スピリチュアル https://w-jp.net/topics/スピリチュアル/ スピリチュアル 地球で分離を生きる人生は贅沢 https://w-jp.net/2021/2240/ <br /> 宇宙では分離していない状態が普通で、この地球上でわざわざ「分離」の人生を送ることができるのはある意味「贅沢」なわけですよね。<br /> <br /> この分離の生活を送るために、苦労をかけて「守護霊」というものが付き添ってくれていて人生をサポートしているわけですから、ある意味、地球の人というのはVIPの待遇なわけです。<br /> <br /> こんなに贅沢なことはないです。もっと感謝すべきです。<br /> <br /> 宇宙では基本的に1人です。それは、意識で繋がっている場合では「繋がっている感」のある1人だったり、あるいは、意識で繋がっていない場合の分離状態ですと「繋がっている感のない1人」だったりします。<br /> <br /> どちらにせよ1人です。<br /> <br /> もちろん、友人や知人や過去の妻だった人の霊など多くの身近な霊というか人というか存在がいますけど、この地球のようにVIP待遇で守護霊がきちんとつきっきりなんてことはまずないです。<br /> <br /> 存在は1人で存在するのが基本ですけど、地球の場合、守護霊として高級霊が割とついています。<br /> <br /> まあ、猿から進化した動物みたいな人間には(高級霊は)ついていないですし、それは種族や国ごとに傾向はありますけど、割とついています。<br /> <br /> 守護霊は、高級霊がついていて、それとは別に、友人知人や過去の家族、例えば過去の妻や旦那なども見守っています。<br /> <br /> 高級霊は使命として人生を見守るわけですけど、友人知人や家族の霊は自分が好きだから見守っているという感じですね。<br /> <br /> まあ、高級霊と友人知人家族の霊の違いは主に霊格なわけですけど友人知人家族の霊でも霊格が高い場合もありますし、特に序列が決まっているわけではないのですが、使命として一生(あるいは半生)を見る場合はそれなりに高い意識体が受け持つように思います。<br /> <br /> ですけど、それは宇宙の全てでそうではなくて、霊として意識体として存在している時は普通に1人で、その周辺に友人知人家族たちがいるような感じです。<br /> <br /> ですから、この地球上で守護霊が見守ってくれているというのは贅沢なことなわけですよね。<br /> <br /> その中でも特に、わざわざ「分離」の人生を生きようとしている人はご苦労さまで、そんな人をサポートする霊も大変な思いをしますから、特に贅沢なわけです。<br /> <br /> これは勘違いしてほしくないのですが、欲望のまま分離の人生を生きている人には当てはまらなくて、本当はしたくないのだけれども学びのためにわざわざ分離の人生を選んで自分を苦境に追い込んで勉強しようとしている人がご苦労さまなわけです。<br /> <br /> 欲望のまま生きて落ちてしまう場合は「ミッション失敗(学習失敗)」としてその人生は放置されて、スピリットは離脱して体は衰弱してゆき、守護霊も離れたりします。そうするとまたやり直しです。<br /> <br /> そのような苦労を乗り越えて、障害もなんとか避けながらわざわざ大変な思いをして「分離」の人生を生きるために守護霊がついてVIP対応で人生を歩むわけです。<br /> <br /> これはね、とてつもなく贅沢です。またすぐに同じような贅沢な人生を度々歩めると思わない方が良いです。<br /> <br /> また次の人生でも同じように暮らしたいのであれば守ってくれている意識体に感謝をしたり、また、周囲の人に対してお礼をしたり何なりして自分も尽くすことですね。<br /> <br /> もらいっぱなしであればそのような人の周囲には同様にもらいっぱなしの人が集まって、与え続ければ周囲に与え続ける人が集まってくる、というのは普通の人生と同じです。それがあの世、もっと言えばこの宇宙全体で連なっていて、与え続ける連鎖を行っている存在と、奪い続ける連鎖を行っている存在がそれぞれいるわけです。<br /> <br /> まあ、話はそこまで行かなくても、少なくとも、この地球で生まれたことに感謝をした方がいいと思うわけです。<br /> <br /> 補足をしますと、猿のような人間には猿よりちょっと進化した意識体が守護霊としてついていたりしますけど皆さんは興味ないですよね。自分より意識が進んでいる意識体が守護するのが基本なわけです。<br /> <br /> Mon, 18 Jan 2021 00:00:00 +0900 過去生の記憶の中に今生で解決すべき課題があることもある https://w-jp.net/2021/2237/ <br /> いわゆる悟っている状態では過去生は全て明らかでいくらでも見ることができますけど、悟っていない時の状態で過去生の記憶があったとしたらそれはそこに課題があってその記憶に関連した学びを今生で行っているからこそ記憶があったりするわけです。<br /> <br /> ただ、記憶があるからと言って必ず課題かというとそうでもなく、単に覚えているだけの場合も多々あります。<br /> <br /> 過去生の記憶があった方が優れているわけでもないですし、なくても別に問題ないわけです。あってもなくてもどちらにせよ今生の学びをしているわけで、過去生の記憶があるかどうかは関係なくて、それは割と趣味みたいなもので、守護霊のやり方がそれぞれあるでしょうし、あるいは、自分のスピリットのやり方として過去生の学びをしたいから記憶を蘇らせた方がやりやすい、あるいは、蘇らせない方がやりやすい、といった場合もあるでしょう。選択的に行っている場合もあれば、なんとなくそうしている場合もあるわけです。<br /> <br /> 選択的に行うのはそれなりに経験を積んだ人の場合のことで、初心者さんの場合はそんなに記憶がないかもしれませんし試しに記憶をつけてみたけれども記憶と想像の見分けがつかないかもしれません。初心者さんの場合は色々やってみてより良い方法を見つけるでしょうから、まあ、何でもいいんじゃないですかね。経験者でも、その人生での学びとあんまり関係ない場合は記憶があったりなかったりして、割と適当です。なんとなく覚えていたり、あまり気にしていなかったらいつの間にか忘れてしまうのは普通の自分の人生の昔の記憶と一緒です。<br /> <br /> ある程度悟っていれば実際に意識を飛ばして過去とか未来とか見れますけど、そうではない場合、悟っていなくても単純に記憶しているだけ、ということもあるにはありますけど、割と一般的には、課題があるからこそ記憶してて何度も蘇ってくることの方が多い気がしますね。<br /> <br /> 悟りとまでは行かないにせよある程度の意識の覚醒がないと単純な記憶すらも維持できずに過去生を思い出せないように思います。そして、それほど覚醒していないのに過去生の記憶があったのだとしたらそれはそこに課題があるからこそ浮かんできて、もっと言えば、その課題とは今生にて学ぶべきレッスンだったりするわけです。そして、その課題をクリアしたらその記憶はそれほど浮かばなくなってきて段々と忘れていきます。課題が残っているうちは何度も何度も記憶が蘇ってきます。<br /> <br /> ですから、過去生の記憶はあってもなくても問題ないわけです。<br /> <br /> ヨーガ的には過去生の記憶というのはサムスカーラと言う「微細な印象」として説明されています。このサムスカーラがあるから輪廻転生を繰り返していてこの世のループから逃れられない、だからそのサムスカーラを浄化することで悟りに近づいて輪廻転生から開放されて自由(モクシャ)に至る、というように説明されていたりします。そして、ある程度の悟りに近づいた時のシッディ(超能力)のうちの1つに過去生を見通せる力もあると説明されていたりします。このあたりのお話は仏教にも通じていて、割と同じお話のように思います。ヨーガでは過去生の記憶は、このように、それほど良いものとして扱われていないのが現実です。<br /> <br /> ただ、個人的に思うのはそこまで過去生の記憶を悪者にする必要はなくて、過去生の記憶がある人はあるし、それは自分の人生の子供の頃の記憶があるのと同じようなもので、自分の人生の子供の頃や青年の頃を永遠と誇って「いま」を生きられない人がいるのと同じように過去生を誇って「いま」を生きられない人もいるかもしれませんし、逆に、若い頃の記憶や過去生の記憶を反省材料にして「いま」の人生をより良きものにすべく改善してゆくこともできるわけです。<br /> <br /> 記憶が「いま」の人生にプラスなら覚えていたり守護霊が教えてくれることもあるでしょうし、「いま」の人生に邪魔だから思い出させない、なんて時もあると思います。それは自分の経験次第みたいなところもあるでしょうし、やり方はそれぞれのスピリットや守護霊によって違いますから、そのあたりは割と流儀および趣味の違いみたいなお話になります。<br /> <br /> とは言っても、今生に生まれた理由が過去生繋がりだったりすると割と覚えていたりすると思いますけどね。それは課題というほどの課題ではないですけど、課題というよりも今生に生まれた目的とでも言いましょうか。目的と言っても大したものではない時も多くて、単純に海外旅行して遊んでみたいだとか仲の良かった子とまた地上で楽しく暮らしたいだとか、面白そうだから試しに生まれてみた、だとか、その程度のこともよくあります。一緒に夫婦になるとか、親子になるとか、そう決めて生まれる場合もあって、それすらも、その約束を覚えていたりいなかったり、それぞれです。意識がぼおっとしていると忘れてしまうというか思い出せない場合が多いように思います。意識がクリアならばよく見通せて思い出せます。<br /> <br /> 色々と処要因はありますけど記憶があってもなくても基本的には大差なくて、まあ、そうは言いましても、実際にはそれなりに覚醒に近づけば近づくほど記憶はしっかりと維持されますから、記憶があった方が覚醒に近いという面もあるにはありますけど、覚醒に遠くても課題として記憶が沢山ある場合もありますから、それは一概には言えませんね。<br /> <br /> Sun, 17 Jan 2021 00:00:00 +0900 命の重さ https://w-jp.net/2020/2217/ <br /> それなりに重いのは確かですけど、死んでも消滅するわけではなく、魂的には別にどうってことはありません。<br /> <br /> ただ、死んで再度生まれ変わると子供になってその時代の学習をやり直さなくてはならないのでちょっとめんどくさい、という面はあります。<br /> <br /> ですから、死んだところで大したことないといえばそうなのですが、色々と生まれる前の準備をしたり子供時代に学習をして大人になって、さあ、やりたいことをするぞ、となってから早々に死んでしまうと「おいおい。まだやりたいことをやっていないのに続きをやるためにはまたあの子供の頃の不自由な学習期間をしなくちゃならないのか」という、ちょっとした徒労感とめんどくさいなと思う気持ちが出てきます。<br /> <br /> ですから、まあ、やりたいことができているのならば死なない方がいいと思います。一旦死ぬと同じ魂がそのまま生まれるとは限りませんからね。というのも、魂(幽体)がそのまま転生する場合と、一旦グループソウル(類魂)と一体になってから分霊を作って転生する場合がありますので、後者であれば「わたし」という個は、厳密に言えばもう二度とないからなんですよね。後者であってもコアな部分があって、大体の雰囲気は似ますけど、それでも、全く同じではないですね。前者であれば同じと言えば同じですけど生まれる時代や環境や家族によって大きく性質が影響されますから、大人になった時の安定した感じとは違って、子供時代を通り抜けるというのは多少ながらリスクがあります。<br /> <br /> 前世でやり残したことをやりたいと思っても必ずしもその意思の通り続きができるわけではないのですね。<br /> <br /> であれば、わざわざ死ぬという選択をしなくても、今の人生でやりたいことをできるかぎりした方がいいわけです。<br /> <br /> 人生、本当に詰んでしまった場合は死んでやり直した方がいいという場合もあるのかもしれませんけど、その時にメンタルで病んでいる場合は死ぬのは危険で、欲望や雑念が多いまま死ぬと彷徨う浮遊霊になってしまいます。<br /> <br /> 純粋に雑念なく悔恨なく安らかに死ぬことができるのであれば死んでやり直す、という手も一応は理屈としては可能なのですが、悩んで自殺なんかすると浮遊霊になるのがおちだと思いますので自殺はしない方がいいと思います。それに、その人生に関わった人たちに徒労感を与えることもありますし。ただ、こればかりは時と場合によりますので、なんともいえない面がありますが、割とそういう場合が多いように思います。ですから基本的には自殺はいけないと思いますけど、例外的に死んでやりなおす、という場合もあります。<br /> <br /> 死んでやり直す場合は、自殺ではなく高次の自分がそう判断して事故とか病気で死ぬことになりますから、死ぬという選択肢は自分ではしなくていいと思います。<br /> <br /> 顕在意識でそう判断する場合も一応あるにはあるのですが、それは大体の場合は宇宙人が「もう終了」と思ってそう判断する場合がほとんどのような気がして、ここでほとんどと言っているのは、自分の顕在意識で死を判断するという場合自体がそもそもレアケースで、そのレアケースのうちほとんどは宇宙人の場合、ということで、レアケースの中の更にレアケースというのはほとんどありませんので、まあ、自分で死を判断するなんてのは普通の人にとってはないと思った方がいいと思います。<br /> <br /> 地球人の場合、あるいは宇宙人であっても割と殆どの場合は高次の自分が判断してそれが三次元に降りてくる感じですから、自分で判断する必要はないと思います。<br /> <br /> と、いうことで、死ぬという選択をする場合でも顕在意識で判断する必要はないということですね。それは基本的には高次の自分が判断してくれます。<br /> <br /> 生きているのならばそれは生きられるということです。<br /> <br /> ですから、気持ちが落ち込んで自ら選んで死んでしまうのであれば地縛霊とか浮遊霊、あるいは悪霊さんになるということです。まあ、ご愁傷さまと言うしかないですね。ぼおおおおっと、ふらふらっ、と、この世をさまよい歩くようになっちゃうわけですね。怖い怖い。怖いと言うよりは怪談のように「冷たい」って感じですね。寒気がする霊になっちゃいます。<br /> <br /> ですから、命というのは基本的には重くて1つしかないですよ、というのはある意味当たっていて、本当に自分そのもの、変わらない自分、というのは今回の人生あるいはグループソウルに戻らずにまた転生する場合だけ継続するもので、グループソウルにまで戻ってしまったら個というものは一旦は消え去るわけですね。個というのはこの世では一時的にはきちんと存在していて、ですけど、それはグループソウルに戻ればまた繋がるわけですよね。<br /> <br /> 死んだ後に消滅してしまってなくなってしまうわけではありませんけど、グループソウルに合流すればある意味なくなるというのは正しいお話ではあります。死んでグループソウルに合流すれば「あなた」という存在はなくなってしまいますからね。ですから、死んだら無になる、というお話は、完全な消滅ではなくて存続するという点は違いますけど「個」がなくなる、ということであれば正しいです。<br /> <br /> そのようにグループソウルから分離して生まれた魂というのはエネルギーを持っていて、それなりに尊重されるわけです。ですから、魂の、命の重さというのはあるにはある。ですけど、それは天命と言い換えてもいいですけどグループソウルの時点で与えられた使命あるいは平たくいえば「やりたいこと」があって、その「やりたいこと」があるのであれば基本的には命は継続になるわけですね。それがそのまま命の重さになるわけで。<br /> <br /> やりたいことが達成されれば早々に病気や事故になって死ぬこともあるでしょうし、あるいは、残りの人生は緩やかに生きて人生を楽しむかもしれません。それもまた、その魂の選択ですから、どちらがいいとか悪いとかいうわけでもなく、そうなっている、というだけのお話です。<br /> <br /> 「やりたいことができなければ死んだほうがマシ」なんて言いますけどそれは実のところ本当という面もあるのですけど、ただし、強い不満があったり未練を残したまま自殺すると浮遊霊や悪霊になるので自殺は止めておいた方がいいと思います。例えば子供をコントロールして子供のやりたいことをやらせない親なら子供は反発して親を幻滅させるか、あるいは、自由を得られないのであれば生きているのが無駄と悟って自殺して未浄化霊になったりします。そんなもんです。コントロールなんて不可能ですよ。他人をコントロールすると、結果として死にまで直結するわけです。そして、他人をコントロールしようとした場合、コントロールされる方は抵抗しますから、最後は廃人のように自分を見失うか、あるいは、最後の輝きを放つかのように抵抗を試みます。その抵抗で親なり誰がしかに仕返しをするか、あるいは、自ら死を選ぶ場合もあるわけです。<br /> <br /> ただ、ちょっとこのあたり難しいのは、人生の残りの50年とか80年を他人にコントロールされたまま搾取された人生を送るよりは、しばらく未浄化霊になって彷徨ってから成仏したが結果としてプラスな場合があるにはあるのですよね・・・。これは自殺の幇助と取られてしまうと困るのですが、自殺は基本的に止めたほうがいいというのはその通りです。自殺すると未浄化霊になって、悪くすれば悪霊になったりしますから。ただ、この世に生きていても他人からコントロールされ続けると自分で考える力をどんどんと失ってしまいますから、それが半世紀も続くと考える力が弱まってしまい、次の人生における考える力が足りない状況にもなります。そうなるよりはさっさと逃げるか、逃げられないのならば死んだほうがマシ、というのは現実としてあります。ですけど、基本は死ぬのは良くなくて、逃げるか抵抗すべきだとは思います。<br /> <br /> このあたりを私の場合の実例で少し話しますと、私の今生の30歳くらいまでのテーマは他人にコントロールされることを止めること、という課題がありましたね。私の今生の目的はカルマの解消と覚醒への階梯を確かめることの2つですけど、カルマの方の課題の1つとして、過去生で私をコントロールしてきた人に抵抗する、というノルマがありました。例えばそれは大学時代に隣の部屋に引っ越してきた人がかつて私をコントロールしてきた過去生のパートナーだったり、親は私を強烈にコントロールしようとしましたのでそのコントロールから逃れるのもノルマの1つでしたね。その他にも、ビジネスで大した役割を果たしていないビジネスパートナーにあまりにも大きな利益を与えない、未公開株を与えない、というノルマもありました。ものによっては私の若い頃に何度も自殺を考えたりもしましたけど、ノルマを1つづつこなしていったわけです。私が若い頃は、数え切れないくらい「自殺」を考えて、実際に行為に及んだことはありませんでしたけど、日によっては1日に何度も考えたりしたわけですから1年で少なくとも100回だとして10年前後で1,000回くらいは自殺を考えたと思います。それでも何とか生きてこれましたけど。頭で自死を考えても、それを行動する気には何故かなれなかったのですよね。落ち込んで学校に行く足が動かなくても、まず片腕だけ動かして、もう片方の腕もそこだけ動かして、次は右足だけ一歩踏み出して、次はもう片方の足を動かす・・・ として、何とか学校に行っていた頃もありましたっけ。今では遠い思い出ですけど。基本的には自殺は良くなくて、乗り越えるべきなわけです。昔はね、霊界の警察が自殺者を捕まえて牢獄していた時代があったとは思いますけど、今は自殺しても放置ですからね。地縛霊になったらそうそう助かりません。<br /> <br /> 色々書きましたけど、まとめますと<br /> ・自殺は止めましょう。<br /> ・死ぬべき時には死にます。<br /> ・生きているのならば人生は続行です。<br /> Tue, 29 Dec 2020 00:00:00 +0900 最近はYouTube経由でエネルギーを吸い取る人がいるようです https://w-jp.net/2020/2190/ <br /> 遥か昔から能力を奪うとかエネルギーを奪うとかいうお話はあって、昔は近くにいる時だけにそれが起こったものですけど、最近はYouTubeを見ているだけで視聴者からエネルギーを奪うような器用なエネルギー・ヴァンパイアがいらっしゃるのですね。この種のエネルギーを奪う系の人は昔から一定数いましたけど、最近は進化しているのですね・・・。こんな変な迷惑な進化なんてしなくてもいいのに、と思うのですが。<br /> <br /> 近くに寄ったり映像を見ているだけで疲れるのであればすぐ離れるのが基本ですね。私の場合は、特にお腹がムズムズと凹む感じで痛くなります。チクチクはしませんが、どんよりとお腹から何かを吸い取られるかのようです。きっとこういうことをする人はマニプラ以下が優勢でマニプラで相手からエネルギーを吸っているのですね・・・・。怖い怖い。<br /> <br /> 昔からスピリチュアル界にはエネルギーを吸い取る人がいて、最近ですと覚醒とか悟りを語っているYouTuberの中にエネルギーを吸い取る系のYouTuberがいるようですね。本人は気が付いていないのですかね・・・。迷惑なんですけど。エネルギーを視聴者から奪いながら覚醒を語っていたり宇宙や次元や真理を語っている動画は見ないほうがいいですね。<br /> <br /> ちょっと前はブログでもこういうのはありましたね。ブログを読んだ人から対価としてエネルギーを吸い取るように技をかけているのでしょう。本人が意識的にやっているのか無意識的なのかは知りませんけど、エネルギーが不足している人がブログを書いて視聴者からエネルギー補給するというのは昔からもぼちぼちありましたし、今も普通にあると思います。最近はそれがYouTubeになってきているのですね。<br /> <br /> いくつか最近見たところ、狐の化身っぽい人もいましたね。妖狐とまでは行きませんけど、狐系の美人さんがYouTubeでスピリチュアルしていたりしますね。こりゃ、あまり良くわかっていない人だと貢いじゃうかもしれないですね・・・。他人の勝手なので好きにすればいいですけど。特にそれを阻止したりなんて野暮なことしませんよ。そういう体験も全て学びですし本人の選択だから好きにさせておくのが一番なのです。<br /> <br /> まあ、そういう人に騙される・・・ と言うと語弊がありますけど、人にはそれぞれレベルがありますし、どんな人であっても誰かに教えることはできますし、自分より上のレベルであれば教師として教えてもらえる人は誰がしかいます。ですから別に騙されるという言い方は語弊があるのですけど、悟りを教えている筈の教師が一瞥しかしていないのだとしたらそれは看板に偽りありなのではないでしょうかね。そもそも一瞥の悟りとわかっていてそれを教えているのならばいいですけど、わかってる人なら一瞥の悟りだということをはっきりと述べるでしょうし、そもそもそのくらい自分の事がわかっている人なら一瞥しただけでスピリチュアルのこと教えだしたりはしないと思いますけど。まあ、これは人にもよりますけどね。私はそう思うと言うだけで、やりたきゃやればいいと思います。この世界は何だって自由です。好きにすればいいと思います。<br /> <br /> ですけど、やるのは自由でも、視聴者から意識的か無意識的にやっているのかはわかりませんけどエネルギーを吸い取るようでは所詮はその程度なわけです。<br /> <br /> 先日も書きましたけど、一瞥しただけで自分が真理を悟ったかのように勘違いしている人は適切な師匠がいないことが多くて、いたとしても師匠よりも自分の方が上だと勘違いして、その結果、自分がいわゆる教祖様とかスピリチュアル教師とかになってしまったりするのですよね。<br /> <br /> それが愛を語りつつエネルギーを実は奪っているのなら、まあ、等価交換とも言えなくもありません。理屈で愛を語りながら、愛とはエネルギーの高まりであるのにそのエネルギーを交換で奪っているなんて、なんて皮肉なお話なのでしょう(苦笑) とても興味深いです。<br /> <br /> あるいは、真理を語る筈なのにヒステリーになっていたり、皮肉で真理を語ったりするチャンネルは高確率でエネルギーを吸い取っている気が致します。エネルギーだったり、セミナーの勧誘だったりしますよね。 まあ、それを狙っているのでしょうかね? よく分かりませんけど。そういうチャンネルは見ないほうがいいと私は思いますけど。<br /> <br /> まあ、具体的に誰か、ということは、誤解がありますので特に言いませんけど。まあ、ご自身で自由に判断すると良いと思います。<br /> <br /> セミナーの勧誘ならまだ可愛いです。厄介なのは、ある程度の能力があって遠隔で視聴者からエネルギーを奪い取る系のYouTuberです。YouTube動画を見ただけでエーテルのコードを繋がれてエネルギーを継続的に吸われてしまうこともあります。まあ、こっちが先にその動画を見てYouTuberに対してエーテルのコードを伸ばしたところを蜘蛛の巣にかかった獲物のように素早く捕らえてエネルギーを吸い取るのでしょうね。ほんと恐ろしいです。そういうときは、以前に書いたようにエーテルのコードを切ることが重要です。動画を見た後に具合が悪ければ吸い取られている可能性がありますので、見えなくてもどこかに繋がっているかもしれませんので自分の周囲、全方向のどこかに繋がっているかもしれないケーブルを見えないナイフのようなもので切るそぶりをイメージすると実際にケーブルが切れてエネルギーの吸入が止まり、結果、エネルギーが減らなくなって気分が回復すると思います。<br /> <br /> あまり気が付いていなくても度々やったほうがいいと思います。<br /> <br /> 悟りとか覚醒とか語っていながら一見すると愛に満ちているように見えてもその人を見るとどこか疲れたり、皮肉が多かったり言葉のあやを利用した否定形の真理の語りが目立ったりヒステリーだったり自己啓発系っぽかったりお金儲けの秘訣とか語っているところはエネルギーもこうして吸っている可能性がある気がしますね。人それぞれ色々なパターンがありますけど。<br /> <br /> 怖い怖い。見えなくて気付かないと思ってやっているのか、それとも、自分は気付かないうちに無意識でやっているのかもしれないですけどね。<br /> <br /> 共通して言えるのは、疲れるようなものをわざわざ見る必要ない、ってことです。たとえ愛とか悟りとかを語っていたりしてもね・・・。本物はエネルギーに溢れていて他人から奪わずにエネルギーを分け与えます。偽物もエネルギーに満ちているように見えますけどエネルギーを周囲から奪い続けているわけです。<br /> <br /> 目立つことでそういう人にエネルギー(力)が集まることになりますから、ますます変な存在になります。そういう力を持った存在は霊界にも多くいて、形としては「天狗」とか「稲荷の狐」みたいな存在だったりしますね。キツネつきで他者のエネルギーを吸っている場合もありますね。それは人によって異なりますけど。悟りを語っているYouTuberの正体が妖狐みたいなおぞましい狐だったりします。一見すると美しい娘ですけどね・・・。もちろんその本人は自分ではそんなことを言わないでしょうし、指摘しても否定するでしょうしね。霊体は姿なんていくらでも変えられますから、ばれそうならお気に入りの姿以外のどんな姿に化けてごまかしてくるかもわからないですしね。<br /> <br /> まあ、どちらにせよそのような存在とは関わらない方が良いです。ちょっと慣れれば感覚で本物かどうかなんてすぐわかりますよね。<br /> <br /> そのようなYouTuberであっても体験のいくつかは本物なのだろうとは思いますけど、私がここで言っている本物というのは日常生活で継続的に悟っているかどうかという判定基準ですからね。一瞥の悟りがあったとしてもその後にエネルギーを奪ったりヒステリーになったのならばそれはまだ本物ではないということです。私の個人的な基準ですけどね。<br /> <br /> あとはね、この種のケーブルを切りたければ自分の守護霊に「もし意図しない変な存在とエーテルのコードで繋がっていてエネルギーを吸われているのならば、そのケーブルを切ってください」と定期的にお願いするのも手ですね。<br /> <br /> 本来はこういうのは自分で対処すべきだと私なんかは思いますけど、どうもできないようならば守護霊にお願いするのも手だと思いますし、繋がっていないと思っていても繋がっている時がありますから、そういう確認の意味も含めて切ってもらうのもいいですね。<br /> <br /> 守護霊も、お願いされた時以外は放置の守護霊もいれば過保護な守護霊もいますので性格次第ではありますけどね。基本的には自分で対処して、確認および自分では難しい時は守護霊にお願いするといいかなと私なんかは思いますけどね。まあ、好きにすればいいと思います。<br /> <br /> エネルギーヴァンパイアをしている妖狐系のYouTuberは手に負えないですけど、その一方で、一瞥の悟りをしただけで悟っているかのように勘違いしているだけの人はまだ救いがあります。<br /> <br /> 一瞥の悟りで悟ったかのように思っている人を時に「勘違い系」と言ったりもしますけど、それは別にそれほど悪い意味でもなくて、永続的な最終的な悟りだと勘違いしているのはそうなのですけど、一瞥の悟りであってもそれはそれで素晴らしいですし、後ほどいつかはそのことに気が付いて伝統的な修行の道に進んで永続的な悟りを目指すというのは割と多いケースのように思います。ですから、それほど悪いことではないかなとは思うのですが、そうは言いましても、YouTube動画とかブログを書いてエネルギーを吸い取るのは迷惑でしかありませんので、それはやめて頂きたいということです。少なくとも視聴者側としてはそのような勘違い系の人に対して防御する必要がありますね。<br /> <br /> Wed, 16 Dec 2020 00:00:00 +0900 聖典を理解するだけでは悟ることができないと昔から聖者は言う https://w-jp.net/2020/2189/ <br /> これは古くからの言い伝え。<br /> <br /> 聖典を読んだ後、実践してこそ初めて悟ることができる、と聖者たちは口々に言う。<br /> <br /> とあるスワミは言いました。<br /> <br /> 悟り、が真の宗教であって、他のすべては準備にすぎない。説法を聞いたり、書物を読んだり、論理をたどったりするのは、単に基礎を準備しているにすぎない。それは宗教ではない。(中略)悟りの全領域は感覚の知覚のかなたにある。「ラージャ・ヨーガ(スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ 著)」<br /> <br /> ヨーガでは悟りには誰しもが到達できると言います。<br /> <br /> ヨーガは一部の宗教のように「信じなさい」とか「信じれば救われる」などとは言いませんが、聖典および教師(グル)に対する信頼は必要だと言います。おそらくはそれらの宗教の中には信頼という意味で「信じる」という言葉を使っている流派もあるとは思いますが、そうであれば同じことです。<br /> <br /> 聖典やグルは理解および信頼するものであり悟りは体験して会得するものであるとヨーガは説くわけです。<br /> 古くから、悟りを得た聖者は同様のことを言っています。<br /> <br /> Wed, 16 Dec 2020 00:00:00 +0900 世界宗教会議で「皆、違っているからこそ素晴らしい」と喝破したスワミがいた https://w-jp.net/2020/2184/ <br /> どこで読んだお話か忘れてしまいましたけど、昔、たしか半世紀ほど前にインドからはるばるアメリカに渡って世界宗教会議に出席したスワミがいたそうです。<br /> <br /> 覚えている限りの話を書きますと、まずその世界宗教会議のテーマは普遍的な統一的な宗教、という感じで、今で言うところの「ワンネス」がテーマだったと思います。<br /> <br /> 各宗教の流派が統一的宗教のお話をして、拍手喝采、その会場では「ワンネス」が叫ばれ、各派の宗教者がダンスを踊りながら「みんな一緒、ワンネス素晴らしい」と楽しげにしていたそうです。<br /> <br /> それに違和感を感じたスワミは、次のようなことを言いました。<br /> <br /> 「ワンネスとは、皆が同じようになることではない。皆が違っていて、それでもそのまま素晴らしいのだ。違っているからこそ世界は美しいのだ。そのように宗教が1つになって統合される必要は全くない」<br /> <br /> ・・・その発言に、会場は固まったそうです。<br /> <br /> これは、ヴェーダの教えでもあると私は理解しています。<br /> <br /> ヴェーダでは人間の本質はアートマンで、いわゆる魂のようなものですけど、そのアートマンの本質は実はブラフマンで、ブラフマンとはこの世に偏在していて、ブラフマンこそがワンネスの本質なわけです。<br /> <br /> ですから、人間は個としてのアートマンだと思っているけれども実はブラフマンだ、というのがヴェーダの教えで、その意味するところは、何もしなくても最初からブラフマンであって、アートマンとしての個はそのまま残るわけですよね。アートマンはそれぞれ違っていてそれでよくて、それでもブラフマンとして同一なわけです。ですからヴェーダでは個人を均一化するようなことをしなくて、それ故に、宗教を統一するなんてことはしないのです。そんなことをしなくても最初から全ての人間、人間だけでなくこの世の全てがブラフマンなのですから、最初からワンネスなのです。<br /> <br /> 結局、その宗教会議の本当の目的はワンネスといいつつ実は特定の宗派の拡大を狙っていたのかな・・・ とも勘ぐってしまいます。<br /> <br /> それはさておき、そもそもヴェーダでは個人の均一化を説いていなくて、人は違っていてそれで良い、という考えが基本にあるわけです。<br /> <br /> ですから、ヴェーダは最近における誤解されたワンネスとは相反しており、ヴェーダ的な本質のワンネスがあるわけです。<br /> <br /> Sun, 13 Dec 2020 00:00:00 +0900 悟りの一瞥をしたいのか、あるいは永続的な悟りを得たいのかで修行方法は異なる https://w-jp.net/2020/2183/ <br /> 一瞥をしたいのならばいくらでも方法があります。簡単な方法であれば修行すらいらないです。<br /> <br /> 私はやったことありませんけど後遺症があってもいいのならば幻覚剤を使う方法も使えるかもしれませんし、魔女系の方法、スピリチュアルなトランス、あるいは先日書きましたように誰かに幽体離脱を手伝ってもらって時空を超えるという方法もありますね。全て「一瞥」です。一瞥でいいなら割と修行なんていりません。修行するにしても、魔女的あるいはテクニックを使う方法ですと自我(エゴ)が残っていても一瞥はできますから、ある程度のテクニックとラッキーさがあれば一瞥は可能です。<br /> <br /> ゴールをどこに定めるかですよね。悟りが欲しいという目標があったとしても、一瞥の悟りを求めているのか、それとも永続的な日常的な生活における悟りを求めているのかで違いますよね。<br /> <br /> 瞑想中にだけ感じることのできる悟りは、たとえそれだけであったとしても素晴らしいことは確かです。幽体離脱で体感する悟りも、これまた素晴らしいことは確かです。それはそれで素晴らしいのですが、最終目標をどこに置きますか? というお話です。<br /> <br /> 最終ゴールが継続的な日常生活にまで行き届いた悟りの状態であるのならば、やはりそれは伝統的な方法に従うことになると思います。<br /> <br /> 一瞥であるのならばトランスだとか激しい瞑想だとかショックのある方法だとか・・・ いくらでも方法があります。一番簡単で修行が全くいらないのは、誰かに手伝ってもらって幽体離脱することですかね。<br /> <br /> でも、戻ってきてからの顕在意識と幽体離脱で見聞きした内容のギャップに苦しむかもしれませんけどね。それは当人次第です。問題ないかもしれませんし。<br /> <br /> どちらにせよ、一瞥は所詮は一瞥で、それでゴールにしたいならそれで構わないです。ただ、一瞥なんかが永続的な悟りだと勘違いしても幸せにはなれないと私なんかは思いますけどね。<br /> <br /> 一瞥がしたいなら瞑想なんてする必要がなくて、一時的に精神を落ち着けたり、トランスのように顕在意識を一時的に眠らせることで奥底の意識を浮かび上がらせたり・・・ 詳しくは言いませんけど、いくらでも方法があります。<br /> <br /> どちらが自分のゴールなのか?<br /> <br /> ゴールが継続的な日常生活にまで行き渡った本当の悟りであるなら、やっぱり基本は瞑想ですよね。雑念を減らして沈黙の状態である静寂の意識に入り、宇宙意識に到達する。<br /> <br /> それしかないです。 と、私は思っています。<br /> <br /> YouTubeとかブログを見ると悟りとか覚醒について色々と言っている人がいますけど、一瞥の悟りあるいは一瞥の覚醒を本物の悟りであるかのように説明している方がそれなりにいて、ミスリードだなぁ、とか思ったりもしますけど、そのように偽物を見極めることも修行の1つだと思いますし、まあ、好きにすればいいと思います。そういう一瞥の悟りを求めていらっしゃる方もおられると思いますしね。何をするのも個人の自由です。<br /> <br /> 昔から、一瞥の悟りを得た人は教祖になって、本当の悟りを得た人は教祖にはならない、と言われていますけど、それはある程度は当たっていると思いますね。最近は新興宗教の教祖様ではなくてYouTubeチャンネルの教祖様みたいな感じですけど、スタイルは違えども同じことです。<br /> <br /> 一瞥をしただけで「私は悟りを得ました!!」と言って修行を辞めてしまう方はとても多くいらっしゃいます。そこらのスピリチュアルな集会に顔を出せば「私は悟りを得ています」とか「私は覚醒しました」「宇宙意識を得ました」と言う人なんて割と普通にいます。それが一時的なものなのか継続的なものなのか、見極めが重要ですよね。グルがいれば「君の悟りは一時的なものに過ぎない」とか指摘してもらえますけど、一人でやっていると勘違いもありますよね。<br /> <br /> スピリチュアルとか宗教をやっている人って、悩んでその道に入った人もそれなりにいますけど、ある一定の割合で、子供の頃に神秘的な体験で悟りを垣間見るとかもともと見えないものが見えたとか聞こえたとかいう基礎があって、その方面をもっと知りたいとか悟りを確かなものにしたいという目的があってその道の修行に入ったりするわけです。そのように、一瞥は所詮は一瞥でしかなくて、やがて一瞥で得た感覚が薄くなっていくとそれを求めて修行を始める人もそれなりにいるとは思います。子供の頃に幽体離脱したり臨死体験で真理を見たことがきっかけでスピリチュアルや宗教をやって悟りを求めている方はぼちぼちいらっしゃいますよね。一瞥は一瞥でしかなくても良いきっかけになるわけです。<br /> <br /> スワミ・ヨーゲンヴァラナンダのように若い頃にヒマラヤ大師と出会って感化されて死ぬまで修行に励んだ、という方もいらっしゃいますし。<br /> <br /> 一瞥をしたことで本物を知って感化されて修行を始める人も大勢いらっしゃいますので一瞥であっても無駄ではないですしね。最初は一瞥を求めていても最終的な悟りを求めるようになるということも沢山あると思います。<br /> <br /> Sun, 13 Dec 2020 00:00:00 +0900 悟りの一瞥をするだけで満足しない https://w-jp.net/2020/2179/ <br /> 宇宙意識の悟りがどのようなものなのか一時的にでも知ることは重要で、私の場合は小学校の頃の幽体離脱で知ったわけですけれども、それは始まりに過ぎないわけです。知ることは重要であっても、日常生活の意識で同様の宇宙意識とはまだ繋がっていないわけで、日常生活を送りながら宇宙意識と繋がることができるようにするのが修行であるわけです。<br /> <br /> 伝統的業界ですと瞑想をして意識の平穏を教えるところから段階的に悟りを目指しますけどスピリチュアルなやり方は色々で、特に最近は感情に焦点を当てて感情面から意識を一時的に平穏にして宇宙意識と繋がるという方法も取られているようです。であればその意識の平穏および宇宙意識は一時的なもので、真実を知ってから戻ってきた後にギャップを感じてヒステリーになったり怒りっぽくなるのも当然かなという気が致します。そもそもアプローチが違うので結果も異なるわけですね。「怒り」が結果として残るのであれば一時的に宇宙意識を得たとしてもある意味失敗だったのかなという気が致しますけど、それは個人的な個別のお話ですので、好きにすればいいと思います。長期的に見ればなんだって大差ないですけど、大差ないなら怒りなんてない方がいいと思いますけど。私なんかが思うには日常生活を平穏で過ごすことができないのならば宇宙意識なんて意識が広がるばかりで邪魔でしかなくて意識を乱すだけのものであると思います。伝統的なやり方で悟りの状態に至った場合は意識の平穏を先に達成しますから、意識の平穏を保ったまま宇宙意識と繋がって平穏な意識を保ちますけど、感情を抑えるやり方で宇宙意識と繋がると意識の平穏が不安定ですから感情に左右されて宇宙意識の方からのフィードバックによって感情が爆発してしまうことも多々あるように思います。これは、宇宙意識への意識の拡張が必ずしも幸せに繋がらなかったという悲しい例ですね。悟りを目指す人はそうであってはならないと個人的には思いますけど歴史的には伝統的流派であってもそのように悟ったけれども荒っぽい人はいて、それはそれで一定数の割合でそのような人は出てくるものとは思います。まあ、そういう人は揺り戻しがあって、来世には平凡な人生を送ってからまた悟るということになるのでしょうけど。悟って平穏でいられる人は来世でも悟ったまま生まれて来れたりします。<br /> <br /> 私は小学校の頃に幽体離脱して宇宙意識を知って多次元の時空を超えた視点を得て過去も未来も見れてパラレルワールドも俯瞰して未来も自分で設計し直したりしましたけど、その後、肉体に戻った時の認識はあくまでも人間でしたからね。理解と経験の感覚は残りましたけどね、それがそのまま日常の生活の意識とリンクしているかというと日によってシンクロ率が高かったり低かったり、いろいろでした。宇宙意識のことを話しても誰も理解しませんでしたし、周囲は私のことをニューエイジか何かかと理解したみたいでしたけど、私は一応は説明としてニューエイジの言葉を使いはしましたけど根底にあるものはニューエイジとは関係なくて幽体離脱の時に得た知見でしたので、どちらにせよ話は通じませんでしたね。当時から時空を超えた宇宙意識を知ってはいましたけど、今から思えば、最近で達成した伝統的な悟りへの道でのある程度の達成と、一時的に宇宙意識を知って時空を超えて戻ってきた日常生活の状態では全く状態は異なると断言できます。一時的な幽体離脱で宇宙意識を知ることなら手助けさえあれば割と誰でもできますし、私も大学生の頃に知人の女の子の幽体を引っ張り上げていろいろ見せたことありましたけどその子自身は「わかっていない」子でしたけどね。手助けがあれば見聞きすることはできます。瞑想で一時的な宇宙意識も得られますけど、それもまた日常生活での宇宙意識とは異なりますから、一時的に宇宙意識を知ったところであまり得意気にならないことですね。 まあ、そうは言っても、それは本人の自由ですから、好きにすればいいと思います。私はそう思うというだけです。自由にすればいいと思います。これはただの個人的な感想です。<br /> <br /> ゴールが私の場合は先に示されたようなもので、幽体離脱した時の宇宙意識、時空を超えた意識がまずあって、ゴールが明らかで知ってはいますがそれがそのまま自分の悟りではないわけで。知っただけの状態でも以前とは変化していますけど、それでもあくまでも自分はただの肉体を持った普通の人間でしかないわけです。そのただの人間の状態から、宇宙意識を日常生活を送る中でも繋がったままでいられるようになるために修行があるわけです。記憶の中にある宇宙意識の感覚と自分の現在の意識との乖離があるわけですね。<br /> <br /> ですから、宇宙意識を知っただけで自分は悟りを得たかのように思うのはとても愚かなことで、それは垣間見ただけで、それだけでも十分素晴らしいことではありますけど、日常生活での意識がそこまでではなかったり惨めなものであるならば悟ってはいないのですよね。<br /> <br /> 宇宙意識と一時的にでも繋がって時空を超えられれば人生も思い通りにできますので金銭的にも自由にすることもできますし逆に金銭的に追い込んで厳しい状況で修行することもできます。人生を自由にできたからと言って、貴方が悟っているとは限らないわけです。どちらにせよ、そのように宇宙意識と繋がってしまうと最初は色々と勘違いが生まれてしまいますので「自分は幽体離脱したことがあるし真実を知っています」と言って修行しなくなってしまったりします。これまた愚かなことです。<br /> <br /> 一時的に宇宙意識に繋がって時空を超えた真実を知ったとしても日常生活で宇宙意識と常に繋がるためには長い修行が必要になるのが普通なわけで。素質のある人でも数年は必要で、普通は10年とか数十年なんてのはざらです。<br /> <br /> そのことを指摘しても、「私は知っているから」と言って聞く耳を持たない場合もあるわけです。ですけど、それは違うのですよね。<br /> <br /> 一時的に宇宙意識を知っただけで自分は皆と違っていると思うなんてのは、まあ、それは割とスピリチュアルの罠ですよね。知っているのはそうなのでしょうけど、別にそんなに特別に感じる必要はないわけですけど、最初は特別に感じてしまうものなのですよね。そんなもんだと思います。おそらくは誰しもが一度は通る道です。そこで立ち止まらずに修行を続ける必要があるわけですけど、そこに気が付いているかどうかは知りませんけど、たぶんそのくらいの人ならそのうち気がつくとは思いますけど。<br /> <br /> インドのリシケシでヨガニケタンを作ったスワミ・ヨーゲンヴァラナンダは若い時にヒマラヤ聖者と出会って真理を知り、それを体得するために長い年月を費やしました。修行というものはそういうものだと思います。最初に真理を知ったところでそれを体得しなければ何にもならないわけです。真理を知ったところで、それを体得するのとは別物なわけで。<br /> <br /> 私は小学校の頃に幽体離脱して時空を超えて真理を知り、それを持ち帰ったものの、そのままの状態では悟った状態ではなかったのです。知ってはいるけれども体得していない状態だったわけです。それは幽体離脱とか瞑想とかで体得したものにも当てはまります。一時的な悟りの境地が得られることはそれはそれで素晴らしいことでありますけど、その一時的な悟りの状態を日常生活と共存させるには一般的には修行が必要なわけですよ。<br /> <br /> 確かに、私も幽体離脱してしばらくは自分が真理を知っているから皆とは違うと思い込んでいて、ちょっとした高飛車状態になっていましたね。まあ、小学校とか子供ですしね。そんな一時的な悟りは確かに素晴らしいお話ではありますけど、日常生活と悟りが共存しなければ何にもならず、むしろ、真理を知った意識と顕在意識とが乖離し始めて精神的にきつい状態になってしまいます。物欲だけに生きることもできず真理に生きることもできない。まあ、私の場合は理由はそれだけではありませんでしたけど。<br /> <br /> 幽体離脱した後も、その経験は本物だとしても、その当時は悟りの意識を体得した状態になっておらず、自分自身とその悟りの意識とが乖離していたたわけです。幽体離脱をして時空を超えた真理を知ったところで基本的なところでまだまだスピリチュアル初心者だったわけです。心が、真理を知っている部分と顕在意識の葛藤の部分とで分離して対立していたわけです。その真理の意識と日常生活の顕在意識とを融合するには修行が必要だったわけです。<br /> <br /> 他の人にも同じことがあてはまるかどうかは分かりませんし、他人は自分の好きに生きればいいですけど、私の場合はこうでした。<br /> <br /> Sun, 13 Dec 2020 00:00:00 +0900 2020年のスピリチュアル・バズワード 振り返り https://w-jp.net/2020/2178/ <br /> <br /> ・「覚醒」伝統的業界では今も昔も「悟り」ですけど、スピ業界では覚醒というのが流行りみたいです。前から一般用語として使われていましたが今はバズワードと化している感じが致しますね。<br /> ・「ライオンズゲート」私はよく分からないです。ゲートが閉じるとかいう噂がありましたけど、なんのことやら。<br /> ・「設定」誰が言い出したのかは知りませんけど、色んな所で「人生は設定だ」みたいなお話が増えてきました。「人生はゲーム」というお話の派生版っぽいです。昔は「人生は自分で決めて生まれてくる」みたいな言い方をしていましたよね。言い方は変われども十数年おきに定期的にバズワードに上がってくる話題ですかね。<br /> ・スピリチュアルから目が冷めた、というお話。新興宗教とかスピにハマっていた人が目が覚める系のお話は昔からありますけどYouTubeのおかげか今年は目立った気が致します。<br /> ・「次元」長い人気ですね。長く使われてきたが故か、「次元って意味あるのですか?」みたいな揺り戻しが起きた年だったようにも思います。<br /> ・「風の時代」占星術のお話みたいですけど具体的にはさっぱりわかりません。水瓶座時代みたいなお話ですかね? 誰が言い出したのですかね? よくもまあ、次々に新しいネタを作り出すものですね・・・。<br /> ・「バシャール」10年くらい前から盛り上がっているスピリチュアルな宇宙人で、昔から名前は知ってはいましたけど個人的には興味がなくて一度もちゃんと調べたことがありません。なんでこんなに未だに人気なのかも謎です。<br /> ・「スターシード」ルーツを見ればかなりの地球人がスターシードだと思いますので、特に取り立てて言う必要もないんじゃないかなと思いますけど。個人的には特別感ないですね。<br /> ・「クラリオン星」真偽のほどはよく分かりません。<br /> ・「カタカムナ」細々と人気が続いていますね。そろそろマイナーを脱出してメジャーに?<br /> <br /> <br /> これは個人的な印象です。統計を出したわけではありません。<br /> <br /> 「覚醒」は人によって定義が違っていてよく分からないです。おそらくは静寂の意識のことを意味しているように思いますが悟りという意味で使っている人もいますし。新しい業界の新しいバズワードは人によってコンテキストが違うのが困りものですけど、それはそれで内容を読み解くのが面白いという面もあります。とは言え、もうちょっと定義をしっかりしてから使ってほしいものです。「悟り」にしても流派によっていろいろですのである程度は仕方がない面はあると思いますけど。<br /> <br /> 「ライオンズゲート」は、私には全く心当たりが無いです。何なのかもよく分からないです。私の見えないガイドが教えてくれたことによりますと、「そういうイベントにした方が成長しやすい人がいるのですよ」ということみたいです。ガイドも何のことかよくわからないみたいです。元々はなくて最近作ったものではあるけれども、成長のためにイベントとして盛り上げているグループがあるようです。特に悪い意図は感じなくて純粋なものでしたが、盛り上がるにつれてちょっと金儲けの人も入ってきている、というのはこの業界ではよくあることです。そうして、最初は良くても途中から金儲けの人に乗っ取られてそのバズワードは使われなくなってゆくのですね。今はまだそこまで行っていなくてまだ盛り上がっている感じではありますけど。そういうイベント好きな人もいるので、どっかの天使か宇宙人が企画して盛り上げている感じですね。こういう見えない存在による企画はスピリチュアル業界ではよくあります。アセンションとかもそうでしたね。アセンションは盛り上がりましたね。確かに大きな変革はありますけど、それをアセンションと呼ぶかどうかは別問題なわけで。レムリアのアセンションはアセンションと呼ぶに相応しいものではありましたけど、これから同様のことが起こるかと言えば同じではないと思いますし。ですけど皆さんの目を向けさせて意識を変革するという効果はありましたので、アセンション企画は割と大成功と評価されていると思います。<br /> <br /> 「設定」についてですが、昔から「人生は自分が決めて生まれてきた」みたいなお話はありましたけど、最近のお話ではそれに加えて「魂の経験が豊富な人は厳しい環境に自分を追い込んで苦しい人生を選ぶ」みたいなお話が加わりました。私がまさにこれなんですけど、数十年前まではオーラの色でその人の魂のレベルまで一律に決めつけられてしまう風潮があって、魂の経験が豊富なので苦しい人生で人生経験を沢山積もうと思っている人が辛い系の赤いオーラで頑張っていたりすると昔は「オーラが赤だからスピリチュアル的に程度の低い人」として一律で評価されてしまっていました。まあ、普通の人は優越感を感じたいですから、オーラの色で一律で他人を見下したい、という弱い心がスピリチュアルの罠にハマってしまっていたのでしょうね、特にいま50代以降になっているバブル世代はそういう傾向があったように思います。スピリチュアルを優劣付けのための道具にしている人が昔から一定数いて、昔は特に多くて、そのような人にオーラの色での優越レベルはドンピシャではまって他人をオーラの色で評価しまくっていたように思います。その当時から「人生はゲーム」という言葉はありましたけど最近のバズワードで言う「人生は設定次第」というお話があまり理解されていなくて、例えば私は特殊なマントを被って霊能力なしに生まれてくるということをしていましたしカルマの精算が人生の目的の1つでしたから、私のように一時的に意識的に自分をどん底まで叩き落とした人にとってはそのようにオーラで一律で決めつけられてしまう風潮は生き辛い世の中でした。そういうこともあって、ここにきてようやく「人生は設定」というお話が世間に広まってきて、「ようやく、ですか?」という感はありますけど、このまま広まって常識になってくれればいいと思います。<br /> <br /> スピリチュアルの罠から目が冷めた、というお話は昔も今も一定数ありますけど、昔から真理の世界では「先生は真理を指差すことしかできない(直接的に教えることはできない、完璧に近づけることだけ可能)」というのは昔からあるたとえ話で、最終的な真実は本人が見つけないといけないのですよね。そんな当たり前のお話が意外に浸透していない気がしますね。スピリチュアルの人たちって古典的な精神世界を勉強していないのですかね? 割とどこでも言われているのに、聖典に書かれてある真理を新しくて自分だけが知っている真実かのように語るスピリチュアル・リーダーがぼちぼちいて、違和感しかありません。スピリチュアルの人ってスピリチュアルのことしかやらないのですかね? このような精神修行の世界の基本を抑えておかないと「なんで先生は間違ったことを教えていたのですか」みたいなお話になってしまいます。そもそも真理を直接的に表現して教えることは不可能なのですけどね。真理を知った時に人がどのように行動するのかはだいたい2種類に分かれていて、完全に表現できないけれども何とか自分の知った真理の輪郭を表現しようと努力する人。あるいは、真理を表現することは不可能だと判断して沈黙を守る人です。言葉の表現が上手いグルならいいですけど口下手、表現が下手なグルもいますし。昔からそんなもんです。グルの口数が少なかったり言葉が多かったり。そんなもんです。それでも何とか表現してくれる先生に感謝するのが普通です。先生の中には実際に悟っていない人ももちろんいるでしょうけど、それは自分にはどうだっていいことではないですか。片鱗であっても教えてくれる人には変わりがないです。何も言わなくても態度で教えてくれるグルもいます。それに、明らかに悟っていないような普通に見える人でも悟っていることがあります。精神修行の世界では「良い師匠に出会えるのは幸運である」とも言われているように、そうそう良い師匠に会えることはないです。そんなもんです。思えば私自身の過去の態度についてもこれらは多少ながら反省がありますけど、過去を見て反省する良い機会になりました。<br /> <br /> 「次元」について<br /> 何やら「次元という概念はおかしい」とスピ業界で言われ始めた年のような気が致しますね。改めて次元とは何かと問われると、私は次元の数字についてはよく分からないので数字は私は言いませんね。単純に「高次元」というのであれば私の守護霊やハイヤーセルフの存在している領域はきっと高次元だろう、というくらいの軽い意味で使っていて、そこに明確な定義はないですね。そういえば前に次元が上がると言うよりは次元が下がって消え去るみたいなお話を書きましたけど、次元が下がるという感覚の方が近いです。イメージで言っているわけではなくて幽体離脱で見聞きした領域のことを言っているわけです。ですからそもそも現実が先にあって、それを表現するために何とか言葉を選んでいるわけで、高次元というよりもっと良い表現があるのならば私が知りたいくらいです。「あの世界」と言っても通じないでしょう。「高次元」といいつつ「次元が下がる」なんて、なんのこっちゃ? と思われるかもしれませんが、別に矛盾していません。現実がそうなのですから。でも、数字のことはよくわかりませんね。もし誤解があるのならば別の言葉を使いたいですが、代わりになる言葉が今の所思い浮かばないです。現実は変わらないので、もっと誤解のない直接的な言葉があればその方がいいのですけど。「天使界」とか言った方がいいですかね。でも、べつに他の場所にあるわけではなくてすぐそこにあるのですからね。天使界というと遠くの天国にあるかのような印象を与えてしまいますけど、いわゆる次元のようなものがちょっと違うだけですぐそこにいますからね。やっぱり高次元というのがしっくりきますけど。とは言いつつも感覚としては「次元がなくなる」という方が実感に近いのです。やっぱり聞いていて訳わからないですよね。そんなもんです。私の基本は幽体離脱で時空を超えて見聞きした内容ですから、時空を超えるというお話とそれによるパラレルワールドが無数にあるところまでは理解できますし、高次元というのは存在していますけど、人によって次元という言葉の定義がまちまちで、時に他人がどこのことを次元と言っているのかよくわからないこともあります。特に数字についてはわからなくて、7次元だとか12次元だとかはただ単に「そのくらい進歩した魂」というくらいにざっくりと捉えています。何やら次元が意識のレベルを意味しているようですけど、定義がよくわかりませんからね。私は「高次元」とは言いますけど数字はほとんど言いません。数字はよく分かりませんから。そもそもヨーガやヴェーダや仏教では次元なんてお話は出てきませんし、次元なんて言い出したのはごく最近のお話です。なんとなく概念的に高次元という言い方がしっくり来るので使っているだけです。私の見えないガイドに「数字はどういう意味なのでしょう?」聞いても回答ないですし。数字はあまり関係ないんじゃないかな、と個人的には思ってますけど。<br /> <br /> <br /> 他にも多種のバズワードがありましたけど、よくもまあ新しい言葉が出てくるものですね。ある意味、感心します。<br /> <br /> <br /> ・・・今年も色々とありました。たまには振り返るのも良いものです。<br /> <br /> Sat, 12 Dec 2020 00:00:00 +0900 悟りとは日常生活において常に意識が時空を超えていること https://w-jp.net/2020/2177/ <br /> 一時的に瞑想をしたり幽体離脱して同様の状態になったのは悟りを垣間見たことであり、悟りの状態には違いありませんけど、日常生活でその状態を保ててこその悟りなわけです。垣間見ただけでも素晴らしいことですけどね。<br /> <br /> 幽体離脱で時空を超えることは、他の人に手伝ってもらって幽体離脱すれば割と誰でも体験できます。<br /> <br /> 私も、大学生の頃に知り合いの女の子の魂を体から引き抜いて世界を見せたことがあります。まあ、はっきり言って「わかってない」子でしたけどね。哲学とか勉強はそこそこできましたけどスピリチュアルな事柄に関しては無知というか斜め上を向いて理解していて、本質がわかっていない感じでした。<br /> <br /> そんな子であっても、私が幽体離脱をして、両腕を脇の下から引っ掛けるようにしてその子の幽体を体から引き離してあげたら、最初はちょっと力がいりましたけど体から幽体が離れて幽体離脱状態になりました。<br /> <br /> 自分では動けないようでしたので私がそのまま引っ張って時空を超える形でいろいろ見せてあげましたけどね・・・。<br /> <br /> まあ、あの程度の未熟な魂でも、誰かに見せてもらうという方法であれば時空を超えられるのです。<br /> <br /> ですけどね、肉体に戻ってからも幽体離脱で時空を超えた記憶こそあれ、その子の意識は日常生活では時空を超えることができないわけです。<br /> <br /> 幽体離脱も、悟りの階梯の途中で自然にできるようになるのと、テクニックや他人に手伝ってもらって行うのとではちょっと違うわけです。テクニックは色々とありますけどね・・・。でも、テクニックでやる場合は日常生活との乖離が大きい気がいたします。<br /> <br /> 瞑想も似たようなもので、瞑想中で色々と見聞きするでしょうけど、それが日常生活に活かせてこその悟りなわけです。<br /> <br /> 瞑想には色々とあって、トランスとか静寂とか色々とりますけど、種類によっては自我を麻痺させる種類のものがあります。自我を麻痺させる種類のものですと日常生活と瞑想の差が激しくて、瞑想中の体験と日常生活の間に乖離ができると思います。<br /> <br /> そうではなくて、瞑想中の状態と日常生活との間の差がどんどんなくなるのが理想的なわけです。<br /> <br /> 幽体離脱も一緒で、テクニックで幽体離脱して一時的に宇宙意識や時空を超えた意識になったとしても肉体に戻ってきて日常生活をする時にどれだけ活かせるかが重要なわけで。<br /> <br /> 最終的な悟りの状態というのは日常生活を送りながら意識は宇宙と繋がっていて更には時空を超えて過去や未来およびパラレルワールドやそれらの間の「線(比喩)」までも把握できる状態なわけです。そうなれば過去も未来も、あるにはありますけどただ単に一つづつ順を追って理解したいから存在しているだけ、ということもわかります。意識は時空を超えていますけど、意識が理解するために時間というものがあって分割して物事が理解できるようになっているわけです。時間がなければ物事の理解が「一瞬」でやってきて、分かる人にはわかりますけど新しいことの理解は難しくて、順を追って理解するために分割したらそれが時間というものになっただけなんですね。元々は時間なんてありませんでしたけど、理解したい気持ちが分割するという手段を選んで、それが時間というものになったわけです。ですから本来の意識は時空を超えているわけです。意識が日常生活においても時空を超えて時空そのものを把握しているのが悟りの状態なわけです。その時に三次元の肉体としての意識が失われることはなくて、トランス状態のように意識を失うこともありませんし、日常の普通の意識と悟りの意識とが一続きで繋がっている状態なわけです。<br /> <br /> それが「本来の自分と繋がっている状態」とも表現できますけど、言葉通り読んでしまうとただ単に意識が静まってきた状態のように読めるかもしれませんが、本来はそれはヴェーダで言うところの「アートマン(自分の魂に相当するもの)」が実は「ブラフマン(この世の全て)」と同一だった、という知識のお話で、自分がアートマンだと思っていたけれども実はブラフマンで、確かにアートマンで分かれてはいるけれども宇宙意識としてはブラフマンで繋がっている、それは時空を超えていてパラレルワールドや過去や未来も全て私の意識の中にある、それが瞑想中や幽体離脱中だけでなく日常生活においてもその意識状態にいる、というのが悟りの状態なわけです。アートマンであって同時にブラフマンであるということは、アートマンとしての個の意識は存在していつつもブラフマンとしての宇宙意識も同時に存在しているわけです。どちらか片一方になるわけではないわけです。個としての意識はありつつも宇宙意識とも言える時空を超えた意識もまた同時に存在しているわけです。<br /> <br /> であれば、日常生活中にちょっと意識すれば過去や未来の行く末なんてのもすぐに分かりますし、誰かが平行世界でどんなことをしでかしたのかとか、今生での学びがどのようなものなのか、知ろうと思えばすぐに分かります。ですけどそこは紳士の誇りのようなものがあって誰それ構わず見るなんてことはしないです。悟っている状態なら見ようと思えば何でもわかってしまうわけですけど、我々は肉体を持って生きているわけですからわかったところでそれを構わず言うなんて野暮なことはしないですし、そもそも、興味がなければ見ようとも思わないことも多いです。<br /> <br /> どちらにせよ、そこには顕在意識と宇宙意識とも呼べるものが共存していて、日常生活において悟りが継続してこその悟りの状態なわけです。<br /> <br /> もっと意識が進むとアバターとも言われている状態になって、この世を自由に変換できる能力が現れます。ヒマラヤ聖者の中でも特に突出した聖者がアバターと呼ばれていますけど、アバターにまでなりますと天気なんてのは割と簡単に変えられますし物体も自由自在、いわゆる瞬間移動みたいなこともできます。宇宙意識にしてもレベルの違いがあるわけです。<br /> <br /> 単に意識で宇宙意識と繋がったのが悟りで、この世界を自由自在にできるのがアバターなわけです。<br /> アバターにしてもレベルの違いがあるようでそれすらもゴールではないようです。<br /> <br /> アバターがどのようなものなのか理解することはこのように文章で説明されれば一応は理解できるでしょうし、アバターな人はそんなにはいないですけどどこかの聖者に会えたり幽体離脱して運良くアバターを垣間見ただけでもその凄さがもっと直接的に理解できるわけですけれども、実際に自分がアバターになるのは常人には長い道のりです。まずは悟ってからですね。人生を生きる上では悟りですら十分であると言えると思います。それを言ってしまうと、単にリラックスできたり静寂の意識にいるだけでも十分と言えば十分であるわけで。もっと言えば、この世に生きているだけで十分とも言えるわけで。どのレベルを自分が目指すか、ですよね。悟りを目指すのかアバターを目指すのか。あるいはリラックスで満足するのか。悟りを知って満足なのか、それとも実際に悟りたいのか。<br /> <br /> 私の人生の元々の目的は悟りまでですけど一応は目標は高く持ってアバターとしてあります。きっとアバターには到達できないでしょうけど、それはそうでも構わないわけです。こういうのは目標だけ一応掲げて、あまり片意地を張らないのが重要です。<br /> <br /> Sat, 12 Dec 2020 00:00:00 +0900 <link>https://w-jp.net/2020/2175/</link> <description><br /> </description> <pubDate>Fri, 11 Dec 2020 00:00:00 +0900</pubDate> </item> <item> <title>精神世界の上級者はチャネリングに頼らない https://w-jp.net/2020/2174/ <br /> ヨーギにせよ神道にせよスピリチュアルにせよ、上級者はことごとくチャネリングに頼らない気が致しますね。<br /> <br /> まず神道には「審神者」というものがあって、出てきた存在が神の意識なのか動物などのいたずら物なのか見極める手順があります。ヨーギはそもそもチャネリングに否定的で「時間の無駄でしかない」とばっさり切り捨てています。<br /> <br /> スピリチュアルは色々ですけど、チャネリングを主にしている人もいれば、スピリチュアルでもチャネリングを否定している人もいらっしゃいます。これは新しい分野ですので立場は色々ですね。<br /> <br /> ですけど、上級者になればなるほどチャネリングに重きをおかない、というのは共通しているように思います。<br /> <br /> これは、我々、肉体を持って生きている人間には見えない存在の言っていることの真偽がなかなか判別しにくい、という理由もあるにはあるのですが、それよりも、本質は言うと「物事は自分で確かめるべき」というところに行き着きます。<br /> <br /> チャネリングで聞いたお話を真に受けるのですか? それは自分で腑に落ちた答えではなくてもらった答えでしょう。 例えそれが正しいとしても、それが自分の精神の成長に役に立ちますか? 役に立たない知識ならいりません、ということです。<br /> <br /> ただし、チャネリングと言っても色々で、チャネリングの基本は「誰かと話しているだけ」ということですので、相手によるわけです。<br /> <br /> 人間だって色々で、グル、師匠のような頼りになる人もいますがほとんどの人間はそうではないでしょう。<br /> グルの言葉であれば頼りにすべきですけど、グルとは言ってもグルに依存せずに自分で精神修行をするのが第一です。<br /> <br /> それと同じような位置づけで守護霊が指導してくれるのであればそれをしっかりと受け止めるべきですが、あくまでも成長するのは自分自身であるわけで。<br /> <br /> 生きている人間のグルがいるのであればそちらに頼った方が良いですが守護霊が助けてくれるのならばそれもいいとは思いますが、それはあくまでも依存ではなく、グルとしての指導になります。<br /> <br /> どちらにせよ上級者になったら自立してゆくのですから、自分で見聞きして自分の頭でしっかりと考えることが第一になります。<br /> <br /> ですから、途中で誰かに頼るとしたら相手をしっかりと見極める必要がありますし、どちらにせよ最終的には自立するのですから、チャネリングなんかに頼る必要はなくなるのです。<br /> <br /> まあ、ある程度の精神的成長がなされればチャネリングなんて簡単にできますしね。ただ、それなりに成長していない段階ではチャネリングは修行の邪魔になったりもしますから、それなりにわかってくるまではチャネリングは無視でもいいと思います。<br /> <br /> Fri, 11 Dec 2020 00:00:00 +0900 オーラのケーブルを突き刺して相手の情報を抜き取るのは泥棒と一緒で犯罪 https://w-jp.net/2020/2166/ <br /> 人のオーラはゆらゆらと揺れていて、多くの人の場合はその境界線がはっきりしていませんのでオーラ同士がぶつかると情報交換がなされます。<br /> <br /> 以前にもエーテルコードのお話で言及しましたが、オーラのエーテルが繋がると「一体」になって、お互いで情報交換がなされます。これは一方的というのはあり得なくて、情報を得る時はある程度は自分の情報が相手に伝わりますし、その人の素質それ自体がその分だけ一体化します。とは言いましても合体するわけではありませんので多少のオーラが混ざり合って一体化するだけですが、それだけでも、自分から相手に対してはオーラが奪われ、相手のオーラを自分が多少は奪ってしまう形になるわけです。<br /> <br /> 総量としては変わらなくても一体化してしまったオーラはもはや「相手」とか「自分」がなくなっておりますので、途中で千切れて自分のところに戻ってきたオーラは相手と一体化したオーラの部分であるわけです。<br /> <br /> そのように、日常生活においてオーラの交換というのは割と無意識に起こってしまっていますが、厳密に言うと、そのように相手のオーラを奪い取ることは泥棒と一緒で犯罪になります。<br /> <br /> 地球の場合はオーラが安定していない人が多くて、しかもオーラが枯渇しておりますのでオーラのケーブルが自動的に他人に伸びていってエネルギーを奪うなんてこともよく起こっています。それは意識していないだけで、他人のエネルギーを奪い取る犯罪行為です。いわゆるエネルギー・ヴァンパイアですね。<br /> <br /> スピリチュアル的に成熟した大人であれば自分のオーラはだいたい肌から6mm〜1cmくらいのところで安定しています。人混みあるいは他人と接触しないといけないときは意識的にオーラの幅を狭めて2mm前後にまでオーラを調整することで他人のオーラと混ざらないようにします。その時のオーラの質も、相手と同質化しないようなオーラの質というものがあるわけです。<br /> <br /> ですが、エネルギーヴァンパイアが触手を伸ばしてイカの手のように遠くからエーテルのケーブルを伸ばしてきた時は恐ろしくて、そんなオーラの質とは関係なしに他人にエーテルのケーブルを突き刺してエネルギーを吸い取ってゆきます。かなり早い動きですので背筋が凍るくらい恐ろしいです。飛び上がりますよ。<br /> <br /> 防御方法は一応あって、ケーブルを切ってしまうというのが基本ですね。あるいは弾き返すとか、包帯のようなオーラの布を出してぐるぐる巻きにして動きを封じ込めるとか、その人の能力と経験によって対処法はいろいろとあります。<br /> <br /> そのように他人のオーラからエネルギーを奪いたい場合もあるでしょうし、情報を抜き出したい場合もあります。どちらも犯罪です。<br /> <br /> 例外はあって、お互いに同意した場合だとか、特に家族の場合だとか、霊的に密接な繋がりがあるとか、そういう場合もありますけど、基本的には他人のオーラと混ざらないというのが基本です。<br /> <br /> 何故そのようになっているかというと、個人で学びは異なるからです。割とこれは宇宙に共通したルールだと思います。<br /> <br /> スピリチュアルな能力を開発する場合に、時にオーラを融合して相手の情報を取ったりするやり方がありますけど、このような意味合いにおいて邪道ですね。まあ、それはその流派の好きにすればいいですけど、私とかはそう思います。いくらそれで情報を入手したところで、大した学びにはならないですし、何より自分のオーラが汚れますので費用対効果が悪すぎます。<br /> <br /> Mon, 07 Dec 2020 00:00:00 +0900 <link>https://w-jp.net/2020/2165/</link> <description><br /> </description> <pubDate>Mon, 07 Dec 2020 00:00:00 +0900</pubDate> </item> <item> <title>本能寺の変で殺された後に信長はどうしたか https://w-jp.net/2020/2164/ <br /> 夢で見たお話です。本当のことかどうかはわかりません。<br /> <br /> 信長のタイムラインは生き延びたパターンもいくつかありますが、本能寺の変で殺されるパターンにおいて、信長は死後どうしたのか、これまたパターンがいくつかあります。<br /> <br /> パターン1:死後、何もせずにそのまま霊界に留まり、最初は元部下だった霊たちが沢山周囲にいたが、自分たちが既に信長に縛られていないことに気付いてどんどん離れて行ったパターン。<br /> パターン2:死後、急いで転生し直して再度、天下を狙ったパターン。この場合、今の島根県のあたりで生まれ、そのままお殿様として一生を島根の地で過ごした。ただし、既に平和な世になっており、チャンスはなく、実際に戦もしなかった。この島根のパターンと史実を比べたところ、島根県で生まれた藩主というのは徳川家康と時代が被っていなくて、史実に実在はしていない模様。松平直政は出雲国の前に他の藩主もしているので該当せず、次の松平綱隆は徳川家康と時代が被っていない。裏付けなし。<br /> <br /> 転生は魂(幽体)がそのまま転生する場合と、一旦グループソウル(類魂)と一体になってから分霊を作って転生する場合があるのでそのまま転生したかどうかは不明ですが少し落ち着いた後に中国の皇帝になって国民に虐殺されたような気もしますね。その後は、書いてあるように「国民の、庶民の気持ちを理解する必要がある」と思って庶民として、まずは江戸時代の武士に生まれてみたりしました。そのラインで現代の私まで繋がっていますが、その間にもグループソウルとの合流もありますので完全に一致しているわけではありません。<br /> <br /> Sun, 06 Dec 2020 00:00:00 +0900 使い捨てにされるチャネラーや霊能者たち https://w-jp.net/2020/2163/ <br /> 思うに、神様はチャネラーや霊能者を、言葉は悪いですけど使い捨てにしているように思われます。<br /> 最初、目をつけた人がいたとしたらコンタクトをしてメッセージを伝えます。<br /> <br /> そのうち、その人が得意気になって神の言葉を偽るようになると神は離れてゆきます。<br /> <br /> だいたい、この繰り返しです。私の見た範囲ではそんな感じです。<br /> <br /> 神の言葉を聞けなくなると、今度は自分の頭の中で想像の神の言葉を作り出します。<br /> 新興宗教にありがちですね。最初は良くてもそのうち教祖様になってしまうわけです。<br /> <br /> 「神の言葉です」と言われたら周囲の人はそうそう反論できませんから、ほとんどの人はその真偽を確かめることなしに受け入れざるを得ません。そうするうちに、大人しく従う人だけが集うことになるのです。<br /> <br /> その姿は、本来神が望む姿とはかけ離れています。<br /> <br /> 神道であれば審神者というものがありますし、ヨーガですとそもそもチャネリングを良いものとはしておらず、チャネリングに否定的な流派がヨーガでは主流です。そのような力を持った神々との接触は悟りへの妨げになる、というのがヨーガの基本的な立場です。<br /> <br /> この世には力を持った霊や人間が沢山いて、神のごとき力を持っている人もいます。しかし、最終的な悟りという観点からすると、最高の悟りに達したのであれば力からは開放されています。誤解があるかもしれませんが、最終的な悟りを開いたならばこの世の理から開放されるので、強いも弱いも関係のない世界へと到達するということです。<br /> <br /> 幽霊とか悪霊とか天狗とか神話に出てくるような人格神の力というのはいわゆるアストラルな思いの力によるものです。しかしながら、悟りを開いた人はその次のコーザル(カーラナ、原因)の世界に住むようになりますのでアストラルを超越しています。<br /> <br /> いわゆる人格神としての霊能力はファンタジーに出てくるような魔法の世界で、思いの力を蓄えたり奪ったり利用したりして超常的な力を作り出します。それはそれで凄い能力ではあるのですが、その世界に関わっていると悟りに到達しないのです。<br /> <br /> よく、覚醒という言葉がありますけど、人によってその意味するところは違いますけどアストラル的な能力の覚醒という意味と悟りという意味での覚醒とがあると思います。アストラル的な覚醒であればまだ感情の世界であり、悟りとしての覚醒であればコーザル的なものになります。<br /> <br /> 悟りという言葉も流派によっていろいろですのでアストラル的な悟りの場合もありますけど、言葉の定義というよりは、魔法的なものであればアストラル、魔法や感情を超えた世界であればコーザルですね。コーザルのほうが悟りというのに相応しいと思います。<br /> <br /> どこかの本に書いてありましたが古代のミラレパという聖者はコーザルの悟りを得ており、周囲にいる一般の修行者はアストラルの悟りでしたのでその能力にも違いがあり、例えばアストラルの悟りを得た一般の修行者は空中浮遊で数メートルあるいは数十メートル浮上することができたのに対し、コーザルの悟りを得たミラレパは山の頂上まであっという間に登ることができた、という違いがあるそうです。アストラルの段階では能力にも限界がありますが、コーザルに至るともはやこの世界と一体になったかのような偉大な能力を得るようです。<br /> <br /> アストラルの段階では善と悪があり対立がありますが、コーザルに至ると善悪を超える、という面もあります。<br /> <br /> チャネラーや霊能者は、往々にしてこのアストラル的な覚醒をして神の言葉を受け取るようになります。自らが神の代理人かのように振る舞ったりするわけですけど、そうこうしてうるちに神様の意図をうまく伝えなくなって、そして神様に捨てられてしまうわけです。<br /> <br /> まあ、それも全ては学びなのでしょうね。<br /> <br /> だいたい、ちやほやされて3年持てばそこそこですけど、7年や10年もすればかなりの確率で神様に見放されて過去の栄光で生きるようになる気がします。<br /> <br /> その頃には神様も新しい手足を見つけてそちらと仲良くやっていると思います。<br /> <br /> チャネラーや霊能者は、使い捨てにされると最初から覚悟しておいた方がいいと私なんかは思います。<br /> <br /> 私はそうではない! と思う方もいらっしゃると思いますし、そうではない方も、もちろんいらっしゃると思います。しかしながら、指導霊や神様との付き合いも人間の付き合いと一緒で、ふてぶてしい人や傲慢な人とは付き合いたくないでしょう? それと一緒ですよ。神様が離れたくなるような生活をしていたらさっさと離れてしまいます。<br /> <br /> 離れないまでも、神様は時空を超えることができますので「早送り」をしてその人の一生をざーっと見て終わりにしてしまうかもしれません。一生の守護を約束したからと言って、必ずしも詳細に毎日付き添ってくれるとは限らないということです。ただしこれは神様のレベルによって、時空を超えられない神様っぽい人、天狗とかそのくらいのレベルですと否応なしに付き合うでしょうし、時空を超えられる神様、天使などは割と大雑把に概観しているような気が致します。<br /> <br /> 神様や天狗、天使は割と気まぐれで、お気に入りのチャネラー、霊能者がいるとそこでしばらく遊びますけど、そのうちどっかに行ってしまいます。その人に一生付き従う守護霊はもちろんいますけど、その場合、守護霊だけになると多様な神様が入れ替わりに来るという感じではなくなりますよね。最初は面白がって多くの神様が来ていたチャネラーのところでも、チャネラーが得意気になったりして教祖と化してくると離れてゆき、守護霊だけが残ります。それでも守護霊からメッセージが来たりしますけど、守護霊にしても天狗だったり龍だったりいろいろですよね。<br /> <br /> まあ、そのように、最初は面白がって多くの神様が出入りしているところでも、やがて神様は来なくなって守護霊だけが一生付き従って見守る、というパターンが多い気が致しますね。<br /> <br /> これは個人的な感想ですので、特定の誰かをどうこう言っているわけではありません。<br /> <br /> 個人的に思うのは、チャネリングとか霊媒としての霊能の技能によってメッセージを受ける段階と、自分自身の頭・・・ というと語弊がありますが、自分自身のスピリットが主体的に動いて自分で肉体を動かすなり幽体離脱をするなりして調査することで自分でしっかりとものを見て結論を出す場合とではかなり段階に違いがあるように思いますね。<br /> <br /> 1.肉体の頭が主体となっていてスピリットと繋がっていない段階<br /> 2.肉体の頭と自分のスピリットが繋がり始めた段階。<br /> 3.自分のスピリットが主体になった段階<br /> <br /> これらの段階のうち、どの段階でもチャネリングや霊媒というのは可能です。<br /> <br /> 1+チャネリング → ただのチャネラー<br /> 2+チャネリング → 教祖様<br /> 3+チャネリング → マスター<br /> <br /> 表現としてはいろいろとあるとは思いますけど、3番目の段階に至っていなければ教祖様として生きて終わりです。そして、3番目の段階に至るためには一般的には修行が必要になるわけで、それは必ずしもチャネリングとは関係しないわけで、むしろチャネリングは邪魔になったりもします。<br /> <br /> 1や2の段階で神様に目をつけられてチャネリングや霊媒あるいは教祖様になって、やがて神様に飽きられて守護霊だけが残る、というパターンが多い気が致します。神様は気まぐれですからね。興味がなくなったら割とすぐどっかに行ってしまいます。そして、残されるのは教祖様というわけです。<br /> <br /> Sun, 06 Dec 2020 00:00:00 +0900 光の剣をもらったお話 https://w-jp.net/2020/2160/ <br /> 最近、瞑想をしていたら空から剣のようなものを持ったスピリットが降りてきて受け取りました。それはスターウォーズのライトセイバーのように光っていたのですが形としては日本刀のような感じで、鞘はなかったような気がします。そのような日本刀っぽい光の剣をもらったのです。<br /> <br /> ん〜。あまりにもアニメっぽいので、ただの想像かなぁ・・・??? という気もしたのですけど、とりあえず「まあいいや。もらえるならもらっとこ」と思って受け取って、腰の横にかけました。鞘はあるのかどうかよくわからないですが刃が触れても体が切れるわけではなさそうです。<br /> <br /> 試しにそれを振ってみると、剣のように一方向だけに刃がある感じではなく、実際のところ、刃のある方向はよくわからなくて、どちらの方向でも切れる感じが漠然としました。 とは言いましてもきちんと刃があって刀のようにしなっている気もしますし。伸び縮みもする感じで、ちょっとゆらゆらと動いている気がしますね。切ろうとする方向に動かせばそちらに切れる感じです。<br /> <br /> とりあえず、腰に置いておくことにしましたが、ちょっと収まりがよくないのでどこにしまおうかなと思っていたら、口から入れて喉に入れておくと良いよ、と言われました。まじですか。それって漫画「ナルト」で大蛇丸が持っていた草薙の剣みたいな感じなんですけど。単に記憶が蘇って想像しているだけなのかな? とも思いましたがイメージは生々しいです。教えてくれたスピリットの顔は、どこか大蛇っぽいです。単に大蛇丸の顔を真似して遊んでいるだけかもしれないですけど。<br /> <br /> その後、お仕事で何か理屈に合わないことを言ってくる初対面の人がいて、なんだろ? と思っていたらその後、生き霊の不満のある弱い恨みの念を送ってきたので「お。ちょうどいいや。頃合いの敵が来たので試そう」と思ってお昼休みに瞑想をして、その剣を取り出して私の座っている前、1mくらいにある生き霊をめった切りにしてみたら急に生き霊がバラバラになって念が減ってゆきました。効果抜群のようです。切れまくります。まあ、雑魚といえば雑魚ですが・・・。<br /> <br /> そのバラバラになった生き霊はちょっとした怨念ですので消滅させようとも思ったのですが、それよりも、既にエネルギーの状態になっていて意思はなくなっているようなので普通にヴィシュッダで吸い込むことで浄化というかエネルギーを吸収してしまいました。<br /> <br /> 意外に、そんな他人の怨念の生き霊であったとしても剣でバラバラにした後ならばエネルギーとして吸収できるのですね。単に跳ね返したり防御したりするだけでなく、光の剣を手にしたことによりバラバラにしてエネルギーとして吸収する、という選択肢が増えた感じです。<br /> <br /> とは言いましてもあまり変なエネルギーを吸い込むと消化不良起こしそうですけど。そんな気がしますから、ほどほどにしたいと思います。<br /> 恨まれるのはちょっと面倒ですしね、そもそも恨まれないのが一番です。<br /> <br /> ・・・後日、もう少し試していたら刃こぼれっぽい感じになっていました。どうやら、最初はそれほど強くなくて、自分のオーラで強化しないといけない感じですね。まだ生まれたてであまり強くないみたいです。<br /> <br /> ・・・更に後日、この剣の別の使い方がわかってきました。基本的にこの剣は自分のオーラと対象とを接触させないために用います。目的としては大きく2つあって、相手を浄化する場合と切りつけて懲らしめる場合とがあります。相手を浄化する場合は、剣に天のエネルギーを降ろして剣をエネルギーで満たしてから剣だけを相手に近づけ、剣のエネルギーを相手に与えて浄化します。懲らしめる場合は普通に刃先を鋭くして斬りつけます。斬りつけるとそこで分割されることもありますので個別に浄化するという手もあります。<br /> <br /> この、相手を浄化する方法はかなり有用で、自分のエネルギーを天のエネルギーを光の剣まで降ろすことだけに用いて後は天のエネルギーをそのまま直接あるいは剣を経由して相手に与えるわけです。こうすることで自分のオーラを汚さずに済みます。剣は伸び縮みや切り離しもできるので相手と融合したエネルギーの部分はその部分ごと切り離して相手に与えてしまえばよいわけです。剣の長さはいくらでも元通りになりますし、問題ないわけです。あるいは、光の剣は天のエネルギーを操作することだけに用いて天のエネルギーを直接相手に繋いでも良いです。<br /> <br /> エネルギーを与える使い方をする場合は、剣というよりもハンマーかあるいはシャベルあるいは柄杓のような形になりますね。これはイメージとも関連しているように思います。使い勝手の良い、イメージしやすい形に変わるわけです。剣といえば剣ですけど用途別に姿は変えられるわけです。<br /> <br /> ・・・そして、その後、ふとしたときに繁華街の裏路地で弱い邪気をいくつか感じたので試しにそれぞれを光の剣で切ってみましたが、瞬間的に浄化されますね。これは効果があります。霊視はできないので盲目の剣士みたいに気配だけで切っていますけど、それだけでも意外にいけるようです。見えずになんとなく切っているので時々「危ない」と言われますけど。そんなにぶんぶん振り回さない方がいいみたいです。<br /> <br /> Tue, 01 Dec 2020 00:00:00 +0900 特殊なマントを被って霊能力なしに生まれてくる https://w-jp.net/2020/2159/ <br /> 以前に何回か魑魅魍魎のお話や松果体や霊界の特殊な修行法のところでマントのお話をしましたけど、私の場合、生まれる前に霊界のとあるおじいさんっぽい世話人さんのお勧めでこのマントを被って生まれることにしました。<br /> <br /> 基本的にはそのマントは霊能力を制限する機能があって、それに加えて、他からの霊的な影響を防御する機能も備わっています。とは言いましても自分の霊的能力を制限することが主目的で、霊的能力なしに生まれて修行したい人がこれを使うわけです。<br /> <br /> 前にも書いたかと思いますけど、そのおじいさんが言うには「最近は、これを使う人が少なくなってねえ」と、ちょっと淋しげでした。<br /> <br /> 前世までは魑魅魍魎が見えまくって、それ故に魑魅魍魎がいるとメンタルが揺らぐことが多かったように思います。まあ、しょうがないことと言えばそうなのですけど。魑魅魍魎ですし。<br /> <br /> このマントを紹介された時、そう言えば次のように思ったものでした。<br /> <br /> 「え! 見えなかったら、変な魑魅魍魎がいるところに突っ込んじゃうよ。大丈夫なのかな?」<br /> <br /> そう聞くと「このマントは防御の機能も備えていて、肉体があるのでそれほど影響はされない。」と回答があったのですが、確かに、霊体のまま他の霊体に突っ込んでしまうと邪念や悪霊の気が移ってきてしまって大変ですが、肉体があるとそこまでではありません。・・・・とは言いましても、多少は影響します。霊体のままに比べると影響が少ないというだけで、霊視できない状態だとめちゃくちゃ悪霊にぶつかりまくる、というのが実感です。<br /> <br /> ちょっと試して、「これ、ほんとに大丈夫なのかなあ・・・」と思ったことを覚えています。邪気とか悪魔のたまり場とかに突っ込んでしまいます。<br /> <br /> そして、前にも書いたように思いますが、これってどうなのだろうと思って実際に使っている人の人生を覗き込んでみました。例えばお坊さんになった人が、本来は霊格がそれなりにあって霊視ができてもおかしくはないのですがマントを被っているが故に霊視など霊的能力が現れず、お師匠さんに「まだ何も見えぬのか。まだまだだな・・・」と言われて、そのお坊さんは「はい・・・」と言うしかないような状況でした。それでも修行を続けることで、霊的能力ではない部分の修行に集中するとのことでした。お寺の中でのステージは上がらない感じでしたが、それでも、その本人の修行にはなっていたようです。<br /> <br /> このマントは、被るとぐるりと自分の周囲に自動的に回り込んでロックされるような魔法がかかっています。それを解除するために呪文が必要です。<br /> <br /> 試しにマントを被ってマントラを唱えてみましたら、魔法が解けて元通りのただのマントに戻りました。何度もつけ外しができるようでしたが、度々外していたら修行にならないので、マントラの控えを後頭部の後ろに結びつけて幽体離脱あるいは死んだ後に見れるようにすることと、もう1つは守護霊に持っていてもらうことにしました。<br /> <br /> 基本的には死ぬまでこのままマント付きでの生活ですけど、どうやら、長年使っていたらところどころ破けてきた感じではあるのですよね・・・。<br /> <br /> 霊能力者が意識的に破こうと思えば破ける代物ですけど、ひとまずその必要は感じていません。まあ、今のままでもいいかな、とも思いますし、もし追加で使命がもらえて必要になったらマントラを唱えて解除すればいいかな、という感じです。そのあたりは私のスピリットが判断する感じですね。<br /> <br /> まあ、視界があれば視界で邪気をあらかじめ避けますけど、今は見えないが故に、近くまで行ってようやく邪気を感じて避ける、という感じですので、ある程度は邪気に近づいてしまいますね。もっと感度が上がれば近づかなくてもいいのかもしれないですけど、町中ですと急に何かが近づいてきたりしますからね。方向もよくわからなかったりしますし。見えないというのはなかなか大変です。<br /> <br /> 普通の人は、よくこんな世界で生活していますね・・・。<br /> <br /> 邪気と悪霊がうようよしているのにそれに気が付かずに生活しているのは、どこかの漫画で言っていたように「極寒の地で全裸で凍えながらなぜつらいのか分かっていないようなもの」という例えが合っているような気が致します。<br /> <br /> まあ、マントを被ったとしても主に制限されるのは霊視能力で他の能力はそれなりにありますから、霊視制限特化のマントとも言えるかもしれないですね。<br /> <br /> 魑魅魍魎がいるところに気付かず突っ込んでもその影響を受けないようになるまで自分を鍛える、というのはある意味スパルタ教育な気もします。自分で言うのもなんですけど。<br /> <br /> Tue, 01 Dec 2020 00:00:00 +0900 ヨーガ経歴(2020年12月版) https://w-jp.net/2020/1790/ <br /> <br /> ・2015年1月 インドのアシュラムで生まれて初めてのヨガ 2週間 合宿。その後しばらくブランク。<br /> ・2016年10月 日本の近所でヨガ再開。1週間ごと1回90分<br /> ・2017年8月 ヨガの頻度を上げ、ほぼ毎日90分<br /> ・2017年10月 雑念が減ってくる。ようやくヨガをしている感じになってくる。ヘッドスタンドが短時間だがようやくできるようになる。<br /> ・2017年11月 ナーダ音が聞こえ始める。ヨガをほぼ毎日し始めてから約3ヶ月後。ナーダ音が聞こえ始める1週間前から「無」を経験して寛ぐことができるようになりましたが、わずか1週間で「無」はナーダ音に置き換わりました(詳しい経緯はこちら)。<br /> ・2018年1月 第1回目のクンダリーニ体験。ムーラダーラの電気ショックと眉間の皮膚から数センチ離れた空中(アジナ・チャクラ?)でのエネルギーの爆発。ほんの少しのエネルギー。<br /> ・2018年1月 身体中がオームに包まれる経験(第1回目クンダリーニ体験の約10日後)。<br /> ・2018年2月 ヨガのアサナは元々苦手だったが、ようやく人並みにできるようになる。<br /> ・2018年2月 雑念の減るスピードが上がる。20分の瞑想があっという間に感じられるようになる。<br /> ・2018年2月 日常生活でクンバカ(息止め)が自然に起こるようになる。いわゆるケヴァラ・クンバカ(Kevala Kumbhaka)。<br /> ・2018年3月 ヨガのアサナの1つであるフルブリッジ(チャクラ アサナ、車輪のポーズ)ができるようになる。<br /> ・2018年5月 鼻の詰まりが数十年ぶりに解消された。鼻呼吸が可能になった。プラナヤーマが楽になった。<br /> ・2018年6月 植物や昆虫を傷つけるとハートが痛むようになる。<br /> ・2018年8月 ゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想合宿を経験。宗教でした。<br /> ・2018年11月 イダとピンガラの目覚め(第2回目のクンダリーニ体験)。マニプラ優勢になる。クンダリーニ本体はまだ上がっていない雰囲気。2つの光の筋が上がっただけ。仙骨か尾骨のあたりに熱を帯びて血液が激しく脈打つ。かなりポジティブになる。性欲がかなり解消されて自然な(努力のいらない)ブラフマチャリア(禁欲)の達成(性欲10分の1)。睡眠時間の短縮。声が出しやすくなる。呼吸が浅くなる。ケヴァラ・クンバカが起きなくなる。<br /> ・2019年4月後半から約1ヶ月間、お風呂場での頭からの冷たい水掛けがマイブーム。<br /> ・2019年5月 眠りの質の変化。明確な意識はまだないが多少は意識が刺激された状態のまま眠る感じに変化。<br /> ・2019年5月後半、時々音楽っぽいナーダ音が聞こえるようになる。<br /> ・2019年6月 右足首を骨折して1週間ほど入院。これから約3ヶ月は松葉杖生活。<br /> ・2019年7月 第3回目のクンダリーニ経験。アナハタ優勢になる。(五大要素の)「風(Air)」のエネルギーによる竜巻が腰から頭まで上昇。光の筋はなし。竜巻は頭の周囲で発散(頭上および前後左右に発散)。うなじの下(大椎?)に少しの熱を帯びて血液が脈打つ。ハートがジンジン。第2回目ほどの変化はなし。性欲が更に10分の1 (第2回目クンダリーニ以前と比べると100分の1) 。 悪口の根絶が起こる。骨折による痛みが常にあるので、強制的にヴィパッサナー瞑想しているような感覚。<br /> ・2019年9月 ムーラダーラの活性化。 足の気力が少し増加。足の感覚が少し敏感になる。手の感覚も足ほどではないが少し敏感になる。「におい」に敏感になる。「におい」だけで「味」も感じるようになる。淀んだ空気(の匂い?)が苦手になる。いわゆるグラウンディングの力が若干上昇。他人の淀んだオーラによる自分への悪影響が低下し、自立力が高まる。優勢なのは依然としてアナハタ。<br /> ・2019年11月 古代の唱え方でのオームとチベットのマントラを唱え始める。<br /> ・2019年12月 オーラのエネルギーがアジナ優勢に変化。<br /> ・2019年12月 日常生活上でのヴィパッサナー状態の開始。<br /> ・2020年2月 日常が映画になる。<br /> ・2020年7月 意識の平穏が何段階かに分かれて瞑想中に現れるようになる。<br /> ・2020年9月 頭の愚鈍な意識(タマス)がヴィシュッダ(喉)に吸い込まれることで静寂の境地に至る。<br /> ・2020年12月 サハスララとムーラダーラの陰陽エネルギーのバランスが整う。鼻頭に意識を合わせて呼吸するだけでエネルギーが頭まで上がるようになる。<br /> ・2020年12月 胸の奥に神意識あるいは宇宙意識とも言うべき「創造・破壊・維持の公の意識」が現れ、最初は恐怖を感じたが受け入れた。個から公への転換。最初は胸の部分だけだったが、やがてその意識は体中に広がった。公の意識に変わったことにより、ようやく瞑想初心者を卒業したような感覚になる。今までしてきたことは全て個としての体験で、個の意識であるうちは初心者だった。これからは公の意識として生きます。<br /> <br /> <br /> Tue, 01 Dec 2020 00:00:00 +0900 イギリスでスパルタのスピリチュアル教育をした記憶 https://w-jp.net/2020/2158/ <br /> 中世のイギリスで、とある広い敷地の館でスピリチュアル講師をしていました。いわゆる魔女で、女性として生きていました。霊視や未来予知などができるよくある魔女でしたが、とある弟子を取って、修行させていました。<br /> <br /> ・・・夢や瞑想で見たお話ですので本当のことかはわかりません。<br /> <br /> その弟子はたしか貴族の若者で、スピリチュアルなことに興味があって、能力開発をしたいということだったかと思います。<br /> <br /> 最初は瞑想をさせて、邪念を捨てさせることから始めました。<br /> 暗闇の中でろうそくを眺めさせたり、誘導瞑想をしたりして心の闇を取り除いていきました。<br /> 次第に精神はクリアになり、弟子はその度に喜んだものでした。<br /> このような晴れやかな気持ちに達したことはない、素晴らしい、嬉しい気持ちだ、と言われたことを覚えています。<br /> <br /> 何年か、5年か8年くらい長く修行したでしょうか。それでようやく、晴れやかな気持ちに達したのです。普通に人生を健康的に過ごすにはそれで十分で、その方はそれでも良かったかもしれません。<br /> <br /> 私は未来が見れましたので、その弟子がその人生で、自身が面倒を見れる間に達することができる境地のゴールが見て取れました。