スピリチュアル: 瞑想録 https://w-jp.net/topics/スピリチュアル: 瞑想録/ スピリチュアル: 瞑想録 本当は2つの心なんてなくてひとつづきの心があるだけ https://w-jp.net/2021/2330/ <br /> 瞑想の基本的な考え方は2つの心があるという考えに立脚しており、普通の心と心の本性(リクパ)のそれぞれがあって、リクパは最初は多くの人にとっては厚い雲に囲われていて隠れているので覆われているものを取り除く(浄化)することでリクパを表す、というような説明がなされたりしますけど、実際のところ、心というものは1つしかなくて、ただ、グラデーションのように幅広く心に階層があるだけなのです。<br /> <br /> そうは言いましても大きく分けて思考する普通の心と微細なものに分けた方が説明がしやすいので分けている面と、普通の心が多くの人にとっては強く働きすぎていますので例えばトランスや瞑想の集中で一旦は抑えてあげないとリクパが出てこない、というのが実態だったりします。<br /> <br /> ですので、本来は一続きであったとしても、普通の心を抑えるという過程がないとなかなかリクパは表に出てこないわけです。<br /> <br /> しかし、時間が経つにつれて普通の心を抑えるという段階を踏まなくても普通の心とリクパが一続きのものとして動作するようになってきます。<br /> <br /> 普通の心を抑える動作が必要な段階と、それほど必要でない段階と、必要でない段階とに分かれるわけです。<br /> <br /> 普通の心を押さえてリクパを表すことを西洋ではトランスとか呼んだりして、手法としては色々ありますけど、副作用のある薬のある方法なんかもあるみたいですけど私はしたことがないのでよくわかりませんけど、他には、音楽を使った方法もあったりします。スピリチュアルを求めている人が特に西洋では何故か騒がしい音楽を好んでいたりするのは、そのような段階ですと普通の心を抑えるために手法が必要で、騒がしい音楽を聞くことで普通の心を忙しくさせておいてその奥のリクパを出させようとしているのでしょう。私はそういう手法は取りませんし、単にうるさい音楽としか思わないのですけど、そのような手法が西洋ではよく取られているように思います。そうは言いましても、そうしてトランス状態にするために普通の心を抑え込む必要があるということは、まだ瞑想がそれほど進んでいない、ということであり、いつまでもそれに頼るべきではないと私は思うのですが、それしか知らない人は死ぬまでトランスに頼ることもあるように思います。<br /> <br /> 普通に瞑想をしていけばそのようなトランスに頼る段階から抜け出て、次第にトランスに頼らないようになっていきます。そして、それが健全なわけです。<br /> <br /> 最終的には、普通の心とリクパとが一続きになって、普通の心が働いていようがいまいがリクパが働くようになり、そうなればトランスして普通の心を抑えるということは不要になります。<br /> <br /> Thu, 22 Apr 2021 00:00:00 +0900 生まれ変わるまでにどのくらいの期間を必要とするのか? https://w-jp.net/2021/2329/ <br /> 実際のところ、意識の大本である魂の状態になってしまえば時空を超えることができますので、この地上の感覚で期間というものではないのですが、それなりに長い期間、あの世で割と早く時間を過ごすことになります。<br /> <br /> あの世の時間というのはこの地上時間よりも時間の経過が早く、割とあっという間に何年も過ぎていることがあります。<br /> <br /> ですけど、いざ転生しようとしたら時空に囚われる必要はなくていつでも転生できるわけです。<br /> <br /> とは言いましても、それほどスピリチュアル的に成長していない魂、あるいは時代をそれほど気にしていない魂、あるいは、たまたま現在の時間軸に生まれたいと思って生まれることにした魂があって、そのような場合は、特に時空を超えることなしにその時の時代に生まれることになります。<br /> <br /> ある程度は時代を選んで生まれることができますので、次の転生が前の転生と被る、なんてことも普通に起こりますし、時代を逆転することもあります。<br /> <br /> 仏教とかキリスト教とかですと転生の期間が定められていて何十年とか何百年とか色々と説がありますけど、たしかにそのような場合も多いですけど、実際のところ、時空は超えられますのでそのような場合ばかりではないのですよね。<br /> <br /> 確かに、数的に言えばそのくらいの期間を開ける場合が多いのかもしれませんけど、それなりにスピリチュアルが成長していれば時空は超えられますので地上的な期間で転生の間隔を図ることはできないわけです。<br /> <br /> その一方で、魂あるいは幽体の状態でそれなりに長い期間過ごす、というのは確かにその通りで、まずはあの世に行くと体の形を保ったまま友人知人および元のパートナーなど仲の良かった人たちの住んでいる場所に行くことになります。自分で行ける場合もあれば、死ぬと友人知人あるいは元のパートナーが迎えに来てそこに行く場合も多くあります。<br /> <br /> そのように、あの世で割と天国のような時間を過ごす、というのがまずあります。<br /> <br /> 転生は、魂(幽体)がそのまま転生する場合と、一旦グループソウル(類魂)と一体になってから分霊を作って転生する場合がありますので、割と多くのパターンにおいて、魂(幽体)がそのまま転生するように思います。たまにそのまま分霊を作って転生、という場合もありますし、一旦グループソウルに戻ってから再度分霊を作る、という場合もあります。<br /> <br /> あの世で友人知人および元パートナーと仲良く過ごす時間はそれなりに長くて、数十年とか数百年とか普通にありますけど、いざ転生しようとしたらその時に時空を超えて転生することもできますので、地上からしたらその元の魂がどこの時代から来たのかわからなかったりするわけです。<br /> <br /> とは言いましても、魂からしても割と時代を順番に追わないとその次代で当たり前になっている技術とか文化とかガジェット(機械のおもちゃ)とかの「当たり前」が理解できませんので、多くの人が歴史を辿って経験している、という面もあります。<br /> <br /> 同じ時代に割と被って転生している人もいれば、少し時代を開けたりする人もいます。<br /> <br /> それは、地上の時間からしたら数十年とか数百年離れて転生というように見えるだけで、実際には、あの世ではもっと短いあるいはもっと長い時間を過ごしてきた、ということも普通にあります。<br /> <br /> ですから、地上の間隔から物事を計って、「前世の人物が生まれていた期間が被っているから嘘」とか「たった十数年しか離れていなくてすぐに転生することなんてあり得ないからそれは嘘」みたいなお話は判断できないのですよね。<br /> <br /> 仏教とかキリスト教とかで言われている転生の期間というのは時間軸が一定であの世もこの世も一旦進んだら戻らないという前提に立っていますけど、実際は、意識の大本の魂は時空を超えていますから、たしかに幽体の時間としては何十年とか何百年の転生期間が空くのが普通なのですけど、地上の時間軸でそれを図ることはできないのですよね。<br /> <br /> 悔いがある人などは割とすぐに転生したりしますし、あの世で幽体のまま楽しく何百年も過ごす人もいますし、あるいは、もう人生に完全に満足して幽体からグループソウルに溶け込んで人格が一旦ほとんどグループソウルの集合意識になった後に意識が分離して分霊となって再度生まれる、という場合もあります。<br /> <br /> 幽体の場合でそのまま転生するのであれば転生の期間がそれなりにわかりますけど、グループソウルと溶け込んだ場合は、もともとグループソウルだった部分の転生の期間なんて測ることは不可能ですよね。もともとグループソウルでいて、そこに合流もすれば分離していますので、分離した分霊の前の転生の期間とか言っても、そんな厳密には出てこないわけです。<br /> <br /> とは言いましても、グループソウルから分霊ができる場合は人格のコアみたいなものがあってそこに集まって分霊になりますので、そのコアのようなものはある程度の使いまわしと言いますか前に生きていた人生のコアがグループソウルの中に残っていて、その周囲に意識が集まって分霊になる、ということが行われますので、コアの転生期間ということであれば測れなくもありません。その場合は、それなりに長い期間の間ということにはなりますけど、割とまどろみの中にいて、しかし、そのまままどろんでいたらあっという間に何百年とか立ちますけど、地上あるいは幽体の人の意識が自分を呼んでいることに気がついたら割と早い時間で目覚めてその呼びかけに応えるべく分霊を作ったりします。<br /> <br /> そのように、グループソウルに溶け込む場合もあれば幽体のまま転生する場合もあって、仏教やキリスト教が教えるように一概に転生期間を地上の時間で測ることはできないわけです。<br /> <br /> Wed, 21 Apr 2021 00:00:00 +0900 心とサマーディは別物だと理解してから瞑想する https://w-jp.net/2021/2328/ <br /> 実際にそうだと体感するのはそれなりに瞑想を日々続けてからのことにはなりますが、あらかじめ心とサマーディは別物だと理解しておくことが重要のように思います。<br /> <br /> 大きな違いとしては、心には集中がありますがサマーディには集中がない、ということです。<br /> <br /> たまに、瞑想の流派で集中を否定していたりしますけど、それは最初からサマーディのお話をしているのであって、その根底を見ていくと、心とサマーディとが同じものであるかのような理解をしている混乱に行き着くわけです。<br /> <br /> 心の動きというのはフォーカスであり、目標に意識を向けするということであり、言い換えればそれは集中ということです。<br /> <br /> そのような流派にしても大抵は「集中はある程度は必要」と言っていたりしますけど、その一方で、「集中はしない。観察する」とか説明していて、実際の教えを受けたりすると、どうも心とサマーディの違いがわかっていないのか、あるいは、わかってはいるけれども教える時にはそう説明しているだけなのかもしれないですけど、少なくともそのような流派において、最初に教えを受ける側としてはこれら心とサマーディの違いをはっきりと説明されることがあまりないわけです。<br /> <br /> 呼吸を観察する、とか、皮膚の感覚の観察をするとか、色々な手法がありますけど、心とサマーディの違いを説明されることはあまりないような気がしますし、瞑想の定義としてサマーディとはただの集中に過ぎないと説明される場合もあります。聖典にもそのように書かれてある時があって、文字通りに理解してしまうのもわからなくもありません。<br /> <br /> サマーディの代わりにヴィパッサナという言葉を使っている流派もありますけど、どちらにせよそのようなサマーディあるいはヴィパッサナという状態に至るには手順があるわけで、至る前に、一応は心とサマーディ(あるいはヴィパッサナーと呼ぶこともある)の違いを理解しておく方がいいと思うわけです。<br /> <br /> そうしないと、細かいところで瞑想の誤解が生じてしまいます。<br /> <br /> 例えば、サマーディには集中がないのだから瞑想において集中しない、という瞑想の説明がされたりしますが、これは聞く側にとてつもない混乱をもたらします。全てわかって説明しているなら説明不足で片手落ちですので教師として未熟ですし、あるいは、わかっていなくてこれが正しいと思っているのならば理解不足です。どちらにせよこのような説明を真に受けるべきではありません。<br /> <br /> 実際には、上に書いたように、心には集中があってサマーディには集中がない、ということですから、瞑想において心は集中して何かに繋ぎ止めておいて、その一方で、サマーディの状態に至るのならばサマーディとしての集中なしの観察状態が同時に発生する、ということです。<br /> <br /> これは、心とサマーディが別物でありますから、心が集中していようがいまいがサマーディとして観察状態が続きますが、瞑想をそれなりに続けた方でしたら心がそれなりに強化されていてさまよい歩くことがあまりなくなっていますから、心をそれほど強化して集中して繋ぎ止めておかなくてもさほど動かなくなっているわけです。そのような心の力がある上で「手中しない」というのはありですけど、それに至っていないのならば心をしっかりと繋ぎ止めておく必要があるわけです。<br /> <br /> 流派によっては準備が整っていない人に対しても「集中しない。観察だ」とことさらに観察だけをさせようとしますので、心を繋ぎ止めておくことを否定されてしまうと心があちらこちらにさまよい歩き、ネガティブな思いあるいは活動的な反応的な思いの連鎖に囚われて混乱をきたしてしまうわけですね。<br /> <br /> 言葉としての説明ひとつひとつを見ていくと一見して正しいように見えても、全体を見ると間違って理解されている流派があるわけです。理屈を聞くとたしかに合っているかのように見えても、そこにいる人達の理解のほとんどが間違っている、ということもあるわけです。<br /> <br /> まあ、喜劇のようなものですよね。あまりにもその誤解が広がっていて、何が正しいのかも判別できなくなっているのかもしれないです。<br /> <br /> そうして誤解するだけならまだいいのですが、その流派で実際に瞑想をすることで、具体的には集中を否定されて瞑想をした結果、心を繋ぎ止めておくことを否定されて、精神的に混乱をきたしてしまう人が続出してしまうわけです。<br /> <br /> 瞑想の基本は集中だ、というのは、心を繋ぎ止めておく必要がある、ということです。心は訓練していない状態では猿のようにあちらこちらにふらふらと動く、という説明がよくされたりしますけど、サマーディの前に心を鍛える必要があるわけです。<br /> <br /> 実際のところ、心とサマーディは別物でありますから、心を鍛えなくてもサマーディだけ育てる、ということは理屈としては可能で、そのように直接的にサマーディを育てようとしている流派もあります。ですけど、心が訓練されていない覚者というのはいわば子供が悟っているようなもので、この世に生まれたのでありますから心も合わせて訓練した方がいいと私は思ったりするわけですけど、それは流派や個人の自由ですから好きにすればいいとは思いますが。<br /> <br /> サマーディに達したら集中がなくなる、というのは、心とサマーディとが別物ではなく同じものだと誤解しているのであれば心で集中しなくなる、というような間違った理解をしてしまいます。そうではなくて、心は心で、サマーディはサマーディです。サマーディがあったとしても心の集中は存在していて、心の集中がなされていたとしてもサマーディとしての集中なしの観察が同時並行で存在できるわけです。<br /> <br /> ですから、そのような状態を説明するために「ある程度は集中が必要」とか言うことは間違ってはいないですけど、そもそも心とサマーディとは別物だということをしっかりと理解しておかなければ心での集中は不要だとかいう誤解が生じてしまうわけです。<br /> <br /> 流派によっては集中瞑想をことさらに毛嫌いしているところもあって、そのような流派で「どうして集中瞑想がいけないのですか」と聞くと一瞬でキレられて怒鳴られる時もあります。キレるという時点で瞑想がそれほど進んでいなくて、単に不快な感情を抑圧しているだけの瞑想をしていることがわかるわけですけど、集中瞑想を否定している流派では瞑想が間違って教えられていて、感情を抑圧してサマーディっぽい観察状態を心の観察でそれっぽく作り出す、ということがなされていたりするわけです。これは何を言っているのか伝わらないかもしれないですけど、そもそも心とサマーディが別物だということがしっかりと理解されていない状態でサマーディを目指したのならば、心で観察するしかないわけです。それはサマーディという状態は最初は自分にはありませんから、ないのにも関わらず、説明だけ聞いてサマーディを真似しようとしたら心を抑圧して心でそれっぽい皮膚の観察状態を作り出すということをしてしまうわけです。これは疑似サマーディみたいなもので、本当のサマーディではなく、それっぽく真似ているだけです。このような不思議な状態が瞑想でできてしまうわけです。それも、心とサマーディとは別物だという理解が浸透していないが故に起きてしまう喜劇なのかなと思います。<br /> <br /> 心とサマーディというと、心は「働き」で、サマーディは「状態」ですので、それぞれ違うものを並列に並べていることに違和感を持たれた方もいらっしゃるかもしれません。このあたりは、チベット式の説明の方がすっきりするかもしれなくて、心とリクパ、という並べ方の方がいいかもしれません。<br /> <br /> 心はありきたりな思考の心のことで、リクパは心の本性のことで、リクパは最初は厚い雲に覆われていて多くの人には働いていないけれども誰にでも最初から存在していて心の浄化を進めることによって働きが現れてくるもので、リクパによってサマーディの状態が現れます。<br /> <br /> 心には集中があって、リクパには集中がなくて観察だけがあります。<br /> <br /> 実際にはリクパにもそれなりの集中というのがあって意識を向けたりもできますけど、心のように明確なものではありませんので、一応はこのように説明しておいていいと思います。<br /> <br /> そのように、心のお話と、リクパ(あるいはサマーディ)のお話をごっちゃにしている流派がこの世にはそれなりにあるわけですけど、一方で、その違いをしっかりと認識してから瞑想するのが大切だと思うわけです。<br /> <br /> 実際のところ瞑想はただの集中だけではないのですけど、そうは言いましても特に最初は単なる集中で十分なわけですから、瞑想とは集中である、と言ってもそう差し支えなくて、伝統的にはそのように説明されているように思います。ですけど集中だけが瞑想ではなくて、リクパを働かせて観察状態になることでようやく本当の瞑想になるわけです。<br /> <br /> ですから、瞑想で浄化という面もありますけど、瞑想と並行して浄化のための活動をすることも重要になってくるわけです。<br /> <br /> Wed, 21 Apr 2021 00:00:00 +0900 マンデラエフェクトで肋骨(あばら骨)がくっついて驚いたお話 https://w-jp.net/2021/2327/ <br /> ふと、たまたまおばさんのYoutubeを見ていたら「マンデラエフェクトであばら骨が前にくっついていてびっくりした。昔は離れていたのに」とか言うので、このおばさんは一体何を言っているのだろうかと思って肋骨の絵を検索してみたら本当にくっついていて驚きました。<br /> <br /> ・・・これ、何を言っているか伝わらないかもしれません。<br /> <br /> 私は、このおばさんと同様、あばら骨は離れていると思っていたクチです。<br /> <br /> 段階的に言いますと、子供の頃、小学校低学年の頃に見たテレビではあばら骨は体の前面に突き出していて真ん中のところまで繋がっていませんでした。かなり離れていました。ですので、交通事故とか喧嘩とかした人は肋骨が折れて肺に突き刺さって大変なことになっていました。その痛々しい映像をはっきりと覚えていますので間違いということはないと思いますし、テレビのコメンテーターも肋骨が折れると肺に突き刺さって危険です、みたいな説明を図と共にしていましたので、その頃はあばら骨は単に体の前面に伸びているだけで真ん中と繋がっていはいなかったと思います。30年以上前ですかねえ。<br /> <br /> しかし、中学か高校の時に見たテレビでは肋骨の前側が随分と先っぽの方にまで伸びてきていて、真ん中の骨と今にもくっつきそうなくらいにまで伸びていました。ちょっとは繋がっていたのかもしれません。この時、とてつもない違和感を感じて、「あれ? 肋骨って、もっと離れていたと思ったのに、こんなに近かったっけ?」と思った記憶があります。すごく気持ち悪かったのではっきりと覚えています。<br /> <br /> 小学校の頃、胸の体の前に骨がなくて平気なのすごいなあ、とかまじまじと興味深く眺めていたのです。それほど興味深く見ていたのに、その後、いつの間にかがっつりと骨ができているのが気持ち悪いです。<br /> <br /> いま検索すると、今でも骨の標本の種類によっては前が繋がっていないので、たまたまそういうのを見ていただけで最初から繋がっていた、という可能性はもちろんあります。ただの勘違いの可能性ももちろんあります。<br /> <br /> ですけど、高校の時に鮮明に違和感を覚えてまじまじとレントゲン写真とか標本写真を眺めた時にはほんのちょっと肋骨が体の前面で繋がっているだけだったのが、いま見てみたらがっつりとしっかり繋がっていますので、そこもとてつもない違和感があります。<br /> <br /> 高校生の頃はこんなにがっつりと繋がっていませんでしたし、小学校の頃はかなり離れていました。<br /> <br /> 高校生の頃はこのことに違和感を感じて、今もすごく違和感を感じるのですが、まあ、そうは言いましても私にはこれがマンデラエフェクトだという確証はありません。そうかもしれないなあ、というくらいです。<br /> <br /> 時期的に言うと、小学校高学年の頃に幽体離脱を何回かして時空を超えて未来と過去とを行き来したりパラレルワールドを見て人生設計をし直したりしましたので、もしかしたらその時に、戻ってくる際にでも時空を間違えて戻ってきてしまったのかもしれません。今となっては確かめようがないですけど。<br /> <br /> それ以外にも、起こる筈のことが起こらなかったりしていますので私はいま違う時空に来ている可能性はぼちぼちあります。<br /> <br /> Tue, 20 Apr 2021 00:00:00 +0900 サハスララにエネルギーが満ちると心の声がクリアに聞こえる https://w-jp.net/2021/2326/ <br /> エネルギーが満ちると言うこともできますしオーラが満ちる、あるいは光が満ちる、と言うこともできます。同じことです。心の声と言っても良いですしハイヤーセルフの声あるいは人によっては神様の声のように聞こえるかもしれませんが、遠くの方から微かな小さな声がクリアに聞こえてきます。<br /> <br /> 言い方としてはいろいろあって、「心の声を聞く」ということも、「ハイヤーセルフの声を聞く」ということも、あるいは「神様の声を聞く」ということもできると思いますが、この声は誰かから話しかけられているという感じはなくて、距離的には割と近くて内側あるいは少し体とズレた少し上の方から聞こえてきますが、距離としては近い気がするのに声の聞こえ方としては山で「こだま」を聞くかのような、音としては遠くて音量は小さいのですが声自体ははっきりとした感じで突如聞こえてきます。<br /> <br /> 守護霊の声を聞く、というお話もそれはそれであるのですけど、その場合はもっとはっきりと明確な声で聞こえてきます。守護霊あるいは近くで友人知人の霊が喋りかける時はかなり明確に聞こえて、実はほとんどの人は特に修行していなくても普通に聞こえているのですが、それが雑念や自分の思考の声と混ざってしまって気付いていないかあるいは自分の考えだと思ってしまっている場合がほとんどのように思います。実際のところ、アイデアのようなものの多くは守護霊や近くの友人知人の霊が与えてくれたものであるわけで、真実を知ればそれが自分のアイデアだと固執する必要はないのですけど、現代社会においてはそのあたりが気付かれていなくて肉体としての自分が作ったアイデアは著作権や版権で守るとか言うお話になってしまいますけど、実際は、霊の世界ではアイデアなんて割と溢れているわけですよね。そもそも霊は少し進化すれば時空を超えられますので未来からアイデアを持ってくればすぐにアイデアマンっぽく振るまえてしまいますしね。それって面白いのですかね? 興ざめだと思いますけど。<br /> <br /> そのように、守護霊や友人知人の霊から話しかけられる場合の明確な声とは違い、「こだま」のように響く声は、流派によっては「神様の声」あるいはスピリチュアルでは「ハイヤーセルフの声」と言われています。「天の声」と言っている流派もあるかもしれません。<br /> <br /> この声が聞こえてくる状態としてはそれほど修行していなくても実は最初から聞こえてはいるわけですけど、サハスララに光が満ちていない状態では雑念が多くて空に雲がかかったかのような状態になっていてうまくそれを識別できないわけです。雑念の間にふとアイデアが降ってきた、みたいな場合はそのほとんどは守護霊や友人知人の霊が教えてくれた「明確」な心の声なわけで、その明確なインスピレーションは「直感」と言うこともできますけど、直感と言う時に、守護霊や友人知人が教えてくれる明確な直感とは別に、遠くから「こだま」のように響いてくる声があるわけです。<br /> <br /> この、「こだま」の方にしても実は最初から聞こえてきているわけですけど、ほとんどの人は雑念の間に埋もれてしまっていて、あまりうまく拾えていないのですよね。後になって「そういえばそんな気がしていた」みたいなお話は誰にもよくあることだと思いますが、そんな後になって気付くのではなく、その時にすぐにその「こだま」の声に気付けるかどうかが需要だと思うのです。<br /> <br /> そして、その、ハイヤーセルフあるいは単に心の声、人によっては特に英語圏では大文字のSELF(セルフ)と言い表すような心の本性と言っても良い奥底の微細な声に対して敏感にすぐに気付いて反応してすぐさまそれに従って行動して行けるようになるのがサハスララにエネルギーに満ちてきた段階かなと思うのです。<br /> <br /> それ以前であってもそれなりに聞こえていて、段階ごとに聞こえやすくなるわけですけど、サハスララにエネルギーが満ちているかどうかがその声にしっかりと気付けてそれにフィードバックして自身の行動を変えて行けるかどうかの一つの境目のような気が致します。<br /> <br /> 声が聞こえる自体はそれ以前にあったとしても、それにしっかりと反応出来る段階、というわけです。<br /> <br /> これはよくチャネリングと誤解されますけど、チャネリングの場合はこのような割と高次のチャネリングの場合もあるにはありますけど多くの場合は守護霊や友人知人の霊あるいは宇宙人とお話をすることになりますので、その場合、遥かに聞こえやすくて「こだま」なんて感じではなくてスピーカーで誰かが喋っている感じの時もあります。特に宇宙人はテレパシーに何かの技術的な機械を使っているらしく、かなり増幅してわかりやすい言葉で伝えてきますので、宇宙人と話す時はこちらに修行が全くいりませんので宇宙人とチャネリングしたとしても勘違いしない方がいいと思います。宇宙人が地球人とチャネリングするのは、普通の日本人がアマゾンとかの未開のジャングルに行って原住民とコンタクト試みるように興味本位あるいは調査あるいは啓蒙など各種理由がありますので、こちら地球人側としてはあまり特別感を感じる必要はないと思います。まあ、たまには面白いかもしれないですけど、そういう事があったからと言って自分が「選ばれた」とか勘違いするべきではなくて、それは「たまたま」目についたから気まぐれで話しかけてみた、という場合も多いわけです。使命がある人なら生まれたからすぐに自覚しているわけで、一般人は使命とか選ばれたとかそういう勘違いをするべきではないと思います。<br /> <br /> そのような明確なテレパシーによるチャネリングとは違って、自分の奥底の心の声を「こだま」のように聞く、というお話があるわけです。<br /> <br /> 私は現段階でサハスララにエネルギーが満ちたりそうでなかったりを繰り返している過渡期ですけど、過渡期は停滞と言うよりは単にそういう段階にいる、ということで、このような過渡期はその前後の状態が明確に区別して理解できて興味深いです。今回のお話も、サハスララにエネルギーが満ちていない状態と満ちている状態とで心の声がどのくらい違って曇って聞こえるかの差を識別するのが興味深いわけです。<br /> <br /> Mon, 19 Apr 2021 00:00:00 +0900 私はどうやら覚醒するかコロちゃんで死ぬかのどちらかの様子 https://w-jp.net/2021/2325/ <br /> 瞑想や夢で見たお話ですので本当のことかどうかはわかりません。<br /> <br /> 覚醒して自分で自分の病気を治すか、あるいはコロちゃんで死ぬか、という二択のようです。そこまでわかっているならば誰かに頼んで治してもらうという選択肢もあるのかなとは思いますけど今すぐかどうかもわかりませんし、自覚症状がなくてコロっとコロちゃんにかかって夜寝たらいつの間にかお無くなりかもしれませんし。おそらくは瞑想中にコロっと行ってしまう感じな気がします。<br /> <br /> ポックリと死ぬというのは私の理想の1つで、体が痛くて動かなくて介護されながら延命なんてのは一番嫌で、直前まで元気でポックリ死にたいなと思っておりますから、そういう意味では理想が叶うわけです。<br /> <br /> あるいは、覚醒して自分の体を自分で治せば全快する、とのことです。<br /> <br /> 死ぬパターンの場合にしても、おそらくはタイムラインを遡って子供の頃からやり直すのかなあ、という気がしています。<br /> <br /> あるいは、生きるパターンの場合は覚醒しますので人生が大きく変わります。<br /> <br /> どっちがいいのですかねえ。どっちも悪くない気がしますけど。<br /> <br /> 最近は1年以上、喋る時に咳き込んだりしてたぶんコロナの初期型にかかってそのままな気がしますけど病院に相談しても門前払いですし、無症状患者を治療する気が誰もないというか隔離施設もないような病院では受け入れも困難なのかもしれません。<br /> <br /> そんな状況なのに健康診断では問題なしで、こんなのなら無症状のまま誰も診療してくれずにコロっとコロちゃんにやられる可能性も大いにあります。<br /> <br /> まあ、それはそれでいいですけどね。その場合は、単にやり直すだけです。<br /> <br /> 今生で経験したかったことはある程度は達成しましたので、そのために設定した人生の土台が今となっては邪魔になってきていますので、それらの不要な条件を人生から取り除くことができるならば一旦死んでリセットもありかもしれませんね。<br /> <br /> 治療してくれるなら治療受けてもいいですけど、コロちゃんであっという間にコロっと行くのであればそれはそれでありかなと。<br /> <br /> 一方で、覚醒できるならそれはそれでよくて、その時は自分で治療してしまえるようですので、それでもまあ、いいかなという気が致します。<br /> <br /> 今だと半々くらいの確率ですかねえ。<br /> <br /> こういうのって、肉体を持って生まれている私という個人の意識からしてみるとどうしようもないところがあって、私の今後をどうするのかは本質的なところでは私自身のスピリットが決めているので、私のスピリットが時空を超えた観点から覚醒すると決めれば覚醒しますし、人生をやり直そうと思えばコロちゃんが発症してコロっと行ってしまうのだと思います。<br /> <br /> 私はどうすることもできませんね。私のスピリットがどちらを選択するかですね。<br /> <br /> 実際のところ、私の自由意志というのは幻想で、私のスピリットが人生を決めていて、私という意識は単なる顕在意識の部分でしかないので、私のスピリットがまだ半々の気持ちで決断していないので、今後どちらに転ぶかはわかりませんね。<br /> <br /> どちらも見えるのですよね。<br /> <br /> ただ、タイムライン的には、やり直す人生がまずあって、順番としては次に覚醒するというのを選んでいるので、もしかしたら、やり直す人生を体験した後に再度ここに戻ってきて覚醒する人生を選び直す、ということなのかもしれません。<br /> <br /> どちらもタイムラインの順番としては昔に既に起こったことかもしれないです。コロちゃんで死ぬタイムラインは既に終わっていて、人生のやり直しのパターンも既に終わっていて、今の人生は再度ここからやり直していて「やっぱり覚醒しよう」というタイムラインに今はいる気も致します。<br /> <br /> ですけど、どうですかね。そう思っていても実はやっぱり最初のタイムライン上にいるかもしれないですけど。あるいは、単なるアストラルなものかもしれません。<br /> <br /> このあたりは今後、様子を見て行きます。その頃には死んでいるかもしれませんけど。<br /> <br /> Sat, 17 Apr 2021 00:00:00 +0900 スピリチュアルな成長において日本神界の神々との出会いは落とし穴の一つ https://w-jp.net/2021/2324/ <br /> ある程度のスピリチュアルの基礎が出来て、他人のオーラがわかったり(見えるとは限らない)、オーラを感じることができて、他人の心の声や守護霊の声あるいはハイヤーセルフの意思が多少なりともわかってくると、往々にして日本神界の神々に目をつけられることがあって、それがスピリチュアルな成長の1つの落とし穴になるような気が致します。<br /> <br /> 日本神界の神様は自分では肉体を持っていませんから、自分の意思を伝えることができて、しかも、実際に行動することができる「しもべ」を求めています。<br /> <br /> 神様ですからそれなりに精神性が高いとは言え、昨今の基準で言えば「覚醒」はしており、ある程度の悟りもあるにはありますけど、本質において最終段階の悟りを得ているとは限らないのが神様たちです。<br /> <br /> こんなこというと不快に思う神様もいると思いますのであまり言いたくはないのですけど、悟りという意味であれば、最終段階の悟りを得ている神様はそうそういないのでは、というのが実感です。<br /> <br /> まあ、こんなこと言っても「何を言っているんだ」と思われるだけな気もしますのであまり言いたくはないのですけど、神様とは言っても、徳の高い人間と似たようなものです。その人を悟っていると言うかどうかは悟りとは何かという定義によりますし、人間としての一応の最終的な段階の悟り(それ以上ももちろんありますけど)をそのような崇められている神様が得ているかどうかで言うと、必ずしも最終的な悟りを得てはいないのが神様です。<br /> <br /> 神様と言っても、徳の高い人、みたいな感じの人が大勢います。<br /> <br /> 特に日本神界はそんな感じで、いわゆるあの世にある「いわゆる神界(=日本神界)」は、言ってしまえば、いま日本で生きている育ちの良い家庭とか伝統的な地域社会そのものです。日本神界から日本に転生してきている人がかなり大勢いますので、雰囲気も似ています。<br /> <br /> 日本の国土にはそれ以外の人もいますからごちゃごちゃしていますけど、日本神界の雰囲気は日本の伝統的なコミュニティそのものです。<br /> <br /> そのようなところに生きている人・・・、いや、体を持っていないので死んでいるとも言えますけど、肉体はなくても意識体としては生きている人、魂というか幽体として生きている人たちがいるわけです。<br /> <br /> それは怖い世界ではなくて、割とこの地上と同じです。普通にみんな楽しく暮らしています。お金の制約がなくなった分、気の合う人達と一緒に暮らしていますのでみんな笑顔です。<br /> <br /> そんな日本神界がありますけど、昔の日本を思い出せばわかりますけど、気性の荒い人もいたかと思います。割とそんな人が日本の神様なんですよね。土着の神様と言いますか。最近流行りの鬼滅の刃に出てくる鬼殺隊も荒っぽい感じですけど、割と雰囲気が似ています。<br /> <br /> スピリチュアルである程度の微細な感覚が発達してくると、そういう存在から目をつけられるのです。<br /> <br /> そして、そのようないわゆる「神様」からコンタクトがあって、神様の指示で特別な儀式とか指示されると有頂天になって「私もついにここまで来たか」と勘違いしてしまうのですよね。<br /> <br /> 生まれながらにネイティブで知っているわけでもなくて、たまたまコンタクトしてきた存在が本当に神様かどうか、どのように判断しているのでしょうかね? 良い波動と思えたとしても、ふりをしているだけかもしれませんしね。 そこまで見抜けないのなら儀式とかするべきではないと思いますし、見抜いて本物の神様だと思ったとしてもそれすらもフリで、騙されているだけかもしれませんしね。見えない存在の方が何倍も何倍も上手です。<br /> <br /> ここが、スピリチュアルにおいて一つの山場になる気がいたしますね。<br /> <br /> このようないわゆる「神様」に囚われると、往々にして神様に「使い捨て」にされます。儀式とかさせたり、言葉を下ろしたりして最初は良くても、エゴが育ってきたり儀式の後遺症あるいは儀式を妨害してくる存在との戦いで疲れたりして使い物にならなくなったら神様は離れていきます。能力者で神様に使い捨てにされたり、あるいは、神様と名乗る変な存在の欲望を叶えるために延々と煽られ続ける、みたいな状態に陥っている人をたまに見ます。<br /> <br /> 日本神界の神様はとても力強くて、守護霊もそれなりのレベルにないと守護霊が怖気づいてしまったりもしますからね。そうなると日本神界の神様の思うままに使われてしまうわけです。<br /> <br /> 別にね、本人がそれでいいと思うのなら何をするにせよ自由がありますので好きにすればいいというのが基本ではありますけど、あまりにも日本の神様に使い捨てにされている人が多いと、なんだかなぁ、という気が致しますけどね。<br /> <br /> あまりそういうのに関与せずに、もっと高い悟りの状態を目指した方がいいと私なんかは思いますけどね。<br /> <br /> スピリチュアルでよく言われていることですけど、自分の波動と同じくらいの存在と繋がる、というのは真実です。日本の神様に繋がるということは自分のスピリチュアルなレベルがそれなりに成長したということで喜ばしいことではありますけど、実際のところ、日本の神様は最高のレベルにあるというよりも、日本の神様は徳の高い人、という感じなわけです。<br /> <br /> 人には色々な成長度合いがありますから、今生ではここまで、というのがあります。その視点から見て今生では自分の成長段階において勉強になる日本の神様とかかわり合いを持とう、と決めて生まれてきている人もいて、それはそれで好きにすればいいと思います。<br /> <br /> ただ、今生でそれなりの悟りを求めていて、実際、自身にそのような素養があって、計画でもそれなりの悟りを求めようと思っている人が日本神界の神様の、いわゆる「徳の高い人」のレベルの神様と関わり合って留まっているとしたら、それは停滞でもあるわけす。<br /> <br /> この、日本の神様というのはとてもパワフルで、言葉も男らしくて、女性の神様にしてもエネルギーがあって美しさと強さを兼ね備えていますから、日本の神様から接触されて、しかも、何かお願いされたら有頂天になるのも無理はないかもしれません。<br /> <br /> 嘘っ子で神様のふりをしている存在もいれば、一方で、本当の神様というのもいて、どちらにしても、自身のスピリチュアルな段階に近いものが現れます。<br /> <br /> そのような存在と、あまり関わらないことですね。それが基本です。<br /> <br /> 神様とかいうと特別な存在に聞こえてしまいますけど、他人と一緒ですよ。仲のいい友人もいればそうでもない友人もいて、用事がある時だけ関わる人もいます。<br /> <br /> 徳の高い人と接するのと同様に神様と接すればいいわけです。<br /> <br /> であれば、自身のスピリチュアルな成長のためにはそのような人と必要以上に接したりその人の願いを聞いて儀式をして、みたいなところはほどほどにしておくべきなのかなと思います。<br /> <br /> ヨーガの経典であるヨーガ・スートラには、ヨーギが悟りに近づくと神様が近づいてきて誘惑をするのでそれを退けなさい、という節があります。それは真実なのだと思います。<br /> <br /> まあ、退けなさい、というのはやりすぎにしても、時と場合において、知人と接するように神様とも接すればいいと思います。何でもホイホイ聞いてあげるのではなく、それが何をもたらすのか、とか、何故自分がすべきなのか、とか、相手を日本の神様だからといってことさら特別視する必要はなくて、とは言いましても徳の高い存在ですので願いを叶えてあげたいという気持ちが生じるのは自然のことで、何かしてあげてもいいのですけど、それは現実で知人や徳の高い人からお願いされて行動するのと同様に節度を持って行動すべきなのであって、日本の神様の言う通りに何でもしてあげるべきとかそういうことではないのですよね。<br /> <br /> このあたりを超えられるかどうかがスピリチュアルな成長において一つの山場になっているような気が致します。<br /> <br /> 迷ったら、自分の守護霊に聞くことですね。それが基本で、ハイヤーセルフの声が聞こえるならそれをしても良いです。もっと直接的に知るには幽体離脱するのも一つの手かもしれません。<br /> <br /> そのような場合でも、特に儀式とかそのあたりは、気安くするべきではないと思います。とは言いましても、神様からコンタクトあって行動してしまう人は自信家だったりしますから自分は正しいと思って行動しているのでしょうから言っても無駄ではあるかもしれませんけどね。確かに正しい儀式というのはありますけど、そうでもない儀式もあったりします。<br /> <br /> まあ、悩むならやらないことですね。と、同時に、躊躇するくらいならすべき、という面もあります。行動すべき時に悩んで行動せずに失敗した、ということもありますし、逆に、悩んで行動して成功した、ということもあります。ですから、言葉ですとなかなか表現しにくいのですが、そのうち何が正しいのかわかってきますよ。<br /> <br /> 最初は何が正しいかも分からないかもしれませんけど、正しいのは何かがわかってきて、そうすると、もう神様とかと関わり合いがなくなってきて、頼られなくなります。というのも、もっとコントロールしやすい人は世の中に大勢いますからね。<br /> <br /> もっと言ってしまえば、儀式とかして世の中に貢献する場合は生まれた時から自覚していることが多くて、そのようにネイティブで最初からスピリチュアルなことがわかっている人と、生まれた後にスピリチュアルで多少成長したくらいで日本の神様と自称する存在からコンタクトされて有頂天になる人とは雲泥の差があるわけです。<br /> <br /> まあ、最近は人材不足ですのでそのような人も使わざるをえない状況というのもある気も致しますね。でも、基本は上に書いた通りですので、あまり日本神界の神様とかと関わらない方がいいと思います。とか書いても、実際にコンタクトしてきたらとてつもなく魅力的に見えたりするので言っても無駄なことも多いだろうなとは思いつつも、一応書いておきます。<br /> <br /> 日本の神界の神様はいわゆるカミナリオヤジみたいな感じで、ドスが効いていて、いわゆる神様のイメージとはちょっと異なりますから、生理的に受け付けない、という人はそのように拒否すればいいだけだと思います。<br /> <br /> スピリチュアルな団体に日本神界の神様が接触してきて雰囲気をまるっきり変えたり教えを変えたり・・・ ということも割と起こります。<br /> <br /> このあたりがスピリチュアルの一つの危機なのですよねえ。<br /> <br /> Fri, 16 Apr 2021 00:00:00 +0900 スピリチュアルで願望実現するのかどうか https://w-jp.net/2021/2323/ <br /> スピリチュアルとか占いでは願望実現の方法が多様に語られています。<br /> 手法は色々とあれど、基本は運気を読んでそれを強化及び行動する、というところに尽きます。<br /> <br /> これはどういうことかというと、以下の2つのパターンがあります。<br /> <br /> ・アストラルな想いの世界に雛形があるのでそれを強化して現実化する。<br /> ・既にパラレルワールドで実現されているのでそれをなぞる。<br /> <br /> パラレルワールドというのは色々と誤解がありますが、ここで言っているのはパラレルワールドは基本は全て過去というお話で、時間的に今の時点から見れば未来に相当しているパラレルワールドもありますけどそれは時空を超えて戻ってからやり直している場合がありますので未来のように見えるだけで、パラレルワールドには順番がありますから、いうなればパラレルワールドは全て過去のようなものであるわけです。ここで言っているのはその応用と言いますか、そのように順番的に過去であるものの一般的な時間に沿って見るならば未来に相当しているパラレルワールドがあって、そこで実現している、といいますか、そのタイムラインにおいては既に実現した現実を今回も再現すればいいわけです。<br /> <br /> そのように過去のタイムラインをなぞらえて同じような未来を今回のタイムラインでもなぞる場合もあれば、まだアストラルな雛形しかなくて今回のタイムラインで初めて現実化するような場合もあります。<br /> <br /> 初めて現実化するパターンにおいてスピリチュアルで願望実現と言うと、その雛形を強化するために想いの力を使い、具体的にイメージして頭の中でまず具現化し、そして現実のものとするために実際に行動が必要になります。<br /> <br /> 一方、前のパラレルワールドで既に実現したことであればいわば体験済であるわけで、それをなぞるのは難しくはないでしょう。<br /> <br /> また、前のパラレルワールドで実現した時の経験および反省を元に、「あれは失敗だった。もっと良くしたい」と思えばそのように新たな未来が作られるわけです。<br /> <br /> スピリチュアルとか占いはこのあたりがごっちゃになっており、願望実現の法はまだ存在していない未来を作り出す方法、スピリチュアルで未来を見抜く場合はどちらの場合もありえます。<br /> <br /> ただ、どちらの場合にしても行動が必要なわけです。<br /> <br /> とは言いましても、大抵のスピリチュアルや願望実現の法の目的は文字通り願望実現なことがほとんどですけど、それは結局のところ、現世で欲望を満たすことでありますので、大したことではないのです。<br /> <br /> 大きな視点で言えば、そのような願望が実現しようがしまいが人生は続きますし、大差ないと言えます。<br /> <br /> 占いとかスピリチュアルで願望実現をするのは、ある意味、趣味みたいなものなのかな、と思います。<br /> <br /> 実際にはスピリチュアルにはもう1つ道があって、「願望を克服する」というお話があります。こうなると、願望実現は不要になるわけです。願望が次なる願望を生み出すというループのラットレースから抜け出すという道ですね。<br /> <br /> ラットレースから抜け出すとか言うと「金持ち父さん」のお話が有名で、まるでお金儲けのお話のように見えてしまうかもしれませんけど、ここで言っているのはお金とは全く関係がなくて、願望そのものを次々に追い求めるループから自由になる、ということです。生きる上でお金は必要ですのでお金を否定しているわけではありませんけど、ここで言っているのとは無関係ということです。<br /> <br /> スピリチュアルで願望実現とかするのは現実を生きるテクニックで、趣味みたいなものですのでそれを否定する必要はないと思います。そうしてスキルを使って人生を楽に生きて、願望のループから抜け出て生きるというのも一つの選択肢だと思います。<br /> <br /> この世界は遊園地みたいなものですから、「貧乏ってどういうことなのだろう?」「なんでみんなあんなくだらない願望のために一生懸命働いて苦しんでいるのだろう?」と興味を持って試しにそのループに入ってみるというのもまた一つの趣味です。<br /> <br /> 一方で、興味がないから願望のループの存在すらも気付かない、というのも一つの生き方です。<br /> <br /> 一言でスピリチュアルと言っても色々なレベルの違いがあるわけです。<br /> <br /> Fri, 16 Apr 2021 00:00:00 +0900 ガヤトリマントラで体が左回転した https://w-jp.net/2021/2322/ <br /> 今朝の瞑想で眉間に集中しているとアジナの付近にオーラが集まってきてしばらくするとそれがサハスララに抜け、それと同時に体の緊張が少し緩み、次にまたアジナにオーラを集めてはまたサハスララに少し抜けて再度体の緊張が緩み、というサイクルを何回か繰り返していました。<br /> <br /> そうしていると、ふとガヤトリマントラが頭に浮かんできて、少し久しぶりに心の中で唱えてみたところ眉間の奥のアジナに核のようなものが出来て効果を感じました。<br /> <br /> それだけで終わらず、そのまま何回か唱えていたところ、眉間から正面を向いた方向を軸にイメージの中であぐらをかいたまま体が何回か左回転しました。<br /> <br /> 左回転というのは、普通にあぐらを書いている状態から頭の部分は動かさずに正面を向いたまま下半身が右の方に来て、次にそのまま回転を続けて前を向いたまま下半身が上に来て、次にまた回転を続けて下半身が左に来て、下半身が下に戻る、というような動きで、それがたぶん3回転かそのくらいしたかと思います。<br /> <br /> もちろんこれはイメージ上でのことで、肉体が回転したわけではありません。<br /> <br /> もともと、似たようなことでクンダリーニが上がった時に背骨を軸に左回転したりマニプラ優勢からアナハタ優勢に変わった時に背骨を軸にして体を左回転したことがありましたが、どちらも背骨が軸になっての回転でした。<br /> <br /> 今回は、眉間から前に伸びた線を軸に体が左回転しましたので、軸の違いがあります。<br /> <br /> 以前の時も、何か「ねじれ」が取れた感じがしてエネルギーが通った気がしたのですが、今回は多少のエネルギーの流れを感じるものの以前の時ほど劇的な違いはないようです。<br /> <br /> 2回転目くらいまでは自然に回転したのですが3回転目の途中くらいから減速したので、完全には回っていないのかもしれません。そこはよくわかりません。<br /> <br /> ですけど、久々に唱えたガヤトリマントラで今回は面白い効果が出たのでした。<br /> <br /> Tue, 13 Apr 2021 00:00:00 +0900 空間が泡で出来ていることが見える https://w-jp.net/2021/2321/ <br /> 瞑想して、この世の全てが知識で満ちていて、かつ、空間が歪んで見えた時、それが泡で出来ていることも同時にわかります。<br /> <br /> 空間の中に泡がある時、泡の周辺が少し黒くなっていて、泡の中は東名で、泡と泡の間が黒くなっています。黒とは言っても漆黒よりも灰色に近い黒ですが、白と黒の中間の灰色よりは黒寄りですので、色としては黒です。人によっては灰色と言うかもしれませんが、私にはどちらかというと黒というように見えました。<br /> <br /> そのように、泡が空間に詰まっていることがわかったのですが、全方向の視界全てがそれで見えたわけではなくて、一部分がそうであることが見えて、おそらく他のところも同一だろう、と感覚的にわかった感じです。<br /> <br /> もともと、空間が歪んで見えたのも視界の一部ですし、この世の全てが知識で満ちているという認識が感じられたのも視界の一部、どちらも私の視界の前方の少し上側で、最初は少し右上方向、とは言っても基本的には正面でやや右よりのところで空間が歪んで見えました。その後、視界の半分以上が知識で満ちているのを感じて、次に、正面のやや左寄りのところで空間が泡で満ちていることがわかりました。視覚としてぼんやりとうっすらと浮かんで見えた感じです。<br /> <br /> 物質のようなはっきりとした視覚ではありませんけど、うっすらと泡のようなもので空間が満ちているのを感じました。<br /> <br /> これ、どこかで聞いたことあるなあ・・・ と思ったら、私は詳しくないですけれどもノーベル賞を取った湯川先生の素領域理論がそんな感じだったような気もします。どうでしょうかね。<br /> <br /> Mon, 12 Apr 2021 00:00:00 +0900 時折、他人の思考がはっきりと聞こえる https://w-jp.net/2021/2320/ <br /> かなり以前からもなんとなくそう思う時は多々ありましたけど、ここに来て、特にこの世の全てが知識で満ちている感覚になってからは他人が誰かのことを思っている思考がはっきりと聞こえるようになりました。<br /> <br /> とは言いましても全て聞こえるわけではなくて、もしそうであれば騒がしすぎますけど、幸いなことに、時折はっきりと聞こえる、というくらいです。<br /> <br /> 一般的に、人は思考を延々と繰り返していて日に何万も考え事をするとか言われていますけど、それら全てが聞こえるわけではなくて、誰かがすぐ近くにいる人に対して思うことが(その人に対してではなく)私に対して(心の中で)言っているように聞こえる、という感じで認識されます。<br /> <br /> 実際には、明確な意思での思考はそれほど多くないのかもしれませんし、単に誰かの思考を聞いている、という場合も多々あるように思えます。心の中で発している明確な意思での思考のうち、他人に対する思考が私にも聞こえるようなのです。ただ、全て聞こえるわけではなく、条件があるようです。おそらくは波動的に近い人の声が聞こえるのかなと思っておりますがこのあたりは更なる検証が必要です。<br /> <br /> そのように、「呼びかけ」の思考がまるで自分(私)に(心の声で)語りかけているかのように聞こえるのですが、最初は、「あれ? 私にそんなこと関係あるのかな?」みたいに、よくわからない状況でした。<br /> <br /> 例えば、近くで「久しぶりかも?」という声が私に聞こえてきて、最初は「え? 私と久しぶりに会う人がいるの? 誰でしょう?」と思っていたら、他の2人がお互いに昔の知り合い同士で久々に会う、ということがありました。<br /> <br /> 他にも、ちょくちょく似たようなことがあります。毎回、「あれ? 私にそんなこと関係あるのかな?」と思っていたが他の人同士のことだったりしますけど、心の声としては「私に対して言っている」かのように聞こえますので、最初は「え? 私に関係あること? なにそれ?」と、ちょっと不思議に思います。<br /> <br /> ですけど、それは誰かが誰かに対して思っている心の声でありますので私にはあまり関係ないわけですね。<br /> <br /> 以前から似たようなことはたまにありましたけど、最近は頻度が違いますね。それと、かなりクリアにその声が聞こえるようになりました。<br /> <br /> みんな、心の声は意外に大きいのですね。周りにまで聞こえまくります。<br /> <br /> これは、似たようなお話で「オーラを融合させて他人の思考を読み取る」というやり方とは全く違って、これは思考を単に読み取る、というお話です。別物です。<br /> <br /> 意図的に「聞きたくない」と思えば聞こえませんし、感覚を開いていれば聞きやすいです。ですから、聞こえすぎて困る、ということは今の所ありませんね。そもそも他人の心の中のおしゃべりにそんなに興味ありませんし、たまたま聞こえてきてしまった、というだけのお話です。<br /> <br /> これ、特に女性は生まれながらにしてテレパシー持ちの人が多い気が致しますけどね。どうでしょうかね。<br /> <br /> 空間が満ちていることに普段から気がつくようになったタイミングでこのテレパシー能力が出てきたということは、空間がずっと繋がっている、ということなのでしょうね。今の所は受信側だけで、発信側はあまり試したことありませんけど。そんなに試す機会もありませんしね。<br /> <br /> Sun, 11 Apr 2021 00:00:00 +0900 この世の全てが知識で満ちている https://w-jp.net/2021/2319/ <br /> サンスクリットで言うところのニャーナ(知識)でこの世の全ての空間は満たされている、と聖典は言います。空気の何もないところや宇宙空間ですら全てはニャーナ(知識)で満たされており、時間と空間の制約を受けないものです。<br /> <br /> それは聖典の言葉であり、言い換えればそれがブラフマンの全体であり、個としてのアートマンもその質を持っています。<br /> <br /> 今までは聖典の言葉としてこのニャーナ(知識)を理解しておりましたが、最近、この世界が映画のように思えるにつれ、次第に、遠くの世界まで空間が続いているかのような感覚が出てきました。とは言いましても具体的に遠くに何があるのかはわからないのですが、何か続いているような、空間が歪んでいるかのような感覚になってきました。<br /> <br /> 視界のところどころが歪んでいて、そこはどうやら一定ではないようなのです。<br /> <br /> 空間が遠くまで続いているという認識は遠くまで見えるかどうかとは関係がなくて、普通の近所の景色であってもその奥底に空間を超えて遠くまで遥かに延々と続いているのを感じます。<br /> <br /> そのような感覚になってくると、空間が歪んでいるのを感じるのと同時に、この世が全て何かに満たされている、ということが直感的にわかってきます。<br /> <br /> 何に満たされているのかは「それ」としかいいようがないのですが、その感覚を聖典の言葉に当てはめてみれば「ニャーナ(知識)」と呼ぶのがしっくり来る気が致します。<br /> <br /> 空間の全てに満ち満ちている何かは、それを感じることによって知識のようなものを私の認識の中に生じさせます。何かある、という感覚、それと、そこにある違いを認識として生じさせるものが空間に満ちているとしたら、それを「知識(ニャーナ)」と呼んでも良いのかなと思います。<br /> <br /> 空間の全てが知識で満たされているということは聖典の言葉では知っておりましたが、実際に、こうした微細な感覚が育ってくる時に感じられる実際の認識は聖典の言葉とは全く違うものになります。<br /> <br /> 聖典の言葉は頭で理解したということであり、流派によっては超感覚的なものを否定して頭でしっかりと理解することで真理を探求すべしと言っているところもありますけど、私は個人的にはそうは思わなくて超感覚とまでは行かないまでも微細な感覚で実際に感じられるようにならないのであれば勉強する意味も半減するのではないかと思っております。勉強するだけでも無駄ではないとは思いますけどせっかくならば直接的に知りたいですよね。<br /> <br /> 私の場合、瞑想をしてまずは視界のヴィパッサナー状態になって動体視力がアップし、次に空間が歪んで感じられるようになって、そこで次にこうした「空間は知識で満たされれている」という実感が出てきました。<br /> <br /> 聖典の言葉は嘘ではなかったのだな、と今では思います。<br /> <br /> Sun, 11 Apr 2021 00:00:00 +0900 この世とあの世が同じという前提に立たないと悟りが何なのかが見えてこない https://w-jp.net/2021/2318/ <br /> 悟りについて色々と理解の混乱がありますけど、このような前提がない悟りが何なのか見えてこない気が致します。<br /> <br /> というのも、死んでしまえば肉体がなくなってスピリットになるだけで人生はそのまま継続するわけですけれども、死ぬことで変化する認識のことを悟りだと思ってしまうと、それでは死ねば悟れるのか、というお話になってしまいます。<br /> <br /> 死ぬことで変化するのは時間軸が超越しやすくなるとか物理的な制約から開放されるだとか、その程度・・・ その程度と言っても大きな変化ですけど、心の面から言うと生きている時と死んだ時とでは大差ないわけです。<br /> <br /> 生きている時に幸せな人は死んでからも幸せで、逆もまたしかりです。<br /> <br /> 生きている時は肉体的・物質的な制約に制限されますから例えば住居だとか金銭だとかいう制約によって縛られていますけど死んでしまえば金なんていらないですし住居とかもイメージで想像するだけでポンっと現れてきますので、基本的に自前で済ますことができますので物質的な制約に縛られることはなくなります。<br /> <br /> ですから、生きている時に無理して付き合っていた人や、イヤイヤながら同居していたパートナーと死後も一緒に暮らす必要は全くないわけです。死後もずっと一緒にいたいと思えるような結婚が一番理想的だと思いますけどね。<br /> <br /> それはさておき、そうして死後も生活が続くわけですけれども、そうして変化する認識や能力的な面は死ねば誰しもがある程度は発揮できるようになります。それは生きている人間からしたら超能力のように見えるかもしれませんが死後の世界・・・ というと語弊がありますが、それは死後ではありますけど割と普通の世界、スピリットの世界、天国の世界と言ってもよい世界においてそれらの能力は割と当たり前のように存在しているわけです。<br /> <br /> ですから、この世においてスピリチュアル的な能力を開発してみたところで、死んでみたら割と普通で、なーんだ、そんなことか、というお話だったりもするわけです。<br /> <br /> 物質化能力だとか、テレポーテーションだとか、空中浮揚だとか、たしかに地上でそれらの能力を発揮するにはそれなりの修行が必要で、それも悟りへの道として有益な面もあるにはありますけど、それらの能力そのものが悟りではないわけです。<br /> <br /> 割とそれはメンタルなアストラルなスピリチュアル能力の「テクニック」に属するお話で、悟りとは本質的にはそれほど関係のないことなわけです。<br /> <br /> 生きている人間がこの世でいくら大きな物質を組み合わせて巨大な建造物を作ったとしてもそれが自己顕示欲の象徴だったりすることと同様に、スピリチュアルな能力で物質化とか何かを浮かせてみたりしたところで、そうしてこの世で巨大な建造物を作るのと大差ない、と言うこともできます。<br /> <br /> それが純粋に悟りのための修行として行われているのであれば有益な場合もありますが、出来たからと言って、それが顕示欲を満たす結果になるのであれば悟りの道ではなくなります。<br /> <br /> 物質で芸術的あるいはプロの仕事をするのと同様にスピリチュアルな能力でプロの仕事をすることもできます。その場合、本質的な意味においては物質的な次元でプロの仕事をするのとスピリチュアルでプロの仕事をするのとでは割と同じであると言えて、どちらも高いスピリチュアルな活動でありえるわけです。<br /> <br /> そうして見てみると、次第に、生きている人間と死後の人間とが大差ないのだ、ということが見えてきます。<br /> <br /> それぞれ、対象ややり方および結果は違っても創造をして活動をして誰かに奉仕をしたり助けられたり、というところは同じなわけです。<br /> <br /> そうして、死後の世界で可能なことを実現することが悟りではない、という理解に達したならば、そこで、それでは悟りとは一体何なのでしょう、というお話になるわけです。<br /> <br /> 死後の世界で普通にできるようになることが悟りではないのだとするならば、それでは、死後の世界でもまだ達成できていないことの中に悟りがあることになります。<br /> <br /> 悟りと言っても段階がありますが、時空を超えられることとか、物質化能力も、必ずしも死後で誰しもができるわけではありませんので、それができることが一応の悟りの一つの段階だと言うこともできます。それは単一のスピリットとして、独立したスピリットとして自由に時空を超えて動けるということであり、とりあえずの悟りと言っていいと思います。<br /> <br /> しかし、それはスピリットが独立して存在しているだけで、まだ個別の存在です。スピリットは分霊を作りますから分霊を作ったり、自分が分離してきた大本であるグループソウルに合流することもありますけど、それは悟りというよりは単にスピリットの分離と合流のお話で悟りとはさほど関係がありません。グループソウルの方が悟っていたのですが自分のスピリットが分離したことにより意識が汚れてしまっていることもありますので、そのような時はグループソウルと合流あるいは再度分霊を受け取るということで悟りに近づく場合もありますけど、それは本質的にはただの分霊との合流と分離のお話で、どちらが悟りに近いかの違いがあるというお話です。ですから、その分霊の合流と分離のお話そのものが悟りとは本質的にあ関係がなくて、ただ合流したり分離したりする、というお話です。<br /> <br /> では悟りとは何かというと、本質がわかっているか、理解できているか、という点になるわけです。それは頭だけのお話ではなくて自分のスピリットがそれを理解していて根源に繋がっているか、というお話で、そこには、本質的には能力とは関係がなくて、ただ、根源と繋がっているかどうかだけが悟りと関係があります。<br /> <br /> もちろん、そうなれば能力的なものも出てきますけど、そうなって出てくる能力はそれ以前のテクニック的なものではなくて、ものすごく簡単にこの世を自由自在に動かせるようになります。その、動かせる範囲がそのまま悟りの深さになって、最初は自分を自由に動かすことができて、次第に、自分の周囲、更には地域、国、惑星へとどんどんと意識が広がってゆくわけです。ただし、広がるにつれて細かくは見ない感じになりますので、細かく見るために分離が必要で、ひとりひとりのスピリットはそのためにも分離をしてこの世を経験しているわけです。<br /> <br /> ただ、分離を長くしてしまうとその根源を忘れてしまうので根源に戻るのが悟りであって、根源を理解しつつこの世を完全に生きるのがいま生きている人間の役割になるわけです。<br /> <br /> Fri, 09 Apr 2021 00:00:00 +0900 生まれる前に立てた人生計画の程度の違い https://w-jp.net/2021/2317/ <br /> よくスピリチュアルでは「人生は計画されているのです」とか「生まれる前に人生を決めているのです」とか言われていますけど、それは人によってかなりの程度の違いがあります。<br /> <br /> 割と普通にあるのが、あの世・・・ というか、割とこの世と似たような感じでちょっとぷかぷかと浮いているような自由な世界なわけですけど、人によってはそれを天界と呼んだほうが適切かもしれなくて、その世界で生きている時に、色々と見聞きして興味を持ったりするわけです。<br /> <br /> あの世で死んでいるわけですけど、肉体がないだけで、文字通り、スピリットは普通に生きてます。<br /> <br /> ですから、あの世でもこの世と同じように誰かとお話をしたり何かに興味を持ったりするわけです。<br /> <br /> 地上を覗き込んで「あれ、面白そう」とか思ったりもするわけです。<br /> <br /> その、「興味を持った」ということが、そのまま人生計画になって転生する場合があります。この程度のことであっても「人生計画」になることがあります。この場合、これ以上の解像度は人生計画にはなくて、それは割と生きている人間が何かに興味を持って何かをしてみる、ということと大差ないお話になります。それですらスピリチュアル的には「人生計画」になったりするわけです。そんな大層なお話ではなかったりします。<br /> <br /> 一方で、この世ではすごく物事を計画してから実行する人もいます。それはスピリットでも同じことで、人生を詳細に計画して生まれてくる人もいます。それもまた、スピリチュアル的な「人生計画」なわけで、そこには解像度の違いがかなりあるわけです。<br /> <br /> それと加えて、そのスピリットの成長度合いによって時代を超えることができるかが変わりますから、あまり成長していないスピリットはあの世に行っても時代を超えることができずに時間軸に囚われれています。その場合、人生計画を作る段階においても未来を見通して計画を立てるということにはならなくて、単に、生きている人間と同じように何かを想像したり理屈を組み立てたりして人生計画を立てます。<br /> <br /> 一方で、スピリットが成熟している場合は時間を超えられますから、未来を見た上で細かく計画する場合もあります。見ることができても見ないで転生する場合もあります。それはそのスピリットというかその人の性格にもよりますし、その人生計画で何をしたいかにもよります。<br /> <br /> スピリットができることが成長度合いによって違うことと、スピリットによって性格の違い、やり方の違いがあるわけですね。<br /> <br /> ですから、人生が必ずしも全て計画通りかというとそうでもなくて、計画したところがそうなることもあれば、ただ単に「やってみよう」というだけで、やってみたらうまくいかない、なんてことも普通にあります。<br /> <br /> スピリチュアルでは「その失敗も全て計画していたのです」みたいなことを言いますけど、そのように失敗を意図していたこともあれば、単にやってみて失敗してしまった、みたいなこともあります。<br /> <br /> スピリチュアルという説明になってくると物事はもうちょっと複雑なのかなとも思ってしまうかもしれませんけど、単純に、生きている人間の人生とそう変わりないということと、スピリットになれば生きている時より時代を超えやすい、ただし超えられない人もいる、という違いがあるくらいでスピリチュアルで言うようなそんな特別なことではないように思えます。<br /> <br /> まあ、そうやって改まって言った方が人が興味を持つ、というのもあるのかもしれませんね。普通の人生と一緒だ、とか言ってしまうと神秘的ではなくなってしまいますからね。私は割と夢を壊すようなこと言ってしまいますけど、スピリチュアルを特別なものにしたい人あるいは特別かのように思っている人が一定数いて、そういう人は特別感のある言い方をするかもしれませんけどあの世でもこの世えもそうは変わりがないと言えます。スピリットにしても人生は割と普通で、生きている時とそこまで変わりはなくて、生きている時に元気でポジティブなら死んでからも元気でポジティブですし逆もまた然りです。<br /> <br /> Fri, 09 Apr 2021 00:00:00 +0900 サハスララは半円の形で頭に被さっている https://w-jp.net/2021/2316/ <br /> ヨーガ経典を見ますとサハスララは頭の上にニットの帽子あるいはネットを被せたように半円状になっているのをよく見ます。<br /> <br /> それはそれで感覚としても正しいのですけど、その一方で、サハスララは頭頂の1点のチャクラという記述もよく見ます。<br /> <br /> これは流派によって見解が異なっていて、流派によってはサハスララをチャクラだと認識していないようで、その一方で、チャクラだとしている流派もあります。今はチャクラとみなす流派の方が多いように思います。<br /> <br /> このサハスララに至るルートとして、ヨーガ系では基本的に真っ直ぐ背骨からそのまま伸びている、としています。あるいは、ヨーガ系であってもアジナからサハスララからは一旦後頭部を経由してそれからまた上昇する、というルートになっている場合があります。この場合、ヴィシュッダからアジナに行った後、後頭部を経由してそれからまたサハスララに登る、というルートです。<br /> <br /> スピリチュアルの流派によっては同様にアジナから後頭部を経由してサハスララに登る、としています。<br /> <br /> これらの記述がそれぞれあって、わかるようなわからないような、合っているにしては記述が色々あって、どうもしっくりきていませんでした。<br /> <br /> しかし、どうやらこれらは次のように解釈するのが良いように思えます。<br /> <br /> まず、サハスララの周囲には半円状の膜のようなものがあります。それは頭蓋骨に沿ってちょっと内側に存在していて、それがニットの帽子あるいはネットを被せたような形になっています。<br /> <br /> それはアンテナの役割を果たすのと同時に、外部から、特に頭頂からよくない存在が入り込むのを防ぐためのガードとしても機能しています。<br /> <br /> 流派によってはそのサハスララの帽子を壊すあるいは穴を開けて天と繋がるということをしますけど個人的にはそれは良くないと思っています。<br /> <br /> アジナからサハスララに繋がる時は、その帽子を経由してアクセスします。<br /> <br /> 帽子を経由する際は、感覚的にはそれはガードでもありますから、どこかから迂回してアクセスするわけですが、そのために一般的には後頭部がやりやすい、ということのようです。<br /> <br /> 構造としては半円状で被さっていますから、場所としてはどこからでも迂回できて、例えば左の耳のあたりからサハスララに経由することもできますし、右耳、あるいは眉間のちょっと前からでも頭頂に行くことができます。どこからでもいいわけです。<br /> <br /> こう考えてみると割と物事はシンプルで、サハスララをその帽子とみなすのかあるいは帽子の上のチャクラとみなすのかあるいは帽子の上にある通過点をサハスララと呼ぶのか、という視点の違いだけであり、そこにアクセスするためにエネルギーがどこを通るのか、というのは割とどこでも良いことになります。<br /> <br /> エネルギーは流れやすいところから流れますので一点からエネルギーが流れることもあれば割と満遍なくエネルギーが流れることもあり、偏りがあることもあります。ですけど、どちらにせよ帽子の周囲を経由してエネルギーが上と繋がるわけです。<br /> <br /> Thu, 08 Apr 2021 00:00:00 +0900 スピリチュアルなワンネスの違い https://w-jp.net/2021/2315/ <br /> スピリチュアルではワンネスとかよく言われますけど、オーラ的な同一をワンネスと言っている場合と根源の本質が同一と言っている場合とがあり、それはかなり異なりますがごっちゃになって語られている場合が多いような気が致します。<br /> <br /> オーラ的な同一は「同じになる」ということで、ものの考え方、習慣、雰囲気などを含めて同一化することをワンネスとそこでは呼んでいます。<br /> <br /> 一方で、根源が同一と言っている場合は姿形や考え方、習慣およびオーラまでさえも違っていても根源が同一であることをワンネスと呼んでいます。<br /> <br /> ですから、本来、この2つは相容れない立場なのですよね。<br /> <br /> ですけど、スピリチュアルでは割とこの2つが並列に語られていて、質的な同質のワンネスの先に根源のワンネスがある、みたいなお話になっています。<br /> <br /> これは、誰かが根源にたどり着くためにはまず師匠や宗教団体などと質的に同一化した方がわかりやすい、というグル(師匠)と弟子のシステムが基盤にあるように思いますが、その場合、本人の成長はその団体に依存することになり、団体の全てが成長する時は一緒に自分も成長する、という進歩の仕方になります。<br /> <br /> ですけど、そのお話と、根源が同一だというお話は、本来は別物なのですよね。<br /> <br /> 師匠と同一化、あるいは、お互いに学び合っている弟子たちとの間での同一化はよく起こることで、それはそれで否定しませんし、割とそこらであることだと思います。それは一蓮托生とでも言うべき間柄になることであって、そこでの雰囲気やオーラが割と同質化されることになります。そうして、本来の理解であるところの根源とのワンネスを探してゆく、という道はありますけど、そうしてオーラを同質化するというお話と根源が同一というお話は本質的には別のお話なわけです。<br /> <br /> 特にオーラを同質化していなくてもこの世にあるものは全て根源が同一でワンネスが既に達成されているのですから、その本質的なワンネスのためにオーラを同質化するワンネスは本質的には不要なわけです。ですけど、スピリチュアルではまるでこれらがそれぞれステップになっているかのように語れています。それはただ単に一緒になって成長してゆく仲間というかグループがあるというだけのお話で、それはオーラ的なワンネスのお話であって、根源のワンネスのお話とは別なわけです。<br /> <br /> これはオーラ的なワンネスを否定しているわけではなくて、そういうお仲間や仲良しグループは普通にありますしあって良いものだとは思いますけど、ここで言いたいのは、ただ単に、それらは本質的には別ですよ、ということです。<br /> <br /> Wed, 07 Apr 2021 00:00:00 +0900 熱の伴わないクンダリーニへ変化 https://w-jp.net/2021/2314/ <br /> 元々、クンダリーニが動き出した頃は体がぽかぽかしておりました。<br /> <br /> 最初は、体中がぽかぽかしていて、次に、マニプラ優勢になって特に下半身がぽかぽかしておりました。暖かさでいうと一番最初のクンダリーニ経験後が一番暖かくて、マニプラ優勢の時もそれなりに暖かかったのですが最初ほどではありませんでした。<br /> <br /> 次にアナハタ優勢になった頃には胸がぽかぽかしておりましたが、かつての最初の頃あるいはマニプラ優勢のときほどは温かい感じではありませんでした。次にアジナ優勢になったときも暖かさでいうと似たような感じでした。<br /> <br /> そして胸の奥で創造・破壊・維持の公の意識が現れてきた時もそれなりに暖かかったのですが、熱感でいうとかつてほどではなく、熱というよりも存在感、という感覚の方が大きかったように思います。熱感の熱と存在感の熱とが組み合わさっている感じでしょうか。<br /> <br /> そして最近、サハスララにまでオーラが満ちている状態になってサハスララから周囲へと薄くオーラが広がっているような感覚になってきたら、急に体の熱感が薄れてきました。<br /> <br /> 体中の熱感および圧力が下がって、ここしばらく感じたことがなかった肌寒さすら感じるようになりました。<br /> <br /> ここしばらく、クンダリーニが動き出してからは基本的には体は暖かくて寒さに強い状態だったのですが、急に寒さを感じるようになったのです。<br /> <br /> これは、一見するとクンダリーニがなくなってしまって状態が戻ってしまったかのような印象を受けてしまうかもしれませんけれども実はそうではなく、そもそも熱感を感じるということ自体が割とそれほどでもないレベルで起こる体験だったように思います。<br /> <br /> ようやく、その段階を抜けてきた、ということだと解釈しております。<br /> <br /> 今まで長い間ずっと熱感を感じてきて、それはそれで心地の良いものではあるのですが、最近のサハスララの平常状態に比べたらその魅力も薄れるというものです。過去のその時点においてはそれは気力に満ちた良い状態ではありましたが、最近のこの状態こそが「中」なのかなとも思います。<br /> <br /> ヨーガ行者の本山博先生の書物を読むと、クンダリーニの力そのものは熱はなくてアストラルや気の次元に降りてくると熱となって現れるけれどもそれはまだ器が純化されていなくて熱となって現れているわけだから、熱いとか言っているうちはまだまだだ、みたいなことが書いてあったように思いますが、そういうことなのかなと思います。<br /> <br /> そうは言いましてももちろん体温としての熱感はありますし、本当に冷たいのならば死んでしまったということですので、これは感覚的なものになります。<br /> <br /> Sat, 03 Apr 2021 00:00:00 +0900 「中」で視界がぼやけるのとタマスでぼおっとするのとは異なる https://w-jp.net/2021/2313/ <br /> 傍から見るとどちらも大差ないように見える気も致します。<br /> <br /> しかしながら、自身の感覚ではこれは違った状態で、タマスで愚鈍な感覚に落ち込んでいる時は思考および五感の全てが鈍くなってぼおっとします。<br /> <br /> 一方で、「中」の状態では視覚がフル活動していませんので視界がぼやけるように思います。<br /> <br /> これは、スローモーションのように体の動きを感じる状態はそれはそれで視界(目)が優勢になっている状態だったわけですけれども、五感のうち視覚だけが特に優勢になっていた状態だったわけです。<br /> <br /> ヨーガでは目はマニプラ(ソーラプレクサス)チャクラが司っていると言われており、それはいわゆる情としての愛なわけですけれども、マニプラが活性化した状態においては視覚が活性化してスローモーションに見えたりするわけです。<br /> <br /> 一方で、感覚としては他にもありますから、例えばムーラダーラは匂いに関連していて、スワディスタナは味覚、アナハタは触覚、ヴィシュッダは聴覚に関連しているわけですけれども、その中で特に視覚が活性化したということはマニプラが動いている状態とも言えるわけです。<br /> <br /> 心というものは全ての五感を司っているわけですけれども視覚だけが優勢になってしまうと他の感覚が薄れてしまいますので、必ずしも視覚だけが活発な状態が最高というわけでもないわけです。それは、使うときに意図的に使えばいいわけで、視覚をしっかりと働かせようという意思があって視覚が動けばいいわけです。<br /> <br /> 意識の状態がサマーディに近づいてくると五感のうち優勢ないずれかから次第に活発に動き出して、私の場合、昔は味覚だったり嗅覚だったりしたわけですけど、最近は視覚が加発だった、ということのように思います。<br /> <br /> そして、それら五感のバランスが整ってくるといわゆる「中」の状態になって、単に五感のバランスが整うだけでなくサマーディとしての根底の働きが出てくるわけです。これはリクパとか言われていたりします。<br /> <br /> その状態は今までも瞑想の結果として出てきていたわけですけれども、日常生活の瞑想状態、日常生活にまで続くサマーディ状態としての根底のリクパの働きとしては、まだまだ弱かったわけです。<br /> <br /> 弱かったが故に、例えば視覚が活発に働くことでその奥底のリクパが働いてサマーディ状態を意識的に維持したりしてきたわけですけれども、次第にその「努力」が不要になってくると、それに応じて、例えば五感もはっきりとしたものではなくなってくるわけです。具体的には、視覚を働かせてスローモーションの状態にまで働かせなくてもサマーディを維持できるようになってくるわけです。<br /> <br /> そうなると、特に五感が激しく働かなくて普通の生活を送っている状態でサマーディが保てるように次第になってきます。それを比喩的に「中」とか表現したりしているわけです。<br /> <br /> この状態になると、視界を特別に働かせてはいませんので視界がぼやけたりしますけど、それはタマスの時の鈍い感覚ではなくて、ただ単に視界をそれほど使っていない、というだけのお話になります。<br /> <br /> 一方で、五感がそれぞれそれなりに動いている状態になりますから、特に日常生活で言いますと内部の感覚が常に意識されるようになります。体の中の感覚、それに皮膚の感覚もそうです。<br /> <br /> この状態になると、いわゆる日常生活の瞑想が容易になってきて、割と普通の生活がそのまま瞑想になります。<br /> <br /> この、日常生活の瞑想は色々なところで言われていますけど、それは意識的にするものではない・・・ というと語弊がありますが、わざわざ瞑想としてやるものではなくて、次第に瞑想が日常生活にまで広がっていって、いつの間にかそうなってゆく、という種類のものだと思います。意識が働いているからこそ瞑想状態なわけですが、意識的にそうしようと思ってやるものでもなくて、瞑想が深まってゆけば自然に日常が瞑想そのものに変わる、という種類のものだと思います。言葉で聞くと似たように思えるかもしれませんけど、行動として瞑想をしようと試みることと、自然に日常生活が瞑想に変わるのとでは相当の違いがあるわけです。<br /> <br /> Sat, 03 Apr 2021 00:00:00 +0900 最初からサハスララにオーラが満ちている状態 https://w-jp.net/2021/2312/ <br /> 以前は、サハスララへはオーラを「上げる」という感じでした。<br /> <br /> 少し前までは、アジナの付近まではオーラが満ちておりましたがサハスララの部分にはそのオーラが行き届かないような感覚があり、それは風船が完全に広がらないような、水を庭に撒いても奥の方まで水が届かないような、浅瀬が少し残っていて水が満ちていないような感じで、サハスララに感覚がないことが多かったように思います。そして、瞑想を1時間とか2時間するとサハスララにオーラが不意に堤防のせきを切ったように流れ込んでサハスララにオーラが満ちた瞬間に静寂の境地になっていました。<br /> <br /> そして、時間が経つとその状態から元に戻って、アジナ付近までオーラが満ちた状態にいつの間にか戻っていて、それから再度瞑想をしてサハスララにオーラを満たす、というような感じでした。<br /> <br /> それがここにきて、割と普段からサハスララにオーラが満ちた状態になってきています。とは言っても日にもよりますが。<br /> <br /> アジナとサハスララの間に垣根がなくなって、それは、割と急に、朝起きて気がついたらなくなっていた、という種類のもので、昨夜の瞑想状態から続いているだけということなのかもしれませんけど、それでも、少し前であれば一晩寝ただけで割とサハスララからオーラが抜けていたのが、一晩寝てもサハスララからオーラが抜けない、という違いがあります。<br /> <br /> この状態で瞑想を始めると気がつくのは、以前にはあった、サハスララに満ちて静寂の境地になる、という感覚と、普通の五感の感覚とが混在している、ということです。これはどういうことかと言いますと、以前は、サハスララに満ちることで五感が薄れていって静寂の境地になっていました。<br /> <br /> 今は、静寂の境地を成り立たせている深い感覚と五感とが共存している感じです。<br /> <br /> これはいわば清濁併せ呑む「中」の状態ということなのかなと解釈しています。<br /> <br /> 以前は、オーラの境目がアジナとサハスララの間にあって、アジナからサハスララにオーラが抜けた時はサハスララに留まらずにそのまま上か周囲にオーラが次第に少しづつ抜けていく、という感じがありました。<br /> <br /> 今も、サハスララから周囲にオーラがうっすらと繋がっている感じがあるのですが、以前のように、オーラが抜ける、という感じではありません。<br /> <br /> 以前はアジナからサハスララにオーラが抜けた時はそのままサハスララを超えてオーラが発散していたのですが、今は、サハスララの頭頂の付近でオーラが留まっている感覚があります。<br /> <br /> それでいて、周囲とはうっすらと繋がっています。<br /> <br /> オーラという割と粗大な肉体に近いエネルギーがサハスララから抜けにくくなって、それでいて、微細な部分で外側と繋がっている感じです。<br /> <br /> これはムーラダーラの感覚に似ていて、ムーラダーラは常にそこでオーラが集まっていて抜けている感じはないのですが薄っすらと周囲と繋がっています。<br /> <br /> それが、ここにきて、サハスララでも同様になってきています。<br /> <br /> 今まではサハスララがあまりうまく動いていなくて、その手前でブロックされていた、ということと、サハスララでオーラを留める感じになっていなかったようです。<br /> <br /> こうなったからと言って、感覚的には「中」の意識になって五感と静寂の境地が合わさったというくらいですけど、小さいように見えて意外に大きな変化のようにも思います。<br /> <br /> Fri, 02 Apr 2021 00:00:00 +0900 静寂の境地のみを追い求める空病を克服する https://w-jp.net/2021/2311/ <br /> 一旦静寂の境地に達すると、それのみを追い求めて、それ以外の状態を否定するようになることがあります。<br /> <br /> これが、いわゆる空病というもので、スピリチュアルにおいてもオーラの色などで判断して清浄なものだけを追い求めて俗世を否定してしまうような症状が同じことを言っているわけですね。この種の人はスピリチュアルや宗教界にある一定数いて、というか、割と一般的に清浄なものが良いように思われているわけですけれども、実際のところはそれは病気の一種なわけです。<br /> <br /> じゃあ清浄な空が良くないものかと言われるとそうではなくて、清浄な空であることそれ自体は問題がなくて、清浄な状態以外を否定してしまう気持ちが良くないわけです。ですから、清浄であってもなくてもその本質は変わないことに気づいていることが必要で、それを流派によっては理解と言ったりしますけど、そのように、状態とは変わるものですから、変わる清浄な状態が絶対的なものであるわけはなく、清浄な状態とそうでない状態のどちらもが大いなる創造というか神というかブラフマンあるいは大いなるイーシュワラの現れであると理解することが必要なわけです。<br /> <br /> これは、清浄な空を否定しているわけではなくて、これらを理解するためには清浄な空を知ることも必要で、清浄な空を知った上でそうでない状態も合わせてそれら全ての状態が移り変わるものだと理解することが必要で、変化するものだということは絶対的なものではありませんから相対的なもので、であれば、それを完全に頼るわけにはいかないわけですよね。その、移り変わる空という状態を追い求めないことが肝心です。そうは言いましても空を知るということは必要ですから、空を知った上で、それは移り変わるもので、空から色(現象)が生まれて、やがてはまた空へと戻ってゆく、ということを理解しさえすれば、空の静寂な状態を追い求めることはせずにその時々に現れてくる感情やら現象やらを楽しむことができるようになるわけです。<br /> <br /> 空病というのは、現象という、いわば「ゆらぎ」を否定して静寂の状態を追い求めてしまうことで、そうなりますと、空がなくなって現象が現れてきた時に空の状態を求めるというストレスや渇望というものが生まれてしまいます。これは自分に対しても他者に対してもそのように空病が現れるならば、他者が疲れたりストレスを感じたりしている時にそれを避けたり嫌悪すると言った態度として現れてきます。必ずしも空病が自らへの欲求として現れるだけでなく、他者への態度として空病が現れてきたりするわけです。<br /> <br /> 空病というのは、割と空の体験が浅い状態、まだ空に熟練していない状態においてはある程度は仕方がないものだとは思います。それはそれで、空の状態を保つために必要なことで、それをわざわざ「病」と呼ぶ必要は私はないとは思うのですが、伝統的にそれは空病と呼ばれているようです。<br /> <br /> この種の意識は、スピリチュアルで言うとオーラの色で階級のヒエラルキーを作るような態度に容易に結びつきます。あの人はオーラの色があれだからまだあのレベルで私はこのレベルだから、みたいな浅いスピリチュアルのお話になったりします。実際、そのようなことを言っていたとしても静寂の意識に達していさえすればそれが間違いだったと気付ける可能性がかなり高いわけでづけれども、静寂の意識にまだ全然到達していないのにも関わらず安易にオーラの色などで他人をレベル付けしてヒエラルキーを作ってしまう人がとても多いわけです。<br /> <br /> 実際のところ、静寂の境地に達して、その後、清濁併せ呑む「中」の意識に達しさえすればそんな誤解はなくなるのですが、なかなかそのレベルに達せず、悲しいことに、スピリチュアルがヒエラルキーを構築するための道具と化してしまうわけですね。そんなスピリチュアルであればない方がよくて、本来は、「中」の意識を持つことでヒエラルキーを克服することにスピリチュアルの本意があるわけです。<br /> <br /> 人にはそれぞれ学びがあって、そのために赤いオーラが必要だったり紫色のオーラが必要だったり緑色あるいは青色だったりするわけで、その人のスピリチュアルなレベルとは、それなりにその魂の本質と相関している面もあるにはありますけど、一時的に違う色で数年や数十年暮らすことだってあるわけです。ですから、ちょっと他人のオーラを見たくらいで判断しないことが重要ですし、そもそも、オーラの色とかは関係なくて、本質はというと「中」にあるわけですから、オーラの色は全く関係ないのですよね。ただ、オーラがそのようになっている、というだけのお話です。<br /> <br /> 他人のことは他人の人生なのだから、基本はほおっておけばいいのですけど、何か他人の人生が気になるということは、自分に問題がある、ということでもあります。自分が「中」の意識に達したら他人を「ありのまま」に見ることはあれども、それでヒエラルキーを作るなんてありえないですしね。秩序のためにヒエラルキーを作らざるをえない場合はあるにはありますけどそれは明確な選択の元にそうするのであって、基本は、自分が「中」の意識に達したら他人はありのままに受け入れて、それだけで終わりなのです。<br /> <br /> その意識に達した頃には、空病も克服されていると思います。<br /> <br /> こう言うと、汚れていてもいいんだ、みたいに勘違いしてしまう人がいるかもしれませんけど、そういうことではなくて、空は必要です。空は必要で、清浄な意識も必要ですけど、それ以外を否定することはしない、ということです。自分も日常生活で意識が淀むこともありますし、そのために「中」の意識が大切になってくるわけです。意識が淀んでも「空」を追い求めることはせずに、ただ、ありのままに受け入れる。その上で、定期的に瞑想をするなどして「空」の状態を強化してゆくわけです。<br /> <br /> Tue, 30 Mar 2021 00:00:00 +0900 神々からしたら中国も日本もヨーロッパも大差ない https://w-jp.net/2021/2310/ <br /> 主に担当している領域というのがありますけど神様からしたら割と同じで、ヨーロッパを担当している神々も中国を担当している神々も日本を担当している神々も仲良しで、時々担当が変わったり異動したり、それは自分から動く場合もありますし、言われて動く場合もあって、会社や役所の組織よりかなり柔軟に活動しています。<br /> <br /> 基本は「やれる人がやる」「やりたい人がやる」というところで、命令があるから無理やり、というのはあまりないように思います。「まあ、とりあえずやらせてみようか」みたいな場合もあれば、明確な使命を帯びて担当させることもあります。その時の担当というのは、単に神様の状態で人間にインスピレーションを与えるだけでなく、誰かが転生して王になって国を導く、みたいなところまで行います。<br /> <br /> ですから、例えばローマの皇帝が中国の皇帝として生まれたり、みたいなこともありますので、神様からしたらヨーロッパも中国も大差ない状況であります。<br /> <br /> 基本的には神様は一枚岩なのですが人間の側、あるいは、宇宙人の側からしたらそれぞれ意図が異なっていて、善意のある人間から悪意のある人間、および、他人を利用しようとしている人間、という感じで様々なわけです。<br /> <br /> 宇宙人は地球人よりも精神的に進んでいて、基本的にはそうなのですが、野蛮な宇宙人もいますのでそこは注意が必要です。とは言いましても宇宙人は沢山いますのであまり怖がる必要はないと思います。基本的に宇宙から地球は守られている・・・ というと誤解があるかもしれませんけど、宇宙には非干渉の法則があって、惑星の自由が担保されているわけです。ですから、地球が破滅するような状況を除いては宇宙人が地球に鑑賞することはありません。<br /> <br /> ただ、宇宙人からしてみると地球の助けが必要で宇宙人自身の種の破滅を防ぐためなどで地球に接触していてそれが地球からしたら侵略とかに見える場合もありますけど、まあ、基本は非干渉の法則が適用されていますのでそれほど心配することはないと思います。<br /> <br /> 基本は地球の各国家および地域ごとに面倒を見ている神様がいて、神様というと全知全能かのように思われるかもしれませんけどここで言う神様とは日本の神様と同じような意味合いでいういわゆる高次の存在、というか、ぶっちゃけいうと、ただの物知りのおじいちゃんというか長老みたいな感じで、神様というか、まあ、歴史上の偉人だと言う方がイメージとしては近いかもしれません。それでも長い間ずっと地球の面倒を見ていますから、神様と言ってもいいと思います。より進化した霊的存在・・・ というと何か浮世離れして聞こえてしまうかもしれませんけど、要は長老様みたいな感じですね。長生きして物知りで知恵に長けている人がいわゆる神様と呼ばれていて、神様とは言っても失敗もするし、必ずしも全知全能なわけではないです。一応は神様とは呼ばれていますけど長老と言ったほうがしっくりきますけどね。<br /> <br /> そのような神様がいて、地球を全体から眺めた上で管理していますから、神様からしたらヨーロッパも中国も大差ないわけですけど、それでも、もちろん地上の人間の気質としては割と違いが出てくるわけです。それは神様の地球における計画がうまくいったかどうかの違いくらいであって、中国は割と失敗していて、それでも神様からしたら中国が悪とかそういうことではなくて、何とかして良い世の中に変えてゆけないかと考えているのが神様なのです。<br /> <br /> ですから、日本では中国が悪でどうのこうの、とか言われていますけど、たしかに中国の人民を見てみると統治や教育がうまく行っていなくて神様の思い描いている平和な世界が実現されていないのは確かですけど、そうは言いましても中国が悪の権化とかそういうことではなくて、そのような問題が生じてしまっているのは人間の側に問題があって、中国がよりよい方向に進んで平和になってウイグルやチベットの問題も解消するように神様は働きかけているわけです。完全に失敗してしまうと戦争になったり民族虐殺ということになってしまいますけど、それは神様の意図したことではなくて統治が失敗して人間が暴走してしまった結果、そのような破滅を導いてしまうわけです。<br /> <br /> それは、中国とかヨーロッパとか地域にはあまり関係なくて、神様からしてみたらうまく行っている地域もあればそうでない地域もある、という、そのくらいの違いでしかないわけです。<br /> <br /> これは、日本がなされるがままに中国の支配下に収まってもよい、というお話ではありません。誰が支配しようがその地域に住む人々が神々の願うような幸せな生活を送れるかどうかが大切なわけです。ですから、そのような意味において中国の日本支配は今のところ望ましくないと考えているわけですけど、誰が支配するか、という点に関してはそれほどこだわりがないわけです。<br /> <br /> Tue, 30 Mar 2021 00:00:00 +0900 タマスから清濁併せ呑む「中」へ https://w-jp.net/2021/2309/ <br /> 順番としてはタマスな愚鈍な淀んだ状態から始まって、やがては静寂の境地に達します。<br /> <br /> 静寂の境地は一般的に言えば「空」の境地ということでありますが、空というのは平らな清浄な静寂の境地で、一般的にはそれが悟りかのように思われていると思います。それはそれで流派の方針があると思いますが、空の先には「中」とも言われている清濁併せ呑む状態があります。<br /> <br /> これは、「空」が最上だと一般的に思われているこのスピリチュアルな業界でなかなか理解されにくいことかなとも思いますが、状態としては、次のような段階を踏むように思います。<br /> <br /> 1.タマスな状態。まずは「無」を目指す。思考が停止した状態で「くつろぎ」を感じる。無の中にずっと留まっては成長が止まってしまいますが、それでも「無」はこの時には一時的な休息として役に立ちます。<br /> 2.浄化が進んできた状態。ラジャスな状態。<br /> 3.落ち着きが出てきて、サットヴァな清浄な状態に移行する段階。<br /> 4.静寂な境地。これをサットヴァと呼ぶのかどうかは微妙なところで、流派によるとは思いますが、一応はそう呼んでも良いとは思います。この状態の前がサットヴァでここが空、という方がしっくりきますけど、サットヴァとしてもそう間違いではないように思います。<br /> 5.清濁併せ呑む境地。タマスとサットヴァの両方が共存する状態。「中」の状態。<br /> <br /> 段階としてはそうですが、この、最後の「中」の状態はなかなか維持が難しくて、気づきが弱まってしまってラジャスあるいはタマスの状態まで戻ってしまうことが多々あるように思います。<br /> <br /> そうすると、再度、瞑想を続けて、静寂な境地に戻してあげて、それから「中」の状態へと再度持っていく必要があるように思います。