スピリチュアル: ヨーガ https://w-jp.net/topics/スピリチュアル: ヨーガ/ スピリチュアル: ヨーガ 禅の十牛図「身心脱落」とヨーガスートラ・ウパニシャッド https://w-jp.net/2019/1560/ <br /> ■禅の十牛図「身心脱落」(しんじんだつらく)<br /> 「悟りに至る十牛図瞑想法( 小山 一夫 著)」には以下のようにあります。<br /> <br /> 最初の心の脱落は、肉体が周囲の空間に溶け込んだ時に起こる。感覚を受け止めるフィールドは残っているが、独特の調和が保たれることで、ほとんど雑念が湧いてこない。あたかも静かな泉の水面(みなも)を淡々と眺めているだけのような感覚だ。心中、嵐もなく波紋も起こらない。意識は判然としていて心の平静を自覚している。<br /> <br /> これは先日書いた内容ととても似ています。どうやら私はこの段階にいるようです。第三図の「見牛」に相当します。同書は次のように続きます。<br /> <br /> だが、本当の意味での心の脱落とは、一定の調和によって雑念などを起こらなくさせることではなく、ヨーガスートラ第1章にあるように心の作用そのものを止滅させることなのだ。(中略)これは「騎牛帰家」から「忘牛存人」に至るプロセスに他ならないのである。<br /> <br /> この段階は私にはまだよくわかりません。と言いますか、てっきり前者のお話がヨーガスートラの「心の作用の止滅」かと思っておりましたので、今の私の状態はまだ半分なのだとこの本で気付かされました。<br /> <br /> ■禅の十牛図とヨーガスートラ・ウパニシャッドの比較<br /> 同書ではこれらの比較も行なっています。<br /> <br /> <br /> ・(十牛図)心身脱落 = (ヨーガスートラ)心の作用の止滅 = (初期仏教)止<br /> ・(十牛図)見性 = (ヨーガスートラ)純粋観察者の出現(真我を見る) = (初期仏教)観<br /> ・(十牛図)得牛〜放牛 = (ヨーガスートラ)真我独存 = (初期仏教)還<br /> ・(十牛図)騎牛帰家 = (ウパニシャッド)真我の離脱 = (初期仏教)還<br /> ・(十牛図)忘牛存人 = (ウパニシャッド)宇宙の最高原理との合一 = (初期仏教)還<br /> ・(十牛図)忘牛存人 = (ウパニシャッド)穢れを離れる = (初期仏教)浄<br /> ・(十牛図)人牛倶忘 = (ウパニシャッド)死を超越する = (初期仏教)浄<br /> <br /> <br /> これを見ると、ヨーガスートラの位置付けがはっきりします。一般に思われているヨーガスートラの最終地点である「心の作用の止滅」は解脱の最終地点ではないわけですね。ヴェーダンタはウパニシャッドを扱いますのでヴェーダンタの位置付けも分かります。ただ、ほとんどの人にとってはヨーガスートラが合っているのではないでしょうか。なかなかヨーガスートラの次の段階には達しないような気が致します。<br /> <br /> ヨーガスートラで言うところの「心の作用の止滅」が半分ではあるものの体感できるようになってきて、「次はどうすれば良いのだろう?」と思っておりましたので、道筋が見えてきました。<br /> <br /> <br /> Tue, 23 Jul 2019 00:00:00 +0900 心と意識 https://w-jp.net/2019/1549/ <br /> [風のルンの竜巻の経験から17日後]<br /> <br /> ■意識の拡大? 光の広がり・強まり?<br /> 心を動かさずに息などを観察していると胸の意識が拡大してきました。胸のあたりが「グッ」と広がる感覚。と同時に、意識がよりはっきりしてきました。それを「意識の拡大」とも言えるかもしれないし、「光の広がり・強まり」とも言えるかもしれないです。<br /> <br /> ■息の「観察」の変化<br /> かなり以前は、瞑想で「息を観察」する場合は「心」で「吸っています」「吐いています」あるいは擬音で「スー」「ハー」と「心の声」にするようにしておりましたが、それは「観察」とは言わないような気が最近はしています。昔はこの辺りの表現がごちゃ混ぜだったかもしれませんので、昔の記事を読むと混乱があるかもしれません。かなり以前は心による現象の追っかけ動作も「観察している(筈)」と思っていましたが、いつ頃からか、息の「観察」と言うと「意識で」観察することだと今は思っています。よって、上に書いた「心を動かさずに息などを観察していると〜」と言うのは心で息の動きを言語化することではなくて、「意識」で(心はほとんど動かさずに)息を観察することを意味します。この違いは大きいです。この「意識」の動作は「感じること」と言い換えても良いです。<br /> <br /> ■心の無常の体感について補足<br /> 先日書いた「心の有限さを感じること」を少し補足します。今回、ヴィシュヌ・グランティを超えてアナハタ(ハート)優勢になることでいわゆる「意識」が活性化していわゆる「心」の半分から同程度にまで意識が表に出てきました。その状態で「意識」が「心」を観察することで無情を(ハートで)体感する、という意味になります。アナハタ優勢になる以前は「意識」がはっきりしておらず「心」が「意識」よりも優勢な状態ですので瞑想で「心」を観察しようとしても「観察する側(見る側)」である「意識」がぼんやりとしているのでうまく観察できなかったのです。アナハタ優勢になることで「観察(見る)側」である「意識」が活性化して、その状態でようやく「心」を観察できるようになりました。<br /> <br /> ■アナハタ優勢になるまではヴィパッサナー瞑想(観察瞑想)とサマタ瞑想(集中瞑想)は同じ?<br /> 以前にも書きましたが、ヴィパッサナー瞑想とサマタ瞑想の基礎は同じだと思います。この辺りは「悟りの階梯(藤本 晃 著) 」にも記載があって、外見的なやり方や必要な集中力はほとんど同じであると書かれています。どの辺りから違いが出てくるのかあまりピンときていませんでしたが、どうやら今回のアナハタ優勢になる段階くらいで違いが出てくるような気がしてきました。<br /> <br /> ただ、これは流派によって違う言い方をすることがあって、実際のところヨガ系瞑想(一般にはそれはサマタ瞑想だと思われている)であっても内実はヴィパッサナー瞑想だったりしますので、一般論としてのお話をそのまま流派での瞑想の手法とをそのまま結びつけることはできないことを補足しておきます。<br /> <br /> ■心で観察するか、意識で観察するか。<br /> 今回竜巻の経験でアナハタ優勢になる前には、上に書きましたように「意識」がぼんやりとしていて観察がうまくできなかったのですが、それでもヴィパッサナー瞑想を試みる時は「心」で「感覚」を観察しようとしていましたが、これはうまくいきませんでした。そして、アナハタ優勢になった後は「意識」が「見る側(観察する側)」になったように思います。これは大きな違いです。<br /> <br /> 「心」で見るというのは、随分と回りくどい(というか本質的ではない?)ことだと今は思います。感覚が体のどこかで感じられて「意識」にザワッと来るのをそのまま観察すればいいだけなのに、わざわざそこから「心」が反応して「触れた」「離れた」「チクチクする」「サワサワする」とか、いわゆる雑念を作り出さなければならないからです。その心の動きにはエネルギーが必要ですから、意識で感じるだけであればとても省エネですし。<br /> <br /> むしろ、「心」すらも「見られる側」であるとすればスッキリします。「意識」が「感覚」だけでなく「心」も観察するのであれば、感覚の動きも心の微細な動きもよく観察できることになります。この状態においては、ありきたりの感覚は意識で観察して終わりですけど、普段あまり感じていない感覚が来た時に心が言語化するところまで観察できます。どのように感じていて、心がその感覚をどのように言葉として解釈するのかまで事細かに見るのがヴィパッサナー的瞑想だと思います。「感覚」は「ありのまま」で、「心」が「解釈」を司る仕組みを分離できることは、「ありのまま(の感覚)」は変化させずに後から「(心の)解釈」だけをやり直すことだってできますから。<br /> <br /> それはそうで、ヨガ的には「心」は「道具」であって、見る側(観察する側)ではありません。更には、ヨガでは「心は自分ではない」と言いますが、世間一般の精神分析などでは「心が私」とか言いますので、このあたりに混乱があります。ヴィパッサナー瞑想(観察瞑想)では「観察」という言葉に惑わされて、「私(であるところの心)が観察する」と勘違いしてしまいがちですが、実際は「心」ではなく「意識」で観察するということです。この辺り、人によっては「心」を「心と意識」という意味で使っていたりしますのでコンテキストの解釈が難しい時もあるのですが、ここでは心が「道具」で雑念や分析を司るとすれば、それを観察する側が「意識」という位置付けで書いています。<br /> <br /> ■「統合されたチャクラ」と「チャクラがわからない」感覚<br /> 以前何度か(1回目,2回目)「統合されたチャクラ」を取り上げましたけど、この種の状態ではチャクラがわからなくなることもありました。私のチャクラに関する感覚を以下にまとめておきます。<br /> <br /> <br /> ・クンダリーニ2回目経験前はチャクラの感覚がほとんどなく、特に下半身の感覚はゼロ。せいぜい瞑想やマントラ時に眉間がザワザワというかジワジワとした感覚になる程度。ムーラダーラは電気ショックのようなジワっというかピリピリした感覚が時々あり(特にプラナヤーマの時)。ハートに何かあるような無いようなぼんやりとした感覚のみ。他人の思いを感じると喉のあたりがイガイガすることあり。この段階は「チャクラが(ほとんど)わからない」状態だったと言えます。<br /> ・クンダリーニ2回目以降は体全体がポカポカと「熱」を浴びて熱かったです。特に下半身が熱かったですがムーラダーラからアナハタくらいまでの区別なく満遍なく暖かかったです。以前の記事2回目に書きましたように、オーラが発散している状態だったのだと思います。この時も、割と「チャクラが分からない」状態でした。<br /> ・やがて熱が収まり、今回の竜巻の経験で「暖」の状態になってアナハタ優勢になりました。ここに来てようやくアナハタとマニプラの区別がよくつくようになりました。その一方で、アナハタが優勢に変わっていわゆる「統合されたチャクラ」として次第に他のチャクラと合わさってゆくのを感じます。ただ、それはチャクラの区別がないのではなくて調和してチャクラが動作する種類のものです。ですから、チャクラは確かに存在するけれども、(私の場合は)チャクラの区別がつくようになったら割とすぐに「統合されたチャクラ」として協調して動き出したので、またすぐにチャクラが分からない状態になるのかな・・・ という気もします。<br /> <br /> <br /> ■ベジタリアン<br /> 私は完全なベジタリアンではないですが、今回の竜巻の経験の数ヶ月くらい前からお肉はほとんど食べなくなっていました。ベジタリアンは栄養に不安がありますしお肉やお魚もバランスよく食べたいとは思っていましたが、2年くらい前から少しだけお肉の頻度が下がって鶏肉中心に選ぶようになり、その後、1年くらい前から更にお肉の頻度が下がり始め、ここ数ヶ月に至ってはほとんど食べなくなっていました。とは言いましても日本では調味料や出汁および醤油などに魚などが使われていますので、厳密なベジタリアンを目指していたわけではありません。主なモチベーションとしては、単純に「お肉を食べると気持ち悪くなるようになってきた」というものです。ただ単に、食べてフレッシュできる新鮮な野菜や果物や何かを食べたいと思うようになっただけのことで、それがたまたまお肉の頻度を減らしただけのことでした。<br /> <br /> 特に豚肉は苦手で、たまに栄養のために味噌で味付けして食べたりもしましたが、最近はほとんど食べません。牛肉も栄養のために食べたりもしましたが、以前は美味しく食べていた気がするのですが、最近は食べても美味しく感じませんし、牛肉のステーキなどを食べたいとも思わないようになってきています。鶏肉はそれでも最近までたまに食べていたのですが、頻度はかなり落ちています。お肉が美味しいというよりもタレが美味しく感じていただけかもしれないです。昔の記憶で美味しい高い焼肉屋とかの記憶とかはありますけど、別にそんなの食べなくてもいいかな、という感じです。まあ、高い焼肉屋はそれはそれで美味しいのだとは思いますが。たぶん。<br /> <br /> ベジタリアン食に関しては今回の竜巻がはっきりとした境になっているわけではありませんが、お肉の頻度が下がってきてある程度の閾値に達したところで今回の竜巻の経験が起きたような感じです。竜巻の経験の前後にはお肉はほとんど食べたいと思わなくなっており、貰い物や外食などで頂くときは食べますが、積極的にお肉を食べたいというモチベーションはほとんどなくなっています。<br /> <br /> そもそも、最近の食事があまりにもシンプル過ぎて、特徴もなくなってきているというのもあるのですが。それでも修行者のように「おかゆと塩と1品」ってことはないですけどね。そこまでシンプルではありませんので、たぶん十分なのだと思います。<br /> <br /> <br /> <br /> <br /> Mon, 22 Jul 2019 00:00:00 +0900 「感じること」の意味 https://w-jp.net/2019/1548/ <br /> [風のルンの竜巻の経験から16日後]<br /> <br /> ■スピリチュアルでの「感じること」の意味<br /> 竜巻の4日後くらいから瞑想が変化して、その頃から眉間に意識を当てて感覚の観察をすると雑念が「ひらがな2〜3文字」で消えるようになりましたが、今日は雑念がほとんどなしで感覚を観察し続ける瞑想がある程度(30秒〜数分?)続きました。時間ははっきりとはわからないのです。と言いますのも、心でカウントしたりマントラ唱えたりするんのであればどのくらいの長さかわかるのですが、「感覚」の観察をして、その間の雑念が出てきてもすぐに雑念をなくす方向に意識が動いていますので時間はよく分からないのです。とても表現し辛いのですが、この観察瞑想の基本は「感覚」で、具体的には「息」を「感覚で感じる(観察する)」ことが基本で、それに加えて体の各所の感覚を感じます。その観察は意識の「深い」ところで行なっているのですが、その一方で、意識の「浅い」ところでいわゆる「心」が雑念として動き出すのですが、浅いところで「心」が動くと何かちょっと苦しさを感じるので雑念が「ひらがな1文字」出るか出ないかで体が拒否反応を示して「心」の雑念を押さえ込んでしまいます。この時、雑念がいわゆる「心」として出てくると「トゲトゲしい」感覚があって拒否してしまうのです。それは、雑念が「ひらがな0.5文字くらい」で消える感じです。こうなるのは瞑想が深まった時のお話で常にそうというわけでもないのですが、この種の状態になると観察だけがずっと続いて時間の感覚が薄れてゆきます。その上で、いわゆる「心」の荒い感覚には興味がなくなってゆきます。おそらくは、微細な感覚にフォーカスが当たっているのでそれよりも荒い心の動きは激しすぎて苦しく感じてしまうのかなとも思います。リラックスと言えばそうなのですが、喜びというのとはちょっと違っていて、安堵や安らぎと言った方が近いです。意識が「感覚」を観察し続けることが「細かな」感覚だとすれば、「心」の動きは「荒い」感覚です。昔はこの「心」と「意識」の違いがあまり区別できなかったのですが、最近は割とこの「細かな感覚」と「荒い感覚」の違いがよくわかります。これが、スピリチュアルでよく言われる「感じること」の意味なのかもしれません。この種の「微細な意識」は、いわゆる雑念を「(心で)聞く」とか「(心で)思う」とは違っていて、もっと根源の「感じる」感覚です。<br /> <br /> 心であれば「聞く(受信)」と「思う(発信)」が対になっていますが、今のところ、微細な意識に関しては「感じる(受信)」のみです。心が「発する」機能もあるのであれば「感じる(受信)」だけでなく感覚を「送る(送信)」機能もきっとあるのではないかと思いますが、それはまだわかりません。今は相手がいなくて1人で座って瞑想しているだけなので「(感覚を)送る(送信)」は今は試せていません。とりあえずは「感じる(受信)」ことをもっと続けてみたいと思います。<br /> <br /> ■いわゆる「無」と今回の状態の違い<br /> 以前に書いた「いわゆる無」は割と雑念が多い時のお話で、(微細な)意識も(荒い)心も両方「ギュッ」と抑えて停止させて一時的なくつろぎを得ていました。しかし、今回の場合は微細な意識は動いたままで、心はほぼ停止するものの以前のように力強く意思の力を働かせて「ギュッ」と抑え込む必要なしに心に雑念が浮かぶか浮かばないかの瞬時のうちに感覚的に自動的に「なにかの触媒」に反応してその心の動きが勝手に止まってゆく、と言う種類のものです。その状態を、(意識と比較すると荒い)心の動きのみに注目すれば「いわゆる無」と似てはいますが、意識で押さえ込んでいるわけではありませんし、今回の場合「意識」は動いていますので、今回の状態を「いわゆる無」とは言えない感じです。言うなればヴィパッサナー瞑想と言えるのかもしれませんが、私の知っている各流派のヴィパッサナー瞑想とも細かなところが違うので、そのまんまヴィパッサナー瞑想とも言い辛い感じです。別に、何か学んでこうした訳ではありませんが、色々と違う感じです。<br /> <br /> Sun, 21 Jul 2019 00:00:00 +0900 雑念が減り、「いま」に生きる https://w-jp.net/2019/1547/ <br /> [風のルンの竜巻の経験から15日後]<br /> <br /> ■「今に生きる」ことと「雑念」の相関関係<br /> 雑念がほとんどなく、心が曇りの少ない鏡、あるいは、風の少ない水面のように穏やかな状態こそが「今に生きる」ことなのだと思いました。と、言いますのも、雑念は往々にして「過去」あるいは「未来」に心を引っ張っていってしまうからです。未来の希望を想像したり、過去の思いに浸ったり。「雑念」と「今」とはなかなか結びつかないものだと思います。前に書いた、生活上でのヴィパッサナー瞑想(観察瞑想)も同じようなことを意味しています。今に生きているからこそ日常生活において全身を観察する瞑想ができますし、全身を観察できている時は雑念は少なくて落ち着いていて安らぎを感じられている筈です。<br /> <br /> 雑念がなければ「今」に生きていて体の状態が隅々まで観察できていて喜びあるいは安らぎを感じることができます。逆に、雑念がある時は「今」に生きていなくて体の状態も隅々まで観察できていなくて喜びあるいは安らぎをあまり感じられないのです。「今に生きる」ことと「雑念」には相関関係があるようです。<br /> <br /> スピリチュアルで「今に生きる」ことは重要だと散々色々なところで言われていますし、頭ではその事を理解していましたが、今回は体で強烈にこのことを体験しています。もちろん以前にも段々と雑念が減って、言おうと思えば「今に生きる」と言えなくもない変化もありましたが、それはあくまでも「点(その一瞬だけ)」としての「今」だったことが多く、今回のように「線(10秒以下の連続)」として「行動の間しばらく今に生きている状態を保つ」と言う意味においては竜巻の経験の後で初めて達した状態のように思います。竜巻の経験後、このくらいの状態がスピリチュアルでいう「今に生きる」ことなのかもしれないと自分の中で腑に落ちました。<br /> <br /> 今後、これが更に時間が伸びるのかあるいは面になってゆくのかわかりませんが、これまた、ありのまま「今」を観察していきたいと思います。ここで私は「今後の変化に期待したいです」とは言わないです。そう言う気持ちもなくはないですが、期待というのは未来への雑念ですので、今に生きるのであればその気持ちは本来不要な筈ですので。<br /> <br /> 「ライトボディの目覚め」によると、とある段階(第七レベル)において、はるかに「いま」のなか行動するようになると言います。<br /> <br /> このカルマ・ゲームではあなたの精神体は未来のなかで生きています。それはいつも「もしもこうなれば」というふうに生きているのです。感情体は過去の中で生きていて、あなたがかつて体験したことによって引き金が引かれます。だから、目の前で起きていることは、正確に言うとほとんど体験していないことになります。ライトボディ第七レベルにおいて、あなたは「いま」を体験しはじめます。それは本当に気持ちのいいものです。<br /> <br /> この書籍で言うところの第七レベルが私の状態に近い気がします。このレベルはアナハタ・チャクラが活性化し始める段階です。この文章で言うところの「精神体」とは未来への願望や希望、「感情体」は過去のトラウマなどと考えるとよくわかります。未来への希望や願望を考えることで今に生きることが難しくなり、過去のトラウマがあると今に生きることが難しくなります。確かに、このように2つに分けた方が分かりやすいですね。そして、このレベルに達して初めて「今」に生き始めるのだとすればなかなか面白い段階にまでようやく至ったとも言えると思っています。<br /> <br /> このことに気づいてから、瞑想の位置付けが少し変化したように思います。今までは雑念を減らしたり安らぎや平穏の境地が目的でしたが、ここにきて「今に生きる」ために瞑想を使うようになってきました。「今に生きていない時に瞑想をして今に生きるように自分を調整し直す」とでも言いましょうか。もちろん、今までのような瞑想がなくなったわけではなくて目的と言いますか使い方が1つ加わったと言うことですが。<br /> <br /> これは、竜巻の経験でアナハタ優勢になる前は(私にとって)なかなかできなかったことです。<br /> <br /> 「ライトボディの目覚め」の言葉を借りると「なんとなく追いついた」感じがしています。「いま」に生きることもそうですし、魂(スピリット)に従って生きることもそうです。以前は、頭でそうは分かっていてもどこかピンときていないところがありました。アナハタ優勢になって初めて「いま」に生きることや魂(スピリット)に従って生きることが体全体で理解というかしっくりくるようになって、今まで頭で考えて理解しいたところにようやく体全体の実際のオーラの状態がなんとなく「追いついた」のだと感じれています。「いま」に生きることも魂(スピリット)に委ねて生きることも、今まではどこか深く分かっていなかったのが、この書籍で言うところの第七レベルでようやく実際にそうなってきた、と言う感覚です。<br /> <br /> <br /> <br /> <br /> Sat, 20 Jul 2019 00:00:00 +0900 音の色。音の意味の言語化。エゴが小さくなる https://w-jp.net/2019/1543/ <br /> [風のルンの竜巻の経験から13日後]<br /> <br /> ■音の色<br /> 高周波のピーというナーダ音の上にザラザラしたザザザザザという音が上に乗っているのが「銀」で、それがもっとパワフルになると「金」という感じがしました。書籍とかで、音には色がある、という意味はこういうことかもしれません? 他の色はまだわかりませんけど。<br /> <br /> ■夢で作曲<br /> 夢の中で和音と合唱の額面を作曲していました。和音と声楽が組み合わさったメロディーがとても心地の良く、作曲を続けていたら何か気付きがあって「そういうことか!」と思った気がしますけど一瞬のことで気付きが足りなくて言語化できず、目が覚めたらすっかり忘れていました。聖典に書いてあります「音の言語化」に繋がるのかもしれないとも思いましたが、まだまだです。<br /> <br /> ■エゴが小さくなる<br /> 私はアサナ(体操)があまりできないのでヨガの先生になる選択肢はなかったのですが、理由はそれだけではなく、もし私が先生になったら「先生になった」というエゴが出てきてしまうので先生になるのは今の自分にとってはマイナスだと思っていました。しかし、今回の竜巻の経験でアナハタが優勢に変わったことにより、そのエゴのかなりの部分が克服されたかと思いますので、あとはアサナのスキルさえ上がればヨガの先生をやってもいいかな、という気になってきました。<br /> <br /> <br /> Thu, 18 Jul 2019 00:00:00 +0900 眉間の瞑想が安定。「統合されたチャクラ」とマニプラ https://w-jp.net/2019/1542/ <br /> [風のルンの竜巻の経験から12日後]<br /> <br /> ■眉間で安定<br /> 竜巻の経験の前は眉間に集中すると安定しないことが時々あり、後頭部への集中の方が安定していました。頭の上の集中についても同様で安定しませんでしたが、竜巻の経験の後は眉間も頭の上も、どちらも安定します。今は、特別に後頭部への集中ということを意識することもなくなりました。竜巻以前はマニプラ優勢でしたが今はアナハタ優勢ということと、竜巻以前は今ほど後頭部に何かがある感じはしていませんでしたが今は後頭部を特別に意識しなくても何かが常にある感じですので後頭部へ意識を集中する必要がなくて、ただ単に眉間に意識を置いて集中するかどうかだけのシンプルなお話になりました。<br /> <br /> ■「統合されたチャクラ」とマニプラ<br /> 以前引用した「統合されたチャクラ」はアナハタ中心のお話ですが、それ以前にも第2回目クンダリーニ後にマニプラが優勢になった時はチャクラがよくわからない感じになり、マニプラ中心という違いこそあれ「統合されたチャクラ」と言えなくもないものの似て非なる状態になった気がします。一部にチャクラ不要論とかありますけど、この状態なら勘違いするかもしれないです。<br /> <br /> このあたりに思いを巡らせていたところ(おそらく私のガイドから)インスピレーションが来て「(第2回目の)クンダリーニ開放直後はオーラが発散していただけだ」と言う説明と「神道の神秘(山蔭 基央 著)」にある「自分の御霊(オーラ)をお腹に収める」図が浮かんできました。同書によると「一般の人々の魂は、身体の周りにブワーッと錯乱している。それを凝集させるのが”鎮魂”である 」とあります。<br /> <br /> 同書によれば、最近のスピリチュアルやいわゆる霊感が強いと言われている人は実際にはオーラがだらしなく発散していて中心に収まっておらず、発散しているオーラが周囲と無秩序に反応しているだけで、それで霊感が強い気がしているが実際はコントロールされていない、修行が全然足りていない危険な状態だと言います。修行によって御霊(オーラ)を自分の中心(お腹)に収める必要がある、とのことです。あのままクンダリーニ直後で何もせずに「これで完成」とか勘違いしていたら同じようにだらしないオーラのままだったのかもしれない、とふと思いました。オーラは身体に被さるように離れて存在しており、同書の言うようにオーラがお腹の中にすっぽり収まるというのは私には良くわかりませんが、少なくともそれほど発散していない状態に最近はなってきたと思っています。クンダリーニ直後はオーラが発散しがちなのでコントロールが難しいですがそれでもしっかりオーラをコントロールしてチャクラがわかるような状態になって、それからヴィシュヌ・グランティを越えてアナハタに移行してからようやく「統合されたチャクラ」の状態ができてくると解釈しました。<br /> <br /> ■「心」は有限で無常だった。では、「私」も有限で無常とはどういうことか?<br /> 前に書きましたように、瞑想中に眉間の感覚を観察することで「雑念」が「ひらがな3文字」くらいで崩れ去る状態には割とすぐに入れるようになりました。これはいわば「心」が有限で無常であることを体感することだったと思います。今まで、聖典などで心は有限で無常だから心は魂(ヨガやヴェーダで言うアートマン)ではない、などと言う知識はあったものの、具体的にそれがどう言うことなのかあまりわからずにいました。今回、心のあらわれである雑念あるいは何がしかの思いが現れては消えることをまざまざと観察できたことにより、今まで知識だった「心とは無常である」と言うことを「体感」できたと思います。これによって、かなり私の中で「心」に対する執着と言いますか心に対する謎と言いますかベールが取れて、よりスッキリしたように思います。おそらく、単に瞑想して雑念が消えるのを観察しただけでは無常だと体感することはなくて前提条件としてヴィシュヌ・グランティを超えていたから無常だとわかったのだと思います。単なる集中力で観察することとハートで無常を体感することは違うとでも言いますか。<br /> <br /> これで、心は有限で無常だと言うことが瞑想で確かめられました。でも、これで瞑想の道が終わりとは思えません。次は何をしたら良いのでしょうか? と思って書籍をあたったところ、次の課題は「私」が無常であることを体感することだと思いました。一応、書籍には答えがそのものズバリ書いてはあります。「悟りの階梯(藤本 晃 著) 」には「『私』がいると思っていたが誤解だった。ものの無常だけではない。この『私』さえも、消滅を続ける心・認識の連続だけだった」と書いてあります。これは割と書籍でよく見るお話です。私は今の所「心の無常さ」は体験したものの、ここまでの境地には至っていません。昔に何度も読んだときは「心の無常」がまだ体験できていませんでしたのでこの認識に至る前提条件がまだ整っていなかったように思います。今、「心の無常」を経たことによって、この前提条件が一つ整ったのでは? と言う気がしています。他にも前提条件がまだ必要なのかもしれないですけど、少なくとも1つは前提条件を満たしたと思います。<br /> <br /> これは、いわゆる「私とは何か?」「私は誰か?」の瞑想だと思います。ラマナ・マハルシがよく問いかけていますね。そのあたりに更なるヒントがあるかもしれません。同じ書籍でも、自分の認識が変わってから再度読むと新たな発見があって面白いです。<br /> <br /> ■うなじ下(大椎?)の脈拍&ポカポカと、首後ろのポカポカはほとんど消えました<br /> うなじ下(大椎?)の脈拍とポカポカは前に書きましたように早い段階で消えて、つい数日前まで残っていた首後ろのポカポカはほとんど消え、まだ若干暖かく残っているくらいです。<br /> <br /> ■日常生活における「努力のいらない」観察瞑想(ヴィパッサナー瞑想)<br /> まだ常にそうできると言うわけではないものの、特に瞑想を終えた後、雑念がなくてそのまま日常生活の動きを続けられるようになってきました。そのとき、「努力のいらない(集中する必要のない、観察しようと思わなくても良い)観察瞑想(ヴィパッサナー瞑想)」ができている感じです。今までは、行動するときは何かの衝動あるいは雑念と共に行動してきましたので、観察すると言うよりは心を見ながら体を動かしていたと思います。しかし、体が動いている時に雑念がなければ努力なしに体の動きを細部まで観察することができることに気が付きました。今まで、ヴィパッサナー瞑想と言うと息だとか思考だとか感覚だとか「何か1点」を観察することだと思っていましたが、このような雑念がない状態ではもっと広く自分の動きを観察できますね。例えば、意識的にこの状態に入るために深呼吸をして最初は息に集中して雑念を停止させ、雑念は停止させたままで、息に対する観察をなるべく体全体に広げて行動します。すると、体が何やらふわふわと浮いているような、とても軽い、不思議な感覚になります。その時、体の各所、皮膚の上に薄くオーラが感じられます。ただ、まだそれほど気付きが深くありませんのですぐに状態が途切れてしまうのですが。<br /> <br /> 以前には目に意識を集中して似たように視野において隅から隅まで全部の動きを俯瞰するような観察瞑想をして面白く感じたことがありますが、今回は視野ではなく体の感覚で全身を観察瞑想するような感じです。流石に視野と体の感覚の両方は一度には観察瞑想は今のところできませんけど。<br /> <br /> ■四沙門果(ししゃもんか)<br /> 「悟りの階梯(藤本 晃 著) 」にはテーラワーダ仏教に基いた悟りの4ステージが説明されています。同書から引用します。<br /> <br /> <br /> ・預流果(よるか)無常だとわかったので「私」や「私の生涯」や「私の家族」や「私の所有物」などについて、何となく諦めがつくようになる。説法を聞くだけで至ることもできる。世間的な欲や怒りは、まだまだかなりある段階。<br /> ・一来果(いちらいか)煩悩がかなり弱まる。相変わらず欲しくなったり怒ったりするのですが、すぐに「まあいいか。こんな程度のこと」などと醒めてしまって、欲や怒りが大きくならない。欲しがっても、すぐに「まあ、別にいらないね」と思い直して気持ちが治る。怒っても、怒鳴ったりとか、夜中にわら人形を打つほどの執念はなく、「まあ、いいか。このくらいのこと」と、すぐに気分が穏やかになる。<br /> ・不還果(ふげんか)煩悩が断ち切れる。お腹が空くなどと言う感覚は残るが、欲望は消える。異性への関心がなくなり、心が揺れ動かなくなる。禅定に熟達している人がほとんど。「私」と言う感覚はまだ残っている。<br /> ・阿羅漢果(あらかんか)「私」がなくなる。「私」と言う感覚が消え、錯覚・誤解だったとわかる。「私」がなくなることで煩悩も完全に消える。完全に清らかな状態。<br /> <br /> <br /> これらと私の状態を比較してみます。<br /> <br /> <br /> ・預流果は私の基本で、生まれてこの方、こうではなかった時は思い当たりません。人生においてストレスを感じて調子を崩したりもしましたが、立ち戻るところは常にここでした。(表現としては預流果と言うのは当時は知らなかったとはいえ)<br /> ・一来果は第2回目クンダリーニ後の状態と似ている気がします。<br /> ・不還果は今回の竜巻の後は似た状態になっている気がします。特に性欲。<br /> ・阿羅漢果は「私」に関する謎解きはこれからの課題ですね。<br /> <br /> <br /> <br /> <br /> <br /> Wed, 17 Jul 2019 00:00:00 +0900 うなじ下(大椎?)と「首の裏」と「盆の窪(ぼんのくぼ)」 https://w-jp.net/2019/1541/ <br /> [風のルンの竜巻の経験から9~11日後]<br /> <br /> ■うなじ下(大椎?)と「首の裏」と「盆の窪(ぼんのくぼ)」<br /> 数日くらい前から脈拍の場所がうなじ下(大椎?)から少し上の首元に移動しておりましたが、本日確認したところ、脈拍は手で感じられない程度にまで治ってきている一方で、暖かさはまだ首元に残っていました。手で脈拍は感じられないものの、頭の下の方にある脈拍のような音と感触はまだ続いています。第2回クンダリーニの時の尾骶骨あたりの血液の脈動の時も一過性のものでしたが、今回も一過性のようです。ただ、以前もしばらく暖かい感じは続いていましたので、今回も同様に周囲が多少暖かい感じは続いているようです。<br /> <br /> そこよりも少し上に上がれば「盆の窪(ぼんのくぼ)」とか「大孔」とか呼ばれている場所になりますけど、暖かい箇所はそこまで上ではありませんね。誤差かもしれませんが。<br /> <br /> ■シャクティパッド<br /> 瞑想中のインスピレーションで教えられました。「ヨガの流派によってはグルによって弟子にシャクティパッド(Shakti Pat)(グルが弟子の額に手の指を当てて特別なオーラを送り込んで霊的成長を加速させること。流派によってはイニシエーションと呼んだりもする)が行われる。ある程度の浄化がされていることを条件にしている流派もあるが、弟子入りしてすぐに行う流派もある。条件があったとしてもシャクティパッドはクンダリーニ経験以前に行われることがほとんどで、多くの場合それはヴィシュヌ・グランティを超える段階(今回の竜巻の経験、第3回目クンダリーニ)より前、ムーラダーラのクンダリーニの経験(私の場合は第2回目のクンダリーニ)よりも前に行われるが、その場合、弟子の準備ができていない可能性が高く、弟子が調子を崩す可能性が多々ある。それ故にグルの監視とケアが不可欠で、グルがサイキックな目で監視をして遠隔で常に弟子の様子を見て、調子が悪ければサイキック的に遠隔あるいは直接的に整えるというきめ細かな対応が必要になる。インドではグルが不可欠と見なされているのは文化的背景のみならず、このあたりが理由になっている。しかし、今回の場合は段階を踏んでいるのでそういった危険性は少ない。ムーラダーラのクンダリーニを経て、次は今回のヴィシュヌ・グランティを経て、今はアナハタの段階というように順番を踏んでいるため、危険は少ない。これは(私の守護霊の)チベット系の方法。シャクティパッドの方がスピードは早いが途中の過程を飛ばすので途中のことは分からなくなる。(メッセージ主の意見としては)長期的な成長を考えるとシャクティパッドは良くない。時間をかけた方が良い。」どこまで本当かどうか確かめることができない事項も含まれていますが、とりあえずメモして、機会があれば文献を確認します。<br /> <br /> ■アナハタのピリピリ<br /> 瞑想中、胸のアナハタの皮膚あたりがピリピリと静電気を帯びていました。こんなことあまりないので不思議です。何でしょうか。様子見です。<br /> <br /> ■顔のピリピリ<br /> 今朝の瞑想中、顔全体がブルブル静電気で震えている感じ。特に左の頬が若干強め。こういうことは今まであまりなかったと思います。<br /> <br /> <br /> <br /> Sun, 14 Jul 2019 00:00:00 +0900 グランティ(半歩、壁、結節)は壊さずに調整弁として活用 https://w-jp.net/2019/1540/ <br /> [風のルンの竜巻の経験から8日後]<br /> <br /> ■グランティ(半歩、壁、結節)は調整弁<br /> 瞑想中、グランティは調整弁であると言うイメージが降りてきました。瞑想中のお話なのでこれまた根拠はなくておいおい聖典で確認していきたいですが、そのインスピレーションによると、それは調整弁であるから基本的な機能はオーラをその範囲に留めておくことで、上(アナハタ〜アジナ)のオーラはその中で混じり合い、下(ムーラダーラ〜マニプラ)のオーラはその中で交じり合うのが基本のようです。その上で、上(アナハタなど)で発生した低い波動のオーラは自動的にヴィシュヌ・グランティ(アナハタとマニプラの間)を通って下(ムーラダーラ〜マニプラ)に抜けるし、逆に、下で発生した軽いエネルギーはヴィシュヌ・グランティを通って上に行く。このことで、それぞれの場所に適したオーラを保ちつつも調整弁がフィルターの役割を果たしてそれぞれのエリアに適したオーラの純度が高まってゆくのだと思います。ですから、この調整弁がないとオーラが上下で混ざってしまってそれぞれに適した波動を「練る」あるいは「保つ」のが難しくなるのかな、と言うのが瞑想で得た理解です。<br /> <br /> ハタヨガではグランティ(結節)を「破壊」あるいは「解く」するのが基本となっていますし、西洋ではキリスト教の神秘主義の流派やいわゆる魔法と呼ばれているものを扱う秘術の流派は同様にこのグランティを「破壊」するのを基本としていますが、それは時に「アナハタ・ショック」とも言われる衝撃を胸に与えることになります。その結果、場合によってはオーラが混ざってしまうので荒いオーラが下(ムーラダーラ〜マニプラ)から上(アナハタ〜アジナ)にそのまま登ってしまえば意識がおかしくなるのも当然かなと言う気が致します。逆に、上(アナハタ〜アジナ)のオーラが下(ムーラダーラ〜マニプラ)に下がってしまえば本来は高度な神秘のエネルギーが程度の低い欲求やカルマと結びついて一見奇跡的ではあるけれども高度な理解や精神性に基づいていない神秘を作り出し、最終的には心身共に疲れ果てて自分も周囲にも破壊的な結果をもたらすであろうことが理解できます。<br /> <br /> 最近のスピリチュアルではこの種のグランティの破壊あるいは解くことはあまり重要視されていないと言いますか、ほとんど言及がないような気が致します。これは、グランティは本来「破壊」「解く」ものではなくそのまま利用するものではないか、と言うのが今回の瞑想における理解です。その理解は、私の今回の竜巻の経験の後の状態を観察したことによる考察も含んでいます。<br /> <br /> それとは別に、ヨガで言うところのナディ(エネルギーのルート)が詰まっているのならば詰まりを取らなければいけない、と言うのは似ているようでいてちょっと違うお話かなと思います。確かに、調整弁でありますから構造が複雑でそこは詰まりやすいのではありますが、構造が複雑であるからこそ慎重に掃除やメンテナンスをしなければならないのであって、調整弁が錆び付いていて固まっているからと言って調整弁を丸ごと壊して通過してしまうのは乱暴なのかなと思います。<br /> <br /> まあ、こんな解釈はどこにも見たことがありませんので、私はここにメモ的に書くだけで、わざわざ他所で言ったりしませんけどね。<br /> <br /> ■ハタヨガではグランティを破壊するのに「バストリカ」呼吸法を使う<br /> ハタ・ヨガ・プラディーピカには、「グランティを破壊するにはバストリカしかない」と記載されています。バストリカは危険な呼吸法と言われており、流派によっては「経験豊富なグルが監視している時以外は、一人でバストリカを行なってはいけない」とされていたりします。これも、上記のことを考えれば当然なのかなと思います。本来は機能すべき調整弁を壊して神秘的な成長(?)のために活用するのですから、普通ではないことをするのであればその行法に精通したグルがいないとおかしくなるのも当然かなと思います。<br /> <br /> ■胸のエネルギーの高まり<br /> 竜巻の8日後(2019年7月13日)、横になって休んでいたらムーラダーラの会陰がピリビリし初めて、何か電気の塊が下から入ってきたかと思えばゆっくり背筋を通って胸まで上がりました。上がる途中、細い管を無理やり広げながら通っている感じで、ちょっと圧迫感がありました。アナハタあたりで止まりましたが、その後、胸や上腕および頭の下半分がとてもポカポカするようになりました。何でしょう、これ。以前は似たようなポカポカが下腹部あたりでずっとありましたが、今は似たようなポカポカが胸であります。熱と言うほどではなりませんが、竜巻の経験の後の「暖」よりはちょっとだけ「熱」に近い感じです。第2回クンダリーニの後の熱と竜巻の後の「暖」を足して2で割ったくらいの中間的なポカポカでしょうか。<br /> <br /> ■喉のガラガラ感が薄れました<br /> 竜巻の前も、事あるごとに喉がガラガラする詰まったような感覚が度々あって、恐らくは私はヴィシュッダが弱いのだとは思いますが、特に竜巻の後はずっとガラガラする詰まったような感覚が続いていたのですが、竜巻の8日後(2019年7月13日)の瞑想中に喉の感覚が変わって、喉が弾力のある肌に変わって乾燥っぽいガラガラ感が減って随分と楽になりました。これでヴィシュッダが優勢になったわけでもなさそうですが今まで弱かったのが多少ながら普通にまで回復してきた感じです。<br /> <br /> ■クンダリーニを「上げる」時間軸とその範囲<br /> ハタ・ヨガ・プラディーピカなどヨーガの聖典ではクンダリーニを「上げる」ことを重視していますが、その時間軸と上げる範囲が流派によって異なる気がしてきました。要点は以下でしょうか。<br /> ・グランティを破壊するのか、残して活用するのか<br /> ・クンダリーニを上げる時間軸はどのくらいか<br /> ・クンダリーニを上げる幅は、どこからどこまでか<br /> <br /> ハタヨガ系は「グランティは破壊する」「クンダリーニを上げる時間軸は数十分〜数時間」「クンダリーニを上げる幅は、ムーラダーラから上げられるところまで。アジナやサハスララを目指してサハスララから上にクンダリーニを逃す」と言う感じでしょうか。古典的なキリスト教神秘主義の流派や魔法などの流派もヨーガを学んでいますので実際はこの辺りは割と似通っている気がいたします。一方、一部のスピリチュアル系(神智学系も?)は「グランティは破壊しない」「クンダリーニを上げる時間軸は数ヶ月〜数年」「クンダリーニがムーラダーラ〜マニプラにある段階と、アナハタ以上にある段階に分ける」と言うように特徴が違う気が致します。これは、流派によってかなりバリエーションがあると思いますので必ずしもこの通りとは限りませんが、大体の方向性はこんな感じかなと思っております。<br /> <br /> ■流儀と情緒不安定<br /> ハタヨガ系のヨーギは、素晴らしい方もいらっしゃいますが怒りの沸点が低い方も散見されます。これを上記のグランティの視点から考えますと、グランティを破壊してしまうと情緒を司るマニプラと高度な意識であるアナハタとが混ざってしまって情緒不安定になるのも当然かなと言う気が致します。グランティが破壊されていますとムーラダーラの低いエネルギーがアジナの方にまで流れてしまいますので、意識が成長していない状態でもムーラダーラのエネルギーがアジナまで流れるのでそれでもアジナの力は出せるのかもしれませんが、エネルギー的にムーラダーラとアジナとは調和しませんのでムーラダーラのエネルギーでアジナを使うとおかしくなるのも当然かなと言う気が致します。同様に、アジナやアナハタの高いエネルギーがマニプラに流れ込んで霊的な能力であるとか呪術などに応用して一見すると奇跡のようなことを起こせるかもしれませんが、その結果はやはり情緒不安定なのかなと思います。<br /> であれば、グランティは破壊せずに、呪術や魔術なども求めずに、清正と基本に忠実にそれぞれの段階に応じた精神修行をしてゆくのが一番いいのかなと思います。<br /> <br /> ■「ムーラダーラとアジナは直結している」の謎は解けた?<br /> 有名なスワミ・サッチャナンダの説明が「密教ヨーガ(本山博著)」に掲載されていますが、それによると「ムーラダーラはアジナと直結している」と言います。これは、主要ナディであるスシュムナ・イダ・ピンガラが直結しているからと説明がありますが、そうであれば他のチャクラも直結しているので、なぜムーラダーラとアジナだけが特別なのかと疑問であり、この説明には納得がいきませんでした。実際、第2回クンダリーニが起こってムーラダーラが活性化してもアジナが活性化したように私は思えませんでした。スワミ・サッチャナンダの説明に基づけば、アジナ・チャクラを目覚ますためにムーラダーラをまず目覚めさせると言います。今思うのは、これはバストリカ等でグランティを破壊しているヨーギにのみ適用可能な方法なのかなと想像しております。確証はありませんけど。グランティが破壊されていればムーラダーラのエネルギーがアジナまでおそらくそのまま通じますのでムーラダーラを目覚めさせることがアジナの目覚めの行法にそのまま通じるのだと想像できます。であれば、グランティを破壊していなければいくらムーラダーラを活性化してもアジナの目覚めには繋がらないのも納得です。<br /> <br /> 実際、いまアナハタが活性化した状態にあってはエネルギーはムーラダーラ優勢ではなくアナハタ優勢ですので、アナハタとアジナは近いので、わざわざムーラダーラを活性化させる必要があるようには思えません。まあ、私はアジナはまだ動き出していないので今のところは仮定でしかないのですが。<br /> <br /> ■クンダリーニの居処<br /> 基本的にはクンダリーニの居所は背骨の一番下、尾骶骨のあたりに眠っていますが、どうやらクンダリーニが目覚めた後は居所それ自体が移動することもあるようです。このあたりは秘技のようなので書物では詳しくは述べられていませんが、「チャクラ」(C.W.リードビーター著)の以下の記述からこの辺りが読み取れます。<br /> <br /> 瞑想を終わるときには、クンダリニーをムーラダーラへと戻す。ただし、ある場合には、心臓のチャクラに戻す。そこで、クンダリニーの部屋とよばれる場所に入れるのである。クンダリーニは臍のチャクラにあると記した文献もあるが、ふつうの人では、クンダリニーはここには見られない。これは、既にクンダリニーを目覚めさせた人たちのことを言っているのであって、このチャクラの中に「蛇の火」のエネルギーが貯えられていることを言っているのであろう。 <br /> <br /> これ以上の説明はありませんが、これだけでもかなりの情報が読み取れます。<br /> ・普通(クンダリーニをまだ目覚めさせていない人の場合)はクンダリーニは尾骶骨に眠っている<br /> ・クンダリーニを目覚めさせた後は、クンダリーニは次第に尾骶骨からマニプラに向かって移動して、そこを居所とする(と私は解釈する)<br /> ・クンダリーニの居所は更に上昇し、(ヴィシュヌ・グランティを超えた後は)アナハタ・チャクラ(ハート・チャクラ)に移動してそこを居所とする(と私は解釈する)<br /> <br /> ここで言う「そこを居所とする」とは、瞑想中やヨーガ行法中だけでなく普段の生活においても24時間常にそこにエネルギーが居続けると言う意味です。クンダリーニのエネルギーが行法中は意識で移動することがあるとしても、基本は上記の場所にエネルギーが居続けると言う意味です。ただし、これは恐らくは流派によっても違うのかなと思います。グランティを破壊してしまった場合はこうはならずに常にムーラダーラやマニプラあたりに居留まる気もしますが、私はグランティ「破壊」は体験していないのでただの仮定です。<br /> <br /> ■グランティは「破壊」? 結束を「解く」?<br /> 私はヨガをしていますのでこれからバストリカとかも練習する機会がある気がしますが、ここまで理解してしまったならば、バストリカ等で今更グランティを「破壊」しようとは私は思わないです。一応、課題が与えられたら練習するとは思いますが・・・。<br /> 昔は聖典を読んでグランティ破壊(結束を解く)ことを「へえ」と思っていたのですが、これまた聖典の難しいところで、もしかしたら原典の意味は文字通り「結束を解く」ことなのかもしれないですね。それを、後の人が間違って解釈して「破壊」だと解釈してしまった。そうとも想像できますけど、昔のことですので想像でしかありません。<br /> もしかしたら、間違って破壊してしまわないようにグルが監視するのかもしれません。流派次第なのかもしれませんが。<br /> <br /> <br /> <br /> <br /> Sat, 13 Jul 2019 00:00:00 +0900 瞑想の深まり。ディヤーナへ? https://w-jp.net/2019/1539/ <br /> [風のルンの竜巻の経験から7日後]<br /> <br /> ■瞑想の深まり。ディヤーナへ?<br /> 上記のように、竜巻の経験の直後から瞑想の質の変化が起きて瞑想が深まるようになっていたのですが、1週間後くらいから更に変化がありました。竜巻の直後は雑念はまだ浮かび上がっていて、浮かび上がるけれども「ひらがな3文字」くらいで発散して消えてなくなるような状態でした。それはそれで以前と比べると瞑想の質は深まっていたのですが、ここにきて、風のほとんどない水面のような、時々、アメンボ(と言っても通じないかな? 水面を移動する小さな虫です)が作り出す波紋が広がる程度の静かな瞑想に変わってきました。<br /> <br /> 何が変わったのかと言えば、簡単に言えば「瞑想が深まった」と言うことなのですが、どのように深まったかを観察してみると、その鍵は「感覚を観察すること」だったように思います。雑念が上がった時に雑念を観察すると多少ながら心に波紋ができます。雑念を観察する場合は雑念に反応しなくても雑念が行き過ぎるまで雑念そこにある状態になります。はたまた、ナーダ音に集中する瞑想の場合は心は落ち着いているのですが雑念は同様に行き過ぎるまでそこに存在しています。しかしながら、「感覚」を観察すること、具体的には眉間や頭の冠状にピリピリと帯電している感覚を観察していると、何故かは分かりませんが、前に書きましたように「ひらがな3文字」くらいで雑念がバラバラになって消えてなくなります。1週間前は単に瞑想の深まりかと思っておりましたが、必ずしもこのように「ひらがな3文字」で雑念がバラバラに消えるわけでもなく、雑念がバラバラに消えるための条件は何かと思って色々試したところ、どうやら「感覚」を観察すると雑念がバラバラになることに気が付きました。ただし、竜巻の経験の前は同様に感覚を観察してもこんな感じに雑念がバラバラにはならなかったので、何か前提条件があるのだとは思います。竜巻直後は「うなじ下(大椎?)」に脈拍の感覚がありましたが次第にその位置が上がってきており、1週間後には両耳の中央および眉間に近いところまで脈拍の感覚が感じられるようになってきていました。眉間の少し中で脈拍を感じるのは以前はなかったことですし、と同時に、冠状に頭をぐるりと帯電しているような感覚も出てきました。その眉間の脈拍と冠状の帯電を観察していると雑念がバラバラになるのです。これは不思議です。<br /> <br /> そして、瞑想中にそのようにして雑念がバラバラになるのをしばらく観察していたら、やがては雑念のない時間が次第に増えてゆきました。風の吹かない水面の状態です。その時は、私の意識は眉間の脈拍をただ観察し続けています。すると・・・、急にどこかから意識が飛んできました。「定のある・・・」「(それが)ディヤーナだ」。ディヤーナとはヨガ・スートラの1つの段階で、邦訳は「瞑想」ですけれども、これは割と狭義の瞑想を意味します。世間一般で言われている広義の瞑想は座って目を瞑ることだったり色々意味しますが、ここで言うディヤーナは精神がそれなりに安定した状態を指します。私はこのディヤーナを本来の意味で初めて体験したのかもしれません。「定」は広義ではサマーディのことも意味したりしますがここでは単に心が静まっていると言うくらいの意味だと思います。とは言っても瞑想中のインスピレーションですので間違っていることも多々ありますので「そうかもしれない」と言うくらいの仮定にはなりますが。瞑想中の直感はその正しさを後から確かめる必要があるのですが、まあ、当たらずとも遠からずかなと言う感じはします。<br /> <br /> ここで、私は「感覚を観察」してみたのですが、実はそれは原始仏教のヴィパッサナー瞑想に発想を得ていて、今まではヴィパッサナー瞑想の「感覚を観察」することがそれほどピンときていなかったのですが、こんなにも絶大な効果があるのならばこれは良さそう、と今回思いました。ただ、前提条件が厳しそうな感じはします。<br /> <br /> ■脈拍の場所が頭の下の方に移動<br /> 1週間経ちましたが、前に書いた「耳たぶが波打って音を聞いている」感覚はそのまま残っているのですが、音の出所が「うなじ下(大椎?)」からちょっと上がって頭の下の方に移動したような感じです。聞こえ方としては耳の周囲から聞こえているような気もするのですが脈拍の感覚は頭の下の方にあります。様子見です。<br /> <br /> <br /> <br /> <br /> <br /> <br /> Fri, 12 Jul 2019 00:00:00 +0900 マニプラからアナハタへ。「好き」の感覚。性欲の昇華。 https://w-jp.net/2019/1538/ <br /> [風のルンの竜巻の経験から6日後]<br /> <br /> ■「ムーラダーラ・スワディスタナ・マニプラ」の段階から「アナハタ・ヴィシュッダ・アジナ」の段階へ<br /> 上記を総合すると、どうやらこの後はアナハタ・ヴィシュッダ・アジナが段階に進むと言うよりはアナハタとヴィシュッダとアジナの3つが協調して成長する段階だと解釈できます。これは、最近の瞑想でアナハタだけでなくヴィシュッダやアジナ(眉間、後頭部など)の感覚が竜巻経験後に急に色々と感じられているので、きっとそうなのかなと言う気がしています。この3つが次第に優勢になってゆくのかな、と言う気がしています。<br /> <br /> ■感情の変化。「熱」が喜びで「暖」は落ち着き。禅定との関連。<br /> 感情的にも変化があって、第2回目のクンダリーニ後はとにかく喜びがありましたが、今は喜びよりも落ち着きがあります。前記事に記載したように第一禅定が「喜び」で第二禅定が「思考が止まり、楽になる」ですが、禅定の深まりがチャクラの段階と似ているのが興味深いです。言うなれば第2回目のクンダリーニ後・竜巻前が第一禅定と似ていて「喜び」で、竜巻後が「思考が止まり、楽になる」という感覚と似ています。<br /> <br /> 第2回目のクンダリーニ後は「ムーラダーラ・スワディスタナ・マニプラ」が優勢になり、感情的にも「喜び」になり、今はとりあえずアナハタ優勢で、ヴィシュッダとアジナはそれほど優勢ではありませんが感覚が出てきており、感情的にも「落ち着き」と言うか、鏡で自分の表情を見ても割と普通な感じになってきています。第2回目のクンダリーニ後は変化が激しくて、とにかく嬉しくて表情に喜びが出るくらいでしたが、今は表情は割と普通な感じです。それでも胸のポカポカはあるのですが、外目にはもしかしたら以前の第2回目クンダリーニ後・竜巻以前の方が輝いて見えていたかもしれませんね。人間っぽさを醸し出すいわゆる情とか感情的な愛着を司るのはマニプラで、アナハタは愛を司るとは言っても情とは違う愛を司るので、なかなかこの感覚を表現するのは難しいかもしれません。感情的に言うなれば竜巻後は上のように第二禅定での「思考が止まり、楽になる」とでも言うのでしょうが、マニプラでは物事に対して良い悪いの区別があってそれに「共感」をして情で癒すような愛着のような執着のような感覚があったのに対し、アナハタにおいては良いことも悪いことも全て宇宙の法則に従って動いているのだから何一つ悪いこともないのだと言う平安な境地が得られるのだと思います。マニプラにおいては他人に同情して助けたりする感情や哀愁が働きますが、アナハタにおいては感情や哀愁で動くと言うよりはもっと深いところからの訴えというか要求が伝えられた時に必要ならば助けるというか勝手に体が動く、というような違いがあると思います。<br /> <br /> ■性的欲求の違い<br /> 前記事に書きましたように第2回目クンダリーニでは性的欲求がかなり減ってエネルギーがポジティブなものに変化と言いますか性的なものに根元エネルギーが使われずによりポジティブなものに使われるようになりましたが、それでも、多少は性的欲求は残っていました。その時点でかなり性的欲求は減り、コントロールがとてもし易くはなったものの、性的な欲求に惹かれると時々は下の世界に落ち込むこともあったように思います。その都度、ポジティブなものに集中し直したり瞑想したりして一時的に下の世界に落ち込んでいた自分の状態をポジティブで上向きな状態に引き戻していました。今回の竜巻の経験の後はその落ち込み具合が軽傷になったと言いますか、性的欲求自体が一段上のポジティブな状態に変化したような気がします。もともと第2回目クンダリーニの時点でかなり性的欲求はポジティブなものに解消され、数値化するならば性欲が10分の1になってその分だけポジティブなエネルギー、生命力に使われるようになって元気になりましたが、その時点では残された性欲のコントロールやその質の「ポテンシャル」はまだ元の質で性欲の量だけが10分の1になったように思います。竜巻後は、その残された性欲の質自体が変わってきたように思います。以前は、性欲が減ったとはいえ質は元のままで、性欲が優勢になると割と昔ながらの肉欲と言いますか普通の性的欲求がそれでも残っている感じではありましたが、今は、完全とは言えませんが性欲の質自体がポジティブなエネルギーに変わってきましたので、今の状態で性欲が優勢になったとしてもそれはポジティブなエネルギーの活性化に近いものに変わってきたように思います。この辺り、なかなか言葉で説明するのが難しいです。性欲自体がなくなったわけではないのですが。 数値で書くと以下のようになります。<br /> <br /> <br /> ・ヨガを始める前は性欲150で制御が困難な状態<br /> ・ヨガを初めて性欲がコントロールしやすくなる。性欲100、その後少しづつ低下<br /> ・第2回目クンダリーニで性欲10へ<br /> ・今回の竜巻の経験で性欲1へ<br /> <br /> <br /> ■特に対象はないのですが、とにかく「好き」な感覚が続きます<br /> 第2回クンダリーニ後はポジティブになって「喜び」の状態が続きました。それは愛とも言えますが相手に対する愛ではなく自分自身への愛でしたので誰かと話してニコニコしていて外目には私がその人を好きかのように見えたとしても、そのニコニコと喜びは誰に対しても同じく感じるニコニコと喜びでしたので、勘違いされているかもしれない場面もありました。その時の「喜び」は情愛というほどドロドロしてはいなくて割とクールな喜びではありますが、それでも「熱」のある喜びでした。そんな感じで、近くにいるものや人に対して自然に分け隔てなく喜びを感じていました。自分自身がポカポカして喜んでいるのが基本にあって、割と周囲のものや人に対しても同じように接しているような感覚です。誰がいるから好きだとか、そういう条件付きの感覚ではありません。でも、それはその後次第にその感情は落ち着いてきて、「喜び」は感情の少ないものに変わってきて、時々平衡感覚を失って調子が狂う時もあったのですが、今回の竜巻でこのあたりに大きな変化がありました。<br /> <br /> 今回の竜巻の後は、とにかく「好き」な感覚が続くようになりました。前の「熱」ほどはポカポカしていませんが、「暖」というくらいがちょうど良いかもしれません。「好き」とは言いましても、特に何か対象がある訳でもありません。不思議な感覚です。私の心はこの種の感覚を味わったことがあまりないので、困惑しています。困惑しているので、心は何か対象を求めてしまっている感じです。心が言うには、「これは何か理由があるのだろうか。この好きな感覚の対象はどこにあるのだろうか」と。昔ながらの癖で何か対象を求めてしまいがちですが、好きであることに特に何か理由がある訳でもなさそうです。誰かを好きになったり何かを楽しみにしていたり何かに期待していたりという訳でもなく、とにかく理由もなく「好き」なのです。あえて言うのであれば「地球さん大好き」とでも言うのでしょうが、確かにこの地球は素晴らしいとは思うのですが、この「好き」の感覚は特に対象がなくてもいいというか実際に対象はないので「地球さん大好き」と言うのも微妙に違う気もします。恋愛などにおける「情」に基づいた「恋」や「好き」とは違う感じです。理由はありませんがとにかく「好き」なのです。家族愛に近いものでしょうか? 家族が近くにいるとこんな感じかもしれません。この感覚は家族がいるいないに限らず続く、不思議な感覚です。まだ竜巻経験後数日しか経っていないので様子見ではありますが。おそらくは、私の心の「癖」がまだ残っていて、今まではこの感覚に対して対象があったので昔の癖で「心」が「対象」を求めてしまっているのだと思います。しかし、やがて心は対象を探すのに疲れるかあるいは探すのを諦めて、「好き」の状態のまま留まるのかな、という予感がしています。今はちょっと過渡期なので心が混乱していますし、心がその対象を探してもどこにも見つかりませんし、「好き」の対象は「ハート」でもなくて心それ自身でもなくて、どこを探しても見つかりません。今の所は、瞑想と同じように心を集中して落ち着かせることで混乱を治めていますが、おそらくはそのうち落ち着くだろうという予感がしています。又、これは瞑想中だけでなく平素の生活の中で心を落ち着かせる段階、いわば生活そのものを瞑想としてゆく段階にそろそろ来ているのかもしれないと感じています。その予感もあります。<br /> <br /> ■目に見えない自分の体から異物を取り除く<br /> そういえば、この竜巻の経験をした日の前日の晩だったか当日の朝でしたか、とても気分が悪かったことを思い出しました。このことと風のルンの竜巻とがどれだけ関係しているのかは分かりませんが、これらは時間的に半日以内に起きたことですので、一応、書いておきます。その時、根拠はないのですが何か体の上半身から右腕にかけて引き裂かれているような気がしていました。この感覚は、外出後にたまにある感覚です。おそらくは外で何か目に見えない重いものを拾ってきたのかなと理解していました。大体の場合は軽くシャワーを浴びれば治るのですが、この時はまだ感覚が残っていました。その時、布団の中で横たわりながら、私はそれは何なのかイメージを試みていました。おそらく、としか言えませんが、右腕の肘の上あたりから心臓にかけて、蔓のような、あるいは、触覚のある意識体かもしれない何かが絡んでいるイメージが出てきたので、これまたイメージで右手をピースの形にしてから人差し指と中指を少し折り曲げて絡んでいる蔓のようなものを引っ掛けて引っ張り出して外に放り投げたところ、楽になりました。頭のズシンとした感覚が急に緩んで緊張が取れたので、これは確かなものです。何かエネルギーを吸い取られていたのかもしれません。スピリチュアルなことって最近は楽しいことばかりフォーカスされていますけど、この種の異物に限りませんけど割と怖いことが多いと言うのが私の印象です。蔓を出したことで大分楽にはなったのですがまだ何か体の中に残っていないか更に探りを入れて、心臓のハートのあたりにまだ絡んで残っている細い糸のようなものも引き抜いて、ハート周囲にあるネバネバとした蜘蛛の巣あるいはネットのようなものも掃除しました。引き抜いた後はイメージ上でその傷跡を埋めるような感じで表面を揃えて処置完了しました。まあ、イメージ上のことですけど、緊張は急に取れましたし、これだけでもかなり心境は違うのです。実際はプラシーボかもしれませんけど、たとえプラシーボだったとしてもメンタル的に効果があるのならばそれはそれでOKだと思っています。スピリチュアル的な観点から言えば、エネルギーを好物にしている異界の変な意識体が絡みついてきた可能性、あるいは、誰かの能力で他人からエネルギーを吸い取るパイプを植え付けられた可能性があります。まあ、ほとんどの人はこう言うことに無頓着で、信じられない人も多いでしょうけどね。スピリチュアル的な「技」ってのはかなり危険で、自分が力をつけるかあるいは強力な守護霊に守られてでもいないと割とこの世界は危ないと思います。前にも書きましたが、術としての強さと霊的な成長とは比例しないので邪悪で強い存在もいますから怖いのです。<br /> <br /> <br /> <br /> <br /> Thu, 11 Jul 2019 00:00:00 +0900 統合されたチャクラと「半歩」(グランティ相当) https://w-jp.net/2019/1537/ <br /> [風のルンの竜巻の経験から5日後]<br /> <br /> ■フラワー・オブ・ライフに基づくグランティの解釈<br /> スピリチュアル系の「フラワー・オブ・ライフ 第2巻(ドランヴァロ・メルキゼデク著)」では、おそらくグランティに相当するものを「半歩」として紹介しています。それは2つあって、「マニプラ・チャクラとアナハタ・チャクラの間」と、「アジナ・チャクラとサハスララ・チャクラの間」にそれぞれ存在しています。「ひとたびエネルギーがこの半歩(マニプラとアナハタの間)を発見し、そこを通過すると、(エネルギーが)心臓や喉や脳下垂体、松果体に流れて行きます。そしてまた新たな壁または半歩に突き当たり、流れが止められます。今度の壁(半歩)は後頭部と脳下垂体の間にあります。」とのことです。又、興味深い記述としては、ハート・チャクラとヴィシュッダ・チャクラの間で同書の言うところの「虚空(Void, ボイド)」を通過して極性が 「女性」から「男性」に変わるとの記述があります。ムーラダーラから女性のエネルギーが入ってきてアナハタまでは女性で、その次に「虚空(Void, ボイド)」を通過してヴィシュッダ以降に男性の極性に変わります。位置的に「虚空(Void, ボイド)」および「極性の変換」と「うなじ下(大椎?)」は何か関係があるのかもしれませんので気になりますが答えは同書にはなさそうです。<br /> <br /> 同書の解釈に基づいて私の内的感覚を解釈すると、該当箇所のグランティそのものの感覚はないのですが、2回目のクンダリーニ経験の後はマニプラでエネルギーが止まっていてそれ以上になかなかエネルギーが上がっていかない感覚がありましたので、マニプラとアナハタの間にグランティと言いますか「壁(半歩)」があると言うのは納得できます。これは言い方の問題で、通説のように「アナハタの中にある」と言ってもさほど違いはないのかもしれませんが、以前はアナハタの感覚があまりなかったのに対して今は感覚がありますので、「アナハタの中」にあるとすればグランティが破れる前であってもアナハタの感覚があっても良さそうです。であれば、マニプラとアナハタの間にあるとする方がしっくりきます。<br /> <br /> 同書によれば、スピリチュアル的に成長するまではマニプラまでで人生を過ごし、「壁(半歩)」を超えるとアナハタ〜アジナの霊的生活を送るようになる、と言います。確かに、よく書物で見るように1つづつチャクラが進むと言う説明文は内的感覚と比べて違和感がありましたが、このように、セットで段階を進むと言う方がしっくりきます。チャクラと「壁(半歩)」の関係を踏まえて「壁(半歩)」を超えると大きく霊的に成長するとする同書の主張は現実に合っている気がします。<br /> <br /> ■統合されたチャクラ<br /> そう言えば「Meditation and Mantra (Swami Vishnu-Devananda著)」や「ハタ・ヨガ・プラディーピカ(Hatha Yoga Pradipika、Swami Vishnu-Devananda著)」にも「チャクラは1つづつ発達するのではない」と言う説明がありましたね。こちらには「壁(半歩)」の説明はあまりなくて、グランティの説明として、グランティを破らなければ霊的成長はない、と言うような説明だったと思います。こちらの書物では「チャクラは1つづつ発達するのではなく全てのチャクラが融合して働く」と記載してあったと思います。確かにそれは「壁(半歩)」を超えた後ではそうなのかなと思いますし、第2回目クンダリーニ経験してしばらくはそんな気がしていましたが、やはり基本はこの「壁(半歩)」は存在していますし、いくら第2回目クンダリーニで多少のエネルギーが壁(半歩)を超えて上がったような気がしていても、やはり今回改めてきちんと「壁(半歩)」を超えるまではちゃんとは超えていなかったのかな、と言う気がしています。この、チャクラが連携というか統合して全てが大きなチャクラになることとグランティや壁(半歩)の関係は、体験して見るまではなかなかピンときていませんでしたが、今はまあ、たぶんこんな感じだなというのがわかりますが、なかなか説明が難しいところがあります。<br /> <br /> 別のスピリチュアル系の書物「ライトボディの目覚め」によると、とある段階(第七レベル)になるとハート・チャクラ(アナハタ・チャクラ)が優勢になり、やがて他のチャクラもすべて開きだし、チャクラ・システムが溶け合って「統合されたチャクラ」と呼ぶものになるとのことです。尚、同レベルでは松果体と脳下垂体が開き出すとありますので、上記の書物の記載とも段階的に整合性があるような気がします。おそらくは同じ段階を違う表現をしているだけなのかなと思います。ヨーガ的で言うところのヴィシュヌ・グランティを超えてハート・チャクラ(アナハタ)が開き出した段階を、スピリチュアル的に表現しているようです。それぞれの視点があって参考になります。<br /> <br /> 第2回目のクンダリーニ後はお腹のあたりが中心に熱を帯びて体がポカポカしていたのですが、その時もこの「統合されたチャクラ」と言おうと思えば確かにそんな感じに言えなくもないような、体全体が包まれて全体がチャクラ化しているような、どこがチャクラかよくわからないくらい体全体が活性化された状態になっていたのですが、それはマニプラ中心の体全体のポカポカであって、それは「ライトボディの目覚め」で言うところの「統合されたチャクラ」とは違って、同書における「統合されたチャクラ」はその次の段階の、アナハタ(ハート)チャクラによって統合されたチャクラの状態を言うのだと思います。<br /> <br /> <br /> <br /> <br /> <br /> Wed, 10 Jul 2019 00:00:00 +0900 ガタ段階の「太鼓」と血液の脈動音。瞑想の質の変化 https://w-jp.net/2019/1536/ <br /> [風のルンの竜巻の経験から4日後]<br /> <br /> ■ガタ段階の「太鼓の音のような音」<br /> その次のガタ段階の「太鼓の音のような音」というのは具体的にどんな音なのか微妙なところですが、竜巻の後は静かにしていると異様に「心臓のドクンドクンという振動音」が聞こえてきます。「これはナーダ音ではなくて肉体の心臓の音ですよね・・・」 と自分で解釈しているのですが、この心臓の音が「太鼓のような音」と言えなくもないです。でも、自分の心臓の音なんて今までそうそう聞こえたことないので、一体どういうことなのかなあ、と不思議に思っています。上に記載しました通り竜巻の後は呼吸がし易くなって呼吸時に胸が開くようになりましたので、それが影響している可能性もなくはないです。ナーダ音というのは内なる音ですがアナハタ・ナーダはアナハタ・チャクラから聞こえてくる音なので、心臓から聞こえてきても不思議ではないですが。この心臓音は竜巻の前は聞こえなかったと思います。単なる肉体の音かなぁと思いつつもナーダ音かもしれない、という感じで、これまた様子見なのです。「喉のチャクラの空処で起る」とありますけど、音的に胸の周辺で鳴っているような気がしますが喉かどうかは場所が微妙で特定できません。言われてみれば喉のような気もしますけど、気のせいかも? 鳴っているのは確かだと思いますけど。喉で鳴るというよりは耳たぶが脈打って心臓の鼓動を聞いている、という感じですが。耳たぶから下方向の音を聞いている、という感触がなくはないですけど、振動だけが下方向から感じるものの、音は耳で聞いているような感じです。やっぱりこれは肉体の心臓の鼓動音かなあ? という感じではありますが。今までずっと聞こえていた、明らかに超感覚で聞こえるピーという高周波のナーダ音とはまた違った雰囲気がします。<br /> <br /> その後、瞑想中に脈拍の音の出所を探ってみましたがどうも、先日「うなじ下(大椎?)」にて熱と共に脈拍が波打った場所でまだ少しその活動が続いていてそこから脈拍の振動が頭にまで伝わっている気がしていました。確証はなくて、なんとなくですが。<br /> <br /> この「太鼓のような音」はハタ・ヨガ・プラディーピカでしか見かけたことがありませんので、マイナーな音なのかもしれません。なかなか微妙です。心臓の鼓動音をナーダ音と言って良いものかどうか。広義には含んでも良いのかもしれませんが、肉体の音で聞こえる音であるならば基本的にはナーダ音ではないですよね。<br /> <br /> ・・・ふと気付けば、ハタ・ヨガ・プラディーピカではこの音がナーダ音だとは言っていませんね。単に、そう言う音が聞こえるとだけ書いてありますので、肉体の音だと解釈しても良さそうです。どうも、ナーダ音と言う定義に固執していたのかもしれません。もっと柔軟に読み解くべきですね。まあ、こう言う記述のほとんどはナーダ音と思った方がいいと思いますけど、例外もあるのかもしれない? ということで。<br /> <br /> ■瞑想の質の変化<br /> 竜巻の経験の前でも雑念はかなり減っていて雑念が出ても影響されることはほとんどなくなっていたのですが、竜巻後に瞑想したところ、瞑想が深まるにつれて、雑念が出てきても「ひらがな2〜3文字目」には砂上の文字が消え去るが如く雑念が発散して消えてしまい、雑念が文章として成り立つ前に雑念が消え去ることが多くなりました。意識的に何かに意識して雑念というか思考をしようと思えばすることができるのですが、意識的にではないただの雑念であれば雑念が出てきても上記のようにひらがな数文字目からバラバラになって発散して雑念が消えてしまうようになりました。瞑想の質が深まった、とでも言うのでしょうか。瞑想がある程度深まった時のお話ですが。なんだか不思議な感覚です。念の為補足しておきますが、もちろんこれは「大体の雑念は」と言うことで、多少長引く雑念や、もっとすぐに消える雑念もありますので、全部が全部きっちり2〜3秒で消えるわけではありません。大したことのない雑念はかなりすぐに発散するようになった、と言うところです。<br /> <br /> この状態こそが瞑想において「集中できている」状態だと言う気がしました。すると、瞑想中にどこからか声がして「ダーラナだ」と言われた気がしました。恐らくは私の内なるガイドの声です。このダーラナ(集中)というのはヨーガ・スートラの八支則の段階の1つで、ディヤーナ(瞑想)の1つ前の段階になります。どうやら、今まで私は瞑想していたつもりだったのですが、実はダーラナ(集中)にすらまだ至っていなかったのかもしれません。私が瞑想していたつもりだったのはヨーガ・スートラ的にはディヤーナではなく、ダーラナでもなく、プラティヤハーラだったのかもしれません。<br /> <br /> これらの説明で「ダーラナ・ディヤーナ・サマーディは一続きのものです」みたいな話を昔から聞いていて、「そうなのかな。多分そうだと思います。頭では理解できます」みたいな漠然とした感じで今まで考えていたのですが、実際にこのダーラナの状態を体験してみると、それは正に「深い状態に引きずり込まれてゆく」「雑念がプチプチと千切れてゆく。雑念が自動的に自ら崩壊してゆく」「自動的に瞑想が深まる」と言う種類のものでしたので、今では、確かにその通りなのだなと思います。きっと、そのことが体感できていないうちはダーラナにすら達していないのかもしれません。今までは、ダーラナというのは単なる1点集中かとばかり思っていました。確かにこの状態を1点集中と言えなくもないですが、心が1点集中すると言うよりは心の雑念が晴れて心が揺れ動くことがなくなることを1点集中と言っているのか、あるいは、心が揺れうごかなくなった状態で魂の意識が揺れ動くことがなくなる事による意識の集中(心の集中ではなく)のことをダーラナと言うのであれば、それは確かにそうかなと言う気もします。まあ、これはただの推測ですが。<br /> <br /> となると、ヨーガ・スートラのダーラナやディヤーナは既に原始仏教で言うところの第一禅定に相当するのかもしれないとふと思いました。てっきり今まではヨーガ・スートラのサマーディがそのまま原始仏教の禅定や三昧に相当するのかとばかり思っていましたが・・・。もちろん定説はサマーディが三昧や禅定なのですが、 流派によって少し違うのでしょうかね。 以下のような感じでしょうか?<br /> <br /> <br /> ・プラティヤハーラ 雑念を受け流す努力をしている段階。(私見では)この段階でも時々第一禅定(思考が残っている集中状態)や第二禅定(いわゆる無の状態)に至る。(私見では)いわゆるゾーン(ZONE)による集中力向上&判断力向上もここ(これ以上集中してしまうと思考も止まってしまうためここが限界)。マニプラ・チャクラが優勢。(関連記事を昔書きました)<br /> ・ダーラナ (私見では)第一禅定の安定化、第二禅定の深まり。アナハタ・チャクラが優勢。ヴィシュッダ・チャクラも活性化。一般的にはこれは「集中」の意味。<br /> ・ディヤーナ おそらくはアジナ・チャクラが優勢(未体験)。一般的にはこれは「瞑想」の意味。<br /> ・サマーディ 定説ではこれだけが禅定および三昧。おそらくはサハスララ・チャクラが優勢(未体験)<br /> <br /> <br /> 上では「ダーラナ・ディヤーナ・サマーディ」の3つは一続きのもので瞑想が深まるにつれて「段階的に移行」すると言うお話でしたが、ヨーガではもう1つ「サムヤマ」と言う言葉があって、サムヤマは上記3つが「同時に起こる」とされています。これは、瞑想が深まるにつれて最初はダーラナだけ、次はダーラナとディヤーナ、次は3つ全てになる、と言うことだと理解しています。ちなみに、私がインドのリシケシでヨガ哲学のヴェーダに詳しい先生に聞いたところではその前の段階も入れて「プラティヤハーラ・ダーラナ・ディヤーナ・サマーディ」の4つが一続きで、この4つが瞑想において連続して起こると言う説明でした。原始仏教では感覚および心理学的視点が導入されていて、別ページに書きましたように「どのように感じるか」で禅定などを判定しますので、実際、ヨーガ・スートラのこの分類にきっちり当てはまらないような気がしています。きっと、過去の人が分類した時にヨーガ・スートラと原始仏教の中身を分類した時にサマーディを禅定に当てはめたのでしょうが、どうも、微妙に視点が違うような気がしています。<br /> <br /> 以下のような表現がわかりやすいかもしれません。なんとなくですけどね。<br /> <br /> <br /> ・原始仏教の第一禅定 プラティヤハーラ熟練度50%、ダーラナ熟練度20%、ディヤーナ熟練度10%、サマーディ熟練度5%<br /> ・原始仏教の第二禅定 プラティヤハーラ熟練度80%、ダーラナ熟練度50%、ディヤーナ熟練度30%、サマーディ熟練度20%<br /> ・原始仏教の第三禅定 プラティヤハーラ熟練度100%、ダーラナ熟練度80%、ディヤーナ熟練度50%、サマーディ熟練度30%<br /> ・原始仏教の第四禅定 プラティヤハーラ熟練度100%、ダーラナ熟練度100%、ディヤーナ熟練度80%、サマーディ熟練度50%<br /> <br /> <br /> これは、通説を覆そうとしているわけではなくて、通説はサマーディが禅定や三昧のままで良くて、私はただ単に、この種のお話は内的感覚が重要になってくるので書物に書いてあることを鵜呑みにするのではなくて一つづつ自分の感覚と比べながら言語あるいは理解そのものに落とし込んで行くのが重要だと思っているだけであって、上記はいわば自分の理解を深めるための言語化なわけです。気付きの内容を確認して理解を深めるための言語化とも言えます。ですから、通説は通説のままで良くて、ただ単に、自分自身の中の真実を積み上げていっているだけなのです。内的な理解が深まりさえすれば良くて、通説がどうであろうとあまり関係がありません。通説はどこかの学者かスワミにでも任せておけば良いと思います。最終的な理解は通説と同じになるかもしれませんし、それであっても全く問題ありません。<br /> <br /> と、言うことで、これからの瞑想が益々楽しみです。<br /> <br /> ■シャクティ・チャーラナ・ムドラー<br /> 竜巻の経験の数日後、軽くシャワーを浴びていたら急に「シャクティ・チャーラナ・ムドラーをしましょう」と心に指示がありました。何でしたっけこれ・・・ と思って調べましたところ、「続・ヨーガ根本経典(佐保田 鶴治著)」のゲーランダ・サンヒター(P73, 3章49~59)とシヴァ・サンヒター(P236, 4章105~109)に記載がありました。どうやらクンダリニーを動かすための行法で、これを行えば寿命が延びて病気がなくなり、ヨーガで言ういわゆるシッディ(諸能力)を得るとのことです。ただ、その内容はなかなか解読が難しそうです。<br /> <br /> これですが、考察が「クンダリーニ・ヨーガ(成瀬 雅春著)」に詳しく解説が載っていました(少し番号が違いますが同じ内容のようです)。成瀬先生の手法では、ムーラバンダを中心とした技法になっています。同書を読むと、なかなか大変なようなので、ちょっと様子見ですかね。一人で試すのは気がひけると言うか、一人ではしないでくださいと注意書きがありますし。<br /> <br /> ■うなじ下(大椎?)と「エネルギーの漏電」<br /> シャクティ・チャーラナ・ムドラーを確認するために「クンダリーニ・ヨーガ(成瀬 雅春著)」を読んでいてたまたま発見したのですが、背筋でエネルギーが動くのは「エネルギーの漏電」だそうです。ただ、私の場合は「動く」わけではなくて、ただ単にうなじ下(大椎?)が熱を持ってずっと熱いだけですので、これが同じことを言っているかどうかはわかりませんが、一応、気に留めておきます。<br /> <br /> <br /> <br /> <br /> <br /> Tue, 09 Jul 2019 00:00:00 +0900 アーランバ段階、アナーハタ・チャクラの「装飾具のふれ合う音」 https://w-jp.net/2019/1535/ <br /> [風のルンの竜巻の経験から3日後]<br /> <br /> ■アーランバ段階<br /> 「ヨーガ根本経典(佐保田 鶴治著)」に掲載されているハタ・ヨガ・プラディーピカには以下のように記されています。<br /> <br /> 4-69) [ヨーガの四段階] アーランバ、ガタ、パリチャヤ、ニシパティはすべてのヨーガにおける四つの段階である。 <br /> 4-70) [アーランバ段階] 梵天の結節が調気の修行によって破られた時、心臓の虚空のなかに生じた、たえなる、さまざまな、装飾具のふれ合う音のようなアナーハタ・チャクラの音がカラダのなかで聞こえてくる。 <br /> <br /> 節とは体に3つあると言われているグランティ(結節)のことで、梵天の結節とはアナーハタ・チャクラのなかにある結節です。ヴィシュヌ・グランティについての考察を話したいのですが、基本的な説明をまずしたいと思います。そうしないと理解が難しいと思いますので。<br /> <br /> ■グランティ(結節、結び目)<br /> グランティは3つあります。グランティとはエネルギーのブロックあるいはエネルギーが滞っている場所で、サンスクリットで「霊的な結び目」という意味です。ブロックが解かれることでエネルギーが通るようになります。そのことを「グランティを破る」とか「壊す」とか「突き破る」とか「解く」とか言ったりしますが、何かが壊れるのではなく、そのブロックが取り除かれることを意味します。<br /> <br /> <br /> ・ブラフマ・グランティ 通説ではムーラダーラ・チャクラの中にあります。「密教ヨーガ(本山博著)」によると、このグランティが解かれるとクンダリーニが覚醒するとのことです。ムーラダーラがどこにあるのかは時代によって変わってきたようです。現代での通説はムーラダーラは会陰(男女で若干違う)にあります。ちょっと前の時代に書かれた神智学系の「チャクラ」(C.W.リードビーター著)には、ムーラダーラは仙骨だと記されています。どこかの文献によると、「古代においてはクンダリーニはスワディスタナ・チャクラに眠っていて、その後、ムーラダーラに移動した」と読んだ記憶があるのですが、私はずっとこのことを文字通り解釈していて、時代を経るにつれて人間が変化して、クンダリーニの居場所が文字通り変わったのだと理解しておりましたが、今思えば、真理がそんなに変わるわけもありませんね。これは誤訳かあるいは伝言ミスで、ただ単に、同じ場所を違う名前で言うようになった、と推測すれば筋は通ります。ヨーガの方が歴史が古そうなのに「昔はムーラダーラ」と言うのはよくわかりませんが、著者にとっての昔がムーラダーラと呼ばれていたのかもしれません。クンダリーニの眠る場所は仙骨あるいは尾骨のあたりであることは私の経験上、そうなんだなと思います。スワディスタナ・チャクラがどこにあるかと言うのは「密教ヨーガ(本山博著)」によると仙骨あるいは尾骨のあたりであり、多くのヨーガ行者はこの場所だとしているようですが、スピリチュアル系では違う場所を言っているのも散見されます。ヨーガ的には古代のムーラダーラである現代のスワディスタナにクンダリーニが眠っていて、グランディもそこにある、と解釈するのが良さそうです。ただし、これは私の個人的な解釈ですので、一般的にブラフマ・グランティはムーラダーラの中に眠っていてムーラダーラは会陰ですので、このことを誰かに言っても理解されにくいとは思います。私も他所ではあまりこんなこと言わないと思います。私の個人的な解釈です。<br /> ・ヴィシュヌ・グランティ 通説ではアナハタ・チャクラの中にあります。どこかの書籍では「マニプラとアナハタの間にある」とも書かれてあったかと思いますが、通説はアナハタの中です。さて、ようやく本題。ヴィシュヌ・グランティの場所は通説ではアナハタ・チャクラですが、グランティ(結び目)が解ける時に熱が発生して血液が強く脈打つ、と言うのが私の(勝手な)解釈です。これはどの書物にも書かれてありませんので推測になりますが、熱が発生して血液が脈打つ場所がグランティであるとすれば、ヴィシュヌ・グランティは「(背筋の)うなじ下(大椎?)」にあると解釈できます。ここは、先日引用したチャクラの図で言うとマニプラ・チャクラとアナハタ・チャクラとヴィシュッダ・チャクラの合流地点であり、どこかの書籍で読んだ「マニプラとアナハタの間にある」と言うのも、あながち間違いではありません。通説の「アナハタの中にある」と言うお話も、場所的に近いので、それほど間違いでもありません。アナハタの場所はハートなのはそうだとは思いますが、うなじ下そのものがアナハタではないとは思いますので、通説の「アナハタの中にある」と言うよりは、体感そのままに「ヴィシュヌ・グランティは(背筋の)うなじ下にある」と解釈することもできます。もちろん、他所でこんなこと言わないですけどね。仮定です。→ 後で思い直せば、どうもしっくりきません。ちょっと保留です。<br /> ・ルドラ・グランティ 通説ではアジナ・チャクラの中にあります。これはまだ未体験です。<br /> <br /> <br /> 「ヨーガ根本経典(佐保田 鶴治著)」によると以下のように諸説あるとのことです。私も幾つかの書物で時々違う場所を読んだ記憶があります。<br /> 三つの結節の位置については諸説がある。尾てい骨、心臓、眉間の3所、或いは尾てい骨、ヘソ、ノドの三所、或いは胸部、ノド、眉間の3所<br /> <br /> 今回の「風のルンの竜巻」では喉に近い「うなじ下(大椎?)」にあるグランティが外れたと仮定すると、そこを何と呼ぶのかは微妙ですが、とりあえずはヴィシュヌ・グランティの結束が外れたと仮定しておきます。グランティは通説があるようでいてないので謎が多いです。<br /> <br /> ■アナーハタ・チャクラの「装飾具のふれ合う音」<br /> 上に引用した「ヨーガ根本経典(佐保田 鶴治著)」の文章に戻りますが、「装飾具のふれ合う音」についてです。<br /> <br /> 私としては、私の状態が確実にこの段階かどうかはまだわかりませんが、似ている部分が見受けられます。私は前に書きましたように「シュルシュルシュルシュル」という音を風の音だと解釈し、エネルギーの流れ的にも竜巻のように感じましたので風の音かなとも思ったのですが、ここに記されている「装飾具のふれ合う音」と言えなくもないかな、とこれを読んで思いました。同書によると、この段階では気が満ちてきて博愛心などの高尚な素質が開発される、と書いてありますが、経験した直後の今としてはそれほど変化ありません。今後、そういう感じになってゆくのでしょうか。既にクンダリーニ1回目と2回目をしてかなりポジティブになりはしましたが、まだ有名人のナイチンゲールですとかマザーテレサなどに比べたら全然そんな博愛なんて私には足りてない気がしていますので、今後、そういう博愛精神が開発されてゆくのならばそれは楽しみです。私がこの段階かどうかまだ確証はないのですが。<br /> <br /> ■ヨーガの四段階とその時に聞こえるナーダ音<br /> 「ヨーガ根本経典(佐保田 鶴治著)」に基づきますと以下のようになります。<br /> <br /> <br /> ・アーランバ段階 ヴィシュヌ・グランティが解けた状態。アナーハタ・チャクラの「装飾具のふれ合う音」が聞こえる。<br /> ・ガタ段階 ヴィシュッダ・チャクラが活性化。「無上の歓喜を予示するところの混合音と太鼓の音のような音とが喉のチャクラの空処で起る」<br /> ・パリチャヤ段階 アジナ・チャクラが活性化。「眉と眉の間にマルダラ(鼓の一種)の音のような音がはっきりと知覚される。」<br /> ・ニシバティ段階 ルドラ・グランティ(結節)が破られた状態。「フルートの音やヴィーナーと弾ずるような音が聞こえる」ラージャ・ヨガと呼ばれる。<br /> <br /> <br /> 流派や書物によってこの段階は微妙に違うようですが、基本はこのような感じのようです。<br /> <br /> ■アーランバ段階の「装飾具のふれ合う音」<br /> 「装飾具のふれ合う音」と言うのかどうかはわかりませんが、最近私が聞こえているナーダ音は細かく波打っていて、装飾具の触れ合う音にはちょっと遠いのですが、無理して解釈すればそう言えなくもないです。少し前までは高周波の「ピー」と言う一定音だったのですが、高周波が最近は細かく波打っている感じです。高周波のままですがブーンと言う感じの波打った感じの高周波になっています。「ピー」の上に「ブーン」と言う波が乗っていると言いますか。紐が両側についていて引っ張って回転を速くしたり遅くしたりしてブンブン回して遊ぶおもちゃが出すような音が高周波の上に乗っかっています。まあ、様子見ですけれど。 同じ音を「ミンミンゼミの大合唱」と表現できなくもないです。以前もしばらくの間ミンミンゼミっぽい音が聞こえていたことがありますが、その時とは音の密度というかミンミンゼミの数が数倍は違う感じです。以前はミンミンゼミの音だけでしたが、今は基音と言いますか基本的なピーと言う音の上にミンミンゼミというかブーンという音が乗っています。以前はミンミンゼミの音の音量の上下というか振幅幅がとても大きかったのですが、今は基本的なピーという音がそれなりの音量でしていて、その上にミンミンゼミ大合唱というかブーンという音が以前よりは小さな振幅幅の音で乗っかっています。昔の方がよほどミンミンゼミっぽかったです。ピーという高周波の上にミンミンゼミ大合唱というかブーンという低い音というかザワザワザワというか、そんな音が乗っています。