと語弊がありますが、こういうことです。<br /> <br /> 更に遡ること7〜8年前にたしか最初に幽体離脱をして、その時、時間を超えて過去と未来を行き来して様々なことを学んだり将来の意識に入り込んで意思決定をしました。<br /> <br /> これ、なかなか理解されにくいことですけど、幽体離脱した後は時間を過去にも未来にも行き来できましたので、基本は近くの時代にスライドするのですが、大きく行き来することもできました。<br /> <br /> その幽体離脱した時の意識の空間は繋がっていて、例えば、そのとある幽体離脱の数年経った後に夢で同じ空間に接続して同じ意識に繋がって意思決定をする、という時もありました。どちらも同じ空間ですので、数年前に幽体離脱した時の意思決定と、後に夢で接続した意思決定はどちらも同じ瞬間の意志なのです。<br /> <br /> このことを人は「今しか存在しない」「未来とか過去は存在しない」とか言ったりするのかもしれませんけど、言い方はともかく、意志の空間は繋がっていて、そこは過去にも未来にも意識のフォーカスによってスライドできますので、そうして、意識のスライドのとある瞬間において2000年問題にフォーカスしたことがあるのです。<br /> <br /> 幽体離脱した私の意識は時代をフォーカスしているとある時代に2000年問題で盛り上がっているのを発見しました。<br /> <br /> 上に書いたように、幽体離脱の時にしたのか、あるいは、夢の時にしたのかは微妙なところで、同じ空間に繋がっておりますので、どちらも正解ではあるのですが、まあ、幽体離脱で2000年問題を解決したとも夢で2000年問題を解決したとも、どちらとも言えるわけです。<br /> <br /> まあ、所詮はこのような幽体離脱でのお話ですので、一般的には、夢のお話だと思っておいて下されば良いです。何も証拠はないですしね。<br /> <br /> ですから、これから話すことは夢で見たお話だと思ってください。<br /> <br /> 幽体離脱、あるいは夢の中で私はとあるタイムラインを漂っていました。<br /> <br /> 2000年問題が起きて、社会が混乱する姿を見ました。<br /> <br /> 問題として大きかったのはヨーロッパの、おそらくは西の方、フランスかスペインか・・・ その辺りの電力系の問題が発端として暗い夜に突入し、人心が不安定になり恐慌および争いの世の中に突入するタイムラインでした。その他にもたしかアメリカの問題や、日本の問題もありました。さすがに20年以上前の記憶ですので曖昧ですが、たしか原子力発電所の問題もあってメルトダウンに近い問題も生じていたような気が致します。<br /> <br /> ですから、その時の私の意識は時代を行き来するうちにこれは良くない・・・ という印象を強く持ったようです。<br /> <br /> その時、私の意識は誰から指示されたわけでもなく・・・ と思ってはおりますが実は上位の意思があったのかもしれませんが、少なくともその時の私の幽体離脱中の夢っぽい意識の中においては半分「実験」のつもりで、問題究明および解決にあたったのでした。<br /> <br /> 問題究明とは言いましても、時間軸を行ったり来たりできますので、基本的には未来のニュースを見て原因特定している番組の内容から理由を知るだけのお話です。<br /> <br /> 数ヶ月あるいは数年経てば原因究明も進んで詳しくテレビ報道しますが、その時は問題が大きかったので原因究明は早くて1ヶ月とか数ヶ月もしないうちにテレビで様々なお話が流れていたように思います。<br /> <br /> 原因究明がそのくらいでできたということは対処も割と短期間でできた筈ですが社会に残った傷跡は大きく、どうやら今のようなインターネットによるIT革命は今日ほど盛んではなくてITバブルの出鼻を2000年問題でくじいてしまってITに資金があまり行かずに旧来型産業が温存されたようにも思います。このあたりはちゃんと見ておりませんので半分は印象によるインプレッションになりますが、状況はどうあれ、世界の全体を見たら2000年問題で大きく時代が動いて暗い世の中になっていたと思います。少なくとも私の見たタイムラインではそうでした。<br /> <br /> そうして原因を特定できたら後は時代を遡ってその原因である研究所あるいは開発のオフィスに出向いて、問題のところを研究者あるいは開発者の意識に植え付け、直るまで繰り返し繰り返し意識にそのことを働きかけるだけです。一旦問題に気が付けばそこは専門家ですから適切に対処してもらえるというわけです。<br /> <br /> そうして、2000年問題はほとんど解決して、2000年の大晦日は静かに過ぎて行きました。人々は、何も起こらなかった夜を揶揄して騒ぎ過ぎだとか口々に言ったわけですけれども、実際は大騒ぎしていた筈だったのです。<br /> <br /> そういえばその前後にジョンタイターとかの予言が流行ったりしましたけど、私はその人が本物かどうかはわかりませんけど少なくとも言っていることのうちに2000年問題のこともあって、それを境に世界が暗い方向に行くというのは私が見たタイムラインと妙に一致しておりましたので当時は興味深く眺めておりました。<br /> <br /> まあ、未来人かどうかはともかく、意志が過去や未来に行くのは幽体離脱時の経験からしてあり得ると思いますし、意志の世界には時間的制約はあまりないのではないでしょうか。<br /> <br /> 同じ幽体離脱と言っても他の人の経験談には時間を超えるお話はあまり出てこないように思いますが、それは、地上の生活に慣れ過ぎていて時間的制約に意思が囚われているだけで、時間を越えようと思えば超えられるように思うのですが、どうでしょうか。<br /> <br /> それはともかく、そうして2000年問題は回避され、ITバブルでインターネット企業に大金が投資され、こうして世界はインターネット企業が時価総額のトップを飾る世界になっているわけです。<br /> <br /> この現代を人はインターネット企業の独占が問題だとか言ったりするわけですけれども、違うタイムラインで従来型産業が維持されていて世界各地の紛争も今のタイムラインよりも多くてインターネット企業が今のタイムラインよりも細々と存在している世界とを比べますと、今のタイムラインは色々問題があるとはいえ、割とマシなタイムラインなのではないかと思うわけです。<br /> <br /> ま、こういうのは信じる必要はないです。<br /> <br /> 上に書いてあるように、夢で見たお話ですからね。<br /> <br /> しばらくすっかり忘れておりましたが、不意に思い出しましたので書いてみました。<br /> <br /> Thu, 27 Feb 2020 00:00:00 +0900 純化されつつあるやや曇ったオーラを通して周囲を認識する https://w-jp.net/2020/1848/ <br /> 意識が拡大するにつれて体の周囲のオーラの境界を感じるようになりました。<br /> <br /> 心が穏やかになり、意識が広がると、体のオーラと外側との境界がザワザワとした水面のように感じられるようになったのです。<br /> <br /> それは、シュタイナーの説く境域の守護者かもしれませんし、単なるオーラの壁のようにも見えます。<br /> <br /> 体と、体の近くに存在しているオーラまでが内側です。オーラの外側との境界がそのように濁ったようなザワザワしたような水面あるいは灰色の雲のように感じられます。<br /> <br /> 内側から見るとオーラの境界のざわつきであり、その外側に広い世界が広がっています。<br /> <br /> 外側を感じることを意識の拡大といえばそうでしょうし、この、内側から外側を見たときの景色をシュタイナーの言う境域の守護者だといえばそれはそうかもしれません。<br /> <br /> 内側から曇りガラスを通して外を眺めるとよく見えないのと同様に、曇ったオーラを通じては外がよく見えません。<br /> <br /> 外側に立っている守護霊や友人知人の霊などの存在を見て、それがよく見えない初期の段階のことをシュタイナーは境域の守護者と呼んだのかもしれません。なんとなくそんな気が致します。<br /> <br /> 精神的訓練を始める前は完全にオーラが濁っていて何も外が見えなかったりしますが、やがてオーラが純化されてきて雲の色が次第に白くなってゆき、まだ曇ってはいるものの霧が次第に晴れてきて外側が見えるか見えないくらいになったとき、その時、初めて外側の景色を曇ったオーラを通じて見たら、それは雲のようにぼやけた霊の体のように見えるかもしれません。それを境域の守護者とか呼んだのかもしれません。<br /> <br /> 境域の守護者とか言っているのはシュタイナーくらいですが、確かに、曇ったオーラを通して外を眺めるとそのように見えるかもしれません。シュタイナーは存命ではないのでこれは想像になってしまいますが。<br /> <br /> シュタイナーは境域の守護者を突破して霊界への扉を開く、と言うようなことを言っています。<br /> <br /> であれば、その段階とは、意識が次第にクリアになってあと少しの曇りが残っている状態になって外がようやく見え始めた段階のことを言うのかな、と推測できます。<br /> <br /> 瞑想中に一瞬見えた小悪魔の影もそれに準じたものかもしれません。<br /> <br /> この推測が正しいのであれば、それは境域の守護者とか大そうなものではなく、見えたものがそのようにも解釈できる段階に達した、と言うことなのでしょう。<br /> <br /> ゾクチェンで言うテクチュの境地がこれに該当するのかなと思います。テクチュは曇りがある程度晴れてはいるものの完全に晴れてはおりませんので似ている気が致しますし、段階的にも合っています。<br /> <br /> まあ、本人に聞くことはできないので想像です。ですが、そんな気が致します。<br /> <br /> Wed, 26 Feb 2020 00:00:00 +0900 だるまさんのような丸いオーラの体になって眉間の周囲にオーラが集まる https://w-jp.net/2020/1846/ <br /> 感覚的なものですが、瞑想が安定するにつれて首から下の下半身がだるまさん、あるいはドラえもんの体のように丸くなった感じがしております。<br /> <br /> その上に、ドラえもんの頭のようにちょこんと丸い頭が乗っかっています。<br /> <br /> かなり昔はオーラを頭に集めたままにしていると不安定になって情緒不安定になったりしたものでした。ですから、以前は瞑想中に頭にオーラを集中させても瞑想を終える前にオーラを胸かお腹の辺りまで下ろすことが肝心でした。<br /> <br /> しかし、今はオーラを頭に集めても安定していますし、そのまま瞑想を終えても特に問題ありません。<br /> <br /> 今から思えば昔はオーラが縦長だったかもしれません。体のオーラが安定していなくて、体に沿った縦長のオーラの上にある頭にオーラを集めようとしてもなかなか集まらなかったり安定しなかったように思います。<br /> <br /> しかし、今は体の部分がどっしりと安定しておりますので、頭にオーラを集めてもそのままで安定しています。<br /> <br /> 頭の、眉間の辺りにオーラが集中している... と言いますか、勝手にそうなる感じです。<br /> <br /> 昔は意識してオーラを頭に集める必要がありました。<br /> <br /> 今は、眉間のあたりにオーラが勝手に集まる、という感じです。<br /> <br /> これを集中と言うのかどうかは微妙なところで、オーラが集まっているという結果からすればそうですけれども意思として特に集中しようと意図したわけではありません。<br /> <br /> 下半身のオーラがだるまさんのように丸く安定した結果、勝手にオーラが眉間のあたりに集まるようになった、というお話です。<br /> <br /> もしかしたら、そもそもの瞑想の意義とはこういうものなのかもしれませんね。<br /> <br /> 意図的に集めようとしているうちはまだまだで、オーラが勝手に集まるような状態を目指してその練習をしているのが瞑想である、とも言えるのかもしれません。<br /> <br /> これは、呼吸法にも言えますね。最終的な目標の状態をマスターが弟子に教えて弟子はマスターの真似をする。しかし、マスターは努力をそもそもしておらず、単に自分の状態を伝えただけなのでしょう。であれば、瞑想にしても努力するものではなくてマスターの状態が眉間に集中... と言いますか眉間にオーラが集まっている状態なのだ、という解釈もできます。<br /> <br /> そんな気がしてきました。<br /> <br /> 表現の違いといえばそうかもしれませんけど、以前および今日くらいまではこれらの状態を「オーラを集める」だとか「オーラが眉間に集まる」とか「眉間に集中する」とか表現していたわけですけれども、瞑想でこれらの状態を観察していましたところ、どうやらオーラを集めるというのは一応は正しいものの、手のひらでオーラを持って頭の上に集めようとしているようなイメージ、あるいは、頭の上半分が空洞で、そこの周囲にオーラを集めている、という表現の方が正しい気がしてきました。<br /> <br /> 昔、マニプラ優勢の頃にアナハタの感触がなくてアナハタにエネルギーがあまり通っていなかった時の感覚に似ています。今は頭の上半分のアジナに感触がありませんのでアジナにエネルギーがあまり通っておらず、アジナにエネルギーを集めようとしている状態なのだと思います。アナハタ優勢になる以前の経過を踏まえて、アジナも同じような経過を辿るのだと仮定すればおそらくは今はアジナにエネルギーをようやく通そうとしている状態なのかなと思います。<br /> <br /> チャクラって「開く」って表現されますけど、開くというのも間違いではないにせよ、エネルギーがそこに通る、という感じだと思いますので、アジナにエネルギーが通っていない現在の状態においてようやくその「境目」が認識されるようになったのであれば、それはマニプラ優勢の頃にアナハタに対して境目とアナハタの感触のなさを感じていてその後アナハタにエネルギーが通り始めたのと同様、アジナより下にエネルギーが満ち始めてオーラの体がだるまさんのようになってアジナに対して境目とアジナの感触のなさを感じているのは、割と良い傾向なのではないかなと思っております。<br /> <br /> Mon, 24 Feb 2020 00:00:00 +0900 日常が映画になるヴィパッサナー瞑想 https://w-jp.net/2020/1845/ <br /> 最近はヴィパッサナー状態でスローモーションのように視界を観察しているわけですが、その状態のオンオフや深度に変化がつくにつれ、日常生活が次第に映画のように緩急のあるものになってきました。<br /> <br /> なんてことはない景色が映画やドラマの一場面のように感じられることが多くなってきています。<br /> <br /> 例えば渋谷の人混みで、遠くに視点を合わせます。<br /> <br /> ヴィパッサナー状態では全体がスローモーションで感じられますが、そこはあえて緩急をつけて、目のフォーカスを遠くに合わせてみます。すると、手前がぼやけて見えます。<br /> <br /> 以前ですと非ヴィパッサナー状態ですから遠くを見た時は遠くしか意識に入りませんでした。<br /> <br /> 調子にもよりますが今は視界の全体が割と広めに見えますので、遠くに視点が合っていても近くがぼやけて人の動きが感じられます。<br /> <br /> それが、まるで映画やドラマで遠くに焦点が合っていて手前がぼやけている場面のように感じられるわけです。<br /> <br /> これは、現実世界でドラマや映画を見ているかのようです!<br /> <br /> 視点を例えば近くに向けると、遠くの景色は焦点が外れてぼやけて見えますから、まるでボートレートの写真を見ているかのようです。<br /> <br /> 風景画のようにパンフォーカス(全焦点状態)で見ると手前も奥も平べったく見えますから、それはそれで楽しいものです。<br /> <br /> そうすると、視界全てが美しい場所、というのがいいな、と思うようになりました。<br /> <br /> 映画やドラマだって美しい景色が良いでしょう? それと同じです。<br /> <br /> ヴィパッサナー状態になるにつれて、自宅の部屋もちょっと気になり始めました。<br /> <br /> もともと美術館や博物館にはちょくちょく出かける方ですが、ヴィパッサナー状態になって視点が変わりましたので今まで見たことのある作品も一旦はリセットして気持ちを新たにしてもっと美というものに焦点を当て直してみるのもいいかなあ、と思い始めています。<br /> <br /> Sun, 23 Feb 2020 00:00:00 +0900 心が水面のように穏やかになるのは比喩ではない https://w-jp.net/2020/1844/ <br /> 瞑想を始めたばかりの頃は瞑想の例えで水面のお話を聞いても「そんなものかな」という感じでした。理解はできても一体どうすればそのようになるのか、実態が伴いませんでした。<br /> <br /> 水面のお話とは心の例えで、心が穏やかになることは湖の水面の波立ちが静まるようなものであり、水面の波立ちが静まると水面下にあるものが見えるかの如く心の奥に眠っている本当の自分、真我(アートマン)が見えてくる、あるいは、現れてくる、というお話です。これは水面だけでなく鏡で例えられたりします。<br /> <br /> まあ、このお話は有名でスピリチュアルや色々な人がよく言うわけですけれども、その大元は確か古典ヨーガスートラの記述だったかと思います。<br /> <br /> その比喩ですが、最近は単なる比喩よりも実感のあるものになってきました。<br /> 昔ながらの比喩であることに変わりはないのですが、最近はそれが単なる比喩ではない、実感のあるものに変わってきたのです。<br /> <br /> 昔は「比喩ですね。ふんふん。理解できます。そうですよね。その通りだと思います」という感じでしたが、今は、心の状態の「これがそのことだ」と実感が伴っています。<br /> <br /> 今の私の心の状態は、「水垢のついている鏡」「少し曇っている鏡」「汚れがついている鏡」「そよ風で少し波のある水面」と言う感じです。自分の心の表面についている曇りの状況がよく分かります。<br /> <br /> なるほど。この実感を味わってみると、ここに来てもまだまだ先があると言うことだと思います。