<br /> <br /> それは傍から見ると「状態が悪化している」とか「成長が戻っている」みたいな印象を与えてしまうかもしれませんけど本人にとっては違っていて、この最後の「中」の状態は、何度も行き来を繰り替えすことで自身の「気付き」が強まっていって、ますます清濁併せ呑むことができるようになるわけです。<br /> <br /> 最初の「中」の状態は、静寂な境地である「空」を引きずった状態で、ある種の「輝き」、イルミネーション、光を放つ種類の、少し「空」に寄っている「中」でした。その「光」こそが気付きをもたらしてくれて「観察」を働かせていて、毎瞬間のヴィパッサナー状態(観察状態)を可能にしていて、それがいわゆるサマーディということでありますけど、その「空」を基本にしていて、それで清濁併せ呑む「中」に移行すると、必ずしも静寂な境地でなくてもその「気付き」であるサマーディ状態が続くようになるわけです。<br /> <br /> 清濁併せ呑む「中」とは、静寂な境地が日常生活で続く、ということでもありますけど、それは、必ずしも静寂な境地でなくても気付きのサマーディが続く、ということでもあります。<br /> <br /> 言い方を変えると、気付きが強くなる、と言うこともできます。<br /> <br /> 清濁併せ呑むと言っても善悪のお話ではなくて、悪いことをしていいという意味ではなくて、上記のように、タマスな状態に対して耐性がついて、タマスな状態であったとしても気付きが続くようになるわけです。<br /> <br /> しかし、しばらく続けているとタマスに飲み込まれていって、また瞑想をして静寂な境地の「空」に戻して、それから再度「中」である清濁併せ呑む境地で日常生活のヴィパッサナー瞑想であるサマーディ状態を続けるわけです。<br /> <br /> こうなると、傍目には特に静寂の境地だけというわけでもなくなることから、一見するとただの人のように見えるかもしれませんけど、内部的には大きな変化が起きているわけです。静寂の境地であれば傍目にも何か輝きがあって聖人かのような印象がありますけど、この「中」の状態に進んだ場合、割と凡人に見えるようにも思います。しかし、そこには大きな変化があるわけですね。<br /> <br /> ヴェーダンタでいうとこの世の中は全てイーシュワラの現れで、自身のいわゆる魂はアートマンで、他者もアートマンで、全体がブラフマンで、実はアートマンとブラフマンは一緒で、それはタマスとかサットヴァとかを全て超越していて全て同一で、イーシュワラはそのようなブラフマンと一緒でもあるのですが、必ずしも輝きのサットヴァや空だけが清浄なのではなくて、全てがイーシュワラでありブラフマンでありますから、タマスだとかサットヴァだとかは関係ないわけなのですよね。<br /> <br /> この「中」の状態になると、そのようなことが次第に実感できてゆきます。必ずしも静寂の境地である「空」だけが素晴らしいのではなくて、タマスな状態だとかサットヴァな状態も含めて全てありのままに正しく受け入れられるようになります。<br /> <br /> 仏教で「中道」みたいなことが言われていて、「真ん中の道」だとか「片方に偏らない」みたいなことが言われていますけど、そこでは割と「どちらかを選ぶ時に偏らない」みたいな行動のお話で語られていることが多いと思いますけど、実際はこの「中道」とは心の状態を表していて、「どちらの選択肢を選んだとしても自分の心は偏らないことを中道」と言っているのであって、両方の選択肢の真ん中を選ぶかどうかは全く関係ないわけなのですよね。<br /> <br /> 日本で中道を語る人は「極端な選択を避けます」みたいなお話が多くて、それが日本で「決断を避ける」ことに繋がっているような気がしますけど、流派ごとの考え方がありますのでその流派の考え方があるのならばそれはそれで自由にすればいいと思っていますけど、私からすればこの中道はこころのあり方を示しているのですから、上記のように、何を選択したとしても自身の中の気付きを保って行動すべし、ということを言っているに過ぎないと思うわけです。<br /> <br /> この「中」の状態はタマスとは違っていて、しかし、成長の過程ではタマスに落ち込んでしまうことも多々あるように思えて、そうなるとサハスララからオーラが抜けてオーラがサハスララに上がりにくい状態になってしまったりしますので、また瞑想を続けてオーラをサハスララまげ上げて静寂の境地の「空」に戻して、オーラをサハスララに保ちつつ行動するのが「中」で、それは「空」でもあるのですが「空」が強化された状態で、そのことを「中」とここでは呼んでいて、最初はすぐにオーラがサハスララから抜けてしまって「中」および「空」の状態から落ちてしまうのですが、次第にオーラが強化されてくるとサハスララにオーラがそれなりの長い時間留まるようになります。この段階を何回も繰り返してサマーディを強化してゆくわけです。<br /> <br /> Tue, 30 Mar 2021 00:00:00 +0900 深呼吸をしてサハスララをオーラで満たして静寂の境地に至る https://w-jp.net/2021/2308/ <br /> ヨーガで呼吸法はプラーナヤーマですけど、深呼吸はプラーナヤーマというほど手法というわけではなくヨーガの完全呼吸、というくらいですけど、そのくらいの深呼吸でもサハスララにオーラを満たして静寂の境地に至ることができます。<br /> <br /> ただし、それはある程度のオーラの活性化がなされている場合のみで、そうならないのだとしたら前提条件が足りていないのだと思います。<br /> <br /> 深呼吸をする時、呼気で息は出てゆきますけどオーラは下半身に下がります。そして、吸気で息は入ってゆきますけどオーラはサハスララにまで登ってゆきます。<br /> <br /> そうして何度も深呼吸を繰り返していると次第にサハスララにオーラが満ちてきて静寂の境地になります。<br /> <br /> 呼気でオーラが下半身にまで最初は下がりますけど、一旦サハスララに到達したら次第にオーラが降りなくなってきて、その後は、サハスララにどんどんとオーラが満ちるようになってきます。次に呼気をするときに一部のオーラは下がりますけど、一部のオーラがサハスララに残ったままになり、やがてサハスララに残るオーラの割合が増えて雪、呼気をする度にサハスララのオーラが強まってゆくわけです。<br /> <br /> ヨーガですと複雑なプラーナヤーマ(呼吸法)があって、私はそれほど多くをやったわけではなくて基本的なものしかわかりませんけど、それはそれで効果があるわけです。ですけど、更に基本である単なる深呼吸だけでもこうしてオーラがサハスララに集まって静寂の境地に達することができるわけです。<br /> <br /> ヨーガではオーラとは言わずにプラーナと言いますけど、プラーナというと割と肉体に近い生命エネルギーのことを意味して、私が思うにはサハスララに満ちて静寂の境地をもたらしているエネルギーはプラーナも重要ですけどそれだけではなく、プラーナに加えてクンダリーニのエネルギーおよび魂に相当するアートマンのエネルギーが必要だと思うわけです。<br /> <br /> クンダリーニのエネルギーはムーラダーラに眠っている根源の力で、それだけではサハスララに満ちても静寂の意識にはならなくて、それだけではなく、アナハタの奥に繋がる根源のエネルギーである、いわゆるアートマンあるいは単にハートとか言われているエネルギーが一緒になって共にサハスララに登らなければ静寂の意識にはならないのかなと思います。<br /> <br /> 細かく説明すればそういうことになりますけど、簡単に平たく言うのであれば単にオーラであって、ただ、オーラとは言っても単にプラーナだけでもなくクンダリーニだけでもなく地球の地のエネルギーだけでもなく天のエネルギーだけでもなく、上記のような3つのエネルギーが共になって初めて静寂の境地になるのかな、と思うわけです。<br /> <br /> Mon, 29 Mar 2021 00:00:00 +0900 ゲームをサブクエストまでクリアするような気持ちでヴィシュッダを鍛える https://w-jp.net/2021/2307/ <br /> サハスララにまでオーラを上げれば静寂の意識になって十分にリラックスできるわけですけれども、その一歩手前まであえて戻ってヴィシュッダを鍛えることで、まるでゲームの一応のボスは倒した後に途中のサブクエストも攻略しているような感じになってきています。<br /> <br /> おそらくは、サハスララまでオーラが達すれば一応は本筋のゲームはクリアになって、そうは言いましても、達成度として100%ではなくて30%とか40%なのかなと思います。<br /> <br /> この状態でも昔の人は「悟っている」とか「覚醒した」とか言っていた人はいたでしょうし、そうは言いましても、悟りとか覚醒とか言っても人それぞれなわけです。<br /> <br /> 100%覚醒してみたところで更に120%とか200%の覚醒はありますので上限というのはなくて、そうは言いましても、全てのチャクラが覚醒するのを一応は100%とみなすとすると、私の場合は30%とか40%なのかな、とか思います。<br /> <br /> それは、サハスララに達したことで一応のボスは倒したものの、そうは言いましてもまだ完全にクリアしたわけはなくて、本当のエンディングはまだ見ていなくて、一応のエンディングは見た、みたいな感じだと思います。まだ本当のエンディングを見る条件を満たしていないわけですね。<br /> <br /> まあ、そんな感じで、一旦は逆戻りしてヴィシュッダを最近は意識した瞑想をしています。<br /> <br /> 静寂の境地に達してしまうとオーラがサハスララにまで達してしまってヴィシュッダの念が弱まってしまう感じですので、あえて少しタマスな疲れた状態にすることでサハスララへのオーラを減らして、そうすることでアジナとヴィシュッダの圧力を高めてみています。<br /> <br /> こうしなければサハスララにエネルギーが取られて、しばらくその安楽な状態に留まってしまってヴィシュッダを覚醒させるとかそういうことにはならないのかな、とも思います。一旦戻って、途中やり残したレッスンをやり直している感じです。<br /> <br /> ひとまずサハスララまでの道筋は見えましたので、途中の、やり残した宿題をするために戻ってきている感じです。<br /> <br /> 意識としては静寂の境地とリラックスから落ちてしまっていますのでちょっと後戻りのようにも感じてしまいますけど、そうは言っても、これはやり残した宿題ですので必要なステップなのかなと思います。<br /> <br /> 傍から見たら以前よりちょっと疲れ気味に見えると思いますので停滞とか逆戻りみたいに見えるかもしれませんけど、それは必要な逆戻りですので、気にすることはないかなと思っています。<br /> <br /> 今は、サハスララにエネルギーがずっと溜まるという感じではなくて通常状態ではまだアジナくらいにまでしかエネルギーがありませんので、圧力をかけるとヴィシュッダとアジナに圧力がかかるか、あるいはサハスララにエネルギーが抜けて静寂の境地になるか、のどちらかになっています。後者の後に日常生活を少し送ると前者の状態になりますので、時間をあけて瞑想を繰り返すことでヴィシュッダにエネルギーを送り続けている、というような感じです。<br /> <br /> Mon, 29 Mar 2021 00:00:00 +0900 人生を遡ってやり直さない場合もある https://w-jp.net/2021/2306/ <br /> 先日のお話で人生を遡ってタイムラインをやり直す場合もある、というお話をしましたけど、それだけを読むとみんなそうやって人生を何回もやり直すのかという印象を与えてしまったかもしれませんけど、実際のところ、特にこだわりがなければやり直しなどせずに普通に次の人生を歩みます。というか、そのように、やり直しをしない方が遥かに多いです。<br /> <br /> ですから、やり直しをするのは特別な事情がある場合やこだわりがある場合などのみです。<br /> <br /> 特に、転生を繰り返してきて最後の方になったらその集大成として最後の人生をきっちりとしたものにして、次の転生に繰り越さないようにする、というパターンは割とあるように思います。<br /> <br /> その他であれば普通に次の人生に持ち越して好きな人生を歩むわけです。<br /> <br /> ですけど、もうこの惑星あるいは時代などに転生するのを最後にしようと思ったのならば悔いがないように、遥か前の時代にやりたくてできていなかったことなどをつまみ食いのようにして体験するのです。<br /> <br /> 例えば、職業であってもそうです。<br /> <br /> 多くの職業をつまみ食いして転職ばかり繰り返している人は、単に怠け者だったり落ち着きがない場合も多々あってその場合の方が多いのは事実ではありますけど、その一方で、このパターンに当てはまって、心残りになっている職業、あるいは、その仕事についた時に知るべきだったことをまだ知っていなくてほんの少しだけ体験することが必要だった、みたいな時があります。<br /> <br /> 旅行などがそれである場合もあって、海外旅行に行きたくて行けずに死んだ過去生がある場合には、その気持を成就させるために海外旅行をする場合もあります。<br /> <br /> 私もこのパターンが一つあって、たぶん8〜10世代くらい前の人生で高度成長期に転生して定年後に妻と南米でも行こうかというお話をしていて結局行けなくて、その心残りを解消するために今生で南米旅行したこともあります。割とそれに気づいていて、その理由があったからこそ行ったわけで、行けば思っていた通り満足しました。<br /> <br /> それとか、職業に関しても、どうしてこれはそうなのだろう、みたいなことを特にITの分野で思うことがあったりしてその職業をしてみた、という背景もあります。<br /> <br /> 今から思えば、そのような雑多な出来事の後悔の解消は全てする必要はなかったかなとも思うわけですけれども、人生という観点からするとそのようなこともあるわけですよね。<br /> <br /> 人生をやり直すかどうかとか時代を遡るかどうかとかいうことと悟っているかどうかとはあまり関係ない気がしていて、それは死後に霊になれば割と誰でもできることで、大したことではないわけです。<br /> <br /> それとは別に、悟るというのは能力的なことではなくて認識の面のお話だと思うわけです。<br /> <br /> 悟っていなくても時代を遡って人生をやり直すこともあるし、むしろ悟っていないからこそ後悔があってやり直す、という面もあるわけです。悟っていてよりよい人生のためにやり直す場合もあるにはありますけど、基本的には悟っていれば特に不自由なく人生を送るわけです。<br /> Mon, 29 Mar 2021 00:00:00 +0900 ヴィシュッダに風船の膨らみのような圧力を感じる瞑想 https://w-jp.net/2021/2305/ <br /> 最近は、オーラの状態としては眉間のあたりまではだいたい濃いオーラで包まれていてサハスララにオーラを瞑想中に満たすかどうか、という感じになってきています。サハスララがオーラで満たされれば静寂の境地になりますし、日によってそうなる時もそうでもない時もありますけど、そうは言いましても眉間のアジナくらいまではオーラで包まれているのが基本になりました。<br /> <br /> オーラとしてはそうなのですが、最近はずっと、喉のヴィシュッダのちょっとしたイガイガ感と言いますか、風船が膨らむ時のような圧力を喉に感じる日々が続いています。<br /> <br /> これは最近のころちゃん関係である可能性もなくはないですけど風邪の感じで喉の調子が悪くなる時とは明らかに違っていて、おそらくはスピリチュアルなオーラ的なものなのかなと思っております。<br /> <br /> イガイガといってもほんのちょっとの感じではありますが、瞑想を続いていると次第に、少しづつですがイガイガ感が減ってきた感じがして、特に、喉のヴィシュッダに意識を合わせることで少しづつイガイガ感がなくなってきている気が致します。ただ、まだ完全に解消したわけではありませんけど。<br /> <br /> オーラの感覚として、他の箇所に特にこういったイガイガ感はありませんので喉のヴィシュッダだけのことで、以前からことあるごとにこのイガイガ感は感じてはいましたけど最近は割とずっと感じていて、これはもしかしたら、まだヴィシュッダが開いていない、ということの印なのかもしれません。<br /> <br /> そういえば、ヨーガ行者である本山博先生の著書でそのようなことが書いてあった気が致します。<br /> <br /> 数ヶ月は喉のところに精神集中を続けましたが、はじめは喉がいがらっぽくなったり、セキが出たりして、呼吸がしにくくなりました。「密教ヨーガ(本山博著)」<br /> <br /> ですので、基本は、今のように喉に精神集中することで効果があるのだと思います。しばらく続けてみます。<br /> <br /> 私の場合、元々ヴィシュッダは閉じ気味だったような気がしていて、声が出にくかったり、ということもありましたけど最近は割と普通で、そうは言っても、開いている、という感じでもないのでまだまだ精神集中が必要のようです。<br /> <br /> この種の喉の風船の圧迫感およびちょっとしたイガイガ感は、瞑想をしていてアジナにまでオーラは達しているけれどもまだサハスララに満ちていない時の方が喉の圧迫感およびイガイガ感が比較的強めに出ている気が致しますね。一方で、サハスララの方にオーラが満ちて、それはいわば、アジナ近辺のオーラがサハスララの方に少し抜けた、ということもありますけど、その状態ですと喉のヴィシュッダにかかっているオーラの圧力のようなものも少し弱まる気が致します。<br /> <br /> ですので、順番としては、瞑想を始めるとアジナに集中して、オーラが高まってくるとアジナの圧力およびヴィシュッダの圧力が高まって、その後、サハスララにオーラが満ちてくるとアジナからサハスララに一部のオーラが流れていって、アジナおよびヴィシュッダの圧力が少し下がってリラックス状態になる、という感じです。<br /> <br /> Sun, 28 Mar 2021 00:00:00 +0900 タマスな愚鈍な状態であっても私の本質は常に清浄 https://w-jp.net/2021/2304/ <br /> 人は時に疲れることもあります。瞑想である程度の状態になったとしても、日によって調子が良いときもあれば悪い時もあります。<br /> <br /> しかしながら、私の本質は常に清浄でカルマに左右されない存在なわけです。<br /> <br /> それはヨーガやヴェーダンタではアートマン(真我)と説明されていて、絶対的な至福だとか永遠にあるもの、として説明されています。<br /> <br /> それは基本的には不可知のものとされていて、人間の奥底に隠されて眠っています。<br /> <br /> それを明らかにして顕現されることがいわゆる修行であったりするわけですが、そうして現れてきたアートマンが絶対的な至福だったり永遠だっとしても、それとは別の階層においてタマスな愚鈍な性質というのは人間の意識のレベルで発生したりします。<br /> <br /> そのタマスな愚鈍な性質は私の本質であるアートマンを覆い隠すような性質があって、意識が曇ってしまったりすることもありますけど、私の本質であるアートマンは常に清浄で、肉体のレベルであるタマスな愚鈍な性質を取り除く、いわゆる浄化をすることで清浄な状態を保つことができます。<br /> <br /> それは、アートマンを綺麗にするということではなくて、アートマンはもともと清浄で永遠のものですけど、それに付着しているタマスなもの、いわゆる無知とか言われている性質を取り除くことでアートマンの本来の性質である清浄な状態に戻すわけです。<br /> <br /> アートマンが本来は清浄であるから何もしなくてもいいというわけではなくて、その上に被さってしまっている愚鈍な性質のタマスを取り除くためには行為が必要というわけです。<br /> <br /> その行為は流派によっては修行と言ったり、あるいは、流派によってはダルマによる義務だとか言ったりしますけど、同じことだと思います。<br /> <br /> Sun, 28 Mar 2021 00:00:00 +0900 真理を人の側から見るのと絶対の側から見る違い https://w-jp.net/2021/2303/ <br /> 真理を絶対(者)の側から見ると行動はなくてただ真理だけがあります。流派によってはそれをニャー(知識)とか言ったりしますけど、真理とは知識であり、そこに行動は存在しません。何をしていなくても自分は実は悟っていて知識そのものであって、ただそれにマーヤー(幻想)の覆いがかかっているので見えなくなっているだけなのです。ですから、ただマーヤーの無知を取り除けばそこに知識(ニャーナ)が現れます。<br /> <br /> そして、そのために行う行動が必要かどうかというところで流派によって意見が分かれるわけですが、私からすれば、言い方が異なるだけでどの流派も似たようなことを言っているように思われます。実際には、お互いの流派は他の流派のやり方ではなく自分の流派が正しいと思っているわけですけれども、傍から見ればどの流派もそう違いはないように思えます。人によっては違っているように見えるかもしれませんけど。確かに、一見すると違っているように見えます。<br /> <br /> ヴェーダンタの流派は、知識(ニャーナ)を知るという手段によってモークシャ(解脱)を得ると言います。ここでは、知識は行動とは言わずに知るという手段が解脱に導くと主張しています。彼らは、行動に関する規範はニャーナではなくダルマによって定められていて、それは義務であって、モークシャを得るための手段ではないと言います。<br /> <br /> 一方、ヨーガの流派では瞑想を通じてサマーディの状態に導き、いわゆる悟りの状態になると言います。一般的なヨーガでは4つの道があると言われていて、どの道を歩んでも同じゴールに達すると言われています。<br /> <br /> 禅では座禅という手法を用いて悟りを目指したり、禅の流派によっては公案(禅問答)を通じて悟りを目指します。<br /> <br /> 一見するとどれも異なっているかのように見えますけど、実際、真理を絶対の側から見ているのか人間の側から見ているか、という違いくらいしかないように私には思われます。<br /> <br /> 真理の表現方法は多種多様で、絶対の側から見れば行動はなくてただそこにはニャーナ(知識)だけがあります。修行は不要で既に悟っているわけですね。<br /> <br /> そして、その悟りの状態を妨げているものが無知だとすれば、それを取り除く行為が必要、というのはどの流派もほぼ同意していると思われます。<br /> <br /> しかし、無知を取り除く行為を何と呼ぶのかが意外に流派によって異なっているわけです。<br /> <br /> ヴェーダンタの流派は、無知を取り除くための修行などあらゆる「行為」は不要で、ただ「知る」という手段によってモークシャ(解脱)を得ることができる、と言います。ですから、ヴェーダンタの流派は修行はモークシャを得る手段にはならない、と主張しています。これはこれで、これだけを見るのならば一貫した説明のように思われますが他の流派の人が聞いたのならば行動や修行が不要という点に違和感を感じるかもしれません。<br /> <br /> 一方、ヨーガではその無知を取り除く方法(手段)として4つのヨーガの道それぞれの行動を通じて無知を取り除きます。カルマ・ヨーガであれば奉仕、ラージャ・ヨーガであれば瞑想、バクティ・ヨーガであれば崇拝や深い愛や祈り、ニャーナ・ヨーガであれば知識を得ることを行います。それらがいわゆる修行とみなされているわけです。<br /> <br /> 禅においては座禅をしたり禅問答をして無知を取り除きます。<br /> <br /> 一見するとどれも異なっているかのように見えますけど、私に言わせてみれば、どれも大差ないと言えます。人によって向き不向きがあるというくらいです。<br /> <br /> ただ、あえて言うのならば、理論面で言えばヴェーダンタのお話が筋が通ってはいますので、理屈のお話はヴェーダンタがもっと広まって常識になってもいいのではないかと思っております。<br /> <br /> ただし、ヴェーダンタのお話だけをきちんと理解せずただ聞いただけで真に受けてしまうと日本でも昔の道元とかが活躍した時代にあったように「何もしなくても人は悟っているのだから何もしなくても良い」みたいな邪道な教えかのように勘違いしてしまう可能性がありますので、そこは気をつけるべき点だとは思います。<br /> <br /> 私からするに、ヴェーダンタの人がそうは言っていても実際には修行っぽいことをしていて、それを本人たちは教義の理屈上、修行とは言っていないだけのように思われます。<br /> <br /> 実際のところ、ヨーガにおいても無知を取り除く方法はあったとしても瞑想状態そのものは「行為」ではなくて、「瞑想状態は自然に現れてくるもの」と説明されていますし、それは同時に「無知を取り除く」「タマス(愚鈍な性質)を取り除くことで瞑想状態になる」とか言われていますので、実際のところそれは行為ではなくて自然に起こる行為だということになっていて、実際その通りではあります。ですから、説明の方法として4つのヨーガの道で行動が説明されていたとしても実際の根本で言うとそれは行為ではなくて自然に起こるわけで、ただ、そのために行為が必要となっているだけなのですね。ですから、ヨーガも見方によっては「行為ではない」と言わなくもないわけです。そうは言っても、ヨーガはそのような言い方はせずに「修行」「行為」と表現してはいますが。そこに表現の違いがあるわけです。<br /> <br /> 禅にしても、座禅で座ることを修行のように思っている方は大勢いらっしゃいますけど、私は禅のやり方の座禅はそれほどしたことはないですけど、一応の私の理解で言うと、座禅とは、行為をしないからこそただ座る、ということだと思っています。ですから、元々の座禅は行為や修行とは思われていなかったのではないでしょうか。何か行動をするなり仕事をすると言うことが「行為」だとするならば、座禅というのは「何もしない」ということなのだと思います。それがいつの間にか時代が経つにつれて座禅という型が出来て、あたかもそれが修行という「行為」であるかのような誤解が生じてしまっているのではないかと傍から見ると思われるわけです。本来、修行だとか座禅だとかいう改まったものではなく、ただリラックスして座る、というものだったように思われるわけです。道元の書籍を読んでみると、道元はただ座るということを言っていたのであって、それは行為ではない、と私には解釈できます。<br /> <br /> 道元にしてもヨーガにしても、座った瞑想や座禅は一応の型があって一見すると行為ということにはなりますが、その実際は、ただ座って何もしない、というところにあるわけです。<br /> <br /> 何もしないとは言っても瞑想における注意がありますので本当に何もせず座るということではありませんが、気をつけるところを気をつけていさえすれば基本は何もせずに座るというところに本質があるわけです。<br /> <br /> 最初はただ座るだけというところから始まって、やがては、その瞑想状態が座った瞑想を終えてからも続くようになり、その気付きが日常生活の全てへと広がってゆきます。そうしたら日常生活がいわゆる修行になるわけで、そうなったとしたら行為だとか修行だとかそのような区別もなくなってゆきます。それを行為を呼ぶのか修行と呼ぶのかもよくわからないものになります。道元にしても座禅ばかりが有名ですけど行動しながらの瞑想ということも主張されていたように思います。<br /> <br /> その状態は、傍から見ればただ単に修行が続いているとか瞑想状態が続いている、ということになりますけど、実際は、それは単にそうであるだけでなく、知識(ニャーナ)とも繋がっている状態でもあります。そのニャーナそれ自体は行為ではなくて曇り(無知)がないが故にありのままにニャーナ(知識)が現れている状態なわけです。<br /> <br /> ですから、その状態に至ればヴェーダンタが言うように行為というものは必要なくてただ無知を取り除いて知識(ニャーナ)を明らかにするだけで良い、ということにはなるのですけど、それ以前であれば、そうはならないのですよね。<br /> <br /> ヴェーダンタが言うところの知識(ニャーナ)は人が知り得ない知識であるシュルティに関する知識だと言われていて、それはいわゆる絶対の側から見た知識であって、確かにそのような意味においてはそうですけど、人の側から見た場合はどうなるか、というのはあるわけです。<br /> <br /> 絶対の側からすると行為が不要なのは確かにその通りですけど、人間の側から見たら何某かの行為が必要なわけです。<br /> <br /> ヴェーダンタの流派はモークシャに至る手段は知識(ニャーナ)のみである、としていて、確かに絶対の側から見るとその通りではあるのですけど、それだと絶対(者)の側と人間との間に深い溝ができたままで埋めるのが難しい気が致します。もともと悟っていて絶対の側に立っている人が主張しているお話のように見えて、人間が悟るために深い深い溝があるように思えるわけです。一気に深い谷を超えられる人、あるいは、もともとある程度悟っている人であれば超えられるのかもしれませんが、ただ単にニャーナを得て悟れるかというと、それは難しいように思えます。<br /> <br /> ヨーガの偉大な点としては人間が神を超えて絶対者に近づくことができる、という点なわけです。それは人間がどのように悟れるか、というお話で、ヴェーダンタの絶対者の視点と完全に同じとは言えませんけど、実際に人間がそれに近づくための具体的な手段が示されているわけです。<br /> <br /> これはヴェーダンタの手法を否定しているわけではなくて、どちらも向き不向きがあって、それなりに悟りの兆候がある人にとってはヴェーダンタの手法でいいのだと思います。知識(ニャーナ)を得るだけで悟れる人もいるでしょう。しかし、人間との間にそこには深い深い溝があって、そこを超えるためには人間向けの手法が必要だと思うわけです。<br /> <br /> ヴェーダンタの流派であっても、言葉では知識だけと言っておきながらチャンティングは熱心で、チャンティングは修行とはヴェーダンタの流派ではみなされてはいませんけど、他の流派であれば修行の一環としてみなされていたりするわけです。言い方は違えども、どの流派もそうは変わらないように私には思えるわけです。<br /> <br /> Sun, 28 Mar 2021 00:00:00 +0900 内向的なスピリチュアルから外向的なスピリチュアルへ https://w-jp.net/2021/2302/ <br /> 両方あって、それぞれの段階で嗜好が異なります。<br /> <br /> 特に最初は内向的になって、とにかく他と分離の自分を作り出して静寂の境地になります。その後、内なる宇宙と言いますかいわゆるアートマンの悟りに繋がると外交的になるのです。<br /> <br /> ですから、スピリチュアルの特に最初は他人から離れて孤独を生きることが重要で、その段階ですとまだ孤独に耐えられなかったりしますけど、徐々に孤独を生きても平気な自分を育てていけばいいわけです。<br /> <br /> その段階ですと割と他人と分断しがちで、スピリチュアルは嗜好はとにかく皆と一緒だとかワンネスだとかを主張しがちですけど、それは段階が違っていて、まず最初は分離の状態でしっかりと自身の奥深いところに繋がってからでないとスピリチュアルの本質的な意味において他人と繋がることができないわけです。<br /> <br /> それ以前に他人に繋がる場合は損得勘定だったり感情的な面、情緒的な部分で他人と繋がりますけど、スピリチュアルのある一定以上の本質的な愛の面であるこの世の中の良いことも悪いことも全て含めて愛であるという認識の元に他人と繋がることができるのは内向的な面を徹底的に極めて静寂の境地に達した後にしかできないわけです。<br /> <br /> このあたりはスピリチュアルで割と理解されにくいところでもありますけど、他人と繋がるためにはまず分離の孤独を生きて自分自身の本質と繋がる必要があるわけです。<br /> <br /> 分離とかいうとスピリチュアルの人は良くないことだと決めつけたりしますけどそんなことはなくて、個人としての分離を生きて他人への依存をなるべく減らして孤独の状態になって、そうして静寂の境地に達して、更にはアートマンと繋がることでそれは他者とも繋がることになってそこで初めてスピリチュアル的な意味において外交的になるわけです。<br /> <br /> それ以前の外交的な態度というものは社交辞令だったり文化的なものであったり礼儀だったり、時には損得勘定だったり情緒や感情によるものだったりするわけです。<br /> <br /> アートマンと繋がってスピリチュアル的な意味における外交的になったとしてもそのような社交辞令や文化的や礼儀や時には損得勘定や情緒や感情による他者との接触が必ずしもなくなるわけではないですが、それに囚われなくなります。こうした元々持っていた理由で他者と接したとしても、それは接しない時と変わらず自らの本質と繋がり続けていて、それゆえに、スピリチュアル的な外交的な面を踏まえながらかつての人との接し方が続くわけです。<br /> <br /> ですから、実際のところ、スピリチュアルで理解されているように、スピリチュアルになったからと言って外面的に特にものすごく変わるというわけでもなく、見る人が見れば一目瞭然で違いがよく見て取れますけど、一見するとそれほど変わらなかったりするわけです。それ故に、世間では、既に悟っている人が他人に気付かれずに普通の社会生活を送る、ということが起こります。すぐそこに悟っている人が意外に沢山いるわけです。そして、それに気付くだけの認識力を持ち得ていない人が実はかなりのところ多いわけです。悟っている人は単に「いい人」のように見えたりもしますけど、実は悟っている場合もあるわけです。<br /> <br /> 実際のところ、悟りが他者に見抜かれるような悟りは浅い悟りなのかなと思います。日常生活に溶け込んでいて自らの仕事を淡々と行ってそれでいて自らの深いところに繋がっているような人は単に熟練の仕事人のように見えるかもしれませんけど、実際のところ、悟っていたりするわけです。そのような人は意外と割といるように思われますが、気付かれないことが多いように思います。目立つような悟りは、そのような役割を持って生まれてきた場合も多々あってそれはそれで目立つ行為をしますけど、そうでなければわざわざ目立つようなことはあまりないように思います。<br /> <br /> そのような悟りは割と一般社会に溶け込んでいて、そこに達することができれば悟っているのですが、本人はそれを悟りとすら思わないでしょう。悟りなんてそのくらいのもので、悟っていない人が一生懸命になっているだけでもあると思われます。<br /> <br /> ですから、悟っているならば割と社交的で外交的な面も出てきますけど、悟っていないのならば、もし悟りたいと思っているのならば内面に深く入り込むために内向的になることが一定期間、必要のように思うわけです。<br /> <br /> Sat, 27 Mar 2021 00:00:00 +0900 悟りが理解を生むのであって理解が悟りを生むのではない https://w-jp.net/2021/2301/ <br /> 経典を勉強すれば悟れる、みたいな流派がありますけど、個人的にはそれはよくわからなくて、そういうこともあるのかもしれないですけど、私は勉強だけではなくて体験が必要で、更に言えば、理解が悟りのきっかけになることはあったとしても最初に来るのはいつも悟りであって、理解は悟りの後に来るもの、あるいは、自身の状態を確かめるための理屈でしかない、と思っています。<br /> <br /> 自分の状態が悟りかどうかを確認するためには聖典を開いて勉強をする必要がありますけど、だからと言って、経典を勉強すれば悟れるというわけではなく、体験としての悟りが先にあって、それが悟りかどうか確かめる、あるいは、聖典の説明の説明のための理解が後に来るものだと思います。<br /> <br /> もっと言ってしまうと、そのような表面的なことだけではなく、悟りそれ自身が理解をもたらしますので、悟りとは理解そのものだ、と言うことは確かに可能です。<br /> <br /> ですけど、その意味における理解とは経典の理解のことではなくて、体験を伴うもので、経典を勉強することに熱心な流派が言うように「経典をしっかりと勉強して正しく理解すれば悟りに至ることができる」というお話とはちょっと違っているわけです。<br /> <br /> 悟りの質そのものが理解でできている、と言ってもそう間違いではないわけです。ですから、理解はたしかに悟りの本質そのものである、と言うことでもあるのですけど、だからと言って、経典に書かれてあることをそのまま理解して正しく解釈できたとしてもそれは悟りではないわけです。<br /> <br /> 悟りというものの質が理解でできている、ということであって、理解すれば悟れるというわけでもないわけです。<br /> <br /> 理解とはサンスクリットで言うとニャーナですけど、ニャーナこそが悟りである、というお話は、確かに悟りの状態であればそれはそれで正しいわけです。<br /> <br /> ですけど、仏教の流派でも色々と意見があるように、例えばちょっと違う似たお話で「人の本質はもともと悟っているのだから何もする必要はない」という流派もありますけど、その一方で、人の本質は悟ってはいるもののそれは隠れていて、隠れているものを表すために修行しなければならない、と言っている流派もあって、真実は後者に近いのですが、同じように、「理解」においても、人の本質はもともと悟っていて理解に満ちているのだから修行しなくても理解しさえすればいい、と主張するのは、理解が隠れているからこそ修行が必要、というお話も対比できるわけです。<br /> <br /> 人の本質がもともと知識(ニャーナ)でできているからと言って悟っているわけでもなく、悟りの結果として人の本質がニャーナであることが納得できるということは、ニャーナ(理解)とは結果であって、手段は別にあるわけです。<br /> <br /> 小さなニャーナを積み重ねてゆけば悟りのニャーナになるのかもしれないですしそのような道もあるのかもしれませんけど、特にそこに修行方法の制約はつけなくてもいいと私は思うのですが。<br /> <br /> そのように、知識が悟りに導くとか、知識だけあればいい、と言っている人たちの日々の行動を見ていると、長い間聖典をチャンティングしたり瞑想をしたりプージャ(祈りの儀式)をしたり、それはほとんど修行に見えるのですけど、本人たちはこれは修行ではなく儀式あるいは知識を得るための勉強、と主張したりしています。私からすれば、何と呼ぶかというくらいの違いで、それはお祈りであれば他の流派であればそれは修行であったり本格的な修行に入る前の加行と呼ばれている予備的な修行だったりするわけです。ですから、言い方だけのお話で、なんやかんやで似たようなことをしていると思えるわけです。<br /> <br /> ですから、言い方はあまり気にしなくてもいいのかな、と私は個人的に思うのですが、一部の流派の方々にとっては言い方は重要ですので、私はそれはその人の主張を尊重しますから特に否定はしませんけど、個人的にはこのような解釈をしています。<br /> <br /> どちらにせよ、悟りに達すればそこには知識(ニャーナ)があって、それは、あるというよりも、やってくる、という感じのもので、最初はやってくるように感じたりもしますけど、実際は、知識と一体になる、という種類のものですので、エネルギー的な体験だったりするわけです。流派によってはエネルギーとか言わなくて単に知識だけが重要としている流派もありますけど、まあ、言い方だけのお話だと私は思いますが。どちらにせよ知識に溢れた人はエネルギッシュで、誰であろうとエネルギーに溢れた人のことを否定はしないと思いますし。<br /> <br /> その時、知識が先なのか、悟りが先なのかを識別するのは後になってしまうと難しくて、勉強を沢山している人が悟ったら知識が悟りに導いたかのように感じるかもしれませんけど、実際には、悟りが知識(ニャーナ)で出来ている、ということなわけです。それは、体験的には悟りで知識(ニャーナ)を得る、とか、ニャーナと一体となる、みたいな状態になるわけです。悟りと言うのは最初は体験ですけどそのうち日常になりますから、そうなるとニャーナとも常に一体になって、そうなると「悟りによって知識がやってくる」という状態ではなくなって、単にニャーナに包まれたいわゆる悟りの状態が続くようになります。そうなると確かにニャーナだけが存在する、ということも確かに正しくはありますけど、それは最初からそうなるわけでもありませんし、また、勉強して知識を得れば悟れるとかそういうこととも違うわけです。ステップがあるわけですね。<br /> <br /> 勉強を否定しているわけではなくて、勉強は必要で、勉強していたら悟る人もいるとは思いますけど、私が言いたいのは、そうした頭での理解と、実際にニャーナと一体になった状態とは違っていて、ニャーナと一体になりさえすればそれは理解の状態ではありますけど、だからと言って、勉強して知識を得て理解を高めればそのまま悟りになるかと言うと、それは保証出来ないわけです。<br /> <br /> 個人的にはそれよりも集中の瞑想から初めて静寂の境地の瞑想をステップで目指した方がいいとは思いますがそれは個人が決めることですので。<br /> <br /> Fri, 26 Mar 2021 00:00:00 +0900 天使の本とミカエル大天使 https://w-jp.net/2021/2300/ <br /> 本屋でふと天使の本が置いてあることに気がつき、とても厚い本でしたので「私に一番関連の深い天使はどなたですか」と願ってパラパラと開きつつページを見てみました。<br /> <br /> 文字が小さく、沢山の聞いたことのない天使が乗っていましたので「誰だろ」と思っていたのですが、ふと、同じページの一部に「ミカエル」と出ていて、もちろんその説明は長くて、きっとミカエルがマッチしたのだろうと思いました。<br /> <br /> 実はミカエルとは縁が深くて、子供の頃に幽体離脱した時に、詳しくは忘れたところもあるのですが基本的にはミカエルと縁があって、それは過去生というかグループソウルの分霊がミカエルと縁があったりして、とにかく色々と縁があるのです。<br /> <br /> 私はミカエルから「光の玉」を3つもらって転生してきて、精神的にピンチの時に「精神的に死亡した時からの復活するための光の玉」として使ったりしたこともありました。それはまるでゲームのようで、RPGで「HPが0になった時に復活するアイテム」がありますが、ミカエルからもらった光の玉はまさにそれで、私の精神のポイントが0になった時に復活するためのアイテムを3つもらって転生してきたわけです。子供の頃に早々にそれは使い切ってしまいましたけど、それだけでなく、私の守護霊はミカエルからお願いされて私の守護をしていたり、とにかく色々と縁があります。<br /> <br /> 本はかなり厚くて800ページとか1000ページとかありそうでしたのでその中からミカエルが出てくる確率はかなり低いと思います。前に立ち読みした人がそのページを開いていたから開きやすかった可能性はなくはないですが基本的に新しい本ですのでそれほど癖はついていなかったと思いますし。<br /> <br /> こういうのは何が正しいのかを論じる必要はなくて、確率のお話ですと確実な真実というのは見極めることができないですから、それよりも、縁を感じるくらいで十分なのだと思います。<br /> <br /> Thu, 25 Mar 2021 00:00:00 +0900 タイムラインと過去と未来のお話 https://w-jp.net/2021/2298/ <br /> 先日少し言及しましたけど、タイムラインとパラレルワールドのお話です。<br /> <br /> スピリチュアルでタイムラインとかパラレルワールドとか言われていますけど、実際は、もっと単純なのです。1人の視点で考えるとすごく簡単で、複数人のパラレルワールドがそれぞれに存在していますので厳密に見ようとすると無限に広がっていって訳がわからないことにもなりますけど、基本は単純なのです。<br /> <br /> まず、タイムマシンがあると思いましょう。<br /> <br /> 人生を生きて、時を遡ることができて、時を進めることができるタイムマシンです。過去にも未来にも行けます。これが基本です。<br /> <br /> まあ、このあたりは普通ですね。スピリチュアルでよく言われていることだと思います。<br /> <br /> タイムラインの考え方として、基本は今生きている人生で1本になります。過去から未来まで1本のタイムラインが続いています。<br /> <br /> そして、過去のある時点から分岐したタイムラインが複数存在して分岐路のようになっています。ただし、道が分かれるだけで合流はしません。分かれるわけです。人の選択によってタイムラインが分岐することはあっても、合流はしません。<br /> <br /> これで既に沢山のタイムラインができてしまいましたが、もっと単純化してみましょう。実際には自分自身の人生に関してはその方が正解に近いのです。<br /> <br /> まず、タイムラインAの人生を生きたとします。その人生を生きた結果、人生経験を元に良かったことや悪かったことあるいは願望などが振り返りとして生じます。そうすると、次の人生はどうするかというと、別の人生を歩む場合もあれば、時代を遡って人生をやり直す場合もあるわけです。前者の場合は割と続きのタイムラインに見えますし、後者であれば、パラレルワールドとしてのタイムラインのように一見すると見えます。ですけど、時空という観点からすればどちらも大差ないのです。<br /> <br /> 続きの時代で人生を生きたとしても、時代を遡って同じ時代、もっと言えば、全く同じ人として同じ家庭の同じ場所に生まれたとしてもそれは時空という観点からすると続きの時代で人生を生きたときと変わりないのです。<br /> <br /> 最初に生きた人生はどちらの場合でも「時空を超えた過去(良い言葉が見つかりませんけど)」とでも言うべき、タイムラインの順番としては最初のものとして時空を超えた過去として存在し続けるわけです。それは、タイムラインを生きた経験としてその経験はハイヤーセルフとも言うべき高次の自分の経験として蓄積されています。<br /> <br /> その上で、また同じ時代の同じ人として生まれることもできます。それは、前の人生で心残りだった点があったり、使命があったのにうまく行かなかったからやり直す場合、あるいは、試しにすごく違う人生を送ってみる、とか、様々な要因がありますけど、どの場合においても自分の意思でやり直す、という決断があるわけです。その場合、パラレルワールドとして単純に存在しているだけではなくて、前の人生を生きた経験は別のパラレルワールドに存在していて、それは今の普通の人生の過去の人生と同じように一続きのものとして過去の経験が蓄積されているのです。<br /> <br /> ですから、単純にSFのようにパラレルワールドがあるとかないとか平行宇宙があるとかないとか違う世界が面白いとか面白くないとかそんなお話は割とどうでもよくて、いわば学びのため、あるいは好奇心、あるいは向上心、あるいは後悔によって、など、様々な理由でパラエルワールドが作られて経験されてゆくわけです。<br /> <br /> そのように、パラレルワールドは次々と作られますから、様々なパターンがあります。<br /> <br /> パターン1.過去 →→→(人生)→→→ 未来 →(次の人生)<br /> パターン2.過去 →→→(人生)→→→ 過去に戻る →(次の別の人生)<br /> パターン2.過去 →→→(人生)→→→ 過去に戻る →(同じ人の別のパターンの人生)<br /> <br /> その時、意思というのはその時々の現在の時点にフォーカスしていますので過去に戻ったとしても戻ったその時点においては現在の時間として物事を経験します。<br /> <br /> 人生1 → (過去に戻る) → 人生2(人生1より時代は昔)<br /> <br /> とあった場合、人生2で生きている人生においては人生1は歴史的には未来ですけど意識からすると「過去」のように認識されます。ここがちょっと混乱するところかもしれませんけど、魂というか意識からすると人生1を経験した後に人生2を経験していますので人生1は歴史的には新しいかもしれませんけど意識としては過去になるわけです。過去生が歴史的には未来になるわけですね。<br /> <br /> これをパラレルワールド的に説明すると、もし人生1と人生2の歴史が重なっている場合はパラレルワールドということにも一応はなりますけど、そのような歴史的な観点はあまり重要ではなくて、ただ単純に人生1と人生2のタイムラインがあって、たまたま歴史的には被っているかもしれないし被っていないかもしれない、と考えるべきなのです。実際そうです。<br /> <br /> 歴史的観点が最初にあるからパラレルワールド的な考え方になるのであって、最初から意識が時空を超えているという観点からするとパラレルワールドとかではなくてただ単純に意識が過去にも未来にも行ってその時代で人生を経験する、という、ものすごくシンプルなお話になります。<br /> <br /> こうなるとパラレルワールドとかは重要ではなくて、歴史的に過去かもしれないし未来かもしれないけれども、重要なのは意識がどの順番でどの時代で人生を送って経験を積んだか、というその1点だということがわかるわけです。<br /> <br /> そうは言いましても、これは割とスピリチュアルな人のお話で、物質に近ければ近いほど歴史という時間軸に沿った生き方になります。岩や水、あるいは空気などは時代に沿ってずっと存在していて、それらの固定的な物質的なものにも一応は意識のようなものはありますけど、それら物質的な意識は時間軸を超えたりはしません。<br /> <br /> それと同じように、スピリチュアルではなくて猿に近い意識を持った人であればあるほど歴史という時間軸に囚われた人生を送りますから、そうであれば、時代に沿って人生を経験するということになります。<br /> <br /> 自分の意思で時間軸を自由に移動できるかどうかというお話であればこんな感じでスピリチュアルな制約がかかりますけど、これとは別に、ガイドあるいは契約のようなもので手助けをしてもらって時間軸を超える場合もありますので、必ずしも時間軸を超えられるかどうかがスピリチュアルの度合いそのものではないのですが、基本はスピリチュアルの度合いによって自分の人生を好きなように設計することができるわけです。<br /> <br /> このような観点からすると、具体的には以下のような誤解と実際の姿の対比があります。<br /> <br /> ・誤解「パラレルワールドがあるような気がする。」→実際「同じ時代で別の人生において以前に経験した時の記憶がある」<br /> ・誤解「パラレルワールドにジャンプできる」→実際「過去に経験したタイムラインに意識を移すことができる。やっぱり昔のタイムラインの方が良くて、そこからやり直したい場合は特定の時点に意識を移してそこから別のタイムラインに分岐することができる。以前経験したタイムラインの途中で分岐する。」<br /> ・誤解「未来は複数あってパラレルワールドになっている」→実際「2つ可能性があります。過去に経験したタイムラインで歴史的に見ると未来の記憶がある場合と、単純にアストラルな意識の雛形が複数ある場合とがあり、前者は記憶であり、後者は想念としての思いがひな形になっているだけですので別物です。後者は経験としての記憶ではありません。」<br /> <br /> 未来は現在の選択の積み重ねと言いますけど、思いの想念がアストラルで形作られて未来が形成されてゆくわけです。それは記憶としての(時空を超えた)過去に経験したタイムラインとは全く違っていて、そのアストラルが未来のタイムラインのように見えるかもしれませんけど未来に関しては単純にアストラルな形が複数できていて、どれが現実化するかは100%は決定していないわけです。<br /> <br /> それとは別に、(時空を超えた)過去としての以前の人生で経験したタイムラインがたまたま未来の時間だった時は未来のように見える、ということもあります。ですけど、それはそのタイムラインを経験した後に時間を遡って同じ時代の人生を別のパターンでやり直しているということでありますので同じ未来になるかどうかはわからないわけです。<br /> <br /> これら2つは微妙ですけど、慣れれば瞑想や夢の中で過去の記憶としての未来記憶と単純にアストラルとしての未来との区別がつくようになります。これらは割と浅い目覚めの意識と言いますか、あくまでも瞑想や夢などにおいて人間の顕在意識あるいは潜在意識からアクセスできる情報になります。<br /> <br /> これとは全く別と言いますか、もっと深いところで、スピリットのレベルにおいて、いわゆる幽体離脱と言いますか時空を超えられるスピリットが体を抜け出して時空を超えて過去と未来を見る場合もあって、その場合はもっと俯瞰的に見ることができます。時間を自在に行き来してタイムラインを見たり未来を計画したりできます。<br /> <br /> 瞑想中にアストラルとしての未来が見える場合と、スピリットのレベルで未来を計画する場合とは一見すると矛盾のようにも見える場合があります。瞑想中に浅い意識である顕在意識に近い深層意識のようなところを使って未来を見た場合、思いの想念の形としての未来が見えます。<br /> <br /> 一方、スピリットになって幽体離脱をした状態で未来に実際に行く場合は、未来が実際にあるものとして未来を認識します。<br /> <br /> ですから、普段の一般人としての生活においてはこの種のスピリットとしての視点は基本的に持てなくて、単に思いの想念としてのアストラルな未来を垣間見ることになります。一方で、過去に関しては記憶のようになります。<br /> <br /> それとは別に、幽体離脱を深いレベルでスピリットと繋がった状態で行うことができれば時空を超えることができて、その時は、過去も未来も行き来できて、未来に関しても「その時点」に実際に移動することで、未来の特定の時点で、そのスピリットの状態では現在という認識においての未来に働きかけて人生を変えてゆくことができます。<br /> <br /> これら2つの視点はそれぞれ流派によって言い方がありますけど、顕在意識に属するものと、深い意識あるいはハイヤーセルフとも言われたりするような深い意識に属するものとがあります。<br /> <br /> これら2つを使って未来を創造してゆくわけですけれども、普段の生活では顕在意識に近いところで瞑想や夢で少し深層意識を垣間見て日々の生活を送るわけです。その時は、上に書きましたように思いとしての想念のアストラルな意識を未来のイメージとして見ながらそれをガイドにして生きることになります。<br /> <br /> Mon, 22 Mar 2021 00:00:00 +0900 パラレルワールドのタイムラインは順番に作られる https://w-jp.net/2021/2297/ <br /> スピリチュアルでパラレルワールドと言うと、単純にSF風の平行世界が広がっています、みたいな話を聞くことが多いと思います。ですが、実際のところ、パラレルワールドには順番があって、最初にこのパラレルワールドができて、次にこのパラレルワールドができる、みたいになっています。<br /> <br /> そこには明確な理由があって存在しているのであって、意味不明なパラレルワールドなど存在しません。意味不明と思えるのは自分が理解できないだけであって、全てには理由があります。理由というとわかりにくいですけど、意図があってそのパラレルワールドは存在しています。<br /> <br /> たまに、間違いによってふとした偶然で作られるパラレルワールドもあったりしますけど、そのような場合であったとしても間違いを作り出した意図というものがあるわけで、そこまで辿るのであれば、明確な意図ではないにせよ偶発的であったとしても意図は存在しているわけです。<br /> <br /> 今の「現在」の前に作られたパラレルワールドがある一方で、未来に作られるパラレルワールドもあります。<br /> <br /> とは言いましても、見ることができるのは以下に限られます。<br /> <br /> ・現在のタイムラインの過去<br /> ・現在のタイムラインの過去の時点で分岐してかつて経験した時間軸のパラレルワールド<br /> ・現在のタイムラインから続いている未来<br /> <br /> ですので、現在のタイムラインから続いている未来を経験した後に、その時の経験を元に再度時間軸を遡って別のタイムラインを作る、というところまでは見通すことができません。それは実際に「存在していない」タイムラインですので、どうなるかはわからないわけです。<br /> <br /> これ、わかりにくかもしれないですけど、例として順番に書くとこういう感じになります。<br /> <br /> タイムライン1.今から数えて30年前から現在・未来まで経験したタイムライン<br /> タイムライン2.1の経験を元に(今から数えて)30年前からやり直したタイムライン<br /> タイムライン3.2の経験を元に(今から数えて)30年前から再度やり直したタイムライン<br /> タイムライン4.3の経験を元に(今から数えて)15年前からやり直したタイムライン<br /> タイムライン5.4の経験を元に(今から数えて)10年前からやり直したタイムライン<br /> タイムライン6.5の経験を元に(今から数えて)5年前からやり直したタイムライン。これが今いるタイムライン。この延長線上としての未来のタイムラインが存在<br /> <br /> ですので、例えば、次のようなタイムラインは見えません。<br /> <br /> 見えないタイムラインの例:10年後まで経験して、5年間戻ってやり直すことにしたタイムライン<br /> <br /> これは、もっとスピリチュアルな進歩が進めば見れるのかもしれませんが、今の所、私には見えません。このようなタイムラインがあるのかすらわかりません。<br /> <br /> 未来を変える場合は未来のタイムラインというよりは現在いるタイムライン上で「現在」の判断と行動をすることでタイムラインがどんどんと更新されてゆきます。元々予定されていたタイムラインとは変わることもありますのでそれをパラレルワールドと言えなくもないですけど、現在の判断で変更された未来のことまでパラレルワールドというのは言い過ぎのような気が致します。仕組みと言いますかシステムとしては結局はタイムラインを作っているということですけど、パラレルなワールドではなくて、単に今のタイムラインを書き換えているだけのお話です。<br /> <br /> このあたりは、スピリチュアルな成長をしていない人の場合は現在のタイムラインを書き換えるということはほとんどなくて、一生に一度か二度くらい幽体離脱とか神秘体験をして書き換えることがあるかどうかという程度ですけど、スピリチュアルな成長をするとこの種のタイムライン書き換えは頻繁に何度でもいつでも自由にできるようになります。<br /> <br /> スピリチュアルな人でなければ大抵の未来は決まっていて固定的なわけです。<br /> <br /> そのような場合、パラレルワールドもあまりなくて、あって1つか2つ。そんなものです。<br /> <br /> スピリチュアルな人であればあるほどパラレルワールドも増えて、現在のタイムラインもどんどんと書き換えてゆきます。その時、時間軸を遡ってやり直したらパラレルワールドっぽく見えて、その時は、別のパラレルワールドのことがわかりますけど、それは順番で言ったら「前に経験したタイムライン」なわけです。ですので、その時の経験を元によりよい経験をするために少し時間を戻って別の時間軸を体験しているわけですけど、必ずしも誰もができるわけでもないですし、できたとしても意図としてそうしたい、と思わなければそうはなりません。<br /> <br /> 未来に関しては一応はやんわりと決まっていますけど、それは基本的にはストレートな一本道で、そうは言いましてもその未来を見通した上で違った人生を歩むのも自由なわけですけど、未来に関してはタイムラインではなくてアストラルなほんわかとした想像のような世界において雛形があるかどうかというお話ですので、タイムラインとはちょっと違うわけです。<br /> <br /> タイムラインに関しては前に経験したものが瞑想や事あるごとに思い浮かんで、それらを踏まえて今の人生をより良く生きることが期待されているというかそれを意図して再度この人生をやり直しているわけです。<br /> <br /> Sun, 21 Mar 2021 00:00:00 +0900 トラウマを結晶化して胸の中から抜き出す https://w-jp.net/2021/2296/ <br /> トラウマがガラスの欠片あるいは銃弾の欠片のように胸の中に沈んでいることに以前から瞑想中に気がついておりましたが、なかなか取り出せずにいました。<br /> <br /> 大きな破片も元々いくつもあって、大きなものは取り出しやすかったりしたのですが、小さな破片が各所に眠っていて、体の周辺であればそれも取り出しやすいのですが胸の付近はなかなか取り出しにくい状況がありました。<br /> <br /> どうやら、その破片は固定の場所に眠っているわけではなくて地球のマントルあるいは海の海流のように対流しており、時々、表面に浮かび上がってくるようなのです。<br /> <br /> 今回、たまたま気がついて、「あれっ。これ、(オーラの)指で掴めそうだぞ?」と思ったので試しにオーラの指で掴んでみたらうまく掴めて、取り出すことができました。<br /> <br /> なんとまあ、こんな簡単なことだったのですね。奥にある時はしばらく様子を見ておいて、取り出しやすい時に取ればいいというお話だったようです。<br /> <br /> 確かに、人には調子の良し悪しがありますし、オーラというのは固定的なものではありませんので対流しているというのは納得なのですが、今まではそれほど気にしていなかったといいますか、対流していることにほとんど気が付きませんでした。今回、妙に表面に浮かんでいることに気がついて、このようにうまくいったのです。<br /> <br /> 取り出してみると、その気持ちがよく理解できて、どうやら、これは20年くらい前に台湾に旅行した時の記憶で、私がエネルギー不足だったときについふらふらとしてしまった行動が原因で相手からやめろと睨まれた時の記憶でした。これはどのようなレッスンだったかと言うと、どうやら、私が悪かったのだから相手にしっかりと謝ってもうしないと宣言する、という相手に対するレッスンと、もう1つは、エネルギー不足の時は意図しない行動をしてしまうときがあるのでエネルギーを高めて意識を常に保ちながら無意識の行動をしないようにすべき、というレッスンが含まれているようでした。<br /> <br /> その破片がガラスのように詰まっていて、ハートのあたりで水漏れのようにエネルギーが小さく漏れていましたがその破片が取れたことによりエネルギーの漏れと小さな痛みのようなものがなくなってゆきました。<br /> <br /> もともと小さなものではありましたが、微妙なエネルギーの漏れというのはポタポタと水が漏れるようなもので、全く漏れていない状態と比べるとちょっとだけ漏れている状態というのは妙に気持ちが悪いもので、水漏れが止まってよかったです。バケツや水槽の水が全く漏れないのと、時間が経つと下が少し湿っていてどこかはわからないけれどもどこかにヒビが入っているか穴がある、みたいな状態との違いです。この種のものは常時水漏れ、エネルギー漏れになりますので直しておくと良いと思いました。<br /> <br /> Sun, 21 Mar 2021 00:00:00 +0900 自らの生き方に対する宣言あるいは祈りをする必要性 https://w-jp.net/2021/2295/ <br /> 西洋スピリチュアルではよくアファメーションと呼ばれるような宣言あるいは詩および祈りのようなものを唱えることがありますけど、今まで、その必要を感じたことはほとんどありませんでした。<br /> <br /> しかし、ここに来て、このような種類の宣言が必要だという気になってきました。<br /> <br /> 例えば「私は◯◯を意図します。私は◯◯になります。私は◯◯の人生を歩みます」みたいなものをよく目にしますが、どうもしっくり来ていませんでした。<br /> <br /> と、言うのも、どうやらそれは他人の人生の宣言だからしっくり来ていなかった、ということのようなのです。<br /> <br /> この種の宣言あるいは祈りは、自分で作るものだ、ということです。<br /> <br /> そして、それは本来、他人に共有してもあまり意味のないものなのかな、とも思います。例として見せるのはありかもしれませんけど。<br /> <br /> ましてや、他人の宣言あるいは祈りを唱えてみたところでしっくりこないのは当然だと言えます。参考にはなるかもしれませんけど。<br /> <br /> 自分の人生をどうしたいのか? という問いは、今までは割と私の場合は小学生の頃に体験した幽体離脱で私自身のスピリットが体を抜け出て過去と未来を見た時に決めていたことで、その時の記憶を元に決めていたというか、記憶を辿っていた感じでした。<br /> <br /> しかし、ここに来て、そうであったとしても自分の人生に対する宣言あるいは祈りを立てる必要性を感じてきています。<br /> <br /> そうであるからこそ、自分自身のスピリットが時空を超えて働いている時にその自分のスピリットと意思が合わさって人生を描いてゆけるようになるからです。<br /> <br /> スピリットの側でいくら意図しようとも、顕在意識としての自分が人生を意図して宣言あるいは祈りを行わなければ実際の三次元において物事は顕在化して現実になっていきません。<br /> <br /> このことにはっきりと気がついたのは、私の記憶あるいはスピリットがパラレルワールドで見た記憶を辿ると、どうやら現在のこの時点において他のパラレルワールドにおいては今のこのタイムラインよりも遥かに悟った自分がいることに気がついていて、それはどうしてだろう? 何故、そのような違いがあるのだろう? と探ってみた時に、この種の宣言あるいは祈りが足りないからなのではないだろうか、という理解に至ったわけです。<br /> <br /> 必ずしもその別のタイムラインの方が宣言あるいは祈りが強かったというわけではなく、その別のタイムラインは例えばグルの指導がよくて今よりも覚醒が進んでいたりだとか、あるいは、スピリットの気まぐれでもっと覚醒させてみたりだとか、理由は様々ですけど、今の私のタイムラインにおいては、もっと覚醒しようという宣言あるいは祈りが足りていない、ということのようです。<br /> <br /> タイムラインとかパラレルワールドというと時空を超えて文字通り別の次元、という理解になってしまうかもしれませんけど、実際にはタイムラインやパラレルワールドにも順番があって、時計という意味の時間でいうとたしかに同じ日付のタイムラインが沢山あるわけですけれども、タイムラインの順番があるわけです。あのタイムラインを最初に経験して、時間を戻って、次はこのタイムラインをする、という順番です。そうして、色々なパターンを試して悟りというか理解を深めてゆくわけです。<br /> <br /> 私の場合、どうやら、覚醒という意味では他のタイムラインの方が進んでいたりしたこともありますが、それほど悟っていない状態における学びがその場合はスキップされてしまったりしましたので、今のような割とゆっくりとした覚醒を選んでいるようです。それは、選ぶというよりは、グルの助けで素早く覚醒したタイムラインを一旦は経験した後に、ちょっと心残りがあるのでタイムラインを遡ってもう一度、ゆっくりとした覚醒のタイムラインをやり直している、という感じです。<br /> <br /> ですから、覚醒の速さそれ自体が良い悪いにはならなくて、どうして私が今のようなゆっくりとしたタイムラインをやり直しているのかというと、それは、今までのタイムラインにおいては自分自身が作り出した宣言あるいは祈りというものが足りていなかったのでは、という理解に達したわけです。<br /> <br /> 具体的には、私自身の世界への働きかけとしての「対象」の設定と、その対象に対して「どうしたいのか」という意図の設定としての宣言あるいは祈りが足りていなかったわけです。<br /> <br /> 「私が覚醒することで得られる力(パワー)は世界のために利用します。(対象の設定)<br />  全ての人が安寧に生きられるように意図します。(意図の設定)」<br /> <br /> これは人によって違っていて当たり前で、特に他人に言う必要はなくて自分の瞑想で自分自身に対して宣言あるいは祈りをすればいいわけですけれども、自分自身で作り出して自分で宣言あるいは祈るものなのかなと思います。特に良し悪しはなくて、好きにすればいいとは思うのですが、自分自身で作る、というのが重要なのかなと思います。<br /> <br /> Sat, 20 Mar 2021 00:00:00 +0900 金剛定によって空になり切る https://w-jp.net/2021/2294/ <br /> 金剛定とはあまり聞きませんが、内容として、空に達した定であると解釈しました。<br /> <br /> 「真空清淨なる處、真に清淨なり」の金剛定(中略)この定境は、滅盡定から妙覺一転して真空清浄になりきって開けた定境(「信心と坐禪(油井真砂 著)」より)<br /> <br /> 説明を読むと、どうやら、この金剛定の状態では空のみになり切っていて、まだ、空と色(形)との両方を味わうという段階には達していないようです。<br /> <br /> このあたりは説明が難しいのですが、空というのは心の土台で、色というのが形を持った現れですので、形というものは永遠と次々に現れてくるもので、その空としての土台と色としての現れの両方を受け入れて観察してありのままに受け入れる状態がサマーディなわけですけれども、この金剛定は一応はサマーディの一種としてみなしても良いかとは思いますがサマーディとしては少し物足りなくて、空の側だけを受け入れるのが金剛定の状態なのかなと思います。<br /> <br /> 清濁一如の妙機が得られて居ないから、夫れで、つい空に著するということになるのである。(中略)空によつて生ずる「空病」としての煩惱である。(「信心と坐禪(油井真砂 著)」より)<br /> <br /> これはどういうことかと言うと、清濁とはそれぞれ空と色(形)に対応しており、空は良しと受け入れることができても濁であるところの色(形)、いわゆる思考や雑念までもが根源なる神というか聖なるものとして感じられていないが故にこの段階に留まっているわけです。<br /> <br /> このように、空にだけ執着してしまうことを禅宗では「空病」と言ったりするようです。<br /> <br /> ですが、それは病という名前はついてはいるものの、正常な成長の1つの段階として必ず通るもので、病とは言わなくてもいいのでは、とも思いますが。べつに病気ではなくて、ただの一つの段階ですので、それすらも楽しめば自然に次の段階へと進むと思います。<br /> <br /> これらのことは同書でも述べられています。<br /> <br /> この煩惱は、空に對する著が空じられて、妙覺一轉の悟りが更に一轉して色即是空の妙融力に成りさへすれば、夫れで煩惱 即 菩提の妙機が證得される(「信心と坐禪(油井真砂 著)」より)<br /> <br /> この次にやってくる境地がまさに般若心経で言う色即是空の境地なわけですね。<br /> <br /> Tue, 16 Mar 2021 00:00:00 +0900 ヴィパッサナー瞑想が心を引き裂く可能性 https://w-jp.net/2021/2293/ <br /> しっかりとした指導を受ければそうではないのだろうとは思いますが、本を読んだり少し教わっただけですとヴィパッサナー瞑想が心を引き裂いて不安定にする可能性があると思います。<br /> <br /> ですから先生から定期的な指導を受けることが必要というお話にはなるのですが、そうは言いましても、先生がいなかったり、あるいは、最近では本もよく出回っていますので瞑想でこうした不幸な結果になることもあるように思います。<br /> <br /> 瞑想の流派によっては危険はないと言っているところもありますが瞑想は色々な流派がありますし、勘違いもあったりするわけです。<br /> <br /> とある流派のヴィパッサナー瞑想において、体の観察ですとか体の感覚の実況中継ということを行いますが、単に集中するのではなく観察という言葉で説明されてしまうと、心がどこに行って良いのかわからなくなって心が引き裂かれてしまう可能性があります。<br /> <br /> これはどういうことかと言うと、特に「集中瞑想を否定」している流派にありがちなことで、「集中ではない。観察だ」と教えているだけならまだしも、集中が良くない、とか、集中瞑想に対して嫌悪感のある流派が意外にもそれなりにあったりするわけです。<br /> <br /> そのようなところで「集中」を否定されてしまうと、体の観察ですとか体の感覚の実況中継をしようとしたときにその観察の対象へと心を向けることに対して無意識的にブレーキをかけてしまい、心が対象へと向かう力が働くと同時に心が対象へと向かわないようにする力とが同時に発生し、心に対する相反する力がぶつかって打ち消し合うかのようにしながらかろうじて心が対象に向かう、という不健康な心の状態になってしまいます。<br /> <br /> こういうことを言うと「そんなことはない!」と否定する声も聞こえてきそうですけど、実際、私がとある流派のセンターに行ってヴィパッサナー瞑想を教えてもらったり、あるいは他のところで話を聞いたりした時に、何かそこのヴィパッサナー瞑想をしている人たちの心が「分断気味」だったことに違和感をずっと感じていました。<br /> <br /> これは主観ですのでこの言葉が正しいのかどうかは微妙ですけど、心というものは対象に向かってまっすぐ向かう性質があるもので、それが普通なわけで、例えば武道がわかりやすいけれども目的に対して正しい方向に体だけでなく心も向けることで型というものが正しく体現できるわけです。<br /> <br /> ですが、このようなヴィパッサナー瞑想ですと心が対象に向かう時に同時にブレーキもかけてしまい、心が何かに対して集中して正しい型を行うことができなくなってしまいます。そのような状態を「心が分断している」とここでは表現しているわけですけれども、それは特に、集中瞑想を否定しがちな流派にこの傾向があるように思います。<br /> <br /> それほど集中瞑想を否定していなくても、集中瞑想は「ある程度は必要」みたいに中途半端な態度を取っているところも似たようなもので、心というものが対象に向かって真っ直ぐ進むことが正しく理解できていないから「ある程度」なんて曖昧な理解になってしまっているのですよね。<br /> <br /> 実際のところ、サマーディの状態においては心がどのような状態であるのかは関係なくて、サマーディとしての観察状態は心の本性であるいわゆるリクパが現れてきている状態で、その時、心が集中していようがいまいが関係ないわけです。<br /> <br /> ですから、心が集中しているかどうかは全く関係なくて、集中している状態と集中していない状態、そのどちらも観察しているのが心の本性であるいわゆるリクパが働いている状態でありますから、流派としてのヴィパッサナー瞑想のやり方として「観察」とか言っているお話とサマーディ状態としてのリクパによる観察とは全く異なる状態なわけです。<br /> <br /> 心は対象に向かって対象を観察するという機能しかありませんから、対象に向かうことが集中で、対象に達すればそれは観察されるわけです。その両者が必要なのであって、対象に向かう時は素早く向かうべきだし、観察もまたしっかりと観察すべきであるのです。その観察の方だけをピックアップして集中して素早く的確に目的に向かうというところを否定したり軽視したりする必要は全くなくて、むしろどちらもかなり重要で、特に仕事のできる人であれば目的に対して素早く行動して対象をしっかりと見極めて観察し、それ故に物事もありのままを見れて適切に判断できるわけです。<br /> <br /> なんでそんなことになったのかはよくわかりませんけどヴィパッサナー瞑想の流派によっては集中の部分を軽視しがちで、集中を嫌悪しているところもあって、そうなりますと、目的に対して素早く集中するというところが否定されてしまいますから、目的に対して心を向けようとした時に同時にブレーキを無意識的あるいは意識的にかけてしまい、心が引き裂かれてしまうわけです。<br /> <br /> 上にも書きましたように、実際の瞑想における観察状態というのはそれらの心の動きのお話ではなくて心の奥にある心の本性であるリクパによる観察のお話ですから、心というものは目的に対して真っ直ぐ向かうという性質があってそれ以上のものではなく、ここで混乱があるかもしれないですけどどちらも一応は心という言葉を使ってはいますが意思としてマインドとしての心と、それらを観察している心としてのいわゆるリクパが階層のように別々にあるということです。<br /> <br /> 行動して対象を観察するというマインドとしての心にも集中という面と観察という面もあります。ですから、一般的な心としてのマインドとしての心に対する集中と観察を否定しているわけでもないのは注意が必要です。一般的な心の観察を否定しているわけではなくて、何か五感としての入力あるいは心の動き、思考などが湧き上がったときにそれに対して心を向ける動きとしての集中およびその内容をはっきりと確かめるということの観察はそれぞれ存在しています。<br /> <br /> それとは別に・・・、その奥に、心の本性としてのリクパがあって、それらの心の動きの全体を観察しているところがあるわけです。<br /> <br /> 実際のところ、最初はリクパは深い雲に覆われていて隠されていてなかなか出てこなくて、リクパが現れてくるための修行というものがあるわけです。<br /> <br /> ですけど、リクパが出てきていない状態であるのにも関わらずサマーディの真似事をしてしまったりもするわけで、そのような時、集中を否定してしまうような誤解が生じるのだと思います。<br /> <br /> 本当のサマーディの状態は心の動きの全てを観察していますので集中を否定しませんし観察も否定しません。それは階層(レイヤー)が違う動きなわけです。<br /> <br /> サマーディ以前であれば、むしろ、瞑想というよりも自分の仕事をしっかりと集中して行う方がよほど精神的な成長があるかもしれないほどです。正しい瞑想を行えるのであればそれはそれで有益ですが、間違った理解の瞑想で心を引き裂いてしまうよりは仕事を集中してしっかりと行う方がまだマシであると言えます。<br /> <br /> Tue, 16 Mar 2021 00:00:00 +0900 静寂の境地を求める意識から清濁併せ呑むようになる https://w-jp.net/2021/2292/ <br /> そのようになって初めて集中瞑想は不要と言えるようになるのだと思います。<br /> <br /> そこに達するまでは集中が必要で、一旦清濁併せ呑むようになっても意識が濁ってしまってリクパの状態から離れてしまったのならば再度集中瞑想をして静寂の境地に達してからリクパのある清濁併せ呑む状態に段階的に遷移する必要があると思います。<br /> <br /> 静寂の境地そのものは心の本来の姿である空の意識を体現しており、そこに形としての現れである思考・考えや雑念などというものが浮かび上がってきます。空という土台にて思考などの「ゆらぎ」がなるべくない状態に保たれているのが静寂の境地で、最初はそれこそが覚醒かのように見えてしまうのですが、実際は、雑念などは空が土台となって形となって現れてはまた形を失って静寂へと消えてゆくという一連の流れそのものを理解して観察してただ受け流す、ありのままに受け入れることこそがサマーディでありヴィパッサナーでありリクパが現れた状態なのだと思います。<br /> <br /> ですから、静寂の境地はそれ自体は空としての土台になりますから否定されるべきものではなく、それも含めてサマーディなわけです。静寂の境地の平らな状態から形の現れた雑多な状態、どちらも合わせて観察してありのままに受け入れるのがサマーディでありヴィパッサナー(観察)なわけです。<br /> <br /> よって、サマーディの説明において時々、静寂の境地を否定するかのような説明があったりするわけです。その説明を読んで静寂の境地は不要だと解釈してしまって、時には瞑想の先生のような人であってもそのように解釈して教えている人もいらっしゃいますし、割と有名なところでもそのように教えていたりもしますがそれは誤解で、実際には静寂の境地は心の状態の1つですからそれすらもありのままに受け入れる必要があるわけです。<br /> <br /> 実際には、まだ瞑想が進んでいない状態では静寂の境地というものは現れても数ヶ月とか数年に1回くらいしか出てこなくて、基本的には淀んだ厚い雲のような雑念の中に人は暮らしています。<br /> <br /> ですから、本来は心の状態の1つである静寂の境地を取り戻す練習というのが絶対的に必要になるわけで、それ故に集中瞑想が必要になるわけですけれども、サマーディのこうした説明を読んでしまうと、静寂の境地を求める集中瞑想などの一連の修行が不要かのように勘違いしてしまうことがあるわけですよね。<br /> <br /> 実際は、静寂の境地はサマーディの土台になりますので絶対的に必要なわけですし、それがなければ常に雑念だけを観察することになって、空としての心の状態が見えない状態がずっと続きますから、それでは心の土台である空から形である意識としての思考や雑念が連続して次々に現れてくるさまを観察することはなかなかできないわけです。<br /> <br /> 言葉の説明としては割と同じで、静寂の境地があったとしてもなかったとしても心の土台である空から思考や雑念が現れ続ける、というところは一緒ですけれども、静寂の境地がないということは空としての平らな意識の状態がないということですので、常に形として現れている思考やら雑念やらしか見えていないことになります。それでは心がどのようになっているのか知ることはできず、そのような状態ではいくら説明の上で静寂の境地は不要とかサマーディとか語ったり理解したとしてもあまり役には立たないわけです。<br /> <br /> これは、時に流派において「理解が大切」とか言われていることでもありますけど、実際には、理解するだけでは不十分で、実際に経験してみることが必要なわけです。流派によっては経験は不要で理解すればいい、みたいなことも言われていますけど、それは言葉だけのお話で、実際にその状態になって知ることができればそれは自分の状態が変わったということですから、それを経験と言うのか状態が変わったというのか理解したというのか、言葉の表現の違いだけのお話で、どちらにせよ、自分自身が変わらなければ理解できないお話なわけです。<br /> <br /> そのように、最初は静寂の境地が大切になるわけですけれども、そのうち、意識が一歩下がって静寂の境地そのものを観察できるようになって、更には形の現れである思考や雑念すらも一歩下がって観察できるようになりますので、静寂の境地が清濁のうちの清の方だとしたら形の現れである思考や雑念は濁の方になって、最初は静寂の境地の清だけが大切と思っていたものが、形の現れである濁の方も同じように心として本質の違いなく受け入れることができるようになるわけです。その時、清濁併せ呑むようになる、と言えるわけです。<br /> <br /> ここで言っている清濁併せ呑むとは善と悪の意味ではなく瞑想における静寂の意識としての空と色・形としての意識の現れのそれぞれについて比喩的に言っているわけです。<br /> <br /> Mon, 15 Mar 2021 00:00:00 +0900 ヴィパッサナー瞑想の実況中継は、それが出来るなら既に覚醒している https://w-jp.net/2021/2291/ <br /> ヴィパッサナー瞑想の本を読みますと、皮膚の感覚や心の思いを実況中継しましょう、とか言っていますけど、実況中継できるなら既に覚醒しているわけです。<br /> <br /> ですから、そんな無茶なこと言ってもなぁ・・・ というのが個人的な感想です。語弊があるといけないのでどことは言いませんけど。<br /> <br /> 実況中継というのは五感あるいは心の動きに対して明確に心が反応するということですから、五感あるいは心の動きというインプットに対して行動をする(アウトプットをする)ということですので、それはサマーディあるいは本来のヴィパッサナー瞑想の本意であるところの「観察」とは異なるわけです。<br /> <br /> サマーディとしての観察であれば文字通り観察するだけで、そこに「反応」としての作用があろうがなかろうがその全てを観察するわけで、心の動きに対して実況中継すること自体は単なる集中の訓練にすぎないわけです。<br /> <br /> しかも、そのような皮膚の動きやら心の動きなどはとてつもなく早くて数秒ごとにあるいはもっと早く次々に現れては消えてゆきますから、それを実況中継しようとするならば相当に覚醒していなければ到底間に合わないわけです。<br /> <br /> 最初の皮膚の感覚が現れた瞬間に言語化して実況中継をしている間に次の感覚がすぐに現れてきて、更には、雑念が素早く出てきた瞬間にまた実況中継をして・・・ なんてのができるのであれば既に覚醒しています。<br /> <br /> なかなかに無茶なことを教えているなぁ・・・ というのが個人的な感想です。そんなこと言われても、不可能だと思いますけど。<br /> <br /> 沢山ある五感の入力あるいは沢山ある雑念のうち1つだけピックアップしてそれだけを実況中継して、実況中継が終わったら次の五感の入力あるいは雑念のうちの1つに気づいて実況中継、というのならばわからなくもありません。そういうことなのかもしれませんね。あるいは、単に、挑戦してみましょう、ということなのかもしれません。<br /> <br /> ただ、実況中継しようとすると心の動きを「止める」意図が生じてしまいますので、ありのままを眺めるということになかなかなりません。<br /> <br /> 教えとしては「思考を止める必要はない」と教わりますが、実際のところ、思考を止めずに実況中継できるのならば相当に既に覚醒しています。<br /> <br /> それなりに覚醒せずにそんなことできるのならそもそも苦労はないわけで。なかなかの無茶振りだなぁ、と思うのです。<br /> <br /> できもしない教えをしたところで混乱しますし、そもそも、心というものは現れては消えてゆくものですので、実況中継とは相容れないと思いますが。<br /> <br /> サマーディとしての五感の感覚および心の観察というのは、心というものが空(何も現れていない状態)から色(現れた状態)が生じて再度それが空に返ってゆくものですので、空もサマーディの観察対象ですし、色としての五感あるいは雑念や思考などもまた同様に観察対象であるわけです。色だけをピックアップして、更には、同様に色であるところの思考で実況中継をしたところでそれは集中を育てているだけにすぎず、サマーディとしての、空と色とをありのままに両方とも観察するというところにはなかなかたどり着かないのだろうとは思います。<br /> <br /> あの手法で悟ることができる人がどれだけいるのですかね・・・。なかなかにきつい、千尋の谷に突き落とすような瞑想方法に私には見えますけどね・・・。 もともとそれなりに覚醒している人にはいいのかもしれませんけど、やったところで、五感や心を観察するうちに疲れて終わりになるだけのことが多いようにも思いますが、どうなのでしょうかね。<br /> <br /> 単に、実況中継とか決まった動作を繰り返すとかで雑念を繰り返させない、という効果を期待しているのであればそれはそれでありだとは思いますけど。ただ、それはサマーディとかとは全く違うレベルだとは思いますが。<br /> <br /> Sun, 14 Mar 2021 00:00:00 +0900 胸の中に五芒星あるいはマカバの輝きを見る瞑想をする https://w-jp.net/2021/2288/ <br /> 特に何も意図せずして座って眉間に集中する瞑想をしていると意識がクリアになり、頭に丸い帽子を被っているような感覚の瞑想になります。<br /> <br /> 順番としては、まず、オーラが頭にまで充満すると、頭にネットを被せたような、丸い帽子、あるいは頭にフィットしたニットの帽子を被っているような感覚になります。その状態になると意識がクリアになって静寂の意識になります。<br /> <br /> 頭の先の方にまでオーラが充満していないと意識がどこか淀んでいるのですが、瞑想をして頭の先にまでオーラが充満するのとほぼ同時に意識もクリアになります。<br /> <br /> オーラの行き届きと意識とは密接に関連していると思います。<br /> <br /> 最近はコロナ渦のせいか何なのか天のエネルギーにしても地のエネルギーにしてもどこか淀み気味で、天と繋がっても変なギザギザとした感覚が刺さってきますし、地にしてもそれはそれで赤茶色の子供の砂漠のようなオーラですので、どちらも微妙になってきている今日この頃ではあるのですが、ハートの奥底にある私自身の本質であるアートマンの創造・破壊・維持の意識と繋がっていさえすれば自分自身は静寂の境地でいられます。<br /> <br /> これは、この状態に達するのがもう少し遅れていたら危なかったかもしれなくて、それ以前は天のエネルギーと地のエネルギーに頼っておりましたので、今のようにコロナ渦でどちらも淀んでいるような状況ですとこの都会にいては意識の変革は難しい状況に陥っていたかもしれません。<br /> <br /> あるいは、それは逆で、もしかしたらそのようなコロナ渦で天にも地にも頼れない状況に追い込まれたからこそアートマンの意識に目覚めることができたのかもしれなくて、そこはどちらがどちらともいいにくい状況で、混在した状況にて意識が後押しされて変わってきたのかもしれません。<br /> <br /> そのような状況で頭にまでオーラが充満した静寂の瞑想をしていると、ハートの中にダイヤモンドのような、あるいは、正八面体のキューブのような、あるいはもっと複雑なマカバのようなものが見えてきます。(平面にすると五芒星に見えるかもしれませんが実際には立体ですので五芒星のような平面ではありません。)<br /> <br /> そして、そこから光が放たれているのがわかります。<br /> <br /> 更には、アジナのあたりにオーラの渦が現れてきて、最初は2つがお互いにぐるぐると周り、次に3つになり、やがて単なる円になって回転しているのが見えます。それは光というよりも、漆黒の黒が回転しているという感じです。<br /> <br /> ハートから光が出て、アジナでそれが漆黒になり・・・ という気も致しますが、このあたりは今後、更に見ていきたいと思います。<br /> <br /> ちなみに、これは自然にそのようなものが見えてきたということであって、想像したわけではありません。ですけど、奥深いイメージが浮かび上がってきたという可能性もなくはないですけど、あえてそのようなイメージをする瞑想は今までしてこなかったので想像したイメージが沈んでいたとは考えにくいです。イメージを想像するような瞑想もありますけど、今回は想像はしていなくて自然に上がってきたということです。<br /> Sat, 13 Mar 2021 00:00:00 +0900 プラーナとクンダリーニとアートマンのエネルギー https://w-jp.net/2021/2287/ <br /> 有名なクンダリーニのエネルギーだけでなく、複数のエネルギーによる変化が今まであったように思います。<br /> <br /> まず、ヨーガで言われているところのプラーナとしてのエネルギー。これは呼吸で取り入れることのできるエネルギーで、空間に満ちています。<br /> <br /> 次に、クンダリーニ。これは尾てい骨の下に眠っているエネルギーで、覚醒するとエネルギーがまずは体全体に充満し、次に落ち着いて来くると下腹部のマニプラがオーラ優勢になり、次にアナハタ優勢、そしてアジナ優勢というように変わっていったように思います。<br /> <br /> その次に来るのが、いわゆるアートマン。これはヨーガでは魂に相当するものあるいは根源エネルギー体として個を表現するエネルギーとして説明されていますが、一方で、ヴェーダンタではアートマンは魂というよりも永遠に存在して不可知な存在として描かれていますのでエネルギー的な側面はないのですが、日本のヨーガではアートマンを魂に相当するものとして理解されているように思いますのでひとまずアートマンとしました。個人的には創造・破壊・維持の意識として体験しました。<br /> <br /> これら3種類のエネルギーがあるように思います。それぞれ別物で、プラーナは人間の肉体活動を支える根本エネルギーであって、物質ではなく微細なものですけど割と体に近いもので、クンダリーニも微細なものですけどプラーナよりも粗大な体から離れて更に微細で精神的なスピリチュアルなエネルギーです。<br /> <br /> そして、アートマンはもっと微細で、根本エネルギーに近いものがあります。<br /> <br /> アートマンはヴェーダンタで不可知だとか永遠だとか変化することがない、みたいな事が言われていたりしますけど、私の感覚では確かに永遠っぽいですし不可知っぽくて変化することがなさそうに見えたりもしますけど、不可知というほど不可知でもないですし、永遠というほど永遠でもない気もしますし、変化することがない、というほど変化がないわけでもない気もします。確かにそれらが根本的な素質として備わってはいるように思えますけど、アートマンという段階では完全にそうだとは言えない気が致します。<br /> <br /> ヴェーダンタではアートマンが個でブラフマンが全体として説明されていて、ブラフマンまで行くとそのような性質が完全に備わるのかもしれません。<br /> <br /> ヨーガではプラーナヤーマとかでプラーナのエネルギーを取り入れる、というようなことを行いますが、最初にヨーガを初めた時にプラーナヤーマをした時は単純にプラーナを取り入れる、という感じでしたけど、クンダリーニ覚醒後のプラーナヤーマはプラーナを取り入れつつクンダリーニのエネルギーを高めて体の上方に通す、という感じになってきましたし、アートマンのエネルギー(創造・破壊・維持の意識)が出てきてからはプラーナを取り入れつつクンダリーニも高めつつアートマンのエネルギーを体に充満させる、というような複合的な感じのプラーナヤーマに変わってきました。体の動作としては同じだとしても、内的にこのような変化があります。<br /> <br /> エネルギーの質も異なっていて、最初プラーナのエネルギーを取り入れた時は単純に元気になってそれはそれで心地の良いものでしたが、クンダリーニ覚醒後はエネルギーに満ち溢れて元気になって、更にアートマンが現れてきた後は更にエネルギーが高まりました。それは走り幅跳びの助走みたいなもので最初はプラーナと共に走り始めてからクンダリーニでステップをし、最後のアートマンで大きくジャンプするような感じです。<br /> <br /> ヨーガではクンダリーニで最後の覚醒みたいなことが言われていたりしますけど、アートマンという段階がありますし、おそらく次にはブラフマン、という段階もあるのかな、と思います。<br /> <br /> Wed, 10 Mar 2021 00:00:00 +0900 物、特に服にはオーラが宿っている https://w-jp.net/2021/2282/ <br /> 物にオーラがあるとはよく言われていることですし、実際、それを感じていらっしゃる方も多いのではないでしょうか。<br /> <br /> しかしながらその一方で、物は物であってオーラなんてない、と言う方もいらっしゃいます。<br /> <br /> 本当に感じていない鈍感な方もいらっしゃるかとは思いますけど、そういう方であっても雰囲気みたいなものは感じておりますのでそれがオーラを感じるということでありますから実際にはかなり多くの方がオーラを感じていらっしゃると思います。<br /> <br /> ただ、人によってその感度は違っていて、その違いを感じるかどうかは人それぞれだと思います。<br /> <br /> 例えば、わかりやすいのは国としての雰囲気というかオーラですね。オーラと言っても雰囲気と言っても同じことですけど、国としての雰囲気があるわけです。<br /> <br /> そして、物にも雰囲気があるわけです。<br /> <br /> 見た目としての物とは別に・・・ というと語弊がありますけど、物と重なって・・・ と言った方が正しい気が致しますが、物としての姿と重なって雰囲気として、オーラとしての感覚が重なっているわけですね。<br /> <br /> 人によっては、それはオーラではなくて物を見たときの印象を感じているだけだ、と言う方もいらっしゃいますし、現代ではそのように解釈する方が普通かとは思いますけど、実際のところ、雰囲気というかオーラだけを分離することができるわけですよね。<br /> <br /> その雰囲気、オーラは、実際のところそのあたりの「空間」を、「雲」のようにぷかぷかと浮かんで漂っていて、誰かがそれに接するとその雰囲気、オーラを感じたりします。<br /> <br /> その時、多くの人はそれがオーラだとはわかってはいませんから「自分」が不快になったとか、「自分」の感情や雰囲気が変わったと解釈したりしますけど、実際のところ、それはオーラを拾ってしまっただけなのですよね。<br /> <br /> そうやってオーラを拾ってしまった場合と、自分自身の根本のオーラとは違っていて、根本から出てくる雰囲気と、単純な表面的な雰囲気・オーラというのは分離が可能なわけです。<br /> <br /> それが基本にあって、物には、その、分離可能な雰囲気・オーラが宿っているということです。<br /> <br /> ですから、見た目としての印象と合わせて、分離可能な雰囲気・オーラが被さっているわけです。<br /> <br /> 物としてオーラが発せられているというよりは、分離可能な雰囲気・オーラが誰かから与えられてそこに宿っているわけです。<br /> <br /> それは、それを作る人のオーラが乗ることがほとんどです。<br /> <br /> 例えば中国生産ですと中国人のオーラが乗りますし、日本生産であったとしても同じことです。<br /> <br /> わかりやすい例で言いますと、主に手工業で作られる服にはオーラが乗りやすいです。<br /> <br /> ユ◯クロに行きますと中国人のオーラ、それも裕福層ではなくウイグル人や辺境の民族および下層の階級の人が作ったであろうスラムのようなオーラが服に乗っています。ですから、ユニ◯ロの服を着るということはそのような製作者のオーラを宿すということにもなりますので、ユニク◯の服ばかり買っていたら自分のオーラもそれに似てきてしまうわけです。<br /> <br /> ベトナムで作られた服もその国の人のオーラが乗っていますし、インドで作られた服もそうです。<br /> <br /> 見た目だけ真似してどこの国で作られても同じと思っている方が多いですけど、オーラは騙せないわけです。<br /> <br /> まあ、こんなことを言うと「気のせいだ」とか「同じだ」とか言う方もいらっしゃるとは思いますけど、そう思うなら自分の好きにすればいいだけです。同じだと思うのであればその人にとってはそれが正しいのでしょうし、それが悪いとは思いませんから、好きにすればいいと思います。<br /> <br /> ただまあ、私なんかからすればユニ◯ロに行くと中国の、特にウイグルか辺境の貧困層のスラムで感じられるかのような雰囲気、それは「匂い」と言ってもいいのですが、そのような雰囲気と匂いがしますので、それは実際にはおそらく物理的なものではなくて匂いの検査装置で調べてもわからないかもしれませんけど、何か微妙な、ちょっと「疲れる」感じがするのですよね。<br /> <br /> ユ◯クロの服を着ると疲れる、というような意見がネット上にはぼちぼちあって、それは物質としてヒートテックが水分を吸いすぎてカサカサするから綿に比べて疲れる、というお話もあって、それはそれで物質的なお話として正しくて、私もモンベルの速乾性の素材で同じような不快感を感じたこともありますので素材が原因になっていることも多々ありますけど、そのように純粋に物理的な原因なこともありますけど、ここで言っているのはそういうことではなくて純粋に製品全体に備わっている基本的なオーラがそれを作った人の雰囲気に似てオーラが伝搬する、というお話をしているわけです。<br /> <br /> 食べ物はかなりその産地にみなさん気をつけていらっしゃいますけど、一日中肌に着ける服のオーラにももっと気をつけた方がいいと思いますけどね。<br /> <br /> 違いがわからない、という方もいらっしゃるとは思いますけど、それは2つの理由があって、1つはエネルギー的に自分がとても強いので影響されない場合と、もう1つは単純に鈍い場合です。