スピリチュアル https://w-jp.net/topics/スピリチュアル/ スピリチュアル 瞑想中に聞こえてきた真言宗っぽいマントラ https://w-jp.net/2020/1895/ <br /> 古代のマントラを唱えていましたところ、それに被せるように違うマントラが頭に響き、それと同時に、そのマントラがもともと掲げてあった真言宗のお寺の映像記憶が蘇ってきました。<br /> <br /> マントラ<br /> 「オーム、アジカリムン(アジカリウム? アジカリアム? アヂマリカム?)」<br /> <br /> どこのお寺だったでしょう? 真言宗っぽいのですが、真言宗の神様のマントラ一覧には空らしきものは見当たりません。私が最近旅行した先で撮ったそれっぽい写真の記録をいくつか確認してみましたが載っていません。<br /> <br /> 古代のマントラを唱えていた時は頭上から下半身まで満遍なく反応していたのですが、こちらのマントラでは主に眉間が反応します。<br /> <br /> 今回は、あぐらで座ってプラナヤーマの呼吸法をしながらクンバカをして古代のマントラを心の中で唱えていたら上記のマントラが聞こえてきたのです。<br /> <br /> 一瞬聞こえただけですので、本当の発音をきちんと確認したいのですけど、これの出所がわからないので困ってしまいます。<br /> <br /> そういえば、足首を骨折して入院中に病院の椅子から窓の外を眺めている時にもマントラが聞こえてきました。<br /> om rama sri rajinisi namaha<br /> om sri bagabante namaha<br /> <br /> まあ、この後、退院した後にアナハタ優勢になったわけですので、今回もマントラが何かの鍵を握っているかもしれないですね。<br /> <br /> ・・・書籍にも載っている気がして、家にある蔵書を色々と調べてみました。すると、真言宗ではなく神道系の書籍に載っていました。<br /> <br /> 「アヂマリカム」「神道の神秘(山蔭 基央 著)」<br /> <br /> この本では祝詞「大神呪(だいじんじゅ)」の最後に載っており、「オーム」はついておりませんでした。私が聞こえたのはオーム付きです。<br /> <br /> この言葉の意味は載っていませんね。神道系の筈なのに私がヴィジョンで見たのは真言宗っぽいお寺でした。まあ、お寺も神社も昔はそんなに区別ありませんでしたので一緒といえば一緒かもしれませんけど。<br /> <br /> ですが、私が聞こえて眉間に反応があるのは最初の方で、本の通りに読んでも微妙な感じです。本のまま師匠なしに真似すると危ないかもしれないので微妙に発音を変えているのかもしれませんし、あるいは、人によって合う合わないがあるのかもしれませんが。<br /> <br /> Fri, 10 Apr 2020 00:00:00 +0900 みんな悟っている https://w-jp.net/2020/1894/ <br /> アナハタ優勢になって以来、万人が悟っているように感じるわけですけれども、悟っている筈なのにおかしな行動するのはどうしてでしょう、というのが最近の謎でした。<br /> <br /> 悟っている筈なのに何かに悩んでいたり、誰かを罵ったり、小さなことでマウンティングして優越感を感じたり... 悟っているのでしょう? なんでそんなことするのでしょう?<br /> <br /> これって、私が見えている錯覚なだけなのかもしれません。そんな疑問を長らく持ってきました。<br /> <br /> 世界というものは「わたし」という鏡を通じて映し出されたものであり、そこにあるのは真実の姿ではないような気もしてきました。<br /> <br /> よく、ヨーガでは3グナと言ってタマスが視界を覆い隠して愚鈍にしている、なんていいますけど、タマスだけでなく活動的性質であるラジャスや純粋な性質を持つサットヴァですら視界を覆い隠して活動的にしたり純粋にしたりする性質を持つのではないかという気がしてきました。<br /> <br /> どうも、最近のヴィパッサナーを続けるうちに、それらの性質が何物なのかという理解があらわになってきたような気が致します。<br /> <br /> 具体的には、以前は単純に「みんな悟っている」と思っていたわけですけれども、その後、ヴィパッサナー状態でスローモーションの認識を続けるうちに、どうやらスローモーションのヴィパッサナー状態においては「みんな悟っている」という感覚がないことに気が付いたのです。<br /> <br /> それよりも、スローモーションのヴィパッサナーに相応しいのは「ありのまま」という感覚です。<br /> <br /> と、いうことは、ですよ。このスローモーションのヴィパッサナー状態はゾクチェンでいうところの「むきだしの心(リクパ)」であるわけで、その状態で「みんな悟っている」という感覚がないということは、「みんな悟っている」という感覚は本来の状態ではなく錯覚であった、という仮定が成り立つわけです。<br /> <br /> 「みんな悟っている」という感覚が本来の状態であればスローモーションのヴィパッサナー状態において同様に「みんな悟っている」という感覚がある筈です。それがないということは、その感覚は上記のように覆い隠している性質による錯覚であったのではないか、と思うわけです。<br /> <br /> 「みんな悟っている」という感覚は、私にとって全ての人がいわゆる清浄な明確な明らかな意識を持っていると知覚されているわけですが、現実はそんな筈はないので、そのように認識しているのであれば錯覚なのではないかと推測できるわけですが、今まではその根拠がいまいち不明確でした。<br /> <br /> しかし、最近のスローモーションのヴィパッサナー状態で観察を続けるうちに、やはり上記のようにそれは錯覚なのではないか、という認識が育ってきました。<br /> <br /> それよりも、上記のように「ありのまま」という言葉の方が今はしっくりきます。<br /> <br /> ゾクチェンの詩に以下のようにあります。<br /> <br /> 多様な現象の本性は、不二だ。<br /> ひとつひとつの現象も、心の作り出す限界の彼方にある。<br /> あるがままのものを定義できる概念などありはしない。<br /> にもかかわらず、顕現はあらわれ続ける。すべてよし。<br /> 一切はすでに成就しているのだから、努力の病を捨て去り、<br /> あるがままで完全な境地の中にとどまること、それが三昧だ。<br /> 「ゾクチェンの教え(ナムカイノルブ 著)」<br /> <br /> であれば、「全て悟っている」という心の作り出す幻影を捨て去り、あるがままの境地である三昧(サマーディ 、ヴィパッサナー)に留まることの方が大事であることがわかります。<br /> <br /> <br /> <br /> Thu, 09 Apr 2020 00:00:00 +0900 ネイティブアメリカンでセージ(薬草を扱う医師)として生きる https://w-jp.net/2020/1893/ <br /> 私はしばらく忘れていましたけど、子供の頃に幽体離脱した時に過去生も見て、セドナ近くでネイティブアメリカンとして生まれ、セージ(薬草を扱う医師)をしていたことを思い出しました。<br /> <br /> 思い出したきっかけは、私が少し前にセドナに旅行した時のスピリチュアルなカウンセラーの一言です。特に過去生を聞いたわけでもないのですが、見てもらったら「あなたは昔、ここに住んでいたことがあります」と言われて、その一言で色々と思い出したのです。<br /> <br /> 記憶は幽体離脱後にもしばらくあったのですが、さすがに何十年も経っておりましたので忘れていました。それが、ふとした一言で思い出したのです。<br /> <br /> 私は数字として年代は大雑把にしかわからないのですが、そのカウンセラーは約270年前と言っておりましたので1720年前後かと思われます。<br /> <br /> これは、私の記憶とも被ります。おそらく1700年ごろに生まれて1720年頃はまだ若くて妻も子供もいて、おそらくは30歳前後で白人が攻めてきて銃で殺されたかと思います。妻や子供も皆殺しで、私は幽体で空から家族が白人に殺されるのを見ておりました。泣き叫んで白人が乗った馬から逃げようとした妻が行く手を阻まれて子供もろとも銃で殺されたりしました。<br /> <br /> ですから、最初にアメリカに旅行や出張で行った時はその時の記憶が出てきてしまい、白人を許す気になれなかった、ということもあります。今は落ち着いてきてそうでもありませんが、どうも、時々、私を殺した白人の顔がチラつくことがあります。<br /> <br /> 当時、私が生まれた頃の村は平和そのものでした。白人が来ることもほとんどありませんでしたが、青年になって家族を持って子供も生まれた頃、白人がぽつぽつとやってくるようになりました。<br /> <br /> 最初から攻めてきたわけではありません。最初は普通にやってきて、ことあるごとにインディアンの文化を馬鹿にして行ったのです。私は薬剤を扱うセージでしたが、白人は唯物論者でしたので、葉っぱなんか飲んで治るわけがなく、化学物質を使わないと治らない、と言ってことあるごとにインディアンの薬を馬鹿にして笑い物にして帰っていったのです。<br /> <br /> あの人たちのやり方ですが、最初は薬を無料で配るのです。そして、そのうち頼るようになったらお金や何かをごっそり持っていくようになるのです。今回の場合、トレードで財産を奪うよりは銃で丸ごと奪った方が効率的だという判断になって村ごと虐殺されたようです。<br /> <br /> まあ、それでも虐殺までは10年かもっと時間の猶予があったと思います。さすがに奥地までは一気に攻略できないでしょうし、攻めるとすれば一気に来るでしょうし、攻め始めたら警戒されるので調査の段階では奥地までそれとなく来ていたのでしょう。<br /> <br /> 薬を無料で配られた時、私はその村のセージ(医者)でしたので、古来から伝わる薬剤の代わりにその化学の薬を代わりに村人に配るようになりました。実際、よく効いたわけです。<br /> <br /> 私はよく効くと思ったのですが、特に村の老人、お婆さんやお爺さんのような年代に言わせると、昔ながらの薬の方がいい、と言っていました。私はセージ(医者)でしたので、そういうものかな、と思って、それで効果があると言っているのだから... ということで希望に沿った薬を調合していたように思います。<br /> <br /> 今、医者と言うと診断をして薬を調合して... というあたりになりますが、当時のネイティブアメリカンの医者は、もう1つありました。「祈り」です。<br /> <br /> まあ、「祈り」とは言っても随分と騒がしいもので、踊りや歌のようなマントラのような不思議なメロディを何時間も口ずさんだり太鼓のような楽器を使ったりして踊りながら患者を励ます、というものでした。<br /> <br /> 日本で想像する「祈り」というとキリスト教徒が教会でするような静かな祈りですが、この場合の祈りは念を口に乗せて口ずさんで音に出し、患者の生命エネルギーを高揚させて魂というかオーラのレベルで治療するというものでした。<br /> <br /> メロディはさすがにほとんど覚えておりませんが、雰囲気だけは覚えております。随分と騒がしくて、村中に響き渡るものでした。それを、患者の具合が良くなるまで続けるのです。手を上下に上げ下げしたり半腰になって患者のベッドの周囲を歩き回ったりして、面倒を見るこちらも汗だくになるくらい大変なことでした。<br /> <br /> 時には半日、時には1日中面倒を見て、その間、患者が苦しんでいたらそれを助けるために踊りや祈りの歌を頑張り、精神的に助けていたわけです。薬だけでも治ることもありましたが、辛い時に近くにいて心の助けになるための職業だったわけです。<br /> <br /> それで、治ったらその家族から報酬として、物々交換のお金相当のような対価をもらったのです。<br /> <br /> 踊りといえば、祭りもとても楽しいものでした。足腰がものすごく強いので、半腰になって足や腰を物凄く細かくとても長い間激しく動かし続ける踊りを村人みんなでキャンプファイヤーの周囲で行うのです。<br /> <br /> 特に子供の頃は白人も来ていなくて、とても平和で、毎日が幸せだったように思います。特に祭りの日は最高でした。<br /> <br /> そうして成人になり、セージ(医者)を職業として選び、村の医者から調合法を学び、独り立ちして、妻をめとり、子供が生まれて、そして、白人が攻めてきて村人丸ごと虐殺されたわけです。<br /> <br /> アメリカにいる白人は、おそらくは私のような記憶を持った人に長らく恨まれているのではないかと思います。私は特別に白人を恨んでいるわけではありませんが、時折、その時の記憶が出てくることがあります。<br /> <br /> そういえば、村の長老は古来から伝わる秘密を代々受け継いでおりました。<br /> <br /> 私はそれほどの年齢でもありませんでしたし、それを引き継ぐ家系に生まれた訳でもありませんでしたのでその秘密の詳細は聞いたことはなかったのですが、噂は聞いてことがあります。それは星々を渡り歩く知識だったり未来の予言だったりしたと思います。<br /> <br /> 私は恐らく、殺される運命をあらかじめ知っていながら、それで十分かな、ということで転生を決めたような気が致します。 スピリットは時代を行き来できて時間を超えられるわけですけど、その時のスピリットの視点として前の人生の終わりの頃になるのが割と多いように思います。時空を超えることもできましたけど、選択肢としては時代に沿って経験することの方が多いような気が致します。<br /> <br /> 確か、その前の人生ではヨーロッパあたりで数学者か科学者か、頭をよく使う職業を選んでいたかと思います。それ故に、頭ばかり重視する人生を続けてきたためにバランスを取り戻したいと思い、自然と共に生きるネイティブアメリカンとしての人生を選んだようです。それを選んだ時代は既にアメリカに白人が詰めかけておりましたが、そのタイミングで転生したとしてもギリギリ、ネイティブアメリカンとしての人生を生きられて自然と共に生きる生き方を学ぶことができるので、殺されることを承知で転生したようです。<br /> <br /> ですから、ある意味、殺されることも受け入れてから転生を決めたわけですが、そうして決めて受け入れて転生したとしても、実際に殺されるとかなり後味悪いもので、後に引くことになります。殺されることは、さすがに理屈ですんなりと割り切れるものではありません。<br /> <br /> まあ、それはあくまでも過去のお話で、今は基本的にそんなこと気にしないで生きているわけですが、ふとしたことでネイティブアメリカンとしての人生を思い出すことがあるわけです。<br /> <br /> 家は茅葺っぽい感じの円錐でしたが、襲撃の日、私は家の中で薬か何かの準備をしていました。<br /> <br /> ふと、周囲から騒がしい音がして悲鳴が聞こえ始め、何事かと思って家の外に出たら、村人が逃げ回っていて馬に乗った白人に次々に殺されていました。<br /> <br /> 白人たちはネイティブアメリカンを馬鹿にした顔つきと喜びの雄叫びをあげながら銃を突きつけ、抵抗する者もあったが次々に銃で殺されていき、私の周囲で地獄絵図のような虐殺が行われていました。それを茫然と私は眺めていました。<br /> <br /> 抵抗することもできましたが、あっという間に殺されている武力の差や馬による機動力の差があり、何より、この日をあらかじめ予見していたために今日が最後の日だと悟りました。<br /> <br /> 他の村人には雄叫びをあげながら追いかけていた白人が、ふと、私の目の前にとぼとぼとゆっくり馬に乗って歩いてきました。逃げもしない私を観察しにきたようだった。その白人の顔はそれなりに覚えているが、逃げもしない奇妙なものを見る見つき... という感覚が30%ほど入った無表情で私を観察していました。逃げれば雄叫びをあげて追いかけるだろうが、逃げもしないのでどうしたものか、という感じが伝わってきました。<br /> <br /> 逃げを誘っているのはよくわかったので、私はこれが最後の時だと悟り、真っ直ぐに立ったまましばらくその白人の顔を見つめ、やがて、目を瞑った。<br /> <br /> そうすると、数十秒しただろうか。急に銃声が目の前で鳴り響き、私の頭、恐らくは眉間か顔に銃が1発貫通し、そのまま倒れてお亡くなりになった。一撃だった。何時も経たないうちにすぐに魂というか幽体が体から抜け出し、私の体を上から見下ろし、私を殺した白人の姿も同様に見下ろしていました。<br /> <br /> 私の家族が殺され、村人も虐殺され、私を殺した白人は全てを殺した後、馬に乗って、同じような無表情で立ち尽くしていました。<br /> <br /> その後、村のあった場所に白人が入居してきました。それは勝利の人たちであり、その家族もある種の笑いというかネイティブアメリカンに勝利したという、人を踏みつける心を持った人々だった。アメリカはこうして作られていったのだろう。その白人たちが、今、こうしてアメリカを支配しているのだ。野蛮な白人。それがその時の印象でした。<br /> <br /> 楽園のようだった村は消えて無くなり、白人の街だけが残った。それが、私の住んでいた村で起こったことでした。<br /> <br /> ・・・まあ、こういうのは、単なる夢かもしれませんし、子供の頃にどこかで見た映画を思い出しているだけかもしれません。本当かどうかはわかりません。しかし、あのリアリティはなかなか映画を見ただけで再現できるものだとは思わないのです。<br /> <br /> Wed, 08 Apr 2020 00:00:00 +0900 ピエタ像に宿った魂 https://w-jp.net/2020/1892/ <br /> ミケランジェロがピエタ像を作った時、もちろん肉体としては人間として生まれているわけですが、背後にいるスピリットの意図としては、そういう像を作ってその中でしばらく休憩したい、という気持ちがあったようです。<br /> <br /> 作成後、実際にスピリットが像に宿りました。しかし、あまりにも周囲が騒がしいのでゆっくりと休むことができず、結果としてはそこから出ることにしたようです。ですが、一部はまだ残ることを選んで、未だに魂がピエタ像に宿っているようです。<br /> <br /> 本当かどうかはわかりませんがミケランジェロのグループソウルに織田信長もいて、争いで疲れてバチカンで余生を過ごそうと思ったのに教皇が金の亡者で失望し、ミケランジェロにしても教皇の度重なる無茶な要求に疲れており、スピリットは時空を超えておりますので時系列としては前後するのですが、ミケランジェロに像を作らせて、ミケランジェロ自身の余生... と言いますか、時系列で並べると死後にスピリットが像に入る、というようにも見えるのですがスピリットは時空を超えておりますのでミケランジェロが像を作りながらそのスピリットがインスピレーションを与えて像を作らせてその中に死後の、と言いますか、時空を超えて同時代に存在している... という言い方も本当は違ってスピリットは時空を超えて普遍的に存在しているのですが、そのスピリットがミケランジェロのピエタ像の制作に関わって、その中に入って休もうとしたようなのです。<br /> <br /> 実際に入ったのは、色々とあって疲れておりましたので、休みたかった、ということのようです。ゆっくり休むための場所として、彫刻の中であればゆっくりと休めるのではないか、と思ったようです。<br /> <br /> 実際、ある程度は休めたものの、それだけで悟りを得られるほどの安らぎは得られなかったようです。数十年、あるいはもっと短かったでしょうか。一部は数百年のような気も致しますが、少しずつそこから抜け出て、一部はグループソウルに合流したり、あるいは別の転生をしているようです。<br /> <br /> どうやら、まだ一部のスピリットはピエタ像に残って眠っており、それはある種の謎というか鍵を握っているとのことです。いま、ピエタ像はバチカンにあるようですが、そのミケランジェロのピエタ像に約500年の間眠り続けているスピリットが、今後、動く可能性があるとのことです。<br /> <br /> 動くとするならば、ミケランジェロや織田信長、あるいはジャンヌダルクなどの系統を継いだ魂として何か使命を帯びる可能性がありそうです。<br /> <br /> Tue, 07 Apr 2020 00:00:00 +0900 コロナ後、地のエネルギーの淀みが減りました https://w-jp.net/2020/1891/ <br /> 以前は割と地のエネルギーに気持ちの悪いものを感じておりまして、天のエネルギーを主に取り入れようとしていたわけですが、コロナ後は地のエネルギーの淀みが減ったような気が致します。<br /> <br /> いわゆるグラウンディングというものですが背筋に沿って天と地をエネルギーの柱で結ぶわけですが、地の方に伸ばすと気持ち悪いものが入ってきますので下側にはあまり伸ばさないようにしておりました。<br /> <br /> しかし、ここ最近は下に伸ばしても平気です。さすがに愛に満ちているという感じではまだないようですが、おそらくは、地球というか私の住んでいる地域に溜まっている悪いものが随分と減ったような気が致します。<br /> <br /> これはたまたまタイミングが合っただけかもしれませんが、おそらくはコロナによって経済活動が滞ることによって人々の活動が抑えられ、それによって、悪しき想念の放出も減っているのではないかと思います。<br /> <br /> テレビやネットではコロナの悪い恐ろしいニュースが溢れていますけど、実際のところ現時点ではそれほど深刻な事態には日本の場合はまだなっておらず、その前段階の嵐の前の静けさなだけかもしれませんけど、それでも、波動的に見ると随分とこの地域の土壌は浄化されたように思います。<br /> <br /> おそらくは、テレビやネットの悪い情報もネガティブ要因としてあるのですけれども、通常の経済活動などが原因によるネガティブの方が量としては遥かに大きいのではないでしょうか。テレビやネットのネガティブ情報が減ったとしても、もともと通常運転で垂れ流していた不満やネガティブや怒りの想念が激減したために総量としてはネガティブが減ってきているのではないかと思います。<br /> <br /> まず通勤によるストレスが激減しておりますし、勤務時間にしても適正な管理ができるようになった職場も多くあるように思います。もちろん職を失った方も大勢いらっしゃいますが、それはあくまでも経済活動のお話で、経済的には悲惨な不況がやってきていることは事実だとは思いますが、その結果として人々の活動が停止してゆっくりになり、それ故に土地に撒き散らすストレスも減っているのではないかと思います。<br /> <br /> もともと地球がオーバーユース(使い過ぎ)で悲鳴を上げておりましたので、しばらくは休憩のための病気とも解釈できるのではないでしょうか。<br /> <br /> 人の命は大切で、人命は助けるべきだとは思いますが、ここのところの経済活動により、例えばアマゾンでは毎日、東京都ほどの土地の森林が失われていると言います。それが経済活動がストップしたことで緩やかになるとすれば、そのアマゾンの生態系に住んでいた生物を救ったことにもなりますから、全てはバランスであると言えます。アマゾンはおそらく、直感がいうところによれば、ある程度であれば熱帯地方であるので雨季などに森林は復活するとのことで、そこまで心配はいらないのですが、生物の方は可哀想であると言えます。まあ、アマゾンは復活する力があるものの、さすがに毎日、東京都ほどの森林が失われると取り戻せなくなるのでこのあたりで休憩を入れたのは良かったようです。まあ、これは夢の中で言われたことですので本当のことかどうかわかりませんけどね。<br /> <br /> 少なくとも、私の住んでいる日本の都市圏においては、土地のエネルギーが少しずつ回復してきていると言えます。<br /> <br /> 少し前から首都圏イヤシロチ計画なんて言われていますけど、今回のコロナは計画には含まれていなかったようですが、それでも、コロナによって随分と土地が浄化されたことによりイヤシロチ計画が随分と進んでいると言います。これまた夢や瞑想で聞いたことですので本当のことかどうかわかりませんけどね。<br /> <br /> Mon, 06 Apr 2020 00:00:00 +0900 エネルギーの柱が下方まで通じる https://w-jp.net/2020/1890/ <br /> 先日の続きです。<br /> <br /> そうして古代のマントラを唱えていると胸のあたりにまで感触が出てきたわけですが、そのまま続けていましたところ、お腹のマニプラのあたりも同様になってきました。そうするうちに会陰のムーラダーラまで伸びて行きました。頭から会陰まで、濃紺はありますがエネルギーの柱が繋がったような気が致します。<br /> <br /> いわゆるチャクラ、後頭部の松果体あるいは脳下垂体の近くや胸、お腹が特に濃い部分です。<br /> <br /> マントラの後半部分で頭から下半身まで繋がる感じでしたのでそこだけ繰り返し唱えたりしました。<br /> <br /> そうこうするうちにマントラの全体を唱えたりしましたところ、頭の上の方にまで少し感触が出てきました。<br /> <br /> このマントラが載っていた書物によりますと、マントラの前半部分は高次の意識を表していて、後半部分がそれよりは低次の意識に影響を与えると言います。少し前まで前半部分と後半部分の区別をあまりしていなかったのですが、ここ数日は後半だけ唱えてみたりしてその違いを感じ取りました。<br /> <br /> 同書では、音節数によって繋がるものが違うと言います。同マントラは現代では6音節と4音節ですが、古代の唱え方ではオームはAum(アウム)と二音節になり、前半部分は7音節、後半部分は6音節になると言います。<br /> <br /> そして、それこそが意識の変貌を司る鍵だと言うのです。<br /> <br /> ”蓮華の宝石”の目覚め、活発化は、一部の者によって次の様に考えられている。すなわち、第六感の目覚めは、マントラムの第二句(オーム・タット・サット・オーム)を正確に唱えることによって、その人の肉体および心に聖なるものの悟りと霊的知覚、霊的意義を受けさせてくれる。これが第三の目の一つの開眼であり、第三の目を開くと、その人の五官感覚のほかに霊的な感覚が加えられるのである。しかし、もし、第七感を目覚めさすと、つまり、蓮華の中の宝石を見出すと、感覚の世界を超えて上昇し、すべての存在の絶対的根源と一体となる。これが最も望ましいことなのである。「ヨガの真義(M.ドーリル著)」<br /> <br /> これは、最初に読んだときはそんなものかな、と思っていたのですが、ここ数日の感覚の変化を見ますと、なかなかこの記述は本物のような気がしてまいりました。<br /> <br /> Sun, 05 Apr 2020 00:00:00 +0900 古代のマントラによる瞑想で胸に変化 https://w-jp.net/2020/1889/ <br /> 古代のオームの唱え方でマントラを唱えていましたところ、胸のあたりに感触が出てきました。<br /> <br /> もともとクンダリーニがアナハタ優勢になって以降は胸のあたりにエネルギーは満ちていたのですが、今日は、その中心に核というか空間というか部屋というか、心臓の形をした空間がぽっかりと浮かんできた感じが致します。<br /> <br /> 特に胸のアナハタを意識していたわけではなくて、基本は眉間や後頭部の方の松果体の周辺を意識してマントラを唱えつつ瞑想していたわけですが、この古代の唱え方をする際はいつも頭の中の何かがバリバリと割れて破片に別れるような感じをしているわけですが、それが今日は胸のあたりで起こりました。<br /> <br /> マントラを唱える前は特にそこが強張っているだとかそういう感触はなくて、瞑想を始めるとまるで地震の時に地面が揺れるかのようにもともと止まっていたものが液状化現象のようにグラグラと動き出して割れ目が現れるのですが、今日は、それが胸のあたりで起きました。<br /> <br /> このマントラで以前はアジナ優勢に変化したわけですが、その後はそれほどこのマントラを重視していなくて頭頂のあたりが開いた際もこのマントラに頼りきっていたわけでもないのですが、どうやら、効果を見るとこのマントラの効果が地味に効いていたような感じも致します。<br /> <br /> 古代のチベットのマントラは前半と後半があって、どうやらアジナとかに効くのは前半部分のような感じが致します。後半部分はアナハタに効く感じですね。個人的な感触による主観ですけどね。<br /> <br /> その後、その感覚は変化して、割れ目というよりは流動的な塊が頭の中と胸の中にできた感じです。<br /> <br /> 更に様子を見てゆきます。<br /> <br /> Sat, 04 Apr 2020 00:00:00 +0900 神道による簡単な審神者の方法 https://w-jp.net/2020/1888/ <br /> 審神者(さにわ)とは霊感によって得られた知見が正しいかどうか判断することで、古来は古神道などで神託が正しい神によるものなのかそれとも邪霊や獣のいたずらなのか判断することです。<br /> <br /> 水を使った方法とか流派ごとに色々あるようですが、以下のような簡単な方法があるようです。<br /> <br /> 「汝と今の私に、何の関わりがあるのか」と問いかける。「神道の神秘(山蔭 基央 著)」<br /> <br /> これは山陰神道によるもので、普通の人でも簡単に見極めができるいい方法のような気が致します。<br /> <br /> 同書には更に以下のようにあります。<br /> <br /> 初期の雑念は他愛もないものだが、修行が進んでくると、まことしやかに立派な言葉が心に湧いてくる。実はそれも雑念であることがほとんどである。思いつきが、神の掲示や霊示の形で湧いてくるから始末が悪い。だから、霊示・掲示を受けたと思われる時には、それを審判(審神・さにわと言う)しなければならない。「神道の神秘(山蔭 基央 著)」<br /> <br /> 水を使った方法は遥か昔に見聞きしたものではっきりとは覚えていないのですが、波の立たない状態の水を桶のようなものに用意して、その表面を眺める、みたいなものだったような気も致します。<br /> <br /> きっと他にも色々と方法があるのではと思いますが、古神道にはそれほど詳しくありませんのでこのくらいです。<br /> <br /> スピリチュアルや魔女系ですと審神者ってあまりしない気が致しますね。魔女系の場合はちゃんと視界(というか霊視)で相手(というか霊)を見つつ話をしたり体を抜け出て幽体離脱で見極めますのでかなり正答率が高いと思いますし。<br /> <br /> Fri, 03 Apr 2020 00:00:00 +0900 料理の痛みと食べる感覚 https://w-jp.net/2020/1887/ <br /> 先日の続きです。植物を傷つけるとハートが痛むようになってしばらく経ちますが、生ものの料理をするのもなかなか厳しくなってきています。<br /> <br /> 例えば、レタスやキャベツ。何日か置いて野菜の意識がなくなったものならばいいのですが、新鮮であれば新鮮であるほど葉っぱをちぎったり包丁で切った時に「痛い! 痛い!」と野菜がその度に何度も叫び、それが私のハートに突き刺さって苦しいです。最初は大声で叫んで、そのうち失神するかのように痺れた感覚が伝わってきます。レタスよりキャベツの方が痛がる感じが致します。<br /> <br /> ですから、何日か冷蔵庫に入れておいて大人しくなってからキャベツやレタスを食べることにしています。栄養的には新鮮な方がいいのかもしれないですけどね。<br /> <br /> お肉に関しては既に死後しばらく経っているので、その点、料理の時に「痛い」と叫んで来ることはないように思います。しかし、先日のようにお肉や卵など動物性の食材は「恨み」がこもっている時があるような感じがいたします。ですので、なるべく避けております。<br /> <br /> ですから、料理をする際には新鮮な食材を避け、食べる際には動物性のものを避ける、という感じがいい気がしております。<br /> <br /> アユールベーダによると牛乳やチーズなどはあまり良くないと言うお話も聞きますけど、栄養バランス的には私はチーズをよく取っています。チーズは「痛い!」と叫んだりしませんからね。美味しく頂けます。<br /> <br /> 野菜にしても、ものによって叫んだり叫ばなかったり。お芋系は大人しい感じが致します。お米も問題ないですね。小麦も平気な感じです。<br /> <br /> 自然野菜の信奉者やベジタリアンの人は野菜の選び方で新鮮なものを選んだりしますけど、私は上記のような理由で新鮮な野菜はものによっては苦手です。食べる方は平気ですけど。<br /> <br /> 新鮮な野菜で誰かに料理を作ってもらって自分は食べるだけ、と言うのがいいのかもしれません。<br /> <br /> 料理で自然食を推す人がいますけど、これは物質とオーラを別に考えるべきで、物質的には自然食は色々と混ざっていてバイ菌が増殖しやすいので食材の管理や調理に気を付けなくてはならず、実は物質的には工場で作られた食材の方が安全で栄養価が高かったりします。<br /> <br /> しかし、実際のところ食べ物で取り入れているのはオーラの方が重要で、食べ物に備わっているオーラの量で見たら自然食の方が遥かに多いです。ですので、食材としては危険であっても自然食のオーラの方が好ましいことが多いです。<br /> <br /> 自然食の方が人間の手が一つづつ作っていますので、作っている人間のオーラが食材に乗ります。冷凍食品であってもフライパン等で温めるだけで美味しさが違うのは料理人のオーラが冷凍食品の中に宿るからです。<br /> <br /> 安全と栄養価を考えるならば工場の食品ですが、オーラ的には手作り料理になるわけです。<br /> <br /> 人間は意外に丈夫ですので、新鮮な自然食品が入手できて調理にも手間をかけられるのであればそうすれば良くて、ですが、料理をする際に上記のように食材が痛がりますのでそれにも本当は気をつけるべきだと思います。<br /> <br /> 肉食はかわいそうだからベジタリアンだと言う人もいて、基本的には同意しますけどベジタリアンにしても食材が痛がるのですからある程度は一緒だと私なんかは思います。それは程度問題でもあって、どちらにせよ人間は何かを食べないと生きられないのですから食べるならなるべく植物の方がいいと思います。<br /> <br /> これを人間が生きる上で必ず犯す罪のようなものだと解釈したこともありますし、それがいわゆる「原罪」のようなものだと言うような解釈もできるのかもしれませんけど、植物の中には人間に食べられても気にしないものも多い感じなので、まあ、いいのかな、と最近は一応解釈しております。この辺りはまだ謎が多いですけどね。結局は食物連鎖の理屈は正しいのかなと思ったりもしますが。今後、まだまだ様子見のところです。<br /> <br /> Thu, 02 Apr 2020 00:00:00 +0900 聖なる器としての体 https://w-jp.net/2020/1885/ <br /> 先日の続きです。<br /> <br /> 体も同じこと。体を浄化してゆくとそれは聖なる器となり、神... というかスピリット、自らの高次の自分、自らのグループソウル、言い方は多様だが同じことで、そのようなものを受け入れる器になることができる。<br /> <br /> 私の内なるガイドによりますと精神修行の基本はここにあって、高次のスピリットを受け入れることができる器になるまでが第一段階とも言えるようです。<br /> <br /> その次がスピリットとしての人生を開花させる段階であるようです。<br /> <br /> いわば、器としての自分を育てるまでが低次の自分であり、それはヨーガなどの階梯に合わせるとサマーディ段階まで。サマーディの後にアートマンとの合一とか呼ばれている段階がありますが、これは言い方を変えると神が器に宿る段階とのことです。<br /> <br /> ヨーガの定義には以下のようにあります。<br /> <br /> 1.3) 心の作用が死滅されてしまった時には、純粋観察者である真我は自己本来の状態にとどまることになる。「ヨーガ根本経典(佐保田 鶴治著)」<br /> <br /> この後半部分は多様に解釈できますが、神智学系の書物には以下のようにあります。<br /> <br /> 内なる神の認識に目覚める。(中略)魂との合一。「魂の光(アリス・ベイリー 著)」<br /> <br /> これは、文字通りそういうことなのかなと思います。<br /> <br /> 魂は最初からあるが覆い隠されていて、この段階になることで合一... と言いますか魂の意識、内なる神の認識に目覚めると言うことかなと思います。<br /> <br /> まず最初に自らの器を作り、それから神の認識に目覚めるのだと解釈できます。<br /> <br /> Tue, 31 Mar 2020 00:00:00 +0900 コロナとその続き https://w-jp.net/2020/1884/ <br /> 先日、あるお方がコロナでお亡くなりになる予感がしたわけですけれども、今日まで、きっとそれは気のせいだろうと思っておりました。しかし、NYの状況を見て、東京もNYのようになる前夜のような気がしてきました。<br /> <br /> そんな時、本日3月29日に雪が降ったのは神様のお恵みなのだろうと思います。本来は花見で大勢が外に出てコロナ大拡散になるところを雪で家に留めることで拡散を防止したのです。これを見ると、神様の意思としては日本人をそれほど殺したくはないのだな、と解釈致しました。そうでなければこのタイミングで花見の週末に雪を降らせたりはしないでしょう。<br /> <br /> ただ、最近の瞑想ではそれとは別に、もっと厳しいメッセージが降りてきています。<br /> <br /> ベーシックインカムは前回にも言及したわけですけれども、10万円とは行かなくても最低7万円くらいがボーダーラインだ、と言うメッセージを受けました。言葉と言うよりはインスピレーションに近いものです。家賃と基本的なインフラ料金がベーシックインカムの基準のようです。食事は働いて稼いで食べなさい、との意図のようです。もちろん贅沢品も自分で稼ぎなさい、と言うことだと思います。<br /> <br /> どうやら、神様の意図としては、人は殺したくはないけれども神の意図にそぐわないような世界は是正していくつもりで、コロナは他の神が起こしたことであるけれどもこの機会を利用するとのこと。だからコロナで殺したくはないがベーシックインカムなど神の意思が実現することを祈っている、とのことでした。<br /> <br /> 神は自身が直接この世界に手を出せなくて、人間の自由意志が尊重されている世界です。ですから何にせよ人間の同意が必要なのですが、神の意図を実現するためには何でもするよ、と、毅然とした態度で意思を示されました。<br /> <br /> コロナは他の神が起こしたので巻き込まれてしまい、収束を待ちますが、こちらの神の意図としては本来は地震と津波が得意技で、上記に示した月7万円のベーシックインカムのような神の意図がある程度実現されるまでは容赦しない、と言うことです。<br /> <br /> ですから、コロナが収束しても第二弾、その次、があるかもしれないとのことです。コロナでは人を殺したくなようなのですが、地震や津波ならばそれは神の選択の結果であるのでオーケーみたいです。今はまだ国民自身による目覚めを待っている状況で、地震と津波の決断を下す前に他の神が巻き散らかしたコロナがやってきたのでそれは意図していない部分のようです。もちろん上の方では繋がっていますが、日本に影響を与える神々はまだ選択をしていないようです。<br /> <br /> 日銀が3月に1兆3000億円も日経ETFを購入して上場企業およびそのオーナーにお金をばら撒きましたが、国民は飢えております。これは神の意思にそぐわないとのことです。具体的に言うならば、ソフトバンクのオーナーやユニクロのオーナーの懐を肥やすことは神の意思にそぐわない、とのことです。そうして勘違いをさせるから投資で失敗するのだ、と言うのもメッセージのうちの1つで、日銀が株価操作をしなければ勘違いを防いで身の丈にあった投資をしていてこんな火傷もしなかった筈だ、とのことです。日銀の政策が上場企業を勘違いさせて、それ故にこの状況で破綻の危機に直面しているようです。それを更に日銀が買い支えるのは神の意思にそぐわないようです。と言うか、そんなことに神は関心がないようです。<br /> <br /> 国民の10人の1人に10万円配っても1兆2000億円ほどで、日銀が3月にばらまいた金額とほぼ一致します。<br /> 神の意思としては共産主義にもしたくないようで、共産主義のような全体主義はよろしくないがある程度の生活の基盤は必要だとのことです。<br /> <br /> 現在の為政者が間違いに気付くまで新たな災害、それは人の命をなるべく奪わない方向でやりたいと思っていますが、次の事態を用意しているとのことでした。そして、現在の経済の仕組みでやりたい放題はさせない... と言いますか、勘違いをすれば必ず自滅するとのメッセージも頂きました。特に神が直接手を下さなくても、背伸びをして勘違いをすれば勝手に転ぶので放っておきなさい、とのことです。<br /> <br /> ・・・・これは私個人との見解とは基本的には別物ですが、同意するところも多いです。<br /> <br /> こう言うメッセージってどんな存在が言っているのかすぐにはわからない面もありますので、鵜呑みにすると危険です。古来は古神道などの「審神者(さにわ)」で見極めたものですけど、このメッセージは、まあ、一部は真実であると思うものの、全体的にその通りかどうかはまだわかりません。一部は私の意見が混ざっている部分もありそうな感じです。<br /> <br /> ただ、以前から私は東京オリンピックはないと思っており、その理由がコロナではなくて関東大震災の地震によるものでしたのでコロナが起きたときは予想が外れたと思っておりました。しかし、中止ではなく延期になったことでまたもや予想が当たる機会が増えました。おそらく関東大震災が起きたら早々に東京オリンピック中止を宣言するだろうと思います。あっけないくらいすぐに中止になると思います。この最後の部分は夢や幽体離脱で見たような気もしますが未来は変わりますので絶対にそうなるとは限らないのです。<br /> <br /> Mon, 30 Mar 2020 00:00:00 +0900 場をパワースポットに育てる https://w-jp.net/2020/1883/ <br /> 最近はパワースポット巡りが流行っているわけですけれども、それは精神的なものへの入り口として機能してはいますが、その先に、場を育てるというステージがあるわけです。<br /> <br /> パワースポット巡りというのは消費の文化で、場所に溜まっているエネルギーを分けていただくということです。そこに竜神や神様が座っていらっしゃって、そのエネルギーを感じたり場所の清浄な空気を感じにいくことです。<br /> <br /> パワースポット巡りは古くからは巡礼であり、祈りの気持ちを込めて行うものですが、最近は観光やスポーツ的になっているような気も致します。観光やスポーツで巡礼をする人が増えるほど神様や竜神が機嫌を損ね、そこに神様や竜神がいなくなってしまうとパワースポットではなくなってしまいます。<br /> <br /> 最初の最初は観光やスポーツ的でも構わない、と神様はおっしゃいます。しかし、来る人の割合が問題とのことです。少しの人が観光やスポーツ的で巡礼をしたところで、大多数が祈りの気持ちを持っていれば問題ない、ということです。そのくらい、神様は大目に見て下さいます。そのくらいの細かなことは神様は気にしません。ただ、割合が重要です。あまりにも観光やスポーツ的な人が増えると神様は不機嫌になります。不機嫌が過ぎると、そこから離れてしまいます。<br /> <br /> そもそも、最初に神様や竜神様はいらっしゃらなくて、最初は祈りだけがありました。<br /> <br /> その祈りが場を清浄にし、その範囲が広がることで神様や竜神様がいらっしゃることのできる土台が出来上がりました。そうして出来上がった場に、神様や竜神様が降りてきていただけたわけです。<br /> <br /> その土台である祈りをないがしろにしてパワースポット巡りと称してエネルギーを奪うような気持ち・・・ 本人はそうは思ってらっしゃらないかもしれませんが、祈りなくしてご利益だけを求めるような気持ちで参拝する人が増えれば増えるほど場は乱れてゆきます。そうするうちに清浄な空気はなくなり、神様や竜神様は何処かへ行ってしまわれるのです。<br /> <br /> このようなことはどうやら日本の各地で起こっているようで、登山禁止の巡礼の山にスポーツの登山で登る人が増えたことにより神様が怒って何処かへ行ってしまわれた、というような噂も耳にします。きっと本当のことなのでしょう。<br /> <br /> 逆に、自分の家やなんてことのない神社や仏閣であっても祈りの気持ちを込めて場を清浄にすれば神様は降りてきていただけるのです。<br /> <br /> それは建物の素晴らしさとはあまり関係がなく、清潔さというものは必要ですが、基本的には場の雰囲気、清浄な空気というものが神様が降りてきてくださる前提条件になります。<br /> <br /> 自分の家であるとか、精神的な鍛錬の会場は祈りを込めた人々が清浄にするにつれてどんどんとエネルギーが高まってゆきます。そうして神様が降りてきて頂けるようになるわけです。場を育てて、エネルギースポットに変えるわけです。<br /> <br /> 古来からの有名なパワースポットは現代のパワースポット巡りで想念の「ゴミ捨て場」になっているところが多くあります。そこで祈りを込める人が少なくなったからです。一方で、ゴミを捨てる人より祈る人の方が多い場所、それはエネルギースポットに変わってゆきます。<br /> <br /> 基本は自宅で、自宅がパワースポットになり、精神的な鍛錬な会場もパワースポットになります。<br /> <br /> それが基本で、パワースポットのエネルギーの高さを求めて彷徨うことは、上記のように現代はパワースポットが想念のゴミ捨て場になっているがためにあまりお勧めできない、と私の内なるガイドは示唆します。それでも、道を求めてパワースポットを巡ることは有益なのではないかと私は思ったりもするのですが、そこは、好きにすればいい、というのが内なるガイドの指示です。あまりパワースポットに行き過ぎずに、たまに導かれてゆくのは良いということなのかな、と理解しております。<br /> <br /> Sun, 29 Mar 2020 00:00:00 +0900 サマーディの不二の意識とシッディの謎解きの続き https://w-jp.net/2020/1882/ <br /> ヨーガでシッディと呼ばれるいわゆる超能力は悟りに至る副産物でありそれ自体を追い求めるものではないと良く言われます。ヨーガスートラでもそのようなシッディを求める態度を諫めております。<br /> <br /> 単語 シッディ は通常は力という意味だが、それは実際には進歩したヨーギの達成を意味 する。ヨガの力を習得することが目標ではないということを理解するのは生徒 にとって重要です。実際にそうではなく、そうすべきではありません。 それらは神に至るための努力の副産物です。 力だけを求めている人は自我に縛ら れ、最終的にこの浄化の欠如のために苦しんでいます。初心者の学生にとってはヨガの力を持つことはなかなか魅力がありますが、これは、力によって堕落 することがあるという理解に置き換えられます。最終的にそこで得られた力は、誠実なヨギにしてみたら単なる気晴らしや誘惑に過ぎないのです。「MEDITATION and Mantras(Swami Vishnu-Devananda著)」<br /> <br /> それはそうだなと思うのですが、実際、サマーディやヴィパッサナーとシッディとの関係が今ひとつ腑に落ちないでいました。<br /> <br /> 基本的にはサマーディから現れるとなっています。ゾクチェンによる理解でも同様になっていました。<br /> <br /> 今回は、そのゾクチェンの続きです。<br /> <br /> 前回では基本的な理解としてサマーディと二元論を超えてサマーディに至ることが確認できました。理論的にはそれでスッキリしました。<br /> <br /> 同書を更に読み込んでいくと、現在の自分の状態との対比がよく分かります。仏教でもヨーガでも悟りやサマーディが語られていますが、ゾクチェンほど悟りに至る境地を詳しく表現しているものを見たことがありません。<br /> <br /> ゾクチェンでは、基本的なサマーディ・ヴィパッサナー状態に達した後に何をすることで悟りに近づくのか明確に記してあります。<br /> <br /> 前回にも引用しましたが、まず、基本的な自分のサマーディ(三昧)の境地を日常生活のすべての行動に溶け合わせていくことが必要だと説明されています。<br /> <br /> 「セワ(sre-ba)」は、チベット語で「まぜる」ことを意味している。自分の三昧(サマーディ)の境地を日常生活のすべての行動に溶け合わせていくのである。「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」<br /> <br /> その後、前回に引用したようなチェルドル、シャルドル、ランドルと言う3つの能力が育ってくると言います。3つの能力を読むと色々と書いてありますけど、要はサマーディが深まってくる、と言うお話だと思います。<br /> <br /> そして、明確に以下のように記してあります。<br /> <br /> 二元論の幻影は終わり、主体と客体の再統合をつうじて、修行者には五つの神通(ンゴンシェ mngon-shes)、つまり五つの「高度の知覚」があらわれてくる。「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」<br /> <br /> ここで現れるシッディは仏教やヨーガとほぼ共通のもので、千里眼などの能力です。似たような説明はヨーガや仏教にもありましたが、ゾクチェンはことのほか分かり易いです。<br /> <br /> この経験が悟りに向かって深まっていくにしたがって、いくつかの能力があらわれてくる。だが、そういった能力がそもそも何なのかを理解するには、いかにして二元論の幻影が、諸感覚の主体ー客体の二極化によって維持されているのかを理解する必要がある。(中略)まず、視覚の場合を例にして考えてみよう。視覚は、視覚的な形態として知覚されるものと相互依存的に生じてくるし、また逆に、知覚される視覚的な形は、視覚能力と共に生じてくる。それと同じように聴覚と音はともに生じてくる。(中略)意識と存在は相互依存的に生じる。(中略)主体は潜在的に対象をふくみ、逆に対象は主体をふくみながら、二元論の幻影が自己を維持しているということ、そしてついには、意識をふくむあらゆる感覚が一体となって、知覚主体と切り離された外的世界の幻影をうみだしているようすが理解できる。「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」<br /> <br /> このお話、それ自体はヨーガや仏教でも語られています。しかし、シッディとは割と切り離された文脈で説明されているように思います。ゾクチェンではこの説明がシッディとサマーディのお話と有機的に繋がっているところが単なる理屈だけでなく実践者が多くいて生きている流派であることを感じさせるのです。<br /> <br /> まずサマーディ(ヴィパッサナー)の基本的な状態で二元論の克服の入り口に至り、次に日常生活とサマーディを統合することで「観察(ヴィパッサナー)、サマーディの別の面」に至り、観察(ヴィパッサナー)・サマーディによって「解放する(二元論の克服)」(チェルドル、シャルドル、ランドルの3つの能力)ことを深め、二元論の幻想が解かれる過程でシッディが現れ、そして悟りに至るわけです。<br /> <br /> ヨーガでは二元論の幻影の克服のお話が割と早い段階で論されますし割と有名なお話のようにも思いますが、それは本来はサマーディ後のお話であるわけです。<br /> <br /> この順番であるならばサマーディや二元論の克服なしにシッディだけ求めても無駄な努力に終わることが明らかです。可能であるとすればそれは修行ではなく魔術や秘術の類ですから私はあまり興味がありません。一方で、せっかく二元論を克服しかけたのにシッディに囚われると悟りへの道を踏み外すと言うのも良く分かります。<br /> <br /> ヨーガスートラなどではすごく簡単に、サマーディを達成すればシッディが得られる、としか書いておらず、仏教でも似たようなものだったのでなかなかに謎めいていたのですが、ゾクチェンはしっかりと書いてくれています。<br /> <br /> であれば、私は日常生活におけるヴィパッサナー(サマーディ)をこのまま続ければ良いことが分かります。<br /> <br /> Sat, 28 Mar 2020 00:00:00 +0900 経済活動とエネルギー https://w-jp.net/2020/1881/ <br /> 昨今はデフレ商売が大人気で、安い単価を回転数上げて販売することで利益を出すという経営手法が盛り上がっているようです。例えば床屋が従来は散髪2,000円のところを短い時間にして1,000円にして回転数を上げたり、レストランやバーを立食にすることで回転率を上げようとしています。<br /> <br /> 経済のことは経済学者が好きに論じればいいとは思いますが、私の興味があるのはエネルギー的な部分です。<br /> <br /> もともと美容師が1時間をかけて1人散髪して客が来なければ暇をしていた状況と、客が途絶えずに1時間に3人も4人も扱う状況ではエネルギー的には前者の方が消費が少ないです。<br /> <br /> 長い時間をかければ体力は使うにしても、体に宿っているエネルギーは平準するまで高い方から低い方に流れますから、1人散髪するとエネルギーがザーっと片方から片方に流れて平準します。1時間をかけて1人散髪するのであれば1時間に1回ですみますが、1時間に3人も4人も散髪する場合、エネルギーの移動が1時間に3回も4回も起こるわけです。<br /> <br /> ましてや、そのような安いお店に来るお客は、言ってはなんですが客層も悪いですのでエネルギーも割合に低いことが多く、美容師のエネルギーはどんどんと吸い取られてゆきます。<br /> <br /> 美容師のエネルギーが下がっている時にそのような散髪屋に行くと、お客の方がエネルギーが高いということにもなりますから美容師にエネルギーを吸い取られます。デフレ商売のお店に行くことは、安いように見えて実はエネルギーも提供していることになりますから、いわば、エネルギーをお金の変わりに支払っていることにもなります。<br /> <br /> 散髪屋だけでなく、コンビニや雑貨店にしても同じことです。マッサージ屋などは人に触れますので同様のエネルギー移動が起きやすいです。人に触れなくても接客して近くに行くだけでエネルギーの移動は短時間であっても起こりますし、散髪やマッサージのように体の部分が接触する場合はかなりのエネルギー的な平準が起こります。<br /> <br /> エネルギーで分かりにくければ、時間と考えても良いです。長時間労働でいくら稼いでも、時間というのは万人に共通で増やすことができませんから、お金よりも実は時間の方が価値があるのです。その、最も価値の高い時間を提供してわずかながらのお金を手に入れるということが価値ある行動でしょうか。<br /> <br /> 経済の理屈だけ言って回転数を上げると儲かる、というのは、従業員を犠牲にして成り立っているわけです。<br /> <br /> であれば、デフレ商売というのは従業員を犠牲にして成り立つ商売である、という視点がエネルギー的には成り立ちます。お金的にはそれなりの報酬が与えられているのかもしれませんが、それはバランスというもので、エネルギーよりも報酬の方が良いというのであればそうすればいいと思います。しかし、デフレ商売で客単価が低ければ賃金もそれなりなことが多いのではないでしょうか。<br /> <br /> デフレ商売がそういう構造であれば、デフレ商売的には時間をなるべく長く働いてもらった方が会社は儲かりますし、従業員は賃金はぼちぼち増えますが、従業員のエネルギーは吸い取られて行って枯渇します。<br /> <br /> デフレ商売のお店の従業員が疲れた表情をしていることが多い気が私はするのですが、きっとこのようなことであろうと思っています。<br /> <br /> 従業員のエネルギーを吸い取るのであれば、それは次々に「安い」「若者」を注ぎ込む必要がありますので、人口が増えている時代の商売方法、あるいは、ある程度蓄えのある中年を使い捨てにする商法であるように思えます。少なくともエネルギー的な観点からはそう思えます。<br /> <br /> 私は経済学者ではありませんが、エネルギー的な観点から良いと思われる商売方法の基本は以下です。<br /> <br /> ・お金の仕組みはそのまま。<br /> ・お金の位置付けを、今の「権利」から「歯止め」に変える。<br /> ・お金を、贅沢に歯止めをかけるためのものにする。<br /> ・お金を稼ぎたい人の自由は今まで通り守る。<br /> ・贅沢をしたい人の権利は守る。<br /> ・基本的な生活は安価にする。<br /> <br /> これだけで、労働時間は短くなり、おそらくは6時間労働で済むのではないでしょうか。<br /> <br /> 更には、理想的には以下のような仕組みも取り入れたらいいかと思います。<br /> <br /> ・年間百万円くらいはベーシックインカムにて与える。<br /> ・週の決まった時間にボランティア無償活動で地域の共同作業を行う。<br /> ・現在の公共事業をある程度はこのボランティア無償活動に置き換える。<br /> <br /> このくらいまで行ければ、生活がガラリと変わると思います。<br /> <br /> 今、日本で資本主義に対してどうこう言っている人の中には人々の価値観に訴えかけている人が多すぎると思います。例えば、お金を稼ぐことに対する価値観や、お金を稼がないことに対する価値観、自由な時間を費やすことに対する価値観をベースにしていてはいつまで経ってもシステムの同意を得られることはないと思います。<br /> <br /> 例えば、苦しい生活の感情に訴えてあまり働かなくても良い世界の価値観を訴えたとしても、それは働くことで裕福になってきた価値観を持つ人の心には響かないわけです。<br /> <br /> システムとしては、価値観に訴えるものではなく、多くの選択肢を生み出すことができるものである必要があります。<br /> <br /> であれば、現在のように挑戦をしたい人はいくらでも挑戦できて、お金を稼いで贅沢をしたい人はいくらでも贅沢ができるが、お金とは別のところで幸せを追求したい人に対しても選択肢を与える世界こそが豊かな世界であると思うのです。<br /> <br /> そのために、例えば上記のようなちょっとした価値観の転換をするだけでこの世界は随分と幸せで豊かになると思います。<br /> <br /> エネルギー的な転換は、現在ヒエラルキーの頂点に立って搾取している人にとっては苦痛かもしれませんが、どちらにせよ、死んでしまえば次の転生がどのような経済状況かなんてわからないのですから全員がそれなりに幸せに暮らせる人生にしておくことこそが回り回って自分の幸せに繋がると思います。以前にも書きましたが、あまりにも恨まれている場合は次の転生で裕福な家庭の赤ちゃんとして魂が入った後にですら無理やりひっぺがしてインドとかのスラム街の赤ちゃんの中に魂を放り込まれる、なんてこともありますから、あまりヒエラルキーの頂点で恨まれるような人生を歩まない方がいいと思います。あの世には時間とかあんま関係ないですから瞑想状態あるいは幽体離脱というかスピリットがその気になれば時空を超えてすぐにでも来世のこういう操作ができてしまいますから、まあ、恨みを買うようなことはしない方がいいと思います。<br /> <br /> まずは、現在の支配者層による意識の転換が必要ですね。国民にお金を渡したら働いてくれなくなってしまうのではないかという心配は実のところあまり必要なくて、年間百万円くらいでしたら欲望を満たすことができませんので欲望のある人は働き続ける筈ですし、家庭があって子供でもいたら絶対足りませんし、あくまでも社会のベースとしてのベーシックインカムであるわけです。その分、無償のボランティア活動をしなくてはならない社会に遷移することで実際の労働人口は増えるかもしれません。今現在に働いていない人もボランティアとして駆り出されるわけですからね。そのように、実体経済とは違うところで緩い労働をしてもらっても十分現在の世の中は回ると思います。それほど物が足りない時代でもありませんし、ある程度の労働さえすれば世の中は普通に回ります。意外に平気なものです。慣性で長時間労働していただけで、意外にそんな働く必要がなかったのだと気付きさえすればいいだけだとも言えます。<br /> <br /> 激しく働きたい人の権利さえ侵害しなければ十分に自由を満喫できる世界へと移行できる筈です。<br /> <br /> コロナなんていいきっかけで、なし崩し的にベーシックインカムの月10万円支給の世界へと突入してしまえば時代は一気に変わります。<br /> <br /> 日本よりアメリカが先にやってしまうかもしれないですね。<br /> <br /> Fri, 27 Mar 2020 00:00:00 +0900 ミケランジェロと織田信長のグループソウル https://w-jp.net/2020/1880/ <br /> 1年ほど前に、割と当たる系のスピリチュアル・カウンセラーに見てもらったときにふと過去生のことを聞いたらそのうちの1人がミケランジェロだと言われました。<br /> <br /> 実際のところ、私が子供の頃に幽体離脱した時にいくつかの過去生を見ましたがミケランジェロには気付いておりませんでしたので、これが本当のことかどうかはわかりません。基本的にスピリチュアルなカウンセラーはコンサルと一緒で、自分がまだ意識していない分野を「指摘」してもらうか、あるいは「確かめ」に使うものだと思っておりますので、この場合は前者になります。ですから、スピリチュアル・カウンセラーに言われたからと言ってホイホイ軽く喜んで過去生がミケランジェロだとは思ったりしません。そういう信じる行為ってあまり意味ありませんから。<br /> <br /> ちなみに、今の私は芸術とかやりません。興味はありますがセンスがないと自分では思っております。絵は下手ですし音楽のセンスもイマイチな感じです。<br /> <br /> 過去生、と言われてはいますが、これはグループソウルの中にそのような人生があった、と読み替えて理解しました。魂(幽体)がそのまま転生する場合と、一旦グループソウル(類魂)と一体になってから分霊を作って転生する場合がありますので。<br /> <br /> そのように言われた時、私のグループソウルの中にミケランジェロがいるかどうか自分では把握しておりませんでしたので、ふとした時に探ってみました。<br /> <br /> すると、自分のグループソウルかどうかはわかりませんが、なんとなくその時のミケランジェロの気持ちのようなものがトレースできてきました。<br /> <br /> まあ、確かに、性格とか気難しいところか、私のグループソウルに似ている部分がなくもないです。ですが、そのような性質はどこにでも見られるといえば見られますからね。それだけでグループソウルだとは判断できないです。<br /> <br /> 記憶を辿ると、いくつか出てはきます。<br /> <br /> 例えば、貴族でしたので荘園を持っていて、連絡してから行くと綺麗にしてあるのに何処かに寄った帰りにふと立ち寄ると荒れていて管理人を叱り付けたこととか。それを何度か繰り返したら管理人も小作人もしっかり作業するようになったとか。どうやら急にアポイントなしで行くのが重要だったようです。<br /> <br /> それとか、有名なピエタ像を作った時は未来を透視しながら彫ったこととか。ミケランジェロ的には、大理石とその未来の姿をトレースしつつ良いデザインになるべく彫っていったようです。未来を見るのは確認のためで、基本的には頭の中で映像をイメージしつつ構図を決めていました。<br /> <br /> そのような作成スタイルでしたから、弟子の希望があったとしても同様に頭の中で映像をイメージできないような弟子希望に対してはなす術がなかったようです。頭の中でイメージしろ、と言っても弟子の中にはそもそもそれができない人も大勢いた... と言いますかその大多数がそうだったわけで、頭の中でイメージして構図を決めるミケランジェロのスタイルについていけなかったようです。<br /> <br /> サン・ピエトロ大聖堂の広場か何かを作った時も頭の中でイメージを先に作ってスケッチしたので理想的な設計にするのも容易だったようです。芸術家は頭の中でのイメージが先に必要のようですね。<br /> <br /> 女性関係はあまり噂がなかったミケランジェロでしたが、基本的に芸術が興味の本筋でしたのでそれに集中していた感じです。後年に付き合いのあった未亡人に関しては、気高さと礼儀正しさそして美しさに惹かれたようです。<br /> <br /> まあ、記憶を辿れることとグループソウルかどうかは別のお話で、私のグループソウルとの関係は結局は今のところ分からずじまいです。なんとなくそんな気もしないでもないですけど、そのくらいです。<br /> <br /> 昔バチカンに旅行した時にピエタ像は見ましたし、ダビデ像も見て素晴らしいと思いましたが自分のグループソウルの記憶はその時は出てこなかったような気が致します。<br /> <br /> まあ、必要があれば思い出すでしょうし、特に思い出さなくても問題ないお話でもあります。<br /> <br /> <br /> ・・・その数日後、ふと思い出しました。というか、伝わってきました。<br /> <br /> ミケランジェロがピエタ像を制作している時、同人が生まれる前に人生を計画して... と言いますか、グループソウルというかツインソウルに近い魂の片割れが手助け... というかほとんど自分自身の魂というかスピリットというか霊人ではありますので手助けというか高次の自分、いわゆるハイヤーセルフと言いますか、ミドルセルフと言いますか、そのような高い視点を持ったスピリットが共同作業していたようです。<br /> <br /> ミケランジェロがピエタ像を制作する際、スピリットがあらかじめ青写真を描いていました。それは理想的な女性とイエスの姿だったわけですが、その青写真をミケランジェロに伝え、その上で、大理石のどの部分を使えば理想的な模様になるのかスピリットが細かく確認しつつ、スピリットも未来と現在を行き来して... と言いますか未来を確認しつつインスピレーションをミケランジェロに送っていたようです。ですから、ミケランジェロが未来を見れたというよりはこの場合はスピリットの方が未来を見てミケランジェロに伝えていた、という構造のようです。<br /> <br /> スピリットはかなりピエタ像に入れ込んでおり、かなり苦労して構図を作って細かく確認してミケランジェロに何度も何度も伝えて... ということをしていたようです。エネルギー的にはかなりのものが必要であり、どうやら、ピエタ像それ自身に自分が入りたい、という意識も多少はあったようです。ですからいまピエタ像を見てもまるで生きているかのような気がするのは、実際、そこにスピリットが入り込んでいるからだと思います。この、入り込んでいるスピリットはミケランジェロのグループソウルのスピリットと、それに類した、共感をしたスピリットのようです。ただ、この試みはある程度は成功しましたが、あまりにも多くの人に見られたが故に他の人のスピリットも入り込んだり、あるいは、意識が他の人に多少抜かれたりして、スピリットにとってはあまり快適な結果になっていないようです。<br /> <br /> ですからピエタ像は特別で、その後もスピリットは手助けをしましたが、スピリットにも興味の方向はありまして、手助けをするのは相当なエネルギーを必要としますので次のピエタ像ですとかスピリットがそれほど興味の持てない作品の場合はそこそこの手助けあるいはミケランジェロ自身が頑張って作る、というような場合もあったようです。<br /> <br /> ミケランジェロと織田信長は生存期間が被っておりますがどちらもグループソウルの一部だとすると、ミケランジェロが教皇に対して時には反抗的な態度を取っていたことも理解できます。時代的には後にはなりますがもしかしたら... 確証はないですけど織田信長本人は本能寺の変を逃れてバチカンに行ったような気もしておりまして、その時に教皇が意外に金で動く人ということを知って、ある意味、幻滅もしつつ本性を知っていた可能性もあります。上の位をもらうためにはかなりの財産を寄付する必要があったようで、織田信長が持ち込んだ財産をどんどん教皇が寄付という形で奪ってゆきました。そうは言っても教会ですから純粋に神を求めている人もいて、そのようなところで織田信長は感化されたようです。今まで織田信長は、自分の命令には必ず従うという人をあごで使ってきたわけですが、人望という面で、もっと学ぶものがあるという認識が生まれた頃に寿命を迎えたようです。織田信長の教皇に対する評価は「金の亡者」で、寿命で死んだ時に「財産のほとんどを取られた」と言って憤っていたように思います。そんなグループソウルが、魂の世界では時空を超えておりますからグループソウルに合流して、ミケランジェロの魂に教皇に対する印象を与えていたようです。だからミケランジェロは教皇に対してどこか反抗的な部分があった。<br /> <br /> 一般的な輪廻転生の考え方ですと生存期間が被っているだけであり得ないことになってしまいますが、あの世は時空を超えておりますので、もしやり直しのレッスンが必要であれば同じ時代に遡って再度生まれることも普通にありますし、時代を遡ることもあります。ですので、この場合は順番としては織田信長が先で、時代は遡りますがミケランジェロが後だったような感じも致します。<br /> <br /> ....まあ、このあたり、確証はないです。もっと検証が必要なところです。<br /> <br /> 順番としてはその前後にヴェネチアあたりで大司教もしていたような気も致しますので、何気に色々とキリスト教とは関わりが深い感じです。今はキリスト教徒ではないですが。<br /> <br /> Thu, 26 Mar 2020 00:00:00 +0900 オーラの塊を使って体の各所にエネルギーを通す https://w-jp.net/2020/1879/ <br /> 最近は瞑想でオーラを凝縮させているわけですけれども、その凝縮したオーラの使い方として、最初は頭の後ろから頭頂にかけてのエネルギーのルートや体の前面を通るルートを開拓しておりました。<br /> <br /> その後、色々と試してみて、例えばお腹にまで下ろしたエネルギーを使って足の方まで通してみたところ、足の感覚が高まりました。あるいは、頭のエネルギーを肩の方に動かして手先まで往復させたりすると、手の感覚が敏感になったりしました。<br /> <br /> これは、以前からヨーガ等で手先や足先の感覚を高める方法として似たようなものはありましたが、それはただ単に意識を通すというもので、今回の場合はあらかじめ頭で凝縮したオーラを体の各所に移動させてエネルギーのルート、いわゆるナディを開拓するという点が異なります。<br /> <br /> 最近はヴィパッサナー状態で視界や体の感覚を観察したりしているわけですけれども、それも、今回のようにエネルギーをあらかじめ通してあげるとよく観察できるようになる気が致します。<br /> <br /> 観察の粒度も細かくなったような気も致します。<br /> <br /> 例えば、食事をする時に箸の動きが細かく把握できるようになったりしました。<br /> <br /> そうして瞑想をここ何日か続けておりましたところ、手足だけでなく、背骨の、いわゆるスシュムナのルートにも凝縮したエネルギーを通してみました。<br /> <br /> すると、どうしたことでしょう。背中の、ちょうど心臓の後ろくらいのところにエネルギーを通そうとしたら激しい抵抗があって、一気にトラウマが吹き出してきたのです。子供の頃からあったトラウマも含めて出てきましたので急に目を開けて立ち上がってしまったくらいのトラウマが出てきました。<br /> <br /> こんなところに眠っていたのですね。<br /> <br /> 確かここは、中学校時代に金網を通り抜けようとしたら背骨をひっかけてしまって背骨を傷つけた箇所だったと思います。そうした損傷と、おそらくはエネルギー的な淀みができてしまっていて過去のトラウマがそこに溜まりやすくなっていたのだと思います。<br /> <br /> そういえば、以前は肩や胸の横にトラウマが眠っていたことに気づいたこともありますが、この背骨の部分に眠っていたトラウマはそれなりに巨大でした。とは言いましても過去に退治してきたものと比べるとそれほどでもないのですが、久々に中くらいのものを発見した感じです。<br /> <br /> それがあったのは1日だけで、次の日にエネルギーを通しましたら多少のしこりがあるくらいでエネルギーは通りました。<br /> <br /> おそらくはスシュムナ、あるいはその周囲を通ってエネルギーがお腹から頭頂まで達し、頭頂のエネルギーの状態がまた少し変わった気が致します。<br /> <br /> 頭で凝縮したエネルギーは一度凝縮してしまえばある程度の凝縮をその後も保つようで、このようなことにも使えることがわかりました。<br /> <br /> それとは別に、<br /> 今までは両肩に刺さっていた見えないものを引き抜くとかエネルギーを吸い取る意識体とか取り憑いてきた意識体とかに対して引き抜くような対処をしていたわけですけれども、この凝縮したエネルギーがあれば体の中から意識体を外に押し出すこともできそうな感じです。内側から防御膜を作るような感じでしょうか。これはまだ様子見段階ではありますが、使えそうな気がしております。<br /> <br /> Wed, 25 Mar 2020 00:00:00 +0900 秘術を用いてクンダリーニを開花させない方が良い https://w-jp.net/2020/1877/ <br /> クンダリーニとは自然に動き出すものですから、秘術を用いて無理に動かそうとしない方が良いと思います。そうして無理に動かすからクンダリーニ症候群になったりもするわけです。<br /> <br /> 私も以前はクンダリーニのことが謎で色々と調べもしましたし、簡単なものは少し試したりもしました。しかし、あまり深入りしないでいて良かったと思っております。<br /> <br /> ヨガにしても私がやっているのはごくごく初歩の呼吸法(プラナヤーマ)と簡単なアサナ(体操)くらいですし、いわゆる上級の呼吸法(プラナヤーマ)はあまり興味がありませんし、そもそも私は鼻の通りが悪い上に最近はクンバカが苦手ですので上級なんてとても無理です。クンバカの持続時間には計算式があって、特にクンダリーニ覚醒後はエネルギーが高まりましたので「器」が足りなくなってクンバカがすぐに苦しくなってしまいます。30秒持てば良い方です。クンダリーニ覚醒前は1分数十秒はいけたと思います。もともとクンバカ苦手でしたけど、クンダリーニ覚醒後は全然長く保てません。<br /> <br /> 私がやっていることはせいぜいそんな簡単なプラナヤーマ(呼吸法)とアサナ(体操)くらいです。ですから、秘術というほどでもありませんが、それでも十分だと言えます。<br /> <br /> それは、そもそもクンダリーニの覚醒には秘術は必要ない、ということが理解できたからです。<br /> <br /> クンダリーニの覚醒方法には2種類あると思います。<br /> <br /> ・秘術を用いる。ヨーガや魔術などスピリチュアルな手法。<br /> ・浄化する<br /> <br /> 前者の手法は、浄化せずともクンダリーニ覚醒しますが、制御が難しくなってクンダリーニ症候群になったりします。<br /> 後者であれば自然にクンダリーニが活性化します。<br /> <br /> そもそも、順番として2つの潮流があると思います。<br /> <br /> ・クンダリーニを活性化させてから浄化する。<br /> ・浄化してから(自然に)クンダリーニ活性化させる。<br /> <br /> ヨーガや魔術、スピリチュアルで盛んに行われているのは前者の方で、まずクンダリーニを活性化しようと秘術を用います。<br /> <br /> しかし、私の理解したところによりますと、浄化をすればクンダリーニは自然に動き出すのです。<br /> <br /> クンダリーニという特別なエネルギーがあるわけではなく、体の中のエネルギーが高まる時に感じるものを俗にクンダリーニと呼んでいるだけのことです。<br /> <br /> ですから、最初からエネルギーが高まっている人はクンダリーニ経験が起こらないわけです。<br /> <br /> 思いますに、エネルギーが元々低い人や浄化されていない人がクンダリーニ経験をするように感じられます。最初からかなりの浄化された状態でいる人はクンダリーニ経験が起こらない、というのが私の理解です。私の周囲にも、いつまで経ってもクンダリーニ経験起こらないと言っている人がいて、実のところは既に子供の頃からかなり浄化済の人でしたのでエネルギーが高まっており、いわゆるクンダリーニ経験後とさほど変わらないエネルギーをお持ちのお方もいらっしゃいます。ですから、クンダリーニ経験にこだわる必要は全くないのだと思います。<br /> <br /> 男の場合は概してエネルギーが低いのでクンダリーニ経験を経ることが多いように思います。一方、女性は最初からエネルギーが高まっている場合が多いような気が致します。<br /> <br /> クンダリーニ経験のことが話題になるのは男性のことが多いというのも、このあたりの事情があるのかもしれません。ヨーガはそもそも男性のものであったわけで、それはこのような事情で男性がエネルギーを高めるための手法として生み出されてきた、という歴史的背景もあるのではないかと推測致します。そう考えるのが筋が通っています。<br /> <br /> 最近ではヨーガのグルであっても浄化を重視している人も増えてきたようですが、インドでは秘術を重視してクンダリーニ活性化させている方が大勢いらっしゃる感じが致します。私がインドのリシケシで通ったスクールのグルもそんな感じでしたね。<br /> <br /> 男のヨーガのグルがどこか浄化されていない部分を残しながらもクンダリーニが活性化して能力(シッディ)が現れたりしている状況を見て、私はどこか疑問に思っていました。それが、最近はふに落ちるようになりました。上記のように、秘法を用いてクンダリーニを活性化することはできますので、それ故に、ヨーガのグルが浄化し切ることなしにクンダリーニを動かすことができるのだと思います。<br /> <br /> それを良しとするのか、本流ではないと見なすのか、それは各人の判断によると思います。私の場合は、浄化こそが重要と思いますので秘法を用いてクンダリーニ活性化することにあまり興味はありません。<br /> <br /> 秘術を用いてクンダリーニを開花させない方が良いというのは私の意見であって、秘術を用いたいのならば自分の好きにすれば良いと思っています。ですから、他人にどうこうすべきというつもりはありませんが、私は、クンダリーニより浄化が先だと思っておりますし、浄化せずにクンダリーニ覚醒させるから取り返しのつかない問題が起きるのだと思っています。<br /> <br /> インドのとあるグルの物語でも浄化を重視して、秘法に頼ってはいませんでした。これが正しい姿なのだと思います。<br /> <br /> 基本はそうなのですが、クンダリーニを動かす秘術は避けるべきであっても、エネルギーのルート、ヨーガでいうナディの浄化の行法は有用だと思います。ですから、ヨーガの全てが悪いわけではなく、魔術の全てが悪いわけでもなく、スピリチュアルの全てが悪いわけではありません。まあ、当然ではありますが。<br /> <br /> ナディの浄化に相当する行法は行うとすれば、瞑想もそうですし、呼吸法のプラナヤーマや体操のアサナにしても浄化が目的であれば十分に役に立ちます。危ないのはクンダリーニを無理に動かそうとすぐ秘術であり、例えばヨーガのバストリカ呼吸法や一部の魔術の手法になります。<br /> <br /> まあ、そうは言いましても、止めてもやる人はやるでしょうし、別にそれを止める義理もないですし、もしかしたらうまく行くかもしれませんし、そういうのは個人が好きにすればいいのだと思っています。<br /> <br /> Mon, 23 Mar 2020 00:00:00 +0900 インドのとあるグルの物語 https://w-jp.net/2020/1876/ <br /> 私のグループソウル(類魂)の中にかつてインドでヨーガのグルをしていた魂がいます。私の一部でもあるので私の過去生と言えなくもないですが今の私が受け継いでいるのはせいぜい5%から多くて10%くらいかなという気も致します。<br /> <br /> その人生の前はヨーロッパの方でいわゆる魔女をしており、当時のヨーロッパでは魔女狩りなどにもあったりして苦労した魂もあったのですが、分岐としては、魔女狩りに合う前に分霊になって分かれて行った方の魂がインドでグルをしたようです。その後、一部の分霊はヨーロッパで魔女狩りにあったりナチスに囚われて透視させられたりもしておりましたが、グルをしていた方の魂は割と平穏に暮らしたようです。<br /> <br /> それまではヨーガのグルなどをしたことはなく、初めての人生でしたがモチベーションとしては2つあったと思います。1つは、より上位のハイヤーセルフから人類の成長のためにグルをしなさいという掲示がまずあって、それを魂が受けて、たまにはヨーガのグルも面白そうだ、という顕在意識で判断してグルをする転生を選んだようです。このように、上位からの指示がインスピレーションとしてあって、それを元に顕在意識で判断するというのは生きている人間においてもありますが、魂においてもそれは同様のようです。<br /> <br /> そうしてヨーガのグルをすることにしたのですが、それまではヨーガのグルをしておりませんでしたので、基本はヨーロッパの方で生活していた魔女の考え方が基本にありました。よって、ヨーガのグルとは言っても伝統的なハタヨガのように体術・ポーズ(アサナ)は重視せず、瞑想とチャンティングの詠唱で浄化することを基本にしていたようです。<br /> <br /> 場所はインドの中北部、バナラシからそれほど遠くはなかったような気もしますし、ビハール州だった可能性もありますけど転生する場所を探すときに空中から見た鳥瞰図ですと、おそらくはバナラシから南西方向に数百キロ、ナーグプルまでは行かない範囲のどこかだったような気も致します。<br /> <br /> 既にグルがいるところは伝統的なハタヨガを重視している傾向がありますので避け、既に廃れている寺院がある町を選びました。その寺院を拠点にしようとしたのです。あらかじめタイムラインを先まで確認してその寺院を自分の寿命が尽きるまで使えることを確認し、近くのそこそこ裕福な家庭を選んで転生しました。<br /> <br /> 最初からそのような目的がありましたので、子供の頃からその寺院には足しげく通い、掃除をしたり瞑想したりして自分が管理している場所であるという印象を周囲の人にアピールしました。もちろん誰のものでもなくて廃墟の寺院ですけど、段々と、そのような共通認識が出来上がっていったのです。<br /> <br /> そうして成人になる日に、家長に対して「出家をしたいのです」と伝え、家長もおそらくそうだろうとは思っていたのでしょう。ちょっと答えに詰まりましたが、すぐに「わかった。良いよ」と答えてくれて、出家しました。<br /> <br /> いきなり寺院のグルになることは流れとして適切ではなかったため、近くのアシュラムに修行に行くことにしました。たしか、著名なヨーギの元で2年修行し、その後、また違う著名なヨーギの元で3年前後修行し、スワミとしての伝授を受けてからもといた町に帰ってきたように思います。<br /> <br /> もっと長く修行しても良かったのですが、あまり長く留守にするともともと目をつけていた寺院を取られてしまいかねないのと、元々、人類の成長のために多くの弟子を育てることが目的でありましたので、ある程度の区切りをつけてから生まれ育った町に帰ってきました。<br /> <br /> 実のところ、生まれた時からリモートビューイング(千里眼)や未来予見の能力は持っておりましたが、特にそれを他人に言うことはなく、修行して身に付けた、ということに致しました。だって、その方がそれっぽいでしょう? (笑)それに、弟子たちにとってみても、修行すればそのような能力が身につくのだという多少なりのもちーベーションにもなることでしょう。能力が生まれつきだとか言ってしまったら、そりゃあもう、救いがありません(苦笑)<br /> <br /> 実際のところ、弟子たちの中で千里眼や未来予知の能力まで完全に身に付けた人は私が生きている間はいませんでしたけど、それでも、クンダリーニの覚醒をしてマニプラやアナハタ優勢、そして一部はアジナも活性化して直感がかなり鋭くなる、という弟子も現れました。ですので、グルとしての人生はそこそこ成果が出たのかな、と思っております。その魂が思っています、ということです。<br /> <br /> 時には弟子たちが来ることを予見して、姿を見るなりその出身地を言い当てたりしました。そのくらいは簡単です。大体は的中します。90%~95%くらいは当たったと思います。<br /> <br /> 例えば弟子がアナハタ覚醒する時には予感があって、他の弟子に少し豪華な食事をあらかじめ用意させたりしました。あと数日中にお祝いがあるので用意しておくように言って、食材を少し多めに買わせておいたりするのです。<br /> <br /> 今までやんちゃで、ちょっと浮ついていたような弟子であってもアナハタ覚醒するとかなり落ち着きが出て、大人の貫禄、聖者の貫禄がそれなりに出てくるものです。マニプラですとまだ元気になったくらいで落ち着きは今一歩ですが、アナハタくらいが聖者と凡人との境目になっているように思います。<br /> <br /> 日々行っていたことは、ハタヨガの体操も基礎として行ってはいたものの、上に記しましたように重視していたのは瞑想とチャンティングです。<br /> <br /> 瞑想は、最初は私が前に座って静かに座る瞑想をします。少し様子を見ながら、弟子が落ち着いていないようであれば名前を言って近くに座らせ、例えば指を顔の前に出して指を見るように言い、それを見て集中して心を落ち着かせるように言ったりしました。見るだけでは不十分な場合は口に出してマントラを唱えたりもしました。そうして、弟子の心が落ち着いたら静かに席に戻って瞑想を続けるように言うのです。<br /> <br /> そうして、どのくらいの時間でしょう・・・。おそらくは1時間かそのくらいだったかと思いますが、当時はきちんとした時計がありませんでしたので時間は大体だったように思います。頃合いになると瞑想を解き、チャンティングを行います。いわゆるバジャンとか言われている詠唱をみんなで行います。<br /> <br /> 私は、はっきり言って、歌はそれほど上手くはなかったように思います。<br /> <br /> そのうち、弟子の中で歌が上手い人がいて、度々、歌ってもらっていたように思います。その弟子は褒められて照れていましたが。その弟子はちょっと褒めすぎてちょっと有頂天になったりもしましたが、それでも、アナハタが覚醒したらかなり落ち着きが出て聖者っぽくなりました。途中の態度がどうであれ、アナハタさえ覚醒してしまえばかなりの弱点は克服されるのかなあ... という気も致します。どこか子供っぽかったその弟子も、アナハタ覚醒後は意識がガラリと変わって落ち着いた表情になっておりました。<br /> <br /> そんな中、どこにも不肖の弟子というのはいるもので・・・・。瞑想していてもどこか苦しそうな表情をずっと浮かべ続け、近くに呼んで集中の手伝いをしてあげてもなかなか成長しない弟子がいました。やはりセンスの違いがあるのだなぁ... と思って見守っていたのですが、そんな不肖の弟子であっても、その弟子の場合は、どこか人懐っこくて可愛げがあるのです。いやはや、グルであっても愛着はあるようです(苦笑)<br /> <br /> 不肖の弟子ではあってもことあるごとに頼ってくるので可愛い弟子だったように思います。他の人からも親しまれていました。ですが、瞑想のセンスはいまいちでした(苦笑)<br /> <br /> まあ、そんな不肖の弟子であっても10年以上続けていれば少しづつ成長するもので、他の人よりは成長が遅くとも、着実に進歩が見られたように思います。ですから、不肖の弟子であっても諦める必要はないと思います。<br /> <br /> 私は未来が見通せましたので、この弟子は死ぬまでに大体このくらいの境地まで達することができるな・・・ というのが見て取れました。<br /> <br /> 弟子の中にはかなりの境地に達してグルとして免許皆伝になり生まれ故郷に帰って行く者もいましたが、その不肖の弟子はそこまでの境地に達することができないのがわかってしまったが故に、ちょっと甘くして早めの免許皆伝を与えたこともありました。このことは以前、別件で少し書きました。<br /> <br /> 流石に千里眼はどの弟子も無理でしたが、ゾクチェンで言うところのシネーの境地に相当する瞑想状態にようやく達したのがその不肖の弟子で、他の弟子はその上のテクチュの境地、いわゆるサマーディやヴィパッサナーに達しておりましたのでレベルはかなり違うのですが、シネーの境地に相当する集中状態ができればとりあえず一般的なグルとしてはやっていけるように思いました。<br /> <br /> まあ、そのグルが今世でもどうやらヨーガのグルをしており、いわゆるスワミになっていることに以前気がついたのですが、相変わらず、あの人懐っこさというか仕草の可愛さはおそらく昔のままだったように思います。向こうはこちらのことに気がついていないようでしたけど、まあ、こんなこと言ってもしょうがないので言っていません。向こうが気がついたら話すかもしれませんが、話したところでどうしようもないので話す必要もないのです。<br /> <br /> どうも、見るからにその当時に到達した意識より上にはまだ行けていないようでした。ですがまあ、基本はできているので良いかな、と。<br /> <br /> 弟子はもっとたくさんいてそれぞれなのですが、中には、能力をもらったらすぐに故郷に帰るつもりで来たが自分が修行しないといけない上に時間がかかることを知って不愉快になり、数ヶ月もしないうちに出て行くような弟子もいました。まあ、そういう人はどこにでもいますので帰ってもらうしかありません。<br /> <br /> その寺院では日々、町の人々の相談を受け付けていました。今もよくある人生相談で、就職や結婚や引越しや、様々な相談事にのっていたのです。未来予知して千里眼でしたので大体のことは的中して正確に伝えることができましたが、それでも、たまには間違うこともあったようで、その原因はわからないことがほとんどでした。上に書きましたように大体90%~95%は的中ですけど、時々、間違えます。<br /> <br /> 間違えるというよりは、おそらく、時間差の間に誰かの意思が入ってタイムラインをねじ曲げられてしまったのだ、という理解をしております。こればっかりは仕方がありません。人々がタイムライン上で大人しくしてくれる場合が多いとはいえ、常にそうとは限りませんし。<br /> <br /> 特に現代ですとタイムラインをねじ曲げられることが増えているように思いますので、昔より当たらなくなったような気が致します。<br /> <br /> そうして相談に乗って、お布施をもらって資金にしておりました。お布施は金額が自由でしたが弟子たちと共に生活するには不自由なかったように思います。<br /> <br /> 時々、遠くから著名な方も見えられて、なかなか楽しいグル生活だったように思います。<br /> <br /> ・・・まあ、証拠とかはないので、とりあえず、夢のお話と思っておいて頂ければと思います。<br /> <br /> Sun, 22 Mar 2020 00:00:00 +0900 天使と悪魔 https://w-jp.net/2020/1875/ <br /> キリスト教などで天使と悪魔が語られていますが、実際のところ、両方とも天使だったりします。ですが、それはなかなか理解し辛いのではないでしょうか。<br /> <br /> 以前に夢で見た天使界の物語を載せましたけど、このお話は天使と悪魔に関する示唆に富んでいます。<br /> <br /> 一見すると戦いに勝って「善」の名乗りを上げたルシファーは、その時は完全なる「善」となり、戦いにわざと負けたミカエルは当時「悪」とみなされました。<br /> <br /> しかし、実態はというと、ミカエルはただ防戦していただけであり、ルシファーは相手の中に悪を見ていた... というか、ルシファー自身の心の中の闇こそが悪魔だったのです。<br /> <br /> ミカエルは何とも思っておりませんでしたが、ルシファーはミカエルと話をするごとに不機嫌になり、ミカエルが悪魔だと主張するようになってきました。その不和が王国に広がり、やがては戦いが始まり、戦乱の渦に飲み込まれたのです。<br /> <br /> 悪魔がいるのではなく、自身の中にこそ悪魔がいた、ということです。悪魔という存在を自らの心の中に作り出してしまい、それを相手に投影していたのです。<br /> <br /> この時は、ミカエルは完全なる善でしたが、ルシファーの中にあったわだかまりや怒りが相手に投影され、この場合はミカエルを悪と認識したということです。<br /> <br /> このようなことは現実でもよく起こっています。<br /> <br /> 天使と悪魔という対比だけでなく、善と悪も似たようなものです。<br /> <br /> そうは言ってもミカエルもルシファーも大天使ですから、我々人間からすればどちらも手の届かない崇高な存在であります。<br /> <br /> そのような存在であっても不和が生じ、天使と悪魔と分かれたりするようですが、その姿は、実際とは異なるということだと思います。<br /> <br /> 世間一般では、戦いに勝つと善であり負けると悪とみなされます。この場合は戦いに勝ったルシファーが善でありミカエルが悪とみなされ、それゆえに、ルシファーが天使でミカエルが悪魔とその時はみなされました。<br /> <br /> ですが、実際の姿としては、ミカエルにわだかまりや怒りはなく、ミカエルこそが天使でした。そして、怒りに震えていたルシファーこそが悪魔とも言える存在になっていたのです。<br /> <br /> ですから、天使と悪魔という存在は表裏一体で、時と場合、見方によってそれは変化するわけです。<br /> <br /> ミカエルは堕天使あるいは悪魔というレッテルを一時は受けたわけですが、それからもわかるように、悪魔というものが必ずしも悪い存在ではないことがわかります。<br /> <br /> それよりも、ルシファーのように天使を名乗りながら怒りに満ちた存在の方が厄介です。<br /> <br /> 天使も悪魔も、割と人間と近い部分があるように思います。<br /> <br /> 今はどちらも天使で通っており、それでいいと思います。このあたりの複雑な事情はなかなかに理解が難しいですし、悪魔と見る判断そのものが視界を曇らせる気も致しますし。<br /> <br /> Sat, 21 Mar 2020 00:00:00 +0900 全集中の呼吸はクンダリーニとテクチュのサマーディ・ヴィパッサナー状態 https://w-jp.net/2020/1874/ <br /> 漫画「鬼滅の刃(きめつのやいば)」で「全集中の呼吸」と言うのが出てきますが、本編で詳しい解説はないものの、私個人の勝手な解釈と言うか想像ですとこれはクンダリーニとサマーディの融合状態ですね。<br /> <br /> ちなみに、私は武術とかやりません。勝手な想像です。よもやま話です。たまにはこう言う話もいいかなと。<br /> <br /> まず、呼吸と言っていますけどこれはヨーガとかでも良く呼吸が言われていて、ヨーガスートラやハタヨガプラピディカでも「呼吸」が大事と言われていますけど、この「呼吸」は翻訳の妙で、実際はプラーナと言う微細なエネルギーの制御になります。呼吸で空気を取り入れると言う面もありますが、プラーナを取り入れて力にするのです。<br /> <br /> であれば、全身呼吸とか言っているのは、プラーナを全身に巡らせることになります。いわゆる気やオーラのことです。<br /> <br /> 気脈とか経絡とか言われているエネルギーのルートを、ヨーガではナディと呼んでいます。その主要なものが背骨沿いにあるスシュムナとその左右にあるイダとピンガラですが、漫画ではここまでは説明していませんでしたね。<br /> <br /> まずクンダリーニがそのスシュムナを通るのが第一歩で、その後、体全身に気脈と言うかエネルギーを通します。そうしてエネルギーの通り道であるナディが全身で活性化します。<br /> <br /> そうして活性化すると、まず最初は集中状態に達します。この順番は集中が先だったり活性化が先だったりしますが、ともかく活性化と集中が実現します。この集中状態はチベットのゾクチェンで言うところのシネーの境地と言われているもので、いわゆる普通の集中状態を意味します。この状態ではまだ全身に意識が通っていません。<br /> <br /> その後、ゾクチェンで言うところのテクチュの境地に達すれば全身に意識が通った状態になり、漫画で言われているいわゆる「全集中の呼吸」といわれている状態に到達します。<br /> <br /> 剣で集中して刃を振るうのがゾクチェンのシネーの境地。<br /> 体全体に意識が通って全集中の呼吸をするのがゾクチェンのテクチュの境地で、これはサマーディとかヴィパッサナー状態と言い換えても良いです。<br /> <br /> 全集中常中とか言われているのはテクチュの境地が高まって日常的にサマーディ(ヴィパッサナー)を保てるようになった状態を意味します。最初は意識しないと全集中の呼吸が保てませんが、そのうち普通になるわけです。ですから、漫画の中では実際に息の呼吸で全集中の呼吸を24時間するような描画をしていますが、実際にはこれは呼吸というよりもエネルギー的なものですから、全身にエネルギーが満ちてサマーディ(ヴィパッサナー)状態が常時保てるようになったらそれでいいわけです。訓練の仕方も、ああいうスパルタもあるのかもしれませんけど、それよりも瞑想した方が手っ取り早いような気も致します。<br /> <br /> そうして、物語の中で「日の呼吸(ヒノカミ神楽、始まりの呼吸)」とか言われているのはゾクチェンの次の境地であるトゥガルの境地であり、いわゆる悟りに近い状態になります。<br /> <br /> まあ、漫画ですので完全に一致しているわけではなくて、本当にその境地に達していたら主人公の表情も本来は違う筈なんですけど、そこは漫画ですし面白くドラマティックに描かないと人気が出ないでしょうからそこまでは突っ込みませんけど、それでも、この漫画はこのあたりを勉強したかもしれない人が書いているのではないかと思わされますので興味深いです。<br /> <br /> この辺りを踏まえますと、漫画の中の鬼殺隊のメンバーのほとんどがクンダリーニ覚醒者で構成されていることになります。更には、「柱」と言われている主要メンバーはゾクチェンのテクチュの境地以上を極めていることになります。<br /> <br /> 主人公である竈門炭治郎(かまどたんじろう)が悟りの境地に近いトゥガルの境地を達成して「日の呼吸」を使い、これからきっと鬼の親分を退治することになるのかなと思います。ここはまだ物語は進行中ですので想像ですけど、そうであれば全体として辻褄が合います。<br /> <br /> 漫画に色々と求めすぎてもなんですが、時代的に、人の心の中に入り込んでいる鬼をどのように人一人が退治してゆくかと言うテーマに沿って解釈すると、この時代にこの漫画が人気が出ているのも興味深いものがあります。<br /> <br /> まあ、漫画のよもやま話なので厳密性を求められてしまうと困りますが、なんとなく気になったところをつらつらと書いてみました。<br /> <br /> <br /> <br /> Fri, 20 Mar 2020 00:00:00 +0900 サハスララの早すぎる開きはオーラを流出させる https://w-jp.net/2020/1873/ <br /> 最近の意識の集中を解いても発散しない意識として表現できるような意識の集中・凝縮の状態、および、いわゆるルドラ・グランティの解放に伴う現象について、瞑想中に私の内なるガイド(内なるグル)から解説がありました。<br /> <br /> それによりますと、今回の場合は上記のように意識が凝縮された状態でサハスララへのルートが開いたから良いが、ゾクチェンで言うところのテクチュの境地を前提として発散しない意識を到達していなければサハスララからオーラが抜けやすいので危険、とのことでした。<br /> <br /> クンダリーニ解放時にサハスララまでエネルギーが到達してサハスララが開いてしまう方がいらっしゃいますが、その場合、往々にしてテクチュの境地には達していないため、危険な状態になり得る、とのことでした。<br /> <br /> テクチュの境地に達していない、シネーの境地までの集中では日々の日常生活においてあまりにも集中が途切れてしまい、サハスララが開いている場合はサハスララからあまりにもオーラが漏れてしまう可能性があるとのことでした。