<br /> <br /> ヨガや瞑想を始める前の心の波を100とすれば、ゾクチェンで言うところのシネーの境地で心が統一された時の心の波が10であり、最近になってスローモーションのヴィパッサナー状態になると心の波が1〜2程度だと思いますが、それでもまだ先があると言うことだと思います。<br /> <br /> 心の波が1だと動画でいうところの24fpsくらいの滑らかさで視界が認識され、1.5〜2くらいだと8~12fpsくらいの少しカクカクで認識される、という肌感覚です。<br /> <br /> 心の波、あるいは心の曇りの度合いによってヴィパッサナーの深度が変化するとすれば、心の波が更に静まれば心的な変化が更に起こる可能性があるのだと予想できます。<br /> <br /> 昔は、心の波としての水面が穏やかになるというのは魔術や瞑想などの秘術で心を押さえるもののようなイメージが最初にあって、心とはこんなものだ、という既成概念がありましたが、心の状態そのものがこれだけ変化してきている今とあっては、もっと心の変化があっても不思議ではないと思っています。<br /> <br /> であれば、水面や鏡の比喩も、心の姿にもっと先があるのだとすれば単なる1つの面としての比喩としてではなく、比喩としてのイメージとして表されて理解されたかつてのイメージの一面としての理解上の心の姿以上のものが実際の心の姿として存在しているわけです。<br /> <br /> 比喩として表現されるのは理解の一面にしか過ぎず、実際の心の姿は変化し、それ故にかつての理解を超えたものに心は変化し、再度心が理解されてもかつての理解とは異なり、かつて表現して理解された比喩としての心の姿も、心のありようが深化して変化すれば比喩としての心のありようもまた変化する。<br /> <br /> よって、心を例える水面や鏡の例えそれ自体は比喩ではありますが実際の心の姿は実質的なことでありますので比喩を超えたものであると思うわけです。<br /> <br /> これが、心で捉えることのできない観念的な事柄であれば比喩として説明して終わりなのでしょうが、瞑想で心を捉えることができて、それが深化するからこそ心は比喩を超えたものであると思うわけです。<br /> <br /> それは、もはや心やマインドと呼ぶべきものかどうかすらわからなくなってきておりますが、それでも、意識がそこにあって、いわゆる思考や心やマインドと呼ばれている顕在意識と並行、あるいは階層的になっている静かな意識が深化していっていると思うわけです。<br /> <br /> Sat, 22 Feb 2020 00:00:00 +0900 自分のオーラを使わないヒーリング https://w-jp.net/2020/1843/ <br /> 自分のオーラを通じてヒーリングする人は大勢いらっしゃいますけれども、私のグループソウルから転生しているパラレルワールドにいる自分の分身は、自分のオーラを使わないヒーリングの技を持っています。<br /> <br /> ヒーリングは色々と方法があります。<br /> <br /> ・自分のオーラを相手に繋げて、自分のオーラを譲るヒーリング<br /> ・天あるいは地のエネルギーを一旦自分が受けて、自分の体を経由して相手に与えるヒーリング<br /> ・天あるいは地のエネルギーを相手に直接与えるヒーリング<br /> <br /> 大抵は自分のオーラを経由するヒーリングですが、自分のオーラを経由しないヒーリングですと自分のオーラが相手のオーラと混ざらないために自分のオーラが淀まないというメリットがあります。<br /> <br /> この他には、自分ではやらずに守護霊や守護天使が直接ヒーリングするというお話もありますが、それは肉体があるかないかの違いだけでさほど差がないのでここでは割愛します。<br /> <br /> 守護霊や守護天使のエネルギーを一旦受けて自分の体を経由して相手に与える場合は上記の2番目と割と近いので含めることができます。<br /> <br /> ヒーリングのテクニックとして、地のエネルギーは淀んでいることが多いために天のエネルギーを使う方が良いと思いますが、天のエネルギーを使うためにはまず自分が天に繋がる必要があります。<br /> <br /> 最初に自分が天に繋がり、その後、自分のオーラの触手のようなものをグッと天にまで伸ばして、天からヒーリングの対象(相手)、例えば自分の目の前にいる相手に対して、天から新たなエネルギー・ルートを作ってヒーリングの対象(相手)にエネルギーを繋ぎます。<br /> <br /> そうして一旦エネルギーが天から繋がったら、あとはエネルギーを降ろすだけです。最初が難しいですが、一旦繋がってしまえば維持するのはさほど難しくはありません。繋がりが切れないように時々意識でルートを保持してあげるだけです。<br /> <br /> これは人のヒーリングだけでなく、場所のヒーリングにも使えます。<br /> <br /> 場所のヒーリングに使う場合は、そこを通る人が自動的にその光の柱からヒーリングを受けることになります。<br /> <br /> 言い方を変えれば、イヤシロチ化ですね。<br /> <br /> 保持していないとそのエネルギーの柱は切れてしまうことがありますので時々メンテナンスする必要があります。<br /> <br /> 人為的に作った場合ですと数十分や長くて数時間で無くなってしまいますので、場所をイヤシロチ化する場合は維持が肝心だと思います。<br /> <br /> その手間を考えると、聖地を守ってくれてくださる方々の苦労は並々ならぬものがあるのだな、ということも理解できるわけですが、それはまたおいおい。<br /> <br /> Fri, 21 Feb 2020 00:00:00 +0900 エネルギーの枯渇に気を付ける https://w-jp.net/2020/1842/ <br /> この日常生活にはエネルギーの枯渇の危険性が沢山あります。<br /> <br /> 一般常識で「良い」とされていることでも、実のところやらない方が良いことも沢山あります。<br /> <br /> その1つが「相手への同情、同意」です。<br /> <br /> もちろん、時と場合によります。<br /> <br /> 同程度の相手あるいは自分より素晴らしいオーラをお持ちの人に同意するのは良いとしても、自分より下のオーラにいちいち同情・同意していたら落ちるところまで落ちてゆきます。<br /> <br /> エネルギーを奪うための「嘘」がこの世には蔓延っておりますから、そう言った嘘を見抜いて相手にしないことが肝要です。<br /> <br /> まあ、こんなこといいますと「それは分離の意識だ」とか「みんな本当は繋がっているのです」とかスピリチュアルなことを言い出す人が必ずいますけど、実際のところこの世界は野獣がたむろしているジャングルですから、いちいち相手に同意とか同情していたら落ちるところまで落ちてゆきます。<br /> <br /> このジャングルを生き抜くためには自分たちと意思を同じくした人たちとの間で同情・同意をして同じ船に乗ることが肝心で、誰それ構わず同意して自分を相手に合わせる必要はない筈です。<br /> <br /> そして、それこそが最終的には相手のためになります。<br /> <br /> 相手は、せっかくどん底に落ちているのに勝手に誰かが自分を助けてしまうとそのどん底を心底、骨の髄まで体験することができなくなってしまうからです。<br /> <br /> ですから、どん底に落ちている相手にはどん底を体験して貰えばいいのです。<br /> <br /> もちろん、突き落とすことはしてはなりません。相手が勝手に落ちているのですから、それは自由意志のなせる技ですからそれを「これがいいよ」とか「光の世界に上がりましょう」とかスピリチュアルなことを言って引き上げようとするのは余計なお世話というものなのです。<br /> <br /> ぶっちゃけ、この世界は、いいことも悪いことも含めて全て完璧ですから、落ちているのも趣味みたいなものなのです。<br /> <br /> 好きにすればいいのです。<br /> <br /> 光の世界も趣味みたいなものです。私は趣味で光の世界を好みますが、そうでない人もいるわけです。<br /> <br /> それなのに、光の世界がいいですよ、なんて他人にいう必要はなくて、誰かにそんなことを言っているのだとしたら、それは相手をコントロールしたいというエゴかもしれないわけです。<br /> <br /> 基本は、各人が好きに生きればいいのですから、落ちようが上ろうが好きにすればいいのです。<br /> <br /> 落ちる人は往々にして他人からエネルギーを奪おうとしますが、私はそんなのに付き合うのは趣味ではないのでエネルギーを盗まれないようにしてエネルギーの枯渇に気を付ける、という、ただそれだけのお話です。<br /> <br /> 世の中にはヒーラーさんとかいますけど、それすらも趣味みたいなものです。自分が相手のためにエネルギーを与えると決めてヒーラーになったのだとすれば、それは好きにすればいいわけです。それを誇る必要は全くないし、全ての人がヒーラーになる必要もありません。<br /> <br /> それもまた、趣味みたいなものです。<br /> <br /> 何でもして良い、自由な素晴らしいこの世界であるわけです。<br /> <br /> Thu, 20 Feb 2020 00:00:00 +0900 想念をもありのままに観察する、なんてのは上級者のお話 https://w-jp.net/2020/1841/ <br /> 少なくとも私は想念、いわゆる思いや考えが出てくるとスローモーションのヴィパッサナー状態が解除されます。<br /> <br /> よく瞑想の本に、考えや思いが出てきても妨げずにありのまま観察します、なんてことが書いてありますが、少なくとも私は無理です。<br /> <br /> おそらくはこの種のお話は二つのことが入り混じっているのかなと。<br /> <br /> ・思いや考えが出てきても否定しないでください。<br /> ・思いや考えに意識が向いていることに気が付きましょう。<br /> <br /> これは瞑想の基礎のお話です。<br /> <br /> それを「観察します」とか言われても、言葉が間違っていると私なんかは思うのです。これは、「観察」とは言わない気がします。表現の違いだけであれば、そういうことだと思います。<br /> <br /> 「観察」なんて言われると、まるでヴィパッサナー状態で考えを妨げずに観察することだなんて解釈してしまいますけど、それはかなりの上級者向けのお話だと思いますし、私の場合、完全にそのように観察するのは無理です。<br /> <br /> 意識の半分をスローモーションのヴィパッサナー状態に保ったままもう半分の意識で考えや思いを観察する、ということはできますが、その場合、スローモーションの観察で認識できる景色のコマ数が半分くらいに落ちて、カクカクな飛ばし飛ばしの映像で視界が認識されます。<br /> <br /> ですから、同じようにスローモーションで完全に認識したまま思いや考えを同時に完璧に観察することは私にはできないのですが、もしできたとしても上級者向けのお話かなという気が致します。<br /> <br /> 想念だけであればしっかり観察できますので、想念に対してヴィパッサナー瞑想している、と言えなくもありませんが、想念の場合は映像と違ってどのくらいの速さで認識しているのか分かり辛いために本当にきちんとヴィパッサナー状態でいるのかどうかなかなか判別が難しいという面もあります。<br /> <br /> 想念はいわゆる心(マインド)が認識するものですので、視界に対するスローモーションのヴィパッサナー状態では心(マインド)が停止して、その奥にある認識力(いわゆるアウェアネス)が働いて視界をスローモーションで認識しますので、そうであれば、心(マインド)が想念を観察するというのは視界に対するスローモーションのヴィパッサナーとはちょっと違うのかな、という気もしています。<br /> <br /> もしかしたら、ヴィパッサナー状態で想念を観察する際は思いや考えという論理を司る心(マインド)のような認識ではなくて、もっと根元に近いものを直感で把握するという種類の認識になるのかもしれません。このあたりはまだ仮説ですけど。<br /> <br /> ですが、割と上級者の書いたと思われる瞑想の記録には想念を観察してどうこうするというお話も書かれてあった気がしますので、そのコンテキストから言えばスローモーションのヴィパッサナーで想念(思い・考え)を観察する、というのもあるのかもしれないな、というくらいの認識で頭の片隅に置いてあります。<br /> <br /> Wed, 19 Feb 2020 00:00:00 +0900 神から離れれば離れるほど遠近感が生まれる https://w-jp.net/2020/1840/ <br /> タマスにより没入感が生まれるのと同様に、タマスになればなるほど遠近感が生まれるような気がしております。これは、ヴィパッサナーで遠近感がなくなってくるのと逆の現象で、ヴィパッサナー状態から離れれば離れるほど遠近感が生まれ、それはタマスな状態のことである、とすれば、とても理に叶っているような気が致します。<br /> <br /> 西洋文明は近年になって遠近法という手法を発見し、アジアや過去の文明を遅れた文明だと白人文明が主張したわけですが、実際のところ遠近法が上記のようなものだとすれば遠近法を発見できた白人文明とはタマスな文明でありヴィパッサナーとは遠く離れた文明であり、神とは遠い文明であるという仮定が成り立つわけです。<br /> <br /> 科学技術の発達も遠近法のような技術に根差しているわけで、タマスなことが必ずしも悪いというわけでもなく、タマスによって真実を探るということがよく行われているのだとすれば近年のタマスは神の意志であるという解釈も成り立つわけです。<br /> <br /> タマスな状態、神と離れた状態に突き放したのが近年の文明だとすれば、それでどうなるのか見極めたかったという神のご意志であるという仮説も成り立ちます。<br /> <br /> 一方、ヨガの3グナのうち他の二つ、ラジャスとサットヴァはどうかと言えば、ラジャスは遠近感が中くらいで、サットヴァなヴィパッサナー状態は遠近感が少ない状態ですが、サットヴァは物事を正しく把握するという点において遠近法とは相性がいいのかもしれません。<br /> <br /> であれば、タマスだけが遠近法を生み出したのではなくタマスとサットヴァが組み合わさって遠近法を生み出した、という仮説も成り立ちます。<br /> <br /> もしかしたら、科学技術や文明というのは両極端なタマスとサットヴァによって作られてきたのかもしれません。そんな仮説も出てきます。<br /> <br /> 一般大衆が中間のラジャスだとすれば、極端なタマスが神の意思で作り出され、それがサットヴァな神の意識と合わさることで認識が生まれ、文明や科学技術が発展する。<br /> <br /> ヨガの世界では割とタマスが悪者になりがちですが、そう考えると、タマスも意外に悪くないものだということになります。<br /> <br /> Tue, 18 Feb 2020 00:00:00 +0900 日常生活でなるべくサマーディ状態を保つ https://w-jp.net/2020/1839/ <br /> 最近は日常生活が修行になるヴィパッサナー瞑想を心がけているわけですけれども、私の言うサマーディとヴィパッサナー瞑想とは同じことです。<br /> <br /> やっていることは24時間瞑想の考え方と同じです。日常生活で思考に囚われていたら一旦脇に置いておくか素早く結論を出してからヴィパッサナー状態に戻ります。その状態をサマーディと読み替えても同じことです。スローモーションで感じるサマーディ状態をなるべく保ちます。<br /> <br /> 日によってその観察の深さが違うのを感じます。ここでいう深さとは、1秒間に何コマくらいのスムーズさで視界を認識できているのか、という点で私は判別しています。<br /> <br /> これは、以前にも動画編集の例えを出しました。24fpsや30fpsくらいの割とスムーズな映像として視界が認識されているのが基本のヴィパッサナー状態で、疲れやどんよりとして認識力が弱まっている時は8fpsや12fpsなどで視界を認識しているように思います。明らかに視界の動きの滑らかさが違いますので自分の状態が客観的に判別できるわけです。<br /> <br /> 思考をしていると目の前の景色を見ているような見ていないような状態になります。その思考に気付いて視界に意識を戻すと24fpsですとか12fpsですとかその時の状態に応じた認識の状態に戻るわけです。<br /> <br /> ですから、修行と言えるほどのものでもありませんが、思考している自分に気付いたら、それが大切なことであれば素早く結論を出して、単なる雑念であればその雑念を止めて視界の認識に戻してサマーディ状態、ヴィパッサナー状態に戻るということを最近は日々、心がけています。<br /> <br /> ですから、座った瞑想もそれなりに行いますが、むしろ、最近はこちらの日常生活のヴィパッサナー瞑想によるサマーディの方が重要な気がしてきています。<br /> <br /> どちらも必要ですが、座った瞑想を以前のように長くする必要はない感じで、日常生活のヴィパッサナー瞑想をなるべく長くするように心がけています。<br /> <br /> 基本的にヴィパッサナー瞑想とサマーディとは同じことであるわけですけれども、単に視界をスローモーションで認識している時はヴィパッサナー瞑想とは呼びますが不二の意識は働いておりませんのでサマーディと呼ぶのは不適格かもしれません。<br /> <br /> ですが、ヴィパッサナー状態を続ければすぐに不二の認識が働いてきてサマーディに導かれてゆくと思いますので同じと言ってしまってもさほど支障は無いように思います。<br /> <br /> このあたり、用語が混乱しておりますので私のコンテキストを他の流派の定義に当てはめて読むことは難しいと思います。私の考えるヴィパッサナーとサマーディに当てはめるとこんな感じ、というだけのお話です。<br /> <br /> Mon, 17 Feb 2020 00:00:00 +0900 あるお方がコロナでお亡くなりになる予感がしました https://w-jp.net/2020/1838/ <br /> Twitter等で拡散されている記事をたまたま目にした瞬間、「あ、この人コロナで死んじゃう」と頭に入ってきました。<br /> <br /> ・・・ですが、さすがに本人には言っていません。風評被害と言うものもありますし、単なる気のせいかもしれません。<br /> <br /> その記事は、コロナが逆に商売のチャンスだ... みたいなことを書いていて、こういうのをネタにするのはモラル的にどうなんだろうなぁ、と思ったらふと上の直感が湧いてきたのです。