片方だけの場合もありますし両方、という場合もあります。まあ、前者であっても、他を選べるのであれば安いウイグル労働で作られたユ◯クロ服を選ぶ必要はあんまりないと思いますけどね・・・。自分は良くても、他人が見た時にオーラや雰囲気がそれになりますからね。自分が気が付かなくても見る人が見ればすぐに気が付きます。そういう人なんだなぁ、と思われてしまったりします。思われてもいいならいいですし、実際のところ、真理の世界では他人の意見はあんまり関係ないですけど、一般社会を生きる上ではぼちぼちそういうことも気にしないといけませんからね。<br /> <br /> Fri, 05 Mar 2021 00:00:00 +0900 霊視はアジナで行う https://w-jp.net/2021/2281/ <br /> 今生において私はまだ霊視はできなくて霊感しかないですけど、よく言われているように霊視はアジナで行うわけです。<br /> <br /> ですけど、私のグループソウルの記憶やパラレルワールドを見てみても、明確に霊視するというよりは必要な時にだけ見る、ということの方が多かったように思います。<br /> <br /> 何でも構わず見えてしまう時もあるにはあったのですが、記憶を辿ると、それは能力を制御できない時あるいは自身の波動が良くない時にだけそうなっていたように思います。<br /> <br /> 一方で、かなり昔の記憶を辿ると何でも見えつつ影響されない、という状態もあったように思いますので、目指すべき方向としてはそこだと思われます。<br /> <br /> よく言われているお話として、霊的成長の格(レベル)と霊視などの能力は関係ない、みたいなお話がありますけど、まあ、そういう面もありますし、そうでない面もあります。<br /> <br /> 本当に未熟な魂ですとそもそも霊視などが使えないですので、全く成長していない魂が霊視するなんてことはあり得ないです。<br /> <br /> ある程度の成長ができて、一応は霊視などができる骨格のようなものができた後はある程度はそのような、格と能力は関係ない、みたいなお話も出てきはしますけど、どちらかというと、それは一旦は能力を持つまでに成長してしまったけれども意識が落ちてしまって格(レベル)が以前より落ちてしまった、みたいなお話が多いように思います。<br /> <br /> 人によっては能力は霊的技術あるいは霊的な道具で身につけるものだ、みたいなことを言っている人もいらっしゃいますけど、確かにそのような面もあるにはあって、霊的な道具、例えば霊視をするための道具であるとか、未来を先読みする道具、というか、道具と言いつつそれ専用の霊的な動物みたいなものだったりもしますけど、道具と言っていいものだったり、もっと動物あるいは人間が生み出したそれ専用の意識体のようなものを道具のように使う、ということもあります。<br /> <br /> ですから、道具や技術という面もあるにはあるのですけどそれだけではなくて、霊視であれば例えばサードアイの奥の後頭部あたりにアストラル(霊的)なクリスタルが出来上がらないと霊視はできないので確かに道具あるいは技術という面もあるのですが、それも含めて霊的な格(レベル)だと私なんかは思うのですけどね。<br /> <br /> 一時的にそのクリスタルを外して霊視なしでこの地上世界を勉強するということも行われたりしていて、私とかはそのタイプに含まれるわけですけど、そういう場合は一旦は霊視ができていたけれども一時的に能力を外した状態で転生してきているわけです。<br /> <br /> ですから、自分の魂が転生を連ねるうちに身に着けた能力というのもあって、そのような能力は基本はアジナを使うわけですよね。<br /> <br /> もう少し言ってしまえば、人間の基本的な成長、霊的な成長は下方チャクラの調整から始まって上方チャクラの調整を行い、その時点ではまだ世間で言われているチャクラが開くとかそういう段階ではなくて、一旦下から上に上がって全体のオーラを調整した上でようやくアナハタ、ヴィシュッダ、アジナと開いていくわけです。<br /> <br /> 感覚的にはアジナというより少し後ろ側ですけどね。眉間より後ろ、後頭部のあたりを使うと思います。<br /> <br /> 私の場合、下方チャクラの調整、上方チャクラの調整、アナハタの活性化、までは終わったので、次はヴィシュッダかなとも思いますけど私の場合もともとヴィシュッダは開いていた方かなとも思いますし次はヴィシュッダなのかアジナなのかそこはよくわからず、様子見な状態です。<br /> <br /> 書物によってはアナハタの活性化からヴィシュッダに至るには長い時間を要して時にいくつもの人生が必要になるとも書かれてありますので、あまり気にせず長い目で見てはいます。一方で、その本には、ヴィシュッダに至ればその後は数年おきなど早い段階で遷移すると書かれてありますので、そこは期待が持てます。<br /> <br /> Thu, 04 Mar 2021 00:00:00 +0900 スピリチュアル能力を使っても他人のことは100%理解できない https://w-jp.net/2021/2280/ <br /> 相手のことなんて根本のところまでは理解なんてできませんから、相手のことは究極的なところまではわからない、という態度が基本にあるべきだと思います。<br /> <br /> スピリチュアル的な感覚が発達するとある程度は相手のことが見抜けるようにもなりますけど、その場合でも、根本の究極の根本というのはほとんど見抜くことができませんので、ある程度というのが80%や90%になったとしても最後の10%やそこらがとても重要なわけで、90%わかったとしてもそれは表層の部分でしかなくて、残りの10%は実はもう1階層深いところにある集団意識というか集団無意識と言いますかグループソウルあるいはハイヤーセルフみたいな意識と繋がっていたりしますので、90%や95%が見抜けたとしても残りの部分はわからないのですよね。<br /> <br /> スピリチュアルで他人を理解するというのはそういうことで、この人間界の地上的な肉体的なあるいは感情的な理屈的な部分はスピリチュアルな感覚を発達させて90%や95%は理解できたとして、それを相手に伝えたとしてそれがその通りだと確認できたとしても、残りの10%や5%のところがとても大切で、それが実は全ての根本だったりするわけですから、90%や95%がわかったところで、相手を理解したことにはならないのですよね。<br /> <br /> この、100%には絶対に達しない、少なくともこの地上に生きている人間の魂が別の魂の根本を100%まで理解することは絶対にないということを理解するのはとても重要で、その理解がないがゆえに、スピリチュアルで発達したとしても相手をかなりのところまで理解しただけでそれが相手の全てだと思ってしまう間違いをしてしまうわけです。<br /> <br /> まあ、そこまで行かなくても、表層だけを見て面接で相手を解釈してしまう、なんてこともよくあるわけで。<br /> <br /> どちらにせよ、程度は違えども、相手のことがわかったとしても表層だけだと思っておいた方がいいと思います。<br /> <br /> これは、幽体離脱をして他人の人生の節目節目を辿って観察できるようになっても同じことで、そうして実際に過去を遡って他人の人生のポイントを理解したところで、実際に時間を使って人生を経験してきているのはその本人なわけですから、じっくり見て感情を把握することはできますけど、それは共感というレベルにしか達しなくて、それで理解が深まって80%や90%理解することはあったとしても、根本の100%まで理解したということではないのですよね。<br /> <br /> 本当に100%理解するためには実際に同じ人になって魂までも同一化しなくてはならなくて、人間の魂という状態ではそれはありえないと思ったほうがよくて、もっと数段階スピリチュアルなレベルが上昇すれば理解できるようになるのかもしれないですけど、地上に肉体を持って生まれてきている人にはあまり関係のないお話だと思いますし、そのような意識は集合意識に近いものになっていますので個人の悩みや理解などは興味がなくなっていると思います。<br /> <br /> この世に生きていて個という意識がある以上は相手を100%理解することはなくて、90%理解した気がしていても表層だけだ、と思っていた方がいいと思います。<br /> <br /> こういうと分離の意識を感じて悲しくなってしまう人もいらっしゃるかもしれませんけどそれは逆で、自分の根本と繋がっているからこそ相手が理解できるわけで。自分の根本と繋がることでそれが相手と共通だということがわかって理解に達するわけです。そして、その、いわゆるワンネス的な意識を使った理解が80%や90%に達するということがスピリチュアル的な成長の過程で現れてくるわけですけれども、そうだとしても、そのワンネス的な相手の理解というのは100%にはならないですよ、というお話です。<br /> <br /> Thu, 04 Mar 2021 00:00:00 +0900 関わらない方がよい人の近くでは体調が悪くなる、というお話 https://w-jp.net/2021/2279/ <br /> 一番わかりやすいのは会社の入社面接ですかね。<br /> <br /> 関わらない方がいい会社、入社しない方がいい会社の場合は体調が悪くなる人が多いように思います。<br /> <br /> これは何故かと言いますと、2つの側面があって、1つはその場の波動(オーラ)が悪いので影響を受けている可能性があるのと、もう1つは、守護霊が「駄目」と言って引き止めるために体調を悪くしている場合です。<br /> <br /> 割合はそれぞれですので両方ということもありますし片方だけということもあります。<br /> <br /> これは、波動(オーラ)が良い悪いというお話ではなくて、その人に合っているかどうかというお話です。<br /> <br /> 自分に合うところに入社すべきで、関係のないところにふらふらと入社してもすぐに辞めてしまうかもしれません。<br /> <br /> 人との関わり合いでも同じことで、付き合わない方がいい人と近づいた場合は、相手のオーラあるいは自分の守護霊の働きかけが原因で体調が悪くなります。<br /> <br /> こうした状況を見ていて思うのが、悪い波動の人あるいは団体の周りで体調を崩す人がとても多いな、ということです。<br /> <br /> そのようなブラックな人あるいはブラックな団体はこのあたりのことをわかっているのかわかっていないのかわかりませんけど、周囲で体調を崩す人が大勢いるように思います。<br /> <br /> 例えば、面接に行ったら急に普段とは違う感じになって体調を崩し、普段とは全く違う行動をしてしまったりして面接に落ちた、とかいうことはよくあるように思います。<br /> <br /> 面接官からしたら「態度が悪い。駄目な人だ」という判断を下したりしますけど、実際のところ、その原因は上記のように2つあるわけですよね。その会社自身の波動(オーラ)が悪くてブラックな体質にその面接者が合わなくて体調を崩したのかもしれないですし、あるいは、守護霊が「そこは入社すべきところではない」と判断して体調を悪くした、あるいは、普段と違った行動を取らせて面接官に違和感を抱かせた可能性もあります。<br /> <br /> ですから、この場合、面接官は相手をたかが1時間やそこら面接したくらいでわかった気になるべきではなくて、上記の2つの可能性を考えるべきなのですよね。自分たちの波動が悪くてこの面接者は体調を崩したのではないのか、あるいは、この人は入社すべきではない人なのではないか、と。<br /> <br /> 面接官が人生をわかっていない人だったりしますとたかが1時間やそこらの面接で相手を判断してしまいがちですけど、実際、1時間でそんなのはわかりませんので、その会社が入社すべきかどうかなんてのはもっと上のところで決まっていますので、面接官ができることといえばその応募者が入社することになっているのかどうかをサインから見抜くことくらいしかできない気が致します。<br /> <br /> 同様に人との付き合いでも、相手を判断する際に相手が体調を崩していたら自分の波動が合わないのではないかと確認したり、あるいは、相手の守護霊が付き合わないように指導している可能性を考えた方がいいですね。<br /> <br /> Thu, 04 Mar 2021 00:00:00 +0900 エネルギーがアジナやサハスララに満ちるのをただ待つだけの瞑想 https://w-jp.net/2021/2278/ <br /> 以前は、瞑想中にエネルギーを操作して陰陽エネルギーを混ぜ合わせるということをしていました。<br /> <br /> 今は、ただ座って手を膝の上に置くか前で手を組んで眉間に意識を合わせているだけです。<br /> <br /> 以前はマントラを唱えて効果がありましたし、今もエネルギーが部分的に通っていないと思う時は同じようにマントラを唱えて効果がありますけど、基本的にはマントラは唱えない瞑想を最近はしています。たまに思い出してマントラを唱えてみたりもしますけど効果がないことの方が最近は多いです。効果がないというよりはマントラが効果のある部分に関しては既にエネルギーが通っているので、エネルギーがきちんと通っているかどうかを確認するという意味においては効果があるとは思いますし、エネルギーが通っていなければマントラによってエネルギーが通りますので、確かめのために少し唱えてみるのは有効かなとは思っています。しかしながら基本はあまりマントラに頼ることは最近はなくなりました。<br /> <br /> 最近の瞑想は、特に呼吸に意識を合わせることもなくなりました。かなり昔は呼吸瞑想と言って呼吸に意識を合わせることもしましたし、それはそれで効果があったと思いますけど、最近はしませんね。<br /> <br /> また、ナーダ音に意識を合わせる瞑想というのもしていましたが、最近はしませんね。ナーダ音を使った瞑想はハタヨガプラピディカに書かれていて、ナーダ音に意識を合わせることでサマーディ状態に導く、とあります。それはそれで有効でそれなりに長い間、ナーダー音に意識を合わせる瞑想をしてきました。<br /> <br /> 瞑想にて意識を無にせず意識を保っておくということは重要で、そのためにナーダ音の果たした役割は大きかったと思っています。しかし、今はそのようなナーダ音に頼ることはほとんどなくなりました。たまにナーダ音に意識を合わせてみたりもしますけど、基本はナーダ音の瞑想は最近はしていません。<br /> <br /> 最近は、文字通り、座って眉間に意識を合わせてただエネルギーがアジナやサハスララに上がるのを待つだけです。<br /> <br /> エネルギーが上がれと念じたりはしませんし、以前のようにぐるぐるとエネルギーをオーラの手のようなものでかき混ぜて上げたり下げたり、ということもしません。<br /> <br /> このやり方は割と古典ヨーガで言われていて、瞑想は座って眉間に意識を合わせなさい、とはいうものの、以前はどこかしっくりきていませんでした。多少の効果はありますけど、眉間よりは後頭部の方が意識を合わせる場所としては安定していました。<br /> <br /> ですから、この古典ヨーガの眉間に意識を合わせるというやり方はそれなりの納得はあったとは言え、どこか、それは違うのではないかという疑念のようなものがありました。<br /> <br /> しかしながらここに来て、古典ヨーガの教える通り、ただ座って眉間に意識を合わせるだけでエネルギーがアジナやサハスララに満ちてきて、特にそうなれと意図しなくてもただ文字通り座って眉間に意識を当てるだけでエネルギーがそのように動く、という感じになってきています。<br /> <br /> 以前もそうなることはありましたし、眉間や後頭部に意識を合わせていて不意に意識が静寂になったりもしていましたが、最近のように、文字通りただ単に座って意識を眉間に合わせているだけ、というよりは、もうちょっと色々と何かしていたように思います。<br /> <br /> かと言って、最初から古典ヨーガのやり方だけをしていたら良かったとは思えなくて、やはり、その時々に合わせたやり方があったのだろう、と思っています。<br /> <br /> 確かに今となってはこの古典ヨーガのやり方が一番しっくりきていて、それだけで十分なのではないかと思うことも最近はあるにはあるのですけど、かと言って他の人にそれだけしていればいいとは言いませんし、おそらくは古典ヨーガのやり方だけで成長するのは特にこの現代においては困難なのではないかとも思います。<br /> <br /> そうは言いましても、今となればこの古典ヨーガのやり方が一番しっくりきているわけで、もしかしたらしばらく経てばそれだけでいい、という理解になるかもしれませんが。<br /> <br /> 一方で、それだけでなく他の方法もあるかもしれない、という探究心と言いますか選択肢の余地は残しておくべきかなとは思っています。その上で、今はこの古典ヨーガのやり方が一番しっくりときています。<br /> <br /> 古典ヨーガにおいては、雑念はほおっておけばエネルギーを失って消えてゆく、とも教えていて、その点もしっくりきますけど、それはちょっと別のお話です。<br /> <br /> 今は、文字通り、座って眉間に意識を合わせるだけの瞑想をしています。エネルギーの操作もせず、雑念が出ても観察状態で意識は保たれて雑念の発生と消滅を観察しています。そうして、意識を眉間に集めているだけで次第にエネルギーがアジナやサハスララに満ちて静寂の境地、観察状態、サマーディ、ヴィパッサナー状態に至るわけです。<br /> <br /> Thu, 04 Mar 2021 00:00:00 +0900 雑念があってもなくても瞑想にはさほど影響はない https://w-jp.net/2021/2277/ <br /> 以前は雑念を止めるなりマントラを唱えるなりして意識を一定の方向に集めることは瞑想において有効でした。<br /> <br /> 今は、雑念があっても瞑想にさほど影響はなくなっていますので、なんとなく雑念があってもそのままほおっておいています。<br /> <br /> この雑念の扱い方は流派によって違いがあって、雑念を消そうとする流派や打ち消そうとする流派あるいはマントラなどに意識を合わせる流派、はたまた、体などの感覚に意識を合わせる流派や、雑念はほおっておく、という流派もあったりします。<br /> <br /> そして、時にそれらの流派ごとに意見が対立したりするわけですけれども、その対立も、単に初心者が相手のことを理解できずに自分たちの流派が最高だと思いこんでいる場合もあれば、その一方で、対立のように傍目からは見えたからとしてもお互いに相手のやり方を理解したかっただけだった、なんてこともあります。<br /> <br /> そのような意見が様々に異なる雑念に対する対処方法ですけど、個人的には、ステップを踏んで対処していくのがいいと思っています。<br /> <br /> 1.雑念が悪い影響を与える段階。対処としては、強制的に止める。強烈な力を込めて雑念を止めるか、何か、仕事なり工作なり何かの行動に集中する。仕事に熱心になるのも有効。<br /> 2.何か1点に集中できるようになった状態。雑念が出てきて囚われることがあったとしてもその1点に突破することで集中ができる状態。雑念の悪い影響が減ってきた段階。<br /> 3.雑念の影響が減ってきた状態。1点への集中から次第に広範囲への意識の広がり、観察に移行する時期。仕事においても1点集中から視野が広がる。雑念の悪い影響はまだあるが最初より減ってきた段階。<br /> 4.観察状態がそれなりに安定するが、雑念はあるよりない方が良い状態。雑念に左右されないというところまでは行かないが雑念の影響がかなり減ってきた段階。<br /> 5.観察状態が定着して、雑念が瞑想にほとんど影響を与えなくなる段階。雑念をありのままに受け入れられる状態。雑念とはエネルギーの現れであり、何もないところから出てきて何もないところに返ってゆくだけのものであることを理解し、雑念が出てきてもほっておけば消えてゆき、雑念に対する諸行無常の感覚および雑念には果てがなく延々と繰り返されるさまを、その雑念の外側から観察状態にてありのままに受け入れつつ雑念に巻き込まれず意識は別に存在していて雑念を見ている状態。<br /> <br /> ですから、最初から雑念の扱いを決めてしまうのではなく、自分自身の段階に沿った対処方法をするのが大切だと思っています。<br /> <br /> これは流派に入っているとその流派のやり方に従うことになったりもしますしできないこともあるかもしれませんけど、瞑想のやり方は固定されたものではなく人に合わせて行うのが必要だと私は思っています。これはその人の考え方次第ですから流派のやり方が良いと思えば好きにすればいいとは思います。それもまた自身の選択であるわけですし。<br /> <br /> 流派で「雑念はほおっておけば消えてゆく」なんて教えられたとしても実際に瞑想をしてみれば最初からそのようになることはなくて、逆に、雑念をほおっておくとそれに囚われて更にその雑念を強化してしまってどんどんと膨らんでゆくのが特に最初でありますから、最初から「観察」なんてことは考えずに、特に最初は「集中」から始めるのがいいと思っています。<br /> <br /> それも、べつに座った瞑想に特に最初はこだわる必要はなくて、集中できるような仕事をすることも有効であると思うわけです。昔なら職人とか、今ならコンピュータのプログラミングとか、芸術とか、作品を作る仕事とか、いろいろありますよね。そのようなところでも瞑想の感覚は磨けるとおもうわけです。<br /> <br /> Thu, 04 Mar 2021 00:00:00 +0900 ムーラダーラのエネルギーを意識してエネルギーを上げる瞑想はしなくなりました https://w-jp.net/2021/2276/ <br /> 少し前は、アジナにエネルギーを上げるためにムーラダーラを意識するという瞑想をしていました。それによって、サハスララとムーラダーラの陰陽エネルギーを混ぜ合わせていたわけです。<br /> <br /> しかしその後、ムーラダーラに意識を合わせてもエネルギーの変化が感じられなくなるようになって、更には最近は、ムーラダーラに意識を合わせると特に下半身のマニプラあたりが変な違和感を感じますのでムーラダーラを意識する瞑想はしなくなりました。<br /> <br /> これは、特に誰かにそう言われたわけでもなく、その時々で最適と思われていることをしたわけです。<br /> <br /> 何かの流派に属しているとその流派のやり方をすることが多くて、この種の瞑想はやり方を守るというよりはその時々で最適な方法を自分で選ぶ、ということが重要のように思います。<br /> <br /> 違和感があったらそれは合っていないわけですし、流派のやり方だからと言って決まったやり方を続けていても不快感が起こるかもしれません。<br /> <br /> 多くの流派では「不快感が現れたらすぐに瞑想をやめる」という指示があったりしますけど、そういう指示がない流派もあります。「問題ないはずだ」という指導しかしないところもあります。しかしながら、瞑想はそのように固定されたやり方に従うのはあまり良くない結果を生むこともあって、そもそも瞑想のやり方は色々あって人それぞれに合ったやり方もあれば同じ人であっても成長の時期によって適切な瞑想は異なるものだと思っています。<br /> <br /> ですから、流派のやり方に固執しなくてはならない状況はあまり良いとは思えなくて、例えば、天と地のエネルギーを通わせる瞑想であったとしても今の私にとっては不要ですけど少し前までは陰陽エネルギーを混ぜ合わせるといった瞑想をしていたり天のエネルギーを掴んで体に取り入れるということもしていたわけです。<br /> <br /> ですけど、創造・破壊・維持の意識が出てきて以降はそのような天地の陰陽エネルギーを混ぜ合わせるということはしなくなって、単にアナハタを中心に体全体に広がる創造・破壊・維持の意識を感じてアジナやサハスララにまで上げる、というか、上げるというよりもそこまで充満させる、という瞑想に変わってきています。<br /> <br /> Thu, 04 Mar 2021 00:00:00 +0900 最近は、天のエネルギーを取り入れる瞑想はほとんどしなくなりました https://w-jp.net/2021/2275/ <br /> 前は地のエネルギーと天のエネルギーを両方取り入れるような瞑想をしていましたが、最近、特に創造・破壊・維持のアナハタのエネルギーが活性化して以降はそのような地のエネルギーと天のエネルギーを取り入れる瞑想はしなくなりました。<br /> <br /> たまに昔のようにやってはみるのですが、あまりパッとしませんので不要かと思ってすぐにやめてしまいます。<br /> <br /> それよりも、単純に眉間のアジナに意識およびオーラを集中させて次第に眉間の上のサハスララに意識を上げて静寂の意識であるサマーディ状態に持っていく、というような瞑想をしています。<br /> <br /> もともとヨーガなどでは眉間に集中する瞑想が言われていて、特に細かい指示はなくて地のエネルギーとか天のエネルギーとかいう指示もないのですけど、もしかしたらヨーガでの瞑想はこのようなサマーディ状態のことを教えていたのかもしれないですね。<br /> <br /> であるとすれば、その前段階から眉間に集中したところで時間がかかるのかもしれない、という気もします。<br /> <br /> 実際は、眉間に集中する瞑想というのは最近のような状態で行うサマーディのことで、それ以前であれば眉間に集中するよりは自分のオーラがブロックされている箇所に集中するのがいいのかな、とも思います。<br /> <br /> 私はさほど眉間にはこだわってはいなかったのですけれども、人によっては教えに忠実に従って眉間に集中し続ける人もいるかとは思います。それでも効果はあるにはあるのでしょうけど、個人的には、ブロック部分に意識を集める方が成長は早いかな、という気が致します。<br /> <br /> 例えば、お腹のマニプラからアナハタの間でブロックされていたらその部分に意識を当てるでしょうし、喉のあたりで詰まっていたらそこに意識を当てる、なんてこともあります。<br /> <br /> 詰まりがある時は、基本としてはぐるぐるとオーラを回して上げたり下げたり、という手法を取ってオーラを循環させてあげたりします。<br /> <br /> しかしながら、最近は創造・破壊・維持のエネルギーがアナハタ中心に体全体に行き渡ってきたことにより、そのようにオーラをぐるぐると回して循環、みたいなことが不要になってきています。やったところで効果があまりない感じですね。効果はちょっとはありますけど。それよりもアナハタの創造・破壊・維持のエネルギーが強すぎて、アナハタのエネルギーが循環しさえすれば十分という感じになってきています。<br /> <br /> ですから、少しは効果があるとはいえ、この状態ですとそれをやると逆にオーラが少し不安定になってしまう面もあるようですので、たまに数回して様子を見ることはあっても、度々するということはなくなりました。多少は効果があって部分的に効果はあるのですがその他の部分が不安定になったりするのでそこは様子を見つつ少しやってみることもある、という程度ですね。<br /> <br /> 例えば、天のエネルギーを頭の上でぐるぐると回転させてから頭を通して体に下ろすということをしてみると眉間やサハスララのあたりには多少の効果がでるのですがマニプラのあたりが少し不安定になりますね。不安定になるとは言っても不快ではなく眉間の周辺の効果はありますので少しはやってもいいかなとは思うのですがそれよりも普通に眉間に意識を集中して創造・破壊・維持のエネルギーをサハスララに上げる方がよほど効果的ですので、わざわざ天のエネルギーを取り入れる、ということはしなくなってきています。<br /> <br /> これは、天のエネルギーを取り入れたり地のエネルギーを取り入れることを否定しているわけではなくて、過去のその時の状態においてはとても有効でしたし、そのことによって自分のオーラおよび精神状態を安定させるという絶大な効果がありました。<br /> <br /> ただ、今となっては創造・破壊・維持のエネルギーがかなり優勢になっていますので、そのような必要性がほとんどなくなった、というお話です。<br /> <br /> Wed, 03 Mar 2021 00:00:00 +0900 美人の嫁さんを処女でゲットするためにタイムラインを書き換えたお話 https://w-jp.net/2021/2274/ <br /> これは過去生でのお話で、夢で見たお話ですので本当のことかどうかはわかりません。<br /> <br /> もともとこの美人の嫁さんは処女ではなくて、可愛い人ですのでもちろん男がわらわらと寄ってくるわけですけれども、最初のタイムライン上でこの人と会った時は処女ではなかったのですよね。<br /> <br /> 既に何人か経験があって、私の方はその過去生でその女性とが始めてで童貞でしたから、女性の態度としては「あらあら。童貞でしたのね」みたいな感じでちょっと軽く見られた感じだったのですよね。<br /> <br /> そして、最初のタイムライン上ではそのまま結婚したわけですけれども、どこか、その最初に軽く見られた感じが後を引いていました。<br /> <br /> ですので、ここで、最近の言い方でいうとタイムライン・ジャンプとか言うのかもしれませんえけど、要はタイムラインを遡ることにしたわけです。<br /> <br /> この嫁さんがいい、というのは決めていましたので、その嫁さんが大学生か何かになって合コンに出て飲み会に参加する最初の方を狙い撃ちして猛アタックをかけて処女のうちに同じ嫁さんをゲットしたわけです。<br /> <br /> どちらにせよ最初のタイムラインでは結婚してくれたわけですので相性としては悪くないわけで、それがわかっていましたから一点突破して成功したわけです。<br /> <br /> そうして、処女のうちに彼女をゲットして、処女と童貞とが慣れない初夜を迎えて、その後、結婚して、その時の人生としては死ぬまで仲良く濃厚接触していたように思います。<br /> <br /> まあ、その時の人生はそんな感じでしたし、他の人生でも、美人で元気のいい嫁さんを処女でゲットしたり、私の過去生の嫁さんは割と処女率が高めです。<br /> <br /> 過去生を連ねる中で美人の奥さんを連続してゲットするという経験が他の人にもあるのかないのかはわかりませんけど、私の場合、美人さんに飽きるくらい美人さんばかり何十回もの人生で何度も何度も美人さんのお嫁さんをもらいまくった時がありました。<br /> <br /> その後、必ずしも美人さんでなくてもいいのかも・・・ という感じになってきましたけど、しばらくの間、たぶん30回かそこらは連続して美人さんばかり選んでお嫁さんを選んできましたね。<br /> <br /> きっと、そういう面食いの時期はあるのです。<br /> <br /> ですけど、人は必ずしも顔だけではないな・・・ とか、体つきだけではないな・・・ というところにたどり着いて、やっぱり大切なのは性格だなぁ、とか、顔つき自体は普通でもいつも笑顔で笑っていてくれる人の方がいいなぁ、顔が美人でそんなに笑っていない人よりも顔が普通でもいつも笑ってくれていた方がいい、という方に好みが変わってゆくわけです。<br /> <br /> まあ、そうは言いましても私の選んだ人はみんな「いい子」ばかりで、いつも微笑んでくれている人ばかりで、美人で、かつ、いつも微笑んでいてくれる天使か女神みたいな子ばかりですけどね。<br /> <br /> たまに、そうでもない人もいますけど、それは、ここだけの話ですけど、そのように普通の子ってどうなんだろう、という興味から選んだりしたこともあります。<br /> <br /> ですけど、そういう普通の子って嫉妬したりうるさかったりすることがありますので、やっぱり元の好みの、いつも笑顔でいてくれている天使か女神みたいな子の方がいいですね。<br /> <br /> 人は死ぬと無くなるとか消滅するとか一般には言われていますけど実際にはそんなことはなくて、あの世でみんな楽しくいつも笑って過ごしています。<br /> <br /> そのように、死んだ後にもコミュニティができて私の過去妻たちも仲良く今もあの世で暮らしていて、そのうち何人かは私の近くに今もいて、ぷかぷか浮かびながら微笑みながら、時に雑談や冗談を言い合いながら楽しくしています。<br /> <br /> まあ、この世では一夫一婦制ですけど、あの世ではそれにこだわる必要がなくて、あの世ではお金とかも必要ないですし財産も何も失わないですし奪い合うことも不要ですので、特に結婚という形式に囚われる必要はなくて、仲の良い人同士で一緒に楽しく暮せばいいだけだと思います。<br /> <br /> ただ、意識がそれほど高くない人ですとこの世の習慣を引きずって一夫一婦制を踏襲しようとしたりもしますけど、もともとあの世は性別も含めて役割と言ったものを再構成できる場所でもありますので、そのようなこの世の仕組みに囚われる必要はないわけですよね。<br /> <br /> 美人さんの嫁さんはこの世ではもちろん年老いておばあさんになってよれよれになって亡くなってしまうわけですけど、あの世ですと、自分が一番理想としている姿、だいたい20歳かそこらの姿になっていますから、めちゃくちゃ美人さんなわけです。<br /> <br /> そんな美人さんが何十人もいたら・・・・ 男としては、選べないですよ。みんな大好きです(苦笑)<br /> <br /> 誰かを選んでくれ、という人もぼちぼちいますけど、あまりにうるさい人はちょっと苦手で、みんなで楽しく暮らしたい、という人がいいので、みんなには「あの世では別に選ぶ必要なくて、みんなで楽しく暮らせればいいじゃない」と言っています。<br /> <br /> この世でしたら財産や何やらに制限がありますので年金のお話もありますし結婚制度が欲しいという女性の気持ちもわかりますけど、あの世には制限なんてないですからね・・・。<br /> <br /> 独り占めしたい、という気持ちはエゴですし、そういう縛る気持ちのある人は苦手ですので、仲良く暮らしたいという人が近くにいて欲しいです。<br /> <br /> 最初はそうして恋人あるいは妻でも、何回もの人生を一緒にしたり、あるいは、あの世のコミュニティで長く一緒にいるとお互いのことがわかってきて、そのうち、お母さんになってあげる、という人が出てきたり、子供として生まれたい、みたいな子もでてきます。<br /> <br /> それだけでなく、もともと私の妻だったり私の友人だったりした人同士があの世で仲良くなって、地上に生まれて結婚して地上を楽しむ、みたいなこともあります。あの世では女性同士だったのに地上では男と女で生まれたり。<br /> <br /> 私のコミュニティの場合だと、あまりにも私と結婚して再度地上生活したい人が多いので、私は提案をして、仲のいい子同士(あの世では女性同士)で男女になって地上に降りて生活してみたら? あの世から見守ってサポートするよ! と言って、あまりも(私と結婚して)地上生活したいと言っている人のうちの何人かを仲のいい子(あの世では女性同士)でくっつけて地上に下ろしたりしています。<br /> <br /> これはこれで気分転換になっていい気がします。特に男とか女とかにこだわる必要はなくて、とは言っても結婚するのなら男と女になってするのがいいとは思いますからこうした地上に生まれる時は片方は男、もう片方は女として男女ペアにして転生させますけど、あの世からしたら男女の性別は割と好きにできるわけですよね。<br /> <br /> もともと男で地上の人生を生まれても、その前の人生の女性としての型を覚えているのであればあの世に戻ってきた時に女性の姿に戻ることもできますけど、基本は直前の人生の姿であの世にいることが多い気が致します。<br /> <br /> 男でも女でも骨格のようなものは共通していて、美人さんの骨格はやっぱり次の人生でも美人さんで、あの世に戻ってきても美人さんです。<br /> <br /> そんな感じで人生というのは面々と続いていきます。<br /> <br /> Tue, 02 Mar 2021 00:00:00 +0900 心と五感の観察を同時に行う https://w-jp.net/2021/2273/ <br /> 最初は心だけ、あるいは五感のうちの1つだけを観察しますが、少しづつ同時に行う感覚になっている時間が増えてきたような気が致します。<br /> <br /> 特に、視界がスローモーションのヴィパッサナー状態になった時は五感のうちの1つである視覚にだけ意識が集中し、意識はそれで満たされます。<br /> <br /> 一方で、ナーダ音を聞いている時は意識がナーダ音で満たされます。<br /> <br /> どちらにせよそれに集中している状態ですけど、集中と言っても良いですし、観察とも表現できると思います。表現方法の違いだけで、集中と言うか観察というかの言葉の違いだけです。<br /> <br /> これらは、集中する時に利用する五感の種類が違うだけでどちらも1つの感覚を主に観察しています。<br /> <br /> 一方で、心というのはもっと微細で、心と言っても感情面あるいは心の声である想念的なものもありますから、感情はどちらかというと五感に近いものですけど、心の声である想念は五感に近いものからもっと深いところまでグラデーションがあります。<br /> <br /> 最初は心だけ、あるいは、五感のうちの1つだけを観察することに努めた後、やがて、その組み合わせになってゆくように思います。<br /> <br /> やりやすいのは五感の方ですけど、瞑想するのであれば静寂の境地をまずは目標にすべきで、そうであれば想念が対象になるわけで、想念を観察するわけですね。<br /> <br /> 実際のところ瞑想の最初は静止(シャマタ)から始まるわけですけどとりあえずそのステップを抜かして全体像だけわかりやすく説明しますと、心の観察か五感の観察かという大分類がまずあって、そのうちどれから観察するか、というところが入り口になるわけです。<br /> <br /> 心は奥深いですから五感から始めても良いですし、心の特定の階層から始める場合もあるわけです。<br /> <br /> 瞑想で、特にサマーディやヴィパッサナーのような状態になれば観察状態になるわけですけど、その場合でも、心あるいは五感のうちどれか1つのみのサマーディあるいはヴィパッサナーから始まって、やがて、その組み合わせになっていきます。<br /> <br /> 最初は座っての瞑想ですけど、そのうち、日常生活でのサマーディあるいはヴィパッサナー状態になって、そうなれば、例えば最初は皮膚の感覚あるいは目の感覚だけ微細になって観察状態になり、そのうち、それだけでなく心の声である想念も観察できるようになります。<br /> <br /> 最初から想念の観察ができればそれをしても良いですけど、心は微細で、五感の方が粗大な感覚ですから五感の方が割とやりやすいわけです。ですけどたとえ五感から始まっても時間が経てば心の観察も自然にできるようになりますので、次第に組みあわせが増えていって、そのくらいになれば特に意識しなくても日常生活で割とサマーディあるいはヴィパッサナー状態を保てる気が致します。<br /> <br /> これは、油断しているとその状態から落ちてしまいますけど、落ちたからといって悪いということではなく、どの時点が自分のサマーディの力の限界かを知ることは重要で、普段の日常生活をしていてもどのくらまでサマーディを保つことができるか、という日常生活そのものが修行になっているわけで、日常生活が悪いということはなく、座っての瞑想ばかりしていればいいといわけでもなく、普段の日常生活もそれはそれで大切になってくるわけです。<br /> <br /> Sat, 27 Feb 2021 00:00:00 +0900 クンダリーニ経験がある人とない人 https://w-jp.net/2021/2272/ <br /> 一般的にはクンダリーニ経験があるとスピリチュアル的に成長しているかのように理解されていると思いますが、実際はそのような単純なものではありません。<br /> <br /> クンダリーニ経験がない人もいますし、ある人もいます。<br /> <br /> ですが、クンダリーニ経験があるからと言ってない人よりスピリチュアル的に必ずしも優れているとは限りません。<br /> <br /> <br /> 実際のところ、この地球上には多くの意識体が転生してきていて、天使系あるいは神様の世界から転生してきている人はオーラが上層部のアジナより上が活性化していて下方のマニプラ以下は活性化しておりませんので、このような人の場合はクンダリーニの経験がない場合が多いように思います。<br /> <br /> 一方で、地球育ちの魂の場合は下方のオーラが活性化しておりますので、ムーラダーラあるいはそれ以前が活性化している状態です。これであればムーラダーラの目覚めが起きたときにクンダリーニの経験として認知されます。<br /> <br /> これらを比べてみますと、クンダリーニの経験がある地球育ちの魂よりも天使あるいは神様の世界から生まれた魂の方が成長していると言えます。<br /> <br /> 現代において、どこかクンダリーニというものが神聖化されていて、クンダリーニが覚醒すれば悟れるとか覚醒できるとかクンダリーニの覚醒は危険を伴うだとか、そのような、ある意味誤解も含めた部分でクンダリーニが理解されているように思います。<br /> <br /> 実際のところ、クンダリーニというのはエネルギー的な覚醒ですので、生まれながらにある程度のエネルギーを持って生まれる人もいて、そのエネルギーの質というものも人によって異なっていて、その質は主に魂の遍歴、魂がどこから来たかによって大きく変わるわけです。<br /> <br /> <br /> ですから、特にこの日本においてはもともとある程度の覚醒をしながら生まれてきた人がそれなりにいて、特に、俗に日本の神界と呼ばれているようなあの世の世界から生まれてきた魂もかなり大勢いますので、特に日本においてはクンダリーニなんてあんまり気にする必要はないのかなとも思います。<br /> <br /> もちろんクンダリーニ的な覚醒が素晴らしい結果に導く人もいますし、一方で、あまり関係ない人もいるわけです。<br /> <br /> 周囲を見てみると、ヨーガをしている人の間でこのクンダリーニの神話は根強くて、自分はまだクンダリーニ経験がないからと言って悩んでいる人も時々いらっしゃいますけど、私からすれば、そんなの悩む必要なんて全くないと思いますけどね。だって、もともとそれなりに覚醒しているのに、何を今更クンダリーニなんて気にしているのでしょう・・・ という、ちょっと面白い喜劇のようにも感じられてしまうわけです。<br /> <br /> もともと天使や神様の出身でこの世に生まれた場合はオーラが上層に集まっていますので、そのような人にとっては、ある意味、地球的な、下方のオーラ、下方のチャクラ、マニプラだとかスワディスタナ、ムーラダーラのエネルギーを知ることが学びになっている面もあるわけです。<br /> <br /> 一方で、地球育ちの魂であれば下方から始めて上方を少しづつ学ぶという順番になります。<br /> <br /> 昔であれば地球育ちが多かったですけど、今、特に日本ではそうでもなかったりしますので、あまり昔のワンパターンに当てはめない方がいいかなあ、とも思っています。<br /> <br /> 割合から言うと天使の出身はそれほど多くないですけど、日本のいわゆる神界出身者はそれなりに多くて、いわゆる日本人風みたいな人の多くは日本のいわゆる神界出身であることが多いです。日本神界の場合、チャクラで優勢なのはマニプラあたりまでですね。<br /> <br /> ちょっと話がごっちゃになってわかりにくいかもしれませんけど、上チャクラから始まって下チャクラを勉強している人と、下チャクラから始まって上チャクラを勉強している人がいるということです。<br /> <br /> そして、天使や神様の場合は前者で、地球生まれの魂の場合は後者であるということです。それが基本です。<br /> <br /> ですけど実際にはもっと細かくて、天使であればだいたいこの通りですけど神様にもいろいろいて、こんな感じの神様もいればトータルにチャクラが活性化している神様もいて、一方で、いわゆる日本神界の場合は下チャクラから始まってマニプラくらいまでが活性化していてこの場合もクンダリーニは割と既に活性化していますから今更改めてクンダリーニ経験することなんてあったりなかったりします。<br /> <br /> もっと言ってしまうと、クンダリーニ経験がムーラダーラでのお話なのかマニプラやアナハタあるいはアジナで起こるかによっても異なるわけで。一言でクンダリーニと言っても状況が色々違うわけで。ある人のクンダリーニ経験はある人にとっては生まれたときから当たり前かもしれないですし、一方で、クンダリーニ経験がアジナ体験だったりアナハタ体験だったりすることもあるわけです。<br /> <br /> ですから、あんまりクンダリーニ経験を特別視する必要はなくて、それよりも、現在のその人のエネルギーの状態がどうなっているのかを見る方がよっぽどその人の状態を把握するのに有益のようにも思えます。<br /> <br /> <br /> Fri, 26 Feb 2021 00:00:00 +0900 肉体と魂を引き離して意識を上昇させる https://w-jp.net/2021/2271/ <br /> 意識が高層ビルのエレベータに乗って上昇するかのような感覚になってアジナあるいはサハスララの付近に意識が移動します。<br /> <br /> もともと、体と感覚が一体になっている時は割とマニプラが優勢で、特に目や皮膚の感覚をヴィパッサナー状態あるいはカニカ・サマーディの状態で観察し続けています。<br /> <br /> 一方、アジナあるいはサハスララに意識が集まった時は五感を観察し続けているものの体と意識が一体という感覚から少し離れたものになります。<br /> <br /> 分離と言うとスピリチュアルでは割と悪者にされていますけれども、ここで言う分離とは、もともと肉体と魂とは独立しているものがヨーガでいうところの「無知」によってそれら体と魂が一体であるかのように錯覚している状態から体と魂を分離させる必要があるということです。<br /> <br /> ここで誤解して欲しくはないのは、魂と体が完全に別物だと言っているわけではなく、アートマンあるいはブラフマンのレベルまで微細なところを見ればどちらも一体でありますので体も魂も違いははないということにはなりますけど、体と魂とが別物であるというのは実際にその粗大あるいはそれなりに微細な粒度においてはきちんと別物として存在しておりますので、そのように、ぼちぼち微細な粒度を見れば粗大な体とぼちぼち微細な魂とは別物だということであって、更に極限まで微細なところを見ればアートマンあるいはブラフマンの粒度においては同一であるというのはその通りなわけです。<br /> <br /> そのように、人間が認識している粗大な肉体という体ともう少しだけ微細な魂(ヨーガでは魂とは言いませんけど)では、その素質は異なるわけで、それらが同一だと勘違いしている状態から引き離してあげる必要があるということです。<br /> <br /> 比喩的に言えば、ありのままを見る、ということでもありますが、そう言われたからと言ってわかるようでわからないお話かとも思います。<br /> <br /> 具体的に言えば、もともと五感の目とか皮膚とかの感覚を観察していて、その感覚と自分とが一体になっている状態から、感覚と自分という感覚が分離した状態に遷移するということです。<br /> <br /> 特に五感の目はマニプラが扱っているとヨーガでは言います。一方、直感の目はアジナです。<br /> <br /> 魂を体から引き離すということは、五感の目から、直感的な目に遷移するということであり、五感の目を扱っているマニプラから直感的な目であるアジナあるいはサハスララに意識の主観を移動させる、上昇させる、ということになります。<br /> <br /> 瞑想をしていて、魂が肉体と少し分離した時がチャンスで、オーラの手で魂を持ってあげると意識が上昇し始めて五感から離れ、高層ビルのエスカレータあるいは上昇気流に乗ったパラシュートか気球のようにぐんぐんと高度を上げてゆき、意識がアジナあるいはサハスララに到達することで感覚的な目が冴えてきます。その時は、五感と自分が一体になったという感覚から少し離れて、観察状態が優勢になります。とは言いましても肉体はまだありますので五感はなくなったりしませんし、それらが動いていて自分というものがあるという感覚はまだあります。しかし、それら五感が自分自身だったという感覚は随分と薄まって、多少の高みからそれら五感を眺めているような感覚になります。<br /> <br /> 実際のところ、本当は魂と体とは完全に分離ができて、自分以外の視点からも世界を眺められるのだという確証を得ます。ただし、これはあくまでも確証を得たという段階であって、実際にまだここでは魂と体とは完全に分離はできていなくて、ただ単に文字通り確証を得ただけの段階になります。<br /> <br /> それでも、今まで体と魂とが一体になっていた状態と比べると随分と進歩したと言えます。<br /> <br /> 今までの瞑想ではサハスララに意識が集まったとは言っても体と魂がまだマニプラあるいはアナハタにある状態でサハスララにまでオーラが行き届いたということでした。一方で今回は、意識の中枢が一時的にとはいえアジナサハスララに移ったという感じであり、それなりの違いがあります。<br /> <br /> 比喩的に言えば、サハスララにオーラが集まって観察状態になる前はハイキングや登山をしてもなかなか頂上が見えてこなかった状態で、サハスララにオーラが集まった状態は山の頂上を尾根あるいはふもとから眺めて素晴らしいと言っていたのに相当し、今回は、実際に小さな山の上に登って素晴らしい、と感じる違いがあります。まだまだ素晴らしい山はありそうですけど、少なくとも、そのような違いがあります。<br /> <br /> Wed, 24 Feb 2021 00:00:00 +0900 魂と感覚が一致しているかズレているかチェックする https://w-jp.net/2021/2270/ <br /> ちょっと疲れている時は魂と感覚が少しズレていて、魂が動きに引きづられる感覚になります。体が動くとそれを同時にズレなく感覚として把握できている場合は意識がはっきりしている時で元気な時です。<br /> <br /> 疲れている時は、体の動きに対して魂がちょっとズレて、一瞬、魂が引きずられてから一致する状態に戻るという振り子のような動きになります。<br /> <br /> 最初は、疲れている時のこれらのズレはよろしくない状態なのかなと自分では解釈しておりましたが、実際のところ、このズレは自分の魂と肉体とを認識するための良いヒントになるので、疲れ自体はそれほど好ましくはないものの、一時的にこのような状態を作り出すかあるいは時に疲れる時はこのようなズレを観察してみるのも良いかなと思いました。<br /> <br /> 元気な時は主にマニプラがうまく働いていて、いわゆる丹田のエネルギーが体中にみなぎっていて、それ故に、観察状態も途切れなくズレなく体中に行き届いています。<br /> <br /> それはそれで好ましい状態であることには違いないのですが、疲れた状態・・・ と言っても、普段の生活で特別そういったことはあまりなくて、ハイキングしたり長く散歩をするとかちょっと長めにサイクリングするとか、何がしか原因があって疲れ気味になった時、このような体と魂とのズレを感じることができます。<br /> <br /> これは何故、好ましい面もある状態かと言うと、魂と肉体とは一体で動くのが基本で観察状態というのが基本にあるものの、実はそれらは切り離すことができて、魂と肉体とを切り離すことができればできるほど完全な分離の観察状態へと持っていけるからです。<br /> <br /> ・・・このあたり、語弊があるかもしれません。スピリチュアルで分離というと良くないことのように思えてしまうかもしれませんけど、ここで言っている分離というのは独立という意味合いで理解してほしくて、本来魂は汚れることがない純粋なものなのですけれども肉体に引っ張られてしまっているのですよね。魂にはもともと形もなくて純粋なもの、というのは流派によって色々と解釈がありますけど、ヨーガあるいはヴェーダで言うところのアートマンは永遠不滅で汚れることのない存在としてあるのですが、それが、あたかも肉体に引っ張られてしまっているかのように錯覚・・・ というか、覆いが被せられていて、肉体に引きずられてしまっているのですよね。<br /> <br /> その、もともと純粋で独立しているアートマンあるいは魂を肉体から分離させるために、このような「ちょっと疲れた」状態で魂が体の動きに引きずられる感覚を味わうことは良い気づきのヒントを与えてくれると思っています。<br /> <br /> 実際のところ、何も修行とかしていない人ですと肉体と魂とはかなり分離していて、その、修行していない状態の分離に戻れと言っているわけではありません。<br /> <br /> 修行していない状態の分離は制御されていない分離であって、アートマンの覆い(タマス)は厚く濃い影のように覆いかぶさっていて、アートマンが見えることはありません。<br /> <br /> 一方、ある程度の修行をしてアートマンが見えてきて、魂あるいはアートマンと体とが一体になって始めてこれらの事柄が意味をなしてくるわけで、この状態ですと魂あるいはアートマンと体とが一体になって動いていて分離はさほどなくなっていますから、これが基本になった状態でたまに疲れると、その疲れの状態とは多少の分離を生み出して、その多少の分離こそが次なる完全な分離の常時観察状態へと持っていくための鍵というかヒントを与えてくれると思うのです。<br /> <br /> この状態ですと、ついつい魂あるいはアートマンと体との一体化を追い求めすぎてしまいます。一体化した状態で体を自由自在に動かすことあるいは体や心を詳細に観察することが普通になってきて、そのヴィパッサナー(観察)状態を維持すること自体が目的と化してしまうことがあります。実際のところ、人間の体そのものも一時的なものですので、人間の体すらも知識を得るための手段でしかないのに、その操作方法に熟達することおよび人間の体と一体化すること自体が目的になってしまって、いつまでも人間の体を操作し続けてしまうという罠に落ち込んでしまうわけです。<br /> <br /> そこで、意図的あるいはたまに疲れると、それらのヴィパッサナー状態に「ゆらぎ」を与えて、一時的な「分離」を作り出し、その「分離」こそが現状打破の鍵となって次の状態である、完全な意識の肉体からの分離による常時観察状態へと歩んでいけるわけです。<br /> <br /> 最近のスピリチュアルや仏教では苦行は良くないとか言われていますけど、たしかに昔ながらの苦行は良くないとは思いますけど、多少のきっかけ作りとしてはありなのかな、とも思います。<br /> <br /> ただし、これらはとても誤解があるものだと思いますので安易に他人には勧めませんし、こう書いたからと言って他人に有益かどうかもわかりません。私はたまたま現在ある環境を利用しているだけという面もありますので、わざわざこのような分離状態を作り出す必要もないような気も致します。<br /> <br /> とは言いましても、瞑想録として記録はしておきます。<br /> <br /> Tue, 23 Feb 2021 00:00:00 +0900 過去も未来も存在している。今しかない、なんてことはない https://w-jp.net/2021/2269/ <br /> スピリチュアルではよく「今」しか存在しないのです、とか、過去も未来も存在しないのです、とか、過去も未来も「今」なのです、みたいなお話をよく聞きますけど、あまりこういうお話を真に受けない方がよいと思います。<br /> <br /> これは個人的な意見ですけどね。何を信じるも自由ですので好きに自分で何でも信じたらいいとは思いますけど。<br /> <br /> 一般的には過去というのは過ぎ去ったもので変えることはできず、未来はまだ来ていなくてこれから創造するものだ、と言われています。<br /> <br /> これは、たとえ時空間を超えてパラレルワールドを行き来できるようになったとしてもこの根本的な性質は変わることがありません。<br /> <br /> 私が幽体離脱して過去も未来も自由に行き来して確認したところによると、一部はそういう最初に書いたような主張が正しい面もありますけど、かなり誤解のあるお話だと思いますけどね。<br /> <br /> もともと時間というものは物事の経過を細かく見ることができるように「分割」してしっかりと物事を見極められるように存在しているという面もありますので、過去も未来も存在していなくてごっちゃになってしまったとしたら「理解」が進まなくなってしまいます。この世を作り出した存在、それを神様というのか創造神というのかはそれぞれですけど、その根本の意思の意図としては「理解」がしたいわけですので、時間というものを作り出して分割することで理解を促進しているという面もあるわけですね。<br /> <br /> ですから過去も未来も存在しています。<br /> <br /> ただ、過去は固定的なもので未来はまだ存在していないかと言うとそれはちょっと概念が異なっていて、過去も未来もちょっと違った形で存在しています。<br /> <br /> そして、現在は流動的なもので変更できると一般的には思われていますけど、実際のところ、「現在」というのも多くの人にとっては「固定的」なものです。自由意志で自分の好きなように未来を創造していると一般的には思われていますけど、ほとんどの人々にとっては現在というものは自由意志とは無関係に、ただタイムライン上の動きをトレースしているだけになります。<br /> <br /> 実際のところ、多くの人々にとっては「過去も現在も未来も全て固定的なもの」です。<br /> <br /> ある程度スピリチュアル的に目覚めた人は「現在」の意思から離れて過去も未来も見通せます。その時に始めて現在のタイムライン上の動きとは「離れて」、自由意志を働かせることができるようになるのであって、意識がそこに達するまではタイムライン上の動きをトレースしているにすぎないわけです。<br /> <br /> そして、意識が過去の時点にフォーカスすることもできて、意識が過去のその時点にフォーカスしたら「意思」から見た主観としてはその時点は「現在」になるわけですけれども、それはもともといた時間の場所から見たら「過去」なわけで、その時間をなんと言うのかと言うと、主観であったとしてももともとの時間からしたら「過去」ですし、タイムライン全体から相対的に見てもやっぱり「過去」なわけです。主観で見た時はそれは「現在」になりますけど、だからと言って「過去なんて存在しない」なんてことにはならないですし、であれば、過去は存在していると言うのが正しいです。<br /> <br /> 未来も同様で、未来は存在していますし、未来にフォーカスしたらその意識の主観からしたら現在になりますけど、もともといた時間から見たらやっぱり未来でしかないわけです。ですから、未来が存在しない、なんてことにはならないです。<br /> <br /> 意思という面を見ていくと、「現在」というのは、ただ単に、自分の「意識」が「今(現在)」にフォーカスしている、というだけのことです。ここで言っている「今(現在)」というのは文字通り現在のこの瞬間ということで、そのフォーカスが現在という時間を作り出している・・・ というと語弊がありますけど、今という瞬間を見ているわけです。<br /> <br /> 普通の人にとっては過去は固定的で変えることができなくて、現在も固定的なもので、未来も固定的なものです。ですから、スピリチュアルな人が「すべて現在なのです」とか言うお話を聞きかじって「ふむふむ」と思ったところで自分の現実が何ら変わることがないですし、「だから何?」というくらいにしかならない気が致します。<br /> <br /> それよりも、時間の壁を破って時間の外側に意識を飛ばすことができるようになれば現実を作っていくことが可能になって、固定的なタイムラインから離れてまさに「自由意志」を働かせることができるようになります。重要なのはそちらであって、時間がどうこう、というのは単なるお話程度にしかならないわけです。<br /> <br /> 意識が先に変革されると過去も未来も現在も流動的なものになって、過去を変えようと思えば過去の意思に働きかけてよりよいタイムラインに動かしたり、未来は現在の行動によって変わりますからもともとタイムライン上にあった未来が消えるなんてことはよくあります。<br /> <br /> とは言いましてもそれはある程度のスピリチュアルになってからのお話で、それまでは過去も現在も未来も固定的なものとして存在している(ように見える)わけです。<br /> <br /> Tue, 23 Feb 2021 00:00:00 +0900 瞑想でいつの間にか自己暗示にかからないよう注意する https://w-jp.net/2021/2268/ <br /> 特定の流派において、その流派の瞑想をしている人だけが何故か「キレやすい」、「怒りの沸点が低い」、「他人を見下す」というような、瞑想の目的とは逆の効果が出てきてしまっている場合があります。<br /> <br /> これは、瞑想において自己暗示にかかっていることがあって、実際には瞑想がうまくできていないのにもかかわらず「自分は瞑想できている」と思っていますが、実際のところ、感情を抑圧して瞑想っぽい状態を作り上げているわけで、その抑圧された感情が何らかのきっかけで刺激されると低い怒りの沸点にすぐに到達してキレてしまったり、他人を見下す気持ちが出てきてしまうわけですよね。<br /> <br /> 抑圧とここで書いていますけど、「想像する」と言い換えても良いです。<br /> <br /> 自分が瞑想できていると「想像」してしまうわけですよね。<br /> <br /> ですけど、実際の所、瞑想とは「自然に生じてくる」ものであって、自分の心が想像するものではないのですよね。<br /> <br /> 例えば、集中瞑想をしていると瞑想状態が自然に生じてきます。<br /> <br /> 心が一点に縛り付けられることで、それまで表層に出ていなかった奥深い意識が現れてくるわけです。それは文字通り「現れてくる」ということであって、想像したりするものではありません。<br /> <br /> 流派によっては瞑想中に体の感覚を観察したりするわけですけれども、そのような「観察」の感覚は誤解が生じやすくて、観察を心でしていること自体は五感に属するもので、瞑想で現れてくる「観察」は五感の観察ではなくて五感を超えているものなのですよね。<br /> <br /> その一方で、五感の観察が瞑想状態だと勘違いしてしまう人もいて、その場合、割と想像で「瞑想できている」「観察できている」と思ってしまって、いわば自己暗示にかかってしまうこともあるわけです。<br /> <br /> 実際の所、そのように想像していたり皮膚の観察をしている状態と、実際にサマーディあるいはヴィパッサナー状態になっているときとは全く別物なのですけれども、最初は見分けがつかないですよね。そのような状態で、単に五感で観察しているだけにもかかわらず瞑想できていると自己暗示にかかってしまうことがあるわけです。<br /> <br /> これは、それが悪いと言っているわけではなくて、割と初心者にはよくあることで、そのような勘違いすらもきちんと観察して、次のステップに進めばいいわけです。<br /> <br /> 流派によってそのような初心者の勘違いを指摘して間違っているとか単なる想像だとか言って、時には辱めるような指導をするところもあるようですけど、私からしてみたらそれは初心者が一定の段階に進んだことを示す重要な「しるし」であって、進歩の印なのではないかと思っております。瞑想をしていなければそこにすらたどり着かないわけですからね。十分な進歩だと思うわけです。<br /> <br /> ですけど、そこで留まってしまって既に最終地点に到達したと勘違いしてしまうのは良くなくて、それは指摘してあげる必要が時にはあるかと思います。<br /> <br /> とは言いましても、探究心が旺盛な人であれば「何かおかしいな。ここが最終地点なのかな。その割には自分の意識はこの程度だな」と思って、更に探求を進めるわけです。<br /> <br /> その、自分で探求する、というところが面白いわけで。<br /> <br /> 別に、答えを求めているわけではないのですよね。<br /> <br /> 答え自身は書物のどこかに書いてあるわけですけれども、瞑想で面白いのはそのようなステップを一つづつ自分の感覚を頼りに探っていくところであって、それなしに最後の答えだけ示されても拍子抜けというか興ざめであったりするわけです。<br /> <br /> 自己探求こそが瞑想であると思うわけです。<br /> <br /> Fri, 19 Feb 2021 00:00:00 +0900 雑念の否定は不要 https://w-jp.net/2021/2267/ <br /> ヨーガスートラに、良くない思いが湧いてくるようであれば反対のこと(良いこと)を思うことにします、という一節があります。<br /> <br /> これは、文字通り、反対の思いを浮かべる、良いことを思うということです。<br /> <br /> ですけど、このような書き方をすると、良くない思いを否定すればいいのだと勘違いしてしまう人が一定数いてしまうわけですよね。<br /> <br /> ネガティブな思いが出てきたら、そのネガティブな思いを否定するのではなくて、ポジティブな思いを浮かべるようにする、ということです。<br /> <br /> 最終的にはポジティブな思いをそのように努力して想起する必要はなくなっていって素のところからポジティブになるわけですけれども、もしネガティブな思いが出てくるのであれば、そのネガティブはほおっておくかあるいは可能であれば愛を送ってあげて、それとは別でポジティブな思いにフォーカスすることでネガティブが減ってゆくわけです。<br /> <br /> これは、同じようでいてかなり違います。<br /> <br /> (2-33) ヨーガのさまたげになる思いをふせぐためには、反対の思いを起こすことである。<br /> たとえば、大きな怒りの波が心におこったとき、それをどのように制御したらよいか。ただそれに反対する波をおこすのである。愛を思え。「ラージャ・ヨーガ(スワミ・ヴィヴェーカーナンダ著)」<br /> <br /> ネガティブに対して否定してしまうと抑圧された思いが無意識下においやられて、ふとしたことでその無意識が噴出してしまうことにもなり、キレやすくなったりします。怒りの沸点が下がってしまうわけですよね。<br /> <br /> ただまあ、それは日常生活を送る上で程度問題のところがあって、社会生活のために他人と接している時は一時的にネガティブを抑圧して外に出さないようにする、といった生活上の工夫は必要かとは思います。<br /> <br /> ですが、瞑想としての基本としてはネガティブは否定せずにそのまま受け入れてあげて、受け入れてあげることでネガティブは消えてゆくわけです。<br /> <br /> 悪い思いに対しては無関心でいる、というのが基本です。これらは仏教などでも言われていますね。<br /> <br /> (1-33) 友情、慈悲、喜ぶこと、無関心、がそれぞれ、幸福、不幸、よい、わるい対象に対して思われればチッタ(心)をしずめる。(中略)もし思いの対象が不幸なものであれば、それに対し、慈悲深くなければならない。もしそれが良いものであれば、われわれは喜ばなければならない。それが悪いものであればわれわれは無関心でなければならない。「ラージャ・ヨーガ(スワミ・ヴィヴェーカーナンダ著)」<br /> <br /> 瞑想においてもこれが基本にありますから、ネガティブな思いに対して無関心でいるのが基本で、それに加えて、ポジティブな思いを想起する、というわけです。<br /> <br /> ですけど、実際のところ、そうしてわざわざポジティブな思いを想起しなくてはいけないというのは瞑想の割と最初の段階だけで、ネガティブな思いが出てくるというのはエネルギー総量が低いということでもありますから、エネルギーが高まれば自然にポジティブになりますし、エネルギーが高まりさえすれば、そこに至るまでに多少のネガティブな抑圧があったとしてもそれも含めて解消されます。<br /> <br /> エネルギーの高まりとは、平たくいえば「元気になる」ということですね。元気になればポジティブになる、という当たり前のお話です。<br /> <br /> ですから、根本的解決はエネルギー的な解決であるわけですけれども、そうは言いましてもエネルギー的な解決には時間がかかりますので、ひとまずはこうしたテクニックも必要になってくるわけです。<br /> <br /> ヨーガ的に言えばエネルギーの高まりとはクンダリーニの活性化ですけど、一般的には運動したりポジティブシンキングとか色々ありますし、エネルギーの高い食べ物を取るとか、いかようにもできると思います。<br /> <br /> 根本的解決にはエネルギーの高まり、クンダリーニの活性化が必要になるとしても、テクニックとしては「反対の思いを想起する」という方法はあるわけです。<br /> <br /> Fri, 19 Feb 2021 00:00:00 +0900 思いを観察しさえすれば悟れると教えている流派 https://w-jp.net/2021/2266/ <br /> 私が若かった頃、20〜25年くらい前になるでしょうか。思いを観察しさえすれば悟れると教えていた流派に教わっていました。弟子という形式は組織の形態として存在しておりませんでしたのでただ単に学んでいたというだけでしたが、そこでは、思いを観察して自分自身を背後から見るようにするだけで素早く悟れる、ということを教えていました。そこに通ったというか学んでいたわけですね。<br /> <br /> 今から思えばヴィパッサナー瞑想の走り、あるいは、それほど管理されていないヴィパッサナー瞑想の教えだったように思いますけれども、どちらかと言うと宇宙系のスピリチュアルに分類されていたように思います。<br /> <br /> 当時は、そういうものかな、と思って、思いの観察をして、思いだけでなく、日常生活を意識的に行うことで食事や行動の全てを瞑想にしましょう、ということが教えられていました。<br /> <br /> 今でいうところのヴィパッサナー瞑想ですね。歩き瞑想、食事での瞑想、など、日常生活の全てを瞑想にしましょう、という教えです。<br /> <br /> 今から思えば、それはそれで正しいのですが、その前段階がすっぽりと抜け落ちてしまっているように思います。<br /> <br /> 伝統的な宗教や修行の流派であれば、本格的な修行に入る前に加行(けぎょう)とも言われている準備段階としての修行が存在していて、いきなり本格的な修行に入れない人(これがほとんどだと思います)のために基本的な修行が用意されているわけです。<br /> <br /> 若い頃に通った流派では、思いを観察しさえすれば素早く悟れて、他の流派のように長い修行など不要だ、と謳っていたのですが、実際のところ、それは準備ができている人がそれだけすれば素早く悟れるというお話であって、準備ができていない人はやっぱり加行をしなくては本格的な修行に入れないのが現実かと思います。<br /> <br /> 特に宇宙系のスピリチュアルにはこの傾向が顕著で、「◯◯しさえすればいいんですよ」みたいなお話はその前段階としての前条件がすっぽり抜け落ちていて、たしかに宇宙人からしてみたらそんな前段階なんて既にクリアしているので「◯◯しさえすればいい」ってことになるのですけど、多くの地球人はその前段階をクリアしていませんので、「◯◯しさえすればいい」ということにはならないのですよね。<br /> <br /> 当時もうっすらとそんなことを感じておりましたが、今から思えば、はっきりとそのことが理解できます。<br /> <br /> あそこで教えていた「思いを観察すればいい」というのは、ヨーガで言うところの「サマーディの状態を常に保って、日常生活で修行する」という段階に相当しますので、その前段階がすっぽり抜け落ちていてただ単に思いの観察の真似事をしたところでなかなか悟らないのは当然のようにも思います。<br /> <br /> 「◯◯しさえすればいい」という系の団体あるいはそのような主張をしているスピリチュアリストには要注意で、本人にとってはそうなのかもしれませんけど、実際、それができる人はそうはいないのですよね。<br /> <br /> Thu, 18 Feb 2021 00:00:00 +0900 瞑想中に見える光の解釈 https://w-jp.net/2021/2265/ <br /> 瞑想中には光を見ることが多くて、しかし、その解釈はなかなか難しいものがあります。<br /> <br /> ヨーガの解釈ですとチャクラごとに色がついていたりしますけど、瞑想中にその色が見えてくるということは個人的にはあまりなかったように思います。しかし、瞑想中にチャクラの色が見えてくると言っている人もいらっしゃいますので、そういうこともあるかもしれません。<br /> <br /> ヨーガの流派によっては、瞑想中に見えてくる光は重要ではないので無視する、としている所もあります。瞑想中の色の解釈は難しいですので、これはこれで、弟子たちに無用な詮索をさせないとか、あるいは、弟子たちが自分が修行が進んだと勘違いさせないためにも有効な手段になっているようにも思います。<br /> <br /> ヨーガ系および神智学系を組み合わせた解釈として、灰色・黒色(あるいは紫色)・光、という三段階が個人的にはしっくりきます。<br /> <br /> チベット系あるいはゾクチェンの解釈としてはティクレがあります。これは、上記の3段階目の光と一致しているようにも思います。<br /> <br /> 瞑想を始めたばかりの頃は灰色のもやもやとした感じが見えて、それは、ただ単にまぶたを通して外を見ているだけのような感覚だったり、あるいは、ふとしたことで光がフラッシュすることもあります。このような光を見ることで、初心者は「光だ!」と解釈してしまいがちですけど、実際には、そういう、たまに光を見ることはよくあります。<br /> <br /> ですから、一部のヨーガの流派のように「光は重要ではない」としてしまうのは、それはそれで実践的で理にかなっているとも言えます。<br /> <br /> そうは言いましても、自分の立ち位置をしっかりと見極めた方がいいと私なんかは思っておりますので、そのような「光」のような明確な「しるし」をそのようにばっさりと捨ててしまうのはもったいないと思っていて、光の見え方で成長の度合いが計れるのですから、使えるものは使いましょう、というのが私のスタンスです。<br /> <br /> 個人的には、上記に書いた、灰色・黒色(あるいは紫色)・光、という3段階がしっくりくるわけですけれども、最近で言うと、瞑想中に視界の各所に見えるフラッシュやランプの光のようなほのかな光がよく見えて、それと、日常生活中にはチベット(あるいはゾクチェン)で言うところのティクレという光の滴もよく見えます。<br /> <br /> ティクレは青空を見上げた時に青空の手前にスクリーンのように目の表面の小さなごみが見えたりするのと同様に各所で光がフラッシュしたり光子が流れ星のように各方向に飛んでいくのが見えたりします。<br /> <br /> 個人的には子供の頃からこのようなティクレをよく見ていましたので特に目新しいものではないのですが、チベットでは瞑想法としてこのティクレが使われています。<br /> <br /> ティクレを検索してみると、瞑想を始めるまでこのようなティクレを見たことがなくて驚いたというような記述が散見されますけど、個人的には子供の頃からティクレは普通に存在していましたし、ティクレという言葉自体には慣れ親しんでおりませんでしたがチベット特集のテレビ番組でそのような光を見る瞑想のお話を当時見たこともあって、あれが瞑想になるのか、と、漠然とその頃は理解しておりました。<br /> <br /> ですので、瞑想が進むとティクレのような光が見えてくる、という言い方をしたりもしますけど、個人的には必ずしもそうとは思わなくて、現象およびテクニックとしての光の見え方はあって、それとは別に、瞑想中に見えてくる光がある、と思っています。<br /> <br /> ティクレは2つの意味が含まれていて、青空を見上げた時に見えるティクレはテクニックで見えてくる光の方で、瞑想が進むと見えてくるティクレはもう少し違うもののように思います。とは言いましても、ティクレとは単に光の滴と言うような意味合いのようですので、どちらも光ですのでティクレとしては同じなのかもしれません。<br /> <br /> どちらにせよ、光の解釈はちょっと難しい気も致しますので、ヨーガの一部の流派のように「重要ではない」と言ってしまうのも実用面から言えばあながち間違いではない気も致します。<br /> <br /> Thu, 18 Feb 2021 00:00:00 +0900 真理の探求は真面目すぎない方がいい、というお話 https://w-jp.net/2021/2264/ <br /> 聖典や経典に記されていることはあくまでも一面であって、それが素晴らしいものであったとしても鵜呑みにして信じ込んでしまうと真実を見失ってしまいます。<br /> <br /> 疑えとまでは言いませんけど、あくまでも真実は自分の中にあるのですから、聖典や経典に書かれてあったとしてもそれは自分の中にある自分が出した答えではありませんから、あくまでもヒントでしかないのですよね。<br /> <br /> でも、真面目な人ほど聖典や経典を真に受けてしまってそれに固執してしまいます。<br /> <br /> それが宗教ができてゆく過程ではあるのですが、それはそれで興味深い過程ではあるものの、そのように真面目に聖典や経典に取り組んでしまうと答えは全て自分の中にあるという真実を直視できなくなってしまう危険性があるのですよね。<br /> <br /> 例えば、ヨーガスートラで「心の死滅」がヨーガの定義あるいは目標として記されていますけど、文字通り解釈してしまう人と、「そうなのですかね? そうかもしれません」と、大雑把に理解する人とでは、実際の所、後者の方が成長が速いように思います。<br /> <br /> 前者であろうと後者であろうと、頭の理解だけではなく自分の奥底から出た感覚を根拠とすればいいのですが、往々にして前者は文章そのものの理解に固執してしまいがちのように思います。まあ、人によりますので、逆の場合もあるかもしれませんけど。<br /> <br /> 別の例で、ヨーガスートラで「ネガティブな思いが出てきたら、逆の思いを浮かべる」みたいなことが書かれてありますけど、これも、真面目すぎる人は常にそのように努めてしまいますけど、これはかなり誤解があるお話で、サマーディ以前であれば雑念が多いのでこのようにして雑念を抑え込んでゆく方が良いですけどかなり浄化が進んでサマーディの近くにまで達すれば実際はこのように抑え込む必要すらないのですよね。<br /> <br /> でも、真面目な人は文章をそのまま受け取ってしまってこのやり方が常にいつまでも必要で通用すると解釈してしまって、これがあくまでも一面を言っているだけに過ぎない、ということをなかなか理解できないのですよね。<br /> <br /> 答えは全て自分の中にあるのですから、それをやってみて必要だと思えばやればいいし、不要だと思えばやらなくてもいいわけです。ですけど、答えが自分の中にあるということがわかっていない人は聖典や経典の文面に固執してそのやり方にこだわってしまいますけど、それは自分の中に答えがあるということが理解できていないのですよね。<br /> <br /> この、答えは自分の中にある、という考え方は割と最近のスピリチュアル、特に宇宙系のスピリチュアルではよく言われていることですけど、古典的なヨーガや宗教あるいはヴェーダではそのような言い方はしませんけど、古典的な分野ではそれよりも、多様性があることで人の選択を促している面があるように思います。<br /> <br /> あまりにも多様性があって聖典や経典によって違いがあるので自分で選ぶしかないのですよね。そして、選ぶ基準は何かというと自分の経験を基にするしかないわけで。状況は違っても、最近のスピリチュアルでも古典的分野でも、自分の内面の感覚を頼りにするということは一緒なわけです。<br /> <br /> ですけど、真面目な人ほど文面にこだわってしまうのですよね。そして、自分の解釈をしている人を「解釈を捻じ曲げている、間違った人」とか言ったりします。捻じ曲げているというよりも、答えは自分の中にあって、実際のところ、全ては真実なので、自分の中から出てきた答えであれば全て完璧ですから合っているとか間違っているとかいうお話はそこにはないのですよね。単に、自分の中から出てきた答えと聖典・経典との記述とは違っているというお話で、違っていたとしても、自分の中から出てきた答えは自分のその時の状況・考えに即してみれば全て正しくて完璧なわけです。表現の違いで誤解とかも多少はあるかもしれませんけどそれは重要なことではなくて、自分で出した答えであればそれを受け入れればいいというだけのお話です。<br /> <br /> このあたりが真面目な人には受け入れがたいようで、ですから、個人的に思うのは、真理を追求するのはそれなりの真面目さも必要ですけどあまり真面目すぎない方がいいかなあ、とも思っています。O型のような曖昧さがベースにあって、真実は自分の中から見出す、というスタンスが組み合わさっているといいのかもしれません。<br /> <br /> Thu, 18 Feb 2021 00:00:00 +0900 ナーダ音があれば普段聞く音楽はいらない https://w-jp.net/2021/2263/ <br /> どのような素晴らしい音楽よりも上等の音楽が無限にナーダ音で聞こえてきます。それは音楽というには大したメロディではなくて無限の音程と無限に続く高音の連なりではあるのですがそれさえあればそんじょそこらの音楽なんていらなくなります。<br /> <br /> JPOPやロックやジャズ、あるいはクラシックなど数多くありますが、このナーダ音以上に素晴らしい音楽はありません。<br /> <br /> そのほんの一部だけを取り出したら交響曲ができると言ってしまうと大げさかもしれませんし、実際のところ、交響曲のような複雑なメロディはない・・・ と言ってしまうと語弊があるかもしれませんが、俯瞰して言ってしまうと単純な高音の連なりではあるのですがそれは無数の音楽の連なりでありますので交響曲の何十倍何百倍もの複雑な音楽の奏でが一度にしかも無限に果てしなく聞こえてくるのがナーダ音なわけです。<br /> <br /> ナーダ音こそが至上の音楽であって、それ以外はその一部を切り出したもの、と言えなくもありませんが、それではそれはどのようなものかと聞かれたら、再度繰り返しになりますが、一見すると単なる単一っぽいピーという高周波の音でしかなくて、言葉でそう言われてしまうと「なーんだ」と思われてしまうかもしれませんが、実際のところその高周波は細かく変動していて、変動の中身は更に細かい多数の波の連なりで、それはまさに根源の音楽であるとも思えるわけです。<br /> <br /> 私はナーダ音が常日頃、日常生活で聞こえるようになって以降は音楽を聞くことがほとんどなくなりました。<br /> <br /> コンサート等に行って聞くこともありますけど、ナーダ音が常に聞こえてきてしまいますのでナーダ音に意識を合わせずにコンサートの音のみに集中しないとナーダ音とコンサートの音が被ってしまいますのでちょっと不便なところも一応はあるのですが、そうして気をつけつつたまにコンサートを楽しむこともあります。特にオペラがコロナ前まではお気に入りでしたがコロナ以降は行っていません。<br /> <br /> そのように、たまに生演奏を楽しむことはあっても、基本的にはナーダ音が私と常に共にある音楽であって、ナーダ音があれば音楽などいらないわけです。<br /> <br /> 他の人がどうなのかはわかりませんけど、少なくとも、私にとってはナーダ音があれば音楽は不要になっています。<br /> <br /> かと言って音楽を否定しているわけではなく、音楽が存在していても、もちろん問題ないと思っています。ただ単に、私には普段聞くような音楽が不要になったというだけのことです。<br /> <br /> 昔はCDを買って日常に流すなんてことをしていましたけど、今はナーダ音がありますので不要になったということです。<br /> <br /> テレビやYoutubeなどのBGMで音楽があることを否定しているわけではなく、雰囲気を表現するための音楽があっても全く問題ないとおもています。それはコンサートと同じで、表現としての音楽なわけで、そのような表現の音楽を否定しているわけでは有りません。<br /> <br /> ただ単に、日常生活と共に流しておくような音楽は不要になった、というお話です。それはナーダ音という最高の音楽が常にあって、それが無限に現れ続けていていますから、それ以上のものは不要ということです。<br /> <br /> Wed, 17 Feb 2021 00:00:00 +0900 覚醒した意識を日常生活で保ち続ける https://w-jp.net/2021/2262/ <br /> 程度問題ではあるのですが、瞑想を続けるうちに座った瞑想と日常生活の間の差がなくなっていきます。<br /> <br /> 座った瞑想をしてエネルギー的な経験あるいは意識的な経験をしてきたわけですけれども、瞑想を始めてからしばらくの間は、瞑想を終えた後にそれなりに日常生活でそれらが生かされて意識が保たれてはいたもののそこまで日常生活と融合しているという感じではありませんでした。<br /> <br /> 瞑想、あるいはヨガをして、終わった後はすっきりした状態になったりもしましたが数時間あるいはしばらく経つとやがて日常生活の状態に戻ってゆくわけですね。<br /> <br /> これは月あるいは年単位での変化にはなるのですが、これらの状態の遷移が、次第に緩やかなものになってきたように思います。<br /> <br /> 特に最初は、瞑想やヨーガと日常生活の間のギャップが激しかったのですが、最近は割と一続きのものになってきています。<br /> <br /> ただ単に意識が落ち着いている(シャマタ、止)ということだけではなく、いわゆる瞑想状態、ヴィパッサナーあるいはサマーディと呼ばれる状態(観察状態)ですらも日常生活に持ち込むことができます。<br /> <br /> 実際のところ、このような、日常生活におけるサマーディというのは修行の1つであって、常に覚醒した意識を保ち続ける、という修行方法になるわけです。<br /> <br /> 修行が進んで、三昧が、限られた時間だけなくずっと続くようになったら、「大いなる三昧」と呼ぶ。けれども、初心者の場合、三昧に入っている時と入っていない時の区別がある。「チベット密教の瞑想法(ナムカイ・ノルブ著)」<br /> <br /> 日常生活を送るにつれて次第にサマーディの状態から落ちてしまったりしますけど、その時は再度、覚醒した意識を取り戻すように意識し直すか、あるいは、日常生活でそのまま戻すのが難しいのであれば再度座って瞑想して覚醒状態に戻ってもいいわけです。<br /> <br /> 座っての瞑想というのは基本であって、しかしながら、日常生活と瞑想とを結びつけることが次の段階の修行になるわけです。<br /> <br /> Wed, 17 Feb 2021 00:00:00 +0900 経験は不要で理解だけが重要だという流派がある https://w-jp.net/2021/2261/ <br /> 理解こそが解脱(モクシャ)を達成することができるもので経験は一時的なもので重要ではないという流派があります。例えばインドのヴェーダンタ学派とかですね。<br /> <br /> 実際のところ、モクシャあるいはサマーディの側から見た時のみ経験が重要ではないのであって、モクシャあるいはサマーディに到達するためには経験が必要になってくると私なんかは思います。<br /> <br /> 理解こそが解脱(モクシャ)に到達できる手段だとしている流派であっても修行のようなことは行われていますし、実際のところ、修行や経験を詰んではいるもののそれを修行や経験とは呼んではおらず理解や勉強と言っているだけのことに過ぎないように私には思えます。言葉の表層で理解という言葉に重きを置いて、実際は、実質的に修行や経験を重視しているのにも関わらず言葉の表層で理解という表現に置き換えているだけで、実際は大差ないのかなと思います。<br /> <br /> 例えばマントラを唱えることを一部の流派では修行と言いますがそれら理解こそがモクシャに至る道と考えている流派では修行とは呼ばずに単にプージャと呼んだり祈りあるいは瞑想と呼んだりします。<br /> <br /> 実際のところ、物事は全てあるがままで完璧でありますので、私からしてみたらこのような解釈の違いも大差はなく、そのような違いすらもただ単に趣味の違いあるいは文化の違いとしか思えないのですが、それでも、このような些細な違いで意見を食い違えてあっちは正しいだとかこっちは間違っているだとか指摘しあっている状況があるように思います。<br /> <br /> 確かに、モクシャやサマーディが重要というのは間違ってはいませんが、かと言って、その前段階にあるシャマタ(止)の段階もそれはそれでもちろん重要なのです。しかし、理解こそが重要で経験は不要としている学派は修行や経験に相当するシャマタ(止)を否定しがちなのですよね。先の段階であるモクシャやサマーディから見たらシャマタ(止)をしているかどうかは大差ないのですが、サマーディに入るまでにはシャマタ(心の静止)は必要になってくるわけです。<br /> <br /> そのように、モクシャやサマーディのためにシャマタ(止)は不要と言った時、モクシャやサマーディに到達した人であればその意味としては、シャマタ(止)があろうがなかろうがモクシャやサマーディがある、という意味で解釈するのに対し、まだモクシャやサマーディを知らない人はシャマタ(止)を否定してしまうのですよね。シャマタ(止)があろうがなかろうがモクシャやサマーディがある、ということであって、シャマタ(止)が不要ということではないのですよね。これは、似ているようでいてかなりの大きな違いです。<br /> <br /> 理解こそがモクシャに至る、としている学派の中には、シャマタ(止)が不要だからシャマタ(止)の修行をしている学派は間違っている、とみなして論争してしまうのですよね。<br /> <br /> 文献だけを読んでモクシャやサマーディを理解してしまうとそのようにシャマタ(止)を否定してしまうことになるのかもしれないですけど、実際には上記のように、モクシャやサマーディの状態であればシャマタ(止)があろうがなかろうが関係ないということであって、シャマタ(止)が必要かどうかという話ではないのですよね。<br /> <br /> 実際には、モクシャやサマーディに至るための前段階としてシャマタ(止)は有用なのであって、基本的にはシャマタ(止)を経由してからモクシャやサマーディに至るのだと思います。<br /> <br /> 理屈から言っても、シャマタ(止)とはメンタル(ヨーガで言うマナス)のコントロールですから、マナスのコントロールができていない人がモクシャやサマーディに至ることはありえないと思うのですけどね。マナスのコントロールなしにモクシャやサマーディに至ることなんてあるのですかね?<br /> <br /> なぜにそこまで固執して理解だけが重要と主張して、特にことさらにシャマタ(止)を否定するのか私にはさっぱり理解できないですし、理解が重要と言うのなら、万人に理解できるように説明してほしいものです。実際に何度もこれらのことを聞いてもあまりはっきりとした答えはしてくれなくて、理解が重要だとかしっかり理解しなくてはいけないとか、理解していないだけだとか、もっと勉強が必要だとか、そのような答えばかり返ってきます。そうなのかもしれないですけど、私にとっては上のように解釈する方がしっくりきます。<br /> <br /> 私からしてみたら、そのような誤解に基づく理解はなんと愚かしいことだと思ったりもするのですけど、そのような愚かなことも含めて物事は全てあるがままで完璧だと思っていますので、愚かであろうがなんだろうが好きにすればいいと思っています。これらの解釈はもしかしたら私の誤解なのかもしれないですけど、まあ、それであったとしても完璧であると思うわけです。<br /> <br /> Wed, 17 Feb 2021 00:00:00 +0900 ルドラ・グランティがあるという実感 https://w-jp.net/2021/2259/ <br /> 日によって、エネルギーがサハスララまで上がれば意識が静寂かつ観察状態(ヴィパッサナー)になるわけですけれども、そうでない日もあるわけです。<br /> <br /> そうでない日の場合はしばらく1時間とか2時間とか瞑想をすることでエネルギーがサハスララに上がって同様になる場合もあれば、そうでもない日もあります。<br /> <br /> これは、状況としてはヨーガで言われているルドラ・グランティがある状態なのかなと思います。<br /> <br /> グランティとはエネルギーのブロックで、主要なものは3つあると言われていて、流派によって名前や場所が微妙に違ったりもしていますが有名どころで言えばルドラ・グランティが眉間のアジナ・チャクラの中にあると言われています。<br /> <br /> これはアジナ・チャクラが開くのを妨げているという解釈もされたりしますけど、基本的にはただ単にエネルギーのブロックということでアジナのところでサハスララへのエネルギー・ルートがブロックされていると解釈されるのが一般的だと思います。<br /> <br /> アジナは、脊髄の終わったところに対応して位置し、3つのナディが合流して、ちょうど糸の結び目のようになっています。この結び目は、ルドラ・グランティ(Rudra granthi)またはシヴァの結び目(シバ・グランティ)と呼ばれています。「密教ヨーガ(本山博著)」<br /> <br /> これがあるが故に、エネルギーがアジナの付近で分断されていて、それ以上は上がりにくい状況になっているように思います。<br /> <br /> これは、段階は違うのですがクンダリーニ経験の後にマニプラ優勢にはなったもののまだアナハタ優勢にはなっていない状態において同様にマニプラとアナハタの間でグランティがあったように思います。このグランティはおそらくヴィシュヌ・グランティかなとは思うのですが通説ではヴィシュヌ・グランティはアナハタの中にあるということに対して、私の場合はアナハタの中というよりはアナハタとマニプラの間でブロックされていたような感じでした。それはともかくとして、その後、アナハタ優勢になったのですが、その際、ヴィシュヌ・グランティが破られたように思います。<br /> <br /> 今回の場合、アジナそのものというよりはアジナよりちょっと上のところで、アジナとサハスララの間でブロックがあるような感覚ですので通説ではルドラ・グランティはアジナの中にあるということですのでちょっと感覚としては違うのですが、まあ、ひとまずはこれがルドラ・グランティだと思っていて良いのではないかと解釈しております。<br /> <br /> マニプラ優勢からアナハタ優勢になったときのことを考えると、時々エネルギーワークをしてマニプラのエネルギーをアナハタにまで上げるということをしてはいたもののなかなかアナハタにまで上がりきらなかった状況と似たようなことが今回はアジナとサハスララの間で起こっています。<br /> <br /> アジナくらいにまではエネルギーが満ちていますし、エネルギーワークをすることでサハスララに一時的あるいはぼちぼち継続的にエネルギーが充満することはあっても、それは日によりますし、安定してアジナとサハスララとが繋がったという感じではまだありません。<br /> <br /> 同じような状況だとするとそのうちアジナとサハスララの間でエネルギーがもっと太く繋がるのかなという感じはありますけど、さて、どうですかね。<br /> <br /> Sun, 14 Feb 2021 00:00:00 +0900 地球の波動は悲しみと砂漠のような赤茶色の荒廃したオーラ https://w-jp.net/2021/2258/ <br /> よく、スピリチュアルで地球は母のような温かいオーラとか言いますけど、瞑想で地球と宇宙と繋がった時に観じられるのはそのような母とか暖かさというよりも悲しみと、モハベ砂漠のような赤茶色の、熱感としてはぼちぼちありますし包み込むような感じもそれなりにありますけど荒廃したオーラのようにも感じられます。<br /> <br /> ムーラダーラ(ベースチャクラ)のような赤っぽい感覚もありますけど、完全な赤というよりは赤茶色で、どす黒さはほとんどないのでそのような意味では純粋ではありますけど基本はムーラダーラの色ですね。<br /> <br /> 地球上で邪悪だったり葛藤や悪魔的な存在がいてそのような悪い意識体のオーラはドス黒いのですが、地球のオーラはそのようなドス黒さはないです。ですから、地球のオーラはムーラダーラっぽい感じが基本にはありますけど邪悪なものはないようです。<br /> <br /> 一応は母の暖かさと言ってもそうは間違いはないのかもしれないですけど、聖母マリア様のような高次元の光の輝きというよりは、砂漠で感じられるような地球のエネルギーに近いものを瞑想中に感じます。<br /> <br /> 砂漠というと誤解があるかもしれなくて、セドナの方が近いかもしれません。一部、砂漠のような荒涼とした感はありますけど優勢になっているのは熱量のある包み込むような赤茶色のオーラです。<br /> <br /> そのエネルギーは地球から宇宙にも放射していて、宇宙はもっと純粋で透明に近いオーラですけど地球の中から見ると地球のオーラが地球の表面にまで広がっていますので宇宙がそのまま直接的に感じられるわけではありませんけど、宇宙のことを意識で感じてみると宇宙の方は透明なオーラであることがわかります。<br /> <br /> 地球の方はそのようなパワフルな赤茶色のエネルギーが基本になって、それが砂漠のように少し荒廃していて、荒廃していると言ってもかなりのエネルギーに満ち溢れていますので破壊的ではなくて、かと言ってそこまで創造的ばかりというわけでもなくて、高濃度のエネルギーが日々姿を変える砂漠のように揺れ動いている、という感じです。<br /> <br /> それに加えて悲しみというものがあって、高いポジティブな赤茶色の高濃度のエネルギーの中に悲しみも含まれていることがわかります。<br /> <br /> たしかアメリカンインディアンの言い伝えで、地球の意識は6歳くらいの子供だ、という記述をどこかで読んだのですが、そのお話がしっくりきます。<br /> <br /> Thu, 11 Feb 2021 00:00:00 +0900 まだ自由自在の理を得てはいない https://w-jp.net/2021/2256/ <br /> サハスララに意識が集まって、意識が自由になって体全体をそれなりに観察できるようにはなっても、まだ、理解という意味における自由自在の理(ことわり)を得てはいないようです。<br /> <br /> 瞑想にて、そのことを気付かされました。<br /> <br /> この、自由自在の理を得るまではいわゆる固定的な宗教観というのが残る、ということにも改めて気が付きました。<br /> <br /> サハスララに意識が集まって、それでもしばらくすると更に一段意識が上にあがって、まだ先がありそうな雰囲気です。<br /> <br /> 今の段階では、体がそれなりに観察できて意識もそれなりに自由にはなっても、自在に理屈が自然と出てくるような理を得てはいないように思います。<br /> <br /> かつて悟った人がいたとして、そのことを勉強するとします。この自由自在の理を得ると同様に悟った理屈が次々と出てくるわけですが、まだ自由自在の理を得ていないとどこか書物への依存が残ってしまうというわけです。<br /> <br /> 書物から離れて自分自身の言葉で自由自在に理が出てくるようになって初めて意識がある一定の、一応は悟りと呼んでも良い高みに上り詰める(まだ先はありますが)のであり、そこに達していなければまだまだだということです。<br /> <br /> いくら光を感じて、存在を理解しようとも、自由自在の理にはまだ一歩足りない、ということのようにも思います。<br /> <br /> Tue, 09 Feb 2021 00:00:00 +0900 子供の霊が首に近づいてきて激しく震えた https://w-jp.net/2021/2255/ <br /> エネルギーが高まって以降、他者のエネルギーに左右されにくくなったわけですけれども、昨夜寝ていたらふと近くで子供の声がして、きっと霊かなと思って、珍しいな・・・ と思いつつ、その他愛の無い子供の喋る声を聞いていました。<br /> <br /> 子供というよりは幼児でしょうか。姿はよく見えませんでしたけどかなり小さな子供です。<br /> <br /> 単に近くにいるのが珍しいだけならいいのですが、しばらくほおっておいたら、急に私の右の首元に近づいてきたかと思えば右の首に触れた瞬間に私の体が全体的にガタガタ震えて痙攣のようになってびっくりしました。<br /> <br /> かなりの震えで、こんな震えるのは初めてかもしれません。