かなり精神的には健康的にはなりますが、霊視までにはたどり着かないようです。私は最初からなんとなくは分かっておりましたが、最初から言ってしまうと修行を辞めてしまうこともわかっておりましたので言わずにいたのですが、修行するにつれてその結果が確定に近づいてゆきました。これ以上、このまま続けたら予定通りの結果にしかならない・・・。<br /> <br /> そこで、ある程度の晴れやかな境地に達した段階で私は提案をしました。<br /> 「私は未来が見れるから、貴方の今生で行き着く境地がわかります。残念ながら、今のままでは霊視にまでは到達しません」<br /> それは最初からわかっていたのですが、最初から言ってしまうとやる気をそいでしまうために言わなかったのでした。<br /> <br /> 更に次のように言いました。<br /> 「もし、今生で2つの人生分の修行をしたいなら、厳しくしなくてはならない・・・」<br /> このことを、何度かの修行で度々繰り返したように思います。<br /> しかしながら、実際に行うまで、その意味を弟子はきちんと理解していなかったように思います。<br /> <br /> 度々、同じことを伝えます。<br /> <br /> 「このまま続けても良いですが、もし、貴方が厳しい修行を望むなら、そうしても構わない。だが、それは私も辛いし、何より、貴方も辛い思いをします。私は貴方にそのような辛い思いをしてほしくはないけれど、厳しくしなければ、貴方の今生では修行は完成しません・・・」<br /> <br /> そのような説明を繰り返し、やがて、その意味を汲み取ったのか、小さく「はい」と答えるようになりました。<br /> <br /> その覚悟のなさを見て、私は「それは本当? 厳しいというのは、言葉遣いも辛いものになるのよ。貴方に命令をして、ここがだめ、そこがだめ、なっていない、こうしなさい、と、とても強い厳しい言葉で言わなくてはならない。そうしなければ1つの人生で2つの人生分の修行なんてできやしないわ・・・。これは、貴方自身が決めること。貴方がやると決めたのならば、私はそれに応じてあげる。 でも、このまま続けたとしてもそれなりの境地に達するでしょう。しかし、来世も私が面倒を見れるかどうかはわかりません。貴方も修行ができるかどうかはわからない。私はできれば今生で達成させてあげたいわ。」<br /> <br /> そして、それを休憩時間に紅茶を飲みながら度々説明したのでした。時には、その厳しい言葉遣いをやんわりと真似したりしました。<br /> その時、弟子の顔に厳しい顔が浮かんだのを覚えています。<br /> <br /> やがて、何ヶ月か後でしたか。覚悟は足りないと思われるものの「決めました。修行させてください」と言ってきました。<br /> それを見て、「わかった。今日はほんの少しだけ試しましょう」と言ったのです。<br /> そして、半分は普通の優しいリラックスの誘導瞑想やその他の儀式を。もう半分は、厳しい修行を行いました。<br /> <br /> 今でも受け継がれている、イギリスのスパルタ式スピリチュアル訓練はおそらくこのあたりにルーツがあるように思います。<br /> <br /> 私はまず、自分のエネルギー(オーラ)を弟子の主に下半身から満たして意識を高揚させました。<br /> それだけで弟子はそれなりに満足しましたが、それはまだまだ入り口に過ぎません。<br /> <br /> 弟子は、師匠のエネルギーを受けて満たされただけで多少は満足してしまうものです。しかし、それだけでは全然足りないのです。<br /> <br /> その状態で霊視をして、エネルギーが通っていないところを指摘します。「エネルギーがお腹に満ちていない! 集中しなさい! オーラが揺れています。オーラを安定させる!」など、細かく状態を次々に指定し、指摘したことができないと「できていない! ◯◯すること!!」と何度も強く言い、できるまで何度も言い続けたりしました。それでできることもあればできないこともありましたが、構わず指摘し続けたのです。<br /> <br /> 弟子は、師匠のエネルギーに満たされて彷彿と満足感を感じつつも厳しい言葉で自分の至らなさを認識するのです。<br /> <br /> というのも、弟子は受け取ったエネルギーをうまく使うことができないのでオーラはとても揺れていますし、その分、エネルギーが漏れて行ってしまっているのです。エネルギーの満足だけで終わりがちですが、しっかりとした師匠はそんな甘い弟子の態度を許しません。<br /> <br /> エネルギーが体のどこに通っていてどこに通っていないのかを見極めるのは重要で、自分で分からなければ指摘してもらう方がいいのですが、指摘できる人はあまりいないように思います。体にエネルギーが通っていない部分があればそこに意識を合わせてエネルギー(オーラ)を通わせることとオーラの安定を基本に教え、実践させました。<br /> <br /> 弟子はオーラの安定もなかなかできませんし、エネルギーを下から上に上げることもなかなかできませんが、普通にリラックスして瞑想するよりはそのようにスパルタ式で指摘し続ける方が実際のところ成長は早いのです。ですけど、弟子はそれに我慢して頑張ってはいるものの、どこか涙が出てきてしまい、その涙を見て私ももらい泣きしてしまいそうになります。ですが、弟子が涙をこらえながら頑張っているのに先生の私が泣く理由にもいかず、涙を浮かべてこらえながら指導したのを覚えています。<br /> <br /> やがて、何年かしてもまだ霊視ができない弟子は、度々諦めることもありました。約束の授業の時間になっても何週間も無連絡で欠席し、落第かと思われたこともありました。<br /> <br /> そのような時は、手紙を書いて、貴方ならできるから、頑張って訓練しに来なさい、という思いを伝えたものでした。<br /> <br /> そのような挫折を繰り返し、精神的にも強くなり、エネルギーの安定度も上昇具合も良くなってきました。<br /> <br /> それは少しづつの進歩でしたが、エネルギーがお腹のあたりから胸のあたり、そこから喉のあたりへと少しづつ上がって行くにつれて、現在のエネルギーの状態はこうなっている、もう少し頑張るのよ! ということを伝えながら一緒に修行したことを覚えています。<br /> <br /> 胸のあたりにまでエネルギーが上がったことで一旦は修行の峠を超えたように思います。それからでも厳しいことを言ったりもしましたが、その度に、「厳しいことを言っているように思うかもしれないけど、最初の頃の下半身でエネルギーが止まっていた時に比べればかなり良くなっているのよ。それは自分でもわかるでしょう。だから諦めずに、途中で辞めることなどせずに、修行を完成させなさい。」と言って励ましたりもしました。<br /> <br /> ただ、胸から喉に上げるのがこれまた一苦労で、なかなかエネルギーが上昇して行きませんでした。<br /> <br /> そこでまた、挫折しかけました。しかし、弟子は細かな成長までは気付いていなかったようですが、かなり進歩してきていること及び現在の状況をきちんと伝えることで挫折の危機を再度切り抜けました。あと少し、あと少し・・・。<br /> <br /> 時々、弟子の状態を見ると急にオーラが前回のレッスンより安定している時があって、途中で少し戻るときもあれば不安定の時もあって、それでも、時には斬新的に成長してゆくように思います。<br /> <br /> そうして、10年か15年か、もしかしたら20年くらい修行に付き合ったでしょうか。<br /> <br /> 最後にエネルギーが眉間にまで上がり、上がってもまだ霊視が始まらない、という状態に至りました。そのような最終段階のレッスンを何度か続けた後、ついに眉間が光のエネルギーで満たされ、その祝福すべきとある日、ついに霊視が可能になったのです。<br /> <br /> 「見えます。周りにある、精霊や天使のようなものが私に見えます・・・」<br /> <br /> その声は震え、その目には涙が浮かんでいました。<br /> <br /> それを聞いて、私も、ついにやり遂げたと歓喜して抱き合ったことを覚えています。<br /> 「よくやりました・・・。貴方は私の誇れる弟子です・・・。貴方は成し遂げました。」<br /> <br /> 辛い修行に耐え、2つの人生の修行を1つの人生で成し遂げた弟子が、ここにいたのでした。<br /> <br /> ・・・その後は、次のように伝えました。<br /> <br /> 「これから、何回かはまたレッスンしに来なさい。でも、基本的にはこれからは自分でできることです。霊視で自分のオーラを見て、不安定なところを確認しなさい。そうして、エネルギーを高めて安定させることが大事です。あと何回かレッスンをして、大丈夫だと思ったらもう来なくて大丈夫です。もちろん、何か相談があればその時は来てください。」<br /> <br /> こうして、弟子が独り立ちしたのでした。私は、満足して、その後、寿命を迎えたように思います。広い敷地の古い館で、魔女の生涯が終わったのでした。<br /> <br /> この弟子は、その後、私が行ったことと同様なスパルタ式のスピリチュアル教育を大勢に対して行ったように思います。<br /> <br /> 本来、ゆっくりとした道と性急な道があって、人によっても性質によっても使命によってもその道は異なりますし選べるものなのですが、私の弟子には性急な道しか教えなかったものですから、イギリス方面でその伝統が続いてしまっているようですね・・・。<br /> <br /> それが良かったのか悪かったのか・・・。今でもイギリスではその伝統が続いているように思います。<br /> <br /> Mon, 30 Nov 2020 00:00:00 +0900 使命として参加するか打診されたお話 https://w-jp.net/2020/2157/ <br /> 現在のところ何も動きはない気もしますが、首都圏イヤシロチ計画の次の段階として、日本をイヤシロチ(神の空間)にする計画があるようです。まじですか。<br /> <br /> 具体的には、全国の社寺を復興させて管理および施設を一新し、人々が祈りを上げたり瞑想など近所の人が日頃から簡単な修行ができる場所を全国各地に作ろう、という計画のようです。<br /> <br /> 神社の形式を基本にしつつも、お寺のように人々が集まれるような場所を作りたいとのことです。ただしお墓は全く関係がない、とのことです。葬式としての仏教ではなく、場としての社寺、特に現在お寺としてある場所の延長線上に、お墓とは切り離された、人々が集って祈りを上げたり瞑想などの日常的な修行ができる場所を全国に作ることで日本全土を祈りのある神を祀る神社のような列島に変えたい、という壮大な計画のようです。<br /> <br /> 更に言うと、目標としては5500の社寺を復興させるとのことです。ちょっと大きすぎて意味不明ですが・・・。<br /> <br /> 誰がやるのでしょう・・・? 首都圏イヤシロチ計画にしてもそんなに進んでいる気もしないですが、その計画というよりコロナで経済活動が不活性になってきたことで自然に浄化されている気も致します。その上、更に日本全土の社寺復興計画ですか。ちょっと話が飛びすぎているような・・・。やるにしても死ぬまで5500は達成できず、とりあえず「大きな数」というくらいのようです。「沢山、できる限り」という意味を込めて5500だそうで、数にきっちりとした意味はないようです。<br /> <br /> そうは言っても、やるとなれば人・物・金のいずれも私には足りないですし、どうなんでしょうかね。やるとなればどんどん動いてゆくのでしょうが。とりあえず今は何もできない気がしますけど。<br /> <br /> 回答としては、社寺を実際に使う周辺にお住まいの人々が半分くらいは行動する、と言っていますね。運動はあくまでもきっかけになりさえすれば良い、ということで計画が進んでいるようです。<br /> <br /> 道路建築で地方にお金をばらまく政策から、社寺を作ってその周辺に観光客や修行の人を呼び込むことで経済を回す、という大きな変革が期待されているようです。<br /> <br /> Mon, 30 Nov 2020 00:00:00 +0900 明け方にやってきたミュージシャンの魂 https://w-jp.net/2020/2155/ <br /> 生きているのかどうかはわかりませんが、売れないミュージシャンの魂が明け方に初めて私のところにやってきて、チラシなのかホームページの画面を私に見せて「買ってくれ、買ってくれ、買ってくれ」と、とてつもなく冷たいオーラと共にやってきました。<br /> <br /> そのトップページにはCDが4つくらいとグッズが幾つか売られているのですが、古典芸能の、雰囲気としては喜多郎? っぽい感じですけど、おそらく本人ではないとは思いますけど。<br /> <br /> とてつもなく冷たいオーラで、冷たいという表現が正しいかどうかは微妙なところで、氷のような冷たさではなくて、まるで風邪にかかったときのような寒気のする冷たさです。重い感じもありましたけど、悪魔のような黒さではなく、風邪の寒気で生気を取られて少し金縛り気味にもなりました。<br /> <br /> CD等が売れなくて、お金に困って困ってもうどうしようもない... という感じが伝わってきました。 コロナの影響を受けている方の生き霊さんでしょうか?<br /> <br /> どうしたものかなあ... 消滅させるのは可愛そうだしそこまで悪気があるわけではなさそうだなあ、とりあえず押し返して体から離れてもらおうかな・・・ と思って少し前方向に押し返してみると離れて、その魂はどこかに行ってしまいました。<br /> <br /> なんで私のところにやってきたのでしょうかね。たまたまですかね。見たことのない作品でしたから、私に縁があるというわけではなさそうですし。<br /> <br /> そこらへんを適当に彷徨っていて買ってくれる人を探しているのでしょうかね。でも、イメージで見せられてもどこで買えばいいのか分からなければ買いようがありませんけど。<br /> <br /> あまりにも買ってくれ、買ってくれ、と風邪のような冷気を出しながらせがむのですからじっくりとCDを見て「どうかなあ・・・」と思っていたのですが、「うーん、よくわからない。いらないかな・・・」と思ったら向こうが諦めかけて、その後、魂を前方向に少し押したり光の剣っぽいもので前方向を少し切る感じにしてみたら私の体から離れてどこかに行ってしまった感じです。<br /> <br /> 死後に単に念だけが残って誰かに買ってもらいたかっただけなのでしょうかね? それとも生きていて本当に困っているのか? それは結局よくわかりませんでしたが、初めてのお客さんでしたので、まあ、きっとまた会うことはない気もします。どうでしょうね。<br /> <br /> <br /> [当日、夜に追記]<br /> <br /> どうやら、今朝の出来事は私の守護霊が私を鍛えるために悪い霊を近くから連れてきて私のベッドに明け方に放り込んだみたいです。そして、どのように対処するのか見ていたのだとか。<br /> <br /> 結果、私の対応は30点だそうです(苦笑)<br /> <br /> 評価としては、浄化するにせよ追い出すにせよ中途半端。浄化するでもなく追い出すでもなく対処がなっていない。我慢するばかりで主体性がない。相手に共感ばかりして話を聞きすぎ。CD買って欲しい思いや願いなんてどうでもいい。オーラを感じれば風邪のような寒気がする時点で良くない存在とわかるはず。そのような者は(人間なら多少は対処法が変わってくるが)生き霊か死霊かもわからない変な存在の相手をする必要は全く無い。<br /> <br /> 消滅させていたら0点あるいはマイナスだった。消滅させなかったのは正解。追い出す選択にしては中途半端な対応。浄化する気はあまりなかったのでしょう。でしたらとっとと追い出すべき。追い出し方にしても、オーラで押し出してしまうと悪い冷たいオーラが入り込んできてしまう。<br /> <br /> 光の柱を天から降ろしてそれを刀のように前に振りかざして追い返そうする対処は良かったがあまりうまくできていなかった。よって30点。<br /> <br /> 自分のオーラを使わずに光の剣を使ったのは良かったみたいですので、この線で、ちょっと何か開発してみましょうかね。<br /> あるいは浄化しようとしても良かったみたいですが、たまたま出会った霊をその度に浄化していたらきりがないので。<br /> <br /> Sun, 29 Nov 2020 00:00:00 +0900 <link>https://w-jp.net/2020/2154/</link> <description><br /> </description> <pubDate>Sat, 28 Nov 2020 00:00:00 +0900</pubDate> </item> <item> <title>サードアイのクリスタルが小さい時は水晶球で強化する https://w-jp.net/2020/2150/ <br /> ある程度育てば不要ですけど、サードアイが小さい人の場合は水晶球で強化できます。<br /> <br /> 水晶球は本物の水晶を使う場合はクラックの角を使ってサードアイのクリスタルと共振させます。クラックがある程度ないとうまく行かないですが、ありすぎてもちょっとやりにくいです。それなりに透明で、クラックもちょっとだけ入った水晶がいいと思います。<br /> <br /> 今は溶解水晶とかありますけど、完全に透明な溶解水晶だとやりにくい気がします。<br /> <br /> ちょっとだけクラックがかすかに入っていて、それでいて、入りすぎないくらいが良いです。世の中にはそんなものはないかもしれないですね・・・。<br /> <br /> 中世くらいの昔はそれなりな本物の水晶球が手頃な値段で売っていましたけど、今は目が飛び出るほど高いですよね。<br /> <br /> 大きさは12cm前後あった方がいいと思います。そこまで大きいものである必要はないですけど、大きいほうがやりやすい、ということはあります。小さいと効果も微妙ですし、ちょっとやりにくいです。<br /> <br /> Thu, 26 Nov 2020 00:00:00 +0900 サードアイのクリスタルは転生を重ねて少しづつ育てる https://w-jp.net/2020/2149/ <br /> 私の記憶では、中世にヨーロッパで魔女をしていた頃の自分のサードアイは親指と人差し指で円を作るくらいの大きさだったように思います。その後、もっと大きく育っています。<br /> <br /> 形としてはダイヤのような形です。正八面体よりはもうちょっと角が多いような、正16面体とはちょっと違うような、綺麗なダイヤがカットされているような感じです。<br /> <br /> クリスタルっぽく見えますけど物理的なものではなくてアストラルなものです。<br /> それが、頭の後頭部の真ん中あたりに収まっています。<br /> <br /> これは、転生を重ねるごとに少しづつ育てるという種類のもので、人によっては「目」と言う人もいるかもしれません。形としては目というよりもクリスタルに似ていると思います。<br /> <br /> 言い方としてはサードアイということになるのでしょうが、日本的な言い方をすれば竜神の目とか天狗の目とか千里眼とか、そういうことになると思います。<br /> <br /> 転生を重なる間にもこのサードアイは受け継がれて、そのまま転生をする場合は同じサードアイを引き継ぎます。一旦グループソウルに合流する場合はサードアイはグループソウルが一旦受け取るかあるいは一緒に動いている守護霊が一旦は預かって、その後、必要な魂、大抵は同じグループソウルの魂ですが、転生する際にそのサードアイのクリスタルを受け取って転生するわけです。<br /> <br /> 私の場合、今生での目的が今生の目的はカルマの解消と覚醒への階梯を確かめることの2つだったので、そういうことであればむしろサードアイのクリスタルは邪魔で、何も見えない方が良いので全く何もクリスタルを持たずに生まれてきました。<br /> <br /> ですけど、このクリスタルというものは何もなかったとしても人生を生きているうちに形成されてゆく種類のものですので、今はちっちゃいクリスタルがあります。そのようにクリスタルを育てる過程も含めて覚醒への階梯を確かめることが今生での目的でありましたので、予定通りとも言えます。<br /> <br /> 今まで私が主に使っていたサードアイのクリスタルは今は私の守護霊に預かってもらっています。そのうち、私が今生で育てた今使っている小さなクリスタルとその元々使っていたクリスタルとを交換しようかな、とも思いますけど、これは私が判断することというよりは、私のハイヤーセルフというかスピリットがその時期も含めて判断することのようですので、顕在意識の私は知る必要がないようですし実際のところその決断権は顕在意識の私ではなくスピリットの方にあるので時期とかは教えてもらっていません。<br /> <br /> 顕在意識の私からするともう十分なのでとっとと覚醒してもいいと思っているのですが、スピリットからすると、せっかくなのでもうちょっと細かく覚醒の階梯を確かめてもいいのでは、と思っているようです。それならそれでいいですけど。顕在意識の私からするとちょっとまどろっこしく感じてしまいますが、調査が今生の目的の1つなので致し方ないという面もあります。<br /> <br /> サードアイのクリスタルがある程度育つと、以下の能力が現れます。<br /> <br /> ・(初歩的な力として)イメージで具体的に想像する力。例えば、頭の中でイメージでそろばんをする能力だとか、部屋や通路の空間をイメージして配置を組み替える能力。あるいは数学の問題をイメージで解く力。<br /> ・(もう少し慣れてくると)映像記憶の能力。<br /> ・(ある程度慣れてくると)周囲にいる霊を見る能力。いわゆる霊視。町中に霊がうようよいることがわかるようになります。<br /> ・(更に進むと。実際はフォースアイとの連携で)千里眼の能力。(同じ時間軸における)リモートビューイング。<br /> ・(熟練すると)時空を超えたリモートビューイング<br /> <br /> 私は久々にクリスタルなしで生まれましたが、霊視ができないというのはある意味、煩わしい霊を見なくて良いので意外にすっきりした印象を最初は受けました。サードアイが見えないということは、こんなにも周囲の景色に惑わされなくても済むのだ、という、意外な驚きがあったように思います。町中には霊がうようよいますし、おぞましい姿をした魑魅魍魎なんて普通にそこら中にいますから、そのような煩わしさがない反面、それらが見えないが故に避けにくい、というデメリットもありますけどね。<br /> <br /> たぶん前世ではちょっと疲れた時に魑魅魍魎が見えることが煩わしく感じていて、それ故に、見えないというのはそれはそれで幸せな気もします。<br /> <br /> エネルギー的な総量とのお話とも関連していて、エネルギーが枯渇していると魑魅魍魎が見えた時にそれに影響されてしまうのですよね。見えるだけでなく、エネルギー的に負けてしまっている。一方で、エネルギー的に充実していると魑魅魍魎が見えたとしても自分の平穏さを保てるのですよね。そういう観点からも、きっと前世でちょっと疲れてしまったが故に今生で一休みの意味も含めて一旦はクリスタルなしで生まれた、という理由もあるような気がいたします。メインではカルマの解消が目的ですけど、いろいろな理由が重なって今生ではクリスタルを持たずに生まれたのだろう、と理解しています。<br /> <br /> ですけど、それは一時的な状態でしかなくていつかは元に戻る必要がありますので、もともとのクリスタルを戻すタイミングはスピリットが見計らっているのだと思います。<br /> <br /> Thu, 26 Nov 2020 00:00:00 +0900 性別は選んで生まれてくるのが普通 https://w-jp.net/2020/2148/ <br /> 基本的には、性別を選んで生まれてきます。初心者は他の人に選んでもらうかもしれないですけど、ある程度の経験があれば自分で選びます。生まれる前に自分の性別を決めればそうなります。目的があって性別を選ぶ人もいるでしょうし、あるいは、どちらかの性別が楽だからとか得だからという現世利益の理由で選ぶ方ももちろんいらっしゃいます。<br /> <br /> この世は全て自由ですので、好きにすればいいのです。<br /> <br /> 自分で選べなくて好みの性別になって生まれなかったのだとしたら、それは経験不足なだけですのでそんなもんだと思って諦めましょう。<br /> <br /> 前に書きましたかね。私のあの世のコミュニティには元妻がたくさんいて、「私がお母さんになってあげる!」という人とか、「お嫁さんになりたい!」と元気に主張してきてくれる過去世の元妻がたくさんいます。そういう場合はもちろん性別を選んで生まれるわけですし、狙った性別にはほぼ100%そうなります。そうならずに性別を失敗した、なんてことは聞いたことがないです。狙って転生をする場合は確実に100%で性別選べると思いますよ。だって、受精卵が育っていって性別がわかった上で体に入るわけですから、間違えるわけがないです。<br /> <br /> 現代でLGBTとかありますけど、以前に書いたように、魂には性別はありませんけど一応は性質があって男っぽいとか女っぽいとかはそれなりにあります。前回の性別と逆の場合は男っぽいとか女っぽいとかありますけど、そうだとしても、生きているうちに肉体の性別の性質が身についてきます。<br /> <br /> 自分でその性別を選んだのであれば、その性別を生きればいいだけのお話です。<br /> <br /> 今生では男と決めたら男で生きればいいのになんでわざわざ女として生きようとしたり、あるいは逆に、女と決めて生まれてきたのならば女として生きればいいだけのお話なのになぜにわざわざ男として生きようとするのかは、特殊な事情があると思います。以前書いたように、本当は女として生まれたいのだけれどもDVの被害に合ってばかりいて怖くなったから男として生まれることを選んだとか、男として生まれたかったのだけれどもトラウマがあって女を選んでしまったとか、何がしか精神的な分裂が生じていることが多いように思います。<br /> <br /> それは現代で理解されているように「女の心なのに男として生まれてしまった」とか「男の心なのに女として生まれてしまった」とか、そんな単純なお話だけではなく、前世とのつながりを見ないと本当の理由はわかりません。<br /> <br /> LGBTはそのように心に問題を抱えている場合もあれば、稀ですけど性別がもともとない宇宙人が転生してきて地球の性別システムに慣れていない場合によくわからずLGBTとして分類されてしまうことがあります。これはもう、仕方がないですね。慣れていただくしかないところです。<br /> <br /> 基本的には男として生まれたら男の有り様を学ぶのが基本で、女で生まれた場合も同様だと思います。<br /> <br /> それが基本にあって、LGBTの何割かはそのような転生の理解を取り入れることで「そういうことなら、私はもっと男の有り様を学びます」とか「女の有り様を学びます」と決断して男らしさ、あるいは、女らしさを身に着けてゆくわけです。<br /> <br /> 生まれたときの心の性質がそのまま性別だと思ったら大間違いで、転生をする中で男として生まれたり女として生まれたりすることは普通にありますので、その度に、「ああ、私は男っぽいのにどうして女なのだろう」とか「女っぽいのにどうして男なのだろう」とか、そんなこと悩むだけ無駄で、今生の体が男なら男らしく生きてみればいいし、女なら女らしく生きてみればいいわけです。<br /> <br /> そもそも、男としての人生を送りたいから男としれ生まれた筈ですし、女としての人生を生きたいから女として生まれた筈です。初心者さんは除きますけどね。ある程度の経験者であればそうなります。<br /> <br /> ですから、女として生まれたあげく、「どうして女は男と同じように扱われないのだろう」とか悩んだり不満を訴えたりするのは私にしてみれば意味不明で、「だったら、最初から男として生まれればよかったじゃないの。どうして女を選んだの?」と、魂に聞いてみたくもなります。初心者さんだったら仕方がないですけどね、転生の仕組みと選択が広く理解されさえすれば男は男らしく、女は女らしく生きる社会に戻ると思いますよ。だって、それがそもそもの選択であり、男がやりやすいことと、女がやりやすいこととは絶対的に異なりますからね。<br /> <br /> あまり考えなしに生まれた後に性別に不満を言うような人は初心者さんなので、それは仕方がないですね。周囲がサポートしてあげればいいでしょう。そして、次の人生で性別をきちんと選んで生まれればいいだけのお話です。あまり初心者さんを甘やかして普通の大勢の人々の迷惑にならないようにした方がいいと思いますけどね。<br /> <br /> 男として生きたければ男として生まれればよくて、女として生まれたければ女として生まれればいいだけです。どこまで行ってもLGBTはマイノリティにしかならないと思いますけど。あとはそのような初心者さんをどこまでサポートするかだけの問題ですね。初心者さんはそれなりに生きてもらって、経験を積むまでは補助輪付きでいいと思いますけど。<br /> <br /> 自分で選んだのに選んだことを忘れてしまって、周囲に流されてしまってLGBTになってしまう、という場合もそれなりにあるように思います。<br /> <br /> それと、恋のライバルを消すために他人に「(女なのに)男らしいね」とか「(男なのに)かわいいね」とか吹いてその気にさせてしまう、という場合も意外にも多い気がしますね。これは、他人に流されすぎですね。他人に自分の人生を左右させていることになります。自分が本来しようとしていた人生が送れなくなったりして、死んだ後に「もう1回、やり直し!」になったりするかもしれません。人生の目的が性別とは関係なければ別にどっちでもいいかもしれないですけどね。でも、どっちでも良ければわざわざ性別を変える必要もなかったりします。<br /> <br /> あと、ほんのちょっとの割合ですけど、最近出てきたLGBTというのがよくわからないけど「面白そう!」と思ってそれに入り込む経験豊富な魂もあります。これは、ほんと例外ですね。あんまりいないと思います。宇宙人パターンと同じくらいの割合ですかね? なんとなくですけど。<br /> <br /> 大抵の場合は地球由来の魂が自分の生まれた目的がわからなくて性別不一致を感じてしまいLGBTになることが多いのですかね。そのように性別不一致を感じるのは、魂の性質上、そんなもんだと思うしかないですよ。前世と逆の性別で生まれたら、そりゃ、最初は性別不一致ですよ。でも、大抵の場合は自分でそれを選んだのですからね。あんまり気にすることはないと思いますけど。<br /> <br /> 男にしても女にしても、人生ゲームを楽しんでいるわけですから、男として生まれたら男のゲーム、女として生まれたら女のゲームをするわけです。試してみて、やっぱり合わないな、となったら次回で別の性別を選んでもいいわけですし。あんまり急いで性別を変える必要はないと思いますけどねえ。それよりも、せっかく生まれた性別に合わせてペルソナ(仮面)のゲームを楽しんだほうがいいと私なんかは思いますけど。<br /> <br /> これは個人的にそう思うだけで、基本は、自分が好きに生きればいいと思っています。ですから、勝手にすればいいんです。他人がどう生きようがほっとけばいいのだと思っています。単なる個人の感想です。<br /> <br /> Wed, 25 Nov 2020 00:00:00 +0900 魂の系統によって学びが異なる https://w-jp.net/2020/2147/ <br /> 肉体としては混ざっているので見分けがつきにくいですが魂の系統としては以下に分類されると思います。<br /> <br /> ■レムリア系<br /> <br /> レムリアの最後に天変地異が起こって半数以上はアセンションし、何割かはアセンションできずに地上に残った。その残りの人たちが各地へと散らばり、スピリチュアルの一角を成している。<br /> 元プレアデスの系統。魔術、特に白魔術に長けている。クリスタルを用いた文明。インスピレーション重視。ふわふわしている。<br /> <br /> アセンションした人たちの大部分は今は上の次元の別の惑星で暮らしている。<br /> アセンションできなかった大抵の人はどちらかというと地球に囚われているという感じ。縄文人に多い。<br /> <br /> レムリアの最後には地上では天変地異が起こって災難が起こったが、アセンションした人たちは割と災難は関係なくてアセンションした時の特異な浮遊体験、上昇体験の強い印象が残っていると思います。<br /> <br /> 一方、アセンションできなかった人たちは地上の災難をもろに受けていますから悲惨な悲しいイメージおよびアセンションできなかったという悲しみが魂の奥深くに眠っているのでその深い悲しみを癒やしてあげる必要があります。<br /> <br /> ちなみに私はレムリアの最後に地球に来てアセンションしたが地球に興味があって残って興味本位で転生を繰り返したレアケース。私がアセンションした時はふわっと浮くような別次元に移行するような面白くてエネルギーに溢れた体験だったような気がします。悲しみとかは全くと言って良いほどないです。素晴らしいという印象だけですね。<br /> <br /> 現代でレムリア系のお話を聞いていると上記のような地上的な災難の悲しみとアセンションできなくて地上に残されたという悲しみの両方があるようです。私にはピンときませんけど、理屈としてはわかります。<br /> <br /> ■アトランティス系<br /> <br /> 理知に優れ、論理および秩序を重視する。<br /> <br /> レムリアの生き残りが神官として関与し、その一方で、別の理知的なシリウス等が関わった文明のようです。地球人を使役もしたようです。<br /> <br /> アトランティス大陸そのものではないにせよ、この系統の人たちがきっとピラミッドも作ったと思います。<br /> <br /> これは、宇宙の存在が神として地上を支配する試みのうちの1つだったように思います。<br /> <br /> 一部はオリオンの星系行われた長きにわたる大戦争いわゆるオリオン大戦にて病んだ魂も地球に来て合流したようです。<br /> <br /> ■地球人<br /> <br /> 魂が主に地球で進化した魂。猿あるいは獣から進化。ごく一部は植物や鉱物などから進化したが大部分は動物から進化。血の気が多い。すぐに力で解決しようとする。不愉快になるとすぐ暴力に訴えて人を殴る。女であればすぐにヒステリーになる。<br /> <br /> <br /> 自分がどの系統に属しているのかを認識できると魂の成長のために何をしなくてはならないのかがよりはっきりとすると思います。<br /> <br /> 例えば、地球生まれの血の気の多い魂にスピ系のお話をしても通じないでしょうし、レムリア系の人に論理の話をしてもうまく伝わらないでしょうし、アトランティス系の人に感性のお話をしてもあまり通じないかもしれません。地球は人種の違いだけでなくそもそも魂の成り立ちが違う人が混在していますので、お互いに理解し合おうと思っても無理な部分は絶対に存在しているわけです。<br /> <br /> 地球に生まれている人の中にはオリオン大戦の経験者もいて、そのような人は二元性の対立の克服をテーマとしているようです。簡単に言えばスターウォーズのようなお話が実際にオリオン星系であって、それはもう終息していますけどその戦いで傷ついた魂が二元性を超えて癒やされる必要性があるということのようです。ですからスピ系の一部では二元性のお話がよく出てきますけど、それも全ての人に当てはまるお話ではなくて、特にオリオン大戦の経験者によって二元性の克服がテーマになっているように思います。<br /> <br /> オリオン大戦の経験者はマニプラ・チャクラ(お腹のあたり)が強くて、アナハタ・チャクラ(胸のあたり)よりもマニプラが優勢な気がします。マニプラくらいですと二元性の性質が強く出て、それより下のムーラダーラ以下の獣および支配の性質とマニプラの肉体的な愛との段階とが対立し合うというのはあると思います。スターウォーズは物語としてよく出来ていますが、もっとオリオン大戦に似せるならば、悪の帝国はムーラダーラのような獣のような性質、善の反乱軍はマニプラの肉体的な愛として描くともっとそれっぽくなると思います。マニプラ優勢の状態ですとまだ二元性を超えられませんが、少しづつアナハタ以上の段階に至ることで二元性を超えるのがこれらオリオン大戦の経験者のテーマのように思います。<br /> <br /> チャクラ優勢に基づいてまとめますと以下になります。<br /> <br /> ・ムーラダーラ以前 獣から進化した地球由来の魂。血の気が多い。<br /> ・ムーラダーラ優勢 オリオン大戦の悪の帝国。ダースベーダのようなイメージ。二元性の世界の悪の側。<br /> ・マニプラ優勢 オリオン大戦の善の反乱軍。ジェダイのようなイメージ。二元性の世界の善の側。レムリアでアセンションできなかった魂。<br /> ・アナハタ優勢、あるいはそれ以上 レムリアでアセンションした魂。二元性を超えた世界。<br /> <br /> スピ系である「思い出そう!」で覚醒できる人はレムリア系とアトランティス系の人のお話で、地球由来の獣から進化した魂にそう言っても「なんのこっちゃ?」という感じです。同様に、「瞑想で静けさを取り戻して愛を思い出しましょう!」とか言われて「ああ、そうか!」なんてすぐに気づいて覚醒できるのもレムリア系かアトランティス系です。これまた、獣から進化した魂に言っても通じません。これはもう、仕方がないですね。だって、思い出すべきものがそもそもないのですから思い出しようがありません。<br /> <br /> ヨーガは割と幅広く応用できて、地球由来の獣から進化した魂であっても急速に進化できるように思います。<br /> <br /> 一方で、スピ系はターゲットをレムリア系あるいはアトランティス系に合わせていることが多くて、地球の獣から進化した魂に同じことを言っても意味不明なことが多いように思われますね。全部ではないですけど、そういう傾向が多いように思います。<br /> <br /> これはメモです。上記が全てではないと思います。<br /> <br /> Wed, 25 Nov 2020 00:00:00 +0900 瞑想で集中しても何にもならない、という人は静寂の境地を知らない https://w-jp.net/2020/2145/ <br /> その可能性が高いです。<br /> <br /> 自分がまだ達していないだけなのに「何にもならない」などと断言できるその自信がどこから来るのか知りませんが、実際に、そのようなことを言う人は瞑想教師のような立場であってもいるものです。<br /> <br /> 例えば「瞑想で集中しても何にもならない。観察が重要だ」とか言っている方がいます。<br /> <br /> あるいは、たまにヴェーダンタとかをインドで勉強された方で「瞑想で集中しても何にもならない。知識が重要だ」とか言っている方もいらっしゃいますけど、これはヴェーダンタは経験を超えたところを目的としているために瞑想の体験は一時的なものだという理解に基づいておりますので私がここで言わんとしていることとはちょっと異なるのでひとまず置いておきます。<br /> <br /> ヴェーダンタのお話を抜きにすれば、瞑想で一般的にある要素は集中と観察で、時に「集中しても何もならない」とか言っている方がいらっしゃいますけど、そのような方の場合は静寂の境地を知らないのだな、と私なんかは思います。<br /> <br /> ご本人はこう言っても否定されるかもしれないですけどね... まあ、私なんかからすればそう見えます。<br /> <br /> 静寂の境地あるいはその一歩手前くらいに達しないと「観察」は出てこないので、静寂の境地を知らずして「観察」はあり得ないのです。<br /> <br /> こう言うと、「いやいや、皮膚の観察とか、想念の観察とか、視界の観察とか、いろいろあるでしょ」とか言いますけど、それは、集中しているのであって、瞑想で言うところの観察状態ではないです。<br /> <br /> まあ、そんな集中であっても流派によっては観察と呼んでいるかもしれないですし、それは自由にすればいいですけど、そうであったとしても集中を否定する必要はないわけです。<br /> <br /> 瞑想で言うところの集中と観察は全く別物です。<br /> <br /> 五感に属する瞑想は、例えば皮膚の観察だとか眉間への集中だとか皮膚の観察だとか視覚の観察だとか、そのような瞑想は、初心者であればやっていることは全部一緒です。初心者が自分のやっている瞑想を「集中だろうか、それとも観察だろうか」などと深く考える必要はないです。自分の流派が集中と呼んでいれば集中と言えばいいし、観察と呼んでいるなら観察と言えばいいだけのことです。初心者の瞑想でそんな違いが出るわけもないです。ですから、どこかでかじった知識を元に「集中しても何もならない」なんて言っている人は初心者である可能性が高いのです。<br /> <br /> もっとはっきり言えば、静寂の境地を知らずして瞑想における深い意味での「観察」はあり得ず、それ以前の瞑想であればそれを集中と言おうと観察と言うと表現だけのお話であって大差ないわけです。<br /> <br /> <br /> [2020/12/30 更新] 元々「涅槃」と書いていたところを「静寂の境地」に置き換えました。<br /> <br /> Fri, 20 Nov 2020 00:00:00 +0900 知覚を内に向けることで純粋な意識の知覚を生じさせる https://w-jp.net/2020/2144/ <br /> 最近の涅槃と言ってもよい状態は、超越瞑想(TM瞑想)の書籍にも同様のことが書いてありました。これらの説明は仏教の涅槃の状態を表しているように思います。TM瞑想の目的はここにあるのですね。<br /> <br /> 内側に向かって心を働かせると、心は超越的な「絶対」の領域に入り、永遠「存在」の力で満たされることになります。次に、心が再び外側に向かって動き出すと、心の活動は超越的な絶対「存在」の光を外界にもたらし、粗大な現象界の知覚における至福を強めるのです。(中略)超越界から出てきた人間は、神の栄光を携えていますので、この世界における実生活のあらゆる分野を輝かすことになります。「超越瞑想(マハリシ・マヘーシュ・ヨーギー著作)」<br /> <br /> これは涅槃の説明のように思います。<br /> <br /> 私の目的は涅槃の次の宇宙意識と同一になった状態ですので涅槃そのものはゴールではありませんけど、これらの表現からは宇宙意識らしき面も読み取れます。誰でも読める本にはきっとそこまでは深く立ち入らず、このくらいの表現にしているのかもしれません。<br /> <br /> 静寂に達する理想的な方法は、神経系の活動を「安らぎに満ちた機敏さ」の状態に持っていくことです。心の状態さえもゼロにして、思考過程をその源の一点にまで減少させることです。この点に達すると、知覚は絶対意識の状態にとどまり、悟りの状態が得られ、絶対の超越「存在」が生命の意識されるレベルにやってきます。逆の言い方をすれば、現在意識のレベルが「存在」の超越的なレベルに達するのです。「超越瞑想(マハリシ・マヘーシュ・ヨーギー著作)」<br /> <br /> 翻訳のせいか回りくどい表現が多いですけど、要するに、神意識が顕在意識にまで上がってきて普通に認識できるようになるということでしょう。<br /> <br /> 神意識のことを流派によっては「キリスト意識」とか「アートマン」とか「ハイヤーセルフ」とか色々言ったりしますけど、同じことだと思います。粗大な顕在意識が静まって静寂の意識、いわゆる涅槃に達することで神の意識が現れてくる、ということだと思います。<br /> <br /> <br /> (追記→ どうやら禅宗的にはこれは涅槃と言わなくておそらくは第四禅定です。流派によって涅槃の位置付けが異なるようですね。後日詳しく書きます。)<br /> <br /> <br /> Thu, 19 Nov 2020 00:00:00 +0900 <link>https://w-jp.net/2020/2143/</link> <description><br /> </description> <pubDate>Wed, 18 Nov 2020 00:00:00 +0900</pubDate> </item> <item> <title>やっている修行によって静寂の境地と煩悩の克服の度合いは異なる https://w-jp.net/2020/2141/ <br /> 仏教では静寂の境地と煩悩の克服の度合いが組み合わさって理解されていることに対し、私の場合はちょっと違うなとは思っていたのですが、私のスピリット・ガイド(見えないガイド、いわゆる守護霊)が教えてくれたことによると、やっている修行によって静寂の境地と煩悩の克服(サムスカーラの解消、カルマの解消)の度合いは異なるようです。<br /> <br /> 仏教など特にマントラを使って修行する流派の場合は概ね仏教が定義しているような順番になって、静寂の境地への到達と煩悩の克服が割と同時期に起きるようです。<br /> <br /> しかしながら、本来は煩悩の克服と静寂の境地への到達は別のもので、最終ゴールとしてはどちらも達成するものの、その到達度合いは必ずしも関連しているわけではないようです。<br /> <br /> 静寂の境地は雑念が抑えられた状態ですので、マントラを唱えていると静寂の境地に達することがあります。これは最初に静寂の境地に達すれば預流果(よるか) ですし、度々達すれば一来果(いちらいか)です。<br /> <br /> ですけど、マントラに頼っている以上、それ以上の上の不還果(ふげんか)にはなかなか到達しない、とのことです。<br /> <br /> マントラは顕在意識を鎮める効果がありますので、マントラを唱え終わったら雑念がまたふつふつと湧いてきて、実際のところ雑念があったとしても本来の安定した静寂の境地に達していればそれにさほど迷わされることがないのですが、マントラで一時的に抑えていた場合はまだ本来のサマーディの力が弱くて煩悩(カルマ)にそれなりに影響されてしまうようです。<br /> <br /> 本来のサマーディの力を強めればマントラに頼らずとも静寂の境地を維持することができますので、そうなると次の段階に進むとのことですが、マントラに頼っている以上は一来果(いちらいか)で足踏みし、不還果(ふげんか)にはなかなか到達しないとのことでした。<br /> <br /> これは私がガイドから聞いたことですので本当にそうなのかどうかはわかりませんけど、理には叶っています。ガイドには「私はそのことはあまり気にする必要はない」と言われていますので、一応の知識として知っておくというくらいです。<br /> <br /> このマントラは、レベルは違うものの、例えば白人のスピリチュアルでは大音量のクラブのミュージックが相当するようです。クラブやテクノあるいはダンスホール等で流れている大音量のDJミュージックのような外部の音を利用して一時的に自分の心をそれに惹き付けたり麻痺させたりして心を停止させる手法が白人たちの間では利用されています。それは、白人たちの自我があまりにも強くてそのくらいしないと自我を停止できない、ということでもあります。日本人の場合はそれほど自我が強くありませんからそこまでしなくてもマントラ程度で素早く自我を静止させることができますが、マントラに頼っている以上はマントラを止めたらまた自我が動きはじめてしまうわけです。<br /> <br /> 自我の奥底にある神の面の自分(ハイヤーセルフ、キリスト意識、アートマン)が目覚めてしまえばそのようなものに頼る必要はないのですが、マントラに頼っている以上、なかなか一時的な静寂の境地である一来果(いちらいか)から先に到達できない、ということのようです。<br /> <br /> マントラに頼ると一来果(いちらいか)の静寂の境地にまでは割と素早く達するものの煩悩の克服が後回しになるので静寂の境地の到達と煩悩の克服への到達が割と同じ時期になることが多いようですが、必ずしも一致するわけではないようです。一来果(いちらいか)から不還果(ふげんか)へのステップでは煩悩がかなり克服されなくてはいけませんので、マントラに頼って素早く一時的な静寂の境地の一来果(いちらいか)に達した場合に煩悩の克服に時間がかかって不還果(ふげんか)へなかなか達しない場合もあるようです。<br /> <br /> 一方で、マントラに頼らず沈黙の瞑想をした場合は煩悩の克服(サムスカーラの解消、カルマの解消)が割と先に来て、しばらく経った後に静寂の境地に達して一来果(いちらいか)になるようです。そして、沈黙の瞑想の場合は静寂の境地に達した段階で煩悩が既にかなり克服されておりますので一来果(いちらいか)から不還果(ふげんか)へのステップで足踏みせずに割とスムーズに移行できるとのことです。<br /> <br /> これはトータルで見れば途中でどちらを先にやるかという違いがあるくらいで、実際のところそれほど違いはなく、好きな方をすればいい、好きな道を通ればいい、好きな順番でやればいい、ということのようです。自分の流派のやり方に従いたければそうすればいいですし、直感に頼りたければそうすればいい、ということにもなると思います。<br /> <br /> 煩悩の克服(サムスカーラの解消、カルマの解消)を重視している流派なのか、あるいは、静寂の境地への到達を重視している流派なのかで視点が異なるということですね。<br /> <br /> <br /> [2020/12/30 更新] 流派によって涅槃という言葉の意味は異なりますので元々「涅槃」と書いていたところを「静寂の境地」に置き換えました。<br /> <br /> Mon, 16 Nov 2020 00:00:00 +0900 最初の静寂の境地への到達は預流道果(よるどうか) https://w-jp.net/2020/2140/ <br /> 今年の9月頃に平穏な静寂の境地に達したわけですが、テーラワーダ仏教であるミャンマーの上座部仏教にあてはめてみると、最初の涅槃への到達は預流道果(よるどうか)と呼ぶようですね。このあたりは流派によって定義が微妙に異なるような気が致します。涅槃という言葉の定義も流派によってまちまちのようです。<br /> <br /> 「ミャンマーの瞑想(マハーシ長老 著)」によると以下のような分類になるようです。<br /> <br /> ・預流道果(よるどうか) 預流とは涅槃に向かう流れの意味。始めて涅槃を発見し達する。<br /> ・一来道果(いちらいどうか)<br /> ・不還道果(ふげんどうか)<br /> ・阿羅漢道果(あらかんどうか)<br /> <br /> 道果(どうか)は流派によって果(か)とだけ言ったり省略したりするようです。<br /> <br /> これら4つの段階は煩悩がどのくらい滅せられるかという分類で今まで理解してきましたし、それも正しいかとは思うのですが、それよりも上記のように涅槃に達しているかどうかという基準の方が重要な気が致します。<br /> <br /> これは同じ上座部仏教でもテーラワーダ仏教とかの書物では見たことがない気が致しますが、入信しないと教えてくれないお話なのでしょうかね?<br /> <br /> 煩悩という観点から判断してしまうと自分が上の段階にいるかもしれないという勘違いを産んでしまうような気が致しますので、それよりも、ここにあるように涅槃に達したかどうかの方がよりはっきりとした基準のように思います。4つの段階のうち一番下の預流道果(よるどうか)に「始めて涅槃を発見」と書いてありますので、まずは涅槃に達しないとこの4つのいずれでもないわけです。涅槃に達していないのに煩悩を基準にして4つの基準と自分を見比べても仕方がないわけです。とは言いましても、この基準は流派によりますから、自分の流派があるのであればその基準に従えば良いとは思います。<br /> <br /> 同書には、涅槃に関する記述はそれなりに詳しいのですが、その先のステップは割とあっさりとした表記で、不還・阿羅漢に関しての記述は詳しくはありません。<br /> <br /> 一来に関しては預流の涅槃に熟練したというような書き方で、預流と一来は熟練度が違うくらいなので預流で涅槃に一度でも達したならば一来には容易に達することができる、と書いてあります。であれば以下のような分類ですね。<br /> <br /> ・預流道果(預流果) 始めて涅槃を発見<br /> ・一来道果(一来果) 涅槃に容易に達することができる者<br /> ・不還道果(不還果) <br /> ・阿羅漢道果(阿羅漢果)<br /> <br /> 更には、不還道果に関しては、「完全に定(サマーディ)を成し遂げた者」との記述がありますので、サマーディの精神集中と静寂な涅槃の状態が更に完全になったら不還道果になるのでしょう。<br /> <br /> 阿羅漢はよく知られているように完全に煩悩を滅却した者です。<br /> <br /> ・預流道果(預流果) 始めて涅槃を発見<br /> ・一来道果(一来果) 涅槃に容易に達することができる者<br /> ・不還道果(不還果) 完全に定(サマーディ)を成し遂げた者。<br /> ・阿羅漢道果(阿羅漢果)全ての煩悩を滅した者<br /> <br /> となれば、私は今年9月頃に始めて涅槃に達して預流道果になったわけですね。<br /> <br /> そして、基本的には預流道果と一来道果は大差ないようですし、涅槃にも割とすぐに達することができるようになった上、同書によるとまだ不安定なところがあるような記述ですから、私は今は一来道果あたりにいるのだと判断するのが理にかなっていそうです。<br /> <br /> 不還道果に達すると色欲(情欲)や怒りなどが消え去るみたいですけど、情欲とか怒りなんてとっくの昔にほとんどなくなっていて、確かに生殖行為はまだ可能ですけどそれが色欲かと言われると、まあ、そうかもしれないですけどかなりなくなっています。不還道果に達して完全にゼロなんてあり得るのですかね? 阿羅漢でも完全にゼロなんてことはないような気がしますけど。<br /> <br /> この辺りの、煩悩の欲望と照らし合わせての説明の部分は話半分に理解しておいた方がいい気もしますね。煩悩という意味ではきっともっと早く達することができて、涅槃という意味ではかなり後のような気が致します。<br /> <br /> おそらくは流派によって解釈が異なっているところがごっちゃになってしまったが故に混乱している気が致しますが、煩悩という意味では涅槃よりももっと手前で起こって、涅槃に関しては2周目か3周目での基準であれば一致している気がしますね。<br /> <br /> これは個人的な解釈ですので、仏教の流派の諸派の解釈とは異なるかもしれません。<br /> <br /> <br /> 追記→ 禅宗的には同状態は涅槃と言わなくておそらくは第四禅定のようです。<br /> <br /> Fri, 13 Nov 2020 00:00:00 +0900 全ての宗教の本質は同一だと主張したヴェネチアのカトリックの大司教 https://w-jp.net/2020/2138/ <br /> 夢で見たお話ですから本当のことかはわかりません。<br /> <br /> 先日に続いて私のグループソウルの一部の過去生がヴェネチアでカトリックの大司教だったわけですけれども、その時、全ての宗教の本質は同じだと主張しました。当時は大航海時代でしたけど、大司教が言い出すまでは、他所でそのようなことはほとんど言われていなかったと思います。割と独自にその時の大司教である私のグループソウルの一部が急に言い始めたことのように思います。今ではそれが全世界のカトリックの基本理念として広まっていると思います。<br /> <br /> キリストも元々はそのようなことを言っていた筈ですし、同時代にも似たようなことは他の人も言っていたかもしれませんが、ヴェネチアの大司教が言い出したということでその影響力は大きかったように思います。<br /> <br /> 今では末端のカトリックでもその基本理念がそれなりに知られており、キリスト教というと他の宗教を弾圧したり改宗させたりというイメージが強いせいかこのような教えは意外に思えるかもしれませんが、大航海時代の頃に説かれた教えですのでカトリックの基本理念としてそれは定着しているように思います。<br /> <br /> ですから、一見するとキリスト教が他宗教に不寛容に見えたとしても、実際のところ、基本理念としては他宗教をも受け入れる素地があると思います。<br /> <br /> かと言ってそれがそのまま他宗教のやり方までも許容するということにはなっておらず、文字通り「本質は同一」という意味合いにおける理解でありますのでありのままを受け入れるということではありませんけど、少なくとも、他宗教を弾圧するようなところからは少し離れて、他宗教をも受け入れる素地がカトリックにはあると言えます。そのように信じたいです。<br /> <br /> 今ではキリスト教も多様化してきており必ずしもその基本理念が理解されているとは限らないと思いますし、今世では私はキリスト教徒ではありませんので日本の実態はそれほど詳しくはありませんが、噂に聞く範囲では同様の「全ての宗教の本質は同一」という理念があることは普通のキリスト教信者にも知られており、少なくとも知識としては基本理念としては定着しているように思われます。<br /> <br /> Wed, 11 Nov 2020 00:00:00 +0900 ほとんどの宗教やスピリチュアルのゴールは一緒 https://w-jp.net/2020/2137/ <br /> 教義が違えばゴールは違うなんて言う方もいらっしゃいますけど、実際のところ、教義を受ける対象の人々の気質が違うから違うように見えているだけで、最終ゴールは一緒です。<br /> <br /> 確かに、教義そのもののゴールが悟りに達していない時もありますから、そのような意味においてはゴールは違うと言えばそうですけど、ここで言っているのは、悟りとしてのゴールは一緒ということです。<br /> <br /> そもそも、ほとんどの教義でゴールは明確に示されておらず、かなり曖昧なことがほとんどです。<br /> <br /> そのような状況で、ゴールは何かというと教義をしっかりと理解することではなく悟りであるわけですので、どちらにせよ教義で途中までしか説明されていないのだとしたら悟りが同一であると思うかどうかは後は信念の問題だけであると思います。<br /> <br /> 私が見たところでは、悟りというゴールを目的にしている宗教であればそのほとんどのゴールは一緒であるように思います。後は信念で同じだと信じるかどうかですね。私はゴールは一緒であるという信念がありますから、流派によってゴールが違うとは思わないわけです。<br /> <br /> 見た目はかなり違いますし、やり方も違うでしょう。しかしながら、ゴールとしての悟りは同じであるという部分は信念として持っているわけです。<br /> <br /> 自分で確かめた範囲としてはその信念に矛盾はなく、全てを確かめることはできませんから、あとは信念になるわけです。それはとりあえずは信じるということですけど、信じたからと言って矛盾が出てきたら現実が優先されるわけです。<br /> <br /> 宗教というと何であっても全部信じなくてはならないと思っている方がいらっしゃいますけど、現実が優先されると思っています。現実が優先されて、よくわからない部分が信念になって信じなくてはならない部分です。これは私だけが言っているわけではなく、元々の宗教も本来はそういうものだと思っています。自分がわからない部分が多ければ信じるしかないわけで、であれば信じる範囲が多かったりしますけど、それは割合だけのお話です。次第に自分のわかる範囲を広げてゆくという努力は継続されるわけです。それを修行と言ったりします。<br /> <br /> 色々な宗派を見ると全く違うように見えたりしますけど、信念として、ゴールとしての悟りは一緒だと思っています。<br /> <br /> 流派によって、相手はそう思ってないかもしれませんけど、これは勝手に私がそう思っているというお話です。<br /> <br /> Wed, 11 Nov 2020 00:00:00 +0900 キリスト教が悪魔や地獄で人々を恐れさせる理由 https://w-jp.net/2020/2136/ <br /> 本当のことかはさておき、瞑想や夢で見たお話を記載しておきます。<br /> <br /> 私のグループソウルの一部は大航海時代のヴェネチアでかつて大司教をしておりました。<br /> <br /> 以前にも少し書いたのですが、教会は、ただ神だけを説くべきだったというのはそれはそれでありますけど、元々のお話を言えば恐怖で支配することが目的だったわけではなく、腐敗した人々および自我や自尊心が拡大してしまった当時のヴェネチアの人々に対して謙虚な気持ちを取り戻すように神の怒りとしての悪魔、あるいは、自我の悪い面としての悪魔を説いたのが最初だったように思います。拡大してしまった悪い自尊心が、その恐怖によって押さえつけられて謙虚になることを期待したわけです。<br /> <br /> 私のグループソウルが教壇に立って悪魔を説いた時、人々の反応としては恐怖が最初に来ました。一部の人はそれを理解しましたが、基本的には、そのお話はあまりうまく伝わらず、一部に根強い反感を生じさせてしまったように思います。<br /> <br /> 最初は、悪魔や地獄を説きました。当時のヴェネチアは世界中から富を集めており、豪華な生活をし、ものは溢れており、性的な欲望から物質的な欲望、および他人を操る欲望まで、ありとあらゆることを叶えたヴェネチアの人々はこの世の春を謳歌しておりました。<br /> <br /> そのように腐敗して謙虚な心を失いかけているかのように見えた人々に対し、大司教であった私のグループソウルの一部は、そんな現世的な欲望にうつつを抜かしていると地獄に落ちて悪魔に食い荒らされますよ、ということを説いたわけです。<br /> <br /> それはそれで理に叶った説教だったと思うわけですが、その説教により、様々な意図しない結果を生み出しました。<br /> <br /> もともとは、その悪魔および地獄に関する説教は他の地域では行われてはおらず、ヴェネチア独特のもの、もっと言えば、その大司教が独自で始めたものだったと言えます。そのように、わずか1人によって始められた地獄、悪魔の説教がその後、全世界でスタンダードになってしまったわけです。<br /> <br /> 私は専門家ではありませんけど、書物を調べてみると地獄や悪魔の説教というものはそれ以前からもされていましたけど、この時ほど強くそれを前面に押し出したことはキリスト教の歴史においてそれほどなかったように思います。確かに、人の心が荒めば地獄のような心境にもなりますし、悪魔のような存在も実際にいます。それは昔から変わらず教えられてきたことですが、地獄と悪魔を前面に出して恐怖で持って説教をするというやり方はこの時において再発明されて洗練されて強く地獄をアピールするようになったように思います。<br /> <br /> いわば、もともとあった地獄と悪魔というものをこの頃から教会で強く主張するようになったわけです。<br /> <br /> それは上に書きましたように、人々のエゴに対するアンチテーゼであり、自尊心が拡大して人の心を失いかけていたヴェネチアの人々に対してきつい説教を与えるという意味合いがあったように思います。<br /> <br /> それ自体は多少はうまく働いたのですが、新しい試みですし、教会に対する反感も大きかったように思います。<br /> <br /> 今から思えば、以前にも書きましたように、教会は、ただ神だけを説くべきだったとは思いますが、当時は、それが正しいと判断しておりました。<br /> <br /> と、言いますのも、ヴェネチアだけのお話しでしたらおそらくそのやり方が正しかったと今でも思うのですが、悪魔や地獄で恐怖させるというやり方がその弟子たちを通じて今や全世界に広まってしまったことが失敗だったと思うからです。地理的・歴史的にその時において正しいことが、習慣化されて別の環境に広まったことで間違いになるということはよくあることです。そのような意味において、全世界における元々の混乱の芽を作り出してしまった、という点において間違いだったと思っているわけです。<br /> <br /> 一応弁護しておきますと、ある程度はその試みはうまく行きました。<br /> <br /> 悪魔や地獄というものは自らの心の状態ですから、自尊心が拡大している状態あるいは混乱したり欲望に満ちている状態こそが地獄や悪魔であるわけです。真理というものは比喩によって言い表されますから、天国というのは心の清らかな状態であって、地獄や悪魔というものは自我(エゴ)のことであるわけです。自我を抑えるために悪魔や地獄を説いて恐怖を与えるということが、当時のヴェネチアの傲慢な人々に対して行われ、ある程度はうまく行ったように思います。<br /> <br /> やり方は現代人には適しませんが、考え方としてはそれは今も変わらないわけです。<br /> <br /> キリスト教が悪魔や地獄を説いているのは心の状態を示す比喩であり、悪魔のような心、地獄のような心境・環境にいるのをやめて天使・天国のような清らかな心になりましょう、と説いていたわけです。すごく簡単なことです。<br /> <br /> しかし、聞く側としてはそれをどれだけ理解したのかは微妙なところで、多くは単に、キリスト教の大司教が人々に対して恐怖を与えている、と解釈されてしまったように思います。<br /> <br /> 欲望が人々の心に現れる時、それは悪魔がやってきているのだ、と説きます。悪魔に従っているとやがて自分も悪魔のようになり、地獄のような心境になり、死後も地獄の状態が続く、というのはそれは真実です。死んでしまったら肉体がありませんから死んだ時の心境がしばらくずっと続いてしまい、死んだ時に欲望まみれで不満だらけですと死後もかなりの長い間、そのような抑圧された心境で過ごすことになります。それは地獄と言って良いのではないでしょうか。<br /> <br /> 一方で、死ぬ時に晴れやかに死ねばその後も天国・天使のような心境で過ごすことができます。<br /> <br /> 言っていることはすごく簡単なことです。<br /> <br /> しかし、それはあまり人々に理解されず、欲望まみれの生活を送っていたヴェネチアの人々は理解するどころか「恐怖で我々を支配しようとするキリスト教(カトリック)」という判断を下したわけです。<br /> <br /> 今となっては色々と反省点はあります。<br /> <br /> 特に、世界中に悪魔・地獄の恐怖を広めたということはカルマとなって今の私にも繋がっていて、根深くて今すぐの解決は無理で時間がかかるようですけど、グループソウルが解決しようとしている長期的な課題の1つであるようです。<br /> <br /> ただ、悪影響もあれば良い面もあって、若い時に悪魔・地獄を教会で植え付けられたが故に自我が拡大せずに若い時期から謙虚に暮らすことができた、というレポートも多く上がっています。その場合、最初に恐怖を植え付けられたので悪魔・地獄がトラウマとして残ってしまいますけど、それがなかったことによって自我が拡大して自尊心や欲望にまみれた生活をするよりはずっと良く、トラウマがあることによって謙虚な生活を保てることができるというのは悪魔・地獄の良い面であると判断されています。悪魔・地獄のトラウマがあったからこそ謙虚な若い時代を過ごすことができたというわけです。<br /> <br /> これは私が判断しているというよりは、グループソウルの総意として、悪い面もあれば良い面もある、という両面が理解されているということです。<br /> <br /> 最初から神を見出して謙虚に生活するのが一番いいわけですけど、それができずに、悪魔・地獄のトラウマがなければ謙虚になることができない人々が多くいるが故に悪魔・地獄のトラウマが有効に働いているわけです。もちろんそれが不要な方もいらっしゃいますけど、今の世の中では必要な方の方が多く、現時点では悪魔・地獄のトラウマは有効なものであると判断されています。それは永久に必要なものではありませんが、現時点の判断はこのようなものであるということです。理想的には悪魔・地獄のトラウマなどなくとも最初から神を見出して生きるべきですが、補助輪としてのトラウマであるわけです。<br /> <br /> そして、ある程度の年齢まで育った時にそのトラウマが不要になった際にはトラウマを取り除くために何がしかのスピリチュアルを頼る、ということも多く行われているようです。<br /> <br /> 全体としては失敗だった悪魔・地獄の恐怖の説教であったとしても、一部ではこのように良い面が残されてうまく使われているようです。<br /> <br /> Wed, 11 Nov 2020 00:00:00 +0900 自分に対しては厳密、外に対しては大らかでいる https://w-jp.net/2020/2135/ <br /> 答えは全て自分の中にあるのですから、自分に対しては厳密でいて、外に対しては大らかでいれば良いわけです。<br /> <br /> 比喩的に言えば、自分に対してはB型、外に対してはO型でいればいいのです。<br /> <br /> 聖典を読んだりする場合でも同様で、聖典とは言えども外のものですからO型の大雑把な態度が真理の探求には役立つと思います。このあたりは流派によって諸説あって、聖典はきちんと理解しないといけないと言う流派もありますのでそのような教えに従っているのであればそれは個人の勝手ですから好きにすればいいのですが、私からしてみたらそれすらも外のものでありますので大雑把な態度で良いと考えています。<br /> <br /> あくまでも答えは自分の中にあって、外にあるものはその次であり、聖典の場合は「確かめ」のために使えますけど、聖典であろうと外のものであると思うわけです。<br /> <br /> 聖典の内容を自分の内に見出そうとする、と言うのはありです。それは最初のきっかけは外であろうとも答えは自らの内にあると言うことですから、そう言うのもありだと思います。そのために聖典を書き写したりして内容を自分の中に染み込ませるのも良いと思います。流派によっては書く瞑想だとか言ったりもしますし、経典を書写したりするのもこの範疇に入ると思います。その場合にしても、答えは自分の中にあるわけで、外にある経典はそのきっかけに過ぎないわけですね。<br /> <br /> であれば、聖典は大切なものでありますけどそれでも外のものですから、外のものであればわからないものはわからないという大らかな態度で経典には接するべきだと個人的には思っていて、理屈で理解したものは外の理解でしかなくて、自分で体験するまではそれはまだ外の知識でしかないわけですよね。<br /> <br /> 自分の中の感覚を大切にして、外のものである経典に対しては「そうかもしれない」という大らかな態度でいるのが良いと思うわけです。<br /> <br /> 経典はいろいろなことが書いてありますし、「体験」は人によって違いますから、部分的には参考にできても全部の体験が自分に起きるわけではありません。真理のお話なんてそんなものです。しかしながら大きな流れとしては大体は一致しているわけで、聖典に書かれてあることの全てが自分に同じように起きることはなく、だいたいの流れは一致しているだけですので、あくまでも自分の中の感覚を大切にして、外のものである聖典はあくまでも参考程度にしかならないわけですよね。<br /> <br /> 聖典を大切にすることはそれはもちろんで、聖典を蔑ろにするわけではありませんけど、あくまでも自分の中に答えがあるのですから自分の中が第一であって、外のものである聖典は確かめのための道具にしか過ぎないわけです。<br /> <br /> 聖典だけでなくグルの言葉も同様で、外の言葉であればそれほど気にする必要はなく、自分の中に答えを求める中での導きとしてのグルや聖典が存在するわけです。<br /> <br /> Wed, 11 Nov 2020 00:00:00 +0900 答えは全て自分の中にある https://w-jp.net/2020/2133/ <br /> ニューエイジ時代にスピリチュアルでよく言われたことですが、これは真実だと思います。<br /> <br /> ですから、理想を言うのであればそれを踏まえた上で多くの流派の良いとこ取りをするのが一番成長が早いと言えます。まず基本として答えは自分の中にあるのですから外にあるものは全て「確かめ」でしかなく、どんな流派のどんな高度な説明であっても基本は「外」の「ノイズ」に過ぎないと言えます。<br /> <br /> 真理を求めるのは完全なる自立した個人が行うべきであり、その完全なる個人が自らの中に答えを求めるのが理想であり、外にある聖典やグルなどはその自分が知り得たものを確かめるためのコンサルタントとして存在していると言えます。<br /> <br /> それを勘違いして、答えを外に求めてしまうと流派に拘ったり他の流派を批判したりしてしまいます。<br /> <br /> ヨーガや宗教の流派で「多くの流派をかじっても悟りには到達しない。1つの流派に従うべき」とか言われていますけど、「答えは全て自分の中にある」ということを踏まえたのならば本質は自分の中にあるのですから、何の流派をしていてどの流派でもあちこちかじっていたとしても大差ないと言えます。<br /> <br /> 人によって得手不得手があるように流派に向き不向きがありますから、自分にあった流派を探すのはいいと思いますが、理想をいうのならば、多くの流派をかじって良いところを組み合わせた方が成長が早いと思います。<br /> <br /> 実際は、ちょっと通っただけでは教えてはくれませんので、1つの流派に集中することになることが多いかとは思います。<br /> <br /> ですが、完全なる独立した個人が自らの中に答えを求める、というのが基本にあるべきなのです。<br /> <br /> 1つの流派に従うべきと言っているのは、目的地ではなく中継地であると心に留めるべきです。まだ自立していない子供に対して広い世界を見てこいと簡単に言う親がいないのと同様に、まだ本質を知らない子供に対しては1つの流派に従うべきと言うのは親心と言えるかもしれませんが、その流派は単なる経由地であり、やがて子供は大人になり羽ばたいてゆくものです。羽ばたいて行けるようにするのが流派の役割であると言えます。<br /> <br /> 時に人は「多くの流派を彷徨っても悟りには到達しない」と言います。それは答えを外に求めている人のお話で、自らの内にあると知っていて自らの中を探求しているのならば流派は大差ないわけです。<br /> <br /> 答えを外に求めている、あるいは、内に求めてはいるもものまだ見つかっていない人だけが流派にこだわり、流派の差を気にするわけです。<br /> <br /> 答えが自らの中に見つかったとしても、成長するにおいてそれを説明してくれる人が自分の属する流派にいないかもしれません。だとしたら、他の流派のグルを頼ることに何の躊躇があると言うのでしょうか。<br /> <br /> 他派の説明を聞いて、何やら前提条件が違ったとして混乱するかもしれません。その混乱に何の罪があると言うのでしょうか。<br /> <br /> 闇雲に1つの流派だけを信じていれば悟りに至ると思い描くことこそ混迷の原因であり、答えが自らの中にあるのだとすれば、その説明として外にあるものを何でも利用すると言うのが真理を探求する人の本来の姿なのではないでしょうか。<br /> <br /> 流派に属する人は、やもして多くの流派を勉強する人を「多くをかじっている」と言って批判します。<br /> <br /> 確かに、答えを外に求めている人が多くの流派を勉強していたらその批判は正しく、「1つの流派に集中すべき」と言えます。その意味においては批判は正しいと言えます。<br /> <br /> しかしながら、理想はと言うと答えは自らの中にあるのですから、自らの中を探求している完全なる独立した個人がたまたま1つの流派に属しているとして、その流派の中に自分の見つけた答えに対応するものが見つからないとすれば、他派を見たところで全く問題ないと言えます。<br /> <br /> 本意は「外を探してばかりいないで自分の中を探しましょう」と言うところに帰着するのであれば、1つの流派だろうが多くの流派だろうが理想的には大差ないと言えます。<br /> <br /> とは言いましても、属する先として1つはあった方が落ち着きますし実際的な活動もしやすいのも確かです。<br /> <br /> ですから、現実解としては1つの流派に一応は属しておいて、心の中では「私は完全なる独立した個人である」として、広く多くの流派に対してオープンでいることが大切であると言えます。<br /> <br /> Sun, 08 Nov 2020 00:00:00 +0900 天のコスミック・エネルギーで上半身が満たされた静寂の境地 https://w-jp.net/2020/2132/ <br /> 静寂の境地はまだ悟りではありませんがその重要な前兆の1つだと思います。<br /> <br /> 天のエネルギーが上半身、特に喉のヴィシュッダより上に満たされて、喉より上のタマスがヴィシュッダに吸い込まれて喉より上が清浄な状態になり、意識が静寂に満たされた状態になります。<br /> <br /> この時、下半身の状態は様々でまだタマスが残っているかもしれませんけど意識に大きな影響は与えず、意識は静寂の境地を保てています。<br /> <br /> この後のステップとしては下半身も天のコスミックエネルギーで満たしてゆくわけですが、そこまで行かないまでも意識の状態としては静寂になっております。<br /> <br /> 静寂の境地というとまるで涅槃か悟りかのように聞こえてしまうかもしれませんが、確かに悟りの性質の1つではあると思いますがそれだけでは悟りとは言えないように思います。<br /> <br /> このあたりは流派がいくつもあって、涅槃を悟りとしている流派もあると思いますし、静寂の境地が涅槃としている流派、あるいはもっと先の状態を涅槃としている流派がありますのでそれはその流派の言い方に従えばいいと思います。その流派の言い方をすれば涅槃が悟りとも言えるでしょう。しかし、私の感覚としてはこの静寂の境地としての涅槃はまだ悟りとは思えません。<br /> <br /> このあたりは、何を求めるかによってゴールが違うのでしょうね。<br /> <br /> 私は、自らのスピリットが宇宙意識と一体になって意識が時空を超え、過去も未来も一体のものであると感じられるようになった状態こそが悟りだと思っておりますので、意識が静寂の境地になって流派によってはそれを涅槃と読んだとしてもまだ悟りとは思わないのです。<br /> <br /> [2020/12/30 更新] 元々「涅槃」と書いていたところを「静寂の境地」に置き換え、文脈を見直しました。<br /> <br /> Sun, 08 Nov 2020 00:00:00 +0900 天のクンダリーニを体に満たす瞑想 https://w-jp.net/2020/2131/ <br /> 表現としては古来から色々と言われていますけど、以下は全て同じことであると解釈しました。<br /> <br /> ・白隠禅師の軟酥(なんそ)の法<br /> ・スピリチュアルの天のエネルギー。天のエネルギーを体に満たす。<br /> ・プレアデスのワークの第二ステップ、ハイアーセルフ・コスミック・クンダリーニを体に満たす。<br /> ・キリスト教のキリスト意識、あるいは天使として象徴されるエネルギーを感じること。<br /> ・クリヤ・ヨガの手法(特に第一段階)<br /> <br /> 軟酥の法は、頭の上に光の卵のようなものを想像してそこから光が水のように落ちてくるのでそれを身体中に巡らせてくすんだオーラを洗い流す方法で、白隠禅師は特にクンダリーニ症候群を治すためにこれを行なったとされます。<br /> <br /> 実質的に同じことが、各種の流派によって別々の言い方をされているのだと思います。<br /> <br /> 基本的には全ていわゆるクンダリーニが動き出してから行うもので、それ以前ではあまり効果がなくて単なる想像に過ぎないものになってしまのかなと思います。<br /> <br /> ■3つのクンダリーニ<br /> <br /> 世間ではクンダリーニは1つですけど、プレアデスのドルフィン・スター・テンプルと言う流派では3つのクンダリーニとして解釈されているようです。<br /> <br /> ・あなた自身のボディ・クンダリーニ(多くのスピリチュアルな道において一般的に教えられ実際に使われているクンダリーニ)<br /> ・ハイアーセルフ・コスミック・クンダリーニ<br /> ・アース・クンダリーニ<br /> 「プレアデス 神聖なる流れに還る(アモラ・クァン・イン著)」より<br /> <br /> 同書によれば、ハイアーセルフ・コスミック・クンダリーニはクラウンチャクラ(サハスララ・チャクラ)から取り込み、アース・クンダリーニは足あるいは会陰から吸い込むようです。まずコスミック・クンダリーニをいわゆるスシュムナを通してベースチャクラ(ムーラダーラチャクラ)である会陰にまで降ろし、それからアース・クンダリーニを活性化させるようです。<br /> <br /> 私の場合、特にこれだと意識していたわけではありませんが、最近の瞑想においては以下のようなステップが相当しているように思います。<br /> <br /> ・頭のタマスがヴィシュッダに吸い込まれていって意識がクリアになり静寂な意識に至る。これはコスミック・クンダリーニが天のサハスララチャクラから入ってきている段階に相当。<br /> ・クリアな意識がヴィシュッダより上に満たされる。これはコスミック・クンダリーニがヴィシュッダより上に満たされる段階に相当。<br /> ・最近は、そのクリアな意識が完全ではないもののお腹や腰および足の方にまで少しずつ行き届くようになってきています。これは、コスミック・クンダリーニが会陰にまで到達しつつあると解釈できます。<br /> <br /> アース・クンダリーニがどのようなものかはまだいまいちピンときませんが、これからの段階で何かがあるのかもしれません。今の段階では、ひとまずムーラダーラや手足の先にまで天のクリアな意識を行き渡らせて安定させることが重要なかなと思います。<br /> <br /> 私の場合はアース・クンダリーニを探そうとするとボディ・クンダリーニとアース・クンダリーニの区別がつかなくなってボディ・クンダリーニが活性化してしまって天のコスミック・クンダリーニが弱まってしまうので、おそらくはアース・クンダリーニの実体がまだ掴めていないのかなと思います。<br /> <br /> ■白隠禅師のクンダリーニ症候群<br /> 私の解釈では、ボディ・クンダリーニが活性化したもののまだハイアーセルフ・コスミック・クンダリーニが十分に動いていない状態のことをクンダリーニ症候群と呼ぶのかなと思います。確かにその状態では不安定な気が致します。であればそれは病気でもなんでもなく、成長の一過程に過ぎないのだと思いますが、適切なグルがいないとそれを解釈するのが難しく、周囲に誤解を与えてしまったりするのでしょう。<br /> <br /> クンダリーニの手法はグルがいる元で行うべきで、一人で行うべきではありません。<br /> <br /> 同書にあるコスミック・クンダリーニの手法も、少なくとも3ヶ月はスシュムナにクンダリーニを流してからでないと行なってはいけないと書かれてあります。このような手法は時間をかける必要があるのだと思います。<br /> <br /> 私の場合は人間のグルはいるようないないような、と言う感じでこんなところまで教えてはくれませんけど、守護霊の1人が元チベットの修行僧で今は天使と共に働いているマスターなのでこの辺りは適切に導いてくれます。<br /> <br /> Sat, 07 Nov 2020 00:00:00 +0900 天の光のエネルギーを喉を通ってお腹まで下ろす https://w-jp.net/2020/2130/ <br /> 天の光のエネルギーが不足している時にタマスな愚鈍な状態になります。瞑想をして天のエネルギーが充実すると頭のタマスが喉のヴィシュッダに吸い込まれて清浄な静寂の境地に達します。<br /> <br /> 感覚的には、胸のアナハタまで天の光のエネルギーが来ると清浄な静寂の境地になる気が致します。<br /> <br /> それで割と十分なのですが、最近は更にお腹や腰および足の方にまでなるべく天の光のエネルギーを届かせるように意識しています。<br /> <br /> 光のエネルギーが届くとその部分の緊張が抜けてゆき、リラックスできます。<br /> <br /> これは、白隠禅師の軟酥(なんそ)の法に似ているような気が致します。もしかしたら同じことなのかもしれませんね。今までも同じようなことができていた気がしておりましたが、今思えば、今まではかなり天のエネルギーが弱くて、最近の状態こそが本当の軟酥の法かなと言う気が致します。<br /> <br /> プレアデスのワークの本を見るとこれには3段階あって、最初は肉体のクンダリーニを上げる段階、次は天のエネルギーを下ろす段階、次は地のエネルギーを胸まで上げる段階とあります。この内容がしっくり来ます。詳しい内容は機会があればその時にでも。<br /> <br /> Fri, 06 Nov 2020 00:00:00 +0900 <link>https://w-jp.net/2020/2129/</link> <description><br /> </description> <pubDate>Fri, 06 Nov 2020 00:00:00 +0900</pubDate> </item> <item> <title/> <link>https://w-jp.net/2020/2128/</link> <description><br /> </description> <pubDate>Fri, 06 Nov 2020 00:00:00 +0900</pubDate> </item> <item> <title/> <link>https://w-jp.net/2020/2127/</link> <description><br /> </description> <pubDate>Fri, 06 Nov 2020 00:00:00 +0900</pubDate> </item> <item> <title>地球の守護天使はルシファー? https://w-jp.net/2020/2124/ <br /> 本当のことかどうかはわかりません。瞑想で見たお話です。<br /> <br /> ルシファーは誤解されていますが、その誤解故に時折ミカエルの名前を使って地上に関与しています。しかしミカエルの実態はルシファーです。<br /> <br /> 天使界に別のミカエルが存在しておりましたがそれは遠い宇宙の天使界の惑星でのお話で、ここは地球ですから今はどこぞ知れぬ感じで、ルシファーがその名前を借りた、ということのようです。<br /> <br /> 以前少しお話をした天使界の物語において、ミカエルと言っていたのは実はルシファーで、ルシファーと戦った相手の名前が実はミカエルで、その名前をルシファーが地球で活動するときに拝借している、ということが真相のようです。<br /> <br /> ルシファーというと悪の化身で悪魔になったように言われていますけど、天使界の物語でもお話ししたように、戦いが望まれずして起こってしまったが故に、相手を打ち負かすことをしたくなかったルシファーが剣を収めて一旦負けることにした、ということが真相のようです。その時の敵方の王様や天使たちも何人かは地球に今も関与しています。<br /> <br /> 遠い宇宙の惑星での出来事ですが、これらの騒動が起こった前後からルシファーは地球に興味を持っており、進化を見守っていたようです。<br /> <br /> 天使は時空を超えられますから、ルシファーは遥か以前、地球上で人間が進化し始める頃からずっと関与していて、最近も「大師」「グル」「ビジネスマン」「起業家」など多彩な化身(アバター)になって地球に関与しています。<br /> <br /> ですから、ルシファーだからと言って怖がる必要はなく、今までそのイメージ故にミカエルと名乗っていただけで、ミカエルの実態はルシファーなわけです。<br /> <br /> ごく最近も、20世期後半に太陽の大爆発で有害な物質が地球に降り注ぐことがあって、シリウス星系の方々が尽力してスタートレックの物語みたいに人知れず地球を守ってくれたことがありましたけど、シリウス星系の方々は奇跡的にうまくいったみたいに思ったみたいですけど実際はルシファーが時空を超えてうまくいくようにシリウス星系の方々のプロジェクトを陰ながら支援していた故に完璧なほどうまく行き、それ故に地球の生命は救われた、ということもあったようです。それは、わずか数秒かそれ以下の時間の間に有害な物質が地球に降り注いで一瞬で地球上の生命体のほとんど全てが全滅する事態だったようです。<br /> <br /> 地球に関与している宇宙人は多数いますけど、大天使ルシファーほど長期間にわたって陰ながら地球を支えてきた存在は他にないと言えます。時間と言っても天使は時空を超えられますから長期間にわたって地球を時空を超えて俯瞰できるということであり、地球の人類の感覚の時間とは異なりますが、地球の人類からしてみたら遥か以前、有史以前から現代、未来に至るまで見守ってくれている存在であると言えます。地球の人からしたら未来ですが、天使からしたら全て同じ時空に存在していますので、全てを包み込んで見守ってくれている存在、ということです。<br /> <br /> この地球の時空においては衛星軌道上にルシファーはいて、地球を見下ろしています。その周辺に支援の天使や地球で修行を積んだ魂たちがその活動をサポートしています。<br /> <br /> 時折、それに気がついた宇宙人が訪問してくることもありますし、全く気づいていない宇宙人もいます。<br /> <br /> ルシファーの活動は広範囲に及びますので、地球の人からしたら理解不能なこともあります。<br /> <br /> 地球の人が「救済」や「布教」と呼ぶ活動から、あるいは陰謀論によって語られるような秘密結社、政治、国王、君主、あるいは科学技術、芸術、音楽に至るまでかなりの分野にわたってミカエルの化身(アバター)は関与しています。<br /> <br /> ある意味、この地球はルシファーの手のひらで踊っている、とも言えなくもありません。<br /> <br /> しかしルシファーは地球の人々を奴隷にしようとは思っておらず、基本的な地球人の自由意志を尊重しております。<br /> <br /> これは宇宙の法則で、スタートレックによっても語られているように、これはSFではなく現実のお話ですが、惑星上の生命は自由意志が尊重されるという宇宙の基本ルールがあって、ルシファーであろうともそれに従っているということです。<br /> <br /> 基本的にはルシファーは衛星軌道上に浮かんでおり、それは天使ですから人の形をしておりますが宇宙服など不要で、普通に服を着た姿で存在しています。そこから指示を出して地球をより良き方向に導いているわけです。ただしそれはあくまでもルシファーの自由意志において判断していることです。地球の方向性はルシファーの意図を大いに汲んだものであると言えます。<br /> <br /> それに対して、地球生まれの魂たちがいて、時にそれらの意図に反抗したりして、時折、それは成功したりします。そこは無理やり押さえつけることはしないのが惑星上の生命の自由意志を尊重するということです。武力介入や強制的な介入はせずに自由意志を尊重するが故の緩やかな介入方法であるわけです。<br /> <br /> この世に陰謀と言えなくもないものは2つあって、1つは人による陰謀、もう1つは神による陰謀です。前者は浅はかで現生利益的なものですが、後者は大いなる意図を持ったものです。世の中に陰謀論とか言われていますけど、この2つがごっちゃになっているような気が致します。世間を騒がせている陰謀のうちいくつかは前者のタイプで、いくつかは後者のタイプです。<br /> <br /> 前者は好ましくはないとは思いますが惑星にいる生命の自由意志は尊重しなくてはなりません。一方、後者は基本的には長期的に好ましい方向に導くものです。ただし、後者であっても時に前者や大衆の意思に逆らっているように見えることもあります。これらは、実際にその意思決定に関わった意識体でないとその本来の意図は見通せないもので、世間を騒がせているような陰謀論の論説は混乱を来すことによる悪影響が多く、少なくともまずこの2つに分けないと意味がわからないものかなと思います。<br /> <br /> いきなり理解するのは難しいかもしれませんが、古来からミカエルとして知られてきた大天使の意図を汲み取ることから始めてもいいかもしれません。そしてその意図が理解できてきたら、実はそれはルシファーだった、と言われても納得できるのかもしれませんけど、おそらくは、いきなりルシファーが地球の守護神だと言われても困惑することの方が多いのではないでしょうか。<br /> <br /> とは言いましても、ここに書いたところで大して人は見ていないでしょうから、記録のために残しておきます。<br /> <br /> <br /> 追記 [2020/11/28]<br /> その後、スピリチュアルカウンセリングで裏を取ろうとしましたが、ここに書いてある内容とはちょっと違っていました。<br /> ですので、今後の検証が必要な事項になります。<br /> <br /> Tue, 03 Nov 2020 00:00:00 +0900 オーラの感覚を論理より重視する https://w-jp.net/2020/2104/ <br /> オーラの状態は一時的なもので絶対的なものではありませんけど、ある程度の判断材料になります。オーラと判断の関係は、私の中で時系列的に以下のように変化してきました。<br /> <br /> 1.オーラ絶対説。20年前のニューエイジ時代に、当時はオーラがその人のスピリチュアルな成長度合いを示す指標として絶対視されていたように思います。私も少なからず「そんなものかな」と思っておりました。<br /> 2.オーラ相対説。10年前から現在に至る。オーラは一時的な状態で絶対的な状態ではない。多少の判断基準にはなるがそれに左右されることはない。<br /> 3.オーラ瞬間説。(いまここ)<br /> <br /> オーラの状態を論理より重視するかどうかは時によって変わってきますけど、昔は周囲も自分もオーラの状態で人を判断したりされたり、と言った風潮だったように思います。<br /> <br /> 今もその風潮はある程度は続いているように思いますが、それに加えて、オーラの状態とは一時的なもので、ゴールドや青や緑の波動(オーラ)を持つ人であっても一時的に赤いオーラを持つことはある、と理解されています。<br /> <br /> ニューエイジ時代はオーラが絶対視されていてオーラが美しくなければスピリチュアリストにあらず、という風潮だったように思います。一方で、今は多彩なオーラが存在することが理解されています。<br /> <br /> 20年前は、他人と自分を比べて優越感を感じたりマウンティングするための道具としてオーラのカラーが利用されていたような風潮があるようにずっと感じておりました。であればそれはレベルが低いお話で、であれば、その次の段階であるオーラ相対説が広まってきたのは良い風潮であるように思います。<br /> <br /> それら2つの面はどちらもある程度は真実で、そのような面もあるかと思います。<br /> <br /> 波動の高い人は平均すればそれなりに高いオーラを保っていますし、逆もまたしかりです。そのような高い波動を持っている人でも一時的に真っ赤のドス黒いオーラを持つこともあります。そんなものです。一時的に黒いオーラを持ってもその人の本質は清浄ですのでオーラを浄化することは時間をかければ可能です。<br /> <br /> 最近の理解では、それに加えて、オーラはその「瞬間」が重要だと思うようになりました。<br /> <br /> 人のオーラは時によって変化します。瞬間・瞬間、その人のオーラは変化します。言葉の理屈で相手を説得させようとしても、オーラは正直です。言葉を発したときのオーラが言葉と一致していなければそれは何か嘘をついているか何かを隠しているわけです。<br /> <br /> ・・・こう書くと、まあ、ごく当たり前のことを言っていると思われるかもしれません。嘘は見抜ける人には簡単に見抜けますし、騙される人は何度も何度も騙され続けます。嘘を見抜く人は論理で見抜く人もいますけど、もっと簡単なのは、相手のオーラの変化を見ることです。見る、と言っていますけど視覚で見るわけではなくてオーラの変化を感じる、ということです。見る、と言っているのは歴史的にそう言っている人が多いのでスピリチュアルな文化によるものです。スピリチュアルでオーラを見る、という時は「感じる」と置き換えると言葉的には正しいです。<br /> <br /> 論理とオーラが相対した時、どちらが正しいのかと言えばオーラが正しいです。相手の論理を頭で考えても論理は大抵は間違っています。<br /> <br /> これは、実際、いろいろなところでずっと昔からいろいろな人が言っていることです。この単純な事実が何度も何度も多くの人が言っているということは、これが正しいことを示しています。<br /> <br /> しかし、頭は論理で抵抗します。「いや、これが正しいはずだ」と、論理は抵抗します。相手の理屈に加えて自分の頭が論理で抵抗してそれが正しいと思ってしまえば一旦はそれを受け入れてしまい、変な判断をしてしまうことになります。そして後で、「ああ、やっぱり直感が正しかったのだ」と後悔するわけです。<br /> <br /> 瞑想を続けてゆくと、このような論理と「感覚」の分離ができてきます。どの感覚がオーラのもので、どこからが論理によるものなのか明確に判断できるようになってきます。それは程度問題ではありますが、上記のようなことが、事が起こってしまった後ではなく、判断する前に自分の奥深いところで相手のオーラを感じて相手の言っていることがわかり、それと同時に、自分の頭で論理的に判断してその内容を理解することができるのです。<br /> <br /> 瞑想をしていない人の場合は往々にして、これらがごっちゃになっています。感覚で判断したものと論理的に判断したものが判別つかなかったり、あるいは、感覚だけで生きていたり、論理だけで生きていたりします。実際は、どちらも有益なものです。直感がオーラを感じてまず大体は正しいことがわかり、細かなところは論理を使って詰めてゆけば良いわけです。使い分けが必要ということですね。<br /> <br /> 直感は細かなことはわからないことが多いですから、直感は相手のオーラを感じて方向性を確かめることに使って、論理は細かいところを詰めるわけです。それらは本来、協調して動くもので対立するものではないのですが、瞑想をしていないとこれらが対立するものになってしまいます。<br /> <br /> 現代の人は往々にして論理が優勢ですから、むしろ、オーラの感覚こそ重視すべきだと私なんかは思いますけどね。特に誰かと話をするときはオーラの感覚でその正しさがある程度は判別できると思います。それに頼りすぎてしまうと間違ってしまうこともあります。というのは、相手が勘違いをしていて勘違いしたままの条件においては正しいということもあるからです。しかしながら、論理で「確かめ」をする限りにおいてはオーラの感覚をまず優先して判断して良いと思うわけです。<br /> <br /> Sun, 04 Oct 2020 00:00:00 +0900 プラティヤハーラのレベルではサマーディをただの集中だと誤解する https://w-jp.net/2020/2086/ <br /> 細かいお話です。<br /> <br /> まず、プラティヤハーラは観察と言えなくもありませんので、プラティヤハーラが観察瞑想だとすればその他の瞑想を集中瞑想だと勘違いしてしまっても不思議はありません。<br /> <br /> ヴィパッサナー瞑想とは観察瞑想のことですが、流派の瞑想の名前にもなっています。ですから、手法としてのヴィパッサナー瞑想と、サマーディにおけるヴィパッサナー状態(観察状態)と、とても紛らわしいのです。<br /> <br /> そして、プラティヤハーラの段階にいますとその次の段階のことが分かりませんから、時々、集中瞑想を否定する人、あるいは流派がいたりするわけです。<br /> <br /> その集中瞑想は、ヨーガスートラ的なダーラナ(集中)の段階のことを意味したり、あるいは、人によってはサマーディも集中瞑想だとみなしている人がいらっしゃいます。<br /> <br /> これは、サマーディという言葉の定義が流派によって異なるために生じている誤解です。<br /> <br /> いくつかの要素が絡み合っているわけです。<br /> <br /> ・プラティヤハーラは観察とも表現できる。(ヨーガスートラ的には感覚から離れること。制感。)<br /> ・ヴィパッサナーとは流派の名前あるいはサマーディの状態を意味する。<br /> ・ヴィパッサナーの流派によっては集中瞑想(サマタ瞑想)を否定する。<br /> ・集中瞑想(サマタ瞑想)というとヨーガスートラ的なダーラナ(集中)のみならず一部の流派ではサマーディも含まれる。<br /> <br /> 実際のところ多くの団体はプラティヤハーラとは言っていませんので、以下は私の主観による判断になりますが、私の理解を記してみます。<br /> <br /> プラティヤハーラを「観察」と位置付けているのは以下と思われます。<br /> ・大衆向け瞑想のマインドフルネス式<br /> ・ゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想<br /> ・その他各種のヴィパッサナー瞑想の流派、テーラワーダ式とかミャンマー式<br /> これはおそらくヴィパッサナー系では統一されている認識のような気が致します。<br /> ヨーガ系では「観察」とは言わずにプラティヤハーラという言葉そのままな気が致します。<br /> <br /> ヴィパッサナーという言葉の意味は以下の対応のような気が致します。<br /> ・マインドフルネス式 → プラティヤハーラ相当の「観察」という意味。