<br /> <br /> サハスララが開いた場合は、まだテクチュの境地に達していない場合は速やかに達するか、あるいはグルがいるならばグルの元で監視下に置かれるべきとのことです。<br /> <br /> サハスララが開いていなくてクンダリーニだけが開いた場合はそれはそれで厄介で、エネルギーが抜けないので体の中に溜まってしまって湯気が出るようなぼうっとした状態、いわゆるクンダリーニ症候群になる可能性もありますが、その危険性よりも早期にサハスララが開いてしまった方の危険の方が大きいようです。<br /> <br /> 私の場合、いつしかにも言及しましたが、完全にクンダリーニを解放せずに一部を解放させると言う手法を取って、そのおかげでサハスララは閉じたままで今まで来たために割と安全だったようです。閉じていても危険なことがあるのですが、私の場合は今まで閉じていた方が安全だったと言う判断があったようです。<br /> <br /> どちらにせよグルの監視がある方が安全なのですが、ここで言う前提として、そこまで見ることができて対処ができるグルが必要ですので、グルがいたとしても何もわからない、何も対処できないようなグルでしたらあまり関係ありません。<br /> <br /> 実際のところ、そこまでできるグルはそうそういませんし、一般的には、問題が生じた場合はサハスララを閉じてあげるくらいしか対処方法はないような気が致します。できるならば、のお話ですが。ですので、サハスララを開けるなんて他人にはお勧めしません。<br /> <br /> この種の行法は危険で、人間にせよ内なるグルにせよ、何某かのグルがいないと大変だなと今回思いました。<br /> <br /> Thu, 19 Mar 2020 00:00:00 +0900 集中するという意味合いにおいて1つの流派を続けた方が良い https://w-jp.net/2020/1872/ <br /> 精神修行においては1つの流派を続けた方が良いとはよく言われていることです。それは宗教的な意味合いで独善的であっては良くないですが、それでも、1つの流派を続けることのメリットはあると思います。<br /> <br /> 精神修行ではある種の「型」と言うものがあって、マントラや座り方や体操の仕方および儀式のやり方まで様々なものがあります。<br /> <br /> そのような儀式はある種の法則性で成り立ってはおりますが、主に文化的背景が強いためにもともと精神性が高くして生まれた人であってもそのような作法はそれぞれの生で学び直す必要があります。<br /> <br /> キリスト教にはそのやり方があり、ヨーガにもそのやり方があり、修験道や仏教にもそれぞれのやり方があります。<br /> <br /> ですから、昨今の宗教はどれをやっても最終的な解脱に基本的には辿り着くはずなのですが、色々やっていると型を学ぶところで労力を使いすぎてしまい、ゴールには行き着くのが難しくなるのだと思います。<br /> <br /> 宗教や流派の問題点として自身の派閥に絶対的な信頼を置いてしまうが故に独善的になったり自身の流派が最高だと考えてしまうような弊害もありますが、それでも、自分の流派に集中することは良いことだと思います。<br /> <br /> 基本はどれをやっても良いのですが、本来の修行ができるためにはある程度の慣れと修練が必要というわけです。その準備段階に意外に時間がかかるためにあれこれやらずに1つだけに絞った方が本来の修行が効率よくできると思うのです。<br /> <br /> まあ、実際には流派によっては辿り着いている境地が違いますから本当に上を求めるのならば選ぶ必要があるのかもしれませんが、そこまで辿り着く人はそれほどいませんし、近所でやりやすいところを選ぶので十分だと思います。近所で師匠が見つけられるのならばそれが一番です。あまり最高の師匠とか求める必要はなくて、型を教えてくれて基本を教えてくれる師匠がいれば大抵の場合は十分のように思います。<br /> <br /> このあたりは、人間の師匠に関していえばなかなか見つけるのが難しいですが、霊界の師匠は割と大勢いるように思いますので、導きがあればそのような指導霊をつけるのが一番のようにも思います。霊界の指導霊くらいになりますと流派なんてそれほど関係ないみたいですので、流派が違っていても色々と教えてくれます。<br /> <br /> 何せ、人間の指導者とは比べ物にならないくらい通し目が効きますし、物事の道理や今必要な事柄など明確に教えてくれるので、まあ、そういうこともあって、私なんかが思うには、近所で通いやすくさえあれば流派はどこでもいいのかな、とは思うわけですけれどもあまり色々探すよりは1つを集中した方がいいかな、と思ったりもするわけです。<br /> <br /> Wed, 18 Mar 2020 00:00:00 +0900 頭から体の前を通ってお腹までエネルギーのルートが通る https://w-jp.net/2020/1871/ <br /> 最近の瞑想は集中というより凝縮という化学反応になってきています<br /> <br /> かなり以前は瞑想をする際に、例えば眉間であるとかお腹であるとか胸などに集中をした場合、心の動きを押さえつける役割としての集中でした。<br /> <br /> 最近の、特にテクチュの境地になってからの集中は、意識は集中するのですが、それよりも「集める」という方が正しいものになってきています。<br /> <br /> ただ、特別に「集めよう」と意識しているわけではありません。<br /> <br /> 意識を、例えば眉間に集中して・・・ と言いますか、単に意識を眉間に「置く」というくらいの感覚ですが、そのように意識を眉間に置いた場合、瞑想を始めるとすぐに周囲のオーラが規則性を持って安定し始めます。・・・そんな気がしてきます。<br /> <br /> そうして30分とかもう少しか瞑想を続けていますと、意識はそのままなのですが、急激にオーラが眉間のあたりに凝縮されてくるのを感じます。特別にそのように動くように意識したわけでもありませんが、意識を眉間に置いておく状態、いわゆる集中という状態を続けますと、そのように、意識というかオーラのようなものが眉間および体の内側に沿った形で、特に眉間や胸のあたりに凝縮されることがわかるのです。分かる、と言っても良いですし、感じる、と表現しても同じことです。感じて、分かるのです。<br /> <br /> 例えるならば、流しやプールに入った水と排水溝があった時、排水溝から少しだけ水を下に流すと、排水溝のあるところを中心にして水が渦巻きのように回転し始めます。遠くに葉っぱを浮かべてもゆっくりゆっくりとしか動きません。葉っぱが排水溝に近づくと急に動きが早くなって排水溝に勢いよく流れ込んでいきます。それと同じで、瞑想を初めて30分くらいはゆっくりとしか動かないのですが、最後は急激に凝縮するのです。<br /> <br /> そのようにして最近は瞑想を続けていたわけですが、その凝縮した感覚で瞑想を続けていますと、やがて、そのエネルギーが飽和して近くに流れ始めました。<br /> <br /> 最初は、眉間から下方向に流れて喉に入り、胸の前を通ってお腹のあたりまで届きました。そして、ムーラダーラのある会陰のあたりも脈打って反応してエネルギーが通じているのを感じたのです。<br /> <br /> かなり以前にクンダリーニのエネルギーが解放されてマニプラやアナハタのエネルギーがそれぞれ優勢になった段階においては、特別に前とか後ろとかそのようなことを意識はしておりませんでした。その際は、体の内部がエネルギーに満ちた感じをしており、今もそれは変わらないのですが、今回は、その体の内部に満ちたエネルギーとは独立して体の前面にエネルギーのルートが通ったような気が致します。<br /> <br /> まず最初にそうして眉間のアジナから喉のヴィシュッダ、そして胸のアナハタの前面、そしてマニプラ。マニプラは前面と言うより内部な感じでした。そして会陰のムーラダーラもいつも通りの内部な感じでした。<br /> <br /> ですから、今回新たにエネルギーが通ったルートは眉間のアジナからマニプラまでの前面ルートだったと解釈して良いと思います。アジナからアナハタまでは前面、アナハタからマニプラにかけては上半分が前面で下半分が斜めに横切って内部のマニプラに接続されているような感じでした。<br /> <br /> そして、それだけでなく、アジナから後頭部にかけて真っ直ぐ伸びるルートおよび後頭部から頭頂に向かってのルートも更に活性化してきたように思います。少し前に頭の頭頂が割れたような感じになったところからエネルギーの交換がされているような感じです。頭頂だからといってそれがサハスララとは限りませんが、まあ、頭頂の感覚があります。<br /> <br /> これで、基本的な部分に関しては頭頂から前面を通って下半身までルートが通ったように思います。<br /> <br /> 今は体の中はポカポカしていますし、今回のことで前面にもエネルギーが通り始めましたが、背後に関してはそれほど明確なエネルギー・ルートがありません。背後についてはまだまだ様子見と言ったところです。<br /> <br /> それでも、とりあえず小周天あるいは大周天っぽい真似事でぐるりとエネルギーを回転させてみましたらそれなりに通りました。眉間から体の前面を通って下半身にたどり着いた後、背後というよりは体の中の背骨のあたり半径10cm前後の大きさでぐるりと頭までエネルギーが通りました。エネルギーが通る時、特に胸のあたりで骨をボキボキ鳴らすのと同じような感覚で何かがちょっと動いたような感じがしました。物理的には動いていない筈ですけどね。これが小周天なのか大周天なのかよくわかりませんが、小周天っていうともっとちょろっとしたエネルギーのような気もしますし、かといって大周天は定義が色々でイマイチ判断がつきにくいですが、大周天ぽい感じだった、とでもしておきます。<br /> <br /> Tue, 17 Mar 2020 00:00:00 +0900 信仰心とは信じることではなく疑わない心 https://w-jp.net/2020/1870/ <br /> よく「信じなさい」とか宗教で言われていますけど、私にはそれがどういうことなのかわかりません。信じて何かが変わるとも思えません。確かな教えがあって、それを信じなさいと言うのですが、教えは概ね正しいとは思ったりもしますが、信じるのではなく納得するものだと思うのです。<br /> <br /> 納得した上で、疑わなくなるのです。<br /> <br /> その最終的な状態を信仰心と呼ぶのであれば、それはきっとそうなのでしょう。<br /> <br /> しかし、教えがあるから信じなさい、と言うのはちょっと違う気が致します。<br /> <br /> ですから、信仰心があるからと言って宗教とはちょっと違うと思うのです。<br /> <br /> 例えば、山岳信仰があるからと言ってそれが宗教とは限らないでしょう。<br /> 自然崇拝みたいな考え方はどこにでもあって、それが宗教とは限らないわけです。<br /> <br /> それが迷信だとか言われたりしますけど、迷信というよりもむしろ、納得した上で疑わなくなる心が崇拝や信仰を生み出すと思うのです。<br /> <br /> ですから、そのようにして生まれた信仰心が必ずしも宗教とは限らないわけです。<br /> <br /> 個人的には団体のみならずそのような信仰心も含めて全て宗教だと思っていますが、一般的に宗教というと団体のことを指すわけです。<br /> <br /> ヨーガとかでも、信じなさいとは言っていません。教えを一つづつ確かめなさい、とヨーガでは言われていて、その結果、疑わなくなってくるのです。それを信仰心と言えばそうかもしれませんし、ヨーガは自身のことを宗教ではないと言っていますが、このように信仰心のことだけを取り上げてみると個人的には宗教と言っても良いのではないかなと思ったりもします。<br /> <br /> 個人的には精神修行の分野は全て宗教みたいなものだと思っていますからヨーガも神道も修験道も全て宗教みたいなものだと思ってはいますが、その中でも、信仰心の取り扱いについて様々だと思います。<br /> <br /> 信じれば救われる、と言っている宗派もあれば自分で確かめて確信を持ちなさい、と言っている宗派もあって、色々です。<br /> <br /> ですがまあ、個人的には「信じれば救われる」というのはよくわからなくて、このように、確かめた上で疑わなくなる、という文脈において信仰心を捉えています。<br /> <br /> Mon, 16 Mar 2020 00:00:00 +0900 魑魅魍魎の世界がこの世の真の姿 https://w-jp.net/2020/1869/ <br /> 多くの人は物質を見てこの世は美しいだとか言っていますが、実際には魑魅魍魎の世界です。アストラルな視力を使えばこの世は見るもおぞましい世界であることがわかるのです。<br /> <br /> 昔は森が広がっていて妖精が住んでいたりもしましたが、今はどこも人で埋め尽くされていて、そこかしこに魑魅魍魎がたむろしているように思われます。<br /> <br /> 神智学で言うところのアストラル視力あるいはメンタル視力があったとして、魑魅魍魎が見えるのはアストラル視力によってです。メンタル視力は時空をある意味超越していて時間の枠組みに囚われず、過去・現在・未来とまでが一続きで様々なタイムラインを眺めることができます。一方、アストラル視力ですと魑魅魍魎などいわゆる霊の姿が見えます。<br /> <br /> その他にエーテル視力というものもありますけど、これは肉体に近い視力です。以下まとめます。<br /> <br /> ・肉体の視力<br /> ・エーテル視力:肉体に付随する視力。肉体に近いオーラを見る。エクトプラズムを見る。<br /> ・アストラル視力:霊を見る。魑魅魍魎を見る。<br /> ・メンタル視力:時空を超えたタイムラインを見る。例:パリ郊外での人生のお話<br /> ・ブッディ視力:過去・現在・未来が同時に存在している。完全な先見力。私は未経験。<br /> <br /> 仏教やヨーガ等で「瞑想中に見えるものは重要ではない」というのはアストラル視力のことを言っているのではないかと私なんかは思います。魑魅魍魎を見たところで意味はないですからね。ですから、ヨーガスートラでも「悟りに近づくと神が誘ってくるが、誘いを退けること」と書いてあります。<br /> <br /> 私の場合、女性バージョンで生まれた時は上記のリンク先のようにメンタル視力で先読みをして各種のタイムラインを把握することは容易だったように思いますが、男性バージョンで生まれるとあまり能力が使えません。せいぜいアストラル視力までです。<br /> <br /> 私の場合、女性の時と男性の時で使える能力に違いが出ています。魔女と言うと女性のことですし、これはきっと一般的にもそうなのではないでしょうか。体の構造に違いがありそうです。女性の場合は特殊な訓練をさほどしなくても能力が普通に出るように思います。<br /> <br /> このアストラル視力ですけど、数百年くらい前までであれば人口密度もそれほど高くなく魑魅魍魎もぼちぼちいるくらいで避けることも容易でしたが、最近はそこら中が魔物の巣窟のようになっていて歩いているとすぐに魑魅魍魎とぶつかるくらいの酷い状況になっていると思います。<br /> <br /> そもそも人間の方が怖いので魑魅魍魎とすれ違ったりしても肉体にさほどの危害はないのですが、なんとも気持ちが悪いものがあります。人通りが少なければ魑魅魍魎を避けて歩きますが、混雑している場合は仕方なく魑魅魍魎と体が一瞬重なって通過したりします。<br /> <br /> まあ、通り抜けてすれ違うくらいであれば基本的に害はないようです。なんとも気持ちが悪いですけど、肉体があるとそこに魂とオーラが殻で保護されていますので安全のようです。<br /> <br /> この種のアストラル視力は厄介で、心を惑わせますし、一般の人には見えないものが見えるようになったことで優越感も生まれやすく、はっきり言って修行の邪魔になるだけで大して役に立たないものです。<br /> <br /> 以前にも余談で少し書きましたけど、この厄介なアストラル視力を閉じるために特殊な霊界の布を用いたマントを使った転生方法があります。生まれる前にあらかじめその特殊なマントで包み、アストラル視力を封じ込めるのです。<br /> <br /> アストラル視力がないと魑魅魍魎と接触してしまう可能性があるために、そのマントはある程度のアストラル的な防御膜の役割も果たします。ですので、ちょっと魑魅魍魎とすれ違ったくらいでは影響を受けないようになります。<br /> <br /> それでも、魑魅魍魎はしつこく迫ってきますし言葉巧みにエネルギーを吸い取ろうとしてきますので、このマントを使った修行方法は危険と隣り合わせになります。<br /> <br /> アストラル視力で魑魅魍魎が見える場合、子供の頃にそれが判明したら精神病院に連れて行かれて見えなくなるまで薬漬けにされる可能性もありますので、アストラル視力のある人が呪術を得意とする家系ではないところに転生して生まれる場合などはこのようなマントを使う場合もあります。<br /> <br /> アストラル視力を持っている人は割とそこら中にいるように思われます。それがアジナチャクラの力だとか言われていますけど、古来、呪術を得意としてきた家系、神道系や仏教や陰陽師の家系には珍しくないと思います。王族にも多いと言う噂を聞きます。<br /> <br /> アストラル視力を持っていて精神病院に連れて行かされるのは庶民の家庭が多いと思います。<br /> <br /> そのような守られていないところに飛び込んで普通の人生を送るのは、まさに修行であるわけです。命がけの修行です。それを、このようなマントを使って行う人がいるわけで、昔はよく使われていたようですけれども、最近はあまり使われなくなったと管理者の人が嘆いていました。<br /> <br /> アストラル視力は上に書きましたように魑魅魍魎が見えて、時には神様の姿も見えるかもしれませんが、基本的にはあまり役に立たないことが多いです。<br /> <br /> いわゆる「修行」にはあまり役立ちませんね。上に書いたように、おごりの心が生まれたりして修行の邪魔になることが多いように思います。アストラル視力くらいですと精神的にも未熟で、まだこの世の利益に絡めとられていることが多いように思います。<br /> <br /> その上のメンタル視力が持てるくらいにまで成長すると心は平安で、物事を超越した視点を持てるように思います。<br /> <br /> オーラ的にも、アストラル視力があるくらいですとオーラが弱くて魑魅魍魎にエネルギーを奪われたり不安にさせられたりしますが、メンタル視力があるくらいにまでエネルギーが高まってオーラが純化されれば魑魅魍魎に影響されることもほとんどなくなると思います。<br /> <br /> それを目指すのであれば、このような特殊な霊界の布を使ったマントを使ってアストラル視力を制限するのは有用であるように思います。<br /> <br /> 私の場合、今世では目的達成のために有用と思ってこれを使っています。・・・たぶんそうだと思っています。そうなっていることを知ったのは子供の頃に幽体離脱した時ですが、昔はその意図が完全に理解できていませんでしたけど、今では確かに有用だと理解しています。本来は今生全てをマント強制使用で過ごすつもりでしたが、意外に早くカルマ浄化の目的を達成できましたので、今後どうしようかな... とは思っていますが。今はマントが体にロックされていて、特殊なマントラを唱えるとロックが解除されてるようになっていますが、私は覚えていなくて守護霊に聞かないといけないのですが、どうしましょうかね、と言うところです。<br /> <br /> Sun, 15 Mar 2020 00:00:00 +0900 バクティでヴィパッサナー状態に至る https://w-jp.net/2020/1868/ <br /> ヨーガではカルマ・ヨガという奉仕の道が推奨されており、その先に礼拝するバクティがあります。カルマヨガで奉仕をするうちに奉仕の対象までもが神格化して現れると言います。<br /> <br /> その時、バクティはヴィパッサナー状態のように無心になって対象と自身の区別がつかなくなります。それはサマーディ状態と同じことです。奉仕が主体なしに目的なしに自動的なものになり、必要だから行う、という単純な、それでいて当然のものになります。<br /> <br /> そのことを、バクティの人は奉仕だとか神格化だとか礼拝だとか表現しているのかな、と思うのです。<br /> <br /> ヨーガでカルマヨガの奉仕をしている人を見ていると、特に最初は迷いが多くて、本当にこんなことをしていて意味があるのだろうか、と思い悩むことがあります。その悩みは当然で、本当の意味を理解していないか、あるいは、きちんと説明されていなかったりするようです。<br /> <br /> NPOのボランティアとかですと奉仕や現状へのストレスおよび必然性からの要望がモチベーションになったりしますけど、いわゆるボランティア疲れというものがあって、それはヨーガでのカルマヨガの疲れと共通している部分があるような気が致します。<br /> <br /> NPOのボランティアは割と救いがないと言いますか、宗教的な考えなしに無心の心に辿り着くことはなかなかないのではないかと思います。ボランティアで長く続いている人は何がしかの宗教的バックグラウンドがあると思います。あるいは、私なんかはボランティアにしばらく関わり合いましたけど、見た目上は奉仕しているように見せかけて利益を目的にしている団体なんかもありましたね。ですから、NPOは救いがあまりないかな、という気がします。宗教的な思想のバックグラウンドがないとNPOは方向性を見失うと思います。一部はそういう思想があったりしますが、そういうところは海外発祥が多い気が致しました。日本は変なところで唯物思想が蔓延っていますよね。<br /> <br /> 一方、ヨーガでのカルマヨガの本質は奉仕ではなく、最終的な悟りが目的ですので救いがあります。奉仕を目的にしてしまうと実際、奉仕の対象というのは限りがなくていつまで経っても終わらず、永遠に問題が解消しないというジレンマに陥ってしまいます。NPOはその点、救いがないです。基本的にNPOもカルマヨガも「解決」のない問題に取り組むことが多いですが、NPOは解決できないのに永遠に取り組んでボランティア疲れになって去って行き、一方で、カルマヨガも真実を見出せなければ疲れて去っていきます。それでも、カルマヨガの方には救いがあると思います。<br /> <br /> ヴィパッサナー状態に至るためにはいわゆる心を浄化する必要があって、バクティの人は奉仕と集中で浄化するわけです。ラージャヨガの人は瞑想で浄化するわけですけど、割と同じことです。モチベーションとしてどちらを取るかという違いがあるくらいだと思います。<br /> <br /> 見方によって階梯のつけ方が違っていて、バクティ的に言えば理屈ありの奉仕から無心の奉仕へ、となり、ラージャヨガ的に言えば雑念の多い集中状態から雑念のほとんどない無心の瞑想状態、いわゆるヴィパッサナー・サマーディ状態にどちらにせよ辿り着くわけです。<br /> <br /> 説明する人によって、瞑想なんて必要ないと言うかもしれませんが、やっていることは割と似通っているように思われるのです。<br /> <br /> カルマヨガはその点で救いがありますが、NPOは救いがなくて、ボランティアの無償のパワーをNPOが吸い取ることでNPOが存続するという方程式になっていますからエネルギーがなくなったボランティアは捨てられていきます。一部の親分は自身のエネルギーを無償のボランティアスタッフから頂いて君臨し続けるわけです。まあ、そうではない団体もあるかもしれませんが、私が見てきたのはそういうところが多かったです。それでも、エネルギーをもらい続ければある程度は無償のボランティアスタッフから感化を受けて、最初はボランティアスタッフを使い捨てくらいにしか思っていなかった親分が随分と心変わりすることもあったのは意外でしたが。そういう意味で、ボランティアスタッフは無償活動をしてエネルギーを与えるという役割を果たし、親分はそのような場を提供することで成長をしているのかもしれません。ですが、そうして成長できるのは割と例外的な人だけだったように思います。<br /> <br /> NPOもカルマヨガも、最初は「奉仕することで感謝されたい」みたいな単純なところが動機になります。カルマヨガは続きがありますが、NPOはそこで終わりです。でしたらNPOボランティアより普通に仕事したらいいんじゃないかと私なんかは思ってしまいます。普通の経済活動の方がよほど人々を助けるように思います。お金を正当な報酬としてあげられますしね。相手の自尊心も奪いませんし、自立を助けます。<br /> <br /> カルマヨガは続きがあって、瞑想もしながら無私の奉仕みたいな境地に至り、それは人によってはヴィパッサナーあるいはサマーディと呼ばれている状態なのですが、そこに辿り着き、本当の奉仕の意味を知るわけです。<br /> <br /> ボランティアで宗教的意味を語ることがタブー視されている日本のこの状況で、しかも、ことあるごとに著名なNPO活動家が「思想なんかよりもエクセルシートの方が人を救う」と言って唯物論を語るこの現状では、海外のようにボランティアと宗教的意味を結びつけるのは難しいと思います。思想的にとても貧相な日本の状況は、それでも、現状の年寄りの世代が亡くなれば次第に若い世代の感覚で平常感覚を取り戻していくような気も致します。<br /> <br /> それを待つこともできるかもしれませんが、既にカルマヨガではそのようなところが解決されていますし、そもそも目的が違っていますから、誰かを助けたいのであればボランティアとか言っていないで普通にお金を使って経済活動をするなりして助ける方がよっぽどためになると思っているのは上に書いた通りです。ボランティアなんて言って自分の行動に制約をかけているだけだと思います。相手のために一番ためになるのが何なのか選択肢を探した時にお金を使って経済活動した方がいいのであればそうすればいいのであって、ボランティアとかいう枠で選択を狭めるのは、ただ単に自分のわがままでしかないかもしれないのです。まあ、ボランティアは私はそんな感じに思っていますけど、ボランティアであれば目的は問題の解決ですが、カルマヨガでは行動を補助として自分が悟ることが目的ですので、似ていてもかなり別物になります。<br /> <br /> とは言いましても、悟る人が増えれば究極的にはボランティアで解決したい問題もかなり解決するとは思います。それが本質というものだと思います。ですから、遠回りであったとしてもカルマヨガ等で悟った人を増やした方がいいとは思います。<br /> <br /> Sat, 14 Mar 2020 00:00:00 +0900 教会は、ただ神だけを説くべきだった https://w-jp.net/2020/1867/ <br /> 私のグループソウル(類魂)に大航海時代のヴェネチアで大司教だった魂がいますが、その魂は、教会に恐怖という概念を残してしまったことに後悔しているとのことでした。<br /> <br /> 本来ならば神だけを説くべきだったのに、世相に対して教訓を説いたために恐怖が乗ってしまった、というのです。<br /> <br /> 日本ではそうでもない気もしますが、ヨーロッパの特にカトリック系の教会では独自の教訓として戒めのお話だとか悪魔の話だとかを聞かせるので、教会や天使・悪魔に対して怖い印象を植え付けられている人がそれなりにいらっしゃいます。<br /> <br /> そのことを、とても後悔していました。<br /> <br /> ・・・まあ、類魂ですので部分的には私の過去生でもあるわけですけれども、確かに、過去の記憶を辿っていきますと、私自身、本当の神を当時はそこまで深く理解していなかったのかもしれない、という気も致します。<br /> <br /> それなりに純化されていて聖職者としてやっていくだけの精神状態にあったとしても、本当に神を知るということはなかなか難しいことでありますし、知っていたとしてもその深さを追求していったら限りがありませんし、それを他人に伝えるという点で誤解があったりして難しい面があると思います。<br /> <br /> 第一に自分自身が純化すべきという点で、当時の教会には部分的にヨーガの知識も入ってきていたような気が致します。当時の司祭たちもヨーガの真似事をして、ヨーガはキリスト教の助けになる、という理解でいたようです。特にヨーガを否定することなく、受け入れていたように思います。<br /> <br /> 思えば、私の類魂の大司教の一つ前の代の大司教がとても素晴らしい方で、はっきり言って私の類魂よりも素晴らしいと思える方で、誰しもが聖人だと認める輝きを持っており、人格も備わって、街の人々から尊敬されておりました。そんな聖人の後に続いて大司教になったわけですが、前代に対しての比較意識や気負い、新しいことをしなくてはいけないという焦り、あるいは、当時の世相に心を惑わされていた、という面もあったかもしれません。<br /> <br /> そんなこともあり、当時、神の教えを説く時に当時の荒れ始めた世相に対して教訓として怖いことを説いたために現代に至るまで教会で恐怖を植えつけてしまうような風潮が残ってしまいました。<br /> <br /> 今から思えば、ただ神だけを説くべきだったのです。<br /> <br /> 世相は心惑わす現象であり、そのようなところにコメントしたところで本質的ではなく、心の平安は自分自身の中にあるのだから、心の平安を作るために教会はあるべきだったのです。<br /> <br /> もちろん、そのような面もありましたし、祈りもありましたし、聖歌隊も浄化のために役立っていました。<br /> <br /> しかし、それと同時に、恐怖という一面を教会に持ち込んでしまったのです。<br /> <br /> それが、今日に至るまで特にカトリックの教会で「教訓」と消して恐怖を信者たちに植え込んでしまっており、それが故に天使などの導きを素直に受け取ることができない状況を作ってしまっている、という点について酷く後悔しています。<br /> <br /> 当時のヴェネチアは大航海時代の終わりを感じる黄昏の時期であり、まだまだ繁栄してはおりましたが商人たちが他の街に進出することで次第に衰退するのが肌に感じられる時代だったように思います。<br /> <br /> そんな時代を反映してか、世相は廃退的になり、例えば音楽がクラシックからロックに近い早いテンポのものに変わったり、激しいダンスのようなものが流行したり、落ち着いて生活するのではなく激しく表情を出す風潮に変わっており、それに対して教会は危機感を感じていました。<br /> <br /> 教会は、そのような廃退的な世相を良くない風潮だと判断しており、もっと落ち着いて、文化的で、精神性の高い暮らしをするように人々を教育したかったのです。精神的に落ち着いた暮らしこそが神の道であると説きたかったのですが、世相に対してコメントしてしまったが故に、本来説きたかったこととは違う印象を与えてしまいました。<br /> <br /> その結果として、人々が廃退的な暮らしを反省するのではなく教会や神に対する恐怖心が育ってしまい、それでも教会は尊敬されておりましたが、一部の人の中に拭うことのできないわだかまりが残ってしまったように思います。<br /> <br /> 教会の説き方として、廃退的な暮らしぶりを指摘してそれは良くないから神の道が好ましい、ということを説明すると、聞き手の方は廃退的な暮らしに対する指摘だけが心に残ってしまってわだかまりが残ってしまったのでした。神を知っていれば廃退的な暮らしが望ましくないと分かるわけですが、既に廃退的な暮らしに片足を突っ込んでいるような人に対して指摘したとしても恐怖心が育つだけのことでした。<br /> <br /> これは、うまく教育できなかったこととして後悔になっているわけですが、流石に、廃退的な世相という大きな流れに対して道徳的な生活を呼びかけるというのは焼石に水とでも言いますか、なかなか難しいところではあったようにも思います。<br /> <br /> 当時の感覚としては、教会がうまく教育できないから人々が廃退的な方に向かってしまっているのだ、と感じておりました。実際そういう面もあったのかもしれませんが、大きな時代の流れだったのかもしれません。<br /> <br /> そうして、一部には理解されたものの、多くに恐怖を植え付けてしまったわけですが、やり方としては、それほど良いものではなかったように思います。<br /> <br /> 当時、廃退的な文化を背景に、神をないがしろにする風潮が既にありました。このような、神をないがしろにする風潮は現代に限ったものではないようです。神は信用できなくて笑い飛ばすものだ、という風潮が既に一部にありました。唯物論の走りだったかもしれません。<br /> <br /> 一部の廃退的な人たちは、例えばロックに近い踊りを広めて人々を集め、人々が笑顔になるのを見て「これこそが本当の人間の生き方だ」と思いました。それは今も世界中で行われていることです。そうして、聖職者たちの中にも「そうかもしれない」と思う人たちが出て、やがては神の生き方で落ち着いて暮らすよりも、ロックな方を選ぶ人も出てきました。<br /> <br /> 私の大司教は、しばらくはその風潮を眺めてどういう状況なのか判断を長らく保留しておりましたが、やがて、首謀者らしき人物がかつての聖職者たちを見てニヤニヤした顔つきで見下しているのを発見し、「これは良くない」と判断して廃退的な風潮を更に激しく追求し始めましたが、多くの人々はそれが理解できず、そうこうしているうちにヴェネチアは衰退し、多くの人々がヴェネチアを離れて行きました。<br /> <br /> 死後しばらくして、ヴェネチアは静かな港町になりました。かつての廃退的なロックも消え失せ、静かな港町になったのです。皮肉なものです。衰退して静かな世界を取り戻したのです。しかし、当時に指摘した風潮は広く世界に広まってしまいました。<br /> <br /> 今から思うに、やはり、神のみを説くべきだったのです。<br /> そして、神を説くためには自分自身が誰よりも神と共にあるべきだったのです。<br /> 他人に何かを伝えるのは難しく、全てを伝えるのは不可能に近いですが、それでも、自分がまず深く理解すれば何分の1かは伝わると思うのです。<br /> <br /> その基本に忠実になるべきだったのであって、恐怖だとか教訓だとか、そういうものに頼るべきではなかった、というのが今の元大司教の魂が考えていることのようです。<br /> <br /> その後、その大司教の魂はいわゆる「聖者」として認定されているようです。裏を取ろうと思って史実を調べようと思いましたが、良くわかりませんでした。<br /> <br /> 聖者認定されるには奇跡を起こす必要があって、この場合、死後の葬式の時に誰も動かしていない、直径1mあるかないかの鐘を魂の状態で動かして何度も鳴らすことで奇跡を起こしました。実は鐘というのは振り子の法則が使えますので何度も何度も力をかければ少しづつ動くので、実際のところ、死後に動かしやすいものの1つかなと思います。<br /> <br /> その時、同僚たちは私をそれほど聖者とまでは思っていなかったのですが、鐘がなったことにより「おお・・・。○○大司教は聖者だったのか・・・」と認識したようです。<br /> <br /> そして、死後の何周忌かの時、おそらく7周忌くらいの時にも同様に鐘を付きました。その時も驚きが起こりましたが、反応としては「○○大司教は我々を見て守って下さっている」という印象だったようです。そして、たしか30周忌くらいにも同様に鐘を鳴らしましたが、この時はこの出来事が予想されていたのか、誰も驚くことなく列席者が並んで静かに頭を垂れて感謝を捧げておりました。<br /> <br /> 私くらいの魂でもこのくらいのことができますので、意外に「奇跡」というのは敷居が低いのかもしれません。<br /> むしろ、私よりも遥かに悟った人ならば、わざわざそんな奇跡なんて起こさないような気も致します。<br /> <br /> それよりも、神を知って神を伝えることの難しさの方が遥かに上のような気が致します。<br /> <br /> Fri, 13 Mar 2020 00:00:00 +0900 3つのグナとコーザル体 https://w-jp.net/2020/1866/ <br /> クリヤヨガは他のヨガの体系と少し異なった理論を展開しているように思います。それによりますと、3つのグナはそれぞれ以下と関連があると言います。<br /> <br /> ■3つのグナ<br /> タマス:物質・肉体<br /> ラジャス:(神智学で言う)アストラル体、心<br /> サットヴァ:(神智学で言う)コーザル体<br /> 「Kriya yoga Darshan(Swami Shankarananda Giri 著)」<br /> <br /> これに更に、瞑想の境地の対応付けを私の理解に基づいて付け加えます。<br /> <br /> ■3つのグナと瞑想の境地(私の理解)<br /> タマス:物質・肉体<br /> ラジャス:(神智学で言う)アストラル体、心、ゾクチェンのシネーの境地。精神的な集中。禅定。サマタ瞑想。(一部の)サマーディ<br /> サットヴァ:(神智学で言う)コーザル体、ゾクチェンのテクチュの境地。ヴィパッサナー。(本来の)サマーディ<br /> <br /> ヨーガでは3つのグナを超えたところを目指します。一般的にヨーガをしている人はサットヴァな清浄な境地を目指しますが、サットヴァの清浄な状態すら超えたところに更なる境地、いわゆる解脱だとか悟りだとかモクシャ(解放、自由)と言われている境地があると言います。<br /> <br /> この、3つのグナを超えた境地はゾクチェンのトゥガルの境地に対応しているのではと思います。いわゆる悟りであるわけですが、悟りというと手に届かないものに思えてしまいますが、こうして段階的に並べてみるとそのステップが明らかになるわけです。<br /> <br /> 最初はラジャスですのでいわゆるサマタ瞑想で精神的な集中をしてゾクチェンのシネーの境地の平安な状態を目指します。<br /> <br /> その後、サットヴァに達したらそれはゾクチェンのテクチュの境地ですので更なる平穏な状態になるわけです。<br /> <br /> ゾクチェンに基づきますとテクチュの境地からその先のトゥガルの境地までは一続きですので、ラジャスからサットヴァの境地に上がることができさえすれば着実に悟りだとかモクシャだとか言われている状態に辿り着くと思われるのです。・・・まあ、このあたりはまだ仮説ですが。<br /> <br /> 最近は言葉が混乱してきて3つのグナとかサットヴァが様々な意味で使われていますので判断が難しいのですが、上記の区分で考えた場合、ゾクチェンのテクチュの境地に相当するサットヴァな意識に到達するのはそれなりにハードルが高いのかなと思われます。それはヴィパッサナーやサマーディと同等の意識状態であるわけですが、なかなかそこまで到達できないような気もします。<br /> <br /> そうは言いましても、道は割と単純で、脇道があるようでいてそれほど脇道もなくて、流派がたくさんあるように見えて実際はどれも基本はこの道ですので、実は精神修行というのは基本は凄くシンプルなのではないかなあ、というのが最近の実感です。<br /> <br /> 人の嗜好に応じて色々試したり好きなものを選べばいいとは思いますけど、そこで鍛えられる根幹の部分は同じのような気が致します。<br /> <br /> Thu, 12 Mar 2020 00:00:00 +0900 意識の集中を解いても発散しない意識 https://w-jp.net/2020/1865/ <br /> 瞑想中、最初は頭の中に集中しました。<br /> <br /> それは頭の中にオーラの塊を集めて凝縮あるいは固定させて発散させないように注意している状態ですが、ふと、その集中を解いても平気な気がしました。<br /> <br /> その直感に従って集中を少しづつ解いてみました。<br /> <br /> すると、実際に頭の中にオーラがほぼその形を保ったまま維持されていたのです。確かに周囲の形は少し崩れた感じですが、基本的な形は保持しています。<br /> <br /> ヴィパッサナー状態になってからは意識的に体の緊張を解除してきたわけですけれども、それはあくまでも体の緊張であって、精神的な緊張を解いているわけではありませんでした。<br /> <br /> 体の緊張は精神的な緊張と繋がっていますので体の緊張を解けば精神的なストレスや緊張も解除されますが、今回のように精神的な緊張あるいは意識的な集中を意図的に解除できたのは初めてでした。<br /> <br /> おそらくは体の緊張も精神的な緊張も似たようなものではありますが、その微細さとやりやすさが違うのです。<br /> <br /> オーラの塊を集めるのはそれは緊張というよりも発散させないようにして周囲との無意識的な接触を防ぐという意味もありますし、微細な感覚を出しやすくするという意味もあると思います。各種の意図があって、そのために集中ということをしていたわけですが、その集中はそれ自体が目的ではなくてオーラを集めることが目的だったのかなと思います。<br /> <br /> 今までは集中それ自体が何か意味があるような気がしておりましたが、目的はオーラを凝縮させることであって、集中とはその手段に過ぎないのだとすれば、オーラが十分に凝縮して発散しにくくくなったらその集中を解いてあげても良いのかなと思います。<br /> <br /> おそらくは定期的に集中してオーラを凝縮させてあげる必要があるのですが常に集中している必要はなく、意図的に集中したり解除したりしてあげる必要があるのかなと思います。<br /> <br /> そのやり方が、肉体の緊張を解くやり方と割と似ていると思うのです。<br /> <br /> ヴィパッサナー状態になってまず最初は肉体の緊張を解いて行ったわけですけれども、その同じやり方がオーラの凝縮の際の集中と集中解除とに応用できたわけで、その両者が方法において繋がっていたわけです。<br /> <br /> 剣術の奥義書に「緊張を解く」「リラックスする」とか書いてあると言いますけど、私は剣術はできませんし奥義書も読んだことありませんので単なる想像になってしまいますけど、それはひょっとしたらこういうことを意味しているのかもしれない、とちょっと思いました。ここは仮説ですけど、それっぽい気もします。<br /> <br /> 緊張を解くとかリラックスには二段階あって、肉体の緊張を解くというお話と、今回のように精神的な緊張を解くというお話があるのだと思います。<br /> <br /> そして、精神的な緊張を解くというお話はオーラの凝縮および意識の改革に更に繋がっていくと思うのですが、この最後のあたりはまだこれから検証していくところで、まだまだ様子見といったところです。<br /> <br /> Wed, 11 Mar 2020 00:00:00 +0900 別々ということが分からなくなることが同一の意識 https://w-jp.net/2020/1864/ <br /> スピリチュアルやヨーガでは「他者や周囲の物と同一だと感じられる意識の状態になります」と言われたりします。<br /> <br /> ヨーガではこの状態のことをサマーディと呼び、スピリチュアルではトランス状態だとか天使と繋がっている状態だとかハイヤーセルフと繋がっている状態だとかキリスト意識だとか様々に表現されていますが、きっとそれらは同じ状態を様々に表現しているのだと思われるのです。<br /> <br /> ただ、表現の違いと言えばそうなのかもしれませんが、私の最近のスローモーションのヴィパッサナー状態やサマーディの状態を率直に言い表しますと「同一である」という意識状態ではありません。かと言って「別々だ」という意識状態でもありません。言い表すならば、「同じかどうか分からない。別々かどうかもわからない」という意識状態になっています。これをきっと便宜上「いわゆる同一の意識」としているのかなと思います。<br /> <br /> 最初は「別々」という意識状態なわけですが、そのうち「いわゆる同一」という意識状態に達します。ただ、それはもともと「別々」だったので「同一」と一応解釈しているだけで、実際はきっと「同一かどうかすらわからない。別々かどうかもわからない」状態であって、それを便宜上「同一」と表現しているに過ぎないと思うのです。<br /> <br /> 実際にはそれとは別に「同一な気がする」という前段階があって、そこでワンステップ踏んでから「同一(同一か別々かわからない)」の状態に進むわけですが、その前段階はとりあえず置いておいて、ここでは本来の意味における「同一」が実際は「同一か別々かわからない意識」のことなのだと解釈しています。<br /> <br /> 1.別々<br /> 2.同一な気がする(サマーディの前段階)<br /> 3.いわゆる同一、サマーディ。同一かどうかすらわからない。別々かどうかもわからない。<br /> <br /> 自分の実際の意識を観察すると、まず、分離の意識では「別々」は明確にわかります。・・・たぶんわかった筈です。最近はあまり分離の意識にならないので昔の記憶に基づいたことですけど、たぶん、明確に別々だったような気が致します。<br /> <br /> 次に「同一」というものですけど、既に繋がってしまっているのでどこに切れ目があるのかがわかりません。意識がそこにまで通ってしまっているから同一な気もしますが、同一かと聞かれたらそうかもしれない、というくらいにしか答えられません。自分の体のどこが同一なのかも良くわからないのと同様に、サマーディの状態で周囲のものや人を観察した時に同一か別々なのか良くわからない状態になるのであって、周囲のこれとこれが同一だ、みたいな明確な意識を持てるわけではないと思います。明確な意識というのは分離の意識ですのでそれは「同一」の意識ではないと思います。<br /> <br /> 意識の状態はクリアですけど、分離しているかどうかという点に関しては非常にわかりにくいと言いますか、その、「良くわからない」という状態そのものが古来から「同一の意識」と呼ばれてきたのかな、と解釈しています。<br /> <br /> 意識で説明しますとわかりにくいかもしれませんので肉体を例にして説明しますと、例えば自分の体を見てみた時に、肉体の一部が他の一部と同一かどうかを判断することなんて出来ないと思います。どちらもいわゆる「(肉体の)自分」と言われていますが、例えば、右腕と左腕がどちらも「じぶん」であることをどうやったら知ることができるのでしょうか。それは難しい・・・ と言いますか、「良くわからない」「なんとなく同一な気がする」というくらいの認識になるのではないでしょうか。肉体と外を分けて、右腕と左手も両方とも内側だから両方とも自分だ、という理屈は成り立ちますが、ここで言いたいのはそういうことではありません。ここで言いたいのは、サマーディの状態で自分と周囲が同一になることと、自分の体の一部と一部が同一であることは似たような認識になる、ということです。<br /> <br /> 理屈を抜きにして認識だけを使った場合、自分の体の一部と他の一部が同一であるかどうかは明確に同一であるかどうかは「認識」出来ず、「認識」できるのは「同じかどうかわからない。別々かどうかわからない」という認識になって、それを便宜上「同一」と呼んでいるに過ぎないと思うわけです。<br /> <br /> サマーディも、似たようなものです。周囲と明確に「同一」という意識になるのではなく、「同じかどうか分からない。別々かどうかもわからない」という意識になったらそれはサマーディだと思います。言い換えれば、「じぶん」という意識が良くわからなくなったらサマーディと言っても良いかもしれません。<br /> <br /> Tue, 10 Mar 2020 00:00:00 +0900 演劇・芸能が瞑想だという実感 https://w-jp.net/2020/1863/ <br /> ヴィパッサナー以降、日々の生活が芸の動きのようです。・・・テレビのように見た目よくはできませんのできっと傍目には変わりがないのでしょうが。<br /> <br /> 手の動きをトレースしてみると弧のような動きがあって、手を回すときはぐるりと体を中心にスムーズに回転します。<br /> <br /> ・・・まあ、そりゃそうだと言われればそうなんですが、ヴィパッサナー状態ですとその細かな部分をスローモーションに近い状態で感じることができますので、体がロボットのようにうまく動くのがわかって面白いのです。<br /> <br /> 昔、色々な方が芸能や演劇のことを瞑想だと言っていらっしゃいましたが、確かにそうかなあ、という気が最近は致します。<br /> <br /> 特別に芸をしなくても、日々の生活の割と普通の動きが既に劇になっているような気も致します。<br /> <br /> このあたりはヴィパッサナー状態次第でありますのでヴィパッサナー状態でない時はそうでもないのですが、ヴィパッサナー状態でありさえすれば視界だけでなく体の動きもつぶさに観察することができるわけです。<br /> <br /> 流石に視界と体の感覚両方をきちんと観察するというわけにはいかなくて、どちらを主に観察するのか選ぶかあるいは半々くらいで過ごしたりしますけど、視界や内的感覚の全てが「じぶんではない」・・・と言うと語弊がありますが、「観察されるもの」として体が存在しているのです。<br /> <br /> その「観察されるもの」からしてみたら、体も視界の先にある物体もさほど差がなく、どちらも同じように感じられるのです。<br /> <br /> かつて、演劇は最高のスピリチュアルだと言った人がいました。たしか和尚ラジニーシだったような気もしますが、たしかにヴィパッサナーは演劇そのもののような気が致します。当時は「そんなものかな」と20年くらい前に思った記憶がありますが、今思うには、当時は全然今の状態を分かってはいませんでしたね。<br /> <br /> ダンスや演劇も、やってみたら結構面白いのかもしれません。日本舞踊なども。<br /> <br /> ただ、私はもともとそちらの素養はありませんのでどうかなぁ・・・ という気もしますけど、ジムのダンスくらいならしてみても面白いのかもしれません。以前とは違った感覚を楽しめそうです。<br /> <br /> Mon, 09 Mar 2020 00:00:00 +0900 トラウマを頭の中から摘んで抜き出す https://w-jp.net/2020/1862/ <br /> 今朝、意識がヴィパッサナーに近い状態で頭の周辺のオーラも静かになっており、意識の深いところを見通せる状態になっておりました。<br /> <br /> すると、今までもやがかかって見えにくかったトラウマがすぐ手の届くところにあるような気がしましたので、オーラの手で摘んで、感触を確かめながら少し引っ張ってみましたところ動いた気がしましたのでそのまま引き抜いてみました。<br /> <br /> 今までもトラウマを引き抜こうとしたことはありますが、ヴィパッサナー状態で意識が静かになっていない状態ですとなかなかうまく引き抜けなかったような気が致します。<br /> <br /> この種のトラウマはいわゆるトランス状態と言いますか集中状態と観察状態が合わさった状態になると障害になるもので、どうにかしたいと思っておりました。<br /> <br /> 意識の深いところに横たわっていて、何かを観察&集中して作業する時に妨げになっていたのです。<br /> <br /> ここでいう観察&集中状態とは、観察のヴィパッサナー状態を保ちつつある種の集中を同時に行って物事をつぶさに観察したり考察したりすることを指します。<br /> <br /> トラウマは、その作業の妨げになるのです。<br /> <br /> 意識の深いところに潜って作業を行いますのでいわゆる「答え」がすぐに出てくる状態で、作業の方も意識が直接行いますので素早く行えるのですが、その状態ですとトラウマが出てきやすいのです。<br /> <br /> トラウマは出てくる時と出てこない時があって、関連した時に出てくる、あるいは、特定の状態に似てくると出てくるような周期性と言いますか癖のようなものがありましたが、今回、ふとしたことでそのトラウマが浮かび上がっていましたので、摘んで抜き出してみましたのです。<br /> <br /> 場所は、後頭部のあたりに浮かんでおりましたので後頭部の方から摘んで抜き出しました。<br /> <br /> トラウマは基本的に向き合うことで消えるわけですけれども、最後に残った小さな根のようなものの一部を抜き出した感じが致します。<br /> <br /> 完全には抜き取れなくて、だいたい3分の1から2分の1くらいは取れたかな、という感じです。<br /> <br /> 以前は肩のあたりに絡まっていた意識体を抜き出したりしたこともありましたが、やっていることは似たようなものです。意識体なのか、あるいは固まってしまった意識の固定部分なのか、という違いがあるくらいです。<br /> <br /> 意識体の場合は割と柔らかくて、手に持つときに感触を確かめて、千切れないように引き抜く必要がありました。<br /> <br /> 今回は、イメージで「取っ手」のようなものが感じられて、取っ手の先にコンクリートのブロックのようなものがついていました。そのコンクリートのブロックが何かの穴を塞いでしまっているような感じで、オーラの手でゆっくりと感触を確かめつつその「取っ手」を掴んで、一生懸命、そのコンクリートのブロックを持ち上げようとしたのです。<br /> <br /> ちょっと浮いたかな・・・ という感じで、ちょっとは取れたかな・・・ と思ったのですが、その後の様子を見ると、上記のように3分の1から2分の1くらいの解消でした。まあ、あの重いコンクリートを片付けるにしては上出来だったかもしれません。<br /> <br /> ですが、重いコンクリートですから油断していたらその周囲にまた泥が溜まってしまいそうですので、また度々、トラウマを引き抜いて行こうと思います。<br /> <br /> Sun, 08 Mar 2020 00:00:00 +0900 卵が うらめしや〜 と叫んだ https://w-jp.net/2020/1861/ <br /> とある日、卵を割ったら黄色い黄身の向こう側に「ひよこ」の姿がうっすらと見えた気がして、それと同時に恨みと呪いの念が卵の殻の中から見えない煙のように出てきて「うらめしや〜」と言っているような気がして、ゾッとしました。<br /> <br /> ううう。今まで卵はあまり気にせず食べていたのですが、今後、ちょっと食べにくくなってしまいました。<br /> <br /> お肉は食べる量を減らしていたわけですけれども、それでも、卵はあまり気にせずに食べていました。栄養分ありますし、お肉の栄養の代わりに卵で取ろうと思っていたわけです。しかし、今回その卵にも「うらめしや〜」と叫ばれてしまいましたので、ますます食べ物の選択に困る事態になってしまいそうです。思い出すだけでちょとしたトラウマになりそうです。<br /> <br /> これ、安い卵だからこんななのでしょうかね・・・。高い卵は違うのでしょうかね・・・。そう言うのは多少あるかもしれませんね。ぎゅうぎゅう詰めで暮らす親鳥のストレスの気持ちが卵にまず植え付けられて、卵それ自体にしても生まれることができずにそのまま食べられてしまうのですから、恨みもしそうです。<br /> <br /> お肉はかなり微妙で牛肉はマシですが鶏肉も物によっては酷くて豚肉は全然ダメなことが多いです。ですから選択肢がない時を除いてお肉はあまり食べないのですが、卵は食べていたのです。<br /> <br /> 植物にしても、実は植物にも命があって包丁で切られる時に「痛い痛い」と言っている気がして、食べた時に微妙な感じを受けることがあります。<br /> <br /> アナハタが優勢になって以降、植物や昆虫を傷つけるとハートが痛むようになってしまったわけですけれども、お肉だけでなく植物を食べても微妙に感じることがあって、普通に食べる分には割と大丈夫なのですが、スーパーで並べられている植物を見ると痛ましく思うこともあります。<br /> <br /> ですから・・・、何を食べたらいいのか、最近は選択に困ります。<br /> <br /> ベジタリアンがいいのかと思えば実際、上記のようにそう言う単純なお話ではないことがわかります。お肉は一番悪いですが、ベジタリアンがいいのかと言えば必ずしもそうではないようなのです。<br /> <br /> これは、日本の栽培の仕方にもよるのかもしれませんし、有機栽培などでは違うのかもしれませんし、同じ有機栽培でも農地によっても異なるのかもしれません。農法は同じでも育てる人が違えば味と言いますかオーラは変わってくると言うのは理にかなっています。<br /> <br /> 植物にもオーラがあるようで、感情もあるようですので、日本のそこらで売っている植物がそんな感じで痛がってお皿に出されている、と言うことなのかもしれません。<br /> <br /> 自分で料理するとそのあたりはマシですが、外で食べることも多いですしね。<br /> <br /> 卵料理屋とかで食べると普通に美味しかったりしますので、卵の種類にもよるかもしれません。恨みを持っていて呪われている卵もある、と言うことなのかもしれませんし、植物にしてもストレスを抱えた植物というのがあっても不思議ではありません。<br /> <br /> 人間は食べないと生きられない生き物ですので、食べるという行為が既に業を積んでいるのかもしれないと思うことも最近はありますが、そのあたりはよく分かりません。あまりにも業を強調しすぎるとキリスト教のように罪の意識で人間の奴隷かのように使われてしまうかもしれませんので、そのあたりの説明には注意が必要そうです。自分で実感してわかるようになるまではあまり人に言わない方がいいことの1つかもしれませんね。<br /> <br /> これは、他人にこうしろとか、何を食べた方がいいとか、何を食べない方がいいとか、そういうことを言うつもりはありません。ただ単に、私は最近こういうことがあって、卵を食べるのがちょっと苦手になりました、というだけのお話です。きっと今後も卵を食べるでしょうが、昔とは変わってしまった、ということです。<br /> <br /> やはり、処方箋は食事をする時に食材に感謝をするくらいしかないのでしょうかね。ベジタリアンで感謝して食べるのが今のところ一番良さそうです。<br /> <br /> Sun, 08 Mar 2020 00:00:00 +0900 透視能力者の礼節 https://w-jp.net/2020/1860/ <br /> ・勝手に(相手の運命などを透視して)見ない。<br /> ・勝手に(守護霊に)聞かない。<br /> ・勝手に(守護霊などと)話さない。<br /> ・勝手に(見聞きした内容を、本人、あるいは他の人に)喋らない。<br /> ・聞かれていないのに(本人に)答えない。<br /> <br /> 生まれながらの能力者にこれらの基本的な社会人としてのマナーが欠如している人が散見されますが、よろしいことではありません。生まれつきではない場合は多少は社会人経験も積んでいるでしょうからこのようなことは少ない気も致します。ですが、大切にすべき点は同じです。<br /> <br /> まあ、興味本位で近くにいる人のオーラをちょっと見るくらいはついつい見てしまったというくらいで悪気もないのでそれほど咎められることでもありませんが、それでも、あまり良いことではありません。<br /> <br /> 見るだけならともかく、そのことで本人に何か指摘したりすべきではありません。<br /> <br /> これは、基本的な礼節です。<br /> <br /> 本人はその人生を生きているのですから、本人が気付くまでそのレッスンは続くのです。<br /> <br /> それを、上から視点で「こっちだ」というのは本人のレッスンが「やり直し」になってしまう危険性もあるくらいの迷惑な行為で、せっかく守護霊や本人たちが状況を整えて勉強できるようにしたのに透視能力者の余計な一言でセッティングが台無しになってしまうことさえあるのです。<br /> <br /> 例えるならば、ドラマの撮影のセッティングの場面に無関係な人が映り込んでしまって撮り直しになってしまうような残念なことであるわけです。ドラマの撮影に関わる全員が大迷惑を被るわけです。人は全てそのようなドラマのようなものですから、人の人生に関わる守護霊一同がとてつもない迷惑を被る場合があるのです。場合によっては守護霊に恨まれる場合もあるかもしれません。守護霊と言っても程度がいろいろあって、ちょっと道徳があるくらいの普通の人が死後に守護霊(見習い)になる場合などは恨みを持つ場合があるかもしれませんから注意が必要です。<br /> <br /> 他人のレッスンはどうであろうと、それを「体験」するまでは終わらないのですから、放っておけばいいのです。勝手に指摘するのは、足を引っ張るようなものです。<br /> <br /> 一方で、本人の希望でカウンセリングする場合はその時限りで、聞かれた範囲に対して答えるのはOKです。<br /> <br /> 基本的なルールはビジネスや心理学におけるカウンセリングと同一です。<br /> <br /> あくまでも本人が人生の主人公であって、主人公が行き先を決めているのであって他人が指図する必要はないのです。<br /> <br /> 勝手に指図するとしたらそれはエゴであり、傲慢であり、余計なお世話なのです。<br /> <br /> カウンセリングの場合は、あくまでも参考意見として伝えるだけです。本人が最終的な決断を下すわけです。<br /> <br /> ただ、スピリチュアルには依存症の人もいて、他人に決めてもらいたい人が一定数いますが、それはあまり良いことではありません。依存症の人に決断をお願いされてもそれは断るべきことだと私なんかは思います。<br /> <br /> 相談者が依存症であるのならば、自分で決断できるようになるというのがまず解決すべきレッスンかもしれないのです。時には冷たく突き放す必要があるかもしれませんし、決断してくれないからと言って恨まれるかもしれませんが、どちらにせよ、自分で決断することができるこの世界の自由意志の大切さと人間の基本的な意思について理解してもらう必要があるわけです。<br /> <br /> カウンセラーや透視能力者は往々にして先を話しがちで指摘しすぎる傾向がありますので、そこは気をつける必要があると思います。<br /> <br /> 個人的には、スピリチュアルなカウンセリングもそんなに意味はないような気もしております。意味があるとすれば目に見えない世界があることを「確認」するという点や、自分の出した答えが正しいかどうかを「確認」するためには使えるかな、と思っております。最近は主に後者ですね。答えの「確かめ」にスピリチュアルなカウンセラーを使うのはアリだと思います。<br /> <br /> スピリチュアルなカウンセラーになって相談を聞くのはそれなりにリスクがあります。求める答えではなかった場合の回答であった場合に恨まれたり、願い事を叶えてくれないとわかると、これまた恨まれたりします(苦笑)<br /> <br /> ですから、スピリチュアルなカウンセリングで相談されるのは損な立場だなあ、と思うわけですが・・・ それよりも、一般的な人生の教訓である、例えば仏教の八正道とか説いていた方がよっぽど世の中のためになるのではないかと最近なんかは思います。ヨーガのヤマ・ニヤマのような基本的な道徳ですね。<br /> <br /> いくらスピリチュアルに理解があって興味があっても現世利益を追求するのなら意味がなくて、そこから八正道のような基本的な道徳のお話につながらなければスピリチュアルも意味はなくて、むしろ透視なんかなくても八正道がありさえすれば十分なんじゃないかとも最近は思います。<br /> <br /> 透視能力者は、本質的なところで本当のスピリチュアルの本筋で役立っていないのでは、という気も致します。 本質なのは、やはり八正道のような基本的な部分であると思うのです。<br /> <br /> と、いうわけで、透視能力者は礼節をもって、基本的には引っ込んでいるべきだなあ、と私なんかは思うわけです。<br /> <br /> Sat, 07 Mar 2020 00:00:00 +0900 ヴィパッサナー瞑想と称してサマタ瞑想を行う人たち https://w-jp.net/2020/1859/ <br /> ヴィパッサナーと思考の停止について以前書きましたけど、おそらくはヴィパッサナー瞑想の流派は分かっていながらヴィパッサナー瞑想と称して実質はサマタ瞑想をさせているのだと思われます。<br /> <br /> これはおそらく、弟子たちが望むからそうさせているのかな、という気も致します。グル(霊的指導者)がサマタ瞑想をするように弟子に指示する一方で、他の人がヴィパッサナー瞑想をしているのを横目で見ている古参の弟子がサマタ瞑想だけずっとしていることに待ち切れずに要望して、まだ準備が整っていないのにも関わらずこのままではサマタ瞑想もままらないためにヴィパッサナー瞑想と称して弟子たちを満足させて実質はサマタ瞑想を続けさせるというグル(指導者)たちの知恵がかつてあって、今はその形だけが残っているという面もあるのかなあ... と想像致します。<br /> <br /> と、言いますのも、私のグループソウル(類魂)の中にかつてインドで霊的グルでスワミだった魂もいるのですが、その時の弟子たちの様子を思い出してみますと、やはり不肖の弟子のはいるもので、それでも、出来が悪くても可愛い弟子にはちょっとした位を与えたりするような情けとでも言いますか同情とでも言いますか、そういうのはあったように思います。その時のスワミは未来を見通せましたので将来的にその弟子がどのくらいの境地まで達することができるかわかりましたので、それも勘案して、この子は今後将来をかけてもこのくらいの境地までしか達することができないので、このくらいで位を与えてあげようか... という気持ちになったこともあったようです。<br /> <br /> ですから、瞑想法にしてみても、今はサマタ瞑想だとかヴィパッサナーだとか言われていますけど流派によってはそこまでの区別はなくて、サマタ瞑想でなくてもチャンティング(聖典の詠唱)とかして心を清めれば同じことであるわけです。ですから、ヴィパッサナーをしたいという弟子に対して「そうかそうか。こうしたら良いよ」と伝えて、それが本来のヴィパッサナーとは若干違ったものだとしても弟子の成長のためになるのならば良しとする、グルの愛がそこにあったように思います。<br /> <br /> まあ、色々な流派があって、それぞれの事情がありますので全てはわかりませんけど、こういう面もあったのかなと思います。<br /> <br /> そして、今は形だけが残っていて、流派によってヴィパッサナー瞑想と言っているけれども実質はサマタ瞑想が行われているような気が致します。<br /> <br /> その形を本気にして、サマタ瞑想なしにヴィパッサナーだけをしていればいいと解釈して「集中」をないがしろにしている流派もあるように思いますし、その一方で、全て分かった上でサマタ瞑想をヴィパッサナーと称している流派もあるように思います。<br /> <br /> 最近入手したテーラワーダ仏教の本には、このあたりの矛盾が如実に現れていました。おそらくはテーラワーダ仏教は全てわかった上であえてサマタ瞑想をヴィパッサナー瞑想だと称している節があると私なんかは思います。私の勝手な解釈ですけど。<br /> <br /> 例えば、本の最初の方に次のようにあります。<br /> <br /> 落ち着いた状態、サマーディ(禅定)を整えた上でヴィパッサナー瞑想に入ります。(中略)ヴィパッサナー瞑想は、サマーディ(禅定)状態を前提とする瞑想だということを覚えておいてください。「自分を変える気づきの瞑想法(アルボムッレ・スマナサーラ著)」<br /> <br /> それなのに、実際の具体的な説明のところには以下のように記されています。<br /> <br /> ヴィパッサナー瞑想の試みは、「一切の思考を停止する」チャレンジです。思考を停止させる努力によって心のくもりが晴れ、「智慧」があらわれます。智慧は、何か特別な努力によってあらためて育てるものではありません。ヴィパッサナー瞑想によって私たちのなすべきことは、思考、妄想をストップさせることだけなのです。つまり、考えないようにするのです。「自分を変える気づきの瞑想法(アルボムッレ・スマナサーラ著)」<br /> <br /> これ、テーラワーダ仏教はヴィパッサナー瞑想と称していますが、内容的にはサマタ瞑想・集中瞑想そのものです。ヨーガスートラの目的である心理作用の止滅と同じことをヴィパッサナーと称して説明しているように思えるのです。<br /> <br /> そうして、テーラワーダ仏教では具体的な方法として、今の瞬間に何が起こっているのかを実況中継する、という方法を示しています。実況中継するということは今の状況に対して具体的に「思考」するということです。心・マインドで文章にして表現を試みるということです。これは五感および心・マインドに集中しないとできませんからヴィパッサナー瞑想ではなくサマタ瞑想・集中瞑想の部類に入ります。それを、おそらくはあえてヴィパッサナー瞑想と称しているように思えるわけです。<br /> <br /> 実際、最後のQ&amp;Aで「ヴィパッサナー瞑想にはいくつもやり方があるのですか」というセクションにてサマタ瞑想からヴィパッサナー瞑想に入るやり方などが紹介されており、ここを読む限り、この著者はよくわかっている、というエキスパートの印象を受けます。ですから、私は上記のように「あえて」ヴィパッサナー瞑想と称しているのでは、と解釈したのです。<br /> <br /> どのように称したところで最初はサマタ瞑想なのですから、やりやすい方法をすれば良いのではないか、と私などは思うのです。<br /> <br /> グループソウルのかつてスワミだった魂の意見を聞くと、どうやら、瞑想はある程度のセンスが必要とされるので説明をそのまま受け取ってどう解釈するかは人それぞれであり、どのような説明であろうともセンスのある人は成長するのだから、どの流派であっても弟子にとってはさほどの違いはなく、好みの問題があるだけだ、とのことです。まあ、それはそうだろうなとは思います。<br /> <br /> であれば、サマタ瞑想と説明されていてもセンスがあればヴィパッサナーに辿り着くし、逆に、ヴィパッサナーと称してサマタ瞑想を指示されていたとしてもセンスがあれば本質に気がつくわけです。まあ、それはそうだなと思うわけですが・・・。<br /> <br /> ・・・センスとか言い出した時点で、もう、一般向けには救いがない気がするのは私だけでしょうか。かつてスワミだった魂が言うには、センスがない人に何をやらせても一生成長しないので、もう、こればっかりは仕方がなく、それでも無駄ではないので次の人生に繋げるために何かを続けさせることは有意義だ、とのことでした。まあ、一生涯かけて弟子の面倒を見たスワミだからこそ言える言葉なのかもしれません。<br /> <br /> まあ、私もそうだろうなとは思ってはいてもさほど救いがないのであまり口に出したくはありません。スパルタ式で指導したイギリスの過去生というかグループソウルの魂がいたのですが、スパルタ式ならば成長が早いのは確かでしたが、その後、その弟子たちの流派がスパルタを真似して今まで続いていて微妙な感じになってしまっているように思いますのでそれも良くないとは思ってはいます。2つの人生の修行を1つの人生で終わらせるためにはスパルタ式が必要だったわけですが、禍根を残してしまいます。<br /> <br /> アシュラムなどでつきっきりで指導するのならばともかく、一般向けに公開するのであればある程度は妥協するしかないのかな、という感じも致します。<br /> <br /> かと言って、甘くしてしまったが故にその弟子が今世に至っても未だ同じくらいの境地にしか達することができていないのを見たりすると、やっぱりスパルタすべきだったかな... とも思ったりするようです。<br /> <br /> まあ、私は今世ではそんな立場にはありませんので指導の悩みには無縁ですけど。<br /> <br /> Fri, 06 Mar 2020 00:00:00 +0900 視界だけでなく体の動きも細かく感じるヴィパッサナー https://w-jp.net/2020/1858/ <br /> まるでロボット・ダンスをしているかのようです。さすがにテレビで見るくらいの凄い動きはできませんけど普段の生活の体の動きが細かくスムーズな挙動として認識されます。<br /> <br /> 以前は視界だけでしたが、今は腕や体の動きもスムーズに認識されます。まだ全身がそうだと言うわけではありませんが、かなり動きを認識できています。<br /> <br /> 歩く時。<br /> 腕を動かす時。<br /> 体の角度を変える時。<br /> <br /> 特別に意図して意識しなくても意識されるのです。自然な認識です。<br /> <br /> 2ヶ月前にスローモーションのヴィパッサナー状態が始まった時、主に視界における変化でした。体の感覚も微細に細かく感じられるようにはなりましたが、今日ほどスムーズには認識できてはいなかったように思います。<br /> <br /> おそらくは先日のルドラ・グランティかなと思われる意識の変革以降にこのように認識力が高まったような気が致します。<br /> <br /> ヴィパッサナー瞑想というと体の感覚を観察する瞑想として理解されることが多いと思います。皮膚の感覚ですとか息を観察することがヴィパッサナー瞑想であるという説明を耳にすることが多いですし、私もかつてはそのように思っておりました。<br /> <br /> しかし、今思うのは、意思でわざわざ観察するのは本来のヴィパッサナー瞑想ではないということです。リラックスして意思なくしてヴィパッサナーが自然に自動的に働く状態が本来のヴィパッサナーであって、それはもはや「行動」ではないのです。観察するという「行動」があるうちはそれは本来のヴィパッサナーではなく、観察しているのが結果と言いますか「状態」であるならばそれはヴィパッサナーになり得るのです。この違い、言葉で言い表すのはなかなかに難しいです。<br /> <br /> 「意思」で「観察しよう」と思っているのは「行動」であり、わざわざ観察しなければ観察できないのだとしたらそれは本来のヴィパッサナーではないということです。<br /> <br /> 本来のヴィパッサナー状態とは、そのような「意思」なしに観察されるものです。それを「状態」と呼ぶこともできますが、明確な行動としての意思はなくても観察している「なにか」、「見るもの」は存在しています。<br /> <br /> 理屈としては何かを観察する時は「見るもの」が必要です。それは確かに存在しています。普通に「見るもの」というと「見る対象=見られるもの」が存在しますが、この種のヴィパッサナー状態では「見るもの」も存在するのは確かですが、「見られるもの=見る対象」が「自らと不可分のもの」として感じられるわけです。<br /> <br /> 通常、人の意識が五感を使って周囲を見たり観察する時はその対象との間に明確な区分が存在します。「見るもの」と「見られるもの」は別物です。<br /> <br /> 世間一般でよく聞くヴィパッサナー瞑想は五感を使って周囲を観察したり息を観察したり皮膚の感覚を使って観察したりします。そこには、五感を使った「見るもの」と「見る対象」の区別があって、それが一体になることはありません。感覚をずっと観察しているとその読み取る内容が微細になって細かく知ることができるようになりますが、それは本来のヴィパッサナー瞑想ではなく集中して観察しているのですから集中瞑想、サマタ瞑想であると私なんかは思うわけです。<br /> <br /> 五感を使ったヴィパッサナー瞑想は観察していると言いながら実は集中をして瞑想をしているのですが、それがヴィパッサナー瞑想だと言ってしまうところに混乱があって、観察という言葉を使ってしまうとバイアスが生まれ、「集中」という意義が失われ、意義が失われるだけならばいいのですが、「集中してはいけない」という理解が生まれ、「集中することに対する否定の意識」が生まれているようなヴィパッサナーの流派もあるように思われます。<br /> <br /> 実際には、ヴィパッサナーと説明されて瞑想をするが実はサマタ瞑想をしているのだということはおそらくはその流派の上級者・グルにとっては当たり前のことではないかなと私なんかは推測しています。ですが、これまた推測ではありますが、サマタ瞑想をしようがヴィパッサナーと称してサマタ瞑想相当をしようがどちらにせよ高い境地に行き着くことはあるし、逆に、これはある種のセンスというところになってしまうのですが、辿り着かない人はどうやっても辿り着かないのだから、まあ、あまり手法をどうこうしてもしょうがない... という境地にグルは達しているのではないかと思います。<br /> <br /> ですから、よく言われているように瞑想は色々と手法があって、向き不向きがあるので自分に合ったものをするのがいい、というのは真理なのかなと思います。<br /> <br /> 私なんかはストレートなのを好みますのでヴィパッサナー瞑想と説明されながら実質はサマタ瞑想をするよりは直接にサマタ瞑想をした方がいいと思うたちです。<br /> <br /> ヴィパッサナー瞑想はサマタ瞑想で意思が確かな安定したものになったのちに出てくるもので、上にも書きました通り、その時は対象と自分自身の区別がつかなくなっています。それをヴィパッサナーの流派はヴィパッサナーと呼びますが、ヨーガ系の流派は同じことをサマーディと呼ぶ、という、ただそれだけのことだと思います。<br /> <br /> 手法としてのヴィパッサナー瞑想はやり方だけのお話であり実質はサマタ瞑想をしているのだとすれば手法を真似ているだけの時はまだサマーディ状態ではないのは明らかです。<br /> <br /> ステップ的には以下のようになると思います。<br /> <br /> 1.サマタ瞑想をして眉間などに集中する、あるいは手法としてヴィパッサナー瞑想を真似て五感を使った観察をして集中する(説明で集中とは言われないかもしれないが実態は集中瞑想・サマタ瞑想)。<br /> 2.ヴィパッサナー瞑想に移行する。同じ状態をヨーガの人はサマーディと呼ぶ。<br /> <br /> 非常に明快でシンプルです。<br /> <br /> 実際、ヴィパッサナー/サマーディ状態とはサマタ瞑想をして雑多な意識・いわゆるマインド・思考を抑えた時に出てくる状態ですので、五感を使って観察するのとはかなり違った状態になります。<br /> <br /> ヴィパッサナーとサマーディが同じだというのは私の解釈です。他所ではほとんど聞いたことがありません。流派が違うのでそのような混ぜた解釈を行っている人はあまりいない気もします。<br /> <br /> 前にも書きましたが、思考を停止させるだけではサマーディ(三昧)にはならないということもありますのでサマタ瞑想をしているだけではヴィパッサナーにそのまま遷移することはなくて、いわゆる浄化が進んでいかないとヴィパッサナーの観察力が出てこないとは思います。<br /> <br /> これらを右脳と左脳で解釈されている方もいる気が致します。サマタ瞑想が論理的思考を司る左脳の動きを止めるための瞑想で、左脳の動きが止まった状態を前提として右脳の動きを活性化させ、右脳的な観察力が出てくるとヴィパッサナーになる、という表現もできる気が致します。私はあまりこういう言い方はしませんけど、人によっててはこの方が理解しやすいかもしれません。<br /> <br /> サマタ瞑想をしているだけではヴィパッサナー状態にならない、というお話も、左脳の動きを止めるだけで右脳が動きだすとは限らない、という解釈ができます。左脳の動きを止めることに加えて右脳が動きだすと初めてヴィパッサナー状態になるわけです。<br /> <br /> Thu, 05 Mar 2020 00:00:00 +0900 アジナ・チャクラは二度開く https://w-jp.net/2020/1857/ <br /> 思えば最初、眉間の皮膚の少し離れたところでの圧縮された空気が解放されて膨張してボンっとエネルギー的に解放された時から始まりました。<br /> <br /> その後、エネルギーは下半身に降り、クンダリーニとして上昇、そして、アジナ近くまでエネルギーが満ちてきたかのようです。<br /> <br /> おそらくは、アジナ・チャクラは二度開くのではないでしょうか。<br /> <br /> 最初は割れ目が入り、エネルギーが下半身に降ります。<br /> <br /> 次は、上昇してきたクンダリーニがアジナ・チャクラを開きます。<br /> <br /> そんな予感が致します。まだ確証はないですけど。<br /> <br /> 以前、クンダリーニは上がるのか下がるのか? の中で引用しましたけど、松果腺(松果体)はいわゆるアジナ・チャクラ(解釈や流派によってはサハスララ)とも言われているところですけれども、松果腺に入って一旦下に降りた後に再度松果腺にまで戻ってくるとすれば、感覚としてはアジナ・チャクラが二度開くと言うような感じになるのかなと思います。<br /> <br /> 意識がまず霊界から呼び降ろされ、全身に流れ入るということが、人に宿る神がその全能力を顕現する前に必要だということである。「秘教真義(M・ドーリル 著)」<br /> <br /> 実際のところ、ヨガを初めてすぐの頃からアジナ・チャクラの刺激はずっと続いておりました。<br /> <br /> それが実際にいわゆる世間で噂されているアジナ・チャクラが開くことと同義であるのか今までよくわからずにいました。<br /> <br /> 上に書きましたように眉間で圧力の爆発のようなことも起きましたが、おそらくはそれが最初の開いた経験であり、そこからエネルギーが入ってきて下半身に降り、今再度アジナのあたりが焦点になってきたように思います。<br /> <br /> であれば、やがて、本格的にアジナが開いていくのかなと思います。<br /> <br /> それが噂されているように本当に超能力の扉を開くかどうかは分かりませんし、それは割とどちらでも良くて、そのような能力より、ただ単に、この先に何があるのかな? と言う自然な歩みに従っている感じです。<br /> <br /> Wed, 04 Mar 2020 00:00:00 +0900 せきを切ったかのように喉に流れ込む頭のエネルギー <ルドラ・グランティ> https://w-jp.net/2020/1856/ <br /> 本日の瞑想中、急に喉に上から下へと流れてくる強いエネルギーを感じ、一体何事かと思いました。観察してみると、エネルギーが頭の上の方から喉を通じて胸の方に流れ込んできて、お腹や下半身の方までじんわりと浸透して行っているではありませんか。その中でも、最も喉に強い感覚がありました。<br /> <br /> 今までエネルギーが下から上に移動するようなことがあっても、上のエネルギーが下に浸透するなんてことは初めてでびっくりしました。以前に何度か体験したような強烈なクンダリーニ経験とはまた違い、確かなエネルギーの流れではあるのですがじんわりとしたゆっくりとしたエネルギーの流れです。<br /> <br /> 最初は喉のヴィシュッダチャクラに何かが起こったのかと思ったのですが、どうやらそうではなさそうです。観察してみると、頭の上半分の中の方が、何かが崩れたような、崩壊したようになっていました。まるで、そこにあった岩が幾つかに割れて崩壊したかのようです。その頭の上半分の崩壊と共に、崩壊した割れ目からエネルギーが頭の上から下へと滲み出ているように感じられました。そうして、喉から体の方までエネルギーが降り始めたのでしょう。完全にエネルギーが通るようになったわけではなさそうですが、今までそこにほとんど通っていなかったエネルギーが通り始めたように思います。<br /> <br /> これが頭頂より上の方から来ているエネルギーかどうかは分かりません。頭頂の髪の毛がザワザワとした感覚はありますが、頭頂より上には感覚がありませんのでそこから来ているエネルギーなのかもしれませんが、感覚的には、エネルギーは頭の上半分、眉間あたりに忽然と現れてそこから下へと流入しているように感じられます。<br /> <br /> 今日の瞑想では目を瞑ったまま意識を集中(サマタ)して思考を止めつつ、周囲の観察をしてヴィパッサナー状態を断続的に保っていました。<br /> <br /> 最近はだるまさんのようなオーラの状態で、眉間など頭の上だけ感覚がなくて、両手で頭の上を支えているようなオーラの感覚がしていました。<br /> <br /> それはまるで、中東やアフリカのテレビ番組で見るような、頭の上に水をくむ「かめ」を持った人が両手を頭にあげている姿のようで、瞑想中は両手は膝にのせるか前で組むかしてあぐらをかいているのですが、肉体の手はそのようにしていても、オーラの手で頭の上に手のひら2つを水を組むかあるいは「かめ」を両手で支えるような形にして頭を支えているような感覚がしておりました。<br /> <br /> 感覚としてはそんな不思議な感じでしたが、ポイントは、頭の上に感覚がない、と言う点と、オーラで頭の上を支えようとしている点です。<br /> <br /> ここ数日は食生活と意識および仕事などから来るエネルギー的な若干の詰まりと意識の不調が少しあり、そのエネルギー的な解消もしたいと思って瞑想しておりましたが、具体的にそのための瞑想をしたわけではなく、普通の瞑想をしておけば問題ないと言う判断でした。<br /> <br /> 今回の現象はもっと根本的なところでエネルギー的な変化が起きたような気が致します。<br /> <br /> もしかしたらこれがヨーガで言うところの「ルドラ・グランティ」なのかもしれません。グランティとは体に3つあるエネルギーのブロック・結節で、ルドラ・グランティは頭のアジナ・チャクラの中にあります。今回は一気にそれが解放されたと言うことではなさそうですが、少なくとも、ブロックが解除され始める兆しを感じ取った感じです。じわりじわりとエネルギーが通ってきているのを感じます。<br /> <br /> これがルドラ・グランティなのだとすればアジナ・チャクラが活性化される前兆なのかもしれません。まあ、まだ喜ぶのには早いですが。<br /> <br /> ひとまずの変化としては意識がよりクリアになって最近のエネルギー的な不調がかなり解消されたと言うことと、ヴィパッサナーのスローモーションの識別力が瞑想前に比べると若干高まったことくらいです。<br /> <br /> ですので、今回の出来事が直接的にそのまま大きな変化を意味しているわけでもなさそうですが、前兆としてはなかなかに大きなもののような気が致します。<br /> <br /> このあたり、表現で誤解があるかもしれません。この変化が起こる前は十分に元気だと思っていたのですが、変化してみると意外に違う、という感じです。<br /> <br /> その数日後に行った瞑想では、空気の圧力のようなものが後頭部のあたりから数分かけて徐々に眉間にまで移動し、眉間に圧力のようなものが集まりました。特に力を入れているわけではありませんが、その圧力のところを意識していたのは確かです。圧力がどこに移動するのか観察していただけで自動的に眉間にまで移動しました。<br /> <br /> この動きは、遥か前に「小周天」というものを試していた時に背筋に沿って圧力が移動したのと似ていますし、他の日に瞑想していた時にマニプラあたりからアナハタあるいはヴィシュッダのあたりまで圧力が移動した時の感覚に似ています。<br /> <br /> その時の感覚と照らし合わせると、おそらくはまだ開通していないエネルギーのルート、ヨーガ的に言えばナディの開通が徐々になされてきていると解釈できます。<br /> <br /> 以前は背筋の皮膚の表面だったりもうちょっと体の中の背骨のあたりがその対象だったわけで、その後しばらくしてクンダリーニが動き出したりしたわけですけれども、おそらくは今回も同様で、後頭部から眉間にかけてのルートがまだ開いていなくて少しづつ開通し始めているのだと解釈できます。<br /> <br /> 眉間にまで移動した後は圧力がその眉間に集まり、その幾分かは分散して喉の方にまで降りていっているような感じです。ですから、最初の時にせきを切ったかのように喉にエネルギーが流れ込んだのはこのルートだったのかなと思います。クンダリーニは下から上に上がるということになっておりますが、今回のエネルギーは逆で、上から下に向かうエネルギーです。クンダリーニの上昇エネルギーは常にありますので、質の違うエネルギーが上から下、下から上とそれぞれあって、各所で混ざり合う感じです。波が上から下に伝わる感じがしています。<br /> <br /> ヨーガの概要ではクンダリーニは真っ直ぐ頭上まで上がるということになっておりますが、ヨーガの流派たとえばクリヤヨーガあるいはスピリチュアルの流派によっては眉間から後頭部は主要なエネルギールート(ナディ)があることになっております。例えば「フラワー・オブ・ライフ 第2巻(ドランヴァロ・メルキゼデク著)」によると眉間のあたりはこのようになっています。<br /> <br /> 同書では「半歩」として壁が描かれておりますがヨーガ的には「グランティ」と呼ばれる主要なエネルギーのブロックでここはルドラ・グランティに相当します。<br /> <br /> 今回の頭の中での「岩の崩壊」がルドラ・グランティの解放だとしたら、ようやく私の中でこの部分のナディ(エネルギー・ルート)が開通し出したということだと解釈できます。<br /> <br /> これにより、眉間の集中が新たな感覚に変わりました。眉間にその「圧力」のようなものが集まり、今までのように「眉間の周囲で支えているが眉間そのものはさほど感覚がなく、時々ざわつく程度」のような感覚から、「眉間そのものが圧力のようなものを保持する」感覚に変わりました。<br /> <br /> 圧力が定期的に後頭部から時間をかけて眉間にまで移動し、眉間に圧力が溜まってゆく感じです。<br /> <br /> 以前のと比較してみますと、おそらくは「圧力」と感じている間はまだ十分に開いていない初期の状態かと思われます。十分に開いたら圧力と言うよりはそのあたりが常にエネルギーに満ちた感じになるのかなと。<br /> <br /> 今後、これを更に観察していきたいと思います。<br /> <br /> <br /> <br /> Tue, 03 Mar 2020 00:00:00 +0900 テクチュでの観察がヴェーダンタの「知識」に繋がる https://w-jp.net/2020/1855/ <br /> ヴェーダンタによって悟りの道を歩んでいる人は、「行為ではなく知識でのみ悟ることができる」とよく言います。<br /> <br /> これは、なかなかに謎めいた発言です。<br /> <br /> ヴェーダンタを勉強している人は、規律に従って服装や食べ物を選び、聖典を勉強してチャンティングをしてマントラを唱えて「知識」で悟ろうとしていますが、本人は自分たちのことを「修行」しているとは言わず、周囲から「修行している」と言われると「私たちは修行していない」と言いますので外目からは何のことかわかりません。<br /> <br /> 同様に、ヴェーダンタの人たちは独自のヴェーダンタの瞑想をしたりもしていますが、瞑想では悟りに至らない、と言います。一見、訳がわかりません。悟りに不要なら瞑想なんてしないと思うのですが瞑想はするようです。否定しておいて実際は瞑想をしています。ヴェーダンタ独自の瞑想というものがあるようです。<br /> <br /> これはヴェーダンタの教義に則った答弁をしているので、色々と読み替えてあげないといけません。<br /> <br /> ここで謎なのは以下の3つです。<br /> ・知識<br /> ・修行・行為<br /> ・瞑想<br /> <br /> ヴェーダンタは基本的に「奥義書」であるウパニシャッドを基にしていますので、他人にわかりやすいかどうかは気にしていないようです。それよりもむしろ聖典に基づいた正確さを大切にしているようです。<br /> <br /> まず「知識」ですが、辞書には「ある事について理解すること。認識すること。」とあります。これは記憶力の良さだけでなく理解の深さや応用力をも意味していますが、そのような読み方をするとヴェーダンタ的な文章では読み違えると思います。ある意味それは正しくもあるのですが、ひとまずそのようには読まない方がいいと思います。<br /> <br /> 「知識」と書いてあった場合は、「曇りなく認識すること。ありのままに見ること」と読み替えると良いと思います。<br /> <br /> ・・・ヴェーダンタを勉強している人がこれを見たら「違う」と言いかねない気もしますが、まあ、そのまま「知識」と読むよりは随分と分かりがよくなると思います。最終的には「知識」そのままで読めばいいとは思いますが、最初から文字通り読んだらよくわからない気が致します。<br /> <br /> ヴェーダンタの人たちは物事の本質を確かめようとします。<br /> <br /> よく聞く例え話で「ロープと蛇」がありますが、暗闇にあるロープを見て蛇だと勘違いして怖がるのは真実を見ておらず、真実を見ればロープなので、ロープだということが知識だ、というお話はありますが、どうもこの例え話は誤解が多いような気が致します。<br /> <br /> このロープの例え話を聞いて理解するポイントは2つあって、1つは「科学のように物事を分析して行けば悟ることができる」「知識を積み上げれば悟ることができる」というところと、もう1つは上記にも書いたように「曇りなく認識すること」という点です。<br /> <br /> ヴェーダンタの人はこの両方を言っている気がしますが、私は前者は結果であって、重要なのは後者だと解釈しています。ただ、前者と後者との繋がりを理解するのはなかなか難しい気がしています。前者はロープと蛇のお話そのもので科学の考え方そのもののように見えますが、後者の認識は無視されがちな気も致しますし、ヴェーダンタの論者に聞くと「気付きとかは関係ない。知識だけが必要」とか言われたりしますのでますます混乱しかねません。<br /> <br /> ヴェーダンタの人はもしかしたら前者のことだけを言っているのかもしれませんが、私なんかからすれば後者も重要だと解釈しています。<br /> <br /> 後者に関していえばゾクチェンのテクチュの境地で認識を続ければ物事をよりはっきりと識別するようになり、やがては曇りが完全になくなり、その時に見るものは全てありのままの「知識」になる、ということかな、と思います。<br /> <br /> おそらくはほとんどの人、悟っていない人の認識には曇りがあって、「知識」の周囲を覆い隠しています。悟ると曇りが完全に晴れて「知識」が明らかになる、ということだと思います。<br /> <br /> ヴェーダンタの人は「知識」だけで悟ることができると言いますけど、私はそれは言い方だけの問題だけであって、確かにテクチュの境地はヴィパッサナーであり観察ですので、それは「行為」とは言いませんので、形式として瞑想していてもそれはテクチュ以前の時のように「行為」とは言い難い面もあります。それでも肉体と意思を伴っておりますのでそれは「行為」と呼んでいいと私なんかは思うのですがヴェーダンタの人は頑なに「行為ではない」と言い、「知識」でのみ悟ることができると主張しますが、私に言わせてみれば同じことです。<br /> <br /> 修行や行為は「知識」という建前・お題目を抱えたらお題目が大事になってしまっているのかな・・・ という気もしますし、あるいは、単に言い方の問題かもしれません。そこは重要ではないと思います。<br /> <br /> 瞑想に関しても、ヴェーダンタの人はサマタ瞑想(集中瞑想)を「行為」と呼んで、「知識」の理解を深める瞑想を「行為ではない」と言っていますので、言い方だけの問題かなと思います。まあ、ヴェーダンタの人に対してあんまりこういう指摘はしませんけどね。本人たちがそういう言い方をしているのであれば、それに沿って理解してあげればいいだけのことで、相手の言い方を変える必要は全くないわけですので。私はただ単に理解したいだけですので。<br /> <br /> どうも、ヴェーダンタの言っていることは前提としてゾクチェンで言うところのテクチュの境地を求めているような気が致します。<br /> <br /> テクチュの境地とは「むきだしの心」の働きである「リクパ」という認識能力が働き始めた状態であるとゾクチェンでは定義しています。<br /> <br /> ヴェーダンタは幅広いですし時間がかかるのででそれ以前から勉強していても無駄にはならないと思いますが、本当にヴェーダンタが理解できて面白くなるのはテクチュの境地でリクパ(むきだしの心)が動き出してからかなあ、と言う気もします。<br /> <br /> このあたりは分かりにくい気がしますのでもう少し書きます。認識を3段階に分けましょう。<br /> <br /> 1.ゾクチェンのテクチュ以前の状態。認識が暗闇あるいは雲に包まれている。ロープを蛇と思ってしまう段階。何かを見て他の何かを思い浮かべてしまう状態。ヴェーダンタで言う「知識」が暗闇あるいは厚い雲で覆い隠されている状態。<br /> 2.ゾクチェンのテクチュの状態。雲が晴れてきたがまだ完全には晴れていない状態。若干、思い違いをしてしまう段階。いわゆる気付き、アウェアネス、観察、ヴィパッサナーが出てきた状態。ヴェーダンタで言う「知識」が若干の雲で覆い隠されている状態。<br /> 3.ゾクチェンのトゥガルの状態。雲がほぼ完全に晴れた状態。物事をありのままに見ることができる状態。ヴェーダンタで言う「知識」が即座に現れてくる段階。<br /> <br /> そうであれば、行うべき瞑想も段階によって変わってくると私なんかは思います。<br /> <br /> 1の段階:集中のサマタ瞑想で心を安定させる段階。ゾクチェンのシネーの境地およびテクチュの境地を目指す段階。<br /> 2の段階:ヴィパッサナー瞑想を行い、いわゆる「むきだしの心(リクパ)」で物事を観察し始める段階。<br /> 3の段階:ゾクチェンによると2の続きで到達できる。<br /> <br /> であれば、ヴェーダンタの言っていることは以下のように解釈できます。<br /> <br /> 1の段階:ヴェーダンタは「知識」でのみ悟ることができると言ってはいますが、この段階にあってはヴェーダンタは理解できないと思います。であればヴェーダンタは本来の意味の知恵という「知識」ではなく単なる「知っているか知らないか」と言う知識でこの段階では理解されます。それは無駄ではありませんが、この段階では、ヴェーダンタはヴェーダンタの人が言うところの「考える道具」になるのかな、と思います。特殊な用語によるヴェーダンタという世界のフレームワークを頭で理解する段階だと思います。ヴェーダンタの内容を自分の認識で確かめることができないので、「知っているか知らないか」と言う知識に留まるのかなと。それはそれで将来のためあるいは次世代に受け継ぐために無駄ではないとは思いますが、私なんかにしてみれば物足りなく感じます。<br /> 2の段階:ヴェーダンタが理解され始める段階。ヴェーダンタの言っていることは、ゾクチェンで言うところの「むきだしの心(リクパ)」で識別可能かなと思います。この段階においては、ヴェーダンタの言う「知識」は「知っているか知らないか」と本来の意味である「ありのままに認識」と言う意味の半々になるのかなと。部分的にヴェーダンタの内容が理解し始める段階かなと。あるいは、物事を「何度か」はっきりと観察することにより「徐々に」知識が現れてくる、まだ弱い知識の段階なのかなと。<br /> 3の段階:この段階には私はまだ至っておりませんが、おそらくは、2の段階がもっと素早く起こる状態になるのかなと。物事を何度も見ずとも瞬時に奥深くまで把握して即座に深い「知識」に至ることができる段階なのかなと。そうであれば、もはや「観察」などと言うものは瞬時のもの、あるいは、ほとんど時間を要せずにすぐに「知識」として現れてくるのかなと。<br /> <br /> この1の段階と3の段階を比べるとどちらも「知識」であることがわかります。<br /> <br /> 1の段階では「知っているか知らないか」と言う「知識」で、それは、識別や観察とかとはあまり関係がありません。<br /> <br /> 一方で、3の段階では「観察・識別」を通り過ぎたところにある、もはや観察・識別が瞬時すぎてあたかも不要かのように見えるほど当たり前になっている状態における「知識」なわけです。<br /> <br /> この2つの「知識」はかなり違うものであるのにも関わらず一見すると同じように見えることもあり、どちらも「知識」と表現しているので混乱が生じている気が致します。<br /> <br /> ・・・まあ、そうは言いましても、ヴェーダンタを勉強した人などそうはいない気がしますので混乱も一部の現象かもしれませんが。<br /> <br /> ヴェーダンタの人は「知識」と言いながら1と3をごちゃ混ぜにしているような気が致します。あるいは、表現は正しい筈なのに聞こえ手が間違って解釈しているのかもしれません。<br /> <br /> 例えば、ヴェーダンタの人は「正しく理解すればそれだけでいい。知識だけで悟ることができる」とか言いますけど、それは3の段階では確かにそうですけど1の段階ではそうはならないわけです。1の段階で得られるのは悟りではなく理解です。<br /> <br /> 3の段階においては「行動」などは不要で修行も不要です。だって、既に「到達」しているのですから。 ・・・私はまだ到達していないのでここは想像ですけど、おそらくはそうなんじゃないかと思います。<br /> <br /> 1の段階と3の段階の橋渡しがあるとすれば、それはやはり「修行」であると思うわけです。<br /> <br /> しかし、ヴェーダンタの人は「修行なんていらない」と言って、「知識だけあれば悟ることができる」と言いますが.... 私なんかから言わせれば、それは3の段階のお話で、到達した人が「不要」と言ったからと言って、そりゃ、3の段階で不要と思うだけで、それなら1の段階まで降りてきてそう言ってくださいよ、と私なんかは思いますが。悟っている人が悟っていないところまで降りてきて「やっぱり不要でした」と言うのなら納得できますけど、3の段階で「不要です」とか言ってもよく分かりませんし、私は上記のように橋渡しが必要だと思っています。