痺れる痙攣や筋肉の痙攣とは違って、ガタガタ震えが激しくなって痙攣のようになったのです。不思議な痙攣です。<br /> <br /> まるで漫画のように震えてびっくりしました。他の人で霊障とか悪霊と触って震えるとかいう話は聞いていましたけど、個人的にここまで震えるのは初めてです。<br /> <br /> 今までは同様のことがあるとその原因はというとオーラの切れ目から体の中に侵入されていて、例えば右腕に絡まっていた見えないものを引き抜くだとかいうことをして回復する作業が必要でした。特に外出した時などに意識体に取り憑かれると気分が悪くなりますので度々取り憑かれている意識体を引き抜く必要がありました。<br /> <br /> 最近はそうそうそんなこともなく平穏に暮らしておりましたが、今回、これほどまでに震えたのでびっくりしたのです。<br /> <br /> 震えが5〜10秒くらい続いたので、これはすぐに引き抜かなくてはと思ってオーラの手を首元に伸ばしたら、手で掴む前に急に震えが止まり、どこかへ消えました。一応、首元のあたりを探ってみましたが特になにかある感じではありませんでした。<br /> <br /> 諦めて去っていったのでしょうか。<br /> <br /> もともと私から数m離れた場所にいた筈なのに一瞬で首元に絡みついてきたので、動きが相当に素早いように思います。離れる時も一瞬でした。<br /> <br /> その翌日、<br /> 朝の瞑想をしていたらどうもエネルギーがサハスララにまで上がりにくい感じになっていて、そのまま瞑想を続けていたら急に一瞬体全体が震えてエネルギーの通りがよくなり、エネルギーがサハスララに上がるようになり、意識も緩やかになりました。<br /> <br /> どうやら、昨夜のことが原因で首のあたりのエネルギー・ルート(ヨーガでいうナディ)が少し詰まり気味になってしまっていたのかもしれません。<br /> <br /> ヨーガの教えでは、エネルギーの詰まりが解消される時に震えが生じると言いますから、その教えの通りのことが起こったように思います。とは言いましても震えでエネルギーの通りが良くなること自体はしょっちゅうありますので珍しいことではありませんけど、昨夜の子供の霊と関連してそのようになったという点が興味深いわけです。<br /> <br /> 夜の時点では何も障害がない気がしておりましたが、実はこのように多少は被害を受けていたようです。<br /> <br /> これは、先日私の守護霊がミュージシャンの悪霊を私の布団に放り込んで訓練したのと同様に、訓練の一環だったような気も致します。<br /> <br /> Tue, 02 Feb 2021 00:00:00 +0900 これが、本当の自分を見つけるということなのかもしれない https://w-jp.net/2021/2254/ <br /> 自分探しの旅をしていたつもりはなかったのですけど、最近のサハスララにエネルギーが満ちると潜在意識が表に出てくるという状況は、いわば「本当の自分で生きる」ということそのものと言って良いと思います。<br /> <br /> 単に瞑想をしていただけで、目的は特に自分探しというわけではなく、もともと私は小学校の頃に幽体離脱をして過去生も未来も見て人生の目的を知っていたので、その時点で既に自分探しは終わっていたと少し前までは思っていて、今はその時に得た知見を基にある程度の覚醒を追体験していわゆる悟りへの階梯を確かめるという段階にいるのだとずっと解釈しておりました。<br /> <br /> ですので、ここに来て今更「自分探し」などするつもりもなければ期待もしていなかったのですが、サハスララにエネルギーが満ちた状態は、言葉で言い表すならば「本当の自分」と言うのが相応しいもので、それはスピリチュアルや放浪の旅をする人たちがよく耳にする「自分探しの旅」の終着点のようにも思えました。<br /> <br /> ただ、誤解がないようにはっきり言っておくと、自分探しは単なる通過点に過ぎなくて、サハスララにエネルギーが満ちて自分が見つかったとしても、それは単に「普通」に戻ったというだけのことであって、特別になにか凄いことではないように思います。<br /> <br /> 今までは本当の自分と一体にはなっていなかったのだな、という実感があります。<br /> <br /> そして、それは単に今までがおかしかっただけのことであって、本当の自分が見つかっても何ら誇るべきものはなく、単にそれだけのことでしかないわけです。<br /> <br /> きっと過去の自分が今の自分を見たら素晴らしいと思うでしょうが、それはそうかもしれないですけど、実際、今の自分は何ら特別ではなく、単に普通に戻った、というだけの、ただそれだけのことです。<br /> <br /> サハスララにエネルギーが満ちて知ったことは、ただの、ちょっとした、そのシンプルなことでした。<br /> <br /> 嵐が去った野山を小高い丘から見下ろして、澄み切った風と明るい光、そして青空を見上げ、大地を見渡すかのような、そのような自然な気持ちがサハスララに相応しいように思います。<br /> <br /> Mon, 01 Feb 2021 00:00:00 +0900 サハスララにエネルギーが満ちると潜在意識が表に出てくる https://w-jp.net/2021/2253/ <br /> サハスララにエネルギーが満ちると静寂の境地になり、それにより、潜在意識が表に出てきて潜在意識が「直接」自分の五感を司るようになります。<br /> <br /> これは、流派によっては「心の本性(リクパ)とかヴィパッサナー(観察)あるいはサマーディとか言われている状態で、今までは、一時的にこの状態が現れていたように思います。特に、それなりに集中瞑想をした後に観察(ヴィパッサナー)状態になっていて、その後は、日常生活においても静寂の境地の観察状態がそれなりに続いたりしておりました。<br /> <br /> これらは、表現方法が違うだけで全て同じことです。潜在意識が現れてくるとも言えますし、心の本性(リクパ)が出てくるとも言えますし、他も同様です。<br /> <br /> これは程度問題といえばそうなのですが、これがより一層進んで、サハスララにエネルギーが満ちていると自然にこれらの状態が現れるようになりました。<br /> <br /> エネルギーのお話だけしてしまえば、単にエネルギーが満ちたらこれらの状態になる、ということです。エネルギーの観点から言えば、瞑想で集中していたのはエネルギーを通してエネルギーを高めるためであって、眉間に集中することでエネルギーを集め、サハスララにまでそれなりにエネルギーが通るとその程度に応じてヴィパッサナー状態(あるいはリクパ、あるいは潜在意識が現れた状態)になっていたのかなとも思います。<br /> <br /> 今まではそれほどサハスララにエネルギーが通っていなかったのでヴィパッサナー状態もそれなりでしたけど、ここにきて、割と常時、サハスララがちょっとピリピリとする感覚がずっとするようになりましたので、そのようにサハスララに感覚がある時は五感もヴィパッサナーの観察状態になっているように思います。<br /> <br /> それを言い換えれば「潜在意識が表に出てきている状態」と言うこともできますし、潜在意識としてではなく、自分とは違った意識として認識する人もいるかと思います。それをもしかしたらハイヤーセルフとかミドルセルフと表現する人もいるかもしれないですけど、これらの用語は人によって定義が異なっていますが、同様の意味合いで使っている人もいるかと思われます。<br /> <br /> とは言いましても、今の時点では潜在意識がちょっと表に出てきたというくらいで、潜在意識で認識していたものを意識に長く留めておくことができず、すぐ忘れてしまう程度の認識でしかありません。<br /> <br /> 潜在意識が働いていることはよく認識できるもののそれを覚えていられないということは、潜在意識と顕在意識が少し繋がって顕在意識から潜在意識を把握することができてはいるものの、まだそれほどしっかりと繋がっていないということなのかな? という気もしております。<br /> <br /> Mon, 01 Feb 2021 00:00:00 +0900 ムーラダーラに意識を合わせてもエネルギーの変化が感じられなくなる https://w-jp.net/2021/2252/ <br /> 以前はムーラダーラを意識しただけで登頂のサハスララまでエネルギーが通るような感じがありましたが、最近はサハスララの近くにまでエネルギーが満ちている状態になっておりますので、ムーラダーラを意識してもエネルギーの変化をそれほど感じられなくなりました。<br /> <br /> ムーラダーラを意識した時はエネルギーが後頭部や鼻頭にまで上がっておりましたが、今は、エネルギーが頭頂のサハスララに届くか届かないかという感じになっていてそれより下はエネルギーが割と満ちている状態になっておりますので、わざわざムーラダーラを意識しなくてももともと普段からエネルギーが頭の方にまで満ちている状態になっています。<br /> <br /> ですから、以前のようにエネルギーを眉間に通すためにムーラダーラを意識するという必要はなくて、それでもムーラダーラを少し意識すれば多少はエネルギーの動きを感じますけど、それほどの効果を感じなくなっている・・・ と言いますか、効果はあるとは思うのですけどもともとエネルギーが満ちているので差がそれほどなくて、よって、感覚としてはそれほど動きがないように感知されるのかなと思います。<br /> <br /> 同様に、鼻頭を意識した時にエネルギーが満ちてくる感覚にしても、もともとエネルギーがそれなりに頭のあたりに満ちている状態になっておりますので、わざわざ鼻頭を意識してエネルギーを満ちさせる必要はそれほどなくて、たぶん多少は効果があるのかなとは思いますが、感覚としてそれほど感知されなくなってきています。<br /> <br /> これらは、鈍くなったとかいうことではなくて、単に、エネルギー差がなくなったからこのように感知されるようになったのだと解釈しています。<br /> <br /> 以前は、頭のあたりにエネルギーがそれほど上がっておりませんでしたので、例えばムーラダーラを意識するとか、鼻頭を意識するとか、あるいは、天のエネルギーを体に満たすとかする必要があったのかと思います。<br /> <br /> 今でも、天のエネルギーに関してはまだそれなりに有効かなと言う気がいたしますが以前ほどそれに頼るという感じでもなくて、天にもそれなりに通じ始めた、という感覚があります。<br /> <br /> まだサハスララが活性化し始めたくらいですけど、こうなってくると、体の中にエネルギーが常に充満していて、エネルギーの差がなくなってくることでエネルギーワークが完成に近づいてきたといいますか、少なくともサハスララより下のエネルギー的な動きは一段落ついたのかな、と思っております。<br /> <br /> 今は割と常にサハスララの付近がじわじわとちょっとした静電気のような皮膚の感覚のようなものを感じていて、静電気というよりはエネルギーの流れなのかな、という気がしております。<br /> <br /> これは、意識としても変化があって、程度問題ではありますけど「気づき」が今までよりも割と自動的に起こっている感じです。このあたりはおいおいまた書いていきたいと思います。<br /> <br /> Mon, 01 Feb 2021 00:00:00 +0900 サハスララにエネルギーが満ちると静寂の境地に至る https://w-jp.net/2021/2251/ <br /> ここ最近、瞑想をしている時に頭頂付近に風船の膨らみのような感覚がすることが多くなりました。<br /> <br /> 背骨から伸びた先の、後頭部の方から頭頂に向かって表皮に沿って長い風船が少しづつ膨らんできている感じです。<br /> <br /> 風船ですと一気に全部膨らんでしまいますが、これは、風船というよりも水道のホースあるいは消防のグルグル巻になっている太いホースの方が近いかも知れません。端の方から少しづつ膨らむ感じです。<br /> <br /> 場所としては、頭頂より少し後ろあたりにしばらく感覚があって、瞑想をする度にそのあたりで少しづつ風船が膨らむ感じが度々しておりました。図で言いますと橙色で最初感覚があって、膨らみきった後は黄色のところまでエネルギーが満ちた感じになりました。<br /> <br /> 同様の感覚は以前は喉のあたりだったり後頭部だったり、各所で同じような膨らむ感覚があったのですが、それらは全て、エネルギーがそこにそれほど通っていなくてエネルギーが通う時に感じる感覚だったように思います。<br /> <br /> 今までも頭頂に度々同様の感覚があったのですが最近ほど頻繁ではなく、最近は後頭部とかには何も同様の感覚がありませんので、後頭部および頭の下半分には既にエネルギーが満ちたのかなと思っております。<br /> <br /> この状態で、瞑想を始めるとまだエネルギーが満ちていない頭頂のサハスララ周辺で似たように風船が膨らむ感じが最近はしておりました。<br /> <br /> そして、今までは頭頂でただ単に風船が膨らむ感じだけだったのですが、ここに来て、頭頂の全てで風船が膨らみきって、それはエネルギーが頭頂にまで満ちたということだと思いますけど、そうなると、視界が少しうっすらと全体的に光って見える、ということと、意識は静寂の状態になります。<br /> <br /> ここまで意識が満ちていなくても静寂の境地には入れておりましたが、この静寂の境地はそれはそれで味のあるもので、今までは意識がなくなる感じで静寂の境地に達しておりましたが、意識がそれほど変わることなく静寂の境地に入る、というのが違いのような気がいたします。<br /> <br /> 視界の光についても今まででも時々その光を感じておりましたが、不意に光を感じることが多く、しかも、それは時々見える、という種類のものでした。ここにきて、サハスララにまでエネルギーが満ちている時は安定して同様の光が見える気が致します。今までも、サハスララにエネルギーが通った時に一時的に光が見えていたのかもしれません。<br /> <br /> もともとヨーガではサハスララは輝いていると言っていますので、それらの記述と一致します。<br /> <br /> サハスララチャクラでは、光り輝いている。(中略)浅い精神集中の状態では、アストラル体を、現れたり消えたりする煙柱のように体験する。雑念が消え、深い精神状態の状態に入ると、アストラル体は黒色に見える。その黒色のアストラル体に、さらに精神集中を続けていると、それは光り輝くようになる。「密教ヨーガ(本山博著)」<br /> <br /> まだ完全に光に満ちたという感じでもありませんがうっすらと全体的に光を感じます。<br /> <br /> それは、最初の煙柱の状態でもやもやと見えていた光のような感覚とは違っていて、全体的に明るくなる感じですので最初は朝日を感じていたのかとも思ったのですが、どうもそうではなく光を瞑想中に感じていると判断する方が妥当に思えてきました。朝日を感じるのは以前からでしたからその感覚はありますけど、朝日にしては光の変化が速いと言いますか、見える感覚も違いますし、タイミングにしても頭頂にエネルギーが満ちて風船が膨らみきったか風船の感覚がなくなった時に光を同時に感じるので、瞑想中に見える光だと判断しました。少し前の漆黒を感じた時から進んで光り輝くようになったと言えると思います。<br /> <br /> この種の光は、ヨーガの流派によっては「見えるものは重要ではない」とか言って切り捨ててしまう団体もありますけど、私が思うにはこのような「しるし」は自分がどのあたりにいるのかを判断する上で重要ですので捨てない方がいいと思います。とは言いましてもそれはその流派の好きにすればいいお話ですから私がどうこう言っているわけではなく、その人達が好きなようにすればいいわけで、これは単なる個人の感想です。<br /> <br /> Sun, 31 Jan 2021 00:00:00 +0900 日本の敵の扱い方 https://w-jp.net/2021/2250/ <br /> この世は全て愛で何をしても良いのですから酷いことをしている人がいたとしてもそれは全て許されています。この世界は全て完璧で、何を選択しようとも、それが例え大虐殺や地球の破壊であったとしても完璧なのです・・・ というのが基本です。<br /> <br /> 宇宙の基本的な法で惑星の自由はほぼ完全に保証されていますから、惑星上で大虐殺だったり大量破壊などどんな酷いことがあったとしても基本的には惑星に生きている存在の自由が尊重されます。しかしながら、何をしてもいいわけでもありません。惑星それ自体が存続できなくなってしまうほどの大破壊、例えば強力な核爆発で地球を吹き飛ばしてしまうような状況であれば宇宙からの干渉が許されています。宇宙の法で、地球の惑星の破滅を止める権利を宇宙の管理者は所有しております。そこまで行かない範囲であれば基本的には惑星の生命体の思想・行動の自由が保証されているわけです。<br /> <br /> 瞑想をしてきて、特に創造・破壊・維持の意識が出てきた後はそのことを実際に実感できて、何をしても許してくれるこの地球が実際にあるわけですけど、そうは言いましても、身近な敵の扱い方について時にそれと矛盾する考えあるいは難しい判断をしなくてはならない時があります。<br /> <br /> 全ては完璧で全てが許されているのだから、敵がいても許さなくてはならないのか? そういう問いが生まれてきます。例えば、いま生きている日本には日本を貶めようとしている偏向報道をするマスコミがいたりしますよね。そういう人を許さなくてはいけないのか? という問いが生まれたりします。あるいは、身近に搾取してくる人がいたときに、それを許したままでいいのか、というお話があります。<br /> <br /> 一つの答えとしては、反応すらも何ら全てを許されているので、調和の取れている範疇で何をしても良い、という答えがあります。<br /> そのような搾取あるいは貶めるような行動も含めて全て自由で許されているわけですけれども、それに対する行動も自由なわけです。<br /> <br /> ですから、仕返しするのが調和であれば仕返しすればよいですし、拒否するのが調和であれば拒否すればいいわけです。<br /> <br /> ここに「自分」というものが働いている時はそれはカルマになってカルマあるいは輪廻の輪に囚われてしまいますが、カルマの輪から抜け出た人、既に意識が「全体」になっているのであれば自分の行動は何らカルマを生じさせないわけです。<br /> <br /> これは、理屈のお話ではありません。実際にそのように行動できるかどうか、というお話です。<br /> <br /> 自分の意識がどうであれ、何をしようとそれは自由なわけですから、好きなようにすればいいわけです。耐えるのが調和だと思えば耐えればいいし、仕返しするのが調和なら仕返しすればいいわけです。それはケースバイケースで、どうとでもなるわけです。行動そのものに固定的な真実があるわけではなく、その時々において真実が異なるわけです。<br /> <br /> 道徳や常識というのはまだこのレベルに達していない人にとっては有益ですけど、カルマの輪から抜け出せた人にとっては単なる指針にしか過ぎません。カルマを抜け出したならば、良いと思えることをいわゆる宇宙意識の観点で何でも実行すればいいわけです。<br /> <br /> この例の場合、反日マスコミに対する対処も宇宙意識の観点からすると割と自然に決まってきて、その反日ループから抜け出すためには「日本人が目覚めること」が絶対条件になってくるわけです。そして、日本人それぞれが目覚めた後に実際に行動することですよね。<br /> <br /> はっきり言って、ごく一部の能力者や力のある人が動くことでああいう反日マスコミや韓国総連など目立つ立場の人を排除するだけなら割と簡単なのですけど、排除したところで日本人が目覚めていないなら何度も何度も同じことをされてしまうんですよ。ですから、排除はあまり意味がありません。とことんまでやられてようやく目覚めるかどうか、ということですよね。能力者が日本人の学びの場を奪ってしまってはならないと思います。<br /> <br /> 人の命って実は高次元になれば割と簡単に操作できて、病気とか事故とか、脳卒中とか、いきなり心不全とか、最近であればコロナにかからせるとか、どうとでもできるんですよね。でも、そんなことは基本的にしないのですよ。意図的に沢山の人を殺してしまうと不自然ですし、何より、上記のように、学びをする機会を奪ってしまいますからね。今回の場合、日本人が目覚める必要があるので、日本人が目覚める機会を奪ってしまうわけです。そんな事態になるよりは、反日マスコミや反日政治家をほおっておいた方がいいわけです。<br /> <br /> それは惑星の滅亡と同じことがあって、日本が滅亡しかねないならば反日マスコミや韓国総連、あるいは反日の政治家を排除することもありますけど、そうなればまた同じような状況を一から作り直しで日本人が目覚めるのを待つことになります。それはそれで面倒くさいです。もうだめなしきい値に達するより前に日本人が目覚める方がいいと思うわけです。<br /> <br /> 人の生命というのは意外に脆いもので、排除しようと思えばいくらでも排除できますけど魂は不滅ですから再度生まれ変わって同じことを繰り返します。問題の先送りなだけなんですよね。<br /> <br /> やり方として、そのような魂を別のタイムラインに送り込んでしまうこともできますけど、それはそれで手間ですしね。どちらにせよそちらで同じようなことを繰り返します。それよりも、お互いに学んでくれればそれでクリアなんですけどね。<br /> <br /> 本当に排除しようと思ったら、宇宙意識に意図して「いなくなってください(方法は任せます)」と指示するだけで、脳卒中なりスキャンダルなり宇宙が勝手に意図してくれて排除してくれます。でも、上に書いたようにまた同じ状況が生まれてきますけどね。日本人が目覚める、あるいは、言い方を変えれば「日本人が学ぶまで」、そのレッスンは繰り返されるわけですよね。<br /> <br /> 他人に自分のエネルギーを渡さない、という日本人のレッスンが終了したら反日マスコミも反日政治家の問題もすぐに解消すると思いますよ。だって、投票でそういう政治家が当選しなくなりますからすぐいなくなるでしょうし、そうなれば反日マスコミも政治の側から排除が進みます。官僚だって同じことですよ。<br /> <br /> 一部のメンバーが頑張って反日メンバーを排除することもできますけど、かなり大変ですし、根本的治療ではありませんしね。それより、日本人が目覚めてくれた方がよっぽど良いわけです。<br /> <br /> Thu, 28 Jan 2021 00:00:00 +0900 自動的な観照で心を観察する瞑想 https://w-jp.net/2021/2249/ <br /> 観照自体は静寂の境地に度々達した後に起こっておりましたが、最近の瞑想では、静寂の境地の前であっても観照が自動的に起こるようになってきました。<br /> <br /> 静寂の境地はいわゆるシネーの境地であり、ヨーガスートラにおけるシャマタ(止)であり、心が静止した状態であると言えます。<br /> <br /> 今回の観照は、心の静止の後ではなく、心の動きそのものを観察するという働きを観照と呼んでいます。<br /> <br /> ですから、必ずしもシャマタ(止)をしているわけではなく、むしろ心は自由にさせていて、それでも観照が続いています。<br /> <br /> 心の中に雑念や考えが浮かんできてもそれをただ観察しています。その観察の中に取り込まれることなしに、少し宙に浮いているかのごとく少し離れた状態でいます。<br /> <br /> 今までは、心の中に雑念や考えが浮かんでくると、足元が沼地あるいは誰かが足を引っ張るかのように地面の中に引きずり込まれて雑念や考えだけが意識にあるような状態になっておりましたが、観照の状態においては、自分の心が少し地面から浮いていて、とは言いましてもそれほど高くは浮いていないので多少は引っ張られることもまだあるのですが、基本的には浮いているので雑念や考えが現れてもそれを見続けることができます。<br /> <br /> これは、以前は静寂の境地(シャマタ、シネーの境地)に達した後にこのような状態になっておりました。いわゆるヴィパッサナー状態とも言えます。<br /> <br /> 例えば、朝に瞑想をして、早くて30分、あるいは1時間とか1時間半とか瞑想をした後に静寂の境地に達して静寂の境地に至りヴィパッサナー状態になっておりました。<br /> <br /> しかし、最近は、瞑想を始めるかあるいは座る前であってもある程度の観照が動いていて、特に座って瞑想をしているときには観照によって上記のように心の状態をそのまま観察できています。<br /> <br /> それは、「自動的」な観照である、とも言えます。<br /> <br /> これが自動的かどうかはかなり大きな違いで、意思を働かせていなくては起こらない観照と、まだそこそこであったとしても自動的に働く観照とではかなりの違いがあるように思われます。<br /> <br /> 観照の感覚自体は前から起きていたように思いますのでそれ自体は珍しくはないのですが、昔であればあるほどその観照が日常生活で続く時間が短く、今は、その持続時間が伸びてきている、とも言えます。これがまだ24時間にまでは達していないですけど、いわゆる悟りを得た方々は眠っている間も意識が継続していると言いますので、観照の継続は悟りに必要な条件のように思います。<br /> <br /> これは別の解釈をすると、身口意のうち意識(心)の観察であると言えます。身に属する五感の観察は簡単で、最初は体の観察から初めます。次にエネルギー的な観察をします。エネルギーは五感よりもより微細です。もっと微細なのは心の動きです。これら3つすべてを観察するのが観照なのだと思います。<br /> <br /> Wed, 27 Jan 2021 00:00:00 +0900 体の感覚を観察すればヴィパッサナー瞑想に至るという誤解 https://w-jp.net/2021/2247/ <br /> ヴィパッサナー瞑想状態というのは心の本性(いわゆるリクパ)が五感や心を観察している状態で、ヴィパッサナー瞑想状態であれば体の感覚の観察が容易にできますけど、体の感覚を観察する瞑想を行ってもそれがそのままヴィパッサナー瞑想状態ではありません。<br /> <br /> 後者は、一部の流派のやり方としてのヴィパッサナー瞑想が体の感覚を観察する、というだけのお話です。<br /> <br /> ヴィパッサナー瞑想というのは瞑想の1つのやり方で、ヴィパッサナーとは観察のことですから、瞑想の手法としては瞑想状態の1つの要素です。それをそのまま名前にしているだけのことで、ヴィパッサナー状態と流派としてのヴィパッサナー瞑想の手法を分けて考えた方がいいと思います。体の感覚を観察する瞑想は瞑想手法に単にヴィパッサナーと名前がついているだけであって、瞑想で達することができる認識としてのヴィパッサナーではないわけです。<br /> <br /> 瞑想を続けてある程度の認識に至った人がヴィパッサナーの状態に至って、その時は体の感覚も容易に観察できる、というお話が最初にあって、それを真似して瞑想手法を作り上げたのかな、とも推測してしまいます。瞑想初心者のうちから体の感覚の観察を真似するのは難易度が高いと私なんかは思いますけど、流派によってはそのような瞑想を使って修行してそれなりの境地に達することができているようですから、私はもっと違った道の方がいいとは思いますけどその流派がそう教えていてそれが正しいと思うのならそうしたらいいと思います。<br /> <br /> これはもともとある程度の素地があってヴィパッサナー状態がある程度わかっている人には有効で、そういう人にはちょっと教えれば「ああ、そういうことか」と「気付いて」あるいは「(瞑想状態を)思い出して」、すぐにヴィパッサナー状態に達することができます。<br /> <br /> これは、スピリチュアルで「気付くだけなんですよ」「思い出すだけなんですよ」とか言っていることが該当するような気がしますけど、素地がなかったり、素地があったとしても社会生活でひどく疲れている人にはそう言ったところでなかなか到達できない境地だとは思います。気付けばいいだけと言われて「そうか」と思ってすぐにそうなれる人なんてそうそういないですよ。なんとなくイメージで想像してそんな気になるのは簡単ですけど。そのように、想像で固めてしまって自分はわかっていると思いこんでしまう方もそれなりにいらっしゃいますので、簡単だと思わせてしまうのも特に罪作りだったりします。確かに、分かる人にとっては本当に気付くだけあるいは思い出すだけだったりしますけどね... それはケースバイケースです。<br /> <br /> 本当にすぐに気付ける人はそれはそれでいいんですけど、多くの人はそうではないと思います。すぐには到達できない人の方が多いと思います。<br /> <br /> そして、素質のある人であってもよく誤解するのが「体の観察を観察すればヴィパッサナー状態に至る(体の観察をするというアクションに対してヴィパッサナーという結果が生じる)」という誤解です。そうではなくて、「ヴィパッサナー状態であれば体の状態が観察できる」というのが事実です。これは、似ているようでいて違います。ヴィパッサナー状態になっていなくて体の感覚を観察したところで何も起こりません。何も起こらずに瞑想を頑張り続けて、瞑想とはそういうものだと誤解してしまうことすらあります。誤解があったとしてもふとしたことで本物の境地に至ることもあるのでなかなか全てそうだとは言い切れないのですが、基本的にはそうです。<br /> <br /> ヴィパッサナー状態というのは五感を超えた意識(いわゆるリクパ)が五感や心の動きを観察しているという状態ですので、ここでの誤解は、心が五感を観察すればヴィパッサナーだと思いこんでいる点にあるわけです。<br /> <br /> ■ヴィパッサナー状態 → リクパが五感や心を観察している。よって、五感(皮膚)の感覚も観察できている。心の集中は不要だが、気づきとしての集中(のようなもの)は必要。気づきを高めた状態、あるいは、気付きが高まった状態、とも言えます(主体がどこかによって言い方が違うだけで同じことを意味しています)。<br /> ■手法としてのヴィパッサナー瞑想 → 心が五感(感覚)を観察している。心の集中が必要。<br /> <br /> ですから、全く別物なのに、あたかも、皮膚を観察すればヴィパッサナーだ、と思っている誤解が多くあるように思うわけです。<br /> <br /> 個人的に思うのは、最初の段階では皮膚の観察とかよりもとにかく集中瞑想がいいと思いますけどね。ただ、教えてもらっている流派がヴィパッサナー方式ならそれに従うのも個人の自由だと思います。<br /> <br /> ヴィパッサナーの流派は、集中も「ある程度」必要、とか説明しますけど、ある程度どころか、かなりのところまで集中が重要だと思いますけどね。これは、個人の感想ですけどね。<br /> <br /> Mon, 25 Jan 2021 00:00:00 +0900 シャマタ(止)をしてからヴィパッサナーに至る https://w-jp.net/2021/2246/ <br /> 先日のお話を別の面から見ますと、最初は身口意(しんくい)で次にリクパのあるサマーディ(不二の意識)に至ります。別の言い方をしますと、静寂の境地(シネー)の次にサマーディ(リクパのある不二の意識)に至ります。<br /> <br /> 基本的にはこの順番になるのが多いとは思いますが、理屈としては、静寂の境地(シネー)なしにいきなりサマーディ(リクパのある不二の意識)に直接入ることも可能だとは思います。<br /> <br /> しかしながら、ステップを踏んだ方が安定すると思います。再現性がある、とでも言いましょうか。<br /> <br /> もともとリクパの不二の意識がそれなりに働いている人であれば静寂の境地(シネー)なしに直接サマーディに入れると思います。そういう人はいるでしょうし、特に子供の場合はまだこの世の雑多なまつわりに絡め取られておりませんからそういうこともあるでしょうし、大人であってもそういう人はいるかと思います。<br /> <br /> とは言いましても、伝統的な瞑想においては最初にシャマタ(止)をします。<br /> <br /> そして、やがてリクパの不二の意識が働きだしたら実際のところシャマタ(止)はそれほど必要ではない... と言うと語弊があるかもしれませんけど、シャマタ自身が最終目的ではなくてシャマタ(止)は一つのステップですから、リクパに至るためのステップなわけです。<br /> <br /> リクパの意識というのは別の言い方をするとヴィパッサナーで、雑念や体の感覚など身口意の全てを観察する意識がリクパなわけです。その中で、特に意識を静止させて静寂の意識に入ることはそれが最終目的ではないにせよリクパの意識を目覚めさせるために有用なわけです。普通の人の場合はリクパの意識は眠っていて、それは仏教では「無知」とか言われている状態ですけど、そのリクパの意識を働かせるためにはシャマタ(止)などが有用なわけです。<br /> <br /> リクパが働き出せば雑念や考えが出てきてもそれ自体をありのままみ見ることができるようになってきますから、意識的にシャマタ(止)をする必要がなくなってくるわけです。<br /> <br /> このあたりは前にも似たような分析をしたことがありますけど、その時よりクリアにこのあたりを理解できるようになった気が致します。<br /> <br /> Sat, 23 Jan 2021 00:00:00 +0900 身口意とエネルギーと意思 https://w-jp.net/2021/2245/ <br /> 身口意(しんくい)とは仏教用語で、人の行為である身業・口業・意業の3業(さんごう)がそれぞれ行動・言葉・意思に対応していると言われています。そして、密教においてはこれら3つを一致させるために修行していると言います。<br /> <br /> まあ、実際のところ私は仏教の教徒ではありませんので仏教的な解説はこのくらいにしておきますが、私の最近の認識とこれらが重なってきましたので少し記録として書いておきます。<br /> <br /> 密教あるいはチベット系の書物を読むとこれら身口意の解釈が少し異なっていることに気が付きます。<br /> <br /> 身→体<br /> 口→エネルギー<br /> 意→意識<br /> <br /> チベット仏教では、どのレベルの教えにおいても、生きものは、身、口、意の三要素からなっていると考える。この三者の完璧な境地は、オーム、アー、フーム、というチベットの音節文字によって、それぞれ象徴されている。身というのは、その生きものの物質的な次元すべてを指す。これに対して口は、サンスクリットではプラーナ、チベット語ではルン(rlung)と呼ばれる。体に生命力を与えるエネルギーであり、その循環は呼吸と結びついている。意は、理性的思考にもとづく表層的な意識と、心の本然の両方を含む。心の本然は、理性を超えているのである。「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」<br /> <br /> 日本の仏教の身口意の説明より、このチベット仏教的な解釈の方がしっくりきます。<br /> <br /> 仏教では、個人はからだ、言葉、心(身、口、意)(しん、く、い)という三つの側面から成り立っていると考える。相対的な状態(世俗諦)は、この三つの側面から作り上げており、時間の限界と、主体/客体の分裂の中にある。それに対して、時間と二元論の彼岸にあるものは、<絶対的な真理>(勝義諦、しょうぎたい)と呼ばれる。この言葉は、身、口、意の究極かつ本来の境地を指している。「ゾクチェンの教え(ナムカイノルブ 著)」<br /> <br /> ここでポイントなのは、身口意は二元論のお話でサマーディにまだ達していない状態で迷いがあり輪廻転生やカルマに囚われており、一方、サマーディ状態において身口意はなくなるわけではないですけど身口意の顕現をありのままに見られる境地に達して迷いや輪廻転生やカルマに囚われなくなるということです。それらがなくなるわけではなく、身口意は顕現として現れ続けるのですが、それらに限界づけられることがなくなるということです。<br /> <br /> <br /> これらは、先日のシネーとラントンにそれぞれ当てはめることができるように思います。<br /> <br /> (1) シネー (ネワとも呼ぶ) 寂静の境地(これが意に相当)<br /> (2) ラントン(ミヨーワとも呼ぶ) より大いなるヴィジョンないし洞察 (これは口=エネルギーに相当)<br />  寂静の境地は溶解し、あるいは「目覚めさせられる」。<br /> (3) ニメ(ニャムニーとも呼ぶ) 不二の境地<br />  シネーとラントンは、ともに生じる。二元論の彼岸に至る。<br /> (4) ルンドゥップ あるがままで完全な境地<br />  あらゆる行為において、不二の三昧が継続している。<br /> 「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」<br /> <br /> とすると、先日の解釈に加えて、もう1つの要素がこれに絡んでいることに気が付きます。<br /> <br /> サマーディ(三昧)の意識にはゾクチェンでいうとろろの「リクパ」が必要で、リクパは以前にもそれなりに出てきていたように思いますが、今から思えば、エネルギーの顕現があってこそようやくリクパが継続的に持続できるように思います。<br /> <br /> ですから上記の順番は正しくて、ニメの不二の境地(=サマーディ)はそれ以前にも現れてきますが基本的にはこの順番なのかなと思います。私の場合、以下の順番だったように思います。<br /> <br /> (1) シネー(→ 静寂の境地、意に相当。クンダリーニ覚醒後マニプラ優勢になり、アナハタに至り、アジナに至り、静寂の境地に至る。ここまでが初学者の段階)<br /> (2) ニメ(不二の境地)が度々生じるが長く持続できない状態。この状態でもリクパがそれなりに働いている。<br /> (3) ラントン(目覚め)(→ 創造・破壊・維持の意識。口=エネルギーに相当)<br /> (4) ニメ(不二の境地)リクパが少しづつ安定しつつある状態。時間と二元論の彼岸にあるもの。<絶対的な真理>(勝義諦、しょうぎたい)に相当。サマーディ。<br /> <br /> サマーディの状態は度々生じていたように思います。はっきりした目覚めだったというのはその時々においてはそれなりに大きな経験がそれぞれあったように思いますが、基本的には段階的にサマーディが育ってきているような気が致します。<br /> <br /> サマーディの最初は、カニカ・サマーディとも呼ばれるような視界がスローモーションで認識される状態が最初に現れてきたような気が致します。その後、それは少しづつ深まったり少し戻ったりしつつ全体的には深まってゆきました。これらの状態がニメ(不二の境地)の最初の状態だったように思います。<br /> <br /> その後、 創造・破壊・維持の意識が出てきたことで新たなエネルギーかつ意識と接触し、それと一体になり、ラントン(目覚め)に達したように思います。<br /> <br /> そうして、ラントンに達するとすぐにニメ(不二の意識)が安定してきて、割と日常生活の中でもそれなりにニメ(不二の意識、サマーディ)が継続的にできてきたような気が致します。<br /> <br /> 私はいまはこの段階ですね。きっと。<br /> <br /> 特別に何かをしなくても日常が瞑想になって修行になるのが理想ですけど、そうは完璧にはいかないので瞑想やヨーガもしている感じです。<br /> <br /> 今後、これが更に安定してきて日常生活において常にサマーディが維持することができるようになったらルンドゥップ (あるがままで完全な境地)に至るのかな、と思っております。<br /> <br /> Sat, 23 Jan 2021 00:00:00 +0900 背骨が風船のように膨らむ感覚がした https://w-jp.net/2021/2244/ <br /> 本日、瞑想をしていたところ背骨の下の方、仙骨の近くで「ぷくっ」と圧力が高まって、風船が膨らむように何かが広がりました。<br /> <br /> そうこうしていると、その感覚は背骨を通って少しづつ上がっていって、胸のあたりに達したら一旦感覚はよくわからなくなりましたけど、後頭部のあたりまで繋がっていった気がします。<br /> <br /> 元々、イダとピンガラで光が上ったりしたことはありましたし、その後、オーラがマニプラ優勢になって、アナハタ優勢になったりはしましたし、オーラ的にはアジナ優勢になったりもしましたけど、スシュムナ(背骨に沿ったエネルギールート、ナディの主要なもの)に沿った体験としてはそれほどなかったような気が致します。<br /> <br /> 小周天をしたときに背骨沿いに似たような感覚がしたことは度々ありましたけど、それはかなり昔のことで、もうそれはしばらく忘れていました。<br /> <br /> オーラ的にはその後、胸の奥から創造・破壊・維持の意識が出てきたことによって変化があって、それはその後、頭の方にまで広がりはしましたけど、背骨沿いということではなかった気が致します。<br /> <br /> 背骨沿いの感覚としてはこれは久々で、ムーラダーラの会陰がスタートではなくてもう少し上の仙骨あたりから感覚がスタートして、そこから少なくとも胸のアナハタのあたりまでは繋がった感じが致します。その上は既に繋がっている気も致しますので、スワディスタナとアナハタの間がしっかりと繋がった、ということかもしれません。<br /> <br /> ヨーガ的に言うと背骨沿いにはエネルギーのルートがいくつかあって、左右がイダとピンガラ、真ん中にスシュムナがあります。図は「Meditation and Mantra (Swami Vishnu-Devananda著)」より。<br /> <br /> 同書ではスシュムナーの他に「Chitra Nadi」とか「Brahma Nadi」とか書いてありますけど、ちょっと違いはよく分かりません。<br /> <br /> Thu, 21 Jan 2021 00:00:00 +0900 善悪の感覚がなくなる https://w-jp.net/2021/2243/ <br /> 創造・破壊・維持の意識が出てきた後、ネガティブなものに影響されにくくなったのと同時に、善悪の意識がほとんどなくなりました。<br /> <br /> 巨悪を見てもなんにも感じません。<br /> <br /> 最初、これは鈍くなったのかな? と勘ぐったりもしてみましたが、おそらくは自分の方がエネルギーが高くなったので影響されなくなってきたのかな、と解釈しています。<br /> <br /> スピリチュアルとかで善悪はないということはよく言われていたりもしますけど、それは理屈でどうこう説明されていたりもしますけど実際は説明はあんまり関係なくて、本当にそのまま善悪はなくて全て自由なんですよね。<br /> <br /> かと言って、何でも好きなことをしてしまえば良いとは思わないです。<br /> <br /> そこは、創造・破壊・維持の意識が働いていますから、例えば悪だけをするなんてことはないですし、逆に、善のように見えることだけをすることもなくて、と同時に、現状維持だけを続けるということもないです。<br /> <br /> 何でも好き勝手にするということではなくて、言葉通りに、善悪の感覚はないということです。<br /> <br /> この世の中には悪の塊のような存在も実際はいるようにもかつては思えていたわけですけれども、それすらも、今となっては善悪の感覚がないので、もはやよく分かりません。<br /> <br /> 善悪がわからないとは言っても、自分に危害を加えてくる人や存在に対しては適切に対処しますから、悪のようなものに対して何もしないというわけではありません。逆に、善に対しての対処もあるわけで、善のように見えても実際は偏っている場合もあるように思われるわけです。善悪の判断はなくなっても、行動は残るわけですよね。通り一遍の反応をするわけではないです。<br /> <br /> これは、道徳のようなお話ではないです。道徳のお話はそれは正しいと思います。そういうことではなくて、存在としての善と悪のお話です。<br /> <br /> 善悪の判断があった頃はステレオタイプで良い悪いが判断されて、ある意味、善というレッテルを張っておけば何でも許してしまっていた面がありましたけど、善悪がよくわからなくなったが故に、物事はありのままに見られるようになったように思います。<br /> <br /> 道徳としての善悪はありますけど、心の奥底では善悪ではよくわからなくなってしまいました。善なのか悪なのかはよくわからないですし、他人の行動に対してもそうですし、自分の行動にしてもそうです。<br /> <br /> 道徳として、例えば、人を殺してはいけないだとか盗んだらいけない、というお話はもちろん正しいです。そういった善悪のお話は正しいのですが、心の奥底で、それを超える感覚が常時働いていて、善悪を超えたところで、何が悪いのかよくわからなくなったわけです。<br /> <br /> それは、創造・破壊・維持の意識の一つの面で、その意識状態においては善悪はないわけです。何でも創造して、何でも破壊して、何でも維持しますから、何が良いか悪いのか、そのような判断はそこにはないということです。<br /> <br /> これは、理屈で考えて「善悪はないですよね」とかいう頭でのお話ではなくて、全く文字通りに善悪の判断がなくなってしまった、というシンプルなお話です。<br /> <br /> Thu, 21 Jan 2021 00:00:00 +0900 ラントンからニメへ https://w-jp.net/2021/2242/ <br /> まず静寂の境地(ゾクチェンでのシネーの境地)に至り、次に静寂の境地に浸ることを許さない奥深い意識が出てきて、それは創造・破壊・維持の意識(ゾクチェンでのラントン)となって現れました。<br /> <br /> その後、静寂の境地と創造・破壊・維持の意識が共存する状態(ゾクチェンにおけるニメ)に至りました。<br /> <br /> これらは、ぞれぞれゾクチェンの以下の状態に対応しているように思います。<br /> <br /> (1) シネー (ネワとも呼ぶ) 寂静の境地(→ 静寂の境地、ヨーガスートラのシャマタ(止)に相当)<br />  対象を決め、あるいは対象なしで、意識と視線を固定し、寂静の境地に入っていく。この状態が自然になり、さらに確固としたものになる。<br /> (2) ラントン(ミヨーワとも呼ぶ) より大いなるヴィジョンないし洞察(→ 創造・破壊・維持の意識)<br />  寂静の境地は溶解し、あるいは「目覚めさせられる」。<br /> (3) ニメ(ニャムニーとも呼ぶ) 不二の境地(→ 静寂の境地と創造・破壊・維持の意識が共存する状態)<br />  シネーとラントンは、ともに生じる。二元論の彼岸に至る。<br /> (4) ルンドゥップ あるがままで完全な境地<br />  あらゆる行為において、不二の三昧が継続している。<br /> 「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」<br /> <br /> 実際のところ、私の感じた静寂の境地と創造・破壊・維持の意識が共存する状態が不二の境地(一味の境地)だというのはよく分かりません。<br /> <br /> まあ、確かに、その状態においては分離はなくて、言われてみればそれは不二と言えばそうなのかもしれないでしょうけど、これはあくまでも説明のためのだけのお話のような気も致します。「二元論の彼岸」とか言われても、ちょっと回りくどい印象を受けます。<br /> <br /> この階梯を元にしますと、今後はこれら2つの状態を共存させつつ不二の意識、要はサマーディ(三昧)をし続ければ良い、ということになります。<br /> <br /> ゾクチェンにおける修行はシンプルで要は「常にサマーディを保つこと」なわけですけれども、そうは言いましてもすぐにそのように常にサマーディを保つのは難しくて、それ故にこのような階梯が存在しているように思います。<br /> <br /> 私の場合、これらのステップを踏んできて、不二の意識の入り口に達したと解釈することができます。それは割と日常生活の中でも続いていますけど完全ではありませんのでルンドゥップにはまだ至っていなくて、瞑想状態をなるべく維持しようと心がけているという意味においては私はニメの段階にいるのだと判断できます。<br /> <br /> Wed, 20 Jan 2021 00:00:00 +0900 この体が光でできていることを実感する https://w-jp.net/2021/2241/ <br /> 今まで、スピリチュアルで「貴方は光なのです」とか言われても、そうかもしれないとは思っていても、深く確証が持てていたわけではありませんでした。<br /> <br /> しかし、ここにきて、瞑想をしていたらふと「あれ。私の体って光みたいだ」と、急に実感が湧いてきました。<br /> 光が視覚で見えているというわけではなくて、ただ単に、私の体が光だと感じる、というお話です。<br /> <br /> まず、最近の瞑想では身体がスカスカの状態で、少し前までは単に「体がなくなったみたい」な感じがしていただけでしたが、ここにきて、単に体がなくなった感じだけではなく、それが光な気がしてきました。<br /> <br /> まだ完全に光になっているわけではない感じではありますがそれなりに光で、「光の存在」と言われたら「確かにそうかも」という感じがしてきました。<br /> <br /> これは、誤解があるかもしれませんけど、善と悪というような二元論のお話ではなくて、おそらくはこの世の全て、善悪とか関係なしに全てが光なのかな、と思うわけです。<br /> <br /> 流派によっては「空」というのかも知れません。<br /> <br /> この世は全てのものが「光」でできていて、言い換えれば「空」であって、光あるいは空が輝いているあるいは現れている、とも言えるわけです。光であれば輝いていると言えるでしょうし、空であれば現れている、ということです。<br /> <br /> これは、「私の体は光だと想像する」ということではありません。そのような「想像」はしていなくて、単に、ふと「あれっ、光だ」と気付いただけのお話です。<br /> <br /> こういうとまた語弊があって、それじゃ「気付くことが重要」なのかというと、そういうわけでもありません。流派によっては「気付くことが重要」とか言っている流派もありますけど、これに関しては「気付くことが重要」というわけではなく、単に、体が光だと認識し始めたというだけのお話です。<br /> <br /> 瞑想やヴィパッサナー的な気付きのお話と、ここでいう「光だと気付いた」というお話は、別のお話です。<br /> <br /> 瞑想ではサマーディに至るための手法として気づきの瞑想とかをしたりしますけど、それは手法のお話で、ここで言っている「光だと気付いた」というのは、あくまでも結果のお話です。単に「気付いた」と言っても、瞑想での手法としての気付きの瞑想手法と、ここで言っている「光だと気付いた」というお話とは別なのです。<br /> <br /> ですから、「私が光だと気付く瞑想」なんてする必要がないですし、そんなのはできないと思います。いくら「私は光だ、光だ」と思ってみても光だとは思えないでしょうし、思う必要もないと思います。<br /> <br /> ただ単に、急に「あれ、光だった」と気付く地点が来るというだけのお話です。<br /> <br /> 同様に、「私が光だと想像する瞑想」なんてのも不要かなと思います。ここで言っている不要とは、文字通り、光だと想像する瞑想が不要と言っているのであって、天から光を降ろすようなエネルギーワークは有用だと思います。あくまでも、ここで言っている意味における「光だと気付くことを想像する瞑想」は不要だと言っているだけで、光を満たすと言いつつも要は(地あるいは天の)エネルギーを増やすようなエネルギーワークについては有用だと思いますから、そこは誤解して頂きたくないと思います。不要とは言っても、ここでは不要と言っているだけであって、例えば密教では光やマンダラを想像することで修行したりしますし、その修業はそれはそれで別のお話で、その流派の修業を否定しているわけではありませんし、そういった修行も有用だと思います。ここでは不要と思える、と言っているだけです。そう言っておかないと誤解が生じてしまうかもしれませんから。<br /> <br /> Wed, 20 Jan 2021 00:00:00 +0900 教皇は金の亡者だったが枢機卿には純粋な人がいた https://w-jp.net/2021/2239/ <br /> ・・・瞑想中に見えてきたバチカンのお話です。本当のことかどうかはわかりません。<br /> <br /> 織田信長はバチカンに行った、というお話の続きですけど、そこで、教皇だけでなく多くの枢機卿とも知り合いになるわけですね。<br /> <br /> とにかく教皇は金の亡者で、教皇になりたければもっともっと金をよこせ、という感じでしたね。<br /> <br /> しかし、枢機卿には純粋で良い心をもった人がいて、よく話をしていたりしました。<br /> <br /> 世間でバチカンは悪の組織だとかイエスズ会は世界征服を目論んでいるとかもっと散々に言われていますけど、確かに金の亡者で世界征服という面もあるにはありますけど、純粋に神のことを願って世界平和を祈っている方も大勢いらっしゃいました。<br /> <br /> とある、名前は忘れましたけど、とてもジェントルマンな紳士がいて、その人とはよく話をしていましたね。<br /> <br /> 聖書に基づいたキリスト教の解釈とか、教皇のお考えとか、これからキリスト教がどのように世界平和に貢献してゆくのか、という話をいろいろとしたように思います。<br /> <br /> その時の聖書はラテン語だったかと思いますが自分は読めませんでしたから訳者に頼ったりもしましたが、少しづつラテン語を勉強していました。とは言いましてもアルファベットを読むのは大変で、なかなか覚えられなかった気がしますね。さすがに年をとってからアルファベットでラテン語の学習というのはきついものがあります。<br /> <br /> 最後、そろそろ寿命だという頃、持ってきていた財産をどうしようかと決めかねていて、もともとはバチカンに寄付しようと思っていたのですが、そのように教皇が金の亡者だったので最後まで自分に忠実に使えてくれた黒人に全部あげることにしましたね。<br /> <br /> その黒人はよくわからず書類にサインをして手続きをしたのですが、バチカンではそのような書類の手続きはしっかりしていましたね。ルールを破って財産を奪うとか、そういうことはなかったように思います。<br /> <br /> 信長が死んでから、あまり理解していなかった黒人はその財産が自分のものになったということを理解して、驚きと共にかなり喜んでいましたね。<br /> <br /> まあ、そういうご褒美はたまにはあってもいいですね。<br /> <br /> 黒人も、最初は奴隷で日本に連れてこられて、信長に気に入られて、最後はバチカンまでお供をして、お疲れだったでしょう。<br /> <br /> しかも、バチカンでは1日中ずっと財宝を守って警備をしていたわけですし、ローマは日本より寒いので、特に冬は冷えて寒がっていました。そのような苦労も少しは報われたと言ってもよいかもしれません。<br /> <br /> その黒人が死んだあとは財産はバチカン所有になったようですが、しばらくの時を裕福に暮らすことができて、ほんのささやかなお話ではありますけど、良かったように思います。<br /> <br /> Mon, 18 Jan 2021 00:00:00 +0900 トラウマの一層の解消がなされる https://w-jp.net/2021/2238/ <br /> 創造・破壊・維持のエネルギーが体に満ち始めてから、トラウマが一段階急に解消され、今までよりも一層、影響されにくくなったように思います。<br /> <br /> 今までもトラウマは段階的に解消されてきて、それでもちょっとは残っていたり急にトラウマに数秒とか数十秒とか囚われたりすることもまだあるにはありましたけど、ここに来て、ようやく本格的に最後に残っているトラウマを解消できてきた気が致します。<br /> <br /> 自分の体の中を眺めてみますと、各所に「銃弾の欠片」のような金属片あるいは砕けたクリスタルの塊みたいなものが見えて、ちょっと大きめのが1つまだあるようには思いますけど、それでも、大部分はトラウマが一気に解消できてきた気が致します。<br /> <br /> この創造・破壊・維持のエネルギーは自動的な働きを持っていて、雑念などを自動的に洗い流す効果がそれなりにあるようです。それでもまだ瞑想で強化する必要があるにはある感じではありますけど、このエネルギーが胸の奥から湧き出てきていて、そのエネルギーによって割と自動的に雑念およびトラウマを溶かしていっている印象があります。<br /> <br /> 今まではトラウマに襲われることもなくはなくて、どこか「気が抜けない」感じがありましたけど、このエネルギーが出てきた今となっては、それほどトラウマは怖くなくなりました。トラウマが出てきても今までよりも「半透明」なトラウマで、その半透明なトラウマが出てきても怖くなく、完全に囚われてしまうといったことも今のところ一度もなく、疲れている時はトラウマに影響されやすくなる気もしますが、基本的にはトラウマは自動的にすぐに解消されるようになってきています。<br /> <br /> この状態であれば細かなトラウマはむしろ早く出てきてくれた方がよくて、どんどん解消して行きたい感じですね。<br /> <br /> スピリチュアルで「トラウマを出して解消しましょう」みたいなお話がありますけど、まずその前提としてエネルギーを高めないとトラウマを出したところでうまく扱えずに囚われてしまったりするのかなとも思います。<br /> <br /> Sun, 17 Jan 2021 00:00:00 +0900 人混みの中で他者のエネルギーに左右されにくくなった https://w-jp.net/2021/2236/ <br /> 創造・破壊・維持のエネルギーが体に満ち始めてから、人混みの中に行っても他人のエネルギーに左右されにくくなりました。<br /> <br /> 遥か昔を思い返してみれば、人混みの中に行くだけでぐったりと疲れたり、何かに取り憑かれたりするようなことも多々ありました。<br /> <br /> 街を歩いていると不意に疲れてしまい、瞑想で探ってみると体のオーラに取り憑いているエネルギー体がいた、なんてことはしょっちゅうでした。その度に両肩に刺さっていた見えないものを引き抜くとか、あるいは、エーテルコードを切るみたいなこともよくしていました。そうして変な意識と繋がらないようにメンテナンスしてきたわけですよね。<br /> <br /> ですけど、この新しい状態になってから半月くらいしか経っていないのでまだわかりませんけど、今のところは昔のような変なことが少なくて、そういった調子が悪くなることはゼロではありませんけど随分と昔より他者のエネルギー体に左右されることが少なくなった気が致します。<br /> <br /> これは、自分が強くなった、と言えばそうなのでしょうけど、強くなったというよりも、自分に取り付いてきたら胸の奥の創造・破壊・維持のエネルギーにそのまま取り込まれてしまって根源へと返ってゆくので私に取り付いたら次第に分解されてゆくのかな、という気が致します。<br /> <br /> かと言って、めちゃくちゃ大勢に取り憑かれたらきっと調子が悪くなったりするのでしょうけど、一定のスピードで自動的に自分の中の不安定な感覚や雑念、あるいは取り付いてきた意識体などがほぼフルオートで勝手に胸のアナハタで浄化されていきますので、ある程度はそれで対処できている感じです。<br /> <br /> 基本はそうしてフルオートで対処して、それに加えて瞑想できっちりと整える、という感じですね。<br /> <br /> そうすることで、以前より他者のエネルギーを受け取った時や、意識体と触れた時、あるいは他者の考えた想念を受け取った時などの対処が随分とうまくできてきた気が致します。<br /> <br /> それでも、多少は不安定になることがあって、他者の不快な思いを受け取ったり、トラウマを思い出したりしてふらつくこともありますけど、以前と比べれば割とよく対処できている気が致します。<br /> <br /> Tue, 12 Jan 2021 00:00:00 +0900 眉間と眉毛の近くまで創造・破壊・維持のエネルギーが流れ込む https://w-jp.net/2021/2235/ <br /> 瞑想をしていたところ、不意に眉間の少し奥にエネルギーの流れを感じました。<br /> <br /> それはまるで、風船が膨らむような、あるいは、柔らかいホースがぺしゃんこになっていたところに水が来てホースが膨らみ始めるような、それとも、水が通っていなかった乾いた水路に水が来て少しづつ満たされてゆくような、そのような感覚がしました。<br /> <br /> 元々、最近の瞑想で後頭部のあたりにまで創造・破壊・維持の意識が来ていて、そこまではエネルギーの凝縮したような感覚がしておりました。<br /> <br /> 後頭部で感じていたそのエネルギーが、眉間の少し奥の方に向かって斜め上に風船が膨らむかのように押し寄せて行ったのです。感覚があるのは眉間の奥で、その少し後頭部よりから眉間の方に、斜め上に向かってエネルギーが押し寄せて行ったのです。<br /> <br /> それは30秒か数分のことだったかと思います。<br /> <br /> 少しづつエネルギーが眉間の少し奥にまで入ってきて、やがて、その同じエネルギーの圧力が高まるにつれて眉毛に近いところまでエネルギーで満たされるようになりました。<br /> <br /> 以前は、深呼吸するだけでエネルギーが鼻頭から入ってリラックスするというような感じで鼻頭にエネルギーの通りを感じていたわけですが、かと言って今日のように眉間のあたりにエネルギーの束を感じていたわけではなく、ただ単に鼻頭にエネルギーが通っていた、というお話でした。鼻頭あるいは眉間のあたりを中心にして、エネルギーが全方向360度から集まる、という感じでした。しかし、エネルギーの凝縮は感じていませんでした。<br /> <br /> 今回は、その呼吸が直接的なエネルギー源ではないようで、エネルギーはアナハタおよび後頭部のあたりに満ちている創造・破壊・維持のエネルギーが眉間にまで流れ込んできた、という感じです。<br /> <br /> そして、呼吸をしてエネルギーを通すこともできて、そうして呼吸で呼び込むエネルギーは少し質が異なる気が致しますが、違っていたとしても、相乗効果というものは多少はあるようで、呼吸でエネルギーを通わせているとエネルギーが高まるのを感じます。<br /> <br /> 本当にそうかはわかりませんが、呼吸で取り込んでいるのはプラーナ的なエネルギーで、アナハタおよび後頭部から眉間に上がっていったエネルギーの方は創造・維持・破壊のエネルギーです。その両者が眉間で合わさっているようにも感じます。<br /> <br /> これがそのままアジナ・チャクラが開いたことにはならないとは思いますけど、少なくともエネルギー的な変化が起きたように思います。<br /> <br /> 伝統的にヨーガではアジナ・チャクラの中にルドラ・グランティがあると言われています。それはエネルギー的なブロックのうち主要なもので、高次の認識を妨げている、あるいは早計に高次の段階に踏み出さないようにするための防御壁のようなものだと考えられています。<br /> <br /> 感覚的に、このルドラ・グランティに何か変化があったと考えるのが妥当な気がします。<br /> <br /> 今までも何度かルドラ・グランティかもしれないという経験をしてきて、例えば後頭部とか眉間の鼓動があったりもしました。その度に「これがルドラ・グランティなのかな?」とも思ってきて、今回また違ったことが起きました。<br /> <br /> 今日のようなことがまたあって、最初は「どれがルドラ・グランティなのだろうか?」と思ったのですが、最初にルドラ・グランティが開いて、その後に、違う種類のエネルギーを通すことで異なった経験をして違う感覚がした、と考えるのが妥当な気がしてきました。<br /> <br /> 瞑想の初段階では各チャクラの調整をするだけですので、その時にもグランティを超える必要があったように思います。それが後頭部とか眉間の鼓動だったのかなと思います。<br /> <br /> 今回は、そうして開かれたグランティに新たな種類のエネルギー(創造・破壊・維持の意識)が通ることで、元々ルートは少しは開いていたものの、大きなエネルギーが通ったことで「押しのけられた」ような、風船を膨らませたような感じがしたのかな、とも思います。<br /> <br /> ・・・それから少し経ちまして、日によってこの「風船のような」感覚があるときもあればない時もありました。エネルギーがそれほど満ちていないと感じる時もあって、瞑想をしてもそれほどエネルギーが通わないように思えたりする日もあったりしますが、それは、感覚としてのエネルギーの増減が減ってきたということであって実際にはエネルギーはそれなりに通っているのかなと解釈しております。ブロック(グランティ)がなくなってくればくるほど「押しのける」感覚がなくなってきているように思います。<br /> <br /> Tue, 12 Jan 2021 00:00:00 +0900 集中して静寂の境地に至る瞑想は未だ有効 https://w-jp.net/2021/2234/ <br /> 最近は眉間あるいは鼻頭を意識するだけで雑念が消えるようになったわけですが、そのように雑念は一気に消えるのですが、それでも、眉間あるいは鼻頭に意識を合わせて呼吸するだけでエネルギーが頭まで上がるという瞑想を続けていくと静寂の境地に達します。<br /> <br /> 呼吸によって雑念は一気に祓われるのですが、それがそのまま静寂の境地というわけではなく、雑念が消えるというのは文字通りだいたいのところで雑念が消えるということであり、それと静寂の境地とはちょっと違うように思います。<br /> <br /> 以前の静寂の境地は奥深い意識がない状態で、単に静寂の境地になっていました。<br /> <br /> 今は、奥深い意識があった上で静寂の境地になっています。最初は静寂の境地に入ることを許さない奥深い意識という感じで奥深い意識によって静寂の境地に入ることを妨げられているような感じでしたが、今は、奥深い意識があっても静寂の境地に入ることができるようになりました。<br /> <br /> その静寂の境地は深い意識があってもなくても存在していて、昔は深い意識がなくても静寂の境地に達していて、今は、深い意識が現れ続けていても静寂の境地に達しています。<br /> <br /> これは意識の階層が違うということかなと理解しております。<br /> <br /> 浅い階層の心、ヨーガでいうチッタ(心)のゆらぎが静まることが静寂の境地であって、奥深い意識が現れているかいないかは静寂の境地とは割と独立しているのですよね。そのように今は理解しています。重なっているので最初は干渉しますけど基本的には別物なのだと思います。<br /> <br /> 浅い意識、ヨーガで言うチッタという五感に反応して記憶を司る心の部分の動きが静まることで静寂の境地になっているのだと思います。よって、これがヨーガスートラで言うところの「ヨーガとはチッタ(心)を死滅させることである」という意味の表すことなのだと思います。ヨーガスートラでは主に浅いところのチッタ(心)を扱っているわけです。<br /> <br /> そして、最初は奥深い意識が現れていないですけど、そうして静寂の境地に達すると奥深いところから意識が現れてくるわけです。<br /> ですから、最初は奥深い意識のない静寂の境地から始まり、次に、奥深い意識のある静寂の境地になるわけです。<br /> <br /> ヨーガスートラのヨーガの定義は奥深い意識に関してはひとまず置いておいて、まずはチッタの動きを鎮めましょう、と言っているわけです。<br /> <br /> ヨーガスートラのよくある批判として、「心を死滅させてしまってどうなるというのか」というお話がありますけど、心と言ってもヨーガスートラで死滅させるのは浅い意識であるチッタであり、日本語ですと死滅という訳になっていますけどこれは心を完全になくしてしまうという意味ではなくて「ゆらぎ(ヴィリッティ)」を止める、心が揺れるのを止める(死滅させる)という意味です。<br /> <br /> ですから、要は「静寂の境地に達しましょう」と言っているだけのお話です。まあ、表現の違いですよね・・・。ヨーガスートラの目的はここにあるわけですけど、日本語訳で「心の死滅」とかいうから誤解しますけど、心の死滅ではなく「心のゆらぎの死滅」ですから、それは静寂の境地のことなんですよね。<br /> <br /> その静寂の境地は奥深いところから創造・破壊・維持の意識が出てきたとしても存在していて、というのも、静寂の境地というのはチッタのゆらぎがなくなることですから、浅い意識について言っているわけなのですよね。<br /> <br /> 深い意識に雑念とかは元々ないですから、浅い意識(チッタ)で雑念が取り払われて静寂の境地に至るわけです。<br /> <br /> そうして、ヨーガスートラでは「そうして心(チッタ)のゆらぎが静まると、見る者(プルシャ)は本来の状態に留まる」ということを言っているわけですけれども、まあ、一般的にはヨーガのゴールがこうして静寂の境地と言われてはいますけど、更に先があるわけですよね。静寂の境地に達して、次は見る者(プルシャ)が本来の状態に留まって、そうすると、奥深い意識が出てくるわけです。続きはウパニシャッドの領域に入っていくわけです。<br /> <br /> Tue, 12 Jan 2021 00:00:00 +0900 悲しみはヴィシュッダが開いた時の感情の経験だったのかもしれない https://w-jp.net/2021/2233/ <br /> 先日、儚さを感じて涙が出てきたわけですが、その翌日、ふと気がついてみると、ヴィシュッダでイガイガしているようなブロックされているような感覚が随分と少なくなっていました。そして、いつの間にか悲しみの感情も収まってきました。<br /> <br /> 創造・破壊・維持の意識が出てきてすぐの頃は、ヴィシュッダでブロックされているような感覚がありましたが、今も多少は感覚がありますけど、それはブロックされているようなイガイガしたものではなく、単に、ヴィシュッダに何かある、という感覚に変わっています。<br /> <br /> そして、いつの間にか悲しみの感覚が落ち着いてきて、ほんの少し悲しみの余韻みたいなものは感じますけど、悲しみが湧き出て来るという感じではなくなってきました。<br /> <br /> であれば、もしかしたら、この悲しみの感覚は、ヴィシュッダが開いてきたことによる感情の現れだったのかもしれません。<br /> <br /> ヴィシュッダが完全に開いたかどうかはわかりませんけど、以前よりヴィシュッダにエネルギーが通っていてアナハタとも繋がった感覚があり、アナハタとヴィシュッダにまで創造・破壊・維持の意識が来ている感覚があります。<br /> <br /> チャクラは一気に開くこともあれば段階的に開くようにも思いますし、多少はヴィシュッダが開けてきたということのようにも思います。<br /> <br /> そして、この状態では瞑想中にエネルギーが詰まっているような感じがするのがアジナの少し後ろ、後頭部のあたりな感じがしてきました。<br /> <br /> 過去生のサードアイの記憶を辿ってみますと、サードアイは眉間というよりも後頭部に近いところでクリスタルができて、その一部というか次元の違う一部の面がフォースアイとして頭頂から出て次元を超えたり周囲に視点を移動させたりするように思いますから、その第一歩として後頭部のところにサードアイの反応が出てきたのであればおそらくはヴィシュッダにもエネルギーとしての創造・破壊・維持の意識が通ってアジナの方が活性化し始めたのかなという気が致します。<br /> <br /> チャクラが開くのは段階的なもので、チャクラの調整という段階でもそれなりに開くでしょうし、今回はもう少し開けてきたとも思いますが、世間で言われているような開いて何か起こるという意味合いよりも、新しい創造・破壊・維持の意識のエネルギーに馴染む、というような感じの方がしっくりきます。<br /> <br /> もともと先日経験した時もヴィシュッダかな? とも思ったのですがそれほど確信はなく、一晩開けて落ち着いてみて上記の状態を確認したらやはりヴィシュッダだと考えるのが妥当な気がしてきました。ただ、完全に開いたとも思えないですが。完全に開いたと言えるのはもっと後の、全てのチャクラが統合して働き出す段階においてであってここでは少しづつ開くくらいで十分なのかなと判断しています。<br /> <br /> そもそもチベットではチャクラを開く際に必ずしも何かの経験が起こるわけではないと言われていますし、今回はヴィシュッダが開いて「悲しみ」という感情でそれを体験したわけですけど、それもまた一つの現われなのかな、と解釈しました。<br /> <br /> Mon, 11 Jan 2021 00:00:00 +0900 意識がありのままを認識しなくなると悲しみが湧き出てくる https://w-jp.net/2021/2232/ <br /> ここ最近、創造・破壊・維持の意識が深まるにつれ儚さを感じ涙が出るようになってきたわけですが、それは、意識が「創造・破壊・維持」と離れた状態で出てきている悲しみのような気が致します。<br /> <br /> ここで「離れた」と表現しましたけど、物理的な距離ではなく、心の中心が根源からちょっと「ズレている」というような意味合いです。流派によってはこれを「理解していない状態」と表現するかもしれません。<br /> <br /> 根源から離れていなくてありのままを認識している状態を流派によっては「根源からズレていない状態」「魂から離れていない状態」あるいは「理解している状態」と表現するかもしれません。<br /> <br /> そのように、創造・破壊・維持から離れていない状態でありのままを認識できているならば悲しみは出てきません。ただ、創造と維持と破壊とが目の前でありありと繰り広げられているのを眺めるだけです。<br /> <br /> しかし、その状態から少し離れて、ありのままから遠ざかれば遠ざかるほど儚さを感じて「悲しみ」を認識してくるような気が致します。<br /> <br /> であれば、儚さを感じることによる悲しみというのは、ありのままを感じていないからこそ出てくる感情であると言えるのかもしれません。<br /> <br /> その、儚さの悲しみそのものですらも創造・破壊・維持を繰り返していて、儚さの悲しみが現れてはその悲しみが続き、そして消えてゆく、悲しみの創造と破壊と維持とが何度も繰り広げられてゆくさまを感じることで、そこでもありのままの感情を感じることができます。<br /> <br /> 視点を、現象に向けてありのままを感じることで現象に対する創造・破壊・維持を認識することができます。<br /> <br /> 一方で、現象をありのままで感じることはせずに、感情に対してありのままを感じることで感情に対する創造・破壊・維持を認識することができるということなのかなと思います。<br /> <br /> ここで、2つの対象が出てきました。<br /> <br /> ・視界<br /> ・感情<br /> <br /> 視界は五感に属するもので、粗雑な認識能力です。感情は心に属するもので、もっと微細です。<br /> <br /> 五感(視界)に関する「ありのまま」を離れて心(感情)を「ありのまま」に見つめることもできます。<br /> <br /> 一方で、五感(視界)を「ありのまま」に見つめることもできます。<br /> <br /> 五感(視界)が「ありのまま」を離れた時に「悲しみ」が生じ、その時に心(感情)を「ありのまま」に見つめることで感情の創造・破壊・維持を認識するように思えるわけです。<br /> <br /> 悲しみを克服するには楽しさという同じ心という分類にある別種類の感情を持ってくるという手もありますけど、それよりは、五感(視界)と心(感情)の両方、あるいは少なくとも片方をありのままに見つめることで悲しみを克服することができるように思います。<br /> <br /> それは必ずしも悲しみを克服するという文字通りの意味ではなくて、克服と言うと何か戦って勝つような印象があるかもしれませんけど、この「ありのままを見つめる」というのはもっと根本的なもので、そもそもそれが何だったのか、五感あるいは感情の面でしっかりと認識して識別するということです。<br /> <br /> そうして、「理解」すればその感情は消えてゆきます。理屈での理解のことではなく、しっかりと見た結果として理解がやってくるわけです。理論での理解は最終的に残りますけど、その過程において理屈を持ち出すよりは、まず「ありのまま」に見た上で識別して、その結果として、最終的な「理解」がやってくるわけです。<br /> <br /> ただ、そうしたものもあくまでも説明のためだけと言えなくもなくて、物事はもっと単純で、単に、物事をしっかりとありのままに見さえすればそもそも悲しみとかは起こらない、という、ただそれだけのことです。<br /> <br /> Sun, 10 Jan 2021 00:00:00 +0900 創造・破壊・維持の意識が深まるにつれ儚さを感じ涙が出るようになる https://w-jp.net/2021/2231/ <br /> 胸の奥にて夜明け感じて創造・破壊・維持の意識が深まるにつれ、日常生活で涙が出てくるようになってきました。<br /> <br /> 特に特別な理由もなく、他愛のない会話をしたり、普通に生活するだけで無常を感じてその奥底に儚いものを感じ、何かある度にその一瞬の輝きを感じて消え去る感情、消え去る時、その一時の瞬きを何度も何度も感じていると、一つ一つの儚さは僅かなものであっても積もりに積もると次第にそれは何も言われぬ涙へと変わってゆきます。<br /> <br /> 特に今までと変わったことがあったわけでもないですし、特に不都合のない普段どおりの生活を送れています。<br /> <br /> 特に悲しむことがあったわけでもないのに、一時の儚さの一瞬のそれぞれが永遠のようにも感じられて、その永遠であるものが形を変えてなくなってゆく、その顕現の明らかさの現れの美しさと、その美しさが保たれている時の安定的な輝きと、その美しさがすぐに消えさる儚さとが交互にやってきて、それぞれが美しいが故に消え去る時の儚さがほんの少しの悲しさとして積もってゆき、やがては小さな涙が出てきます。<br /> <br /> この涙は特に大きな何かがあって現れたものではなく、この日常生活の儚さを日々感じることで積もってゆく悲しさであるように思います。<br /> <br /> 最初は、これは日常生活における特定の何かが原因で起きているのかなと思って一つ一つを辿ってゆきました。しかし、特に何かの大きな理由があるわけでもなく、一つ一つの儚さを感じているのでは、という結論に今のところ達しつつあります。<br /> <br /> それと、もしかしたらその悲しみが、単なる儚さだけではなく、この現状の世界、特に私の住んでいる地域に根深く横たわっている悲しみの感情を拾っているだけだ、という仮説も成り立ちます。物事の儚さを感じるということはこの現実をありのままに見つめるということですから、私の住んでいる地域が悲しみに満ちていたら私もその悲しみを拾うのは当然であると言えます。行為としては儚さを見ているわけですが、そこに横たわっている悲しみを拾ってしまっているわけですね。そのような可能性もあります。<br /> <br /> 現時点ではどちらなのか判断がつきにくいですけど、仮説の一つとしては成り立ちます。<br /> <br /> もしかしたら、このように「公」の意識が目覚め始めてしまうと私(=公)が本当に幸せになるためには少なくとも私の住んでいる地域の住民の多くが幸せになる必要があるのかもしれません。<br /> <br /> であればなかなかきつくて、私が公と繋がってしまったが故に私が幸せになるための制約条件として公(の人々)が幸せにならなくてはならないのですから、ハードルが高まったとも言えます。<br /> <br /> 公が感じている悲しみを私が感じている、というのは理屈には合います。<br /> <br /> もしかして、両方とも真実なのかも知れません。物事の儚さを感じて涙が出て、人々の悲しみも感じている。ただ、よく見ると、それらはちょっと種類が違うような気もします。<br /> <br /> 儚さの方が深くて、人々の悲しみはもうちょっと浅いです。ですけど、両方とも悲しみで涙が出てくるような種類のものです。<br /> <br /> これは、ヨーガで有名な本山博先生の書物の記述に似ている箇所があります。<br /> <br /> 自分の存在が無の深淵に対峙していることに気がついて、非常な恐怖を覚えました。もう、ヨーガ行を止めたいと思うほど、その恐怖は熱烈で、深いものです。これは、なんともいえない恐ろしい体験です。この体験の前後に、この世のことや人に対する諦めや遊離の感じがよくしたように思います。「死んでも生きても、絶対なる神の御意志のままに」という神への絶対の信仰がしだいにできてくると、この無の深淵に臨んだ恐怖もしだいにうすらいできました。「超意識への飛躍(本山博著)」<br /> <br /> これはヴィシュッダに関する記述の中にありますが、私の感覚もヴィシュッダに即したものなのでしょうかね。私は、恐ろしさというよりは悲しさとして感じましたが怖い恐ろしさではなく悲しい恐ろしさと解釈すれば、内容はどこか似ているように思います。<br /> <br /> Sun, 10 Jan 2021 00:00:00 +0900 胸の奥にて夜明け感じて創造・破壊・維持の意識が深まる https://w-jp.net/2021/2230/ <br /> 瞑想をして、創造・破壊・維持の意識を胸を中心とした体全体で感じています。 眉間に集中してエネルギーを取り込んだり、何回かチベットのマントラを古代の唱え方で唱えて体中のエネルギーを活性化させたりします。頭までエネルギーが通って、時にムーラダーラを意識してエネルギーを循環させたりします。<br /> <br /> そうしていると、次第に意識も更に落ち着いてきてリラックスが深まります。<br /> <br /> そのように瞑想をしていたところ、ふと、胸の奥で、まだ夜の側の地球の裏側から朝日が出てきそうな光を感じました。<br /> <br /> そのすぐ後、立っている1人の影の向こう側から朝日が上ってきているのを感じます。<br /> <br /> まだ太陽そのものは見えず、光だけが薄っすらと出ている状態です。<br /> <br /> そうしていると、不意に体中のオーラが次第に凝縮されてきて、お風呂で水を抜いたかのように吸い込まれるかのように胸の奥に入り、オーラのコアの密度が高まりました<br /> <br /> 元々、創造・破壊・維持の意識が出てきた時点で胸の奥にコアのようなものができていたのですが、これにより、そのコアの密度が高まった感じです。<br /> <br /> その創造・破壊・維持の意識が出てきた直後は胸の奥にしかそれはなくて、体中に次第に浸透していったわけですけれども、そうして広がっていった意識のうち、半分くらいはそのまま残って、残り半分くらいが凝縮されてコアに戻った感じが致します。<br /> <br /> これは、最初に意識が出てきた時のコアとはちょっと別物ですね。言葉では似通ってしまいますけど。<br /> <br /> 最初に出てきた創造・破壊・維持の意識が、更に深まった感じを受けます。安定度も増した感じです。<br /> <br /> Fri, 08 Jan 2021 00:00:00 +0900 牛のミルクをハートにかける儀式を瞑想中に受ける https://w-jp.net/2021/2229/ <br /> 朝に瞑想をしていて創造・破壊・維持の公の意識を感じつつエネルギーを充満させていたところ、ふと、不意に牛さんのイメージが浮かんできて、ステンレスのカップに入った牛乳が目の前に見えて、何だろうと思っていたらそのカップが私の胸の上のあたりまで近づいてきて、喉の上か喉の少し前まで来てカップが傾いたかと思えばミルクが私の体というかハート付近にある「円状のコア」の上にかかってきました。<br /> <br /> かと言って特に感覚はなくて、単に「あれ? ミルクがかかってきた? 何これ?」という感じで、何ら私の方に変化はないのですけど、ミルクが表面を流れていることはなんとなくわかります。<br /> <br /> 最初は胸のあたりにだけかかってきて、やがてカップが上の方に移動して頭の上からミルクがかかってきました。<br /> <br /> ・・・何でしょうね、これ?<br /> <br /> インドのヒンドゥ寺院では牛さんの神様であるナンディの石像があって、プージャという儀式においては牛乳をそのナンディ像にかけたりしますけど、感じとしては似ています。自分のイメージが牛さんになったわけではないですけど、牛乳をかけるというところの感覚は似ています。<br /> <br /> おそらく、何かの儀式的な意味があるのかなという気もします。<br /> <br /> 直感では、何かのイニシエーション(入所儀式)なのかなぁ、とも思いますけど、どうですかね。何の入所なのかもよくわかりませんね。<br /> <br /> インドのプージャの儀式はこれをシンボル化したものなのかなぁ、という気もしますけど、どうなんでしょうかね。<br /> <br /> 最初は勝手にそんな感じになりましたけど、瞑想を続けた上で、自分でミルクをイメージして頭の上からかけてみると浄化の効果がありましたね。<br /> <br /> ただ、自分でイメージしたときと、自動的に起こったときではちょっと違う感じですね。自分でイメージするときは天のエネルギーを降ろすような感じで、一方で、自動的に起こった時は何も感覚とか変化はなくて。自動的に起こった時は単に見せられただけで、「このようにやってみなさい」ということだったのでしょうかね? そして、実際に真似てやってみたら効果が発揮された、と。<br /> <br /> このようにミルクをかけると浄化されます、ということを教えてもらったのかもしれません。<br /> <br /> Tue, 05 Jan 2021 00:00:00 +0900 何も思わぬ瞑想と比喩される滅尽定 https://w-jp.net/2021/2228/ <br /> 身体のオーラがあるような、ないような境地で非想非非想処(ひそうひひそうしょ)に達した後、その瞑想を続けていると軽やかな状態になってきます。<br /> <br /> この寂境にひたりきると、例へば眠り足つてふっと目覚めるというような明朗な浄氣にうたれてはっと転ずる勝緣が得られるのである。(中略)無差別平等の清淨感が、例へば雲をひらいて現ずる月光のように觀じられて来るのである。「信心と座禅(油井真砂著)」<br /> <br /> これで非想非非想処が完成し、よって、4つの無色界禅定が完成したことになるようです。<br /> <br /> ■4つの無色界禅定<br /> ・空無辺処(くうむへんしょ)<br /> ・識無辺処(しきむへんしょ)<br /> ・無所有処(むしょうしょ)<br /> ・非想非非想処(ひそうひひそうしょ)<br /> <br /> この次に、滅尽定(めっしんじょう)と呼ばれる心を滅した定、サマーディがあります。これは禅定の4つの色界禅定および4つの無色界禅定の後の9つ目の禅定と説明されています。ですから、無色界禅定の最後である非想非非想処(ひそうひひそうしょ)の後に来るものです。<br /> <br /> これは流派によって解釈が異なるようで、例えば「心を完全に滅する」とか「非想非非想処とは全く別物」という説明がなされている流派もあるようです。テーラワーダ系の仏教では以下のように説明されています。<br /> <br /> 阿羅漢果に悟った聖者・阿羅漢だけ、(中略)心の波を徹底的に穏やかにして、最後に、心自体を、しばらく「滅する」のです。(中略)非想非非想処定と滅尽定の間には、雲泥の差があります。「ある」心を鎮めることを目的として達成する心の平静状態=禅定と、その心が「ない」こと自体は、決定的な差なのです。「悟りの階梯(藤本 晃 著) 」<br /> <br /> テーラワーダ系の用語と最近読んでいる油井真砂さんの著書「信心と座禅」の用語の定義が食い違っているのでわかりにくいですが、テーラワーダ系の定義に基づけば非想非非想処定と滅尽定はかなり違うものになるのでしょう。しかし、「信心と座禅(油井真砂著)」の説明に基づきますと、これら非想非非想処定と滅尽定はほとんど同じ状態を説明しているようにも思えるのです。<br /> <br /> テーラワーダ系の説明では無色界禅定であっても心があることを前提にしています。「信心と座禅(油井真砂著)」にも最後まで心はあるにはあるのですが、非想非非想処定に達した時点で、心があるような、ないような、という状態にまで既に達します。<br /> <br /> そうであれば、その次の滅尽定は似たようなもので、ない状態を保つようにするだけです。<br /> <br /> 滅尽定とは言え、心が完全になくなってしまうわけではなく、その後に心が作用する状態に戻ります。ですから、滅尽定を一度してしまったら心を完全に捨ててしまうわけではなく、「滅する」といいつつもそれは一時的なものであると解釈できます。<br /> <br /> 滅尽定の正式名が「想受滅(そうじゅめつ)」と呼ばれるように、想=心の動機に、受=触れられ感受された、滅が一瞬起こって、あとは心が起こりません。滅したのですから消えたのです。ないのです。ないから、その後のことは何も言えません。「悟りの階梯(藤本 晃 著) 」<br /> <br /> ということですから、それは「信心と座禅(油井真砂著)」の説明に基づきますと非想非非想処定の応用の状態のようなものだということがわかります。<br /> <br /> 既に非想非非想処定の時点で「あるような、ないような」という状態になっていますが、それはあくまでも体のオーラの感覚を確かめようと認識能力を働かせるとそのように認識されるというお話で、わざわざ状態を見ようと意思を働かせなければ既に感覚は「一瞬だけ起こって後は起こらない」という状態になっているのです。<br /> <br /> ですから、それだけでも既に「想受滅」というような状態ではあるのですが、滅尽定というような落ち着いた状態にするためには意識的に「認識能力を動かさない」ように意図を働かせて、五感が入ってきても「認識しません」と自分にあらかじめ指示を出しておくことで上記のように「一瞬、五感から感受して、すぐに滅が一瞬起こって、あとは何も起こらない」という状態になるのです。<br /> <br /> ですから、わざわざ滅尽定というほどでもなく既に滅尽定に似たような状態になっているのですが、瞑想としてそうするということであれば滅尽定と言うのは、まあ、一応あると言えばあるのだと思います。<br /> <br /> 非想非非想処定と似たようなものだと思いますけど、非想非非想処定の説明は誤解が多くて、単に心を一時的に停止させればいいかのような誤解がありますので明確に別にした、というのはあるのかもしれません。<br /> <br /> 流派の定義によっては明確に別ですし、テーラワーダ系の定義ですと別物ですけど、「信心と座禅(油井真砂著)」の定義ですとほとんど同一のように思います。<br /> <br /> 確かに、非想非非想処に入ったばかりでは滅尽定という感じではありませんが、少し瞑想を続けると軽やかな感じが出てきて滅尽定になるような気が致します。<br /> <br /> このあたりは、言葉で言い表しただけでは誤解がありそうで、単に「軽やかな感じ」というとそれ以前でも色々とそのようなこともありましたので、単にそれだけですぐに滅尽定になるわけではありませんが、ステップを踏んで非想非非想処までたどり着けば軽やかな感じが出てきてそれが滅尽定なんだなというのは実感としてよくわかります。<br /> <br /> 滅尽定においては、それは必ず通る道ではあれど、その安楽な状態にずっと居続けてはならない、と注意がなされている状態でもあります。ずっと眠ったようにその状態にいることは悟りへの妨げとなる、と説明されています。<br /> <br /> それは、この状態がとても安楽で軽やかなところからよく理解できます。<br /> <br /> 意思をもってして次の段階に進むという自らへの指示が必要のように思います。<br /> <br /> 「滅尽定」を文字通り読んでしまうと「心をなくす」ということになってしまいますが、実際はそのような文字通りの意味ではないわけです。心の状態が以前よりも大きく変わっていますし、実際は「想受滅」というようにすぐに心の動きが消えてゆく状態ということであれば非想非非想処定の段階に至っているのであればちょっと応用すればすぐにその状態になれるように思います。心の使い方ですよね。最初は心を、ペットに繋ぐ手綱のようなもので軽く結んでおく程度で心はさまよわずに、何かを感受してもすぐに消え去ってゆきます。そのうち、その手綱を離してもペット(心)はどこにも行きません。まあ、ここだけを読むと「手綱で心を結ぶ」ということで、これ以前の状態であってもそれはそうで、昔から手綱をつけるというような方法で心を鎮めてきたわけですけれども、前提条件として非想非非想処定あってこその滅尽定の想受滅ということですから、手綱とは言っても、ほんの少しの細い手綱で、凧の紐かもうちょっと太い程度の簡単なもので、ペットと言ってもチワワみたいなペットで、大型犬を繋ぐ紐ではありません。このあたりは程度問題とでも言いましょうか。そうして、最初こそ手綱はいりますけど、少し安定してしまえば手綱をなくしても心はどこかへ行ったりせず、何かを感受してもすぐにその感覚が消える(滅)ようになります。<br /> <br /> それは厳密に言えば「何も思わない」ということではないですけど、「ほとんど思わない」「すぐに心の動きが滅する」ということで、そのことを形式的に「何も思わない」とか「心を滅した」とか表現するのだと思います。ちょっと紛らわしいですけどね。既に色々なところでそう表現されているように思います。<br /> <br /> 文字通り読んで「いつまで経っても心がなくならないから滅尽定に達していない」と悩んだりする必要は全くなくて、説明を読めば実際はそれは想受滅のことですから、非想非非想処定の後に想受滅が来ればそれは滅尽定ということだと形式的に理解しておけば十分なのかなと思います。<br /> <br /> まあ、そうは言いましても流派によってこのあたりの解釈は違うでしょうし、これは私の解釈であって、流派の解釈をどうこうしているわけではありません。<br /> <br /> ちなみに、テーラワーダ仏教では阿羅漢の後に滅尽定で阿羅漢とは悟りを得た聖者のことですから悟った後に滅尽定という順番になっていますが、「信心と座禅(油井真砂著)」ですと滅尽定でもまだ悟っていない、という位置付けですね。悟りというのは色々ありますけどテーラワーダ仏教における阿羅漢の悟りというのは「静寂の境地」とかそのあたりな印象を受けます。であればそのような順番になるのでしょうけど、個人的には「静寂の境地」は個人的な境地であって「公」にまで広がっておらず、ましてや、まだ悟りだとは思いませんので、「信心と座禅(油井真砂著)」の位置付けの方がしっくりきますね。<br /> <br /> Sun, 03 Jan 2021 00:00:00 +0900 身体のオーラがあるような、ないような境地で非想非非想処に至る https://w-jp.net/2021/2227/ <br /> 身体を意識の手のようなもので探ってみても、スカスカしていて反応がありません。胸のあたり、あるいはお腹のあたり、あるいは頭のあたりを意識の手で触ってみても、するりと通り抜けて「抵抗」がありません。以前は身体のあたりには多少の抵抗があってオーラがそこにあるという実感がありました。<br /> <br /> 今は、そのようなオーラが「ある」という抵抗の感覚がなくて、とても細かい粒子でできていてそこに何かが「あるような気がする」のだけれども実際に「手」でそれを確かめてみると「何もないくらいスカスカしている」というように、あるように思えるけれどもオーラの感覚としては何もないような、そんな感じになっています。<br /> <br /> そのように、あるようでいて、ないようでいる、不思議な意識の身体になっています。<br /> <br /> もちろん肉体としては存在していますので、肉体がスカスカになったわけではありません。<br /> <br /> これは、最初は胸から始まって、やがて頭にまでじわじわと浸透して広がっていきました。<br /> <br /> この感覚を、最近読んでいる油井真砂さんの著書「信心と座禅」と見比べていきます。<br /> <br /> ・空無辺処(くうむへんしょ)<br /> ・識無辺処(しきむへんしょ)<br /> ・無所有処(むしょうしょ)→これ<br /> ・非想非非想処(ひそうひひそうしょ)<br /> <br /> 諸相を觀ずる最後の依所(えしょ)として識心が空じられてはじめてこの定境(無所有処)が開けたのだから、当然ここには一点識心の影をも留めない筈だのに、なお、それとなく感じられて来るそれは微かな一つの依所が感じられて、そこへ、宇宙創成の劫初(ごうしょ、この世の初め)の氣である陰陽両気相克の逆萬字相が觀じられて来るのである。「信心と座禅(油井真砂著)」<br /> <br /> 私の感覚に当てはめてみると、<br /> このように、創造・破壊・維持の意識が広がっていって「我(という心)」が消えて「公」の意識で満たされた筈なのに、それでも尚、どこか「認識する」という現象は相も変わらず続いていて、そこへ、ムーラダーラから上ってくる地のエネルギーが感じられます。天のエネルギーを降ろすこともできます。一方、創造・破壊・維持の公の意識は私の肉体の胸、下半身、頭にまで及んで存在しています。<br /> <br /> その、創造・破壊・維持の意識は同書では「空」と表現しているように思います。そうであれば、もともと体の大部分を占めていた「心」という「私」の意識が同書の言葉で言うところの「空じられて」、そしてこの心境、創造・破壊・維持の公の意識が開けた、と解釈することができます。であれば、私の状態とも近いように思います。<br /> <br /> この状態になって「私」が消え去った筈なのにどこか「それとなく感じられてくる微かなもの」があって、それは、気の流れである、ということであればここもまた一致しているように思います。<br /> <br /> 寂寂とした空の気の中へふっと陽の気が立って來ると、そこへたちまち陰の気がからまつて来るという、ここのこつ然緣起の如相といふものが、これが即ち「法性緣起」の実相になるのである。「信心と座禅(油井真砂著)」<br /> <br /> 私の体にある創造・破壊・維持の意識が「空」だとすれば、そこに「陽の気」、これはムーラダーラからの地のエネルギーだとすると、それは割と「なにもない所」から急に出てきたかのように思えて実はその奥底には「何か、その根源」なるものがあると感じられていて、その「根源」から「陽の気」が出てきます。一方、特にムーラダーラの場所でなくても同様の「陽の気」といいますか「地のエネルギー」と言いますか、似たようなエネルギーがムーラダーラ以外からもふと急に湧き出てきています。例えば鼻頭に集中するとその周辺から不意にエネルギーが「現れて」、鼻頭の周辺、眉間、頭のあたりにそのエネルギーが集まってエネルギーが凝縮した感じになります。<br /> <br /> そのように、ムーラダーラの奥底にある「根源」のみならず、そこらからエネルギーが不意に顕現しますので、それら共通の基盤を「空」と言うのであれば上記の表記はまさにそれで、そこらの空間から不意にエネルギーが顕現して、それがまた不意に消えてゆく、ということは瞑想中に良く感じられます。そこに、記述のような「陰の気」というのはあるようでいてないようでいて、微妙なところですけど、確かに、「地のエネルギー」が消え去る時は風に吹かれて煙が拡散するかのように元の「根源」へと返ってゆきますので、その「風」のようなものを「陰の気」といえばそうなのかもしれないですけど、実際のところ、単に拡散しているだけで「陰の気」というのはない気もするのですけど、どうでしょうかね。あるように見える、というのならそうなのかもしれないですけど、実態はない気が致しますが。<br /> <br /> 少し前に瞑想中で感じたことを基に解釈した般若心経の理解にも似たようなところがありましたね。その時は今ほどはっきりとは感じていませんでしたが、方向性は似ていると言えます。<br /> <br /> 同書によればここで一旦は「我」という感覚がほとんど完全とも言えるほどなくなるものの、まだ、微細な感覚は残ると言います。<br /> <br /> 私も、だいぶ「我」という感覚はなくなったように思いますが、存在としての私が消え去るわけではないですし、人間としての「個」は継続しています。まあ、そんなものなのかな、とも思います。<br /> <br /> 同書によればこの心境をもって無所有処が完成し、非想非非想処に移ったとのことです。