<br /> <br /> いや、死んで欲しいとは思っておりません。むしろ、人は好きに生きれば良いと思っていますから、ちょっと不道徳を感じたくらいであとは放っておくつもりでした。<br /> <br /> しかし、流石に上記のような直感が現れましたので、もしかしたら、今のコロナの被害は世間で思っているより遥かに甚大な被害を出すのかもしれません。<br /> <br /> 以前余談でちょっと書きましたが、私は東京オリンピックが開催されないと思っております。ずっとそう思っていたのですが地震も何も起きないので、予感が外れたのかなぁ... と思っておりました。まあ、外れる時もあるよね、と。<br /> <br /> 元々は東海地震と関東大震災が原因で東京オリンピックがなくなると思っておりました。まあ、まだ時間はありますからそう言うことになるのかもしれませんが、それよりも、コロナで東京オリンピック開催されないと言う事態の方が可能性が高い状況になってきたように思います。<br /> <br /> これは、私の想定外です。 まさか、このような展開になろうとは思ってもいませんでした。<br /> <br /> ・・・いや、ちょっと気が早いですね。まだ東京オリンピックは中止されてはいませんからね。<br /> <br /> これからの被害の広がりにもよるでしょうし、被害がこれから広がるとすればギリギリ開催できるかできないか、と言う瀬戸際なのではないでしょうか。かなりの被害になるとすれば中止あるいは観客なしでの開催という可能性もあるでしょうし。<br /> <br /> この想定は、今まで私の中にはありませんでした。<br /> <br /> しかし、上記の発言をした人がコロナで死んじゃうという予感が来た瞬間に、上記のような可能性も出てきました。<br /> <br /> 今回来た予感は上記の人がコロナで死んじゃう、というところだけです。東京オリンピックがどうなるのかの予感は今回ではなくて遥か昔からそう思っていたことで、上記の東京オリンピックのお話は私が頭で類推したものであって、今回東京オリンピックに関して追加の直感はありません。<br /> <br /> 死んで欲しくはないですしまだ未来のお話なので回避もできることでしょう。死なないでいてくれて直感が外れてくれた方が良いのです。<br /> <br /> どうなることやら・・・。<br /> <br /> <br /> <br /> Sun, 16 Feb 2020 00:00:00 +0900 ヨーガスートラにせよ、仏教にせよ、大切なのは疑わない心 https://w-jp.net/2020/1837/ <br /> 大切なのは不二の境地に至ることでありますから、そこに至るまでは何に頼るにせよ疑わないことが大切なのだと最近は思います。<br /> <br /> ヨーガスートラで心の死滅をうたっておりますが、その効果を疑い、サマーディを疑い、そうしてどこにたどり着くというのでしょうか。<br /> <br /> 仏教にしても、八正道などを疑わないことが大切なのだと今は思います。<br /> <br /> これらのことは文章で読むととても平素な言葉で書かれており、やもすれば、そんな簡単な当たり前のことだとしてスルーしてしまいがちになります。<br /> <br /> しかし、いわゆる悟りだとか幸せだとかいうものはその、とてつもなく当然で当たり前のところにあるのだと特に最近は思います。<br /> <br /> その根元は不二の境地というところになりますが、不二の境地とはいわゆるサマーディ(三昧)のことであり、サマーディというと超常的な何かをイメージしてしまいがちな人もおられますが、単に清浄なる心のことだと言い換えることもできます。八正道などで心を清浄にすれば物事がクリアに見えてきて、雑念なくありのままに見えるようになって、その状態を人はサマーディと呼ぶ、と、ただそれだけのことなのだと思います。<br /> <br /> もちろんサマーディと呼ぶ基準はありますし、清浄なつもりでサマーディのつもりでサマーディではないなんてこともあります。<br /> <br /> しかし、基本は、とても当たり前なところにあるわけです。<br /> <br /> 何か、特別な不思議なことをしなければ辿りつかないものではないと思うわけです。<br /> <br /> ですから、大切なものは当たり前のところにある・・・ それを疑わない心が何よりも大切なのかな、と最近は思います。<br /> <br /> その当たり前の境地は失われやすく、やもすれば単なる教訓や道徳のようなものになってしまいがちなところをいわゆる奥義としてまとめたのがヨーガスートラやウパニシャッド(ヴェーダの最後の奥義、ヴェーダンタ)、あるいは仏教の経典なのだと思います。<br /> <br /> ただ、人の性質に応じて修行方法としては様々なものがあって、好きに選択できるとは思っております。疑わなければ勝手に成長するかと言えばそうは思いませんし。ですが、基本はこの辺りかなと思うわけです。<br /> <br /> <br /> <br /> Sun, 16 Feb 2020 00:00:00 +0900 サマーディの不二の境地からシッディが副産物として現れてくる https://w-jp.net/2020/1836/ <br /> ゾクチェンの本にも似たようなことが書かれてありました。<br /> 仏教やヨーガスートラにも似たようなことが書いてあります。<br /> <br /> 今までは、ほんとにそれだけかな? 他に何か謎があるのでは? という疑念や探求心が生まれていたのですが、最近は思考が止んでヴィパッサナー状態になってスローモーションを感じたり距離感のない景色を感じたりしていますので、これが不二の境地だとしたらサマーディであり、そのまま続けていたらやがてはシッディも可能なのでは、という直感が出てきました。<br /> <br /> 昔は、同じ文章を読んでもそれがシッディに繋がる実感を持てませんでした。<br /> <br /> 特に最近は、自らの進んでいる道に疑いがなくなってきました。<br /> <br /> 今はまだシッディとかほとんどないですけど、それらの能力は特に秘密でもなくてヨーガスートラや仏教やゾクチェン書いてある内容がそのまま正しい気がしてきました。<br /> <br /> シッディは秘密でもなくて書物でも明らかに公開されているが実践は難しいので謎めいている、という種類のもののような気がしてきました。<br /> <br /> ヨーガスートラではサムヤマという謎めいた手法と共にシッディが紹介されていますが、おそらくこれを読んだだけでシッディを表すことは難しいのではないでしょうか。サムヤマとは以前謎解きをしましたけど、サマーディの応用のようなものです。<br /> <br /> そのサマーディも、ヨーガスートラの中では完全に説明されていないような気が致します。<br /> <br /> であれば、ヨーガスートラに書かれてあることはおそらく正しいとしても、ヨーガスートラだけで目的地に到達はできないのだと思います。<br /> <br /> 仏教の経典も禅定やサマーディに関しては謎に包まれています。仏教の経典を読んでシッディが現れるとは思えません。<br /> <br /> しかし、ゾクチェンはそのあたりを明らかにしており、それにより、私のサマーディに対する疑いは晴れて、いわゆる不二の意識でヴィパッサナーをするということ、それはサマーディと同じだと個人的には思うわけですが、そのサマーディの意識でヴィパッサナー状態にいることこそが私を次の段階へと導いてゆくのだと確信のようなものが生まれつつあります。<br /> <br /> 「セワ」は、チベット語で「まぜる」ことを意味している。自分の三昧の境地を、日常生活のすべての行動に溶け合わせていくのである。(中略)もちろん、そのためには三昧が確固たるものである必要がある。そうでなければ、そもそも何かと一体のものにするということ自体、無意味だ。(中略)「いささかも疑いがない」という言葉は、このことを意味している。「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」<br /> <br /> 私は人間の師匠を見つけることができずにいて(いるにはいますが)、自分の状態が本当にサマーディかどうかは自己判断にすぎませんが、そうだとしてもこの境地の先にはまだまだ続いていることがはっきりとわかりますのでサマーディでなくてもこの先を見極めてゆくだけのことです。そこに疑いはほとんどなくなってきています。その状態をサマーディと呼ぶかどうかは割とどうでも良いのです。<br /> <br /> 同書によれば、サマーディを日常生活に取り入れてゆくと次のような変化が現れると言います。<br /> <br /> 最初の能力である(中略)チェルドルは、「観察すると、それはみずからを解放する」ということを意味し、水滴が太陽の光を浴びて蒸発するのにたとえられている。(中略)ただ単に覚醒した知恵を保ち続ければいい。そうすれば、生じてくるものはすべて、そのままみずからを解放するのである。(中略)シャルドルは中間的な能力であり(中略)「生じると同時に解放する」ことを意味している。(中略)究極的な自己解脱の能力は、ランドルと呼ばれる。これは「自然にみずからを解放する」ことを意味し、(中略)これは完璧に二元論を超えた、瞬時の、瞬間的な自己解放である。主体と客体の分離は自然に崩壊し、習慣となった見方、区切られた鳥籠のような自我の罠は、存在そのもの(法性)の、空のような顕現の中に解き放たれる。(中略)対象が生じると同時に、それがみずからの空性の境地と同じく、空であることを認識するのである。(中略)すなわち主体と対象はいずれも空である、ということになる。二元論は完全に克服される。主体や対象が存在しないというわけではない。とだえることなく三昧が持続し、自己解脱の修行をつうじて、二元論に限界づけられなくなるのである。「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」<br /> <br /> そして、同書によれば、この過程で出てくる副産物がシッディである、とのことです。<br /> <br /> すなわち、二元論を克服して初めてシッディが出てくるわけです。<br /> <br /> であれば、ヨーガスートラの内容は舌立たずであるにせよサマーディとは不二の意識のことですからサマーディでシッディが出てくるのは当然だと言えますし、仏教の第四禅定にしてもそれはサマーディの不二の意識にまで高まったと仮定すればシッディが出てくるのも当然と言えます。<br /> <br /> 私の中で長らくモヤモヤしていた部分が、ゾクチェンによって明らかにされました。<br /> <br /> Sat, 15 Feb 2020 00:00:00 +0900 いつシッディが現れるか https://w-jp.net/2020/1835/ <br /> シッディとはいくつかの超常的能力、いわゆる超能力のことです。これがどのように現れるのかは宗派の間で割と似通っているように思います。<br /> <br /> 仏教では第四禅定の後に現れるとされているようです。<br /> <br /> ヨーガではサマーディ(三昧)によって現れるとされています。<br /> <br /> チベットのゾクチェンにおいてもサマーディ(三昧)によって現れるとされています。<br /> <br /> これらは割と似通っておりますが、仏教だけサマーディ(三昧)ではなく禅定という言葉を使っており、日本語ではこの禅定はサマーディの訳であることもありながら文脈によって異なる意味を持つという微妙な言葉でもあります。<br /> <br /> 三昧はサマーディの当て字ですので同じものを指します。<br /> <br /> これら、禅定だったりサマーディ(三昧)だったりするにせよ、そのような超意識とも言える状態において超能力が現れるとされています。<br /> <br /> テーラワーダ仏教に基けば第四禅定があれば悟ることができる、とされているようです。その同じ第四禅定でシッディが現れるとのことです。<br /> <br /> 先日引用した第四禅定の定義に基づきましても、どうしてそれでシッディが現れるのか謎です。<br /> <br /> これら正統派のシッディとは別に、スピリチュアルあるいはミディアムとしてのシッディもあります。<br /> <br /> スピリチュアルのうち魔女系は実はヨーガ系と系統が似ていたりして意外に正統派のやり方を踏まえていますが、ミディアムは正統派と少し異なっています。<br /> <br /> 正統系はオーラを強化して自然と能力が出てくるようにしますが、ミディアムや先住民族のやり方は自分のオーラを逆に不安定にさせてその不安定にさせた部分に先祖などの霊を呼び込んで自分の体や口を動かしてもらったりインスピレーションを伝えてもらうという手法を取ります。<br /> <br /> 私はそれらのミディアム手法にはあまり興味がなくて、ヨーガ系の正統派の手法にのみ興味があります。<br /> <br /> ただ、一般的には魔女とか魔法とかいうとミディアム系の手法をイメージする方が多いかもしれませんが、確かに能力はその方が手っ取り早く現れますけど自分の制御下にありませんので協力してくれる霊の気分次第になり、自分のオーラは不安定にさせておかなくてはならないために悪意のある霊にいたずらされると非常に危険なことになります。<br /> <br /> まあ、こう言ってもやる人はやるのでしょうから好きにすればいいのです。<br /> <br /> 何十回という転生の成長を一気に無に帰するような事故・事件が一瞬にして起こることもありますから、そのような秘術は易々と行わないのが良いと思うのですが。<br /> <br /> 一方で、サマーディを基礎とした自分の能力であればそれほど危険性はないと思います。過去生の記憶を辿ってみてもその筈です。このあたりはおいおい確認できればと思っております。<br /> <br /> Fri, 14 Feb 2020 00:00:00 +0900 テーラワーダ仏教における禅定とサマーディの関係 https://w-jp.net/2020/1834/ <br /> テーラワーダ仏教では、第二禅定からサマーディ(三昧)と呼ぶようです。<br /> <br /> 仏教やスピリチュアルの書物などで禅定がサマーディの訳になっていたりして混乱することもあり、個人的には禅定はサマーディではないという理解だったのですが、どうやらテーラワーダ仏教は上記のような解釈をしているようです。<br /> <br /> 第二に達したならば、(中略)このときはサマーディ(三昧)と言います。「瞑想経典編(アルボムッレ・スマナサーラ 著)」<br /> <br /> テーラワーダ仏教に基づく禅定の四つの段階を簡単に羅列してみます。<br /> <br /> ・第一禅定<br />  欲・怒り・眠気・浮つきと後悔・疑いという五つの蓋が外れ、心がものすごく冴えて集中する。(中略)心だけの純粋な喜悦感と幸福感があります。「悟りの階梯(藤本 晃 著) 」<br /> <br /> ・第二禅定(サマーディ)<br />  思考も消えているので集中力はますます上達しています。「瞑想経典編(アルボムッレ・スマナサーラ 著)」<br />  「心を集中する」という自分の努力を突き抜けて、集中は持続したまま、自然に「心が統一された」本当の意味での禅定状態が生まれます。「悟りの階梯(藤本 晃 著) 」<br /> <br /> ・第三禅定<br />  「喜び」という波動もなくなって「楽」だけ感じるようになります。「瞑想経典編(アルボムッレ・スマナサーラ 著)」<br />  喜悦感から離れて平安(捨)な心になります。「悟りの階梯(藤本 晃 著) 」<br /> <br /> ・第四禅定<br />  楽という波動も消えて「平安」とも言える感覚のみが残るのです。集中力は禅定の順番に従って強くなります。「瞑想経典編(アルボムッレ・スマナサーラ 著)」<br />  最後に残った幸福感さえもなくします。(中略)心は不苦不楽の本当に清らかな平安(捨)の状態になるのです。「悟りの階梯(藤本 晃 著) 」<br /> <br /> <br /> サマーディという言葉の定義が私と異なっていますが、まあ、テーラワーダ仏教のこの部分は把握しておりませんでしたので仕方がないですね。<br /> <br /> 個人的には仏教のサマーディの捉え方はどうもピンときません。私はヨーガ系の定義を基本にして個人的な解釈を加えています。<br /> <br /> 以前にサマーディという言葉の2つの意味について書いた内容はテーラワーダ仏教の定義ではなく個人的な解釈に基づいておりますので、読み手にちょっと混乱があるかもしれませんね。<br /> <br /> まあ、そもそもヴィパッサナー系の流派によってはサマーディをあまり重視していない感じですので、ヴィパッサナーとサマーディが同一だと思っている私とはそもそも解釈が違うので仕方がないと言えばそうなのですが。<br /> <br /> Thu, 13 Feb 2020 00:00:00 +0900 女性はすべからくして悟っている https://w-jp.net/2020/1833/ <br /> 女はみんな悟っていると男は思いたいものである。実に女は賢く、いわゆるヴィパッサナーの観察力に長けており、思慮も深いものである・・・ と男は思いたい。実際に私の知っている女はそういう女が多い。そんな女ばかり知っていると、女がみんな悟っていると言われるとそうだ、と思ってしまう。そうなると、悟っていない女は本当にどれだけいるものなのだろうかと思ってしまうし、であれば、悟っていない女は大した女ではないのではないかと思ってしまったりする。<br /> <br /> 私の勝手な偏見かもしれないが、9割の女は悟っているのではないだろうか、と思ってしまう。<br /> <br /> いやいや、そうではない・・・ と女性の諸君から反論が出そうな気もするが、私の周りには悟っているような気がする女性ばかりである。<br /> <br /> これは、以前私がアナハタ優勢になった以降に万人が悟っているように感じるようになったことと似ていて、私がそう感じるだけかもしれませんけど。 と言いますのも、そんな女性にも悩みがあるようですので。<br /> <br /> まあ、きっと偏見なのでしょう。<br /> <br /> 女性の悟り方は男性とちょっと違っているとは思っています。<br /> <br /> まず、生まれながらにして悟っていて、生涯それが続く場合が多いと思います。