ザワザワって感じが「装飾具の触れ合う音」と言えなくもないですね。様子見です。ただ、この音は今回の竜巻の前後で変わったというわけではなくて、最近はこういう感じで聞こえている、というお話ですけど。むしろ、今回の竜巻の1ヶ月くらい前から当日くらいまでこういう風にザワザワが加わって聞こえていた、という方が正しいかもしれません。竜巻の後はむしろ高周波のみに戻ってきた感じです。ヴィシュヌ・グランティが破られ始めるとザワザワした音が聞こえて、破られるとその音は消える、とも推測できます。<br /> <br /> <br /> <br /> <br /> Mon, 08 Jul 2019 00:00:00 +0900 胸(アナハタ)が開いて呼吸がしやすくなりました https://w-jp.net/2019/1534/ <br /> [風のルンの竜巻の経験から2日後 ]<br /> <br /> ■呼吸がしやすくなりました<br /> 別記事で書きましたが、クンダリーニ(2回目)経験後から呼吸が浅くなり、クンバカが極端に苦手になっていました。同様に、以前は自動的に息が止まるケヴァラ・クンバカという自動的なクンバカ(息止め)が瞑想中や休憩中に普通に起こっていたのですが、クンダリーニ(2回目)以降はケヴァラ・クンバカも起こらなくなっていました。ケヴァラ・クンバカは落ち着いた静寂な心があると自動的に起こるとされています。ずっと息が止まっているわけではなくて、必要とあれば自動的に呼吸が再開されるような種類のものです。私の場合、ヨガを始めてしばらく経った後、ナーダ音が聞こえ始めた頃だったか、その前後くらいから心が落ち着いてきて自動的に息が止まるケヴァラ・クンバカがよく起きていました。その後、クンダリーニ(2回目)によってパワーは向上してポジティブになったので心は基本的に落ち着いてはいるのですが、何故か呼吸だけは浅くなってケヴァラ・クンバカが起こらなくなったのです。<br /> <br /> ですが、今日のこの経験後から急に呼吸が深くなり、クンバカもかなりしやすくなりました。まだ当日なのでケヴァラ・クンバカとまでは行きませんが、かなり呼吸が違うのを感じます。昨日までは、胸のあたりが詰まっていてそこに呼吸が入らない感じでしたが、今は胸いっぱいに息を吸う事ができます。こんな急に変わるものですね・・・。不思議です。<br /> <br /> ■息が浅いのは「何かが詰まっている」状態?<br /> 別記事に追記しましたように「器÷エネルギーの強さ=クンバカの時間」の関係があるようで、第2回目クンダリーニではエネルギーが強まって息が相対的に浅くなってクンバカが短くなりましたが今回は器が大きくなって息が深くなってクンバカも長くなった感じです。<br /> <br /> スピリチュアルでは息が浅い状態は「何かが詰まっている状態だから詰まりを取る必要がある」と言われていて、基本的な意味は「詰まっていなかったものが詰まってしまったから取り除く必要がある」ですが、それに加えて上記の計算式の「器」と「エネルギーの強さ」も加味して解釈すると「エネルギーが強まったので器が小さく感じるようになってしまったから器を大きくする必要がある」「エネルギーが強まったので今まで意識していなかった場所に詰まり(ブロック)があることが分かった(もともと詰まっていたが気付かなかった)。新たに判明した詰まり(ブロック)を外す必要がある」という意味にも解釈できそうです。それはまるで、気球に空気がちゃんと入っていなかったのに気付かなかった状態から改めて空気を入れてちゃんと膨らませて布が伸びること、あるいは、風船にちゃんと空気が入っていなかったのがもっと空気を入れることでゴムの端っこも伸びてハリが出るようになったようなもの、とでも言えるでしょうか。<br /> <br /> ■ケヴァラ・クンバカと背筋をまっすぐにする姿勢の関係<br /> 呼吸がしやすくなったのと同時に、再度、ケヴァラ・クンバカ(自動的に起こる息止め)も時々起こるようになりました。時には、起こりすぎて息がずっと止まってしまい、意識的に吸気をしてあげなくてはいけない時があって、そんなときは「面倒だなあ」と思うくらいになりました。でも、同じケヴァラ・クンバカでも自動的に無意識に吸気できている時もあって、意識的に吸気をしないといけない時とは何が違うのかなあ・・・と思っていたのです。観察したところ、どうやら背筋がまっすぐのときは呼吸が自然にできており、背筋が曲がっているとケヴァラ・クンバカの後の吸気がうまくできないことに気付きました。瞑想や普段の生活で背筋をまっすぐにすることがこれほどまでに呼吸に影響するなんて、以前はそんなことありませんでした。敏感になったのでしょうか? このあたりは、ちょっと様子見です。それにしても、ヨガなどで「背筋をまっすぐ」という教えにこんな微細な影響があったなんて驚きです。てっきり、スシュムナを真っ直ぐにしてクンダリーニ等のエネルギーを通りやすくするくらいの意味なのかなと思っていました。それだけではなかったのですね。まあ、あくまでもそんな気がするだけですが。<br /> <br /> ■ケヴァラ・クンバカと「枕」の関係<br /> 寝る時もケヴァラ・クンバカが自動的に起こるのですが、枕をして上を向いて仰向けで寝ると、前に書いたのと同様、吸気がうまくできません。横になって背筋をまっすぐにすると吸気が問題ないのですが仰向けにするとケヴァラ・クンバカの後の吸気がうまくできないのです。これは、第2回目クンダリーニ前に起きていたケヴァラ・クンバカのときは問題なくて、今回初めて問題になりました。一体どうしたものか・・・ と思ったのですが、試しに枕を取って布団の上にそのまま寝てみたところ吸気がうまくできるようになりました。枕をしていると少し猫背になってしまっていたのかもしれません。枕なしにすることで背筋がまっすぐになったのかもしれないです。今まで布団の上にそのまま寝ると調子が悪くなってしまっていたので枕なしで寝るのはあまりしたことがなく、せいぜい薄い枕を試すくらいだったのですが、どうやら今日のところは問題なさそうです。これもちょっと様子見ですね。過渡期だけの問題かもしれませんし。まだ数日なのでこれから様子を見ます。<br /> <br /> ■アナハタ・チャクラが開いた?<br /> これがいわゆる「開いた」状態かどうかはわかりません。様子見です。前よりは胸に空気が入りやすくなりましたので、一応少し開いたと言えなくもないです。一気に開くというよりは徐々に動き出すようですから、最初はこのくらいでもいいのかもしれません。<br /> <br /> ■楽観的でポジティブであるべき<br /> ヨーガの本山博先生は「密教ヨーガ」にて、サッチャナンダの言説を引用しつつ「アナハタの目覚めを志す人は、希望に満ちた楽天家であるべき。」 「一切を善とみなす態度こそ、アナハタを目覚ます行法の1つ」と述べています。<br /> <br /> ■アナハタ以上に至ればカルマに従わない<br /> 「密教ヨーガ(本山博著)」によると、マニプラまではカルマに影響されていますが、アナハタ以上に至った人は基本的にカルマには従わないと言います。アナハタに至ればカルマが現実であるのを知ってはいるが超越して自由でいられる、と言います。その点がマニプラまでとアナハタとの大きな違いとのことです。マニプラは情を司っており基本的にはカルマに支配されているものの意思の力でそれをコントロールすることができます。一方、アナハタになると基本的にカルマに束縛されないとのことです。<br /> <br /> このことは、上記のように私が過去のトラウマに対して「〇〇を許します」と瞑想した時の感覚の違いに現れていると思います。先日の竜巻の経験の前では、過去のトラウマを思い出す度に多少ながら神経にショックが走っていました。このトラウマは子供の頃から蓄積されていたものであり、物によっては何十年も度々思い出してきたトラウマでした。ですから、なるべく思い出さないようにして、思い出したとしてもそのトラウマの反応を自分で律していました。なるべく早く気付いて律するのが基本でありました。最近は随分とトラウマのショックが小さくなってきたな、と思ってはいたのですが、それでもゼロではありませんでした。<br /> <br /> それが、先日の竜巻の後は、トラウマのことを思い出してもショックが起こらないようになりました。ショックがゼロでした。しかも、全てのトラウマに対して。いくつもトラウマがあった筈ですが、ショックが起こらないのが不思議でしたので、試しにその他のトラウマも意識的に色々と思い出してみたところ、どれもショックが起こらなかったのです。確かに、ほとんどのトラウマは月日が経つにつれて段々と小さくなってはいましたがそれぞれのトラウマは多少ながら残っていましたので、先日の竜巻の後にその全てのトラウマに対して全く反応しなくなったのが不思議です。<br /> <br /> まあ、ゼロとは言いましても、トラウマ的な記憶を思い出しても反応がゼロという意味で、トラウマの元になる記憶は残っていますので時折その記憶は奥底から浮かび上がってきます。その記憶の浮上は依然として時々ありますので、それはさほど変わりがありません。ただ、その記憶が浮かんだ時の反応がゼロになった、という意味です。でも、よく観察してみるとゼロは言い過ぎかもしれないと言う気もします。先日の竜巻の前後で10分の1以下になってほとんどゼロに近い、というくらいが正しいでしょうか。意図的にこのトラウマを呼び覚まそうとしない限りは特に問題ない程度にまで反応が下がった、というところでしょうか。<br /> <br /> 実はカルマというのはヨーガ的にはサムスカーラ(サンスカーラ)という微細な「印象」であって、印象がカルマとして輪廻転生に導きます。過去のトラウマがあるが故に同様の問題にも引き込まれますし、過去の喜びを覚えている、すなわち「印象」を覚えているからこそ未来の喜びを求めてカルマが発芽して新たな喜びや苦しみを生み出すわけですが、トラウマがなくなったということは、それはすなわち「印象」が消え去ったということであり、記憶はあるものの「印象」がなくなりましたので、少なくともトラウマに関するカルマはかなり解消されたのかな、と解釈しています。補足しますと、これはあくまでもトラウマに対してのことであって、他人に嫌なことをもし言われたら不愉快というほどでもないにせよ多少は面倒に感じると思います。でも、その程度です。<br /> <br /> 最初アナハタの説明を読んだときは「ふうん」と思っていたのですが、実際こうなってみると随分と状態が違うものだと思います。確かに、アナハタに関してはカルマを超える部分が多いにあるように思います。<br /> <br /> そうは言いましても、思考のパターンと言いますか「癖」が多少は残っていますので、トラウマの反応はほとんどないにせよたまについネガティブに考えそうになることがなくはないです。そこは流石にまだ成長の途中のようです。そんなことがあったとしても以前より遥かにコントロールしやすくなっていますので、昔の思考パターンの癖が出そうになってもその度に「おっと、ネガティブ思考の癖が出てしまった。これも許します。これも許します。」と言ってあげることにしました。記憶はまだありますし癖もありますし思考パターンも割とそのままなのですが「印象」だけが消えてトラウマがほとんど消えただけなので、思考パターンの癖を戻すのはまだ続けないといけないようです。まあ、それだけでもかなりの進歩です。<br /> <br /> ちなみに、第2回目のクンダリーニでは光の筋が2つ上がったのですが、その時はエネルギーの向上・生命力のアップが起こりまして、ネガティブも一時的にほとんど消えたのですがそれは生命力アップによるネガティブの解消でした。第2回目クンダリーニ経験の直後が最もエネルギーが高くてその後徐々に生命力が下がって行ったのですが、生命力が下がるにつれてネガティブが少し出てきていました(それでも昔より生命力が高いですしネガティブは少ないですが)。その、残っていたネガティブがこうして竜巻の経験を経ることによって更に劇的に減少した、というところです。<br /> <br /> ちなみに、同書およびいくつかの書物、確かサッチャナンダの書物にも他のヨーガの書物にも書いてあるアナハタに関する有名な警告があります。<br /> ・アナハタを目覚めさせると思考に基づいて良いこと悪いこと全てが実現するので、ポジティブに考えるべきである。これが、「ポジティブに考えるべき」という事項に対する密教的な解釈のようです。<br /> <br /> 同書には、サッチャナンダによる別の警告も書いてあります。<br /> ・クンダリーニがマニプラまで上がり、その後下がってしまっても再度ヨーガ行などで上げることができる。しかし、一旦アナハタまで上昇してからネガティブな思考のためにムーラダーラまで下がってしまうと再び上昇させることは非常に困難。<br /> <br /> ■熱から暖へ<br /> 第2回目のクンダリーニではまさに「熱」を強く感じていました。その後、次第にその熱が下がってきており、私はそれがエネルギー低下と解釈していました。下がってきたと言ってもそれ以前よりはエネルギーレベルが高いのですが、それでも下がっている気がしていました。その根拠は主に「熱」を基準にしており、ポジティブさの度合いも判断基準でした。場所は、お腹のあたりを中心に熱がありました。<br /> <br /> おそらく、この理解は確かにその通りでエネルギー低下もあったのだとは思いますが、変化はそれだけではなく、エネルギーの質が同時に「熱」から「暖」に変わったこともあるのだと最近は理解するようになりました。<br /> <br /> 「ヨガと冥想(内藤 景代 著)」には、ムーラダーラからマニプラまでは「熱」で、アナハタが「暖」で、ヴィシュッダからサハスララが「冷」と言う分類をしています。<br /> <br /> まさにこれで、第2回目のクンダリーニは主にマニプラまでの経験だったように思います。ムーラダーラのクンダリーニが活性化し、それが主にマニプラにまで上がってエネルギーレベルが上昇してポジティブになったのだと理解しています。その時は、エネルギーがアナハタ以上に上がろうとしてもアナハタに詰まっている何かがそれを遮っているような感覚がありました。アナハタにエネルギーが上がると記憶の奥底に眠っているネガティブが出てきてエネルギーの上昇を妨げており、アナハタにエネルギーが行くことは多少あったとはいえ基本的にはアナハタの手前でエネルギーが遮られていたように思います。<br /> <br /> それが今回の第3回目のクンダリーニのよってその障害が取り払われ、アナハタまでエネルギーが通ったように思いますが、それは第2回目のような「熱」のエネルギーというよりは、それよりも「暖」というくらいの温度の違いを感じます。基本的には内的な温度の感覚で肉体的な体温ではないのですが、第2回目の後は熱っぽくてポカポカして暑いくらいだったのが、最近はそこまで暑くはありません。それを言葉で言い表すと「暖」とでも言えるでしょうか。場所としても、以前と違って胸のあたりを中心に「暖」があります。<br /> <br /> ■時系列<br /> 前回の形式で、今までの流れを時系列で記載しておきます。<br /> <br /> <br /> ・2015年1月 インドのアシュラムで生まれて初めてのヨガ 2週間 合宿。その後しばらくブランク。<br /> ・2016年10月 日本の近所でヨガ再開。1週間ごと1回90分<br /> ・2017年8月 ヨガの頻度を上げ、ほぼ毎日90分<br /> ・2017年10月 雑念が減ってくる。ようやくヨガをしている感じになってくる。ヘッドスタンドが短時間だがようやくできるようになる。<br /> ・2017年11月 ナーダ音が聞こえ始める。ヨガをほぼ毎日し始めてから約3ヶ月後<br /> ・2018年1月 第1回目のクンダリーニ体験。ムーラダーラの電気ショックと眉間の皮膚から数センチ離れた空中(アジナ・チャクラ?)でのエネルギーの爆発。ほんの少しのエネルギー。<br /> ・2018年11月 第2回目のクンダリーニ体験。クンダリーニ本体はまだ上がっていない雰囲気。2つの光の筋が上がっただけ。仙骨か尾骨のあたりに熱を帯びて血液が激しく脈打つ。かなりポジティブになる。性欲がかなり解消されて自然な(努力のいらない)ブラフマチャリア(禁欲)の達成(性欲10分の1)。睡眠時間の短縮。声が出しやすくなる。<br /> ・2019年5月 第3回目のクンダリーニ経験。(五大要素の)「風(Air)」のエネルギーによる竜巻が腰から頭まで上昇。光の筋はなし。竜巻は頭の周囲で発散(頭上および前後左右に発散)。うなじの下(大椎?)に少しの熱を帯びて血液が脈打つ。ハートがジンジン。第2回目ほどの変化はなし。性欲が更に10分の1 (第2回目クンダリーニ以前と比べると100分の1)<br /> <br /> <br /> ■風のルンを感じる<br /> 今回のでコツがなんとなく掴めましたので、同様に竜巻を起こすことでシバナンダ先生がおっしゃるように何度もエネルギー上昇させることができるのかもしれません。そのうち気をつけながら少し試してみようかなとも思います。<br /> <br /> 具体的なやり方は、まず、体の腰の周囲に空気というかエネルギーをグルグルと回転させる。意識で手の平を動かすイメージ。体は実際には動かさないで手の平を動かすイメージだけ行います。イメージ上で手の平を腰の少し前方、腰の右、腰の後ろ、腰の左、と言う順番でスムーズにグルグルと回転させて空気というかエネルギーの渦を作ります。5回転くらいさせた後、イメージの手の平が腰の左から腰の前方に来たら次は手の平を胸の前を通って顔の前を通って頭上まで動かすイメージをして、その時、回転している空気の渦を手の平と一緒に上に上げるイメージをします。すると、何かスーーーっとした感覚が胸の中と背筋、頭の後頭部のあたりまで上がって体の中をすり抜けます。まあ、だからと言ってすぐ何かが変わるわけでもないですが、これは有名な瞑想法の「ソー・ハン」や「小周天」とかと似ている気がします。これを誰かにお勧めする訳ではないですけど、私が夢の中で起きたことを再現するとこんな感じです。<br /> <br /> ■ベジタリアンでないと感じにくい<br /> 上のようなイメージをした時に風のルンが体の中を通過する感覚は、少なくとも私の場合はベジタリアン食をしていないと感じにくいようです。私は今は完全にベジ食ではありませんがベジを意識した食事を取っており、ベジ食を続けていた時は感じやすかったのですが、たまにお肉を食べると体内エネルギーが乱されて感じにくくなるような気が致します。ものにもよるのかもしれませんが。肉体を持っていますのでベジ食だけですと栄養バランスを崩すと思いますので雑食を心がけてはいるのですが、少なくとも精神にとってはベジ食がいいような気が致します。<br /> <br /> Sun, 07 Jul 2019 00:00:00 +0900 風のルンの竜巻でマニプラ優勢からアナハタ優勢に変化 https://w-jp.net/2019/1511/ <br /> この記事は 「アナハタ・ナーダの聖音とクンダリーニ」の続きです。<br /> <br /> 2019年7月5日、ちょっとしたクンダリーニっぽい経験がありました。<br /> 実は今、足首を骨折していますので家でストレッチしたりしてリハビリ中なのですが、今朝もストレッチした後にうとうとして横になっていました。<br /> <br /> すると、ふと、夢うつつの状態で、成瀬雅春先生というヨーガ行者のおじいちゃんが夢に出てきて腰をグルグルうずまき状に回しているではありませんか。実際に会ったことはないですけど、「あれー? この人は確か・・・」と思っていたのですが、何故か真似しようと思い始め、自分も腰を動かそうとしたのですが寝ているので腰が動きません。夢の中ですけどね。一応、体は横に寝ているので体は動かないのです。夢の中ですから動いても良さそうなものですけど。 そこで、どーしようかなー と思ったらふと閃いて、指を使って水面にうずまきを作るかのように(自分を中心に)その指(確か右手の人差し指?)を自分の周囲にグルグルと回し始めました。肉体の手は寝たままです。というか、具体的には、体の左側を下にして横に向いた寝返りの状態のままです。確か最初、ちょっと左回りを試したら何も動かないので、それじゃあ、ということで、反対向きの右回りで指を動かし始めました。すると、体の周り、特に腰の周りに竜巻が起こり始めました。なんだこれ! あくまでも夢の中のお話です。指はこの時もずっと回転をしてうずまきし続けています。それは、体の周囲に「風」とでもいうような軽い空気の塊の流れができて、まるでうずまきです。その作られた竜巻をどうしようかなーと思って、試しに上の方にちょっと指を動かしてみると、竜巻が上に動くではありませんか! とりあえず、腰から胸のちょっと下まで動かしました。更に上に上げるのは最初ちょっと躊躇したのです。というのも、こういうのは基本的に「背筋をまっすぐ」にしていないと危険だと思うので、今は寝返りして横向いているから体がまっすぐでないかもしれないので、何かおかしなことになったら嫌だから一旦体の向きを変えるべきかな? とも思ったのですが、どこからか意識が「いいや、上げちゃえ」と決断して、と同時に、更に指を上に動かしたら胸を通過して喉を通過して頭のあたりまで竜巻が来たところで頭の周囲で発散して消えました。特に変なことにはなっていない模様。危険性はなさそうです。竜巻が舞っている間は音がちょっとだけしていて「シュルシュルシュルシュル」って感じだったような? ここでさすがに目が覚めて、「うーん、夢だったのかな?」と思ったら、胸のあたりにちょっとだけジンジンする感覚が数分残っているのと、背筋の上の方、うなじのちょっと下の突き出た骨のあたり(大椎、だいつい?)の血液がドクドクと波打っていました。うなじの下(大椎?)の血液がドクドクする感覚は、昔クンダリーニ経験(第2回目)をして腰の後ろのちょっと下側あたりで血液がドクドクした感覚に似ていましたので、その時に比べるとずっと弱い感覚ではあるのですが、やはりこれはクンダリーニに関連した経験だったのかなー? と、とりあえずは解釈することにしました。前回のに比べると随分と小さなパワーでしたけどね。シバナンダ先生がおっしゃるように、何度も何度もクンダリーニを上げてアジナ以上に保つことができるようにならないといけないのかもしれない、と、ふと思いました。であれば、今回は全然保てていないです。とは言いましても、コツと言いますか、渦巻きの使い方というか作り方の感覚がちょっと気付けたので良かったかなと。前記事に詳しく書きましたが前回は自分の体が全身で左回転したのですが、今回は体は静止したまま指で右回転の渦巻きを作った、という違いがあります。どちらも、パワーの流れる方向は実は同じなのかもしれないです。体が左回転ということは周囲のパワーは右回転してるわけですし。実は同じことなのかも? 面白いです。前回はクンダリーニ後にとても暖かかったのですが、今回は小さい体験ですし、ほとんど前後で差はない感じです。<br /> <br /> ■風のルン<br /> 直感ではこれは「風」のエネルギーだと思いました。「風」というとアナハタ・チャクラのエネルギーですよね。アナハタでジンジンした感覚はそういうことだったのかもしれません。ここでいう「風」とはチャクラの属性の「風」の意味です。ヨガの5大元素:地・水・火・風・空はそれぞれチャクラに対応していますけれどもアナハタ・チャクラは風(Air)です。 <br /> <br /> 夢の中では「風のルン」って何回か誰かが私に語りかけていました。「竜巻」というのは私の感覚が解釈したものですから、元々のこの現象の呼び名は「風のルン」が正しいのかもしれません。「ルン」ってなんぞや? どこかで聞いたことあるけれども・・・ と思って調べたら、チベットにおいて生命エネルギーのようなものの呼び名が「ルン」で、その意訳が「風」とのことです。こんなこと全く知らなかったですよ! 気功で言うところの「気」やヨーガでの「プラーナ」に近いもののようです。<br /> <br /> ■うなじ下(大椎?)はどのチャクラと関係?<br /> 最初、うなじ下はアナハタともヴィシュッダともちょっと離れているのでよくわからない感じでした。ヴィシュッダ・チャクラというと「喉」かと思っていましたし、アナハタ・チャクラは胸ですから。ヴィシュッダ・チャクラの場所ははっきりしていて、(今日のことではなくて)以前から度々ジンジンと感触があるのは喉仏のあたりでしたので、反応している喉仏のあたりがヴィシュッダ・チャクラなのかなあと漠然と思っていたのです。ですから、背筋のうなじ下(大椎?)はヴィシュッダでもないしアナハタでもないし、何だろう・・・ と思っていたのです。<br /> <br /> ちなみに、各書にあるチャクラの図は例えばこんな感じになっています。<br /> <br /> ↑ シバナンダ先生の「ヨーガとこころの科学」にはこうなっています。こう見ると、喉仏のようにも見えますし、その裏側の「背筋のうなじ下(大椎?)」こそが実はヴィシュッダなのかも? という気もしてきます。<br /> <br /> <br /> ↑ シバナンダ先生の弟子であるヴィシュヌデバナンダ先生の「Meditation and Mantra」に記されている図も同じ感じです。<br /> <br /> <br /> ↑ こちらは神智学の「神智学大要 第1巻 エーテル体(アーサー E.パウエル 著)」にある図です。これですと喉仏なのが明らかですね。<br /> <br /> <br /> ↑ これは神智学の「チャクラ(C.W.リードビーター 著)」にある図ですが、一番しっくりきます。背筋のうなじ下(大椎?)からアナハタ・チャクラに伸びています。今までアナハタ・チャクラの感覚はあるようでないようで、あまりちゃんとしていなかったのですが、どうやら、うなじ下(大椎?)のナディ(エネルギーの通路)の詰まりが解消されてアナハタまで通じるようになったと解釈するのならば全てがしっくりきます。まあ、まだ当日ですからそれほど変化はないですけど。<br /> <br /> うなじ下(大椎?)のエネルギー・ルート(ヨガで言うところのナディ)が開いたとすると、その先に繋がっているアナハタ・チャクラとヴィシュッダ・チャクラの両方に関係している、と考えるのも理にかなっている気がしてきました。これが最終的な理解かもしれません。まだ様子見ですが、喉のあたりのヴィシュッダ・チャクラも以前よりザワザワした感覚が続くようになりましたので、影響している気がします。以前は、時々ザワザワするだけでしたが今はザワザワが続いている感じですので(少なくともこれを記入した数日後までは)、変化を感じます。アナハタも影響を感じますので、ナディが開けてアナハタとヴィシュッダが変化した、と言うところでしょうか。<br /> <br /> ■許す瞑想<br /> そう言えば竜巻の当日は普段と違う事があって、普段私は沈黙の瞑想かナーダ音に集中する瞑想を行なって静寂に入るのですが、その日に関しては、足首の骨折をしたのはカルマだったかもしれないし、最近はちょっと雑念も出てきているので、カルマ解消のために今日は「許す」瞑想をしようと思って、「〇〇を許します。△△を許します。あの人(具体的な人)を許します。あの人(具体的な人)も許します。」と念じながら、昔の記憶を頼りに色々なカルマというか、まだ残っている雑念の元に対して「〜を許します」という瞑想をしたのでした。私は普段この種の瞑想はしないので、今朝に限ってそれが違う点でした。それがどの程度これと関係があるのかわかりませんし、たまたまかもしれませんけど。上の経験は瞑想中に起こったことでなくて、瞑想の数時間後に起こった事です。この瞑想をした時は、普段の瞑想と違って静寂さこそ足りませんでしたけど深いところにある何かシミのようなものが一つづつ解消されてゆくような感覚を感じました。瞑想中なのでなんとなく、の話ですけど。<br /> <br /> これがどれだけ影響していたかは実際のところわかりませんが、きっと多少は影響していたような気がしますし、だとすれば、意外に変化というものは自分の意図によってすぐに作り出せるものなのかもしれないと思いました。長い間待ったり修行したりする必要がある気がしていても、実際のところ、割とすぐに変化できるのかもしれません。これまた、なんとなくそう思った、という仮説の話ですが。<br /> <br /> ■「許す」ことの意味<br /> 今日まで、私はもしかしたら「許す」ということの意味をきちんと理解していなかったかもしれないです。許すとは頭や心で理解することではなく、文字通り、その人に対して反感を「全く」抱かなくなることであり、「許す」とは完全なる平穏な心が伴うものなのかな、と。であれば、例えばキリスト教などで許すお祈りがあったとして、その本当の意味はこういう完全な許しなのかな、と。<br /> <br /> ■アナハタ・ショック<br /> アナハタ・チャクラにあるヴィシュヌ・グランティが破れる時は俗に「アナハタ・ショック」と呼ばれるような強烈な衝撃があると聞いており、人によっては口から白い泡を吹いて倒れたりするらしいので、私の場合はそんな激しい衝撃は全くと言っていいほどなくて、アナハタがジンジンしたのとうなじ下(大椎?)の血液が強く脈打つ以外は別に普通な感じです。人によるのか、それともまた違う現象ですかね。単なる夢かもしれないですけど。とりあえず様子見です。半日後でも多少は胸のあたりにジンジンするものが残ってるくらいですね。倒れるほどでは全くないです。<br /> <br /> そういえば、昔から何度か、このアナハタ・ショックに関して私の内なるガイドが瞑想中に教えてくれていたことを思い出しました。アナハタ・ショックをしてしまうと時には内部の微細な機関を傷つけてしまって、事と次第によっては今生での霊的な成長ができなくなるほどのダメージを受ける事があるのでアナハタ・ショックのような過激な方法でヴィシュッダ・グランティを突き破るのは好ましくない、と教えてもらっていたことを思い出しました。まあ、瞑想中の事ですのでこれが絶対的に正しいとは限りませんけど、たぶんそうかなあ、と思っています。ですから今回、ちょっとチクチクするくらいでさほどショックなしに切り抜けられたのだとしたら良かったと思いたいです。<br /> <br /> <br /> <br /> Fri, 05 Jul 2019 00:00:00 +0900 クンダリーニ経験後、クンバカが苦手に https://w-jp.net/2019/1510/ <br /> この記事は 「アナハタ・ナーダの聖音とクンダリーニ」 の続きです。<br /> <br /> 前記事で書き忘れましたが、クンダリーニ経験後、ヨーガの呼吸法であるプラナヤーマにおける息止めである「クンバカ」がとてつもなく苦手になりました。もともとそれほど得意ではなく、それでもかろうじて1分半から2分間はクンバカできていたのですが、息苦しくない範囲では30秒、かなり頑張っても50秒〜1分が限界になってしまいました。不思議です・・・。<br /> <br /> 呼吸も浅くなって、深呼吸すら苦手になりました。何これ・・・。<br /> <br /> かと言ってストレスが溜まっている風でもなく、クンダリーニ症候群(こちらの記事参照)という感じでもなく、前記事に書いたように元気になりましたので、この呼吸とクンバカの苦手具合だけ謎です。未だに謎は解けていません。<br /> <br /> ヨーガの先生に聞いたら「雑念が多いのでは?」と言っていましたが、もともとクンバカが苦手で、その時はその指摘は当たっていましたが、クンダリーニ前後の差に関して言えば雑念は関係なさそうな感じがします。雑念がクンダリーニ前後でそこまで変わったとも思えないのにクンバカの時間が3分の1から2分の1に短くなったのは、その理由が雑念ではなくクンダリーニにあるのは明らかだからです。<br /> <br /> 追記:<br /> その後、たまたま見つけたブログで「器÷エネルギーの強さ=クンバカの時間」と書いてある記事を見かけました。であれば、クンダリーニでエネルギーが強くなったが故に器がすぐに一杯になるようになり、クンバカの時間が短くなった、と考えれば納得がいきます。同ブログでは、短くなったクンバカを伸ばすには器を大きくするために修行に励めば良い、と書いてあります。これまた納得です。<br /> <br /> ■ケヴァラ・クンバカ<br /> クンダリーニ(2回目)以前は自動的に息が止まるケヴァラ・クンバカがよく起こっていて、それは大抵の場合は安定した心の平穏さと共に自動的にクンバカが起こるような感じでしたが、クンダリーニ(2回目)以降は息が浅くなってしまったのでケヴァラ・クンバカも起こらなくなってしまいました。<br /> <br /> <br /> → その後、解消しました。その時の記事はこちら<br /> Thu, 04 Jul 2019 00:00:00 +0900 カジューシャスの火とクンダリーニ https://w-jp.net/2019/1509/ <br /> この記事は 「アナハタ・ナーダの聖音とクンダリーニ」 と 「仙道におけるクンダリーニ、性的欲求の克服(馬陰蔵相)」 と 「ナーダ音が聞こえるのは右か左か、それとも両方か?」 の続きです。<br /> <br /> ■カジューシャスの火<br /> 「クンダリニ― ある奥義体験(G.S.アランデール 著) 」には、クンダリーニと非常に似通った「カジューシャス」について記載されています。これはギリシア神話で「ケーリュケイオン」とか「カドゥケウス」とか言われている羽のついた蛇の絡まっている杖の姿で象徴されますが、同書によると、どちらも「火」と「活力」という点においては共通で、カジューシャスは単独で目覚めうるそうです。両者は混同しやすく、同じものと受け取りがちとのことです。この内容に基づけば、私が経験したのはクンダリーニではなくカジューシャスだった、という仮説が成り立ちます。<br /> <br /> 同書では比喩として、カジューシャスの火は「解放の道」をもたらし、クンダリニの火は「成就の道」をもたらす、という違いがあるとも述べられており、カジューシャスはその杖のシンボルに象徴されるように中央の「スシュムナ」と左右の「イダとピンガラ」のセットのことであり、同書によるとカジューシャスは低次処体内への拘束から解放する通路である一方、クンダリニの本質はより大きい意識と1つになるための案内役である、と記載されています。カジューシャスが低次の欲求や混乱から解放するものである一方で、クンダリーニはより高い次元へと導くのでしょう。<br /> <br /> ということであれば、前記事で記載したような私の体験は、どちらかというと低次の欲求の解消の面が大きかったと思いますので、実際はクンダリーニではなくカジューシャスの体験だった、とすれば納得がいきます。とは言いましても、このように分けているのは神智学の一部の書物だけで、それも、同じ神智学でも「神智学大要」などにはこの記述はなくて「クンダリニ― ある奥義体験(G.S.アランデール 著) 」くらいにしか出てきませんので、多くの場合はクンダリーニとして一纏めにされているのが現状のような気がいたします。ヨーガ系でもこれら2つは分けられていませんし、これはトリビアとして心の端に留めておくくらいがいいのかもしれません。<br /> <br /> それにしても、クンダリーニの経験は「ヨーガ行者には解脱を、愚者には束縛を与える。」と言いますし、一人でのクンダリーニ経験は危険ですから、私の経験がクンダリーニではなくカジューシャスだったということは、グルがいない私としてはこれで良かったのかもしれません。まあ、実は似たり寄ったりかもしれませんが。<br /> <br /> ■クンダリーニを2回に分ける<br /> 瞑想中に得たインスピレーションによると、私の場合にはクンダリーニ経験を2回に分けるというテクニックが使われているようです。それは私の守護霊の1人がヨガ系のガタイの良い修行僧みたいな人(霊)で、恐らくはシバ派あるいはどこかの流派のやり方のようなのですが、他の多くの流派では一回でクンダリーニを上げるので準備が整っていない人はクンダリーニ症候群になっておかしくなることが多々あるようですが、それを避けるために、私の守護霊の流派では伝統的に2回に分けてクンダリーニの上昇が行われるようです。その期間は数ヶ月開ける事もあればもっと長い事もあるようですが、最初は緩くクンダリーニを上げるようです。具体的には、1回目は左右1本づつ合計2本クンダリーニを緩く上げて、その後、時間をかけて体をクンダリーニに順応させます。まだ完全に準備が整っていなくても、1回目のクンダリーニでおかしくなることはほとんどないようです。このあたり、どのような感じだったかは 前の記事に書きました。(ちょっと紛らわしいですが、前の記事に書いた2回目がここで言う1回目で、ここで言う2回目は私は未体験です。)そして、体の準備が整ってから2回目の本番でクンダリーニ本体を上昇させるとのことですが、私の場合は2回目はまだです。2回目はやり直しがきかない一発勝負で、それが失敗したらかなり悲惨なことになるし、失敗すれば今生での霊的成長がかなり滞ってしまう、あるいは、完全に無理になる事もあるようなので2回目をいつ行うのかは守護霊が慎重に見極めているとのことです。私も、2回目をいつ行ってくれるのかは教えられていません。それはずっと後かもしれませんし、2回目は無理と判断されるかもしれないです。私の意志よりも守護霊の判断が重要のようです。瞑想の中での話なので本当かどうかはわかりませんけど、私はこれを「仮説」として理解しています。<br /> <br /> これはある流派の秘儀であり、一般的には公開されていなくて、同様の情報を見つけるのは困難なようです。多くの流派は1回のクンダリーニで上げようとするようですから。私の場合は人間のグルはいなくて守護霊がかなり上級のヨガ行者のようなので割と見極めてもらっていると思っています。そこに確証はないですけど、たぶんそうだとなんとなく思っています。基本的にはグルがいないとこの種のことは危険かなとは思います。私の場合、クンダリーニの上昇は守護霊およびハイヤーセルフの意思がなければおそらく起こらなかったと思います。私はハタヨガなどの秘儀は書物は一応ハタヨガプラピディカとか読みましたが実践という意味ではそんなに通じていませんし、私が自己流でハタヨガを修行してクンダリーニを意思の力で上昇させるのが危険なのは明らかですから、私の場合、安全にクンダリーニ経験するには「あちら側」にいる霊やハイヤーセルフの意思に委ねるのが安全だったといいますか、そもそも私の意思なんて無関係で「あちら側」にいる霊やハイヤーセルフが全部お見通しで筋書き立てて経験させたのだろうと思っています。だからおかしくならなかったのかなと。そんな安全な筈のやり方であっても時々バランスを崩した事もあるので、2回に分けるやり方でなかったらどうなっていたのだろうかとも思いますが。補足しますと、「あちら側」にいる守護霊やハイヤーセルフに委ねたのは確かですけど、この世界は自由意志が尊重される世界ですので自分の意思とは無関係に勝手にクンダリーニ経験を与えることは許されておりません。その筈です。瞑想中に何度か守護霊やハイヤーセルフにコンタクトを取って、計画と言いますか、お願いおよび許可を出して、それを元に色々としてもらった、という感じだと理解しています。ですから、たまに聞く「瞑想していたら(運よく? 事故で?)クンダリーニが上がってしまった」とかいう状況とは私の場合はかなり違うのかな、と。<br /> <br /> 私が瞑想中に得たインスピレーションでそう思っているだけですので他の人はクンダリーニ修行など好きなようにしても良いと思いますが、私はこんな感じで理解しました。<br /> <br /> この2回に分けることは広義においては文字通りクンダリーニを2回に分けることだと思いますが、神智学の「クンダリニ― ある奥義体験(G.S.アランデール 著) 」に記載されているように「カジューシャスの火」と「クンダリーニの火」に分けて考えると随分としっくりきます。これは言い方の違いだけで、おそらく同じことを意味しているのかなと思います。<br /> <br /> <br /> <br /> <br /> Mon, 01 Jul 2019 00:00:00 +0900 ヨガ瞑想、サマーディ、マインドフルネス、ヴィパッサナー等について https://w-jp.net/2019/1508/ <br /> ■目的<br /> ・心の平穏を得るため。<br /> ・いわゆるゾーン(ZONE)と呼ばれる状態にまで集中力を高めて仕事の効率を劇的にアップするため。<br /> ・宗教的には悟りが目的ですが、ビジネスにはリラックスによるストレス解消とゾーン(ZONE)が目的で悟りは不要。<br /> <br /> ■瞑想とは?<br /> ・基本は「集中」。いわゆるサマタ瞑想。<br /> ・応用は「観察」。いわゆるヴィパッサナー瞑想。いわゆるマインドフルネス瞑想。基本の集中に加えて観察を加える。<br /> ・いわゆるゾーン(ZONE)に入る時は集中が極限にまで高まり、集中の対象と自身の心(マインド)が一体になり、集中の対象に関する物事が詳細に理解できるようになる。いわゆるサマーディ(三昧)の初期の段階。仕事での課題に対する理解力及び判断力が格段にアップする。<br /> ・サマーディを更に極めると悟りにまで繋がるが、仕事の効率アップのためのゾーン(ZONE)体験にはそこまでは不要。<br /> ・ヴィパッサナー瞑想を近代化して悟りなどの宗教色を消した上でビジネス分野で使いやすくした瞑想がマインドフルネス瞑想。<br /> ・ヴィパッサナー瞑想は広義では観察瞑想。狭義では特定の流派の瞑想を意味したり原始仏教のブッダ瞑想を意味します。コンテキスト次第です。日本ではゴエンカ式が有名ですがヴィパッサナー瞑想と言うと基本は単に観察瞑想のことを意味します。ヴィパッサナー瞑想の由来は原始仏教のブッダ瞑想ですが、流派の瞑想を意味することもありますので混乱があります。<br /> <br /> ■座り方<br /> 古典的には足をクロスさせて胡座(あぐら)を組む。東洋風。<br /> 西洋風は椅子に座る。どちらの場合も重要なのは背筋をまっすぐ伸ばすこと。<br /> 西洋風の場合は足を組まずに足は平行にして膝は90度近くに曲げる。膝よりも背筋をまっすぐにする方を優先する。<br /> どちらの場合も頭は背骨の上にちょこんと乗せる。<br /> 西洋風の場合は椅子の背もたれに寄りかからない方が良い。<br /> <br /> ■基本的なやり方<br /> 集中から始める。手法は数多くあります。<br /> 集中瞑想(サマタ瞑想)の場合は何かに集中する。例えば眉間やハート。その際、古典的ヨガ瞑想ではオームというマントラや(持っている場合は)個人的なマンドラを唱える。マーラーという数珠を使ってカウントする流派もあります。オームで瞑想する場合は吸う息でオーム、吐く息でオームを心の中で唱えます。<br /> ヴィパッサナーは流派によってまちまち。先に集中(サマタ)瞑想をしてからヴィパッサナーに入る流派や最初から観察(ヴィパッサナー)瞑想をする流派もあります。<br /> マインドフルネスも流派によりますが、簡単な方法としては、息を観察する瞑想があります。座ってただ息をずっと観察するだけですが、それでも十分効果があります。<br /> <br /> ■最初は難しいです<br /> 瞑想しようと思って座っても、最初は雑念が次々に出てきて瞑想なんて出来ないでしょう。瞑想初心者にはそれが普通です。心配する必要はありません。<br /> 流派によっては瞑想初心者に長い瞑想をさせるのを禁止していますが、それは、瞑想初心者が長い瞑想をすると雑念に圧倒されてネガティブな思いに押し潰される危険性があるからです。どの程度が長い瞑想になるのかは人によって異なりますが、初心者は最長20分を目安にすると良いと思います。初心者は5分も座っていられないと思いますのでまず座ってみて、雑念に圧倒されそうになって耐えられなくなったらすぐに瞑想を止めるくらいでも最初は良いと思います。最初は5分でも十分です。<br /> <br /> 流派によっては、初心者には瞑想よりも奉仕(ヨガでいうカルマヨガ)を重視しているところも多くあります。初心者が瞑想できるだけの下地を作るために無私の奉仕をすることで心の中を落ち着かせる効果があります。無私の奉仕をすることで心が落ち着いてくれば、やがては瞑想できる時間も長くなってゆくでしょう。<br /> <br /> あるいは、ヨガのアサナ(体操)を行うのも効果的です。もともと、ヨガのアサナ(体操)は瞑想の準備の段階として位置付けられていますので、そのままストレートに瞑想の準備になります。このあたりはアシュタンガ・ヨガ(流派の名前ではなくて、パタンジャリのヨガ・スートラに記載されている八支則のこと)に記載されている8段階の話になります。詳しくはそのあたりを調べていただけば良いですが、あまり難しいことを考えずとも、世間一般で体操と思われているヨガのアサナ(体操)は瞑想のための準備段階の1つだと理解すればここでは十分です。<br /> <br /> ■雑念とは戦わない<br /> 瞑想中に雑念が出てきても、戦わないのが基本です。雑念を否定すると雑念が新たな大きな雑念になって襲いかかってきます。瞑想中にはトラウマも現れるでしょう。それも自然なことです。きちんとした瞑想の先生であればこの辺りのことを理解している筈ですので、雑念がすぐに湧いて一人での瞑想が難しい場合はグループ瞑想が効果的です。<br /> <br /> ■次第に雑念が減ってゆく<br /> ヨガのアサナ(体操)をしたり奉仕(ヨガでいうカルマヨガ)をしているうちに心が静まってゆきます。心が静まることにより集中や観察ができるようになってゆきます。<br /> それ以前は、雑念が抗し難い力で頭を支配し、瞑想すると言うよりは雑念に心を弄ばれているかのような状態になることが多いです。やがて雑念の力が弱まってゆくと心が雑念に勝てるようになります。雑念が浮かんできても、意思の力で心を制御して、雑念に心が支配されないように、心が勝手に動くのを許さないように制御できるようになります。この状態で初めて、集中や観察ができるようになります。例えば眉間であるとか、あるいは、呼吸に集中することができるようになります。雑念が多いと瞑想中にあれこれ思いを巡らせて頭を使ってしまいますので疲れてしまっていましたが、雑念が減ることにより瞑想でくつろぐことができるようになります。雑念に心を奪われないようにして眉間や呼吸に集中することで、心が休まり、頭を休めてくつろぐことができるようになります。<br /> <br /> ここまで来れば、瞑想の楽しさを知ることが出来る筈です。それまでは苦しいですが、楽しく感じる状態に達するための方法として、おそらく一番簡単なのはヨガのアサナ(体操)をすることだと思います。奉仕(カルマヨガ)も良いと思います。この状態になる以前は集中にせよ観察にせよ雑念との戦いですのでかなり苦しいですが、それをやり遂げるだけの意義はあると思います。<br /> <br /> ■基本は、毎日<br /> 伝統的には、瞑想は朝6時前が一番効果的とされています。それと夕暮れ時も効果的です。就寝前も深い眠りのために効果的です。<br /> <br /> ■近代的な瞑想<br /> 瞑想状態を作り出す効果的な音楽が数多く出ていますので好みに合ったものを探すのも良いと思います。特に初心者には助けになると思います。音楽だけのものや、音声の入った誘導瞑想などもあります。これらの音楽は自転車を練習するときの補助輪のようなものだと考えると良いと思います。最終的には自分で瞑想できるようになるべきだと思いますが、特に初心者には助けになると思います。一部のCDは強制的に瞑想状態を作り出すために、自分のキャパシティを超えて瞑想状態になってしまうことがありますので注意が必要です。とは言いましても、連続してずっと聴いたりしない限りは市販されているものは基本的に問題ないとは思います。<br /> <br /> ■20分の瞑想があっという間になる<br /> 慣れると20分くらいの瞑想はあっという間に感じられるようになりますので時間を延ばします。<br /> <br /> ■色々試してみましょう<br /> 瞑想の手法は色々あって、人によって合う合わないがあります。色々試すと良いと思います。<br /> <br /> ■集中瞑想(サマタ瞑想)<br /> 集中瞑想では、雑念が出てきたら半ば強制的に集中ポイントに意識を戻します。眉間であれば眉間に戻します。ハートに集中すると決めていたらハートに戻します。雑念で集中が途切れても、途切れたと気付く度に何度も何度も意識を集中ポイントに戻します。上に書きましたように、最初は苦しいですが、雑念が減ってきて、心の制御が容易になるにつれ瞑想でくつろげるようになります。<br /> <br /> ■簡単なマインドフルネス瞑想(ヴィパッサナー瞑想)<br /> 息を観察する方法が簡単です。息を吸っている、吐いている、と言う状態を常に観察し続けます。雑念が上がってきたら集中瞑想(サマタ瞑想)と同じように意識を息の観察に戻します。<br /> <br /> ■マインドフルネス瞑想(ヴィパッサナー瞑想)のためにもある程度の集中は必要<br /> 集中瞑想(サマタ瞑想)と観察瞑想(ヴィパッサナー瞑想、マインドフルネス瞑想)は初歩的なところでは実はさほど違いがありません。どちらもある程度の集中を基礎として、どちらもある程度の観察は行います。特にビジネス向けのマインドフルネス瞑想であればこのあたりは顕著です。言い方の違い、流派の違いだと思っていれば十分だと思います。基本はどちらも、ある程度の集中とある程度の観察を行います。それが瞑想の基礎です。<br /> <br /> ■変容意識に囚われないように<br /> 瞑想を続けるうちに頭の中に特殊な状態が生まれてくることがあります。古典的には、頭の中で何か起こっても基本は無視をします。それは重要ではないからです。イメージが見えたり何か声が聞こえる気がすることがあるかもしれません。多くの場合は心が幻想や幻聴を作り出しているだけで、それは記憶を元にしていることが多く、瞑想を続けるうちにやがてその経験は消えてゆきます。<br /> <br /> ■心に惑わされないように<br /> 瞑想していると、心が自分自身を騙す時があります。「私はとてもよく瞑想できています。無の心になっています。無限と一体になっています」と、心が貴方に語りかけることでその気になり、初心者はすぐに騙されてしまいます。心配はいりません。これは初心者によくあることです。このような意識が心に現れたら、それが本当かどうか確かめる簡単な方法があります。「貴方は、とても平和で幸せですか?」本当によく瞑想できているならば貴方は必ず幸せです。幸せでないのならば、何かが間違っているのです。それと同時に、エゴが拡大していないかも確認してみてください。瞑想が進むにつれ、他人の言葉で害されることが少なくなってゆきます。一見幸せになったと思っていても、他人との関係性ですぐに幸せが消えてしまう場合は、これもまた、何かが間違っているのです。本当の幸せは他人に左右されない永続的なものです。瞑想をするにつれ、「条件・前提のある幸せ(その条件や前提が消えたら幸せではなくなってしまう)」から「条件・前提のない幸せ(常にある至福)」へと変わってゆきます。<br /> <br /> ■瞑想しすぎで怒りの沸点を下げないように<br /> 初心者のうちから瞑想をしすぎて、怒りの沸点が下がってしまった人が稀にいらっしゃいます。これは、本人は瞑想に上達したと思っているのですが実際にはそうではなくエゴが拡大した状態ですので本人も周囲も不幸です。特に最初は、初心者のうちは不快感が瞑想中に現れたらすぐに瞑想を中断します。これは重要です。<br /> <br /> ■無理をして継続しない<br /> 「ヨーガとこころの科学(スワミ シバナンダ 著)」には以下のようにあります。<br /> 頭痛が起きたらすぐに精神集中を中止すること。無理をして継続するのは良くない。<br /> <br /> ■瞑想の3段階<br /> 最初、「苦」が出てきます。それは苦しいものです。<br /> 次に、「楽」が出てきます。それは楽しいものです。<br /> 次に、「苦でもなく楽でもない感覚(無知とも言われる)」が出てきます。それは重いものです。<br /> 3つとも、やがては消え去ります。消え去った後に、絶対的な至福が現れます。瞑想中だけでなく常に心が晴れやかで平和な状態が継続するようになります。<br /> <br /> これは、1回の瞑想で全てを体験すると言うよりは、長く瞑想を続けるうちにこのような状態をそれぞれ通過する、と言う種類のものです。<br /> 最初、瞑想を始めてすぐは苦しいです。やがては瞑想が楽しくなってきます。ビジネス向けのゾーン(ZONE)体験であればこの「楽しい」段階以降が必要になります。瞑想が楽しいと言うことは雑念が減って集中できるようになったと言うことであり、仕事において集中力や判断力が高まるにつれて成果が格段に向上するでしょう。<br /> <br /> 瞑想にせよゾーン(ZONE)体験にせよ、楽しかった経験がやがては普通になってゆきます。感情の高まりなしに普通に集中できるようになります。ここで、昔体験した「楽」の経験がなくなったからと言って後戻りしたわけではなく、より微細な「無知(苦でもなく楽でもない感覚、重い感覚)」を解消する段階に来ていると言えます。「無知」も解消されれば、更に集中できるようになります。仕事も集中できて判断力も高いですが、もともと「喜び」の段階で経験していたゾーン(ZONE)体験のように強い喜びは無くなっています。喜びが無くなっても後戻りしたわけではなく、この段階で「無知」が消えるに従って次第に、更に絶対的な至福が現れてきます。喜びの種類が変わってゆきます。<br /> <br /> 「苦」は原因があって苦しみがあった。「楽」は原因があって楽しみがあった。「無知」は原因があって暗闇の中に落ち込んでいた。それらが解消されると、絶対的で常に存在する至福が自らの中に現れます。<br /> <br /> ビジネスのゾーン(ZONE)体験では「楽」の段階がフォーカスされており、仕事の効率アップおよび判断力アップ、そして従業員のモチベーションアップのためにはゾーン(ZONE)に入ることはありだと思います。やがてはそのゾーン(ZONE)体験者が次第に次の段階へと進むにつれて「楽」が無くなってゆきます。瞑想に理解のない人が見たらモチベーションダウンと判断するかもしれませんが、実際のところそれは成長であるわけです。やがて「無知」の段階を通り過ぎれば絶対的な至福が現れてきます。ただ、ビジネス向けのマインドフルネス瞑想でそこまで達成できるかどうかはわかりませんが。マインドフルネスでは基本的なストレス解消と、ごく一部のセンスの良い人がゾーン(ZONE)を使う、と言うくらいではないでしょうか。<br /> <br /> ■瞑想の禁戒<br /> 瞑想中の人を驚かせてはいけません。瞑想中の騒音や大きな音は精神に致命的なダメージを与えてしまうことがあります。<br /> <br /> ■ゾーン(ZONE)の禁戒<br /> 意識がゾーン(ZONE)に入ることにより集中力および判断力が高まった際、気をつけないといけないことがあります。それは瞑想と同じ状態ですので、周囲の人はゾーン(ZONE)に入っている人を驚かせてはいけません。瞑想と同じく、ゾーン(ZONE)に入っている人を驚かせてしまうと精神に致命的なダメージを与えることがあります。仕事においては、瞑想やゾーン(ZONE)に対する理解のない職場でゾーンを行うのはとても危険であると言えます。ゾーン(ZONE)に入っていると集中力が極限にまで高まって意識が仕事にのみ向いていますから周囲の呼びかけにも答えないことがあります。それを見て「無視している」とは考えないでください。とても集中しているときは周囲のことなど意識には入らないのです。呼びかけに応えなくても大きな声を出して怒らないで下さい。集中している人を妨げないで下さい。シリコンバレーなどではゾーン(ZONE)に入って仕事をすることが多いと聞いていますが、日本でゾーン(ZONE)の意識に入って仕事をするのはまだまだ危険であるように思います。<br /> <br /> ■道徳的生活が瞑想の基礎<br /> 心を穏やかにすることが瞑想の基礎です。そのためには道徳的生活を送る必要があります。道徳的生活を送れば悩みも減り、雑念も減ってきます。<br /> <br /> ■瞑想に「努力」は本来必要ではありません<br /> 心が穏やかになれば雑念も減り、そうなれば瞑想も「自動的」に起こります。よく、「瞑想とは自動的に起こるものであって、瞑想をするわけではない」という説明がされることがありますが、これは文字通りそのままの意味です。雑念が減った状態で座って目を瞑れば自動的に瞑想状態に導かれてゆき、「安らぎ」を感じることができます。それは文字通り自動的に起こるのであり、瞑想しようとすると激しい雑念に邪魔されて苦しいのであればまだ初級の段階と言えます。ヨガ的には、雑念が多い時に瞑想に引き戻す作業は「プラティヤハーラ」です。それは悪いことではなく、瞑想に向けた準備段階の1つです。プラティヤハーラとは、感覚器官(五感:視覚、触覚、嗅覚、味覚、聴覚)を外から内へと引っ込めて、外の雑念や感覚から切り離すことを意味します。雑念が出てきて心が外へ外へと向いてしまうのを内へと引き戻すのがプラティヤハーラです。プラティヤハーラの段階では瞑想は「自動的」には起こりませんが、それはそれで誰もが通る段階ですので通り抜ける必要があります。成長の一つの段階です。プラティヤハーラで感覚が内へと向かうと、次は集中(ヨガで言うダーラナ)ができるようになり、集中(ダーラナ)ができるようになると、次第に瞑想が自動的にできるようになってゆきます。これは1回の瞑想で状態が遷移するものというよりは、瞑想を続けてゆくうちに状態が少しづつ変わってゆく、という種類のものです。慣れないうちはプラティヤハーラまで到達し、やがてはプラティヤハーラとダーラナの2つが連続してすぐに起こるようになります。そしてやがては、プラティヤハーラと集中(ダーラナ)と瞑想(ディヤーナ)の3つが続けて起こるようになります。上達した後は、これら3つのものは連続してほぼ同時に起こりますが、最初のうちはプラティヤハーラだけをして感覚器官(五感:視覚、触覚、嗅覚、味覚、聴覚)を内へ内へと向けることにだけ集中します。そして瞑想を続けるうちに、やがては瞑想が自動的に起こるようになります。<br /> <br /> ■特別な体験を求めない<br /> 瞑想に特殊な体験を期待する人がいますが、ほとんどの場合、特別な体験は起こらないか、あるいは、夢見と同じように想像している場合が多いです。ヨガ的には、基本は「たとえ本当の神秘体験をしたとしてもそれが悟りでないのならば重要ではない」と説きます。実際には神秘体験の中のいくつかは成長の「しるし」として認められるものもあるのですが、それは経験豊富なグル(教師)にしか見抜けないものですし、それを体験したからと言ってすぐにどうこうなるものでもありません。実際の成長には長い年月がかかるものなので、すぐに何かを体験できると期待しないのが基本です。特別な体験はエゴを拡大することもありますから、それはそれで危険です。瞑想においては、体験を求めずに心の平安・平和を求めるのが基本です。<br /> <br /> ■食べ物<br /> 刺激のある食べ物は瞑想の妨げになると言われています。食べ物は絶対的なルールではありませんが、体の快・不快によって瞑想のやりやすさは変わりますので健康的な食べ物を取るのが基本です。古典的にはベジタリアン食が良いとされています。<br /> <br /> ■禅定とサマーディ(三昧)、そしてゾーン(ZONE)<br /> 広義においては基本的に同一とみなして良いですが、厳密には、第一禅定はサマーディ(三昧)ではなく第二禅定以降(第4禅定まで)がサマーディ(三昧)です。マインドフルネスでゾーン(ZONE)に入ったというのは第一禅定の状態を指しますので、厳密にはサマーディ(三昧)ではありません。上で、ゾーン(ZONE)がサマーディ(三昧)の初歩の段階、と書いたのはこのことです。(参考文献:悟りの階梯(藤本 晃 著) 、瞑想経典編(アルボムッレ・スマナサーラ 著) )<br /> <br /> <br /> ・第一禅定=マインドフルネスで言う「ゾーン(ZONE)」=広義の(いわゆる)サマーディ(三昧)<br /> ・第二〜四禅定=狭義のサマーディ(三昧)<br /> <br /> <br /> ■まずは、いわゆる「無」で雑念を消し去る<br /> 禅定とか言うと難しく感じられますが、まず最初の目標はいわゆる「無」になって雑念を消し去るところです。瞑想を始めたばかりの頃は雑念がとめどなく現れてきて瞑想どころではありませんが、上に記載したように無私の奉仕(カルマヨガ)やヨガのアーサナ(体操)などをするにつれて雑念が減ってゆきます。その段階での目的地は、まず「無」を体験することです。心の動きを止めて、雑念がない状態を体験することです。雑念がない状態では「くつろぐ」ことが出来ます。その「無」の状態から抜け出ると再度雑念が湧き出てくるでしょうからその「無」は絶対的な悟りというわけではなく、一時的な「くつろぎ」ではあるのですが、今までずっと雑念が湧き出てきてずっと頭を働かせることで疲れ果てている頭にとっては、その一時的な休息であってもとても助けになることでしょう。まずは、その「無」の状態を目指します。雑念が強い場合は「無」を体験するのは偶発的な運に任せるしかありませんが、雑念がある程度減ってくれば、雑念が弱まった状態で「えいっ」と心を一点に集中(サマタ瞑想)することで「無」の状態に入れるようになります。ここまで来れば、瞑想がとても楽しくなる筈です。そのくらいになれば、睡眠の質も変わってきます。良い睡眠が取れるようになり、以前より短い時間で疲れが取れて回復するようになります。気持ちが晴れやかになり、表情も変わってきます。<br /> <br /> 私の場合、いわゆる「無」を経験した約1週間後からナーダ音(別記事参照)が聞こえるようになりました。<br /> <br /> ■マインドフルネスの「ゾーン(ZONE)」(第一禅定)のためにも集中が必要<br /> いわゆる「無」の場合は集中して雑念を消し去りますが、ビジネス向けのマインドフルネスにおけるゾーン(ZONE)の場合は課題に対して集中をし、課題と一体になります。集中するという手法は似ているのですがその使い方が若干違います。ゾーン(ZONE)の場合は無ではなく、課題の中に入り込みます。その際、絶対的な至福が感じられます。仕事に集中して楽しくなり、更には成果も上がるということでシリコンバレーなどではマインドフルネスおよびゾーン(ZONE)がもてはやされているようです。<br /> <br /> ■いわゆる「無」とゾーン(ZONE)の違い<br /> 仕事の効率アップが目的であれば瞑想で対象へ集中して用いてゾーン(ZONE)状態を作りますが、リラックスあるいは悟りが目的であれば瞑想で「無」状態を作ります。<br /> <br /> ゾーン(ZONE)は雑念がある程度残っていても仕事の内容に熟練すれば割と簡単に入ることが出来ますが、「無」の状態に入るためにはある程度まで雑念を減らす必要がある、という違いがあります。というのも、ゾーン(ZONE)であれば対象がありますので心(マインド)をその対象に向け続ける集中力がある程度あればゾーン(ZONE)状態を保つことが出来ますが、「無」の場合は雑念を「押しのけて」(という表現が適切かどうかは微妙なところですが)「ぐいっ」と意識を押し込めて「無」の状態を作るのである程度雑念が減らないと難しいからです。<br /> <br /> とは言いましても、ゾーン(ZONE)状態だけでも対象と一体となっている間はとてつもない至福状態になりますので、それはそれで気力的には充実したものになります。ゾーン(ZONE)による至福と「無」によるリラックスはかなり違うものではあるにせよ、瞑想の「集中」テクニックとしては割と似ています。雑念の度合いによって出来る出来ないの違いがあるくらいです。<br /> <br /> ■「無」とは心のコントロール<br /> 「無」というと何もかも無くなってしまうかのような印象を受けるかもしれませんが、そういうことではありません。「無」を経験するとは、心をコントロールして一時的に「無」の状態にする、ということです。心のコントロールを解けば「無」の状態は解除され、再度、心(マインド)が働き始めます。雑念が次々に出てくる無秩序の状態では「無」は偶発的にしか起こりませんが、心がコントロールされている状態になれば意識的に心を停止させて「無」の状態を作り出せるようになります。<br /> <br /> 「無」それ自体が通過点ではありますが、ヨーガでは「無の状態にずっと逃げ込んでいてはいけない」とも言います。一時的な「無」を経験できるほどの心のコントロール力をつけるのは雑念を減らすためにも必要ですが、「無」とは心の停止状態ですので、ずっと心を停止させてしまうのはヨーガの目的ではない、と古来から伝えられているようです。「無」は通過点として最初の目標ではありますが、最終目的地ではないということです。心が疲れた時に一時的に「無」になって休息するのは問題ありません。<br /> <br /> 西洋の心理学や哲学の一部では「心こそが自分自身」である、と説きますが、ヨーガでは「心(マインド)は自分自身ではなく、魂(ヨーガで言うアートマン)こそが自分自身であり、心は魂(アートマン)の道具である」、と説きます。瞑想は後者の見解に根ざしています。魂が心を制御して一時的に静止状態にするということは、魂(アートマン)が心(マインド)を制御できるようになる、ということです。<br /> <br /> ■「無」とは、何かをイメージすることではない<br /> 上記のように、心の動きを静止させるのが「無」ですので、「無」と言う何かをイメージするわけではありません。「ギュッ」と心の動きを抑えて静止させるだけですので、何かをイメージしているとしたらそれは「無」ではありません。<br /> <br /> ■「無」の次は「意識を拡大」する<br /> 「無」で意識をギュッと自分の中心に押し留めることができるようになると、意識が拡大してきます。周囲がキラキラ輝くものとして見えるようになり、ありふれた風景すらも美しい風景に変わってゆきます。匂いなども敏感になり、タバコの煙が耐えられなくなる一方で、草花の香りや雰囲気に敏感になります。他人や周囲のもの、草花なども含めて、全てが自分自身「かもしれない」という感覚が芽生え始めます。このくらいになると、他人を傷つけることはできなくなります。他人を傷つけると自分のハートが瞬間的に傷つくので、他人を傷つけることが不可能になります。食べるものに対しても敏感になり、次第にベジタリアン食に変わってゆきます(日本ではなかなか難しいでしょうが)。<br /> <br /> ■「意識の拡大」とは、何かをイメージすることではない<br /> 「無」の場合と同様に、意識の拡大とは実際に意識が広がることですので、「広がった何か」をイメージするとか、「無限性をイメージ」することではありません。<br /> <br /> ■「意識の拡大」とは、心が広がることではない<br /> 「心(マインド)」の基本的な属性は「集中」です。心は何かに集中(散漫な時もありますが)あるいは「無」になるのかのどちらかです。「心が広がる」とか「心が拡大」するわけではありません。心は制限されており、心が何かを認識するためには集中のポイントが必要になります。一方、「意識の拡大」とは、「心の奥底にある、魂とでも言うべき意識がその認識範囲を広げる」と言う種類のものです。ただ、人によっては両方を心と呼んでいたりするのでコンテキストが混乱していることもあります。ここでは心と魂(意識)を分けています。<br /> <br /> 雑念が多かったり「無」を未体験の状態ですと意識の範囲が狭い範囲に限られていますが、「無」を経験して雑念が減ってくると、その奥にある「魂」の意識が表に出てきます。その結果、意識が拡大するのです。瞑想が深まって、静けさがどんどん深まるにつれ、魂による意識の認識範囲が広がって行きます。人によって視野だったり聴覚だったり触覚だったりします。通常の五感を超えたところで意識が働くようになります。<br /> <br /> 意識が拡大して敏感になると、この世は生きにくいと感じられることが多くなるかもしれません。例えば仕事であればゾーン(ZONE)に理解のある職場で働くと言うのも選択肢の1つかもしれません。ゾーン(ZONE)くらいまでであれば日常生活を送ることも割と普通にできますし仕事の集中力や判断力も高まって良いことづくめですが、ある程度以上を目指そうとするとやはり、ヨガであればアシュラム(道場)のようなところで静かに過ごす方が安全だと思います。と言うのも、このように意識が拡大してしまうと不必要に他者の感覚を敏感に受け取ってしまうようになりますので、日常生活で度々困難が生じることがあるからです。時には情緒不安定な時期もあり得ますので、理解のあるグル(師匠)の元で困難な時期を過ごした方が良いことも多いです。<br /> <br /> ■いわゆる「無」と禅定およびゾーン(ZONE)の関係<br /> 「瞑想経典編(アルボムッレ・スマナサーラ 著) 」によると、第二禅定で思考が止まって「楽」の状態になります。ですから、「無」とは第二禅定のことだと推定できます。第一禅定では思考がありますのでマインドフルネスのいわゆるゾーン(ZONE)で仕事をすることができますが、「無」である第二禅定では思考が止まってしまいますので仕事はできません。とは言いましても、第二禅定にまで達したのであれば普段の雑念も相当減っていますから、ゾーン(ZONE)に入らずとも通常の状態で普通に仕事が集中できて判断力も高まっている筈です。その場合、必要があればゾーン(ZONE)に入ることもできますが、第二禅定に達する前であれば通常状態とゾーン(ZONE)の状態の差がとても大きかったのに対し、第二禅定に達した後は通常状態とゾーン(ZONE)の差がとても小さくなっていますので、通常状態で普通に仕事をすれば十分かもしれません。<br /> <br /> 同署によると、第一禅定では「心が喜びに満ち、思考が残っている状態」、第二禅定は上の通り、第三禅定では「喜びが消えて楽だけが残る、たいへん高度な安らぎ」、第四禅定は「楽の波も止める。苦も喜も楽もない、統一した状態:捨(しゃ)」(と言う安らぎ)とのことです。<br /> <br /> <br /> ・第一禅定=マインドフルネスで言う「ゾーン(ZONE)」=広義の(いわゆる)サマーディ(三昧)=心が集中し、心が喜びに満ち、思考が残っている状態。<br /> ・第二禅定=いわゆる「無」=狭義のサマーディ(三昧)=思考が止まり、心が喜びに満ち、思考が止まり、「楽」になる。<br /> ・第三禅定=狭義のサマーディ(三昧)=喜びが消えて楽だけが残る、たいへん高度な安らぎ。<br /> ・第四禅定=狭義のサマーディ(三昧)=楽の波も止める。苦も喜も楽もない、統一した状態:捨(しゃ)。対象のある禅定の中では最高のもの。<br /> <br /> <br /> ■いわゆる「無」と「全体/無限」との関係<br /> この関係は時々混乱して表現されます。なんとなくそれっぽく聞こえて語呂合わせは良いのですが、例えば「無こそが全体」とか「無こそが無限」と言う表現は一見すると聞こえは良いのですが意味を考えると混乱します。これは、次のように考えると分かりやすいです。「無」とは認識に限界のある「心」に関するものであり、心が止まるといわゆる「無」になると言うのは上に書いた通りです。一方、「全体」と言うのは心のことではなく、魂の意識が感じられる範囲ですから、それは全体でもあり、無限でもあります。最初の言葉を言い直すと「心が静止すれば(意識が)無を感じ、心が静止して心が無になれば魂の意識が全体や無限を感じる」とでも言えば良いでしょうか。ただしこれは、コンテキストによって「無」が何を意味するかによって意味合いが変わってきますので注意が必要です。念のため記載しておきますと、今回のこの記事では「無」は心に属するお話として記載していますから、この記事のコンテキストにおいては「無こそは全体」にはなりませんし、「無こそが無限」にはなりません。<br /> <br /> (追記) 後日、「悟りの階梯(藤本 晃 著)」の記述をたまたま発見したのですが悟りを得た「阿羅漢」であれば心を一時的にではなく心を滅することができ、それを「滅尽定(めつじんじょう)」と言うそうです。もしかしたら「無こそが全体」あるいは「無こそが無限」と言う表現はこの滅尽定のことを意味しているのかもしれません。であればこの文面のまま正しいのかもしれません。ただ、私は滅尽定の体験はしておりませんので明確ではありません。この記事では滅尽定ではなく前記の意味の第二禅定でいわゆる「無」を表現しております。<br /> <br /> ■いわゆる「光」とは<br /> 「悟りの階梯(藤本 晃 著)」によると、第二禅定以降が「光」の世界と称されています。これは原始仏教で言う「光」ですが、面白いことに、近代のスピリチュアルでも人の魂の本質は「光」であると主張しています。興味深いところに共通点があるようです。私自身の経験においても、第二禅定のいわゆる「無」を経験して以降に光といいますか熱と言いますか愛と言いますか、言葉ではいかようにも言いあらわせるのですが、それを「光」と言うのであればそうかもしれない、と言う感覚を伴っていますので、第二禅定のいわゆる「無」を経験した以降が「光」の世界だと言うのは納得がいきます。同署によれば、第二禅定の中でも3段階(少光天、無量光天、発光天)に分かれて、光が少ない方から多い方に3分割されているようです。第三禅定ではより高い光の世界の分類(浄光)になっています。禅定が進めば光が増える、と言うことのようで、理にかなっています。<br /> <br /> ■悟りではない<br /> 悟りの階梯(藤本 晃 著) や瞑想経典編(アルボムッレ・スマナサーラ 著)によると、テーラワーダ仏教的には第四禅定が悟りではないようです。内容的にも納得できます。ただし、禅定はそれ自体でとてつもない平穏な状態ですので、悟りではないにせよとても寛いでいる状態なのは確かです。どうすれば悟れるのか? と言う点には流派によって主張が異なります。同署のテーラワーダ仏教的にはヴィパッサナー瞑想によって悟ります。一方、ヨーガは流派にもよりますがニルビカルパ・サマーディで真我(アートマン)と一体化することでこの世の幻想(マーヤー)を打ち砕いて悟ることができる、と言う流派もあります(「あるヨギの自叙伝」より)。一方で、ヴェーダンタを勉強している人は知識によって悟る、と主張します。<br /> <br /> ただ、悟るとか言うお話はとても高い目標ですので、瞑想をする目的としてはとりあえず置いておいて良いと思います。ひとまずは雑念を減らして、禅定で幸福感を味わい、運よく悟りに近づければラッキー、くらいに思っていた方が良いような気がいたします。<br /> <br /> ■ゾーン(ZONE)に入るだけだと、ゾーン(ZONE)から抜けると苦しい<br /> 仕事で集中すれば、時にゾーン(ZONE)に入ることができます。やがて熟達すれば任意にゾーン(ZONE)に入ることができるようになりますが、それだけだとゾーン(ZONE)から出て通常の状態に戻ると苦しいのです。もともと苦しい状態だったのが、ゾーン(ZONE)に入ることで一時的な喜びを味わうことができたわけです。その喜びは一時的なものですから、ゾーン(ZONE)から出ると苦しさが戻ってきます。<br /> <br /> マインドフルネス瞑想でゾーン(ZONE)に入ることが目的の方はこのジレンマに遭遇します。ゾーン(ZONE)に入れば仕事も集中できて捗りますし判断力も高まるのですが、通常状態とのギャップに苦しむわけです。これは、実のところ何年もずっとゾーン(ZONE)に入り続けていれば次第に解消してきます。ただし、上に書いたようにゾーン(ZONE)の禁戒である「集中を妨げられないこと。精神にダメージを負わないこと」が大前提です。ゾーン(ZONE)とは第一禅定ですから、それに熟達すれば次第に精神が浄化されて第二禅定へと進んでゆきます。第一禅定のゾーン(ZONE)では通常状態に戻った時に苦しいですが、次第にそのギャップが小さくなってゆきます。上にも書きましたように、次第にゾーン(ZONE)の彷彿感や喜びそれ自体は減ってゆきますが、正常なことです。やがて、その落ち着いた状態が日常生活にも広がってゆきます。一時的な彷彿感・喜びから、生活全体に常にある喜びへと変わってゆきます。<br /> <br /> ■瞑想すればするほど、他人を傷つけることができなくなってゆく<br /> きちんと瞑想できているか、と言う見分け方です。瞑想が進んだ筈で自分ではそう思っているのに変わらず他人を傷つけても平気であれば自分の瞑想の仕方や瞑想の進み具合を見直す必要があります。<br /> <br /> ■瞑想すればするほど、自分自身の言葉遣いに気をつけるようになる<br /> これも同様です。例えば、他人を「怒鳴る」ことができなくなります。瞑想していたりスピリチュアルを謳っていても他人に怒鳴ることができるのであればそれはスピリチュアル初心者です。これは、「激しい言葉を使わないようにしましょう」などと言う標語ではなく、実際にハートが荒々しい言葉を発するのを拒否すると言う実質的な状態であり、ちょっとでも激しい言葉を使おうと心が意図するだけでハートが痛み出して、ハートが言葉を発するのを拒否して荒々しい言葉を発するのをやめてしまう、と言う種類のものです。怒りも同様で、そもそも怒り自体が減っていますのでそうそう怒ることはなくなってはいるのですが、それでも怒りの感情がちょっとでも出ると自分自身のハートが痛むのですぐに怒るのを辞めてしまいます。<br /> <br /> ■不徳の人に会ったら無関心になりましょう<br /> 上記のようなハートがすぐに反応する状態になると、自分ではそう思っていなくても、ずる賢い人から見たら「カモ」扱いされるようになりますので注意が必要です。人付き合いには気をつけて、ずる賢い人の近くに近づかないようにしましょう。マインドフルネス瞑想でマインドコントロールの危険性が叫ばれていますが、職場の一部でマインドフルネスを取り入れると精神性の高い人が増えますから、瞑想しない人は勘違いをするかもしれません。瞑想を取り入れた職場では一方的な搾取にならないように監督することが大事になります。<br /> <br /> これで思い出されるのは仏教やヨーガ・スートラにも書かれている四無量心(慈悲喜捨)の「捨」お話です。ヨーガ・スートラ 1-33に基づくと、これは以下のようなことです。(「インテグラル・ヨーガ (パタンジャリのヨーガ・スートラ) (スワミ・サッチダーナンダ 著)」より)<br /> <br /> ・幸福な人に会ったら友愛の心を持つ(慈)<br /> ・不幸な人に会ったら哀れみの心を持つ(悲)<br /> ・徳の高い人に会ったら歓喜する(喜)<br /> ・不徳の人に会ったら無関心になりましょう(捨) ← これ<br /> <br /> この4つ目がこの場合、重要になります。瞑想が深まるにつれ、不徳な人と対峙することが文字通り不可能になります。喧嘩などできなくなります。荒々しい言葉で対処ができなくなります。であれば、無関心になりましょう。<br /> <br /> 過渡期においては自分がこのように成長しても相手はしばらく昔の行動を続けることがありますが、過渡期を過ぎれば周囲から不徳な人は次第に消えてゆきます。カルマの歯車はすぐには不徳な人を周囲から消し去りはしませんが、時間が経つにつれて不徳な人との繋がりは消えてゆきます。それは職場の部署異動かもしれませんし転職かもしれません。どちらにせよ、瞑想が深まるにつれて周囲の環境も変わってゆきます。<br /> <br /> これは「搾取を許して良い」と言うことではありません。人間の自由意志は最高に尊重されるべきことでありますから、自由意志を奪うような搾取は許されません。しかし、搾取を許すと言う自由意志もありますから搾取を許している人が多いのも事実です。瞑想するにつれて現実の理解も深まりますから、気付いていなくて搾取されているような関係もどんどんと解消されてゆきます。<br /> <br /> ある程度の境地に達すれば、完全に自分の自由意志を発揮することができるようになります。「するように言われたから」ではなく「自分がしたいからこれをする」と言うようになります。エゴが欲望や論理でそう言うこともありますが、これはエゴよりももっと深いレベルの魂の意識でそのように認識できるようになると言うレベルです。このレベルになれば、かつて強制や操作・共依存などによって結びついていた周囲の人は急速に貴方から離れてゆきます。と言うのも、周囲の人は貴方ともはや昔のレベルで貴方と結びつくことができなくなるからです。貴方は魂(アートマン、スピリット)と繋がり、魂に従って動くようになります。そのレベルに達するまでは不徳な人と会っても完全に無関心でいることは難しいですが、それでも、無関心でいる努力が必要です。<br /> <br /> ■過去のストレスの解放<br /> 瞑想の初期は、色々な体験をするでしょう。上にも書きましたが、何かが見えたり何かが聞こえたりするかもしれませんが、基本的にはそれらは全て重要ではありませんので無視をするのが古典的ヨーガの解釈です。と言うのも、瞑想するとまずストレスが解放されますのでトラウマや疲れがどっと出てきます。それは強烈な体験を伴うことがあります。カルマの解放です。瞑想と言うとそのような強烈な体験をイメージされる方もいらっしゃいますが、それは特に最初の過渡期に起こり得るものであり、瞑想の一部です。<br /> <br /> 通常の生活においては、生活を送るために過去のトラウマやストレスは抑圧されています。その抑圧は悪いものではなく、ある程度の抑圧は日常生活を送る上で必要なものです。瞑想においてはそのトラウマやストレスを徐々に解放して解消してゆくことができます。ですから、一部の瞑想は、通常抑圧されているものを一気に解放するために強烈な動きを伴ったり、体を自由に動かしたりします。これは人によって合う合わないがありますので、座る瞑想が好みの方もいれば、動く瞑想を好む方もいるでしょう。<br /> <br /> どちらにせよ、ある程度の解放が済めば、最終的には”何も起こらない”瞑想になってゆきます。瞑想の本質は刺激的な体験や変容意識にあるのではなく、魂を浄化することにあります。<br /> <br /> ■瞑想をする様々な目的<br /> 瞑想と一言で言っても、人によってその目的は様々です。<br /> <br /> ・神を求める。浄化<br /> ・ゾーン(ZONE)によるビジネス上の効率アップおよび判断力アップ<br /> ・意思の強化、メンタルの強化<br /> <br /> 目的によって瞑想のテクニックも多少異なってきますし、結果も異なってきます。古典的な瞑想は神を求めて精神を浄化するためのものでしたが、近年はマインドフルネス瞑想でビジネス向けのゾーン(ZONE)を使うことで効率と判断力アップを目的に瞑想する人も増えています。一方で、メンタルが弱いために自己の意思の強化のために瞑想をする人もいます。<br /> <br /> ■意思の強化、メンタルの強化<br /> この目的で瞑想をする場合、もしかしたらその目的は「エゴの強化」であるかもしれませんが、瞑想をすることで得られるのは実はエゴの強化ではなく、「エゴなど実はなかった」という「楽」な心境です。それはいわば「エゴなんて何もないのだから、負けることはない。負けることがないのだから自然で振る舞えばよい。芯がないようでいて実は強い」という種類のものです。ですから、メンタルを強化してエゴを強くしようとして瞑想をするのは、真理には叶ってはいるものの、実のところその目的であるエゴの強化は達成できませんので、瞑想という手段に頼るべきではないかもしれません。ヨガ的にはエゴなど存在しない幻想ですのでその幻想をありのままに体験してしまいますので、目的は達成できないかもしれませんが、心境的には楽になると思います。それでも良いのであれば瞑想すれば良いと思いますが、エゴの強化という目的は達成できません。<br /> <br /> ただし、間違って瞑想を行うと、その副作用としてエゴが拡大することはあります。副作用を利用してエゴを強化するのは黒魔術に属する手法ですのでお勧めしません。目的が浄化であれば、気付かないうちにエゴが拡大しないように気をつけます。<br /> <br /> 瞑想をして何かを求めているうちは、求めると言う行為には「私」が必要ですからいつまで経っても目的地にたどり着くことはないでしょう(例外として神や真理は求めても良いですが)。他人からの批判や非難があっても、「私」がいないのですから何も傷つかない心境になることで、それはいわばメンタルが「強い」と言えなくもない状態にはなりますが、一般でイメージされるような意思の強さ・メンタルの強さとは若干趣が違う強さが瞑想で得られます。<br /> <br /> ■何を求めるのか? 目的が重要<br /> 神を求めて瞑想をするのであれば、雑念を振り払う瞑想であっても時間はかかりますが浄化されてゆきます。その際、上に書きましたように、雑念に圧倒されないように気をつけて瞑想を行うのは大前提になります。しかし、目的が浄化ではなく何らかのエゴの強化であるとすると神に到達することはありません。快楽が貴方の心の大半を占めている時、瞑想をして集中をするとその快楽が強化されることがあります。あるいは、雑念が多い状態で瞑想をして集中をするとその雑念に関するエゴが強化されることがあります。「人は求めれば与えられる」と聖書にあるように、まさに、浄化が目的で神を求めて瞑想をするのであれば浄化が与えられ、一方で、快楽やエゴの強化を目的として瞑想をするのならばその通りの不幸な結果が与えられます。それは良い悪いと言うよりは、人には自由意志があるのだから求めれば求めたものが与えられる、と言う単純な真理。瞑想とはテクニックであり、いかようにも用いられます。仕事のためのゾーン(ZONE)が目的なのか、あるいは、神と浄化が目的なのか、あるいは、エゴの強化で勝負に勝つ(?)ことが目的なのか。それによって目的地は異なってきます。最終的な山の頂上の目的地は変わらないにせよ、とりあえずの目的地と言いますか中継地点が変わってくるということです。<br /> <br /> ■浄化の印<br /> 瞑想を神を求める目的で行ってゆくと、次第に浄化されてゆきます。奉仕(カルマヨガ)やヨガのアサナ(体操)をすることでも同様です。すると、以下の浄化の印が次第に現れてきます。(一部は「ハタ・ヨーガ・プラディーピカー(Swami Vishnu-Devananda著)」によります)<br /> <br /> ・平和な心になる。<br /> ・穏やかな顔になる。顔が輝く。顔色が冴える。<br /> ・体が柔らかくなる。体が痩せる。<br /> ・曇りのない綺麗な目になる。<br /> ・体が丈夫になる。<br /> ・元気になるので、睡眠時間が短くなる。<br /> ・自然な(努力のいらない)禁欲の達成。性欲に悩まされることが激減する。<br /> ・食欲が旺盛になる。<br /> ・瞑想中にナーダ音という特殊な音が聞こえるようになる。(聞こえない人もいます)<br /> ・浄化がかなり進むとクンダリーニ経験をする(グルの指導なしにはお勧めしませんが不意に経験する人もいます)<br /> <br /> ■瞑想の熟達者が必ずしも人格者ではない<br /> 原始仏教のアビダンマ講義「悟りの階梯(藤本 晃 著)」によると、禅定の熟達で一時的に悟りの状態になることができる凡夫と、本物の解脱をした人格者を分けています。「一時的な悟り」では高度な禅定に熟達して一時的に心が平安(捨)の状態になるものの禅定を抜けると元どおりの雑念および煩悩状態に戻ってしまいます。この場合、いくら禅定に熟達してもまだ凡夫のままです。一方、本当の悟りがある人は常に心が平安(捨)であり、人格者です。同書によると、大抵の場合は禅定に熟達してから悟るが、禅定に熟達しなくても悟ることができる、と書かれてあります。よって、「悟った人のほとんどは禅定に熟達しているが、必ずしも禅定に熟達しているわけではない。一方、禅定に熟達しているからと言って悟っているとは限らない。」ということがわかります。<br /> <br /> ■禅定に熟達すればサイキックな能力(千里眼など)が得られる<br /> 原始仏教に基づくと、第四禅定にまで熟達すればサイキックな能力(千里眼など)が得られるとあります。実際のところは私は体験しておりませんので何とも言い難いですが、スピリチュアル業界でサイキック能力を持つ人には大勢会ったことがありますのでサイキック能力自体は実在するのは確かだと思っております。<br /> <br /> ■サイキック能力があるからと言って人格者とは限らない<br /> 上に記載した通りサイキック能力は第四禅定で得られますが、禅定に熟練したからと言って悟っているとは限りません。実は私が長らく疑問に思っていたことがありました。スピリチュアル業界でサイキック能力を持ったり知識が沢山あったり透視能力が多少はある人が、必ずしも人格者というわけでもなく怒りの沸点が低かったり精神的に情緒不安定である人を度々見てきたのですが、何故だろうと思っていたのです。サイキックなスピリチュアル業界でよく言われていることですが、「サイキックの能力と霊的成長の度合いは関係がない」というお話です。これが長らく疑問だったのですが、今回の理屈で説明がつきます。<br /> <br /> サイキック能力を得るためには第四禅定があれば十分だとすれば、悟りではなく禅定のみを熱心に訓練すれば能力が得られます。巷でスピリチュアルなスクールやサークルがありますが、方向性として、悟りではなく能力を目的として第四禅定を目的としているのであれば、その基本的な方向性は「集中」による禅定の強化です。であれば、第四禅定で一時的な平安(捨)を得ている間はいいのですが禅定から抜ければ凡夫になるので、サイキックの能力と霊的成長の度合いは関係ない、というのも容易に理解できます。<br /> <br /> 中にはサイキック能力を目的に瞑想をする人もいらっしゃいますが、サイキック能力だけを目的にすると凡夫の苦しみから抜けることはないと思います。ヨーガの経典であるヨーガ・スートラでも言われています。能力に魅力を感じて能力を得てしまうと解脱まで行かずに寄り道してしまうので、更に人生の苦しみを味わうことになる。能力が得られそうであってもその魅力に取り憑かれてはならない、と。伝統的なヨーガでは、サイキックな能力は霊的な成長の妨げとして考えられています。一方で、同じ伝統的なヨーガでは、悟りさえすればサイキックな能力は自動的に向こうからやってくる、とも言われています。このあたり、原始仏教における悟った後の話とリンクして同じような事を述べていて興味深いです。<br /> <br /> 「ラージャ・ヨーガ(スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ 著)」には次のように書かれています。「オカルト・パワーというものを持つと、世間が強烈になり、ついには苦痛が強烈になるだけである。力を得ても解脱は得られない。それは快楽をもとめる世俗的な欲求であって、快楽の探求は全て無駄である。それは、人が容易には理解することのできない、古い古い教訓である。それを理解したら、彼は宇宙を脱出して自由になるのだ。」<br /> <br /> 悟る場合の多くは禅定にも熟達していることが多いものの禅定は必須ではありませんので、第四禅定で得られるサイキック能力を持たずに悟る人もいらっしゃるようです。ですから、サイキックな能力がないからと言って霊的成長の上下を図ることもできません。結局、基本的なところである「心が平安かどうか」で人を見るのが間違いが少ないと言えます。<br /> <br /> このように、能力を目的に第一禅定から第四禅定まで「集中力」を強化して頑張るのは心の平安が伴わない場合がありますのでお勧めしません。一方、それぞれの禅定の状態を一つづつ体験して、心の平安を目的に禅定を深める方がよほどやりやすいです。それぞれの段階の基本的要素は上に記載した通りですが、まずは第一禅定は何かに集中し第二禅定では心の動きを止めて楽になり、第三禅定では喜びが消えて楽だけが残り、第四禅定で楽も消えて平安(捨)になる、というステップを踏みます。このステップを踏まずに第四禅定相当のサイキック能力を求めるというのは、いわばそれは裏技であって、たとえ能力を得ても悟りには遠いというのが古典が述べているところです。昨今はスピリチュアルが楽しいものとして言われておりますが、実際に踏み入れると怖いこともありますので、このあたりは覚悟も必要です。基本的にはグル(師匠)がいないと踏み入れるべきではないとは思いますが、能力を求めずにある程度の禅定をするくらいであればさほど危険はないと思います。<br /> <br /> ■仕事や奉仕(カルマヨガ)と禅定<br /> 仕事において対象と一体になりゾーン(ZONE)に入ること、あるいは、奉仕(カルマヨガ)で奉仕の対象と一体になること、その意義は第一禅定の達成にあります。奉仕をすることでエゴをなくしてゆき、やがては対象物と一体になり愛を感じるようになります。最初は第一禅定ですから愛というよりは愛着のようなものではありますが、やがては第一禅定から第二禅定に移ることで純粋なものになってゆきます。<br /> <br /> ■禅定を繰り返すだけでも浄化される<br /> 一部の瞑想指導者は「禅定をするだけでは悟れない」と言い、禅定よりも違ったもの、例えばヴィパッサナー瞑想だとかジャーナ(ギャーナ、知識)だとかベーダンタだとかを論じますが、禅定はそれ自体で浄化の作用がありますので、決して無駄ではありません。<br /> <br /> 確かに、段階を追うにつれて禅定だけでは先に進めない段階というのはありますが、それはずっと先のお話ですので、ほとんどの人は禅定(多くは第一禅定)をして浄化するのが良いと思います。たとえ仕事目的のゾーン(ZONE)で第一禅定だけだったとしても浄化の作用はあります。