<br /> <br /> ・空無辺処(くうむへんしょ)<br /> ・識無辺処(しきむへんしょ)<br /> ・無所有処(むしょうしょ)<br /> ・非想非非想処(ひそうひひそうしょ)→ ここへ<br /> <br /> この境地は、法性としての宇宙の気の凝りが緣起して来る「種」の世界であるが故に、無から有へ転じて行く空の妙融相が如實に觀じられる境地である。「信心と座禅(油井真砂著)」<br /> <br /> ということですから、上記のように「空」から「陽」が現れてきてそれが消えてゆくことを感じる境地ということでしょう。<br /> <br /> ただ、ここだけを読むとその前段階の前提条件が特に書いてありませんので、それより遥か前の段階でもこの段階に至ったかのように思えてしまうことがあるようにも思います。前段階から一歩一歩と踏まえてきて、そしてこの段階へ至るのならばそういうことなのかな、と思います。<br /> <br /> ここまで來れば、「闇の夜に鳴かぬ烏の声きけば生れぬ先の父ぞ恋しき」といふ道歌の妙味が如々の事実として味得できるのである。「信心と座禅(油井真砂著)」<br /> <br /> そうは言いましてもこの歌の解釈は難しいです。<br /> <br /> ■闇の夜に → 空の境地のことを表しているのでしょうか。「創造・破壊・維持の公の意識」あるいは「根源」が存在している、陽の気が発起してくる土台となる空間を表しているように思います。<br /> <br /> ■鳴かぬ烏の声きけば → スピリチュアルにおいては「声」とは音でありエネルギーであり、根源のエネルギーであり、天地創造の最初にあったものは音であり、この宇宙全ては音でできているとさえ言われます。ということは、鳴かぬ鳥というのは、その一方で鳴く鳥というのも存在しており、スピリチュアルにおいて鳴く鳥といのはいわゆるナーダ音のことであり、ナーダ音は物理的な音ではない超感覚的な音ですけど時に「ウズイスの声」とか色々と鳥や太鼓の音として表現されていて、ここでは鳥ですけど、それはあくまでも数多くあるナーダ音のうち代表劇なものとして「鳥」を出して「鳴かぬ鳥」と言うことで「ナーダ音のことではない」と言っているのであり、ナーダ音ではない音であれば、もっと深い、感じる音、感じるエネルギーのことを言っているのだと思われます。ですので、意味合いとしては「深いエネルギーを感じれば」ということだと思います。<br /> <br /> ナーダ音も「鳴らぬ音」と表現される時があって、その意味合いでこれはナーダ音のことだと解釈することもできますけど、その場合は他の言葉との整合性がいまいちで、「闇の夜にナーダ音を聞くと生れぬ先の父ぞ恋しき」というと非想非非想処よりはるか前の段階の詩になってしまい、浅い意味合いになってしまいますし、ナーダ音を聞いたことで「生れぬ先の父ぞ恋しき」というのは非想非非想処の空とか陽とかの感覚とは一致しません。ナーダ音はもっと前の段階ですから、ここで言うところは「ナーダ音のことではない」と解釈するのが適切に思います。<br /> <br /> 実際に耳で音のように感知されるナーダ音ではなく、もっと根源の、「パラー」とも呼ばれるような根源の音のことをここでは「鳴かぬ烏の声」と表現しているように思います。<br /> <br /> ■生れぬ先の父ぞ恋しき → 実際に「陽の気」が出てくる前であっても顕現前の存在が「そこ」に確かに存在しています。それは「闇の夜に」と比喩されるようなベースとなる空間であり、その空間に「空」と言うのかあるいは「創造・破壊・維持の公の意識」と呼ぶのかはたまた「根源」と呼ぶのか、そのような意識が広がっています。その意識はまだ顕現前であったとしても、それでも、顕現後の様相と言いますかエネルギー的な本質を内に秘めているものなのです。そして、実際に顕現前のそのベースとなる空間を眺めて、まだ顕現する前であってもそこにエネルギーを感じる、ということを言っているのかなと思います。「父」というのは「親」であれば、その親であるベースの空間から「子」として実際に顕現した現象あるいは具体的なエネルギーが出てくるとすれば顕現前の空間としてのエネルギーの状態を「父」と表現するのは正しく、更には、そこはエネルギーで満ちていますし、そのように創造の素晴らしさを観察するのであればそれは「恋しき」と表現するのも相応しいのかな、とも思います。<br /> <br /> 道元の歌は難しいですけど、こうして解釈してみるとさすが深いことを言っていると思わされます。<br /> <br /> この定境を説いて、「前の識處は有想であり、無所有處は無想であつたが、こゝに至つて前の有想を捨離するが故に非想といひ、無想を捨離するが故に非々想といふのである。修行者はここにおいて痴の如く醉の如く眠の如く暗の如くであつて、いささかの愛楽すべきなく、泯然(みんねん)・寂絶(じゃくぜつ)・清淨(しょうじょう)・無為(むい)である。故に非想非々想處定と名づける」というのである。「信心と座禅(油井真砂著)」<br /> <br /> ・空無辺処(くうむへんしょ)→ [link:/2020/2197/ 奥深い意識が出てきた段階]]<br /> ・識無辺処(しきむへんしょ)→ 有想。宇宙の広大さが感じられた境地。<br /> ・無所有処(むしょうしょ)→ 無想。「わたし」という心が滅せられる境地。「公」が広がる境地。<br /> ・非想非非想処(ひそうひひそうしょ)→ 有想がない故に非想、無想がない故に非々想。<br /> <br /> 識無辺処と無所有処の両方を達した境地が非想非非想処であって、であれば、今は非想非非想処の状態とのようにも思います。<br /> <br /> 識無辺処では宇宙が感じられていたがそれは当たり前のものになるにつれて感じられなくなってしまった。よって非想。無所有処で「わたし」という心が滅せられて「公」が広がったが、やがてそれが広がるにつれて当たり前の状態になり、その過渡期に感じたものはもはや感じられなくなった。よって非々想。 有想が宇宙の広大さを感じている「私」という意識で、無想が公の意識、私という意識が滅せられたかのような意識で、そのどちらもあるような、ないような、片方づつ見てみても両方見てみてもどちらもあるようなないような状態、それが非想非非想処なのかなと思います。<br /> <br /> 書物によっては非想非非想処のことを想念があるようなないような、という、心の状態のことだと説明していたような気が致しますが、この油井真砂さんの説明はまるで別物ですね。他では見ない定義ですので他の流派の階梯とは一致しないような気も致しますが、同書に当てはめてみると、私はこの段階にいるように思います。<br /> <br /> それにしても、これはわかりにくいです。一見すると「心の動きのことか」と思ってしまっても致し方ない気が致します。<br /> <br /> Sun, 03 Jan 2021 00:00:00 +0900 識無辺処から無所有処へ入りつつあるのだろうか https://w-jp.net/2021/2226/ <br /> 油井真砂さんの著書「信心と座禅」を読んでいきます。<br /> <br /> ・空無辺処(くうむへんしょ)<br /> ・識無辺処(しきむへんしょ)→これから<br /> ・無所有処(むしょうしょ)→これへ<br /> ・非想非非想処(ひそうひひそうしょ)<br /> <br /> 同書には、識無辺処を成して無所有処に移る段階について以下のように記されています。<br /> <br /> 最後に殘された一つの依所(えしょ)としての識心がただ重苦しくとざされてしまうのである。開破の氣が迫ったのである。そうして、迫りきったところでぱっと開けるのである。とざされた識心が、瞬間ぱっと開破されるのである。これで、最後に殘された依所としての識心が空じられたのである。「信心と座禅(油井真砂著)」<br /> <br /> これは、次第に「自己」としての心がなくなっていって「宇宙」としての意識に変わってゆく、変わってゆくというよりは自己と宇宙の区別がなくなる、という心境だということです。そうして、この識無辺処の終わりには最後に残された自己としての心の認識の部分が「空じられる」、ということは、自己としての心がなくなるということなのだと思います。<br /> <br /> とは言いましても、他の部分を読むと、大体はなくなるものの完全にゼロというわけではないようです。大きなくくりとして、この段階で宇宙的な意識と統合されて宇宙と自己との区別がほとんどなくなるということなのかなと解釈致しました。<br /> <br /> 完全に「自己」がなくなったかと言うと私の場合はそうではありませんけど、まずは胸の奥の創造と破壊と維持の意識が胸いっぱいに広がった後、「創造・破壊・維持の公の意識」が頭にまでじわじわと浸透するようになりましたので、この状態が該当しているかもしれません。この状態において、まだ片隅に「わたし」は存在しておりますが、この「創造と破壊と維持」の意識は必ず公の意識ですので、基本は公の意識がほぼ優勢になっている状態です。<br /> <br /> 同書の記述が大きな意識の変革の段階を示していて、完全に自己がゼロにならなくても良いという段階のお話であれば、頭にまでじわじわと浸透した段階で「わたし」というものがなくなるのは一段落しましたので、識無辺処を完成して無所有処に移り始めたと解釈しても良いかもしれません。<br /> <br /> 自己が宇宙の広さと完全に融合し得る入所を得たからである。方所を絕したところに悠悠自適し得る妙機を得たからである。「信心と座禅(油井真砂著)」<br /> <br /> 確かに、完全に融合した感じではありませんが、「融合し得る入所を得た」ということであればそういうことかな、とも思います。であれば無所有処に入りつつあるということなのかもしれません。<br /> <br /> Sat, 02 Jan 2021 00:00:00 +0900 「創造・破壊・維持の公の意識」が頭にまでじわじわと浸透する https://w-jp.net/2021/2225/ <br /> 創造・破壊・維持の意識は必ず公の意識であるわけですが、最初は胸の奥から始まって、やがては喉の下から胸および下腹部に至るまで、おおよそ身体の3分の1くらいがその意識で満たされるようになりました。<br /> <br /> 頭までも一旦は広がったように思いますが、安定して存在しているのは少し前までは喉のヴィシュッダより下だったように思います。<br /> <br /> その、満たされた部分、胸や下腹部を意識の手のようなもので触ってみると、随分と軽やかな感じを受けます。<br /> <br /> 他の部分、胸よりも少し上を触るとちょっとした抵抗があって、砂ほどではないのですが、柔らかいパウダーのような感覚、ただし粉ではなくて単なる抵抗、粉というよりは液体に近くて多少は粘着性のある、ゼリーほどではないにせよさらっとしたゼリーのようなオーラがその他の部分です。<br /> <br /> それに対して、今回の「創造・破壊・維持の公の意識」で満たされている部分は、もっと「さらっと」しています。その、さらっとしている部分が身体に少しづつ浸透しつつあります。<br /> <br /> 少しの間はそんな感じだったのですが、その後、瞑想をするうちに更にその範囲が広がり、じわじわと頭の中にまで広がってゆくのを感じます。<br /> <br /> 先日、下腹部や一部は頭にまで広がった時のようにブルブルっと震えたり自我が抵抗したりという感じはありません。ただ単に広がってゆきます。<br /> <br /> この、体中の感覚を言葉で簡素に表すのであれば、「空」と表現できるのかもしれません。禅などで言われている空と同じかどうかはよくわからないですし流派によって違う気も致しますが、この「さらっとしている感覚」は「無」ではありませんし、であれば「空」と言っても良い気が致します。どこかで「中空の竹」という言葉を聞いたことがありますが、身体の中を空の入った竹のようにして行うサマーディの種類があったような気が致します。<br /> <br /> 例えば「悟りに至る十牛図瞑想法( 小山 一夫 著)」を確認してみましたが、それっぽいような、そうではないような、微妙な感じです。<br /> <br /> 同書では心身脱落の後に中空の竹が来る、となっているのですが私には心身脱落というのはよく分からなくて、この「創造・破壊・維持の公の意識」がやってくる前はエネルギーに満ちて、その更に前の段階で平穏な静寂の意識に達した時に「遠く」まで澄み渡るような、涅槃を垣間見たような状態になったのですが、その時であれば心身脱落と言っても良かったかもしれませんけど、今はよく分からないですね。とは言いましても普段の瞑想で身体はあまり意識しておりませんので、最初から心身脱落状態だったと言えばそうかもしれません。であれば意識していなかっただけで既に達成されていたということなのかもしれませんが。<br /> <br /> 中空の竹は、同書によれば「管」であって、そこにサマーディのエネルギーを注ぎ込む、ということになっているようですけど、確かに、師匠がいて教えをこうのであれば弟子はそのように中空の竹を作ってその中に師匠のエネルギーを注ぎ込んでもらうというのもあるのかもしれませんね。一方で、同書にはいくつかの引用文があって、そちらは聖者が中空の竹に近い心境を語っていて、それは確かに、私の状態に似ているといえば似ている気も致します。<br /> <br /> 中空の竹というか、周囲が既存の昔ながらのオーラで、中心に上記のような「さらっとした気」が満たされていって増えている、という感じですので、ちょっと縦長ではありますけど竹というほど長くもありませんので、別物かもしれませんけど。<br /> <br /> 最初、この「創造・破壊・維持の公の意識」が胸の奥に出てきた頃は「ある」として認識していましたけど、広がった後は「ない」ものとして認識するようになりましたね。この変化は面白いです。たぶん質としては変わっていないとは思いますけど。周囲とは異なる質のものがあると「ある」として認識されたものの、それが広がってみると質としては「さらっとした気」ですので「ない」と認識されているような気が致します。それは完全に何もないわけではないので「無」ではなく、であれば「空」と言えなくもないですし、人によっては「虚」と言うかもしれません。感覚としてはそのような「さらっとした気」が体中に充満してきて、それは「創造・破壊・維持の公の意識」であるわけです。最初こそその属性のうちの1つである「破壊」あるいは「自我がなくなる」感覚に若干の恐怖と震えを感じたりもしましたけど、今は、微妙な波動の違いで「振動」を少しブルっと時々感じるくらいで、基本的にはその新しい感覚を受け入れています。<br /> <br /> この創造・破壊・維持は3つの属性ではありますけど1つの波動というかオーラというか存在というか意識のようなものの別々の面を表現しているだけで、あくまでも存在としては1つのように思います。それが、胸から始まって体全体を覆うようになってきています。<br /> <br /> Sat, 02 Jan 2021 00:00:00 +0900 食べ物はエネルギーの流れに影響がある https://w-jp.net/2021/2224/ <br /> 少し前から鼻頭に意識を合わせて呼吸するだけでエネルギーが頭まで上がるようになってきたわけですけど、食べ物はエネルギーの流れに影響があるように思います。<br /> <br /> 良くない食べ物を取った時はお腹のあたりで詰まりが起きてエネルギーが頭まで上がりにくくなります。<br /> エネルギーが滞ると、次に意識がぼんやりとしてきます。エネルギー不足になるわけです。<br /> <br /> これは、単純にエネルギーのルートが詰まるというお話と、良くない食べ物を消化するのにエネルギーが必要になってしまう、というお話とがあるように思います。どちらにせよ良くない食べ物を取ると半日とか数日とかエネルギーの流れが悪くなります。<br /> <br /> 一方、その後に最近は胸の「創造・破壊・維持」の意識が体中に広がってきたわけですが、この意識はそれほど食物の影響は受けないような気が致します。<br /> <br /> とは言いましても、良くない食べ物を取るとエネルギーの基本的な流れが悪くなるのは一緒ですので、たとえ奥深いところで「創造・破壊・維持」の意識が変わらず動いていたとしても、基本的な認知能力のところで活力が低下してしまい、周囲の物事を把握する力が落ちてしまいます。<br /> <br /> ですので、どちらにせよ変な食べ物は取らない方がいいですね。<br /> <br /> どんな食べ物が良くないのかは色々と試せばいいと思うのですが、加工食品は良くないですね。<br /> <br /> 意外に平気なのがカレーパンとか。添加物沢山な割には割といいです。他にも、添加物いっぱいの惣菜パンも、種類にはよるのですけど、割と問題ない感じです。 と言いますか、悪い食べ物がとにかく多いので、それに比べたら有名メーカーの惣菜パンが意外に安定していて安心できます。変な食べ物を試してみて地雷を踏むよりは有名どころの安定した惣菜パンとかの方がいい、という感じです。難点を言うと、使っている油によって気持ち悪くなる時がありますけど、大手メーカーの方が油の管理がしっかりしているので、世間のイメージでは身体に悪いと思われているような大手メーカーの方が逆に問題なく安定して食べれるような気が致します。昔は惣菜パンは気持ち悪くなったりもしましたけど、年々、惣菜パンのレベルが上っている気が致します。これであればそこらで変なものを食べるよりわかっている惣菜パンを食べていた方が、そんなに凄く良いというほどでもないですけど、地雷を踏むことがないので割と安定している感じです。<br /> <br /> とは言いましてもそればっかりですともちろん調子が悪くなりますので、基本は豆腐とか大豆系の加工食品とか味噌汁とか、バターピーナッツとか果物とか。そういう定番なものは普通に食べてます。<br /> <br /> 私はベジタリアンではないですけど野菜や果物を多めに取るのが基本で、栄養のためにはたまにはお肉も必要と思ってます。特に食べ物に制限はないですけど、気持ち悪かった食べ物は避けるようにしています。ものにもよりますがハンバーグは特に危なくて、食べると吐き気がして瞑想もうまくできなくなります。ソーセージも似たようなものですね。どちらも余りの肉を薬でくっつけて形よく見せているような食品ですからね・・・。そうでない安全な高いハンバーグやソーセージもありますけど、スーパーだと見分けがつかないですからね。パッケージで安全をうたっていて高くても食べてみたら吐き気がする、なんてこともあります。であればそもそも買わない方がいいです。栄養のために必要という感じがしてたまに買う時があるくらいです。それはインスピレーションで。<br /> <br /> ベジタリアンの人の主張で、肉食は「生き物」だから可愛そう、という人は多いですけど、私はそのあたりはあまり気にしませんね。<br /> <br /> 時代が変わってしまえば肉食という文化もなくなってしまうかもしれないですし、いまあるものをあるうちに楽しんでおこうかな、という気持ちもあります。肉食なんて特に日本ではここ100年かそこらのお話ですからね・・・。その前までずっと草食でしたし。たぶん栄養的には草食で十分なのでしょうけど、ここまで肉食の文化が進んで味のクオリティが高まっているのならば楽しみます、というくらいのお話です。<br /> <br /> 数百年後に肉食文化がどうなっているかなんてわかりませんし。<br /> <br /> 特に、宇宙人との交流が始まって牛に似た宇宙人とか豚さんに似た宇宙人、あるいは鳥の宇宙人と交流が始まったら地球の肉食文化は見直されると思いますよ。なにより、向こうが不愉快に思うでしょうからね。こっちの問題というより、宇宙人の方から、同族を食料にしているような地球人に対してどうにかしてください、という話は出てくると思います。<br /> <br /> 今はね、惑星の中では自由が保証されていて、惑星の自由は尊重するという宇宙のルールがありますから地球で何をやっても宇宙人は黙って見ていますけど、ちょっと不愉快に思っている宇宙人もいると思いますよ。というか、います。でも、宇宙のルールですから黙って見ているわけですよね。<br /> <br /> 宇宙時代になって宇宙人と交流が始まったらいろいろと変わると思いますけどね。<br /> <br /> でもまあ、そういうことを抜きにしても、肉を食べるとエネルギーの通りが悪くなりますので、栄養がしっかり取れているということであればわざわざ肉を食べる必要はそんなにないかなとは思います。ですので、基本はベジで、たまに栄養のために肉食というくらいでいいのではないかなと。<br /> <br /> 地上の動物の肉はそうですけど、魚についてはエネルギー的にそんなに問題ないとは思いますけどね。貝や魚は私は普通に気にせず食べてます。<br /> <br /> Sat, 02 Jan 2021 00:00:00 +0900 手かざし、をする流派で生きた記憶 https://w-jp.net/2021/2223/ <br /> 私は今生ではそのような流派に属してはいないのですけど、子供の頃から「手かざし」が癖で、挨拶とかにすぐ「手かざし」をしていました。今でも時々、無意識ですることがあります。<br /> <br /> ことあるごとに、これはなんでだろう、と思っていたのですが、ふと、過去生で僧侶だったような姿が一瞬見えました。<br /> <br /> すぐ1つ前の前世のような気もしますが、他にも「1つ前の前世」のように思える記憶もありますので、どっちが1つ前かなあ、というところは微妙ですけど、両方の魂の記憶を少しづつ受け継いでいるのであれば両方とも1つ前と言っても間違いではないですね。<br /> <br /> ただ、あまり具体的な記憶はないのですよね。どうでしたかね・・・。<br /> 場所は関東の山側で活動していたような気もしますけど、場所を転々としていたような気もしますし。<br /> <br /> 調べてみると「手かざし」をしている流派は日本に幾つかあって、どれを見ても具体的にはピンとは来ませんけど、そのうちどれかのような気もします。<br /> <br /> 何かの機会があれば旅行ついでにお寺を巡ってみるかもしれません。何かのインスピレーションが得られるかもしれませんので。<br /> <br /> <br /> そういう「手かざし」の癖はありますけど、個人的にいまそれを特別なものとは考えていません。<br /> <br /> 確かに「手かざし」は相手に良い影響を与えるとは思いますけど、今の私としてはただの癖でしかないですし。<br /> <br /> 特にそのことで何かを主張するわけではありません。<br /> <br /> ただ単に、癖の理由を思い出したりすることでルーツを確かめたい、というくらいです。<br /> とは言いましても強い希望ではなく、わからなければわからないままでいいですし、分かればラッキー、というくらいです。<br /> <br /> Fri, 01 Jan 2021 00:00:00 +0900 神を名乗る存在からの接触に注意する https://w-jp.net/2021/2222/ <br /> ある程度の修行が進むと、神を名乗る存在からの接触がありますので注意する必要があるように思います。<br /> <br /> 私が20年くらい前に勉強させて頂いておりました団体にもそのようなことがあり、それまではどちらかというと宇宙系のスピリチュアルの教えでしたが、とある時を境に日本の土着の神々の教えが入るようになり、やがてはそれ一色になったことがあります。<br /> <br /> 日本の神々の特徴はとにかく強く、荒々しいです。言動にしても日本の武士あるいは武将クラスの強さと優しさを備えていたりもしますが、日本の戦時中の将校のような精神的キツさも備えていたりします。もちろん神にもよるのですけど。<br /> <br /> それはそれで力のある存在ですけど、悟りを開いているかというと疑問に思います。<br /> 私の見たところ、悟りを開いていない神が多いように思います。というか日本の土着の神で言うと見た範囲ではほとんどかもしれません。<br /> <br /> 神々が戦っていて、勢力争いをしているような感じです。日本の今の時代にもそれは見えないところで行われています。<br /> <br /> ですから、日本の神様に言われたからと言って喜んで言う通りにどこかに行って神事とかしないことですね。何が目的かなんてその程度の修行者にはわかんないですよね。何を隠しているかもわからないですよ。全部分かったつもりになっていても、嘘のお話をされている場合もありますし、それを見抜けないなら関わらない方が良いです。<br /> <br /> ある程度の修行が進むと、そのように日本の神を名乗る存在に、言い方は悪いですけど「使い捨て」にされる人が一定数出てきます。本人は修行が進んで神様の手足となって動いていることに喜んでいたり誇りに思っていたりしますけど、まあ、分かってやっているのか何なのか。<br /> <br /> もちろん分かっていらっしゃる方もおられますので、本当に分かっているのなら問題ないですけどね。 その場合、自分が「どっち側なのか」わかっているということですよね。敵と味方、どっちについていますか? それとも、争いには関わらない立場ですか?<br /> <br /> 昔はアセンションが盛り上がった時期でしたけど、アセンションをネタにして神事を各地でさせて自分の神の勢力を増やそうとする意図もありましたよね。手助けするにしてもそういうずる賢い勢力の手先になっていないことを確認した方がいいと思いますけど。<br /> <br /> まあ、神々の方がずっと上手ですよ。最近ようやく目覚めた人がすぐに見抜けるなんて思わないほうがいいですし関わらない方がいいと思いますけどね。分かってる人がやるならいいですけど。<br /> <br /> アセンションと言うのかどうかはともかくとして大変革はあるにはあるのでそれを伝えるのはいいのですけど、アセンションをネタにして煽って自分の勢力を増やそうとしている日本の神様もいらっしゃいますからねえ・・・。神だって随分とずる賢いのですよね。<br /> <br /> 神というと悟ったかのような印象がありますけど、実際は、そんな日本の神々は悟ってはいないですよ。日本の神々の手足になるのではなくて、日本の神々に教えを与えるくらいの人になるのを目指すべきですよね。日本の神々すらも教えを請うてくるような人が本物ですよね。なんて私は思いますけどね。<br /> <br /> 他の人は好きに生きればいいですから、思うように勝手にすればいいですけどね。 神様に頼まれて神事をしたいなら好きにすればいいんです。本人の勝手です。別に、止めたりはしません。私は「どうかなあ」と思いますけど、本当はそれが正しいのかもしれませんし。短期的あるいは長期的にどちらが正しいのかなんてあまり関係なくて、どっちでもいいと言えばいいわけですし。ただ、私はあんまり関わらないですよ、というだけのお話です。<br /> <br /> 使命があって神様と一緒に神事をするなら好きにすればいいです。それもまあ、ゲームとか趣味みたいなものですよね。そんなお遊びを楽しみたいなら、そうすればいいと思います。別に悪いことでもないですし。ただの好みの生き方というだけのお話です。<br /> <br /> ただ、ゲームや趣味と思えなくてその現実にすっかり吸い込まれてしまうようであれば神々のお願いなんて関わらない方がいいと思いますけどね。趣味と思っていてもその世界に吸い込まれてしまうことだってありますし。なかなかうまくいかないものです。であれば最初から関わらない方がいい。<br /> <br /> 似たようなことはヨーガ・スートラにも記されています。<br /> <br /> 3-52) ヨーギーは、また災いを恐れて天界の住人たちの誘惑に誘われたりおだてられたりしてはならない。「ラージャ・ヨーガ」 (スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ著) <br /> 3-51) あらゆる存在形態の誘惑を完全に拒絶すべきである。たとえそれが天からのものであっても、というのは、まだ邪悪な接触が再発する可能性があるからである。「魂の光(アリス・ベイリー 著)」<br /> <br /> 例外はあって、生まれた時の使命、あるいは追加での使命に含まれている時はやるしかないですよね。それもその理由があってのものなのでしょう。神々の戦いに加わるというのも、そういう人生もあるのだとは思います。<br /> <br /> ただ、日本の神を名乗っているからと言って悟っている存在とは思わない方がいいと思いますけどね。この宇宙の創造と破壊と維持を司っているという意味における神とは日本の神は異なりますしね。神違いです。<br /> <br /> 日本の神の中にも悟っている神はいらっしゃるとは思いますけど、そんな争いに巻き込まれている神に関わらない方がいいと思いますけど。<br /> <br /> まあ、それも好き好きですので、やりたい人がいれば勝手にやればいいと思います。<br /> <br /> 神々から接触があったりすると、そんじょそこらの素人やそれなりの人であってもコロっと騙されて有頂天になって「ついに私もそこまで来たか」と、のぼせ上がってしまいますからねえ・・・。 私が何か言っても聞く耳持たないでしょうし。好きにすればいいんじゃないですか。<br /> <br /> 私に影響が出てくるようであればこっちから干渉しますけど、それ以外であれば好きにすればいいわけです。<br /> まあ、長い目で見ればそれすらも学びで、完璧なわけですからね。<br /> <br /> あるいは本当にいい神様でいいことをしているかもしれないですし。そういうことだってもちろんあります。<br /> <br /> 趣味で関わるくらいがちょうどいいのではないでしょうか。<br /> <br /> Fri, 01 Jan 2021 00:00:00 +0900 愛とはエネルギー https://w-jp.net/2021/2221/ <br /> とても単純で、エネルギーが高まれば愛が深まる、ということだと思います。<br /> <br /> エネルギーが低ければ誰かから分けてもらいたく思って、それが異性のパートナーだったりします。エネルギーが高ければ愛に包まれている状態になって他人から好かれますし、エネルギーが高い状態であれば他人からエネルギーを奪う必要もありません。<br /> <br /> 愛には奪う愛とか与える愛とか言われたりすることもありますけど、奪う愛とはエネルギーを奪うことで、与える愛とはエネルギーを与えることです。<br /> <br /> 他人を縛り付けておくような愛というのは相手からエネルギーを継続的に奪いたいという思考の現れで、それが愛として表現されているだけのことです。しかしながら根本はというとエネルギーのお話です。<br /> <br /> 他人に奉仕する人というのは他人にエネルギーを与える人なわけです。<br /> <br /> 愛とはエネルギーの高まりであり、女性であればそのことを「癒やし」と呼ぶかもしれませんし、男性ならば「パワーを高める」と言うかもしれません。<br /> <br /> ですけど、根本的なところで言うと実のところその内容としては同じで、エネルギーの性質はちょっと違いますけど、両方ともエネルギーを高めるという点に関しては同一です。<br /> <br /> 女性ならそれを愛と言いやすいですけど男性なら愛と言いにくいかもしれません。しかしながら、それはエネルギーでありパワーであるのですから、「癒やし」であっても「癒やしのパワー」と言う言葉に違和感がないように、どちらもエネルギーの現れであるわけです。<br /> <br /> 男性ならば女性から受け取るのは愛で他で受け取るものはパワーだと言葉では分けるかもしれないですけど、どちらにせよエネルギーであり、愛以外のもの、例えば尊敬だとか感謝だとかいうものも結局はというとエネルギーであって、多少は違うエネルギーではありますけど、どちらにせよ愛のエネルギーと言ってもそう違わないものであるわけです。細かく言うとちょっと違う、というお話にはなりますけど、愛がエネルギー、という点に関しては大枠に関してはそうだと言えるわけです。<br /> <br /> まあ、私はそんな感じで考えています。他の人は違う考えがあるかもしれませんね。それは好きにすればいいと思います。別に他人の考えを変えるために書いているわけではありませんので。他人は好きに生きればいいと思います。<br /> <br /> 昔は、この考え方をよく耳にしていても、どこかピンと来ていませんでした。<br /> <br /> 「愛とは何か?」<br /> <br /> これは、普遍的な昔からのテーマかもしれません。<br /> <br /> 愛というと男女間の愛がまず最初に来て、普遍的な男女を超えた社会的な愛に広がる、というのが一般的な理解だと思います。それはそれでいいのですけど、その枠組が、どこか根本のところでピンときていなかったのですよね。<br /> <br /> 奪う愛と与える愛、そして普遍的な愛。それぞれ愛の形があって、その枠組で考えると、片方を取ると片方が否定される、という関係にありました。例えば、奪う愛を良くないものとして与える愛を良いものと考える。あるいは普遍的な愛を良いものとすると与える愛も否定されてしまったりする。頭で考えてもなかなか解決することではなかったのですよね。<br /> <br /> それが、自らエネルギーが高まって以来、癒やしに対する観念が変わりました。エネルギーが高まることが癒やしあるいはパワー、男らしさ、みたいなところに繋げて考えると、視点が1つ高まったわけです。<br /> <br /> 個別の事象として愛を捉えるのではなく、エネルギーの流れとして捉える。<br /> <br /> そうすると、奪う愛であったとしても与える愛であったとしても普遍的な愛であったとしても全てはエネルギーの現れであるから、何でも全て良しという理解にたどり着くわけですよね。<br /> <br /> これは、前に同じことを何度も言われてもどこかピンときていなかったことです。しかしながら、この「すべて良し」の感覚と「愛」の感覚と「エネルギーの流れ」の感覚が私の中で筋が通って腑に落ちている感じです。<br /> <br /> そして、愛のことを見てみると、愛とはエネルギーであって、全て良し、という心境になっているわけです。<br /> <br /> Fri, 01 Jan 2021 00:00:00 +0900 胸の「創造・破壊・維持」の意識が胸から下腹部および一部は頭にまで広がる https://w-jp.net/2020/2219/ <br /> 先日、胸の奥で創造・破壊・維持を感じて胸にまで広がった後、まずは喉のヴィシュッダに圧力を感じるようになりました。どうやらヴィシュッダでブロックされている感じでしたので、逆方向の、ムーラダーラに向けて下方にその意識を広げてみました。<br /> <br /> すると、その創造・破壊・維持のエネルギーがムーラダーラに向かっては割とスムーズに広がってゆき、ムーラダーラのエネルギーと混ざり合ってゆきました。<br /> <br /> すると、今までムーラダーラに存在していた「自我」の欠片のようなものがブルブルっと少し振動して自我による最後の抵抗のような反応をした後、ムーラダーラの自我がかなり減りました。元々自我は減っていたのですが、この創造・破壊・維持のエネルギーはまさに「公」と言っても良い全体意識ですので、その創造・破壊・維持のエネルギーによってムーラダーラが満たされたらそこに残っていた「個」としての意識、いわゆる自我の欠片は消え去るしかないということなのでしょう。<br /> <br /> そうしてムーラダーラに残されていた自我がブルブルっと振動して最後の抵抗の後に消え、しばらくすると安定しました。<br /> <br /> その後、ムーラダーラから背骨(ヨーガのスシュムナ)に沿ってエネルギーを頭まで上げようとすると、今までよりも太いしっかりとした粘着性のあるエネルギーが上がってゆく感じを受けました。<br /> <br /> それまではムーラダーラからアジナまでエネルギーを上げるにしても、もう少し気体に近い軽いエネルギーが上がる感じでした。これは相対的なものですのでそれよりかなり昔に比べたら粘着性が上がってはいるのですが、相対的に見ると今回の創造・破壊・維持のエネルギーは更に粘着性が上がっていて、気体ではあるのですがちょっと粘着性があって、ちょっとだけ粘着性のある液体が上がっているような感覚になります。まあ、言葉で言ってもあまり通じない気もしますが一応書いておきます。<br /> <br /> そのように、相対的には以前より固まった感じのあるエネルギーがムーラダーラから上り、その途中になると感覚が消えて、一部は頭まで上がっている感じです。<br /> <br /> この粘着性のあるエネルギーが上がる時に背骨の筋に何か圧力ががかかるような感じになります。そして、ムーラダーラで起きたのと同様に、背筋のあたりに残されていた自我の意識が少しブルブルっと震えた後に消えてゆきます。<br /> <br /> そして、再度、ヴィシュッダがざわざわした感じになります。ヴィシュッダはまだ動いていない、ブロックされている、という感じを受けます。<br /> <br /> 一部のエネルギーは頭にまで上がって、頭に残っている自我のうちいくらかを同様にブルブルっと震わせて消してゆきましたが、どうも、完全には自我がまだ消えていないようです。とは言いましても、瞑想前の状態と比べてみると随分と創造・破壊・維持の意識が体中に浸透してきた感じが致しますので成果としてはとりあえず十分で、また続きをすればいいだけだと思います。<br /> <br /> この、ブルブルっと震えて自我が消えてゆく感覚は、消える瞬間に自我がほんのちょっとだけ抵抗をしている感じです。それを、「怖い」と表現することもできるのかもしれませんけど、怖いという感覚はほんのちょっとで、怖いと改めて言うほどのものではありません。一応要素としてはそういうのもあるのかもしれないですけど、主な感覚ではないですね。「もう、仕方がないね」と自我が最後の覚悟を決めて素直に消えていっているというような感じです。ですけど、自我はまだ残っていて、それは身体の中でかなり劣勢にはなっているものの、まだある感じです。<br /> <br /> 残しておかないと日常生活に支障が出ないかな、とか、そういう自我の抵抗らしき気持ちもちょっと出てきてはいます。それはそれで真実なのでしょうけど。でも、自我というのはアハンカーラ(エゴ)でブッディ(決定する能力)の反応としてアハンカーラ(自我、エゴ)が生まれるわけですので、ここで全て自我を一旦は消してしまったとしてもブッディがある限りは再度アハンカーラは出てくるでしょうから、特に問題ない気もしますけど。どうでしょうかね。<br /> <br /> ここで消す自我というのは習慣になってしまっているような固定化された自我で、ブッディに伴ってその都度出てくるようなアハンカーラが出てくるのは仕方がなくて、それはその時々でアハンカーラの反応だと気付くことができるのでそれは問題ない気もしますね。<br /> <br /> 検証してみたところ特に問題なさそうですのでこのまま更に創造・破壊・維持の意識を広げてゆきたいと思います。<br /> <br /> Thu, 31 Dec 2020 00:00:00 +0900 仏師として空海と共に唐から渡来した記憶 https://w-jp.net/2020/2218/ <br /> ・・・夢で見たお話ですので本当かどうかはわかりません。<br /> <br /> 当時、たしか唐の都で仏師として仏像を作っていたように思います。そして、日本から来た役人に招聘されて空海と共に、空海と同じ船で海を渡ったように思います。招致されたくらいですから、確か、唐でもそれなりに名の知られた仏師だったように記憶しております。<br /> <br /> 空海とは唐の都で会ったことはなく船で初めて一緒になりました。空海は秘伝を受けた青年とのことでしたけど、一見するとそこらにいる青年とそう変わりはないように見えました。船の上では時間がありましたし、そう多くの人が乗っているわけではありませんでしたのでことあるごとに話をして、どのような奥義を受けたのか聞いてみたりもしました。具体的にはちょっとすぐには思い出せないのですが、「空」に関する心境を色々と説明してくれたような気が致します。空即是色などに関する境地だったような気も致します。それに対して私は仏師としての境地に関して共感する点を感想として述べたりもしました。そうすると、空海はお世辞なのか何なのか「うむ。よく分かっておいででいらっしゃる。」と言ってくれたりもしましたっけ。<br /> <br /> 空海はしきりに「私にはやらねばならぬことがある」というような事も言っていた気が致します。日本に来てからその後空海と会うことはなかったような気が致します。割と近くにいたことはあった気がしますけど、特に会う用事もなかったと思いますし。船の上でだけ一緒でしたけど、なかなか興味深い人物でした。<br /> <br /> 私は渡来後、奈良のあたりに移って日本の人々に仏像の作り方を教え、自らも仏像を作ったりしたものでした。最初こそ仏像作りに慣れない日本の人々でしたがしばらくするとそれなりに熟練し、独り立ちしていったような気が致します。<br /> <br /> 私は日本の政府に雇われて来た身ですので一生涯の賃金を保証されていて、とは言いましてもそんな豪華な家ではなくて、普通の家に住んでいたように思います。特に衣食住に不都合があったわけではありません。その時は1人で渡来してきて、その後も、渡来人でしたし、特に結婚とかいうことはなく、1人で過ごしたように思います。<br /> <br /> 後年になって政府が変わって一時的に賃金の支給が途切れたことがありましたけど、新しい政府に言ったらきちんと再度支給してもらえましたね。まあ、私の存在自体がイレギュラーだったのでしょう。<br /> <br /> 晩年になって引退して、その賃金を年金のようにしていて最後は生涯を終えた気が致します。今から思えばもうちょっと続けても良かったかな。引退すると意外に暇した気も致しますし。一生現役でも良かったかもしれません。晩年は何していましたかね... 瞑想とかだったかもしれません。外から見ると役人は「あの渡来人は何をしているのだろう?」と思っていたみたいですけど。仏像を作っている時は良かったですけど、引退したら急に何かをロスした感じになっていました。それなりに体力も使いますけど特に引退の制限があることでもないですし、生涯現役が一番いいのかも。<br /> <br /> ちょっと簡単に史実を調べてみたことがあるのですが、空海と共に渡来した仏師なんてマイナーな存在らしく、最近の書物を見てもよく分かりませんでした。昔の記録の原本には乗っているのかもしれませんが読めないですし、まあ、仕方がありません。空海が渡来したのは平安時代が始まってすぐで、それから国としての政府は変わってはいないので、単にその地方の行政の取り扱いが変わったということなのかもしれませんし、平安時代の始まりの頃に行政区分の見直しが行われたのかもしれません。<br /> <br /> Wed, 30 Dec 2020 00:00:00 +0900 胸の奥の「創造と破壊(と維持の意識)」が胸いっぱいに広がってゆく https://w-jp.net/2020/2216/ <br /> 最初は、胸の奥底にほんの少し残っていたくらいでした。<br /> <br /> 最初の日、まず広大な創造と破壊の意識を感じて、怖く感じたりもしました。<br /> <br /> そして、その感覚が少し残った状態でいました。<br /> <br /> 今、瞑想を続けるうちに、その残った感覚、胸の奥にひっそりと現れて残っていただけだった「創造と破壊(と維持)」が広がってきて、今は胸いっぱいの範囲にまで広がり、喉にかかるくらいになってきました。<br /> <br /> この状態では特に苦しいとか怖いという感じではなく、最初に感じた創造と破壊の感覚の弱い感覚、と言ってもそれなりに深いですが、最初と比べるとそうでもないですがそれなりに深い感覚が胸いっぱいに広がっている感じです。<br /> <br /> 最初は、私自身の身体と意識とその想像と破壊の意識とが分かれているような感じでした。<br /> <br /> 特に最初は胸の後ろの方から近づいてきて、最初の日は胸の後ろの方からそのような創造と破壊を強く感じたものでした。<br /> <br /> そして、胸の少し後ろ側のところにほんのりと余韻が残っておりました。<br /> <br /> その状態では、まだ私自身と一体化したという感じではなく、肉体の身体としては重なっている部分にはありますが、私自身の心といいますかオーラの感覚としてはちょっとまだ後ろ側に少しずれて存在しているような感じでした。<br /> <br /> ですので、「外」にあるという感覚がその時点ではあったように思います。<br /> <br /> 一方、瞑想を続けていたら、最初はそのように「外」にあった創造と破壊の意識の欠片が胸の中に次第に入ってきて、今や胸いっぱいに広がっている感じです。<br /> <br /> 最初は怖くも感じた創造と破壊ですが、受け入れてしまえば基本的には怖くはなく、しかしながら、感覚として、ほんのりとその時感じたような恐怖の感覚もうっすらと感じております。<br /> <br /> 次第に馴染んでゆくのかなとも思います。<br /> <br /> まだその感覚は胸の周囲だけで、喉のヴィシュッダにかかりはじめて少しヴィシュッダがガラガラしている感じもしています。<br /> <br /> 次はヴィシュッダに何かある気もしますけど、どうでしょう。<br /> <br /> 今の所、基本は鼻頭に意識を合わせて呼吸するだけでエネルギーが頭まで上がるという瞑想をしていて、と同時に鼻頭を意識するだけで雑念が消えるという感じでもありますけど、特にヴィシュッダに対して何かをしているわけではありませんがヴィシュッダはエネルギーの通り道ですので反応している感じです。今後、ヴィシュッダも含めてどのように変化していくのか様子を見ていきます。<br /> <br /> Mon, 28 Dec 2020 00:00:00 +0900 空無辺処から識無辺処へ https://w-jp.net/2020/2215/ <br /> 油井真砂さんの著書「信心と座禅」を読んでいきます。<br /> <br /> ・空無辺処(くうむへんしょ)→これから<br /> ・識無辺処(しきむへんしょ)→これへ<br /> ・無所有処(むしょうしょ)<br /> ・非想非非想処(ひそうひひそうしょ)<br /> <br /> 先日、識無辺処の前兆が現れてきているのかもしれない、という分析をしましたがここにきて胸の奥の神意識がこの世を思いのままにできることを実感して恐怖を感じるという感じになりましたので、その感覚と同書の記述を見比べるとどうやら先日までは空無辺処の段階にいて、同経験を経てから識無辺処に入った、と解釈する方が妥当な気がしてまいりました。<br /> <br /> この時はっと胸にとどろきを伝えて、広々とした感じが全身に広がるのである。(中略)こうして自己の上に宇宙の広大さが感じられるといふ境地、これが、「空無邊處定」が完全に成ぜられたところであると同時に、「識無邊處定」が開けたところになるのである。「信心と座禅(油井真砂著)」<br /> <br /> ということであれば、私が胸の奥に「創造と破壊の意識」を感じて恐怖すら感じたことが該当するように思います。それは言い換えれば宇宙意識と言っても良いと思います。この世を統べる法とでも言いましょうか。人によっては神、あるいは神意識と言うかもしれません。<br /> <br /> この状態では、自分の個としての心というものは端っこに追いやられている、というようなことが書いてあります。そして、次の段階に達すると隅に追いやられていた個としての心が完全に空じられる(なくなる?)と書いてありますので、その1つ前の段階として私の状態は一致するように思います。<br /> <br /> であれば、私は「創造と破壊」の意識を知った時点で空無辺処が完成して識無辺処に移行した、とみなすのが良さそうです。<br /> <br /> ただ、完全にその状態になったわけではなく完全にするためにはもう少し時間がかかるということだと思います。最初こそ創造と破壊の感覚は強烈でしたが今はそこまでではありませんので、瞑想を深める必要があるのだと思います。<br /> <br /> Sun, 27 Dec 2020 00:00:00 +0900 創造と破壊の意識は必ず全体意識になる https://w-jp.net/2020/2214/ <br /> 創造と破壊(と維持)の意識が個としてのエゴを優先させることはあり得ないと思います。<br /> <br /> 創造(と破壊と維持)の意識とはそのまま宇宙意識とも言えるような広大な広がる意識であり、その時、「個」としての意識は片隅に追いやられています。<br /> <br /> 広い意識が先に来るのであって、その時、個の意識を優先させるなんてことは有りえませんね。<br /> <br /> よく、宗教家が「個を優先させるのか公を優先させるのか」みたいなことを言いますけど、これはどちらを優先させるとかそういうお話ではなくて、絶対的に「公」が先に来て、「個」は隅に追いやられた状態になります。<br /> <br /> ですから、別に、「創造と破壊(と維持)の力は強大だから個より公を優先させなくてはいけないな・・・」みたいに頭でどうこう考える必要は全く無くて、意識そのものが最初から「公」ですから、考えることが全て自動的に「公」になるわけです。<br /> <br /> その意識と離れると個の意識が復活してきますので、そうなったらそのような質問や考え方も存在するようになりますが、創造と破壊(と維持)の意識と一体になっている時はもはや意識の9割が公で占められることになるわけですね。<br /> <br /> ですから、創造と破壊(と維持)の意識と共にあるときに個を優先させるなんてことはあり得ないです。<br /> <br /> しかしながら、まだその意識が不安定な場合においては、何かを公に基づいて判断したとしても個の意識に戻ってきた時に判断を誤る、ということはあるとは思います。その場合、生活の中で100%ずっと創造と破壊(と維持)の意識と一体になっているわけではありませんから、一体になっていない時に個を優先させないように気をつけましょう、ということであればそれは注意すべきとは思います。<br /> <br /> とは言いましても、創造と破壊(と維持)の意識が深まるにつれ、あまりこういう心配は減ってゆくようにも思います。<br /> <br /> Sun, 27 Dec 2020 00:00:00 +0900 アナハタの奥の破壊と創造は「魔」のように認識されることもある https://w-jp.net/2020/2213/ <br /> 先日、胸の奥の神意識がこの世を思いのままにできることを実感して恐怖を感じたわけですが、実際はそれはそれなりに怖いですが、「魔」のような怖いものではなくて、創造と破壊という2面のうち破壊の方なのだと思います。<br /> <br /> しかしながら、感覚としては「魔」として認識されてもおかしくはないものだと思います。<br /> <br /> 創造と破壊の、破壊の面が人によっては「魔」と認識されるのもあり得ると思います。そのくらい、感覚としては怖いものも感じますが、それと同時に創造のエネルギーが満ちていて、単なる「魔」というわけではありません。<br /> <br /> ヨーガの人でこの感覚を「魔」と表現している人もいるような気も致します。<br /> <br /> ですけど、それは「魔」というよりも、「創造」、と表現した方が適切のようにも思います。<br /> <br /> これは修行を進めてゆけば必ず遭遇する「魔」で、これとは別に本当に悪魔のような存在もいますけど、それは別物です。必ず遭遇する「魔」ということであれば創造の破壊の面のことだと思います。それは恐ろしくも感じますから「魔」とも言えるのだと思います。<br /> <br /> これとは別に雑念やトラウマなどに囚われる状態を「魔境」とも言ったりしますけど、それとも別物だと思います。<br /> <br /> 想像とかトラウマとかそういうお話ではなく、存在そのものが創造と破壊の両面を持っているという認識で、それが胸の奥底に存在、というか、近づいてきて現れて、最初は激しく、その後はずっと淡く存在している、というように認識されるわけです。<br /> <br /> ちょっと違うかもしれませんけどこのようなことを言っているヨーガの大家もいらっしゃいますね。ちょっと表現が違うので別物かもしれませんが同じことかもしれません。<br /> <br /> 個人のカルマを超えたような世界へいこうとすると、必ず邪魔をする魔が出てきます。必ずね。魔に会わないようなやつは、宗教者としては、霊的な成長という点から見たらまだ駆け出しなのです。魔に会わないような人は、まだまだ宗教的には一人前ではない。まだ個人のカルマの中で動いているに過ぎない。霊が憑いた、怖い、などと言っても、そんなのとは全然違うのですよ、魔に出あうというのは。魔に会ったらそれこそ怖いから、どうしたって神様を拝むようになります。「超意識への飛躍(本山博著)」<br /> <br /> 本当にいるのかもしれませんけど、もし同じものだとすれば、私にはそんなに悪い怖い魔というよりは、創造と破壊の破壊の面のことだと思いました。これは避ける必要がない、と個人的には判断しました。<br /> <br /> 存在としての魔物であれば必ず遭遇するわけではないと思いますけど必ず遭遇する魔だとしたらこれと同一な気が致しますけどね。どうでしょうか。<br /> <br /> そういえば、シュタイナーの説く「境域の守護者」というのもありましたね。もしかしたらこれも同じことかもしれません。であれば納得です。昔にも何やら怖く見える影のようなものを瞑想中に見て、それが越境の守護者かともその時は思いましたけど、それよりもこの創造と破壊の破壊の面が「越境の守護者」と認識されるのであれば、その方がしっくりきます。<br /> <br /> Sun, 27 Dec 2020 00:00:00 +0900 アナハタで創造と破壊を感じる段階は後戻りのように外からは認識される https://w-jp.net/2020/2212/ <br /> おそらくは、そういうことなのかなと思います。<br /> <br /> 先日、アナハタで創造と破壊を感じた体験は、そこにも書きましたがその前段階で一旦はアジナまである程度のオーラで満たされておりました。実際は今も似たようなものですが、外から見ると、この状態はアナハタ優勢の状態に戻ったかのように見えてしまうかもしれません。<br /> <br /> ですけど、実際は、先日書きましたようにそれは一段階超えた、ということなのですよね。<br /> <br /> しかしながら、外から見ると、オーラ的にはそれは後戻りしたかのように見えてしまうわけです。<br /> <br /> 意識としては奥深いところに繋がって変化したものの、それは、後戻りのように認識されるわけです。<br /> <br /> 例えば、イギリスの魔女の時にスパルタ教育をした時は生まれながらに覚醒状態でしたので、弟子への教育において「オーラを下げずに上げなさい」という一貫した教育をしていたわけですが、その時もその前もその後も基本的にはずっと覚醒状態で生まれて死んでおりますので、このように弟子が一旦は下がってそれから再度上がる、というような変化のことはよく分からなかったわけですね。<br /> <br /> ですから、オーラだけを見れば「なんで戻ったのですか。オーラを上げなさい」となるわけですし、しかもスパルタ式ですから弟子は辛い思いをするわけです。<br /> <br /> どうも、このあたり、私の教育方法が間違っていたようです・・・。<br /> <br /> 今更ながら、このことに気が付きました。<br /> <br /> このことに気付くのが今生での目的の1つだったのかもしれないですね。<br /> <br /> 今もイギリスに続いているスパルタ式のスピリチュアル教育は、少し直した方がいいのかもしれません。とは言いましても既に私の手を離れていてどうしようもない面もありますけど。<br /> <br /> Sun, 27 Dec 2020 00:00:00 +0900 ようやく瞑想初心者を卒業したような感覚になる https://w-jp.net/2020/2211/ <br /> 今までも、既に瞑想中級者のような気もしておりましたが、ここにきて、実はようやく初心者を卒業したばかりなのではないかという気になってきました。<br /> <br /> いやはや、瞑想というのは本来は、鼻頭に意識を合わせて呼吸するだけでエネルギーが頭まで上がるとか鼻頭を意識するだけで雑念が消えるといった意識状態でするものであって、単に座ってマントラを唱えたりエネルギーワークっぽいことをしてみたり雑念を抑えようとしてみたりするのは、まだまだ初心者の域を出ていなかったということです。<br /> <br /> ・・・・というような気になってきました。<br /> <br /> どうやら、そう考えるのがしっくりきます。特に誰かに言われたというわけでもないですけど、この最近の状態を知ってしまうと今までの瞑想が瞑想と言えるような大層なものではなかったように思えてきたわけです。<br /> <br /> であれば、実のところ今までずっと瞑想初心者で、ようやく瞑想の初心者を卒業したのかな・・・ とも思えてきます。<br /> <br /> ようやく、壁を突破したのかなという気も致します。<br /> <br /> ただ、まだ壁を突破しただけで、まだまだ自由自在の域には達していないのかな、という気も致します。<br /> <br /> クンダリーニの経験をしたりエネルギーが高まったりナーダ音のことがあったりしましたが、これは、今までは個という意識においては多彩な大きな経験でしたが、神意識としては小さな経験だったのかな、という気も致します。<br /> <br /> それは、神意識を知ってしまえば小さなもので、それらの瞑想体験は初心者のものと言っても良いのかもしれません。<br /> <br /> 神智学系の古い書物に書いてあった、次の段階が正しいものであることを感じます。そして、それぞれの段階での私の状態が対応しているように思います。<br /> <br /> 1.下方のチャクラの活性化、安定化。エネルギーを通す。クンダリーニによりマニプラ優勢になった状態に相当。その他細かくはヨーガ履歴参照。準備段階の前半。図における「試練の道」に相当。<br /> 2.上方のチャクラの活性化、同様にエネルギーを通す。アナハタ優勢になった状態、および、アジナ優勢や静寂の意識、そして、ムーラダーラを意識しただけで登頂のサハスララまでエネルギーが通るとか、サハスララからエネルギーが上に抜けるような状態が相当していたような気が致します。準備段階の後半。図における「弟子の道」に相当。<br />  ↑ここまでが初心者<br /> <br /> 3.アナハタ・チャクラ、ヴィシュッダ・チャクラ(カンサ・チャクラ)、アジナ・チャクラ。これらはこの順番のことが多いようですが実際のところ順不同のようです。私の場合、最近の神意識がこの世を思いのままにできることを実感して恐怖を感じるという感覚はアナハタの奥で感じました。アナハタはもっと愛に満ちたものと思っておりましたのでこれはちょっと意外でした。愛には違いないですけど、もっと根本的な、恐怖をも感じるような破壊と創造が両方とも存在している広大な意識というか意思を持ったエネルギーです。何でも自分の思いのままにできてしまう創造のエネルギーは恐ろしくも感じました。<br /> 4.全てのチャクラが一体となる、統合されたチャクラ<br /> <br /> であれば、私は今3番の段階にいるのでしょう。<br /> <br /> チャクラも、本格的なチャクラと言えるのは3番目以降で、1番目と2番目のチャクラは調整するというくらいというのは私の実感と合っています。<br /> <br /> 下方のクンダリーニでマニプラ優勢になっただけでもかなりポジティブになって人生を楽しく生きられるようになりましたし、アナハタ優勢になっただけでも人生が素晴らしく感じられたものでした。しかしそれで終わりではなくて、更に上の方までエネルギーが通り、そして、ここにきてようやくアナハタの奥にある根源の創造の意思とエネルギーと繋がり、そこは今までとまるで別の世界になっており、今まで1番や2番の状態を経てきてそれなりに瞑想が上達した気になっておりましたが、おそらく3番目の状態になってみると今まで2番まででやってきた瞑想などほんの初心者のやることで、ようやくここに来て初心者を卒業したのかも・・・ という気になってきたのです。3番に入ってようやく神秘の世界へ入るのであって、2番まではきっと準備に過ぎないのですね。であれば2番までは初心者で、3番に来てようやく初心者を卒業と言える気が致します。<br /> <br /> この3番の創造のエネルギーと意思を知ってしまったら、もう後戻りはできない、という感じを受けます。<br /> <br /> スピリチュアルやオカルトで楽しいとか面白いとか言っていられるのはきっと2番までなんですね。3番はかなり現実的で、気をつけて触れなければ火傷しそうです。<br /> <br /> この1番と2番の段階でもチャクラが活性化してエネルギー的にはそれぞれの部位が優勢になりましたので、それはそれで世間で言われれている「チャクラを開いた」ということなのかなと漠然と理解しておりまして、感情面や雑念の減少および性欲の克服およびエネルギー向上によるポジティブさのアップといった変化がありましたが、それでチャクラが開いたにしては古来から聖典や他の書で言われているような超常的な変化が起きていませんでしたので、ちょっとしっくり来ていませんでした。まあ、そんなもんかな、と。<br /> <br /> しかしながら、今回、おそらく3番の過程に入ってアナハタに感覚が出てきて、チャクラと呼ぶに相応しい感覚になってきました。であれば、今までのはチャクラを開くとかそういう感じではなく、表にあるように「チャクラを調整する」というくらいのものだったのでしょう。ただ、表にはエネルギー的なことは書いておりませんので、もしかしたら、この著者の場合と私とはちょっと異なるのかもしれません。<br /> <br /> 同書は先にチャクラを調整してからチャクラを開き、それからエネルギーを高める、という順番のようにも読めます。私の場合、先にエネルギーが高まってからチャクラを調節し、それからチャクラを開く、という順番の方がしっくりきます。まあ、書き方だけの問題で実は一緒なのかもしれませんけど著者は故人ですし確かめようがないですけど。<br /> <br /> とは言うものの、先にチャクラを下・上で調整(1番と2番)してからアナハタ(3番)、ヴィシュッダ、アジナ・サハスララ、という順番になるというのはしっくりきます。一旦上がってから、一旦アナハタまで戻ってから再度上がる、という感じになるのですね。それは私の今の状態とも今の所一致しているように思います。<br /> <br /> Sat, 26 Dec 2020 00:00:00 +0900 胸の奥の神意識がこの世を思いのままにできることを実感して恐怖を感じる https://w-jp.net/2020/2210/ <br /> 瞑想中、神そのもの、あるいは神意識を胸の奥底に感じ、それは単に三世を見通せるというよりはこの世を思いのままに変更できるというもので、それには喜びというよりはむしろ恐怖を感じました。<br /> <br /> 恐ろしく感じましたが耐えられないほどではなく、おそらく数分ほどの間それを抱えていたらやがて恐怖が去ってゆき、神意識の影のようなものだけが胸の奥に残りました。<br /> <br /> その意識がやってくるまでは最近の瞑想のように呼吸で雑念をなくしてエネルギーをアジナにまで通すという感じでやっておりましたが、ふと、このような神意識といいますか何か奥底の深い意識がやってきて、そういえば最初はちょっと想像にふけていたような気がして、漫画に出てくる神様たちのシーンが見えた後、胸の奥に不意に神意識らしきものが現れたのでした。<br /> <br /> 神意識というのが正しいのかどうかは分かりません。ヨーガで言うところのアートマンかもしれません。<br /> <br /> 瞑想を続けていると恐怖が出てくる、というお話は瞑想の本に色々と書いてありますが、それらと一致しているのかもしれませんし、そうではないのかもしれません。<br /> <br /> とある本には、自分というものが消え去る瞬間に恐怖が出てくる、みたいなことが書いてありましたが、今回のものは自分がなくなると言う感じはそれほどなくて、この世を自由にできることに対しての恐怖ですね。<br /> <br /> 神意識は、この世界を見通してこの世をありのままに感じるというよりはこの世界をもっと積極的に思いのままに変更できる意識であるのかもしれません。<br /> <br /> であれば、世界は神意識次第でどうとでもなるということですから、そのような大きな力は恐怖を伴って当然かも知れません。正しい意思の力がなければ大変なことになりますから。<br /> <br /> パワーに溢れていますのでかなりのポジティブですが歓喜と言えるような感情的な喜びはあまりなくて、強大な力に対する恐怖ですね。絶大なる力。この世がいかようにもなる意識。この世が神意識によって作られた世界、と言うのもあながち間違いではないことが直感でわかりました。<br /> <br /> この地球が卵のような脆いもので、その卵の地球を手のひらの上に乗せています。もしその気になれば地球の卵を握りつぶしてしまうこともできるのを感じますが、そんなことはもちろんせずに、手のひらを緩く広げたままにしておきます。そのように、力でどうこうしようと思えば何とでもできそうなことに対する恐怖があるわけです。宇宙意識の力は強大で、どうとでもできてしまいそうな実感があります。<br /> <br /> それは、未来が「そうなる」というよりは、未来を「そうする」という感覚です。予知ではなく創造です。創造主という解釈はここから来たのかもしれないとも感じます。創造主が胸の中にいる感覚です。<br /> <br /> その意識にある時、意識が見ているものはこの世界であり、世界のために何かをするという感覚に自然になります。世界のために行うことが当然であると感じます。その状態が優勢である時は私個人の利益の行動という感覚がほとんどなくて、私個人のためという感覚はどこか遠くにぽつんと置かれてあるような感覚で、世界に行き渡る意思として何かを意図したりする状態になっています。<br /> <br /> かと言って実際に遠くのものが見えたりするわけではなく、感覚としてそのように認識される、ということです。同様に、実際に世界を自由にできたりするわけではなく、感覚としてそのように認識されるということです。<br /> <br /> その、胸の奥にあるものは最初は胸の少し離れた後ろにあって、感じ始めた最初の瞑想の中で少しづつ身体に近づいてきて、その日は背中の後ろにくっつている感じでした。それが、次の日くらいには胸の中の少し後ろ側で感じられるような状態に変化しました。<br /> <br /> 瞑想中にこれらを強く感じて、瞑想が終わったらその感覚は薄れていって、奥の方に少しだけ感覚が残った感じです。<br /> <br /> 恐ろしさを感じたのは最初だけで、後はそれほどでもない感じです。<br /> <br /> ただ、おそらくは今回のことは最初の接触と言いますか最初の実感でしかなくて、最初こそ強烈に感じられましたがまだ始まりに過ぎず、やがてはこの感覚が深まっていくのかな・・・ という気が致します。<br /> <br /> 創造というのは破壊と一体であって、何でも創造できるというのは何でも破壊できるということ。そこに創造と破壊の恐ろしさがあるわけです。シバ神的な破壊の面と創造の面が組み合わさった感じですね。<br /> <br /> この「創造」の意識と一体になることができればその時はこの世の法則までも変えることができて、例えば空中に浮かぶなんて簡単なことだ、というインスピレーションが来ましたけど本当のことかどうかはわかりません。これはすぐそうなるというわけではなくて、そのようなポテンシャルがある、ということのようです。<br /> <br /> ヴェーダでは「創造」と「破壊」と「維持」の3つの力が言われていて、瞑想中には創造と破壊は感じられましたが「維持」がなかったかな...? としばらく思っていたのですが、ふと気がつくと、どうやら「(卵を)握りつぶそうと思えば握りつぶせるけれども、握りつぶさない」というように認識した力こそが「維持」の力なのだ、と認識を改めました。<br /> <br /> であれば、この深い、いわば宇宙意識とか神意識とか言えるかもしれないものは創造・維持・破壊の全ての力を持っていると言えます。ヒンドゥで言うところのシバ神(破壊)、ヴィシュヌ神(維持)、ブラフマー神(創造)によってシンボル化されている力です。<br /> <br /> もしかしてそのうちどれかが優勢だったり違いがあるのかもしれないと思って1つづつ検証してみましたが、どれも均等だ、という結論に達しました。3つとも感じたのですが、最初に感じたシバ神のような破壊の面が優勢かのようにも見えてそれと同じくらい創造(ブラフマ)のエネルギーも感じましたし、その両者と匹敵するぐらいの維持の力(ヴィシュヌ)も感じました。時と場合により表に出る面が違うだけで、3つのエネルギーが同時に存在している気が致します。そして、それらは質としては別々の力なれど、エネルギーとしては均一の力であるように思います。<br /> <br /> この意識がやってきた時、瞑想中に「この創造・破壊の意識と一体になりたいか?」と聞かれて、その恐ろしさに答えることを少し躊躇しました。「あ、いや・・・。それは・・・。」と、私の自我意識がまずは反応的に拒否しました。私のエゴ(自我)は「いや、怖いです。嫌です。」と言っているのを私の「観察する心」は眺めていました。自我が怖がり、拒絶を表しているのです。<br /> <br /> しかし、私の思考する機能(ブッディ)は「これは怖いものであるがそれは創造と、創造の反対の面としての破壊であるから、それはヴェーダで語られているこの世の3つの属性である創造・維持・破壊を示している。これは真理に違いない。であれば受け入れるべき」と割と直感的に判断をし、私のエゴの反抗を抑えつつ、エゴが躊躇しながら何とか意思を働かせて小さく「はい」と答えたのでした。<br /> <br /> するとそれは少し離れ、一部だけが残りました。<br /> <br /> 勇敢な人であれば即座に「はい」と答えていたのかもしれません。しかし、それは本当にこの世をいかようにも創造・破壊できてしまいそうな強大な力で、それをそのまま受け入れるにはあまりにもその質問は急で、特にその時は圧倒的な創造と破壊の力を感じて圧倒されていましたので、すぐに答えることができませんでした。すぐに答えることができればもっとすぐに一体になっていたのかもしれません。それはわかりません。<br /> <br /> 最初こそ躊躇しましたが、数日経ち、思い返してみると、やはりあれこそが根本の、いわゆる宇宙の本質に繋がるもので、そこを避けて通ることはできないと思います。<br /> <br /> 当日、最初の圧倒的な感覚はほとんど消えて少しだけ感覚が残りました。ですので最初はそれは一時的なものかなとも思っていたのですが、その後、瞑想を続けるうちに少しだけ感覚が深まってきています。今後、あの圧倒的な恐ろしくも創造的な力と一体になることがあるのか・・・ それは今後、見極めてゆきます。<br /> <br /> 少なくとも、再度同様の質問を聞かれたら、もうこの身がどうなってもかまわないので「はい」と答えようと思っています。<br /> <br /> 色々と分析した結果、避けるべきではなく通るべき道、おそらくここしかない道であると判断しましたので、であれば「はい」と答えるしかないわけです。<br /> <br /> Sat, 26 Dec 2020 00:00:00 +0900 意識が働き続けていてあまり眠れなくなる https://w-jp.net/2020/2209/ <br /> 瞑想による効果かなと思っております。ヨーガの世界でよく言われていることですが悟りに近づけば近づくほど眠りの時間は少なくなると言います。<br /> <br /> このような体験談は色々なところで目にすることがあります。<br /> <br /> マスターたちによれば、悟りにあると、大いなる意識がつねに鋭く冴えたままだという。通常は、眠ると思考のスイッチが切れ、意識がなくなる。ところが悟りにあると、決して意識がなくならない。それどころか、超意識的な状態が続くのだ。睡眠中に意識がなくならないということは、悟りの重要な兆しだ。「ある瞑想家の冒険(ボブ・フィックス 著)」<br /> <br /> 私の場合、ずっと意識が続くというよりは以前より冴えて眠りにくくなったという感じですのでまだまだな感じではありますけど兆候はあります。<br /> <br /> 私の過去生というかグループソウルの記憶を辿りますとこのような状態だったこともぼちぼち記憶していて、例えばパリ郊外で暮らした霊能者としての人生の時は夜に意識が冴えたまま横になって、意識はまるで起きたまま身体だけ寝ていたことを覚えています。<br /> <br /> ですから、このような睡眠中の意識の覚醒は普通にあることだと思いますし、私の場合は今まで色々と目的があって非覚醒状態でしたけど、ようやく戻ってきた感じです。<br /> <br /> 似たような症状は不眠症の疲れでもそうなることがあるでしょうが、特にストレスがあるとかそういうことはありませんので、特に問題とは思っておりません。<br /> <br /> そういえば、以前にインド行った時に滞在したアシュラムのグルジは今でこそ年寄りで眠るけれども元気だった頃は夜も全く寝なかったと言いますから、元気な人はいて、特に悟りを得ていると夜の睡眠も少なくて済むのだと思います。<br /> <br /> Fri, 25 Dec 2020 00:00:00 +0900 雑念のあまりない状態で瞑想をしたり日常生活を送る https://w-jp.net/2020/2208/ <br /> 最近は、瞑想をするにしても日常生活を送るにしても雑念が減ってきています。<br /> <br /> 同様の表現で「雑念が減ってきた」ということは今までにも何度も段階的に変化してきていますが、この最近の状態は、それらとはまた違ったものです。言葉で言い表そうとすると似た表現になってしまいますが。<br /> <br /> ここ最近は、意識的に意図を持って行動する際の意識は働きつつも雑念が減ってきています。<br /> <br /> 以前は割と、雑念が減ってきた時は意識的に雑念を抑えようという意図が働いていて、雑念を減らそうという意図と行動しようという意図とが共存できずに、意図としては1つだけで、雑念を抑えようという意図あるいは何かをはっきりと見ようという意図がある場合は雑念が減って、その時にヴィパッサナー状態になって例えば視界がスローモーションの映画のように見えたりしました。意図としての意思の状態によって雑念を抑えていた、とも言えますし、結果としてそうなっていた、とも言えます。どちらにせよ意図が必要だったわけですね。<br /> <br /> 最近は、瞑想をしたり日常生活を送る際に、意図としてはその時の瞑想だったり日常生活の目的があって意識もそれに向いているのですが、それとは別に、雑念を抑える別の力が働いているかのようです。<br /> <br /> 以前は、雑念というものを抑え込む力を発揮するために別の意図を使っていましたが、今は、特別に意図しなくても自動的に雑念を減らす作用が働いているようです。<br /> <br /> これを、サマーディ的な言葉で表現するのであれば、以前は意図あるいは意識あるいは問いのあるサマーディ、いわゆるサヴィタルカ(問いのある)サマーディということになるかと思います。<br /> <br /> 最近は、この種の「問い」がなくなってきた感じです。完全になくなったというよりは移行期のような気も致しますが、次第に「問いのない」、いわゆるニルヴィタルカ・サマーディの方に近づいてきた感じも致します。<br /> <br /> ヨーガスートラ<br /> 1-42) 音、意味、およびそこから生まれる知識が、まじりあって問いのあるサマーディ(とよばれる)。音はここでは、それをつたえる神経の流れである振動をさす。そして知識は、反応のことである。(中略)ことばと意味と知識のまじりあいから生まれる、主体と客体の二元性を保持している。<br /> 1-43) 問いのない、とよばれるサマーディは、記憶がきよめられたときに、すなわち(瞑想される対象の)意味だけがあらわれていて性質がまったくなくなったときに(くる)<br /> 「ラージャ・ヨーガ(スワミ・ヴィヴェーカーナンダ著)」<br /> <br /> スローモーションのヴィパッサナー状態と比較して理解すると、たとえば、ここで音となっているのは外界からの五感としての入力ですから視界の神経の信号に相当すると思います。その視界の神経の信号が脳に入ると意味が現れてきます。そしてやがて、その意味だけでなくそこに隠されているあるいは含意している知識が見えてきます。あるいは、知識が現れてくると言ってもいいと思います。<br /> <br /> そのように、神経信号と単純な意味とそこに隠された知識(あるいは理解と言っても良い)という表層があるわけです。これらは、勉強のようにそうなっていると単純に暗記あるいは理解するものというよりは、実際に瞑想をして、そうなっていることを実感するという種類のものです。瞑想してこれらが正しいと確かめられた時にようやくこれらの内容が知識として身につくわけですね。<br /> <br /> そうしてまずは、主体と客体が混じり合ったサマーディが来るということは、その段階は私のスローモーションのヴィパッサナー状態が相当しているように思います。その状態は、見る私と見ている対象という違いが存在していますから二元性を維持しています。<br /> <br /> 一方で、最近の状態はそのように特別に視界を意図しなくても自動的にそのようなヴィパッサナー状態が起こりますし、以前のように中心軸があるわけでもなく、以前の方がある意味激しさと焦点があってわかりやすいものでしたが、今は焦点が薄れてきていますので、一見すると以前より後退したかのような印象も最初は受けましたけど、その状態を続けていてわかったのは、きっとこれは二元性がなくなってきているのだな、と理解するようになりました。<br /> <br /> Fri, 25 Dec 2020 00:00:00 +0900 あの世では周囲の環境は思いのままにできるというお話 https://w-jp.net/2020/2207/ <br /> 死んだ後も基本的には生きているときと同じ姿、特に若い頃の姿を保って生き続けるわけですけれども、そのような魂というか幽体、平たく言えば幽霊さん、霊さん、のように意思を持った存在がまずいるわけです。<br /> <br /> その一方で、その霊としての存在ではない存在、固定的なものもあるわけです。山であるとか家であるとか壁であるとかもろもろのものも霊界にはあります。<br /> <br /> ですけど、それはこの世のように固定したものではなくて、人・・・ というか、意思を持った霊さんであればそのような周囲の環境はどうにでもできてしまうわけですよね。<br /> <br /> 例えば、私が昔やった時のお話。<br /> <br /> 私が死んだらあの世に帰って、今まで一緒に生きてきた過去生の人生での妻とか仲の良かった人が沢山集まっている場所があるわけですけど、その場所で、昔、こういうことがありました。<br /> <br /> ある人生を終えて妻を連れてそこに行ったら、過去生の妻が沢山待っていて「おかえりなさい!!」と歓迎してくれたわけです。<br /> <br /> ですけど、その最後の人生で妻をしていた魂は理解できなくて「え? え? え?」と、頭の中がグルグル回転しているわけです(苦笑)<br /> <br /> 魂というか、形は妻のままなので、まあ、平たく言えば妻があの世に行ったら、ということです。そんなに生きているときと変わりません。<br /> <br /> もっと具体的に言うと、夫婦のうちで夫が先に死ぬか妻が先に死ぬかはそれぞれですけど女性が長生きする場合が多くて、夫が先に死んで仲の良い人がちが沢山いる場所に帰った後、少し時間が経った後に妻が死ぬわけです。<br /> <br /> すると、妻はどこに行って良いのかわかりませんから、夫が迎えにいくわけですね。<br /> <br /> ・・・仲が悪かった夫婦の場合はどうなるか知りません。まあ、私の場合はこんな感じのことが多いです。<br /> <br /> そして迎えに行って、「こっちだよ」と連れてきたら他の過去生の妻とかが沢山いるわけですから、頭が混乱します(苦笑)<br /> <br /> ・・・なんなのこれ??? って感じになるみたいです。<br /> <br /> まあ、みんないい子たちですから割と仲良くやってくれるのですが、お互いに、ちょっと、どう接していいのかわからないこともあるようです。ちょっと戸惑い気味です。<br /> <br /> そんな時、特に慣れずにいきなりそこに連れてこられた妻は混乱して、最初は特に夫(というか私ですけど)に泣きついて「えーん、えーん。私だけのあなた(私のこと)だと思っていたのに」みたいに甘えたり、あるいは、他の妻が親しく話そうとすると「いまは私の夫だから!」みたいに言ったりすることもあって、時折、特に人生が終わって帰ってきたばかりの頃はちょっとすれ違いが発生します。<br /> <br /> ですけど、私の場合・・・・ 他の人はどうしてるか知りませんけど、私はあの世では1人を選ぶということはしなくて、みんな楽しく暮せばいいじゃない、と思っているのでそう説得するのですが、なかなか聞き分けが悪い子もいるわけです。<br /> <br /> そして、なかなか理解せずにその新しい妻ばかりかまっていると、他の過去生の妻たちがどこか遠くから少し睨みつけるようになって、ちょっと怖くなったりします(苦笑)<br /> <br /> こわーーー<br /> <br /> と思いつつ、どうしようもないのでこの子を少しの間、外にお使いに出すことにしました。<br /> <br /> 実際のところそこは霊界なのですから遠くのところに行くにも一瞬で行けるのですけど、私の中でイメージを強く作り込んで、遠くの街まで歩きでお使いに行かなくてはならない・・・ そこに行くまでには山をいくつも超えて、何日もかかる。そのお使いをお願いしたい・・・ というストーリーを作って、その、困ったちゃんの最後の元妻の頭の中にイメージを送り込みました。<br /> <br /> そうすると、その元妻は暗示にかかったようになってお使いに行かなくちゃ、みたいな気になって、他の元妻たちが「そうね! 遠くに行くのなら準備しなきゃね! これとかこれも持つといいわよ! 服とかもこれとかがいいんじゃない? 」みたいに、みんないい子ですからお世話をやいてくれたものでした。<br /> <br /> もちろん、全ては暗示ではあるのですけど、あの世では暗示であってもいわば本当の出来事なのです。現実は思いが作り上げる、みたいなお話はあの世ではそのまんま本当に起こることです。<br /> <br /> そして、その困ったちゃんの妻をみんなで壮大に送り出して、みんな家の外に出て「いってらっしゃいー!」の見送りをした後、私はようやく落ち着けて「ふう。やっと開放してくれたよ(苦笑)」と言って、そのさまをずっと眺めていた元妻たちと仲良く話し始めたのでした。<br /> <br /> そして、どんちゃん騒ぎが何日も続きましたけど、その間も、困ったちゃんの元妻はずっと歩きでお使いに行っていたのでした。実際は一瞬でいけますし、実際のところお使いなんてのもなくてそれすらも暗示だったのですけど、あの世ですから、それも現実なのですよね。<br /> <br /> そして、困ったちゃんの元妻が戻って、最初こそ困惑しましたけど、割と落ち着いてくれました。ふう。<br /> <br /> そんなこともありました。<br /> <br /> あとはね、元妻から時々アプローチがあって、今夜は貴方と一緒に寝たいわ・・・ みたいな積極的なお話がある時は、部屋とかベッドとかも一瞬でイメージしてそれが現れて、そこはプライベートルームになります。記憶とかは生きているものがだいたいはそのまま使われる気がしますね。<br /> <br /> あとは、あの世でも料理や食事というものがあって、それもイメージすればすぐに出てきます。<br /> <br /> 味とかもしっかりあって、美味しいとか美味しくないとか、意外にはっきりとしていますね。<br /> <br /> そんな感じであの世は好きにできるのですけど、それでも、人の魂というのは作り出せなくて、いい子というのは地上で見つけてくるしかない、という感じです。<br /> <br /> 会話する相手は見つけてこないといけないですけど、物であればいくらでも自由になるわけです。<br /> <br /> Thu, 24 Dec 2020 00:00:00 +0900 瞑想ホールでババジの顔を見た https://w-jp.net/2020/2206/ <br /> そういえば、数年前にインドのリシケシのとあるアシュラムの瞑想ホールで目を瞑って瞑想中に空中に浮かんでいるババジの顔を見たことを思い出しました<br /> <br /> その時、ババジの顔だけでなく広い瞑想ホールの天井や祭壇なども見えた気が致します。<br /> 実際のそのホールは瞑想中は暗くなっているのでほとんど見えないのですが、心の目で見ていたのか、あるいは想像だったのでしょうか。<br /> <br /> 後日、そこの管理をしているマスターのような立派な髭をはやしたおじいさんが「おそらくは単なる想像だろうけど、ババジがいるのを見た」と言っていました。具体的にいつのことなのかは確かめられませんでしたけど、そこのアシュラムで私と同じくババジの姿を見たということは、本当に来ていたのかもしれません。<br /> <br /> そんなことがあったことを、しばらく、忘れていました。<br /> ただの想像か何かかなと思っておりました。<br /> <br /> 私が見たのはババジの顔だけで、ホールの上の方に浮かんでいてホール下方を見下ろしていました。<br /> <br /> ババジの顔で有名なものは上を向いているものですけど、私が見た時は下を向いていました。<br /> <br /> それを見た時、「これってひょっとしてババジ? こちらは見ていないようだけれども・・・。少し前の祭壇の方を見下ろしているような・・・。でも、あの角度ならこちらも視界に入っている筈・・・」と思っていました。<br /> <br /> 目は瞑っていましたので、瞑想中の直感で上空にそのように浮かんでいるような気がしたのです。<br /> <br /> 単なる想像かなと思っていたので特に何も言わなかったのですが、今から思うと、本物だったのではないか、という気も少しだけします。<br /> 本物かどうかは確かめようがありませんけど・・・。まあ、対外的には想像ということでいいのですけど。<br /> <br /> 想像であったとしても、偉大なババジのお姿を本当に目にすることができていたのだとしたら光栄なことです。<br /> <br /> 直感というか心の奥底の声は「いやいや、本物だよ」と言っています。<br /> <br /> これは、2018年末から2019年の正月にかけてのことでした。<br /> <br /> ババジは沢山いますけど、「あるヨギの自叙伝(ヨガナンダ著)」に出てくるクリヤヨガ系のババジのことです。<br /> <br /> Wed, 23 Dec 2020 00:00:00 +0900 深呼吸するだけでエネルギーが鼻頭から入ってリラックスする https://w-jp.net/2020/2205/ <br /> 昔から、深呼吸してリラックスしましょうということは様々なところで言われていて、それは多少はそういう面もありますけどリラックスというのは大げさだな・・・ とずっと思っておりました。<br /> <br /> 又、瞑想においても「呼吸を意識あるいは呼吸に集中するだけで意識が落ち着いていきます。雑念が減ります。」みたいなことがよく言われていますが、それは多少はそうだとはわかりますけど、意識が落ち着くとか雑念が減るとかいうのは大げさだなぁ・・・ これは単なるガイダンスなのかな、と漠然と解釈しておりました。<br /> <br /> 最近、鼻頭に意識を合わせて呼吸するだけでエネルギーが頭まで上がるようになってきて、それにより、鼻頭を意識するだけで雑念が消えるようになりましたので、ここにきて、上記のような深呼吸によるリラックスとか呼吸を意識することでの瞑想への入り方がしっくりくるようになりました。<br /> <br /> 以前であっても時間をかければ少しづつ意識が落ち着いていって瞑想状態に近づくということはありましたので、確かに、効果がないわけではありませんでした。<br /> <br /> しかしながら、今まではそれなりに時間がかかっていたわけですね。<br /> <br /> ここにきて、たった1回の深呼吸あるいは瞑想中にただの1回だけ鼻頭に意識を合わせるだけでエネルギーが相当に眉間のあたりまで下半身から上がり、それにより、雑念がかなりの具合まで洗い流されてゆきます。<br /> <br /> その結果、言い方としてはそれを「深呼吸によるリラックス」とも呼べますし、一方で、「鼻頭へ意識を合わせる」とも「鼻頭へ集中して瞑想」とも言うことができます。<br /> <br /> これは瞑想の姿勢を取るに限らず常に起きて、ふとした時に日常生活中に雑念がやってきたら鼻頭に意識を軽く当てるだけですぐにエネルギーが眉間にまで上がって雑念を洗い流してゆき、結果として、リラックスが訪れます。<br /> <br /> これは、集中と言うこともできますけど集中という言葉で想像するような極端な集中ではなく瞑想の用語として一応はこういうのも集中というという程度のもので、実際は軽く意識を合わせる程度のことです。その程度のことであっても瞑想のお話としては一応は集中と呼ぶのですよね。瞑想では集中と観察というお話があって、どちらですかといえば一応は集中の分類になるわけです。<br /> <br /> そういうわけで、瞑想的に言えば集中ですけど普通の言葉を使えば意識を鼻頭に合わせるという程度のことで、それだけでエネルギーが眉間にまで上昇してそれにより雑念の現象とリラックスが起きるわけです。エネルギーが高まっていますのでもちろん活動的になり、普通に元気にもなります。<br /> <br /> 深呼吸するだけで雑念が減ってリラックスするというのは世間では誰しもがそうみたいな常識に一応はなっている気がしますけど、少なくとも私は昔はそれほどでもありませんでしたし、これは全員には当てはまらない気が致します。きっと、これはそのようにリラックスできる有名な人が最初に言い出してそれが定着してしまったのかなと思います。その人にとってはそれが当たり前だったのでしょうね。もし生まれながらにそうならば、そうではない人のことなんてわからないかもしれませんね。あるいは口下手なだけか、それとも、発言の一部だけが後世に残ってしまったのかも。どちらにせよ、そのような常識はそれがそのまま自分の起こる人と起こらない人がいるのだと思います。<br /> <br /> Wed, 23 Dec 2020 00:00:00 +0900 鼻頭を意識するだけで雑念が消える https://w-jp.net/2020/2204/ <br /> 特に瞑想のあぐらの姿勢を取っていなくても、ことあるごとに眉間を意識するだけでエネルギーが上昇し、それによって雑念が取り払われてゆきます。それは特に雑念のことを意識せずともエネルギー的な作用として起こっているようです。<br /> <br /> かと言って私自身の意思がなくなるわけでもなく、単に雑念だけがなくなりますので顕在意識の行動に何ら支障はありません。<br /> <br /> これは、先日書いたことの別の面を言い表しているだけで、現象的には同じことです。<br /> <br /> 鼻頭を意識するだけでエネルギーが高まってムーラダーラのあたりから眉間にまでエネルギーが移動します。そのエネルギーの高まりというのは単にエネルギーだけではなくて、雑念も一緒に洗い流すようなのです。<br /> <br /> おそらくは、体の各所に張り付いていた雑念のかけらのようなものがエネルギーの波が来ることで押し流されて綺麗になるのでしょう。<br /> <br /> 特にその雑念のことを意識する必要は全くなくて、エネルギー的に多少ながら押し流されるようなザラザラとした感覚があって雑念が崩壊してゆきます。それは雑念というよりは単なるエネルギーの塊で、先日他者から受け取ったエネルギーの塊がまだ残っていたり、あるいは、空間を超えて遠くから私のことを想像しているエネルギーだったりします。<br /> <br /> どちらにせよエネルギーの欠片が私の周囲に張り付いていますので、エネルギーの波によって不要なものを洗い流すわけです。そうすると雑念があっという間に消えてゆきます。最初はちょっとしたエネルギー酔いのようなものがありますけど割とすぐに雑念は消えてゆきます。<br /> <br /> このような、鼻頭に集中する手法は昔から聖典で様々に伸べられていたことです。<br /> <br /> そして、この最近の鼻頭への集中の状態は、今まで行っていた鼻頭への集中とはかなり異なります。昔から聖典で言われていましたのでその手法を行っていましたが、どちらかというと後頭部への集中の方が今まではしっくりきていました。<br /> <br /> 今は、鼻頭への集中がまさにしっくりきます。今は後頭部への集中は不要で鼻頭こそが良い、という感覚に変わりました。<br /> <br /> 今までであっても鼻頭あるいは眉間への集中瞑想というのはそれなりに効果がありましたが、実のところ、どうして眉間あるいは鼻頭なのか今まで深く理解できておらず、今日と比べるとあまりしっくりきていなかったと言えます。それなりに理解はしていましたしそれなりに効果もあって一応の納得はしていたのですが、後頭部への集中でも同じ効果のような気がしますし後頭部の方が安定するので、どうして聖典ではわざわざ眉間あるいは鼻頭と指定しているのか、そこのところがちょっとよく分からなかったのです。<br /> <br /> ですけど、この状態になってみるとまさに鼻頭こそが正解なのだなと感じます。<br /> <br /> 今まで後頭部に集中していたのはそれはそれで効果があったのかもしれませんし、ずっと眉間に集中していたらどうなっていたのかはわかりませんけど、少なくとも今は鼻頭が一番効果がありますね。今は鼻頭以外は考えられないです。鼻頭がダントツに一番エネルギーが高まりますし雑念に対しても効果があります。素晴らしいです。<br /> <br /> これなら、瞑想と日常生活を分けなくても日常生活の中でそれなりの静寂を保てそうです。<br /> <br /> これは、ヨーガスートラの最初に書かれてあるヨーガの定義に相当するように思います。<br /> <br /> yogas chitta vritti nirodhah<br /> <br /> これは、「ヨーガとはチッタ(感情や記憶に関する心)のゆらぎ(振動)を停止(殺滅)させる」という意味です。<br /> <br /> これをそのまま読むと「心をなくしてしまって意味があるのだろうか」と解釈してしまうかもしれませんがそういうことではなく、チッタの動きを静止させるという状態そのものを意味しているわけです。再度ゆらぎが起こればチッタ(心)は動きますので、消し去ってしまうわけではありません。言い換えれば、チッタ(心)をうまく制御する、ということです。感情に流されたり記憶やトラウマに流される人生ではなくチッタ(心)は道具として管理していく、ということがヨーガの根幹になります。<br /> <br /> そして、このように静止した状態は様々な方法で実現可能ですが、今回のようにエネルギーを高めることによっても可能だということだと思います。<br /> <br /> それは、田植え前の、一見荒れ果てているかのように見える水田に水が引き入れられた瞬間に輝きを取り戻して静かな水面になることに似ています。細かな雑念があれやこれや現れていたとしても、エネルギーが高まることによってそれらの雑念は洗い流されてゆくわけです。エネルギーが足りていないからどこからか来た雑念やら何やらに翻弄されてしまうわけですね。<br /> <br /> ただ、ここに来るまでにはステップがあって、基本は「集中」が必要だったわけですけれども、ここに来るとそこまでの集中は必要なくて、軽く意識を鼻頭に合わせるくらいでエネルギーが高まって雑念も瞬時に洗い流されていきます。<br /> <br /> それが、おそらくはヨーガスートラに書かれてあるヨーガの定義の状態のことなのではないかなと思います。<br /> <br /> ここで言うチッタは以下で構成されています。<br /> <br /> ■心(チッタ,Citta)の構成要素<br /> ・ブッディ(Buddhi、覚、理性、認識、理論的な思考)<br /> ・アハンカーラ(エゴイズム、自我)<br /> ・マナス(Manas、意、感情、記憶)<br /> <br /> ですので、これら全てが正常に動くためには雑念のような「ゆらぎ(ヴリッティ)」を鎮める必要があるわけです。これらが全くなくなってしまうわけではなく、ゆらぎを取る、というお話です。<br /> <br /> 雑念が消えた状態でも「意思」は変わらず働き続けることができます。明確な意思は動きつつ、雑念だけが消えるわけです。<br /> <br /> その状態でも「見ている者」、いわゆるアートマン(真我)としての観察する意識は働き続けておりますが、それは上記のチッタとは別物で、チッタを眺めている存在としてのアートマン(真我)がいるわけです。アートマン(真我)は最初から変化しなくて、ただ、上記のチッタ(いわゆる心)のみが静まるのです。<br /> <br /> Tue, 22 Dec 2020 00:00:00 +0900 鼻頭に意識を合わせて呼吸するだけでエネルギーが頭まで上がる https://w-jp.net/2020/2203/ <br /> 少し前はこうはならなくて、ムーラダーラに意識を少し当てることでエネルギーを頭まで上げるというようなことをしていました。<br /> <br /> ここにきて、そうしなくても単に鼻頭あるいは眉間に意識を合わせて息を吸うだけでエネルギーが体の各所を通って頭まで上がるようになりました。<br /> <br /> 頭、特に眉間へのエネルギーの集中がしやすくなったように思います。<br /> <br /> 体を通ってエネルギーが上がる際、静電気のようなものが体の各所に現れて背筋が伸びる感じになります。<br /> <br /> 姿勢がどこか良くなって、瞑想中の頭の角度も、それまではやや前のめり気味になっていたのが背筋から割とピンと頭の上までまっすぐ伸びるようになりました。<br /> <br /> 体、特にハートのあたりに静電気の感覚があったり、背筋の途中で小さなブロックがあるらしきところに軽い刺激があったりするのを感じます。とは言っても瞑想の妨げになるほどではありませんが。<br /> <br /> そのように、わざわざムーラダーラを意識しなくてもエネルギーが上がるようになりましたので、ムーラダーラを意識していた頃は意識の集中を眉間あるいは後頭部などからムーラダーラに一旦移すことで一瞬ムーラダーラを意識してからまた眉間や後頭部などに意識を戻す、という感じでしたけど、それは割と手順が多くて、瞑想を続けていくと割と忘れがちになってその手順をスキップしていることに気が付いたらまた再開する、というような感じでした。<br /> <br /> ですけど、ここにきて、そのようにわざわざしなくても鼻頭(あるいは眉間)を意識しながら呼吸をするだけで息を吸うタイミングでエネルギーが下方のだいたいムーラダーラのあたりから頭のあたりまでしっかりと上がります。<br /> <br /> これは楽ちんですし、今までよりもずっとエネルギーが集まりやすくなったように思います。<br /> <br /> オーラの状態を見ると、ムーラダーラからサハスララのあたりまで割と均一になった感じ致します。以前は割と分かれていて、ヴィシュッダで陰と陽が分かれていた頃もありましたし、その後はもっとグラデーションっぽくなってきました。<br /> <br /> それが、ここにきてより一層、均一化されてきたように思います。<br /> <br /> この状態になると、天のエネルギーと体のエネルギーとの差異がなくなってきて、わざわざ天のエネルギーを取り入れるということをしなくてもエネルギー的に既に天のエネルギーに近くなっていて、具体的には、天のエネルギーを取り入れなくてもバランスが既に取れているのでムーラダーラからエネルギーを上げた際にバランスを取るために天のエネルギーを取り入れる必要がそんなになくなってきています。既に天のエネルギーと地のエネルギーとが均一化されているような感じです。<br /> <br /> 瞑想してあぐらの姿勢を取った方がもちろんしやすいですけど取らなくても日常生活の中で鼻頭を意識するだけで割と瞑想状態に近づいてそれと共にエネルギーも眉間まで上がる感じですね。いい感じです。<br /> <br /> まだ頭の上まで突き抜けた感じはそれほどないですけど、少なくとも、体がある部分に関しては上下のエネルギーがそれなりに繋がった感があります。<br /> <br /> 鼻頭を意識していると、ムーラダーラのあたりからエネルギーが現れて頭に集まります。その一部は発散して消えてゆきますが一部は眉間に残ります。そしてまた次の息を吸う時にムーラダーラのあたりからエネルギーが現れて頭に集まり、また一部は発散します。