この場合にしても、私の過去生の記憶やパラレルワールドを垣間見た事柄に基けば、生まれてからクンダリーニの開通はそれぞれの人生で行わなくてはならないようなので悟っているとは言ってもエネルギー的なパワーアップおよび神秘的能力の開花のためには生まれてからの努力がある程度は必要なようですが、そうは言いましても、基本的なところで女性は生まれながらにして悟っていると思うわけです。<br /> <br /> 思うに、女性が悟りの状態から落ちてしまうのは家庭や生まれた環境によるものが多いのかなと思います。家庭や環境がしっかりしていれば女性はすべからくして悟っており、それが生涯続くものなのかなと。<br /> <br /> エネルギー的な開花はヨーガのような手法でクンダリーニ覚醒するだけではく、女性の場合は激しく男性に愛されて信頼される、という手法があると思います。<br /> <br /> 恋人や結婚相手が女性である自分自身を深く信頼して愛して夜な夜な何度も求められるような状態が続けば自然とクンダリーニ開通してエネルギー的なパワーアップが起こります。これは、男性的なヨーガでクンダリーニ覚醒するよりも遥かに簡単な方法です。結果は割と同じですが女性はもともとエネルギーが高い状態で生まれますのでますますパワーアップします。この方法は女性特有だと思います。男性が女性に注ぐエネルギーがクンダリーニ開通をするわけです。これは必ずしも男性のアレがおっきくないといけないわけではなく、女性がどれだけ男性から深く愛されるか、という点と、女性がいかに深く男性を信頼できるか、という点にかかっています。そうして女性が男性から愛され続ければ自然とクンダリーニが覚醒するのですから、世の中の女性がパワフルなのも当然ともいえます。本人たちはそれがクンダリーニ だとは思っていないでしょうけど、同じことです。<br /> <br /> ですから、女性は割とすべからくして生まれながらに悟っていて、さらには、すべからくしてクンダリーニ覚醒するわけです。<br /> <br /> そもそも「悟り」が何なのかの共通理解がないために女性が自分自身のことを悟っていないような気がしているだけで、実は悟っているということも多いと思います。<br /> <br /> 幸せそうに悩みもない人生であればそれは悟っているということです。<br /> <br /> まあ、実際のところ悟りとは何か色々と基準がありますけど、そういう基準ってのは男性向けの基準ですので、女性はそんなこと考えなくても最初から悟っているから心配いらないし考えなくてもいいのです(苦笑)<br /> <br /> 苦労してヨーガとかで覚醒しなければいけないのは男性です。男性って大変ですね(苦笑)<br /> <br /> 女性もヨーガでクンダリーニ覚醒できますけど、普通に男性に深く愛される方が簡単だと思います。<br /> <br /> 女性は小さい頃から意識がしっかりありますし最初からヴィパッサナー状態で物事が深く観察できますし、それってぶっちゃけ、女性の方が頭がいい、ってことです。<br /> <br /> 大きな悟りと小さな悟りと、エネルギー的なクンダリーニ覚醒もある状態など、悟りにはいくつかの段階がありますが、少なくとも小さな悟りを基準にすれば悟っていない女性はあまり見ませんし、悟っていない女性ってどんな女性なのか想像がつきません。そんな人っているのですかね? というくらいです。<br /> <br /> 先日もちょっと書きましたけど、男性の役目はタマスに落ち込んで謎を解くことだと最近気付きました。であれば女性はサットヴァに自分自身を保って男性をタマスからサットヴァに引き上げる役割があるのではないか、かつてはそういう役割分担があったのではないか、という気がしてきています。<br /> <br /> しかし、昨今、この男女の役割分担が崩れてきて、それゆえに男女の姿も変わってきているような気がしてきています。<br /> <br /> 女性は最初から悟っていてクンダリーニ覚醒も容易だが、タマスに落ち込んで謎を解くのは苦手。<br /> <br /> 男性は悟っていなくてクンダリーニ覚醒も難しいが、タマスに落ち込んで謎を解くのは得意。更には、謎を解く時は直接的な理解ができるので女性にはわからない部分まで深く理解できる。<br /> <br /> 神様が男性と女性を分けたことにスピリチュアルな理由があるのだとすれば、まさにこの部分なのかなと思います。<br /> <br /> 何故なら、世の中が全て悟りだけで良いのであれば男性という形態は不要なのではないかと思うからです。この世界には無駄なものはなくて良いことも悪いことも含めて全て完璧であると私は思っていますので、タマスなどんよりとした状態にも意味があると思っています。であればタマスに落ち込むことでどんよりとさせて、まるで化学の実験で砂やゼリー状の液に試験対象の液体を染み込ませて変化を観察する、というような役割がタマスにはあるのではないかと仮説を立てています。<br /> <br /> 私の魂の家系図を辿ると、男性のラインと女性のラインがそれぞれいくつか分かれていて、女性のラインの方の意識を辿ると、やっぱり男性のタマスの部分を謎に感じていたり、タマスの部分に恐怖心や悪を感じたりしていたようです。ですから、もともと悟っている状態の女性から見ると男性のタマスが謎で悪で恐怖を感じるのは当然なのかなと思います。<br /> <br /> そのような恐怖心が女性を悟りから遠ざけるという仮説もなくはない。<br /> <br /> しかし、やはりそれでも女性は悟っていると個人的には思うのです。<br /> <br /> 悟っているが故に他人のつまらない悩みが分からなくて相手を傷つけてしまう、というのもあるかもしれない。それでも、女性はやはり悟っていると思うのです。<br /> <br /> Thu, 13 Feb 2020 00:00:00 +0900 タマスにより没入感が生まれる https://w-jp.net/2020/1832/ <br /> ヴィパッサナーが客観だとすれば、非ヴィパッサナー、特にタマスなどんよりとした感覚は主観であり、更に言えば没入感を生み出すような気がしてまいりました。<br /> <br /> 没入感により物事にのめり込む姿と、割と現実的な客観視のヴィパッサナーは男と女に例えられるかもしれません。<br /> <br /> タマスのどんよりとした感覚はヨガの世界ではタマス→ラジャス→サットヴァという順番で成長するモデルとして説明されており、タマスはどんよりとした感覚、ラジャスは活動感、サットヴァは清浄感ですのでタマスからラジャス、そしてサットヴァという順番で成長するのは理に叶っていてわかりやすいですが、神様がいるとすればむしろタマスを計画されたのではないか、という気がしております。<br /> <br /> タマスにより物事をどんよりとさせ、ゆっくりとさせ、没入感を作り、物事をゆっくりと観察できるようにすること。それこそが神様の計画だったのでは... という気が何となくしてきております。<br /> <br /> 特にその証拠もないですし根拠もないですし、そんな気がするというだけのお話ですが。<br /> <br /> であれば、ヨガの世界で避けるべきと思われているタマスこそが真実をゆっくりどんよりにさせてきちんと状態を見極めることができる、最上の状態なのかもしれません。<br /> <br /> タマスの状態は無知で奈落の底に落ち込んでいる状態ではありますが、この世界に神様のような人がいたとすれば、そうして人間をタマスな状態に落ち込ませてどんよりとゆっくりとした状態にさせることでじっくりと観察できるのでは... という気がしてきています。<br /> <br /> そうして、理解が済んだらタマスの状態でいる必要はないのでサットヴァな清浄な状態に戻るわけです。<br /> <br /> であれば、ずっとサットヴァが続いている人は「理解」に至らないのでは? という仮説が成り立ちます。おそらくはそういうことなのかもしれません。<br /> <br /> 人間はサットヴァな清浄な状態を求めますが実際はそれは何もわからないかあるいは理解の後の状態なのでしょう。理解をするためにはサットヴァではなくタマスに落ち込んで観察する必要があるのではないかと思います。<br /> <br /> 化学実験や物理実験あるいはコンピュータのテストでも、素早い動きをしていると何が起こっているのかわからない一方で、砂のようなものに液体を染み込ませたり触媒を使ったりコンピュータのステップ実行をさせるなりしてゆっくりにさせてから内部を理解するのではないかと思います。<br /> <br /> その仮定が正しいとしたら、男はタマスに落ち込んで真実を探るのが目的で、女はその男が戻ってこられるように命綱としてサットヴァを保つのが目的なのではないか、という新たな仮説が出てきます。<br /> <br /> であれば、女が覚めていて現実的でサットヴァでいつも楽しく暮らしている、という姿は1人でそのように暮らすのであれば神様の役には立っていないのかもしれません。誰かの命綱として役立つのが女で、男は谷の底に降りて行って探検してくる役割なのでしょう。<br /> <br /> おそらくは少し前まではきちんと役割分担が機能していたのでしょう。そんな気が致します。<br /> <br /> 今や未来の生き方は置いておいて、少なくとも過去の男と女の姿はこのように分類・解釈することもできそうです。<br /> <br /> 勘違いしやすいかもしれませんが、よく観察できる、と言っているのは神様にとってのお話です。タマスですと本人はどんよりとしていて何も見えませんし、サットヴァだと本人は清浄で心地が良くて平和です。ですが、神様はその両方を超越しておりますから、神様にしてみたらむしろタマスの方が興味深いのでは、というお話です。<br /> <br /> まあ、私が勝手にそう思っているだけですけどね。あくまでも仮説です。<br /> <br /> Wed, 12 Feb 2020 00:00:00 +0900 朝起きたら、体が溶けたようになっていた https://w-jp.net/2020/1831/ <br /> 手で触ってみたら体はきちんとありましたが、意識で体を探ってみても感触がない感じです。<br /> <br /> 瞑想の本などでよく「体の感覚がなくなります」と書いてあって「ふむふむ」と読んでいて、それはきっと瞑想中に体の感覚がなくなる、あれのことかなあ、と割と読み流していたのですが、今朝の感覚と比べるとちょっと透明感と言いますか本当に「何もない」感覚が微妙ですが確実に違いました。<br /> <br /> これはどういうことかな・・・ と思っていましたら、おそらくは、最近はヴィパッサナーで気付きながら体の緊張をリセットし続けているので体の緊張がかなり抜けてきているのかな、というのが1点。<br /> <br /> もう1点は、意識の広がり。今までは割と自分を中心とした体の周囲に意識があったように思いますが、今は、もうちょっと末広がりと言いますか、銀河系のように自分を中心として楕円形に末広がりの意識が広がっているような気が致します。寝ている自分を中心として意識が横方向にペタッと溶けたように広がっているようです。<br /> <br /> 起きてみましたらいつもの朝起きたときの体の硬い感覚はありましたので、完全に体が柔らかくなったわけでもなさそうです。ですので、これは主に意識の問題かなと。<br /> <br /> もともと体の各所が意識の緊張により硬くなっていて、最初に意識がリセットされて意識の緊張がリセットされてから体の緊張が少しづつ取れ、そのサイクルが進むうちに次第と意識が広がってきたのかな、と解釈しております。<br /> <br /> 瞑想などで「体の感覚がなくなる」と言われていたことが実際はこのくらいの状態を指していたのだとすると今まではまだその状態になかった、ということなのかもしれません。本当に体がスカスカな感じです。皮膚の感触はまだあるので体があることはわかるのですが、体の中の意識がスカスカになってきています。<br /> <br /> 内なるガイドが示唆するには、これはあまり言葉で言い表せない状態ですので味わいましょう、とのことです。<br /> <br /> Wed, 12 Feb 2020 00:00:00 +0900 空間と時間の認識 https://w-jp.net/2020/1830/ <br /> 空間の認識と時間の認識は割と似通っていることに気が付きました。<br /> 最近はヴィパッサナー状態で遠近感がなくなってきているわけですけれども、遠近感によって空間として認識するためには2つの画像を見比べてその差が空間として認識されると思うわけです。<br /> <br /> 一般的には空間に関しては2つの目が異なる視点で見ることで遠近感を生み出すと言われているように思いますし、以前は私もそうでしたが最近のヴィパッサナー状態では両目で見るのと単眼で見るのと対して差がないような平面を見るような感じになってきています。ちなみに、きちんと視力は1以上どちらもあります。<br /> <br /> ヴィパッサナー状態では両目による空間認識能力があまりないようです。ですから、距離感も少しおかしくなって衝突に気を付けなくてはなりませんが、まあ、そこはそんなに問題にはなっていません。<br /> <br /> 思うに、両目の差で空間を認識していると言うのは正しいような正しくないようなお話で、それだけでは不十分で、認識可能な1コマ前の画像と頭の中で見比べることで空間を認識しているのではないかなと思うわけです。<br /> <br /> ヴィパッサナー以前の状態ですと1秒の間に数コマの認識でしたので1コマ前との画像の違いがそれなりにあり、その差の大きさによって頭が処理して空間を認識していたように思います。今はスローモーションのように細かく認識されますので1コマ前の画像との違いがあまりなく、それ故に空間として認識されにくいのではないかと思っております。<br /> <br /> これは空間の認識のお話ですが、時間についてもそうかなと言う気が致します。<br /> <br /> 人は本来、時間を認識しないのではないでしょうか?<br /> <br /> 空間も実際は空間そのものを認識せずに1コマ前との画像との違いを頭で処理して認識しているのと同様、時間も実際は時間そのものを認識せずに少し前との画像(や感覚)との違いを頭で処理して時間を認識しているのではないでしょうか?<br /> <br /> であれば、空間も時間も実は幻のようなものではないか... という気もしてきます。<br /> <br /> 実際、物理学者やスピリチュアルではこの種の話題はよく出てきますし、空間も時間もそのものずばりを認識することはできないのではないかという気が致します。空間も時間も、そこにあるような気がしているだけ、ということであればすっきりします。まあ、おそらくはそうなのでしょう。<br /> <br /> 数十年前からこの種の話題はよく聞きますが、ヴィパッサナー状態になって初めてその意味を別の視点から理解できた気が致します。今までは、わかるような分からないような... というお話でした。<br /> <br /> ヴィパッサナー状態でスロモーションの認識になれば視界を識別できるコマ数が増え、それにより1コマ前との差分が小さくなって空間が次第に消え去り、時間も消え去り、ということなのかな... という気が致します。<br /> <br /> と同時に、視界が平面で距離感がなくなり自分と他人の区別がよく分からなくなり、一歩引いた視点になって、あたかもテレビかモニタを眺めている気がしてきて、見える画面の本質が全て同一であるような気もしてきて、であれば自分も他人も他のものも実体としては同じあるいは両方とも幻のようなもののような気がしてきて、自分と他人を区別している空間というものも消え去り、認識は常にその瞬間瞬間で連続して起こっているので過去とか未来を認識せずに常に今だけの認識になります。<br /> <br /> 頭で考えることで過去が生まれ、頭で考えることで未来が生まれます。空間も頭で考えることで生まれます。<br /> <br /> これは、過去や未来や空間が消え去ってしまうとか全く存在しないと言っているわけではなく、本質が上記のようなものであることがわかる、ということです。物理法則を否定しているわけではありません。<br /> <br /> ・・・空間や時間の本質がそうなのであれば、ちょっと工夫すれば空間を飛び越して認識したり、時間を超えて認識できるのでは... という気がしてきています。<br /> <br /> そんな気がするということはきっとできるということでしょう。これからの趣味の探究の領域はその辺りになりそうです。<br /> <br /> Tue, 11 Feb 2020 00:00:00 +0900 次元が上がると言うよりは次元が下がって消え去る https://w-jp.net/2020/1829/ <br /> 世間では次元上昇とかアセンションとか何とか言われていますけど、スローモーションのヴィパッサナー状態で観察したところによりますと、次元が3次元から4次元や5次元に上がるのではなくて2次元になって1次元になって次元が消滅する、と言う方が実態に近いような気が致します。表現の違いかもしれませんけど。<br /> <br /> 次元が3次元から4次元になると言うのはこの「奥行き」のある空間がそのまま保持されてそれに時間が加わって、更に5次元になるとパラレルワールドとか何とか表現されたり6次元になるとどうなのかよくわかりませんけど、どちらにせよ、それらの次元が増えるにしても3次元という奥行きのある遠近感のあるワールドは保持されているということなのかなと思います。<br /> <br /> そういうことであれば、私の感覚はそれとは逆で、今生きている場所が4次元で奥行きも時間も感じられる世界だとすれば、時間というものはパラレルに存在しているとも言えるし全ての時間が同時に存在しているとも言えるし、まやかしみたいなものですので時間がまず消え去ります。<br /> <br /> 遠近感に関してはヴィパッサナー状態で消え去り、2次元になります。<br /> <br /> 2次元のヴィパッサナー状態を続けていると意識が広がって空間の距離感もよく分からなくなり、それは1次元とも0次元とも言えるような、全体が同時に満遍なく存在していて、それでいて、位置を特定しようとしてもよく分からなくて、ここかもしれないけれどもその「ここ」とはあっちの「あそこ」と同じであるような同じでないような、距離感のない不思議な感覚になります。それが1次元です。それを比喩して0次元と言えるかもしれませんけど、まあ、とりあえずは1次元としておきます。<br /> <br /> そんな感じで次元が減少してゆき、世界が1次元の点とも言えるし面とも言えるし時空とも言えるよく分からないところに収束というか広がりというかよく分からない状態になって全体が満遍なく存在していることを実感するわけです。