<br /> ・ゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想 → 説明ではヴィパッサナーとはブッダの観察瞑想、実際やっている手法のヴィパッサナーはプラティヤハーラ相当の五感・雑念から逃れるための努力。<br /> ・テーラワーダ式 → おそらく、全てを分かった上でプラティヤハーラ相当を「観察」と言っている。<br /> ・ミャンマー式 → こちらも、おそらく全てを分かった上でプラティヤハーラ相当の「観察」から始めている。<br /> <br /> 集中瞑想(サマタ瞑想)を否定するかどうか?<br /> ・マインドフルネス式 → 否定しない<br /> ・ゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想 → 否定する(ヒステリーに集中瞑想を嫌う)<br /> ・テーラワーダ式 → 否定しない<br /> ・ミャンマー式 → 否定しない<br /> (捕捉:インドのヴェーダンタ系 → 否定する。これは意外でしたが、ヴェーダンタ系は知識(ニャーナ)によってモクシャ(自由、輪廻からの解放)を目指すのでやり方が違うようです。)<br /> <br /> 集中瞑想(サマタ瞑想)が意味するところ<br /> ・マインドフルネス式 → 単に「集中」というのみ<br /> ・ゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想 → ヴィパッサナー瞑想(観察瞑想)のための準備としてアーナパーナ瞑想(集中瞑想)という位置付けだが、実際にはそれはプラティヤハーラをするための準備になっている。集中瞑想(サマタ瞑想)が準備としておきながら、ひたすらに集中瞑想(サマタ瞑想)を否定するネガティブな見識になっている。これはプラティヤハーラのレベルの特徴。<br /> ・テーラワーダ式 → 前提条件としての集中力<br /> ・ミャンマー式 → 前提条件としての集中力<br /> <br /> これらの流派の中で、いくつかの特徴が見て取れます。<br /> <br /> ■集中瞑想を否定する流派、あるいは人々<br /> ・ゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想<br /> ・顕教の流派にいる一部の宗教家<br /> ・プラティヤハーラ相当に到達した結果、自分がサマーディの悟りを得たと勘違いしている人。<br /> (補足:インドのヴェーダンタ派もそうだが毛色が異なる)<br /> <br /> ■サマーディを単なる集中瞑想だと誤解している流派、あるいは人々<br /> ・ゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想<br /> ・プラティヤハーラ相当に到達した結果、自分がサマーディの悟りを得たと勘違いしている人。<br /> (補足:インドのヴェーダンタ派は誤解というよりはやり方がそもそも異なり、サマーディという言葉の意味そのものは集中である、と主張する)<br /> <br /> まず、流派として誤解している人がいるわけです。それに加えて、教えは正しくても、自分が悟ったかのように勘違いしている人がいるわけです。そのどちらも、似たような傾向があるような気が致します。<br /> <br /> プラティヤハーラ相当ですと見識に勘違いがありますのでマウンティングをしたり、比べたり、自己主張をします。<br /> <br /> その勘違いの一つとして、この、集中瞑想に対する誤解があるわけです。<br /> <br /> Thu, 17 Sep 2020 00:00:00 +0900 体の感覚の観察はサマタ瞑想でもありヴィパッサナー瞑想でもある https://w-jp.net/2020/2085/ <br /> ヴィパッサナー瞑想のやり方の説明で「皮膚の観察を観察しましょう」とか「歩くときの感覚を観察して気付くようにしましょう」というのがありますけど、これには2つの意味があります。<br /> <br /> A. 努力して皮膚や歩くときの感覚を観察しましょう。(時にはそれを言葉にしてラベリングしましょう)<br /> B. 努力せずに皮膚や内的感覚を観察しましょう。<br /> <br /> これは往々にして同じ文節で、一つのヴィパッサナー瞑想というやり方の説明でさらっと並列に並べられることが多いような気が致しますが、実際、別々のお話です。<br /> <br /> A. 努力して意思を駆使して体の観察をするのであればそれはサマタ瞑想(集中瞑想)です。<br /> B. 努力せずに意思が自動的に働いて体の観察をする状態であればそれはヴィパッサナー瞑想(観察瞑想)。<br /> <br /> ですから、体の観察をしています、とか、ヴィパッサナー瞑想(観察瞑想)をしています、とか言った時に、どちらをしているかで状態が全く異なるわけです。<br /> <br /> これは、それぞれ以下の段階に相当します。<br /> <br /> 5.プラティヤハーラ(制感) → Aの段階<br /> 6.ダーラナ(集中)<br /> 7.ディアーナ(瞑想) <br /> 8.サマーディ(三昧)→ Bの段階<br /> <br /> ですから、相当に違う状態であるのですが、何故か、ヴィパッサナーの流派によってはこの説明がごっちゃになっていることがあるような気が致します。<br /> <br /> どちらも言葉で言い表しますと「観察」と言えなくもありませんから、6以降の境地を知らない人は5のプラティヤハーラの境地を悟りのように勘違いしてしまうこともあり得るわけです。これは比喩で言っているわけではなくてそれっぽい人がぼちぼち散見されますのでこう言っているわけですが、そのように勘違いをしている人の特徴として「集中を否定する」ということが挙げられます。ですから、必ずとは言えないのですが簡単な見分け方は「集中瞑想を否定する人はプラティヤハーラの段階にいる」と思うとそんなに間違いではないと思います。<br /> <br /> どちらも表現としては似ていて、だからこそ言葉だけで勉強してしまうと混同しがちなのですよね。<br /> <br /> こういう時に適切なグルが近くにいればすぐに見抜いて指摘してもらえることを期待したいですけど、最近はグルっぽい人がいたとしてもよく分かっていなかったりしますし。グル次第ではありますけどきちんとしたグルがいれば修正が効くものとは思います。<br /> <br /> プラティヤハーラのレベルは悟りと混同しがちな落とし穴ですので、そこにハマってしまっている方も多いですよね。<br /> <br /> ですけど、とりあえず今世を幸せに暮らす分にはプラティヤハーラでもそこそこ楽しく幸せに暮らすことができますので、わざわざその勘違いを指摘する必要もないかな、という気も致しますよね。この世にはプラティヤハーラにすら達していない世俗の人間が大勢いますから、そのような人たちと比べると十分に進歩していますので、自称悟りに達したとは言っても物足りなくはあるのですが、ある程度は幸せでしょうし、自分がそういうのでしたら好きにすればいいと思います。<br /> <br /> プラティヤハーラのレベルですと、宗教をどちらかというと唯物論で捉えがちな気も致しますね。よく分かっていない世俗の僧侶が道徳を持って語る時はこのレベルですし、瞑想の流派によってはマインドフルネスですとかゴエンカ式はこのレベルです。<br /> <br /> 一方で、サマーディのレベルになると割と霊的な世界に入ってきて、先祖霊や守護霊、ハイヤーセルフ、過去生、未来生、遠隔視などのお話が入ってきます。割と今ではスピリチュアルな分野のように思われていますけど、ヨーガでも仏教でも、ある程度のレベルに達すればこのようなお話は普通に入ってきます。<br /> <br /> この種のお話になると唯物論の人は入ってこられないですよね。プラティヤハーラのレベルで自分が悟っていると思っている人たちは往々にして霊や高次元のお話を拒否したり否定したりばかにしたりしますから、そのような言動があればその人がプラティヤハーラのレベルで唯物論のレベルなのかそれとも高次元のことがわかる人なのかよく分かるわけです。<br /> <br /> 仏教ですと何か見えたりすると魔境とか言って否定したりするみたいですけど、別に、大したお話でもないと思いますけどね。魔境とか言っているのは、教義の根本のレベルがプラティヤハーラで留まっているからこそその上の階層を理解できないでいるような気も致します。実際のところ魔境でもなんでもなくて、それがこの世界の姿なのですから、もう、仕方がないですよね。魑魅魍魎に気付かずに魑魅魍魎の中で暮らすよりも魑魅魍魎に気付いて少しづつでも対処してゆく方が遥かに健全だと思いますけどね。魑魅魍魎にやられてしまうのはエネルギーが低いからであって、クンダリーニを活性化してエネルギーを上げないといけませんしね。<br /> <br /> まあ、そんな感じで、プラティヤハーラのレベルですと色々と勘違いをしていて、サマーディのレベルを思い違いしていたりすることもあるのかなと思います。<br /> <br /> Thu, 17 Sep 2020 00:00:00 +0900 プラティヤハーラの段階にある数々の落とし穴 https://w-jp.net/2020/2081/ <br /> ■集中瞑想を否定する人はプラティヤハーラの段階にいる<br /> <br /> 瞑想初心者でプラティヤハーラをしている段階ですと集中と観察が相反するものとして作用し、集中をすると観察が妨げられる作用が起こります。一方、ディヤーナ以降に進みますと集中しても観察が妨げられにくくなります。<br /> <br /> 5.プラティヤハーラ(制感) 集中すると観察が妨げられる。<br /> 6.ダーラナ(集中)<br /> 7.ディアーナ(瞑想) 集中と観察が共存し始める。<br /> 8.サマーディ(三昧)<br /> <br /> プラティヤハーラは感覚から離れて雑念のしがらみから(少しだけ)解放されることですが、それを「観察」と表現している流派もあります。<br /> <br /> 初心者の場合はプラティヤハーラをまずは目指しますが、その段階ですと、集中すると観察が妨げられる感覚になります。<br /> <br /> これは、プラティヤハーラがまだできていない段階ですと意思が自我と深く結びついており、集中しようとすると自我が強くなってしまうからです。<br /> <br /> 一方、ディアーナ以降になりますと自我の抑制が効いておりますので集中というものが自我の抑制として作用し、自我が安定し、瞑想が深まるわけです。かと言って観察が弱まるわけではなく、ディヤーナからサマーディに移行する頃には次第に五感を超えた意識が生まれてきて、その新たなる感覚が「観察」を司るようになります。ですからプラティヤハーラもサマーディも両方とも「観察」と表現できますけど、それはかなり違う状態なわけですね。<br /> <br /> 5.プラティヤハーラ(制感) 集中すると観察が妨げられる。観察瞑想。集中をある程度否定する観察瞑想。<br /> 6.ダーラナ(集中)集中瞑想。<br /> 7.ディアーナ(瞑想) 集中と観察が共存し始める。<br /> 8.サマーディ(三昧)観察瞑想。自我は集中によって安定。五感を超えた観察。集中によって五感を超えた観察が妨げられない。<br /> <br /> この、プラティヤハーラとサマーディの状態はかなり違うものであるのに、言葉の説明としては部分的に似通っています。それ故に、各種の誤解が生じているような気が致します。<br /> <br /> 見たところ、特に瞑想初心者、スピリチュアル初心者はプラティヤハーラを達成することが悟りのように思ってしまう方がぼちぼちいらっしゃるようです。その場合、「集中」を否定して「観察」することが重要だと言われるわけですが、その説明を聞いてみるとサマーディっぽいことを言ってたりもするのですけど何か説明が食い違っており、どうやら段階としてはプラティヤハーラにいるのだとわかったりするのです。<br /> <br /> おそらくは・・・、プラティヤハーラのところでプラトーが存在して、人によって何世代も転生をして、人によっては10回、20回と転生をして、それでもプラティヤハーラから上にはいけない・・・。そんなものなのではないかなと思います。<br /> <br /> ですから、プラティヤハーラをして悟りだと称している人のことを責めることはできないと思います。<br /> <br /> この視点を持って世の中の宗教を見てみれば、特に世俗宗教と化して世襲が継いでいるような流派が庶民に寄り添うと称してプラティヤハーラが悟りだと教えを説いているような気が致します。世間的にはそれは顕教として分類されるのだとは思いますが、宗教を見る上でプラティヤハーラをしているのかそれ以上をしているのか見極めるのは重要であるように思います。<br /> <br /> プラティヤハーラは世俗の権益と迎合しやすく、権力が人々を操りやすくするために利用してきたと言う歴史もあると思いますし、それ以上の真理を知ってしまうと自由になってしまうからあえて教えてこなかったと言う腹黒い事情もあるかと思います。顕教にいる人は権力的なものと結びつきやすいのだと思います。<br /> <br /> プラティヤハーラの顕教のわかりやすい教えが真理で悟りだと思ってしまった人々は本質が分からなくなり、よくある宗教のように「○○さえすれば救われる」「○○をしていれば良い」などと道徳を解くようになるわけです。<br /> <br /> それ故にプラティヤハーラは悟りと混同されることがあり、最近の宗教者は世襲制が多くて真理がわからなくなっていますから、尚更、世間が一応は納得してもらえるような道徳的なところにしがみつくわけですが、宗教者としてはそれでは全く不十分であるわけですよね。<br /> <br /> 宗教者でなくともテクニックとして瞑想だけをしている人も同様で、求めるところが世俗の利益や単なるリラックスであれば求めるところはプラティヤハーラ、あるいはダーラナのゾーンで歓喜に至るところがゴールになるかと思います。<br /> <br /> 本人が何を求めるのも自由で、それは好きにすればいいとは思いますけど、プラティヤハーラを悟りのように扱うのはやめていただきたいところですね。それは悟りを貶める行為です。観察瞑想と名乗るのは自由ですけどプラティヤハーラのことを観察瞑想と言うのであればその自覚くらいはしていただきたいのです。そうでなければ、説明であれやこれや悟りのことを言っていて、でも、実はそれはプラティヤハーラでした、みたいな喜劇が生まれてしまいますからね。<br /> <br /> その喜劇を見分ける方法として簡単なのがおそらく「集中を否定して観察瞑想を主張している人は(例え悟りのことを言っていたとしても)プラティヤハーラのことを言っている」と言う判断基準かなと思います。<br /> <br /> これは顕教だけでなく密教のように見える流派であってもそうであることがあるように思えます。最近はそこまで真理が忘れ去られてしまっているのでしょうか。あるいは全て分かった上で隠しているだけと言う場合もあるように思いますが。さて、どうでしょうか。<br /> <br /> ■プラティヤハーラを超えられない流派は他派を拒否する<br /> <br /> プラティヤハーラは世俗利益と結びつきやすく、又、流派としても自分たちの教えの中に閉じこもりがちです。<br /> <br /> これは悪いと言っているのではなく、その段階においては必要なことなのだと思います。そのくらいの段階ですと他者のことはよくわからず、分かっていると思っていても誤解が多いのかなと思います。<br /> <br /> 色々な理由があるとは思いますけど、プラティヤハーラを悟りだと勘違いしている流派はダーラナ以降を否定しがちだと思います。<br /> <br /> プラティヤハーラはいわば「観察」ですから、「集中」を否定するわけです。<br /> <br /> そのパターンに落ち込んでいる流派もぼちぼちいらっしゃるように思われます。例えばゴエンカ式はその典型のように思います。あるいは、伝統的な仏教の流派でそこまで否定的ではないにせよそれっぽいところを見たことがあります。仏教は幅広く、カトリックっぽい仏教から禅のような仏教まで様々ですので一概には言えないのですが、いわゆる大衆向け仏教はその傾向が強いようにも思います。<br /> <br /> 一方で、世俗的権威と結びついたり、あるいは、結びついてはいなくても変な思い込みに支配されてしまった流派でプラティヤハーラを悟りのようにみなしている場合は他派を拒否する傾向が強いように思われます。<br /> <br /> 家系だとか一族だとか、そのようなところで宗教が代々受け継がれている場合も実力主義ではなく世襲になってしまってプラティヤハーラを超えられず、自尊心ばかりが肥大化してしまっている方がぼちぼち散見されるような気も致します。<br /> <br /> ある程度歴史のある一族に生まれたからと言って前世もその一族だったとは限らないですし、私が見たところ、単に修行のために一族に生まれただけなのに勘違いして自分がその流派を背負っているかのように思い込む方もいらっしゃるようですしね。自分自身のことがわかっていないとこのように他の流派を否定してしまうのですね。<br /> <br /> スピリチュアルについては多様で、昔と今とで気質が変わってきていますね。<br /> <br /> 昔はプラティヤハーラ以外は否定するようなマウンティングが多かったですし、スピリチュアルな人同士が仲が悪かったように思いますが、最近スピリチュアルやっている人は仲がいいような気が致しますね。昔はね、プラティヤハーラしかやっていないで悟りのように思っている人に指摘したら「もっとおおらかにしないと」とか「今は教師のいらない時代だから(だからあなたはその程度なのよ)」とか言われて拒否されるどころか逆にマウンティングされたりするスピリチュアルが多かったですが、最近はあまり聞きませんね。昔はスピリチュアルな領域に世俗の宗教のはぐれ組が入ってきて権威付けをしていたと言う面もあったように思います。<br /> <br /> 昔も今もスピリチュアルの多くはプラティヤハーラだと思いますが、最近は整理されているのと、スピリチュアルの領域に本質を知った人が続々と参入してきているのが大きい気が致しますね。その一角には宇宙由来の魂も大勢いらっしゃるように思います。そのような宇宙的な背景もあるのか最近のスピリチュアルは割と仲がいい気が致しますね。新しく入ってきたスピリチュアルな人が、昔からいた権威と結びついている面倒なスピリチュアルを駆逐した感があります。まだあるにはあると思いますけど目にすることは少なくなったように思います。<br /> <br /> そう言うわけで、私はスピリチュアルの方面に可能性を感じるのでこれらの記事もスピリチュアルとして位置付けているわけです。本質はどれも変わらず一緒だとは思いますけどね。<br /> <br /> ■プラティヤハーラのレベルでは相手を自分の流派に変えさせようとする意思が働く<br /> <br /> これは自分の流派が一番だと思っている裏返しですけど、理屈としては全ての宗教や流派の根元は同一なので尊重すべきだと頭では理解できたとしても、プラティヤハーラのレベルではその意味をきちんとは理解できませんので、何某かの「わかっていない」行動が出てきます。これもその1つです。<br /> <br /> サマーディのレベルに達したことで全ての宗教や流派の根元は同一だと理解することと、プラティヤハーラのレベルにいて頭でだけそのことを理解することでは納得度と態度・行動が異なってくるのも当然だと思います。<br /> <br /> プラティヤハーラのレベルですと、例えば「全ての宗教や流派の根元は同一だから、みんな私の流派に属するべき」と考えてしまうわけです。一方、サマーディのレベルに達すると宗派や流派なんてどうでも良いことがわかりますから相手の宗教を尊重しますし、他の宗教の良いところは取り入れたりもします。<br /> <br /> 教義に凝り固まっている「信じなくてはならない」宗教はプラティヤハーラのレベルなのですよね。そして、自分たちだけが最高の真理を知っていると思っているのもプラティヤハーラのレベルの特徴です。<br /> <br /> おそらくは誰しもが通る道ですので別に悪いこととは言いませんけど、あらかじめそう言うものだと思っておいても損はないと思います。<br /> <br /> あるいは、知ったところで更なるマウンティングに使われるだけかもしれませんので、何も言わないのが本当はいいのかもしれませんけどね。何を伝えてもうまく自分の利益に誘導してしまう人がいるので、このようなお話をしたとして、相手に対してマウンティングするためにオウム返しをするのだとしたら本末転倒なわけです。まあ、マウンティングに使うとしたらその程度のレベルなわけですけどね。<br /> <br /> 何を言ったところで本質がわかっている人はわかっているし、何も言わずにマウンティングされまくっていて下に見られていても実際は本質がわかっている場合もあります。本質がわかっている人はマウンティングなんてどうでもよくて、ただ単に、めんどくさくて付き合う必要もないと思うくらいのことです。<br /> <br /> そのように、プラティヤハーラのレベル同士ではマウンティングが始まり、お互いの流派の良いところを認める代わりに自らの流派が優っていることを証明しようとします。そうしてまた分裂が始まるわけですよね。<br /> <br /> どんなに努力してもプラティヤハーラのレベルではお互いを理解することはなく、次なる段階に進まないと本質の理解はないわけですね。<br /> <br /> このようなプラティヤハーラのレベルにおいて、例えば「家系」だとか「宗教の本家の一族」だとか言う特権意識が生まれ、自分たちの流派は正しくて絶対だと言う認識が代々生まれ続けるわけですね。<br /> <br /> 由緒正しき仏教の本家の家系の物語について最近認識が変わったのですが、もともとこれは「ずる賢い男が由緒正しき家系に入り込んで食い物にする物語」かと思っておりました。しかしながら、今思うに、由緒正しき本家の家系においても、プラティヤハーラを超えられずに世俗的な権益を求める人たちの良い道具になってしまっていてサマーディに達することができないと言う先祖代々の悩みがあるようなのです。であれば、このようなプラティヤハーラを超えられずに他の流派と不和を起こしてしまうのは必ずしも意図しているわけではなく、超えられないからこそ不和を起こしてしまうと言う先祖代々のカルマを背負っているとも言えるわけです。<br /> <br /> 余談になりますが、どうやら、この物語に出てくる、どこぞの馬の骨とも知れない欲望だらけの男を何故本家の家系に受け入れて家族にしたかと言うと、この母親である「お節介おばさん」が次のように考えたようなのです。「この欲望だらけの男は、我が家系を食い物にしようとしている。よくいるような、修行だけしに来て看板だけもらってあこぎな商売をする人か、あるいは、権力者が宗教を利用するかのような、そのような下世話な意図を持っているのが見え見えだ。普通なら追い返すところだ・・・。しかし、この者は魂としても若く、未熟で、まだ矯正できそうであることと、先祖代々のカルマを解消するためにはこのような欲望だらけの男を身近において理解し、それを矯正するという経験を積むのが我が一族のためなる」と判断したようなのです。由緒正しき仏教の本家のカルマというものがあるのですね。そのために自分たちの家庭に欲望まみれの人を入れて学ぶというのは、どこか私の今生のやり方に似ていて共感を覚えます。なんで由緒正しき仏教の本家にあんな欲望まみれで、しかし表面はよくて、しかし時にヤクザのような人がいるのか不思議だったのですが、根がヤクザでこのような事情があって子供の頃から矯正されて躾けられてある程度の振る舞いをしているのだとしたら理解できます。そういう人もいるのですね。最初はいい人かと思いましたけど怖い人だとわかりましたのでもう関わり合いたくはないですけどね。<br /> <br /> そのように、表づらは良くてもプラティヤハーラでは相手を完全に受け入れることはなく、自分の方へと相手を迎合させようとします。<br /> <br /> まあ、私なんかは、その意図が分かったとしてもわからないふりして相手がどう動くのか、どのような表情をするのか観察するのが割と趣味みたいなもので相手のいいようにさせてみることが多いですけどね。私のことを単純なカモだと思っていてニヤニヤと笑いを堪えられなくなっている詐欺師の腹の中まで透けて見えていますけどとりあえず私は「そうですね。ああ、わかります」とか言ってとりあえず話を合わせているので、まあ、引き出せるだけ相手の情報を引き出してあげるのはこっちですけどね。<br /> <br /> まあ、プラティヤハーラな人は損得勘定で動きますので所詮そのレベルですよ。本気になって付き合う必要もないです。<br /> <br /> 相手の流派を受け入れるのも自分たちの流派に入れるための口実でしかないですし、あるいは、自分たちの流派が相手より優れていると相手に納得させてマウンティングを取るための単なる導入のアイスブレイクでしかないわけです。<br /> <br /> プラティヤハーラな人の認識は、そんなもんです。色々説明したとしても自分の流派のことを傷付けられたと感じて逆に怒り出すことも多いので、わざわざ説明なんてしません。好きにすればいいんです。まあ、話しかけられたら「○○は凄いよいですよね」とか適当なことを言ってあげると勝手に喜んでくれます。私なんかは全部の流派はそれぞれ優れていると思っていますのでその発言は嘘ではないですし、実際に凄いと感じることも多いです。私は社交辞令はあんまり言わないですからね。割と適当で、それは神様がぽんっと口に出させた発言ですけど、それで喜んでくれるならそれでいいですよ。そんな感じで、プラティヤハーラな人との会話はこのブログで書いているような込み入ったことではなくて、神様がポンと口に出させた簡単で良い言葉くらいで軽く流しています。プラティヤハーラは雑念から逃れる「観察」が目標になるレベルなので、あまり難しいことを言わずに、会話をするにしてもそのくらいで十分なのだと思います。<br /> <br /> そのように、プラティヤハーラのレベルですと争いが絶えず、心の安らぎに達しません。しかしながら、ひとまずの目的地としてはプラティヤハーラは必要であると思うわけです。<br /> <br /> ■プラティヤハーラのレベルでは相手をコントロールする意思が働く<br /> <br /> 顕教などの「わかりやすい教え」「道徳的な教え」を相手をコントロールするために使うのがプラティヤハーラのレベルです。<br /> 例えば、本質から目を逸らし、「わかりやすい教え」で煙に巻くために顕教の教えが使われたりします。<br /> <br /> あるいは、「わかりやすい教え」さえ理解していれば悟ることができるかのように説くのも、本質から遠ざけてコントロールしやすくするために使われるテクニックです。<br /> <br /> 「わかりやすい教え」は解釈が幅広いですのでマウンティングに利用しやすいです。<br /> <br /> 何か本質的なところに気付きそうになった時、「わかりやすい教え」で分かった気になります。しかしながら、それはあくまでも顕教の道徳的なお話であって、密教の本質ではないのですよね。密教の本質を求めている人がまずそんなにいないですけど、本質に目を向けさせる代わりに顕教の教えで終わりにしているところが罪作りなわけです。<br /> <br /> 悩みがあって宗教や真理を勉強している人に顕教のわかりやすい教えで満足しなさいと説くのは真実を隠しているということであり、かなり深い罪であると私なんかは思います。それは口調では優しいですし顔ではニコニコしていますが、その教えで悟ることはできず、ただ単に、それは相手をコントロールするための手段として用いられているだけのことです。<br /> <br /> ・・・これ、きっと実例がないと分からないと思いますので、そのうち何かあったら書きたいと思います。前にあった実話は、細かいところを忘れてしまいましたので。<br /> <br /> 言葉では色々と言っていても、本質を見ると、結局は顕教はプラティヤハーラを解いているのです。顕教の「わかりやすい教え」はプラティヤハーラであり、雑念からの離脱を解いており、雑念に惑わされないようにしましょう、穏やかに生きましょう、と解いています。もちろんそれ自体は入り口ですし良いことですが、プラティヤハーラができればそのまま悟りだと解いているところが罪作りなのです。そんなわけがありません。<br /> <br /> この種の勘違いは古典的な流派にもその毒を撒き散らしており、プラティヤハーラ相当しかしていないのに自分はそれなりの境地に達したと思っている方がぼちぼちいらっしゃるような気が致します。プラティヤハーラ相当ですと、グル等の監視がなければ自分一人では必ず他者と比べ始め、相手をコントロールしようとする意思が働き始めます。しかもそれが顕教の「わかりやすい教え」を手段として用いてコントロールを意図されると厄介です。慣れれば胡散臭い人はすぐに見分けることができますけどね。<br /> <br /> ただ、本人は良かれと思ってしている場合もありますので、指摘すると自分はそんなつもりではない、と言ったりします。そのように、プラティヤハーラで止まっている場合は自分が何をしているのかすらわかっていない場合もあります。行動としては現世利益をしていても言葉では真理を説く、と言うような分離状態であることに自分が気付けないのがプラティヤハーラのレベルです。ですから、プラティヤハーラのレベルの人が大勢いる団体は真理を説いていながら現世利益を求めたりするわけです。そのような団体では往々にして顕教の「わかりやすい教え」が自分の現世利益の行動を覆い隠して誤魔化すための道具(方便)として使われてしまうようなおかしなことにもなっていたりするわけです。<br /> <br /> Wed, 16 Sep 2020 00:00:00 +0900 霊視などの能力とエネルギー総量は別のお話 https://w-jp.net/2020/2073/ <br /> 霊視はサードアイ等の能力。<br /> エネルギー総量はクンダリーニの活性化などのお話。<br /> <br /> それぞれ別です。<br /> <br /> 能力は周囲の霊的なものを感じ取る力。<br /> エネルギーレベルはポジティブさに関連しています。<br /> <br /> この両者はバランスよく育てる必要があります。<br /> <br /> 理想を言うのであればエネルギー総量を上げるのが先、能力は後がいいと思います。<br /> <br /> 能力だけ上げてしまうと、能力が上がったことによって感じやすくなったことで周囲のポジティブおよびネガティブの両方に感応しやすくなってしまい、エネルギーが足りないとネガティブの方に引き寄せられてしまいます。<br /> <br /> パワーが上がればポジティブになって雑念が減ると言うのが基本です。<br /> <br /> 能力だけアップしてエネルギーが足りない場合は体調の不良に悩むことにもなります。<br /> <br /> 基本は自分で自分の能力を磨く、それは浄化ということですけど、浄化を進めることが1つ。<br /> それと、エネルギー的に自分の体を活性化してクンダリーニを動かすことが重要です。<br /> <br /> まあ、そうは言いましても人は色々で、このような地道な方法を選ばない人も多いのです。<br /> <br /> 例えば、自分のエネルギーを上げる代わりに妻などのパートナーあるいは会社の従業員からエネルギーを吸い取っている方も大勢いらっしゃいます。本人はそれと気付いていないことも多いですし、周囲から見るとポジティブに一見すると見えますけど、よく見れば本人のエネルギーが活性化していなくて他から奪っていたりするのがわかります。往々にしてそう言う人はうまく周囲からエネルギーを奪っていますので、あまり関わり合いにならないのが良いかと思います。<br /> <br /> 妻が年齢に対して衰弱しているのを見ると夫がよほどエネルギーを吸い取っているのだなあ、というのが一目瞭然なのですが、それは、妻を養う変わりにエネルギーをもらうという関係になっている場合もありまし、家庭のことには興味がなくて、ただ単にエネルギー的にそういう関係になっているという点が目につくだけのお話です。私なんかからすれば、よく妻が離れずついているなと思うわけですけど、その人の勝手ですから好きにすればいいと思います。<br /> <br /> 能力は自分が持つ必要がありますが、それすらも、他人から奪うことが一応はできます。古い神話を見ると「能力を奪う」お話がいくつも出てきていますけど、それは事実なわけです。とは言いましても最近の能力者は大したことないので能力を奪うとかそういうレベルではないですけど。<br /> <br /> 大抵の場合、能力があると言っても周囲の人の考えることがわかるだとか、オーラの感じがわかるとか、その程度であることがほとんどです。それは、本来は日本人であればほとんどの人に備わっていた能力で、特に特別でもなんでもない能力です。<br /> <br /> 今更、それをわざわざ修行とかして開発したとか言っている人がいますけど、日本人にしてみたら当たり前すぎて「あ、そのことをサードアイとか霊視とか言っているのですか? な〜んだ。拍子抜け・・・」っていうくらい平凡なことだと思います。<br /> <br /> まあ、そういう能力的なところと、エネルギー的なところですね。そのバランスが取れていないとネガティブに悩みます。<br /> <br /> それと、それなりに修行が進んだ後であれば、尊敬を集める、権力を握るなどの方法でエネルギーを集める方法があります。例えば戦国時代の天下人にでもなれば全国からの尊敬を集めたわけで、スピリチュアルなエネルギーも相当に集まるのです。<br /> <br /> 現代人の有名人も同様ですね。世界にあまり良い影響を与えないような存在であってもそれなりに有名になればエネルギーが集まって、その集まったエネルギーで更に活動することができてしまいます。ですから、有名でエネルギーに溢れているからと言って良い存在とは限らないわけですね。有名になりさえすればポジティブ・ネガティブの両方のエネルギーが集まりますから、それを扱うことができる器がなければ壊れてしまうわけです。ある程度の修行をしてクンダリーニが活性化し、自分のオーラがしっかりした状態でないと有名になるのは危険なようにも思います。<br /> <br /> 現代はスピリチュアルなことが軽視されすぎていますけどね。有名になっている人を見ると前世などでしっかり何某か修行してきた人も多いような気が致します。今生では割と普通の人生であったとしても、ある種の基礎ができているわけですね。そうでなければ若くして有名になるのはもちろん、歳を取ってからであっても何某かのスピリチュアルな基礎がなければ有名になった後すぐに倒れてしまうと思うわけです。<br /> <br /> Mon, 14 Sep 2020 00:00:00 +0900 <link>https://w-jp.net/2020/2070/</link> <description><br /> </description> <pubDate>Sun, 13 Sep 2020 00:00:00 +0900</pubDate> </item> <item> <title>霊界を超えた天使界のはたらき https://w-jp.net/2020/2069/ <br /> 昔、夢で見た天使界のお話を書いて、最後に、そのお姫様が私の守護霊だと言いました。<br /> <br /> そのお姫様はいわゆる天使界に相当する宇宙の彼方の惑星から地球に訪ねてきているわけですが、天使が存在している世界は、一般の人が死んでから行く霊界、あるいは幽界と言った方が適切かもしれない世界よりももっと高次元に存在します。<br /> <br /> 幽界あるいは霊界は思いがそのまま現実化する世界で、基本的には生前の姿の中で一番良いと本人が選んだ姿をしており、男性であれば健康的な青年の姿をしていることが多く、女性であれば一番綺麗な年代の姿をしていることがほとんどです。その世界では思いによって家や家具や地形なども好きにできます。体をぐにゃぐにゃ動かしたりすることなんて簡単です。あの世の世界は、いわば「思いこみ」によってできていると言えます。<br /> <br /> その一方で、天使界はそれよりもっと上の世界にいます。<br /> <br /> とは言いましても割と地続きみたいなもので、人の意識が高まればその世界も認識できるようになります。しかしながら、特に修行もしていない人ですと死後であってもその世界の存在に気づきません。死後に幽体となっても天使界の存在に気づかないのが普通です。生前であればもっと気付けないのは当然です。<br /> <br /> しかしながら、人間であっても天使界に辿り着くことは可能です。<br /> <br /> 例えば私の守護霊は2人いて1人は上に書いたお姫様ですが、もう1人はもともとチベットで修行した僧侶が天使界にまで登り詰めて大師に仕えて使役していて、そんな人が私のハイヤーセルフにお願いされたという事情があって今は私の守護霊をしてくれているわけですけど、そのようにもともと人間であっても天使界にまで上ることは可能なわけです。<br /> <br /> ですから、特に世界が分断されていると言うわけではなく、認識できる世界に違いがあると言うことです。<br /> <br /> 天使界も、正確に言いますと宇宙の彼方にある天使が元々住んでいた惑星こそ天使界と言った方が適切ではあるのですが、一般的には、この地球の存在している次元の領域で天使が活動している高次元の世界を天使界と言っていると思いますので、ここではそのような高次元の世界という意味で使っています。<br /> <br /> 天使たちのいる高次元では、いわゆる大天使が中心となり、その指示に従って天使あるいはこのような地球育ちで天使界に辿り着いた人たちが活動しています。時々、宇宙人も相談しに来ています。元々、天使たちは遠い惑星からやってきた宇宙人でありますし、割と宇宙人というのは普通の存在です。<br /> <br /> そのように高次元で天使あるいは天使と関わり合いのある存在たちが協力して地球を導いています。<br /> <br /> 特に、地上に派遣される人員の中でも重要な人物を「大師」と呼んだりします。秘密結社あるいはヒマラヤ大師などでかつては有名になりましたが、そのような姿だけでなくても現実の社会に普通に溶け込んでいたりします。それと明かす人もいれば明かさない人もいます。<br /> <br /> このような関係は昔からありましたし、今も存在します。そのように、天使界と人間界は密接に関与しているわけです。<br /> <br /> これは、以前書きましたように、大天使が「完了」と判断して新時代の地球の黄金時代が始まるのを見届けるまで続く体制です。<br /> <br /> 大天使からすれば時空を超えて働いておりますので、天使たちの感覚からすれば割とすぐその時代はやってきますが、地上の人間からしたらまだまだ何世代も時間がかかると思うかもしれませんね。あるいは意外とすぐかもしれませんけど。その辺り、天使の時間感覚と違うので天使たちがいう「すぐ」は人間感覚ではよくわかりません。<br /> <br /> Sun, 13 Sep 2020 00:00:00 +0900 私への恨みは全てそのままお返しします https://w-jp.net/2020/2068/ <br /> 瞑想中、かつて私を恨んだであろう人の姿がイメージに出てきました。<br /> <br /> 今までは、基本的に恨まれても放っておきました。何故かそうするのが良いと思っていたからですが、今から思えば、私の今生の目的はカルマの解消と覚醒への階梯を確かめることの2つでしたからこそ、どん底に突き落としたり、あるいは、恨まれた時の状態を理解して学ぶために恨まれても放っておくべきと判断していたように思います。<br /> <br /> 顕在意識では恨まれたくないですし恨まれたらその分、跳ね返して返すべきと思っておりましたが、潜在意識において恨まれることは必要な学びだから跳ね返さずに恨まれたことでどのように自分が変化するのか学ぶと良い、と判断していたように思います。顕在意識より潜在意識が勝ちますから、今までは、恨みに対してなされるがままでした。<br /> <br /> ですから、相手からしたら簡単な相手だと思われていたことでしょう。相手からすればうまく恨んで私をどん底に落としたつもりになっていい気になっていたでしょうが、ことあるごとに、誰かから私が恨まれる度に、私が必要な学びの環境へと誰かが私を突き落としてくれていたわけですから、実際のところ、私の思い通りに相手が動いて私を恨んでくれたのだと言うこともできます。全ては私の掌の中で動いていたわけですね。<br /> <br /> そうは言いましても、最近はその必要もほとんどなくなっており、そろそろ、清算して自分をガードすべきではないかと思いました。<br /> <br /> 瞑想中に自分の中を探ってみると針のようなものが見つかることがあるのですが、大きなものはほとんど取り除いたと思うのですが、まだ細かなものが残っているのです。<br /> <br /> 今回、試しに「私への恨みは全てそのままお返しします」と宣言したところ、残っている細かな針が少しづつ消えてゆくではありませんか。どうやら、私のオーラの中に根深く残っていたようですね。<br /> <br /> 宣言は更に続き、「私への恨みは、相手ごとに、現在あるいは過去のとある1点にまとめてお返しします」と宣言しました。<br /> <br /> これはどう言うことかと言いますと、相手は私を何日、何週間、何ヶ月に渡ってしつこく恨んだりするわけですが、それを都度返すのではなく、時空を超えて全てひとまとめにして、これまた時空を超えた1点にまとめてお返しします、と宣言したのです。<br /> <br /> こうすることで、個別であれば跳ね返されてしまって再度私に戻ってきてしまうかもしれない恨みが、強力な自分自身の刃となって帰って行くように意図したのです。<br /> <br /> その結果、相手がどうなるのかはよくわかりません。交通事故かもしれませんし単なるトラウマあるいは鬱になるのかもしれません。<br /> <br /> もはや私は特に相手を恨んではおりませんので、更にこのように宣言しました。「何も付け加えません。しかし、何も引きません。相手が私を恨んだ分、100%そのまま相手にお返し致します。」<br /> <br /> こうすることで、私の方にカルマが残らないようにします。<br /> <br /> 私の体に刺さっている針は針と見ることもできますが、それは恨みの塊ですから、よく見ると気持ち悪くて、まるで毛穴に黒い垢が詰まったかのようなおぞましい様相をしています。それが、このように宣言するごとに少しづつ消えてゆき、おそらくは恨みを発した人にそのまま帰って行っているような気が致します。<br /> <br /> 今までは私に必要だったからこそ相手の恨みを利用したとはいえ、そうは言いましたも恨みは恨みでありますから、相手にはその恨みは返してしまうのが一番だと思います。そこらに捨ててしまうと、このような恨みの想念はぷかぷかとそこらを雲が流れるように漂って行って無害な人の体にくっついてしまうことがありますからね。世間で不意にネガティブになったりする人の原因はこのような単なる事故の時もありますから、そこらに放ってしまうよりは、本人に引き取ってもらうのが一番なのです。<br /> <br /> このような「呪い返し」をするときに重要なのは、相手の方がエネルギーが高いと呪いが逆に返される場合があると言うことです。<br /> <br /> 呪い返し成功パターン:呪ってきた人 →(呪い)→ 私 →(呪い返しで跳ね返す)→呪ってきた人が私よりエネルギーが低い場合は呪い返し成功。呪いは全て呪った人自身に戻る。<br /> 呪い返し失敗パターン:私より呪った人の方がエネルギーが高い場合は呪い返し失敗する。<br /> <br /> ですから、おそらくは私の若い頃に、わざわざ自分をどん底に落としてエネルギーを枯渇させて覚醒への階梯を確かめるなんてやっていた頃に呪い返ししようとしても相手の方がエネルギーが高くて呪い返しなんて成功しなかったと思うのです。おそらくは同様の意図を何度もしていたのですが、失敗していたと思います。その失敗すらも過去生ではほとんど失敗していなかったと思いますので、エネルギーが低いと呪い返しに失敗すると言うことも含めて学びの一環だったわけですが。過去生では大体の場合に覚醒しておりましたので呪い返しが失敗するなんてほとんどなかったように思います。エネルギーが低いとこんなにも呪いへの対処に失敗するのか、と言うのは必要な学びでした。<br /> <br /> しかしながら、今はクンダリーニが覚醒して、オーラのエネルギーがアジナ優勢に変化して、エネルギー的に不足はありません。<br /> <br /> そこで、そろそろもういいかな、と言うことで上記の宣言をしたところ、どうやらうまく行ったようなのです。<br /> <br /> 恨みだけでなく、他にも色々返すことにしました。<br /> <br /> ・私を馬鹿にした人に、その思いをそのままお返し致します。<br /> ・私を蔑んだ人に、その思いをそのままお返し致します。<br /> <br /> 等、恨みに類した事項もこの宣言に加えました。<br /> <br /> どうやら、このように言葉にすることで精妙な世界ではそれがルールとして働くようですね。<br /> そして、一旦ルールとして潜在意識に書き込まれたら特別な指示をしなくてもそのルールは働くようです。<br /> <br /> 過去だけでなく、基本的には未来も同様のルールで恨みや蔑みはそのままお返しします、と言う宣言もしました。<br /> <br /> この種の宣言は、おそらくは宇宙とほんの少し繋がったことで宣言が有効になる気が致します。おそらくはそれ以前ですと宣言しても宇宙に届いていなかったように思います。以前とは異なり、全てではないですが自分の発する宣言が有効になってきたように思います。<br /> <br /> ■私を貶めようとした人にお返しをする<br /> <br /> 一旦は瞑想でお返しして、その後、数時間経ったらフィードバックがありました。<br /> <br /> 特に頭の右上方に圧迫感があって、誰かが押し返そうとしているようです。<br /> <br /> 誰だろう・・・ と思って探ってみると、どうやら、小学生の頃に私を貶めようとしていた人のようです。時空を超えてこんなところまで私を恨みますか。仕方がないので眉間に力を入れてその念を押し返します。すると、眉間あるいはもう少し右上のところで「ピキピキ」という音がしました。圧力がかかっているようです。<br /> <br /> その人はどんな人だったかと言いますと、次のようなことがありました。<br /> <br /> ある時、学校の先生が道徳の授業で、匿名で教室の他の誰かに原稿用紙1枚程度で「良いところ、悪いところ」を書いて送ろう、というお話があったのです。くじ引きで相手を決め、原稿用紙の「右上に自分の名前、左上に相手の名前」を書いて、右上のところは先生がハサミで切り取ってから相手に読ませます、というルールでした。今から思えば、匿名ならそもそも自分の名前を書かなくてもいいのではないかと思うのですが、とにかく、その時はそのようなルールでした。私はその時、たしかあまり興味のない女の子のことを書いたと思います。そして、私には「ちほ」ちゃんという人から届きました。<br /> <br /> その授業の時、教室の誰かが私を貶めようと、私の名前をわざと違う場所に書いて、とてつもなく嫌なことを書いて女の子に送ったのです。名前の場所は指定されていましたし、そもそも私はそんな子のことは書いていませんし。誰かが私のことを貶めようとしていたわけです。<br /> <br /> そして、今回、もはや名前は覚えてはいないですけどその時に同級生だった人の顔が今見えてきましたので、「ああ、やっぱりあの人だったのか」とわかったわけです。<br /> <br /> その人は、落ち込んでいるその女の子のところに言って大きな声で嬉しそうに「なんて酷いことを言う人なんだ!!!」と、言葉とは裏腹に、とても嬉しそうに言っていました。<br /> <br /> ちょっと人生経験のある人であればこのようなことを言う人こそが犯人だなんてすぐわかるわけですけど、流石に小学生ですから、その女の子を中心にして私を睨む人、それと、一体誰が本当はそれを書いたのか疑問に思う人とに分かれました。まあ、女の子は勘が鋭いですから誰かが私を貶めようとしたのはすぐにわかりましたけど、それでも、多少の不和は残ったような気が致します。<br /> <br /> それは、このような構図でした。<br /> <br /> ・私 → 名前すら忘れた女の子のことを書いて提出<br /> ・ちほ、ちゃん → 私に提出。内容は私のことと言うより、自分(ちほ)のことをみんな変に思わないでほしい、と言う内容。<br /> ・Aちゃん → 私のことを、好きと言うほどではないがちょっと気になっている。<br /> ・Bくん → おそらくAちゃんが好き。Aちゃんの私に対する思いを壊したい。<br /> ・私 → Aちゃんのことは何とも思っていない。(ごめんなさい)<br /> <br /> ですから、私を貶めることとAちゃんの気持ちを私から離れさせることができる一石二鳥の策だったわけです。<br /> <br /> よくもまあ、小学生でこんな悪巧みが出来ますよね。<br /> <br /> どうやら私に圧迫感を送っているのは過去のその人だと言うことがわかりましたので、念で押し返したら意外にあっさりと戻っていきました。<br /> <br /> 昔でしたらエネルギーが足りなくて九字切りでもしなくては防げなかったように思いますが、今はクンダリーニも動いていてエネルギーに不足はなく、防御および跳ね返しているような感じです。しかしながらなかなかこの人はしつこい性格のようで念が途切れませんので、霊剣で何回か切ってあげようと思います。オーラに切れ目ができればそこから不浄化の霊が入り込んで勝手に自滅しますからね。こう言う人には直接手を下す必要はなくて自分の念で落とすのが一番です。<br /> <br /> それと、こう言う時は、守護霊にお願いするのも手です。<br /> <br /> 私を恨んでいる相手をどうにかしてください、とお願いすれば守護霊がどうにかしてくれます。<br /> <br /> 主に男の方のチベットの修行僧がこう言うことを対処してくれることが多いですけど、幽界に漂っている、私に縁のある友人知人および親類たちの霊であっても対処してくれたりします。例えば、私の過去生の妻や仲の良かった元気な女の人が「けしからん!」と言って相手の守護霊に直談判に行ってくれたりします。<br /> <br /> まあ、そのあたり、近所のお節介な仲の良いおばちゃんとそう変わらなかったりします。その人なりの対処方法があって、元気のいい女の人が私の知り合いに大勢いますから、相手の霊の守護霊のところに言って文句を言えば相手は引き下がったりしますし、あるいは、どうしようもない相手であれば忖度してくれて私の代わりに相手をそれどころではないくらいに徹底的に酷い状況に落としてくれたりします。<br /> <br /> 守護霊の2人は守護霊としてのやり方で対処してくれますけど、知り合いや家族の霊が対処する場合は近所のおばちゃん風の怒鳴り込み、みたいなことも多いですね。<br /> <br /> 意外に、人間界での対処とあの世での対処は似ているところがあります。<br /> <br /> 他人を貶めることは、やっている方は現世利益でやっているのでしょうけど、そんな他人を恨んでいたりすると自分のオーラが汚れますし、そのような汚れたオーラを助けてくれる友人知人の霊あるいは家族の霊は少なくなってゆくでしょう。その辺りも人間界と意外と変わりがないですね。守護霊にしても、そのように現世利益で生活する人に高級な霊はつかないです。<br /> <br /> まずは人間界をしっかり生きて、会う人を大切にして、家族を大切にして、それで、家族があの世でも助けてくれるようになるのが基本です。ですから、基本は人間界での生き方がありますので、他人を貶めてそれで女を手に入れたとしても、それで作り上げた夫婦というのは所詮はそのようなものであり、あの世でも、来世でも、何度となくトラブルを引き起こすことでしょう。恨んだり恨まれたりと言う人生には関わり合いを持たないのが一番だと思います。あの世に行ってしまえば結婚に縛られる必要はないですが、来世も一緒に暮らしたいと思う人や仲の良かった人は同じところに集って人生を助けてくれます。<br /> <br /> 助けてくれるだけでなく、例えば、誰かを貶めようとしているのであれば、それは霊界からみたらその意図は明らかですので、霊界で見守っている多くの友人知人の霊および元家族の霊たちを心底落胆させることだってあるのです。そうすることで友人であることをやめ、見守ることをやめ、元家族からも見放されて孤立して人間界で生きている方もいらっしゃるようです。<br /> <br /> 守護霊が必ずいるわけでもなく、そのように見放されてしまった人は運にも巡り合わず、死後に導いてくれる友人知人の霊もおらず、死んだことにも気付かず地上を浮遊霊として彷徨うことにもなります。ここまで落ちるのは相当でしょうけど、その中間などは山ほどあるわけです。<br /> <br /> ですから、他人を貶めようとしたり他人を恨んだとしたら、まず、過去生からの繋がりのある友人知人の霊および元家族の霊から軽蔑されると思った方がいいです。軽蔑されなくて同類が集まっている場合もありますから、それはそれで落ちるところまで落ちたと言うことでもありますけど。<br /> <br /> どちらにせよ他人を貶めようとする人とは関わりあうべきではありませんし、恨み返すべきでもありません。<br /> <br /> しかしながら、恨みを跳ね返すことはしていいわけです。<br /> <br /> Sun, 13 Sep 2020 00:00:00 +0900 顕教と密教とヨーガスートラ https://w-jp.net/2020/2067/ <br /> 先日の続きです。瞑想の多くがプラティヤハーラだとわかったわけですが、それと同様に、おそらくは顕教(けんぎょう)もプラティヤハーラ以前を扱うのだとすればすっきりします。<br /> <br /> 顕教はわかりやすい教えで一般大衆に向けた道徳観などを解きますが、ヨーガスートラ的にはヤマ・ニヤマのような道徳を説いていますし、雑念から離れることを主目的にしているところなどはプラティヤハーラそのものです。<br /> <br /> 多くのお坊さんが道徳を説いて、あまり難しいことを考えずとも素直に穏やかに道徳的に過ごせば良い、と説くのも顕教的なヤマ・ニヤマ、そしてプラティヤハーラなのだとすれば納得がいきます。<br /> <br /> お坊さんにヨーガスートラのダーラナ(集中)、ディヤーナ(瞑想)、サマーディ(三昧)のことを聞いてもサッパリだったり「そんなことは考えなくても良い」などと言われたりするのは顕教であって目的がプラティヤハーラなのだからですね。<br /> <br /> そのように顕教の教えを説いている宗派のお坊さんあるいは信者に対して他のことを聞いたり教えを疑問に思ったりすることは、いわば野暮な行為なわけですね。だって顕教ですからそんなことを答えてくれるわけもありません。<br /> <br /> 先日のマインドフルネスのお話やゴエンカ式ヴィパッサナーもそうでしたが、かなり高い教えっぽく聞こえるものであったとしてもその実態はプラティヤハーラだったりします。言葉で「悟り」とか色々言っていたとしても、実際はプラティヤハーラであることがほとんどな気が致します。そう分かってしまえば、わざわざそれ以上を説く必要はなくて、プラティヤハーラであるところの「感覚に囚われないようにしましょう」とか「雑念を取り払いましょう」と教えることで一般大衆向けには十分すぎるほど十分なわけです。それがきちんとできるだけでもこの世を幸せに過ごすことができますので、悩みに囚われている一般大衆を助けるにはプラティヤハーラが重要になってくると思うわけです。<br /> <br /> 私は長い間、それらの一般大衆向けの流派および瞑想団体・宗派を勘違いしておりました。どちらかというと、私は一部の大衆向け流派を、ある意味では買いかぶっておりました。これはいい意味に捉えていただきたいのですが、おそらくは団体を立ち上げた中心人物の多くはすべてを分かった上でプラティヤハーラをしているように思えるのです。それでいてそれより上のレベルである悟りとかを説いて人々を惹きつけていたのだと思います。一部、立ち上げた人がよく分かっていなかったのではと思われるような事例もありますけど、歴史のある団体であれば分かった上でプラティヤハーラを説いているような気が致します。<br /> <br /> そうした、団体の布教の対象として大多数である庶民をターゲットにし、であるからこそプラティヤハーラを主目的にあげるのは信者を増やすという点で有効だったように思います。<br /> <br /> 一方で、それ以上の境地、ダーラナ(集中)、ディヤーナ(瞑想)、サマーディ(三昧)は密教の領域であると言えると思います。<br /> <br /> 一般教養の本を見ると顕教と密教はもっと違う定義がしてあったように思います。例えば顕教は道徳やわかりやすい教えだとして、密教はタントラのようにイメージを使ったりマントラを使うとか、そういう話はあると思います。しかしながら、ここで言っているのはあくまでも私の理解の上での分類であって、一般的な分類ではありません。<br /> <br /> 私は一般教養の説明より、こちらのヨーガスートラを基にした分類の方がすっきりするのです。<br /> <br /> 今、割と世間で話題になっているマインドフルネスなどの瞑想は、以下のような構図になっているように思います。<br /> <br /> ・テクニックとしてはプラティヤハーラ。顕教。雑念から逃れてリラックスする。よくてダーラナ(集中)でゾーンに至る。<br /> ・宣伝としては現世利益のリラックスおよび仕事の能率アップ。<br /> <br /> 他には、ゴエンカ式は以下のような組み合わせだと思います。<br /> <br /> ・テクニックとしてはプラティヤハーラ。顕教。雑念から逃れてリラックスする。そのことを「観察(ヴィパッサナー)」と呼んでいる。<br /> ・宣伝としてはブッダの瞑想。サマーディを超えた、悟りに至る観察瞑想(ヴィパッサナー)。<br /> <br /> 実際、大衆向け、特にビジネス向けであればプラティヤハーラを超えることはなく、サマーディを超えた瞑想とか言っていたとしても全然サマーディに達していないわけです。これは蔑んで言っているのではなく、プラティヤハーラはそれでもサマーディに達する一段階であるわけですから無駄ではないわけです。確かにそれは悟りに辿り着くことができますが、何やら勘違いがあるだけのお話です。<br /> <br /> このように、一般大衆向けの宗派・団体であればほとんどがプラティヤハーラを主眼に置いているのだと思います。<br /> <br /> 特にそれが悪いわけでもなく、そうすることで多数が救われるのだと思います。<br /> <br /> 個人的にはプラティヤハーラはもちろん重要ですけど、それに絞った顕教の活動はあんまり興味がないです。色々なパターンがあるのでしょうね。<br /> <br /> ・プラティヤハーラが分からなくて信徒あるいは団体に入るパターン<br /> ・プラティヤハーラを超えてサマーディ等に達した後に一般大衆を導くため顕教の教祖になるパターン<br /> ・プラティヤハーラを完全には超えていなくて自分も信徒と一緒に学ぶために教祖になるパターン<br /> ・プラティヤハーラこそが悟りだと勘違いして信徒になるパターン<br /> ・プラティヤハーラを達成して自分が悟ったと勘違いして教祖になるパターン<br /> <br /> 色々あるのだと思います。信徒や教祖にしても様々ですし、団体も多様です。<br /> <br /> しかしながら、その根元である、顕教はプラティヤハーラを目的とする、という1点さえ抑えていればかなり見極めができると思うわけです。<br /> <br /> Sun, 13 Sep 2020 00:00:00 +0900 プラティヤハーラ、ダーラナ、それぞれにプラトーが存在する https://w-jp.net/2020/2066/ <br /> 先日、多くの瞑想は実はプラティヤハーラだったのだとわかって目から鱗が落ちましたが、その前提に立つと、色々なことが見えてきます。<br /> <br /> 5.プラティヤハーラ(制感) 雑念から離れる。雑念に気付けるよう努力して観察する段階。一般向けのヴィパッサナー。<br /> 6.ダーラナ(集中) 集中してゾーンに入り、至福に至る。<br /> 7.ディアーナ(瞑想) 意識が安定し、穏やかな境地に至る<br /> 8.サマーディ(三昧)感覚の微細化。本来のヴィパッサナー。五感を超えた観察状態。<br /> <br /> という分類になるわけですね。<br /> <br /> この分類に対して世の中の瞑想手法を当てはめてみることができるわけです。<br /> <br /> ■マインドフルネス<br /> 観察と称してプラティヤハーラ(制感)を行い、葛藤から離れる。リラックスの手段。<br /> 一部の人はダーラナ(集中)のゾーンの境地に入り歓喜と共に仕事を効率的に行う。<br /> 現世利益の追求のための手段としての瞑想。<br /> <br /> ■ゴエンカ式ヴィパッサナー<br /> 本人たちはブッダの瞑想だと思っているが、実際やっているのはプラティヤハーラ。<br /> ブッダの瞑想はサマーディのレベルで、説明も原始仏教を元にしているのでサマーディっぽい話もあるが、手法としては完全にプラティヤハーラ。<br /> まず息の観察をしてプラティヤハーラに入る準備をする。そして、体の皮膚の観察をして本格的にプラティヤハーラに入る。<br /> ゴエンカ式は観察瞑想のヴィパッサナー瞑想をうたっており、サマーディを超えた瞑想をしていると本人たちは思っているのでダーラナ(集中)やサマーディが徹底的にヒステリックに否定される文化。<br /> 実際はプラティヤハーラのレベルでほとんどの人はそれ以上に達しない。<br /> ゴエンカ式をして精神的に混乱をきたしたり、怒りの沸点が下がってキレやすくなる、あるいはプライドが拡大するという効果は瞑想している人の多くがプラティヤハーラのレベルだということを示している。<br /> 実際はサマーディとヴィパッサナーは同じだが、それが理解できるようなレベルではない。<br /> <br /> ■他のヴィパッサナー<br /> 本を読む限り、ミャンマーのヴィパッサナー瞑想は本質を捉えているように思いました。<br /> それと、テーラワーダ仏教も本質がわかっているように思いました。<br /> <br /> 同じヴィパッサナー瞑想の看板を掲げていても中身を見るとプラティヤハーラをサマーディだと勘違いをしているゴエンカ式もあれば、その一方で、本質をわかっていてプラティヤハーラ相当から始めている流派もあるのだなと思いました。<br /> <br /> おそらくヴィパッサナー瞑想を勘違いしているのはゴエンカ式くらいで、他の流派は、プラティヤハーラ相当からのスタートだと明確にわかっていてヴィパッサナー瞑想をしているように思われます。そのように感じられます。ですからダーラナ(集中)もディヤーナ(瞑想)も否定しないのですね。ゴエンカ式だけが集中瞑想(サマタ瞑想)を下に見て自分たちのヴィパッサナー瞑想こそが悟りへと至る瞑想だと主張していますが、そのように自分たちだけが最高だと思うような思想であればスピリチュアル初心者ということですので、ゴエンカ式を信奉している人の多くはスピリチュアル初心者であるように思われます。これは悪いと言っているのではなく、この世界はいま、瞑想が足りていませんから初心者向けであっても瞑想は大切なものです。ただ、勘違いをせずに、自分たちがしているのはプラティヤハーラであると明確に自覚してほしいと思っているだけです。プラティヤハーラ相当をしていても無駄ではありませんので悲劇ではありませんが、自分たちはサマーディをしていると思っていても実際はプラティヤハーラだったりするのは喜劇のようなもので後で笑い飛ばすしかない状況です。まあ、本人たちが好きで喜劇しているのは勝手にすればいいのですけど、周りを巻き込んで他人の瞑想を貶めるのはやめていただきたいです。ゴエンカ式をしている人の、他の人の瞑想に対する評価と態度が酷すぎます。本来は瞑想を長年してきた人の指導を受けるべきなのに新たな手法にしてしまって歴史が足りないからこんなことになっているのかもしれませんね。ゴエンカ氏は古代の瞑想を数千年ぶりに発掘して復活させたと主張していましたがそれは無知というもので、実際はブッダの瞑想の手法は各種の流派で受け継がれていますからね。各種の瞑想の流派では千年以上の歴史がありノウハウも数多く蓄積されているのです。落とし穴に落ちないための知恵もそれらの流派では蓄積されていますから、新たに始めたゴエンカ式に蓄積がなくて同じような落とし穴に落ちていたとしても不思議ではありません。<br /> <br /> ■ヨガ瞑想<br /> 古典のヨガ瞑想は、時間がかかります。<br /> プラティヤハーラにまず時間がかかり、ダーラナに至ってもそこでまたプラトーがあります。<br /> 感覚的には、ダーラナを超えてしまえばその先は早いのではないかなと思っています。<br /> <br /> Sat, 12 Sep 2020 00:00:00 +0900 <link>https://w-jp.net/2020/2064/</link> <description><br /> </description> <pubDate>Fri, 11 Sep 2020 00:00:00 +0900</pubDate> </item> <item> <title>マインドフルネスはダーラナではなくプラティヤーハーラ(制感) https://w-jp.net/2020/2063/ <br /> 朝の瞑想で見えない存在にインスピレーションで教えられました。どうやらマインドフルネスはダーラナではなくプラティヤーハーラ(制感)のようです。なんてこった・・・。私はどうやらマインドフルネスを買いかぶっていたようです。確かに、初心者向けのマインドフルネス瞑想はやっていることはプラティヤーハーラですね。<br /> <br /> マインドフルネスあたりですとダーラナ(集中)にすら達していなくて、プラティヤーハーラ(制感)なのですね。プラティヤハーラは感覚器官の呪縛から逃れて雑念から逃れよう、雑念と自分の心を引き離そうとする段階ですので、確かに、プラティヤハーラのことを「観察」と言うとそれっぽく聞こえるかもしれませんね。プラティヤハーラですとゾーンに入ることはなくて、雑念から一時的に少し離れるだけです。マインドフスネスは新たな流派ですので説明が混乱していますけど、確かに、いくつかを読む限りプラティヤハーラを観察と表現しているとすれば筋が通ります。<br /> <br /> 5.プラティヤーハーラ 雑念を取り払いましょう! 観察するのです!<br /> 6.ダーラナ → 集中しましょう! 集中による至福! ゾーン!<br /> <br /> ヨーガスートラ的にはプラティヤーハーラのことを観察とはあまり言わないと思いますけど、確かに、説明としては観察と言った方が分かりが良い気が致します。ヨーガとかの古典瞑想をしていて観察とか言われるとディヤーナやサマーディのことかなと勘違いしてしまいますけど、プラティヤーハーラのことだとすればスッキリします。<br /> <br /> この理解は最近流行のヴィパッサナー瞑想についても言えて、私はどうやらずっと勘違いしていたのかもしれません。ゴエンカ式が観察のヴィパッサナー瞑想とか言っているのは、長らくディヤーナやサマーディのことかと思っていましたけど、実際はプラティヤハーラのことを観察だと言っていたのだとすれば全ての説明がつきます。と、すれば、私は長い間、ゴエンカ式も買いかぶっていたことになりますね・・・。なんてこった。<br /> <br /> マインドフルネスやゴエンカ式が割と宗教色を無くして一般人に受け入れやすくなっているのは、やっていることがプラティヤハーラで雑念を取り払うように「観察」することを瞑想手法として取り入れているからなのですね。<br /> <br /> プラティヤハーラで雑念から離れることとサマーディで観察状態に入ることとは天と地の差がありますけど、どちらも言葉で言い表すと「観察」と言うこともできるのですね。これはしてやられました・・・。<br /> <br /> であれば、今後、マインドフルネスやゴエンカ式の人が「観察瞑想」と言ってきたときはプラティヤハーラのことを言っているのかもしれない、という頭の切り替えができます。人によってコンテキストは違いますけど、私の中にこのコンテキストは今までありませんでした。サマーディとかの高い境地のことを言っているのかなと思っておりましたが・・・・、まさか、観察瞑想がプラティヤハーラのことだったとは・・・。<br /> <br /> 最初からそう言ってくれれば何も悩むことはなかったのに。ほんと、買い被りもいいとこです。瞑想の世界というのは本当に落とし穴がいっぱいですね・・・。ブッダを持ち出してきて観察瞑想の名を掲げ、ヴィパッサナー瞑想と言っているものは、実際にはヨーガスートラ的にはプラティヤハーラだったりもするのですね。<br /> <br /> マインドフルネスの説明でサマーディっぽいお話もあったりしますので勘違いしていましたけど、手法や説明をしっかりと見るとプラティヤハーラのことを言っており、それを観察とか表現しているのですね。宣伝する方としては何か凄いことを言いたいでしょうからサマーディっぽいお話もするのかもしれないですけど、手法としてはプラティヤハーラで、よくてダーラナ(集中)でゾーンに入って歓喜に至る、というくらいなのでしょうね。<br /> <br /> ゴエンカ式はそれが顕著で、サマーディとか悟りとかのお話をしているのでそれっぽく聞こえてしまいますけど、やっている手法だけを着目してみると息の観察やら感覚(五感)の観察だったりしますので、確かにプラティヤハーラと結びつけた方がしっくりきます。息の観察をするアーナパーナ瞑想のことをゴエンカ式では集中瞑想と説明していましたので私はダーラナ(集中)だと思っていましたけど、アーナパーナ瞑想も含めてゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想でやっていることは全てプラティヤハーラだとすれば違和感がほぼなくなります。<br /> <br /> 宗教を切り離して手法だけ取り出した瞑想の手法はプラティヤハーラが中心という共通点があるのですね・・・。今までずっと買い被っていました。<br /> <br /> これらの理解があると、各種の疑問が氷解します。特に観察系のヴィパッサナー瞑想の流派で感じていた違和感の根本理由がわかったような気が致します。<br /> <br /> ■プラティヤハーラだとわかってしまえば指摘するなんて野暮なことはしない<br /> <br /> もしかしたら、これらのことに気付いた先人たちがかつてゴエンカ式で素直に指摘したのかもしれないですね・・・。一つの仮説を立ててみます。<br /> <br /> ゴエンカ式をやっている当人たちは悟りを開くための瞑想だと思っているようですから、その人たちに自分たちがしているのはプラティヤハーラだと指摘したらいい顔されないどころか、プライドが傷付けられてキレられるのも当然のような気が致します。<br /> <br /> そんなプライドが残っていてキレるような人たちが先生をしている団体はその程度のレベルなわけですけれど、それでも、一般向けのビジネス講座だとすれば十分すぎるほどであると思うのです。この時代、瞑想が蔑ろにされていますから、プラティヤハーラであろうとも有益だと思います。<br /> <br /> しかしながら、当の本人たちは悟りを開くためのブッダの瞑想だと思っているわけです。<br /> <br /> これは、悲劇というか喜劇ですね・・・。一応はやっていることはプラティヤハーラですので悟りに向かう一段階であるわけで、特に間違ってはいないのですが、それだけしていれば悟ることができるかのように思っているのが喜劇です。わかってしまえばギャグのように笑い飛ばせますし、無駄ではないので悲劇ではないですけど、やっている当人はまだプライドの塊ですので、わかってしまうまでは喜劇のように深刻になってやっているわけですし、他人のそのような指摘はプライドを傷つけるのでキレて拒絶するわけです。<br /> <br /> ですから、ゴエンカ式のようなビジネスマンが始めた一般向け非宗教を装っている瞑想コースでヨーガの人が嫌われるのかもしれないですね。本当の自分たちの姿がさらけ出されてしまうとプライドが消えてしまうので拒否反応を起こしているのでしょう。<br /> <br /> ゴエンカ式の人がどうしてあれだけ怒りの沸点が低くてキレやすくなるのか疑問に思っておりました。今まで私はそれは瞑想手法に問題があるのではと思っておりましたが、瞑想手法は単にそこらのとそんなに変わりなく、どうやら、手法そのものというよりもそれに関わる人々のスタンスと考え方に問題があって、ゴエンカ氏もキレやすい性質だったと言いますから、おそらくは歴史的に団体の性質としてそのような文化が熟成されているのでしょう。であれば、キレやすい団体に私は関わり合いたくはないです。<br /> <br /> その先のレベルに達する人もいる筈だとは思いますが、もはやカリスマのゴエンカ氏は死去しておりますので団体としての性質が変わることは考えにくいですね。であれば、わざわざ指摘するなんて野暮なことはしない方がいいと私なんかは思います。<br /> <br /> プラティヤハーラの修行を必要としている人たちであればまだプライドもエゴもたっぷり残っているでしょうから、その運営者にしても参加者にしても大概はエゴ丸出しなのは当然といば当然でしょうね。<br /> <br /> それを否定する必要はなくて、これは一段階ですので、それを超えてゆけばいいわけです。<br /> <br /> この世界には瞑想が足りていませんので、プラティヤハーラをして悟りを求める団体があったとしても全く問題ないわけです。むしろもっとそのような団体が増えてもいいくらいです。<br /> <br /> ゴエンカ式が他人の指摘を素直に受け入れずに自分たちの考えに固執しているからこそすぐキレる性質になってしまっているのだとしても、それはプラティヤハーラを必要としている人たちが運営しているのであればそのくらいなのは当然です。<br /> <br /> ゴエンカ式がブッダの悟りを求める瞑想をしている筈なのにどうしてそんなにプライドが高くてエゴが大きくてキレやすい人がゴロゴロしていて、また、ゴエンカ式をすることで自分を見失って精神的に混乱する人が大勢いたとしても放置するのが何故なのか理解できないでいました。<br /> <br /> ですが、ゴエンカ式の運営者・指導者にしてもプラティヤハーラのレベルだとしたら同レベルでありそれらの精神的な混乱をしている人を助けることはできず、ただ静観するしかないのは当然と言えます。<br /> <br /> ゴエンカ式は、運営者もプラティヤハーラのレベルで、参加者も多くはプラティヤハーラあるいはそれ以前の段階だとすれば、教えられることもプラティヤハーラですし、混乱してしまった人を助けることができないのも当然なのです。<br /> <br /> ゴエンカ式では鼻呼吸への集中であるアーナパーナ瞑想をヴィパッサナー瞑想(観察瞑想)の準備のサマタ瞑想と位置付けていますが、これも実際には違うということになりますね。<br /> <br /> ■ゴエンカ式による説明<br /> ・アーナパーナ瞑想 観察のヴィパッサナー瞑想に入る前準備としての集中瞑想(サマタ瞑想)おそらくこれはヨーガスートラのダーラナ(集中)に相当すると推測。<br /> ・ヴィパッサナー瞑想 皮膚の観察。観察瞑想。悟りへと導く瞑想。ヨーガスートラのディヤーナ(瞑想)からサマーディ(三昧)に相当すると推測。<br /> <br /> ■ゴエンカ式の実際<br /> ・アーナパーナ瞑想 プラティヤハーラの準備として集中力をつける集中瞑想<br /> ・ヴィパッサナー瞑想 プラティヤハーラの実践<br /> <br /> ですので、説明と実際やっていることと乖離があるわけですね・・・。どこまで本人たちが気づいているかどうかは人それぞれでしょうが。<br /> <br /> ・・・そのように考える方が素直な気がしてきました。これらのことがあらかじめ全てわかっていれば本人たちにわざわざプラティヤハーラだと指摘するなんていう野暮なことはしませんし、自分がヨガをしているなんていう野暮なことをゴエンカ式のところで明かしたりもしません。<br /> <br /> おそらく昔から同様の指摘をする人がいて、まるで戦争が何代も続くうちに理由が忘れ去られてしまっているのと同じように、ゴエンカ式でキレやすい性質が何代も続いていてもはやキレやすい理由が忘れ去られてしまっているような気も致しました。<br /> <br /> しかしながら、これらの仮説を立ててみるとゴエンカ式がキレやすい理由もしっくりきます。この仮説は、私の中ではしっくりきます。<br /> <br /> これは、ゴエンカ式の程度が低いと言っているわけではありません。説明がちょっと拡張気味で、誇大宣伝だな、と言っているだけです。<br /> <br /> Fri, 11 Sep 2020 00:00:00 +0900 集中瞑想はヨーガスートラ的にはまだ瞑想ではない https://w-jp.net/2020/2062/ <br /> ■ヨーガスートラの八支則<br /> 1.ヤマ(アヒムサ、サッティア、アステヤ、ブラフマチャリア、アパリグラハ)<br /> 2.ニヤマ(シャウチャ、サントーシャ、タパス、スヴァスティアーヤ、イーシュワラ・プラニダーナ)<br /> 3.アサナ<br /> 4.プラーナヤーマ<br /> 5.プラティヤーハーラ<br /> 6.ダーラナ → 集中<br /> 7.ディヤーナ → 瞑想<br /> 8.サマーディ → 三昧<br /> <br /> 何かに集中する瞑想はヨーガスートラ的にはディヤーナではなくダーラナです。<br /> 多くの場合、瞑想していると思っていてもヨーガスートラ的にはダーラナ(集中)です。<br /> <br /> ダーラナとディヤーナ、サマーディは割とはっきりとした区別があるのですが、最初は自分ではその違いはわからないと思います。<br /> <br /> ざ〜っくり言うと以下のような分類です。<br /> <br /> 1&2.ヤマ・ニヤマ 道徳を大切に!<br /> 3.アサナ 体を動かしましょう!<br /> 4.プラーナヤーマ 呼吸をしっかりしましょう!<br /> 5.プラティヤーハーラ 雑念を取り払いましょう!<br /> 6.ダーラナ → 集中しましょう! 集中による至福! ゾーン!<br /> 7.ディヤーナ(瞑想) → 落ち着いてきましたね!<br /> 8.サマーディ(三昧) → 静寂の境地!<br /> <br /> 以下のようなものは、基本的には全てダーラナ(集中)だと思った方が良いと思います。<br /> ・呼吸瞑想<br /> ・皮膚を観察する瞑想<br /> ・歩く瞑想<br /> ・眉間に集中する瞑想<br /> ・マインドフルネス(息を観察する瞑想)<br /> <br /> もちろん同じ手法を用いていてもその先のディヤーナ(瞑想)やサマーディ(三昧)の境地に辿り着くこともありますけど、違いがわからないうちはそれは単に「集中(ダーラナ)」だと思っておいた方がいいと思います。<br /> <br /> 世間で最近は「観察瞑想」とか言われていますけど、そんなのは名前が観察というだけで、確かに上級者は観察だと言うのは分かりますけど、初心者が真似て見たところで全て「集中」瞑想です。 初心者であれば例外なくみんな「集中」瞑想です。前世で修行した人とかであればいきなり観察瞑想と言うかディヤーナやサマーディできるかもしれませんけど、初心者であればみんな例外なく「集中」瞑想です。何やら世間で「観察瞑想」がどうこう言われていますけど、例外はないです。・・・こんなこと言うと反感を感じる人がいるかもしれませんけど、初心者であればみんなダーラナ(集中)です。それに疑問の余地はないです。<br /> <br /> そう言うわけで、瞑想はいろいろありますし、言い方や説明で「観察」とか言ったりしますけど、観察という説明であってもやっていることは集中瞑想です。<br /> <br /> 初心者に向かって上級者向けの指示で「力を入れずにただ観察しろ」とか教えている流派もありますけど、それは無茶というものです。初心者は観察瞑想であるディヤーナ(瞑想)やサマーディ(三昧)なんてできないですよ。であれば、やっていることは集中瞑想でしかないわけです。いくら観察瞑想だと思っていても集中瞑想をしているのが初心者です。<br /> <br /> マインドフルネスとかでも、息を「観察」しましょう、とか言っていますけど、それは息に意識を「集中」しましょう、ってことですよ。本当の観察であればそんな焦点など必要なしに体全体の動きをただ観察できます。それはディヤーナ(瞑想)を超えてサマーディ(三昧)くらいにまで達したらそうなりますけど、それができるのであればもはや初心者ではありません。初心者であればディヤーナ(集中)しかできません。そんなものです。あまり気負いせずに、観察だとか放っておいて、とにかく集中瞑想(ダーラナ)をした方が早道だと思いますよ。<br /> <br /> ダーラナ(集中)を深く経験して次の段階に進むのが良いと私なんかは思うのであって、ダーラナ(集中)を抜きにして上の段階の「観察」なんて成り立たないと思うのですけどね。もともと葛藤がかなり少なくてダーラナ(集中)がほとんど不要な人もいらっしゃる気も致しますけど、それはダーラナ(集中)が完全にいらないわけではなくて早くダーラナ(集中)を通り抜けると言うだけで、飛び越してはいないでしょうからね。多くの人は葛藤や雑念に悩まされているでしょうから、まずはプラティヤハーラから初めてダーラナに進むのが普通だと思います。<br /> <br /> マインドフルネスとかは、説明を読むと「観察」となっているので何やら上級な雰囲気がありますけど、実際のところやっているのはダーラナ(集中)です。それを瞑想と呼んでいるわけですし、説明では「観察です」とか言ったりするわけれども、それは説明のために言っているだけであって、本質はダーラナ(集中)です。一般向けに観察とか瞑想とか言っても違いが分からないと思いますし、観察と言った方が受けがいいから観察と言っている、という面もあると思います。観察という言葉を使っていても、説明の全体を聞く限り、ダーラナ(集中)の瞑想をしています。一般人は単に「ふむふむ」と聞いて、わかったような分からないようなもやもやした気持ちになっているだけなのかなと思います。はっきりと分からない、というのは当然で、そんなものだと思います。<br /> <br /> ダーラナ(集中)によってゾーンに入ることができて強い歓喜が沸き起こってきて仕事の効率が上がるわけで、ダーラナのゾーンだけを使うのであればビジネスに有益だからマインドフルネスが話題になっているのでしょう。でも、それはディヤーナではなくてダーラナ(集中)ですけどね。説明で「観察」とか言ってて混乱したり誤解したりしている方も多いですけど、やっていることはダーラナ(集中)です。マインドフルネスはそれ以上の世界を教えませんし、扱いませんからね。それ以上に達した人もいるとは思いますけど、その体験すらも同じ土壌で語られますのでマインドフルネスが何なのかがますます分からなくなってきます。マインドフルネスが扱うのは基本的にはダーラナ(集中)の世界であって、その準備あるいはそれ以上の世界を求めるのであればマインドフルネスでは不足なわけですよね。マインドフルネスが宗教を切り離してただの技法にしているから素晴らしいとかおっしゃる方も大勢いて、もちろん個人の自由ですから好きにすればいいと思います。マインドフルネスのレベルであるダーラナ(集中)を極めてゾーンに入るだけでも人生を豊かに過ごすことができますし、頭の回転も良くなって仕事も効率的にできるようになりますから、それが目的だとおっしゃるなら好きにすればいいのだと思います。現世利益を求める方が現世利益のためにするのがマインドフルネスであると言えます。私なんかは物足りなさを感じて面白くないのですけど、技法だけで満足している方も大勢いらっしゃいますし、マインドフルネスで満足している方の気持ちは私はよく分からないですけど、満足を否定はしませんので、好きにすればいいと思います。この世界は自由の世界ですから、好きに生きればいいのです。<br /> <br /> ダーラナ(集中)瞑想を極める期間は個人的にはそれなりにかかって、最初の10年くらいはゾーンに入るだけで歓喜が沸き起こってきてそれが楽しみではありましたけど、次の段階へと進んだ今となってはあのような彷彿と葛藤を繰り返す世界に戻りたくはありませんけどね。ですけど、そのダーラナの段階が無駄とは思っていなくて、それはそれで有益だったと思いますし、必要な段階だったと思います。<br /> <br /> 今から瞑想を始める方は不幸かもしれなくて、昔なら素直に集中瞑想だけできたのに、小賢しい人が大勢出てきて「瞑想の本質は観察だ」とか瞑想のテクニックを煽って宣伝する人がちらほらいて、何が本質なのか分かりにくくなっています。<br /> <br /> おそらくは、よく分からずに変な瞑想手法をするよりは、単に今やっている仕事に集中してゾーンに入って歓喜が沸き起こるくらいになる方が精神的成長が早いと思います。特に最初のうちは。<br /> <br /> 基本的には最初は瞑想というと集中(ダーラナ)なのですから、そこをわきまえておいた方がいいと思います。<br /> <br /> Thu, 10 Sep 2020 00:00:00 +0900 ライトボディ第八レベル https://w-jp.net/2020/2061/ <br /> 書籍「ライトボディの目覚め」に基づきますと私は現時点で第八レベルだと思われます。<br /> <br /> 昨年末に視界がスローモーションで認識されるヴィパッサナーになった頃から第八レベルになったように思います。それ以前は第七レベルで、それは雑念が減り、「いま」に生きるというような、割とアナハタ優勢の段階だったように思います。<br /> <br /> ざっくりいうと以下のようになるかと思います。<br /> <br /> ・第七レベル アナハタ優勢<br /> ・第八レベル アジナ優勢<br /> <br /> 第八レベルでの大きな変化は、自らの奥深くにある自らのスピリットに従うようになる、という点だと思います。第七レベルまではまだ「私」という感覚が残っていました。第八レベルになると次第に「自分」というものが幻想だということがよくわかるようになってきます。<br /> <br /> 第七レベルまでは、自分というものは本当はいない、ということを「知識」として知っており、実感も伴っており、理屈にも合っていて、正しいと思ってはいるものの、自分という感覚と宇宙意識とを比べるとまだ自分という感覚の方が優勢な状態でした。自分という意識と宇宙意識の比率は8対2から7対3です。<br /> <br /> 第八レベルでは深い実感を伴って、やはり自分というものは本当はいないんだ、ということを実感します。それは自分がいなくなるというよりは宇宙意識の方が徐々に表に出てきている状態で、自分という意識と宇宙意識との比率は6対4あるいは5対5に近づいた状態だとも言えます。自分が消えるだけでは十分ではなく、宇宙意識との融合が伴います。宇宙意識との統合のことを、自分の奥底のスピリットと繋がる、と言い換えてもいいと思います。言葉で言うと別々の事柄のように思えてしまいますが、同じ現象を別の表現で言い表しただけのことで、同じことです。<br /> <br /> 第七レベルでは光の意識と平凡な意識を行き来して起こる葛藤がそれなりにありました。光の存在であると言う自覚が深まったものの、まだ平凡な自分としての意識に戻ることがあり、揺れ動く意識の中で、ある種の、躁鬱状態に似たような光の彷彿と平凡な意識を行き来していたと言えます。<br /> <br /> その悩みが第八レベルではほとんどなくなり、基本的には光の意識の中に存在するようになりました。<br /> <br /> 昔、最初にこの本を読んだときは第七レベルと第八レベルの違いがいまいち分かりにくかったのですが、今思えばこのレベルはかなり明確な違いがありますね。<br /> <br /> それ以前のレベルはあまり意識しておりませんでしたが、今改めてざっと読むと以下のような感じでしょうかね。本文ではヨーガの用語は使っていませんが、自分が分かりやすいようにヨーガに当てはめてみました。<br /> <br /> ・第一レベル クンダリーニの目覚め<br /> ・第二レベル クンダリーニの安定<br /> ・第三レベル ムーラダーラチャクラ活性化。「匂い」に敏感になる。性の活性化。<br /> ・第四レベル スピリチュアルの始まり。<br /> ・第五レベル スワディスタナチャクラ活性化<br /> ・第六レベル マニプラチャクラ活性化<br /> ・第七レベル アナハタチャクラ活性化<br /> ・第八レベル アジナチャクラ活性化<br /> <br /> ただ、必ずしもクンダリーニやチャクラと関係しているわけではなく、第五や第六くらいまでは色々なものが混ざっているような気が致します。これはスピリチュアル系の階梯の作り方として必ずしもチャクラを基準にはしていないようです。<br /> <br /> 第九レベルは「神聖さ」を宿し始める段階とのことで、いわゆる「悟り」とは第九レベル以上のことだと言っていいと思います。<br /> <br /> Wed, 09 Sep 2020 00:00:00 +0900 宝塚の阪急電車への一礼とサイキック https://w-jp.net/2020/2088/ <br /> 私は関東なので実際に見たことはありませんけど、これ、おそらくは本当に乗っているのが分かるのだと思いますけどね。どうでしょうかね? 宝塚の方々? それとも、今の若い人はそこまでサイキック能力が落ちてしまって乗っているのが分からなくなり、一礼する意味が分からなくなってしまったということなのでしょうかね?<br /> <br /> 本当に乗っていることがお互いにわかったから阪急電車への一礼をするのは当然だと思いますけどね。そういう方はいらっしゃるのでないでしょうかね。<br /> <br /> あのような芸術の分野は多少ながらサイキックでないとやっていけないと思いますけど。<br /> <br /> 例えば分野は違いますけどミケランジェロだってサイキックですし、作曲家なんてほとんどがサイキックだと思いますよ。<br /> <br /> 今まで書いたことありませんでしたけど私のグループソウルにオーストリアあたりで作曲家の一族に生まれたことのある人がいて、その一族は初代がインスピレーションを子孫に伝えるのが伝統でしたけどね。そのくらいのサイキックはゴロゴロいて、本当に信頼しあえる師弟であれば電車に乗っていてお互いに気付くなんて普通だと思いますけどね。<br /> <br /> ですから、ルールあるいは不文律で必ず一礼しなければいけないとは思わなくて、お互いにわかるからこそわかった時に一礼すべきものだと思います。ですから、不文律で一礼を止める、というのはおそらく正しくて、それでも、本当に乗っているのが直感でわかったら一礼をするのは自由なのではないかなと思いますけどね。本当に一礼する意味が分からないのだとしたら寂しい気が致しますけどね。<br /> <br /> これは個人的な感想ですけどね。宝塚の判断ですから好きにすればいいと思います。<br /> <br /> 宝塚のような芸術をしている人たちがサイキックではなくなってただの人形だとしたらそんなに人気が出る筈もありませんから、きっと今でもサイキックな人が大勢いるとは思いますけどね。<br /> <br /> ただ、見方を変えれば、不文律だと思われていると言うことはサイキックではない人が混ざっていると言うことなのでしょうね。全員がサイキックであれば本当に乗っている時だけ一礼すれば済む筈ですし。<br /> <br /> ただ、サイキックとは言っても意識が散漫になっていたりすると気づかなかったりすることもありますから必ず一礼するのが楽と言えば楽なのかもしれません。とすれば、気付かなかった時のことを考えるとルールで一律に中止する方が負担が減ると言えばそうなのかもしれません。<br /> <br /> まあ、そんな事情を一般大衆に向かって堂々と言うことはないと思いますし、きっと公式には不文律は時代にそぐわないからやめたと言うことで理解しておけば十分だとは思いますが、内部では違う受け止め方をされていると思いますけどね。<br /> <br /> <br /> <br /> Sun, 30 Aug 2020 00:00:00 +0900 <link>https://w-jp.net/2020/2052/</link> <description><br /> </description> <pubDate>Sun, 30 Aug 2020 00:00:00 +0900</pubDate> </item> <item> <title>エネルギーヴァンパイアをする本 https://w-jp.net/2020/2013/ <br /> エネルギーヴァンパイアとはエネルギーを奪う者(物)という意味ですが、入手した本の中にはエネルギーヴァンパイアをしてくるものがあります。古本だったりもしますので前の持ち主がそうなのかなとも勘繰っていたのですが、傾向を見ると前の持ち主の場合は単にオーラが残っているだけで、エネルギーヴァンパイアの場合は本の著者であることが多いように思います。<br /> <br /> 本に前の持ち主のオーラが残っているだけの場合はしばらくすればそのオーラが発散して消えますので普通になります。<br /> <br /> 一方で、本の著者がエネルギーヴァンパイアである場合は、おそらくは本を読んだ時点で呪術が発動してエネルギーヴァンパイアするのではないかなと思います。<br /> <br /> 魔法とかは一般的には想像上の産物だと思われていますけど、普通に書いた文字であってもそこには魔術と同じような特殊な波動が込められますので、読んでその波長に同調しただけで術が発動することになります。<br /> <br /> 最近でいうととあるスピリチュアル系でそれなりに有名な著者の本がことごとくエネルギーヴァンパイアしていました。<br /> <br /> たまたまかと思っていくつかその著者の本を並べてもみましたけど、やっぱりその著者に限ってエネルギーヴァンパイアしているようでした。<br /> <br /> 瞑想中に探ってみると、どうやらその著者がエネルギーを周囲から奪い続けているようでした。瞑想中ですから本当かはわかりませんし、なりすましの別人、あるいは、イメージが重なっているだけで別の存在かもしれません。ですが、誰かがエネルギーを吸い取っているということは確かなようです。<br /> <br /> そのエネルギーヴァンパイアから管のようなものがスルスルスルっと伸びてきて私の方に触手のように絡んでくるのが見えます。とても気持ちが悪いです。さっきからエネルギー吸われている気がしていたのはこのせいだったのですね。<br /> <br /> その人はどうやらエネルギーが枯渇して周囲にオーラの触手を伸ばしているようです。<br /> <br /> スピリチュアルな能力のうち、チャクラ開花ばかりしてクンダリーニ によるエネルギーの開発が行われていないとこのようにエネルギーが足りなくなって周囲から奪い続けるエネルギーヴァンパイアになるような気が致します。<br /> <br /> この著者は松果体とかチャクラ開花のことを本で書いていますが、エネルギー的な開発が足りていなくて、実際のところエネルギーは周囲から奪うことで自分を維持しているのかな、と思いました。<br /> <br /> 本人の課題はどうであれ、私に危害を加えていることがはっきりしましたので対処をします。<br /> <br /> 放っておけば危害を加えてこないのであれば何もしないのですが、本があるだけで読者にまでオーラの触手を伸ばしてきてエネルギーを奪うのであれば問題です。<br /> <br /> 私の対処としては、瞑想中に包帯のようなものをイメージで作り出してからその人の体をミイラのようにグルグル巻きにしてオーラの触手がその人から伸ばせないようにしました。最初は隙間からオーラの触手が伸びてきて気持ちが悪かったですが、文字通りミイラのように隙間なく全身を覆うことでその動きも治りました。<br /> <br /> これでしばらくはその本人はエネルギー枯渇状態になるかもしれませんけど松果体とかチャクラ開発だけでなく自分のエネルギー開発(クンダリーニ開発)にもっと熱心になってくれればなと思います。<br /> <br /> 私が巻いた包帯がいつになれば元に戻るのかはよくわかりません。誰か気がついたら解いてくれるのではないでしょうかね。自分のオーラを動かせないのできっと自分では解けません。そのうちインスピレーションで助けを求めて来たら何かするかもしれないですけど。<br /> <br /> その後、その著者の本は全てメルカリで売っ払ってしまいましたけどね。割と有名な人なのですぐに売れてすっきりしました。<br /> <br /> こういうのは瞑想中で起こっていることなので、本当のことかはわかりません。ですけど、いいのです。単なる瞑想録ですから。<br /> <br /> Sat, 08 Aug 2020 00:00:00 +0900 雑念が多いまま死ぬと彷徨う浮遊霊になります https://w-jp.net/2020/2012/ <br /> 個人には自由がありますから求めるものになるだけです。良いも悪いもありません。<br /> <br /> 生きている間に欲望に従って生きれば死んだ後も同様の生活が続くだけのことです。死んだ後に「無」になると思っている方も大勢いらっしゃいますけど、死んだ後のことを知らないのにそんなことを信じるなんてのは無神論という宗教に入信しているのと同じことです。それもまた個人の自由で、好きにすればいいと思います。生きている間に精神的なことに興味がなくて欲望に従って生きるのも自由ですし、そうなれば死んだ後もその欲望に従って生きることになります。死んでいますけど意識は生き続けますからね。死んだ後に「無」になると思うのであればそれも個人の自由です。好きに信じればいいと思います。<br /> <br /> 雑念が多いと死んだ後も欲望を満たそうとして想像を自分の周囲に作り出して欲望を満たしているかのような「夢見」の状態が続いたり、あるいは、地上のものを手に入れようとしてちょっかいを出したりするようになります。生きている人に話しかけて「○○が欲しい」「○○がしたい」「○○は面白そう」とかけしかけて生きている人間に自分の欲望を代理で叶えさせようとしたりします。あるいは憑依して行動させるということもあります。<br /> <br /> これらは幽霊と言えばそうですけど、幽霊にも色々とあって、それは生きている人間と同じことです。<br /> <br /> 生きている人間で元気な人もいれば落ち込んでいる人もいて、欲望に生きている人もいれば清貧に安らかに暮らしている人もいます。あの世も一緒です。あの世の生活を謳歌している幽霊も大勢いらっしゃいますし、幽霊は幽霊でもふらふらとどこ行く宛もなく彷徨う地縛霊あるいは悪霊とも呼べる霊もいます。<br /> <br /> これは、宗教を信じているかどうかとは直接的には関係がありませんけど、宗教的な事柄に多少なりとも理解があれば地縛霊あるいは悪霊になりにくいのは確かだと思います。生きているうちに宗教を奇異して物欲に生きた人は死後にふらふらと宛もなく彷徨う浮遊霊になる割合が多いような気が致します。<br /> <br /> 人は完全なる自由がありますから、その人の好きにすればいいと思います。地縛霊になって彷徨うからと言って悪いことはなくて、その人の勝手にすればいいのです。<br /> <br /> 直接的には雑念があるかどうかが関係していて、心が綺麗であればあるほど死後も幸せになれます。<br /> <br /> ですから、物欲まみれの生活を送っていても最終的に満足して雑念と物欲が消えた状態で死ねば死後も幸せになれます。しかし、欲望を抱えたまま死ぬと死後もその満たされない欲求が頭の中をぐるぐると回って欲望に支配される生活を続けることになります。<br /> <br /> 生きている間は体があるので体の制約によって例えば「お腹がすいた」とか「どこかが痛い」とかで強制的に「我に帰る」ということが起きますけど、死んでしまったらそんな感覚はなくなりますので、かなりの長い間、物欲の思いにずっと囚われることになります。<br /> <br /> お腹が空いたとかどこかが痛いとかいう感覚に惑わされずに物欲の思いにずっと浸ることができるのですから、その人の好きなだけずっと浸ればいいのです。<br /> <br /> これも程度があって、かなり低い欲望を抱えていたりすると悪霊ですし、普通の人であっても「幸せな生活をもう一度送りたい」とか「良い嫁、良い旦那とまた地上で生活したい」みたいなささやかな願望もあったりします。ですから欲望とは完全に無縁ではありえないのです。<br /> <br /> 地上の方が制約が多くて欲望を解消しやすいですけど、死んだ後でも欲望を解消できなくもないです。想像すれば周囲にパッとそれが魔法のように現れますから、あっという間に欲望を実現できます。あの世には制約はないのでやろうと思えばなんでもできます。ただし、相手の魂は自由にはならないです。自分のことであれば勝手にすればいいのです。その人の自由です。<br /> <br /> ある程度の幸せな死に方をすればいいですけど、欲望と不満がかなり残っていたりすると彷徨って浮遊霊とか呼ばれたりします。それはこの地上の欲望があの世までずっと続いている人たちです。<br /> <br /> 実際、そのような霊はこの世界に大勢いるのですけど、他人のことですからどうしようもありませんし、自分に関係がないのであれば放っておけばいいのです。あの世は時空の制約を超えていますからその物欲に何百年も浸り続ければいいのです。好きなだけ浸っていてください。誰もそれを妨げたりはしません。<br /> <br /> その一方で、物欲とは関係ないところで静かに暮らしている霊もあります。あの世は広いですから、同じ意識の状態の人たちとは交流があってもその他の人たちのことは見えないことが多いです。