<br /> <br /> それはまるで、砂浜で波が永遠に打ち寄せているかのようなものです。エネルギーが現れては消える、そのさまが、ありありと感じられると共に、それが単なる現象というだけではなく、自らの呼吸によってコントロールされているものであるということがはっきりとわかるのです。<br /> <br /> 日によって調子が悪いときがあって鼻頭を意識しながら呼吸してもいまいちエネルギーが上がらないのであればムーラダーラを意識してエネルギーを上げるということを少し繰り返してあげるとそのうちエネルギーの通りが良くなって呼吸しただけでエネルギーが循環する状態になるようです。あるいはプラナヤーマのクンバカも効果がある気が致します。<br /> <br /> それと、食事もこのエネルギーの流れに影響している気がして、健康的な食事を摂るとエネルギーの流れがいいように思います。同様に水もですね。(浄水器を使った)水道水よりペットボトルの水、それも産地によって変わる気が致します。<br /> <br /> Tue, 22 Dec 2020 00:00:00 +0900 静寂の境地でようやくゾクチェンのシネーの境地 https://w-jp.net/2020/2202/ <br /> もっと前にシネーの境地に達していた気がしておりましたが、2020年9月頃に目を開けていても平穏な瞑想状態が続く境地になったことでようやくシネーの境地に達したと考えるのが自然のように思えてきました。<br /> <br /> 個人的にはそれ以前にも何段階か階梯があったように思いますが、今までの理解は一段階ズレていたのかもしれません。今までシネーの境地だと思っていたシャマタ(集中)の境地は、ここ最近になってようやく達成した境地と考える方が今思えば自然です。<br /> <br /> (1) シネー (ネワとも呼ぶ) 寂静の境地<br />  対象を決め、あるいは対象なしで、意識と視線を固定し、寂静の境地に入っていく。この状態が自然になり、さらに確固としたものになる。<br /> (2) ラントン(ミヨーワとも呼ぶ) より大いなるヴィジョンないし洞察<br />  寂静の境地は溶解し、あるいは「目覚めさせられる」。思考の動きがあっても、内的な「見張り人」なしで、修行は進められるようになる。寂静の境地は、もはや努力して作り上げるものではなくなる。<br /> (3) ニメ(ニャムニーとも呼ぶ) 不二の境地<br />  シネーとラントンは、ともに生じる。二元論の彼岸に至る。<br /> (4) ルンドゥップ あるがままで完全な境地<br />  あらゆる行為において、不二の三昧が継続している。<br /> 「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」<br /> <br /> 同書の別の章、あるいは他の本にはシネーの後に続くのはテクチューとトゥガルとなっていましたが、流派によって若干異なるようです。<br /> <br /> 私の場合、シネーの境地は集中して静寂の境地に至るという段階に相当するように思います。<br /> ラントンは、静寂の境地に浸ることを許さない奥深い意識が該当するかもしれません。<br /> <br /> ニメの段階は、よく分かりませんね。最後のルンドゥップはまだな気がします。<br /> <br /> シネーとテクチューとトゥガルという階梯ですとシネーとテクチューの区別がつきにくくて勘違いしてしまいがちな気が致します。一方、上記の階梯ですと静寂の境地は1つしかありませんから割とはっきりしていますね。<br /> <br /> こちらの階梯の方が私の状態に近くてしっくりきます。<br /> <br /> であるならば、シネーは私の経験した涅槃のようにも見えなくもない静寂の境地で、次のテクチューは比喩的に言えばすみれ色の朝焼けのような境地が該当しているのであればしっくりきます。<br /> <br /> であれば、割と達成したばかりのこの境地を深めてゆくことが今は肝心ですね。おそらくは。<br /> <br /> Sun, 20 Dec 2020 00:00:00 +0900 自分の姿が周囲に見える瞑想 https://w-jp.net/2020/2201/ <br /> ここ最近、瞑想中に自分の姿を外から見たような映像が瞑想中に見えます。<br /> <br /> 以前から時々は見えていたように思いますが、最近は割と頻繁に見えている気が致します。<br /> <br /> それは鏡が空中に浮いていてその面に自分が映っていたり、あるいは、複数のクリスタルが周囲にあってそれらの複数のクリスタルのそれぞれに自分の姿が映っていたりします。1つだけ見えることもあれば複数同時に見えることもあります。<br /> <br /> 自分の周囲が沢山のクリスタルあるいは沢山の鏡に覆われていて、時にその1つから見えたり、複数から見えたりしています。<br /> <br /> これは2つの可能性があります。<br /> <br /> ・想像で自分をイメージしている場合。これは本尊やオーム文字を観想するようなものですね。<br /> ・自分の心が平穏になり、心が対象を映し出すことがなくなったが故に心が活動を停止して心が水面のように穏やかになったが故に心に自分の姿が反射して見えている。<br /> <br /> これらは似ているように見えてもかなり別物です。<br /> <br /> 私の解釈としては今の状態は後者で、心の動きが止まってきたので写すべきものがなくなってきて自分の姿が見えているのかな、と思っております。<br /> <br /> 考え事や雑念、あるいは思考がある時は心はその対象と一体化した形を取っています。特に雑念もなく瞑想している状態では心はその形をとるべき対象がなく、近くにある私の姿がそのまま映し出されるのかな、と思っております。そのように鳴るためにはある程度の心の浄化が必要です。<br /> <br /> これはヨーガの聖典あるいは神道の鏡でも動揺の意味合いが言われていたような気が致します。そのうち該当する記述を見つけたら引用したいと思いますが、そんな記述は色々と読んだ気が致します。<br /> <br /> これは、幽体離脱で見ている感じとは全然違いますね。幽体離脱の時はしっかりと眼が働いていてその眼から直接見えますけど、今回の場合は、自分の瞑想中の見る目(いわゆるプルシャ)は自分が座っているところに留まったままで、その周囲の心の姿に映し出された自分自身を見ている感じでした。<br /> <br /> まあ、それは大して意味がないと思いますし、基本的には無視していいものだと思いますから無視していたら割とすぐに力を失って消えてゆきました。そんなものだと思います。<br /> <br /> これ、もっと明示的に意図を持って「壊す」ようにした方がいいのかもしれませんけど、ひとまず今は単に無視して消えるのを待っているだけです。<br /> <br /> Sat, 19 Dec 2020 00:00:00 +0900 識無辺処の前兆が現れてきているのかもしれない https://w-jp.net/2020/2200/ <br /> 油井真砂さんの著書「信心と座禅」を読んでいきます。<br /> <br /> ・空無辺処(くうむへんしょ)→ここから<br /> ・識無辺処(しきむへんしょ)→ここへ到達する前兆<br /> ・無所有処(むしょうしょ)<br /> ・非想非非想処(ひそうひひそうしょ)<br /> <br /> 先日の記述に加え、識無辺処から無所有処への遷移について次のような記述があります。<br /> <br /> やがてその識心の上へ、生物創生の根本相である陰陽両気相克の順萬字相(卍)がこつ然と権限するのである。(中略)最後に残された1つの依所(えしょ)としての識心が(中略)とざされた識心が、瞬間ぱっと開破されるのである。これで、最後に残された依所(えしょ)としての識心が空(くう)じられたのである。「信心と座禅(油井真砂著)」<br /> <br /> 萬字(卍)によく似た形相としての太極図っぽい感覚であれば少し前に感じてそれ以来は基本的にその状態を基本としておりますので、萬字が太極図と同じような意味合いで使われているのであれば、半分くらいはこれに該当するような気が致します。<br /> <br /> そして、最後に残された心が「ぱっ」と開けるというお話は、胸のあたりのハートが開くというお話であれば私の最近のアナハタで「パチン」という小さな感覚が一瞬したことが該当しているかもしれません。開く前は少し苦しい不安定な感じになりましたので、同書の記述にもそのあたりの状態が描かれていて開く前の状態は「重々しい状態で閉ざされている」ということですので、私の状態とも一致します。<br /> <br /> ですけど、それはまだ後半の記述のように完全に開けたという感じでではないので、おそらくは前兆なのかな、という気が致します。<br /> <br /> 補足しますと、アナハタはこれ以前にも小さく何度も変化が起きていましたので今回だけ特別というわけでもないです。<br /> <br /> 他の人の体験談を読むと、アナハタが開く時は「思いっきり胸が千切れた感じがして口から泡を吐いて気絶する」くらいの衝撃を受ける時もあるようですので、人によるのかもしれません。私の場合は今の所、そんなびっくりするようなことはなくて、何度かに分けて開いてきた感じです。<br /> <br /> まあ、それとは別に、チャクラが開く時に特別な体験が必ず起こるわけではないというチベット仏教の教えもありますので、このような感覚に頼りすぎる必要はないのかもしれないですけど。<br /> <br /> (識無辺処は)外へ繋がれていた心眼の実気(じっけ)が、ここで完全に捨離されると同時に、内的にも空じられるという実相顕現の境地である。「信心と座禅(油井真砂著)」<br /> <br /> このことがすみれ色の朝焼けのような境地と言えるのかもしれませんけど、完全に空じられたとかそういう感じはなく、どこかしっくりきません。よって、識無辺処には入っているもののそれは卒業していなくて、それでいて、少し次の段階の識無辺処を垣間見ている、という感じのような気が致します。<br /> <br /> 識無辺処の前兆が各所に現れてきているのかもしれません。<br /> <br /> Sat, 19 Dec 2020 00:00:00 +0900 すみれ色の朝焼けのような境地 https://w-jp.net/2020/2199/ <br /> 心が静かになり、自分だけが残っているような感覚になります。自分の体というより自分の心だけが残っている状態です。その周囲に時折雑念も浮かびますが、ふと気が付いて我に返ることで再度、心だけの状態に戻ります。<br /> <br /> その、心だけの状態は澄み切っているといえば澄み切っているのですが、完全な白というよりは、すみれ色の朝焼けのような境地なわけです。<br /> <br /> その境地が、瞑想の間、長く続きます。<br /> <br /> 時折、小さな雑念が浮かぶと、それをちょっと観察するくらいで済んで、やがて再度、すみれ色の朝焼けの境地へと戻ってゆきます。<br /> <br /> 更に時折、想像の中に吸い込まれることもありますが、ふと気が付いて我に返れば、再度、すみれ色の朝焼けの中へと戻ってゆきます。<br /> <br /> そこは、心だけが残っている境地。<br /> <br /> 私の心だけが自分のハートにいて、特に胸のあたりが前方向に広がる感覚がします。<br /> <br /> これは、実際にすみれ色が見えているという意味ではないです。心境的にそのように感じられるということです。<br /> <br /> この状態でいつものようにムーラダーラを意識してエネルギーをアジナに上げるということもできますし、サハスララを意識して天のエネルギーを降ろすこともできます。<br /> <br /> しかし、そのエネルギーとこのすみれ色の朝焼けのような境地とは、共存できるようです。<br /> <br /> 特にエネルギーが高まると境地が変わるとか、そういうことはないようで、すみれ色の境地のまま、そのようなエネルギーワークも行うことができます。<br /> <br /> 少し前までは、雑念を追い払うためにエネルギーを高める、ということはよくありましたし、エネルギーと共に雑念が変わることはよく経験しておりました。<br /> <br /> この私の中心にある、いわゆる心の本性のようなものは、エネルギー的な動きとは切り離されているかのようです。<br /> <br /> その周囲でエネルギーが高まっても、心の本性のようなものは変わらずそこにあり、そして、その境地はすみれ色の朝焼けの状態を保っているわけです。<br /> <br /> 更には、その心というものは、瞑想の中であらかじめ意思を示しておくことで次第に小さくできるように思います。何かを思えばその心が大きくなり、思わなければ心が小さくなる。それは、意思をあらかじめ示すことで心はコントロールすることができる。心があまり動いていなくてもよい境地、あるいは、心が小さくなっても心が動揺せずに静かにしている境地を表すのならば、それは、すみれ色の朝焼けのような境地と言えるのかなと思います。<br /> <br /> おそらく、ここで心を小さくしていってついには心をなくすと一応は安楽の状態にはなりますがそれは仏教で厳しく諌められている滅心定(あるいは無想定)になってしまうのかなと思います。(これは理屈で言うと無想定の筈ですけど、直感が滅心定だと言うのでひとまず併記してあります。)そうして心を無くしてしまった場合、安楽な状態で数百年が過ぎ、そしてまた少し前の段階から修行をやり直さなくてはならないと言います。心は浄化して仏にまで昇華させるべきもので、無くしてしまうものではない、ということなのかなと思っております。確かに、この段階にはそのような勘違いをしてしまう落とし穴があるような気が致します。グルの手ほどき、あるいは、聖典による勉強がこのようなつまづきを防ぐことなるのかなと思います。これはとても微妙で、気をつけていないと気付かず間違ってそれが良しと思って心を無くしてしまうかもしれないですね。精神修行にはこのような落とし穴がいくつもあると思います。<br /> <br /> ここ半年ほどの間で度々このような状態になることもあって、時には揺り戻しが起きてそれより低い状態に戻ったりもしていましたが、そろそろ安定してきたように思います。<br /> <br /> 私の場合、心をなくす方向に安住しそうになると現実世界で心を乱すことが起きて少し後戻りし、やりなおししつつこのことの本質を理解していったような感じです。おそらくはそれは自分のスピリットがそのように意図したのかなとは思います。それと合わせて、心の奥底から奥深い意識が出てきて安住を許さなかった、という面もあります。<br /> <br /> 最近読んでいる油井真砂さんの著書「信心と座禅」に基づきますと、これは空無辺処(くうむへんしょ)あるいは識無辺処(しきむへんしょ)と呼ぶ状態のようにも思います。<br /> <br /> ・空無辺処(くうむへんしょ)→これから<br /> ・識無辺処(しきむへんしょ)→これへ<br /> ・無所有処(むしょうしょ)<br /> ・非想非非想処(ひそうひひそうしょ)<br /> <br /> まず、心だけが残された状態が空無辺処とのことです。<br /> <br /> 有相の影から離れきる。(中略)識心というものが1つ、微かな有相をたたえた依所(えしょ)として残されているのである。「信心と座禅(油井真砂著)」<br /> <br /> そして、次の段階である識無辺処については以下のように記されています。<br /> <br /> 胸にとどろきを伝えて、広々とした感じが全身に広がるのである。(中略)自己の上に宇宙の広大さが感じられるという境地、これが空無辺処定が完全に成ぜられたところであると同時に、識無辺処定が開けたところになるのである。(中略)一切の有形を操る無相の力が、形なき気の動きとして如実に観じられるのである。「信心と座禅(油井真砂著)」<br /> <br /> 今は、宇宙の広がりと一体にはまだなっていないですが確かに自分の体が宇宙と一体だと感じられているので、該当していると思います。<br /> 識無辺処に達して初めて気の動きがわかるようになる、ということなのかもしれません。<br /> <br /> 私の場合、もともと気の感覚はあるにはありましたけど、ここにきて更に一層、細かくわかるようになった気が致します。スーパーの食品での波動の感知の感覚がより細かく分かって、波動の悪い食べ物を避けるのが更に容易になりました。以前はちょっと迷ったり他のと混ざってわからないことも多かったですけど、今はかなり明確です。<br /> <br /> 識無辺処に達してようやくスピリチュアルが実践できるのかもしれません。<br /> <br /> Sat, 19 Dec 2020 00:00:00 +0900 2021年は人生の節目の年 https://w-jp.net/2020/2220/ <br /> 私の願掛けとしては、人生を大きく変えるスタートの年にしたい、ということです。<br /> <br /> 今までの人生は今生の目的はカルマの解消と覚醒への階梯を確かめることの2つでしたが、8割以上それは達成して、もう後は自由にしても良いとお墨付きを頂いておりますし、新たな人生をスタートしてもいいかな、と思っております。<br /> <br /> これから始まる半世紀近い人生の節目になる年になる気がしております。<br /> <br /> 今まで40数年が前半で、微細な印象(サムスカーラ)という意味合いにおけるカルマの解消と覚醒への階梯を確かめるということをしてきました。ある意味、ここまでは「個」としての目的を追求してきたわけです。個人的な課題の解消と個人的な理解を深めるために生きてきたと言えます。趣味にしても個人的な興味で自転車で旅をしたりバイクに乗ったり海外旅行をしたりしてきました。<br /> <br /> これからの半世紀は後半で、「公」の人生になるのかなと思っております。<br /> これは個としての希望というよりは、もう私の意識が変革してしまったので、そうせざるを得ない感じです。<br /> <br /> その節目はつい先日に瞑想中に経験した、アナハタの奥底で「創造・破壊・維持」の3つの力を感じて身体に宿し初めた時を境に「個」から「公」に転換したように思います。その力には抗い難く、私の「個」というものは奥に追いやられています。であれば、これからは「公」のために生きるしかない、と漠然と感じております。具体的にどうこうというのはまだ形にはなっておりませんが、一応のアイデアは降りてきてはいます。ただ、あまりにも世間離れしている話ですので本当かな、という気もしておりますが、そのうち本当かわかるのでしょう。今から心配しても仕方がないことです。<br /> <br /> そして、日本の国および可能な限りは世界をも良くしていく方向に持っていければと思います。<br /> <br /> その、スタートとなる年として2021年を位置付けたいと思っております。<br /> <br /> 私は占星術のことは詳しくないですけど時期的にちょうど「風の時代」(2020年12月22日以降)とこの私の意識の転換がだいたい一致していますね。アナハタの奥で「創造・破壊・維持」の3つの力を感じて「公」へ意識が転換したのが2020年12月26日ですから、4日しか違いません。私は「風の時代」とかいう話題をほぼスルーしていて興味もほとんどなかったのに時期が重なるとは、面白い話です。意外に影響あるのかもしれないですね。たまたまかもしれませんけど、日付が近いのは確かですので影響があるのかは置いておいて時期として同じなのは確かです。<br /> <br /> Fri, 18 Dec 2020 00:00:00 +0900 空無辺処を突破するには「手放し」が必要 https://w-jp.net/2020/2198/ <br /> スピリチュアルでよく言われている「手放し」ですが、この段階を突破するにはまさに「手放し」が必要のように思います。<br /> <br /> 空無辺処(くうむへんしょ)とは先日書きましたようにまだ色(形)がまだほのかに残っている状態です。その残った最後の色(形)を「手放す」のです。<br /> <br /> それ以前の「手放し」は言葉だけのもので、大した意味を持たなかったような気が致します。<br /> ここにきて、まさに「手放し」とも呼べる、そう呼ぶのが相応しい状態になりつつあります。<br /> <br /> 元々スピリチュアルで言われている「手放し」が私にはピンとはきていなくて、私は自分で実感したものしか受け入れませんのでこの「手放し」も「ふうん。そういうこともあるのかな」というくらいで傍観していたのですが、ここにきてそのことを理解しつつあります。<br /> <br /> とは言いましても言葉が同じだけでスピリチュアルで言っていることとは異なるかもしれないですけどね。まあ、それはそれでもいいです。スピリチュアルでは言葉の定義が曖昧で人によって色々ですから。私は言葉通りに解釈すると「手放し」がしっくりくる、というだけのお話です。<br /> <br /> この空無辺処はほのかな安寧の気持ちあるいは何がしかの安楽なイメージ・映像が次々にやってきて自分がまるで涅槃にいるかのような錯覚にもなるようです。安楽な感覚に安住すればそれは偽の涅槃に落ち込んで安住の境地で成長が止まるでしょうし、その一方で、完全に心を停止させて安楽な気持ちになりたいという誘惑に負けてしまうとサマーディあるいは定という観点から言えば無想定というただ深く眠っているかのような状態にも落ち込むことがあるでしょうし、仏教の心という観点からすればそれは魔境ということにもなるのでしょう。<br /> <br /> それ以前でももちろん雑念はありましたし想像で何がしかの映像が見えることはしょっちゅうで、それももちろん魔境ではあったかと思います。ですが、この段階以前であれば「手放し」は機能しなかったように思います。手放しをしようとしても離れてゆかず、それよりは「集中」が雑念を追い払う鍵になっていたように思います。それまでは。<br /> <br /> 第四禅定を超えますと集中しているという感覚が失われて、ただ周囲が遠くまで見えて、少し霧がかかったような安寧の気持ちになります。それはおそらく第四禅定の最初の段階としてスローモーションの視界として認識され、やがては、体の感覚の細かな動きを感じられるようになりました。どちらも集中しているという感覚があまりなくて全般的に観察しているという感じです。最初こそ集中が多少は残っている観察でしたが次第に観察が優勢になったように思います。<br /> <br /> そのように、集中が次第に止んでいって観察が優勢になってくると、最初の頃のようにカニカ・サマーディとしての瞬間の観察という感じが薄れ、少し柔らかな感じになってきます。これは最初は観察が弱くなってきたと思っていたのですが、どうやらそうではなく、もともと集中が優勢だったものが集中より観察が優勢になってきたのだと今は解釈しています。<br /> <br /> そうして進んでゆくと、まるで涅槃かとも思えた状態になったのですが、どうやらそれは禅宗的には涅槃ではなく第四禅定の無想定だったようです。そして、第四禅定の終わりから空無辺処にかけては安寧の気持ちの上に様々な想像が映像・画像・実感としてやってきて、それが涅槃と思い込んでしまうとそこで修行が停滞してしまう、ということのようです。<br /> <br /> その状態を突破する鍵が「手放し」なのかな、と思いました。<br /> <br /> 普通に心の力を入れて突破しようとするとサマーディが解除されてしまいますし、かと言って、なされるがままほおっておいてもそれはなくなってゆきません。まさにサマーディの観察する定の力を強めなくてはならないのです。そして、それと同時に起こることが「手放し」のような気が致します。<br /> <br /> ここで言う手放しとは「何もしない」ということではなく、特に最初は「(全体的な意思を働かせて力強く)手放します!」と宣言、あるいは、その意思に対してエネルギーを注ぎ込むことかなと思うのです。そして、次第にサマーディの力が強くなって更に色界(形)の力が弱まるにつれ、その「手放し」も穏やかなものにしてゆけばいいと思うのです。<br /> <br /> ここで、手放しているのに力を入れてどうするの? と思われる方がいらっしゃるかもしれませんけど、顕在意識の心は継続してサマーディの状態を保っていて、その奥にある深い意識にエネルギーを注ぎ込んでその幻想、これこそマーヤー(幻想)と呼ぶに相応しいのかもしれませんが、そのエネルギーを使って幻想を突破するわけです。ですので、意思を伴った手放しであるわけです。意思というと顕在意識の心のように思われてしまうかもしれませんけど、顕在意識は落ち着いたまま、奥深い意識を動かす、ということです。顕在意識が動いてしまって幻想(マーヤー)に付き合ってしまうと囚われの状態になってしまいますので顕在意識の心は静寂の気持ちを保ったまま、マーヤーを突破するよう深い意識を働かせるのです。<br /> <br /> まあ、言葉で書くと大げさに見えてしまうかもしれませんけど、要は、そう意図するという程度のお話です。<br /> まだ完全に幻想(マーヤー)を突破した感じではありませんけど、きっとそうなのかな、という小さな実感があります。<br /> <br /> 「手放し」というとエネルギーが不要のように思えるかもしれませんけど意外にエネルギーがいて、エネルギー補給しながらしないといけない感じです。<br /> <br /> 「手放し」と聞くと「行為」のように聞こえてしまいますけど語弊があって、「手放し」という「結果」だと思った方がいいかもしれませんね。手放しを「する」わけではないのです。意思の力を働かせて見極めようとすると、手放しという行為が「結果」として「起こる」のです。普通の意識からすればそう解釈・説明できますし、その一方で、奥深い意識という観点からすると「手放し、という行為」と言えなくもありません。まあ、混乱するので、とりあえず「行為ではなくて結果だ」と思っておいても差し支えないと思いますし、言い方を変えて「行為ではなくて、理解だ」と言ってもそう間違いでもありませんがいずれにしても語弊がありそうです。このどれも直接的には説明していなくて、そう見えなくもない、というお話です。<br /> <br /> どちらにせよ手放しは起きて、それは結果でもあるし、奥深い意識によるエネルギーを伴った意思でもあるわけです。<br /> <br /> Fri, 18 Dec 2020 00:00:00 +0900 既に空無辺処に入っているのかもしれない https://w-jp.net/2020/2197/ <br /> 禅定(サマーディ)は色界と無色界に分かれていて、色界は第一から第四禅定、無色界には4つの定があります。<br /> <br /> ・空無辺処(くうむへんしょ)→これ<br /> ・識無辺処(しきむへんしょ)<br /> ・無所有処(むしょうしょ)<br /> ・非想非非想処(ひそうひひそうしょ)<br /> <br /> これらはテーラワーダ仏教などでも説明されていて、わかるようなわからないような説明を読んだ記憶があります。流派によってはこれらをほとんど重視していないところもあるようです。以前にも考察したことがあるのですが、わかるようなわからないような、不思議な感じでした。それがここにきて、どうやら今までの理解は異なっていたのかもしれないと油井真砂さんの著書「信心と座禅」で気付かされました。<br /> <br /> 同書によれば、4つの禅定は「有から無」へと転ずる段階で、これら4つの無色界は「無から空へ」と転ずる段階だというのです。そして、無色界の禅定は一応は「物の形を取らない」ということにはなってはいるが、最初の段階である空無辺処ではその力は弱いと言います。<br /> <br /> 実はまだ有・無・空の中の無の世界であるが故に、見えぬ力である心所が、有の世界の影をたたえて残存しているのである。即ち、ただ茫乎(ぼうこ、広々)とした世界ではあるが、何処かに残存する自己というものが微かに感じられる境地である。(中略)定力が澄むにつれて(中略)心所相のみがただひとつ微かな色相をとどめて気付かれぬ最後のものとして残るのである。「信心と座禅(油井真砂著)」<br /> <br /> これが空無辺処の段階ということです。4つの禅定を超えて、無想定を通り越して、その次は色(形)がなくなるまで瞑想を続ける、ということですね。であれば、私は今ここの段階にいると言えるかもしれません。<br /> <br /> 第四禅定を達成した状態が最初に感じた(偽の)涅槃に似た安住な状態で無想定とも呼べる状態だとすれば、そこから更に進んで静寂の境地に浸ることを許さない奥深い意識が出てきた時が空無辺処に入った時だったのかもしれません。<br /> <br /> 無想定に安住しないように禅やヨーガでは注意がなされていますが、私の場合は否応無しに深い意識が現れてきて、(安住したいと思ったとしても)「安住することを許さない」という感じの強制的な奥深い意識の現れだったような気が致しますね。もちろん今も続いています。<br /> <br /> Fri, 18 Dec 2020 00:00:00 +0900 力が欲しいか? と何度も聞かれる https://w-jp.net/2020/2196/ <br /> その度に、「力を統べる法が欲しい」と答えます。<br /> <br /> イメージで、力を手に入れて英雄になれるであろう画像を何度も何度も瞑想中に見せられます。具体的な未来世のような映像や、世間で言われている聖者たちが成した神にのみぞ為せるかのように思われる技。そして、はたまたアニメの魔法使いのような映像までも使って「力が欲しいか?」と何度も聞かれます。<br /> <br /> ですが、冷めたものです。<br /> <br /> 私の中の平穏な意識は変わることなく、それを眺め続けています。<br /> <br /> そして、聞かれる度に「力を統べる法が欲しい」と答えます。<br /> <br /> そうすると、やがてその誘惑は去ってゆきます。<br /> <br /> 去っていったからといって、何も思いません。そのまま瞑想が続くだけです。<br /> <br /> 特にその回答をしたところで私に何か変化が起きるわけでもありません。法が欲しいと言ったからといってすぐに法という何某かが得られたわけでもありません。<br /> <br /> ただの茶番のようです。<br /> <br /> 思えば、数年前くらいまではこのような映像に瞑想中は吸い込まれていたような気が致します。<br /> <br /> 今は、そんなの関係なく瞑想が続けられます。<br /> <br /> ヨーガスートラでも言われているように、力に対する誘惑があったら退けなくてはならない、ということでしょう。禅でもこのような魔境の誘惑を突破しなくてはならない、と言われています。きっとそのようなことなのだと思います。<br /> <br /> 昔は力に対する欲望が強くて飲み込まれていたのかなと思いますが、今は茶番だとわかっていますので冷めたものです。かと言ってがっかりするわけでもなく、ただの映像として受け流すわけです。<br /> <br /> かなり以前から同様の声で誘惑されていたと思いますが、時が経つにつれて冷めてきた感じです。何度も見るので割とスルー気味でしたけどぼちぼち見ていた気もします。割と最近にも同様のことがありました。それより以前も何度も誘惑されていましたし、数年前であれば割と飲み込まれていたように思います。<br /> <br /> 力への誘惑は魅力的でしたけど、今はもう茶番にしか思えません。<br /> <br /> Fri, 18 Dec 2020 00:00:00 +0900 禅的に言うとここ最近の静寂の境地は涅槃ではなく第四禅定あるいは無想定だった https://w-jp.net/2020/2195/ <br /> 先日に続いて油井真砂さんの著書を読んでいきます。禅宗の視点がとても興味深いです。<br /> <br /> 第四禅の境地というものでは(中略)その慧眼に映った涅槃境というものもも、僅かに影を映したに過ぎない幻相であるということになるのである。(中略)無想定というのは(中略)無為恒常の無念無想境が開顕(かいけん)して来るのだが、そこを直ちに涅槃境と心得て何時までも枯木死灰のような無為の座を守って非色非心の法を修するようになる外道定である。「信心と座禅(油井真砂著)」<br /> <br /> とのことですので、禅でもきつく戒められているのは周囲のことだと思います。多少ながらスピリチュアルや禅あるいは仏教を学んだ人であれば日本であれば割と初心者であっても禅のこれらの教訓は話くらいは聞いたことがあるように思います。<br /> <br /> ただ、同書によればこれは必ず通る道だと言います。そういえばテーラワーダ仏教でも似たようなことが書かれてありましたね。<br /> <br /> 尤も、この定は、佛教の内道修行をしている者の上へも、色界から無色界へ転ずる時の一時的な必然現象として現れる中間定になっているから、この点で、4空定後の無色界から法界へと転ずる時の滅尽定(めつじんじょう)と並べられて二無心定と呼ばれる難定になっているのである。「信心と座禅(油井真砂著)」<br /> <br /> 同書では、この段階の注意として「仏にあったら仏を切れ」のような、とてつもなく有名なお話が載っています。それがこの段階のようです。<br /> <br /> 私に照らし合わせてみると最初の静寂の境地が涅槃っぽく見えたりもしましたが実は涅槃というよりも第四禅定あるいは無想定だったのかもしれませんね。少なくとも禅宗ではそのように言う感じでしょうかね。私の場合はもしかしたら涅槃かと思っていた境地でいたのは一時的でしばらくしたら胸の奥から突き上げる感覚が出てきてその安住に眠らせないといわんばかりに揺れ動く状態へと導かれましたけど。そして最近、それを超えてまた違った涅槃っぽい境地に達するようになりましたが、これはこれで違う境地のように思います。<br /> <br /> 少なくとも最初のものは禅的には涅槃ではなくて第四禅定あるいは無想定だったのであればそれも納得です。<br /> 最近の別バージョンもきっと同じようなものですかね。ただ、そこにも書いたように体の状態は異なりますけど。<br /> <br /> 私は、もしかしたら涅槃は一時的なもので悟りがその先かと思っていたのですが、禅宗の涅槃はもっと悟りに近いもののようですね。私はもう涅槃は終了かとも思っていましたけど、禅的に言うとまだ涅槃は達成していなくて本当の涅槃はまだまだ先のようです。<br /> <br /> 禅宗の言うところの涅槃はもっと永続的で確実な宇宙意識との繋がりがあるようです。私が体験したのは単に平穏の静寂の境地の極限、という感じでしたので、私も禅宗の用語に合わせた方がいいのかもしれません。<br /> <br /> 同書には、この無想定は涅槃と勘違いしやすい、という趣旨のことも書かれてありますね。涅槃と勘違いしてしまってそこに安住してしまう人がいるとのこと。<br /> <br /> とは言いましても、私はそれにずっと浸ると言えるほどに熟練していたわけではなく、瞑想の終わりに度々、静寂の境地が極まった際に涅槃っぽい感覚になった、というお話ですし、それが禅宗的には涅槃でなくて第四禅定あるいは無想定だったとしても無想定に浸るとか無想定を超えるとかそんな大それた話にはまだなっていなくて、ようやく安定して度々、第四禅定あるいは無想定にまで達することができるようになったというくらいです。<br /> <br /> 上にありますように、これはきっと必ず通るところなのでしょうね。<br /> <br /> 無想定という名前にあるように何も思わない定(静慮、瞑想)の状態のようですけど、私は必ずしも想念がゼロになっていたわけではなくて、最初に静寂の境地に到達する瞬間には雑念が急速になくなっていきましたけど、その後は薄い感覚で多少の想念は存在していました。ですので名前の通りに想念が全くない定というわけではないので、私の状態とはちょっと違うかもしれません。ただ、その状態で何かの想念が起伏してもそれにはほとんど影響されません。完全に想念がなくなるわけではないですから、無想定とは違うのかもしれませんけど、ほとんど影響されなくなるという点と雑念が極端に減るという点では無想定と言えるかもしれません。<br /> <br /> まあ、そのようにわかりにくいからこそ、せっかくここまで来たのに落とし穴に落ちる人がいるのかもしれないですね。<br /> <br /> 言い方は色々あるとは思いますけど、要は、無念無想の状態で眠り込むかのように安楽な瞑想をしてはいけない、ということですよね。<br /> <br /> 安楽な状態ではありますけど、そこはゴールではない、というのは感覚としてわかっていました。しかしながら何を次に行えばよいのかいまいち決め手がなくて、そんな時にこの本を入手したのでした。<br /> <br /> ふと思ったのですが、無想定や滅尽定に眠り込まないために禅宗は半眼なのですかね??? そういえばチベットのゾクチェンも眼を開けた瞑想とかしていますね。もしかしたら、この無想定の段階を超えるには眼を開けた瞑想の方がいいのかもしれません。まだこれは仮説ですけどね。<br /> <br /> ですけど、確かにそこを超えるのは眼を開けていた方がいいのかもしれませんけど、そこに至るには眼を閉じた方がしやすい気もするのですけど、どうでしょうかね。<br /> <br /> 最初に達成した涅槃っぽい静寂の境地が第四禅定で、そこから一時的に無想定に達してはいたけれども胸の奥から突き上げる感覚で次の段階に導かれた、と考えるのが自然かもしれません。<br /> <br /> Thu, 17 Dec 2020 00:00:00 +0900 どうやら第四禅定を達成しつつある模様 https://w-jp.net/2020/2194/ <br /> 最近、油井真砂さんという方を知って「信心と座禅」を読んでいますが、そこに今まで謎だった禅定およびその後の状態が事細かに書かれています。それと見比べると、どうやら私の最近の状態はちょうど第四禅定を達成したくらいにいるようです。まあ、自分での判断でありますので師匠に言われたわけではありませんけど、内容的にとても一致します。<br /> <br /> 今まで張り詰めていた気持ちが苦もなく緩んで、急に如何にものんびりした気持ちになるのである。ここではじめて、空大の気が自分の上へ脈々と通って来ているということが識得されるのである。「信心と座禅(油井真砂著)」<br /> <br /> しかし、注意が色々と書かれてあります。<br /> <br /> だが、ここはまだ、楽になれたというだけの境地に過ぎない。(中略)動きの無いということが少しも苦にならないのだから、これはちょうど鏡のようなもので、物が映れば映ったまま、消えれば消えれば消えたままでそこに何の変相も起きないという姿なのである。ただぼんやりとした安楽さに浸りきっているという「無」になりきった姿なのである。だから、うかうかとしてもしこの安楽さにあらわしてしまえば、無為無欲の屍に墜して、生き甲斐なき無益の座を守るやうになるのである。「信心と座禅(油井真砂著)」<br /> <br /> 安楽さの中にずっとい続けてしまうお話は仏教にしろヨーガにせよ注意すべき事柄として挙げられていますね。確かに、静寂の境地にはそのような魔力もあるようにも思います。仏教を志す者であれば禅定の安楽にい続けてはいけないと厳しく咎めていますし、ヨーガにおいても、そういえばヴィヴェーカーナンダでしたかあるいはヨガナンダかどなたかがサマーディにい続けたいという気持ちが強くて師匠(グル)からサマーディにばかり安楽にい続けてはいけないと指導を受けていたような気が致します。そのような落とし穴はあると思いますし、それに対する注意も伝統的な宗派であれば同様のようです。単純なサマーディを達成しただけで終わりではないのですよね。その中に細かいお話があって、そのあたりが細かく書かれてある本を長らく探しておりましたらこれを見つけることができました。<br /> <br /> 同書での説明は更に続きます。<br /> <br /> 何分まだ開発したばかりのものであるが故に、まだよく見、よく感じて、その在り方、動き方を因縁果の上から宇宙的に知り得るというだけに止まるのである。すなわち、純観察力としての活きを得ただけのことで、これ以上の妙融力(めうゆうりき)はまだ少しも出ていないのである。「信心と座禅(油井真砂著)」<br /> <br /> もう少しすると同書で言うところの「初地の菩薩境である四禪定」が達成されるとのことです。であれば、どうやら私の状況としてはどうやら第四禅定を達成したかあるいはしつつある状態なのかなと推測できます。確かに私の状態は「純観察力」とも言えるものが出てきているだけの状態ですし。しかもその範囲は自分の周囲のとても狭い範囲に限られていてとても宇宙的と言える代物ではありません。ですが、他の記述についてはかなり当てはまります。<br /> <br /> 妙融力というのは具体的にはよく分かりませんが、まあ、今のところ細かくは知る必要ないかな、という感覚です。<br /> <br /> この方は禅宗で、「無」とか「有」とかの単語の使い方がとても興味深いですね。私の今まで思っていた定義とは異なる部分もあり、とても参考になります。<br /> <br /> この方は病気になって結核で死にかけてから奇跡的に助かり、それ以降、不思議な力が現れるようになったとのことです。水の上を歩いた、なんてお話もあります。割と最近の人のようですね。<br /> <br /> 割と最近の時代の人がこうして細かく階梯を残しておいてくれたのはとても貴重で有り難いです。<br /> <br /> Thu, 17 Dec 2020 00:00:00 +0900 「手放し」が心を浄化する方向であればそれは正しい https://w-jp.net/2020/2193/ <br /> 聖典であるヨーガスートラでは、心を浄化することで魂(プルシャ)が対象をありのまま写すようになる、と言います。<br /> スピリチュアルでは何やら色々な手放しがあるようですけど、そのように心を浄化することを「手放し」と言っているのであればそれは正しいです。<br /> 同様に、キリスト教とかで「キリストに許しをこう」ことが心を浄化する方向であればそれは正しいです。<br /> <br /> ヨーガ的には集中して瞑想をして心を浄化するわけですけれど、流派によってやり方が違うわけです。<br /> <br /> この種の浄化は1回で完成するものではなく、何年もしないといけなかったり、人によっては数十年かかったりします。まあ、割と普通の生活を送っている人であれば数十年かかっても達成せずに亡くなったりもしますし、世俗を離れればもっと早いかもしれません。どちらにせよ時間がかかるわけです。<br /> <br /> どちらの方法にしても、十分に心が浄化されて魂が対象をありのままに鏡のように映し出す状態になるのが重要なわけで。<br /> <br /> そのための手法や言い方には流派それぞれのものがありますけど、ゴールは割とここで同一であるように思います。心の浄化と魂、あるいは流派によっては心が映し出す、なんて言ったりもしますけど、魂あるいは心が対象をありのままに鏡のように映し出す清浄な状態が目的なわけです。<br /> <br /> ヨーガだとそれをサマーディと呼んだりしますし、キリスト教の流派によっては「キリスト意識」とか言ったりするかもしれませんし、スピリチュアルでは覚醒とかあるいは「手放された状態」とか言ったりするかもしれません。言い方は色々ですよね。あとは「委ねる」みたいな表現もありますかね。<br /> <br /> 「手放し」にしても「祈り」にしても「集中瞑想」にしても「委ねる」にしても、中途半端では結果は出ませんよね。目的地を明確にしてしばらく続ければ結果として浄化が達成され、魂あるいは心が鏡のように対象をありのままに映し出すようになるわけです。<br /> <br /> どちらにせよ、やり方は違えども、言い方がちょっと違うだけでゴールは割と似通っているわけですね。<br /> <br /> Thu, 17 Dec 2020 00:00:00 +0900 アジナに集中してアナハタの扉を開く https://w-jp.net/2020/2192/ <br /> 少し前までは、後頭部に集中してタマスをヴィシュッダに吸い込ませるという瞑想をすることで静寂の境地になり、それを続けて静寂の境地の状態になっていました。<br /> <br /> その状態では下半身が充実していて、胸のあたりもそれなりに充実していた状態でした。<br /> <br /> 同様の瞑想を続けるうちに胸のあたりまで充実した感じになり、頭が清浄な透明なオーラ、喉より下が充実した感じになりました。これは、頭が天のエネルギーで満たされて喉より下が地のエネルギー、いわゆるクンダリーニで満たされた状態なのかなと解釈しております。<br /> <br /> 更に瞑想を続けたら喉より下にオーラが降りなくなり、クンダリーニが頭の下半分まで充実するようになりました。<br /> <br /> この状態ですと、それなりに静寂の境地になるのですがちょっと不安定で、おそらくは地のエネルギーが優勢になりすぎていて不安定になっているのかと思われましたので天のエネルギーを掴むようにして降ろすという瞑想をすることで地のエネルギーであるクンダリーニと天のエネルギーとのバランスを取るようにしておりました。<br /> <br /> そうこうしているうちに、クンダリーニがアジナのあたりまで充実するようになり、最初は不安定だったりもしましたが同様に天のエネルギーを降ろすことでバランスを取っておりました。<br /> <br /> そのようにアジナへの集中を続けて、その際には会陰も度々意識してクンダリーニをアジナに上げるということをしておりました。そうしてアジナにオーラを集め、そこを全身の力で前方向に「押す」ようにして圧迫感を感じておりました。そうすることで安定するような気がしていたのです。<br /> <br /> すると、特に感覚はなかったのですが瞑想中にふと気がつくとちょっとだけ緊張が取れて安定するようになりました。天のエネルギーとのバランスが取れたのかもしれません。アジナのあたりの圧迫感がかなりなくなっていました。<br /> <br /> 更にそのような瞑想を何回か続けていると、特に意図はしていなかったのですが、胸のあたりのアナハタで「パチン」という小さな感覚が一瞬した後、胸のあたりの緊張がそれなりに更に解けてリラックスが深まり、胸のあたりがスースー風通しの良い感じになりました。<br /> <br /> もの凄く風通しが良いという感じでもなく、なんとなく開いているという感じですが、それでも割と以前よりも何かが通っている感じです。<br /> <br /> 以前にも何回かはこのような感覚があったように思いますが、今回はよりはっきりと感じられています。段階的にアナハタが開いているのでしょうかね。<br /> <br /> アジナに集中していましたので特にアナハタは意識しておりませんでしたが、このようなこともあるのですね。<br /> <br /> この状態ですとアジナが地のエネルギーであるクンダリーニで充実していても不安定にならず、静寂の境地という感じよりは静寂の境地に浸ることを許さない奥深い意識が動いている感じではありますけど、それでも安定しています。<br /> <br /> イギリス時代にスパルタ教育した記憶に基づきますと、こうしてアジナにオーラを充満させて強力に集中することが重要だったように思います。その時の教育は具体的な細かいことは忘れてしまいましたけど、まあ、基本はこうしてオーラを充足させることだったかと思います。<br /> <br /> そして、そのまま瞑想を続けるとアジナが充実したまま静寂の境地に達します。<br /> <br /> 主に2つの静寂の境地をここまで経験しました。<br /> <br /> ・ヴィシュッダより下が地のエネルギーであるクンダリーニで満たされ、頭が天のエネルギーの透明な光で満たされた時に起こった静寂の境地<br /> ・アジナまで地のエネルギーであるクンダリーニで満たされたまま充実して起こった静寂の境地<br /> <br /> 今は、ヴィシュッダでオーラの質が分かれていた頃の静寂の境地とはまた少し異なる状態ではありますが意識の静寂という観点から言えばどちらも静寂の境地のように思います。静寂の境地はオーラがとても安定した状態と言えるのかもしれません。<br /> <br /> Thu, 17 Dec 2020 00:00:00 +0900 ローマの皇帝でメンヘラだった時のお話 https://w-jp.net/2020/2191/ <br /> ・・・夢や瞑想で見たお話です。本当のことかどうかはわかりません。過去生というかグループソウル繋がりでの記憶ですかね。<br /> <br /> ローマの時は本当に平和な時代で、共和制でしたから皇帝とは言っても割と一般市民の近くで生活をしておりました。<br /> <br /> この時は肉体的に弱くて、剣を振るったら剣の方に振り回されるような感じでした。鎧もとにかく重くて、戦うという感じでもありませんでしたね。ほんと、形だけでした。皆の前で一応は決闘っぽいことをしないといけない伝統だったので、形だけでも勝つということをしたのですが、どうもやらせっぽくなってしまいました。<br /> <br /> 実際には、向こうが忖度して負けてくれたのですけどね。特にお金を渡していたわけではありませんから。<br /> <br /> 政治も特にすることがなくて、平和な時でした。<br /> <br /> まあ、やることがないと暇すぎてメンヘラにもなります(苦笑)<br /> <br /> メンヘラすぎるので市民が皇帝を軽視するようになって、メンヘラしくいきなり「税を2倍にするぞ!」と言って市民をびびらせた後に「やっぱりやめた(苦笑)」とかやった気がします。<br /> <br /> 名前は忘れましたけど・・・。史実でマッチする皇帝はいるのかいないのか、よく分かりませんね。史実とは一致しないかもしれないです。<br /> <br /> まあ、夢ですしね。一致しなくても良いです。別のタイムラインのお話かもしれないですしね。<br /> <br /> この時に親戚だった男がいて、それが、この後の転生でも何故か私についてきてちょっかい出してきて私のポジションを奪おうとするんですよね。ほんとうざったくってね。その男が今生でもノコノコとついてきたものだから。<br /> <br /> その男は津波に流されてしまう場所に今住んでいてね。現実に住んでいてね。本当はね、そろそろ起こる東海地震の津波で流されて死亡する予定だったんですけど、それじゃあ懲りずにまた私につきまとうから、というのでその男の人生を私が変えてね。死なずに生きるように、地震が起こって津波が来る少し前に車で買い物に出かけるように仕組んだんですよ。<br /> <br /> 津波が起こるのは時間的には未来のお話ですけどね・・・。 私から見れば過去の時に幽体離脱をして、幽体離脱してしまえば時空を超えていますから、その状態で津波の時に行って、そのしつこい男にちょいとその気にさせて車に乗せて買い物に出かけさせたんですよ。そして、家にいれば津波で死ねて、その予定だったのですけど、車で買い物に出かけたおかげで、無事、生き延びることができるようになるのです。まあ、未来のお話ですけどね、更なる介入がなければそうなるわけですよ。<br /> <br /> いやぁ、助かって良かったですね・・・。死なずに済みました。命を助けてあげたわけです。しかしながら、大人しく死んでおけば幸せだったのかもしれません。それが狙いだったのですけどね。命は助かりましたけど、家は流されて、しかも保険にも入っていない状態のようですのでお金もなくて、仕事もなくて、津波の後ですから一応は国から少ない補助金と仮設住宅が与えられてね。一応は生きることができるわけです。けど、余裕のお金もなくて遊ぶこともできないわけですね。まあ、最近はネットがありますからそんなにお金はいらないかもしれないですけどね。とにかく、生き延びて平凡な生活をあと数十年は生きてもらうことにしたわけです。<br /> <br /> 些細なことかと思われるかもしれませんけど、お金を沢山使って遊びたい気持ちが強い人がお金がなくて仮設住宅でただ生きているだけというのは割と辛いですよ。そういう人生を生きてもらうことにしたわけですね・・・。<br /> <br /> 他人につきまとって、他人のポジションを何度も奪おうとして、他人に依存して生きようとしているようなので、ちょっと懲らしめてあげるわけですね。<br /> <br /> 一見したら「長生きできていいじゃないの。生きていてよかった」ということになりますので、見方によっては私は良いことをしたわけです。その一方で、苦しむところは苦しんで反省してもらいます。<br /> <br /> まあ、前にも書きましたけど、他人を操ったり依存をして生きようとする人は少なからずいるわけですよね。そういう人は離れてくれと言ってもなかなか離れてくれないので、このようにお灸をすえることで勝手に離れてゆきます。<br /> <br /> 表立って私何か言わなくても、知らないところでこうして仕返ししますから。何も言わないからと言ってなめるな、ってことですよね。向こうはどうしてこんなことになったのかもわからないでしょう。そんなもんです。分かってしまったらまた仕返しされますからね。わからないからこそ成功なのです。<br /> <br /> Wed, 16 Dec 2020 00:00:00 +0900 天のエネルギーを掴んで体に取り入れる https://w-jp.net/2020/2188/ <br /> 少し前までは頭頂のサハスララを意識すると少し天のエネルギーが漏れて降りてくるような感じで、その天のエネルギーを喉を通して下半身にまで浸透させていました。その頃は、感覚があるのがだいたい頭頂くらいまでで、その上にはほとんど感覚がありませんでした。それでも、それなりに天のエネルギーが降りてきて体に取り入れることができていました。特に頭に入るエネルギーが優勢で、一部が下半身にまで浸透するという感じでした。<br /> <br /> ここにきて、頭頂のサハスララからの天のエネルギーの入り自体はそこまでは変わらないものの頭頂よりもう少し上のあたりまで感覚が出てきて、天のエネルギーを意識的に体にもっと取り入れることができるようになりました。<br /> <br /> 具体的には、頭頂よりもう少し上、感覚的なものですけど50cmとか1mとか上にまで見えない手のようなものを伸ばして、その手のようなものを右回転、見上げた時に右回転になる感じでぐるぐると回してそこにある天のエネルギーを絡め取って、そうして掴んだエネルギーをぐいっと頭および体、下半身にまで一気に取り込みます。<br /> <br /> 手と言っても指はなくて、グーの手のような感じです。それでも意外に天のエネルギー、オーラと言ってもいいかもしれないですけど、それはしっかりと天から取り込むことができるようです。<br /> <br /> これは、ちょっと段階としては異なるのですが、マニプラ優勢だった頃にマニプラにまでしか上がっていなかったエネルギーをアナハタに上げる時にぐるぐると回してぐいっと持ち上げた時に似ています。その時も右回転でしたけどそれは下を向いた時の右回転でしたので、体との方向で言うと今回とは逆回転になりますね。移動させる方向としては右回転に対して手前ですから、その点は同じであると言えます。<br /> <br /> おそらくはマニプラ優勢だった頃にはマニプラとアナハタの間のエネルギーのルート(ナディ)がブロックされていて、いわゆるグランティというものですが、そのブロック(グランティ)を超えるために意識的に自分のオーラを回転させてそのブロック(グランティ)を通過させる必要があったのかな、と思っております。<br /> <br /> 今回も、サハスララのあたりでエネルギーが少しは通り始めてはいるのですがまだ十分に通るようになってはおらず、それ故に意識的に回転をして天のエネルギーを取り込む必要があるのだと解釈しております。<br /> <br /> この、回転させてエネルギーを通す、というのは、同記事も出てきた成瀬雅春先生の書いた「クンダリーニ・ヨーガ」という書物をその前に読んでいてそこからヒントを得たわけです。同記事に書いてありますように最初は半分うとうとしていたら急に夢の中に成瀬先生が出てきて腰をぐるぐると回していたので体を動かして真似しようと思ったらその頃は骨折していて横たわっていたので思うように体が動かなくて、仕方がなくイメージで指を動かしたらそれだけでもオーラが動いた、というのが原初の体験です。先生の書物には腰を回転させると書いてあって、私は実際には腰は動かさなくてイメージというかエネルギー的なものを動かすだけでエネルギーが動きました。おそらくは腰を動かすのと同じようなことなのかなと勝手に私は解釈しております。マニプラの場合は腰のところですので実際に体が動かせますけど、今回の場合は頭頂のサハスララのもっと上ですのでそもそもそこには体はないですからね。近いところとして代わりに頭をぐるぐると回してもいいのかもしれないのですが、そこはよく分かりませんね。流派によっては頭というか体全体を回転させる流派もあったとは思いますけど、個人的には体を動かす必要はない感じです。<br /> <br /> この「回転」はナディ(エネルギーのルート)にあるブロック、いわゆるグランティを超えるのに重要なように思います。<br /> <br /> このグランティは書物によってその場所が微妙に異なっていて、代表的なものは3つあってブラフマグランティ(ムーラダーラチャクラに存在)、ヴィシュヌグランティ(アナハタチャクラに存在)、ルドラグランティ(アジナチャクラに存在)とあるのですが通説ではチャクラにあるというお話ですが書物によってその場所が微妙に異なっていて、私の経験した感覚と一致するところもあればそうでないところもあります。<br /> <br /> 代表的なグランティが3つということで実際のエネルギー・ブロックがもっとあるというのはヨーガを勉強すればそう教わりますし、実際そうなんだと思います。<br /> <br /> 最近は天のエネルギーも取り込んではいましたけど地のエネルギーの方が優勢になってしまうことも多く、バランスという意味で天のエネルギーが不足がちになっていました。<br /> <br /> そこで、最近になって感覚が頭頂のもっと上のあたりまで伸びてきましたので回転させてエネルギーを取り込んでみたら割と簡単にエネルギーを取り込めた、というわけです。<br /> <br /> 思い返せばことあるごとに同様のことを試していた気もしますが、最近ほどうまくエネルギーが降りてくる感じではなく、当時は体の前後に散ってしまっていた感じでした。<br /> <br /> まだこれからどうなるのかは分かりませんが、もしマニプラで起きたことと同様であるとするならばそのうちサハスララのエネルギー・ブロック(グランティ)が開放されて、特に回転させなくてもエネルギーが天から降りてくる状態になるのかな、と思っておりますが、どうでしょうかね。そこの部分はこれからの様子見です。<br /> <br /> Wed, 16 Dec 2020 00:00:00 +0900 サハスララとムーラダーラの陰陽エネルギー https://w-jp.net/2020/2187/ <br /> ムーラダーラを意識するとエネルギーがアジナまですぐに上がります。<br /> サハスララを意識するとエネルギーが喉元を通って下半身にまで広がります。<br /> <br /> それぞれのエネルギーは陰陽を意味していて多少異なった性質を持っているように思います。<br /> <br /> どちらのエネルギーにしても雑念は洗い流されて平穏な状態になります。それは言い換えれば、エネルギーが満ちることによって平穏になる、あるいは、エネルギーが満ちることによってポジティブになる、とも言うことができるように思います。ポジティブというと語弊があるかもしれませんが、ポジティブシンキングのような空元気ではなくて、エネルギーが満ちることで自然にポジティブになる、ということです。ですのでポジティブというより、ただ単にエネルギーが満ちて平穏になる、と言った方が語弊が少ないかもしれません。<br /> <br /> サハスララの天のエネルギーの質は基本的には白ですが、白は白でも、漆黒が白く光っているかのような輝く白です。とは言いましても、色で示すのならばやはり白だと思います。<br /> <br /> 一方で、地のエネルギー、ムーラダーラから来るエネルギーは基本的には黒ですが、黒とは言っても白と言えなくもない、白と言えば白っぽく見える、それでもやはり黒です。灰色かと言われると灰色そのものではなく、基本的には黒なんですけど、白にも見えなくもありません。<br /> <br /> ・・・言葉で言っても意味不明だと思います。まあ、基本的にはサハスララは白でムーラダーラは黒だということでいいと思います。<br /> <br /> 太極図で陰陽の混ざりあったものがありますけど、よく見ると単純な陰陽ではなくて丸く点が入っているのですよね。太極図の解釈は色々あるのでしょうけど、サハスララから白いエネルギーが体の前面を伝わって下降し、ムーラダーラの黒いエネルギーが背筋を通って上昇する、というのであればこの図は理にかなっているように思います。そんな感じのイメージが瞑想中に見えました。右図では太極図に合わせて一応は丸い点を真ん中に2つ入れましたけど、実際に見たというか感じたものに真ん中の2つの丸い点はないです。<br /> <br /> これらのエネルギーのバランスを取るのは重要で、ムーラダーラばかり意識してしまうと天のエネルギーが不足してしまうように思います。まだサハスララはそれほど開いていない感じですので天のエネルギーが優勢になってしまうという心配は今のところないのですが、そういうこともあるのかもしれません。きっとこれらはバランスが重要なのだと思います。<br /> <br /> どちらのエネルギーで満たされたとしても体は充実してポジティブで平穏になりますが、天のエネルギーが足りない時は不安定になりやすいように思います。<br /> <br /> 最近は割とムーラダーラを意識してエネルギーをアジナまで上昇させるという瞑想をしてきたわけですけれども、それだけですと天のエネルギーが不足しがちになってしまう気がしますので、状態を見つつ天のエネルギーも取り入れるのがいいと思っています。<br /> <br /> 順番としては以下ですね。<br /> <br /> 1.体にエネルギーが通る状態になっているかを確認する。テストとして、ムーラダーラを少し意識してエネルギーがすぐにアジナまで通れば正常。通らないようであれば詰まっているので調整する。例えばアジナあるいは後頭部に意識をしてタマスがヴィシュッダに吸い込まれるまで待つ。段階的に平穏な意識になるところまで瞑想を続ける。もし何かが取り付いていてエネルギーを吸い取っているのならば引き剥がしてから平穏な意識にする。必ずしもこの段階で完全な静寂の意識になる必要はなく、だいたい平穏になれば十分です。<br /> 2.タマスが溜まっている時はサハスララを意識して天のエネルギーを降ろす。<br /> 3.ムーラダーラを意識してエネルギーをアジナまで通す。<br /> <br /> 2と3は同様にエネルギーが高まって雑念が減る、あるいは雑念に影響されにくくなる効果がありますけど、雑念という観点からすると3番のムーラダーラのエネルギーの方が効果があるような気が致します。ただし、ムーラダーラが天のエネルギーで浄化されていない状態でムーラダーラのエネルギーを上げてしまうと不快感を感じてしまうことがありますので、まずサハスララのエネルギーを下半身まで通して十分浄化することが必要のように思います。<br /> <br /> その後、必要に応じてサハスララからエネルギーを降ろし、下半身を十分に浄化させます。ムーラダーラのエネルギーはいわゆるクンダリーニで、生命力としてはかなり強いものがあると思います。しかしながらそのままですと浄化が足りませんのでまずサハスララからの天のエネルギーで浄化が必要なのだと思います。<br /> <br /> Wed, 16 Dec 2020 00:00:00 +0900 必ず成功する筈だったのに行動しなくて成功しなかった人のお話 https://w-jp.net/2020/2186/ <br /> インドでグルをしていた時のことです。<br /> <br /> ・・・夢や瞑想で見たお話ですので本当のことかどうかはわかりません。<br /> <br /> 当時、グルをしながら寺院で参拝に来る方の相談に乗っていたりしました。<br /> <br /> 未来を見れましたから、参拝者の相談に乗って願い事が叶うかどうか見てあげたりもしていました。<br /> <br /> ある日、おばあさんがやってきて、詳しくは忘れてしまいましたが、とあることが叶ってほしくて、そうなるかどうか聞きにやってきたのでした。<br /> <br /> 未来を見てみると、かなり確実にそれは起こりそうでしたので、「大丈夫だ。その願いは叶う」と答えました。<br /> <br /> おばあさんは喜んで帰ってゆきました。<br /> <br /> 後日、そのおばあさんが再度やってきて、あの願いは実現しなかった、と言うのです。<br /> <br /> どういうことだろうかとその願いの実現について確認してみました。<br /> <br /> すると、その願いの実現の雛形になるものはアストラルの形でまだ存在しており、やはり実現するのは確かなようでした。<br /> <br /> どうしたものかと思って聞いてみると、おばあさんは、実現すると聞いたので何も行動しなくて家でその願いが叶うのを待っていたそうです。<br /> <br /> 私は言いました。確かに叶うのは確実だけれども、それは自分が行動しなければ叶わないことでしょう。行動しなくて待っていたら叶うことはないのはその願いの性質から言ってそうだったようだ。<br /> <br /> どうやら、私がおばあさんを勘違いさせてしまったのか、あるいは、おばあさんが早とちりしたのか・・・ どちらにせよ、本来叶う筈だったことが叶わなくなってしまったのです。<br /> <br /> こういうことは、占いでもよくあります。叶うはずが占いで叶いそうだと出たから油断して行動せずに叶わなかった、なんてのは割とよくある話です。<br /> <br /> 実際に動かないといけないのですよね。<br /> <br /> 占いや未来予知は、時に罪作りです。<br /> <br /> その後、私は言葉にもっと気をつけるようになりました。行動しなくてはならない、と一言付け加えるようになりました。何もしないでも叶うわけではない、と注意するようになりました。<br /> <br /> それと、確率的にも、少し低めに言うことにしました。未来予知は割と高精度でしたけど、実際に行動しなくなってしまったり努力を怠るようになってしまうといけないので曖昧に言うことにして、努力が必要と言うようにしました。そうすることで、本人を油断させないよう気遣ったわけです。<br /> <br /> Wed, 16 Dec 2020 00:00:00 +0900 世界が自分を動かしているような感覚になる https://w-jp.net/2020/2185/ <br /> ヨーガの説明で3つの要素、見るもの・見られるもの・見る手段が一体になる、みたいなお話があります。これはサマーディ(三昧)の説明なのですが、今まではわかるようでいてわからなくて、ヴィパッサナー状態のことかな、と漠然と理解しておりました。<br /> <br /> 文字通り読むと行動の主体と客体が消え失せ、行為そのものになる、とも読むことができますが、最近の私の状態によってようやくこのことが直接的に理解できるようになって、今までは理解が足りていなかったことに気が付きました。<br /> <br /> 最近はここ1年ほどスローモーションで視界が見えるヴィパッサナー状態が基本にあって、その状態から落ちることもあればその状態のまま生活することもあるのですが、次第にそのようなヴィパッサナー状態(サマーディ状態)でいることが多くなってきました。そうなってくると、最初は視界だけのヴィパッサナーあるいはサマーディとも呼べる状態でしたが、最近は、表現するのが難しいのですが、もっと「ふわふわ」とした感じになってきました。<br /> <br /> 視界は見ようと思えばスローモーションで見えるのですが、特に視覚を強く働かせようと思うときだけそうなって、今は以前ほどスローモーションのような感覚がなく、その一方で、体の中の感覚とか、漠然と周囲を感じる見えない結界というか気配を感じるアンテナのようなものが広がってきた感じです。まだ感覚は薄いですけどね。<br /> <br /> そのアンテナは距離が離れるほど感覚が薄くなってゆくのですが、そのように視界だけでなく感覚までも遠くまで広がるようになってくると、自分がここにいるという感覚が薄れて「ふわふわ」とした感覚になってくるのです。<br /> <br /> これはもちろん日によって深さが違いますけど、歩いていたり自転車に乗っている時に距離感がなくなったりするので、ちょっと危ないと思うこともあります。視界に意識を合わせてスローモーションで見ればそれなりに危険は避けられるのですが、そもそも感覚がふわふわしてきているのでそのように視界に意識を合わせるよりも感覚で周囲を把握していた方がよっぽど楽です。そのためにちょっとふわふわした状態になって、距離感も薄れて、乗り物を運転するのがちょっと危ない感じになってきています。この感覚に慣れていないだけですかね。<br /> <br /> その状態で生活していてふと気が付いたのが「私」という感覚がとても薄くなっていることです。ふわふわと浮いていて、体を動かしていて、行為もしているのですが、体を動かしているという実感があまりないのです。ふわふわしています。<br /> <br /> まるで、宇宙あるいは世界が私を動かしていて、私が動いているというより宇宙が動いているように感じるのです。もちろん私というのは個人ですから動くのは私という人の体ですが、人の体が動いているというよりは宇宙としての個人が動いている感覚なのです。もちろん周囲が勝手に動くわけではなく動くのは私の体だけですけど、宇宙が動いているかのような感覚になっています。周囲にあるものと自分の区別もあまりなくて、たまたま自分だけが動いた、という感覚です。<br /> <br /> そうなると、感覚としては「ふわふわ」していて、それでいて、「主体」がなくて「客体」もなくて「動かす手段」もない感じです。探そうと思ってもそれらのいずれも見つかりません。<br /> <br /> 最近になって、ひょっとしたらこの状態がヨーガでの3つの状態のことなのかな、と思うようになりました。<br /> <br /> 例えば何気なく自転車に買い物に行く時、宇宙が私を動かしているので「わたし」という主体は見つからなくて、宇宙が自転車や自分の体を動かしているので「私が動かしているもの」、という「客体」も存在しなくて、「自転車をこぐ」という「動かす手段」も存在しなくて、宇宙が自転車をこいでいる状態なわけです。別に自転車だけでなく普段の生活でも割とそんな感じです。<br /> <br /> この説明はヨーガの説明とは異なるかもしれませんけど、ヨーガでよく見る3つのお話の説明としては私としてはしっくりきます。<br /> <br /> まあ、わかってしまえばなんてことはないですね。<br /> <br /> 職人さんとかで物事に熟練すれば「宇宙が私を動かして作品を作っている」という境地にまで到達しますけど、そのように職人さんが言っているのは何もその仕事のことだけを言っているわけではなくて、日常生活においてもそのように宇宙が自分を動かしている境地にいる、と言っているのですよね。<br /> <br /> であれば、ヨーガではこのように3つの境地という言葉で説明していますけどそれは日本人には回りくどくて、日本人にはもっとストレートに説明および理解が可能で、要は「神様が私を動かして作品を作っている」とか「私が無心でいたら神様が手助けしてくれていつの間にかスポーツに勝たせてくれた」みたいなお話の方がよっぽど理解がしやすいと思います。<br /> <br /> それを世界というのか神様というのかは人それぞれですけど、自分を超えた存在が自分を動かしているようになって自分とか相手とか何かしている、というような感覚が消え失せた状態があるわけです。それをヨーガではサマーディとかヴィパッサナーとか呼んでいるのだと思いますね。<br /> <br /> 改めて、この3つの言葉の意味を調べてみました。ヨーガスートラ1章41番ですね。<br /> <br /> (1-41) そのヴィリッティがこうして無力になった(制御された)ヨーギーは、(さまざまの色の印象の前におかれた)水晶のように、うける者、うけること(の道具)、およびうけられるもの、(「自己」、心、および外界の対象)が集中して同一になる。「ラージャ・ヨーガ」 (スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ著) <br /> <br /> ここにあるように、まず自己とはSelfですのでアートマン、いわゆる魂のことですね。心はヨーガでいうマナス、そして外界の印象とはヨーガではヴィリッティと呼びます。これらの3つが同一になる、というのは、心(マナス)が純粋になって魂(アートマン)が外界の印象そのものを直接的に映し出すようになった状態であると言えます。<br /> <br /> まさに、最近の状態がそのものであると言えます。<br /> <br /> Tue, 15 Dec 2020 00:00:00 +0900 一瞥を最終的な悟りだと勘違いしないこと https://w-jp.net/2020/2182/ <br /> 昔からこの種の人たちはいて、新興宗教を立ち上げたりスピリチュアル・リーダーを名乗ったり悟りを得たとか覚醒したとか言っている人の中で割とこういう人が混じっています。全部とは言いませんけどね。それぞれです。ですけど、こういう人は一定の割合は必ず混じっているように思います。<br /> <br /> 先日、他者の手助けでも幽体離脱できて真理・悟りを垣間見ることができるというお話をしましたけど、そのように全く修行していなくて「勘違い」していて「斜め上」を向いている人であっても他者の助けがあれば一時的な覚醒・悟りの状態を体験できるのですよね。ですけど、それはあくまでも一瞥であって、それをもって最終的な悟りだと勘違いしない方がよいです。<br /> <br /> 実際は、その一瞥の悟りを自身の指針にしてその後の修行に励むようにとの恵みを頂いたようなもので、その後の人生で同様の悟りの状態ではなかったり惨めなものだったりするのであれば所詮はその悟りは一瞥でしかなかったということです。<br /> <br /> まあ、こういう一瞥はいつにでもあって、瞑想中だったり幽体離脱だったり、一瞥の悟りはレベルはそれぞれ違うにせよ小さな悟りなんてしょっちゅうで大きな悟りだってたまにあります。ですけど、大きな悟りの最終状態が日常生活で24時間継続して続くようでなければ最終的に悟ったとは言わないのですよね。ある程度続くのであればそれは一応は悟りと呼んでも良い状態だとは思いますけど、その後も悟りが深まるように努力、というと語弊があるかもしれませんが、努力のようなものを続ける必要があるわけです。<br /> <br /> 一瞥しただけで悟りを得たと思って修行を辞めてしまったり他者に論じたりする人はとてつもなく多いです。ですから、そんな他人をいちいち気にしていても仕方がなくて、それ故に、色々言っている人がどのレベルにいるのか見極めが必要です。<br /> <br /> 言っている内容が本物であったとしても一瞥の内容を喋っているのかそれとも常に神意識と同一化していてそこから発しているのか、その違いはとてつもなく大きいです。<br /> <br /> 一般的には、このような一瞥は弟子がグル(霊的指導者)から与えられるインスピレーションによって起こることが多いような気が致します。<br /> <br /> グルのお恵みによって弟子に悟りの状態を一時的に体験させるわけですね。その時は弟子ははっきりとその悟りがグルの恩恵によるものだとわかっていますので勘違いはしないのですが、最近のスピリチュアルですとセミナーや瞑想中に一時的な悟りを垣間見ただけで悟りを得たかのように勘違いしてしまう風潮がある程度はあるように思います。<br /> <br /> 見分け方は色々とありますが、個人的には「動画を見るとお腹がジンジンと痛くなる」とか「いいこと言っている気もするのに何故か疲れる」ようなYouTuberはすぐ見るの止めます。マニプラ以下が優勢で情としての愛のレベルにいるのか、あるいは背後にいるのが妖魔系、あるいは稲荷系の可能性がありますね。いわゆるエネルギーヴァンパイアの類です。<br /> それと、ヒステリー系スピリチュアルあるいは自己啓発系スピリチュアルも私は興味ないです。こちらは天狗系の可能性があります。<br /> <br /> 私が思う本物は、ただただ神を語ります。神のみを語り、神の恩寵と恵みがその言葉や態度の隅々からにじみ出てくるのが本物の覚者です。そうなってくると今のスピリチュアルのひと目を引くような風潮とはちょっと離れて、割と地味なものになりますけど、その本質は神の意識に溢れていて後光がさすような感覚を受けることもあります。<br /> <br /> 分かってしまえば割とすぐに見分けがつきますけど、まあ、最初はわかりにくいですよね。わからない内にそのように中途半端なグルのところに集うのも決して無駄ではなくて、それすらも学びであるので何も無駄なものはないのだとは思います。<br /> <br /> 勘違いして他者に教え始めてしまう一瞥の覚者にしてもそれは本人の学びで、教えるということを通じて自分が学んでいるわけです。それにしても特に問題があるわけではなく、そこに集うということは、同じレベルの人たちが先生と生徒という枠を超えてお互いに学び合っているわけです。<br /> <br /> 何も無駄はなくて、勘違いにしても全てが神の恩寵であるわけですね。ほんと、この世界は素晴らしいことだらけです。神の意識に満ち溢れています。<br /> <br /> Sun, 13 Dec 2020 00:00:00 +0900 人々が悟っていないのは学びのため https://w-jp.net/2020/2181/ <br /> 悟っていると人生ゲームのルールまでもが透けて見えて学びの中に没頭できません。物事の本質が分からなくて、映画やゲームを見ているかのように俯瞰的なものになります。<br /> <br /> 時に人は悟りたいと願って、人生を映画やゲームのように客観的に眺めたい、平常心でいたい、みたいなことを言いますけど、実のところ、悟っていないというのはとても幸せな状態でもあるわけです。気が付いていないだけで。<br /> <br /> 悟りの状態を隠されてまるでこの人生が全てで抗いようがなくてちっぽけな人間でしかないと錯覚している状態であればこそ愚かなことも「仕方なし」にすることができて、人生ゲームのコマとして動くことができるわけです。<br /> <br /> 実のところ、この世界はそのように悟りを捨てて制限された世界で自分の興味のあることを追求するために作られたとも言えます。<br /> <br /> ですから、基本ルールとしては「悟りを捨てて私は生きます」というのがコンセンサスなわけですけど、時々ずるい人がいて、「実は悟ってますけどそれは秘密だからね。みんなは私の奴隷になってね」みたいな人がいたりして、ゲームを混乱させていたりします。<br /> <br /> それを置いておけば、基本的には悟りを捨てるのがルールなわけです。割と紳士のルールのようなものでそれを破ったからと言って罰則はありませんけど、宇宙には基本ルールがあって、惑星の生命の意思を尊重して外からは介入しない、ということになっていますので地球のルールは尊重されています。<br /> <br /> ですけど、地球で作ったルールですから、地球の人々の意思の力によってルールの書き換えも可能なわけです。もうこの古いルールは飽きました! というのであればルールを変更すればいいだけです。それは意思の力によって可能なわけです。<br /> <br /> 悟っている人が多い世界では不可能な学びをこの地球上で行うことができていたわけです。それは割と他の遠い惑星においても不可能だったりするわけです。<br /> <br /> 誤解があるといけませんので補足しておきますと、このような「一時的に悟りを捨てるゲーム」をしているのは一部の系統の人たちだけです。地球には色々な魂の系統があって、その一部が今の地球の意識の状態に合わせてこのようなゲームに参加しています。<br /> <br /> ですから、そもそも悟っていない魂はこのゲームとは無関係です。<br /> <br /> もともと悟っていて、悟りを一時的に捨てることで学ぶことがあると判断した魂がこの茶番のゲームに参加しているわけですね。周囲から眺めている宇宙人は茶番を見て面白がっていると思いますけど、まあ、それがそもそもの目的なわけですから、茶番に参加すると決めたわけですから茶番を演じきればいいだけのお話なわけです。<br /> <br /> あと、一旦初めたら途中でリセットできないようになっているのは、そうしなければズルをしてチートしてパラメータを自分でいじって簡単ゲームにしてしまうからなんですよね。ゲームであることを一旦忘れないと本気でゲームをプレイできないので一旦ゲームであることを忘れることにしたわけです。ですからこの世界は厳しいですけど、まあ、それも全ても自分が選んで生まれてきたことで、途中で辞められないというのも自分でわかってそのような制限がかかっているわけです。<br /> <br /> Sun, 13 Dec 2020 00:00:00 +0900 幽体離脱で時空を超えられるかどうか https://w-jp.net/2020/2180/ <br /> 超えられますけど、必ずしも超えられるわけではないようです。<br /> <br /> ・空間に対してだけ自由になり、現在という時間に囚われている場合。<br /> ・時間軸に対しても自由になるがパラレルワールドまではわからない場合<br /> ・パラレルワールドまでも含めて時空を超えられる場合<br /> <br /> これは、意識のレベルによってどの範囲まで把握できるか、ということが違うように思います。<br /> <br /> 未熟な魂の場合は空間にだけ自由な幽体離脱になるように思います。<br /> 少し熟練してくると過去も未来もわかる、というか、移動できるようになってきます。幽体そのものが時間軸に妨げられることなしに移動できるようになります。<br /> <br /> その後、更に慣れてくるとパラレルワールドまでも含めて時空を超えられるようになります。<br /> <br /> どれも、ちょっとしたコツで可能です。<br /> <br /> 私が小学校の頃に幽体離脱をがっつり1週間くらいした時はそれなりに熟達して、その時は、自分自身の人生に対して操作が可能でした。<br /> <br /> もっと熟達すれば他人の人生も変えられるのかもしれないですけど、そこはよく分からないですね。あくまでも自分の人生はその人本人が負っているわけですから、そう簡単に他人の操作は受け付けないと思いますけど。他人の周囲の環境の操作という意味でしたらいろいろ可能ですけど、そんなことしてもあまり意味がないような気がしますし。<br /> <br /> そんなことをして欲望を叶えたとしても所詮はその程度で、向こうからも再度タイムラインをいじってきますので欲望が叶えられる世界がキャンセルされたりもします。<br /> <br /> まあ、なるようにしかならないですよ。操作することより、もっと悟ることを学ぶべきですね。個人的にはそう思います。<br /> <br /> もし操作をしたら、操作をし返されます。まあ、そんなもんです。普通の人間の人生とそうは変わらないですよ。<br /> <br /> 生きている人間の悟る生き方の延長線上に幽体離脱もあって、タイムラインも同様です。<br /> <br /> 欲望に基づく操作をすればそれなりに苦しむことになるというのは神秘のなせる技で、普通に生きている人間が苦しむのと変わりがないです。やったらやられる、みたいなのも同じですし。<br /> <br /> 一方で、悟りを目指した生き方を目指すのであればタイムラインもそのように意図されます。影響できる範囲が違うというだけで、幽体離脱した状態も肉体を持った状態も、基本はそんなに変わらないと思います。<br /> <br /> 誰しもが幽体離脱が可能で、幽体離脱できたからと言って偉いとかそういうこともありませんし。他人の手助けがあれば修行していなくても可能ですしね。幽体離脱して一時的に悟りのような超越意識を得たとしてもそれが日常生活で続かない限りその程度の一瞥でしかないのであまりいい気にならないことですね。特に他人に助けてもらって知った場合なんかは勘違いしないことです。<br /> <br /> Sun, 13 Dec 2020 00:00:00 +0900 私にチャネリングしてこないように禁止札を出している https://w-jp.net/2020/2176/ <br /> 私は守護霊に頼んで半径2〜3mの空間になるべく霊のいない状態にしてもらっています。<br /> <br /> 「(本当に必要なこと以外は)私に(チャネリングで)話しかけないで」と言ってありますし、他の霊にも「近付きすぎないで」と注意しています。<br /> <br /> 実際に何かを掲げているわけではないのですが、チャネリングしてこないように無言で禁止札を出しているような状態です。<br /> <br /> こうしないと、むやみに誰かが話しかけてきてとても煩いです。<br /> <br /> 瞑想しにくくなりますし、私の知っている過去生の妻だったりすると対応しないと失礼な感じになってしまいますし。<br /> <br /> ですけど、今は霊界のマントを使って遮断していますし、少なくとも止まっている時は近くに霊が近寄らないようにしてもらっていますので静かなものです。<br /> <br /> 精神修行はとてもしやすい状態であると言えます。<br /> <br /> それに、何でも聞いてしまうのは良くなくて、自分の頭で考えることが重要ですので、そのような意味においてもあまり話しかけない方がいいのです。<br /> <br /> 間違っていても自分の頭で考えることが重要です。そのためには自分の目でしっかりと見て、自分の頭できちんと考える必要がありますから、そのために、チャネリングは時に邪魔になったりします。<br /> <br /> 最終的に自分で考えられるようになったり、あるいは、見るにしても自分の目で霊視とか、あるいは幽体離脱して時空を超えられるようになったらもっとはっきりと知ることができますし。前世では幽体離脱で得た知識を使ってカウンセリングとかしていましたけどね。その時のことを思えば、なにもわざわざチャネリングで他人に聞かなくても幽体離脱で自分で調べに行けばいいわけですし。<br /> <br /> 幽体離脱ができないにしても自分の目で見て自分の頭で考えるのは一緒ですしね。どちらにせよチャネリングは「(肉体のある人間との)おしゃべり」と大差ないです。体がないだけで、喋っている相手はただの普通の人だったりしますからね。このあたりは少し前にも書きましたけど。<br /> <br /> 昔から私はチャネリングとは無縁だった気が致しますね。中世で魔女だった時もチャネリングなんてしていませんでしたし、変な霊が近寄ってきても雑魚あるいは虫の扱いでしたし、占い師として生きた時も自分のサードアイで遠隔視や過去未来を見たものの、誰か他の霊に頼るなんて手法は、ずっと昔まで思い返してみても1回もありませんね。ですから、そもそもチャネリングというものが私にはよく分かりません。本当にしっかりと過去未来まで含めて見たいのであれば幽体離脱して時空を超えて過去未来および他の可能性のあった、あるいはこれから可能性のあるパラレルワールドのタイムラインまで含めて観察してきちんと理解すればいい話ですし。何故にわざわざ他人に頼ってチャネリングなんて手法をするのか、私には根本のところからよく分からないのですけど。<br /> <br /> おそらくはチャネリングという用語が出てきたのは宇宙系と関連があって、私の子供の頃には同級生で宇宙人とチャネリングをしていた人がいましたし、その通信をジャックして私が宇宙人とテレパシーしたこともあります。宇宙人と言ったってただの人ですよ。アメリカ人みたいな明るくて陽気な気質です。ですので、そういうおしゃべりのようなチャネリング、テレパシーはあると思います。これは喋るのと同様の感覚でチャネリングをしているのでしょう。ですけど、普通の人の場合はチャネリングなんて関係ないと思いますし、成長のためにチャネリング自体は喋るのとそう変わらないので、おしゃべりが煩いのと同様にチャネリングも時に煩かったりするので、精神修行とチャネリングは相反することもあって、おしゃべりを少なくするという意味と同様の意味でチャネリングも最小限にすべきだとは思います。チャネリングなんておしゃべりと変わらないと思った方が良くて、特別視しないことですね。<br /> <br /> 要はね、霊たちに対して「近くでは静かにして」と、注意をしてもらっているということです。<br /> <br /> Fri, 11 Dec 2020 00:00:00 +0900 <link>https://w-jp.net/2020/2173/</link> <description><br /> </description> <pubDate>Fri, 11 Dec 2020 00:00:00 +0900</pubDate> </item> <item> <title>ソーハン瞑想あるいは小周天のようになる https://w-jp.net/2020/2172/ <br /> ソーハン瞑想(ソーハム瞑想、So Ham瞑想)はソー(so)で息を吸ってハン(ハム、Ham)で息を吐く瞑想で、ソーの時にエネルギーをムーラダーラから背骨(スシュムナ・ナディ)を通って頭頂(サハスララ)まで上げ、ハンで体の前を通ってムーラダーラまで戻す瞑想です。<br /> <br /> 小周天も似たようなもので体の前と後ろをぐるりとエネルギーを回します。<br /> <br /> 細かくは違いがありますし、流派によっても違いがあります。<br /> <br /> 一例として「タントラ・ヨーガ瞑想法」(スワミ・ジョーティルマヤナンダ著)には、最初は呼吸とソーハンを合わせた後に次第にソーハンを聞くだけの状態に遷移させてからエネルギーの循環した流れだけになるまで瞑想を続ける、といった詳細な説明があります。<br /> <br /> そのように流派ごとに違いこそあれ、背骨から上げて前方から下ろす、という点では共通しているように思われます。<br /> <br /> ここ最近、ムーラダーラに意識を合わせるだけでエネルギーがアジナまで上がるようになり、この状態は、特に狙っていたわけではなかったのですが、ふと気付いてみるとソーハン瞑想あるいは小周天の状態にとても似ていることに気が付きました。<br /> <br /> べつにソーハンと唱えているわけでもありませんが、気づけばソーハンとは単に呼吸の擬音のような気もしますし、ひょっとしたら元々は単に日本語の「スー、ハー」みたいに呼吸の呼気・吸気を擬音で表現していただけのものがそのまま名前になったのではないかとも思ってしまいます。<br /> <br /> だとすれば特にソーハン、ソーハムという言葉に注目するより、エネルギー的なものに着目すればいいわけです。このあたりの根拠は推測でしかないですけど、瞑想中にやってきたインスピレーションを元にしていますのでそう間違いでもないのかなと。<br /> <br /> どちらにせよソーハム瞑想そのものを真似するというよりも、あくまでも自分の最近の瞑想がたまたま似ていた、というだけのお話です。真似しようとしているわけではありません。<br /> <br /> この現在の状態は、ソーに対応する状態でムーラダーラを少し意識すると、それだけでエネルギーがアジナまで一瞬で上がり眉間にちょっとしたゆらゆらとした感覚が現れます。これがソーの部分で、特にマントラのソーを唱えることなしに単にムーラダーラを意識するだけでこうなります。その後、息を吐くタイミングで意識を抜くと自然に眉間がリラックス状態に戻り、エネルギーが少しだけ平準状態の方に戻り、半分くらいは発散し、それでもまだ眉間の周囲にエネルギーが残っている状態になります。そして次の吸う息でまたムーラダーラを意識するとそれだけで再度エネルギーがアジナまで上がります。その繰り返しです。<br /> <br /> これは、以前、かなり昔にソーハム瞑想あるいは小周天を試した時はそれなりに意識を集中させてエネルギーをちょろちょろと水脈を乾いた土地に流すかのごとく努力が必要だったように思います。<br /> <br /> 今は、どこがエネルギー・ルート(ナディ)なのかわからないくらい太いというかオーラが広がっている感じで、体全体の少し背骨よりから全体的にエネルギーが上がって一部だけ戻る、という感じになっています。<br /> <br /> そのように、今はムーラダーラからアジナ・サハスララまでエネルギーのルート(ナディ)が繋がった状態になったように思います。<br /> <br /> Fri, 11 Dec 2020 00:00:00 +0900 アジナへの瞑想中、力が欲しいか? と聞かれる。 https://w-jp.net/2020/2171/ <br /> 瞑想中、ムーラダーラに意識を当て、それによってアジナにざわざわとした感覚を感じていました。ムーラダーラにほんの少しだけ意識を合わせると、アジナのことを考えずとも自動的にアジナのあたりにざわざわとした感覚が現れます。それは時には背筋を通ってエネルギーが上昇していると感じられることもありますし、単にアジナのあたりに感覚が来てオーラのエネルギーを感じることもあります。<br /> <br /> そのようにムーラダーラとアジナへの意識の合わせる瞑想、いわゆるアシュヴィニムドラ(Ashwini Mudra)っぽいことをしていました。同ムドラでは呼吸に合わせて会陰を収縮・弛緩させます。この収縮・弛緩はほんの少しの軽いもので、筋肉をほとんど動かさずに意識を少し合わせて皮膚に軽く電気信号を通すくらいでいいような気が致します。最初は収縮・弛緩だけを行って、やがて、呼吸と合わせて吸気で会陰を収縮、呼気と共に弛緩させるようです。この呼吸への自覚が重要とのことです。このムドラのやり方は「密教ヨーガ(本山博著)」の記述に基づきます。<br /> <br /> そのようにしていると、不意にどこかから「力が欲しいか?」と聞く深い声がしました。<br /> <br /> それに対し私は一瞬沈黙し、その後「(現世的な)強い力は悟りの妨げになる。悟りの妨げにならない範囲の力が欲しい」と答えました。<br /> <br /> するとその深い声は「わかった」と言いました。<br /> <br /> ・・・とは言ってもすぐに何か変化があるわけでもなく。どうなんでしょうね。まあ、あまり気にしてもしょうがないので様子見、といったところです。<br /> <br /> Wed, 09 Dec 2020 00:00:00 +0900 ムーラダーラに意識を少し当てるだけで静寂の意識に近づく https://w-jp.net/2020/2170/ <br /> 以前はそれなりに長い時間の瞑想をしてヴィシュッダにタマスを吸い込むということを何度かしてから静寂の意識に至ることができました。<br /> <br /> 今は、ムーラダーラを意識しただけで登頂のサハスララまでエネルギーが通るようになってきて、この状態ですとムーラダーラを意識しただけで体中のエネルギーが活性化され、そのエネルギーによって雑念のほとんどが崩壊し、静寂の意識に近付きます。<br /> <br /> あぐらをかいて瞑想の姿勢を取った方がやりやすいですが、日常生活をしている間にふとムーラダーラに意識を合わせるだけでエネルギーが上昇して、それにより雑念が減り、うまくいけば静寂の意識にかなり近い状態にまで意識が変化します。<br /> <br /> ムーラダーラはずっと長く意識を当てるというものではないようで、今後のことはわかりませんが少なくとも今はそうで、少し意識を当てるだけでも膨大なエネルギーが開放されて上昇し、体中をエネルギーで包み込むようです。<br /> <br /> 今まではムーラダーラは割とスルーしていましたし、何度か同様に意識を合わせるということも時々していましたけどこんな感じにはなりませんでした。こうなってきたのはごく最近のことです。<br /> <br /> 雑念がムーラダーラから上昇するエネルギーによって洗い流されるかのようです。<br /> <br /> 以前と下半身のエネルギーの質も変わっていますね。少し前は喉のヴィシュッダあたりを境目にして下半身は少し重ためのエネルギーで頭が清浄な意識でした。今は、そのエネルギーの質が均一化してきて、下半身は以前より清浄になり、頭のあたりに下半身のエネルギーが入ってきても不安定にならないほど全体的に浄化されてきたように思います。<br /> <br /> 頭だけを見ると以前の清浄なだけの状態よりも少しだけ下半身の重ためのエネルギーが混ざるようになってきて、以前のようにヴィシュッダで分断しているのではなく、グラデーションのように下半身から頭まで繋がっている感じも多少はあります。そのグラデーションの濃淡が以前はきついものでしたが今は淡いグラデーションになっていて、エネルギーの質として割と均一化されてきましたのでムーラダーラのエネルギーがアジナ近くまで上昇しても不安定にならず、多少のエネルギー酔いのようなものは若干ありますけど以前のように気分が悪くなるということはなく、そのエネルギーが雑念を洗い流して全体の意識としては静寂の意識の状態に近づくわけです。<br /> <br /> おそらくは、最初に静寂の意識に達していた時はヴィシュッダでエネルギーが分断されていて頭だけが特に清浄な状態になることで意識の平穏がなされていたのでした。<br /> <br /> 今は、ヴィシュッダのあたりのブロックが取れてエネルギーが均一化されてきて、天からのエネルギーが下半身にまで浸透するようになって下半身のエネルギーの浄化もそれなりに進み、その状態になったことでムーラダーラからのエネルギーを頭まで上げても不安定にならずに静寂の意識に近い状態になることができるのだと思います。<br /> <br /> 頭だけを見れば以前のヴィシュッダで分断されていた頃の方がより静寂の意識と言うに相応しい平安な状態で、今は下半身のエネルギーと均一化されていてそこまでの完璧に純粋な静寂の意識というわけではないですがそれなりに静寂で、これはこれで問題ないと思っています。<br /> <br /> Tue, 08 Dec 2020 00:00:00 +0900 ナーダ音に共振する瞑想 https://w-jp.net/2020/2169/ <br /> ここ最近はナーダ音は割と無視してきましたけど、ここに来て、ナーダ音に体を共振させるような瞑想をしてみました。<br /> <br /> 今までは体を固定してナーダ音は割と聞き流して、眉間あるいは後頭部に意識を固定・軽く集中することで静寂の意識へと導いてきました。<br /> <br /> ここにきて後頭部よりも頭頂への集中の方が安定するようになってきましたので、そうすると、割とナーダ音の波動により近くなったような気がしました。ほんの少しではありますけど。<br /> <br /> 頭頂に意識を合わせると、特に何か考えたり読んだりしたわけではないのですが、自然にナーダ音に身を任せる、という感じになりました。<br /> <br /> そうこうするうちにナーダ音に体を合わせて、ナーダ音に体を共振させるような感じになってきました。<br /> <br /> ナーダ音は頭の中の左右から聞こえていて、それに共振させますので共振するのは頭の周辺が主で喉より下は共振という感じでもありませんけど、それだけでも何か奥深くに繋がるような、そうでないような、ちょっとした未来の予感のようなものを感じて、きっとこれは何かある、と感じました。<br /> <br /> まだ何があるのかはわかりませんけど、ナーダ音に共振させることでナーダ音の奥底が見えてくるのかな、という気もしますけど。これでナーダ音に乗っかっている、「意味」のようなものが読み取れるといいのですけど、どうでしょうかね。<br /> <br /> このあたりはこれから様子見をしていくところです。<br /> <br /> Tue, 08 Dec 2020 00:00:00 +0900 ムーラダーラを意識しただけで登頂のサハスララまでエネルギーが通る https://w-jp.net/2020/2168/ <br /> 以前はそんなことはありませんでした。ヴィシュッダの詰まりが取れた状態になってからは、頭と下半身の間のエネルギーの通りが以前より良くなったように思います。<br /> <br /> 本山博先生の著書によれば「ムーラダーラとアジナは直結している」とのことです。<br /> <br /> ムーラダーラとアジナは、イダ、ピンガラ、スシュムナの3ナディによって直結しているので、一方に生ずることは必ず他方にも生ずるという密接な関係にあります。「密教ヨーガ(本山博著)」<br /> <br /> このことは知ってはいたのですが今までピンときていませんでした。しかしながら、ここに来て急にこの感じが強まってきました。<br /> <br /> ムーラダーラを少し意識しただけで特にそうと意図せずとも頭のあたりにエネルギーが集まります。以前はこんなことはありませんでした。<br /> <br /> 瞑想でずっとムーラダーラに集中するとエネルギーが集まり過ぎてしまうので、少しムーラダーラに集中しては様子を見て、またムーラダーラに集中する、という感じです。今のところは。