最初は仕事目的の筈だったのにいつの間にかその先の境地に導かれていた、などはよくある話ですので、あまり禅定を悪者扱いしなくても良いとは思います。<br /> <br /> 昨今は、例えばヴィパッサナー瞑想の論者がブッダの悟りの過程を持ち出して集中瞑想(サマタ瞑想)では悟れないとか言いますが、それはとてつもない高いレベルの話であって、我々多くの一般人にはほとんど関係のない話だと思います。一方で、ヴェーダンタでは知識のみが重要視されていて禅定のサマーディでは悟れないから知識こそが悟りへと導くとかいうお話がされていますが、それは禅定などをして極限にまで浄化された人がその先に行くためにどうすれば良いのかというお話をしているのであって、我々ほとんどの人にとってはあまり関係がなく、浄化をするために禅定をするのがほとんどの場合は適切なやり方であると思います。<br /> <br /> ヴィパッサナー瞑想とかベーダンタの理論は確かに高い境地を説明してはいますが、基礎はやっぱり禅定ですので、「禅定しても仕方がない」とか言ってヴィパッサナー瞑想とかベーダンタとかの良さを主張する人は本当に高い境地に達しているのか甚だ疑問です。<br /> <br /> ■ヴィパッサナー瞑想(観察瞑想)とサマタ瞑想(集中瞑想、ヨガの基本の瞑想)<br /> 観察瞑想も集中瞑想も、初心者にとっては実はほとんど同じです。どちらもある程度の観察とある程度の集中を必要とします。ですから、初心者がヴィパッサナー瞑想をしているつもりで例えば息を観察しているとして、一方で、初心者がサマタ瞑想をしているつもりで眉間を集中しているとして、その両者の初心者がやっていることは実は大差ありません。やがては差が出てきますが、それはちょっと先のお話ですので、最初はあまり違いを気にしなくて良いと思います。<br /> <br /> ビジネス向けのマインドフルネス瞑想にしてもヴィパッサナー瞑想に基づく息の観察と思いきやゾーン(ZONE)に入るということであればそれは禅定のサマタ瞑想とも言えるやり方を取り入れていますので、そのくらいであればサマタ瞑想もヴィパッサナー瞑想も大差ありません。禅定においては集中しているから動けないと思われている方も多いようですが、そんなことありませんしね。明確に区別するならサマタ系の禅定とヴィパッサナー系の禅定とを分けるべきなのかもしれませんけど、そこまで大差があるようには思えません。分類するならゾーン(ZONE)をヴィパッサナー系(観察系)の禅定としても良いのかもしれませんが、そこまで差があるものでしょうかね。第一禅定であれば心が静止していませんので心は動いていて、それでも禅定ですから一応はサマタ系の禅定であっても集中の(広義の)サマーディと呼ばれますけど、第一禅定では心が動いていますから人によってはそれはヴィパッサナー瞑想だと思われるかもしれませんけど、ヴィパッサナー瞑想というのは心ではなく魂の意識で観察することなので、心が動いているかどうかは本質的ではなくて、第一から第四禅定全てでヴィパッサナー瞑想は可能ですから、第二禅定以降であればヴィパッサナー瞑想の違いが出てきますが、第一禅定であるゾーン(ZONE)までであれば明確な区別はあまり意味がないように思います。<br /> <br /> ヴィパッサナー瞑想かサマタ瞑想かの違いとしては「流派の違い」であって、特に初心者にとっては実質的にあまり差がないと思われるのが良いと思います。<br /> <br /> ■グル(師匠)の必要性<br /> ヨーガでは古典的にグル(師匠)の必要性を解きます。しかし、現代はそのグル(師匠)のスタイルよりも先生としての付き合いが多いような気が致します。実際のところ私は今のところ私のグル(師匠)を見つけることができていませんし、今後もそこまで期待はしておりません。「先生」であれば数多くの先生がいらっしゃいましたが、全てを委ねて良いと思ったグル(師匠)はいませんでした。昨今ですとオウムのようなこともありましたし、グル(師匠)は必須ではないのかも・・・ とも思っております。ニセ覚者とも遭遇したことがありますし、判断力がきちんとつくまではグル(師匠)を選ぶのは危険性も大きいのではないかと思っております。選ぶのであれば伝統的なところが危険性は少ないような気も致します。仏教で修行された方を師匠に選ぶというのは無難かとも思います。ヨーガであれば伝統的なスワミですね。伝統的にはグル(師匠)は一度決めたら一生その人のみ、というのが筋ですが、実際のところ、伝記を読むと複数人のグルに教えを受けている方も多々いらっしゃいますので、そこまで気にすることはないのかもしれません。個人的にはグル(師匠)は今のところ不要で、先生さえいれば良いかな・・・ と思っております。いきなりグルに会うかもしれませんが、その時はその時です。<br /> <br /> 昨今では瞑想のスクールも多々ありますがその多くはグル(師匠)ではなく単なる先生ですし、現代のスタイルとしてはそれが標準だと思います。<br /> <br /> ■違和感を大切に<br /> 長い間スピリチュアルと関わり続け、時には細々と時には多少密接に接した者としましては、自分の身を守る唯一のセンサーは「違和感」です。何かちょっとでも違和感を感じたら様子を見ましょう。文字通り「ちょっとでも」違和感があるのであれば、そこには何かがあるのです。親切そうに見えて共依存や強制・操作によって結びつこうとしているエセ・スピリチュアルな人は大勢いますから、いくら注意してもしすぎることはありません。<br /> <br /> ■強力な力に魅了されて自己の自由意志を手放さないように<br /> スピリチュアルなサイキックな力を持つ人と出会う時、まるでその人が神の生まれ変わりであるかのように思うことがあるかもしれません。それは上で書いたような「力」だけを得て悟りを得ていない人かもしれません。グル(師匠)との関係の基本は、グルの指導に何であれ従うということです。そのグルは、真っ当で正統派のグルであれば個人の自由意志を潰すようなことは決してしません。しかし、この世にはグルという名を使って強制や操作・依存などで繋がってパワーを得ようとしている人が大勢いるのです。<br /> <br /> 人は生まれながらに、内なる神と波長を合わせるという権利を持っていますが、偽グルを崇拝すると内なる神と波長を合わせることを忘れてしまうかもしれません。同様に、人は誰しもが生まれながらに持っている権利である、威圧的な力に対して個人的な力を自主的に用いて対抗したり無視したりできるという権利を捨ててしまうかもしれません。パワーに魅了されて、自分自身のこれらの基本的な権利を手放した代償は高くつくことでしょう。グルは相当の精神性を持っているべきであり、他人の権利を奪うことができる立場であっても奪わないだけの自制力を持った人格者でなければなりませんが、今の時代にそんな人はそうそういません。判断力がないうちは、凄いグルだと思っても実際はそうでないこともあります。そんな時は、やはり、小さな違和感を感じるかどうか、というところに頼るしかありません。<br /> <br /> 瞑想の世界はマインドに強く影響しますので、このあたりをいくら注意しても注意しすぎることはありません。私も何度か偽グルに騙されて操作されそうになったことがあります。今まで平気でも、将来的に操作や強制されないとも限りません。明日は我が身かもしれません。この種のものは、海外旅行で被害に会うのと同様で、狙われたらかなりの確率でやられます。いくら気をつけていても、やられる時はやられます。まるで株式投資で初心者がいきなりラスボスにやられるようなこともあります。そのくらい敵は強力で、マインドのコントロールやスピリチュアルに熟練した人は山ほどいて、上には上がいます。ここまで来ると、もはや自分では守ることができない領域も存在しますが、なるべく自分で気をつけるのが基本で、あとは守護霊に守ってもらうしかないです。この世界は、意外と怖い面も多くあります。海外旅行と同じで、かなりの人は大丈夫ですが運が悪いとやられます。<br /> <br /> 少し驚かせてしまったかもしれませんが、普通に瞑想して雑念を減らして平和な心を求める分には危険はないので大丈夫です。悪いことを考える人は雑念の多い人やパワーを求めるエゴが大きい人を狙って迷わせてきますから、パワーを求めずにだんだんと雑念が減って平和な心になればなるほど危険は減ってゆきます。<br /> <br /> ■初心者は、不活性な状態(ヨガで言うタマス)に入り込まないように<br /> 心の動きを鈍くして不活性な状態(タマス)に入り込むのは、瞑想でよくある間違いです。心の周囲に雲のようなモヤモヤを集めて包みこめば心は不活性になり、あたかもそれで雑念が減ったかのような錯覚を覚えるかもしれませんが、それは本来の瞑想でやりたいことの逆をしています。瞑想では心の曇りを取りたいのであって心の曇りを増やしたいのではありません。<br /> <br /> このように、心を不活性にして心の動きを鈍くすることが「無」ではありません。「無」とはある程度の心の浄化ができた状態で心の動きを「ギュッ」と意識して止めてしまうことです。心がそれほど純化されていなくても強烈な意思の力で心の動きを止めることが出来る方もいらっしゃるようですが、普通はある程度の純化をしないとそれはなかなか難しいと思います。<br /> <br /> 上に記載したように、ある程度の純化をしないと瞑想で混乱しやすいので、無理に瞑想するとこのように不活性な状態(タマス)に入り込む危険性があります。最初は瞑想を長くはせず、ヨガの体操(アサナ)や奉仕(カルマヨガ)をすると良いと思います。<br /> <br /> 瞑想を長くやっていらっしゃる方でも、時々この罠にはまっているように見受けられる方もいらっしゃいます。特に、上に書いたように「怒りの沸点が低い」方にその傾向が見られます。普段そうして心を不活性な状態(タマス)に包んでしまっているので、いざ自分の心が表に出たらそれに耐えきれなくてすぐに怒りの沸点に達してしまうのでしょう。あまりいないのですが、同様に瞑想で激動(ヨガでいうラジャス)に包むことで心を包んでしまっている方もいらっしゃいます。これも同じく「怒りの沸点が低い」傾向があります。実のところヨガでいう3つのグナのうち2つがここに出てきましたが、残る1つの純粋性(ヨガでいうサットヴァ)がとりあえずの目的地にはなるのですが、実はそれすらも最終的な悟りの道には乗り越えないといけないのですが、その話は別項にて。<br /> <br /> ■もしかしたら初心者にはヴィパッサナー瞑想が向いている?<br /> 私はそうはしなかったのですが、もしかしたら一番最初はヴィパッサナー瞑想のやり方の方が初心者には向いているのかもしれません。観察だけして集中はせず、雑念が出てきてもそれを受け入れるというヴィパッサナー瞑想のやり方は初心者と上級者に向いているのかもしれません。そうなると、「初心者向けの最初は集中瞑想(サマタ瞑想)を短くするかヨガの体操(アサナ)をするか奉仕(カルマヨガ)をするか」という選択肢に加えて「ヴィパッサナー瞑想をする」、という選択肢もあるかもしれません。そうして、ある程度の浄化ができてきたら集中瞑想(サマタ瞑想)に入って禅定を見極め、その後の段階で再度ヴィパッサナー瞑想をする、というのがいいのかもしれません。初期の段階では集中瞑想(サマタ瞑想)もヴィパッサナー瞑想(観察瞑想)もさほど差がありませんので、これはこれでありなのかもしれないです。<br /> <br /> 思えば、私の場合は20年ほど前に今ほど洗練されていない原始的なヴィパッサナー瞑想(単なる想念の観察をする瞑想)を教わってからその後は仕事で日々何度もゾーン(ZONE)に入って作業をすることである程度の浄化を済ませ、2年半ほど前からヨガを始めてアサナ(体操)で更なる浄化をし、次にヨガのサマタ瞑想(集中瞑想)に入って行きましたので、もしかしたら最初はヴィパッサナー瞑想がいいのかもしれません。<br /> <br /> ■ヴィパッサナー瞑想と禅定<br /> 「ダライ・ラマ智慧の眼をひらく」によると、第一禅定から第三禅定には欠点があると言います。第一禅定の欠点は「検討作用と識別作用」です。実際のところゾーン(ZONE)においてはこの検討作用と識別作用が残っているからこそ仕事の効率がアップするのでありますが、悟りの観点からすればそれは一時的な過渡期の状態です。次の第二禅定の欠点は「5つの感覚の基体から生まれる幸福感」です。第三禅定の欠点は「心の快楽と苦痛」です。第四禅定ではこれらの欠点が解消されて清らかな状態になります。<br /> <br /> ヴィパッサナー瞑想の基礎は「感覚」を使って悟ることにありますが、それはこの第二禅定の欠点の5つの感覚器官を超えるところにあります。その場合でも、第一禅定を飛び越していきなり第二禅定にはなりませんから、必ず、ある程度(と言っても相当の)精神集中を伴った第一禅定を経験してから第二禅定へと入るわけです。そこに達するまでは、「感覚」を観察したところで結局は第一禅定を目指して集中力を高めているに過ぎません。上にも書きましたが、基礎としては集中瞑想(サマタ瞑想)も観察瞑想(ヴィパッサナー瞑想)も大差ないのです。第一禅定(いわゆるゾーンZONE)まではどちらも大差ないと言えます。ただし、上に書きましたように、ヴィパッサナー瞑想の方が危険性は少ないとは言える気がします。集中瞑想(サマタ瞑想)で雑念に圧倒されて混乱してしまうよりはヴィパッサナー瞑想で始めた方がいいのかもしれません。グルがいる場合は別だと思いますが。<br /> <br /> 一部のヴィパッサナー瞑想の流派では浄化をせずにいきなり基礎のサマタ瞑想(例えばアーナパーナ瞑想)をして集中力を高めてからヴィパッサナー瞑想に入ろうとします。それは順序としては一見正しいのですが、サマタ瞑想(集中瞑想)には上に書いたように雑念に圧倒されて混乱してしまうリスクがありますので、最初はサマタ瞑想(集中瞑想)を長くやるべきではないのですが、一部の流派はスケジュール重視でサマタ瞑想を強制しますので、とても危険なこともあるかと思います。このあたり、やはり瞑想はグルあるいは教師がきちんと生徒の状態を見てあげないと特に初心者は危ないと思います。初心者に瞑想(特に集中瞑想・サマタ瞑想)を長くさせるべきではない、というのは昔から伝わる教訓のようです。初心者が無理やり長い瞑想をした結果、瞑想の目的であるエゴの浄化ではなく「俺はやったぞ。俺は凄い瞑想をしたんだ」というようなエゴを拡大させる逆の結果に至ることもあります。それは悲しいですし周囲も迷惑ですよね。一見するときちんと瞑想をしているようなところであっても実態は変なこともありますので、精神世界の業界は特に注意深くあらねばなりません。基本的には、自分自身の直感と「違和感」を大切にします。直感と違和感の両方があったら違和感を優先させるくらいで良いと思います。安全第一です。<br /> <br /> ■ヨーガ・スートラと禅定<br /> ヨーガ・スートラは八支則(はっしそく、アシュタンガヨーガ=流派ではなく8つの段階のこと)に基づいており、最後がサマディですのでそれは禅定・三昧になります。ヨーガ・スートラの全体像は1章の2番と3番に集約されています。この訳は微妙ですのでいくつかの書物から引用します。<br /> <br /> योगश्चित्तवृत्तिनिरोधः॥२॥<br /> Yogaścittavṛttinirodhaḥ||2||<br /> <br /> तदा द्रष्टुः स्वरूपेऽवस्थानम्॥३॥<br /> Tadā draṣṭuḥ svarūpe'vasthānam||3||<br /> <br /> (2) 心の作用を止滅することが、ヨーガである。<br /> (3) そのとき、見る者(自己)は、それ本来の状態に留まる。<br /> 「インテグラル・ヨーガ(スワミ・サッチダーナンダ著)」より<br /> <br /> (2) ヨガとは心の活動を抑えることです。<br /> (3) その時(思考波が静止している時)、知覚者は自分自身の真の状態に留まります。<br /> 「Meditation and Mantra (Swami Vishnu-Devananda著)」より翻訳<br /> <br /> (2) ヨーガは、心(チッタ: Chitta)がさまざまの形(ヴィリッティ(ス): vrittis)をとるのを抑制することである。<br /> (3) そのとき(集中したとき)、見る者(プルシャ)は、彼自身の(変られていない)状態におちついている。<br /> 「ラージャ・ヨーガ(スワミ・ヴィヴェーカーナンダ 著)」より。<br /> <br /> 補足: プルシャはサーンキヤ派の言い方で、厳密には違うのですがとりあえず魂だと思っておけば良いと思います。サーンキヤ派は二元論でプルシャ(純粋観察者:精神)とプラクリティ(物質)とに分ける流派です。その後のシャンカラチャリアがヴェーダンタ学派で不二一元論(アドヴァイタ・ヴェーダーンタ)を作りましたので、ヨーガスートラのベースになっているサーンキヤ学派の二元論とヴェーダ的な世界観は異なるので注意が必要です。ただし、普通に読むにはそこまで厳密にならなくても、そのあたりをひとまとめにして「魂」あるいは「真我(アートマン)」だと思っておけば良いと思います。厳密に考える人にはツッコミ入れられる解釈ですけど、ほとんどの人はそんなところまで考えなくても良いと思います。<br /> <br /> さて、本題に戻りますが、ヨーガ・スートラの目的地はこの1章2番と3番で述べられているように心の作用を止滅と言いますか停止させることです。止滅というと心がなくなってしまうかのように誤解する方もいらっしゃいますが、心を無くして植物人間になれと言っているわけではありません。実際、心を無くしてしまうのは悟りを得た人にも無理と言いますか、心は無くならないものです。言葉の語弊と言いますか、修行の過渡期と言いますか、心が自由気ままに動いているものを一旦止めましょう、と言っているに過ぎません。心をコントロールできるようになりましょう、と言っているだけに過ぎません。これで、ヨーガスートラの目的地が心の作用の停止であることがわかりました。そして、ヨーガスートラでは8段階にそのステップを作っていて、最後はサマーディ(禅定・三昧)であり、サマーディ(禅定・三昧)に至れば心の作用は停止する、ということです。そして、心の作用が静止した時にどうなるのかは3番に「見るもの」がそれ本来の状態に留まる、と書いてありますけど、この「本来の状態に留まる」というのは分かりにくい表現ですが、この本意は、「観察者が表に出てくる」ということです。今まで心が動き過ぎていて心が自分自身だと思っていたが、その裏には観察者がいることに気付く、というのがヨーガ・スートラの最終目的地です。<br /> <br /> さて、これを上に記載した第一禅定〜第二禅定に当てはめてみましょう。心の作用の静止とは、上で書いたいわゆる「無」の第二禅定の段階のことです。ですから、ヨーガ・スートラの最終地点は第二禅定であり、第二禅定でいわゆる「無」を経験すれば、心の裏に隠されていた「純粋観察者」「精神」「意識」とか言われるもの(表現だけの違いですが)が表に現れてきます。第二禅定に達するまでは心しか見えなかったのが、第二禅定でようやくその心が静かになってその裏のものが見えるようになると言いますか表に現れてくるのですね。<br /> <br /> 昔ながらのたとえ話で湖と波紋のお話があります。心を湖に例えると心がざわついているというのは湖が常に波打っていることであり、サマーディ(禅定・三昧)で湖の波を沈めるとその奥にあるものが見えてくる、というお話です。あるいは湖に映る自分自身が見えてくる、という表現もあります。どちらにせよ、サマーディ(禅定・三昧)で心を鎮めるのがひとまずの目的地になります。ただし、サマーディ(禅定・三昧)というのは一時的に心を静止させることですのでサマーディ(禅定・三昧)を抜けると心がまた動き出します。ですから、常時穏やかな心を保つためには何度も何どもサマーディ(禅定・三昧)をして心を鎮める必要があります。これは、ヨーガ・スートラ1.4で述べられていることです。<br /> <br /> 1.2 [ヨーガの定義] ヨーガとは心の作用を止滅することである。<br /> 1.3 [真我] 心の作用が止滅されてしまった時は、純粋観察者である真我は自己本来の状態にとどまることになる。<br /> 1.4 その他の場合にあっては、真我は、心のいろいろな作用に同化した形をとっている。<br /> ヨーガ根本教典(佐保田 鶴治 著)より<br /> <br /> 人によっては、「サマーディ(禅定・三昧)は一時的な心の静止だからその方法では悟れない」とか言う人もいますけど、私はそうは思いません。一度のサマーディ(禅定・三昧)で少し浄化され、次のサマーディ(禅定・三昧)でもう少し浄化され、確実に進んでいます。方法の問題というよりも回数および雑念の蓄積の量の問題だと思います。人によっては「サマーディ(禅定・三昧)をしても無駄」とか言い切る人もいますけど、そんなことはありません。サマーディ(禅定・三昧)を何度も体験して、第一禅定ではまだ心が動いているが何度も禅定を体験するにつれて心も静止する第二禅定に移行し、やがては深い安らぎに包まれていって第三禅定・第四禅定に入るのであって、そんなに急ぐものでもありません。一時的な心の静止というのは確かにそうですが、現実世界に戻った時にその安らぎは多少ながらに残っています。次の瞑想後にはまたその安らぎはもう少しだけ深まります。そうして成長してゆくものだと思います。<br /> <br /> 少し補足しておきますと、サーンキヤ派は二元論を元にしているのでプルシャ(純粋観察者)とプラクリティ(物質原理)が基本にあって、観察をするのはプルシャですが、一方でその後に成立したシャンカラチャリアのヴェーダンタでは不二一元論ですので個人のいわゆる魂というか意識はアートマン(真我)と言い、一方で、いわゆる宇宙の意識はブラフマン。ですので、第二禅定で観察するのはサーンキヤ派に基づけばプルシャですがヴェーダンタに基づけばアートマンになります。世間ではサーンキヤ派(ヨガ・スートラ派)とヴェーダンタ派(不二一元論)とでどちらが正しいのか論争になることもあるみたいですが、我々凡夫(苦笑)にとってはそんなハイレベルなことを意識しても仕方がありません。まずは第二禅定に達してからそれからどちらが正しいのか自分で確かめれば良いだけの話です。そこまではヨーガ・スートラのやり方の方が詳しいでしょうし、その先はヨーガ・スートラの範疇を超えてきますのでその時は別のやり方を探せば良いと思いますが、とりあえずの目標は第二禅定(サマーディ・三昧)だと思います。きっと、シャンカラチャリアのようなレベルになれば第二禅定を超えていますので不二一元論になるような気もしますが、そのレベルに達するまではあまり関係ないような気もします。例えば、ヨーガの大家でインドのリシケシにあるヨガニケタンを作ったスワミ・ヨーゲンヴァラナンダはその著書「魂の科学」にて、どちらが本当に正しいのかを自身の感覚で考察しています。その中で、「両者の論を元に実際のところを観察してみたが、どうもこの部分に関してはサーンキヤ学派の方が正しいような気がします」と書いてあったりします。私のレベルではその正しさを理解できませんが、少なくともこのヨーガの大家は聖典に書いてあることを鵜呑みにするのではなくて一つづつ確かめながら自分の知識にしているようです。このように、他者から言われたから信じるのではなくて自分自身で確かめてゆくのがスピリチュアルの正しい姿であり、本来のヨーガ的な生き方であって、いわゆる宗教のように「そのように教えられているのでそれを信じます」というのは本来のスピリチュアルではありませんし本来の宗教でもないですし、最近の間違った宗教が盲目的にさせているだけだと思います。意外とスピリチュアルと科学とは分析と観察・考察という点で似ていると思います。というわけで、第二禅定を達成してその先に進むまではどちらの論が正しいのかなんてわからないのですから、「そうかもしれないが、まだわからない」とだけ思って判断を保留して、とりあえず第二禅定に向かって瞑想を続けるのが良いのだと思っています。私がこういうことを言うと、たまに「そんなことありません。ヴェーダンタはサマーディなしで知識のみで悟ることができます。」と言う人がいますけど、私の内なるガイドが教えてくれたところによるとヴェーダンタで言う「知識」とは「光」のことであって、上に記載したように第二禅定以降の世界は「光の世界」と言われますが、その世界では知識がひとりでにやってくると言うか意識するだけで知識が与えられる、意識するだけで知識がやってくるので、その状態においては確かに知識のみで悟ることができますが、それはサマーディの世界のお話であって、どこぞの誰かが勝手に解釈して「サマーディなしで」と言う間違った解釈を付け加えたのであって、本来は「知識のみ」と言うのはサマーディの光の世界の知識のことを意味しているのだ、と教えられました。私はこうして内なるガイドから聞いて「なるほどなあ」と納得はするのですが、基本は上のように「そうかもしれないけれども、信じることなく、後で確かめる」と言う立場を取って、これは知識としては記憶しておきますが確定はせずに保留しておくのが私のやり方です。まあ、感覚的にもこれが正しい気がしていますけど。少しづつ確信を増やしてゆくのが私のやり方です。<br /> <br /> ■瞑想とカルマ、そして過去生<br /> 瞑想によってカルマが解消されます。スピリチュアルの言い方で言うと「癒される」とでも言うのでしょうが、瞑想をするにつれて奥深くに眠っていたヨガでいうところのサムスカーラという「印象」が表に出てきます。表に出た後、それを理解することで「印象」は解消され、すなわちそれはカルマの解消になってカルマは消え去ります。その「印象」は、過去の記憶やトラウマ・怒り・喜びなどと結びついていますが、今生だけでなく過去生の記憶だったりします。実は、過去生の記憶というのは基本的に、解消されていなカルマと結びついています。過去生を思い出すというのは、その本質は、そこにカルマがあるということです。カルマがあるということは、成長のためにはそのカルマを解消する必要があります。瞑想で過去生の記憶を見た場合、そこには何がしかの課題が眠っています。 ただし、サマーディを体得してヨーガでのいわゆるシッディで見る場合はもちろんこれに当てはまりません。シッディで見る場合はそのようなレベルを超越しているからです。<br /> <br /> ■私の簡単な瞑想プロフィール<br /> ヨガ歴2年半。浄化の印であるナーダ音が聞こえるようになる。(詳しくは別記事参照)<br /> 精神世界歴は20年以上ですが、就職後は現世利益と精神世界を行ったり来たりして最近はヨガ中心の生活を送っています。<br /> ヨガを教えてはいませんが一応 全米ヨガアライアンスの先生のライセンス(RYT 200)は持っています。<br /> <br /> Sun, 23 Jun 2019 00:00:00 +0900 仙道におけるクンダリーニ、性的欲求の克服(馬陰蔵相) https://w-jp.net/2019/1499/ <br /> この記事は 「アナハタ・ナーダの聖音とクンダリーニ」の続きです。<br /> <br /> ■仙道におけるクンダリーニ<br /> 高藤 聡一郎氏の「秘法!超能力仙道入門」には仙道の修行段階が紹介されていますが、最もポピュラーな北派「伍柳派」の修行法に興味深い記述があります。全体の流れとしては「小周天→大周天→出神→タオと一体化」 となるのですが細かい説明をするのはこの記事の主旨ではありませんので「小周天」に関しては同書あるいは「密教ヨーガ(本山博著)」を読んで頂くとして、大周天に関しては諸説あるもののとりあえずクンダリーニやスシュムナに関する行法と思っておけばまずは十分かと思います。<br /> <br /> 興味深いと思ったのは「大周天の実際の姿」という節であり、クンダリーニ・ヨーガの内容と類似しているのです。何故そう思ったかという決め手は、その2つ目の記述「馬陰蔵相(ばいんぞうそう)」です。<br /> <br /> 馬陰蔵相(ばいんぞうそう) - 気が精に変わらなくなり、睾丸やペニスが、子供のように奥に引っ込んでしまい、産精機能がなくなった状態。このとき、気が体内を巡るのが大周天。 <br /> <br /> これはまさに私がクンダリーニ経験(2回目)をした時から急にそのように変化した部分です。以前は割と性の問題に悩まされることも多かったのですが、今は性機能を意識的にコントロールできるようになりました。エネルギーの無駄使いをしないように基本的には性的な感性は出さずにエネルギーを体の上部の方に焦点を当てることで体の下部(ムーラダーラやスワディスタナ)にエネルギーが行かないようにしています。昔はこの制御が完全ではなくて性的欲求が出てきてしまったのですが、今はほぼコントロール下にありますし、時折バランスが崩れそうになっても瞑想などをすればコントロールは容易に戻るようになりました。性エネルギーが完全にゼロになったわけでもなく、性的な情報が目から入ってくればそれなりに性的な活力が活性化されたりもしますが、制御は以前より遥かにしやすい状態にあると言えます。<br /> <br /> パタンジャリの「ヨーガ・スートラ」に出てくるヨーガの八支則(アシュタンガ・ヨーガ)の1つ目「ヤマ(Yama)禁戒」の中に「ブラフマチャリヤ(Brahmacharya)禁欲」というのが出てきますが、大周天あるいはクンダリーニ経験(あるいはその他の状態?)の後でなければ本当のブラフマチャリヤはできないのでは、と今は思います。少なくとも私の場合はそうです。<br /> <br /> 以前のブラフマチャリヤは性の欲求を意思の力で押さえつけて性の問題が表に出ないように自分自身を律しており、それこそがブラフマチャリヤなのだと思っておりましたが、クンダリーニ(2回目)経験の後はブラフマチャリヤがとてもやりやすくなり、ブラフマチャリヤこそが自然の状態だと思えるようになりました。性の問題に悩まされていた頃の性欲を100とすれば以前のブラフマチャリヤによって60くらいにまで意思の力で性欲を無理やり押さえ込んでいたのですが、クンダリーニ(2回目)後の性欲は10前後で、必要に応じて意思の力で性欲を活性化させることもできますが基本は性欲が少ない状態になっています。これは活力が失われたということではなく、エネルギーがマニプラよりも上に来ていてスワディスタナへのエネルギーが制御されているために性欲が暴走しなくなっているのだと思います。エネルギーが上の方のチャクラに集まることで以前よりもポジティブなエネルギーの状態になっていますので、性欲がなくなったからと言って活力が失われたということではなく、性の方に費やされていたエネルギーがポジティブなエネルギーに変わることでエネルギーの無駄使いが減り、活力としては以前よりも確実に充実しています。<br /> <br /> 仙道的な説明で言うと「気と精のどちらにエネルギーを使うか」あるいは「気と精のエネルギー変換」というところになるかと思います。仙道の流派によっては「エネルギーを精(性)に使わずに気に使う」と解釈する流派や、視点を変えて「精(性)エネルギーを気に変える」とか解釈したりするようです。仙道には詳しくないので本を読んだ限りの理解ですが、「性エネルギーを気に変える」と言うのは違和感がありますね。根元のエネルギーがあって、それを性に使うのか気としてオーラとして使うのか、と言う視点の方がしっくり来ますが、このあたりは流派によって解釈がきっと異なるのでしょう。<br /> <br /> この書籍には大周天の要件が他にも書かれてあるのですが、その視点はクンダリーニ・ヨガにも応用できるといいますか基本は同一なのではないかと思いました。ヨーガとは表現方法は違いますが似たようなことが言われていますし、視点を変えてみてみると私に足りないものが見えてきた気がします。そのような意味で、この仙道の修行方法は興味深くて勉強になります。<br /> <br /> 仙道の「出神」とは自分の分身を出現させることですが、これを読んだだけだと奇抜な特殊なお話のように聞こえますが、ヨーガと関連してこれを読むと、これは肉体の分身ではなくて、ヨーガで言うところの「サハスララから自分の幽体を外に出す段階」に相当すると思われます。「密教ヨーガ(本山博著)」には本山博先生がサハスララから体の外に出る経験のことが書かれてありますが、同様の修行段階にあるのだと思われます。とすれば、表現方法が違うだけで類似の修行段階があると言うことで、仙道にせよヨーガにせよ根本は共通ということで興味深いものがあります。<br /> <br /> ■ハタ・ヨガ・プラディーピカに記されている「精力の克服」<br /> 上記と似た記述がハタ・ヨガ・プラディーピカにも見られます。3バージョンから引用します。<br /> <br /> <br /> ・(2章78番) ハタヨガの完成の兆候は次の通りです: (I)体が曲がるようになる、(II)顔が輝く、(III)明瞭な言葉、あるいは、内面の音(アナハタ音)が聞こえるようになります。 (IV)視力が明確になる。(V)身体のすべての病気から解放される。(VI)精液が制御される。(VII)消化の炎が刺激される。(VIII)ナディが浄化される。 (ハタ・ヨガ・プラディーピカ(Hatha Yoga Pradipika、Swami Vishnu-Devananda著))<br /> ・(2章78番) ハタ・ヨーガに成功したというしるしは、(1)身体が痩せる (2)顔色が冴えてくる (3)例の妙音がはっきり聞こえる (4)両目に曇りがない (5)無病 (6)ビンドゥ(精液)の克服 (7)消化力の旺盛 (8)気道が詰まっていない、等である。「ビンドゥの克服」というのは、注釈家によれば精力の消耗がないという状態のことだという。ある訳者は「精液を集中する」ことと解している。 (ヨーガ根本教本(佐保田 鶴治著))<br /> ・(Chapter 2 Verse 27) ハタヨガが達成されるのは次のような時です: 身体が痩せる。静かな表情。内なる音の現れ。きれいな目。無病。ビンドゥ(精液あるいは卵子)の制御。活発な消化の炎。ナディの浄化。 (Hatha Yoga Pradipika (Swami Muktibodhananda著, Swami Satyananda Saraswati監修))<br /> <br /> <br /> それぞれ同種のものをまとめて分かりやすい言葉に変えると以下のようになると思います。<br /> <br /> <br /> ・体が曲がるようになる。身体が痩せる。<br /> ・顔が輝く。顔色が冴えてくる。静かな表情。<br /> ・ナーダ音/アナハタ音が聞こえるようになる。<br /> ・曇りのない綺麗な目になる。<br /> ・体が丈夫になる。<br /> ・自然な(努力のいらない)ブラフマチャリア(禁欲)の達成。<br /> ・消化力のアップ<br /> ・ナディ(エネルギー/プラーナ/気の通り道)の浄化<br /> <br /> <br /> これらが現れることがハタヨガの完成の兆候であるならば、ハタヨガの先にまだまだあるということですね。一般的には、社会を健康に元気に過ごすためにはこのくらいで十分すぎるくらい十分なのかもしれないですが。<br /> <br /> <br /> ・・・これでこの話は終わりかと思っておりましたが、その後、更に劇的に性欲が減りました。詳しくは [別記事: 風のルンの竜巻でマニプラ優勢からアナハタ優勢に変化] にて。<br /> <br /> <br /> Mon, 03 Jun 2019 00:00:00 +0900 ナーダ音あれこれ。「左右」のお話。音楽っぽいナーダ音に変化。 https://w-jp.net/2019/1498/ <br /> この記事は 「アナハタ・ナーダの聖音とクンダリーニ」 と 「仙道におけるクンダリーニ、性的欲求の克服(馬陰蔵相)」 の続きです。<br /> <br /> ■再度、「左右」のお話<br /> 飛び飛びに記載していましたので、ここにまとめておきます。<br /> <br /> <br /> ・「瞑想をきわめる(スワミ・シヴァナンダ)」 → 右耳(前のページに引用)「アナーハタの音は右の耳から聞こえます。」とあります。<br /> ・「Meditation and Mantra (Swami Vishnu-Devananda著)」 → 右耳(前のページに引用)「右耳でのみ聞く訓練をしましょう」という立場。<br /> ・「ハタ・ヨガ・プラディーピカ(Hatha Yoga Pradipika、Swami Vishnu-Devananda著)」 → 右耳。「右耳で聞こえる」とだけ書いてあります。<br /> ・「ヨーガ根本教本(佐保田 鶴治著)」 → 右耳。「右耳で聞くべし」と書いてあります。<br /> ・Hatha Yoga Pradipika (Swami Muktibodhananda著, Swami Satyananda Saraswati監修) → 左右は重要ではない、という立場。(前のページに引用)<br /> ・スピリチュアリスト、ドリーン・バーチュー → 左耳(彼女の体験)<br /> ・「オーラ13の魔法の法則(小宮ベーカー・純子著) → 左右の記述なし<br /> <br /> <br /> 前のページに書いたように「右から聞こえるのがピンガラ。左から聞こえるのがイダ」と最初は解釈しました。最近の(私の)仮説は「ハタ・ヨガ・プラディーピカの著者は右側のピンガラが優性だった。左側のイダが優性だと左側から聞こえる。両方活性化されていると左右両方から聞こえる」のかなと思っています。であれば、ヨーガ行者の多くが男性であれば右のピンガラが優性な人が多いのもうなずけますし、女性が左のイダが優性で左耳から聞こえやすい、というのは理にかなっています。<br /> <br /> ただ、書籍によっては左右の記述はなく、単に内なるアナハタチャクラの音を聞く、とだけ記載されていたりもします。<br /> <br /> ちなみに私の場合、最初は明らかに「左耳」で聞こえていたのですがやがては両方の耳から聞こえるようになり、今は左耳の方が音量が大きい、という状態です。 自分がこんな感じに聞こえていなければ(おそらく)ここまで拘ったりしないです。 聖典と違うのは何かが問題なのか、あるいは、それでもいいのか、と言うのは微妙ですがそれなりに重要なお話です。<br /> <br /> 他の(私の)仮説は、そもそもこの「右耳」の話はハタ・ヨガ・プラディーピカ 4章67版に書かれてあるのが元と思われますので、実はそこは単に右耳から聞こえるというだけでなく、アサナの説明の中で右耳から聞こえる、と書いてありますので、そのアサナを練習すると右耳から聞こえるようになる、とも解釈できなくもないです。でも、それほど右耳に特化しているアサナのようにも思えませんが。<br /> <br /> ですが、やはり Hatha Yoga Pradipika (Swami Muktibodhananda著, Swami Satyananda Saraswati監修)の「左右は重要ではない」と言う説明が一番それっぽいです。考えすぎですかね。<br /> <br /> ■新しいナーダ音<br /> 2019年5月末。その後、新しいナーダ音が聞こえ始めました。これがナーダ音かどうかは微妙なところですが、普段聞こえている高周波(4096Hzに近い)のピーという音に加えて、それよりは音量が更に 1/5 くらいのとても微妙な音が聞こえ始めました。それは、微かな「グワン、グワン、グワン」という感じの音で、とても音量は小さいけれども「大きめのシンギングボール」が「低めの音」で、「遠くからかすかな音」で聞こえている感じです。<br /> <br /> 私の場合、普通のナーダ音は普段の生活でも普通に聞こえているのですが、この新しいナーダ音は周囲が聞こえないと気付かないくらいとても繊細な音です。最初は遠くの音かとも思いましたが、ヨガスタジオや家でも変わらず聞こえますので、微妙なところではありますがとりあえずナーダ音認定してあります。「Meditation and Mantra (Swami Vishnu-Devananda著)」にも、「小さな音量のナーダ音を聞くようにしましょう」みたいなことが書かれてあったような気がしますので、私は基本はこれに従って、なるべく小さな音量のナーダ音の方を聞くようにしています。<br /> <br /> これは、今まで聞いた他のナーダ音のように一定の音ではなく、まるで声か音楽のようにリズムがあります。トンネルの中の空気の圧力というか音がこだましたグワングワンした感覚にちょっと似ていなくもないですが、そこまで大きい音ではないです。<br /> <br /> 何か、今まで聞こえてきたいくつかのナーダ音とはどこか違っている感じを受けます。今まで聞こえていたのは自然界あるいは肉体あるいはアストラル体の構造的なものから一定の微細な音が聞こえる、という雰囲気でしたが、今回は、どこかリズムがあるような気がします。喋る時の抑揚に似ているかもしれません。言語としては理解できないのですが。<br /> <br /> これがひょっとしたら、いくつかの書籍で書かれていた「ナーダ音の言語化」に繋がってゆくのですかね? まだ意味の解釈はできませんが。<br /> <br /> ■六角形の結晶のナーダ音<br /> つい先日、いつものピーと言う高周波のナーダ音が違って聞こえることがありました。音だけでなく、まるで六角形の結晶が何百個も何千個も寄り添ってそれぞれ振動して響いているかのようなイメージも感じました。いつものピーと言う高周波を細かく見聞きするとそんな感じになるのかな、と。ナーダ音は耳で聞こえるものなのに、何故かこの時は映像のイメージで見えたのです。イメージと音とを同時に見聞きしました。高周波のピーと言う音はそれを聞いて終わりではないのかもしれません。もしかしたら古典や聖典に書かれてある「微細なナーダ音を聞くようにしましょう」とは、微細なナーダ音が別にあるのではなくて既存のナーダ音をしっかりと細かく見ると別の音や姿で見える、と言うことなのかもしれません。 一回見ただけなのでまだそれほど確証はありませんけど。<br /> <br /> これは、すぐ上にある「新しいナーダ音」とは別物で、完全に既存のナーダ音を詳細に見聞きしたものです。<br /> <br /> 初期に聞こえていたベルの音だとか虫の音の変形バージョンとも言えなくもないですが、それよりも遥かにパワフルな感じです。実は元々同じ音で、聞こえやすくなったから音が重なってピーという高周波に聞こえていたけれども細かく見ればそれは元々一緒の音なのかもしれません? ベルの音や虫の音を「音の波形編集ツール」とかで何重にも重ねたらきっとそれは高周波成分になってただのノイズというかピーという高周波に近づくかもしれません? でも、それぞれの音を分解してみるとまたベルの音や虫の音に戻る? 元々聞こえなかった音が心で聞こえるようになって、聞こえすぎるからピーという高周波になって、更に集中が進んで細かく見れるようになるとそれぞれが結晶で見えてくる、という仮説を立ててみます。 音が沢山重なっているからピーという高周波はパワフルなのも理にかなっています。まだ仮説ですけど。<br /> <br /> ■言語<br /> 例えば、以下のように、ナーダ音はやがて言語化されて理解されるようになる、と多くの書籍に記載されています。<br /> <br /> クンダリーニが動き出す時、時々、内部の声あるいはそれに類する音が意識の深いところで聞こえるようになります。実際の現象は理屈で説明するのはとても難しいのです。と言うのも、それは物理的な音というよりは感覚的なものだからです。それは時には2つの木がお互いに話しているかのようなものです。これは、高い意識の状態です。最終的に、内部の声は純粋な振動になり、映像でもなく考えでもなく音でもないものになります。しかし、それでも、それを通じて理解することができます。まるで言語を話しているかのように。 (Hatha Yoga Pradipika (Swami Muktibodhananda著, Swami Satyananda Saraswati監修) P564)<br /> <br /> 他には、上に引用した「ダライ・ラマの密教入門」にも類似のことが書かれてありますし、覚えきれないくらい当たり前のように色々な書籍で見る気がします。実際にそこまで到達する人はそれほど多くなさそうですけれども。<br /> <br /> 私が最近聞こえ始めた、新しいナーダ音が「それに類する音」かもしれない? まだ様子見です。<br /> 「2つの木がお互いに」と言う記述は、「六角形の結晶のナーダ音」に近いものなのかもしれません。こちらも、まだ様子見です。<br /> <br /> ■音楽っぽいナーダ音<br /> 2019年5月末。基本はピーという高周波であることには変わりがないのですが、ここ最近、何やら、音楽っぽく聞こえてきました。<br /> <br /> 上にも書きましたがナーダ音は「天空の音楽(ピタゴラス派)」とか「クリシュナの笛(ヒンドゥ教)」とも言われていますが、今までのナーダ音は「音楽という感じでもない」と思っていましたので、どうもこの表現が腑に落ちなかったのですが、ここ最近は音楽っぽくなってきましたので、この表現はなかなかそのものズバリの表現かもしれない、という感じになってきています。<br /> <br /> 聞こえているナーダ音はピーという高周波が基本で、高周波には変わりがないのですが高周波の中の狭い周波数のレンジ内で音程が多少は上下していました。今まではその上下はあまり気にしていなかったと言いますか、とても長い周期でちょっとづつ変わっていくような感じだったと思います。なので、基本は割とピーという一定音っぽい感じで聞いていたのですが、今までよりちょっとだけ短い周期で音程が上下するようになった気がします。<br /> <br /> 何ですかね、この違いは。例えて言うのであれば、コンサートホールのアリーナほどははっきり聞こえないにせよ、外100mで漏れ聞こえる音とコンサートホールのエントランスで漏れ聞こえる音との違い、とでも言いましょうかね? 今までは、 何やらノイズっぽい音が雰囲気と共にコンサートホールの外100mまで流れ出て聞こえてはいるものの音楽とはあまり識別できないでいたのに対して、最近はエントランスまで近づいて昔より音楽っぽく聞こえてきた、と言いますか。<br /> <br /> それと当時に、聞く側の私の心の変化もあると思います。ナーダ音が聞こえるようになる前は音楽を聴いたりしていましたが、ナーダ音が聞こえてからは音楽をほとんど聞かなくなりました。昔はクラシックであっても多少は旋律がはっきりしたものが音楽という固定観念があったのに対して、今はどんどんと好みがマイルドになってきて、それ故に、こんなシンプルなナーダ音であっても音楽のように聞こえるようになった、という違いもある気がします。音楽だけでなく食べ物も飲み物も薄味になってきています。昔であればこんなシンプルなナーダ音の旋律は音楽とは認識していなかったと思います。その心の変化もあると思います。<br /> <br /> 今までも音量が変わったり聞こえ方が若干変化したりはしていましたので、おそらくは元の音はそれほど変わっていないような気もします。昔も、時には変わって聞こえたり音程が変わったりしていた気がしますので、今までもたしか同じように変化しつつ聞こえていたと思います。音程が変化するという点に関しては前から変わらないにせよ、言葉で言い表すのは難しいのですが、何か、聞こえ方と言いますか、聞こえる感覚が違っているのです。昔は音程が変化してもあまり気にならずに「そんなものか」と流していたと言いますか、音程が多少上下しても心はそれを「一定」と認識していたのですが、今は、同じように音程が変化する音を「音楽」として認識し出したのです。ということで、ナーダ音が変わったというよりも、それを聞く側の認識と言いますか心が変化したのかもしれません。あるいは、両方かもしれないです。<br /> <br /> 以前聞こえていたナーダ音をはっきりとは再現できないのですが、比較対象として上にリンクのある4096HzのYoutubeと比べてみたところ、ちょっと合わない感じです。であれば、やはりナーダ音もちょっとだけ変化したのかもしれません。<br /> <br /> ここから更に音楽っぽく聞こえるようになるのか、あるいは、ここで終わりなのかはちょっとわかりませんけど。まだまだ様子見です。<br /> <br /> 上に引用した「7種類の音」に分類するならば、今まではっきりと認識できたのは1番「ウズイスの声」、2番「銀のシンバル」、3番「貝から聞こえる海のメロディ」までははっきりと認識できており、最近までの聞こえ方がヴィーナなのかフルートなのか区別が付きにくかったのですが、どうやら新しく聞こえてきたのは「フルート」っぽい感じですので、最近まで聞こえていたピーという高周波はきっと4番の「ヴィーナの歌」なのでしょうね。ヴィーナは日本人には親しみがないですがYoutubeで検索するとそれほど高い音程でもなくて割と中間の音程っぽい感じですので、5番のフルートあるいは竹の笛の音よりも低い音だとすれば、最近までが4番の「ヴィーナの音」で、ここ最近ようやく5番「竹の笛、フルート」が聞こえつつあるのかな、という感じがします。以前書いた上の方の記述には5番のフルートが聞こえたような記述もありますけど、それは4番のヴィーナに訂正ですかね。<br /> <br /> 今5番だとすれば、あとに続くのが6番の「ラッパの音、トランペットの一吹き」と7番の「轟々たる雷鳴」ですね。ナーダ音が聞こえ始めて1年半ほど経ちましたが、ちょっとづつ進んで行くのですね。面白いです。<br /> <br /> 2017年11月前後〜2018年始め:1番「ウズイスの声」、2番「銀のシンバル」、3番「貝から聞こえる海のメロディ」音量は最小<br /> 2018年始め〜2019年5月中旬:4番「フルート」普段の生活でも常に聞こえるようになる<br /> 2019年5月後半〜:5番「竹の笛、フルート」。感覚の変化。音楽っぽい感じ<br /> <br /> [追記]<br /> ■うぐいすの声<br /> 後日、「あるヨギの自叙伝」を読み返していたら以下のような記述を発見しました。<br /> <br /> インドの神話は、オクターブの7つの基音をそれぞれ、色彩と、鳥や獣のなき声に関係づけている。すなわち、「ド」は緑色でくじゃくの声、「レ」は赤色でひばりの声、「ミ」は金色でやぎの声、「ファ」は黄白色であおさぎの声、「ソ」は黒色でうぐいすの声、「ラ」は黄色で馬のいななく声、「シ」はあらゆる色の結合色で像の声、といったぐあいである。<br /> <br /> ここで、「ソ」の「うぐいすの声」が気になります。というのも、前記事に引用したようにナーダ音で最初に聞こえてくる音がうぐいすの声だからです。とは言いましても、私は音感があまりないので音程とかわからないのですけれども。<br /> <br /> <br /> [追記]<br /> ■奉仕への招集<br /> 神智学系の書籍「至聖への道(ジュワル・クール大師 著)」に以下の謎めいた記述を発見しました。<br /> <br /> あらゆる注意深い弟子たちの耳の中でトランペットのように鳴り響いている。奉仕への召集がなされている。<br /> <br /> これは神智学を知ればなるほどと思える話ですが、話が長くなりますので奉仕への召集が何を意味するのかはここには記載しません。ただここでは、ナーダ音に関連付けて、ナーダ音の1つの音であるトランペットがここに記載されていることが興味深いので取り上げました。トランペットは前ページで6番目に記載された音ですね。大師様(マスター)に仕えて奉仕するにはナーダ音を経験して通り抜けないといけない(少なくともその流派ではそのように考えている)、と言うことなのかなと思います。<br /> <br /> <br /> [追記]<br /> ■霊的金縛り<br /> 「あなたの呪縛を解く霊的儀礼( 江原 啓之 著)」に以下のような記述がありました。<br /> <br /> 霊障による金縛りは、必ず時空の乱れから始まります。時空が変わるときというのは、ゴーッという耳鳴りがするような感覚を覚えるのです。(中略)霊的金縛りは起こり得るとはいえ、極めてまれです。<br /> <br /> これは一時的な音のような記述ですのでナーダ音ではない感じではありますが、前ページに引用したゴーピ・クリシュナのクンダリーニ体験の音と似ていて興味深いです。<br /> <br /> <br /> [追記]<br /> ■プラナヴァ(Om)の音<br /> 他の記述と被りますが、「ラーマクリシュナの教え」(ジャン・エルベール 編さん)で見つけた記述を引用しておきます。<br /> <br /> アナーハタ(スシュムナーの中の第四の中心、心臓の位置)の音はそれ自身で絶えず振動します。それはプラナヴァ(Om)の音です。プラナヴァは至高のブラフマンから生じます。そしてヨガ行者達を経て聞かれることが可能です。軽薄な人間はそれを聞くことが出来ません。ヨガ行者は、その音が一方では臍の部分から、他方では乳海(ヴェーダ聖典に由来する)上に休んでいるブラフマンから生じることを理解することが出来ます。<br /> <br /> [追記]<br /> ■ナーダ音は臍(ヘソ)から発する<br /> 同様の記述を発見しました。私がインドのリシケシでTTCを受けた時に先生が同じようなことを言っていて、書物で同様の内容を見つけられずにいたのですが見つけられて良かったです。<br /> <br /> 臍輪(さいたい、俗にいう へその緒)から生じた神秘なパラー音はヴィシュッダ・チャクラ部分でヴァイカリー音と言う耳に聞こえるような音に変えられます。(中略)絶対者ブラフマンの音、パラー音をマディヤマー音からヴァイカリー音という実際に聞きうる音に変えるのがヴィシュッダ・チャクラであるからなのです。 「魂の科学(スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ著)」(P167)<br /> <br /> <br /> <br /> Mon, 03 Jun 2019 00:00:00 +0900 クンダリーニをサハスララまで上げる https://w-jp.net/2019/1559/ <br /> この記事は 「アナハタ・ナーダの聖音とクンダリーニ」 の続きです。<br /> <br /> (以前にも少し書きましたが)クンダリーニ経験をしたら終わりではなく、その後、更に練習を続けてクンダリーニをサハスララまで上げる必要があります。<br /> <br /> クンダリーニが目覚めたとしてもほとんどの場合それは直接サハスララにまで登りません。1つのチャクラからもう1つ上のチャクラへと登らせるためには集中と忍耐が必要です。時には後退し、再度多大な努力を使って再度登らせなくてはならないかもしれません。クンダリーニがアジナ・チャクラまで登ったとしても、それを保持するのは難しいでしょう。Sri Ramakrishna、Sri Aurobindo、 Swami Sivananda のような偉大なヨーギだけが長時間そこに保つことができました。最終的にクンダリーニがアジナからサハスララに登った時、合一(ユニオン)が起こります。しかし、その状態は最初のうちは長い時間続きません。長い期間、継続的な練習が行われた後でのみ純粋で革新的な合一の経験がやがては永遠のものとなり、そして最終的な解脱(モクシャ)に至るのです。「Meditation and Mantra (Swami Vishnu-Devananda著)」<br /> <br /> ここでチャクラの話が出てきますが、クンダリーニの目覚めは以下のようなものが正しいと思います。<br /> クンダリーニの目覚めは、あなたの振動レベルが上がることを意味します。「ああ、私のクンダ リーニは第 3のチャクラに達しました - 第 4のチャクラ - 今度は第 5のチャクラのほんの 2 インチです」などと考えないで下さい。 このようにクンダリーニが目を覚ますのではありません。 実際には、波動の周波数が増加すると変化するのはオーラの状態なのです。 これが実現されると、あなたの平和と喜びは比例して増加します。 普通の人が幸せだと思っているのは、貴方にとって痛みでしかなくなります。 官能的な経験はだるくて退屈になり、あなたはもはや飲酒、喫煙、賭博を必要としなくなります。その状態になると、クンダリーニが目を覚ましたことを意味します。 「ハタ・ヨガ・プラディーピカ(Hatha Yoga Pradipika、Swami Vishnu-Devananda著)」(読みやすいようにセンテンスの順番を少し入れ替えました)<br /> <br /> チャクラの感覚というのはそれはそれとしてありますが、クンダリーニの目覚めとしてはこのようなものだと思います。人によっては、この記述を持ってして「チャクラの感覚はないのが正解」と思ってしまう人もいるようです。実際にヨーガの先生でそのような人がいました。ですが、この文章では、クンダリーニの目覚めはチャクラで分割されるようなものではない、と言っているだけだと私は理解していますし、自分の経験としてもそうだと思います。一方で、各チャクラの感覚というものはそれはそれとしてあります。<br /> <br /> ヨーガ行者の本山博先生はスワミ・サッチャナンダの主張を引用して以下のように伝えています。<br /> 目覚めたクンダリニーのエネルギー、シャクティが上昇しますが、ほとんどの場合、マニプラチャクラまで上昇すると、またムーラダーラチャクラに下降します。もし実習者がマニプラをこえて登頂までエネルギーが上がったような感じでも、それはシャクティの全体が上がったのではなく、そのわずかな一部が上昇したにすぎません。<br /> マニプラをこえてクンダリニーが上昇するには実習者は繰り返し繰り返し、熱心にクンダリニーを目覚めさせることが大切です。マニプラをこえてクンダリニーが上昇すると、もうなんの障害もないのですが、クンダリーニがムーラダーラやスワディスタナチャクラを目覚ましただけでは、いろいろな障害が生じると、サッチャナンダは言っています。 「密教ヨーガ(本山博著)」 ここで言うサッチャナンダとは、参考文献を見るとビハールスクールのSwami Satyananda Saraswatiのことのようです。私の手元には彼の著作物/監修として、上で引用した Hatha Yoga Pradipika (Swami Muktibodhananda著, Swami Satyananda Saraswati監修) があります。いま手元にはないですが「Kundalini Tantra」もSwami Satyananda Saraswatiの著作ですね。<br /> <br /> <br /> Thu, 28 Mar 2019 00:00:00 +0900 覚醒の形態 https://w-jp.net/2019/1558/ <br /> この記事は 「アナハタ・ナーダの聖音とクンダリーニ」 の続きです。<br /> <br /> スワミ・ヨーゲシヴァラナンダは「魂の科学」の中で以下のように記しています。<br /> <br /> クンダリニーの覚醒には、次の2つの形態があります。<br /> (1) 生気の上昇 (Pranotthana)<br /> (2) 光輝状態の始まり。「魂の科学(スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ著)」<br /> <br /> このうち、(1)の生気の上昇 (Pranotthana)の中にナーダ音があります。基本的には今まで調べた事と類似ですが、細かいニュアンスに違いが見てとれます。<br /> <br /> 「生気の上昇」の説明が以下のように続きます。<br /> <br /> 身体下部で動くアパーナ気は瞑想修行によって興奮状態となり、ムーラダーラ・チャクラ内の神経を刺激します。蟻が這ったり湯や蒸気が動いているかのように感じられたり、時には、冷たく感じられ、体全体がゾクゾクしたり頭髪が逆立ったりもします。この生気の上昇は特別な調気法や身体浄化法(Shat Karma)によっても引き起こされる場合があります。浄化された後では、脊髄中にあるスシュムナー菅の基底部から上部に至るまでアパーナ気が動くのを感じられます。やがてその動きは早くなり、そのため、行者の四肢がよく痙攣したりします。他にも、ベルの鳴る音や、鳥がチイチイ鳴く声、コオロギの声、ドラムやシンバルの音、リュートやフルートの音、それに雷の音などを聞く者もいます。こうした音は、何年にもわたって聞こえ続けるのです。こうして修行を休みなく続けてゆけば、やがては諸々の障害が除かれ、スシュムナー菅の中を脳に至るまで、生気が自由に、しかも適量に流れるようになってきます。「魂の科学(スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ著)」(P150~ 抜粋しつつ引用)<br /> <br /> この本では、ナーダ音の立ち位置がはっきりと示されています。この著者はインドのリシケシでヨガニケタンというアシュラムを作った聖者の筈なので、さすがに凄い見識ですね。 ニュアンスとして「完全に浄化されればナーダ音は聞こえなくなる」と読み取れます。実際のところはそこまで私が到達してみないとわかりませんが。 この本には、これに続く段階も記されています。<br /> <br /> やがて修行の段階が進めば、半覚醒の状態(Tandra)、よく眠った状態(Nidra)そして暗性優位の三昧(Tamasik Samadhi)といった境地を体験できるようになってきます。こうした境地はヨーガ・ニドラ(Yoga Nidra)と呼ばれることがあります。この段階では真の叡智を得ることは不可能ですので、これに続いて、叡智の光が輝きわたり意識もはっきりしているより高い三昧(サマーディ)の境地に入って行かなければ、解脱とか絶対者ブラフマンを知るといったことは不可能なままになってしまいます。「魂の科学(スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ著)」<br /> <br /> 浄化の後にサマーディが続く、ということのようです。この後の段階でようやくチャクラが出てくるようです。<br /> <br /> (クンダリーニの)生気の上昇でチャクラに触れた感じはするかもしれません。しかし、それでもまだチャクラの姿は視ることができないでしょう。たとえ生気の上昇があった後でも、チャクラが暗性によって被われている間はチャクラの姿を視ることはできませんし、チャクラ内に隠されている力を経験することもできないのです。そうした状態のことを比喩して、蓮の花はまだ蕾のままで開花せずにいると言ったりします。しかし善性(Sattwa)の光が増してくれば花は開き、チャクラも見えてくるようになってくるというわけです。「魂の科学(スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ著)」<br /> <br /> まとめますと、順番として以下になるでしょうか。<br /> <br /> <br /> ・浄化<br /> ・体の震え。ナーダ音が聞こえる(聞こえない人もいる)。 <br /> ・クンダリーニの1段階目「生気の上昇 (Pranotthana)」<br /> ・暗性(Tamas)優位の状態。チャクラの感覚の始まり(触れた感じ)。(まだチャクラは見えない) (私は今ここ)<br /> ・半覚醒の状態(Tandra)、よく眠った状態(Nidra)、暗性優位の三昧(Tamasik Samadhi)などを経験する人もいる。<br /> ・クンダリーニの2段階目「光輝状態の始まり」<br /> ・ 善性(Sattwa)優位の三昧(サマーディ)、チャクラの開花(見えてくる)(私は未体験)<br /> <br /> <br /> まだまだ先は長そうですね。<br /> クンダリーニ体験である程度の段階まで来たような気がしていましたが、まだ頂上は遠いことに気付いた感じです。<br /> <br /> 補足:<br /> 最初これを書いた時はクンダリーニの1段階目「生気の上昇 (Pranotthana)」について「これは普通クンダリーニ とは言わない気がします」と書きましたが、誤認だったようです。1段階目がいわゆるクンダリーニ の上昇体験ですね。クンダリーニの2段階目「光輝状態の始まり」はどうやらサハスララに関するもののようで、私は未体験のようです。「ヨーガの極意(小山一夫著)」には著者の1段階目の経験および2段階目について書かれてあるので私の認識間違いに気付きました。こういう時に師がいないと勘違いしやすいですね。<br /> <br /> <br /> Thu, 14 Mar 2019 00:00:00 +0900 音のないところ https://w-jp.net/2019/1557/ <br /> この記事は 「アナハタ・ナーダの聖音とクンダリーニ」 の続きです。<br /> <br /> ハタ・ヨガ・プラディーピカ(Hatha Yoga Pradipika)4章101~102番に「音のないところ」の境地が描かれています。この記述は難解な部分もあるので幾つかの書物を見比べてみます。<br /> <br /> (4章101~102番) アナーハタ音のひびきが聞こえる間は虚空についての想念はまだ存在している。かの音も無いところが至上の梵、至上の我であるとうたわれている。音の形で聞こえるものはシャクティに他ならない。すべての存在の没入する場であり、そしてなんらの形相の無いものこそが至上神(アートマン)である。 「ヨーガ根本教本(佐保田 鶴治著)」<br /> (4章101~102番) アーカーシャの概念(音の生成)は、音が聞こえている限り存在する。音の無い状態はパラ・ブラフマンあるいはパラ・アートマンと呼ばれている。ナーダとして聞こえる音は何であれ、それはシャクティであるに過ぎません。最高の真実は形がないものです。それこそがParamesvara(至上の主、Supreme Lord)です。「ハタ・ヨガ・プラディーピカ(Hatha Yoga Pradipika、Swami Vishnu-Devananda著)」<br /> (4章101~102番) アーカーシャの概念(音の本質)は音が聞こえている間は存在する。音のない状態こそが最上の真実であり、至上のアートマン(Supreme Atma)と呼ばれている。神秘的なナーダの働きとして聞かれるものは何であれシャクティに過ぎない。全ての要素(panchatatva: panch + tatva, 五大元素, Prithvi (Earth), Jal (Water), Agni (Fire), Vayu (Air) and Akash (Space))が中で溶解しているもの、それこそが形のない存在(formless being)であり、至上の主(Supreme Lord, Parameshwara)である。「Hatha Yoga Pradipika (Swami Muktibodhananda著, Swami Satyananda Saraswati監修)」<br /> <br /> Swami Muktibodhanandaによる解説を引用します。<br /> 五大元素はそれぞれの質(quality)を持っている。音はアーカーシャ・タットヴァの質であり、五大元素のうち最高で最も繊細なものです。音が存在していることを意識していたり、あるいは、貴方が音そのものであったとしても、そのような状態であるうちはまだ貴方は最高の状態の中に溶け込んではおらず、まだ最高の状態になってはいません。アートマンの中では"これ/存在する(is)"とか"これではない/存在しない(is not)"という概念は存在しない。よって、"音が存在する"とか"音が存在しない"という概念も存在しない。よって、音が聞こえているということはアートマンの中にはいないことがわかります。「Hatha Yoga Pradipika (Swami Muktibodhananda著, Swami Satyananda Saraswati監修)」<br /> <br /> おそらく、このあたりがナーダ音の真実の最終理解なのでしょう。意識の壁を突破しなければこの最終的な状態は理解できないのかなと思います。<br /> <br /> 同書では、この後にスピリチュアルで有名なたとえ話「波と海」が紹介されています。<br /> 個人としての存在は例えるなら海における波です。波は海とは隔てられているように見えるかもしれませんが、しかしながらそれは全体の一部であります。「Hatha Yoga Pradipika (Swami Muktibodhananda著, Swami Satyananda Saraswati監修)」<br /> <br /> このたとえ話は有名すぎてスルーしてしまいそうなところですが、ナーダ音の最終理解と結びついてこの話が出てくるところがとても興味深いです。このたとえ話はわかるようでいてわからない話で、とりあえず頭で理解することはできますが、いくら理解してみたところで私という存在はあくまでも個人として分かれているし、それが一緒だと言われても最初はよくわからないわけです。世間で多くの場合はこのたとえ話は「道徳」として語られているように思えますが、このハタ・ヨガ・プラディーピカでそれがまさにナーダ音との繋がりとして説明されているところがとても興味深いわけです。<br /> <br /> 瞑想はやがてサマーディになる。その時、意識は瞑想の対象(Object)と一緒になり、二重性は融解する。「Hatha Yoga Pradipika (Swami Muktibodhananda著, Swami Satyananda Saraswati監修)」P452<br /> <br /> よって、ナーダ音の場合はナーダ音そのものが瞑想の対象(Object)であり、ナーダ音との二重性を融解させるところが次の目的地になります。<br /> <br /> アートマンの属性はサッチダナンダ(satchdananda, Sat:存在 + Chit:意識 + Ananda:至福)として知られている。私は存在(Sat)している、私は意識(Chit)している、私は至福(Ananda)だ、私は執着していない、私は光に満たされている、私は二重性に囚われていない、という状態。音を対象(Object)としたサヴィカルパ・サマーディです。「Hatha Yoga Pradipika (Swami Muktibodhananda著, Swami Satyananda Saraswati監修)」P589<br /> <br /> 音と同一化して、音が聞こえないところにまで到達することがサマーディである、と解釈できます。サマーディには各種あってサヴィカルパ・サマーディはその1つです。<br /> <br /> そう言えば、クリアヨガの先生とナーダ音について話をした時に、「その音の発生元を確かめなさい」と言われたのを思い出しました。その意図としては、「物理的な音でないことをまず確認しなさい。ナーダ音であるならば内から聞こえている筈で、その場合でも、内なるナーダ音がどこから聞こえているか確認しなさい」と言われて、前半部分はともかく、後半部分の理解がその時はあまりできなかったのですが、今思えば二重性やサマーディに関することを言っていたのかなと推測できます。<br /> <br /> こうして「ナーダ音のないところにまで達するべきだ」「ナーダ音の発生源を見つける」「ナーダ音やその発生源と一体化する」、と道が示されました。その先にはサマーディが続きます。サマーディによってナーダ音は消え去る筈です。おそらく。もしかしたらサマーディ中だけ消え去るということなのかもしれませんが、そこはまだ体験していないので分かりません。<br /> <br /> <br /> <br /> <br /> <br /> Thu, 07 Mar 2019 00:00:00 +0900 クンダリーニがアジナ・チャクラに届くと主の声が聞こえる https://w-jp.net/2019/1556/ <br /> この記事は 「アナハタ・ナーダの聖音とクンダリーニ」 の続きです。<br /> <br /> ■クンダリーニがアジナ・チャクラに届くと主の声が聞こえる<br /> 同書には以下のような記述があります。<br /> 書籍「沈黙の声」にはクンダリニーが眉間のチャクラに達してそれを十分に活気づけると主の声(この場合は高次の声を意味する)を聴く力が開ける、と記されています。それは、眉間にある脳下垂体が働くようになるとアストラル体と完全に繋がり、それを通じて内部より発する意思をすべて受信しうるようになるからである。「神智学大要 第2巻 アストラル体[上]」(アーサー E.パウエル著)<br /> クンダリーニがエーテル体を活性化することによって肉体からエーテル体を通じてアストラル体と繋がる、ということだと思います。クンダリーニがエーテル体だけでなく全ての根元のエネルギーだとしても、主に我々に関連するのはこの辺りなのでしょうね。<br /> <br /> ここで、「沈黙の声」の原典(邦訳版)に実際にどのように書かれているかを確認してみると、以下のようにあります。<br /> クンダリーニを心臓の部屋、世界の母の住み給う懐にあらしめよ。しかるとき、心臓より力興って第六の天、即ち汝の眉間に登らん。力が一なる大霊の呼吸とならば、万有に満つる声は汝の<至上我>の声なり。「沈黙の声」(H・P・ブラヴァツキー 、竜王出版のバージョン)<br /> 原文より神智学大要の方が随分とわかりやすいです。<br /> <br /> ただ、「神智学大要 第2巻 アストラル体[上]」(アーサー E.パウエル著)には「大抵の人は、このチャクラの覚醒に初めて着手したとすれば、それを今生で実現するのは不可能である。」と、絶望的な事も記載されています。<br /> <br /> Wed, 27 Feb 2019 00:00:00 +0900 神智学的な解釈に基づくクンダリーニ https://w-jp.net/2019/1555/ <br /> この記事は 「アナハタ・ナーダの聖音とクンダリーニ」 の続きです。<br /> <br /> ■神智学的な解釈に基づくクンダリーニの効用<br /> 「神智学大要 第1巻 エーテル体」(アーサー E.パウエル著)には以下のように記載されています。<br /> クンダリニーは「世の母」などといろいろな呼ばれ方をしている。<br /> 人間の肉体、エーテル体(幽体)、アストラル体、メンタル体その他はクンダリニーによって賦活(それに活力を与える)されているので、「世の母」という名称はふさわしくもある。クンダリニーは現在われわれに知られている限りではあらゆる界層に存在している。<br /> ただ、これは雲を掴むような話ですので、ひとまず私たちに手が届きそうな範囲でもっと具体的には以下のように関係するようです。<br /> クンダリーニの主な動きは、各エーテル(幽体)中枢を経由しながら賦活(それに活力を与える)して、アストラル経験を肉体意識にもたらすことである。アストラル体の感ずる力、すなわち、正確な理解というところまではいかないが、ともかく感受する力を呼び覚ます。<br /> 前提として、神智学においては肉体の次にエーテル体(幽体)そしてアストラル体と続きますので、クンダリーニによって肉体とアストラル体を結ぶ部分のエーテル体(幽体)が活性化されます。<br /> 「神智学大要 第2巻 アストラル体[上]」(アーサー E.パウエル著)では少し表現を変えて同様のことを以下のように説明しています。<br /> クンダリーニの主な機能は、エーテル体のチャクラを通過することによってチャクラに勢いを与え、これらのチャクラと肉体とアストラル体との連結門として活用できるようにすることである。<br /> <br /> ■クンダリーニは生まれ変わるごとに上げる必要がある<br /> 以下のような記述があります。<br /> クンダリーニは生まれ変わってくるごとにこれを支配する努力をくり返さなければならない。それは真我である霊はもちろん常に同一であるが、各体は生まれ変わるごとに新しいものとなっているからである。しかし、いったん完全に支配してしまえば、次の生からは反復も容易になってくる。「神智学大要 第1巻 エーテル体」(アーサー E.パウエル著)<br /> <br /> Fri, 22 Feb 2019 00:00:00 +0900 クンダリーニ・シャクティと3つの体との関係 https://w-jp.net/2019/1554/ <br /> この記事は 「アナハタ・ナーダの聖音とクンダリーニ」 の続きです。<br /> <br /> Hatha Yoga Pradipika (Swami Muktibodhananda著, Swami Satyananda Saraswati監修) には以下のように説明されています。<br /> ・肉体はプラーナ・シャクティの保存庫。<br /> ・心(マインド)はマナス・シャクティの保存庫。<br /> ・アートマはアートマ・シャクティの保存庫。<br /> 私たちはこれら3つから出来ており、互いに影響し合っている。心が何がしかに惹きつけられる時、これら3つの全てがその中に吸い込まれる。我々が何を願うかという意思をはっきりさせる必要があるのはこのためであり、それ故に、高い意識と知識を求める人が進歩するのはこのためである。<br /> <br /> Thu, 21 Feb 2019 00:00:00 +0900 クンダリーニは諸刃の剣 https://w-jp.net/2019/1553/ <br /> この記事は 「アナハタ・ナーダの聖音とクンダリーニ」 の続きです。<br /> <br /> 特に神智学系の人が好んで引用する一文がハタ・ヨガ・プラディーピカ(Hatha Yoga Pradipika)3章107番(バージョンによっては106番)にあります。<br /> <br /> <br /> ・「それ(クンダリニー)はヨーガ行者には解脱を、愚者には束縛を、与える。」(「神智学大要 第1巻 エーテル体」(アーサー E.パウエル著))<br /> ・「クンダリーニの覚醒は、ヨギには解脱を与え、愚者には苦悩のくびきを与える」(「チャクラ」(C.W.リードビーター著))<br /> <br /> <br /> この引用部分について原文には以下のようにあります。<br /> <br /> <br /> ・「クンダリー・シャクティはカンダの上方で眠っている。このことは、ヨーギーにとっては解脱の因となり、痴人には束縛の因となる」(ヨーガ根本教本(佐保田 鶴治著)の訳。これは3章の106番。107番ではなく。)<br /> ・「クンダリーニ・シャクティはカンダ(ナディが結合して離れている臍の近くの場所)の上に眠っています。 それはヨーギにムクティ(解放)を、愚か者には束縛を与える。 シャクティを知っている人は、ヨガを知っている人です。」(ハタ・ヨガ・プラディーピカ(Hatha Yoga Pradipika、Swami Vishnu-Devananda著))<br /> ・「クンダリーニ・シャクティはカンダの上で眠っている。このシャクティはヨーギにとっては解放の手段であるが、無知な人にとっては束縛となる。」(Hatha Yoga Pradipika (Swami Muktibodhananda著, Swami Satyananda Saraswati監修) ) <br /> <br /> <br /> カンダについては3章113番あるいはバージョンによっては112番で解説されており、簡単に言うと「アヌスの上」となっています。<br /> <br /> Thu, 21 Feb 2019 00:00:00 +0900 クンダリーニとチャクラ https://w-jp.net/2019/1552/ <br /> この記事は 「アナハタ・ナーダの聖音とクンダリーニ」 の続きです。<br /> <br /> ■クンダリーニとは?<br /> 「あるがままに(ラマナ・マハリシ著)」によると「クンダリーニとはアートマ、真我あるいはシャクティのもうひとつの名前にすぎない。我々はクンダリーニを身体のなかにあるように語る。なぜならわれわれ自身をこの身体によって限定された存在として見なしているからである。だが、実際クンダリーニは真我と異ならず、内側にも外側にも存在しているのである。」とあります。私の直感としてはこれは正しいと思います。一般的にはこれらはそれぞれ別のものとして認識されていると思いますが、ラマナ・マハリシ師の見解はどこか「しっくり」きます。<br /> <br /> 同様に「ヨーガの極意(小山一夫著)」によると「クンダリーニの覚醒とは単にエネルギーが高まりそれを制御できるようになったというだけの話です。クンダリーニの価値はそれをどう使うかにかかっているのです。」「クンダリーニが覚醒すれば人格が一変し聖者の如く立ち振る舞う、かのような話はあまり当たっていないと思います。」とありますが同感です。同署の中で他書「魂の科学(スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ著)」の引用として「たとえクンダリーニが目覚めたとしても、それは大抵の場合、その一部が目覚めたに過ぎない」と書かれてあります。これも同感です。<br /> <br /> 「密教ヨーガ(本山博著)」では著者の体験談として初めてのクンダリーニ上昇経験が書かれてありますが、最初のクンダリーニ経験ではムーラダーラが目覚めただけで他のチャクラは更に開発しなくてはならなかったようなことが記載されています。又、「ムーラダーラチャクラの内に住むクンダリニーの目覚めなしには、どのチャクラも目覚めない」とも記載されています。私の感覚から言っても、クンダリーニ経験前は体の中の気の流れがほとんどない場所が多かったのが今は感じられるようになりましたので、クンダリーニ経験が全ての始まりであり、クンダリーニなしには何も始まらない、というのはその通りかなという気がします。<br /> <br /> 「ヨーガの極意(小山一夫著)」では気功の見解を紹介して「先天の気」と「後天の気」について解説しています。「クンダリーニとは先天の気を言います。この先天の気とは母胎内で流れていた気(元気)と生を受けた時に初めて得た気(真気)に分かれます。もしクンダリーニが全く動いていないとすれば人間の生命活動は途絶えてしまいます。つまりクンダリーニとは生命を維持するための根源的な力を意味するのです。これに対して後天の気とは生後に外部から取り入れる気の総称だと言えるでしょう。それは呼吸、水、太陽光、食べ物等に含まれる気に他なりません」<br /> <br /> 推測ですが、クンダリーニがアートマ/真我(いわゆる「魂」)であって先天の気でもあるとするならば、クンダリーニ体験をすることで魂がこの世にきちんと顕現されるということであり、その時に現れるのは過去の人生で培ってきた自分自身の魂であるのですから、過去の人生できちんと修行してきた人のクンダリーニ経験後とそうでもない人のクンダリーニ経験後では違いが出るのも当然なのかな、という気もします。 おそらく、生まれてきた時点では完全に魂が顕現していないのでしょう。生まれた時点では肉体とアストラル体やコーザル体の繋がりが弱くて、繋がることがクンダリーニ経験なのかな、という気がします。その繋がり方にもレベルや順序があって、まずはムーラダーラのような肉体的なところから繋がり始めて徐々にその秩序を保ちながら上のレベルで繋がってゆくのかな、という気がします。<br /> <br /> ■チャクラ<br /> チャクラが流行していますが、本格的にチャクラが重要になるのはクンダリーニ経験後です。クンダリーニ以前はチャクラの感覚があまりないことが多いと思います。クンダリーニ以前のチャクラはファッション(流行)なのかなとも思います。上に引用したホーリー・マザーの言葉通りなのかなと思います。<br /> <br /> ラーマクリシュナも同様のことを言っています。<br /> 霊的目覚めはクンダリニがその眠りから起こされない限り生じることはありません。(「ラーマクリシュナの教え」(ジャン・エルベール 編さん))<br /> <br /> シバナンダ系のとあるスワミは(又聞きですが)「チャクラはクンダリーニ経験がなければ単なる想像に過ぎず、クンダリーニ経験がなければチャクラのことを考えても意味がないからチャクラの話で盛り上がるのはやめなさい」と弟子たちに伝えているようです。本筋である「浄化」に集中しなさい、ということなのかなと理解しています。本筋ではない「チャクラ瞑想」とか「(ビージャ・マントラでチャクラを刺激する)クンダリーニ・ヨガ」などに時間を費やさないようにとの弟子への説教ということで理解しています。<br /> <br /> 私自身の経験から言うと、確かにチャクラがきちんと感じられるようになったのはクンダリーニ経験後です。でも、クンダリーニ以前でも例えば喉がガラガラして声が出し辛いとかハートが暖かいとか苦しいとかいう感覚は感じることはあったので、チャクラを「感じる」という観点は持っていてもいいのかなと思います。クンダリーニ以前のチャクラの修行とかは時間の無駄に終わることが多いと思いますが。<br /> <br /> ヨーガ的には「浄化」→「ナーダ音(聞こえない人もいる)」→「クンダリーニ」→「チャクラ」の順番ですね。<br /> <br /> <br /> <br /> <br /> Thu, 14 Feb 2019 00:00:00 +0900 ヨギにとってのナーダ音の意味とグランティを破る時に聞こえる音 https://w-jp.net/2019/1551/ <br /> この記事は 「アナハタ・ナーダの聖音とクンダリーニ」 の続きです。<br /> <br /> ■ヨギにとってのナーダ音の意味<br /> 同書 Hatha Yoga Pradipika (Swami Muktibodhananda著, Swami Satyananda Saraswati監修) には「ヨギにとってナーダ音は(クンダリーニ・シャクティなどの)シャクティと意識の上昇を意味している」という記述もあります。<br /> <br /> ■グランティを破る時に聞こえる音<br /> 同書 Hatha Yoga Pradipika (Swami Muktibodhananda著, Swami Satyananda Saraswati監修) Verse70〜71(P567)の説明には、ムーラダーラチャクラにあるブラフマ・グランティというエネルギー・ブロックが破れる音が「ベルの音」あるいは「蜂が飛ぶ音」と書いてあります。私がナーダ音が聞こえ始めた最初の頃に聞こえていた音が実はブラフマ・グランティに関係していたなんて、ようやく謎が解けた気持ちです。自分の状態がようやくわかりました。随分と長く聞こえていた気がしますので、一瞬で破るわけではなさそうです。もしかしたら私がそうだったというだけで、一瞬で破るような人もいるのかもしれませんが。これは本文ではなくて解説のところに記載されてあるのですが、この著者はどうやってこれを知って確かめたのか、その情報元が気になるところではありますが。<br /> <br /> 凄く細かい点ですけど、ブラフマ・グランティがどこにあるのかという点において解説書によって若干の違いがあります。一般的にはこれはムーラダーラチャクラにあるとされています。<br /> <br /> <br /> ・「ハタ・ヨガ・プラディーピカ(Hatha Yoga Pradipika、Swami Vishnu-Devananda著)」は、解説のカッコ書きの中で「ブラフマ・グランティはアナハタ・チャクラ あるブラフマの結び目」と書いてあります。これを読んだ時にあれっ?て思いました。<br /> ・「ヨーガ根本教本(佐保田 鶴治著)」に、解説文にて「梵天の結節はアナーハタ・チャクラのなかにある結節」と書いてあります。これを読んだ時にもあれっ?て思いました。<br /> ・Hatha Yoga Pradipika (Swami Muktibodhananda著, Swami Satyananda Saraswati監修) Verse70(P567)には、解説文に「ブラフマ・グランティを破ってムーラダーラチャクラが動き出す」「ムーラダーラにあるクンダリーニから音が現れる」「聖典にあるUnstruckという単語はアナハタを意味するがこれはアナハタ・チャクラを意味していない。アナハタ・チャクラはもっと後の段階になる。」と書いてあります。この最後の説明がしっくりきます。よって、通説の「ブラフマ・グランティはムーラダーラチャクラにある」は合っていると解釈できます。聖典を読んでいると通説とは違う記述が度々現れますので、都度確認が必要だと思います。<br /> <br /> <br /> 同書 Hatha Yoga Pradipika (Swami Muktibodhananda著, Swami Satyananda Saraswati監修) Verse73(P569)には、「アナハタ・チャクラにあるヴィシュッダ・グランティを破るとケトルドラムの音が聞こえる」とあります。私はドラムの音はあまり聞こえていない気がします。まだまだなのですかね。これは解説文ではなく本文の方なので他の本にも書いてあります。例えば「ヨーガ根本教本(佐保田 鶴治著)」には「無上の歓喜を予示するところの混合音と太鼓の音のような音とがノドのチャクラの空処で起る」とあります。「ハタ・ヨガ・プラディーピカ(Hatha Yoga Pradipika、Swami Vishnu-Devananda著)」には「最高の空虚(Void)にあるビシュヌ・グランティが貫かれたとき、それは素晴らしい 幸福を示す。 ケトルドラムのような轟音があります。」とあります。<br /> <br /> Verse76(P574)の説明には、「アジナチャクラにあるルドラ・グランティを破るとフルートの音が聞こえる」、とあります。これまた明確な記述で、自分の状態を知るのにとても助けになります。私は高周波が今も常に聞こえている訳ですが、フルートというとそうかもしれないですが、フルートならば私が聞こえている音よりもっと高い音のような気もしますけど、今の音がフルートと言われればそうと言えなくもないのでそこは微妙なところです。これも本文ですので他の書物にも記載があります。「ヨーガ根本教本(佐保田 鶴治著)」には「フルートの音やヴィーナーを弾ずるような音が聞こえる」とあります。「ハタ・ヨガ・プラディーピカ(Hatha Yoga Pradipika、Swami Vishnu-Devananda著)」には「ヴィーナの共鳴を想像するかのようなリュートの音が聞こえます。」とあります。<br /> <br /> ブラフマグランティを破っていた時の音が聞こえていた時のことを思い出すと、破ると聞こえるというよりは破られ始めると聞こえ出す、あるいは、破っている間は聞こえる、と解釈するのが良さそうです。 グランティというのはエネルギールート上にあるブロックですから、ブロックが破れだしたら音が聞こえるとして、ちゃんと破れるまで時間がかかるというのが私の理解です。ちゃんと破れてからクンダリーニ経験が起きたのだとすると、もうちょっと様子見で気長に待つのが良さそうです。 それにしても、音とグランティの関係が書いてある本をようやく見つけられて良かったです。<br /> <br /> <br /> <br /> Sun, 03 Feb 2019 00:00:00 +0900 クリアヨガ的なナーダ音の解釈 https://w-jp.net/2019/1550/ <br /> この記事は 「アナハタ・ナーダの聖音とクンダリーニ」 の続きです。<br /> <br /> ■クリアヨガ的な解釈<br /> Swami Shankarananda Giri著の「Kriya yoga Darshan」には以下のようにあります。<br /> <br /> <br /> ・(瞑想中に見える)光は物理的な体(Gross Body)の反応によるもの。振動はメンタル(アストラル, Astral)に属するもの。そして音はコーザル体に属するもの<br /> ・音は5つのエレメントの1つである無(Void, 虚無,Vacuity,空)から来る。<br /> ・この音が聞こえるようになれば、もはや外部の雑音に影響されなくなる。<br /> ・光、振動、音は5つのエレメントである火(Fire)、空気(Fire)、エーテル(Ether, Vacuity)にそれぞれ対応している。他の2つのエレメントである水(Water)と地(Eatrh)は物理的な体に対応している。火はそれ自体で顕現することなく、何かの燃料を投下する必要がある。内部あるいは外部の光を作り出すことにより過去の行動や考えの結果作られたカルマを焼くことができる。<br /> ・瞑想の目的は光(物理的な肉体に対応, Kalatitam)、振動(アストラル体に対応, Bindu)、音(コーザル体に対応, Nada)の先に行くことにある。最終的な状態(Paravastha)では光も振動も音もない。光、振動、音は精神的修業(サダナ)の初期の段階では重要だが、サットヴァ・ラジャステ・タマスの質の先の段階に進めばそれは重要ではなくなる。光、振動、音は我々の日常生活から意識を解き放つために必要な助け舟であり、光や色などを頼るのは、とある段階では非常に重要になる。<br /> <br /> <br /> それぞれ3つの体に対応しているという解釈は初めて見ました。他で見た記憶がありません。<br /> <br /> 雑音に影響されにくくなるのは、確かにその通りだと思います。周辺の物理的なノイズが多くても内部のナーダ音に耳を傾ければ心境はあまり影響されません。それでも、静かな方が集中できて良いのは変わらずその通りではありますし、ナーダ音が聞こえていたとしても、特定の周波数というか特定の高音だけ異常に頭に響いて頭にダメージが来るので、一般的に雑音に影響されなくなるとはいえ、やはり瞑想は激しい刺激がないような静かな環境で行う方がいいと思います。例えばドアがうまく閉まっていなくてカタカタなっていて、時々大きくカタンと鳴るような音が私は苦手です。