<br /> <br /> であれば、世間でよく言われている次元上昇とかそんなのは、見方によってはあるのかもしれないですけど、あるとしても今の世の中の延長線上のまやかしで、そういう次元上昇があるような気がするだけで、実際の世の中は次元数が1(あるいはゼロ)という世界が本当なのかなあ、という気が致します。<br /> <br /> まあ、こんなこと言っても大して理解されないと思いますけど。<br /> <br /> 世間一般では次元上昇だとかアセンションだとか盛り上がったりしていますけど、個人的に確かにレムリア時代の記憶を呼び起こしますとみんなと一緒にあれれと言う間にアセンションしたことが確かに過去にあったような気がしますけど、それでも、やはり本当の真実はこの1次元(あるいはゼロ次元)というところなのかなあ、と言う気が致します。<br /> <br /> Mon, 10 Feb 2020 00:00:00 +0900 ヴィパッサナー瞑想と思考の停止 https://w-jp.net/2020/1828/ <br /> 最近しばらくヴィパッサナー瞑想と思考の停止と体や息の観察について書いてきたわけですけれども、もう少しまとめたいと思います。<br /> <br /> 瞑想の段階としてはゾクチェンの段階を引用します。<br /> <br /> 1.ゾクチェンのシネーの境地に至る以前の状態<br />  私はこの状態はヴィパッサナー瞑想とは呼びたくありませんが流派によってはこれもヴィパッサナー瞑想と呼んでいます。<br />  個人的にはこれはサマタ瞑想です。<br /> <br /> 2.ゾクチェンのシネーの境地<br />  同様に、これは私はヴィパッサナー瞑想とは呼びたくはありませんがこれも流派によってはヴィパッサナー瞑想です。<br />  これも個人的にはサマタ瞑想です。<br /> <br /> 3.ゾクチェンのテクチュの境地<br />  個人的にはこれだけがヴィパッサナー瞑想です。<br /> <br /> その上で、世間一般でどのように呼ばれているのかを追記します。<br /> <br /> 1.ゾクチェンのシネーの境地に至る以前の状態<br />  日本で有名なゴエンカ式は最初からヴィパッサナー瞑想と呼んで体の観察や思考の観察を行う。最初の数日にサマタ瞑想を行うものの、軽視されている。<br />  テーラワーダ仏教は思考の停止を行う。テーラワーダ仏教はそれをヴィパッサナー瞑想と呼びますが、集中瞑想であるので実際はサマタ瞑想相当と個人的には解釈します。<br />  サマタ瞑想では集中して思考の停止を行います。ヨーガスートラ形式。<br /> <br /> 2.ゾクチェンのシネーの境地<br />  おそらくゴエンカ式では辿り着くのが困難。ゴエンカ式はシネーの境地を通び越してテクチュの境地を目指し、テクチュの境地のヴィパッサナー状態の真似事をしている。瞑想で体の感覚の観察をしてしまうので五感が敏感になってキレやすくなってしまう効果がある。実際のシネーの境地は逆に五感を抑える必要があるので、全く逆のことをしているのでシネーの境地にはたどり着かない。<br />  テーラワーダ仏教は辿り着くと思います。ヴィパッサナー瞑想と唄っていますが実際はサマタ瞑想相当でありますので。テーラワーダ仏教はサマタ瞑想だと分かっていてあえてヴィパッサナー瞑想と言っている節があると個人的には思います。そうは言いましても、説明が紛らわしいのでゴエンカ式と同じ危険性はあると思います。<br />  サマタ瞑想の集中によりシネーの境地に辿り着きます。個人的には、最初はサマタ瞑想で五感を抑えるのが一番スマートかなと思います。<br /> <br /> 3.ゾクチェンのテクチュの境地<br />  シネーの境地を続けているとテクチュの境地に導かれます。ただし、ただ単にサマタ瞑想をしているだけではこの境地の存在に気付かない可能性があります。シネーの境地が最終的な悟りだと勘違いする可能性があります。<br />  テーラワーダ仏教方式であれば集中が目的地ではありませんので自然とテクチュの境地に向かって鍛錬は続けられると思います。<br />  ゴエンカ式は最終的なテクチュの境地であるヴィパッサナー瞑想を真似て瞑想に入りますが、シネーの境地を経ずにテクチュの境地を目指すことで達成が困難になるばかりか、五感が敏感になりすぎて精神的に破綻をきたす可能性が高いと思われます。<br /> <br /> <br /> このあたりを調べていますと、ヴィパッサナーをしている流派の中ではテーラワーダ仏教が正しい理解をしていることに気が付きました。ヴィパッサナー瞑想やマインドフルネスの本やセミナーは沢山ありますが、このあたりのシネーの境地とテクチュの境地について正しく理解しているところは稀だと思います。例えば以下の書籍です。<br /> <br /> ヴィパッサナー瞑想によって私たちのなすべきことは、思考、妄想をストップさせることだけなのです。つまり、考えないようにするのです。(中略)やり方は「今の瞬間」に自分が何をやっているのかということを「実況中継」するのです。実況中継を始めると、思考できなくなってしまうのです。妄想したくてもできなくなる、そういう簡単な方法なのです。「自分を変える気づきの瞑想法(アルボムッレ・スマナサーラ著)」<br /> <br /> これは、実はヴィパッサナー瞑想という言葉の意味からしたら違っていて、この説明は実際はサマタ瞑想(集中瞑想)のものなのです。ですから、テーラワーダ仏教は分かっていてあえてサマタ瞑想をヴィパッサナー瞑想と呼んでいるのかな、と個人的には思うわけです。一方、ゴエンカ式では思考の停止であるところのシネーの境地に至る段階が丸ごと抜け落ちているのです。<br /> <br /> このあたりが、瞑想に理解の深いテーラワーダ仏教と元々はビジネスマンで瞑想を始めたゴエンカ氏との見識の深さの違いということだと思います。<br /> <br /> 別にゴエンカ式を貶めようとかそういうことはなく、シネーの境地に至っている人あるいはそれに近い人がゴエンカ式をやればそれなりに効果が出るかと思います。ですが、実際にはシネーの境地に全然遠い人が瞑想している状況ですから、精神的に破綻をきたす人が続出していたり、長い瞑想をしている間に不思議な感覚が出て特別視したり自分の「挑戦」にプライドを持ってしまって瞑想がエゴを拡大するという逆効果になったり、怒りの沸点が下がってキレやすくなる、という人がそれなりに出てきているのだと思います。<br /> <br /> ですから、私はゴエンカ式は全くお勧めしません。場として利用するのはありですから、シネーの境地に至った後に受けるのはアリかもしれませんが、基本的にはお勧めしません。と言いますのも、他の瞑想をしている人は拒否するという方針らしいですので。ヨガ瞑想をしていてこっそり受けている人の噂はよく耳にします。<br /> <br /> ヴィパッサナー瞑想は本来の意味においてはシネーの境地の後に現れるものだ、というのが私の理解で、それ以前の瞑想をヴィパッサナー瞑想と呼ぶかどうかは流派の方針次第でありますが実態はサマタ瞑想をするべき段階だと思うわけです。そのサマタ瞑想をしっかり指導している流派が良いかと思うわけですが、瞑想について深い理解のある筈のテーラワーダ仏教はサマタ瞑想の段階にヴィパッサナー瞑想と名付けてしまっているので混乱がありますし、もっと直接的にサマタ瞑想をすれば良いのではないかとも思うのですが、そこは私の口を出すところではありません。ゴエンカ式はシネーの境地を飛ばしてテクチュの境地を目指していますので問題外です。<br /> <br /> ですので、個人的にはシネーの境地に至るまではヨガ等で集中の瞑想であるところのサマタ瞑想をして、それからヴィパッサナー瞑想をするのが良いかなと思います。<br /> <br /> よくあるサマタ瞑想への批判として思考を停止させても悟れないというお話がありますが、サマタ瞑想をしていてもシネーの境地に到れば終わりではなく、続きがあることさえ知っていればヴィパッサナー瞑想に移行するだけのお話ですから、それぞれの段階で都合の良いやり方をすれば良いと思うわけです。最初はサマタ瞑想の方が成長が早いことは明らかだと思いますから、最初はサマタ瞑想をすれば良いと思うわけです。<br /> <br /> ヴィパッサナー瞑想をしている東南アジアの各種の仏教の流派も、どうやら最初はサマタ瞑想を集中的にする流派もあるようです。ゴエンカ式も最初の数日にサマタ瞑想を一応しますけど軽視している印象で、個人的には、ほとんどの人は10日間の間、最初から最後までサマタ瞑想で十分だと思いました。そんなもんです。本当のヴィパッサナー瞑想なんてそうそうできないと思います。であれば何年間も、人によっては死ぬまでサマタ瞑想で十分なわけで... であればヴィパッサナー瞑想なんて持ち出す必要はないのかな、なんて思ったりします。<br /> <br /> こんな感じでヴィパッサナー瞑想の考察を書いてみてもほとんどの人にとっては「何のこっちゃ?」という感じかなとも思います。<br /> であればテーラワーダ仏教みたいに実態はサマタ瞑想でもヴィパッサナーと言うのも流派としてはアリかもしれない、と言う理解です。<br /> <br /> Sun, 09 Feb 2020 00:00:00 +0900 異空間の虹色の枠 https://w-jp.net/2020/1827/ <br /> 瞑想中、ここ最近数回ほど異空間のような虹色の枠が視界に現れてきています。実物はもっと虹色が鮮やかで滑らかですけど。<br /> <br /> 最近はスローモーションのヴィパッサナー状態で遠近感がなくなってきているわけですけれども、そうして視界をまるでテレビやディスプレイの画面のように平らなものとして観察していると、時々視界の一部に異空間のような虹色の枠が出てきていることに気が付きました。<br /> <br /> 以前からあって気がついていなかったのか、あるいは、最近になって現れるようになったのかは不明です。<br /> <br /> 最初は確か右目の少し上、2回目は左目の少し中央寄りだったかと思います。<br /> <br /> モヤモヤっとした虹色のやや横長の楕円あるいは長方形が現れて、まるで、視界のディスプレイの一部の調子が悪くなって意図した画像を写せていないかのような感じになってきています。<br /> <br /> その虹色のモヤモヤの先はまだ雲のようなものしか見えず、何があるのかはわかりません。<br /> <br /> 何となく直感でその先は異空間かな... という気がしてきています。<br /> <br /> あるいは、逆に今の世界が異空間のまやかしの世界で虹色のモヤモヤの先こそが本当の世界なのかもしれませんが。<br /> <br /> まあ、今後どうなるのか、更に観察を進めてゆきます。<br /> <br /> Sat, 08 Feb 2020 00:00:00 +0900 ヴィパッサナーで遠近感がなくなってくる https://w-jp.net/2020/1826/ <br /> 私は割と目の良い方ですけど、スローモーションのヴィパッサナー状態になってくると視界に遠近感がなくなっていることに気がつきました。<br /> <br /> 自転車などを運転しているとすれ違う際の距離感がうまく掴めなくて割と危険です... 今は何となくすれ違っていますけど、自動車や自転車の運転でよくぶつける人の気持ちが分かったような気が致します。<br /> <br /> 視界がテレビやパソコンの画面のように平べったいもののように感じられて、世界が3次元かどうかすらよくわからなくなってきます。<br /> <br /> 地球を宇宙から眺める映像を見ても、本当に地球が球状なのか実感が湧きません。以前は当たり前だと思っていたのですが。<br /> <br /> ひょっとして、中世で地球が平面だと思っていた人はこのような視界の遠近感のない人たちだったりしたのでしょうか? 絵にしても昔は遠近感がなかったと言いますし。 最近はヴィパッサナー状態が失われてしまったが故に遠近感が認識されるようになった、という仮説も成り立ちます。<br /> <br /> 遠近感はどうしてなくなってしまったのだろう... と思いつつ視界を更に観察してみたのですが、おそらく次のようなことではないかなと。<br /> <br /> 以前は1秒に3回くらい映像認識されてパラパラアニメのように映像が切り替わっていましたが、そのくらいですと切り替わりの際に差がかなりありますので、ビフォー(前)・アフター(後)の違いがそれなりにあって、左右の目の視界の差によって遠近感が認識されたのかなと思います。<br /> <br /> 今はヴィパッサナー状態で1秒間のうちにもっと細かくスローモーションのように映像が認識されますのでビフォー(前)・アフター(後)の違いがそれほどなく、割と似たような映像が続いて連続して認識されますので遠近感をさほど感じないのかな、と理解しました。<br /> <br /> あるいは、以前ちょっと書きましたがサードアイ(あるいはフォースアイ)と呼ばれているものは単眼だったと思いますのでそれが原因で遠近感がなくなってきたのかなと最初は思ったりもしましたが、それよりも、上記に書いたことが理由な気が今はしています。<br /> <br /> 例えば道の遠くを眺めたとき、以前でしたら道の遠くにあるものが遠近感と共に直感的に遠くだと感じられたのですが、今はただの景色として平べったい映像として認識されており、手を伸ばせばすぐに手が届きそうな気がしています。もちろん届かないことは頭では分かっているので試したりはしませんけど、視界だけを見ると世界が平たく感じられて遠近感が失われています。<br /> <br /> この状態ですと、実体が本当に目の前にあるのかどうかもよくわかりません。<br /> <br /> たまに理論で聞かれるように、どこか遠くに実体があって目に見えているのはただの映像あるいはホログラムなのかもしれない、というお話もあながち嘘ではないかもしれない気がしてきています。<br /> <br /> まあ、おそらくは遠くにあるというよりもほとんど同じ位置だけれどもちょっとだけズレたところにある、というくらいかな、という気もします。<br /> <br /> どちらにせよ確かなことは遠近感がなくなってきているということで、そうなってくると、自然と自分と他人との区別もよく分からなくなってきています。全部が映像で平ら、あるいはホログラムならば自分も相手も大して差がない、と言いますか、どちらも映像でしかない、あるいは、どちらもホログラムでしかない... となると、「自分」という存在が消えてしまいます。<br /> <br /> まあ、とりあえず今のところの認識はそんなところです。これが良いとも悪いとも判断する必要がなくて、ひとまずは、今の状態を更に進めてみることにします。<br /> <br /> Fri, 07 Feb 2020 00:00:00 +0900 ヨーガとサマーディとヴェーダンタ https://w-jp.net/2020/1825/ <br /> ヨーガとヴェーダンタは似ているようで微妙に異なる思想体系を形成しているようです。<br /> <br /> ヨーガと言ってもインドに諸派があり、一般的にヨーガというと日本では体操やストレッチのことですがインドではヨーガスートラという古典に基づいた八支則(アシュタンガ・ヨーガ)のことを指し、ヴェーダンタはヴェーダの聖典の最後の部分にあるウパニシャッド(奥義)に基づく考えです。<br /> <br /> インドでヨーガスートラとヴェーダンタは微妙に仲が悪い(苦笑)ように思います。<br /> <br /> 細かなことでいがみ合っているようですけど、私に言わせてみれば大した違いではないのです。まあ、遠くの喧騒という感じですが、最近ではインドで学んだ人がその対立や思想の違いを日本に持ち込んでいて、インドという対岸の火事をわざわざ日本に持ち込んでいる感もちょっとあったりします。<br /> <br /> ヨーガの基本的な考え方は何度か引用しましたように「心の作用を死滅」させることで、その結果としてサマーディという心の平常状態および至福が達成されると言います。<br /> <br /> 一方、ヴェーダンタの諸派の基本的な考えは、悟るために心を死滅させる必要はなくてただ真実に関する知識を正確に知れば良い、と言います。<br /> <br /> 最近何度か書いていますように、サマーディがゾクチェンでいうところのシネーの境地なのかテクチュの境地なのかで見解が違うのですが、一般的にはシネーの境地であると理解されています。それゆえに、シネーの境地は最終目標ではないというヴェーダンタ諸派の主張は確かにその通りだと思いますし、実際のところ、ヨーガの人たちもシネーの境地に相当するサマーディが最終目的地だとは思っていないのではないかと思います。<br /> <br /> 現実には、心を死滅させるかどうかでヨーガとヴェーダンタで言い争いになったりしているそうです。ヨーガをしている人はヴェーダンタ派の心の乱れを指摘したり、逆に、ヴェーダンタ派はヨーガ派に対して心の死滅は不要であると説いたりします。<br /> <br /> ですがまあ・・・・、私に言わせてみると、そんなのはどうでも良いです。シネーの境地を抜けてテクチュの境地に到ればどちらも同じであることを悟るわけですから、そんな言い争いしている暇があれば瞑想でもしたら良いのです(苦笑)<br /> <br /> どちらにせよ心を制御できるようになるべきという点では両者は同意しているようですし、であれば、ヴェーダンタ派にとっても実際はヨーガは有用なものとして認識されているようです。ヴェーダンタ派の主張を間にうけてヨーガの訓練を辞めてしまう人もいるようですが、それはちょっと気の毒な人です。<br /> <br /> ヴェーダンタ派にしてみればそのような境地に「何らの効果」も認めないこともあるようですが、そんな極端な話を日本に持ち込まないでいただきたいものです。そんなお話はインドでやってください(苦笑)<br /> <br /> ですから、インドのお話を読むときは以下のように差っ引いて聞いたり読んだりすると良いと思います。<br /> <br /> ・ヨーガ派(ヨーガスートラ)のお話を聞くときは、サマーディで悟れるというお話を話半分に聞いておく。<br /> ・ヴェーダンタ派(ウパニシャッド)のお話を聞くときは、ヨーガの心の死滅は不要であるというお話を話半分に聞いておく。ヨーガスートラ不要論を話半分に聞いておく。アサナや瞑想が不要というお話を話半分に聞いておく。<br /> <br /> このくらいがちょうど良いと思います。<br /> <br /> そのくらい差っ引けばヴェーダンタの言う以下のお話も「ふむふむ」と聞くことができます。<br /> <br /> ヨーガは目的ではなくて手段である。観念の停止は手段であるに過ぎない。ヴェーダーンタは、サマーディを得ることは悟りを得るために絶対に必要な条件ではない、といっている。これはしばしば、他者からは理解されない。