<br /> <br /> ですから、物欲まみれの人はそれなりの世界に住みますし、それは「欲求」「妬み」「恨み」「欲望」と言った種類のものですからその霊同士でトラブルも当然起こりますけど、私なんかからすればそんな他人のことに興味はありませんし放っておけばいいと思うので口にも出しません。<br /> <br /> ただ、こちらに危害を加えてきた場合は別で、まずは「あっち行け」「威嚇」をして、それでもしつこい場合は何段階かに分けての「封印」、そして最悪の場合は「魂を消去する」という方法も取られます。そんなことはほとんどしませんけど、かなりの危害を加えてきたら相手の魂を消し去ることもあり得るわけです。これは、干渉してきた場合のお話です。<br /> <br /> ですが、基本的にはあの世は自由が基本ですので、欲望に生たければその人の好きにすればいいと思います。<br /> <br /> 私の生き方とは違いますけどね。他人のことなのでその人の好きに生きればいいと思うのです。<br /> <br /> 死後の生活に興味がなくて死後は「無」になると思っていて欲望のままに生きている人は好きにすればいいと思います。なるようになるだけのお話です。<br /> <br /> Fri, 07 Aug 2020 00:00:00 +0900 忖度はテレパスの特徴 https://w-jp.net/2020/2003/ <br /> 日本人は自分たちがテレパスだということを自覚していないので忖度とか言われるといけないことのように思ってしまいますが、それはお人好しというものです。テレパスであれば相手の思いは分かりますし、それに応じて勝手に何かをしてしまうということはいくらでもあります。それをダメと言われるのは、日本人であることをやめろと言われているのと同じことです。<br /> <br /> 昔、中世で魔女狩りなんてありましたけど、現代は日本人狩りの時代ですよ。周囲の国の人々は日本人というものが分からなくて気持ち悪いのです。ですから排除して消し去ってしまいたいのです。それは魔女狩りと同じ構図です。<br /> <br /> それを、お人好しにも「そうか。忖度はいけないのか」と思ってしまって自分のテレパス能力を封印してしまう人が少なからずいらっしゃいます。ほんと、日本人は温室の中で育てられた世間知らずが多いのだなと思います。<br /> <br /> テレパスであるのならば相手の思いを汲み取ることができますし、政治家でもあればそれができて当然と言えましょう。それができずに相手の忖度を攻撃するのであれば、それはテレパス狩りと言っても良いでしょう。現代の魔女狩りです。<br /> <br /> 陰陽師は幕末に惨殺されて散り散りになっていますし、一般人で神と対話できたり守護霊と対話できたり相手の気持ちを読み取ることができる人はごまんといらっしゃいますけど、あまり口に出していないように思われます。それは、そんなことを言えば変に見られるという社会の風潮もありまし、見えないものが見えると精神科に連れて行かれるという現実もあります。<br /> <br /> とは言いましても、日本人が「空気を読む」のは当然と今でも思われていますので、その点、救いがあります。<br /> <br /> 身近な人のことを思うと、その人の気持ちがわかるでしょう。そして、それを「空気を読む」というでしょう。それがテレパスの基本です。<br /> <br /> 外国人はそれがあまりできない人が多くて、珍しいが故に海外では「サイキック」と呼ばれていますけど、日本人からしたらそんな「空気を読む」なんて普通ですから、言ってみれば海外から見たらかなりの日本人がサイキックです。そんな国が存在していたら海外からしたら気持ち悪くて国と民族を丸ごと消そうとするのも分からなくもありません。<br /> <br /> 日本人はもっと、自分自身がテレパスだという自覚を持った方がいいと思いますよ。<br /> <br /> この世界は非テレパスによって支配されていますからね。日本人は自分がテレパスということをあまり言わない方がいいですし、そのための処世術を身に付ける必要があると思います。少なくとも、テレパスである日本人をこの世から抹殺しようとしている勢力があることを知っておくべきかなと思います。その目的は「日本人を全員抹殺、あるいは、日本人全てからテレパス能力をなくすこと」ですから、どちらも防ぐ必要があります。<br /> <br /> そのような視点から見ると学校教育に仕掛けられた罠ですとか政治にまつわる罠、会社などの社会構造にまつわる罠がたくさん見えてきます。ここまで理解すればあとはいくらでも自分で見抜くことができます。<br /> <br /> Wed, 29 Jul 2020 00:00:00 +0900 テレパスのテレパシーは空気を読むことと同義 https://w-jp.net/2020/2002/ <br /> テレパスというとSFで出てくるテレパシーを使える人のことですけど、テレパシーを日本語でわかりやすく表現すると「察する」とか「空気を読む」という能力です。<br /> <br /> こう言われると「な〜んだ。そのくらい私もできるよ」という方が大勢おられると思います。そ〜んなもんです。<br /> <br /> 特に日本人であればテレパスなんて当たり前に近いものです。その能力の強さに違いはあれど、かなりの人がテレパスであると言えます。<br /> <br /> 日本人であっても空気を読めない方がいらっしゃいますけど、そう言う人はテレパスではないのです。外国人で空気を読めない、と言う場合もテレパスではありません。もちろん外国人にもテレパスはいます。<br /> <br /> この社会の構造はテレパスではない人によって作られておりますので、テレパス型の社会に変革する必要を感じております。特に非テレパスのシステムは日本人には合わないでしょう。<br /> <br /> 例えば、日本社会でありがちな「リーダーシップに欠ける」とか「トップが責任を取らない(連帯責任にする)」と言うのもテレパス型社会の特徴であると言えます。テレパスですと思考がお互いに行き来しますので「わたし」とか「相手」と言う感覚が希薄になります。アイデアであっても自分のアイデアなのか相手のアイデアなのかよくわからないことになります。<br /> <br /> その人たちのところに非テレパス型の社会構造を持ってきてトップが成果を全て手に入れる資本主義システムを適用しているわけですからトップにしても「俺が決めたのではない」となるのは当然のことでしょう。テレパス型の社会は全体の思想が強調して動きますからトップの責任というよりは全体の責任になります。それ故に無責任社会になると言えます。<br /> <br /> 非テレパスのシステムにもメリットはあって、素早く大きく変えるにはリーダーシップが向いています。この辺りは一般に言われている通りです。ですけど、テレパスの人たちに向かってリーダーシップがどうこう、というお話をしても響かないのが現状なのではないでしょうか。<br /> <br /> 特に日本人は、自分たちがテレパスで他の民族の多くはテレパスではない、という自覚が必要だと思います。多くの日本人は外国人に向かって「空気が読めない人たち」とか言っていますけど、テレパスではないのでそこには超えられない壁があるのです。そんな、空気を読めるかどうかで嘆くよりも非テレパスの人たちとの付き合い方を学ぶべきかなと思います。<br /> <br /> これは単純に「外国人が空気が読めない」ということでもありますけど、その奥には、テレパスの社会かどうか、という根本が違っているわけです。多くの日本人はそれを言語が原因だとか日本人が英語を学べばコミュニケーションギャップが解消するとか思っていますけど、問題はそこじゃありませんから。テレパスかそうではないか、というのは根本的に違うということを理解すべきだと思います。<br /> <br /> テレパスは相手にもテレパスであることを期待しますし求めますけど、それを外国人に求めるのはかなり無理難題でかなりの時間がかかる(無理ではない)ということを理解しておかないと日本人が国際社会でうまくやっていくことは難しい気が致します。<br /> <br /> テレパスの基本は単に雰囲気を読むことですけど相手の思い描いている背景を読み取るなんてのも普通にできます。というか、みなさん、普通にしていますでしょう? それができない、空気が読めない、つまりはテレパスではない人がこの地球上に多くいるということは知っておいて無駄ではないと思います。<br /> <br /> Tue, 28 Jul 2020 00:00:00 +0900 オーラのためにソーシャルディスタンスを保つ https://w-jp.net/2020/1997/ <br /> コロナは割と茶番ですけどオーラのためにソーシャルディスタンスを保った方がいいと思います。<br /> <br /> 特にエネルギー・ヴァンパイアの近くに行ったらエネルギーを根こそぎ吸い取られます。<br /> <br /> スピリチュアルな成長は意識としての成長とエネルギー的な成長があり、両者が組み合わさると能力としえ現れたりしますけど、エネルギー的な成長がなくてエネルギーを外から奪い取るような形でスピリチュアルな成長をしてしまうと変なオーラになります。<br /> <br /> エネルギー・ヴァンパイアは一見すると強い光を放ってはいるものの、どこか禍々しいオーラを放つようになります。<br /> <br /> チャクラがそれほど動いていなくてクンダリーニも動いていないのでエネルギーを自分で取り入れることができません。<br /> <br /> 自分自身でエネルギーを取り入れることができないのにも関わらずアジナチャクラや松果体等が活性化してエネルギーが使えるようになった人はエネルギーをどこかから入手しようとします。<br /> <br /> 能力を使うためにはどうしてもエネルギーが必要になるわけで、自分でエネルギーを作り出すことができないので周りの人から構わず奪い取るようになるわけですね。<br /> <br /> 恐ろしいですよ。<br /> <br /> 触手がグワーーーーーーーー と伸びてきて、特にお腹のあたりからエネルギーを奪い取っていきます。<br /> <br /> 触手は、例えるならば「鋼の錬金術師」で出てきた黒い影を持つ大ボス(名前忘れました)が影を伸ばして相手を捕まえるのに似ています。感じとしてはそうですが、エネルギーヴァンパイアの場合はその触手からエネルギーをグングン吸い取ってゆきます。触手は結構速いです。<br /> <br /> オーラも禍々しく歪んでいて、他人が近づくと自動的に触手が触れてエネルギーを奪うようです。<br /> <br /> 本人はそれに気がついているのか気がついていないのか? 自覚しているとしたら大悪人ですし自覚していなくてスピリチュアリストを名乗っているのだとしたら大迷惑な人です。<br /> <br /> それは、また違うものに例えるならば、「ナルト」に出てきた「屍鬼封尽 (しきふうじん)」の術にも感じが似ています。漫画では封じるための術でしたがそこは似ていなくて、封じると言うより、相手のオーラをお腹から根こそぎ無理やり引き抜く、というところが似ています。<br /> <br /> この種のエネルギーヴァンパイアは世間によくいますけど、他人からエネルギーを奪わない限りは好きに生きればいいと思います。この世界は自由な世界ですから自分で勝手に生きるのは全く問題ないわけです。ですから、エネルギーヴァンパイアが悪いと言うよりも、他人のエネルギーを奪うことだけが問題です。<br /> <br /> 誰しもクンダリーニ覚醒がうまくいくわけでもないですし、エネルギー不足の状態でエネルギーを使おうと思ったらオーラが勝手に伸びて周囲の人から奪おうとするでしょう。エネルギー保存の法則じゃないですけどエネルギーというのは高いところから低いところに流れるのです。<br /> <br /> 能力が使えるからと言ってスピリチュアルで成長しているとは言えない、というのは有名なお話ですけど、エネルギーが足りていないのに能力を使おうとするからエネルギーヴァンパイアになるのです。<br /> <br /> この辺り、よく分かっていない人も大勢いらっしゃるように思います。<br /> <br /> セミナーとかで人を集めて顧客からエネルギーを奪って能力を保っている人もいらっしゃるようです。あるいは対談をして対談相手からエネルギーを奪って生活しているような人ですね。<br /> <br /> そのような人と関わり合いを持つべきではありません。<br /> <br /> 関わり合いを持ってしまった時の対処法としては、これは可能な人に限りますけど、可能であるならばエネルギーヴァンパイアのオーラを封印してしまえば良いです。<br /> <br /> オーラがゆらゆらと禍々しい輝きをして周囲からエネルギーを奪うのですから、そのオーラを封印してしまって、ついでにアストラルの視界と聴覚も封印してしまえばスピリチュアルな能力は一時的に封印されます。<br /> <br /> 封印できる人がどのくらいいるか知りませんけど、とある人の例で言いますと、道を歩いていて自分に危害を加えようとしている人、あるいは数分後、数十分後、あるいは翌日にエネルギーバンパイアしてくるような人がいたらあらかじめ霊的に相手を封印しちゃいます。<br /> <br /> 特に悪気がないようでしたら自分と関わり合いがなくなった頃、例えばすれ違った後に封印を解いてあげますけど、解かないとその後どうなるのかよくわかりません。ずっと封印されたままということはない気もしますけど、しばらくは封印されているように思います。<br /> <br /> それは、道を歩いていて、急に攻撃を仕掛けられたようなものです。<br /> <br /> オーラのエネルギーヴァンパイアをするということは、霊的に言えば「攻撃」ですよ。攻撃されたのだから反撃しても全く問題ありません。<br /> <br /> かと言って相手を傷つけるのは大変ですから、相手のオーラを包帯みたいなのでグルグル巻きにして全身を囲ってしまえば相手のオーラは周囲を感知できなくなりますし、エネルギーヴァンパイアもできなくなります。<br /> <br /> 本人にしてみればいきなり周囲を全く感じられなくなるので恐怖でしょうけど、それは自分が先に攻撃を仕掛けてきたのが悪いのです。<br /> <br /> 職場とかでもね、エネルギーヴァンパイアで生きている人は大勢いらっしゃいますよ。そんな人とは関わらないことです。近くの席にいて攻撃を仕掛けられているのならば相手を封印してしまえばいいのです。それは相手が悪いのですからそのくらいの自己防衛は問題ありません。<br /> <br /> Thu, 23 Jul 2020 00:00:00 +0900 ジョブスは神の怒りを買って処分された https://w-jp.net/2020/1982/ <br /> 一緒にアップルを立ち上げたウォズニアックは神の如き人格なのに対してジョブスは人を煽って世界の不幸を加速させたが故に神の怒りを買って処分されたようです。<br /> <br /> ・・・瞑想中で見たお話ですので本当かどうかはわかりません。ファンタジーだと思っておいてください。<br /> <br /> どうやら、とある神はジョブスに苛ついていたようです。<br /> <br /> 他人と分かち合うことをせずに世界を煽りに煽って自分の製品を高値で売り抜ける手法は神の本意にはそぐわないようです。<br /> <br /> 実際、アップルの製品は半分はアップルマークがついている故のブランド価格ですし、寡占化してしまえばソフトのサブスクリプション等で利益は思うがままです。<br /> <br /> 良い製品を出すということは問題ではありません。<br /> <br /> 問題なのは、良さを煽ることでアップル製品が買えない数十億の人たちの不満を増大させるという点にあります。不満、妬み、恨み、怒り。そのようなものをジョブスが世界中にばら撒いているのです。それも数十億人の単位で不満をばら撒いているのであれば神も懸念します。<br /> <br /> 本人はそのつもりがないのかもしれませんが、やっている行動が多数に影響を与えてこのような不幸を世界中に大量生産すると神の怒りを買うということのようです。<br /> <br /> アップル製品を半額以下のお手頃価格にしてライセンス料金も良心的な価格にし、更には財産を人に分け与えるということをジョブスには期待されていたようですが、そのようなことをせずにプレミアをつけ続けたが故に神の堪忍の尾が切れたということのようです。<br /> <br /> 神は、そのような独占を加速させるジョブスを許さなかったようですね。<br /> <br /> ジョブスを神格化している人も大勢いらっしゃいますけど、神そのものというよりは、神によって選ばれ、やがて神の怒りを買って処分された人間だ、ということのようです。<br /> <br /> ジョブスが禅を学んで実践していたというお話はよく聞きますけど、それも神によって導かれたもののようです。しかし、それを個人的に実践はしていても他人と分かち合うという精神を広く発揮できなかったが故に処分されたようです。<br /> <br /> 影響力が大きい人はそれなりに大きなものが求められるということですね。<br /> <br /> iPhoneのようなインスピレーションはそれが可能な人には神が与えることがありますが、往々にして自分のアイデアだと思いがちのようです。しかし、それは実際は神が与えたものなのですよね。<br /> <br /> それを勘違いして自分のものとして利益を享受したら神に処分されるということのようです。<br /> <br /> 処分とは言っても、そこは神ですから、「もう十分だ」ということのようです。これ以上続けると独占と利益重視の王国が堅固になるため、それはさすがに許容できないということのようです。今でも既に許容範囲を超えていますが、更に堅固になることは絶対に許されなかったようです。<br /> <br /> このように、神に選ばれたものの使命を果たした後は変な方向に行かないように早急に早死にする方は大勢いらっしゃいます。聖人のような方ほど早死にするとはよく言ったもので、それは、聖人が不幸にあうというよりは聖人がこの世に生きていると堕落してしまうのでそれを避けるために早めに死ぬという面もあります。それは自身のスピリットが自分のためにそのように選ぶ場合もありますし、ジョブスのように他の神の怒りを買って処分される場合もあるようです。<br /> <br /> Wed, 08 Jul 2020 00:00:00 +0900 サードアイとフォースアイ https://w-jp.net/2020/1979/ <br /> 第三の目(サードアイ)とはよく言われていますけど、目といいつつ、実際のところ肉眼のような視界ではなく直感力が鋭くなります。ですので、肉眼のように微細な霊界が見れるようになるわけではありません。<br /> <br /> その先にある、俗に言うフォースアイであれば周囲も見られますし時空も超えられます。周囲から自分を外側から見る能力はサードアイではなくてフォースアイの能力です。<br /> <br /> ただし、そのことをサードアイと言っている方もいらっしゃいます。この辺りは流派によってそれぞれですね。<br /> <br /> 先日、リシケシ在住のスワミの講和を聞きましたがサードアイは視界のことではなく直感力およびポジティブな力のことだとおっしゃっていました。ですから、サードアイによって視界が開けると言うわけではないようです。<br /> <br /> この辺りは、実際の姿は同一でも、その表現が異なるわけです。<br /> <br /> 流派によっては直感力やポジティブ力のことはサードアイだとはいいませんけど、先日私が聞いたリシケシ在住のスワミのお話だとそんな感じでした。<br /> <br /> 私個人の言い方ですとこのスワミに似ていて、直感力みたいなものはサードアイの範疇で、時空を超えたり自分の周囲を自由な視点で見るのはフォースアイ的なものの力です。<br /> <br /> サードアイまででも時空を越えることはできますが受動的なものになります。自分で探しに行くというよりは直感を受け取る力になります。直感を送る方は時空を超えた先の未来の自分だったり過去の自分だったり守護霊のスピリットだったりするわけですが、それを受け取るのがサードアイの能力です。送る能力もあるにはありますけどこのくらいですとそんなに力は強くないと思います。大体の感覚を送ったり受信したりする能力がサードアイの基本的な能力です。<br /> <br /> その先にあるフォースアイは、最初の場所としてはサードアイのあたりで近いですがクリスタルのコアのようなものがアストラルで作られて、そのクリスタルが周囲を見たり時空を超えたりします。飛行機やドローン、あるいは地球の外に浮かぶ人工衛星や宇宙船みたいなもので、離れたところからの映像を自分のサードアイに送信します。それがフォースアイです。<br /> <br /> これはサードアイとしての基本的な送受信能力に加えてアストラルのクリスタルの両方が作られて初めて発揮する能力です。前者だけですとサードアイですし、後者のこともサードアイと言ったりもしますけど私はフォースアイと呼ぶ方がしっくりくると思っています。<br /> <br /> サードアイは英語で「3番目の目 3rd Eye」、フォースアイは「4番目の目 4th Eye」です。フォースと言ってもジェダイのフォースではないのです。語呂合わせがいいのでそう言うことにしてしまってもいいかもしれないですけどね。<br /> Sun, 05 Jul 2020 00:00:00 +0900 プレアデスの宇宙船で暮らした時のお話 https://w-jp.net/2020/1978/ <br /> ・・・ファンタジーだと思っておいてください。<br /> <br /> 私のグループソウルの過去生において、宇宙船に暮らしたことがあります。<br /> <br /> 前にも少し書いたような気が致しますが、その時は確かヨーロッパの方で教会かあるいはそれに類する思想家のような立場で暮らしており、ある程度は有名になっておりましたので宇宙人が定期的に観察をしており、やがて、宇宙船が降りてきてコンタクトしてきたのです。<br /> <br /> 実際のところ未来予知の能力もそこそこありましたので子供の頃からそれは予感しており、それが来た時は実物を見て驚きはしましたし感動もしましたが予見が実現したという思いも同時にありました。<br /> <br /> それはたぶんプレアデス系の宇宙船だったのではないかと思うのですが彼らはとても長寿で、その時に知り合った人たちは未だ存命のような気が致します。たぶん200年は経っているとは思いますが。<br /> <br /> 宇宙船と言ってもかなり広く、いわゆるアダムスキー型のような円盤の形をしておりますが円周は数キロはあったように思います。広すぎず、かと言って狭すぎない程度です。<br /> <br /> 子供が大体10人くらいいて、家族ぐるみで生活をしていたように思います。人数は数百人くらいだったでしょうか? 選ばれたメンバーが母星から遥々と遠征してきており、定期的に補給物資を運ぶ輸送船が来ていたりしていましたが基本的には独立して活動しておりました。<br /> <br /> その時、どうやらプレアデス系の宇宙船は地球との関与を久々に再開したばかりで、人間を知りたがっていました。<br /> <br /> この背景は半世紀前に話題になったスイスのビリーマイヤーによるコンタクト記録などに詳しいですが、最近の書物ですと「プリズム・オブ・リラ」などにもその背景が描かれております。細かいところは当たらずとも遠からずという感じで、基本的には参考になると思います。<br /> <br /> いわゆる宇宙艦隊といいますか宇宙連合が組織されていて、人間型宇宙人の一角をプレアデスが占めております。そして、地球だけでなく他の星の精神的成長を助けたりしています。<br /> <br /> 例えば、私もその後、宇宙艦隊のメンバーになって他の星に転生したことがあります。<br /> <br /> 具体的には、卵に手足がちょこんとついていて可愛い目と口がついているような生命体でしたが、今の地球のようにエゴが前面に出ていて自尊心が強く独占欲が強く、その星の生命体の精神を向上させるというミッションでした。<br /> <br /> 宇宙連合のメンバーは宇宙船から惑星を観察したり、時には上記のように実際にその星に転生したりして任務を全うしました。<br /> <br /> もちろん、この地球に転生をしてきている人も大勢いらっしゃいます。<br /> <br /> 人間の転生とプレアデスの転生はちょっと変わっていて、人間の場合は転生の時点でグループソウルといいますかハイヤーセルフといいますか根元と一旦一緒になってから再度分裂して転生をする、ということを行っておりますので前世と今世の魂が同じようでいて異なる質として生まれます。<br /> <br /> 一方、プレアデスの場合はまず寿命がとても長く、転生するにしても同じ魂がそのまま新たな肉体に宿る、あるいはアストラル体のまま生き続ける、という選択をするように思います。<br /> <br /> ですから、プレアデスの人からすると人間の転生は不可解で、どうして前世であのような資質を持っていた人が来世でこのようになるのか、そこのところが最初は理解できなかったようです。その辺りもプレアデス人の興味を引くところで、地球人はプレアデス人にとって興味深い観察対象だったと言えます。<br /> <br /> プレアデス人は地球の軌道上から地球を観察しているわけですが、基本的に地球は「野蛮で危険なところ」という認識です。ですから、地球に転生をしたいという人に対しては「やめたほうがいい。危ない」というのが常でした。<br /> <br /> プレアデス人の気質は何事にも興味を持つ探求心を持っており、技術にも優れておりましたので工作による改造やら趣味やら、とても人間臭いところを感じました。<br /> <br /> プレアデス人は地球の人が思うような神のような存在ではなく、親しみのある愛情豊かな人間であると言えます。実際、向こうも自分たちのことをそう思っております。<br /> <br /> それはアメリカ人のオープンな気質とも似ています。<br /> <br /> プレアデスの技術はアストラルな面にも及んでおりますので、地球の観察をする時は観察対象の人が頭の中でどのようなことを考えているかを読み取ります。口でどのようなことを言おうとも、どのような時であれ頭の中まで観察できますので本気になって調べられたら誰であろうと頭の中まで裸にされてしまいます。それが技術の差です。<br /> <br /> そんなことをしていますと地球人の恥ずかしいところもよく目にしてしまうわけですが、それを読み取ったとしても恥ずかしいことは相手に言わない、あるいは、見て見ぬふりをする、という紳士の誇りというか紳士の名誉のような不文律がありますし、地球人の恥ずかしい面を見たところでプレアデスの人は気にも止めません。プレアデスの人は相手を貶めて辱めるようなメンタルにはありませんから、そこは安心して良いと思います。<br /> <br /> その後、私はプレアデスの居住星の方でも転生したことがありますけど、プレアデスの人はメンタルが平穏すぎて地球育ちの人が生きるには純粋すぎてちょっと息苦しい感じを受けました。透明な水の中で生きられない魚の気持ちがわかりました。<br /> <br /> プレアデス人の性に対する感覚も違っていて、プレアデスの人にとって性とは子供を作る手段であり、地球の人のように性でコミュニケーションを取るというよりも性を超えた普遍的な愛の先に子供という選択があって、子供を作るために性を用いる、という感じでした。よって、性的な接触は最低限しかありませんし、地球人のように性的欲求のためにコトを行う、ということはあまりないようです。それよりも、語り合ったり近くにいたりという純粋な愛情表現が優先されているように思われました。<br /> <br /> ですので、地球の人がプレアデスの世界で暮らすのはおそらく窮屈で欲求不満になってきついと思います。あまりプレアデスのような世界に憧れるよりは今いるこの地球で満足に暮らすほうが幸せだと思います。上の世界を夢ていたとしても、今いる世界が自分に一番あっているのだと思います。<br /> <br /> 地球の場合は幼い頃から学びを続けて大体40歳前後で真実を悟り、それ以前の生活とは変わるような気が致します。一方で、プレアデスでの場合は幼い頃からかなりの真理を悟っている気が致します。プレアデスの環境は地球の人が学ぶべきことを学べない環境ですので辛いと思います。<br /> <br /> プレアデスの世界は、ヨーガ的基準で言うとアナハタ以上の世界です。地球の聖者と言われている人がプレアデスでの普通です。聖者だらけの世界に生きたら、普通の人は苦しいと思いますよ。<br /> <br /> メンタル的にはそのくらいの違いはあっても、人の資質としては上のようにオープンで気軽で楽しい人たちばかりです。<br /> <br /> 宇宙船の司令室は宇宙戦艦ヤマトのように天井が高くなっており、どちらかというと銀河英雄伝説に出てくる自由惑星同盟の戦艦の司令室の方がイメージに近いですね。広さはそこまでではありませんけど感じとしては似ています。<br /> <br /> SFはファンタジーだと思われていますけど、意外に現実に即しているとよく思わされます。スターウォーズなんてオリオン大戦そのものですよね。<br /> <br /> Sat, 04 Jul 2020 00:00:00 +0900 スピリチュアルも宗教も思想も全部一緒 https://w-jp.net/2020/1976/ <br /> よく分かっていない人だけが分けたがります。<br /> <br /> 思想も「信じなくてはならない」という誤解があります。<br /> 宗教も「信じなくてはならない」という誤解があります。<br /> スピリチュアルも「信じなくてはならない」という誤解があります。<br /> <br /> 例えば思想の「唯物論」にしても、単なる論ですのにあたかも絶対的な真理として語る人がいます。それは宗教みたいなものです。<br /> <br /> ダーウインの「進化論」にしても科学の絶体的な真理みたいに日本では語られていますけど、単なる論です。科学というのは証明が必要ですから実際に進化論を証明するには何万年もかかります。タイムマシンでも発明しない限り証明は遥か先のことになりますから、所詮は理論に過ぎません。<br /> <br /> 科学の大御所といえばノーベル賞ですが、進化論のような生物学でノーベル賞なんて聞いたことがありません。進化論なんてそのようなものなのに絶対的な真理だと思い込まされていて、「信じなくてはならない」という圧倒的な雰囲気に飲み込まれているのが日本です。これは宗教とそう変わりがありません。外から見たら、進化論を信じなくてはならない宗教団体のようなものです。<br /> <br /> 思想は単なる表面的な思いですので人間の頭が作り出したものです。<br /> <br /> 宗教にしても表面的なものがあって、それは人間の頭が作り出したものです。<br /> <br /> スピリチュアルにしても表面的なものは人間の頭による創造物です。<br /> <br /> 思想はもともとはピタゴラス派のように神秘主義の団体によって形成されたものですので、宗教みたいなものです。思想が科学だと思っている人も多いですが、思想は宗教みたいなものです。<br /> <br /> スピリチュアルにしても誰かの頭によって作られたものです。であればスピリチュアルも宗教みたいなものです。<br /> <br /> どちらにせよ、作った当初は柔軟で本質に近いものでしたが、時間が経つにつれて形骸化してもともとの本質が失われるが故に避けられるようになるわけです。<br /> <br /> 今でこそ宗教が避けられていますが、宗教が作られた当初は現在の「思想」とかの意味に近かったと言えます。<br /> <br /> 今でこそスピリチュアルに新しいイメージがありますが、宗教が作られた当初、あるいは、思想が作られた当初は新しいイメージがありました。<br /> <br /> 何であれ、新しく作られるものに対しては良いイメージがあって、古いものは避けられるということです。そして、新しいものは生きていて、古いものは死んでゆくということです。<br /> <br /> 思想も古くなり、死んでゆき、宗教も古くなり、死んでゆき、やがてはスピリチュアルも古くなり、死んでゆきます。<br /> <br /> しかし、思想を選んだとしても宗教を選んだとしてもスピリチュアルを選んだとしてもその本質は変わらないわけです。<br /> <br /> 宗教は1つだけ選ばなくてはならないと思っている人がいらっしゃいますけど、この世の中の徒弟制度にしても流派にしても、かなりのものが「1つだけ選ばなくてはならない」ものだらけですので、宗教だけ避けているのも何だかなあ、という気が致します。<br /> <br /> 昔から新興宗教みたいなものは多くありましたし、今更になって増えたわけでもありませんし。昔は宗教というよりもミステリーサークルみたいな神秘主義の集まりだったものが今は宗教団体という形を取っているだけです。<br /> <br /> 昔からカルトはいましたし、カルトは宗教団体だけのものではなく思想団体にも多くみられました。<br /> <br /> 思想も宗教もそれほど変わりがないと言えます。<br /> <br /> 昔はミステリーサークルでしたが、今はそのような任意団体だけが宗教になっているわけではなく、宗教団体を隠れ蓑にした税金対策みたいな変な団体もいたりして、宗教法人というものが利益のためにも使われている点が純粋ではないとは言えますが、昔からそういう資金流用とかはありましたので今に始まったことではありません。<br /> <br /> 「信じなくてはならない」という宗教は実際のところそれほど多くありません。初心者向けに「信じなくてはならない」と言っているだけで、実際は、本人が理解して経験しなくてはならないことだらけです。<br /> <br /> 中級者以上になったら「信じなくてはならない」なんて言われません。<br /> <br /> 思想にしても自分で考えるでしょう。<br /> 宗教にしても自分で瞑想して本質とは何かを考えて理解しようとするでしょう。<br /> スピリチュアルにしても自分で探索して自分の頭で理解・体験しようとするでしょう。<br /> <br /> どれも大差ないと言えます。<br /> <br /> もっと拡張すれば、ヨーガとかも広義における思想・宗教・スピリチュアルに含まれます。<br /> <br /> もちろん仏教もそうですし神道もそうです。キリスト教も同じです。一神教にせよ多神教にせよ、単に伝え方が違うだけで本質は同じです。<br /> <br /> ただ、住んでいる環境や人の性質に応じて違った様相が現れているだけのことです。<br /> <br /> 思想にせよ宗教にせよ、何某か導く人は現れますし、その人を先生と呼ぶかグルと呼ぶか教祖と呼ぶか教授と呼ぶか博士と呼ぶかはそれぞれですけど、大差ないと言えます。<br /> <br /> どちらにせよ、他人を従属したいと思っている団体はその程度ですし、本質を見極めたいと思っている団体にしてもそれぞれです。<br /> <br /> 自分の宗教があるから他の宗教はできない、みたいな方もいらっしゃいますけど、本質は同じですのであまり拘らなくてもいいのではないかと私なんかは思いますけど、1周目であれば1つの宗教なり思想なりにどっぷり使った方がいいと思うのも確かです。<br /> <br /> 最初は1つの流派でとことん極めて、その理解を元に他の流派の理解を深めてゆくのもいいかと思います。<br /> <br /> どちらにせよ、本質は変わりません。<br /> <br /> Thu, 02 Jul 2020 00:00:00 +0900 我思う故に我ありと教えられて思考をフル回転させようとする愚かさ https://w-jp.net/2020/1973/ <br /> 子供の頃に先生から習ったでしょう。「我思う故に我あり」とか説明されて、「心が自分なんだ」「思いが君なんだ」「思考が君なんだ」と教えこまされたでしょう。 それ、嘘ですから。<br /> <br /> いわゆる「頭の良い人」とは思考をフル回転させることができる人だと習ったでしょう。<br /> <br /> 延々と思考が続いて論理がフル回転し、話をし出したら止まらない人。いますよね。<br /> <br /> 学校の教育では「答え」を出す必要がありますから「問題」がインプットで頭をフル回転させて「答え」を出す機械の人間が頭が良いとされます。<br /> <br /> それ自体は問題ないのですが、フル回転しなければ「自分」がいなくなってしまう、という根本理解が問題です。<br /> <br /> だって、「我思う故に我あり」ですからね。<br /> <br /> 頭を回転させていなくて思考していなければ「私がない」ってことになってしまいますから、私が存続するためには必死になって頭をフル回転させる訳です。<br /> <br /> 思考を止めてしまったら「私」がいなくなる、ってことですから。<br /> <br /> ・・・これが、普通の教育で教えられることです。<br /> <br /> 「思考を止めるな」と教わります。・・・学校にもよるかもしれませんけど、少なくとも受験や勉強ではこの辺りが根本的思想になっていると思います。<br /> <br /> 思考を止めると私がいなくなってしまうのでしょうか? という子供の質問に対して先生は「そうだ」と答えたり、曖昧な答えでぼかします。子供は素直ですから、思考が私であるならば先日私が思い描いた残忍な思考や下ネタも全てが自分だと思って嫌悪感に浸ります。<br /> <br /> この辺りの、「自分とは何か」という教えが、ヨーガやヴェーダで教えられているところと、学校教育で教えられている「我思う故に我あり」とで全く異なっています。<br /> <br /> 学校教育では「我思う故に我あり」ですから思考がなくなったら自分が消えて無くなり、残酷な考えを抱いたら自分が残忍だということであり、下ネタを思い描いたら自分がすけべだということになります。しかも、思考を止めたら自分がなくなってしまいますから考えを止めずに24時間ずっと思考を続けていることを強要します。・・・・まあ、先生によるのかもしれませんけどね。<br /> <br /> 昨今ではネットでの情報も増えて学校の先生のお話を真に受けることも少なくなったかもしれませんけど、一部ではまだこんな意味不明な教育が行われているように思います。<br /> <br /> その愚かさの根本は、思考が自分だと思っている点です。じゃあ、思考がなくなったら自分もなくなるのでしょうか? 一部の教育者は思考がなくなったら自分がなくなると思っています。それが自我であると一部の教育者は主張します。<br /> <br /> 実際、考えるべきことはそんなに多くないのに、「自分」を失わないために思考を頭の中に詰め込んで24時間ずっと頭を動かし続けるというこの社会・・・・。まともではありませんよ。<br /> <br /> その思考の中に、マスコミが埋め込む宣伝を入れたら消費者は一斉にそれを買うので会社は大儲けするでしょうし、戦争やヘイトスピーチ、いくらでも他人が大衆をコントロールできるようになります。<br /> <br /> 根本には、「我思う故に我あり」という間違った考えが浸透しているから大衆コントロールが簡単になっているのですよね。<br /> <br /> 何かの疑問やトピックに対しては全て答えを用意しておいて、その答えこそが正しいとすり込みさえすれば「反応」しかしないようになり、大衆の反応が予想可能になり、商売にせよ政治にせよいくらでも掌で踊らせることができるようになります。<br /> <br /> その根本は「我思う故に我あり」だと思っているから、自分の頭を自分でコントロールできていないのですよね。ヨーガ的に言えば思考なんてのは一時的なものであって「自分」ではないです。思考を自分だと思っているから自己が汚れたとか自分が間違っているとか勘違いをするのですよ。<br /> <br /> 最近はこういうことを教えてくれる人も多いので、昔ほどは教育で汚されることも少なくなった気もしますけどね。それでも、特に年配に昔の教育の弊害が残っているような気が致します。<br /> <br /> Mon, 29 Jun 2020 00:00:00 +0900 精神病のエネルギーヴァンパイアは隔離すべき https://w-jp.net/2020/1972/ <br /> これは、精神病を卑下するように言っているのではありません。精神病はオーラの境目が曖昧で激しく揺れ動いているために近くに誰かが近づくと精神病患者のオーラが健常者と混ざってしまって病気が移ってしまうからです。<br /> <br /> 特定病原菌にかかった患者は隔離するでしょう。病原菌であれば三次元の物体で隔離できますのでやりやすいですがオーラの場合はある程度は壁も通り抜けますので絶対的な距離を保たなければ周囲の人のオーラが破損してゆきます。<br /> <br /> 昔と違って学校などでは精神病患者と健常者が同じ教室で過ごすようになって来ているようですが、私も子供の頃にオーラが不安定な人の横の席に座らされてオーラを延々と引き抜かれたことがあります。横にいるだけでオーラが奪われて、私が精神的に不安定になってイライラしやすくなる一方で、どんどんとその知恵遅れの人の症状が回復してゆくのです。<br /> <br /> まったく、いい迷惑です。<br /> <br /> これは、先日書いたようにオーラを混ぜてはいけないと言う宇宙の法則に反しています。<br /> <br /> 生命体はそれぞれの進化の度合いがあってそれぞれの学びがありますから、オーラを奪うことでその学びを飛び越えてしまうと「抜け」ができてしまうのです。<br /> <br /> 私もどうしてこんな宇宙の法則ができたのかその根元までは知りませんが、どうやら地球以外では広く行き渡っている法則のようです。<br /> <br /> ですから、精神病患者は単に動物から人間になる成長過程を学んでいるだけであってそれが悪いことではなくて卑下する必要もなくてそれなりに生活しさえすればいいのに人間は平等だからとか言う訳の分からないイデオロギーに洗脳された教育現場で「知恵遅れの動物人間」と「普通の人間」とを隣に座らせたら普通の人たちの精神が不安定になるのも当然と言えます。<br /> <br /> その状況を見て「学級崩壊」とか言っていますけど、一体、どこをどう見て学級崩壊だと嘆いているのかサッパリわかりません。<br /> <br /> そもそもの原因は精神の成長段階が異なる人たちを同じ部屋に詰め込むから学級崩壊と呼ばれていることが起こるのです。<br /> <br /> 今の学校教育は最悪ですよ。<br /> <br /> 昨今、コロナでネット授業になってホッとしている人も多いのではないでしょうかね。<br /> <br /> 近くにいるだけで精神が病む人がいて、その人と対面で会う必要がありませんからね。<br /> <br /> 今の学校教育、もっと言えば社会のほとんどでエネルギーヴァンパイアが有利なようにできています。嫌がらせをして精神病でいた方がエネルギーが奪えると言う社会構造が出来上がっています。<br /> <br /> まずは教育から変えないといけませんよね。<br /> <br /> 子供はある程度は耐えてしまいますけど、耐える必要はないと私は考えます。<br /> <br /> 合わない人とは付き合う必要がありません。<br /> <br /> 学校の先生に「誰々君は友達がいなくてかわいそう」とか言われても、エネルギーヴァンパイアと友達のふりをしてエネルギーを奪われ続けるよりは友達なんて作らない方が良いです。そのような多様性を学校の先生は理解する必要があります。先生はあまりにも1つのステレオタイプに合わせようとしすぎます。学校や先生によるところは大きいとは思いますけど、所詮は人間ですから子供のことなんて真には分からないのです。子供は、そんな程度の先生を信じすぎないことですね。特に、友達と仲良くしましょうとか言ってくる先生には要注意で、複雑な人間関係を理解していない、魂として成熟していない若い魂である可能性があります。<br /> <br /> 動物上がりの動物人間とどうやって理解し合えと言うのでしょうかね。学校の先生が言うことは訳が分かりませんよ。<br /> <br /> 先生の強制や、会社での強制で動物上がりの動物人間と付き合った結果、まともな人の精神が崩壊するのです。<br /> <br /> そうして、精神が崩壊した人を指して「あいつは頭がおかしい」とか、まさにその動物人間が状況も理解せずにエネルギーヴァンパイアしつつ他人を蔑むのが現在の社会の姿です。頭がおかしいのは動物人間であるのに、そんな動物人間と付き合って精神が疲れてしまったまともな人が頭がおかしいと動物人間に言われると言う奇妙な現象が起きています。<br /> <br /> ですからね。最初から動物人間のような精神病のエネルギーヴァンパイアとは付き合わないことですよ。<br /> <br /> 子供の頃から、最初から付き合わないことです。会社でも付き合わないことです。<br /> <br /> 学校では登校拒否していいし、会社であればすぐに辞めてもいいです。<br /> <br /> ちょっと前なら人生に困りましたけど、今はいくらでも手がありますし、やがてはそう言う子供がどんどんと増えて行きますから、お互いに同じような子供たちでシステムを作り上げてゆくことと思います。<br /> <br /> その時、新しいシステムに入ることができるのはまともな人間だけであり、エネルギーヴァンパイアの動物人間はそのシステムに加わることを拒否されることになります。<br /> <br /> そろそろその入れ替わりの時期なのでは、と思います。<br /> <br /> エネルギーヴァンパイアしてこの世の春を謳歌していた動物人間たちは、そのうち、いつの間にか自分たちの居場所がなくなっていることに気が付くと思いますよ。<br /> <br /> エネルギーヴァンパイアにエネルギーを与える人がいるから現在の社会が継続するのです。まずは意識の中で「私はもうエネルギーを奪わせません。私はもうエネルギーを奪いません。」と宣言しましょう。そうすることで自分のエネルギーの動きが変わっていって、自分をカモだと思っている人が少しづつ減ってゆきます。<br /> <br /> エネルギーヴァンパイアは、親切かどうかとは関係がないですよ。親切そうに見せておいて他人のエネルギー、他人の労力、成果を奪おうとしている人はいくらでもいます。そう言う人は全員、エネルギーヴァンパイアです。奪われることを拒否して、「自分でやってください」と宣言することです。<br /> <br /> 「仲良くしましょう」みたいなのはエネルギーヴァンパイアの常套句です。そんなことを言う人がいたら気を付けましょう。<br /> <br /> 本当に仲良くすべき人はそんなこと言わなくてもお互いに分かりますよ。まずは、エネルギーヴァンパイアのエネルギー供給元であることを辞めることからですね。そうして自立して、それからようやく本当に仲良くすべき人が現れます。自立していない人には仲良くとかそう言うお話はありませんからね。<br /> <br /> まずはエネルギーヴァンパイアを拒否し、次は、自立することですね。<br /> <br /> 見分け方として、一見良い人のように見えるが何か違和感を感じる人がいたとします。違和感があるので仲良くするのをやんわりと拒否したら「潰す」とか脅してくるのがエネルギーヴァンパイアです。分かりやすいでしょう? 最初に感じた違和感を大切にしましょう。騙されないことですよ。<br /> <br /> 自立するまでは仲良しごっこを拒否すると言うのも手ですね。子供は、本当の自立が何かすら分からないかもしれませんから、社会がわかるようになるまで他人には気を付けることです。<br /> <br /> 大人は、子供に向かって「友達と仲良くしましょう」なんて無責任なことを言わないことです。よく見て友達は選ばせましょう。そうしないと同質化してエネルギーヴァンパイア化してしまいます。それが子供というものです。<br /> <br /> 多くの人は、エネルギーヴァンパイアして他人からエネルギーを奪うことが自立だと勘違いしていますからね。それって自立じゃなくて他に依存していることに気がついていないんですよね。世の中、その程度ですよ。その程度の認識で自立だとか言っている人が大勢います。<br /> <br /> まあ、この世の中は難易度高いですからね。かなりの場合にゲームオーバーになりますからね。本来の目的を達成できずに寿命を迎えます。そんなものですよ。<br /> <br /> 子供が変になったとしても、あまり嘆かないことです。難易度高いゲームに挑む子供が失敗しても、そんなものだと思った方が気が楽かもしれません。<br /> <br /> 親も同類なら逆にエネルギーヴァンパイアになることが成功だと思ったりしますからね・・・。勝手にしてくれ、って感じです。私に関与しないでください。<br /> <br /> 今の世の中で子供を育てるのはなかなか難易度が高いですからね。今の時代に子供は作らない方がいいと私なんかは思います。前世まで普通でも、この時代に生まれたらおかしくなる可能性が高いですから。<br /> <br /> Sun, 28 Jun 2020 00:00:00 +0900 スピリチュアルな人は印象で他人をすぐに判断しがち https://w-jp.net/2020/1971/ <br /> そうでない人も大勢いらっしゃいますけど、割と昔からスピリチュアルな人ほど他人をすぐに初印象で判断しがちな気が致します。特に生まれながらに能力がある人たちがその傾向が強い気が致します。<br /> <br /> 他人を理解する時に印象はある程度は参考になりますけど、深いところまで見ていないことがほとんどです。しかし、それでも人をすぐに判断してしまうという過ちをよく犯します。そして、時々、それが絶対的に正しいと思っていたりするのです。<br /> <br /> 本当にある程度他人を理解しようと思ったら、幽体離脱して他人の人生の過去と未来をある程度見る必要があります。それは時空を超えた活動でありますので時間でそのまま言い表すことは難しいですが、エネルギー的な消費量と幽体離脱の時の活動を普通の時間経過と合わせてみた場合は、だいたい3時間くらいで基本的なことは把握できます。<br /> <br /> スピリチュアルな人が他人の印象を読み取って他人を理解したと思っているのは単なるファーストインプレッションであって、表面的な基本的な性質であり、それで読み取ったイメージを自分の好きなように解釈してしまうという過ちを犯しがちです。<br /> <br /> 実際のところ、人間というものはもっと複雑な生き物です。<br /> <br /> 基本的なことを理解するだけでも大体3時間はかかります。カウンセラーで優秀な人たちは翌日に来る相談者のことを前夜に3時間ほどかけて把握する、ということを行います。<br /> <br /> そして、実際のカウンセリングで確認しつつ1時間なり数時間なり再度かけるわけです。<br /> <br /> そこまでして、ようやく他人の内面に入り込んで現在の解決方法まで導き出してあげることができます。<br /> <br /> それは、スピリチュアルな人がインスピレーションを元にして簡単に他人を判断してしまうのとは全く次元の異なる作業でもあります。<br /> <br /> 次元は異なりますけど、やっていることは割と似ているとも言えます。<br /> <br /> 印象で判断する、と言うのは幽体離脱においてもそれはそうです。そうして周囲から観察して判断するしかないわけですけれども、葛藤が作り出された大本の出来事にまで遡ってその時の時空に移動し、その人が感じた感情や表情を近くで観察して大本の原因を突き止めるわけですから、幽体離脱なしに印象を対面で受け取るのとは全く違うものです。<br /> <br /> そのほかに、他人の中に潜り込んでオーラを同一にすることで相手を理解する、という方法もありますけど、宇宙の波動の法則からするとそれは他人への干渉になりますので世界によっては厳密に禁止されていたりします。地球じゃ割と野放しですけど、一人一人の成長や学びは違うのですから他人に迷惑をかけますし自分の成長も滞ってしまいます。オーラを同一にして他人を理解すると言う方法を抜かせば幽体離脱して時空を超えて過去の根本原因を観察すると言う方法が最上です。<br /> <br /> それでも、他人の更に奥底を知るにはまたその大本の原因にまで遡らなければなりません。それは3時間では足りないかもしれませんし、見逃す可能性もあります。ですが、基本的には3時間で十分でしょう。慣れれば1〜2時間で基本的なことはわかります。そうして他人を理解することができたとしても、所詮はそれは他人の人生であり、他人の経験ですから、それを知ったところでどうなるものでもない・・・ ということもあります。そもそも、他人のことなんて気にする必要がない、と言う理解に達するわけですね。<br /> <br /> ですが、その理解に達するまではスピリチュアルで他人の印象をすぐに判断しがちで、それで他人がわかったつもりになってしまうわけです。それはスピリチュアルの病理みたいなもので、誰しもが初心者のうちは通る道なのかもしれませんね。<br /> <br /> Sat, 27 Jun 2020 00:00:00 +0900 今後来るスピリチュアルな世界に備えて論理思考を磨く https://w-jp.net/2020/1970/ <br /> いずれ50年100年経った時にはスピリチュアルな世界になります。歴史を見ると今の時代が異常なだけで昔からスピリチュアルというか陰陽道というか魔法というか魔女の系統と言いますか、そのような超常的能力を使いこなす人々は一定数いました。<br /> <br /> 前世紀までに魔女狩りで魔女は減り、日本の陰陽道は明治政府の弾圧により惨殺され、今や残っているのは大した能力のない人たちだけです。本当に能力のある人は表に出ないか、あるいは、今生では能力を持たずに転生しています。そもそも能力がないのが一番安全ですからね。能力というのはいくらでも出し入れできるのですが、いったん生まれたら基本的に変えることはできません。<br /> <br /> それは、ある意味、今後来るべきスピリチュアルな世界に備える、ということでもあるかもしれません。<br /> <br /> 次の世代あるいはそのまた次の世代になる頃には再度、スピリチュアルが当たり前の時代になります。<br /> <br /> その時、今の時代に培った論理思考能力であるとかビジネス遂行能力とスピリチュアルが組み合わさって能力が倍増することになります。<br /> <br /> 昔のスピリチュアルな世界はどちらかというと論理思考が弱かったものでした。インスピレーション重視で物事の本質が全てわかったような気がしていたものでした。<br /> <br /> 今の時代はスピリチュアルを否定して論理思考に偏っていますが、それは、今までスピリチュアルで生きて来た人が論理思考を訓練する良い機会を与えていると言えると思います。<br /> <br /> 実際、今の時代に論理思考を避けてスピリチュアルを貫いている人は次の世代になってもそれを継続することが見えています。<br /> <br /> むしろ、今の時代に論理思考にどっぷりと浸かってスピリチュアルを軽視している人たちが来世になってスピリチュアルな能力を開花させ、論理思考とスピリチュアルを統合して限りない能力を発揮してゆくのが見えます。<br /> <br /> ですので、今は次のスピリチュアルな時代に備えるための重要な期間であると思うのです。<br /> <br /> 論理思考を毛嫌いせずに、今の時代は論理思考でだけ生きることができる稀有な時代であることを喜んで、論理思考をどんどんと学べば良いのです。<br /> <br /> 例えばコンピュータなど論理思考を学ぶ良い教材です。そのような仕事について論理思考を高めることで今までスピリチュアルな人に欠けていた論理思考を養うことができます。<br /> <br /> 私の場合にしてもまさにこれで、前にも書きましたが私の魂はいくつかのカルマの統合として成り立っていて、主たる魂は前世まででも男性でビジネスとかもしてきましたが論理思考より印象を重視するきらいがありました。このままでは次のスピリチュアルな時代において論理思考が足りないと思い、コンピュータを仕事にすることにしたのです。はっきり言って、今までの流れからしたら真逆です。かなり苦手な部類に入りますが、小学生の頃からコンピュータに触れて趣味でプログラミングなどもしたことで論理思考能力を養いました。他の人はもっとすぐに学ぶことができたりしましたが、私は時間がかかりました。それでも同年代の人よりはコンピュータに詳しいですが、それは単に長くやってきたからです。それだけ今世ではコンピュータを重視しました。<br /> <br /> いくつかの前世では会社経営とか貿易ビジネスとか様々して来ましたが、どちらかというと人付き合いを重視していたように思います。今世では、特に苦手な論理思考を養うためにコンピュータを仕事に選んだと言えます。そして、それが次に来るスピリチュアルな時代に備えることになるわけです。<br /> <br /> 今の時代に論理思考を鍛えた人とスピリチュアルなまま通り抜けた人とでは、次の世代においてスピリチュアルが当たり前になった時に「論理思考+スピリチュアル」なのかスピリチュアルだけなのかで大きな違いになります。<br /> <br /> 今は、今後来るスピリチュアルな世界に備える時期だと思います。<br /> <br /> その時になればスピリチュアルな方は大勢の方に自然に訪れますから、今から心配する必要はないと思います。スピリチュアルが普通に語られるようになりますのでスピリチュアルな能力を伸ばしやすくなります。<br /> <br /> Fri, 26 Jun 2020 00:00:00 +0900 神と話をしていない人が天意とか世の中の万人のための国づくりだとか言う茶番 https://w-jp.net/2020/1969/ <br /> チベットが崩壊する際に中国側について政権崩壊を助けた役人にしても、維新で江戸幕府を倒した役人にしても、みんな、世の中のためだとか万人のためだとか成長のためだとか天意だとかを持ち出して正当化したんですよ。<br /> <br /> ですけどね、神様とお話をしましたか? ってとこが重要なのですよ。いくら本人が天意だとか国民のためだとか世の中のためだとか万人のためだとか人民解放だとか言っても、神様と話をしていなければ茶番なのですよ。<br /> <br /> 昔は神様がその意思を地上に降ろして万人を支配・・・ と言うと言葉は悪いですけど、人々を導いていました。それを支配と見るのか見守ってると思うのか、歴史の場面においては厳しい選択もしましたけど、人々が幸せに豊かに暮らせるために王族が判断していたのが歴史なのですよ。そして、そこには必ず神との対話というものが含まれていて、王族の選択においては欲望というものは二の次でした。<br /> <br /> 王族は贅沢をしていたじゃないか、とか言う人がいますけど。そりゃ、こんな野蛮な地上の面倒を見るのだから安全で多少の健康的な食物だって取りますよ。昔に比べれば随分と地上の人々の食生活も改善されましたし、その第一は王族の食生活も良くなって行きましたけど、歴史を見ればどんどんと豊かになって食べるものにせよ家にせよ、良くなって来ていますよ。それを不公平だとか言うのが浅ましいのですよ。誰によって人々の生活は良くなりましたか? ってとこの理解が抜けています。<br /> <br /> まあ、昔の王族はそんな感じでしたけど、今の政治家は神様と対話していませんので、自分の欲望を最大限に満たすためにまず政治をして、それから、有権者を煽って欲望に走らせていますよね。豊かになります! と叫んだり不安を煽ればある程度の票は取れます。<br /> <br /> 昔の王族は、もっと毅然としていましたよ。民がどう思っているかを知りたがることはあっても、民に政策を尋ねたことはありませんでした。王族ですから、何でも自分たちで決めて行っていました。それを見て民は喜んだり不満やらを言ったりもしましたけど、それでも、王族が決めたことにはある程度の納得が伴っておりましたので、今のように非難合戦になることはほとんどなかったように思います。<br /> <br /> 王族も大変なのですよ。何をしても民から色々と言われます。そこは昔も今も一緒です。<br /> <br /> 例えばローマにおいては皇帝は普通に一人で町を歩いたりしていました。意外ですか? 王族と言っても割と普通だったのですよ。町で、人々から様々な不満や意見を聞いたりしました。その頃でも、人間出身の政治家と言うか王族と神の系統の政治家というか王族がいまして、神と話をしている人とそうでない人がいました。<br /> <br /> 神と話をしたところで神と話ができない人間には何のことかわかりませんし、最近だと「神の名を借りた不届き者」とか言って粛清の理由になったりしますからね。最近は神と話をして政治をしいても言わない人がほとんどでしょうし、そもそも神と話ができる政治家はほとんどいないと思います。<br /> <br /> その点、人間出身の政治家の方が民主主義に向いていますよね。欲望あるいは不安を煽って票を集めればいいのですからね。不安の方は十歩譲っていいとしても、欲望はよろしくないです。<br /> <br /> どちらにせよ、神と話をしていないという時点で茶番ですけどね。<br /> <br /> 昔の政治家は、大きく分けると神と話ができるかできないか、という点でかなりはっきりと線が引かれていました。<br /> <br /> 例えばね、チベットでは政治が宗教によって行われていた、なんて言われていますけど、宗教というよりも神と対話できる人たちが国を支配していたのです。<br /> <br /> その一方で、頭は多少回って賢いが神と話ができない小役人が大してない知恵を働かせて国の転覆に加担し、中国がそのような小賢しい役人を利用してうまく政権を奪ったのがチベットの騒乱です。チベットにはしばらく騒乱がありませんでしたし、神と話ができる人たちは神と話ができない人たちを軽視しすぎたのでしょうね・・・。そのような小役人が何をしでかすか、想像力が足りなかった。小役人からすれば知恵のある自分の意見が取り入れられないのはおかしくてチベット権力者は遅れているので自分たちがどうにかしなくてはならないと思い違いをしたのでしょうね。そもそもチベット権力者は神と話をしていたのであって小役人のことなんてどうでも良かったのです。小役人にしてみれば、チベット権力者が神と話をしているということが想像のお話としてしか理解できず、本当のことだとは思えなかった。そこに、超えることができない壁があったのですね。神の声を聴ける者と聞けないものの間で、理解の溝が深くなりすぎていたのです。<br /> <br /> 神がついていて話ができるのに対処できなかったのはどうしてでしょう? というお話もありますけど、そこは謎ですね。私が知るべきことではないようです。理由はあるようですけどね。あまり言いたくない感じです。どうやら、チベットの歴史と関連があって、内輪揉めみたいな面もあったようですね。神にしても、チベットの権力者のことを苦々しく思っていたという面もあったようです。だから、一旦は中国の思い通りにさせてみよう・・・ という選択に至ったのかもしれません。あるいは、もっと大きな判断があったように思います。それは今回のトピックと離れるので一旦は保留します。<br /> <br /> 中国は内輪揉めしている内情につけ込んだ上、不遇の境遇にあると思い込んでいる小役人と繋がってうまく動かし、チベットを簡単に転覆させました。<br /> <br /> 日本においても、不遇の境遇にあると思い込んでいる岩倉具視みたいな小役人と繋がってうまく動かし、江戸幕府を簡単に転覆させました。この種の、小賢しい小役人は本当に要注意ですよ。今でも政治家や官僚にいるでしょう? 神と会話できないのに妙に小賢しい人たちが。<br /> <br /> 日本の場合は、一般的には維新は自身で立ち上がって討幕に至ったなんて言われていますけど、それ、嘘ですから。後から自己正当化のために政府が作り出したストーリーですから。勝者が歴史を作る、っていうやつです。外国からの工作にしてやられたが、その後、何とか外国の植民地になるところは防いだ、というのが真相です。<br /> <br /> 日本の場合岩倉具視みたいな小役人が暗躍して政権転覆を企んだ、というのがチベットの構図と似ています。政権の中枢ではなく、自分では能力があると思っていて不遇の境遇にあると思い悩んでいる人を狙うという点がチベット騒乱にしても維新にしても共通点ですよね。両方とも、外部からの工作がないとあんなにうまくクーデター成功しませんよ。どちらも、小賢しい小役人を外部からうまく操って政権転覆させているのが共通点です。<br /> <br /> チベットは中国に併合されましたけど、日本の場合は併合が免れたのは不幸中の幸いで、江戸幕府の転覆においては外国の謀略にしてやられて惨敗。歴史というのは勝者が作りますから維新は良かったなんて言われていますけどそれは勝者の作り出した都合の良い歴史でしかなくて、実際は、日本の古来から栄えて来た神道とか修験道といった霊的能力者を個別に抹殺し、特に有名どころは宗家から一族の有力者を始末してお家断絶させたのです。そうして精神的・超常的能力を扱うのが当たり前だった文化を崩壊させ、不思議な能力を表立って使わせないようにしました。天皇ももちろん、その力を封じられました。本当に大切なことを天皇に教えないようにしたのです。神との対話ができることなど王族にとっては当たり前のことでしたが、それも表立って言うと始末の対象になりました。<br /> <br /> 今の日本で有力な超能力者と言われている人たちは、一昔前の能力者が見たら鼻で笑われるくらいの能力しか持っていないですよ。そのくらい、日本で能力者は排除されました。維新の頃に多くが抹殺されましたから、そんなのは維新の一部としか思われていません。<br /> <br /> 神と話ができる能力者が表に出にくい状況で、昔のことを知らない呑気なYotuberがノコノコとチャネリングしていたりしますけど、政府の方で能力者のリストがきちんと作られていて政府の意図にそぐわない集団活動が見受けられた場合は始末の対象になりますからね。よくもまあ、こんな怖い世の中で顔を出して自分の能力をひけらかすものですね。それだけ有力なバックがいて見えない世界から守られていたりするのですのかね? ならばいいですけど。<br /> <br /> 安全のために現代に何の能力を持たずに生まれて来ている人もそれなりにいらっしゃるような気がいたします。能力というのは必要性があって現れますから、不要と判断すれば出て来ません。安全のためとあれば尚更です。<br /> <br /> 能力者が裏に隠れ、精神的なことも言いにくくなった現代。<br /> <br /> チベットにしても日本にしても精神的な文化は20世紀でかなりの部分が既に破壊されたのです。日本は日本語がそのまま残っていて国というものは残ってはいますけど、昔からあった神道等の能力者が表に出にくい状況になっています。<br /> <br /> 古くあった神道の家系も後継がいなくて断絶したりしていますしね。<br /> <br /> そりゃ、マスコミが煽りに煽って神道や精神的なものを「古い」とか言い続けたら何も知らない若者が感化されてそういうものから離れてゆきますよね。国を破壊するには若者から、とはよく言ったものです。教育で考え方を変えてしまえば本当に大切なものは守られなくなり、引き継がれなくなります。<br /> <br /> 何とか外国の侵略は防いだにせよ、国の形は歪められ、江戸時代まではある程度続いていた、神との対話によって政治を行うという形態は明治政府以降には無くなってしまいました。そして、その政府が今も継続しているのです。<br /> <br /> 明治政府は人間の作った政府です。そして、今の政府もそうです。そこに神との対話はありません。人間の欲求と不満を餌にして自身の権力欲などを拡大させるために政治家になろうとしている人がほとんどです。<br /> <br /> それでも日本の場合に救いがあるとすれば、個別の政治家を見てみると、神と対話はできないにせよ、ある程度の真面目さがある人がポツリポツリいることです。自民党は色々言われていますけど、各所各所を見ると何とかうまくやっている面もあると思いますよ。それが神の意図と合っているかどうかはまちまちですけど、それはしょうがないですしね。<br /> <br /> 今は、神の意図としてはこのまま人間たちが自分たちの力でどのくらいできるのかどうか、高みの見物をしているようですね。<br /> <br /> Thu, 25 Jun 2020 00:00:00 +0900 神の潮流と人が神に挑戦する潮流 https://w-jp.net/2020/1968/ <br /> 神は昔から人類を治めてきて、王族やら何やらとして一応は民の上に君臨する、という形式を取っていました。神と一般人は魂がそもそも違っていて、神はあの世で神様同士が知り合いですから国の行く末をどうするのか話し合いが持たれていたのです。<br /> <br /> 最近は国の姿も変わってきて、人間が統治をする場合も多々ありますけど、ほとんどが茶番ですよね。人間が統治をすると戦争か経済主義による他国搾取とか、何某かの競争で欲望を満足させる方に動きます。人間の欲求は「食う、寝る、遊ぶ」ですから、その欲求を満足させる方向に国の政策が動くわけです。<br /> <br /> かつて、神あるいはその代理人が国を治めていた時代がありました。これは神聖ローマ帝国みたいな宗教に基づく帝国のことではなくて普通の王族が神の魂の眷族だった頃のことですが、その頃は神の意思をあらかじめ教育されてから転生してその意図を実現するために国政を司ったのでした。<br /> <br /> 今の人間の政治は「食う、寝る、遊ぶ」の欲求に基づいていますが、昔の政治は「そこそこに食う、そこそこに寝る、そこそこに遊ぶ、最重要なのは精神的な成長」という根幹が徹底していました。<br /> <br /> 今の民主主義とやらを見ても、最後の精神的な成長がないがしろにされていて経済成長やら自由やら武力やらが論点になっています。それでは政治は救いがないです。政治が欲求を満たすための場になってしまっているわけです。昔、国王が治めていた時代は精神的な成長が第一で、次に「食う、寝る、遊ぶ」がありました。<br /> <br /> これは宗教という観点よりも、もっと根元のお話です。道徳や精神性と言っても良いです。神道にも通じるものがあります。神の意図は精神性の向上ですから、それが国の形として最初に来たのです。かと言って宗教というわけでもありません。<br /> <br /> 実際は宗教は誤解されていて、本当の宗教はもっと純粋な崇高な意識であるわけですが、本当の宗教という意味であれば王国はそれを目指していたと言えます。しかし、昨今の宗教とは違う姿であるわけです。<br /> <br /> 民主主義なんてのは茶番で、人類に欲望を追究させるためのシステムですから、多数決で物事を決めれば決めるほど政治は低俗なものになるのは当然のことです。<br /> <br /> ここで言っている神とは独裁者のことではなく、神の意思と疎通できる人が政治を行うべき、と言っています。<br /> <br /> 昨今では政教分離が政治の基本なんて言われていますけど、実際のところ、昔から政治は神と深く結びついていますから、政教分離なんてのは人類に低俗な欲求を追求させて精神性を崩壊させ家畜同然に操りたいと思っている人たちの口実として使われているだけなのです。昔も今も、本当にわかっている人は政教分離なんて嘘だなんてわかっていますよ。そんな野暮なことを口に出しては言わないでしょうけどね。<br /> <br /> 政教分離は、今は欲求を追求する口実になっていますけど、おそらくは元々は世俗的な宗教の影響を排除するための口実として用いられていたと思いますよ。その場合でも本当の意味における宗教と政治は密接に繋がっていたと思います。少なくとも王族が国を治めている間は本来の神と政治とは密接に結びついていました。時代が下るにつれて権力競争に明け暮れる世俗的な宗教が政治に介入することが多くなって、その悪い影響を排除するために政教分離が謳われたのであって、元々は欲望を追求するための口実ではなかったのです。理屈が全く違う文脈で使われて自己正当化に使われているのですよね。<br /> <br /> 政教分離をやめて神の意思に基づく政治とか言う人が少ないのは、今が民主主義のシステムだからですよ。大衆は自分の欲求を満足させたいので欲求を拡大するにはうるさい事をいう神なんていない方が好都合でしょう。神のことを言う政治家がいたら政教分離とか言い出して非難して追い出すでしょうしね。いい口実になるだけです。政教分離と民主主義システムは欲望を追求するためにお互いが補完し合っています。<br /> <br /> ですけどね、民主主義も茶番ですし、政教分離も茶番ですよ。そろそろみんな、それに気がつき始めたんじゃないですかね。<br /> <br /> こういうのがね、神の潮流と、人が神に挑戦する潮流との違いですよ。神の潮流は人をより高いところに導こうとしている。人が神に挑戦する潮流は自分の欲望を満たしたいだけですよ。今は後者が優っているのです。<br /> <br /> 政治家がなんであれほど権力に卑しいかというと、システムとして力が集まっているからですよね。力とはもちろんお金で、お金を生み出すものは税金や特別会計および日本銀行の印刷機です。 税金に関して言えば今後は税制も減っていきますので日本の政治家の力も減って行きます。それでも特別会計で税金の範囲を超えてお金は使い放題なわけですし、税金とは関係ないところで日本銀行はお金を刷れるわけです。刷ったお金は株式市場などにどんどん流れて行っています。お金余りの時代です。<br /> <br /> こう言うお話は有名で、人々はこのシステムを嘆いたり批判したりしていますけど、本当に神と繋がった人であれば現状をまず理解してそのシステムを最大限活用して自分の意思を実現させようとします。例えば、神の意識があれば株式市場で相場を張ってお金を無尽蔵に抜き取るなんて簡単な事です。そして、その抜き取ったお金を世の中に回せばいいのです。政治家の手なんて借りずにね。そんなアイデアはいくらでも浮かびます。<br /> <br /> 例えばね、一つのアイデアとして、そうしてお金を作ってばら撒いたり事業を次々に起こして人々を豊かにするという手があります。そうして、お金なんて誰でも十分に持っている状態にしてしまえばいいのです。お金が有り余っていれば政治家に擦り寄る必要もないですし、政治家も権力を操って面白がることもできなくなります。政治家が無視される世の中になるのが理想です。神の意識がちょっと本気を出せばそんなのは簡単なことです。<br /> <br /> もう1つ手があって、人々が周囲の困っている人を助けるようになれば政治が弱体化して行きますけど、それはきっとしばらくはないでしょうね。<br /> <br /> おそらくね、神様は、現状のように人間に欲望を追求させたらどうなるのか興味があるのではないでしょうかね? だから本気を出さずに観察だけしている。そんな気が致します。<br /> <br /> 今の政治は神に基づくものではなくて欲望に基づくものですからね。本来、そんなことは人間自身に任せておけばいいのです。欲望と政治とは本来は無関係であるべきです。<br /> <br /> 昔からね、政治は国王や王族同士で話し合われて行われていて、国民はほとんど関係がなかったのですよ。それでもうまく回っていました。国民の意見を聞いても欲望ばかりで、満足度や困っていることを聞くという点では意味がありますけど政策を任せてもできるわけがないですよ。<br /> <br /> 国民が困っていたら政治が助ける、というのは昔から行われてきましたけど、助けるというのはあっても欲望の追求を政治が推進することは真っ当な王族はしなかったものですよ。その基準としては、「豊かではないが貧しいというわけでもない」という程々のところで安定させて、人々の欲望を拡大させない方向に調整するのが政治の役割でした。<br /> <br /> 政治は雲の上で行われているものでしたが、今は選挙で政治家になることができて、一般人が自身の権力欲やら財産のために政治家をしています。政治家が欲望を追求していれば政策も欲望を満足させるものになります。<br /> <br /> 政治もマスコミもショー化してきて、欲望中心の政治になっています。<br /> <br /> 今の世の中、本当に政治を行っている人もそこそこいますが、ショーとしてそれっぽい事を言う人が多くなってきています。<br /> <br /> このあたり、神様もどうしようか迷っているようです。人間の作った仕組みをうまく使って制御するか、あるいは、今の政治より更に上に仕組みを作ることも考えているようです。<br /> <br /> 後者に関しては、わざわざ作らなくても既に神界というかあの世には既にありますけどね。それを地上に下ろすための形作りをもっと進める計画もあるようです。<br /> <br /> 私は今生では基本的に高みの見物というか特に使命はありませんので見ているだけですけどね。ほんと政治は茶番を繰り広げていますよね。<br /> <br /> Wed, 24 Jun 2020 00:00:00 +0900 度々取り憑かれている意識体を引き抜く https://w-jp.net/2020/1967/ <br /> もうこれは定期的な現象になってしまっていますけど、ここ最近日常的なヴィパッサナー状態が安定しないな... と思っていて瞑想中に確認しましたところ、何やら透明な意識体が体の右半身に取り憑いていました。またですか。<br /> <br /> 最近は体の中から違和感を感じていて、何だろう... と思っていました。<br /> <br /> そこで、瞑想中に、オーラの手で体の各所を掴むようにしてゆっくりと体の右側に引き抜くようにしたら急に右肩の緊張が取れました。<br /> <br /> 更に、「私の魂の由来ではないものは体から出て行ってください」と念じたら、何やらおぼろげにお爺さんのような魂の炎のような、白黒の半透明な魂の炎にお爺さんの顔が写っているかのようなものが見えたので「出て行ってください」と言ったのです。<br /> <br /> それだけでなく、どこで拾ってきたのか虫のような変なものが体の各所に挟まっていたり埋まっていたりして、非常に気持ち悪い!!! 普通の人はこんなの気にしないでしょうから、もっと埋まっていたりするのでしょうね。<br /> <br /> その気持ち悪いものをオーラの手で掴んだり探ったりして一つづつ引き抜きました。それで更に楽になりました。<br /> <br /> 体の各所を探って、大きなものは取れた感じです。<br /> <br /> こういうのって、外に出ると気付かずに拾ってきてしまう感じなので定期的な掃除が欠かせない感じが致します。<br /> <br /> 一旦引き抜いた炎のお爺さんはなかなか近くから離れないようでしたから「まとわりつくようならば消滅させますよ」と言ったら渋々と離れて行ったようですが、こういうのってしつこいですから度々チェックが必要です。いきなり消滅させるのはよろしくなくて、きちんと警告を何度かしてそれでも警告を無視するのならばこちらに落ち度はありませんから消滅なりなんなりしてあげるのが良いですが、そんな場合でも全部を一気にするのではなく部分的に消滅させればびっくりして逃げてゆくことがほとんどです。<br /> <br /> Tue, 23 Jun 2020 00:00:00 +0900 神様は地震を起こすか迷っている https://w-jp.net/2020/1966/ <br /> 昔のように家が脆弱で甚大な被害が出るのであれば神様はもう地震を起こしていると思います。最近は耐震構造や免震構造ができてきましたので、本来ならば満遍なく万人に影響が出るように地震を起こしたいのですが免震構造を持つビルなどに住む裕福層だけが被害を免れるような状況になってしまいますので地震を起こすかどうか迷っているようです。<br /> <br /> パラレルワールドにおいていくつも実験をして、ちょっとした関東直下型地震、もう少し強いパターン、更に強力な直下型地震を試しましたが、相当に強く揺らさないと免震構造を持つビルを倒壊させるには至らず、そうなると都心の被害もかなり甚大なものになってしまい、人々を目覚めさせるという意図から外れたものになってしまうようです。<br /> <br /> 本来、地震とか災害というものは人々の慢心を諫めるために神々によって用いられていたもので、神が滅ぼそうと思った時の地震と諫めるための地震とはレベルが相当違うということです。<br /> <br /> 滅ぼそうと思った時はアトランティスのように土地そのものが消滅したりします。一方、日本の場合は諫めるための地震ですからそれなりの揺れで構わないわけです。しかし、特に精神的に目覚めて欲しい裕福層に影響がなくて、被害がない分、むしろ裕福層が更に助長するような状況は避けたいと思っているわけです。<br /> <br /> ですから神々が手加減をしているというか、そこそこの揺れで十分と思っていたからこそそこそこの地震で済んでいたわけですが、最近は人間の方が勘違いをし始めて「人間の叡智が地震に打ち勝った」とか思い始めているわけですから、ちょっとそれはどうかなあ、とも考えているようです。所詮は人間なんて地球の薄い皮の上に住んでいるのですから自然には逆らえないのですけど、その辺りがよくわかっていないようです。<br /> <br /> ですが、神々の意図はあるにせよ、三次元的な地球の大陸プレートの移動とかもありますので起こることは自然に起こるわけで、その延長線上で起こるべき地震は起こるのかな、というところです。それが関東大震災やら東海地震だったりするわけですが。<br /> <br /> Mon, 22 Jun 2020 00:00:00 +0900 霊能力を持っている人を怒らせてマスコミ産業は衰退した https://w-jp.net/2020/1964/ <br /> マスコミはインタビューの一部を取り上げて本来の意図とは違った報道をして面白おかしく視聴率優先でネタを作り上げていますけど、そのネタにされて捏造報道されてしまった方はたまったものではありません。<br /> <br /> そう言う被害者本人、あるいはその守護霊が能力を持っていたりしますと、かなりの確率で仕返しされます。<br /> <br /> 直接的には無害で何も言い返さなかったりするかもしれませんけど、わからないようにしつこくしつこく仕返しをしたりします。<br /> <br /> ですから、捏造報道をする人は気をつけた方がいいと思います。特に矢面に立つ人は真っ先に狙われます。本人はきっと、単に運が悪かっただとか思うだけで原因はわからないでしょうけど、人に恨まれるってのはそう言うことです。<br /> <br /> 狙われた方は「正々堂々と言ってこい」とか思うかもしれませんけど、正々堂々と抗議したのに貴方が無視したから能力を使ってことごとく人生を破壊しに行っているわけで、最初の1回目の警告を無視したらもうそれで終わりなのです。<br /> <br /> 2度目の警告があると思わない方が良いです。<br /> <br /> 最初の警告をした時に「なんだこいつ」と思って無視したら最後、人生が破綻するまで足を引っ張ったり転ばせたりします。呪われる、とはそう言うことです。<br /> <br /> マスコミ産業はそのような恨み・呪いが蔓延していますから、足の引っ張り合いや転ばし合いを繰り返すことでどんどんと衰退して行っています。<br /> <br /> 本来のマスコミの在り方は「真実の報道」と言うことでしたが、今はもやはやそれは自己正当化のための言い訳あるいはアリバイにしかなっておらず、実態は捏造報道が蔓延しています。それは視聴率優先ということですが、本来の根っこの思想が固まっていないからそのようなことになっているのでしょう。「面白さ」と言いつつも他人の足を引っ張ることに喜びを見出すマスコミ関係者がマスコミを崩壊させて行っていると言えます。<br /> <br /> 真実の報道がしたいと思っているマスコミ関係者もいらっしゃいますけど、このような足を引っ張る人たちが生み出した恨み・呪いはその直接的原因を作り出した人のみならず業界全体を呪ってそれらしき人を次々に巻き込みますから、特に能力のある人が恨んだり呪ったりしたら業界が丸ごと転ぶことになります。<br /> <br /> 現状のマスコミはそんな感じなのではないでしょうか。バブル時代のテレビには二度と戻らないでしょうし、それは本人たちが自分で招いた結果であるわけです。<br /> <br /> そんな業界のことなんて私はあまり気にしていなくて好きにすればいいと思っていて、放っておけばいいとしか思っていないですけど、ただ、一つ言えることは、人に呪われたり恨まれたりするようなことをしない方がいい、ということです。<br /> <br /> 呪いというのは厄介で、一度呪われたらかなりの長い期間、引きずりますからね。マスコミの捏造報道が原因で被害者から呪われて人生を棒に振った人がかなりいると思いますし、人だけでなく会社が潰れることだってあります。<br /> <br /> むしろ、力のある能力者の場合は人ではなく会社を狙いますから、会社が傾くような呪いをかけて不祥事やら被害やらが出たりするようになります。実際、世間を騒がせている有名どころはそういう呪いが原因のところもあると思いますよ。<br /> <br /> まあ、あんまり他人に呪われるようなことをしないことです。特に高貴な人、能力のある人を怒らせない方がいいと思います。そういう人はそうそう怒らないですけど怒って呪ったりしたらかなり怖いです。そんじょそこらの上場企業が傾くなんて普通にありますからね。<br /> <br /> 20年くらい前にね、NHKの記者と話をしたことがあって、私が「NHKの中には捏造報道や中韓よりの人がいますよね」と言ったら、その記者は「NHKの人全員が捏造報道をするとか全員が中韓寄りだなんていう貴方とはもう話をしません」とか言ってきて、この人は一体何を言っているんだろう? と呆れ返ったことがあります。私は「NHKの中にはそういう人がいますよね(一部にはそういう人がいますよね)」と言ったのであって「全員」がそうだとは一言も言っていないのにNHK記者は文脈を取り替えて自己正当化してきたのです。<br /> <br /> NHK記者は言葉の専門家でしょう。言葉の専門家が他人の言っていることを正しく理解しないでどうやって仕事をしているのでしょうかね。<br /> <br /> 私の文脈を読み取ることができなかったのであれば記者として基本的な日本語理解能力が欠けているということで問題外ですし、わかっていて文脈をすり替えたのであれば自己正当化あるいは目的の記事を作るためには現実をねじ曲げても良いというスタンスがそこにあることがわかります。どちらにしても記者としてまともだとは思えません。こうして捏造記事が作られていくのだなあ、というのがよくわかった出来事でした。マスコミの捏造記者には関わらない方がいいですね。他人の話を理解するよりも自分の主張のために現実をねじ曲げるのだということがよくわかった出来事でした。知らないマスコミの記者とはそもそも話をしない方がいいですよ。自分のエゴが強すぎて、主張を通すために他人のあら探しをするような人たちでした。あんなの、誰にも相手されなくなってゆくのではないでしょうか。日本企業は甘いですよね。なんで首を切らないのでしょうか。<br /> <br /> 私は呆れたくらいですみましたけど、これを大々的に日本中に報道されたらかなり怒って仕返ししていたでしょうね。直接的に三次元的には何もしないですけど呪って、例えばアクセルを踏み間違えさせて崖から転落させるとか自動車運転中に気を散らせてトラックに衝突させるとか、やろうと思えばいくらだってできますからね。<br /> <br /> まあ、それほどの恨みや仕返しをする時はこちらもそれなりの覚悟を持ってしますから普通はしないですけどね。その人が本来する筈だった目的とか全部キャンセルになってしまうわけですから、そんじょそこらの恨みや呪いじゃそこまではしませんけど、そうして始末されていく人も実際、この世の中にはいるわけです。<br /> <br /> 人に仕返しするよりも会社にダメージを与える方がジワジワと効いていいですよね。<br /> <br /> そう言えば20年くらい前に悪徳商法に引っかかって会社を遠回しに潰したこともありますが・・・ それは呪いだけじゃなくてネットの力も使いましたけどね。そうして会社も簡単に傾くので、甘く見て他人に呪われない方がいいと思います。案外、会社は脆いもので、すぐに傾きます。<br /> <br /> Sat, 20 Jun 2020 00:00:00 +0900 ゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想は五感を鋭くするサマタ瞑想(集中瞑想) https://w-jp.net/2020/1963/ <br /> 数年前に受けたゴエンカ式はヴィパッサナー瞑想(観察瞑想)と謳っていますが、実際には五感、特に皮膚の感覚を使った集中瞑想(サマタ瞑想)です。<br /> <br /> ですから、ゴエンカ式をやればやるほど五感が鋭くなって細かな感覚に敏感に反応するようになり、それがコントロールできる範囲を超えてしまうと禅病の如く、怒りの沸点が低くてすぐにキレてしまうようになるわけです。<br /> <br /> 受けた時は何故にゴエンカ式を受けた人のエゴがそれほどまでに拡大して自尊心あるいは自虐心の塊になって他人に対してすぐにキレたり精神混乱になったりするのか理解できずにいました。<br /> <br /> たわいのないことを言うだけですぐに大声を出してキレたり自己嫌悪に陥ったりする受講者を見て、なんだこれ・・・ と疑問に思っていたものでした。<br /> <br /> 今、数年経ち、その謎がほとんど解けたように思います。<br /> <br /> ヴィパッサナー瞑想は五感を超えたものですが、ゴエンカ式は五感、特に皮膚の感覚でヴィパッサナー瞑想をしていると思い違いをしているのです。<br /> <br /> 皮膚の感覚をいくら敏感にしたところでそれは五感のお話で、それは本来なら分類するのであれば集中瞑想(サマタ瞑想)に分類されるのです。<br /> <br /> 受講した時はその辺りの言説が微妙に理解し難く思いましたが、そのように捉えてみるとゴエンカ式の説明の内容に納得がいきます。<br /> <br /> ゴエンカ氏は瞑想はしておりましたがヴィパッサナーの領域にまで達したのかあるいは達しなかったのか、それは分かりません。本人が到達していてもうまく伝えることができなかった、ということはあります。ですが、少なくともあそこで行われているのは単なるサマタ瞑想(集中瞑想)であって、ヴィパッサナー瞑想ではありません。<br /> <br /> こんなことを本人たちに言っても激しく否定されるだけでしょうから、そんな野暮なことは本人には言いませんけどね。そもそも私がゴエンカ式を受けたことすら他人に言いたくはないほどゴエンカ式の人はエゴが増大して、「私も受けた」とでも言おうものなら自分の優越感が傷つけられたかと思って私を精神的に延々と攻撃してくることすらありますから、ゴエンカ式を受けたなんて言わずに単に他人のゴエンカ式経験者に対しては「そうなんだ。どうでした?」というくらいにしておいて、自分が受けたことを言わない方がいいと思います。ゴエンカ式を受けた人でめんどくさい人が多すぎます。<br /> <br /> ヴィパッサナー瞑想は五感を超えているのに五感がその入り口なのかどうかというと、確かに最初はサマタ瞑想(集中瞑想)で心を落ち着かせる必要があります。ですがそれはあくまでも集中瞑想なのであって、ヴィパッサナー瞑想ではありません。<br /> <br /> 思うに、そうそうヴィパッサナーなんて辿り着かないのですからヴィパッサナーなんて言う必要すらないと思います。あそこで行われていることのほとんどはサマタ(集中)瞑想に属することです。<br /> <br /> ヴィパッサナー瞑想は各種の流派がありますが、ゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想だけが皮膚の感覚をヴィパッサナーだと思っているわけです。<br /> <br /> 他のヴィパッサナー瞑想は基本的に次のように考えています。<br /> <br /> ヴィパッサナー瞑想は、思考を止めて、事実をありのままに観ることができれば、一切のドゥッカ(苦)から解放されるだろう、という理論に基づいています。「ブッダの瞑想法(池橋優雄著)」<br /> <br /> これは、半分はサマタ(集中)瞑想のことです。サマタ(集中)瞑想をしてからヴィパッサナー瞑想に入るのです。ミャンマーのマハーシ長老によるヴィパッサナーも同様のようです。<br /> <br /> 確かに、ゴエンカ式でも似たような段階が取られています。最初の3日くらいは息を観察するサマタ瞑想、そのあとはヴィパッサナー瞑想だと言っていますけど、実際のところは両方ともサマタ瞑想(集中瞑想)であるわけです。そこがゴエンカ式の大きな勘違いです。ヴィパッサナー瞑想だと思ってやっているのは実際はサマタ(集中)瞑想なのです。<br /> <br /> ヴィパッサナー瞑想の流派の中には、手法として体の感覚を観察するという瞑想をする流派があります。しかしそれはヴィパッサナー瞑想に入るための方便(手法)ですので、それ自体がヴィパッサナー瞑想ではありません。<br /> <br /> 流派としてヴィパッサナー瞑想をしていて、最初に体の観察をする瞑想を教えられたからと言ってそれがヴィパッサナー瞑想であるとは限らないですし、流派によっては、最初からヴィパッサナー瞑想を教えてもわからないからヴィパッサナー瞑想っぽいサマタ瞑想をヴィパッサナー瞑想として教えているところがあります。本人に気付かせるという意図があるのかもしれませんね。全てをわかっていながら皮膚の感覚をあえて本来の意味とは違ってヴィパッサナー瞑想だと言っているところもあるということです。<br /> <br /> そんな中、ゴエンカ式だけが皮膚の感覚をヴィパッサナーだと思っています。<br /> <br /> ここが、ゴエンカ式とその他の流派の違いです。<br /> <br /> ですから、ゴエンカ式をしたところで五感が鋭くなるだけで混乱し、エゴが拡大して他人にキレやすくなるわけです。<br /> <br /> Fri, 19 Jun 2020 00:00:00 +0900 <link>https://w-jp.net/2020/1962/</link> <description><br /> </description> <pubDate>Thu, 18 Jun 2020 00:00:00 +0900</pubDate> </item> <item> <title>特定の人や会社と付き合うことを守護霊が拒絶させることがある https://w-jp.net/2020/1960/ <br /> 面接や何かの機会で誰かに会う時、守護霊がそのお付き合いをしない方がいいと判断したら何某かの方法で関係を絶たせようとします。<br /> <br /> 例えば、就職の面接に向かうとします。守護霊がその会社に入らない方がいいと判断したら面接の直前から具合が悪くなって顔色が悪くなり、表情は硬くなり、言葉も出なくなって面接に落ちます。面接官からしたらそんなことはわかりませんから「この人はダメな人」と嘲笑って面接を落とすこともあるでしょうし、面接に赴いた人は自分のことに自信がなくなるかもしれません。ですが、それは往々にして守護霊が「ここはダメ」と判断しているのです。その判断は守護霊がすることもありますし、自分のハイヤーセルフというかグループソウルがすることもありますし、自分のスピリットが時空を超えていわゆる過去あるいは未来からインスピレーションを送っている時もあります。<br /> <br /> 面接なんてのは呼ばれれば割と通りますけど守護霊が介入してきたらほぼ通らないです。<br /> <br /> 本来であれば応募する前にインスピレーションを感じるべきことではありますが、何となく見過ごしてしまったり関係性で断れずに関わりを持ってしまいそうになった時に、いざとなればどうにかして関係を持たないように介入してくるということです。<br /> <br /> 面接官あるいは相手の立場からしたら、そんな初対面の人の判断をファーストインプレッションでするわけですけど、相手の態度がおかしかったら自分が拒否されていると思った方がいいと思います。この世の中に、変な人はそんなにいませんよ。<br /> <br /> 割と面接官は自信家ですので相手を判断して「この応募者はこのような人でした」とレポートを出すわけですけど、月日が経つにつれて実際の姿と違っていることが分かってきて、世間では「面接なんて意味あるのか」と言われたりしますけど、面接はやっぱり必要だと思います。そこで応募者を選別していると思っている会社側は、実際は応募者によって選別されているわけです。<br /> <br /> この一時的なことが原因で面接官が応募者を見下したとしたら、応募者は単に入社しなければいいだけのことです。面接官は往々にして人事担当者ですから、そんな人生経験が足りなくて見る目のない人事がいる会社にでも入ったら人事評価で正しく見られることはありませんから入社しないのが正解なわけです。面接官が業務担当者だったとしても同じことで、上司に正しく評価されないのであれば入社しない方がいいわけです。<br /> <br /> 会社は応募者を選別していると思っているかもしれませんが、実際は応募者によって会社が選別されているということです。<br /> <br /> とてもいい会社に見えてもその人の人生に不利益だと思えば守護霊は面接でどうにかして失敗させたりします。普段しないのにどうしてあんな変な態度を面接でしてしまったのだろう・・・ と思い悩むよりも、それは失敗して良かったのだと思った方がいいです。<br /> <br /> どんな会社にいようとも、それは、その環境が一番良いからそこにいるわけです。<br /> <br /> ・・・確かに、本当に単純に失敗した、ということはあります。入社する筈だったのにできなかった、ということはあります。単純なアクシデントの失敗はあります。ミッション失敗で入社できなかった、ということはあります。でも、実際はそこまで難易度は高くありませんので、本来入るべきところには入れます。合わないと感じるところは守護霊が避けさせていることがほとんどです。・・・とは言いましても、積極的に関与してくる守護霊と、見守る方針の守護霊がいたりしますので、この表現はちょっと語弊があるかもしれませんが、少なくとも守護霊の意思は働きます。<br /> <br /> 人付き合いにしても同様で、異性とのお付き合いや結婚などは顕著にそれが働きます。<br /> <br /> ですから、初対面の人への振る舞いで何か失敗して関係が作られなかったとしてもそれを自分のせいだと自責の念に駆られる必要はあまりないですし、変な人と会ったとしても、初対面だけで相手を判断するよりは自分が避けられているのだと思った方が良いです。<br /> <br /> ・・・実際は、本当に根本から変な人は一目でそうだとわかりますし、何か一時的におかしくなって関係を持たないように相手が拒否しているのだな、というのもはっきりとわかります。これらを見分けることができないのは人生経験が足りない、とも言えるかもしれませんね。ただ、見分けられていると思っていても初対面で見間違えることがあります。120%の自信があって相手を判断していると思っていても明らかに間違っている場合も多々あります。そんなもんです。<br /> <br /> ですから、安全のためにも相手をそう簡単に判断しない方がいいと思うわけです。そもそも相手の人生なのですから、あなたがどうこう思い悩んだり卑下したりする必要はなくて、放っておけばいいだけのお話です。<br /> <br /> 印象を受け取ったら、それは相手の姿ではなく自分あるいは自社がそう相手から判断されていると思った方がいいと思います。相手にいい印象があれば、相手が自社あるいは自分にいい印象を持っているということ。逆も同様。それは一時的な姿でしかないわけです。<br /> <br /> 人生の奥深さがわからなくて簡単に相手を判断してしまう人も多いので、そういう人と会って自分や自社が表面的に判断されたら、逆に相手の人生経験の浅さを思ったりもします。とは言っても、それすらも実際は本質とは関係ない、所詮は雑念ですので、根本的にはやはり、単に相手は放っておけばいいだけのお話です。<br /> <br /> 実際のところ、会社の面接であればそのように守護霊が強く関与して拒絶させるような人は積極的に会社に入れるべきだと思いますけどね。いわゆる「運の強い人」でもあるわけで、様々に強運や縁を呼び込む人材であるわけです。守護霊に拒絶されているのだから会社の方に問題があるか、あるいは、応募者のやりたいことに合わないわけですから、あまり深く考えずに「縁がなかったのだ」、と思うくらいで十分かもしれないですね。<br /> <br /> Tue, 16 Jun 2020 00:00:00 +0900 否定形で非我を表現すると自我が分かったつもりになる https://w-jp.net/2020/1958/ <br /> 非我と自我とは似て異なるものなのに、否定形で表現すると自我が分かったつもりになるので満足してしまいますが、実際は非我と自我は相入れないものなので自我が非我を理解することはありません・・・ というと語弊がありますが、非我が現れ始めた後であれば非我と自我がわかり合うことができますが、非我が出てくる前に自我が非我を理解することはありません。その場合、否定形で非我を表現したところで自我が分かったつもりになるだけです。<br /> <br /> 自我が理解するのはそれはそれで重要な一歩ではあるわけですが、実際に分かったのとは異なる状態ということです。<br /> <br /> ですので、分かったつもりになるのは大切なわけですけれども、その理解と非我が働き始めるのとは異なる状態だということです。<br /> <br /> たまにはボーディダルマの言葉を引用してみましょう。<br /> <br /> この無心が仏だ。この無心を超えて仏は見出せない。この無心を超えて悟りや涅槃は求めえない。「無心」とは、本性の実在、因果の不在をいう。自らの無心が涅槃だ。