<br /> <br /> 明確にナーダ音だとは書いてありませんのでもしかしたらナーダ音とは違った音のことを意味しているのかもしれないと思い、アシュラムでクリアヨガを長くやっている人に聞いてみたところ、別の書物のことですから明確に「同一だ」とは言わなかったものの、「その音を聞いたところで精神修行(サダナ)に妙味を加えるくらいで、特に意味はないものだ」、という話と、「その音を聞いたのであればその音がどこから来ているか探ってみると良い、もしかしたら肉体の音かもしれないし、チャクラかもしれない。しかしチャクラの音は最初は聞こえない」、という話でしたので、他の流派でもナーダ音について似たような質疑応答があって瓜二つなので、やはりこれはナーダ音を意味していると判断しました。<br /> <br /> 光でカルマを焼くいう解釈は初めて見ました。確かに、ヒンドゥ教のプージャ(火の浄化の儀式)ではカルマを浄化するようなことが言われていますし、真言宗の護摩やその他の仏教でも火の儀式はカルマを燃やすという解釈は度々見るところではありますが、瞑想中に見える光でカルマを焼くとはちょっとした発見です。確かに、宗教の火の儀式が人間の内部で行われている精神的活動を象徴するものだとすれば瞑想中に見える光でカルマを焼くというのは理にかなっています。文面は解釈が2通りできて、火を燃やしてカルマを焼く(燃料は別にある)のか、カルマ自体が燃料なのか、どちらかなのかはこの文面では分からないですが、どちらにせよカルマを減らすことができそうです。クリアヨガをやっている人に聞いたら、この種の火はマニプラチャクラ(ソーラープレクサス・チャクラ)で出るそうです。その火と光との関係がどこまであるのか微妙です、というのも、「これから先は体験してみるように」、と詳しい人から回答があったので明確な答えはその時はもらえませんでしたので。<br /> <br /> とある流派では単に「瞑想中に光や音を聞いても重要ではないので無視すること」と教えているのに対して、クリアヨガでは(ある段階までは)それに頼りなさい、と言っています。私としてはこのクリアヨガ的な解釈の方がしっくりきます。そういえばハタ・ヨガ・プラディーピカにもナーダ音を使った瞑想方法が書かれてあったのを思い出しました。そうとなれば、やはり無視するよりは(とある段階に達するまでは)きちんと頼った方が良さそうですね。<br /> <br /> ここでは音だけにフォーカスしていますが、その前段階の光や振動にもフォーカスされていて興味深いです。私は心のイメージを使った瞑想が苦手というか、そもそも光もあまり見えないしイメージも苦手な方なので心のイメージを使った瞑想はしてこなかったのですが、それが得意な方もきっといらっしゃると思います。振動の瞑想ってあまり聞かないですけど、例えば、マイナーな例になってしまいますけど霊動法とかがそうなのですかね? 私は霊動法の経験はないので見当違いかもしれないですけど。或いは、滝行などでブルブルっと震える修業とか? でも、滝行はちょっと違うかな。私の場合、ヨガのプラナヤーマやアサナで(おそらく)ある程度浄化されてからナーダ音にたどり着いたので、他の道のことはあまり分からないです。きっといろいろなやり方があるのでしょう。<br /> <br /> ちなみに、シバナンダ系のスワミに聞いたら「音は無視してチャクラ(アジナチャクラ)に集中して瞑想しなさい」と言われましたが、同じ流派の文献を読むと2通りの解釈があって、「色や音は無視しなさい」というのが瞑想系の本「Meditation and Mantra (Swami Vishnu-Devananda著)」に書いてある一方で同じ著者の「ハタ・ヨガ・プラディーピカ(Hatha Yoga Pradipika、Swami Vishnu-Devananda著)」にはナーダ音によって最終的なサマーディに導かれる、という内容が解説されています。もしかしたら意識の成長段階によって何が良いのか違うのかもしれませんね。 Wed, 02 Jan 2019 00:00:00 +0900 シバナンダ先生のクンダリーニ・ヨーガ https://w-jp.net/2018/1485/ <br /> シバナンダ先生のDivine Life Societyで配布されている無料本 Kundalini Yogaを読んでいきたいと思います。案内によると、以下のようにあります。<br /> <br /> ■案内<br /> 宇宙の力の根底にある理論は、その最も薄い細糸まで分析されており、個人のこの偉大な根源の力を目覚めさせるための実用的な方法が示唆されている。 この書物は理論を説明し、クンダリーニ・ヨガの実践を説明します。<br /> <br /> ■序文「クンダリーニの目覚めの経験」<br /> 瞑想の間、あなたは神の姿を見て、神の匂い、神の味、神の触れ合いを経験し、神のアナハタの音を聞く。 あなたは神からの指示を受けます。 これらは、クンダリーニ・シャクティが目覚めたことを示しています。 ムーラダーラで騒ぎが起きる時。髪の毛が根元に立つ時。ウディヤナ、ジャランダラ、ムーラバンダが無意識に起こるとき。それによりクンダリーニが目が覚めたことを知ります。<br /> <br /> アナハタの音とはナーダ音のことですね。クンダリーニ・シャクティとは女神に象徴されるクンダリーニの力です。ムーラダーラは根のチャクラ、ルートチャクラです。ウディヤナ、ジャランダラ、ムーラバンダはそれぞれヨガの3つのバンダで、ヨガの手法的にはそれぞれの場所を固定することですが、それが自動的に起こるようです。私の場合、ナーダ音の記事に書いたようにナーダ音は聞こえていて、一度だけですがクンダリーニ・シャクティが少し目覚めた経験があります。バンダが自動的に起こるかどうかはよく分かりません。<br /> <br /> 意識せずに息が止まる「ケーヴァラ・クンバカ(Kevala Kumbhaka)」が自動的に起こるとき、クンダリーニ・シャクティが活性化していることを知ります。プラーナ(微細なエネルギー)の流れがサハスララ(クラウン・チャクラ)まで上がったと感じるとき、あなたが至福を経験したとき、あなたがオーム(のマントラ)を自動的に繰り返すとき、世界の思考が心にないとき、クンダリーニ・シャクティが目を覚ましたことを知ります。<br /> <br /> ケーヴァラ・クンバカ(Kevala Kumbhaka)は瞑想の上達を示す「しるし」の1つで、意識が静まってくると自然に息が止まるようになります。これは私の場合、瞑想中やリクライニングチェア、あるいはヨガのシャバアサナなどで割と自然に起こります。<br /> <br /> 瞑想において、目が眉間の中心のTrikutiに固定するShambhavi Mudraが起こることでクンダリーニが活性化したことを知ります。あなたの体の中のさまざまな部分でプラナ(微細なエネルギー)の振動を感じるとき、電気ショックのような震えを経験するとき、クンダリーニが活動的になっていることを知ってください。 瞑想中に身体がないかのように感じ、まぶたが閉ざされ、汗を流しても開かず、電気のような流れが神経を流れるとき、クンダリーニが目を覚ましたことを知ってください。<br /> <br /> 瞑想においてインスピレーションと洞察力を得るとき、その性質があなたに秘密を広げるとき、すべての疑いが消え、ヴェーダの聖典の意味をはっきりと理解し、クンダリーニが活気づいたことを知ります。あなたの体が空気のように軽くなるとき、騒がしい環境ですら平静の心を保ち続けるとき、仕事のために無尽蔵のエネルギーを持っているとき、それはクンダリーニが活発になっているのだと知ってください。<br /> <br /> 貴方が神への陶酔を得るとき、貴方が演説の力を成長させるとき、クンダリーニが目を覚ましたことを知ってください。 ヨガのポーズである様々なアサナを最小限の痛みや疲れで意識せずに行うとき、クンダリーニが活性化していることを知ります。あなたが美しく崇高な賛美歌と詩を無意識のうちに作ったとき、クンダリーニが活気づいたことを知ってください。<br /> <br /> 古典的なラージャ・ヨガおよびハタ・ヨーガ・プラディーピカーのような古典を元にしているようです。<br /> <br /> ■マインド(心)の少しづつの上昇<br /> チャクラは、重要な力としてのシャクティの中心です。 言い換えれば、肉体においてプラナヴァによって生み出された肉体におけるプラーナ・シャクティの中心であり、それぞれ司っている宇宙的意識に結びついた神々デバタたちであり、それらがこのチャクラ・センターの形で現れる。そのチャクラは物理的感覚では認識できません。それらを組織化する助けになるような肉体の該当部分が知覚可能であったとしても、肉体部分は死と共に崩壊してしまいます。<br /> <br /> プラナヴァの音が聖音オームであると聖典は言うが、その神秘はなかなか理解し辛い。プラナヴァによって魂や霊が顕現するような、神秘に属する知識らしい。<br /> <br /> 心の純粋さがヨガでの完成に繋がります。他人と触れ合うとき、貴方の行動を規制しなさい。他人に嫉妬感をしてはいけません。 思いやりのある人になりましょう。 罪人を憎むな。 誰に対しても親切でありなさい。 ヨガの練習に最大限の力を入れれば、ヨガの成功は急速になります。 <br /> 貴方は解放と強烈なヴァイラーギャ(利欲)を熱望していなければなりません。あなたは誠実で真剣でなければなりません。 サマーディ(瞑想の超越状態)に入るためには、激しい定期的な瞑想が必要です。<br /> <br /> 基本的な欲望と情熱を持つ世俗的な人間の心は、肛門と生殖器の近くにそれぞれ置かれているムーラダーラとスワディスタナのチャクラにそれぞれあります。心が浄化されると心は臍の中心であるマニプラチャクラに上がり、ある程度の力と喜びを経験する。心がより浄化されると心はハートのセンターであるアナハタチャクラに上がり、幸福を体験し、イシュタ・デバタ(理想神)の優雅な姿や守護神が視覚化されます。精神が高度に浄化されるとき、瞑想と献身が激しく深くなるとき、心は喉の中心のヴィシュッダ・チャクラに上がり、ますます多くの力と喜びを経験します。 心がこの中心に到達しても、それが下の中心に降りてしまう可能性があります。<br /> <br /> ヨーギが2つの眉間の中心のアジナ・チャクラに達すると、彼はサマーディを達成し、至高の自己(セルフ)であるブラフマンを実現します。 信者とブラフマンの間には、若干の分かれた感覚があります。もし彼が千枚の蓮子の花弁で象徴される脳の精神的な中心であるサハスララ・チャクラに達するとヨーギは超意識状態であるニルヴィカルパ・サマーディを得ます。彼は非二次元のブラフマンと一体になります。全ての分離感は溶けてなくなります。これは、意識の最高の面である最高のサムプラジュニャータ・サマーディです。 クンダリーニはシヴァと結びついています。<br /> <br /> ヨーギは喉のセンターにまで降りてきて生徒たちに指示を与え、他の人に良いことをします(Lokasamgraha)<br /> <br /> ■クンダリーニを呼び覚ますためのプラナヤーマ<br /> 以下のことを練習するときは、クンダリーニ・シャクティの座席である脊柱の基部にある三角形の形のムーラダーラ・チャクラに集中します。右の親指で右の鼻孔を閉じます。3オームをゆっくりとカウントするまで左鼻孔を通して吸います。あなたが大気でプラーナを描いていると想像してください。次に、右手の小指と薬指で左鼻孔を閉めます。その後、息を12オーム保持します。電流(プラーナ)を脊柱から下ろし、三角形のロータスであるムーラダーラ・チャクラに真っ直ぐに送ります。神経の電流(プラーナ)が蓮に当たり、クンダリーニが目覚めると想像して下さい。そして、6オームを数える間、右の鼻孔を通してゆっくりと吐き出します。同じ単位を使用し、同じ想像力と感覚を持って、上記のように右の鼻孔からプロセスを繰り返します。このプラナヤーマはすぐにクンダリーニを目覚めさせます。朝は3回、夕方は3回行います。あなたの強さと能力に応じて、徐々にそして慎重に数と時間を増やしてください。このプラナヤーマでは、ムーラダーラ・チャクラに集中することが重要です。集中力の程度が強く、プラナヤマが定期的に練習されている場合、クンダリーニは早く目を覚ますでしょう。<br /> <br /> これはアヌローマ・ヴィローマとして知られている片鼻交互呼吸法です。<br /> <br /> ■クンダリーニ・プラナヤーマ<br /> このプラナヤーマでは、プラカ(吸入)、クンバカ(呼吸保持)、レチャカ(呼気)の比率よりバーバナ(意図を心で感じること)が重要です。<br /> <br /> 肉体的な息のコントロールよりプラーナのコントロールが重視されます。<br /> <br /> 東または北に面して、パドマあるいはシッダ・アサナで座ってください。精神的に真のグル(精神的指導者)の蓮の足に平伏し、神とグルを賛美するストートラを朗読した後、クンダリーニの目覚めに簡単に導くこのプラナヤーマを始めます。<br /> <br /> インドの伝統的なヨガでは、何をするにも最初と最後にマントラ等のお祈りを唱えます。<br /> <br /> 深く吸い込み、音を出さないでください。あなたが息を吸うにつれ、ムーラダーラ・チャクラに潜んでいるクンダリーニが目覚め、チャクラからチャクラに上っていくのを感じます。 プラカ(吸入)の終わりに、クンダリーニがサハスララに達したバーバナ(意図を心で感じること)を持ちます。チャクラからチャクラに繋がる視覚化がより鮮明になればなるほど、このサダナ(精神的修行)であなたの進歩はより速くなります。<br /> <br /> しばらくの間、息を止めてください。プラナヴァ(聖なる音オーム)あるいはイシュタ・デバタ(理想神)を繰り返します。サハスララ・チャクラに集中します。母クンダリーニの恵みによって、あなたの魂を包む無知の暗闇が解消されたと感じてください。 あなたの全てが光、力、そして知恵によって浸透していると感じてください。<br /> <br /> ゆっくりと息を吐き出します。あなたが吐き出すにつれ、クンダリーニ・シャクティがサハスララ・チャクラから各チャクラを辿ってムーラダーラ・チャクラに徐々に降下していると感じます。<br /> <br /> ここでもう一度プロセスを開始してください。このプラナヤマを完全に賞賛することは不可能なほど素晴らしいです。 非常に迅速に完璧を達成する魔法の杖です。 数日間の練習でさえ、驚くべき栄光であなたを納得させるでしょう。 今日、この瞬間から始めましょう。神が喜び、至福と不滅であなたを祝福しますように。<br /> <br /> ■クンダリーニ<br /> クンダリーニという言葉は全てのヨガの修行者にとっておなじみのものです。それは力として知られ、7つのチャクラのうちの最初の1つであるムーラダーラ・チャクラに眠っているコイル状のサーペント(蛇)の形をしています。他の6つのチャクラは順番にスワディスタナ、マニプラ、アナハタ、ヴィシュッダ、アジナ、サハスララです。<br /> <br /> ジャパ(マントラ繰り返しの瞑想)、瞑想、キールタン(チャンティング)、祈りの形での全てのサダナ(精神的修行)は全ての美徳の育成と真理・非暴力・自制のような苦行の遵守はこのサーペント(蛇)の力を目覚めさせるために蓄積され、スワディスタナからサハスララへと続く一連のチャクラを通過します。サハスララは蓮の千枚の花びらとも呼ばれ、ムーラダーラに横たわっているシャクティのクンダリーニから離れてしまったサダーシヴァ(Sadasiva)あるいはパラブラフマンあるいはアブソリュート(絶対者)の座席とも呼ばれます。それはやがてクンダリーニが上に述べたように全てのチャクラを通過することで統合に至ります。主との統合をするテクニックであるヨガの修行者の解放がもたらされ、その努力が実って成功します。<br /> <br /> サハスララに住むシバとムーラダーラに住むクンダリーニ・シャクティが通常は離れており、それが合一すると覚醒に至ります。<br /> <br /> 官能的で性的快楽を楽しむ世俗的な人々の場合は、このクンダリーニの力は、霊的修行の形での刺激がないために眠っています。世俗的な富と豊かさを持つことによって得られた他の力ではなく、そのような霊的な練習を通して生み出された力だけがサーペント(蛇)の力(クンダリーニ)を目覚めさせます。 グルとしての称号があり、クンダリーニがすでに目覚めて上のチャクラのサダーシヴァ(Sadasiva)に到達しているスピリチュアルな指導者が同じゴールを達成しようとしている他者を導いて助けているので、先駆者の指示に従って修行者がシャーストゥラ(聖典)で禁じられているすべての規律を真剣に練習することにより、クンダリーニを取り囲むベールの層は晴れ始め、ついには裂かれ、サーペント(蛇)の力は上向きの方向に押されたり動かされたりします。<br /> <br /> 修行者の精神的な目に超感覚的な映像が現れ、言い表せない驚異と魅力を持つ新しい世界がヨーギの前に自らをさらけ出し、幾つもの層が次々にその存在と栄華を修行者の前に表します。そしてヨーギは神の知識と力と至福を得て、それは次々に増大します。クンダリーニがチャクラを貫くごとに、クンダリーニが触れる前にそのチャクラが花開きます。その力を手放さないでください。それは神聖な光と香りを放ち、神の秘密と現象を明らかにします。それは世俗的な人々の目から隠されており、彼らはその存在を信じることを拒否します。<br /> <br /> クンダリーニがヨーギの中心である1つのチャクラに登ると、ヨーギはヨギの階段を1ステップ上がる。もう1ページ、次のページ、彼は神の本を読む。クンダリーニが上に上がるにつれ、ヨーギはまた、精神的な完成であるゴールに向かって前進する。クンダリーニが6番目のセンターであるアジナ・チャクラに達するとヨーギは個人的な神であるサグナ・ブラフマンのビジョンを得て、サーペント(蛇)の力が最後のトップセンターであり十枚の蓮の花弁であるサハスララ・チャクラに達するとヨーギはサット・チット・アーナンダ(実在・純粋意識/知識・至福)の海の中で個人的人格が溶けてゆき、最上の魂である主と1つになります。彼はもはや普通の人ではなく、単純なヨギではなく、無限の神の王国を征服した完全に輝く聖人であり、幻想との戦いで勝利した英雄であり、無知の海あるいは天性の存在を超えて解放された人であるムクタであり、相対世界で苦しんでいる他者の魂を救う権限と能力を持つ優れた人であり、聖典は、可能な限り最高の栄光の道と彼の業績で彼を最も讃えています。 3つの存在であるブラフマ、ヴィシュヌ、シヴァですら天界の存在は彼を羨ましく思います。<br /> <br /> <br /> <br /> Sat, 27 Oct 2018 00:00:00 +0900 アナハタ・ナーダの聖音とクンダリーニ(超感覚的なキーンという高周波 / 4096Hz / 鈴の音) https://w-jp.net/2018/1473/ <br /> ヨーガの聖典によると、体にあるエネルギーの通り道「ナディ」が浄化された時に「ナーダ」と言う超感覚的な音が聞こえると言う。それは浄化が一定に達したことを示す「しるし」でもある。特に、背骨を通っている主要なナディであるスシュムナが浄化されたことを示す「しるし」だと言われています。どのような音かというと、多くの鈴が遠くで鳴っている音のようでもあり、フルートのような音でもあり、金属音と言えなくもない。始まりも終わりもなくずっと流れている音だが、静かな場所でないと聞こえにくい。<br /> <br /> 私が聞こえる音について、とあるヨーガ系の出家者(スワミ)やヨガティーチャーに聞いたところ、上記のような回答を得ました。聖典にもそう書かれています。しかし、一般に「耳鳴り」と言うとその原因はストレスにあると診断されます。肉体的な耳鳴りの場合は耳鼻科に行けば診断できますが、聴覚機能に問題がない場合はストレスが原因と判断されるようです。一方で、スピリチュアル的な耳鳴りというものが存在します。<br /> <br /> スピリチュアリスト、あるいはお寺の住職、あるいはヨーガの先生であってもこの耳鳴りの原因がわかる人はそれほど多くないようです。<br /> 尋ねた際、単なるストレスだと診断されたことも多々あります。100%の自信でストレスだと言い切る人も少なくありませんでした。一方で、ヨーガの聖典に関する知識を有する人、あるいはスピリチュアルな人はそれぞれ異なる見解を持っているようです。一部の人々はこの種の体験を同じくしており、その体験があるが故に、それは単なるストレスではないと確信を持って答えられるようです。<br /> <br /> ■ヨーガ<br /> ヨーガ的には「瞑想の時に聞こえる音」として「ナーダ(Nada)」の音であると解釈されます。それは、エネルギーの通り道であるナディが浄化されたことを示す印として解釈されます。具体的にはヨーガのプラナヤーマなどのクリアを毎日数回行えば3ヶ月でこのナーダが聞こえるようになると聖典に記載されています。ヨーガ的には常時聞こえる音としてではなく、瞑想の中で聞こえる音として一般的には解釈されています。<br /> <br /> この音は、打つことなく流れる音という意味の「アナハタ・ナーダ(アナハタの聖音)」と言われます。<br /> <br /> 「瞑想をきわめる(スワミ・シヴァナンダ)」には以下のようにあります。<br /> <br /> 内なる霊音。「アナーハタ」の音は、深く瞑想している時に聞こえる神秘的な内なる霊的な音です。その音が聞こえると、精神的な生気の回路である「ナーディ」が浄化したことを示します。これはプラーナーヤーマの実践を持続することによって体験できます。その音は、鐘やフルートやティンパニーの奏でる音楽のようであったり、巻貝が割れるような音であったり、雷や蜂の羽音のような自然の音であったりします。アナーハタの音は右の耳から聞こえ、両耳をふさぐとさらにはっきりと聞こえます(ヨニ・ムドラ)。心を集中してこの神秘の音を聞きましょう。この音は心の中にあるプラーナ(生命エネルギー)のバイブレーションです。<br /> <br /> 常時聞こえない人であっても、耳を塞いで内部の音に集中すれば微かな音が聞こえることがあります。ナウムクヒ・ムドラ(Naumukhi Mudra 九門のムドラ、ヨニ・ムドラとも言うようです)で親指で耳、人差し指で目、中指で鼻孔を塞ぎ、薬指と小指を上下の唇に置いて口を塞ぐと超感覚的な音が聞こえることがあります。それがナーダ音ですが、浄化が進めばそれが常時聞こえてくるようにもなります。浄化が進んでも常時は聞こえない人もいるようです。<br /> <br /> ヨーガ的にはこの超感覚的なナーダは後頭部にあるビンド・ヴィサルガ(Bindu Visargha, ビンドス・チャクラ)あるいはヴィシュッダ・チャクラ(喉のチャクラ)で聞こえる音ということになっています。始まりも終わりもない、止まることのない超次元の感覚で聞こえる音です。<br /> <br /> 書籍により聞こえる場所の記述はまちまちで、ビンド・ヴィサルガ(Bindu Visargha, ビンドス・チャクラ)で聞こえるという記述とヴィシュッダ・チャクラ(喉のチャクラ)で聞こえるという記述がそれぞれありますが、ビンド・ヴィサルガ(Bindu Visargha, ビンドス・チャクラ)はヴィシュッダ・チャクラ(喉のチャクラ)の副次的なチャクラですので、どちらで聞こえると言っても間違いではないような気がします。ビンド・ヴィサルガはマイナーですので普通はヴィシュッダ・チャクラ(喉のチャクラ)で聞こえると言えば十分かもしれません。他の場所で聞こえるという話については少し下に記述します。<br /> <br /> 以下、「Meditation and Mantra (Swami Vishnu-Devananda著)」の英文を訳しつつ引用します。<br /> <br /> アナハタの音(またはメロディー)は、瞑想の習慣の始めの段階でヨギが聞いた神秘的な音です。この主題はナダ・アヌサンドナナ(Nada-Anusandhana)と呼ばれ、神秘的な音に探求されます。これはプラナヤマのためナディ(Nadis, アストラルの流れ)の浄化の徴候です。音はまた、 Ajapa Gayatri Mantra "ハムサ・ソーハム(Hamsah Soham)" を10万回唱えた後に聞こえるかもしれません。耳を閉じてもしなくても、右耳から聞こえます。 閉じた耳を通ると音がはっきりしています。 PadmaまたはSiddha Asanaの、Yoni Mudraで座り、左右の親指で耳を閉じることにより音をしっかり注意して聞くことができます。場合によっては、左耳を介して音を聞くこともできます。 右耳からだけ聞く練習をしましょう。 あなたは右の耳でのみ聞こえますか? 右の耳ではっきり聞こえますか? 鼻の右側にある太陽のナディ(ピンガラ)のために。 Anahataの音はOmkara Dhvaniとも呼ばれます。 それは心臓のプラナの振動によるものです。<br /> <br /> 同じ本の別の箇所に以下のような記述もあります。英文を訳しつつ引用します。<br /> <br /> 聞こえるNadaは10種類あります。 最初はChini(Chiniという言葉のような)です。 2番目はChini-Chini、3番目はベルの音、4番目はConch(巻き貝)の音である。 5番目はTantri(リュート)、6番目はTala(シンバル)、7番目はフルート、8番目はBheri(ドラム)、9番目はMridanga(ダブルドラム)、10番目は雲のこと、つまり雷です。<br /> <br /> あなたが神秘的な音の梯子の上段に足を置く前に、あなたの内側の神(最高の自己)の声を7つの仕草で聞くことができます。 最初はナイチンゲール(ウグイスに似た鳥)の甘い声のようなもので、仲間と別れる歌を唱えています。二番目はDhyanisの銀のシンバルの音で、輝く星を目覚めさせます。 次は、殻の中に投獄された海の妖精の美しいメロディーです。 そして、これに続いてヴィーナ(Veena)の唱歌が続きます。 あなたの耳での竹のフルートが五番目の音です。 それは次にトランペットの一吹きに変わります。 最後は雷雲の鈍い轟音のように振動する。 7つ目の音は他のすべての音を呑み込む。 それらは死んで、それ以上は聞こえません。<br /> <br /> 同本には体験談も記載されています:<br /> "1ヶ月間プラナヤマをやった後、フルート、ヴァイオリン、ベル音、鐘のクラスターからのMridang音、ほら貝の音、ドラム音、雷鳴、時には右耳からのみ、時には両方の耳から、甘美なメロディーな音を聞き始めました。" .... <br /> <br /> 何処でこの音が聞こえるかは諸論があり、上に記載したビンド・ヴィサルガ(Bindu Visargha, ビンドス・チャクラ) 以外にも、アナハタ・チャクラ(ハートチャクラ)から聞こえると言う意見やヴィシュッダ・チャクラ(スロート・チャクラ)あるいはアジナ・チャクラ(第3の目)、はたまたサハスララ・チャクラ(クラウン・チャクラ)から聞こえると言う記述もたまに見かけます。<br /> <br /> これに関しては、ヨーガの4つの道であるカルマ・ヨーガ、バクティ・ヨーガ、ラージャ・ヨーガ、ギャーナヨーガのそれぞれで聞こえるチャクラが違うと言う解釈を見かけたことがあります。引用できませんが、たしか、バクティ(敬愛)の道であればアナハタ・チャクラ(ハートチャクラ)から聞こえて、ラージャ・ヨーガの道であればアジナ・チャクラ(第3の目)から聞こえて、ギャーナ(ヴェーダンタの知識)・ヨーガであればサハスララ・チャクラ(クラウン・チャクラ)から聞こえると言う解釈もあるようです。おそらく、進む道によってそれぞれ活性化しやすいチャクラがあって、そのチャクラで聞こえやすい、と言うことでしょうか。<br /> <br /> ですが、多くの場合、ナーダ音というとビンド・ヴィサルガ(Bindu Visargha, ビンドス・チャクラ)、ヴィシュッダ・チャクラ(スロート・チャクラ)、アナハタ・チャクラ(ハートチャクラ)のいずれかが原因とされているようです。この中で、ビンド・ヴィサルガ(Bindu Visargha, ビンドス・チャクラ)はヴィシュッダ・チャクラ(スロート・チャクラ)の副次的なチャクラですのでビンド・ヴィサルガ(Bindu Visargha, ビンドス・チャクラ)とヴィシュッダ・チャクラ(スロート・チャクラ)は一纏めにすると、ビンド・ヴィサルガ(Bindu Visargha, ビンドス・チャクラ)あるいはアナハタ・チャクラ(ハートチャクラ)の2つが主要なものになります。<br /> <br /> 私の場合は頭の中の中央か少し後ろ気味なので、ビンド・ヴィサルガ(Bindu Visargha, ビンドス・チャクラ) から聞こえると言う解釈が一番しっくりきます。ただ、このビンド・ヴィサルガ(Bindu Visargha, ビンドス・チャクラ) とアジナチャクラ(第3の目)の本体である松果体は位置的に近いので、どちらとも取れます。アジナチャクラ(第3の目)と言うと一般的には眉間をイメージしますが、核は松果体にあるので、そこで聞こえているのかもしれません。<br /> <br /> ■アナハタ・チャクラ(Anahata Chakra)<br /> アナハタ・ナーダ(アナハタの聖音)と同じアナハタという言葉がアナハタ・チャクラ(ハートチャクラ)に使われています。<br /> この語源は同じで、どちらも「打たない」という意味です。<br /> 「an」は否定、 「ahata」は「叩く」や「打つ」を意味しているから、アナハタは「打たざる」と言う意味になる。<br /> <br /> ヨーガの本山博先生によると、「アナハタ・チャクラでは非物理的、超越的次元の、止まることなく絶えることのない、初めも終わりもない音、アナハタナーダ(アナハタの聖音)と呼ばれる音が聞こえるといわれます。」とのことです。<br /> <br /> ■気圧の可能性<br /> 天気によって気圧が変わると耳鳴りをする時があります。<br /> ただし、それは肉体的な不快感を伴うことが多く、この種のスピリチュアルの耳鳴りとは趣が異なるようです。<br /> <br /> ■身体的な原因の可能性<br /> 頭蓋骨の左右のバランスが崩れている時に起こる可能性があります。<br /> それが原因であればヨーガのアサナなどをきちっとすれば治る、とヨーガの先生から言われました。<br /> その先生も過去に耳鳴りをしたことがあり、ヨーガのアサナで治したことがあるらしいです。<br /> <br /> ■スピリチュアル<br /> スピリチュアル的な解釈としては、途絶えることのない高周波は、天使が近くにいる印、あるいは、自らの波動が高まると聞こえる音だと解釈されます。スピリチュアリストは「もし高周波の音が強すぎて辛い場合は『少し弱めにして下さい』あるいは『辛いのでもう少しだけ離れてください』と天使に頼めば良い」と言います。天使に頼むだなんて、なんともロマンティックな解釈です。また同時に「この高周波は自らを浄化してくれている」とスピリチュアリストは解釈しています。<br /> <br /> 4096Hzに着目しているスピリチュアリストは、第9オクターブの4096Hzが天使界の扉を開く音と言っている方もいます。地球の振動周波数(8Hz)の9段階目の倍音が4096Hz。<br /> <br /> 【4096Hz Angel gate 2 地上と天使界をつなぐ音色】クリスタルチューナーサウンド 祝福の音 癒し ヒーリング効果・浄化用BGM 天使の周波数<br /> <br /> ちなみに、私が最近ずっと聞こえているのはこの 4096Hz の音に近いです。日によって多少の上下はあります。これと似ていますが、完全に同じではありません。耳で聞こえる音とはちょっと違うので、聞き比べると似ているような気もしますが、なんだか、もっと広範囲の周波数が混ざっているような感じですかね。高い音程と言えばそうですし、もっと低いような気もしないでもないです。自然界の音のように混ざってノイズになるというよりは、超感覚的にそれぞれの音程が頭の中のどこかで「それぞれ」聞こえているという感じで、高い音程があるのはそれはそれで正しいですし、低い音程があるのも、それはそれで正しいのかなと。「なんとなく高い音程が優勢に聞こえるのであればこんな風に聞こえる、そんな雰囲気」としか言いようがないです。このムービーでは音量が大きくなったり小さくなったりしていますが、実際に聞こえるのは音量が一定です。始まりもなくて終わりもない音です。<br /> <br /> クリスタルチューナーという4096hzの浄化用音叉も売られているようです (私は使ったことがありません)。<br /> <br /> ちなみに、スピリチュアリストが「天使が近くにいる印」と言っているのは、おそらくは天使の波動が高いので天使のオーラに包まれて自分が一時的に高い波動になるから聞こえるのかな、と思っています。というのも、人間と天使の違いは波動の高さと肉体があるかないかという点ですので、人間であっても波動が高い人の近くに行くと同じような高周波が聞こえることがあるので、おそらくは天使だけでなく人間でも霊でも、とても高い波動の魂(スピリット)の近くに行くと自分の波動が感化されて一時的に波動が高まって高周波が聞こえるのかな、と思っております。<br /> <br /> ■スシュムナとアナハタ音<br /> 一つの解釈としては、ヨーガ的なアナハタの音は背骨を貫いているスシュムナと言う一番重要なナディ(エネルギーの通り道)が浄化される時に聞こえる音なのでしょう。それは、浄化されていなくて詰まっている時に聞こえる音とも解釈できます。詰まり方に応じていろいろな音が混ざって聞こえる。やがて浄化が完了すれば聞こえなくなる。主に、ザラザラとした音。ただし、おそらくは完全に詰まっていると全く聞こえなくて、過渡期に聞こえるのかな、と。<br /> <br /> 仮説ですが、ザワザワした音はスシュムナというよりはイダとピンガラの音に類するもので、ゴーという轟音に類する音はスシュムナに類するもののなのかもしれません。このあたりはまだ想像です。エネルギーの高低によっても音の聞こえ方が違うのは物理的世界の音の鳴り方にも似ているのかもしれません。もっと高い神秘的な音は超感覚的な音で、高位の世界に繋がっているもの。スピリチュアリストが言っているのは主にこちら。チャクラおよびナディ毎に違うような気がします。高次の世界においては世界は「幾何学図形と音だけ」とのことなので、それが見え始めた、聞こえ始めた、と言うことなのでしょう。どちらも類推ですが。ナディの音や、チャクラの音などがそれぞれあるのでしょう。<br /> <br /> 前述の「Meditation and Mantra (Swami Vishnu-Devananda著)」によると、音が聞こえたことは超感覚的な世界が存在していると言う印であり、サダハ(精神的修行をしている人)にとって大きな精神的な助けになる、とも書かれています。超感覚的な世界を体感できなくてこの世界を離れる人が多い一方、このような「しるし」を見つけることで確信が持てるということでしょう。この音は精神修行(サダナ)においてごく初歩的なマイルストーンとみなされているようです。精神世界に足を1歩踏み入れた、と言ったところでしょう。<br /> <br /> ■イギリスのスピリチュアリスト協会の講師の話<br /> 「霊媒神秘修行 イギリスへ」(開堂慈寛 著))によると、イギリスのスピリチュアリスト協会の講師から説明に基づくと頭痛がするのはスピリチュアルな能力が目覚める前触れだと言う。これは古くからの言い伝えであるとか。霊聴や霊視などの各種霊能力あるいは何らかの能力が出てくる可能性がある。能力は人によるので必ずしも出てくるわけではない。とのこと。スピリット(精霊)が近くにいることを示すので、あまりに辛ければ、少し離れてください、とお願いすればいいとのこと。同書に、頭痛だけでなくて耳鳴りのことも書いてあったような気もするのですが今見直しても見つかりません。気のせいでしょうか。<br /> <br /> ■ライトワーカー的解釈<br /> 「ライトボディの目覚め」によると、とある段階(第8レベル)で脳下垂体と松果体が成長した時に激しい耳鳴りになることがある、と書かれています。又、甲高い口笛のような音が聞こえるときは、おそらく高次元の存在があなたにコンタクトしようとしているのでしょう、とも書かれています。<br /> <br /> ■禅<br /> 禅においては「禅病」として知られる有名な逸話に白隠禅師の夜船閑話があります。<br /> 白隠禅師は熱心に修行をした後、禅病になってしまった。その症状の1つとして「激しい耳鳴りで、まるで川のせせらぎの間にいるような状態」(白隠の読み方、より引用)になったと言う。<br /> <br /> 解釈としては、スシュムナあるいはイダかピンガラを流れるアナハタ・ナーダ(アナハタの聖音)を超感覚的に聞いたのでしょう。<br /> <br /> ■年寄りの耳鳴り<br /> 夜船閑話の解説書「夜船閑話講和(大西良慶著)」によると、「歳をとると耳の奥にセミが鳴いているようにジーと言っているときもあるしガーと言っている時もある。そんな音の聞こえるのは平和なときではない。やはり、のぼせ上がった時の状態」と言っています。この本の著者は、白隠禅師が聞いた耳鳴りは悪い状態を示すサインだと考えているようです。白隠禅師が超感覚な音を聞いたというよりは、単にストレスによる耳鳴りになったという解釈のようです。<br /> <br /> ビンドス・チャクラから聞こえる超感覚的な音は精神状態に関わらず常に聞こえて基本的には一定なので白隠禅師の経験した耳鳴りとも、上記のような年寄りの耳鳴りとも違う感じです。次に記載するように、白隠禅師の耳鳴りはクンダリニー体験による轟音であった可能性があります。その場合、アナハタ・ナーダ(アナハタの聖音)に分類されます。上記のように単なる年寄りの耳鳴りだったとはとても思えません。<br /> <br /> 白隠禅師の書籍をいくつか読んだのですが、その解説書を書いている方も住職だったり禅師だったりするようですが、この耳鳴りをうまく解釈している人はその中にはいませんでした。本に書くようなことではなくて、本には当たり障りのない一般人向けの説明だけが書かれていて、実際にお寺で修行するならばナーダ音は当たり前のことなのかもしれないですが。<br /> <br /> 本を読む限りは、「白隠禅師は一生懸命修行したら禅病になってしまってストレスによる耳鳴りがするようになってしまった」と書かれてあるものもあります。実際のところ、ナーダ音それ自体は単なる「浄化が一定度進んだという印」であって肯定的なものであり、一方で、白隠禅師がクンダリニのエネルギーを頭に集めてしまっていわゆる禅病になったというのは別の話として解釈するのが良さそうです。<br /> <br /> ■キーンという高周波がナーダ音なのかストレスによる耳鳴りなのか見分ける方法(質問のお便りがありましたので追記)<br /> キーンという音はヨガの修行が進むと精神状態がとても落ち着いてリラックスして聞こえるものがナーダ音と言われます。心がざわついていて聞こえるものはストレスによる耳鳴りであることが多いですが心がざわついていてもナーダ音が聞こえる方もいらっしゃいます。基本は、リラックスしていればナーダ音でストレスがあるなら耳鳴りであることが多いです。リラックスして聞こえるナーダ音は問題ありませんので基本はほおっておけばよいと思います。ストレスで聞こえる耳鳴りであればストレスを取り除いてリラックスするのが良いと思います。<br /> <br /> ■ゴーピ・クリシュナによるクンダリニー体験<br /> ゴーピ・クリシュナによると、最初のクンダリニー体験に「滝が落ちてくるような轟音」があったと言う。それは、一筋の光の流れが脊髄を通って脳天にまで達したときの音だったと言う。(ゴーピ・クリシュナ著「クンダリニー」より引用)<br /> <br /> この後、ゴーピ・クリシュナはクンダリニ症候群(あるいは禅病)として知られる状態になったのだが、その理由として著者は、「本来ならば脊髄に沿っているスシュムナを使ってクンダリニーを上げなくてはならなかったのだが、それ以外のナディ(エネルギーの通り道)から誤って上がると霊的にも肉体的にも重大な混乱が起こり、治る見込みのない障害者や気狂いになったり時には死ぬこともある。特に酷い場合、右側にあるピンガラを通ってクンダリニーが目覚めると、外から鎮めようとしても全くコントロールの聞かない体内熱のために、最悪の場合、文字通り焼け死んでしまうこともある。」と言う。そこで、この著者は、左側にあるナディ(エネルギーの通り道)であるイダを目覚めさせることを考えついた。それを実行して、助かった。同書には、もう1つの重要な指示が書かれています。「行法を修めている間、行者は胃袋を空にしてはならない。三時間おきに軽い食事を取るべきである」 これに従い、著者は助かったと言う。(「クンダリニー」より)<br /> <br /> スシュムナをクンダリニーのエネルギーが上昇する時に轟音が聞こえたと言うことは、これはスシュムナあるいはイダとピンガラに関する音なので、アナハタ・ナーダ(アナハタの聖音)と言って良いでしょう。<br /> <br /> ヨーガにおいても、古典的にはプラナヤーマの呼吸法などでスシュムナを浄化することを重視しています。スシュムナを浄化しておくことにより、不意にクンダリニーが上昇してしまった時に致命的な事故を防ぐと言う意味合いもあるでしょうし、意識的にクンダリニーを上昇させるための準備として浄化が重要視されているのでしょう。同書にはそのようなことも書かれています。<br /> <br /> どこに書いてあったのかは忘れましたが、何かの聖典にも右のピンガラからクンダリーニを上げることの危険性について言及していたような気がします。<br /> <br /> クンダリニー体験で聞くアナハタ・ナーダ(アナハタの聖音)と、クンダリニー制御が不完全な場合に起こるストレス・精神不安定が原因の耳鳴りは全く異なるものだと思います。白隠禅師の聞いた轟音はクンダリニー体験のアナハタ・ナーダ(アナハタの聖音)だったように思いますが、それ自体がストレスの耳鳴りではなく、白隠禅師は有り余るエネルギーの制御が時に不安定になったがためにクンダリニ症候群(あるいは禅病)になったのであり、アナハタ・ナーダ(アナハタの聖音)が聞こえるからと言ってクンダリニ症候群(あるいは禅病)であるとは限りません。白隠禅師の体験したクンダリニーのアナハタ・ナーダ(アナハタの聖音)を指摘して後世の解説者はクンダリニ症候群(あるいは禅病)だと解釈していることが多いですが、これは解釈の誤りだと思います。<br /> <br /> ■クンダリニーヨーガ的な音<br /> 行法の1つに、体内でのプラーナ(生命エネルギー)循環を行う方法があるが、この時、ビンドゥ・チャクラ(ビンド・ヴィサルガ, Bindu Visargha)から超感覚的な音が聞こえる。(「クンダリーニ・ヨーガ」より)<br /> <br /> ■3ヶ月で浄化され、ナーダ音が聞こえる<br /> 「ハタ・ヨガ・プラディーピカ(Hatha Yoga Pradipika、Swami Vishnu-Devananda著)」には以下のようにあります。<br /> <br /> (2章10番) アヌローマ・ヴィローマ [片鼻交互呼吸法]により 3ヶ月で一定の浄化を達成することができます。満足、平和、満足感があります。 あなたがヤマとニヤマを遵守している限り、これはすべて達成されるでしょう。 単に左右の呼吸だけでは十分ではありません。誰もがプラナヤマを練習することができますが、もしヤマとニヤマがなければ、心は正しい方向に進まないので、成功は容易には達成されないしょう。<br /> <br /> ヤマと二ヤマというのはヨガの八支則(はっしそく)の最初の2つで、基本的な道徳について言及されています。条件下でプラナヤマのクリア(浄化)を行うことにより3ヶ月でナーダ音が聞こえるまでに浄化されると聖典の古典に述べられています。ただ、周囲を見ると何年も何十年も聞こえてこない人も大勢いるので、古代の人々にとってはそうであっても、現代の人に3ヶ月が適用できるかどうかは良く分かりません。少し下に詳しく記載するように、私個人としては毎日ヨガを始めてからだいたいそのくらいで聞こえてきたのですが。最初の10ヶ月は週1回90分レッスン、その後3ヶ月はほぼ毎日ヨガ90分をしたら聞こえてきました。<br /> <br /> ■スピリチュアリストの著書「オーラ13の魔法の法則(小宮ベーカー・純子著)より<br /> この著者は、額のアジナチャクラから蝶形骨にかけてバイブレーションが響き始めて、その影響で耳鳴りがするようになったとのことです。耳鼻科での診察は問題なし。悪いどころか聞こえすぎるとの診断だったそうです。時期としてはチャネリングやオーラ感知ができるようになった頃から耳鳴りが始まったとのことです。ちなみに、私も耳鼻科に行きましたが診断は問題なしでした。<br /> <br /> ■スピリチュアリスト、ドリーン・バーチューによる解釈<br /> おそらく、この高周波による耳鳴りを「天使の声」と言い出したのは彼女でしょう。あるいは、彼女がこのことを広めたのでしょう。神や天使の声を聴くことをクレアオーディエンス(Clairaudience, 透聴能力)と言いますが、天使界からのメッセージをダウンロードしている時に聞こえる音だという解釈のようです。彼女の場合、この音は「左耳」から聞こえるそうです。<br /> <br /> ヨーガの大家が「右耳」と言っているのに対して彼女は「左耳」と言っています。ちなみに私は左寄りで聞こえますが、両方から聞こえている感じでもありますので、どちらか一方ではありません。頭の中央のやや左寄りから聞こえています。これを左耳と言えばそうなのかもしれませんが。<br /> <br /> 主要ナディであるイダとピンガラは、右にあるピンガラが交感神経で太陽がシンボルで活力を司り、左にあるイダが副交感神経で月がシンボルで癒しを司りまます。諸説あるようですが、ピンガラは肉体的エネルギーを司り、イダは精神的および高次のエネルギーを司ると言う解釈もあります。この解釈に従うと、ヨーガの大家は肉体的エネルギーに近いところのクンダリニーやそれに類するエネルギーを活性化して右の鼻に繋がっているピンガラの音を右耳と言うか右側から聞いたのに対し、スピリチュアリストは高次の精神エネルギーを活性化して左の鼻に繋がっているイダの音を左耳と言うか左側から聞いたのだ、とも解釈できますね。<br /> <br /> ヨーガの言うナーダ音は主に瞑想中に聞こえる音ですが、スピリチュアリストが言う高周波の耳鳴りは常日頃から聞こえるものを意味します。<br /> <br /> ■左右の解釈<br /> ヨーガ的には、右にあるナディ(エネルギーの通り道)をピンガラ、左をイダと言います。右のピンガラは太陽がシンボルで活動的であり交感神経、左のイダは月がシンボルで鎮める役目の副交感神経です。これを音と合わせると、左から聞こえる音はイダ的で癒し、右から聞こえる音はピンガラで活動的、とも解釈できます。 ただし、これは体の中を鼻から始まってムーラダーラチャクラ(会陰部あたり)に繋がっている「ナディ(エネルギーの通り道)」に関することです。これに関する音であればこのような解釈でいいのだと思います。<br /> <br /> ■左右とチャクラ<br /> ヨーガ的には、胸のあたりに副次的なチャクラであるスーリア・チャクラ(太陽のチャクラ)とチャンドラチャクラ(月のチャクラ)があります。<br /> <br /> ■古代エジプトの左右の目<br /> 「フラワー・オブ・ライフ」によると、古代エジプトには3つの神秘学派があったとのことです。<br /> 男性性の学派は「ホルスの右目」女性性の学派は「ホルスの左目」、そして「ホルスの中央の目」<br /> ここでも、右が男性、左が女性になっていますね。<br /> <br /> ■古典的なスピリチュアリストによる解釈(混乱しないように注意)<br /> シャーリー・マクレーンの「ゴーイング・ウイズイン」によると、「第3の目(チャクラ)は脳の下半分、神経組織、耳、鼻、人格の目である左目を支配している。」「王冠のチャクラは松果腺と対応しており、脳の上半分と右の目を支配している。」と記載があり、左目がアジナチャクラ(第3の目)、右目がサハスララチャクラ(クラウンチャクラ)に対応しているとのことで興味深いですが、この書籍以外でこのような記述をほとんど見かけないので、このような説もあると言う理解でとりあえず頭の片隅に置いておくくらいがいいと思います。<br /> <br /> 余談ですが、松果腺は、ヨーガ的にはサハスララチャクラ(クラウンチャクラ)ではなくてアジナチャクラ(第3の目)と関連していますので、その部分の解釈も異なっています。<br /> <br /> 更に余談ですが、「フラワー・オブ・ライフ」で紹介されている古代エジプトにおける13チャクラシステムによると、松果体は3つのチャクラに繋がっているといいます。「第3の目(アジナチャクラ)」「クラウンチャクラ」およびその中間にある「45°のチャクラ」に繋がっているとのことです。現代で一般的な8チャクラシステムと13チャクラシステムは別の理論体系のようなので基本的には併用できないようですが、真実は1つなのでそれぞれの側面から解釈できそうです。<br /> <br /> これらは解釈がそれぞれ微妙に違っていて混乱を招くかもしれませんし、ヨーガなどで一般的な話とちょっと離れているので、一旦忘れた方がいいかもしれません。<br /> <br /> ■ナーダ音に集中して瞑想するナーダ・ヨーガ<br /> 上と同じ「Meditation and Mantra」から訳しつつ引用します:<br /> <br /> あなたは瞑想の間、様々な種類のアナハタの音である鐘の音、ケトルドラム、雷鳴、コーチ、ヴィーナやフルート、ハチの鳴き声などを聞くことができます。 心をこれらの音のいずれかに固定することができます。 これもSamadhiにつながるでしょう。 <br /> <br /> これはいわゆるナーダ・ヨーガとしての瞑想だと解釈できます。ナーダ音に集中して瞑想する方法でもサマーディに到達できるようです。<br /> <br /> ■ヴェーダンタ流派の解釈<br /> 又、同本「Meditation and Mantra」によるとヴェーダンタ系の流派は違った解釈をするようです。瞑想の間に現れる光や音を幻覚(マーヤー)だとして無視するようです。訳しつつ引用します:<br /> <br /> ヴェダンタの道にいる学生は、これらの音と光を無視します。 彼はすべての形を否定することによって、ウパニシャドの偉大な発言の意義を熟考しています。 "太陽はそこに輝いておらず、月や星も輝いてはいない。また、この稲妻は輝かない。そして、この火が輝く可能性もっと低い。彼が輝く時、彼に続いて全てが輝く。彼の光によってすべてが光ります"。 彼は次のように瞑想します:"均質な本質の中で、空気は吹いていません。火はそこで燃えていません。音や触感、臭いも色も、心もプラナもありません。私は満足しているSiva、私は満足しているSiva",<br /> <br /> これも、日常に聞こえる音のことではなく瞑想中に聞こえる音のことを言及しています。<br /> <br /> ・・・と以前書きましたが、その後、ヴェーダンタをインドで習った方にお話を伺ったところ、ヴェーダンタは経験を無視しないし体験を否定しないので、「経験を無視する」「経験を否定する」というのは良くある誤解だとのことです。ヴェーダンタでは経験のその先を見ているので、経験は否定しないものの経験に重きを置かない、ということのようです。ヴェーダンタを習うと周囲や本からこのような体験を見聞きすることも多いので、そんな経験もおそらくあるだろう、とのことで、否定はしないものの、ヴェーダンタの道にいる人はその先を見ているので、経験にはあまり興味がないようです。ヴェーダンタでは「サット・チット・アーナンダ(Sat-Cit-Ananda)」という言葉で表される、現象のその先、常に変わらないものを求めているようです。現象や経験には始まりがあって終わりがあるが、ヴェーダンタではそのような有限なものではなく永遠の至福を求めているようです。そのゴールを表す言葉がサット・チット・アーナンダ(Sat-Cit-Ananda)であり、全てのものや現象に永遠性と至福を見出せるよう道を歩んでゆくようです。<br /> <br /> ■ヘミシンク体験者<br /> 日本のヘミシンク関係者の書籍でも、似たような高周波について言及がありました。静かなところで作業をしたり本を読んでいる時に聞こえる高周波のようで、似たものだと思われます。ヘミシンクを行ったからと言って必ずしも聞こえるわけではないようですが。<br /> <br /> ■仏教系の解釈<br /> 仏教では世界を3つに分けているようです。<br /> 人が住む欲界、中間的な色界、欲望を超越した無色界<br /> <br /> 仏教的には、瞑想で聞こえるヴィジョンや音は「色界」に属するものであって、それはまだ欲望が残っている世界に属するものであると解釈するようです。(出典はどこか忘れました)<br /> <br /> ■ナーダ・ヨーガにおけるアナハタ・ナーダ(Anahata-Nada)とアナハダ・ナーダ(Anahada-Nada)<br /> スワミ・サッチヤナンダ(Swami Satyananda)の弟子であるジョーティルマヤナンダ(Jyotirmayananda)の著作「タントラ・ヨーガ瞑想法」によると、アナハタ・ナーダ(Anahata-Nada)とアナハダ・ナーダ(Anahada-Nada)は若干異なるようです。<br /> <br /> ヨーガでは体は大まかな3つの階層で構成していると考える。「肉体(物質とプラーナ)」「細身(メンタル質とアストラル質)」「真我(コーザル体)」ですが、それぞれの体が違った音を聞く、ということになっています。「細身」で聞こえるのがアナハタ・ナーダ(Anahata-Nada)であり、「真我」で聞こえるのがアナハダ・ナーダ(Anahada-Nada)とのことです。最初に聞こえ始めるのがアナハタ・ナーダ(Anahata-Nada)であり、後に聞こえるのがアナハダ・ナーダ(Anahada-Nada)になる。<br /> <br /> ■禅の公案「隻手の声(せきしゅのこえ)、隻手音声(せきしゅおんじょう)」<br /> 上記のジョーティルマヤナンダ(Jyotirmayananda)は「タントラ・ヨーガ瞑想法」において禅の公案である「両掌で叩いて音あり、片掌で叩いて何の音があるか」と言う問いに対して明快に答えています。もちろん、肉体においては片手で叩いても肉体が聞こえる音は出ない。ジョーティルマヤナンダによると、これはまさにアナハタ・ナーダ(Anahata-Nada)が聞こえる修行段階に至ったかどうかを試す公案なのだと言う。これは頭で考えることではなく、実際に聞こえるようになるまで修行し、実際に体験すべきことなのだと言う。<br /> <br /> アナハタ・ナーダ(Anahata-Nada)の「an」は否定、 「ahata」は「叩く」や「打つ」を意味しているから、アナハタは「打たざる」と言う意味になる。肉体で打たずして聞こえる音であるアナハタ・ナーダ(Anahata-Nada)が聞こえるかどうかで修行の進み具合を確認したのでしょう。<br /> <br /> 白隠禅師の禅宗では、かなり初期の段階でこの公案を解かされるという。<br /> であれば、このナーダ音が聞こえると言う「しるし」はかなり初歩的なものであると思われる。<br /> <br /> ■ナーダ・ヨーガを長年勉強した人に隻手の声(せきしゅのこえ)について聞きました<br /> ヨガ・オブ・ボイスというナーダ・ヨーガとその他を組み合わせた手法を提唱している、大学院教授でもあるシルビア・ナカッチさんのワークショップがあったので参加したことがあり、その際に上記の禅の公案「隻手の声(せきしゅのこえ)」について聞いてみました。彼女によると、禅の片手拍手の話は元がサンスクリットなので同じことを意味しているという。アナハタが「打たない」だから、その話が公案になったのだろう、とのこと。 推測なのか、あるいは、そういう常識なのか?<br /> <br /> 私は、この禅の公案は白隠禅師の発案かと思っていましたが、たしかに、サンスクリットのアナハタの意味が先にあったと解釈した方がしっくりきます。そのように解釈した方が良さそうです。<br /> <br /> ■ヨガナンダの自叙伝によると<br /> パラマハンサ・ヨガナンダの「あるヨギの自叙伝」には「神秘的なオームの音は、ヨガの初心者でも、しばらく練習を積めば聞くことができるようになる。この至福に満ちた霊的鼓舞を受けるとき、修行者は、実際に聖なるものとの触れ合いが出来たことを確認するのである。」と書いてあります。ここで言うオームの音とはアナハタ・ナーダ(Anahata-Nada)の音であると推測できます。<br /> <br /> ■アナハダ・ナーダ(Anahada-Nada)<br /> アナハタ・ナーダ(Anahata-Nada)と混同されやすいアナハダ・ナーダ(Anahada-Nada)はジョーティルマヤナンダ(Jyotirmayananda)によると「境界のない」とか「特質のない」と言う意味になる。これは宇宙の始源的な響き、あるいは、内なる沈黙の響きであるとされ、瞑想の最も深いサマーディに関係した沈黙の音になるが、日常で何も聞こえていない状態の普通の沈黙という意味とは全く異なる、音としてしか感知できない沈黙の響きになる。この認識が「マントラのオームが宇宙の根本原理」という理解や、あるいは、宗教は違えども聖書における「はじめに言葉あり」のような理解にも繋がってゆくらしい。このように、ナーダを使って悟りを得ようとするナーダ・ヨーギたちの一派がいるようです。<br /> <br /> これまた興味深い。私の場合、アナハタ・ナーダ(Anahata-Nada)は聞こえるがアナハダ・ナーダ(Anahada-Nada)はまだこれから、という感じですね。ようやく状況が見えてきました。<br /> <br /> ■アナハタ・ナーダ(Anahata-Nada)とアナハダ・ナーダ(Anahada-Nada)はやはり同じ?<br /> 上記のようにアナハタ・ナーダ(Anahata-Nada)とアナハダ・ナーダ(Anahada-Nada)は違うものである、と著名なスワミがおっしゃっていますが、その一方で、ナーダ・ヨーガを30年も勉強した大学院教授でもあるシルビア・ナカッチさんに聞いてみたところ、アナハタ・ナーダ(Anahata-Nada)とアナハダ・ナーダ(Anahada-Nada)は同じだ、とのこと。ナーダ・ヨーガの専門家がそう言うのですから、やはり発音違いで同じものなのかもしれない? 混乱します。 彼女によると、元はサンスクリットなので、「タ(ta)」と「ダ(da)」の違いは問題ではなく、同じだ、とのこと。 うーむ。 本当はそれが正しいのか、あるいは、そもそも、このことはあまり知らなくてもいい知識なのかもしれない。 一般的にはアナハタ・ナーダ(Anahata-Nada)しかない、ということでいいのかもしれません。 これが違うと主張したところで、それを体験していなければ説明のしようがないですし。 体験せずに主張したらトリビアっぽくなってしまうかもしれません。<br /> <br /> あるいは、ヨーガ行者など神秘行全般によくあることだが、私のような、セミナーに参加しただけの部外者の質問には曖昧に答えて誤魔化しているだけで、やはり別物であることを本当は知っているのかもしれない? 確信を持って話しかけてきた人にだけ本質を伝える、と言うやり方なのかもしれない。 あるいは弟子入りしないと本質は教えない、とか。 一般的には同じということにしてアナハタ・ナーダ(Anahata-Nada)しかない、としてしまった方が説明としてもわかりやすいし、説明したところで理解できる人は限られています。アナハタ・ナーダ(Anahata-Nada)の先に到達できそうな人にだけ秘密を明らかにする、というのがヨーガ的なやり方でもあるかもしれないです。 謎は残る。 ここからは、自分でアナハダ・ナーダ(Anahada-Nada)を体験してみるしかないかもしれません。<br /> <br /> ■ナーダ・ヨーガの修行法<br /> 上記のジョーティルマヤナンダ(Jyotirmayananda)の書物にはナーダ・ヨーガの修行法が紹介されています。その注意書きに以下のようにあります。<br /> <br /> 「しばらく実習を続けているうちに、昼間何もしていない時に突然音が聞こえてくるようになる。そうしたら、その段階でこの方法を中止する。しかし、これは決して幻聴などではない。ただこの音が、実習者の日常生活の邪魔になり、何ら有益なものをもたらすことがないので、止めるに越したことはないわけである。非常に熟練したヨーギーなら、目覚めている間中、ずっと一日中でも、霊的な声を聞き続けていることができる。ただこのためには、ここでは言及していない非常に特殊な準備をして、グルの直接的な指導を仰ぐ必要がある。しかしそこまでゆくと、これはもうシッディ(神通)に属する未知の声を聴こうとするための修行になってしまう。」<br /> <br /> ということで、一般的には、この音を聞く訓練はやり過ぎないのが肝心のようです。私は別に、ナーダ系の特殊な訓練をしていたわけではないですけどね・・・。私の場合、聞こえてくるようになった理由はおそらくヨガの普通のプラナヤーマです。インドのアシュラムや一部の上級者がやるようなバストリカのような難しいものではなく初歩的なものしかやったことがありません。それでも基本的な浄化(クリア)がされるには十分なのかもしれません。<br /> <br /> ■音がずっと聞こえるようになってしまった場合<br /> 「シャンバラからの伝言(成瀬雅春著)」によると、ナーダ・ヨーガの実習を行なっていると音が耳に残ってしまうことがあり、その時は「カパラバティ・クリア」を行うと治ると言う。<br /> <br /> ■ナーダ・ヨーガによる音の4分類<br /> 成瀬雅春先生による「精神世界の扉」ではナーダ・ヨーガによる4種類の音の分類を紹介しています。<br /> 「ナーダはサンスクリット語で『流れ』とか『音』を意味してい。流れというのは音の流れでもあり、意識の流れでもある」とのこと。<br /> その4種類とは<br /> ・ヴァイカリー 通常の耳で聞こえる音<br /> ・マディヤマー 聞こえる音と聞こえない音の中間。神妙な囁きのような音<br /> ・パシャンティー(パシュヤンティー) 耳で聞こえる音ではなく「観える音」<br /> ・パラー 聞こえない音、沈黙の音というような意味であるが、宇宙の始原的な響きであり、瞑想の最も深い部分<br /> と説明しています。<br /> <br /> マディヤマーがいわゆるナーダ音であると解釈できます。<br /> <br /> ジョーティルマヤナンダ(Jyotirmayananda)によると「ヴァイカリーからマディヤマーへ移行する段階の中間的な次元の音がアナハタ・ナーダ(Anahata-Nada)」と書いてありますので、文字通りに解釈するとヴァイカリーとマディヤマーの間ということになりますが、意味を考えるとマディヤマーがそもそも中間的な音という意味ですので、ヴァイカリーからパラーへと向かう時に中間的なマディヤマーの段階で聞こえる音、と解釈することにします。おそらく翻訳が微妙なだけでしょう。<br /> <br /> アナハダ・ナーダ(Anahada-Nada)は「真我(コーザル体)」で聞こえる音ということですので、明確に記載はないですが、おそらくはパシャンティーやパラーが該当すると思われます。<br /> <br /> 「瞑想と霊性の生活3(スワーミー・ヤティシュワラーナンダ著)」には以下のように記載があります。<br /> <br /> 私たちが話すとき、私たちが耳で聞くものは、ヴァイカリーと呼ばれる、粗大な形の音にすぎない。それは、声帯、舌、その他の動きから生まれる。その背後に、思考過程の産物である言葉がある。これはマディヤマ音である。思い自体は、パシャンティ音と呼ばれる、もっと精妙な衝動から生まれている。パシャンティは非顕在のシャブタ・ブラフマンから発するのであって、その音の過程はパラーと呼ばれている。それゆえ人の思いの生活は、パラーから発して、パシャンティとマディヤマを通り、ヴァイカリーに至るまでの領域を持っている。<br /> <br /> ■Vaikhari/Madhyama/Pashyanti音の分類<br /> Hatha Yoga Pradipika (Swami Muktibodhananda著, Swami Satyananda Saraswati監修)P559には例と共に明確な説明が記載されています。<br /> ・物理的な耳で聞こえる音: Vaikhari音。誰かがフルートを吹いていて誰かが聞く場合。<br /> ・耳で聞こえるような気がするが実際には心(マインド)で聞く音: Madhyama音。どこか離れたところで誰かがフルートを吹いていて、誰かがフルートを吹いているのを貴方が感じる場合。<br /> ・他人には聞こえず瞑想の中で聞こえる音: Pashyanti音。誰もフルートを吹いていないのに貴方がそれを聞く場合。<br /> <br /> ■金蔵の書<br /> 神智学協会の設立者であるH・P・ブラヴァツキーがチベットで修行した時に入手した「金蔵の書」の邦訳が「沈黙の声」に掲載されているのですが、そこにも上で紹介した7種類の音について記載があります。<br /> <br /> &amp;nbsp;「Meditation and Mantra」の記述「沈黙の声」の記述1ナイチンゲール(ウグイスに似た鳥)の甘い声鶯の声2銀のシンバル銀のシンバル3殻の中の海のメロディ貝から聞こえる海のメロディ4ヴィーナの唱歌ヴィーナの歌5竹のフルート竹の笛6トランペットの一吹きラッパの音7雷雲の鈍い轟音のように振動轟々たる雷鳴7つ目の音は他のすべての音を呑み込む。それらは死んで、それ以上は聞こえません。第七の音はその他の音一切を呑み、一切の音は消えて、早きこえず。<br /> 音に関してはほぼ類似で、おそらく出典がほぼ同一なのですが、こちらには更に説明があります。それによると、最後の第7の音が聞こえるのとそれ以前の6番目の音とは決定的な違いがあるそうです。第6の雷鳴の音までは低次の人格と結びついており、第7に達すると低次の人格が克服されて内なる真我(アートマン)が現れたことを意味するそうです。その時、いわゆるサマーディ状態になるとのことです。解釈が難しいところではありますが、同書によると、クンダリーニが上昇するにつれて段階的にこれらの音が聞こえて最終的にサマーディになる、とも読めます。<br /> <br /> 又、同書にはこれとは別に、「高き瞑想の神秘的階調」と表現しているアナハッド・シャブドというエーテルの世界の音にも言及されていますが、詳しい説明はありません。<br /> <br /> 私の場合、ナーダ音が普段から割と聞こえており、日常生活のほとんどは支障が無いものの、クラシックコンサートやオペラを聞きに行く時にナーダ音がコンサートの音と混じって聞こえてコンサートだけを楽しむのに支障があったり、あるいは、コンサート中は自分が周囲に迷惑をかけないように息の音まで気をつけないといけないのにナーダ音がずっと聞こえているが故に呼吸の音も含めて完全に音が消えているかどうかを自分で確かめ辛い、といった、音に関する日常生活の不便がたまにあるので、この音を意識的に消すことができればいいなあ... とたまに思うのです。なにせ、ナーダ音とは「始まりも終わりもない音」でずっと流れていますから、特別それが不快ではないにせよ、むしろ心地いいものではあるのですが、時にその音を消したいなあと思うこともあるわけです。 前置きが長くなりましたが、そういうわけで、この文脈です。最後のところに、「第7の音はその他全てを飲み込んで、もはや聞こえなくなる」、と記載があります。一生ずっとこのナーダ音と付き合うことになるのかな... とも思っていたのですが、どうやら次のステージに進めば聞こえなくなるようです。そう思えば、ちょっと安心してきました。<br /> <br /> そういえば、ドリーン・バーチューの本にも高周波はそのうち聞こえなくなって言語化して聞こえるようになるとか何とか記載があった気がします。どこに記載があったのかは見つけられませんが。<br /> <br /> 1番目のウグイスの声。これは、微かに聞こえるナーダ音のことでしょう。私は最初は気のせいかと思っていましたので、この段階ははっきりとは認識していません。エアコンの音かと思っていた微かな音が実はそれだったかもしれません。具体的に気付き始めたのは2番からで、この1番目のウグイスの声単体ではチ・チ・チ・チ・チ・チという微かな音なので単体ではそれと気付きにくい気がします。<br /> <br /> 2番目の銀のシンバル。だいたい2017年11月頃からこの音を認識し始めました。ヨガを始めて1年くらい経った時のことです。そのうち最初の10ヶ月は週1回90分レッスン、その後3ヶ月はほぼ毎日90分レッスン、と言う頻度でヨガをしていました。最初は1番のウグイスの声のようなチ・チ・チ・チという音から始まって(エアコンの音と似ているのでそれだったかもしれませんし、ナーダ音だったかもしれません。ここは微妙です)、次第に高周波のピーという音が聞こえてきて、時々シャリシャリという感じの多くの鈴(神楽鈴の音程をもっと低くしたような静かな音)が遠くで鳴っている音というか田舎の秋のスズムシやバッタ等の虫の音を遠くで聞くようシャンシャンした音が聞こえました。あるいは、遠くでかなりの数のミンミンゼミが鳴いているような音(耳につくような音ではない感じ)の時もあります。それは、自然が奏でる曲とも言えなくもないです。メロディはないですが不快ではなく、聞いていて落ち着く音の時があります。基本的にはそうではなくて単なるピーという音なのですが。人によっては「モータ音」と言うかもしれない。或いは「サーサー」と言う音。振幅はほとんどないので「サーーーーーーー」と言う感じですが。これは、3番目の貝の海のメロディと言えなくもないです。1番のウグイスの声はエアコンなのかナーダ音なのかどちらなのか微妙なところではありますが、2番以降はナーダ音としか考えられないですね。どこに行っても聞こえるのでナーダ音の可能性が高いです。<br /> <br /> 4番のヴィーナのような低い音は良くわかりませんが、重なって聞こえているとすればそういう音もあるかもしれません。単体ではよくわからないですね。5番目のフルートの音は高周波としてはずっと聞こえています。私の場合、ふと気づいた時には既に2番から5番までが聞こえていた感じですね。6番目のトランペットは、たまに片耳から聞こえますが頻度は低いです。トランペットというよりはもっとゆっくりとした音の音量が次第に大きくなって、次第に音量が小さくなってゆくという感じです。<br /> <br /> 私個人は上に書いたようにヨガのシャバアサナの時に聞こえてきてその後は常時聞こえるようになりましたので「座禅の瞑想中の時だけ」聞こえるようなナーダ音は経験しておらず、常時聞こえるようになってからは座禅の瞑想中でももちろんずっと聞こえるようになりましたので、座禅の時「だけ」聞こえるような一時的なナーダ音は経験していないのですが、もしかしたら人によっては座禅の瞑想中にだけ聞こえるナーダ音というものがあるのかもしれません。一般的には「瞑想中に聞こえる音」としてナーダ音が紹介されていることが多いようですので、推測するに、座禅をして瞑想をすると聞こえるようになった人が多いのかなあと推測しますが、私はもはや常時聞こえるので確かめようがありません。<br /> <br /> 2018年初め頃から2番の銀のシンバルや3番の海のメロディが聞こえなくなってきました。5番のフルートは変わらず聞こえます。状態が進むにつれて聞こえる音に変化があるのでしょうか。<br /> <br /> 2018年6月、頭の中で「プツ」「プツ」と言う細かな気泡が弾けるような小さな小さな音が時々することに気付きました。ナーダ音に比べて音量が1/3~1/5くらいの小さな音。骨が鳴る音と似ていますが、感覚的には骨が鳴る音とはちょっと違う感じ。もしかしてこれをトランペットの一吹きと言うのかもしれませんが、(6番の)トランペットにしては時間が随分と短いです。日本人が一吹きと聞くと10秒や20秒の長い音をイメージしますが、この著者はとても短い一吹きの0.2秒とかそういう音を意味していたのだとしたらこれが該当するかもしれません。あるいは、時々聞こえた長い音がトランペットなのかもしれません。ちょっとこれは微妙ですね。まだ聞こえていないだけかもしれません。<br /> <br /> 7番目は心当たりがないのでまだですかね?<br /> <br /> 2018年7月、ナーダ音が、左と右で聞こえ方が違う。左はフーという感じの高音で、右は左よりちょっと低い音と左よりちょっと高い音とザラザラ音との3つの音が混ざっている感じ。左は音量がわずかに大きくなったり小さくなったりして、ちょっと波打っています。1つの周波数の音量が増減しているというよりは、音量一定の周波数が複数混ざり合っていて、その波形が重なって大きくなるタイミングと小さくなるタイミングがあるような感じ。左は右ほど周波数分かれてはいないので別々の音が重なっているようには聞こえず、単に波打っているように聞こえるが、やはり複数の音が重なっていると思うのが理屈に合っています。でも、それは7番目の「雷雲の鈍い轟音のように振動」というほどのものではない。やはり7番目はまだのようです。<br /> <br /> 2018年9月以降、時々ですが大きな体の蜂がそこら中でブンブン言っている音をたまに聞くようになりました。その時は、体が活性化しているので何かの変化の予兆かもしれません。<br /> <br /> ■ナーダ音の言語化<br /> 幾つかの書籍によると、最初はナーダ音として高周波が聞こえるだけだが、やがてはそれを解釈する構造が自分の中にできてきて言語化されて聞こえるようになると言います。ただし、「言語化」と言うのは、そう表現するしかないから言語化と言っているだけで、超感覚的に直接的に意味が解釈されるような種類のもののようです。<br /> <br /> 例えば、先に述べたスピリチュアリスト、ドリーン・バーチューも似たようなことを言っています。高周波が聞こえている状態においては、意味がわからなくともプログラムをダウンロードしているのだとか。そしてやがてはその意味がわかるようになる、と言っています。<br /> <br /> ライトワーカーによる「ライトボディの目覚め」によると、やがて頭部上方に言語解釈の霊的なクリスタルが作られて意味が解釈できるようになると書かれています。<br /> <br /> ヨーガ的にはナーダ音はビンド・ヴィサルガ(Bindu Visargha, ビンドス・チャクラ)と言う副次的なチャクラで聞こえることになっていますが、このチャクラは「副次的」とあるようにヴィシュッダ・チャクラの副次的なチャクラであり、ヴィシュッダ・チャクラは喉にあって言語や浄化を司るチャクラですので、ナーダ音の言語化にはこれらのチャクラが使用されると解釈できます。ただし、ヨーガ的には「ナーダ音が言語化されて解釈される」と関連付けて解釈することは少ないようです。 それらはほとんどの場合独立して語られ、単に、ビンド・ヴィサルガ(Bindu Visargha, ビンドス・チャクラ)でナーダ音が聞こえる、と言う事項と、それと独立するような形で、ヴィシュッダ・チャクラで言語およびテレパシーを扱う、と言うように、別々のこととして述べられていることがほとんどです。あるいは、ビンド・ヴィサルガ(Bindu Visargha, ビンドス・チャクラ)のことは持ち出さずに、単に「耳はヴィシュッダ・チャクラの領域」とだけ言われることもあるようです。<br /> <br /> 「ダライ・ラマの密教入門」にはこのことを示唆していると思われる記述が見つかります。<br /> 「喉のところにある滴は、単なる音の現れを意識に生じさせる機能を持っています。それは通常の状態では不浄な音の現れを生じさせています。この滴の機能を用いると、修行中には『無敵の音』が得られ、『仏陀の境地』を達成する際には、この無敵の音によって、『究極の言語』が得られるのです。」<br /> 滴というのはチャクラと解釈できます。最初は意味のない高周波が聞こえるが、修行によって音が変わり、やがてはその音は言語として解釈できるのだ、と読めます。<br /> <br /> ここは、私は以下のように解釈しました。<br /> <br /> 「肉体(物質とプラーナ)」で聞こえるのは普通の音。<br /> 「細身(メンタル質とアストラル質)」で聞こえるのが高周波のアナハタ・ナーダ(Anahata-Nada)です。ここでは言語化はされていません。<br /> 「真我(コーザル体)」で聞こえるのが(いわば)言語化された、アナハダ・ナーダ(Anahada-Nada)で、ダライ・ラマの言うところの「究極の言語」。<br /> <br /> 「ダライ・ラマの密教入門」によると、瞑想のサマーディや身体のヨーガによって心を鎮めて行くと「微細なレベルが機能し始める」と書かれてあります。これは文脈的に「真我(コーザル体)」のことであると解釈します。<br /> 同書によると、微細な意識のレベル(おそらく真我、コーザル体)では、「心(意識)」と「エネルギー」は一体のものになるようです。対象を「知る」という観点からは「心(意識)」になり、運動するという観点からは「エネルギー」になるが、それは一体である、とのことです。<br /> <br /> その状態に至るまでにきちんと瞑想やヨーガで修行していないと危険な状態に至るとも書かれています。<br /> 「修行が完成していない状態で光明を現そうとすると、喉のところにあるエネルギーセンター(受用輪)が圧迫され、光明が現れるどころか死に至る危険すらあるのです。このように、ある種の技法はとても危険を伴うものなのです。」(「ダライ・ラマの密教入門」より)<br /> 修行のためには経験を積んだ師に頼ることが重要ということが強調されています。喉の圧迫感は私にも度々あるので、修行(或いは「浄化」)がもっと必要のようです。私はこういう修行を大して積んだ訳でもないし、近くにこういう指導ができる師匠も見つからないので手探りに浄化をしてみます。仕方がないです。この喉の圧迫感は前から謎だったので、こういう理由だとようやく分かったのでこれで対策が打てます。<br /> <br /> 瞑想のサマーディやヨーガでは、心の死滅、或いは心の安定、という状態がゴールになります。その先に「真我(コーザル体)を目覚めさせる」、という段階が待っているのだと読み取れます。スピリチュアリストにせよ、ライトワーカーにせよ、ヨーガのジョーティルマヤナンダ(Jyotirmayananda)にせよ、ダライ・ラマにせよ、宗教や流派は違えども、意外と皆、似たようなことを言っているようですね。<br /> <br /> ■瞑想とナーダ音<br /> 瞑想には色々とやり方がありますが、「Meditation and Mantra」に記載のあるヨーガ系の瞑想手法の場合、このナーダ音が聞こえてきても無視するように指導されます。この手法はマントラ(オーム、あるいは伝授された個人的なマントラ)を唱えて集中するのですが、ナーダ音が聞こえてきたとしても元々集中していたマントラに集中を戻すように指導されます。あくまでもこの手法(流派)の場合の話です。<br /> <br /> 同書およびHatha Yoga Pradipikaには、このナーダ音をそのまま瞑想に使用できると記載があります。その場合、ナーダ音に集中することで瞑想を行います。呼吸やマントラに集中するのではなくてナーダ音そのものに集中します。その手法でもサマーディを達成できるとのことです。<br /> <br /> ■ラマナ・マハルシの見解<br /> 著書「不滅の意識」によると以下のようにあります。<br /> <br /> 質問者: ナーダ・ヨーガ(nada-yoga 音に対する瞑想)を修練している時、私は鈴やこだまのようなサイキックな音を聞きます。<br /> マハルシ:その音がラヤ(laya 心が一時的に休止している空白の状態)に導くのでしょう。これらの音を聞いているのは誰か注意して見るのを忘れないようにしなさい。もしあなたがあなたの内なる真我をしっかりと捕まえて手放さないならば、あなたが音を聞くか聞かないかは重要なことではないでしょう。主体を見失わないように保っておきなさい。ナーダ・ヨーガは確かに集中の1つの方法ですが、それを達成した後は真我に焦点を合わせなさい。もしあなたが主体を見失うと、あなたはラヤに入って行くでしょう。<br /> <br /> 真我とは神智学で言うコーザル体あるいはヨガ的なアートマンのことですから、この記述からも、ナーダ音は(ここに明確な記載はありませんが)細身(メンタル質とアストラル質)に属するものであって、真我(コーザル体、アートマン)に属するものではないと解釈できます。<br /> <br /> 同書には、同様の質問がもう1つ掲載されています。<br /> <br /> 質問者:集中された心が静止する前に、あるいはその後に、ヴィジョンを見たり神秘的な音を聞くことがありますか。<br /> マハルシ:それらは前にも後にも現れます。重要なのはそれを無視し真我にのみ注意を払うことです。瞑想の間に見えるものや聞く音は、心を乱し、心を誘惑するものと見なさなければなりません。それらが求道者を惑わすことと決して許してはなりません。ヴィジョンは瞑想に妙味を添えますが、しかし、それ以上の何ものも与えることはありません。<br /> <br /> ここでも、上に乗せた瞑想手法の解釈と似たようなことが述べられています。<br /> <br /> どうやら、ナーダ音は集中の手助けにはなるが、それ以上のものではない、と言うのが複数の覚者による見解のようです。ナーダ・ヨーガ的な瞑想では物理的に聞こえる音、あるいは、ナーダ音に集中することで意識を深めてゆくのでしょう。瞑想のために利用する物理的な音やナーダ音など諸々は、いわば補助道具なのでしょう。そして、ある程度の段階に至ったのであればそこから先は(補助器具であるところのナーダ音などを手放して)真我を見出してゆくのだと思います。<br /> <br /> この記述だけを見たら、「そうか。真我を見出せばいいのか」とだけ思ってしまいがちですが、まずその前に、きちんと段階を追って、ナーダ音やヴィジョンが現れる段階を得てからようやく真我を見出す段階に至るのであって、いきなり真我を見出そうと瞑想しようとしても、かなり無理があると思います。ヨーガ・スートラに述べられているように、まずはヤーマやニヤマという道徳的なところから始まり、呼吸法のプラーナヤーマ、姿勢のアサナ、感覚から自由になるためのプラティヤハーラ、そして集中のダラーナ、瞑想のディアーナ、そして至福状態のサマディに至るわけですが、真我を見出すと言うのは最後のサマーディの段階ですし、ナーダ音が聞こえると言うのは瞑想のディアーナ段階ですから、段階をきちんと踏むことが重要であるのは大前提であるわけです。<br /> <br /> 瞑想の解説で「ヴィジョンや音などは重要ではない」と言う記述は多くの書物で見ますし、瞑想に詳しい人もそう言うことが多いので、それはそうなのでしょう。この解釈としては、「現実は現実として、それが心の中で聞こえたり見えたりしているのだから否定する必要はない。ただ、それは重要ではないので、特別な注意を払う必要がない」と言う程度のものだと思うわけです。<br /> <br /> 後日、同じラマナ・マハルシの別の書籍から言及している箇所を発見したので引用します。<br /> <br /> ナーダはヨーガの聖典に述べられています。しかし神はそれを超えているのです。血液の循環、呼吸作用、その他の身体的機能は必然的に音を生み出します。その音は不随意で継続的です。それがナーダなのです。「ラマナ・マハリシとの対話 第1巻」(ムナガーラ・ヴェンカタラーマイア著)<br /> <br /> ここだけを読むと「ナーダ音は肉体が出している音である」と解釈してしまいそうになりますが、「ナーダ音は真我(アートマン)が出している音ではない」と解釈した方がスッキリします。というのも、彼はこの文節では「体か、あるいは、真我(アートマン)か」という2択で話をしているように解釈できるからです。彼の話をするのであれば文字通りでいいのかもしれませんが、他の聖典との整合性を考えるとこのように解釈した方がスッキリすると思いました。<br /> <br /> ■ナーダ音が聞こえ出した最初の時<br /> <br /> 私がナーダ音が最初に聞こえたのはヨガの最後のシャバアサナの時でした。<br /> <br /> 最初は、いつものように呼吸や思考を観察していただけでした。ヨガをするにつれて思考の波が穏やかになってゆき、やがては、散発的に連続5秒前後くらいならば思考がない状態で息だけを静かに観察できるようにはなっておりましたので、その程度で息だけを観察しているだけでも十分にリラックス出来てはいたのですが、更に深くリラックスしたいと思い、たしか息を吸ってからちょっと止めて少しづつ吐きながらその息に少し注意を払うことで思考の波をより深く鎮めようとしました。心の言葉にならない程度の細かな波をグッと静めようとしたわけです。最初は試行錯誤で、特に何も変わりませんでした。ですが、とある日、変化が起こりました。もともと目を閉じていたので視界は一応暗かったのですが、思考の波を意思の力で鎮めることにより、より一掃の暗闇の静寂に包まれたのです。それは、視界が暗闇に包まれただけでなく、体全体が暗闇の静寂に包まれたのです。その瞬間、息のことも意識になくなり、視界が暗闇に包まれ、深い深い静けさの暗闇の中に「無」とも言える意識が漂ってきて、とても心地よかったことを覚えています。<br /> <br /> それが日をあけて数回続いたでしょうか。一旦慣れればその状態にシャバアサナからすぐ移行する事ができましたので、何回かそんな事が続きました。それはそれは落ち着いた深いリラックスだったわけですが、その静寂の「無」の中から、急に音が聞こえてきたのです。それがナーダ音の始まりでした。<br /> <br /> 段階的にまとめます。<br /> 1. 最初は、心のお喋りのなすがまま。心のお喋りに反応することで心のお喋りを増幅させてしまう段階。<br /> 2. 心のお喋りに付き合うことなく、心のお喋りを観察できる段階。<br /> 3. 呼吸に意識をすることで心のお喋りを止めて呼吸の観察に戻すことができる段階。<br /> 4. 呼吸だけを意識して心のお喋りがない状態を最低5秒間は継続できる段階。<br /> 5. 思考の波が十分に静まる、あるいは、意思の力で思考の波を沈めて体全体が暗闇の静寂に包まれる段階。<br /> 6. シャバアサナの時、暗闇の静寂の中からナーダ音が聞こえて来た。<br /> 7. シャバアサナの時だけでなく、日常生活においても普通にナーダ音が聞こえるようになった。<br /> <br /> 上に書いたようにナーダ音には複数の種類があり、一番最初の「ウグイスの声」はこの静寂の暗闇の前にもシャバアサナの時に聞こえていたような気もしますが、このウグイスの声は微妙な音なので、なかなか日常生活の音との見分けが難しかったような気がします。高周波のピーと言う音や鈴の音は暗闇の静寂を経験した後に聞こえて来たような気がします。これらの高周波は分かりやすい音です。<br /> <br /> 音それ自体は、地方に旅行した時などで音が全くしない場所で静寂のキーンという音が聞こえるような感覚に似ていたり、あるいは、ヨーガの手法「ナウムクヒ・ムドラ」で耳・目・鼻・口を塞いだ時に聞こえる音(これもアナハタ・ナーダだと言われる)に音自体は似ているので、聞こえるかどうかの話で言えば昔から聞こえたのですが、意識の状態はかなり違います。<br /> <br /> ナウムクヒ・ムドラをすれば一般人でもかなりの確率でナーダ音を聞くことができると思いますし、地方に旅行して静寂のキーンという音を聞いたことのある人は一般人でもかなり大勢いるでしょう。そのような一時的な体験でナーダ音が聞こえたと言うのと、意識の静寂と共に常に聞こえるナーダ音の間には随分と差がある気がします。どちらも「静かなところで聞こえる」という点に関しては一緒ですが、その内容はかなり違うと思うわけです。意識の静寂と共に聞こえるナーダ音は常に聞こえますから、誰かと会話していても重なって常に聞こえる高周波です。音量は日によって多少変わるもののある程度は一定ですから周囲がかなり騒がしいと被ってしまって聞こえにくくなりますが、静かな場所で話す時の人の会話と同じくらいの音量で常に聞こえる高周波なので、音量はそれなりにあります。地方の旅行での静寂のキーンは特殊な体験ですが、意識の静寂と共に聞こえるナーダ音は日常生活の延長です。普通に生活していて、例えばネットで調べ物をしたり会話したりしていても普通にナーダ音も聞こえ続けています。<br /> <br /> その後、何人かとナーダ音について話したのですが、それでふと思うのは、ナウムクヒ・ムドラや地方の静かな場所でナーダ音を聞いて「私はナーダ音が聞こえる」と言っている人がぼちぼちいるということです。「それは、ナウムクヒ・ムドラや地方の静寂で聞こえる、アレでしょ?」みたいな感じ反応してくる人もいて、「そのくらい、私にも聞こえるよ?」みたいな反応をする人もいて、その一方で、「ナウムクヒ・ムドラなら私もそれっぽい音が聞こえるよ? 普通じゃないの?」みたいな、あまり特別なものではないという反応が多く、私の言うことにもあまりピンと来ないようです。私の説明の仕方が悪いのかもしれませんけど、ナウムクヒ・ムドラや地方の静寂で聞こえるナーダ音であれば聞こうと思えばおそらくほとんど全ての人が聞こえると思います。人によっては家が静かなのでいつも聞こえるという人もいるでしょう。<br /> <br /> ナウムクヒ・ムドラであれば私が子供の頃に同様の遊びをした際にもナーダ音っぽいものが聞こえていた気がしますし、私もヨーガを始める前に地方の旅行をした時も静寂の音を聞いたことがありますので、何人かと話をしてもやはり同様の感触を受けましたので、きっと割と普通のことなのでしょう。ですから、私が周囲にナーダ音のことを言っても、説明すると「私もたぶん聞こえる」みたいな反応があったりして、ちょっと話が噛み合いません。私が言っているのは、ナーダ音そのものよりも、意識の状態の変化が重要だと思うわけです。意識の状態で言うと、単にそれらで聞こえる状態と静寂の意識からナーダ音が広がるのとではかなり違うと思うのですけどね。こう言う説明をいくらしても理解してもらえないのかもしれないです。<br /> <br /> 上記のような無を体験した上でのナーダ音は特殊な手法や環境に依存するものではなく、その心の静寂はヨーガの時間だけでなく普通の生活の時間にまで広がってゆきました。心の静寂の副作用でナーダ音が聞こえたとしても、この心の静寂があるのであればナーダ音くらい許容できます。人によってはナーダ音を禅病のように忌まわしいものとして認識していますが、心の静寂を伴うナーダ音が忌まわしいものであるわけがありません。この種の行法は落とし穴が沢山あるので、進むにつれ落とし穴に落ちることもあるかもしれません。とは言え、ナーダ音それ自体は心の静寂と結びついていると思うわけです。<br /> <br /> ヨーガの書物を見ると、この心の静寂に逃げ込むな、と言う教訓が書かれている事があります。確かに、その通りかもしれません。この心の静寂は必ず通るものだと思いますので、それ自体は一定の地点に到達した「しるし」であることには違いないと思いますが、それに安住していたら成長はありません。この世界に生きていると言うことは心の静寂を保つだけでなく、教訓を学んだり平和を広めたり、その目的がある筈で、心の静寂を得たら行動してゆく事が必要なのでしょう。このように書くと、もしかしたら「心の静寂と言う方向は間違っている」と解釈する人がいるかもしれませんが、心の静寂、あるいは無という状態は、きっと誰しもが通るものなのでしょう。それは成長に必要なもので、それに留まらず精進を進めましょう、と言う事なのかなと思います。<br /> <br /> ■ナーダ音と耳を塞いだ時に聞こえる音との関係<br /> 上記のように、ナウムクヒ・ムドラ(Naumukhi Mudra 九門のムドラ、ヨニ・ムドラ)で目、口、耳を塞いだ時に聞こえるのもナーダ音なのかとしばらくの間そう思っておりましたが、それを否定している記述を「瞑想と霊性の生活3(スワーミー・ヤティシュワラーナンダ著)」で後ほど発見致しました。<br /> <br /> それはあなたが指で耳をふさいだ時に聞こえるハミング音ではない。<br /> <br /> ただ、「ハミング音」と言っているのが少し引っかかります。強く耳を塞いで感覚が変になる時に聞こえる音ではないですよ、と言っているだけかもしれません。であればナウムクヒ・ムドラ(Naumukhi Mudra 九門のムドラ、ヨニ・ムドラ)で聞こえる音はやはりナーダ音と言うことになりますが。これはちょっと微妙なので、判断は保留ですね。<br /> <br /> ■ジャダ・サマーディ(jada-samadhi)とラヤ・サマーディ(laya-samadhi)<br /> <br /> 「タントラ・ヨーガ瞑想法」(スワミ・ジョーティルマヤナンダ著)には上で私が体験した静寂の暗闇について、2つの似た状態について記述がありました。<br /> <br /> <br /> ・「古来この『無・意識』の世界はジャダ・サマーディ(jada-samadhi)として知られており、ヨーガではタマスの領域とも呼ばれている。これは肉体上、精神上の、激しい混乱の原因となる。この段階が最も危険である。この段階では、いとも簡単に『無・意識(not-consciousness)』の中に落ち込んでしまう恐れがあるからである。この段階では、先へ進めば進むほど危険性が増大する。そして実習者は、よくしばしば、この『無・意識』の中に落ち込んでしまう」<br /> ・「次の段階の『無・意識』は、ラヤ・サマーディ(laya-samadhi)と呼ばれ、心臓の鼓動がとまってしまう事態も起こり得る。