(中略)彼らはいう、絶対者の自覚は、必ずしも人がサマーディに入っていることを意味するのではない。なぜなら、サマーディは、もしそれが心の状態であるなら、われわれは心を超えなければならないのであるし、また、単なる心の状態は、最高の状態ではないのだ。「霊性の修行(スワミ・プレシャーナンダ著)」<br /> <br /> これはヨーガやサマーディに対する誤解を差っ引いて読めば確かにそうだと思わせるお話ですが、これを読んでヨーガは不要と思ってしまうのであれば残念なお話です。私にしてみれば、ヴェーダンタも目的ではなく手段ですけどね。どちらも変わらないです。視点が違うだけのことです。<br /> <br /> 主義主張が大事だと思っている人は違いに拘りますけど、どちらも手段ですから便利に使えば良いだけのことです。相手を手段だと言って自分の主張は違う、自分の主張は手段ではないと言っている時点でそのお話はどうなのかなあ? と思ってしまいます。<br /> <br /> ヴェーダンタはアドヴァイタという非二元論的見解に基づいていますが、それによると以下のようなところが重要のようです。<br /> <br /> 非二元論的見解からは、われわれは自己の実在だけを悟らなければならない。他の一切のものは、単なる現れとして理解されなければならないであろう。(中略)ブラフマンのみが実在、他の一切はまぼろしと悟れ。(中略)知識の人は、サマーディにいようと、目覚めて世間で活動していようと、彼の悟りの性質には全く何の違いもないのであるる。それがが、非二元論者の主張である。「霊性の修行(スワミ・プレシャーナンダ著)」<br /> <br /> これは視点の違いであって、確かにこのようなお話も理解できます。流派によって見解が違いますので、それをわざわざ指摘するのは野暮というものですので「ふむふむ」と有り難く聞いて自分の中である程度を差っ引いてお話を聞けば良いのかなと思います。<br /> <br /> こういうのって、最初に言っていた人は正しく理解していますけど時代が過ぎて伝言ゲームになるにつれて真実から離れてゆきますのである程度は差っ引いて聞けばいいのだと思います。<br /> <br /> 私が見たところ、ヨーガスートラも似たようなことを言っていますし、最近の考察ではサマーディとヴィパッサナーは同じと言う理解にいたりしましたし、結局は目指すところはゾクチェンで言うところのシネーの境地やテクチュの境地なわけですから、どこから見たところで目的地は同じだと思います。<br /> <br /> そもそもサマーディとは何かというお話の共通理解がないのにサマーディという言葉を聞いただけでヴェーダンタ的なお話でサマーディを否定してくる人がたまにいて、それはちょっとどうかなあと思うこともあり、日本では馴染みの少ないヴェーダンタ派でのインドの混乱を日本に持ち込んで欲しくはないなあ... と思ってちょっと書いてみました。<br /> <br /> ヴェーダンタ派が心の死滅が不要と言っているのは最終的なテクチュの境地を目指すなら心の死滅は通過点に過ぎない、という意味なのだと咀嚼して聞くことにしています。その基本的な理解ができてしまえばヨーガの人もヴェーダンタのいうことが理解できるでしょうし、特に争う点もない気が致します。<br /> <br /> まあ、最近もちょっと書きましたけど、主義主張の違いなんてのは所詮は趣味の問題ですから、自分の趣味にあった主義主張ややり方を選べばいいのです。成長するのも趣味ですし成長しないのも趣味です。ですから、こんな流派の違いなんて趣味の違いかなと思います。まあ、そのくらい気軽に捉えています。<br /> <br /> Thu, 06 Feb 2020 00:00:00 +0900 視界が益々ゲームに似てくる日々 https://w-jp.net/2020/1824/ <br /> 最近のゲームは動きがスムーズですが、日常生活の視界がスローモーションで見えてくるにつれて段々と現実がゲームっぽく感じられるようになってきました。<br /> <br /> 例えば、先日に視界がスローモーションで見え始めた頃から体が上下するのに合わせて視界が上下に振動することを細かく認識するようになったわけですけれども、3Dで主人公の主観の視点のゲームによっては歩くタイミングに合わせて視界が上下運動するものがあって、その上下運動が現実に認識される視界とよく似ていてまるでゲームの主人公になっているかのような感覚です。<br /> <br /> 定期的にどこかで誰かが言っていることではありますけど、この世の中は巨大なゲームだ、みたいなお話ですが、そんな感じが最近してきています。<br /> <br /> 昔はここまでスローモーションで視界を認識できていなくて1秒のうち3コマくらいの認識でしたので上下運動を感じることはあまりなかったのですが、最近は上下運動を細かく把握していますのでゲームの世界に似てきた、というわけです。<br /> <br /> どこかに私をコントロールしているプレイヤーがいてもおかしくはありません(苦笑)<br /> <br /> みんな割とシリアスにこの現実を生きているわけですけれども、シリアスに演じるというゲームをみんなプレイしているのだなあ、と思っています。でも、私はちょっと飽きてきちゃいましたけど。 飽きてきたというと語弊があります。どんよりと飽きたというよりは、興味を失ってきたと言うのかなんというか。<br /> <br /> ゲームであっても攻略したり裏技見つけたりするのが面白くもありますけどね。<br /> <br /> Wed, 05 Feb 2020 00:00:00 +0900 精神修行で山にこもるのかこもらないのか? https://w-jp.net/2020/1823/ <br /> 山にこもって修行する時代なんて終わったとよく耳にしますけど、終わったのはそう言っている人個人の都合や趣味であって、山にこもった方が良い方は沢山いらっしゃいます。<br /> <br /> 今は自由の時代ですから山から出ろなんて一律な話ではなくて、山にこもりたければこもればいいし、出たければ出ればいいんです。<br /> <br /> 思いっきり咀嚼して言えば、そんなのは趣味の問題です。好きにすればいいのです。<br /> <br /> ドヤ顔で山から出る時代だとか言っている人を見ますと、ちょっと見解の狭さを感じます。見解の狭さはスピリチュアル初心者(本人はそうは思っていない)によくあることですけど。<br /> <br /> 山からこもった方がいいかどうかは私にしてみれば基準があって、ゾクチェンで言うところのシネーの境地のためにはこもった方が良くて、ヴィパッサナー状態であるところのテクチュの境地に移行したら街で趣味のように暮せばいいと思うわけです。<br /> <br /> ですが、それすらも趣味みたいなものですので、どうでもいい... とまでは言いませんけど、好きにすればいいのです。<br /> <br /> シネーの境地というのは雑念がなくなったり抑えられている状態ですので、その境地のためには街にいるのではなくて静かな山奥などに行くか、街にいるにしても仕事を辞めて静かな数年間を過ごす必要があるかもしれません。もはや、この時点で趣味の感覚が満載ですよね。<br /> <br /> そして、テクチュの境地と言うのは静かな状態のまま活動できるヴィパッサナー状態のことですので、そうなれば山に籠っている必要はなくて街で変化を楽しめば良いわけです。そうなっても山に篭っても良いですし、どちらにしても、趣味みたいなものです。<br /> <br /> テクチュの境地に至る前のシネーの境地以前に街にいると他人に翻弄されて他人の影響を受けやすいため山に篭った方が良いと個人的には思いますが、それでも街で精神訓練することもできますし、そんなのは、好きにすればいいのです。<br /> <br /> 私には私なりの見解があって、この時はこうすればいい、と言う理解はありますが、それが全員に適用できるとは限りませんし。<br /> <br /> テクチュの境地で街中で暮らして生活を楽しんでいる方もたくさんおられますので、街で暮らすのも悪くはないと思います。<br /> <br /> まあ、どちらにしてもこの世の中は趣味で出来ていますよね。山に籠ると言う趣味もたまには面白いのかなとは思います。<br /> <br /> 私の過去の記憶とかを引っ張り出してみますと特別に今の時代が精神的に進んでいるかと言うとそうでもない... と言いますか、そもそも時間なんてものは幻で、今の時代に生きている魂が死んでから少し過去の時代に転生ということもありますから、あんまり過去とか未来とか関係ないと思います。<br /> <br /> どの時代にも進んだ文化や精神があって、それぞれの魂が自分の趣味で住むところを選んでいるという、ただそれだけのお話です。<br /> <br /> Tue, 04 Feb 2020 00:00:00 +0900 テレパシーが後頭部上部で感じる https://w-jp.net/2020/1822/ <br /> 昔は頭全体と言いますか体全体で感じたように思いますが、最近は、頭を斜め後ろ方向に半分にした部分あるいは後頭部上部の小さなところでテレパシー的なものを感じるようになりました。まあ、テレパシーと言いましても誰か知り合いが私の噂話をしたり頭に思い浮かべているという程度のお話ではありますが、そういう考えは割と他人に筒抜けだと思います(苦笑)<br /> <br /> 以前にもテレパシーに2種類あるようなことを書きましたけど、今回のは思念波が伝わる場合です。<br /> <br /> オーラが接触して情報が伝わる場合はもっと「混ざる」感覚があって、相手もわかると思います。<br /> <br /> とは言いましても、仮説としては、これはどの程度微細なオーラなのかの違いだけで同じことかもしれないな... とも薄々思うようになってきていますが。<br /> <br /> その仮説としましては、肉体の密度に近い粗めのオーラが近接して情報が伝わる場合がまずあって、それとは別に、微細な波動が伝わるのが思念波によるテレパシーなのかなと。オーラ接触の場合はかなり濃厚な感じですけど、テレパシーの場合は微細な波動を感じるという感じです。<br /> <br /> まあ、そんなに違いはないのかも... とか最近は思うようになってきています。<br /> <br /> 思念波にしても、それは指向性があってこちらに向かってきているわけですし、その波動がオーラとどう違うのかと言いますと、密度や質に違いこそあれ、性質としてはそんなに変わらないのかな、とも思い始めています。<br /> <br /> これは仮説ですので、これからもっと見極めてゆくところですけど。<br /> <br /> Mon, 03 Feb 2020 00:00:00 +0900 ヴィパッサナー瞑想で体や息を観察すること https://w-jp.net/2020/1821/ <br /> ヴィパッサナー瞑想とは観察瞑想のことですが、 世間一般でヴィパッサナー瞑想というと体や息を観察することだと言われているように思います。<br /> ですが、実際のところ、それはサマタ瞑想(集中瞑想)であると思うわけです。<br /> <br /> これはかなり以前からそうではないかと思っており、半ばそのような結論を出していたわけですが、この度、それが更に深く理解できたような気が致します。<br /> <br /> ヴィパッサナー状態で周囲がスローモーションに見えたり体の内部の感覚を感じられるようになるというのは確かにその通りですが、瞑想の手法として体や息を観察しましょう、ということになるとそれはサマタ瞑想(集中瞑想)でしかないわけです。<br /> <br /> 目的地を見据えてその覚者の真似をして体の観察をしたり息を観察することは無駄だとは言いませんし、それはとても効果があると思います。ですが、それはヴィパッサナー瞑想としての効果ではなくサマタ瞑想(集中瞑想)としての効果であると思うわけです。<br /> <br /> ヴィパッサナー瞑想をしている人たちは、二つの種類に分類されると思います。<br /> <br /> それが本当はヴィパッサナー瞑想ではないとわかっていながら弟子や生徒たちにヴィパッサナー瞑想としてサマタ瞑想の上記の手法やその他を教えている人たちや団体と、もう1つは、あまりよくわかっていなくてサマタ瞑想を見た目上の分類でヴィパッサナー瞑想だと思って行っている分類です。<br /> <br /> 実際のところ、神秘行とはその表向きのお題目とは違った効果が現れることがよくありますので、ヴィパッサナー瞑想だと思ってサマタ瞑想をしたところで精神修行という観点からはおそらく問題はないと思いますが、私はそういう細かいところが気になるたちなのです。<br /> <br /> 私の見たところ最初の段階では何をしようともサマタ瞑想としての経験値を積むことになりますので、ヴィパッサナー瞑想として体を観察したり息を観察しても、あるいは、サマタ瞑想として眉間などに集中をしたとしてもほとんど同じ成長過程を辿ると思います。<br /> <br /> 個人の嗜好や性格に合わせてやり易い方を選べば良いのではないでしょうか。<br /> <br /> ゾクチェン式に言いますと最初はシネーの境地で心を沈めて、その後、テクチュの境地でヴィパッサナーあるいはサマーディと呼ばれている境地に移行しますので、シネーの境地なくしてサマーディあるいはヴィパッサナーは到達し得ないわけです。<br /> <br /> 例えば一部の団体は最初のシネーの境地に相当するサマタ瞑想を軽視して最初からヴィパッサナー瞑想(の真似事)をした挙句に怒りの沸点を下げてしまって心に破綻をきたしているような気も致します。<br /> <br /> 一方で、例えばテーラワーダ仏教はヴィパッサナーと称して実際はサマタ瞑想を教えているのではないかと私は思ってしまうわけですが、そんなことを聞いたところでどうしようもありませんのでわざわざ聞くような野暮なことはしていませんけど。<br /> <br /> ただ、特に日本の場合は天界出身者がそれなりにいて生まれた最初からテクチュの境地でヴィパッサナー状態で生きている人も相当数いるように思われますので、瞑想がどうこうとかシネーの境地がどうこうとか言っても理解できない人がいるようにも思います。逆の意味で、下の境地が理解できない、というわけです。<br /> <br /> ですから、体や息を観察するように言われたらいきなりテクチュの境地な人もいるわけです。そうとなれば最初からヴィパッサナーと言っても良いのかもしれませんけど、瞑想しようとかいう人は、まあ、やはりシネーの境地から入るのが割と一般的かなと思います。<br /> <br /> Sun, 02 Feb 2020 00:00:00 +0900 サマーディという言葉の2つの意味 https://w-jp.net/2020/1820/ <br /> サマーディが神秘的な不可解なものになっている上に、訳語に禅定や三昧などの当て字がつけられて、更に混乱しているように思います。<br /> <br /> 例えば、テーラワーダ仏教系の著書には以下のように記されています。<br /> <br /> 当時はサマーディ瞑想で禅定に達した修行者が、輪廻転成を乗り越えて解脱に達するためにヴィパッサナー(観察)瞑想に入ったのです。現代ではそのような回り道はしないで、ヴィパッサナー瞑想を実践しています。ヴィパッサナー瞑想だけで、集中力やさまざまな智慧など、解脱に必要な条件はそろうのです。「沙門果経」(アルボムッレ・スマナサーラ著)より<br /> <br /> これは最初に読んだときは「ふむふむ」と読んだのですが、今では違う読み方ができます。<br /> <br /> 前提として、サマーディとヴィパッサナーは同じという個人的な見解があるのですが、それに基づきますと、一般的にサマーディとは2つの意味を持つような気が致します。<br /> <br /> それは、チベットのゾクチェンで言うところのシネーの境地とテクチュの境地です。おそらくは、一般的にはどちらもサマーディと呼ばれています。この辺りに混乱があるような気が致します。<br /> <br /> ゾクチェンにおいてはシネーの境地とテクチュの境地はかなり違うものとして説明されておりますし、サマーディに関しても同じ言葉で2つの意味があるように思います。<br /> <br /> ・シネーの境地 → サマーディ(という誤解)<br /> ・テクチュの境地 → サマーディ<br /> <br /> よって、サマーディと一言で言った時にシネーの境地なのかテクチュの境地なのかコンテキストを読み解かなければならなくなるわけです。<br /> <br /> 上記のテーラワーダ仏教でのお話はシネーの境地のお話ですね。<br /> <br /> そして、私の個人的な見解ではシネーの境地はサマーディではありませんが一般的にはシネーの境地もサマーディだと誤解されているのだと思っております。<br /> <br /> ほんと、ややこしいですね。<br /> <br /> ですから、昔からサマーディでは悟れないと言うお話がヴィパッサナー信奉者から聞かれるのかな、と思います。そりゃ、シネーの境地はまだまだ入り口なわけですから先は遠いわけです。それをサマーディだと思ってしまうことが問題なわけですが、昔からそれでサマーディだと思われてきたのだから、ある程度それで意味は通ってしまうのでしょう。<br /> <br /> 古典であるヨーガスートラに記されておりますサマーディの定義を見ますと二次元的な心の動きが止んで対象と自身の区別がなくなった状態だとありますので、これは明らかにテクチュの境地のことを意味しておりまして、テクチュの境地であればそれはヴィパッサナー状態なわけですから、それがサマーディと同一だと分かるわけです。その意味で言うと上のテーラワーダ仏教のお話はよく分からないお話になりますが、サマーディが2つの意味を持つとわかってしまえば読み解くことができるようになるわけです。<br /> <br /> 禅定はシネーの境地で、三昧はサマーディの当て字でサマーディと同じく2つの意味がある。そのことがわかってしまえばお話を聞いたり文献を読むのが楽になります。<br /> <br /> ・シネーの境地 → サマーディ(という誤解)、三昧(という誤解)、禅定<br /> ・テクチュの境地 → サマーディ、三昧、ヴィパッサナー<br /> <br /> Sat, 01 Feb 2020 00:00:00 +0900 体の緊張をリセットし続けたところ、ヨガのアサナ(体操)が調子良くなりました https://w-jp.net/2020/1819/ <br /> 先日書きましたように最近は緊張をリセットするようにしておりますが、ここ5日ほど忙しくてヨガのアサナ(体操)ができなかったのにもかかわらず今日のアサナ(体操)では随分と体が柔軟に曲がりました。