<br /> <br /> そもそも、ヴェーダンタの悟った人のお話を読んでいますと、自分がどうして悟ったのかよく分かっていない人が散見されます。<br /> <br /> インドの聖者で生まれてその後しばらくして悟った人とか、自分が何をしていて何が大切で何が不要なのかよく分からずに自分にとって不要と言っている人がヴェーダンタの人だったりして、なんだかよく分からない感じです。ヴェーダンタ系のインドの聖者の中には、生まれながらにテクチュの境地でその後すぐに悟っている人もいるような気もしますがどうでしょう。<br /> <br /> ですから、私なんかが解釈するには、悟ってしまえばヴェーダンタは当たり前のことなんでしょうけど、悟るための良い手法だとは思えない、と言うところです。<br /> <br /> これまでにも何度か書いたように、1から3に至るにはいくつかの段階を経る必要があると思うのです。<br /> <br /> その結果、3の段階がヴェーダンタ的に「知識」と言うのならばきっとそれはそうでしょうし、そこは否定はしません。<br /> <br /> おそらくは・・・、ヴェーダンタの考え方として「行動は不要」「知識で悟る」と言っているが故に、それが教義と化してしまって本来の修行を修行と呼べずに他の表現で言うしかなくなった、と言う文化的なお話なんじゃないかな、と言う気もしますが... どうでしょう。 やっていることは瞑想にチャンティングに教義に従った食生活などですから、修行そのものだと思うのですが、ヴェーダンタの基本的な考え方と相容れないから他の呼び方をしているだけで、本質的には修行だと私なんかは思います。<br /> <br /> 例えば、ヴェーダンタのチャンティングは聖典の勉強ってことになっていますけど、古典的なヴェーダンタやサンスクリットの授業では教室に黒板がなくて教科書もなくて先生の発音を集中して聞いて暗記して復唱して... と言うやり方になりますので、それはめちゃくちゃスパルタで集中力を必要とする激しい修行だと思いますけど、どうでしょうか。それは、本人たちは勉強と言っていますけどヨーガの瞑想の集中瞑想(サマタ瞑想)さながらの激しい集中が要求されますので、形は違どもサマタ瞑想をして1番目の段階を修行しているように私なんかには思えます。<br /> <br /> そうして極度の集中力を身につけて2番目の段階の観察力に至ってヴェーダンタの教えを理解する、と言うのは手法としては理に叶っているとは思いますが、それが今のこの甘やかされた世の中で本当に可能かどうか.... 古典的なヴェーダンタの教室には黒板もなくて教科書もノートもペンもなくて全部暗記することを要求されますが・・・・ まあ、現代人には無理では? とも思いますが。<br /> <br /> 私がインドのリシケシでヴェーダンタの先生に教えてもらった時は、その先生はヨーガスートラやバガバッドギータを暗唱できましたけど、その先生ですら現代では教科書を使っていましたし。古典的な手法に従うのならば、教えに直接関係のないところで実は重要な能力を育てていることもある、と言うのが私の見立てですので、もしヴェーダンタの教えに完全に従うのであれば「メモなし」「黒板なし」「教科書なし」「全て暗記」まで古典的なやり方を真似すればきっとそれでも悟れるとは思いますが... そこまでしている人が現代にいるのでしょうか?<br /> <br /> 現代でもチャンティングはしますしその発音や意味などは勉強しますので、時間をかければ同様の効果があるのかもしれません。それをヴェーダンタの人は勉強と呼びますが、私なんかが見るとそれは修行であると思うのです。1番目の段階であれば修行、2段階以降は修行ではなくなる、と言う解釈もできますが、やはり広義では修行だと思うのです。<br /> <br /> そう言うわけで、私なんかが思うには、やはり1から3に至るには修行が必要だと思う次第です。<br /> <br /> Mon, 02 Mar 2020 00:00:00 +0900 精神が安定する静かな環境の大切さ https://w-jp.net/2020/1854/ <br /> ある程度の成長をすれば環境にさほど左右されなくなるとか言っている人もいますけど、まあ、あまり本気にしない方がいいと思います。基本的には人は環境に左右される生き物です。<br /> <br /> 同化してしまうと左右されないと言うかその基準にはまり込むので影響されない気がするだけで、成長もしなければ落ちにくい状況になるのかなと思います。<br /> <br /> 精神的な訓練には自分を変えることが必要で、そのためには静かな環境が必要だと思うわけです。<br /> <br /> 今の時代は山の中にこもらずに街で修行する時代だとか言う論調が数十年前から流行っていて、ことあるごとにそう言うこと言っている人がいますけど、あまり真に受けない方がいいと思います。<br /> <br /> たしかにある程度の成長がなされた後はいいでしょうが、数年間は静かな環境で過ごさなければならない人の方が多いと思います。最初はそんなものです。それが普通です。<br /> <br /> 思えば、前世の記憶で誰かに相談された際、心安らかに暮らす環境がないことをその人は訴えておりましたが、私はたぶんそのことを十分に理解せずに環境の重要さを抜きにして精神的修行を解いたような気も致します。<br /> <br /> その人の修行がうまくいかないことを他の理由に求めてしまっていました。<br /> <br /> しかし、今から思えば、それは環境が必要だったのです。そんな簡単な答えであっても、恵まれた環境にいる人は相手の環境への想像力が足りなくなってしまうのだと思います。<br /> <br /> であれば、ヨガのアシュラムとかで静かな環境にしばらく暮らすことは有用ですね。<br /> <br /> 昔も有用さを理解していたかと思いますが、最近になってより実感が湧いてきた気が致します。<br /> <br /> Sun, 01 Mar 2020 00:00:00 +0900 意識の虚脱感と軽い恐怖と共に光が滲み出る https://w-jp.net/2020/1853/ <br /> 朝、3時頃にふと目覚めて体を観察すると、最初は風邪の初期症状かと思いました。<br /> <br /> 体が少し弱っているような気がしたのですが、熱はありません。<br /> 最初は、意識も少し弱っているような気がしました。<br /> <br /> ですが、試しに視線を動かしてみるとスローモーションのヴィパッサナー状態は保たれておりましたので基本的な「識」の感覚は動いているようです。ですから、意識がタマスになって認識力が8fpsとかに落ちているわけでもなさそうです。そこは普通のようです。<br /> <br /> では、この状態は何でしょう?<br /> <br /> 意識の虚脱感・・・ と言えばそうですが、無力感、と言い換えてもいいかもしれません。<br /> <br /> ですが、上記のようにヴィパッサナー状態が保たれておりますのでタマスの愚鈍などんよりとした感覚に落ち込んでいるというわけでもなさそうです。<br /> <br /> おそらくは・・・ エゴの抵抗かな、という気がしております。抵抗が強いと激しい風邪になったり気分がどんよりとしてしまうのかなと。<br /> <br /> 体も軽く緊張しておりますので、気が付いたら意識的に解除してリラックス状態に戻してあげたりしています。<br /> <br /> 軽い風邪のような症状ですが、体を観察しておりますとオーラが体の表面でざわついており、そのオーラはまるで光のようです。<br /> <br /> そのざわつきは意識と同調しているかのようで、瞑想中のように集中はしておりませんので自然にそよ風で軽く吹かれている雲や霧のような感じになっております。<br /> <br /> 思えば、昔はこのオーラの感覚は「ざわつき」の「感覚」として認識されておりました。<br /> <br /> ですが、今朝は、何故かそれは「光」だと思いました。<br /> <br /> スピリチュアルでは「人は光の存在だ」とか「光を感じましょう」とかよく言われていますけれども、理屈ではわかっていても、いまいちピンと来ていませんでしたが、今日は自然に「あ、これは光だ」と識別できました。<br /> <br /> おそらくは・・・ エゴの抵抗が少なくなってきて、オーラの中の愚鈍なタマス・無明のような質が減ってきたので体の光が少しづつ滲み出てきているのかな、と、そんな気が致します。<br /> <br /> エゴの抵抗は、若干の軽い虚脱感と少しの恐怖と喪失感が伴っている感じですが、それを補うかのごとく光を感じています。<br /> <br /> こうなれば、今からどちらへ進むのかは明らかで、光の世界へと進むのだとしたらエゴの抵抗である虚脱感や恐怖や喪失感はきっと一時的なものかな... と思っております。<br /> <br /> 今は、もうちょっとこの状態で様子を見ます。<br /> <br /> 特に抵抗するでもなく、きっとこれは良い変化なのですから、このままこの先まで進めればと思います。<br /> <br /> Sun, 01 Mar 2020 00:00:00 +0900 想念が20秒かけて消えてゆくのを観察する https://w-jp.net/2020/1852/ <br /> 本日の瞑想中、急に子供の頃に遊んだゲームのBGM(音楽)が流れてきて懐かしい思いに3〜5秒ほど浸りました。久々に遊んでみてもいいかなという思いに包まれたわけですが、特に否定することもなく、同意することもなく、そのBGMを聞いていました。<br /> <br /> メロディが2〜3周するまでは普通に流れていました。<br /> <br /> すると、どうやらそれは体のどこかに眠っていた想念だったのか何なのか、急にふとその思いが弱まって行きました。<br /> <br /> 思いが弱まる、というのは、想念が弱まっていった、ということです。<br /> <br /> 具体的には、聞こえていた音楽が想念だったわけですが、その音楽の心の中の音量が小さくなっていって、1秒ごとに5%ほどボリュームが小さくなるようなゆっくりとした音量変化で20秒ほどかけて音楽が消えていったのです。<br /> <br /> 少し前に、論理思考は独立して機能しているみたいなお話を書きましたが、その中の表現を使いますと、想念や雑念は割と体の感覚に近くて、今回の音楽はこの種の雑念・想念として現れていました。<br /> <br /> 一方で、それを眺めている「見ている」という感覚は別にあって、いわゆる「観」、「アウェアネス(気付き)」、「ヴィパッサナー(観察)」という表現で言い表されるものがその音楽を聞いていたわけです。<br /> <br /> それは聞いていたわけですが、瞑想的な表現としては「眺める」という言葉を使っても同じことです。今回は映像はなくて音楽だけだったわけですが、瞑想的にはそんな時も「眺める」とか言ったりすると思います。まあ、文化的なものかもしれません。瞑想は集中(サマタ)と観察(ヴィパッサナー)ですので観察というと映像的なイメージがどうしても強くなってきてしまいますが、音楽を観察する場合は「聞く」であったとしても「見る」という表現を使ったりします。<br /> <br /> ヨーガの理屈からいうと「見る」という機関は全ての五感を代表していて、「見る」という機能が他の全ての機能そのものだ、というような説明もありますので、そう言った観点からも「見る」という表現は間違いではありません。<br /> <br /> まあ、理屈はそういうことではありますが、今日の瞑想では、音楽が不意に現れて、それが割と長い時間をかけて消えていったわけです。<br /> <br /> 瞑想の説明で「雑念が浮かんでもそれと戦ったりせずに観察するとその想念は力を失ってやがて消えて行きます」みたいなお話がヨーガではよくありますけど、これは、私が思うには中級者以上のお話だと思います。<br /> <br /> サマタで集中する力がつき、更にヴィパッサナーで観察する力がついて初めてそれが可能になるのかな、と私なんかは思うわけです。<br /> <br /> そうなる前は、雑念が浮かんできたら「ギュッ」と念を込めて意識的に雑念を止めるくらいしか方法がないと思うのです。<br /> <br /> どうも、ヨーガやその他の方法は初心者に優しくない(苦笑)と言いますか、中級者以上向けのお話を初心者にも適用させていて、それが混乱を招いているような気も致します。<br /> <br /> 例えばヴェーダンタも中級者以上のお話なのに最初から知識だけで悟れるわけもないですしね。<br /> <br /> 私なんかが思うには、最初はヨーガでサマタ瞑想(集中瞑想)でゾクチェンの言うところのシネーの境地に至って、その後にヴィパッサナー状態に達したらヴェーダンタにしても適用可能になるかと思うのですが、どうも、段階を踏んで成長すると言う観点が薄い... と言いますか、本人たちには明確なのかもしれませんが、どうもわかりにくかったです。<br /> <br /> まあ、その話などもおいおい。<br /> <br /> Sun, 01 Mar 2020 00:00:00 +0900 スローモーションのヴィパッサナー状態を妨げる習慣 https://w-jp.net/2020/1851/ <br /> いくつかの習慣により、いわゆるスローモーションのヴィパッサナー状態が妨げられるようです。<br /> <br /> ・食べ過ぎ<br /> ・お肉<br /> ・きのこ類?(要検証)<br /> ・揚げ物類(天ぷら等)<br /> <br /> これはヨーガでよろしくないと言われている食べ物と被る部分があります。<br /> <br /> 最近のスローモーションのヴィパッサナー状態に至る前は、そこまで影響はなかったように思います。<br /> <br /> ですから、ヨーガ等で言われている食事の習慣は文化的なものが大きいのかな、と思っておりました。今までは。<br /> <br /> 食生活においては、教理とは関係なく自然にお肉は食べなくなってきておりましたし、食事の量も減ってきておりました。ですので、自然に変わる食生活に従えば良いのかな、というくらいに思っていたのですが、どうやら、ここに来て自然以上に遥かに食生活に影響を与えている習慣があったことに気付かされました。<br /> <br /> まあ、それも含めて自然な変化だと言えばそうなのかもしれませんが、これは明確にわかる感覚ですので、以前のようになんとなく食べなくなる、という感覚よりもはっきりとしたものです。<br /> <br /> 明確にヴィパッサナー状態が妨げられますので、はっきりと良くないことが分かるのです。<br /> <br /> きのこ類は微妙で、多少は影響がある感じです。お肉は牛肉はマシですが豚肉はかなり悪いですね。鶏肉もそんなに良くないです。<br /> <br /> 感覚的なものとしてお肉は避けてきており、お肉くらいしか選択肢がない時は仕方なく食べても後悔することが多く、お酒も飲みたくなくなって最近はゼロなのです。<br /> <br /> 今までは、害があるとは言っても具体的にはちょっと気分が重くなるという程度でしたが、最近はスローモーションのヴィパッサナー状態という具体的な状態が判断の基準になってきておりますので、そうした害のある食べ物を取り入れると明確にヴィパッサナー状態が妨げられるのが分かるわけです。<br /> <br /> ですから、たまに聞くお話として、「ある程度に達したら食事は何を取っても良い」みたいな話は、少し前まではもうそんな段階なのかもしれないと思ったりしたこともありましたが、どうやら全然そんな状態ではないことがわかりました。<br /> <br /> 最終段階に至っても食事に影響されないなんてことがあるのでしょうかね? なんだか、影響されないなんてことは永遠にない気がしてきました。<br /> <br /> 理屈を考えてみれば当然で、食事を取るということはそのもののオーラを取り入れるということですから、淀んだオーラの食物を取り入れれば自分のオーラが淀むのは当然のことであるわけです。<br /> <br /> もちろん、淀んだオーラも純粋なオーラもそれよりも上の階層から見たら同じ「わたし」なわけですが、そんなレベルは私はまだ知りませんし。<br /> <br /> であれば、この地上に住む以上は相手のオーラを取り入れることが食事という行為である以上、永遠に食事に気を付けるというのがいい気がしてきました。<br /> <br /> おそらくは、このあたりが理解できない人向けに「何を食べてもいいんですよ」と過去のグルが言った大衆向けの説明から始まったお話の気もします。<br /> <br /> 生活習慣で言えば身の回りの環境もそうですね。大衆向けの説明に「どんな生活をしてもいいのですよ」とは言っても、実際には清潔で純粋な環境でなければヴィパッサナー状態は失われて行きます。これもオーラで説明がつきますし、そんな説明しなくても感覚的に当然だと思うわけですが、それでも、「理解」を求める大衆向けには「それでいいんですよ」と言ってあげる必要があるような気がします。<br /> <br /> 一方で、良いこと良くないことは明確な基準があって、分かる人は従えばいいのだと思います。<br /> <br /> その辺りも、従う従わないという選択は自由意志が尊重されているわけですし、自由に生きればいいわけです。<br /> <br /> Sat, 29 Feb 2020 00:00:00 +0900 まことの悟りが現れる前兆 https://w-jp.net/2020/1850/ <br /> ゾクチェンの3つの境地に当てはめればテクチュの境地の後にトゥガルの境地があるわけですけれども、おそらくは私はテクチュにいてこれからトゥガルかな、ということはここ数ヶ月の考察で推測してきたわけですけれども、最近の心が水面のように穏やかになるのは比喩ではないという経験あるいはヴィパッサナー的な「識」の状態に関して、面白い記述を本に見つけました。<br /> <br /> 同書では、ヴィパッサナー的な識の経験の説明として、禅宗の一派である黄檗宗(おうばくしゅう)の「鉄眼道光(てつげんどうこう)」の発言を引用して以下のように述べています。<br /> <br /> 心が澄みわたった大空のようになる体験はいまだ悟り体験ではない。それは単なる識を仏性/心の本性と誤解しているのである。(中略)この識はその全体が本来の心であるにせよ、無明の眠りが付着しているゆえに、「ただちに本来の心である」とは言いがたい。「本来の心である」とは言いがたいにせよ、やはり、もろもろの妄想がもはや去ってなくなっている状態であるので、ひたすら迷いであるわけでもない。もし修行者がここに行き着くならば、いよいよ精励して修行するが良い。やがてまことの悟りが顕れるはずの前兆である。「悟り体験を読む(大竹 晋 著)」<br /> <br /> これは、ゾクチェンでいうところのテクチュからトゥガルへと至る説明と類似しているような気が致します。<br /> <br /> ゾクチェンではテクチュが「むきだしの心」が現れてきた状態ということになっていますが、上記の記述と照らし合わせてみますと、「むきだしの心」「本来の心」がテクチュの状態で現れてはきたものの、まだ若干、汚れと言いますか無明と言いますかタマスと言いますか、流派によって言い方は異なれどもまだ少し汚れが残っている状態がテクチュであり、ゾクチェンのトゥガルあるいは悟りの状態に至るにはもう一段階、必要ということでしょう。<br /> <br /> ですが、ゾクチェンの説明にもあったのですがテクチュとトゥガルは一続きでテクチュに至ることができればトゥガルに自然に導かれてゆくという記述を読んだと思いますので、そうであれば、上記の仏教的解釈においても同様に「前兆」とあるように一続きで導かれてゆくのかな、とも思います。<br /> <br /> 妄想の闇は晴れたにせよ、「まだここではない」と心得て、捨て置きせず、また喜びもせず、悟りを待つ心もなく、ただ無念、無心のまま、ひたすら務めて行けば、忽然として真実の悟りが顕れてあらゆる法を照らすさまは、あたかも百千の日輪が一度に出現するかのようである。「悟り体験を読む(大竹 晋 著)」<br /> <br /> なるほど。道はここに示されたような気が致します。<br /> <br /> Fri, 28 Feb 2020 00:00:00 +0900 幽体離脱中に2000年問題を回避したお話 https://w-jp.net/2020/1849/ <br /> 何度か書いておりますように子供の頃に幽体離脱をして過去と未来とを長い間彷徨って真理を見たりハイヤーセルフや守護霊たちから学んだりしたわけですけれども、その時、あるいは、その後に夢の中でいわゆる2000年問題に対処したことを思い出しました。<br /> <br /> その頃、私はまだ学生で卒業するかどうかという頃でしたが、時代はインターネットによるITバブルと2000年問題で盛り上がっていたように思います。<br /> <br /> 具体的には、その時代に対処したわけではない... というと語弊がありますが、こういうことです。<br /> <br /> 更に遡ること7〜8年前にたしか最初に幽体離脱をして、その時、時間を超えて過去と未来を行き来して様々なことを学んだり将来の意識に入り込んで意思決定をしました。<br /> <br /> これ、なかなか理解されにくいことですけど、幽体離脱した後は時間を過去にも未来にも行き来できましたので、基本は近くの時代にスライドするのですが、大きく行き来することもできました。<br /> <br /> その幽体離脱した時の意識の空間は繋がっていて、例えば、そのとある幽体離脱の数年経った後に夢で同じ空間に接続して同じ意識に繋がって意思決定をする、という時もありました。どちらも同じ空間ですので、数年前に幽体離脱した時の意思決定と、後に夢で接続した意思決定はどちらも同じ瞬間の意志なのです。<br /> <br /> このことを人は「今しか存在しない」「未来とか過去は存在しない」とか言ったりするのかもしれませんけど、言い方はともかく、意志の空間は繋がっていて、そこは過去にも未来にも意識のフォーカスによってスライドできますので、そうして、意識のスライドのとある瞬間において2000年問題にフォーカスしたことがあるのです。<br /> <br /> 幽体離脱した私の意識は時代をフォーカスしているとある時代に2000年問題で盛り上がっているのを発見しました。<br /> <br /> 上に書いたように、幽体離脱の時にしたのか、あるいは、夢の時にしたのかは微妙なところで、同じ空間に繋がっておりますので、どちらも正解ではあるのですが、まあ、幽体離脱で2000年問題を解決したとも夢で2000年問題を解決したとも、どちらとも言えるわけです。<br /> <br /> まあ、所詮はこのような幽体離脱でのお話ですので、一般的には、夢のお話だと思っておいて下されば良いです。何も証拠はないですしね。<br /> <br /> ですから、これから話すことは夢で見たお話だと思ってください。<br /> <br /> 幽体離脱、あるいは夢の中で私はとあるタイムラインを漂っていました。<br /> <br /> 2000年問題が起きて、社会が混乱する姿を見ました。<br /> <br /> 問題として大きかったのはヨーロッパの、おそらくは西の方、フランスかスペインか・・・ その辺りの電力系の問題が発端として暗い夜に突入し、人心が不安定になり恐慌および争いの世の中に突入するタイムラインでした。その他にもたしかアメリカの問題や、日本の問題もありました。さすがに20年以上前の記憶ですので曖昧ですが、たしか原子力発電所の問題もあってメルトダウンに近い問題も生じていたような気が致します。<br /> <br /> ですから、その時の私の意識は時代を行き来するうちにこれは良くない・・・ という印象を強く持ったようです。<br /> <br /> その時、私の意識は誰から指示されたわけでもなく・・・ と思ってはおりますが実は上位の意思があったのかもしれませんが、少なくともその時の私の幽体離脱中の夢っぽい意識の中においては半分「実験」のつもりで、問題究明および解決にあたったのでした。<br /> <br /> 問題究明とは言いましても、時間軸を行ったり来たりできますので、基本的には未来のニュースを見て原因特定している番組の内容から理由を知るだけのお話です。<br /> <br /> 数ヶ月あるいは数年経てば原因究明も進んで詳しくテレビ報道しますが、その時は問題が大きかったので原因究明は早くて1ヶ月とか数ヶ月もしないうちにテレビで様々なお話が流れていたように思います。<br /> <br /> 原因究明がそのくらいでできたということは対処も割と短期間でできた筈ですが社会に残った傷跡は大きく、どうやら今のようなインターネットによるIT革命は今日ほど盛んではなくてITバブルの出鼻を2000年問題でくじいてしまってITに資金があまり行かずに旧来型産業が温存されたようにも思います。このあたりはちゃんと見ておりませんので半分は印象によるインプレッションになりますが、状況はどうあれ、世界の全体を見たら2000年問題で大きく時代が動いて暗い世の中になっていたと思います。少なくとも私の見たタイムラインではそうでした。<br /> <br /> そうして原因を特定できたら後は時代を遡ってその原因である研究所あるいは開発のオフィスに出向いて、問題のところを研究者あるいは開発者の意識に植え付け、直るまで繰り返し繰り返し意識にそのことを働きかけるだけです。一旦問題に気が付けばそこは専門家ですから適切に対処してもらえるというわけです。<br /> <br /> そうして、2000年問題はほとんど解決して、2000年の大晦日は静かに過ぎて行きました。人々は、何も起こらなかった夜を揶揄して騒ぎ過ぎだとか口々に言ったわけですけれども、実際は大騒ぎしていた筈だったのです。<br /> <br /> そういえばその前後にジョンタイターとかの予言が流行ったりしましたけど、私はその人が本物かどうかはわかりませんけど少なくとも言っていることのうちに2000年問題のこともあって、それを境に世界が暗い方向に行くというのは私が見たタイムラインと妙に一致しておりましたので当時は興味深く眺めておりました。<br /> <br /> まあ、未来人かどうかはともかく、意志が過去や未来に行くのは幽体離脱時の経験からしてあり得ると思いますし、意志の世界には時間的制約はあまりないのではないでしょうか。<br /> <br /> 同じ幽体離脱と言っても他の人の経験談には時間を超えるお話はあまり出てこないように思いますが、それは、地上の生活に慣れ過ぎていて時間的制約に意思が囚われているだけで、時間を越えようと思えば超えられるように思うのですが、どうでしょうか。<br /> <br /> それはともかく、そうして2000年問題は回避され、ITバブルでインターネット企業に大金が投資され、こうして世界はインターネット企業が時価総額のトップを飾る世界になっているわけです。<br /> <br /> この現代を人はインターネット企業の独占が問題だとか言ったりするわけですけれども、違うタイムラインで従来型産業が維持されていて世界各地の紛争も今のタイムラインよりも多くてインターネット企業が今のタイムラインよりも細々と存在している世界とを比べますと、今のタイムラインは色々問題があるとはいえ、割とマシなタイムラインなのではないかと思うわけです。<br /> <br /> ま、こういうのは信じる必要はないです。<br /> <br /> 上に書いてあるように、夢で見たお話ですからね。<br /> <br /> しばらくすっかり忘れておりましたが、不意に思い出しましたので書いてみました。<br /> <br /> Thu, 27 Feb 2020 00:00:00 +0900 純化されつつあるやや曇ったオーラを通して周囲を認識する https://w-jp.net/2020/1848/ <br /> 意識が拡大するにつれて体の周囲のオーラの境界を感じるようになりました。<br /> <br /> 心が穏やかになり、意識が広がると、体のオーラと外側との境界がザワザワとした水面のように感じられるようになったのです。<br /> <br /> それは、シュタイナーの説く境域の守護者かもしれませんし、単なるオーラの壁のようにも見えます。<br /> <br /> 体と、体の近くに存在しているオーラまでが内側です。オーラの外側との境界がそのように濁ったようなザワザワしたような水面あるいは灰色の雲のように感じられます。<br /> <br /> 内側から見るとオーラの境界のざわつきであり、その外側に広い世界が広がっています。<br /> <br /> 外側を感じることを意識の拡大といえばそうでしょうし、この、内側から外側を見たときの景色をシュタイナーの言う境域の守護者だといえばそれはそうかもしれません。<br /> <br /> 内側から曇りガラスを通して外を眺めるとよく見えないのと同様に、曇ったオーラを通じては外がよく見えません。<br /> <br /> 外側に立っている守護霊や友人知人の霊などの存在を見て、それがよく見えない初期の段階のことをシュタイナーは境域の守護者と呼んだのかもしれません。なんとなくそんな気が致します。<br /> <br /> 精神的訓練を始める前は完全にオーラが濁っていて何も外が見えなかったりしますが、やがてオーラが純化されてきて雲の色が次第に白くなってゆき、まだ曇ってはいるものの霧が次第に晴れてきて外側が見えるか見えないくらいになったとき、その時、初めて外側の景色を曇ったオーラを通じて見たら、それは雲のようにぼやけた霊の体のように見えるかもしれません。それを境域の守護者とか呼んだのかもしれません。<br /> <br /> 境域の守護者とか言っているのはシュタイナーくらいですが、確かに、曇ったオーラを通して外を眺めるとそのように見えるかもしれません。シュタイナーは存命ではないのでこれは想像になってしまいますが。<br /> <br /> シュタイナーは境域の守護者を突破して霊界への扉を開く、と言うようなことを言っています。<br /> <br /> であれば、その段階とは、意識が次第にクリアになってあと少しの曇りが残っている状態になって外がようやく見え始めた段階のことを言うのかな、と推測できます。<br /> <br /> 瞑想中に一瞬見えた小悪魔の影もそれに準じたものかもしれません。<br /> <br /> この推測が正しいのであれば、それは境域の守護者とか大そうなものではなく、見えたものがそのようにも解釈できる段階に達した、と言うことなのでしょう。<br /> <br /> ゾクチェンで言うテクチュの境地がこれに該当するのかなと思います。テクチュは曇りがある程度晴れてはいるものの完全に晴れてはおりませんので似ている気が致しますし、段階的にも合っています。<br /> <br /> まあ、本人に聞くことはできないので想像です。ですが、そんな気が致します。<br /> <br /> Wed, 26 Feb 2020 00:00:00 +0900 だるまさんのような丸いオーラの体になって眉間の周囲にオーラが集まる https://w-jp.net/2020/1846/ <br /> 感覚的なものですが、瞑想が安定するにつれて首から下の下半身がだるまさん、あるいはドラえもんの体のように丸くなった感じがしております。<br /> <br /> その上に、ドラえもんの頭のようにちょこんと丸い頭が乗っかっています。<br /> <br /> かなり昔はオーラを頭に集めたままにしていると不安定になって情緒不安定になったりしたものでした。ですから、以前は瞑想中に頭にオーラを集中させても瞑想を終える前にオーラを胸かお腹の辺りまで下ろすことが肝心でした。<br /> <br /> しかし、今はオーラを頭に集めても安定していますし、そのまま瞑想を終えても特に問題ありません。<br /> <br /> 今から思えば昔はオーラが縦長だったかもしれません。体のオーラが安定していなくて、体に沿った縦長のオーラの上にある頭にオーラを集めようとしてもなかなか集まらなかったり安定しなかったように思います。<br /> <br /> しかし、今は体の部分がどっしりと安定しておりますので、頭にオーラを集めてもそのままで安定しています。<br /> <br /> 頭の、眉間の辺りにオーラが集中している... と言いますか、勝手にそうなる感じです。<br /> <br /> 昔は意識してオーラを頭に集める必要がありました。<br /> <br /> 今は、眉間のあたりにオーラが勝手に集まる、という感じです。<br /> <br /> これを集中と言うのかどうかは微妙なところで、オーラが集まっているという結果からすればそうですけれども意思として特に集中しようと意図したわけではありません。<br /> <br /> 下半身のオーラがだるまさんのように丸く安定した結果、勝手にオーラが眉間のあたりに集まるようになった、というお話です。<br /> <br /> もしかしたら、そもそもの瞑想の意義とはこういうものなのかもしれませんね。<br /> <br /> 意図的に集めようとしているうちはまだまだで、オーラが勝手に集まるような状態を目指してその練習をしているのが瞑想である、とも言えるのかもしれません。<br /> <br /> これは、呼吸法にも言えますね。最終的な目標の状態をマスターが弟子に教えて弟子はマスターの真似をする。しかし、マスターは努力をそもそもしておらず、単に自分の状態を伝えただけなのでしょう。であれば、瞑想にしても努力するものではなくてマスターの状態が眉間に集中... と言いますか眉間にオーラが集まっている状態なのだ、という解釈もできます。<br /> <br /> そんな気がしてきました。<br /> <br /> 表現の違いといえばそうかもしれませんけど、以前および今日くらいまではこれらの状態を「オーラを集める」だとか「オーラが眉間に集まる」とか「眉間に集中する」とか表現していたわけですけれども、瞑想でこれらの状態を観察していましたところ、どうやらオーラを集めるというのは一応は正しいものの、手のひらでオーラを持って頭の上に集めようとしているようなイメージ、あるいは、頭の上半分が空洞で、そこの周囲にオーラを集めている、という表現の方が正しい気がしてきました。<br /> <br /> 昔、マニプラ優勢の頃にアナハタの感触がなくてアナハタにエネルギーがあまり通っていなかった時の感覚に似ています。今は頭の上半分のアジナに感触がありませんのでアジナにエネルギーがあまり通っておらず、アジナにエネルギーを集めようとしている状態なのだと思います。アナハタ優勢になる以前の経過を踏まえて、アジナも同じような経過を辿るのだと仮定すればおそらくは今はアジナにエネルギーをようやく通そうとしている状態なのかなと思います。<br /> <br /> チャクラって「開く」って表現されますけど、開くというのも間違いではないにせよ、エネルギーがそこに通る、という感じだと思いますので、アジナにエネルギーが通っていない現在の状態においてようやくその「境目」が認識されるようになったのであれば、それはマニプラ優勢の頃にアナハタに対して境目とアナハタの感触のなさを感じていてその後アナハタにエネルギーが通り始めたのと同様、アジナより下にエネルギーが満ち始めてオーラの体がだるまさんのようになってアジナに対して境目とアジナの感触のなさを感じているのは、割と良い傾向なのではないかなと思っております。<br /> <br /> Mon, 24 Feb 2020 00:00:00 +0900 日常が映画になるヴィパッサナー瞑想 https://w-jp.net/2020/1845/ <br /> 最近はヴィパッサナー状態でスローモーションのように視界を観察しているわけですが、その状態のオンオフや深度に変化がつくにつれ、日常生活が次第に映画のように緩急のあるものになってきました。<br /> <br /> なんてことはない景色が映画やドラマの一場面のように感じられることが多くなってきています。<br /> <br /> 例えば渋谷の人混みで、遠くに視点を合わせます。<br /> <br /> ヴィパッサナー状態では全体がスローモーションで感じられますが、そこはあえて緩急をつけて、目のフォーカスを遠くに合わせてみます。すると、手前がぼやけて見えます。<br /> <br /> 以前ですと非ヴィパッサナー状態ですから遠くを見た時は遠くしか意識に入りませんでした。<br /> <br /> 調子にもよりますが今は視界の全体が割と広めに見えますので、遠くに視点が合っていても近くがぼやけて人の動きが感じられます。<br /> <br /> それが、まるで映画やドラマで遠くに焦点が合っていて手前がぼやけている場面のように感じられるわけです。<br /> <br /> これは、現実世界でドラマや映画を見ているかのようです!<br /> <br /> 視点を例えば近くに向けると、遠くの景色は焦点が外れてぼやけて見えますから、まるでボートレートの写真を見ているかのようです。<br /> <br /> 風景画のようにパンフォーカス(全焦点状態)で見ると手前も奥も平べったく見えますから、それはそれで楽しいものです。<br /> <br /> そうすると、視界全てが美しい場所、というのがいいな、と思うようになりました。<br /> <br /> 映画やドラマだって美しい景色が良いでしょう? それと同じです。<br /> <br /> ヴィパッサナー状態になるにつれて、自宅の部屋もちょっと気になり始めました。<br /> <br /> もともと美術館や博物館にはちょくちょく出かける方ですが、ヴィパッサナー状態になって視点が変わりましたので今まで見たことのある作品も一旦はリセットして気持ちを新たにしてもっと美というものに焦点を当て直してみるのもいいかなあ、と思い始めています。<br /> <br /> Sun, 23 Feb 2020 00:00:00 +0900 心が水面のように穏やかになるのは比喩ではない https://w-jp.net/2020/1844/ <br /> 瞑想を始めたばかりの頃は瞑想の例えで水面のお話を聞いても「そんなものかな」という感じでした。理解はできても一体どうすればそのようになるのか、実態が伴いませんでした。<br /> <br /> 水面のお話とは心の例えで、心が穏やかになることは湖の水面の波立ちが静まるようなものであり、水面の波立ちが静まると水面下にあるものが見えるかの如く心の奥に眠っている本当の自分、真我(アートマン)が見えてくる、あるいは、現れてくる、というお話です。これは水面だけでなく鏡で例えられたりします。<br /> <br /> まあ、このお話は有名でスピリチュアルや色々な人がよく言うわけですけれども、その大元は確か古典ヨーガスートラの記述だったかと思います。<br /> <br /> その比喩ですが、最近は単なる比喩よりも実感のあるものになってきました。<br /> 昔ながらの比喩であることに変わりはないのですが、最近はそれが単なる比喩ではない、実感のあるものに変わってきたのです。<br /> <br /> 昔は「比喩ですね。ふんふん。理解できます。そうですよね。その通りだと思います」という感じでしたが、今は、心の状態の「これがそのことだ」と実感が伴っています。<br /> <br /> 今の私の心の状態は、「水垢のついている鏡」「少し曇っている鏡」「汚れがついている鏡」「そよ風で少し波のある水面」と言う感じです。自分の心の表面についている曇りの状況がよく分かります。<br /> <br /> なるほど。この実感を味わってみると、ここに来てもまだまだ先があると言うことだと思います。<br /> <br /> ヨガや瞑想を始める前の心の波を100とすれば、ゾクチェンで言うところのシネーの境地で心が統一された時の心の波が10であり、最近になってスローモーションのヴィパッサナー状態になると心の波が1〜2程度だと思いますが、それでもまだ先があると言うことだと思います。<br /> <br /> 心の波が1だと動画でいうところの24fpsくらいの滑らかさで視界が認識され、1.5〜2くらいだと8~12fpsくらいの少しカクカクで認識される、という肌感覚です。<br /> <br /> 心の波、あるいは心の曇りの度合いによってヴィパッサナーの深度が変化するとすれば、心の波が更に静まれば心的な変化が更に起こる可能性があるのだと予想できます。<br /> <br /> 昔は、心の波としての水面が穏やかになるというのは魔術や瞑想などの秘術で心を押さえるもののようなイメージが最初にあって、心とはこんなものだ、という既成概念がありましたが、心の状態そのものがこれだけ変化してきている今とあっては、もっと心の変化があっても不思議ではないと思っています。<br /> <br /> であれば、水面や鏡の比喩も、心の姿にもっと先があるのだとすれば単なる1つの面としての比喩としてではなく、比喩としてのイメージとして表されて理解されたかつてのイメージの一面としての理解上の心の姿以上のものが実際の心の姿として存在しているわけです。<br /> <br /> 比喩として表現されるのは理解の一面にしか過ぎず、実際の心の姿は変化し、それ故にかつての理解を超えたものに心は変化し、再度心が理解されてもかつての理解とは異なり、かつて表現して理解された比喩としての心の姿も、心のありようが深化して変化すれば比喩としての心のありようもまた変化する。<br /> <br /> よって、心を例える水面や鏡の例えそれ自体は比喩ではありますが実際の心の姿は実質的なことでありますので比喩を超えたものであると思うわけです。<br /> <br /> これが、心で捉えることのできない観念的な事柄であれば比喩として説明して終わりなのでしょうが、瞑想で心を捉えることができて、それが深化するからこそ心は比喩を超えたものであると思うわけです。<br /> <br /> それは、もはや心やマインドと呼ぶべきものかどうかすらわからなくなってきておりますが、それでも、意識がそこにあって、いわゆる思考や心やマインドと呼ばれている顕在意識と並行、あるいは階層的になっている静かな意識が深化していっていると思うわけです。<br /> <br /> Sat, 22 Feb 2020 00:00:00 +0900 自分のオーラを使わないヒーリング https://w-jp.net/2020/1843/ <br /> 自分のオーラを通じてヒーリングする人は大勢いらっしゃいますけれども、私のグループソウルから転生しているパラレルワールドにいる自分の分身は、自分のオーラを使わないヒーリングの技を持っています。<br /> <br /> ヒーリングは色々と方法があります。<br /> <br /> ・自分のオーラを相手に繋げて、自分のオーラを譲るヒーリング<br /> ・天あるいは地のエネルギーを一旦自分が受けて、自分の体を経由して相手に与えるヒーリング<br /> ・天あるいは地のエネルギーを相手に直接与えるヒーリング<br /> <br /> 大抵は自分のオーラを経由するヒーリングですが、自分のオーラを経由しないヒーリングですと自分のオーラが相手のオーラと混ざらないために自分のオーラが淀まないというメリットがあります。<br /> <br /> この他には、自分ではやらずに守護霊や守護天使が直接ヒーリングするというお話もありますが、それは肉体があるかないかの違いだけでさほど差がないのでここでは割愛します。<br /> <br /> 守護霊や守護天使のエネルギーを一旦受けて自分の体を経由して相手に与える場合は上記の2番目と割と近いので含めることができます。<br /> <br /> ヒーリングのテクニックとして、地のエネルギーは淀んでいることが多いために天のエネルギーを使う方が良いと思いますが、天のエネルギーを使うためにはまず自分が天に繋がる必要があります。<br /> <br /> 最初に自分が天に繋がり、その後、自分のオーラの触手のようなものをグッと天にまで伸ばして、天からヒーリングの対象(相手)、例えば自分の目の前にいる相手に対して、天から新たなエネルギー・ルートを作ってヒーリングの対象(相手)にエネルギーを繋ぎます。<br /> <br /> そうして一旦エネルギーが天から繋がったら、あとはエネルギーを降ろすだけです。最初が難しいですが、一旦繋がってしまえば維持するのはさほど難しくはありません。繋がりが切れないように時々意識でルートを保持してあげるだけです。<br /> <br /> これは人のヒーリングだけでなく、場所のヒーリングにも使えます。<br /> <br /> 場所のヒーリングに使う場合は、そこを通る人が自動的にその光の柱からヒーリングを受けることになります。<br /> <br /> 言い方を変えれば、イヤシロチ化ですね。<br /> <br /> 保持していないとそのエネルギーの柱は切れてしまうことがありますので時々メンテナンスする必要があります。<br /> <br /> 人為的に作った場合ですと数十分や長くて数時間で無くなってしまいますので、場所をイヤシロチ化する場合は維持が肝心だと思います。<br /> <br /> その手間を考えると、聖地を守ってくれてくださる方々の苦労は並々ならぬものがあるのだな、ということも理解できるわけですが、それはまたおいおい。<br /> <br /> Fri, 21 Feb 2020 00:00:00 +0900 エネルギーの枯渇に気を付ける https://w-jp.net/2020/1842/ <br /> この日常生活にはエネルギーの枯渇の危険性が沢山あります。<br /> <br /> 一般常識で「良い」とされていることでも、実のところやらない方が良いことも沢山あります。<br /> <br /> その1つが「相手への同情、同意」です。<br /> <br /> もちろん、時と場合によります。<br /> <br /> 同程度の相手あるいは自分より素晴らしいオーラをお持ちの人に同意するのは良いとしても、自分より下のオーラにいちいち同情・同意していたら落ちるところまで落ちてゆきます。<br /> <br /> エネルギーを奪うための「嘘」がこの世には蔓延っておりますから、そう言った嘘を見抜いて相手にしないことが肝要です。<br /> <br /> まあ、こんなこといいますと「それは分離の意識だ」とか「みんな本当は繋がっているのです」とかスピリチュアルなことを言い出す人が必ずいますけど、実際のところこの世界は野獣がたむろしているジャングルですから、いちいち相手に同意とか同情していたら落ちるところまで落ちてゆきます。<br /> <br /> このジャングルを生き抜くためには自分たちと意思を同じくした人たちとの間で同情・同意をして同じ船に乗ることが肝心で、誰それ構わず同意して自分を相手に合わせる必要はない筈です。<br /> <br /> そして、それこそが最終的には相手のためになります。<br /> <br /> 相手は、せっかくどん底に落ちているのに勝手に誰かが自分を助けてしまうとそのどん底を心底、骨の髄まで体験することができなくなってしまうからです。<br /> <br /> ですから、どん底に落ちている相手にはどん底を体験して貰えばいいのです。<br /> <br /> もちろん、突き落とすことはしてはなりません。相手が勝手に落ちているのですから、それは自由意志のなせる技ですからそれを「これがいいよ」とか「光の世界に上がりましょう」とかスピリチュアルなことを言って引き上げようとするのは余計なお世話というものなのです。<br /> <br /> ぶっちゃけ、この世界は、いいことも悪いことも含めて全て完璧ですから、落ちているのも趣味みたいなものなのです。<br /> <br /> 好きにすればいいのです。<br /> <br /> 光の世界も趣味みたいなものです。私は趣味で光の世界を好みますが、そうでない人もいるわけです。<br /> <br /> それなのに、光の世界がいいですよ、なんて他人にいう必要はなくて、誰かにそんなことを言っているのだとしたら、それは相手をコントロールしたいというエゴかもしれないわけです。<br /> <br /> 基本は、各人が好きに生きればいいのですから、落ちようが上ろうが好きにすればいいのです。<br /> <br /> 落ちる人は往々にして他人からエネルギーを奪おうとしますが、私はそんなのに付き合うのは趣味ではないのでエネルギーを盗まれないようにしてエネルギーの枯渇に気を付ける、という、ただそれだけのお話です。<br /> <br /> 世の中にはヒーラーさんとかいますけど、それすらも趣味みたいなものです。自分が相手のためにエネルギーを与えると決めてヒーラーになったのだとすれば、それは好きにすればいいわけです。それを誇る必要は全くないし、全ての人がヒーラーになる必要もありません。<br /> <br /> それもまた、趣味みたいなものです。<br /> <br /> 何でもして良い、自由な素晴らしいこの世界であるわけです。<br /> <br /> Thu, 20 Feb 2020 00:00:00 +0900 想念をもありのままに観察する、なんてのは上級者のお話 https://w-jp.net/2020/1841/ <br /> 少なくとも私は想念、いわゆる思いや考えが出てくるとスローモーションのヴィパッサナー状態が解除されます。<br /> <br /> よく瞑想の本に、考えや思いが出てきても妨げずにありのまま観察します、なんてことが書いてありますが、少なくとも私は無理です。<br /> <br /> おそらくはこの種のお話は二つのことが入り混じっているのかなと。<br /> <br /> ・思いや考えが出てきても否定しないでください。<br /> ・思いや考えに意識が向いていることに気が付きましょう。<br /> <br /> これは瞑想の基礎のお話です。<br /> <br /> それを「観察します」とか言われても、言葉が間違っていると私なんかは思うのです。これは、「観察」とは言わない気がします。表現の違いだけであれば、そういうことだと思います。<br /> <br /> 「観察」なんて言われると、まるでヴィパッサナー状態で考えを妨げずに観察することだなんて解釈してしまいますけど、それはかなりの上級者向けのお話だと思いますし、私の場合、完全にそのように観察するのは無理です。<br /> <br /> 意識の半分をスローモーションのヴィパッサナー状態に保ったままもう半分の意識で考えや思いを観察する、ということはできますが、その場合、スローモーションの観察で認識できる景色のコマ数が半分くらいに落ちて、カクカクな飛ばし飛ばしの映像で視界が認識されます。<br /> <br /> ですから、同じようにスローモーションで完全に認識したまま思いや考えを同時に完璧に観察することは私にはできないのですが、もしできたとしても上級者向けのお話かなという気が致します。<br /> <br /> 想念だけであればしっかり観察できますので、想念に対してヴィパッサナー瞑想している、と言えなくもありませんが、想念の場合は映像と違ってどのくらいの速さで認識しているのか分かり辛いために本当にきちんとヴィパッサナー状態でいるのかどうかなかなか判別が難しいという面もあります。<br /> <br /> 想念はいわゆる心(マインド)が認識するものですので、視界に対するスローモーションのヴィパッサナー状態では心(マインド)が停止して、その奥にある認識力(いわゆるアウェアネス)が働いて視界をスローモーションで認識しますので、そうであれば、心(マインド)が想念を観察するというのは視界に対するスローモーションのヴィパッサナーとはちょっと違うのかな、という気もしています。<br /> <br /> もしかしたら、ヴィパッサナー状態で想念を観察する際は思いや考えという論理を司る心(マインド)のような認識ではなくて、もっと根元に近いものを直感で把握するという種類の認識になるのかもしれません。このあたりはまだ仮説ですけど。<br /> <br /> ですが、割と上級者の書いたと思われる瞑想の記録には想念を観察してどうこうするというお話も書かれてあった気がしますので、そのコンテキストから言えばスローモーションのヴィパッサナーで想念(思い・考え)を観察する、というのもあるのかもしれないな、というくらいの認識で頭の片隅に置いてあります。<br /> <br /> Wed, 19 Feb 2020 00:00:00 +0900 神から離れれば離れるほど遠近感が生まれる https://w-jp.net/2020/1840/ <br /> タマスにより没入感が生まれるのと同様に、タマスになればなるほど遠近感が生まれるような気がしております。これは、ヴィパッサナーで遠近感がなくなってくるのと逆の現象で、ヴィパッサナー状態から離れれば離れるほど遠近感が生まれ、それはタマスな状態のことである、とすれば、とても理に叶っているような気が致します。<br /> <br /> 西洋文明は近年になって遠近法という手法を発見し、アジアや過去の文明を遅れた文明だと白人文明が主張したわけですが、実際のところ遠近法が上記のようなものだとすれば遠近法を発見できた白人文明とはタマスな文明でありヴィパッサナーとは遠く離れた文明であり、神とは遠い文明であるという仮定が成り立つわけです。<br /> <br /> 科学技術の発達も遠近法のような技術に根差しているわけで、タマスなことが必ずしも悪いというわけでもなく、タマスによって真実を探るということがよく行われているのだとすれば近年のタマスは神の意志であるという解釈も成り立つわけです。<br /> <br /> タマスな状態、神と離れた状態に突き放したのが近年の文明だとすれば、それでどうなるのか見極めたかったという神のご意志であるという仮説も成り立ちます。<br /> <br /> 一方、ヨガの3グナのうち他の二つ、ラジャスとサットヴァはどうかと言えば、ラジャスは遠近感が中くらいで、サットヴァなヴィパッサナー状態は遠近感が少ない状態ですが、サットヴァは物事を正しく把握するという点において遠近法とは相性がいいのかもしれません。<br /> <br /> であれば、タマスだけが遠近法を生み出したのではなくタマスとサットヴァが組み合わさって遠近法を生み出した、という仮説も成り立ちます。<br /> <br /> もしかしたら、科学技術や文明というのは両極端なタマスとサットヴァによって作られてきたのかもしれません。そんな仮説も出てきます。<br /> <br /> 一般大衆が中間のラジャスだとすれば、極端なタマスが神の意思で作り出され、それがサットヴァな神の意識と合わさることで認識が生まれ、文明や科学技術が発展する。<br /> <br /> ヨガの世界では割とタマスが悪者になりがちですが、そう考えると、タマスも意外に悪くないものだということになります。<br /> <br /> Tue, 18 Feb 2020 00:00:00 +0900 日常生活でなるべくサマーディ状態を保つ https://w-jp.net/2020/1839/ <br /> 最近は日常生活が修行になるヴィパッサナー瞑想を心がけているわけですけれども、私の言うサマーディとヴィパッサナー瞑想とは同じことです。<br /> <br /> やっていることは24時間瞑想の考え方と同じです。日常生活で思考に囚われていたら一旦脇に置いておくか素早く結論を出してからヴィパッサナー状態に戻ります。その状態をサマーディと読み替えても同じことです。スローモーションで感じるサマーディ状態をなるべく保ちます。<br /> <br /> 日によってその観察の深さが違うのを感じます。ここでいう深さとは、1秒間に何コマくらいのスムーズさで視界を認識できているのか、という点で私は判別しています。<br /> <br /> これは、以前にも動画編集の例えを出しました。24fpsや30fpsくらいの割とスムーズな映像として視界が認識されているのが基本のヴィパッサナー状態で、疲れやどんよりとして認識力が弱まっている時は8fpsや12fpsなどで視界を認識しているように思います。明らかに視界の動きの滑らかさが違いますので自分の状態が客観的に判別できるわけです。<br /> <br /> 思考をしていると目の前の景色を見ているような見ていないような状態になります。その思考に気付いて視界に意識を戻すと24fpsですとか12fpsですとかその時の状態に応じた認識の状態に戻るわけです。<br /> <br /> ですから、修行と言えるほどのものでもありませんが、思考している自分に気付いたら、それが大切なことであれば素早く結論を出して、単なる雑念であればその雑念を止めて視界の認識に戻してサマーディ状態、ヴィパッサナー状態に戻るということを最近は日々、心がけています。<br /> <br /> ですから、座った瞑想もそれなりに行いますが、むしろ、最近はこちらの日常生活のヴィパッサナー瞑想によるサマーディの方が重要な気がしてきています。<br /> <br /> どちらも必要ですが、座った瞑想を以前のように長くする必要はない感じで、日常生活のヴィパッサナー瞑想をなるべく長くするように心がけています。<br /> <br /> 基本的にヴィパッサナー瞑想とサマーディとは同じことであるわけですけれども、単に視界をスローモーションで認識している時はヴィパッサナー瞑想とは呼びますが不二の意識は働いておりませんのでサマーディと呼ぶのは不適格かもしれません。<br /> <br /> ですが、ヴィパッサナー状態を続ければすぐに不二の認識が働いてきてサマーディに導かれてゆくと思いますので同じと言ってしまってもさほど支障は無いように思います。<br /> <br /> このあたり、用語が混乱しておりますので私のコンテキストを他の流派の定義に当てはめて読むことは難しいと思います。私の考えるヴィパッサナーとサマーディに当てはめるとこんな感じ、というだけのお話です。<br /> <br /> Mon, 17 Feb 2020 00:00:00 +0900 あるお方がコロナでお亡くなりになる予感がしました https://w-jp.net/2020/1838/ <br /> Twitter等で拡散されている記事をたまたま目にした瞬間、「あ、この人コロナで死んじゃう」と頭に入ってきました。<br /> <br /> ・・・ですが、さすがに本人には言っていません。風評被害と言うものもありますし、単なる気のせいかもしれません。<br /> <br /> その記事は、コロナが逆に商売のチャンスだ... みたいなことを書いていて、こういうのをネタにするのはモラル的にどうなんだろうなぁ、と思ったらふと上の直感が湧いてきたのです。<br /> <br /> いや、死んで欲しいとは思っておりません。むしろ、人は好きに生きれば良いと思っていますから、ちょっと不道徳を感じたくらいであとは放っておくつもりでした。<br /> <br /> しかし、流石に上記のような直感が現れましたので、もしかしたら、今のコロナの被害は世間で思っているより遥かに甚大な被害を出すのかもしれません。<br /> <br /> 以前余談でちょっと書きましたが、私は東京オリンピックが開催されないと思っております。ずっとそう思っていたのですが地震も何も起きないので、予感が外れたのかなぁ... と思っておりました。まあ、外れる時もあるよね、と。<br /> <br /> 元々は東海地震と関東大震災が原因で東京オリンピックがなくなると思っておりました。まあ、まだ時間はありますからそう言うことになるのかもしれませんが、それよりも、コロナで東京オリンピック開催されないと言う事態の方が可能性が高い状況になってきたように思います。<br /> <br /> これは、私の想定外です。 まさか、このような展開になろうとは思ってもいませんでした。<br /> <br /> ・・・いや、ちょっと気が早いですね。まだ東京オリンピックは中止されてはいませんからね。<br /> <br /> これからの被害の広がりにもよるでしょうし、被害がこれから広がるとすればギリギリ開催できるかできないか、と言う瀬戸際なのではないでしょうか。かなりの被害になるとすれば中止あるいは観客なしでの開催という可能性もあるでしょうし。<br /> <br /> この想定は、今まで私の中にはありませんでした。<br /> <br /> しかし、上記の発言をした人がコロナで死んじゃうという予感が来た瞬間に、上記のような可能性も出てきました。<br /> <br /> 今回来た予感は上記の人がコロナで死んじゃう、というところだけです。東京オリンピックがどうなるのかの予感は今回ではなくて遥か昔からそう思っていたことで、上記の東京オリンピックのお話は私が頭で類推したものであって、今回東京オリンピックに関して追加の直感はありません。<br /> <br /> 死んで欲しくはないですしまだ未来のお話なので回避もできることでしょう。死なないでいてくれて直感が外れてくれた方が良いのです。<br /> <br /> どうなることやら・・・。<br /> <br /> <br /> <br /> Sun, 16 Feb 2020 00:00:00 +0900 ヨーガスートラにせよ、仏教にせよ、大切なのは疑わない心 https://w-jp.net/2020/1837/ <br /> 大切なのは不二の境地に至ることでありますから、そこに至るまでは何に頼るにせよ疑わないことが大切なのだと最近は思います。<br /> <br /> ヨーガスートラで心の死滅をうたっておりますが、その効果を疑い、サマーディを疑い、そうしてどこにたどり着くというのでしょうか。<br /> <br /> 仏教にしても、八正道などを疑わないことが大切なのだと今は思います。<br /> <br /> これらのことは文章で読むととても平素な言葉で書かれており、やもすれば、そんな簡単な当たり前のことだとしてスルーしてしまいがちになります。<br /> <br /> しかし、いわゆる悟りだとか幸せだとかいうものはその、とてつもなく当然で当たり前のところにあるのだと特に最近は思います。<br /> <br /> その根元は不二の境地というところになりますが、不二の境地とはいわゆるサマーディ(三昧)のことであり、サマーディというと超常的な何かをイメージしてしまいがちな人もおられますが、単に清浄なる心のことだと言い換えることもできます。八正道などで心を清浄にすれば物事がクリアに見えてきて、雑念なくありのままに見えるようになって、その状態を人はサマーディと呼ぶ、と、ただそれだけのことなのだと思います。<br /> <br /> もちろんサマーディと呼ぶ基準はありますし、清浄なつもりでサマーディのつもりでサマーディではないなんてこともあります。<br /> <br /> しかし、基本は、とても当たり前なところにあるわけです。<br /> <br /> 何か、特別な不思議なことをしなければ辿りつかないものではないと思うわけです。<br /> <br /> ですから、大切なものは当たり前のところにある・・・ それを疑わない心が何よりも大切なのかな、と最近は思います。<br /> <br /> その当たり前の境地は失われやすく、やもすれば単なる教訓や道徳のようなものになってしまいがちなところをいわゆる奥義としてまとめたのがヨーガスートラやウパニシャッド(ヴェーダの最後の奥義、ヴェーダンタ)、あるいは仏教の経典なのだと思います。<br /> <br /> ただ、人の性質に応じて修行方法としては様々なものがあって、好きに選択できるとは思っております。疑わなければ勝手に成長するかと言えばそうは思いませんし。ですが、基本はこの辺りかなと思うわけです。<br /> <br /> <br /> <br /> Sun, 16 Feb 2020 00:00:00 +0900 サマーディの不二の境地からシッディが副産物として現れてくる https://w-jp.net/2020/1836/ <br /> ゾクチェンの本にも似たようなことが書かれてありました。<br /> 仏教やヨーガスートラにも似たようなことが書いてあります。<br /> <br /> 今までは、ほんとにそれだけかな? 他に何か謎があるのでは? という疑念や探求心が生まれていたのですが、最近は思考が止んでヴィパッサナー状態になってスローモーションを感じたり距離感のない景色を感じたりしていますので、これが不二の境地だとしたらサマーディであり、そのまま続けていたらやがてはシッディも可能なのでは、という直感が出てきました。<br /> <br /> 昔は、同じ文章を読んでもそれがシッディに繋がる実感を持てませんでした。<br /> <br /> 特に最近は、自らの進んでいる道に疑いがなくなってきました。<br /> <br /> 今はまだシッディとかほとんどないですけど、それらの能力は特に秘密でもなくてヨーガスートラや仏教やゾクチェン書いてある内容がそのまま正しい気がしてきました。<br /> <br /> シッディは秘密でもなくて書物でも明らかに公開されているが実践は難しいので謎めいている、という種類のもののような気がしてきました。<br /> <br /> ヨーガスートラではサムヤマという謎めいた手法と共にシッディが紹介されていますが、おそらくこれを読んだだけでシッディを表すことは難しいのではないでしょうか。サムヤマとは以前謎解きをしましたけど、サマーディの応用のようなものです。<br /> <br /> そのサマーディも、ヨーガスートラの中では完全に説明されていないような気が致します。<br /> <br /> であれば、ヨーガスートラに書かれてあることはおそらく正しいとしても、ヨーガスートラだけで目的地に到達はできないのだと思います。<br /> <br /> 仏教の経典も禅定やサマーディに関しては謎に包まれています。仏教の経典を読んでシッディが現れるとは思えません。<br /> <br /> しかし、ゾクチェンはそのあたりを明らかにしており、それにより、私のサマーディに対する疑いは晴れて、いわゆる不二の意識でヴィパッサナーをするということ、それはサマーディと同じだと個人的には思うわけですが、そのサマーディの意識でヴィパッサナー状態にいることこそが私を次の段階へと導いてゆくのだと確信のようなものが生まれつつあります。<br /> <br /> 「セワ」は、チベット語で「まぜる」ことを意味している。自分の三昧の境地を、日常生活のすべての行動に溶け合わせていくのである。(中略)もちろん、そのためには三昧が確固たるものである必要がある。そうでなければ、そもそも何かと一体のものにするということ自体、無意味だ。(中略)「いささかも疑いがない」という言葉は、このことを意味している。「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」<br /> <br /> 私は人間の師匠を見つけることができずにいて(いるにはいますが)、自分の状態が本当にサマーディかどうかは自己判断にすぎませんが、そうだとしてもこの境地の先にはまだまだ続いていることがはっきりとわかりますのでサマーディでなくてもこの先を見極めてゆくだけのことです。そこに疑いはほとんどなくなってきています。その状態をサマーディと呼ぶかどうかは割とどうでも良いのです。<br /> <br /> 同書によれば、サマーディを日常生活に取り入れてゆくと次のような変化が現れると言います。<br /> <br /> 最初の能力である(中略)チェルドルは、「観察すると、それはみずからを解放する」ということを意味し、水滴が太陽の光を浴びて蒸発するのにたとえられている。(中略)ただ単に覚醒した知恵を保ち続ければいい。そうすれば、生じてくるものはすべて、そのままみずからを解放するのである。(中略)シャルドルは中間的な能力であり(中略)「生じると同時に解放する」ことを意味している。(中略)究極的な自己解脱の能力は、ランドルと呼ばれる。これは「自然にみずからを解放する」ことを意味し、(中略)これは完璧に二元論を超えた、瞬時の、瞬間的な自己解放である。主体と客体の分離は自然に崩壊し、習慣となった見方、区切られた鳥籠のような自我の罠は、存在そのもの(法性)の、空のような顕現の中に解き放たれる。(中略)対象が生じると同時に、それがみずからの空性の境地と同じく、空であることを認識するのである。(中略)すなわち主体と対象はいずれも空である、ということになる。二元論は完全に克服される。主体や対象が存在しないというわけではない。とだえることなく三昧が持続し、自己解脱の修行をつうじて、二元論に限界づけられなくなるのである。「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」<br /> <br /> そして、同書によれば、この過程で出てくる副産物がシッディである、とのことです。<br /> <br /> すなわち、二元論を克服して初めてシッディが出てくるわけです。<br /> <br /> であれば、ヨーガスートラの内容は舌立たずであるにせよサマーディとは不二の意識のことですからサマーディでシッディが出てくるのは当然だと言えますし、仏教の第四禅定にしてもそれはサマーディの不二の意識にまで高まったと仮定すればシッディが出てくるのも当然と言えます。<br /> <br /> 私の中で長らくモヤモヤしていた部分が、ゾクチェンによって明らかにされました。<br /> <br /> Sat, 15 Feb 2020 00:00:00 +0900 いつシッディが現れるか https://w-jp.net/2020/1835/ <br /> シッディとはいくつかの超常的能力、いわゆる超能力のことです。これがどのように現れるのかは宗派の間で割と似通っているように思います。<br /> <br /> 仏教では第四禅定の後に現れるとされているようです。<br /> <br /> ヨーガではサマーディ(三昧)によって現れるとされています。<br /> <br /> チベットのゾクチェンにおいてもサマーディ(三昧)によって現れるとされています。<br /> <br /> これらは割と似通っておりますが、仏教だけサマーディ(三昧)ではなく禅定という言葉を使っており、日本語ではこの禅定はサマーディの訳であることもありながら文脈によって異なる意味を持つという微妙な言葉でもあります。<br /> <br /> 三昧はサマーディの当て字ですので同じものを指します。<br /> <br /> これら、禅定だったりサマーディ(三昧)だったりするにせよ、そのような超意識とも言える状態において超能力が現れるとされています。<br /> <br /> テーラワーダ仏教に基けば第四禅定があれば悟ることができる、とされているようです。その同じ第四禅定でシッディが現れるとのことです。<br /> <br /> 先日引用した第四禅定の定義に基づきましても、どうしてそれでシッディが現れるのか謎です。<br /> <br /> これら正統派のシッディとは別に、スピリチュアルあるいはミディアムとしてのシッディもあります。<br /> <br /> スピリチュアルのうち魔女系は実はヨーガ系と系統が似ていたりして意外に正統派のやり方を踏まえていますが、ミディアムは正統派と少し異なっています。<br /> <br /> 正統系はオーラを強化して自然と能力が出てくるようにしますが、ミディアムや先住民族のやり方は自分のオーラを逆に不安定にさせてその不安定にさせた部分に先祖などの霊を呼び込んで自分の体や口を動かしてもらったりインスピレーションを伝えてもらうという手法を取ります。<br /> <br /> 私はそれらのミディアム手法にはあまり興味がなくて、ヨーガ系の正統派の手法にのみ興味があります。<br /> <br /> ただ、一般的には魔女とか魔法とかいうとミディアム系の手法をイメージする方が多いかもしれませんが、確かに能力はその方が手っ取り早く現れますけど自分の制御下にありませんので協力してくれる霊の気分次第になり、自分のオーラは不安定にさせておかなくてはならないために悪意のある霊にいたずらされると非常に危険なことになります。<br /> <br /> まあ、こう言ってもやる人はやるのでしょうから好きにすればいいのです。<br /> <br /> 何十回という転生の成長を一気に無に帰するような事故・事件が一瞬にして起こることもありますから、そのような秘術は易々と行わないのが良いと思うのですが。<br /> <br /> 一方で、サマーディを基礎とした自分の能力であればそれほど危険性はないと思います。過去生の記憶を辿ってみてもその筈です。このあたりはおいおい確認できればと思っております。<br /> <br /> Fri, 14 Feb 2020 00:00:00 +0900 テーラワーダ仏教における禅定とサマーディの関係 https://w-jp.net/2020/1834/ <br /> テーラワーダ仏教では、第二禅定からサマーディ(三昧)と呼ぶようです。<br /> <br /> 仏教やスピリチュアルの書物などで禅定がサマーディの訳になっていたりして混乱することもあり、個人的には禅定はサマーディではないという理解だったのですが、どうやらテーラワーダ仏教は上記のような解釈をしているようです。<br /> <br /> 第二に達したならば、(中略)このときはサマーディ(三昧)と言います。「瞑想経典編(アルボムッレ・スマナサーラ 著)」<br /> <br /> テーラワーダ仏教に基づく禅定の四つの段階を簡単に羅列してみます。<br /> <br /> ・第一禅定<br />  欲・怒り・眠気・浮つきと後悔・疑いという五つの蓋が外れ、心がものすごく冴えて集中する。(中略)心だけの純粋な喜悦感と幸福感があります。「悟りの階梯(藤本 晃 著) 」<br /> <br /> ・第二禅定(サマーディ)<br />  思考も消えているので集中力はますます上達しています。「瞑想経典編(アルボムッレ・スマナサーラ 著)」<br />  「心を集中する」という自分の努力を突き抜けて、集中は持続したまま、自然に「心が統一された」本当の意味での禅定状態が生まれます。「悟りの階梯(藤本 晃 著) 」<br /> <br /> ・第三禅定<br />  「喜び」という波動もなくなって「楽」だけ感じるようになります。「瞑想経典編(アルボムッレ・スマナサーラ 著)」<br />  喜悦感から離れて平安(捨)な心になります。「悟りの階梯(藤本 晃 著) 」<br /> <br /> ・第四禅定<br />  楽という波動も消えて「平安」とも言える感覚のみが残るのです。集中力は禅定の順番に従って強くなります。「瞑想経典編(アルボムッレ・スマナサーラ 著)」<br />  最後に残った幸福感さえもなくします。(中略)心は不苦不楽の本当に清らかな平安(捨)の状態になるのです。「悟りの階梯(藤本 晃 著) 」<br /> <br /> <br /> サマーディという言葉の定義が私と異なっていますが、まあ、テーラワーダ仏教のこの部分は把握しておりませんでしたので仕方がないですね。<br /> <br /> 個人的には仏教のサマーディの捉え方はどうもピンときません。私はヨーガ系の定義を基本にして個人的な解釈を加えています。<br /> <br /> 以前にサマーディという言葉の2つの意味について書いた内容はテーラワーダ仏教の定義ではなく個人的な解釈に基づいておりますので、読み手にちょっと混乱があるかもしれませんね。<br /> <br /> まあ、そもそもヴィパッサナー系の流派によってはサマーディをあまり重視していない感じですので、ヴィパッサナーとサマーディが同一だと思っている私とはそもそも解釈が違うので仕方がないと言えばそうなのですが。<br /> <br /> Thu, 13 Feb 2020 00:00:00 +0900 女性はすべからくして悟っている https://w-jp.net/2020/1833/ <br /> 女はみんな悟っていると男は思いたいものである。実に女は賢く、いわゆるヴィパッサナーの観察力に長けており、思慮も深いものである・・・ と男は思いたい。実際に私の知っている女はそういう女が多い。そんな女ばかり知っていると、女がみんな悟っていると言われるとそうだ、と思ってしまう。そうなると、悟っていない女は本当にどれだけいるものなのだろうかと思ってしまうし、であれば、悟っていない女は大した女ではないのではないかと思ってしまったりする。<br /> <br /> 私の勝手な偏見かもしれないが、9割の女は悟っているのではないだろうか、と思ってしまう。<br /> <br /> いやいや、そうではない・・・ と女性の諸君から反論が出そうな気もするが、私の周りには悟っているような気がする女性ばかりである。<br /> <br /> これは、以前私がアナハタ優勢になった以降に万人が悟っているように感じるようになったことと似ていて、私がそう感じるだけかもしれませんけど。 と言いますのも、そんな女性にも悩みがあるようですので。<br /> <br /> まあ、きっと偏見なのでしょう。<br /> <br /> 女性の悟り方は男性とちょっと違っているとは思っています。<br /> <br /> まず、生まれながらにして悟っていて、生涯それが続く場合が多いと思います。この場合にしても、私の過去生の記憶やパラレルワールドを垣間見た事柄に基けば、生まれてからクンダリーニの開通はそれぞれの人生で行わなくてはならないようなので悟っているとは言ってもエネルギー的なパワーアップおよび神秘的能力の開花のためには生まれてからの努力がある程度は必要なようですが、そうは言いましても、基本的なところで女性は生まれながらにして悟っていると思うわけです。<br /> <br /> 思うに、女性が悟りの状態から落ちてしまうのは家庭や生まれた環境によるものが多いのかなと思います。家庭や環境がしっかりしていれば女性はすべからくして悟っており、それが生涯続くものなのかなと。<br /> <br /> エネルギー的な開花はヨーガのような手法でクンダリーニ覚醒するだけではく、女性の場合は激しく男性に愛されて信頼される、という手法があると思います。<br /> <br /> 恋人や結婚相手が女性である自分自身を深く信頼して愛して夜な夜な何度も求められるような状態が続けば自然とクンダリーニ開通してエネルギー的なパワーアップが起こります。これは、男性的なヨーガでクンダリーニ覚醒するよりも遥かに簡単な方法です。結果は割と同じですが女性はもともとエネルギーが高い状態で生まれますのでますますパワーアップします。この方法は女性特有だと思います。男性が女性に注ぐエネルギーがクンダリーニ開通をするわけです。これは必ずしも男性のアレがおっきくないといけないわけではなく、女性がどれだけ男性から深く愛されるか、という点と、女性がいかに深く男性を信頼できるか、という点にかかっています。そうして女性が男性から愛され続ければ自然とクンダリーニが覚醒するのですから、世の中の女性がパワフルなのも当然ともいえます。本人たちはそれがクンダリーニ だとは思っていないでしょうけど、同じことです。<br /> <br /> ですから、女性は割とすべからくして生まれながらに悟っていて、さらには、すべからくしてクンダリーニ覚醒するわけです。<br /> <br /> そもそも「悟り」が何なのかの共通理解がないために女性が自分自身のことを悟っていないような気がしているだけで、実は悟っているということも多いと思います。<br /> <br /> 幸せそうに悩みもない人生であればそれは悟っているということです。<br /> <br /> まあ、実際のところ悟りとは何か色々と基準がありますけど、そういう基準ってのは男性向けの基準ですので、女性はそんなこと考えなくても最初から悟っているから心配いらないし考えなくてもいいのです(苦笑)<br /> <br /> 苦労してヨーガとかで覚醒しなければいけないのは男性です。男性って大変ですね(苦笑)<br /> <br /> 女性もヨーガでクンダリーニ覚醒できますけど、普通に男性に深く愛される方が簡単だと思います。<br /> <br /> 女性は小さい頃から意識がしっかりありますし最初からヴィパッサナー状態で物事が深く観察できますし、それってぶっちゃけ、女性の方が頭がいい、ってことです。<br /> <br /> 大きな悟りと小さな悟りと、エネルギー的なクンダリーニ覚醒もある状態など、悟りにはいくつかの段階がありますが、少なくとも小さな悟りを基準にすれば悟っていない女性はあまり見ませんし、悟っていない女性ってどんな女性なのか想像がつきません。そんな人っているのですかね? というくらいです。<br /> <br /> 先日もちょっと書きましたけど、男性の役目はタマスに落ち込んで謎を解くことだと最近気付きました。であれば女性はサットヴァに自分自身を保って男性をタマスからサットヴァに引き上げる役割があるのではないか、かつてはそういう役割分担があったのではないか、という気がしてきています。<br /> <br /> しかし、昨今、この男女の役割分担が崩れてきて、それゆえに男女の姿も変わってきているような気がしてきています。<br /> <br /> 女性は最初から悟っていてクンダリーニ覚醒も容易だが、タマスに落ち込んで謎を解くのは苦手。<br /> <br /> 男性は悟っていなくてクンダリーニ覚醒も難しいが、タマスに落ち込んで謎を解くのは得意。更には、謎を解く時は直接的な理解ができるので女性にはわからない部分まで深く理解できる。<br /> <br /> 神様が男性と女性を分けたことにスピリチュアルな理由があるのだとすれば、まさにこの部分なのかなと思います。<br /> <br /> 何故なら、世の中が全て悟りだけで良いのであれば男性という形態は不要なのではないかと思うからです。この世界には無駄なものはなくて良いことも悪いことも含めて全て完璧であると私は思っていますので、タマスなどんよりとした状態にも意味があると思っています。であればタマスに落ち込むことでどんよりとさせて、まるで化学の実験で砂やゼリー状の液に試験対象の液体を染み込ませて変化を観察する、というような役割がタマスにはあるのではないかと仮説を立てています。<br /> <br /> 私の魂の家系図を辿ると、男性のラインと女性のラインがそれぞれいくつか分かれていて、女性のラインの方の意識を辿ると、やっぱり男性のタマスの部分を謎に感じていたり、タマスの部分に恐怖心や悪を感じたりしていたようです。ですから、もともと悟っている状態の女性から見ると男性のタマスが謎で悪で恐怖を感じるのは当然なのかなと思います。<br /> <br /> そのような恐怖心が女性を悟りから遠ざけるという仮説もなくはない。<br /> <br /> しかし、やはりそれでも女性は悟っていると個人的には思うのです。<br /> <br /> 悟っているが故に他人のつまらない悩みが分からなくて相手を傷つけてしまう、というのもあるかもしれない。それでも、女性はやはり悟っていると思うのです。<br /> <br /> Thu, 13 Feb 2020 00:00:00 +0900 タマスにより没入感が生まれる https://w-jp.net/2020/1832/ <br /> ヴィパッサナーが客観だとすれば、非ヴィパッサナー、特にタマスなどんよりとした感覚は主観であり、更に言えば没入感を生み出すような気がしてまいりました。<br /> <br /> 没入感により物事にのめり込む姿と、割と現実的な客観視のヴィパッサナーは男と女に例えられるかもしれません。<br /> <br /> タマスのどんよりとした感覚はヨガの世界ではタマス→ラジャス→サットヴァという順番で成長するモデルとして説明されており、タマスはどんよりとした感覚、ラジャスは活動感、サットヴァは清浄感ですのでタマスからラジャス、そしてサットヴァという順番で成長するのは理に叶っていてわかりやすいですが、神様がいるとすればむしろタマスを計画されたのではないか、という気がしております。<br /> <br /> タマスにより物事をどんよりとさせ、ゆっくりとさせ、没入感を作り、物事をゆっくりと観察できるようにすること。それこそが神様の計画だったのでは... という気が何となくしてきております。<br /> <br /> 特にその証拠もないですし根拠もないですし、そんな気がするというだけのお話ですが。<br /> <br /> であれば、ヨガの世界で避けるべきと思われているタマスこそが真実をゆっくりどんよりにさせてきちんと状態を見極めることができる、最上の状態なのかもしれません。<br /> <br /> タマスの状態は無知で奈落の底に落ち込んでいる状態ではありますが、この世界に神様のような人がいたとすれば、そうして人間をタマスな状態に落ち込ませてどんよりとゆっくりとした状態にさせることでじっくりと観察できるのでは... という気がしてきています。<br /> <br /> そうして、理解が済んだらタマスの状態でいる必要はないのでサットヴァな清浄な状態に戻るわけです。<br /> <br /> であれば、ずっとサットヴァが続いている人は「理解」に至らないのでは? という仮説が成り立ちます。おそらくはそういうことなのかもしれません。<br /> <br /> 人間はサットヴァな清浄な状態を求めますが実際はそれは何もわからないかあるいは理解の後の状態なのでしょう。理解をするためにはサットヴァではなくタマスに落ち込んで観察する必要があるのではないかと思います。<br /> <br /> 化学実験や物理実験あるいはコンピュータのテストでも、素早い動きをしていると何が起こっているのかわからない一方で、砂のようなものに液体を染み込ませたり触媒を使ったりコンピュータのステップ実行をさせるなりしてゆっくりにさせてから内部を理解するのではないかと思います。<br /> <br /> その仮定が正しいとしたら、男はタマスに落ち込んで真実を探るのが目的で、女はその男が戻ってこられるように命綱としてサットヴァを保つのが目的なのではないか、という新たな仮説が出てきます。<br /> <br /> であれば、女が覚めていて現実的でサットヴァでいつも楽しく暮らしている、という姿は1人でそのように暮らすのであれば神様の役には立っていないのかもしれません。誰かの命綱として役立つのが女で、男は谷の底に降りて行って探検してくる役割なのでしょう。<br /> <br /> おそらくは少し前まではきちんと役割分担が機能していたのでしょう。そんな気が致します。<br /> <br /> 今や未来の生き方は置いておいて、少なくとも過去の男と女の姿はこのように分類・解釈することもできそうです。<br /> <br /> 勘違いしやすいかもしれませんが、よく観察できる、と言っているのは神様にとってのお話です。タマスですと本人はどんよりとしていて何も見えませんし、サットヴァだと本人は清浄で心地が良くて平和です。ですが、神様はその両方を超越しておりますから、神様にしてみたらむしろタマスの方が興味深いのでは、というお話です。<br /> <br /> まあ、私が勝手にそう思っているだけですけどね。あくまでも仮説です。<br /> <br /> Wed, 12 Feb 2020 00:00:00 +0900 朝起きたら、体が溶けたようになっていた https://w-jp.net/2020/1831/ <br /> 手で触ってみたら体はきちんとありましたが、意識で体を探ってみても感触がない感じです。<br /> <br /> 瞑想の本などでよく「体の感覚がなくなります」と書いてあって「ふむふむ」と読んでいて、それはきっと瞑想中に体の感覚がなくなる、あれのことかなあ、と割と読み流していたのですが、今朝の感覚と比べるとちょっと透明感と言いますか本当に「何もない」感覚が微妙ですが確実に違いました。<br /> <br /> これはどういうことかな・・・ と思っていましたら、おそらくは、最近はヴィパッサナーで気付きながら体の緊張をリセットし続けているので体の緊張がかなり抜けてきているのかな、というのが1点。<br /> <br /> もう1点は、意識の広がり。今までは割と自分を中心とした体の周囲に意識があったように思いますが、今は、もうちょっと末広がりと言いますか、銀河系のように自分を中心として楕円形に末広がりの意識が広がっているような気が致します。寝ている自分を中心として意識が横方向にペタッと溶けたように広がっているようです。<br /> <br /> 起きてみましたらいつもの朝起きたときの体の硬い感覚はありましたので、完全に体が柔らかくなったわけでもなさそうです。ですので、これは主に意識の問題かなと。<br /> <br /> もともと体の各所が意識の緊張により硬くなっていて、最初に意識がリセットされて意識の緊張がリセットされてから体の緊張が少しづつ取れ、そのサイクルが進むうちに次第と意識が広がってきたのかな、と解釈しております。<br /> <br /> 瞑想などで「体の感覚がなくなる」と言われていたことが実際はこのくらいの状態を指していたのだとすると今まではまだその状態になかった、ということなのかもしれません。本当に体がスカスカな感じです。皮膚の感触はまだあるので体があることはわかるのですが、体の中の意識がスカスカになってきています。<br /> <br /> 内なるガイドが示唆するには、これはあまり言葉で言い表せない状態ですので味わいましょう、とのことです。<br /> <br /> Wed, 12 Feb 2020 00:00:00 +0900 空間と時間の認識 https://w-jp.net/2020/1830/ <br /> 空間の認識と時間の認識は割と似通っていることに気が付きました。<br /> 最近はヴィパッサナー状態で遠近感がなくなってきているわけですけれども、遠近感によって空間として認識するためには2つの画像を見比べてその差が空間として認識されると思うわけです。<br /> <br /> 一般的には空間に関しては2つの目が異なる視点で見ることで遠近感を生み出すと言われているように思いますし、以前は私もそうでしたが最近のヴィパッサナー状態では両目で見るのと単眼で見るのと対して差がないような平面を見るような感じになってきています。ちなみに、きちんと視力は1以上どちらもあります。<br /> <br /> ヴィパッサナー状態では両目による空間認識能力があまりないようです。ですから、距離感も少しおかしくなって衝突に気を付けなくてはなりませんが、まあ、そこはそんなに問題にはなっていません。<br /> <br /> 思うに、両目の差で空間を認識していると言うのは正しいような正しくないようなお話で、それだけでは不十分で、認識可能な1コマ前の画像と頭の中で見比べることで空間を認識しているのではないかなと思うわけです。<br /> <br /> ヴィパッサナー以前の状態ですと1秒の間に数コマの認識でしたので1コマ前との画像の違いがそれなりにあり、その差の大きさによって頭が処理して空間を認識していたように思います。今はスローモーションのように細かく認識されますので1コマ前の画像との違いがあまりなく、それ故に空間として認識されにくいのではないかと思っております。<br /> <br /> これは空間の認識のお話ですが、時間についてもそうかなと言う気が致します。<br /> <br /> 人は本来、時間を認識しないのではないでしょうか?<br /> <br /> 空間も実際は空間そのものを認識せずに1コマ前との画像との違いを頭で処理して認識しているのと同様、時間も実際は時間そのものを認識せずに少し前との画像(や感覚)との違いを頭で処理して時間を認識しているのではないでしょうか?<br /> <br /> であれば、空間も時間も実は幻のようなものではないか... という気もしてきます。<br /> <br /> 実際、物理学者やスピリチュアルではこの種の話題はよく出てきますし、空間も時間もそのものずばりを認識することはできないのではないかという気が致します。空間も時間も、そこにあるような気がしているだけ、ということであればすっきりします。まあ、おそらくはそうなのでしょう。<br /> <br /> 数十年前からこの種の話題はよく聞きますが、ヴィパッサナー状態になって初めてその意味を別の視点から理解できた気が致します。今までは、わかるような分からないような... というお話でした。<br /> <br /> ヴィパッサナー状態でスロモーションの認識になれば視界を識別できるコマ数が増え、それにより1コマ前との差分が小さくなって空間が次第に消え去り、時間も消え去り、ということなのかな... という気が致します。<br /> <br /> と同時に、視界が平面で距離感がなくなり自分と他人の区別がよく分からなくなり、一歩引いた視点になって、あたかもテレビかモニタを眺めている気がしてきて、見える画面の本質が全て同一であるような気もしてきて、であれば自分も他人も他のものも実体としては同じあるいは両方とも幻のようなもののような気がしてきて、自分と他人を区別している空間というものも消え去り、認識は常にその瞬間瞬間で連続して起こっているので過去とか未来を認識せずに常に今だけの認識になります。<br /> <br /> 頭で考えることで過去が生まれ、頭で考えることで未来が生まれます。空間も頭で考えることで生まれます。<br /> <br /> これは、過去や未来や空間が消え去ってしまうとか全く存在しないと言っているわけではなく、本質が上記のようなものであることがわかる、ということです。物理法則を否定しているわけではありません。<br /> <br /> ・・・空間や時間の本質がそうなのであれば、ちょっと工夫すれば空間を飛び越して認識したり、時間を超えて認識できるのでは... という気がしてきています。<br /> <br /> そんな気がするということはきっとできるということでしょう。これからの趣味の探究の領域はその辺りになりそうです。<br /> <br /> Tue, 11 Feb 2020 00:00:00 +0900 次元が上がると言うよりは次元が下がって消え去る https://w-jp.net/2020/1829/ <br /> 世間では次元上昇とかアセンションとか何とか言われていますけど、スローモーションのヴィパッサナー状態で観察したところによりますと、次元が3次元から4次元や5次元に上がるのではなくて2次元になって1次元になって次元が消滅する、と言う方が実態に近いような気が致します。表現の違いかもしれませんけど。<br /> <br /> 次元が3次元から4次元になると言うのはこの「奥行き」のある空間がそのまま保持されてそれに時間が加わって、更に5次元になるとパラレルワールドとか何とか表現されたり6次元になるとどうなのかよくわかりませんけど、どちらにせよ、それらの次元が増えるにしても3次元という奥行きのある遠近感のあるワールドは保持されているということなのかなと思います。<br /> <br /> そういうことであれば、私の感覚はそれとは逆で、今生きている場所が4次元で奥行きも時間も感じられる世界だとすれば、時間というものはパラレルに存在しているとも言えるし全ての時間が同時に存在しているとも言えるし、まやかしみたいなものですので時間がまず消え去ります。<br /> <br /> 遠近感に関してはヴィパッサナー状態で消え去り、2次元になります。<br /> <br /> 2次元のヴィパッサナー状態を続けていると意識が広がって空間の距離感もよく分からなくなり、それは1次元とも0次元とも言えるような、全体が同時に満遍なく存在していて、それでいて、位置を特定しようとしてもよく分からなくて、ここかもしれないけれどもその「ここ」とはあっちの「あそこ」と同じであるような同じでないような、距離感のない不思議な感覚になります。それが1次元です。それを比喩して0次元と言えるかもしれませんけど、まあ、とりあえずは1次元としておきます。<br /> <br /> そんな感じで次元が減少してゆき、世界が1次元の点とも言えるし面とも言えるし時空とも言えるよく分からないところに収束というか広がりというかよく分からない状態になって全体が満遍なく存在していることを実感するわけです。<br /> <br /> であれば、世間でよく言われている次元上昇とかそんなのは、見方によってはあるのかもしれないですけど、あるとしても今の世の中の延長線上のまやかしで、そういう次元上昇があるような気がするだけで、実際の世の中は次元数が1(あるいはゼロ)という世界が本当なのかなあ、という気が致します。<br /> <br /> まあ、こんなこと言っても大して理解されないと思いますけど。<br /> <br /> 世間一般では次元上昇だとかアセンションだとか盛り上がったりしていますけど、個人的に確かにレムリア時代の記憶を呼び起こしますとみんなと一緒にあれれと言う間にアセンションしたことが確かに過去にあったような気がしますけど、それでも、やはり本当の真実はこの1次元(あるいはゼロ次元)というところなのかなあ、と言う気が致します。<br /> <br /> Mon, 10 Feb 2020 00:00:00 +0900 ヴィパッサナー瞑想と思考の停止 https://w-jp.net/2020/1828/ <br /> 最近しばらくヴィパッサナー瞑想と思考の停止と体や息の観察について書いてきたわけですけれども、もう少しまとめたいと思います。<br /> <br /> 瞑想の段階としてはゾクチェンの段階を引用します。<br /> <br /> 1.ゾクチェンのシネーの境地に至る以前の状態<br />  私はこの状態はヴィパッサナー瞑想とは呼びたくありませんが流派によってはこれもヴィパッサナー瞑想と呼んでいます。<br />  個人的にはこれはサマタ瞑想です。<br /> <br /> 2.ゾクチェンのシネーの境地<br />  同様に、これは私はヴィパッサナー瞑想とは呼びたくはありませんがこれも流派によってはヴィパッサナー瞑想です。<br />  これも個人的にはサマタ瞑想です。<br /> <br /> 3.ゾクチェンのテクチュの境地<br />  個人的にはこれだけがヴィパッサナー瞑想です。<br /> <br /> その上で、世間一般でどのように呼ばれているのかを追記します。<br /> <br /> 1.ゾクチェンのシネーの境地に至る以前の状態<br />  日本で有名なゴエンカ式は最初からヴィパッサナー瞑想と呼んで体の観察や思考の観察を行う。最初の数日にサマタ瞑想を行うものの、軽視されている。<br />  テーラワーダ仏教は思考の停止を行う。テーラワーダ仏教はそれをヴィパッサナー瞑想と呼びますが、集中瞑想であるので実際はサマタ瞑想相当と個人的には解釈します。<br />  サマタ瞑想では集中して思考の停止を行います。ヨーガスートラ形式。<br /> <br /> 2.ゾクチェンのシネーの境地<br />  おそらくゴエンカ式では辿り着くのが困難。ゴエンカ式はシネーの境地を通び越してテクチュの境地を目指し、テクチュの境地のヴィパッサナー状態の真似事をしている。瞑想で体の感覚の観察をしてしまうので五感が敏感になってキレやすくなってしまう効果がある。実際のシネーの境地は逆に五感を抑える必要があるので、全く逆のことをしているのでシネーの境地にはたどり着かない。<br />  テーラワーダ仏教は辿り着くと思います。ヴィパッサナー瞑想と唄っていますが実際はサマタ瞑想相当でありますので。テーラワーダ仏教はサマタ瞑想だと分かっていてあえてヴィパッサナー瞑想と言っている節があると個人的には思います。そうは言いましても、説明が紛らわしいのでゴエンカ式と同じ危険性はあると思います。<br />  サマタ瞑想の集中によりシネーの境地に辿り着きます。個人的には、最初はサマタ瞑想で五感を抑えるのが一番スマートかなと思います。<br /> <br /> 3.ゾクチェンのテクチュの境地<br />  シネーの境地を続けているとテクチュの境地に導かれます。ただし、ただ単にサマタ瞑想をしているだけではこの境地の存在に気付かない可能性があります。シネーの境地が最終的な悟りだと勘違いする可能性があります。<br />  テーラワーダ仏教方式であれば集中が目的地ではありませんので自然とテクチュの境地に向かって鍛錬は続けられると思います。<br />  ゴエンカ式は最終的なテクチュの境地であるヴィパッサナー瞑想を真似て瞑想に入りますが、シネーの境地を経ずにテクチュの境地を目指すことで達成が困難になるばかりか、五感が敏感になりすぎて精神的に破綻をきたす可能性が高いと思われます。<br /> <br /> <br /> このあたりを調べていますと、ヴィパッサナーをしている流派の中ではテーラワーダ仏教が正しい理解をしていることに気が付きました。ヴィパッサナー瞑想やマインドフルネスの本やセミナーは沢山ありますが、このあたりのシネーの境地とテクチュの境地について正しく理解しているところは稀だと思います。例えば以下の書籍です。<br /> <br /> ヴィパッサナー瞑想によって私たちのなすべきことは、思考、妄想をストップさせることだけなのです。つまり、考えないようにするのです。(中略)やり方は「今の瞬間」に自分が何をやっているのかということを「実況中継」するのです。実況中継を始めると、思考できなくなってしまうのです。妄想したくてもできなくなる、そういう簡単な方法なのです。「自分を変える気づきの瞑想法(アルボムッレ・スマナサーラ著)」<br /> <br /> これは、実はヴィパッサナー瞑想という言葉の意味からしたら違っていて、この説明は実際はサマタ瞑想(集中瞑想)のものなのです。ですから、テーラワーダ仏教は分かっていてあえてサマタ瞑想をヴィパッサナー瞑想と呼んでいるのかな、と個人的には思うわけです。一方、ゴエンカ式では思考の停止であるところのシネーの境地に至る段階が丸ごと抜け落ちているのです。<br /> <br /> このあたりが、瞑想に理解の深いテーラワーダ仏教と元々はビジネスマンで瞑想を始めたゴエンカ氏との見識の深さの違いということだと思います。<br /> <br /> 別にゴエンカ式を貶めようとかそういうことはなく、シネーの境地に至っている人あるいはそれに近い人がゴエンカ式をやればそれなりに効果が出るかと思います。ですが、実際にはシネーの境地に全然遠い人が瞑想している状況ですから、精神的に破綻をきたす人が続出していたり、長い瞑想をしている間に不思議な感覚が出て特別視したり自分の「挑戦」にプライドを持ってしまって瞑想がエゴを拡大するという逆効果になったり、怒りの沸点が下がってキレやすくなる、という人がそれなりに出てきているのだと思います。<br /> <br /> ですから、私はゴエンカ式は全くお勧めしません。場として利用するのはありですから、シネーの境地に至った後に受けるのはアリかもしれませんが、基本的にはお勧めしません。