<br /> <br /> そうして観察していると、どうやら私の場合、頭のアジナ付近までスシュムナが来ている感じはあるのですが、イダとピンガラはアジナの少し離れた近くまで来ているものの、少しだけ、感覚的には3cmかそのくらいだけ最後の最後が繋がっていない感じを受けます。<br /> <br /> ムーラダーラに集中するとエネルギーが3つのナディを伝わって上がりますが、スシュムナはまっすぐ、イダとピンガラはスシュムナの周囲を何回か螺旋状に回転しながらアジナに繋がっていますが、イダとピンガラのその最後の部分が繋がっていない感じです。<br /> <br /> イダとピンガラは同書によればアジナと繋がっているとありますけど、どうなのでしょうかね。最初からは繋がっていないものなのか、私がたまたまそうなのか、そこはよくわかりませんけど。<br /> <br /> 今後繋がるのか、あるいは、そのままなのか。それは様子見をしますけど、今はこんな感じです。<br /> <br /> Tue, 08 Dec 2020 00:00:00 +0900 サハスララからエネルギーが上に抜ける瞑想 https://w-jp.net/2020/2167/ <br /> 最近はヴィシュッダに頭のタマスを吸い込むという感じがなくなってきて、後頭部に集中していてもそれほど変化がなく、割と第二の涅槃とも言えるような意識付きの涅槃に準じた状態になっています。<br /> <br /> この状態ですと、後頭部の集中よりも頭頂の付近に集中していた方が安定します。<br /> <br /> 頭頂はサハスララ・チャクラですけど、頭頂の、特に頭の皮膚の内側あたりに集中しているとオーラが少しづつ溜まってきて、少し貯まると上の方に抜けてゆきます。<br /> <br /> 今まではサハスララに集中してもさほどの変化がありませんでしたし、上に抜けるという感じもそれほどありませんでした。<br /> <br /> 最初に起こっていた静寂系の涅槃ではエネルギーが後頭部に集中していて下のヴィシュッダに抜けていたのですが、これはおそらく後頭部とヴィシュッダの間のエネルギー・ルート(ナディ)があまりよく通っていなかったのかなと思います。<br /> <br /> 今はそこのナディの通りが良くなっているので後頭部への集中はさほど必要ではなくなってきて、その状態では意識の伴った涅槃とも言える状態になって、更には、集中するなら後頭部よりは頭頂の方がしっくりくる、という感じになりました。<br /> <br /> 頭頂の方がしっくりくる、というのは、やってみたらそうだった、というお話で。なんとなく自然にそうなりました。理屈ではありません。体が一番わかっているのかもしれません。<br /> <br /> そうすると、頭頂にエネルギーが集まって、やがて、ある程度貯まると頭頂から上に少しづつ抜けてゆくのです。これはきっと、サハスララの上が通り初めたのかなと思います。<br /> <br /> 感じ的にそこはまだきちんと通っていなくて、だから瞑想での集中が必要でエネルギーを貯めて少しづつ上に抜けるルートを開いてゆく必要があるのかなと思います。<br /> <br /> <br /> (追記→ どうやら禅宗的にはこれは涅槃と言わなくておそらくは第四禅定です。流派によって涅槃の位置付けが異なるようですね。後日詳しく書きます。)<br /> <br /> Tue, 08 Dec 2020 00:00:00 +0900 静寂の境地に浸ることを許さない奥深い意識 https://w-jp.net/2020/2162/ <br /> 少し前までは静寂の境地に至ると平らな状態になっていわゆる平穏あるいは流派によっては涅槃と言うに相応しい状態になっておりました。<br /> <br /> 今は、静寂の境地に達すると奥深いところに意識が存在するようになって、涅槃の別のバージョンみたいになっています。ただ、これは流派によっては涅槃とは言わないようですが、なんとなくの概念としてとりあえずは涅槃としておきます。<br /> <br /> 最初は、この状態は少し戻ってしまった状態で再度涅槃に至る必要があるのかなと思っておりましたが、今の理解としては、涅槃には違わないけれども奥深い意識が現れ出したのではないか、と解釈しております。<br /> <br /> これは、言葉で説明するとちょっと難しいですね。<br /> <br /> 涅槃の境地に至る前はある程度の静寂の境地とリラックスが段階的に現れていました。そのような段階的な静寂の境地とリラックスは今もあるのですが、以前との違いとしては、涅槃の境地に相当するところでも地平線の彼方まで見えるという感じではなく、胸の中に何かが脈動している、という感じです。<br /> <br /> 涅槃の時は胸のあたりに何もなくてお腹のあたりにオーラが凝縮されている状態でした。頭のタマスをハートや下半身に落とすことで静寂の意識に至っていたわけです。<br /> <br /> 基本は似ていて、今も同様に頭のタマスをハートや下半身に落とすわけですが、昔と今の違いとしては、昔はハートのあたりに感覚がなくて下半身に落ちていたのに対し、今は、ハートがそれらのヴィシュッダで浄化されたタマスを受け取る、という感じになっています。<br /> <br /> 昔も今も後頭部に集中するというところは変わっていなくて、後頭部に集中しさえすればタマスが集まってヴィシュッダに吸い込まれる、というのは同じであるわけですが、その後、以前は下半身に落ちて涅槃になって、今はハートの核で動いている奥深い意識で受け止めている状態なわけです。<br /> <br /> これは、かなり段階は違うのですがかなり昔、ナーダ音が聞こえ始めた頃にも似たようなことが起こったように思います。ナーダ音が聞こえるようになる少し前は「無」の状態になって完全に心が停止して無意識で完全にリラックスした状態になったのですが、1週間くらいでナーダ音が聞こえてきてその「無」を妨げ始めたのです。ナーダ音によって意識が起きている状態を強制してきたわけです。<br /> <br /> 今回は、その時とは状態はかなり違うのですが、涅槃に留まって安寧に過ごしていたら奥深い意識動き出した、と解釈することができます。<br /> <br /> ナーダ音が現れたときは、無の意識に落ち込んでそのまま過ごすことを許さない、という感じでした。ナーダ音が現れる前の1週間は無の意識での完全なるリラックスを楽しんでおりました。しかし、そのような眠り込むような無の意識にずっと留まることを許さない、といわんばかりにナーダ音が聞こえてきました。<br /> <br /> 今回は、涅槃によって意識が停止して静寂の境地における完全なる無意識いわゆる「空」のような状態を楽しんでいたらその奥底からまた深い意識が現れ始めて、涅槃で無意識に留まることが許されない感じです。<br /> <br /> 今回はナーダ音のように音というわけではなく、胸のあたりにある、奥底から突き動かされるような感覚です。その感覚が奥深くから私を揺さぶるというか圧力を内から外へとかけている感じで、涅槃の安寧の状態に安楽に留まることをその奥深い意識が許していない感じです。<br /> <br /> タマスの無の眠りにせよ、今回のような涅槃の静寂の境地にせよ、どちらも悟りではなくて、まだ先があるということだと思います。<br /> <br /> <br /> (追記→ どうやら禅宗的にはこれは涅槃と言わなくておそらくは第四禅定です。流派によって涅槃の位置付けが異なるようですね。後日詳しく書きます。)<br /> <br /> Fri, 04 Dec 2020 00:00:00 +0900 大きな心臓の鼓動が時々瞑想中に起こる https://w-jp.net/2020/2161/ <br /> 1回の大きな鼓動が心臓で「ドックン」と脈打って、胸が前および肩がも少し上に急に飛び上がることが最近、時々あります。宙に浮くというほどではないですけど胸の鼓動で上方向に少し上がるので腰も少し伸び気味に一瞬だけなりますけどあぐらの足と腰が浮くほどではありません。多少、胸のショックで下半身にかかっている荷重が少し抜けるというくらいです。<br /> <br /> 少し前から度々あって、昨日今日とは続けて1回づつ起こっています。<br /> <br /> 起こったからと言って何があるわけでもないですけど、一応のメモです。<br /> <br /> 電気ショックのようなビリビリ感はないです。体の動きとしてはドラマの心拍停止の人が心臓の電気ショックを受けて胸が開き気味にビクっと動く感じに似ていますけど、私の場合は電気ではなくて単に心臓の鼓動が急に1回だけ大きく脈打ってそれにつられて胸の周囲も動いて、それによって下半身の荷重も少し抜ける、という感じです。<br /> <br /> 瞑想の段階としては、まだ完全な静寂の境地には達していなくてその少し前の段階的に静寂が深まる状態で、何回かその段階がやってきて、細かな体の緊張もそれに応じて更に段階的になくなって、それなりに静寂の境地に近づいてきたところで大きな心臓の鼓動がありました。<br /> <br /> 感じとしては、漫画「幽遊白書」で主人公が仙水と戦っている時に心臓にドクンと脈打ったシーンがあったかと思うのですが、それと似ていますね。<br /> <br /> その後、心臓より少し下のところでも同じく脈動がありましたけど、心臓というより筋肉が反応した、という感じですね。<br /> 心臓と思っているだけで心臓のあたりで起こっていることも単に筋肉が反応しただけといえばそうかもしれないです。心臓の鼓動とはちょっと違う感じです。<br /> 心臓での脈動も心臓の少し下での脈動も同じように筋肉が脈打ったと理解した方がしっくりきます。<br /> <br /> そして、関連しているのかどうかはわかりませんけど後頭部の真ん中あたりで骨が鳴る時のようなカクンという感じと、何やら、卵の中から殻を割って外に出ようともがいているような感覚になりました。頭の中に埋まっている卵にヒビが入ったような感覚ですね。これは単なるイメージです。<br /> <br /> だからと言って特に何か日常生活に変化が起きたわけではありませんが、日常生活に置いても心臓のあたりが少しだけうずきます。痛いわけではないですけど息を吸って胸が開く時に窮屈な感じになります。<br /> <br /> 単に運動不足なだけかもしれないですけどね。 一応、メモしておきます。<br /> <br /> <br /> [2020/12/30 更新] 元々「涅槃」と書いていたところを「静寂の境地」に置き換えました。<br /> <br /> Thu, 03 Dec 2020 00:00:00 +0900 私の魂の由来は天使の中にある黒いオーラ https://w-jp.net/2020/2156/ <br /> ・・・瞑想で見たことですので本当かどうかはわかりません。<br /> <br /> 天使たちは度々集まって儀式をし、活動中に受けてしまった黒いカルマを外に出して燃やして消滅させることを常にしておりました。それは浄化と言えば浄化なのですが、浄化というよりは消滅という方が正しいように思います。そのようにすることで、意識を清浄に保つわけです。<br /> <br /> 天使たちが地上に関与するなど各種の活動をすると、天使であっても黒いわだかまりを体の中に溜め込んでしまい、それを度々切り離して燃やし、消滅させることでその黒いオーラをなくしてゆくということが行われてきました。<br /> <br /> ある時、いつものように大天使たちが集まって黒いオーラを一箇所に集めました。<br /> <br /> そうして、いつものようにそれを消滅させようと儀式を行っていると、おそらく大天使ミカエルがその黒いオーラの中で意識が芽生えたことに気が付きました。<br /> <br /> 奥底の記憶で、私の意識が周囲に集まっている大天使たちを見た記憶がおぼろげながらにあります。<br /> <br /> 大天使ミカエルは、この黒いオーラには何かがある、転生させてはどうだろうか、と提案します。<br /> <br /> その黒いオーラを吐き出した一人である大天使ガブリエルはそれを聞き、動揺しました。「え。まじかよ? 俺の恥ずかしい部分なんだけど。消滅させようぜ。それが普通だろ。」<br /> <br /> 他の大天使たちにも動揺が広がりました。<br /> <br /> ミカエルがそう言うのならば、ということで、試しに転生させて自由にさせてみることにしました。<br /> <br /> すると、大天使ラファエルが、「待ってください。私のオーラを分け与えましょう。」と、愛と癒やしの光のオーラを注ぎ込んでくれました。それ故に、私の中ではラファエルのオーラが一番優勢になっているようです。<br /> <br /> そして、宇宙に解き放って、何が起こるのか観察することにしたのです。<br /> ミカエルの算段では、天使たちがまだ気付いていない新たなる学びがある筈でした。その算段は、未来生を覗き込むと将来的に正しい結果になるように思います。<br /> <br /> 私の転生の記憶がラインのように一直線にならず、守護霊やハイヤーセルフに聞いても「いろいろな由来がある」という回答になるのはこういう理由なのかもしれません。<br /> <br /> それでも、ある程度の系統はありますが、それぞれが割と独立している感じですね。優勢なものはありますけど。<br /> <br /> もしかしたら、私の今生というよりは私の属するグループソウルの由来がそういうことなのかもしれないですね。そう考える方が筋が通っている部分はありますけど、腑に落ちない部分もあります。昔説明してくれた内容のうち一部はわかりやすく理解させるために別のストーリーで説明された、という可能性はありますので、ひとまずは、バラバラのストーリーでそれぞれを理解しておくことにします。<br /> <br /> Mon, 30 Nov 2020 00:00:00 +0900 スピリチュアルカウンセリングで裏を取る https://w-jp.net/2020/2153/ <br /> 瞑想とか夢とかでいろいろと見ますけど、そのまま鵜呑みにすることはほとんどありません。何度も見るとか、他の人に同じことを聞いて同じ答えが返ってきた場合にようやく本当かな、と見極めます。その場合でも、完全に信じるということはあまりなくて、そうかもね、と思うくらいです。<br /> <br /> これはね、私は中学・高校の頃から幽体離脱したり、周囲には宇宙人とチャネリングしている人がいたり宇宙人とのコンタクト記録を翻訳している人を親に持つ友人とかと接してきたことで学んだことではありますけど、チャネリングとかスピリチュアルな印象で物事や相手をすぐに判断してしまう人がとてつもなく多いわけです。<br /> <br /> 当時はスピリチュアルと言うよりニューエイジの時代で、例えばオーラの色を絶対視する風潮とかもありましたね。性的なタントラとかダンスとかも流行っていましたっけ。<br /> <br /> 私の基礎はそのようなニューエイジやスピリチュアルにあるわけではなくて、あくまでも、自分自身の幽体離脱の時に得た知見を元にしていますから、ニューエイジ風の論理とかスピリチュアルの論理とかはどこか眉唾で見てしまうわけですね。<br /> <br /> 更には、そのように幽体離脱で見てきたことの現実との一致の確率は凄まじくて、幽体離脱で知った未来とか現実の一致確率はほぼ100%に近いものがあって、それでも未来は変えることができますけど、そのように私のスピリチュアルの基本が幽体離脱にあるものですから、たとえ瞑想や夢でインスピレーションを与えられたとしても幽体離脱で見た時の確度とは比べ物にならないわけですよね。<br /> <br /> ですから、今はそう簡単に幽体離脱できなくなっていますので、また幽体離脱するために瞑想したりヨーガをしているという面もあるにはあるのですが、ひとまず今の段階としては瞑想や夢で見た内容は確度が低いので何某かで確かめる必要があると思っています。<br /> <br /> そんな位置づけで、先日、東京ビッグサイトで「癒やしフェア東京」というものがありましたのでちょっと行ってみて、何人かにスピリチュアルカウンセリングをしてもらいました。<br /> <br /> 自分のチャクラの状態を見てもらったり、瞑想の仕方で守護霊やハイヤーセルフから指導があれば貰おうと思ったのですが、特に問題ないということでしたのでそれはそれで完了になりました。<br /> <br /> 帰る前に、自分のグループソウル繋がりの過去生や関わり合いのある神様との理解が正しいかどうかチャネリングする人に聞いてみたのでした。すると、ぼちぼち自分の理解が食い違っている箇所がありました。そのカウンセリングが正しいかどうかはわかりませんが、少なくとも自分の理解と一致していない部分ですので、私かそのカウンセラーかどちらかが間違っている可能性、あるいは両方とも間違っている可能性があります。両方とも一致した内容に関しては確度が高まったと言えます。<br /> <br /> ■一致していたのは例えば以下です。<br /> ・私のレムリアとの繋がり。レムリアでのアセンション<br /> ・(2〜3千年前?)興味本位でプレアデス系の宇宙人の地球調査団に付いていった時のお話。そのうちの1人とその後すったもんだあったのはお互いに必要だった学びのため。<br /> ・魔女として転生。 魔女狩りで火炙りになった人生<br /> ・フランス革命の同時代に転生していた<br /> ・アンドロメダは遠い遥か昔の故郷。<br /> ・オリオンとの関係はない。<br /> ・縄文とも関係がある。<br /> ・前世までに繋がりのあったプレアデス系の宇宙船は現在も地球の軌道上にいて、あの時の主のような女の人はまだいる雰囲気(知る必要はないのでは、ということで途中で聞くのやめましたけど)。<br /> ・宇宙の各地で転生している。<br /> <br /> ■気付いていなかった人生としては<br /> ・アトランティスでピラミッド施工の管理者だった人生。<br /> ・(こと座の)ベガとの関係はとても古い。魂の故郷。一番最初に生まれた場所。<br /> <br /> ■理解が異なっていた部分、あるいは理解が欠けていた部分。<br /> ・宇宙艦隊のミッションで卵っぽい宇宙人に転生した先は「くま座」(おおぐま?こぐま?)の星<br /> ・大天使との関係。ミカエルとルシファーは私とそれほど繋がりが強くないみたいですね。関係はあるそうですけど。それよりも私に一番関係が強いのはラファエル。これは意外でした。<br /> ・マリア姫とミカエル <夢で見た天使界の物語> は天使界のお話ではなく人間界のお話。ギリシャかどこかの昔の話。この物語で出てくる英雄はダビデ。私とダビデとの関係は深い。<br /> ・シリウスもとても遠い遥か昔に関係があった。シリウスは割と最近だと思っていたが遥か昔だとのこと。<br /> ・地球に来たのはレムリアの最後の時が最初かなと思っていましたが、それより前にも何度も来ている、とのこと。(確かに、私のグループソウルということであれば昔から関与していると解釈できます。そこまでは聞きませんでしたが)<br /> ・ジャンヌ・ダルクは反応なし。(本当にそうなのか、あるいは、意図的に黙っていたのか?)<br /> <br /> これが全て正解とは言いませんけど、確かに、色々と納得する部分もあります。<br /> <br /> ■これを元にした考察<br /> <br /> ダビデは旧約聖書に出てくる英雄で、イスラエルの二代目の王でソロモン王の親ですかね。ダビデはノーマークでした。天使界と思っていた物語はダビデの物語だとすると旧約聖書に載っていても良さそうなものですけど、ちょっと心当たりがないですね。何か他のイメージとごっちゃになって変わってしまったのかもしれないですね。インスピレーションとして物語を受けた場合にそのように変わってしまうことはよくあります。<br /> <br /> まあ、今回のカウンセリングをしていなければずっと勘違いが続いたでしょうし、このカウンセリング結果が全て本当だとは言いませんけど、可能性の1つとして参考になります。<br /> <br /> スピリチュアルカウンセリングで依存してしまう人が多いですけど、こういうのってコンサルタントと同じで、自分の目的のために使うのが基本ですよね。具体的には、「確かめ」と、「自分が気付いてない部分を洗い出す」ために使うのが良いと思っています。あくまでも自分が第一で、自分で考えることが必要で、自分のインスピレーションを大切にして、それを基本にした上でコンサルで「確かめ」と「気付いていない部分を洗い出す」ことをするわけです。それがスピリチュアルカウンセリングの使い方だと思っています。<br /> <br /> 過去生というものも微妙な言い方で、魂(幽体)がそのまま転生する場合と、一旦グループソウル(類魂)と一体になってから分霊を作って転生する場合があるので、次の人生で前の魂そのままならわかりやすいのですけど特に私の今生の目的はカルマの解消と覚醒への階梯を確かめることの2つになっていて、カルマは様々な人生のかけらのようなものなので前世そのものではないのですよね。<br /> <br /> 私の母体になっている大天使は分霊を地上に下ろして使命を果たすのですが、その分霊が生きる上で様々な葛藤を抱えてしまい、分霊は使命を優先するので表面的には出ませんが分霊が大天使と合流(グループソウルと合流)する時にその葛藤も一緒に大天使の中に戻り、その葛藤は黒いオーラとなって少しづつ溜まってゆくのですよね。それは大天使の端っこの方に貯めておいて、普通の天使のやり方としてはその部分だけ切り離して、「消滅させる」という方法を取ります。大抵の天使はそのようにします。<br /> <br /> 実際のところ、私の元になった黒いオーラも、本当は慣例にならって消滅させてしまおうと大天使は最初思っていました。しかし、その黒いオーラの中に何か新たなる理解に結びつく鍵があると思い、その黒いオーラに加えて光の要素を混ぜ合わせ、転生させてカルマの解消と謎解きをさせようと思い立ったわけです。これは天使たちの間では実験的な試みとして理解されています。ですから、私は割とレアケースな魂のようです。そのようなわけで、もともと私の中には黒いオーラが6〜7割、光のオーラが3〜4割の割合で生まれました。暗黒のタマス優勢で生まれ、割と、闇と光の分離の人生だったように思います。そして、今は光が優勢になったわけです。<br /> <br /> そのような理由で、他の人に比べて、過去生というものがはっきりしません。黒いオーラは数々の分霊で貯めた葛藤などですので、その葛藤は別々の分霊のそれぞれの人生で経験されたものです。基本的な理屈としては他の人も同じだとは思いますけど、特に私の場合は上記のような背景があって、他の人よりも特に過去生の特定が困難な気が致します。<br /> <br /> 私の気質から言って、一部は過去生と思われる内容と一致しているものの基本的なところでは一致しない、というところが腑に落ちずにいましたが、今回のカウンセリングで一番私の中で優勢なのはラファエルだと言われて、確かに理屈が合うと思いました。私の6〜7割の黒いオーラは各人生のかけらであるとして、残りの3〜4割の光のオーラがラファエルだとすればラファエルは慈悲と愛・癒やしの天使ですから、黒い部分と癒やしの面が組み合わさっているということになります。<br /> <br /> まだ謎は残りますけどね。私の気質から言って織田信長なヒステリーな感じともちょっと違いますし、ミケランジェロと言われたこともありますけど私は芸術のセンスがないのでそれっぽくないです。ジャンヌ・ダルクのような感じともちょっと違いますし。仮説としては、もしかしたら黒いオーラの部分と光のオーラの部分の元になった天使が別で、確かに私の今は光が優勢で、よってラファエルが優勢だけれども生まれた時に抱えてきた黒いオーラの部分はラファエルというよりはガブリエルとかルシファーとかの部分なのかもしれません。あるいは、ラファエルも聖書に言われているよりもずっと幅広い活動をしてきて、イメージとはちょっと違いますけど、やっぱりラファエルの一部ということなのかもしれないです。あるいは、ラファエルが人間の背後で手助けしたことでその時に葛藤を拾ってしまったのかもしれません。これは更に検証が必要な部分ではありますけど。<br /> <br /> もう一つの仮説として思うのは、大天使とか言われていますけど、実際は神の意識が共通にあって、神の意識が大天使の中に共通して存在していて、大天使は神の一面としての仮の姿でしかないのだとしたらラファエルだとしてもミカエルにしてもルシファーにしても同じ神の意識を共有していると言えます。であれば、あまり気にしてもしょうがない部分なのかもしれません。これまた検証が必要な部分ですけど。<br /> <br /> Fri, 27 Nov 2020 00:00:00 +0900 レムリアのアセンションの記憶 https://w-jp.net/2020/2152/ <br /> 以前にも少し書きましたけど、レムリアの最後にアセンションして肉体から幽体に近い体に一気に変異した時のことを覚えています。<br /> <br /> もともと今の地球の三次元よりももうちょっとだけふわふわっとした3.5次元か4次元に近い世界でしたので、そもそもアセンションしやすかった環境だったように思います。クリスタルを使った文明だった気もします。ゲームのファイナルファンタジーのクリスタルの文明のイメージが割と近いですかね。ああいうのは意外と高次の存在がインスピレーションを与えていたりしますので現実を反映していることがあります。<br /> <br /> 私が地球にやってきてレムリアに転生した時、実際は転生というかテレポーテーションして物体化した、という感じだったような気がしますが、レムリアの時空に顕在化してレムリアの最後の時を共にしました。<br /> <br /> 三次元的には破壊が起こりましたが、世界の全て、おそらくはレムリアの周辺だけだったような気もしないでもないですが、レムリアの一帯で空間が変異して体が軽くなり、エネルギーに満ちて空中に浮き、そのまま霊体に近い状態になったような気が致します。<br /> <br /> 私の場合は肉体は生きたまま肉体の素質そのものが変異して霊体に近い体に変異したような気が致します。その時に肉体が死んでアセンションした人もいたのかもしれませんけど、私の周囲ではそのように肉体が死ぬ人はいなくて、周りにいた人と一緒に ふわっ と浮くような感じでみんな一緒にアセンションしたと思いますね。<br /> <br /> レムリアの人々の半数以上はおそらくそのままアセンションして別の惑星に移動したと思います。<br /> <br /> そして、地上のレムリアに残されてアセンション出来なかった人たちは一緒にアセンションできずに置き去りにされた悲しみと地上のレムリアの物理的世界が崩壊した悲しみを感じつつ次のアトランティスの時代を生き、そして今の時代にまでその悲しみを胸の奥深くに抱えたまま生きているレムリアの生き残りがいるわけです。<br /> <br /> 私が見たところ、アセンションできた人たちは愛に満ちていて地上に未練はなく、嫉妬や怒りもなくて(ちょっとあったとしてもすぐになくなって)、非常に純粋な人たちのような気が致しますね。<br /> <br /> 一方で、アセンションできずに今生でレムリアの生き残りと自称している人たちはどこか人生に課題があるような気が致します。他人に対する嫉妬であるとか怒りであるとか、何がしか欠けたところがあるように思います。それらの人たちは魂の遍歴としてアトランティスやその後の時代を生きた魂もあれば、レムリアの後でフリーズ状態になって固まっていて最近になってようやく目を覚ましたような魂もあります。アトランティスやその後を生きてきて怒りや嫉妬を抱え込んでしまった魂もあれば、レムリア時代に解消できずにいてアセンションできなかった課題を未だに抱えている魂もあるようです。どちらにせよ、アセンション出来なかった組の人たちは何がしかの足かせがあるようです。<br /> <br /> ですから、レムリアはたしかに素晴らしい文明でしたが、その文明を支えていた素晴らしい人々のほとんどは既にアセンションしていて別の惑星に移動してしまっているということです。その点を踏まえれば、レムリア生まれだったからと言って必ずしも愛に満ちているわけではないということがわかります。<br /> <br /> 私はレムリア最後にアセンションしたけれども地球に興味があるというか地球でまだ学ぶことが残っていると思ってそれからも度々地球に来ている感じです。<br /> <br /> → スピリチュアル・カウンセリングで裏を取ってみました<br /> <br /> 補足: [2020/12/12]<br /> <br /> 一般的にアセンションは次元上昇と言われていますし、なんとなく聞かれたら「まあ、そうかな」とは答えますけど、厳密な意味で私が体験したものが次元上昇だったかどうかはわかりません。わかるのは、肉体に近い組成だったものがアストラルなものに変化して、意識が多次元なものに変わった、ということです。その時に三次元での肉体が崩壊したのかもしれませんけど、どちらにせよ、あまり苦もなくいつの間にかアストラル的な存在に変化していました。それが次元上昇だったのかどうかはわかりませんけど、あれをアセンションと呼ぶのなら、まあ、きっとそうなのだと思いますし、次元上昇ですか? と聞かれたなら、まあ、そういうことかもしれないね、と答えるかもしれません。現実が先にあって、それをどう表現するのかは難しくて、アセンションと言えばアセンションだし、次元上昇と言えば、まあ、そうかな、という感じです。アセンションとか次元上昇なんてそんなもんです。<br /> <br /> Fri, 27 Nov 2020 00:00:00 +0900 経験する静寂の境地から経験しない静寂の境地へ https://w-jp.net/2020/2151/ <br /> 少し前までは、静寂の境地に入る時は何かに吸い込まれるような感覚を伴って意識が静寂になる急激な変化の体験と共に特に視覚の感覚が細かくスムーズになることによって静寂の境地を経験しておりました。<br /> <br /> 最近は、その経験がそれほど激しくなく緩やかに静寂の境地へ到達するようになったように思います。<br /> <br /> 少し前までは、頭のタマスをハートや下半身に落とすことで静寂の意識に至るような感じで、感覚にはっきりとそれとわかるものがありました。最近は、それらの経験がそれほど激しくなく、静寂とヴィパッサナーの観察が日常と融合した感じになってきました。<br /> <br /> 以前は、瞑想の前と後の静寂の境地がとても違うものでしたので「経験」「遷移」を伴って静寂の境地、平らな境地の静寂の境地に達していたわけですが、今は割とその境地と日常の境地との差が減ってきています。完全に同一ではありませんが。<br /> <br /> このような変化が起こってきた時、最初は「瞑想がどうも調子が悪いのかな」とも思ったりしましたが、最近の理解としてはそうではなく、単に、瞑想と日常の状態との差が減ってきたために「体験」としての激しい感覚がなくなってきただけなのかなと解釈しております。<br /> <br /> これらの状態は、ミャンマーの瞑想の本に記されていることのような気が致します。<br /> <br /> 少し前の状態は以下に相当するように思います。<br /> <br /> ■預流果への到達<br /> 大体においては非常に澄み切った気持ちが、次々と生じ続けて現れます。その時、心そのものしか存在しないような虚ろな気持ちで満足し、安楽の状態になっています。寛いでいます。この時の精神状態を念じることはできませんし、念じようとしてもはっきり分からないのです。(中略)ただ、澄み切った安楽な精神状態が続くだけです。しかし、かなり時間がたつにつれて、こうした澄み切った精神状態が力を落とし、普通の状態に戻っていきます。(中略)また叡智の力が十分になりますと、諸行の停止する前のような平安な状態に達します。(中略)初道果にたびたび達したのです。「ミャンマーの瞑想(マハーシ長老 著)」<br /> <br /> これらに表現されているような、安楽になったり戻ったり、という静寂の境地への度々の到達は初道果である預流道果の状態だったように思います。預流道果に度々達して静寂の境地をその都度、一時的に体験していたわけです。<br /> <br /> それと、以下の記述が私の少し前の状態に似ています。<br /> <br /> 対象と念じる心がうまくかみ合わず、互いにずれているように思われるかもしれません。これは、心身における無常・苦・非我の様相を徹底的に理解したいという気持ちが強すぎることによる不満なのです。(中略)しかし、絶望してはいけません。これは、心身行が好ましくないことを、ありのままに正しく悟ることや、行捨智(下記参照)のように無関心でいられないために、念じるのがうまくいっていても、うまくいかないと思い込んえしまうことによって生じた不満なのです。(中略)間もなく安楽に念じることができるようになります。そして、一生懸命に念じていれば、気持ちが次第に澄み切ってきて、最後は、現れたことや悟ったことだけで満足できない気持ちや不満は完全に治ってしまいます。「ミャンマーの瞑想(マハーシ長老 著)」<br /> <br /> これはそうですね。少し前までは、静寂の境地の筈なのにどこか瞑想がうまくいかない気がする、という感じがありました。それは、別の表現をするのならば心がこの新しい状態に慣れていなかっただけであるとも言えると思います。<br /> <br /> ■行捨智/激しい努力もせず、諦めもせず行を続ける智慧<br /> さほど力を入れて念じなくても、心身の微妙な動作や状態まで自然に悟り続けられます。そして、特別に観察しなくても、心身が無常・苦・非我のうちのいずれかの状態として、はっきりと次々に悟られています。「ミャンマーの瞑想(マハーシ長老 著)」<br /> <br /> 私はこの最後の状態の入り口に達しつつあるという感じですかね。何かまだうまくいかないという気持ちがほんの少し残っていますが、そのまま続けていれば自然に悟り続けられる状態になるのかなと思います。ここでいう悟りとは同書での悟りのことであり、私の思う悟りとは異なりますが、それはそれでいいとします。<br /> <br /> ヨーガですとこれらの階梯をひとまとめにして「雑念とか経験とかは気にしない」とかしてしまいますけどそれは大雑把すぎると私には感じていて、弟子たちは自分の状態を知りたいのでありますから、仏教、特にテーラワーダ系のこれらの階梯は参考になるように思います。ヨーガ系で細かい経験とか先生に言っても「そんなのは経験に過ぎないから重要ではない」とスルーされてしまいますけど、仏教のように細かく階梯を見て自分の状態を知れるのは良いと思います。これは個人的な感想であり、ヨーガのシステムをどうこう言っているわけではありません。両者にはそれぞれ良いところがあって、ヨーガはおおらかで万人を受け入れる素養があるところが良くて、仏教は勉強には向いているものの実践はしにくいという面がありますので実践はヨーガで理屈はヨーガだけでなく仏教の要素も取り入れると自分に対する理解が深まると思っています。<br /> <br /> Fri, 27 Nov 2020 00:00:00 +0900 静寂の境地に達したら集中をやめる https://w-jp.net/2020/2146/ <br /> 集中瞑想を行います。そして、しばらくすると ふっ と意識が清浄になります。時にはそれが何段階か起こります。<br /> <br /> そして、静寂の境地にだいぶ近づいたらもう集中をやめます。<br /> そこからは、特別に集中をしなくても自然に意識がどんどんと静まってゆきます。<br /> <br /> どのあたりで集中をやめるのかは試してみて大体のところを決めれば良いのですが、あまり長く集中しているとせっかく静寂の境地に達したのにどこかにちょっと力が入っているような状態になってしまいます。<br /> <br /> 静寂の境地にだいたい達して、ついつい癖でそのまま集中を続けてしまいがちになりますが、もうある程度静寂の境地に達したらもう集中は不要のように思います。<br /> <br /> これはどこかで読んだというわけではなく、自分自身の瞑想をしていたらこの方が調子が良い、というだけのメモ書きであり、他の人が同様になるかどうかはわかりません。<br /> <br /> 最初は静寂の境地に達したらあまりにも違うので無意識的に集中をやめましたけど、最近は静寂の境地にも慣れてきて、時々、つい癖で集中し続けてしまうことがありました。ですけど、静寂の境地に近づいたら意識にでも集中をきちっとやめた方が調子が良いみたいです。<br /> <br /> Fri, 20 Nov 2020 00:00:00 +0900 クンバカ(止息)でエネルギーを上下させる https://w-jp.net/2020/2142/ <br /> 瞑想をしていると、クンバカしていない普通の状態ではエネルギーが常に細かく上下しているのを感じます。いまいち安定しません。意識が穏やかになって息が長くなってくると安定してくるのですが、意識的にクンバカ(止息)することでも意識およびエネルギーを変えることができます。<br /> <br /> 吸った後にする止息(プラーカ・クンバカ)<br /> 吐いた後にする止息(レーチャカ・クンバカ)<br /> <br /> これらは、それぞれエネルギー的には以下のように動くように思います。これは教授をしているわけではなく、私の今朝の瞑想のただのメモ書きですので必ずしも他の人が同様になるとは限りません。<br /> <br /> プラーカ・クンバカ(吸った後の止息)は、エネルギーが上がります。<br /> レーチャカ・クンバカ(吐いた後の止息)は、エネルギーが下がります。<br /> <br /> 上がった方がいいかというと、必ずしもそういうわけではなく、実際は3つのクンダリーニが動くようになっていて、ここで上がるとか下がるとか言っているのはあなた自身のボディ・クンダリーニのことです。<br /> <br /> ・あなた自身のボディ・クンダリーニ(多くのスピリチュアルな道において一般的に教えられ実際に使われているクンダリーニ)<br /> ・ハイアーセルフ・コスミック・クンダリーニ<br /> ・アース・クンダリーニ<br /> 「プレアデス 神聖なる流れに還る(アモラ・クァン・イン著)」より<br /> <br /> ボディ・クンダリーニは腰やお腹のあたり、特に仙骨を中心に普段は存在しておりますが、そのエネルギーを上げるためにはプラーカ・クンバカ(吸った後の止息)をして、逆に、下げる(仙骨に戻す)ためにはレーチャカ・クンバカ(吐いた後の止息)をすればいいわけです。<br /> <br /> そうすると、2つ目のハイアーセルフ・コスミック・クンダリーニが空いた空間に天から降りてきます。<br /> <br /> ですから、特にレーチャカ・クンバカ(吐いた後の止息)をすることでコスミック・クンダリーニを上半身で満たして静寂の境地に至ることができるわけです。<br /> <br /> 瞑想をして普通に静寂の境地になるのを待っても良いですけど、深呼吸だけで達せられればそれで十分ですけど深呼吸で静寂の境地に至らない場合はレーチャカ・クンバカ(吐いた後の止息)をすればいいわけです。これは自分のメモ書きですので他の人も同様になるのかはわかりません。<br /> <br /> 段階としては、以下のようになるのかなと思います。<br /> <br /> 1.ボディ・クンダリーニを目覚めさせる。体全体が熱くなる。ブラフマ・グランティが解かれた状態。<br /> 2.ボディ・クンダリーニがマニプラ優勢の状態になる。<br /> 3.ボディ・クンダリーニがアナハタまで上がり、アナハタ優勢の状態になる。ヴィシュヌ・グランティが解かれた状態。<br /> 4.ボディ・クンダリーニがアジナまで上がり、アナハタとアジナが一体となるオーラの状態。ルドラ・グランティが解かれた状態に相当。<br /> 5.ハイアーセルフ・コスミック・クンダリーニが天から降りてくるようになる。それに応じて、ボディ・クンダリーニは押し戻されるようになる。<br /> 6.上半身がハイアーセルフ・コスミック・クンダリーニに満たされ、静寂の境地に至る。<br /> <br /> これらは、それぞれのステップが数ヶ月とか半年とかで段階的に変わってきたように思います。<br /> <br /> 静寂の境地に至るために、今までは集中瞑想で時間がかかるときもあればすぐに静寂の境地に入ることもありましたが、それよりも、レーチャカ・クンバカ(吐いた後の止息)をした方が素早く静寂の境地に入れることに気が付きました。<br /> <br /> それは、意識という観点からすれば静寂の境地であるわけですけれども、実際にはエネルギーの動きがその背後にあって、上半身がハイアーセルフ・コスミック・クンダリーニに満たされることで静寂の境地に至るというわけです。<br /> <br /> ですから、まだハイアーセルフ・コスミック・クンダリーニが降りてきていない人がレーチャカ・クンバカ(吐いた後の止息)をしたところで何も起きないのかな、という気もいたします。<br /> <br /> そういうわけで、6番のステップは2つ選択肢があるように思います。組み合わせてもいいかもしれません。<br /> <br /> 6A 集中瞑想をすることで頭のタマスを集めてヴィシュッダに送り、静寂の境地に至る。これは視点をかえればタマスが含まれているアース・クンダリーニを頭からヴィシュッダ以下に下ろすということでもあります。その空いたところに天からコスミック・クンダリーニが降りてきます。これは、タマスを集めるという意図をする必要はなく、単に集中瞑想をすれば勝手にそうなる、という種類のものです。<br /> 6B この場合、レーチャカ・クンバカ(吐いた後の止息)をすることでアース・クンダリーニの全体を下方に動かします。そうすると先端部である頭など上半身のアース・クンダリーニも下方に下がり、その分、空いたところに天からコスミック・クンダリーニが降りてくるわけです。これまた、アース・クンダリーニを動かすという意図は不要で、レーチャカ・クンバカ(吐いた後の止息)をすると勝手にそうなるというものです。<br /> <br /> これは個人的なメモですので他の人のことはわかりません。<br /> <br /> 更には次のステップがあって、天のコスミック・クンダリーニが下半身にまでそれなりに満たされるとそれに応じて各所の緊張が解けてゆきます。<br /> <br /> その状態になると、ボディ・クンダリーニやコスミック・クンダリーニとも違った、現在の地球の汚染された空気のような少しもやっとした汚れたオーラが下方に感じるようになります。それがおそらくはアース・クンダリーニなのかなと思います。<br /> <br /> 1.ボディ・クンダリーニを上げる<br /> 2.コスミック・クンダリーニを下げる(ボディ・クンダリーニは押し戻される)<br /> 3.アース・クンダリーニを(下半身を通じて)引き出す (→ 私はこれから)<br /> <br /> というような順番になるのかな、と思います。<br /> <br /> このあたりは、前出の「プレアデス 神聖なる流れに還る(アモラ・クァン・イン著)」に詳しいです。<br /> <br /> アース・クンダリーニは過去は綺麗だったのかもしれませんけど今は汚染されているような感じで、これは、土地にもよるのですかね? 田舎暮らしした方がいいのかもしれません。地方での瞑想で違いを試してみてもいいかもしれないとも少し思います。<br /> <br /> Wed, 18 Nov 2020 00:00:00 +0900 静寂の境地の一歩手前の平静な意識で紫色のアストラル光が見える https://w-jp.net/2020/2134/ <br /> 完全に軽やかな静寂の境地に至る一歩手前の、意識が平らになり、清浄な意識になる一歩手前で斑点のような紫色・スミレ色の光がモヤモヤと見えては消えたりします。<br /> <br /> 場所としては前方少し下で、まるで天から地上を見下ろしているかのような角度です。<br /> <br /> 雲の上から雲の下を覗き込んでいるかのような感覚です。かと言ってその中には何も見えませんけど。<br /> <br /> 絵の色合いは実物とはちょっと微妙に違っていて、実物はもっと鮮やかに晴れ渡っていますけど、何となくの雰囲気は出ています。<br /> <br /> これはヨーガ行者の本山博先生の本によればアストラル上層の色だとのことです。<br /> <br /> Mon, 09 Nov 2020 00:00:00 +0900 天からの光のエネルギーでタマスをアナハタ以下に押し返す https://w-jp.net/2020/2126/ <br /> タマスが頭にあるときに淀んだ感覚になりますので、タマスをアナハタ以下に押し返す必要があるように思います。<br /> <br /> 今までは、アジナに集中することでタマスをヴィシュッダから下に吸収するの感覚でいましたけど、実はそれを成り立たせているのが天から来る光のエネルギーによるものだったようです。<br /> <br /> スピリチュアルでは天からの光のシャワーで不浄なものを洗い流して浄化するみたいなことが言われていますけど、それは理屈としてはわかりますけど今までどこかピンときていませんでした。しかしながら、どうやら瞑想でタマスを浄化することを成り立たせていたのが実は天から来る光のエネルギーなのだとすれば、表現こそ違えどもスピリチュアルで言っているのと同じことがヨーガでも行われているのだということがわかります。<br /> <br /> スピリチュアルな言い方はどこか神秘的ですけど、ヨーガにしても集中瞑想でサハスララを開いて光の意識に到達するなんてことは実は同じことだということが分かるわけです。<br /> <br /> 光のシャワーと聞くと、実際のシャワーは水ですから体を簡単に通り抜けるようなものだと思っていましたけど、私の場合はもっと質感のあるもので、透明で光ではあるもののゼリーのような粘着性のある光の物質・・・ 物質と言うと語弊がありますけど、光ではあるものの粘着性があってそれは物質の水のように何かを押し出すことができる性質のものです。<br /> <br /> 光ではあるものの、性質としては粘着性のある水のような気体のような液体と気体との中間のような粘着性の光だと思っていただければ割と近い気が致します。<br /> <br /> そのような粘着性の気体と液体の中間の光が天から頭の上を通って入ってきて、それがタマスをアナハタ以下に押し返している感覚です。<br /> <br /> これを光のシャワーだと言われればそうかもしれませんけど、シャワーというよりも頭上から来る光の洪水とか言った方がしっくり来る気が致します。まあ、表現の違いだけだとは思いますけど。<br /> <br /> そのような光の洪水が頭上から実は来ていて、それがタマスをアナハタ以下に押し返していたわけです。<br /> <br /> 今まで、その光の洪水の存在を知覚できていませんでしたが、ふと、それが来ていることに気が付いたのです。どうやら半年かそのくらい前からその影響が強くなってきていたのかな・・・ と今になっては思います。<br /> <br /> 感覚として、アナハタで下半身のタマスと上半身のサットヴァな清浄な意識とが拮抗している時が心身共に充実している気が致します。<br /> <br /> アナハタより上にタマスがあると意識が淀んでしまいます。サットヴァが下半身を充実したことはない気も致しますけど、過去生を見てみると地上に転生してすぐの頃はサットヴァしかなかったような気も致します。今生の目的からしても今回はタマスの割合が多くて、天のエネルギーを弱めないように気をつける必要がありそうです。<br /> <br /> Wed, 04 Nov 2020 00:00:00 +0900 取り憑いてきた意識体を引っ張ったり切ったり消滅させようとする https://w-jp.net/2020/2125/ <br /> 上野から浅草に歩いていると、ふと重い意識に包まれました。どうやら意識体に取り憑かれたのだと思いました。以前にもこのエリアで同じようなことがありましたが、どうやら、上野と浅草の間には何かがいるようです。<br /> <br /> 浅草寺まで行くとポジティブな波動に包まれているのですが、上野側の大通りの近辺、花やしきと大通りの間くらいで今回は起こりました。<br /> <br /> その前までは視界がスローモーションで感じられておりましたが、その淀んだ空間に入った瞬間にそのスローモーションの感覚がなくなり、視界がぼやけてきました。まるで異次元です。<br /> <br /> そこだけ別の時空になっているかのようで、浅草寺まで抜けたらポジティブな空間に戻りましたが、淀んだ空間を抜けたことで体にも異変が起きていました。<br /> <br /> その日はその後割と普通に過ごしたのですが、翌日から何か調子がおかしくて、以前あったような意識体に取り憑かれている感覚と同じような状態になってきました。<br /> <br /> とは言いましても以前とは違って瞑想にてヴィシュッダでタマスを浄化することでかなりすぐに元の状態に戻れはするのですが、どうも安定しません。<br /> <br /> 何かな・・・ と思って瞑想中に体を探って、意識体を引き抜くようなことをしたり、オーラのケーブルを切るように体の周りを見えない剣のようなもので切る動作をしてみたら、更に回復しました。切る方向は以前は「下方向」は含まれていませんでしたけど今回は「下」も切ってみましたら少し効果がありました。「足元」というのは割と盲点なのですよね。かなりの使い手でも足元は割と弱点だったりします。<br /> <br /> それでかなり回復したのですが、何か、かなり細い糸がまだ残っている感じですので、時間をかけてゆっくりとコードを引き抜くというようなことをしています。<br /> <br /> 更には、そんなにしつこいなら姿を見せたら消滅させてしまおうか、と念じたら急に意識体の気配が少なくなりました。やはり思念波の届く範囲で潜めているようです。まだ割と近くにいるようですが、また来たら今度は少しずつ削って行きたいと思います。全部を一気に消滅させることはしませんけど、警告を無視したらそれはしょうがないのです。実際はもっと荒っぽい人がいて、変な意識体が近づいてきたら問答無用で消滅させるような人もいますけどね。私はそこまではしないので。甘いのかもしれませんけど。<br /> <br /> 霊的な喧嘩っぽいお話は実社会と似たようなところもあって、面倒に感じることもあります。<br /> <br /> 上野と浅草の間は短くて歩ける距離ですけどもう歩くのはやめて近くてもバスか電車で行ったほうがいいのかもしれません。<br /> <br /> Wed, 04 Nov 2020 00:00:00 +0900 胸の中に笑顔の顔がことあるごとに見えるようになった https://w-jp.net/2020/2123/ <br /> 先日のインナーチャイルドの経験の後、胸のあたりに圧力がかかって胸の真ん中に少しコアのようなものが感じられるようになりました。心臓のように左にちょっと偏っているわけではなくてちょうど真ん中な気が致します。そのコアのあたりで、ことあるごとに笑顔の顔が見えるようになりました。<br /> <br /> これは瞑想中だけでなく普段の生活の中でことあるごとに見える気が致します。<br /> <br /> この笑顔は、私が何千年も昔からずっと一緒にいる2人の天使のうちの1人のような気が致します。<br /> <br /> 思えば、ことあるごとに一緒に転生して私のよき理解者になってくれていました。今生では守護霊っぽい立場で見守っていますけど、いつものように笑顔でした。<br /> <br /> もともとアナハタ優勢になって以降はオーラが優勢でしたけど、以前よりコアの部分が暖かい感じが致します。以前はコアはありませんでしたしね。その温かいコアの近くで笑顔が見える・・・ というと語弊がありますけど、胸のアナハタの温かいコアを感じると胸のあたり、コアとは重なっていないですけど胸の奥の、コアの横あたり、といいますか、胸の横あたりの空間に笑顔が浮かんで見える、というのが正しいでしょうか。<br /> <br /> 場所としては胸のあたりで中心から少し離れていて、そこは胸と言えば胸ですけどそこが空間だとしてその空間の方に顔が浮かんでいる、という感じです。<br /> <br /> 言葉で表現すると何言っているのか意味不明かもしれませんけど、実際、そんな感じです。<br /> <br /> 胸の横あたりにある空間に顔が浮かんで見える・・・ というのは、胸のコアの横あたりに空間があってその空間に顔が浮かんで見える、ということと似ているようでいてちょっと違うのですが、言葉で言い表すとそう言えなくもありません。とりあえずそう理解しておいてもさほど間違いではありません。<br /> <br /> 実際には、胸のあたりに空間があって、その空間は胸や私の体と重なって存在しているので、空間が別にあるわけではなくて、ただ単に空間が「たまたま」そこにあると言いますか、顔が浮かんでいる空間と、体と心およびオーラが存在している空間が「たまたま」一致していただけであって、胸のある空間と顔が見える空間とがたまたま重なって存在しているだけだと思いました。<br /> <br /> 胸のコアの横に空間があるというとその空間がある場所に胸や私のオーラは存在していないかのような印象を与えてしまいますけど、胸の横の空間があるところに重なって私の体の胸や私のオーラは存在していて、両方の空間が「たまたま」重なっているだけなんですね。そんな感じでした。<br /> <br /> 顔が見える空間が私の体や私のオーラを押し除けているわけではなく、顔が見える空間は胸の横あたりに「たまたま」「重なって」存在していただけだったように思います。ですから、私の胸とオーラは割といつも通りで、それに重なって「同じであるがちょっと違った空間」が存在していたわけですね。<br /> <br /> 同じであるがちょっと違う、というのは、意識や空間というのはもともと1つのものであって、地続きなものだと思うわけですよね。私の感じている空間と認識している空間とが同一になっているからこそ別の空間を認識できるwけで、空間を認識する時は時空を超えないと行けないのでその時は自分の感覚としては「おなじ」という感覚で認識されるものだと思います。その顔が浮かんだ空間は、そのような意味合いにおいて「(私が今いる空間と)おなじ」と認識したわけですが、実際はその顔はどこか少し時間軸あるいは時空がズレた場所に存在しているように思われましたので、そのような意味合いにおいて「ちがう」と言っているわけです。<br /> <br /> う〜ん、やっぱり、これは読んだだけだと意味不明な文章かなと思います・・・。とりあえず、読み飛ばしてしまってもいいと思います。あくまでも瞑想録ですからね。<br /> <br /> サマーディというのは自己と対象とが同一になった状態ですので、その時、空間が認識されて時空を越えるので「おなじ」と思われつつも同時に「ちがう」とも認識できるのかな、と今は解釈しております。<br /> <br /> Fri, 30 Oct 2020 00:00:00 +0900 インナーチャイルドの正体は慈悲の心だった https://w-jp.net/2020/2122/ <br /> 朝の瞑想をして静寂の境地に至る少し手前で、ふと、インナーチャイルドの姿が見えました。そのインナーチャイルドはうずくまって、足を抱えるようにしてしゃがんでいました。<br /> <br /> なんだろう・・・ と思っていたら、それは、慈悲の気持ちだということにふと気がつきました。気がついて、インナーチャイルドが立ち上がった瞬間から、今まで抑圧されていた慈悲の気持ちが少し蘇ってきました。<br /> <br /> 思えば、私の今世の目的が2つあったわけですが、そのために自分をどん底に落とす必要があったわけで、まず家庭環境が悪く、更にはコミュニティも最悪でした。<br /> <br /> 家庭環境はというと、父親と兄が他人を馬鹿にして喜ぶタイプで、私や他人が病気とか怪我をするとゲラゲラ笑って蔑むタイプでした。同級生にしても同様で、私は虐められる方で、ことあるごとに、些細なことでゲラゲラ笑われていました。とにかく毎日、ムカムカムカムカしていて、最初はムカムカしているだけでしたが、やがて、反抗をするうちに自分も相手を馬鹿にするような気質がいつの間にかついてしまったような気が致します。まあ、そのような低俗な環境で一般人の気持ちを学ぶということが今世での学びの1つだったわけで、それはうまく言ったとも言えます。<br /> <br /> 思えば、低俗な一般人に混ざって生まれるのは江戸時代以降のことで、それまでは貴族とか王族とかしか生まれたことがありませんでしたので、一般社会はどこか「怖い」ところでした。グループソウルの過去生には天皇だったりローマ皇帝だったこともあったように思います。<br /> <br /> 品のない方々が大勢いる一般社会に混ざるなんてのはそれまであり得なかったわけですが、中国の皇帝の時にうまくいかなくて一般人の反乱によって殺された時にもっと一般人を学ぶ必要があると思って、一般人に混ざって暮らすことで一般人を学ぼうと思ったわけですね。中国の皇帝だった頃、他の国を治めている人が一般人の気持ちもよく分かった上で統治をしていて、そのように一般人の気持ちがわかる人になりたいと思ったんですよね。最初に一般人として生まれたのは江戸時代の下級武士だったわけですが、その後は、近代になってビジネスマンとして生活をしていたりしましたが、今回の人生ほど下級な環境に身を置くことはなかったように思います。<br /> <br /> 一般人を理解するために一般人に混ざるとは言ってもある程度の秩序が保たれた環境に住むことがほとんどであり、今世のような厳しい環境、貧乏でひねくれていて周囲の人々もすぐに暴力を振るうようなコミュニティに生まれることは初めてだったように思います。<br /> <br /> このような低俗な環境で生まれる前は、他人を馬鹿にする人の気持ちがわからず、「どうしてこの人は他人を馬鹿にしたりするのだろう」「どうして他人の失敗を笑う人がこの世に存在するのだろう」「どうしてこの人は他人の足を引っ張ったりするのだろう」「どうしてこの人は自分の孫が可愛くなくて馬鹿にしたりするのだろう」とか、様々な疑問があったわけです。もちろん基本としては自分自身のカルマの解消と悟りへの階梯を確かめることだったわけですが、カルマにもいろいろなものがあって、このような低俗な疑問を解消することも含まれていたというわけです。今まで避けていた低俗な環境こそがその目的を果たす上で絶好の機会を与えてくれました。これは私にとって必要なものだったわけです。<br /> <br /> そのような低俗な環境に身を置いてどん底に自分を突き落とすことが目的だったわけですが、その過程において、「慈悲の心」が抑圧されていたわけですね。それが、インナーチャイルドの正体だったわけです。<br /> <br /> 分かってしまえば納得です。これは私の場合であって、他人が同じかどうかはわかりませんけど、少なくとも私は自分のことがわかって凄く納得しました。インナーチャイルドが抑圧されているのは、慈悲の心が抑圧されているということ、そのものだったわけです。<br /> <br /> 実際、私が生まれてから若い頃を過ごして以来、ことあるごとに自分自身の気質がどうにかならないものかと思ってきました。<br /> <br /> 上記のような低俗な環境に生まれて、いつしか慈悲の心を忘れて、他人が不幸にあうといつしか「ざまあみろ」と思うようになってしまいました。それは悲惨な子供時代における父親や兄およびコミュニティからのいじめや些細なことで他人を馬鹿にする人たちが主な原因だったわけですが、高校を終えて東京に出て、低俗な家族および低俗なコミュニティを出てからはそのような悪影響も減り、自分自身の気質を直そうと思いました。<br /> <br /> そうして気質を改善して行こうと思っていたわけですが、骨の奥に染み込んだ気質はどうにもなかなか治りません。<br /> <br /> それがここにきて、ようやくインナーチャイルドとして慈悲の気持ちが少し回復してきたわけです。<br /> <br /> これは、愛とか喜びと言ったものとは異なる感情です。クンダリーニ覚醒でマニプラ優勢になった時は喜びとポジティブさが向上しましたが、慈悲の心は変化がありませんでした。アナハタ優勢になった時に更にポジティブになりましたが、慈悲の心はこれまた変化ありませんでした。意識の平穏、静寂の境地に達した時も、それは慈悲の心とは関係がありませんでした。<br /> <br /> 他人を馬鹿にする気質はかなりなくなったわけですがほんの少しはまだ残っており、それと入れ替わりになるような慈悲の気持ちはまだ現れてきていなかったように思います。<br /> <br /> それがここに来て、ようやく慈悲の気持ちが少しだけ出てきて、その慈悲の気持ちの体現であるインナーチャイルドが弱々しくも立ち上がって、足取りはまだ頼りないものの自分の足で立っているのが瞑想中に見えました。<br /> <br /> ことあるごとに、自分の慈悲の気持ちが出ていないことに対して「どうしてだろう」という気持ちと、慈悲の気持ちはどこに行ってしまったのだろう? どうにかしたい、という疑問と課題があったのですが、ようやくその答えが見えた気が致します。そういうことだったのですね。<br /> <br /> インナーチャイルドが立ち上がり、慈悲の気持ちが少しだけ回復してきたところで、ふと、今朝の静寂の境地に至りました。朝起きてすぐは静寂の境地ではなくちょっとモヤモヤしていて、瞑想をすることで静寂の境地に至るわけですが、その静寂の境地のちょっと手前でこのインナーチャイルドの体験をしました。<br /> <br /> まだ慈悲の気持ちは弱いですが、ひとまず、慈悲の気持ちが目覚めたことを大切にしたいです。<br /> <br /> Thu, 29 Oct 2020 00:00:00 +0900 <link>https://w-jp.net/2020/2121/</link> <description><br /> </description> <pubDate>Tue, 27 Oct 2020 00:00:00 +0900</pubDate> </item> <item> <title>私と家族やコミュニティとの不和はマスコミとテレビが原因だった https://w-jp.net/2020/2120/ <br /> 瞑想中に、マスコミとテレビを司っているであろう大きな大きな水晶球が見えてきました。<br /> その意図は、日本の家庭とコミュニティを破壊して日本侵略することが目的でした。<br /> 家族に不和を作り出し、コミュニティの繋がりを破壊することで日本人らしさを破壊することにある程度は成功したと言えるでしょう。<br /> <br /> 実際のところ、瞑想でそのような社会のことを考えていたわけではなく、自分の奥底にあるトラウマの原因を見ていたといいますかその原因がふと浮かび上がってきて、浮かび上がってきたものが大きな水晶球だったものですから、それは何かなと思ったらマスコミとテレビを司っている闇の水晶球だったわけです。<br /> <br /> 別に、マスコミとテレビをどうにかしたいとか大それたことを考えていたわけでもなく、単に浮かび上がってきたということです。かなり個人的なことです。<br /> <br /> その、個人的に浮かび上がってきた水晶球を、なんとなくハンマーで壊したくなりました。何度か叩いてみるとヒビが入り、半分くらいに割れ、そして、体の肩のあたりの緊張も少し抜けました。どうやら、この水晶球が何やら悪さをしていたようです。<br /> <br /> これが個人的なものなのか社会的なものなのかはわかりません。<br /> <br /> 少なくとも、私が子供の頃から社会生活を送る上でマスコミとテレビが原因だったと思われる不和は沢山経験してきたわけで、私でなかったらもっとマスコミとテレビを怒ってもいい筈だとは思います。<br /> <br /> 競争を煽ったり、他人を馬鹿にすることを「面白い」と言って推奨した罪はとてつもなく重いです。それらに関わっていた人は死後に無間地獄に似たようなところに落ちて苦しむ筈だと守護霊は説明しています。マスコミで反日を報道したり、テレビで他人を馬鹿にして笑いを取るような番組を作っていた人のうちかなりの人がそのような地獄行きだということです。そういう人は地獄とか信じないでしょうけど、死後の世界は「思い」によって何でも瞬時に作られる世界ですので、何でも出来るわけですよ。家を作ろうと思えばすぐに出てきますし、豊かな森林、高層ビル、海岸など、その人の思いの強さによって周囲の環境も作られるわけです。しかしながら、人間の魂だけは作ることができませんけど。ですから、マスコミやテレビで他人を馬鹿にしたりする番組を作っていた人は、それによって恨みを多く買っているわけです。恨みを買っているということは、死後に捕まえられて地獄のようなところに放り込まれる可能性があるということです。他人の恨みを買うということはそういうことです。<br /> <br /> あの世にも地獄の番人みたいな人はいます。その時、守護霊や友人知人の霊で有力者がいれば恩赦なんてこともありますけど、そのような友人知人がいないような徳のない人はほとんど地獄行きです。今からでも遅くはないので誠意のあるマスコミ報道やテレビ番組を作った方がいいと思いますけどねえ。多少は恨みが軽減されると思いますよ。それは全て自分の自由で、好きにすればいいですけどね。地獄行きでもいいなら好きにしたらいいですし、そんなのあるわけがないと思うなら勝手にすればいいです。死後に「こんな筈じゃなかった」と思っても遅くて、生きている間であれば肉体がありますし法律がありますけど、死後はある意味「やりたい放題」ですので、どんな地獄でも存在して、何十回・何百回も繰り返し鬼に殺される地獄に行く可能性もあります。今の人は信じないですけど、死後は何でも作り出せる世界ですから、何でもありです。地獄がもともとあったわけではなくて、日本の人々が地獄が存在すると思うから存在するわけです。日本の人々の想像力によって地獄が作り出されますので、存在する地獄に罪人を放り込むなんてわけないことです。<br /> <br /> まあ、それはともかく、私の中に見えてきた水晶球は破壊しましたので、少なくとも私にまつわるマスコミ・テレビによる不調和の根本原因はこれから解消されてゆくと思います。社会的にはどうか知りませんけどね。ですけど、随分と大きな水晶宮でしたから、社会に多少は影響があってもいいですけどね。<br /> <br /> 内容的には随分と前から分かっていたことではありますけど、こうして水晶球が出てきて随分と具体的な感じになりました。<br /> <br /> Tue, 27 Oct 2020 00:00:00 +0900 首から下がだるまさんのようなオーラになる https://w-jp.net/2020/2119/ <br /> 少し前に、だるまさんのような丸いオーラの体になって眉間の周囲にオーラが集まる感じになりました。今回もその時と似ていますが、今回は頭の部分がちょっと違っていて、頭のところは形がない感じです。<br /> <br /> 体の部分も、だるまさんと言えばそうですが、前回ほどだるまさんというほどではなく、体の部分に沿ってオーラが凝縮されている感じです。<br /> <br /> 首から下の体の全体にオーラが行き渡っていて、安定しています。<br /> <br /> 以前は、体の一部に気(プラーナ、オーラ)が行き届いていない、みたいなことがあって、今でこそ多少の濃淡はありますけど基本的には体全体にプラーナが行き届いていて、首から下が濃縮されたオーラに満たされているのを感じます。<br /> <br /> この状態だとオーラの移動も簡単にできて、例えば先日に行った右脇腹に溜まっていたオーラを喉のヴィシュッダに移動させて浄化させるなんてことも簡単にできます。<br /> <br /> その一方で、頭から上はまだそこまでオーラが凝縮していない感じが致します。オーラが足りない、ということもありますし、安定感がまだ足りない感じです。頭の部分は日常生活でタマスが溜まりやすくてヴィシュッダで浄化すると頭の部分が晴れやかになりますが、その際は、オーラも一緒に移動してしまってオーラがちょっと薄い感じになるような気が致します。それよりは、首から下の状態のようなオーラが凝縮されて安定している感じに首から上もなれば少し状態が変わる気がしています。なんとなくですけどね。<br /> <br /> あるいは、ヴィシュッダが浄化のオーラだとすれば、頭の上はすっきりした状態が正しい気もしますが、どうなのでしょう。このあたりはこれから様子を見てゆきます。<br /> <br /> 可能性1:首から上もオーラが濃縮された状態になる<br /> 可能性2:首から上はすっきりした透明な状態、首から下はオーラが凝縮した状態<br /> <br /> このどちらになるのでしょうかね?<br /> <br /> 今のところ、以下の順番かなと思っております。<br /> <br /> 1.首から下はオーラが凝縮した状態、首から上がモヤモヤしたタマスな状態<br /> 2.首から下はオーラが凝縮した状態、首から上はすっきりした透明な状態<br /> 3.首から下はオーラが凝縮した状態、首から上も首から下と同様なオーラが濃縮された状態になる<br /> <br /> となれば、今は1と2の間を揺れ動いていて、やがて、2を超えたら3になるのかも? という気がしておりますが、もしかしたら2だけで3はないかもしれません。<br /> <br /> 3の場合はクンダリーニが下から頭で上がる、と解釈することができます。<br /> 一方で、2の場合はヴィシュッダ(あるいは胸のアナハタ)が天と地の中間地点・合流地点であって、天から降りてきた清浄な気が頭に満たされるのだとしたら2が最終地点かもしれません。その線で解釈すると以下もあり得ます。<br /> <br /> 1.首から下はオーラが凝縮した状態、首から上がモヤモヤしたタマスな状態<br /> 2.首から下はオーラが凝縮した状態、首から上はすっきりした透明な状態(タマスを浄化する)<br /> 4.首から下はオーラが凝縮した状態、首から上はすっきりした透明な状態(タマスを浄化する)+天のエネルギーが頭に降りてきて頭が天のエネルギーで満たされている状態になる<br /> <br /> 天からのエネルギーが降りてくる、とすればこちらが正しい気も致します。<br /> <br /> 既にある程度は降りてきてはいるとは思いますが、まだ本格的ではない気がしております。<br /> <br /> というのも、過去生やパラレルワールドの記憶を辿ると、天からエネルギーといいますかいわゆる「光の柱」を立てたときに天から降りてくるエネルギーは相当なものがあったと思いますし、光の柱を立てるにはコツがいて、自分のオーラを天に思いっきり伸ばして通路を作って、その光の通路を育てることで光の柱が強くなった気がしますので、そのような儀式と言いますか技法はまだしていないので、天のエネルギーはまだ降りてきていないと思っています。<br /> <br /> まずは個人として清浄な意識を確立して、それから、光の柱を作って天からエネルギーを降ろす、という順番かもしれないですね。そんな気がしてきました。<br /> <br /> Mon, 26 Oct 2020 00:00:00 +0900 アシュラム生活でスタッフにお小遣いをあげる https://w-jp.net/2020/2118/ <br /> これまた瞑想や夢で見たお話ですので話半分に聞いていただければと思います。<br /> <br /> 以前、インドのとあるグルの物語でアシュラム生活に少し言及しましたけど、そのアシュラムでは、他の多くのアシュラムと同様に全員が無給でした。給与の支払いはありませんでしたけど衣食住は整っておりましたので不都合ありませんでした。<br /> <br /> しかしながら、完全に世俗を離れて隠遁生活を送ることができる人ならば良いのですが、スタッフによっては世間の遊びに興味を持つ人もボチボチいらっしゃいました。<br /> <br /> もともとそのアシュラムでは完全に無給だったのですが、施設が大きくなってきて多くのスタッフが働くようになると寄付も増えて、その寄付の用途不明金がボチボチ出るようになってしまいました。<br /> <br /> その度に調査をするわけですが、当時のグルである私のグループソウルの過去生は千里眼や過去・未来を見れましたのである程度は原因が分かるわけです。それは手間をどれだけかけたかにもよるのですが、手間をかければおおよその概略は理解できたように思います。<br /> <br /> 単なる泥棒の場合は捕まえれば良いですが、一方で、スタッフによる泥棒、みたいな事案がある時発生してしまったように思います。<br /> <br /> まあ、追い出すというのも一案なのですが、その時のグルはそのようなことをせず、俺に任せろと言ってそのスタッフを監視し、次に再度犯行に及ぶ時を狙って後ろから話しかけます。何をしているのだ? と。<br /> <br /> そのスタッフは反抗し、自分たちはこんなにも働いているのに給与も支払われなくて不公平だ、と言うではありませんか。おそらくはそれは多くのスタッフを代弁していることが見て取れましたので、ひとまず、給料は君だけでなく誰に対しても支払われていなくて、私(グル自身)も給与をもらっておらず、自分の部屋が特別にあるくらいで食べるのものも違いはない、と説明しました。その上で、確かに彼のいうこともわかりましたし、完全に隠遁生活を送れる人は多くありませんし、施設が大きくなるにつれて一般人っぽい人も関わって働くようになってきましたので、報酬制度をきちんとした方が良いと判断しました。<br /> <br /> かと言って給与をいきなり支払うわけにもいきませんし、基本は衣食住は完備しておりましたし隠遁生活のためのアシュラムですから、次のようなシステムにしました。<br /> <br /> まず、お小遣いが欲しい人は必要なだけあげることにする。グルの部屋の前に紙を貼っておくので、用途と金額と名前を書いて、それが妥当だと思われる範囲で支給をする。いくらあげたのかは全員に対して公開をする。そして、そのシステムを使う第一号が君だ、と。実際には時系列としてちょっと前後してしまうのですが、システムの第一号だったから誤解が生じてしまっただけで、不正はしていない、ということにしました。そのように周囲にも説明をすることにしました。<br /> <br /> 確かに、世俗から完全に離れた人はまだしも、まだ社会的に繋がりを持っていて、親族や友人知人たちの結婚式に出席したり離れた家族の元に帰省するためには資金が必要です。そのためのお小遣いをあげるシステムにしたわけです。<br /> <br /> これはもちろん人によりますから、一律で月給いくらと決めるよりもずっとうまく機能していたように思います。少なくともそのグル(私のグループソウルの過去生)が死ぬまではそのシステムで継続していたと思います。<br /> <br /> Sun, 25 Oct 2020 00:00:00 +0900 ヴィシュッダ(喉)でタマスを浄化する https://w-jp.net/2020/2117/ <br /> 最近は、ヴィシュッダ・チャクラ(喉のスロート・チャクラ)が瞑想中に活躍しています。<br /> <br /> 頭のタマスを浄化するのにも活躍しますし、お腹の中のタマスやカルマを浄化するにも活躍しています。<br /> <br /> 頭のタマスは吸い込まれるようにヴィシュッダに入って清らかに変わりますし、お腹のあたり、特に右脇腹に長らく溜まっていたタマスなのかカルマなのか、何かがヴィシュッダに吸い込まれてこれまた浄化されたような気が致します。大活躍しています。<br /> <br /> ヴィシュッダ・チャクラは定説では「毒を浄化する」とか言われていて、特に頭の後ろのヴィンドゥ・チャクラからネクター(甘露)が出てきてそれをヴィシュッダで浄化することで薬になると言われています。ネクター(甘露)はヴィシュッダで浄化しなければ毒ですがヴィシュッダで浄化することで活力・長寿をもたらす薬になるとヨーガやヴェーダでは言われています。<br /> <br /> ヴィシュッディは、毒を浄化するチャクラだと言われています。(中略)登頂にビンド(点)と呼ばれる場所(サハスララチャクラの内)があり、そこでアンブロシャと呼ばれる液がつくりだされます。(中略)この液はまだ毒でも神酒(ネクタ、神の飲み物)でもありません。(中略)ヴィシュッダ・チャクラが目覚めていればこの液をネクタ(不老不死の神酒)に純化、浄化することができますが、目覚めていないと、この液はヴィシュッディチャクラの中で毒となってしまうのです。「密教ヨーガ(本山博著)」<br /> <br /> もしかしたら、私に起きていることが多少はこれと関係があるのかな、とも思いますが、私の場合は液が落ちるというよりは単純にオーラが純化されているというだけです。<br /> <br /> 特にヴィシュッダ・チャクラが開いたかのような経験はしていないような気も致しますが、最近になってよく動いているような気がするのも確かです。チャクラが開く際に必ずしも何らかの体験が起こるわけではないとも言われていますので、あんまり木にすることでもないのかもしれませんし、もともとそれなりに動いていたような気も致します。そもそもナーダ音が聞こえるのはヴィシュッダ・チャクラの役割ですから、もともと私の場合はヴィシュッダが動きやすかったのかもしれません。<br /> <br /> いつから開いていたかはわかりませんが、日常生活や仕事をする上で閉じ気味になったこともある一方で、最近になって特に活発に動き出している気が致します。<br /> <br /> ヴィシュッダの浄化があるからこそ心身が健康で、特に静寂の境地を保つ上において重要な役割を担っているような気が致します。<br /> <br /> <br /> <br /> Sat, 24 Oct 2020 00:00:00 +0900 真我(アートマン)の手足が5つの神通 https://w-jp.net/2020/2116/ <br /> 神通は5つとも6つとも言われていますけど、基本となる五神通が真我(アートマン、スピリット)の手足だと言います。<br /> <br /> これは今日の瞑想の中で教えられました。<br /> <br /> 確かに、そう思ってみれば当然であるように思われます。この神通を顕在意識の自我から見れば神通ですが、アートマンからしてみればそれは単なる手足なわけです。<br /> <br /> 手足ですから見る能力や歩く(移動)する能力、聞く能力があって当然なわけです。<br /> <br /> 天眼通は千里眼の能力で目ですし、他心通や天耳通は耳、神足通は足、宿命通も目ですね。六神通に入っている漏尽通はアートマンの手足とは違った感じですので、六神通というよりは五神通がアートマンの手足だというのがしっくりきます。<br /> <br /> ・天眼通、宿命通 目<br /> ・他心通、天耳通 耳<br /> ・神足通 足<br /> <br /> これは、神通が何やら神がかったものではなく、単にアートマンが動き出したことによる、別の言い方をするのならばアートマンが現れたことによるその手足の働きが五神通であると言えるわけです。<br /> <br /> 人間の顕在意識からすれば不思議な力に見えますが、観察状態が進んでアートマンが主に切り替わった状態に働く手足のことであるとすればなんてことはない、普通のことのようにも思えてきます。<br /> <br /> 普通の人はアートマンが動いていなくて顕在意識の欲望や反応で生きているわけですからアートマンの手足である五神通が動いていなくても当然であるようにも思います。<br /> <br /> 五神通の分類は流派によって色々のようですけど、アートマンの手足と考えると嗅覚と触覚がないので五感には1対1には対応してはいませんのでちょっと中途半端ですかね。<br /> <br /> いわゆる幽体になっても皮膚のような感覚はありますので、その感覚があってもよさそうなものですけどね。嗅覚に関しては、波動の感覚を匂いとして感じることもありますのでそれもアートマンの手足といいますかアートマンの五感として考えても良さそうな気が致します。<br /> <br /> そう考えますと、五神通は何も特別なものではなく、アートマン、いわゆる真我あるいは霊体・幽体の働きであると言えます。それを日常生活を送りながらも活用できるようになる、というところが五神通の実際なのではないかと思います。<br /> <br /> そのために、基本は瞑想をして意識を鎮めて静寂な境地に至ることでアートマンが出現してくるわけですが、一部の流派で能力だけを目的にしていると秘密の技法などで一時的に意識を鎮めてアートマンを働かせる、というようなこともできるように思います。<br /> <br /> ヨーガなどの聖典で言われていることですが、神通(シッディ)を得るためにはいくつかの方法があって、基本は瞑想ですけど欲望や雑念を持ったままシッディを得ることも一応はできて、例えば薬物・マントラ・苦行によっても得ることができると記されていますが、シッディを修行の目的にしてはならないとヨーガでは説きます。であれば手段は瞑想しかないわけです。<br /> <br /> シッディを目的にしてしまうとシッディを得るために薬物・マントラ・苦行で一時的に顕在意識を麻痺状態にしてアートマンを働かせる、ということになるかと思います。そして、そのような人はアートマンを働かせた後にしばらくすると元の欲望・雑念の世界へと戻ってゆくわけです。<br /> <br /> 一方で、瞑想でサマーディに達した人は意識が平らで静寂の意識に生きていて、多少は雑念や欲望も持ちますけど静寂な意識に立ち返る力がかなり強くなっていて、その状態ではアートマンが働きやすくなっていますからアートマンの手足である五神通を動かすのも自由自在なわけです。そして、手足ですから動かすも動かさないも自由で、シッディのように見えるかもしれませんけど、もはやそれは大した事柄ではなくなるわけです。<br /> <br /> Tue, 20 Oct 2020 00:00:00 +0900 前世でのパートナーや仲の良い友人が孫として生まれる https://w-jp.net/2020/2115/ <br /> 特に女性の場合、前世での妻としての生活が楽しかったので親族としてまた生まれてくる場合があります。また妻になりたい場合はそのように生まれる前にアピールしてくる場合もありますし、子供の場合は割と自由気ままに自分から動いて生まれてくる場合もあります。<br /> <br /> チャンスがあればそれを逃さず行動する人がそのポジションをゲットするわけです。そんなにきちんとは管理されていない気がします。割と自由です。<br /> <br /> そのように、前世でのパートナーが子供あるいは孫として生まれてきた場合、それはそれは可愛いでしょう。そりゃそうでしょう・・・。かわいすぎて困ってしまうくらい可愛いと思います。<br /> <br /> 一方で、他人がなんとなく生まれた場合はそこまでではなくて、ぼちぼち可愛い、という感じだと思います。<br /> <br /> よく、孫は目に入れても痛くないくらい可愛い、みたいなことを言いますけど、実際は人それぞれだと思います。<br /> <br /> 一定以上かわいければいいですけど、残念ながら、それほどでもない、という場合もあると思います。それは「付き纏われている」というパターンですね。どっかに行って欲しいのにつきまとわるタイプが子供あるいは孫として生まれるパターンはそのパターンを卒業しない限りは続きます。勉強のために親族になる、というパターンですね。<br /> <br /> 実際はそれらの混合もあったりして、そこそこ可愛いのだけれども、それに加えて、どこか憎たらしい気持ちも混ざっている、というような組み合わせの複雑な気持ちもそれなりに多いように思います。例えば、ぼちぼち可愛いのだけれどもどこかにくたらしくて、お金ばかり使わされるので奪われているように感じるおじいさん、みたいなこともあります。<br /> <br /> お金を使いたくなる孫なのかそれとも奪われていると思われる孫なのかで大きく分かれる気が致しますね。感覚的には、お金を使いたくなる孫が8割以上で奪われていると思われている孫は2割以下かと思いますが、奪われていると思っていても可愛い面も含まれていたりして、そんなに単純なお話ではないと思います。しかしながら基本はあって、基本は前世との繋がりあるいはカルマ的な勉強のために家族になるケースですね。<br /> <br /> それが関係性の基本で、加えて人としての基本的な「愛する力」のようなものがそこに加わります。誰それとなく人を愛する人であれば基本が良くなくても愛することができるでしょうし、それほど人を信用・愛することができない人であれば基本がいくら良くても愛することに抵抗を感じるかもしれません。<br /> <br /> 私の場合、母方は基本が人を愛する、という家系で、父方は、どこか気難しい家系でした。母の実家に行くと愛されましたが、父方に行くと半分は愛されているものの、どこか気分が良くない感じを受けることが度々ありました。まあ、このくらいであれば世間に比べたらかなりいい方だったかなとは思いますけど、それでも、父方のおじいちゃん・おばあちゃんがたまに見せる「(私を)憎たらしいと思う感覚」が時々伝わってきて、孫が可愛くないというのはどういうことだろうかとずっと疑問に思っておりました。<br /> <br /> 私は今までの前世においてそれほどお金に困ったことがありませんでしたので、貧乏人の気持ちがよくわからず、今回は貧乏人の気持ちを学ぶためにそれほどお金のない暮らしを遊びでしてみていますが、ようやく貧乏人の気持ちがちょっとわかった気が致します。今まで貧乏人を見て「この人たちはどうしてこんなにひねくれているのだろう」と思っていたのですが、ちょっとだけ理解できた今、私の「理解したい」というカルマはほとんど解消されたように思います。要は、自分にお金がなくて他人を愛する力が弱くて孫がそれほど可愛く感じなければ孫が「自分から財産を奪う対象」に見えるのですよね。その単純なことが今までピンときていませんでしたが、ようやく貧乏人のひねくれた気持ちがちょっとだけわかった気が致します。貧乏だからひねくれて、ひねくれると他人が遠ざかって、他人が遠ざかると手助けしてくれる人も少なくなって、商売もうまく行かなくてますます貧乏になる、というサイクルを辿るわけですね。貧乏人あるある、です。こういうこと書くと「お前なんかにわかるか」とか「貧乏人を全部理解できる筈はない」とか言ってくるのがひねくれた貧乏人で、私は全部には興味がなくて自分が疑問に思っている範囲で理解したのでもう十分なのです。ひねくれた貧乏人の性質が以前は全く理解できなかったので、ちょっと味わってちょっと理解しましたので、もうそれは自分の関わる世界ではないということがわかりましたので、もう興味がないのです。<br /> <br /> ずっと疑問に思っていた貧乏人の気持ちはちょっとだけ理解したのでもうお腹いっぱいですのでこれ以上は要らなくて、やっぱり私は前世での繋がりのある可愛い愛のある妻たちと一緒に楽しく暮らしたいです。<br /> <br /> 今の時代をしっかり生きて、誰かを助けることの基本が妻ですよね。妻が楽しく暮らせるようになんでも「いいですよ」とOKを出し続けることで妻が来世も一緒にいたいと思うようになるわけです。<br /> <br /> 世間ではね、妻を道具とか奴隷とか召使のように思っている方も一部いらっしゃるようですけど、それじゃ、死後に妻は開放されてどっかに行ってしまうだけですよ。<br /> <br /> 妻だけではないですけどね。繋がりのある人で前世から仲のいい方というのはある程度同じ人生を生きるようになります。そうして人を大切にすることで来世に繋がってゆくわけです。その中で、特に孫が可愛い、というのは、前世から繋がりがある魂が転生した場合に可愛いのはそれは当然だと言えます。<br /> <br /> 一方で、損得勘定で生きている人は周囲にいる仲間も損得勘定になって妻も子供も孫も損得勘定になりがちですから愛の人生ではなくなってきます。<br /> <br /> どちらがいいのかはご自身の現在の人生が土台になって、来世に続くわけです。<br /> <br /> これは、どちらがいいとか言っているわけではありません。ご自身の好きなように生きればいいだけのお話です。ご自身が望んだものに人生はなりますから。<br /> <br /> ひねくれた人生を選ぶのも自分の自由ですし、愛の道を選ぶのも自由なわけです。貧乏人でひねくれを極めることを否定もしませんし推奨もしません。どちらでも好きにすればいいですし、もしかしたらその先に何かがあるのかもしれませんしね。自分の興味のあることをなさればそれでいいと思います。それを許容できるだけこの世界は広いです。しかしながら、貧乏人のひねくれのいる世界は私の住む世界ではありませんので、私には関わらないでいただきたいものです。<br /> <br /> 何度も転生をするにつれて、「なんだこれ???」と思うことは多々あって、その都度、色々と興味を持って眺めてきましたが、興味深いお話もあればこのように、結局は「な〜んだ」と思うような貧乏人のひねくれ話もあるわけです。とは言っても、そのような多様性のあるこの世界の全てが基本は素晴らしいわけです。<br /> <br /> 日本は核家族化が進んでいますけど、今世で家族を大切にして、来世でも同じ妻や子供たちが親族で生まれたいと思うくらいの豊かな家族生活を送る方がみんな笑顔で楽しいと思いますけどねえ。<br /> <br /> まあ、私が何を言ったところでそうそう他人が変わるわけでもありませんし、他人は好きにすればいいですけど。<br /> <br /> Mon, 19 Oct 2020 00:00:00 +0900 再度、目を閉じていても視界をシルエットで感じるサードアイ https://w-jp.net/2020/2114/ <br /> 昨年末に同様のことがありましたけど、再度ありました。今回は普通に瞑想をしている時で、単なる残像かと思って顔を傾けたりしてみましたけど同じ場所に続けて見えておりましたのでそれっぽいなと。<br /> <br /> ただ、今から思えば顔は傾けましたが視線はどちらに向けていたかあまり記憶がないのでもしかしたら視線は固定されていて単なる残像だったかもしれませんね。<br /> <br /> そのような可能性はありますけど、感覚としてはやはりそれっぽかったわけです。残像の感じより遥かにはっきりしておりましたしね。<br /> <br /> 前回の照度は5%くらいでボヤッとしておりましたが、今回もボヤッとしておりましたが前回よりははっきり見えていましたのでおそらく10〜15%くらいでしょうか。なんとなく形が見えるのも前回と同じですけど、今回の方が多少はっきりと見えました。暗くて見えにくいですけど、このくらいであれば物がそこにあることが分かりますので目を瞑っていても探れそうな感じです。<br /> <br /> これがサードアイなのかフォースアイなのかは微妙なところですけど、過去生の記憶を辿りますとフォースアイは360度全てを見渡せた気が致しますので、単に視界の延長線上ということであればこれはサードアイなのかなと思います。これをサードアイと呼ぶ流派もあると思いますし、このようなことができる人が少ない状況ではコンセンサスも生まれにくいでしょうから、まあ、言い方はどちらでもいいと言えばいいのかもしれませんが、個人的には頭の中の特に後頭部で見るのがサードアイで、頭の中から飛び出して頭の少し上あるいは視点をもっと違う場所に動かしてそこからの視点で見るのがフォースアイです。<br /> <br /> 今回は視界の延長でしたのでサードアイですね。<br /> <br /> ただ、視界が出てきたところで疑問や探究心が出てきて色々と思考が動き出してしまいましたので瞑想状態から早く抜け出てしまい、それほど長くは続きませんでした。<br /> <br /> 慣れてくれば状態を維持できるようになる気も致しますね。<br /> <br /> 昨年末の時はふとした拍子に見えたという感じですが、今回は瞑想で意識を静寂に近づけたときに見えた感じでしたので、おそらくは前回よりは再現性があるような気が致します。<br /> <br /> フォースアイは確か最初にサードアイの場所で生まれて頭の上から外に出てゆくような気も致しますので、まだ頭から出ていないフォースアイがサードアイと呼ばれているだけなのかもしれません。この辺りはおいおい確認して行ければと思います。<br /> <br /> Sun, 18 Oct 2020 00:00:00 +0900 幸福と平安の小サイクルは繰り返される https://w-jp.net/2020/2113/ <br /> 禅定のサイクルとして以下のようなお話があります。<br /> <br /> 1.幸福<br /> 2.(思考が止まることによる)喜び<br /> 3.(幸びが消えて)楽のある平安<br /> 4.(楽が消えて)平安のみ<br /> <br /> 禅定は特に2段階以降がサマーディと呼ばれますが、このような起伏の状態は禅定だけでなくそれ以前においても同様のサイクルが繰り返されているように思います。<br /> <br /> この性質により、往々にしてサマーディ以前においても自分が禅定に達したのではないかという誤解をしてしまう可能性があるようにも思います。私も、禅定の定義がいまいちピンときていませんでしたが、今思えば、サマーディ以前においても自分が禅定に達したのかな? と思い違いしていた場合もあるような気が致します。<br /> <br /> 例えば、プラティヤハーラの段階で雑念が逃れようとする段階においても同様の4ステップを踏むような気が致します。<br /> <br /> ■プラティヤハーラ<br /> → 雑念から離れて一時的な幸福に至る<br /> → 雑念が一時的に止まって喜びを感じる<br /> → 雑念が一時的に止まって、喜びが減って楽がある平安<br /> → 雑念が一時的に止まって、楽が消えて平安な状態に至る<br /> <br /> これらは、サマーディとある程度は同様のステップを辿るような気が致します。<br /> ディヤーナ(瞑想)でも同様な気が致します。<br /> <br /> ■ディヤーナ<br /> →→ 集中が高まり、一時的な幸福に至る<br /> →→ 集中力が高まり、喜びを感じる<br /> →→ 集中力が高まり、喜びが減って楽がある平安<br /> →→ 集中力が高まり、楽が消えて平安な状態に至る<br /> <br /> これと、サマーディはよく似ています。<br /> <br /> ■サマーディ<br /> →→→ 観察力が高まり、幸福に至る。これは昨年末から視界がスローモーションで認識されるという段階に対応しているように思います。喜びのある状態です。五感が働き続けていて、「面白い」という感覚があります。<br /> →→→ 観察力が高まり、喜びを感じる。これは最初にスローモーションで感じたような特別な状態から日常が映画になった段階に相当してるような気が致します。まだ面白いという感覚は残っていますが、最初の時のような特別感がなくなってきた段階です。自我が戸惑う、ということも起きます。<br /> →→→ 観察力が高まり、喜びが減って楽がある平安。これはその後、「面白い」という感覚が次第に減っていって日常生活と融合してきた段階に相当しているような気が致します。<br /> →→→ 観察力が高まり、楽が消えて平安な状態に至る。これは最近感じていて、面白いとか楽とかいう感覚がかなり消えていって、単に観察力だけが残ってきた感じが致します。この頃になると「自我が戸惑う」みたいなことはほとんどなくなってきて、普通な状態になってきたような気が致します。<br /> <br /> Sun, 18 Oct 2020 00:00:00 +0900 瞑想で集中(サマタ)すると観察(ヴィパッサナー)が現れる https://w-jp.net/2020/2112/ <br /> 瞑想の「行為」としては「集中」です。<br /> そして、「結果」として「観察」が生じます。<br /> <br /> これを取り違えて、「行為」として「観察」を行おうとしてもそれは単に観察しているつもりで集中している、というお話になります。例えば皮膚の観察をする瞑想(いわゆるヴィパッサナー瞑想の流派の手法)がありますけど、それは実際は瞑想的には集中に分類されるものです。<br /> <br /> 言い方として「観察」とか「ヴィパッサナー」とか呼んでいたりしますけど、それは個別の流派の言い方がありますのでそれはそれでいいと思いますし、その流派に属するならば好きに解釈して先生の教えに従えば良いと思います。私は私なりの解釈を書いているだけで、他人に解釈を変えろと言っているわけではなく、整理のためにこのように書いているだけです。<br /> <br /> 「行為としての集中」には「顕在意識」が対応し、「結果としての観察」には「潜在意識、あるいは深層意識」が対応します。心理学用語と解釈はいろいろありますけど、ここでは厳密なものではなく、わかりやすさのために階層をそれぞれ対応付けています。<br /> <br /> そのように、行為としては顕在意識の「思考・意志、いわゆる心」が対応し、結果としてはいわゆる潜在意識の深いところが対応するわけです。<br /> <br /> 潜在意識と言ってしまうとそれは人間が意識できないところじゃないか、と思われる方もいらっしゃるかもしれませんけど、ヨーガの修行の(途中の)目的(マイルストーン)の一つには潜在意識の部分を減らして顕在意識を増やす、というものがあります。ですから、その増えた部分を同様に顕在意識と呼んで顕在意識が増えたと解釈するのもそれはそれで正しいですが、それよりも、もともと潜在意識だった部分が新たに別の深い意思として現れてくる、という方が実態に近いと思います。<br /> <br /> その深い意識が現れた状態をヨーガではサマーディと呼んだりあるいはヴィパッサナーと呼んだりします。これは多少は流派によって意味合いが異なりますので解釈に混乱があったりもしますが、基本的な意味合いとしてはこのように深い意識が現れてきた状態だ、ということができます。<br /> <br /> その深い意識をヨーガでは「アートマン」とか言ったりしますし、ゾクチェンでは「リクパ(心の本性)」、あるいはスピリチュアル系では「スピリット」と呼んだりします。<br /> <br /> とある点にまで至ると、顕在意識の心がいわゆる普通の意思・思考で自分を動かしている段階から、潜在意識としてのアートマン、スピリット、リクパ、あるいは心の本性が動き出して、そちらが主導権を握ることになります。<br /> <br /> そして、アートマン(スピリット、リクパ)が主導権を握っている状態がサマーディでありヴィパッサナーであり観察であるわけです。<br /> <br /> その時、顕在意識はどうなっているかと言いますと、顕在意識に対応する思考・意思は動こうと思えば動くことができますが、割と鎮まっている状態になっています。顕在意識は論理的思考が得意ですし、アートマン(スピリット、リクパ)は俯瞰して見るのが得意です。そういう意味で役割分担がなされていると言えます。<br /> <br /> アートマン(スピリット、リクパ)も論理的思考および細かなところが見れますが、それは結果としてそのように論理的思考や細かいところが見れはしますけど、それはより直感的なものです。インスピレーションに近いものですね。いわゆる論理的思考で組み立てるというよりは結果が先に入ってくるようなものです。<br /> <br /> そのように、アートマン(スピリット、リクパ)が動き出した状態が観察(ヴィパッサナー)であると言えます。<br /> <br /> ですから、それに至るためにヨーガ・スートラに書かれているような「心の死滅(停止)」が「行為」の修行としては必要なわけです。死滅と言うと心が全くなくなってしまうかのように解釈してしまう方もおられるかもしれませんけど、これは一時的に顕在意識を鎮めるという意味であって、全く心を無くしてしまうという意味ではないのです。<br /> <br /> もともとはサンスクリット語で二ローダという意味ですし、そもそもの意味も難解ですので解釈してくれる人が必要で、例えばインドのリシケシでヨガニケタンを作ったスワミ・ヨーゲシヴァラナンダは「魂の科学」の中でヨーガとは心素の働きを死滅させることである、と明確に述べています。同所での心素というのはChittaで、心理作用の源であるとされます。ですから、そのような狭義においての死滅であって、心を全く無くしてしまうことではないのです。<br /> <br /> 修行としてチッタを死滅(停止)させることをすると、その奥にある真相意識とも言えるアートマン(スピリット、リクパ)が動き出してヴィパッサナー(観察)に至る、というわけです。<br /> <br /> Fri, 16 Oct 2020 00:00:00 +0900 瞑想での心の停止とプラティヤハーラとサマーディ https://w-jp.net/2020/2111/ <br /> ヨーガ・スートラでは「心の死滅(停止)」が一つの目的地になっています。<br /> <br /> この解釈は、プラティヤハーラの段階の人とサマーディの段階の人とで異なる場合があります。<br /> <br /> プラティヤハーラの段階の人は「瞑想で心を停止(死滅)しても一時的なことなので本質ではない」と言って集中瞑想や心の停止を否定しがちです。<br /> <br /> それはプラティヤハーラの段階の人であればある程度は真実ですけど、サマーディに至ってしまえば心の停止の静寂の境地とそれの奥に存在している深い静かな意思の働きが共存しますので、心の死滅はある意味正しいわけです。<br /> <br /> 確かに心の停止は本質ではないですが、本質ではないという説明を聞いたときにプラティヤハーラの段階の人は心の死滅(停止)を否定してしまうのに対し、サマーディの段階の人は心の死滅(停止)は真実として受け入れてその奥にある深い意識の働きもまた肯定するわけです。