<br /> <br /> 体の緊張のリセットを意識的にし始めたのはいつ頃からだったでしょうか。記事を書いたのは1週間前くらいだったかと思いますが、その少し前から行っていたように思います。その効果が出てきたのでしょうか。<br /> <br /> 半年くらい前に右足首を骨折しまして、それから体をあまり動かさなかったのでかなり体が硬くなっていたのですが、ここ1ヶ月ほどはヨガのアサナを再開して多少は戻っていたところでした。それが、このように緊張を意識的にリセットするようにしてから急激に体の状態が回復してきたように思います。<br /> <br /> 今日のアサナでは、体の調子が骨折前にかなり近付きました。いきなりここまで回復するとは思っていませんでした。<br /> <br /> まあ、たまたまタイミングが合っただけかもしれませんけど。<br /> <br /> それに加えて、今まで曲がらないと思っていたところが少し曲がり始めたのが驚きです。これはほぼ確実に今回のリセットの効果と言って良いかもしれません。<br /> <br /> もともと上半身の背筋がとても硬かったのですが、最近は胸やお腹の中の方の筋肉や肩まわりのリセット回数が多かったかと思いますので、背筋が柔軟に曲がるようになってきたことは関係がありそうです。<br /> <br /> Fri, 31 Jan 2020 00:00:00 +0900 思考を停止させるだけではサマーディ(三昧)にはならない https://w-jp.net/2020/1818/ <br /> ヨーガのよくある誤解として、思考を停止させるだけでサマーディ(三昧)に至って悟ることができるというお話があります。<br /> <br /> 普通に思考を停止させると、それが例えできたとしても一時的な仮死状態になるだけで、いわゆる深い眠りの状態に落ちているだけになります。それを誤解してサマーディ(三昧)と呼んでいる人もたまにいらっしゃるようですし、その誤解の理解に基づいてヨーガを批判して「思考を停止させても仕方がない」なんて言ったりします。<br /> <br /> ですが、そもそも思考を停止させるだけではサマーディ(三昧)にはなりませんし、それで悟りになることはありません。<br /> <br /> 私の理解では、サマーディになるには思考を停止させることに加えて、オーラによる観察をしている感覚が必要に思います。<br /> <br /> ヨーガスートラにも記されています。<br /> <br /> (2) 心の作用を止滅することが、ヨーガである。<br /> (3) そのとき、見る者(自己)は、それ本来の状態に留まる。<br /> 「インテグラル・ヨーガ(スワミ・サッチダーナンダ著)」より<br /> <br /> これを文字通り読むと、「留まる」という文章は「ふうん。留まるから... だからどうしたの?」という感じになってしまって意味を読み取れません。文字通り心の作用を死滅(停止)させると見る者(自己、プルシャ)がそれ本来の状態に留まって、だからどうしたのだろう? というところで終わってしまいます。<br /> <br /> これはもともとサンスクリットで難解な内容ですので思いっきり意訳が必要に思います。<br /> <br /> おそらくは、この意味としては「見る者(自己、プルシャ)」が認識を始める、というような意味かなと思っております。<br /> <br /> それを裏付ける形で、神智学系のヨーガ・スートラ解説書には以下のように記されています。<br /> <br /> 1章2) この合一(ヨガ)は、サイキック性質を征服し、チッタ(マインド)を抑制することによって達成される。<br /> 1章3) これが成し遂げられたとき、ヨギは自分自身のありのままの姿を知る。 「魂の光(アリス・ベイリー 著)」<br /> <br /> この訳の方が真実に近い気が致します。サイキック性質というのは神智学でいうところの欲求の心であり情緒であり感情の性質です。そのような性質を制御することと、移ろいやすい思考の変化を制御することで合一(ヨガ)が達成される、と説明されています。<br /> <br /> よって、よくある誤解のように、思考を無くしてロボットのようになることではなく、思考を制御する結果として現れてくるのはむしろ逆の生き生きとした自分自身の姿であるわけです。まあ、最近はそんな誤解を聞く機会も減ってきましたけど。<br /> <br /> 思考を制御して、見る者(自己、プルシャ)が現れて、いわゆるオーラ的な認識力が出てきた状態がサマーディなわけです。<br /> <br /> チベットのゾクチェンでは、単に思考を停止させた状態のことをシネーの境地と呼んでいて、思考を止めただけでは次のテクチュの境地にはならず、その後にオーラによる認識力が出てきていわゆるサマーディ状態になるとテクチュの境地になって、それはヴィパッサナー状態と同じであるという個人的な認識に至ったわけですけれども、そういうことで、思考を停止させるだけではシネーの境地にしかならないわけです。<br /> <br /> このあたりはなかなか入り組んでいますし流派によって解釈が異なるとは思いますが、個人的にはこのように理解しております。<br /> <br /> Thu, 30 Jan 2020 00:00:00 +0900 サマーディとヴィパッサナーは同じ https://w-jp.net/2020/1817/ <br /> サマーディの定義を見ると不可思議で、文字通り解釈するとヴィパッサナー状態とまるで別物のような印象を受けます。<br /> <br /> 私はそもそもサマーディがどういう状態なのか長い間謎で、ヴィパッサナーも謎だったのですが、まずヴィパッサナー状態に至って、その状態を説明してあるチベットのゾクチェンの本を読んでゾクチェンの一つの段階に相当することを理解し、その後、ゾクチェンの定義に当てはめるとサマーディが同じ状態に該当することを知りました。<br /> <br /> ヨーガをしている人の中にはサマーディを神聖化している人もいて、サマーディに至ると悟ると理解されていたりもします。個人的にはそんな印象を受けます。<br /> <br /> このあたりは以前にも謎解きをしました。<br /> <br /> ですので、私の中ではサマーディとヴィパッサナーは同じであるという理解で落ち着いた訳ですが、世間を見ますと、サマーディこそが目指すところでヴィパッサナーはその途中段階だというお話があったり、あるいは、ヴィパッサナーこそが目指すところでサマーディは悟りには至らない、みたいなそれぞれサマーディとヴィパッサナーを神聖化するお話を度々耳にします。私だけでしょうか。<br /> <br /> サマーディを神聖化している人はヨーガスートラに基づいて思考の停止を絶対視します。<br /> 一方、ヴィパッサナーを神聖化している人は思考の停止を否定し、思考も観察するヴィパッサナーこそが悟りに至る道だと主張しています。<br /> <br /> 私の理解に基けばこれはどちらもちょっと誤解をしている訳ですが、私は別に、その論争に加わろうとかそういうつもりはありません。<br /> <br /> 本当にサマーディに到ればそれはヴィパッサナー状態であることが分かるでしょうし、ヴィパッサナー状態に到ればそれがサマーディであることが分かる、という、ただそれだけのお話です。<br /> <br /> サマーディとヴィパッサナーとは同じ状態の2つの面を表現しているだけであり、そこに到達していない人があっちが違うこっちが正しいとか言っていても仕方がない訳です。<br /> <br /> サマーディに到れば思考が停止してオーラが主体となってオーラで何かを見るかのような状態になりますし、ヴィパッサナー状態は思考が停止しても同じようにオーラが何かを観察している状態になる筈ですから、結局は同じことであると思う訳です。<br /> <br /> その状態に至ってしまえば、あとはそれを何と表現するかだけのお話で、それが私はヴィパッサナーと呼ぶ方がしっくりきている、というだけのお話です。ですから、私はべつにヴィパッサナー論者ではありません。むしろやってきたことはヨーガですが、ヴィパッサナーのお話も色々と参考にしました。<br /> <br /> ですから、私は今の状態をサマーディと呼んでも良いのですが、サマーディという言葉は何か不可思議な響きがありますので、そのような不可解な表現は好きではないのでサマーディというのを避けているだけで、内容的にはサマーディとヴィパッサナーは同一だと思っております。<br /> <br /> Wed, 29 Jan 2020 00:00:00 +0900 目の前にあるオーラの壁にすり寄る https://w-jp.net/2020/1816/ <br /> 座った瞑想をしていると、目の前にもやっとした壁が感じられました。それは壁のようにも見えますし、シュタイナーの言う「境域の守護者」かもしれません。色は黒ですが嫌な感じはしません。見た目ではドラゴンクエストに出てくるフレイムに似ていますが色は黒です。<br /> <br /> 広い壁だということはなんとなくわかりますが目の前を見るとそこだけはフレイムっぽいので、大きなフレイムがいるというわけではなく、目の前に自分と同じくらいのフレイムがいるということです。その周囲と言いますかすぐ背後に広く壁があるようです。<br /> <br /> それは、例えば水面を水の中から認識することに似ています。穏やかな湖あるいは湾の中の海に潜り、浅い砂地の底に横たわって透明な水を通して水面及び空を眺める感じです。そして、最近はその距離が近づいて次第に自分が水面に近づいているのを感じます。水面に近づくにつれ、上記のような壁及び越境の守護者のようなものを感じ始めています。<br /> <br /> これは、大前提としてヴィパッサナー状態でないと感じられません。ヨーガ的に言えばサマーディ(の基本的な状態)なわけですが、思考が止まって周囲を感じる(五感の皮膚の感覚とちょっと違いますが)と、上記のように感じられるわけです。<br /> <br /> 境域の守護者は以前にも少し言及しました。ちなみにシュタイナーは薔薇十字系です。これは、以前に載せた、瞑想中に一瞬見えた小悪魔の影に似ていますが今回は特に目は光っていませんでした。<br /> <br /> 記憶が曖昧なのですが、攻殻機動隊という映画の初代の確か最初の方で主人公が水面に浮かぶシーンがあったかと思うのですが... 探してみたらやはりありました。これです。今は探せばすぐに見つかりますね。この画像は同映画のワンシーンです。カラーだとイメージと少し異なりますので白黒にしました。<br /> <br /> 感覚としては、そんなイメージに似ています。<br /> <br /> 思えば私が子供の頃、隣町の湾の海岸で泳いでいたことがありました。その時、水深3m前後の砂地に潜り、水中の砂に横たわって海面と空を見ていました。そこは砂地の部分ではありましたが岩場の多い海岸でしたので基本的には水は澄んでいて綺麗で、息はもちろん止めていましたが肺だけを動かすとある程度は呼吸っぽくなるので潜ったまま肺だけを動かし、砂の上でうとうとし始めました。心地良くて、そのまま眠ってしまいそうです。意識が落ちかけて、ふと、このまま意識が落ちて眠りこんだら死ぬかもしれないというかすかな気付きが現れました。そうして手で軽く砂を押して海面に上がりました。その時の清々しさは今でも度々思い出します。今回のものは海の体験の清々しさとはちょっと違うのですが、似ている部分もあります。<br /> <br /> 今生きているのは水面の下の世界で、すぐ目の前に水面があって、その先には本当の・・・ と表現すれば良いのでしょうか、なんと表現すれば良いのでしょうか。水面の向こう側に世界があって、それをこちらから眺めている感覚です。<br /> <br /> その壁との距離が近づきつつあって、その向こう側に何があるのかまだ不明です。ちょっとドキドキする反面、ちょっとだけ期待があって、ほんの少しの緊張感と共にその壁を眺めている感じです。壁の向こう側は「無限」と繋がっているかもしれない??? 実際はどうなのでしょう...<br /> <br /> 少しだけ自分とその壁とが交わりつつある気がしますが、まだ1割くらいの感じが致します。<br /> <br /> Tue, 28 Jan 2020 00:00:00 +0900 ヴィパッサナーと通常状態がスーっと切り替わる https://w-jp.net/2020/1815/ <br /> 以前はいつの間にか切り替わるか、あるいは、瞬時に切り替わる感じでしたが、今日は思考を止めてヴィパッサナー状態にスムーズにスーっと遷移しました。遷移する瞬間の間をスローモーションで観察する感じですが実際には数秒だと思います。<br /> <br /> 思考が止まるというよりは思考が空間に溶けてゆく感じです。<br /> <br /> 思考が空間に溶けてゆくと景色がよく見えてきてスローモーションのヴィパッサナー状態に移行します。<br /> <br /> 今週は色々と作業があって少し疲れが溜まっておりましたので、それであまりうまくヴィパッサナー状態に遷移できないのかもしれません。調子の良い時であれば動画で言うところの30fpsくらいのスムーズさで視界が認識されますが、今日は15fpsから8fpsくらいの認識でした。その状態は多少は思考が混じっている状態ですが、上記のように思考が空間に消え去ると24fpsとかで多少はスムーズに認識されました。<br /> <br /> ハイキングをした時も感じたのですが、ヴィパッサナー状態は疲れとかに左右されますね。<br /> <br /> であれば、元気な時に散歩をして明確にヴィパッサナーすると気分も晴れ晴れとして良い気が致します。<br /> <br /> Mon, 27 Jan 2020 00:00:00 +0900 日常生活が修行になるヴィパッサナー瞑想 https://w-jp.net/2020/1814/ <br /> ヴィパッサナー状態に移行する前はそんなことはありませんでした。以前は、日常生活は日常生活で精神的訓練(というほどのものではないですが)は精神的訓練で、例えばヨガはヨガ、仕事は仕事、趣味は趣味、遊びは遊び、散歩は散歩でした。<br /> <br /> しかし、日常生活でスローモーションのヴィパッサナー状態が可能になると、特別に何かをしなくても割と日常生活が修行のような感じになってきました。<br /> <br /> 「修行」とか言いますと何か重苦しくて山にこもったり苦しい苦しい苦行をして誰よりも大変な思いをしなくてはならないイメージがありますが、ここでいう修行はそういうことではありません。ただ単に、日常生活で、例えば散歩をするなどをして、その時にスローモーションで感じるヴィパッサナー状態にいるだけです。ヴィパッサナー状態で日常生活することそれ自体が修行のような感じになってきたと思っています。<br /> <br /> ですから、ただ単にヴィパッサナー状態になってスローモーションを感じながら日常生活を送るだけのことです。<br /> <br /> 滝行もしなければ、険しい山にも登らなければ、お経やマントラも唱えなければ、ストレッチもしません... と言いますか、やってもいいのですけど、それをすることと、ここでいう修行とはあまり関係がない、ということです。<br /> <br /> 誰かにこれが修行だなんて言ったら激しく説教されそうなくらいです(苦笑)<br /> 特に、ヨーガの人は「想像で出来たつもりになるな」と言うのが好きですからね。<br /> <br /> 散歩しながらスローモーションのヴィパッサナー状態であれば修行のような感じ、というだけのお話です。<br /> <br /> 傍目からすれば、ただ散歩しているだけです。<br /> <br /> 誰も修行とは思わないですし、誰かに修行だなんていう必要もないですし、言っても理解されないと思います。<br /> <br /> 最近は、わざわざ誰かに言わなくてもいいかな・・・ という感じになってきています。 まあ、ちょっとは雑談とかで言いますけど、そのくらいですかね。<br /> <br /> この、日常生活が修行のような感じになってきたら、今までヨガやスピリチュアルで言われていたことがかなり「溶けて」きた気がします。<br /> <br /> 当時は、色々なことが「納得」の上で精神的なスピリチュアルを捉えていました。<br /> <br /> 例えば、瞑想について言えば以前に ヨガ瞑想、サマーディ、マインドフルネス、ヴィパッサナー等について とか書きましたけど、今の視点からすれば全てはヴィパッサナーのスローモーション状態からの視点になってしまって、理屈どうこうはあまり考えられなくなってきています。<br /> <br /> 今は、ヨガやスピリチュアルの古典的な説明よりもゾクチェン的な「ありのまま」という一言が全てを表しているような気がしていて、それが全てであるなら何にも説明は実はいらないのだ... という気になってきています。<br /> <br /> このまま意識が溶けてしまうのでしょうか。<br /> <br /> まあ、あまり心配しても仕方がないですし、こうして書いているほどには実際は心配していません。<br /> <br /> それは「流れに身を任せる」という感じでもなくて、パワーが漲っているので行き着くべき場所にどんどん自分から根元から突き動かされるように進んでいくから大丈夫、という感じです。<br /> <br /> まあ、今わかるのは、やるべきことは日常生活でのスローモーションのヴィパッサナー状態を今は続ければ良い、というだけです。後のことはそのうち開けてくるでしょう。<br /> <br /> Sun, 26 Jan 2020 00:00:00 +0900 両肩に刺さっていた見えないものを引き抜く https://w-jp.net/2020/1813/ <br /> 以前にも似たようなことがありましたけど、今回も、不意に意識に緊張が走って肩や頭の緊張が抜けなくなりました。ここ最近は体の感覚を観察してスローモーションのヴィパッサナー瞑想を行うなどしておりましたが、そのヴィパッサナー状態も解除されてしまいました。<br /> <br /> ヴィパッサナー状態になったからと言ってこの種の緊張と無縁になるわけではないようです。<br /> <br /> 瞑想で意識を統一しようかな... と最初は思いましたが、特に意識が乱れているというわけではありませんのでそれはちょっと違うなと思い、代わりに体を観察しましたところ、両肩、特に右肩とうなじの中間くらいに大きな何かが刺さっているような気がいたしましたので、前回は瞑想中に取り除きましたけど今回は椅子で意識を保ったままそのあたりにある”なにか”を引き抜いたところ、急に右肩の緊張が取れてきました。<br /> <br /> どうやら、何かの意識体の塊かトゲのようなものが刺さっていたような感じです。