と言いますのも、他の瞑想をしている人は拒否するという方針らしいですので。ヨガ瞑想をしていてこっそり受けている人の噂はよく耳にします。<br /> <br /> ヴィパッサナー瞑想は本来の意味においてはシネーの境地の後に現れるものだ、というのが私の理解で、それ以前の瞑想をヴィパッサナー瞑想と呼ぶかどうかは流派の方針次第でありますが実態はサマタ瞑想をするべき段階だと思うわけです。そのサマタ瞑想をしっかり指導している流派が良いかと思うわけですが、瞑想について深い理解のある筈のテーラワーダ仏教はサマタ瞑想の段階にヴィパッサナー瞑想と名付けてしまっているので混乱がありますし、もっと直接的にサマタ瞑想をすれば良いのではないかとも思うのですが、そこは私の口を出すところではありません。ゴエンカ式はシネーの境地を飛ばしてテクチュの境地を目指していますので問題外です。<br /> <br /> ですので、個人的にはシネーの境地に至るまではヨガ等で集中の瞑想であるところのサマタ瞑想をして、それからヴィパッサナー瞑想をするのが良いかなと思います。<br /> <br /> よくあるサマタ瞑想への批判として思考を停止させても悟れないというお話がありますが、サマタ瞑想をしていてもシネーの境地に到れば終わりではなく、続きがあることさえ知っていればヴィパッサナー瞑想に移行するだけのお話ですから、それぞれの段階で都合の良いやり方をすれば良いと思うわけです。最初はサマタ瞑想の方が成長が早いことは明らかだと思いますから、最初はサマタ瞑想をすれば良いと思うわけです。<br /> <br /> ヴィパッサナー瞑想をしている東南アジアの各種の仏教の流派も、どうやら最初はサマタ瞑想を集中的にする流派もあるようです。ゴエンカ式も最初の数日にサマタ瞑想を一応しますけど軽視している印象で、個人的には、ほとんどの人は10日間の間、最初から最後までサマタ瞑想で十分だと思いました。そんなもんです。本当のヴィパッサナー瞑想なんてそうそうできないと思います。であれば何年間も、人によっては死ぬまでサマタ瞑想で十分なわけで... であればヴィパッサナー瞑想なんて持ち出す必要はないのかな、なんて思ったりします。<br /> <br /> こんな感じでヴィパッサナー瞑想の考察を書いてみてもほとんどの人にとっては「何のこっちゃ?」という感じかなとも思います。<br /> であればテーラワーダ仏教みたいに実態はサマタ瞑想でもヴィパッサナーと言うのも流派としてはアリかもしれない、と言う理解です。<br /> <br /> Sun, 09 Feb 2020 00:00:00 +0900 異空間の虹色の枠 https://w-jp.net/2020/1827/ <br /> 瞑想中、ここ最近数回ほど異空間のような虹色の枠が視界に現れてきています。実物はもっと虹色が鮮やかで滑らかですけど。<br /> <br /> 最近はスローモーションのヴィパッサナー状態で遠近感がなくなってきているわけですけれども、そうして視界をまるでテレビやディスプレイの画面のように平らなものとして観察していると、時々視界の一部に異空間のような虹色の枠が出てきていることに気が付きました。<br /> <br /> 以前からあって気がついていなかったのか、あるいは、最近になって現れるようになったのかは不明です。<br /> <br /> 最初は確か右目の少し上、2回目は左目の少し中央寄りだったかと思います。<br /> <br /> モヤモヤっとした虹色のやや横長の楕円あるいは長方形が現れて、まるで、視界のディスプレイの一部の調子が悪くなって意図した画像を写せていないかのような感じになってきています。<br /> <br /> その虹色のモヤモヤの先はまだ雲のようなものしか見えず、何があるのかはわかりません。<br /> <br /> 何となく直感でその先は異空間かな... という気がしてきています。<br /> <br /> あるいは、逆に今の世界が異空間のまやかしの世界で虹色のモヤモヤの先こそが本当の世界なのかもしれませんが。<br /> <br /> まあ、今後どうなるのか、更に観察を進めてゆきます。<br /> <br /> Sat, 08 Feb 2020 00:00:00 +0900 ヴィパッサナーで遠近感がなくなってくる https://w-jp.net/2020/1826/ <br /> 私は割と目の良い方ですけど、スローモーションのヴィパッサナー状態になってくると視界に遠近感がなくなっていることに気がつきました。<br /> <br /> 自転車などを運転しているとすれ違う際の距離感がうまく掴めなくて割と危険です... 今は何となくすれ違っていますけど、自動車や自転車の運転でよくぶつける人の気持ちが分かったような気が致します。<br /> <br /> 視界がテレビやパソコンの画面のように平べったいもののように感じられて、世界が3次元かどうかすらよくわからなくなってきます。<br /> <br /> 地球を宇宙から眺める映像を見ても、本当に地球が球状なのか実感が湧きません。以前は当たり前だと思っていたのですが。<br /> <br /> ひょっとして、中世で地球が平面だと思っていた人はこのような視界の遠近感のない人たちだったりしたのでしょうか? 絵にしても昔は遠近感がなかったと言いますし。 最近はヴィパッサナー状態が失われてしまったが故に遠近感が認識されるようになった、という仮説も成り立ちます。<br /> <br /> 遠近感はどうしてなくなってしまったのだろう... と思いつつ視界を更に観察してみたのですが、おそらく次のようなことではないかなと。<br /> <br /> 以前は1秒に3回くらい映像認識されてパラパラアニメのように映像が切り替わっていましたが、そのくらいですと切り替わりの際に差がかなりありますので、ビフォー(前)・アフター(後)の違いがそれなりにあって、左右の目の視界の差によって遠近感が認識されたのかなと思います。<br /> <br /> 今はヴィパッサナー状態で1秒間のうちにもっと細かくスローモーションのように映像が認識されますのでビフォー(前)・アフター(後)の違いがそれほどなく、割と似たような映像が続いて連続して認識されますので遠近感をさほど感じないのかな、と理解しました。<br /> <br /> あるいは、以前ちょっと書きましたがサードアイ(あるいはフォースアイ)と呼ばれているものは単眼だったと思いますのでそれが原因で遠近感がなくなってきたのかなと最初は思ったりもしましたが、それよりも、上記に書いたことが理由な気が今はしています。<br /> <br /> 例えば道の遠くを眺めたとき、以前でしたら道の遠くにあるものが遠近感と共に直感的に遠くだと感じられたのですが、今はただの景色として平べったい映像として認識されており、手を伸ばせばすぐに手が届きそうな気がしています。もちろん届かないことは頭では分かっているので試したりはしませんけど、視界だけを見ると世界が平たく感じられて遠近感が失われています。<br /> <br /> この状態ですと、実体が本当に目の前にあるのかどうかもよくわかりません。<br /> <br /> たまに理論で聞かれるように、どこか遠くに実体があって目に見えているのはただの映像あるいはホログラムなのかもしれない、というお話もあながち嘘ではないかもしれない気がしてきています。<br /> <br /> まあ、おそらくは遠くにあるというよりもほとんど同じ位置だけれどもちょっとだけズレたところにある、というくらいかな、という気もします。<br /> <br /> どちらにせよ確かなことは遠近感がなくなってきているということで、そうなってくると、自然と自分と他人との区別もよく分からなくなってきています。全部が映像で平ら、あるいはホログラムならば自分も相手も大して差がない、と言いますか、どちらも映像でしかない、あるいは、どちらもホログラムでしかない... となると、「自分」という存在が消えてしまいます。<br /> <br /> まあ、とりあえず今のところの認識はそんなところです。これが良いとも悪いとも判断する必要がなくて、ひとまずは、今の状態を更に進めてみることにします。<br /> <br /> Fri, 07 Feb 2020 00:00:00 +0900 ヨーガとサマーディとヴェーダンタ https://w-jp.net/2020/1825/ <br /> ヨーガとヴェーダンタは似ているようで微妙に異なる思想体系を形成しているようです。<br /> <br /> ヨーガと言ってもインドに諸派があり、一般的にヨーガというと日本では体操やストレッチのことですがインドではヨーガスートラという古典に基づいた八支則(アシュタンガ・ヨーガ)のことを指し、ヴェーダンタはヴェーダの聖典の最後の部分にあるウパニシャッド(奥義)に基づく考えです。<br /> <br /> インドでヨーガスートラとヴェーダンタは微妙に仲が悪い(苦笑)ように思います。<br /> <br /> 細かなことでいがみ合っているようですけど、私に言わせてみれば大した違いではないのです。まあ、遠くの喧騒という感じですが、最近ではインドで学んだ人がその対立や思想の違いを日本に持ち込んでいて、インドという対岸の火事をわざわざ日本に持ち込んでいる感もちょっとあったりします。<br /> <br /> ヨーガの基本的な考え方は何度か引用しましたように「心の作用を死滅」させることで、その結果としてサマーディという心の平常状態および至福が達成されると言います。<br /> <br /> 一方、ヴェーダンタの諸派の基本的な考えは、悟るために心を死滅させる必要はなくてただ真実に関する知識を正確に知れば良い、と言います。<br /> <br /> 最近何度か書いていますように、サマーディがゾクチェンでいうところのシネーの境地なのかテクチュの境地なのかで見解が違うのですが、一般的にはシネーの境地であると理解されています。それゆえに、シネーの境地は最終目標ではないというヴェーダンタ諸派の主張は確かにその通りだと思いますし、実際のところ、ヨーガの人たちもシネーの境地に相当するサマーディが最終目的地だとは思っていないのではないかと思います。<br /> <br /> 現実には、心を死滅させるかどうかでヨーガとヴェーダンタで言い争いになったりしているそうです。ヨーガをしている人はヴェーダンタ派の心の乱れを指摘したり、逆に、ヴェーダンタ派はヨーガ派に対して心の死滅は不要であると説いたりします。<br /> <br /> ですがまあ・・・・、私に言わせてみると、そんなのはどうでも良いです。シネーの境地を抜けてテクチュの境地に到ればどちらも同じであることを悟るわけですから、そんな言い争いしている暇があれば瞑想でもしたら良いのです(苦笑)<br /> <br /> どちらにせよ心を制御できるようになるべきという点では両者は同意しているようですし、であれば、ヴェーダンタ派にとっても実際はヨーガは有用なものとして認識されているようです。ヴェーダンタ派の主張を間にうけてヨーガの訓練を辞めてしまう人もいるようですが、それはちょっと気の毒な人です。<br /> <br /> ヴェーダンタ派にしてみればそのような境地に「何らの効果」も認めないこともあるようですが、そんな極端な話を日本に持ち込まないでいただきたいものです。そんなお話はインドでやってください(苦笑)<br /> <br /> ですから、インドのお話を読むときは以下のように差っ引いて聞いたり読んだりすると良いと思います。<br /> <br /> ・ヨーガ派(ヨーガスートラ)のお話を聞くときは、サマーディで悟れるというお話を話半分に聞いておく。<br /> ・ヴェーダンタ派(ウパニシャッド)のお話を聞くときは、ヨーガの心の死滅は不要であるというお話を話半分に聞いておく。ヨーガスートラ不要論を話半分に聞いておく。アサナや瞑想が不要というお話を話半分に聞いておく。<br /> <br /> このくらいがちょうど良いと思います。<br /> <br /> そのくらい差っ引けばヴェーダンタの言う以下のお話も「ふむふむ」と聞くことができます。<br /> <br /> ヨーガは目的ではなくて手段である。観念の停止は手段であるに過ぎない。ヴェーダーンタは、サマーディを得ることは悟りを得るために絶対に必要な条件ではない、といっている。これはしばしば、他者からは理解されない。(中略)彼らはいう、絶対者の自覚は、必ずしも人がサマーディに入っていることを意味するのではない。なぜなら、サマーディは、もしそれが心の状態であるなら、われわれは心を超えなければならないのであるし、また、単なる心の状態は、最高の状態ではないのだ。「霊性の修行(スワミ・プレシャーナンダ著)」<br /> <br /> これはヨーガやサマーディに対する誤解を差っ引いて読めば確かにそうだと思わせるお話ですが、これを読んでヨーガは不要と思ってしまうのであれば残念なお話です。私にしてみれば、ヴェーダンタも目的ではなく手段ですけどね。どちらも変わらないです。視点が違うだけのことです。<br /> <br /> 主義主張が大事だと思っている人は違いに拘りますけど、どちらも手段ですから便利に使えば良いだけのことです。相手を手段だと言って自分の主張は違う、自分の主張は手段ではないと言っている時点でそのお話はどうなのかなあ? と思ってしまいます。<br /> <br /> ヴェーダンタはアドヴァイタという非二元論的見解に基づいていますが、それによると以下のようなところが重要のようです。<br /> <br /> 非二元論的見解からは、われわれは自己の実在だけを悟らなければならない。他の一切のものは、単なる現れとして理解されなければならないであろう。(中略)ブラフマンのみが実在、他の一切はまぼろしと悟れ。(中略)知識の人は、サマーディにいようと、目覚めて世間で活動していようと、彼の悟りの性質には全く何の違いもないのであるる。それがが、非二元論者の主張である。「霊性の修行(スワミ・プレシャーナンダ著)」<br /> <br /> これは視点の違いであって、確かにこのようなお話も理解できます。流派によって見解が違いますので、それをわざわざ指摘するのは野暮というものですので「ふむふむ」と有り難く聞いて自分の中である程度を差っ引いてお話を聞けば良いのかなと思います。<br /> <br /> こういうのって、最初に言っていた人は正しく理解していますけど時代が過ぎて伝言ゲームになるにつれて真実から離れてゆきますのである程度は差っ引いて聞けばいいのだと思います。<br /> <br /> 私が見たところ、ヨーガスートラも似たようなことを言っていますし、最近の考察ではサマーディとヴィパッサナーは同じと言う理解にいたりしましたし、結局は目指すところはゾクチェンで言うところのシネーの境地やテクチュの境地なわけですから、どこから見たところで目的地は同じだと思います。<br /> <br /> そもそもサマーディとは何かというお話の共通理解がないのにサマーディという言葉を聞いただけでヴェーダンタ的なお話でサマーディを否定してくる人がたまにいて、それはちょっとどうかなあと思うこともあり、日本では馴染みの少ないヴェーダンタ派でのインドの混乱を日本に持ち込んで欲しくはないなあ... と思ってちょっと書いてみました。<br /> <br /> ヴェーダンタ派が心の死滅が不要と言っているのは最終的なテクチュの境地を目指すなら心の死滅は通過点に過ぎない、という意味なのだと咀嚼して聞くことにしています。その基本的な理解ができてしまえばヨーガの人もヴェーダンタのいうことが理解できるでしょうし、特に争う点もない気が致します。<br /> <br /> まあ、最近もちょっと書きましたけど、主義主張の違いなんてのは所詮は趣味の問題ですから、自分の趣味にあった主義主張ややり方を選べばいいのです。成長するのも趣味ですし成長しないのも趣味です。ですから、こんな流派の違いなんて趣味の違いかなと思います。まあ、そのくらい気軽に捉えています。<br /> <br /> Thu, 06 Feb 2020 00:00:00 +0900 視界が益々ゲームに似てくる日々 https://w-jp.net/2020/1824/ <br /> 最近のゲームは動きがスムーズですが、日常生活の視界がスローモーションで見えてくるにつれて段々と現実がゲームっぽく感じられるようになってきました。<br /> <br /> 例えば、先日に視界がスローモーションで見え始めた頃から体が上下するのに合わせて視界が上下に振動することを細かく認識するようになったわけですけれども、3Dで主人公の主観の視点のゲームによっては歩くタイミングに合わせて視界が上下運動するものがあって、その上下運動が現実に認識される視界とよく似ていてまるでゲームの主人公になっているかのような感覚です。<br /> <br /> 定期的にどこかで誰かが言っていることではありますけど、この世の中は巨大なゲームだ、みたいなお話ですが、そんな感じが最近してきています。<br /> <br /> 昔はここまでスローモーションで視界を認識できていなくて1秒のうち3コマくらいの認識でしたので上下運動を感じることはあまりなかったのですが、最近は上下運動を細かく把握していますのでゲームの世界に似てきた、というわけです。<br /> <br /> どこかに私をコントロールしているプレイヤーがいてもおかしくはありません(苦笑)<br /> <br /> みんな割とシリアスにこの現実を生きているわけですけれども、シリアスに演じるというゲームをみんなプレイしているのだなあ、と思っています。でも、私はちょっと飽きてきちゃいましたけど。 飽きてきたというと語弊があります。どんよりと飽きたというよりは、興味を失ってきたと言うのかなんというか。<br /> <br /> ゲームであっても攻略したり裏技見つけたりするのが面白くもありますけどね。<br /> <br /> Wed, 05 Feb 2020 00:00:00 +0900 精神修行で山にこもるのかこもらないのか? https://w-jp.net/2020/1823/ <br /> 山にこもって修行する時代なんて終わったとよく耳にしますけど、終わったのはそう言っている人個人の都合や趣味であって、山にこもった方が良い方は沢山いらっしゃいます。<br /> <br /> 今は自由の時代ですから山から出ろなんて一律な話ではなくて、山にこもりたければこもればいいし、出たければ出ればいいんです。<br /> <br /> 思いっきり咀嚼して言えば、そんなのは趣味の問題です。好きにすればいいのです。<br /> <br /> ドヤ顔で山から出る時代だとか言っている人を見ますと、ちょっと見解の狭さを感じます。見解の狭さはスピリチュアル初心者(本人はそうは思っていない)によくあることですけど。<br /> <br /> 山からこもった方がいいかどうかは私にしてみれば基準があって、ゾクチェンで言うところのシネーの境地のためにはこもった方が良くて、ヴィパッサナー状態であるところのテクチュの境地に移行したら街で趣味のように暮せばいいと思うわけです。<br /> <br /> ですが、それすらも趣味みたいなものですので、どうでもいい... とまでは言いませんけど、好きにすればいいのです。<br /> <br /> シネーの境地というのは雑念がなくなったり抑えられている状態ですので、その境地のためには街にいるのではなくて静かな山奥などに行くか、街にいるにしても仕事を辞めて静かな数年間を過ごす必要があるかもしれません。もはや、この時点で趣味の感覚が満載ですよね。<br /> <br /> そして、テクチュの境地と言うのは静かな状態のまま活動できるヴィパッサナー状態のことですので、そうなれば山に籠っている必要はなくて街で変化を楽しめば良いわけです。そうなっても山に篭っても良いですし、どちらにしても、趣味みたいなものです。<br /> <br /> テクチュの境地に至る前のシネーの境地以前に街にいると他人に翻弄されて他人の影響を受けやすいため山に篭った方が良いと個人的には思いますが、それでも街で精神訓練することもできますし、そんなのは、好きにすればいいのです。<br /> <br /> 私には私なりの見解があって、この時はこうすればいい、と言う理解はありますが、それが全員に適用できるとは限りませんし。<br /> <br /> テクチュの境地で街中で暮らして生活を楽しんでいる方もたくさんおられますので、街で暮らすのも悪くはないと思います。<br /> <br /> まあ、どちらにしてもこの世の中は趣味で出来ていますよね。山に籠ると言う趣味もたまには面白いのかなとは思います。<br /> <br /> 私の過去の記憶とかを引っ張り出してみますと特別に今の時代が精神的に進んでいるかと言うとそうでもない... と言いますか、そもそも時間なんてものは幻で、今の時代に生きている魂が死んでから少し過去の時代に転生ということもありますから、あんまり過去とか未来とか関係ないと思います。<br /> <br /> どの時代にも進んだ文化や精神があって、それぞれの魂が自分の趣味で住むところを選んでいるという、ただそれだけのお話です。<br /> <br /> Tue, 04 Feb 2020 00:00:00 +0900 テレパシーが後頭部上部で感じる https://w-jp.net/2020/1822/ <br /> 昔は頭全体と言いますか体全体で感じたように思いますが、最近は、頭を斜め後ろ方向に半分にした部分あるいは後頭部上部の小さなところでテレパシー的なものを感じるようになりました。まあ、テレパシーと言いましても誰か知り合いが私の噂話をしたり頭に思い浮かべているという程度のお話ではありますが、そういう考えは割と他人に筒抜けだと思います(苦笑)<br /> <br /> 以前にもテレパシーに2種類あるようなことを書きましたけど、今回のは思念波が伝わる場合です。<br /> <br /> オーラが接触して情報が伝わる場合はもっと「混ざる」感覚があって、相手もわかると思います。<br /> <br /> とは言いましても、仮説としては、これはどの程度微細なオーラなのかの違いだけで同じことかもしれないな... とも薄々思うようになってきていますが。<br /> <br /> その仮説としましては、肉体の密度に近い粗めのオーラが近接して情報が伝わる場合がまずあって、それとは別に、微細な波動が伝わるのが思念波によるテレパシーなのかなと。オーラ接触の場合はかなり濃厚な感じですけど、テレパシーの場合は微細な波動を感じるという感じです。<br /> <br /> まあ、そんなに違いはないのかも... とか最近は思うようになってきています。<br /> <br /> 思念波にしても、それは指向性があってこちらに向かってきているわけですし、その波動がオーラとどう違うのかと言いますと、密度や質に違いこそあれ、性質としてはそんなに変わらないのかな、とも思い始めています。<br /> <br /> これは仮説ですので、これからもっと見極めてゆくところですけど。<br /> <br /> Mon, 03 Feb 2020 00:00:00 +0900 ヴィパッサナー瞑想で体や息を観察すること https://w-jp.net/2020/1821/ <br /> ヴィパッサナー瞑想とは観察瞑想のことですが、 世間一般でヴィパッサナー瞑想というと体や息を観察することだと言われているように思います。<br /> ですが、実際のところ、それはサマタ瞑想(集中瞑想)であると思うわけです。<br /> <br /> これはかなり以前からそうではないかと思っており、半ばそのような結論を出していたわけですが、この度、それが更に深く理解できたような気が致します。<br /> <br /> ヴィパッサナー状態で周囲がスローモーションに見えたり体の内部の感覚を感じられるようになるというのは確かにその通りですが、瞑想の手法として体や息を観察しましょう、ということになるとそれはサマタ瞑想(集中瞑想)でしかないわけです。<br /> <br /> 目的地を見据えてその覚者の真似をして体の観察をしたり息を観察することは無駄だとは言いませんし、それはとても効果があると思います。ですが、それはヴィパッサナー瞑想としての効果ではなくサマタ瞑想(集中瞑想)としての効果であると思うわけです。<br /> <br /> ヴィパッサナー瞑想をしている人たちは、二つの種類に分類されると思います。<br /> <br /> それが本当はヴィパッサナー瞑想ではないとわかっていながら弟子や生徒たちにヴィパッサナー瞑想としてサマタ瞑想の上記の手法やその他を教えている人たちや団体と、もう1つは、あまりよくわかっていなくてサマタ瞑想を見た目上の分類でヴィパッサナー瞑想だと思って行っている分類です。<br /> <br /> 実際のところ、神秘行とはその表向きのお題目とは違った効果が現れることがよくありますので、ヴィパッサナー瞑想だと思ってサマタ瞑想をしたところで精神修行という観点からはおそらく問題はないと思いますが、私はそういう細かいところが気になるたちなのです。<br /> <br /> 私の見たところ最初の段階では何をしようともサマタ瞑想としての経験値を積むことになりますので、ヴィパッサナー瞑想として体を観察したり息を観察しても、あるいは、サマタ瞑想として眉間などに集中をしたとしてもほとんど同じ成長過程を辿ると思います。<br /> <br /> 個人の嗜好や性格に合わせてやり易い方を選べば良いのではないでしょうか。<br /> <br /> ゾクチェン式に言いますと最初はシネーの境地で心を沈めて、その後、テクチュの境地でヴィパッサナーあるいはサマーディと呼ばれている境地に移行しますので、シネーの境地なくしてサマーディあるいはヴィパッサナーは到達し得ないわけです。<br /> <br /> 例えば一部の団体は最初のシネーの境地に相当するサマタ瞑想を軽視して最初からヴィパッサナー瞑想(の真似事)をした挙句に怒りの沸点を下げてしまって心に破綻をきたしているような気も致します。<br /> <br /> 一方で、例えばテーラワーダ仏教はヴィパッサナーと称して実際はサマタ瞑想を教えているのではないかと私は思ってしまうわけですが、そんなことを聞いたところでどうしようもありませんのでわざわざ聞くような野暮なことはしていませんけど。<br /> <br /> ただ、特に日本の場合は天界出身者がそれなりにいて生まれた最初からテクチュの境地でヴィパッサナー状態で生きている人も相当数いるように思われますので、瞑想がどうこうとかシネーの境地がどうこうとか言っても理解できない人がいるようにも思います。逆の意味で、下の境地が理解できない、というわけです。<br /> <br /> ですから、体や息を観察するように言われたらいきなりテクチュの境地な人もいるわけです。そうとなれば最初からヴィパッサナーと言っても良いのかもしれませんけど、瞑想しようとかいう人は、まあ、やはりシネーの境地から入るのが割と一般的かなと思います。<br /> <br /> Sun, 02 Feb 2020 00:00:00 +0900 サマーディという言葉の2つの意味 https://w-jp.net/2020/1820/ <br /> サマーディが神秘的な不可解なものになっている上に、訳語に禅定や三昧などの当て字がつけられて、更に混乱しているように思います。<br /> <br /> 例えば、テーラワーダ仏教系の著書には以下のように記されています。<br /> <br /> 当時はサマーディ瞑想で禅定に達した修行者が、輪廻転成を乗り越えて解脱に達するためにヴィパッサナー(観察)瞑想に入ったのです。現代ではそのような回り道はしないで、ヴィパッサナー瞑想を実践しています。ヴィパッサナー瞑想だけで、集中力やさまざまな智慧など、解脱に必要な条件はそろうのです。「沙門果経」(アルボムッレ・スマナサーラ著)より<br /> <br /> これは最初に読んだときは「ふむふむ」と読んだのですが、今では違う読み方ができます。<br /> <br /> 前提として、サマーディとヴィパッサナーは同じという個人的な見解があるのですが、それに基づきますと、一般的にサマーディとは2つの意味を持つような気が致します。<br /> <br /> それは、チベットのゾクチェンで言うところのシネーの境地とテクチュの境地です。おそらくは、一般的にはどちらもサマーディと呼ばれています。この辺りに混乱があるような気が致します。<br /> <br /> ゾクチェンにおいてはシネーの境地とテクチュの境地はかなり違うものとして説明されておりますし、サマーディに関しても同じ言葉で2つの意味があるように思います。<br /> <br /> ・シネーの境地 → サマーディ(という誤解)<br /> ・テクチュの境地 → サマーディ<br /> <br /> よって、サマーディと一言で言った時にシネーの境地なのかテクチュの境地なのかコンテキストを読み解かなければならなくなるわけです。<br /> <br /> 上記のテーラワーダ仏教でのお話はシネーの境地のお話ですね。<br /> <br /> そして、私の個人的な見解ではシネーの境地はサマーディではありませんが一般的にはシネーの境地もサマーディだと誤解されているのだと思っております。<br /> <br /> ほんと、ややこしいですね。<br /> <br /> ですから、昔からサマーディでは悟れないと言うお話がヴィパッサナー信奉者から聞かれるのかな、と思います。そりゃ、シネーの境地はまだまだ入り口なわけですから先は遠いわけです。それをサマーディだと思ってしまうことが問題なわけですが、昔からそれでサマーディだと思われてきたのだから、ある程度それで意味は通ってしまうのでしょう。<br /> <br /> 古典であるヨーガスートラに記されておりますサマーディの定義を見ますと二次元的な心の動きが止んで対象と自身の区別がなくなった状態だとありますので、これは明らかにテクチュの境地のことを意味しておりまして、テクチュの境地であればそれはヴィパッサナー状態なわけですから、それがサマーディと同一だと分かるわけです。その意味で言うと上のテーラワーダ仏教のお話はよく分からないお話になりますが、サマーディが2つの意味を持つとわかってしまえば読み解くことができるようになるわけです。<br /> <br /> 禅定はシネーの境地で、三昧はサマーディの当て字でサマーディと同じく2つの意味がある。そのことがわかってしまえばお話を聞いたり文献を読むのが楽になります。<br /> <br /> ・シネーの境地 → サマーディ(という誤解)、三昧(という誤解)、禅定<br /> ・テクチュの境地 → サマーディ、三昧、ヴィパッサナー<br /> <br /> Sat, 01 Feb 2020 00:00:00 +0900 体の緊張をリセットし続けたところ、ヨガのアサナ(体操)が調子良くなりました https://w-jp.net/2020/1819/ <br /> 先日書きましたように最近は緊張をリセットするようにしておりますが、ここ5日ほど忙しくてヨガのアサナ(体操)ができなかったのにもかかわらず今日のアサナ(体操)では随分と体が柔軟に曲がりました。<br /> <br /> 体の緊張のリセットを意識的にし始めたのはいつ頃からだったでしょうか。記事を書いたのは1週間前くらいだったかと思いますが、その少し前から行っていたように思います。その効果が出てきたのでしょうか。<br /> <br /> 半年くらい前に右足首を骨折しまして、それから体をあまり動かさなかったのでかなり体が硬くなっていたのですが、ここ1ヶ月ほどはヨガのアサナを再開して多少は戻っていたところでした。それが、このように緊張を意識的にリセットするようにしてから急激に体の状態が回復してきたように思います。<br /> <br /> 今日のアサナでは、体の調子が骨折前にかなり近付きました。いきなりここまで回復するとは思っていませんでした。<br /> <br /> まあ、たまたまタイミングが合っただけかもしれませんけど。<br /> <br /> それに加えて、今まで曲がらないと思っていたところが少し曲がり始めたのが驚きです。これはほぼ確実に今回のリセットの効果と言って良いかもしれません。<br /> <br /> もともと上半身の背筋がとても硬かったのですが、最近は胸やお腹の中の方の筋肉や肩まわりのリセット回数が多かったかと思いますので、背筋が柔軟に曲がるようになってきたことは関係がありそうです。<br /> <br /> Fri, 31 Jan 2020 00:00:00 +0900 思考を停止させるだけではサマーディ(三昧)にはならない https://w-jp.net/2020/1818/ <br /> ヨーガのよくある誤解として、思考を停止させるだけでサマーディ(三昧)に至って悟ることができるというお話があります。<br /> <br /> 普通に思考を停止させると、それが例えできたとしても一時的な仮死状態になるだけで、いわゆる深い眠りの状態に落ちているだけになります。それを誤解してサマーディ(三昧)と呼んでいる人もたまにいらっしゃるようですし、その誤解の理解に基づいてヨーガを批判して「思考を停止させても仕方がない」なんて言ったりします。<br /> <br /> ですが、そもそも思考を停止させるだけではサマーディ(三昧)にはなりませんし、それで悟りになることはありません。<br /> <br /> 私の理解では、サマーディになるには思考を停止させることに加えて、オーラによる観察をしている感覚が必要に思います。<br /> <br /> ヨーガスートラにも記されています。<br /> <br /> (2) 心の作用を止滅することが、ヨーガである。<br /> (3) そのとき、見る者(自己)は、それ本来の状態に留まる。<br /> 「インテグラル・ヨーガ(スワミ・サッチダーナンダ著)」より<br /> <br /> これを文字通り読むと、「留まる」という文章は「ふうん。留まるから... だからどうしたの?」という感じになってしまって意味を読み取れません。文字通り心の作用を死滅(停止)させると見る者(自己、プルシャ)がそれ本来の状態に留まって、だからどうしたのだろう? というところで終わってしまいます。<br /> <br /> これはもともとサンスクリットで難解な内容ですので思いっきり意訳が必要に思います。<br /> <br /> おそらくは、この意味としては「見る者(自己、プルシャ)」が認識を始める、というような意味かなと思っております。<br /> <br /> それを裏付ける形で、神智学系のヨーガ・スートラ解説書には以下のように記されています。<br /> <br /> 1章2) この合一(ヨガ)は、サイキック性質を征服し、チッタ(マインド)を抑制することによって達成される。<br /> 1章3) これが成し遂げられたとき、ヨギは自分自身のありのままの姿を知る。 「魂の光(アリス・ベイリー 著)」<br /> <br /> この訳の方が真実に近い気が致します。サイキック性質というのは神智学でいうところの欲求の心であり情緒であり感情の性質です。そのような性質を制御することと、移ろいやすい思考の変化を制御することで合一(ヨガ)が達成される、と説明されています。<br /> <br /> よって、よくある誤解のように、思考を無くしてロボットのようになることではなく、思考を制御する結果として現れてくるのはむしろ逆の生き生きとした自分自身の姿であるわけです。まあ、最近はそんな誤解を聞く機会も減ってきましたけど。<br /> <br /> 思考を制御して、見る者(自己、プルシャ)が現れて、いわゆるオーラ的な認識力が出てきた状態がサマーディなわけです。<br /> <br /> チベットのゾクチェンでは、単に思考を停止させた状態のことをシネーの境地と呼んでいて、思考を止めただけでは次のテクチュの境地にはならず、その後にオーラによる認識力が出てきていわゆるサマーディ状態になるとテクチュの境地になって、それはヴィパッサナー状態と同じであるという個人的な認識に至ったわけですけれども、そういうことで、思考を停止させるだけではシネーの境地にしかならないわけです。<br /> <br /> このあたりはなかなか入り組んでいますし流派によって解釈が異なるとは思いますが、個人的にはこのように理解しております。<br /> <br /> Thu, 30 Jan 2020 00:00:00 +0900 サマーディとヴィパッサナーは同じ https://w-jp.net/2020/1817/ <br /> サマーディの定義を見ると不可思議で、文字通り解釈するとヴィパッサナー状態とまるで別物のような印象を受けます。<br /> <br /> 私はそもそもサマーディがどういう状態なのか長い間謎で、ヴィパッサナーも謎だったのですが、まずヴィパッサナー状態に至って、その状態を説明してあるチベットのゾクチェンの本を読んでゾクチェンの一つの段階に相当することを理解し、その後、ゾクチェンの定義に当てはめるとサマーディが同じ状態に該当することを知りました。<br /> <br /> ヨーガをしている人の中にはサマーディを神聖化している人もいて、サマーディに至ると悟ると理解されていたりもします。個人的にはそんな印象を受けます。<br /> <br /> このあたりは以前にも謎解きをしました。<br /> <br /> ですので、私の中ではサマーディとヴィパッサナーは同じであるという理解で落ち着いた訳ですが、世間を見ますと、サマーディこそが目指すところでヴィパッサナーはその途中段階だというお話があったり、あるいは、ヴィパッサナーこそが目指すところでサマーディは悟りには至らない、みたいなそれぞれサマーディとヴィパッサナーを神聖化するお話を度々耳にします。私だけでしょうか。<br /> <br /> サマーディを神聖化している人はヨーガスートラに基づいて思考の停止を絶対視します。<br /> 一方、ヴィパッサナーを神聖化している人は思考の停止を否定し、思考も観察するヴィパッサナーこそが悟りに至る道だと主張しています。<br /> <br /> 私の理解に基けばこれはどちらもちょっと誤解をしている訳ですが、私は別に、その論争に加わろうとかそういうつもりはありません。<br /> <br /> 本当にサマーディに到ればそれはヴィパッサナー状態であることが分かるでしょうし、ヴィパッサナー状態に到ればそれがサマーディであることが分かる、という、ただそれだけのお話です。<br /> <br /> サマーディとヴィパッサナーとは同じ状態の2つの面を表現しているだけであり、そこに到達していない人があっちが違うこっちが正しいとか言っていても仕方がない訳です。<br /> <br /> サマーディに到れば思考が停止してオーラが主体となってオーラで何かを見るかのような状態になりますし、ヴィパッサナー状態は思考が停止しても同じようにオーラが何かを観察している状態になる筈ですから、結局は同じことであると思う訳です。<br /> <br /> その状態に至ってしまえば、あとはそれを何と表現するかだけのお話で、それが私はヴィパッサナーと呼ぶ方がしっくりきている、というだけのお話です。ですから、私はべつにヴィパッサナー論者ではありません。むしろやってきたことはヨーガですが、ヴィパッサナーのお話も色々と参考にしました。<br /> <br /> ですから、私は今の状態をサマーディと呼んでも良いのですが、サマーディという言葉は何か不可思議な響きがありますので、そのような不可解な表現は好きではないのでサマーディというのを避けているだけで、内容的にはサマーディとヴィパッサナーは同一だと思っております。<br /> <br /> Wed, 29 Jan 2020 00:00:00 +0900 目の前にあるオーラの壁にすり寄る https://w-jp.net/2020/1816/ <br /> 座った瞑想をしていると、目の前にもやっとした壁が感じられました。それは壁のようにも見えますし、シュタイナーの言う「境域の守護者」かもしれません。色は黒ですが嫌な感じはしません。見た目ではドラゴンクエストに出てくるフレイムに似ていますが色は黒です。<br /> <br /> 広い壁だということはなんとなくわかりますが目の前を見るとそこだけはフレイムっぽいので、大きなフレイムがいるというわけではなく、目の前に自分と同じくらいのフレイムがいるということです。その周囲と言いますかすぐ背後に広く壁があるようです。<br /> <br /> それは、例えば水面を水の中から認識することに似ています。穏やかな湖あるいは湾の中の海に潜り、浅い砂地の底に横たわって透明な水を通して水面及び空を眺める感じです。そして、最近はその距離が近づいて次第に自分が水面に近づいているのを感じます。水面に近づくにつれ、上記のような壁及び越境の守護者のようなものを感じ始めています。<br /> <br /> これは、大前提としてヴィパッサナー状態でないと感じられません。ヨーガ的に言えばサマーディ(の基本的な状態)なわけですが、思考が止まって周囲を感じる(五感の皮膚の感覚とちょっと違いますが)と、上記のように感じられるわけです。<br /> <br /> 境域の守護者は以前にも少し言及しました。ちなみにシュタイナーは薔薇十字系です。これは、以前に載せた、瞑想中に一瞬見えた小悪魔の影に似ていますが今回は特に目は光っていませんでした。<br /> <br /> 記憶が曖昧なのですが、攻殻機動隊という映画の初代の確か最初の方で主人公が水面に浮かぶシーンがあったかと思うのですが... 探してみたらやはりありました。これです。今は探せばすぐに見つかりますね。この画像は同映画のワンシーンです。カラーだとイメージと少し異なりますので白黒にしました。<br /> <br /> 感覚としては、そんなイメージに似ています。<br /> <br /> 思えば私が子供の頃、隣町の湾の海岸で泳いでいたことがありました。その時、水深3m前後の砂地に潜り、水中の砂に横たわって海面と空を見ていました。そこは砂地の部分ではありましたが岩場の多い海岸でしたので基本的には水は澄んでいて綺麗で、息はもちろん止めていましたが肺だけを動かすとある程度は呼吸っぽくなるので潜ったまま肺だけを動かし、砂の上でうとうとし始めました。心地良くて、そのまま眠ってしまいそうです。意識が落ちかけて、ふと、このまま意識が落ちて眠りこんだら死ぬかもしれないというかすかな気付きが現れました。そうして手で軽く砂を押して海面に上がりました。その時の清々しさは今でも度々思い出します。今回のものは海の体験の清々しさとはちょっと違うのですが、似ている部分もあります。<br /> <br /> 今生きているのは水面の下の世界で、すぐ目の前に水面があって、その先には本当の・・・ と表現すれば良いのでしょうか、なんと表現すれば良いのでしょうか。水面の向こう側に世界があって、それをこちらから眺めている感覚です。<br /> <br /> その壁との距離が近づきつつあって、その向こう側に何があるのかまだ不明です。ちょっとドキドキする反面、ちょっとだけ期待があって、ほんの少しの緊張感と共にその壁を眺めている感じです。壁の向こう側は「無限」と繋がっているかもしれない??? 実際はどうなのでしょう...<br /> <br /> 少しだけ自分とその壁とが交わりつつある気がしますが、まだ1割くらいの感じが致します。<br /> <br /> Tue, 28 Jan 2020 00:00:00 +0900 ヴィパッサナーと通常状態がスーっと切り替わる https://w-jp.net/2020/1815/ <br /> 以前はいつの間にか切り替わるか、あるいは、瞬時に切り替わる感じでしたが、今日は思考を止めてヴィパッサナー状態にスムーズにスーっと遷移しました。遷移する瞬間の間をスローモーションで観察する感じですが実際には数秒だと思います。<br /> <br /> 思考が止まるというよりは思考が空間に溶けてゆく感じです。<br /> <br /> 思考が空間に溶けてゆくと景色がよく見えてきてスローモーションのヴィパッサナー状態に移行します。<br /> <br /> 今週は色々と作業があって少し疲れが溜まっておりましたので、それであまりうまくヴィパッサナー状態に遷移できないのかもしれません。調子の良い時であれば動画で言うところの30fpsくらいのスムーズさで視界が認識されますが、今日は15fpsから8fpsくらいの認識でした。その状態は多少は思考が混じっている状態ですが、上記のように思考が空間に消え去ると24fpsとかで多少はスムーズに認識されました。<br /> <br /> ハイキングをした時も感じたのですが、ヴィパッサナー状態は疲れとかに左右されますね。<br /> <br /> であれば、元気な時に散歩をして明確にヴィパッサナーすると気分も晴れ晴れとして良い気が致します。<br /> <br /> Mon, 27 Jan 2020 00:00:00 +0900 日常生活が修行になるヴィパッサナー瞑想 https://w-jp.net/2020/1814/ <br /> ヴィパッサナー状態に移行する前はそんなことはありませんでした。以前は、日常生活は日常生活で精神的訓練(というほどのものではないですが)は精神的訓練で、例えばヨガはヨガ、仕事は仕事、趣味は趣味、遊びは遊び、散歩は散歩でした。<br /> <br /> しかし、日常生活でスローモーションのヴィパッサナー状態が可能になると、特別に何かをしなくても割と日常生活が修行のような感じになってきました。<br /> <br /> 「修行」とか言いますと何か重苦しくて山にこもったり苦しい苦しい苦行をして誰よりも大変な思いをしなくてはならないイメージがありますが、ここでいう修行はそういうことではありません。ただ単に、日常生活で、例えば散歩をするなどをして、その時にスローモーションで感じるヴィパッサナー状態にいるだけです。ヴィパッサナー状態で日常生活することそれ自体が修行のような感じになってきたと思っています。<br /> <br /> ですから、ただ単にヴィパッサナー状態になってスローモーションを感じながら日常生活を送るだけのことです。<br /> <br /> 滝行もしなければ、険しい山にも登らなければ、お経やマントラも唱えなければ、ストレッチもしません... と言いますか、やってもいいのですけど、それをすることと、ここでいう修行とはあまり関係がない、ということです。<br /> <br /> 誰かにこれが修行だなんて言ったら激しく説教されそうなくらいです(苦笑)<br /> 特に、ヨーガの人は「想像で出来たつもりになるな」と言うのが好きですからね。<br /> <br /> 散歩しながらスローモーションのヴィパッサナー状態であれば修行のような感じ、というだけのお話です。<br /> <br /> 傍目からすれば、ただ散歩しているだけです。<br /> <br /> 誰も修行とは思わないですし、誰かに修行だなんていう必要もないですし、言っても理解されないと思います。<br /> <br /> 最近は、わざわざ誰かに言わなくてもいいかな・・・ という感じになってきています。 まあ、ちょっとは雑談とかで言いますけど、そのくらいですかね。<br /> <br /> この、日常生活が修行のような感じになってきたら、今までヨガやスピリチュアルで言われていたことがかなり「溶けて」きた気がします。<br /> <br /> 当時は、色々なことが「納得」の上で精神的なスピリチュアルを捉えていました。<br /> <br /> 例えば、瞑想について言えば以前に ヨガ瞑想、サマーディ、マインドフルネス、ヴィパッサナー等について とか書きましたけど、今の視点からすれば全てはヴィパッサナーのスローモーション状態からの視点になってしまって、理屈どうこうはあまり考えられなくなってきています。<br /> <br /> 今は、ヨガやスピリチュアルの古典的な説明よりもゾクチェン的な「ありのまま」という一言が全てを表しているような気がしていて、それが全てであるなら何にも説明は実はいらないのだ... という気になってきています。<br /> <br /> このまま意識が溶けてしまうのでしょうか。<br /> <br /> まあ、あまり心配しても仕方がないですし、こうして書いているほどには実際は心配していません。<br /> <br /> それは「流れに身を任せる」という感じでもなくて、パワーが漲っているので行き着くべき場所にどんどん自分から根元から突き動かされるように進んでいくから大丈夫、という感じです。<br /> <br /> まあ、今わかるのは、やるべきことは日常生活でのスローモーションのヴィパッサナー状態を今は続ければ良い、というだけです。後のことはそのうち開けてくるでしょう。<br /> <br /> Sun, 26 Jan 2020 00:00:00 +0900 両肩に刺さっていた見えないものを引き抜く https://w-jp.net/2020/1813/ <br /> 以前にも似たようなことがありましたけど、今回も、不意に意識に緊張が走って肩や頭の緊張が抜けなくなりました。ここ最近は体の感覚を観察してスローモーションのヴィパッサナー瞑想を行うなどしておりましたが、そのヴィパッサナー状態も解除されてしまいました。<br /> <br /> ヴィパッサナー状態になったからと言ってこの種の緊張と無縁になるわけではないようです。<br /> <br /> 瞑想で意識を統一しようかな... と最初は思いましたが、特に意識が乱れているというわけではありませんのでそれはちょっと違うなと思い、代わりに体を観察しましたところ、両肩、特に右肩とうなじの中間くらいに大きな何かが刺さっているような気がいたしましたので、前回は瞑想中に取り除きましたけど今回は椅子で意識を保ったままそのあたりにある”なにか”を引き抜いたところ、急に右肩の緊張が取れてきました。<br /> <br /> どうやら、何かの意識体の塊かトゲのようなものが刺さっていたような感じです。<br /> <br /> 以前に右腕に絡まっていた見えないものを引き抜くことをした際はおそらく何かの意識体が刺さってエネルギーの吸血状態になっていたのですが、今回は吸血状態というわけではなく、ただ単に、意識の何かが刺さってしまったので引き抜いた、という感じです。<br /> <br /> もともと私は右側のオーラのガードが弱くて、左肩よりも右肩の方が影響を受けやすいのです。<br /> <br /> これは、私に対しての念かなと最初は思ったのですが、どうも、ただ単にそこらへんにぷかぷか浮いていた見えないトゲがぶつかってオーラが怪我してしまった、という感じのような気が致します。<br /> <br /> そのトゲは誰かが作り出した残存物に過ぎないのですが、ぶつかるとこうして被害を被るようです。というか、昔からよくぶつかって被害受けていました。<br /> <br /> 霊視できればそういう障害物とかは避けられると思うのですけど、今生の私はまだ見れないです。<br /> <br /> 定期的にこういう被害を受けていますのでその度に引き抜いて治療しています。<br /> <br /> 今回のことを踏まえますと、具合が悪くなったら以下のように対処が必要のように思います。<br /> <br /> 0.肉体の問題かどうか確認します。肉体の問題の場合は普通に対処。<br /> 1.まず、体に見えない何かが刺さっていないか確認する。具体的には、体が極度に緊張しているところを探す。<br /> 2.体の極度の緊張を確認したら、目に見えない自分の「手」を使って緊張しているあたりを「つまんで」引っ張る。うまく行けば何かの塊が抜けてゆくような感覚がします。オーラを吸引している吸血性の意識体であれば触手を奥深くのチャクラまで伸ばしているかもしれませんので触手が千切れないようにゆっくりと引き抜きます。<br /> 3.引き抜いたら、オーラがその部分だけ損傷しているので団子や粘土を丸めてくっつけるようなイメージでオーラの裂け目を修復します。目に見えない自分の「手」を使うとやりやすいかもしれません。<br /> <br /> このようにまずはオーラを整えないとヴィパッサナー状態に入れないような気がいたします。<br /> 極度の緊張が取れたらスローモーション的に認識するヴィパッサナー状態になって、以下を確認します。<br /> <br /> 4.体を日常的に観察して緊張が現れたらすぐに気づく。<br /> 5.気付いた緊張を意識的に解除してリラックスする。<br /> <br /> ヴィパッサナー状態に入れるかどうかはともかくとして、その前段階はやってみさえすれば割と誰でもできる気が致します。<br /> <br /> このようなことって、可能なのだということを誰も言ってくれないので誰もやっていないだけで、具合が悪くなったらその部分を上記のように手当てしてあげると良いと思います。<br /> <br /> もちろん、肉体の怪我や病気や不調もありますので全部がこれで治るわけではありません。<br /> <br /> この種の具合の悪さは分かる人にはわかる筈で、これを読んで「ああ、あれのことか」とわかるのであればやってみれば良いし、何のことかわからなければスルーするのがいいと思います。<br /> <br /> 割と簡単なことでも、こうすれば良い、ということを知らないが故にエネルギー・ヴァンパイアに長い間ずっとエネルギーを吸われ続けて具合を悪くしている人がこの世界には割と多くいらっしゃる気が致します。<br /> <br /> 関連:<br /> ・体のオーラに取り憑いているエネルギー体<br /> ・床屋で取り憑いてきた意識体<br /> <br /> Sat, 25 Jan 2020 00:00:00 +0900 体の感覚を観察してスローモーションのヴィパッサナー瞑想を行う https://w-jp.net/2020/1812/ <br /> 先日は座った瞑想で準備をして日常生活でヴィパッサナー瞑想を行うような感じでしたが、今日の座った瞑想ではヴィパッサナー的な感じになりました。ただ、やはり体の感覚は感じにくいのか、視覚ほどはっきりとわかるヴィパッサナー瞑想にはなっていない感じです。とは言いましても、座った時に感覚が細かくわかることで一応はヴィパッサナー瞑想になっている気が致します。<br /> <br /> ヴィパッサナー状態で視界を観察したり音を聞いたりするよりも、感覚は微細でわかりにくい感じが致します。もともとの感覚と同じといえば同じで、ヴィパッサナーになっているといえばなっているかな... という微妙な感じではあります。<br /> <br /> とは言いましても、これで、座っていても視覚のスローモーションのヴィパッサナー瞑想と同じ観察が感覚に対してもできることが一応は確認できました。<br /> <br /> とりあえず、ヴィパッサナーは視覚を中心に行うのが良さそうです。<br /> <br /> 視覚はいつもそこにありますので、最初こそスローモーションのような不思議な感じがしておりましたが、慣れてしまえばこれが普通かな... という感じで視覚を認識しております。<br /> <br /> 視覚が以前のようにコマ送りではなく細かく認識されるのがヴィパッサナー状態ですが、もしかしたら、もともとこのくらいの動体視力を持っている人にとっては当たり前のことかもしれませんね。そんな気がしてきました。<br /> <br /> と、言いますのも、日常生活上のスローモーションのヴィパッサナー状態が可能になって約3週間経ちましたが、次第にこの状態に慣れてきたからです。<br /> <br /> 私の場合は変化があったために違いを感じましたが、変化がなければおそらくは自分の認識が普通だと思うことでしょう。<br /> <br /> 日常生活を楽しめている人とそうでない人の違いはこんなところにもあるのかな... と思いました。<br /> <br /> ヴィパッサナー状態であれば日常の変化だけで人生が楽しめるのに対し、そうでなければ日常生活に変化はなくて頭の中の考えが何度も続くだけですので面白くない人生と感じて遠くの何かを追い求めたりします。<br /> <br /> ヴィパッサナー状態であればありきたりないつもの道も毎回その変化を感じて視界の微妙な変化ですら楽しむことができますが、そうでなければ同じ道としか感じずに面白くない人生になります。<br /> <br /> これは、昨日や前回と同じかどうか比べてどうこういう話ではなく、最初であっても2回目であっても10回目であっても変化を楽しむことができるのがヴィパッサナー状態ということだと思います。<br /> <br /> 思うに、ヴィパッサナー状態を封じてしまえば人間がロボットになって「消費」という罠にはまり込んで経済を回し続けるので消費させたい人にとってはヴィパッサナー状態なんて邪魔かもしれません。<br /> <br /> まあ、このあたりは、気付く人だけが気付いてラットレースから抜け出すのでしょう。<br /> <br /> Fri, 24 Jan 2020 00:00:00 +0900 くつろぎの3段階 https://w-jp.net/2020/1811/ <br /> W.E.バトラーによると、くつろぎには3段階あると言います。<br /> <br /> 第一は緊張している場所をさがすこと。次には緊張をくつろがせること。そして最後に、つりあいのとれた筋肉の状態を確立することである。(中略)着実にこれを実践すれば、君は完全なくつろぎと、正しいつりあいを手に入れることができよう。(中略)これは大切なことなのである。「魔法修行(W.E.バトラー著)」<br /> <br /> 緊張している場所を探し、意図的にわざと緊張させたりすることでその緊張を理解し、意図的に筋肉をくつろがせ、最後には、同書で「つりあい」と表現されているような状態にするべきと言います。それはくつろぎがぐったりしたものでなく意識の通ったいつでも動けるリラックス状態に達することと説明されています。いわゆる「緊張と弛緩」のようなテクニックに加え、意図的に緊張をほぐすというテクニック、そして、くつろいだときにありがちなどんよりとした気持ちに落ち込むのを避ける、という重要な点を指摘しているようです。<br /> <br /> この本はヨガの本ではありませんがヨガの体系も参考に書かれており、同著者のやり方ではこれが一番最初に来て、ヨガのアサナ(体操)やプラナヤーマ(呼吸法)よりも前に行うべきことであると記されています。<br /> <br /> 私の場合はヴィパッサナー状態に達してからようやく「意図的に緊張をほぐす」というテクニックが(簡単に)使えるようになりましたが、同書の順番でヨガのアサナや瞑想をする前の一番最初にそれをしようとしたらきっとなかなかうまくいかずに苦労していたのかな、と推測致します。<br /> <br /> 確かに、筋肉の緊張という意味では最初に来ると思いますが、意識の方がそれについてくるのはかなり後なのかな、という気も致します。<br /> <br /> 一方、リラックスを以下のように説明している方もおられます。<br /> <br /> 宇宙に命令しても(実現を心像化しても)そのことが実現しない理由は、リラックスの欠陥によるものだということを知っている人は殆どいない。何かのことを達成しようとしてそのものに精神集中をし、それの出現を命じた後に、よりよい結果を得ようとするには、もしその場合に命令だけをしているのであったのなら、命令(心像化)の後にリラックスをしなければならないのである。(中略)リラックスは、筋肉のリラックスに加えて心のリラックスが必要なのである。「秘教真義(M.ドーリル博士著)」<br /> <br /> これは度々スピリチャルでも言われていることですが、これは古い本ですので昔からこういうことが一部では伝えられていたようです。<br /> <br /> Thu, 23 Jan 2020 00:00:00 +0900 座った瞑想で準備をし、日常生活でヴィパッサナー瞑想を行う https://w-jp.net/2020/1810/ <br /> 最近は日常生活上でスローモーションに見えるヴィパッサナー瞑想を行っているわけですが、座った瞑想をしてもスローモーションな感じにはならないようです。私が座った瞑想をする際は目を閉じて行っているわけですが、視覚情報がないとスローモーションを感じられないということでしょうか。<br /> <br /> 座った瞑想は、少なくとも気持ちを落ち着かせる効果はあって、日常生活上のヴィパッサナー瞑想の準備としてオーラを安定させる手段としてここ最近は効果が出ている感じが致します。<br /> <br /> 日常生活上でヴィパッサナー瞑想ができるようになったからと言って座った瞑想が必要なくなったわけではなく、今のところ、両方がそれぞれの役割を果たしている気が致します。<br /> <br /> 日常生活を送る上で不安定になりがちなオーラを座る瞑想で安定させるということと、それと同時に、発散しがちな思考を落ち着けてヴィパッサナー状態をしやすくするために座る瞑想が最近は役に立っています。単純に疲れを取る、という効果もあります。<br /> <br /> そうすれば座る瞑想が終わった後に日常生活でヴィパッサナー状態に簡単に入ることができるようです。<br /> <br /> 座る瞑想はそれはそれで有用で、色々なやり方はありますが、最近は特に眉間に集中するということもなくチベットのマントラを(古代の唱え方で)唱えるということもなく、ただ単純に、ヴィパッサナー瞑想の準備としてオーラと思考を落ち着ける、という単純なやり方に落ち着いています。<br /> <br /> 特にそれがいいとか悪いとか読んだわけでもないですし指導を受けたわけでもありませんが、自然にこんな感じになっていています。<br /> <br /> そして、スローモーションに感じるヴィパッサナー瞑想や私の最近のマイブームである日常生活中に体の緊張に気付いて意図的に緊張を解除してゆく、みたいなことを最近はしています。<br /> <br /> Wed, 22 Jan 2020 00:00:00 +0900 昼も夜も半覚醒の状態で体の緊張をリセットし続ける https://w-jp.net/2020/1809/ <br /> 今まで随分と体の緊張を続けてきたことを最近はよく感じるようになりました。<br /> <br /> 最近は、昼の日常生活において顕在意識と並行して半覚醒の意識が体を観察していて、体に緊張があるとそれに時々気が付くのでその度に強制的に緊張をリセットしてあげています。これは以前はここまで気付くことはありませんでした。時期としては景色がスローモーションで認識されて日常生活上のヴィパッサナー瞑想で無情を感じるようになった頃から次第にこの種の緊張に気付けるようになりました。<br /> <br /> 最近は夜も、全時間ではないですが時々深夜に半覚醒の意識が自分の体の緊張に気付いてその度に緊張を強制的にリセットするような睡眠の取り方をしています。熟睡で意識がなくなってしまうような睡眠から、半覚醒の睡眠に徐々に遷移してきているような気が致します。<br /> <br /> 起きているときに何か作業をしている時や歩いている時もその同様の半覚醒の意識が働き続けていて、自分の顕在意識とは別なのか一続きの別の意識になっているのか、その関係は微妙なところですが、明確な脳の働きの思考とは並行して半覚醒の意識が体の状態に気付き続けているような感じが致します。<br /> <br /> それと同じ半覚醒の意識がスローモーションのヴィパッサナー状態を作り出していて景色なども細かく認識しているように思います。ですから、必ずしも視覚で読み取っているわけではなく、ヴィパッサナー状態はおそらくはオーラが感じているという種類の感覚なのではないかと推測しています。<br /> <br /> ただ、目を閉じるともちろん視界の情報は消え去りますので、オーラが感じていると言っても、副次的なものなのかなと思います。<br /> <br /> 目で見える視覚情報の処理スピードが上がったことと、体の感覚を微細に感じられるようになったことの2点ですかね。<br /> 後者はオーラというよりは単に皮膚や内的感覚が微細になっただけとも解釈できなくはないですし、そういう面もあるかと思います。<br /> <br /> ですから、もっと細かく言うのであれば、視覚処理能力向上と皮膚や内的感覚を感じる力の向上および微細な周辺の雰囲気を感じる力(オーラ感知力)の向上、という3つに分けられるのかなと思います。<br /> <br /> この3つのうち、オーラの感知力はまだまだ低いです。以前感じたような五感以外の感覚でもあるのですが、動いてる時と動いていない時があって、動いている時でもやはり5%くらいの照度(比喩です)でしか感じません。これはまだまだのようです。<br /> <br /> そんな感じで最近は昼も夜も感知力が高まって、ここ最近は体の緊張を意識でほぐすことがマイブームになりつつあります。<br /> <br /> ストレッチ等は以前の通りヨガのアサナ(体操)とかでやりますけど、意識で緊張をほぐす、というやり方でどのくらい変化があるのかが最近の興味です。経過観察中です。<br /> <br /> Tue, 21 Jan 2020 00:00:00 +0900 ヨーガの人は「想像で出来たつもりになるな」と言うのが好き https://w-jp.net/2020/1805/ <br /> インドの文化なのでしょうかね。インドのリシケシでヨーガの先生からも誰かが言われていました。<br /> <br /> その時、ヨーガの授業でチャクラのお話になって、生徒の一人が「私は全部のチャクラを感じるわ」と言っていたことに対し、先生が「それは単なる想像だ。そんな気になっているだけに過ぎない」と言っていました。<br /> <br /> チャクラの話のみならず、スピリチュアルなお話に対してヨーガの人が同様に「それは想像だ」と言うのが一部で流行っていると言うのか文化的にそうなのか、良く耳にする気が致します。<br /> <br /> この種のお話は数十年前から聞いていますので、おそらくは最近に始まったお話ではないと思います。<br /> スピリチュアルでも数十年前からちょくちょく聞いていたように思いますが、具体的にはあまり覚えていません。<br /> <br /> まあ、このお話ですけど、それはそうなんですけど、指摘することで他人に対する優位性を植え付ける、いわゆるマウンティングに使われることが時々あるので、それはどうなんだろうなぁ〜? と思います。 マウンティングに使われてしまうくらいなら、他人が想像で語っているのを聞いたとしても「ふ〜ん」と言って聞き流している方が最近は良いようにも感じます。<br /> <br /> 知識を沢山仕入れて、何かを話している人に「それは想像よ」とか言って話の腰を折ったり、自分が「指導したい」と言う気持ちがマウンティングとして現れていることに自分が気づかずに「それは想像だよ」と指導のつもりが単なるマウンティングになっていたり・・・ そんなつまらないことになるくらいなら、この習慣なんて廃れた方がいいと思います。<br /> <br /> きっと文化的なもので、インドの文化なら合っているのかもしれません。<br /> <br /> と言いますのも、インドの人は自己主張が強くて思い込みが激しくて自信満々なので、自分が出来ていると思ったら頑なになりますのでこうして指摘することで本来の姿に立ち直らせるのも必要かと思いますが、日本のようなところで同様に指摘したとしても「何を言ってるの、この人は」となる場面が最近は多いように思います。<br /> <br /> そもそも、他人の状態を見て指導できるレベルの人はそうそういなくて、グルのレベルでないと他人の状態なんて良くわからないのに、他人の発言を想像だとか何とか言ったところで、それは本当かもしれないし想像かもしれないですし、良くわからないでしょう。<br /> <br /> まあ、そんなこんなで、他人に「それは想像だ」とか言う、古くから知られたありきたりの指摘をする人は、私はちょっと疑って見てしまいますね。<br /> <br /> インド人が言うなら文化的にもありだと思いますけどね。<br /> <br /> Sat, 18 Jan 2020 00:00:00 +0900 思考を止めただけではテクチュの境地にはならない https://w-jp.net/2020/1804/ <br /> おそらく、そういうことではないかと思います。ここ最近のお話でテクチュの境地とはおそらくスローモーションのヴィパッサナーでありサマーディでもあるという結論に至ったわけですが、テクチュの境地がそうであれば、単に思考を止めただけのお話ではないように思います。<br /> <br /> ゾクチェンでは、以前引用しましたように3つの境地があり、思考を止める境地は「シネーの境地」であり、それはそれで心地の良い境地であると説きます。実際、私もヨガを始めてしばらく後、思考が落ち着いてきて「無」の境地とか瞑想中に集中する境地を味わったわけですが、それらがおそらくシネーの境地に相当しているのでしょう。<br /> <br /> その後、私が体験したマニプラ優勢の状態とかアナハタ優勢の状態がゾクチェンでどれに相当するのかはわかりませんが、おそらくはシネーの境地とは瞑想で集中した状態のことを指すのだと思います。<br /> <br /> そして、テクチュの境地がヴィパッサナーおよびサマーディであるわけですが、私の場合、順番としては以下の順番だったと思います。<br /> <br /> 1.ゾクチェンのシネーの境地 = 良く集中できている心地よい状態 = ヨーガ・スートラのヨーガの定義の最初にある「心の作用を止滅」の段階。止滅とはインドで「シャマタ」。<br /> 2.クンダリーニ活性化、マニプラ優勢の状態。生命力(パワー)の増加。<br /> 3.アナハタ優勢の状態。よりポジティブになる。<br /> 4.ゾクチェンのテクチュの境地 = スローモーションのヴィパッサナー(観察)瞑想状態 = サマーディ<br /> 5.オーラの意識的な活用 = サムヤマ (私はまだまだこれから)<br /> <br /> もちろんこの前後や途中にも色々とありましたが、いくつかのポイントを列挙してみました。<br /> <br /> それぞれの段階において、それぞれの程度において「悟り」と呼んでも良い意識をいくつか通過してきました。<br /> <br /> シネーの境地では、さすがにこの段階では自分でも「悟り」とは思えない状況でしたが、それでもある程度の悟りの片鱗を垣間見た気がしたこともあります。その後、クンダリーニ活性化してマニプラ優勢になり、これが最終形態にしては何かが足りないという気がしてはいたもののある程度の悟りの片鱗を垣間見た感じがしておりました。次のアナハタ優勢になった時は更にポジティブになり、最終ではないことが今度も流石にわかりましたが、それでも一般的には悟りと言っても差し支えない状態になり、きっと一昔前であればアナハタ優勢でも悟りと言って良い状態だったのかと思います。今は人々の意識レベルが上がってきていますのでアナハタ優勢の人は数多くいらっしゃる気が致しますし、社会の中で活躍されている方にはこのアナハタ優勢のレベルを、本人はそれと気付かずに生活されている場合も多いような気が致します。<br /> <br /> そして今回、ここ1ヶ月くらいでスローモーションのヴィパッサナー状態に突入したわけですが、ゾクチェンの段階を勉強するとそれがようやく2段階目だということが明らかで、私が今まで悟りの片鱗を垣間見たと思っていたのは、実はまだまだだったのだ、というのが良くわかります。<br /> <br /> ですが、ゾクチェンの本を読みますとシネーの境地とテクチュの境地の間は溝が大きいとのことですが、テクチュの境地の後は一続きのようですので、一旦テクチュの境地のスローモーションのヴィパッサナー状態のコツが分かってしまえば、あとはその先に進むだけだと明確にわかりましたので迷わなくて良いです。<br /> <br /> 今までゾクチェンの本を何冊か読んできましたが謎な表現が多く、なかなか読み解くのが難しかったですが、最近になってわかりやすい本「ゾクチェン瞑想マニュアル(箱寺 孝彦 著)」が出てきて参考になりました。<br /> <br /> 本当はこういうのは師匠に見てもらうのが一番なんでしょうけど、師匠になり得るほどの人かどうか見極めるために質問を浴びせまくると逆にめんどくさがられることが多いので、今まで師匠と思えるような人に巡り合ったことはありません。べつに議論をしたいわけではなくて、師匠になってくれるほどの人であればそのくらいの質問に簡単に答えて欲しい、という気持ちの方が多いのですが、どうも、ピントがずれた回答ばかりだったりめんどくさがられたりして、師匠と思える人に巡り合ったことはないです。 私の場合、内なるガイドがいるので、それで十分と言えばそうなのですけど。<br /> <br /> Fri, 17 Jan 2020 00:00:00 +0900 生きているが生きていない人生 https://w-jp.net/2020/1803/ <br /> 昔、誰かがそう言っていたのを思い出しました。<br /> <br /> 人は、生きているが生きていない。<br /> 人は、ものを見ているが見ていない。<br /> 人は、人を見ているが見ていない。<br /> 人は、歩いているが歩いていない。<br /> 人は、食べているが食べていない。<br /> <br /> ・・・たしか、そんな感じの言葉だったと思います。<br /> <br /> とても昔、20~30年前にどこかの本で読んだのか、あるいは、誰かが言っていたのか、そんなことをふと思い出しました。<br /> <br /> どうやら、その境地とは ヴィパッサナー(観察) あるいは サマーディ のことを意味していたのだと今はわかります。<br /> <br /> ヴィパッサナー状態あるいはサマーディの状態であれば、生きていることが瞬間瞬間の経験になりますが、それ以前であれば、生は鈍い体験にしかなりません。<br /> <br /> ヴィパッサナー状態であればスローモーションで認識されるほどの細かな経験になり、それ以前であれば遥か昔のカクカクなアニメあるいは4コマまんがのような経験になります。<br /> <br /> そのことを、昔の人は上のように表現したのかなと思います。<br /> <br /> 上の文は詩ですので論理的には何のことを言っているのかわかりませんが、それを理解するにはヴィパッサナーの状態が必要だったわけです。<br /> <br /> そういえば、この話を聞いた時、同時に次のようなことも聞きました。「頭で考えるんじゃない。感じるんだ」、と。 スターウォーズやニューエイジや禅の好きな人が言いそうな言葉ですが、感じたところでわからない人にはわからないものです。それよりも、事細かにきちんと説明してくれた方がよくわかります。<br /> <br /> 今となれば日常生活上のヴィパッサナー瞑想を経験できるようになってこのことがわかるようになりましたが、かと言って、上の詩のような文を改めてみたところで「感じる」ことでその内容を読み解くのは今ですらかなり困難です。「感じる」ことではなくて、自分の経験と照らし合わせて論理的に組み立てるとこのことを言いたかったことがわかるのであって、当時は、「ふうん。感じることでわかるんだ???」と謎な感じを受けていましたが、今わかるのは、「感じることでは理解できないので、感じようとして理解できなくても全く問題ない」と言うことでした。「感じる」というのは結果であって、ヴィパッサナーに至るための方法ではなかったわけです。結果として感じられるようになるということであって、感じていれば辿り着くわけではないのだと思います。<br /> <br /> 今わかるのは、スピリチュアル業界にはわかるようなわからないようなことをあれこれ言う人が大勢いますので、あまり事細かに付き合う必要はない、ってことですね。詩的表現は目を引くものがありますけど、実際の感覚とは随分と違うなあ... というのが感想です。詩的表現を読むと、本当はわかっていない人が分かった感じになるのも良くない気もします。<br /> <br /> 言葉の追求をしすぎても仕方がなくて、自分の状態が先にふと変化して、その経験を元に表現をしたり、その経験に照らし合わせて書物に書かれてある内容を読み解く、と言うのが良い気がしています。<br /> <br /> コンサルとかカウンセリングと一緒で、書籍や文章というのは外側にあるものですので「確かめ」のために使う、という感じですかね。本当の理解は自分にしか作り出すことができないのだと思います。ですが、幅広い見解を持つため、あるいは、自分の状態を確認するために外部の情報は使えると思います。<br /> <br /> Thu, 16 Jan 2020 00:00:00 +0900 半眼の瞑想、座禅 https://w-jp.net/2020/1802/ <br /> 座禅では半眼で瞑想をするようで、私はヨーガ式に目を閉じてしていますが、最近になって半眼もありかな、と言う感じになってきました。<br /> <br /> 半眼あるいは普通に目を開いて瞑想をするともちろん視野に物理的な映像が見えるわけですが、おそらくは日常生活上のヴィパッサナー瞑想が可能になる以前に目を開けてしまうと雑念が多くなってしまってうまく瞑想できない気が致します。<br /> <br /> 一方で、スローモーションで見えるくらいのヴィパッサナーが可能な状態で目を開けて瞑想をすれば視野に惑わされずに視野を観察するだけのヴィパッサナー瞑想が可能になるように思います。<br /> <br /> ただ、個人的には、ヴィパッサナー瞑想をするのであれば止まった視界よりも歩きながらの変化のある視界でヴィパッサナーをした方が効果が高いかなあ、という気が今はしております。慣れると違うのかもしれませんけど。<br /> <br /> 視野をスローモーションで観察しても、座っているとさほど景色が変わりませんので変化を見極めようとしますと目を凝らして細かいところを見なくてはなりませんので、ちょっと目が疲れやすい気が致します。一方で、歩きながらであれば景色はよく変化しますのでさほど目を凝らさなくてもヴィパッサナー状態が保てます。<br /> <br /> そのような違いもありますし、座っている時は視野よりも内的な体の感覚にフォーカスした方がヴィパッサナー瞑想しやすい、という個人的な好みもあります。<br /> <br /> どちらにせよ、おそらくは目を開けて行う瞑想は中級者以上向きかなあ、という気がしております。<br /> <br /> 上に書きましたように視界に惑わされて雑念が増えやすいということもありますし、そもそも瞑想の基本である集中ができていない段階で目を開けても混乱しやすい気が致します。<br /> <br /> ただ、目を開けると言っても、目の前に絵や文字を置いて心の中に浮かべる、例えば禅の阿字観(あじかん)のようなものであれば目を開けていても実際はその映像に釘付けにするわけですから、それは初心者でもありかな、という気も致します。ただ、個人的にはそういうやり方はしてきませんでしたのでここは想像ですけど。<br /> <br /> Wed, 15 Jan 2020 00:00:00 +0900 ヴィパッサナー状態で生まれてくる子供とそうでない大人 https://w-jp.net/2020/1799/ <br /> 全員がそうかはわかりませんが、日常生活上でのヴィパッサナー状態で生まれてくる子供がそれなりにいると思います。<br /> <br /> ここで言うヴィパッサナー状態とは以前記載しましたようなスローモーション体験での観察状態のことですが、大人になればなるほどそう言ったヴィパッサナー状態は失われやすく、ヴィパッサナー状態に理解のある大人の元で育つ子供とそうでない子供との間に成長力の面で著しい差が生じるような気が致します。<br /> <br /> ヴィパッサナー状態の子供は何事もスローモーションで観察して事細かに大人に報告したりその面白さを伝えてきますが、大人は往々にしてそれほどの観察力がない、あるいは、そこまで集中する子供の態度に興味がなかったりしますから、その興味が噛み合わない場合は子供のヴィパッサナー能力は次第に薄れてゆく気が致します。<br /> <br /> 環境もそうですね。ヴィパッサナーを更に育てるような静かな落ち着いた環境であれば良いのですが、騒がしい環境では次第に子供の観察力・ヴィパッサナー力は落ちてゆきます。<br /> <br /> ヴィパッサナー力が落ちるとスローモーション体験もいつしか失われ、1秒間で数コマの認識能力に落ちてゆきます。<br /> <br /> それは集中力の低下に繋がり、学力や思考力にも影響を与えます。<br /> <br /> 大人がヴィパッサナーの子供と接する場合、そのヴィパッサナーに理解があるのかどうか、そして、そのヴィパッサナーを育てるかどうかが子供の成長の鍵になるわけです。<br /> <br /> ヴィパッサナーで観察した事項に対して事細かに大人が興味を示したり、子供の態度をめんどくさがることなく興味を持ち、もちろん怒鳴らず、からかうこともせず、当たり前だとスルーすることもせず、もちろん馬鹿にもせず、子供のヴィパッサナー能力を大切なものとして育てることができればその子供の能力は急激に開花することでしょう。そして、そのような子供は旧世代がかつて成し遂げなかった高い目標も簡単に達成してしまうような能力の高い大人に育つことでしょう。<br /> <br /> 過去、大人がかつての日本で育った環境では騒がしく、ヴィパッサナー能力を育てることが難しかったように思います。<br /> <br /> しかし、時が立つにつれて環境は落ち着き、ヴィパッサナーの土壌ができてきたようにも思います。<br /> <br /> それと時を同じくして、今までの環境では到底生活できなくて、それ故に転生を渋っていた魂たちが徐々に日本に転生してきているように思われます。その魂は今までの魂よりも数段レベルが高く、認識力も上ですので、大人は子供の能力を見極めることができないかもしれません。基本的にはヴィパッサナー能力があって、更にその上の認識がありますから、基本的には今の子供は今の大人よりも上のレベルと思った方が良い気が致します。<br /> <br /> まあ、例外もあるでしょうし、全てがそうであるとは保証はしませんけど。<br /> <br /> かつてあったようなくだらない子供のお遊びや習慣なども随分と変わってきたように思いますし。<br /> <br /> こう言うのって、世間では学校のテストの成績で頭がいいとか悪いとかそう言う面で捉えられがちですけど、そう言うことじゃないんですよね。確かにヴィパッサナー力のある子供は学校の成績も良い傾向があるような気もしますがそんなこと統計で調べた人なんておそらくこの世にいない気が致しますしね。ですから、ヴィパッサナー力と学校のテストの成績との相関関係はきちんとはわかりません。ですが、頭の良いと言われている家庭においては往々にしてヴィパッサナー力が大切に扱われているような気が致します。<br /> <br /> ですから、世間ではテストの成績が注目されがちですが、重要なのはむしろヴィパッサナー力であると思うわけです。<br /> <br /> 例えば、車で出かけたときにどの程度景色を子供が観察しているか、とか、部屋に入った時にどこまで細かく見ているか、とか、そう言うところですね。 観察していても記憶していない場合もあるでしょうし、ヴィパッサナー力と記憶力が必ずしもイコールな気はしませんけど、ヴィパッサナーで見ていた景色はそうでない景色よりも思い出しやすい気が致します。そう言う細かなところに違いが出てくるのだと思います。<br /> <br /> 一方で、ヴィパッサナー力に理解のない大人は子供のそう言う観察力を邪険に扱い、子供はヴィパッサナー力を失ってゆきます。<br /> <br /> これからは、テストの点数どうこうよりも、落ち着きやヴィパッサナー力で人を判断する時代になってゆくといいと思うのですが。<br /> <br /> Mon, 13 Jan 2020 00:00:00 +0900 サイキックな石の訓練とテクチュの境地 https://w-jp.net/2020/1798/ <br /> 古典的なサイキック能力開発方法で、石を手にしてそれと一体化することで石がどこにあったのか当てる、と言う修行方法があります。<br /> <br /> これはオーラを石と一体化させるわけですが、最近、テクチュとヴィパッサナー的な観察について気付きがあったわけですけれどもそのテクチュの境地とこの石の一体化の修行方法とで面白い一致があることに気がつきました。<br /> <br /> 古典的な修行方法では「石と一体化」をしますが、それは、テクチュやサマーディで「雑念をなくす」「対象と心を一体化する」と言っているのと同一なわけです。<br /> <br /> サマーディの定義は有名でしたのでそれはこのサイキックのお話と似ていることは気にはなっていましたが、まさかテクチュとサイキックなお話と繋がっているとは思いませんでした。<br /> <br /> サイキック能力開発方法で現世的能力を求めてはいても、実際のところ、本質というものは似たところにあるんだなあ、と言うのが興味深いです。<br /> <br /> Mon, 13 Jan 2020 00:00:00 +0900 散歩中に湧き上がってくる雑念を観察しつつヴィパッサナーに即座に立ち返る瞑想 https://w-jp.net/2020/1797/ <br /> 街を散歩する意識が昔とは随分と変わってきました。<br /> <br /> 今は、街を歩くと景色がスローモーションになってヴィパッサナー瞑想の状態ですので、その目の視野を純粋に楽しみます。スローモーションで撮ったカメラをスロー再生するかのように景色の移り変わりを楽しむと言う散歩です。<br /> <br /> 時々、ふと雑念が湧き上がってきますが、その雑念が湧き上がってきたことにも割とすぐに気付いて再度スローモーションのヴィパッサナー状態に立ち返ります。<br /> <br /> 以前、ヴィパッサナー瞑想の説明を受けた時に「雑念を観察しましょう」などと説明されたことがありますが、その説明が下手だったのかあるいは私が誤解して理解したのか、今から思えばそのように湧き上がってくる雑念を観察すること自体は本質ではなく、雑念なしにありのままに景色を眺めることが本質なのだとわかります。<br /> <br /> その本質の状態になるべく長く居座り、雑念が出てもすぐに気付いて本来の雑念なしのありのままのスローモーションに見えるヴィパッサナー瞑想状態に戻ることが清々しいのであって、散歩とはそのような状態で行うものへと最近は変わってきました。<br /> <br /> かなり以前の私の散歩は、ストレスなどのモヤモヤした気持ちを散らすために散歩しているような感じでした。今では全く違いますね。<br /> <br /> 最近は以前のようなモチベーションに基づく旅行にも興味がほとんどなくなっており、その意味としましては、以前のようにストレス解消やモヤモヤした気持ちを発散させるための旅行はもう興味がないのですが、散歩と同様に、このスローモーションのヴィパッサナー状態で様々な景色を見るのはありかもしれない、と最近は思うようになりました。<br /> <br /> Mon, 13 Jan 2020 00:00:00 +0900 ゾクチェンのテクチュの境地がヴィパッサナーのスローモーション体験 https://w-jp.net/2020/1796/ <br /> 半分は推測ですが、そういうことではないかな、と思います。先日にゾクチェンの3つの境地を引用しましたけれども、テクチュについて以下のようにあります。<br /> <br /> テクチュの境地とは、思考から離れた心の本性があらわれてきた状態のことです。(中略)むきだしになった心の働きのことを「リクパ」または「認識」と呼びます。(中略)あなたがテクチュの境地に留まり、リクパの認識が輝いているとき、対象とあなたの心を媒介していた思考は消え去ります。つまり、対象とあなたの心のあいだに設けられていた垣根が消え去るのです。対象とあなたの心の区別ができなくなり、対象があなたの心で、あなたの心が対象だという心の状態が生まれてくるのです。「ゾクチェン瞑想マニュアル(箱寺 孝彦 著)」<br /> <br /> 前半では重要なゾクチェン用語「リクパ」が出てきます。おそらくは、リクパとはヴィパッサナーのスローモーションな観察状態のことを意味しているのかなと思います。と言いますのも、その後に「媒介していた思考は消え去ります」と書いてあるからです。<br /> <br /> 更に続く説明には、「対象とあなたの心の区別ができなくなる」と書いてありますが、これはヨーガでいうところのサマーディの状態のことを言うように思います。となれば、サマーディはかなり多くの種類がありますが、このヴィパッサナー状態もサマーディの一部であるとヨーガ 的には言えるように思います。ヨーガでのサマーディの種類および定義は沢山ありますが、ヨーガ・スートラにはこのような「対象と心の区別がなくなるとき」にサマーディになる、と言うような定義が書かれてあったように思います。<br /> <br /> サマーディは悟りではなく中継地点ですが、それがゾクチェンで言うところのテクチュの境地であるとすればスッキリします。<br /> <br /> ただ、同書をみますとその1つ前のシネーの境地でも表現としては似ていますので、人によってはこのヴィパッサナーのスローモーション状態をシネーの境地だと判断する人もいるかもしれませんね。この辺りは、ゾクチェン的な視点で見るのであればゾクチェンのラマ僧に見て判断して頂くのが本当は一番良いのでしょうね。<br /> <br /> 今のところ、本を読んだ限りの推測のお話です。それでも、このテクチュの境地はとても興味深いものがあります。<br /> <br /> Mon, 13 Jan 2020 00:00:00 +0900 首都圏イヤシロチ計画 https://w-jp.net/2020/1795/ <br /> ここ数ヶ月、何度か首都圏イヤシロチ計画を進めるように内なる存在から促されてます。イヤシロチとは平たく言えばパワースポットのことですが、首都圏をパワースポットにする計画があるようです。<br /> <br /> 自主的に一人でも進める、という意味合いと、大いなる意思に参賀するように、という意味合いが半々のようです。<br /> <br /> おそらくいつもの内なるガイドとは別の存在で、グループソウルの一部の意志のようなのですが、それは集合意識ですので「私が行う」と「私達が行う」のと同一であるという意識による意志です。<br /> <br /> ですから、私が首都圏イヤシロチ計画を行う、とも言えれば、私達が首都圏イヤシロチ計画を行う、とも言えて、内容的には同一なのです。<br /> <br /> 具体的には何をすれば良いのかというと、通勤路あるいは良く行く場所に光の柱を天から降ろして建てて、日々の祈りや感謝でそれを育てるのが第一弾のようです。<br /> <br /> それは動いていても良いようで、電車でも良いみたいです。<br /> <br /> 基本的には駅が最初のターゲットで、駅に作る光の柱で人々を癒やすのが目的の1つですが、イヤシロチが本格的に起動したら線路が龍脈のような役割をして、魔法陣を作れるとのことです。<br /> <br /> 線路はもともとその意図で作られていないにしても、結界や法術を起動させるエネルギー・ルートの一部になり得るようです。<br /> <br /> もともと京都や東京には寺院による結界・魔法陣が作られていますから、近代の鉄道ルートをそのまま利用した首都圏イヤシロチ計画はなかなか面白そうな話ですね。<br /> <br /> とりあえず私は通勤路やよく行く場所で光の柱を建ててみたいと思いますが、平行世界にいる私のグループソウルならちゃんとできますけど私はそんなにうまくできませんので、この世界(タイムライン)におけるセンサーと位置を示す為のポインター役からスタートかなあ、という感じです。<br /> <br /> 古典的には神社や寺院がそのような光の柱を降ろす場所として使われておりましたが、最近はうまく機能していたりしていなかったりするようです。それと、今回の計画を意図している意識体と古くから神社や寺院でイヤシロチ化を行っていた意識体とはちょっと違うようですので、古来のイヤシロチではなく新たな魔法陣を作ろう、という意図があるようです。<br /> <br /> それはべつに対立しているというわけではなく、新たな時代に向けた実験のような位置付けでもあるようです。<br /> <br /> 例えば新宿駅や原宿駅、渋谷駅などがイヤシロチ化することを目指しています。<br /> <br /> 既に十数年前と比べては随分と浄化されてきておりますが、これから本格的に光の柱を立てていくというのが大いなる意志のようです。<br /> <br /> これは最初の柱を立てるのが難易度が高いですが、既に立っている柱を強化するのは割と誰でもできることなので協力してほしい、とのことです。<br /> <br /> 私の過去生とパラレルワールドの記憶を辿ってみますと、まず、自分のクンダリーニ覚醒を基本にして天からのエネルギーと繋がることで自分という地点と天との光の柱は作り上げることができます。ですが、それは自分という地点に対する光の柱でしかなくて、今回はとある場所に光の柱を作ることになるわけですけれども、自分の光の柱を作ることができる人が自分から光を分岐させて天に伸ばして、天から近くの地点にグイッと光の柱を分岐させることで好きな場所に光の柱を打ち立ててイヤシロチ化することができます。<br /> <br /> その光の柱は、自分の光の柱を分離させて作ることもできますし、あるいは、根本自体をちょっと離れた場所を起点にして天からエネルギーを降ろすこともできます。<br /> <br /> この光の柱の根本の先がどうなっているのか、そこのところはよく分かりません。おそらくは大いなる存在、いわゆるハイヤーセルフ、あるいはハイヤーセルフ以上の存在などと繋がっているのかな、と推測しております。<br /> <br /> その光の柱をまずは鉄道駅に何本も作るのが最初の目標で、それにより、駅を通るだけで人々が浄化されて活性化してゆきます。<br /> <br /> 駅がある程度浄化されれば、駅を通る電車やそれに乗る人によって線路が龍脈のようにエネルギー・ルートになり、魔法陣を形作ってゆきます。<br /> <br /> その光の柱を最初から作るのは難易度が高いので、駅などで光の柱っぽいものを感じたら、それに同調して、育てていってほしい、とのことです。具体的には、立ち止まらなくても良いので少し祈りを捧げるとか、心の静寂を思い出すとか、光の柱をイメージするとか、キリスト教徒であれば十字を切るとか、仏教徒であれば祈るとか、なんでも構わないので、光の柱を強化する意図を日々の活動に取り入れてほしい、とのことでした。できる範囲でやれば良いようです。<br /> <br /> 目的は「首都圏」だけのイヤシロチ化ではなくてもっと大きな範囲がターゲットで、首都圏はその一部のようです。<br /> <br /> Mon, 13 Jan 2020 00:00:00 +0900 スピリチュアルと頭痛 https://w-jp.net/2020/1794/ <br /> 色々な頭痛がありますが、頭痛はスピリチュアルで様々に解釈されるものの1つだと思います。<br /> <br /> まず、肉体的な力による緊張がある場合。特に瞑想で眉間に集中するようなやり方をしている場合は力を入れてしまうと頭痛になったりします。瞑想で眉間に集中するのは力は入れずに意識だけ集中するのですがなかなかそれがうまくいかずに無意識に力が入ってしまって緊張になり、頭痛がしてしまうことがあります。この場合は、瞑想に慣れるなどして頭の緊張をほぐします。<br /> <br /> 次の解釈としては、悪い予感などのインスピレーション。これは頭痛の場合もあれば体全体が反応する場合があります。<br /> <br /> あるいは、何か高次の存在からのメッセージだという解釈もあります。個人的にも、こういう場合もあると思います。<br /> <br /> 一般的には風邪を引いた場合ですとか、あるいは、精神医学的にはストレスによるものだ、と解釈されたりすると思います。<br /> <br /> 一方で、スピリチュアルの中でも特にサイキックな人々の中で昔から語り継がれているのが、サイキックになる予兆としての頭痛です。これは頭痛の中でも不思議な頭痛で、単に頭痛と言われていますが、ストレスの頭痛とも違えば風邪を引いた時との頭痛とも違います。<br /> <br /> このサイキックな頭痛は特にイギリス等で有名らしいのですが、日本ではあまり聞きませんね。文化的なものもあるのでしょうか。イギリスとかであれば自分の症状を表に出して表現しますが、日本ですと頭痛があっても他人に言わない気もしますからね。<br /> <br /> 例えば、スピリチュアル系の書籍では以下のように記されています。<br /> <br /> ライトボディ第八レベルでは、普通ならグリーンピース大である松果体と脳下垂体が成長し、形が変化しはじめます。それらが成長するに従って、ときどき頭のなかに圧迫感を感じるかもしれません。このプロセスのあいだ、断続的に頭痛が起こるかもしれませんし、そうでないかもしれません。「ライトボディの目覚め」<br /> <br /> 個人的には、これに該当するかどうかはまだ不明ですが、後頭部の下の中程で変な緊張と痛みがあって、どういうことかなあ? と様子を見ている感じです。 普通に病気で、脳腫瘍とかじゃなきゃいいですけど。<br /> <br /> Sun, 12 Jan 2020 00:00:00 +0900 瞑想とコーヒー(カフェイン、お茶) https://w-jp.net/2020/1793/ <br /> 昔から疑問だったのですが、ヨーガや瞑想においてコーヒー(カフェイン、お茶)を取らない方が良いとしている流派と、取る方が良い、あるいは、意見を表明していない流派があることを疑問に思っていましたが、最近、自分の中で整理がついてきました。<br /> <br /> ・ヨーガの流派の多くは、カフェイン非推奨です。例えばシバナンダ。<br /> ・瞑想の一部の流派やサークルではカフェイン推奨のようです(聞いたのは随分と昔の話なので具体的な名前は忘れました)。<br /> ・以前、テーラワーダ仏教のお話を聞きに行った時「ブッダのいた当時はカフェインが良いとか悪いとか、そういう話はなかったからそれについて指定はない」とおっしゃっていました。<br /> <br /> 個人的には、最初はカフェインは非推奨でいいのかな、と思います。後になればカフェインを取るのも自由だとは思いますが。<br /> <br /> ヨーガの先生に聞いた時は、「実際、試してみて違いを見ると良い」と言われました。誰かに言われたからやる、ということではなく、実際に確かめるというのがヨーガの基本スタンスだと理解しました。<br /> <br /> 私はもともとコーヒーはほとんど飲みませんがお茶は時々飲んでいました。お茶をずっと飲まない時もあればよく飲む時もあり、急須で入れることもあれば買うこともありました。付き合いで珈琲店に行く時は試しでコーヒーを飲んでいました。<br /> <br /> そんなこんなでカフェインについてわかるようなわからないような状態だったのですが、最近になって整理がついてきたのです。<br /> <br /> まず、カフェインの効果はヴィパッサナー瞑想の日常生活上の観察状態に似ている、ということです。しかし物質に頼っていますので反動があります。私の場合、コーヒーを飲んだ場合に、すぐ後は良いのですが1日以内に不快感を感じることが多かったように思います。コーヒーを飲まない場合と比べて違いが顕著なのでよくわかりました。<br /> <br /> 昔、ヒッピー文化の時は瞑想にも薬(今は法律で禁止)を使ったりしたようですね。強制的に意識を覚醒させても反動があるという意味では、効果の大きさはかなり違えども、薬とカフェインは方向性は同じなのかもしれません。<br /> <br /> ヨーガ的には、そう言った薬の使用は推奨しませんが、それを使うかどうかは個人の自由意志ですから他人の行動を否定しません。取りたい人は好きに取れば良いが、推奨しない、というスタンスのようです。<br /> <br /> 瞑想の一部の流派は、おそらくその覚醒効果を狙ってカフェイン推奨しているのかな、と推測していますが、具体的な話を直接聞く機会は最近ほとんどありません。<br /> <br /> ヨーガでカフェイン非推奨である理由をヨーガの先生に聞きますと、団体でそういうことになっているという理由だったり、アユールベーダ的な説明をして頂いたことがあるように思います。簡単に言えば、コーヒーなどのカフェインは刺激があるから瞑想に良くない、という理由のようです。<br /> <br /> ヨーガではカフェインのみならず、辛いものなども非推奨になっています。<br /> <br /> 個人的な経験と比べてみますと、瞑想の最初はサマタ(集中)で意識を鎮めていく必要があり、その後、ヴィパッサナー(観察)の段階に移るのですが、ヴィパッサナー状態に移行してしまえばその後で刺激物やコーヒー(カフェイン、お茶)を取ろうとも影響は少ないと思うのですが、段階としてサマタをしなくてはいけない人がコーヒー(カフェイン、お茶)を取ると瞑想の妨げになるのではないかな、と思います。あるいは、サマタを育てずにヴィパッサナーを育ててしまうことになります。<br /> <br /> これはカフェインに限らないのですが、サマタなしにヴィパッサナーだけを育てると神経過敏と言いますか、色々なことが見えるようになる一方で自分の制御が効かない状態になりやすい気がします。平たく言いますと「キレやすい」状態になり、危険だと思います。<br /> <br /> そういうことで、個人的には、やはり最初はカフェインは非推奨でいいのかな、と思います。<br /> <br /> カフェインなしに「鎮める」サマタ瞑想を最初に行って、後でヴィパッサナーに移行したら好きにすればいいわけです。<br /> <br /> ですが、ほとんどの場合はヴィパッサナー瞑想にまで行かない気がします... と言いますか、ヴィパッサナー瞑想に行ける人は、最初からそういう素養がそれなりにある気が致しますので、素養がある人はカフェイン取っても影響少ないのかもしれませんが、やはり、基本はカフェイン非推奨がいいと思います。<br /> <br /> Sat, 11 Jan 2020 00:00:00 +0900 食事をする時に食材に感謝をする https://w-jp.net/2020/1792/ <br /> 最近改めて、食事をする際に感謝して食べるという日本古来の風習の良さを感じております。