この段階では、シンボル(帰命神の像など)が自動的に浮かびあがってきて、その像が間断なく保持されているかどうかと言うことが、決定的なポイントとなる。」<br /> <br /> <br /> となると、私は像は見ていないので私が経験したのは前者のジャダ・サマーディ(jada-samadhi)ですかね? ネットで検索すると、前者にあるのは無であり沈黙ですが、後者には絶対的な至福が付いて来るのが大きな違いのようです。でも、上にあるようにラマナ・マハルシによるとナーダ音は「ラヤ(laya 心が一時的に休止している空白の状態)に導く」とありますので、ラヤ・サマーディ(laya-samadhi)だとも解釈できます。どちらなのでしょうね。<br /> <br /> 前者が落とし穴だとして、後者にしてもラマナ・マハルシによればそれすらも求道者を惑わすまやかしであり、どちらも通過点のようです。私のがどちらであったとしても、静寂の暗闇の経て初めて以下に記載するプラティヤハーラの感覚が掴めてきましたので、どちらにせよこの状態にずっと逃げ込んでいてはいけないのはそうなのでしょう。だとしても、この段階はきっと必ず通るのかなと思いました。ただ、私の場合はほんの短い時間ですのでサマーディという名前がつくほど大げさな体験ではないですが。どちらにせよ止まってはいけないという点に関しては同じなので進めば良いだけのようです。<br /> <br /> ■プラティヤハーラ<br /> この「心の無」の状態を体験する前は、ヨーガで言うところのプラティヤハーラ(制感)のことがいまいちピンと来ていませんでした。プラティヤハーラとは、簡単に言えば以下のようなものです。<br /> <br /> プラティヤハーラは「向けて集める」の意味。出て行こうとする心の力を引き止め、それを感覚の奴隷から解放することです。(スワミ・ヴィヴェーカーナンダの「ラージャ・ヨーガ」より)<br /> <br /> 無の体験をして、このことがよく理解できるようになりました。 昔は、このこと自体は頭で理解できるのですが、それが現実として自分ができている感覚があまりありませんでした。ヨーガでの段階にはプラティヤハーラ(制感)、ダーラナー(凝念、集中) 、ディヤーナ (瞑想)、サマーディ (三昧)とあるのですが、それぞれの説明はここに詳しくは書きませんけど、無の体験をする前はその違いと状態がわかるようなわからないような、何とも微妙な状態でした。<br /> <br /> そこで、この無の経験をしたら、これこそがプラティヤハーラ(制感)なのかな、と思いました。もしかしたらそれはダーラナー(凝念、集中)と言ってしまっても良かったのかもしれないですけど、これら4つは連続的で、基本的には同質のもののようです。<br /> <br /> ■プラティヤハーラ(制感)、ダーラナー(凝念、集中) 、ディヤーナ (瞑想)、サマーディ (三昧)<br /> スワミ・ヴィヴェーカーナンダの「ラージャ・ヨーガ」から引用します。<br /> <br /> インドリヤ(感覚器官)は外界に向かって働いていて、外界の対象に接触する。それらを意識の支配下に置くことをプラティヤハーラ(制感)という。自己に向けて集める、という意味である。心をハートの蓮華、または頭の中心に集中するのをダラーナー(凝念、集中)と言う。<br /> <br /> この定義からすれば、上に書いた<br /> 「3. 呼吸に意識をすることで心のお喋りを止めて呼吸の観察に戻すことができる段階。」はプラティヤハーラ(制感)<br /> 「4. 呼吸だけを意識して心のお喋りがない状態を最低5秒間は継続できる段階。」はダラーナー(凝念、集中)<br /> と言うことになりますね。<br /> <br /> スワミ・ヴィヴェーカーナンダの同書によると<br /> ダラーナーの1点集中を基礎として、ある種の心の波が生じる。これらは他の種類の波に飲み込まれることなく、他の全てが退いてついに消えて行く間に、徐々に顕著になって行く。つぎに、これらの波の数々は消えて1つに席を譲り、たった1つの波が心に残る。これがディヤーナ、瞑想である。<br /> 全ての心が1つの波、1つの形になった時、それがサマーディと呼ばれる。ただ、その思いの意味だけが存在する。<br /> <br /> とあります。これは、上に書いた<br /> 「5. 思考の波が十分に静まる、あるいは、意思の力で思考の波を沈めて体全体が暗闇の静寂に包まれる段階。」<br /> このことでしょうか? スワミ・ヴィヴェーカーナンダの説明とも少し違う気もします。 瞑想のやり方が間違っているのでしょうか? 瞑想のためには「対象」となる物あるいは概念がないといけない、みたいな話をヴェーダ系の先生から聞いたことがあるので、もしかしたら、私が対象を何も設定していないからこのような感じになるのかもしれません。だとすれば当然の結果というか、これはこれで良いのかも? このような時にグルがいないと微妙に困りますね。可能性としては、何かが間違っているからナーダ音が聞こえてきた、と言う可能性も一応あることを頭の片隅に置いておきたいです。精神世界は色々な落とし穴がありますから、常に気をつけていないといけません。<br /> <br /> ■プラティヤハーラ(制感)、ダーラナー(凝念、集中) 、ディヤーナ (瞑想)、サマーディ (三昧)は本質的に同じ?<br /> これら4つの段階について、ヨガの根本経典である「ハタ・ヨガ・プラディーピカ(Hatha Yoga Pradipika、Swami Vishnu-Devananda著)」にハタヨガの視点から関連する記載がありましたので、参考までに引用します。<br /> <br /> (4章2番の解説) ラージャ・ヨガには8つのステップがあります。〜(中略)〜 ハタヨガの視点によると、プラナがスシュムナにある一定の時間滞在しているときプラティヤハラ(制感)と呼ばれ、もう少し長く滞在するとダーラナの集中と呼ばれることを意味します。 さらに長い間だと、それはディヤナ(瞑想)と呼ばれます。 さらに長い期間の場合、それはサマディ(三昧)と呼ばれています。<br /> <br /> ここでスワミ・ヴィヴェーカーナンダの「ラージャ・ヨーガ」に戻ると、以下のようにあります。<br /> <br /> もし心がその中心に12秒集中することができるなら、それはダーラナであり、12のそのようなダーラーナ(凝念、集中)(約2分半)はディヤーナ(瞑想)であり、そして12のそのようなディヤーナ(瞑想)(約30分)は、サマーディであろう。<br /> <br /> ハタヨガ的にはプラナの制御、ラージャ・ヨーガ的には心の制御と言う視点の違いはあるものの、これら4つの違いは基本的に時間の長さと言う点が興味深いです。<br /> <br /> 感覚的には、ナーダ音はプラティヤハーラ(制感)を基礎としてダーラナー(凝念、集中) を超えたあたりで聞こえて来るのかな? と言う気がしました。そう言う意味では、一般的に言われているようにディヤーナ (瞑想)で聞こえる、と言っても差し支えないのではないかと、そんな気もします。<br /> <br /> ちなみに、「Meditation and Mantra」にはこれらの区別について以下のようにあります。<br /> 訓練されたヨギにとって、感覚の撤退(プラティヤハラ)、集中(ダーラナ)、瞑想(ディアーナ)、超自然状態の始まり(サマディ)の区別はぼやけている。瞑想に坐るとすべてのプロセスがほぼ同時に起こり、 非常に迅速に瞑想状態になる。<br /> と言うことで、割と同質のものであると読み取れます。説明のためあるいは修行者にとっては段階を踏んで練習してゆくわけですね。<br /> <br /> ■ハタ・ヨガ・プラディーピカ<br /> このヨガの根本経典「ハタ・ヨガ・プラディーピカ(Hatha Yoga Pradipika)」は古典に属するもので、文章自体はネットで公開されていますが、その解説がないと読解が困難な代物です。上記の「Meditation and Mantra」と同じ著者のSwami Vishnu-Devanandaが書いた解説書にはいくつかナーダ音について言及があります。 これは詳しく読まないと理解が困難なのですが、ナーダ音に関する箇所のみ訳しつつ抜粋します。<br /> <br /> (1章57番) (特定の修行では) ナーダ(アナハタチャクラまたはソーラープレクサスから来るアナハタ音)に集中します。<br /> (2章20番の解説) 何人かはナーダ(内面の音)を聞き、他の人は光を見る傾向があります。 〜(中略)〜 外的な経験は、人それぞれ違った形ではっきりと現れます。〜(中略)〜 経験は違っても、1つだけ共通な事があります。それは、心がとても落ち着いて平和であると言う点です。これは、ナディが浄化されたことを示す重要な中心的なポイントです。<br /> <br /> この他にもハタヨガにおけるナーダ音の言及がいくつかあり、古典においても割と同様のことが言及されているようです。それと、ハタヨガの訓練において、各種の行法とナーダ音とは関係があることが言及されています。<br /> <br /> (4章1番の解説) ナーダは音や波のエネルギーを意味します。 Binduは点を意味します:ここで点は中心または核です。 カーラとは超越的な波であることを意味し、時代を超越した状態、無空間状態、非二重の状態で終わります。 ナーダとビンドゥはシヴァとシャクティのようなものです。 ビンドゥは原子の中の核のようであり、ナーダは核の周りを旋回する電子であり、エネルギーはカーラです。 ナーダとビンドゥの波長が変わると、それはエネルギーになります:純粋な波です。 シヴァ主はすべてを凝縮しました。 ナーダ(音のエネルギー)、ビンドゥ(静的な力)、カーラ(超越的なエネルギー)。<br /> <br /> おそらく、このあたりが最終的に理解されることなのでしょう。今はただの知識ですが。<br /> ナーダの状態を更に超越するとカーラになる、と言うことでしょうか。<br /> <br /> (4章29番) 感覚器官よりも心が優れている。 プラナは心の主です。 プラナのラヤ(Laya/吸収)が優れていて、ラヤはナーダ(内側の音)に依存しています。<br /> <br /> これまた謎めいています。ラマナ・マハルシも上に引用したようにラヤ(Laya/吸収)について言及しています。このあたりに更なる秘密がありそうです。<br /> <br /> (4章31番)吸気と呼気の停止があると、感知の物体に向かう誘惑が破壊される。 心身の活動がないとき、ヨギは吸収(ラヤ/Laya)に成功します。<br /> (4章32番)精神的活動と肉体的活動の両方が静まると、記述不可能な状態のラヤ(Laya/吸収)が起こります。これは直感的にしか実現できず、言葉では記述できません。<br /> (4章34番)人々はラヤ、ラヤと繰り返し言い続けます。しかし、それはどのように定義されるのでしょう? ラヤはväsanas(性格に影響を与えるすべての意識下の力)が再燃しないこと、すなわち感覚における対象の再起が起こらないこと。<br /> <br /> 大胆に意訳すると、ラヤとはカルマの再燃が起こらないように起こる「吸収」の作用と言える。それはサマーディ状態のラヤと非サマーディ状態のラヤ(ブラフマンによるラヤ)がある、と言うことでしょうか。それは全体的な自己(Self)のラヤと、個人に基づくラヤの2種類だとも解釈できます。<br /> <br /> 一方、上にあるように「ラヤ(吸収)はナーダ(内側の音)に依存している」と言うことは、ナーダ音が聞こえるようになると(個人に基づく)ラヤ(吸収)が発生し、浄化が進む、とも解釈できます。おそらくはブラフマンによるラヤは普通に存在しており、それはそれで少しづつ浄化されるが、多くの人の場合はそれでは十分ではなく、個人に基づくラヤが起こることで浄化が加速される、とも推測できます。あくまでも推測です。<br /> <br /> 上にあるラマナ・マハルシの見解によると、ラヤ(吸収)に入らずに真我(コーザル体)に焦点を合わせるよう書いてあります。一方、このハタ・ヨガ・プラディーピカ(Hatha Yoga Pradipika)ではラヤ(吸収)を達成するようにかかれてあります。これはどういうことでしょうか。 解釈としては、ラヤ(吸収)は細身(メンタル質とアストラル質)のお話で、ラマナ・マハルシはもっと高い真我(コーザル体)に意識が合っているのだと思います。そうは言っても、まだ浄化が十分にされていない人はまずラヤ(吸収)で誘惑などを飲み込んでカルマの輪廻を止めるのが先なのかな、とも思います。ラヤ(吸収)である程度の浄化が達成されたらラマナ・マハルシの言うように真我(コーザル体)に焦点を合わせるのでしょう。<br /> <br /> 更に続きます。細かい行法は割愛して概要だけ引用します。<br /> <br /> (4章66番)シヴァ神はラヤの達成のための方法を数多く与えた。<br /> (4章67番)muktasanaに座ってsambhavi mudrãをし、その中の音に集中して耳を傾けるべきです。 これらは右の耳から聞こえます。<br /> (4章68番)耳、鼻、口、目を閉じます。 すると、純化されつつあるスシュムナで明確な音がはっきりと聞こえます。<br /> <br /> muktasanaはスカアーサナっぽい座禅の座り方で、sambhavi mudrãはナウムクヒ・ムドラに似た、顔を覆うムドラです。<br /> <br /> (4章69番)すべてのヨガの実践には、アーランバ、ガタ、パリチャヤ、ニスパッティの4つのステージがあります。<br /> (4章70番)アーランバワスター:(最初の段階で)、ブラフマ・グランティ(ムーラダーラ・チャクラにあるブラフマの結び目)の開幕があります。 それから、空白(Void)から生まれる至福があります。 それと同時に、(飾りのような)さまざまな甘い音や、(心の中のアーカーシャから生まれた)アナハタ・ドヴァーニ(Anähata Dhvani)のような乱れのない音が体の中で聞こえます。<br /> <br /> グランティとは主要ナディであるスシュムナにあるとされている3つのブロックのことです。あまり意識していませんでしたが、いつの間にかムーラダーラ・チャクラのブラフマ・グランティが解放されていたのでしょうか? これは、気付く場合もあるし気付かない場合もあるようです。<br /> <br /> 確かに、半年以上前に会陰のムーラダーラ・チャクラからアジナ・チャクラまで軽い電気ショックが走ってアジナチャクラから軽い空気爆発しつつエネルギーが抜けたことがあったので、その時に何かあったのかもしれません。<br /> <br /> 空白(Void)から生まれる至福については、確かに、上で書いたように私がシャバアサナで感じた深い暗闇の静寂は空白(Void)とも言えるかもしれません。至福は昔より感じますけど、絶対的かと言うとそこまででもない気がします。<br /> <br /> (4章71番)アーランバワスター段階では、ヨギは彼の心が(至福で)満ち溢れており、輝く身体を得ています。 彼は光り輝く甘い香りを放ち、すべての病気から解放されています。<br /> <br /> 私はこんなに体が丈夫ではないし風邪も引くので、自分がこうだとは到底言えないですね。私とはちょっと違う感じです。<br /> <br /> (4章72番)ガタバワスター:第2段階では、プラナは(アパナ、ナーダ、ビンドゥ)と一体化し、中央(スシュムナ)に入る。 それから、ヨーギはアサナがしっかりとし、彼の知性はより鋭くなり、彼は神々と等しくなります。<br /> <br /> 私はこんな感じではないですね。まだまだのようですね。<br /> <br /> (4章73番)最高の空虚(Void)にあるビシュヌ・グランティが貫かれたとき、それは素晴らしい幸福を示す。 それからケトルドラムのような轟音があります。<br /> <br /> ビシュヌ・グランティはアナハタ・チャクラ(ハート・チャクラ)にあります。<br /> これは私はまだのようですが、上記にあるケトルドラムの言及と被っているのが興味深いです。7段階の音で言うと「雷鳴」が似ているのかもしれません。<br /> 私の次の課題はビシュヌ・グランティかも。アナハタ・チャクラが抜けていない感じなのが課題です。<br /> <br /> (4章74番)パリチャヤバワスター:第三段階では、マルダラ(インドの打楽器、小さなドラム)のような音が耳鳴りの中で聞こえます。<br /> (4章76番)ニスパッティ-アバスター(第4の状態):プラナが(アジナ・チャクラにある)ルドラ・グランティを突き抜けると、それはイシュワラの座席に行きます。 その後、ヴィーナの共鳴を想像するかのようなリュートの音が聞こえます。<br /> <br /> これらはまだまだのようです。でも、それぞれの段階ごとに音が割り振られているのが興味深いです。その音で進歩の段階を知ることができるわけですね。<br /> <br /> (4章80番)私は、眉間の瞑想が、短時間でサマーディを達成するための最善の方法だと思う。 ナーダ(ヨガ)によってもたらされる吸収(ラヤ)は、ラージャヨガの状態を達成するための簡単な手段です。<br /> (4章81番)ナーダの集中を通してサマディを練習する偉大なヨーギは、全ての表現を上回るほどの深い喜びがハートから溢れ出る経験をするでしょう。<br /> (4章82番)彼の両手で耳を閉じて音を聞くムニ(ヨーギ)は、定常状態に達するまで心を固定しなければならない。<br /> (4章83番)この(アナハタ)音を聞くと、次第にその音量が上がり、やがては外部の音を圧倒するでしょう。心の不安定さを克服したヨギは15日間で満足と幸せを得るでしょう。<br /> <br /> この83番は納得できます。<br /> <br /> (4章84番) 練習の初期段階では、様々な顕著な内面の音が聞こえます。 しかし進歩が起こると、それらはますます微妙になります。<br /> <br /> この後、上に記載したのと類似の、各種の音の例が続きます。<br /> <br /> (4章89番)心がどんな内面的な音に最初に集中するとしても、それは安定状態に達して、最後にはそれと1つになります。<br /> (4章92番)心がナーダの音に縛られ、その移り気をあきらめたとき、それは優れた安定性を達成します。<br /> <br /> 上に引用した「Meditation and Mantra (Swami Vishnu-Devananda著)」にもナーダ音を使った瞑想方法が記載されてあったような気がしますが、そこでは「ナーダ音を使った瞑想方法もある」と言う程度の簡単な紹介でした。一方、この古典「ハタ・ヨガ・プラディーピカ(Hatha Yoga Pradipika)」では、ナーダ音を使った瞑想をかなり推奨していますね。最後の方でこれほどまでにナーダ音のことを言及するとは思いませんでした。この後も、しばらくナーダに関する記述が続きます。<br /> <br /> ナーダ音が特殊なものではなく、このような古典できちんと細かく語られていることに安心しました。<br /> <br /> ■右耳で聞く<br /> 上記の通り、「瞑想をきわめる(スワミ・シヴァナンダ)」「Meditation and Mantra (Swami Vishnu-Devananda著)」「ハタ・ヨガ・プラディーピカ(Hatha Yoga Pradipika、Swami Vishnu-Devananda著)」いずれも、ナーダ音は右耳で聞くとあります。<br /> <br /> 私の場合、いつも聞こえているのは中央の少し左寄りで響いているような感じで、右耳で聞いているわけではありません。以前は右耳に意識を向けても特に変化がなかったのですが、最近(2018年9月末)は右耳に意識を向けると、中央左寄りで響くナーダ音と似ている音、ただし音量が小さい音(3分の1くらい?)が右耳から聞こえるようになりました。両方から聞こえているような感じですが右耳の方は意識しないと存在をあまり感じません。<br /> <br /> 上記のように「Meditation and Mantra (Swami Vishnu-Devananda著)」には「右耳でのみ聞く訓練をしましょう」「右耳はピンガラと関係」とあり、同著者によるハタ・ヨガ・プラディーピカの4章67番には単に右耳で聞こえるとだけ書いてあります。<br /> <br /> 「ヨーガ根本教本(佐保田 鶴治著)」にもハタ・ヨガ・プラディーピカが掲載されており、右耳という点に関しては同じですが、それはピンガラではなくスシュムナーから聞こえるとあります。<br /> <br /> 4-67 右の耳で、内部の[スシュムナー気道から発する]音を一心に聞くべし<br /> <br /> 括弧で括ってあるということは、[スシュムナー気道から発する]の部分は著者の解釈でしょうか? <br /> <br /> 「ヨーガ根本教本(佐保田 鶴治著)」には、このあたりのことが「ハタ・ヨガ・プラディーピカ(Hatha Yoga Pradipika、Swami Vishnu-Devananda著)」よりも詳しく書かれていて興味深いです。<br /> <br /> 又、「瞑想と霊性の生活3(スワーミー・ヤティシュワラーナンダ著)」には以下のようにあります。<br /> <br /> アナーハタ・ドゥワニはスシュムナーの働きと結びついている<br /> <br /> とのことですのでナーダ音はスシュムナーとの関連と思って良さそうです。<br /> <br /> ■クンダリーニ<br /> クンダリーニの前段階のちょっとした経験として、2018年1月に電気ショックがムーラダーラ・チャクラ(会陰)に走って、その後アジナ・チャクラ(眉間)の眉間の肌の少し上の空中で爆発してエネルギーが抜けたことはあります。クンダリーニかどうかは微妙なところで、単に刺激が走っただけな感じです。人によっては「まどろみ型クンダリーニ」と呼ぶ場合もあるようですが。急激型だと一気に上がるらしいですが、急激型ではない感じです。(その後のクンダリーニ体験続きは下記参照)<br /> <br /> ナーダ音とクンダリーニの関係につて、上の「沈黙の声」にも少し言及がありますが、「瞑想と霊性の生活3(スワーミー・ヤティシュワラーナンダ著)」に面白い記述があります。<br /> <br /> ホーリー・マザー「クンダリニーが目覚める前に、人は、アナーハタ音を聞きます。」<br /> <br /> このアナーハタ音はナーダ音のことであると解釈できます。なかなか面白いです。<br /> <br /> この本は出版している団体の出展ブースで買ったのですが、そこで売り子をしていた何人かにこのアナーハタ音について聞きました。すると、その時点で出版準備中のプラナヤーマの本にナーダ音について少し書いてあると言っていました。そして、その他の本にも少し言及されていたと思いますが、特別これに焦点を当てた特集はなかった筈とのことでした。散らばっているのを探すしかないようですね。<br /> <br /> 例えば、「続・ヨーガ根本経典(佐保田 鶴治著)」に掲載されている古典のゲーランダ・サンヒターに記述があります。<br /> <br /> (5章79~80) 右の耳のなかで内から発する心地よい音が聞こえるであろう。初めにコオロギの音、次にはフルートの音、それから、雷、太鼓、蜂、ドラ、さらに進むと、トランペット、湯沸かし太鼓、ムリダンガ鼓(南インドの両面太鼓)等の騒音楽器の音及び太鼓の音が聞こえてくる。<br /> (5章81~82) そしてしまいには、かのアナーハタの音の響きが聞こえ、その音のなかに光が存在し、その光の中にマナス(こころ)が存在し、そしてこころはそのなかで消えてしまう。これがヴィシュヌ神の高御座に達した境地である。かくの如く三昧(サマーディ)に達するであろう。<br /> <br /> てっきりナーダ音とアナハタ音(アナハタ・ナーダ)とは同一だと思っていたのですが、ゲーランダ・サンヒターでは区別して記載されています。言われてみると、分けて考える方がしっくりきます。<br /> <br /> 広義でのナーダ音は超感覚的な聖音・霊音全てを指すと思いますが、ゲーランダ・サンヒターの言うアナハタ音はアナハタ・チャクラに結びついた特別の音と光を意味しているようです。<br /> ただ、私が最初に理解していたように、アナハタ音が広義のナーダ音の意味として使われていることも多い感じなのでコンテキスト次第ですかね。<br /> <br /> それを踏まえると、ホーリー・マザーの発言は2つの可能性があります。<br /> ・広義のナーダ音が聞こえ出した場合の話<br /> ・ゲーランダ・サンヒターで言うところのアナーハタ音が聞こえ出した場合の話<br /> 元の文だけではどちらなのかは区別できませんが、どちらにせよ通る道のようなので、今のうちからあまり気にすることもなさそうです。そのうち謎は解けるでしょう。<br /> <br /> 私の場合、広義のナーダ音は聞こえているものの、ゲーランダ・サンヒターで言うところのアナーハタ音はおそらくまだです。聞こえている音のいずれかがそれなのかもしれませんがハート(アナハタ・チャクラ)から聞こえていると言う感覚もないですし、音の中に光は見えませんので。<br /> <br /> 「ハタ・ヨガ・プラディーピカ(Hatha Yoga Pradipika、Swami Vishnu-Devananda著)」を見ると、以下のようにあります。<br /> <br /> (2章20番)ナディが(完全に)浄化されたら、内側の音(アナハタ)が聞こえ、完全な健康が達成されます。<br /> <br /> これは、最初読んだ時は「聞こえてくる音は全てアナハタ音」と解釈していたのですが、その可能性ももちろんありますが、ここにわざわざ「完全に」と記載していると言うことは、ゲーランダ・サンヒターで言うところのアナハタ音を意味しているのかもしれません。完全ではない時にも聞こえてくるナーダ音があることを前提にして、完全に浄化されるとアナハタ音が聞こえる、とも読めなくもないです。そうはいっても、「浄化されたら聞こえる」と言う言い方からすればそれは深読みし過ぎかもしれませんが、元はサンスクリットなので解説者の意訳が入っている可能性もあります。<br /> <br /> ■ナーダ音とスシュムナ<br /> 「瞑想と霊性の生活3(スワーミー・ヤティシュワラーナンダ著)」には以下のようにあります。<br /> <br /> スシュムナ(菅)は多くの人々の場合には、閉ざされたままの状態にある。浄化、強烈な求道心、および心の集中によって、この管は開かれ得る。霊性の流れはそのとき、その管の中を上昇し、精妙な霊的な音楽を生み出す。古代ギリシアのピタゴラス派の神秘家はそれを、「天上の音楽」と呼んだ。ヒンドゥの信者たちは、ときにそれを「クリシュナの笛」と呼ぶ。永遠のクリシュナの笛がそれである。宇宙霊から発せられる神の音楽は魂を魅了し、霊意識のより高い境地に導く。<br /> このように精妙な宇宙の脈拍は、心が静まり、霊性の流れが意識のより高いレベルに昇ったときにのみ、きくことができる。しかしそれは、霊性の道を歩む人すべてが、必ずきく、というものではない。心がそのリズムに同調している人にだけ聞こえるのである。それとは別の経験をする、高度な魂たちもいるだろう。<br /> <br /> ■思いそれ自体がナーダ<br /> 同署から引用します。<br /> <br /> 耳に聞こえる音より精妙な音は、ラジオ波のような電磁波である。思いそれ自体がナーダ・ブラフマン(又はシャブダ・ブラフマン)、すなわち宇宙心の、永遠の、超感覚的、広大な拍動の、一つの現れなのである。<br /> <br /> ■オームとイーシュワラ<br /> ヨーガ・スートラやヴェーダではオーム音は神聖とみなされており、宇宙全体を意味する「イーシュワラ」と同一とみなされています。例えばヨーガ・スートラの1.27には次のようにあります。<br /> <br /> 1.27 イーシュヴァラをことばで表したものが、神秘音オームである (「インテグラル・ヨーガ(スワミ・サッチダーナンダ著)」)<br /> 1.27 「彼」のあらわれたことばは、オームである(「ラージャ・ヨーガ(スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ著)」)<br /> <br /> 前者は意訳で、後者が原文のサンスクリットに近いようです。サンスクリットでは明確に神がオームであるとは言っていませんが、解説者のスワミがそれをそのままイーシュヴァラと言ってしまうほどオームとイーシュヴァラとの概念は一体になっているようです。<br /> <br /> 「瞑想と霊性の生活3(スワーミー・ヤティシュワラーナンダ著)」にも明確に「パタンジャリもまた、彼のヨーガ・スートラの中で、オームはイーシュワラ、すなわち神の象徴である、と述べている」とあります。<br /> <br /> ■オームとイーシュワラから始まり、ナーダとして現れる<br /> 上にあるようにヴァイカリー(通常の音)、マディヤマー(思考過程の産物である言葉)、パシャンティー(思いそれ自体)、パラー(ブラフマンから発せられる音)ですので、オーム音やイーシュワラはパラーの階層であると解釈できます。一方、ナーダ音は狭義ではマディヤマーですから、それよりは数段階落ちるわけですね。それでも、ナーダ音はオームやイーシュワラへと導いてくれるのだ、と言うことなのでしょう。<br /> <br /> 補足:広義でのナーダ音はマディヤマー以降の神秘的な音全てを指していると思います。その場合、ヴァイカリー(通常の音)かそれ以外の神秘的な音か、と言う2分割になるので、ここで言いたいことを表すには不十分です。<br /> <br /> ■ナーダ音とクンダリーニ<br /> 上でホーリー・マザーが言及しているように、ナーダ音とクンダリーニとは関係があります。<br /> <br /> それを理解するためにはいくつか前提の知識が必要です。<br /> <br /> ■スシュムナと浄化の関係<br /> スシュムナは普通の人の場合、不純物が詰まっていて働いていません。<br /> 浄化をする事でスシュムナが開き、そこにプラーナ(生命エネルギー)が流れ込みます。<br /> これは、特に「ハタ・ヨガ・プラディーピカ(Hatha Yoga Pradipika、Swami Vishnu-Devananda著)」で多く述べられています。<br /> <br /> (2章4番)ナディが不純物でいっぱいになると、プラーナが中央のナディ(スシュムナ・ナディ)に入ることはありません。 <br /> <br /> ■スシュムナの浄化とナーダ音<br /> スシュムナの浄化がされるとナーダ音が聞こえます。<br /> 「ハタ・ヨガ・プラディーピカ(Hatha Yoga Pradipika、Swami Vishnu-Devananda著)」には以下のような記述があります。<br /> <br /> (2章72番の解説) プラナがスシュムナに入ると、あなたは内面の音を聞くことができ、平和な状態を感じることができます。<br /> <br /> 内面の音とはもちろんナーダ音です。<br /> <br /> ■スシュムナの浄化をしてからクンダリーニの覚醒<br /> 上記のように古典では(主要ナディである)スシュムナの浄化をまずしてからクンダリーニの覚醒と言う順番になっています。<br /> そのスシュムナの浄化が達成されつつある「しるし」がナーダ音であるわけです。<br /> ナーダ音が必ずしも誰しもが聞くものではないとはいえ、聞こえる人であるならばナーダ音が「しるし」として使えるわけです。<br /> <br /> であれば、スシュムナが浄化されていない状況、すなわち、スシュムナが不純物で詰まっている状態でクンダリーニを覚醒させるととてつもなく危険である事が理解できます。<br /> <br /> ■クンダリーニの覚醒、2分類<br /> クンダリーニの覚醒には、大きく分けて2つあると言われているようです。<br /> <br /> ・急激型:轟音と共に一気に上がる<br /> ・緩慢型:少しづつ上がる<br /> <br /> <br /> この分類は気功で有名な高藤聡一郎氏による分類のようですが、手元にある高藤聡一郎氏の本には同様の記述は見つけられませんでした。<br /> <br /> これについては「ヨガと冥想(内藤 景代著)」に以下のような記述があります。<br /> とぐろを巻いた蛇で象徴される、クンダリーニは、根源的な火のような生命力です。その炎のようなエネルギーを、一気に登頂まで、呼吸法で上昇させるのは、頭まで熱くなって、気が逆上することで、危険なのです。<br /> 古代からのチャクラ覚醒法は、下から上昇するクンダリーニ・シャクティの荒々しい力で、つぼみのように封印されたチャクラを突き破れば、チャクラは開花するという方法です。まったく、男性原理的な発想で、チャクラの機能が狂ってしまう可能性の方が高いのです。<br /> <br /> 急激型のクンダリーニ覚醒がいわゆる「ヨガ病」あるいは「クンダリーニ症候群」と言われている状態を引き起こすのだと思います。<br /> <br /> それは、 スシュムナが浄化されていなくて不純物で詰まっている状態でクンダリーニを上げようとするからおかしくなるのでしょう。<br /> <br /> ヨガの古典には緩慢型しか述べられていないように感じます。<br /> 世間一般でのクンダリーニのイメージと違い、急激型に関する記述は見つかりません。<br /> <br /> ■再び、ゴーピ・クリシュナによるクンダリニー体験<br /> ゴーピ・クリシュナによるクンダリニー体験は急激型だったわけですが、これを再度振り返ってみると、更に気付く事があります。<br /> <br /> まず、クンダリーニ体験をする前の状態ですが、「クンダリニー(ゴーピ・クリシュナ著)」の最初の方のページにそれまでやっていた修行内容が書いてあるのですが、それは蓮の花のイメージに集中して一体になり彷彿感を感じるサマーディ瞑想で、その記述には「音が聞こえた」とは書いてありませんでしたので、少なくともナーダ音の「しるし」は出ていなかったようです。ナーダ音が必ずしも聞こえるわけではないとはいえ、ゴーピ・クリシュナがクンダリーニ症候群に陥ったのであれば スシュムナは浄化されておらず詰まっていたと判断してよいでしょう。<br /> <br /> クンダリーニ経験をした後、ピンガラから上げてしまってイダから上げることを思いついたのは上記の通りですが、その記述で「脊髄をジグザグ状に動いて昇り」と書いてあることにに気づきます。以下の部分です。これは、右側のピンガラからクンダリーニを上げてしまったことに気付いた後にイダからもクンダリーニを上げようと決心して実行する瞬間の記述です。<br /> <br /> パチンと気道に音がしたかと思うと、銀色流れが白蛇の這うがごとく脊髄をジグザグ状に動いて昇り、最後に生命エネルギーの光り輝く滝となって脳髄にふりそそいだのである。<br /> 至福の白光で私の頭は満たされた。<br /> <br /> スシュムナであれば背骨に沿って真っ直ぐですから、ジグザグであると言うことは、記載の通りイダを目覚めさせたのだと思われます。<br /> <br /> 最初読んだときはピンガラとイダの組み合わせを「そんなものかな」と思って素通りしたのですが、スシュムナでクンダリーニを上げたとの明確な記述は見つかりません。であれば、以下のような状態だったのでしょう。<br /> <br /> <br /> ・ピンガラ(右、太陽):最初にクンダリーニが上がった気道<br /> ・イダ(左、月):死にそうになった時に必死の思いで開いた気道<br /> ・スシュムナ:詰まっていて稼働していない気道<br /> <br /> <br /> であれば、 スシュムナが動いていない以上、しばらくの間ずっとゴーピ・クリシュナが一般人とそうは変わらない状態で聖者とは言い難い状態だったのも理解できます。ヨガの本流であれば緩慢型で修行しますので、ゴーピ・クリシュナが同様の事例を識者から聞く事ができなかったのも理解できます。<br /> <br /> ゴーピ・クリシュナの「生命の海」の章を読むと、最初のクンダリーニ体験は「(滝が落ちてくるような)轟音」だったが、クンダリーニ症候群から回復するきっかけになった神秘的な彷彿の神を感じる体験においては「蜜蜂の群が発するような音ともとれる心地よいリズムとメロディ」が聞こえたとありますので、この音が一つの基準になりそうですね。上にある「瞑想をきわめる(スワミ・シヴァナンダ)」からの引用には、蜂の音がアナーハタの音だとかかれてあります。一方、上記の「続・ヨーガ根本経典(佐保田 鶴治著)」にあるゲーランダ・サンヒターの引用にも蜂の音が書かれてありますが、ゲーランダ・サンヒター的な分類では蜂の音そのものはアナーハタ音ではなくその前に聞こえる広義のナーダ音と言う位置付けですので、ゴーピ・クリシュナがクンダリーニ症候群から回復した時点ではまだゲーランダ・サンヒター的なアナーハタ音は聞いていないのだと解釈できます。であれば、まだスシュムナは完全に浄化されていないということでしょう。<br /> <br /> ゴーピ・クリシュナは、クンダリーニ経験の後に少しづつナディの浄化が起こっていったのだと解釈できます。古典や各種の聖者が伝えるところでは、最初にナディの浄化をした後にクンダリーニを覚醒する順番になっていますがゴーピ・クリシュナは順番が逆だったのでクンダリーニ症候群で苦しんだのでしょうね。それでも、何とかすれば本来の覚醒にまで至れる可能性があるのは希望があります。ゴーピ・クリシュナはクンダリーニ症候群に12年苦しんだ後に自称「神体験」に至ったようですが、その時点では蜂の音を聞いただけでまだ超感覚が目覚めていなかったと記載していますので、まだそれは自身が言うような「神体験」ではなかったのでしょう。<br /> <br /> クンダリーニ症候群から回復するきっかけの体験では音だけでなく「透明な銀色の光」も見たそうです。最初の体験の時は「赤い光の輪」だったと書いてありますので、これらの色も関係しそうですがナーダ音とはあまり関係がないので割愛します。どちらにせよ、まだ完全に覚醒しておらず、単にクンダリーニ症候群にそれほど悩まされない程度にまでナディが浄化されたのだと解釈できます。<br /> <br /> 近年、クンダリーニは急激型で覚醒するのが主流だと思われているようですが、緩慢型こそが本来のクンダリーニ覚醒法だと思います。何故かと言いますと、様々な古典を読むとクンダリーニは「自然に上がる」と書かれており、古典をきちんと読めば緩慢型の道しるべがはっきりと書かれているからです。最初は急激型のことを「自然」と言っているのかなと思っていたのですが、理解が深まるにつれて急激型が「自然」とは思えなくなりました。それは、急激型のイメージが最初に私の中にあったからそう読んでしまっていただけで、実際は緩慢型が書かれいるのだと理解するようになりました。<br /> <br /> 急激型のことなどどこにも書いていないのに急激型がクンダリーニ覚醒の本流のように世間一般で思われているこの状況は危険ではありますが、そうは言っても世間一般でクンダリーニ覚醒はそうそう起きないのでそれはそれで問題ないのかもしれません。あるいは、もしかしたら日本の仏教の一部の流派が急激型を基本としているような気もします。禅宗はそんな気もしますがどうでしょう。少なくともヨーガの古典を読む限りは、聖典のコンテキストは急激型ではなく緩慢型を意味している印象です。ゴーピ・クリシュナは座禅でクンダリーニ体験をしたようですし、禅宗に急激型クンダリーニのイメージが強いので、もしかしたら座禅と急激型は関係があるのかもしれませんがそこは謎のままです。座禅との関係というよりも、浄化(クリア)を行わずに瞑想をしてクンダリーニを目覚めさせるからクンダリーニ症候群になる、という推測はできますが私は禅宗に詳しくはないので単なる想像の範疇を超えません。<br /> <br /> ナーダ音それ自体は単なる浄化の「しるし」ではあるのですが、意外にもそれはクンダリーニと繋がっているのが興味深いです。<br /> このあたりの知識は見解によって多少異なるとはいえ割と似通っているのも面白いところです。<br /> <br /> ■クンダリーニ体験2回目。ナーダ音は普段通りでした。<br /> クンダリーニとの関係を追記して程なく、寝ている時に「まどろみ型クンダリーニ」の2回目が起こりました。2018年11月後半のことです。<br /> <br /> 上に記したように、1回目は2018年1月にムーラダーラに電気ショックが走ってアジナ・チャクラで爆発のようなものが起きてエネルギーが抜けました。私はこれを「まどろみ型クンダリーニ」かと思っていたのですが、第2回目を体験してみると、この第1回目はクンダリーニとはとても呼べる代物ではなく、単に、今までふさがっていたナディ(エネルギーの通り道)の蓋、あるいはチャクラにかかっていた蓋に圧力のようなものがかかってポンと外れたという程度の簡略的なものだったことを理解しました。2回目と全然別物ですね。<br /> <br /> それまでの出来事を簡単に時系列で記しておきます。<br /> <br /> <br /> ・2015年1月 インドのアシュラムで生まれて初めてのヨガ 2週間 合宿。その後しばらくブランク。<br /> ・2016年10月 日本の近所でヨガ再開。1週間ごと1回90分<br /> ・2017年8月 ヨガの頻度を上げ、ほぼ毎日90分<br /> ・2017年10月 雑念が減ってくる。ようやくヨガをしている感じになってくる。ヘッドスタンドが短時間だがようやくできるようになる。<br /> ・2017年11月 ナーダ音が聞こえ始める。ヨガをほぼ毎日し始めてから約3ヶ月後<br /> ・2018年1月 第1回目のクンダリーニ体験。ムーラダーラの電気ショックと眉間の皮膚から数センチ離れた空中(アジナ・チャクラ?)でのエネルギーの爆発。ほんの少しのエネルギー。<br /> ・2018年11月 第2回目のクンダリーニ体験。クンダリーニ本体はまだ上がっていない。2つの光の筋が上がっただけ。<br /> <br /> <br /> 第2回目は1回目から10ヶ月後に起こりました。2回目はそれっぽいクンダリーニ体験で、ベッドで寝ている時に起こりました。1回目はリクライニングチェアでウトウトしている時に起こったので、寝ている時に起こりやすい体質なのかもしれません。体験を簡単に記しますが、最初、寝ている時に夢の中で体全体がグルグルと回転し始めました。回転軸は頭から足に向かって、左回転だったと思います。この「回転」は、「クンダリーニ・ヨーガ(成瀬 雅春著)」にも回転が肝と書いてあるので興味深いところです。別に、回転を意識していたわけでもなく、この本にしても数ヶ月に読んだきりだったので回転のことなんて忘れていましたが不意に夢で回転していたのです。そんな回転の夢を見ていたら、いつの間にか背中の下の方、お臍の後ろあたりが熱くなって脈拍が強く打っているのを感じました。そこだけ脈拍が凄いのです。強いエネルギーも感じて、温度はマグマほどではないにせよ、エネルギーの動き方はマグマと言って良いほどグツグツ煮え立っている感じでした。寝ていましたので、もしかして単なる夢だったのかもしれませんが、体の異常を感じて、さすがに意識が戻ってきました。やがてそのグツグツ感は治まってきて、熱感が抜けてゆきました。どうやら、胸や頭に上昇はせずにそのままの場所で熱は動かずにそのまま消えていった感じでしたので、ふと目を覚まして手をそこに当ててみるとかなり暖かくなっていますが火傷するほどではありません。<br /> <br /> 面白い体験だったなあと思って再度寝たのですが、その夜、約2時間後に急に腰あたりに2つの小さなエネルギーが発生し、左右それぞれ1本づつ光のエネルギーの光線が腰から目の上の頭蓋骨あたりに向けて2〜3秒かけて真っ直ぐ上昇し、頭蓋骨に当たってちょっと曲がったところで停止。そのまま10秒ほどエネルギーの筋はそのまま保っていたのですが、やがてエネルギーが消えてゆきました。細長い風船に空気が入って、空気が入るときは片方から膨らんでいくが、萎む時は全体が同時に萎む、というような感じの動きでした。<br /> <br /> クンダリーニはスシュムナから登るという知識があったので、スシュムナではなくその両脇から2つの筋が真っ直ぐ登ったのが意外でした。イダとピンガラは螺旋状にスシュムナの周りを回っているはずなので、真っ直ぐ登ったということは、それともまた違うナディなのでしょうか? それとも、やはり単なる夢だったのでしょうか? 頭の中にはエネルギーの感覚が少し残っていますが、今のところ、日常生活に変化はありません。<br /> <br /> ゴーピ・クリシュナのようにクンダリーニ症候群になったら嫌だなあと思っていたのですが、数日経ってみても体調はいつも通りなので、とりあえず問題ないようです。彼の場合はピンガラで目覚めてイダを使っていなかったのが問題だったので、少なくとも左右対称に登っているという点は少しは安心していいのかなあ、と解釈しています。<br /> <br /> クンダリーニの体験をしたところで、特に何が変わったわけでもないですが、強いて言えば、ちょっと元気になったかな? という程度のものです。最初に感じたマグマのようなものそれ自体が登ったわけではなく、ほんの小さな2つの光の筋が登っただけなので、エネルギー的にはほんのちょっとなのかもしれません。やがて、この本体が登ると更に変化があるのかもしれません。変化と言えば、前より体がポカポカするので、ちょっとだけ寒さに強くなったかな、という気はしますが元々の寒がりは完全には治りません。<br /> <br /> ゴーピ・クリシュナの体験では「ゴー」という轟音が聞こえたとのことでしたが、私の場合はウトウト夢を見ていたような感じでしたので完全には覚えていませんが、意識が戻った時に聞こえていたのはそのようなゴーという轟音ではなく、いつも通りのピーという高周波のナーダ音でした。半分は寝ていたので曖昧ですが。<br /> <br /> それと、クンダリーニ2回目の後は、性欲が極端に減ったような気がします。体の中のエネルギーのフォーカス・ポイントがハートから上に移ったような感覚があります。今までマニプラ・チャクラ(臍のあたりのソーラ・プレクサス・チャクラ)の感覚は私はほとんどなかったんですけど、そこに何かが存在しているような感覚になりました。体の各所でエネルギーの変化がありますね。全体的に元気になった感じがします。性欲は減っていますけど。元々最近はブラフマチャリア(禁欲)を心がけていて、夢精もしないように気をつけていました。ですので元々性欲は減っていたのですが、更に減った感じです。<br /> <br /> 変化をまとめると<br /> <br /> ・以前より元気になった。もともと元気がない方だったので、ようやく普通になったかも。<br /> ・性欲が極端に減りました。性欲がより高いエネルギーに昇華された、ということ?<br /> ・以前よりお腹と胸がちょっとだけポカポカしてます。寒さに強くなったのかと思いきや、薄着では普通に寒いので、そこまでではないようです。<br /> ・背筋がちょっと固くなったかも?<br /> ・ネガティブが減った。<br /> ・睡眠時間が減った。もともと寝すぎの8時間睡眠が10~20%減で6時間前後へ。<br /> ・声が以前より出るようになった。<br /> <br /> <br /> でも、翌日から少しづつエネルギー・レベルと意識レベルが数%づつ低下しているので、これは初動として捉えた方が良さそうです。この感覚を定着させるベく、生活習慣の見直しやヨガの継続、および、各種の書物にあるように、意識が完全に切り替わるには何度もこのような体験をする必要があるのかもしれません。2週間ほど経過したところ、半分くらい元に戻った感じですが、まだ変化を感じられます。体験直後の状態を維持するには生活習慣をもっと見直した方がいいのかもしれません。<br /> <br /> 人はどんどんと変化できる、というのを毎年のように実感できて、人生面白いです。今の感覚は、子供の頃の意識状態と比べたら全然違いますし。もともと何年かおきに大きく自分を変えてきていますが、最近はそのペースが早まってきたかもしれません。<br /> <br /> 特にクンダリーニ・ヨーガの修行をしたわけでもなく、普通のヨガをしているだけですけどね。プラナヤーマはそれに含まれているので普段からしていますけど、そのくらいです。<br /> <br /> ■クンダリーニとアナーハタ音<br /> ホーリー・マザーの発言 「クンダリニーが目覚める前に、人は、アナーハタ音を聞きます。」 についてですが、私はどれがアナーハタ音なのかはわかりませんが、もしかしたら既に聞こえているのかもしれません。この辺りは微妙なところです。<br /> <br /> いくつか可能性があります。<br /> <br /> ・既にアナーハタ音が聞こえている<br /> ・まだ聞こえていない? 聞こえていなくてもクンダリーニ経験はある? ゴーピ・クリシュナのように、おそらくはナーダ音が聞こえる前にクンダリーニ体験をする場合もあるような感じなので、この可能性もあります。<br /> <br /> <br /> ゲーランダ・サンヒターの記述に基づくと、アナーハタの音は光と結びついていますので、それはアナハタ・チャクラが動き出した後に聞こえる音のようにも解釈できます。あるいは、推測ではありますが、アナハタ・チャクラにあるヴィシュヌ・グランティというナディ上にあるエネルギーのブロックが破壊された後に聞こえる音という推測もできますが、このあたりも微妙です。 もう少し様子を見たいと思います。<br /> <br /> ■超感覚の世界が存在しているという「しるし」<br /> 「Meditation and Mantra (Swami Vishnu-Devananda著)」には、ナーダ音が聞こえることによって超感覚の世界が存在しているという「しるし」を見つけることになり、確信が持てるようになると書いてある。音だけだと耳鳴りの可能性もあるので私の場合は100%信じられずにいたのだが、聖典に書かれてあるクンダリーニに近い体験をすることで、聖典に書かれてある超感覚の世界が実在することにより一層確証が持てるようになりました。<br /> <br /> ■クンダリーニは何回も上げる必要がある<br /> 「クンダリーニ・ヨーガ(成瀬 雅春著)」あるいはシバナンダ師の「Kundalini Yoga」によると、クンダリーニを上昇させて頭に保持できるようになるまで修行を続ける必要があるという。一回だけ上げて終わりというわけではないのですね。これはまたの機会に追記あるいは別途記したいと思います。<br /> <br /> 本当は信頼できる、クンダリーニの経験があるグルが近くにいればいいんですけど、そうそう見つかりませんね。<br /> <br /> ■求めない者に与えられる<br /> 子供の頃から「求めない者に与えられる」と言う言葉の謎解きをしてきました。<br /> 何故かこのキーワードが事あるごと心に浮かんでいだのですが、その確かな根拠が不明でした。<br /> <br /> 今思うにその根拠とは、「求めない者」の部分が無心の純化のしるしであるナーダ音が聞こえる人を指し、「与えられる」の部分がクンダリーニなのかな、と言う気がしてきました。<br /> <br /> グルグルと探し求めた挙句、とてもシンプルな1つの結論に達した気がします。<br /> <br /> 2つの方向性があるような気がします。<br /> <br /> ・シバナンダ先生が仰るように、「リラックス」して「ピースな心」で純化することでナーダ音に至り、「自然に」クンダリーニに至る道。緩慢な道。力を抜く道。<br /> ・特別な経験や体験を「求めて」熱烈な修行をする道。急激な道。純化をあまりせず、ナーダ音に至らずクンダリーニに至る道。修羅の道。力を入れる道。<br /> <br /> <br /> 後者は往々にしてクンダリーニ症候群になって苦しむ可能性があるような気がします。人は往々にして自らの体験を特別視しますが、その体験自体は否定する必要はないにしても、特別視したり何かの体験を求める部分はエゴですので、そのエゴは純化の妨げになるのでしょう。<br /> <br /> 私は前者でいきたいものです。でも、他者から見たらどちらも同じに見えるかもしれないですね。前者も体験が特別である点は変わりませんし、違うのはマインドの使い方のみかなとも思います。力を抜くという点がポイントになりそうです。力技でクンダリーニを目覚めさせたとしても、純化ができていなければ苦しむわけですが、後者の人はその苦しみをも必要なものとして受け入れるのかもしれませんが、前者はそのような苦しみなしにすんなりと成長に至るわけです。おそらくは。<br /> <br /> ■ヨーガ行者・本山博先生の体験<br /> 「密教ヨーガ(本山博著)」には先生本人の体験談が述べられておりますが、そのムーラダーラ・チャクラの目覚めのところに以下のようにあります。<br /> <br /> ある朝、いつものように御神前で行をしていると、尾骶骨から下腹部がとても熱くなり、下腹部の中に丸い、赤い、多少黒味がかった光が、熱い白い水蒸気がシュッシュッとみなぎっている真っ只中に、爆発寸前の火の玉のようにオドロオドロしく見えました。すると脊柱を、ものすごい力が頭頂まで突きぬけて、座ったままで自分の肉体が3~5cmほど上昇しました。ほんの1~2秒の出来事でしたが、たしかに自分の肉体が持ち上がったのです。非常な驚きと、恐怖と戦慄を感じました。身体中、頭中が熱くなって、その日は頭痛がして何もできませんでした。2、3日は体が熱かったように思います。また、頭頂や頭内にエネルギーがつまった感じがして、自然に頭頂のブラフマンの門のあたりをこぶしで叩きました。叩くと、いくらか気分が良くなったのです。これが最初のクンダリーニの上昇経験だったのです。<br /> <br /> いくつかの体験談を見ると、このように、最初のクンダリーニ経験で体調を悪くされる方が割と多いように思われます。私の場合は上昇エネルギーが軽かったということもあるのかもしれませんが、エネルギーが頭頂から「抜ける」ということはありませんでしたし、頭痛もありませんでした。ここに2、3日は体が熱かったとありますが、私も、特に最初の2〜3日は体にオーラが充満していて体が熱かったです。日が経つにつれてその熱さは落ち着いていき、1週間くらいしたら熱さが安定しました。経験前よりは遥かに体が暖かいので寒さにも少し強くなりましたが、その熱さがとても強かったのは、たしかに、経験後2〜3日の間だったように思います。私は寝ていたので自分の体が上がったという感じではありませんでした。おそらく、私の場合も、クンダリーニのエネルギーそのものが上がったわけではなくその一部が上がっただけだと思います。クンダリーニのエネルギーの圧倒的な力を感じましたが、背筋の腰の少し上のあたりで感じたクンダリーニのエネルギーの高さと、上昇した一筋の光のエネルギーは比べ物にならないほど違いがあって、上がったのはほんの一部の一筋の光ではありますが、それでも、たったそれだけでも意識と体を活性化させるには(とりあえずは?)十分なほどだと思いました。本山博先生やシバナンダ 先生が言われるように、何度も何度もクンダリーニを上昇させることで上のチャクラを次第に活性化させてゆく必要があるのでしょう。<br /> <br /> 本山博先生によると、クンダリーニ経験を前後していくつかのチャクラが活性化するが、本山博先生の場合は必ずしも下から活性化して行ったわけではないようです。同書に述べられているサッチナンダ先生の見解によると、最初はアジナ・チャクラから活性化させるべきだと言います。ムーラダーラ・チャクラやスワディスタナ・チャクラにはカルマが眠っており、アジナ・チャクラが目覚めることでそのカルマを制御できるようになるので、その前にムーラダーラ・チャクラやスワディスタナ・チャクラが目覚めるとカルマが制御不能になって危険な状態に陥る可能性があるとのことです。<br /> <br /> 私の場合、最初のクンダリーニ経験の後、お腹のあたりがとても暖かかくて意識がかなり変わったので、おそらくはマニプラ・チャクラ(臍のあたりのソーラ・プレクサス・チャクラ)が活性化したように思います。まだ完全にアナハタ・チャクラ(胸のハート・チャクラ)は活性化しておりませんが、少し動いてきた感じがあります。クンダリーニ経験の前はカルマに翻弄されて意識が持っていかれることも時々あったので、多少なりともムーラダーラ・チャクラやスワディスタナ・チャクラが動いていたのだと思います。マニプラ・チャクラが動き出したことにより、カルマに翻弄されることが減った気がします。世間では哲学書や宗教書で「気付き」が深まることによりネガティブが減るという教えがありますが、マニプラ・チャクラの意識は「気付き」ではないですね。意識の波動が切り替わることにより、そもそもネガティブのレベルに落ち込まなくなる、という感じです。おそらくは、「気付き」が重要というのはそれはそれで正しくて、マニプラ・チャクラが目覚めていない状態では「気付き」によって気を付けて自らの発言や行動を抑制するしかない、という経験則による教えなのかなと思います。そうして道徳的な生活を送ることにより浄化してゆくのかな、という気がしますが、それと、マニプラ・チャクラなどで感じる絶対的な意識の変化とはかなり別物のように思います。<br /> <br /> 最初のクンダリーニ経験から数週間経った後、次第に意識のレベルとエネルギーのレベルが下がってきているので、意識とエネルギーが元の状態に落ち込まないように生活習慣や行動にも気をつける必要がありそうです。ですから、まだまだここが終わりではなさそうです。<br /> <br /> ■チャクラは1つづつ開くのではない<br /> スピリチュアル本ではチャクラは1つづつ開くようなことが書かれてありますが、「ハタ・ヨガ・プラディーピカ(Hatha Yoga Pradipika、Swami Vishnu-Devananda著)」などヨガ系の教えでは、まずスシュムナをプラーナ(生命エネルギー)で満たすかクンダリーニを上昇させることによってそれぞれのチャクラを目覚めさせる、と書いてあります。本山博先生の経験談にも順番は人によってそれぞれ違うようなことが書かれておりますが、それでも、上のチャクラの方が開くのが難しいという点に関しては共通しているようです。<br /> <br /> ■クンダリーニが目覚めなければ何も始まらない<br /> 「瞑想と霊性の生活3(スワーミー・ヤティシュワラーナンダ著)」にはホーリー・マザーの同様の発言があります。<br /> <br /> 弟子「マザー、クンダリーニが目覚めなければ何も得られませんね」<br /> ホーリー・マザー「わが子よ、その通りです。」<br /> <br /> よって、以下の順番になるのでしょう。<br /> 1. 浄化<br /> 2. ナーダ音が聞こえるようになる。 (聞こえない人もいる)<br /> 3. クンダリーニ経験<br /> 4. 意識の変化、チャクラ体験<br /> <br /> であれば、世の中の風潮でチャクラがどうのこうのと言っているのはかなりレベルの高い話であり、ほとんどの人はチャクラなんて関係がないことがわかります。それはヨガ系の教えでもグルからそのように伝えられますし、実際その通りなのでしょう。世の中の流行でチャクラを学んだりしてみても実際の現実の変化にはそうそう繋がらず、であれば、地道に浄化からするしかない、ということなのでしょうね。これは、特別な人のみがチャクラを扱えるという意味ではなくて、おそらく誰でもこの手順でチャクラ覚醒に至ってチャクラを扱えるのだが、その段階に達している人が少ないという意味です。<br /> <br /> ■ほとんどの時間は浄化に費やされる<br /> 「ハタ・ヨガ・プラディーピカ(Hatha Yoga Pradipika、Swami Vishnu-Devananda著)」には以下のような記述があります。<br /> <br /> 浄化することから始めなければならない。 残りは自動的に来ます。 実際、ほとんどの場合、私たちは浄化に時間を費やします。<br /> それは1つの人生、10の人生、1000万の人生、あるいはわずか10秒かかるかもしれません。どれもあり得ます。<br /> <br /> これはおそらく真実だと思います。ヨガや神秘行をして何も変化しない場合、ほとんどは浄化に原因があるようです。<br /> であれば、チャクラがどうのこうの言ってもほとんどの人には実はまだ関係ないのだということがわかります。<br /> <br /> 2回目のクンダリーニ経験の後の至福状態は2週間ほどで大分元に戻ってしまいましたが、それでも、至福とエネルギーに満ちた状態を短期間であっても経験したのは大きいです。ポジティブになるということはあそこまで溢れ出るエネルギーに満ちていることであって、頭でどうこう考えたり思考をマントラとかで押さえ込むこととは全く別次元の状態であり、自分が全く別人になった感覚になりましたので、その状態を維持することが今後の課題ですね。日本で生活をしていると他のネガティブな人と接触したり食事が良くなかったり部屋の環境が良くなかったり、色々な原因で状態とエネルギー・レベルが下がっていってしまいます。ヨガの世界で言われているように、クンダリーニなどを扱う時にはアシュラムで泊まり込みして食事や生活習慣をきっちりとしないと崩れていってしまう可能性が高い、というのは、その通りなのかな、とも思います。幸いにして私の場合はクンダリーニ後に大変な思いをしていないので、このくらいのエネルギー低下で済んでいるのは、割と良い方なのかなという気もします。<br /> <br /> ■クンダリーニは必ずしもスシュムナから上げる必要はない?<br /> ピンガラからクンダリーニを上げるとクンダリーニ症候群になる、と上で書いたのですが、Swami Satyananda Saraswati著の「Kundalini Tantra」には、「スシュムナからクンダリーニを上げるのが通例のようになっているけれども」、という前置きの後に「古典には必ずしもスシュムナから上げる必要がないと書いてある」とありました。ピンガラから上げた場合は外的に働きかけるシッディ(パワー)を得て、イダから上げた場合は未来を見通す力を得て、スシュムナから上げた場合はジーヴァンムクタ(生きながらの解脱)を得る、と同署には書いてあります。おそらくは古典の目的が解脱であるためにスシュムナから上げる方法を記載してあるのだ、とSatyanandaは解説しています。イダとピンガラを目覚めさせるのに比べてスシュムナを目覚めさせるのは格段に難しく、特別なノウハウが必要になり、グルの助けあるいは神的な力の助けが必要になるとのことです。であれば、ピンガラのパワー系シッディである物体操作・破壊の力が使えるインドの聖者であるとか、イダの透視系シッディである千里眼や予知能力の力が使える西洋の魔女とかが必ずしも解脱していない、というのも納得できます。イダとピンガラが目覚めるのは早くてスシュムナが難しいのであれば解脱した人を見つけるのが難しいのも理解できます。インドの聖者の特徴として、インドは修行者に男性が多いためにピンガラが開花しやすく、よって物体操作系の話が多いのだと思います。一方、欧米の魔女は女性ですからイダが開花しやすく、よって、透視系の話が多いのも理解できます。もちろん両方あるいは逆の場合もあるでしょうが、多いのはこのパターンかと思います。<br /> <br /> そして、解脱を目的にしている人たちは往々にしてシッディの力を持っているがそれを重要視せずにスシュムナによる解脱を目指しているのも理解できます。解脱が難しいからこそシッディに拘らずに修業をしているのですね。シッディ(力)が目的であればそれに迷わされてしまい、往々にして解脱に辿り着かなくなってしまうのでしょう。<br /> <br /> 私の場合、スシュムナが動いたような感覚はまだなくて、単に2本の光の筋が通っただけなので、解釈としてはイダとピンガラが通ったような気もするのですが、多くの書籍には「スシュムナが浄化されて初めてクンダリーニが目覚める」と書いてあるので、このあたりがよく分からなかったのです。「であれば、私のは何だったのだろうか?」と言う疑問がありました。Satyanandaの解説に基づけば、それも十分あり得ると解釈できます。とは言っても、現時点では上記に書いたように体力がついたり睡眠時間が減ったり意識が向上した以外は得に取り立てた変化もなくて普通に体力がついただけなのとそう変わらない感じなので、まだまだだ、という感じです。一回通っただけでは不十分でその後のメンテナンスが重要とも言いますしね。<br /> <br /> ■スワミも激しい耳鳴りに悩まされることがある<br /> Hatha Yoga Pradipika (Swami Muktibodhananda著, Swami Satyananda Saraswati監修)P586によると、スワミも日常生活で常時続く激しい耳鳴りに悩まされることがあると言います。<br /> <br /> スワミMuktanandaはある時、睡眠とナーダ音を両立できなかったがために14日連続で眠ることができなかった。彼の体はどのようなナーダ音であったとしても反応した。"この天国の音楽の段階では、ヨーギはダンスの芸術を獲得する" 彼は働いている時、動いている時、食べている時ですらずっとナーダ音を聞いていた。そして、ナーダ音が激しくなってくると怒りを感じたこともあった。<br /> <br /> スワミであっても激しいナーダ音に怒りを感じることがあるのですね。興味深いです。流石に14日連続で眠れなければストレスもたまりますよね。<br /> <br /> ■右耳か左耳かは重要ではない<br /> Hatha Yoga Pradipika (Swami Muktibodhananda著, Swami Satyananda Saraswati監修) チャプター4 Verse 67 P563によると、「聖典には右耳で聞こえると書いてあるが、左右どちらの耳で聞こえるかは重要ではない」と質疑応答と共に記載されています。私は中央の左寄りで聞こえますけど、左右についてはあまり気にする必要はないようです。この本はビハール・スクールの本なので信頼できますし、有名なSwami Satyananda Saraswayi監修ですのでまずは信用していいと思います。<br /> <br /> 引用:(Chapter 4, Verses 67-68) ナーダは右耳で聞こえると記載されていますが、実際のところ、それは心の中で聞こえる音ですので、どちらの耳で音を識別するかは重要ではありません。GaneshpuriのBaba Muktanandaはかつてグルに聞いたことがあります。(中略) Sri Nityanandaは「右耳で聞くか左耳で聞くかは重要ではない。何故なら、ナーダ音はサハスララ・チャクラのアーカーシャ、すなわち最上の意識から発生しているからだ」と答えました。 Hatha Yoga Pradipika (Swami Muktibodhananda著, Swami Satyananda Saraswati監修) <br /> <br /> <br /> Sat, 28 Apr 2018 00:00:00 +0900 乳海攪拌 - ヒンドゥー教 天地創造神話のヨーガ的解釈(メモ) https://w-jp.net/2018/1457/ <br /> 乳海攪拌(にゅうかいかくはん, Samudra Manthan) - 天地創造神話Durvasaという聖者がいました。<br /> ある時、象に乗ったインドラ神が通りかかり、 Durvasaは花を摘んでインドラ神に花輪を作って捧げました。<br /> インドラ神は一旦受け取った後、象の頭にかけました。その理由は、自分にはエゴがないことを示すためだったのですが、象はそれを拒否して花輪を下に落としました。象は、インドの神話では「真実」を意味するシンボルです。象は、インドラ神がその奥底にはエゴがあることを見抜いていました。だから花輪を下に落としたのです。<br /> それを見たDurvasaは侮辱されたと思ってインドラ神を呪いました。 Durvasaは非常に力のある聖者でしたので、全ての神々が同様に呪われてしまいました。<br /> その呪いにより、神は3つの世界の制御(支配)ができなくなってしまいました。その3つとは、天国・地上・それを取り囲む環境です。<br /> 神様が世界を制御できなくなったので、代わりに悪魔が支配するようになりました。<br /> 神様はヴィシュヌ神にどうしたら良いのか尋ねました。ヴィシュヌ神は、次のように答えました。制御を取り戻すためには、神と悪魔が協力して海をかき混ぜなければならない。そうすれば、 Dhanvantari神がその手にエリクサーを持って現れるでしょう。そのエリクサーを一滴飲めば悪魔を退治して3つの世界を制御することができるようになるでしょう。<br /> 神様はそれを実行に移しました。悪魔もすんなりとそれに協力しました。悪魔もエリクサーを狙っていたからです。神と悪魔は山の周囲を巨大な蛇(サーペント, Serpent)でぐるりと囲み、頭を悪魔が持ち、尻尾を神様が持って、山を海に逆に入れて、蛇を引っ張り合いながら海をかき混ぜました。<br /> 山は海の底にぶつかり、スクリューのように地球を削り始めました。<br /> 彼らは助けが必要になり、ヴィシュヌ神に助けを求めました。ヴィシュヌ神は亀の形に姿を変えて海に潜り、山を背中に乗せました。<br /> その後、再度神と悪魔は巨大な蛇の両方を持って海をかき混ぜました。まるでチーズが牛乳から作られるように、海をかき混ぜたことにより、海は様々な物質に変わりました。<br /> 最初に出てきたのは毒です。その毒は3つの世界を全て破壊する脅威になりました。そこで、シバ神がその毒を手にとって、吸い込みました。神と悪魔がかき混ぜると他にも色々なものが出てきたのですが、最後に出てきたのがエリクサーを手に持ったDhanvantari神でした。<br /> 神も悪魔も、そのエリクサーを欲しがりました。<br /> <br /> 神はエリクサーを見て、「エリクサーを手に入れられる」と思いました。<br /> 悪魔はエリクサーを見た瞬間にエリクサーに飛びつきました。思うより早く体が行動したのです。そして、エリクサーを持ち去りました。しかしその後、悪魔は誰がエリクサーを独り占めするかを巡って争い始め、誰もエリクサーを飲むことができません。<br /> 神々は再度ヴィシュヌ神にどうにかして欲しいと頼みました。するとヴィシュヌ神はとても美しい女性に変身(転生輪廻)して悪魔の前に姿を現しました。そのエリクサーが欲しいと誘惑しました。そうすれば、全員に1滴づつ与えましょう、と提案しました。悪魔はそれに同意し、エリクサーを美女に手渡しました。<br /> 美女の案内に従って神と悪魔が並び、まず神に対して1滴づつ与えました。その後、悪魔にエリクサーを与えようとするその前に、その女性は姿を消しました。悪魔は騙されたと気づきました。とある悪魔はそれに気づいてエリクサーに手を伸ばし、するとエリクサーが2滴だけ落ちました。(この部分に関しては様々なバージョンがあるようです)<br /> <br /> この物語の意味この物語のDurvasaは貴方です。我々は、神の仕打ちに対して怒ります。そして、時に神を呪います。呪うと、神は3つの世界の制御を失います。<br /> その3つとは、体・心(マインド)・意識です。<br /> 神が制御を失うと、悪魔がそれらを制御するようになります。<br /> <br /> 悪魔は貴方のエゴ。<br /> 神は貴方のハイヤーセルフ、賢い貴方自身です。貴方の魂。永遠の自分。<br /> 「体・心(マインド)・意識」の3つは悪魔(エゴ)あるいは神(ハイヤーセルフ、プルシャ、魂)の影響下にあります。<br /> 我々の内に住む神の意識は調和に生きる道に導きます。<br /> 悪魔の意識は調和を失った生き方に導きます。<br /> 神を呪うと、悪魔が自身の行動を決定するようになります。<br /> このため、我々は身体的にも精神的にも磨耗します。<br /> 制御を取り戻すためには、我々は海をかき混ぜなくてはならない。海とは意識。意識をかき混ぜると、最初に出てくるのは毒です。ネガティブ、痛み、怒りなど。<br /> 自身の意識をかき混ぜ続けると、最後に出てくるのがエリクサーを持ったDhanvantari。それは各人の内にある癒しの主。<br /> エリクサーが現れた後、最初にエリクサーを手にするのは悪魔。悪魔はそのエリクサーを自身のために使用するでしょう。やがて、悪魔の前に魅力的な神が現れます。悪魔は永遠の幸せを約束されたかのように思います。エゴは騙されます。<br /> そして、エゴが調和を取るようになります。<br /> 貴方は永遠の調和にくつろぐようになります。調和のためにはエゴが消えさらなくてはなりません。<br /> 最終的に、貴方は全ての存在との一体感を感じることでしょう。<br /> 我々は光に包まれた存在であることを知ります。<br /> <br /> これが、ヨガとアユールベーダで伝えているものです。<br /> この物語は貴方自身の物語であり、我々は皆、この旅路の途中にいます。<br /> <br /> <内容は先日のマーク・ハルペン博士(カリフォルニア・アユールヴェーダ・カレッジ創始者)によるアユールベーダセミナーに基づきます> Thu, 25 Jan 2018 00:00:00 +0900 ヨーガとアユールベーダの関係(メモ) https://w-jp.net/2018/1456/ <br /> アユールベーダはヨガの癒し(ヒーリング)の側面<br /> ヨガはアユールベーダのスピリチュアルな側面<br /> <br /> それは表裏一体<br /> <br /> ヨガを深めて自己認識が高まるとアユールベーダに遭遇する。 何故なら、悟りの道を進むには健康になる必要があるから。<br /> アユールベーダを学び、健康になるために必要なものは何かを突き詰めてゆくと、健康になるためには体だけではなく健康な意識も持たなければならない<br /> どちらの道を進んでいても両者はやがて遭遇する。<br /> <br /> 3つの要素:<br />  ・体<br />  ・心(マインド)<br />  ・意識(意識、ハイヤーセルフ, プルシャ、アートマン、内なる神)<br /> <br /> そのうち、アユールベーダは主に体と心にフォーカスする。<br /> ヨガは心(マインド)と意識(意識、ハイヤーセルフ, プルシャ、アートマン、内なる神)にフォーカスする。<br /> <br /> <内容は先日のマーク・ハルペン博士(カリフォルニア・アユールヴェーダ・カレッジ創始者)によるアユールベーダセミナーに基づきます> Tue, 23 Jan 2018 00:00:00 +0900 ラージャヨーガ(パタンジャリのヨーガスートラ)- 心とは何か? ヨーガの目的と到達点 (読書メモ) https://w-jp.net/2017/1435/ <br /> ヨーガはサーンキャ哲学を基にしており、その用語を使えば心はチッタ(Citta)と言う。<br /> 魂のことをプルシャと呼ぶ。ヨーガにおいて「自己」とはプルシャのことであり、肉体や心(チッタ,Citta)のことではない。<br /> <br /> チッタ(Citta, 心)に現れる「想いの波」はヴリッティ(ス)(Vrttis)と言う。語源は「渦巻き」。<br /> 例えるなら、湖がチッタ(Citta, 心)、波がヴリッティ(ス)(Vrttis)。<br /> <br /> ヨーガの目的と作用は以下2文に集約される。<br /> 「心(チッタ、Citta)の作用(働き、諸状態)を止滅することがヨーガ」(Yogaヨーガ・Chittaチッタ・Vrittiヴィリッティ・Nirodhahニローダ)<br /> 「そのとき、見る者はそれ本来の状態に留まる」(Tadaタダ・Drashtuhドラシュトゥ・Svarupeスワルーパ・Vasthanamヴァスターナ)<br /> パタンジャリの記した「ヨガスートラ」はこの2文について説明している。<br /> <br /> 心(チッタ、Citta)にはグナ(Guna)と呼ばれている3つの状態がある。<br /> ・タマス(tamas)。闇の状態。獣や愚か者。惰性。<br /> ・ラジャス(rajas)。活動。活動的な状態<br /> ・サットワ(sattva)。静けさ。穏やかさ。明知。<br /> <br /> 心だけでなく、自然や宇宙全てがこれらの3つで構成されている。心・自然・宇宙が3つの状態を持つ前の素材は、アッヴィャクタ(定義を持たないもの。個別に分かれていないもの)と呼ばれる。3つの素材から構成される最高のものはマハット(Mahat, 知力、宇宙の知能)と呼ばれ、人間の知力はその一部であり、ブッディ(Buddhi, 覚)と呼ぶ。<br /> <br /> マナス(Manas, 意)は印象を集めてブッディ(Buddhi, 覚)に運ぶ。そしてブッディ(Buddhi, 覚)はそれが何なのか決定する。<br /> ブッディ(決定する能力、Buddhi, 覚)によってエゴイズム(アハンカーラ)が生まれる。ブッディ(決定する能力、Buddhi, 覚)が「動」だとしたらアハンカーラ(エゴイズム)は「反動」。<br /> <br /> 心(チッタ,Citta)の構成要素<br /> ・ブッディ(Buddhi, 覚)<br /> ・アハンカーラ(エゴイズム, 我慢)<br /> ・マナス(Manas, 意)<br /> <br /> 以下の順で知覚が生まれる。<br /> 1. 外の世界からの入力信号が感覚器官(目や耳)を通じて脳にある「器官(インドリヤ(ス))」に運ばれる。<br /> 2. 脳の「器官(インドリヤ(ス))」はそれらの入力信号を心(チッタ、Citta)に伝える。<br /> 3. 心(チッタ、Citta)では、マナス(Manas, 意)によって印象がブッディ(Buddhi, 覚)に運ばれ、印象を決定する。<br /> 4. ブッディ(Buddhi, 覚)による反応によって、アハンカーラ(エゴイズム)が生まれる。<br /> 5. これらの混合がプルシャに渡され、対象を認識する。<br /> <br /> 「内なる道具」(アンタッカラナ)と呼ばれるグループ<br /> ・諸器官(インドリヤ(ス))<br /> ・マナス(Manas, 意)<br /> ・ブッディ(決定する能力、Buddhi、覚)<br /> ・エゴイズム(アハンカーラ)<br /> これらは心(チッタ、Citta)で起こる様々な過程。<br /> <br /> チッタ(Citta, 心)と呼ばれる道具が食物を通じて得た力を使って「想い」(ヴリッティ, Vrttis)として放出する。よって、チッタ(Citta, 心)は知能のあるものではない。それでもチッタ(Citta, 心)に知能があるように見えるのは、背後にプルシャ(魂)がいるから。<br /> <br /> 3つの証明:<br /> 1. 直接の知覚、プラッティヤクシャ(Pratyaksa)。見て感じることで明らかなもの。世界が存在する、など。<br /> 2. 推理。アヌマーナ<br /> 3. 真理を見たヨーギたちによる知覚、アープタワーキャ(アープタ)。アープタの知識はその人自身から来る。文字の意味は「到達した」。<br /> <br /> 色々なヴリッティ(想いの波,Vrttis)<br /> ・ヴィカルパ。言葉の惑わし。真実性のない想い。チッタ(Citta, 心)が弱いと惑わされる。<br /> ・夢。寝ている時のヴリッティ(想いの波,Vrttis)が夢になる。<br /> ・記憶。スムリティ(Smrtih)。記憶とは、主体のヴリッティ(想いの波,Vrttis)が言葉などのきっかけによって意識に戻って来ること。<br /> <br /> ヴリッティ(想いの波,Vrttis)が消えた後に残るのは印象(サムスカーラ(ス), サンスカーラ, 行)。<br /> 印象(サムスカーラ, サンスカーラ, 行)は潜在意識にある想念。<br /> 印象(サムスカーラ, サンスカーラ, 行)が多数になると習慣になり、性格を形作る。<br /> <br /> ヴリッティ(想いの波,Vrttis)を完全に抑制された状態に保とうとする努力が「修行」。<br /> 抑制された状態をヴァイラーギャ(離欲)と呼ぶ。<br /> チッタ(Citta, 心)がヴリッティ(想いの波,Vrttis)に支配されるのを防ぐのがヴァイラーギャ(離欲)。無執着とも言う。<br /> ヴァイラーギャ(離欲)を実現すると、プルシャ(魂、真の自己)の性質が現れて来る。<br /> <br /> チッタ(Citta, 心)はサットワで出来ていますが、ラジャスとタマスで覆われている。プラーナヤーマによって覆いを取り除くことができる。すると、マナス(Manas, 意)が集中できるようになる。集中はダーラナ(Dharana)と言う。<br /> <br /> 集中(ダーラナ, Dharana)するためにはプラティヤハーラも必要。<br /> プラティヤハーラは、自分の心(チッタ,Citta)を神経中枢に意のままにつけたり離したりできるようになること。文字としては「(自己に)向けて集める」の意味。<br /> <br /> 集中(ダーラナ, Dharana)すると時の概念が消滅する。<br /> よって、過去と現在が来て1つになる時、心は集中(ダーラナ, Dharana)した、と言われる。<br /> <br /> 集中(ダーラナ, Dharana)を続けて行うのが瞑想(ディャーナ、Dhyanam)。<br /> 瞑想(ディャーナ、Dhyanam)が更に深まり、瞑想の対象の形が消え去って意味だけを認識することをサマーディ(Samadhih)と呼ぶ。<br /> <br /> サマーディ(Samadhih)は2つに分けられる。<br /> 1. サムプラグニャータ(Samprajnatah)。自然を支配する力の獲得。「種ありのサマーディ」と呼ばれる。輪廻転生を産む種が残っているサマーディ。<br /> 2. アサムプラグニャータ。解脱を与えるサマーディ。「種無しのサマーディ」と呼ばれる。輪廻転生を産む種がなくなるサマーディ。<br /> <br /> ■瞑想及びサムプラグニャータ・サマーディ(Samprajnatah Samadhih) 各種<br /> この段階ではまだ、印象(サムスカーラ, サンスカーラ, 行)は残っており、心が完全には浄化されていない。<br /> <br /> 1. サヴィタルカ瞑想。ヴィタルカは「問い」、サヴィタルカは「問いを持って」と言う意味。力を得ても解脱は得られない。快楽を追求する世俗的な、虚しく無駄なサマーディ(Samadhih)。古い教訓。 ジャブダ(ことば)とアルタ(客体、音の意味)とジュニャーナ(知)が同時に起こる。<br /> ニルヴィタルカ瞑想。「問いのない」と言う意味。要素を時間と空間の外に出し、あるがままを想う瞑想。 ジャブダ(ことば)とアルタ(客体、音の意味)は存在せず、ジュニャーナ(知)だけがある。<br /> 2. サビチャーラ瞑想。「識別を持って」と言う意味。時間と認識の中にあるものとして想う瞑想。<br /> ニルヴィチャーラ瞑想。「識別をしない」と言う意味。サビチャーラの発展系。時間と空間を除き、あるがままの精妙な要素を想う瞑想。<br /> これら2つは、前の段階であるサヴィタルカ瞑想とニルヴィタルカ瞑想の対象を精微なもの(タンマートラ=微粒子、チッタ、自我)に変えたもの。<br /> ニルヴィチャーラ瞑想が純粋と結びつくと、真理によって満たされた叡智(リタムバラー・プラジュニャー、Ritambhara Prajna)を得る。この段階に達した人のことを悟りを開いた聖者・解脱者(ジーヴァンムクタ、ジーヴァントは生ける者、ムクタは解放された、の意味)と呼ぶ。<br /> 3. サーナンダ・サマーディ。至福に満ちたサマーディ。活動性及び惰性を取り除いた状態で行われる瞑想。<br /> 4. サースミター・サマーディ。「肉体を失った」と思うことができる状態。この状態で自然に融合する魂はプラクリティヤラと呼ばれるが、まだ解脱ではない。<br /> <br /> ■解脱を与えるアサンプラグニャータ・サマーディのための瞑想<br /> 思いが入るやいなや思いを取り除き、いかなる思いが心に入ることも許さず、心を真空状態にする。心に対する最大の支配力を示す。<br /> (間違った瞑想は、心をタマスで覆うこと。タマスは無知であり、心を不活発にすることで心を空っぽにしていると勘違いすることのないように。)<br /> <br /> アサンプラグニャータ以前の瞑想では、集中によってチッタのヴリッティ(想いの波,Vrttis)を押さえつけている状態。<br /> 一方、アサンプラグニャータになるとチッタのヴリッティ(想いの波,Vrttis)を作り出す「種」がなくなる。「種無しになる」と言われる。無限とも思える輪廻転生を生み出す種子がなくなる。<br /> <br /> <br /> ■種あり、種なしのサマーディ、という分類<br /> サビージャ・サマーディ  種のあるサマーディ。サムプラグニャータ・サマーディ(Samprajnatah Samadhih)、サヴィカルパ・サマーディ<br /> ニルビージャ(Nirbijah)・サマーディ  種のないサマーディ。アサンプラグニャータ・サマーディ、ニルヴィカルパ・サマーディ<br /> <br /> ■サムヤマ(Samyamah, サンヤマ)<br /> 集中(ダーラナ, Dharana)、瞑想(ディャーナ、Dhyanam)、サマーディ(Samadhih)の3つが同時に達成されるとサムヤマ(Samyamah, サンヤマ)と呼ぶ。サムヤマ(Samyamah, サンヤマ)によってシッディ(霊能)が生まれる。対象または対象となる観念の奥深くへと突き進むとその対象はその秘密を解き放つ。<br /> <br /> ■ダルマメガー(Dharma Meghah)・サマーディ(法の雲のサマーディ)<br /> ダルマメガー(Dharma Meghah):全ての美質がそこにある、と言う意味。<br /> 「高まりたい」と言う欲望さえ消えた時に起こるサマーディ。<br /> 神を求める気持ちが「無欲」によって達成される。ある時点までは努力を続けるが、ここに来ると努力がなくなって無努力になる。そして神を知る。ジーヴァンムクタ(聖者・解脱者)が現れる。<br /> 全ての苦悩(煩悩)とカルマ(業)は終息する。<br /> <br /> ■ニルビージャ(Nirbijah)・サマーディ<br /> 「インテグラル・ヨーガ」(スワミ・サッチダーナンダ著)ではこれがジーヴァンムクタ(悟りを開いた聖者・解脱者)の後に来るものとして最高のサマーディとしており、アサンプラグニャータ・サマーディはさらりと述べているのみ。<br /> 一方、「ラージャ・ヨーガ」 (スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ著) ではこれは一般的な最終状態としての説明の留めている印象。ぼかして書いてあり、これが最高とは明示しておらず、前の方でアサンプラグニャータ・サマーディを最終的に解脱をもたらすとして紹介してある。<br /> よって、ニルビージャ(Nirbijah)・サマーディとアサンプラグニャータ・サマーディおよびサーナンダ・サマーディやサースミター・サマーディとの関係も不明確。<br /> <br /> ■カルマ・アーシャ(カルマの袋)<br /> 過去世も含めて、全てのカルマが蓄えられている。<br /> <br /> ■カルマの3つの種類<br /> ・プラーラブダ・カルマ(生存のカルマ)<br />  現世において経験されるべくカルマ・アーシャ(カルマの袋)から取り出されたカルマ。このカルマに基づいて体を選ぶ。<br />  予期できなかった出来事の理由。偶然石にぶつかって怪我をする、等<br /> ・サンジタ・カルマ<br />  過去のカルマも含めた全ての合計<br /> ・アガーミー・カルマ<br />  新たなカルマ。わかっていて意図的に行ったもの。意図的に石を蹴ってつま先を怪我する、など。<br />  ジーヴァンムクタ(聖者・解脱者)はアガーミー・カルマの影響を受けない。<br /> <br /> ■神<br /> ほとんど完成されたが全ての力を捨てることができずに失敗した多くの魂を「神」と呼ぶ。<br /> そこを越えて絶対的な唯一神は存在しないとするのがサーンキャ哲学。ヨーギの中には絶対神がいるとする人たちもいますが、その場合でも、上記のような失敗した多くの魂を神と呼ぶ点に関しては同様。<br /> 神々の地位や、時の周期の支配者の地位をも望まない魂は解脱を遂げる。<br /> <br /> ■至高の支配者<br /> イーシュワラ(Isvarah, 至高の支配者)は特別のプルシャ(魂)であり、無限の知識を持っている。ヴェーダによれば宇宙の創造者。<br /> ただし、ヨーギたちにとってのイーシュワラ(Isvarah)は宇宙の創造者ではなく、全知全能の無限の知識を神と呼んでいる。<br /> <br /> ■悟り<br /> 「悟り」が真の宗教であって、他の全ては準備にすぎない。<br /> 説法を聞いたり、書物を読んだり、論理を辿ったりするのは基礎の準備をしているだけで、宗教ではない。<br /> <br /> ■エゴイズム<br /> エゴイズムとは、見る道具を見る者だと思うこと。「無知」の状態。<br /> 見るものはプルシャ(魂)、見る道具は心(チッタ,Citta)や感覚器官(インドリヤ(ス))。<br /> 心(チッタ,Citta)や感覚器官(インドリヤ(ス))が自分だと勘違いするところにエゴイズムが生まれる。<br /> 誰もプルシャ(魂)に苦痛を与えることはできない。プルシャ(魂)は心(チッタ,Citta)の理解を越えており、心(チッタ,Citta)が哀しもうが喜ぼうが、変わらずそこにいる。しかし、無知によって我々は自分が心(チッタ,Citta)だと思い、「自分は快楽・苦痛を感じる」と勘違いする。<br /> <br /> ■議論と結論<br /> ・議論がましいもの(ワーダ, Vada)<br /> ・決定的なもの(シッダーンタ, Siddhanta)<br /> 最初は議論(ワーダ, Vada)から入る。しかし結論に達した後はシッダーンタ(Siddhanta)に入り、それを強化する。ヨーギは議論の段階を通り過ぎている。ヨーギは心(チッタ,Citta)を超えたものを欲するので議論(ワーダ, Vada)はしない。<br /> <br /> ■印象(サムスカーラ(ス), サンスカーラ, 行)の分解・制御<br /> ヴリッティ(想いの波,Vrttis)が消えた後に残るのは印象(サムスカーラ(ス), サンスカーラ, 行)。印象(サムスカーラ(ス), サンスカーラ, 行)は心(チッタ,Citta)の中に眠っている。印象(サムスカーラ(ス), サンスカーラ, 行)は根であり原因。印象(サムスカーラ(ス), サンスカーラ, 行)も完全に分解し、制御する必要がある。<br /> 心(チッタ,Citta)やヴリッティ(想いの波,Vrttis)の認識は比較的容易い。しかし、印象(サムスカーラ(ス), サンスカーラ, 行)は深く眠っており、潜在意識として下の方で働いている。<br /> ヴリッティ(想いの波,Vrttis)が粗大に現れる前に、微かな原因であるうちに根元を制御することで種子となる印象(サムスカーラ(ス), サンスカーラ, 行)まで制御し、焼き尽くすことができる。<br /> 精妙な印象(サムスカーラ(ス), サンスカーラ, 行)は瞑想によって焼き尽くすことはできない。印象(サムスカーラ(ス), サンスカーラ, 行)はその原因に分解し、原因であるところのアスミター(asmita)/エゴイズムに分解すると、印象(サムスカーラ(ス), サンスカーラ, 行)はそれらと一緒になくなる。<br /> <br /> まず、印象(サムスカーラ(ス), サンスカーラ, 行)について瞑想することによって表面に浮かび上がらせる。そこで、行為として発現させるべきかどうか判断できる(もちろん、行為にまで発展させないことを選ぶだろう)。次に、瞑想を続けてその原因にまで遡るとアスミター(asmita)/エゴイズムが横たわっていることがわかる。そこで心をより高いサマーディの中へ超越させるとそのアスミター(asmita)/エゴイズムがなくなる。アスミター(asmita)/エゴイズムがなくなれば、その中にある全ての印象(サムスカーラ(ス), サンスカーラ, 行)も一緒になくなる。<br /> <br /> ■精妙な微粒子タンマートラ(ス)<br /> 我々の心が日々、放出している。人々が神を礼拝する場所は良いタンマートラスに満ちている。<br /> <br /> ■グナ(性質, Guna = サットヴァ/ラジャス/タマス, sattva/tamas/rajas)の4つの段階(parvani)<br /> ・「定義のあるもの(visesa)」我々が感覚で捉えられる粗大な要素<br /> ・「定義を持たないもの(avisesa)」タンマートラ(ス)。<br /> ・「暗示だけされているもの(linga-matra)」ブッディ(決定する能力、Buddhi、知力、覚)。自然の最初の現れ。<br /> ・「しるしのないもの(alingani)」<br /> <br /> ■プルシャ(魂)<br /> 全知、全能、偏在。心ではない。物質でもない。自然でもないから変化することもない。<br /> <br /> ■プラクリティ<br /> この世を構成する基本物質。純粋な精神原理のプルシャに対する物質原理のプラクリティ。<br /> プルシャは「見る者」である一方、プルシャ以外の全てはプラクリティであり、「見られるもの」。<br /> <br /> ■プルシャの類義語<br /> サーンキャ哲学ではプルシャという単語を用いますが、ヴェーダンタではブラフマンとアートマンという言葉が出てくる。<br /> ・サーンキャ哲学:プルシャは個別の人の中にも存在するし、同時に遍在する魂。