<br /> <br /> 以前に右腕に絡まっていた見えないものを引き抜くことをした際はおそらく何かの意識体が刺さってエネルギーの吸血状態になっていたのですが、今回は吸血状態というわけではなく、ただ単に、意識の何かが刺さってしまったので引き抜いた、という感じです。<br /> <br /> もともと私は右側のオーラのガードが弱くて、左肩よりも右肩の方が影響を受けやすいのです。<br /> <br /> これは、私に対しての念かなと最初は思ったのですが、どうも、ただ単にそこらへんにぷかぷか浮いていた見えないトゲがぶつかってオーラが怪我してしまった、という感じのような気が致します。<br /> <br /> そのトゲは誰かが作り出した残存物に過ぎないのですが、ぶつかるとこうして被害を被るようです。というか、昔からよくぶつかって被害受けていました。<br /> <br /> 霊視できればそういう障害物とかは避けられると思うのですけど、今生の私はまだ見れないです。<br /> <br /> 定期的にこういう被害を受けていますのでその度に引き抜いて治療しています。<br /> <br /> 今回のことを踏まえますと、具合が悪くなったら以下のように対処が必要のように思います。<br /> <br /> 0.肉体の問題かどうか確認します。肉体の問題の場合は普通に対処。<br /> 1.まず、体に見えない何かが刺さっていないか確認する。具体的には、体が極度に緊張しているところを探す。<br /> 2.体の極度の緊張を確認したら、目に見えない自分の「手」を使って緊張しているあたりを「つまんで」引っ張る。うまく行けば何かの塊が抜けてゆくような感覚がします。オーラを吸引している吸血性の意識体であれば触手を奥深くのチャクラまで伸ばしているかもしれませんので触手が千切れないようにゆっくりと引き抜きます。<br /> 3.引き抜いたら、オーラがその部分だけ損傷しているので団子や粘土を丸めてくっつけるようなイメージでオーラの裂け目を修復します。目に見えない自分の「手」を使うとやりやすいかもしれません。<br /> <br /> このようにまずはオーラを整えないとヴィパッサナー状態に入れないような気がいたします。<br /> 極度の緊張が取れたらスローモーション的に認識するヴィパッサナー状態になって、以下を確認します。<br /> <br /> 4.体を日常的に観察して緊張が現れたらすぐに気づく。<br /> 5.気付いた緊張を意識的に解除してリラックスする。<br /> <br /> ヴィパッサナー状態に入れるかどうかはともかくとして、その前段階はやってみさえすれば割と誰でもできる気が致します。<br /> <br /> このようなことって、可能なのだということを誰も言ってくれないので誰もやっていないだけで、具合が悪くなったらその部分を上記のように手当てしてあげると良いと思います。<br /> <br /> もちろん、肉体の怪我や病気や不調もありますので全部がこれで治るわけではありません。<br /> <br /> この種の具合の悪さは分かる人にはわかる筈で、これを読んで「ああ、あれのことか」とわかるのであればやってみれば良いし、何のことかわからなければスルーするのがいいと思います。<br /> <br /> 割と簡単なことでも、こうすれば良い、ということを知らないが故にエネルギー・ヴァンパイアに長い間ずっとエネルギーを吸われ続けて具合を悪くしている人がこの世界には割と多くいらっしゃる気が致します。<br /> <br /> 関連:<br /> ・体のオーラに取り憑いているエネルギー体<br /> ・床屋で取り憑いてきた意識体<br /> <br /> Sat, 25 Jan 2020 00:00:00 +0900 体の感覚を観察してスローモーションのヴィパッサナー瞑想を行う https://w-jp.net/2020/1812/ <br /> 先日は座った瞑想で準備をして日常生活でヴィパッサナー瞑想を行うような感じでしたが、今日の座った瞑想ではヴィパッサナー的な感じになりました。ただ、やはり体の感覚は感じにくいのか、視覚ほどはっきりとわかるヴィパッサナー瞑想にはなっていない感じです。とは言いましても、座った時に感覚が細かくわかることで一応はヴィパッサナー瞑想になっている気が致します。<br /> <br /> ヴィパッサナー状態で視界を観察したり音を聞いたりするよりも、感覚は微細でわかりにくい感じが致します。もともとの感覚と同じといえば同じで、ヴィパッサナーになっているといえばなっているかな... という微妙な感じではあります。<br /> <br /> とは言いましても、これで、座っていても視覚のスローモーションのヴィパッサナー瞑想と同じ観察が感覚に対してもできることが一応は確認できました。<br /> <br /> とりあえず、ヴィパッサナーは視覚を中心に行うのが良さそうです。<br /> <br /> 視覚はいつもそこにありますので、最初こそスローモーションのような不思議な感じがしておりましたが、慣れてしまえばこれが普通かな... という感じで視覚を認識しております。<br /> <br /> 視覚が以前のようにコマ送りではなく細かく認識されるのがヴィパッサナー状態ですが、もしかしたら、もともとこのくらいの動体視力を持っている人にとっては当たり前のことかもしれませんね。そんな気がしてきました。<br /> <br /> と、言いますのも、日常生活上のスローモーションのヴィパッサナー状態が可能になって約3週間経ちましたが、次第にこの状態に慣れてきたからです。<br /> <br /> 私の場合は変化があったために違いを感じましたが、変化がなければおそらくは自分の認識が普通だと思うことでしょう。<br /> <br /> 日常生活を楽しめている人とそうでない人の違いはこんなところにもあるのかな... と思いました。<br /> <br /> ヴィパッサナー状態であれば日常の変化だけで人生が楽しめるのに対し、そうでなければ日常生活に変化はなくて頭の中の考えが何度も続くだけですので面白くない人生と感じて遠くの何かを追い求めたりします。<br /> <br /> ヴィパッサナー状態であればありきたりないつもの道も毎回その変化を感じて視界の微妙な変化ですら楽しむことができますが、そうでなければ同じ道としか感じずに面白くない人生になります。<br /> <br /> これは、昨日や前回と同じかどうか比べてどうこういう話ではなく、最初であっても2回目であっても10回目であっても変化を楽しむことができるのがヴィパッサナー状態ということだと思います。<br /> <br /> 思うに、ヴィパッサナー状態を封じてしまえば人間がロボットになって「消費」という罠にはまり込んで経済を回し続けるので消費させたい人にとってはヴィパッサナー状態なんて邪魔かもしれません。<br /> <br /> まあ、このあたりは、気付く人だけが気付いてラットレースから抜け出すのでしょう。<br /> <br /> Fri, 24 Jan 2020 00:00:00 +0900 くつろぎの3段階 https://w-jp.net/2020/1811/ <br /> W.E.バトラーによると、くつろぎには3段階あると言います。<br /> <br /> 第一は緊張している場所をさがすこと。次には緊張をくつろがせること。そして最後に、つりあいのとれた筋肉の状態を確立することである。(中略)着実にこれを実践すれば、君は完全なくつろぎと、正しいつりあいを手に入れることができよう。(中略)これは大切なことなのである。「魔法修行(W.E.バトラー著)」<br /> <br /> 緊張している場所を探し、意図的にわざと緊張させたりすることでその緊張を理解し、意図的に筋肉をくつろがせ、最後には、同書で「つりあい」と表現されているような状態にするべきと言います。それはくつろぎがぐったりしたものでなく意識の通ったいつでも動けるリラックス状態に達することと説明されています。いわゆる「緊張と弛緩」のようなテクニックに加え、意図的に緊張をほぐすというテクニック、そして、くつろいだときにありがちなどんよりとした気持ちに落ち込むのを避ける、という重要な点を指摘しているようです。<br /> <br /> この本はヨガの本ではありませんがヨガの体系も参考に書かれており、同著者のやり方ではこれが一番最初に来て、ヨガのアサナ(体操)やプラナヤーマ(呼吸法)よりも前に行うべきことであると記されています。<br /> <br /> 私の場合はヴィパッサナー状態に達してからようやく「意図的に緊張をほぐす」というテクニックが(簡単に)使えるようになりましたが、同書の順番でヨガのアサナや瞑想をする前の一番最初にそれをしようとしたらきっとなかなかうまくいかずに苦労していたのかな、と推測致します。<br /> <br /> 確かに、筋肉の緊張という意味では最初に来ると思いますが、意識の方がそれについてくるのはかなり後なのかな、という気も致します。<br /> <br /> 一方、リラックスを以下のように説明している方もおられます。<br /> <br /> 宇宙に命令しても(実現を心像化しても)そのことが実現しない理由は、リラックスの欠陥によるものだということを知っている人は殆どいない。何かのことを達成しようとしてそのものに精神集中をし、それの出現を命じた後に、よりよい結果を得ようとするには、もしその場合に命令だけをしているのであったのなら、命令(心像化)の後にリラックスをしなければならないのである。(中略)リラックスは、筋肉のリラックスに加えて心のリラックスが必要なのである。「秘教真義(M.ドーリル博士著)」<br /> <br /> これは度々スピリチャルでも言われていることですが、これは古い本ですので昔からこういうことが一部では伝えられていたようです。<br /> <br /> Thu, 23 Jan 2020 00:00:00 +0900 座った瞑想で準備をし、日常生活でヴィパッサナー瞑想を行う https://w-jp.net/2020/1810/ <br /> 最近は日常生活上でスローモーションに見えるヴィパッサナー瞑想を行っているわけですが、座った瞑想をしてもスローモーションな感じにはならないようです。私が座った瞑想をする際は目を閉じて行っているわけですが、視覚情報がないとスローモーションを感じられないということでしょうか。<br /> <br /> 座った瞑想は、少なくとも気持ちを落ち着かせる効果はあって、日常生活上のヴィパッサナー瞑想の準備としてオーラを安定させる手段としてここ最近は効果が出ている感じが致します。<br /> <br /> 日常生活上でヴィパッサナー瞑想ができるようになったからと言って座った瞑想が必要なくなったわけではなく、今のところ、両方がそれぞれの役割を果たしている気が致します。<br /> <br /> 日常生活を送る上で不安定になりがちなオーラを座る瞑想で安定させるということと、それと同時に、発散しがちな思考を落ち着けてヴィパッサナー状態をしやすくするために座る瞑想が最近は役に立っています。単純に疲れを取る、という効果もあります。<br /> <br /> そうすれば座る瞑想が終わった後に日常生活でヴィパッサナー状態に簡単に入ることができるようです。<br /> <br /> 座る瞑想はそれはそれで有用で、色々なやり方はありますが、最近は特に眉間に集中するということもなくチベットのマントラを(古代の唱え方で)唱えるということもなく、ただ単純に、ヴィパッサナー瞑想の準備としてオーラと思考を落ち着ける、という単純なやり方に落ち着いています。<br /> <br /> 特にそれがいいとか悪いとか読んだわけでもないですし指導を受けたわけでもありませんが、自然にこんな感じになっていています。<br /> <br /> そして、スローモーションに感じるヴィパッサナー瞑想や私の最近のマイブームである日常生活中に体の緊張に気付いて意図的に緊張を解除してゆく、みたいなことを最近はしています。<br /> <br /> Wed, 22 Jan 2020 00:00:00 +0900 昼も夜も半覚醒の状態で体の緊張をリセットし続ける https://w-jp.net/2020/1809/ <br /> 今まで随分と体の緊張を続けてきたことを最近はよく感じるようになりました。<br /> <br /> 最近は、昼の日常生活において顕在意識と並行して半覚醒の意識が体を観察していて、体に緊張があるとそれに時々気が付くのでその度に強制的に緊張をリセットしてあげています。これは以前はここまで気付くことはありませんでした。時期としては景色がスローモーションで認識されて日常生活上のヴィパッサナー瞑想で無情を感じるようになった頃から次第にこの種の緊張に気付けるようになりました。<br /> <br /> 最近は夜も、全時間ではないですが時々深夜に半覚醒の意識が自分の体の緊張に気付いてその度に緊張を強制的にリセットするような睡眠の取り方をしています。熟睡で意識がなくなってしまうような睡眠から、半覚醒の睡眠に徐々に遷移してきているような気が致します。<br /> <br /> 起きているときに何か作業をしている時や歩いている時もその同様の半覚醒の意識が働き続けていて、自分の顕在意識とは別なのか一続きの別の意識になっているのか、その関係は微妙なところですが、明確な脳の働きの思考とは並行して半覚醒の意識が体の状態に気付き続けているような感じが致します。<br /> <br /> それと同じ半覚醒の意識がスローモーションのヴィパッサナー状態を作り出していて景色なども細かく認識しているように思います。ですから、必ずしも視覚で読み取っているわけではなく、ヴィパッサナー状態はおそらくはオーラが感じているという種類の感覚なのではないかと推測しています。<br /> <br /> ただ、目を閉じるともちろん視界の情報は消え去りますので、オーラが感じていると言っても、副次的なものなのかなと思います。<br /> <br /> 目で見える視覚情報の処理スピードが上がったことと、体の感覚を微細に感じられるようになったことの2点ですかね。<br /> 後者はオーラというよりは単に皮膚や内的感覚が微細になっただけとも解釈できなくはないですし、そういう面もあるかと思います。<br /> <br /> ですから、もっと細かく言うのであれば、視覚処理能力向上と皮膚や内的感覚を感じる力の向上および微細な周辺の雰囲気を感じる力(オーラ感知力)の向上、という3つに分けられるのかなと思います。<br /> <br /> この3つのうち、オーラの感知力はまだまだ低いです。以前感じたような五感以外の感覚でもあるのですが、動いてる時と動いていない時があって、動いている時でもやはり5%くらいの照度(比喩です)でしか感じません。これはまだまだのようです。<br /> <br /> そんな感じで最近は昼も夜も感知力が高まって、ここ最近は体の緊張を意識でほぐすことがマイブームになりつつあります。<br /> <br /> ストレッチ等は以前の通りヨガのアサナ(体操)とかでやりますけど、意識で緊張をほぐす、というやり方でどのくらい変化があるのかが最近の興味です。経過観察中です。<br /> <br /> Tue, 21 Jan 2020 00:00:00 +0900 ヨーガの人は「想像で出来たつもりになるな」と言うのが好き https://w-jp.net/2020/1805/ <br /> インドの文化なのでしょうかね。インドのリシケシでヨーガの先生からも誰かが言われていました。<br /> <br /> その時、ヨーガの授業でチャクラのお話になって、生徒の一人が「私は全部のチャクラを感じるわ」と言っていたことに対し、先生が「それは単なる想像だ。そんな気になっているだけに過ぎない」と言っていました。<br /> <br /> チャクラの話のみならず、スピリチュアルなお話に対してヨーガの人が同様に「それは想像だ」と言うのが一部で流行っていると言うのか文化的にそうなのか、良く耳にする気が致します。<br /> <br /> この種のお話は数十年前から聞いていますので、おそらくは最近に始まったお話ではないと思います。<br /> スピリチュアルでも数十年前からちょくちょく聞いていたように思いますが、具体的にはあまり覚えていません。<br /> <br /> まあ、このお話ですけど、それはそうなんですけど、指摘することで他人に対する優位性を植え付ける、いわゆるマウンティングに使われることが時々あるので、それはどうなんだろうなぁ〜? と思います。 マウンティングに使われてしまうくらいなら、他人が想像で語っているのを聞いたとしても「ふ〜ん」と言って聞き流している方が最近は良いようにも感じます。<br /> <br /> 知識を沢山仕入れて、何かを話している人に「それは想像よ」とか言って話の腰を折ったり、自分が「指導したい」と言う気持ちがマウンティングとして現れていることに自分が気づかずに「それは想像だよ」と指導のつもりが単なるマウンティングになっていたり・・・ そんなつまらないことになるくらいなら、この習慣なんて廃れた方がいいと思います。<br /> <br /> きっと文化的なもので、インドの文化なら合っているのかもしれません。<br /> <br /> と言いますのも、インドの人は自己主張が強くて思い込みが激しくて自信満々なので、自分が出来ていると思ったら頑なになりますのでこうして指摘することで本来の姿に立ち直らせるのも必要かと思いますが、日本のようなところで同様に指摘したとしても「何を言ってるの、この人は」となる場面が最近は多いように思います。<br /> <br /> そもそも、他人の状態を見て指導できるレベルの人はそうそういなくて、グルのレベルでないと他人の状態なんて良くわからないのに、他人の発言を想像だとか何とか言ったところで、それは本当かもしれないし想像かもしれないですし、良くわからないでしょう。<br /> <br /> まあ、そんなこんなで、他人に「それは想像だ」とか言う、古くから知られたありきたりの指摘をする人は、私はちょっと疑って見てしまいますね。<br /> <br /> インド人が言うなら文化的にもありだと思いますけどね。<br /> <br /> Sat, 18 Jan 2020 00:00:00 +0900 思考を止めただけではテクチュの境地にはならない https://w-jp.net/2020/1804/ <br /> おそらく、そういうことではないかと思います。ここ最近のお話でテクチュの境地とはおそらくスローモーションのヴィパッサナーでありサマーディでもあるという結論に至ったわけですが、テクチュの境地がそうであれば、単に思考を止めただけのお話ではないように思います。<br /> <br /> ゾクチェンでは、以前引用しましたように3つの境地があり、思考を止める境地は「シネーの境地」であり、それはそれで