「ボーディダルマ(和尚OSHO)」<br /> <br /> 原文には「心」と書いてあるところを解説者が「無心」と置き換えて説明しています。<br /> <br /> 心が自我だとすれば原文のままですと自分の自我がそのまま悟りや涅槃ということになってしまいます。<br /> <br /> ・・・確かに、それは最終的な理解においては正しいのですけど、実際はそこまでの意識にない人がほとんどでしょうからこうして否定形を用いることで自我を超えた何ものかが存在することを表現しているわけです。<br /> <br /> そうすることでまず自我が納得して、それから、それを実感するために瞑想するなりして確かめるわけです。<br /> <br /> Sun, 14 Jun 2020 00:00:00 +0900 未来が見えたところでそれを指摘するなんて野暮なことはしない https://w-jp.net/2020/1957/ <br /> 所詮はゲームなのですから失敗しようが成功しようがあまり変わりがないことです。明日失敗することが見えていたとしてもそれをわざわざ指摘するなんて野暮なことはしないです。<br /> <br /> 深刻になる、というゲームをみんなが真剣にやっているのにそれを邪魔しちゃ悪いでしょ。遊ぶ時はとことん遊べばいいのです。<br /> <br /> 芸能人とかでも、おそらくは未来が見えていそうな人はいらっしゃいますよ。<br /> <br /> それで、人によっては自覚があって未来が見えると自分で言う人もいるし、単に勘が鋭いと思っているだけの人もいます。自分で未来が見えると思っていても実際には勘が鋭いと思っているだけの人より能力が劣っている場合もあります。<br /> <br /> 基本的には、みんな何某かの予知能力があると思っていた方がいいですし、わかっていて選択しているのですから、放っておけばいいのです。それもまた勉強というか遊びです。<br /> <br /> 勉強というと教訓のように聞こえてしまいますけど、教訓なのはそうだとしても、もっと広い視野で見ればそれは単なる人生のお遊びにしかすぎないわけです。<br /> <br /> ですから、他人から見て失敗のように見えることがあっても、それをわざわざ指摘なんてするのは影響を与えたいというエゴの仕業かあるいは人生というものがよく分かっていないのです。<br /> <br /> 放っておけばいいんです。この世界は自由なのですから、成功して楽しむ人もいれば失敗して深刻になることで遊んでいる人もいるんです。もちろんその瞬間においては苦しかったりするかもしれませんけど、それはその人が人生の選択をしてそうなったのです。<br /> <br /> この世の中は残酷ですので成功もキリがなければ失敗もキリがないです。<br /> <br /> 実際、誰かからの助けなんてのはあるようでいてなくて自分で助かろうと思えば一瞬で助かるわけですが、そもそもの動機は何かというと「知りたい」というところにたどり着きます。<br /> <br /> 悩んでいる人がいるのを見て「なんで悩んでいるのだろう?」と思ったら、人生のとある時、あるいは未来において自分が同じ悩みに落ち込んでその悩みを深く知ることができるようになります。<br /> <br /> 一方で、金持ちを見て「お金儲けの何が面白いのだろう?」みたいに「知りたい」と思えばそうなります。金持ちも楽しいばかりじゃないということがわかれば金持ちに興味がなくなり、自分もお金がそんなには必要じゃないと分かったりするかもしれません。<br /> <br /> そんな感じで、失敗するということは基本的には失敗を知りたいからするわけです。<br /> <br /> ですから、失敗してその失敗を深く知りたいと思っている人の邪魔をすることはないわけです。失敗することが目的なはずなのにそれを邪魔しては悪いです。放っておくべきであるわけです。<br /> <br /> とは言いましても、そうではなく、単に、本当のアクシデントによる失敗というものはあります。これは、指摘して構いません。目的とは違いますからね。<br /> <br /> ですが、普通の人はその差なんてわからないのではないでしょうか?<br /> <br /> ですから、基本的には他人の未来が分かったとしても放っておけばいいわけです。<br /> <br /> Sat, 13 Jun 2020 00:00:00 +0900 どうやら、天変地異で地球を浄化するタイムラインがあるようです https://w-jp.net/2020/1956/ <br /> 少し前にアセンションとかパラレルワールドについて書きましたが、どうやらタイムラインのうちの1つでは以下のようになるようです。<br /> <br /> ・・・夢でみたお話ですのでファンタジーだと思ってください。<br /> <br /> 天変地異で地球を浄化し、そこに、いわゆる「面倒な」スピリチュアリストが移住する。このパターンでは宇宙船が生き残りを助けに来ます。そして、死亡した大勢の魂は前に書きましたように500年前に枝分かれした別のパラレルワールドに遷移します。<br /> <br /> どうやら、これが少し前までの既定路線だったようですね。<br /> <br /> 今は現在のタイムラインでどうにかなるのでは・・・ というところを模索しているようです。<br /> <br /> ですが、今後、神様の気持ちが変わって、遅れはしたけれどもやはり既定路線で行こうか・・・ となる可能性もそれなりにあるようです。<br /> <br /> 実際はパラレルワールドが作られるだけですので、現在の地球を継続するパターンも残ります。というのも、人口増による破滅や混乱がどのような結果をもたらすのか神様が学びたいと思っていますから。<br /> <br /> 神様はタイムラインを切り替えできますから、知りたいと思ったらタイムラインをどんどん増やしてゆきます。このまま人間に任せたらどうなるのかな・・・? という、「知りたい」という欲求で神様のタイムラインが作られてゆきます。<br /> <br /> 一方で、メインになるタイムラインを切り替えもします。<br /> <br /> 意識は時空を超えていますから、メインではないタイムラインは継続はしますが神様の意思が希薄な世界になります。実際は神様は沢山いて、そちらのタイムラインに興味を持っている神様もいらっしゃるのでメインとかそうでないかというのは神様にとっての主観ですのでそれほどメインとかそうでないとかは気にする必要はないと思いますが、説明としては、メインとそれ以外が存在するわけです。力を持った神様が決めると他の神様もそれに従いますからね。<br /> <br /> と、いうことで、まとめます。3つのパターンに分かれます。<br /> <br /> ・今の地球が継続するタイムライン。<br /> ・天変地異で今の地球の地上は破壊され、生き残りは宇宙船が助けに来て、その後の地球で「面倒な」スピリチュアリストと共に暮らすタイムライン。<br /> ・上記の天変地異によって死亡した人たちの多くは500年前に枝分かれした、日本がカリフォルニアも含む太平洋沿岸の多くを支配しているタイムラインに移る。<br /> <br /> 2番目に行きたい人たちがアセンションとか言っている気もしますね。確かにアセンションと呼んでも良いような時期が来てはいますけど、それは、単に意識が変わるだけであって、天変地異とはさほど直接的な関係はないような気が致します。<br /> <br /> Fri, 12 Jun 2020 00:00:00 +0900 ゾーンでの激しい歓喜とその先の静かな歓喜 https://w-jp.net/2020/1955/ <br /> アスリートやコンピュータエンジニアリングなどではゾーンと呼ばれている歓喜を伴う極度の集中状態がよく知られています。人によっては一生に一度だけかもしれませんが、瞑想をしますと割と簡単にその状態に至れるようになります。<br /> <br /> 瞑想をしない場合は仕事や趣味などに没頭してそれと一体になることでゾーンに入ります。<br /> <br /> 私の場合はもともとスピリチュアルで子供の頃に幽体離脱とかしていたわけですけれどもその頃はまだ瞑想をしていたわけではなくて、むしろ、コンピュータのプログラミングを集中して行うことでゾーンに入って歓喜を得ていたような気が致します。<br /> <br /> 仕事においてもゾーンに入っていたわけですが、昔にも少し書いたように日本の会社は集中できない環境でことあるごとにゾーンを破るような人が話しかけてきますから、ゾーン中に(意図的にせよそうでないにせよ)ゾーンを急に破るような人が多い場合は精神的にも不安定にもなります。<br /> <br /> このあたり、日本であまりにもゾーンの理解が薄くて日本の仕事は単なる単純作業でしかないことが多い、ということの現れだと思います。<br /> <br /> ゾーンに入ると入る前の理解を超えたものが自然に現れてきて、ゾーンに入る前の計画以上のものが手に入りますから、周囲からしてみるとそれは本人がやったようには見えなくてただ何処かから持ってきただけに見えるのですよね。<br /> <br /> 実際、ゾーンに入ることで自分の意識が広がって、ある意味、時空を超えて未来からの観点も含めて微細なイメージを受け取って次々に判断や新たな視点が繰り広げられて行きますので、ゾーンに入ったことのない人やゾーンにほとんど入れないような人には理解できないでしょう。<br /> <br /> そんな中でも、割とコンピュータはゾーンに入りやすい気が致します。<br /> <br /> 日本の企業の習慣はゾーンに入っている人の集中を途切れさせてしまいますのでゾーンに入ること自体が危険ではあります。ゾーンをことあるごとに途切れさせてしまうと、時々いるような、ちょっと精神不安定なコンピュータエンジニアができてしまうのです。本人が悪いのではなく会社の環境が悪いことが多いような気が致します。このあたり、日本の企業がいかにゾーンに対して理解がないのか、ということの現れだと思います。だから、日本の企業の生産性が上がらない。<br /> <br /> 一方、幸いにしてゾーンが妨げられずに歓喜の状態で作業が続けられた場合、それは効率的な結果をもたらすわけです。<br /> <br /> これは、瞑想でいうところの「集中」「シャマタ」という状態です。瞑想において極度の集中をすれば歓喜に至ります。<br /> <br /> ですから、瞑想をしていなくても仕事で極度の集中をして歓喜に至ることができればそれは瞑想でシャマタをしているのと同じことになります。<br /> <br /> そして、そのゾーン状態を続けていると、年単位の時間経過が私の場合には必要でしたが、やがて、その歓喜が静まって行きます。<br /> <br /> これは私だけの状況ではなく、一般的にもそうであるようです。<br /> <br /> 歓喜が鎮まったからと言って特に不幸になったわけでもなく、次第に、静かな歓喜がそれに取って代わるようになりました。<br /> <br /> この当時は瞑想をしておりませんでしたので、激しい歓喜から静かな歓喜に移行するのはゾーンを体験するごとに次第に少しづつ遷移する、という感じのゆっくりとした遷移ではありました。しかし、はっきりとした変化であり、元に戻ることはありませんでした。<br /> <br /> もともとの激しい歓喜の状態こそがおそらくはゾーンと一般的に呼ばれているもので、静かな歓喜もゾーンと呼んでも良いのかもしれませんが、それはもはやわざわざゾーンとは呼ばなくても良い気が致します。<br /> <br /> これらの2つのゾーンが実際にはあるのですが、前者のゾーンであったとしても、日本の企業ではあまり知られていないように思います。<br /> <br /> Thu, 11 Jun 2020 00:00:00 +0900 ヴェーダにおける4つの意識の状態 https://w-jp.net/2020/1954/ <br /> ヨーガあるいはヒンドゥ教では意識の4つの状態を言い表しています。<br /> <br /> ・目覚めの状態(ジャーグラト)<br /> ・夢見の状態(スワプナ)<br /> ・熟睡の状態(スシュプティ)<br /> ・覚醒意識(第四の状態、トゥーリヤ)<br /> <br /> 具体的にはマーンドゥーキヤ・ウパニシャッドにて次のように記されています。アートマンとはざっくりいうとヨーガでいう魂のようなものです。<br /> <br /> ■アートマンの四位<br /> ・覚醒位(jagarita-sthana)における普遍位(vaisvanara)<br /> ・夢眠位(svapna-sthana)における光明位(tajiasa)<br /> ・熟睡位(susupta-sthana)における識所成我(prajna)<br /> ・第四(caturtha)位の我、聖音オーム(om=a.u.m.)、吉祥、絶対不二(advaita)<br /> 「ウパニシャッド(辻 直四郎 著)」より<br /> <br /> 原典の翻訳には以下のようにあります。<br /> <br /> ・アートマンの第一のすがたは(中略)ヴァイシュヴァーナラである。覚醒状態にあり、(中略)、感覚器官からよろこびを受け取って、それを享受する者である。<br /> ・アートマンの第二のすがたは、その精神的な状態における普遍的人格、タイジャサである。(中略)彼は夢見状態にある。(中略)自分の過去の行為が思考期間に残した微細な印象を享受する者である。<br /> ・アートマンの第三のすがたは、熟眠状態における普遍的人格、プラージュニャである。プラージュニャは夢を見ず、欲望を持たない。(中略)あらそいも不安も経験しないのだから、彼は至福に満ちており、至福の経験者である、と言われる。プラージュニャは全てのものの主である。彼はすべてのものを知っている。彼はすべてのものの心臓に住む。彼はすべてのもののはじめである。彼は全てのものの終わりである。<br /> ・第四のすがたは、(中略)感覚を超え、理解を超え、表現を絶したもの、それが第四のすがたである。(中略)それはアートマンである。<br /> 「ウパニシャッド(日本ヴェーダンタ協会 著)」<br /> <br /> こうしてみますと、一般的に言われている最初の定義と実際の内容とでかなりの違いがあることがわかります。<br /> <br /> 最初の4つの定義は割とヨーガ業界では有名で色々なところで語られていると思います。<br /> <br /> 私が思うに、特に4つ目の「トゥーリヤ」はスピリチュアル業界で有名で、おそらくは和尚ラジニーシ(OSHO)が講話でことあるごとに繰り返して本にも多数載っていることでこのトゥーリヤが超越状態を意味することが広く知れ渡ったのだと私は思っています。<br /> <br /> しかし、実際に本文を見てみると、ちょっと意味合いが違うことがわかります。<br /> <br /> 第四の状態を目指すというのは確かにそうですが、実際は、それぞれの状態全てにきちんと重きが置かれるべきだと思うわけです。3つそれぞれをきちんと理解して体験して、そして初めて第四の状態に導かれてゆくのであって、最終目的地の第四の状態をいくら繰り返したところで覚醒には至らないのかな、と今では思います。確か20年以上前のスピリチュアルやニューエイジのブーム時代には和尚ラジニーシ(OSHO)の講話の本が人気になってトゥーリヤという言葉も一般的になったかと思いますが、その時は、このような細かな説明は聞かなかったような気が致します。私が読み飛ばしていただけかもしれませんが。<br /> <br /> 簡単にポイントを記載すると、以下のようになります。<br /> <br /> ・目覚めの状態(ジャーグラト)アートマンの一面、ヴァイシュヴァーナラ。感覚器官を受け取る者。<br /> ・夢見の状態(スワプナ)アートマンの一面、タイジャサ。微細な印象を受け取る者。<br /> ・熟睡の状態(スシュプティ)アートマンの一面、プラージュニャ。至福の存在。<br /> ・覚醒意識(第四の状態、トゥーリヤ)これこそがアートマン。<br /> <br /> 第四の状態であるトゥーリヤがアートマンであるとはどういうことでしょうか? 聖典の本文によると、以下のように続きます。<br /> <br /> すべての言葉を超えたこのアートマンは、オームという音節である。この音節は分割できないが、3つの文字、すなわちア・ウ・ムから成っている。「ウパニシャッド(日本ヴェーダンタ協会 著)」<br /> <br /> 同書によれば第一から第三までの状態がそれぞれア・ウ・ムであり、第四の状態であるトゥーリヤがアートマンであるところのオームだと言うのです。<br /> <br /> であれば、これらの意味もはっきりとします。<br /> <br /> 和尚ラジニーシ(OSHO)の講話は、当時は「トゥーリヤという凄い状態があるのだな」と思って読んでいましたが、今から読むとインパクトのあるところだけを取り出して弟子たちを喜ばせていたという面もあるのかな... というショービジネス的な面が見え隠れしているのが見て取れます。スピリチュアルで2周・3周・4周くらいしてくると色々な視点が持てるものです(苦笑)<br /> <br /> 参考までに神智学から見たこれらの状態の定義を記載しておきます。<br /> <br /> ・ジャーグラト(Jagrat)は普通の、目が覚めている時の状態。<br /> ・スヴァプナ(Svapna)はアストラル体の中で働き、その経験を脳に刻印しうるような夢意識。<br /> ・スシュプティ(Sushupti)はメンタル体の中で働く意識で、その経験を脳に伝えることはできない。<br /> ・トゥリヤ(Turiya)は三昧(サマーディ)の状態で、ブッディー体(純愛と叡智)の中で働く意識であるが、脳とは離れすぎているため、簡単に思い出しうるものではない。(中略)深い瞑想(三昧、サマーディ)によってのみ連携あるいは思い出せる。<br /> 「神智学大要 第2巻 アストラル体[上](A・Eパウエル 著)」<br /> <br /> これらは神智学におけるアストラル体等の定義を知らないとなかなか読み辛いものにはなっているものの、内容的に違う面から語れていて示唆に富んでいると思います。<br /> <br /> Wed, 10 Jun 2020 00:00:00 +0900 <link>https://w-jp.net/2020/1953/</link> <description><br /> </description> <pubDate>Tue, 09 Jun 2020 00:00:00 +0900</pubDate> </item> <item> <title>否定的思いを打ち消すために反対である肯定的思いを用いるのは悪いことか? https://w-jp.net/2020/1952/ <br /> 最近は色々と理屈っぽい人が多くなって、古典に書かれてあるこの手法を否定する人がそれなりに世間にいるように思います。<br /> <br /> 大元のお話はヨーガスートラに記載されています。<br /> <br /> 2.33 否定的想念によって撹乱されたときは、反対のもの(肯定的想念)が念想されるべきである。「インテグラル・ヨーガ(スワミ・サッチダーナンダ著)」<br /> <br /> これは古典ですが、最近の精神セラピーでも同様の手法が取られていると思います。<br /> <br /> しかし、意外にもこれを否定する人が多いのです。言わんとしていることはわからないでもありませんが、しっかりと理解していないように思われるのです。<br /> <br /> まず、これを否定する人の言論は以下のようなものです。<br /> <br /> ・思いは否定されるべきではなく観察されるべきものだ。<br /> ・否定的想念を肯定的想念で打ち消すのは本当の瞑想ではない。それは間違っている。<br /> <br /> これらの発言には共通点があって、おそらくはヴィパッサナー瞑想やスピリチュアルな本で学んで感化されて、しかしながらきちんと理解していないのかな、という印象を受けます。<br /> <br /> まず、はっきりさせておくべきことは、意識の段階においてそれぞれ何が正しいのかが違うということです。<br /> <br /> 瞑想は「集中」と「観察」の両方の要素がありますが、集中が出来ていない人に観察だけを示唆しても瞑想はうまくいきません。<br /> <br /> 否定的想念が出てきたらそのまま放っておけばなくなる、というのは中級者以上のお話です。否定的想念が出てきたら反対の想念(肯定的想念)を出して打ち消す、というのは初心者のお話です。<br /> <br /> このヨーガスートラの話を聞くとすぐにヒステリーになって否定しだす人がぼちぼちいて、なぜそんなにヒステリーになるのか私には全く理解できませんが、そのようにヒステリーに否定する人が実際にこの世の中にいますので、そのような人は瞑想の段階としてはまだ理解が全然足りていないのかな、という印象を受けます。<br /> <br /> 確かに、瞑想の意識が進んでヴィパッサナー状態になると否定する必要もなくて観察すれば良いですし、否定的想念を肯定的想念で打ち消すのは本当の瞑想ではないという人の意見も分からなくはないですけど、私なんかからすればどちらも瞑想で、それぞれ深さが違うだけだと思うのです。<br /> <br /> そんなにヒステリーになって否定することもないと思うのですけどねえ。<br /> <br /> そういえば最近手に入れた本で以下のような記述がありました。<br /> <br /> 真の瞑想とは強いることなき自然なものである。物質的なことであれ霊的なことであれ、瞑想から何かの見返りを得ようと、決まった時間に決まった想いに心を集中させることによって、対立するすべての想いを打ち消そうと悪戦苦闘するのが瞑想ではない。「チベット永遠の書(テオドール・イリオン著)」<br /> <br /> これ、読む人によって違った印象を与えるでしょうね。<br /> <br /> 瞑想をよく分かっていない人が読むと「偽物の瞑想があるんだ! 私は真の瞑想を知っている」と思って、偽物の瞑想を吊し上げてヒステリーになってしまうこともあるでしょう。同書では著者が大袈裟に「真の瞑想」とか「偽の瞑想」とか書いているので、これを読んでいる人は真に受けて偽物を吊るし上げようとするかもしれないですね。こういうのはいけないですね。理解不足ですね。<br /> <br /> 瞑想をよく分かっている人が読むと、「そりゃそうです」としか思いません。特に凄いことが書いてあるわけでもないし、当たり前のことです。<br /> <br /> このような、何か凄いことのような印象を与える宣伝が一部でなされていて、それによって不愉快な思いを受ける人がそれなりにいるのは悲しいことです。<br /> <br /> 以前にも書きましたけど、瞑想に不慣れな最初は力を入れて集中して思いを打ち消すのです。そういうものです。その後、やがてはヴィパッサナー状態になってゆきますけど、それは瞑想がそれなりに進んだ後のお話です。<br /> <br /> Mon, 08 Jun 2020 00:00:00 +0900 チャクラは左回転、かも https://w-jp.net/2020/1951/ <br /> 今日の瞑想では、ふと気がつくと空から落ちていました。空から手を広げて大の字になって頭から地上に落ちてきていました。地上まであと数百メートルになった時、ふと手とお椀(何故か持っていた)を前に向けたらその中に風が入り、やがて周囲が光に包まれて落下が止まり、空を浮き始めました。そして再度、地上の空高く舞い上がったのです。<br /> <br /> その時、何か渦のようなものが見えました。<br /> <br /> <br /> <br /> 白黒で、私の顔の真正面から見ると円のように見えましたが、渦が左回転(反時計回り)をして、中心が手前(私の方)に向かってぐるぐると竜巻のように伸びているのが見えました。<br /> <br /> その光を浴びたことによって浄化されたような感じになったのです。<br /> <br /> この渦巻がチャクラかどうかはわかりませんけど、昔、本で見たチャクラの図に似ている感じです。<br /> <br /> <br /> 「チャクラ(C.W.リードビーター 著)」<br /> <br /> この渦巻は、かなりの速さで回転していることがはっきりと分かりました。<br /> <br /> 花弁らしきものはありませんでした。同書にはチャクラごとに図がありますが、回転のくびれ部分を数えて花弁、としているのですね。花弁がないということはアジナチャクラだったのかもしれませんね?<br /> <br /> アジナチャクラの色について以下の記述があります。<br /> <br /> アジナチャクラの光色(オーラ)について、サッチャナンダは興味深いことを述べています。つまり、人によっては透明に見えるというが、自分には煙色、または黒色に見えるというのです。リードビーターは、エーテル体のアジナチャクラのオーラは黒紫色だと言っています。多少のちがいはあっても、二人の間には、暗いという点で一致が見られます。この黒または煙色の光色は、サッチャナンダによると、アストラル体のオーラだということです。「密教ヨーガ(本山博 著)」<br /> <br /> これは、前に引用した瞑想中に見えるアストラル体の色とも繋がります。<br /> <br /> 同書と照らし合わせると、私が見た白黒の回転は「浅い精神集中の状態におけるアストラルの色」に相当するような気が致します。<br /> <br /> 確かに、その時はちょっと疲れていてうつらうつらしていましたので、瞑想というよりもちょっと意識が飛んでいましたのでそういう状態でこそ白黒(灰色)で見えるのかもしれません。<br /> <br /> となれば、チャクラの回転が見えるということはあまり集中できていなくてよろしくない、という解釈にもなります。<br /> <br /> とは言いましても、このあたりは本質ではなくてただのメモ書きですので、あまり気にすることでもなさそうです。結局のところ、もっと意識が進まないと正解もよくわかりませんしね。見えたところで今のところなんてことはないです。<br /> <br /> Sun, 07 Jun 2020 00:00:00 +0900 昔から、世界の統治は一部の霊たちによって行われてきた https://w-jp.net/2020/1950/ <br /> 霊の集会があって、国の行末はそこで話し合われた上で自薦あるいは他薦で国王あるいは首相が転生して国を収めてきました。<br /> <br /> 民主主義になってもそれは同じで、基本的にはとある霊の集団が基本的には今も国を治めています。<br /> <br /> その集団にもいくつかあって、中国を統治している霊の集団だとかフランスからイタリア周辺までを管理している集団、イスラム圏、などいくつかあります。<br /> <br /> それぞれのやり方はあるにせよ、地上で争っているのとは異なり、霊の集団同士は互いに人材の交流も頻繁にあったりしてかなり仲が良いです。お互いがお互いを尊重しあって、例えばローマで皇帝をした人が中国の皇帝になったりしています。<br /> <br /> ですから、民主主義なんて幻想で、建前がそういう形にしているだけです。<br /> <br /> 国民の興味は「食う、寝る、遊ぶ」ですから、統治なんて興味がないでしょう?<br /> <br /> 統治と言っても、国を治める基本はここで、人々が楽しく幸せに暮らすための方策を考えているわけです。統治というのは苦労が多くて、自分のためだと思っていたらやっていられないことが多いわけですが、それでも人々の幸せのために統治する人が必要なわけです。<br /> <br /> 国のトップやそれを輩出した霊の集団の真意はそこにあったとしても、権力の周囲には自分の利益のために近付いてくる権力・金銭の亡者がうようよしていますから、それらの人のことをまともに聞いていたらまともな統治ができないわけです。<br /> <br /> 霊の集団や皇帝が平和を望んでいてもその取り巻きたちが愚かで自分のことしか考えないと中国のとある皇帝のように取り巻きから何も知らされないままいきなり反乱が起きて国が潰れてしまうことすらあります。<br /> <br /> 民主主義なんて本当に真面目に実行していたら国がいくつも簡単に潰れてしまうわけです。<br /> <br /> 民主主義が生まれたのはフランス革命からで、それは霊の集団の真意ではありませんでした。いわゆるアクシデントで生まれたのが民主主義で、基本はとある霊の集団が今も国を治めているわけです。<br /> <br /> 普通の人がいくら考えたところで「食う、寝る、遊ぶ」以上の政策ができますか? 民主主義は衆愚政治になる、とよく言われますが、それは正しいです。民主主義という形であったとしてもトップはそれなりの人が今もついています。<br /> <br /> ただ、霊の集団がいくら考えたとしても地上の人々との考えとはちょっとズレていることが多い気がします。政治家たちがズレているというよりは、霊の集団がズレていることもそれなりにあるような気が致します。政治家のエゴでズレる場合も多々ありますけどそれは当たり前で、それと合わせて、霊の集団がちょっとズレている場合もあるわけです。<br /> <br /> 平凡な政治家を操作してうまく政策を実行させるのも霊の集団の役目だったりします。ですから、普通な政治家であったとしても役目として霊の集団にその後に選ばれることがあればその時は非凡な才能を発揮したりもするわけです。<br /> <br /> Sat, 06 Jun 2020 00:00:00 +0900 能力があっても他人に言わない https://w-jp.net/2020/1949/ <br /> スピリチュアル業界とかヨーガとかしていますと、ちょっとした能力がある人を時々見かけます。<br /> <br /> スピリチュアルな人は割とオープンで自分のことを他人に言ったりしますけど、ヨーガの人は能力があっても他人に言わない、というのが歴史的・文化的・伝統的にそうみたいです。<br /> <br /> ヨーガの人に言わせると、能力は修行の妨げになるとかエネルギーの無駄使いだとか色々言っていますけど、物事はもっと単純なんですよ。<br /> <br /> それは、能力を見せてしまうと面白がってくる野次馬が単に面倒なだけです。それが理由の90%くらいで、ヨーガの人とかがしたり顔で論じてくるような、能力は修行の妨げだとかエネルギーの無駄使いだとか・・・ そういうのも確かにありますけど、それよりは、野次馬がめんどくさい、というのが見せない理由だと思いますよ。<br /> <br /> あるいは、見せている能力はほんの一部、という場合もありますね。<br /> <br /> どちらにせよ、大そうな理由はあんまりないです。<br /> <br /> たぶん、多くの人はそんなものじゃないかな・・・。<br /> <br /> 昔は魔女狩りとか有力者に誘拐されて能力を使われたりしましたのでリスクがかなりありましたが今はお金で動いてくれる有力者がたくさんいますしそのような人がどこにいるのか情報も出回っていますから、以前のように誘拐リスクもほとんどありませんしね。昔はこのような怖い理由で能力を言わなかった人も多かったです。<br /> <br /> 例えばナチスが魔女をさらって遠隔視をさせていたりしましたからね。怖い時代でした。<br /> <br /> 今は、単に面倒なだけ、という理由が多いのではないですかね。あるいは、今後また怖い時代が来ると予見して言わない人もいるかもしれないですね。<br /> <br /> Fri, 05 Jun 2020 00:00:00 +0900 人はみんな神様! とか思っていても実際には鉱物霊とかもいます https://w-jp.net/2020/1948/ <br /> 割合は少ないですけど鉱物霊とかもいますし、人の魂の出どころを知らないと神様なんて安易には言えません。<br /> <br /> 人の魂は神様と一緒で万能なのに忘れているだけ! とか言っている人がいますけど、そういう人がいるというだけで、そうでない人もいます。<br /> <br /> 現実として自分の立場はそうは変わらないですし、鉱物霊とまでは言いませんけど、精霊出身だったり妖精出身だったり爬虫類出身だったりするわけです。割合として国ごとに同じ出自の人が多いのであまり気にすることはないですけど、多種多様な魂が混在している、という表現の方が実態に近いです。<br /> <br /> 神様は分け隔てなく全てに行き渡っている・・・ とか言う人がいますけど、それは確かにそうですけど、あまり個人には関係のないことかなとも思います。知識として知っておけばそれはそれでいいですけどね。相手に与えたものは返ってくる・・・ それは本当ですし、そのくらいの知識でとりあえずは十分かと思います。<br /> <br /> 人はみんな神様とか思ってしまうと分け与えたりすることに躊躇しなくなってゆきますけど、変な人の相手をしていたらキリがありませんし、割合として奪う人がこの世界に多いので、そんな人の相手をしていたら持ちません。<br /> <br /> 自分と分かり合える人と静かに暮らすくらいがちょうど良いと思います。人はみんな神様なのは根元においてはそうでしょうけど、魂としては出自がそれぞれ違いますから、合わない人とはやっぱり合わないのです。<br /> <br /> Thu, 04 Jun 2020 00:00:00 +0900 <link>https://w-jp.net/2020/1947/</link> <description><br /> </description> <pubDate>Wed, 03 Jun 2020 00:00:00 +0900</pubDate> </item> <item> <title>非我を働かせる、とは良い表現 https://w-jp.net/2020/1946/ <br /> 最近入手した本が意外に瞑想について詳しく書いてありまして、元カトリック教徒の外国人が禅を習った記録とのことですが、そこに「非我を働かせる」と言う表現がありました。<br /> <br /> これはヴィパッサナー状態(観察状態)を示すのにとても良い表現だと思います。そうですか。こう言う表現方法がありましたか。<br /> <br /> そういえばOSHOの本で「無心」と言う表現をしていましたね。西洋の人や、インド人であっても西洋に受け入れられる人の表現は否定形が多いのかもしれませんね。否定形で表すことによって西洋の人に「そうか」と理解されるのかもしれません。<br /> <br /> 日本人にとっては「ふむふむ」と言う感じですし、実際にそれがどう言うことなのか、わかるようでいてわからなかったりする気もします。<br /> <br /> 「非我」にせよ「無心」にせよ、心を超えた何か、あるいは、心ではない何かをどうにかして表現しようとしているように思います。<br /> <br /> ただ単に「非我」「無心」としてしまうと何某かの境地であるように理解されてしまい、それはトランス状態か何か、彷彿状態か何かだと理解されてしまうかもしれません。<br /> <br /> しかし、「非我を働かせる」と表現すればそれは「行動」が伴いますので、超感覚および超思考が働く世界であると言うことが明らかになるわけです。<br /> <br /> それは、顕在意識での行動ではありませんので行動とは言っても違う種類の行動であるわけですし、行動と言うと肉体と五感による活動と理解されてしまいますので私なんかは行動という言葉はあまり使わないようにしておりますが、同書のコンテキストから言えば「非我を働かせる」というのはとてもわかりやすい表現になっているわけです。<br /> <br /> 「非我」ですから通常の心ではなく、しかも、それが活動する、ということは、それができているかどうかが読む人にとって自分で判断できると思うのです。<br /> <br /> 読んでいる人ができているつもりにならずに、これは何某か、自分が知らない何かであるということを理解するには「非我を働かせる」という表現は十分だと思います。<br /> <br /> というのも、この種のスピリチュアルは色々なところで語られていますので、なんとなく自分が高次な意識を持っているかのように錯覚しがちだからです。しかし、「非我を働かせる」という表現は錯覚させないだけのはっきりとした表現になっていると思います。<br /> <br /> 「自我の妨げなしに、行為の秘めた力が働くにまかせる」ということを私は学んでいたのでした。私が学んでいたのは「自我を働かせない」ということではありません。私が学んでいたのは「非我を働かせる」ということでした。「生きているのは、もはや私ではない」ということが、ようやく日々の生活に現れつつありました。「禅入門(イレーヌ・マネキス著)」<br /> <br /> Tue, 02 Jun 2020 00:00:00 +0900 水晶で瞑想と同様の効果 https://w-jp.net/2020/1945/ <br /> 石にも色々あって、形が良くてもパワーストーンではない場合があります。<br /> <br /> 昔、インドで安い石を大量に買って帰ったことがありますけど、それはインドの疲れた石、と言う感じでした。石には現地のオーラが宿るのですね。インドならインド人の感じがしますし、他の土地もそうです。<br /> <br /> 現地の人がそこらで拾った石が外国人には高く売れるらしくてインド人はたいそう喜んでいました。<br /> <br /> かなり昔に水晶が良いと聞いてなんとなく買ってみた水晶は何にもパワーがありませんでした。ですので、水晶と言っても色々のようです。<br /> <br /> 今回は、なんとなくメルカリで購入してみたのです。前は形を重視したのですが、今回は量重視で安いさざれ石を買ってみました。<br /> <br /> すると・・・ これが驚く効果があったのです。<br /> <br /> 部屋にあるだけで、特に頭のあたりに瞑想の効果が出ています。置いておくだけでも効果がありますが、ザラザラと少し動かすだけで更に効果が出ます。<br /> <br /> 仕事中にPCを使っているとどうしても頭にモヤモヤ感が出てきてしまいますが、今回の水晶さざれ石が近くにあるだけでもやもや感が一気に解消したのです。<br /> <br /> これはびっくり・・・。 瞑想で解消しようとすると数時間はかかる効果です。それがものすごく安い水晶でこんな効果が現れるとは。<br /> <br /> 水晶が近くにあるだけで頭、特に後頭部がピリピリしています。首の方や背筋および両肩の方にまでその電気が続いているような感じです。肩こりにも良さそうです。水晶を近づけて少しザラザラと動かすだけで体の各所の血の巡りも良くなりそうな気がします。<br /> <br /> 今回買ったのは500gで送料込千円くらいのブラジル産です。ブラジルと言っても広いですが、今回のは当たりでした。同じものを1kgくらい追加で買ってみます。<br /> <br /> Mon, 01 Jun 2020 00:00:00 +0900 マスコミの役割は真実を明らかにすることだった https://w-jp.net/2020/1944/ <br /> 昔、ジャーナリズムというともっとプライドがあって隠された真実を世の中に広めるという使命感がありましたが今は単なる煽りの道具と化していて、真面目にやっている方々がはなはだ迷惑しているように思います。<br /> <br /> 真面目な方が真実の報道をしている一方で、目立つジャーナリストが煽り記事を広める風潮は今に始まったことではないですけど、そこはやはり歴史的なものがあるのでしょうね。海外ではジャーナリストの歴史としてまず最初にカリスマ的な報道記者がいてその周辺にジャーナリズムのあり方の思想が出来上がってきたのに対し、日本の場合は輸入してしまって単なる宣伝の道具として扱われてきたという大きな違いがあると思います。<br /> <br /> まず最初に思想的なものがないとマスコミの報道も煽りの道具になってしまうのでしょう。<br /> <br /> 既にシステムとして煽りの道具が機能しており、システムが一人歩きして巨大になって制御不能なほど日々動き続けており、そこにはもはや人間の意図が存在せずに、ジャーナリストはシステムの一部としての煽りの機能を持たされているようにも感じます。<br /> <br /> 最初は煽りによって人の目を向けさせるとか世の中を扇動するという意図があったように思いますが、既にシステムとして煽りこそが目的と化しており、目的が存在せずに煽りだけが日々繰り返されるだけの生産性のない状況を生み出しているように思います。<br /> <br /> 日本には戦争がありませんけどアストラルな想念の世界を見てみると戦争に類似したことは起こっており、人々のうっぷんや妬み、怒り、そのようなものがそこら中にぷかぷか浮いていて雲のように漂っており、そこを通過するだけで怒りや悲しみといった感情に支配されてしまうことがあります。オーラが不安定なほどそのような漂う想念の雲の影響にさらされやすいです。<br /> <br /> ですから、用もなくそこらを歩き回るのは、実はあまりお勧めできないです。想念を拾ってしまって不愉快になったりしますからね。<br /> <br /> 今、マスコミはそのような害毒の想念の雲をばらまく機能になってしまっているわけです。マスコミが煽り記事を出すこと自体は無視すればいいのですが、このように、煽り記事に影響されてしまった人々がそこら中にばらまく不快な想念の雲はとても迷惑です。<br /> <br /> 昔は報道機関といえば特別でしたが、今は自分で直接的に広報することができますし、記者にしても会社に属する必要が減っていって個人で発信する方が思想がよくわかって良いわけです。<br /> <br /> そもそも「公平」な報道なんていうのは本人が思想的に公平なところを目指していることが前提になるわけで、その目的が自身で明らかになっていないのであれば公平なんてのはただの言い訳にしか過ぎないわけです。<br /> <br /> 昔のジャーナリストが言っていた「公平」というのは「事実だけを言う」ことではなくて、個人の思想に基づいて双方を判断することでありましたので、相対的なものであるわけです。事実だけを言うジャーナリズムが正しいと思うのならそうすればいいですし、個人の思想を公平と呼んで双方を判断するならそうすればいいわけです。<br /> <br /> 「事実」あるいは「個人の価値観の元の公平な双方の視点」であるなら、煽りよりもよっぽど良いです。<br /> <br /> そのような観点がないなら、今後ますますジャーナリズムは不要なものとして扱われてゆくでしょうね。<br /> <br /> これは、煽り記事に反応する人が減るなら自然消滅するでしょうし、増えるならば大師が手を下して人知れずジャーナリズム解体のプロジェクトを発動させるでしょうね。どちらになりますかね。<br /> <br /> 大師は自分では世の中の動向がわかりませんので目となってこの世に普通に転生している人たちの視点を参考にします。そのような人が誰かは一般的にはわかりませんけど、実は「目」である人に意見が届くように視点や意見を日々発信するのはどの人であっても大切なように思います。<br /> <br /> Sun, 31 May 2020 00:00:00 +0900 <link>https://w-jp.net/2020/1943/</link> <description><br /> </description> <pubDate>Sat, 30 May 2020 00:00:00 +0900</pubDate> </item> <item> <title>世界に介入を続ける大師たち https://w-jp.net/2020/1942/ <br /> 一部のオカルトで言われていますけど、そういう大師達が実際にいます。<br /> <br /> フリーメーソンとは関係がなくて、あれはただの組織です。しかし、そのメンバーに大師が関わっていたことがあります。組織自体は大師とは無関係で、むしろ特定の個人との関係があります。<br /> <br /> 一部はヒマラヤにいたりしますけど、割と普通の一般社会に紛れ込んでいます。一部はインドのスワミみたいな出家者ですけど、そうでない人、例えば普通のビジネスマンだったりもします。<br /> <br /> ヒッピーに大師がいるかどうかはわかりませんけど、似たような格好をしている大師はいます。ヒッピーは真似しているファッションであって、ヒッピーになったからと言って大師になれるわけではありません。<br /> <br /> 世界の政治を動かしている人は表には政治家ですけど、政治家の思念に影響を与えて政治を動かすなんて大師たちにとってはお手のものです。<br /> <br /> ただ、どのあたりを動かせば良いのかまでは大師本人には細かくはわからないので、主に2つの手段を持って選択を行っています。<br /> <br /> 1つは、監視役の魂から現状を読み取る。<br /> もう1つは、とある大天使が判断し選択した上で大師に実行を委ねる。<br /> <br /> 前者は、世の中を監視して理解を深めるために転生した、大師と同じグループソウルに属する分霊です。<br /> <br /> その分霊の意識を大本である大師の大師のグループソウル、それは時にハイヤーセルフとも呼ばれる根元の魂ですが、その魂がいわゆる大天使であり、全ての分霊の意識を勘案した上で決断し、実行は大師などに任せるわけです。<br /> <br /> とある大天使の分霊が大師として転生し、分霊である大師および監視役の魂が目になって、グループソウルであるハイヤーセルフであるところのとある大天使が判断し、それを大師に実行させるわけです。<br /> <br /> ですから、大本である大天使、それは大師のハイヤーセルフでもあるわけですが、その大天使がこの世界を動かしているとも言えます。<br /> <br /> 地球には多様な存在が関与していて、地球外生命体も多く来ております。<br /> <br /> その大天使は基本的には地球の衛星軌道上に滞在して地球を空から監視しておりますので最初は気付きにくいのですがやがては大天使の存在に気がついて多数の地球外生命体の訪問も受けているようです。<br /> <br /> Fri, 29 May 2020 00:00:00 +0900 悩みも所詮はゲームの1つ https://w-jp.net/2020/1941/ <br /> 人生にはもともと悩みなんてないですけど、悩むというゲームを皆さんでしているだけです。<br /> <br /> 盲目にならないと夢中になれないですし、盲目にならないと悩むなんてこともできないです。もともと清々しいですが、没入感みたいなものは盲目になるからこそ熱中できるわけです。<br /> <br /> スピリチュアルでは「盲目をやめましょう」とか「清々しく」とか言われていますけど、確かにそれは本来の姿ですけど、単に今の皆さんは一緒になって悩むというゲームをしているだけですので、実際はあまり心配することでもないと思います。<br /> <br /> スピリチュアルな人が「このままだと地球ガーー」とか「悩みの想念ガーーー」とか言って煽ってますけど、煽って楽しいの優越感でもあるわけで、やはりそこにも「分離」の意識が働いているわけですね。<br /> <br /> 悩んでいる人は楽しくて悩んでいるのです・・・ というと語弊がありますが、本来のスピリットは悩みという状態を観察したくて肉体の三次元の意識が悩みという状態に囚われているわけです。<br /> <br /> 確かに、その状態に長くいると元の状態に戻れなくなったりしますので、元の状態を取り戻すためのスピリチュアルというのはありです。<br /> <br /> ですが、それは分離の意識とかではなくて、人生は全てどちらも正解であるけれども、再度、自由で選択のある状態に戻っていこう、というお話であるわけです。<br /> <br /> 悩みだけでなく、熱中して没入感と共に楽しめるのがこの三次元世界であるわけです。所詮はゲームです。<br /> <br /> Tue, 26 May 2020 00:00:00 +0900 一番大切なのは命なのかそれ以外か https://w-jp.net/2020/1940/ <br /> どうやら歴史上、一番大切なものは命なのかそうでないのかで人々は意見を交わしていたようです。<br /> <br /> 人間の体に魂が宿っておりますので命が三次元の物体ということであればそうではありませんけど魂というレベルからしたら確かに命が一番大切です。しかし、命は継続しますけどそれ以外の状況もありますので単純に三次元的な命を延命させる方が良いとも限りません。<br /> <br /> 人間として生まれてくるためには多大なエネルギーが要りますので簡単に肉体を捨てるべきではありません。それは大前提です。ですから自殺は基本的にはいけません。良い場合もあるのかもしれませんが私にはわかりません。<br /> <br /> 自殺とまではいかないでも、高次のスピリットあるいは守護霊の選択として死ぬ方向に導かれる時があります。それを自殺と言うのかなんと言うのかは微妙なところです。<br /> <br /> 例えば、今世の学びを終えて次の学びに行くために大きく環境を変える必要がある時は、生きたまま環境を変えることができないほどの場合、あるいは、生きている環境が閉ざされていて次の可能性がないと高次のスピリットが判断した時に死という洗濯をする場合があります。それは鬱になって自殺するとかそういうお話ではなくて、遥かな未来を見据えて、将来そのまま生きていたら来世にも渡って悪影響があると高次のスピリットが守護霊の意見も参考にしつつ決定することであるわけです。<br /> <br /> ですから、三次元的な命は最高の価値ではなく、一時的なものであるわけです。しかしながら、簡単に捨て去っていいものでもないわけです。<br /> <br /> Mon, 25 May 2020 00:00:00 +0900 不平等なのが当たり前 https://w-jp.net/2020/1939/ <br /> なんていうと世間では風当たりが強いようですけど、平等なのは社会のシステムのことであって、人は不平等なのが当たり前です。<br /> <br /> まず親が違いますし兄弟も違いますし親戚、生まれた場所、周囲の環境、時代、全然違うのに平等だなんて思うから不平不満が生まれるのです。<br /> <br /> 競争社会にしてラットレースさせるために平等だなんて言い出したのでは? とも勘ぐってしまいます。<br /> <br /> 例えばアメリカ建国宣言の神の元の平等というのはキリスト教の信者が平等ということであって、それを真に受けて平等だなんて思わない方がいいです。それ自体は競争社会とは関係ないように見えても、実は影響しているなんてことはよくあります。<br /> <br /> スピリチュアル的な観点で言いますと、人間は死んでも終わりませんから、死んだら友人知人のところにまず帰って、そこで一緒に楽しく暮らす場合もあればグループソウルと合一してから再度分霊になる場合もあります。であれば、その友人知人やグループソウル繋がりの人が助けてくれるのは当然ではないでしょうか。それを不平等とか言っていたら何にもできなくなってしまいます。<br /> <br /> 転生について色々言われていて、死んだら神様のところに戻って3つの人生から選べと言われるような場合もあるでしょうけど、私の場合は割と自分で人生を選んでいて、例えば、友人知人や元妻の霊たちが楽しく暮らしている時に一緒に転生しよう、ということになると一緒の街に生まれたり家族として生まれたりするわけです。<br /> <br /> 家族として生まれるとお互いにサポートするでしょうし、家が違っていてもそのような前世からの繋がりがあると妙に助けてくれたりもするでしょう。<br /> <br /> 仲の良かった人が転生する場合は一緒にあの世で生活している人たちの全員が転生するということはほとんどなくて一部の人が転生しますから、あの世に残った人は転生してきた人をサポートするわけです。それが、人生の節目ごとに不思議な導きという形で現れるわけです。<br /> <br /> それを傍目から見ると恵まれているだとか不平等だとか言うかもしれませんけど、実際は単に仲の良かった人の人生が幸せになるように助けているだけです。<br /> <br /> 人生というのは一つの生で終わりませんから、来世も仲が続くような関係が理想だと思います。<br /> <br /> 他人を見て不平等だとか言う人については、本人が妬むと言うことであれば本人の問題ですから放っておくしかありませんね。関わりを持つべきではありません。<br /> <br /> 他人を妬んで他人を遠ざければ来世まで繋がるほどの人と人との繋がりは生まれませんが、他人を大切にすればそれは今世だけでなく来世にも生きてきます。<br /> <br /> 利益のために他人に親切にする人は友人も同様に利益のために他人に親切にすると言う人が近寄ってくるでしょうし、一方で、無私で奉仕する人の周囲には無私の人が集まってくるでしょう。それが基本です。<br /> <br /> ただまあ、後者の場合は他人からただのカモだと思われるリスクがありますので現世ではなかなかやりにくいですけどね。<br /> <br /> Sun, 24 May 2020 00:00:00 +0900 スピリチュアルが手段になってしまっている人がいます https://w-jp.net/2020/1938/ <br /> どのくらいの確率かわかりませんけどスピリチュアルが何かの目的を達成するための手段になってしまっている人がそれなりにいるような気が致します。<br /> <br /> スピリチュアルとは、この世のあり様を明らかにするだけのことであり、この世のあり様とは、世界の成り立ち、特に自分自身の成り立ちを理解するだけのことです。<br /> <br /> 行動に関して言えば、何をしてもいいのです。生き方なんて、好きにすればいいのです。<br /> <br /> この世の成り立ちや、特に自分自身の立ち位置、過去と未来の行末の真実を理解することがスピリチュアルであって、何かの目的を達成することがスピリチュアルではないのです。<br /> <br /> スピリチュアルはほぼ全てを包括していますのでその小さな小さな一部として目的達成というのがあると言えばあると言えなくもないですけど、その程度のものです。何をするかなんて、勝手に好きに自由にすればいいだけです。わざわざスピリチュアル を持ち出すこともありません。<br /> <br /> 女性であれば祈願をして現世利益を得ようとしたり男性であればビジネスの成功を願ったりするスピリチュアルは、ほんと自分の可能性を自分で摘み取っているようなものだと思います。<br /> <br /> だって、本当のスピリチュアルであれば好きに生きればそんなのはすぐ叶うのに、祈願をしたり誰かに頼んだりグッズを買ったり、そんなのは、スピリチュアルというゲームを楽しむという点において楽しいのであって、本来は、そんなの全部、自分の好きにできてしまうものです。<br /> <br /> この地球上でスピリチュアルというゲームが生まれて、そのゲームにのっとって行動すると面白い! それは否定しないです。 でも、それは所詮ゲームですから、ゲームをゲームとわかっていておもちゃで遊ぶのと、ゲームなのに本気になってスピリチュアルにのめり込んでいるのとはかなり違います。<br /> <br /> 今、流行っているスピリチュアルは一つのゲームという点において面白くて、そのゲームを提供してくれた人には感謝してもいいくらいですが、それと、本来の意味でのスピリチュアルは全く別物だということを認識しておいた方がいい、というお話です。<br /> <br /> 所詮はこの地球上の出来事はみんなゲームなのですから、スピリチュアルというゲームを楽しむ、というくらいがちょうどいいと思います。<br /> <br /> Sat, 23 May 2020 00:00:00 +0900 アセンションとかわざわざ言わなくても既にこの世は壮大なパラレルワールド https://w-jp.net/2020/1937/ <br /> 何やらアセンションとか流行りましたけど、遥か以前から既にこの世界はパラレルワールドが無数に存在しておりますので、単にマーケティングの文句でしかないか、あるいは、瞑想中に受け取ったヴィジョンをそのように解釈した人(時にチャネラーと言う)がいた、というだけだと思います。<br /> <br /> そうは言いましても、確かにこのあたりでだいたい2つのパラレルワールドのどちらに移行するか意識が変革する人が多いのは確かです。<br /> <br /> 移行.... と言いましても、この地球の三次元はこの現在のパラレルワールドではそのまま継続します。<br /> <br /> 現在の一つのパラレルワールドのまま留まるか、あるいは、別の面のパラレルワールドに移動するのか、その選択を迫られる人が多いことは確かです。多くは選択するというよりは自然にそのようになるわけで、それをアセンションという言葉で表したりすることもできるでしょう。<br /> <br /> とは言いましても、この三次元が消えてなくなるということではなく、現在のパラレルワールドとは違うパラレルワールドに意識が一気に移動する、ということです。それは時空を超えておりますので時間で言い表すことは難しいのですがそれほどかかりません。数分あるいは数十分、あるいはもっと長いかもしれませんが、何ヶ月というわけではありません。<br /> <br /> この際、アセンションというと意識が高い人が別のパラレルワールドに行くという固定概念がありますけど、実際は、意識で言いますと3階層に分かれます。一方で、物理次元で言いますと2つです。<br /> <br /> ■物理次元<br /> ・三次元の今の地球<br /> ・地球に人間がまだおらず、森林・荒野・海など自然が豊かな状態<br /> <br /> ■意識の次元<br /> ・マニプラに達していない人たち。情欲がコントロールできない人たち。<br /> ・マニプラに達した人たち。比較的成熟した情欲やそれなりの知識・認識がある人たち。<br /> ・アナハタやアジナ、それ以上に達した人たち。<br /> <br /> 大きく分けて以下の分類になります。<br /> ・三次元の今の地球はマニプラに達していない人。<br /> ・自然が豊かな地球はマニプラに達した人。<br /> <br /> では、アナハタやアジナに達した人はどうするのかというと、どちらでも好きに選んで人生を楽しむのです。<br /> <br /> 自然が豊かな地球を選んだマニプラな人たちは情欲にまみれており、いわば「分離」の世界を生きている人たちです。それでいて自分たちを高級な意識のある存在だと思っている、いわゆる「スピリチュアルで勘違いをしている厄介な人たち」でもあるわけです。実際はマニプラ程度ですと情欲を完全にコントロールできてはいないのですが、ちょうどこのくらいの段階では下級の情欲と上級の情欲の中間地点でありますから、あたかも自分が情欲を完全に制圧してコントロール下にあるかのような勘違いをしてしまうわけですね。そのように制圧だとか高級意識だとか、いわゆる「分離」の意識を持ってしまうのがマニプラの段階なわけです。そのような人がパラレルワールドの1つである自然の豊かな地球を選びます。<br /> <br /> ですから、自然豊かな地球は人間関係がことのほかめんどくさいです。スピリチュアルな規律に対して他人を指摘してぶつぶつ言う人がそこら中にいて、まだまだ完全に悟ったわけでもないのに他人と自分を比べて不満を言ったり他人をあげつらったりする面倒なスピリチュアリストが大勢いるのが自然豊かな地球のあるパラレルワールドです。<br /> <br /> そう言う人はまた何千年、何万年かけて成長してゆく必要があるのだと思います。長い長い旅路の始まりを自然豊かな地球で始めるわけですね。それはまさに「再出発」であると言えます。<br /> <br /> 地球を抜け出して自分たちの世界に閉じこもるのが自然豊かな地球のパラレルワールドのパターンだと思います。<br /> <br /> 一方で、それよりはまだマニプラに達していない人が今の地球に残った方が幸せかもしれません。色々とこの地球には面白いことがあって、多様性もあります。<br /> <br /> アナハタやアジナに達した人は人生や意識ごとにそれぞれの地球を選びますが、多くは現在の地球に残っている、あるいは、残ることを選択するような気が致します。この現在の地球の方が多様性があって面白いですからね。<br /> <br /> アセンションとか言う意識に乗っかって分離の意識に囚われると地球の別の面のパラレルワールドに囚われてしまって何千年、何万年も変化のない時を過ごすことになります。<br /> <br /> 変化がなくて着実な進歩を時間をかけて歩むのか、変化にまみれた多様性な世界で多くのことを次々に体験してゆくのか。どちらが良いのか?<br /> <br /> どれを選ぶのも自由ですけどね。 人それぞれに選択があって、好きにすればいいのです。<br /> <br /> Fri, 22 May 2020 00:00:00 +0900 次元上昇とか高次の世界とか考えるだけ無駄 https://w-jp.net/2020/1936/ <br /> 確かに高次の世界もありますし、地球よりももう少し意識が進んだ世界も存在していて、それは地球の別の面(パラレルワールド)だったり別の星系の惑星だったりするわけですけれども、そういうところに移ろうと思って生活してもあまり意味がないと思います。<br /> <br /> 基本的には類魂(グループソウル)および仲の良い仲間・友達の霊魂たちは一緒に生活をしていて、引っ越す時も割と一緒ですし、バラバラになることもありますけど、割と縁があってまた一緒になったりします。ですから、住む場所を大きく変える時も基本的には同じ仲間・友達・グループソウルと一緒にごそっと移るのが割と一般的だと思います。<br /> <br /> 新しい世界に移ったとしても、その仲間たちは今まで通り楽しく暮らすわけですね。<br /> <br /> ですから、自分が次元上昇だとか高次の世界に行くんだ! とか思って暮らすよりも友人知人の気の合う仲間やグループソウル繋がりの人たちと仲良く暮らしているくらいで割と十分のような気が致します。引っ越す時は集合意識でそれとなくそんな感じになって、わざわざ行くぞとか決断しなくても自然にそうなりますから。<br /> <br /> それに、次元上昇だとか高次の世界とかいう表現って割と「分離」の意識ですよね。自分がどこかに行くと思っている時点で「今、この時点。この瞬間」に生きていられていないのでは? という感じを受けてしまいます。<br /> <br /> それでも、一人だけトコトコと高次の世界に行って生まれてみることはできます。私も随分と前にそうしたことがありますけど、繋がりのある仲の良い友達もいないですし、何より、意識が違いすぎていて、なんだか合わないです。やっぱり、自分が今いるところが一番ちょうどよくて今この地球に転生しているのだなあ、とその時はつくづく思って、すぐに地球に戻ってきましたよ。<br /> <br /> 地球上でも意識の差があって、明らかにうざったくて勝負好きだったり情欲にまみれていたり食欲を我慢できなかったりする意識が割と低めの人たちがいるわけですけれども、惑星全体が高次の意識で満たされている平穏な世界に地球の人が転生してまず思うのは、どこか疎外されている、という感じだったと思います。どこかで私以外の同じような経験をした人と話したような気がしますが、その時にも似たようなことを言っていた気がしますね。<br /> <br /> 高次の世界に地球の人が転生すると、まず、うざったがられます(苦笑)<br /> <br /> 地球で意識の低い人たちをうざったく思うのと同様に、地球である程度の意識を向上させたと自分では思っている人であっても高次の世界に行くとその世界の平均よりは劣っていますから、多くの人たちに意識が下の人として見られ、そのように扱われます。<br /> <br /> 地球にいる人の場合はだいたいはお腹のあたり、いわゆるマニプラ優勢で「(低い)感情」が優勢の人が多いですから、惑星によっては平均がアナハタ以上だったりしますから、そういうところにマニプラの低次の意識で行ったりするとうざったがられたりするわけですね。地球だとマニプラは中間より少し上くらいだと思いますけど、惑星によって平均が違いますから、世界が移った瞬間に下層に位置づけられたりするとなかなか精神的に厳しいと思います。<br /> <br /> ブッダの本を読んでいると、どこそかの意識に達した人はそれより上の世界に一度転生をして、それから戻ってくる.... みたいなことが書かれてありましたけど、もしかしたらそれはこういうことかもしれません。そのうちこの本意を確かめてみたいとは思ってはいますが今はブッダのお話は仮説です。<br /> <br /> そんなわけで、そんなに高次の世界だとか考えない方がいいと思いますし、そんなことよりも、今の人生を楽しく暮らした方がいいと思います。<br /> <br /> Thu, 21 May 2020 00:00:00 +0900 周囲の空間と自分のむきだしの心とを混ぜる https://w-jp.net/2020/1933/ <br /> チベット語でセワ(混ぜる)は特にゾクチェンで二元論を終わらせるための有効な手段であるわけですが、今まで、その感覚がわかるようでいてよくわからない状態でいました。<br /> <br /> スローモーションのヴィパッサナー(観察)が始まって以来、なんとなく周いと混ざるような意識が周囲まで通っているような感覚があったわけですが、それがいわゆる「セワ(混ぜる)」ということなのかなと思っておりました。<br /> <br /> しかし、スローモーションのヴィパッサナー状態ではそんな感じにおそらくなっているだろうな、ということはわかるのですが、意識的にセワ(混ぜる)をする感覚が今まで掴めずにいました。<br /> <br /> 「むきだしの心(リクパ)」とはヴィパッサナー状態で現れる心の本質であるわけですが、それがあって初めて物事をありのままに観察できるわけです。それを、ヴィパッサナー状態でそうなっているだろうということはわかるのですが、意識的にセワ(混ぜる)するという感覚が今まで掴めずにいたのです。<br /> <br /> しかし、今日、ふと気がついたのですが、ここでいうセワ(混ぜる)とは周囲の目に見える物体ではなくて、普遍的にこの世界に広がっている空間と混ぜることなのではないか、とインスピレーションがあったのです。自分で気がついたのか、あるいは、密かに守護霊が微かな示唆をしてくれたのか、どちらなのかは不明です。<br /> <br /> とにかく、そう気がついたからには試してみたわけです。<br /> <br /> 元々、セワ(混ぜる)という言葉を読んだ後に試したのは目に見える周囲の物体とセワ(混ぜる)することだったわけですが、それを、周囲にある、何もない、単なる空気の空間と混ぜるということをしてみました。<br /> <br /> 空気の空間とセワ(混ぜる)をしてみますと、目に見える物体よりは少しやりやすい気がしました。<br /> <br /> そんなものかな・・・ と思っていましたら、ふと、それよりも近くに、自分の体という物があるではないか、と気がつきました。<br /> <br /> ですので、空気の空間から自分の体へとセワ(混ぜる)対象を変えました。<br /> <br /> すると、流石に自分の体ですので、更にやりやすくなりました。<br /> <br /> 理屈で言いますと、自分の体であってもそれはこの地上に一時的に存在しているものですので「本当の自分」ではありません。本当の自分、ヴェーダンタでいうところのアートマンとかそういう自己の本質、ざっくり言えば魂とかそういうものですけど、魂とかから見たら自分の体であっても外側で、自分の体すらも観察する対象なわけです。<br /> <br /> このあたりは盲点でしたね。自分の体と周囲の何もない空気の空間とをまずは手掛かりにセワ(混ぜる)すると良さそうです。<br /> <br /> Mon, 18 May 2020 00:00:00 +0900 関東大震災と東海地震は2021年1月後半 https://w-jp.net/2020/1932/ <br /> どちらかの地震が発生するのは2021年1月20〜21日か28日。関東大震災と東海地震は割と連続して起こります。どちらが先かは分かりません。<br /> <br /> これは今日(5月8日)の瞑想中のインスピレーションで受けたことですけど、こういうのってそんなに当たりませんのであまり気にしない方が良いです。<br /> <br /> 単なるメモ書きですね。<br /> <br /> 夢で見たことだと思っておいてください。<br /> <br /> 心配する必要はないです。来るのならば、それはその時です。どうにかなりますよ。死ぬ人は死にますし生き残る人は全く無傷です。気にしても仕方がありません。<br /> <br /> 大きな建物から物が落ちて来ますので、ビルとかの横を歩かない方がいいと思います。<br /> <br /> 東海地方の沿岸部は津波で流されます。自治体が出している津波予想は割と当たりますので、それらの危険地域に住んでいる方は引っ越しすべきだと思います。<br /> <br /> 東海地震の震源は紀伊半島沖で、関東大震災の震源は大正の時と割と似ていて相模湾付近です。東京も揺れますけど、最近の建物は丈夫ですので古い建物は倒れますけど新しい耐震設計の建物は割と平気だと思います。<br /> <br /> 基本的にはそんなに心配することでもないかなと思いますがそれでも津波の被害は甚大だと思いますし、相模湾付近も相当の被害が出ます。<br /> <br /> こういうのって、特に今回の場合はあらかじめ人々に危険信号がインスピレーションで長らく伝えられていますので、それに従って安全なところに引っ越せばそれほど危険はないと思います。<br /> <br /> まっ、こういうのは話半分に聞くくらいがちょうどいいのです。<br /> <br /> <br /> ■関東大震災が先で東海地震が後 [2020/6/9 追記]<br /> <br /> こういうのはそれぞれ個別の物語としてインスピレーションが来ることが多いですが、それと関連した他のストーリーを元に推測すると、どうやら関東大震災が先で東海地震が後と考えるのが筋が通っているように思えてきました。<br /> <br /> どうやら関東大震災が1月後半で、東海地震は初夏の、おそらく6月か7月頃なのではないかと思います。<br /> <br /> ・・・とは言いましても、これは予言ではありません。ただのインスピレーションのメモ書きです。<br /> <br /> 大抵は当たりませんからね、こういうの。<br /> <br /> インスピレーションには2つあって、1つは想念形態として地上にぷかぷか浮いているものをキャッチするケース。もう1つはその奥に眠っている、まだこの世に形として現れていない形態を読み取るケースです。<br /> <br /> 前者の場合は想念形態ですから誰かが勝手に想像したものをキャッチしただけですのでまず当たりません。後者にしても人々の思いや歴史のタイムラインの選択によってすぐに未来は変わりますから、そんなには当たりません。地震なら当たるだろうと思われるかもしれませんが、どの未来のタイムラインを選ぶかという点において神の選択がなされますので、神の選択いかんによってはタイムラインが変わる・・・ というか、別のタイムラインが選択されるわけです。<br /> <br /> ですから、我々人間からしたら当たるか当たらないかしか分からないわけですけれども、前者であればまず当たりませんし、後者であっても神様が別の選択をしたならば当たらないわけです。<br /> <br /> というわけで、こういう地震とかのお話は、話半分くらいに聞いておくので十分だと思います。<br /> <br /> 関東大震災の震源は前にも書いた通り三浦半島近辺で横浜あたりまで大きな被害が出ます。東海地震は愛知と静岡などに被害が出ます。三重県や和歌山も被害が出ますけど被害が大きいのは静岡や愛知とかですね。湾岸の平地があるところが危ないです。これは自治体の津波予想が割と当たっていますので、自治体で津波予報の範囲に含まれている人は早めに引っ越した方がいいと思います。<br /> <br /> 今回は割と時間に猶予がありますので、逃れようと思えばいくらでも逃れられるはずです。<br /> <br /> <br /> ■鎌倉の低地が津波で流され、渋谷のビルが傾く [2020/6/18 追記]<br /> <br /> これらは瞑想中で見たことですので、本当かどうかはわかりません。単なるメモ書きです。予言ではありません。<br /> <br /> この正月に鎌倉の鶴岡八幡宮を初詣した際、境内を出て鎌倉駅に歩いていくと周囲の街並みが津波で流されているビジョンを見ました。これは関東大震災なのかあるいは東海地震による津波なのかまではわかりませんが、鎌倉駅周辺の低地は津波で流されるようです。鶴岡八幡宮の周囲の低地が影響範囲で、それより上の北鎌倉駅の方までは行かないようです。<br /> <br /> 鎌倉市のハザードマップを見ると鶴岡八幡宮の周辺までは来ないことになっていますね。鶴岡八幡宮と鎌倉駅の中間地点くらいまではハザードマップの津波避難対象地域に入っていますが、私の見たビジョンでは鶴岡八幡宮の周囲まで津波が来ていました。どちらにせよあのあたりは低地ですからそのくらいの誤差はあるのかもしれません。<br /> <br /> 鎌倉の神社巡りをした際にどこかで読んだのですが過去には鶴岡八幡宮の低地まで津波が来たこともあるようですのでその辺りまで流されても不思議ではありません。鎌倉市のハザードマップが楽観的すぎるだけなのかもしれないです。<br /> <br /> 渋谷の方はコロナで人の減ったところを通りかかったわけですが、何かゾッとするものを感じました。<br /> <br /> この感覚は、あの時に似ています。<br /> <br /> 東北地方太平洋沖地震の起きる数年前、釜石などの太平洋岸を旅行した時に感じた「気の無い土地」の感覚です。当時は「なんだこれ???」と思ったものでした。土地から生気が抜けて、気の抜けた、単なる三次元的な物体だけが残された町のように感じたのです。釜石あたりのホテルに泊まった時も変な感じでした。<br /> <br /> 渋谷の雰囲気は、まだそこまでではありませんが、方向性は似ています。<br /> <br /> 渋谷に関しては単なるコロナでの影響なのか、あるいは本当に地震の影響があるのかまではわかりません。コロナ後にもう一度行って感覚を確かめてみる必要がある気がします。<br /> <br /> もともとの感覚では、ビルが傾くのは横浜あたりまでであって、渋谷も多少は揺れますけど倒れるほどではないと思っていました。それでも老朽化したビルは耐震に問題が出て建て替えの必要が出てくるのかもしれませんね。そこまでは分かりませんけど、ひとまずこれは感覚のメモ書きとして残しておきます。<br /> <br /> Sun, 17 May 2020 00:00:00 +0900 人との付き合いは死で終わるものではない https://w-jp.net/2020/1931/ <br /> 一般的には死ぬと消えて消滅すると思われておりますが、死んでも意識は幽体でそのまま継続しますので人との付き合いは死で終わるものではありません。<br /> <br /> 死んだ後は、仲の良かった人や妻や親しい親族などとあの世で楽しく暮らすことになります。金銭などの条件付けを超えたところの付き合いは死で終わるものではありません。<br /> <br /> 死ぬと金銭や住宅・食事などの制限から解き放たれますからそれらの制約のために仕方なく一緒に暮らしていた場合は死んだことをきっかけに離れて付き合いがなくなります。特に死後は、金銭や損得関係で生きていた人の人間関係は寂しいものになると思います。<br /> <br /> 人間関係において、他人を操るような強制・操作・共依存をしていた人の場合は例外として関係が続く場合もありますが、そのような関係は基本的に断ち切って自立すべきのものですので、死んで強制・操作・共依存から逃げようとしても無駄であり、生きているうちにこれらは克服する必要があるものです。<br /> <br /> 世の中は多様で、人を操ることで自身に利益をもたらそうとしている人が大勢いらっしゃいます。そういう人とは付き合わないことです。<br /> <br /> 金銭や損得関係は、他人を操ってはいけない、という基本的なルールを守る限りは自由にすべきだと思います。他人が必要としている金銭は基本的に与えるべきなのですが、上記のように人を操ろうとしているレベルの人とは付き合わないようにすべきだと思います。<br /> <br /> まれに、間違えてお金を与えてしまってカモ扱いされてしまったが故に死後も付き纏われる場合があります。このような人は罠を仕掛けて落とし穴に落として自滅に導かせて二度と近づかないようにしたりします。他人を操ったり他人をカモにして生きる人がこの世には大勢いらっしゃいますので、時空を超えて遠目が効く人はあらかじめ人を見極めて付き合う人を見極める必要があります。<br /> <br /> そうは言っても勘違いや間違いもありますので、後になって失敗だったと気付くこともありますが、それはそれで良いレッスンでもあります。<br /> <br /> あまりにもしつこいと、例えば津波で家や店舗を全て流して一人だけ生き残らせて、一見すると命は助かったので運が良かったように見えますがその後の数十年を生活保護で暮らすことになりますので数十年の清貧な生活を余儀なくされます。それはそれで私なんかからすれば幸せなことのように見えるのですが、贅沢をしたい本人にとってはさぞかし辛いことでしょう。このように、欲深くてしつこく付き纏う人には本来進むべき方向に歩めるように導きがあるわけです。<br /> <br /> これは今後、東海地震で津波によって私の幼少時代の同級生が被るであろう将来のことですが、まあ、結果として謙虚になるでしょうから、私からしたら彼にとって良いレッスンだと思えたりするわけです。津波に飲み込まれて死ぬ方がすぐに解放されて幽体になるのでもしかしたら楽かもしれないのですが、体一つで生き残ることで津波の後の人生をいわば修行のように密かに暮らすことになるわけです。<br /> <br /> まあ、調子に乗って他人をカモ扱いしているとこのように一瞬でどん底に突き落とされるような罠に落ちますので、他人をカモ扱いなんてしない方がいいと思います。<br /> <br /> Sat, 16 May 2020 00:00:00 +0900 霊界の警察が自殺者を捕まえて牢獄していた時代があった https://w-jp.net/2020/1930/ <br /> 厳密には霊界というよりも幽体に近いところで起こっていたところです。中世くらいですかね。そのくらいまでは存在していました。<br /> <br /> 今は、自殺しても放置です。<br /> <br /> 世間で言われている天国とか地獄とかいうのは絶対的なものではなくて、幽界に近い霊界において人の思いがそれらを作り出したとも言えます。<br /> <br /> 人々が「地獄というものがあるんだ」と最初に思い込んで、その想念形態として地獄という場所が作られたわけです。そのきっかけはキリスト教などの地獄の教えが元になっているわけですが、地獄がもともとあったわけではなく、人々が想像することで地獄が作られたわけです。<br /> <br /> ですから、地獄のイメージが強かった中世以前には地獄という世界が実際にあの世に存在していて、今はその世界は割と瓦礫と化しているように思います。<br /> <br /> その世界を作るのは人の思いだけではなくて、死後の人が実際にその維持に関わりました。地獄の門番であるとか地獄で人々を罰する役目だとか、そのような存在は人々がそうなりたいからその役割が実際に存在したのであって、どこかの神様が用意したものとはちょっと違ったように思います。<br /> <br /> 例えば人が自殺すると死後の霊(幽体)のところに槍のようなものを持った幽界の警察がビューン! と勢いよく飛んできて自殺した霊を捕まえて牢獄の中にしばらく閉じ込めることになります。少なくとも昔はそうでした。<br /> <br /> 今はそのシステムが崩壊したのか、あるいは、単に見落としなのか、あるいは、自殺が多すぎて賄い切れないのかなんなのか、基本的には自殺者は放置されているようです。<br /> <br /> Fri, 15 May 2020 00:00:00 +0900 神様や守護霊だってよく嫉妬します https://w-jp.net/2020/1929/ <br /> 神様と言ってもピンキリで、守護霊に近い神様もいます。<br /> <br /> 例えば、私がとある女の人とお話をした時に守護霊である元修験道者が嫉妬したようで、インスピレーションで私の欠点のようなものをその女の人に伝え、それを感じた女の人が私の欠点(とも言えない些細なこと)を指摘して、私を遠ざけようとしたわけです。<br /> <br /> まあ、実際のところ、私はその女の人をそんなに何とも思っていたなかったわけですけれども。それに、その指摘にしても理由があってのことで、表面的なことは分かっていても背景の奥深いところは見抜けていないんだなあ、と思ったものでした。<br /> <br /> 逆もあって、私の守護霊というかいつも一緒にいる霊の中には過去生の元妻や仲の良かった女の人たちがいるのですが、その人が私が話をする女の人に嫉妬することもあります(苦笑)<br /> <br /> まあ、嫉妬とは言わないまでも、相手をしっかりと見抜いて、「この人はだめ!」という強烈なインスピレーションを送ってくることはしょっちゅうです。<br /> <br /> 「なんだかうまくいかないなぁ〜?」と思うときは大抵、このような干渉があります。<br /> <br /> 守護霊は、グループソウルであるハイヤーセルフからの指示というかお願いで守護についている本当の意味での守護霊と、単に仲良かったという理由で近くに一緒にいる霊たちがいて、広義ではどちらも守護霊と言われると思いますが、前者は本当に気をつけて過去や未来を見通した上で人生を見守っていて、後者は単に一緒にいて遊んでいたり、あるいは家族のように心配している、という違いがあります。<br /> <br /> もちろんそれぞれの守護霊にもレベルの差はありますし、後者であってもそのうち前者のような役割を担うこともあります。<br /> <br /> もともとハイヤーセルフからの指示というかお願いがどのようなものであったかにもよります。まず目的が設定されて、それに従って目的達成を目指すのが前者で、後者はお友達や家族として幸せを願っている、という違いがあります。後者はハイヤーセルフの目的とかはあまり認識していなかったりします。普通の家族がそのまま近くにいて見守っているのが後者です。<br /> <br /> ですから、後者のような守護霊が嫉妬することもありますし、時には、前者に近い人であっても嫉妬することがあります。<br /> <br /> まあ、どうやら嫉妬はどこまで行っても人間から切り離せないようです(苦笑)<br /> <br /> 感覚的には、上位の神に近づくと嫉妬はなくなるような気が致します。嫉妬があるうちはまだまだ人間的な感覚に囚われているという印ですね。<br /> <br /> Thu, 14 May 2020 00:00:00 +0900 見えない存在をことごとく神様だと思ってしまう人が多い https://w-jp.net/2020/1927/ <br /> 単なる意識体です。大抵の場合は幽体です。生きている人間とそう変わりません。「神様から言われた」とか言って特別視する必要は基本的にはありません。<br /> <br /> 現実と一緒で素晴らしい人や神々しいオーラの意識体に言われたら感動したり感銘を受けたりしますので、そのように人と霊を同格に置くのはいいですけど見えない存在だからと言って神様扱いを毎回する必要はないわけです。<br /> <br /> 守護霊の中にはそれなりに修行している人がいて、修験道であるとかお坊さんなどで長らく修行して守護霊をしていると人間からすればまるで神であるかのように素晴らしい教えを説いたり神々しいオーラを放ったりしていますが、それを神と呼ぶかどうかは人それぞれです。<br /> <br /> 物事は全て程度問題でありますから、特に日本ですと神格化された人物を神様として拝んだりしますので、そのような場合も神とみなすことは個人の自由です。好きにすればいいと思います。<br /> <br /> ただ、それを持ってして他人に「神様がこう言っている」と主張してくる人がたまにいて、そういう人の発言には「聞く人は謝意すべきだ」という含意が含まれていて、確かに正しい主張も混じっているので話半分に聞いていればそれは十分なのですが、いわゆるゴッドとしての一神教的な神様としての主張として守護霊の意図を伝えている人もいらっしゃいますので、そういう一神教的な部分はどうなのかなあ、とも思ってしまいます。<br /> <br /> 神様であっても単なる意識体の1つだ、という基本が分かっていないといわゆる一神教のようになってしまうのかもしれませんね。<br /> <br /> 精神的に高度に発達した意識体の発している意思あるいは意見だ、ということが分かってしまえば人間と接するのと実はそうは変わらないのに、神様に言われたからと言ってそれを100%信じなくてはならないとか100%従わなければならないとか思っている人が多すぎます。<br /> <br /> 神様という言葉を特別視しすぎているんですよねえ。見えない存在はピンキリで、神々しい存在もいればキツネやタヌキもいて人を化かしたりしますしね。見えない存在をことごとく神様だと思う必要はないですし、いかに素晴らしい意見で神のように見えたとしてもそれは一つの意識体ですから、人と人とが接するように意識体と接すればいいのです。<br /> <br /> ですから、基本は人と接することであれば拝めたり全て言いなりに従ったりする必要はなくて、あくまでも聞き手側の自由意志で全てを選択していけばいいわけです。<br /> <br /> まあ、そうは言いましても、実際に神々しい存在に対峙したらなかなかそうはうまくはいかないですけどね。それはもう、しょうがないです。人生経験と同じだと思います。<br /> <br /> Tue, 12 May 2020 00:00:00 +0900 「知識」を「行動」との対比で比喩的に表現するヴェーダンタ https://w-jp.net/2020/1926/ <br /> ヴェーダンタでは「知識」が重要で「行動」は不要であると説いているようです。このあたりは先日も少し書きました。<br /> <br /> ヴェーダンタの人がいう「知識」は、一般的には「知恵」「叡智」と読み替えると良いと思います。<br /> <br /> ヴェーダンタの人は「知識」というものは本来、単に知っているというだけでなく応用できて深い知識があることだと言いますし、それはそれで正しいと思うのですが、一般的には知識というと軽く扱われており、単に知っていることを意味しているので、個人的には知識じゃなくて知恵と訳せばいいと思うのですが、割と軽く扱われる「知識」という言葉を選んでいるようです。<br /> <br /> ですので、ヴェーダンタの人が「知識」という時は「知恵」のことなんだな、と読み替えるといいと思います。<br /> <br /> こんなことをヴェーダンタの人に直接言ったら「知識だ」と言われるだけなので、そんな野暮なことを本人に言う必要はありません(苦笑) 単に、自分の心の中で「知恵」に読み替えて理解すればいいだけです。<br /> <br /> いいんです。それで。 一般人に「知識」が大事と言っても「何のこっちゃ?」と思われるだけですから。<br /> <br /> ここで知識と言っているのは、以下のポイントにおいてです。<br /> <br /> ・魂・スピリットに関する知識は肉体による行動を伴わない。しかし、魂・スピリットによるオーラ的な行動・活動は伴う。<br /> ・真実を見抜くこと。幻想に惑わされない。<br /> <br /> まあ、ヴェーダンタの人は細かく用語を使っていろいろ言いますけど、物事は単純です。<br /> <br /> ヴェーダンタの人の主張に「理解さえすれば行動せずに解脱できる」と言うのがありますけど、そう言っている本人たちが一生懸命修行していたりします。本人たちはその行動を「行動ではない!」と言っているだけですので、あまり突っ込まない方がいいと思います。<br /> <br /> ただ単に、「行動」と言う言葉に敏感になっているだけですので、そっとしておいてあげましょう。スピリチュアルにはいろいろな流派があって、例えばこのように「行動」をとにかく毛嫌いして時にはヒステリックになる流派もあるのです。まあ、その人だけかもしれませんけど。<br /> <br /> 本来の意味としては上記のように「肉体の行動を超えたものである」と言う点だけだと思うのですけど、それを曲解して、肉体の行動に制限を加えてしまうのはせっかく肉体があるのそれに制限を加える意味がわかりません。使いたくなければ使わなければいいし、使いたければ使うだけです。それを、教義を持って行動に制限を加えて何が楽しいのでしょう? 自分を縛って精神修行していると言うのであればわかりますが。<br /> <br /> 三位一体なんて言われていたりしますけど、魂・スピリットと体とは繋がっているのですから、体だけ邪険にせずに全部、それぞれ必要な時に好きなように使ってあげればいいだけだと思うのですが。<br /> <br /> とりあえず、ヴェーダンタの主張としては修行のために一時的に行動を制限しているのだ、と理解する事にします。確かに、一時的には静かに過ごして精神を落ち着かせる必要があるのでじっとしている必要性もわかります。しかし、ヴェーダンタはそれこそが彼岸の悟りへの知識だと説いているので混乱しますけど、一般人向けにはそのように語っているだけなのかもしれないですね。そのような方便(手法)を用いて初学者を黙らせて静かに座らせる効果はあるかもしれません。<br /> <br /> この地上世界はスピリットが活動する自由な場所ですので、自由に制限を加えるのも自分の自由ですし、修行のために行動を制限するのは好きにすればいいと思います。<br /> <br /> Mon, 11 May 2020 00:00:00 +0900 魂の成り立ちを理解してどこから魂が生まれてどこに行くのか知る事 https://w-jp.net/2020/1925/ <br /> 悟りへの過程で「幸せ」だとか「平穏」などと言うものも達成されますが、それと合わせて、自分の魂の成り立ちを事実として確信してわかるようになります。<br /> <br /> 魂、いわゆるスピリットの認識が生まれ、スピリットとしての見識が生まれ、スピリットとしての視界が生まれ、スピリットとしての聴覚が生まれ、世界をスピリットの統合体として理解し、それらのスピリット、特に自分のスピリットがどこから生まれてどこへ帰ってゆくのか、どこへ行くのか。その過去と未来を知ることができるようになります。<br /> <br /> 確かに、「光の世界に入る」だとかゾクチェンでいうトクガルの境地だとか言うのもありますけど、その辺りになってくると自分のスピリットが動き出して自分が何者なのかをはっきりと認識し、それゆえに迷いもなくなり、自らが生まれた理由も行き先も知る事になるわけです。<br /> <br /> ですから、その内容はもちろん人ごとに違うわけで、自分の場合の成り立ちと行き先をはっきりとスピリットとして認識できるようになって、その上で、単なる運命論とかではなくて自分の頭できっちりと考えて自分のスピリットがどこへ向かうのか考えることができるようになります。<br /> <br /> ですから、「心の平穏」だとか「心の平和」とか言うのは、割と補助的なものになると思います。もちろん「集中力(サマタ)」とか「観察(ヴィパッサナー)」なんてのも悟りの一面を現しただけです。<br /> <br /> スピリットとしての認識が生まれれば肉体としての五感は一段階「別」のものとして認識されますが、それは別にスピリットから見て上とか下とか階層で言い表すものではなくて、単に違うものとして五感が存在しています。スピリットからの視点が出てくればヴィパッサナーとかになりますけど、それが優越であるわけでもなくて、単に、それぞれの視点があるだけです。<br /> <br /> そもそも死んだ後はスピリットとしての視点だけになって肉体は滅びますので、ほとんどの人はスピリットとしての聴覚や視覚を持っています。ですから、特に心配しなくても誰でもスピリットとしての認識力はあるわけですけれども、人によっては「この人生の間は使わないで頑張ってみます」みたいなお約束をしていて、そのような人が実はかなりいますのでスピリットなんてないと思っていますけど、単にその視点を意図的に封じ込めて地上での肉体の学びができるようにしているだけで、実際はほとんどの人は大差ないのです。<br /> <br /> ただ、そうしてしまうとスピリットとしての視点を忘れてしまって、ちゃんと霊界に戻ればその封印を解いてもらえるのに幽界に留まって再度転生を繰り返したりしているものですからスピリットとしての視点が解放されずに人間的な生活を繰り返すわけです。<br /> <br /> 死んだ後は幽体になって割と肉体と同じような姿、しかし、自分が一番お気に入りの年齢で存在するようになります。大体は若い時の姿ですかね。そこから再度生まれたり分霊を作って分霊が転生したりしますけど、その状態だと霊界の事をあまり認識できていませんので地上の肉体としての生活を繰り返してしまうわけです。<br /> <br /> どちらにせよ死んだらみんな悟れる可能性があるわけですが、生きているうちに混迷を極めてしまうと死んでも悟れません。地上を彷徨う亡霊になってしまったりするわけです。<br /> <br /> できれば生きているうちにこの世の理を理解して自分が来た場所と行くべき場所を見極めることができれば大体は悟ったと言っていいと思います。<br /> <br /> これ、単なるスピリチュアルのお話に聞こえるかもしれませんけど、単に勉強して知識として知っていることでもなければ信じることでもありませんし、チャネリングのようなもので頭の中にインスピレーションを与えられることでもないです。本当に自分のスピリットが物事や空間だけでなく時空をも超えて見通して直接的に周囲や過去・未来を認識して理解することなので、そうそうできないです。ここまで来れば、自分の魂・スピリットの生まれた成り立ちや目的・行き先までもがクリアになって悩みもほぼなくなるのです。とは言っても日常の小さな悩みは必ずありますのでそれはなくなりませんが、大きな視点ができる事により小さな事に悩まされにくくなるのです。<br /> <br /> これらのことがわかれば実は善も悪もないと言うこの世の理が理解できて、自由になるのです。この段階での自由は常人には理解しがたいです。何をしてもいい、と言うのは、スピリットの理に従って生きると言うことでありますし、その状態になれば実は人間の顕在意識は何ら自由意志を持っていない事にも気づくわけです。ですから、悟った後は肉体の頭での自由な選択ではなくスピリットが自由に行動するようになります。肉体の頭はスピリットの選択に従うようになりますから一見したら肉体の頭は従属状態のように見えるかもしれませんが、ずっと昔から、そもそもの原初の状態の最初からそもそも肉体の頭は自由意志を持っておらずスピリットの意思があるだけだったのに自由意志があるように幻影で見えていただけだと気づきます。ですから、肉体の頭が自由に何をしてもいい、と言うのではなくて、スピリットがしたいように自由に生きるようになるわけです。それがこの世の理であり、それを理解したら本当に自由になるのです。<br /> <br /> それを仏教では涅槃の知識だとか輪廻転生からの解放だとか言っていますけど、同じ事だと思います。スピリチュアルな観点と仏教の観点が違うだけで、割と同じことを語っているように思います。ヨーガやゾクチェンにしても修行の個人的認識の観点から語っているだけで、行き着く先は同じだと思います。ヴェーダンタだって先日書いた仮説が事実だとすればウパニシャッドはいわゆる「彼岸の知識」を伝えているわけで、同じ事だと思います。<br /> <br /> 悟り自体は単純ではありますが、単純であるが故に何をもって悟りとするのか、その判断が難しいこともあります。<br /> <br /> 平穏さも基本的にはやってきますが、疲れや体調不良と同じように精神的な疲れももちろんありますから常にMAX状態にいるわけでもありません。基本的には世間の雑多な出来事にそれほど惑わされなくなります。このような一時的な状態を見て悟りと判断するのは判断を誤らせる事になります。本質的なところでは悟りは能力とは関係がないですし一時的な状態とは関係がありませんが、よりわかりやすくて間違いのない判断基準としては、普遍的なスピリットの理を真に理解できたかどうか、と言う点で悟りを判断した方がいいようにも思います。それ自体が悟りというわけではないにせよ、悟れば高確率でこれらのことも理解して把握できるようになりますから、それなりの確度で悟りを客観的に判断できるような気が致します。<br /> <br /> Sun, 10 May 2020 00:00:00 +0900 神の審判に逆らい逆上する人たち https://w-jp.net/2020/1924/ <br /> 神に善悪はなくて、ただ選択と行動があるだけです。神が善だけを行うというのは幻想で、神は何をしても良いのです。今の神様は人々に精神的なゆとりと成長を期待しておりますので、人間が調子に乗って他人や自然などの環境をないがしろにすると「立ち止まりなさい」というメッセージとして災害や人災が起こります。大抵の大きな災害の背景には手引きしている霊的な存在がいて、その霊的な存在が高次の存在なら神と言われることもありますが、同じことです。<br /> <br /> 本当に上位の神になると人間界のことなんて興味がありませんので人間は放っておかれます。<br /> <br /> 人間界に介入してくる神はそれよりもちょっと人間に近い神で、人が成長する過程で神に近づいた魂たちです。例えば有名どころでいうと松下 幸之助とかですね。ああいう偉大なことをした人は神に近づきます。もともと神に近かったというのもあります。<br /> <br /> 人間が死後に神に近づいて、更に成長すると神と呼ばれるようになります。そのような、半人半神の存在が人間界に介入してきます。そして、それは善悪はあまり関係なくて、その魂の意図を実現させるために介入してきます。<br /> <br /> 大抵の場合、人間は災害の意図を理解できませんから、そのような災害があっても単に謙虚になるか自然を更に支配しようとするのかのどちらかに揺れ動くことになります。そこで人が振り分けられるわけですね。<br /> <br /> どちらがいいというわけでもなく、好きな方を選ぶわけです。<br /> <br /> その災害を神の審判と言うのならばそうでしょうし、単なる自然災害だと思うのならばそれはそのような意識で生きることになります。その人にとってはそれが真実で、それぞれ、そのような意図を実現したい神がそれぞれにつく事になります。直接的、間接的ではあっても神の意図があって、それぞれの神に振り分けられてゆくわけですね。<br /> <br /> 今までの中世以降の歴史は、神の審判があると神に逆上する、と言う事の繰り返しでした。<br /> <br /> まず神の意図を謙虚に受け止めて他人に伝える人がいますが、それを聞いた人は謙虚さがそれほどないことが多く、謙虚さがそれほどない人が神の意図を更に他人に伝えるとそれを聞いた人が逆上する、と言うことの繰り返しでした。<br /> <br /> 神は純粋な形でこの世に現れることはなくて、濁った中に現れるわけですね。<br /> <br /> 他人の中に神を見た時に、人間としての悪い部分を見てしまってもキリがなくて、神の部分だけを見ればいいわけです。人間としての部分は切り捨てればいいと思います。そうしないといつまでも逆上するループにはまり込んでしまいます。<br /> <br /> Sat, 09 May 2020 00:00:00 +0900 馬陰蔵相とムーラバンダ https://w-jp.net/2020/1923/ <br /> 馬陰蔵相(ばいんぞうそう)とは性器が子供の頃のように戻ることですが、クンダリーニが動き出してマニプラ優勢になった時に性欲10分の1、アナハタ優勢になった時に更に10分の1になったわけですけれども、その時も馬陰蔵相っぽい状態になってきましたのでその状態が馬陰蔵相なのかと思っていたわけですけれども、最近、更に子供の頃のようになって、もっとそれっぽくなってきました。<br /> <br /> それと同時に、足の太ももから下方の感覚が透明になってきて意識が腰よりも上、温感はアナハタ優勢で、意識は胸から頭にかけてが優勢になってきています。<br /> <br /> 下半身が透明でエネルギー的に最低限になってきており、それと馬陰蔵相と、ヨーガでいうムーラバンダっぽい状態になってきました。<br /> <br /> ムーラバンダ(ムーラ・バンドハ)とはエネルギー・ロックの技法であるバンダ(バンドハ)の主要な3つのうちの1つですが、男性なら会陰、女性ならもうちょっと内側の部分でエネルギーを漏らさないようにすることです。<br /> <br /> ムーラバンダが完成すると精が漏れなくなるというお話があって、今まで時あるごとに試してみましたがムーラバンダがしっくりきませんでした。<br /> <br /> しかし、今、馬陰蔵相の状態が進むにつれ、まさにこの状態がムーラバンダなのではないか? という気がしてきました。<br /> <br /> 実際にはヨーガではムーラバンダは手法の1つで意識的に行うものですが、特に意識的に行っていなくても、日常生活をある程度はスローモーションのヴィパッサナーをしながら生活していますと、その状態においては、毎日ではないにせよ、時あるごとに下半身からエネルギーが漏れていない、ということを認識することができるのです。<br /> <br /> これがムーラバンダの真意であるとすれば、ムーラバンダが完成すると馬陰蔵相になる、あるいは、馬陰蔵相の状態はムーラバンダと同等、と言えるように思います。<br /> <br /> 今のところ、なんとなくそんな気がするだけです。<br /> <br /> 今後、書物等で裏を取っていきたいと思います。