イーシュワラ(Isvarah, 至高の支配者)もプルシャの1つ。<br /> ・ヴェーダンタ:ブラフマンは遍在する絶対的存在。アートマンは個別の魂。しかしヴェーダンタでは最終的にブラフマンとアートマンは同一であることを導く。<br /> ということで、言葉は違うけれども似たようなことを説明しているようです。<br /> <br /> ■チッタ(Citta, 心)とプルシャ(魂)<br /> チッタ(Citta, 心)は主体として外界を見る。或いは、客体としてプルシャ(魂)に見られる。<br /> プルシャ(魂)は常に主体。<br /> 「自分」とは、ある意味では目撃者であり、ある意味では行為者とも言えるが、本当は目撃者。”本当”を見失っていると貴方は行為者になる。<br /> <br /> ■ヨーガの修練とチッタ(Citta, 心)<br /> ヨーガの修練は「チッタ(Citta, 心)」によって行われる。プルシャ(魂)はヨーガの修練を必要としない。プルシャ(魂)は放っておけば良い。ヨーガの修練を必要としているのはエゴ(自我)である自分。教えが与えられるのもエゴ(自我)である自分。<br /> より低い自分であるチッタ(Citta, 心)をエゴの行動から解き放てばプルシャ(魂)の輝きが増して「くつろぐ」ことができる。<br /> 寛ぎが増せば、チッタ(Citta, 心)が動いていない時はもちろん、チッタ(Citta, 心)が動いている時ですらヨーギはくつろぐことができる。ヨーギは行動を「楽しむ」。<br /> 聖典は、単なる知識理解のためのもの。エゴのための真理は、身近な生活にこそある。無私であることを学び、献身的な生活を送ること。行動は他者のために行うことでチッタ(Citta, 心)は平穏を得る。<br /> <br /> ■ジーヴァンムクタ(聖者・解脱者)とグナ(性質, Guna = サットヴァ/ラジャス/タマス, sattva/tamas/rajas)<br /> ジーヴァンムクタ(聖者・解脱者)になると、グナは目的を終えてその働きを辞める。<br /> それまで、グナの目的はプルシャに経験を与えることであった。その目的がなくなり、グナは元々のプラクリティに戻る。グナとして発現していない時はグナはプラクリティのまま。プラクリティが発現するとそれをグナと呼ぶ。その発現が終わると、プラクリティはプラクリティのまま安住する。完全に浄化されて「純然たる意識の力が、自らの純粋な本性の内に安住する」。<br /> <br /> ここに、パタンジャリが最初に述べたヨーガの目的は達成される。「チッタ(Chitta)・ヴィリッティ(Vritti)・ニローダ(Nirodhah)」が修練であり、スワルーパ(Svarupe)・ヴァスターナ(Vasthanam)が経験されること。<br /> <br /> 「心(チッタ、Citta)の作用(働き、諸状態)を止滅することがヨーガ」(Yogaヨーガ・Chittaチッタ・Vrittiヴィリッティ・Nirodhahニローダ)<br /> 「そのとき、見る者はそれ本来の状態に留まる」(Tadaタダ・Drashtuhドラシュトゥ・Svarupeスワルーパ・Vasthanamヴァスターナ)<br /> <br /> <br /> 以上、<br /> 「ラージャ・ヨーガ」 (スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ著) <br /> 「インテグラル・ヨーガ」(スワミ・サッチダーナンダ著)<br /> より Thu, 31 Aug 2017 00:00:00 +0900 IT業界 https://w-jp.net/topics/IT業界/ IT業界 7pay問題: 日本のIT受注開発は構造的に破綻しています https://w-jp.net/2019/1546/ <br /> 噂では7pay側は「よくわかんない全部ベンダーのせいタダでやれ7/11までに必ずやれペナルティも払え」とか言い出したらしいです(by Twitter)。IT担当者のいない中小企業のブラック案件みたいな話がセブンイレブンであるとはびっくりです。7payは当分使わない方がいいですね。<br /> <br /> 「7pay緊急会見」で露呈した3つの大問題。なぜ脆弱なセキュリティ対策で開始したのか<br /> <br /> セブンイレブン関連のIT開発には絶対に永久に関わらない方がいいですね。暗記。<br /> <br /> というか、似たような素人発注が多いとITエンジニアになろうという人がどんどん減りますよ。今に始まったことではないですけど、後から次々に要求変えるなら金払うのが当然なのに今回のセブンイレブンみたいに「わかんないって言ってるだろ。タダでやれ」って怒鳴ってくるブラック発注主が日本には多すぎ。こんなんじゃIT産業廃りますよ。いや、もう廃ってると思います。聞こえてくるのは「○○円で作ったぜ」というデフレ自慢話ばかり。それって労働搾取というかやりがい搾取というかパワハラというか暴力でしょ。技術者にまでお金回ってないですし。怒鳴るか立場を利用して圧力かれば安く人が動くと思っている人多すぎ。半グレみたいな発注主もいますからね。<br /> <br /> 私はプログラムは好きですが趣味でやれば十分楽しめるので本業は引退しようかどうか悩んでいます。今回に始まったことではないですけどね。まぁ、「やってられない」ってとこです。タダでやらせようとするブラック発注主が多すぎますよ。セブンイレブンがそれで通ったらますます他が真似しますしね。<br /> <br /> まあ、昔は日本の業界の将来も案じましたが、今は割と諦めモードというか、変える力もないですしね。今は割とどうでも良いです。IT技術者の待遇は差が激しいですが、ぶっちゃけ、最底辺のIT技術者やるくらいならコンビニバイトの方が儲かるかもしれないですね。日本の場合で待遇良い人はきちんとできる人もますけど多重請負構造の上の方でピンハネしている人も多いですからね。日本のバブル崩壊時代はハード全盛で、日本の古い会社はハード人材が立場が強いところが多いですからね。今回も「所詮ソフトだろ」って感じで開発して炎上したのかもしれないです。<br /> <br /> 噂では7payの開発は野村、NTTデータ、NEC等あたりだそうです。相当高いお金払っているでしょうねえ。高いお金払っておいて上のようにタダで直せとクレームつけるのと、中小企業がもともと激安で作らせておいてタダで直させるのとは全然違いますけど中小企業は言葉尻に乗っかかってタダで直させようとするでしょうね。中小企業でお金なくてアホみたいに激安なのに大企業と同じようにVIP対応しなきゃキレるような勘違い中小企業も多いですし。だったら最初から相手にしないですよ。そのあたり、勘を鋭くして最初に弾かないと悲惨な目にあいます。<br /> <br /> 家を建てるのに数百万円しか用意してなくて「なんでできないんだ? 対応悪いぞコラァァァァァ!!!とか工務店で怒り散らしたら絶対追い出されますよ? IT業界では、発注主がありえない金額でやらせようとしているのに半ギレになって「俺はよくわからないっていってるだろう!!!」と普通に圧力かけてメンタル壊しにくる顧客がワラワラといます。日本のベンチャーは技術力アップよりもメンタル管理の方が大変な気がします。まあ、どんどんとIT業界は廃れると思います。こんなの相手にしていられないですよ。日本だとIT技術者は給与安くて、同じ給与なら事務とか色々と選択肢がありますからね。アメリカだと高給ですけど。何なんですかね、これ? こんなんじゃIT技術者辞める人多いと思いますし、新たに参入しようとする人も少ないと思いますよ。<br /> <br /> そのうち業界が衰退したらセブンイレブンみたいなブラック発注主は相手にされなくなりますよ。野村総研みたいなコンサルはピンハネできるからやりたがるでしょうが技術者が集まらなくなると思います。昔は技術者は行間読んで、言われていないことも考えて作りましたけど今は無駄だと言われることが多いみたいですからね。想像ですけど、技術者が指摘してもセブンイレブン側が「使い勝手が悪い」「無駄だ」と言っておきながら問題起きたら「俺は知らんって言ってるだろ。作った奴らが全部悪い」って怒鳴ってるのが想像できます。これでメンタル壊して入院するIT技術者が何人出るのでしょうね。業界的にはよくある話でもはや誰も驚かないでしょうが。まあ、IT受注開発という業界は終わってますね。既に20年前から終わってますけど未だに続けているんですからねえ。よく日本人は我慢しますよね。マゾが多いのかなあ? 人月商売だと、お金を払ってくれる限りはプロジェクト炎上した方が開発会社は儲かるから実は今回の下請け会社は大笑いしているかもしれないですね。そして技術者は鬱になる、と。そんな開発に関わらないのが一番ですよ。開発会社のマネージャーだけが大笑いして技術者が死ぬのを続けていたらもう日本のIT産業は衰退するしかないですよ。<br /> <br /> セブンイレブンのIT開発には関わらない。暗記です。<br /> <br /> ■IT受注開発はもう終わり<br /> 私がIT請負はもう持続不可能と言うのには理由がいくつかあって、最近、民法が改正されて瑕疵責任が拡大されて責任追及が「引渡時から1年以内」から「知った時から1年以内」になったのです。今回はリリース後すぐの不具合ですけど、もし今後、リリース1年以降に問題が出たらそれこそITベンダーはその修正で大赤字になると思います。今後また同じようなセキュリティホールが出ないとも限らない・・・ というか、きっとまた出るでしょう。その度にITベンダーは無償で修正することになるでしょう。金額交渉は出来ますがかなり難しいと思います。<br /> <br /> 民法改正前ですら、大きな会社であってもたった1つのプロジェクトが炎上して大赤字を垂れ流しただけで会社全体が赤字に転落してしまうような場面をよく見てきました。もともとIT受注開発という形態は経営的に成り立たないと思いますが、多重請負構造でピンハネしたい人が大勢いるのでなくならないのだと思います。であれば、IT技術者がそんな現場に行くことを拒否するしかないのです。<br /> <br /> ついでに言っておきますと、IT技術者ピンハネは多重請負も悪いのですが、SES(システムエンジニアサービス)と呼ばれている偽装請負での客先常駐がピンハネ構造を延命させていると思います。これ、最近はウケがいいように「コンサル」って言われていたりします。コンサルって言っても色々で、ほんとに経営を支える昔ながらのファームのコンサルもいれば、このように単に偽装請負で派遣扱いなのにコンサルって言われているただの派遣要員もいます。派遣元にしてみれば安定的にお金が落ちてくるのでピンハネし放題ですがIT技術者は現場で監督員もいなくて残業は青天井でメンタルやられて死んでも派遣元は知らんぷりというのがSESの実態です。まあ、日本は多重請負構造もそうですが、このように奴隷商売でピンハネしている会社が意外に多くて、まともな技術者はほんの一握りだと思いますよ。よくもまあ、そんな待遇でおとなしく働く奴隷がそんなにいるものだなあ・・・ と感心してしまうのですが。派遣会社は姿を偽らずに派遣ですよ、と堂々と商売しているのでマシなのですが、コンサル会社だとかIT会社だとか外見はうまく装って実際は奴隷派遣商売しているとこが沢山あるのでこの業界は終わってます。<br /> <br /> IT技術者としてはこの2つは避けるべきです。もっといいのは、そもそも日本ではIT技術者にならないことです(笑)<br /> <br /> もっと言うと、企業規模に限らず日本の発注主は「数字を示すことなし」に「◯◯はいくらで◯◯ヶ月で作ったのに、どうしてそんなにかかるんだ?」と、「ドヤ顔」で「小馬鹿にするように」値切ってくるキ◯ガイな発注主がワラワラといて、全然違う作業内容なのに費用とか期間だけ比べてくるアホ発注主なのにそれがあたかも当然かのようにドヤ顔で圧力かけて馬鹿にしながら無茶な要求をしてきます。こういう値切りしてくる発注主の相手するのは無駄で、規模も要求も時代も違うしやる事も違うのだから・・・と説明するだけ時間の無駄で、安く作ってもらえるまであれこれ言ってきているだけで、色々言って圧力かけて混乱させて奴隷にして「はい」と言わせようとしているだけなのです。真っ当な顧客ならやることと数字を上げて値切ったりしますけど、(この種の発注主の場合)そんな客はほとんどいません(苦笑)もはや要求とは言えない、ただの願望をつらつらと並べて「できないのはおかしい」「あそこはそれで作ったぞ」とかいう、比べても仕方がない事で比べながら他人がおかしいとコケおろして圧力かけてメンタル壊して契約させて値切りして安く作らせるような、ただの格安あるいは無料奉仕の奴隷契約を当たり前のように強要してくるキチ◯イが大勢います。「強制」「操作」「共依存」の状態にして安くこき使おうというブラック発注主が地雷のようにそこらに埋まって待ち構えているので、地雷を避けて真っ当な発注主に辿り着くのは至難の技です。というわけで、日本の「受注開発」はもはや終わってます。<br /> <br /> 企業内IT部とかならありかもしれないですけど、これまたITベンダーが「そんなことしなくても安く作れますよ」とかいう悪魔の誘惑に騙された経営部から「何でそんなに時間も費用もかかるのだ」という圧力に晒されるので、結局、ど阿呆の多い日本の会社で働くのは面倒すぎて辞めた方が良いと思います。ということで、IT技術者は全くお勧めしません。<br /> <br /> IT部以外の幹部はITベンダーとかにいいように言われていますので、まるで日本が世界でITをリードしていて日本には優秀なITエンジニアで溢れかえっていると勘違いをしています(苦笑)テレビ番組で「日本スゴイ」みたいなアホな番組信じるのと同じメンタリティーで、もはやGAFAのような巨人は日本にはいなくて、せいぜい日本で強いのはかろうじてトヨタ(あ、IT企業じゃなかった)くらいなのに、幹部とか部長とかはITベンダーとかコンサルの営業に騙されているのがウケる。そういうのはインド人の自信満々の振る舞いにも簡単に騙される(苦笑)まあ、バブル世代が多いと思われる部長とか幹部はそういう自信満々なところに惹かれるのかもしれないですけど。日本なんてIT後進国ですよ? ほとんどの人は信じませんけど。1990年代は割とリードしていたと思いますけどね、もはやそんな古い時代ではないですよ?<br /> <br /> まあ、私は今更あんまり他のこともできないので、「そこそこ」の楽なポジションで生きながらえるか、あるいは、やっぱ投資をもっと修行するか、それとも、出家(苦笑)みたいなのも選択肢の1つかも。意外に最後の選択肢が現実的かも? もはやITへの興味は高校時代に比べるとめちゃくちゃ少ないので。<br /> <br /> ちょっと誤解がありそうなので補足しておきますと、割とまともな発注をしていた大企業もありますけど、そういうところは今、かなり業績が危うい。ブラックで人をこき使って安く作るようなところしか今は業績が上がらない世の中だとすれば、ホワイト発注なんてなくなってゆくと思いますよ。<br /> <br /> まあ、どうなるのでしょうね。Freelancer.comみたいに、日本の民法の保守の範囲外で「作りっぱなし」「やりっぱなし」「保守なし」の激安ITが流行るのかもしれないですね。日本で請負しますと民法に縛られていつまでもサポートと無償対応が必要ですけど、クラウドソーシング系はそれっきりで後の保守はないですからリスクなくて安くできましね。そういう保守なしとの作成費用と普通の受注開発のコストを比べてくるアホな顧客もいますし、違いもきっとよく分かっていないのでしょうから、今後は「作業するだけ」のITが流行る気もします。「受注開発」は、特に最近の民法の改正によってもう終わりですね。気づいていない人も多いだけで、民法を盾に無償補修を要求されたらITベンダーは簡単に次々に潰れますよ。<br /> <br /> ■孫さん<br /> タイムリーに孫さんがAI領域で似たようなこと言ってましたね。私は孫さんのキャラは好みじゃないですけど言ってることは当たっています。<br /> 「この数年で日本は発展途上国になった。結構やばい」孫社長がAI分野で指摘<br /> <br /> 日本じゃ情報学部卒業でAIとかできるはずの人が管理に回ってしまってますからね。まあ、今から思えばAIで起業しても良かったですが、ちょっと見誤ったっぽい。<br /> <br /> ただ、日本はITリテラシーがない人が多くて「こんなもん」と言う肌感覚がないので、機械学習/AIでの成果物を見て初めて「こんなんじゃ使えない」「こんなのに金払わない」とか言う発注主がワラワラといそうなので日本でAIベンチャーをするのはリスクでしかないと思います。と言うことで、日本ではITベンチャーは育たないし潰されるのがほとんどだと思います。AIなんだから100%(大爆笑)じゃないと検収しないなんて言う顧客が普通にいそう。この部分は想像ではありますけど、日本の中小企業のITリテラシーの低さを考えるとかなりの確率で当たっていると思っています。<br /> <br /> <br /> <br /> Thu, 04 Jul 2019 00:00:00 +0900 英語でIT人材は海外へ流出する。まるで交通インフラ整備で地方の過疎化が起きたように。 https://w-jp.net/2018/1481/ <br /> 私の出身は田舎なのですが、私が生まれる前後の40~50年ほど前はまだ道もそれほどよく整備されておらず、政治家が出馬して交通インフラ整備を主張したものでした。「交通インフラである新幹線、高速道路、バイパスが整備されれば地方と都会が結ばれて町(田舎)は豊かになる」と言ってよく当選していました。その後、公約通りに交通インフラが整備されて起こったのは全くその逆で、地方のリソースが都会へと流出するようになったのです。田舎の人は田舎暮らしに興味を失い、都会に惹かれ、田舎は過疎化しました。これは地元の土建業に仕事を与えるための票集めの論法にすぎなかったのかもしれず、こうなることは政治家はよくご存知だったのかもしれませんし、ご自身が主張されるように意図しない結果だったのかもしれませんが、とにかくそのようになりました。<br /> <br /> 同様のことが、田舎を日本、地方に住む人々を日本人と読み替えてみます。特に、IT人材の日本人に置き換えて考えてみます。田舎で交通インフラに相当するものがIT人材にとっては英語になるでしょう。田舎の人が交通インフラを手に入れたのと同様に、日本に住むIT人材が英語を手に入れつつあります。田舎の人が田舎に留まる必要がなくなって都会に出て行ったのと同様、海外への扉である英語を身につけた人材は日本という小さな島国に留まる必要はなくなります。田舎で面倒な年寄りの面倒を見たり粘着性の人々と付き合ったり地元の名士の相手をするよりは都会に出てゆくことを選ぶ人が大勢いたのと同様、税金は年々高くなり、年寄り向きの政策ばかりが通るこの日本にいつまでも留まって搾取され続ける必要はないわけです。元々IT人材であればスキルも海外と共通ですので海外進出はし易くなります。<br /> <br /> 政府としては、英語ができるようになって海外の人材を日本に取り込みたいと思っているのかもしれませんが、実際に起こるのはその逆で、人材の世界への流出になるでしょう。実際、友人と私もその話をしており、こんな日本に留まっているよりは海外で働こうと色々と策を練っています。日本の企業で安月給に留まるよりは、海外で働くことも視野に入れています。<br /> <br /> 噂話ですが、その友人によると、戦後の教育で英語の読み書きを重視して会話を教えなかったのは日本の人材を海外へ流出させないようにするためだったそうです。であれば、その政治家はとてつもなく優秀だったのでしょう。<br /> <br /> アメリカにIT関連で赴任している知人曰く、今や日本こそがグローバルに見て一番「安くて」コストパフォーマンスが良い人材だという。<br /> <br /> 私と友人は以前からそのようなことを話し合っていたのだが、友人の赴任先の社長さん(日本人赴任者)もその意見に同意しているという。<br /> <br /> その根本原因は、言葉は悪いがその赴任先の社長さんの言葉をそのまま言うと「日本には24時間働く馬鹿が大勢いるから」だという。アメリカ人は絶対に週末は働かなくて教会に行くし家族との時間を大切にするが日本人は会社のために週末を潰すと言う。インド人も祭りや自己都合でかなり休むし、そもそもインドですら給与がかなり高くなってきているので日本人とそう変わらない給与の人もいたりする。シンガポールの給与はとっくの昔に日本人を抜かしています。日本人はサービス残業をするような人もいるので、赴任先の社長さんのような発言も納得できます。<br /> <br /> これは私の周囲では周知の事実だが、今だに日本人はインド人が「安い」人材だと思っています。確かに月給ベースで見たら日本人より安いことが多いが、分業の文化で事細かくに指示する必要があるし、日本人は曖昧な要求でもなんとか作ってくれる。グローバルにみればそれは「コンサル」であり高給取りの仕事であり、月300万円の仕事であるのだが日本では実装レベルの担当者が細かい要求を聞いてくれる上に、本来は顧客の責任のことまでIT開発会社の責任として押し付けられるのが当然になっています。グローバルに見たらそれは通じないので、同じことをインドの会社に発注したら追加請求されるところを日本の会社は請求しないので発注者側から見たら日本は「安く」見える。よって、グローバルにみれば日本人は「安い人材」だ。かと言って日本で高いお金を取ろうとしても取れないので単価は上がらない。日本の顧客(クライアント)はパワハラが多くて、要求をしっかり出せないのに怒鳴ったり殿様対応を当然のように要求してくるので面倒ですし、そもそもあまりお金を払う気のない乞食のような顧客が多いのでやっていられないと思っている人は私の周囲に大勢います。乞食のような顧客はいかに安く作ったかを自慢するし、どこかのおかしなIT技術者がパワハラされるがまま安く作ってしまったりするとそれが定説になってしまうし、裁判の事例を見てもクライアントに有利に働いているし、請負の法律も長年の保証を義務化しており、IT開発会社はとてもやっていられない状況になっています。IT技術者があまりにも安く作ってしまって、IT技術者はカツカツの生活をしていながら顧客が潤うような状況を数多く見てきたが、何故かはよくわからないがIT技術者はそんな安く作るのが当然だと思っているらしい。であれば、世界の状況を一度知った日本人のIT技術者が英語という武器を手に入れたら海外に出てゆくのは当然。外に出られるのであれば、こんなパワハラと乞食がたむろしている国で奴隷のように使われる理由はないわけです。<br /> <br /> 日本だと、会社にもよるが、サービス残業をしないとパワハラでネチネチと精神をやられ、深夜残業や休日出勤せざるを得ない精神状態に追い込んで最後は使い捨てされる場合も多い。特に富士通系列は最悪ですし、子会社ならまだともかく、下請けのパワハラは尋常ではなく、そもそも論理的に破綻していることを言って精神的に追い詰めるのでもともと健全な人も数年のうちに精神をやられるかそれに染まって加害者側に回ることが多い。日本で健全なIT企業は、昔ながらのところではなく、新興の、自身でサービスを提供しているところは健全な場合もある。それよりは、海外の方が健全なことが多いし給与もきちんとしていることが多い。もちろん、変な会社も多いですけど。<br /> <br /> とまあ、とある日、そんなことをチャットで話していました。<br /> <br /> この種のサービス残業およびパワハラ、そして一部には「暴力」のある日本のIT業界は必ずや世界で日本の評判を地に落としてゆくでしょう。これは寝言ではなく、私がかつて務めていた会社のシンガポール支社に転職してきた現地採用の子が、富士通のシンガポール支社で働いていたときに日本人赴任者が他の赴任者を罵倒して精神的におかしくさせたばかりか、殴る蹴るを繰り返していてとても怖かった、と話していた。赴任しているくらいだから日本ではそれなりに評価を受けていたのでしょう。であれば、これは単なる下っ端の戯言として片付けるわけにはいかない。口でパワハラするばかりか、暴力で相手を膝まづかせようとするようなやり方では、到底、世界の心を掴むことはできない。それが小さな吹けば飛ぶような会社ならばともかく、日本を代表する富士通のような会社で行われているのでは日本の評判は地に堕ちる。その現地採用の子は本当に怖がっているらしく、それほどであれば、他の人にその噂はとてつもなく広まっているのでしょう。少なくとも、私のかつての赴任者仲間では有名な話だったので小さな赴任者社会では知れ渡っていると思われる。こういう話は広まるのが早いし信憑性もある。<br /> <br /> そもそも、要求をきちんと出せない時点で日本のITは下に見られています。要求をきちんと出すのは世界標準のITでは当たり前だが、日本では裁判所までが発注側(クライアント)寄りになっており、クライアントはあまりよく分からないのだからITシステム開発会社がそのくらいは考慮すべき、などという判決を堂々と出しているが故にクライアントが曖昧な要求で良いという風潮が定着しています。<br /> <br /> 私のかつての赴任者社会では日本のITはさほど優秀でもない、というのが定説だが、日本のマスコミは日本人IT<br /> 優秀説を広めているので実際に世界を見ている赴任者仲間の肌感覚とはかなりズレがある。<br /> <br /> だからと言って私のような個人が何を言ったところで大きなところは変わらないので、個人ができることと言ったらITの仕事を辞めるか或いは世界に出てゆくという選択肢になるわけです。<br /> <br /> 考えようによっては、日本のITは安いのだから海外から日本に発注するのならアリかもしれないですしね。日本にいるIT技術者が死ぬ思いで作るのが当然だと思っているのであれば、自分で決めたルールなのだからそれに従えば本人も不満はないのでしょう。嫌ならば辞めるか出てゆけば良いのです。私としては日本のIT技術者が総ボイコットして欲しいと思っていますが、それに甘んじているのならば使わせて頂くまでのことです。まあ、そういう機会があれば、の話ですけど。<br /> <br /> 日本の場合、事細かなことを言うと「そんなことより大局を見るべき」とか言われ、大局を語ると「もっと細かな事を考えろ」と言われ、結局は押さえつけるだけの詭弁でしかなく、あれこれ言葉で「ごまかし」をされるだけの日本ではお互いがお互いを引っ張りあって落ちてゆくだけです。海外の場合はそこははっきりしていて、事細かに指示が出せない人は下に見られます。大局を見るのはマネージャーの役目ですから、例えば実装者が大局の誤りに気付くことがあったとしても、それを指摘こそすれ、自分の責任とは考えず、日本のように、それをカバーするために週末まで働くようなことはしません。海外であれば、それは顧客或いは仕様を纏めた人の責任だから自分には責任がないと完全に割り切って考えますから、その責任をカバーしようとは思いません。これは良し悪しではありますが、世界はそう言うところなのですから日本人が他人の責任を負おうとしても理解されないですし、そう言う世界と関わり合いを持つ日本人は尻拭いばかりする役目に回されることもあります。<br /> <br /> 海外では説明責任があります。間違ったことを言えば責任はありますが、日本の場合は「クライアントはよくわからないのだから開発会社が指摘するのが当然」などという裁判の判決が出てクライアントの責任が問われないことがあります。だから、クライアントは「俺はよくわからない」という黄金の言葉を連発するのでしょう。海外ならそんな発言は裁判でも無視されます。<br /> <br /> ですから、海外に出るのであれば海外のやり方を理解しないといけないですね。日本の場合は仕様書が出来上がっても、ページ数さえあれば「こんなにも出来ている」とみなされるのですが、海外の場合は、その通りに実装してきますから、論理的におかしかった場合でも責任は絶対に取りません。それがグローバルスタンダード。顧客の落ち度をITシステム会社が被るなんて言うガラパゴスな日本の風潮は世界では通用しません。顧客にとってはそれが天国でしょうけど、海外のITシステム会社に「安いから」と言って発注したら、要求をしっかり出せない日本のクライアントは必ず泣き目を見ます。結局、日本のIT技術者を搾取するのが一番安上がりと気付くことになりますが、それも、日本にIT技術者がいる間だけのことです。海外の人材が入ってきたり、日本の人材が海外に流出したらそんな状況も変わってゆくでしょう、と思いたいところですが、今日本で奴隷のようにこき使われているIT人材が年寄りになって引退しないと変わらないでしょうね。あと数十年。私はそれを待つわけにはいかないので、他の方法を考えないといけないわけです。<br /> <br /> 海外だと、そもそも「怒鳴る」ような人材は下の下とみなされますからね。更には「暴力」なんて全く相手にされないどころか、人間扱いされません。メンタル面での振る舞いも重要ですけど、足を引っ張りあっている日本ではリーダーが出にくい状況になっていますからね。かと言ってIT技術にしても、日本の場合は「文系の方がいい」なんて言われているような状況で、コーディングもまともに出来ない人材が「コーディングなんて下がやるもの」なんて言っているので、設計からコーディングまでマルチにこなす世界の人材と渡り合える人は稀ですし、日本の場合、そう言う人は評価されないので伸びません。日本がIT技術凄いなんて言っているのは日本人だけなのに、多くの日本人はそれを信じません。ただ単に、昔は日本円が強かっただけの話ですが、今は為替ドル円レートはそのままでも、海外の物価が数倍にどんどん跳ね上がっていますので日本人はどんどんと貧乏になってきていて、お金でも海外に負けつつある。こんな状況も海外は知りつつありますから、ますます日本人は世界で目立たない存在になってゆきます。イギリスのように「自分たちはかつて世界を治めていて、技術も凄かった」と自称する国になってゆくのでしょう。自称天才の国・日本、と言うわけです。<br /> <br /> ■事例<br /> 日本の発注者(クライアント)は往々にして、リスクを外注に丸投げします。そして、出来なければ「請負契約」を盾にして無理やり作らせます。又、日本の発注者(クライアント)は何度も見積もりを繰り返して、無料のままIT開発会社に「発注前提」と言って騙して作業させて、ある程度出来てきたら再度見積もりをして更に安いところに発注して終わりにするような悪質な発注者(クライアント)がゴロゴロいます。<br /> <br /> 例えば、iPhoneとAndroidアプリを改造して20万円とかで希望を出すような場合、更にそこから値切ってくるような悪質さです。例が悪いですかね? 例えば、一軒家を500万円で建ててもらおうとしているのにいくつも相見積もりを出して、建築会社に迷惑をかけるようなものと言ったら解りが良いでしょうか。一軒家を500万円から450万円に値切ってくるようなお客は建築会社は相手にしなくて追い出すでしょう。そんな感じの発注者(クライアント)がゴロゴロいます。それでいてVIP対応しないとキレてくるのですからたまりません。500万円で家を建てるなら自分で勉強をするのが当然で、しかも、何件も相見積もりを出すなんていう非常識なことをしたら建築会社はキレて当然です。開発会社だって同じです。モンスター・クライアントの相手なんてしていられません。値引きするためには多少なりとも人を使わないと行けませんが、当然、費用がかかります。もともと激安で作ろうとしているのであればクライアントが内容について説明をして協力をするのが当然なのにVIP対応が当然だから勝手に開発会社が調べて提案すべきと思っているモンスター・クライアントが意外にわらわらといます。そんな激安で作るのならば1社に見てもらったら発注すればいいのに、明らかに発注直前まで無料で検討してもらった案件をそのまま流用して他の会社に続きを検討させるような非常識な会社がゴロゴロしているのです。<br /> <br /> 具体的には、この前、簡単なiPhone/Androidアプリの改造だと言うから話を聞きに言ったところ「俺はよくわからん」と社長直々に言った挙句、担当者もいない有様。よくわからない、などというのは責任を持ちたくなくて、後で「分からないと言っただろう」と言って開発会社に全責任を負わせるための発言だからそんなことを言う時点で受注はナシと思ったがもう少しだけ話を聞いてみることに。聞くと、相見積もりをしていて、他の会社は16万とかでやると言っているからもっと安いところを探していると言う。こんな、一軒家を500万円で建てようとしているようなものなのに開発会社に作業を少なからずさせて何件も見積もり出しているようなコスト感覚のないような顧客というだけで幻滅したので受注はナシと判断。今回せっかく作業しても次の仕事があるかどうかも分からない、と言う継続性のない相手という時点で更に受注はナシと判断したが、とりあえずいつ頃作ったのか聞いたら何年も前だと言うではないか。それでいて16万で改造すると言っている他の会社は見誤っていると完璧にわかったので、やはり受注はありえないと判断。多分、受注した会社は後でそれに気付いて追加で100万円でも請求しようとするだろうが、それでおそらくモメにモメるでしょう。簡単にキレるようなモンスター・クライアントに追加で100万請求なんて受け入れるわけがない。説明してあげようかなと思ったけど、あまりにも非協力的だったので勝手にさせることにした。受注しないのなら関係ないですからね。発言からいろいろ見抜くのもスキルのうちで、非常識なクライアントにわざわざ教えてあげる必要もないわけです。<br /> <br /> ちょっと専門的になってしまうが、iPhoneのアプリの開発言語は昔はObjective-Cという言語でその後Swiftという言語に変わったのだが、作成した年と最後に更新した年を聞くだけで昔のObjective-Cだとわかった。最後に更新した年はSwiftはまだなかったのだ。であればSwiftより難易度が高いので単価は高くなるが、他の開発会社は見積もりを間違っていると判断。更には、今はSwiftが主流なので各種機能がSwift対応がメインになってきているし、改造しようとしたらSwift対応が必須になって追加請求が必要になるだろうと推測した。もしかしたらObjective-Cのまま頑張るかもしれないが、きちんと直そうとするならSwift対応が必要になるでしょう。もしかしたらObjective-Cだと審査で落ちる場合もあるかもしれないのもリスクだ。少なくともSwiftは古いバージョンだと審査が通らないので、それも十分にあり得る。おそらくSwiftへの更新には200~300万円かかるが、もしかして100万円でやる酔狂な会社もあるかもしれない。どちらにせよ16万円の仕事ではない。<br /> <br /> そんなことを説明しようかと思ったが、クライアントが聞く耳を持たないし、そもそも説明してあげる義務もないので黙って断ったら案の定キレてきた。「俺の時間を無駄にしやがって」とか言うが、20万で発注しようとする非常識なクライアントがそんなことを言う権利はない。これが常識的な価格である100~200万円払う気のあるクライアントならそんなことも言う権利がなくもないが、非常識な価格しか払うつもりがないクライアントがそんなこと言っても、ただのモンスター・クライアントでしかない。<br /> <br /> こんな非常識なクライアントがゴロゴロしている日本ですから、IT技術者はそんなクライアントを相手をしても精神を擦り切らすだけで人生の無駄遣いです。<br /> <br /> そんな非常識なクライアントでも、たまに酔狂なIT技術者・IT開発会社が受けてしまって安く作れることもあるかもしれないですから世の中は不思議なものです。でも、大抵の場合はそんな非常識なクライアントは相手にされないでしょうけど、学生上がりの世間知らずなベンチャー開発会社は騙されるかもしれませんね。私が上で話を聞きに行ったところも、長い間、学生上がりのベンチャー開発会社に作らせていたがその会社が事業を閉じたので他の開発会社を探していると言うことだったが、その学生上がりのベンチャー開発会社は都合の良いカモになって色々してあげていたんだろうなあ、と想像できます。元々の要求にないことを次々に行って作らせるようなクライアントは、程度問題ではありますが、非常識なほどやらせるようなクライアントは相手にしてはいけないのです。16万で大改造させるような非常識なクライアントは、酔狂な人以外は相手にしないでしょう・・・ と思いたいところですが、それでも世の中は不思議なことに、それでも仕事をする人がいるんですねえ。日本ってとても不思議なところです。そんなに安いならIT技術者なんて辞めてしまった方が稼げると思いますけどね。乞食のように金のないクライアントや金を払うつもりがないクライアントとはそもそも付き合わなければいいだけなんですけどね。仕事に関しては、お金の切れ目は縁の切れ目です。<br /> <br /> きちんとお金を払う顧客ならば、開発会社もきちんと対応するのです。500万円で家を建てようとしている人は建築会社にあれこれVIP対応を期待することはできないのと同様、たった20万円しか払おうとしない顧客が開発会社にあれこれとVIP対応を要求するなんておかしな話です。それでいて対応が少しでも気に食わないと怒鳴ったり罵ったりネットに悪口をばら撒いたりするモンスター・クライアントがいるわけです。たまに、このような常識外れの安値でやらせようとしているのにも関わらずVIP対応の必要性の正当性を論してくるような勘違いもいるから面白いですね。そう言う話はきちんと金払う人だけができるのですよ。そう言う常識的な対応は、お金を払っている人だけが受け取ることができるのです。常識を論する資格があるのか、というお話です。<br /> <br /> そんな仕事は最初から察して引き受けないのが一番ですが、引き受けた後にそれが判明して、あまりにも揉めるならば開発会社は「お金はいらないから開発を辞める」と言って一切手を引くのが潔いやり方です。損害賠償請求されるかもしれませんがそれも仕方がないでしょう。開発を続けた方がよほど損失になることが多い筈なので早めに引けばいいのです。それでも開発会社は続けてしまうからクライアントになめられるわけです。途中で辞めるのは海外だと普通ですよ。要求をコロコロ変えたとしても、きちんとお金払うなら普通にやってくれますが、要求を変えても追加でお金を払おうとしない顧客は相手にされなくなります。それがグローバルスタンダードです。<br /> <br /> 私も、日本で受注開発をやろうとした時に、最初は健全に費用請求しようと思いましたが、24時間働いて安く作業するような「馬鹿なIT技術者」が大勢いるためにコスト競争に勝てないとすぐに気付き、受注開発はやめました。日本でやるならWebサービス提供しかないですね。受注開発は立場が悪すぎます。他人のためにリスクを背負ってあげるようなカモのIT開発会社が減らない限り日本の状況は変わらないのでしょうね。<br /> <br /> この世は喜劇でしかないと思いますよ。労せずして金を山のように稼ぐ人がいる一方、逆の人もいます。正当かどうかは自分が決めることでしかない。この安値でやるのが正しいと思えばそうなるし、違うと思えばそうなる。判断を相手に譲り渡してしまって、自分の判断をしていない人が多いからこんなことになるのだ。上に書いた学生上がりのベンチャーのように、相手の意見をハイハイ言って聞いていたら倒産してしまったなんてことはよくある話だ。倒産してもクライアントは全く同情してはくれないよ。下級の人材ほど「顧客の言うことはハイハイ聞くべし」という社是を掲げています。そこに「自分」がないので相手に搾取されるわけです。<br /> <br /> 最低100万、適正200~300万円の仕事を20万円が予算だと言われて、断ったら怖い系の圧力で罵倒された経験がある人がどのくらいいるでしょう? 開発会社はITのプロで、クライアントはITに関しては全くの素人だ。単純な概要レベルのキーワードも知らないようなレベルの素人クライアントが顔を真っ赤にして怒鳴って開発会社にやらせることが正当化されるような業界に未来はないよ。日本でも若者はそんな仕事には関わらない方がいいし、海外では全く通用しない。怒鳴った時点で下の下の下流ですからね。論理的に静かに言えない人材は世界では全く通用しません。怒鳴られた時にちょっとでも検討する気配を見せたら「ニヤリ」とした顔を垣間見せるモンスター・クライアントがいますが、その気持ち悪さったらありゃしないです。安くこき使おうとしているのがミエミエです。こんな業界、誰も関わるべきではないです。それでも、悪徳商法のごとく、世間知らずの若者は騙されるのでしょうね。繰り返しますが、日本でIT関連の仕事につくなら自社サービスやっているところをオススメしますよ。受注開発には関わらない方が良いです。あるいは、海外に出てゆくかですね。<br /> <br /> 日本人はお人好しなのか、何かちょっと言われるとすぐに真に受けます。海外の場合、理由がなければスルーするのが当たり前ですが、理由がなくても日本人は間に受けます。海外では、理由が矛盾しているような場合は御都合主義と見なされて完全に相手にされなくなりますが、日本人は何故かそんなクライアントや上司にも付き合ってしまうのです。下流の人材になればなるほど理由が矛盾するものです。下流の人材になればなるほど怒鳴ったりマインドコントロールして他人をコントロールするものです。そんな下流の人材は世界では通用しません。日本のマインコントロール社会に染まる前に、特に若者は世界へと出て行くのがいいと思いますよ。上にも書きましたように、自社サービスをしている会社はそれぞれなので良いところはあると思います。とはいっても、少なからずこう言った文化に影響はされているでしょうから、日本のIT業界は全くお勧めしませんね。<br /> <br /> IT技術者は論理が大事で緻密な作業をする筈なのに顧客に矛盾した要求を出されてもハイハイ答えていたら、出来上がった時にクライアントに「なんだこれは」「こんなの頼んでない」と怒鳴られて炎上しますよ。かと言って矛盾点を指摘すれば「お前はうるさい」と言われることもあるし、ハイハイ答えつつ違うように少しづつ説得して方向転換しつつ作るという高等テクニックが必要とされる面倒な日本のIT社会ですよ。それでいてお金が安いのだからやっていられませんね。海外へ出ましょう。<br /> <br /> 日本で一番下とみなされている「IT土方」みたいな人が一番海外で活躍できると思いますよ。日本の場合はほとんど丸投げですからプロジェクトマネージャーや設計者の理解よりも一番下の実装者の理解の方が進んでいることが多々ありますから、そこにこそノウハウや技術が貯まっているのです。<br /> <br /> 海外では設計者と実装者とが一体になってプログラマと呼ばれていますので、日本でコーダを意味するプログラマとは役割が違っています。海外でプログラマと言えば設計から実装およびテストまで一通りできないと通用しませんので、日本の設計者は設計が中途半端でコーディングはできないので海外で通用せず、日本のプロジェクトマネージャーのほとんどは下任せできちんと指示できないので海外では通用せず、日本で一番下とみなされているプログラマこそが海外で通用する人材なわけです。日本ではプログラマは実装するだけだと評価されていますが実際は設計はプログラマが行っていて設計をしている筈のシステムエンジニアは成果泥棒しているだけなんて普通によくあることですからね。そうじゃない場合の方が珍しいのでは。あるいは、分担制ではなく同じ人がシステムエンジニアとプログラマを兼ねている場合はうまくいっているかも知れませんが、それはつまりは海外で言うところの設計から実装までできるプログラマなわけで、そのプログラマは海外で通じるでしょう。<br /> <br /> というわけで、設計もできてプログラミングもできる人材は英語を勉強してどんどんと海外へ出ましょう、というお話でした。海外で一番稼げる人が安い給与で甘んじている必要はありませんよ。<br /> <br /> 大人が子供に勉強の必要性を教える時に給与だとか就職だとかばかり言いますが、重要なのはそこじゃないと思いますよ。勉強しないでいると「まとも」な人がいる会社に就職できないから、理屈がきちんと通じる会社に勤めるためには勉強した方が良いのですよ。そうでなければ訳のわからない上司の下でパワハラ・モラハラだけでなく、訳のわからないことを言われたり理不尽な押し付けをされてメンタルをやられます。学歴が低かったり給与が安いところほど「訳のわからない、精神的におかしい、他人を見下す人」がいる割合が多くなります。だから、きちんと勉強して「まとも」な人がいる会社に勤めるべきなんですね。<br /> <br /> ITバブル以前は優秀なプログラマが大勢いたんですけど、最近はよくわかりませんね。どこに行ってしまったのでしょう。あまり見かけなくなりました。趣味に走ったり、辞めてしまったのかもしれないですね。<br /> Fri, 05 Oct 2018 00:00:00 +0900 ITスタートアップを2年で終了することにしました https://w-jp.net/2018/1477/ <br /> 会社を休眠することにしました。設立から2年。形としては個人事業に戻ることになります。法人は今期(来月末)で終了です。<br /> お世話になった方、ご心配頂いたり支援をして頂いた方、ありがとうございました。ひとまず一旦、ここで区切りにしたいと思います。<br /> 対外的に大した結果は出ていませんが、最初の1年でやりたいことは大体やり切った感じですので個人的にも十分満足です。2年目は惰性で続き、今は終了に向かっています。もし売上が上がって動き出していたら極限まで不幸になっていたかもしれませんので、おそらくこれが一番良かったのでしょう(詳しくは詳細参照)。<br /> <br /> [詳細]<br /> <br /> ウェブ系のソフトウェア事業的には法人格があるかどうかはそこまで重要ではないのでもともと法人格がなくても良かったかもしれませんが気持ち的にも経験的にも、あるいは受注開発などでの対外的な付き合い的には作って良かったと思います。法人にすると色々とお金がかかりますしリスクはもともと大きなものを想定していたものの、それより遥かに大きなリスクがあると実感しました。勉強になります。自己資金の小資金でお試しをして、この辺りが損害も少ないので引き際と言ったところです。株で損切りできない人はこのままズルズルと続けるのでしょうね。ある意味、とても良かったとも言えます。ここでリセットです。<br /> 資金は自己資金ですし借金もありませんので他人に迷惑をかけていないために簡単に辞めることが出来ました。これで出資者がいたり借金があったりしたら簡単には辞められなかったでしょうね。やはり起業は自己資金に限ります。おそらく、資産を全て売ってでも金返せと言われていたかもしれません。日本の場合、出資と借金の違いがよく分からない人が多いですから、出資をした筈なのにいざ損が出たら(内臓売ってでも)金返せと平然と言う人が大勢いますから。<br /> <br /> ■全ては完璧<br /> 成功も失敗も含めて全ては完璧です。喜びや悲しみも含めて全ては完璧なのだと思います。<br /> なまじ中途半端に会社が動いていたら見た目は好調で人を雇ったりしたらなかなか辞められなくなって、よくあるように「運営資金を借りていたら雪だるま式に増えていって、連帯保証人になっていて最後には破産」になっていたことでしょう。今まで勤めていた企業のサイズに応じて企業や起業の大・中・小をそれぞれ垣間見ることが出来て興味深かったです。私の場合、使っていた人材が国内ではなくて海外なので閉じやすいというのもあるかもしれません。<br /> 成功も失敗も全てに(隠れた)理由があって完璧でしたし、これからも完璧でしょう。こうなるように見えざる手が導いていたように思います。<br /> <br /> ■やっぱりお金が大事<br /> お金、学歴、あるいは実績がないと世の中で相手にされません。当たり前と言えば当たり前。お金なら最低1億円。世の中にインパクトを与えたいと思うのであれば10億円は必要。お金を稼ぐという目的での事業化は長期目線になる。世間を騒がせているスタートアップは数十億円つぎ込んで赤字のまま上場したりしているから生半可では勝てない。お金を効率的に増やすなら投資あるいはIPOしかないが、初期費用の捻出であれば投資しか選択肢がない。投資でお金を稼いでから実業で世の中に貢献する、というのが流れになる。アイデアがあってもお金がないと実現しません。私の場合、コスト最小で利益最大を狙ったけれどもあえなく空振り三振。それはそれでダメージが少なくチャレンジできたのでよしとします。見た目良く体制を整えていて利益でていなかったら今頃自己破産でしょう。<br /> <br /> ■融資?<br /> 銀行にお金を借りに行くと連帯保証人にさせられてしまうので銀行から借りるという選択肢はないです。ベンチャーの成功確率は1割以下なのに1回の失敗で破産なんてところに賭けるわけがない。お金を借りて社長になるのはほぼ確実に破産コースです。一時は大金を手にしていい思いをするかもしれないですが。一時の夢に溺れて多額の借金を背負うというのが失敗コースの定番です。<br /> <br /> ■投資?<br /> 成功しているところのほとんど借金/融資ではなく自己資金あるいは投資を受けています。ただ、投資を受けるにしても、日本での投資環境は非常に悪い。学歴で信用してもらうには東大やハーバードのレベルでないと雑魚扱いされます。実績で主張するのであれば有名な国際コンテスト表彰レベル、従業員数でいうと初期で10人は居ないと雑魚扱い。VCの投資を受ける場合、上記のいずれかにマッチしていないと雑魚扱いです。しかも、日本の場合はVCが異常に多くの株を要求するので、ベンチャーと言いつつも実質は単なる雇われ社長になっていることが多い。雇われ社長であるならばそもそも普通に会社に務めた方がいい。博士号を取ったような優秀な人材が起業する場合であっても「出資」と「補助金」の違いがわかっていないからVCに株の97%を渡して事業家が株保有3%とかいう冗談のような事例が多々あるため、日本のVCはそういう「安い」起業家を探すことが多いようです。日本の起業家は甘く見られています。アメリカなら起業家が多く取るのが当たり前ですが、そのような投資は日本では期待できない。日本の場合、事業家は投資家からカモとして見られている面があります。<br /> <br /> お金を出してもいいかも、という話があったとしても、大抵は条件が悪すぎる。利回り要求だとか金利だとか。あるいは、投資と言っておきながら実は金貸しだったり。投資と融資の違いがわからないカモを探している人もいるようです。あるいは、そもそも貸す気がなくて事業のネタが欲しいだけだったり。融資だとか事業化だとかそれっぽい態度を取って一緒にやると言いつつも実際はほとんど動こうとせず、こちらにほとんど考えさせて自分は利益を受け取るだけのいわゆる「フリーライダー」もわらわらと寄ってくる。私の場合、特に最初は毅然とした態度で拒否できなかったので時間を無駄にしてしまった。初期メンバー間での創業者間契約のようなものが特に大事。口頭だとトラブルになるし、お互いに相手に対する期待が違ったりすると必ずトラブルになる。自分が貢献していると思っていても相手はそうは思っていないことも多々あります。お互いの思いと実際の貢献はまた別ですし、後のフェーズで役立つことはあるかもしれない、とか思惑が付き纏うが、ベンチャーあるいは投資としては今の目の前の現実だけを見て基本は判断する必要があります。だから、使えないと思った人材は切る態度が必要。最初から将来を見据えて付き合うのはあり得るが。やはり、人を見る目がとても重要。<br /> <br /> ■事業をやり直すのであれば<br /> まず10億円キャッシュで用意する。これくらいないと本業で活躍できない。世の中、お金があれば解決できることが多い。<br /> ある程度の規模になってから赤字になったら追加で億円単位でお金が必要になるので余裕資金まで想定しておく必要があります。キャッシュがないと立て直しもできない。<br /> <br /> ■2年間の収支<br /> 収支はもちろん赤字ですが、会社運営するにしては小さな数字だと思います。<br /> 作業場は自宅ですし出費もさほどないですから。 <br /> <br /> ■そもそもの目的<br /> Webサービスの立ち上げがそもそも目的で、それは単体の売上は小さいけれども積み上がるものを想定していた。この種の事業は省力で倍々に伸びてゆく可能性がある一方で、特に最初は黒字化に時間がかかることが想定されていたために短期のキャッシュのために受注開発も行うことにしたという経緯があります。今後、受注開発だけ続けると言う選択肢もあったが、受注開発はリスクが大きいのでそれであればフリーあるいは普通の従業員でも良いし、そもそもの目的であるWebサービスが上手く立ち上がらないのであれば続ける意味もあまりない。<br /> <br /> ■Webサービスの話<br /> 開発者向けWebサービスはニッチな需要を狙ったが、この種のものは移り変わりが激しいため、予想以上に小さな会社は相手にされなかった。会社のインフラとして選ばれるのはMicrosoft Azure, Amazon Web Service, Google Cloudなどが多いのは当初からわかっていて、それでも市場が大きいので少しでも取れれば良いと思っていましたが、予想以上に相手にされないし、マーケティングのコストもかけられないし私自身の知名度もないので新たなマーケット形成には至らなかった。アメリカを見てもこの種のインフラ系スタートアップは利益を上げられずにクローズしてオープンソース化したり大手に買収してもらっているところが多く、後者のような買収によるイグジットを当初は想定していたのですが、とりあえず前者になりそうだ。ある程度の知名度がある会社の中で働いていたときは一応話を聞いてもらえたりしたが、会社が新しくて自分にも知名度がないと全く相手にされない。技術的な話をして通じるのは実務者ですが、その実務者から好意的な反応をもらったとしてもこちらの会社の知名度で採用されないし、結局は大手やMicrosoftやAmazon,Googleなどが選ばれる。担当者からすれば、小さな会社を選ぶよりは大手を選んでおいたほうがリスクが少ないし、トラブルがあったときに「マイクロソフトの不都合です」「Amazonの不都合です」「Googleの不都合です」と言っておけば上司も「しょうがないか」と思ってもらえるという風土もありますね。上司は結局、その説明を更に上司にしなくてはならないので一番安全なものを選ぶ事が多いでしょう。本当に多大なメリットがありでもしない限りは。それを理解させるにはマーケティングに費用をかけて社長のレベルまで「いいね」と言ってもらえるようなマーケット作りをする事が理想ですが、そんなお金はもちろんありません。一点突破しようとしても、結局は私がターゲットにしているくらいの規模ですとエクセルやAccessだけでなく最近流行りのキントーンやセールスフォースが競合になるのでなかなか厳しいです。最終的には、自分が作るアプリのバックグラウンドでばかり使うことになりました。それはそれで自分は便利でいいのですが。普通は何人もで開発することを1人で出来ましたし。言っても他人にはあまり理解できないことではありますが。<br /> <br /> Webサービスは開発を簡易化するものですが、開発で簡単ツールを使っていると「じゃあ安くしろ」という圧力がかかりますので、一般的には大変なことを実は簡単に行って高いお金を取るのが受注開発のセオリーになります。ですから、自分たちで用意しているWebサービスと受注開発というのは実は相性が悪いです。Amazon Web Service, Microsoft Azure, Google Cloudの場合、それ自身ではなく協力会社がそのクラウドを使って顧客に提供していたりしていますが、まともにそれをやると大した額を取れなくて破綻します。それでいてどうしてうまくやれているかというと、協力会社が受注してそのクラウドを使うと月額のキックバックがあるらしいのです。ですから、自分たちは最初顧客からあまり取らなくても将来的な月額収入が必ずあるので成長していけるわけです。自分たちで両方提供してしまうと「じゃあ安くしろ」の圧力に対して説明が難しいです。両方やる、と言うのは理想的に見えて実は相性が悪かったかもしれない、と言うお話です。<br /> <br /> ■会社の今後<br /> 休眠なので再開しようと思った時にすぐに再開できるのがメリット。とりあえず、私の目指していたようなWebサービスを開発する分には会社があってもなくても基本は関係ないので休眠で十分です。受注開発のように損害リスクのある事業があるのなら無限責任を回避するために会社を残しておくのも手ですが、それは契約で何とかなるし、ひとまず身軽になるために一旦会社を休眠します。<br /> あまり使われていないサービスは閉鎖。オンライン英会話スクールはどうするか微妙。フィリピン側次第では個人事業で細々と継続です。<br /> <br /> ■IT関係の受給と今後<br /> IT関係は技術の高さや品質の良さよりもコストで選ばれる時代。特に日本はそう。アメリカに行くならITは面白そうですが、日本だと単なる下請けが多いので面白くないし、受注開発は発注側がよくわかっていないので面倒な話が多い。ある程度の規模の会社であれば付き合う相手もまともで話が通じるが、小さい会社だと付き合う相手が訳のわからないところだったりするので話が進まない。アイデアだけ言って自由に作ってくれと言っておきながら次々に修正してきて、しかも変更費用払おうとしない会社がたくさんいるので1社でもそういうところと付き合ったらあっという間に会社潰します。中規模から大きくなればなるほど金払いと常識的な事項に関してまともになってゆきます。<br /> <br /> 大手であればコンサル費用は月300万で、加えて制作費は月100万円は取れるが、小さな会社が付き合う相手だとコンサル費用なんてとても払えずに、とても安い制作費だけであわよくばコンサルもしてもらって修正費用も全て含めてもらおうとしているセコイところが多いし、大抵の場合は見積もり出しただけで終わりだったり、この業界は見積もり段階で少し作業してしまうとその成果物を請求できずに勝手に流用されてタダ働きさせられることが多い。かと言って、タダ働きしないと受注できない世界なので、セコイところは多くの会社にタダ働きさせてある程度の検討が進んでから製作だけ安いところに発注しているような世界。受注開発は大変な割に儲からないので、やるならばやはりWebサービスしか選択肢はない。これはやる前からわかっていたことで、今更何かが変わったわけでもない。<br /> <br /> 単価はアメリカが月300万円なのに対して日本だと60~100万円なので経費を考えると大して高くないですし、この金額を出せるのはそれなりの規模の会社だけなので、小資金でスタートアップしようとしているところはあわよくば安く使ってもらうことばかりを考えている事を考えると、受注開発を続けるにしても面白くはない。インドのオフショア開発も宣伝してみたが反応は薄い。どうやら最近はベトナムでのオフショア開発が人気のようだ。<br /> <br /> ■起業家いろいろ<br /> 起業家にはピンからキリまでいることがわかりました。ある程度の大きな企業に勤めているとそこの従業員も付き合う相手もそこそこまともで「説明する」という基本的なことが当たり前に出来るのですが、起業家あるいは小さい会社の付き合う相手は訳がわからない説明をする人がいたり、明らかに全く分かっていないのにプライドだけ大きくて怒鳴ったり開き直ったり自分は全部分かっていると嘘ぶる愚か者がいたりして呆れ果てました。解釈が4つも5つもあってそれぞれにメリットとデメリットがあって、その人は何も具体的なことを言えないでいるのに私が纏めたら後付で「当然だろ。そう考えるのが当たり前」とか後出しジャンケンをしてくるばかりか、明らかに全然理解していないのに「自分はそんなの全部分かっているからその程度のことを纏めて御苦労様だねと」か高みの見物を嘘ぶってフリーライドしようとする人とは話しても無駄なのです。顧客なら我慢して「そうですか」とも言いますが、起業パートナーで自分から実業をせずにポジショントークをしてくる人は速攻で縁を切らないといけません。特に起業の初期メンバーで成果物のない人を信用してはいけないのです。日本の会社なら、飲み会などで相手のアイデアを引き出すことで上司がフリーライドできたのかな、と思います。特に起業家はお互いの信頼関係が大事ですから、お互いに相手の成果をきちんと覚えておいてお互いに相手を認めることができる人でないと信用されないのは、会社の中でも一般社会でもスタートアップでも同じのようです。特にスタートアップは相手に対する評価が厳しいかもしれません。速攻でお互いに切ってきますから。<br /> <br /> アイデアだけ言えば具体的なことを自分で考えなくても何処かの誰かがいつの間にか考えて作ってくれると思っている人を相手にしても時間の無駄ですし、そもそもスタートアップの初期メンバーに含めてはいけないのです。そんなときのよくある間違いが、相手と議論してしまうことでした。自分のことがわかっていない愚か者と議論したり論しても時間の無駄になるどころか逆に激しく怨まれるのです。最初の段階で適当に相手を褒めて怨まれないようにして付き合わないようにするのがいいようです。使えない人材を切っただけなのに怨まれるのですから。本当に使える人なら縁がなかっただけと解釈して次の場所で活躍すればいいだけのことでしょう。実際にリードしていけるくらいの人材であればこんな勘違いをすることはない筈ですから、勘違いをしているということは成功体験が薄いのでしょう。<br /> こういうのは、最初の勘が一番正しいことが多いです。その勘が間違っている可能性もあるにせよ、ある程度以上の確率で勘が正しいのであればとりあえず勘を信じるのが良いようです。<br /> <br /> スタートアップというと派手なイメージがあって、参加しようとする人も派手なところに乗っかろうという魂胆の人が少なからずいます。スタートアップでは幅広い色々なことをしなくてはならないのですが、「参加する貴方自身が実行しなくてはならない」という基本的なことがわかっていない人が一定数います。ギャグのような実際のやり取りとして、色々検討を進めるうちに「そんな大変なこと、一体、誰がそれを行うのか?」「貴方に決まってるでしょ」ということがあります。自分で作業をするというイメージがないままにスタートアップに参加してしまう人もいるようです。そんな根本的な勘違いが一定数あります。企業に務めて大事なことは「コツコツと積み上げること」ですが、一定数の人は、スタートアップをすればコツコツ積み上げなくてもいきなりジャンプして大金持ちになれると思っているようです。むしろスタートアップの方がやる事が多くて幅広くて、大企業に務めている以上にコツコツと全てを広範囲に積み上げる必要があります。その事がわかっていない人があまりにも多い。スタートアップを傍目から見て物珍しさを楽しむのと参加して実行するのでは天と地ほど違う。物見遊山あるいはフリーライダーは最初から参加させてはいけない。そういう人に限ってプライドが高くて、始めたはいいものの大変ですぐにイラついてきたり、ちょっとだけやっただけなのに物凄く進んだかのような錯覚をしていたり、大した成果物もないのに自分は凄くできるだとか自分は貢献しているだとか自分の貢献を奪っただとかトンチンカンなことを主張してきて、最終的には怨まれる。だから、そういうトラブルメイカーは最初から参加させてはいけない。話もしてはいけない。最初の勘でまずは切り分ける。途中でわかった段階で切り捨てる。役に立っていないことがわかっていながら話に絡めさせていると、いつの間にか自分が凄く貢献したかのような勘違いをされて、それに応じた分け前がないと後で必ずトラブルあるいは密かに怨まれる。<br /> <br /> 又、元々務めていた企業での体質が抜けないのか何なのか自分で動くという意識が薄いらしく、(意図的にせよ無意識的にせよ)自分が動かずに指示だけするなどして相手に動いてもらおうとするのはスタートアップではもってのほか。指示だけして自分は動かないつもりならばお金を出して投資家になるべき。それはそれで有りですが、金も出さずに口だけちょっと出して成果を貰おうとするフリーライダーもいた。私が少し話をした限り、若い人材がやっている有望なスタートアップは皆、自分たちで全て行おうとていた。一方、年寄りが怒鳴って動かすような旧来体制、あるいはニヤニヤして都合よくタダ働きさせようとするような胡散臭い年寄りのいるところではフリーライドやタダ働きが横行していた。全く違うので見分け方は簡単だ。概ね、バブル世代より上で少人数でやっている子会社、特にワンマン系のところは旧体制でフリーライドやタダ働きさせようとしているところが多い。若いスタートアップは、良くも悪くも純粋で、自分が騙そうとすることはあまりないが、騙されやすいところもあるかもしれない。上にも書いたように議論で決着つけようとして無駄で、何となく言い包められそうになると「そうなのかなあ?」と思いそうになってしまうが、所詮は頭が騙されているだけで、本質は頭ではなく自分の直感にあるので、直感がやはり正しい。頭で「そうかなあ」と思っていても直感が「間違っている」としたら直感が正しいので、相手を議論で論破する必要はなく、ただ「判断」を下せばいいだけだ。長く付き合う相手であれば相手の意見を尊重して、直感と違ったとしてもまずは相手を受け入れるなどする必要はあるが、ビジネスの判断はこれで良い。長く付き合っても意見を変えようとしない相手は、やはり切るしかない。<br /> <br /> マスコミのイメージだとスタートアップは優秀だとか宣伝していますが、スタートアップで優秀なのは初期メンバーと黎明期のメンバーだけで、後から入ってきた人は企業規模に応じたそれなりの人々なのです。<br /> <br /> 世の中は面白いもので、ITのことが分からなくても怒鳴って安く使い倒すことでITスタートアップしているような会社もありました。とある会社では社内にIT担当がいなくて、学生上がりのIT開発会社に発注していたのですがそのIT開発会社が倒産したから外注先を探しているとのことで話を伺ったところ、明らかに安い金額で、しかも「自分は技術はよく分からない」と言い切る有様。基本的なキーワードも知らないようです。話をするうちに、次々に要求を出して相手が倒産するまでこき使う未来が見えたので速攻で断ったのですが案の定キレられました。この会社のレビューが最低ランクだったのも容易に理解できます。あの規模のWebサービスを元々受け持っていたIT開発会社が倒産するなんて普通はあり得ないと思ったのでどうしてだろうかと疑問に思っていたのですが、どうやら常識外れの安い単価と非常識な要求を次々にこなしていて倒産したのだろうなあ、というのが垣間見ることができました。そういうスタートアップも世の中にはあるようです。やはり、最初の段階の勘を信じて切るのが重要ですね。バブル世代以上のワンマンな旧体制のスタートアップと付き合ってはいけないのです。<br /> <br /> 常識的な単価の提示に対して、「自分は技術がよく分からない」と言っている本人から「○○は幾らで作ったそうじゃないか。何でそんなにかかるんだ?」などと言われたりするギャグのような状況で笑ってはいけません。要求が違う事を説明しているのに理解していないのでしょう。同じものを作るのならばきっと同じコストで出来るでしょう。要求が違うのに同じコストや期間でないと可笑しいと言い切る分からず屋と付き合ってはいけません。顧客ならば説得するのですが、スタートアップのメンバーとして参加しておきながら理解せずに一人でトンチンカンな事を言うのであれば、速攻で切らなければなりません。<br /> <br /> ある時、10年前に有名スタートアップが1人でWebを作ったのだから今でも1人で作れる筈で、1人作れないのは可笑しい、もっと安く作れる筈だと小馬鹿にしながら言ってきた人がいます。こういうのとは付き合ってはいけないのです。そもそも要求が違うのです。説明しても理解できなかったのでしょう。その程度の人だったのです。早いうちに薄々気付いていたのですが切るのが遅かったのが反省点です。10年前だとWebだけシンプルに作れば良かったですし決済もオンラインで即時決済ではなかったでしょう。それは特に初期バージョンではそうです。当時はPCブラウザだけの対応だけで良かったですしデザインはシンプルでも十分通じましたが、今はWebはモバイル対応が当たり前ですし、Webのモバイルは使い勝手が悪いからiOS(iPhone/iPad)のアプリとAndroid用のアプリを「ネイティブ」で作りましょう、という話をしているのに10年前のWebしかなかった時代の事を持ち出して「◯◯は1人で作ったそうじゃないか。」と人の見積もりを馬鹿にして、「どうして1人で作れないのか? 可笑しい。もっと安く作れる筈だ」と言ってくるような人とは付き合ってはいけないのです。自分が理解していない点を説明して理解してもらおうとしたら、プライドを傷つけられたらしく恨んでくる有様。本当に時間の無駄でした。iOS(iPhone/iPad)のアプリとAndroid用のアプリの対応にしても、昔は「ガワアプリ」と言ってWebブラウザを被せただけのもので良かったのですが今はネイティブにそれぞれ作り込まないとそもそもiOSだと審査が通らないですしユーザの使い勝手も悪い。そんな事を十分に説明した筈なのに上記の事を言うような決定的に勉強不足で理解力が足りなくて、おそらく人の話をきちんと理解していなくて、理解していないのに分かったと返事をしていたような、人を小馬鹿にしたような態度を取るような起業家とは付き合ってはいけないのです。今から思えば、いいように返事だけしておいて全部私に作業させようとしていたフリーライダーだったのでしょう。世の中、色々な人がいるものです。ちゃんと自分の無知を認めていさえすれば全て教えるつもりでいたのに頑固に「自分は全部わかっている」と言う態度を貫くものですから、もちろん切りました。この種の人はスタートアップを酒のつまみにするくらいのが合っています。スタートアップを酒のつまみにしたい人と実際に行う人とは天と地の違いがあるわけです。越えられない壁があります。人当たりが良くてそれっぽい事を言う人に最初は惑わされても、一緒に仕事をすれば本物かどうかすぐに分かります。でも、そのような人が悪いと言うつもりはありません。人はそれぞれ自分が行える事を行うのであって、理解の範疇を超えたものが手に負えないのは誰にでもあり得る事です。それの限界を認める事が出来るかどうかも人の器であり、認める事が出来ないからと言って、誰からも咎められるものではありません。好きに生きれば良いのです。私の知らないところで。一応年上だしリスペクトしていたら次第に勘違いしてきたので、そう言う頭の悪い人とは相性が良くありません。多少のことは目を瞑って(密かに)相手を教育するつもりでいたのですが、実際のところ相手の教育が進む前に勘違いの方に進んでしまったのです。私はよくこうして相手を勘違いさせてしまう事が多いのですが、どうしたらいいものか。そもそも頭が良ければそんな勘違いもしない筈なのですが。過去の偉大なスタートアップは立ち上げ時から何年も積み上げてきて、立ち上がるまでは1人で作ってきたというのは理解できます。時間をかければそれは十分可能でしょう。しかし、我々は上記のような多彩なアプリを1ヶ月かそこらで作ろうとしているわけですから、1人では到底無理です。考えればすぐにわかることです。見積もりに期間という概念もなければ要求の幅という概念もなくて「1人」という言葉だけを取り上げて他人を貶めるような人は速攻切ってしまって良いのです。こういう人は、業界で「シーンスター(Scensesters)」と言うのかもしれません。シーンスターを起業家に含めてはいけないですね。絶対に。<br /> <br /> ■IT技術職いろいろ<br /> 技術職自体はやってもいいのですが、この業界は疲れる人が多くてエネルギーヴァンパイアや成果泥棒や技術泥棒だらけですし、アメリカと違って日本人技術者の単価は安いので費用対効果は最悪です。続ける意味ないです。趣味では多少続けても良いのですが。<br /> <br /> AI技術者になるべく勉強すると言う選択肢もあるにはあります。日本でも最近はAIの高度人材は市場で需要があるが、結果が見えにくい職業で、結果を出せるAIはかなり難しいのでブームが過ぎたら高コストのAI人材はお荷物と見なされるでしょう。本格的なAIができるまで10年間頑張るか? と言われると、それは微妙です。<br /> 日本のIT受給でいうと、どんどんと海外発注が増える筈なのでそこに入り込むという選択肢もなくはないが、そもそもITに関する個人的な興味が薄れてきています。<br /> IT関係で目新しいことは当分出てこないでしょう。ITでの勝者はほぼ確定しつつありますし。業界再編くらいはあるかもしれないですが、IT革命ほどの大きな流れは当分来ない。<br /> <br /> ■IT業界とその他の業界の違い<br /> IT技術は見えにくいので「見積もり」がし辛い状況にあります。建築などではほぼ正確な見積もりが出せますがITは正確に出せないので「要求変更による追加請求」が発生することがありますが、契約書に見直し条項があったとしても、請求する方もされる方もとてつもないストレスになります。人によっては後出しの詐欺だと思うことも少なくないでしょうが、固まっている業界ではないのですから仕方のない面もあります。一品物を作ろうとしているのに依頼主が既製品のつもりだったということなんて珍しくありません。そもそも、小さな会社の付き合う相手ですと要求が曖昧であることが多く、であれば見積もりも正確にすることは不可能です。例えば、オープンソースを入れて終わりにしたいだけなのに一品物の請求をされたという発注主と、相当にカスタムしないと要求を満たせないから請求する業者との認識のズレはそうそう埋まりそうにありません。久々にこの世界を垣間見て、やはり受注開発は素人相手にしてはいけないのだと思い知りました。発注主が「ITはよくわからない」と言っていたら受注は見送ることです。必ずトラブルになります。上にも書きましたように、どこそこはこれで出来たというではないか、などという金額が一人歩きして、それは「簡単なのになんでそんなにかかる」なんて話にすぐに結びつきます。素人さんを相手にしてはいけないのです。建築業界はある程度のコンセンサスがあって幾らくらいが妥当か基準があります。IT業界はどんどんと変わりますし、要求も変化しています。建築業界は要求はそうそう変わりません。IT業界だとWebのPC向けのシンプルなHTMLを1つ作ってサーバも1つで良かった時代はとうの昔に終わっていて、HTMLならPC/スマホ/タブレット対応は当たり前ですしデザインも凝らないといけないですし、そもそもスマホとタブレット向けにはネイティブなアプリを別途作る時代なのに過去の偉大なスタートアップが15年前に1人で作っていたから1人で作れるはずだとか本気で言い出して私の見積もりはおかしいと言い出すような世間知らずの素人を相手にしてはいけないのです。傍目に見て話を受け流す分には世間話で害はないですが、仕事で関わってはダメです。IT業界がどんどんと移り変わっていることすら認識していないような素人さんがITに参入してくる時代ですから、ここは厳しく関わりを切らないと自分が不幸になります。 きっと、子供の頃から今まで、相手を厳しく切るということが苦手だった私にそのような壁を作って相手を切る訓練をさせてくれたのでしょうね。 そうでなければ搾取されてしうだけでしょうから。 そのような成果泥棒やエネルギーバンパイヤと縁を切るために起業した筈なのに起業してまでそのような成果泥棒やエネルギーバンパイヤあるいは相手をコントロールしようとするような人と関わるなんてことになったらコントのような可笑しな状況になってしまいます。 上にも書きましたように、自分では凄くできると思っていたりしますと厄介で、本当に使えないのに自分は最高とか思っていたりすると関係を切るときに苦労します。 本当に面倒くさいです。 上に書いたように簡単に恨まれます。 そのくらいなら、ある程度の安定した企業で細々と搾取されていた方がマシということになってしまう。 IT革命の余韻が続いており、未だに「あわよくば私も一攫千金」という訳の分からない人が大勢いますのでなかなか大変ではありますが、ある意味、面白い世界とも言えなくもないです。私はもう十分で、お腹いっぱいという感じですが。 こういうのは諸刃の剣で、恨まれる人のことを考えてしまうと自分も同化してしまうので、綺麗さっぱり切るしかないのです。そして、関与して汚れてしまった部分は祓うしかないのです。戦おうとすれば巻き込まれるのです。汚れは祓って清めるしかないというのは神道的な考え方ですが、ここではそれが正解のように思えます。<br /> <br /> ■人生のサイクル<br /> 子供の頃から始まったコンピュータやその他諸々、人生のサイクルがちょうど1周した、という印象です。ここが分かれ目。もう辞めても良いです。<br /> もし、なまじ会社が中途半端に動いていたら辞めるに辞められなかったので、やはり私の人生は完璧です。<br /> <br /> ■私生活の今後<br /> 本業ではほとんど儲けがないし、投資もここ2ヶ月で大きな損益が出たので資産的には全てが2年前に戻ったような感じです。<br /> いろいろ経験できたので良いとしますが、もし奥さんがいたら「実家に帰らせて頂きます」と言われてしまう状況かもしれないです。<br /> <br /> 今後のことはあまり見えていませんが、成功も失敗も含めて全ては完璧ですので何とかなるでしょう。<br /> 夏休みはヴィパッサナー瞑想してきた後、ベトナムに2週間ほどヨガしに行きます。冬には1~2ヶ月インドに行くかもしれません。来年2月にKumbh Melaという聖者のお祭りがあるので見学したいのです。<br /> 来年春以降のことはわかりませんが、何かやりたいことが出てきたら普通に就職、あるいはそれまでの投資の結果如何によっては他の選択肢もあるかもしれません。<br /> 大学院に行って学び直すというのも手ですが、勉強なんてすっかり忘れてしまったのでやり直しも大変ですし授業についていくだけで一苦労かと思うとなかなか重い腰が上がりません。大学院案内を見ても、コンピュータ系の学科はもはや興味がないし、MBA等を取り直してもどれだけ有効に使えるかどうかもわかりません。興味があるとすればインド哲学とかですけど、そうなると私が苦手な文系の科目を受験勉強し直さなければならないので、それはそれでとても大変です。<br /> 今後のことはこれから数ヶ月かけて考えます。<br /> <br /> <br /> [追記]<br /> <br /> サイドビジネス時代も含めると約10年間運営してきたオンライン英会話スクールを閉鎖することにしました。<br /> <br /> 主な理由はフィリピン現地でメインの某スタッフ兼先生がニュージーランドに移住することになったからで、新たなスタッフとか事務局とか運営とか送金とかスタッフの信頼性とか競合とか先生教育とか先生募集とかいろいろ勘案した結果、クローズすることにしました。運営コストはほとんどかからないので継続してきたのですが、再立ち上げでフィリピン行ったりするとコストが利益に見合わないかな、と。10年前は小さなベンチャーが乱立していましたが今は淘汰されてきていますしね。そろそろ潮時です。<br /> <br /> 思えば10年前、リーマンショックの時に勤めていた会社が「一時帰休」とかいう謎な仕組みで1週間に2日ほど休みになって(会社はその分、国から補償金もらって)週休4日になったのでその空き時間を使って英会話スクールをサイドビジネスで立ち上げたのが最初でした。いやあ、懐かしいです。あの時は本業はそっちのけでめちゃくちゃ楽しんでいました。新規事業ってのはこうじゃないとね。思いのままにやってましたよ。フィリピンにも何度か行って、セブ島行ったり、ミンダナオ島の僻地にも行きましたっけ。現地マネージャーとのトラブルも懐かしい思い出です。いろいろありましたねえ。本業も新規事業でしたがあまり興味がなくて努力30%でなんとなくこなし、興味のほとんどは英会話スクールの時期でした。同じ新規事業でもやり方も考え方も全く違いましたね。本業よりもサイドビジネス万歳と思っていましたね。この時期はアフィリエイトの仕組みも始まったばかりで毎月ポイントが沢山入ってきて良かった時代です。今はアフィリエイト全然だめ。<br /> <br /> 思えば、私なんてWeb黎明期の2000年時代からデータベースとかWebとかずっと作ってきていたのに本業の会社ではあんまりそのこと言わなかったから、Web分野はほとんどサイドビジネスでやっていましたね。あの頃はまだまだウェブの黎明期でしたし色々と新しい仕組みを試したりしましたね。最初はシンプルなWeb1.0でしたがやがて動的な仕組み(jQuery)が出てきてそれに切り替えたり、Webのブラウザだけで動くホワイトボードを作って先生と生徒が同じ画面を見て教材を背景に線引きマークできるようにしたり、AndroidやiPhoneのスマホアプリも作りましたっけ。Webだけでリアルタイムで動く(flashなどのプラグインの不要な)ホワイトボードは当時は画期的で、凄く面白かったのです。今でこそ当たり前ですけどね。今でこそPayPalなんてのも当たり前ですけど出てきた当時は凄いと思ってオンライン支払い後にすぐにWebシステムに反映・連携できる仕組みを作って、支払いを自動化できるようになったのを実感して面白がっていました。1人で作っていましたので時間はかかりますけど、そんなに急ぐものでもないですし言うほど時間はかからないので楽しみながら作っていました。こういうやりたい放題なところが新規事業の良いところです。もっと儲かれば良かったのですけどね、最近は大手がシェア伸ばしすぎというかデフレ経済で100円ショップ状態なので儲けが少ないのです。日本人ってデフレ経済しかできないのだろうか? と思ってしまいます。Appleみたいにプレミア付けてどんどん値上げすればいいのに、デフレ経済していたら事業の発展もないと思うんですけど。80円で仕入れて100円で売る商売していたら大変でスタッフが疲弊するだけでは。案の定、フィリピンの英会話で上場した某会社の決算を見ると散々な結果で、あんな価格とサービスしていたら発展もないのがよく分かります。上場ゴールで本人たちはいいんでしょうけど、業界のコスト構造を潰して上場ゴールしてもらったら業界全体が迷惑です。上場ゴールで独占してくれればまだ良かったのですが、中途半端なシェアで絶対勝者がいないので潰しあいの持久戦になっており、微妙です。<br /> <br /> それでも、スタッフがニュージーランド在住ならネイティブ料金取って再立ち上げする手もありますけどね。でも、とりあえずは閉鎖ですっきりします。フィリピン人先生のスクールはもう厳しそうですが、しばらく経って大手が独占したら料金上げてくる筈なので全体的に単価が上がったらまたチャンスあるかもしれないですけど。まあ、それは今後のお話。割と区切れ目としては良いタイミングっぽいです。<br /> <br /> <br /> 今だから話せるびっくり昔話。<br /> <br /> 最初のマネージャーは女性でしたが、私が度々フィリピンに行っていると、何故か周囲の先生たちはそのマネージャーと私がカップルになればいいじゃん、みたいな扱いをし始めました。とある時には事務所にマネージャーの両親が手伝いに来たりしました。両親も心配だったのでしょうか。マネージャーの両親は落ち着いていて普通なのですが、マネージャー自身は元遊び人ぽくて、いろいろ噂を勘案すると、昔はセブ島で外国人をはべらかしていたこともあるっぽくて、カップルはあり得ないと思っていました。周囲の先生の私とマネージャーへの扱いが段々と変わり、なんだか変だなー と思いつつもスルーしていたのですが、ある時セブ島に行って様子を見ようとすると、他の先生が「2人で近くの島に遊びに行ってきたら?」とか言って煽る一方でマネージャーはというとどこか苛ついているのとベッドインに誘うような感じが混雑していたのですが、非常に違和感があるのです。これは裏があるな・・・と思って急に予定変更してその後、マネージャーとは会わないようにして帰国しました。本当に私が好きで私の行動に苛つくのとは全然違って、私が思い通りに動かないから苛ついているのがミエミエでした。こんな違和感ありありのハニートラップにかかるような私ではありませんよ。<br /> <br /> 会わないようにしたら、元々お金とか方針とかで行き違いがあったのがマネージャーの中で爆発したらしくて、私のことを「それでも男か」と言って、私を抱けとでもいいたそうな感じでヒステリーになっていました。<br /> <br /> 最後には、「次来たときは私の安全は保証しない」とか怖いことを言い出しました。フィリピンで恨みを買った外国人は5,000円くらいで雇える殺し屋(ヒットマン)に狙われて銃などで命を落とすことがよくあるそうです。現地在住の日本人が言うには、そんな値段だから、殺し屋が来たら倍の価格で依頼主を殺してくれ、と殺し屋を買収できたりするらしいです。フィリピンは何でもありですね。そんな脅しも受けたので人気のないところには絶対行かないようにして無視して帰国。心の中ではこのマネージャーは区切りのいいところでクビだと判断した上での帰国です。殺しの脅しを受けてまで雇い続けたりはしませんよ。もちろんその後、マネージャーはクビにしてスタッフ入れ替えました。いろいろあって向こうも強情になり、スクール運営に支障が出そうで悠長にできなかったので無理やりやったのですが、そのマネージャーに従う先生は授業拒否していたので新規の先生を入れてスクール継続。マネージャー入れ替えも先生入れ替えもうまく行きました。<br /> <br /> ここまでならよくある現地マネージャーと日本の本社とのトラブルで、それほど珍しくもありませんが、驚くのはその後です。<br /> <br /> しばらく様子見していたら1人の先生からチャットが来て「知っていますか? ○○は子供を生んだそうですよ」というのでびっくり! 他の先生に聞いたら「貴方の子供じゃないの?」「最初は貴方の子供かと思った」とかいうのですが、していないのに生まれるわけないじゃん... てことで、どうやらあのマネージャーは私の子供ってことにしたくてベッドイン誘っていたようです。やれやれ。違和感はこれだったか...<br /> <br /> まあ、こんな女も世間にはいるので、人によってはよく聞く話かもしれません。<br /> <br /> 驚くというか笑ってしまったのはその次。<br /> <br /> どうやらその子供は親戚の同年代の男と夜な夜な楽しんでいたらできてしまった子だというではありませんか。<br /> <br /> はぁ〜? 最後のオチはそれかい!<br /> <br /> 「三等親離れてりゃべつにいいんじゃないの? 近親相姦でもないんでしょ?」とも思ったが、とある先生が言うには「もう彼女は幸せにはなれない」という絶望的なことを言っていますので、周囲の意見としては彼女の行動はフィリピン社会では認められないようです。<br /> <br /> はぁ〜。日本ならひっそりとおろすのかもしれませんが、フィリピンだとそのまま産んでしまうんですね. .. 赤子を殺さない分だけマシなのかもしれませんけど。キリスト教の社会だからおろさないのかも。<br /> <br /> フィリピンではこんなハニートラップもあるよ、というお話でした。<br /> <br /> 私はフィリピン人の恨みを買ったし脅しも受けたのでそれ以降フィリピンに行っていません。今後行くとしても厳重注意あるいは事後報告で行きますよ。それでも殺される時は殺されますから、もうフィリピンにはあまり行かないと思います。恨みを買ってしまうとフィリピンは怖いところです。そもそも私をトラップにかけようとしたのはフィリピン側なのにどうして私がここまで恨まれなきゃならないのだ。<br /> <br /> 資本は日本側でウェブもシステムも集客宣伝も日本側のコスト負担だが利益のほとんどはフィリピンによこせという強情フィリピン人は、そもそも経済とか株式がよくわかっていない感じだったので、ほんと、一部のフィリピン人なのか一部のフィリピン女性に限ってのことなのかわからんが、強情なだけで話を理解せずに、単に、自分が現地マネージャーだから全部よこせという主張は理解に苦しむことがあった。あまりに頭が良すぎると扱いが面倒だしあまりに馬鹿だと指示が面倒と思ったのでそこそこの頭の人をマネージャーにしたが、どうも人選が微妙だったっぽい。どちらかというと中央より頭悪い方に寄ってるマネージャーだったのかも。<br /> <br /> 殺されるリスクまで持って運営するのもバカバカしいので、そういう意味では英会話スクール閉鎖で良かったのかもしれないです。フィリピンとの関わり合いが薄れますからね。フィリピンに行かなければそうそう殺されないでしょう。いつか元マネージャーが金持ちになって国際殺し屋を雇ったら怖いですけど、そこまで心配してられないですし。人によっては一生恨みを持ち続ける人がいますから、油断はできないです。<br /> <br /> <br /> 事業振り返りの続き。去年のふり返りを含みます。<br /> <br /> 10年間にいろいろなことがありましたが、現地マネージャーを切るとか、恨みを持たれそうなことをする時は最悪一生恨まれる可能性を受け入れてからやります。<br /> <br /> 当時は現地マネージャーに殺人予告的な警告を受けたわけですが、さすがにそれは行き過ぎで予想外だとしても、ずっと恨んで思念波を送ってくるくらいの人はたまにいます。<br /> <br /> 切るときはもちろん「自分が絶対に正しい」という信念があるのが大前提です。ビジネス、特に新規事業の立ち上げで使えない人材を切るのは重要です。恨むのは相手の自由選択、切るのはこちらの選択です。切るときは相手を恨んだりはしませんけど、切られた方は恨みが残ることがあり、その恨みは一生続くこともあるので、切る時は一生恨まれる可能性を加味してやります。<br /> <br /> 日本の多くの会社はローカルのマネージャーの多大な要求を断るのが苦手で、勘違いしてしまったローカルのマネージャーを切るのはもっと苦手な気がします。現地で監督している本社人材に権限がないので、ローカルのマネージャーは本社のご機嫌取りしていれば安泰です。これは、本業の会社で赴任している時に実際に起こったことです。他の会社の噂を聞くこともあります。<br /> <br /> 世間一般で「現地に権限委譲」が叫ばれていても、日本の会社は勘違いのローカルマネージャーに権限を与えてしまいますから権限委譲しなかった方がよほど良い事になったりします。<br /> <br /> 私のサイドビジネスの場合は1人ですから好きなようにできました。<br /> <br /> 切ると決めたら切らなきゃダメだと思います。ローカルのマネージャーが勘違いしたら終わりですよね。本社のご機嫌取りをしている一方でやりたい放題であれば切るしかないです。まあ、多くの会社は切れないでズルズルと損失が拡大するわけです。<br /> <br /> 新規事業であれば使えない人材を切るか、そもそも関与させないのが一番です。前にも書きましたがスタートアップにはフリーライダーがわらわらと近寄ってきますからね。フリーライダーはそのうち棚からぼた餅を貰うまで次々とスタートアップを狙い続けるのでしょう。フリーライダーあるいは勘違いマネージャーは切る必要があります。まあ、このあたりは前にも長々と書きました。<br /> <br /> 切ると決めたら切る側は確信がありますが、切られる側は恨みを持つことがあり、表面上は明るく仲良く振る舞っていつつも恨みを晴らすチャンスをずっと待っていたり、根回しして蹴落とそうとしたりする性根の悪い人が少なからずいます。去年のスタートアップ立ち上げでもそういう人がいましたね。まあ、本人はうまくやっているつもりでも蹴落とそうとしているのがバレバレですけどね。私は大抵、鈍感なふりして好きなようにさせていますよ。私ってどうやら油断される方なので油断しいている人を見抜くのは簡単です。そんな人に仕返しや対処をするとカルマに巻き込まれますからね。他人を蹴落とそうとする人はそれがカルマになって自分に返ってきますから、私がわざわざ相手してあげる必要はありません。勝手に落ちてゆきますし、すぐに落ちないとしてもそれは私には関係のないことです。<br /> <br /> 蹴落とそうとしている人はヨガのヤマニヤマで「他人の悪口を言わない」ってのに反していますから本人の成長が阻害されますし、邪念のこもった贈り物をして自分の仕返しを他人に肩代わりさせようとするのもよくないです。ヤマニヤマの「他人から贈り物を貰わない」という項目のはこういう文脈で理解できると思いますよ。贈り物にはその人の念がこもっていますからカルマに巻き込まれてしまうわけです。よくわからない人から贈り物をもらったら神に捧げればよいわけです。周囲でそういう人の手駒にならないように振る舞うのも人生の処世術ですけど、手駒になってしまう人はカルマに巻き込まれているわけですから、行動は気をつけないといけないですよね。自分には関係ないカルマに巻き込まれても面倒なだけです。蹴落とそうとしている人特有のニヤついた顔は気持ち悪いし、モノに宿った念ですぐにわかりますよ。本人は「うまくしてやったり」と思ってほくそ笑んでいるのかもしれないですけどね、バレバレですけどね。その人のカルマなんだなあ、と理解して、関わらないでいるのが良いです。家のカルマとかその人のカルマとか、いろいろありますよね。ちょっと突けばどんどんカルマが出てきますから、関わらないのが良いです。仕返しして満足するような人はエゴが大きいんですよねえ。人間である以上、程度問題ではありますけど。許容範囲外ということです。<br /> <br /> <br /> まあ、事業とかスタートアップとかしているとカルマに巻き込まれやすいですから、都度スルーするしかないですね。