<br /> <br /> それは習慣として、道徳として教え込まれてきたことですけれども、その理由を体感することは今まであまりなかったように思います。<br /> <br /> 今は、食べ物に感謝をすると食べた時の感覚が全然違います。これほど、食べ物に感謝することの効果があるとは思っていませんでした。<br /> <br /> 私はもともと雑食でしたが、最近はなるべく植物を多く取るようにしております。ただ、お肉や魚を完全に食べないわけではありません。特に日本ですと出汁や下味に含まれていますし、外食で選択肢がほとんどないこともありますし。<br /> <br /> ベジタリアンは最近の言い方ですとプラントベースダイエット(植物由来の食事)とか言われているみたいですが、自分のことをベジタリアンとは言っていません。何でも食べますが、お肉はなるべく避けることを基本にして、欲求が求めたら食べてみたりもします。しかし、大抵の場合はお肉を食べたことを後悔します。きっと気分的にはよろしくなくても栄養素的に体が欲しているのだと理解しています。<br /> <br /> 先日、植物や昆虫を傷つけるとハートが痛むということを書きましたが、その観点からしますと、動物であろうとも植物であろうとも、調理されて食卓に並ぶという点では命を奪って人間が頂くという点に関しては変わりないと思っております。ただ、動物の方がより強い怨みの念を持ちやすく、動物の肉の悪影響を人間が受けやすい気が致しますのでなるべく避けております。その点、魚が恨んでいると感じたことはありませんので動物性の栄養素を取る必要性を感じたときは地上の動物よりは魚の方を選んでおります。<br /> <br /> 植物であっても、スーパーに並んでいるようなものはオーラ的には「ふつう」と言った感じを受けることが多いです。お肉は「若干、恨みの念あり」という感じがしますが、それほど気になるほどのものではありません。<br /> <br /> それよりも、食堂やレストラン等で食事をする時は食材よりも調理人のオーラの影響を受けやすいようにも思います。<br /> <br /> まあ、そんな訳で、外食よりは自炊を好むわけですけれども、食事をする時に黒いオーラを取り込んでしまうことも多々ありました。<br /> <br /> 良いレストランに行けば場所によってはそんなこともなかったりもするのですがそれはお金もかかりますし、自炊ならマシですが外食は私は長年、そんなものかな、しょうがないな、と思って食事をしてきたわけですけれども、ふと先日の経験を思い出して、植物であろうとも命を頂いているのだし、たまに動物を食べるときは明確に命を頂いているのだから、感謝しなくてはいけないかな、と、最初は何となくそんな気がして試してみましたところ、思っていた以上に効果絶大でした。食事の時に感じる不快感が激減しました。きっと今までは未浄化のオーラを一緒に体に取り込んでしまっていたのかなと。<br /> <br /> 今までは食事をするにしても食材任せ、あるいは、レストラン任せと言った感じでありましたが、これからは、出されたものが良くても悪くても自分で食材に感謝して有り難く頂くよう心がけたいです。<br /> <br /> そうすることで実質的に不快感も減りますし、もともと美味しい食べ物はもっと美味しく頂けるのかな、とも思います。<br /> <br /> きっと今までは、オーラ的な美味しさよりは肉体的・物質的な美味しさを感じていましたが、今は肉体的・物質的な美味しさはあまり興味がなくて、オーラ的な美味しさ、それはつまり快適さとか清々しさといった種類のものですが、そっちを求めるようになってきている気が致します。<br /> <br /> Fri, 10 Jan 2020 00:00:00 +0900 オーラのざわつきを鎮める瞑想 https://w-jp.net/2020/1791/ <br /> 最近はオーラを凝縮させて後頭部に集中していたわけですが、今朝はその範囲が広がって、身体中の皮膚の表面に合わせて凝縮させるような感じになってきました。後頭部に集中させるよりは密度は薄いですが範囲は広く、日常生活向きのような感じが致します。<br /> <br /> 朝起きた時などはオーラが揺らいでいてオーラの波がざわついている感じですが、こんな感じに皮膚に合わせてオーラを安定させることを意図するとその意図通りに皮膚に合わせて安定する感じが致します。<br /> <br /> 今日は、以前書いたようなゼリーのような感覚はしていません。<br /> <br /> 後頭部への集中とかあるいはサードアイの変化で書いたような変化はこれとは関係なさそうな感じですが、そういったことを抜きにしても、日常生活を送る上においてオーラを安定させるためにこのような瞑想をするだけでも役立つような気が致します。<br /> <br /> 瞑想では止観が重要とされていて、それは止(集中、サマタ、シャマタ)と観(観察、ヴィパッサナー)のことですが、サマタが足りないとこんな感じにオーラは安定しないかもしれません。<br /> <br /> Fri, 10 Jan 2020 00:00:00 +0900 ヨガ経歴(2020年1月版) https://w-jp.net/2020/1790/ <br /> 以前に書いたものに少し追記しておきます。(太文字部分を追記)<br /> <br /> <br /> ・2015年1月 インドのアシュラムで生まれて初めてのヨガ 2週間 合宿。その後しばらくブランク。<br /> ・2016年10月 日本の近所でヨガ再開。1週間ごと1回90分<br /> ・2017年8月 ヨガの頻度を上げ、ほぼ毎日90分<br /> ・2017年10月 雑念が減ってくる。ようやくヨガをしている感じになってくる。ヘッドスタンドが短時間だがようやくできるようになる。<br /> ・2017年11月 ナーダ音が聞こえ始める。ヨガをほぼ毎日し始めてから約3ヶ月後。ナーダ音が聞こえ始める1週間前から「無」を経験して寛ぐことができるようになりましたが、わずか1週間で「無」はナーダ音に置き換わりました(詳しい経緯はこちら)。<br /> ・2018年1月 第1回目のクンダリーニ体験。ムーラダーラの電気ショックと眉間の皮膚から数センチ離れた空中(アジナ・チャクラ?)でのエネルギーの爆発。ほんの少しのエネルギー。<br /> ・2018年1月 身体中がオームに包まれる経験(第1回目クンダリーニ体験の約10日後)。<br /> ・2018年2月 ヨガのアサナは元々苦手だったが、ようやく人並みにできるようになる。<br /> ・2018年2月 雑念の減るスピードが上がる。20分の瞑想があっという間に感じられるようになる。<br /> ・2018年2月 日常生活でクンバカ(息止め)が自然に起こるようになる。いわゆるケヴァラ・クンバカ(Kevala Kumbhaka)。<br /> ・2018年3月 ヨガのアサナの1つであるフルブリッジ(チャクラ アサナ、車輪のポーズ)ができるようになる。<br /> ・2018年5月 鼻の詰まりが数十年ぶりに解消された。鼻呼吸が可能になった。プラナヤーマが楽になった。<br /> ・2018年6月 植物や昆虫を傷つけるとハートが痛むようになる。<br /> ・2018年8月 ゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想合宿を経験。宗教でした。<br /> ・2018年11月 イダとピンガラの目覚め(第2回目のクンダリーニ体験)。マニプラ優勢になる。クンダリーニ本体はまだ上がっていない雰囲気。2つの光の筋が上がっただけ。仙骨か尾骨のあたりに熱を帯びて血液が激しく脈打つ。かなりポジティブになる。性欲がかなり解消されて自然な(努力のいらない)ブラフマチャリア(禁欲)の達成(性欲10分の1)。睡眠時間の短縮。声が出しやすくなる。呼吸が浅くなる。ケヴァラ・クンバカが起きなくなる。<br /> ・2019年4月後半から約1ヶ月間、お風呂場での頭からの冷たい水掛けがマイブーム。<br /> ・2019年5月 眠りの質の変化。明確な意識はまだないが多少は意識が刺激された状態のまま眠る感じに変化。<br /> ・2019年5月後半、時々音楽っぽいナーダ音が聞こえるようになる。<br /> ・2019年6月 右足首を骨折して1週間ほど入院。これから約3ヶ月は松葉杖生活。<br /> ・2019年7月 第3回目のクンダリーニ経験。アナハタ優勢になる。(五大要素の)「風(Air)」のエネルギーによる竜巻が腰から頭まで上昇。光の筋はなし。竜巻は頭の周囲で発散(頭上および前後左右に発散)。うなじの下(大椎?)に少しの熱を帯びて血液が脈打つ。ハートがジンジン。第2回目ほどの変化はなし。性欲が更に10分の1 (第2回目クンダリーニ以前と比べると100分の1) 。 悪口の根絶が起こる。骨折による痛みが常にあるので、強制的にヴィパッサナー瞑想しているような感覚。<br /> ・2019年9月 ムーラダーラの活性化。 足の気力が少し増加。足の感覚が少し敏感になる。手の感覚も足ほどではないが少し敏感になる。「におい」に敏感になる。「におい」だけで「味」も感じるようになる。淀んだ空気(の匂い?)が苦手になる。いわゆるグラウンディングの力が若干上昇。他人の淀んだオーラによる自分への悪影響が低下し、自立力が高まる。優勢なのは依然としてアナハタ。<br /> ・2019年11月 古代の唱え方でのオームとチベットのマントラを唱え始める。<br /> ・2019年12月 オーラのエネルギーがアジナ優勢に変化。<br /> ・2019年12月 日常生活上でのヴィパッサナー状態の開始。<br /> <br /> <br /> Wed, 08 Jan 2020 00:00:00 +0900 植物や昆虫を傷つけるとハートが痛む https://w-jp.net/2020/1789/ <br /> 昔のメモから記載します。<br /> <br /> [2018年6月27日]<br /> ここ数ヶ月、植物や昆虫を傷つけるとアナハタチャクラあたりが痛むようになってきました。プランタの植物をシャベルで傷つけてしまったり、ドアにいる昆虫を少し踏んでしまったりすると痛みが伝わってきます。それもかなり酷い痛みです。子供の頃は田舎暮らしで、昆虫や植物なんて何とも思わなかったのですが。何が変わったのか。ヨガで感覚が鋭くなったからかもしれません。<br /> <br /> <br /> ・・・これはその後、アナハタ優勢になった時に更に決定的になり、悪口の根絶という形になって現れました。この時はまだ、強い痛みを感じはしますがそこまで決定的ではありませんでした。<br /> <br /> 更にその後、自分のオーラが強化されたのか何なのか、痛みに強くなりました。2つの面があるかもしれませんね。感じやすくなる、という面と、強くなるという面。この時は、感じやすくなった時だったのかもしれません。<br /> <br /> このことは、植物であっても意識があるという確かな認識に至りました。そういうことはたまに耳にするわけですけれども、説明として植物も意識があると聞くのと、実際にこのように感覚を受けるのとでは自己認識にかなりの差があります。私は完全なベジタリアンではなくて植物を多めに取る食生活をしていますが、たとえベジタリアンであったとしてもこのように意識のある植物を頂いているのですからその点では動物と変わらない面も確かにあるのかな、とは思いました。植物の方が自分が食べられてしまうことに対して寛容っぽいので食べるならば動物よりも植物の方がマシ、という感じでしょうか。<br /> <br /> Wed, 08 Jan 2020 00:00:00 +0900 数十年ぶりに鼻の通りが良くなる https://w-jp.net/2020/1788/ <br /> 昔のメモから記載します。<br /> 私は子供の頃から何十年もの間ずっと左の鼻が詰まっていたのですが、当時、ヨガの手法で解消しました。<br /> <br /> [2018年5月17日]<br /> ここ数週間、ネティポットでジャラネティをしているが、それでも左の鼻が通らなくて万年鼻づまり状態は継続中です。<br /> <br /> そんな時、ふと思い立って、久々に糸というか専用のゴム糸を使ったスートラネティを試してみました。<br /> <br /> 前は、ちょっと入れただけで痛くてとても無理な感じでしたが、今日は、多少は痛いけれども工夫しながら時間をかけて喉の奥まで糸を通すことができました。喉の奥の糸は手で掴むのに失敗しましたが、それでもクネクネ動かして掃除はできます。<br /> <br /> そうしたら、翌日、鼻の通りが劇的に良くなりました! こんなにすっきりしたのは十数年ぶりかも? もっと早くやっておけば良かったです。<br /> <br /> この後、しばらく同様の手法を使って鼻の掃除を繰り返したところ、ほぼ再発しない状態になりました。<br /> <br /> 今まで口呼吸だったのが鼻呼吸できるようになりました。ヨガのプラナヤーマも楽になりました。<br /> <br /> 今から思えば、鼻が詰まっているのにヨガのプラナヤーマで鼻呼吸の呼吸法をよくやっていたなと我ながらびっくりします。いつも息が苦しくて大変でした。<br /> <br /> 今もそれほど得意ではないですけど、当時はとてつもなく大変だったように思います。<br /> <br /> Wed, 08 Jan 2020 00:00:00 +0900 日常生活中のケヴァラ・クンバカ(自然に起こる止息) https://w-jp.net/2020/1787/ <br /> 今は起こりませんが、当時、日常生活で自然に息が止まる経験を度々しましたので当時のメモから記載しておきます。<br /> <br /> [2018年2月26日]<br /> 昨夜くらいから、ベッドにいるとき、あるいはリクライニングチェアでうとうとしている時、息を「吐いた」状態で自然に息が止まってしまうことがある。クンバカ(止息)が自動的に起こる。そのままクンバカを続けても良さそうですが、そのまま続けると意識が落ちてしまって危ない感じがして早くも30秒前後で意識的に無理やり指示を出して息を吸うように指示しました。でも、うっかりしているとそのうちそのまま落ちてしまいそうです。落ちてもいいのでしょうか? うとうとしている時だけでなく、リクライニングチェアで本を読んでいても息が止まります。度々そういう感じになります。<br /> <br /> そういえば本で、自然にクンバカが起こると言う Kevala Kumbhaka のことを読んだ記憶があります。THE SCIENCE OF PRANAYAMAの第2章と3章に記述あり。Meditation and Mantraなどのヨーガスートラにも記載あり。ですが、今回の現象がこれかどうかは不明です。<br /> <br /> 睡眠時無呼吸症候群(SAS)のような気もしますが診断はしていません。<br /> <br /> [2018年3月6日]<br /> リクライニングチェアあるいはシャバアサナで息を吐き出してそのまま息が勝手に止まる時、ムーラダーラ(会陰)のあたりがモワモワ&サワサワとします。会陰だけがサワサワするときもあるし、下半身に円状のモワモワが発生して、それが太ももの上などにサワサワっと触れた後に会陰のあたりがモワモワ&サワサワとするようにサワサワの場所が移動してゆく場合もあります。どちらにせよ、多くの場合で会陰がサワサワとします。<br /> <br /> そうしていなくても度々は会陰がしょっちゅうサワサワしている今日この頃ですがが、特に上記のようクンバカすると会陰がサワサワしやすいです。頻度が上がります。<br /> <br /> それと、最近、アジナチャクラの額の部分の肌が常にピンと張っている感じ。会陰と関係があるのかないのかは不明です。<br /> <br /> <br /> その後、クンダリーニ活性化したら起こらなくなりました。<br /> <br /> 関連記事: クンダリーニ経験後、クンバカが苦手に<br /> <br /> Wed, 08 Jan 2020 00:00:00 +0900 体がオームに包まれる経験 https://w-jp.net/2020/1786/ <br /> 記載していなかったかもしれませんので、2018年1月17日のメモに基づいて記載しておきます。<br /> <br /> 第1回目クンダリーニ体験の約10日後、リクライニングチェアでうとうと寝てたら、夢の中なのかなんなのか、腰から頭の中までシンギングボールのオームのようなキーンというかウォーンという高い音に包まれて、意識がはっきりしてそのまま起きました。シンギングボウルにも色々種類があって、大きなものは低い音、小さなものは高い音が鳴りますが、これはとても高い音でした。<br /> <br /> 腰のあたりが最初にオーラに包まれて、その音はどんどん秒単位で上昇して、上昇するにつれてオーラが頭まで包まれ、頭で包まれれば包まれるほど音が大きくなり、オームのようなシンギングボールの大きな音に包まれて、音が大きくなるにつれて意識がはっきりしてきて目が覚め、そのまま起きたのです。実際のオームの音とはこういうものかもしれません? ただの夢かもしれませんけどね。<br /> <br /> 腰のあたりの時は低い音。その後、そのオーラの中心は上に移動。<br /> 上に移動するにつれ、音はだんだんと高くなりました。<br /> 胸のあたりが中心になる時は既にかなり高い金属音。<br /> 頭の方にまで移動したら金属音を通り越して、よく聞こえないような高すぎる音になったのか、あるいは、音が小さくなったのか、どちらなのかは明らかではないですが、とにかく、音が小さくなって行きました。<br /> そして、やがてはオーラが消えて、音も同じくして聞こえなくなりました。<br /> <br /> フラループのようなエネルギーが下から上に突き抜けたとも考えられますが、視界には見えていないのでフラループのような形だったかどうかはわからないです。立体的に球で包まれたのかもしれないです。<br /> <br /> Wed, 08 Jan 2020 00:00:00 +0900 第1回目のクンダリーニ体験 https://w-jp.net/2020/1785/ <br /> 記載していなかったかもしれませんので、昔のメモに基づいて記載しておきます。これは、以前にも少し言及しました。<br /> <br /> [2018年1月6日]<br /> 当日、リクライニングチェアでうたた寝していたら、急にアジナあたりの肌の上で空気あるいは電気的なバチッという小さな衝撃が走って飛び起きました。体の中ではなく、体の表面で、肌から1cmくらい離れた距離だと思います。バチッという衝撃の感覚はありましたが、電気的な刺激はほんの少しで、主に空気圧による急激な空気の動きに似ていて、風船が割れたときに”音なし”で空気だけがボンっと振動する感じ、あるいは、ダイナマイトの振動の弱いものを”音なし”でちょっとだけ感じるのに似ています。強さのボリュームは「弱」。とても微弱な刺激。<br /> <br /> これによって視界に何か変化が生まれた訳でもなく普段通りです。なんでしょう、これ。<br /> <br /> ふと思い返せば、その直前に、いわゆる(男性の)ムーラダーラの場所である会陰(お尻の穴の少し上の皮膚)にピリピリッ!と刺激があって、方向としては会陰(お尻の穴と男性性器の中間くらい)から上方向にペニスに触れるあたりまで皮膚上に上方向の電撃が走ったのを思い出しました。うたた寝状態でしたのでどのタイミングだったのかあまり覚えていないです。その強さのボリュームも「弱」。とても微弱な刺激。<br /> <br /> ほとんど寝ていたのでどっちがどの順番で起きたのか正確なところは覚えていなくて、もしかしたら時間的に離れていた可能性もあります。<br /> <br /> びっくりして飛び起きましたのでその前後のことは認識が曖昧ですが、先に下半身の電撃が走ってからアジナのショックが来たと考えると理屈に合います。<br /> <br /> ただ、よく文献で読むような衝撃的なクンダリーニ上昇というわけでもなく、単に下半身とアジナが個別に電気ショック受けたような感じで、それも、とても弱いものなので、「上昇」などというほど大そうなものではなく、単にムーラダーラチャクラに刺激が走ったことに反応してアジナにもちょっと刺激が入った、というくらいのちょっとした反応でしかなかったように思えます。ですので、これをもって「クンダリーニ上昇」などとはとても言えないようなお粗末な体験ですが、それでも、ちょっとした変化があったのは面白いです。これがいわゆる「クンダリーニ上昇」に繋がるのかな?<br /> <br /> ・・・ここまでが当時のメモです。後から思い返せば音っぽい感覚があったような気もしますが、当時のメモを見るとはっきりと「音なし」と書いてあります。衝撃は感じるのに音はあるようなないような? うとうとしていたので音を認識していなかったのかもしれません。<br /> <br /> Wed, 08 Jan 2020 00:00:00 +0900 十牛図と比較したサードアイの変化 https://w-jp.net/2020/1784/ <br /> 先日、過去性の記憶から辿るサードアイの変化について記しましたが、それと十牛図のステップが対応していることに気が付きましたので少しメモ的に記載してみたいと思います。<br /> <br /> 第一図 尋牛(じんぎゅう)<br /> 第二図 見跡(けんぜき/けんせき)<br /> 第三図 見牛(けんぎゅう)<br /> 第四図 得牛(とくぎゅう)<br /> 第五図 牧牛(ぼくぎゅう)<br /> 第六図 騎牛帰家(きぎゅうきか)<br /> 第七図 忘牛存人(ぼうぎゅうぞんにん)<br /> 第八図 人牛倶忘(にんぎゅうぐぼう)<br /> 第九図 返本還源(へんぽんかんげん/へんぽんげんげん)<br /> 第十図 入鄽垂手(にってんすいしゅ)<br /> <br /> ここで主に参考にしておりますのは「悟りに至る十牛図瞑想法( 小山 一夫 著)」という書籍です。その書籍の記述を元に、自分の記憶と感覚とをそれぞれのステップに当てはめてみたいと思います。<br /> <br /> まず第三図「見牛(けんぎゅう)」にてヨーガ・スートラの目的である心理作用の止滅を達成します。これに関しては以前から何度か書きました。更に、最近はヴィパッサナー状態に移行しました。これでおそらくは「見牛」のステップが完成したのだと思います。<br /> <br /> 次は第四図「得牛(とくぎゅう)」です。上記の書物を読みますと「真我(アートマン)」を安定させるステップと記されています。更には色々と細々な前提条件が必要のように書かれてあります。ヨーガで言うところのスシュムナという背骨に沿った主要なエネルギールートであるナディが浄化されていなくてはならず、その浄化されたスシュムナにエネルギーを通して強化するステップであると個人的には解釈しました。これはおそらく、最近やっているオーラの凝縮のステップが相当するのかなと思います。それを少し続けたところゼリーのような感覚に変わってきておりますので、上記の書物で言うところの「無形の真我を鎮める」というステップに相当するのかな、と思います。これまた同書では細かいステップが書いてありますが師匠がいることが前提の記述ですのでそのまま参考にはできませんが、所々参考になる箇所があります。同書によれば、このステップではまだ完全に真我を安定させることはできず、真我の安定に取り掛かるためのステップのようです。まとめますと「得牛」のステップはスシュムナの浄化を前提としてオーラをスシュムナに取り入れて安定・強化を開始するステップだと解釈できます。<br /> <br /> 次は第五図「牧牛(ぼくぎゅう)」ですが、上記の書物の説明を読みますと第四図の「得牛」と一続きのように思われます。同書で「真我(アートマン)の離脱」と呼ばれているステップの準備として位置付けられているようです。この「牧牛」は前の第四図「得牛」で開始した「真我の安定」を完成させるステップのようです。<br /> <br /> であれば、私はきっと今はこのステップにいるのでしょうね。このあたりは、先日書いた過去生の記憶から辿るサードアイの変化と比較しますと、頭の中に核となるものを瞑想で作り上げるステップに相当するのかな、と思います。<br /> <br /> 次の第六図「騎牛帰家(きぎゅうきか)」は、同書によれば、前の第五図「牧牛」で完全に安定した真我(アートマン)を、同書で言うところの「離脱」を行って神我(ブラフマン)と一体化させるようです。これは私はまだ未経験ですが、過去生の記憶から辿りますと、頭の中で形となって作られたサードアイ(あるいはフォースアイと呼んだ方が適切か)を頭の上から出して多次元的な視野を得るステップに相当すると思われます。<br /> <br /> 次の第七図「忘牛存人(ぼうぎゅうぞんにん)」ですが、これは過去生の記憶を辿りましてもどのような感じかあまり思い出せませんが、おそらくは多次元的な視点を持った時の状態だったかと思います。その多次元的な視点においては個というものが消滅してトータルな視点が得られるのだと思われます。<br /> <br /> 次の第八図「人牛倶忘(にんぎゅうぐぼう)」もその先の境地を示していると思われますが、私はまだまだこれからですので、現時点でここから先を知っても仕方がない気も致します。<br /> <br /> 私の過去生の記憶が本当にこれらと対応しているかどうかは分かりませんが、メモ的に記載してみました。<br /> <br /> Wed, 08 Jan 2020 00:00:00 +0900 後頭部のオーラがゼリーのような感覚に変化 https://w-jp.net/2020/1783/ <br /> 最近は先日書きましたように後頭部の下方にオーラを集めている訳ですが、その感覚が、以前は凝縮したモヤモヤしたオーラという感じでした。今日(1/8)も同じく凝縮されてはいるのですが、その感覚がモヤモヤという感じからゼリーあるいは柔らかい浮き袋あるいは水が緩く少し入った柔らかい風船のようなプニプニした感じになってきました。<br /> <br /> なんでしょう、これは?<br /> <br /> 仙道をしている高藤 聡一郎の著書に、丹田あたりにネバネバした”気”を作り出す、みたいなことが書いてあったことを思い出しました。<br /> <br /> 小周天を長いことやっていると気は全身に広がり、だんだん陽気の質が変わってくる。つまり熱湯のようにサラサラした感じから、ねばっこいベトベトした感じになってくるのだ。「秘法!超能力仙道入門(高藤 聡一郎 著)」<br /> <br /> 同書によれば、この後、仙道でいうところの「小薬」が作られ、(瞑想中の)視界が明るくなってくるという「虚室生白(きょしつせいはく)」の状態になると言います。<br /> <br /> 私の感覚がこれに該当しているかどうかは仙道のお話ですので微妙なところですが、参考になります。<br /> <br /> Wed, 08 Jan 2020 00:00:00 +0900 大天使のハイヤーセルフと大天狗 https://w-jp.net/2020/1782/ <br /> 瞑想中にハイヤーセルフのことを思っていたところ、ハイヤーセルフの姿が大天狗に重なって見えました。<br /> <br /> ・・・これって、ひょっとして大天狗とは実は大天使なのかもしれない?<br /> <br /> 気付いてみれば、羽のあるところとか、どこか似ています。<br /> <br /> 和風に解釈した天使が天狗なのかもしれないな... とふと思いました。<br /> <br /> であれば大天使は大天狗に相当するわけです。<br /> <br /> ん〜、それっぽい気がしてきました。<br /> <br /> 検索してみると、同じように思っている方が多くいらっしゃいますね。<br /> <br /> 天狗って、人間のスピリットとカラスか何かが合体した存在かとずっと思っていたのですが、天使だというのが本当なのでしょうか?<br /> <br /> ・・・と内なるガイドに聞いてみましたところ、両方ある、とのこと。<br /> <br /> なるほど・・・。<br /> <br /> 大天狗は天使の場合がほとんどで、使いの天狗は、2割くらいはカラスの化身で、他は天使とのこと。大体のお話ですけどね。イメージとして。<br /> <br /> ・・・まあ、チャネリングの情報ですので信憑性は保証しませんけどね。あとは読む方の解釈次第です。<br /> <br /> Mon, 06 Jan 2020 00:00:00 +0900 仏教の涅槃は禅定を超えたもの https://w-jp.net/2020/1781/ <br /> 仏教では禅定、いわゆるサマーディを色界(物質界)と無色界(非物質界、平たく言えば心の世界のこと)に分けていますが、涅槃はその両者を超えたものだと以下の経典から解釈致しました。<br /> <br /> 「第一涅槃関係経」―無縁―<br />  比丘たちよ、このような境地(涅槃)があります。そこには地もなく、水もなく、火もなく、風もなく、空無辺処(くうむへんしょ)もなく、識無辺処(しきむへんしょ)もなく、無所有処(むしょうしょ)もなく、非想非非想処(ひそうひひそうしょ)もなく、この世もなく、あの世もなく、月・太陽の両者もありません。比丘たちよ、私はそこに来ることも、行くことも、止まることも、没することも、生まれかわることも説きません。これは、拠り所のないもの、生起のないもの、所縁のないものです。これがすなわち苦の終わりです。(「パーリ仏典にブッダの禅定を学ぶ『大念処経』を読む(片山 一良著)」)<br /> <br /> 私は仏教を専門に勉強したわけではありませんが、涅槃について、おそらくそうであろうな... とは思っていたのですが、この経典を見ますとそれが明らかだと解釈できたわけです。<br /> <br /> まず、地・水・火・風は物質界を構成している要素ですから仏教的には「色界」のことで、平たく言えば「物質は関係ない」と言っているわけです。その後、空無辺処・識無辺処・無所有処・非想非非想処と言っていますが、これは仏教的には「無色界」のことで、平たく言えば「心の世界」になります。<br /> <br /> 仏教の世界でこれらを言う際は禅定、いわゆるサマーディとセットで語られることが多いように思います。<br /> <br /> まずは物質界(色界)の禅定・サマーディによって心を安定させ、その後、心の世界(無色界)の禅定・サマーディで心を更に安定させて行くわけです。<br /> <br /> 諸説あって、悟りのためには物質界(色界)の禅定・サマーディだけでよくて心の世界(無色界)の禅定・サマーディは任意(オプショナル)だと言う意見もテーラワーダ仏教の「悟りの階梯(藤本 晃 著) 」などを読むと書いてあったりしますけど、同書によりますと、それでも、両方の禅定・サマーディを極めてから悟りに至ることが多いようです。<br /> <br /> であれば、上記の経典を平たく言いますと、「涅槃は物質界および心の世界、両方を超えたものである」と言えるわけです。<br /> <br /> だから、色々と列挙して「〜ではない」と一つづつ語っているわけですね。<br /> <br /> この、否定形で羅列する言い方はベーダンタとも似ていますね。<br /> <br /> 心の世界を超えてしまうと拠り所がなくなり、否定形でしか表現できないものになる... というはよく理解できます。<br /> <br /> これはこれとして表現としては正しいですが、やはり、否定形の表現はよく分からないお話になってしまう気が致します。<br /> <br /> これと同じことを表現するために、ヴィパッサナー瞑想的な表現をした方がいいかな... というのは個人的な感想です。<br /> <br /> 心の世界を越えると、というのは、心の動きを止めると、ということですし、そうしますと心を超えた感覚が出てきて日常生活がヴィパッサナー状態に遷移してゆきます。<br /> <br /> それを表現すると、心を超えた感覚とは物質でもないし心でもないので否定形で表現するしか無くなってしまうわけです。<br /> <br /> なかなか表現って難しいですね。<br /> <br /> 悟りって、本当は凄く単純なことだというのが実感ですし、表現もそうあるべきだと思いますが、表現とはなかなか難しいですね。<br /> <br /> Mon, 06 Jan 2020 00:00:00 +0900 出雲の黒いオーラ https://w-jp.net/2020/1780/ <br /> 私が若い頃は出雲大社にとても興味があって、伊勢神宮にも何度か行ったのですが東京からそれよりも遠い出雲により多く行っていた時期があります。<br /> <br /> 出雲は清々しい空気ではあるのですが、明るい黒、と言う感じがしておりました。黒が明るい??? と言われても謎かもしれませんが、エネルギーの高い黒いオーラは輝いていて、それが明るく感じられるもののの、漆黒の、真珠のような深い輝く黒のオーラであると思うわけです。<br /> <br /> 一方で、伊勢神宮と言いますのは白いオーラで、いわゆる「天」を象徴した天照大神が祀られております。主観ですけど。<br /> <br /> 出雲大社の主祭神は大国主命ですが、その大元はスサノオで、地の神ですね。<br /> <br /> まあ、実際のところ、私にはその真偽はよく分かりません。<br /> <br /> 本題はここからで、少し前に、どうやら出雲のこの黒い漆黒のオーラをどうにかしなくてはならない、と言うことを伝えられました。<br /> <br /> ・・・誰がどうするのかは知りません。<br /> <br /> どうも、伊勢神宮の方は天皇家とも繋がりがあってある程度活性化して活動しているのですが、出雲大社の方はまだ眠っているようなのです。<br /> <br /> 眠っているから漆黒の黒いオーラなのか、あるいは、まだ浄化されていないからそうなのか、そのあたりにも謎が残りますが、インスピレーションで内なるガイド... と言いますか、いつもの内なるガイドとはちょっと違った存在のような気が致しましたが、そのお方がおっしゃるには、誰かがどうにかしなくてはならない、とのこと。どうにかしなくては、その後の、何かに支障があるとか何とか...<br /> <br /> ・・・・そう言われましても、何が問題で何をすればいいのかも分かりませんので、私にはどうしようもないことですけど。<br /> <br /> どなたかが何かをするのでしょうかねえ?<br /> <br /> Mon, 06 Jan 2020 00:00:00 +0900 スピリチュアルから見た哲学 https://w-jp.net/2020/1779/ <br /> 頭での思考のループは終わることがない。<br /> 矛盾を見出して思考が止まる時、思考のループから抜け出すチャンスがあります。<br /> であれば、思考に負けて抜け出す人こそが本当の勝者かもしれません。<br /> <br /> 哲学思考を続け、やがて思考の否定に達することがあります。その為の論理は何でも良いのです。論理力のある人ほど覚醒に時間がかかるかもしれません。<br /> <br /> 哲学は思考の羅列に過ぎず、次の次元に抜け出すことはない。<br /> <br /> 思考が矛盾等に突き当たって思考停止することこそが瞑想的な観点による哲学の意義になります。<br /> <br /> <br /> ・・・上記は、しばらく前に私の内なるガイドから示唆されたことです。<br /> <br /> これを聞いた時、なるほどなあ、と思ったものです。<br /> <br /> 哲学者は何かを見出そうとしているのかもしれませんが、本当の真理とは言葉を超えたところにあって、言葉の羅列のそれ自体がその地点に連れて行ってくれることはありません。逆に、とある状態があって、その説明のために言葉が使われるのであれば言葉は有意義なものになりますが、言葉が先にあるような哲学では言葉それ自体によってはどこにも到達せず、であれば、哲学の意義とは思考停止の状態に導くことだ、というのも一理あるように思います。思考停止している状態こそが瞑想での最初のマイルストンでもあるわけですから。言葉で色々と論じていたとしても真理は言葉を超えた先にあるのですから言葉どうこうにあまりこだわり過ぎる必要はないですが、それでも、言葉はガイダンスとして役に立つものですので、上記のような意義の他にも、物事をしっかりと把握して表現するという意義も哲学には一応はあるようにも思いました。<br /> <br /> Mon, 06 Jan 2020 00:00:00 +0900 天使に自由意志はない? https://w-jp.net/2020/1778/ <br /> スピリチュアルのお話を聞いたり読んだりしていますと、天使には自由意志はなくて人間には自由意志があるので人間の方が上位だ、みたいなお話を聞くことがあります。<br /> <br /> ですが、私が幽体離脱して色々見たことや思い出したことを当てはめてみますと、天使にはしっかりと自由意志があります。<br /> <br /> ・・・これは一体、どういうことでしょう?<br /> <br /> まず1つ考えられますのは、天使のいる次元と人間の存在している次元が異なるということです。<br /> <br /> 人間のいる世界は、ヨーガや古代ベーダの考えではマーヤとか言われていて幻想のような夢のようなものだと言います。その解釈は色々とあるのですが、スピリチュアル的にはこの三次元の世界は1つのタイムライン上の現実にしか過ぎなくて、同時に他のタイムラインも同時に存在しており、それは並行宇宙という意味合いのものですが、三次元世界は、それよりも上の世界からみたら確かに幻想のようなものなのです。<br /> <br /> しかし、人間からしてみたらこの三次元世界は確かな現実なわけです。<br /> <br /> 天使は次元を超えて存在しており、時折三次元世界に介入... と言いますか、とある時のとあるタイムラインに意識を合わせて観察や介入・接触をしてくることがあります。<br /> <br /> 人間からしてみたら、この1つのタイムライン上の三次元世界においていわゆる「自由意志」を行使しているわけですが、天使は更に上の視点を持っておりますので、人間がどのような、自称「自由意志」を行使したところで、天使の視点からすればタイムライン上の小さな出来事に過ぎず、違ったタイムラインも存在しますので、それを自由意志と呼ぶかどうかすらよくわからないようなものになっています。<br /> <br /> 人間の選択・自由意志によってタイムラインが作られるわけですが、タイムラインの分かれ目において天使の視点に基づいて介入が行われることがあります。それは天使がタイムラインの先読みをするということですが、先読みをした上で、人間に別のタイムラインの方向を示すのです。<br /> <br /> そうして新しいタイムラインが作られることもあれば、人間がそれに気付かずに、あるいは、人間の意思によって元のタイムラインが固守されることもあります。天使からすればどちらもタイムラインの1つに過ぎませんが、新しいことを学びたいと思っている天使はタイムラインに介入して新たなタイムラインを作ることに熱心なわけです。<br /> <br /> 三次元的な人間の自由意志というものは確実に存在しておりますが、それよりも上の階層で天使の意思が存在しているわけです。<br /> <br /> これは、天使が介入している場合のお話で、誰しもが天使と共にいるかどうかはよく分かりません。<br /> <br /> このように、天使は割と積極的に三次元の人間界に関与していますので、天使に自由意志がないというのはよく分かりません。<br /> <br /> 他に考えられますのは、童話で出てくるような植物や鉱物の精霊のことを天使と呼んでいる可能性です。いわゆる妖精ですね。<br /> <br /> 確かに天使の姿と妖精の姿はよく似ていることもありますので、植物や鉱物の精霊のことでしたら、自由意志はそんなにないかもしれませんが、とても遅いだけで一応は意思があるとは思います。<br /> <br /> 他の可能性としましては、宇宙創造のお話まで遡りまして、私自身が確かめたわけではないのですが、宇宙創造神話をチャネリングした本を読みますと天使にはもともと自由意志がなかった、なんてことが書いてあります。例えば「時を超える聖伝説(ボブ・フィックス著)」にはそのようなことが書いてありますね。宇宙創造の時のお話しでしたらそういうことも歴史的にあったのかもしれませんけど、今現在、地球に関与している天使たちにはしっかりとした、しかしながら次元の異なる意思が存在していると思います。<br /> <br /> 次元が異なるだけで、割と人間と近いものがあると思います。個人の自由意志を尊重するところもそうですし、感情面もそうですし、性格にしても割と人間に近いものがあって、情のようなものもあります。<br /> <br /> ですから、天使に自由意志はない、というようなお話を度々聞くのですが、それはどういうことか私にはよく分かりません。<br /> <br /> 一つ推測しますと、おそらくは宇宙創造の時点では多くの天使に自由意志はなく、自由意志を持った天使が現れて、それから天使に自由意志が備わったのかなと。その上で、天使は実は地球の人類の雛形でもあるので、高次元で天使が存在していて、その分霊として地上に人間が転生されたと考えるとスッキリします。地球上には天使系の人類も多くいますが他の系統もいるようですので、他の系統のことはよく分かりませんけど。<br /> <br /> <br /> Mon, 06 Jan 2020 00:00:00 +0900 クンダリーニ覚醒とスピリットの働き https://w-jp.net/2020/1777/ <br /> 今まで言及しておりませんでしたが、私の場合、クンダリーニ覚醒には私の内なるガイドのみならず、私自身のスピリット(いわゆる魂)も重要な役割を果たしていました。<br /> <br /> これはなかなか説明し辛いことですのであまりきちんと書いてこなかったのですが、自分自身のスピリットは時空を越えることができるということが基本にあって、意図として明確にそれが示されたのは私の子供の頃に幽体離脱した際に(その当時から見たら)未来に行って、ヨーガをしている自分を見てクンダリーニ覚醒に導いたのです。<br /> <br /> ですが、ここで未来とか言っていたとしても、幽体離脱して魂と言いますか意識のあるスピリットの状態になってしまえば時空を既に超えていますから、過去も未来も鳥瞰的にトータルに眺めることができて、過去とか未来とかいうのは単に視点の違いだけになります。<br /> <br /> その状態で未来に行った... と言いますか、未来の視点を見た時、自分の将来の姿が見えて、そこではヨーガをしていて、その時点での自分自身の内なるガイド... と言いますか、平たく言えば要は守護霊... あるいは高次の指導霊とでもいうべき存在の意見も参考にしつつ、私の体の中で、ヨーガでいわゆるナディと呼ばれているエネルギーのルートのうち主要なルートであるスシュムナという背骨に沿ったルート上に詰まりがありましたので、私のスピリットは未来の自分自身の体の中を掃除するかのように詰まりを取り除いたのです。<br /> <br /> その際、完全に取り除いてしまうと一気にクンダリーニが活性化してしまいますので、完全には取り除かずに多少は残し、徐々にクンダリーニ覚醒するように調整しました。このようにしたのは内なるガイドである高次の指導霊の意見でもあったのですが、一気にクンダリーニ覚醒してしまうとコントロールが効かなくなって危険なこともある、とのことでした。<br /> <br /> この高次の指導霊は私は内なるガイドとか呼んでいたりしますけど、いわゆる友人知人や元家族の霊よりも数段階はレベルの高い存在で、時空を超えています。私のことを見守ってくれている友人知人や元妻などの霊たちはそれほど時空を越えることができないのですが、内なるガイドは時空を超えた視点から指導してくれています。いわゆるハイヤーセルフと同じ階層に存在していて、オーラの量や特徴・性格こそ違どもハイヤーセルフと同じ視点で活動できる存在です。<br /> <br /> そんな感じでクンダリーニ覚醒に至ったわけですが、どうやら、単に自分でヨーガをしているだけでは数十年単位で時間がかかっていて、死ぬまで何も起きない、なんて可能性も十分にあったようです。<br /> <br /> この種の、いわゆるエーテルあるいはアストラル的な手術は今の世の中にはそれほど一般的ではないですけど、ヨーガをしていて修行だけで覚醒している人は凄いなあ... とか私なんかは思います。<br /> <br /> 私なんて、激しく修行をしたわけでもないですし、自分自身のスピリットがやったことだとはいえ、アストラル的な介入なしにはクンダリーニなんて活性化しなかったでしょうし。<br /> <br /> この種の手術は人のオーラの中に入り込んで行わないといけませんので、手術の最中にオーラがある程度混じる必要があり、オーラの質が低い人に対する手術の場合はカルマを共有してしまうというデメリットもあるようですが、私の場合は自分で自分の手術をしましたのでそのあたりはさほど問題にはならなかったように思います。<br /> <br /> たぶん、ある程度目覚めた人であれば他人の体の中を探ってナディの詰まりを取り除くことはできるのでしょうけど、オーラの接触・融合をしてカルマを抱え込んでしまうことを嫌がって手術などしたくない、という人はそれなりにいそうな気が致します。<br /> <br /> おそらく、ですが、ヨーガのグルと弟子の関係はこういうところにも効いてくるのかなと思います。グルが弟子の浄化をアストラル手術的に行ってあげることでグルは弟子の成長を促すと共に弟子のカルマをグルが抱え込んでしまう、という相互関係になるのかなと思います。であればグルと弟子の関係は密接なものとなり、グルが弟子以外に簡単に教えを説かない、というのも理解できます。<br /> <br /> とは言いましても、古代においてグルと弟子の関係はおそらくそうであったとしても、今のグルでそのようなアストラル的な施術を行えるような人はそれほど多くないような気も致します。であれば、多くの場合、形だけが残っているのかな、とも思います。<br /> <br /> Mon, 06 Jan 2020 00:00:00 +0900 とある食用豚さんの呪いと成仏 https://w-jp.net/2020/1776/ <br /> ある時、食用で飼育されて殺されて食べられてしまう豚さんはどんな気持ちなのかなあ... と思っていたら夢だったか瞑想中だったか、豚さんの姿をかなり前に見たことを思い出しました。<br /> <br /> なんで今更思い出したのかな... と思ったのですが、少しメモ的に書いておくことにします。<br /> <br /> 豚さんは、よく知られているように綺麗好きです。飼育小屋ではストレスが高くて、最終的に捕まえられて屠殺されて食べられてしまいます。<br /> <br /> 夢だったか瞑想中でしたか、とある豚さんの魂を眺めていたら、やはり飼育小屋ではストレスのある黒いオーラを発していて、屠殺された時は屠殺人を凄く恨んで黒いオーラのままあの世に旅立ったわけですが、恨みの気持ちと、自分の体がどうなってしまうのだろう... という疑問があったのでその豚さんは成仏できなくて、地上を漂っていたようです。その豚さんは、自分を食べてしまう人を呪ってやろうとまで思っていたようです。動物と言っても、そのくらいのことは考えるようです。<br /> <br /> 豚さんは屠殺人をまず強く呪い、次に、肉屋さんを少し呪い、更には、自分を食べようとする人を呪おうとしました。<br /> <br /> ある日、豚さんの魂が肉屋の空中に漂って呪いの準備をしつつ、自分を買おうとしている人を待っていました。<br /> <br /> すると、やがて、家族連れがやって来ました。<br /> <br /> その家族は、豚さんの呪う気持ちとは裏腹に、とても嬉しそうに喜びながら談笑して自分の肉を選んで買っていました。これから家に帰って楽しく食べるようです。<br /> <br /> それを見た豚さんは、恨みの気持ちが若干弱まりました。恨みの気持ちは完全には解けないものの、こんなに喜んで自分を食べてくれるなら、まあ、いいか... という気持ちになって成仏できたのです。<br /> <br /> これは、全ての豚さんの魂がこのように成仏できるとは思いませんが、私がたまたま見たのがこのような豚さんの魂でした。おそらくは成仏できなくて人間に恨みを持っている豚さんの魂も地上に多く漂っていることと思いますが、そのような未浄化の豚さんがどの程度いるかまではわかりません。この状況から察するに、苦しんで死んだ豚さんのお肉には多少なりとも呪いの念が染み込んでいると思われますので、あまり食べない方がいい気が致します。<br /> <br /> Sun, 05 Jan 2020 00:00:00 +0900 性欲と愛情、マニプラとアナハタ https://w-jp.net/2020/1775/ <br /> 性欲はマニプラでかなり制御され、アナハタに至るとほぼ超越できました。これは以前にも何度か書いたことですが、完全に性欲がなくなるというわけではありません。必要があれば性的な力を使用することができますが、暴走することがほとんどなくなる、ということです。<br /> <br /> 私の場合、クンダリーニが活性化してマニプラ優勢になるまでは性欲が制御し辛い状態にありました。男ですから夢精などで出てしまったりするわけですが、そうした行為の後には不快感やエネルギーの低下を伴いました。<br /> <br /> 今は、夢精が完全にゼロではありませんが劇的に少なくなっており、性的エネルギーが漏れることがかなり少ない状態になっています。<br /> <br /> それに伴って、愛情というものも変化して来ています。<br /> <br /> 以前は、愛や恋というものが激情とも言える強いもので、いわゆる「激しい恋」「盲目的な恋」「引き付け合う恋」という種類のものでしたが、今は、表現するとすれば「深い友情」に近いものに変わって来ています。<br /> <br /> ですから、今から恋人を探そうとしても、私のことを理解してくれる人がどのくらいいるのか微妙なところです(苦笑)<br /> <br /> 私の態度ですと、相手からすれば本当に自分を愛してくれているのか疑問に思ってしまうかもしれません。<br /> <br /> アナハタ優勢になった今は思い悩むこともかなり減っていますし、情欲としての愛情よりも普遍的な愛の方が強くなって来ていますから、自分だけを愛して欲しいと思っている人は私ですと満足できないかもしれません。<br /> <br /> この状態になると、結婚するなら恋愛で日本式に最初に「愛しています」と言ってから付き合うのは難しくて、友人から初めて仲を深めてゆくのかなあ... という感じも致します。あるいはお見合いですね。<br /> <br /> きっとこれは歳を取ったということも多少はあるのでしょうが、それよりも、タイミングとしてはマニプラ活性化とアナハタ活性化でそれぞれ優勢になったタイミングと同一でしたのでクンダリーニ 的なものの方の影響がかなり大きいと思っています。<br /> <br /> 他の方は、どうしているのでしょうかね。<br /> <br /> 今から思えば、昔のような激情としての愛も懐かしいと思うこともたまにありますが、「ま、もういいかな」という感じで、覚めて見ています。<br /> <br /> Sun, 05 Jan 2020 00:00:00 +0900 後頭部の下方から中央にオーラが広がる https://w-jp.net/2020/1774/ <br /> 今日(1/3)の瞑想は後頭部への集中から始まったのですが、そのオーラに少し変化がありました。<br /> <br /> これは先日の続きでもあるのですが、先日までは、体の外側に広がっているオーラを体の近くに留めるような集中の仕方をしておりました。ヴィパッサナー瞑想的と言いますかオーラ的には肉体の表面で揺れているオーラを肉体の近くで留めるという集中の仕方になるのですが、その焦点と言いますか支点としては眉間あるいは後頭部のあたりで行っておりました。<br /> <br /> 図で青い部分ですね。青い部分にオーラが凝縮されている感覚がありました。色は説明のためで実際に青く感じているわけではありません。黄色や緑色も説明のためのもので実際に感じているものではありません。<br /> <br /> <br /> <br /> その後、瞑想を続けておりますと、青い部分に変化がありました。特に変化を期待していたわけでもなく、変化を意図していたわけでもないのですが、急に青い部分が上方向に広がりを見せて緑色のような少し広範囲の感覚に変化しました。<br /> <br /> <br /> <br /> 緑色の範囲に広がった瞬間、意識も変化し、少し緊張が取れて楽になりました。<br /> <br /> まず黄色のオーラの状態を安定させてオーラを皮膚の近くで安定させ、それと同時に青色にオーラが凝縮している状態に移行した時点で体の感覚は随分と楽になります。それだけでも十分楽な状態なのですが、更に緑の状態に移行したことによって更に緊張が解けて楽になったのです。<br /> <br /> 更に瞑想を続けていましたところ後頭部のもっと上の方まで充満したのですが、瞑想終わりの頃には青色集中の状態に戻って... と言いますか、無意識で青色の状態に戻して瞑想を終えました。<br /> <br /> 特に何かを意識していたわけでもなく、自然にこのような変化が起こりました。興味深いことです。<br /> <br /> かなり以前は後頭部の上の方に集中するとその後に不快感が続くこともありましたが最近はそのようなことはほとんどなく、安定しております。<br /> <br /> このことがどのような意味を持っているのかはわかりませんが、変化を楽しんでいます。<br /> <br /> Fri, 03 Jan 2020 00:00:00 +0900 瞑想における集中の意味合いの変化 https://w-jp.net/2020/1773/ <br /> 古典的なヨガの瞑想では眉間のアジナ・チャクラ(サードアイ)や胸(ハート・チャクラ、アナハタ・チャクラ)に集中するように言われますが、私にとって、昔と今ではその意味合いが変わってきました。<br /> <br /> かなり昔は、集中とは雑念から引き離す行為であり、「一点」への集中という意味合いでした。眉間でしたら眉間にのみ集中し、胸のハートでしたらそこに意識を合わせる、と言う感じでした。雑念に囚われている時は集中が途切れていました。<br /> <br /> 今は、集中... と言えば確かに集中ではあるのですが、範囲が広範囲になってきました。<br /> <br /> 雑念が減ってきて体の各所を随時観察できるようになり、日常生活上のヴィパッサナー瞑想も可能になってきたのと時期を同じくして、瞑想中に集中しようとするとかつての集中とは異なってきているのを感じます。<br /> <br /> それは、以前のように針の1点に集中すると言う種類のものではなく、体全体を覆っているオーラの揺らぎを抑える、と言う種類のものに変わってきたように思います。<br /> <br /> ですから、焦点として... と言いますか、ある種の力点と言いますか、支点のような役割として眉間などを集中のポイントとして利用する必要は多少はあるのですが今までのようにそこだけに意識が行くわけではなく、ヴィパッサナー状態で体全体を観察しつつ、支点としての眉間を使いつつ、体全体のオーラに起きている細波のような振動を抑えて静かにしてゆく、と言う意味合いで集中の力を瞑想中に使用するようになってきたように思います。<br /> <br /> それは以前とは変わらず「集中」と呼ぶこともできますし、説明が難しいですので言葉として表現する時はやはり「集中」と言ってしまうことが多いと思いますし、説明の時間があまり取れない時は「集中」と表現しておけばとりあえず良くて、それほど間違っているわけではないのですが、1点に集中すると言う意味合いにおいての「集中」とはちょっと違った集中の使い方を最近の瞑想ではするようになってきました。<br /> <br /> 瞑想の初期段階においては雑念を抑えるために集中(サマタ)が重要で、やがてそれは観察状態(ヴィパッサナー)に移行したように思いますが、ここに来て、ヴィパッサナー瞑想の中に再度、ちょっと違ったサマタ(集中)っぽい要素が入ってきたことが興味深いです。<br /> <br /> Fri, 03 Jan 2020 00:00:00 +0900 ヴィパッサナー瞑想における体の観察 https://w-jp.net/2020/1772/ <br /> 先日の続きです。日常生活上でヴィパッサナー瞑想をするようになって感じたことは、世間のヴィパッサナー瞑想で「歩き瞑想(歩行瞑想)」とか様々なヴィパッサナー瞑想がありますが、私が最近になって感じた状態になるまではそれは本来のヴィパッサナー瞑想ではないような気がしてまいりました。<br /> <br /> 私はテーラワーダ協会の方式とゴエンカ式とプラユキ・ナラテボー式のヴィパッサナー瞑想を経験したことがありますが、その導入としては皮膚の感覚を使うというものでした。しかし、おそらくはそれは導入で、本来のヴィパッサナー瞑想はオーラの動きを感じるものなのではないか... という気がしております。これは識者に確かめたわけではありませんが、おそらくそうなのではないかなと個人的には思います。<br /> <br /> 雑念が減って日常生活がスローモーションで見えてくるようになればヴィパッサナー瞑想でよく言われているように日常生活での瞑想(観察瞑想、ヴィパッサナー瞑想)も容易にできるでしょうが、そうでなければ、例えば「歩き瞑想」をしたところで、それは単に歩いていることとそうは変わらないと思います。...まあ、その瞑想が無駄だとは言いませんけど、違いを感じることは難しいように思います。<br /> <br /> 今になってわかることは、やはり最初は雑念の減少、いわゆる浄化が重要なのだということです。<br /> <br /> そして、浄化できて雑念が減ってきた時にようやくヴィパッサナー瞑想が始まるわけです。<br /> <br /> Fri, 03 Jan 2020 00:00:00 +0900 大天使の分霊のオーラの割合 https://w-jp.net/2020/1771/ <br /> 有名な大天使がハイヤーセルフだったりする人は割とこの地上に多く転生しているわけですが、そうは言いましても、大天使の本体と分霊との間にはかなりの差があります。<br /> <br /> 先日、分霊とハイヤーセルフについて書きましたが、どの程度の差があるのか示さないと誤解があると思いました。きっと数値化するのがわかりやすいと思います。<br /> <br /> こう言うのは感覚的なものですので数字できっちりと示すのは難しいのですが、私のハイヤーセルフであるとある大天使のオーラが10,000だとして、その大天使から分霊が時と場合によりけりで 300〜1000体ほど地上に降りており、それぞれの分霊のオーラは1〜3ほどだと思います。例外的に大きいオーラを持っていたとしてもせいぜい10くらいです。<br /> <br /> これをパーセントで示しますと、大体の場合は0.1% ~ 0.3%ほどのオーラ量の分霊なわけで、時々、聖者とも言える人の場合にのみ1%くらいの濃いオーラを持った分霊が地上に転生するわけです。私の場合は 0.15%(あるいは1.5%?) くらいですかね? 何となくの感覚ですけど。<br /> <br /> ですから、自分が大天使の生まれ変わりだとか思うのは恥ずかしいから他人には言わない方が良いと思います(苦笑)<br /> <br /> 分霊ですから一応は一部ではありますけど、分霊になった時点で個別の意識を持ちますから。<br /> <br /> 多くの場合は再度、その帰るところであるグループソウルのところに戻っていきます。グループソウルとは視点を変えればハイヤーセルフのことですから、最終的には大天使のところに戻るわけです。その意味では同じと言えなくもない、と言う程度のお話ですが、分霊の所有している英知や判断力は大天使には遠く及びません。<br /> <br /> 流石に分霊でありますのでその大天使に由来する能力が出やすかったり、その大天使にゆかりのある存在たちに守られたり導かれたりする、と言うことはありますし、本体であるハイヤーセルフの意思が分霊に託されて実行されることもよくあります。そうは言いましてもオーラ量に差がありますし、傾向は似ていても、分霊としては個別の意識を持っているわけです。<br /> <br /> ちなみに、時々、分霊がピンチになるとハイヤーセルフからオーラを分けたりすることもあるようです。ですが、それは結局はハイヤーセルフを少し弱らせることにもなります。最終的にそのオーラを使って分霊が学びを深めてくれれば良いのですが、無駄になることもあります。<br /> <br /> そのように、ハイヤーセルフが分霊のオーラの量をコントロールしつつ目的を果たしてゆくようです。<br /> <br /> オーラの量的にはそうであっても、私の場合、以前に書きましたように他の使命の途中で溜め込んだカルマの解消が目的ですので本体のハイヤーセルフの黒いオーラを集めて作った分霊ですので他の分霊とはちょっと違います。他の分霊は使命優先ですから明るいオーラで生まれて、使命の途中で黒いオーラであるカルマを溜めて帰ってきますが、私の場合、黒いオーラが優勢の状態で生まれて来ました。ですのでどん底を経験してからハイヤーセルフのところに戻るのが目的なのですが、そもそものハイヤーセルフの意思を辿りますと、最初は私の元である黒いオーラは粉々にして消滅させてしまおうかと思っていたようです。ですが、消滅させるよりも多少の明るいオーラと混ぜて地上に転生させ、回復できるのであればそれはそれでよし。ダメであれば分離させるかやはり消滅させるか、という選択肢の元で私が地上に生まれたのです。もともと消滅するかもしれないオーラを元に生まれた私ですからダメ元という面もあって、どん底からの経験で人類を理解したい、という意図もあったようです。他の分霊は最初から目覚めた状態で生まれて来ますので人類の悩みというものがよくわかりませんが、どん底から経験すればどうして人類が悩んでいるのか理解できるだろう、と考えたのです。そうしたいくつもの意図があって私が生まれて来ましたので、私の場合、今世の目的はカルマの解消であって、特に人類に影響するような使命は持っていないわけです。私の場合、オーラの総量としてはそれなりで生まれて来たように思いますが黒いオーラでしたので消耗が激しく、生まれた後に随分とオーラの量が減ってしまったように思います。<br /> <br /> Thu, 02 Jan 2020 00:00:00 +0900 日常生活上のヴィパッサナー瞑想で無情を感じる https://w-jp.net/2020/1770/ <br /> ヴィパッサナー瞑想とは観察瞑想のことですが、これに関連しまして 先日に視界がスローモーションで認識されるということを書きましたが、スローモーションで視界を認識すると、いかに細かなことであっても無情であることを実感できるようになってきたように思います。かすかな風であっても何かを揺らし、動きが生じます。<br /> <br /> ただし、ここで言っている無情とは仏教での解釈とは異なるかもしれません。言葉通りに無情であることを感じる、と言うことです。<br /> <br /> それは言葉で表現すると「感じる」ということではあるのですが、以前の私が五感で「感じる」ということをいくら努力しようとしても現在のヴィパッサナー状態には至らなかったように思います。ですから、言葉上では「感じる」という言葉が近いとも言えますし、「感じる」という言葉は間違っている、とも言うことができます。私の持っている言葉が貧弱なのかなかなか表現がし辛いのですが、ヴィパッサナー状態とは「目が、感じる」とでも言えば良いでしょうか。もちろん目は視覚ですので「見る」ための感覚器官ではあるのですが、見ているだけなのに、体全体が何かを感じ取るのです。それは、皮膚の感覚としての「感じる」とはまた違ったものです。ですから、この感覚を「目から入ってきた情報を元に、体全体の内側と外側が満遍なく感じる」と言うことはできますが、その「感じる」とは、「皮膚の感覚を感じる」と言うことではないのです。<br /> <br /> この種のヴィパッサナー状態になった時、体全体の内側と外側とで満遍なく無情を感じるのです。人の肉体はオーラに包まれているのですが、そのオーラの方が何かを感じているのです。<br /> <br /> それは、オーラが感覚器官として働いている、とも言えるかもしれません。目から入ってきた情報... と言いますか、もしかしたら目はフォーカスのための導入にしか過ぎず、実際に感じているのは体全体、いわゆるオーラの方であるように思います。<br /> <br /> このヴィパッサナー状態であれば、体全体のオーラで敏感に外部を察知し、外部の細かな動きに反応して自分のオーラがその変化を読み取り、無情を感じとるのです。<br /> <br /> これは、まず最初の基本で「頭の思考」をある程度止めないとヴィパッサナー状態になりませんので、雑念や思考で頭の中がグルグル回っている人はできないと思います。ですから、最初はヴィパッサナー瞑想ではなくサマタ瞑想(集中瞑想)で雑念を減らしていくわけですけれども、その辺りについては以前少し書きました。<br /> <br /> 世間の社会を生きると言うのは世知辛いもので、思考をグルグル回すことしか知らない人が大勢いますので、そう言う人と仕事やプライベートで関与してしまいますと簡単にヴィパッサナー状態が失われてしまって、以前のようなパラパラアニメのような1秒に数コマも認識できないような空間認識能力に落ちてしまいますから困ったものです。<br /> <br /> ここから更にヴィパッサナー瞑想を深めるためには世間との関わりを制限すべきなのかもしれません。<br /> <br /> Thu, 02 Jan 2020 00:00:00 +0900 大天使はその分霊を多数この地上に派遣している https://w-jp.net/2019/1768/ <br /> 有名な大天使に限らず、強大な力と影響力を持つ大天使は地上に何かを働きかける際に直接メッセージを送ることはほとんどなく、分霊を通して地上にメッセージを送られます。それは分霊が地上近くに行ってメッセージを睡眠中や瞑想中のイメージと共に送られることもあれば、分霊が地上に転生して使命を果たすこともあります。大天使の本体がそうして転生した分霊に対してメッセージを送ることもあります。目覚めている分霊の場合は大天使の本体と相互にコミュニケーションを取りながら使命を果たすこともありますが、それよりも、単なるメッセージとして受け取って行動することの方が多いように思います。<br /> <br /> 大天使は多数の分霊をこの世に送り出していますから、自分のハイヤーセルフが有名な大天使だと言う方が多数いても不思議ではないと言いますか、それが当然なのだと思います。ハイヤーセルフと自分としての分霊が一対一かのような印象がニューエイジ思想の中に刷り込まれているように思いますが、私の認識では、ハイヤーセルフは多数の分霊を作り出していると思います。<br /> <br /> 大天使から分霊が生まれる際、分霊の側から見るとグループソウルから分離したかのような感覚になります。このあたりは以前にも少し書きました。ハイヤーセルフとしての意識が存在して、ハイヤーセルフがグループソウル相当で様々な思考を統合しており、ハイヤーセルフの意思はあるにせよ、グループソウルと分霊個々という階層で経験した意見や思考もまた存在していて、確固としたハイヤーセルフの意識とグループソウルの中にある分霊としての意識とは表裏一体と申しますか、全体と個としての関係になっているわけです。<br /> <br /> 例えば私が枝分かれした有名な大天使にしても、地上の私の分霊に対して、本体のハイヤーセルフとしての大天使はざっと私の300倍から1000倍のオーラとエネルギーを有していると思われます。ですから、私なんてのは大天使からしてみたらほんのささやかな小さな存在であり、ハイヤーセルフとは自分といえばそうなのですが、とても自分とは言えないくらいオーラもエネルギーも違います。<br /> <br /> そうは言いましても私の分霊はハイヤーセルフの一部だった訳で、その記憶の一部を共有していたり、あるいは、もともとの目的が完遂したら元に戻る・・・、つまりは、ハイヤーセルフと再度一緒になる・・・、見方を変えれば、グループソウルとまた一緒になる、ということを期待・予定されているわけです。<br /> <br /> その分霊はそれぞれに目的があって分霊になるわけで、地上の社会のためですとか精神的啓蒙ですとか色々と目的があるわけですが、大天使の大いなる意図があって、それから分霊が作られるわけです。<br /> <br /> そうしてみますと、私の運命や思考や人生は自分で考えているというよりは大天使の意志の手のひらで踊っている小さな存在に過ぎないわけです。<br /> <br /> 特殊能力にしても、必要ならば与えられますし、不必要ならば普通の人として暮らす... と言いますか、不必要ならば能力は発現しないでしょう。<br /> <br /> 地上に生まれて、あたかも自由意志があるような気がずっとしておりましたが、最近、次第に、自由意志とはあるように見えるだけで幻想で、大いなる意思に左右されているのだという認識が強くなってきました。<br /> <br /> 確かに、細かな部分では自由意志は存在しますが、大いなる意思に個人の意思が従わないのだとしたらしつこくその運命の方にかなり強引に方向転換させられるような気がしております。<br /> <br /> 今年も終わりですが、来年は、更なる導きがありますように。よいお年を迎えることができますように。<br /> <br /> Mon, 30 Dec 2019 00:00:00 +0900 過去生の記憶から辿るサードアイの変化 https://w-jp.net/2019/1767/ <br /> 最近、アジナ優勢になったり一瞬だけホログラムのように感じるサードアイの経験をしましたけど、過去生の記憶を辿りますとサードアイあるいはフォースアイ(4th eye, 第四の目)とも呼ばれるものは、かなり便利な代物です。どうも、私の場合は内なるガイドの導きにより、サードアイは問題が多いという理由でサードアイをあまり活性化させずにフォースアイを目指している感があります。まあ、それは気のせいで、これがサードアイなのかもしれないですけど。<br /> <br /> サードアイは割と霊的なものを見分ける目で、霊を見たりすることができるわけですけど、俗にいうフォースアイは現実そのものから時空を超えて認識できる能力のようです。まあ、私の場合、今生でそれを活性化させるのは必須ではないようですけど。<br /> <br /> そのフォースアイは、最初、頭の真ん中あたりで作ります。ゲゲゲの鬼太郎の目玉おやじの目のように... と言っても体はついていなくて目玉だけですけど、アストラルの目を頭の真ん中あたりでまず作ります。そうすると、まずぼんやりと周囲が認識できるようになります。<br /> <br /> その後、その目の構造が強固になったら少しづつ頭の上から出したり戻したりします。最初は少し出して、安定しないようであれば戻したりします。<br /> <br /> やがては、その目が頭の上に常に常駐できるようになります。この時点で、ほぼ360度の視野ができます。ただし、単眼ですので距離感が掴みにくいのが弱点です。後ろから来るものがどのくらい離れているのかは、最初は肉眼とで見比べて慣れる必要があります。慣れれば、しっかり見れば距離が分かりますがなかなか直感的に距離は分かりません。単眼ですので仕方がないですが、慣れてくればそれなりに実用になります。<br /> <br /> 頭の上で常駐するのに慣れてきたら、その目を動かしてみます。少し体から離して、自分の体を眺めてみることもできます。ヨガのポーズを周囲から自分で確認できたりするのでここまで行ければかなりこの目は役に立ちます。<br /> <br /> その後、更に慣れて来ると時空を越えることができます。<br /> <br /> ・・・とまあ、そうは言いましても、私はできませんけどね。幽体離脱した時に覗き見たグループソウルの過去生の記憶を辿ったまでのことです。<br /> <br /> 順番としては、まずクンダリーニを活性化させて、瞑想をして、頭のアジナにまでエネルギーを充満させて、その後、上のように頭の中に目を作ります。<br /> <br /> ・・・真似してみてできなくても保証はしません(苦笑)<br /> <br /> Sun, 29 Dec 2019 00:00:00 +0900 視界がスローモーションで認識される https://w-jp.net/2019/1766/ <br /> と言いましても時間の経過速度はそのままの筈ですが、まるで映画のスローモーションのようにコマ割りで視界認識されるようになってきました。<br /> <br /> 今日は足首骨折のリハビリも兼ねて高尾山に登ってきました。ですが、リハビリというより普通にスタスタ登れました。去年お世話になった御札を返してスッキリしたのです。<br /> <br /> この高尾山、霊験高らかということですけどメインのお寺にある願い事をするための紐は大勢が触りすぎていて、大勢が憑き物を落とそうとしてその紐に触るので同様に不意に触ると逆に悪いものが逆流してきて憑かれそうになるという罠があるにはあるのですが紐を触らなければ山としては高いエネルギーに満ちていると思いますのでよく通っています。お店がお正月モードになっていました。<br /> <br /> 最近はヨガや瞑想によって観察力が高まってきたのか、景色のコマ割りが以前より増えた気が致します。時間の経過速度は以前と同じ筈ですが景色が細かくスローモーション映像のように認識されることが多くなり、なんてことはない景色もゆっくり映像のように綺麗に見えます。遠くに行かなくても自分が変わるだけで世の中は綺麗に見えるものかもしれません。<br /> <br /> かなり前は、例えばハイキング等で一歩ごとに3コマ程度のコマ割り認識されていたような気が致します。<br /> <br /> 例えば、以下の3コマです。<br /> ・右足、後ろ<br /> ・右足、中央<br /> ・右足、手間<br /> <br /> 今は、これが更に分割されて24コマくらいのスムーズな映像として認識されます。ハイキングするうちに疲れて認識力が弱まりましたが、それでも15コマとか8コマとかで認識されました。このコマ数はニュアンスですのでしっかり数えたわけではありませんが、趣味で動画編集した時にコマ数を変えるとスムーズさが変わることは直感的にわかりますので、それと比べるとだいたいそのくらいということです。<br /> <br /> 昔は、一体どれだけ無意識で生活していたのだろうかと思います。これはヨーガで言うところのいわゆるタマスな状態で認識力が弱まってコマ数が落ちていたわけですが、ヨーガや瞑想をするにつれて認識力が高まってコマ数が増えてきたような気が致します。<br /> <br /> 以前の、それほど認識力が高まっていない頃であっても、例えば長く瞑想をして一時的にこのような認識力が高まったこともありますけど急な変化は戻りやすいのでそれ以来それほど認識力が高まった感じはしていませんでした。<br /> <br /> それが、ここ最近になって認識力が高まって、なんてことはない景色がコマ割りのスローモーションのように... と言っても時間の経過はそのままなのですが、時間の経過速度はそのままでもまるでスローモーションのようにコマ割りで認識される、ということです。今は、コマ割りというよりスムーズなスローモーション動画が通常速度で認識されます。何言ってるか通じないかもしれませんが、例えば、普通の動画は1秒30コマ(30fps)ですが、それ以上のコマ数を撮影できるハイスピードカメラを用意して撮影し、それを通常の1秒30コマ(30fps)で再生するとスローモーション動画になるのですが、認識としてはそのようにスローモーション動画の細かいコマ割りで認識されるのですが時間経過としては通常の速度のまま、ということです。認識力が高まってきたのだと思います。<br /> <br /> 瞑想を長くして集中力を激しく高めた時にも同様になったのですがそれは一時的で、しかも相当の集中力が必要で不安定なものだったのですが、今回は努力とかほとんどいらなくて... と言いますか、意識しなくてもナチュラルな自然な状態で集中力と観察力が高まった状態ですので特別の努力が不要で、普段の生活において観察力高まっている感じです。<br /> <br /> 例えば、普段歩く時に体が上下して視界が少し上下しているわけですけれども、以前であれば1秒に数コマくらいしか認識しておりませんでしたのでその上下移動がほとんど認識されなかったのですが、今はその視界の上下移動がスムーズに認識されるので、視界が常に上下に揺れ続けていて、近くの風景、例えば木の葉っぱとかを見ようとすると常に上下に揺れているので、その自分の揺れで自分が酔っ払ってしまいそうな感覚に陥ってしまいます。自分の視界で自分が酔っ払う、って一体どういうことでしょう(苦笑)あんまり移動したくなくなっちゃいます。こうなると、視点の移動方法を工夫しないといけないですね。歩いているだけなのに、まさかの酔っ払いなんて(苦笑)ちょっと視点を変えつつ移動するか、見るものを変えつつ歩かないといけないですね。検索したら「スマホの使いすぎ」とか出てきたり... そういう原因かもしれないので注意が必要ですね。まだまだ様子見です。<br /> <br /> 関連しているのか何なのか、この認識力高まったの同時期から、夜に寝ようとしても意識が動いていて体だけ休む時間帯が寝て1〜2時間の間に生じるようになりました。最初はただ単に寝られないだけかとも思っておりましたが、これは意識が夜でも目覚めていて体だけ休まる、という状態だと解釈すれば好ましい変化であるように思います。時間前後寝るとして、最初の1〜2時間がそんな感じになりつつあります。<br /> <br /> 私が昔に幽体離脱してグループソウルの過去生を覗き見た時、とある中世ヨーロッパでの人生の中で女性として生まれていたときに同様に夜は意識だけ起きていて体だけ寝ていた、という経験をしていましたので、それと見比べるのならば、きっとやがては寝ている間ずっと意識が目覚めて体だけ休める状態に移行するのかな、とも思います。<br /> <br /> こういうのって、スポーツ選手が体験するスローモーションの「ゾーン」みたいな体験に似ている気もしますので、スポーツ選手がヨガや瞑想をしたらパフォーマンスが上がるのではないかとか思うこともありますが、どうなのでしょうかね。私はもともとぶきっちょでおっちょこちょいですのでスポーツとは無縁ですけど、以前よりはマシになった気も致します。主観でスローモーションで見えるようになったとは言ってもスポーツ選手の動体視力は桁外れにもの凄いですから、それと比べたら私の今の状態なんて子供みたいなものだと思いますから比べることなんて全然できませんけどね。ただ、個人的に、以前と比べるとそのような変化があった、ということです。<br /> <br /> 続き: 日常生活上のヴィパッサナー瞑想で無情を感じる<br /> <br /> Sun, 29 Dec 2019 00:00:00 +0900 ハイヤーセルフとグループソウルの関係 https://w-jp.net/2019/1765/ <br /> ハイヤーセルフという言葉は謎めいていまして、様々な意味で使われているように思います。<br /> <br /> 一般的には「高次の自分」という訳が適切のような気もしますが、以前に少し書きましたように「本当の自分」という意味や「魂」という意味、あるいは「無意識(個人的無意識、集合的無意識)」のことを意味することもあります。<br /> <br /> 以前は私はハイヤーセルフというと漠然と「魂」「高次の自分」「内なるメッセージの主」みたいな感じで捉えていましたが、最近はちょっと違った見方をしております。<br /> <br /> まず、肉体があって、意思や思考が備わっている、いわゆる「個人」という主体が存在します。<br /> <br /> それは個体としていわゆる「魂」というものもセットになっているわけですけれども、その魂の上位概念として「グループソウル」というものが存在します。<br /> <br /> グループソウルは以前に転生についての記事で言及しておりますが、魂が一旦グループソウルに合流してから再度分割して分霊を作って転生する場合と、魂(分霊)がグループソウルに合流せずにそのまま転生する場合とがあります。<br /> <br /> そのグループソウルは、そのグループで一つの意識体を構成しているのです。<br /> <br /> 私の場合、子供の頃に幽体離脱してその辺りのことを知るに至ったわけですが、その時の理解をふと思い出すと、上記のようにグループソウルとしての分霊ができるサイクルがある一方で、そのグループソウルは更に上位の意識の体の中で起こっていたことをふと思い出したのです。<br /> <br /> その上位の意識体は地球の軌道上に漂っていて様々な地球の活動を監視や他の意識体に対して指示をしているような、割と有名な名前を持つ意識体ではあるのですが、グループソウルの概念はその意識体の体の中で起こっていたことをふと思い出しました。<br /> <br /> と、いいますか、ことあるごとに思い出してはいたのですが、割とスルーしていてすぐに忘れてしまっていて、それほど重要なことではないと受け止めていたのですが、ふと思えば、グループソウルとその上位の意識体の関係のことってほとんど聞いたことがないな... と思ってこの度、記事にしてみました。<br /> <br /> その上位の意識体こそが、もしかしたら本当にハイヤーセルフと呼ぶに相応しいものなのかなあ、という気も致します。<br /> <br /> グループソウルはそれで意識を持っており、グループソウルはそれはそれで広い世界と広い意識を持っているので、グループソウルの一部だけでも意識を持っています。ですから、グループソウルがハイヤーセルフとして意識を持っていると言えなくもないのですが、むしろ、グループソウルを統括するものとして・・・ といいますか、ハイヤーセルフの体がグループソウルの母体そのものになっていて、ハイヤーセルフはグループソウルそのものと言ってもよく、ハイヤーセルフとしての統括した意識体が存在しているのです。<br /> <br /> ハイヤーセルフがグループソウルそのものだとしたら、グループソウルから分霊が生まれるというのは、言い換えれば、ハイヤーセルフから分霊が生まれて私という存在が地上に生まれてきている、とも言えるのです。<br /> <br /> これは、ボヤッとしたイメージでグループソウルの存在を論じるよりもよほど具体的でわかりやすい構造だと思いますし、私が幽体離脱した時の経験からして、これが真実だと思います。<br /> <br /> 今までこの上位の意識体のことを私はハイヤーセルフとは呼んではいなくて、私の魂が分離した大元の意識体、というように言ったりしていましたが、このグループソウル相当の大元の意識体をハイヤーセルフと呼ぶ方が適切かな... と最近思うようになったわけです。<br /> <br /> 認識自体は前からあったので特別に違いがあるわけではないのですが、言い方だけのお話ですね。<br /> <br /> この大元の意識体がハイヤーセルフだとすれば、ハイヤーセルフはかなり遠くて崇高な存在です。<br /> <br /> そして、そのハイヤーセルフの近くにいて任務を遂行したり世の中に尽くしている、私のハイヤーセルフと同系統で相応に同じレベルあるいはその近くのレベルにいる意識体が、今私のガイドとして付き添ってくれているようです。<br /> <br /> その一方で、私の肉体の意識体と同系統といいますか割と近い存在として過去生で一緒だった人たちが守護霊として近くに大勢いたりするわけですけれども、その友人知人や家族だった守護霊たちと比べて、ハイヤーセルフの近くにもともといた意識体のレベルは相当に高いわけで、頼りになるわけです。<br /> <br /> とは言いましても、色々と事情があって、私の今世の目的は以前書きましたようにカルマの解消ですので、その目的に沿って指導が行われてきたわけです。<br /> <br /> 世の中の理といいますか、あの世の理がわかってきますと随分とスッキリしますし、目的が達成できたらグループソウル(=ハイヤーセルフ)のところに戻るのだとわかってしまいさえすれば人生も楽になります。<br /> <br /> 私という存在はその目的を達成するべくして分霊になったのであり、帰るところがあるわけですからね。<br /> <br /> ただ、そのハイヤーセルフに戻る一方で、今生で知り合ってあの世のコミュニティにいる友人知人や家族だった霊たちのことも気遣う必要があるのでハイヤーセルフのところに戻ったらお終いではありませんけど。人によってはこれを執着と呼ぶかもしれませんけど、コミュニティを簡単に捨てることはできませんしね。<br /> <br /> Sat, 28 Dec 2019 00:00:00 +0900 空を見上げ、星の海に思いを馳せる https://w-jp.net/2019/1764/ <br /> 来年から公開されるスタートレック・ピカードのトレーラーを見ていたら、ふと急に思いがこみ上げてきて、星を見上げていました。<br /> <br /> <br /> <br /> ピカードが宇宙艦隊を引退し、任務を離れて暮らしている姿。<br /> その後、宇宙の平和のために立ち上がる姿。<br /> <br /> アメリカ人の気高い姿が旧世代から新世代へと変わり、意識が宇宙や世界的なものに変わってきているのを感じます。<br /> <br /> その変化を、もう年寄りであるパトリック・スチュワートが描いているのは興味深いです。過去の作品であるスタートレックTNGでは古き良きアメリカの気高い生き方を描いていました。今回の作品で、それが変化したように思います。<br /> <br /> アメリカン・ヒーローの姿の変化。<br /> <br /> 今までは他者の為だとか英雄になる文脈でアメリカ人の誇りが語られていました。これからは他者どうこうよりも、自らの中から湧き上がる貢献の気持ちが行動の原動力になる時代なのかなと思いました。<br /> <br /> 日本人が想像するアメリカン・ヒーローが道徳的なものから本質的なものへと変容し、自らの中で湧き上がるものになる・・・ ということは、「頭」と「体感(本質)」とが一致しているということです。今までは頭でヒーロー的なものを目指して体感(本質)がなかなかついてこないというアメリカンヒーローの姿が目立ちましたが、ここにきて、本質(体感)と頭の両方が他者への貢献を目指すという姿に変わってきたように思いました。<br /> <br /> であれば、これからは必然的に他者との分かち合いの時代になります。<br /> 人々がその意識についていけるかどうか? そこが鍵になると思いました。<br /> <br /> これから、仕事での終業時間が半分になる時代に徐々に移行してゆくと私は思っておりますが、そのために必要なのは分かち合いの精神であり、本質から分かち合うというスタンスがなければワークシェアリングは実現しません。<br /> <br /> 単純な仕事は減り、単に生きるための仕事は減るとなれば、全体の仕事の時間は減ることになるでしょう。<br /> <br /> しかし、分かち合いの精神がなければ一部の「全く働かない人」と「激務で奴隷のように働く人」とが二分されてゆき、ワークシェアリングは実現できないでしょう。<br /> <br /> 分かち合いは道徳的に正しいと誰でも頭で考えるとはいえ、実際にそれができる人はそうそういません。<br /> <br /> スタートレックは昔から未来の姿を示す道標として存在しており、かつてはピカードがTNGシリーズにおいて理想的な宇宙との関わり方を描いてきました。<br /> <br /> これからピカードが新シリーズで表現するのは、確かに物語としては人気が必要ですのでアクションや戦闘シーンもあってそちらが話題にはなると思いますが、もともとスタートレックで描きたかったのは次世代の人生観や宇宙的な意識のありようであり、少なくともトレーラーにおいてそのあたりのピカードの意識が表現されているように思いました。<br /> <br /> 次作のピカードではそのあたりに期待したいところです。<br /> <br /> <br /> まあ、一般的にはそのあたりの解釈にはなるのですが、もともと宇宙にルーツのある人たちに向けて、以下のような隠れたメッセージが含まれているように思いました。<br /> <br /> 「貴方(視聴者)は、今はこのピカードのように地上に暮らしていて、かつて宇宙を駆け巡って様々な冒険をしていたことを忘れてしまっています。貴方はピカードのように地上の何不自由のない生活を平和に謳歌しているかもしれません。あるいは、宇宙の生活は遠い過去のこととして現在の生活とは無関係のように思っているかもしれません。しかし、そろそろ思い出してみてください。ピカードのように、貴方にはできることがあるのです。今、地上の人として一般人として生活をし、いくら貴方が宇宙への任務への復帰を希望してかつての団体に願い入れたとしても、ピカードのようにそれは表面的には拒否されることでしょう。あまりにも地上の生活と宇宙の生活は違いすぎますし、宇宙で活動するための訓練も長い間、受けてきていません。それはそうでしょう。しかし、ピカードのように思いを強くしてください。それを宇宙の友人たちは期待しています。どのような関与になるのか、何も起こらないのか、何かが起こるのか、それは人それぞれです。しかし、貴方がピカードのように空を見上げ、宇宙的な意識を持ち、世の中への貢献が自らの内から湧き上がってくるようになった時、何がしかのアプローチが宇宙からあるかもしれません。空を見上げ、かつての姿に思いを馳せて、他者や社会および世界や宇宙への貢献の思いを抱きしめてください。貴方のそのような思いを期待しています。」<br /> <br /> ・・・そんな感じのメッセージが込められているような気が致しました。もちろん製作者に問い合わせても「そんなことはない」と言われるだけでしょう、このようなメッセージは製作者の意識の中に、それとわからないように込められるものなのです。アーティストの頭の中に隠されたメッセージを込めることなど宇宙の人たちには簡単なことです。<br /> <br /> 新シリーズのピカードがアメリカで来年に放映され、この隠れたメッセージが拡散した時、アメリカがまた一歩、次のステージに向けて変革するような気も致します。これは全員が覚醒するという種類のものではありませんが、一部の視聴者はこのメッセージを受け取って新たな意識に変わってゆく気がしております。<br /> <br /> Fri, 27 Dec 2019 00:00:00 +0900 右腕に絡まっていた見えないものを引き抜く https://w-jp.net/2019/1753/ <br /> ここしばらく右腕に緊張がありましたので瞑想中に右腕を探ってみまして、右腕に絡まっている強張っているものを引っ張り出したら緊張がほぐれました。<br /> <br /> これは何かの憑依なのかそれともネガティブなものが絡みついていたのか、そこのあたりはよくわかりません。いつしかにも同じように右腕から心臓にかけて何かが憑依していたのを引き抜いたことがあったのですが、その時よりは傷が浅いです。その時は心臓にまで触覚のようなものが到達していましたが、今回は右腕だけでした。<br /> <br /> 引き抜いた後、その傷口を意識の糸で縫うようにしたら傷口のあたりのオーラが安定しました。縫う時は、ピリピリした感覚があって痺れていました。<br /> <br /> その後しばらく右腕が不自由で、痺れの感覚が数日は続いていたかと思います。<br /> <br /> 引き抜いた翌日は大分良くなりまして、数日経過したらほぼ回復。1週間くらいしたらほぼ普通に戻りました。<br /> <br /> それでも、左腕と比べますと左腕はオーラがかなり安定しているのに対し、右腕は左腕ほどは安定していません。<br /> <br /> 今まであまり気にしておりませんでしたが、オーラの状態を全身細かくチェックするようなことを定期的にした方が良いかもしれないですね。<br /> <br /> おそらくはオーラに亀裂が入っていて何かの意識体かネガティブなオーラが入り込みやすい状態になっていたのかなという気がしていますので。<br /> <br /> <br /> <br /> Sun, 15 Dec 2019 00:00:00 +0900 神聖幾何学のラビリンスを歩く時の感覚 https://w-jp.net/2019/1752/ <br /> ヨガのアシュラムに遊びに行った時、神聖幾何学のラビリンスがありましたので何度か歩いてみました。<br /> <br /> <br /> <br /> 歩くと、体の各所がグリグリと線のように今歩いている場所に対応して体内感覚があるのが面白かったです。<br /> <br /> 体の中を(小周天のような縦回転ではなく)横回転でエネルギーの感覚がありました。<br /> <br /> 最初はお腹の左右それぞれに縦方向に動く感覚があって、次は胸からお腹にかけての外側を左右それぞれ縦方向に動く感覚、ただし最初のお腹とは逆回転でした。<br /> そして一旦頭(確か右寄り?)に感覚が表れたのち、喉へ。そして眉間から頭上(右寄り)に行ってから中央でゴール。<br /> <br /> 戻る時も同様でした。<br /> <br /> <br /> <br /> 数日後再度試しましたところ、歩いている時にチベットのお経のような低い声でオーン、ウァーン、カー厶、みたいな長い音が後頭部の斜め上で聞こえていました。遠くでの音なのでしょうか? 空耳? 風切り音の上に乗っているような音で聞こえていました。音には指向性があるようで、ラビリンスの入り口の少し左側の方向から聞こえているようでした。耳で聞こえるというよりは上に書きましたように後頭部の斜め上の空中あたりが反応して聞こえているようでした。聞こえているのはラビリンスを歩いている時だけでした。<br /> <br /> 体の感覚は前回と同様にあって横回転していました。<br /> <br /> 体の感覚は毎回同じようにありますので、歩くだけで体内のエネルギーが活性化される興味深いラビリンスだと思いました。<br /> <br /> チベットっぽいお経が聞こえたのは一度だけでした。<br /> <br /> Sat, 14 Dec 2019 00:00:00 +0900 オーラの接触の程度 https://w-jp.net/2019/1751/ <br /> どの場合にどの階層のオーラ接触なのか解明はできておりませんが、何種類かオーラ接触の種類があるようです。<br /> <br /> 肉体が近づくときにオーラが接触します。オーラの接触はなるべく少ない方が良いので自分のオーラを自分の体の近くに密着させるように意図するのをお薦めしますが、多少は混じってしまいます。お互いにオーラが体の近くに密着していればさほど危険はなく、現代人はこのようにオーラを無意識に自分の体に密着させているような気がいたします。<br /> <br /> 一方で、オーラと言いますかエーテルコードとか呼ばれたりするオーラの糸が相手と繋がる場合がありますが、どうも、これは体の近くにあるオーラよりも凝縮した形態のような気がしてきました。<br /> <br /> 体の周囲にふわふわと広がっているオーラがそのまま伸びるというよりは、もっと体に近い根幹部分が意思の力で線のようになって伸びるのかな、と。<br /> <br /> 両方共オーラと言えばそうなのですが、ふわふわとしたオーラと線のようになっているオーラとは性質が異なります。<br /> <br /> そもそも、あまり精神訓練を行っていない人のオーラとある程度の瞑想などをした人のオーラは異なっていて、それは精神訓練のみに限らず勉強だったり生活習慣にもよるのですが、精神的に安定している人ほどオーラの「分かれ目」がしっかりしていて、精神的に未熟なほどオーラの分かれ目がぼやけていてオーラが発散しているような気がいたします。<br /> <br /> オーラを線のように伸ばすことができるのはある意味誰でもできますが、ある程度の精神訓練をしてオーラの分かれ目がくっきりしている人は明確なくっきりとした線を伸ばすことができますが、もともとのオーラがぼんやりしている人はぼやけた線というか太いぼやけた線のようなオーラしか伸ばすことができないわけです。<br /> <br /> この線のようなオーラは、普通のオーラと同じかなと思っていたのですが、どうも、意志で動く部分はオーラの階層が違うのかな、という気がしてきました。なんとなくですけどね。<br /> <br /> ヨーガとか神智学とかですと人間とオーラは複数階層に分かれていて、肉体に近い方から魂の根源に近い方まで階層が分かれています。オーラというと肉体以外のところ全てを指したりしますけど、肉体に近い部分のオーラが意志を反映できる気もしなくて、もっと根源の、例えば神智学で言うところのコーザル体(原因体)あるいはメンタル体みたいなところが意志で動いて、その周囲にアストラル体とかがくっついて動くのかな、という感じがしてきています。意志で動かすという意味ではコーザル体というよりメンタル体の方が感覚に近いかもしれません。<br /> <br /> それとも、このような分類は名目的なもので、ヨーガでいうところの3種類しかない、というのが実態なのかもしれませんけど。<br /> <br /> 感覚で知覚できるのは、基本的には<br /> ・五感による肉体<br /> ・意志によるオーラ<br /> この2つだけであり、その他には<br /> ・見る者<br /> もいたりしますけど、見るものはオーラを含めて鳥瞰的に見ているだけです。<br /> <br /> これらのうち、「意志によるオーラ」が最近、意志によって動く気がする部分と動かない部分があるような気がしておりまして、それがオーラの階層による違いなのか、あるいは、単にその部分のオーラが淀んでいて制御が効かない状態、いわゆるヨーガでいうナディ(エネルギーの通路)が詰まっている状態なのか、どちらなのだろうか、と気になっておりまして、どちらかというより、両方あり得るのかな、という気がしてきておりまして、であれば、オーラの階層があるのかな... という感じになってきております。これは瞑想中の微細な感覚の違いですので、実際は違う意味を帯びているかもしれません。<br /> <br /> まあ、このあたりを探っていくのも興味深いといえばそうなのですが。<br /> <br /> Sat, 14 Dec 2019 00:00:00 +0900 チャクラの核がマントラやチャンティングで出来てくる https://w-jp.net/2019/1750/ <br /> 最近、マントラやチャンティングに体が反応しやすくなっています。<br /> <br /> 例えば先日のチベットのマントラであれば頭の中が反応して活性化して核のようなものができつつありますし、チャンティングの種類によってはハートが反応したりします。<br /> <br /> どうも、チベットのマントラが頭の中を貫いたかのような感じになっていて、喉はまだ詰まり気味ではあるものの、喉を通り越してハートのあたりに感覚が続くようになりました。<br /> <br /> これは、以前からアナハタ(ハート)優勢になってきた感覚ともちょっと違っていまして、アナハタ優勢になったときはふわふわとした熱感がマニプラ優生からアナハタ優勢になったのに対して、今回は熱感というよりは核のようなものがアナハタに生じた感じです。<br /> <br /> 以前アナハタ優生になったときはマニプラとアナハタの間がブロックされていてアナハタにエネルギーが行っていなかった状態からそのブロックが外れてアナハタ優生になったのに対し、今回の場合はそのアナハタ優生な状態のまま更にアナハタに核のような感覚が生じたわけです。<br /> <br /> その核のような感覚は、チベットのマントラを唱えてから頭の中にできつつある感覚と似ているのですが、頭の中にできつつある核よりもハートの方がしっかりした核です。<br /> <br /> その核がチャンティングに反応するようになりました。それは熱感というよりもチャンティングに共振するような感じです。チャンティングのマントラやシュローカに共振してブルブル細かく震えて、核が強まる感じになります。<br /> <br /> 更にチャンティングをしたりチベットのマントラを瞑想中に唱えたりしますと、頭の中に感覚が出てくるのは以前の通りですが、最近はそれだけでなくアナハタにもなにか核がの感覚が出てきました。マニプラやスワディスタナにもアナハタほどではないにせよ微妙な核の感覚が出てきています。<br /> <br /> これがいわゆるチャクラというものなのでしょうかね?<br /> <br /> 今まで、マニプラやアナハタあるいはムーラダーラが活性化して熱感が出ることでそれがチャクラかと思っておりましたが、まさかこのように核のようなものが出来てくるとは思いませんでした。<br /> <br /> クンダリーニ活性化後は、以下の順番で熱感等が変わってきています。<br /> 1. マニプラ中心の熱感(後から思えばアナハタは未活性化だがクンダリーニ活性化以前と比べたらアナハタもそれなりに活性化)<br /> 2. (風のルンと比喩する体験後に)アナハタ優生の熱感<br /> 3. ムーラダーラの活性化(依然としてアナハタ優生)<br /> 4. (チベットのマントラにより)チャクラの核の感覚が出てくる<br /> <br /> さて、今後どうなりますか。楽しみです。<br /> <br /> Fri, 13 Dec 2019 00:00:00 +0900 心の歌の聞こえ方 https://w-jp.net/2019/1749/ <br /> 先日のハヌマーン神の歌の聞こえ方もそうですが、特に瞑想中、あるいは普段の生活においても、心の声や歌の聞こえ方が「離れて」聞こえる場合と内なのか外なのかよくわからずに共振しているように聞こえる場合とがあります。<br /> <br /> 例えば、先日の瞑想中のハヌマーン神の場合は視覚的に見えて聴覚的にも聞けましたが、「離れて」認識されました。<br /> これは夢と同じような見え方ですね。