<br /> <br /> 関連:<br /> ・馬陰蔵相が深まり、性的欲求が更になくなる<br /> Fri, 08 May 2020 00:00:00 +0900 十牛図は幽体離脱してグループソウルと合流する秘術の書なのか https://w-jp.net/2020/1922/ <br /> 十牛図にはいくつかバリエーションがありますけど、どうして「離脱」とか「再合一」とか書かれてあるのか不思議に思っておりました。<br /> <br /> しかし、今朝のシャワー中及び瞑想においてインスピレーションが降りてきて、どうやらこれは幽体離脱してグループソウルと一体になり、再度自分の魂が分離して肉体に戻ってくる秘法を説明したもののように思えてきました。そのようなイメージがありました。<br /> <br /> であれば色々と明確に説明がつきます。<br /> <br /> もともと十牛図は意識の成長過程を説明するものだと思っておりましたが、上のように読み替えるとスッキリします。<br /> <br /> 最初は瞑想をして意識を統一してオーラを体の中に収めるようにして安定させます。<br /> <br /> 次に、魂と幽体(オーラ)を意識的に動かせるようにします。<br /> <br /> そうしたら、幽体を体から離脱させます。<br /> <br /> 次に、グループソウルの元へと向かいます。基本的には上方に登ってゆき、グループソウルが見えてきたら、自分の意思でそれと合流するかどうかを選びます。<br /> <br /> 合流することを選んだらその中に入ります。その場合、魂の核は残りますがオーラはグループソウルと混ざり合い、自分の意識がグループソウルと溶け合うと共にグループソウルの叡智も流れ込んできます。グループソウルとしての集合意識が存在しているのと同時に、自分の個別の魂としての意識も存在しています。<br /> <br /> その後、離脱を選んだらグループソウルから核としての魂とその周囲のオーラが分離します。<br /> <br /> そして、最終的に肉体に戻ってきます。これが合流とか再合一とか説明されている段階です。<br /> <br /> このように考えるならば難しい十牛図も随分とスッキリします。<br /> <br /> であるならば、実のところグループソウル自体にも意識の高低がありますので、この秘法で得られる効果はグループソウルとしての集合意識に接続することで幅広い見識を得られる、という点にあります。<br /> <br /> このあたりは、おそらくはウパニシャッドも同じ観点なのかな、という気が致します。まだ個人的な仮説ですけどね。<br /> <br /> よくウパニシャッドとかで言われているように「ブラフマンは全知全能」というのは確かに概念としてはそうでしょうけど、人間が認識できるものとしてはグループソウル相当であって、ブラフマンとの合一、というのも実際に可能なのはグループソウルの範疇に限られているわけです。<br /> <br /> みたところ、私の属しているグループソウルは私からすると全知全能に見えなくもないですがそれでも色々とわからないことや認識不足があったりして、だからこそ分霊としての私が地上に来ていたりするわけです。<br /> <br /> 宇宙のありようを見ますと、ブラフマンとか言って一括りにできるほど小さくはなくて、宇宙の広がりはまさに無限大なわけです。それを、瞑想をして宇宙と一体になる... というのは人間の意識でみたらそう思えるかもしれないでしょうけど、実際はグループソウルとの合一だと思うのです。その先の次元に行くにはこの小さな人間の意識ではかなり難しいのではないでしょうか。<br /> <br /> これは人間の可能性を卑下しているわけではなくて、もともとグループソウルから目的があって分霊となって生まれてきて、その自分というスピリットは自由意志を持って創造的なことが行える偉大な存在なわけです。そのグループソウルと再合流するも自由ですし、個別の魂(スピリット)として生きてゆくのも自由。しかし、スピリットとしての意識が認識できるのはそこまでだと思うのです。少なくとも人間としての意識が認識できる範囲としては限界のような気が致します。ただ、それでもかなり十分であると思うのです。<br /> <br /> 色々と仮説ではありますが、このように考えると随分とスッキリします。これは今後もまた様子をみてゆきます。<br /> <br /> Thu, 07 May 2020 00:00:00 +0900 思念波を防御して跳ね返す五芒星 https://w-jp.net/2020/1921/ <br /> 最近関わっているちょっとしたプロジェクトでとある事に関してどうするか軽く議論になったのですが、コロナのこんな状況で相手はストレスを抱えていたらしく、ちょっとヒステリーな反応がその時あって、その後も思念波を週末にかけて私のところへ送ってきていました。<br /> <br /> 私にとってはもう終わった事だったのですが、どうやら向こうはネチネチと考えていたようです。男のくせにめんどくさい・・・。こんなコロナ籠りの状況じゃちょっと同情もしますけど。<br /> <br /> 瞑想していない人はこういうとき弱いですよね。<br /> <br /> とは言いましてもこちらは守らなければなりません。<br /> <br /> 何か体に刺さっていないかな? と思って瞑想中に探ってみましたが見つかりません。<br /> <br /> どうやら、思念波だけが飛んできているようです。<br /> <br /> 最近、陰陽道に関する動画をちょっと見たのを思い出して、それを真似て試しに五芒星を瞑想中に頭の上の方に意識で書いてみましたところ、急に思念波が止まりました。<br /> <br /> これにはびっくりです!<br /> <br /> 自分ではここまで期待していなかったのですが、急に思念波が止まりました。意図としては「思念波を跳ね返して送り主のところに戻してください」と指示をしながら五芒星を書いたので、どうやらその指示通りに術が効いているみたいです。<br /> <br /> 特別に誰かに学んだわけでもなくて、なんとなく試してみた術でこんなに効くとすればしっかりとした術はもっと効き目があって怖いんだな・・・。と、ちょっと思いました。<br /> <br /> まあ、自分で出した思念波を自分で受けるわけですから自業自得でしょう。私が気にすることでもないです。プロジェクトで後でネチネチやってくるかもしれないですけどね。男のくせに面倒な・・・。<br /> <br /> Wed, 06 May 2020 00:00:00 +0900 守護霊は自分のスピリットなのかどうか https://w-jp.net/2020/1917/ <br /> スピリチュアルで、「守護霊は自分の過去生あるいは未来生なのではないかと思う」という記述を読みましたが、確かに、そのような場合もあります。いわゆる守護霊・・・ と言うと混乱がありますが、このコンテキストにおける守護霊という意味で言いますと、自分のスピリットの場合もあれば別のスピリットの場合もあります。<br /> <br /> 一方で、一般に言われているように個別のスピリットが守護霊がつく場合もあります・・・。というか、守護という意味では必ず誰がしかついています。<br /> <br /> ですから、意識するしないに関わらず自分のスピリットではない他人としてのスピリットが守護霊がついているのが基本です。<br /> <br /> それとは別に、自分自身へのインスピレーションとして時空を超えた自分のスピリットが語りかけてきたりイメージや概念を送ってくる場合があります。<br /> <br /> どちらもあります。<br /> <br /> ですから、「守護霊は自分の過去生あるいは未来生」というよりも、自分のスピリットが時空を超えてコンタクトしてきているということです。<br /> <br /> 生まれる場合に計画をした場合にはその計画の途中でインスピレーションを与えることもありますし、未来生から過去を修正するためにインスピレーションを与えることもあります。未来も過去もあってないようなものですから、未来であっても気付きさえすればタイムラインは変わります。ですが、基本は未来に対する介入がほとんどのように思います。<br /> <br /> 過去を変えられるという観点はほとんどの人は持っておられないでしょうし、やらないと思います。実際はさほど違いがありませんけど、基本は、生まれる前に計画をしてその過程で人生に介入をしてインスピレーションを与え、その時のことが守護霊として認識されるが実際は自分の生まれる前のスピリットからのメッセージだった、ということだと思います。実際は時空を超えておりますのでスピリットからしたら過去も未来もありませんけど、基本はこんな感じになると思います。<br /> <br /> それとは別に、見守るという意味での普通の守護霊もついていますし、守護霊からのインスピレーションも同じようにあります。<br /> <br /> ですから、そのスピリチュアリストが言うように守護霊が自分の過去生か未来生だと思うのも自由ですけど、そんなこと言ったら混乱するだけですので、私は普通に「自分のスピリット」と「守護霊」と言うだけがすっきりして良いと思っています。<br /> <br /> Sat, 02 May 2020 00:00:00 +0900 環境問題より精神的な成長を優先すべき https://w-jp.net/2020/1916/ <br /> 環境第一の方には申し訳ありませんが、一部の人が頑張っても世界の人口は増え続けておりますし多くの方が貧困から脱出するごとに大きなエネルギーを使うようになりますので環境問題は解決しません。<br /> <br /> このままではあと300年ほどで地球に作物が育たなくなり、海の魚も激減し、世界の人口は今の10分の1くらいにまで落ち込みます。<br /> <br /> それは予想されておりますし、未来を見れる方がタイムラインを覗いてもそのようなことが確認できます。そのタイムラインは存在しております。ただ、他のタイムラインも存在しております。<br /> <br /> 半世紀ほど前でしょうか。アメリカなど主要国のトップに善意の宇宙人がコンタクトしたことがあります。<br /> <br /> 地球上の戦争をやめて、富を分配して平和に平等に暮らすようにするのであればクリーンなテクノロジーを提供すると提案されたのです。<br /> <br /> しかし、当時の支配者は支配を辞めたくありませんでしたし庶民を助けるどころか奴隷化したいと思っておりましたからその提案を拒否し、他の宇宙人とコンタクトをしたり宇宙船を攻撃したりしてテクノロジーを手に入れたわけです。<br /> <br /> 環境問題はテクノロジーが生み出した悲劇ですから、テクノロジーで解決すれば良いわけです。地球のテクノロジーの多くは生え抜きの地球人というよりも宇宙から来た優れた魂が生み出したもの・・・ と言いますか、宇宙からのインスピレーションを受けて発明したものですから、環境問題の解決を宇宙からの助けに頼っても問題ないと思うのです。<br /> <br /> このあたりは割と有名で多くのところで噂されておりますが、かなりの部分で真実です。<br /> <br /> 今の環境問題は問題を煽って環境に対する優越感や罪悪感を植え付けることで問題解決しようとしている場面が多いですが、精神的な成長と共に育つ環境意識とは全く別物です。地球に住めなくなると言って他人を貶めようとしたり、和やかな環境で他人の環境と比べて優越感を感じることは本質的ではないどころか、最終的に争いを産んで環境を全て壊すことになります。<br /> <br /> 精神的な成長をすれば環境にも気を使うようになり、かなり質素な生活に満足するようになります。質素ですが清潔な生活です。<br /> <br /> 宇宙人が助けるとか言っても、メシアではありません(苦笑)<br /> ただ単に手助けしてくれるだけで、自分の足で立つ必要があります。<br /> <br /> 環境のテクノロジーは環境だけでなくエネルギー供給にも革命が起きますので、環境問題は解決し、人類は平等になります。少なくともその基盤ができます。<br /> <br /> 今は石油に頼っておりますので、石油がなくなると人類の文明は死滅すると思っている人が多いですが、意外にそうでもないです。<br /> <br /> 宇宙人に頼ってしまうと人間の自立心や自尊心が損なわれると思っている人もそれなりにいますが、意外にそうでもないです。ノーベル賞の学者の研究結果で人類生活が改善されてきましたが、それは自立心や自尊心とは全く関係がないでしょう? それと同じことです。<br /> <br /> 地球で環境問題をしようとすると経済のお話や格差のお話に繋がって利権や政治のお話になってしまいます。それでは解決しません。<br /> <br /> 現代の環境問題を解決しようとするより、地球上から戦争を無くして、貧困もある程度までなくすことで宇宙からの手助けに頼った方が環境問題の解決は早いと思います。<br /> <br /> 戦争と貧困の解決ができなければ地球の環境は数百年で上記のようになるだけです。現実というのは残酷なもので、争いを続けていればそのタイムラインに入っていく、というそれだけのことです。<br /> <br /> 注意しなくてはならないのは、自尊心や自立心を失ってはならない、ということです。宇宙からやってくるメシアを求めるような依存する気持ちを持ってはいけないのです。ただ単に、ノーベル賞と同じような枠が貴方から遠いところに1つ新たに出来上がるだけです。ですが、それは全て、戦争をこの地球からなくせるかどうかにかかっており、そのためには環境問題よりも精神的な成長と解決を目指した方が早いと思うのです。<br /> <br /> 環境破壊の原因で一番大きなものはエネルギーです。食事や自然農法で解決はしないですし、循環型社会とか言っても解決しません。環境を叫びながら自然農法したところでガソリン使う車にいつも乗って生活している間は永久に解決しなくて、残念ながら、現在のタイムラインに乗ってそのまま進めば数百年後には地球に作物が育たなくなります。その時はその時で、そんなものだと思うだけかもしれないですけど。<br /> <br /> 環境破壊の原因はエネルギー産業にあり、エネルギー問題を解決するのはテクノロジーであり、テクノロジーは戦争さえなくせば宇宙から援助してくれると言っているのだから助けを借りれば地球は楽園になります。テクノロジーが原因で環境破壊されたのだからテクノロジーでしか直せません。<br /> <br /> テクノロジーを辞めて自然に帰ろう、という運動もありますけど、そういう人だってたいてい車には乗っていたり物流に頼っていますし、そのように豊かな自然のある場所はどんどんと減ってゆきますので後ほど力のある人たちに強引に武力で奪われてゆくようになります。力のないネイティブアメリカンは簡単に虐殺されたでしょう?<br /> <br /> 精神的な観点で自然農法とか環境とか叫んでもテクノロジーの環境破壊の前には無力です。<br /> 精神的な観点で環境は良くしたいですけど環境を良くするにはテクノロジーが必要です。<br /> <br /> 一部の人が精神的に向上しても環境破壊する人が大勢いたら宇宙の人は助けてくれません。ですが、条件として既に提示があって、戦争さえ無くして貧困を(ある程度)解消すれば援助してくれるというのですから、このあたりで現在の支配者層が考え方を変えなければ地球は住みにくい場所に変わります。<br /> <br /> おそらく、地球の支配者層は現在のところ宇宙の提案を受け入れるつもりがなくて、疫病や戦争で人口を大幅に減らそうとしているように思われます。その選択をするのであれば、一部の大天使の召使いが手間をかけてそれらの魂を死後に捕まえて来世にスラム街の貧困家庭の赤ん坊の中に放り込むことになります。自業自得ではないでしょうか。<br /> <br /> 支配者層というと人間というイメージがありますが、それだけ大きなことをするにはある種の大きな霊的な存在がついていないとできない筈なんですよね。それを竜と呼ぶか神様と呼ぶのか悪魔と呼ぶのか堕天使と呼ぶのか天使と呼ぶのか人それぞれですけど、いないと大きな人口削減もできない筈なのですよね。大虐殺も実は世の中の人々への神の審判な場合もなくはないです。ソドムとゴモラの件もありますしね。表面的に支配者層を一括して悪者にもできないのです。しかし、そのような大虐殺の実行者になるにはそれなりの悪の心がないとできませんから神が背後で手引きしていたとしても実行者は悪に染まるようです。<br /> <br /> Fri, 01 May 2020 00:00:00 +0900 同調圧力に屈しない、あるいは逃げる必要性 https://w-jp.net/2020/1915/ <br /> 特に義務教育の現場では同じ人と長く付き合いますので同調圧力が生まれ、先生もそれに加担しますので同調圧力に屈しないのは並大抵のことではありません。人は自由意志がありますから付き合う人を選べるのが本当ですが、義務教育あるいは狭いコミュニティにおいては他人を強制・操作・共依存に落とし込もうと言う罠が沢山あります。<br /> <br /> 子育てであれば子供が警告を発しているサインを見逃さないことが重要ですが、親が同調圧力に加担している場合もあります。<br /> <br /> 子供は親を選んで生まれてきたなんて言いますけど、そう言う人もいる、と言うお話であって、全てではありません。<br /> <br /> なんとなく生まれた場合は、適当にそこらの親を選んだだけです。<br /> <br /> よくスピリチュアルで言うように「母親を選んで生まれてきたのです!」なんて大そうな選び方をする場合ももちろんありますけど、半分以上の場合は なんとな〜く 選んだと言うのが現状です。<br /> <br /> ですから、親も なんとな〜く でしょうし、子供が生まれても なんとな〜く です。 そんなもんです(苦笑)<br /> <br /> 意識的に霊的成長を願って親を選ぶ場合ももちろんありますけど、その場合はわざわざこんなこと言わなくても本人はわかっています。<br /> <br /> 選ぶと言うことで言えば、厳しい環境に自分を突き落とすことで社会勉強をする場合もあります。<br /> <br /> 宗教や精神的なこと、あるいは自然に基づくことに興味を持っている親を選んでいる場合は、人生ゲームの難易度は「スーパー・イージー」です。まあ、それで十分です。別に悪いことではありません。それで全く問題ありません。<br /> <br /> なんとな〜く 選んだ場合は人生の難易度は「ノーマル」です。<br /> <br /> 宗教や精神的なことを否定する唯物論の親の子供として生まれる場合は人生の難易度は「ハード」です。<br /> <br /> ドメスティック・バイオレンスの親の子供として生まれる場合の人生の難易度は「エクストリーム」です。<br /> <br /> 人生ゲームは、一つ間違えるとライフが1つ減ります。なくなるとゲームオーバーです。そんなもんです。<br /> <br /> ただ、復活の呪文みたいなのがあって、ライフがゼロになってもある程度は復活したりしますけど、難易度は変わりません。<br /> <br /> 私の場合はこの復活の呪文は胸の中にある「光の玉」で認識していて、生まれる時に私の場合は3つ持って生まれました。そして、小学校の頃までに早速その3つを使い果たしてしまいました(苦笑)私の場合、難易度は「ハード」でした。<br /> <br /> エクストリームの人生は私には無理ですねえ・・・、きっと。エクストリームでゲームオーバーで死亡する人は致し方ない気も致します。人生ゲームの難易度が高すぎます。<br /> <br /> 難易度「ノーマル」以上ですと周囲に強制・操作・共依存をしてくる人がわらわらと寄ってきますので、それに囚われてしまったらライフがどんどんと減ってゆきます。<br /> <br /> 人生の第一目的は生き残ることですから、立場が悪ければ逃げればいいのです。そして、ゲームのように、うまく立ち回れる場所で活動すればいいわけです。相手の術中にはまってライフを奪われ続ける必要はないわけです。<br /> <br /> 強制・操作・共依存をしてくる相手は「逃げるな」とか言ってくるでしょうけど、それこそ相手の思う壺で、相手のルールにのっとる必要は全くなくて、人生ゲームは自分でルールを作れますから自分のルールで生きればいいわけです。強制・操作・共依存をしてくる相手は自分のルール上に相手を乗せたいだけで、相手のことを思っているわけではありませんから、そこは見抜く必要があります。<br /> <br /> 古典のヨーガスートラや仏教の四無量心(慈悲喜捨)のうち「捨」として語られていることに、「不徳の人に会ったら無関心になりましょう(捨)」と言うことがあります。これが正しいのであって、相手と付き合う必要はないのです。相手は選べばいいだけです。<br /> <br /> オーラ的にも相手に関心を持つとオーラ融合してしまって相手と一緒になって落ちてしまいますから関心を持たない方がいいですし、瞑想という観点からもそのような不徳な思いに囚われずに流してしまうことが正解です。<br /> <br /> この世は魑魅魍魎の世界ですから、修羅たちが争っているところに混ざる必要は全くないわけです。<br /> <br /> Thu, 30 Apr 2020 00:00:00 +0900 本物のスピリチュアル人はお金に困らない https://w-jp.net/2020/1914/ <br /> お金に困らないので、たまにお金に困った状態に興味があって自分で損を出してみて貧乏な状況を意図的に苦しんで楽しむことはありますけど基本的にはお金には困りません。<br /> <br /> スピリチュアル人は意図的に貧乏になることで貧乏人を理解しようと思うことはありますけど何も考えなければお金には困りません。<br /> <br /> 転生の時に本当に全く考えなしに生まれてきた場合はお金に困ることがあります。それは計画が悪かったのであって、自分のスピリチュアルとは関係がありません。<br /> <br /> お金がないからスピリチュアル的にも問題が出てくるのであって、逆ではありません。<br /> <br /> ただ単に、人生の計画を生まれる前にそれなりにしていなかったから貧乏になるのであって、スピリチュアルに問題があるから貧乏になるわけではありません。貧乏になって苦しむから生活が乱れてスピリチュアルに問題が出てくることがあるだけのことです。<br /> <br /> ですから、貧乏の理由をスピリチュアルな原因だと言ってくる人物には要注意です。<br /> 高い物を買わせようとして「これを買えばスピリチュアルが高まってお金に困りません」と言ってくる人は偽物の可能性が高いです。<br /> <br /> お金はただ単に現実の生きる道具でしかありませんから、人生計画に基づいてお金が入ってくるかどうかが決まるだけです。<br /> <br /> 最初の転生では考えなしに生まれてお金に困ることもありますけど何度か転生していればある程度は人生の計画を立てますのでお金には困りません。<br /> <br /> どちらにせよ、本人のスピリチュアルとお金とは関係がないです。<br /> ただ単に、お金が流れてくる場所に自分がいるかどうかのお話です。<br /> <br /> 自分の居場所を生まれる前に計画して決めたかどうかはスピリチュアルなお話ですが、生まれた後にスピリチュアルかどうかとお金が入ってくるかどうかはあんまり関係がないです。<br /> <br /> 本当は十分なのに欲望が高まってお金が不十分だと言っている方も多いような気が致します。であればそれはスピリチュアルが高まって欲望が減れば現状のお金に満足すると言う理屈も成り立ちますけど、高額なスピリチュアルグッズとは関係がありません。<br /> <br /> 同じお金使うなら高額なスピリチュアルグッズの代わりに普通にいい値段する良い日用品を買った方がいいと思います。<br /> <br /> Wed, 29 Apr 2020 00:00:00 +0900 <link>https://w-jp.net/2020/1912/</link> <description><br /> </description> <pubDate>Mon, 27 Apr 2020 00:00:00 +0900</pubDate> </item> <item> <title>信じるところから全ては始まる https://w-jp.net/2020/1911/ <br /> 他人に依存したり操作されたりしなければ信じると言うことは力になります。信じると言うと抵抗があるかもしれませんが、「覚える」と言い換えてもいいと思います。最初は文献などをなぞって、その内容をまずは信じてみて内容を掴み取るわけです。<br /> <br /> その後、違うと思ったら捨てても構いません。一旦信じたらずっと信じ続けなくてはならないものではなく、その後の「検証」が大切ですから、確かめることを怠らなければ信じることは力になります。<br /> <br /> 最初はスピリチュアルと言っても右も左もわからない状態であればまずは信じてみるしかないでしょう。<br /> <br /> これは、例えば科学のお勉強でも同じことが言えると思います。まずは教科書の内容を暗記することから始めるでしょう。それと同じことです。<br /> <br /> 学校のお勉強は「覚える」と言って、スピリチュアルのお勉強は「信じる」と言っているだけのことです。<br /> <br /> 似たようなものです。<br /> <br /> 学校のお勉強は科学的と言いますけど、学校ではその根本のところは教えてくれませんから、学校で学ぶことはほとんどが「覚える」ことです。<br /> <br /> 科学の根本と言いますと量子論や数学の整数論とかになってゆきますけど、大学でもきちんとこの辺りをやる人も少ないのではないでしょうか。それでいて学校で覚えるだけ覚えて科学的だとか言っていますけど、根本を理解しなければそれは所詮は覚えているだけのレベルで、科学的と言うよりも、ただ単に科学の理論を覚えて使っているだけのことです。<br /> <br /> 一方で宗教も根本を考えるのはなかなか難しく、最初は覚えることから始まります。それを信じると言っているだけのことで、科学とそう変わりません。<br /> <br /> どちらも根本まで行きつけばいいのですが根本までたどり着かない場合はどちらも暗記でしかありません。<br /> <br /> それでも科学であっても宗教であってもそれなりに理解が深まりますし学はつきますから、無駄ではありません。<br /> <br /> であれば、根本まで行き着かずに「覚える」「信じる」と言うレベルであっても十分ではないでしょうか。<br /> <br /> Sun, 26 Apr 2020 00:00:00 +0900 自分とスピリットの自分とグループソウルとしての自分 https://w-jp.net/2020/1910/ <br /> 顕在意識としての普通の自分という意識。<br /> 時空を超えた幽体としてあるいはスピリットとしての自分。<br /> そして、スピリットとしての自分が分かれた元であるグループソウルとしての自分がいます。<br /> <br /> ニューエイジのスピリチュアル以降はハイヤーセルフという言葉がよく使われるようになり、これらの一部がハイヤーセルフだったりするのですが、ハイヤーセルフと言った時、何を意味するのかコンテキストごとに異なるので読み解く必要があると思います。上の中でいくつかの部分がハイヤーセルフと呼ばれたりします。<br /> <br /> また、流派によっては更にロウアーセルフ(低次の自己)という概念があったりします。このロウアーセルフは曲者で、ロウアーと言いつつも地球意識のことを意味していたりします。それって大きな意識だからロウアーというのも違和感ありますけど、いわゆるグラウンディングとしてのロウアーセルフということなのかもしれません。<br /> <br /> 言い方としては多様であっても、あるものは同一です。<br /> <br /> 顕在意識としての自分は安全を確保する基本的な欲求から所有する感覚としてのエゴを持ち合わせています。<br /> この顕在意識とスピリットとしての自分は、見ている観点が少し違うだけで割と一緒です。普段はその両者がごっちゃになっています。<br /> <br /> 肉体に関連した意識の部分と、スピリットとしての時空を超えた部分の両方があります。<br /> 幽体離脱する時は肉体の感覚、視覚などがなくなってスピリットの側だけになります。<br /> あるいは、うまくやると肉体の感覚を少し残したまま、肉体の安全を確保しつつスピリットを自由に動かすこともできます。<br /> <br /> ですから、顕在意識としての普通の自分とスピリットとしての自分は一緒と言っても良いのですが、顕在意識は時空を超えにくいのに対してスピリットは時空を超えます。<br /> <br /> ニューエイジでハイヤーセルフというとき、「高次の自分」という意味で使われますので、それは、スピリットとしての自分の場合とグループソウルとしての自分の場合とがあります。<br /> <br /> スピリットとしての自分は普段は顕在意識で肉体と結びついておりますので、スピリットとしての自分としての意識になった時、それは変性意識であったりするわけですが、その時のスピリットをハイヤーセルフと呼んだりしますが、同じ自分の一面です。<br /> <br /> 一方で、自分のスピリットが分かれた大本であるグループソウルとしてのスピリットをハイヤーセルフと呼ぶこともありますが、グループソウルは細かなことに口出ししないのでニューエイジでハイヤーセルフと言ってもグループソウルでないことがほとんどです。<br /> <br /> 人によってハイヤーセルフの定義がまちまちで、私なんかからするとスピリットとしての自分は単に自分のスピリットであってハイヤーセルフではないと思うのですが、あまりにも肉体との結び付きが強い人はスピリットとしての自分ですら特別に感じてハイヤーセルフとか言って特別視するのかもしれませんね。この場合のハイヤーセルフと言っても基本は自分の意識ですから、まだまだ自分の限界から超えてはいません。<br /> <br /> グループソウルとしてのハイヤーセルフは他の人はハイヤーセルフとは言っていない気がしますけど、これこそハイヤーセルフと呼ぶにふさわしいと私なんかは思います。<br /> <br /> 私のスピリットが分かれた大本であるグループソウルとしてのハイヤーセルフは、いわゆる「人の形」としての意識体として存在していて、グループソウルとしての意識もあれば、個別のスピリットの個々の意識も統合しています。これこそハイヤーセルフと呼ぶにふさわしいと思うわけです。<br /> <br /> 一方で、自分のスピリットはハイヤーセルフと言うよりも単に自分のスピリットであって、ハイヤーと呼ぶほどではないと思います。<br /> <br /> ですが、多くの人は自分のスピリット、いわゆる自分の意識の一面をハイヤーセルフと呼んでいたりしますので、他人がハイヤーセルフと言う時は何を意味しているのかコンテキストを読み解く必要があると思います。<br /> <br /> Sat, 25 Apr 2020 00:00:00 +0900 給与を増やせば売り上げが増える https://w-jp.net/2020/1909/ <br /> 人は、ものを売る時に販売側が「きつい顔」をするあたりが最安値になりますから、給与を増やせば最安値が切り上げられ、売り上げが伸びます。<br /> <br /> 欲しい人たちはただ単に安く買いたいだけですから、いくらであっても構わないわけです。高ければ高いところ、安ければ安いところで流通するだけのことです。<br /> <br /> デフレ商売に関わっている人は自分が売る場合も相手に顔色を見られますから、儲かっているところからは、売主が「きつい顔」をする寸前まで値下げ圧力がかかります。安いところで流通すれば回り回って自分の実入りが減ることになります。<br /> <br /> 多くのところでは「きつい顔」が基準になっていますので、給与を増やせば増やすほど「きつい顔」が切り上げられて売り上げが伸びるわけです。逆に給与を減らせば減らすほど売り上げは下がります。<br /> <br /> ですから、営業の立場で言うときつそうな表情をいかに表現して相手の同情を誘うのが鍵になるわけです。<br /> <br /> 経済学では給与は固定費で減らすもので価格は下げた方がいいと思われていますが、実際は、価格なんてあってないようなものです。「雰囲気」で価格は決まります。<br /> <br /> 既に・・・、そしてこれからも価格の二分化は続いて、デフレ経済に関わる人と価格が保たれた商売をする人とで別れるような気が致します。<br /> <br /> デフレ経済は営業が必要で営業コストがかかって価格圧力にさらされて売り上げが下がり続け、一方では営業コストがほとんどいらなくて価格圧力が少なくて給与も上がって売り上げも上がり続けるわけです。<br /> <br /> こうなると保証はしませんし、これは経済学というよりも心理学的な解釈かもしれませんが、別に、私は心理学を専門で学んだわけではなく、そういうインスピレーションが今日の瞑想で降りてきた、というだけのことです。<br /> <br /> Fri, 24 Apr 2020 00:00:00 +0900 ジョブスの伝説のスピーチを真に受けてはいけない https://w-jp.net/2020/1908/ <br /> スタンフォード大学の卒業式で2005年に行った伝説のスピーチを真に受けて、良いも悪いも全ては繋がっている、とか思っている人がいらっしゃいますけど、それは条件付きです。そして、条件に合う人も大勢いますし、合わない人も大勢いらっしゃいます。<br /> <br /> スティーブ・ジョブズはその講演の中で、その時々で最悪と思える出来事が起きたが最終的にはそれは繋がっていた、というお話をしています。他にもトピックがありますけど、今回のお話はここのことだけです。<br /> <br /> 人生というものは不思議で、良いことも悪いことも全てが完璧です。それはそうです。<br /> <br /> 一方で、人生の計画という点から言いますと、どれだけ用意周到に準備してきたのかは別のお話です。<br /> <br /> あまり準備せずに人生をスタートさせて、なるがままに任せた場合であっても、それは完璧なのです。<br /> <br /> 一方で、生まれる前のスピリットの状態で未来を確認しつつ準備をしてから生まれてきた場合でも、それもまた完璧なのです。<br /> <br /> おそらくジョブスは後者の場合だったと思います。<br /> <br /> ですが、後者であっても程度に差があって、そこそこの準備で生まれてきた場合はジョブスみたいな成功はほとんどないと言っていいと思います。<br /> <br /> 本人の準備がそこそこでも周囲のスピリットが準備する場合もありますが、それは稀です。基本的には本人が準備をします。<br /> <br /> あまり準備せずにこの世界を遊びにきた人がいて、その人が失敗したりするとリカバリーする場合はその時の守護霊が頑張ってリカバリーしたりしますが、それは、ジョブスがいうようにあらかじめ用意されたものではありません。<br /> <br /> 人生は全てが完璧で何をしても良いのですから、計画という点に関しても、どれだけ準備しても良いのです。<br /> <br /> と、いうことで、ジョブスのスピーチを真に受けて、失敗も全ては次へのステップだとか思ってしまわない方が良いと思います。<br /> <br /> ただ、それすらも全て包括的に完璧ではあります。ですから、計画せずに失敗した、ということも完璧の一部なわけですが、ジョブスがいうように、計画された失敗ではないのです。<br /> <br /> 人生というのは、ある意味、残酷なもので、結果がはっきりと出ます。その時に、安易にジョブスのような言葉に惑わされない方がいいと思います。<br /> <br /> Thu, 23 Apr 2020 00:00:00 +0900 死霊は右の肩に憑く https://w-jp.net/2020/1907/ <br /> 私は度々、右肩が弱くてそこに絡まっている見えないものを引き抜くと言うことをしていますけど、陰陽師の解釈に基づくとそれは死霊だとのことです。<br /> <br /> 確かに、自分で生気を作り出すことができずに吸血鬼のように他人の生気を引き抜くことでしか生きられないのだとしたら死霊である可能性が高いです。<br /> <br /> 死霊が人に憑く際は、人の肩の右側に、そして、生霊は人の肩の左側に憑きます。「陰陽師の使命(安倍成道 著)」<br /> <br /> 実際のところ、私に取り憑いていたのが死霊かどうかはわかりません。ですが、このような解釈もあるのだな、と言うところが興味深いです。どうしたらこれを確かめることができるのですかね?<br /> <br /> 同書によれば、陰陽師は死霊を取り除くのではなく存在を消し去ってしまうようです。<br /> <br /> 私がやったのはただ単に引き抜いただけであとはその見えない意識体はどこかへ行ってしまいましたけど、陰陽師だったら消されていたのかもしれませんね。消す場合は慎重に行う必要があって、害が出ている場合にのみ消すようです。<br /> <br /> 前にも書いたような気がしますが、私の魂の記憶を辿りますと、幽体でこの地上界を探検していたら急に殺気を感じて消されるかもしれない、と思ったことがあります。それがこの種の人々なんだと思います。とても恐ろしいです。何十と言う転生で積み重ねてきた英知を丸々と消し去ってしまうわけですから。<br /> <br /> 同書によれば害を及ぼす死霊だけ消すとありましたけど、世間にはもっと荒っぽい人がいて、霊が漂っていたら片っ端から消す人がいます。そう言う人にも判断の基準はあるのでしょうけど、その基準がとても低い人もいて、霊でこの地上界を彷徨うのは実はかなりおっかないことだったりします。<br /> <br /> Wed, 22 Apr 2020 00:00:00 +0900 とあるお寺の家系に生まれた人の物語 https://w-jp.net/2020/1905/ <br /> 夢を見ましたよ。<br /> <br /> あるところに由緒正しきお寺とその一族がいました。<br /> その夢は霊界のお話と現世との繋がりのお話ですので場面は霊界から始まります。<br /> <br /> お寺の一族は霊としてもその一族が代々引き継いでおり、霊界の一族の大御所と言いますかお節介おばさんみたいな人(霊)が半分仕切っていました。<br /> <br /> ある日、その一族のところにどこからか霊がやってきました。<br /> <br /> どこから来たのかもわからない、どこぞの馬の骨ともしれないわからない霊ですけど、仕切っているお節介おばさんの霊に対して「勉強したいので一族の家族として転生させてください」と熱心にお願いしました。お節介おばさんは、これは一体どうしたものかと思い、この、どこぞの馬の骨ともしれ訳の分からない魂を家族にとして転生して面倒見るのはどうなのかと考えましたが勉強したいという熱心な願いを聞き入れる事にしました。<br /> <br /> そうして勉強したいと言って転生した筈ですが、生まれてからはその願いを忘れたのか何なのか一向に仏教の勉強をせず、世間の俗物的な快楽に身を任せてお金儲けに励んでいるではありませんか。お節介おばさんはそれを見て「やれやれ。あの願いは何だったのかしら」と思っていました。それだけならまだしも、自分はほとんど修行していないのにも関わらず自分が一族の家族というだけで自分自身が何か偉いものだと勘違いし始めました。<br /> <br /> 身近な家族がそんな態度をたしなめる為に「我が一族の名を辱めることは避けるように」と忠告したところ、その本当の意味は「君のように修行していない人は語る資格はない」「君が生まれる前に立てた誓いを思い出して勉強しなさい」というところだったのに、こともあろうか、「自分はこの一族に生まれたのだから優秀で他の者より生まれながらにして優れている」、と勘違いをし始めます。「血筋によって優越が決まる血統主義」かのごとく思ってしまったわけです。<br /> <br /> それを霊界から見ていたお節介おばさんは「この、どこぞの馬の骨とも知れぬ者が修行もせず勘違いをするようになってしまった」と嘆きました。お節介おばさんは、「やれやれ、この勘違い坊主をどうしたものか・・・ 」と思っていたところ、自分のところで修行するのではなく、もっと緩いヨガをさせるように計らうことにしたようです。<br /> <br /> お節介おばさんは、それでとりあえず様子を見ることにしましたが、お節介おばさんは昔を思い出して、これは教訓だったのだと理解しました。この坊主が来た時、きっと受け入れるべきではなかった。本性を見抜くべきだった。表面的に礼儀正しくてもその裏で何を求めているのか、この坊主の一生を霊界から見ていたことで理解することができた。この坊主は自らの欲望を達成するために、体のよい看板(家柄)が欲しかっただけなのだ。<br /> <br /> だが、幸いなことに、そのような不逞なやからでも我が一族の霊気にさらされることのよって次第に改心し、霊的な理解を少しづつではあるが獲得しつつある。全ての人間は霊的に目覚める素質がある、というのもお節介おばさんが学んだことのひとつだった。<br /> <br /> 今はまだ勘違いをして困ったちゃんの状態ですが、お節介おばさんは面倒見が良いのでそんな坊主でも優しく見守っているようです。でも、次の転生で一族の者として再度生きるのは今の状態では許可できないみたいですけど。であれば今生の幸運を生かして最大限に学ぶべきなのでしょうね。<br /> <br /> おしまい。<br /> <br /> これはたしか数年前に見た夢で、ふとメモを発見したので載せてみました。これは実在の人物のお話で、こんな夢のお話を本人に言うなんていう野暮なことはしていませんけど、時々、謎な人と会うことがあって、これはどういうことでしょう??? と思っていると瞑想ですとか夢ですとかでこうして答えをくれる時があるのです。<br /> <br /> もちろん瞑想や夢ですから正解とは限りませんし、本人に言う必要のないことではありますが、上記のようなことであるとすれば態度や考え方など全てスッキリ説明がつきます。多様な人がいて、それぞれの人生で学びをしているのですね。<br /> <br /> 血筋や家族・親戚はとても助けになりますが、そうであっても、やはり本人のありようが一番重要と言うことなのだと思います。<br /> <br /> その一方で、由緒正しき血筋に変な人を招いてはいけない、と言う教訓でもあるように思います。この場合、お節介おばさんの脇が甘かったのだ、と言うメッセージも含まれていました。そのおかげでお節介おばさんは人生を通じて苦労を背負うことになりましたが、このようなお話は割とこの世界に溢れているような気も致します。とは言いましても、お節介おばさんの方はエネルギーに満ちているようですので苦労を苦労とも思わずこなすことができますので特に問題ではないようです。<br /> <br /> 人生の中では色々な人と会いますけど、それぞれ違った人生観を持っています。興味を持てばこのように人生の背景に関する知識が私のところへやってきますけど、その知識を得たからといって、それが悟りの知識に結びつくわけではありませんから、最近は他人の人生に対する興味はあまりありません。ですので、これを見たからといって感想は「ふうん」と言うくらいですけど。人生は自由ですから、他人は好きに生きれば良いと思っています。<br /> <br /> Mon, 20 Apr 2020 00:00:00 +0900 会社員は現代の奴隷 https://w-jp.net/2020/1899/ <br /> 奴隷なのですから、コロナのような事態になって困ったら国なり雇い主が給与を保証すべきなのです。このような時にだけ自由人や資本主義を持ち出して自己責任論を掲げるのは信頼すべき雇い主ではありません。<br /> <br /> 国はそのトップにいるのですから現代の奴隷の生活を保証するべきなのです。<br /> <br /> 奴隷というと悪いイメージがありますが、古来の奴隷はそれほど悪くなく、自由がないが故に収入の心配や基本的な衣食住の心配をしなくても済みましたので、意外に気楽なものでした。<br /> <br /> 例えば中世の北イタリアでミケランジェロが所有していた農園で言いますと、農園の管理者はある程度頑張ってもらっていましたが、小作人は毎日の農作業や畑の見回りをするだけで気楽なものでした。確かに、年によって農作物の出来不出来がありますので領主であるミケランジェロに収める税金が重く感じることはありましたけど、気の利く領主であればその年の税金は軽くするなどしていくらでも対処してあげたものでした。ですから、多少の苦労はあったとしても意外に奴隷や小作人は気楽なものでした。領主によっては作物量をどんどん増やそうとして苦労をかけていたところもありましたが、それは現代も変わらないのではないでしょうか。<br /> <br /> 今の会社員の方がよっぽど奴隷より酷い扱いを受けています。<br /> <br /> まず、資本主義という原則によって奴隷ではなくなってしまいましたから、実際は大して選択肢のない自由という中から自由で選んだという大義名分の元で働かされ、収入については自己責任と言いつつ月給制のサラリーで自由な報酬を得られることなく永遠に「生活が維持できる最低限の収入」で働かされるのです。そういう人が多すぎます。<br /> <br /> 奴隷や小作人であっても結婚して子供を作ることが安心してできましたが、現代の会社員は結婚にも躊躇しますし子供を育てることにも経済的に躊躇します。であれば奴隷の方が待遇が良かったとも言えるのではないでしょうか。現代と中世では子供の死亡率や働き手の数という観点が違いますが、その点を加味しても、奴隷や小作人の方が気楽だったと言えます。<br /> <br /> 本来ならば、古来のやり方であればそのような奴隷・小作人階級に相当する人たちは領主や国王から厚い手当を受けていたものです。特にこのようなコロナ騒ぎにおいてはそうでした。<br /> <br /> 今は自己責任とか資本主義とかが叫ばれすぎて、奴隷の良さが忘れられています。<br /> <br /> ただ、奴隷とは言わないまでも、昭和時代は会社員が賛美されていましたのは、結局のところ、多くの民衆は奴隷になって誰かの下で使ってもらうことで安心したいのだと思います。<br /> <br /> それは、決して悪いことではないと思います。自分の手に余る自由を手に入れたからと言って幸せになれるとは限りません。<br /> <br /> 奴隷というと酷い扱いを受けたというイメージが先行しておりますが、意外に奴隷は丁寧に扱われています。奴隷を買うのもお金がかかりますし、衣食住を維持するのにもお金がかかります。奴隷が役に立つようになるまでには教育のコストもかかります。そうであれば、そのように育てた奴隷を粗末に扱って殺したり逃げ出されたりするよりは丁寧に扱って楽しく暮らして成果を上げてもらった方が良いのではないでしょうか。これは、今の社会にも言えると思います。<br /> <br /> 既に会社員というものが社畜として語られていますので、イメージとしては既に奴隷と同じようになっています。であれば、会社員が奴隷だということに躊躇する必要がない時代になったとも言えます。昭和であれば同じことを言えばとんでもない事だと糾弾されていることでしょう。今でも年寄りには糾弾されそうですが、多くの現役世代は会社員が奴隷だと言われても違和感ないのではないでしょうか。<br /> <br /> 奴隷が悪いと言っているのではなく、既に会社員は奴隷なのですから、国が保証すべきだ、と言っているのです。<br /> <br /> 見た目を取り繕って自由だとか資本主義を掲げていても、結局は、この国は一部の上流階級が大勢の奴隷を従えている社会なのです。<br /> <br /> ある程度の自由を与えた方が楽しく自発的にやってくれるから、という理由で資本主義を掲げているだけで、全てを自由にさせる気はないのです。<br /> <br /> であれば、このような時にお金をばらまいて奴隷の生活を保証するのは国の役目なのではないでしょうか。<br /> <br /> Tue, 14 Apr 2020 00:00:00 +0900 本質と顕在意識の乖離がないことがサティア(正直) https://w-jp.net/2020/1898/ <br /> ヨーガ・スートラという古典の聖典にはサティアについて書かれてあります。<br /> <br /> この言葉は正直を守り通すことを現している「解説ヨーガ・スートラ(佐保田 鶴治著)」<br /> <br /> 2-36) 正直(サティヤ)に徹した者には、行為とその結果がつき従う。「インテグラル・ヨーガ(スワミ・サッチダーナンダ著)」<br /> <br /> 2-36) 誠実の境地に定住すると、そのヨーギーは、彼自身および他者のために、あるはたらきをしないでそのはたらきの果実を手に入れる力を獲得する。「ラージャ・ヨーガ(スワミ・ヴィヴェーカーナンダ著)」<br /> <br /> サティアは割と最初の方に出てきますし、日本でも「嘘をつかないこと」として道徳として語られていますので割と当たり前のこととしてスルーしてしまいがちですが、この当たり前とも思えるところにサマーディへの鍵が眠っているような気も致します。<br /> <br /> これは、道徳として当たり前であっても、実行するのは難しいことです。解説書を見ますと基本的には「嘘をつかないこと。正しく話すこと」として説明されています。しかし、本質は、それよりもずっと瞑想的・サマーディ(二元性の克服)的であると思うのです。<br /> <br /> 以下は神智学系の解釈です。<br /> <br /> 真実であるためには、(触覚できる、客観的な、もしくは言葉という)形態が神性をどの程度まとっているかを正しく見抜く能力が必要である。また、真実をありのままに伝える形態を構築する能力も必要である。(中略)そしてそれは、(このスートラで述べられている)能力につながる。「魂の光(アリス・ベイリー 著)」<br /> <br /> ここに、「神性」とあります。サティア(正直)であるためには、神性を見抜く必要がある、というのです。であれば、サティアは単に「嘘をつかないこと」よりもずっと深いものであると言えます。そして、神性を見抜くことは単に基礎でしかない、と言います。<br /> <br /> そうであれば、神智学系の以下の意訳の方がしっくり来ます。<br /> <br /> 2-36) すべての存在に対して完全に真実になったとき、言葉と行動の効果が直ちに現れる。「魂の光(アリス・ベイリー 著)」<br /> <br /> あるいは、本質と顕在意識の違いがないことであると言っても良いと思います。その方が、単に「嘘をつかないこと」というよりも意味が明確であると思うのです。<br /> <br /> Mon, 13 Apr 2020 00:00:00 +0900 強制・操作・共依存の時代の終わり https://w-jp.net/2020/1897/ <br /> 昭和は強制・操作・共依存の全盛期であり、平成まではその影響が強い時代でした。<br /> <br /> 令和になり、コロナになり、いよいよその影響力が減ってゆきます。<br /> <br /> 強制・操作・共依存ではパワハラ・圧力が当たり前のものになっていました。<br /> <br /> 平成に生まれて令和で社会人になった人は既に上記のような社会に生きていませんから、昭和時代から生き残っている会社に入社してすぐに辞めたとしても咎めるべきではありません。むしろ、昭和時代の会社であるのにあたかも健全であるかのような会社説明会をしている会社は本質と表現が一体になっておりませんのでやがて力を失ってゆくでしょうし、そのような会社を選ぶような方も勉強だったと言えるでしょう。<br /> <br /> まだ政権が大企業重視で日銀が月に1兆円もばら撒いて株を買い支えている状況ではまだまだ旧体制の大企業は存続するでしょうが、いきなり梯子を外される時が来るでしょう。いつまでも実体のない企業は存続できません。<br /> <br /> そして、梯子を外される時とは、旧体制の強制・依存・共依存が不要になった時でもあり、新たな軸が作られた後であれば政権も躊躇なく旧体制の大企業を縮小しようとするでしょう。ということは、新体制の会社が出てくれば旧体制は弱体化するということでもあります。<br /> <br /> 旧体制とは強制・依存・共依存に結びついたものであり、会社のシステムおよび社会のシステムも根強くそのために最適化されておりますから、それが崩れる時はかなりの痛みを伴いますが、このコロナの騒ぎはチャンスとも言えます。<br /> <br /> であれば、このコロナで旧体制が弱ったチャンスを見て新体制が力を伸ばせばいいわけです。<br /> <br /> 旧体制においては「プロセス」が重視されてきましたが、言い換えれば「強制・操作・共依存」のプロセスを重視するということでした。更に言い換えると「パワハラによる無抵抗の強制・無意味なプロセスを強制することで他人を思考停止させ操作する・判定者を曖昧にすることによる共依存」などが相当します。<br /> <br /> 新体制においてはある意味、旧来とは違った「成果主義」になり、プロセスであるところの「強制・操作・共依存」は重視されません。<br /> <br /> 旧来は成果主義が評価と結びついておりましたが新体制においては評価とは結び付かず、単に、プロセスを重視しないというだけのシンボルとしての成果主義になります。<br /> <br /> 生きるだけであれば生活費は割と十分な時代になりますから、贅沢をしたい人は十分に努力して頂くとして、そうでない人は自分の興味に基づいた仕事を選ぶようになります。それが報酬と結びつくかというとそうでもない時代ですが、努力や結果とは別の軸で、ふとしたことで大きな報酬が得られる時代になります。本来は人生とはそういうものですがサラリーマンになるのが当然と思われている時代には失われてしまったことが取り戻されるようになります。サラリーマンでは浮き沈みがない分、自由を奪われ、報酬も一定になります。しかし、本来は、成果や努力と報酬とはある程度の相関関係しかなく、ふとしたことで大きな報酬を得られることがあるのです。そのように、普段の小さな報酬に気にすることなく時々の、成果や努力とは無関係な報酬の方が遥かに大きな時代になります。となれば、日常生活における小さな収入など気にならなくなってゆくのではないでしょうか。<br /> <br /> これらの変化は意識の変化が先に現れ、現実は後追いになります。であれば、今のうちから強制・操作・共依存の関係は断ち切ってゆくべきです。<br /> <br /> それらのループにはまり込んでいて、他人に対して盲目的になって奴隷のように付き従っている人は、小さなところから抵抗を始め、「じぶん」というものを取り戻す必要があります。<br /> <br /> スピリチュアルや宗教では「自分をなくす」ことを盛んに言われていたりしますけど、実際は、「自分が強くなって、自分が広がって、自分がなくなる」という順番ですので、自分が消え去って奴隷のように無抵抗になることがスピリチュアルや宗教ではないのです。<br /> <br /> そして、その新たなる秩序はもしかしたらスピリチュアルや宗教というところから出てこないかもしれません。しかし、言っていることは同じことだったりします。時代の変化に敏感な人であればビジネスであっても時代の要求に応えるものになります。その基本が、昭和の価値観である強制・操作・共依存のループから断ち切ることであり、ようやく令和になって、このコロナがその良いきっかけになると思われるのです。<br /> <br /> Sun, 12 Apr 2020 00:00:00 +0900 <link>https://w-jp.net/2020/1896/</link> <description><br /> </description> <pubDate>Sat, 11 Apr 2020 00:00:00 +0900</pubDate> </item> <item> <title>みんな悟っている https://w-jp.net/2020/1894/ <br /> アナハタ優勢になって以来、万人が悟っているように感じるわけですけれども、悟っている筈なのにおかしな行動するのはどうしてでしょう、というのが最近の謎でした。<br /> <br /> 悟っている筈なのに何かに悩んでいたり、誰かを罵ったり、小さなことでマウンティングして優越感を感じたり... 悟っているのでしょう? なんでそんなことするのでしょう?<br /> <br /> これって、私が見えている錯覚なだけなのかもしれません。そんな疑問を長らく持ってきました。<br /> <br /> 世界というものは「わたし」という鏡を通じて映し出されたものであり、そこにあるのは真実の姿ではないような気もしてきました。<br /> <br /> よく、ヨーガでは3グナと言ってタマスが視界を覆い隠して愚鈍にしている、なんていいますけど、タマスだけでなく活動的性質であるラジャスや純粋な性質を持つサットヴァですら視界を覆い隠して活動的にしたり純粋にしたりする性質を持つのではないかという気がしてきました。<br /> <br /> どうも、最近のヴィパッサナーを続けるうちに、それらの性質が何物なのかという理解があらわになってきたような気が致します。<br /> <br /> 具体的には、以前は単純に「みんな悟っている」と思っていたわけですけれども、その後、ヴィパッサナー状態でスローモーションの認識を続けるうちに、どうやらスローモーションのヴィパッサナー状態においては「みんな悟っている」という感覚がないことに気が付いたのです。<br /> <br /> それよりも、スローモーションのヴィパッサナーに相応しいのは「ありのまま」という感覚です。<br /> <br /> と、いうことは、ですよ。このスローモーションのヴィパッサナー状態はゾクチェンでいうところの「むきだしの心(リクパ)」であるわけで、その状態で「みんな悟っている」という感覚がないということは、「みんな悟っている」という感覚は本来の状態ではなく錯覚であった、という仮定が成り立つわけです。<br /> <br /> 「みんな悟っている」という感覚が本来の状態であればスローモーションのヴィパッサナー状態において同様に「みんな悟っている」という感覚がある筈です。それがないということは、その感覚は上記のように覆い隠している性質による錯覚であったのではないか、と思うわけです。<br /> <br /> 「みんな悟っている」という感覚は、私にとって全ての人がいわゆる清浄な明確な明らかな意識を持っていると知覚されているわけですが、現実はそんな筈はないので、そのように認識しているのであれば錯覚なのではないかと推測できるわけですが、今まではその根拠がいまいち不明確でした。<br /> <br /> しかし、最近のスローモーションのヴィパッサナー状態で観察を続けるうちに、やはり上記のようにそれは錯覚なのではないか、という認識が育ってきました。<br /> <br /> それよりも、上記のように「ありのまま」という言葉の方が今はしっくりきます。<br /> <br /> ゾクチェンの詩に以下のようにあります。<br /> <br /> 多様な現象の本性は、不二だ。<br /> ひとつひとつの現象も、心の作り出す限界の彼方にある。<br /> あるがままのものを定義できる概念などありはしない。<br /> にもかかわらず、顕現はあらわれ続ける。すべてよし。<br /> 一切はすでに成就しているのだから、努力の病を捨て去り、<br /> あるがままで完全な境地の中にとどまること、それが三昧だ。<br /> 「ゾクチェンの教え(ナムカイノルブ 著)」<br /> <br /> であれば、「全て悟っている」という心の作り出す幻影を捨て去り、あるがままの境地である三昧(サマーディ 、ヴィパッサナー)に留まることの方が大事であることがわかります。<br /> <br /> <br /> <br /> Thu, 09 Apr 2020 00:00:00 +0900 ネイティブアメリカンでセージ(薬草を扱う医師)として生きる https://w-jp.net/2020/1893/ <br /> 私はしばらく忘れていましたけど、子供の頃に幽体離脱した時に過去生も見て、セドナ近くでネイティブアメリカンとして生まれ、セージ(薬草を扱う医師)をしていたことを思い出しました。<br /> <br /> 思い出したきっかけは、私が少し前にセドナに旅行した時のスピリチュアルなカウンセラーの一言です。特に過去生を聞いたわけでもないのですが、見てもらったら「あなたは昔、ここに住んでいたことがあります」と言われて、その一言で色々と思い出したのです。<br /> <br /> 記憶は幽体離脱後にもしばらくあったのですが、さすがに何十年も経っておりましたので忘れていました。それが、ふとした一言で思い出したのです。<br /> <br /> 私は数字として年代は大雑把にしかわからないのですが、そのカウンセラーは約270年前と言っておりましたので1720年前後かと思われます。<br /> <br /> これは、私の記憶とも被ります。おそらく1700年ごろに生まれて1720年頃はまだ若くて妻も子供もいて、おそらくは30歳前後で白人が攻めてきて銃で殺されたかと思います。妻や子供も皆殺しで、私は幽体で空から家族が白人に殺されるのを見ておりました。泣き叫んで白人が乗った馬から逃げようとした妻が行く手を阻まれて子供もろとも銃で殺されたりしました。<br /> <br /> ですから、最初にアメリカに旅行や出張で行った時はその時の記憶が出てきてしまい、白人を許す気になれなかった、ということもあります。今は落ち着いてきてそうでもありませんが、どうも、時々、私を殺した白人の顔がチラつくことがあります。<br /> <br /> 当時、私が生まれた頃の村は平和そのものでした。白人が来ることもほとんどありませんでしたが、青年になって家族を持って子供も生まれた頃、白人がぽつぽつとやってくるようになりました。<br /> <br /> 最初から攻めてきたわけではありません。最初は普通にやってきて、ことあるごとにインディアンの文化を馬鹿にして行ったのです。私は薬剤を扱うセージでしたが、白人は唯物論者でしたので、葉っぱなんか飲んで治るわけがなく、化学物質を使わないと治らない、と言ってことあるごとにインディアンの薬を馬鹿にして笑い物にして帰っていったのです。<br /> <br /> あの人たちのやり方ですが、最初は薬を無料で配るのです。そして、そのうち頼るようになったらお金や何かをごっそり持っていくようになるのです。今回の場合、トレードで財産を奪うよりは銃で丸ごと奪った方が効率的だという判断になって村ごと虐殺されたようです。<br /> <br /> まあ、それでも虐殺までは10年かもっと時間の猶予があったと思います。さすがに奥地までは一気に攻略できないでしょうし、攻めるとすれば一気に来るでしょうし、攻め始めたら警戒されるので調査の段階では奥地までそれとなく来ていたのでしょう。<br /> <br /> 薬を無料で配られた時、私はその村のセージ(医者)でしたので、古来から伝わる薬剤の代わりにその化学の薬を代わりに村人に配るようになりました。実際、よく効いたわけです。<br /> <br /> 私はよく効くと思ったのですが、特に村の老人、お婆さんやお爺さんのような年代に言わせると、昔ながらの薬の方がいい、と言っていました。私はセージ(医者)でしたので、そういうものかな、と思って、それで効果があると言っているのだから... ということで希望に沿った薬を調合していたように思います。<br /> <br /> 今、医者と言うと診断をして薬を調合して... というあたりになりますが、当時のネイティブアメリカンの医者は、もう1つありました。「祈り」です。<br /> <br /> まあ、「祈り」とは言っても随分と騒がしいもので、踊りや歌のようなマントラのような不思議なメロディを何時間も口ずさんだり太鼓のような楽器を使ったりして踊りながら患者を励ます、というものでした。<br /> <br /> 日本で想像する「祈り」というとキリスト教徒が教会でするような静かな祈りですが、この場合の祈りは念を口に乗せて口ずさんで音に出し、患者の生命エネルギーを高揚させて魂というかオーラのレベルで治療するというものでした。<br /> <br /> メロディはさすがにほとんど覚えておりませんが、雰囲気だけは覚えております。随分と騒がしくて、村中に響き渡るものでした。それを、患者の具合が良くなるまで続けるのです。手を上下に上げ下げしたり半腰になって患者のベッドの周囲を歩き回ったりして、面倒を見るこちらも汗だくになるくらい大変なことでした。<br /> <br /> 時には半日、時には1日中面倒を見て、その間、患者が苦しんでいたらそれを助けるために踊りや祈りの歌を頑張り、精神的に助けていたわけです。薬だけでも治ることもありましたが、辛い時に近くにいて心の助けになるための職業だったわけです。<br /> <br /> それで、治ったらその家族から報酬として、物々交換のお金相当のような対価をもらったのです。<br /> <br /> 踊りといえば、祭りもとても楽しいものでした。足腰がものすごく強いので、半腰になって足や腰を物凄く細かくとても長い間激しく動かし続ける踊りを村人みんなでキャンプファイヤーの周囲で行うのです。<br /> <br /> 特に子供の頃は白人も来ていなくて、とても平和で、毎日が幸せだったように思います。特に祭りの日は最高でした。<br /> <br /> そうして成人になり、セージ(医者)を職業として選び、村の医者から調合法を学び、独り立ちして、妻をめとり、子供が生まれて、そして、白人が攻めてきて村人丸ごと虐殺されたわけです。<br /> <br /> アメリカにいる白人は、おそらくは私のような記憶を持った人に長らく恨まれているのではないかと思います。私は特別に白人を恨んでいるわけではありませんが、時折、その時の記憶が出てくることがあります。<br /> <br /> そういえば、村の長老は古来から伝わる秘密を代々受け継いでおりました。<br /> <br /> 私はそれほどの年齢でもありませんでしたし、それを引き継ぐ家系に生まれた訳でもありませんでしたのでその秘密の詳細は聞いたことはなかったのですが、噂は聞いてことがあります。それは星々を渡り歩く知識だったり未来の予言だったりしたと思います。<br /> <br /> 私は恐らく、殺される運命をあらかじめ知っていながら、それで十分かな、ということで転生を決めたような気が致します。 スピリットは時代を行き来できて時間を超えられるわけですけど、その時のスピリットの視点として前の人生の終わりの頃になるのが割と多いように思います。時空を超えることもできましたけど、選択肢としては時代に沿って経験することの方が多いような気が致します。<br /> <br /> 確か、その前の人生ではヨーロッパあたりで数学者か科学者か、頭をよく使う職業を選んでいたかと思います。それ故に、頭ばかり重視する人生を続けてきたためにバランスを取り戻したいと思い、自然と共に生きるネイティブアメリカンとしての人生を選んだようです。それを選んだ時代は既にアメリカに白人が詰めかけておりましたが、そのタイミングで転生したとしてもギリギリ、ネイティブアメリカンとしての人生を生きられて自然と共に生きる生き方を学ぶことができるので、殺されることを承知で転生したようです。<br /> <br /> ですから、ある意味、殺されることも受け入れてから転生を決めたわけですが、そうして決めて受け入れて転生したとしても、実際に殺されるとかなり後味悪いもので、後に引くことになります。殺されることは、さすがに理屈ですんなりと割り切れるものではありません。<br /> <br /> まあ、それはあくまでも過去のお話で、今は基本的にそんなこと気にしないで生きているわけですが、ふとしたことでネイティブアメリカンとしての人生を思い出すことがあるわけです。<br /> <br /> 家は茅葺っぽい感じの円錐でしたが、襲撃の日、私は家の中で薬か何かの準備をしていました。<br /> <br /> ふと、周囲から騒がしい音がして悲鳴が聞こえ始め、何事かと思って家の外に出たら、村人が逃げ回っていて馬に乗った白人に次々に殺されていました。<br /> <br /> 白人たちはネイティブアメリカンを馬鹿にした顔つきと喜びの雄叫びをあげながら銃を突きつけ、抵抗する者もあったが次々に銃で殺されていき、私の周囲で地獄絵図のような虐殺が行われていました。それを茫然と私は眺めていました。<br /> <br /> 抵抗することもできましたが、あっという間に殺されている武力の差や馬による機動力の差があり、何より、この日をあらかじめ予見していたために今日が最後の日だと悟りました。<br /> <br /> 他の村人には雄叫びをあげながら追いかけていた白人が、ふと、私の目の前にとぼとぼとゆっくり馬に乗って歩いてきました。逃げもしない私を観察しにきたようだった。その白人の顔はそれなりに覚えていますが、逃げもしない奇妙なものを見る見つき... という感覚が30%ほど入った無表情で私を観察していました。逃げれば雄叫びをあげて追いかけるだろうが、逃げもしないのでどうしたものか、という感じが伝わってきました。<br /> <br /> 逃げを誘っているのはよくわかりましたので、私はこれが最後の時だと悟り、真っ直ぐに立ったまましばらくその白人の顔を見つめ、やがて、目を瞑りました。<br /> <br /> そうすると、数十秒しただろうか。急に銃声が目の前で鳴り響き、私の頭、恐らくは眉間か顔に銃が1発貫通し、そのまま倒れてお亡くなりになったのです。一撃でした。何時も経たないうちにすぐに魂というか幽体が体から抜け出し、私の体を上から見下ろし、私を殺した白人の姿も同様に見下ろしていました。<br /> <br /> 私の家族が殺され、村人も虐殺され、私を殺した白人は全てを殺した後、馬に乗って、同じような無表情で立ち尽くしていました。<br /> <br /> その後、村のあった場所に白人が入居してきました。それは勝利の人たちであり、その家族もある種の笑いというかネイティブアメリカンに勝利したという、人を踏みつける心を持った人々だった。アメリカはこうして作られていったのでしょう。その白人たちが、今、こうしてアメリカを支配しているのです。野蛮な白人。それがその時の印象でした。<br /> <br /> 楽園のようだった村は消えて無くなり、白人の街だけが残りました。それが、私の住んでいた村で起こったことでした。<br /> <br /> ・・・まあ、こういうのは、単なる夢かもしれませんし、子供の頃にどこかで見た映画を思い出しているだけかもしれません。本当かどうかはわかりません。しかし、あのリアリティはなかなか映画を見ただけで再現できるものだとは思わないのです。<br /> <br /> Wed, 08 Apr 2020 00:00:00 +0900 <link>https://w-jp.net/2020/1892/</link> <description><br /> </description> <pubDate>Tue, 07 Apr 2020 00:00:00 +0900</pubDate> </item> <item> <title/> <link>https://w-jp.net/2020/1891/</link> <description><br /> </description> <pubDate>Mon, 06 Apr 2020 00:00:00 +0900</pubDate> </item> <item> <title>神道による簡単な審神者の方法 https://w-jp.net/2020/1888/ <br /> 審神者(さにわ)とは霊感によって得られた知見が正しいかどうか判断することで、古来は古神道などで神託が正しい神によるものなのかそれとも邪霊や獣のいたずらなのか判断することです。<br /> <br /> 水を使った方法とか流派ごとに色々あるようですが、以下のような簡単な方法があるようです。<br /> <br /> 「汝と今の私に、何の関わりがあるのか」と問いかける。「神道の神秘(山蔭 基央 著)」<br /> <br /> これは山陰神道によるもので、普通の人でも簡単に見極めができるいい方法のような気が致します。<br /> <br /> 同書には更に以下のようにあります。<br /> <br /> 初期の雑念は他愛もないものだが、修行が進んでくると、まことしやかに立派な言葉が心に湧いてくる。実はそれも雑念であることがほとんどである。思いつきが、神の掲示や霊示の形で湧いてくるから始末が悪い。だから、霊示・掲示を受けたと思われる時には、それを審判(審神・さにわと言う)しなければならない。「神道の神秘(山蔭 基央 著)」<br /> <br /> 水を使った方法は遥か昔に見聞きしたものではっきりとは覚えていないのですが、波の立たない状態の水を桶のようなものに用意して、その表面を眺める、みたいなものだったような気も致します。<br /> <br /> きっと他にも色々と方法があるのではと思いますが、古神道にはそれほど詳しくありませんのでこのくらいです。<br /> <br /> スピリチュアルや魔女系ですと審神者ってあまりしない気が致しますね。魔女系の場合はちゃんと視界(というか霊視)で相手(というか霊)を見つつ話をしたり体を抜け出て幽体離脱で見極めますのでかなり正答率が高いと思いますし。<br /> <br /> Fri, 03 Apr 2020 00:00:00 +0900 料理の痛みと食べる感覚 https://w-jp.net/2020/1887/ <br /> 先日の続きです。植物を傷つけるとハートが痛むようになってしばらく経ちますが、生ものの料理をするのもなかなか厳しくなってきています。<br /> <br /> 例えば、レタスやキャベツ。何日か置いて野菜の意識がなくなったものならばいいのですが、新鮮であれば新鮮であるほど葉っぱをちぎったり包丁で切った時に「痛い! 痛い!」と野菜がその度に何度も叫び、それが私のハートに突き刺さって苦しいです。最初は大声で叫んで、そのうち失神するかのように痺れた感覚が伝わってきます。レタスよりキャベツの方が痛がる感じが致します。<br /> <br /> ですから、何日か冷蔵庫に入れておいて大人しくなってからキャベツやレタスを食べることにしています。栄養的には新鮮な方がいいのかもしれないですけどね。<br /> <br /> お肉に関しては既に死後しばらく経っているので、その点、料理の時に「痛い」と叫んで来ることはないように思います。しかし、先日のようにお肉や卵など動物性の食材は「恨み」がこもっている時があるような感じがいたします。ですので、なるべく避けております。<br /> <br /> ですから、料理をする際には新鮮な食材を避け、食べる際には動物性のものを避ける、という感じがいい気がしております。<br /> <br /> アユールベーダによると牛乳やチーズなどはあまり良くないと言うお話も聞きますけど、栄養バランス的には私はチーズをよく取っています。チーズは「痛い!」と叫んだりしませんからね。美味しく頂けます。<br /> <br /> 野菜にしても、ものによって叫んだり叫ばなかったり。お芋系は大人しい感じが致します。お米も問題ないですね。小麦も平気な感じです。<br /> <br /> 自然野菜の信奉者やベジタリアンの人は野菜の選び方で新鮮なものを選んだりしますけど、私は上記のような理由で新鮮な野菜はものによっては苦手です。食べる方は平気ですけど。<br /> <br /> 新鮮な野菜で誰かに料理を作ってもらって自分は食べるだけ、と言うのがいいのかもしれません。<br /> <br /> 料理で自然食を推す人がいますけど、これは物質とオーラを別に考えるべきで、物質的には自然食は色々と混ざっていてバイ菌が増殖しやすいので食材の管理や調理に気を付けなくてはならず、実は物質的には工場で作られた食材の方が安全で栄養価が高かったりします。<br /> <br /> しかし、実際のところ食べ物で取り入れているのはオーラの方が重要で、食べ物に備わっているオーラの量で見たら自然食の方が遥かに多いです。ですので、食材としては危険であっても自然食のオーラの方が好ましいことが多いです。<br /> <br /> 自然食の方が人間の手が一つづつ作っていますので、作っている人間のオーラが食材に乗ります。冷凍食品であってもフライパン等で温めるだけで美味しさが違うのは料理人のオーラが冷凍食品の中に宿るからです。<br /> <br /> 安全と栄養価を考えるならば工場の食品ですが、オーラ的には手作り料理になるわけです。<br /> <br /> 人間は意外に丈夫ですので、新鮮な自然食品が入手できて調理にも手間をかけられるのであればそうすれば良くて、ですが、料理をする際に上記のように食材が痛がりますのでそれにも本当は気をつけるべきだと思います。<br /> <br /> 肉食はかわいそうだからベジタリアンだと言う人もいて、基本的には同意しますけどベジタリアンにしても食材が痛がるのですからある程度は一緒だと私なんかは思います。それは程度問題でもあって、どちらにせよ人間は何かを食べないと生きられないのですから食べるならなるべく植物の方がいいと思います。<br /> <br /> これを人間が生きる上で必ず犯す罪のようなものだと解釈したこともありますし、それがいわゆる「原罪」のようなものだと言うような解釈もできるのかもしれませんけど、植物の中には人間に食べられても気にしないものも多い感じなので、まあ、いいのかな、と最近は一応解釈しております。この辺りはまだ謎が多いですけどね。結局は食物連鎖の理屈は正しいのかなと思ったりもしますが。今後、まだまだ様子見のところです。<br /> <br /> Thu, 02 Apr 2020 00:00:00 +0900 聖なる器としての体 https://w-jp.net/2020/1885/ <br /> 先日の続きです。<br /> <br /> 体も同じこと。体を浄化してゆくとそれは聖なる器となり、神... というかスピリット、自らの高次の自分、自らのグループソウル、言い方は多様だが同じことで、そのようなものを受け入れる器になることができる。<br /> <br /> 私の内なるガイドによりますと精神修行の基本はここにあって、高次のスピリットを受け入れることができる器になるまでが第一段階とも言えるようです。<br /> <br /> その次がスピリットとしての人生を開花させる段階であるようです。<br /> <br /> いわば、器としての自分を育てるまでが低次の自分であり、それはヨーガなどの階梯に合わせるとサマーディ段階まで。サマーディの後にアートマンとの合一とか呼ばれている段階がありますが、これは言い方を変えると神が器に宿る段階とのことです。<br /> <br /> ヨーガの定義には以下のようにあります。<br /> <br /> 1.3) 心の作用が死滅されてしまった時には、純粋観察者である真我は自己本来の状態にとどまることになる。「ヨーガ根本経典(佐保田 鶴治著)」<br /> <br /> この後半部分は多様に解釈できますが、神智学系の書物には以下のようにあります。<br /> <br /> 内なる神の認識に目覚める。(中略)魂との合一。「魂の光(アリス・ベイリー 著)」<br /> <br /> これは、文字通りそういうことなのかなと思います。<br /> <br /> 魂は最初からあるが覆い隠されていて、この段階になることで合一... と言いますか魂の意識、内なる神の認識に目覚めると言うことかなと思います。<br /> <br /> まず最初に自らの器を作り、それから神の認識に目覚めるのだと解釈できます。<br /> <br /> Tue, 31 Mar 2020 00:00:00 +0900 <link>https://w-jp.net/2020/1884/</link> <description><br /> </description> <pubDate>Mon, 30 Mar 2020 00:00:00 +0900</pubDate> </item> <item> <title>場をパワースポットに育てる https://w-jp.net/2020/1883/ <br /> 最近はパワースポット巡りが流行っているわけですけれども、それは精神的なものへの入り口として機能してはいますが、その先に、場を育てるというステージがあるわけです。<br /> <br /> パワースポット巡りというのは消費の文化で、場所に溜まっているエネルギーを分けていただくということです。そこに竜神や神様が座っていらっしゃって、そのエネルギーを感じたり場所の清浄な空気を感じにいくことです。<br /> <br /> パワースポット巡りは古くからは巡礼であり、祈りの気持ちを込めて行うものですが、最近は観光やスポーツ的になっているような気も致します。観光やスポーツで巡礼をする人が増えるほど神様や竜神が機嫌を損ね、そこに神様や竜神がいなくなってしまうとパワースポットではなくなってしまいます。<br /> <br /> 最初の最初は観光やスポーツ的でも構わない、と神様はおっしゃいます。しかし、来る人の割合が問題とのことです。少しの人が観光やスポーツ的で巡礼をしたところで、大多数が祈りの気持ちを持っていれば問題ない、ということです。そのくらい、神様は大目に見て下さいます。そのくらいの細かなことは神様は気にしません。ただ、割合が重要です。あまりにも観光やスポーツ的な人が増えると神様は不機嫌になります。不機嫌が過ぎると、そこから離れてしまいます。<br /> <br /> そもそも、最初に神様や竜神様はいらっしゃらなくて、最初は祈りだけがありました。<br /> <br /> その祈りが場を清浄にし、その範囲が広がることで神様や竜神様がいらっしゃることのできる土台が出来上がりました。そうして出来上がった場に、神様や竜神様が降りてきていただけたわけです。<br /> <br /> その土台である祈りをないがしろにしてパワースポット巡りと称してエネルギーを奪うような気持ち・・・ 本人はそうは思ってらっしゃらないかもしれませんが、祈りなくしてご利益だけを求めるような気持ちで参拝する人が増えれば増えるほど場は乱れてゆきます。そうするうちに清浄な空気はなくなり、神様や竜神様は何処かへ行ってしまわれるのです。<br /> <br /> このようなことはどうやら日本の各地で起こっているようで、登山禁止の巡礼の山にスポーツの登山で登る人が増えたことにより神様が怒って何処かへ行ってしまわれた、というような噂も耳にします。きっと本当のことなのでしょう。<br /> <br /> 逆に、自分の家やなんてことのない神社や仏閣であっても祈りの気持ちを込めて場を清浄にすれば神様は降りてきていただけるのです。<br /> <br /> それは建物の素晴らしさとはあまり関係がなく、清潔さというものは必要ですが、基本的には場の雰囲気、清浄な空気というものが神様が降りてきてくださる前提条件になります。<br /> <br /> 自分の家であるとか、精神的な鍛錬の会場は祈りを込めた人々が清浄にするにつれてどんどんとエネルギーが高まってゆきます。そうして神様が降りてきて頂けるようになるわけです。場を育てて、エネルギースポットに変えるわけです。<br /> <br /> 古来からの有名なパワースポットは現代のパワースポット巡りで想念の「ゴミ捨て場」になっているところが多くあります。そこで祈りを込める人が少なくなったからです。一方で、ゴミを捨てる人より祈る人の方が多い場所、それはエネルギースポットに変わってゆきます。<br /> <br /> 基本は自宅で、自宅がパワースポットになり、精神的な鍛錬な会場もパワースポットになります。<br /> <br /> それが基本で、パワースポットのエネルギーの高さを求めて彷徨うことは、上記のように現代はパワースポットが想念のゴミ捨て場になっているがためにあまりお勧めできない、と私の内なるガイドは示唆します。それでも、道を求めてパワースポットを巡ることは有益なのではないかと私は思ったりもするのですが、そこは、好きにすればいい、というのが内なるガイドの指示です。あまりパワースポットに行き過ぎずに、たまに導かれてゆくのは良いということなのかな、と理解しております。<br /> <br /> Sun, 29 Mar 2020 00:00:00 +0900 経済活動とエネルギー https://w-jp.net/2020/1881/ <br /> 昨今はデフレ商売が大人気で、安い単価を回転数上げて販売することで利益を出すという経営手法が盛り上がっているようです。例えば床屋が従来は散髪2,000円のところを短い時間にして1,000円にして回転数を上げたり、レストランやバーを立食にすることで回転率を上げようとしています。<br /> <br /> 経済のことは経済学者が好きに論じればいいとは思いますが、私の興味があるのはエネルギー的な部分です。<br /> <br /> もともと美容師が1時間をかけて1人散髪して客が来なければ暇をしていた状況と、客が途絶えずに1時間に3人も4人も扱う状況ではエネルギー的には前者の方が消費が少ないです。<br /> <br /> 長い時間をかければ体力は使うにしても、体に宿っているエネルギーは平準するまで高い方から低い方に流れますから、1人散髪するとエネルギーがザーっと片方から片方に流れて平準します。1時間をかけて1人散髪するのであれば1時間に1回ですみますが、1時間に3人も4人も散髪する場合、エネルギーの移動が1時間に3回も4回も起こるわけです。<br /> <br /> ましてや、そのような安いお店に来るお客は、言ってはなんですが客層も悪いですのでエネルギーも割合に低いことが多く、美容師のエネルギーはどんどんと吸い取られてゆきます。<br /> <br /> 美容師のエネルギーが下がっている時にそのような散髪屋に行くと、お客の方がエネルギーが高いということにもなりますから美容師にエネルギーを吸い取られます。デフレ商売のお店に行くことは、安いように見えて実はエネルギーも提供していることになりますから、いわば、エネルギーをお金の変わりに支払っていることにもなります。<br /> <br /> 散髪屋だけでなく、コンビニや雑貨店にしても同じことです。マッサージ屋などは人に触れますので同様のエネルギー移動が起きやすいです。人に触れなくても接客して近くに行くだけでエネルギーの移動は短時間であっても起こりますし、散髪やマッサージのように体の部分が接触する場合はかなりのエネルギー的な平準が起こります。<br /> <br /> エネルギーで分かりにくければ、時間と考えても良いです。長時間労働でいくら稼いでも、時間というのは万人に共通で増やすことができませんから、お金よりも実は時間の方が価値があるのです。その、最も価値の高い時間を提供してわずかながらのお金を手に入れるということが価値ある行動でしょうか。<br /> <br /> 経済の理屈だけ言って回転数を上げると儲かる、というのは、従業員を犠牲にして成り立っているわけです。<br /> <br /> であれば、デフレ商売というのは従業員を犠牲にして成り立つ商売である、という視点がエネルギー的には成り立ちます。お金的にはそれなりの報酬が与えられているのかもしれませんが、それはバランスというもので、エネルギーよりも報酬の方が良いというのであればそうすればいいと思います。しかし、デフレ商売で客単価が低ければ賃金もそれなりなことが多いのではないでしょうか。<br /> <br /> デフレ商売がそういう構造であれば、デフレ商売的には時間をなるべく長く働いてもらった方が会社は儲かりますし、従業員は賃金はぼちぼち増えますが、従業員のエネルギーは吸い取られて行って枯渇します。<br /> <br /> デフレ商売のお店の従業員が疲れた表情をしていることが多い気が私はするのですが、きっとこのようなことであろうと思っています。<br /> <br /> 従業員のエネルギーを吸い取るのであれば、それは次々に「安い」「若者」を注ぎ込む必要がありますので、人口が増えている時代の商売方法、あるいは、ある程度蓄えのある中年を使い捨てにする商法であるように思えます。少なくともエネルギー的な観点からはそう思えます。<br /> <br /> 私は経済学者ではありませんが、エネルギー的な観点から良いと思われる商売方法の基本は以下です。<br /> <br /> ・お金の仕組みはそのまま。<br /> ・お金の位置付けを、今の「権利」から「歯止め」に変える。<br /> ・お金を、贅沢に歯止めをかけるためのものにする。<br /> ・お金を稼ぎたい人の自由は今まで通り守る。<br /> ・贅沢をしたい人の権利は守る。<br /> ・基本的な生活は安価にする。<br /> <br /> これだけで、労働時間は短くなり、おそらくは6時間労働で済むのではないでしょうか。<br /> <br /> 更には、理想的には以下のような仕組みも取り入れたらいいかと思います。<br /> <br /> ・年間百万円くらいはベーシックインカムにて与える。<br /> ・週の決まった時間にボランティア無償活動で地域の共同作業を行う。<br /> ・現在の公共事業をある程度はこのボランティア無償活動に置き換える。<br /> <br /> このくらいまで行ければ、生活がガラリと変わると思います。<br /> <br /> 今、日本で資本主義に対してどうこう言っている人の中には人々の価値観に訴えかけている人が多すぎると思います。例えば、お金を稼ぐことに対する価値観や、お金を稼がないことに対する価値観、自由な時間を費やすことに対する価値観をベースにしていてはいつまで経ってもシステムの同意を得られることはないと思います。<br /> <br /> 例えば、苦しい生活の感情に訴えてあまり働かなくても良い世界の価値観を訴えたとしても、それは働くことで裕福になってきた価値観を持つ人の心には響かないわけです。<br /> <br /> システムとしては、価値観に訴えるものではなく、多くの選択肢を生み出すことができるものである必要があります。<br /> <br /> であれば、現在のように挑戦をしたい人はいくらでも挑戦できて、お金を稼いで贅沢をしたい人はいくらでも贅沢ができるが、お金とは別のところで幸せを追求したい人に対しても選択肢を与える世界こそが豊かな世界であると思うのです。<br /> <br /> そのために、例えば上記のようなちょっとした価値観の転換をするだけでこの世界は随分と幸せで豊かになると思います。<br /> <br /> エネルギー的な転換は、現在ヒエラルキーの頂点に立って搾取している人にとっては苦痛かもしれませんが、どちらにせよ、死んでしまえば次の転生がどのような経済状況かなんてわからないのですから全員がそれなりに幸せに暮らせる人生にしておくことこそが回り回って自分の幸せに繋がると思います。以前にも書きましたが、あまりにも恨まれている場合は次の転生で裕福な家庭の赤ちゃんとして魂が入った後にですら無理やりひっぺがしてインドとかのスラム街の赤ちゃんの中に魂を放り込まれる、なんてこともありますから、あまりヒエラルキーの頂点で恨まれるような人生を歩まない方がいいと思います。あの世には時間とかあんま関係ないですから瞑想状態あるいは幽体離脱というかスピリットがその気になれば時空を超えてすぐにでも来世のこういう操作ができてしまいますから、まあ、恨みを買うようなことはしない方がいいと思います。<br /> <br /> まずは、現在の支配者層による意識の転換が必要ですね。国民にお金を渡したら働いてくれなくなってしまうのではないかという心配は実のところあまり必要なくて、年間百万円くらいでしたら欲望を満たすことができませんので欲望のある人は働き続ける筈ですし、家庭があって子供でもいたら絶対足りませんし、あくまでも社会のベースとしてのベーシックインカムであるわけです。その分、無償のボランティア活動をしなくてはならない社会に遷移することで実際の労働人口は増えるかもしれません。今現在に働いていない人もボランティアとして駆り出されるわけですからね。そのように、実体経済とは違うところで緩い労働をしてもらっても十分現在の世の中は回ると思います。それほど物が足りない時代でもありませんし、ある程度の労働さえすれば世の中は普通に回ります。意外に平気なものです。慣性で長時間労働していただけで、意外にそんな働く必要がなかったのだと気付きさえすればいいだけだとも言えます。<br /> <br /> 激しく働きたい人の権利さえ侵害しなければ十分に自由を満喫できる世界へと移行できる筈です。<br /> <br /> コロナなんていいきっかけで、なし崩し的にベーシックインカムの月10万円支給の世界へと突入してしまえば時代は一気に変わります。<br /> <br /> 日本よりアメリカが先にやってしまうかもしれないですね。<br /> <br /> Fri, 27 Mar 2020 00:00:00 +0900 ミケランジェロで生まれた記憶 https://w-jp.net/2020/1880/ <br /> 1年ほど前に、割と当たる系のスピリチュアル・カウンセラーに見てもらったときにふと過去生のことを聞いたらそのうちの1人がミケランジェロだと言われました。<br /> <br /> 実際のところ、私が子供の頃に幽体離脱した時にいくつかの過去生を見ましたがミケランジェロには気付いておりませんでしたので、これが本当のことかどうかはわかりません。基本的にスピリチュアルなカウンセラーはコンサルと一緒で、自分がまだ意識していない分野を「指摘」してもらうか、あるいは「確かめ」に使うものだと思っておりますので、この場合は前者になります。ですから、スピリチュアル・カウンセラーに言われたからと言ってホイホイ軽く喜んで過去生がミケランジェロだとは思ったりしません。そういう信じる行為ってあまり意味ありませんから。<br /> <br /> ちなみに、今の私は芸術とかやりません。興味はありますがセンスがないと自分では思っております。絵は下手ですし音楽のセンスもイマイチな感じです。<br /> <br /> 過去生、と言われてはいますが、これはグループソウルの中にそのような人生があった、と読み替えて理解しました。魂(幽体)がそのまま転生する場合と、一旦グループソウル(類魂)と一体になってから分霊を作って転生する場合がありますので。<br /> <br /> そのように言われた時、私のグループソウルの中にミケランジェロがいるかどうか自分では把握しておりませんでしたので、ふとした時に探ってみました。<br /> <br /> すると、自分のグループソウルかどうかはわかりませんが、なんとなくその時のミケランジェロの気持ちのようなものがトレースできてきました。<br /> <br /> まあ、確かに、性格とか気難しいところか、私のグループソウルに似ている部分がなくもないです。ですが、そのような性質はどこにでも見られるといえば見られますからね。それだけでグループソウルだとは判断できないです。<br /> <br /> 記憶を辿ると、いくつか出てはきます。<br /> <br /> 例えば、貴族でしたので荘園を持っていて、連絡してから行くと綺麗にしてあるのに何処かに寄った帰りにふと立ち寄ると荒れていて管理人を叱り付けたこととか。それを何度か繰り返したら管理人も小作人もしっかり作業するようになったとか。どうやら急にアポイントなしで行くのが重要だったようです。<br /> <br /> 元々ね、よその農園ではどんどんと農地の面積を増やしていて生産量を増やしていたりしまして、ミケランジェロの農園でも増やそうということになって増やしていたんですよね。でも、それはミランジェロが望んだというわけでではなくて農園の管理者から増やしますからと言われたので「わかった」と答えただけのことです。そうして増やしていったわけですけど、管理が行き届かなくなってしまったわけですね。<br /> <br /> 管理者からは、このくらい荒れていても作物は増やします、ということを言われたわけですけれどもミケランジェロは納得しなくて、自分は芸術家だから、生産量よりも農地が美しいことの方が重要で、晴れている日はしっかりと見回りをして綺麗にするように、そして、もしそれが大変だというのならば作物の面積を減らしても良いと伝えました。そもそも、管理者が増やすと言ったから許可しただけで、自分は農地を増やしてくれとは言っていない、今の収穫量でも十分足りている、と伝えて、そのようにさせました。<br /> <br /> その後、かなり綺麗になってミケランジェロも満足したようです。<br /> <br /> 農地で作物がうまく育たなかった年は出荷を減らしても良いかどうか聞かれたりして、その度に行って様子を見ていたりしましたね。晩年になると割と管理者に任せっきりになっていた気がしますが、若い頃はよく見に行っていた気が致します。<br /> <br /> それとか、有名なピエタ像を作った時は未来を透視しながら彫ったこととか。ミケランジェロ的には、大理石とその未来の姿をトレースしつつ良いデザインになるべく彫っていったようです。未来を見るのは確認のためで、基本的には頭の中で映像をイメージしつつ構図を決めていました。<br /> <br /> そのような作成スタイルでしたから、弟子の希望があったとしても同様に頭の中で映像をイメージできないような弟子希望に対してはなす術がなかったようです。頭の中でイメージしろ、と言っても弟子の中にはそもそもそれができない人も大勢いた... と言いますかその大多数がそうだったわけで、頭の中でイメージして構図を決めるミケランジェロのスタイルについていけなかったようです。<br /> <br /> サン・ピエトロ大聖堂の広場か何かを作った時も頭の中でイメージを先に作ってスケッチしたので理想的な設計にするのも容易だったようです。芸術家は頭の中でのイメージが先に必要のようですね。<br /> <br /> 女性関係はあまり噂がなかったミケランジェロでしたが、基本的に芸術が興味の本筋でしたのでそれに集中していた感じです。後年に付き合いのあった未亡人に関しては、気高さと礼儀正しさそして美しさに惹かれたようです。<br /> <br /> まあ、記憶を辿れることとグループソウルかどうかは別のお話で、私のグループソウルとの関係は結局は今のところ分からずじまいです。なんとなくそんな気もしないでもないですけど、そのくらいです。<br /> <br /> 昔バチカンに旅行した時にピエタ像は見ましたし、ダビデ像も見て素晴らしいと思いましたが自分のグループソウルの記憶はその時は出てこなかったような気が致します。<br /> <br /> まあ、必要があれば思い出すでしょうし、特に思い出さなくても問題ないお話でもあります。<br /> <br /> <br /> ・・・その数日後、ふと思い出しました。というか、伝わってきました。<br /> <br /> ミケランジェロがピエタ像を制作している時、同人が生まれる前に人生を計画して... と言いますか、グループソウルというかツインソウルに近い魂の片割れが手助け... というかほとんど自分自身の魂というかスピリットというか霊人ではありますので手助けというか高次の自分、いわゆるハイヤーセルフと言いますか、ミドルセルフと言いますか、そのような高い視点を持ったスピリットが共同作業していたようです。<br /> <br /> ミケランジェロがピエタ像を制作する際、スピリットがあらかじめ青写真を描いていました。それは理想的な女性とイエスの姿だったわけですが、その青写真をミケランジェロに伝え、その上で、大理石のどの部分を使えば理想的な模様になるのかスピリットが細かく確認しつつ、スピリットも未来と現在を行き来して... と言いますか未来を確認しつつインスピレーションをミケランジェロに送っていたようです。ですから、ミケランジェロが未来を見れたというよりはこの場合はスピリットの方が未来を見てミケランジェロに伝えていた、という構造のようです。<br /> <br /> スピリットはかなりピエタ像に入れ込んでおり、かなり苦労して構図を作って細かく確認してミケランジェロに何度も何度も伝えて... ということをしていたようです。エネルギー的にはかなりのものが必要であり、どうやら、ピエタ像それ自身に自分が入りたい、という意識も多少はあったようです。ですからいまピエタ像を見てもまるで生きているかのような気がするのは、実際、そこにスピリットが入り込んでいるからだと思います。この、入り込んでいるスピリットはミケランジェロのグループソウルのスピリットと、それに類した、共感をしたスピリットのようです。ただ、この試みはある程度は成功しましたが、あまりにも多くの人に見られたが故に他の人のスピリットも入り込んだり、あるいは、意識が他の人に多少抜かれたりして、スピリットにとってはあまり快適な結果になっていないようです。<br /> <br /> ですからピエタ像は特別で、その後もスピリットは手助けをしましたが、スピリットにも興味の方向はありまして、手助けをするのは相当なエネルギーを必要としますので次のピエタ像ですとかスピリットがそれほど興味の持てない作品の場合はそこそこの手助けあるいはミケランジェロ自身が頑張って作る、というような場合もあったようです。<br /> <br /> ミケランジェロと織田信長は生存期間が被っておりますがおそらく織田信長の後にミケランジェロとして時空を超えて被って転生しており、どちらもグループソウルの一部だとすると、ミケランジェロが教皇に対して時には反抗的な態度を取っていたことも理解できます。時代的には後にはなりますがもしかしたら... 確証はないですけど織田信長本人は本能寺の変を逃れてバチカンに行ったような気もしておりまして、その時に教皇が意外に金で動く人ということを知って、ある意味、幻滅もしつつ本性を知っていた可能性もあります。上の位をもらうためにはかなりの財産を寄付する必要があったようで、織田信長が持ち込んだ財産をどんどん教皇が寄付という形で奪ってゆきました。そうは言っても教会ですから純粋に神を求めている人もいて、そのようなところで織田信長は感化されたようです。今まで織田信長は、自分の命令には必ず従うという人をあごで使ってきたわけですが、人望という面で、もっと学ぶものがあるという認識が生まれた頃に寿命を迎えたようです。織田信長の教皇に対する評価は「金の亡者」で、寿命で死んだ時に「財産のほとんどを取られた」と言って憤っていたように思います。そんなグループソウルが、魂の世界では時空を超えておりますからグループソウルに合流して、ミケランジェロの魂に教皇に対する印象を与えていたようです。だからミケランジェロは教皇に対してどこか反抗的な部分があった。