<br /> <br /> フィリピンだとキリスト教ですけど、キリスト教の宗派にもいろいろあって、現地マネージャーはマイナーな宗派に入っていて考え方がよくわからないことがありました。周囲の先生もマネージャーのことを「とある時、生まれ変わったとか何とか言っていたけれども、どういうことか、よく分からない」とか言っていました。宗教的な思考(ドグマ)はよく分からないです。その人のカルマなんでしょうかねえ。セブ島で外国人の男をはべらかして、その後、その宗派で生まれ変わったらしい。よくわからない。<br /> <br /> 前のスタートアップで一緒だった人も宗教というか仏教系で、仏教系なのに他人を恨んで仕返し目論んでいるような感じで、その人には「潰してやろうか」と脅迫されたのでその後あまり話していません。一度脅迫されたら一生ものだと思うのがマイルールです。その後の態度が軟化しても脅迫は一生ものだと思うのがマイルールなのです。仏教とかヨガとかやっていてもヤマニヤマという基本ができていない人も多いんだなあ、と思いましたよ。ヨガとか仏教とかしていてもカルマは人によっては根強く働くんだなあと思って興味深く眺めていますがその人のカルマの輪からは離れていますよ。一見すると仲良く明るく振舞っていても恨みは一生消えないことがある、ということが私にはわかっていますから、一回でも脅迫してきた人とは基本的にその後一生ずっと付き合わないようにしています。これはマイルールです。マイルールを破って「まあ、大丈夫かな」と思ってしまうと私が忘れた頃に仕返しされたり罠張られたりするので、このマイルールは絶対ですね。一度でも私を恨んだ人に対しては一生ずっと決して油断しないのがマイルールです。一度でも油断したら後ろから刺されますよ。<br /> <br /> こっちは許したつもりでも、脅した本人は私のことを「脅しに屈するカモ」とみなす可能性が高いので、そうであれば仲直りするよりも一生関わらない方が良いのです。「脅したりして申し訳無い」と誤ってきてもマイルールが適用されますから、一度でも脅してきた人は相手しません。表立っては仲直りする可能性はありますけど、マイルールが優先されます。多くの場合は恨みは一生ものと思っておいた方が安全ですしマイルールが正しいことが多いので。<br /> <br /> そうしてネチネチと蹴落とそうとしている人のカルマに巻き込まれないのが大切ですけど、無意識的にせよ巻き込まれている周囲の人は、無意識に巻き込まれたことで苦い人生経験を積んでいるのだと思いますよ。本当に賢い人はカルマに巻き込まれないですからね。<br /> <br /> 勘違いしたマネージャーとか、恨んで根回しして蹴落とそうとしている人とかに何を言っても無駄だからこそ切るしかないわけです。本人に言っても否定するだけです。一見道徳的で振る舞いは礼儀正しくても、裏は透けて見えますからね。こういうのは議論しても無駄です。結局は本人が自分で気付くしかないわけですが、本人が気付くまではカルマの車輪を回し続けるので、カルマに巻き込まれたくなければ離れて見ているか、あるいは関係を切って無関係になるしかないです。特にクレクレ君は切るしかないですよね。言葉たくみに取り入るけれども実際の実務が使えない雰囲気ばっかりの人は何なのでしょうかねえ? スタートアップの初期メンバーじゃなくてイチ営業ならそれでいいのかもしれないですけど。<br /> <br /> 私は基本的に「与える人」であり続けたいと思っているし、だから相手に良い条件を提示するけれども、どうやら一部の関係者には私がカモに見えるらしいんですよね。そんな好条件なのはカモか世間知らずだと思うらしい。だから、私が相手からカモとか世間知らずと思われたらその人は切るわけですが、そういう人に限って長期にわたって恨んでくるんですよねえ。棚から牡丹餅がもらえそうだから近寄ってくるんですかねえ。あるいは、甘やかしたから勘違いしちゃったのかなあ? ほんとに使える人材ならネチネチした復讐に長々と気力使わずに新しい事業なり社会貢献とかに精を出せばいいのに、陰ながら復讐に燃える暇人も世の中には多くいるんですよねえ。最初からそれを見抜けない私も人生経験が足りないのか、あるいはそれも私のカルマで、多大な要求を跳ね除けることが私のカルマ解消なのかもしれないなあ、とも思ったりします。<br /> <br /> と、いうことで、事業を少しふり返ってみました。<br /> <br /> スタートアップの方は実例がないと分かり辛いかもしれませんけど、スタートアップのクローズ時のことは以前にとても長く書いたのでここでは書きません。<br /> <br /> まあ、要は、切ると決めたら切る、ってことです。<br /> <br /> ここ10年および去年の振り返りでした。<br /> <br /> さて、今年はどうしましょうかね。<br /> <br /> Wed, 11 Jul 2018 00:00:00 +0900 日本と海外とで違う作業分担 https://w-jp.net/2017/1395/ <br /> &amp;nbsp;日本での役割分担海外での役割分担名目実質名目/実質ビジネス設計コンサルタント 100%コンサルタント 50%システムエンジニア 50%コンサルタントシステム設計システムエンジニア 100%システムエンジニア70%プログラマ 30%プログラマ分野ごとのエキスパートがそれぞれ存在基本設計システムエンジニア 100%システムエンジニア50%プログラマ 50%詳細設計システムエンジニア 100%システムエンジニア 30%プログラマ 70%実装プログラマ (一般的なプログラマが何でもこなす)<br /> 上記のようないびつな状況を日本人は「当たり前」と思っていますから、まさにガラパゴス状態です。<br /> 海外のエンジニアがこのような状況を見たら「頭がおかしい」と思っても不思議ではないです。<br /> <br /> 日本人は「システムを作ることが不得意」と言われていることがまさにそのまま顕在化するのです。<br /> この状況で世間でよく言われているブラックな現象が次々に起こるのはすぐに想像できるでしょう。<br /> <br /> 思うに、コンピュータ黎明期にIT産業に入った一部のエンジニアやプログラマが優秀すぎるので素人顧客の要求に何とか答えられてしまっていたから今までこのようないびつな状況が長続きしてきたのでしょう。海外ならば相手にされないような顧客が相手にされる日本のIT産業は長い間甘やかされてきたとも言えるのかもしれません。<br /> <br /> 考えようによっては、日本のエンジニアはとてつもなくコストパフォーマンスが高いとも言えるわけです。<br /> 実際のところ、昨今の円安によって、多少なりとも安く見えるインドやベトナムの開発会社を作るよりも阿吽の呼吸で作業してくれる日本のITエンジニアの方が開発がしやすいし、トータルで考えると安いという噂を聞くことが多くなりました。<br /> <br /> 円安に加えて、海外の物価はここ10年間で2倍以上に上がっていますので、実質の日本人の単価は1/2〜1/4に下落しているため、特にアメリカから見ると日本人は「安い」人材になりつつあるのです。<br /> <br /> よって、上記のような状況は日本国内であればマイナスでしかありませんが、日本のIT開発会社が海外から仕事を取る、という働き方も今後は当たり前になってくるかもしれないと考えています。<br /> <br /> その場合、日本の素人顧客の訳のわからない話やブラックな要求に応えるよりかは、遥かに健全な仕事ができる可能性がある訳です。海外は人材の優秀さに幅がありますのでアホなクライアントも山ほどいますが、海外でのIT系は基本的に優秀な人材が担当していますので日本のような変な素人顧客はそもそも相手にしなければ良い訳ですので。<br /> Wed, 30 Aug 2017 00:00:00 +0900 単価が安すぎるIT受注開発 https://w-jp.net/2017/1301/ <br /> 私がもともとやっていた15年前はこれほど酷くはなかったが、最近は単価が安すぎて、見積もり依頼が来ても見送ることが多いように思える。<br /> 例えば、新規ポータルを立ち上げる仕事があるとして、その希望金額は良くて100万円。酷い時には10万円などという時がある。これでは1ヶ月以内に終わらせられるような「パッケージ」の仕事しかできないのだが、実際は独自性をたっぷりと組み込む必要があるので到底それでは終わらない。色々と改造していけば数ヶ月にもなるだろうが、この種の仕事ではスコープがしっかりと定義されていないことが多いのでダラダラと仕事が続くことになる。最低でも数百万は出すつもりの発注者でないと新規事業は受けられない。<br /> そんなこんなで、こんな条件の悪い仕事を受ける人がいるのだろうかと思っていると、しっかりとその値段で仕事をする人が現れる。一体、どこのどんな人がそんな値段で受けるのだろう... と、こちらが心配になってしまうほどだ。<br /> IT業界のマーケットは現在非常に悪い。私が1年前に起業した時はそれほど悲観的には思っていなかったが、今のマーケットは最悪ということがわかった。このような市場ではITの仕事を受ける人は次第に減ってゆく。私にしても、上記のような単価では相手にしていられない。やっていられない、というのが正直なところだ。<br /> 同じような仕事で最低300万円、作業に応じて1000万円、という予算であればチャレンジもするが、新規事業のポータルを独自で立ち上げて100万円だと安すぎる。<br /> <br /> 別の案件だと、アプリケーション関連でWebとiOSとAndroid全てに機能追加及び不具合修正、それにリファクタリングまで要求して1ヶ月15万円という冗談のような案件もあった。技術料が0円で誰にでもできる仕事ならともかく、WebにしろiOSにしろAndroidにせよ専門知識がないとできない仕事でこの値段はありえない。<br /> <br /> 業界外の人にはよくわからないかもしれないので例をあげると、家を立てる予算が100万円で工務店に行ったら大方は追い返されるか丁寧に断られるのがオチだろう。そこで客がキレて無理やり作らせようとしたら大げんかになるし、客が工務店に対してプロとしての対応を求めたのならば常識知らずで相手にされない筈だ。例えばそれが500万円の家だとしたら客の方が工務店に対して理解を示したり自分で十分に勉強をして工務店の負担が減るように協力する筈だ。<br /> <br /> しかし、IT業界では激安で家を建てさせようとしておきながら勉強もせずに丸投げして、挙げ句の果てにはキレて無理やりものを作らせるようなブラック発注者がうようよしている。<br /> <br /> 私が若かったら絶対にこのようなマーケット状態のIT業界を目指すことはないだろう。<br /> 若い人には、こんな殺伐としたIT業界に関わってほしくはないと思うので若い人がIT業界を目指さなくなったのは良いことだと思う。<br /> 一方で、自社でITを使ったサービスを立ち上げるのは若い人にもどんどんとやって行ってもらえればいいと思っている。これはIT受注開発とは全く異なり、サービスを世の中に提供することなので健全なことだ。<br /> <br /> 将来予想でIT技術者が不足すると言われているが、それは単に、安い金額で発注したい発注側と、安い金額の発注は相手にしたくない受注側とでミスマッチが起こっているだけのような気もするのだ。安い金額で発注すると何が起こるかというと、本来しなくてはいけないプロジェクト管理や設計をあえて省略し、金額内でできるものを作る。結果としてできが悪いものが納品されるが、発注者はその良し悪しもわからない。後になって設計や実装の不具合が出てくるのがオチだ。ベテランは昔のマーケットを知っているので昨今の悪いマーケットでは仕事にならないと感じ、ベテランは去ってゆく。一方で、素人のITエンジニア参入が増えてゆく。<br /> 安い金額のプロジェクトほど発注側にも素人率が増え、結果としてトラブルは多くなり、両者の負担も増える。いわゆるデスマーチが頻発する。前にも書いたようなブラックな発注者の割合も増える。<br /> <br /> どんどんと人員がIT業界から離れて行った方が業界が健全になる筈なので、若い人はそんなIT業界に近づかない方が良いし、年を取ったベテランも潮時と心得てIT業界から離れたらいいと思う。<br /> <br /> ITエンジニアは途轍もなく頭を使う仕事でIQが低い人はできない仕事であるのに、実際のところ一般職の事務員と変わらないか時給換算で考えるとはるかに低い給与で働いている人も多く、使っている頭とその給与とのバランスが取れていない。<br /> <br /> 言ってしまっては反発もあるかもしれないが、日本の技術者の給与は一部のインド人にも負けている。よくニュースになるマイクロソフトやGoogleの話ではなく、そこらへんにある普通のIT企業に負けている。もちろんインドは貧富の差が激しいのはご存知の通りだが、私はインドに住んでいたのでこのあたりはよくわかる。<br /> <br /> 日本人が日本でコストパフォーマンスを考えて働くならば、プログラミングが好きだとしてもプログラミングなどわからないふりをして事務員として働いた方がコスパが良いのが現状だ。<br /> <br /> 実際のところ、ブラックIT開発会社で働くくらいならそこらの訳のわからん事務員でバイトするか、あるいは、もっと極端なことを言うならばコンビニバイトの方が気楽な分マシかもしれないとさえ思ってしまう。在籍分の時給は一応出る訳だし。体をあまり動かさないから不健康になることを考えれば、建築業界とかでバイトや日雇いした方が体を動かしてサバサバしていて健康的な分、そっちの方が向いている人もいるだろう。体を動かす業界からすれば部屋の中のオフィス仕事の方がマシと思う人もいるかもしれないが、人格を否定する罵声が飛び交うブラックIT開発会社で心を病むよりマシかもしれない。<br /> <br /> もう日本のIT業界は終わった、という感がある。<br /> Fri, 25 Aug 2017 00:00:00 +0900 お金のない若者が希望を持てない社会 https://w-jp.net/2017/1269/ <br /> 若者が夢を見て起業を志し、資金調達をしようとしても、銀行に相談すれば個人の資産を担保にしなければお金は貸せないと言われる。事業なんて10回に1回成功すればいい方なのに、最初の事業に失敗したら個人の資産を失い、あるいは、山のような借金を抱えて人生終了あるいは自己破産という状態では勝率が低いのにも関わらずリスクばかり大きいため、それでも挑戦しようとする若者がいたらよほどの向こう見ずあるいはかなりの優秀かのどちらかでしょう。<br /> <br /> お金があれば、起業するよりも投資をした方が確実にリターンがあります。もしも若くしてお金があり、目的がお金を稼ぐ為だけであれば投資を選ぶことでしょう。それが理性的だからです。起業が成功する確率及びリターンを考えたら、投資の方が確実です。<br /> <br /> この日本の社会に、基本的欲求に基づく「問題」はほとんど存在しないと言えます。<br /> スタートアップのコンテストを見ても、基本的欲求に基づく大きな市場をターゲットにしたものはほとんどなく、ニッチな問題解決のための事業であることがほとんどです。<br /> <br /> 社会に大きな「問題」が存在しない世界。<br /> 年寄りは社会に問題だらけだったので、その分かりやすい問題を解決すればお金になりました。<br /> 同じように問題だらかの海外に行って問題を解決するのも手でしょうが、海外に興味がなければ国内にそのような大きな問題はもはや存在していません。<br /> <br /> あえて言えば、年寄りがお金を独占していると言う問題がありますが、それを解決しようとすると世代間の闘争を煽ることになりますのでここではあまり言いたくありません。<br /> <br /> 今の年寄りが若かった頃、大戦後の焼け野原の時代においては仕事の要求レベルも高くなくて、要求も割と単純で、要求は基本的欲求に基づくものなのでお互いの共通理解も簡単で、いわば簡単な仕事をこなせばお金になりました。古き良き時代だったと言えます。そうして簡単な仕事で経験を積んで次第に難易度の高い仕事をこなすようになって行ったが、今はそのような簡単な仕事の市場はないのですが、年寄りはそのことが理解できないのでしょう。今の世の中は、最初から要求レベルはMaxで、しかも単価は安いのが日本です。難しい割には儲かりません。<br /> <br /> ゲームで例えると、有名で面白いゲームというのは最初のザコ敵は弱いのが出てきて主人公はザコ敵を倒すにつれてレベルアップしてゆき、次第にボスを倒せるようになってゆくが、現実というのは悲惨なもので、過去においてはそのような面白いゲームのような現実があった業界もあったとしても、今は、最初からボス敵が出てきて主人公をボコボコにして一瞬にして主人公は殺され、ゲームオーバーになってしまう。このような、ゲームのバランスが崩れた、遊んでも面白くないゲームのことを業界では「クソゲー」と呼ぶが、今の日本の業界はまさにクソゲーのような、新規参入者が絶対に勝てない状態になっています。<br /> <br /> そんなクソゲーのような実態を知っているのかいないのか、年寄りは若者を「やる気がない」などと言うが、年寄りが自分勝手に好き勝手なことを言っているだけとしか思えない。起業家は事業経営の難しさを知っているので若者をそのように言う人はほとんどいなくて、安泰な公務員やサラリーマンがそのように言っているように思います。単純にその人たちの人数が多くて声がよく聞こえるだけかもしれませんが。<br /> <br /> そんな環境でも、一部の若者は果敢にも起業しようとします。<br /> <br /> スタートアップでの資金調達にはいくつかの形態がありますが、アイデアだけの状態でお金を出す投資家がシリコンバレーにいるが日本にはいません。よって、ある程度まで自己資金あるいは身近な人のお金、あるいは自分が連帯保証人になって銀行から融資を引き出して事業を一定度まで立ち上げる必要があります。どちらにせよ、成功するのはかなり難しい。<br /> <br /> やる気とアイデアがある若者はお金がない。投資家に見向きもされないのが現状です。<br /> やる気とアイデアがってもお金がなくて悶々としていたりチャレンジしようとしてもことごとく足を引っ張る人がいるのが現状です。<br /> <br /> ここ10年ほどの間、日銀は市場の流通量を倍にも増やしたが、その効果がほとんど現れていないと言う。銀行の流通量を増やしても投資に回されたり昔ながらの融資で投資家に貸し付けをしているのでは若い起業家にお金は回ってこない。<br /> <br /> 私に言わせれば、そんなことより、やる気のある若い起業家に1000万円ずつどんどんと配れば良いのにと思う。<br /> 流通量を増やすのと同じ額を起業家に配ったら、それだけで新しい事業が千も万も開始され続けたことでしょう。<br /> 既にビジネスコンテストなどがあるが、その賞金はせいぜい100万円とかでしかなく、事業を起こすのは不可能で、コンテスト荒らしの食事代に消えるだけの状況になっている。<br /> <br /> 1000万円を起業家に配るとなると悪用しようとする人も出てくるだろうが、単に1000万円を配るだけではなく、3人くらい雇うことを必須にして、役員報酬や給与にも制限をかけたり成果物をチェックするなど仕組みを作りさえすればそうそう悪いことはできません。人を雇うためには人を説得したりしなくてはならないのでコミュニケーション能力が低い人には務まりません。必ず複数人数でチームにすることが必要です。人を雇えば責任感も生まれてきますので、全員がグルではない限り、そうそう悪いこともできないでしょう。一方で、悪用した時の連帯保証人はつけてもいいかもしれません。そもそも事業において、ズルをしようとする人が一定割合で出てくるのは仕方がないことで、そこはしっかりとチェックするしかない。日本の場合、国の制度ができるとそれを食い物にして更に下請けを安く使って中抜きしようとする人が出てくるのは容易に想像できるので、業界に詳しくて崇高な理念を持った人を国側の責任者に据えないとうまくいかないとは思うのですが。<br /> <br /> 日銀がお金を剃り続けていた間、その代わりに上記のようにうまく起業家に配っていたらその中から新進気鋭の事業が多く出てきていたに違いないと思うのです。<br /> <br /> 今の世の中は、随分と違ったものになっていたことでしょう。<br /> 若者はより若い人材を雇うことでしょう。その方がやりやすいからです。<br /> 若者の就職先が増え、スキルも蓄積され、人材の交流も深まります。<br /> 旧来の組織のしがらみに悩まされることも少なく、新しい時代の組織のあり方を模索できたことでしょう。<br /> 大人が次世代を担う子供を養うと思えば、若者にお金を出すのも抵抗なく受け入れられることでしょう。<br /> そのお金はやがて大きく社会に還元される筈です。<br /> Wed, 09 Aug 2017 00:00:00 +0900 スキルの高い部下を言いなりにして成果泥棒する方法 https://w-jp.net/2017/1268/ <br /> 日本は「スムーズにやる」ことが評価されない国だ。特にITに関して評価されない。スムーズに行うには幅広い知識と高いスキルが必要で、それには高い報酬を払うのが世界標準だが、日本では「簡単なことをした」と見なして薄給になる。エンジニアが主張しても上司はキレて「お前は○○しただけのくせに偉そうなことぬかすな」と言えば報酬の話は飛んでしまう。スムーズに行えば評価が上がるのが世界標準だが日本では逆に評価を下げることができる。例えば周囲に「○○しただけのやつ」と言いふらし、レッテルを貼ることもできる。それを否定する人も日本にはいない。ほとんどの人は技術がよくわかっていないので、実際のスキルには関係ないところで、自分がそう思いたいという願いを外に投影して「その筈だから」と理屈をこねて他人の評価をする人がそれなりにいて、周囲や上層部はよくわかっていないので、とりあえず「わかりやすい」説明として真実のものとして受けれてしまう。周囲や上司、それに上層部からそのような低スキル人材として扱われれば本当はスキルのある人物は何も言わなくなり、自分はスキルがないのかもしれないと思い込み、上司の思惑通りに「成果泥棒し易い人」になる。こうなれば、何をしてもらっても部下は「○○しただけ」と自己評価し、上司はその成果を独り占めすることができる。スキルが実際にどこにあるのか上層部からはわからなくなり、人事は学歴などを元に「その筈」という当たり障りのないものになり、実情からかけ離れてゆく。<br /> <br /> もちろんこれは皮肉だ。<br /> <br /> このような日本のITエンジニアに未来はないし、実際、日本のITエンジニアは搾取されており、優秀な若者はITエンジニアを目指さなくなってきている。<br /> <br /> 個人的には、その判断は正しいと思う。このような業態に未来はないし、明るい希望のある若者が搾取されることがなくなるまで若者の参入は勧めない。<br /> <br /> 海外の場合、仕事は分解して単純化してから実施する。計画と実施は分離され、指示はローコンテキストで具体的になされる。よって、仕事とは単純なものであり、見た目にも分かりやすい。分かりやすいことが評価され、分かりやすくする技能自体が評価される。<br /> <br /> 一方、日本で同じようにすると分かりやすく分解してまとめる技能は評価されず、結果だけを見て「簡単」とみなされて評価されない。上司はもともと整理する気がないので部下が全部考えなくてはならないが評価されない。整理するというスキルは日本では評価されず、上司から「その通りだよ」と言われて「当たり前」のこととしてスルーされ、そのノウハウは上司があらかじめ持っていたものとして振る舞われる。こうして正々堂々と上司が成果泥棒をするのが日本だ。<br /> <br /> よって、上司からの指示は常にハイコンテキストで行われ、作業者は深く理解しなければならずスキルを必要とするが、部下は永久に評価されない。上司は部下の成果泥棒をするために生きているのが日本だ。上層部はこのような上司を大切にし、下っ端を蔑むことでヒエラルキーを維持する。<br /> <br /> 海外ではハイコンテキストの指示をローコンテキストにまとめるのはマネージャーあるいは上司の仕事だ。もちろんその成果は上司のものであり、実施は部下が行う。一方、日本では部下が全て行うが成果は上司のものになることが多い。海外では後出しの指示は全く評価されないどころか無能な上司とみなされるが、日本においては後出しの指示は当然のごとく行われる。日本のように後出しの指示を正当化するような文化は日本以外にはなく、海外で後出しの指示を正当化しようとすると「頭がおかしい」とみなされる。こういう意味において日本の仕事は受けない、と言っている人も多い。<br /> <br /> 日本の中でもトヨタは特殊で、作業標準としてローコンテキストが徹底されているようだが、その他多くの中小企業や大企業ですらハイコンテキストな指示が普通に行われているのが実情だ。そうしないと上司が自分の立場を守れないからだろう。海外のように全ての仕事を棚卸しすると安い人材に置き換えられるリスクが生じるとでも思っているのだろうか。仕事の内訳を非公開にして自分の立場を守ろうとする人が多い。ある意味、成果泥棒からの防御なのかもしれないが。内訳を非公開にすれば成果泥棒からも守れるし、周囲から難しいことをしていると見なされて評価が上がり、整理すれば評価が下がったり成果泥棒されるのが日本だ。日本の仕事の仕方に未来はない。トヨタは別格だがIT企業ではない。<br /> <br /> 海外のIT企業では各自が某かのエキスパートであり、専門性を持っている。日本ではエキスパートは埋もれているので、いたとしても見つけられないし虐げられていて自虐的になっているので名乗り出ない。<br /> <br /> 海外では数人でスムーズにできる仕事を日本では10人とかで大騒ぎをして仕上げることで評価される。日本でエキスパート数人が集まってスムーズに作っても評価されない。日本においては、忙しく見せることが鍵になる。そんな業界に未来はない。<br /> <br /> 日本には、過去に大騒ぎをして作り上げた技術的負債があるので、たとえ急に新しいやり方をしようとしても負債の処理に手間取ってしまい、志のほとんどは負債の処理に費やされてしまってなかなか成果が出ない。ようやく整理に一段落したところで人当たりがよくて説明のうまい人が来て成果を奪ってゆき、志があって新しいやり方を否定して去ってゆく。技術のある人物が過去の負債の整理に翻弄している影で口のうまい人がどんどんと昇格してゆくのを何度も見た。<br /> <br /> 部下がスマートな解決方法を提示しても「その通りだよ」と言って上司が成果泥棒し、部下がやる気を失ったり、うまく作っても仕方がないと思うようになってスマートではない方法を提示しても変わらず「その通りだよ」と言うのであれば成果物のレベルはどんどんと下がる一方だ。部下が、実装もメンテナンスも手間がかからないスマートな方法を提案しても上司は理解せずに、「説明」が簡単な方法を選んで手間ばかり増える選択をするのも日本の特徴だ。手間がかかった方が上層部にアピールできるし、低スキルの人材でも対応できるメリットはあるが作りがいまいちになる。上層部には効率化をアピールできるが実際のところ効率化にはなっていない。日本において、多くの人は、作りを良くするよりも上層部へのアピールのために大騒ぎをしたいらしい。そういう環境では、優れた提案をすると逆に「皆で知恵を出して工数を下げようとしているのにその目的を理解できない人」と解釈され、評価が下がる。<br /> <br /> 何が問題か? と思い巡ると、上層部や上司が技術のことをわからない、あるいは、昔に自分がやっていた頃の知識で判断しているのが問題であるように思える。実際のところ、上司は自分がわかっていないことを認めようとしないので、部下は分かりやすい説明ばかりするようになり、本筋から外れてゆく。<br /> <br /> せっかくリファクタリングして整理したコードを上司が素人目で見て、自分が理解できないからといって「これはダメだ。前の方が良かった」などと吐き捨てたり、前に書きましたように、上司自身が理解できないことを「理解できない」と認めることができずに分かりやすい説明に飛びついて全部理解できているかのように自分自身を騙すような、受験などで一度も失敗したことのない人にたびたび見られるように自分の非を認めることができず、人間的に欠けているところのある人物が上司だったりすると、なまじ頭が良かったりするだけに最悪である。理解できなければヒステリーになったりすることもある。<br /> <br /> こうして、一部の日本の会社は「理解できないことがある」というシンプルな事実を認めることができずに自分たちは全て理解しているという幻想にしがみつき、いわば学歴戦争のヒエラルキーを守るために評価もそれに従い、自滅してゆくのだろう。<br /> <br /> 確かに学歴の高い人には頭の回転の早い人が多いのである程度優秀なのは真実だが、小賢しい人が幅を利かせている日本社会の将来は明るくないように思える。得てして、そういう人が早く昇格してゆく。<br /> <br /> このままであれば、かくしてエンジニアの成果は搾取されてゆくのであろう。実際、コスト的にもかなりの量の仕事をエンジニアに押し付けるブラックなやり方は、こうしたハイコンテキストな指示の仕方にも支えられている。ローコンテキストで指示を出すようになれば作業内容は明確になるし、後出しで「○○が入ってないぞ。こんなの当たり前だろ」などという発注元の横暴も拒否できるようになり、あるいは追加発注するのが当たり前になる。そもそも、後出しの指示が受け入れられるのは日本くらいだが。「こんなの当たり前だろ」「他はみんなこうしているぞ」みたいな決まり文句は世界では通用しないどころか、そんなことを言う業者は相手にされなくなる。日本も次第にその方向に向かっていると感じるが、まだまだだ。<br /> <br /> ローコンテキストで仕事をするやり方はシンプルで誤解がない。お互いに気持ち良く仕事をすることができるし、メインの担当者が不在であってもバックアップの助けも得られる。きっと、旧来のやり方で仕事をしている企業は若者にそっぽをむかれるようになるでしょう。旧来のやり方で仕事をしている企業はすぐ辞める若者に対して苦言を言うだろうが、やがては旧来のやり方が間違いだという共通認識が生まれる時代が来ます。<br /> 世界標準のローコンテキスト方式に移行しない会社はやがては若者だけでなくほとんどの人にそっぽを向かれることでしょう。<br /> <br /> 話は少し変わりますが、もしかしたら、この種の分断は1つの会社の中での特権階級と労働者階級の分断を意図したものかもしれません。いわばマネージャーが組合員をうまく操る方法の1つとして用いられている、とも考えられなくはないのです。であればその戦略はある意味成功していると言えるのかもしれません。様々な論理が詭弁でしかなく、本人たちも詭弁だと意識しているのだとすれば、あれだけ頭の良い筈の人々がすぐに見抜かされそうな下手な理屈で他人を黙らせようとしている理由も理解できます。結局、論破されたり見抜かされそうになると「黙れ」とか「煩い」とか「だからどうした」とか言って黙らせようとするところに、本質に近づけまいとする社内支配者層の本音が見え隠れする。結局、その程度の詭弁でしかないのでしょう。買いかぶりすぎかもしれないですが。<br /> <br /> 一方、同じようなことが会社の中だけでなく社会全体あるいは業界全体で起こるとき、そこで起こることは、評価されない技術者になる人が極端に少なくなる社会です。皆がジェネラリストを目指し、技術者は割に合わないからなろうとせず、関与しようとしない社会。エンジニアと言っても営業や商社マンのような人が増えている現状を見れば、既に社会から本当の技術者が減りつつあるのかもしれません。きっとそうでしょう。<br /> <br /> その結果に待ち受けているのは有能な労働者階級の消滅であり、経済的優位性しか持たずに他から調達する会社および社会です。その先に行き着くのは製造業が衰退して商社が多く存在するイギリスのような社会であり、技術は過去の栄光にしがみついて実際には経済で延命しようとしているイギリスの姿が将来の日本とダブって見えます。今どうにかしなければ見本としてのイギリスに向かってこのまま日本は加速して行くのでしょう。<br /> Sat, 05 Aug 2017 00:00:00 +0900 IT開発会社が苦労して、自分たちは責任を負わない酷いクライアントになる方法 https://w-jp.net/2017/1263/ <br /> クライアントは「技術のことはよくわからないので任せます」と開発会社に言えば良い。酷いクライアントになれます。<br /> そして、不具合が起きたら開発会社を怒鳴りつけて、「技術はわからないと言っているだろう」と責任転換をすれば良い。<br /> 開発会社の説明を理解してしまうと責任が発注元にも発生してしまうので、全責任を開発会社に負わせるために、何を説明されても「技術はわからないと言っているだろう」とキレましょう。それで大人しく対応してくれる開発会社であれば、もうその開発会社はクライアントの奴隷です。後から後から仕様に修正を加えても大人しく対応してくれる筈です。<br /> 普通、開発には納品後に無償で障害対応する期間が決められていますが、期間が過ぎていてもとりあえず怒鳴りつけて無償対応を迫りましょう。奴隷であればやってくれるかもしれません。<br /> <br /> もちろんこれは皮肉です。<br /> <br /> しかし、世の中にはこのような会社が意外に沢山あります。開発会社としては、「技術がわからない」と言ってくるようなクライアントには特に注意が必要です。相当の好条件でない限り、基本的にはお断りした方が良いでしょう。良いクライアントは沢山いらっしゃいます。少なくとも技術の概要、たとえばサーバーに何を使っていてデータベースは何で、プログラミング言語は何なのかなど、自分たちが使うシステムなのですから、担当者であればそのくらい知っていて当然です。この程度の基本的な事項の確認をするだけでキレて技術はわからないと言ってくるクライアントも世の中にはいます。それは上に書きましたように、本当にわからない訳ではなく、責任を全て開発会社に負わせるために理解しない態度を貫いているのです。それが意識的にせよ無意識的にせよ。その姿勢には感服致しますが、そのような会社の関心事はコストにしかなく、理不尽な値下げ圧力およびあいみつで開発費はどんどんと削られるのが目に見えています。クライアントにとっての関心がコストのみだと、継続開発で開発会社を変えることも頻繁に執り行われます。これらだけが原因とは言いませんが、こういったクライアントと付き合うと会社の従業員は疲弊し、会社が破綻に向かいます。開発会社としては、このようなクライアントと付き合ってはいけないのです。<br /> <br /> 一方、開発会社から避けられるようなクライアントの将来も明るくないでしょう。クライアントの業績が良いときはおべっかを使って近寄ってくる開発会社もあるでしょうが、業績が良いときに大切にしなかった開発会社はクライアントの業績が悪くなった時に助けようとはしないでしょう。自業自得なのです。<br /> <br /> それでは、開発会社が協力してくれるようなクライアントのあり方とは何でしょうか? いろいろありますが、基本的姿勢としては、プロジェクトにしっかりと関与をするということです。丸投げにせず、少なくとも概要は自分たちで抑える。システム構成のメリット・デメリットを把握して、可能なことや不可能なことを理解する。そして、コスト分をしっかりと払うこと。問題を全て開発会社の責任にせず、原因が何なのか一緒になって考えること。言ってみれば当たり前のことをこなすだけでいいのです。担当者が発生中の障害やリスクを把握できていれば上々ですがなかなか難しいかもしれません。ここまで関与すると、なかなか開発会社を変えることができない筈なのです。<br /> <br /> プロジェクトは、細かく運用しようとすればきりがありません。小規模プロジェクトの場合はそれほど管理に工数をさけませんから、理想とは行きませんがある程度は肌感覚での運用になります。担当者が理解できないことももちろんあるでしょう。それでも、なるべく理解しようとする姿勢および関与しようとする姿勢がお互いの納得および満足に結びつきますし、開発会社との長い関係で肌感覚がわかってきます。<br /> <br /> 開発について偉そうに言える立場ではありませんが少し書かせて頂きました。特に、若くして希望に満ちあふれたIT起業家がこのような罠に陥らないでほしいと思う次第であります。<br /> <br /> <br /> <br /> 補足:<br /> ちなみに、海外からはこのような日系クライアントは避けられていて、受注したとしても後々「金はいらないから開発から手を引く」などという時もありますが、日系の開発会社は往々にして頑張ってしまうからクライアントは「これでいいんだ」と自分たちにお墨付きを与えることになります。本来であれば海外の開発会社がまともであることもあるのですが、日系企業からしたら海外の開発会社は役に立たない、あるいは使えない、という評価になります。実際にその通りである場合も多々ありますし、一方で、この事例のような場合もあると思います。<br /> <br /> 追記:<br /> 最近民法が改正されましたので、尚更このような理解が低いクライアントと付き合ってはいけないのです。瑕疵担保責任を悪用しそうなクライアントとは付き合わない方が良いのです。当初は良いお客様でも、理解できない状況が続けば急にモンスター化します。どちらにせよ、ITへの理解のあるお客様と付き合うのが良いと思います。<br /> Sat, 22 Jul 2017 00:00:00 +0900 インドのオフショア開発? インド人は使いようです。 https://w-jp.net/2017/1262/ <br /> インド人に「自由に」と言うと本当に自由に実行します。日本人のように空気を読んで相手の望むように行動することはあり得ません。よって、全ては前もって指示することが肝心です。<br /> 日本ではシステムエンジニアやプログラマが顧客のことまで考えて作ることが多いと思われます。対外的にはシステムエンジニアが全てを設計していると言っていても実際にはプログラマが考えていることが多く、日本の場合はプログラマがとても優秀であると感じます。一般的にプログラマと言うとコーダのことを指すのですが、実際には仕様から実装まで幅広く口を出すプログラマもそれなりにいます。それが日本の現状です。日本においてはプログラマと言う言葉と実態の間に差異があるのですが、アメリカでプログラマと言うと設計から実装まで幅広く行うハッカーのことを指しますので、アメリカの方が実態に即しているかもしれませんね。<br /> インドのオフショア開発をする場合、プログラマと言うと単なるコーダを指します。インドでシステムエンジニアという立場は曖昧で、設計からコーダまで幅広く指します。どちらにせよインドでは仕様を考えたり顧客重視という概念が薄いので、言われたことを自分なりに解釈して、自分が納得したものを作り始めます。あるいは、理解できなければお伺いを立てて、回答があるまで作業を中断します。自分の解釈で作るよりお伺いを立てる方がマシではありますが、どちらにせよ、基本的な立場は指示待ちです。<br /> これは良い悪いの問題ではなく、国民性にもよるものです。<br /> ですから、インドの国民性を考えて、インドに即したやり方をする必要があります。<br /> 逆に、インドに日本の国民性を理解してもらうという方法でもいいとは思いますが、インドは人材の流動性が高いために苦労して教育しても一瞬のうちに退社してしまうリスクを考えますと、インドはインドのままで良しとして日本側がインドに合わせる方が合理的でしょう。<br /> であれば、インドに即したやり方をするのであれば、ある程度まで仕様や実装のフレームワークをお膳立てするなどして方向性を定めることをしなければプロジェクトは崩壊に向かいます。<br /> そのコストを考えますと、プロジェクトごとにフレームワークを用意していたら見合いません。プロジェクト共通の考え方や実装のフレームワークを用意してあげて、それに即して作ってもらうのであればインドは手足として動いてくれることでしょう。<br /> 一方、インドに考えてもらおうと思うのであれば、おそらく日本人よりもコストはかかります。日本でも話題になるようなインドの優秀な人材は英語圏の企業に属していることがほとんどで、そこでの給与は日本と比べ物にならないほど多いのが普通です。<br /> ですから、コスト重視でインドを使うのであればフレームワークを使った定型作業が基本になります。<br /> インドの優秀な人材を使うのも良いですが、おそらく日本人からしてみたらインド人のプライドが強くて使い辛いと感じることが多いでしょう。しかも商習慣が違いますから日本のことはわからないことがほとんどです。<br /> 日本のことを考えるのであれば日本人が日本で考えるのが基本になり、一方、世界を軸足に全世界サービスを考えるのであれば高給のインド人を使うのもありかもしれません。そのような会社は一部で、ほとんどの場合インドにはコスト削減のために進出すると仮定すればあらかじめフレームワークを用意してそれに沿ってやってもらうのが基本になると思えます。<br /> 昔は圧倒的コスト優位性があったオフショア開発ですが、今は日本の賃金が停滞している一方で海外のコストがどんどんと高くなってきています。為替レートだけでなく、物価が世界的に高騰している一方で日本の物価はそのままなので、品質まで考えたら相対的に日本人のエンジニアが安い、という状況も普通にあり得るようになってきました。<br /> ですので、コスト削減のために闇雲にインド、というだけの安易な方法では失敗します。日本人の適正及びインド人の適正を見極めて適材適所に仕事を出す必要があります。<br /> それと、日本人だからといってふっかけてくるインド人に対してどのように対処するのかも重要です。 Sat, 24 Jun 2017 00:00:00 +0900 インド観光 https://w-jp.net/topics/インド観光/ インド観光 究極の静寂、ラマナ・アシュラムとアルナーチャラ山 https://w-jp.net/2019/1492/ <br /> ラマナアシュラム(チェンナイ近郊ティルヴァンナーマライ)に到着。<br /> 想像以上に不思議な雰囲気でびっくりしました。<br /> <br /> 第一印象は「(努力ゼロの)究極の静寂」ですね。ファンタジーっぽく言うなら「天界へのゲートウェイ(ポータル)が開いている場所」とでも言えますかね。ここにシバ神やパールヴァティなどの神様が出てきても何ら違和感ありません。<br /> <br /> <br /> <br /> ヨガや瞑想でのサマーディは「努力有り」のサマーディから上級である「努力なし」のサマーディまで段階がありますが、この雰囲気は上級の「努力なし」の方なのかなと漠然と勘ですけどそんな気がしました。この雰囲気を味わえたのは貴重です。この雰囲気は地球上で私が知っている中ではとても特殊で、なかなか同じ感覚の場所はないように思えますので遠路遥々無理して来てよかったです。<br /> <br /> ここは聖者ラマナ・ マハルシのために作られたアシュラムですが本人はアシュラムに興味がなく周囲の人が勝手に作ったという場所だそうです。アシュラム創立が1922年、マハルシ死去(マハーニルヴァーナ)が1950年だそうですから亡くなって70年近く経ってもエネルギーを感じます。<br /> <br /> ここは「火」のようにわかりやすい熱のエネルギーが充満しているという感じではないです。世界各国の聖地では火に属するエネルギーを感じることも多いですけど、火の属性ではないですね。もっと根源的な、私が知っている「(漆黒の)無」よりも遥かに深くて想像もつかない深淵まで落ちてゆきそうな、少し恐怖も感じるくらい深い「無」がここにはありますから、感じやすい人は怖いと思うかもしれません。最初は静寂だと思いましたけど、じっと見ると無の深淵がある気がしました。そう言えばどこかの本で似たような究極のサマーディの解説を読んだ気もします。それって、こういう無の深淵の雰囲気のことだったのかもしれないと漠然と勘ですけどふと思いました。最終的な状態へ辿り着くために超えなくてはいけない壁といいますか。<br /> <br /> でも、基本は静寂なので瞑想はしやすいと思います。ただしクッションはなくて石の床ですので意識はリラックスしていても先に足に限界がきそうですが。<br /> <br /> 自分と比べるのも聖者に失礼ですけど、ラマナ・ マハルシのいる境地は私よりも遥か遠く先に達していると思いました。まあ、他の書物でも無の深淵と向かい合う話を読んだ気もしますし、そのあたりは私はまだまだなのでしょう。<br /> <br /> ちなみに、アシュラムの宿泊は予約が一杯だったので近くに泊まります。アシュラム内部は写真禁止なので写真は門だけです。<br /> <br /> ここにいると自然に「思考の波」が何かに吸い込まれてゆきます。思考の波こそが自我の元で、自我は一般的には「私」と言われているものですがヨガ哲学では自我は思考の機能の幻影みたいなものであって魂のような意味合いでの「私」とは異なると説きます。その自我の元になっている思考の波が吸い込まれるものですから、自然に自我および「(一般的な)私」という概念が消えて行ってしまいます。そこできっと恐怖が起こるわけですね。自分というものが消える恐怖。理屈で言いますと「自分」というものの消滅はきっと成長の途中で必ず通過する地点ではあるが、それは実はとても恐ろしいものかもしれないと思いました。ここにいるだけでその感覚を垣間見れる気がします。<br /> <br /> 「あるがままに ラマナ・マハルシの教え」によると「サマーディに入ろうとするときに起こる恐怖と体の震えは、わずかな自我意識がいまだに残っているためである。だが、自我が何の跡形もなく完全に死に絶えるとき、人はただ至福だけが広る純粋な意識の空間にとどまる。そして震えも消え去るのである。」とあります。「ヨーガの極意」(小山 一夫 著)でもこれらのことが解説されていました。自我が消えようとする時に恐怖を感じるが、サマーディによって自我が消え去ると恐怖もなくなり至福に至る、ということだと思います。私はサマーディとかそういうレベルではないですけど、方向性として。<br /> <br /> ■アルナーチャラ山麓の洞窟等<br /> <br /> <br /> ■アルナーチャラ山頂は閉鎖中 (2019/2現在)<br /> 町中央の巨大テンプルの裏にあるマンゴーツリーケーブの方から登り始めましたが、どうやら今は頂上に登ってはいけないようです。道が閉鎖されています。中腹の洞窟などは行けます。<br /> <br /> 6ヶ月前に2人が登った時に滑って落ちて骨を折ったのが閉鎖の原因だそうですが、来年にはまた登れるようになるみたいです。無理に登れないこともないですが、禁止されている状態で登るのも何だかな。<br /> <br /> ということで、シバ神の山に登るのは中腹までで、頂上はお預けのようです。<br /> <br /> <br /> <br /> この山は裸足だとばかり思っておりましたが洞窟以外は靴OKで、頂上にも靴でいいと地元の人は言っています。事故の影響で安全第一になったのですかね? 以前は知りませんけど。<br /> <br /> 素足で登るにしても中腹にあるラマナマハルシが7年住んだ小屋に靴を置いて往復すれば良さそうに思いました。<br /> <br /> →2回目登ったら一部の現地住民が靴置いてけ&10ルピー保管料のアピールしていましたが無視<br /> <br /> <br /> <br /> ラマナアシュラムから登ってくる外国人の数割は裸足ですね。そういう雰囲気なんですかね。<br /> <br /> 途中、猿がいましたけど人間への警戒が薄くて手渡しでバナナの皮食べていました。せっかくなので私も手渡ししてみましたが足元で普通にバナナの皮食べていました。これはインドのいくつかの聖なる山で起きていることで、ここよりも更に警戒ゼロの猿がいるのはたしかインド西部のジュナーガドにある山に登ってジャイナ教の神殿見に行った時はここ以上に猿が礼儀正しくてきちんとお座りして食べ物をじっと待って順番にもらっていましたし、猿なのにどこか顔つき品があって背筋が伸びていてびっくりしましたよ。それと比べると何ですが、それでも警戒心の希薄な猿がいるのはここが聖なる山という印だと思います。<br /> <br /> 一方で、シバ神の聖なる山とかでも凶暴で人の荷物やバナナや食べ物を奪いに来るような猿がたむろしていたりもします。同じシバ神の山でも大違いですね。<br /> <br /> ■思考が消え去る場所<br /> 思考の波が治まって静かになることでリラックスできる場所は世界中にいろいろあって、ここもその1つです。ヨガでも同様の効果があったりします。<br /> <br /> でも、恐怖を伴って自我そのものが(自動的に、意図せずして)溶けてゆく感覚は他ではあまりありません。ここが特異なのはその点においてです。ここにいるだけで内面の変化が味わえる気がします。<br /> <br /> 聖者と共にいることはとても恐ろしいことだ、というような文節を読んだことがあって、それは指摘の鋭さという意味合いで今までは理解していたのですが、それよりもむしろこの自我が溶けてゆく感覚の方が恐怖な気がします。それに比べたら指摘の鋭さなんて所詮は頭の良さだったりもするので、本質的ではないのかもしれません。と言うのも、本をパラパラと立ち読みしたら、ラマナ・マハルシは指摘するというよりも基本的なところを何度も説き続けているので、聖者の語りとは本来こういうものなのかもしれないと思いました。指摘してどうこうというのは占い師や霊能者やサイキックのお仕事で聖者のお仕事ではない感じですね。<br /> <br /> 神というものがいるとしたら、光(太陽)だけでなく闇(あるいは月)もある存在なのでしょう。その方がしっくりきます。神の領域は「意識が飛ぶ」というか深い眠りの奥底にあるような、深い深淵の無を性質として持っていると思います。簡単に言うと「神にも光と影がある」みたいに言えるのかもしれないですが、その光も影もとても深くて、光は全てを覆い尽くす光だし、闇は全ての「私」や意識を消し去って「無私」にしてしまう、人によっては恐ろしい力なのかもしれないです。<br /> <br /> よく「無私」なんて気軽に言いますが本当の無私は無の深淵に落ち込んでいって私というものが消え去る怖さがあるものなのかもしれないです。完全に私が消えれば悟りとかになるのかもしれないですが、そんなのはそうそう起きないでしょうから悟りなんてあまり考えてもしょうがないのかなと。悟りが来る時は勝手に来るでしょうし。光はヨガとかだと太陽やピンガラで影は月やイダとか呼び方はいろいろあるけれども本質はどれも似たこと言っている気がしますね。<br /> <br /> 女性/月/イダ/女神のエネルギーが本質的には無の深淵で自我が溶けてゆく感覚だとすればここラマナアシュラムのエネルギーの本質は女神のエネルギーということにもなるのかもしれないですけど、私はまだ短期滞在ですし、今のところ女神の面を多く見ているだけで、実は太陽のピンガラの面も多々あるのかもしれないですけど。聖者ですから両方の性質があっても良さそうなものですけど聖者といえども個性はあるので男性でも女性的な雰囲気の男性の聖者がいても不思議ではありません。<br /> <br /> Mon, 04 Feb 2019 00:00:00 +0900 Chittorgarh https://w-jp.net/2014/110/ <br /> ちょっとマイナーだけれども、Chittorgarhという砦に行ってきました。<br /> マイナーではあるけれども、さすがラジャースタンの砦は広大だ!<br /> <br /> <br /> <br /> Sat, 04 Oct 2014 00:00:00 +0900 Udaipur https://w-jp.net/2014/109/ <br /> Udaipurに行ってきました。<br /> ここは、マハラジャの顔がとても面白い!<br /> <br /> <br /> <br /> Fri, 03 Oct 2014 00:00:00 +0900 Fatehpur Sikri https://w-jp.net/2014/108/ <br /> Agra近くのFatehpur Sikriに行ってきた。<br /> <br /> 甘く見ていたけれども、とても広く大きくて想像以上!<br /> <br /> <br /> <br /> <br /> Thu, 02 Oct 2014 00:00:00 +0900 Gwalior https://w-jp.net/2014/107/ <br /> ちょっとマイナーですが、Agra南にあるGwaliorの砦に行ってきました。<br /> <br /> 世界遺産ではないものの、候補リストに載っているとかなんとか。<br /> <br /> 超巨大なので見応えあります。<br /> <br /> <br /> <br /> Wed, 01 Oct 2014 00:00:00 +0900 レー・ラダック (インド・カシミール地方) https://w-jp.net/2014/105/ <br /> インド北部のカシミール地方にあるレー周辺(ラダック)に行ってきました。<br /> <br /> 短期間なので少ししか見れませんでしたが、それでもチベット寺院は素晴らしかった。<br /> <br /> <br /> <br /> Thu, 28 Aug 2014 00:00:00 +0900 ラーメーシュワラム https://w-jp.net/2014/106/ <br /> ラーメーシュワラムに行ってきました。<br /> <br /> Wikipediaより引用:<br /> この地は、古代インドの叙事詩『ラーマーヤナ』において、ラーマ王子(ヴィシュヌ神の化身とされる)がラーヴァナにさらわれた妻シーターを助けにランカー島へ渡る際に橋をかけた場所、とされている。<br /> <br /> なかなか行き辛い場所にあるので、バンガロールから往復ともに夜行バスを使いました。<br /> 夜行バスであれば直通でラーメーシュワラムまで行けますが、飛行機や電車だと乗り換えが大変なので。<br /> <br /> <br /> <br /> 寺院も立派でしたが、砂浜で乗ったジープも楽しかったです。<br /> <br /> <br /> <br /> 残念ながら中にカメラは持ち込めず。<br /> 携帯電話も持参禁止なので近くのロッカーを借りてその中に皆詰めて寺院に入った。<br /> <br /> その後、寺院近くの海岸へ。<br /> <br /> <br /> <br /> 食事をした後、岬の先端へと行き、帰ってきた。<br /> <br /> <br /> <br /> <br /> Fri, 15 Aug 2014 00:00:00 +0900 ブッダガヤ https://w-jp.net/2014/103/ <br /> ブッダガヤ観光に行ってきました。<br /> インドとは思えないほど落ち着いた場所。<br /> インドにもこういうところがあるのですね。<br /> <br /> <br /> <br /> Tue, 22 Jul 2014 00:00:00 +0900 Puri観光 https://w-jp.net/2014/98/ <br /> ちょっと暑くなってきたが、厚くなりきらないうちにPuriの太陽神殿を見に行くことにした。<br /> <br /> まずはPuriに行く起点になる町でいくつか遺跡を観光。<br /> <br /> <br /> <br /> そして、Puriの町中を散策する。<br /> <br /> 大きな寺院があるが、ここはヒンドゥ教徒以外入れない。<br /> <br /> <br /> <br /> そして太陽神殿へ。 さすがに立派。<br /> <br /> <br /> 太陽神殿の後、タクシーに乗って空港のある町まで走らせていたら、ふらふらっとした後に道を外れ、止まっている自転車に衝突!<br /> <br /> いやぁ、びっくりしました。<br /> <br /> <br /> トラックを呼び止めて、紐で引っ張ってもらって車を上げてもらいました。<br /> <br /> 代車を呼んでいたのですが、代車を使わずにそのまま同じ車で走り始める・・・。 大丈夫か?<br /> <br /> そして、いくつか小さな寺院を観光して帰ってきました。<br /> <br /> <br /> Sat, 17 May 2014 00:00:00 +0900 Ooty観光 https://w-jp.net/2014/100/ <br /> バンガロールから車でOotyに観光することにした。<br /> ここでの目玉は登山鉄道だ。<br /> <br /> だが、まずその途中にあるBandipurのサファリへ。<br /> <br /> ■Bandipur<br /> <br /> <br /> ■Ooty<br /> <br /> <br /> Fri, 18 Apr 2014 00:00:00 +0900 インド最南端・カンニヤークマリ(kanyakumari) https://w-jp.net/2014/99/ <br /> インド最南端のカンニヤークマリに行ってきた。<br /> <br /> 飛行機でバンガロールからティルヴァナンタプラム(Thiruvananthapuram)へ行き、そこからタクシーで1泊2日で最南端のカンニヤークマリまで往復する。<br /> <br /> まず、途中にあるいくつかの史跡を訪ねる。<br /> <br /> ■Padmanabhapuram Palace &amp; Museum (Kerala)<br /> <br /> <br /> ■Kanyakumari<br /> そしてカンニヤークマリへ。<br /> <br /> フライトが遅れた関係でカンニヤークマリには夕方に着いたので、翌朝起きて朝日を眺める。<br /> <br /> <br /> <br /> Sat, 12 Apr 2014 00:00:00 +0900 Junagadhのジャイナ教の神殿 https://w-jp.net/2014/97/ <br /> ジャイナ教の聖地Junagadhを観光。<br /> 数千段と言われる山を登り、その上にある寺院に参拝。<br /> なかなかスケールが大きくて楽しめました。<br /> <br /> 麓で、お猿さんが行儀よくお座りして信者から食べ物をもらっているのにも驚きました。聖なる山では度々こういうことがありますが、ここはなかなかのもののような気がします。<br /> <br /> <br /> <br /> Sun, 30 Mar 2014 00:00:00 +0900 Ahmedabadで階段井戸を観光 https://w-jp.net/2014/96/ <br /> この地方に特有の階段井戸を観光。<br /> 面白いものもあるものですね・・・。<br /> <br /> <br /> <br /> Sat, 29 Mar 2014 00:00:00 +0900 JaipurとJodhpur https://w-jp.net/2014/78/ <br /> 少し前にJaipurとJodhpurに行ってきました。<br /> 定番の観光地なので期待していなかったが、意外にも砦が立派でこの地方(ラジャースターン)を見直した。<br /> 工芸品も優れている。<br /> そんなこんなでキャメルボーン(ラクダの骨)に書かれた絵を買いました。<br /> <br /> ■Jaipur<br /> <br /> <br /> <br /> <br /> <br /> <br /> ■Jodhpur<br /> <br /> <br /> Wed, 15 Jan 2014 00:00:00 +0900 ティルマラ(Tirumala),ティルパティ(Tirupati)旅行 https://w-jp.net/2013/65/ <br /> インドで1・2を争う寄付の多い寺と噂に聞くTirupati/Tirumalaに行ってきた。<br /> <br /> <br /> <br /> ここは日本のガイドブックに出ていないが仕事場のインド人の多くがここに行って頭を丸めて(後ろにちょこんとだけ残っているが)帰ってくるのを見て、どんなところだろう? と気になっていたのだ。<br /> <br /> ロンリープラネットやインドで購入できるガイドブックには記載があるが、さほど取り立てた書き方をしていない。それにも関わらず、インド人は何時間も並んでここの寺院にお参りするという。 職場にいるインド人には平日に行くことをお勧めされたが、どれだけ凄いのか実感がわかなかったので、とりあえず様子見だけでもいいと思ってひとまず出かけてみたのだ。<br /> <br /> ローカル色が強いので、外国人が凄く喜ぶ場所ではないが、こういうローカル色が強いところが好きな人もいる筈なのに全く話題になっていないのが不思議だ。日本では無名に近い。<br /> <br /> Tirupatiは麓の町で、そこにも寺院がいくつかあるが、そこから日光のいろは坂のようなくねくね道を登って行き着く先にあるのがTirumalaだ。まさに奥日光という感じ。地味なので、寺院は日光というよりは奈良と言う趣か。くねくね道から見える景色もなかなか良い。<br /> <br /> 土曜日の早朝6時にバンガロールを車で出て11時頃に麓に到着したのだが、そこでセキュリティチェックでバッグ等をスキャンし、ボディチェックを受けた。昔、この道で爆破事件があってからセキュリティが厳しくなったとのこと。<br /> <br /> <br /> <br /> そんなこんなでTirumalaに到着したのが12時頃。<br /> <br /> まず、メインの寺院であるTirumala Venkateswara Templeへ。<br /> ここの目玉は黄金で出来た寺院の内部だが、入るためには何時間も並ぶ必要がある。<br /> <br /> 週末の並び時間の目安が<br /> 300ルピー(約500円)を払う待ち時間が短いコース(パスポート提示した外国人の場合)昼間で1~2時間<br /> 300ルピー(約500円)を払う待ち時間が短いコース(インド人の場合)昼間で3時間<br /> 50ルピー(約80円)を払うコース(インド人の場合)早朝から並んで6時間以上<br /> 無料のコース(インド人の場合)12時間以上。次の日になる場合は列で仮眠<br /> というのだから驚きだ。<br /> <br /> そこまでして参拝する寺院はインドといっても多くない筈。<br /> <br /> 中にはカメラおよび携帯電話は持ち込みできない。チェックも割と厳しい。荷物スキャンにボディチェックを何度も受けさせられる。持ち込んだとしても叱咤されるだけだろう。そういう雰囲気だ。<br /> <br /> <br /> <br /> そして、インド人にもみくちゃにされながら1時間半ほどを並んでようやく中を見た。<br /> <br /> 黄金の内部は確かに凄い。<br /> <br /> まるで金閣寺のようだ・・・ と言うと語弊があるが。 金といっても、何かどこかくすんでいて・・・。 でも、金は確かに凄いんだけれども、何か日本の見せ方と違う。 どうしてこう、インドの寺院は野暮ったくなってしまうのかな。せっかくの金なのに。<br /> <br /> 凄いは凄いが、確かに、ものすごく大きかったり珍しいわけではないので外国人向けではないかもしれない。これが良いと思う人は限られているかも。その割には長く並ぶしね。でも、私は楽しめた。<br /> <br /> そんなこんなで満足し、その周囲で行われていたプジャー(儀式)を見た後にTirupatiに宿泊、次の日はTirupati寺院を少し見てからバンガロールに帰宅した。<br /> <br /> 並ぶのに時間を費やしてメイン以外の寺院をあまり見れていないが、またの機会にとっておこうと思う。<br /> <br /> <br /> <br /> <br /> Mon, 16 Dec 2013 00:00:00 +0900 エローラ・アジャンタ・アウランガーバード旅行 https://w-jp.net/2013/64/ <br /> インドでは定番のエローラ、アジャンタおよびその拠点となるアウランガーバードを旅行してきた。<br /> さすがに1500年以上古いとあって状態が悪いが、なかなか楽しめた。<br /> <br /> ついでに、拠点のアウランガーバードでは砦を探索したりしてきました。<br /> <br /> ■エローラ<br /> <br /> <br /> <br /> <br /> <br /> ■アジャンタ<br /> <br /> <br /> <br /> <br /> <br /> ■Daulatabad in Aurangabad<br /> <br /> <br /> ■Bibi-ka-Maqbara in Aurangabad<br /> <br /> <br /> ■Aurangabad Caves<br /> <br /> <br /> <br /> Fri, 29 Nov 2013 00:00:00 +0900 Badami, Pattadakal, Aihole観光 https://w-jp.net/2013/62/ <br /> ハンピ遺跡から北西に100kmほど行ったところにBadami, Pattadakal, Aiholeという遺跡がある。ハンピは有名で観光客も多いが、同じ世界遺産にもかかわらずこれらは観光客が少ないところ。とはいうものの、なかなか素朴でよかったので、おそらくはアクセスが悪いだけなのだろう。<br /> <br /> ■Badami<br /> <br /> <br /> <br /> <br /> <br /> ■Pattadakal<br /> <br /> <br /> <br /> <br /> <br /> ■Aihole<br /> <br /> <br /> Sun, 17 Nov 2013 00:00:00 +0900 ジャイナ教の聖地:シュラヴァナベルゴラ(Shravanabelagola) https://w-jp.net/2013/57/ <br /> 週末、バンガロールからHassan周辺のBelur,Halebidへ行ったのだが、その途中にあるジャイナ教の聖地シュラヴァナベルゴラ(Shravanabelagola)に立ち寄った。<br /> <br /> <br /> <br /> <br /> 四角い池の南北にそれぞれ岩山があるのだが、南の方が大きく、その上にはゴマテーシュワラ(Gomateshvara)の像がある。ジャイナ教徒の無所有の信仰を表現したものらしく、その像は裸。男性のあそこまで見えているし、立ったまま何年も瞑想をしたらツタが絡んだとのことでその模様まであった。<br /> <br /> この岩山は150mほどあるのだが、寺院なので裸足あるいは靴下で登らないとならない。インド人は素足で登るし、外国人も割と素足で登っていたが、昼間に岩が焼けると厳しかったかもしれない。<br /> <br /> <br /> <br /> まだ早朝だったので参拝者/観光客も少なく、岩も焼けていなかったのでさほど辛くはなかった。<br /> <br /> <br /> <br /> <br /> 手元にあるロンリープラネットのSHORT ESCAPES from Bengaluruの写真を見ると、この像の周囲には何もないような写真になっているが、今回行ってみたら像の周辺は遺跡のようなもので囲まれていたので、周囲の遺跡は最近作ったものなのかもしれない。<br /> <br /> <br /> <br /> なかなか眺めが良かった。<br /> <br /> 像も立派だったが、ちょっと好みに合わないかな・・・。<br /> <br /> ここは、南インドにしては客引きが激しく、お土産物を買うように言ってくる人がそれなりにいた。ちょっとお土産物屋を覗いてみたが、値段が高めなので買わなかった。<br /> <br /> 眺めも良かったし、像は好みに合わないとしてもそれ自体はまあまあだったのだが、そんな”何も所有しない”というジャイナ教の聖地において物欲の塊のようなお土産物屋に付きまとわれるというギャップも面白いものだった。<br /> <br /> 熱心なジャイナ教徒は服を着ないということだが、そういう人は1人も見なかった。インド人口の0.4%がジャイナ教徒ということなのでこの日いなかったとしても仕方が無いのかもしれないが、ここは聖地の筈だしな・・・。 ちょっと調べてみると、ジャイナ教徒はお金持ちが多いらしい。 何も所有しないという教えなのに金持ちなんだ・・・。 インドって凄い国だな。 インド観光局の宣伝文句「インクレディブル・インディア」(意訳:ものすごいよ、インド!)の言葉そのまんまですね。<br /> <br /> <br /> <br /> Mon, 28 Oct 2013 00:00:00 +0900 週末マイソール旅行(1泊2日) https://w-jp.net/2013/56/ <br /> マイソールはバンガロールから150kmほどの距離にあり、割と気軽に行ける場所だ。<br /> <br /> <br /> <br /> 私は昔、赴任する前にマイソールに旅行したことがあるくらい南インドにおいてはある程度メジャーな観光地だが、電車で行くと町の中の移動がなかなか大変で細かなところを回り切れていなかったので2回目でも楽しめた。<br /> <br /> まず、バンガロールからShivanasamudraという滝ととBarachukkiという滝に行った。川が2つに分かれており、そのそれぞれが滝を作っているのだが、なかなか高い滝で見ていて気持ちが良い。ちょうど雨期なので水の量も豊富であるようだが、乾期に行くとなかなか寂しいらしい。<br /> <br /> <br /> <br /> その2カ所を巡った後、次はマイソール東にあるSri Chennakesava Templeへ。<br /> <br /> ここは小さいが、寺院の周辺の石像がしっかり残っているのが特徴か。壁画はあまり残っていないようだ。(壁画はバンガロール北にあるLepaksiの方が楽しめる)<br /> <br /> <br /> <br /> <br /> その後、食事をしてからマイソール・パレスへ。ここの中は写真撮影禁止だが、2回目でも楽しめるほど立派な作り。<br /> <br /> <br /> <br /> そしてマイソール動物園へ。ここも2回目だが、前回見たホワイト・タイガーは外に出ていないようで残念。 今回、動物園のために持ってきたミラーレス一眼+望遠レンズで撮影して期待通りの写真が撮れたので満足だが、やはりプロの写真や画像と比べると見劣りするので、このレンズを使ってこの程度であるのなら、やはり旅行は身軽さを取って35mm単焦点だけ持って行った方がいいかななあ、と思い直した。<br /> <br /> <br /> <br /> その後、マイソール北にあるダムの横にあるBrindavanという公園で行われている光と音楽のショーを見てからホテルに向かった。<br /> <br /> <br /> <br /> <br /> その日の宿は、前回泊まったのと同じFortune JP Palaceにした。税込み約6,800円とお手頃なのに部屋は立派で、値段以上の価値はある。ただし、食事はやっぱりインドだから予想通りの残念な味でしたが。屋上レストランで魚なんて頼まずに、素直に地上階にある中華料理店に行けば良かった。<br /> <br /> 2日目はまず、マイソールの南にあるChamundi Hillへ。ここは高い丘になっており、寺院もある。<br /> <br /> <br /> <br /> <br /> 帰り道の道路脇に立ち寄り、マイソールの町を眺めていると、子供が写真撮ってくれと近寄ってきた。ちょっとしたチップ(10ルピー x 2人)で写真をぱちり。<br /> <br /> <br /> <br /> その後、丘の麓にある寺院で大きなナンディ像を見たが、なかなか巨大で立派。<br /> <br /> <br /> <br /> <br /> そして、時間的にちょっとだけ昼食時間より早かったので、通り道にある WAX MUSEUMというところを追加で見てからSt Philomena教会へ。意外と大きな教会で、中で行われていたミサはインドの雰囲気満載の音楽だった。厳かというよりは、ちょっと騒がしい系の・・・。ふーむ。<br /> <br /> <br /> <br /> そして昼ご飯を食べ、バード・サンクチュアリに行こうとしたら川の水が増えていてボートが出ていないということなので中止。 うーむ。また今度か。<br /> <br /> 代わりといっては何だが、マイソール北、Srirangapatnaの周辺にある遺跡のいくつかを見てからバンガロールに帰った。<br /> <br /> <br /> <br /> 道路には多くの物売りがいるわけだが、<br /> 外国人と見ても同じ値段で売る人もいれば、5倍以上の値段を吹っかけてくる人もいる。小さな石のナンディ像を100ルピーで買うこともあれば、850ルピーで押し売りしてくる人もいる。南インドは北インドよりも人が穏やかとはいえ、観光地に少なからずこういう人はいる。<br /> <br /> 今回は、各所でちょっとした絵を見つけることが多くて、車なので荷物にも困らないので迷わず計4つ買った。300ルピーが2つ、400ルピーが2つ。値段に対してはまあまあの品だ。それほどいいものではないけれども。まあ、ちょっとしたお土産としては十分だ。<br /> <br /> <br /> <br /> Wed, 25 Sep 2013 00:00:00 +0900 北インド旅行(アーグラ・バナラシ・デリー) https://w-jp.net/2013/49/ <br /> 北インドの定番、アーグラ・バナラシ・デリーに行ってきました。<br /> 雨期なのでどうかなあと心配したのですが、1日を除いては昼間の雨はほとんどなく、観光に支障はありませんでした。<br /> <br /> まずアーグラに行き、タージマハルおよびアーグラ城へ。<br /> <br /> <br /> <br /> <br /> <br /> <br /> <br /> 次はバナラシに行ったのですが、前に行った乾期と比べると川の水がかなり多くて流れも強く、対岸の砂浜もありませんでした。川沿いを歩くことはできず、町中散策だけだったのでちょっと消化不良。<br /> <br /> <br /> <br /> <br /> <br /> <br /> <br /> <br /> その後デリーに戻り、クトゥブ・ミナールやレッド・フォート、国立博物館を見たりしました。<br /> <br /> <br /> <br /> <br /> 一方で、やはりインドの食べ物はどこも微妙。日本食レストランのTamuraはなかなか頑張っていました。<br /> <br /> 特に大きなトラブルもなく行ってきましたが、デリー駅では「券を見せてみろ。これは取れていない。上の階へいけ」という嘘を言う人(定番)がいたり、その他もろもろ数多くの罠があったものの、さほど問題ありませんでした。<br /> <br /> <br /> Sat, 17 Aug 2013 00:00:00 +0900 Siddru betta (バンガロール北東100kmのTumkurから北に30km) https://w-jp.net/2013/46/ <br /> 先週、他の赴任者に誘われてバンガロール北東100kmにあるTumkurという町から更に北に30kmほど行ったところにあるSiddru bettaという岩山に登ってきました。レベルとしては高尾山と同じくらいのお手軽な山ですが、所々急勾配なところがあるのでそれなりに体力を使います。運動不足の身には辛い。<br /> <br /> 中程にヒンドゥー寺院があり、そこの中を案内してもらったりしました。<br /> 入口から寺院までは裸足が基本です。<br /> <br /> <br /> <br /> <br /> 洞窟になっている寺院の中で、壺に入った水を頭かけられてお清め(?)された後、何をするのかな・・・ と思っていたら、祈祷のようなそぶりと共に額に3本の白い線を書かれてしまった。 ついにやってしまった、という感じ。現地の人は、服までびしょびしょになって壺から水を浴びていたが・・・。<br /> <br /> <br /> <br /> <br /> ローカルなテンプルなので北インドであるような悪徳なテンプルとは違う。 拒否することもできたが、これも経験かと思いやってみた。<br /> <br /> 額に3本の線を引くのは、たしかシバ神の印だったかな。ここのテンプルがそういう宗派なのでしょう。<br /> <br /> その後、岩山の頂上まで登ってきた。<br /> <br /> <br /> <br /> <br /> なかなかいい景色。<br /> <br /> この周辺は岩山が多いようで、ここも例外ではないようだ。<br /> <br /> インド、なかなか凄いですよ。侮れない。<br /> <br /> <br /> <br /> Wed, 31 Jul 2013 00:00:00 +0900 マハーバリプラム(Mahabalipuram)旅行 https://w-jp.net/2013/45/ <br /> カーンチプラムの寺院を見た後、マハーバリプラムに行ってきました。海岸寺院を中心に小さな町が広がっており、その付近に公園があってクリシュナのバターボールがあったり、少し南にファイブラタ、少し北に5kmほど行ったところにタイガー・ケーブ(Tiger Cave)という岩への彫り物などがあるようなので行ってきました。<br /> <br /> <br /> <br /> <br /> 海岸寺院は、寺院の一群は既に海に沈んでしまっているようなので見れるのはほんのちょっと。 昔は海岸の波にさらされていたようだが、今は周辺が柵で囲われているようだ。<br /> <br /> 寺院そのものは、カーンチプラムやその他南部の寺院の方が遙かに立派。 かなり小ぶりな感じで、日本で言うところの「石見銀山」のような場所のように思えた。 背景となる歴史や文化は凄いが、見れるのはほんの少し。<br /> <br /> <br /> <br /> <br /> こちらは、海岸寺院の近くにある公園。写真に見えるのは、ずれ落ちそうで落ちない、クリシュナのバターボール。 本などで見た画像よりも、随分とずっしりしている。ずれ落ちそうに見えるのは、目の錯覚および映像のマジックかもしれないなあ。<br /> <br /> <br /> <br /> <br /> こちらも公園にある、石の壁に描かれた絵。ガンガーの下降(Descent of the Ganga)という名前がついており、ガンガーがこの世に降りてきた時の物語のようだ。<br /> <br /> <br /> <br /> <br /> こちらは、海岸寺院から5kmくらい北に行ったところにあるタイガー・ケーブ(Tiger Cave)。近くで見ると、虎の顔立ちがとても愛らしい(笑)<br /> <br /> <br /> <br /> <br /> Sun, 28 Jul 2013 00:00:00 +0900 カーンチプラム(Kanchipuram) 旅行 https://w-jp.net/2013/44/ <br /> この週末に、カーンチプラム(Kanchipuram)という町にある寺院に行ってきました。<br /> <br /> 朝5時にバンガロールの家を出て、車でカーンチプラムへ。朝食後、10時頃には到着したのでいくつかの寺院を回りました。<br /> <br /> 最初の寺院では、変なおじさんが近づいてきて「カメラ20ルピー、入場料100ルピーだ」と言われた。確かにその横にはカウンターらしきものがあって、カメラ20ルピーとは書いてあるが入場料については書いていない。ガイドブックにも無料と書いてあった気がするな・・・ と思いだしつつ、一応金を出して「レシートをよこせ」と言うと「今レシートはない。後で渡す」とか言いつつ金を一端取られたが、「レシートがないなら後で払う」と言ってカメラ分も合わせて金を取り返した。<br /> <br /> そしてサンダルを横に置いて中に入ろうとすると、その男がついてくる。どうやらガイドしようとしているらしい・・・。不要である旨を伝えて中に入る。どうやら中にまではついてこないようだ。<br /> <br /> すると、中に「外国人へ。入場料は無料です」としっかり書いてありました(苦笑)<br /> <br /> 悪徳ガイドはどこにでもいるんだねえ。<br /> <br /> この町には数多くの寺院があり、そのうち5つに行ってきたがが、そのどこにも変なガイドおよび物乞いがいました。<br /> <br /> <br /> <br /> <br /> 観光局だか考古学協会だかのカードを首にかけている人すら怪しかった。「寄付を預かるよ」とか言ってきたが、そのままポケットに入れそうな雰囲気だったので渡さなかった。<br /> <br /> 大体の寺院では一番中心はヒンドゥ教徒のみの聖域になっているが、一部の寺院ではヒンドゥ教徒のみの領域がガイドブック記載の時に比べて拡大されているような気がした。<br /> <br /> とは言っても、一部は観光地化されていない寺院もあってて、こういう寺院もたまにはいいものです。<br /> <br /> <br /> <br /> <br /> Mon, 22 Jul 2013 00:00:00 +0900 Bannerghatta動物園とBannerghatta自然公園のサファリツアー https://w-jp.net/2013/36/ <br /> 今日は、バンガロール南方数十キロメートルのところにあるBannerghatta動物園と、隣接しているBannerghatta自然公園のサファリを楽しんできました。チケット売り場はどちらも一緒で、係員が最初にサファリに行くように言われたのでそのようにしてきました。<br /> <br /> サファリのバスは片側2人の席なので係員が2人でかけろと言ってきたが、指さした先に座っているのが小太りの人で、私も体格がいいので座れる余裕がまったくない様子。係員にどうこう言うのも面倒なので後ろの方の席に座ったが、係員はどうやら人数を数えていたようで再度言ってきた。あんな席には座れないので外に出て次のバスを待とうと思ったが、どうやら状況を理解したらしく、先頭の助手席でいいと言われたので思いがけず特等席でサファリを楽しむことができた。<br /> <br /> 私の横にはバスの運転手と、ガイドあるいは車掌っぽい人がそれぞれ1人づつ、合わせて2人座っているのだが、その両者がしきりにカメラを渡すように言ってくる。何かと思ったが、向こう側の写真を取ってくれるらしい。チップ目当てというのが、とてもわかりやすい。この席は、前もよく見えるし左側も見やすいし、横に座っている2人が手伝ってくれるし、とても良かった。<br /> <br /> <br /> <br /> <br /> そんなこんなで、意外と楽しめたサファリツアーだった。<br /> <br /> チップを渡そうと思ったら、ワンなんとかと言っているのがよく分からず、チップを受け取ろうとしないのでそのまま外に出たが、もしかしたら50ルピーじゃなくて100ルピーくれ、と言っていたのかもしれないな。外にいたガイドは普通にチップを要求してきたので、こちらには50ルピーを渡す。<br /> <br /> サファリ後は動物園を見たが、どうやらこの動物園は小物中心のようで、大物はサファリ、という位置づけのようだった。<br /> <br /> <br /> <br /> <br /> バンガロールから1時間前後でたどり着けてこのクオリティなら、たまに来てもいいかもしれないと思った。<br /> <br /> <br /> <br /> <br /> 【2014/03/08追記】<br /> <br /> 動画作りました。<br /> <br /> <br /> <br /> Sat, 06 Jul 2013 00:00:00 +0900 Lepakshiの寺院とインド最大の1枚岩からできたナンディ像 https://w-jp.net/2013/34/ <br /> バンガロールから北へ約2時間半、Lepakshiという小さな村にある寺院に日帰り旅行をしてきました。ここは、1枚岩からできたナンディ像としてはインド最大である大きなナンディ像とちょっとしたヒンドゥ寺院があるところで、スペック的な目玉は前者のナンディ像だが、ヒンドゥ寺院も、素朴ながら装飾の凝り具合や天井の絵がなかなかのものだった。 ここは遺跡というよりは生きている寺院だったので、観光客もそこそこいたとはいえ、地元の素朴な雰囲気が味わえた良い小旅行だった。<br /> <br /> <br /> 規模で言うとハンピやマドゥライ、タンジャヴールのような世界遺産には到底かなわないが、バンガロールからちょっと出かけるにはちょうど良い距離のところにあるし、そこそこ楽しめるし、お手軽、という意味では良いところだった。<br /> <br /> 朝8時に運転手に家に来てもらい、7号線を北上。空港を超えると車もずっと少なくなり、順調に遺跡に近づいた。 7号線はこちらでは高速道路という位置づけだが、日本でいうところの有料道路みたいなクオリティ。道を人が横切るし、道の真ん中の草地で牛を放牧させたりしてるしね・・・。 そして予定通り2時間半ほどで到着。1時間前後の観光をし、観光後にバンガロール近くまで戻り、空港のちょっと手前の7号線沿いのレストランで遅めの昼食。チキンカレーにパン(えーと、パロッタじゃなくて・・・ チャパティでもなくて・・・ 何だったかな)を数枚食べた。ちょっと辛めだが、味はまあまあ。そして途中のモールに立ち寄って、先日ネットで見つけたYLGというチェーンでフットマッサージでもしようかな・・・ と思ったら、女性専用とか言われてしまった。がーん。仕方が無いのでそのまま家に帰る。<br /> <br /> 家に着くと、どうやら今日はツールドフランスの初日だったようで、スポーツチャンネルを1つ追加で視聴するようにプラン追加し、初日のタイムトライアルを楽しんだ。<br /> <br /> それにしても、あまり距離を走っていないし、自分は後ろで座っていただけだというのに、意外と疲れた。日本の旅行で自分が運転する時と同じくらいの疲れだと思った方がいいかもしれない。はっきりとは分からないが、周囲のクラクションや急なヒヤリハットで神経を使ったのかもしれない。犬を引きそうになったり、車線が急に狭くなっていて車が急減速したり・・・。運転手はプロとは言え、最後はちょっとだけ疲れと判断力低下を感じたので、あまり無理させない方がいいことも分かった。 今回は様子見を兼ねての近場への旅行だったが、もっと遠出するときはスケジュールやその他に気をつけようと思う。<br /> <br /> <br /> <br /> <br /> Sat, 29 Jun 2013 00:00:00 +0900 チェンナイ(Chennai) https://w-jp.net/2012/125/ <br /> <br /> 2012/01/04<br /> <br /> 朝、まだ暗いうちに携帯の目覚ましで目が覚めた。今いる場所はわからないが、最近の電車は時刻通りに着くらしいので到着時間15分前の5時頃に起床して身支度を始める。荷物は盗まれていないようだ。<br /> <br /> ふと気付くと、他の乗客2人(夫婦?)が下で寝ていた。どうやらこの二人は英語が話せないのか或いはコミュニケーション能力が低いのか、こっちとコミュニケーションしようとせず、眠くて不機嫌そうな顔をしてとっとと降りていった。ふむ。外国人を怪訝そうに見る人もいておかしくないもんな、と思いつつ、私も支度を済ませて外に出る。<br /> <br /> チェンナイはまだ暗く、ひとまず予約していた駅近くのホテルに荷物を置きに行く。エグモア駅から歩いて数分のFortelというホテルだ。ここに歩く途中、行く人かのリクシャー乗りから、10ルピーでいいからホテルに連れて行くと言われたが、指さす先は違うホテルだったので断り続けて数分歩き、ホテルにたどり着いた。<br /> <br /> どうやら24時間制のようなので、今すぐにチェックインはせずに荷物だけ置いて外に出かけることにする。<br /> <br /> まず、朝早くからやっているカーパーレーシュワラ寺院だ。<br /> <br /> リクシャーで直行してもよかったのだが、かなり時間に余裕があるので失敗してもよいつもりで電車で行くことにする。<br /> <br /> エグモア駅で最寄りの£hirumaylay駅まで切符を買うと6ルピー。なんだこの価格は・・・ と思いつつ、電光掲示板でどの列車かな・・・ と思って眺めていたがよくわからなかったので周囲の人に聞いてみると、どうやらローカル列車はこの電光掲示板には表示されないようなので、プラットフォーム10に行ってローカル電車に乗り、海方面(ビーチ方面)に向かった。フォート駅で一旦降り、MRTSという高架の列車に乗り換えようかと思って見渡したが高架のようなものはなく、しかも乗り換えに改札もないので疑問に思ったが、どうやら改札は必要なく、そのまま乗り換えればよいということと、ここは高架ではないようだった。<br /> <br /> そして、どのプラットフォームか分かりづらかったので周囲に聞いたことと、場所的に折り返し地点っぽいので片方向がほとんどだと思ったのでそちらで待っているとうまく乗ることができた。<br /> <br /> そしてカーパーレーシュワラ寺院近くの駅に降り、寺院すぐ近くのホテル併設と思われるレストランで朝食を取る。<br /> <br /> その後、寺院を見学するが、小さいとはいえ、しっかりと儀式が行われているような気がした。<br /> <br /> そして、もう一つの寺院であるパルタサラティ寺院も行ってみました。<br /> <br /> 再度電車に乗り、二駅北上して5ルピー。Thiruvallikeni駅で降りた後、細い道をよく分からなくなりつつ、地元の人が指さしで教えてくれるのをたどりつつ、GPSで確認しつつ、パルタサラティ寺院にたどり着くことができた。<br /> <br /> ここは庶民的とガイドブックに書いてあったが、小振りながらも、多くの人で賑わっていた。<br /> <br /> <br /> そして、近くにとても古い190x年開設の水族館があって、ショボくて感動的ということなので、せっかくなのでどれほどショボいのか行ってみることにする。<br /> <br /> 急いでいないので道を歩いてビーチに出ると、そこには砂浜が遠くまで広がっていた。<br /> <br /> そこで何人かの物乞いにまとわりつかれつつ水族館の場所を捜すが、どうやら、その水族館は潰れてなくなってしまったようだ。うーむ。残念だ。変わりに東京に帰ってから水族館でも行ってみるかな・・・。<br /> <br /> そしてそのままビーチを北上し、アンナードゥライ記念碑およびその他にもいくつか記念碑のある公園を見学する。この記念碑は、この地方の独立性を訴えた偉人を讃えているとのこと。ふむ。。。<br /> <br /> <br /> そして、もう少し北上してセント・ジョージ砦の要塞博物館を見学する。リクシャーに乗っても良かったのだが、せっかくなので歩いてそこまで行った。<br /> <br /> そして要塞博物館を見学した後、すぐそこにあるセント・メリアーズ教会を見学する。ここは1680年に建てられたというが、それにしては大きくて立派なのが驚きだ。<br /> <br /> そしてセント・ジョージ砦を出るまで車道を歩き、車道に出たらリクシャーを拾ってスペンサー・プラザというショッピングモールまで行く。4~5kmはあったが、始めに値段を聞いて70ルピー。値段を聞かずに乗ったらもっと高かっただろう。砦の中で警察に聞いたらだいたい50ルピーと言っていたので、これが適正価格なのだろう。いつも観光者価格で3倍近くかかっているのがよくわかる。<br /> <br /> そしてスペンサー・プラザで食事および買い物をする。インドで初めてみるケンタッキーで食事をし、簡単なおみやげ物を買うが、いい値段がする店がほとんどなので、リーズナブルなお店を探すまで散策し、いくつか置物を入手する。<br /> <br /> 買いはしなかったが彫り物のあるナイフが気にかかったので、もし産地に行くことがあれば現地価格で入手も考えたい。今後の話になるが。<br /> <br /> そして、ホテルに戻ってチェックイン。予定通り5時ちょっと過ぎにチェックインしたので、明日は5時にチェックアウトして空港に向かうことにする。<br /> <br /> 明日は、10時くらいから2~3時頃まで州立博物館およびその周辺の美術館を散策し、一旦ホテルに戻ってシャワーおよび身支度してから帰国することにする。<br /> <br /> 8時半にチェンナイからバンコク、翌日深夜2時頃にムンバイから香港経由で成田には20時半頃到着予定だ。<br /> <br /> <br /> 2011/01/05<br /> <br /> 今日は博物館のみ見学して帰国となる。<br /> <br /> 少し遅い朝食を食べた後、近くの博物館へと向かう。<br /> <br /> 博物館は、なかなかの年代ものだった。