<br /> <br /> 一方で、散歩中にハヌマーン神の歌を思い出していたらふと昔はどんな曲を聞いていたかなと思いついてMisiaや浜崎あゆみの歌を思い出したのですが、最初は「離れて」認識されたのですが昔のことを思い出すと内と外のない「共振」状態になったり、その状態が交互に入れ替わったりして、状態の変化を感じました。そういえば昔は割とこの共振の聞こえ方が多かったのですが、最近は「離れた」聞こえ方になっていた、という変化を認識したのです。<br /> <br /> 「離れて」聞こえている場合はその相手の波動に飲み込まれまれませんが、共振している場合は飲み込まれます。<br /> 物事をしっかり見極めるには「離れる」見方が必要ですね。共振してしまうと感覚が飲み込まれてしまいます。<br /> <br /> なんとなくですけど、おそらくはエネルギーが高まっているときは「離れた」見方ができますね。<br /> エネルギーが落ちるとオーラの境目が曖昧になって「共振」状態になりやすい気が致します。今回の場合は昔のことを思い出して波動が一瞬落ちると同時に共振状態に落ちて、意識を戻すと「離れた」状態に戻ることが認識できました。<br /> <br /> その違いは、おそらくですが、オーラの伸ばし方にも関係しているような気がしてきました。<br /> <br /> オーラを対象物に「線」で伸ばすと「離れる」見方になるような気がいたします。このオーラについてはいつしかオーラとカフナ式みたいなお話をした時と関連しています。<br /> <br /> 一方で、オーラを「太く」全体的に楕円のように伸ばしていくと共振してしまうような気がいたします。原理的にはその部分のオーラが一緒になり過ぎてしまうのだと思います。<br /> <br /> 「線」で伸ばすと相手のオーラと多少は混ざりますが「離れて」いますので相手のことが分かる一方でそれほど飲み込まれないのだと推測しています。<br /> <br /> このオーラの使い方、まだまだ奥が深そうですね。<br /> <br /> 基本的にはオーラをあまり混ぜたくはないですので、なるべく細くオーラを伸ばすにしても多少は混ざってしまいますが、どうやら指向性の波動だけ送ったり受け取ったりすることで心の声や歌および相手の状態がわかるかもしれません。もうちょっとこの辺りを探ってみたいですね。<br /> <br /> どうやら、オーラを接触させて混ぜて相手のことを知ることができるのはそれはそれとして手法としてはあるのですが、波動だけ読み取ればいいのかもしれません。<br /> <br /> あるいは、私が勘違いしているだけで、波動と言ってもオーラの更に微細な部分な部分というだけでオーラの一種だとすれば、最初はオーラをガッツリ混ぜていたものが、慣れるにつれてオーラの微細な波動だけ見れば済むようになるのかもしれないですね。<br /> <br /> このあたりは更に様子を見てゆきたいと思います。<br /> <br /> Thu, 12 Dec 2019 00:00:00 +0900 ナーダ音は瞑想中の眠りを許さない https://w-jp.net/2019/1736/ <br /> 先日のタマスな瞑想のお話の続きです。<br /> <br /> タマスな瞑想は眠りに似ていて、ちゃんと瞑想しているのかタマスの「無」の中に落ち込んで眠りのように無意識になってしまっているのか特に最初は見分けがつかないことがあったように思います。無意識で時間が凄く過ぎているのでしたらタマスな瞑想に落ち込んでいる可能性があると思います。<br /> <br /> 最初は雑念がそもそも多いのでこの種のタマスな無意識な状態にすらならなかったように思います。タマスな無意識、いわゆる「無」の状態で安らぐことができるのは、それはある程度の成長であると思うわけです。<br /> <br /> しかし、その「無」の状態にいつまでも落ちていたら成長がない、というのも確かだと思います。古来、ヨーガの古典はこの種の眠りに陥ることを諫めておりましたが、私が思いますに、ずっと落ちているのはよろしくないものの、通過点としては通る道なのかなと思っております。<br /> <br /> そして、私の場合ですが、先にも書きましたようにこの種の「無」の瞑想で無意識に寛げるようになってから割とすぐ、数日か1週間経ったか経たなかったくらいでナーダ音が聞こえてきましたので、その時点で、「無」の瞑想に落ちることをナーダ音が妨げるようになってしまったのです。<br /> <br /> これは当時としてはなんだろう、と疑問に思ったものです。せっかく「無」の心地よい眠りのような無意識の瞑想ができるようになったのに、早々にナーダ音がその邪魔をするようになったのですから。<br /> <br /> しかし、今から思えば「無」とはタマスな無意識の瞑想に眠りのように落ち込んでいたわけであって、ナーダ音が無意識の眠りに落ち込むのを助けて意識が保つように助けてくれていたように思います。<br /> <br /> ですから、ナーダ音は最初は妨げかとも思ったのですが、今から思えば意識を保つための助け舟だったわけです。<br /> <br /> その意識の保ちとはヴィパッサナー的な観察瞑想に繋がるのですが、瞑想の目的地は「無」になって無意識に落ち込むことではなく、全てをあるがままに見つめて、見つめつつも心は風のない水面のように平らに保つことでありますので、その目的地に到達するためにナーダ音はとても助けになったわけです。<br /> <br /> ナーダ音は瞬間瞬間に変化して心を惹きつけて離しませんから瞑想中はナーダ音に集中する瞑想から始めました。これはハタヨガプラピディカにも書かれてあるナーダ音を観察する瞑想です。<br /> <br /> やがて雑念が減り、心が穏やかに平らな水面になるにつれ、ナーダ音に心が引き寄せられなくなりました。心がナーダ音を聞いてはいますし、存在を意識することはあるのですが、以前のようにナーダ音に心を縛り付けておく必要はもはやありません。<br /> <br /> しかし、特に最初はナーダ音が意識を保つ助けになりましたし、雑念から心を救ってくれる助け舟になっていたわけです。<br /> <br /> Fri, 29 Nov 2019 00:00:00 +0900 チベットの第三の眼の伝説 https://w-jp.net/2019/1735/ <br /> 図書館でチベット関係の書籍を探っていたところ、面白い記述を発見しました。<br /> <br /> チベットの伝説によると、昔は全ての男女が第三の眼を使うことができた。その当時は神さまも地球の上を歩き、人間と雑居していた。人間は、神さまの方がよりよくものを見抜くことができるということを忘れ、神さまにとってかわろうと、とんでもないことを考え出し、神さまを殺そうとした。その罰として、人間の第三の眼は閉じられてしまったのだ。「第三の眼(ロブサン・ランパ 著)」<br /> <br /> ネットで調べると同書は偽書の疑いが投げかけられており著者にも疑問符がつくようですが、そうであったとしてもこの伝説はおそらく実際のものであるかな、と推測致します。チベット人の知り合いはいませんので確認することはできませんが、機会があれば聞いてみたいものです。<br /> <br /> 同書には眉間の骨を砕くくらいの穴を開けて特別な薬草を流し込む秘法が描かれており、それにより第三の眼の能力を最大限に引き出す様が描かれていて興味深いですが、本当に骨を砕くくらい穴を開ける事例があったのかどうかはよく分かりません。その結果、オーラを見ることができたり他人の意思を読み取ったりすることができるようになったようですが、そのような能力はチベットの事例でよく見かけますので実際にそのような人はいて、今もいるのだろうとは思いますが、骨を砕く秘法のことはよく分かりません。そういう流派もかつていたのかもしれませんが。<br /> <br /> 他の書籍で単に薬草を額につけるくらいのお話は読んだことがあります。額につけるだけでも激痛の薬草だと描かれてあったような気が致します。<br /> <br /> Thu, 28 Nov 2019 00:00:00 +0900 タマスな瞑想あれこれ https://w-jp.net/2019/1734/ <br /> 先日タマスな瞑想について言及しましたけど、語弊もあったかもしれませんので少し書いておきます。<br /> <br /> タマスな瞑想になるのは主に2時期ある気が致します。<br /> <br /> ・ナーダ音が聞こえる前、雑念が多い時期から雑念を抑えて「無」の瞑想になる時のタマスな瞑想<br /> ・ナーダ音が聞こえた後、雑念もかなり減って雑念がほとんどない瞑想になった時。エネルギーのレベルがまだ比較的低い状態の時。自身はサットヴァな瞑想をしていると思っているかもしれない状態。後から見ると比較的タマスな瞑想。相対的にタマスな瞑想だが割とサットヴァが増えてきている状態。これをタマスと呼ぶかどうかは微妙だがタマスと呼べなくはない瞑想。<br /> <br /> タマスとかラジャスとかサットヴァとかは主観的なものですので、なかなか誤解があるような気もしています。<br /> <br /> 私の場合はタマスな「無」の瞑想に入って数日か1週間前後くらいですぐにナーダ音が聞こえ始めましたので、最初「無」のタマスな瞑想に入れたときは「こんな安らぎの瞑想があるのだ」と喜んでタマスな何も感じない、それを安らぎといえば安らぎでもある瞑想に入っていたのですが、1週間前後したらすぐにナーダ音が聞こえ始めてタマスな瞑想に入るのを遮るようになりましたので、最初はナーダ音がむしろ邪魔に思う時もありました。最初は、タマスな瞑想に入るのを邪魔する音だと思っておりました。<br /> <br /> ですが、今から思えばそれはタマスな瞑想でしかなくて、ナーダ音を観察することで雑念が消えてゆく体験をしたわけです。<br /> <br /> タマスな瞑想をいくらしていても一時的に心が止まるだけで、タマスな瞑想を抜ければまた雑念が復活します。それはそれで安らぎの瞬間ではあるのですが、一時的なものであるわけです。<br /> <br /> その後、ハタヨガプラピディカにも記載されているナーダ音の観察を続けてようやく雑念が本格的に減り、現在に至るわけです。<br /> <br /> 続き: ナーダ音は瞑想中の眠りを許さない<br /> <br /> Wed, 27 Nov 2019 00:00:00 +0900 ゾクチェンの3つの境地 https://w-jp.net/2019/1726/ <br /> 先日の続きです。<br /> <br /> 「ゾクチェン瞑想マニュアル(箱寺 孝彦 著)」によりますと、ゾクチェンには3つの境地があるようです。<br /> <br /> ・シネーの境地<br /> ・テクチュの境地<br /> ・トゥガルの境地<br /> <br /> 同書からポイントを書き出してみます。<br /> <br /> ■シネーの境地<br /> くつろぎ。穏やかさ。<br /> インドの言葉で「シャマタ」<br /> 想念や雑念の減少<br /> 集中の対象がある。<br /> <br /> ■テクチュの境地<br /> 突破、の意味。シネーの境地の突破。二次元的な心の動きの突破。<br /> 集中していない。<br /> 思考や分別が消え去っても存在している「むきだしの心」の働きである「リクパ」という認識能力が働き始めた状態。<br /> 対象と心の区別ができなくなる。<br /> <br /> ■トゥガルの境地<br /> 跳躍、の意味。<br /> ティクレ(光滴)が見え始める。ティクレとは光が輝き出すこと。瞑想の初期に現れた光とは別物。<br /> 輪廻から涅槃への跳躍<br /> 実体性から空性への飛躍。<br /> <br /> さて、ここまで読むと、見えてくるものがあります。シネーの境地とはいわゆるタマスの瞑想のことかなと思います。そして、テクチュの瞑想はラジャスの瞑想。そしてトゥガルはサットヴァな瞑想に相当すると解釈できそうです。仮説ですけどね。<br /> <br /> 瞑想をしても多くの場合はタマスの瞑想であるシネーの境地で止まっている、とは同書でも指摘されています。とは言いましても、それはそれで心が穏やかになって、瞑想を始める以前と比べたら随分と爽やかに人生を過ごせますので、一般社会を快適に過ごすにはそのくらいで十分なのかもしれませんが。<br /> <br /> テクチュの境地では上に記しましたように「対象」と「心」の区別ができなくなる、とありますので、これは一般的なサマーディの定義と似ているように読み取れます。サマーディは色々な種類がありますが、一般的には「見るもの」と「見られるもの」の区別がなくなって一体化する状態だと解釈されていますので、一般的なサマーディ相当がテクチュの境地なのかなと読み取れます。<br /> <br /> そして、同書によればテクチュの境地の瞑想を続ければ一続きのものとしてトゥガルの境地に導かれるとありますので、まずはテクチュの境地に至るところが一つの壁であるようです。<br /> <br /> 続き: テクチュの境地がヴィパッサナーのスローモーション体験<br /> <br /> Thu, 21 Nov 2019 00:00:00 +0900 ちゃんとタマスな沈み込むような瞑想に熟練する https://w-jp.net/2019/1725/ <br /> 先日のお話の続きです。<br /> <br /> 例えばマントラ瞑想とかですといきなりラジャスな瞑想を目指している気が致しますが、私の経験では、いきなりラジャスな瞑想はうまくいかないような気がしております。これは人によるのですかね? もともとタマスだったりするとうまくいくのかもしれないですけど。<br /> <br /> 私の場合は(同じような人も多いとは思いますが)、最初はタマスというよりも混沌とした状態の瞑想でした。雑念が入り混じれて、タマスなのかラジャスなのかよくわからない状態でした。最初は私はその雑念が入り混じっている状態をタマスかと思って解釈しておりましたが、どうやらタマスはもっと重々しい状態ですので、最初の瞑想状態はタマスですらなかったのかな、と今では思います。<br /> <br /> その混沌とした瞑想状態から初めて、最初は「集中」をして「グイッ」と状態を安定させるわけです。<br /> <br /> そして、状態が安定してくると雑念も減ってくるわけですが、そこで「無」とも言える状態に次第に近づいていくわけですが、その、押しつぶされたというか愚鈍な状態こそがタマスなのかな、と今では思います。<br /> <br /> ですから、ヨーガをしている人の一部の間でタマスがよくないことのようなお話になっていて、まるでタマスが悪者になっていますけど、タマスというのは成長のレベル1のことなのかな? と今では考えております。<br /> <br /> ヨーガや瞑想を始める前はレベル0ですので、タマスがレベル1だとしたらラジャスがレベル2、サットヴァがレベル3、サットヴァすらない平穏な状態がレベル4となり、タマスはレベル1ですのでそれ以上のレベルから見たら確かに低いレベルですけどヨーガや瞑想を始める前からしてみたらそれなりに高いレベルなわけです。<br /> <br /> 実際、その「無」の愚鈍な瞑想状態ですらもそれ以前の雑念が入り混じっている状態と比べたら遥かに平穏で清々しい境地に至ることができている(筈)ですので、タマスのレベル1すらもそれなりの境地なのかなぁ、と思う次第です。<br /> <br /> ですから、タマスは悪いかのような扱いをしてタマスな瞑想を避けるべきではなく、むしろ最初はきちんとタマスな瞑想に熟達してから次のラジャスな瞑想に移るのがいいのかな? と最近は思うようになってきました。<br /> <br /> まあ、これも割と仮説といいますか試行錯誤の上での現時点での判断ですけどね。<br /> <br /> 最初からラジャスやサットヴァな瞑想を目指してもうまくいかないような気が致します。あるいは、ラジャスやサットヴァのつもりでも実はタマスな瞑想している人もそれなりにいるような気も致しますが、どうなのでしょう。<br /> <br /> 一方、サイキックやスピリチュアルである程度の「能力開発」を目的に修行した方などはいきなりラジャスになって能力が現れたことにより本人の目的は達成できたのかもしれないですが、タマスを経て来ていないので精神不安定になってしまっているような気も致します。スピリチュアルでいわゆる「キレやすい」性質を持った人は、もしかしたらこの種の人かなあ... というのが現時点での仮説です。<br /> <br /> もちろん、やはりタマスはタマスでしかなくてサットヴァな瞑想でなくては上質な落ち着きのある性質は出てこないのでしょうが、ラジャスやサットヴァだけでは不安定になるのでタマスも必要なのかなあ、という気がしています。<br /> <br /> ヨーガの人はサットヴァを目指すことが多いですけど、タマスやラジャスも悪者ではなくて、そもそも目的地としてはサットヴァすらも超えた場所であるわけで、その境地に達したあとはおそらくタマスもラジャスもサットヴァもさほど変わらない性質として鳥瞰できるのかなあ、という感じで理解しています。<br /> <br /> サットヴァのことを言う人は、以下の2種類に分かれる気が致します。<br /> ・タマスとラジャスを排してサットヴァになってゴール。<br /> ・(タマスとラジャスを排するかどうかはともかくとして)サットヴァになり、ついにはサットヴァすら超越する。<br /> ですから、このあたりはコンテキスト次第で読み取るしかないのかな、と言う感じが致します。<br /> <br /> Thu, 21 Nov 2019 00:00:00 +0900 タマスな瞑想から始まってサットヴァな瞑想へ https://w-jp.net/2019/1724/ <br /> 先日チベットのゾクチェンの瞑想を引用しましたけど、「テクチュウ(突破する)」と「トゥカル(跳躍する)」のそれぞれのステップは先日引用したヨーガや古神道の瞑想法とも繋がっているような気がしてきました。<br /> <br /> チベットでは「テクチュウ(突破する)」で清々しい清浄なる空(くう)に至り、「トゥカル(跳躍する)」でそれを超えると言います。<br /> 一方、ヨーガではまず最初に「集中」から始まってタマス(惰質、暗性)的な瞑想から入ってゆきます。<br /> <br /> ヨーガでは割とタマスが悪いことのようなイメージで語られることが多いような気が致しますが、ゾクチェンの瞑想と結びつけるとそれもまた一つのステップのように読み解けます。<br /> <br /> ゾクチェンではまず最初に「テクチュウ(突破する)」から入り、それ以前の雑念の多い状態に比べるとかなり平穏で清々しい状態に達します。<br /> ヨーガでもまず最初に「集中」から入り、雑念を抑えて無の状態の瞑想にまずは達します。<br /> <br /> 先日引用しましたように、ヨーガではこの最初の無の瞑想はタマス優位の瞑想だと解釈することができます。<br /> <br /> 割とヨーガでは否定的に語られることが多いタマスですが、瞑想の最初の段階では必ず(おそらく、必ずだと思われる)、このタマスの瞑想にまず辿り着きます。<br /> <br /> タマスの瞑想であったとしても、元の雑念の多い状態に比べればかなり心は落ち着いており、それはそれは清々しいものです。ですから、タマスの瞑想であっても恥じることはなく、それは一つの到達点であると思うわけです。<br /> <br /> このタマスの瞑想は、おそらくチベットのゾクチェンでは「テクチュウ(突破する)」で到達する清々しい境地であると思われます。<br /> <br /> と、言いますのも、本屋でゾクチェン関係の書籍を探っていましたところ、「テクチュウ(突破する)」は確かに素晴らしい境地に導くけれども、「トゥカル(跳躍する)」で超えた先の境地はもっと清々しくて素晴らしい境地である、というようなことが書かれてあったからです。更には、ゾクチェンの完成にはもういくつかステップがあるようでした。<br /> <br /> であれば、この「トゥカル(跳躍する)」とは、ラジャス(激質、動性)のことであると推測できます。<br /> <br /> もしこの推測が正しいとすれば、ヨーガにせよゾクチェンにせよ、最初はタマスの瞑想から始まる、ということなのだと思います。<br /> <br /> ヨーガで悪者扱いされがちなタマスですが、瞑想においてはきっとそれが最初のステップなのだと思います。<br /> <br /> <br /> ・集中して雑念を減らし、タマスの瞑想に入って「無」の清々しい境地に至る。ゾクチェンの「テクチュウ(突破する)」、「集中」の瞑想。ある種のサマーディ。<br /> ・感情や感覚を奮い立たせて「軽い振動」を与え、タマスからラジャスの瞑想に至る。ゾクチェンの「トゥカル(跳躍する)」、古神道の振魂(という私の解釈)。ある種のサマーディ。<br /> ・更に浄化を進め、ラジャスからサットヴァ(純質、善性)な境地に至る。ゾクチェンの上の段階。古神道の鎮魂(という私の解釈)。ある種のサマーディ。<br /> ・サットヴァすらなくなる境地がある筈。ゾクチェンの更に上の段階。古神道にも該当がある筈。ある種のサマーディ。悟り?<br /> <br /> <br /> サマーディには多くの種類があってそれぞれどれが該当するのか確認するのが困難ですが、「魂の科学(スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ著)」には3つのグナそれぞれにまつわるサマーディが解説と共に記されています。<br /> <br /> こうして見ますと、タマスの瞑想も悪いことはないんだな、ということが今更ながらよくわかります。<br /> <br /> ただ、「魂の科学」によりますとタマスの瞑想に至ったらその先に進まなければ成長はないようですので、タマスの瞑想でサマーディに入って何時間、何日間も思考が停止した状態で瞑想を続けられたとしてもそれが新たな知恵を生み出すことはなく、ラジャスやサットヴァな瞑想(あるいはサマーディ)によらなくては更なる精神的な成長をすることは難しいようです。それを教えてくれるのがグルの役割の1つでもあるようです。<br /> <br /> Wed, 20 Nov 2019 00:00:00 +0900 奮い立たせてタマスを浄化する古神道の振魂 https://w-jp.net/2019/1723/ <br /> 先日の続きです。<br /> <br /> 古神道の「振魂(ふるたま、ふりたま)の法」が先日の感覚を高ぶらせる瞑想に似ている事に気が付きました。古神道にも流派がありますのでそれぞれ異なるようですが、「神道の神秘(山蔭 基央 著)」によりますと「鎮魂の法」の前段階としてこの振魂が行われることもあるようです。<br /> <br /> 鎮魂とは先日少し書きましたオーラを凝縮させる方法が一般的な解釈ですが、古神道的な本義は他にあるようです。その前段階としてこの振魂が行われる流派があるようです。<br /> <br /> 振魂とは、身体的には「軽い振動」を与える事で一種の神がかり状態に導くものでもあるようですが、そのような目を引く意味は本義ではなさそうですのでとりあえず置いておいて、私はそれよりも、ヨーガでも行われるような緩急をつけた筋肉の緊張と弛緩でリラックスする方法に似ているとも思いましたし、この振魂の本質はと言いますと、先日気付きましたようにタマスをより効果的に浄化する作用にあるように思われました。<br /> <br /> 古神道の鎮魂は高級な神霊界などに接触あるいは導き入れる法のことでもあるようですのでそれはサットヴァな状態であると解釈すれば、その前段階としてラジャスの状態に導くために振魂がタマスを浄化するというのは理に叶っているように思われました。<br /> <br /> まとめますと<br /> <br /> ・タマスを浄化してラジャスの状態にするのが古神道の振魂(という私の解釈)。「軽い振動」を与える。<br /> ・ラジャスをサットヴァにするのが(本来の)古神道の鎮魂(という私の解釈)。呼吸法(ヨーガでいうプラナヤーマ)。<br /> <br /> とすれば、様々なスピリチュアルな手法で最初に軽い運動をしたり振動っぽい働きを体にさせたりするのはこれと同じようにタマスを浄化してラジャスにする効果があるのだと解釈できます。<br /> <br /> ヨーガのアサナ(体操)ももちろんそうですし、ヨーガのプラナヤーマ(呼吸法)の中には激しい呼吸をするものもありますけど、物によっては同様にタマスを浄化してラジャスにする効果のプラナヤーマもあれば、ラジャスをサットヴァにするためのプラナヤーマもあるのだと思います。<br /> <br /> 滝行なども、精神を強くするという意味合いももちろんあるのでしょうけど、この「軽い振動」を与えることが目的なのかもしれないですね。滝行でタマスをラジャスにしてサットヴァまで持っていくのはなかなか厳しそうにも思えますが、どうなのでしょう。滝行は大勢滝壺で死んでいるとも言いますしね。滝行で生命を危険に晒すよりは本質である「軽い振動」でタマスを浄化していけば十分な気も致しますが、どうなのでしょう。いろいろ流派があってやり方もそれぞれですので、体系に組み込まれているのだとしたら滝行はそれぞれの流派の意義があるのでしょうけど。<br /> <br /> そういえば50年かもっと昔には「霊動法」とか言われるものも流行ったようですね。自分ではしたことがありませんが、1冊だけ本は持っています。見たところ、霊動法は振魂に似ているような気も致しますが、どうなのでしょう。同じ古神道の系列ですので同じように見えたりもしますが。<br /> <br /> このラジャスの状態が先日の「魂の科学(スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ著)」の解釈における「動性(ラジャス)優生の三昧(サマーディ)」と同じ段階なのだとすれば、それで繋がる世界は物理的な世界(の精妙な部分)であって、「善性(サットヴァ)優位の三昧(サマーディ)」のように高次の世界と繋がっているわけではないようですので、ラジャスの段階である振魂ですとか霊動法でそれほど良くない魂と繋がったり低級霊(狐や狸)が出てきたりするのも理に叶っている気が致します。霊動法にも色々あって、上達すればサットヴァなものに繋がったりもするようですが、見たところラジャスの事例が多いように見受けられます。<br /> <br /> 霊動法とよく似た事例として、大本教の出口王仁三郎の伝記である「大地の母」に面白い話が載っていたのを思い出したのですが、古神道の行法をして高級霊が来たかと思ったら狸か何かに騙されて埋蔵金の大捕物をした挙句何もなくて大恥をかいて信用を失った、みたいな話もあるようです。これは、振魂や鎮魂あるいは霊動法のような内容だと本からは読み取れますが、さほど熟練しておらず、試行錯誤的にしていたらよくわからない状態になったようですが、おそらくはタマスを浄化してラジャスになった段階で低級霊と繋がったのかな、と解釈できます。ですから、この種の「お告げ」なんてものはよくよく気をつけないといけないと思います。本当にサットヴァな状態に達する前は、このような、霊界からの「いたずら」に翻弄されたりもするのかな、と思います。<br /> <br /> ヨーガ・スートラでも、悟りに達する前は様々な神々やその他の霊からの誘惑があるが、一切を退けなくてはならない、とあります。それはひょっとしたら、この種のラジャスな段階では特に気をつけなさい、ということかもしれません。<br /> <br /> Wed, 20 Nov 2019 00:00:00 +0900 暗性優生のサマーディと動性優生と善性優位 https://w-jp.net/2019/1722/ <br /> 訳によって微妙に表現は異なりますが、これはタマス優生のサマーディ、ラジャス優生のサマーディ、サットヴァ優生のサマーディのことです。<br /> ヨーガやアユルベーダでは3つのグナとしてタマス(惰質、暗性)、ラジャス(激質、動性)、サットヴァ(純質、善性)が言われていますが、サマーディにもその質の違いがあるようです。<br /> <br /> ヨーガ行者のスワミ・ヨーゲシヴァラナンダは「魂の科学」にて以下のように述べています。<br /> <br /> ■暗性(タマス)優位の三昧(サマーディ)<br /> 暗性とは、粗雑であるとか暗く不活発である、といった性質のことです。(中略)この境地にある時、私たちの意識は2時間から12時間もうつろなまま(Shunya Bhava)でいることもあります。(中略)この状態は、いわば深く寝入ってしまったようなものだと言うことができると思います。(中略)この境地においては、重要な知識とか役に立つような経験をするとかいうことが全くありません。(中略)導師につかずに自分一人で修行を続け、心素の働き(Vritti)を制御しようとしている者は、ほとんどの場合、この暗性優位の空虚な三昧境にまず入って行きます。私(スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ)の場合も、何年もの間この空虚三昧のみを経験しておりました。(中略)智恵と分別が得られる三昧によって出なければ、解脱を目指す探究心は満足させられないのです。「魂の科学(スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ著)」<br /> <br /> このあたりに私の次の段階へのヒントがありそうです。<br /> <br /> ひとまず雑念は抑えることができて晴々とした瞑想ができるようになりましたが、時折、人と接することで他人のタマスを受け取ってしまい、暗闇に包まれてしまうことが最近よくありました。そんな時、改めて上記のようなタマス優生の瞑想のことを意識するようになったのです。赤の他人のタマスなら拒否して終わりですけど、最近あった身内の不幸で他の身内がタマスに落ち込んでいたりしますとどうにかして回復させてあげる必要がありますよね。そんな時に否応なしにタマスを受け取ってしまいました。まあ、これは仕方がないですね。<br /> <br /> 今までのように、タマスを浄化してサットヴァにするのも良いですが、どうも時間がかかるな... と思っておりました。そこで、同書にヒントがありました。<br /> <br /> ■動性(ラジャス)優生の三昧(サマーディ)<br /> 動性とは、感情を高ぶらせ、奮闘し、執着するといった性質のことです。この動性優位の三昧境では、善性が動性を助けますので、精妙な事物の知識を得ることができます。「魂の科学(スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ著)」<br /> <br /> ここでピンと来ました。<br /> <br /> 他人のタマスを受け取ってしまったりしてタマスが増えた時、浄化してサットヴァにする手の他に、ラジャスを高めると言う手段があるのだと。<br /> <br /> なんでこんな単純なことに気が付かなかったのでしょう。<br /> <br /> タマスからサットヴァを目指すとは良く言いますが、その途中にあるラジャスを軽視していたかもしれません。そもそも瞑想でラジャスをどう使うかなんて、本でも読んだり誰かに教えてもらわないと気づきにくいですよね。<br /> <br /> タマスを浄化してサットヴァにすると言う手はもちろんありますが、タマスにラジャスの要素を加える、例えば感情を高ぶらせたりすることでタマスのどんよりとした瞑想からラジャスの瞑想に一旦持っていって、それからサットヴァの質を加えて浄化すればタマスをそのまま浄化してサットヴァにするよりも簡単にサットヴァまで持っていくことができそうです。<br /> <br /> この、段階的な瞑想は、灯台足元暗しとでも言うのでしょうか。3つのグナの説明としては「ふむふむ」と理解していても、それを瞑想に応用するところまで気付きませんでした。<br /> <br /> まあ、サマーディとまでは行かないまでも、普通の瞑想でも同じような要素を応用できるかな、と思っております。<br /> <br /> 感情を高ぶらせると言いましても、感情的になって叫ぶとかそう言うことではなくて、もはや既にそれなりの瞑想の静けさがありますので、体、特に上半身にちょっと力を入れてそのまま細かくブルブルブルっと細かな振動を入れて静電気と言いますか感覚がちょっと高まった状態を作り出すだけでも随分とタマスが消えて行きます。感情を高ぶらせると言うよりも感覚を高ぶらせる、静電気を作り出す、と言う感じでしょうか。<br /> <br /> そういえば、同じような感情の高まりの瞑想手法、どこかで見たことがあるような... 何でしたっけ。忘れましたけど、そういえばこんな瞑想方法もありましたね。どのくらい同じかはちょっと思い出せませんけど、なかなかこの静電気の手法はタマスに効果的かもしれません。今後もタマスをもらってしまった時は試してみたいと思います。<br /> <br /> 続き: 奮い立たせてタマスを浄化する古神道の振魂<br /> <br /> Tue, 19 Nov 2019 00:00:00 +0900 ジャンヌダルクの魂 https://w-jp.net/2019/1721/ <br /> 夢で見たお話です。本当のことかどうかはわかりません... 夢ですから。<br /> <br /> 元々、ジャンヌダルクの魂はフランスの未来を案じていました。<br /> ジャンヌダルクは神様の分霊ですので、神様自身が案じていたとも言えます。<br /> <br /> 神様は、フランスがイギリスに攻められ続けている状況にイライラしていました。<br /> <br /> しっかり戦えばイギリスなんて追い返せるのに、フランス軍は根性がないのです。騎士道精神が足りないとでも言いましょうか。戦う気力で負けているのです。<br /> <br /> イライラしていた神様は、霊視で未来を確認しました。<br /> <br /> ・・・このままでは、フランスの未来は暗い。本来計画していたフランスの未来が消えてしまう。<br /> <br /> フランスは将来に重要な役割を果たさなくてはならないのに、イギリスに支配されてしまったら、その元々の計画が消えてしまう。<br /> <br /> ・・・どうやら、フランスがここまでイギリスに攻められたことは神様にとっても想定外だったようです。そんなことってあるのですね。<br /> <br /> そこでジャンヌダルクを分霊として転生させ、ジャンヌダルクは神の声を聞いてフランスを救った、ということのようです。<br /> <br /> この神のイライラは、そのまま分霊であるジャンヌダルクに引き継がれていて面白いですね。神と言っても性格があるのですね。<br /> <br /> ...まあ、夢ですけどね。<br /> <br /> Mon, 18 Nov 2019 00:00:00 +0900 今生の目的はカルマの解消 https://w-jp.net/2019/1720/ <br /> これまた夢で見たお話。本当のことかどうかはわかりません。<br /> <br /> 人によって今生の目的は違うと思いますが、私の場合、カルマの解消が目的です。<br /> 使命が目的だったりしますとカルマを貯めてでも使命を達成しようとしますし、私の場合、前世までの数多くの生では使命の達成を優先してきました。<br /> <br /> 他人のスピリチュアルな指導をしますと弟子のカルマを背負いますし、国の運命を変えたりしますと大きなカルマを背負います。<br /> そうしてかなりのカルマが溜まってしまい、いつか解消しなくてはと思って後回しにしてきたのですが今生でようやくカルマの解消を目的に、そのためだけに生きることにしました。<br /> <br /> 私の場合、並行世界(パラレルワールド)がいくつかあって、最初は裕福な家庭に生まれて生きましたがカルマが解消されずに失敗し、時空を逆戻りして再設定してからパラレルワールド2を開始し、何度か試した後に今の人生を選んだようです。結果、かなり厳しい生活を約40年間過ごしましたが、ほとんどのカルマは解消されて及第点に至ったような気が致します。<br /> <br /> 単一の人生ではなくて類魂(グループソウル)のカルマを色々と背負い込んだのでルーツが異なる様々なカルマが入り混じっており、複合した問題に対処せざるを得ない状況になることも多くて苦労しました。<br /> <br /> 今もまだカルマが多少残ってはいますが、類魂(グループソウル)と一旦溶け合ってカルマを分散しさえすればそれぞれ解消できる程度のカルマにまで減ったので今生の人生は目的を既に達成したと言えます。<br /> <br /> 先日記載したヒンドゥのグルの人生においても、その人生では弟子を覚醒させることができなかったので後悔のカルマを背負ってしまい、今生では一からステップを踏むことで弟子が何に悩んでいたのかをひとつづつ確かめよう、という意図がありました。ですから、スピリチュアルを学んでいるというよりはスピリチュアルの悩みを理解するという点に重きを置いており、そのためには自分自身が悩んだ状態にならなければ根元から理解できない。であれば自分をどん底まで一旦突き落とす必要がある、ということで子供の頃から自分を谷底に突き落とした人生だったようです。かなり苦労しましたが、今は平気です。<br /> <br /> 思えば、類魂(グループソウル)の過去生の記憶を辿るとこのような悩みをかつてしたことがなく、自分が悩んだことがないので弟子が何に悩んでいて弟子にどのように成長したら良いかわからず、アドバイスする方法がよくわからない、という悩みが共通してあるようでした。ですから、私が今生で悩んで様々に突き止めたことを類魂(グループソウル)は興味津々で待ち構えているようです。類魂(グループソウル)は今は分離していますので私が知り得たことを完全にはわからず、私が死んでから類魂(グループソウル)と一旦溶け合うことで私の得た知識を完全に共有するのです。その時を類魂(グループソウル)は心待ちにしているようです。<br /> <br /> 私が今生でそのような悩みの多い人生を選び、カルマの解消に集中することにした結果として前世までに付き合いのあったスピリチュアルな友人や弟子たちとは今生ではほとんど付き合いがなくなっているのですが、本来は、このようなカルマの解消をする予定ではありませんでした。今の時代はいわゆるアセンションとか言われている時代で、大きな変革が訪れる予定だったわけですけれども、私の類魂(グループソウル)が過去生で様々に活動することであまりにもカルマを溜め込んでしまったために、肝心の自分が重くなりすぎてアセンションの対応が厳しいかもしれない状況になりつつあったのです。ですから、本来は今生も同様のスピリチュアル活動を続けたい意向ではあったわけですけれども、仕方なく私は今生はカルマの解消に集中することにしたわけです。そして、それが約40年かかりました。今は精魂使い果たしていてそれほどパワーは残っていませんが、それでも、ある程度の元気さを保っています。<br /> <br /> 実は、この計画変更のために、周囲の人々には苦労をかけました。<br /> <br /> 本来は今生もスピリチュアル活動をする予定でしたが今生はカルマの解消に費やすことにしたために、本来は私が指導したり導いてきた人たちのスピリチュアルなレベルを今生のアセンションに間に合うように引き上げるのではなく、スピードアップして前世の段階までにある程度のレベルまで引き上げておくことにしたのです。私は大丈夫と判断したのですが、もしかしてこれに少し無理があったのかもしれません。<br /> <br /> それを決めるまでは割とゆっくりと指導してきたわけですけれども、私のカルマ解消の時間を作るためにスピードアップすることに決めた後は、ビシバシと指導することにしました... 今も世界の一部のスピリチュアルなスクールでスパルタがあったりするのは、私の類魂(グループソウル)の過去生が厳しく指導したからかもしれません。またもや変なカルマを作ってしまったかもしれません... でも、少なくともそれで各自のスピリチュアルなレベルは早く成長した筈です。<br /> <br /> そうして、なんとか今生では知人や弟子たちが自分たちでアセンションまで行けるような状態になったかと思って私は今生でカルマの解消に集中したわけです。<br /> 私がいなくてもかつての友人知人や弟子などの他のスピリチュアルな活動家が活躍することでなんとかなる筈でした。私が今生を生まれる前あるいは生まれた後に霊視や夢で見ていた状況では、そのような計画になっていました。元々は私の類魂(グループソウル)がそのまま成長に付き添う予定でしたが、私が今生でカルマの解消に集中するために準備して、霊視した段階では、大丈夫と判断したわけです。<br /> <br /> ...しかし、最近、どうも、何かで止まっているような気がしています。<br /> <br /> 予定していた東海地震も起こらないし関東大震災もまだ起こっていません。ただ遅れているだけかもしれませんが、どうも何かおかしいです。東京オリンピックは震災で開催しない筈なのに、このままでは開催しそうです。元々東京オリンピックは震災のために開催しなかった筈なので、その影響もあってか、理由は違どもマラソンやいくつかの競技が東京から他の場所(札幌)に移動し始めているのが興味深いです。スピリチュアル的な観点から言えば、震災が理由で移動することはなくても移動するという衝動と言いますかその計画の青写真みたいなものはそのまま引き継がれるのかもなぁ... というところを興味深く見ています。東京オリンピックがなくなった場合にどうなっていたのかはわかりませんが、いくつかの競技は復興及び震災復興の応援のために札幌とかで開催する青写真があったのかもしれないですね。<br /> <br /> 私は今生では現世に影響を与える予定はなくてひっそりと暮らすだけですのでこうして適当にブログでも書いているくらいなのですが、このまま変革が中途半端で失敗に終わるのであれば、スピリチュアルな変革を助けるためにもしかしたら私が何かしないといけなくなるのかも... という気もしてきています。そのくらい、危機感とまでは言わないですけど、何か違和感を感じています。<br /> <br /> 私のやり方はちょっと荒っぽくって、例えるならジャンヌダルクや織田信長のように性急なたちがありますので私が何かしたら刺される可能性が高まるのでどうしたものかなとも思いますし、今のところ特に何かするつもりはないのですが。<br /> <br /> それでも、私のガイドが私に行動するように導いてきたら従うような気もしますが、今のところは生まれた時に私に与えられた使命というか目的である「カルマの解消」をしていさえすれば良い、と思っています。<br /> <br /> ま、基本は夢で見たお話ですけどね。私のような個人が何かできるわけもないですし。<br /> <br /> Mon, 18 Nov 2019 00:00:00 +0900 最近、霊視による未来予想は外れやすいです https://w-jp.net/2019/1719/ <br /> 私のグループソウル(類魂)の記憶を辿ると色々と経験していて、未来を霊視できる過去生もいたりします。<br /> <br /> 例えば100〜200年くらい前に北インドの中部、バラナシの南東あたりの小さな村でグルになって小さなヒンドゥ寺院の長だった人がいましたけど、その周囲では未来を予知できる聖者としてそれなりに有名でした。<br /> <br /> もともとその人生ではヒンドゥのグルを体験して弟子を教えて霊的成長を促すと共に自分も学ぶことが目的だったわけですけれども、まず生まれる前に、グルとして経験できそうな場所を探したのです。既にグルがいるとこを探して弟子になって長年修行するコースもあったのですが、その時は、かなり昔に捨てられて廃墟になっていた寺院を選んでその近くに生まれることにしました。もちろん生まれる前からある程度の一生を霊視して未来予想して、だいたいこんな感じになるということを計画してから生まれたのです。<br /> <br /> 生まれてから自由に動けるようになったら、まずその廃墟の掃除から初めました。綺麗にして祈りを捧げて、転がっている岩などを整理したりしました。<br /> <br /> 歳をとって青年になった頃には、その廃墟が随分と綺麗になったことで周囲の人々にも自分の存在を知らしめることができました。ここで、この廃墟に足跡を残したわけです。そして、成人になった時に出家を選びましたが、家族はそんな姿を見ていましたので反対はしませんでした。<br /> <br /> 成人後は、まず他のグルの弟子に数年間ついて修行し、続いて別のグルに数年間ついて修行し、修行は終了としました。他のグルに長年ついて修行するよりは、早く自分の寺院を持つことを選んだわけです。<br /> <br /> 修行をするにつれて霊視は研ぎ澄まされ、他人の過去や未来も見通せるようになりました。<br /> <br /> 過去については、出身地や過去の問題などが主でした。未来については運勢や将来の安全などを見通したりしました。<br /> <br /> 中年になる頃まで、ほぼ百発百中です。外れたことはほとんどありませんでした。<br /> 名前や、出身地などを言い当てました。<br /> <br /> 弟子がやってきた時は、「おお。お主を待っておった。○○村から来た○○ではないだろうか?」と言って相手を驚かせた事もしょっちゅうでした。<br /> <br /> 日々の祭事(ヒンドゥ教のプージャ、火の儀式)では村人がやってきて、運勢を尋ねられました。○○はうまくいくだろうか、とか、結婚についてとか、そのような、今日でも人々が尋ねたくなるようなことをグルに尋ねては答えていたのです。<br /> <br /> お参りに来た人々が置いていくお布施で食べ物を購入してその寺院の人々は暮らしていました。<br /> <br /> ですから、昔は、霊視による未来予想はそうそう外れなかったのです。<br /> <br /> 唯一、一回だけ、近くの村のお婆さんが訪ねた運勢が外れて、安全を脅かされて危険な目に遭ったという事でしたが、再度霊視しても危険なことにあうわけもありませんでした。<br /> <br /> どうやら、霊視での未来予測はほぼその通りなのですが、偶発的に「事故」は起こるようなのです。<br /> <br /> 「ついうっかり」ですとか「たまたま」という部類の事故は霊視では防ぎきれないようです。<br /> <br /> 成功する筈でも自分の意思で成功を妨げることもできます。<br /> 失敗する筈でもどうにか成功する、ということもあるかと思います。<br /> <br /> ですが、普通の場合は大抵の霊視は当たりました。過去においては。<br /> <br /> これは類魂が過去に体験したお話ですので今の私の何%かくらいの話ですけど、記憶のほんのちょっとが残っているのです。<br /> <br /> ですが、最近は、かなり状況が異なってきているように思います。未来が割と固定されたものではなくなり、相当、未来が書き換わっているような感じが致します。<br /> <br /> と言いますのも、どうやら未来を霊視で見通せる人が増えたからなのかな... という気がしてきております。<br /> <br /> であれば未来を見た上で自分の行動を変える人も増えるでしょうし、結果として大きな未来も変わってゆくでしょう。<br /> <br /> 時代は変わったのかな、と最近は思っております。<br /> <br /> 昔はほんと単純でしたけどね。<br /> <br /> 基本は昔と変わりませんけど、意図して未来を変えることができる人が増えて、その人が影響力を持つようになったような気がしてきております。<br /> <br /> 過去には、この寺院が実在して残っていないかな... と思って地図を探したこともありましたけど、よくわかりませんでした。私が今生でそれを探し当てて現地に行ったとして、それで学べるものが何もないのであれば私のガイドもそこに導いたりはしないのかなとも思います。何かそこに決定的な何かがあって学べるのであればきっとガイドは私を導くのでしょうが、今のところその兆候はないです。<br /> <br /> Mon, 18 Nov 2019 00:00:00 +0900 ゾクチェンの修行法を記した「イェシェ・ラマ」 https://w-jp.net/2019/1717/ <br /> 「知恵の遙かな頂(ラマ・ケツン・サンポ 著)」によりますと、イェシェ・ラマという本にゾクチェンのことが詳しく書かれてあると言います。原本は入手できていませんが興味深いです。<br /> <br /> ゾクチェンの瞑想は2つでできていて、「テクチュウ(突破する)」と「トゥカル(跳躍する)」でできており、イェシェ・ラマに詳しく述べられていると言います。<br /> <br /> テクチュウの瞑想は心の雑念を取り払って清々しい清浄なる空(くう)を体験することが目的で、そのために特別なマントラを唱えたりもするようです。<br /> <br /> 同書には以下のように記されています。<br /> <br /> テクチュウでは目が見たり、耳が聞いたりするイメージや、自分の心に浮かんでくる感情や思考という形をとるイメージのすべてを「突破(これがテクチュウという言葉の意味だ)」して、チベットの空のように雲一つない真っ青で透明な本性を持った、裸の状態にある心に、たどり着いていくために、激しい瞑想をおこなう。そして、それができるようになると今度は、青空や太陽をみつめながら、「跳躍(トゥカルとはそういう意味を持っている)」の瞑想に入っていく。「知恵の遙かな頂(ラマ・ケツン・サンポ 著)」<br /> <br /> その時の経験を、同書では以下のように述べています。<br /> <br /> 透明な空性(くうしょう)からは、途切れることなく、光の滴がわきあがってくるのだ。(中略)裸の心が、ありありと体験される。そのまっただ中から、今度はトゥカルの瞑想が、空性のはらむダイナミックな運動の本性を、光の体験として、私たちの前にしめすのである。「知恵の遙かな頂(ラマ・ケツン・サンポ 著)」<br /> <br /> このあたりを読むと、やはり「空(くう)」の次は光の体験が続くのだな、ということがわかります。<br /> <br /> 具体的にどうすれば良いのかは謎が残りますが、そのうち他の書籍も調べていきたいと思います。他のスピリチュアルとそこまで変わらないのかもしれませんが、何かヒントが眠っているかもしれませんし。<br /> <br /> Fri, 15 Nov 2019 00:00:00 +0900 ゾクチェンとヴェーダンタ https://w-jp.net/2019/1715/ <br /> これら2つに共通点があるような気が致しました。<br /> <br /> ゾクチェンとはチベットにおけるボン教の最高の教えですが、「チベッタン・ヒーリング(テンジン・ワンギェル リンポチェ 著)」によりますと、ゾクチェンの境地とは清らかな境地、空(くう)と光明の状態だと説明されています。更には、現象というものに対していわゆる無常のような境地も説いています。実際には境地というよりも現象の説明と言った方が良いでしょうか。<br /> <br /> これは、どこかヴェーダンタに似ています。おそらくは根本は共通なのでしょう。ヴェーダで解く世界観と、チベットのボン教が説く世界観とが私の中で奇妙な一致をしたのです。もちろん完全に一緒ではありませんが、本質は同一だと直感でピンと来たのです。<br /> <br /> 以前から何冊かゾクチェン関係の書籍を読んだりヴェーダの勉強をぼちぼちしてきましたが、今まではこれら2つが共通だと思うようなことはなかったように思います。<br /> <br /> それが、ここに来てその本質が同一だと思うようになったきっかけは、上で参照した書籍の説明でした。<br /> <br /> ゾクチェンとは何なのか・・・ それを簡単に説明するのはとても困難です。上の書籍はそれでもわかりやすく述べていると思います。私の手元にある他の本は、私にはそのニュアンスをしっかり引き出すことができませんでしたが、上の書籍でようやくピンときた感じが致します。<br /> <br /> ゾクチェンの説く「空性」とは、確かにそれは人が悟ることができるものではあるのですが、それよりも、この世界の本質が「空(くう)」であり、いわゆる無常であり、それがそのまま「光明」であり、スピリチュアルでよく言われている「この世界は光でできている」ということであり、全てが光り輝いているという本質を説明しているのがゾクチェンという教えのようです。人が悟ると言うよりも、この世界のありようを説明しているものだと思うのです。そして、それが自分と関連したときに光明だとか悟りだと言われたりする。<br /> <br /> ダライ・ラマなどもゾクチェンを説明していますが、それは仏教的な観点から説明されており、読み解くのがとても困難です。それよりもチベット古来のボン教の教えは仏教化されていないような気がしていまして、仏教化されたゾクチェンとしての解説を読むよりもボン教のゾクチェンを読んだ方がすんなり理解できるような気が致します。<br /> <br /> どちらにせよ本質は一緒なのかな... というのを改めて感じています。<br /> <br /> 今回はボン教のゾクチェンとヴェーダンタとの一致を見たわけですけれども、そうとなれば、仏教の本質も同じ筈ですし、もちろんヨーガの行き着く先も同じ(というかヴェーダンタそのもの)です。<br /> <br /> 上の本とは別ですが、ボン教のゾクチェンにある1つの詩を引用します。<br /> <br /> 多様な現象の本性は、不二だ。<br /> ひとつひとつの現象も、心の作り出す限界の彼方にある。<br /> あるがままのものを定義できる概念などありはしない。<br /> にもかかわらず、顕現はあらわれ続ける。すべてよし。<br /> 一切はすでに成就しているのだから、努力の病を捨て去り、あるがままで完全な境地の中にとどまること、それが三昧だ。<br /> 「ゾクチェンの教え(ナムカイノルブ 著)」より<br /> <br /> これはゾクチェンやヴェーダンタの知識がないとすぐに理解するのは難しいですが、各所にヴェーダンタ的な要素およびヨーガ的な要素が現れていて興味深いです。<br /> <br /> 三昧はサマーディのことですから、本来はヨーガのサマーディも同様の理解に辿り着くことができる筈です。サマーディと言うと色々と種類がありますが、この詩の意味のサマーディであればゾクチェンやヴェーダンタの境地と同一のサマーディであるわけです。<br /> <br /> ゾクチェンはもともとチベットに長く伝わっている教えで、本来は宗教によらないと言います。であればこそダライラマがゾクチェンに通じていたりもしますし、ヴェーダンタの本質がゾクチェンによく似ていたりするのも当然なのかもしれません。ただ、伝え方が文化によって異なるだけで、本質は同じということなのでしょう。<br /> <br /> Wed, 13 Nov 2019 00:00:00 +0900 チャクラを開く際の体験 https://w-jp.net/2019/1714/ <br /> チベットの古代ボン教の教えによりますと、以下のようにあります。<br /> <br /> チャクラが開く際に必ずしも何らかの体験が起こるわけではない。「チベッタン・ヒーリング(テンジン・ワンギェル リンポチェ 著)」<br /> <br /> これに関して、以下のように説明されています。<br /> <br /> ・西洋の人は感情と関連づける文化のため感情的なカタルシスを伴うことがある。<br /> ・チベットの文化ではエネルギー的な現象として現れる。震え、揺れ、ひきつけ、発汗、めまいなどが起こることがある。<br /> ・起こるにまかせ、消えていくにまかせなさい。<br /> ・何かが起こるということは浄化の体験にほかならず、それにしがみつく必要はまったくない。<br /> 「チベッタン・ヒーリング(テンジン・ワンギェル リンポチェ 著)」より<br /> <br /> これは興味深いですね。<br /> <br /> 西洋の、例えば神智学に代表されるスピリチュアルではチャクラを開くことやその経験を重視していますが、チベット的には経験は重要ではないとのことです。<br /> <br /> それに、同書を読みますと、チャクラの位置付けがヨーガとも多少異なるように感じられます。<br /> <br /> ヨーガではエネルギーのルートであるナディとチャクラを、もちろん関連はしていますが別のものとして定義しているように思えます。<br /> <br /> 一方、同書によりますとチベットの古代ボン教では、脈管(ナディ相当と思われる)とチャクラをそれほど区別しておらず、中央脈管(ヨーガで言うスシュムナ相当と思われる)が樹の幹で、チャクラは枝、と比喩されています。<br /> <br /> 確かに、ヨーガでもそのように解釈できますが、その点はチベットの古代ボン教の方がよりはっきりと述べているように理解しました。<br /> <br /> であれば、西洋の神智学やスピリチュアルのようにチャクラを開くとどうなるか、みたいな神秘的なお話はチベットの古代ボン教にとってはあまり興味がなく、むしろ、何か起こったならばそれは浄化の体験であるから執着する必要はなく、必ずしも起こるわけではない、ということのようです。<br /> <br /> 体験をさほど重視しない、というのはヴェーダンタ的な観点とも似ていて興味深いですね。<br /> <br /> チベットの古代ボン教では脈管(ナディ相当)とチャクラを開くのは浄化の一環であり、浄化の結果として現れる、同書が言うところの「広々としたこだわりのない心と開放感」や「空の体験」こそが大切だと言います。<br /> <br /> 身体的な変化や、イメージの顕現、あるいは感情の解放といった体験があろうがなかろうが、最終的には空の体験とともに伝統の教えが伝える叡智のさまざまな面が体現されるのだ。空の体験とともにこだわりのない広々とした心やポジティブな質があなたを満たす。「チベッタン・ヒーリング(テンジン・ワンギェル リンポチェ 著)」<br /> <br /> チャクラの体験は書物に色々と書かれてありますけれども、それは確かに「サイン」として参考にできますが、必ずしも体験が起こるわけではなく、最終的な「空の意識」「広々とした心」が実現できさえすれば、過程はそれほど気にしなくて良いのかな、というところが最近ようやく譜に落ちて来た感じが致します。<br /> <br /> 私事になりますが、どうも、今までステップを素早く進まずに一つ一つ確かめるようにしてヨーガなり瞑想なりをして来たのは、もしかしてこのことを理解するためだったのかな、という気が致します。このことを理解していなかったからこそ、一つ一つ確かめながら進んできたのかなと。この最終的な理解が正しいということが真にわかっていたならば途中の体験をひとつづつ確かめながらゆっくり進む、なんてことをわざわざしなくても良かった・・・ といますか、そんな確かめながら進むなんてことをそもそもせずに高速でステップを終えていたことでしょう。 今回の人生では色々と課題が設定されていて、その一つは、このステップを学ぶと言いますか理解することが目的でしたが、ようやくステップを小刻みに歩んで理解が進み、最終ステップまであと一歩、という気が致します。(実はまだまだなのかもしれないですけどね)こう言ってはなんですが、前世では、私はそれほど悩みがなくて、それ故に、他人の悩みがよく理解できない人だったような気が致します。今生では無理やり自分を問題の中に放り込んで、色々なステップを踏ませることで人々が抱えている悩みを理解したり、ヨーガのステップを最初から1つ1つ理解しよう、とした生前の広大な計画があったように思っています。ですから、きっと私は意図的に自分をよくわからない状態に貶めていたのだと思いますが、ようやくここにきて、きっと前世ではそうだった、晴れやかな状態に戻って来たのかな、という感じがして来ています。まあ、これは言い出すともっと複雑なのですけど、単純に短く記すとこんな感じです。<br /> <br /> <br /> <br /> Tue, 12 Nov 2019 00:00:00 +0900 世界の30%が自分のことのように感じられる https://w-jp.net/2019/1712/ <br /> 最近は、身の回りの出来事や出会う人々のうち30%ほどが自分の分身のように感じられます。<br /> 70%はやっぱり他人なわけですが、30%は自分だと思う... と言いますか、そもそも空間が同一で繋がっているあるように感じられるのです。<br /> <br /> 世界と言っても地球のことではなく、世界地図のことでもないのです。あくまでも、私の生活の周囲の現実のうちの30%という意味で、世界の隅々の30%がそう感じられるわけではありません。<br /> <br /> 空間が繋がっている、とでも言いますと、まるで線が伸びているかのように印象付けてしまうかもしれませんが、そのような線があるわけではありません。透明の空気のようなところですらも「なにか」がぎっしりと詰まっていて、物質があるところにもその「なにか」が詰まっていて、空気の部分であろうと物質の部分であろうと関係なく身の回りの生活の空間の認識できる範囲すべての30%が自分であるように感じられるのです。<br /> <br /> この30%というのは、「ここは感じられるけれどもここは感じられない」とかいうものではなくて、半透明にホログラフィック的に全体が満遍なく30%くらいの濃度と言いますか濃さと言いますか、そのように空間全てがおそらく均一の濃度で大体30%くらいは自分で感じられている、という意味です。<br /> <br /> これは主に瞑想中にそう感じられるわけですけれども、明示的に瞑想をしていなくても意識が瞑想状態に近ければ同じように感じられます。<br /> <br /> ですから、完全に周囲の全てが自分と感じられるわけではないにせよ、多少ながらすべて自分である、という現実を認識しながら生活する今日このごろなわけです。<br /> <br /> これは、頭で考えるとなかなかに複雑に思えてしまうかもしれませんが、感情的にも意識的にも、かなり淡々としています。<br /> <br /> そもそも最近の瞑想ではどんどん雑念が減って透明な感覚の、いわゆる「無」の瞑想を続けることが多くなってきていますので、その延長線上で、他人の姿が意識に入ってきたとしても雑念がひとつあるのとそうは変わらないのです。ですから、世界の30%が自分として認識したとしても、それはホログラフのように半透明で認識されて惑わされることもあまりなく、それでいて他人や周囲の環境が自分として認識できるので今までとは違った意識の持ち方ができるのです。<br /> <br /> これは、マニプラ的な「情緒」の繋がりとは異なる感じです。淡々としていて、それでいて、しっかりと繋がっている感覚です。<br /> <br /> こうなると、もはや以前の私の振る舞いをすべてやり直したくなるくらい意識が変わってきてしまっているわけですけれども、流石にやり直すことができるわけもなく、これからの振る舞いを意識的に新しいものに適合していくくらいしかできないわけですけれども。<br /> <br /> 以前の意識で作ってしまった古い習慣を取り除いて新しい習慣に作り直してゆく時期に来ているのかもしれません。<br /> <br /> もしかしたら仕事のありようも同様で新しい習慣に作り直すといいますか選択し直してゆく時期に来ているのかもしれません。<br /> <br /> Sun, 10 Nov 2019 00:00:00 +0900 ナーダ音の外側に広がる世界 https://w-jp.net/2019/1711/ <br /> 今までは呼吸ですとかナーダ音に意識を合わせて気持ちを落ち着かせていわゆる「無」に近く瞑想をしてきたわけですけれども、それに加えてエネルギーワークも重要なのはそうなのですが、無の瞑想とエネルギーワークを続けていたところ、どうやらナーダ音や感覚の外側に、比喩で言いますと「地平線が見えそうなくらいずっと平らに続く世界」が広がっているような気がしてきました。<br /> <br /> 先日見えたような論理思考と体の感覚と想念の世界が真ん中くらいにポツンポツンと存在していて、その、体と言いますか感覚といいますか、いわゆる「わたし」の世界の外側にもっと広い世界が広がっているようです。<br /> <br /> ただ、その外側の世界がどのようになっているのかはまだ見えません。ただ、暗闇と言うか、単に地平線っぽいものがシルエットで見えるだけです。もしかしたら何かがありそうな、山のようなシルエットを感じることもあります。<br /> <br /> 瞑想を続けると、次第に雑念が消えてゆき、雑念の力が微かになり、雑念の頻度も下がり、簡単に呼吸や雑念を力を入れずに観察することができるようになっています。<br /> <br /> その状態では、観察する対象が先日書きましたように「半透明」な感じになっていて、あるようなないような、不思議な感じです。<br /> <br /> 世界は「外側」と書きましたが、もしかしたら重なっているのかもしれません。ですが、今のところは「外側」のようにも感じます。<br /> <br /> 視線が前を向いているとして、肉体の目で見える範囲があるとします。瞑想中は目を瞑っていますから肉眼は見えていないのですが、目を開けると見えるはずの範囲の外側に何かを感じて、意識を、比喩的に言うならば「ちょっと引いて、それから、ちょっと右側(あるいは左側)を見る」と、普段見ている世界の「外側」がそこにあるような気がするのです。<br /> <br /> その「外側」とは、ナーダ音の響いている外側の世界でもあります。<br /> <br /> ですが、上に書いたように、まだそれははっきりとは見えないのですが。もうちょっと様子見ですけど、この種の「実験」「興味本位」「探究心」の気持ちすらも最近は消えてきていて、更に瞑想を続けたらどうなってしまうのでしょう、という感じではあります。<br /> <br /> Sun, 10 Nov 2019 00:00:00 +0900 トラウマは向き合うことで消える https://w-jp.net/2019/1710/ <br /> 先日の続きです。<br /> <br /> トラウマは否定せずに味わうと消える、というお話でしたけれども、プレアデスのワークの中にも似たようなお話しが書いてありました。<br /> <br /> つらく感じたときには、それを無理に追い払おうとしないで、その気持ちと一緒にいてあげることが大切なの。うんと深く呼吸して、もっとその気持ちを感じるようにしてごらんなさい。すると本当に魔法のように、数分後に突然そのつらい気持ちがなくなって、いつ消えてしまったのかもわからないくらいよ。(中略)だけど、そのつらい気持ちが消えてなくなるまで十分に感じてあげなければ、それはそのまま身体の奥深くに居すわって、あなたたちが気がついてくれるのをずっと待ちつづけるわ。だから、それが戻ってくるのをこわがっているよりも、いま感じてあげるほうがいいのよ。「プレアデス覚醒への道(アモラ・クァン・イン著)」<br /> <br /> これは、スピリチュアルなワークであることはもちろんですが、同書によればむしろ「瞑想」の一部として紹介されています。<br /> <br /> ヨーガ的な瞑想においては雑念の観察が重視されていて、「雑念は重視せず、受け答えせず、受け流す」というのが基本ですが、プレアデス系では観察というよりも「味わう」という感情面に重きが置かれている印象を受けます。表現を変えれば「癒し」ということにもなりますが、「癒し」にはヨーガ的な「観察」が基本として横たわっているような気が致しますし、逆に、ヨーガ的な「観察」の根底には「癒し」といいますかヨーガ的には「パワー」「エネルギー」と言うべきポジティブな力が横たわっていて、言葉こそ違ども、「癒し(パワー、エネルギー)」と「観察」とは密接な関係があるのだな、と思いました。流派によって重視すべきところは違えども、それはその流派の気質の違いによるもので、基本はどちらも一緒なのかなと思いました。<br /> <br /> 流派によりますが一部のヨーガあるいは一部のスピリチュアルでは「観察」のみに重点を置いている気がしないでもありませんし、逆に、一部の流派は「癒し」あるいは「エネルギー」に重点を置きすぎている場合もあるように思いますが、その重点に目をとられて基本を押さえていないと先には進めないのかな、と言う気が致しました。<br /> <br /> 「観察」のみをしていてエネルギー不足でしたら成長しにくそうですし、エネルギーを高めても「観察」が不足していたらそのエネルギーの使い方に無理・無駄・ムラが生じて転んでしまいそうです。<br /> <br /> 両方大事ですね。<br /> <br /> 外から眺めただけですので勘違いかもしれませんが、例えばヴィパッサナー瞑想の一部の流派は観察重視のような気も致しますし、クリヤヨガの一部の流派はエネルギー重視のような気が致します。<br /> <br /> 余談になりますが、クリアヨガはヨガの中でも特殊で、瞑想の観察や集中ということには重きをおかず、エネルギーを高めれば良いというスタンスが特徴的です。クリアヨガは流派が分裂していて色々ありますので全てがそうかはわかりませんが。<br /> <br /> スピリチュアルでは「癒し」と言う観点からエネルギー・ワークが突出している流派が多い気も致します。<br /> <br /> それぞれの特徴がありますので自分に合ったところを選べば良いのかなとは思いますが、それでも、基本は「観察」と「エネルギー」かな、と最近は思います。そもそも対比するものでもない気もしますしね。どっちを選ぶとか、そう言うものではない筈なのに、何故か分離して見えてしまっていますね。両方大切だと思います。<br /> <br /> トラウマの話に戻しますが、トラウマは「観察」だけでは消えず、「エネルギー(癒し)」だけでも消えず、「観察」と「エネルギー(癒し)」の両方があって初めて消えるのかな、とそう思います。<br /> <br /> 個人的な経験で言いますと、すぐに1回の瞑想で消えるような軽いものはトラウマとは言わない気が致します。トラウマのうち少しを味わって消して、次の瞑想でまた少し味わって消して、を繰り返すのかなと思います。<br /> <br /> ちょっとしたわだかまりであれば瞑想中にちょっとこの種のワークをすれば消えてしまいます。<br /> <br /> 本来は、可能であれば子供の頃からこのようなワークに親しんでトラウマをそれほど溜め込まないのがいいかとは思います。<br /> Sun, 10 Nov 2019 00:00:00 +0900 プレアデスのエネルギー・ワークと白隠禅師の軟酥の法 https://w-jp.net/2019/1709/ <br /> 書籍を探っていたところ、プレアデス系のワークに似たようなものがありました。<br /> <br /> <br /> 「プレアデス覚醒への道(アモラ・クァン・イン著)」<br /> <br /> これはオーラを保護する方法のようです。グラウンディングして、オーラの卵を作るレッスンのようです。そして、同書によれば「境界の色」をイメージすることをお勧めするとのことです。色は時々の状態や目的によって多少異なるようです。<br /> <br /> ・基本は黄金<br /> ・その上に、目的に応じて色を重ねる。不安定な時は高貴なブルー。外出したり人を迎える時はスミレ色。<br /> ・ある程度のレベルに達すればこれらは不要になるが、それまではこの「境界」は有用<br /> <br /> 詳しくは同書を参照して頂ければと思いますが、ヨーガのプラクティスや他のスピリチュアルのワークにも通じるものがあります。色に対する言及はスピリチュアル系に多い気が致します。<br /> <br /> 以前少し言及しました白隠禅師による禅病に対する対処法である「軟酥の法(なんそのほう)」がとてもよく似ている気が致します。白隠禅師は白幽という仙人から授かったとのことですが、案外根幹はスピリチュアルと似たところなのかもしれないですね。単なる推測ですけど。<br /> <br /> Sat, 09 Nov 2019 00:00:00 +0900 無の瞑想と暖かい光 https://w-jp.net/2019/1708/ <br /> 最近の瞑想は息を観察しているかあるいは微かな思いや考えを観察するくらいで、とても静かな、いわゆる”無”とも言える状態で瞑想をしています。その上で、エネルギー・ワーク的に天のエネルギーを下ろしたり地のエネルギーと繋がったりしているわけです。<br /> <br /> その状態でハートに目を向けると、ふと大広間と雛壇のような階段の上に王様が座るような椅子があるのが見えました。これが、スピリチュアルやヨーガやベーダで言われている「ハートの奥の小部屋」なのでしょうか?<br /> <br /> それが見えている状態で瞑想を続けましたところ、ふと、2つの空間が重なって存在しているように感じたのです。<br /> <br /> 1つは、以前書いたような論理思考と体の感覚と想念・思念が感じられる空間。<br /> もう1つは、草の茂った原っぱに太陽の暖かい光が挿している空間。<br /> <br /> その2つが、重なって存在していて、お互いが半透明のホログラフのように目の前に同時に存在しているのです。この時点になったら、大広間と椅子は見えなくなっていました。<br /> <br /> これは一体どういうことでしょう? ちなみに、今は夜です。<br /> <br /> 無の瞑想に関してはここ最近ずっとそんな感じで、雑念が出ても観察しているだけで、周囲に広がった無の漆黒の空間の中で、私が中心にいる瞑想をしています。<br /> <br /> 一方、時々その同じ空間のどこかがパッと明るく感じられることは度々あったのですが、本日のように、2つの空間が重なって存在しているように感じられたのは初めてでした。<br /> <br /> これは興味深いです。<br /> <br /> しかも、その空間だけでなく、ハートの奥の小部屋も関係しているようです。<br /> <br /> 空間が重なったというのが正しいのか、あるいは、ハートの奥の小部屋に入った事による変化なのかもしれません。<br /> <br /> このハートの奥の空間は人によって見え方が違うようで、一定の空間で見える人もいればそうでもない人もいるようです。私はまだ見え始めたばかりな感じです。あるいは気のせいかもしれないですけどね。まだまだ様子見です。<br /> <br /> Thu, 07 Nov 2019 00:00:00 +0900 緊張と瞑想中の光 https://w-jp.net/2019/1707/ <br /> 先日に意識体に憑依されてからちょっと体に緊張が走っていたわけですけれども、瞑想をするにつれて緊張が取れてきました。<br /> <br /> その時ふと気がついたのですが、どうやら緊張が解消される瞬間に瞑想中の場合は視界に光を感じるようですね。<br /> <br /> 緊張というものがエネルギー的な淀みなのかあるいはエネルギー的な凝縮なのか、その具体的なところはわかりませんが、少なくとも緊張が解けることと光を感じることの間には多少の相関関係があるような感じがしてきました。<br /> <br /> ヨーガにおける瞑想の基本としては瞑想中に見聞きすることは重要ではないので気にしない、ということはもちろんあるわけですけれども、それでも、多少はこのように相関関係があるのかもしれないな、と気が付きました。<br /> <br /> ただし、これは本当に「たまたま」かもしれませんけどね。それでも、多少の相関関係はあると思うのです。<br /> <br /> <br /> Thu, 07 Nov 2019 00:00:00 +0900 床屋で取り憑いてきた意識体 https://w-jp.net/2019/1706/ <br /> 昨日床屋に行ったとき、散髪中に急に緊張が走って顔が強張ったので周囲をぐるりと「切る」動作をしました。以前に書いたように、イメージで刀のようなものを作って、それを体の周囲に回してオーラのケーブルを切る動作です。それと、結界のようなものも意識して作ってみました。<br /> <br /> それで多少は回復したのですが、すぐにまた元に戻ってしまいました。<br /> <br /> 久々に、この種の「顔が強張る」ほどの状態になりました。これはやばい。<br /> <br /> そのまま帰宅したのですが、調子はそんなによくありません。<br /> <br /> 翌朝、目が覚めてみるとどうも調子が悪く、体の中で何かが詰まった感覚になっています。<br /> <br /> 最近は骨折でヨガのアサナもしていないし、何か変なものでも食べたかなぁ... カット野菜はやはり薬品漬けで良くないのかな? とか思っていたのですが、どうやら今回はそれが原因ではなさそうです。<br /> <br /> 今朝の瞑想で体の中を探ってみると、右肩から心臓のあたりに緊張と詰まりがあるように思われましたので、意識の「手」でそのあたりを探って、塊のようなものを摘んでゆっくりと右肩の方に抜いてみました。<br /> <br /> すると、急に右肩の緊張が取れて右肩が動くようになりました。心臓のあたりの詰まりも取れてきました。<br /> <br /> どうやら、意識体が取り憑いていたようです。 いや〜、怖い怖い。<br /> <br /> 緊張は顔に来ていたのですが、瞑想で探ってみると体の左は普通なのに対して右側、特に右肩から肘にかけての筋肉が硬っていて、それが心臓にまで到達していたのです。右肩を中心に取り付いていて、パイプのようなものを心臓に伸ばしてエネルギーを奪い取っていたようです。引き抜いたら、それ以上は抵抗することなく何処かへと去って行きました。<br /> <br /> 床屋で髪の毛を切っているときに理容師を経由して侵入したのかなあ? と推測しています。<br /> <br /> 床屋は顧客のオーラを指から吸い取りやすい、とはどこかで聞いたことがありますね。髪の毛というのはオーラの交換が起こりやすい場所なので、髪の毛を触る理容師は顧客のネガティブを受け取りやすいのだとか。<br /> <br /> もしかしたら、顧客に取り憑いていた意識体が理容師に移って、それが私に取り憑いてきたのかもしれないですね。<br /> <br /> 床屋に行った後に具合が悪くなることが以前も度々あったのですが、今回は特に酷かったです。<br /> <br /> 意識体を引き抜いた後も右手に筋肉痛のような感覚と痺れた感覚が残っています。部屋の中に意識は感じないのでどこかに行ってしまったようですが、油断大敵ですね。久々にこの種の憑依がありました。<br /> <br /> 最近は身内の葬儀などで疲れていてヨガのアサナも瞑想もそれほどできていなかったので脇が甘くなっていたかもしれないですね。<br /> <br /> <br /> 関連:<br /> ・体のオーラに取り憑いているエネルギー体<br /> ・両肩に刺さっていた見えないものを引き抜く<br /> <br /> Mon, 04 Nov 2019 00:00:00 +0900 論理思考は独立して機能している https://w-jp.net/2019/1705/ <br /> 先日の続きです。<br /> <br /> 内なる雲が晴れ渡り、体の感覚と想念をそれぞれ独立して観察している状態では、論理思考が独立して働くようです。この論理思考はヨーガで言うブッディかもしれませんが、確証はありません。<br /> <br /> 今までは、想念や雑念あるいは論理的思考やいわゆる”考え”など、全てがごっちゃになっており、雑念と”考え”との差が”観察”と言う観点からすれば違いがさほどない状態でした。<br /> <br /> もちろん雑念は取り止めがなくて”考え”はロジックに基づいたものではありますのでその内容は別物ですが、”観察”と言う観点からしたら、両方とも同じような感じで想念として観察されていました。雑念で噂話や昔話はたまた流行のことを思い描いて想念になるのと、何かの課題を下に順序立てて結論を出す際に、内的感覚としてはさほど違いがなかったのです。<br /> <br /> それが、最近の瞑想では内面が晴れ渡り、雑念と論理思考が別に働いていることが明らかになったのです。<br /> <br /> 今日の瞑想では空間の中に認識されたのですが、比喩的に言い表しますと以下のようになります。<br /> <br /> <br /> <br /> ・視点は、空中から見下ろしている。(実際は地上の平面があるわけではなくその奥も空間が続いているので、これはあくまでも比喩です)<br /> ・地上(比喩)に、”体の感覚”が動いている。<br /> ・”体の感覚”の少し横で、”雑念”が認識されている。<br /> ・少し浮いたところ、少し座標がずれたところで論理思考(ヨーガで言うブッディ?)が働いている。<br /> <br /> 論理思考(ブッディ)だけでなく、”体の感覚”と”想念”も空間上でこのように別物として認識されています。<br /> <br /> 今までは”体の感覚”も”想念”も”論理思考(ブッディ)”も主観的に把握していましたが、今回の空間では客観的に観察されたと言えるかもしれません。まさか実際に空間として認識されるとは思ってもいませんでした。<br /> <br /> スピリチュアルで「宇宙」だとか「世界」だとか「空間」みたいな言葉を色々なところで聴きはしますけど、それはあくまでも比喩だと思っていたのですが、今回は実際に、いわゆる映像として空間が認識されました。(映像と言うと2次元という印象で聞こえてしまうかもしれないですけど)3Dのホログラフィックな空間としての映像として認識されました。<br /> <br /> Sun, 03 Nov 2019 00:00:00 +0900 内なる雲が晴れわたり、観照へ https://w-jp.net/2019/1704/ <br /> 最近の瞑想では内なる雲が晴れわたり、夜明けのように光を感じるようになりました。<br /> <br /> 長い夜がいよいよ明けるのでしょうか。<br /> <br /> 以前ですと瞑想における「観察」はいずれか1つが対象になっていました。体の感覚を観察するときは感覚のみ。想念・雑念を観察するときも基本的にはそれだけの観察でした。<br /> <br /> しかし、最近の瞑想では2つ以上の観察に変わってきました。<br /> <br /> 例えば、体の感覚と想念の両方を観察できています。聞こえる音・声も観察できていますので3つ以上とも言えるかもしれません。瞑想はあぐらを組んで目を瞑っっているので視覚情報はありません。<br /> <br /> 瞑想中、以前はヴィパッサナー瞑想をしていたとしても体の感覚の観察をしているときは基本的にそれだけ意識しており、想念や雑念の観察あるいは雑念に囚われているときはそれだけの観察でした。<br /> <br /> 今でも雑念に囚われることがゼロではありませんが、基本的には想念や雑念と体の観察および外の音の観察が同時にできています。<br /> <br /> おそらくは、これは内面が晴れ渡ることにより可能になったことなのかな? と思っております。<br /> <br /> ヴィパッサナー瞑想は本来こういうものなのかもしれないですね。<br /> <br /> この状態を「力が抜けた」と言うこともできるかもしれませんが、エネルギー的には高まった状態です。<br /> <br /> 以前は力が入っていてエネルギーが少なくて観察がうまくできていなかったのかな、とも思います。<br /> <br /> 以前との違いですが、以前は感覚を観察したのと同時ではなく時系列で反応的に想念や雑念が観察されていましたが、今は両方が独立して反応しているのを観察している、と言う違いがあります。以前は、体の感覚を観察してサワサワする肌感覚とかチクリとする感覚などを感じることとに精一杯で、感覚がトリガーとなって想念や雑念が発生すると感覚は観察できずに想念や雑念に囚われて、次はまた体の感覚の観察に戻って、と言う行ったり来たりを繰り返していました。当時はそれが観察だと思っていました。今の状態は、体の感覚と想念・雑念が並行に存在していることを同時に観察できています。現象としてはさほど違いがありませんが、観察の仕方に違いがあります。そして、これが可能になったのは、おそらくは上記のような状態になってからだと思うのです。<br /> <br /> マハリシ・マヘーシュ・ヨーギーの弟子であるボブ・フィックスは以下のように記しています。<br /> <br /> 瞑想がはかどり、ストレスやカルマの記憶が消え始めると、内なる空がじつに澄み渡る。「ある瞑想家の冒険(ボブ・フィックス 著)」<br /> <br /> 光は、スピリチュアルやヨーガでよく言われていることで、やがて光源状態になると言われています。私はここ最近しばらくアナハタ優勢ですが、光というのはわかるようでいてわかりませんでした。ここに来て、例えばスワミ・ヨーゲンヴァラナンダが「魂の科学」で言うところの「光輝状態の始まり」が始まりつつあるのかもしれないです。<br /> <br /> 「魂の科学」によれば、クンダリニーの覚醒は2つの形態があると言います。<br /> <br /> (1) 生気の上昇(Pranottana)<br /> (2) 光輝状態の始まり<br /> <br /> 同書によれば生気の上昇とはチャクラで光を伴わずに動き出すことで、覚醒すると光り輝くと言います。<br /> <br /> どうやら私は「生気の上昇」としてのクンダリーニ覚醒をしてオーラがアナハタ優勢になっていたとしても、光輝状態にはまだなっていなかったのかな、と推測しています。<br /> <br /> ボブ・フィックスは上の引用文の後に次のように記載しています。<br /> <br /> 知覚にともなう感覚も高まり、色彩はより鮮明に見え始める。結果として生じるそんな変化が、新たな次元の扉をあけ、見るものや知りたいことをすべて知覚する能力をひらく。それを知覚の鋭敏化と呼んでも良い。「ある瞑想家の冒険(ボブ・フィックス 著)」<br /> <br /> と、言いますのも、本日この観察状態で瞑想を続けていたところ、ふと目の前に学生服っぽい服を着た人のシルエットが見えて、私の方に近づいてきてすれ違いました。それだけのことですけど、これは何でしょう? たまたま通り過ぎただけかもしれません。この部分に関しては様子見ですね。単なる想像かもしれませんけど、何かが横切ったのかもしれません。<br /> <br /> とは言いましても、ボブ・フィックスは次のように記しています。<br /> <br /> しかし瞑想で重要なことは、感覚に生じる種々の妨げを超えて、無限の静寂に吸収される能力だ。(中略)空(くう)は、宇宙を超越している。完全に意識があって、完全に目覚めている。空にいるとき、私たちは宇宙を超え、それをとりかこむ無限の空間にいる。空に慣れてくると、宇宙を外側から観察しているような感じがする。(中略)この体験が、いわゆる観照だ。「ある瞑想家の冒険(ボブ・フィックス 著)」<br /> <br /> 確かに、言われてみれば本日の瞑想は観照(のほんの入り口)のようなものだったかもしれません。わずかながらの経験ですが、随分と瞑想は奥深いものだなと改めて思いました。まさかこのような状態を経験できるとは思ってもいませんでした。<br /> <br /> 内面が澄み渡ると知覚が鋭敏になりつつ光輝状態になり、観照に至る、と。 そう言うことなのかなと解釈しました。<br /> <br /> Sun, 03 Nov 2019 00:00:00 +0900 ハートに寄り添うことを妨げるトラウマ https://w-jp.net/2019/1703/ <br /> 人は誰でもトラウマがあるように思いますが、ハートに入る、あるいはハートに寄り添う時にトラウマが妨げることがあるようです。<br /> <br /> 私の場合、トラウマは次第に小さくなってきていますが未だゼロではありません。ゼロってことがあるのですかね? とも思ったりもしますが。<br /> <br /> そのトラウマの対処法として、以前は時間をかけてネガティブな感情に向き合ったわけですけれども、最近は、トラウマが出てきたらその状態を保持したまま否定せずに味わう(?)ことでネガティブが消えていくようになりました。そろそろ本格的にトラウマがゼロになってゆく前触れかなとも思っていますけれども。以前はトラウマが出たら一旦否定の反応が反射的に自律的に出て、その後にネガティブな反応が出ていましたが、最近は、トラウマが出たら意識的に否定の反応を抑えて否定の反応が出ないようにし、トラウマの状態をあえて維持して味わうことで否定の反応なしにトラウマを味わうようにすることでトラウマを理解し、その状態を味わっているとやがて緊張がほぐれていってトラウマが解消してゆくプロセスを経験できるようになりました。<br /> <br /> もしかしたら、これが仏教で言われている、ブッダが伝えたいわゆる「魔境」かもしれない、とも思っているわけですけれども。魔境かもしれないと言うのは仮説ですが。<br /> <br /> このトラウマは、一般的には、ハートに入ることを妨げているようです。<br /> <br /> ヨーガ、ヴェーダ、あるいはスピリチュアルなどではハートのいわゆるアナハタ・チャクラ(ハート・チャクラ)の奥には更に小さな空間があると言います。私の場合、アナハタ優勢にはなってはいるのですが、この、アナハタの中にある小さな空間、いわゆる聖なる空間に入ることができないでいます。<br /> <br /> ハートの中に入れなかったり、入ってもそこにいられなかったりするのには理由があります。(中略)人生においてトラウマを経験した人々、なかでも特に人間関係や愛情に関して否定的な経験があると、ハートの聖なる空間に入るときに再びその痛みを味わうようです。するとその痛みがつらすぎて、そこにいることに耐えられないのです。「ハートの聖なる空間へ(ドランヴァロ メルキゼデク著)」<br /> <br /> これは確かにそうかもしれない、と感じます。<br /> <br /> 最近は私の次の課題は何かなと探っていたのですが、ハートのこの辺りが次の課題かなあ、と思っている次第です。<br /> <br /> Sat, 02 Nov 2019 00:00:00 +0900 スシュムナを地に伸ばして錨にし、グラウンディングする https://w-jp.net/2019/1702/ <br /> 先日のように、天と地のエネルギーを上下に伸ばした後に何をするべきかと思って書籍を探ったところ、この記述がありました。<br /> <br /> 意識を素早く体内のプラーナ管に移し、それをイメージのなかで地球の核にまで伸ばすというものです。(中略)地球深くに固定されるように意図するだけで、プラーナ管を地球の核にグラウンディングさせることができます。「ハトホルの書(トム・ケニオン著)」<br /> <br /> ヨーガで言うスシュムナを同書ではプラーナ管と呼んでいるようです。<br /> <br /> これを意図してやってみたところ、あっさりとグラウンディングできました。これは良いです。<br /> <br /> と、言いますか、以前は同様にグラウンディングしようとしたら地のエネルギーの気持ち悪い、泥のようなエネルギーが登ってくるのであまりグラウンディングしたいとは思わなかったのです。多少は地のエネルギーを取り入れつつも、天のエネルギーを取り入れることでその気持ち悪さを中和するような感じでした。<br /> <br /> しかし、今日、このエクササイズをしたところ、気持ち悪さもなくあっさりとグラウンディングできました。<br /> <br /> この違いはなんでしょう?<br /> <br /> 先日の時点で、天のエネルギーがすんなりと入ってくるようになりました。これが大きいのではないかと思います。<br /> <br /> それ以前は天のエネルギーが途中で詰まってうまく降りてこない状態でしたので地のエネルギーが優勢でしたが、先日に天のエネルギーがすんなり降りるようになってからは地のエネルギーと天のエネルギーのバランスが取れたように思います。<br /> <br /> この状態であれば地のエネルギーにアクセスしても気持ちの悪さを感じず、すんなりグラウンディングできました。<br /> <br /> グラウンディングは大事だとはよく言われていますが、地のエネルギーだけでなく天のエネルギーもグラウンディングに意外に重要なのだと思いました。<br /> <br /> Fri, 01 Nov 2019 00:00:00 +0900 天のエネルギーを真っ直ぐ下ろして取り入れる瞑想 https://w-jp.net/2019/1701/ <br /> ここ最近は天のエネルギーを上半身に満たしたり、地のエネルギーを取り入れたりしていたわけですけれども、天のエネルギーを取り入れるときはグルグルと回転させて下ろす必要がありました。<br /> <br /> ここ最近の瞑想で、スシュムナを上下に延長したパイプ、一部のスピリチュアルで言われている、自分の上下に繋がるパイプのようなものを感じるようになりました。今までは自分の体の範囲しか把握できていなかったのです。<br /> <br /> その感覚を探っていくと、どうも頭の上のサハスララの上のあたりにゴミのようなものがパイプに詰まっているのを感じ、ここしばらくの瞑想ではその周囲のエネルギーを上下に動かして詰まりを取ろうとしていたのです。瞑想中でそれが取れた感覚はなかったのですが、ふと先日に瞑想をしてその辺りを探ってみたら、いつの間にかその詰まりのゴミがなくなっていて、パイプの中を上下にエネルギーがスムーズに動くようになっていました。<br /> <br /> その状態で瞑想をすると、以前のようにグルグルと天のエネルギーを回して下ろすことなしに、そのまま真っ直ぐ素直に天のエネルギーが降りてくるようになりました。<br /> <br /> 地のエネルギーも同様です。意識するだけで地のエネルギーと天のエネルギーが入ってくるようになりました。<br /> <br /> どうやら、今までは何かが詰まっていて流れが悪くなっていたからグルグルとエネルギーを回転しなくてはいけなかったのかな、と解釈しています。<br /> <br /> であれば、これからは地のエネルギーも天のエネルギーも素直に取り入れることができるのでしょう。<br /> <br /> ■一部のスピリチュアルで言う「カー」<br /> 例えば「ハトホルの書(トム・ケニオン著)」には以下のような図が記されています。<br /> <br /> この図ですと上下の線が切れていて横から入るように見えますけど、私の場合は上下のパイプがそのまま真っ直ぐ上下に伸びている感じです。<br /> <br /> ■上の突っかかりが取れると、緊張しにくくなった<br /> 今までは、瞑想して眉間やサハスララに意識を合わせるとそこに圧力のようなものが生まれて、瞑想を終える前にその意識を頭の下半分あるいはハートなどに下ろしてから瞑想を終えないと不快感が残ってしまうことがありました。場合によってはそれは緊張としても残り、肉体的にはそれは多少の血圧上昇に結びついていたように思います。<br /> <br /> ■緊張と血圧上昇<br /> このように、頭の緊張が残ると血圧上昇することに気づいたのは、たまたま病院で足の骨折のリハビリを受診したからです。リハビリ前に血圧を測るのですが、この緊張状態では血圧が高いことに気がついたのです。<br /> <br /> ■今は、緊張していた頃の癖が残っている状態<br /> 前は眉間や頭上に意識を合わせると緊張していましたので、体がそれを覚えているので抵抗を試みるのですが、そもそも緊張がなくなっているのに抵抗だけが癖として残っている状態です。体としては、昔の感覚がある筈だけれども感覚がない、と言う感じで体が不思議がっています。おそらくこれは、いつも反応していた体が、その反応の元がなくなってしまったが故に反応しなくても良いのに反応しているだけですので、そのうちこの癖はなくなってゆくのかなと思います。<br /> <br /> これで、眉間への集中が、よりしやすくなりました。ただ、どうやらエネルギーが強く流入するようになりましたので、その点、あまり長く集中できない感じになりつつありますけど。集中というよりは軽く意識を当てて観察するだけでいいのかもしれません。これは今後、様子見をします。<br /> Wed, 30 Oct 2019 00:00:00 +0900 地縛霊と守護霊は紙一重 https://w-jp.net/2019/1700/ <br /> 先日の続きです。<br /> <br /> 死んだ後、地上への欲望に縛られると地縛霊になり、天へと帰ることができれば守護霊や高級霊になります。<br /> <br /> 地縛霊は黒いオーラを帯びていて、それはまるで地獄の黒い炎のように見えます。これはもしかしたら仏教でいう地獄の烈火として言い伝えられているものかもしれませんが、オーラが黒くなってゆらゆら揺れているので炎のように私には見えました。<br /> <br /> ■霊を繋ぎ止める<br /> 身内がいよいよ死ぬとなった時、そのまま死んでしまうと霊がどこかに夢見の状態のままフラフラと行ってしまい、行方不明になって救われないと直感で感じましたので、そうなってはいけないので私のオーラと結んで繋ぎ止めておくために私がインドのリシケシで買ってきた木のブレスレットをお守りとしてつけたまま火葬してもらうことにしたのでした。<br /> <br /> そうして身内は火葬して骨壺になってしまったわけですが、その魂はちゃんと繋ぎ止められていました。<br /> <br /> その身内はもともと素行があまり良くないと言いますか、割と一般的な人でしたので世間的な欲望に沿って生きていて、一般社会ではそんなものかなと思ったりもするのですが、そのように悟っていない状態で死んでしまいますとなかなか苦労しそうなことが直感でわかりました。<br /> <br /> 上で書きましたように、まず、死んだ後に未だに地上への未練が残っていますので地縛霊になる可能性が非常に高いです。<br /> <br /> 欲望があってもそれほどでなければ身内が迎えにきて天に登ることもできるのですが、聞く耳を持たない性格ですとか、自分が死後の世界を受け入れないでいると苦労するようです。死んでいるのに死んでいないと思い込んだり、死んだら無になる筈だからとか思い込んでいて身内の呼びかけに答えなかったりするようです。<br /> <br /> ■黒いオーラ<br /> 今回の場合は身内の霊が黒いオーラで囲まれて地獄の黒い炎のようになっていました。このままですと周囲が見えなくて、本人は眠りの状態のように延々と欲望のイメージと言いますか夢のようなものを見るループに落ち込んでしまい、抜け出すことが困難になってしまうかもしれません。<br /> <br /> 人によっては多少は人生の振り返りなんてするようですけど、それはこのようなループに落ち込んでいる場合のことで、ある程度悟っている魂の場合は人生の振り返りなんて生きているうちに済ませていますのでそのまますんなり天に登ることができるようです。<br /> <br /> 今回の場合、まず私が木のブレスレットで結び付けておきましたので、葬儀が終わって家に帰っていたら、どことなくずっと繋がっているのを感じました。ここまでは想定通りです。<br /> <br /> ■夢見のループ<br /> そして、とりあえずその晩は寝たら、その身内が死後の霊の状態で見ているであろう映像が私の夢と繋がって延々とループで見せられました。これはキツい(苦笑)<br /> <br /> まあ、霊が苦しんでいたり悲しんでいたりしないのが幸いですけど、このままループを続けたら更に何も見えない暗闇にもっと落ち込むかもしれません。その危険性があると思いました。<br /> <br /> ■瞑想で状態を見極める<br /> ですので、翌日、瞑想をして状態をまず見極めることにしました。<br /> <br /> そうしたら、まさに上に書いたように魂が黒いオーラを帯びていて地獄の黒い炎のようにゆらゆらと揺れて私の視界全体を覆うくらいの大きさで漂っていたのが直感で見えたのです。しかも、かなりドロドロとしたオーラを帯びていて、そのままにしておいたら地縛霊になってしまうかもしれないと直感で思いました。私の肌がゾゾゾっと感じるくらいの黒い濁ったオーラです。<br /> <br /> 瞑想に入ってすぐにこれが見えたのでちょっとビビりました。<br /> <br /> 他人でしたら自分との間に結界を張ったり九字切りしたりして追い払うところですけど、身内ですので、色々と試してオーラを浄化してみることにしたのです。<br /> <br /> ■浄化する<br /> 最初試したのが、自分のオーラから光を放って地縛霊になりかけの霊に変化がないか見極めました。結果、少しだけ肌感覚に変化があって、最初はかなり肌にゾゾゾっと感じていたのが、少し弱まりました。オーラがちょっとだけ浄化されたようです。<br /> <br /> 次に、ヨーガのマントラを心の中で唱えてみました。これもちょっと効果があるようですが、一定以上の変化はなさそうに感じました。<br /> <br /> 次は、アジナから光を出すイメージをしてみました。これは効果があるのかないのか不明でした。<br /> <br /> そして、先日から行っていたように天のエネルギーを下ろして、自分にではなくその霊の黒いオーラに浴びせたところ、これはかなり効果がありました。何度も何度も行わないと変化がなかなか現れませんでしたが、ひとまず、応急処置としてはかなり浄化ができたかなと思っております。<br /> <br /> 最初感じた肌のゾゾゾっというおぞましい感覚はほとんどなくなりました。<br /> <br /> まだ完全ではないにせよ、いきなり1日で悟るわけもないですし、地縛霊を防ぐという意味ではとりあえず十分ではないでしょうか。<br /> <br /> ■顔が見えるようになる<br /> 霊が黒いオーラに包まれていた時は顔が全く見えなかったのですが、今は半分眠っているような細い目の顔が見えるようになりましたので、まだ意識としては寝ているのかもしれませんけどオーラは浄化されつつあるように思います。先ほどの瞑想である程度の天のエネルギーを充填したので、身内の霊は割と元気になった感じです。<br /> <br /> まあ、まだ霊はこのまま寝ている状態がしばらく続くと思いますので、迎えが来るまでは度々このようにして天のエネルギーを満たしてあげて地縛霊になるのを防ごうかな、と思っております。