<br /> <br /> 一般的な輪廻転生の考え方ですと生存期間が被っているだけであり得ないことになってしまいますが、あの世は時空を超えておりますので、もしやり直しのレッスンが必要であれば同じ時代に遡って再度生まれることも普通にありますし、時代を遡ることもあります。ですので、この場合は順番としては織田信長が先で、時代は遡りますがミケランジェロが後だったような感じも致します。<br /> <br /> ....まあ、このあたり、確証はないです。もっと検証が必要なところです。<br /> <br /> 順番としてはその前後にヴェネチアあたりで大司教もしていたような気も致しますので、何気に色々とキリスト教とは関わりが深い感じです。今はキリスト教徒ではないですが。<br /> <br /> <br /> ■ピエタ像に宿った魂 [2020/4/7 追記]<br /> <br /> ミケランジェロがピエタ像を作った時、もちろん肉体としては人間として生まれているわけですが、背後にいるスピリットの意図としては、そういう像を作ってその中でしばらく休憩したい、という気持ちがあったようです。<br /> <br /> 作成後、実際にスピリットが像に宿りました。しかし、あまりにも周囲が騒がしいのでゆっくりと休むことができず、結果としてはそこから出ることにしたようです。ですが、一部はまだ残ることを選んで、未だに魂がピエタ像に宿っているようです。<br /> <br /> 本当かどうかはわかりませんがミケランジェロのグループソウルに織田信長もいて、争いで疲れてバチカンで余生を過ごそうと思ったのに教皇が金の亡者で失望し、ミケランジェロにしても教皇の度重なる無茶な要求に疲れており、スピリットは時空を超えておりますので時系列としては前後するのですが、ミケランジェロに像を作らせて、ミケランジェロ自身の余生... と言いますか、時系列で並べると死後にスピリットが像に入る、というようにも見えるのですがスピリットは時空を超えておりますのでミケランジェロが像を作りながらそのスピリットがインスピレーションを与えて像を作らせてその中に死後の、と言いますか、時空を超えて同時代に存在している... という言い方も本当は違ってスピリットは時空を超えて普遍的に存在しているのですが、そのスピリットがミケランジェロのピエタ像の制作に関わって、その中に入って休もうとしたようなのです。<br /> <br /> 実際に入ったのは、色々とあって疲れておりましたので、休みたかった、ということのようです。ゆっくり休むための場所として、彫刻の中であればゆっくりと休めるのではないか、と思ったようです。<br /> <br /> 実際、ある程度は休めたものの、それだけで悟りを得られるほどの安らぎは得られなかったようです。数十年、あるいはもっと短かったでしょうか。一部は数百年のような気も致しますが、少しずつそこから抜け出て、一部はグループソウルに合流したり、あるいは別の転生をしているようです。<br /> <br /> どうやら、まだ一部のスピリットはピエタ像に残って眠っており、それはある種の謎というか鍵を握っているとのことです。いま、ピエタ像はバチカンにあるようですが、そのミケランジェロのピエタ像に約500年の間眠り続けているスピリットが、今後、動く可能性があるとのことです。<br /> <br /> 動くとするならば、ミケランジェロや織田信長、あるいはジャンヌダルクなどの系統を継いだ魂として何か使命を帯びる可能性がありそうです。<br /> <br /> Thu, 26 Mar 2020 00:00:00 +0900 秘術を用いてクンダリーニを開花させない方が良い https://w-jp.net/2020/1877/ <br /> クンダリーニとは自然に動き出すものですから、秘術を用いて無理に動かそうとしない方が良いと思います。そうして無理に動かすからクンダリーニ症候群になったりもするわけです。<br /> <br /> 私も以前はクンダリーニのことが謎で色々と調べもしましたし、簡単なものは少し試したりもしました。しかし、あまり深入りしないでいて良かったと思っております。<br /> <br /> ヨガにしても私がやっているのはごくごく初歩の呼吸法(プラナヤーマ)と簡単なアサナ(体操)くらいですし、いわゆる上級の呼吸法(プラナヤーマ)はあまり興味がありませんし、そもそも私は鼻の通りが悪い上に最近はクンバカが苦手ですので上級なんてとても無理です。クンバカの持続時間には計算式があって、特にクンダリーニ覚醒後はエネルギーが高まりましたので「器」が足りなくなってクンバカがすぐに苦しくなってしまいます。30秒持てば良い方です。クンダリーニ覚醒前は1分数十秒はいけたと思います。もともとクンバカ苦手でしたけど、クンダリーニ覚醒後は全然長く保てません。<br /> <br /> 私がやっていることはせいぜいそんな簡単なプラナヤーマ(呼吸法)とアサナ(体操)くらいです。ですから、秘術というほどでもありませんが、それでも十分だと言えます。<br /> <br /> それは、そもそもクンダリーニの覚醒には秘術は必要ない、ということが理解できたからです。<br /> <br /> クンダリーニの覚醒方法には2種類あると思います。<br /> <br /> ・秘術を用いる。ヨーガや魔術などスピリチュアルな手法。<br /> ・浄化する<br /> <br /> 前者の手法は、浄化せずともクンダリーニ覚醒しますが、制御が難しくなってクンダリーニ症候群になったりします。<br /> 後者であれば自然にクンダリーニが活性化します。<br /> <br /> そもそも、順番として2つの潮流があると思います。<br /> <br /> ・クンダリーニを活性化させてから浄化する。<br /> ・浄化してから(自然に)クンダリーニ活性化させる。<br /> <br /> ヨーガや魔術、スピリチュアルで盛んに行われているのは前者の方で、まずクンダリーニを活性化しようと秘術を用います。<br /> <br /> しかし、私の理解したところによりますと、浄化をすればクンダリーニは自然に動き出すのです。<br /> <br /> クンダリーニという特別なエネルギーがあるわけではなく、体の中のエネルギーが高まる時に感じるものを俗にクンダリーニと呼んでいるだけのことです。<br /> <br /> ですから、最初からエネルギーが高まっている人はクンダリーニ経験が起こらないわけです。<br /> <br /> 思いますに、エネルギーが元々低い人や浄化されていない人がクンダリーニ経験をするように感じられます。最初からかなりの浄化された状態でいる人はクンダリーニ経験が起こらない、というのが私の理解です。私の周囲にも、いつまで経ってもクンダリーニ経験起こらないと言っている人がいて、実のところは既に子供の頃からかなり浄化済の人でしたのでエネルギーが高まっており、いわゆるクンダリーニ経験後とさほど変わらないエネルギーをお持ちのお方もいらっしゃいます。ですから、クンダリーニ経験にこだわる必要は全くないのだと思います。<br /> <br /> 男の場合は概してエネルギーが低いのでクンダリーニ経験を経ることが多いように思います。一方、女性は最初からエネルギーが高まっている場合が多いような気が致します。<br /> <br /> クンダリーニ経験のことが話題になるのは男性のことが多いというのも、このあたりの事情があるのかもしれません。ヨーガはそもそも男性のものであったわけで、それはこのような事情で男性がエネルギーを高めるための手法として生み出されてきた、という歴史的背景もあるのではないかと推測致します。そう考えるのが筋が通っています。<br /> <br /> 最近ではヨーガのグルであっても浄化を重視している人も増えてきたようですが、インドでは秘術を重視してクンダリーニ活性化させている方が大勢いらっしゃる感じが致します。私がインドのリシケシで通ったスクールのグルもそんな感じでしたね。<br /> <br /> 男のヨーガのグルがどこか浄化されていない部分を残しながらもクンダリーニが活性化して能力(シッディ)が現れたりしている状況を見て、私はどこか疑問に思っていました。それが、最近はふに落ちるようになりました。上記のように、秘法を用いてクンダリーニを活性化することはできますので、それ故に、ヨーガのグルが浄化し切ることなしにクンダリーニを動かすことができるのだと思います。<br /> <br /> それを良しとするのか、本流ではないと見なすのか、それは各人の判断によると思います。私の場合は、浄化こそが重要と思いますので秘法を用いてクンダリーニ活性化することにあまり興味はありません。<br /> <br /> 秘術を用いてクンダリーニを開花させない方が良いというのは私の意見であって、秘術を用いたいのならば自分の好きにすれば良いと思っています。ですから、他人にどうこうすべきというつもりはありませんが、私は、クンダリーニより浄化が先だと思っておりますし、浄化せずにクンダリーニ覚醒させるから取り返しのつかない問題が起きるのだと思っています。<br /> <br /> インドのとあるグルの物語でも浄化を重視して、秘法に頼ってはいませんでした。これが正しい姿なのだと思います。<br /> <br /> 基本はそうなのですが、クンダリーニを動かす秘術は避けるべきであっても、エネルギーのルート、ヨーガでいうナディの浄化の行法は有用だと思います。ですから、ヨーガの全てが悪いわけではなく、魔術の全てが悪いわけでもなく、スピリチュアルの全てが悪いわけではありません。まあ、当然ではありますが。<br /> <br /> ナディの浄化に相当する行法は行うとすれば、瞑想もそうですし、呼吸法のプラナヤーマや体操のアサナにしても浄化が目的であれば十分に役に立ちます。危ないのはクンダリーニを無理に動かそうとすぐ秘術であり、例えばヨーガのバストリカ呼吸法や一部の魔術の手法になります。<br /> <br /> まあ、そうは言いましても、止めてもやる人はやるでしょうし、別にそれを止める義理もないですし、もしかしたらうまく行くかもしれませんし、そういうのは個人が好きにすればいいのだと思っています。<br /> <br /> Mon, 23 Mar 2020 00:00:00 +0900 インドのとあるグルの物語 https://w-jp.net/2020/1876/ <br /> 私のグループソウル(類魂)の中にかつてインドでヨーガのグルをしていた魂がいます。私の一部でもあるので私の過去生と言えなくもないですが今の私が受け継いでいるのはせいぜい5%から多くて10%くらいかなという気も致します。<br /> <br /> その人生の前はヨーロッパの方でいわゆる魔女をしており、当時のヨーロッパでは魔女狩りなどにもあったりして苦労した魂もあったのですが、分岐としては、魔女狩りに合う前に分霊になって分かれて行った方の魂がインドでグルをしたようです。その後、一部の分霊はヨーロッパで魔女狩りにあったりナチスに囚われて透視させられたりもしておりましたが、グルをしていた方の魂は割と平穏に暮らしたようです。<br /> <br /> それまではヨーガのグルなどをしたことはなく、初めての人生でしたがモチベーションとしては2つあったと思います。1つは、より上位のハイヤーセルフから人類の成長のためにグルをしなさいという掲示がまずあって、それを魂が受けて、たまにはヨーガのグルも面白そうだ、という顕在意識で判断してグルをする転生を選んだようです。このように、上位からの指示がインスピレーションとしてあって、それを元に顕在意識で判断するというのは生きている人間においてもありますが、魂においてもそれは同様のようです。<br /> <br /> そうしてヨーガのグルをすることにしたのですが、それまではヨーガのグルをしておりませんでしたので、基本はヨーロッパの方で生活していた魔女の考え方が基本にありました。よって、ヨーガのグルとは言っても伝統的なハタヨガのように体術・ポーズ(アサナ)は重視せず、瞑想とチャンティングの詠唱で浄化することを基本にしていたようです。<br /> <br /> 場所はインドの中北部、バナラシからそれほど遠くはなかったような気もしますし、ビハール州だった可能性もありますけど転生する場所を探すときに空中から見た鳥瞰図ですと、おそらくはバナラシから南西方向に数百キロ、ナーグプルまでは行かない範囲のどこかだったような気も致します。<br /> <br /> 既にグルがいるところは伝統的なハタヨガを重視している傾向がありますので避け、既に廃れている寺院がある町を選びました。その寺院を拠点にしようとしたのです。あらかじめタイムラインを先まで確認してその寺院を自分の寿命が尽きるまで使えることを確認し、近くのそこそこ裕福な家庭を選んで転生しました。<br /> <br /> 最初からそのような目的がありましたので、子供の頃からその寺院には足しげく通い、掃除をしたり瞑想したりして自分が管理している場所であるという印象を周囲の人にアピールしました。もちろん誰のものでもなくて廃墟の寺院ですけど、段々と、そのような共通認識が出来上がっていったのです。<br /> <br /> そうして成人になる日に、家長に対して「出家をしたいのです」と伝え、家長もおそらくそうだろうとは思っていたのでしょう。ちょっと答えに詰まりましたが、すぐに「わかった。良いよ」と答えてくれて、出家しました。<br /> <br /> いきなり寺院のグルになることは流れとして適切ではなかったため、近くのアシュラムに修行に行くことにしました。たしか、著名なヨーギの元で2年修行し、その後、また違う著名なヨーギの元で3年前後修行し、スワミとしての伝授を受けてからもといた町に帰ってきたように思います。<br /> <br /> もっと長く修行しても良かったのですが、あまり長く留守にするともともと目をつけていた寺院を取られてしまいかねないのと、元々、人類の成長のために多くの弟子を育てることが目的でありましたので、ある程度の区切りをつけてから生まれ育った町に帰ってきました。<br /> <br /> 実のところ、生まれた時からリモートビューイング(千里眼)や未来予見の能力は持っておりましたが、特にそれを他人に言うことはなく、修行して身に付けた、ということに致しました。だって、その方がそれっぽいでしょう? (笑)それに、弟子たちにとってみても、修行すればそのような能力が身につくのだという多少なりのもちーベーションにもなることでしょう。能力が生まれつきだとか言ってしまったら、そりゃあもう、救いがありません(苦笑)<br /> <br /> 実際のところ、弟子たちの中で千里眼や未来予知の能力まで完全に身に付けた人は私が生きている間はいませんでしたけど、それでも、クンダリーニの覚醒をしてマニプラやアナハタ優勢、そして一部はアジナも活性化して直感がかなり鋭くなる、という弟子も現れました。ですので、グルとしての人生はそこそこ成果が出たのかな、と思っております。その魂が思っています、ということです。<br /> <br /> 時には弟子たちが来ることを予見して、姿を見るなりその出身地を言い当てたりしました。そのくらいは簡単です。大体は的中します。90%~95%くらいは当たったと思います。<br /> <br /> 例えば弟子がアナハタ覚醒する時には予感があって、他の弟子に少し豪華な食事をあらかじめ用意させたりしました。あと数日中にお祝いがあるので用意しておくように言って、食材を少し多めに買わせておいたりするのです。<br /> <br /> 今までやんちゃで、ちょっと浮ついていたような弟子であってもアナハタ覚醒するとかなり落ち着きが出て、大人の貫禄、聖者の貫禄がそれなりに出てくるものです。マニプラですとまだ元気になったくらいで落ち着きは今一歩ですが、アナハタくらいが聖者と凡人との境目になっているように思います。<br /> <br /> 日々行っていたことは、ハタヨガの体操も基礎として行ってはいたものの、上に記しましたように重視していたのは瞑想とチャンティングです。<br /> <br /> 瞑想は、最初は私が前に座って静かに座る瞑想をします。少し様子を見ながら、弟子が落ち着いていないようであれば名前を言って近くに座らせ、例えば指を顔の前に出して指を見るように言い、それを見て集中して心を落ち着かせるように言ったりしました。見るだけでは不十分な場合は口に出してマントラを唱えたりもしました。そうして、弟子の心が落ち着いたら静かに席に戻って瞑想を続けるように言うのです。<br /> <br /> そうして、どのくらいの時間でしょう・・・。おそらくは1時間かそのくらいだったかと思いますが、当時はきちんとした時計がありませんでしたので時間は大体だったように思います。頃合いになると瞑想を解き、チャンティングを行います。いわゆるバジャンとか言われている詠唱をみんなで行います。<br /> <br /> 私は、はっきり言って、歌はそれほど上手くはなかったように思います。<br /> <br /> そのうち、弟子の中で歌が上手い人がいて、度々、歌ってもらっていたように思います。その弟子は褒められて照れていましたが。その弟子はちょっと褒めすぎてちょっと有頂天になったりもしましたが、それでも、アナハタが覚醒したらかなり落ち着きが出て聖者っぽくなりました。途中の態度がどうであれ、アナハタさえ覚醒してしまえばかなりの弱点は克服されるのかなあ... という気も致します。どこか子供っぽかったその弟子も、アナハタ覚醒後は意識がガラリと変わって落ち着いた表情になっておりました。<br /> <br /> そんな中、どこにも不肖の弟子というのはいるもので・・・・。瞑想していてもどこか苦しそうな表情をずっと浮かべ続け、近くに呼んで集中の手伝いをしてあげてもなかなか成長しない弟子がいました。やはりセンスの違いがあるのだなぁ... と思って見守っていたのですが、そんな不肖の弟子であっても、その弟子の場合は、どこか人懐っこくて可愛げがあるのです。いやはや、グルであっても愛着はあるようです(苦笑)<br /> <br /> 不肖の弟子ではあってもことあるごとに頼ってくるので可愛い弟子だったように思います。他の人からも親しまれていました。ですが、瞑想のセンスはいまいちでした(苦笑)<br /> <br /> まあ、そんな不肖の弟子であっても10年以上続けていれば少しづつ成長するもので、他の人よりは成長が遅くとも、着実に進歩が見られたように思います。ですから、不肖の弟子であっても諦める必要はないと思います。<br /> <br /> 私は未来が見通せましたので、この弟子は死ぬまでに大体このくらいの境地まで達することができるな・・・ というのが見て取れました。<br /> <br /> 弟子の中にはかなりの境地に達してグルとして免許皆伝になり生まれ故郷に帰って行く者もいましたが、その不肖の弟子はそこまでの境地に達することができないのがわかってしまったが故に、ちょっと甘くして早めの免許皆伝を与えたこともありました。このことは以前、別件で少し書きました。<br /> <br /> 流石に千里眼はどの弟子も無理でしたが、ゾクチェンで言うところのシネーの境地に相当する瞑想状態にようやく達したのがその不肖の弟子で、他の弟子はその上のテクチュの境地、いわゆるサマーディやヴィパッサナーに達しておりましたのでレベルはかなり違うのですが、シネーの境地に相当する集中状態ができればとりあえず一般的なグルとしてはやっていけるように思いました。<br /> <br /> まあ、そのグルが今世でもどうやらヨーガのグルをしており、いわゆるスワミになっていることに以前気がついたのですが、相変わらず、あの人懐っこさというか仕草の可愛さはおそらく昔のままだったように思います。向こうはこちらのことに気がついていないようでしたけど、まあ、こんなこと言ってもしょうがないので言っていません。向こうが気がついたら話すかもしれませんが、話したところでどうしようもないので話す必要もないのです。<br /> <br /> どうも、見るからにその当時に到達した意識より上にはまだ行けていないようでした。ですがまあ、基本はできているので良いかな、と。<br /> <br /> 弟子はもっとたくさんいてそれぞれなのですが、中には、能力をもらったらすぐに故郷に帰るつもりで来たが自分が修行しないといけない上に時間がかかることを知って不愉快になり、数ヶ月もしないうちに出て行くような弟子もいました。まあ、そういう人はどこにでもいますので帰ってもらうしかありません。<br /> <br /> その寺院では日々、町の人々の相談を受け付けていました。今もよくある人生相談で、就職や結婚や引越しや、様々な相談事にのっていたのです。未来予知して千里眼でしたので大体のことは的中して正確に伝えることができましたが、それでも、たまには間違うこともあったようで、その原因はわからないことがほとんどでした。上に書きましたように大体90%~95%は的中ですけど、時々、間違えます。<br /> <br /> 間違えるというよりは、おそらく、時間差の間に誰かの意思が入ってタイムラインをねじ曲げられてしまったのだ、という理解をしております。こればっかりは仕方がありません。人々がタイムライン上で大人しくしてくれる場合が多いとはいえ、常にそうとは限りませんし。<br /> <br /> 特に現代ですとタイムラインをねじ曲げられることが増えているように思いますので、昔より当たらなくなったような気が致します。<br /> <br /> そうして相談に乗って、お布施をもらって資金にしておりました。お布施は金額が自由でしたが弟子たちと共に生活するには不自由なかったように思います。<br /> <br /> 時々、遠くから著名な方も見えられて、なかなか楽しいグル生活だったように思います。<br /> <br /> ・・・まあ、証拠とかはないので、とりあえず、夢のお話と思っておいて頂ければと思います。<br /> <br /> Sun, 22 Mar 2020 00:00:00 +0900 天使と悪魔 https://w-jp.net/2020/1875/ <br /> キリスト教などで天使と悪魔が語られていますが、実際のところ、両方とも天使だったりします。ですが、それはなかなか理解し辛いのではないでしょうか。<br /> <br /> 以前に夢で見た天使界の物語を載せましたけど、このお話は天使と悪魔に関する示唆に富んでいます。<br /> <br /> 一見すると戦いに勝って「善」の名乗りを上げたルシファーは、その時は完全なる「善」となり、戦いにわざと負けたミカエルは当時「悪」とみなされました。<br /> <br /> しかし、実態はというと、ミカエルはただ防戦していただけであり、ルシファーは相手の中に悪を見ていた... というか、ルシファー自身の心の中の闇こそが悪魔だったのです。<br /> <br /> ミカエルは何とも思っておりませんでしたが、ルシファーはミカエルと話をするごとに不機嫌になり、ミカエルが悪魔だと主張するようになってきました。その不和が王国に広がり、やがては戦いが始まり、戦乱の渦に飲み込まれたのです。<br /> <br /> 悪魔がいるのではなく、自身の中にこそ悪魔がいた、ということです。悪魔という存在を自らの心の中に作り出してしまい、それを相手に投影していたのです。<br /> <br /> この時は、ミカエルは完全なる善でしたが、ルシファーの中にあったわだかまりや怒りが相手に投影され、この場合はミカエルを悪と認識したということです。<br /> <br /> このようなことは現実でもよく起こっています。<br /> <br /> 天使と悪魔という対比だけでなく、善と悪も似たようなものです。<br /> <br /> そうは言ってもミカエルもルシファーも大天使ですから、我々人間からすればどちらも手の届かない崇高な存在であります。<br /> <br /> そのような存在であっても不和が生じ、天使と悪魔と分かれたりするようですが、その姿は、実際とは異なるということだと思います。<br /> <br /> 世間一般では、戦いに勝つと善であり負けると悪とみなされます。この場合は戦いに勝ったルシファーが善でありミカエルが悪とみなされ、それゆえに、ルシファーが天使でミカエルが悪魔とその時はみなされました。<br /> <br /> ですが、実際の姿としては、ミカエルにわだかまりや怒りはなく、ミカエルこそが天使でした。そして、怒りに震えていたルシファーこそが悪魔とも言える存在になっていたのです。<br /> <br /> ですから、天使と悪魔という存在は表裏一体で、時と場合、見方によってそれは変化するわけです。<br /> <br /> ミカエルは堕天使あるいは悪魔というレッテルを一時は受けたわけですが、それからもわかるように、悪魔というものが必ずしも悪い存在ではないことがわかります。<br /> <br /> それよりも、ルシファーのように天使を名乗りながら怒りに満ちた存在の方が厄介です。<br /> <br /> 天使も悪魔も、割と人間と近い部分があるように思います。<br /> <br /> 今はどちらも天使で通っており、それでいいと思います。このあたりの複雑な事情はなかなかに理解が難しいですし、悪魔と見る判断そのものが視界を曇らせる気も致しますし。<br /> <br /> Sat, 21 Mar 2020 00:00:00 +0900 全集中の呼吸はクンダリーニとテクチュのサマーディ・ヴィパッサナー状態 https://w-jp.net/2020/1874/ <br /> 漫画「鬼滅の刃(きめつのやいば)」で「全集中の呼吸」と言うのが出てきますが、本編で詳しい解説はないものの、私個人の勝手な解釈と言うか想像ですとこれはクンダリーニとサマーディの融合状態ですね。<br /> <br /> ちなみに、私は武術とかやりません。勝手な想像です。よもやま話です。たまにはこう言う話もいいかなと。<br /> <br /> まず、呼吸と言っていますけどこれはヨーガとかでも良く呼吸が言われていて、ヨーガスートラやハタヨガプラピディカでも「呼吸」が大事と言われていますけど、この「呼吸」は翻訳の妙で、実際はプラーナと言う微細なエネルギーの制御になります。呼吸で空気を取り入れると言う面もありますが、プラーナを取り入れて力にするのです。<br /> <br /> であれば、全身呼吸とか言っているのは、プラーナを全身に巡らせることになります。いわゆる気やオーラのことです。<br /> <br /> 気脈とか経絡とか言われているエネルギーのルートを、ヨーガではナディと呼んでいます。その主要なものが背骨沿いにあるスシュムナとその左右にあるイダとピンガラですが、漫画ではここまでは説明していませんでしたね。<br /> <br /> まずクンダリーニがそのスシュムナを通るのが第一歩で、その後、体全身に気脈と言うかエネルギーを通します。そうしてエネルギーの通り道であるナディが全身で活性化します。<br /> <br /> そうして活性化すると、まず最初は集中状態に達します。この順番は集中が先だったり活性化が先だったりしますが、ともかく活性化と集中が実現します。この集中状態はチベットのゾクチェンで言うところのシネーの境地と言われているもので、いわゆる普通の集中状態を意味します。この状態ではまだ全身に意識が通っていません。<br /> <br /> その後、ゾクチェンで言うところのテクチュの境地に達すれば全身に意識が通った状態になり、漫画で言われているいわゆる「全集中の呼吸」といわれている状態に到達します。<br /> <br /> 剣で集中して刃を振るうのがゾクチェンのシネーの境地。<br /> 体全体に意識が通って全集中の呼吸をするのがゾクチェンのテクチュの境地で、これはサマーディとかヴィパッサナー状態と言い換えても良いです。<br /> <br /> 全集中常中とか言われているのはテクチュの境地が高まって日常的にサマーディ(ヴィパッサナー)を保てるようになった状態を意味します。最初は意識しないと全集中の呼吸が保てませんが、そのうち普通になるわけです。ですから、漫画の中では実際に息の呼吸で全集中の呼吸を24時間するような描画をしていますが、実際にはこれは呼吸というよりもエネルギー的なものですから、全身にエネルギーが満ちてサマーディ(ヴィパッサナー)状態が常時保てるようになったらそれでいいわけです。訓練の仕方も、ああいうスパルタもあるのかもしれませんけど、それよりも瞑想した方が手っ取り早いような気も致します。<br /> <br /> そうして、物語の中で「日の呼吸(ヒノカミ神楽、始まりの呼吸)」とか言われているのはゾクチェンの次の境地であるトゥガルの境地であり、いわゆる悟りに近い状態になります。<br /> <br /> まあ、漫画ですので完全に一致しているわけではなくて、本当にその境地に達していたら主人公の表情も本来は違う筈なんですけど、そこは漫画ですし面白くドラマティックに描かないと人気が出ないでしょうからそこまでは突っ込みませんけど、それでも、この漫画はこのあたりを勉強したかもしれない人が書いているのではないかと思わされますので興味深いです。<br /> <br /> この辺りを踏まえますと、漫画の中の鬼殺隊のメンバーのほとんどがクンダリーニ覚醒者で構成されていることになります。更には、「柱」と言われている主要メンバーはゾクチェンのテクチュの境地以上を極めていることになります。<br /> <br /> 主人公である竈門炭治郎(かまどたんじろう)が悟りの境地に近いトゥガルの境地を達成して「日の呼吸」を使い、これからきっと鬼の親分を退治することになるのかなと思います。ここはまだ物語は進行中ですので想像ですけど、そうであれば全体として辻褄が合います。<br /> <br /> 漫画に色々と求めすぎてもなんですが、時代的に、人の心の中に入り込んでいる鬼をどのように人一人が退治してゆくかと言うテーマに沿って解釈すると、この時代にこの漫画が人気が出ているのも興味深いものがあります。<br /> <br /> まあ、漫画のよもやま話なので厳密性を求められてしまうと困りますが、なんとなく気になったところをつらつらと書いてみました。<br /> <br /> <br /> <br /> Fri, 20 Mar 2020 00:00:00 +0900 サハスララの早すぎる開きはオーラを流出させる https://w-jp.net/2020/1873/ <br /> 最近の意識の集中を解いても発散しない意識として表現できるような意識の集中・凝縮の状態、および、いわゆるルドラ・グランティの解放に伴う現象について、瞑想中に私の内なるガイド(内なるグル)から解説がありました。<br /> <br /> それによりますと、今回の場合は上記のように意識が凝縮された状態でサハスララへのルートが開いたから良いが、ゾクチェンで言うところのテクチュの境地を前提として発散しない意識を到達していなければサハスララからオーラが抜けやすいので危険、とのことでした。<br /> <br /> クンダリーニ解放時にサハスララまでエネルギーが到達してサハスララが開いてしまう方がいらっしゃいますが、その場合、往々にしてテクチュの境地には達していないため、危険な状態になり得る、とのことでした。<br /> <br /> テクチュの境地に達していない、シネーの境地までの集中では日々の日常生活においてあまりにも集中が途切れてしまい、サハスララが開いている場合はサハスララからあまりにもオーラが漏れてしまう可能性があるとのことでした。<br /> <br /> サハスララが開いた場合は、まだテクチュの境地に達していない場合は速やかに達するか、あるいはグルがいるならばグルの元で監視下に置かれるべきとのことです。<br /> <br /> サハスララが開いていなくてクンダリーニだけが開いた場合はそれはそれで厄介で、エネルギーが抜けないので体の中に溜まってしまって湯気が出るようなぼうっとした状態、いわゆるクンダリーニ症候群になる可能性もありますが、その危険性よりも早期にサハスララが開いてしまった方の危険の方が大きいようです。<br /> <br /> 私の場合、いつしかにも言及しましたが、完全にクンダリーニを解放せずに一部を解放させると言う手法を取って、そのおかげでサハスララは閉じたままで今まで来たために割と安全だったようです。閉じていても危険なことがあるのですが、私の場合は今まで閉じていた方が安全だったと言う判断があったようです。<br /> <br /> どちらにせよグルの監視がある方が安全なのですが、ここで言う前提として、そこまで見ることができて対処ができるグルが必要ですので、グルがいたとしても何もわからない、何も対処できないようなグルでしたらあまり関係ありません。<br /> <br /> 実際のところ、そこまでできるグルはそうそういませんし、一般的には、問題が生じた場合はサハスララを閉じてあげるくらいしか対処方法はないような気が致します。できるならば、のお話ですが。ですので、サハスララを開けるなんて他人にはお勧めしません。<br /> <br /> この種の行法は危険で、人間にせよ内なるグルにせよ、何某かのグルがいないと大変だなと今回思いました。<br /> <br /> Thu, 19 Mar 2020 00:00:00 +0900 集中するという意味合いにおいて1つの流派を続けた方が良い https://w-jp.net/2020/1872/ <br /> 精神修行においては1つの流派を続けた方が良いとはよく言われていることです。それは宗教的な意味合いで独善的であっては良くないですが、それでも、1つの流派を続けることのメリットはあると思います。<br /> <br /> 精神修行ではある種の「型」と言うものがあって、マントラや座り方や体操の仕方および儀式のやり方まで様々なものがあります。<br /> <br /> そのような儀式はある種の法則性で成り立ってはおりますが、主に文化的背景が強いためにもともと精神性が高くして生まれた人であってもそのような作法はそれぞれの生で学び直す必要があります。<br /> <br /> キリスト教にはそのやり方があり、ヨーガにもそのやり方があり、修験道や仏教にもそれぞれのやり方があります。<br /> <br /> ですから、昨今の宗教はどれをやっても最終的な解脱に基本的には辿り着くはずなのですが、色々やっていると型を学ぶところで労力を使いすぎてしまい、ゴールには行き着くのが難しくなるのだと思います。<br /> <br /> 宗教や流派の問題点として自身の派閥に絶対的な信頼を置いてしまうが故に独善的になったり自身の流派が最高だと考えてしまうような弊害もありますが、それでも、自分の流派に集中することは良いことだと思います。<br /> <br /> 基本はどれをやっても良いのですが、本来の修行ができるためにはある程度の慣れと修練が必要というわけです。その準備段階に意外に時間がかかるためにあれこれやらずに1つだけに絞った方が本来の修行が効率よくできると思うのです。<br /> <br /> まあ、実際には流派によっては辿り着いている境地が違いますから本当に上を求めるのならば選ぶ必要があるのかもしれませんが、そこまで辿り着く人はそれほどいませんし、近所でやりやすいところを選ぶので十分だと思います。近所で師匠が見つけられるのならばそれが一番です。あまり最高の師匠とか求める必要はなくて、型を教えてくれて基本を教えてくれる師匠がいれば大抵の場合は十分のように思います。<br /> <br /> このあたりは、人間の師匠に関していえばなかなか見つけるのが難しいですが、霊界の師匠は割と大勢いるように思いますので、導きがあればそのような指導霊をつけるのが一番のようにも思います。霊界の指導霊くらいになりますと流派なんてそれほど関係ないみたいですので、流派が違っていても色々と教えてくれます。<br /> <br /> 何せ、人間の指導者とは比べ物にならないくらい通し目が効きますし、物事の道理や今必要な事柄など明確に教えてくれるので、まあ、そういうこともあって、私なんかが思うには、近所で通いやすくさえあれば流派はどこでもいいのかな、とは思うわけですけれどもあまり色々探すよりは1つを集中した方がいいかな、と思ったりもするわけです。<br /> <br /> Wed, 18 Mar 2020 00:00:00 +0900 信仰心とは信じることではなく疑わない心 https://w-jp.net/2020/1870/ <br /> よく「信じなさい」とか宗教で言われていますけど、私にはそれがどういうことなのかわかりません。信じて何かが変わるとも思えません。確かな教えがあって、それを信じなさいと言うのですが、教えは概ね正しいとは思ったりもしますが、信じるのではなく納得するものだと思うのです。<br /> <br /> 納得した上で、疑わなくなるのです。<br /> <br /> その最終的な状態を信仰心と呼ぶのであれば、それはきっとそうなのでしょう。<br /> <br /> しかし、教えがあるから信じなさい、と言うのはちょっと違う気が致します。<br /> <br /> ですから、信仰心があるからと言って宗教とはちょっと違うと思うのです。<br /> <br /> 例えば、山岳信仰があるからと言ってそれが宗教とは限らないでしょう。<br /> 自然崇拝みたいな考え方はどこにでもあって、それが宗教とは限らないわけです。<br /> <br /> それが迷信だとか言われたりしますけど、迷信というよりもむしろ、納得した上で疑わなくなる心が崇拝や信仰を生み出すと思うのです。<br /> <br /> ですから、そのようにして生まれた信仰心が必ずしも宗教とは限らないわけです。<br /> <br /> 個人的には団体のみならずそのような信仰心も含めて全て宗教だと思っていますが、一般的に宗教というと団体のことを指すわけです。<br /> <br /> ヨーガとかでも、信じなさいとは言っていません。教えを一つづつ確かめなさい、とヨーガでは言われていて、その結果、疑わなくなってくるのです。それを信仰心と言えばそうかもしれませんし、ヨーガは自身のことを宗教ではないと言っていますが、このように信仰心のことだけを取り上げてみると個人的には宗教と言っても良いのではないかなと思ったりもします。<br /> <br /> 個人的には精神修行の分野は全て宗教みたいなものだと思っていますからヨーガも神道も修験道も全て宗教みたいなものだと思ってはいますが、その中でも、信仰心の取り扱いについて様々だと思います。<br /> <br /> 信じれば救われる、と言っている宗派もあれば自分で確かめて確信を持ちなさい、と言っている宗派もあって、色々です。<br /> <br /> ですがまあ、個人的には「信じれば救われる」というのはよくわからなくて、このように、確かめた上で疑わなくなる、という文脈において信仰心を捉えています。<br /> <br /> Mon, 16 Mar 2020 00:00:00 +0900 魑魅魍魎の世界がこの世の真の姿 https://w-jp.net/2020/1869/ <br /> 多くの人は物質を見てこの世は美しいだとか言っていますが、実際には魑魅魍魎の世界です。アストラルな視力を使えばこの世は見るもおぞましい世界であることがわかるのです。<br /> <br /> 昔は森が広がっていて妖精が住んでいたりもしましたが、今はどこも人で埋め尽くされていて、そこかしこに魑魅魍魎がたむろしているように思われます。<br /> <br /> 神智学で言うところのアストラル視力あるいはメンタル視力があったとして、魑魅魍魎が見えるのはアストラル視力によってです。メンタル視力は時空をある意味超越していて時間の枠組みに囚われず、過去・現在・未来とまでが一続きで様々なタイムラインを眺めることができます。一方、アストラル視力ですと魑魅魍魎などいわゆる霊の姿が見えます。<br /> <br /> その他にエーテル視力というものもありますけど、これは肉体に近い視力です。以下まとめます。<br /> <br /> ・肉体の視力<br /> ・エーテル視力:肉体に付随する視力。肉体に近いオーラを見る。エクトプラズムを見る。<br /> ・アストラル視力:霊を見る。魑魅魍魎を見る。<br /> ・メンタル視力:時空を超えたタイムラインを見る。例:パリ郊外での人生のお話<br /> ・ブッディ視力:過去・現在・未来が同時に存在している。完全な先見力。私は未経験。<br /> <br /> 仏教やヨーガ等で「瞑想中に見えるものは重要ではない」というのはアストラル視力のことを言っているのではないかと私なんかは思います。魑魅魍魎を見たところで意味はないですからね。ですから、ヨーガスートラでも「悟りに近づくと神が誘ってくるが、誘いを退けること」と書いてあります。<br /> <br /> 私の場合、女性バージョンで生まれた時は上記のリンク先のようにメンタル視力で先読みをして各種のタイムラインを把握することは容易だったように思いますが、男性バージョンで生まれるとあまり能力が使えません。せいぜいアストラル視力までです。<br /> <br /> 私の場合、女性の時と男性の時で使える能力に違いが出ています。魔女と言うと女性のことですし、これはきっと一般的にもそうなのではないでしょうか。体の構造に違いがありそうです。女性の場合は特殊な訓練をさほどしなくても能力が普通に出るように思います。<br /> <br /> このアストラル視力ですけど、数百年くらい前までであれば人口密度もそれほど高くなく魑魅魍魎もぼちぼちいるくらいで避けることも容易でしたが、最近はそこら中が魔物の巣窟のようになっていて歩いているとすぐに魑魅魍魎とぶつかるくらいの酷い状況になっていると思います。<br /> <br /> そもそも人間の方が怖いので魑魅魍魎とすれ違ったりしても肉体にさほどの危害はないのですが、なんとも気持ちが悪いものがあります。人通りが少なければ魑魅魍魎を避けて歩きますが、混雑している場合は仕方なく魑魅魍魎と体が一瞬重なって通過したりします。<br /> <br /> まあ、通り抜けてすれ違うくらいであれば基本的に害はないようです。なんとも気持ちが悪いですけど、肉体があるとそこに魂とオーラが殻で保護されていますので安全のようです。<br /> <br /> この種のアストラル視力は厄介で、心を惑わせますし、一般の人には見えないものが見えるようになったことで優越感も生まれやすく、はっきり言って修行の邪魔になるだけで大して役に立たないものです。<br /> <br /> 以前にも余談で少し書きましたけど、この厄介なアストラル視力を閉じるために特殊な霊界の布を用いたマントを使った転生方法があります。生まれる前にあらかじめその特殊なマントで包み、アストラル視力を封じ込めるのです。<br /> <br /> アストラル視力がないと魑魅魍魎と接触してしまう可能性があるために、そのマントはある程度のアストラル的な防御膜の役割も果たします。ですので、ちょっと魑魅魍魎とすれ違ったくらいでは影響を受けないようになります。<br /> <br /> それでも、魑魅魍魎はしつこく迫ってきますし言葉巧みにエネルギーを吸い取ろうとしてきますので、このマントを使った修行方法は危険と隣り合わせになります。<br /> <br /> アストラル視力で魑魅魍魎が見える場合、子供の頃にそれが判明したら精神病院に連れて行かれて見えなくなるまで薬漬けにされる可能性もありますので、アストラル視力のある人が呪術を得意とする家系ではないところに転生して生まれる場合などはこのようなマントを使う場合もあります。<br /> <br /> アストラル視力を持っている人は割とそこら中にいるように思われます。それがアジナチャクラの力だとか言われていますけど、古来、呪術を得意としてきた家系、神道系や仏教や陰陽師の家系には珍しくないと思います。王族にも多いと言う噂を聞きます。<br /> <br /> アストラル視力を持っていて精神病院に連れて行かされるのは庶民の家庭が多いと思います。<br /> <br /> そのような守られていないところに飛び込んで普通の人生を送るのは、まさに修行であるわけです。命がけの修行です。それを、このようなマントを使って行う人がいるわけで、昔はよく使われていたようですけれども、最近はあまり使われなくなったと管理者の人が嘆いていました。<br /> <br /> アストラル視力は上に書きましたように魑魅魍魎が見えて、時には神様の姿も見えるかもしれませんが、基本的にはあまり役に立たないことが多いです。<br /> <br /> いわゆる「修行」にはあまり役立ちませんね。上に書いたように、おごりの心が生まれたりして修行の邪魔になることが多いように思います。アストラル視力くらいですと精神的にも未熟で、まだこの世の利益に絡めとられていることが多いように思います。<br /> <br /> その上のメンタル視力が持てるくらいにまで成長すると心は平安で、物事を超越した視点を持てるように思います。<br /> <br /> オーラ的にも、アストラル視力があるくらいですとオーラが弱くて魑魅魍魎にエネルギーを奪われたり不安にさせられたりしますが、メンタル視力があるくらいにまでエネルギーが高まってオーラが純化されれば魑魅魍魎に影響されることもほとんどなくなると思います。<br /> <br /> それを目指すのであれば、このような特殊な霊界の布を使ったマントを使ってアストラル視力を制限するのは有用であるように思います。<br /> <br /> 私の場合、今世では目的達成のために有用と思ってこれを使っています。・・・たぶんそうだと思っています。そうなっていることを知ったのは子供の頃に幽体離脱した時ですが、昔はその意図が完全に理解できていませんでしたけど、今では確かに有用だと理解しています。本来は今生全てをマント強制使用で過ごすつもりでしたが、意外に早くカルマ浄化の目的を達成できましたので、今後どうしようかな... とは思っていますが。今はマントが体にロックされていて、特殊なマントラを唱えるとロックが解除されてるようになっていますが、私は覚えていなくて守護霊に聞かないといけないのですが、どうしましょうかね、と言うところです。<br /> <br /> Sun, 15 Mar 2020 00:00:00 +0900 バクティでヴィパッサナー状態に至る https://w-jp.net/2020/1868/ <br /> ヨーガではカルマ・ヨガという奉仕の道が推奨されており、その先に礼拝するバクティがあります。カルマヨガで奉仕をするうちに奉仕の対象までもが神格化して現れると言います。<br /> <br /> その時、バクティはヴィパッサナー状態のように無心になって対象と自身の区別がつかなくなります。それはサマーディ状態と同じことです。奉仕が主体なしに目的なしに自動的なものになり、必要だから行う、という単純な、それでいて当然のものになります。<br /> <br /> そのことを、バクティの人は奉仕だとか神格化だとか礼拝だとか表現しているのかな、と思うのです。<br /> <br /> ヨーガでカルマヨガの奉仕をしている人を見ていると、特に最初は迷いが多くて、本当にこんなことをしていて意味があるのだろうか、と思い悩むことがあります。その悩みは当然で、本当の意味を理解していないか、あるいは、きちんと説明されていなかったりするようです。<br /> <br /> NPOのボランティアとかですと奉仕や現状へのストレスおよび必然性からの要望がモチベーションになったりしますけど、いわゆるボランティア疲れというものがあって、それはヨーガでのカルマヨガの疲れと共通している部分があるような気が致します。<br /> <br /> NPOのボランティアは割と救いがないと言いますか、宗教的な考えなしに無心の心に辿り着くことはなかなかないのではないかと思います。ボランティアで長く続いている人は何がしかの宗教的バックグラウンドがあると思います。あるいは、私なんかはボランティアにしばらく関わり合いましたけど、見た目上は奉仕しているように見せかけて利益を目的にしている団体なんかもありましたね。ですから、NPOは救いがあまりないかな、という気がします。宗教的な思想のバックグラウンドがないとNPOは方向性を見失うと思います。一部はそういう思想があったりしますが、そういうところは海外発祥が多い気が致しました。日本は変なところで唯物思想が蔓延っていますよね。<br /> <br /> 一方、ヨーガでのカルマヨガの本質は奉仕ではなく、最終的な悟りが目的ですので救いがあります。奉仕を目的にしてしまうと実際、奉仕の対象というのは限りがなくていつまで経っても終わらず、永遠に問題が解消しないというジレンマに陥ってしまいます。NPOはその点、救いがないです。基本的にNPOもカルマヨガも「解決」のない問題に取り組むことが多いですが、NPOは解決できないのに永遠に取り組んでボランティア疲れになって去って行き、一方で、カルマヨガも真実を見出せなければ疲れて去っていきます。それでも、カルマヨガの方には救いがあると思います。<br /> <br /> ヴィパッサナー状態に至るためにはいわゆる心を浄化する必要があって、バクティの人は奉仕と集中で浄化するわけです。ラージャヨガの人は瞑想で浄化するわけですけど、割と同じことです。モチベーションとしてどちらを取るかという違いがあるくらいだと思います。<br /> <br /> 見方によって階梯のつけ方が違っていて、バクティ的に言えば理屈ありの奉仕から無心の奉仕へ、となり、ラージャヨガ的に言えば雑念の多い集中状態から雑念のほとんどない無心の瞑想状態、いわゆるヴィパッサナー・サマーディ状態にどちらにせよ辿り着くわけです。<br /> <br /> 説明する人によって、瞑想なんて必要ないと言うかもしれませんが、やっていることは割と似通っているように思われるのです。<br /> <br /> カルマヨガはその点で救いがありますが、NPOは救いがなくて、ボランティアの無償のパワーをNPOが吸い取ることでNPOが存続するという方程式になっていますからエネルギーがなくなったボランティアは捨てられていきます。一部の親分は自身のエネルギーを無償のボランティアスタッフから頂いて君臨し続けるわけです。まあ、そうではない団体もあるかもしれませんが、私が見てきたのはそういうところが多かったです。それでも、エネルギーをもらい続ければある程度は無償のボランティアスタッフから感化を受けて、最初はボランティアスタッフを使い捨てくらいにしか思っていなかった親分が随分と心変わりすることもあったのは意外でしたが。そういう意味で、ボランティアスタッフは無償活動をしてエネルギーを与えるという役割を果たし、親分はそのような場を提供することで成長をしているのかもしれません。ですが、そうして成長できるのは割と例外的な人だけだったように思います。<br /> <br /> NPOもカルマヨガも、最初は「奉仕することで感謝されたい」みたいな単純なところが動機になります。カルマヨガは続きがありますが、NPOはそこで終わりです。でしたらNPOボランティアより普通に仕事したらいいんじゃないかと私なんかは思ってしまいます。普通の経済活動の方がよほど人々を助けるように思います。お金を正当な報酬としてあげられますしね。相手の自尊心も奪いませんし、自立を助けます。<br /> <br /> カルマヨガは続きがあって、瞑想もしながら無私の奉仕みたいな境地に至り、それは人によってはヴィパッサナーあるいはサマーディと呼ばれている状態なのですが、そこに辿り着き、本当の奉仕の意味を知るわけです。<br /> <br /> ボランティアで宗教的意味を語ることがタブー視されている日本のこの状況で、しかも、ことあるごとに著名なNPO活動家が「思想なんかよりもエクセルシートの方が人を救う」と言って唯物論を語るこの現状では、海外のようにボランティアと宗教的意味を結びつけるのは難しいと思います。思想的にとても貧相な日本の状況は、それでも、現状の年寄りの世代が亡くなれば次第に若い世代の感覚で平常感覚を取り戻していくような気も致します。<br /> <br /> それを待つこともできるかもしれませんが、既にカルマヨガではそのようなところが解決されていますし、そもそも目的が違っていますから、誰かを助けたいのであればボランティアとか言っていないで普通にお金を使って経済活動をするなりして助ける方がよっぽどためになると思っているのは上に書いた通りです。ボランティアなんて言って自分の行動に制約をかけているだけだと思います。相手のために一番ためになるのが何なのか選択肢を探した時にお金を使って経済活動した方がいいのであればそうすればいいのであって、ボランティアとかいう枠で選択を狭めるのは、ただ単に自分のわがままでしかないかもしれないのです。まあ、ボランティアは私はそんな感じに思っていますけど、ボランティアであれば目的は問題の解決ですが、カルマヨガでは行動を補助として自分が悟ることが目的ですので、似ていてもかなり別物になります。<br /> <br /> とは言いましても、悟る人が増えれば究極的にはボランティアで解決したい問題もかなり解決するとは思います。それが本質というものだと思います。ですから、遠回りであったとしてもカルマヨガ等で悟った人を増やした方がいいとは思います。<br /> <br /> Sat, 14 Mar 2020 00:00:00 +0900 教会は、ただ神だけを説くべきだった https://w-jp.net/2020/1867/ <br /> 私のグループソウル(類魂)に大航海時代のヴェネチアで大司教だった魂がいますが、その魂は、教会に恐怖という概念を残してしまったことに後悔しているとのことでした。<br /> <br /> 本来ならば神だけを説くべきだったのに、世相に対して教訓を説いたために恐怖が乗ってしまった、というのです。<br /> <br /> 日本ではそうでもない気もしますが、ヨーロッパの特にカトリック系の教会では独自の教訓として戒めのお話だとか悪魔の話だとかを聞かせるので、教会や天使・悪魔に対して怖い印象を植え付けられている人がそれなりにいらっしゃいます。<br /> <br /> そのことを、とても後悔していました。<br /> <br /> ・・・まあ、類魂ですので部分的には私の過去生でもあるわけですけれども、確かに、過去の記憶を辿っていきますと、私自身、本当の神を当時はそこまで深く理解していなかったのかもしれない、という気も致します。<br /> <br /> それなりに純化されていて聖職者としてやっていくだけの精神状態にあったとしても、本当に神を知るということはなかなか難しいことでありますし、知っていたとしてもその深さを追求していったら限りがありませんし、それを他人に伝えるという点で誤解があったりして難しい面があると思います。<br /> <br /> 第一に自分自身が純化すべきという点で、当時の教会には部分的にヨーガの知識も入ってきていたような気が致します。当時の司祭たちもヨーガの真似事をして、ヨーガはキリスト教の助けになる、という理解でいたようです。特にヨーガを否定することなく、受け入れていたように思います。<br /> <br /> 思えば、私の類魂の大司教の一つ前の代の大司教がとても素晴らしい方で、はっきり言って私の類魂よりも素晴らしいと思える方で、誰しもが聖人だと認める輝きを持っており、人格も備わって、街の人々から尊敬されておりました。そんな聖人の後に続いて大司教になったわけですが、前代に対しての比較意識や気負い、新しいことをしなくてはいけないという焦り、あるいは、当時の世相に心を惑わされていた、という面もあったかもしれません。<br /> <br /> そんなこともあり、当時、神の教えを説く時に当時の荒れ始めた世相に対して教訓として怖いことを説いたために現代に至るまで教会で恐怖を植えつけてしまうような風潮が残ってしまいました。<br /> <br /> 今から思えば、ただ神だけを説くべきだったのです。<br /> <br /> 世相は心惑わす現象であり、そのようなところにコメントしたところで本質的ではなく、心の平安は自分自身の中にあるのだから、心の平安を作るために教会はあるべきだったのです。<br /> <br /> もちろん、そのような面もありましたし、祈りもありましたし、聖歌隊も浄化のために役立っていました。<br /> <br /> しかし、それと同時に、恐怖という一面を教会に持ち込んでしまったのです。<br /> <br /> それが、今日に至るまで特にカトリックの教会で「教訓」と消して恐怖を信者たちに植え込んでしまっており、それが故に天使などの導きを素直に受け取ることができない状況を作ってしまっている、という点について酷く後悔しています。<br /> <br /> 当時のヴェネチアは大航海時代の終わりを感じる黄昏の時期であり、まだまだ繁栄してはおりましたが商人たちが他の街に進出することで次第に衰退するのが肌に感じられる時代だったように思います。<br /> <br /> そんな時代を反映してか、世相は廃退的になり、例えば音楽がクラシックからロックに近い早いテンポのものに変わったり、激しいダンスのようなものが流行したり、落ち着いて生活するのではなく激しく表情を出す風潮に変わっており、それに対して教会は危機感を感じていました。<br /> <br /> 教会は、そのような廃退的な世相を良くない風潮だと判断しており、もっと落ち着いて、文化的で、精神性の高い暮らしをするように人々を教育したかったのです。精神的に落ち着いた暮らしこそが神の道であると説きたかったのですが、世相に対してコメントしてしまったが故に、本来説きたかったこととは違う印象を与えてしまいました。<br /> <br /> その結果として、人々が廃退的な暮らしを反省するのではなく教会や神に対する恐怖心が育ってしまい、それでも教会は尊敬されておりましたが、一部の人の中に拭うことのできないわだかまりが残ってしまったように思います。<br /> <br /> 教会の説き方として、廃退的な暮らしぶりを指摘してそれは良くないから神の道が好ましい、ということを説明すると、聞き手の方は廃退的な暮らしに対する指摘だけが心に残ってしまってわだかまりが残ってしまったのでした。神を知っていれば廃退的な暮らしが望ましくないと分かるわけですが、既に廃退的な暮らしに片足を突っ込んでいるような人に対して指摘したとしても恐怖心が育つだけのことでした。<br /> <br /> これは、うまく教育できなかったこととして後悔になっているわけですが、流石に、廃退的な世相という大きな流れに対して道徳的な生活を呼びかけるというのは焼石に水とでも言いますか、なかなか難しいところではあったようにも思います。<br /> <br /> 当時の感覚としては、教会がうまく教育できないから人々が廃退的な方に向かってしまっているのだ、と感じておりました。実際そういう面もあったのかもしれませんが、大きな時代の流れだったのかもしれません。<br /> <br /> そうして、一部には理解されたものの、多くに恐怖を植え付けてしまったわけですが、やり方としては、それほど良いものではなかったように思います。<br /> <br /> 当時、廃退的な文化を背景に、神をないがしろにする風潮が既にありました。このような、神をないがしろにする風潮は現代に限ったものではないようです。神は信用できなくて笑い飛ばすものだ、という風潮が既に一部にありました。唯物論の走りだったかもしれません。<br /> <br /> 一部の廃退的な人たちは、例えばロックに近い踊りを広めて人々を集め、人々が笑顔になるのを見て「これこそが本当の人間の生き方だ」と思いました。それは今も世界中で行われていることです。そうして、聖職者たちの中にも「そうかもしれない」と思う人たちが出て、やがては神の生き方で落ち着いて暮らすよりも、ロックな方を選ぶ人も出てきました。<br /> <br /> 私の大司教は、しばらくはその風潮を眺めてどういう状況なのか判断を長らく保留しておりましたが、やがて、首謀者らしき人物がかつての聖職者たちを見てニヤニヤした顔つきで見下しているのを発見し、「これは良くない」と判断して廃退的な風潮を更に激しく追求し始めましたが、多くの人々はそれが理解できず、そうこうしているうちにヴェネチアは衰退し、多くの人々がヴェネチアを離れて行きました。<br /> <br /> 死後しばらくして、ヴェネチアは静かな港町になりました。かつての廃退的なロックも消え失せ、静かな港町になったのです。皮肉なものです。衰退して静かな世界を取り戻したのです。しかし、当時に指摘した風潮は広く世界に広まってしまいました。<br /> <br /> 今から思うに、やはり、神のみを説くべきだったのです。<br /> そして、神を説くためには自分自身が誰よりも神と共にあるべきだったのです。<br /> 他人に何かを伝えるのは難しく、全てを伝えるのは不可能に近いですが、それでも、自分がまず深く理解すれば何分の1かは伝わると思うのです。<br /> <br /> その基本に忠実になるべきだったのであって、恐怖だとか教訓だとか、そういうものに頼るべきではなかった、というのが今の元大司教の魂が考えていることのようです。<br /> <br /> その後、その大司教の魂はいわゆる「聖者」として認定されているようです。裏を取ろうと思って史実を調べようと思いましたが、良くわかりませんでした。<br /> <br /> 聖者認定されるには奇跡を起こす必要があって、この場合、死後の葬式の時に誰も動かしていない、直径1mあるかないかの鐘を魂の状態で動かして何度も鳴らすことで奇跡を起こしました。実は鐘というのは振り子の法則が使えますので何度も何度も力をかければ少しづつ動くので、実際のところ、死後に動かしやすいものの1つかなと思います。<br /> <br /> その時、同僚たちは私をそれほど聖者とまでは思っていなかったのですが、鐘がなったことにより「おお・・・。○○大司教は聖者だったのか・・・」と認識したようです。<br /> <br /> そして、死後の何周忌かの時、おそらく7周忌くらいの時にも同様に鐘を付きました。その時も驚きが起こりましたが、反応としては「○○大司教は我々を見て守って下さっている」という印象だったようです。そして、たしか30周忌くらいにも同様に鐘を鳴らしましたが、この時はこの出来事が予想されていたのか、誰も驚くことなく列席者が並んで静かに頭を垂れて感謝を捧げておりました。<br /> <br /> 私くらいの魂でもこのくらいのことができますので、意外に「奇跡」というのは敷居が低いのかもしれません。<br /> むしろ、私よりも遥かに悟った人ならば、わざわざそんな奇跡なんて起こさないような気も致します。<br /> <br /> それよりも、神を知って神を伝えることの難しさの方が遥かに上のような気が致します。<br /> <br /> Fri, 13 Mar 2020 00:00:00 +0900 3つのグナとコーザル体 https://w-jp.net/2020/1866/ <br /> クリヤヨガは他のヨガの体系と少し異なった理論を展開しているように思います。それによりますと、3つのグナはそれぞれ以下と関連があると言います。<br /> <br /> ■3つのグナ<br /> タマス:物質・肉体<br /> ラジャス:(神智学で言う)アストラル体、心<br /> サットヴァ:(神智学で言う)コーザル体<br /> 「Kriya yoga Darshan(Swami Shankarananda Giri 著)」<br /> <br /> これに更に、瞑想の境地の対応付けを私の理解に基づいて付け加えます。<br /> <br /> ■3つのグナと瞑想の境地(私の理解)<br /> タマス:物質・肉体<br /> ラジャス:(神智学で言う)アストラル体、心、ゾクチェンのシネーの境地。精神的な集中。禅定。サマタ瞑想。(一部の)サマーディ<br /> サットヴァ:(神智学で言う)コーザル体、ゾクチェンのテクチュの境地。ヴィパッサナー。(本来の)サマーディ<br /> <br /> ヨーガでは3つのグナを超えたところを目指します。一般的にヨーガをしている人はサットヴァな清浄な境地を目指しますが、サットヴァの清浄な状態すら超えたところに更なる境地、いわゆる解脱だとか悟りだとかモクシャ(解放、自由)と言われている境地があると言います。<br /> <br /> この、3つのグナを超えた境地はゾクチェンのトゥガルの境地に対応しているのではと思います。いわゆる悟りであるわけですが、悟りというと手に届かないものに思えてしまいますが、こうして段階的に並べてみるとそのステップが明らかになるわけです。<br /> <br /> 最初はラジャスですのでいわゆるサマタ瞑想で精神的な集中をしてゾクチェンのシネーの境地の平安な状態を目指します。<br /> <br /> その後、サットヴァに達したらそれはゾクチェンのテクチュの境地ですので更なる平穏な状態になるわけです。<br /> <br /> ゾクチェンに基づきますとテクチュの境地からその先のトゥガルの境地までは一続きですので、ラジャスからサットヴァの境地に上がることができさえすれば着実に悟りだとかモクシャだとか言われている状態に辿り着くと思われるのです。・・・まあ、このあたりはまだ仮説ですが。<br /> <br /> 最近は言葉が混乱してきて3つのグナとかサットヴァが様々な意味で使われていますので判断が難しいのですが、上記の区分で考えた場合、ゾクチェンのテクチュの境地に相当するサットヴァな意識に到達するのはそれなりにハードルが高いのかなと思われます。それはヴィパッサナーやサマーディと同等の意識状態であるわけですが、なかなかそこまで到達できないような気もします。<br /> <br /> そうは言いましても、道は割と単純で、脇道があるようでいてそれほど脇道もなくて、流派がたくさんあるように見えて実際はどれも基本はこの道ですので、実は精神修行というのは基本は凄くシンプルなのではないかなあ、というのが最近の実感です。<br /> <br /> 人の嗜好に応じて色々試したり好きなものを選べばいいとは思いますけど、そこで鍛えられる根幹の部分は同じのような気が致します。<br /> <br /> Thu, 12 Mar 2020 00:00:00 +0900 演劇・芸能が瞑想だという実感 https://w-jp.net/2020/1863/ <br /> ヴィパッサナー以降、日々の生活が芸の動きのようです。・・・テレビのように見た目よくはできませんのできっと傍目には変わりがないのでしょうが。<br /> <br /> 手の動きをトレースしてみると弧のような動きがあって、手を回すときはぐるりと体を中心にスムーズに回転します。<br /> <br /> ・・・まあ、そりゃそうだと言われればそうなんですが、ヴィパッサナー状態ですとその細かな部分をスローモーションに近い状態で感じることができますので、体がロボットのようにうまく動くのがわかって面白いのです。<br /> <br /> 昔、色々な方が芸能や演劇のことを瞑想だと言っていらっしゃいましたが、確かにそうかなあ、という気が最近は致します。<br /> <br /> 特別に芸をしなくても、日々の生活の割と普通の動きが既に劇になっているような気も致します。<br /> <br /> このあたりはヴィパッサナー状態次第でありますのでヴィパッサナー状態でない時はそうでもないのですが、ヴィパッサナー状態でありさえすれば視界だけでなく体の動きもつぶさに観察することができるわけです。<br /> <br /> 流石に視界と体の感覚両方をきちんと観察するというわけにはいかなくて、どちらを主に観察するのか選ぶかあるいは半々くらいで過ごしたりしますけど、視界や内的感覚の全てが「じぶんではない」・・・と言うと語弊がありますが、「観察されるもの」として体が存在しているのです。<br /> <br /> その「観察されるもの」からしてみたら、体も視界の先にある物体もさほど差がなく、どちらも同じように感じられるのです。<br /> <br /> かつて、演劇は最高のスピリチュアルだと言った人がいました。たしか和尚ラジニーシだったような気もしますが、たしかにヴィパッサナーは演劇そのもののような気が致します。当時は「そんなものかな」と20年くらい前に思った記憶がありますが、今思うには、当時は全然今の状態を分かってはいませんでしたね。<br /> <br /> ダンスや演劇も、やってみたら結構面白いのかもしれません。日本舞踊なども。<br /> <br /> ただ、私はもともとそちらの素養はありませんのでどうかなぁ・・・ という気もしますけど、ジムのダンスくらいならしてみても面白いのかもしれません。以前とは違った感覚を楽しめそうです。<br /> <br /> Mon, 09 Mar 2020 00:00:00 +0900 トラウマを頭の中から摘んで抜き出す https://w-jp.net/2020/1862/ <br /> 今朝、意識がヴィパッサナーに近い状態で頭の周辺のオーラも静かになっており、意識の深いところを見通せる状態になっておりました。<br /> <br /> すると、今までもやがかかって見えにくかったトラウマがすぐ手の届くところにあるような気がしましたので、オーラの手で摘んで、感触を確かめながら少し引っ張ってみましたところ動いた気がしましたのでそのまま引き抜いてみました。<br /> <br /> 今までもトラウマを引き抜こうとしたことはありますが、ヴィパッサナー状態で意識が静かになっていない状態ですとなかなかうまく引き抜けなかったような気が致します。<br /> <br /> この種のトラウマはいわゆるトランス状態と言いますか集中状態と観察状態が合わさった状態になると障害になるもので、どうにかしたいと思っておりました。<br /> <br /> 意識の深いところに横たわっていて、何かを観察&集中して作業する時に妨げになっていたのです。<br /> <br /> ここでいう観察&集中状態とは、観察のヴィパッサナー状態を保ちつつある種の集中を同時に行って物事をつぶさに観察したり考察したりすることを指します。<br /> <br /> トラウマは、その作業の妨げになるのです。<br /> <br /> 意識の深いところに潜って作業を行いますのでいわゆる「答え」がすぐに出てくる状態で、作業の方も意識が直接行いますので素早く行えるのですが、その状態ですとトラウマが出てきやすいのです。<br /> <br /> トラウマは出てくる時と出てこない時があって、関連した時に出てくる、あるいは、特定の状態に似てくると出てくるような周期性と言いますか癖のようなものがありましたが、今回、ふとしたことでそのトラウマが浮かび上がっていましたので、摘んで抜き出してみましたのです。<br /> <br /> 場所は、後頭部のあたりに浮かんでおりましたので後頭部の方から摘んで抜き出しました。<br /> <br /> トラウマは基本的に向き合うことで消えるわけですけれども、最後に残った小さな根のようなものの一部を抜き出した感じが致します。<br /> <br /> 完全には抜き取れなくて、だいたい3分の1から2分の1くらいは取れたかな、という感じです。<br /> <br /> 以前は肩のあたりに絡まっていた意識体を抜き出したりしたこともありましたが、やっていることは似たようなものです。意識体なのか、あるいは固まってしまった意識の固定部分なのか、という違いがあるくらいです。<br /> <br /> 意識体の場合は割と柔らかくて、手に持つときに感触を確かめて、千切れないように引き抜く必要がありました。<br /> <br /> 今回は、イメージで「取っ手」のようなものが感じられて、取っ手の先にコンクリートのブロックのようなものがついていました。そのコンクリートのブロックが何かの穴を塞いでしまっているような感じで、オーラの手でゆっくりと感触を確かめつつその「取っ手」を掴んで、一生懸命、そのコンクリートのブロックを持ち上げようとしたのです。<br /> <br /> ちょっと浮いたかな・・・ という感じで、ちょっとは取れたかな・・・ と思ったのですが、その後の様子を見ると、上記のように3分の1から2分の1くらいの解消でした。まあ、あの重いコンクリートを片付けるにしては上出来だったかもしれません。<br /> <br /> ですが、重いコンクリートですから油断していたらその周囲にまた泥が溜まってしまいそうですので、また度々、トラウマを引き抜いて行こうと思います。<br /> <br /> Sun, 08 Mar 2020 00:00:00 +0900 卵が うらめしや〜 と叫んだ https://w-jp.net/2020/1861/ <br /> とある日、卵を割ったら黄色い黄身の向こう側に「ひよこ」の姿がうっすらと見えた気がして、それと同時に恨みと呪いの念が卵の殻の中から見えない煙のように出てきて「うらめしや〜」と言っているような気がして、ゾッとしました。<br /> <br /> ううう。今まで卵はあまり気にせず食べていたのですが、今後、ちょっと食べにくくなってしまいました。<br /> <br /> お肉は食べる量を減らしていたわけですけれども、それでも、卵はあまり気にせずに食べていました。栄養分ありますし、お肉の栄養の代わりに卵で取ろうと思っていたわけです。しかし、今回その卵にも「うらめしや〜」と叫ばれてしまいましたので、ますます食べ物の選択に困る事態になってしまいそうです。思い出すだけでちょとしたトラウマになりそうです。<br /> <br /> これ、安い卵だからこんななのでしょうかね・・・。高い卵は違うのでしょうかね・・・。そう言うのは多少あるかもしれませんね。ぎゅうぎゅう詰めで暮らす親鳥のストレスの気持ちが卵にまず植え付けられて、卵それ自体にしても生まれることができずにそのまま食べられてしまうのですから、恨みもしそうです。<br /> <br /> お肉はかなり微妙で牛肉はマシですが鶏肉も物によっては酷くて豚肉は全然ダメなことが多いです。ですから選択肢がない時を除いてお肉はあまり食べないのですが、卵は食べていたのです。<br /> <br /> 植物にしても、実は植物にも命があって包丁で切られる時に「痛い痛い」と言っている気がして、食べた時に微妙な感じを受けることがあります。<br /> <br /> アナハタが優勢になって以降、植物や昆虫を傷つけるとハートが痛むようになってしまったわけですけれども、お肉だけでなく植物を食べても微妙に感じることがあって、普通に食べる分には割と大丈夫なのですが、スーパーで並べられている植物を見ると痛ましく思うこともあります。<br /> <br /> ですから・・・、何を食べたらいいのか、最近は選択に困ります。<br /> <br /> ベジタリアンがいいのかと思えば実際、上記のようにそう言う単純なお話ではないことがわかります。お肉は一番悪いですが、ベジタリアンがいいのかと言えば必ずしもそうではないようなのです。<br /> <br /> これは、日本の栽培の仕方にもよるのかもしれませんし、有機栽培などでは違うのかもしれませんし、同じ有機栽培でも農地によっても異なるのかもしれません。農法は同じでも育てる人が違えば味と言いますかオーラは変わってくると言うのは理にかなっています。<br /> <br /> 植物にもオーラがあるようで、感情もあるようですので、日本のそこらで売っている植物がそんな感じで痛がってお皿に出されている、と言うことなのかもしれません。<br /> <br /> 自分で料理するとそのあたりはマシですが、外で食べることも多いですしね。<br /> <br /> 卵料理屋とかで食べると普通に美味しかったりしますので、卵の種類にもよるかもしれません。恨みを持っていて呪われている卵もある、と言うことなのかもしれませんし、植物にしてもストレスを抱えた植物というのがあっても不思議ではありません。<br /> <br /> 人間は食べないと生きられない生き物ですので、食べるという行為が既に業を積んでいるのかもしれないと思うことも最近はありますが、そのあたりはよく分かりません。あまりにも業を強調しすぎるとキリスト教のように罪の意識で人間の奴隷かのように使われてしまうかもしれませんので、そのあたりの説明には注意が必要そうです。自分で実感してわかるようになるまではあまり人に言わない方がいいことの1つかもしれませんね。<br /> <br /> これは、他人にこうしろとか、何を食べた方がいいとか、何を食べない方がいいとか、そういうことを言うつもりはありません。ただ単に、私は最近こういうことがあって、卵を食べるのがちょっと苦手になりました、というだけのお話です。きっと今後も卵を食べるでしょうが、昔とは変わってしまった、ということです。<br /> <br /> やはり、処方箋は食事をする時に食材に感謝をするくらいしかないのでしょうかね。ベジタリアンで感謝して食べるのが今のところ一番良さそうです。<br /> <br /> Sun, 08 Mar 2020 00:00:00 +0900 透視能力者の礼節 https://w-jp.net/2020/1860/ <br /> ・勝手に(相手の運命などを透視して)見ない。<br /> ・勝手に(守護霊に)聞かない。<br /> ・勝手に(守護霊などと)話さない。<br /> ・勝手に(見聞きした内容を、本人、あるいは他の人に)喋らない。<br /> ・聞かれていないのに(本人に)答えない。<br /> <br /> 生まれながらの能力者にこれらの基本的な社会人としてのマナーが欠如している人が散見されますが、よろしいことではありません。生まれつきではない場合は多少は社会人経験も積んでいるでしょうからこのようなことは少ない気も致します。ですが、大切にすべき点は同じです。<br /> <br /> まあ、興味本位で近くにいる人のオーラをちょっと見るくらいはついつい見てしまったというくらいで悪気もないのでそれほど咎められることでもありませんが、それでも、あまり良いことではありません。<br /> <br /> 見るだけならともかく、そのことで本人に何か指摘したりすべきではありません。<br /> <br /> これは、基本的な礼節です。<br /> <br /> 本人はその人生を生きているのですから、本人が気付くまでそのレッスンは続くのです。<br /> <br /> それを、上から視点で「こっちだ」というのは本人のレッスンが「やり直し」になってしまう危険性もあるくらいの迷惑な行為で、せっかく守護霊や本人たちが状況を整えて勉強できるようにしたのに透視能力者の余計な一言でセッティングが台無しになってしまうことさえあるのです。<br /> <br /> 例えるならば、ドラマの撮影のセッティングの場面に無関係な人が映り込んでしまって撮り直しになってしまうような残念なことであるわけです。ドラマの撮影に関わる全員が大迷惑を被るわけです。人は全てそのようなドラマのようなものですから、人の人生に関わる守護霊一同がとてつもない迷惑を被る場合があるのです。場合によっては守護霊に恨まれる場合もあるかもしれません。守護霊と言っても程度がいろいろあって、ちょっと道徳があるくらいの普通の人が死後に守護霊(見習い)になる場合などは恨みを持つ場合があるかもしれませんから注意が必要です。<br /> <br /> 他人のレッスンはどうであろうと、それを「体験」するまでは終わらないのですから、放っておけばいいのです。勝手に指摘するのは、足を引っ張るようなものです。<br /> <br /> 一方で、本人の希望でカウンセリングする場合はその時限りで、聞かれた範囲に対して答えるのはOKです。<br /> <br /> 基本的なルールはビジネスや心理学におけるカウンセリングと同一です。<br /> <br /> あくまでも本人が人生の主人公であって、主人公が行き先を決めているのであって他人が指図する必要はないのです。<br /> <br /> 勝手に指図するとしたらそれはエゴであり、傲慢であり、余計なお世話なのです。<br /> <br /> カウンセリングの場合は、あくまでも参考意見として伝えるだけです。本人が最終的な決断を下すわけです。<br /> <br /> ただ、スピリチュアルには依存症の人もいて、他人に決めてもらいたい人が一定数いますが、それはあまり良いことではありません。依存症の人に決断をお願いされてもそれは断るべきことだと私なんかは思います。<br /> <br /> 相談者が依存症であるのならば、自分で決断できるようになるというのがまず解決すべきレッスンかもしれないのです。時には冷たく突き放す必要があるかもしれませんし、決断してくれないからと言って恨まれるかもしれませんが、どちらにせよ、自分で決断することができるこの世界の自由意志の大切さと人間の基本的な意思について理解してもらう必要があるわけです。<br /> <br /> カウンセラーや透視能力者は往々にして先を話しがちで指摘しすぎる傾向がありますので、そこは気をつける必要があると思います。<br /> <br /> 個人的には、スピリチュアルなカウンセリングもそんなに意味はないような気もしております。意味があるとすれば目に見えない世界があることを「確認」するという点や、自分の出した答えが正しいかどうかを「確認」するためには使えるかな、と思っております。最近は主に後者ですね。答えの「確かめ」にスピリチュアルなカウンセラーを使うのはアリだと思います。<br /> <br /> スピリチュアルなカウンセラーになって相談を聞くのはそれなりにリスクがあります。求める答えではなかった場合の回答であった場合に恨まれたり、願い事を叶えてくれないとわかると、これまた恨まれたりします(苦笑)<br /> <br /> ですから、スピリチュアルなカウンセリングで相談されるのは損な立場だなあ、と思うわけですが・・・ それよりも、一般的な人生の教訓である、例えば仏教の八正道とか説いていた方がよっぽど世の中のためになるのではないかと最近なんかは思います。ヨーガのヤマ・ニヤマのような基本的な道徳ですね。<br /> <br /> いくらスピリチュアルに理解があって興味があっても現世利益を追求するのなら意味がなくて、そこから八正道のような基本的な道徳のお話につながらなければスピリチュアルも意味はなくて、むしろ透視なんかなくても八正道がありさえすれば十分なんじゃないかとも最近は思います。<br /> <br /> 透視能力者は、本質的なところで本当のスピリチュアルの本筋で役立っていないのでは、という気も致します。 本質なのは、やはり八正道のような基本的な部分であると思うのです。<br /> <br /> と、いうわけで、透視能力者は礼節をもって、基本的には引っ込んでいるべきだなあ、と私なんかは思うわけです。<br /> <br /> Sat, 07 Mar 2020 00:00:00 +0900 ヴィパッサナー瞑想と称してサマタ瞑想を行う人たち https://w-jp.net/2020/1859/ <br /> ヴィパッサナーと思考の停止について以前書きましたけど、おそらくはヴィパッサナー瞑想の流派は分かっていながらヴィパッサナー瞑想と称して実質はサマタ瞑想をさせているのだと思われます。<br /> <br /> これはおそらく、弟子たちが望むからそうさせているのかな、という気も致します。グル(霊的指導者)がサマタ瞑想をするように弟子に指示する一方で、他の人がヴィパッサナー瞑想をしているのを横目で見ている古参の弟子がサマタ瞑想だけずっとしていることに待ち切れずに要望して、まだ準備が整っていないのにも関わらずこのままではサマタ瞑想もままらないためにヴィパッサナー瞑想と称して弟子たちを満足させて実質はサマタ瞑想を続けさせるというグル(指導者)たちの知恵がかつてあって、今はその形だけが残っているという面もあるのかなあ... と想像致します。<br /> <br /> と、言いますのも、私のグループソウル(類魂)の中にかつてインドで霊的グルでスワミだった魂もいるのですが、その時の弟子たちの様子を思い出してみますと、やはり不肖の弟子のはいるもので、それでも、出来が悪くても可愛い弟子にはちょっとした位を与えたりするような情けとでも言いますか同情とでも言いますか、そういうのはあったように思います。その時のスワミは未来を見通せましたので将来的にその弟子がどのくらいの境地まで達することができるかわかりましたので、それも勘案して、この子は今後将来をかけてもこのくらいの境地までしか達することができないので、このくらいで位を与えてあげようか... という気持ちになったこともあったようです。<br /> <br /> ですから、瞑想法にしてみても、今はサマタ瞑想だとかヴィパッサナーだとか言われていますけど流派によってはそこまでの区別はなくて、サマタ瞑想でなくてもチャンティング(聖典の詠唱)とかして心を清めれば同じことであるわけです。ですから、ヴィパッサナーをしたいという弟子に対して「そうかそうか。こうしたら良いよ」と伝えて、それが本来のヴィパッサナーとは若干違ったものだとしても弟子の成長のためになるのならば良しとする、グルの愛がそこにあったように思います。<br /> <br /> まあ、色々な流派があって、それぞれの事情がありますので全てはわかりませんけど、こういう面もあったのかなと思います。<br /> <br /> そして、今は形だけが残っていて、流派によってヴィパッサナー瞑想と言っているけれども実質はサマタ瞑想が行われているような気が致します。<br /> <br /> その形を本気にして、サマタ瞑想なしにヴィパッサナーだけをしていればいいと解釈して「集中」をないがしろにしている流派もあるように思いますし、その一方で、全て分かった上でサマタ瞑想をヴィパッサナーと称している流派もあるように思います。<br /> <br /> 最近入手したテーラワーダ仏教の本には、このあたりの矛盾が如実に現れていました。おそらくはテーラワーダ仏教は全てわかった上であえてサマタ瞑想をヴィパッサナー瞑想だと称している節があると私なんかは思います。私の勝手な解釈ですけど。<br /> <br /> 例えば、本の最初の方に次のようにあります。<br /> <br /> 落ち着いた状態、サマーディ(禅定)を整えた上でヴィパッサナー瞑想に入ります。(中略)ヴィパッサナー瞑想は、サマーディ(禅定)状態を前提とする瞑想だということを覚えておいてください。「自分を変える気づきの瞑想法(アルボムッレ・スマナサーラ著)」<br /> <br /> それなのに、実際の具体的な説明のところには以下のように記されています。<br /> <br /> ヴィパッサナー瞑想の試みは、「一切の思考を停止する」チャレンジです。思考を停止させる努力によって心のくもりが晴れ、「智慧」があらわれます。智慧は、何か特別な努力によってあらためて育てるものではありません。ヴィパッサナー瞑想によって私たちのなすべきことは、思考、妄想をストップさせることだけなのです。つまり、考えないようにするのです。「自分を変える気づきの瞑想法(アルボムッレ・スマナサーラ著)」<br /> <br /> これ、テーラワーダ仏教はヴィパッサナー瞑想と称していますが、内容的にはサマタ瞑想・集中瞑想そのものです。ヨーガスートラの目的である心理作用の止滅と同じことをヴィパッサナーと称して説明しているように思えるのです。<br /> <br /> そうして、テーラワーダ仏教では具体的な方法として、今の瞬間に何が起こっているのかを実況中継する、という方法を示しています。実況中継するということは今の状況に対して具体的に「思考」するということです。心・マインドで文章にして表現を試みるということです。これは五感および心・マインドに集中しないとできませんからヴィパッサナー瞑想ではなくサマタ瞑想・集中瞑想の部類に入ります。それを、おそらくはあえてヴィパッサナー瞑想と称しているように思えるわけです。<br /> <br /> 実際、最後のQ&amp;Aで「ヴィパッサナー瞑想にはいくつもやり方があるのですか」というセクションにてサマタ瞑想からヴィパッサナー瞑想に入るやり方などが紹介されており、ここを読む限り、この著者はよくわかっている、というエキスパートの印象を受けます。ですから、私は上記のように「あえて」ヴィパッサナー瞑想と称しているのでは、と解釈したのです。<br /> <br /> どのように称したところで最初はサマタ瞑想なのですから、やりやすい方法をすれば良いのではないか、と私などは思うのです。<br /> <br /> グループソウルのかつてスワミだった魂の意見を聞くと、どうやら、瞑想はある程度のセンスが必要とされるので説明をそのまま受け取ってどう解釈するかは人それぞれであり、どのような説明であろうともセンスのある人は成長するのだから、どの流派であっても弟子にとってはさほどの違いはなく、好みの問題があるだけだ、とのことです。まあ、それはそうだろうなとは思います。<br /> <br /> であれば、サマタ瞑想と説明されていてもセンスがあればヴィパッサナーに辿り着くし、逆に、ヴィパッサナーと称してサマタ瞑想を指示されていたとしてもセンスがあれば本質に気がつくわけです。まあ、それはそうだなと思うわけですが・・・。<br /> <br /> ・・・センスとか言い出した時点で、もう、一般向けには救いがない気がするのは私だけでしょうか。かつてスワミだった魂が言うには、センスがない人に何をやらせても一生成長しないので、もう、こればっかりは仕方がなく、それでも無駄ではないので次の人生に繋げるために何かを続けさせることは有意義だ、とのことでした。まあ、一生涯かけて弟子の面倒を見たスワミだからこそ言える言葉なのかもしれません。<br /> <br /> まあ、私もそうだろうなとは思ってはいてもさほど救いがないのであまり口に出したくはありません。スパルタ式で指導したイギリスの過去生というかグループソウルの魂がいたのですが、スパルタ式ならば成長が早いのは確かでしたが、その後、その弟子たちの流派がスパルタを真似して今まで続いていて微妙な感じになってしまっているように思いますのでそれも良くないとは思ってはいます。2つの人生の修行を1つの人生で終わらせるためにはスパルタ式が必要だったわけですが、禍根を残してしまいます。<br /> <br /> アシュラムなどでつきっきりで指導するのならばともかく、一般向けに公開するのであればある程度は妥協するしかないのかな、という感じも致します。<br /> <br /> かと言って、甘くしてしまったが故にその弟子が今世に至っても未だ同じくらいの境地にしか達することができていないのを見たりすると、やっぱりスパルタすべきだったかな... とも思ったりするようです。<br /> <br /> まあ、私は今世ではそんな立場にはありませんので指導の悩みには無縁ですけど。<br /> <br /> Fri, 06 Mar 2020 00:00:00 +0900 視界だけでなく体の動きも細かく感じるヴィパッサナー https://w-jp.net/2020/1858/ <br /> まるでロボット・ダンスをしているかのようです。さすがにテレビで見るくらいの凄い動きはできませんけど普段の生活の体の動きが細かくスムーズな挙動として認識されます。<br /> <br /> 以前は視界だけでしたが、今は腕や体の動きもスムーズに認識されます。まだ全身がそうだと言うわけではありませんが、かなり動きを認識できています。<br /> <br /> 歩く時。<br /> 腕を動かす時。<br /> 体の角度を変える時。<br /> <br /> 特別に意図して意識しなくても意識されるのです。自然な認識です。<br /> <br /> 2ヶ月前にスローモーションのヴィパッサナー状態が始まった時、主に視界における変化でした。体の感覚も微細に細かく感じられるようにはなりましたが、今日ほどスムーズには認識できてはいなかったように思います。<br /> <br /> おそらくは先日のルドラ・グランティかなと思われる意識の変革以降にこのように認識力が高まったような気が致します。<br /> <br /> ヴィパッサナー瞑想というと体の感覚を観察する瞑想として理解されることが多いと思います。皮膚の感覚ですとか息を観察することがヴィパッサナー瞑想であるという説明を耳にすることが多いですし、私もかつてはそのように思っておりました。<br /> <br /> しかし、今思うのは、意思でわざわざ観察するのは本来のヴィパッサナー瞑想ではないということです。リラックスして意思なくしてヴィパッサナーが自然に自動的に働く状態が本来のヴィパッサナーであって、それはもはや「行動」ではないのです。観察するという「行動」があるうちはそれは本来のヴィパッサナーではなく、観察しているのが結果と言いますか「状態」であるならばそれはヴィパッサナーになり得るのです。この違い、言葉で言い表すのはなかなかに難しいです。<br /> <br /> 「意思」で「観察しよう」と思っているのは「行動」であり、わざわざ観察しなければ観察できないのだとしたらそれは本来のヴィパッサナーではないということです。<br /> <br /> 本来のヴィパッサナー状態とは、そのような「意思」なしに観察されるものです。それを「状態」と呼ぶこともできますが、明確な行動としての意思はなくても観察している「なにか」、「見るもの」は存在しています。<br /> <br /> 理屈としては何かを観察する時は「見るもの」が必要です。それは確かに存在しています。普通に「見るもの」というと「見る対象=見られるもの」が存在しますが、この種のヴィパッサナー状態では「見るもの」も存在するのは確かですが、「見られるもの=見る対象」が「自らと不可分のもの」として感じられるわけです。<br /> <br /> 通常、人の意識が五感を使って周囲を見たり観察する時はその対象との間に明確な区分が存在します。「見るもの」と「見られるもの」は別物です。<br /> <br /> 世間一般でよく聞くヴィパッサナー瞑想は五感を使って周囲を観察したり息を観察したり皮膚の感覚を使って観察したりします。そこには、五感を使った「見るもの」と「見る対象」の区別があって、それが一体になることはありません。感覚をずっと観察しているとその読み取る内容が微細になって細かく知ることができるようになりますが、それは本来のヴィパッサナー瞑想ではなく集中して観察しているのですから集中瞑想、サマタ瞑想であると私なんかは思うわけです。<br /> <br /> 五感を使ったヴィパッサナー瞑想は観察していると言いながら実は集中をして瞑想をしているのですが、それがヴィパッサナー瞑想だと言ってしまうところに混乱があって、観察という言葉を使ってしまうとバイアスが生まれ、「集中」という意義が失われ、意義が失われるだけならばいいのですが、「集中してはいけない」という理解が生まれ、「集中することに対する否定の意識」が生まれているようなヴィパッサナーの流派もあるように思われます。<br /> <br /> 実際には、ヴィパッサナーと説明されて瞑想をするが実はサマタ瞑想をしているのだということはおそらくはその流派の上級者・グルにとっては当たり前のことではないかなと私なんかは推測しています。ですが、これまた推測ではありますが、サマタ瞑想をしようがヴィパッサナーと称してサマタ瞑想相当をしようがどちらにせよ高い境地に行き着くことはあるし、逆に、これはある種のセンスというところになってしまうのですが、辿り着かない人はどうやっても辿り着かないのだから、まあ、あまり手法をどうこうしてもしょうがない... という境地にグルは達しているのではないかと思います。<br /> <br /> ですから、よく言われているように瞑想は色々と手法があって、向き不向きがあるので自分に合ったものをするのがいい、というのは真理なのかなと思います。<br /> <br /> 私なんかはストレートなのを好みますのでヴィパッサナー瞑想と説明されながら実質はサマタ瞑想をするよりは直接にサマタ瞑想をした方がいいと思うたちです。<br /> <br /> ヴィパッサナー瞑想はサマタ瞑想で意思が確かな安定したものになったのちに出てくるもので、上にも書きました通り、その時は対象と自分自身の区別がつかなくなっています。それをヴィパッサナーの流派はヴィパッサナーと呼びますが、ヨーガ系の流派は同じことをサマーディと呼ぶ、という、ただそれだけのことだと思います。<br /> <br /> 手法としてのヴィパッサナー瞑想はやり方だけのお話であり実質はサマタ瞑想をしているのだとすれば手法を真似ているだけの時はまだサマーディ状態ではないのは明らかです。<br /> <br /> ステップ的には以下のようになると思います。<br /> <br /> 1.サマタ瞑想をして眉間などに集中する、あるいは手法としてヴィパッサナー瞑想を真似て五感を使った観察をして集中する(説明で集中とは言われないかもしれないが実態は集中瞑想・サマタ瞑想)。<br /> 2.ヴィパッサナー瞑想に移行する。同じ状態をヨーガの人はサマーディと呼ぶ。<br /> <br /> 非常に明快でシンプルです。<br /> <br /> 実際、ヴィパッサナー/サマーディ状態とはサマタ瞑想をして雑多な意識・いわゆるマインド・思考を抑えた時に出てくる状態ですので、五感を使って観察するのとはかなり違った状態になります。<br /> <br /> ヴィパッサナーとサマーディが同じだというのは私の解釈です。他所ではほとんど聞いたことがありません。流派が違うのでそのような混ぜた解釈を行っている人はあまりいない気もします。<br /> <br /> 前にも書きましたが、思考を停止させるだけではサマーディ(三昧)にはならないということもありますのでサマタ瞑想をしているだけではヴィパッサナーにそのまま遷移することはなくて、いわゆる浄化が進んでいかないとヴィパッサナーの観察力が出てこないとは思います。<br /> <br /> これらを右脳と左脳で解釈されている方もいる気が致します。サマタ瞑想が論理的思考を司る左脳の動きを止めるための瞑想で、左脳の動きが止まった状態を前提として右脳の動きを活性化させ、右脳的な観察力が出てくるとヴィパッサナーになる、という表現もできる気が致します。私はあまりこういう言い方はしませんけど、人によっててはこの方が理解しやすいかもしれません。<br /> <br /> サマタ瞑想をしているだけではヴィパッサナー状態にならない、というお話も、左脳の動きを止めるだけで右脳が動きだすとは限らない、という解釈ができます。左脳の動きを止めることに加えて右脳が動きだすと初めてヴィパッサナー状態になるわけです。<br /> <br /> Thu, 05 Mar 2020 00:00:00 +0900 アジナ・チャクラは二度開く https://w-jp.net/2020/1857/ <br /> 思えば最初、眉間の皮膚の少し離れたところでの圧縮された空気が解放されて膨張してボンっとエネルギー的に解放された時から始まりました。<br /> <br /> その後、エネルギーは下半身に降り、クンダリーニとして上昇、そして、アジナ近くまでエネルギーが満ちてきたかのようです。<br /> <br /> おそらくは、アジナ・チャクラは二度開くのではないでしょうか。<br /> <br /> 最初は割れ目が入り、エネルギーが下半身に降ります。<br /> <br /> 次は、上昇してきたクンダリーニがアジナ・チャクラを開きます。<br /> <br /> そんな予感が致します。まだ確証はないですけど。<br /> <br /> 以前、クンダリーニは上がるのか下がるのか? の中で引用しましたけど、松果腺(松果体)はいわゆるアジナ・チャクラ(解釈や流派によってはサハスララ)とも言われているところですけれども、松果腺に入って一旦下に降りた後に再度松果腺にまで戻ってくるとすれば、感覚としてはアジナ・チャクラが二度開くと言うような感じになるのかなと思います。<br /> <br /> 意識がまず霊界から呼び降ろされ、全身に流れ入るということが、人に宿る神がその全能力を顕現する前に必要だということである。「秘教真義(M・ドーリル 著)」<br /> <br /> 実際のところ、ヨガを初めてすぐの頃からアジナ・チャクラの刺激はずっと続いておりました。<br /> <br /> それが実際にいわゆる世間で噂されているアジナ・チャクラが開くことと同義であるのか今までよくわからずにいました。<br /> <br /> 上に書きましたように眉間で圧力の爆発のようなことも起きましたが、おそらくはそれが最初の開いた経験であり、そこからエネルギーが入ってきて下半身に降り、今再度アジナのあたりが焦点になってきたように思います。<br /> <br /> であれば、やがて、本格的にアジナが開いていくのかなと思います。<br /> <br /> それが噂されているように本当に超能力の扉を開くかどうかは分かりませんし、それは割とどちらでも良くて、そのような能力より、ただ単に、この先に何があるのかな? と言う自然な歩みに従っている感じです。<br /> <br /> Wed, 04 Mar 2020 00:00:00 +0900 テクチュでの観察がヴェーダンタの「知識」に繋がる https://w-jp.net/2020/1855/ <br /> ヴェーダンタによって悟りの道を歩んでいる人は、「行為ではなく知識でのみ悟ることができる」とよく言います。<br /> <br /> これは、なかなかに謎めいた発言です。<br /> <br /> ヴェーダンタを勉強している人は、規律に従って服装や食べ物を選び、聖典を勉強してチャンティングをしてマントラを唱えて「知識」で悟ろうとしていますが、本人は自分たちのことを「修行」しているとは言わず、周囲から「修行している」と言われると「私たちは修行していない」と言いますので外目からは何のことかわかりません。<br /> <br /> 同様に、ヴェーダンタの人たちは独自のヴェーダンタの瞑想をしたりもしていますが、瞑想では悟りに至らない、と言います。一見、訳がわかりません。悟りに不要なら瞑想なんてしないと思うのですが瞑想はするようです。否定しておいて実際は瞑想をしています。ヴェーダンタ独自の瞑想というものがあるようです。<br /> <br /> これはヴェーダンタの教義に則った答弁をしているので、色々と読み替えてあげないといけません。<br /> <br /> ここで謎なのは以下の3つです。<br /> ・知識<br /> ・修行・行為<br /> ・瞑想<br /> <br /> ヴェーダンタは基本的に「奥義書」であるウパニシャッドを基にしていますので、他人にわかりやすいかどうかは気にしていないようです。それよりもむしろ聖典に基づいた正確さを大切にしているようです。<br /> <br /> まず「知識」ですが、辞書には「ある事について理解すること。認識すること。」とあります。これは記憶力の良さだけでなく理解の深さや応用力をも意味していますが、そのような読み方をするとヴェーダンタ的な文章では読み違えると思います。ある意味それは正しくもあるのですが、ひとまずそのようには読まない方がいいと思います。<br /> <br /> 「知識」と書いてあった場合は、「曇りなく認識すること。ありのままに見ること」と読み替えると良いと思います。<br /> <br /> ・・・ヴェーダンタを勉強している人がこれを見たら「違う」と言いかねない気もしますが、まあ、そのまま「知識」と読むよりは随分と分かりがよくなると思います。