プラティヤハーラの人にとっての「本質ではない」という意味と、サマーディ段階の人にとっての「本質ではない」という意味が異なる場合があるということです。<br /> <br /> ヨーガ・スートラに述べられている心の停止(死滅)を否定するのはプラティヤハーラの段階の人が陥る可能性のある誤解の1つです。プラティヤハーラの段階ですと瞑想中に一生懸命雑念から逃れようと集中して努力しますが瞑想が終わるとまた雑念がわらわらと湧き出てきて翻弄されてしまいます。ですから、心の死滅をしても何にもならない、とプラティヤハーラの段階の人は判断してしまうことがありますが、それはまだ瞑想が進んでいないだけのお話です。プラティヤハーラの段階だと、心の奥にもう1つの本当の心の本性が眠っていることがなかなか理解できないわけです。きちんと説明してくれる人がいない限り、誤解してしまっても無理はないかもしれません。そうして誤解してしまうと「心の死滅なんてしてもしょうがない」と解釈してしまうのです。<br /> <br /> 一方、サマーディであれば心の死滅がある程度は続きますし、心が動き出したとしても心の奥底にある心の本性としての意思は表面的な心の動きに左右されずに存在して働き続けますので、雑念によって心の本性が妨げられることは少なくなります。雑念は程度問題ですのである程度は雑念によって心の本性の動きが妨げられますけど本質的に別々なものであることが実感としてわかりますから、そうして表面的な心・思考・意思と、奥底にある心の本性としての意思が異なるものであることがわかってしまば先のようなお話が誤解だということが分かるわけです。<br /> <br /> プラティヤハーラの段階の人はたまに誤解をして心の死滅(停止)とは全く別のところに悟りの道を求めてしまうことがあるのに対し、サマーディの人はまさに心の死滅(停止)と悟りとしての心の本性・意思とが共存する状態で生きているわけです。<br /> <br /> このように、プラティヤハーラの段階の人が時々陥る誤解として、心の死滅(停止)のお話について「集中は本質ではない」と言われた時に「集中を否定してしまう」ことがあります。そうではない人も多いですけど、誤解している方もボチボチいらっしゃるように思われます。<br /> <br /> サマーディの状態は心が動いているか動いていないかに関わらず心の本性が奥底で動いている状態ですから、心が死滅しているかどうかは本質ではないと言えばそうですけど、それでも以前に比べたら遥かに心が鎮まっている状態ですので、死滅が本質ではないのはそうであるにしても、心が静寂になったことで現れてくる奥にある心の境地があるわけです。<br /> <br /> その奥にある境地が重要というのはその通りなんですけど、そのためにはまず集中瞑想で心を一時的に死滅(停止)できるくらいまで集中力を高める必要があるわけです。<br /> <br /> ■行動か、理解か<br /> 一部の流派では「行動ではなく、理解によって解脱できる」とか説明されていますけど、それを言葉通り解釈してしまうと「瞑想しなくても良い。修行しなくても良い。理解するだけで良い」となってしまいますが、その流派の中にいる方でもそのように説明している方もおられますけど、そこは自由な立場の私ですから、そのような説明もこれと同様に解釈して「(顕在意識における心・意思による)行動ではなく、(潜在意識の働きによる心の本性、アートマンによる行動、それを比喩的に言い換えるならば理解、という意味においての)理解によって解脱できる(モークシャ)」と読み替えることができるわけです。最終目的地にあるのがいわゆる「行動」ではなくても、そこに至るために行動は必要だと私なんかは思うわけです。それを、文字通り解釈してしまって「行動しなくてもよくて理解しさえすれば解脱できる」と思ってしまうのは、「念仏唱えれば成仏できる?(そんなわけないでしょ)」、みたいなお話と同一になってしまう危惧もあるわけです。最終目的地が顕在意識の行動から離れたアートマンによる行動、それは顕在意識からしたら潜在意識に見えるかもしれませんし理解として解釈されるかもしれませんけど、単なる固定的な理解ではなくて深いところにある働きとしての動きのある意思が働き出すわけですので、実際は理解という言葉は適切ではなくて、それは「アートマンがまだ現れていなくて、しかしながら真実を理解した人による解釈」ではないかと思うのです。<br /> <br /> 実際にアートマンが現れて働き始めたならば「理解」という言葉は使わないと思うのですけどね。おそらくは、真実を勉強することで理解に至ったがまだアートマンが現れていない人によって解釈された流派の教義なのではないかなと思います。そのあたりがプラティヤハーラ段階ですと「理解」と解釈されるのに対して、サマーディですと「心の本性(アートマン)の働き」として理解されるのかな、と思います。<br /> <br /> Thu, 15 Oct 2020 00:00:00 +0900 頭のタマスをハートや下半身に落とすことで静寂の意識に至る https://w-jp.net/2020/2110/ <br /> 意識の平穏が段階的やってくるような瞑想を近日はしているわけですが、意識の平穏が訪れる時は上半身に漂っているモヤモヤとしたものが喉の辺りを通ってハートおよび下半身に流れ込むことに気が付きました。<br /> <br /> 日常生活を送ってタマスな愚鈍なものが溜まる時と、静寂の意識、平穏の状態が保たれている時とでは何が違うのかと言うと、そのようにタマスが頭から喉およびハートを通って下半身に流れ込むことができるかどうかと言う点が異なる気が致します。<br /> <br /> 例えば、日常生活を送っている時に緊張があったりすると頭とハートを結ぶエネルギー・ルートが少し詰まりがちになります。緊張・ストレス・マイナスの意識によってそのエネルギールート、ヨガで言うスシュムナが詰まりがちになってしまいます。そうすると頭の周囲に溜まってしまうタマスな愚鈍な性質が浄化されずに溜まってしまって、愚鈍な性質が強まって静寂の意識ではなくなってしまうわけです。<br /> <br /> 一方で、日常生活で緊張をあまりせずにスシュムナが開いている状態では多少のタマスな愚鈍な性質があったとしてもすぐに清浄な意識に戻ることができる気が致します。<br /> <br /> これは、瞑想中に起こっていたことですが、今までは清浄な意識が段階的に訪れる理由がそれほど把握できていませんでした。<br /> <br /> 今は、頭の周囲に溜まっているタマスが、まるで溜まっている風呂場の水が水栓を抜いた時に一気に抜けていくかのごとく、特に喉を通ってハート、下半身へと流れ込んでゆくのを感じます。タマスがそのように下に抜けることで清浄な意識に戻ってゆくことを同時に感じることができます。<br /> <br /> 特に喉のヴィシュッダチャクラで浄化がほぼ行われて、残りかすみたいなものが下半身に巡るような感じです。喉のヴィシュッダ・チャクラは浄化のチャクラだとも言われますけど、こういうことなのかもしれません。<br /> <br /> おそらく、ですが、以前はスシュムナがまだそれほどきちんと開けていなかったのでしょう。そして、スシュムナが開くと清浄な意識になる、と言うのはヨガの聖典に書いてあることと一致するような気が致します。<br /> <br /> プラーナがスシュムナー気道のなかを流れ、こころのはたらきが虚空のなかに埋没したときには、このヨーガの達成者は全ての業作の根を絶ってしまう。ハタ・ヨーガ・プラディーピカー 4・12「続ヨーガ根本経典(佐保田 鶴治著)<br /> <br /> その時の私の状態としては、上半身が清浄な意識で、下半身はクンダリーニの熱い熱気に覆われています。その時、静寂な意識が保たれます。一方で、タマスな状態の時は緊張があって頭の周囲がタマスで愚鈍で、下半身は同じです。違いはと言うとスシュムナが閉じ気味という点です。少しづつスシュムナが開く時はそれに応じて意識も段階的に静寂になっていたわけです。一方で、それなりにきちんと開かれているのであれば清浄な意識が保たれるわけです。<br /> <br /> これは程度のお話で、スシュムナが完全に閉じてしまうことは私の場合は今後はほとんどないのかなと思いますけど、少し詰まってしまうとこのように違いを感じることができます。<br /> <br /> 瞑想をして、単に眉間に集中するだけでなく、スシュムナを開くという意図を持つことが重要なのですね。そのために背筋をまっすぐにしたり、ソー・ハン瞑想をするなり、小周天をしたりしてメンテナンスが必要なわけです。これはヨーガで基本とされていることですけど、基本であるがゆえに割とスルーしがちでした。しかしながら、今となっては意識の清浄とスシュムナの関係がきちんと瞑想中に感じられますので、とても重要なのだというのがよくわかります。<br /> <br /> そもそも日常生活で緊張をもらわなければいいのかもしれませんけど、日常生活でどうしても疲れは溜まりますから、メンテナンスは必要なわけです。そのメンテナンスが瞑想なわけですけれども、座って瞑想をするのが一番ですが、座っていなくてもスシュムナを意識してエネルギーが通る状態にすれば割と清浄な意識が保ちやすい気が致します。<br /> <br /> 私の今生の目的の1つは覚醒への階梯を確かめることですので私は割と実験的なことをしていて、意図的にタマスを増やしてみたりしてますけど、普通の人はあまりこのような実験はしなくていいのかなという気も致します。その人の自由ですけどね。<br /> <br /> Thu, 15 Oct 2020 00:00:00 +0900 薄い紫色の猫のシルエットが浮かび上がる瞑想 https://w-jp.net/2020/2109/ <br /> いつものように座った瞑想をして、意識を集中していると何かの意識体が近くにいるような気が致しました。いつもに比べると情緒的に多少不安定で、どうしたものかと思っておりましたら、もしかしたらこの意識体が原因だったのかもしれません。<br /> <br /> 右側の少し前に、ふと、薄い紫色の猫のシルエットが浮かびました。<br /> <br /> 薄い紫色の模様の周囲は灰色あるいは黒に近い状態で、猫のシルエットの部分だけが薄い紫色で光っていたのです。<br /> <br /> どうやら、それは猫のように見える一方で、その実体はというと私の過去生での妻の1人が猫のように近くにいて見守っているような気が致しました。猫が実体なのかあるいは妻が実体なのかまではよくわかりません。重なっているのかもしれませんし、猫のように生きていた妻だったので、まあ、イメージとしては猫というのは確かにあっています。<br /> <br /> 順番としては最初に性的な情緒的なイメージが浮かび上がってきて、それは何だろうと思っていたら過去生の妻で、確かにその妻とはしょっちゅう濃厚接触をして楽しんでおりましたのでそういう面もあるでしょうし、その元妻も私と久々にしたいのかな? と言う気もしますので、その気持ちが元妻から流れてきていたとしても不思議ではありません。<br /> <br /> 死んでから幽霊になっても足はありますし、何気に、性的な器官もしっかりついておりますし、やろうと思えば夜の生活も普通にできます。基本的には生きていた頃の記憶と習慣が繰り返されているわけですけれども、一人の想像ではなくて、きちんと相手がいて起こる本当のことです。まあ、幽霊ですけどね。<br /> <br /> そんな元妻のイメージと共に、気高いペルシャ猫のような薄い紫色の猫のシルエットが浮かび上がってきていました。<br /> <br /> 場所としては右目の少し上です。<br /> <br /> そして、しばらくそれを見ていたら、やがて形が崩れてきて、何かよくわからない、ただのアメーバあるいは斑点のようなものになっていって、やがて、薄い紫色の模様は消えてゆきました。<br /> <br /> まあ、何か見えることはぼちぼちありますが、このように、一部だけ紫色で光る、と言うのはあまり記憶にありません。普通に映像がカラーで見えることはありますけど、紫色でシルエットが光る、と言う感じではありません。<br /> <br /> 特に意識を集中している時に紫色で光っていて、瞑想から解けてゆくにつれて紫色の光が消えて普通の灰色あるいは黒っぽい視界に戻りました。<br /> <br /> 目を瞑って瞑想をすると、周囲の光を感じることはありますし、部分的にピカッと光ったりすることはよくあります。その光はスポットライトとしてぼちぼち大きな光であることもありますが、今回のような、不思議な薄い紫色のシルエットと斑点模様のように見えることはあまりなかったように思います。あまり記憶にありません。<br /> <br /> ここまで気になるのは、何か、今日の瞑想が今までとちょっと違ったからです。<br /> <br /> 何でしょうかね。<br /> <br /> おそらくは、アストラル上層で動いている時のスミレ色なのかな、と言う気も致します。アストラル下層が黒でアストラル上層がスミレ色だとすると、理屈は合います。<br /> <br /> さて、どうでしょうかね。また様子を見てゆきます。<br /> <br /> Mon, 12 Oct 2020 00:00:00 +0900 タマスを奥に押し返して静寂な意識を保つ https://w-jp.net/2020/2108/ <br /> 瞑想中、自分の意識を押すことで静寂な意識を保ちます。<br /> <br /> 日常生活で溜まってしまったタマスが自分を覆っており、特にそれは前面に覆っているものとして感じられます。瞑想をする際、目の前にある重いものを押して動かすかのように意識を前面に押し出してあげることで静寂な意識を広げることができます。<br /> <br /> ウパニシャッドか何かでシバ神が瞑想の手ほどきをしている文脈において、「瞑想では内なるものと外のものを区別し、外のものは外に保つ」みたいな説明をしている文章があったように思いますが、この説明はまさにこの、静寂な意識を内に保ってタマスな愚鈍な性質を外に追いやることを意味していたのではないかなと思います。<br /> <br /> それはタマスといえばタマスですけれども、単なる意識としてのタマスだけではなくて、意識体としてそこらに浮かんでいる想念の雲を外に追い出す、という意味もあるかと思います。<br /> <br /> 以前にも少し書きましたが、例えば右腕に絡まっていた見えないものを引き抜くと言ったように何かに取り憑かれている時は「押し返す」というよりは「つまんで引っこ抜く」ということをします。それはそれでありますし、一方で、単にタマスな意識に囲まれているのであれば押し返すということをするのがいいのかなと思います。<br /> <br /> この辺りは色々とやり方があるでしょうし、人によっては気合で声を出して振り払う人もいるでしょう。しかしながら、おそらくはシバ神の説明の仕方は「押し返す」と言ったやり方だと思うわけです。<br /> <br /> 基本は前面に押し出すわけですけれども、弱いと思われる方向、例えば私の場合は右肩あたりですけれども、そのあたりを意識して中の方から右肩の方に「押し返す」ことで右肩が安定して、安定すると右肩の緊張が一段階取れます。<br /> <br /> 個人的には押し返すだけだとちょっと弱くて、かと言って気合で声を出すという気質でもない感じですので、押し返すのに加えて「つまんで引き抜く」ということを組み合わせれば大抵のことに対処できるのかな、と思っております。<br /> <br /> 単にタマスに覆われた時は押し返して、意識体に取り憑かれた時はつまんで引き抜いてから中から押し返して安定させる、という感じです。どちらの場合でも結果としては清浄な意識、静寂な意識が訪れれば成功したといえます。<br /> <br /> それに付け加えるならば左右バランスを取ること。主なチェックポイントは合わせて3つですかね。<br /> <br /> Sun, 11 Oct 2020 00:00:00 +0900 手のひらからエネルギーが発せられ、瞑想状態へと導く https://w-jp.net/2020/2107/ <br /> 普段、私は座って瞑想する際は手を前で組むか、あるいは膝の上に置いて親指と人差し指で輪っかを作って上に向けています(チンムドラ)。<br /> <br /> その際、特にチンムドラの場合、手の位置によって頭の中の反応位置が異なることに最近になって気がつきました。大体は同じ場所に手を置くのであまり気にしておりませんでしたし、日によって多少頭の中の反応が違っていたとしてもそんなものかと思ってスルーしておりました。<br /> <br /> ふとしたことで手の位置をちょっと変えてみたら頭の中の反応が変わって、普段は割と頭の両側、両耳に近いところで反応が起こっていたのですが、手の位置を変えたところ、頭の真ん中、前頭葉、頭の後ろの方など、自在に反応する場所を変えられることに気がつきました。<br /> <br /> 意思で変えるというよりは、単純に、手の位置によって反応する場所が変わるようで、座禅の時の手の位置と向きを少し変えるだけで頭の中の対応した場所が反応するようです。<br /> <br /> これは、手のひらからまっすぐ何かのエネルギーが発せられていると考えるのが自然のように思います。<br /> <br /> 試しに、座禅ではなく椅子に座ったまま掌を自分の顔の方に向けてみたところエネルギーを感じました。そして、割と簡単に瞑想状態に導かれるような気が致します。座禅を組まなくても手のひらを自分の方に向けるだけで瞑想状態に入りやすくなるようです。<br /> <br /> ・・・何で今までこのことに気がつかなかったのだろうかと、軽くショックです。おそらくはずっと昔からこうだった筈ですが、あまり意識しておりませんでした。<br /> <br /> ひょっとして、足の裏を上に向けて座る瞑想のパドマアサナ(結跏趺坐、けっかふざ)も同じ意味合いがあるのかもしれません。私はパドマアサナはできないですけど、やりたくなってきましたね。最近は骨折もしていましたが骨折も完治しましたので次の目標はパドマアサナな感じです。<br /> <br /> Sat, 10 Oct 2020 00:00:00 +0900 清浄な意識を意図的にタマスで強化する https://w-jp.net/2020/2106/ <br /> タマスとはヨガで言う愚鈍な重い性質のことですけど、清浄な意識の上に覆い被さるようにして意識を曇らせます。瞑想をすることでタマスの覆いを取り払い、清浄な意識に戻すことができます。<br /> <br /> この、清浄な意識に戻す力は最初は弱く、やがては強くなってゆくような気が致します。<br /> <br /> 最初、チェルドルとも言える状態の時はその力はまだ強くありません。じっと長く瞑想で観察を続けることによってようやくタマスの雲を取り払うことができます。やがて、シャルドルとも呼べる状態に至り、その力が強くなってきているのを感じます。<br /> <br /> これらの状態に至るまでは行ったり来たりを繰り返していて、日常生活において疲れが溜まったりするとそれに応じるかのように清浄な意識が弱まり、体や精神が休まっているとタマスが増える傾向にはありますが、根底にある、清浄へと戻す力というものは少しづつ強くなってきていてストレスに強くなってきているような気が致します。<br /> <br /> ストレスがある生活をただやめてゆけば良いわけでもなくて、日常生活を送る上においてはストレスはどうしてもありますから、ストレス耐性をつけるという意味でも、悟りがストレスによって簡単に失われてしまわないためにはある程度、タマスな愚鈍な状態およびストレスを日頃から多少は受けることが必要なような気が致します。<br /> <br /> それは常にストレスやタマスな愚鈍の状態にいるということではなく、清浄な状態にいることは絶対的に必要で、それだけでは不十分で意図的にストレスを作り出して清浄な意識にストレス耐性をつけてゆくことが必要なのではないかと思うわけです。<br /> <br /> おそらくは、ヨーガや伝統的な宗教の修行においてストレスを生むような苦行が行われるのもある程度はこのような意味合いもあるのではないかと思います。<br /> <br /> 苦行を行なってしまうとこのようなストレス耐性のお話だけでなくて、意図しない「能力」的なものを引き出してしまうこともありますので何が正しいのかを見極めるのは難しいのですが、少なくとも苦行にはこのような意味もあるとは思います。<br /> <br /> 清浄な意識を保つための座った瞑想は静かな場所で行われるべきで、それによって清浄な意識を育て、その清浄な意識を確固なものとするために苦行のようなもの、あるいは長時間にわたるマントラの詠唱みたいなものが行われるのではないかなと思います。<br /> <br /> 現代人はある意味、常日頃からストレスにさらされていますのでわざわざこのような苦行をする必要はあまりなくて、普通に日常生活を送って仕事をしさえすればそれが十分に修行になっているような気も致します。<br /> <br /> お寺やアシュラムですと外界から切り離されてストレスのない生活を送れたりしますけど、それだけだと不十分で、意図的にストレスを作り出すことで清浄な静寂の境地を確固たるものにするわけですね。<br /> <br /> 一方で、日常生活を送っている人は苦行はある意味、そこら中に普通に存在しておりますので改めて苦行を追加で行う必要はなく、静かな意識を育てるため早朝などに座って瞑想をすれば十分かなとも思うわけです。<br /> <br /> 誤解を与えてしまうと何ですので補足しておきますと、どちらにせよ、もともとタマスが厚く覆いかぶさっている人の場合はタマスを長時間かけて取り除くのが最初であって、その時はタマスをわざわざ追加でもらう必要はないと思います。<br /> <br /> ここで言っているのは、ある程度の意識の浄化ができた後に、清浄な意識に達したけれどもその力がまだ弱い段階においてはあえてタマスを意図的に加えることで清浄な意識を強めることができる、というお話です。<br /> <br /> 日本の場合ですともともとそれなりの清浄な意識で生まれてきている人も大勢いらっしゃいますし、であればそれを強化すればいいだけであるわけです。一方、タマスな愚鈍な性質がついてしまっている方の場合はまずタマスを浄化して清浄な意識を達成して、それから、ここで言うような意図的にタマスをつけて清浄な意識を強化してゆく話が出てくるわけです。ですから、最初のタマスが暑い段階でわざわざ追加でタマスをもらう必要はないわけです。<br /> <br /> これは、そういう手法もある、というくらいのお話ですので、やらなくても別にその人の自由です。ですけど、伝統的な手法を見ていると、今は単なるルーチンになってしまっている感もありますけど、もともとは清浄な意識を達成した後にそれを確固たるものにするためにしていたものもあるのかなぁ、という気がしています。<br /> <br /> Thu, 08 Oct 2020 00:00:00 +0900 水面に映った自分の顔が上の方に見える瞑想 https://w-jp.net/2020/2105/ <br /> 瞑想をしていると、ここ数日の間に複数回、自分の顔が頭の上に浮かびました。<br /> <br /> 最初は私が若い頃の顔で、瞑想中は目を瞑っているのですが見えた顔は目が開いておりました。顔をよく見ると若い頃の顔に似ていましたので、今の姿をそのまま鏡写しにしたわけではなさそうです。その顔がこちらを見て、少し和かにしておりました。証明写真のように顔だけが浮かんでいる感じでした。<br /> <br /> その数日後、再度、似たように顔が見えたのですが、今度はもう少し年を取ってからの、おそらく30代の顔でした。こちらも少し和かで、先日のに比べると水面に映ったかのように少しゆらゆらとしておりました。<br /> <br /> 心は鏡のようなものだ、とはよく言われることですが、心に映った自分の姿、ということなのかもしれません。あるいは時空を超えてどこかの時点の自分が将来の自分を覗き込んでいるのかもしれません。<br /> <br /> 禅の瞑想などで自分の頭の上に仏像や神様を思い浮かべる、という手法がありますけど、それらの手法は頭の上に意識的にイメージをして作り出すものだとは思いますが、私の場合はそのように意図してイメージしたわけではなく、かと言って、あらかじめそのようなイメージが来ますようにと願ったわけでもなく、不意に、普段通りの瞑想をしていたらたまたま、といいますか、不意に、といいますか、全く期待せずして上記のように自分の若い頃の姿が浮かんできたわけです。ですから、禅やチベットの瞑想法などにある、イメージする瞑想をしていたわけではありませんし、それとはおそらくは違う体験だったのではないかなと思います。<br /> <br /> 現時点ではこれが何なのか解明はできませんが、仮説としては、おそらくは意識が清浄になると心の鏡の上に対象が写り始めるのではないかな、と思っております。そのような記述をどこかで見たことがあるように思いますし、その心の鏡にいわゆるサードアイのような力が加わって遠くのものを映し出したりするのかな、という気も致します。<br /> <br /> これらの心の鏡の出現は瞑想で意識が清浄になり、かつ、ヨーガでいうスシュムナ・ナディにエネルギーがきちんと入った時に起こるような気が致します。意識の清浄とスシュムナのエネルギーは相関関係がありますので、瞑想をして、左右のバランスを整えてスシュムナにエネルギーを充満させることで意識が清浄になり、そうなると心の鏡が出現して対象を映し出すようになるのでは、というのが現時点での私の理解です。<br /> <br /> 心の鏡は水面とか言いますけど、水面というと地面に平行にあるものですけど、この場合の心の鏡は地面にあるわけではなくて壁にかけてある鏡のように自分に対して平行にあって、その壁にある鏡が水面のようになっているわけです。水面ですから、時には風が吹いて少し波打つこともありますし、全く平らな感じの時もありますし、波打っていたり霧がかかっていてよく見えないこともあります。<br /> <br /> 三種の神器の1つである八咫鏡は心をモチーフにした、というようなことをどこかで読んだ気も致しますがどうでしょうかね。そんなイメージです。ちょっと古い鏡は現代のような綺麗な鏡ではなくて金属板だったようですし、歪んでいたりもしますけど基本は水面のようなもので、磨けば磨くほど写りが良くなるわけです。<br /> <br /> 禅やチベットの瞑想にしても、最初は意識でイメージするのかもしれませんが自然に心の鏡に映ったものが自然に見えてくるまで瞑想するということであれば目的地は一緒なのかもしれません。<br /> <br /> Tue, 06 Oct 2020 00:00:00 +0900 頭から煙のような腕を伸ばして運命をたぐり寄せる https://w-jp.net/2020/2103/ <br /> アファメーションで「過去形」を使うようなことをしますけど、それはこのことを意味しているのではと思いました。<br /> <br /> 瞑想中、頭の上に煙のようなものが伸びているのを感じ、その先を探ってみると、どうやら頭の上のところでは時空を超えているような気が致しました。時空を超えていますので未来を探ろうとしたところ、どうやら未来は「右側」(右上)にありました。運命の糸が伸びていて、その選択肢のうちのいずれかが少しづつ自分の方にゆらゆらと近づいているのが見えます。<br /> <br /> おそらくはその未来が自分のところに来たらそのタイムラインが現実になるのでしょう。<br /> <br /> そこで、私はとある未来を思い描き・・・ と言いますか、少し前から、そうなるのではないかというヴィジョンがありましたので、そうなるタイムラインがどの方向にあるのか探ってみたのです。あの未来がどこにあるか、その未来をイメージすることで波動を合わせ、同じ波動のものがどこにあるのか探ってみたのです。<br /> <br /> そうして、なりたい未来が見つかったら、それを煙のような腕でギュッと掴みました。そして、その未来に行くようにタイムラインの糸をピンと張り巡らせました。<br /> <br /> その瞬間、特にアファメーションを意識してはいなかったのですが、無意識で「○○した」と、過去形で頭の中に意識が浮かびました。そこは時空を超えておりますので、その実現した時空の視点においてはそれは過去形なのかなと思います。<br /> <br /> これは、アファメーションを知識として知っていて過去形で言い表した、という順番ではなく、その逆で、アファメーションなんて効かないと私は今まで思っておりましたから知識としては知っていても信じておらず、たまたま今日の瞑想でアファメーションっぽい状態になったので、もしかしたらアファメーションとはこのことを言っているのではないかと思いました。<br /> <br /> であれば、巷に溢れている願望実現のためのアファメーションは言葉としては正しくても実際の姿はかなり異なるものだというのが理解できます。<br /> <br /> 巷のアファメーションは実現したい未来を「過去形」で宣言する、というものだと思うのですが、そのように顕在意識で宣言したところで実現しないと思います。アファメーションの説明で「潜在意識にすり込む」みたいなお話も聞いたことがありますけど、それなりに瞑想が進んでいないとそれはできないですし、お話を聞いただけでは「なんのこっちゃ?」という感じで、実際、そんなことはできないと思います。<br /> <br /> 今回の瞑想でアファメーションっぽくなったことで、確かにアファメーションは存在するのだなと認識を改めはしたものの、実際に最初にアファメーションを言い出した人の内容と同じかどうかはよくわかりません。なんとなくアファメーションに似ているというだけです。<br /> <br /> 私の場合、瞑想で意識を頭の上から煙のように伸ばし、未来を手繰り寄せました。それをアファメーションと言えばそうでしょうけど、未来のことですし、本当にその未来が実現するかどうかはこれからの検証次第です。このアファメーションが本当に効いたのかどうか、これから様子を見ていきたいと思います。<br /> <br /> Fri, 02 Oct 2020 00:00:00 +0900 静寂の境地に達することで人生ゲームがつまらなくてリセットしたくなる気持ちがなくなる https://w-jp.net/2020/2102/ <br /> 静寂の境地に達する前は人生がつまらないゲームのように感じることも往々にしてあり、いつリセットしてもいい気持ちになることが時々ありました。<br /> <br /> クンダリーニが動き出してマニプラ優勢になってポジティブになり、アナハタ優勢になってエネルギーの高まりを得たところで、次第に、人生がつまらないもの、取るに足らないものと感じることが増えました。それはきっと、煩悩の最後の抵抗だったように思います。<br /> <br /> 静寂の境地に達する前に、その煩悩の最後の抵抗として、人生ゲームをリセットしても全く問題ないというぼやっとした気持ち、人生ゲームに対して「飽きてしまった」「もう終わりでもいい(死んでも問題ない)」みたいな気持ちが、薄く浅く弱々しくふわふわっと常に心の奥底に存在していたように思います。<br /> <br /> それは、クンダリーニ覚醒前のネガティブな重々しい気持ちとは全く異なり、ある程度の覚醒をしたからこそ現れる、煩悩のはかなさやつまらなさを反映してこの世に未練がなくなっていつ死んでも問題なくて人生がゲームのようなものだとしたらそのつまらないゲームをいつリセットしても問題ない、という淡い気持ちが常に存在していたように思います。<br /> <br /> この気持ちはいつまで続くのだろうかと気にもなっていて、気にもなっていたからこそ死なずに今まで生きてきたという面もあります。もはや人生ゲームに興味を失っていて、もう死んでもいいといえばいいのですがその気持ちの根源が知りたいという奥底に眠っている一段深い欲求があったからこそ人生ゲームを継続させてきたといえます。<br /> <br /> そして、多少ながら静寂の境地を垣間見たことでわかったのが、そのような気持ちは静寂の境地に達していないからこそ現れていたもので、そのような気持ちすらも煩悩の1つの面だったのだ、ということです。<br /> <br /> クンダリーニを覚醒させた覚者とも思えるような人がたまに自殺してしまうことがあり、それは一体どうしてだろうと疑問に思っておりました。それはその人それぞれの事情があるでしょうしそれぞれ異なりますので全てがそうだとは言えないのですが、このように静寂の境地に達する前の最後の煩悩の抵抗として「自殺」という選択肢もあり得るのではないかと思いました。それは静寂の境地に達していないからこそ起こしてしまった「間違い」「勘違い」であり、言いようによっては「魔」とも「魔境」ともいえる段階なのではないかと思います。<br /> <br /> おそらくは静寂の境地まで到達してしまえばもはやそのようなネガティブな巧妙な煩悩の抵抗に屈することはなくて、これからもこの世に生きてゆくのだという確信を得るのですが、中途半端に覚醒してしまってまだ静寂の境地に届かない人は「魔」に巧妙に誘われて「もういいや」とか思って自殺とかしてしまうのかもしれません。<br /> <br /> しかし、ようやく静寂の境地を垣間見て雑念がありありと自動的に現れては消えてゆくさまを観察できるようになると、ネガティブな巧妙な煩悩の罠も見抜けるようになるものです。そうしたらもはや自殺とかいう選択肢はなく、この世もあの世も一続きのものとして見ることができますから、自殺とかする必要もなくて自殺なんてあり得なくなるわけです。だって、あの世もこの世も同じですからね。死んで何かが変わるものでもありません。<br /> <br /> 静寂の境地の少し前から生に対する執着がかなり消えていますから、その状態で静寂の境地にまだ達していないと「もう生きなくてもいいかな」みたいな煩悩あるいは魔からの巧妙な誘惑が出てきて、せっかく途中まで覚醒したのにいいところで失敗してしまうようなことになるわけです。そのような落とし穴もありますから、静寂の境地に達すればある程度は自身で好きに生きられますが、静寂の境地に達する前は信頼できる師匠につかないと落とし穴にハマりやすくて危険な気が致します。思うに、覚者と思われる方で自殺してしまった方は割と一人で修行されている方が多いような気が致します。しっかりと静寂の境地に達していて導いてくれる師匠がいないとおそらくはそのように間違った方向に行ってしまうような気も致します。人生はその人の好きに生きればいいとは思いますけど、この落とし穴は巧妙で、失敗して落ちてしまうと人生をまたやり直ししなくてはならなくなってもったいないと思うのですよ。まあ、そうして失敗から学んで、次の人生は失敗しないように再計画する人もいるのですね。人生いろいろです。<br /> <br /> [2020/12/30 更新] 元々「涅槃」と書いていたところを「静寂の境地」に置き換えました。<br /> <br /> Wed, 30 Sep 2020 00:00:00 +0900 般若心経の空即是色はサマーディの一部 https://w-jp.net/2020/2101/ <br /> ここ最近の理解に基けば、般若心経の空即是色も説明できることに気がつきました。<br /> <br /> 要素がいくつかあります。<br /> <br /> ・サマーディは不二の意識を土台とし、平穏な状態・静寂の境地を伴う。<br /> ・空の意識は「あちら側」に偏在する。<br /> ・空の意識から雑念・概念が現れ、そして、それは空へと消えてゆく<br /> ・人が対象を意識して概念を持つことで実態が現れる(存在する)というヴェーダンタの知識。<br /> <br /> 般若心経の空即是色とは、空である「あちら側」から概念・想念が現れ、そしてまたあちら側へと消えてゆくという状態を説明しているのだと思います。サマーディの一部です。<br /> <br /> 不二の意識を土台とし、三密に相当する意・口・身が整った時にテクチューとトゥガルの境地に達し、般若心経が真実だとわかるわけです。<br /> <br /> 具体的には、トゥガルの境地においてはいわゆる「空」である根本のエネルギーが顕現して「思い」という形になって現れることを認識します。そして、その「思い」はまた「空」であるところの根本のエネルギーへと返ってゆくのです。そしてヴェーダンタの知識により、その「思い」こそが実態を存在させているものだと理解するのならばこれは般若心経の空即是色そのものであることが理解できるわけです。<br /> <br /> このヴェーダンタの知識は更に修行が進めばより具体的に自分で確信が持てて理解できる内容のようですが、私の段階ですと実際に瞑想で体験できるのはトゥガルの境地においてエネルギーから思いが顕現してそれがまたエネルギーへと返ってゆくという部分を体感するところまでです。その瞑想の体験に加えてヴェーダンタの知識を加えることで般若心経が理解できるわけです。<br /> <br /> これは、土台としてサマーディの不二の意識があります。不二の意識とは最初は「雑念がない平穏な意識」から始まりますがトゥガルくらいまでサマーディが深まると「雑念があっても妨げられずに観察する平穏な意識」であるところの不二の意識に変わります。その状態において雑念を不二の意識で観察すると雑念が「あちら側」の空とでも呼べるものから生じ、また、その雑念が「あちら側」の空に返ってゆくのがわかるのです。<br /> <br /> ここで概念的に「空」と呼んでいますけど、概念が出てくるのは実際には「漆黒のもやもやとした平らな雲」から風船が膨らむかのように浮かび上がってきますので、これが本当に皆さんの言っている「空」と一致しているかどうかは分からなくて、ですけど、内容的に「空」であろうと推測して空と言っています。ゾクチェンの本を読むとこの根元の部分は「空」とは言わずに単に「根本のエネルギー」と呼んでいますので、私としてもその方がしっくりきます。しかしながら、日本の場合は般若心経が有名ですので「空」と言ったほうがしっくりくるので度々そう言っています。<br /> <br /> これは想像上の事項ではなくおそらく誰でも瞑想で確かめることができる事柄です。<br /> <br /> これらは不二の意識を土台にしていますので、その不二の意識そのものは清浄な意識ですので思考ではなく、よって、上記のヴェーダンタの知識をどうこう考察したりはしません。瞑想中は不二の意識ですので、ヴェーダンタの知識で解釈するのは意識を使いますから、それは瞑想が終わった後に行うわけです。ヴェーダンタの知識以外は瞑想中の体験および前提となる不二の意識の状態で、それらの瞑想体験をヴェーダンタの知識を使って解釈すると上のように理解できる、というわけです。厳密にいうと瞑想が終わった後にも不二の意識は働いておりますが、便宜上、このように説明しておきます。<br /> <br /> ちなみに、「空(くう)」というと2つの意味合いがあると思います。<br /> <br /> ・意識の状態としての空。ゾクチェン的にはテクチューの状態が空。覚醒の意識を保ちながら清浄な意識でいること。<br /> ・根元のエネルギーとしての空。ゾクチェン的にはおそらくはこれは単なる「根本のエネルギー」。エネルギー的な顕現とそれがエネルギーへとまた返ってゆくさまを見つめるという意味においてはゾクチェンのトゥガルに相当。おそらくこれを「空」と呼ぶのは歴史的な経緯があるのかなと。流派にもよりそうです。単に「根元のエネルギー」と言ったほうがしっくりきます。もやもやとした雲のように見えるので「空」っぽいと言われればそうかもしれませんが。<br /> <br /> これらは表裏一体ですが、般若心経が言っている空即是色とはおそらく後者のエネルギー的な空としての意味合いなのではないかと思います。もちろんその前提として意識の状態としての空も前提としてありますのでそれも含意していると解釈することもできますが、文字そのものの意味としてはエネルギー的なものではないかと思うわけです。<br /> <br /> 「空」というと様々な解釈があって、私も、「空なのではないか?」という瞑想体験は今までも何度もしてきたわけですけれども、今になって思えば、テクチューの状態こそが空であるという理解が一番しっくりきます。<br /> <br /> これで、般若心経の空即是色の謎が解けたように思います。<br /> <br /> ただしこれは私の理解であり、各派の公式な見解とは異なる可能性があります。<br /> <br /> とは言いましても、説明だけを見てみれば昔からどこかで聞いたようなお話も混じっており、目新しさはもしかしたらそんなにないかもしれません。しかしながら以前は「ほにゃらら? そうかもしれないですが。そんな気もしますが。」という感じで、わかるようなわからないようなボヤけた感じでした。それがここにきて、瞑想体験と結びついてはっきりと理解できるようになった気が致します。<br /> <br /> Thu, 24 Sep 2020 00:00:00 +0900 アナハタのマーガレットの花弁が半開きになる https://w-jp.net/2020/2100/ <br /> 瞑想をして、まずは静寂の境地に至ります。<br /> <br /> その後、何度か段階的に静寂を深めた後、ふと、頭のアジナチャクラと胸のアナハタチャクラ(ハートチャクラ)の間が線で結ばれたような気が致しました。それぞれのチャクラが丸く白く点になっていて、それらが白い線で結ばれたのです。<br /> <br /> そうしているうちに、ふと、胸のあたりで何か、白い花弁の花がつぼみから少しづつ花びらが開き始めたような気が致しました。おそらくまだ完全には開いていなくて意識の面では単に静寂の境地が深まったというくらいではありますが、静寂の境地が更に安定してきた感じではあります。<br /> <br /> 花は、よく言われているような蓮の花というわけではなく、白いマーガレットっぽいの花でした。これは文化的なものもあるのかもしれないですね。一般的にアナハタチャクラは12枚の花弁をもつと言われていますが、そのくらいだったような気もしますが、数はよく分かりません。半開きのような状態でした。ですので、完全に開いてはいないので花弁の数がよく見えなかったというのもあります。見た目はマーガレットっぽく見えました。<br /> <br /> 特に意識的には平穏の意識が更に少し安定したというくらいでまだ違いはそれほどありません。<br /> <br /> クンダリーニが動き出してきてからアナハタ優勢のオーラの状態を経てきてはいますが、おそらくはオーラ的に優勢な状態とチャクラが開くのとはまた違った状態なのだと思います。<br /> <br /> 今日の瞑想で少し変わってきたのが、(平穏の)意識のある状態での瞑想状態でも映像に少し色がつき始めて淡いカラーなものが少し増えてきた、ということです。今までもカラーはありましたけど意識が途切れてもうろうとしている時にカラーになって、意識がそれなりにある瞑想状態では大抵は白黒映像でした。<br /> <br /> 今は、意識がある状態でも意識が平穏ですので、映像体験を妨げなくなってきたのかもしれません。おそらくは以前は顕在意識が今日ほどまでに平穏ではなかったため映像が妨げられてきた、ということかもしれません。このあたりはこれからまだ様子見ですが。<br /> <br /> 山陰神道では、ヴィジョン・霊視について以下のように伝えられているようです。<br /> <br /> ①妄想 白黒映像。的中率3割以下<br /> ②幻想 カラー映像。的中率5割以下 <br /> ③思通 白黒の透明映像。的中率7割<br /> ④観通<br /> ⑤神通<br /> 「神道の神秘(山蔭 基央 著)」より<br /> <br /> とのことですので、おそらく私が今まで見てきたものを分類しますと、<br /> <br /> 以前:意識のある瞑想状態「①妄想」、意識がもうろうとした状態に時折「②幻想」<br /> 今日:意識のある平穏な状態で時折「②幻想」<br /> <br /> という分類のような気も致しますが、見たものが正しいかどうかも分かりませんし、何やら古い文献のよくわからない記述を読んだ感じですので理解できておらず、正しい内容なのかどうかも分かりません。ですのでこのあたりはおいおい、確かめることになります。<br /> <br /> 私の感覚が正しいのだとすれば「②幻想」はアナハタ相当ということになりますが、どうですかね。<br /> <br /> ■ランドル<br /> <br /> 瞑想状態を終えてからの、日常生活における自動的な意識の平穏の安定度が上がっています。雑念が来た際に自動的に解放されてゆく様は、まさに「ランドル」というにふさわしい気がいたします。なんとなくですけどね。<br /> <br /> Wed, 23 Sep 2020 00:00:00 +0900 ゾクチェンのテクチューとトゥガルは表裏一体 https://w-jp.net/2020/2099/ <br /> 瞑想で覚醒を保っていると、雑念が1〜5文字程度で崩壊する様を体験します。そして、その雑念が出てくる奥に漆黒の雲が存在して、その「裏側」から雑念が現れたり、あるいは、こちら側に裏側から漆黒が流れ込んでくると言う経験をします。<br /> <br /> その状態が、チベットの本にあるテクチューとトゥガルの内容に多少似ていることに気がつきました。<br /> <br /> テクチューは「断ち切る」と言う意味で、心の本性に留まっていることを目的とし、迷いを断ち続ける。一方、トゥゲルは「超える」という意味で、断ち切ることで自ずと生起するヴィジョンを活用する修行だ。しかし、これは本質的には同じ修行の2つの側面だ。「チベッタン・ヒーリング(テンジン・ワンギェル著)」<br /> <br /> これがそれぞれ、テクチューが雑念が1〜5文字程度で崩壊する様に相当し、トゥゲルの方が漆黒の雲を認識してそれと一体になるというプロセスに合致しているような気が致します。トゥガルの方はまだ始まったばかりという気も致しますが、方向性は分かります。<br /> <br /> テクチューによって修行者は、空の元素と統合する。(中略)すべての現象は、生まれては消えるにまかせ、執着も拒絶もせず放っておくのだ。このときは、起きていることに反応しようとする「主体」もない状態だ。ただ、清らかな空に留まっている。(中略)不二の覚醒意識のなかに、自己を溶かし込み、生き生きとした覚醒の空そのものとなり切ることだ。「チベッタン・ヒーリング(テンジン・ワンギェル著)」<br /> <br /> これはよく分かります。不二の意識で三昧に留まることで清らかな状態に留まることが「空」と呼ぶのでしょう。「空」について色々と定義がありますが、これはかなりはっきりと「空」を説明したものであるような気が致します。<br /> <br /> トゥゲルでは、光の輝きを強調する。これは、光の修行だ。(中略)トゥゲルでは、元素のエネルギーの顕現を心の本性に統合する。(中略)不二の覚醒意識のなかに留まっていると(つまりこれがテクチューだが)、空なる現象の連続、とぎれることのない光の流れが感受される。(中略)いっさいが顕現するままにまかせていること。それがトゥゲルの修行だ。「チベッタン・ヒーリング(テンジン・ワンギェル著)」<br /> <br /> ここで言っている「光」を私は「漆黒の雲」と認識しているという点こそ違いますが、内容的にとても類似しているように思われます。とは言いましてもこの黒はやがて輝くようになるということのようですので、あまり気にすることではないかなと思っております。黒と言いつつも漆黒の黒ですので黒光りしているキラキラとした黒曜石のような輝きをしたふわふわとした雲ですので、これが光だと言われれれば確かに内部には光を内包しているような気も致します。<br /> <br /> サマーディ(三昧)の状態でむきだしの心(リクパ)であるところの不二の意識が基礎となり、テクチューで空の意識を保ちながらトゥゲルでエネルギーの顕現に向き合うのですね。<br /> <br /> このように整理してみると、サマーディ以降の流れがとてもすっきりと理解できたような気が致します。<br /> <br /> Tue, 22 Sep 2020 00:00:00 +0900 エネルギーが増した状態で更に状態を安定させ、静寂の境地へと至る https://w-jp.net/2020/2098/ <br /> エネルギーが増すと体の周囲にふわふわとした静電気に近いものを感じられるようになりました。その状態で瞑想をすると、以前よりも若干、安定しにくくなっているように思われました。<br /> <br /> 安定しない理由は何だろうと探ってみると、どうやら、左右のバランスが取れていないことに気がつきました。具体的には、少し右側に偏っておりましたので、特に胸のあたりを意識して、右胸から胸の中央へと中心軸を意思でもって少しずらしたところ、急に意識が静寂な状態へと遷移しました。これは、体のエネルギーを整える基本だと思います。<br /> <br /> 瞑想での体験での3つの要素のそれぞれがあって、エネルギーが高まることによって他の要素もそれに応じた安定度を求められるような気が致します。<br /> <br /> ・雑念の減少(無分別の意識)<br /> ・エネルギーの高まり(光明)<br /> ・静寂の境地(楽の経験)<br /> <br /> これらはバランスが必要で、今回の場合はエネルギーが少し高まったことにより雑念の現象が少し高いレベルで求められ、と同時に、静寂の境地もそれに応じて少し安定しにくくなったのかなとも思います。<br /> <br /> もちろんこれを支えるのが不二の意識ですので、不二の意識を保つのが基本です。<br /> <br /> その上で、エネルギーが高まればより微細な雑念を観察できるようになりますし、それにより、静寂の境地へと以前より多少入るのが難しくなります。とは言いましても、これは程度問題ですし、格段に難易度が上がると言うわけではなく、比較すると少しその傾向がある、と言うくらいです。言葉で言い表しますと何やら凄い変化のように感じてしまうかもしれませんが、エネルギーが少し高まることで雑念の感度も少し上がって、静寂の境地へも以前よりもちょっとだけ入るのが難しくなった、と言うだけで、それほど大した問題ではないと思います。<br /> <br /> 静寂の境地が安定しない時、あるいは、深呼吸をしても数回の深呼吸で入れない時は、これら3つの要素をチェックしてみると現在の状態がわかる気が致します。これら3つは経験であって、状態を知ったところでそれらがすぐに治るわけではない感じですが、少なくとも、ビフォー・アフターの違いを知ることは自分の状態を知る上で必要かなと思います。<br /> <br /> そして今回の場合、エネルギーが右に少し偏っていたことが原因でしたので、意識で少し中央に移動させてあげることでこれら3つのバランスが整い、静寂の境地へと達したわけです。<br /> <br /> Tue, 22 Sep 2020 00:00:00 +0900 不二の意識かどうかは勉強しなければわからない https://w-jp.net/2020/2097/ <br /> 各流派で「不二の意識」とはよく言いますけど、個人的には、きちんと定義を確認するまでは自分の経験している状態が不二の意識だとはわかりませんでした。<br /> <br /> そこで思うのは、不二の意識とはなかなか分かりにくいお話ですので、実際にその状態で生きていたり不二の状態で瞑想していたとしても定義を教わらないと不二の意識だとはわからない、そのようなものだと思います。<br /> <br /> 自分の状態が不二の意識だと勉強しない限りは自分で「不二」という言葉を使うことはなかったと思いますし、今でも、単に不二と聞いただけでは言葉の意味だけを考えますとあまりピンときませんが、昔から言われている不二の意識とはこういうことだと説明されれば、ああ、それはきっと私のこの経験と同じことを言っているのだな、とそこで初めてわかるのです。ですから、不二と聞いて「なんのことかわからない」と思ったとしても、わからないのが普通だと思います。不二の意識に普段からいるような人であっても「これのことを不二というの?」という感じかなと個人的には思っています。そのくらい、不二とはわかりにくくて不二の境地にある人にとってすら不二が何なのか理解されていないものだと思いますので、不二のことをわかっているという人の方をむしろ慎重に見極めて本当にわかっているかどうか判断した方がいいのかもしれません。基本的には不二の意識が何なのかわからないのが普通だと思います。<br /> <br /> 最初は割と単にスローモーションのヴィパッサナー(観察)状態だと認識していたわけですが、勉強するにつて、それを成り立たせている心の本性が存在していて、その心の本性が観察する時は不二の意識になるということがわかると、経験が先に来て、説明としての不二の意識というのは後で理解したわけです。<br /> <br /> 確かに不二の意識は最初のうちは弱くてそれが完全に不二の意識だとは思っていなかった面もありますので、最初にスローモーションが始まった頃は不二の意識が少しだけ出てきて、まだ弱い段階であるチェルドルの状態だったわけです。そのくらいですと不二の意識だとはよくわからないわけですが、実際は不二の意識の始まりだったわけです。<br /> <br /> そして、最近になってシャルドルを超えてくると、次第に、不二の意識とはこういうものなのかおぼろげにわかるようになってきて、ランドルの前兆により不二の意識が割とはっきりと出てきたからこそサマーディが深まってきたのだと理解するに至ったわけです。<br /> <br /> ですから、ランドルに至るまでは不二の意識と言われてもピンとこなかったわけですが、今ですら、全く勉強していなければこれが不二の意識だとはわからなかったと思います。不二の意識というのは、言葉だけでは分かりにくくて、経験したことのある人であれば説明されると、「ああ、あれのことね」とわかるようなものでもあると思います。<br /> <br /> この分かり難さ故に、勉強しただけで経験せずに自分が不二の意識を知っていると思っている方もいらっしゃるようにも思います。ですから、不二の意識を知っているという人のことをあまりホイホイと信用しない方がいいと思います。私が言うのもなんですけどね。自称で真理を知っていると言う人に大勢会いましたけど、大抵の場合は知識で知っているだけでしたから。その中には本当に知っている方もいらっしゃったのかもしれないですけど、私はそう主張している人が本当に不二の意識を知っていること認識できませんでした。<br /> <br /> 勉強と経験の両方が伴って初めて不二の意識が理解されるものと思いますし、おそらくは、不二の意識で生きていても不二の意識なんてよく分からないと言う人の方が多い気がいたします。もちろん全員を見てみることはできませんが、会った限りでは、不二の意識に生きていそうな人ほど不二の意識が何のことなんてわからない事の方が多く、不二の意識を知っていると言う人はかなりの割合で単に知識を知っているだけで、そのうち一部は、知識をきちんと理解しさえすれば悟りが得られてモクシャ(自由)に至ると思っていたりします。そんな方々が本当に不二の意識を知っているのかどうかはよく分かりません。世間なんてそんなものです。不二の意識を知っていると言う、自称聖者は大勢いらっしゃいますけど、多くの場合において私はそれらの人々が本物かどうか分かりませんので、もはやあまり気にしないことにしています。<br /> <br /> 他人が不二の意識を得ているかどうかは言動では分かりにくく、しかも、自分が不二の意識に生きていると主張している人は割といるとすれば・・・。あまりそう言う人のことは気にせず、関わらずに生きるしかないわけです。だって、明らかにそうでない、関わり合い持ちたくない種類の人や、延々と長い話をしていつまで経っても本筋を言わずに焦らすだけの人がいたりして、なんだか時間の無駄であることが多いわけです。<br /> <br /> ある程度の勉強をして、本も読んで、正しいと思う筋道を自分で突き進むしかないかもしれないですよね。スピリチュアルな道なんてのは落とし穴だらけで、正しいグルを見つけるのはかなり困難ですし、まあ、あまり気にしすぎても仕方がないと思います。<br /> <br /> ・・・不二の意識とは、そのくらいよくわからないものです。ですから、あまり不二の意識を追い求めてセミナーに通ったり勉強に通いすぎない方がいいと思います。どちらにせよ時が来るまではわからないのですから、勉強は必要にしても、勉強はそこそこにして、まずは瞑想なりヨガアサナするなりした方が近道だと思います。どちらにせよ先に自分が変化すれば定義を見れば「ああ、このことだったのか」と分かりますので、私は勉強は必要と言いましたけど、勉強だけでいいとは言っていませんので、勉強はそこそこでいいのかな、と言う気も致します。<br /> <br /> まあ、スピリチュアルなんて人それぞれ好きにすればいいのですから、勉強も好きにすればいいのですけど。<br /> <br /> Mon, 21 Sep 2020 00:00:00 +0900 黒はアジナチャクラのアストラル下層の段階 https://w-jp.net/2020/2096/ <br /> ヨーガ行者の本山博先生によれば、黒はアストラル下層の段階であると言います。<br /> <br /> 雑念が消え、深い精神集中の状態に入ると、アストラル体は黒色にみえる。「密教ヨーガ(本山博著)」<br /> <br /> これが、しっくりきます。最近の静寂の境地はアストラル下層に相当しているのでしょう。半年ほど前から度々、瞑想中に漆黒の雲に包まれるようになり、ここ最近に集中力と言いますか静寂の境地に割とすぐに入れるようになってからは意識の裏側にある暗黒の雲を割と容易に認識できるようになりました。<br /> <br /> どうやら、この意識の裏側がアストラルの世界なのですね。そして、アストラルの中でも黒というのは下層のことなのですね。アストラル上層は薄いスミレ色のようですからそれはまだのようですね。そして、アストラルを超えてカーラナ(コーザル)に達すると光り輝くようです。<br /> <br /> その黒色のアストラル体に、さらに精神集中を続けていると、それは光り輝くようになる。「密教ヨーガ(本山博著)」<br /> <br /> アストラルという言葉は流派によって定義が少しづつ違っていて、例えば神智学とかですと多少異なった定義があるようですが、ここでいう本山博先生の流儀におけるアストラル体というのは個人的なスピリチュアルの範囲を意味するようです。アストラルの段階では個人的なカルマがわかって、超能力的なものが出てくる場合であっても個人的なものに限定されるとのことです。<br /> <br /> その上のカーラナ(コーザル、原因)の段階に進むと個人的なものを超越するので、アストラルからカーラナに進みましょう、と本山博先生はおっしゃっています。本山博先生のおっしゃる所のアストラル下層は感覚とか想念とか感情とかが主なようです。であればそれほど高級な世界ではありませんので、あまり気にせずにそのまま精神集中を続けてアストラル体の段階を抜けてしまうのが良さそうです。<br /> <br /> 瞑想中に黒が見えてきたということは、これらアストラル下層の感覚とか想念とか感情とかを超え始めたということだと理解しています。同書によると、その一つ前の段階は「煙色」だと言います。<br /> <br /> 1.ムーラダーラチャクラでは、アストラル体は煙色である。<br /> 2.アジナチャクラでは黒色である。<br /> 3.サハスララチャクラでは、光り輝いている。<br /> 「密教ヨーガ(本山博著)」<br /> <br /> これは同書によれば、精神集中の度合いにそのまま対応するとのことです。<br /> <br /> 1.ムーラダーラチャクラ。灰色。浅い精神集中。<br /> 2.アジナチャクラ。黒色。深い精神集中。雑念が消えた状態。<br /> 3.サハスララチャクラ。光り輝く。<br /> <br /> ただ、同書には、黒色が深い精神集中とも書いてある一方で、以下のような記述もあります。<br /> <br /> アジナをみていて、それが黒いというか、紫色の黒いような色あるいはスミレ色でみえる時は、主としてアストラルで動いている。「密教ヨーガ(本山博著)」<br /> <br /> 「チャクラの覚醒と解脱(本山博著)」によると、アストラル下層で動いている時はまだ感情とか想念を完璧にコントロールできない、と言います。確かに、昔より遥かに雑念が減ったとはいえ、まだ多少のトラウマは出てきますし5〜10秒くらいとはいえトラウマが頭の中で回転もします。<br /> <br /> とは言いましても、黒色ということは少なくともアジナが動き出しているということですから、そう悲観するものでもないと思います。<br /> <br /> Mon, 21 Sep 2020 00:00:00 +0900 体に「裏」の漆黒が注ぎ込まれ、圧力が高まる https://w-jp.net/2020/2095/ <br /> 先日の続きです。意識の裏側にある漆黒が表側に注ぎ込まれると、やがて、身体中にその漆黒が行き渡り、漆黒の濃度が濃くなってゆきます。すると、身体中が内側から外側に向かって膨張するかのような圧力を感じるのですが、体あるいは自分の微細体が一定の大きさの枠組みを持っているためにそれ以上大きくなれずに身体中に圧力らしきものを感じます。<br /> <br /> その圧力が一定以上になると少し圧迫されて苦しい感覚も少し出るのですが、言葉でいうほど苦しいわけではなく、圧力が強いので何となく苦しい気分がちょっとするだけで、実際は苦しいというよりも、単に圧力を感じて窮屈な感じがしているだけ、とも言えます。<br /> <br /> この圧力は、おそらくはエネルギーなのではないかと思います。かつては「こちら側」に現れる時は雑念や観念として現れてきたものが、そのエネルギーそのものが「むこう側」から「こちら側」へと流れ出るようになったのかなと思います。もしかしたらこれを人によっては次元の扉のようにいうかもしれませんが、次元の扉かどうかはよくわかりません。高次元のエネルギーが少し下の次元に流れ込んでいる、と考えることもできますが、それが正しいかどうかは今のところわかりません。<br /> <br /> 私は「圧力」とか「漆黒」として認識しましたけど、書物を読むと、これは「光明の体験」としてエネルギー的な観点から説明されているような気が致します。<br /> <br /> 光明の体験は、エネルギーすなわち声の側面と結びついている。そのあらわれ方は、感情や光のヴィジョンをはじめ、多様だ。たとえば、守護尊のマンダラの清浄な顕現は、光明の体験である。「ゾクチェンの教え(ナムカイノルブ 著)」<br /> <br /> 更には、これらの経験はあくまでも経験であり、サマーディ(三昧)の気付きの境地にい続けることこそが重要であるという。修行における経験は無限の種類があるが、気付きの境地に留まるという点においては共通だとのこと。これはよくわかります。<br /> <br /> 楽の境地や空性の境地にありながら、そこに三昧の覚醒が保たれていなければ、まるで体験の中で眠り込んでしまったようなものだ。(中略)楽の体験と空性の体験は、まったく違う。だが、それらの体験のもともとの本性は一つだ。(中略)覚醒した叡智は唯一のものであり、心を超えている。ありとあらゆる無限の顕現の土台となる不二の境地とは、この覚醒のことだ。「ゾクチェンの教え(ナムカイノルブ 著)」<br /> <br /> 同書によれば不二の境地には以下の3つの経験が生じてくると言います。<br /> <br /> ・無分別の経験<意に対応><br /> ・光明の経験(上記参照)<口(声)に対応><br /> ・楽の経験<身に対応><br /> <br /> 無分別の体験は、文字通り思考がわきあがってこない状態と、思考がわきおこってきても、それによってさまたげられない状態の両方を指している。この体験は、心の<空性>の境地として定義することもできる。それは、心がリラックスしたことから自然寺生じてくる現象だ。「ゾクチェンの教え(ナムカイノルブ 著)」<br /> <br /> 楽の体験は、身体のレヴェルと結びついている。寂静な境地(「止」)の修行を長い間続けていると、身体がなくなってしまったような感覚や、まるで自分が、虚空に浮かぶ雲の真ん中にいるような、大きな喜びを体験することがある。それが楽の経験の例だ。「ゾクチェンの教え(ナムカイノルブ 著)」<br /> <br /> これらの経験は素晴らしい経験ではありますが、それはサマーディ(三昧)の境地に往々にして付随する経験であり、ただそれらはサマーディの境地そのものとは異なると言います。不二の意識のみがサマーディの本質であり、不二の意識以外のこれらの経験はあくまでもサマーディではないサマーディに付随した経験であり、大切なのは覚醒の意識そのものであり、覚醒の意識とは不二の意識のことであるというのです。<br /> <br /> これはとても単純なお話ですが、説明しようとするとなかなか困難なお話のような気が致します。静寂の境地そのものは経験であるとも言えますし、その状態においては不二の覚醒の境地が伴っているとも言えます。静寂の境地に至った結果、静寂の境地の中に眠り込むこともなくはありませんが、不二の覚醒がなければすぐに静寂の境地から滑り落ちてしまいます。ですから、静寂の境地はいわばシンボルであり、人はそこを目指しますが、静寂の境地のためには土台として不二の意識が必要なのですよね。そして、不二の意識の部分こそがサマーディの本質であるわけです。<br /> <br /> これは、サマーディが育ってくるときに出てくる主な能力であるチェルドル、シャルドル、ランドルにも関連性があるように思えます。不二の意識が育つにつれて3つの能力(チェルドル、シャルドル、ランドル)が出てきて、それに付随して、3つの経験(無分別の境地、光明の経験、楽の経験)が生じるわけですね。<br /> <br /> このような「経験」の部分を重視しすぎる必要はないですけど、軽視しすぎる必要もないわけです。それはそれとしてあるわけですから、ありのままで良いわけです。重要なのはサマーディの不二の意識なのですから、それさえわかっていれば、経験を捨てる必要もないわけです。<br /> <br /> 古典ヨーガやヴェーダンタの一部の流派によっては「経験」の部分を軽視していたりしますけど、グルに「経験は重要ではない」と言われたからと言って探求を簡単にやめる人は上達しない、と個人的に思います。グルに「経験は重要ではない」と言われたとして、その意味はこのように「サマーディの不二の意識が大切なのだ」という意味であって、経験を捨てなくてはならない、という意味ではない筈です。経験はありのままに存在していれば良い。しかし弟子は勘違いして経験は重要ではない、という言葉だけが一人歩きして、経験をした人に対して「経験は重要ではない」と言ってマウンティングの道具にしてしまう。そんな愚かなお話が時々散見されます。そのようなマウンティングに屈せず、経験は経験そのものとしてありのままとして存在していて、経験すらもどのようなことなのだろうかと探求し、サマーディの不二の意識と経験の関係、意識との関係の探求を続け、グルの教えを鵜呑みにしたりせずにどのような意味なのだろうかと自己で探求する人だけが成長するのだと思います。せっかく古典ヨーガやヴェーダンタを勉強していても、このようなマウンティングの罠にハマっている人がぼちぼち散見されます。そんなことに関わらず、本質である、不二の意識に留まり続ければ全てはありのままの世界として見えてくると思うわけです。<br /> <br /> 体のエネルギーが高まって圧力が高まる経験はあくまで「経験」ですけど、古典ヨーガやヴェーダンタの流派によっては簡単に「そんなことは重要ではない」と切り捨ててしまっています。そのように捨てることで否定してしまうことはマイナスでしかなく(本人たちは否定していないというでしょうが)、個人的には、その経験自体をありのままに眺めればよくて、結局、必要なのは不二の意識だけであるわけです。古典ヨーガやヴェーダンタを勉強している人は同じように不二の意識だけが重要と言いますし、言葉だけを見ると正しいのですけど、何か、どこか違和感があったりします。もちろん人によりますけどね。その違和感を捨てずに追求しないと落とし穴にハマってしまうこともあるわけです。これは、不二の意識を勉強する人が勉強しすぎることによってハマる落とし穴の1つです。であれば、そんなに勉強しなくても、まず瞑想するなどして自分の意識が進んで変化してから初めて書物を探して確かめる、という方がよほどいいと思うのですけどね。<br /> <br /> 何が一番大切かと聞かれたらもちろんサマーディの不二の意識が重要と答えますが、ですが、エネルギー的な観点も重要でエネルギーが高ければネガティブに影響されにくくなってポジティブになりますから光明の経験は重要ですし、意識の平穏がなければエネルギーも安定しませんから無分別も大切です。リラックスできていなければエネルギーの消費が激しくて疲れやすいですから楽の経験だって同じくらい重要です。ですから全部重要なわけで、何か1つだけあればそれで完璧と言うわけにはいかないと思うのです。そして、それを支える土台の部分がサマーディの不二の意識であるわけです。<br /> <br /> ■真言宗の三密<br /> <br /> 私は真言宗の修行はしたことがありませんが、上記の内容は真言宗の三密と似ていて興味深いです。<br /> <br /> 身密 印を組む。身体。<br /> 口密 真言を唱える。言葉。<br /> 意密 仏を観想する。心。<br /> → これらを達成して御本尊と一体となることが三密加持。<br /> <br /> 意味が少し変わって伝わったのか、それとも、表向きはこのような意味で、実際は同じような意味なのでしょうか? ひとまずメモしておきます。<br /> <br /> Mon, 21 Sep 2020 00:00:00 +0900 意識の裏側にある暗黒の雲に近づく。ランドルの前兆 https://w-jp.net/2020/2094/ <br /> 意識が静まってきて静寂の意識に達したのち、雑念が出てきても1〜5文字くらいで消えてゆくようになります。その時、雑念が出てきたところにギュッと意識を近づけてみます。意識を近づければ近づけるほど雑念が素早く消えるようになるのですが、そのためには集中が必要です。<br /> <br /> 集中しなくても自然にいられるのですが、観察をして雑念の元を見るためには集中が必要のようです。<br /> <br /> 集中しなくても自動的思考を流すことはできて、以前は自動的思考と観察者としてのわたしが割と結びついていたのですが最近は更に分離されてきて、純粋観察者とまでは行かないかもしれませんが観察者として自動的思考を見守ることはできています。<br /> <br /> その状態において雑念を観察しますと、雑念が出てくる元のところに時空の反転箇所があって、その反転箇所の向こう側はいわゆる「裏」の世界になっているようなのです。<br /> <br /> 裏の世界は漆黒の雲によってできており、その漆黒の雲から煙が上がるようにして雑念あるいは雑多な観念が生まれ、その雲から出た雑念が発散すると拡散して消えてゆくようなのです。近づけば近づくほど素早く消えてゆきます。<br /> <br /> その状態を続けてゆくと、やがて、漆黒の雲自体が少しづつ「こちら側」の世界へと流れ込むようになりました。何でしょうこれ?<br /> <br /> 今までは、漆黒の雲が雑念として現れては消えるか(あるいは以前であればその雑念のループ)しておりましたが、ここにきて、漆黒の雲、それ自体がいわゆる「こちら側」の世界へと流れ込んできて、少しづつ「わたし」と融合しているようなのです。まだ濃度的には薄いのですが、私の体と重なっている部分のオーラに対して漆黒の雲が少しづつ流れ込んできているのがわかります。<br /> <br /> シャルドルの時までは、単に、雑念が消えるだけでした。<br /> <br /> この現在の状態がランドルかどうかは確実な確証はありませんが、シャルドルとは違った感じを受けます。雑念として上がってきたものが消える有様に関してはシャルドルとそう変わりません。シャルドルの時は雑念にしても自動的な思考にしてもどちらも割と同じように扱っていましたが、ランドルっぽい状態においては、自動的な思考は残り、雑念の方だけ自動的に消えるようになったような気も致します。これは質の違いで区別ができるようになったということでしょうか。それともたまたまかもしれませんが。<br /> <br /> 更に、この状態では、雑念の奥底から漆黒の雲がこちらに流れ出てきているのを感じるのです。<br /> <br /> 漆黒の雲が平らに存在していて、それは地面というよりはガラス面のように横に存在していて、そのガラス面の向こう側は「裏側」で、そのガラス面のような漆黒の雲から竜巻あるいは煙の雲が上がるようにして漆黒の雲の一部が「こちら側」の世界、特に「わたし」の中に流れ込んできているのを感じます。<br /> <br /> この「裏側」から雑念・観念が現れ、そしては消えてゆく。あるいは、その「裏側」それ自体がこの世界を構成している。この世界は「裏側」からちょっと漏れ出た部分に過ぎないのかもしれません。そして、その「裏側」に繋がることができて「本当のこの世界」を知ることができるのかもしれない? 今は、何となくそんな気がしています。<br /> <br /> これは、魔術等で無理やり扉を開くとかいう種類のものではなく、平穏なる意識の中で現れるものです。神秘的に聞こえてしまうかもしれませんが、至って普通な、平凡な状態、しかしながらエネルギーに満ちた、静寂な意識の中で認識されている変化です。<br /> <br /> これに至ったからと言ってどうこういうわけでもなく、ほとんどは、単に自分の記録としてメモをしているまでです。<br /> <br /> Mon, 21 Sep 2020 00:00:00 +0900 呼吸による瞑想状態(静寂の境地)への入り方 https://w-jp.net/2020/2093/ <br /> 割とありきたりですけど、呼吸に意識を合わせます。すると、割とすぐに静寂の境地へと達します。<br /> <br /> 最近は割と単に座ることも多くて、それでも静寂の境地は現れるわけですが、時々、昔のように雑念が繰り返されて静寂の境地に至らない時もあります。かと言って昔のように悩まされるわけでもなく、内容といえば私生活のことだったり仕事のことだったりと割と役立つことも多いので自動的な思考を気付きの一環として利用できたりもします。ですから特に思い悩むこともないのですが、それが瞑想かというとちょっと違う感じですので、なかなか静寂の境地に自動的に入らない場合は意識的にその状態へと持っていってあげる、ということをします。<br /> <br /> 最初から呼吸に意識を合わせてもいいのですけど、普段の日常生活で気付いていなかった思考を一旦は整理した方が良い感じですので最初は自動的に思考を流しています。そして、そろそろいいかなと思ったら静寂の境地へと持っていくために呼吸に意識を合わせるのです。これは私の最近のやり方ですので、後で変わるかもしれませんし、人それぞれ好みもあるでしょうし、古典的ヨガの瞑想ですと最初から割と呼吸に意識を合わせて静寂の境地に持っていくと思います。<br /> <br /> 普通に呼吸を観察するだけでも静寂の境地になりますし、1呼吸か2呼吸、割とすぐに意識は静まります。よりはっきりと明確に意識を鎮めたいときは深呼吸すれば更に鎮まります。<br /> <br /> この深呼吸で、観察と集中、両方とも高まります。瞑想は観察だけでもなく集中だけでもありませんので、この深呼吸のことを集中ということもできますし観察ということもできます。言い方に違いはあれど同じことです。流派によっては「観察ではなく集中だ」とか「集中ではなく観察だ」とか言ったりもしますけど、私からしたら同じことです。かと言って、そう言われたからと言ってわざわざそれを指摘したりするような野暮なことはする必要なくて、実際のところ、観察と集中は裏表で一体のようなものだと心に留めておけば十分だと思います。単に、その流派ではその言い方が合っているというだけのお話で、このような言い方の違いに初心者は惑わされたり、他の流派と比べてしまって「あっちが良い、集中が良い、いや、観察が良い」とか様々に思ってしまったりしますけど、単に瞑想の一面を述べているだけで、実際は大差なく、対局を見ればどちらも割と同じことです。それでも一応はヨーガスートラ等で階梯があって、対局としては集中から観察へ、という流れはあります。ただしその集中に至るための準備としての観察というものもあって、なかなか瞑想の世界はわかりにくいものになっています。<br /> <br /> ・・・そんなわけで、瞑想というと小難しいお話が色々と出てきますけど、それはおいおい理解すればいいことで、実際の瞑想はもっと単純なわけです。<br /> <br /> 何か、例えば職人や技術職で自分の得意な仕事をしようとするとき、意識を切り替えて集中しようとして深呼吸して仕事モードに入ったりするでしょう。その時の深呼吸は瞑想に入る時の呼吸に似ています。というか、ほとんど同じものです。深呼吸をして意識を鎮め、仕事に集中するのです。その境地に達していないのであればその職人や技術職はまだ熟練したとは言えないと思います。これは別に瞑想しているからとかそういうお話とは関係なく、おそらくは普通にどこでもあるものと思いますが・・・。少なくとも私の知っている範囲であれば。音楽の世界などでも楽器を演奏するときなど深呼吸して静寂の意識に入るでしょう。それを集中と言う場合もあるでしょうしモードに入ると言う時もあるでしょうし言い方は色々あるとは思いますが、同じことだと思います。そのことをここでは瞑想状態に入る、と表現しています。<br /> <br /> そのように実際は瞑想状態に入ることは特別でも何でもないのですが、最近は割と瞑想状態が何なのか忘れられてしまっているような気が致します。多くの人が欲望に身を任せて瞑想状態がないまま生活するのが普通になってしまっています。<br /> <br /> 特に座った瞑想をしなくても静寂の境地に入るような習慣があれば割と瞑想と同じことをしているとは思います。一つでもそのような境地への入り口を知っているのであれば瞑想に入るのも簡単なことで、ただやり方がちょっと違うだけで、座ってからその時のように深呼吸をして静寂の境地に入ればいいのです。<br /> <br /> 最近は割と瞑想が全く違う世界のものとして、例えばスピリチュアルだとか神秘体験に結びつけられて考えられることが多くなってきました。しかし、本来の瞑想と言うと必ずしもスピリチュアルや神秘体験と結びついたものではなく、職人や音楽家、あるいは武士などが静寂の境地に達するための手法として存在していた面も多いように思います。そして最近はそれらが同じ境地であることが忘れ去られ、瞑想というものがどこかふわふわとした実体のないものになっているような気が致します。<br /> <br /> 確かに瞑想と言うと神秘体験を伴うこともありますが瞑想と言うと本質はそこではなく、自らの本質と繋がる行為、それはすなわち静寂の境地に至って自らの本質を外側へと顕現できるような境地に至ることであると思うわけです。まずは自らの心の本質がありのままに外を認識できるようになり、やがては、その心の本質が自在に体を動かすようになるわけです。<br /> <br /> 心を覆ってしまっている雑念や欲望、葛藤などがその心の本質を覆い隠し、心の本性が出てくることができないのが多くの今の人の現状です。そして、その状態を更に強化させるべく世の中に欲望・葛藤・刺激・妬みなどが宣伝され、霊的な観点は失われ、欲望に生きることこそが人間として正しいと教えられてしまっているが故に救いがなくなっているのです。<br /> <br /> 救いにしてみても、心の本性をむきだしにすることだけが救いである筈なのに、別の欲望や依存を作り出して救いだと言っている悪魔の団体が多くあります。そのような悪魔の団体が宗教の仮面をかぶったり心理学カウンセリングあるいは啓蒙セミナーと称して人を更なる混迷へと導いているわけです。それは救いがないです。<br /> <br /> 瞑想は、そのような「追加」するアプローチとは全く逆です。瞑想とは、雑念を取り払うプロセスであり、人によっては深呼吸をするだけで雑念が取り払われ、静寂の境地に達します。しかしながら厚い雑念や強い葛藤に覆われてしまっている人は数回の深呼吸で静寂の境地に達することはできません。ですから、そのような場合は地道な日々の努力で雲を取り払う必要があるわけです。それが日々の瞑想のプロセスになり、やがては、雲が晴れて静寂の境地に達するわけです。<br /> <br /> 個人的に思うのは、最初の段階では瞑想をするより職人や技術職などで集中のプロセスを辿る方が結局は早道なのではないかな、とは思います。これは人によると思いますので必ずしもこの道を勧めるわけではありませんが、個人的にはそう思います。<br /> <br /> 瞑想の教授を受けると、呼吸で静寂に達します、などと軽々しく説明されることも多い気がしますけど、実際はそんな単純ではなく、色々とプロセスがあるわけですね。そんな簡単に呼吸で静寂な意識に達することができるならわざわざ瞑想を習いにきたりはしない、とも個人的には思ってしまうわけで、瞑想の指導をしているのであればもう一歩二歩と踏み込んだ上で、どうして呼吸で静寂の境地に達することができないのかを説明すべきでありますし、その場合も、大抵は「雑念などの雲で覆われてしまっている」と言う説明は割とどこでも聞けると思いますけど、実際に教えている人が静寂の境地に達していないことも多くて、その言葉が空虚で空回りしていることも多々あるのが悲しいところです。言葉としてはその通りなんですけど、実際にそれを言う人がその境地を知っていないと伝わらないと思いますけどね。<br /> <br /> そのように、瞑想の手法としてはとても簡単で、「ただ、呼吸しさえすればいい。そうすれば静寂の境地に達する」と言うものではあるのですけど、そこに至るにはステップが必要なのだと思います。<br /> <br /> 深呼吸をしてもぜんぜん静寂の境地にならなかったのだとしたら、それは手法の問題ではなくてまだ心に雑念が厚く覆い尽くしていると言うことですので、地道に瞑想をしたり仕事に打ち込む必要があります。秘法で簡単に取り払うとかそう言うものではありませんので少しづつ行う必要があります。ある程度の筋道がありますのでそれに従えば半年あるいは年単位で変化が起こります。1回やっただけで変化があるものでもありません。<br /> <br /> リラックスする方法で「深呼吸しましょう」なんて人は気安く言いますけど、深呼吸くらいでリラックスできるなら最初からリラックスする方法なんて聞かないですよ、と言うことでもあります。深呼吸は手法でもあり、その一方で、深呼吸でどのように変化するかは意識の状態を測る目安でもあるわけですね。<br /> <br /> 静寂の境地への入り方は説明としては簡単で「瞑想しましょう」「呼吸に意識を向けましょう」と、言うことは簡単ですけど、本当にできるのであれば瞑想を始めて呼吸を1回か多くても数回も観察すれば後は静寂の境地に入ってゆけるわけです。<br /> <br /> ここで勘違いして欲しくないのは、呼吸に意識を向けること自体が静寂の境地ではないと言うことです。呼吸に意識を向けるのは静寂の境地に入るためのただのきっかけです。きっかけですから、補助輪のようなもので、最初に少し呼吸に意識を向けて意識を平らにすればあとは補助輪であるところの呼吸への意識をやめても問題なく静寂の境地が続くのです。<br /> <br /> たまに、瞑想の流派で呼吸の観察をすることが瞑想だと思っている方がいらっしゃいますけど、それも瞑想の手法の1つではありますがここで言っている呼吸による静寂の境地の瞑想とは異なっていて、呼吸に集中している状態というのはあくまでも雑念から離れると言う観察、あるいは、呼吸に集中するという行為をしているのであって、瞑想における静寂の境地とはかなり異なります。呼吸の観察あるいは呼吸の集中というのはあくまでも補助輪であるところの呼吸への観察あるいは集中を延々と繰り返すということであり、瞑想の静寂の境地はその補助輪を外した後にやってくるわけですね。<br /> <br /> ですから、瞑想の「入り方」として呼吸へ意識を合わせることはしますけど、静寂の境地の瞑想状態そのものが呼吸へと意識を合わせることではないわけですね。<br /> <br /> それは一旦できてしまえばとても簡単で、シンプルなお話なのですが、試してみてできなければなかなかできない、というお話になります。ですがおそらくは誰でも可能で、自分の意識を少しづつ鎮めて行けば誰にでも可能なお話なのだと思います。<br /> <br /> Sun, 20 Sep 2020 00:00:00 +0900 集中すればするほど瞑想が深まる。ランドルの前兆 https://w-jp.net/2020/2092/ <br /> チェルドルでは、多少時間をかけて段階的に静寂の意識が表れました。意識が多少ざわざわしている平準状態がしばらく続き、ふとした拍子に一段階づつ静寂の意識に近づいて行きました。<br /> <br /> 最初の頃はチェルドルでも瞑想が終わると次第に意識が雑多なものへと帰ってゆきましたが、次第に、それほど戻らなくなり、それなりに静寂な状態を日常生活で保てるようになります。<br /> <br /> 最初の頃は瞑想を始めたときにチェルドルで何度も意識の平穏に鎮めてゆかなくてはならなかったところが、やがて、日常生活および瞑想のスタート時点でそれなりに意識が鎮まっているのでそこからチェルドルで意識を鎮める程度が少なくて済むようになりました。<br /> <br /> そして、チェルドルである程度の意識が平穏になった後、シャルドルが起こります。シャルドルでは雑念が生じても少し観察すれば滴が太陽に照らされて蒸発するかのように消えてゆきます。おおよそ5文字から10文字くらいで携帯の電波が悪くなるかのように、あるいは、ラジオのボリュームが小さくなるかのように消えてゆきます。<br /> <br /> そして、その状態から更に集中を深めると、文字でいうと1文字表れたかどうかのところで消えてゆくようになります。おそらくこれがランドル、あるいはランドルの前兆のようなものではないかと思います。<br /> <br /> 1.チェルドル<br /> 2.シャルドル<br /> 3.ランドル<br /> <br /> 究極的な自己解脱の能力は、ランドルと呼ばれる。これは「自然にみずからを解放する」ことを意味し、蛇が自分のどくろをやすやすと、瞬間的に、素早く解くようすにたとえられている。「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」<br /> <br /> この状態に完全になったわけではない感じが致しますが、その前兆はあるような気が致します。<br /> <br /> ここでいう「集中を深める」とは、五感の何かに集中するという意味ではなく、意思を使って体の奥底にあるオーラを律するという感じのものです。既に自我は鎮まっていますから五感も鎮まっておりますのでそこは手を加える必要はなく、意思でオーラを律することで、具体的には思考をまずは制御するわけですね。<br /> <br /> まずチェルドルで意識を段階的に鎮めます。意識を鎮めるということはオーラを鎮めるということです。その後、オーラと意識が安定するとシャルドルで雑念が自動的に消えるようになります。そして、ランドルに至るためにはおそらく、もう一段階、意識とオーラを鎮める必要があると思うのです。そのことを意思でもって「更に集中」と表現しています。おそらくはもっと進むとこのような努力も不要になるとは思うのですが、今一歩足りていなくて、今のところは意思で段階的に進める必要があるのかなと思っております。そうして瞑想である程度の集中状態になると、ランドルの前兆ではないかと思われる状態に達したわけです。<br /> <br /> 書物の説明を読むと、この状態こそが二元論を超えた状態であると言いますが、今のところ、それほどピンときません。しかし、説明を読む限りは一応は理解できます。<br /> <br /> 完璧に二元論を超えた、瞬時の、瞬間的な自己解脱である。主体と客体の分離は自然に崩壊し、習慣となった見方、区切られた鳥籠のような自我の声は、存在そのもの(法性)の、空のような顕現の中に解き放たれる。(中略)修行者は原初的な知恵を体験する。対象が生じると同時に、それが自らの空性の境地と同じく、空であることを認識するのである。空性と顕現の統一の境地、そしてその境地そのものと空性が、ともに存在しているということが、すべて同時に経験される。だからすべては「一味である」すなわち主体と対象はいずれも空である、ということになる。二元論は完全に克服される。主体や対象が存在しないというわけではない。とだえることなく三昧が持続し、自己解脱の修行をつうじて、二元論に限界づけられなくなるのである。「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」<br /> <br /> 私はどうやらまだ完璧に二元論を超えてはいないように思いますが、内容はよく理解できます。雑念が印象を生み出し、実態があるかのような幻想を作り出している一方で、その幻想を作り出している雑念あるいは思考というものが瞬時に(空に、あるいは、無として)消えてしまうということは、存在と非存在、どちらも実は空なのだとしたらそのようなものなのでしょう。実在というものは人の印象があるからこそ存在しているもので、人の印象というものは雑念がすぐに消えてしまうようにはかなく、空から雑念が生まれたことにより実在が生じたかと思えば瞬時にそれはすぐに雑念として消えてしまうことで実在としてもなくなってしまうのだと思います。このことを古来、「空」から生じて「空」に消えるとか、そのように様々に表現してきたのかな、とも思います。<br /> <br /> これは、認識がこれ以上進んでしまうと変化が早すぎてわかりにくくなってしまうので、今くらいの中途半端な状態の方が細かく見れていいような気も致します。なんとなくの感覚ですけどね。もっと進めば瞬時にこれが起こってしまうのでよくわからなくなってしまうような気が致します。今は、言葉にすれば1文字くらいではあっても一瞬の時間差があって雑念が消えてゆきますので、これが更に進んで瞬時に消えてしまうとなると、それはそれで違った印象になりそうです。<br /> <br /> 雑念が起こる前は静寂の境地で、それはいわゆる「空」の境地にいると思います。そんなときにも雑念は浮かんできますので、雑念が浮かんできたらそれと同時に具体的な印象も生じ、それはいわゆる「実在」として実体のあるものとして心の中に(一瞬とは言え)浮かんできます。ヨーガでは、対象というものは人が認識するからこそ存在する、と説いています。その原則を当てはめるのであれば、心の中に雑念あるいは印象として実在が存在する時だけ対象が存在しているわけです。しかし、その対象というものは元々は雑念でしかなく、その雑念というのは、もともとは「空」の意識から浮かんできたものなのです。そして、(いわば無あるいは)空から生まれた対象が、またすぐに(無であるところの)「空」へと帰ってゆく。ですから、実在は全て「空」である、と言えると思うのです。<br /> <br /> この世界は全てが神様の意思で充満していて、本来は「無」とは言えないと思うのですが、何もないような空間という意味であれば「無」と言っても良いとは思いますが、それよりも、存在しているのだけれども空っぽのように認識される、という意味合いからすれば「空」の方が適切のような気も致します。<br /> <br /> 引用分にある、主体と対象(客体)との違いがなくて両方とも空であるということは、このあたりから理解できると思うのです。まず、自分の意識というものは清浄な意識で平穏なもので、それは無ではなくむしろ空ともいうべき意識が空間に充満したものになります。そこに、印象として雑念あるいはトラウマでもいいですけど何かが浮かぶと、それにより対象が表れます。自分の意識が生じて対象を認識して初めて対象が存在するのですから、それは、自分の意識そのものであるとも言えるわけです。実際、自分の中に生まれた感覚・雑念・印象そのものが実在としての対象を生み出すわけです。自分の中にそれらが生じて初めてこの世界に対象が存在できるわけで、自分が認識していなければ対象が存在しないわけです。<br /> <br /> その知識の前提に立てば、瞑想中に起こっている雑念の生起および消滅のはたらきが、実は二元論を超えることの証明になっていることが理解できるわけです。<br /> <br /> おそらくは、これは瞑想で経験するだけではわからないことで、瞑想で経験することと、知識(ニャーナ)が組み合わさって初めて起こる理解なのだと思います。・・・と今は思っているだけで、実は瞑想だけでも理解できるかもしれないですけど、今のところは、そんな気がしています。<br /> <br /> 瞑想で知覚できるのは上記に書いたように、静寂な境地で雑念が生起してそれがすぐに消滅するということだけです。それに、印象が対象を生み出している、という知識を加えた時、その知覚は単なる知覚ではなく、知識になるわけです。ただまあ、もっと瞑想を深めればそのうち理解できる気も致しますけど、それはそれで、また実証すればいいことですし。<br /> <br /> ひとまず、理屈として理解するのはそれはそれであっていいと思います。<br /> <br /> Sat, 19 Sep 2020 00:00:00 +0900 静寂の意識の中に生きる https://w-jp.net/2020/2091/ <br /> わたし、と体が一体化している時、その時は、静寂の意識の中に生きています。それらは表裏一体で、静寂の意識とは「わたし」と身体が一体化している状態なわけです。<br /> <br /> 瞑想を始めると、最初はちょっとモヤモヤとしています。<br /> <br /> 以前であれば段階的に静寂の意識が表れていましたが、今は、意識は割と静寂の意識のまま、雑念だけが雲が晴れるかのように本格的な静寂な意識に移行するようになりました。<br /> <br /> 以前は、雑念があってモヤモヤしていると意識も淀んでいました。<br /> 今は、雑念があっても割と意識が明確で雑念に気付いています。<br /> <br /> 以前は、雑念が晴れると同時に静寂の意識に移行していました。雑念の状態と意識の清浄な状態とが割とシンクロしていたわけですよね。<br /> 今は、雑念と意識の清浄な状態とが割と独立するようになってきました。<br /> <br /> これは程度問題で、似たようなことは以前から起こってきました。<br /> <br /> しかし、今まではそれほど明確にこの違いを意識することはありませんでしたが、ここにきて、意識が静寂で明らかなものになってきたことで違いが明確に認識できるようになった気が致します。<br /> <br /> かなり昔は雑念に「襲われる」と言う感じで、私の周囲を雑念が完全に覆い隠すと言う感じでした。私の意識全てが雑念に囲まれて逃げられなくなり、攻撃されているかのようでした。実際、攻撃を受けていたのかもしれません。それも、ヨーガを始めてクンダリーニが動き出してからは段階的に、劇的に違う感じのものに変わってゆきました。<br /> <br /> 今は、雑念はラジオのようなものです。雑念が聞こえてきても、途中で不意に、ラジオのボリュームを誰かが小さくしてくれたかのようにどんどんと音が小さくなっていって消えてしまいます。一旦消えた雑念はもはや聞こえてきません。そして、雑念が何だったのかもすぐに忘れてしまいます。雑念が現れると同時に消えるシャルドルの状態なのかな、と思います。<br /> <br /> これは五感がなくなってしまったわけではありません。むしろ逆に、目や皮膚の感覚が明確に心の奥底が直接的に感じられている状態です。今までは雑念があったことで五感の感覚が心の奥底に届くのを妨げられていて、今はより直接的に五感を感じられています。雑念が出てもすぐに水が太陽に照らされて蒸発するかのように消えてゆくので、雑念が消えたあとはまた五感の感覚が直接的に心の奥底に伝わるようになります。<br /> <br /> 思考というものも明示的に意思の力で働かせることができますので、意思がなくなったわけでもありません。ただ、自動的にやってくる雑念に惑わされにくくなったというだけのことです。<br /> <br /> ただ、それでも溜まったカルマによるトラウマは時々出てきて、一瞬はそれに囚われて苦痛の表情や声に出そうになる時もあります。しかしながら、それも5秒や10秒もすれば蒸発するかのように消えてゆきます。これは今生の目的の1つがグループソウル全体のカルマの精算ですから、ある程度は仕方がないと思っています。私の個人でそれほど重荷に感じることはない、と言われています。今まではこれがかなり負担でしたが、シャルドルの状態になったら割とすぐに解消してくれるので大した負担ではなくなりました。<br /> <br /> そして、また静寂の意識の中に戻ってゆくわけです。<br /> <br /> Sat, 19 Sep 2020 00:00:00 +0900 アートマン(真我)を安定させてヴィパッサナーの観察状態に至る https://w-jp.net/2020/2090/ <br /> 先日の続きです。<br /> <br /> 瞑想をして、「わたし」が肉体の体と一致すると、その時、スローモーションのような微細な細かな動きと感覚が奥深いところにある「わたし」に伝わってきます。その時、まだ慣れていないのか、同時に「自我」としての私も少し動きますので、自我が動いてしまったら一旦動きをやめて、奥深いところにある「わたし」だけが動いて体の感覚と一致するように少しづつ意図します。自我が動いた時は一旦また集中瞑想に戻り、緊張が少し出てきた時には静寂の境地が現れるまで一旦は落ち着きます。そして、静寂の境地に達したら、再度、奥深いところにある「わたし」を動かして、肉体の体を一致させます。<br /> <br /> おそらくはこの奥深い「わたし」のことを「アートマン(真我)」と呼んでいるような気が致します。<br /> <br /> 「悟りに至る十牛図瞑想法( 小山 一夫 著)」には、Step6として「心身脱落から真我の安定へ」が説明されています。<br /> <br /> まず考えるべきは安定度だと言えよう。(中略)身体の中府に安定させ、その後「止」がさらに深まり、「観」の働きが高まった時に、真我が観照できるのだ。「悟りに至る十牛図瞑想法( 小山 一夫 著)」<br /> <br /> アートマンを肉体と合わせるようにして安定させる。そこがポイントのような気が致します。<br /> <br /> おそらくはこのことが達成できるとスローモーションのように体の動きを感じるヴィパッサナー状態になるのかな、と言う気が致します。<br /> <br /> 十牛図のステップと比べると私の状態は完全には一致していませんけど、この部分の記述はとてもよく似ていて、参考になります。おそらくはここに至るまでの道筋はいくつもあるのかな、と言う気も致します。<br /> <br /> シャルドルの段階とこの段階との対応も興味深いです。シャルドルに至って雑念が太陽の光を受けて蒸発するかのように消えてゆく境地に達し、真っ白い平らな大地の少し上に浮いている境地の瞑想に達しましたが、その時、私は白い平らな大地の方ばかり目が行っていましたが、その上に「わたし」がぽっかりと浮いていたと思います。その「わたし」の方は私はスルーしていたのですが、この十牛図瞑想法の本の記述を見ると、もしかしたらその時に見えたぽっかりと浮いていた「わたし」こそがアートマンだったのではないか、と言う気がしてきます。どうでしょうね? あんまり重要なところではないかもしれませんけど、同じような記述のような気が致します。そのように考えると階梯も割と似通っている気も致します。<br /> <br /> 十牛図瞑想法の本のこの後のステップもわかりやすく、今後はこのアートマンを更に安定させて活性化する、と書いてあります。これは私の中でおそらくそうなのではないか、と思っていたことと一致します。と言いますか、少し前にこの本を何度も読んでいましたのであまり記憶に残っていなかった箇所ではありましたけどなんとなく覚えていたのかもしれませんね。その時はピンときませんでしたけど、今読むと、とても本質的で正しいことがぎっしり書かれてあるように思います。ただ、流派の独特の記述も多いので最初はわかりにくかったと思います。今はある程度は読み飛ばして確認したいところだけ読んでいます。<br /> <br /> これは、次のステップも明確ですね。ゾクチェン的にもシャルドルの次の段階はランドルで、その辺りと対比して見ていくと良さそうな気が致します。<br /> <br /> Fri, 18 Sep 2020 00:00:00 +0900 体と「わたし」が一致する感覚のヴィパッサナー状態 https://w-jp.net/2020/2089/ <br /> 先日の続きです。スローモーションのように体の動きを感じられるようになりましたが、その状態の時は「わたし」という感覚が「(肉体の三次元的な)体」と一致しているような気が致します。<br /> <br /> これは説明を要するかもしれません。<br /> <br /> スピリチュアル等で、「わたし」は体ではない、と散々言われてきた方もいらっしゃるかもしれません。本当の「わたし」は肉体の体ではなく魂の方であって体は仮の姿に過ぎない、と。確かにそれはその通りなのですが、ここでは、私が感じたそのままの感覚を表現しています。<br /> <br /> 更に、もう少し説明がないと混乱してしまうかもしれません。<br /> <br /> まず、大きく分けて2つの潮流があります。<br /> ・プラティヤハーラこそが悟りとする流派。主に顕教。<br /> ・サマーディを悟りとする流派。