<br /> <br /> ■葬儀での住職の役割<br /> おそらくは、本来のお寺の住職の葬儀における読経の役割はこんなところにあるのかなぁ、と思ったりしますけど、全員がその能力があるようにも思えませんから微妙なところです。能力があったとしてもお経を何回か唱えたくらいで救われるとも限りませんからね。やらないよりマシというくらいかもしれませんけど。単に見様見真似で唱えても効果があるように思えませんし。<br /> <br /> ■オーラを食する<br /> この種の黒いオーラを帯びている人は自分で地や天のエネルギーを取り入れることができないので、他人のオーラをもらうしかないようです。ですから生きている間は肉を食べたり植物を食べたりしていたわけですけれども、死んでしまうとどうしていいのか最初はわかりませんのでどんどんと黒くなっていくような気が致しました。死んだ後の状態に慣れれば同じように周囲からエネルギーを貰えばいいみたいですけど、オーラを閉ざしているというかエネルギーの通り道が詰まっているとうまく取り入れられないようです。<br /> <br /> そんなこんなで死後にエネルギーを取り入れることができなくて黒いオーラになってしまっていたわけですが、お寺の住職や葬儀でお祈りをする時のエネルギー供給は意外に重要なのかもしれませんね。<br /> <br /> 悟っていればあまり関係ないみたいですけど、悟っていないと死後すぐにエネルギーを供給してもらうのは重要なのかなあ、と今回のことで思いました。<br /> <br /> ■紙一重<br /> ですから、もしかしたら地縛霊と天に登る霊(やがて守護霊や高級霊になる)は紙一重なのかなあ、という気がしました。<br /> <br /> ■職業としてやるのは微妙<br /> これ、今回は身内ですから良いですけど、他人ですとオーラが混ざるので色々なものを拾ってしまうので嫌だなあ、と思いました。実力のある住職とかスピリチュアルのヒーラーとかは時々こういうことしてたりしますけど、めちゃくちゃ大変な割に相手には理解されにくいので大変そうです。<br /> <br /> Mon, 28 Oct 2019 00:00:00 +0900 霊とマニプラ https://w-jp.net/2019/1699/ <br /> 胃のあたり、いわゆるマニプラ、ソーラプレクサス・チャクラと霊との間には関係があるようです。<br /> <br /> ヨーガの大家、本山博先生は以下のように説明されています。<br /> <br /> マニプラチャクラの目覚めは、霊の世界にヨギを目覚ませるように思います。「密教ヨーガ(本山博 著)」<br /> <br /> 実はここ数週間、特に先週から身内の入院・危篤・葬儀まで立て続けに起こり、人の死に立ち向かいました。親戚の葬儀に参列するのと入院中や最後の瞬間に立ち会うのとではかなり認識の違いがありました。親戚の葬儀に参列するだけでは人の死に対して深く思い描く機会も少なかったのですが、今回のことで色々と学びもありました。<br /> <br /> ■マニプラで霊を感じる<br /> 人の最後の瞬間に立ち合い、葬儀をしていると、特に、胃のあたりにジワジワと感じるものがあって、胃のあたりが弱まるのを感じました。胃のあたりにあるのは、いわゆるマニプラ・チャクラです。これは、単に疲れというだけではないと思います。何かメッセージを受信しているような、そんな感じです。疲れてうとうとしている時とか夜の夢の中でイメージを感じたのです。その時、死んだ霊が漂って見ている世界を私が垣間見たような気が致します。それは、死んだ霊が見ている場面を私が感じる、ということです。<br /> <br /> 死んだ霊が特に苦しんでいるというわけではなさそうなのですが、故人の職業の最中に見たであろう視界が色々と延々と見えてくるのです。延々と続いていて、これは夢と言っても、死んだ霊が実際に自分が生きていた頃を回想しているのかなあ... と思いました。それがマニプラのあたりを伝わってイメージとして伝わってくるのです。<br /> <br /> 少なくとも苦しんでいるわけではなく、もうしなくても良い自分の職業を死後の世界でも続けているのかなぁ... と思うと、目覚めていない魂はこうなるのかな... とちょっと悲しくなりました。でも、苦しんでいるわけではないのが救いです。<br /> <br /> 時々、その故人の顔が思い浮かびます。これはきっと、思い浮かぶというよりは実際に漂っている、あるいは、そこに眠っているのかなと思います。苦しんでいるわけではないのですが、まだ意識は眠っている感じです。そのうち目が覚めるのでしょうか。49日になるまで霊は地上を漂うと言いますけど、どうなのでしょう。最長が49日、というお話もありますね。<br /> <br /> ■私の感情<br /> 入院中、意識が少し戻ったりして動いていた体が少しづつ弱まって遺体に変わってゆく最後を何日にもわたって看取るのは初めてでしたので色々と思うことがありました。<br /> <br /> ここ数週間でいわゆる喪失感、悲しみ、思い出などを次々と体験することになったわけですが、勉強したり瞑想したりしてあの世のことや世界のことを学ぶのは必要だとしても、実際に直面してみるとわかるものがあります。<br /> <br /> 頭では霊は転生するとか理解していたとしても、実際の感情面やマニプラのレベルでは喪失感や共感、悲しみといったものをしっかり感じるわけです。アナハタ以上のレベルではそのような悲しみはありませんけど、アナハタ以上の感覚で安定した感覚を保ちつつも下半身のマニプラ以下ではしっかりと悲しみを感じているわけです。人間というのは一枚岩ではなくて、悲しみが全身を覆うのではなく、チャクラによって状態が違うのだな、と今回は学びました。<br /> <br /> もしかした人によっては全身同じ、という人もいるのかもしれませんが、私の場合はこんな感じでした。もしかしたらアナハタが閉じ気味でマニプラ優勢の場合は感情が優先するのかもしれませんけど。<br /> <br /> アナハタ以上の高い波動の神の世界の視点だけで人間が生きているわけではなく、低いマニプラ以下の視点もあるのが人間で、アナハタ以上の高い波動だけでなく低いマニプラ以下の波動も持っているからこそこの地上を生きられるのであって、マニプラにおける感情としての悲しみを感じるのも必要なのだと改めて思いました。<br /> <br /> 人によってそのバランスは違っているにしても、アナハタ以上の高い波動だけ持っていてマニプラの悲しみがない人間というのも何だか違う気がしますし、そもそも人間界に生まれるということは様々な感情を味わうことを学ぶことでもある筈ですから、マニプラもしっかり動かしてみるのがいいのかな、という気も致します。<br /> <br /> それでもきっと、やがては人類の成長はアナハタ以上に進んでいくのでしょうけど、今の世界ではまだまだマニプラ的要素はこの世界で生きるのに必要かなと思います。<br /> <br /> ■やがて迎えがやってくる<br /> 私が子供の頃に幽体離脱して理解したことに基づきますと、死ぬとやがて縁のある人(霊)が迎えにきます。<br /> ですから、きっと今はまだ死んだばかりで夢見のような状態で微睡んでいるのだと思います。<br /> <br /> Mon, 28 Oct 2019 00:00:00 +0900 初見の人と接した際に自らの知らない面が出てくるのではなく自分が相手の鏡になっているだけ https://w-jp.net/2019/1698/ <br /> 先日のオーラ融合による想念受信のお話の続きです。<br /> <br /> オーラ接触すると相手の想念が伝わってくるわけですが、例えば初見の人と接した時にふとしたことで自分が今まで思いもよらなかった考えが心に浮かんでくることがあります。<br /> <br /> 具体的には、私が数ヶ月前に少し話した女性の場合ですと、一言二言話しただけで相手の女性の悩みが伝わってきました。その女性は割と資産家らしく、お金目当ての男性がわらわらと近づいてくるようです。その悩みのオーラがブワッと私の方に降りかかってきて、私の心の中にこの女性を食い物にしている男性のイメージがポンと浮かんできたと同時にその女性も何かトラウマを思い出したように苦しみ出して少しヒステリーになったのですぐにその場を離れたのですが、これはオーラ接触によりその女性の悩みが伝わってきた例ですね。この女性はアルコール依存症のようで、まだ50歳前後だと思うのですが少し手が震えていました。お金持っていても不幸せなことがあるんですね。<br /> <br /> オーラの基本的な知識と観察力があればこれは相手のオーラに含まれる想念だとすぐにわかるわけですけれども、そうでなくとも、それ以前あるいはその後数ヶ月経っても私は同様の思いを描いたことがありませんのでこの想念は相手の女性にまつわる物だったとわかるわけです。ですが、オーラや想念に関する知識がない人ですともしかしたら「ああ、これが私の本性なんだ」と思ってしまうかもしれません。<br /> <br /> 実のところ、ヨーガ的な「私」というのは「思い(想念)」ではありませんので、何を思おうがそれは自己の本質とは無関係なわけです。ヨーガ 的な「私」というのは純粋な観察者ですので、思いとは関係ないわけです。<br /> <br /> ですが、一般的には「何を思うか」によって「私」が形作られています。ですから、一般的にはこのような場合に「ああ、私って実は凄く醜い人間なんだ」と思ってしまうかもしれませんが、それはヨーガ的に言えば間違いなわけです。だって、単に相手のオーラと接触してその情報が入ってきただけですから。<br /> <br /> 誤解して欲しくないのですが、「それなら、何を思ったっていいんですね。上のように女性を食い物にしていいんですね」と思う人がいらっしゃるかもしれませんが、微妙に違います。「何を思っても良い。女性を食い物にしたらそのカルマに巻き込まれますが、それも貴方の自由です。」と言ったところでしょうか。本質を理解していればわざわざそんな面倒なトラブルに巻き込まれることを選択しないとは思いますが、自分の行為のアリバイとして理屈を捏ね回したとしても、結局は自分の行為の尻拭いは自分で取るわけですから、好きにしてください、としか言いようがありません。言い訳をしても何も変わらないわけです。<br /> <br /> 誤解の話はこのくらいにして元の話に戻しますが、その女性はオーラが不安定で発散していたから周囲の他人のオーラと次々に接触していたわけですね。<br /> <br /> オーラの働きを一度理解したならば、このようなことがあったらまず正しく理解して、その想念は自分のものではないことを理解して、あとはくよくよ考えないことです。一般人ですと「あぁ、私ってそんな人間だったんだ...」とくよくよずっと考え続けるかもしれませんが、「考える」ことによってどんどんと自分の性質がそれに近づいていきますので考え続ける方が危険です。<br /> <br /> これらはオーラの働きとしても説明できますし、昔ながらの古典的な例えですと「鏡」だと説明されます。自分は相手を映し出す鏡だ、というわけですね。<br /> <br /> ですが、鏡の説明は色々と誤解がありますので、私個人としては鏡よりもオーラの法則の方が説明としてしっくりきます。<br /> <br /> Sun, 20 Oct 2019 00:00:00 +0900 歯痛や疲れている時は予知の感覚が働かないようです https://w-jp.net/2019/1697/ <br /> 数日前から親知らずの根本が痛み出して抜く予定なのですが、歯が痛いと予知能力が鈍りますね。<br /> <br /> 旅行中に疲れているとスリなどにあいやすいのと同じで、スリにしても元気ですと予知能力が働いてあらかじめ避けられますけど、疲れていると予知能力が働きません。と言いますか、働いているとは思うのですが感知能力が鈍ってしまっているようです。<br /> <br /> ここ数日、自転車に乗ったら他のバイクや自転車の動きが読めずに衝突しそうになったり、歩行者をひっかけそうになったり、ほんの1km前後の移動でしかないのですが、その間に何回か危ない場面がありました。こんな短い距離でそんな頻繁に危ない状況になることは今までほとんどなかったのです。<br /> <br /> ただでさえ歯が痛くて注意散漫になっている上、普段の予知の感覚が働かないので、二重の意味で危なかったです。<br /> <br /> 親知らずを抜いて数日は痛みが続くようなので、抜いた後もしばらく気をつけたいと思います。<br /> <br /> この状態でする瞑想もあまり深くは入れませんので、しばらくは瞑想も軽くするだけですね。<br /> <br /> 病気の時は精神的な成長のチャンスの筈なので良い方向に捉えたいです。<br /> <br /> <br /> [追記 10/19]<br /> 下の親知らずを抜きました。油断大敵。親知らずって怖いですね。<br /> 抜く3日くらい前から親知らずの周辺が智歯周囲炎と言う炎症になって夜もあまり眠れないくらい辛い痛みが数日続き、単なる虫歯かと思っていたら親知らずが原因でした... 親知らずを舐めていました。こんなに辛くなるとは。痛くなったので無理言って当日に診察してもらったら、腫れているし当日は時間がなくて抜けないので抗生物質と痛み止め(ロキソニン)を処方してもらって、その数日後、ようやく昨日抜いてもらいました。<br /> 抜いたら、炎症の痛みはほとんどなくなりました。こんなにスッキリするのならばもっと早く抜いておけばよかったです。<br /> でも、抜いたことによる傷口と炎症がまだ残っているせいか、今日は抜いたところを中心にとても熱っぽいです。脇の下の熱が37.0度なのに口の体温は37.7度もあります(苦笑) 額も熱いし。<br /> 今まで、下の親知らずは抜かない方がいいと言われていたので抜かなかったのです。ブラッシングでマッサージすればなんとかなると言われていたのですが、今回はブラッシングでは無理と言われて抜くことにしました。<br /> 結果としては、抜いて良かった! のですが、今日は熱でツライ...<br /> 来月はもう片方の(下の)親知らずも抜いてもらいます。こっちはもっと埋まっているらしいです...<br /> <br /> 今は、痛みが出たり出なかったり、不思議な状況が続いています。<br /> ・施術中:麻酔の針が気持ち悪い。もともと血が苦手。歯医者も苦手ですが、私が行ったところは新しいのでそれでも痛まない方らしいです。昔はどれだけ辛かったのでしょう...<br /> ・施術後1時間くらい:同じく気持ち悪い。寝込みたいくらい。<br /> ・2時間後:急に気分が良くなってきた。痛みもない。炎症の痛みもなし。<br /> ・その夜:快適<br /> ・翌日の午前中〜午後:快適<br /> ・翌日の夕方:夕食後、急に熱が出てきて上記のように変化<br /> ・と思ったら、その1時間後くらいに急に熱が治ってきたのです。なんだこれ... 過渡的な反応だったのでしょうか... まだ微熱がありますけど。今日は調子が良かったのでちょっと外出して買い物などしていたので抵抗力が落ちていたのかもしれないです。あるいは、食べたものが傷口に挟まったとか、飲み物が炎症に反応したとか。どちらにせよ、あと数日は無理せず落ち着いていた方が良さそうです。<br /> <br /> 私の症状よりももっと酷い場合は大学病院とかで入院する人もいるらしいです。私はそれでもまだ軽傷のうちに歯医者行って薬もらって抜いてもらったのでこのくらいで済みそうです。これが長期旅行中だったりしたらもっと怖かったですね。<br /> <br /> 今年は骨折にしろ何にせよ身体的には辛いことが続いています。一方、精神的には進歩が見られるので辛いことも精神的な成長の糧かなとも思っています。<br /> Thu, 17 Oct 2019 00:00:00 +0900 偶発的な霊視 https://w-jp.net/2019/1695/ <br /> 神智学協会のC.W.リードビーターによりますと、完全な目覚めには至らなくても偶発的に透視が起こると言います。<br /> <br /> 完全な目覚めに至らなくても、人はしばしばアストラル的領域を垣間見ることがある。特別に強い波動は、蛇の火が全く活動していなくても、いつでもチャクラを活動させることがあるからである。また蛇の火がいくらか活動を始めて、発作的な透視がしばらく生じることもある。(中略)次第に深く掘り下げてゆくことによって、この火の表層が刺激されるだけに止まらず、火の核心そのものが全面的に活動するまでに至るのである。「チャクラ(C.W.リードビーター 著)」<br /> <br /> これは私にも覚えがあって、ふとした拍子に他の人のオーラの表層にとてもはっきりと視覚的にその人の生活の一面を垣間見たことがあります。10秒前後続きました。その間、一瞬消えることはありましたが10秒ほどの間、ずっとその人の生活の一部が見えていました。<br /> <br /> それはたしかクンダリーニ覚醒の第2回目、マニプラ優勢になったばかりの頃だったと思います。その後はそんなこともありませんので、おそらくは一時的にアジナかどこかが活性化して透視の能力が出たのかなと思います。これぞ偶発的な透視、というものだと思いました。ちょうど1年くらいまえの事ですかね。<br /> <br /> 一種の勘のようなものでしたら以前からずっとありましたし、直感としての透視であれば想像上のものであってずっとありましたけど、その時はまるで物理的なディスプレイが現れたかと思 うくらいはっきりと肉眼で見えるかのように見えていました。<br /> <br /> てっきり、透視ができるようになっても想像とか夢とか、その種の直感的なものかとばかりずっと思っていましたので、その時は、まるで肉眼で見えるかのように見えたのには驚きました。こういう風に見えることもあるんだ、と。<br /> <br /> その人はちょっと情緒不安定でしたのできっとオーラが発散していて読み取りやすい状態になっていたのかなぁ、という気もしますし、相手の守護霊があえて見えやすくしていた可能性もあるにはありますけど。<br /> <br /> どちらにせよ、あんなにはっきり見えたことには驚きました。<br /> <br /> とは言いましても、おそらくあれは肉体のレベルに近い、いわゆる低いレベルの透視だったのかなぁ、と今は思います。見えているのは単に生活の一部ですし、深い洞察やその場面の裏側に横たわっている背景までが見通せるわけでもありません。ただ単に過去の一場面を見たというだけで、それはそれで面白いことではありますけど、見たからと言ってその人や私の精神的成長の役に立つかと言われると、ほとんど役に立たないと思われるわけです。<br /> <br /> おそらくは本当の上位の透視はそんな生活の場面ではなくもっと深いところが見えるのだと思っています。<br /> <br /> そこまで行くのはまだまだ遠い道のりな気がしますけど。<br /> <br /> <br /> <br /> Sun, 13 Oct 2019 00:00:00 +0900 寝るときに聞こえた不気味な呟く声 https://w-jp.net/2019/1694/ <br /> 寝る時に体が帯電していてハートから電気というかオーラが身体中に飛び出てゆらゆら動いているような感じになっていました。<br /> <br /> 今日は遠出をしたので疲れたのかな... と思ってそのまま寝ようとしたのですが、その状態で目を瞑っていたら、何やら意識が「後ろ」に次第に引き込まれていって、視線も後ろに行く感じで、まるで(スタートレックやスターウォーズでの)「ワープ」の逆方向(後ろ方向へ進む)のような感じになっていました。<br /> <br /> そして、ふとその速度が上がって意識が圧縮された不思議な感じになったかと思ったら、おそらくオーラというか幽体がちょっと体からズレた状態になったのでしょうかね。幽体っぽいものがちょっとだけ頭の上、頭の斜め上方向にズレた感じになりました。<br /> <br /> 何とも中途半端な感じで幽体離脱っぽくなったかな??? と思っていたのですが、その状態はあまり心地の良いものではありませんでしたのでおそらく30秒もしないうちに意識的に感覚を戻して元に戻ったのですが、その何十秒かの間に、ちょっと不気味な感じになりました。<br /> <br /> 特に不気味だったのが、頭の右上すぐのところで、明らかに他の意識体の声で、まるで念仏のようにブツブツと呟く声が聞こえてきていたのです。ちょっとゾッとしました。内容的には延々と、途切れなく「アリガトウゴザイマスアリガトウゴザイマスアリガトウゴザイマスアリガトウゴザイマス...」と繰り返す感じなのですが、こんな均等のトーンで繰り返す内容でもないので、まるで感情の入っていない念仏のようで不気味です.... 何だこれ...<br /> <br /> まるでホラーでした(苦笑)<br /> <br /> Fri, 11 Oct 2019 00:00:00 +0900 電車で眠くなったら座席に結界を張る https://w-jp.net/2019/1693/ <br /> 以前の話の続きです。<br /> <br /> オーラのケーブルを切りつつ、意識すればそれは結界にもなります。<br /> <br /> 本日電車に乗っていたら、席が空いていた時は快適だったのですが人が増えてきたら何処かからエネルギーを抜かれている感じがしてきました。具体的にはちょっと眠い感じになったのですが、眠くなったらそれはエネルギーを抜かれている可能性があります。<br /> <br /> 何となくイメージできますよね。元気であればそんなに眠くはなりませんが、エネルギーがなくなってきたら回復のために眠くなるのです。<br /> <br /> ですから、電車に座っていて急に眠くなってきた場合。それも、人が少ない時は何でもなかったのに急に眠くなったのであれば、それはエネルギーを抜かれている可能性があります。<br /> <br /> そんな時、普通の人は何の手立てもなく抜かれるがままなのがこの世の中です。エネルギーとかオーラに関する知識がありませんからね...<br /> <br /> エネルギーを抜かれているのならば、それはオーラのケーブルが繋がっているということですので、例えば自分が座っている座席の四方を囲んで意識の「刀」でぐるりと一周すればケーブルは切れます。<br /> <br /> 今日の場合も同様にして急に眠気がなくなりましたので、オーラのケーブルは切れたようです。<br /> <br /> それだけでは再度ケーブルが繋がるかもしれませんので、意識して薄い壁のようなものを作って結界にしました。これは、単にそうイメージするだけで効果がある筈ですが、他の人がうまくできるかどうかは知りません。<br /> <br /> この種のエネルギーの移動ってよく行われていることですけれども、エネルギーが枯渇している人は何かで無駄遣いしているかあるいはまた他の人に抜かれているので、エネルギーをあげてもキリがないのですよね。<br /> <br /> エネルギーを抜かれるのを防ぐのは「分離の意識だ」っていう人もいますけど、それは相手がスピリチュアルな人の場合だけであって、この世の中はエネルギーを高めていこうとしている人とエネルギーを奪って消費しようとしている人とに二分されると思いますので、前者にエネルギーを与えるのはたまには良いですが後者に与えても無駄にするだけです。後者は、例えるならば水道の蛇口が全開になっている人、あるいは、お風呂の栓が止まっていないのにお湯を貯めようとしている人なのですから、いくらエネルギーを注ぎ込んでも抜けてしまって貯まらないのです。であれば、エネルギーを与える前に本人のエネルギーの無駄使いあるいはエネルギーの他の人への奪われを阻止してからエネルギーを注ぎ込まないと状況は良くならないですよね。ですから、私は外で見知らぬ人にエネルギーを抜かれたらすぐにオーラのケーブルを切ってエネルギーを奪われるのを阻止しているのです。エネルギーを与えるのならば意識的にしたいですし、相手が、自分の意思でエネルギー的でスピリチュアル的な成長をしていこうと思っていなければあまり意味がないように思います。<br /> <br /> <br /> Fri, 11 Oct 2019 00:00:00 +0900 癒しとはエネルギーの高まり https://w-jp.net/2019/1686/ <br /> 女性的に言えば癒しですし、男性的に言えば男らしさ。それがエネルギーの高まりです。<br /> エネルギーの高い女性に近づけば癒しを感じますし、エネルギーの高い男性に近づけば男らしさを感じます。<br /> <br /> 男性性、女性性という視点を取っ払えば、両方ともエネルギーの高まりです。<br /> <br /> ですから、女性がエネルギーの高い男性に近づけば癒しを感じてエネルギーをもらって女らしくなるのです。<br /> 逆に、男性がエネルギーの高い女性、女らしい女性に近づけば自分がエネルギーを受け取ることで男らしくなるわけです。<br /> これはあくまでも例でわかりやすく男と女の話で言っているだけで、LGBTのパターンもあると思います。<br /> <br /> 私の場合、ヨガを始める前はエネルギーが少ない状態で、様々な葛藤や問題があってエネルギーのルート(ヨガ的に言うナディ)が詰まった状態で生活していましたのでエネルギー枯渇状態だったこともあります。ヨガを始める前は旅行などでエネルギーチャージをしていましたが、ヨガを始めてから体の各所のエネルギーの詰まりが少しづつ取れてきてエネルギーが通るようになってきました。<br /> <br /> それで多少はエネルギーが入るようになったのですが、根本的に変わったのはクンダリーニの覚醒です。<br /> 最初は下半身が熱くなってエネルギーが高まりました。これだけでかなりエネルギーが高まりました。ヨーガ的に言うところのマニプラ・チャクラが優勢の頃です。<br /> <br /> 次に胸が引いてエネルギーの質が変わりました。ヨーガ的にいうとアナハタ・チャクラが優勢になりました。<br /> その後、頭のあたりまでエネルギーが通ってきました。<br /> <br /> この時点までは下の方のエネルギー、いわゆる地のエネルギーを使っていました。<br /> <br /> しかし、頭までエネルギーが通った後、少しだけですが天のエネルギーを使えるようになってきました。<br /> 地のエネルギーのように本格的な覚醒はしていないものの、天のエネルギーを少しづつ体にまで下ろしてエネルギーを満たせるようになってきて、体のエネルギーの質が変わってきています。<br /> <br /> 色々と「愛」だとか「平和」だとか言われていますけど、結局のところ、エネルギーが高まればほとんどは解決するのかなあ... という気も最近してきています。<br /> <br /> 物理的世界でも世界の抗争の原因はオイルなどのエネルギーの奪い合いでしょう。<br /> <br /> 精神的にも他人のエネルギーを奪ったり奪われたりという争奪戦が繰り広げられていますけど、世界の構図も人間の構図も一緒なのかなあ... という気も致します。結局はエネルギー問題なのかな、と。<br /> <br /> 人間のエネルギーも他人から奪ったりしている人、いわゆるエネルギー・ヴァンパイアもいますけど、世界にも他人のエネルギーを奪っている人がいますよね。<br /> <br /> 本当はエネルギーなんてそこらに溢れていて奪う必要なんてない... というところに状態が進んでいけば世界の抗争も人間の争いもほとんど解決するような気が致します。<br /> <br /> Sun, 06 Oct 2019 00:00:00 +0900 テレパシーとオーラ融合による想念受信との違い https://w-jp.net/2019/1685/ <br /> 先日 オーラの交換について書きましたが、オーラ交換をするとオーラに含まれている情報が伝わってきます。一方で、テレパシーによるコミュニケーションもあります。以前、テレパシーについても少し書きました。<br /> <br /> ■オーラ交換(融合)の場合<br /> 自分が意図的にエーテルの筋(オーラの筋)を伸ばしていって情報交換する場合もあれば、他人のオーラと混ざって情報が伝わってくる場合もあります。無意識に他人のオーラと混ざる場合もありますし、他人が意図的にこちらに接触してくる時にこちらが気付く場合もあります。<br /> <br /> 一番単純な場合では、浮いているオーラと自分のオーラが接触する場合です。この場合、自分の体のちょっと外側、体の周囲の50cm~1mほど離れたあたりでオーラの接触があって、そこから情報が伝わってきます。<br /> <br /> 今日の瞑想中にあったことで言いますと、頭のちょっと上、50cm前後離れたところでフワフワっとエネルギーの反応があって思考といいますか想念が化学反応のように出てきて、情報が入ってきました。その想念はおそらくそこらへんの空中に浮いてプカプカとどこかから飛んできたものですので、情報的はとりとめのない単なる雑念だったのですが、まあ、今日はそんなオーラの雑念を受け取りました。<br /> <br /> ■テレパシーの場合<br /> 一方で、今日の瞑想中に首の後ろあたりで直接的な想念も受信しました。これは、感じが違います。いきなり想念が出てくる感じです。<br /> <br /> 上記のオーラ交換(融合)の場合は科学反応みたいなザワザワした感覚があって、それは一瞬の間ですがその感覚があった後に状態が落ち着いて、続いてすぐに情報が伝わってきます。一方、こちらのテレパシーの場合は何もない空間にいきなり声が浮き出てくる感覚です。音の出ていなかったスピーカーがいきなり振動して声が聞こえるのに似ています。その受信機は、もしかしたら首の後ろにあるのかもしれません。<br /> <br /> 喉のヴィシュッダ・チャクラは声だけでなく耳の方も司っていてテレパシーの送受信の機能があると言われていますけど、今回の場合、喉からはちょっとだけ離れてはいますが、オーラは体と重なっているとはいえ少しズレたりすることもありますのでこのくらいは誤差かもしれませんし、あるいは、ちゃんとその場所に何かがあるのかもしれません。どちらにせよ、首の後ろの少し上のあたりで想念を受信したのですが、それは体の外側で感じるものとは別物でした。<br /> <br /> その首の後ろは体の内側ではなないのですが、オーラ的に言えばオーラの外縁部ではありませんのでオーラ的には内側と言えると思います。オーラの外縁部から情報が伝わってくるという感じではありませんでした。<br /> <br /> もともと昔から悪い予感や見えない存在からの何かの忠告がありそうな時には喉仏のあたりがグリグリとしていましたので、喉仏には何かがあって、そこがヴィシュッダ・チャクラかなあ、と前から思っていたのですが、今日の瞑想でテレパシーっぽいものを受信したのは喉仏ではなく首の後ろでした。何か違いがあるのでしょうか。<br /> <br /> テレパシー受信した時、その直前と直後はラジオのノイズのようにザワザワした感じで音量ONでボリューム有りの状態で、声になって聞こえている間だけ意味のある日本語で聞こえました。前後が音量ゼロだったわけではなく、前後共に音量があって、ラジオで言うところのチューニングされている状態のノイズから急にチューニングが合って音量がゼロに近づくと同時に声が聞こえ始めて、声が終わるとまたチューニングが外れて音量はそのままでラジオのようにノイズが聞こえているような感じでした。ノイズと言うのは比喩で、ラジオのようにうるさい感じではなくて、ノイズはノイズですけれども意味のないザーーと言う感じのノイズになると言うことです。<br /> <br /> ナーダ音の高周波がテレパシーになるのかどうか・・・? は、そこまで気付きませんでした。一部のスピリチュアルやヨーガではナーダ音がそのうち意味のある声として聞こえてくると言われたりしていますけど、今回のは急でしたのでその変化までは気付けませんでした。<br /> <br /> ■宇宙人のテクノロジーによるテレパシー<br /> 一方で、子供の頃に宇宙船の宇宙人とテレパシーをした時は、おそらくはそれは能力というよりも宇宙人のテクノロジーでそういう機械があって、その機械を使えば誰でもテレパシーできるのだとは思いますが、その場合は頭の上方、斜め上の50cm前後から響いて、指向性スピーカーのように内なる声として、上から聞こえる声として聞こえていましたね。これは、能力で行うテレパシーともまた違ったものかもしれません。想念的なものを指向性で飛ばしているような気がいたします。だから、上から下にテレパシーが聞こえるのだと思いますし、範囲も半径1mくらいにいれば他人でもそのテレパシーを盗み聞きできてしまいますので、使い方に制限のあるテレパシーの技術なんだなあ、と思います。これはテレパシーというよりも想念を使った指向性スピーカーと思った方が良さそうですね。<br /> <br /> <br /> 宇宙人のテクノロジーはもはや検証できませんのでとりあえず置いておくとして、オーラの融合はたぶんそんな感じかなあ、と思っていて、これからもっと謎解きしたいのは首の後ろあたりで感じたテレパシーですね。オーラの交換によるテレパシーですと毎回情報交換するのも大変ですし、情報の伝達も一方的になりますし、そもそもオーラ交換なんてそう度々したくないですし。単に感覚的なもの・振動的なものだけでテレパシーできた方がオーラ交換するよりも健全な気も致します。<br /> <br /> 首の後ろだけでなく後頭部のあたりで感じることもありますので、これは何なのかなぁ、と。そういう違いについても少し観察をしてゆきます。<br /> <br /> <br /> Sun, 06 Oct 2019 00:00:00 +0900 マインドフルネスな欧米企業と頭の回転を重視する日本企業の違い https://w-jp.net/2019/1684/ <br /> マインドフルネスな欧米企業には例えばグーグルなどがありますが、以下のように業務の効率を最大化しています。<br /> <br /> <br /> ・雑念を取り払い、彷彿状態(トランス状態)を作り出す。<br /> ・インプットを「ありのまま」(雑念に囚われる事なく)受け取ります。<br /> ・必要な事項のみを(雑念に囚われることなく)高速に処理(論理思考)します。<br /> ・アウトプットを「ありのまま」(雑念に囚われる事なく)作成・提供します。<br /> ・「思考していない状態」(マインドフルネス)を受け入れている。オンとオフの切り替えがうまい。<br /> ・行動よりも結果で評価。<br /> <br /> <br /> よって、グーグルでは仕事は「とても楽しい」ものになります。<br /> <br /> 一方、多くの日本企業の場合は、以下のようになるでしょう。<br /> <br /> <br /> ・雑念の溢れる中で必要な事のみをピックアップする。例えば居酒屋などで世間話を挟みながら必要な情報を引き出す。<br /> ・インプット(見聞きする事)に雑念が含まれる。思い込みや自分の拘りなどで入力データが曇る。<br /> ・雑念が論理思考を邪魔して正しい論旨を組み立てることに時間がかかる。雑念で論理が捻じ曲げられる場合すらある。<br /> ・アウトプットに雑念が含まれる。思い込みや自分の拘りが含まれる。出力データが曇る。<br /> ・「思考していない状態」(マインドフルネス)は「働いていない」「怠けている」と判断されて評価が下がる。オンとオフの切り替えが下手。常に手を動かしていないと評価が下がる。<br /> ・無駄な頭の回転だったとしても動き続けることが評価される。結果での評価ではなく行動自体が評価される。結果主義(結果を評価する主義)ではなく努力評価主義(努力自体を評価する主義)。<br /> ・そもそもマインドフルネスができないし、何なのか分かっていない。自分の思考や会話を止めたら雑念が止めどなく出てくるので思考を途切れさせるのを嫌がる。よって、マインドフルネスができる人のことを嫌う。思考を次々に出せる人こそが頭が良いと勘違いしている。<br /> ・結果、日本企業が益々マインドフルネスから遠ざかる。<br /> ・であるから、日本企業の業務効率は改善しない。<br /> <br /> <br /> ちょっと極端なこともありますし、そうでない会社も色々とあるとは思いますが、私の知っている限りではこんな感じだと思います。<br /> <br /> 日本企業ではマインドフルネスはいわば「敵」ですので、マインドフルネスを妨げるような行為、例えば騒音ですとか大声を出すとか、そういう行為も思いっきり許容されます。<br /> <br /> 悲しいくらい日本企業はマインドフルネス的ではありませんね。<br /> <br /> ■創造性とマインドフルネス<br /> 他から持ってきた理屈を論理思考することと、新しい事を創造するのはやり方が根本的に違います。<br /> <br /> <br /> ・他から持ってきた理屈を論理思考することは、一見すると「知識があって」「頭が良い」「頭の回転が良い」とみなされますが、それだけです。やがてはAIに取って代わられるかもしれません。日本企業で評価される頭の良さとはこれです。頭や口をフル回転させてグルグルと思考を動かし続ければ続けるほど「頭が良い」とみなされます。<br /> ・新しい事を創造するには、一旦「停止」する事が必要です。それはマインドフルネスです。思考を停止させ、自分の奥底から「出てくる」瞬間を「待つ」必要があります。その時、「何もしていない」期間が必要なのです。<br /> <br /> <br /> 後者は、時々異論があるかもしれません。「いや、世の中に出ている新しいものというのは、実際には昔のものの組み合わせに過ぎない」と。確かにそれは基本としてはその通りではあるのですが、2つのものが「組み合わさる」時は、組み合わせ方にセンスがいるわけで、そのセンスが生まれ出る根本のところがマインドフルネスなわけです。ロジックで生み出そうとする場合は組み合わせの何千もの組み合わせの中から最適なものを選ばなければなりませんが、マインドフルネスで答えを「内」から「出てくる」ことによりロジックを超えたところで「創造」することができます。<br /> <br /> ここで色々と誤解があって、新製品を作った時の組み合わせ方すらも既に世の中にある応用だとすればそれはここで言う「創造」ではなく単なるロジックの組み合わせということになります。これは、後から見ると全てこう見える、ということもあります。後から見て分析をしたらその組み合わせ方は他の何かの応用でしかない、ということになることがほとんどです。ですが、ここでいう創造とはそういうことではなく、あらかじめ勉強したり知ることなしに「内」から「浮かび上がってくる」ものを意味しているのです。<br /> <br /> 多くの場合、組み合わせすらもノウハウ化されていて発明のノウハウ化などもされており、「組み合わさり方」すらも既に世の中にあるのであれば、そのノウハウを使って作った新製品や新サービスは一見すると新しい創造ですが、本当は創造ではなくて組み合わせて見た目を変えているだけです。まあ、一般的にはそれでも創造と言いますし商売では十分かもしれません。<br /> <br /> マインドフルネス的な「創造」とは、もっと経験的で彷彿的なものです。結果としては似たようなものができてしまうかもしれませんが、全く新しいものができるかもしれません。その、創造の幅の広さがマインドフルネス的な創造のメリットです。<br /> <br /> グーグルがマインドフルネスで新しい事を創造しようとしているのはそのレベルで何かを作ろうとしているのであって、組み合わせで見た目が新しいものを作り出すのであれば他の企業がいくらでもやれると思います。そのあたりが一流と二流の違いという事でしょうか・・・。<br /> <br /> その筋の一流は瞑想をしてマインドフルネスを理解しますが、三流は瞑想をしないしマインドフルネスもよく分からないのだと思います。二流は何となく分かっているという人でしょうかね。<br /> <br /> どちらにせよ、日本でマインドフルネスは当分理解されないでしょうし、やろうとすら思わないでしょう。日本企業の闇は深過ぎます。もう1世代変われば随分と違ってくるでしょうが。<br /> <br /> 日本の場合、アイデアは自分で浮かぶものではなくて奪うものになっているような気がいたします。以前少し会議のアイデアとオーラの関係について書きましたけど、本来、同レベルの人が集う会議で浮かび上がってくるアイデアに自分も相手もないのです。日本では飲み会などで相手のオーラをふにゃふにゃにして引き出してアイデアを奪うようなことが日常茶飯事で行われているような気が致します。そんな状況が続くとすれば今後も日本の状況はそうそう変わらないでしょうね。<br /> <br /> Sat, 05 Oct 2019 00:00:00 +0900 シュタイナーの説く「境域の守護者」 https://w-jp.net/2019/1683/ <br /> シュタイナーは以下のように述べています。<br /> <br /> 高次の世界に向かって上昇するとき、私たちは「境域の守護者 Huter der Schwelle」と出会うという重要な体験をします。境域の守護者は1人ではなく、実際には「境域の小守護者」と「境域の大守護者」の2人がいます。「いかにして高次の世界を認識するか(ルドルフ シュタイナー 著)」<br /> <br /> 最初に遭遇する「境域の小守護者」について、以下のように描写しています。<br /> <br /> 恐ろしい幽霊のような存在が学徒の前に立っています。「いかにして高次の世界を認識するか(ルドルフ シュタイナー 著)」<br /> <br /> これは、先日の瞑想の中で見たぞっとする小悪魔のことかもしれません。同書の説明は以下のように続きます。<br /> <br /> どんなに恐ろしい姿をしているとしても、それは学徒自身の過去の人生の結果であり、学徒の外で独立した生活を営むようになった、学徒本人の特性なのです。(中略)このように、自分自身が霊的な存在を生み出した、と初めて感じることこそが、すでに学徒にとって意味深い体験になります。このとき学徒はまったく恐怖を抱かないで、恐ろしい姿を見ることに耐えなければなりません。「いかにして高次の世界を認識するか(ルドルフ シュタイナー 著)」<br /> <br /> そして、この状態で行う活動は全て、個人的なものだけでなく家族や民族や人種にまで影響を及ぼすとのことです。ですので、この状態に達したら民族や人種の使命のために働くべきだ、とも述べられています。そして、以下のような警告が記されています。<br /> <br /> 目の前に広がる暗闇を自分自身で照らし出さなくてはならない、ということを理解するまで、あなたは私の領域を超えてはなりません。(中略)これまであなたが頼りにしてきた、導き手たちのランプは、これから先の未来においては存在しないのです。「いかにして高次の世界を認識するか(ルドルフ シュタイナー 著)」<br /> <br /> これらは最初読んだ時は単なる比喩表現かと思って流して読んでいたのですが、改めて読み返してみると、先日見た小悪魔に通じるものがあって興味深いです。<br /> <br /> 私の場合は、これが見えたかと思ったらすぐに消えてしまったので、超えたのか何なのかはいまいちよくはわかりませんが。すぐに消えてしまったということは通って良いということだと理解して良いのかどうか。どうでしょうかね。<br /> <br /> このあたりは様子見です。<br /> <br /> Thu, 03 Oct 2019 00:00:00 +0900 Youtubeで見たスピリチュアルなスクール https://w-jp.net/2019/1679/ <br /> とあるスピリチュアルなスクールの映像をYoutubeで見ていて、「ふ〜ん。そんなに遠くもないし、通ってみるのもいいかもね〜。でもお高そう」とか思っていたら、急にその映像のイメージと本人の声が頭の中に現れて、「え〜? 貴方、来る必要ないじゃない。べつに来ても良いですけど。(来るものは拒んでいないので)」みたいなかなりリアルなテレパシーが伝わってきました。<br /> <br /> さすがこういうスクールしていると普通にテレパシーで伝えてきたりするのですね・・・。受講候補生まで感知するとは。<br /> <br /> ただの白昼夢かもしれませんけど、本人の声と瓜二つでYoutubeの感じと凄く似ていたので、可能性としては本当に本人(おそらくそうかな?)か、あるいは内なるガイド・守護霊がそれっぽいイメージを使って伝えてきたのかもしれません。<br /> <br /> まあ、何となく言わんとしていることは分かりましたので、(今のところ)通うことはないかな。<br /> <br /> Mon, 30 Sep 2019 00:00:00 +0900 魂(幽体)がそのまま転生する場合と、一旦グループソウル(類魂)と一体になってから分霊を作って転生する場合がある https://w-jp.net/2019/1677/ <br /> 先日の「死んだらどうなるのか?」と「魂と性別とLGBT 」のお話の続きです。<br /> <br /> 先日のお話は死んだらどうなって、霊体が結合したり分霊になったりするお話ですが、それとは別に、幽体の魂がそのまま転生する場合もあります。と言いますが、それが大多数です。<br /> <br /> カウントの仕方にもよるのですが、赤ちゃんの生まれる数の割合で言いますと幽体がそのまま(結合・分霊というプロセスを経ずに)転生する場合の方が遥かに多いように思います。残りは残りは前記のように一旦グループソウルと融合してから分霊になって再度生まれる、とかその他の場合ですね。<br /> <br /> ですから、死んだ後の魂がどうなるのかは諸説あるわけです。転生があるのかないのか? というお話も、あるようでいてないような・・・。全てはものの見方次第です。<br /> <br /> ・幽体がそのまま転生する場合:輪廻転生そのものですね。これが大多数です。<br /> ・幽体と魂(霊体)が一旦グループソウルと融合してから分霊を作って転生する場合:一旦「個」がなくなるので、これを輪廻転生と呼ぶのかは微妙なところです。これは少数のパターンです。<br /> <br /> 発達した魂ほど後者のパターンで一旦グループソウルと一体になってから転生しているような気が致します。人間としての人生にどっぷり浸かっているほど前者のパターンで幽体のまま(結合・分霊というプロセスを経ずに)転生しているような気が致します。<br /> <br /> 魂(霊体)はグループソウルとしての意識もあって、グループソウルの意識は人間の意識を拡大したものですので、それが人間相当だとするとグループソウルが転生を繰り返している、という見方もできます。グループソウルの一部が転生を繰り返して、分霊が1回だけでなく複数回転生してからグループソウルに帰る感じですね。分霊が単体で転生を繰り返すのは何十回やもっと長いこともあるようです。これは流石に把握しきれませんけど。<br /> <br /> 夢で見たここ1,000年くらいのグループソウルの記憶に基づいて言いますと、同じ意識を持った例が度々記憶の各所で出会っていますので、きっと少なくともそのくらいは個別の魂が転生を繰り返すのかな、とも思います。<br /> <br /> 一方で、かなり発達した霊は目的別にグループソウルから分離して各個の使命を果たし、終わったらグループソウルに戻ったりしているようです。<br /> <br /> Sun, 29 Sep 2019 00:00:00 +0900 カタカムナ的な雑念の停止方法 https://w-jp.net/2019/1673/ <br /> オリジナルの記載は眠る時の工夫についてですが、起きている状態で似た仕草として「目を上に向ける」をしただけで簡単に雑念が停止しました。<br /> <br /> (前略)・・・これによって眼球が自然に上方に回り、思考作用が停止状態となる。「カタカムナの道(関川 二郎 著)」<br /> <br /> この仕草、まるでクリヤ・ヨガのババジの肖像画を思い出します。<br /> <br /> <br /> 「Kriya yoga Darshan(Swami Shankarananda Giri著)」より<br /> <br /> クリヤ・ヨガと言えばケチャリ・ムドラですが、私は舌は届かないもののなんとなく舌を上に上げてみましたが、舌を動かすだけでは雑念とは関係ないようです。一方で、眼球を上に上げるだけで雑念が止まります。<br /> <br /> これは、意外に使えます。盲点でした。あまりこんなことしないですからね・・・。他の人も同様にして雑念が止まるかどうかは知りませんが。<br /> <br /> カタカムナ的には眼球が上がるのは結論であって意識的にやらないようですけど、まあ、それはそれとして。<br /> <br /> この仕草は、星が見える場所で宇宙を眺める姿勢に似ていますね。<br /> <br /> 普段の生活で上を見ていると「あの人どうしたのだろう?」と思われてしまうかもしれないですけど。そこまで力一杯上を向かなくても、ちょっと上方向を向けるだけでも十分雑念は止まるような気が致します。<br /> <br /> これはいい情報でした。<br /> <br /> 最近は普段の生活で雑念にそれほど振り回されなくなったとはいえ、雑念を消す方法がいくつもあるに越したことはありません。<br /> <br /> 息に集中することでも雑念は消えますけど、目を上に向けるやり方の方がそれよりも簡単な気がしました。<br /> <br /> ただ、息に集中・観察した方がずっと瞑想っぽくなる感じではありますが。私の場合、息に集中する場合は心臓あたりの胸の動き全体に意識を合わせますので、そのままアナハタへの瞑想に繋がるので息に集中・観察した方が瞑想の時は良さそうです。一方で、瞑想中以外の場合などで単純に思考をすぐに止めたい場合は上を向く方法が良さそうです。<br /> <br /> <br /> <br /> Thu, 26 Sep 2019 00:00:00 +0900 トニー・パーソンズの悟り https://w-jp.net/2019/1672/ <br /> 私はこの人は知りませんでしたがたまたま図書館の関連図書リストに表示が出たので借りてざっと読んでみました。<br /> <br /> この人の悟りの経験は公園で起こったと記されています。<br /> <br /> 歩きながら、起こるか起こらないかわからない未来の出来事に対する期待で頭が完全に占領されていることに気がついた。(中略)自分が歩くのを観察している自分から、歩きがただあるということへの移行が起こった。(中略)ありとあらゆるものから時間がなくなり、私はもう存在していなかった。私は消え、経験する者はいなくなっていた。(中略)いついかなる場所でも、私は静寂、無条件の愛、一元性(ワンネス)に完全に包まれ、抱擁されている。「オープン・シークレット(トニー・パーソンズ 著)」<br /> <br /> これ、アナハタ優勢になって少し後に記したこの記事「雑念が減り、『いま』に生きる」の内容に似ていますね。<br /> <br /> 「自分が歩くのを観察している自分」とは文字通りでは解釈が困難ですが、その前後の文脈を読み取ると次のように解釈できます。<br /> <br /> ・最初は、雑念が多い状態だった。<br /> ・雑念が消えたとは明記してありませんが、雑念が消えたと解釈できます。雑念が消える前が「自分が歩くのを観察している自分」だとすれば、雑念が消えた後が「歩きがただあるということ」の状態であり、前者から後者への移行がこの公園で起こったと解釈できます。<br /> ・その結果、「時間がなくなり」、「私はもう存在しなくなる」「私は消え、経験する者がいなくなる」という状態になった。<br /> <br /> 本人は「何もしていないのに起きた」と記していますが、私には彼が偶然にヴィパッサナー瞑想に入ったように見えます。であれば、何もしていないのではなく、文字通りしっかり「観察」をしたのだと思います。本人は修行とかをしなくていきなりその状態に入れたので修行方法とかわからないようですけど。<br /> <br /> これは、本人が「勝手に自動的に起きた」と思っているだけで、物凄く合理的な話だと私なんかは思います。修行方法もきちんとありますし。<br /> <br /> 一昔前であればこのくらいでも「悟りを開いた」とか言って団体作ったりセミナーしたりしていたのかもしれないですけど、最近ならこのくらいは割と普通に達成できる段階のような気が致します。悟りにも色々な段階がありますね。<br /> <br /> 雑念のうち「過去」に関するものは自分のカルマというかサムスカーラという「印象」によって何度も呼び起こされますし、「未来」に関する雑念は想像で期待なんかをして頭の中で想念が何度も繰り返されるわけです。この二つを止めれば「いま」に生きて同様の状態になるのは明らかです。ヴィパッサナー的なお話でもありますし、ヨーガのお話でもあります。<br /> <br /> まあ、何度か詳しく書いた気がしますので繰り返しませんけど。<br /> <br /> <br /> Thu, 26 Sep 2019 00:00:00 +0900 魂と性別とLGBT https://w-jp.net/2019/1669/ <br /> 魂には性別はありませんが、幽体は肉体がないだけで人間とほぼ同様ですので性別があります。<br /> <br /> ですので、幽体のコミュニティには人間の地上界の生活と同様の男女関係があります。<br /> 女性がご飯を作ったり旦那が寛いだり。女性たちが楽しそうに歓談したり。<br /> お金の煩わしさもありませんので、ある意味、理想的な社会とも言えます。<br /> ただ、本来は制限はないのですが、「思い込み」で制限を作っていたりします。<br /> <br /> 性別もその制限だ・・・ とまでは言いませんが、性別というのは、ある意味、幽体にとってみれば「思い込み」みたいなものになります。<br /> <br /> 幽体の上の霊界などに行くとグループソウル(類魂)の概念があって、魂がグループソウルと一旦溶け合ってから再度分霊を作る、みたいなことになりますが、幽体の段階では基本的にそれぞれの幽体は個別の幽体としての体を保持しており、幽体同士が結合したり分霊をしたり、ということはあまりありません。意識的にあるいは無意識的に結合や分霊が行われたりもしますが、それは割合としては少ないように思います。<br /> <br /> 魂が霊界のレベルでグループソウルと溶け合う時、幽体としての記憶もある程度は保持されます。ですが、分離した時は、幽体の時の体もそれぞれの割合で分割されます。<br /> <br /> これは、幽体のレベルでも実は結合や分霊ということは同様に行われるのですが、霊界のレベルに意識が達しないとそのような選択肢がなかなか生じないからのようです。<br /> <br /> このあたり、理解がこんがらがるかもしれませんが、意識が幽体のレベルでは結合や分離という概念がほとんど出てきません。というのも、幽体では「分離」の意識状態だからです。幽体の意識状態で結合・分離をするのと霊界で結合・分離をした時と「現象」としては同じなのですが、幽体の意識レベルではその選択肢が出てこないということです。<br /> <br /> 一方、意識が霊界のレベルになると結合や分離が自然に行われます。<br /> <br /> それは、例えるならば空中に浮かんでいる雲、あるいは、空中に浮かんでいる水の塊のようなものがグループソウルだとして、最初はそれと溶け合うのです。これが結合です。結合後は、個別の意識は一旦はなくなり、グループソウルの意識だけになります。その後、グループソウルとしての意思が働いて一部分を分離して分霊を作り、独立した意識体としての霊体・幽体を作り出します。<br /> <br /> この時、元になった幽体が男か女かで男女比が一旦は固定されます。<br /> <br /> 男女比が10:0や0:10ということはあまりないように思います。8:2ですとか2:8、あるいは6:4や5:5になるかもしれません。<br /> <br /> グループソウルが分霊を作り出すとき、「意図」が必ずあって、目的が設定されます。<br /> その目的に即して分霊が作られますので、男女比は色々なものになります。<br /> <br /> 生まれてきた時は前世での幽体の性質を受け継ぎますので、肉体として男か女かというお話に加えて、男の比率が高いか女の比率が高いかというお話が加わります。<br /> <br /> そして、生まれてきた目的がそこに重なります。<br /> <br /> 生まれてきた目的は色々ですが、どちらの性別がやり易いか? というお話がまずあります。その上で、現在の幽体の性質が関係してくるわけです。これは、色々なパターンが考えられます。<br /> <br /> ■幽体は男が優勢だが、女の性を学ぶために女性として生まれる場合。逆の場合も同様。<br /> この場合、生まれてから少女時代はきっと「男っぽい女の子」でしょう。ですが、女性の性を学ぶために「私は女なんだ」と「自覚」して女性を生きるかもしれませんし、そうではないかもしれません。最近ではLGBTとか言われていますように、この場合は「私って体は女性だけど実は男だ」と開き直るかもしれません。それが良いかどうかは本人の意図次第です。本人の生まれてきた目的が性別と関係なければそれはそれでいいかもしれませんが、女性の性を学ぶ筈だったのが開き直って学ぶのを辞めてしまったら人生失敗になるわけです。生まれてきた時に決めた目的がわからなければこのあたりの良し悪しはわかりませんし、生き方は自分が決めることですから他人がどうこういう必要もないのですが、本人のスピリットは本来の目的を達成したいと思っている筈です。<br /> <br /> 例えば、生まれた時は幽体は男が優勢でも、女性として生まれて女性の性を学ぶにつれて女性の性質が優勢になってきたりします。幽体の性質は意思で変えることができるようです。<br /> <br /> ■女として生まれたかったが、女として生まれると差別があるので仕方なく男として生まれる場合。<br /> 幽体の性質としては女ですが、この地球では女として生まれると出来ないことや、あるいは性的な虐待などが原因で男性を選ぶ場合があるようです。この場合はLGBTになったりならなかったり色々のようです。<br /> <br /> ■幽体の性質が男で、男を極めたい<br /> これは好きにしてくれればいいと思います。<br /> <br /> ■幽体の性質が女で、女性を極めたい<br /> これも素敵なことです。女神を目指しているのでしょう。<br /> <br /> ■性別のない状態<br /> LGBTなどにも性別がない分類がありますが、男女の性質が拮抗している場合はそのようになるかもしれません。<br /> 一方で、魂のレベルが上昇すると同様に性別がなくなってゆくように思います。<br /> <br /> とは言いましても、肉体を持って生まれているのですから性別は必ず付きまとうように思います。それが6:4なのか4:6なのかはともかく、魂として成熟すればするほど、肉体があるのだからとりあえず肉体の性別で生きよう、というところに落ち着いてゆく気が致します。<br /> <br /> と言いますのも、エネルギーの質は男女でやっぱり違うからです。<br /> <br /> 魂が性別を基本的には選びますので、その性で体験できることを学ぶのが基本だと思います。<br /> ただ、上記のようにその他の様々な障害によって違う性を選んだり、あるいは、生まれた時の性と生きる目的の性が異なっていたりします。<br /> <br /> ですから、最近のLGBTのお話はちょっと乱暴な気がしていまして、生まれた時に男が優勢な女の子がそのまま男が優勢でいいのかどうかと言ったら、それは本人の魂の目的を確認してみないと分からないわけです。人が迷いに迷って自分がLGBTだと選択して心が男の女を生きることを選んだとして、それが生まれた目的に反していなければそれは目的の障害にならない程度で自由意志の範疇になりますが、生まれてきた目的が違う性を体験して学ぶことだったのにそれを忘れて学ぶことを中止してしまったら魂の目的は達成できなくなります。最近のLGBTは、どうも、生まれてきた時の性質でその人の心の性を判断しているような気が致しますが、性の選択はそんな単純なものではないと思うのです。<br /> <br /> そのように、異なる性を学ぶ筈だったのにLGBTになってしまった人も一定数いるように思います。これは、自分の性に対する無自覚から来るものです。周囲の人々が「君は女っぽい」とか「君は男っぽい」とか言うのも、本来の目的から目をそらせて忘れさせてしまうように思います。本質から言えば、「女っぽい? だからどうした!」と言うことです。同様に「男っぽい? だからどうした!」と言うことです。<br /> <br /> 一方で、性的虐待や仕事を極めるためなどに性を選んでLGBTになる人もいるような気が致します。これは幽体のレベルで前世から問題を抱え込んで問題を引き継いでいたりもするようですし、あらかじめ未来を予知して、未来の障害を避けるためにあえて違った性を選ぶ場合もあるようです。どのような理由で性を選択したのかはなかなか個人的なお話になりますので難しいところがあります。女性ですと社会が生き辛かったり性的虐待があったりする世の中ですので、LGBTで問題を避けるというのはありなのかもしれないとも思います。<br /> <br /> 女性で綺麗な顔立ちで楽に生きたい、と言う欲求はある程度あって、そのように容姿や性別を選ぶ人もいるようです。まあ、それは好きにすればいいと思います。<br /> <br /> 幽体のレベルでは、前世で男性あるいは女性を生きていないのであれば基本的に前世の性別の性質を引き継ぐように思います。<br /> <br /> 一方で、霊体のレベルで結合・分離をした場合は男性と女性が複雑に絡み合うので、性別がよく分からない場合も多いように思いますし、性別があったとしても6:4とか7:3とかになると思います。<br /> <br /> 基本は肉体の性別を生きるのがいいとは思いますが、この世界は複雑ですから、LGBTみたいなのもありかなと思っております。ただし、魂の目的に反していない限りにおいて、です。<br /> <br /> <br /> 続き: 魂(幽体)がそのまま転生する場合と、一旦グループソウル(類魂)と一体になってから分霊を作って転生する場合がある<br /> <br /> <br /> Tue, 24 Sep 2019 00:00:00 +0900 高次のスピリットは人間の悩みはよくわからない https://w-jp.net/2019/1668/ <br /> 先日のオーラ原理主義のお話の続きです。<br /> <br /> これも度々聞くことですけど、まあ、そういうことです。<br /> <br /> 神社とかもそうですね。神社には色々な神様が祀られていますけど、高級な神様ほど人間の悩みなんてわかりません。人間の魂が祀られている神社であれば、まあ、多少はわかりますけど、時代が違いますから最近の悩みはよく分からない気がします。たま〜にそうでない神様もいるみたいですけど。<br /> <br /> 位が高い神様であるほど大きな願いを叶えようとしています。神社に行ったら「人類の平和」「世界平和」「家族が健康に」とか、大きな願いをすると良いと思います。<br /> <br /> 低い神様は人間的な問題を解決してくれることもありますが、人間らしく見返りを要求してきます。その要求に応えなかったりすると呪われたりしますから簡単に神社でお願いなんてしない方がいいですね。お稲荷さんとかは人間と獣が混ざったような存在みたいですから、これにもあんまりお願いとかしない方がいいみたいですね。天狗とかもいますけど、天狗も修験道の行者とカラスとか何かの獣が混ざったような存在ですから、まあ、普通の人はあんまり関わり合いにならない方がいいと思います。色々と面倒な事があると思います。<br /> <br /> 神様とか言っても、基本は人間の付き合いとそうそう変わらないと思います。<br /> <br /> 頼りにすべきなのは高次のスピリットなわけですが、まあ、悩みを解消してもらうというよりはエネルギー的な助けになる事が多いように思います。細かなことは人間の方がわかりますから好きにすればいいと思います。<br /> <br /> エネルギーが高まればポジティブになりますし行動的にもなります。問題も解決して行くでしょう。<br /> <br /> まあ、基本はこんなところで、度々聞くことではありますが、今回はちょっとした神様の小話を一つ。<br /> <br /> 神様や高次のスピリットは人間の悩みがよく分からないわけですけど、人間の悩みを知るために次元を落として転生する事があります。<br /> <br /> その時は、高次の部分を切り離して人間として生まれるわけですが、まあ、そうは言いましても元は神様なわけですから多少はその名残があるわけです。オーラの感じですとか。<br /> <br /> そして、先日書いたようにオーラの波動を「知りたい事」に合わせて調整していくわけですが、まあ、人間の事がよく分からない神様は最初は「人間としては比較的高い波動」から始めるわけです。ですが、もちろん神様にとってはそれは「低い波動」なわけです。それでも、人間としては高い波動ということにはなります。<br /> <br /> あとはどこまで波動を下げるか? という問題ですが、あまり下げすぎると分離してしまって元のスピリットに戻る事ができないようなので、戻る事ができるギリギリのところまで下降します。潜水艦で最高深度まで潜って水面にまで戻ってくるようなイメージですね。最初は教師とか創造的な仕事で地球に慣れて、そのうち、いわゆる「阿修羅」とかについて学ぶためにもっと下降することもあるようです。戦いの神なんていう表現もありますけど、全部とは言いませんけどこうやって下降していった神のスピリットだったりするわけです。<br /> <br /> 現代で言いますと、悩んでいる「赤いオーラ」もその種の人だったりする事があるわけです。これは先日書いた通りではありますけど。<br /> <br /> ですから、スピリチュアルな人はオーラの色で他人をすぐ判断したがる人がたまにいますけど、それが意図通りなのかどうかは本人のその人生での計画を知らないとオーラを見ただけでは分からないという事ですね。<br /> <br /> 人生は「失敗」がつきもので、計画内の失敗と計画外の失敗があって、計画内の失敗は問題ないわけです。<br /> <br /> <br /> Tue, 24 Sep 2019 00:00:00 +0900 逆卍(万字)っぽい渦が回転している夢を見た https://w-jp.net/2019/1665/ <br /> 最初は他愛のない夢でした。登場人物は私以外に3〜4人だったかと思います。 私が寝転んでいる前で他の人たちが少しいがみあって何か騒いでいるような状況でしたが私は最初は無視して寝ていました。でも、そのうち私が「何だか目障りだなあ」と思い始めたらそれがその人に伝わったのか、急に私に近づいて威嚇してきたのです。ここまでは視点は寝ている私の主観でした。<br /> <br /> その人が私の近くに来た時、体が接近してきたのでちょっと驚きました。すると、急に遠くの方からズゴゴゴゴという音というか響く低い声で「オオオオーーーイ」とどこかのお寺の住職か修行僧っぽい人かあるいは仏教系の世間慣れしてる神様に呼ばれた気がして、何だろう? と思った瞬間に視点が主観から2人を見下ろして俯瞰する位置のバードビューにググっと切り替わって、そうかと思ったらすぐさま2人の体が空中に持ち上げられて空高く浮かんで行きました。この時点で、その2人以外は視界から消えました。<br /> <br /> すると、2人を囲むくらいの大きさの球状の何かが同じところに出てきて、それが出てくると同時に2人の体の形は分解してなくなり、体は見分けがつかない状態になり、やがては球状のまばら模様の「何か」になりました。すると黄色い光を上に出し始めました。やがてそれが回転し出して、すぐにまばら模様から逆卍のようなシルエットになり、尖っている方を先頭にして右回り・時計回りで渦のように回転を始めたのです。<br /> <br /> 逆卍のようにカクカクしていなくて、根元の方が太くて先っぽが長い形でしたが、出ているところは4つだったと思いますので、割と逆卍に似ていますが、同じではありません。ですので、ヒトラーのハーケンクロイツ(鉤十字)ではありません。<br /> <br /> 何でしょうこれ??? 数分間、見ていたかと思います。そうして、やがて目が覚めました。<br /> <br /> ・・・まあ、夢ですけどね。 今のところ特に変化はなしです。<br /> <br /> 最初はチャクラ関係かなと思ってチャクラのヤントラを再確認してみましたが、特に該当なし。<br /> <br /> Wikipediaを見ますと、逆卍はヒトラー以外にも色々使われているのですね。<br /> <br /> ・ヒンドゥー教万字 (逆卍)<br /> ・ジャイナ教旗 (逆卍)<br /> ・フィンランド空軍の国籍識別標(1918年 - 1944年)  (逆卍)<br /> ・ラトビアの国籍識別標(1926年 - 1940年) (逆卍)<br /> <br /> 「かつては洋の東西を問わず幸運のシンボルとして用いられていた。」と書いてあります。いいですねえ。<br /> <br /> こういう夢を見ると、様々なところで使われているシンボルは実在的な効果があるのかなぁ、とも思えてきますね。<br /> <br /> まあ、そうは言いましてもこれは夢ですし、様子見です。<br /> <br /> <br /> Sun, 22 Sep 2019 00:00:00 +0900 オーラ原理主義と表面的なリーディングで誤解する人 https://w-jp.net/2019/1663/ <br /> 最近、この種の人々を見なくなりました。<br /> <br /> 私が近寄らなくなっただけで、どこかには生息しているのかもしれませんけど。20年くらい前はオーラ原理主義という、オーラの状態で他人を判断する人が多かったような気が致します。それと、スピリチュアル的なリーディング、いわゆる他人のオーラを読み取る技術ですけれども、ちょっと表面的なオーラを読み取って他人のことが分かったかのような気になってそれが他人の全てだと判断して断定的なカウンセリングあるいは聞いてもいない勝手な一方的な助言をしてマウンティング(自分の方が優位だとわからせるため意識的あるいは無意識的に発言すること)している人が時々いて、謝意していましたね。<br /> <br /> まあ、去年に1人そういう人を見かけたくらいでした。その人は生まれつきそのような神道系の家系で色々見えないものが見えたり守護霊の修験道のおっちゃん修行僧の霊が色々と指導していた感じでしたけど、ちょっと読み取るとそれが他人の全てだと判断する感じでしたね。どうやら、生まれつきそういう能力があると読み取った内容が全てだと思う傾向があるようにも思います。まあ、私に言わせれば、読み方が「浅い」んですけど、ちゃんと勉強していなくて生まれつきでやっている人とかはそれが全ての真実だと思ったりしてしまうのも仕方がない気も致します。<br /> <br /> オーラ原理主義も割と似たところがあって、「その時」の他人の状態で他人の全てを判断してしまう傾向がありますね。<br /> <br /> まあ、オーラというのは輝いた方がいいのはそりゃそうなのですけれども、生きていれば色々と葛藤やカルマを作ってしまったりしますので、ある時はそのカルマを返さなきゃならないのです。<br /> <br /> その返さなくてはならないカルマが「赤い」オーラに関連したことであるのならば、一時期あるいは長い期間になるかもしれませんけど、一旦はその「赤い」オーラにならないとその「学び」は終了しないわけです。そうして初めてカルマが解消される訳です。 ・・・・まあ、普通の解消の仕方のお話をしていますよ。 ですから、普通の生活で、社会常識的にと言いますか、道徳的に正しいと思われるやり方で成長をするのであれば、自分の奥底に眠っているカルマを再生させて解消するには一旦は色々なオーラを身に纏わなければならないのです。<br /> <br /> その学びの途中で「いい感じ」に「赤いオーラ」を身に纏っているのに、それを指摘して「貴方のオーラは赤い」「貴方のオーラは淀んでいる」とか言われても、「大きなお世話」な訳です(苦笑)<br /> <br /> まあ、それを本人が自覚しているかどうかは別ですよ。学びをする為にはある意味「無知」に一旦ならないと色々な愚かなことはできないことがありますので、人生の計画で「意図的に」無知になることをタイムライン上に意図している場合があります。ですから、計画通りにオーラの波動を落として「赤い」オーラになることもある訳です。<br /> <br /> そもそも、人間として生まれる為には高い波動のままでは3次元世界に適応できませんので、高い波動を持った魂が人間として生まれるということは、そもそもその時点で「低い波動を味わう」「低い波動を学ぶ」為に生まれてくることを選択している訳です。それなのに、今更「赤い波動がどうのこうの・・・」とか言われても、「だからどうした!」という感じである訳です。<br /> <br /> それとは別に、本当に人生の計画を踏み外して、計画では赤いオーラを持つ予定はなかったのに、しくじったり、ついうっかりした失敗が繰り返される、あるいは、本当の事故で赤いオーラを持ってしまうことがあります。そうであれば、確かにヒーラーなどの助けを借りて本来の道に戻る為に赤いオーラを早急に解消する必要があるかもしれません。<br /> <br /> こういうことは、結局はその人の人生の計画が分からなければ今の状態がどうなのか判断がつかない訳です。手っ取り早いのが守護霊に聞くことですね。守護霊もあまりわかっていなくてハイヤーセルフが決めている場合もありますけど、守護霊の方が少なくともリーディングの読み手よりは理解が深い筈ですから。<br /> <br /> 赤いオーラを解消する方法としては、普通の現実の問題解決方法と割と似ています。<br /> <br /> 問題を生じさせている原因を取り除いて、活力を与えて、本来の道へと歩ませれば良いわけです。<br /> <br /> 計画通りで赤いオーラになっている場合、まだまだ赤いオーラを強めて淀ませる計画なのにその途中でヒーラーが割り込んで直してしまったら、喜ばれるどころか計画が台無しになって逆に恨まれるかもしれません。回復期であればヒーラーが助けになるのはアリだと思います。上に書いたように計画外の問題であればヒーラーが普通に直せば良いと思います。<br /> <br /> 問題を生じさせるということは、理解を深めるということですから、理解を得た後は回復させれば良いのです。その為に必要なのは、基本的にはパワーです。赤いオーラになる為にもパワーが必要ですし、回復させる為にもパワーが必要です。<br /> <br /> オーラ原理主義が行き過ぎると他人の「汚れ」を極端に嫌う潔癖主義になってしまいますね。そして、ちょっとでも汚れた人を見つけると指摘してマウンティングすることで自分の立場を優位に保とうとして優越感に浸る・・・。 ほんと、めんどくさい人たちです(苦笑) 最近見なくなって、ほんとせいせいしてます。<br /> <br /> 表面的なリーディングで誤解する人も減っているのは、昔は生まれつきや独学の人が多かったように思いますが、最近はスピリチュアルな学校も増えたのが原因かもしれません。良いことですね。基本的なスピリチュアルなルールは割と一般常識に通じているものがありますが、スピリチュアルなルールが広まるにつれて、めんどくさい人が減るのは良い傾向だと思います。<br /> <br /> 上で「普通のカルマの返し方」と言及しましたけど、じゃあ、普通じゃないカルマの返し方はあるのか? と言いますと、いわゆるクリヤ・ヨガ的な考え方で、「パワー(エネルギー)を増やせば意識は向上する」という方法と、あとは、邪道なやり方で「オーラを切り離して他人に押し付ける(自分の学びはなくなる)」あるいは「オーラを切り離して消滅させる(学びはなくなる)」という方法があります。<br /> <br /> 厳密に言いますとパワーを上げるやり方は「普通のカルマの返し方を超高速に行う」ということではありますが。クリヤ・ヨガは割とユニークなアプローチを取っていて、葛藤の解消とか雑念とか日常生活を良くするなどの優先度が他のヨガの流派よりも優先度が低くて、クリヤ・ヨガ的には「エネルギーの増加がそれらのほとんどの問題を解消する」、というアプローチを取っているようです。ですから、カルマにしても、エネルギーを高めれば素早く解消できるわけです。<br /> <br /> オーラを切り離した後、それを誰かに押し付けるのはお勧めしませんけど、ヨーガで言う「火の儀式」(プージャ、真言宗で言うホーマ)でカルマのついたオーラを燃やしてしまうこともできます。<br /> <br /> 同時にそんなに沢山は学びができませんし、オーラはそこら中に浮いていて歩いているだけでも拾ってしまいますので、自分がフォーカスしている学びのテーマ以外は燃やしてしまっていいように思います。<br /> <br /> まあ、燃やす儀式もそんなにもできませんので、少なくともお祓いを(自宅でも)したり、以前書きましたように、周囲のオーラのケーブルを切るくらいはしたほうがいいと思います。<br /> <br /> このあたり、魂の遍歴によっても異なるかもしれませんね。下から上に上がる成長の人、つまりは虫や動物・獣から始まって餓鬼や阿修羅を終えて人間、そして更に上を目指す人は赤いオーラから高いオーラになるように歩んでいるわけです。一方で、元々が高い波動のスピリットで人間界を学ぶために波動を一旦落として地上に転生している人は、どの程度まで波動を落とすかによって学びが変わってくるわけです。割と高い波動で学ぶことを終えたら、次は、もっと波動を落として学ぼうとすることがあっても不思議ではないと思います。と言うか、実際、そのような人も多いように感じます。<br /> <br /> まあ、色々と書きましたけど、そのあたりまで読み取ってリーディングのカウンセリングするならともかく、その時点の瞬間のオーラや表面的な印象でカウンセリングしたところで相手のためにならないし、相談者が否定したとしたら以下のような誤解が生じるわけです。<br /> <br /> ・リーディングした人「この相談者は、自分を誤魔化している。私が読み取った内容は正しい。」<br /> ・リーディングされた人「このスピリチュアルカウンセラーは読み方が浅い。説明するのも面倒だから、もういいや」<br /> <br /> まあ、そうとすれば、カウンセリングなんてそうそうできないと思いますけどね。ある意味、カウンセリングできる人っていうのはその程度のレベルだとも言えます。かなり分かってくれば、段々とカウンセリングなんてできなくなる筈です。<br /> <br /> だって、究極的に言えば「何でもいい」のですからね。好きにすればいいのです。それでもカウンセリングするのであれば、前にも書きましたように、やはり主体は相談者であって人生を作るのは本人であるという基本に立った上で、本人が見えていない部分を補完するというコンサルタント的なところに落ち着くのではないでしょうか。<br /> <br /> こうなると、もはやスピリチュアルなのかコンサルタントなのかよくわからなくなってきますけどね。本当に優れたスピリチュアリストと優れたコンサルタントは割と似通っている気も致します。<br /> <br /> ですから、相手を指摘するだけ指摘してハイおしまい、みたいなスピリチュアルカウンセリングは微妙なわけです。指摘したとしても、「だからどうした!」という感じですよね。面白いだけで終わっていたらスピリチュアルは発展が止まると思います。きっとこれからのスピリチュアルはもっと実在的になっていく気が致します。<br /> <br /> 続き: 高次のスピリットは人間の悩みはよくわかりません<br /> <br /> <br /> <br /> Sat, 21 Sep 2019 00:00:00 +0900 オーラのケーブルを切る実例 https://w-jp.net/2019/1664/ <br /> 以前から何度かオーラのケーブルを切ると言うお話をしましたけど、最近の実例です。<br /> <br /> ・出かけた後、少し調子が悪いなと思って瞑想中に体の中を探っていたら、心臓あたりのアナハタに肉眼では見えないオーラの針のようなものが刺さっており、瞑想中に手のようなイメージでそれを引き抜いて捨てたら気分が回復した。どうやらその針からオーラのケーブルが伸びていて、エネルギーを奪っていた模様。ステルス性の高い半透明な針とケーブルですかね? いつついたのやら。恐ろしい。<br /> ・しばらくぶりの友人と昼食を食べて会食したら、その昔からの友人はどうやら問題を抱えているらしく、オーラのケーブルからエネルギーを抜かれてしまってぐったりしてしまいました。この場合はすぐにケーブルを切るわけにはいかないので困りますね。別れた後に切っておきましたけど。<br /> ・近所の学園祭に行ったら、バザーの本を手に取るタイミングが重なった学生さんがびっくりして、どうやらその人はオドオドして緊張してしまったらしく(思春期の子供にはありがち・・・)、その後すぐに上半身の緊張が高まった状態になったが、これは原因がわかっているので、その人から私に伸びているオーラのケーブルを切ることで数分で回復。<br /> <br /> Fri, 20 Sep 2019 00:00:00 +0900 夢で見たグループソウルの占い師たち https://w-jp.net/2019/1650/ <br /> 私のグループソウルには占い師が大勢いて、かなり昔の人生も一応記憶しています。<br /> <br /> ・・・・まあ、一般的にはこれは夢ということにしておきましょう。夢で見た内容をいくつか書いてみたいと思います。<br /> <br /> ■スペインの南東部の港町の女占い師<br /> 当時の地名までは覚えていないのですが、場所的にはムルシア(Murcia)かもう少し南寄りだったか、そのあたりだったと思います。小さな占い店をして生計を立てており、魔女につきものの「水晶球」で占っていました。おそらく中世の、15世紀前後のような気がいたします。大航海時代の初期のイメージです。<br /> <br /> 当時の水晶球は天然のものがそれなりの安い価格で出回っており、最初に使ったのは直径15cmくらいの天然の水晶球で、次に手に入れたグレードの高い水晶球は直径20~25cmくらいあったように思います。天然ものですので少しクラックが入っていましたが良い水晶球でした。<br /> <br /> 水晶球をギュッと覗き込んで透視をするのです。<br /> 水晶のかけらにわずかに反射した画像を読み取って占いをしていました。<br /> <br /> 占いをするときは、相談者に占いたい内容を強くイメージしてもらい、そのイメージを鍵にして内容を辿っていきます。<br /> <br /> 例えば、次のようなものを占いました。<br /> <br /> ・使いたいバッグが行方不明になったので、どこにあるのか探して欲しい。→ 家の裏にある蔵を開け、扉から一歩進んだところから左手を伸ばし、肩より少し上の高さに、他のもので隠れるようにして置いてある。→ これは晩年なのでかなりの確度で当てています。かなり自信があるので、間違っていたら次の鑑定は半額で良い、とまで提案しています。もちろん正解。相談者が扉を開けて発見するところまでリモートビューしていたようです。<br /> ・親戚の結婚について、将来を見て欲しい。→ 良くもなく悪くもなく、60%の相性。お互いに色々と不満はあるけれども、お互いにそれなりに尊重しあって生活するでしょう、という鑑定結果。これも水晶球を使いますが、リモートビューの応用で未来の姿も垣間見ることができたようです。実際の結婚式の状況や、家庭内での口喧嘩などをいくつか観察して、その結果として60%と出したようでした。<br /> <br /> この水晶球は今ではかなりの値段がつくと思います。どこに行ってしまったのかはわかりません。<br /> <br /> ■透視の限界を感じた占い師<br /> 先日 書いたのと同じ人生ですが、この時、透視の限界を感じました。<br /> <br /> この時できた透視は以下の二つです。<br /> <br /> ・リモートビュー的な過去と未来の透視(上の水晶球の透視と種類は同じ)<br /> ・幽体離脱して詳しく状況を確認する透視<br /> <br /> その人の過去と未来を見ることができて、それはまあ、当たるのですが、この人生で感じたのは「当たるからと言って、その人の人生が良くなるわけでもない」という理解でした。前者のリモートビューだけでも確度はかなり高くて当たりますし、後者の方法ですともっと詳細に「近づいて」観察できますので、より具体的な理解になります。<br /> <br /> 前者だけでも割と十分ですが、後者を組み合わせることで確度的にはかなりのものになったのですが、カウンセリングという観点からすると、当たるということ自体はさほど重要ではない・・・ という理解に落ち着きました。<br /> <br /> むしろ、当たるかどうかなんて関係なくて、本人の理解と生き方があれば、リモートビューで教えてあげるなんて人生の邪魔なだけでは・・・ という理解に達します。<br /> <br /> 占いに来る人は過去を言い当てられてはしゃいだりびっくりしたり・・・ それだけです。本気で人生を変えようという気がある人は占いなんて来ないようです。こちらはリモートビューして過去や未来のタイムラインを教えてあげたとしても、それが相談者の役に立っていないのでは、というのがこの人生での学びでした。<br /> <br /> 実際、今も思うのが、過去が見れても関係なく、未来が見れても関係なく、それよりも、もっと大切なものがあって、大切なものとは人生観とか本当の世界の姿とか心や本当の自己(アートマン)についての理解とか、そのあたりこそが重要なのであって、過去や未来を見てチートしてもさほど人間性の成長には役立たないのでは・・・ と思います。<br /> <br /> 実際のところ、自分がリモートビューの練習をしたりするのは自分の成長のためにはなりますけど、それはリモートビュー自身にさほど重要性はなくて、過程が重要なのだと思います。リモートビューで相談者の何かを当てても、それは、それほどの意味を持たないということです。<br /> <br /> であれば、大切なのはそんな能力に惑わされずに、瞑想するなり祈るなりスピリチュアルな勉強をするなりした方が良いと思うわけです。それが、グループソウルの過去の人生を思い出したことによるレッスンです。<br /> <br /> ■グループソウルと転生について<br /> グループソウルというのはお互いに人生を共有しているわけですけれども、死んだらそのままの魂が再度体に宿って転生する場合、すなわちその転生ではグループソウルとの合流がない場合と、グループソウルに一旦合流してから再度グループソウルから魂が分離して転生する場合とがありますので、私の一部といえばそうなのですがほんの一部のお話なのです。<br /> <br /> 私の今回の人生では能力は邪魔と判断されたようですので、少なくとも現時点までは能力とかは出てきていません。今のところ予定通りなわけです。<br /> <br /> それに、能力があると危険ですしね。私のグループソウルの1人はナチスに誘拐されて投獄され、拷問を受けながら戦局をリモートビューさせられていたようでしたし。 拷問も酷くて、逃げられないように頭に輪っかのようなものをかぶせて、輪っかと頭蓋骨をネジで何箇所もとめて鎖で繋がれました。寝る時に寝返りをうって頭を刺激すると痛くて飛び起きるほどの激痛があったようです。ほんと、人間って信じられないくらい残酷なことができるので、恐ろしいです。<br /> <br /> 今も、なまじ能力がある人は危険だと思います。世の中で有名になる能力者はそれほどでもないですけど、隠れている人の中には相当の能力者がいると思います。<br /> <br /> 自分の能力で見るよりも、天使などにお願いして必要なことだけ聞く方が安全と言えます。天使とチャネリングできるチャネラーが拷問を受けてチャネリングを強要されて何かの情報を引き出そうとしても天使はチャネラーを見捨てるでしょうし。そのあたり、天使はめちゃくちゃクールです。本人の能力ですと拷問に屈するかもしれませんが、能力を持たずに転生して、必要な時だけチャネリングした方が安全と言えます。 今の世の中、案外、まだ色々と危険なことがありますからね。<br /> <br /> この時の魂は今はグループソウルで分散されて、分霊がその時の拷問の苦痛をそれぞれ、いわゆるインナーチャイルドのように記憶を保持して癒しています。拷問されたことにより人間に極端な恨みを持つようになったらきっと復讐していたのだと思いますが、今はそんなことはなく、落ち着いているようです。能力者の恨みと復讐は、国の運命をも左右するくらいしつこく強力に復讐するでしょうし、リモートでやりますので出所が不明で解決が困難になったまま国が滅亡したり指導者が不慮の死を遂げることになりますので、能力者を拷問するなどして恨みを買わない方がいいと思いますけどね。スターウォーズのダース・ベイダーじゃないですけど、能力者ならリモートで心臓止めたり喉を潰して息ができないようにして不慮の死にすることもできますし、転生する時に赤ちゃんの中に入った魂を無理やり引き剥がして貧困スラム家庭の赤ちゃんの中に押し込む、みたいな仕返しもされたりするので、特に能力者の恨みは買わない方がいいと思います。そんな数十年や数百年先まで覚えているのか、とでも思うかもしれないですけど、能力者ならすぐにその場で来世まで時代を超えてそういう操作しますから、能力者がすぐに忘れる前に既に仕返しは完了していたりするわけです。<br /> <br /> まあ、能力者に限らず、恨みは買わない方がいいと思いますよ。<br /> <br /> こうして後でコテンパンに仕返しされることも知らずにノコノコと能力者を拷問したりする無知な輩がいるので、それでもやはり、能力者は表に出ない方がいいと思います。もっといいのは、能力を持たずに生まれて、能力は守護霊やハイヤーセルフにお任せした方がいいですね。特にこんな危険な世の中ですと。<br /> <br /> まあ、例外として、能力者の集団が徒党を組んで悪さしている場合は防御もしていますのでそういう集団のメンバーには簡単に仕返しはできないこともありますけど、その時は、泥試合になります。お互いにかなり酷いことになります。ハリーポッターが可愛いくらいだと思います。最近はあまりそういうのは聞きませんけど、中世くらいですと色々と噂を聞いたように思います。<br /> <br /> ・・・まあ、夢ですけどね。<br /> <br /> ■全ては完璧<br /> 人って、物事の良し悪しをすぐに決めたがりますけど、全ては完璧なのだと思っています。成功しても完璧だし失敗しても完璧。人間の勝手な判断で物事の良し悪しは決まりませんし、全ては完璧なのです。占いで成功の選択肢を探し出すのもあまり意味はなくて、成功と思える結果であっても、もともと成功失敗に関係なくそれは完璧ですし、失敗してもそれは完璧なのです。<br /> <br /> ですから、私のグループソウルの占い師が言うには、「占いで何が良いのか聞く相談者に興味を持てなくなった」とのことでした。当たるか当たらないかと言う確率の話を超越した後は、そう言う認識になったようです。当たるのは当然で、当たったからと言って何なのだろう、と。むしろ、当たりすぎるとストレートに伝えて相手の感情を損ねる時も多くあったようです。相談者が何かに悩んで何を選択したとしても、どちらでも完璧なのだから、好きにすればいいのです。強いて言えば、「後悔しない選択」をすべき、というくらいですね。あとは、基本的に何をしても良いわけです。まあ、究極的にはその後悔があったとしてもその後悔も完璧の一部ではあるのですけれど、人が選択肢を選ぶ時は後悔しない方を選ぶのが良いと思うわけです。多少の判断基準がなければ訳分からなくなりますからね。判断基準が「幸せ」でも良いです。占いで「幸せになれるのはどちらですか?」という聞き方をする人がいますけど、後悔しなければどちらでも良いんじゃないかな? と思います。短期的な幸せと長期的な幸せとがありますからね。学ぶことができて後悔しない選択肢をしておけば良いのではないでしょうか。そうなると、占い師なんていらなくなっちゃいそうですけどね。<br /> <br /> カウンセリングやコンサルティングの基本としては、カウンセラーの言葉やコンサルの言葉は「確かめ」に使うと良いと思う訳です。あくまでも判断基準は自分ですが、自分で気付いていない部分を指摘してもらったりするには誰かに見てもらう方が満遍なく全体を把握することができてよいわけです。判断を他人に委ねない、というのが大前提なわけです。占いを突き詰めてそこまでいくともはや占い師というよりコンサルになってしまいそうですし、単価もぜんぜん違ってきそうですが。<br /> <br /> <br /> Sun, 08 Sep 2019 00:00:00 +0900 パワースポットは本来、祈りや瞑想の場であってオーラのゴミ捨て場ではない https://w-jp.net/2019/1648/ <br /> 割と言われていることな気もしますけど、そういうことだと思います。<br /> <br /> 最近のパワースポットブームで呑気にパワースポット巡りをする方も多くいらっしゃいますが、例えばセドナとかですね。そういうパワースポットは本来、祈ったり瞑想する場所な訳です。<br /> <br /> ですが、気楽に普通の旅行と同じに考えて、「汚れを捨てに行く人」あるいは「お願いをしに行く人」が増えると、パワースポットに低級な念と言いますか低級なオーラが溜まって淀んで行きます。<br /> <br /> パワースポットには強力な力があって浄化の作用がありますが、それは地理的・磁気的なものであるのが基本で、それに加えて人の祈りが作り出した磁場もあったりしますけど、パワースポットの使い方の基本は、普段から瞑想や祈りをしている人がパワースポットに行って瞑想や祈りの力を高める、というのがいいように思います。<br /> <br /> まあ、全てはバランスで、地理的な磁場が強力だったり瞑想や祈りをしている人が割合として多ければ問題ないのかなと思います。ですが、人気が出てくることによって瞑想も祈りもしない人がパワースポットに詰めかけると場所が淀んで行くのかなという気が致します。アメリカのように自然が豊かで人も少なければ問題もさほどなさそうですが日本は人が多いですからね。<br /> <br /> まあ、これは割とよく聞く話ですね。巷の有名なパワースポットはかなりの確率で淀んでいると思います。パワースポットに行ったら逆に穢れて帰ってくることも多々ありそうです。<br /> <br /> そんな、そんじょそこらの淀んだパワースポットよりも自宅の瞑想場所で毎日瞑想や祈りをした方がよっぽど良いパワースポットが作れる気が致します。長い時間を過ごす自宅の場の雰囲気を整えるのは重要ですしね。<br /> <br /> まあ、そうは言いましても、地理的なパワースポットは魅力的ですので、自宅の場所をどうしようか最近私はちょっと揺れている感じではありますけど。<br /> <br /> <br /> Fri, 06 Sep 2019 00:00:00 +0900 小さな呼びかけ声を聞くとハートがクリスタルのように輝く https://w-jp.net/2019/1647/ <br /> 先日から瞑想中に明確に聞こえ出した、私の下の名前で呼ぶ「◯◯さん」と言う声ですが、声が聞こえるとハートが急に澄んできてクリスタルのように輝きだします。まるで、綺麗な聖水でクリスタルを浄化したかのように輝くのです。響きが美しすぎてこの世のものとは思えません。<br /> <br /> 相手が妖精なのか天使なのか守護霊なのかハイヤーセルフなのかはまだわかりませんけど、こんなに純粋な存在にコンタクトされたのはいつぶりかなと言うくらい久々あるいは今世で最高かもしれないと思うくらいです。今まで気付いていなかっただけでずっといたのかもしれないですけどね。<br /> <br /> 呼び方からして女性っぽい感じなのでハイヤーセルフではなくて、妖精というよりも、あり得るとしたら天使か守護霊か、あるいは、過去妻か。天使の守護霊かもしれないですけど。声は女性っぽかったので、ハイヤーセルフに性別はないって言いますのでハイヤーセルフはとりあえず除外なのです。<br /> <br /> まあ、誰かはわかりませんけど、数日に1回くらいの割合で最近は聞こえています。 例えるなら、確かディズニーの実写版シンデレラのどこかのシーンでシンデレラがアカペラで歌うシーンがあったように思うのですが、その3倍くらい美しい澄んだ声です。<br /> <br /> まだまだ様子見です。<br /> <br /> 今のところ、名前以上の呼びかけはありません。<br /> <br /> それにしても、この呼びかけによってハートが刺激されて、一瞬ですがハートの状態が変化したことにより、自分の今の状態がまだまだだと言うことに気付かされました。どうやら私はまだまだ荒いオーラのようです。あの高貴な純粋な声の波動を一瞬でも聞いてハートに感じてしまいましたので、そのわずか一瞬でも私に気付かせるのは十分でした。今までヨガとか瞑想をしてそれなりに浄化してきたつもりでしたが、まだまだまだまだこれから先は長い、と言うことを実感してしまいました。<br /> <br /> あの声の感覚を言葉で言い表すのならば、「神気」(他のを知らないので比べた訳でもないですが・・・)とでも言うのかもしれません。<br /> <br /> 私がここから本格的に自分のオーラをこの方向に向かって変えていくのならば都会に住んでいたら難しいかもしれないですね・・・。<br /> <br /> 今まで、最強のパワースポットは自分の部屋の瞑想場所だと思っていて、それは都会でも可能だと思っていましたが、今回のことでちょっと揺れてます。暮らすのはもうちょっと人口密度の低い田舎の方がいいのかもしれないな、と。 そんなに急ぐ話でもありませんけど。<br /> <br /> <br /> Thu, 05 Sep 2019 00:00:00 +0900 神社にある自己祓い用大麻で穢れのオーラを取り除く https://w-jp.net/2019/1646/ <br /> 近所の神社には「自己祓(はら)い用大麻(おおあさ)」というものが置いてあって、町で変なオーラを拾ってしまった場合はこれで清めることがよくあります。説明書きには「この大麻(おおあさ)を、左、右、左、と振り、ご自身でお祓いをしてからお参り致しましょう」と書いてありますので基本はその通りにするのですが、空いている時は私は頭から足まで満遍なく時間をかけてお祓いをすることもあります。<br /> <br /> 両肩を祓うだけでもかなり肩が軽くなります。よほど色々なものを拾ってしまっているのでしょうね。<br /> <br /> こういうこと書くと「気のせいだよ」とか言う人がいますけど、何年も何回もずっとやっていますし、毎回効果を感じますので気のせいではないですし、気のせいだとしても効果があって気分が晴れやかになるのならばプラシーボだとしてもそれは「プラシーボでも効果がある」と言うことなので、完全にOKだと思っています。プラシーボで効果があるのであれば、薬のような本来は毒のようなものを体に取り入れなくても効果が出ると言うことなので、むしろプラシーボで効果がある方が嬉しいです。<br /> <br /> 実際のところ、この原理としては、拾ってしまったオーラを落とすということなのでとても理にかなっていると思います。<br /> <br /> 何度も書いていますけど、自分のオーラがブワッと発散して他人のオーラと接触する場合と、他人のオーラがブワッと発散していてオーラが接触してしまう場合が基本の2パターンで、これに加えて、プカプカと浮いているオーラと接触する場合とがあります。どちらにせよ、そのオーラはとりとめのない、変なものなので祓って捨ててしまって問題ないわけです。<br /> <br /> 基本は変なオーラを拾わないのが一番ですけど、拾ってしまったのならば捨てればいいわけです。<br /> <br /> まあ、これは神道的な解釈ではなくて、私の解釈ですが。<br /> <br /> <br /> ■神道的な解釈<br /> 神道的な解釈は「神道の神秘(山蔭 基央 著)」を読むと色々書いてあります。例えば以下の部分です。<br /> <br /> 「神霊の霊光」による祓いは、神霊を礼拝して、その聖なる波動を賜って清めを受けることであるが、これをいわば一般的にしたものが、祓い麻による修祓(しゅうばつ)である。「神道の神秘(山蔭 基央 著)」<br /> <br /> 私はこの効果が神霊の霊光によるものかそうでないかまではわかりませんけど、いつも有り難く使わせて頂いております。<br /> <br /> <br /> <br /> <br /> <br /> <br /> Wed, 04 Sep 2019 00:00:00 +0900 二種類のテレパシー・チャネリング https://w-jp.net/2019/1642/ <br /> ガイドからテレパシー・チャネリングが2種類あることを教えてもらいました。<br /> <br /> ・オーラが接触して情報が伝わる場合。「感覚」と「言葉(雑念、思念)」および「イメージ」のいずれかあるいは複合で伝わる。「インスピレーション」として伝わる。<br /> ・思念波をキャッチする場合。思念波を飛ばす場合。主に「言葉(雑念、思念)」で伝わる。「感覚」は少なく、「インスピレーション」的な感覚は薄い。<br /> <br /> テレパシーとチャネリングは似通っていますが、ほぼこの2種類に属するとのことでした。思念波の場合はおそらく「イメージ」はほとんどないか、あるいは上級者のみかなと推測します(まだ私は気にしなくていいようです)。<br /> <br /> 私がガイドから教えてもらうときは大体は前者の「インスピレーション」で、それはオーラ接触によって行われているようです。この記事の内容も同様にこのインスピレーションで教えてもらっています。<br /> <br /> 今朝の「私に呼びかける内なる小さな声」は後者の思念波のようです。<br /> <br /> 思念波は、イメージで言うと綱引きの綱を片側からブンっと揺らして振動が逆側に伝わるような感じです。あるいは、ハリーポッターの魔法の杖を振って何かの魔法が飛んでゆく、と言うようなイメージのようです。