最終的には「知識」そのままで読めばいいとは思いますが、最初から文字通り読んだらよくわからない気が致します。<br /> <br /> ヴェーダンタの人たちは物事の本質を確かめようとします。<br /> <br /> よく聞く例え話で「ロープと蛇」がありますが、暗闇にあるロープを見て蛇だと勘違いして怖がるのは真実を見ておらず、真実を見ればロープなので、ロープだということが知識だ、というお話はありますが、どうもこの例え話は誤解が多いような気が致します。<br /> <br /> このロープの例え話を聞いて理解するポイントは2つあって、1つは「科学のように物事を分析して行けば悟ることができる」「知識を積み上げれば悟ることができる」というところと、もう1つは上記にも書いたように「曇りなく認識すること」という点です。<br /> <br /> ヴェーダンタの人はこの両方を言っている気がしますが、私は前者は結果であって、重要なのは後者だと解釈しています。ただ、前者と後者との繋がりを理解するのはなかなか難しい気がしています。前者はロープと蛇のお話そのもので科学の考え方そのもののように見えますが、後者の認識は無視されがちな気も致しますし、ヴェーダンタの論者に聞くと「気付きとかは関係ない。知識だけが必要」とか言われたりしますのでますます混乱しかねません。<br /> <br /> ヴェーダンタの人はもしかしたら前者のことだけを言っているのかもしれませんが、私なんかからすれば後者も重要だと解釈しています。<br /> <br /> 後者に関していえばゾクチェンのテクチュの境地で認識を続ければ物事をよりはっきりと識別するようになり、やがては曇りが完全になくなり、その時に見るものは全てありのままの「知識」になる、ということかな、と思います。<br /> <br /> おそらくはほとんどの人、悟っていない人の認識には曇りがあって、「知識」の周囲を覆い隠しています。悟ると曇りが完全に晴れて「知識」が明らかになる、ということだと思います。<br /> <br /> ヴェーダンタの人は「知識」だけで悟ることができると言いますけど、私はそれは言い方だけの問題だけであって、確かにテクチュの境地はヴィパッサナーであり観察ですので、それは「行為」とは言いませんので、形式として瞑想していてもそれはテクチュ以前の時のように「行為」とは言い難い面もあります。それでも肉体と意思を伴っておりますのでそれは「行為」と呼んでいいと私なんかは思うのですがヴェーダンタの人は頑なに「行為ではない」と言い、「知識」でのみ悟ることができると主張しますが、私に言わせてみれば同じことです。<br /> <br /> 修行や行為は「知識」という建前・お題目を抱えたらお題目が大事になってしまっているのかな・・・ という気もしますし、あるいは、単に言い方の問題かもしれません。そこは重要ではないと思います。<br /> <br /> 瞑想に関しても、ヴェーダンタの人はサマタ瞑想(集中瞑想)を「行為」と呼んで、「知識」の理解を深める瞑想を「行為ではない」と言っていますので、言い方だけの問題かなと思います。まあ、ヴェーダンタの人に対してあんまりこういう指摘はしませんけどね。本人たちがそういう言い方をしているのであれば、それに沿って理解してあげればいいだけのことで、相手の言い方を変える必要は全くないわけですので。私はただ単に理解したいだけですので。<br /> <br /> どうも、ヴェーダンタの言っていることは前提としてゾクチェンで言うところのテクチュの境地を求めているような気が致します。<br /> <br /> テクチュの境地とは「むきだしの心」の働きである「リクパ」という認識能力が働き始めた状態であるとゾクチェンでは定義しています。<br /> <br /> ヴェーダンタは幅広いですし時間がかかるのででそれ以前から勉強していても無駄にはならないと思いますが、本当にヴェーダンタが理解できて面白くなるのはテクチュの境地でリクパ(むきだしの心)が動き出してからかなあ、と言う気もします。<br /> <br /> このあたりは分かりにくい気がしますのでもう少し書きます。認識を3段階に分けましょう。<br /> <br /> 1.ゾクチェンのテクチュ以前の状態。認識が暗闇あるいは雲に包まれている。ロープを蛇と思ってしまう段階。何かを見て他の何かを思い浮かべてしまう状態。ヴェーダンタで言う「知識」が暗闇あるいは厚い雲で覆い隠されている状態。<br /> 2.ゾクチェンのテクチュの状態。雲が晴れてきたがまだ完全には晴れていない状態。若干、思い違いをしてしまう段階。いわゆる気付き、アウェアネス、観察、ヴィパッサナーが出てきた状態。ヴェーダンタで言う「知識」が若干の雲で覆い隠されている状態。<br /> 3.ゾクチェンのトゥガルの状態。雲がほぼ完全に晴れた状態。物事をありのままに見ることができる状態。ヴェーダンタで言う「知識」が即座に現れてくる段階。<br /> <br /> そうであれば、行うべき瞑想も段階によって変わってくると私なんかは思います。<br /> <br /> 1の段階:集中のサマタ瞑想で心を安定させる段階。ゾクチェンのシネーの境地およびテクチュの境地を目指す段階。<br /> 2の段階:ヴィパッサナー瞑想を行い、いわゆる「むきだしの心(リクパ)」で物事を観察し始める段階。<br /> 3の段階:ゾクチェンによると2の続きで到達できる。<br /> <br /> であれば、ヴェーダンタの言っていることは以下のように解釈できます。<br /> <br /> 1の段階:ヴェーダンタは「知識」でのみ悟ることができると言ってはいますが、この段階にあってはヴェーダンタは理解できないと思います。であればヴェーダンタは本来の意味の知恵という「知識」ではなく単なる「知っているか知らないか」と言う知識でこの段階では理解されます。それは無駄ではありませんが、この段階では、ヴェーダンタはヴェーダンタの人が言うところの「考える道具」になるのかな、と思います。特殊な用語によるヴェーダンタという世界のフレームワークを頭で理解する段階だと思います。ヴェーダンタの内容を自分の認識で確かめることができないので、「知っているか知らないか」と言う知識に留まるのかなと。それはそれで将来のためあるいは次世代に受け継ぐために無駄ではないとは思いますが、私なんかにしてみれば物足りなく感じます。<br /> 2の段階:ヴェーダンタが理解され始める段階。ヴェーダンタの言っていることは、ゾクチェンで言うところの「むきだしの心(リクパ)」で識別可能かなと思います。この段階においては、ヴェーダンタの言う「知識」は「知っているか知らないか」と本来の意味である「ありのままに認識」と言う意味の半々になるのかなと。部分的にヴェーダンタの内容が理解し始める段階かなと。あるいは、物事を「何度か」はっきりと観察することにより「徐々に」知識が現れてくる、まだ弱い知識の段階なのかなと。<br /> 3の段階:この段階には私はまだ至っておりませんが、おそらくは、2の段階がもっと素早く起こる状態になるのかなと。物事を何度も見ずとも瞬時に奥深くまで把握して即座に深い「知識」に至ることができる段階なのかなと。そうであれば、もはや「観察」などと言うものは瞬時のもの、あるいは、ほとんど時間を要せずにすぐに「知識」として現れてくるのかなと。<br /> <br /> この1の段階と3の段階を比べるとどちらも「知識」であることがわかります。<br /> <br /> 1の段階では「知っているか知らないか」と言う「知識」で、それは、識別や観察とかとはあまり関係がありません。<br /> <br /> 一方で、3の段階では「観察・識別」を通り過ぎたところにある、もはや観察・識別が瞬時すぎてあたかも不要かのように見えるほど当たり前になっている状態における「知識」なわけです。<br /> <br /> この2つの「知識」はかなり違うものであるのにも関わらず一見すると同じように見えることもあり、どちらも「知識」と表現しているので混乱が生じている気が致します。<br /> <br /> ・・・まあ、そうは言いましても、ヴェーダンタを勉強した人などそうはいない気がしますので混乱も一部の現象かもしれませんが。<br /> <br /> ヴェーダンタの人は「知識」と言いながら1と3をごちゃ混ぜにしているような気が致します。あるいは、表現は正しい筈なのに聞こえ手が間違って解釈しているのかもしれません。<br /> <br /> 例えば、ヴェーダンタの人は「正しく理解すればそれだけでいい。知識だけで悟ることができる」とか言いますけど、それは3の段階では確かにそうですけど1の段階ではそうはならないわけです。1の段階で得られるのは悟りではなく理解です。<br /> <br /> 3の段階においては「行動」などは不要で修行も不要です。だって、既に「到達」しているのですから。 ・・・私はまだ到達していないのでここは想像ですけど、おそらくはそうなんじゃないかと思います。<br /> <br /> 1の段階と3の段階の橋渡しがあるとすれば、それはやはり「修行」であると思うわけです。<br /> <br /> しかし、ヴェーダンタの人は「修行なんていらない」と言って、「知識だけあれば悟ることができる」と言いますが.... 私なんかから言わせれば、それは3の段階のお話で、到達した人が「不要」と言ったからと言って、そりゃ、3の段階で不要と思うだけで、それなら1の段階まで降りてきてそう言ってくださいよ、と私なんかは思いますが。悟っている人が悟っていないところまで降りてきて「やっぱり不要でした」と言うのなら納得できますけど、3の段階で「不要です」とか言ってもよく分かりませんし、私は上記のように橋渡しが必要だと思っています。<br /> <br /> そもそも、ヴェーダンタの悟った人のお話を読んでいますと、自分がどうして悟ったのかよく分かっていない人が散見されます。<br /> <br /> インドの聖者で生まれてその後しばらくして悟った人とか、自分が何をしていて何が大切で何が不要なのかよく分からずに自分にとって不要と言っている人がヴェーダンタの人だったりして、なんだかよく分からない感じです。ヴェーダンタ系のインドの聖者の中には、生まれながらにテクチュの境地でその後すぐに悟っている人もいるような気もしますがどうでしょう。<br /> <br /> ですから、私なんかが解釈するには、悟ってしまえばヴェーダンタは当たり前のことなんでしょうけど、悟るための良い手法だとは思えない、と言うところです。<br /> <br /> これまでにも何度か書いたように、1から3に至るにはいくつかの段階を経る必要があると思うのです。<br /> <br /> その結果、3の段階がヴェーダンタ的に「知識」と言うのならばきっとそれはそうでしょうし、そこは否定はしません。<br /> <br /> おそらくは・・・、ヴェーダンタの考え方として「行動は不要」「知識で悟る」と言っているが故に、それが教義と化してしまって本来の修行を修行と呼べずに他の表現で言うしかなくなった、と言う文化的なお話なんじゃないかな、と言う気もしますが... どうでしょう。 やっていることは瞑想にチャンティングに教義に従った食生活などですから、修行そのものだと思うのですが、ヴェーダンタの基本的な考え方と相容れないから他の呼び方をしているだけで、本質的には修行だと私なんかは思います。<br /> <br /> 例えば、ヴェーダンタのチャンティングは聖典の勉強ってことになっていますけど、古典的なヴェーダンタやサンスクリットの授業では教室に黒板がなくて教科書もなくて先生の発音を集中して聞いて暗記して復唱して... と言うやり方になりますので、それはめちゃくちゃスパルタで集中力を必要とする激しい修行だと思いますけど、どうでしょうか。それは、本人たちは勉強と言っていますけどヨーガの瞑想の集中瞑想(サマタ瞑想)さながらの激しい集中が要求されますので、形は違どもサマタ瞑想をして1番目の段階を修行しているように私なんかには思えます。<br /> <br /> そうして極度の集中力を身につけて2番目の段階の観察力に至ってヴェーダンタの教えを理解する、と言うのは手法としては理に叶っているとは思いますが、それが今のこの甘やかされた世の中で本当に可能かどうか.... 古典的なヴェーダンタの教室には黒板もなくて教科書もノートもペンもなくて全部暗記することを要求されますが・・・・ まあ、現代人には無理では? とも思いますが。<br /> <br /> 私がインドのリシケシでヴェーダンタの先生に教えてもらった時は、その先生はヨーガスートラやバガバッドギータを暗唱できましたけど、その先生ですら現代では教科書を使っていましたし。古典的な手法に従うのならば、教えに直接関係のないところで実は重要な能力を育てていることもある、と言うのが私の見立てですので、もしヴェーダンタの教えに完全に従うのであれば「メモなし」「黒板なし」「教科書なし」「全て暗記」まで古典的なやり方を真似すればきっとそれでも悟れるとは思いますが... そこまでしている人が現代にいるのでしょうか?<br /> <br /> 現代でもチャンティングはしますしその発音や意味などは勉強しますので、時間をかければ同様の効果があるのかもしれません。それをヴェーダンタの人は勉強と呼びますが、私なんかが見るとそれは修行であると思うのです。1番目の段階であれば修行、2段階以降は修行ではなくなる、と言う解釈もできますが、やはり広義では修行だと思うのです。<br /> <br /> そう言うわけで、私なんかが思うには、やはり1から3に至るには修行が必要だと思う次第です。<br /> <br /> Mon, 02 Mar 2020 00:00:00 +0900 精神が安定する静かな環境の大切さ https://w-jp.net/2020/1854/ <br /> ある程度の成長をすれば環境にさほど左右されなくなるとか言っている人もいますけど、まあ、あまり本気にしない方がいいと思います。基本的には人は環境に左右される生き物です。<br /> <br /> 同化してしまうと左右されないと言うかその基準にはまり込むので影響されない気がするだけで、成長もしなければ落ちにくい状況になるのかなと思います。<br /> <br /> 精神的な訓練には自分を変えることが必要で、そのためには静かな環境が必要だと思うわけです。<br /> <br /> 今の時代は山の中にこもらずに街で修行する時代だとか言う論調が数十年前から流行っていて、ことあるごとにそう言うこと言っている人がいますけど、あまり真に受けない方がいいと思います。<br /> <br /> たしかにある程度の成長がなされた後はいいでしょうが、数年間は静かな環境で過ごさなければならない人の方が多いと思います。最初はそんなものです。それが普通です。<br /> <br /> 思えば、前世の記憶で誰かに相談された際、心安らかに暮らす環境がないことをその人は訴えておりましたが、私はたぶんそのことを十分に理解せずに環境の重要さを抜きにして精神的修行を解いたような気も致します。<br /> <br /> その人の修行がうまくいかないことを他の理由に求めてしまっていました。<br /> <br /> しかし、今から思えば、それは環境が必要だったのです。そんな簡単な答えであっても、恵まれた環境にいる人は相手の環境への想像力が足りなくなってしまうのだと思います。<br /> <br /> であれば、ヨガのアシュラムとかで静かな環境にしばらく暮らすことは有用ですね。<br /> <br /> 昔も有用さを理解していたかと思いますが、最近になってより実感が湧いてきた気が致します。<br /> <br /> Sun, 01 Mar 2020 00:00:00 +0900 意識の虚脱感と軽い恐怖と共に光が滲み出る https://w-jp.net/2020/1853/ <br /> 朝、3時頃にふと目覚めて体を観察すると、最初は風邪の初期症状かと思いました。<br /> <br /> 体が少し弱っているような気がしたのですが、熱はありません。<br /> 最初は、意識も少し弱っているような気がしました。<br /> <br /> ですが、試しに視線を動かしてみるとスローモーションのヴィパッサナー状態は保たれておりましたので基本的な「識」の感覚は動いているようです。ですから、意識がタマスになって認識力が8fpsとかに落ちているわけでもなさそうです。そこは普通のようです。<br /> <br /> では、この状態は何でしょう?<br /> <br /> 意識の虚脱感・・・ と言えばそうですが、無力感、と言い換えてもいいかもしれません。<br /> <br /> ですが、上記のようにヴィパッサナー状態が保たれておりますのでタマスの愚鈍などんよりとした感覚に落ち込んでいるというわけでもなさそうです。<br /> <br /> おそらくは・・・ エゴの抵抗かな、という気がしております。抵抗が強いと激しい風邪になったり気分がどんよりとしてしまうのかなと。<br /> <br /> 体も軽く緊張しておりますので、気が付いたら意識的に解除してリラックス状態に戻してあげたりしています。<br /> <br /> 軽い風邪のような症状ですが、体を観察しておりますとオーラが体の表面でざわついており、そのオーラはまるで光のようです。<br /> <br /> そのざわつきは意識と同調しているかのようで、瞑想中のように集中はしておりませんので自然にそよ風で軽く吹かれている雲や霧のような感じになっております。<br /> <br /> 思えば、昔はこのオーラの感覚は「ざわつき」の「感覚」として認識されておりました。<br /> <br /> ですが、今朝は、何故かそれは「光」だと思いました。<br /> <br /> スピリチュアルでは「人は光の存在だ」とか「光を感じましょう」とかよく言われていますけれども、理屈ではわかっていても、いまいちピンと来ていませんでしたが、今日は自然に「あ、これは光だ」と識別できました。<br /> <br /> おそらくは・・・ エゴの抵抗が少なくなってきて、オーラの中の愚鈍なタマス・無明のような質が減ってきたので体の光が少しづつ滲み出てきているのかな、と、そんな気が致します。<br /> <br /> エゴの抵抗は、若干の軽い虚脱感と少しの恐怖と喪失感が伴っている感じですが、それを補うかのごとく光を感じています。<br /> <br /> こうなれば、今からどちらへ進むのかは明らかで、光の世界へと進むのだとしたらエゴの抵抗である虚脱感や恐怖や喪失感はきっと一時的なものかな... と思っております。<br /> <br /> 今は、もうちょっとこの状態で様子を見ます。<br /> <br /> 特に抵抗するでもなく、きっとこれは良い変化なのですから、このままこの先まで進めればと思います。<br /> <br /> Sun, 01 Mar 2020 00:00:00 +0900 想念が20秒かけて消えてゆくのを観察する https://w-jp.net/2020/1852/ <br /> 本日の瞑想中、急に子供の頃に遊んだゲームのBGM(音楽)が流れてきて懐かしい思いに3〜5秒ほど浸りました。久々に遊んでみてもいいかなという思いに包まれたわけですが、特に否定することもなく、同意することもなく、そのBGMを聞いていました。<br /> <br /> メロディが2〜3周するまでは普通に流れていました。<br /> <br /> すると、どうやらそれは体のどこかに眠っていた想念だったのか何なのか、急にふとその思いが弱まって行きました。<br /> <br /> 思いが弱まる、というのは、想念が弱まっていった、ということです。<br /> <br /> 具体的には、聞こえていた音楽が想念だったわけですが、その音楽の心の中の音量が小さくなっていって、1秒ごとに5%ほどボリュームが小さくなるようなゆっくりとした音量変化で20秒ほどかけて音楽が消えていったのです。<br /> <br /> 少し前に、論理思考は独立して機能しているみたいなお話を書きましたが、その中の表現を使いますと、想念や雑念は割と体の感覚に近くて、今回の音楽はこの種の雑念・想念として現れていました。<br /> <br /> 一方で、それを眺めている「見ている」という感覚は別にあって、いわゆる「観」、「アウェアネス(気付き)」、「ヴィパッサナー(観察)」という表現で言い表されるものがその音楽を聞いていたわけです。<br /> <br /> それは聞いていたわけですが、瞑想的な表現としては「眺める」という言葉を使っても同じことです。今回は映像はなくて音楽だけだったわけですが、瞑想的にはそんな時も「眺める」とか言ったりすると思います。まあ、文化的なものかもしれません。瞑想は集中(サマタ)と観察(ヴィパッサナー)ですので観察というと映像的なイメージがどうしても強くなってきてしまいますが、音楽を観察する場合は「聞く」であったとしても「見る」という表現を使ったりします。<br /> <br /> ヨーガの理屈からいうと「見る」という機関は全ての五感を代表していて、「見る」という機能が他の全ての機能そのものだ、というような説明もありますので、そう言った観点からも「見る」という表現は間違いではありません。<br /> <br /> まあ、理屈はそういうことではありますが、今日の瞑想では、音楽が不意に現れて、それが割と長い時間をかけて消えていったわけです。<br /> <br /> 瞑想の説明で「雑念が浮かんでもそれと戦ったりせずに観察するとその想念は力を失ってやがて消えて行きます」みたいなお話がヨーガではよくありますけど、これは、私が思うには中級者以上のお話だと思います。<br /> <br /> サマタで集中する力がつき、更にヴィパッサナーで観察する力がついて初めてそれが可能になるのかな、と私なんかは思うわけです。<br /> <br /> そうなる前は、雑念が浮かんできたら「ギュッ」と念を込めて意識的に雑念を止めるくらいしか方法がないと思うのです。<br /> <br /> どうも、ヨーガやその他の方法は初心者に優しくない(苦笑)と言いますか、中級者以上向けのお話を初心者にも適用させていて、それが混乱を招いているような気も致します。<br /> <br /> 例えばヴェーダンタも中級者以上のお話なのに最初から知識だけで悟れるわけもないですしね。<br /> <br /> 私なんかが思うには、最初はヨーガでサマタ瞑想(集中瞑想)でゾクチェンの言うところのシネーの境地に至って、その後にヴィパッサナー状態に達したらヴェーダンタにしても適用可能になるかと思うのですが、どうも、段階を踏んで成長すると言う観点が薄い... と言いますか、本人たちには明確なのかもしれませんが、どうもわかりにくかったです。<br /> <br /> まあ、その話などもおいおい。<br /> <br /> Sun, 01 Mar 2020 00:00:00 +0900 スローモーションのヴィパッサナー状態を妨げる習慣 https://w-jp.net/2020/1851/ <br /> いくつかの習慣により、いわゆるスローモーションのヴィパッサナー状態が妨げられるようです。<br /> <br /> ・食べ過ぎ<br /> ・お肉<br /> ・きのこ類?(要検証)<br /> ・揚げ物類(天ぷら等)<br /> <br /> これはヨーガでよろしくないと言われている食べ物と被る部分があります。<br /> <br /> 最近のスローモーションのヴィパッサナー状態に至る前は、そこまで影響はなかったように思います。<br /> <br /> ですから、ヨーガ等で言われている食事の習慣は文化的なものが大きいのかな、と思っておりました。今までは。<br /> <br /> 食生活においては、教理とは関係なく自然にお肉は食べなくなってきておりましたし、食事の量も減ってきておりました。ですので、自然に変わる食生活に従えば良いのかな、というくらいに思っていたのですが、どうやら、ここに来て自然以上に遥かに食生活に影響を与えている習慣があったことに気付かされました。<br /> <br /> まあ、それも含めて自然な変化だと言えばそうなのかもしれませんが、これは明確にわかる感覚ですので、以前のようになんとなく食べなくなる、という感覚よりもはっきりとしたものです。<br /> <br /> 明確にヴィパッサナー状態が妨げられますので、はっきりと良くないことが分かるのです。<br /> <br /> きのこ類は微妙で、多少は影響がある感じです。お肉は牛肉はマシですが豚肉はかなり悪いですね。鶏肉もそんなに良くないです。<br /> <br /> 感覚的なものとしてお肉は避けてきており、お肉くらいしか選択肢がない時は仕方なく食べても後悔することが多く、お酒も飲みたくなくなって最近はゼロなのです。<br /> <br /> 今までは、害があるとは言っても具体的にはちょっと気分が重くなるという程度でしたが、最近はスローモーションのヴィパッサナー状態という具体的な状態が判断の基準になってきておりますので、そうした害のある食べ物を取り入れると明確にヴィパッサナー状態が妨げられるのが分かるわけです。<br /> <br /> ですから、たまに聞くお話として、「ある程度に達したら食事は何を取っても良い」みたいな話は、少し前まではもうそんな段階なのかもしれないと思ったりしたこともありましたが、どうやら全然そんな状態ではないことがわかりました。<br /> <br /> 最終段階に至っても食事に影響されないなんてことがあるのでしょうかね? なんだか、影響されないなんてことは永遠にない気がしてきました。<br /> <br /> 理屈を考えてみれば当然で、食事を取るということはそのもののオーラを取り入れるということですから、淀んだオーラの食物を取り入れれば自分のオーラが淀むのは当然のことであるわけです。<br /> <br /> もちろん、淀んだオーラも純粋なオーラもそれよりも上の階層から見たら同じ「わたし」なわけですが、そんなレベルは私はまだ知りませんし。<br /> <br /> であれば、この地上に住む以上は相手のオーラを取り入れることが食事という行為である以上、永遠に食事に気を付けるというのがいい気がしてきました。<br /> <br /> おそらくは、このあたりが理解できない人向けに「何を食べてもいいんですよ」と過去のグルが言った大衆向けの説明から始まったお話の気もします。<br /> <br /> 生活習慣で言えば身の回りの環境もそうですね。大衆向けの説明に「どんな生活をしてもいいのですよ」とは言っても、実際には清潔で純粋な環境でなければヴィパッサナー状態は失われて行きます。これもオーラで説明がつきますし、そんな説明しなくても感覚的に当然だと思うわけですが、それでも、「理解」を求める大衆向けには「それでいいんですよ」と言ってあげる必要があるような気がします。<br /> <br /> 一方で、良いこと良くないことは明確な基準があって、分かる人は従えばいいのだと思います。<br /> <br /> その辺りも、従う従わないという選択は自由意志が尊重されているわけですし、自由に生きればいいわけです。<br /> <br /> Sat, 29 Feb 2020 00:00:00 +0900 まことの悟りが現れる前兆 https://w-jp.net/2020/1850/ <br /> ゾクチェンの3つの境地に当てはめればテクチュの境地の後にトゥガルの境地があるわけですけれども、おそらくは私はテクチュにいてこれからトゥガルかな、ということはここ数ヶ月の考察で推測してきたわけですけれども、最近の心が水面のように穏やかになるのは比喩ではないという経験あるいはヴィパッサナー的な「識」の状態に関して、面白い記述を本に見つけました。<br /> <br /> 同書では、ヴィパッサナー的な識の経験の説明として、禅宗の一派である黄檗宗(おうばくしゅう)の「鉄眼道光(てつげんどうこう)」の発言を引用して以下のように述べています。<br /> <br /> 心が澄みわたった大空のようになる体験はいまだ悟り体験ではない。それは単なる識を仏性/心の本性と誤解しているのである。(中略)この識はその全体が本来の心であるにせよ、無明の眠りが付着しているゆえに、「ただちに本来の心である」とは言いがたい。「本来の心である」とは言いがたいにせよ、やはり、もろもろの妄想がもはや去ってなくなっている状態であるので、ひたすら迷いであるわけでもない。もし修行者がここに行き着くならば、いよいよ精励して修行するが良い。やがてまことの悟りが顕れるはずの前兆である。「悟り体験を読む(大竹 晋 著)」<br /> <br /> これは、ゾクチェンでいうところのテクチュからトゥガルへと至る説明と類似しているような気が致します。<br /> <br /> ゾクチェンではテクチュが「むきだしの心」が現れてきた状態ということになっていますが、上記の記述と照らし合わせてみますと、「むきだしの心」「本来の心」がテクチュの状態で現れてはきたものの、まだ若干、汚れと言いますか無明と言いますかタマスと言いますか、流派によって言い方は異なれどもまだ少し汚れが残っている状態がテクチュであり、ゾクチェンのトゥガルあるいは悟りの状態に至るにはもう一段階、必要ということでしょう。<br /> <br /> ですが、ゾクチェンの説明にもあったのですがテクチュとトゥガルは一続きでテクチュに至ることができればトゥガルに自然に導かれてゆくという記述を読んだと思いますので、そうであれば、上記の仏教的解釈においても同様に「前兆」とあるように一続きで導かれてゆくのかな、とも思います。<br /> <br /> 妄想の闇は晴れたにせよ、「まだここではない」と心得て、捨て置きせず、また喜びもせず、悟りを待つ心もなく、ただ無念、無心のまま、ひたすら務めて行けば、忽然として真実の悟りが顕れてあらゆる法を照らすさまは、あたかも百千の日輪が一度に出現するかのようである。「悟り体験を読む(大竹 晋 著)」<br /> <br /> なるほど。道はここに示されたような気が致します。<br /> <br /> Fri, 28 Feb 2020 00:00:00 +0900 幽体離脱中に2000年問題を回避したお話 https://w-jp.net/2020/1849/ <br /> 何度か書いておりますように子供の頃に幽体離脱をして過去と未来とを長い間彷徨って真理を見たりハイヤーセルフや守護霊たちから学んだりしたわけですけれども、その時、あるいは、その後に夢の中でいわゆる2000年問題に対処したことを思い出しました。<br /> <br /> その頃、私はまだ学生で卒業するかどうかという頃でしたが、時代はインターネットによるITバブルと2000年問題で盛り上がっていたように思います。<br /> <br /> 具体的には、その時代に対処したわけではない... というと語弊がありますが、こういうことです。<br /> <br /> 更に遡ること7〜8年前にたしか最初に幽体離脱をして、その時、時間を超えて過去と未来を行き来して様々なことを学んだり将来の意識に入り込んで意思決定をしました。<br /> <br /> これ、なかなか理解されにくいことですけど、幽体離脱した後は時間を過去にも未来にも行き来できましたので、基本は近くの時代にスライドするのですが、大きく行き来することもできました。<br /> <br /> その幽体離脱した時の意識の空間は繋がっていて、例えば、そのとある幽体離脱の数年経った後に夢で同じ空間に接続して同じ意識に繋がって意思決定をする、という時もありました。どちらも同じ空間ですので、数年前に幽体離脱した時の意思決定と、後に夢で接続した意思決定はどちらも同じ瞬間の意志なのです。<br /> <br /> このことを人は「今しか存在しない」「未来とか過去は存在しない」とか言ったりするのかもしれませんけど、言い方はともかく、意志の空間は繋がっていて、そこは過去にも未来にも意識のフォーカスによってスライドできますので、そうして、意識のスライドのとある瞬間において2000年問題にフォーカスしたことがあるのです。<br /> <br /> 幽体離脱した私の意識は時代をフォーカスしているとある時代に2000年問題で盛り上がっているのを発見しました。<br /> <br /> 上に書いたように、幽体離脱の時にしたのか、あるいは、夢の時にしたのかは微妙なところで、同じ空間に繋がっておりますので、どちらも正解ではあるのですが、まあ、幽体離脱で2000年問題を解決したとも夢で2000年問題を解決したとも、どちらとも言えるわけです。<br /> <br /> まあ、所詮はこのような幽体離脱でのお話ですので、一般的には、夢のお話だと思っておいて下されば良いです。何も証拠はないですしね。<br /> <br /> ですから、これから話すことは夢で見たお話だと思ってください。<br /> <br /> 幽体離脱、あるいは夢の中で私はとあるタイムラインを漂っていました。<br /> <br /> 2000年問題が起きて、社会が混乱する姿を見ました。<br /> <br /> 問題として大きかったのはヨーロッパの、おそらくは西の方、フランスかスペインか・・・ その辺りの電力系の問題が発端として暗い夜に突入し、人心が不安定になり恐慌および争いの世の中に突入するタイムラインでした。その他にもたしかアメリカの問題や、日本の問題もありました。さすがに20年以上前の記憶ですので曖昧ですが、たしか原子力発電所の問題もあってメルトダウンに近い問題も生じていたような気が致します。<br /> <br /> ですから、その時の私の意識は時代を行き来するうちにこれは良くない・・・ という印象を強く持ったようです。<br /> <br /> その時、私の意識は誰から指示されたわけでもなく・・・ と思ってはおりますが実は上位の意思があったのかもしれませんが、少なくともその時の私の幽体離脱中の夢っぽい意識の中においては半分「実験」のつもりで、問題究明および解決にあたったのでした。<br /> <br /> 問題究明とは言いましても、時間軸を行ったり来たりできますので、基本的には未来のニュースを見て原因特定している番組の内容から理由を知るだけのお話です。<br /> <br /> 数ヶ月あるいは数年経てば原因究明も進んで詳しくテレビ報道しますが、その時は問題が大きかったので原因究明は早くて1ヶ月とか数ヶ月もしないうちにテレビで様々なお話が流れていたように思います。<br /> <br /> 原因究明がそのくらいでできたということは対処も割と短期間でできた筈ですが社会に残った傷跡は大きく、どうやら今のようなインターネットによるIT革命は今日ほど盛んではなくてITバブルの出鼻を2000年問題でくじいてしまってITに資金があまり行かずに旧来型産業が温存されたようにも思います。このあたりはちゃんと見ておりませんので半分は印象によるインプレッションになりますが、状況はどうあれ、世界の全体を見たら2000年問題で大きく時代が動いて暗い世の中になっていたと思います。少なくとも私の見たタイムラインではそうでした。<br /> <br /> そうして原因を特定できたら後は時代を遡ってその原因である研究所あるいは開発のオフィスに出向いて、問題のところを研究者あるいは開発者の意識に植え付け、直るまで繰り返し繰り返し意識にそのことを働きかけるだけです。一旦問題に気が付けばそこは専門家ですから適切に対処してもらえるというわけです。<br /> <br /> そうして、2000年問題はほとんど解決して、2000年の大晦日は静かに過ぎて行きました。人々は、何も起こらなかった夜を揶揄して騒ぎ過ぎだとか口々に言ったわけですけれども、実際は大騒ぎしていた筈だったのです。<br /> <br /> そういえばその前後にジョンタイターとかの予言が流行ったりしましたけど、私はその人が本物かどうかはわかりませんけど少なくとも言っていることのうちに2000年問題のこともあって、それを境に世界が暗い方向に行くというのは私が見たタイムラインと妙に一致しておりましたので当時は興味深く眺めておりました。<br /> <br /> まあ、未来人かどうかはともかく、意志が過去や未来に行くのは幽体離脱時の経験からしてあり得ると思いますし、意志の世界には時間的制約はあまりないのではないでしょうか。<br /> <br /> 同じ幽体離脱と言っても他の人の経験談には時間を超えるお話はあまり出てこないように思いますが、それは、地上の生活に慣れ過ぎていて時間的制約に意思が囚われているだけで、時間を越えようと思えば超えられるように思うのですが、どうでしょうか。<br /> <br /> それはともかく、そうして2000年問題は回避され、ITバブルでインターネット企業に大金が投資され、こうして世界はインターネット企業が時価総額のトップを飾る世界になっているわけです。<br /> <br /> この現代を人はインターネット企業の独占が問題だとか言ったりするわけですけれども、違うタイムラインで従来型産業が維持されていて世界各地の紛争も今のタイムラインよりも多くてインターネット企業が今のタイムラインよりも細々と存在している世界とを比べますと、今のタイムラインは色々問題があるとはいえ、割とマシなタイムラインなのではないかと思うわけです。<br /> <br /> ま、こういうのは信じる必要はないです。<br /> <br /> 上に書いてあるように、夢で見たお話ですからね。<br /> <br /> しばらくすっかり忘れておりましたが、不意に思い出しましたので書いてみました。<br /> <br /> Thu, 27 Feb 2020 00:00:00 +0900 純化されつつあるやや曇ったオーラを通して周囲を認識する https://w-jp.net/2020/1848/ <br /> 意識が拡大するにつれて体の周囲のオーラの境界を感じるようになりました。<br /> <br /> 心が穏やかになり、意識が広がると、体のオーラと外側との境界がザワザワとした水面のように感じられるようになったのです。<br /> <br /> それは、シュタイナーの説く境域の守護者かもしれませんし、単なるオーラの壁のようにも見えます。<br /> <br /> 体と、体の近くに存在しているオーラまでが内側です。オーラの外側との境界がそのように濁ったようなザワザワしたような水面あるいは灰色の雲のように感じられます。<br /> <br /> 内側から見るとオーラの境界のざわつきであり、その外側に広い世界が広がっています。<br /> <br /> 外側を感じることを意識の拡大といえばそうでしょうし、この、内側から外側を見たときの景色をシュタイナーの言う境域の守護者だといえばそれはそうかもしれません。<br /> <br /> 内側から曇りガラスを通して外を眺めるとよく見えないのと同様に、曇ったオーラを通じては外がよく見えません。<br /> <br /> 外側に立っている守護霊や友人知人の霊などの存在を見て、それがよく見えない初期の段階のことをシュタイナーは境域の守護者と呼んだのかもしれません。なんとなくそんな気が致します。<br /> <br /> 精神的訓練を始める前は完全にオーラが濁っていて何も外が見えなかったりしますが、やがてオーラが純化されてきて雲の色が次第に白くなってゆき、まだ曇ってはいるものの霧が次第に晴れてきて外側が見えるか見えないくらいになったとき、その時、初めて外側の景色を曇ったオーラを通じて見たら、それは雲のようにぼやけた霊の体のように見えるかもしれません。それを境域の守護者とか呼んだのかもしれません。<br /> <br /> 境域の守護者とか言っているのはシュタイナーくらいですが、確かに、曇ったオーラを通して外を眺めるとそのように見えるかもしれません。シュタイナーは存命ではないのでこれは想像になってしまいますが。<br /> <br /> シュタイナーは境域の守護者を突破して霊界への扉を開く、と言うようなことを言っています。<br /> <br /> であれば、その段階とは、意識が次第にクリアになってあと少しの曇りが残っている状態になって外がようやく見え始めた段階のことを言うのかな、と推測できます。<br /> <br /> 瞑想中に一瞬見えた小悪魔の影もそれに準じたものかもしれません。<br /> <br /> この推測が正しいのであれば、それは境域の守護者とか大そうなものではなく、見えたものがそのようにも解釈できる段階に達した、と言うことなのでしょう。<br /> <br /> ゾクチェンで言うテクチュの境地がこれに該当するのかなと思います。テクチュは曇りがある程度晴れてはいるものの完全に晴れてはおりませんので似ている気が致しますし、段階的にも合っています。<br /> <br /> まあ、本人に聞くことはできないので想像です。ですが、そんな気が致します。<br /> <br /> Wed, 26 Feb 2020 00:00:00 +0900 自分のオーラを使わないヒーリング https://w-jp.net/2020/1843/ <br /> 自分のオーラを通じてヒーリングする人は大勢いらっしゃいますけれども、私のグループソウルから転生しているパラレルワールドにいる自分の分身は、自分のオーラを使わないヒーリングの技を持っています。<br /> <br /> ヒーリングは色々と方法があります。<br /> <br /> ・自分のオーラを相手に繋げて、自分のオーラを譲るヒーリング<br /> ・天あるいは地のエネルギーを一旦自分が受けて、自分の体を経由して相手に与えるヒーリング<br /> ・天あるいは地のエネルギーを相手に直接与えるヒーリング<br /> <br /> 大抵は自分のオーラを経由するヒーリングですが、自分のオーラを経由しないヒーリングですと自分のオーラが相手のオーラと混ざらないために自分のオーラが淀まないというメリットがあります。<br /> <br /> この他には、自分ではやらずに守護霊や守護天使が直接ヒーリングするというお話もありますが、それは肉体があるかないかの違いだけでさほど差がないのでここでは割愛します。<br /> <br /> 守護霊や守護天使のエネルギーを一旦受けて自分の体を経由して相手に与える場合は上記の2番目と割と近いので含めることができます。<br /> <br /> ヒーリングのテクニックとして、地のエネルギーは淀んでいることが多いために天のエネルギーを使う方が良いと思いますが、天のエネルギーを使うためにはまず自分が天に繋がる必要があります。<br /> <br /> 最初に自分が天に繋がり、その後、自分のオーラの触手のようなものをグッと天にまで伸ばして、天からヒーリングの対象(相手)、例えば自分の目の前にいる相手に対して、天から新たなエネルギー・ルートを作ってヒーリングの対象(相手)にエネルギーを繋ぎます。<br /> <br /> そうして一旦エネルギーが天から繋がったら、あとはエネルギーを降ろすだけです。最初が難しいですが、一旦繋がってしまえば維持するのはさほど難しくはありません。繋がりが切れないように時々意識でルートを保持してあげるだけです。<br /> <br /> これは人のヒーリングだけでなく、場所のヒーリングにも使えます。<br /> <br /> 場所のヒーリングに使う場合は、そこを通る人が自動的にその光の柱からヒーリングを受けることになります。<br /> <br /> 言い方を変えれば、イヤシロチ化ですね。<br /> <br /> 保持していないとそのエネルギーの柱は切れてしまうことがありますので時々メンテナンスする必要があります。<br /> <br /> 人為的に作った場合ですと数十分や長くて数時間で無くなってしまいますので、場所をイヤシロチ化する場合は維持が肝心だと思います。<br /> <br /> その手間を考えると、聖地を守ってくれてくださる方々の苦労は並々ならぬものがあるのだな、ということも理解できるわけですが、それはまたおいおい。<br /> <br /> Fri, 21 Feb 2020 00:00:00 +0900 エネルギーの枯渇に気を付ける https://w-jp.net/2020/1842/ <br /> この日常生活にはエネルギーの枯渇の危険性が沢山あります。<br /> <br /> 一般常識で「良い」とされていることでも、実のところやらない方が良いことも沢山あります。<br /> <br /> その1つが「相手への同情、同意」です。<br /> <br /> もちろん、時と場合によります。<br /> <br /> 同程度の相手あるいは自分より素晴らしいオーラをお持ちの人に同意するのは良いとしても、自分より下のオーラにいちいち同情・同意していたら落ちるところまで落ちてゆきます。<br /> <br /> エネルギーを奪うための「嘘」がこの世には蔓延っておりますから、そう言った嘘を見抜いて相手にしないことが肝要です。<br /> <br /> まあ、こんなこといいますと「それは分離の意識だ」とか「みんな本当は繋がっているのです」とかスピリチュアルなことを言い出す人が必ずいますけど、実際のところこの世界は野獣がたむろしているジャングルですから、いちいち相手に同意とか同情していたら落ちるところまで落ちてゆきます。<br /> <br /> このジャングルを生き抜くためには自分たちと意思を同じくした人たちとの間で同情・同意をして同じ船に乗ることが肝心で、誰それ構わず同意して自分を相手に合わせる必要はない筈です。<br /> <br /> そして、それこそが最終的には相手のためになります。<br /> <br /> 相手は、せっかくどん底に落ちているのに勝手に誰かが自分を助けてしまうとそのどん底を心底、骨の髄まで体験することができなくなってしまうからです。<br /> <br /> ですから、どん底に落ちている相手にはどん底を体験して貰えばいいのです。<br /> <br /> もちろん、突き落とすことはしてはなりません。相手が勝手に落ちているのですから、それは自由意志のなせる技ですからそれを「これがいいよ」とか「光の世界に上がりましょう」とかスピリチュアルなことを言って引き上げようとするのは余計なお世話というものなのです。<br /> <br /> ぶっちゃけ、この世界は、いいことも悪いことも含めて全て完璧ですから、落ちているのも趣味みたいなものなのです。<br /> <br /> 好きにすればいいのです。<br /> <br /> 光の世界も趣味みたいなものです。私は趣味で光の世界を好みますが、そうでない人もいるわけです。<br /> <br /> それなのに、光の世界がいいですよ、なんて他人にいう必要はなくて、誰かにそんなことを言っているのだとしたら、それは相手をコントロールしたいというエゴかもしれないわけです。<br /> <br /> 基本は、各人が好きに生きればいいのですから、落ちようが上ろうが好きにすればいいのです。<br /> <br /> 落ちる人は往々にして他人からエネルギーを奪おうとしますが、私はそんなのに付き合うのは趣味ではないのでエネルギーを盗まれないようにしてエネルギーの枯渇に気を付ける、という、ただそれだけのお話です。<br /> <br /> 世の中にはヒーラーさんとかいますけど、それすらも趣味みたいなものです。自分が相手のためにエネルギーを与えると決めてヒーラーになったのだとすれば、それは好きにすればいいわけです。それを誇る必要は全くないし、全ての人がヒーラーになる必要もありません。<br /> <br /> それもまた、趣味みたいなものです。<br /> <br /> 何でもして良い、自由な素晴らしいこの世界であるわけです。<br /> <br /> Thu, 20 Feb 2020 00:00:00 +0900 神から離れれば離れるほど遠近感が生まれる https://w-jp.net/2020/1840/ <br /> タマスにより没入感が生まれるのと同様に、タマスになればなるほど遠近感が生まれるような気がしております。これは、ヴィパッサナーで遠近感がなくなってくるのと逆の現象で、ヴィパッサナー状態から離れれば離れるほど遠近感が生まれ、それはタマスな状態のことである、とすれば、とても理に叶っているような気が致します。<br /> <br /> 西洋文明は近年になって遠近法という手法を発見し、アジアや過去の文明を遅れた文明だと白人文明が主張したわけですが、実際のところ遠近法が上記のようなものだとすれば遠近法を発見できた白人文明とはタマスな文明でありヴィパッサナーとは遠く離れた文明であり、神とは遠い文明であるという仮定が成り立つわけです。<br /> <br /> 科学技術の発達も遠近法のような技術に根差しているわけで、タマスなことが必ずしも悪いというわけでもなく、タマスによって真実を探るということがよく行われているのだとすれば近年のタマスは神の意志であるという解釈も成り立つわけです。<br /> <br /> タマスな状態、神と離れた状態に突き放したのが近年の文明だとすれば、それでどうなるのか見極めたかったという神のご意志であるという仮説も成り立ちます。<br /> <br /> 一方、ヨガの3グナのうち他の二つ、ラジャスとサットヴァはどうかと言えば、ラジャスは遠近感が中くらいで、サットヴァなヴィパッサナー状態は遠近感が少ない状態ですが、サットヴァは物事を正しく把握するという点において遠近法とは相性がいいのかもしれません。<br /> <br /> であれば、タマスだけが遠近法を生み出したのではなくタマスとサットヴァが組み合わさって遠近法を生み出した、という仮説も成り立ちます。<br /> <br /> もしかしたら、科学技術や文明というのは両極端なタマスとサットヴァによって作られてきたのかもしれません。そんな仮説も出てきます。<br /> <br /> 一般大衆が中間のラジャスだとすれば、極端なタマスが神の意思で作り出され、それがサットヴァな神の意識と合わさることで認識が生まれ、文明や科学技術が発展する。<br /> <br /> ヨガの世界では割とタマスが悪者になりがちですが、そう考えると、タマスも意外に悪くないものだということになります。<br /> <br /> Tue, 18 Feb 2020 00:00:00 +0900 コロナとその後 https://w-jp.net/2020/1838/ <br /> ■あるお方がコロナでお亡くなりになる予感がしました [2020/2/16 現在、コロナの初期]<br /> <br /> Twitter等で拡散されている記事をたまたま目にした瞬間、「あ、この人コロナで死んじゃう」と頭に入ってきました。<br /> <br /> ・・・ですが、さすがに本人には言っていません。風評被害と言うものもありますし、単なる気のせいかもしれません。<br /> <br /> その記事は、コロナが逆に商売のチャンスだ... みたいなことを書いていて、こういうのをネタにするのはモラル的にどうなんだろうなぁ、と思ったらふと上の直感が湧いてきたのです。<br /> <br /> いや、死んで欲しいとは思っておりません。むしろ、人は好きに生きれば良いと思っていますから、ちょっと不道徳を感じたくらいであとは放っておくつもりでした。<br /> <br /> しかし、流石に上記のような直感が現れましたので、もしかしたら、今のコロナの被害は世間で思っているより遥かに甚大な被害を出すのかもしれません。<br /> <br /> 以前余談でちょっと書きましたが、私は東京オリンピックが開催されないと思っております。ずっとそう思っていたのですが地震も何も起きないので、予感が外れたのかなぁ... と思っておりました。まあ、外れる時もあるよね、と。<br /> <br /> 元々は東海地震と関東大震災が原因で東京オリンピックがなくなると思っておりました。まあ、まだ時間はありますからそう言うことになるのかもしれませんが、それよりも、コロナで東京オリンピック開催されないと言う事態の方が可能性が高い状況になってきたように思います。<br /> <br /> これは、私の想定外です。 まさか、このような展開になろうとは思ってもいませんでした。<br /> <br /> ・・・いや、ちょっと気が早いですね。まだ東京オリンピックは中止されてはいませんからね。<br /> <br /> これからの被害の広がりにもよるでしょうし、被害がこれから広がるとすればギリギリ開催できるかできないか、と言う瀬戸際なのではないでしょうか。かなりの被害になるとすれば中止あるいは観客なしでの開催という可能性もあるでしょうし。<br /> <br /> この想定は、今まで私の中にはありませんでした。<br /> <br /> しかし、上記の発言をした人がコロナで死んじゃうという予感が来た瞬間に、上記のような可能性も出てきました。<br /> <br /> 今回来た予感は上記の人がコロナで死んじゃう、というところだけです。東京オリンピックがどうなるのかの予感は今回ではなくて遥か昔からそう思っていたことで、上記の東京オリンピックのお話は私が頭で類推したものであって、今回東京オリンピックに関して追加の直感はありません。<br /> <br /> 死んで欲しくはないですしまだ未来のお話なので回避もできることでしょう。死なないでいてくれて直感が外れてくれた方が良いのです。<br /> <br /> どうなることやら・・・。<br /> <br /> <br /> ■コロナとその続き [2020/03/30 追記]<br /> <br /> 先日、あるお方がコロナでお亡くなりになる予感がしたわけですけれども、今日まで、きっとそれは気のせいだろうと思っておりました。しかし、NYの状況を見て、東京もNYのようになる前夜のような気がしてきました。<br /> <br /> そんな時、本日3月29日に雪が降ったのは神様のお恵みなのだろうと思います。本来は花見で大勢が外に出てコロナ大拡散になるところを雪で家に留めることで拡散を防止したのです。これを見ると、神様の意思としては日本人をそれほど殺したくはないのだな、と解釈致しました。そうでなければこのタイミングで花見の週末に雪を降らせたりはしないでしょう。<br /> <br /> ただ、最近の瞑想ではそれとは別に、もっと厳しいメッセージが降りてきています。<br /> <br /> ベーシックインカムは前回にも言及したわけですけれども、10万円とは行かなくても最低7万円くらいがボーダーラインだ、と言うメッセージを受けました。言葉と言うよりはインスピレーションに近いものです。家賃と基本的なインフラ料金がベーシックインカムの基準のようです。食事は働いて稼いで食べなさい、との意図のようです。もちろん贅沢品も自分で稼ぎなさい、と言うことだと思います。<br /> <br /> どうやら、神様の意図としては、人は殺したくはないけれども神の意図にそぐわないような世界は是正していくつもりで、コロナは他の神が起こしたことであるけれどもこの機会を利用するとのこと。だからコロナで殺したくはないがベーシックインカムなど神の意思が実現することを祈っている、とのことでした。<br /> <br /> 神は自身が直接この世界に手を出せなくて、人間の自由意志が尊重されている世界です。ですから何にせよ人間の同意が必要なのですが、神の意図を実現するためには何でもするよ、と、毅然とした態度で意思を示されました。<br /> <br /> コロナは他の神が起こしたので巻き込まれてしまい、収束を待ちますが、こちらの神の意図としては本来は地震と津波が得意技で、上記に示した月7万円のベーシックインカムのような神の意図がある程度実現されるまでは容赦しない、と言うことです。<br /> <br /> ですから、コロナが収束しても第二弾、その次、があるかもしれないとのことです。コロナでは人を殺したくなようなのですが、地震や津波ならばそれは神の選択の結果であるのでオーケーみたいです。今はまだ国民自身による目覚めを待っている状況で、地震と津波の決断を下す前に他の神が巻き散らかしたコロナがやってきたのでそれは意図していない部分のようです。もちろん上の方では繋がっていますが、日本に影響を与える神々はまだ選択をしていないようです。<br /> <br /> 日銀が3月に1兆3000億円も日経ETFを購入して上場企業およびそのオーナーにお金をばら撒きましたが、国民は飢えております。これは神の意思にそぐわないとのことです。具体的に言うならば、ソフトバンクのオーナーやユニクロのオーナーの懐を肥やすことは神の意思にそぐわない、とのことです。そうして勘違いをさせるから投資で失敗するのだ、と言うのもメッセージのうちの1つで、日銀が株価操作をしなければ勘違いを防いで身の丈にあった投資をしていてこんな火傷もしなかった筈だ、とのことです。日銀の政策が上場企業を勘違いさせて、それ故にこの状況で破綻の危機に直面しているようです。それを更に日銀が買い支えるのは神の意思にそぐわないようです。と言うか、そんなことに神は関心がないようです。<br /> <br /> 国民の10人の1人に10万円配っても1兆2000億円ほどで、日銀が3月にばらまいた金額とほぼ一致します。<br /> 神の意思としては共産主義にもしたくないようで、共産主義のような全体主義はよろしくないがある程度の生活の基盤は必要だとのことです。<br /> <br /> 現在の為政者が間違いに気付くまで新たな災害、それは人の命をなるべく奪わない方向でやりたいと思っていますが、次の事態を用意しているとのことでした。そして、現在の経済の仕組みでやりたい放題はさせない... と言いますか、勘違いをすれば必ず自滅するとのメッセージも頂きました。特に神が直接手を下さなくても、背伸びをして勘違いをすれば勝手に転ぶので放っておきなさい、とのことです。<br /> <br /> ・・・・これは私個人との見解とは基本的には別物ですが、同意するところも多いです。<br /> <br /> こう言うメッセージってどんな存在が言っているのかすぐにはわからない面もありますので、鵜呑みにすると危険です。古来は古神道などの「審神者(さにわ)」で見極めたものですけど、このメッセージは、まあ、一部は真実であると思うものの、全体的にその通りかどうかはまだわかりません。一部は私の意見が混ざっている部分もありそうな感じです。<br /> <br /> ただ、以前から私は東京オリンピックはないと思っており、その理由がコロナではなくて関東大震災の地震によるものでしたのでコロナが起きたときは予想が外れたと思っておりました。しかし、中止ではなく延期になったことでまたもや予想が当たる機会が増えました。おそらく関東大震災が起きたら早々に東京オリンピック中止を宣言するだろうと思います。あっけないくらいすぐに中止になると思います。この最後の部分は夢や幽体離脱で見たような気もしますが未来は変わりますので絶対にそうなるとは限らないのです。<br /> <br /> <br /> ■コロナ後、地のエネルギーの淀みが減りました [2020/4/6 追記]<br /> <br /> 以前は割と地のエネルギーに気持ちの悪いものを感じておりまして、天のエネルギーを主に取り入れようとしていたわけですが、コロナ後は地のエネルギーの淀みが減ったような気が致します。<br /> <br /> いわゆるグラウンディングというものですが背筋に沿って天と地をエネルギーの柱で結ぶわけですが、地の方に伸ばすと気持ち悪いものが入ってきますので下側にはあまり伸ばさないようにしておりました。<br /> <br /> しかし、ここ最近は下に伸ばしても平気です。さすがに愛に満ちているという感じではまだないようですが、おそらくは、地球というか私の住んでいる地域に溜まっている悪いものが随分と減ったような気が致します。<br /> <br /> これはたまたまタイミングが合っただけかもしれませんが、おそらくはコロナによって経済活動が滞ることによって人々の活動が抑えられ、それによって、悪しき想念の放出も減っているのではないかと思います。<br /> <br /> テレビやネットではコロナの悪い恐ろしいニュースが溢れていますけど、実際のところ現時点ではそれほど深刻な事態には日本の場合はまだなっておらず、その前段階の嵐の前の静けさなだけかもしれませんけど、それでも、波動的に見ると随分とこの地域の土壌は浄化されたように思います。<br /> <br /> おそらくは、テレビやネットの悪い情報もネガティブ要因としてあるのですけれども、通常の経済活動などが原因によるネガティブの方が量としては遥かに大きいのではないでしょうか。テレビやネットのネガティブ情報が減ったとしても、もともと通常運転で垂れ流していた不満やネガティブや怒りの想念が激減したために総量としてはネガティブが減ってきているのではないかと思います。<br /> <br /> まず通勤によるストレスが激減しておりますし、勤務時間にしても適正な管理ができるようになった職場も多くあるように思います。もちろん職を失った方も大勢いらっしゃいますが、それはあくまでも経済活動のお話で、経済的には悲惨な不況がやってきていることは事実だとは思いますが、その結果として人々の活動が停止してゆっくりになり、それ故に土地に撒き散らすストレスも減っているのではないかと思います。<br /> <br /> もともと地球がオーバーユース(使い過ぎ)で悲鳴を上げておりましたので、しばらくは休憩のための病気とも解釈できるのではないでしょうか。<br /> <br /> 人の命は大切で、人命は助けるべきだとは思いますが、ここのところの経済活動により、例えばアマゾンでは毎日、東京都ほどの土地の森林が失われていると言います。それが経済活動がストップしたことで緩やかになるとすれば、そのアマゾンの生態系に住んでいた生物を救ったことにもなりますから、全てはバランスであると言えます。アマゾンはおそらく、直感がいうところによれば、ある程度であれば熱帯地方であるので雨季などに森林は復活するとのことで、そこまで心配はいらないのですが、生物の方は可哀想であると言えます。まあ、アマゾンは復活する力があるものの、さすがに毎日、東京都ほどの森林が失われると取り戻せなくなるのでこのあたりで休憩を入れたのは良かったようです。まあ、これは夢の中で言われたことですので本当のことかどうかわかりませんけどね。<br /> <br /> 少なくとも、私の住んでいる日本の都市圏においては、土地のエネルギーが少しずつ回復してきていると言えます。<br /> <br /> 少し前から首都圏イヤシロチ計画なんて言われていますけど、今回のコロナは計画には含まれていなかったようですが、それでも、コロナによって随分と土地が浄化されたことによりイヤシロチ計画が随分と進んでいると言います。これまた夢や瞑想で聞いたことですので本当のことかどうかわかりませんけどね。<br /> <br /> <br /> ■コロナの終息後 [2020/4/11 追記]<br /> <br /> 私が昔、子供の頃に幽体離脱して未来を見たり夢の中で再度確認したことなどを思い出しますと、このコロナ騒ぎは数ある災害のうちの1つ、という分類だったような気が致します。世間はコロナで何やら騒いでいますが、いつの間にか普通の日々に戻っていくような気が致します。東北大震災があっても多くの人は普通の日常に戻りましたし、今回のコロナも当事者が長く問題と関わる一方で、そのほかの人々はまた普通の日常に戻るような気が致します。<br /> <br /> タイムライン上でどのくらいの時間軸だったかは覚えておりませんので、この騒ぎがどのくらい続くのかはわかりません。<br /> <br /> ただ、このコロナ騒ぎによってまた世界が一つ変化し、「祈り」が重視される世界へと変わっていくような気が致します。<br /> 例えばキリスト教の世界だけでなくスピリチュアルやその他の宗教も同様に「祈り」が今まで以上に意識される世界になるように思います。<br /> <br /> 世界はもともと宗教が動かしていて、それはこれからも続くわけですが、日本においては一般大衆が唯物論で上層階級が精神世界に生きるという分離状態になっておりましたが、コロナ後は日本の一般大衆も「祈り」や一般的な宗教全般に対する許容度が増えるように思います。<br /> <br /> 実際のところ、宗教の理解がない人というのは人間として未熟で、精神的に成長すればするほど宗教的な理解が深まるものです。ですから、いわゆる盲目的な信じる宗教としてではなく本来の祈りの部分を理解できる人が増えて自然に宗教が受け入れられるようになってゆくと思います。宗教のことが理解できないと宗教が盲目的な信じるものだと思ってしまいがちですが、宗教とは本来は自己成長のためのものです。精神的な高みに上り詰めた(ということは本来はあり得ないですが比喩として)人がいて、それから学ぶのが宗教であって、信じて盲目になることが宗教ではないのです。まあ、これは色々なところで語られていると思いますが、そういうことだと思います。<br /> <br /> まだ今はその過渡期で宗教というものに対する抵抗が根深いですが、そのうち宗教というものとスピリチュアルというものの垣根が取り払われて行って日本の神道のように自然な姿で数々の宗教というものが語られる土壌がこのコロナの静けさの中で育ってゆくような気が致します。<br /> <br /> とは言いましてもそれが十分に育つにはあと20年くらいはかかりそうな気が致しますが、大震災などで人知を超えた力を目の当たりにすることで自然や精神的なものに目を向ける人が更に増えることと思います。<br /> <br /> と、いうことで、私はそれほどコロナに心配はしておりませんが、その次があります。東海地震と太平洋側への津波、そして関東大震災が続きます。どっちの地震が先だったかははっきりとは覚えていませんが割と連続するように思います。そして東京オリンピックの中止。まあ、このくらいは不幸のうちに入らないかもしれません。その後は、かなり悲惨な世界情勢になります。ただ、日本は震災で疲弊することになり、世界の競争に取り残されるが故にそれが幸いして争いの中心にはなりません。その間に日本が精神性を取り戻すわけですが。<br /> <br /> そして、イスラエルなど中東問題も出てきます。ただ、このあたりは本当に面白くて、本当はタイムラインを全部見てしまおうかとも思ったのですが「先を知ってしまうと人生面白くなくなるよ?」と言われたので一部は楽しみに取っておいているわけですが。映画やドラマだって結論を先に知りたくはないでしょう? 今後の世界情勢は更に劇的に変化しそうです。<br /> <br /> <br /> ■コロナで動き出す世界情勢 [2020/5/30 追記]<br /> <br /> 世界は多極に向けて動き出しているわけですが、人によっては多極の方が安全だと言っている人もいらっしゃいますが、理屈では多極の方がいいとなるのはそうなのかもしれませんけど、実際は多極で地域紛争が多発するようになります。<br /> <br /> 頭のいい方が多極のそれぞれの頭を努めれば確かに論者がおっしゃるように多極で平和な時代が来るということもあるのかもしれませんが、実際は、多極になるとしょぼい頭のリーダーが小さな国・地域を治めることになりますから政治も経済も貧弱になって地域紛争が多発するようになります。何事も理屈通りにはいかないのですよね。<br /> <br /> 今までは大国が世界を分割統治していましたがこれからは小さな国が自国中心主義になります。それを言って理想的だとか多極になって世界が平和になるだとか今まで紛争を起こしていた大国がいなくなるから世界は平和になるんだとか言っている方がおられますが、実際は、地域紛争が多発するようになります。<br /> <br /> これは、理屈がどうこう、と言っているのではありません。理屈で説明されると確かに地域主義で多極になると平和になる、というお話は「ふむふむ」と聞くことができて、確かにそうなると面白いかもしれません。しかし、実際にはならないんですよね。なんでその通りになるのかなんて私には知ったことではありません。ならないものは仕方がない。現実がそうなのだから受け入れるしかないわけです。これは、今後数年かけてその傾向が出始めて、5年から10年経つと世界が不安定になります。時期はもうちょっと前後するかもしれませんが、コロナ前の世界がいかに大国の意図の元で平和を保っていたのかが後になってよくわかるはずです。<br /> <br /> 大国の加護を失った世界は不安定になります。<br /> <br /> しかし、その不安定も悪いばかりではなくて、人口の増加もある程度は抑制されますし、新たな平和の芽、あるいは、今まで経済中心で自己の欲望を満足させるばかりだった人々の目を覚まさせることにもなります。<br /> <br /> ラストチャンスとまでは言いませんけど、目覚めるチャンスでもあるわけです。<br /> <br /> 人口が抑制されなくては地球に人類が生き残る術はなくて、人口抑制のためには中国のように子供を制限する方法もあるわけですけれども、強制ではなく日本のように自然に減るのが一番ではありますが、他の国々を見るとまだ人口は増え続けているわけです。それでいて貧しいから助けろとか言っているわけですけれども、まず大前提として人口を抑制してくれないと助けても助けてもキリがないわけです。<br /> <br /> こういうこというとキリスト教の聖書を持ち出して神は増やせとおっしゃられたとか言ってくる人がいますけど、神はもっと気まぐれですよ。今は増やせとおっしゃられていません。減らせとも言われていません。今、神は人口に興味がないようです。遥か昔、人が少なかった頃のお話と今のお話を同一にしても仕方がないですよ。<br /> <br /> 個人的には、神が人口のことに気がついてこれ以上人を増やさないようにするべきだと思いますけどね。たぶん、神は今はもう人を増やせなんて言っていません。<br /> <br /> 神にも色々あって、本当の神は自由で、好き勝手するものです。言ったことを永遠に守れなんていう神は本当の神ではないですよ。神は気まぐれで人を増やそうとおっしゃられたり、あるいは、気まぐれで増やすなとおっしゃられる。神なんてのはそういうものです。神はこの世界を自由気ままに好き勝手に作って楽しんでいます。<br /> <br /> この地球に人が増えすぎだと神が思えば増えなくなるし、減らそうと思えば減ってゆきます。今は、神はそこにあまり興味がないようです。<br /> <br /> Sun, 16 Feb 2020 00:00:00 +0900 ヨーガスートラにせよ、仏教にせよ、大切なのは疑わない心 https://w-jp.net/2020/1837/ <br /> 大切なのは不二の境地に至ることでありますから、そこに至るまでは何に頼るにせよ疑わないことが大切なのだと最近は思います。<br /> <br /> ヨーガスートラで心の死滅をうたっておりますが、その効果を疑い、サマーディを疑い、そうしてどこにたどり着くというのでしょうか。<br /> <br /> 仏教にしても、八正道などを疑わないことが大切なのだと今は思います。<br /> <br /> これらのことは文章で読むととても平素な言葉で書かれており、やもすれば、そんな簡単な当たり前のことだとしてスルーしてしまいがちになります。<br /> <br /> しかし、いわゆる悟りだとか幸せだとかいうものはその、とてつもなく当然で当たり前のところにあるのだと特に最近は思います。<br /> <br /> その根元は不二の境地というところになりますが、不二の境地とはいわゆるサマーディ(三昧)のことであり、サマーディというと超常的な何かをイメージしてしまいがちな人もおられますが、単に清浄なる心のことだと言い換えることもできます。八正道などで心を清浄にすれば物事がクリアに見えてきて、雑念なくありのままに見えるようになって、その状態を人はサマーディと呼ぶ、と、ただそれだけのことなのだと思います。<br /> <br /> もちろんサマーディと呼ぶ基準はありますし、清浄なつもりでサマーディのつもりでサマーディではないなんてこともあります。<br /> <br /> しかし、基本は、とても当たり前なところにあるわけです。<br /> <br /> 何か、特別な不思議なことをしなければ辿りつかないものではないと思うわけです。<br /> <br /> ですから、大切なものは当たり前のところにある・・・ それを疑わない心が何よりも大切なのかな、と最近は思います。<br /> <br /> その当たり前の境地は失われやすく、やもすれば単なる教訓や道徳のようなものになってしまいがちなところをいわゆる奥義としてまとめたのがヨーガスートラやウパニシャッド(ヴェーダの最後の奥義、ヴェーダンタ)、あるいは仏教の経典なのだと思います。<br /> <br /> ただ、人の性質に応じて修行方法としては様々なものがあって、好きに選択できるとは思っております。疑わなければ勝手に成長するかと言えばそうは思いませんし。ですが、基本はこの辺りかなと思うわけです。<br /> <br /> <br /> <br /> Sun, 16 Feb 2020 00:00:00 +0900 サマーディの不二の境地からシッディが副産物として現れてくる https://w-jp.net/2020/1836/ <br /> ゾクチェンの本にも似たようなことが書かれてありました。<br /> 仏教やヨーガスートラにも似たようなことが書いてあります。<br /> <br /> 今までは、ほんとにそれだけかな? 他に何か謎があるのでは? という疑念や探求心が生まれていたのですが、最近は思考が止んでヴィパッサナー状態になってスローモーションを感じたり距離感のない景色を感じたりしていますので、これが不二の境地だとしたらサマーディであり、そのまま続けていたらやがてはシッディも可能なのでは、という直感が出てきました。<br /> <br /> 昔は、同じ文章を読んでもそれがシッディに繋がる実感を持てませんでした。<br /> <br /> 特に最近は、自らの進んでいる道に疑いがなくなってきました。<br /> <br /> 今はまだシッディとかほとんどないですけど、それらの能力は特に秘密でもなくてヨーガスートラや仏教やゾクチェン書いてある内容がそのまま正しい気がしてきました。<br /> <br /> シッディは秘密でもなくて書物でも明らかに公開されているが実践は難しいので謎めいている、という種類のもののような気がしてきました。<br /> <br /> ヨーガスートラではサムヤマという謎めいた手法と共にシッディが紹介されていますが、おそらくこれを読んだだけでシッディを表すことは難しいのではないでしょうか。サムヤマとは以前謎解きをしましたけど、サマーディの応用のようなものです。<br /> <br /> そのサマーディも、ヨーガスートラの中では完全に説明されていないような気が致します。<br /> <br /> であれば、ヨーガスートラに書かれてあることはおそらく正しいとしても、ヨーガスートラだけで目的地に到達はできないのだと思います。<br /> <br /> 仏教の経典も禅定やサマーディに関しては謎に包まれています。仏教の経典を読んでシッディが現れるとは思えません。<br /> <br /> しかし、ゾクチェンはそのあたりを明らかにしており、それにより、私のサマーディに対する疑いは晴れて、いわゆる不二の意識でヴィパッサナーをするということ、それはサマーディと同じだと個人的には思うわけですが、そのサマーディの意識でヴィパッサナー状態にいることこそが私を次の段階へと導いてゆくのだと確信のようなものが生まれつつあります。<br /> <br /> 「セワ」は、チベット語で「まぜる」ことを意味している。自分の三昧の境地を、日常生活のすべての行動に溶け合わせていくのである。(中略)もちろん、そのためには三昧が確固たるものである必要がある。そうでなければ、そもそも何かと一体のものにするということ自体、無意味だ。(中略)「いささかも疑いがない」という言葉は、このことを意味している。「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」<br /> <br /> 私は人間の師匠を見つけることができずにいて(いるにはいますが)、自分の状態が本当にサマーディかどうかは自己判断にすぎませんが、そうだとしてもこの境地の先にはまだまだ続いていることがはっきりとわかりますのでサマーディでなくてもこの先を見極めてゆくだけのことです。そこに疑いはほとんどなくなってきています。その状態をサマーディと呼ぶかどうかは割とどうでも良いのです。<br /> <br /> 同書によれば、サマーディを日常生活に取り入れてゆくと次のような変化が現れると言います。<br /> <br /> 1.チェルドル<br /> 2.シャルドル<br /> 3.ランドル<br /> <br /> 最初の能力である(中略)チェルドルは、「観察すると、それはみずからを解放する」ということを意味し、水滴が太陽の光を浴びて蒸発するのにたとえられている。(中略)ただ単に覚醒した知恵を保ち続ければいい。そうすれば、生じてくるものはすべて、そのままみずからを解放するのである。(中略)シャルドルは中間的な能力であり(中略)「生じると同時に解放する」ことを意味している。(中略)究極的な自己解脱の能力は、ランドルと呼ばれる。これは「自然にみずからを解放する」ことを意味し、(中略)これは完璧に二元論を超えた、瞬時の、瞬間的な自己解放である。主体と客体の分離は自然に崩壊し、習慣となった見方、区切られた鳥籠のような自我の罠は、存在そのもの(法性)の、空のような顕現の中に解き放たれる。(中略)対象が生じると同時に、それがみずからの空性の境地と同じく、空であることを認識するのである。(中略)すなわち主体と対象はいずれも空である、ということになる。二元論は完全に克服される。主体や対象が存在しないというわけではない。とだえることなく三昧が持続し、自己解脱の修行をつうじて、二元論に限界づけられなくなるのである。「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」<br /> <br /> そして、同書によれば、この過程で出てくる副産物がシッディである、とのことです。<br /> <br /> すなわち、二元論を克服して初めてシッディが出てくるわけです。<br /> <br /> であれば、ヨーガスートラの内容は舌立たずであるにせよサマーディとは不二の意識のことですからサマーディでシッディが出てくるのは当然だと言えますし、仏教の第四禅定にしてもそれはサマーディの不二の意識にまで高まったと仮定すればシッディが出てくるのも当然と言えます。<br /> <br /> 私の中で長らくモヤモヤしていた部分が、ゾクチェンによって明らかにされました。<br /> <br /> Sat, 15 Feb 2020 00:00:00 +0900 いつシッディが現れるか https://w-jp.net/2020/1835/ <br /> シッディとはいくつかの超常的能力、いわゆる超能力のことです。これがどのように現れるのかは宗派の間で割と似通っているように思います。<br /> <br /> 仏教では第四禅定の後に現れるとされているようです。<br /> <br /> ヨーガではサマーディ(三昧)によって現れるとされています。<br /> <br /> チベットのゾクチェンにおいてもサマーディ(三昧)によって現れるとされています。<br /> <br /> これらは割と似通っておりますが、仏教だけサマーディ(三昧)ではなく禅定という言葉を使っており、日本語ではこの禅定はサマーディの訳であることもありながら文脈によって異なる意味を持つという微妙な言葉でもあります。<br /> <br /> 三昧はサマーディの当て字ですので同じものを指します。<br /> <br /> これら、禅定だったりサマーディ(三昧)だったりするにせよ、そのような超意識とも言える状態において超能力が現れるとされています。<br /> <br /> テーラワーダ仏教に基けば第四禅定があれば悟ることができる、とされているようです。その同じ第四禅定でシッディが現れるとのことです。<br /> <br /> 先日引用した第四禅定の定義に基づきましても、どうしてそれでシッディが現れるのか謎です。<br /> <br /> これら正統派のシッディとは別に、スピリチュアルあるいはミディアムとしてのシッディもあります。<br /> <br /> スピリチュアルのうち魔女系は実はヨーガ系と系統が似ていたりして意外に正統派のやり方を踏まえていますが、ミディアムは正統派と少し異なっています。<br /> <br /> 正統系はオーラを強化して自然と能力が出てくるようにしますが、ミディアムや先住民族のやり方は自分のオーラを逆に不安定にさせてその不安定にさせた部分に先祖などの霊を呼び込んで自分の体や口を動かしてもらったりインスピレーションを伝えてもらうという手法を取ります。<br /> <br /> 私はそれらのミディアム手法にはあまり興味がなくて、ヨーガ系の正統派の手法にのみ興味があります。<br /> <br /> ただ、一般的には魔女とか魔法とかいうとミディアム系の手法をイメージする方が多いかもしれませんが、確かに能力はその方が手っ取り早く現れますけど自分の制御下にありませんので協力してくれる霊の気分次第になり、自分のオーラは不安定にさせておかなくてはならないために悪意のある霊にいたずらされると非常に危険なことになります。<br /> <br /> まあ、こう言ってもやる人はやるのでしょうから好きにすればいいのです。<br /> <br /> 何十回という転生の成長を一気に無に帰するような事故・事件が一瞬にして起こることもありますから、そのような秘術は易々と行わないのが良いと思うのですが。<br /> <br /> 一方で、サマーディを基礎とした自分の能力であればそれほど危険性はないと思います。過去生の記憶を辿ってみてもその筈です。このあたりはおいおい確認できればと思っております。<br /> <br /> Fri, 14 Feb 2020 00:00:00 +0900 テーラワーダ仏教における禅定とサマーディの関係 https://w-jp.net/2020/1834/ <br /> テーラワーダ仏教では、第二禅定からサマーディ(三昧)と呼ぶようです。<br /> <br /> 仏教やスピリチュアルの書物などで禅定がサマーディの訳になっていたりして混乱することもあり、個人的には禅定はサマーディではないという理解だったのですが、どうやらテーラワーダ仏教は上記のような解釈をしているようです。<br /> <br /> 第二に達したならば、(中略)このときはサマーディ(三昧)と言います。「瞑想経典編(アルボムッレ・スマナサーラ 著)」<br /> <br /> テーラワーダ仏教に基づく禅定の四つの段階を簡単に羅列してみます。<br /> <br /> ・第一禅定<br />  欲・怒り・眠気・浮つきと後悔・疑いという五つの蓋が外れ、心がものすごく冴えて集中する。(中略)心だけの純粋な喜悦感と幸福感があります。「悟りの階梯(藤本 晃 著) 」<br /> <br /> ・第二禅定(サマーディ)<br />  思考も消えているので集中力はますます上達しています。「瞑想経典編(アルボムッレ・スマナサーラ 著)」<br />  「心を集中する」という自分の努力を突き抜けて、集中は持続したまま、自然に「心が統一された」本当の意味での禅定状態が生まれます。「悟りの階梯(藤本 晃 著) 」<br /> <br /> ・第三禅定<br />  「喜び」という波動もなくなって「楽」だけ感じるようになります。「瞑想経典編(アルボムッレ・スマナサーラ 著)」<br />  喜悦感から離れて平安(捨)な心になります。「悟りの階梯(藤本 晃 著) 」<br /> <br /> ・第四禅定<br />  楽という波動も消えて「平安」とも言える感覚のみが残るのです。集中力は禅定の順番に従って強くなります。「瞑想経典編(アルボムッレ・スマナサーラ 著)」<br />  最後に残った幸福感さえもなくします。(中略)心は不苦不楽の本当に清らかな平安(捨)の状態になるのです。「悟りの階梯(藤本 晃 著) 」<br /> <br /> <br /> サマーディという言葉の定義が私と異なっていますが、まあ、テーラワーダ仏教のこの部分は把握しておりませんでしたので仕方がないですね。<br /> <br /> 個人的には仏教のサマーディの捉え方はどうもピンときません。私はヨーガ系の定義を基本にして個人的な解釈を加えています。<br /> <br /> 以前にサマーディという言葉の2つの意味について書いた内容はテーラワーダ仏教の定義ではなく個人的な解釈に基づいておりますので、読み手にちょっと混乱があるかもしれませんね。<br /> <br /> まあ、そもそもヴィパッサナー系の流派によってはサマーディをあまり重視していない感じですので、ヴィパッサナーとサマーディが同一だと思っている私とはそもそも解釈が違うので仕方がないと言えばそうなのですが。<br /> <br /> Thu, 13 Feb 2020 00:00:00 +0900 女性はすべからくして悟っている https://w-jp.net/2020/1833/ <br /> 女はみんな悟っていると男は思いたいものである。実に女は賢く、いわゆるヴィパッサナーの観察力に長けており、思慮も深いものである・・・ と男は思いたい。実際に私の知っている女はそういう女が多い。そんな女ばかり知っていると、女がみんな悟っていると言われるとそうだ、と思ってしまう。そうなると、悟っていない女は本当にどれだけいるものなのだろうかと思ってしまうし、であれば、悟っていない女は大した女ではないのではないかと思ってしまったりする。<br /> <br /> 私の勝手な偏見かもしれないが、9割の女は悟っているのではないだろうか、と思ってしまう。<br /> <br /> いやいや、そうではない・・・ と女性の諸君から反論が出そうな気もするが、私の周りには悟っているような気がする女性ばかりである。<br /> <br /> これは、以前私がアナハタ優勢になった以降に万人が悟っているように感じるようになったことと似ていて、私がそう感じるだけかもしれませんけど。 と言いますのも、そんな女性にも悩みがあるようですので。<br /> <br /> まあ、きっと偏見なのでしょう。<br /> <br /> 女性の悟り方は男性とちょっと違っているとは思っています。<br /> <br /> まず、生まれながらにして悟っていて、生涯それが続く場合が多いと思います。この場合にしても、私の過去生の記憶やパラレルワールドを垣間見た事柄に基けば、生まれてからクンダリーニの開通はそれぞれの人生で行わなくてはならないようなので悟っているとは言ってもエネルギー的なパワーアップおよび神秘的能力の開花のためには生まれてからの努力がある程度は必要なようですが、そうは言いましても、基本的なところで女性は生まれながらにして悟っていると思うわけです。<br /> <br /> 思うに、女性が悟りの状態から落ちてしまうのは家庭や生まれた環境によるものが多いのかなと思います。家庭や環境がしっかりしていれば女性はすべからくして悟っており、それが生涯続くものなのかなと。<br /> <br /> エネルギー的な開花はヨーガのような手法でクンダリーニ覚醒するだけではく、女性の場合は激しく男性に愛されて信頼される、という手法があると思います。<br /> <br /> 恋人や結婚相手が女性である自分自身を深く信頼して愛して夜な夜な何度も求められるような状態が続けば自然とクンダリーニ開通してエネルギー的なパワーアップが起こります。これは、男性的なヨーガでクンダリーニ覚醒するよりも遥かに簡単な方法です。結果は割と同じですが女性はもともとエネルギーが高い状態で生まれますのでますますパワーアップします。この方法は女性特有だと思います。男性が女性に注ぐエネルギーがクンダリーニ開通をするわけです。これは必ずしも男性のアレがおっきくないといけないわけではなく、女性がどれだけ男性から深く愛されるか、という点と、女性がいかに深く男性を信頼できるか、という点にかかっています。そうして女性が男性から愛され続ければ自然とクンダリーニが覚醒するのですから、世の中の女性がパワフルなのも当然ともいえます。本人たちはそれがクンダリーニ だとは思っていないでしょうけど、同じことです。<br /> <br /> ですから、女性は割とすべからくして生まれながらに悟っていて、さらには、すべからくしてクンダリーニ覚醒するわけです。<br /> <br /> そもそも「悟り」が何なのかの共通理解がないために女性が自分自身のことを悟っていないような気がしているだけで、実は悟っているということも多いと思います。<br /> <br /> 幸せそうに悩みもない人生であればそれは悟っているということです。<br /> <br /> まあ、実際のところ悟りとは何か色々と基準がありますけど、そういう基準ってのは男性向けの基準ですので、女性はそんなこと考えなくても最初から悟っているから心配いらないし考えなくてもいいのです(苦笑)<br /> <br /> 苦労してヨーガとかで覚醒しなければいけないのは男性です。男性って大変ですね(苦笑)<br /> <br /> 女性もヨーガでクンダリーニ覚醒できますけど、普通に男性に深く愛される方が簡単だと思います。<br /> <br /> 女性は小さい頃から意識がしっかりありますし最初からヴィパッサナー状態で物事が深く観察できますし、それってぶっちゃけ、女性の方が頭がいい、ってことです。<br /> <br /> 大きな悟りと小さな悟りと、エネルギー的なクンダリーニ覚醒もある状態など、悟りにはいくつかの段階がありますが、少なくとも小さな悟りを基準にすれば悟っていない女性はあまり見ませんし、悟っていない女性ってどんな女性なのか想像がつきません。そんな人っているのですかね? というくらいです。<br /> <br /> 先日もちょっと書きましたけど、男性の役目はタマスに落ち込んで謎を解くことだと最近気付きました。であれば女性はサットヴァに自分自身を保って男性をタマスからサットヴァに引き上げる役割があるのではないか、かつてはそういう役割分担があったのではないか、という気がしてきています。<br /> <br /> しかし、昨今、この男女の役割分担が崩れてきて、それゆえに男女の姿も変わってきているような気がしてきています。<br /> <br /> 女性は最初から悟っていてクンダリーニ覚醒も容易だが、タマスに落ち込んで謎を解くのは苦手。<br /> <br /> 男性は悟っていなくてクンダリーニ覚醒も難しいが、タマスに落ち込んで謎を解くのは得意。更には、謎を解く時は直接的な理解ができるので女性にはわからない部分まで深く理解できる。<br /> <br /> 神様が男性と女性を分けたことにスピリチュアルな理由があるのだとすれば、まさにこの部分なのかなと思います。<br /> <br /> 何故なら、世の中が全て悟りだけで良いのであれば男性という形態は不要なのではないかと思うからです。この世界には無駄なものはなくて良いことも悪いことも含めて全て完璧であると私は思っていますので、タマスなどんよりとした状態にも意味があると思っています。であればタマスに落ち込むことでどんよりとさせて、まるで化学の実験で砂やゼリー状の液に試験対象の液体を染み込ませて変化を観察する、というような役割がタマスにはあるのではないかと仮説を立てています。<br /> <br /> 私の魂の家系図を辿ると、男性のラインと女性のラインがそれぞれいくつか分かれていて、女性のラインの方の意識を辿ると、やっぱり男性のタマスの部分を謎に感じていたり、タマスの部分に恐怖心や悪を感じたりしていたようです。ですから、もともと悟っている状態の女性から見ると男性のタマスが謎で悪で恐怖を感じるのは当然なのかなと思います。<br /> <br /> そのような恐怖心が女性を悟りから遠ざけるという仮説もなくはない。<br /> <br /> しかし、やはりそれでも女性は悟っていると個人的には思うのです。<br /> <br /> 悟っているが故に他人のつまらない悩みが分からなくて相手を傷つけてしまう、というのもあるかもしれない。それでも、女性はやはり悟っていると思うのです。<br /> <br /> Thu, 13 Feb 2020 00:00:00 +0900 タマスにより没入感が生まれる https://w-jp.net/2020/1832/ <br /> ヴィパッサナーが客観だとすれば、非ヴィパッサナー、特にタマスなどんよりとした感覚は主観であり、更に言えば没入感を生み出すような気がしてまいりました。<br /> <br /> 没入感により物事にのめり込む姿と、割と現実的な客観視のヴィパッサナーは男と女に例えられるかもしれません。<br /> <br /> タマスのどんよりとした感覚はヨガの世界ではタマス→ラジャス→サットヴァという順番で成長するモデルとして説明されており、タマスはどんよりとした感覚、ラジャスは活動感、サットヴァは清浄感ですのでタマスからラジャス、そしてサットヴァという順番で成長するのは理に叶っていてわかりやすいですが、神様がいるとすればむしろタマスを計画されたのではないか、という気がしております。<br /> <br /> タマスにより物事をどんよりとさせ、ゆっくりとさせ、没入感を作り、物事をゆっくりと観察できるようにすること。それこそが神様の計画だったのでは... という気が何となくしてきております。<br /> <br /> 特にその証拠もないですし根拠もないですし、そんな気がするというだけのお話ですが。<br /> <br /> であれば、ヨガの世界で避けるべきと思われているタマスこそが真実をゆっくりどんよりにさせてきちんと状態を見極めることができる、最上の状態なのかもしれません。<br /> <br /> タマスの状態は無知で奈落の底に落ち込んでいる状態ではありますが、この世界に神様のような人がいたとすれば、そうして人間をタマスな状態に落ち込ませてどんよりとゆっくりとした状態にさせることでじっくりと観察できるのでは... という気がしてきています。<br /> <br /> そうして、理解が済んだらタマスの状態でいる必要はないのでサットヴァな清浄な状態に戻るわけです。<br /> <br /> であれば、ずっとサットヴァが続いている人は「理解」に至らないのでは? という仮説が成り立ちます。おそらくはそういうことなのかもしれません。<br /> <br /> 人間はサットヴァな清浄な状態を求めますが実際はそれは何もわからないかあるいは理解の後の状態なのでしょう。理解をするためにはサットヴァではなくタマスに落ち込んで観察する必要があるのではないかと思います。<br /> <br /> 化学実験や物理実験あるいはコンピュータのテストでも、素早い動きをしていると何が起こっているのかわからない一方で、砂のようなものに液体を染み込ませたり触媒を使ったりコンピュータのステップ実行をさせるなりしてゆっくりにさせてから内部を理解するのではないかと思います。<br /> <br /> その仮定が正しいとしたら、男はタマスに落ち込んで真実を探るのが目的で、女はその男が戻ってこられるように命綱としてサットヴァを保つのが目的なのではないか、という新たな仮説が出てきます。<br /> <br /> であれば、女が覚めていて現実的でサットヴァでいつも楽しく暮らしている、という姿は1人でそのように暮らすのであれば神様の役には立っていないのかもしれません。誰かの命綱として役立つのが女で、男は谷の底に降りて行って探検してくる役割なのでしょう。<br /> <br /> おそらくは少し前まではきちんと役割分担が機能していたのでしょう。そんな気が致します。<br /> <br /> 今や未来の生き方は置いておいて、少なくとも過去の男と女の姿はこのように分類・解釈することもできそうです。<br /> <br /> 勘違いしやすいかもしれませんが、よく観察できる、と言っているのは神様にとってのお話です。タマスですと本人はどんよりとしていて何も見えませんし、サットヴァだと本人は清浄で心地が良くて平和です。ですが、神様はその両方を超越しておりますから、神様にしてみたらむしろタマスの方が興味深いのでは、というお話です。<br /> <br /> まあ、私が勝手にそう思っているだけですけどね。あくまでも仮説です。<br /> <br /> Wed, 12 Feb 2020 00:00:00 +0900 空間と時間の認識 https://w-jp.net/2020/1830/ <br /> 空間の認識と時間の認識は割と似通っていることに気が付きました。<br /> 最近はヴィパッサナー状態で遠近感がなくなってきているわけですけれども、遠近感によって空間として認識するためには2つの画像を見比べてその差が空間として認識されると思うわけです。<br /> <br /> 一般的には空間に関しては2つの目が異なる視点で見ることで遠近感を生み出すと言われているように思いますし、以前は私もそうでしたが最近のヴィパッサナー状態では両目で見るのと単眼で見るのと対して差がないような平面を見るような感じになってきています。ちなみに、きちんと視力は1以上どちらもあります。<br /> <br /> ヴィパッサナー状態では両目による空間認識能力があまりないようです。ですから、距離感も少しおかしくなって衝突に気を付けなくてはなりませんが、まあ、そこはそんなに問題にはなっていません。<br /> <br /> 思うに、両目の差で空間を認識していると言うのは正しいような正しくないようなお話で、それだけでは不十分で、認識可能な1コマ前の画像と頭の中で見比べることで空間を認識しているのではないかなと思うわけです。<br /> <br /> ヴィパッサナー以前の状態ですと1秒の間に数コマの認識でしたので1コマ前との画像の違いがそれなりにあり、その差の大きさによって頭が処理して空間を認識していたように思います。今はスローモーションのように細かく認識されますので1コマ前の画像との違いがあまりなく、それ故に空間として認識されにくいのではないかと思っております。<br /> <br /> これは空間の認識のお話ですが、時間についてもそうかなと言う気が致します。<br /> <br /> 人は本来、時間を認識しないのではないでしょうか?<br /> <br /> 空間も実際は空間そのものを認識せずに1コマ前との画像との違いを頭で処理して認識しているのと同様、時間も実際は時間そのものを認識せずに少し前との画像(や感覚)との違いを頭で処理して時間を認識しているのではないでしょうか?<br /> <br /> であれば、空間も時間も実は幻のようなものではないか... という気もしてきます。<br /> <br /> 実際、物理学者やスピリチュアルではこの種の話題はよく出てきますし、空間も時間もそのものずばりを認識することはできないのではないかという気が致します。空間も時間も、そこにあるような気がしているだけ、ということであればすっきりします。まあ、おそらくはそうなのでしょう。<br /> <br /> 数十年前からこの種の話題はよく聞きますが、ヴィパッサナー状態になって初めてその意味を別の視点から理解できた気が致します。今までは、わかるような分からないような... というお話でした。<br /> <br /> ヴィパッサナー状態でスロモーションの認識になれば視界を識別できるコマ数が増え、それにより1コマ前との差分が小さくなって空間が次第に消え去り、時間も消え去り、ということなのかな... という気が致します。<br /> <br /> と同時に、視界が平面で距離感がなくなり自分と他人の区別がよく分からなくなり、一歩引いた視点になって、あたかもテレビかモニタを眺めている気がしてきて、見える画面の本質が全て同一であるような気もしてきて、であれば自分も他人も他のものも実体としては同じあるいは両方とも幻のようなもののような気がしてきて、自分と他人を区別している空間というものも消え去り、認識は常にその瞬間瞬間で連続して起こっているので過去とか未来を認識せずに常に今だけの認識になります。<br /> <br /> 頭で考えることで過去が生まれ、頭で考えることで未来が生まれます。空間も頭で考えることで生まれます。<br /> <br /> これは、過去や未来や空間が消え去ってしまうとか全く存在しないと言っているわけではなく、本質が上記のようなものであることがわかる、ということです。物理法則を否定しているわけではありません。<br /> <br /> ・・・空間や時間の本質がそうなのであれば、ちょっと工夫すれば空間を飛び越して認識したり、時間を超えて認識できるのでは... という気がしてきています。<br /> <br /> そんな気がするということはきっとできるということでしょう。これからの趣味の探究の領域はその辺りになりそうです。<br /> <br /> Tue, 11 Feb 2020 00:00:00 +0900 次元が上がると言うよりは次元が下がって消え去る https://w-jp.net/2020/1829/ <br /> 世間では次元上昇とかアセンションとか何とか言われていますけど、スローモーションのヴィパッサナー状態で観察したところによりますと、次元が3次元から4次元や5次元に上がるのではなくて2次元になって1次元になって次元が消滅する、と言う方が実態に近いような気が致します。表現の違いかもしれませんけど。<br /> <br /> 次元が3次元から4次元になると言うのはこの「奥行き」のある空間がそのまま保持されてそれに時間が加わって、更に5次元になるとパラレルワールドとか何とか表現されたり6次元になるとどうなのかよくわかりませんけど、どちらにせよ、それらの次元が増えるにしても3次元という奥行きのある遠近感のあるワールドは保持されているということなのかなと思います。<br /> <br /> そういうことであれば、私の感覚はそれとは逆で、今生きている場所が4次元で奥行きも時間も感じられる世界だとすれば、時間というものはパラレルに存在しているとも言えるし全ての時間が同時に存在しているとも言えるし、まやかしみたいなものですので時間がまず消え去ります。<br /> <br /> 遠近感に関してはヴィパッサナー状態で消え去り、2次元になります。<br /> <br /> 2次元のヴィパッサナー状態を続けていると意識が広がって空間の距離感もよく分からなくなり、それは1次元とも0次元とも言えるような、全体が同時に満遍なく存在していて、それでいて、位置を特定しようとしてもよく分からなくて、ここかもしれないけれどもその「ここ」とはあっちの「あそこ」と同じであるような同じでないような、距離感のない不思議な感覚になります。それが1次元です。それを比喩して0次元と言えるかもしれませんけど、まあ、とりあえずは1次元としておきます。<br /> <br /> そんな感じで次元が減少してゆき、世界が1次元の点とも言えるし面とも言えるし時空とも言えるよく分からないところに収束というか広がりというかよく分からない状態になって全体が満遍なく存在していることを実感するわけです。<br /> <br /> であれば、世間でよく言われている次元上昇とかそんなのは、見方によってはあるのかもしれないですけど、あるとしても今の世の中の延長線上のまやかしで、そういう次元上昇があるような気がするだ