振動だけが伝わって、相手に受信されます。<br /> <br /> 例えば、誰かに好意を持たれている時にほんわかと感じたり、あるいは悪意を持たれている時に頭痛がしたりするのはこの思念波のようです。<br /> <br /> 思念波はオーラによるガードも割と簡単に突き抜けるので、あまり他人に恨まれない方が良いようです。平穏に目立たず生きるのがいいのかもしれません。<br /> <br /> ■会議のアイデアに自分も相手もない<br /> このテレパシー・チャネリングの仕組みを理解すると、例えば会議で出たアイデアに自分も相手もないということが分かります。オーラが接触した瞬間、混ざり合ったオーラはもはや「自分」とか「相手」とかいう区別がなくなります。その後、そのオーラが自分のところに来たら自分のアイデア、相手のところに行ったら相手のアイデア、ということになりますけど、はっきり全部どちらかということはほとんどなくて、途中で千切れて同じインスピレーションが両者に伝わって、その後、自分の中で混ざり合って理解として定着します。確かに、自分の中で更に考察したら確かにそれは自分のアイデアと言えなくもありませんが、オーラが混ざった時点では自分も相手もないのです。全く会議に参加しない人がいたとしても、オーラが混ざっていたらアイデアをもらったということになるようです。・・・ちょっと理解が難しいですが、必ずしも態度や発言で成果が決まるというわけでもなさそうです。<br /> <br /> ですから、例えばベンチャーのCEOが「自分のアイデアだ」として株を独り占めするのは、時と場合によっては他人の労働力を搾取していることになるわけです。本当に自分だけの成果というのも世の中にはあるのかもしれませんが、他人と会議もせず相談もしないベンチャーなんて世の中にあるのでしょうか? 確かに、ベンチャーにはフリーライダーがわらわらと寄ってくるのでそのフリーライダーに与えないというのは重要ですが、成果を与えるべき人に与えないとそれは「奪う」ということになってしまうようです。強大な力を持つというのはその使い方が難しくて負債を作ることもあるのですね。<br /> <br /> 有名な話として、アップルのスティーブ・ジョブズは上場時に株を他の従業員に分けることを拒み、一方、スティーブ・ウォズニアックは自分の持ち株を従業員に分けてあげたというお話があります。スティーブ・ジョブズはカリスマとして有名で人気がありますが、オーラ的に言えば、必ずしも彼1人の成果ではないように思えるわけです。そういえば夢の中で見たのですが、どうやら彼を恨んでいる人が一定数いて、その恨みが原因で癌になったり早死にしたような印象を受けます。まあ、確証はなくて、そんな気がする、夢の中でそんなのを見た、というだけのファンタジーのお話ですけどね。でもまあ、ある種の真実を語っている気がします。スティーブ・ジョブズはただの夢の中のシンボルで実は誰でも良かったのかもしれず、同様の事態に気をつけましょう、ということかもしれません。<br /> <br /> <br /> <br /> Tue, 03 Sep 2019 00:00:00 +0900 私に呼びかける内なる小さな声 https://w-jp.net/2019/1641/ <br /> 思考の声の3分の1くらいの微かな声で「◯◯さん」と下の名前で瞑想中に呼ばれました。<br /> 最近の瞑想は思考がほとんどなくて静かな状態が続いていますので、よく聞こえました。<br /> <br /> 今までも何度も呼びかけてきていた声ですが、今まではここまではっきりとは聞こえませんでした。<br /> <br /> 比較すると、子供の頃に宇宙人とチャネリングした時のようなはっきりとした明確な思念波ではありません。子供の頃、同級生に宇宙人とチャネリングしている人がいて、その人の一定範囲にまで近づくとチャネリングを盗み聞きというか、思念波が、まるで指向性スピーカーのように一定範囲まで聞こえていましたので、その思念波のチャンネルを真似してみたら同級生の近くにいなくても普通に宇宙人とチャネリングできたことがあるのです。おそらくは宇宙人のテクノロジーとして思念波を簡単にテレパシーできるような機械があって、その機械を使うといとも簡単にテレパシーでチャネリングできるのだと思います。その思念波は通常の自分の思考の1.5倍から2倍ははっきりとした明確な思念波でしたので、きっと誰でも簡単にテレパシーできるテクノロジーが存在しているのではないでしょうか。<br /> <br /> 比較対象として、以下を挙げます。<br /> <br /> <br /> ・自分の思考の強さ・明確さを1とした時に、<br /> ・宇宙人のテクノロジーによるテレパシーの強さ・明確さを1.5〜2とします。<br /> ・今回の、私に呼びかける内なる小さな声は0.3くらいです。<br /> <br /> <br /> これってハイヤーセルフなのか、あるいは、守護霊なのか、類魂(グループソウル)なのか、友人知人や過去妻の声なのか・・・。何でしょうね。なんとなく、過去妻かあるいは過去生で仲のよかった女性の声な感じがしましたが。女性っぽかったです。今生きている親戚のおばさんの声にも似ていましたが、そのおばさんは「◯◯さん」とは私のことを呼ばないので、呼び方でその人ではないとわかります。<br /> <br /> 声の感じでも誰か判別できそうです。<br /> <br /> この、私の名前で呼ぶのってわかりやすくて良いですね。自分で自分のことを下の名前で「◯◯さん」なんて(私は)言わないので、自分の独り言ではないのだと言うのが明らかで、であれば誰かが呼びかけているのだと言うのが明らかになります。<br /> <br /> 意外によく聞こえるものですね。これからもっと聞こえやすくなるのでしょうか? まだまだ様子見です。<br /> <br /> <br /> <br /> Tue, 03 Sep 2019 00:00:00 +0900 ハイヤーセルフが頭の上にいる感じ https://w-jp.net/2019/1640/ <br /> 最近の瞑想では、そんな感じになってきました。<br /> <br /> そのうちいつかは一緒になるのかな? という気もしますがまだ分かりません。<br /> 頭の上にハイヤーセルフがいる時もあるのですが、いない時の方が多いです。<br /> どうも、求めるとハイヤーセルフが現れるような感じです。<br /> <br /> 本山博先生の著書に以下のようにありました。<br /> <br /> 自分の外へ「本当の自分」というかね、そういうものが出て、頭の上にすわっているような感じでみえるといい。なかなかそうはならないけど、そうならなければ駄目なんです。自分が自分の外に出て、それを拝めるようにならないといけない。本当の自分というのは光っているからね。みんな、そんなふうになれるようにがんばってください。「霊的成長と悟り(本山博 著)」<br /> <br /> これはそれっぽいですが、私が最近時々見えているのは、この図よりも遥かに大きいです。自分の体の数倍はある感じです。<br /> <br /> 自分から抜け出たというよりは、上から降りてきた、という感じです。<br /> <br /> 最初見た時は明るくて黄金に近いものでしたが、はっきりとは見えず。黄金には違いないと直感で分かりましたが、ちょっと影かカーテンに隠れている感じで、明るさ的にはちょっと曇って見えました。次に見た時はもっとその幕が濃くて、影が濃くて見えにくかったです。明かりが暗くて薄黒い影っぽく見える時もありました。これはきっと、私のイルミネーションが強いとよく見えるということなのかな・・・ と解釈しています。<br /> <br /> ■仙道の「出神(しゅつじん)の術」<br /> 仙道では「出神の術」みたいなのがあって一見すると似ていますけど、説明を読むとちょっと違う気もします。ただ、文化や流派の違いなだけで実は一緒なのかもしれません。<br /> <br /> 出神とは気を練ったすえにできた陽神という分身を、自分の肉体から抜け出させ、あちこち行かせる術である。「秘法!超能力仙道入門(高藤 聡一郎 著)」<br /> <br /> 別にこんな術を目指している訳ではなくて、ただ瞑想していただけです。<br /> <br /> 特別にこのために気を練ったつもりはなかったのですが、時々いわゆるソー・ハン呼吸瞑想法(ソーハム瞑想法)はしているので、気を練っていたといえば練っていたとも言えるのかもしれないです。<br /> <br /> まあ、ハイヤーセルフが現れる時もあれば現れない時もあるので、まだまだ様子見という感じではありますが。<br /> <br /> ■グルや神様のイメージの瞑想、とも違う<br /> ヨガの流派や禅、あるいは仏教の流派によってはイメージでグルや神様のイメージを頭の上に作って瞑想すると聞いたことがあります。そういうイメージ瞑想もあるのかとは思うのですが、私は別にイメージ瞑想していた訳ではなく、眉間や頭頂を意識する瞑想を続けていたら、ふと頭上に何かを感じて「いる」感覚および大きな存在が見えた気がして、それはきっとハイヤーセルフっぽいな、と判断したのです。ハイヤーセルフと思ったのは勘ですけどね。<br /> <br /> そういえば、このイメージが来る前に色々とインスピレーションが湧いていて、先日の記事「ハイヤーセルフのある人とない人」が浮かんできたくらいからこのハイヤーセルフが見え始めたので、実は単なるイメージに過ぎない可能性もあります。あるいは、最初からいたのだけれども気付かなかっただけかもしれないですね。<br /> <br /> まあ、見えていたからと言って今のところ何か変化が現れた訳でもないので、とりあえず様子見というくらいです。<br /> <br /> <br /> Mon, 02 Sep 2019 00:00:00 +0900 共感力が高いエンパスが学校教育で「心が自分」と教わると心の病になる https://w-jp.net/2019/1639/ <br /> エンパスでない人が「心が自分ですよ」と学校教育で学んでも「ふーん」と思うくらいでしょうが、エンパスがそう習ったら大変です。色々と感じ取れてしまいますから、以下の全てが「自分」と言われて「どーゆーこと??」となります。<br /> <br /> <br /> ・自分の思考や雑念<br /> ・他人の思考や雑念<br /> ・そこらへんに浮かんでいるオーラに含まれている雑念<br /> <br /> <br /> ヨーガでは「心」は自分ではなく、単なる道具です。<br /> <br /> 今まで何回も書きましたが、オーラに雑念が含まれていますのでオーラ接触しただけで雑念が入ってきて、あまりよく分かっていない子供がその雑念を感じるにつれて「私って、こんなに酷い人間なんだ」と思うようになるかもしれません。それは「心が自分です」という間違った教育による勘違いです。ですが、学校教育じゃそんなこと教えてくれませんから、子供は訳が分からなくなって心の病になるかもしれません。真面目なエンパスほど病むかもしれませんね。<br /> <br /> <br /> ・自分の思考や雑念 → 「心が自分」とすればその思考や雑念は自分そのもの(それは勘違い)。→ ヨーガ的には、思考は道具。<br /> ・他人の思考や雑念 → 「心が自分」としてしまうと、他人の思考や雑念も自分のものになる(それは勘違い)。理解不能な考えや雑念までもが感じられて、混乱するかもしれません。→ オーラの観点からすれば、オーラのケーブルが繋がって相手と同化するか、あるいは、オーラが接触して相手のオーラと混ざることで思念や雑念が伝わってくる。それは相手の考えなのだから自分のことではない。<br /> ・そこらへんに浮かんでいるオーラに含まれている雑念 → 「心が自分」としてしまうと、全く関係のない雑念も自分のものになってしまう(それは勘違い)。→ オーラの観点からすれば、どっかの誰かが飛ばしたオーラを拾ってしまっただけのこと。<br /> <br /> <br /> 厳密にいうと、オーラが混ざった時点でそれは「相手」とか「自分」とかいう区別がなくなって一体になっています。ですから、実はオーラが自分のところに来た時点でそのオーラに含まれている雑念や思考は自分のものになってしまうのですが、これはちょっと分かりづらい話なので・・・。ひとまずは上の基本的な構造を理解するくらいでもいいと思います。オーラが混ざったとしても量としては少しなので、どっかからやってきたオーラが優勢になることはほとんどないと思います。ですから、オーラが混ざっても「相手と同化する」なんてことはそんなに気にする事はないのですが、それでも、多少ながら相手と同化するのは日頃から起こっていることです。<br /> <br /> <br /> 学校教育では「思う」とか「心」って言葉と「自分」を安易に結びつけすぎなのかな、という気もしますし、そもそも学校の先生もよく分かっていない気もします。「心」というのは英語で「マインド」が対応するのであれば、それは「雑念」「想念」というよりも「思考」とか「意思」に近いものだと思うので、「意思が自分だ」ということであれば、まあ、分からなくもありません。ヨーガ的には意思すらも道具ですので、子供に教える方法としては「心が自分」ですと「雑念も自分」と理解してしまって上記のように心の病になるかもしれないですが「意思が自分だ」ということであれば、まあ、そこまで重症にはならない気もします。<br /> <br /> そもそも心が何なのか、学校の先生がきちんと教えられる気もしませんけど。学校ではせいぜい道徳くらいしかやらないでしょう。<br /> <br /> 教えられないことを何となく教えるよりは、学校の先生は「私は分からない」と答えた方がいい気もしますけどね。仏教やら何やらの識者に聞くのがいいと思います。仏教やら何やらにしてもピンキリなので微妙なこともありますけど、学校の先生よりはマシでしょうし。<br /> <br /> ある先生が「心が自分」と教えて、ある先生が「意思が自分」と教えたとすると、素直な子供は両方本当だと思うでしょう? これはどちらも間違っているのです(苦笑)なんだか意地悪クイズみたいで、世界には落とし穴だらけで生きるのが難しいです。どちらも真実ではありませんが、片方を信じるとしたら「意思が自分」の方がマシ、というくらいのお話です。<br /> <br /> <br /> Mon, 02 Sep 2019 00:00:00 +0900 ハイヤーセルフのある人とない人 https://w-jp.net/2019/1638/ <br /> スピリチュアルではハイヤーセルフという言葉がニューエイジの頃からか流行っていましたけど、どうやらハイヤーセルフのある人とない人がいるみたいです。こんなこと言うと「ハイヤーセルフがない人なんていないでしょ!」と言う声が聞こえてきますけど、以下のようなことです。<br /> <br /> 天使系やある程度の進化をした宇宙人、あるいはレムリア時代からの魂は高い次元に元々住んでいましたので、自己を高い次元と低い次元に分けて低い次元の「自分」をこの地球の三次元に転生させました。この場合、高次の能力はハイヤーセルフに置いてきましたので、記憶としてはサードアイとか予知能力とかリモートビューイングができるはずなのに何故か自分にはその能力がない、おかしいなあ・・・ みたいなことになります。ですから、これはきっと、今の私は低いセルフ(ローアセルフ)で、ハイヤーセルフがいるはずだ! と言うことで瞑想をしたら、やっぱりいました! ハイヤーセルフが見ていてくれたのですね! みたいなお話なのかなと思っています。<br /> <br /> これとは別に、類魂(グループソウル)とか守護霊とかをハイヤーセルフのように勘違いしている人がいらっしゃいますけど、まあ、確かに類魂(グループソウル)はハイヤーセルフといえば広義ではハイヤーセルフっぽい感じではありますけど、そのまま類魂(グループソウル)と言った方がありのままの姿で、それをわざわざハイヤーセルフというのはちょっと違うかな、という感じです。<br /> <br /> じゃあ、ハイヤーセルフのない人っていうのはどういうことかと言いますと、誤解しないで欲しいのですが、順調に一歩一歩進歩を続けている人が、ハイヤーセルフのいない人です。最初は動物から始まり、やがて人間となって餓鬼の世界、阿修羅の世界を通り抜け、人間としての情を学び、やがては愛を知る・・・ というように一歩一歩歩んで成長を続けている人は、ハイヤーセルフのいない人です。だからと言って不幸なわけではなく、きちんと類魂(グループソウル)や守護霊はいらっしゃいますので、特別に不幸というわけではありません。ただ単に、元々の出所が違う、というだけのお話です。これは誤解を招きやすいのですが、これらは高低の優越ではなく、世界の在りようそのままを示しているだけです。お互い、それぞれの存在がありのままで完璧な世の中なので、一歩一歩進んでいる人が悪いということはもちろんなく、むしろこっちが普通なわけです。天使やある程度の進化をした宇宙人あるいはレムリアの人だって元々は同じ道を辿ってきたわけで、ただ単に、歩んでいる場所が違うというだけです。<br /> <br /> そういうわけで、ハイヤーセルフがある人とない人がいる訳ですけど、ハイヤーセルフがない人に対して「ハイヤーセルフと繋がりましょう!」と言っても「何のこっちゃ?」となるわけです(苦笑)更には「ハイヤーセルフどうこう言っているけど、あのスピリチュアルの人たちは地に足が付いていないね!」みたいに言われてしまうわけです。時々はそれも正しかったりするのですが。<br /> <br /> 基本として、これらの違いを踏まえておけば、ハイヤーセルフのある人とない人に対する接し方やスピリチュアルなお話の仕方も変わってくるというものです。対象となる人たちによって伝え方が異なる、という基本的なお話ですね。<br /> <br /> まあ、私は割と好き勝手書いているだけでここでは特にそれほど対象は気にしてはいないですけどね。<br /> <br /> ハイヤーセルフがある人は、やがてこの世でロウアーセルフとハイヤーセルフが合一することで元々の能力を引き出すというか取り戻すことができるそうです。 じゃあ、何でわざわざ分けたのか? というと、この3次元世界を理解するためだそうです。最初から上の世界から眺めていては3次元世界を理解できないので、分けることで理解したい、という意思があるようでした。<br /> <br /> Mon, 02 Sep 2019 00:00:00 +0900 未来は変わる。核戦争による地球の破滅も一旦は回避されている。 https://w-jp.net/2019/1637/ <br /> 未来は変わります、という夢で見たお話の続きです。<br /> <br /> 先日書きましたように未来は変わるし、やり直す場合もあるのですが、織田信長の場合は、もっと大きな意思が働いていたようですね。個人的な辛さとかだけであそこまで歴史は変わらないとも思います。もちろん織田信長のサイキック能力も凄いので白羽の矢が立った訳ですが、そのもっと大きな意思とは、地球滅亡の阻止です。<br /> <br /> ん〜。いきなり大きな話になりましたね・・・。 先日の話と同様、これも夢のお話でファンタジーですからね。そのつもりで。<br /> <br /> 元々のタイムラインでは、どうやら日本が中国を併合して大日本帝国としてアジアに君臨していたようです。大日本帝国内では割と平和だったのですが、問題はヨーロッパや中東だったようですね。そのタイムライン上ではどこかの国が戦争を仕掛けて地球の半分あるいはほとんどが吹っ飛んで地球滅亡になってゲームオーバーだったようです。<br /> <br /> そこで、偉大なる意思が働いてタイムラインを数十年と巻き戻して「やり直し」「やり直し」「やり直し」を繰り返していたのですが、何度やり直してもヨーロッパと中東は必ずどこかで戦争になって核戦争に発展し、地球終了あるいは地球の半分が吹っ飛ぶ将来になってしまったようです。<br /> <br /> ですので、地球を管理している主も困り果てて、いやはやどうしようかと悩みに悩んだようです。<br /> <br /> そこで、数十年を何度巻き戻してもヨーロッパと中東で紛争になるのだから、もっと巻き戻そう、ということで色々試して、今のタイムラインが存在しているようです。その線で、いわば「実験」として信長のタイムラインも存在しているようでした。地球の管理者は信長の支配を望んでいたというよりは、歴史に揺さぶりをかけることで将来の地球破滅を食い止めたかったようです。<br /> <br /> どうやら地球の管理者と言っても細かな歴史までは決めることができなくて、大きな歴史の流れをコントロールするくらいしかできないようです。そこはやはり、基本は人間の自由意志が尊重されているということでしょう。滅亡するのも人間の自由意志という訳です。<br /> <br /> もし今のタイムライン上で地球滅亡になったら、また地球の管理者はリセットして時間を巻き戻してやり直しをするようですが、地球の管理者も、何度繰り返しても地球が滅亡するような核戦争が起きるので、これは一体どうしたものかと困り果てているような感じです。もしかしたらそのうち「巻き戻してやり直し」以外の選択肢になるのかもしれませんが、基本的には今のタイムラインでうまく行って欲しいようです。<br /> <br /> この「やり直し」は、個人の身近なところでも実は小さな違いとしていくつもタイムラインが存在すると思います。<br /> <br /> そして、「夢」や「想念(雑念)」として頭に思い浮かぶ平行宇宙のイメージは、もしかしたらそれは他のタイムラインの状況を垣間見ている可能性があります。あるいは、現在のタイムライン上の未来かもしれませんし、過去かもしれません。色々見えたとしても、現在のタイムライン上のお話とは限らないわけです。<br /> <br /> サイキック的に慣れてくると、別のタイムライン上のお話が「教訓」として見えてきますから、例えばあらかじめ気をつけることが見えたりします。それは、失敗した方のタイムラインを覗き見ていることになります。そして、そのタイムラインに乗るのか違うタイムラインを新たに作り出すのかは自分の選択次第というわけです。<br /> <br /> あの時の選択をしていたらこうなったとか、そういうイメージは、妄想として片付けることもできますが、タイムライン上の未確定の姿ということもあるわけです。タイムライン上のイメージは確定していないので、変えることもできれば、あるいは、そもそも基点のタイムラインが違うので前提条件が違っていて絶対そのタイムラインには将来行かないなんてこともあるわけです。ですから、参考になるようでいて参考にならないことも多々あります。まあ、参考程度に心に留めておくくらいでいいのかなと思います。<br /> <br /> こういうのって昔は巫女とかシャーマンでないと見れなかったようですけど、今は割と普通に多くの人が見ている気がするのですが、どうなのですかね。あんまり他の人とこういう情報交換しないので、どの程度の人が見えているのか割合とかよく分からないですが、そんなに難しいお話でもない気がしますけど。<br /> <br /> ・・・・まあ、夢のお話ですけどね。<br /> <br /> <br /> <br /> <br /> <br /> Sun, 01 Sep 2019 00:00:00 +0900 未来は確定していない https://w-jp.net/2019/1636/ <br /> これまた夢や子供の頃に幽体離脱した時に見たお話。ファンタジーだと思っておいてもらえれば良いです。<br /> <br /> SFではよくあるお話ですけど、そういうことです。<br /> もっと言えば、現在をリセットして過去からやり直す、というパターンもあります。<br /> <br /> 例えば、どうやら織田信長は最初の人生では桶狭間の戦いで負けて捕虜になり、今川義元が勢力を伸ばします。織田信長許されて元の領地の支配を任されますが今川義元にお金を貢ぐ立場になってお家は没落して行きます。そうして、元々織田信長をよく思っていなかった一部の部下や徳川家康に軽くみられるようになり、これは人生失敗した、ということでリセットして最初からやり直し、「あんなことになるくらいなら、もう遠慮はしない。精一杯やるぞ!」と思って人生を生き、それから天下を取りに行ったようです。2度目の人生だったからこそ、ああして子供時代はすねていたのかもしれないです。色々と足かせがあると桶狭間で負ける、と思っていたのかもしれません。織田信長はある種のサイキックだったとも言えます。そうであっても、油断してしまうと本能寺の変のようなことが起こってしまうようです。<br /> <br /> 余談ですが、織田信長や有名な剣士は未来を見ることができる小人を肩に乗せていたようです。仙道で出神とか言われている術で作り出すことができるのですが、織田信長の場合は自分で作ったのではなく、生まれる前にとある存在から借り受けたようです。その小人は5〜10秒くらい先を見ることができ、剣の勝負であれば通常の反射神経を超えての対処ができたため、相当強かったようです。どうやら上級の剣士になるとこの小人がいる場合がほとんどらしく、「剣の基本能力+小人の先読みの力」で強さが決まるので、両方とも小人がいる場合は基本能力で勝負がついたようです。織田信長の場合は剣は標準よりも強かったのは確かですが小人の先読みの力で戦場でうまく戦っていたようでした。剣がそこそこでも小人がいるだけで相当強いみたいですから、剣の基本能力も鍛えていた織田信長が小人の力も借りて戦場で戦えばそうそう負けなかったのも理解できます。どうやら、織田信長が暗殺者を返り討ちにした時はお互い小人がいたようですね。そういう場合もあります。<br /> <br /> ・・・まあ、夢ですよ?<br /> <br /> それと、これまた別のお話で、私のグループソウルの1人の過去生のお話です。<br /> <br /> 時代はおそらく18世紀半ば。1750年ごろでしょうか?<br /> <br /> そのグループソウルの1人は女性で、結婚してパリ郊外に住んでいました。いわゆる霊能力者で、本人はあまり表に出たがらなかったので夫が霊能力者ということにして暮らしていました。夫が霊能相談して生計を立てていたのですが、妻(私のグループソウルの過去生)の方は未来も見れたので、前日にあらかじめ未来を見て相手を占ってから夫に伝えて、それで霊能相談ということにしていました。<br /> <br /> ある日、パリで大規模な霊能者のパーティーが行われることになりました。<br /> <br /> かなりの大人数が参加するので、あらかじめ前日に内容を夫が把握するために前日の準備は6時間くらいかかったのですが、当日に会う順番や相手の内容を一通り把握して、パリに出かけてゆきました。<br /> <br /> 沢山の人がいて楽しげではあるのですが、妻(私のグループソウルの過去生)の方は先日見た風景と同じで、同じ会話が繰り返されるので、退屈でなりません(苦笑) 一応、お話に付き合っていましたが、やがて、面倒になって「私はちょっと疲れたのであそこで座ってるから後は任せたわ」と言って、本来のタイムラインから離れた行動を取りました。本当は、そのまま話に付き合うのが昨晩に見たタイムラインだったのですが、面倒になったのでやめたのです。<br /> <br /> そうしたら、その瞬間まで先日見た通りだったのに、その直後からちょっとづつタイムラインが変わって行きました。妻(私のグループソウルの過去生)が休んでいたら、話しかけられる筈のない人から話しかけられたり、残された夫の方は、「何か様子が違う」と言って戻ってきます。ふと未来を読み直してみると、どうも会う順番が変わってしまっているようでした。<br /> <br /> なんとか臨機応変に対処してその日は終わったのですが、このことで妻(私のグループソウルの過去生)の未来に対する認識が変わりました。<br /> <br /> それまでは、未来で見たことは確定している事実だと思っていました。<br /> しかし、このパーティーの出来事で、未来は変えられるのだ、と気付きました。<br /> その日までは、未来を透視したら確定した事実と思って相手に伝えていましたが、その日以降は、未来は変えられる、という認識で伝えるようになりました。<br /> <br /> 未来を正確に見れるからと言って、未来が確実にその通りくる訳ではない、というお話です。<br /> <br /> ・・・まあ、夢ですけどね。<br /> <br /> SFではこのネタが割と定番ですし、スピリチュアルでもそういう話を度々耳にしますけど、それはきっと本当なのでしょう、というお話でした。<br /> <br /> <br /> <br /> Sun, 01 Sep 2019 00:00:00 +0900 オーラと共に移動するカルマ https://w-jp.net/2019/1635/ <br /> カルマの法則について色々なところで言われています。例えばヨーガではサンスカーラという「印象」がカルマの輪を回すと説きます。しかし、多くの人は「カルマの法則を正しく理解するのは難しい」というところで一致しているように思います。<br /> <br /> 私も同様にカルマの理解は難しいと思いますが、理解するヒントとして、オーラとカルマの関係を理解すると現世で生きるのに役立つと思います。<br /> <br /> カルマの基本的な仕組みは、まず、楽しいとか苦しいとか怒りとか悲しみとか全ての「印象」によって蓄積され、その「印象」が奥深くに眠り、やがてはその「印象」が刺激されることで再度現象として表に現れてきます。その輪がぐるぐると回るわけです。ヨーガでは以下のカルマがあると説きます。<br /> <br /> ・サンチッタカルマ 過去の輪廻で貯められたカルマ<br /> ・プララブタカルマ 今生の転生のきっかけになったカルマ。今生でのメインテーマ<br /> ・クリヤマナカルマ 今生でのカルマ。コントロール可能なカルマ<br /> ・アーガミカルマ 来世に引き継がれるカルマ<br /> <br /> まあ、それはいいのですが、我々今生に生きている人にとって大切なのは今生での生き方です。<br /> <br /> 今生に関係するのはプララブタカルマとクリヤマナカルマですね。<br /> <br /> そして、実は、カルマはオーラと共に移動します。サンチッタカルマが移動するかどうかはちょっと不明確です。しかし、プララブタカルマとクリヤマナカルマは移動する感じがします。ちなみに、こんなこと言っている人は見たことありません。これは私の実体験と子供の頃に幽体離脱および過去生の記憶らしきものを繋ぎ合わせて類推するとこうなる、というお話です。ですから、あまり信じないで下さい。いわゆる仮説です。私はたぶんこうだろう、とは思っていますが、読者が信じる必要はなくて、「ふうん」とでも思っておいて頂ければ良いです。<br /> <br /> さて、オーラでカルマが移動する、とは一体どういうことでしょう?<br /> <br /> 簡単な例で言いますと、例えばとても葛藤があって怒りや悲しみに満ちている人がいたとします。オーラも真っ赤で、オーラがブワッと発散して近く人は誰それ構わずオーラが接触します。以前書きましたように、オーラの接触とはつまりは「混ざる」ということですから、混ざった瞬間に相手も自分もなくなって、どこで切り離されるかによって自分のところに来たオーラが自分のものになるわけです。ですから、もともと相手のオーラでも、そのオーラが接触して「混ざって」、感知すると「雑念」やらになるのが基本ですが、そのオーラが真っ赤ですとそのまま「荒み」にもなって悪影響を及ぼします。そして、その「荒み」が激しい場合は、もともとそのオーラを持っていた人と同質化して同様に自分のオーラが赤に少し染まるわけです。少しの接触なら少し赤に染まるだけですが、ずっと毎日(学校や職場などで)荒んでいる人の近くにいたら周囲でオーラ接触している人の方が参ってくる訳です。それは、ただ単に荒むだけでなく、まさにカルマも引き受けてしまっているのです。ですから、ずっとオーラの接触が起こっているとオーラが同質化して、例えば、今まで平穏に暮らしていた人が次第に怒りや悲しみに満ちたりするようになるのです。これは「同質化」という現象でも捉えられますけど、それと同時に「カルマの移動」にもなっているわけです。<br /> <br /> 怒りのカルマが溜まっている人のオーラを、他の人が引き受けた訳です。そうすることで、元の人の怒りは少し落ち着きますし、カルマも減りますが、その分、周囲の人にカルマを分けている訳です。トータルのカルマの量では変わっていないと言えます。<br /> <br /> ですから、自分の悪い行いが自分に返ってきますよ、という、一部で言われているカルマの法則は半分本当ですが、このように、誰かにカルマを押し付けることで避けることができてしまうのです。ほんと、世の中って不公平だと思いますよ。ですから、自分がとても気をつけて生活をしなくてはなりません。<br /> <br /> これを悪用した場合、自分はカルマを作り出し続けて怒りや悲しみを作り続け、周囲の人にカルマを渡し続けることで自分の活動を維持しようとする悪人ができてしまいます。実際、例えばエネルギーヴァンパイアはエネルギーを吸い取るだけでなくて自分の悪いオーラをいじめられっ子あるいは奴隷相当の人に押し付けることで自分の葛藤を抑えていたりします。エネルギーヴァンパイアは、例えばいじめっ子や、意地悪い上司やパワハラ上司や、あるいは、ドメスティックバイオレンスな家庭などが典型だと思います。<br /> <br /> ですから、オーラの仕組みを知らないが故に他人のカルマを引き受けてしまっている人が世の中にはとてもとても大勢いるのだと思っています。なんでそんな理不尽な扱いに我慢し続けるのか、理解に苦しみますが。おそらくは学校で奴隷としての教育を受けてエネルギーを与え続けるウサギ役として調教され、社会においても一部のボスに従うように調教され続けている人が多いのでしょう。<br /> <br /> オーラの仕組みを知っていれば、そんな他人のオーラ(カルマ)を引き受ける必要なんてないと分かる訳ですが、これは広く知られると社会の仕組みが根底から崩れてしまうので、知られてはまずい知識に属するのでしょう。いや、考えすぎですかね。<br /> <br /> カルマを引き受ける代わりに多額の報酬とかもらえているのならば納得の上ということになるのでしょうが、そんな高い報酬なしに安月給で我慢している人が多いのではないでしょうか。<br /> <br /> すぐには逆らえないにしても、先日書きましたように時々オーラのケーブルを切ってエネルギーヴァンパイアさせないようにして、それに加えてオーラの壁を作って相手のオーラを受け取らないようにすれば、エネルギーを奪ったりカルマを他人に引き受けさせようとする人は自然にエネルギー枯渇と自分のカルマに押し潰されて自滅すると思います。案外、これは時間かからないと思いますよ。どっちか片方だけでも効果がありますが、両方やるとすぐ効果があると思います。<br /> <br /> もちろん、自分に繋がっているオーラのケーブルを切るのと、自分がオーラのカルマを受け取らない、というのが基本です。<br /> <br /> それに加えて、自分が煩わしいと思っているエネルギーヴァンパイアあるいはパワハラ君に対しては、こっそりと(意識の中でやるだけです)その人のエネルギーのパイプを切ってあげてエネルギー枯渇させると良いです。家族からエネルギー抜いている場合は時間かかるかもしれませんけど、このご時世、そんなに我慢し続ける家族も少なくなっていると思いますが。そうすることで、勝手に自滅していく場合がほとんどだと思います。<br /> <br /> これ、みんながやるだけで意外に世の中変わっていくと思いますよ。<br /> <br /> ■それじゃ、ヒーラーはどうなの?<br /> この仕組みが分かった時、「じゃあ、ヒーラーは悪者の延命をしているだけなのですか?」という疑問が浮かんできました。これに対して私のガイドから回答があったのですが「ヒーラーは、何に対して奉仕するのか、という目的意識が重要になります。目的は、例えば、苦しんでいる人を助けたい、とか、そういうことになるでしょう。ヒーラーのレベルに対してこのくらいの荒みならば良い方向に導ける、という程度問題があって、本当の悪者、すなわち自分のキャパシティを超えている者に対しては体が無理だと拒絶する筈です。理屈で言えば無制限に受け入れて良い方向に導けるべきですが、そうは言っても、キャパシティの問題はあるでしょう。ヒーリングする時にはオーラの接触があって、ある程度は同質化しますが、どの程度の同質化を許すのかはヒーラーとしてコントロールできなくてはなりません。無制限に相手の荒みを受け入れてしまうようなヒーリングは避けるべきで、ヒーリングの質と量をコントロールできるのがヒーラーの技術として必要になります。」とのことでした。納得です。まあ、私はヒーラーではないですけどね。<br /> <br /> <br /> <br /> Sat, 31 Aug 2019 00:00:00 +0900 心は相手を映し出す鏡。ヨーガの心のオーラ的な解釈 https://w-jp.net/2019/1634/ <br /> スピリチュアルやヨーガ(あるいはヴェーダ)では心(ヨーガで言うところのチッタ)は相手や対象物を映し出す鏡のようなものだと言われています。<br /> <br /> 例えばヨーガスートラの解説書には以下のようにあります。<br /> <br /> 人間は心に映った自分の像を自分とみなす。「インテグラル・ヨーガ (パタンジャリのヨーガ・スートラ) (スワミ・サッチダーナンダ 著)」<br /> <br /> 心が歪んでいたら歪んだ自分だと考え、晴れやかな心であれば晴れやかな自分と考え、喜びに満ちた心であれば喜びに満ちた自分だと考える・・・。そのように一般教育では教わります。しかし、これは誤解だとヨーガは説きます。真の自分は心ではない。真の自分は心に影響されず、心は道具であるから、心がいかように動いても真の自分に影響はないと説きます。喜んでいる時でも落ち込んでいる時でも真の自分は不変であるとヨーガ(あるいはヴェーダ)は説きます。<br /> <br /> ”見る者”つまり真のあなたは、あなたの鏡である”心に映る”。しかし、普通あなたは、真の”自分”を見ることができない。心に色が着いているからだ。「インテグラル・ヨーガ (パタンジャリのヨーガ・スートラ) (スワミ・サッチダーナンダ 著)」<br /> <br /> よって、心を落ち着かせて波のない水面のようにすれば真の自分を見出せる、というのがヨーガの説くところです。まあ、これはこれとしてヨーガでは割と通説になっていると思うのですが、現象としては確かにそうなのですが、鏡と言いつつも鏡っぽくない時もあるので、ちょっと腑に落ちない部分もありました。<br /> <br /> ですが、これをオーラ的に解釈すれば割とスッキリすることに気が付きました。<br /> <br /> ■心とオーラの関係<br /> 以前から数回に分けて書きましたようにオーラが伸びて相手のオーラと混ざると相手のことがわかる、という仕組みですが、これってそのまんまこの「鏡」の話ですね。流派がちょっと違って、オーラは割とスピリチュアルな話で心(チッタ)はヨーガなので割と別々の話として理解していましたが、ふと閃いて両方を比べてみたら割と同じことを言っているのに気がついたのです。そりゃそうですよね、真実は同じ筈ですから。<br /> <br /> ヨーガスートラでは「心の作用を止滅させることがヨーガ」と述べられていて、それがそのままヨーガの定義になっています。いくつかの訳を引用します。<br /> <br /> (2) 心の作用を止滅することが、ヨーガである。<br /> (3) そのとき、見る者(自己)は、それ本来の状態に留まる。<br /> 「インテグラル・ヨーガ(スワミ・サッチダーナンダ著)」より<br /> <br /> (2) ヨガとは心の活動を抑えることです。<br /> (3) その時(思考波が静止している時)、知覚者は自分自身の真の状態に留まります。<br /> 「Meditation and Mantra (Swami Vishnu-Devananda著)」より翻訳<br /> <br /> (2) ヨーガは、心(チッタ: Chitta)がさまざまの形(ヴィリッティ(ス): vrittis)をとるのを抑制することである。<br /> (3) そのとき(集中したとき)、見る者(プルシャ)は、彼自身の(変られていない)状態におちついている。<br /> 「ラージャ・ヨーガ(スワミ・ヴィヴェーカーナンダ 著)」より。<br /> <br /> ■オーラ的なヨーガスートラ定義の解釈<br /> 上記のヨーガスートラの有名な文をオーラ的に読み替えると以下のようになると思います。<br /> <br /> 「自分のオーラの動きを安定させること(がヨーガ相当)です。<br />  その時(オーラの動きが安定して体の近くに留まっている時)、見る者(自己、プルシャ)は落ち着いた状態になる。」<br /> <br /> ヨーガスートラで言う「心が作用している時」とは「オーラがふらふらと発散して動いている時」あるいは「オーラが線のように伸びて相手に繋がっている時」とオーラ的には解釈できそうです。であれば、オーラを安定させてオーラと相手(対象)との接続(ケーブル)を切ることで自己が落ち着いた状態になる、と言うのはオーラ的にみてとてもわかりやすいです。<br /> <br /> ■鏡について<br /> 「鏡」についても同様で、オーラが線のように伸びたり、あるいは不意にオーラが接触して相手(対象)と繋がると相手の情報が伝わってくるのですから、相手の情報が伝わってくる現象を「鏡」と比喩することもできるわけです。私的には「鏡」の比喩よりもオーラの動きで考えた方が随分と分かりやすくてしっくりきます。これは個人差もあるのかもしれませんので、分かりやすい方で理解すればいい気もします。<br /> <br /> オーラと心の動きの関係を理解すればヨーガスートラもすっきりと理解できそうです。<br /> 古典って昔の言葉で読み解くのは難解ですけど、真実がそんなに複雑なわけもないので、実際のところはシンプルなんだな、と言うのが実感です。<br /> <br /> もともと引っかかっていたのは、「鏡」と言いつつも「鏡」のように作用しない時も多々あるので、本当に「鏡」なの??? と言う疑問がズーーっとあったのです。おそらく、子供の頃からずっとこの「鏡」の例えを微妙に思っていました。初めて聞いたのはいつかはもはや覚えていないですけど。半分本当っぽいけど、そうでもない気もしていましたので。識者に聞いても「まあ、鏡というのは比喩ですからねえ」と曖昧な返事しか貰えず。比喩だからなんとなくの理解でいいのかな・・・ と、少しモヤモヤしていたのですが、オーラで考えるとあっさり解決したのです。<br /> <br /> 最初から「鏡」なんて言わずにオーラで説明してくれればこんなに悩むこともなかったのに(苦笑)<br /> <br /> <br /> Sat, 31 Aug 2019 00:00:00 +0900 レムリア時代のアセンション https://w-jp.net/2019/1633/ <br /> 夢で見たファンタジーのお話ですけど、私、おそらく古代レムリアの時代に一度アセンションしてます。 そういう夢を見ました。<br /> <br /> その時、民族の大多数が一気にアセンションしたので、私は特別に修行しているわけでもなかったのですが皆の意識に合わせることで一緒に自然にアセンションしていました。 あれれれれ? って感じで、一気に世界が変わったのです。<br /> <br /> 当時はおそらく今みたいな3次元の世界ではなく、もっとふわふわとした、いわゆる幽体あるいはアストラル体に近い世界だったと思いますので、その世界でアセンションと言っても、少し雰囲気が変わる、みたいな感じ(それでも大きな違いですが)だったように思います。一段階上がるわけですから、それはそれは大きな違いではありますが、今の世界のように3次元ではないのでずっとアセンションしやすい世界だったように思います。<br /> <br /> 近い将来にアセンションが再度あるとしたらまた体験したくて生まれてきているという面も少しありそうです。<br /> <br /> ・・・繰り返しますけど、これは夢のお話ですよ?<br /> <br /> そのまま上の世界で暮らすこともできたのですが、地上の世界に興味があったので地上をふらふらと様子を見に遊びにきて、そのうち興味本位で転生を繰り返した魂が私の過去生みたいです。<br /> <br /> ですから、私の場合は一旦アセンションした後に下の次元に下降した訳です。<br /> <br /> 昔は理由が興味本位だと思っていましたけど、言い換えればそれは学びがまだ必要だったということでもありますね。レムリアの時はみんなと一緒のアセンションだったので一部まだ学び足りない、遊び足りない部分があったのかなと。なので再度、地上に遊びに来た訳です。真面目に言い換えれば「学ぶため」とも言えますけど、学ぶというよりはむしろ遊ぶため、という感じですね。<br /> <br /> そろそろまたアセンションがあるとかないとか言われていますけど、3次元の世界がなくなるような気はしませんね。3.5次元くらいのふわふわした感じの世の中に変わる可能性はある気がしますけど、基本はそう変わらない気もします。(この次元数は単なる比喩なので厳密な数字ではありません。)<br /> <br /> 2つの将来像が見えるのですが、1つはアセンションしない未来で、もう1つはアセンションする未来です。<br /> <br /> どうやら、未来がどうなるのかまだ確定していないような感じです。どうなるのでしょうね。<br /> <br /> ■コギ族のマモス<br /> 本当かどうかはわかりませんが「ハートの聖なる空間へ( ドランヴァロ・メルキゼデク 著)」という本には、1999年までに起こる筈であった大変革がマカバによって回避された事が書いてあります。それによると、元々の計画ではテクノロジー中心文明の人は地球の別次元に行き、先住民族や自然派の人が物理的な地球を受け継ぐ筈だったそうです。この回避は、肯定的なこととして受け止められています。<br /> <br /> これがアセンションと関係があるのかどうかは記載がありませんが、私の夢の内容を踏まえますと、アセンションはこれとは無関係のような感じです。<br /> 大改革が回避されたとしても、それでも、やはりアセンションがあるかどうかは未確定のようです。<br /> <br /> 可能性はまだ半々で、アセンションがずっとないか、あるいは、あるとしても、誰しもがもはやアセンションなど起こらないと思うようになるほど遠い未来に起こる感じです。おそらく、あるとしたらあと数十年以内でしょうか。<br /> <br /> 上のような大改革はなくても、天変地異はあるかもしれないです。それも含めて、まだ未確定のような感じです。<br /> <br /> ・・・・夢ですよ。<br /> <br /> 夢を見たのはいつ見たのか覚えていないくらい昔で、たぶん子供の頃だったと思います。 でも、ふとした時に思い出すのです。<br /> <br /> <br /> Fri, 30 Aug 2019 00:00:00 +0900 オーラと子供の教育 https://w-jp.net/2019/1632/ <br /> 先日のオーラと雑念 の話とその続きのお話 を踏まえた、子供の教育のお話です。<br /> <br /> 学校で子供が苦しんでいるのも、オーラの知識がない大人の理不尽な対応のせいである場合も多い気がします。<br /> <br /> 例えば、学校で「仲良く」というのは本来オーラを安定させて体の近くに留めて「自分」を確立してから自由意志を持って相手と繋がるべきであるのに、学校教育では表面上の仲良さを重視していますのでオーラ的に言えば「オーラを繋げる」教育をしていますので、しっかりしていた筈の真面目な子も悪い子に引っ張られて落ちて行き、いじめっ子がエネルギーヴァンパイアになって支配する構図を助長しています。ここでポイントになるのは「自由意志の尊重」であり、支配体制を作るような関係は避ける必要があるのです。<br /> <br /> 学校というのは社会の縮図であり、社会が支配体制であるが故に学校もその支配体制を維持する為に「オーラを繋げる」「自由意志を尊重しない」という教育になっているのだと思います。きっと学校の先生はこれに反論するでしょうが、オーラ的に言えばそうなっています。<br /> <br /> あるべき国のあり方や、グループのあり方、友達のあり方、学校のあり方。基本的に考え方は同一で、「自由意志の尊重」「オーラの安定、独立」というところを元にすれば、自ずと解決策は出てきます。例えば国であれば「自由意志が尊重される単位で国を分割する」ということになりますし、学校でも「自由意志が尊重される単位でクラスを分割する」ということになるでしょう。<br /> <br /> 子供の自由意志やオーラを無視し、ごちゃ混ぜにして「仲良く」とか言う言葉でオーラをつなげてしまって表面上は仲の良い従属関係を作り、自由意志をなくしてハイハイ従わせる為の教育が世間にまかり通っていますので子供が苦しんでいるのだと思います。<br /> <br /> ただ、社会もこの構図で出来ていますので、子供が抜け出たとしても大人になってから社会の一員で働くのが辛くなってしまうのが困ったところ。子供だけでなく社会の仕組みもこの種の隷属関係を抜け出ないと大人も子供も生き辛い世の中が続くと思います。<br /> <br /> 問題の基本は、大人も子供も対多数が「瞑想をしない」ところにあると思います。瞑想をすることでオーラの発散を抑えてオーラを体の近くに安定させることが全ての基本であるべきなのに、それをしないからオーラが発散したままになり、おかしくなるのです。<br /> <br /> 「いじめ」と言う現象だけを見ていてもこのあたりはわかりません。いじめっ子の目的は言葉では色々と説明があるでしょうし、本人の自覚はないかもしれませんが根本は「オーラのパイプを繋げてエネルギーを吸い取ること」が目的です。その根本を理解しさえすれば、「いじめる(あるいは、嫌がらせ、あるいは、怒鳴る)」とか言う行為は「エネルギーのパイプを繋げる、あるいは、維持する為の手段」になりますから、「いじめる」という行為は従わせる為の「手段」であり、いじめられっ子が大人しく従っている間は「いじめる(あるいは、嫌がらせ、あるいは、怒鳴る)」行為をする必要がないわけです。いじめっ子からすればエネルギーヴァンパイアをする為あるいは維持する為にこそ行動が必要であり、最初は頻繁ないじめが必要かもしれませんが、一旦エネルギーのパイプを繋げてしまえば時々いじめをすればいいだけですから、維持だけでしたら影で時々嫌がらせをするだけでもいいわけですからね。であれば、学校の先生なんてほとんど気付けなくなる場合もあるでしょう。<br /> <br /> 時々は大人が代わりにこのエネルギーのケーブルを切ってあげる必要があると思いますけどね。大人は子供のそのくらいの面倒は見るべきだと思います。「いじめ」という行為を見抜けなくても、オーラに対する理解さえあれば、要はエネルギーヴァンパイアを防げば良いのですから生徒1人1人をしっかりと自立させれば良いわけです。その為に、時々はエネルギーのパイプを切ってあげて、オーラを安定させる助けをすれば良いわけです。色々と現象としては出てくるとは思いますが、根本は結局これだと思います。<br /> <br /> 大人は「いじめる目的は何なのだ?」と子供を問い詰めるかもしれませんし、子供は色々な回答をするかもしれませんけど、そんなこと聞かなくても根本はエネルギーヴァンパイアであることがほとんどです。場合によっては本人の混乱でそういうことしている場合もあるかもしれませんけど、継続的な「いじめ(あるいは、嫌がらせ、あるいは、怒鳴る)」であればほとんどの場合エネルギーヴァンパイアが目的でしょう。<br /> <br /> 大人がこの根本の理解をせずに表面上の仲良さだけを見ていても子供の苦しみは分かりません。基本は、いじめっ子といじめられっ子がいたらお互いに引き離して接触させないことです。表面上の仲良さなんてのも不要です。接触を断ちます。今の学校では「無視」と思われてしまって悪い印象になるのかもしれませんが、オーラ的に自立してきちんと対応できるようになる為には接触させるべきではないのです。数ヶ月あるいは数年という単位になるかもしれませんが。それをしなければ、エネルギーヴァンパイアの関係になるかあるいは不登校になるのかのどちらかです。この場合、自立するまでは「仲直り」などは不要で、きちんと自立するまではむしろ「しばらくの間、お互い相手には接触しないという同意」が必要になります。<br /> <br /> 学校の先生がこのことに理解がなくて改善が見られなければクラス替えの要求あるいは転校しても良いと思います。<br /> <br /> あるいは、今の学校はクラス全員の同質化を前提にしていますから、そもそも変な人がいない学校に行くことですね。田舎では難しいかもしれませんけど。<br /> <br /> 子供が孤立していた時、この種のオーラに理解のない大人は事あるごとに「仲良く」させようとしますけど、オーラの理解があれば「仲良く」なんてのは大きなお世話どころか、害が大きいことがわかるでしょう。オーラに理解のない大人の薄っぺらな「仲良く」なんて、多くの場合、子供からしたら従属関係の強要になってしまうのです。<br /> <br /> 教師が教育をとても勉強すればこのあたりも問題なくなるのかもしれませんが、そんなに色々と勉強しなくても、このオーラの法則さえわかっていれば他の法則を次々に自分で導き出せる筈です。実際、日本の学校では学級崩壊が問題になっていますし、であれば、教師はそんなに勉強できていないのが実情なのではないでしょうか。オーラの法則は簡単ですので、ただ単にその存在を受け入れて理解するのはあっという間です。でも、もしかしたら素養がないとその簡単な法則すら理解できないのかもしれませんけど。<br /> <br /> やっぱり、学校教育から精神世界を追い出してしまったのが問題ですよね。であれば、偏りは色々とあるのかもしれませんけど宗教系の学校、キリスト教とか仏教とか、そういう母体があるところに行かせるのが無難なのかもしれません。精神的な素養がない教師に教えられた子供は荒みますから。<br /> <br /> <br /> Fri, 30 Aug 2019 00:00:00 +0900 霊視とオーラ https://w-jp.net/2019/1631/ <br /> 先日の霊感・霊視のレベルに関する記事の続きです。<br /> <br /> 低級な霊視はオーラが発散している場合にオーラが接触して不意に起こることがあります。<br /> <br /> 以前、オーラと雑念について書きましたが、オーラには各種の情報含まれていますのでオーラが接触した時に入ってくるいわゆる「雑念」とは、いわば相手の状態なわけです。オーラは最初に感覚として入力され、その感覚を心で読み取ることで雑念として言葉として現れてきたり、あるいは、単にその感覚を味わったりします。どちらにせよ、そのオーラの接触により相手のことが分かるわけです。それは、低級な霊視であるとも言えます。<br /> <br /> 単なる感覚や雑念として伝わってくることが多いとは思いますが、受け取る側にその素質があれば映像として見える時もあります。この時、原理は雑念の時と同じです。受取手次第で読み取れる情報が変わってきます。<br /> <br /> ですから、雑念がオーラと関係があるのと同様に、霊視もオーラと関係があります。<br /> オーラの接触で雑念が不意に起こるのと同様に、オーラの接触で霊視が不意に起こることがあります。<br /> <br /> そして、このオーラの接触は、なるべく避けるべきです。<br /> <br /> ■オーラの発散について<br /> 前にも書きましたが、いわゆる霊媒・ミディアム・サイキックな人の中にはオーラが発散して周囲に広がっている人がいますので他者のオーラや漂っているオーラと不意に接触して数々の情報が入ってきますが、本来はオーラを発散させるのではなく、オーラを体の近くにギュッと密接させておくべきなのです。<br /> <br /> オーラを発散させておくとオーラがアンテナになって感覚が鋭くなった気がするかもしれませんが、本来の鋭さとは、ほんのちょっとの接触で多くの情報を引き出せることを言うのであって、やたらとオーラを接触させて情報を無秩序に拾うことを鋭いとは言わないと思います。<br /> <br /> ■霊障<br /> 前の記事で、エーテルというかオーラの筋がスススッと伸びて情報を拾うことと、その時に、オーラが混ざって相手にも自分のオーラが若干残るし、情報を得る時に相手のオーラが自分と混ざる、というような事を書きましたけど、いわゆる霊媒・ミディアム・サイキックが霊障のような症状に悩むのはこのオーラの発散と混合が原因であることが多いです。<br /> <br /> 自分のオーラが発散している場合と相手のオーラが発散している場合とがありますが、少なくとも自分のオーラは何とかしたいところですよね。<br /> 相手のオーラが発散している時は、変な雰囲気を感じたら近寄らないことです。ですが、自分のオーラが発散していたら周囲の人のオーラと次々とぶつかってしまうのでどうしようもありません。<br /> <br /> オーラが発散しないように気をつけていたとしても、カウンセリングで霊視する際には相手のオーラと混ざるので相手の邪気を受け取ってしまうと霊障のような症状に悩むことがあるかもしれません。<br /> <br /> ■「鋭く」「少し」オーラを混ぜて情報を取る<br /> カウンセリングで相手を見るためにオーラを混ぜる際、ほんのちょっとの自分のオーラで「鋭く」相手のオーラのサンプルを取ればいいのに、ごっそりとオーラを混ぜると相手の邪気もごっそり受け取ってしまうわけです。<br /> <br /> まあ、自分がサイキック能力があると思っていてもこの種のオーラの仕組みが分かっていない人も大勢いらっしゃるようですので、あまりオーラの接触なんて気にしていないような人も多い感じではありますが。<br /> <br /> 霊視は、ほんのちょっとのオーラで霊視すればいいのに、ごっそりとオーラ接触しないと情報が取れないようでは、そんな状態でカウンセラーになってカウンセリングするのはまだ早いんじゃないかな・・・ と個人的には思いますが。<br /> <br /> ■意外にこのあたり知られていない?<br /> この種のオーラの仕組みについては意外にスピリチュアル系の人もあんまり言っていなくて、私個人としては子供の頃に幽体離脱して色々な事をその時に勉強したのでもはや常識みたいなものですが(まあ、子供の頃はしばらく忘れていたりもしましたが)、意外にこのオーラ関係の知識が世の中にないなあ・・・ と言うのが印象です。<br /> <br /> 大雑把な知識はあるにしても、どっか微妙にズレているというか。まあ、私の理解も完全ではないとは思いますけど。<br /> <br /> ■基本は、オーラを発散させない事<br /> まず、個人の自分のオーラを体の近くに留める、というのは基本ですよね。<br /> <br /> ■次に、オーラをどう使うのか?<br /> オーラが発散しなくなったら、次は、オーラをどう使うのか? というお話。<br /> <br /> ■オーラのケーブルを切る<br /> オーラのケーブルを繋げたら、切るのが基本。<br /> 勝手に繋がってしまったら、切るのが基本。<br /> <br /> 有名どころで言うと「九字切り」みたいなものがありますけど、そんな大層な事をせずとも、意識の刀で全方向軽く接続を切るだけですし、それは体を動かさずとも意識で行うだけですし。九字切りしている人はめっちゃ気合い入れてるイメージですけど、そんなに気合いもいらなくて明確なイメージがあればいいだけです。<br /> <br /> そういえばカバラ十字とかも四方に結界を張ってますね。<br /> 最近のスピリチュアルですと卵のような殻を体の周囲に作って鏡のようにする、みたいなのもありますね。<br /> 常に防御できる力とイメージの持続力があればいいですけど、多くの人はそんなに意識が続かないでしょうし、一般人は都度切るくらいの方がいいとは思いますが。<br /> <br /> 私が意識していなかっただけで、それぞれの伝統で実は似たような手法があるのかもしれないですね。<br /> 儀式は残ったけれどもその意味が失われた、という事もあるかもしれません。魔法的に「結界」とかいう言葉はよく聞きますね。<br /> <br /> ■邪気<br /> 邪気を受け取ってしまったら、切り離せる場合は切り離します。<br /> エネルギーを入れることがすなわちヒーリングですので、そうして邪気を解消することもできます。<br /> <br /> ■オーラの知識の重要さ<br /> オーラの知識はかなり重要で、これを知っていれば例えば学校での子供の対処も色々と変わってきますし、社会での人との対処方法もかなり違うものになります。<br /> <br /> <br /> 案外、スピリチュアルな人でもこの辺りのオーラの知識って手薄な気がしてきました。<br /> <br /> <br /> Fri, 30 Aug 2019 00:00:00 +0900 霊感・霊視のレベル https://w-jp.net/2019/1630/ <br /> 「神道の神秘(山蔭 基央 著)」で述べられている山陰神道では「霊視」の段階を以下のように分けているようです。<br /> <br /> 1.妄想 ヴィジョンが霞んだ白黒の映像で現れる。的中率は3割以下<br /> 2.幻想 カラーの映像。的中率5割以下<br /> 3.思通(しつう)白黒の中の透明映像。的中率7割以上<br /> 4.観通 山陰神道の先代がわずかに垣間見た程度<br /> 5.霊通 辿り着ける人はほとんどいない<br /> 6.神通 辿り着ける人はほとんどいない<br /> 「神道の神秘(山蔭 基央 著)」より<br /> <br /> 同書によればたいていの霊能者は2番の「幻想」であり、人によってはこの段階で喜んで自らを神のように勘違いするが、そのような勘違いはしないよう諌めている。<br /> <br /> ■低級霊に注意<br /> 狐や狸などの低級霊でも多少の未来は見ることができます。同書ではその辺りも警告しています。<br /> <br /> ■大地の母<br /> 出口王仁三郎と大本教のドキュメンタリーである「大地の母(出口 和明 著)」を昔パラパラと読んだ時に狐に騙されるお話が載っていました。お告げで金銀財宝が埋まっていると言われて探しに行き、大騒ぎをしたものの結局見つからず、狐に騙されていたのだろう、とか、そういうお話だったと思います。<br /> <br /> 昔から、色々なところで色々な人が「狐や狸に騙される」とかいうお話をしているのを聞いたり読んだりしていましたが、おそらくはその話の出所はこの大本教かなと思います。<br /> <br /> ■審神(さにわ)<br /> 神道にはこれらの低級霊を見分けるための審神という伝統があります。<br /> 神道の場合は独立した1人が担当しますが、現世において低級霊に惑わされないためにも誰しもが基本的な審神ができる方が良いと思います。<br /> <br /> 神道的には色々とあるのでしょうが、とりあえず素人が心がけるべきは、「言葉のまやかし」です。一見して高級に見えるメッセージであっても、そこから感じ取れる高級な神妙な清々しい雰囲気がなければさほど高級な存在ではないでしょう。高級な存在であればあるほど神社と同様の清々しい雰囲気を醸し出しています。言葉に惑わされず、雰囲気を感じると良いと思います。<br /> <br /> Thu, 29 Aug 2019 00:00:00 +0900 眉間と鼻頭とアジナチャクラ https://w-jp.net/2019/1629/ <br /> 書物や流派によりアジナチャクラが何処なのか諸説あります。<br /> <br /> <br /> ・眉間(あるいは鼻頭)<br /> ・脳下垂体<br /> ・松果体<br /> <br /> <br /> 脳下垂体も松果体も頭の中央付近の近くにありますが脳下垂体の方が目に近くて松果体の方が頭の中心にあります。<br /> <br /> ■松果体がアジナと言う説<br /> 「密教ヨーガ(本山博著)」には以下のようにあります。<br /> <br /> アジナは脊髄の終わったところに対応して位置し、三つのナディが合流して、ちょうど糸のように結び目のようになっています。この結び目は、ルドラ・グランティまたはシヴァの結び目と呼ばれています。肉体の上ではアジナは松果腺に対応するといわれます。体表の部分では、眉間がアジナと密接な関係にあります。そのため、アジナに精神集中する場合、ふつうは眉間に集中します。「密教ヨーガ(本山博著)」<br /> <br /> これがヨーガで割と一般的な認識のように思います。<br /> <br /> ■脳下垂体がアジナで松果体がサハスララと言う説<br /> 流派によってはこの論も時々目にします。<br /> <br /> ■アジュナ(アジナ)と第三の目が異なると言う説<br /> 「伝導瞑想(ベンジャミン・クレーム著)」には以下のようにあります。<br /> <br /> アジュナ・チャクラは第三の目ではありません。第三の目(心眼)は実際に頭の内部にありますが、アジュナ・チャクラは前面にあります。第三の目、心眼というものは、その弟子自身の活動によって創造されるものです。鼻柱の背後に位置する脳下垂体はアジュナ・チャクラに関係しており、頭の中心にある松果腺は頭部センター(頭の頂点)に関連しています。「伝導瞑想(ベンジャミン・クレーム著)」<br /> <br /> 伝導瞑想は私は詳しくありませんが、この流派は独特の言葉の定義があるようです。用語はヨーガの定義そのものではありませんが、内容は興味深いです。以下のように続きます。<br /> <br /> 瞑想は、これらの分泌腺の活動を徐々に増大します。脳下垂体と松果腺の活動が瞑想を通じて活発になるにつれ、各々から発する輝き、光が拡がり、両者の間に磁気的接触ができ、二つのセンターが重なり合うところに一つの場ができます。そこに第三の目が生まれるのです。そして高度な霊視が利くようになります。これはアジュナ・チャクラそのものとは異なったものです。「伝導瞑想(ベンジャミン・クレーム著)」<br /> <br /> これは興味深い記述です。用語を抜きにしてこの内容を踏まえますと、脳下垂体と松果体の両方が重要になるわけですね。この流派の瞑想方法は以下のように説明されています。<br /> <br /> ですから、伝導瞑想をするとき、あなたは注目を第三の目に保持するのではなく、眉間にあるアジュナ・チャクラに保つのです。そこに何か圧迫を感じるのは、エネルギーがそのセンターを通じて流れているからです。「伝導瞑想(ベンジャミン・クレーム著)」<br /> <br /> この指示は「密教ヨーガ(本山博著)」の内容と類似していて興味深いです。<br /> <br /> ■眉間と鼻頭<br /> バガバッド・ギータの6章は瞑想について記載されており、6章13節には「鼻先を凝視する」と書かれてあります。このことをもって、流派によっては眉間ではなく鼻頭に集中しているようです。その流派には流派なりのやり方がありますのでとやかく言うことではありませんが、「あるヨギの自叙伝」でスリ・ユクテスワは以下のように説明しています。<br /> <br /> 言語ナシカグラム(鼻の先)の真の意味は、いわゆる鼻の頭ではなく、”鼻の上”のことだ。つまりそれは眉間の霊眼の位置をいっているのだ。「あるヨギの自叙伝( パラマハンサ・ヨガナンダ 著)」<br /> <br /> ここでもやはり、眉間の集中のことが言及されています。<br /> <br /> アジナチャクラの位置については諸説あれども、実際のところは何処も変わらなくて、言い方が違うだけなのでしょう。いわゆる第三の目が脳下垂体と松果体の間にできるとすれば諸派によってアジナチャクラが脳下垂体だったり松果体だったりするのも頷けます。どちらも半分当たっているということでしょう。<br /> <br /> ■神智学<br /> 「神智学大要 第1巻 エーテル体(アーサー E.パウエル 著)」には、眉間がアジュナー(アジナ)であると書かれています。<br /> <br /> 同じ神智学系の「チャクラ(C.W.リードビーター 著)」にもアジナーが眉間だと書かれています。<br /> <br /> ■13チャクラ システムにおける脳下垂体と松果体<br /> 「フラワー・オブ・ライフ 第2巻(ドランヴァロ・メルキゼデク著)」には脳下垂体と松果体と13チャクラ システムに関する興味深い洞察が記載されています。<br /> <br /> どうも松果体が「見る」とき、すなわち脳下垂体にエネルギーを投射するとき、第三の眼の知覚が生じるようなのです。「フラワー・オブ・ライフ 第2巻(ドランヴァロ・メルキゼデク著)」<br /> <br /> これも、上記の伝導瞑想の記述と類似していて興味深いです。<br /> <br /> <br /> Thu, 29 Aug 2019 00:00:00 +0900 イグナチオ・デ・ロヨラ(イエスズ会創立者)の内的理解 https://w-jp.net/2019/1628/ <br /> 世俗的な思いは心を虚ろにし不安にするが、霊的な思いは深い平安と喜びをもたらす。不安に満ちた虚ろなあらゆる思いをかき立てるのは悪魔で、静かな喜びを伴う霊的反省を呼び起こすのは神であるという結論に達した。(中略)キリストは王であり、聖人たちはその騎士、そして人間の心は悪魔と神との決戦の戦場である。「イエズス会の歴史(上)(ウィリアム・V・バンガート 著)」<br /> <br /> これはイエスズ会を創設した第一人者であるイグナチオ・デ・ロヨラの基本的な理解のようです。彼が執筆した「霊操(れいそう)」はキリスト教における基本文献の一つになっているようですので、これは彼だけでなくキリスト教を理解する助けになりそうです。<br /> <br /> 「霊操」の日本語訳はいくつかバージョンがあるようですが、手元にあるホセ・ミゲル・バラのバージョンには以下のようにあります。<br /> <br /> 霊操とは、良心の糾明(きゅうめい)、黙想、口祷(こうとう)と念祷(ねんとう)のあらゆる方法を意味する。散歩したり歩いたり走ったりするのを体操と言うが、同じように、霊魂を準備し整えるあらゆる方法を霊操と言うのである。その目的は、まず、乱れたあらゆる愛着を捨てることであり、その後、霊魂のたすかりのために、自分の生活を整えることについて神のみ旨を探し、確かめることである。「霊操(イグナチオ・デ・ロヨラ、ホセ・ミゲル・バラ 著)」<br /> <br /> 同書にはこれ以外にも興味深いことが記載されていて、例えば心の有り様を表現しています。<br /> <br /> 自分の心に現れてくる考えに3種類あることを前提とする。1つは自分のものであり、ただ自分の自由な望みから生まれるものである。他の2つは外からのものであり、一つは善霊から、一つは悪霊から来る。「霊操(イグナチオ・デ・ロヨラ、ホセ・ミゲル・バラ 著)」<br /> <br /> これを理解するとキリスト教の基本的な立場が理解できます。古典的なキリスト教にはハイヤーセルフあるいはアートマンのような概念はなくて、自分かそれ以外か、と言う分類なのですね。この場合、いわゆるハイヤーセルフは善霊に含まれているのでしょう。<br /> <br /> <br /> Wed, 28 Aug 2019 00:00:00 +0900 体のオーラに取り憑いているエネルギー体 https://w-jp.net/2019/1627/ <br /> ここ数日はちょっと体が重くて瞑想しても微妙な感じでしたので、瞑想中に体のオーラを探ってみました。すると、やっぱりいました。<br /> <br /> まず、アナハタチャクラに爬虫類のカマキリみたいなのが取り憑いていてエネルギーを吸っていたのでイメージ上の腕で片側を持ってゆっくりと引き抜いたらハサミで威嚇されました(汗)引き抜いてポイっと捨てたら随分と気分が楽になりましたね。肩の辺りには顔だけの亡霊っぽいのがくっついていました。おー、怖い怖い・・・。これは、意識したら発見されたのに気付いたらしくて自分から離れていきました。肩が重い感じがなくなりました。首には何やら赤い腫れ物のような、血の充血した塊みたいなのがくっついていました。これは取り除くというよりはエネルギーを当てて治す必要がある部分のようです。頭が硬かったのですが、前頭葉の左側からカラスのような黒い鳥が何十匹もバタバタと音を立てて出てきて飛んでゆきました。頭の上には鳥の巣があって、最初は可愛いペンギンの子供かと思ったのですがガチョウの子供のようで、餌を欲しがっていましたので座っている横に移動させました。右脳には可愛いキタキツネと深海魚っぽい魚と縮尺小さめのクジラがいましたので出てきてもらいました。<br /> <br /> 体の色々なところに動物がいるなんて、古事記とかインドの神話っぽいです。瞑想中のお話ですけどね。<br /> <br /> これで、随分とスッキリしましたね。<br /> <br /> こういうのはイメージでしかないですけど、アストラルの世界は何でもありですので、何か混沌としたエネルギーが具現化して取り外しやすくなったのだ、と解釈しています。きっと、本当にそれ自体が寄生していたのではなくて、エネルギー的なものが溜まったかあるいはどこかから拾ってしまって、それが分かりやすい形でイメージ上で具現化したのだと思っています。エネルギーがその質に応じて具現化するのはよくあることです。誰かの術の可能性もありますけど、おそらくは自然発生的なものかなと。<br /> <br /> そういえば、アナハタ優勢になる前日くらいにも似たようなことをしましたね(該当記事)。以前と同様、プラシーボかもしれないですけどそれで効果があるなら全然OKなのです。この種のセラピーも世の中にはあって効果が出ていますしね。人間には科学的に分からないことも多いのですから、科学で証明された以上のことがあっても不思議ではないのです。<br /> <br /> <br /> 関連:<br /> ・両肩に刺さっていた見えないものを引き抜く<br /> ・床屋で取り憑いてきた意識体<br /> <br /> Tue, 27 Aug 2019 00:00:00 +0900 2つの喜びの謎 https://w-jp.net/2019/1617/ <br /> 感情の喜びと、感情を超えた喜び。<br /> <br /> 感情の喜びはマニプラに結びついている。<br /> 感情を超えた喜びはアジナに結びつている(と推測)。<br /> <br /> 私の場合は後者はまだです。<br /> 先日のカウンセリングやセミナーで見聞きした内容を踏まえますと、アジナへの鍵は「喜び」にありそうです。<br /> <br /> クンダリーニに結びつけると、クンダリーニが覚醒してマニプラ優勢になった頃は、とにかく楽しくてポジティブでした。「熱」という感じです。それは内から湧き出る喜びでした。感情が豊かになりました。<br /> <br /> その後、アナハタ優勢になった今は、マニプラ優勢の時ほど楽しい感情はないですが「暖」という静かな感覚があります。風のような清々しさがあります。清々しさと「暖」は相反するように思うかもしれませんけど、熱感としては「暖」で、感覚としては清々しいので合ってます。清々しいと言うより雑念が少ない、と言った方がわかりが良いかもしれません。<br /> <br /> これからアジナに行く鍵は何かと思って探っていましたが、書物によってはアジナより上は「冷」と結びつけられているので、前は「感情を抑えるのかな・・・?」と思っておりましたが、そうではなく、どうやらアジナ以上への鍵は「喜び」にあるのだとわかってきました。<br /> <br /> マニプラ優勢の時は割と外へと発散する感じでしたが、アナハタ優勢にて少し内側に留まるようになりましたので、この方向性であれば次はもっと内側になるのかなと思います。熱感で言うと外が「熱」であれば中間は「暖」で内は「冷」なのは理にかなっています。オーラの外・内が熱感に対応するとすれば、オーラが内に収まった際のアジナの感覚が「高い波動」「喜び」「満ち溢れる」あたりにある気がしてきました。アナハタ優勢の話と同様に、熱感としては「冷」でも感覚として喜びというのはあり得ると思います。まだ仮定ですけど。<br /> <br /> どうやら「古事記」にもそのあたりの鍵があって、天岩戸の物語はアジナの目覚めを象徴しているのだと先日のセミナーで聞きましたので、なるほどなあ、と思っております。天岩戸は、外の喜びを感じて扉(アジナ)が開く、というお話ですので、天岩戸が開く前は真っ暗で何も見えないのは当然なのだと妙に納得しています。<br /> <br /> <br /> Thu, 22 Aug 2019 00:00:00 +0900 神界の住民と日本人の関係(夢で見たお話) https://w-jp.net/2019/1616/ <br /> いわゆる神界と呼ばれている世界に昔、遊びに行ったことがあります。夢ですけど。<br /> <br /> ■神界の住民と昭和的な日本人<br /> ここが神界か、と思って様子を見たのですが、雰囲気は意外に日本と同じでしたね。昭和的な日本人とでも言いますか。その時に知り合ったおじちゃん・おばちゃんが私の両親として転生したわけですけど。<br /> <br /> 繰り返しますけど、夢ですよ?(笑)<br /> <br /> そこの住民はちょっと頑固だったり、ちょっと人をからかうところなども、まさに日本人(苦笑)<br /> 噂話とか、楽しく過ごすところなども日本人な感じです。<br /> <br /> それより下の餓鬼界とか阿修羅の世界ですと争いや妬みなどが充満しているようですけど、神界になるとそういう低次の欲望は克服されているものの、それでも、他人との軋轢は多少はあるようです。日本の住民の多くは神界出身なのではないかな・・・ と思います。 日本は神の国とか言ったりしますけど、神界と日本は魂の転生で繋がっているようです。<br /> <br /> ですから、神界の住民は天使のような高貴な存在というわけではないようですね。<br /> それよりも、ちょっと頑固な昭和のオヤジ、というイメージが合っています。<br /> 神界にいる女性も日本の元気なおばちゃんみたいな人が多いです。九州の元気なお母ちゃんだったり。みんなパワフルです。<br /> 神界の住民は活力に溢れている気がします。<br /> <br /> ■神界と天使<br /> 天使はまた別のようですね。名前だけで比べますと神界と天使とを結びつけてしまうかもしれませんが、神界と天使は直接的には関係なさそうです。もちろん天使は色々なところに出現しますので神界にもいますけど、神界の住民は日本人ぽい魂が多いのです。<br /> <br /> 50年以上前の私が生まれる前の話ですけど、神界に天使がいるとナヨナヨしている感じを受けるらしくて、ちょっと小馬鹿にされたり、ちょっと疎んじられたりします。その点、日本の社会で天使っぽい人が疎んじられるのと似ている感じがしますね。天使にとって神界や日本はそれほど心地の良い場所ではなさそうです。神界にしても日本にしても、昭和の頑固オヤジっぽい人が人気のようです。今の神界も少しは変わったのかもしれないですけど。<br /> <br /> 今ではそうでもなくなりましたけど、昭和の頃は可愛いものに対してバカにする風潮がありましたよね。ちょうちょとか、妖精とか、花とか、女らしくて美しいのに対する興味は平成とか令和になってから重視されている気がしますけど、昭和の頃はそれよりも元気さ優先だったように思います。昭和の頃は女性の女らしさも男らしさの視点から解釈されていましたが今は女性の視点でそのまま解釈されていますよね。日本の住民と神界の住民とで精神の程度がシンクロしていると言いますか、魂が生まれ変わりによって入れ替わりを繰り返しているのだと思います。<br /> <br /> ですから、天使の住む天使界は別にありますね。アンドロメダな気もしますけど。<br /> 天使界は、地球の進化過程のライン上とはちょっと別な気がするんですよね。<br /> 神界は地球に近い話ですけど、天使界はちょっと離れている気がします。<br /> <br /> ■日本の神々と神界<br /> 神界の中で力をつけて神のように扱われるようになった存在もいれば、もともと大天使から派生して神として扱われる存在とがあるようです。<br /> 神界の生え抜きと天使の神との違い、とでも言いますか。ですので、日本の神々は神界の中でも力のある魂たちとそれぞれ対応しているのが基本ではありますが、日本の神々は必ずしも神界にいるわけではないのです。地上の日本人は「日本の神々」と一括りにしてしまいがちですけれども、神界の神々と天使の神々とで別になっているわけです。<br /> <br /> <br /> これは、夢とは言っても実際には子供の頃の幽体離脱の時に知った内容とその後見た夢で知った内容とを統合しています。<br /> 30年くらい前の話なのでどこからどこまで幽体離脱で知ってどこが夢で知った話かは詳しくは覚えていないのですが、だいたいこのような内容だったと思います。<br /> <br /> <br /> <br /> Wed, 21 Aug 2019 00:00:00 +0900 死んだらどうなるのか? https://w-jp.net/2019/1615/ <br /> 割と色々なところで言われていますけど、死んだらどうなるのでしょうか? というお話です。<br /> <br /> ■死んだらどうなるのか?<br /> 死ぬと魂が体から抜け出ます。<br /> 死んだら無に戻るわけではありません。<br /> <br /> 死ぬことを異常に恐れている人も大勢いらっしゃいますけど、死ぬこと自体はそこまで大変なことでもありません。<br /> 死ぬこと自体よりも、やりたいことを果たせずに死ぬことの方が強いカルマを来世に残すような気が致します。<br /> やり残して途中で死んだり殺されたりしたらその後悔や恨みの念が残ります。そして、それはカルマとして来世にまで引き継がれます。<br /> <br /> 体が死んで魂が抜け出ると、周囲の景色が見えます。そして宙に浮かんで葬式などを眺め、参加している人々が悲しんでいるのかそうでもないのか、何を話しているのかも含めてぷかぷかと浮かびながら観察することになります。よくある臨死体験みたいなものですね。それと同じようになります。<br /> <br /> ですから、自分が男だったとして、妻が夫(自分)の死に対して喜んでいたら夫の魂は「ムキー」ってなるわけです(苦笑)<br /> 逆も同様で、自分が女だったとして、夫が妻(自分)の死に対して悲しんでいないなら夫の愛が本物じゃなかったことに悲しむわけです。<br /> <br /> ですから、死ぬ時まで、そして、死んだ後も結婚相手は好きでいるのが理想ですよね。<br /> そこまでお互いに好き合うのであれば、死んだ後もあの世で一緒に暮らすことになります。<br /> <br /> ■死後の幽界のコミュニティ<br /> あの世の寿命はとても長いので、友人知人や元妻・元夫などの集まるコミュニティは割と巨大になっていくことがあります(苦笑)<br /> <br /> 例えば、元妻が何十人もいたり・・・。それはそれで大勢、ワイワイガヤガヤやって楽しいですけどね。地上みたいにお金の制約もないですし、特に苦労もなく楽しくずっと過ごすことが出来ます。<br /> <br /> 結婚相手が嫌いなら、死ぬと同時にバイバイです。それもまた自由。<br /> <br /> 魂に戻ったらその状態でどこにでも行くことが出来ますけど、基本は友人知人や元妻・元夫など仲が良い人たちがいるところで暮らすことになるのです。<br /> <br /> ちなみに、死んだ時には、ある程度意識が進んだ魂であれば全て心得ていますので移動も自由自在で自分でみんなのいるところまで移動しますが、そこまで目覚めていない魂の場合は誰かが迎えに来ますので迎えにきた人(というか魂)に付いて行って懐かしい人たちと再会します。<br /> <br /> 目覚めの具合にもよりますが、あまり目覚めていないと死んだ後に周囲が見えなくて「真っ暗」で、ほんの少し先までしか見えなかったりします。目覚めの度合いに応じて遠くが見えます。たまに臨死体験で「真っ暗だった」とか言っている方がいらっしゃいますけど、どの程度見えるのかは精神の目覚めのレベル次第かなあ、という気がします。<br /> <br /> 死んだ後、かつての友人知人や元妻・元夫のところに戻るのは嫌だー と思えば、好きにすれば良いです。今生で生きている間に知り合った、気の合う異性とずっと共に過ごしても良いのです。まさに自由です。自由意志次第です。気の合う人たちと一緒にずっと暮らして、また地上に生まれたいと思ったら好きなように生まれ変わります。<br /> <br /> 生前に仮面夫婦を続けていて嫌で嫌でしょうがなかった元夫や元妻と一緒に暮らす必要はありません。<br /> <br /> ■死後の姿<br /> ちなみに、死後の体は自分の好きなように変化できますので、自分が一番美しかった年齢の姿でいることが多いように思います。<br /> ですから、めちゃくちゃ美人さんであればずーっと美人さんの姿のままです。素晴らしい世界。<br /> ちょっとコンプレックスあれば姿を変えるのも自由自在ですけど、割と特徴はそのまま、ということが多い気がします。そうでないと相手が誰なのかよくわからなくなってしまいますし。<br /> <br /> ■精神的な自立が大切<br /> ただし、生前に精神的に従属させられてしまった人の場合は死後もその関係が続く場合があります。<br /> ですから、精神的な自立というのは何よりも大切だと思います。死後まで精神的に従属して強制・操作の関係を続けるなんて嫌ですよね?<br /> <br /> ■幽界から地上を助ける<br /> ちなみに、ある程度のサイキックの力があればあの世から地球の出来事が覗けます。なんとなーく、感じるわけです。何かあれば友人知人や元妻・元夫たちが地上にまで降りてきて、地上に生まれ変わった人の手助けをします。それは、生きている時の手助けも死んだ瞬間(魂が抜け出た時)の手助けも同様です。基本は、友人知人や元妻・元夫たちが助けてくれます。<br /> <br /> 守護霊だけが守っている場合もありますけど、こうして友人知人や元妻・元夫たちが気になって地上の様子を見に来ていることも多いのです。守護霊は地上の生活に疎いこともありますので、地上の生活に詳しいのは友人知人や元妻・元夫の方です。<br /> <br /> 仏教とかで言いますとこのように人間の形が残っている死後の世界は割と低層の世界で、いわゆる幽界なわけですけど、そうは言っても、基本はこのように低い世界である幽界と地上を何度も何度も往復するのが基本なのではないかと思います。そうして、ある程度の浄化と言いますか、ある程度のレッスンを積んでレベルが上がったら更にもう一つ上の類魂のところに戻って、そして再度分霊を作って地上へと降りたり、あるいは、違う世界へとスピリットとして肉体としての体を持たずに生まれ変わったりするようです。<br /> <br /> 仏教では霊の気配があると未浄化霊とか悪霊の扱いをして成仏させようとしますけど、それは無駄だと思います(苦笑)<br /> 成仏というのは何度も何度も何百回も(何千回も?)転生してようやく次の世界へと行くわけですから、そりゃ、幽界に大勢の魂がいて当然なわけです。幽界の魂がいなくなるわけがありません。<br /> <br /> ■守護霊<br /> 守護霊ですけど、割と低い世界である幽界の霊が守護している場合もあるようですけど、それでもかなり修行を積んだ幽界の霊が付いているようです。割合まではわかりませんけど、本当に強力な守護霊は幽界ではなくて霊界のスピリットの方だと思います。人それぞれ、幽界の守護霊がついていたり霊界の守護霊がついていたりするようです。<br /> <br /> 修験道の修行者だったり仏教の行者だったり神道の巫女のような守護霊がついている場合は幽界の中でも上位のクラスの守護霊になりますね。一方、霊界の守護霊ですと地上のことに疎かったりしますけど色々とスピリチュアル的には頼りになります。<br /> <br /> ■生まれる時の計画<br /> どんな人生を送るのか詳しく計画して生まれてくる場合もあれば、なんとなく面白そう、ということで生まれてくる場合もあります。<br /> そして、死ぬ時に残ったカルマを幽体が引き取ります。<br /> ですから、生きている間に苦しい生活はしない方が良いです。それは来世まで引きずりますから。<br /> ということであれば、生まれる時に興味本位だけでなく、きちんと計画した方が良いです。経済的な面だけでも、最低は。<br /> <br /> ■感情や情愛に支配された世界<br /> 幽界はそれほど高い世界ではありませんので、感情や情愛が強い魂が多いです。<br /> 私の属しているコミュニティもその傾向が強くて、みんなワイワイ楽しく暮らしていつも笑っています。<br /> それ以上の世界へとやがては行くわけですけど、幽界のコミュニティであっても十分楽しいところなわけです。<br /> まあ、時には嫉妬とかも出ますけど、基本的にはみんないい人ばかりです。<br /> <br /> ■魂の消滅のお話<br /> それとは別に、ちょっと怖い話をします。<br /> <br /> 地上に生まれている修行者・能力者たちの中には荒っぽい人がいて、空中を幽体の魂が飛んでいると誰それ構わず攻撃して「無」に戻してしまう人がいます。こうなってしまうと魂が根元まで消滅してしまい、生まれ変わりすらできません。まさに文字通り「消滅」です。こんな荒っぽいことはすべきではないと個人的には思うのですが、そのような方が実際いらっしゃるのですから危険性を表明しておくのは無駄ではありません。<br /> <br /> これは地上に体を持って生まれてきている場合は特に心配はいりませんが、体がなくて幽体で地上を彷徨っている時はこのような荒っぽい人に消滅させられてしまう危険性があるということです。ですから、例えば幽体離脱してふらふらとそこらをうろつくのは、実はちょっと危険があるのです。死後に幽体の魂で人の姿をして地上をうろつくのも同様の危険があります。そうそうこんな荒っぽい人はいないですけど、いるにはいるので、運が悪いと遭遇するかもしれません。<br /> <br /> 守護霊として誰かについているのならば攻撃されることはほとんどないようですけど、一人で(1人の魂で)うろついていると未浄化の浮遊霊や悪霊と思われてしまって攻撃される危険性があるということです。消滅してしまうと生まれ変わることが出来ませんので、注意が必要です。知り合いの人生を手助けするなど守護霊的な立場で地上に関わる分にはさほど危険はないと言えます。<br /> <br /> 地上を探検して楽しみたいのならば幽体の霊のままでなくて、生まれてくるのが一番だと思います。三次元の制約はあって色々と大変ではありますけど、この種の「消滅」の危険性はありませんし。何百もの転生の経験が全て無に戻ってしまうと残念という言葉では言い表せないほどの悲劇になってしまいますから。<br /> <br /> <br /> これは私が子供の頃に幽体離脱した際に知ったことを元にしています。<br /> 本当かどうかは保証しません。ただの夢かもしれませんしね。<br /> <br /> <br /> 続き: 魂(幽体)がそのまま転生する場合と、一旦グループソウル(類魂)と一体になってから分霊を作って転生する場合がある<br /> <br /> <br /> Wed, 21 Aug 2019 00:00:00 +0900 私に必要なのは、もっと楽しむこと https://w-jp.net/2019/1614/ <br /> 癒しフェア(東京ビッグサイト)のブースでカウンセリングをいくつか受けました。<br /> <br /> 私に必要なこととして 共通して言えることは、「もっと楽しむこと」だそうです。<br /> <br /> サイキックの方にチャクラも見てもらいましたが、ヴィシュッダまでは活性化しているけれどもアジナとサハスララが淀んでいるとのこと。<br /> <br /> これからアジナに上がっていくためのヒントが「楽しむ」であって、楽しめば頭のてっぺんからポーンと突き抜ける、みたいなことを伺いました。<br /> <br /> こういうのは当たっている時もあれば外れている時もありますので検証が必要ですが、何人かに聞いて共通したお話でしたし、自分でもそれっぽく感じましたので、まあ、当たっているのかなと。確かに、最近はちょっと深刻さが増えていましたので、もっと楽しむことが必要かなと。<br /> <br /> 語弊があるかもしれませんけど、アナハタが優勢になって以降は基本的には元気でポジティブなんですけど、それはあくまでもハートがポカポカとしているとでも言いましょうか。ハートは活性化しても、頭のアジナはちょっとまだ重たいとでも言いましょうか。もともと頭の深刻さがそれなりにあったのです。<br /> <br /> 最初はマニプラ優勢から始まって、その時は「熱」で元気な状態で、次はアナハタ優勢で「暖」で元気でポジティブで、それでもまだアジナはそれほど活性化されていなくて、今後のヒントとしてカウンセリングしてみたらアジナとサハスララのためのポイントが「楽しむ」というキーワードだったのです。<br /> <br /> 以前にも書きましたが、アナハタ優勢になるまでは頭の中の感覚はそれほどなくて、アナハタ優勢以降に頭の中の感覚が出てきましたので以前より頭は随分と活性化されてきてはいるのですが、サイキックの方に見てもらったら、それでもまだアジナとサハスララはそんなに活性化されていないというお話でしたので、妙に納得しました。<br /> <br /> そんなわけで、最近は夢の中で楽しんだり、天使界の物語を思い出したり、宇宙に思いを馳せたり森に行ったりして楽しむよう心がけたいと思っています。まだ足首の骨折が完治していないのであまり遠出はできないですけど。<br /> <br /> <br /> ちなみに、サイキックの方は当たり外れがありますけど、最近は勘でなんとなく良し悪しがわかりますのでそんなにハズレは引きません。以前は色々と試しましたけど。<br /> <br /> ついでにカウンセラーの方に簡単にヒアリングしましたけど、生まれつき素養のある方もいればそうでない方もいて、素養がもともとそれほどなくても学校に通って能力磨いた方が今回は多かったです。サイキック系のスクールの講師をしていらっしゃる方のカウンセリングも受けましたが、それっぽかったですね。<br /> <br /> ■サイキックなカウンセラーとの付き合い方<br /> 基本は、「確かめ」に使うのが良いです。自分の瞑想や夢で見た内容が合っているかどうかの確かめにサイキックなカウンセラーは役に立ちます。ですので、答えが自分の認識と同じかどうか質問してみると良いでしょう。もちろんカウンセラーが間違っていることもありますが、自分が間違っていることもあります。どれが正しくてどれが間違っているのか? 最初は判断が難しいですけれども、カウンセラーというのはサイキックに限らず「確かめ」に使うものだと私は思います。コンサルタントも同じですよね。あくまでも自分が主体で、コンサルタントはその補助なわけです。<br /> <br /> <br /> Tue, 20 Aug 2019 00:00:00 +0900 マリア姫とミカエル <夢で見た天使界の物語> https://w-jp.net/2019/1613/ <br /> その世界では王様と騎士、それにお姫様が王国を治めていました。<br /> 遥かに広がる田園風景。ぽつんぽつんと家があり、そして、城下町があり、お城がありました。<br /> <br /> <br /> <br /> その世界の人は、地球上の人とは違って、より霊体に近い存在でした。<br /> 傷もしばらくすれば治りますし、頭から背筋の部分がコアになっていて、体がほとんどなくなってしまってもコアがある程度残っていれば1週間くらいで復活できるような人たちでした。ですから、意図的に誰かが極限にまで粉々にして破壊してしまわない限り、不死にも近い長い寿命を持っていました。<br /> <br /> 地球の人間から見たら、もしかしたらそれは神々、あるいは、天使のように見えたことでしょう。ここでは、様相および性質の類似からひとまずその生命体を天使としておきますが、キリスト教の天使と同一とは限りません。<br /> <br /> ある城下町に、貴族の天使たちが大勢住んでいました。いわゆる大天使たちです。<br /> 後に貴族や王族になる何人かの天使。そして、城下町や農村には商人や農民たちが住んでいました。<br /> <br /> 貴族の1人は天使の長のような立場で、友人たちはその天使を慕っておりました。仮にその天使をルシファーとしておきましょう。<br /> もう1人、自由な心を持ち、遊び心を持った天使ミカエルがいました。<br /> (キリスト教の聖書の伝説とは関係がないです。夢ですから)<br /> <br /> ルシファーは、日本で言うアマテラスオオミカミのような太陽神に象徴される強力な天使で、その礼儀正しさと秩序を保つ正義感に溢れておりました。イメージとしては徳川家康のような感じです。<br /> <br /> 一方、ミカエルは遊び心を持ち、千里眼の能力を持ち、テレポーテーションの能力を持っていました。<br /> ミカエルはルシファーを始め、他の天使たちと遊ぶのを楽しんでおりました。<br /> 両方とも性別は男性です。<br /> <br /> 皆、大天使の貴族ですので、かなりの高貴な魂を持っており、一人一人がとても住民に尊敬されていました。<br /> ですが、そんな優れた生命体、天使のような存在であっても色々と問題は起こるようです。<br /> <br /> ■ミカエルのいたずら<br /> ある日、ルシファーがミカエルのいたずらに不快感を示しました。<br /> <br /> ミカエルは、遥か昔は千里眼もテレポーテーションの能力も持っていなかったのですが、遥か古代のある日、その能力が開花したのです。そして、その開花した能力で遊んでいたところ、ルシファーがそのいたずらに怒り出したのです。その当時、ルシファーやその他の天使に千里眼やテレポーテーションの能力はなく、それらの能力はミカエルだけのものでした。<br /> <br /> ミカエルは千里眼の能力が現れただけでなく、気分的にも爽快になり、何事をも楽しむようになります。以前よりも遥かに強く深く楽しんだのです。<br /> <br /> ルシファーの友人たちは、ミカエルの変貌ぶりに驚き、理解に苦しみ、やがて、きっとミカエルは悪の心を持ってしまったのだろう、と考えるように至ります。これは実際のところ、誤解ではあるのですが。<br /> ミカエルはただ遊んでいただけですので、そんなルシファーたちの不快感に気付きつつも遊びを続けました。<br /> <br /> 次第に、ミカエルは自分や自分を慕う天使たちと共にとある田園地方に引越しをし、その地方を治め始めます。<br /> ミカエルとルシファーの派閥はそれぞれ分断し、しばらくはその状態で月日が流れました。<br /> <br /> やがて、時々ミカエルとルシファーが接触する度に問題が生じるようになります。<br /> ミカエルの発言を、ルシファーが事あるごとに不快感を示すようになり、戦争の一歩手前にまで事態は進展します。<br /> <br /> ■天使界での戦争勃発<br /> ミカエルは戦争するつもりもありませんでしたが、戦争の火種は住民たちが起こしました。<br /> ある日、ルシファーの農民の軍隊が大挙してミカエルの田園地帯に攻め入ったのです。<br /> <br /> 大天使たちは強大な力を持っており、魔法で戦うことができました。<br /> 一方、農民の軍隊たちは一兵卒として槍や剣で戦いました。<br /> <br /> 最初の戦いは農民の軍隊が衝突し、多くの住民が倒れました。<br /> 霊体に近い存在ですので傷ついても復活できるとは言っても、コアの部分までやられてしまうと復活できません。<br /> ルシファーの軍隊は、ミカエルの農村の住民をコアまで破壊し、復活できない状態にしてしまいます。これが、ミカエルを怒らせました。<br /> <br /> 当初、農民の軍隊の人数は多くなく、せいぜい数百人の軍隊が攻め合う程度でした。<br /> ですので、ミカエルに従う大天使たちが加勢に入って農民の軍隊を助ける、というような状況になったのです。<br /> <br /> ある程度、情勢が決まれば撤退していきました。<br /> <br /> ルシファーの軍隊はテレポーテーションできませんし、千里眼もありませんでしたので、ミカエルは千里眼で敵の進軍を察知し、交戦地帯に数人の大天使と共にテレポーテーションすることで、実際はミカエル側の軍勢はとても少ないのにも関わらずミカエル側は進軍を食い止めていました。<br /> <br /> ミカエルはルシファーに対して怒りはあまり持っておりませんでしたが、住民を復活不可能なまでにコアを破壊する行為は許し難いと思っておりました。<br /> <br /> ミカエルの戦法として、防御を続けて相手が引くまで要所を守るという方法が取られました。前線の敵をテレポーテーションで丘の向こうにまで移動させれば前線の敵の数は減ります。そのうちに敵が諦めてくれるのを待ったわけです。とは言いましても農民兵は数が多かったため、テレポーテーションで敵を遠くにいちいち移動させていてはらちがあきません。そうこうしているうちに、次々にミカエルの農村の住民はコアをやられていくことになります。<br /> <br /> そんな争いを繰り返しているうちにお互いの住民の中に怒りが蓄積されてゆきます。<br /> <br /> 人数の多さに対処しきれなくなり、コアがやられる住民が増えるにつれ、ミカエルはテレポーテーションではなく、住民を宙に浮かせてバラバラに引き裂くことで敵を恐怖させ、撤退させることを選択します。戦局が長引けば長引くほどお互いの犠牲者が増えるばかりです。それよりは、1人の敵をバラバラに引き裂くことで敵を撤退させることができれば、その方が良いと考えました。<br /> <br /> ミカエルの気持ちとしては、こんな戦いは意味がないと思っておりましたが、ルシファーは農民兵がバラバラにされたことを聞いて怒り狂い、ルシファーの周囲の天使たちもミカエルは堕天使になってしまったのだと噂し始めます。ミカエルについてきた天使たちがミカエルの気持ちを本当に正しく理解していたかどうかはよくわかりません