ムンバイの博物館に比べて見劣りするのは仕方がないとして、コルカタの博物館に対しても見劣りする。ムンバイ、コルカタ、チェンナイの3つの町だけのことを言えば、町の規模がそのまま博物館のグレードに比例している。<br /> <br /> 券を買って中に入るが、どうやら5つある建物のうち2つはリニューアル中で閉館しているようだ。開いている3つのうち2つは普通に開いているが、もう1つは工事中の模様。<br /> <br /> ひとまず石像が置いてある館に入り、見学をする。<br /> <br /> 次に、植物や昆虫、動物、鉱物などが展示されてある館を見学。<br /> <br /> そして、子供博物館に最後に入るが、ここは1階に模型展示がちょっとある以外は、地下および2階以上は全て工事中だった。ふむ・・・。<br /> <br /> <br /> 思いのほか早く見学が済んでしまったので、今日行く予定はなかったが、すぐ近くにあるスペンサー・プラザに昼食およびちょっとした買い物のため立ち寄ることにする。<br /> <br /> そこでケンタッキーのバーガーセットを食べ、ローカルなスーパーでチャイとブラックティーの小さな箱をおみやげ用に追加購入する。ローカルっぽいスーパーは地元の値段がよく分かってためになる。<br /> <br /> やはり、スペンサー・プラザを通過する際に、先日買わなかったお店の店員から激しいアピールを受けたが、特に買う予定はなかったので基本的には買わなかったが、音楽CDを適当に5枚くらい購入した。インド音楽の記念である。<br /> <br /> そしてホテルに戻り、シャワーを浴びて帰国に備える。<br /> <br /> すぐそこのエグモア駅からローカルの列車で近くの空港まで6ルピーで行けることは先日逆方向に行ってみたことによりほぼ確実であったが、帰国の際に歩いて汗をかきたくなかったのでエアコン(A/C)付きのタクシーを予約した。650ルピー。電車に比べて100倍だが・・・。まあ、いいとする。オートリクシャーなら400ルピーとのこと。ふむ。<br /> <br /> そしてチェックアウトし、空港へ。<br /> <br /> 出発の3時間半前にホテルを出て、ガイドブックには30分と書いてある距離を50分ほどかけて到着する。夕刻のラッシュにぶつかったようだ。<br /> <br /> しかも、エアコン(A/C)付きタクシーで快適に空港まで行けると思っていた筈なのに、車内に蚊がうようよいる。空港に到着するまでに5~6匹は退治した・・・。最後にこれかい。リクシャーの方がよかったかも。<br /> <br /> 話はこれで終わらない。チェンナイ空港でチェックイン後にセキュリティーを抜けてロビーに出る際、全ての荷物にタグが必要なようで、ショルダーバッグに札をもらっていなかったので、係員がそこらへんにあった札を着けて通過した。ストックされているわけでもないのになんとなく札がそこにあった。うーむ。そんなんでいいのかい? よくわからないシステムだな・・・。なんとなくそれでまわっているのだろう。キャリーバッグはチェックインの際に係員が取り付けていたので問題なし。<br /> <br /> チェンナイ空港は時間がかかるという噂を聞いていたのだが、思いのほかスムーズで2時間前にロビーに到着できた。時間を潰すため1時間ほどフットマッサージを受け、それを出た頃にアナウンスで、出発が1時間ほど遅れる可能性があると言っているような気がした。なまりが強すぎてうまく聞き取れない。電光掲示板の表示もどんどんと順番が先に行く。うーむ・・・ と思っていたら、再度アナウンスがあって、なにやら、時間より早いけれども搭乗を違うゲートで開始するというアナウンスが聞こえたような気がした。よくわからないので係員に確認すると、すぐに搭乗開始するとのこと。おいおい。さっきまで1時間遅れの可能性とか言っていたのに・・・。まあ、いいけど。<br /> <br /> そうして搭乗するが、キングフィッシャーの国内線のこの座席、今まで体験したことがないくらい席が狭い。横は普通だと思われるが、縦方向が、悲惨なほど狭くて足を左右に広げないと座席に入らない。こんな飛行機は初めてかもしれない(苦笑)昔キングフィッシャーに乗った時は国際線だったので普通だったように思うのだが・・・。うーむ。<br /> <br /> そうしてムンバイ空港に到着。ここから一悶着あるとは思わなかった。<br /> <br /> まず、この空港は国内線と国際線が離れていて、その間には電車などないので、20分おきの無料シャトル或いは自腹タクシーで移動する必要がある、とのことを聞いていた。これを聞くだけであれば、ああ、20分かと思うのだが、実際にはその数倍時間のかかる移動だった。それも合わせて時間を書き出してみると、以下になる。<br /> <br /> 1. 荷物ピックアップ(0分)<br />  私は全て機内持ち込みしたが、おそらく15分は必要<br /> 2. シャトル時間待ち(15分)<br />  混雑している場合は次のシャトルになるので更に20分必要<br /> 3. シャトルに乗る前のセキュリティチェックおよび満席になるまで待つ(25分)<br />  一台しかないのと、セキュリティチェックの開始がシャトルが到着してから開始なので、シャトル時間待ちの後にセキュリティチェックの時間がかかる。平行してやればいいのかもしれないが、どうして今回それをやっていなかったのかはよくわからない。インドなので気にしない。満席になったら出発。この時点で、既にシャトル出発予定時間から25分が経過している。実際は、次のシャトルに乗ったのかもしれない。<br /> 4. 国際線ターミナルへ移動。(30分)<br />  最後に一般道路と合流するまでは空港内の専用道路を走るので遅いながらもスムーズだが、国際線ターミナルの出発ゲートにたどり着くまでが想像を越えるほど渋滞している。<br /> <br /> よって、国内線ターミナルに到着後、国際線ターミナルのゲートにたどり着くまでに、私の場合は1時間10分かかった。普通の空港であればあり得ない時間のかかりようだ・・・。荷物ピックアップしていたりタイミングおよび混雑次第では1時間半から、運が悪ければ2時間かかることも考えられる。その場合にタクシーを使ったとしても、プリペイドタクシーなら行列を待たなくてはいけないだろうし、民間タクシーはかなりぼったくるだろう。どちらにせよ国際線ターミナル付近での大渋滞にはひっかかるので、結局、そんなに時間は変わらないかもしれない。<br /> <br /> ムンバイ空港の乗り継ぎに3時間20分を用意しており、飛行機が15分早く到着したので約3時間半の時間があったのだが、それでも、早くも1時間半近く費やされた。残るは約2時間。<br /> <br /> 話はこれで終わらず、Jet airwaysのチェックインカウンターが想像を絶するほど進みが悪く、荷物をチェックインしようと並んだだが最後、乗り遅れるのは確実のように直感で感じられた。<br /> <br /> 私の場合はあらかじめWEBチェックインしておいたのだが、プリンター接続されていなかったので発券だけしたかったので、横にあるセルフ・チェックインの機械で発券だけすることにした。<br /> <br /> この機械も使い勝手が悪く、タッチパネルのボタンを押しても反応しない機械が数台あり、横に移動しつつ動く端末を捜した。画面に、クレジットカードを入れるか或いは名前を打てと書いてあるのでクレジットカードを入れたら、どうやら名前を自動的に引き出しているようで、なかなかやるじゃないかと思ったのもつかの間、予約情報が見つからないと言われてしまった。仕方がないので再度、チェックインの列に並んだが、やはり進みが壊滅的に悪いので再度、セルフ・チェックインを試したところ、名前を手動で入力することで先に進むことができた。ふむ・・・。どうやら、クレジットカードの名前認識が一部省略名になっていたような感じだ。話はそれで終わらず、動いた機械で発券しようとするも、プリントされなかったのでそのまた横の機械でやり直した。更に、チェックイン時に最終搭乗までのチケットが印刷されるのが普通だが、ここムンバイから香港までのチケットしか印刷されず、香港から東京へのチケットはチケットが印刷されてこなかった。通しでJet airwaysで買っているとはいえ、その区間はANAなので印刷できないのかな・・・。そんな機械でいいのだろうかとも思いつつも、チケットは香港で発見してもらえばいいので、いまは一刻も早く出国する必要があるので、そのまま出国ゲートに向かった。<br /> <br /> それにしても、さすがはインド。徹底的にやってくれるぜ。出国までも困難だとは。<br /> <br /> そうして出国の列に並ぶが、それは割と進みが良い・・・ と思っていたら、出国カードに記入していなかったので最初からやり直し。うーむ。普通はチェックインカウンターでもらうので忘れないようだが、私は機械でやったので紙をもらわず、気付かなかったようです。仕方がないのでやり直し、ようやく出国。<br /> <br /> かと思いきや、再度セキュリティチェックがある。おいおい。出発まであと30分を切ったよ・・・。とは言いつつも、それが最後で、搭乗には間に合うことができた。早く付いたのでラウンジでも行こうかと思っていたのだが、ラウンジどころか乗り遅れそうになるとはさすがはインド、あなどれない。特にこのムンバイ空港は悪名高いようだが。<br /> <br /> 次回のためにメモしておくと、ムンバイ空港で注意する点は以下<br /> ・国内線から国際線へと乗り継ぐ際は最低プラス1時間余裕を見る。<br /> ・チェックインカウンターの混雑を考慮してプラス1時間余裕を見る<br /> ・道路の混雑はガイドブックの2倍の時間を想定する。<br /> ・国内線からの乗り継ぎの場合、1時間の遅延は遅延報告なしに遅延するのでプラス1時間余裕を見る<br /> <br /> となると、国際線に直接乗る場合は通常3時間プラス1時間で4時間前に空港到着するような予定を組む。国内線から国際線へと乗り継ぐ場合、チェックインが別の空港でできた場合は通常3時間プラス2時間で5時間の乗り継ぎ時間を持つ。違う航空会社で乗り継ぐ場合(私の場合、今回これ)は通常3時間プラス3時間で6時間の乗り継ぎ時間を持つ。<br /> <br /> 私の場合、乗り継ぐ飛行機が定刻より早くついたことと、チェックイン荷物がなくて、ピックアップおよび荷物チェックインの時間を省けたのにも関わらず約3時間半でギリギリだったので、乗り継ぎ時間2時間であれば確実に乗り遅れていただろう。インドは危険だ。<br /> <br /> そうして、ようやくインドを離れ、香港へ。ここまで来ると安心する。<br /> <br /> トランジットのエリアでチケットを発券してもらい、ようやく一安心。搭乗エリアのラウンジで落ち着き、時間を待ち、帰国した。<br /> <br /> <br /> Wed, 04 Jan 2012 00:00:00 +0900 タンジャーヴール(Thanjavur) https://w-jp.net/2012/124/ <br /> <br /> Maduraiからタンジャーヴールへ向かう電車。<br /> <br /> 途中で一回の乗り換えをして、その乗り換えで軽く朝食を食べた後、タンジャーヴールに到着した。電車から降り、予約していたホテルにまずチェックインし、世界遺産のブリハディーシュワラ寺院を見に行くことにした。<br /> <br /> ここの目玉は高さ61mの本殿と、その本殿の頂上にある、81トンと推測される巨大な一枚岩だ。<br /> <br /> ここはチョーラ朝の最盛期における最高傑作のひとつらしい。<br /> <br /> その前には、インドで二番目に大きなナンディー像もある。こちらは高さ4m、重さ25トンとのこと。<br /> <br /> <br /> 一回りして見学した後、近くにある王宮(パレス)にも行ってみるが、こちらは世界遺産ではないようだ。<br /> <br /> <br /> そしてホテルに戻り、夕食をホテルのレストランで食べ、明日に備える。<br /> <br /> 2011/01/03<br /> <br /> もともとの計画では今日タンジャーヴールの世界遺産を見学する予定であったが、先日見てしまったのと、再度見なくてもいいかなとの思いもあったので、ここから約40kmほど離れた小さな町にある世界遺産を見に行くことにした。<br /> <br /> ここタンジャーヴールから北東37kmにあるクンバーコーナムの町外れ、ダーラースラムにある世界遺産アイラーヴァテシュワラ寺院に行くことにした。<br /> <br /> ここタンジャーヴールからは電車で行くこともできるが、ホテルのすぐそこにあるold bus standからクンバーコーナム行きに乗ればその途中、クンバーコーナム手前4kmで降りることができるらしい。<br /> <br /> 帰りも、クンバーコーナムのバス・ステーションからタンジャーヴール行きに乗れば帰ってこられるようなので、ホテルがold bus station近くだったこともあり、電車ではなくバスで行くことにした。<br /> <br /> まずそのold bus stationに行くが、英語の案内がないのでどのバスに乗ったら良いのかさっぱりわからなかった。しかし、係員に聞いて大体の乗り場を確かめた後、そこに待っていた若い人たちに聞いて待っていたら、向こうから走ってきたバスがそれだということを教えてくれたのでそれに乗ってクンバーコーナムに行くことができた。<br /> <br /> バスはローカルのバスで、約35kmと思われるが片道17ルピー。バスは満員で立ち乗りで最初の30分を過ごした。その後に席が空いたので席に座り、ダーラースラムに着くと運転手がこちらをちろちろ見た気がしたので、周囲の人に聞くとそこがダーラースラムということでそこで降りた。<br /> <br /> いきなり降ろされても困ってしまうが、そこはGPSの出番で、すぐに場所および遺跡の場所を確かめることができ、歩いて5分ほどで遺跡に着くことができた。<br /> <br /> <br /> ここは2004年に世界遺産に登録されている。<br /> <br /> 大きさとしてはタンジャーヴールのブリハディーシュワラ寺院には及ばないが、なかなかよくできた寺院だ。周囲の彫刻が精密で、よく保存されている。<br /> <br /> <br /> 寺院は12時になるとほとんどが一旦16時頃まで閉まるので、周囲にある寺院も急いで見学する。<br /> <br /> クンバーコーナムの西端にある寺院まで移動しようとするが、わずか2~3kmと思われるがオートリクシャーに200ルピーと言われてそれ以上下がらないのでバス停まで戻って移動したら7ルピー。<br /> <br /> まず西端にあるクムベーシュワラ寺院から見学する。ここは象がいて、お布施をあげると頭をなでてくれるとのこと。ふむ。私も試してみた。なるほど。<br /> <br /> <br /> そしてその近くにあるラーマスワーミ寺院を見て、サランガパニ寺院を続けてみる。どの寺院も世界遺産と比べると割と小降りだが、ここは多くの寺院が集まっている門前町とのことだ。<br /> <br /> そしてナーゲーシュワラ寺院を見たことで主立った寺院は12時以前に見ることができた。<br /> <br /> <br /> そうして一段落ついたので、ホテルRayaの一階にあるレストランで休憩を兼ねて昼食を取る。何を食べればいいのか考える元気もなかったので、いつものチキン・マサラ(いわゆるチキンカレー)とナン、そしてスイート・ラッシーを食べて休憩をする。<br /> <br /> 水も頼んでがぶ飲みしたらおなかがたぷたぷになってしまったが、もうほとんど見るところもないので、近くにあるマハーマハームという貯水池およびその周囲に16の小堂があるようなところに行く。ここは12年に一度の祭りで使われるが、いつもは洗濯や沐浴のための貯水池になっているようだ。<br /> <br /> <br /> その小堂の階段に座って休憩した後、近くのバス停からバスに乗ってタンジャーヴールに戻ることにしました。<br /> <br /> バス停の位置もGPS任せで確認するが、GPSがなかったら通路一本違っていただけで迷うと思われるので、気分的にまったく違った旅になっていたかもしれない。現地の人に聞いたところで、実際にたどり着くまでは不安に思っていたことだろう。GPSがあるだけでその心持ちはまったく違う。<br /> <br /> そしてバス停に着き、どのバスに乗ったら良いのか聞いて、乗り込んだ。帰りはタンジャーヴールのold bus standまで19ルピー。今度は座ることができた。<br /> <br /> 約1時間で到着。old bus standの中には入らず、そのすぐ北の通りに一旦止まって乗客を降ろした後、すぐに走り出してしまった。ふーむ。私はなんとなくわかったので、周囲の人に聞いてそこで降りた。<br /> <br /> そしてホテルで荷物をピックアップして駅へと向かう。電車まではまだまだ時間があるが、動きまわっていても体力を使ってしまうし、多少時間があればその間に日記を付けることもできるので寝台列車の体力消耗に備えて早く駅に行くことにする。<br /> <br /> 今回は1等車両なので2等ほどではないにせよ、到着が朝早いのでそれほどゆっくりできないとも思われる。<br /> <br /> そうして駅にたどり着き、しばらく落ちついて電車を待つ。<br /> <br /> 電車が到着し、すぐに乗り込むことができた。やはり電光掲示板があるとかなり違う。Androidアプリで席を確認できたことも大きい。駅の掲示板で座席を確認しなくても(した方が良いが)車両が確認できる。車両の入り口横に名前と座席の表が張り出してあるので、駅舎の張り紙では確認しなかったが、Androidアプリの内容と車両の張り紙との一致を確認した後、車内へと入る。<br /> <br /> 1等車両はさすがに快適だが、ベッドが堅いのは仕方がない。4人部屋のうちほかの3人は2時間後に来るということなので、私は早々に眠りにつくことにする。<br /> <br /> ちょうど私の席の横にコンセントもあるので、心配していた充電も行いながら眠ることができた。<br /> <br /> セキュリティが心配であったが、キャリーバッグはワイヤーで繋ぎ、ハンドバッグは毛布の下に半分隠すようした上で、肩腕を通して寝た。この部屋はドアの鍵が中からかかるようになっているが、心配するにこしたことはない。<br /> <br /> <br /> Mon, 02 Jan 2012 00:00:00 +0900 マドゥライ(Madurai) https://w-jp.net/2011/123/ <br /> 2011/12/31<br /> <br /> マイソールからバンガロールまでは空席が目立っていたが、バンガロール先はかなり席が埋まり、いつものインド列車の混雑した車内になった。<br /> <br /> 今回は終点より手前で降りるので、寝過ごさないように気をつけて寝る。車内で目覚ましは使いたくないが、到着少し前の時間で目覚ましを一応かける。<br /> <br /> 眠りは浅かったが時間がかなりあったのでそこそこ疲れは取れて、到着30分前に外が明るくなってきたことで起床した。インドの列車は遅れるとの評判だが、この列車はほぼ定刻の運行をしていることがGPSを見ると確認できた。GPSがなかったら今どこにいるのかかなり不安になっていただろうが、GPSのおかげでかなり助かっている。特に、スマートフォン連携は最強だ。今後の旅に必須だと感じる。<br /> <br /> そして、定刻でマドゥライに到着し、一旦ホテルを目指す。ホテルは丘の上にあるのでオートリクシャもいくらになるのかわからず、値段交渉をしようとしたら値段を言わないので、たまにはこういう体験もいいかと思って、セオリーには反するが、値段交渉をせずにそのまま乗ってみた。<br /> <br /> ホテルの入り口まで4km、その後に坂を1kmほど登るだろうか。丘の上にホテルはあった。<br /> <br /> ドライバーを待たせて荷物だけ置くつもりであったが、だめもとでアーリーチェックインが出来るか確認してみたところ、予約したキングサイズベッドは無理だがツインの部屋ならOKだというのでそうすることにした。<br /> <br /> ドライバーを返すために一旦駐車場に戻ってお金を渡そうとすると、250ルピーだという。きたきた。この展開を予想していましたよ。100ルピー渡して去らせようとしたら、さすがにこの値段だと引き下がらないようで、150ルピーで捨て台詞と共に去っていった。4kmと1kmの坂道で150ルピーは現地価格からしたら高いかもしれないが、おそらくこのホテルへの片道は皆このくらい出しているのだろう、とその後の交渉もトータルに見た上でそう感じた。<br /> <br /> そして一旦部屋に入り、シャワーを浴びてゆっくりする。<br /> <br /> <br /> 今日はサイクロンがここインド南部の最南端付近を横切っているとのことで、その影響で空は曇りだ。しかも、時々雷雨があるとの予想なので、今日は観光に出かけずに明日出かけることにする。<br /> <br /> 気温も肌寒く、外のリクライニングでゆっくりしていると体がすごく冷えてきてしまった。<br /> <br /> 昼食に行くのをおっくうにしていたらスタッフが部屋食を勧めてきたので頼んだが、値段がちょっとびっくりする価格で、さすがリゾートホテル、チキンカレー(チキン・マサラ)とナン2枚とラッシー(スイート・ラッシー)で1200ルピーくらいした。夕食ビュッフェより高いとは。<br /> <br /> ところで、今夜は大晦日なのでカウントダウンパーティー「ガラ・ディナー」がこのホテルのホールであるとのことなので、3200ルピーという、インド価格からするとびっくりする価格のパーティーに参加することにする。普通の夕食ビュッフェは750ルピーとのことなので、パーティ代が約2500ルピーということか。まあ、そんなものかもしれない。<br /> <br /> <br /> そして、7時が開場だとフロントで予約した時に聞いたので行ってみると、開場は8時だと言う。うーむ。そして8時に行ってみると、予約されていないと言われてしまった。おいおい。実際には席はあったのだが、ひとまずレストランで普通の夕食ビュッフェを食べることにする。<br /> <br /> そして、その夕食を食べ終わった頃にはパーティーのことはどっちでもよくなっていたのだが、ふと、フロントから内線がレストランまで入り、席が用意されているとのことなので、ちょっとクレームを入れる。<br /> <br /> その結果、既に食べてしまった夕食ビュッフェ(同じものはパーティー開場にもあるので似たようなものだったが)はチャージなしで、カウントダウンパーティー「ガラ・ディナー」のみのチャージ(当然だが)で途中から参加することにした。<br /> <br /> <br /> 一体全体、ガラ・ディナーとは何なのだろうと思っていましたが、多少の催し物、たとえば馬の被り物による踊りや手品などと、ディスコの融合みたいなパーティーだった。<br /> <br /> 途中、ディスコのように子供たちが司会と一緒に踊っていて、その次に催し物があって、カウントダウンまでの1時間以上はディスコで踊り続けていた。私は踊らなかったが。<br /> <br /> そしてカウントダウンで新年を迎えた。外では花火の音がしている。単発のものが多いようなので、自治体がやっているようには見えなかった。<br /> <br /> こういう新年パーティーもありかもしれないが、やはり、シドニーで行われたような盛大な花火ショーに行った方がよかったかな・・・。ここインドでも、ニュースをみる限り、カウントダウンパーティーがあったようだが、ここからはその様子はよくわからない。<br /> <br /> ホテルのパーティーもいいが、次は都市部のカウントダウンセレモニーがいいな。メキシコシティのカウントダウンは盛り上がったことを思い出す。<br /> <br /> 2012/1/1<br /> <br /> 新年を迎えたが、初夢が何だったのかさっぱり忘れてしまった。<br /> <br /> 窓を開けると、今日はそれはそれはいい天気のようだ。<br /> <br /> 朝食ビュッフェを食べた後、チェックをしてもらったが請求されそうになったので、プランに含まれていることを伝えるとチャージはここではしないのでフロントに言ってください、との回答を得ました。直前予約でプリントアウトをしていないので、きちんと予約内容が伝わっていないのかもしれない。それとも、単なる伝達ミスか。まあ、このホテルはいろいろあるが、先日のパーティーの時もそうであったが、トラブルがあってもマネージャーがきちんとフォローをしてくれるのでさすがはそれなりのホテルなんだなと思う。安宿とはちょっと違う。<br /> <br /> そして町に出て、寺院を散策する。<br /> <br /> <br /> ここで一番有名なのはミーナークシー寺院とのことで、もちろん一番の見所だ。<br /> <br /> ガイドブックに、東門が正門と書かれてあるので、降りたのは北門であったが、東門にてサンダルを預けてから中に入る。<br /> <br /> 中は、とてもとても印象的だった。天井の色彩が鮮やかで、そこに来ている人々の誠実な信仰心が見ているだけで伝わってくる。<br /> <br /> 奥にはヒンドゥ教徒しか入れないので、その周辺を散策する。それでも十分にヒンドゥ教徒の心持がが伝わってくる。<br /> <br /> 北インドのバナラシなどで寺院にいったときはよくわからなかった宗教の辛辣な気持ちが、ここマドゥーライでは見ているだけでもよく感じられる。<br /> <br /> その後、1kmほどの場所にあるティルマライ・ナーヤカ宮殿に行く。ここは柱と王の椅子が印象的で、奥および横の部屋には各種の彫刻があった。<br /> <br /> ガイドブックには歩いていけると書いてあるが、神殿から宮殿まで20ルピーと言われたのに乗ればよかったかもしれない。まあ、いいのだけれども。帰りに付きまとってきたリクシャには50ルピーと言われたが・・・。ううむ。<br /> <br /> そして、宮殿を見終わった後どうしようかと思ったが、ガーンディー博物館に行くことにする。実は、しつこい自転車リクシャーを追い払おうと思って、明日ね、明日明日と言い続けていたら、それでもまだちょっと高いだろうが100ルピーで片道行くというので、自転車でがんばってもらうことにした。<br /> <br /> 途中、橋を通り、ガーンディー博物館に行くが、どうやら新年の1月1日はお休みらしい。ガイドブックにはそんなこと書いてないが・・・。まあ、インドだしな。仕方がない。その横のGovemment museumは開いていたので入ってみたが、あの内容で100ルピーは高すぎだと思った。ガーンディー博物館が無料なので、それとバランスすると、両方入って100ルピーであれば納得もいくものだが、実際は博物館がとても大きくて無料なのに対し、museumはすごく小さくて100ルピーなので、かなり格差がある。はっきり言って、museumは入る価値なし。<br /> <br /> そして、そのままミーナークシー寺院まで戻ってもらおうとしたが、リクシャのこぎ手が、川の南側の少し東にあるマーリアンマン池とその中央にある寺院を眺めに行かないかと言ってきた。私は最初、そんなのはいいから戻れと言ったが、なかなか引き下がらないし、まあ、時間もちょっとあるので行ってもらうことにした。全行程で300ルピー。2時間くらいかな。燃料代もかからないのでいい稼ぎなんじゃないかなと予想する。ちょっと払いすぎかも。<br /> <br /> そんなこんなでマーリアンマン池にたどり着いたが、予想以上に綺麗な寺院だった。もっとしょぼいと思っていた。<br /> <br /> そしてミーナークシー寺院に戻るが、まだ素直に戻らないこのドライバーは、到着少し前に立ち止まって身の上話をし始めた。まあ、ご苦労なことだなあと思いつつも聞いてあげると、子供がポリオにかかって大変だと言う。誰もそんな話を信じないが、とりあえず、ふむふむと聞いてあげていると、たくさん走ったのでとても疲れたという。そりゃあんたの仕事なんだから疲れて当然だと思いつつも、ふむふむと聞いてあげる。同じようなことがバナラシでもあったが、あっちほど性格がねじ曲がってはいないようなので、ちょっとのチップを用意しておく。<br /> <br /> そして、寺院に到着し、まず基本の300ルピーを渡し、チップとしてまず10ルピーを渡すと、案の定、これだけ? という顔をするので、人の良い私は、用意してあった20ルピーを渡して、グッバイした。まあ、十分でしょう。というか、気前よすぎて、勘違いさせてしまっているのかもしれないな。<br /> <br /> そんなこんなで寺院の周辺で飲み物を飲んで落ちついた後、ホテルに戻る。<br /> <br /> 戻る時はオートリクシャを使うが、最初200ルピーを提示されたが、おそらく適正価格である150ルピーで乗って戻ってきた。<br /> <br /> ホテルに戻り、プール脇でゆっくりしていると、孔雀が周辺を散歩していた・・・。インドびっくりだ。というかこのホテルか。<br /> <br /> <br /> そして夕食を食べ、明日に備えて早く眠る。<br /> <br /> <br /> 2012/01/02<br /> <br /> 今朝は5時前に起きて出発の支度をする。朝なのでかなり寒いかと思っていましたが、さすがに南インド、さほどでもない。<br /> <br /> チェックアウトを済ませて出発をしようとするが、最後のチェックアウトの精算に税金1000ルピーが含まれていたのでExpediaへの精算に既に入っていることを指摘して抜かしてもらう。最後の最後までこのホテルは細かなところが抜けていたが、指摘すればきちんと改善および対処されるので基本的にはいいホテルだった。<br /> <br /> そして駅へと向かう。<br /> <br /> 周囲はまだ薄暗かったが、電車は6時45分発なのでホームへと行くと、電車は既に来ていた。<br /> <br /> 今まで、電車が止まる番線は電光掲示板に掲示されていることが多かったが、ここでは手書きのホワイトボードだった。そして、私の乗る車両がどこに止まるのかも毎度のことながらよくわからなかったが、係員に聞いてそちらに行くと、ふと目の前に電光掲示板がぽつりと置いてあった。この存在は、言われないと気付かないレベルだ。<br /> <br /> そして無事に自分の車両近くで待つことができたが、モニタには定刻より15分前に到着と書いてあったのに、実際は10分遅れてプラットフォームに入ってきた。まあ、インドだし、そんなものかな。<br /> <br /> <br /> Sat, 31 Dec 2011 00:00:00 +0900 マイソール https://w-jp.net/2011/122/ <br /> 2011/12/29<br /> <br /> ハンピからの夜行バス。<br /> <br /> 何度か目が覚めたが、そこそこに眠むれてバンガロールに着けた。やはり横になれるというのは大きい。しかも、進行方向に足を向けて、頭を後方に向けているので車体が揺れたりしても、意外なほどに影響を受けにくい。今回は飛行機の中でもそこそこ眠れたので、狭いところで眠ることに慣れてきた、ということもあるのかもしれないが。<br /> <br /> そしてバンガロール駅近くに到着し、駅まで徒歩で移動、そして駅で時間を潰すことにした。少しは観光してもよかったのだが、今回は体力を温存させて、体調を崩さずに旅行することを第一としているので時間があるからと言って出かけるのは避けた。<br /> <br /> 駅の構内でコーヒーを飲んだところ、これまた美味しい。こちらに来てからコーヒーで外れを引いていないような気がする。ひょっとして、インドのコーヒーは美味しいのか? 或いは旅行だからか。 駅の売店で菓子パンとコーヒーを飲んで朝食にしたが、このパンも美味しい。<br /> <br /> と、そんな時に、横にいるおじさんが話しかけてきた。そのおじさんが言うに、銀行が潰れてしまったので預金がパーになってしまった。なので、チェンナイまでの切符として二百ルピー恵んで欲しい、と言う。<br /> <br /> どこかで聞いたような典型的な詐欺だなあ・・・ と思いつつ、この地方の英語のなまりがきつくて聞き取りにくかったために、なまりになれるためにその相手をしてあげた。<br /> <br /> 私が、どこかの本で読んだけどインドの列車は無銭で乗れるんだよね、と言うと、そのおじさんは、そんなことないよ、と言い返したり。<br /> <br /> そんなこんなでちょっと喋った後、私はもう一杯コーヒーを飲むからと言ってその場を離れて、そのまま戻らなかった。<br /> <br /> 私が遠めで見ていたら、違う売店でパンとコーヒーを買って食べていた・・・。二十ルピーくらいかな。ふむ・・・。<br /> <br /> そして私はホームの待合室へ。一等車両の予約があれば、ちょっと清潔な待合室に入ることができる。<br /> <br /> そこでネットをしつつ時間を潰し、時間の30分前に待合室を出たが、まず、私の乗るエアコン付1等車両のC5というコーチ(車両)がどこに止まるのか確かめたいと思って券売場の方に行ってみたが、どこに書いてあるのかまったくわからない。<br /> <br /> バンガロールのホームには車両ごとにLED表示があったので、そこに車両の番号がでるのかな・・・。と期待してホームに行ってみたが、車両の種類らしきものだけが書いてあって、詳しい車両の番号がない。<br /> <br /> 仕方がないので、電車が来ると思われる方に移動しておいて、列車が来たらその車両に書いてある車両を見て、自分が乗る車両を追いかける、という方法を取ることにした。<br /> <br /> 表示があって明確なときはともかく、よくわからないときはこれが一番確実かもしれない。<br /> <br /> 待っていると、案の定、私の乗る車両が通り過ぎたのでそれを追いかけ、そして、うまく乗ることができた。<br /> <br /> しかし、その入り口は降りる人と乗る人が同時に詰めかけて、出るのは困難だし入るのも困難だし・・・ と、かなり悲惨な状況になっていた。しかも、中に入らないと、2つある入り口のどちらが自分の座席に近いのかわからないため、車両の両側からどこかの座席へとの移動が続いて、座席まで行くまでに混迷を極めた。<br /> <br /> 一等車両でこの混乱というのは、さすがインドだ。まあ、このくらいは、混乱のうちに入らないのかもしれないが。<br /> <br /> 私が座った席の目の前には運よくコンセントがあったので、ネットをしつつマイソールへと向かう。<br /> <br /> 2時間ほどの乗車ですが、値段的にはさほどでもないのにもかかわらず、水と食事が付いてきた。<br /> <br /> そしてマイソールへ。<br /> <br /> 降りたった先で、タクシー二百ルピーを持ちかけられたが、オートリクシャーで十分なので2kmあまりを五十ルピーで行ってもらうことにした。<br /> <br /> しかし、このオートリクシャーが、ホテルの方にそのまま向かわずに、違う方向に向かおうとした。私はGPSで場所を確認していたので、ドライバーに「そっちじゃなくてこっちでしょ」と言うと、ばつの悪そうな顔をして、「いやあ、あっちいってから、そっちに行くんだよ」と答えたので好きにさせることにした。<br /> <br /> 案の定、ドライバーが勧めたいホテルがあるらしく、ここはどうだ? と言ってくるので、私が、既に予約済だと言うとホテルにおとなしく向かい始めた。<br /> <br /> それでも、さらにもう一つ勧めたいホテルがあるらしく、私の泊まるホテルのすぐそこだ、とも言ってきたが・・・。<br /> <br /> 遠回りしたのに五十ルピーなのはちょっと可哀想だが、ドライバーが勝手に遠回りしたので気にせずそのまま払い、ホテルに入る。<br /> <br /> ここは、値段のわりには清潔で綺麗な設備だと思った。コストパフォーマンスが良い。ここならばもう少し長く滞在してもよかったかもしれない。<br /> <br /> そして、部屋に荷物を置いた後、近くにある動物園へと向かう。<br /> <br /> 動物園には、珍しいホワイトタイガーがいたり、かっこいいライオンやタイガーなどがいた。キリンや鹿も元気に動いていた。<br /> <br /> 日本の動物園に比べると比較的広々としており、動物がそれなりに動ける環境があるように思える。とは言っても、比較した場合の話であり、それほど広い場所があるわけではないのだが。<br /> <br /> <br /> そして動物園を見た後、マイソールの宮殿近くまで歩き、遠目に宮殿を見る。明日見学する予定だ。宮殿の中はカメラ持ち込み禁止なので、ここで撮った写真が唯一になるかもしれない。<br /> <br /> その通りを少し歩いてホテルに近づき、あと1kmほどまで来たら、リクシャードライバーに話しかけられたので、30ルピーでいいというのでホテルまで行ってもらうことにする。<br /> <br /> すると案の定、途中の土産物屋に寄っていかないかというので、たまにはこういうのも面白いかなと思って、そのまま入ってみることに。<br /> <br /> アーグラーやデリーのような北インドの悪質な町であれば最初から入るのを拒否しただろうが、ここマイソールはリクシャードライバーの素朴さから判断して、そこまで悪質ではないだろうと判断した上での行動だった。<br /> <br /> 中は土産物屋になっており、サリーや装飾物、土産物などが飾られていた。土産物をひとつ持ち上げて後ろを見てみると、値段が張ってあって、高さ20cm、半径3cmくらいの円柱をくり抜いて作った木の置物が二千七百ルピーと書いてあった。二千七百ルピーはあり得ないでしょ・・・。と思いつつも、なんとなく店内を見て、サリーを勧められたが笑いながらかわして外に出た。やはり、予想通り、さほど強引ではなかったのでよかった。<br /> <br /> そしてホテルに戻ってもらい、ゆっくりした後、夕食を食べ、夕べは深夜バスで十分に休めなかった分を今夜は早めにゆっくりと休息を取ることにした。<br /> <br /> 2011/12/30<br /> <br /> 今日はマイソール宮殿とその付近の博物館を見学する。<br /> <br /> 先日が夜行バスだったので朝は7時前後に起きて、朝食を済ませる。朝食はビュッフェだ。さすが、朝食はホテルのグレードに相応しい量と種類だ。<br /> <br /> そして部屋に戻って今日と数日後までの予定を確認したが、どうやら私があらかじめマドゥーライで予約したホテルは駅前にあって、場所からすると、ちょっと騒々しいが立地の良いビジネスホテルのように見受けられた。そのホテルを予約した時はあまり考えていなかったが、ムンバイで泊まった同程度のホテルの程度を考えると、その数倍出せば昨晩泊まったグレードでゆっくりできることを考えると、せっかくの大晦日をそのようなビジネスホテルで過ごすのはもったいないということもあり、違うホテルを予約することにした。<br /> <br /> 駅からはちょっと離れていて、一番下のクラスは大晦日が空室なしのようだけれどもスーベリアのキングベッドでも大晦日が約8000円、次の日は割引が利いて約6000円ほどということと、カード優待コードを使ってExpediaで5%割引が利いて二泊でタックス込みでも2泊16000円という価格で、しかも日本でのどう値段とは比べものにならないグレードなので、こちらに切り替えることにした。元の予約は一泊分、約2700円がキャンセルチャージされるけど、あまり気にしないことにする。予約した時はインドのホテルの値段とグレードのバランスがわかっていなかったけれども、どうやら、4000ルピーあたりが境目で、今のレートが約1.5なので日本円で6000円以上出せばそこそこ快適な滞在ができるような気がした。数年前はレートが3とかあった筈なので12000円だとちょっと高いが、6000円なら普通に泊まってもいいだろう。円高が進んでいるのか、或いは、インドルピーが急落しているのか・・・。ニュースによると後者とのことだが、インドルピーの為替を追ってはいないので実感はない。<br /> <br /> そんなこんなでホテルの予約も済ませ、チェックアウトしてからマイソール宮殿へと向かう。<br /> <br /> <br /> マイソール宮殿のオープン10分前に到着したが、チケット売場に少ししか並んでいないのが不思議だった。団体が多いのかな??? 宮殿の中にはカメラを持ち込めないので、入ってすぐ右にあるカウンターでカメラを預ける。とは言っても、インド人は小型カメラや携帯カメラでバシバシ写真とっていたが・・・。係員も注意をしていなかった。よく分からないが、言っても無駄だから放置しているのか・・・。<br /> <br /> そんなわけで中の写真はないが、インドの金持ちとはここまで凄いのかと思わせる建物だった。<br /> <br /> <br /> 宮殿を出た後、同じ敷地にあるレジデント博物館に立ち寄る。ここにはマハーラージャの所有物だったものが展示されていた。<br /> <br /> そして、宮殿の周囲を見学する。<br /> <br /> <br /> これでマイソールの主たる目的は果たしたので、近くにあるシュリー・ジャヤーチャーマラージェーンドラ美術館 に立ち寄り、古い時代の絵画や演奏に使う道具を見学した。<br /> <br /> <br /> そして、近くのデーヴァーラージ・マーケットまで歩き、中を散策する。ガイドブックには、王国の雰囲気を残していると書いてあるが、言われてみればそう思えなくもない。東南アジアのローカルなマーケットに近いかも。<br /> <br /> <br /> <br /> その周辺を散策した後にホテルに荷物をピックアップしに戻り、そのまま駅まで移動します。<br /> <br /> 今夜6時発の列車でマイソールからマドゥーライに移動します。<br /> <br /> <br /> Thu, 29 Dec 2011 00:00:00 +0900 ハンピ https://w-jp.net/2011/121/ <br /> 2011/12/27<br /> <br /> 今日は移動の日だ。朝6時に起きて支度をし、予約したタクシーで最寄りの鉄道駅、マルガオ駅へと向かう。リゾートホテルからのタクシーなので550ルピーもするが、早朝も値段が変わらないようだし、リゾートホテルに泊まりながら値切ると面白い人になってしまうので気にしないことにする。<br /> <br /> 夕べ、キャンセルできなかった席を再度キャンセルしようとしたが、やはりキャンセルできなかった。後ほど代理店CLEARTRIPから連絡が入っており、クレームを出して返金できるとのこと。値段的には大したことないが、どうなるのか確かめてみたいので、手続きは30日以内ということなので帰国してから申し出てみることにする。<br /> <br /> プラットホームに着いてみてから気付くが、自分の車両がどこに止まるのかわからない・・・。ふと頭に残像が浮かび、他の車両の配置がLED表示板に出ていたのを思いだし、見るために一旦戻ろうかとも思ったが、もう出発時刻間際であったので、その周辺の人に聞きまくって場所を特定した。旅行者の中には、よく分からないがとりあえずここで待っているという人が予想以上に多くいたが、クラスが違うと通過できないので出発後に車両移動するのはなるべく避けたかった。<br /> <br /> 最初、先頭まで行ってから訪ねても的を得ず、中間まで戻ってもまだわからず、後方まで行く途中で訪ねた人の横の人が知っていて、どうやら後方の方に止まることがわかった。そしてそちらに近づくと警察がいたので再度確かめ、どうやらもう少し後ということなので、荷物持ちを雇っている人がいるあたりで確かめると、ようやく場所を特定することができた。<br /> <br /> そしてようやく列車がたどり着いたが、目の前を通過する列車の横に2等、3等が先頭車両と荷物車両の後に続けて通過していったので、もしかしてものすごく間違えたのかと思ったが、車両を追いかけて走り出したい自分をじっとこらえて、ここから見える車両を確かめてからでも遅くはないと列車が止まるまでまったところ、私の目の前に止まった車両は同じ2等であってもAC付きの2等であり、私の予約したクラスはまさにここであった。インドの列車はこの違いが最初は分かりづらいのだよね・・・。<br /> <br /> そして列車に乗り込むと、どうやらここは寝台車のようで、リクライニングではなかった。なるほど。列車はホスペットの後もずっと走るのであり、そこでは寝台になるのだろう。<br /> <br /> ふとネットを巡回していて気付いたが、私はどうやら列車予約ステータスの見方をわかっていなかったようです。私は正規サイトではなく、CleartripおよびAndroid用の予約状況確認ソフトを使っており、そのどちらも、席が確保されるまではW/L(Wait list) になっているので、この状態のままでは席が確保されていないと思っていた。しかし、Androidツールの詳細画面にいつの間にかRLGNと付いていたので、それを調べてみると、正確な席は決まっていないが、いずれかの席が確保できた、という状態とのこと。çleartripにしてもandroidツールにしても、この状態ではまだWait listと表示していたので、私はてっきり席がまだ確保できていないものかと思っていたのだが、どうやら席は出発4時間前に決まるようだった。これを知らずに、ホスペットとバンガロール間の夜行寝台バスを保険として予約してしまったのだが、もっと早くしっていたのならばバスの予約はする必要がなかった。とは言っても、まだ本当にそれが正しいのかは分からないので、バスの予約もそのまま放置する。というのも、バスの予約サイトから問い合わせをしてもメールアドレスが存在しないエラーが帰ってきてしまうので、本当に予約が取れたのかもわからないからだ。予約サイトは別サイトなので、キャンセルはたぶんできるだろうが、列車が取れていなかったときの保険だと思えば、このバスの予約はそのままでもいいだろう。<br /> <br /> そんなこんなで車両からモバイルWifiを使ってネットをしつつホスペットまで過ごした。これは今回、グローバルデータというところで一日千円プラン(VISAゴールド限定)で借りたのだが、インドは沢山の通信会社が混在しているので、もう一つのレンタル会社のテレコムなんとかはAirtel限定でローミング未対応だったので、こちらはイギリスVodaphoneのローミングなのでどこでも繋がると思ってこちらにしたのだが、まさに狙い通りだった。実際のところ、回線速度はかなり遅いので、DOCOMOのローミングをしていたとしても大した料金にはならなかったかもしれない。使用履歴を見ても30分でせいぜい数Mにしかなっていなかった。<br /> <br /> そしてホスペットに到着し、ホテルにたどり着く。最初はハンピ遺跡近くのゲストハウスにしようかと思っていましたが、外れを引くとイヤなのでリゾートホテルにした。現4,000ルピー前後するようなので、その値段に見合って、なかなか整備されているホテルだ。<br /> <br /> ここでゆっくりして、明日に備える。<br /> <br /> 2011/12/28<br /> <br /> 蚊に悩まされることもなく朝を迎えた。さすがにこの値段を出せばさほど不満もないようだ。ベッドも快適。部屋がちょっと暗めなこと以外は問題ない。<br /> <br /> 朝食は軽い食事が出た。いくつか品があるようだが、私が行った時間には1つしか出ていなくて、あと2つが私のいる間に出てきた。日本の感覚で言うと開始時刻に全て揃っていないのは問題のようにも感じられるが、すぐに冷めてしまって美味しくなくなるよりは順番に出た方がいい、という好意的解釈もできる。というのも、出された瞬間に取ったらまあまあの味だったが、追加で少し取ったらちょっと微妙な冷めた味になっていたからだ。<br /> <br /> ここで出されるコーヒーは、東京でもたまに見かけるバザー(?)のものらしく、味はなかなか美味しかった。東京に帰ったら飲んでみようかとも思う。<br /> <br /> 朝食を済ませ、チェックアウトをして、荷物を預けてからハンピへと向かう。専属の車で1日貸し切ると2000ルピーと言われたが、予定もわからないので躊躇していると、専属の車で片道300ルピーと言われた。とは言っても、ちょっとそこに行くのであればオートリクシャーで十分なので、道を通っているオートリクシャーを従業員に止めてもらうことにした。リゾートホテルのつもりならばフロント前にオートリクシャーを待機させておいてもいいものだと思うが・・・。その従業員、というかガードマンのような人が言うには、ホスペットとハンピの中央付近にあるこのホテルからハンピまで、乗り合いのオートリクシャーで20ルピーだという。その従業員が50ルピーで交渉してくれたがなかなかOKが出ず、70とかにアップしてもだめだったので、私が口を出して100ルピーで行ってもらった。従業員は、なんて大金を出すんだ、という顔をしていたが・・・。その従業員にもチップを10ルピー渡す。<br /> <br /> そしてハンピに近づくと、私のGPSで見るとハンピ・バザールはすぐそこなのに、その手前で止まって、他のリクシャーの運転手が私に話しかけてきた。向こうは片言の英語で NO TOUR? と言ってきたので、その片言から察するに、自分のツアーに金を出せと言ってきているようだったので、スマホのGPSでGoogle mapを見せて、ハンピ・バザールのヴィルーパークシャ寺院まではすぐそこだから、そこに行け、と言ったらすぐに引き下がった。おそらく、昔は地図もわからない旅行者をこうして止めて、執拗にツアーを迫っていたのだろう。GPSを持っていない旅行者にならばまだ通じるかもしれないが・・・。既に徒歩で行ける範囲まで来てからそれをされても効果はない。<br /> <br /> そしてハンピ・バザールにたどり着き、ヴィルーパークシャ寺院を見学する。ここは予想以上に大きい寺院で、なかなかに見応えがあった。入り口の塔は50mの高さだという。<br /> <br /> そして、寺院を出てくるとツアーの客引きがあり、近くの寺院と王宮地区を一通り見てからヴィッタラ寺院で降ろすコースを勧められた。どうやら、ここハンピ・バザールからヴィッタラ寺院までの川沿いの地域は車が入ることができないので、おそらくこれが一般的で合理的なツアーコースなのだろうと思った。王宮地区まで見て約3時間、その後ヴィッタラ寺院まで送ってもらうコースで400ルピー。感覚的には高いのだが、ここから半分に値切っても大した差はないし、今回の旅はお金よりも疲れず体調を崩さずに旅することを優先させているのでこの値段で行ってもらうことにした。<br /> <br /> 後から思うと、昨日、駅からホテルまで送ってもらったリクシャードライバーのような・・・。最初は気付かなかったが・・・。おそらく、私が寺院から出るのを待ちかまえていたのだろう。<br /> <br /> まず、近くにあるガネーシャ像に行く。ガネーシャは像の神様で、先日立ち寄った博物館の説明の記憶によると、女のパールバディという神様が大切にしていた人を他の神様が殺してしまって泣き叫んだため、その悲しみを慰めるために、誰かの首をはねて(だったかな?)、その首に象の首をくっつけたのだという。だから、このガネーシャ像は、ものすごく大きな象の像になっている。かなり立派だ。<br /> <br /> <br /> そしてそのすぐそこにあるナラスィンハ像とクリシュナ寺院を見る。<br /> <br /> <br /> そして王宮地区へ。<br /> 立ち止まって、リクシャーから出ずにSister Stoneを見た後、地下寺院へと行く。そしてザナーナー・エンクロージャーと呼ばれている地区に入場料(ヴィッタラ寺院と共通)を払って入り、ロータス・ハマルという建物と、エレファント・スティブルという建物を見る。<br /> <br /> そして、その前の駐車場前にある博物館、というか石像が並べてあるところを見た後に、ハザーラ・ラーマ寺院を見る<br /> <br /> そしてそのすぐ近くにあるKing's Audience Hallを見て、次に王妃の浴場を見ることで王宮地区はほとんど見たことになったようだ。<br /> <br /> そして、ヴィッタラ寺院の入り口まで来て終了。<br /> <br /> <br /> そこからヴィッタラ寺院の目の前まではゴルフカートのようなものに乗って行く。現地の人は10ルピーのようだが、列を省ける側に並ぶと20ルピーのようだった。<br /> <br /> ヴィッタラ寺院もかなかな凝った作りで、見がいがある。<br /> <br /> <br /> そして、川沿いを歩いてハンピ・バザール方面に向かうと、その途中に数々の寺院があった。<br /> <br /> 川沿いにあるPurandaradasa Mantap 、洞窟の寺院、Sree Kodandarama Temple、アチュタラーヤ寺院を見て回った。<br /> <br /> <br /> そして、ハンピ周辺を見下ろすことが出来るマータンガ山に登った。ここは、地球の歩き方の地図とGoogle mapの記述は若干ことなっているものの、アチュタラーヤ寺院側からも登れるようだし、そこにいた警備員の人も行けると行っていたので、アチュタラーヤ寺院側から登ることにした。これが後から思えば大正解。最初は細い道で誰も歩いておらず、途中の寺院に何故か寝ている人だけいてびっくりもしたが、GPSがあるのと、山がどこにあるのかはわかりやすいので、意外に迷わずに登ることが出来た。けもの道のような歩道を通って、山の南側まで回った後、けもの道から山への道が見えたのでそこまで岩を伝ってその道に合流すると、あとはさほど登らずに登頂することができた。<br /> <br /> そこからの景色は絶景だった。<br /> <br /> <br /> そしてハンピ・バザール方面に降りるが、私は一回しか行っていないので勘違いかもしれないが、こちらの道の方が長く続く気がした。登るときはこんなに登らなかったような・・・。アチュタラーヤ寺院がそれなりに高いところにあったのかもしれないが、川沿いからハンピ・バザールがさほど低い位置にあるようにも見えなかったので、単に疲れが溜まっていただけかもしれない。<br /> <br /> <br /> そうしてハンピ・バザールに戻ってきた頃には3時過ぎになっていた。<br /> <br /> お昼を食べていなかったので、夕食も兼ねてパラックパニールとナンを食べる。ラッシーも一緒だ。<br /> <br /> そして、時間待ちのためにマッサージを受けようとしたが、1時間で750ルピーという、ホテルのマッサージよりも高い値段を提示されたのでやめた。ホテルなら1時間500ルピーかな。よくわからないマッサージ(フットマッサージをお願いしたが)にこれだけ払うのは微妙だ。<br /> <br /> ここでもうやることもないので、ホスペット駅に向かうことにする。<br /> <br /> モバイルで予約状況を確認するが、まだW/Lの状態で、席が確定していないが、RLGNなので早めに行って席を確認してみたいという気持ちもあったので、もう向かうことにした。<br /> <br /> 戻るときは、おそらく150ルピーでも行けただろうが、交渉相手に変な雰囲気を感じて、最初は250ルピーと言っていたのに200ルピーまで下がり、最後には「いいよ150ルピーでも、こいつに乗りな」と言い、そうこうしているうちに、雰囲気が微妙なドライバーの後ろに乗せようとしたので、やっぱいらない、と言って去ったら、案の定、インド人の捨て台詞 Go! (いっちまえ!)と言われた。まあ、ここは田舎町なので、バラナシなどの北インドのインド人にあるようなトゲトゲさと気持ち悪さはさほどないのだが、どちらにせよ、似た感じを受けたので拒否して正解だった。値段交渉をしていて、執拗に拒否していたのにも関わらず、急に目の色が ふんっ って感じに変わってOKと言ってくる相手には要注意で、その場合はどんなに安くても交渉を中断すべきというのは旅行での経験から出た答えだ。<br /> <br /> こう言うときは、すぐにこの場所を離れるに限る。少し歩いて、話しかけてきたドライバーに値段を聞くと200ルピーというので、もう一声できそうではあったが、素朴なドライバーだったのでその値段で行ってもらうことにした。そのすぐ後ろに先ほどGo! と捨て台詞を吐いた筈のドライバーも付いてきたので、手で制止して振り払った。<br /> <br /> そして途中のホテルの荷物を取り、ホスペット駅へ。駅に付いてからチケット売場に聞くと、RLGNは席が取れているので中のチケット案内に聞けというのでそこへ行って再度聞いたところ、確かに取れており、出発の10分前に時刻案内表のところに張り出すから、横にある待ち部屋で待つように言われた。<br /> <br /> そして再度、ステータスを確認してみると、Wait list が数週間前から3のまま繰り上がらなかったのに、今は1になっていた。私の前の2人は、諦めたのか、或いは、予定を変えたのか・・・。よくわからないが、とにかく、私は乗れるようだ。<br /> <br /> 時間まで待合所でゆっくりすることにする。<br /> <br /> そして出発の十分前になったので表を確認してみると、私の名前がない。うーん・・・。RLGNとなっていて、ネット情報だと乗れそうなことが書いてあったのだが、駅の係員に聞いてみると、コンファームされていないから乗ることが出来ないという。もう列車時刻になってしまったので、仕方なく列車はあきらめ、予備で予約しておいた深夜バスの待合所に向かう。<br /> <br /> この深夜バスですが、ネットで予約したのは良いものの、ネットに記載のあったメールアドレスに送信するとメールアドレスが存在しないエラーを返すような微妙なホームページだったので多少不安であったが、ホスペット前の道をバスターミナルに向かってしばらく歩いた先に予約したページと同じ旅行代理店があったのでほっとした。確認してみると、ここで間違いないという。<br /> <br /> すぐ近くにある路上の喫茶店のようなところで時間を潰した後、バスでバンガロールに向かう。夜の11時発で、朝の6時前後に到着するようだ。<br /> <br /> 寝袋を出して、早々に眠りにつく。<br /> <br /> <br /> Wed, 28 Dec 2011 00:00:00 +0900 ゴア https://w-jp.net/2011/120/ <br /> ムンバイから出発した夜行バス。<br /> <br /> やがて外は明るくなり、ゴアに近づいた。そこで事件は起こった。<br /> <br /> 私の荷物は平気だったのだが、後ろの座席の荷物が夜のうちに盗まれたのだという。カメラとiPhoneとパスポートが被害にあったということで、バスは何度か途中停車してごたごたした後、ゴアすぐ手前の町の警察署前で立ち往生することになった。<br /> <br /> <br /> 実は、朝起きた時に私の荷物も不思議な状態になっていて、相当揺れないと倒れない筈のペットボトルの水が、かける場所から外れて下に落ちていたり、バッグのジッパーの位置が微妙に変わっているような気がしたり、後ろの席の人が被害に遭ったと判明する前にも、ちょっとした違和感があったのも確かだ。ただ、確かめても私の荷物に被害はなかった。というのも、チャックは鍵で閉めており、荷物自体もワイヤーで結んでおいたので、バッグを持ち運ばれることも、その場でチャックを開けられることもなく、荷物は無事だった。ナイフを使われていたらさすがにだめであっただろうが、今回は無事だった。<br /> <br /> そんなこんなでバスが終点まで行かなくなったので、しかたなく、パナジの少し北の町、マプサからパナジまでタクシーで向かう。他の人が交渉して3人が一緒のタクシーで向かう。距離的にもっと安くてもいいかと思ったが、随分と高いようで、片道500ルピーで、私は半分を払った。<br /> <br /> そしてパナジのバスステーションからローカルバスに乗り換え、マルガオに向かう。30ルピー。マルガオ鉄道駅から少し離れたバスターミナルに到着後、駅近くのターミナルまで違うバスに乗り換えて行く。それはすぐにたどり着き、その近くで昼食を取る。なんの変哲もないチキンカレーを頼んだつもりだったが、これがなかなか美味しかった。前回、北インドを旅したときは食事に悩まされたが、南はもしかしたら期待できるのかもしれない。<br /> <br /> そして駅近くからリクシャーに乗り、予約していたホテルに向かう。 The RETREAT BY Zuri というリゾートホテルで、できてからまだ2年ということもあり、建物は綺麗だし、スタッフも親切でよかった。<br /> <br /> 疲れが溜まっていたのでプール脇で一休みしていたら、軽く2時間は眠り込んでいた。<br /> <br /> そして食事を取るが、これまた美味しい。ちょっと軽めの味付けかもしれないが、このくらいのスパイシーさの方が何回食べても飽きがこないかもしれない。<br /> <br /> そしてメールをチェックしていると、キャンセル待ちをしていた明日の列車が立て続けに取れたようなので、必要な便以外はキャンセル・・・ と思ったが、システムがおかしいようでキャンセルできない。とりあえず眠ることにする。<br /> <br /> 明日は早朝に列車に乗り、ハンピ遺跡最寄りのホスペットへと向かう。<br /> <br /> <br /> Mon, 26 Dec 2011 00:00:00 +0900 ムンバイ https://w-jp.net/2011/119/ <br /> 2011/12/23<br /> 去年は北インドに行って入院したため、今年はリベンジも兼ねて南インドに行くことにした。去年はコルカタからバナラシ、カジュラホ、そしてアーグラで入院となったわけだが、今年はムンバイを起点として南方面を半時計回りに巡り、チェンナイまで行くことにする。ムンバイ、ゴア、ホスペット近くのハンピ、マイソール、マドゥライ、タンジャブール、チェンナイを約2週間で巡る。少し急ぎ足のような気もするが、インドは広いのでこのくらいになってしまう。<br /> <br /> フライトは明日だが、外が異常に寒いので明日の早朝5時半に出発して体力を奪われるのは避けたいと思い、今回は成田空港近くに前泊することにした。インドにいる間の荷物を減らしたいので、薄いフリースと薄着を持ってゆくことにする。<br /> <br /> 下着についてだが、前回は数枚を持って行って手洗いあるいは現地購入にしたが、今回は全ての下着を持参する。捨てる直前の下着をストックしておいて、現地で捨てる方法を取ることにする。この方法を人に話すと、人によってはいい顔をしないようだが、インドに一度行ったことがある人ならわかるように、インドで着たシャツは異常なほどすぐに汚れてしまい、帰国してから洗濯機で洗濯してもなかなか取れないほどまでに汚れてしまうため、手洗いだとインドの汚れはほとんど落ちないし、現地購入すると、日本人が許容できるものは500円くらいはするので、日本から持参した方がよっぽどよい。衛生面からも、捨ててしまった方が良いとの判断だ。<br /> <br /> そんなこんなで最低限の荷物で家を出るが、寒波が襲ってきており、すぐ北の県まで雪が降っているような状況なのでかなり寒い。家を出て、環七まで歩くまでの5分間の間にかなり冷えてしまった。そしてタクシーに乗り込んで新宿まで行き、NEXに乗って成田に行き、成田ビューホテルに宿泊した。ホテルにたどり着くまでに、家からタクシーに乗るまでの10分間、新宿駅でホームまで歩いた5分間、そして成田空港でホテルのバスに乗り込むまでの5分間だけ寒い外気と触れたのだが、たったそれだけの時間であったのにも関わらず、体力はかなり削られて、ホテルにたどり着く頃には顔色が悪くなっていた。これが早朝出発だったら、かなり危ない体調になっていたかもしれない。前泊にして良かった・・・。さすがに、雪が降りそうな寒さは違う。次回同じようなことがあれば、自宅前までタクシーを呼ぼうと思う。<br /> <br /> 成田空港で軽く食事をしたが、体力が十分ではなかったのでホテルでさらに千葉のぶたしゃぶと千葉の日本酒を堪能した。<br /> <br /> <br /> 2011/12/24<br /> <br /> 今日はいよいよフライト。香港経由でムンバイに向かう。今回の航空券は往復約68,000円だったのでどんな飛行機かと心配していたが、香港まではANAなので普通に快適で、しかも非常口前だったのでいつもより広いくらいだった。食事も、まともなハンバーグが付いてきたのでANAを見直した。ANA、なかなかやるじゃないか。<br /> <br /> 成田空港と香港空港ではラウンジで時間をつぶす。プライオリティ・パスはやはり便利だ。最近JALゴールドカードを入手したので成田空港でJALゴールドカードで入れるラウンジに入ってみたいと思っていましたが、ターミナルが違うようで、ターミナル1にはなかった。たしかに、自分たちの飛行機が留ままらないところにはラウンジはないよな・・・。言われてみればごく当然だが、プライオリティパスの方が選択肢が多いので便利かもしれない。<br /> <br /> 香港空港のラウンジでは食事が無料だ。ムンバイ行きの食事はインド食かもしれないので期待せず、ここである程度食べておくことにする。香港からムンバイはジェットエアウエイズというインド・ムンバイの航空会社のようだ。<br /> <br /> ジェットエアウエイズは意外と快適で、機体も新しければ食事もまあまあ。ビデオ上映も個別シートで可能なので、あの値段で乗っている私にとってみれば十分すぎるほどだった。<br /> <br /> そして、いよいよムンバイへ。空港の雰囲気は、さすがに都会だからか、すごく落ち着いている。コルカタ空港のような田舎の空港ではないし、客層も悪くない。<br /> <br /> 入国審査を過ぎて、出てすぐのところで両替およびプリペイドタクシーの予約をし、ホテルにまで向かう。他の旅行記を読むと、空港に深夜に着いたときは朝まで空港で過ごすのがセオリーのようなことをよく見かけるが、私はそうは思わないので夜中だろうがプリペイドタクシーでホテルに向かう。昔ならともかく、今はスマホでGPSを使って逐次場所の把握ができるし、いざとなればGPS付きの緊急連絡もできる。それに、バスを使って格安で行こうとしているわけではないので金額は題ではない。ということで、プリペイドタクシーでホテルに向かった。<br /> <br /> ホテルは、ホームページで見るよりしょぼかった。ニューベンガルホテル。セントラル駅に近くてこの値段はお得ということだったが、この値段でこの部屋ということは、やはりムンバイの地価は高いのかもしれない。部屋は狭いが、一泊するには十分だ。暖かいお湯も十分に出るので、それだけでも有り難い。そもそも、年末年始に値段を気にしてはいけないのかもしれないけれども。部屋があるだけである意味有り難いかもしれない。<br /> <br /> 2011/12/25<br /> <br /> 朝起きて、ホテルに無料で付いてくる朝食を隣のレストランで食べる。しょぼい食事だが、あの値段のホテルならこんなものか。<br /> <br /> そしてバッグをホテルに預けて、タクシーでインド門に向かう。タージホテルの前でもある。そこからエレファント島に向かうフェリーに乗り込むのが目的だ。今日の予定はほとんどそれだけだ。<br /> <br /> <br /> チケットを買ってからフェリー乗り場に向かい、なにやらそれらしきフェリーがあるのですかさず乗り込むと、間もなく出発した。沢山出ているのか、あるいは私が運がよかったのかはわからないが、スムーズに出発することができた。そして1時間ほどしてエレファント島に到着。<br /> <br /> <br /> ちょっとした列車に乗って500mほど進んだ後、おみやげ物屋の間の山道を少し上った先にその遺跡はあった。<br /> <br /> <br /> ここで、今回絶対欲しいと思っていた帽子を手に入れた。帽子がないと南国の旅行では体力の消耗が激しいのだ。<br /> <br /> ここの遺跡はあまり期待していなかったが、世界遺産ということもあって、とりあえず見ておこうというくらいだった。量が多いわけではないが、大きな柱と壁に備え付けられた石像の大きさを見ると、急にテンションが上がってきた。<br /> <br /> エジプトの遺跡にも似て、スケールが大きい。これは来て良かった。<br /> <br /> <br /> そして島を離れ、同じところに戻る。<br /> <br /> タージホテルの前を通り、マックでチキンのバーガーを食べる。インドなのでビーフではなくチキン版のビッグマックだ。<br /> <br /> <br /> そしてその近くにある美術館に向かう。昔の名前はプリンス・オブ・ウェールズ博物館で、今の名前はチャトラパティ・シヴァージー・マハーラージ・ヴァツ・サングラハラヤ( Chhatrapati Shivaji Maharaj ZVastu Sangrahalaya)というらしい。<br /> <br /> <br /> <br /> 鑑賞の後、ホテルに戻って荷物を取り、近くのバス乗り場へと向かう。<br /> <br /> もともとは寝台列車を予約していたのだが、前日までキャンセル待ちが取れていなかったので、次策として予約しておいたこのバスでゴアに向かうことにする。<br /> <br /> 場所が良くわからず、目印の病院に降りてうろうろし、警察に場所を聞いて目的地に到着。この小さな売場がツアー会社の名前になっているので、どうやらここが主催しているようだった。こんなに小さいのに商売が成り立つのがスゴい。<br /> <br /> バスは始発にも関わらず定刻になっても来ず、20分遅れで到着した。バスの中が寝台になっており、カプセルホテルのようになっている。<br /> <br /> ブランケットを借りれるようだが、案内がなかったので途中まで気付かなかった。代わりに、持参したモンベルのダウンシュラフで夜を過ごした。エアコンがかかっているのでシュラフがなければ風邪を引いていたかもしれない。<br /> <br /> Fri, 23 Dec 2011 00:00:00 +0900 タージマハル in アーグラ https://w-jp.net/2011/116/ <br /> まだ安静にしなくてはいけないと言われてはいたが、帰国日が迫っており、タージマハルも見ていないので帰国日前日に少しだけ外出許可をもらった。本当はデリーの街中も観光するつもりであったがデリーは見ずに帰国日の朝まで入院して、早朝にタクシーでデリー空港まで直接移動することにする。<br /> <br /> 帰国日前日の午後1時、昼ごはんを食べた後にタージマハルまで出かけ、数時間だけ観光をした。<br /> <br /> <br /> <br /> タージマハルは、外から見たときはその大きさに圧倒されて「すげええ!!」と思ったが、中に入ってみると棺が異様に辛気臭くて、それまでの感動も吹っ飛んでしまうほどの辛気臭さだった。さすが「インクレディブル・インディア!」である。 外から見たときは感動した筈だったのだけれど、この辛気臭さを思えば、わざわざ来なくても良かったかな・・・。帰りは妙に暗い気持ちだ。インクレディブル・インディア!<br /> <br /> <br /> <br /> <br /> そして病院に帰りベッドに横たわる。体調もそれなりに回復してきており、帰国日の早朝4時に支度をしてデリー空港、そしてバンコク、ブノンペン、ソウル、成田と遠い道をなんとか帰ることができた。<br /> Mon, 03 Jan 2011 00:00:00 +0900 オルチャ砦(Orchha Fort, orcha)、Jansi Fort、Bir Singh Palace https://w-jp.net/2010/115/ <br /> 12月31日<br /> <br /> 「Hotel Krishna」に宿泊したその日、朝4時に起きてシャワーを浴びようと思った。ここはお湯を使うためにスタッフに頼んでスイッチを入れてもらう必要があるのでそうしたが「朝なので1時間待ってくれ」と言われてしまった。お湯を使う度にスタッフに言う必要があるホテル自体生まれて始めてである上に、客の要求にNoを言うホテルも始めて。なんだこれは。「1時間後に出発だから今すぐ使いたい」と言ったらOKしてくれたが、蛇口をひねってもお湯が出てこない。どうしたことか・・・ と思ってしばらく待っていたら、お湯も水も出なくなった。なんじゃこりゃ。 もうこんなホテルはどうでもよくなったのでウェットティッシュで顔だけ拭いて何とか整えてチェックアウトした。<br /> <br /> まだ外は暗いがタクシーは道を走らせて行く。行き交う車のヘッドライトが上向きになっており、横幅が見えなくていつ衝突するか怖くてたまらない。特に大きなトラックやバスが通ったりすると恐ろしい。<br /> <br /> 体調がまだ優れず、途中で度々トイレに寄ってもらうが、バスだと自由にできないのでその点、タクシーでよかったと思う。後部座席で横になって寝ているとやがてオルチャ(Orchha)遺跡に到着した。<br /> <br /> <br /> <br /> <br /> <br /> オルチャ(Orchha)遺跡の後はジャンスィー(Jhansi)の砦(Fort)に向かうのだが、主要道路を通らずにショートカットを試みたらしく、でこぼこの道を進むことになった。GPSで場所を確認すると道が書かれていないところを通っている。大丈夫なのか? 案の定、車の下をすりそうなところを通ってゆくが、どうやら4WDでなくても何とか通れるレベルのところのようだ。<br /> <br /> そしてジャンスィー(Jhansi)の砦(Fort)に到着。<br /> <br /> <br /> <br /> <br /> <br /> ジャンスィー(Jhansi)の砦(Fort)の後はBir Singh Palaceに向かう。<br /> <br /> <br /> Bir Singh Palaceでは、入場料は無料であるのにも関わらず入場料がかかるかのように振舞う胡散臭いガイドがいたが、写真を撮ろうとしたら逃げたので偽者と分かった。本人は「政府の人間だ」と言っていたがIDを要求しても「持っていない」と言ったので胡散臭いのはみえみえである。中をとりあえず案内してもらったので多少は払って外に出る。そしてトイレを案内してもらおうとしたが人気のない方に誘い出そうとしているように見えたので拒否して車に戻る。<br /> <br /> <br /> <br /> <br /> そして車はアーグラへ。<br /> <br /> アーグラに近づくにつれ道は良くなってゆく。<br /> <br /> アーグラのホテルに到着してチップを渡そうとするが、100ルピーを渡したらひどく不機嫌になって500ルピーよこせと言う。こういうところがインド人が貪欲なところである。彼らのボスからは「100ルピーで十分、200ルピーも出せば万々歳」と聞いていたので、確かに1日12時間付き合ってくれたのでもう100ルピーを出したら不機嫌が多少収まったがそれでもまだ足りない雰囲気ではあったがその程度でサンキューを言って分かれた。<br /> <br /> そしてホテルにチェックイン。<br /> <br /> ホテルに入った頃もまだ具合が悪かったので、今まで使ったことのない旅行保険に連絡をしてみることにした。ホテルからコレクトコールができなかったのでスカイプで繋いで近くの24時間対応病院を教えてもらうと、どうやら歩いて行ける距離だったのですぐ行くことにした。どうやらキャッシュレスサービスも受けられる模様。<br /> <br /> すぐに帰るつもりで行ったのだが、かなり悪いと言われてしまいそのまま入院することに・・・。日本では考えられないほどに点滴を何本も連続して昼夜連続して提供され、注射の量も半端なく何本も打ち込まれた。点滴の管から、こんなに血液の中に流して溶け込めるのだろうかと思うくらいの注射の液が注ぎ込まれた結果、36時間を過ぎる頃には大分具合が落ち着いてきた。<br /> Fri, 31 Dec 2010 00:00:00 +0900 カジュラホ https://w-jp.net/2010/114/ <br /> 12月30日<br /> <br /> 朝、到着30分くらい前に部屋のノックがあった。私は「どうせ遅れるのだろう」と思っていましたが時間通りに到着したようだ。ふむ。まだ朝早いのでかなり寒い。<br /> <br /> 昨日紹介してくれた人がオートリクシャ150ルピーと言ってきたが、相場っぽいのでそれでOKをしてホテルに向かう。「HOTEL ISABEL PALACE」は村の中心から少し離れているが自転車を貸し出しているので移動には問題ないように見えた。しかし値段は400ルピーではなく1000ルピーとのこと。今は肺シーズンなのでこの値段でないと駄目だとか。先ほど紹介してくれた人がモーターサイクルで追いかけてくる筈だったのだが、後ろにはいないしいつまで経っても到着しないところを見るとあらかじめ値段を知って雲隠れしたのか何なのか・・・。 そこはとりあえずやめて村の中心に行ってもらう。運転手が指差したのは「Hotel Krishna」というところ。ここはコテージもあるようだが村中心部にある方の普通のホテルである。ここが700ルピーだったのでOKをした。<br /> <br /> 荷物を置き、8時くらいまで再度一休みをしてから遺跡見学に向かった。<br /> <br /> <br /> 西群の遺跡を見た後、レンタル自転車を借りようとして村中心にある「SAFARI RESTAURANT, SHARUKH INTERNET CAFE」と書かれてある下になぜか「FLAIGHT, TRAIN, TAXI, HOTELS TICKETS, BOOKING HERE」とも書かれてある、レストランなのかインターネットカフェなのか旅行代理店なのか、おそらく全てがごっちゃになったよくわからないところに入った。元々は自転車を借りたいだけだったのだが、ついでにアーグラまでの移動手段も確認してみた。<br /> <br /> すると、列車はここカジュラホからジャンスィー(Jhansi)までの間は便が少なくて席が空いておらず、ジャンスィー(Jhansi)からアーグラまでは夜23時とその次の便が4席ほど空いてはいるがそこまでバスで移動しなくてはならない。飛行機はデリーまで行ってから戻るようになる。よって、一番のお勧めとしてもらったのがタクシーをチャーターして移動するという手である。Googleナビで見ると直行して430kmほどあるようで7時間ほどかかるという。その途中にあるオルチャ(Orchha)遺跡とジャンスィー(Jhansi)の砦(Fort)とその先にあるBir Singh Palaceを見ると朝5時発でアーグラに夜7時着になるというのでそれで行ってもらうことにした。直行だと4500ルピー、途中立ち寄りも含めると5300ルピー(約10,000円)で、運転手2人が交代で運転する。運転手は日帰りできないので一泊と戻る時間も考えるとこのくらいだろう。特に明日が12月31日の大晦日でピークであることを考えると多少高いのも仕方がない。<br /> <br /> そして私は自転車を借りて、東群と南群の遺跡も散策した。<br /> <br /> <br /> Thu, 30 Dec 2010 00:00:00 +0900 バナラシ https://w-jp.net/2010/113/ <br /> 12月26日<br /> <br /> 早朝、バラナシのジャンクション駅に辿り着いた。詳しい案内がなかったがGPSで位置を知ることが出来たので安心して待つことが出来た。到着10分ほど前に車掌が知らせてくれたのだがその時まで寝ていたら間に合っていたか微妙だった筈なのでよかった。とは言っても到着時間を1時間ほど遅れていたのでいつでも降りれる準備を整えているべきではあるのだが。<br /> <br /> <br /> <br /> ホームは汚いには汚いのだが、コルカタと違って人が少なくすっきりしたホームだった。と、そんな時、すぐに客引きが現れた。最初は無視していようと思ったがガンガー(川沿い)までオートリクシャーで50ルピーとのことで、確認すると、合計50ルピーで2人であっても個別50ルピーではない、とのことだったので同じ部屋だった彼と一緒にガンガーまで一緒に行くことにする。<br /> <br /> <br /> 運転は、コルカタより強引な気がした。道には牛が自由に歩いており、人間に対してはクラクションを鳴らすが牛に対してはクラクションを鳴らさないようだ。なんとなく川の方に向かっていることはわかったが具体的にどこにいるのか不明だったので度々GPSで確認する。運転手が色々質問をしてくるが、ホテルはどこかと聞いてきたので「まだ決まっていない」ととりあえず答えた。答えたら面倒なことになりそうなので。雑談をしつつ、やがて「彼女はいるか?」「インド人の彼女はいるか? 俺は4人の彼女がいる。3時間ごと1人の相手をするんだ」と言い出してから話が変な方向に向かい始めた。やがて「どうだ? 一人いらないか?」と言い出した。 おいおい、いきなり売春婦の斡旋かよ? 「インド人の彼女はいらない」というと「とてもスレンダーで可愛いぞ。どうして拒否するんだ?」と言ってきたが、こちらが乗ってこないのでそれ以上話をやめた。 そんなこんなでもう少しで川だと思った瞬間、いきなり路地に入った。 おいおい、実力行使か? 勘弁してくれ・・・ と思っていたら、何やら裏路地にあるホテル前で止まった。 名前はどこかで聞いたことあるな・・・ ということは、単なるホテル紹介だったのかな? それとも実は売春宿とか? 中に入らなかったので分からなかったが、たしか300台のルピーを提示された気がする。 元々興味ないので大通りまでとりあえず出ることに。そしてGPSで場所を確認し、私はガンガーを北上、彼はどうやらすぐ近くに目当てのゲストハウスがあるようなのでそこで分かれる。<br /> <br /> ガンガーまでの道はGPSを見つつスムーズに行くことができた。今回、GPSが予想以上に役立っている。<br /> <br /> <br /> <br /> ガンガー沿いをずっと北上するが、予想通りボートの客引きが多くいた。昨夜に同室だったインド人が言うには向こう岸まで往復50ルピーとのことで、たまに50ルピーと言ってくる人もいれば300ルピーと言ってきた人もいた。50ルピーでも、向こう岸まで行ったら「帰りにはもう50ルピーが必要」と言う可能性が高いのであるが(そういう旅行記は多く見た)。<br /> <br /> そして中心地区まで歩き、更に北上。火葬場を見たりしてから再度引き返してきた。<br /> <br /> <br /> 夕方になり、向こう岸までは行かないが南北往復するボートが40ルピーとのことなので乗ってみた。最初は50ルピーと言われたが詳しく聞くと、南まで行って10ルピー、帰ってきて10ルピー、北に行くと10ルピー、戻ってくるのに10ルピー、合計40ルピーとのことなので乗った。もちろんそれ以上要求されたが、もう慣れっこみたいなものである。行動が予想通り過ぎるし、態度が自然すぎてまったく気にならない。インド人らしき人も同じように要求されていたので、片道10ルピーくらいがおそらく適正なのだろう。<br /> <br /> 夜は何かのセレモニーがやっていて見学した。<br /> <br /> <br /> <br /> 12月27日<br /> <br /> 朝、5時に起きて支度をし、日の出とそこで祈る人たちを見に行った。<br /> <br /> <br /> そこで何かよくわからない装飾品のようなものを買った。最初全部で1000ルピーと言ってきたが、「必要ない。いらない。1つだけなら1USドル(約42ルピー)で買う」と言っていたら24個全部セットが100ルピー(約190円)まで下がった。どうやら小分けでは売りたくないようだ。その人が言うには、売店によっては2000ルピーで売るとのこと。学生の私を助けてくれというが本当かわからないので相手にしなかったが、100ルピー(約190円)なら確かにそのくらいの価値かもしれないと思って買ってあげた。改めてよく見てみると、それなりによく出来ている気もする。<br /> <br /> <br /> ネタが多すぎて書ききれないくらいなのですが、定番の客引きがとても多い。<br /> <br /> 片っ端から断るのだが、しっかりと断るとある一定以上は追いかけて来ないのでコルカタのニューマーケットにいたような、断っても断っても付いてくるようなのはいない。マーケット地区の学生バイトが布と紅茶を売ろうとずっと追いかけてきたが、それにしてもコルカタのニューマーケットのようにうざったくはない。今のところの話ですが、インドは、聞いていたよりずっと旅行しやすい。むしろ昔行ったエジプトの方が「目が血走った」タクシー運転手とか下品な客引きとかがいて面倒だった。<br /> <br /> <br /> 火葬場を見ていると、周囲の説明を勝手に始めるおじいさん(というかヨボヨボの骸骨寸前の乞食、と言った方が正しい)が横に張り付き、「分かってる。知ってる」と適当にあしらっていると「もうすぐ死ぬ老人のところに案内しようか」と聞いてきた。これはガイドブックで見た、寄付の詐欺(?)か? と思ったら案の定その通りで、「薪を買うのにはお金がかかる木によって値段が違うが、どれそれの木は1kg600ルピーだ。寄付してくれ」と言い出した。「もうすぐ死ぬ老人」を見学するような悪趣味はないので断り、薪の寄付も断った。<br /> <br /> <br /> 向こう岸までのボートは往復100ルピーくらいまでなら簡単に下がる感じだった。電車で教えてくれたインド人が言うには1時間50ルピーとのことだが、ガイドブックによると80~100ルピーとのことなので外国人価格としてはそんなものなのだろう。乗る気はあまりないのであるが気分次第では乗ってみたいと思う。<br /> <br /> <br /> <br /> 12月28日<br /> <br /> 今日は、少し離れたところの旅行代理店前から郊外のモスク等の見学に行く。特に値切りはしなかったが6時間オートリクシャを貸し切って500ルピー(約950円)。いちいち値段交渉する手間もないし見学中もずっと待っていてくれるし、見学場所にオートリクシャがいるとは限らないし、場所近くまで順番に行ってくれるので説明する必要がないので貸し切ることにした。概算だとそれぞれをうまく交渉した合計と同じくらいだが固定料金ということと旅行代理店経由なので下手なことはしないだろうということで安心料も含まれていると考える。日本の感覚で値段だけを見たら6時間の乗り物と運転手で1000円以下なのだから激安には違いないがインド的にはこのくらいが普通なのだろう。<br /> <br /> 最初はドゥルガー寺院(Durga Mandir)<br /> <br /> 次はサンカト・モーチャン寺院(Tuisi Manas Mandir)<br /> <br /> 次はバラーナス・ヒンドゥー大学内にあるヴィシュワナート寺院(Vishwanath Temple)。たしか駐車料金が別途10ルピー。<br /> <br /> そして橋を渡り、ラームナガル城(Ramnagar Fort, 城塞博物館)に行った。<br /> <br /> 次は、少し郊外のサールナート(Sarnath)に行く。ここは仏陀が始めて説法したところとのこと。<br /> <br /> まずチベット僧院を見て、次はムールガンダクティー寺院(Mulgandha Kuti Vlhar)に行く。<br /> <br /> このムールガンダクティー寺院の駐車場に止まった時、胡散臭いガイドが話しかけてきて中を案内するという。料金は「自由に決めてくれ」と最初言ったのにも関わらずすぐに「1時間200ルピー」と言い出したので「いらない。ガイドブックがある」と断ったらすぐに100ルピーに下がった。本当にガイドをしてくれるのであればそれでもよいので了解したが、これがいい加減なガイドで、外から「あれは○○だ。誰それが何年に建てた」という、ガイドブックの最初に書かれてあるようなことしか言わない。多少はガイドブックに書かれていないことを言っていたが、量および質的にガイドとは到底言えないレベルのもの。内部の壁画について解説してもらいたかったのだが、ガイドは外で待っているだけ。役立たずのガイドだったので最後に100ルピーではなく50ルピーを渡した。きょとんとしていたので、私は次のように説明をした。「貴方のガイドは私の期待に答えられなかった。Your guide was not meet my expectation. 貴方は内部の説明をしなかった。You din't explain inside.」すると、「OK」と納得した。インド人はしっかり説明すると分かってくれる気がする。<br /> <br /> <br /> <br /> 帰ってきて、夜は昨夜と同様にプージャを見学。<br /> <br /> <br /> <br /> <br /> 12月29日<br /> <br /> 電車の出発時刻までまだ時間があるので、まだ乗っていないボートに乗ろうと思った。まずはインド人料金の50ルピーで交渉したが、私が一人なので向こうが可愛そうな顔をしたので100ルピーで行ってもらうことにした。とは言っても、出発間際に漕ぎ手が交代したので胡散臭い感じである。この胡散臭さもインドでは普通なので全く気にならないところが不思議だ。<br /> <br /> 少し漕ぎ出したところで鳩の餌を他のボートが売りに来た。値段を聞くと50ルピー(1つか2つかはわからないが)と言ってきて2つ私の目の前にぽんと置いたので、私は「ひとつ5ルピー、2つで10ルピー」と言ったら向こうはOKと言った。ふむ。やはり、相場が分からないときは5分の1くらいが相応なのだな。鳩に対して餌を投げると多く寄ってきた。<br /> <br /> <br /> <br /> そして対岸に渡り、少し散策をする。<br /> <br /> 何やら漕ぎ手は随分と深刻な趣で自分の身の上話を始め、自分は携帯電話を日本人に買ってもらったがとても古くて写真がついてないので写真付の携帯電話を買ってくれと言い出した。こんなのに買ってあげた人がいるらしく、「とおる君」は1年間分の学費を出してくれて古い携帯電話をくれたという。そんなお人よしが実在するのか嘘なのか分からないが、癖になっているらしく、私にしつこくタカってくる。<br /> <br /> 勉強するためにノートと鉛筆を買ってくれというのなら分かるが携帯電話を買ってあげてもどうしようもないので最後まではぐらかした。「岸に着いたらボスが全部売り上げを取ってしまう。川の上でいくらかくれ」と言ってきたがはぐらかした。最初からタイマーを動かしておいたのだが1時間8分で少し1時間をオーバーしていたので最初のレートである1時間100ルピーに少し上乗せとチップをつけて150ルピーを渡そうとするが気に食わないらしい。こういうふてぶてしいところがインド人が嫌われる所以なのだが本人は気づいてないらしい。とは言っても、ここインドではこのふてぶてしさが実に自然にふてぶてしいので、「またか」と思うくらいで全く気にならないのであるが。予想通りの展開だからこそまったく気にならない。150ルピーでそのまま「ありがとう」と受け取っておけばお互い幸せなのに欲を出しすぎである。150ルピーで受け取ろうとしないので、100ルピーと10ルピー2枚、合計120ルピーにして渡そうとするが、向こうは「減ったぞ」と不満顔である。これで150ルピーを受け取るだろう・・・ と思ったが、案の定、不満そうに150ルピーを受け取った。同じようなインド人も前にいたのでおそらくこの方法は有効なのだろう。インド人対策パターンにこれを取り入れると良いかも知れない。<br /> <br /> <br /> 偶然2回うまく行った対策パターン:<br /> 1.元の料金に少しだけチップ上乗せで払おうとする<br /> 2.不満そうに「もっとくれ」とインド人が主張する<br /> 3.内容を説明する。元の料金に、これだけチップだ、と。<br /> 4.不満は収まらず「もっと必要だ」とインド人がしつこく要求する<br /> 5.頃合を見つつ3と4を繰り返す<br /> 6.もういいや、という表情をする<br />   (実際にちょっと疲れてきたくらいのタイミングがベストか?)<br /> 7.元々の料金はこれなのだから、チップなしで元の料金だけ受け取れ、<br />   と言いつつ元々の料金だけを渡そうとする。<br /> 8.インド人が仕方ない、それだけでよい、と1の料金(元の料金+チップ)を受け取る。<br /> <br /> ボートの上で他のボートが近づいてきて商売を始めた。ネックレスを売りつけようとするが、どうやら値段はあってないようなものらしく、以下のパターンに従うらしい。<br /> <br /> 最初は安く言う。これは50ルピー(約100円)、と。そして、こちらが「これはどうだ?」と言ったものは値段を2倍程度に提示する。どうやらどちらも同じような値段で売っても利益は出るようだ。同じようなネックレスが50ルピーと100ルピーとで言ってきたので、私は混在を無視して2つで100ルピーと言ったら、向こうが「これが50ルピー、こっちが100ルピーだから150ルピーだ」と言ってきたので「ディスカウントしろ」と対応する。それでも折れそうだったが、どうやら更に付け加えて利幅を増やしたいらしく6色セットで350ルピーとか他の種類のものが200ルピーとか言ってきたが、だんだん面倒になってきて、別のものを織り交ぜて6個セットで500ルピー(約950円)で買った。交渉のやり方次第でもうちょっと安くできた感じなのでちょっと失敗だったが、まあ、よいとする。相手の表情を見る限りそれほど利益は出ていないようなのでそこそこの値段だったのだろう。たぶん、最初の1個が利益ほとんど出ない料金で、セレクトした品物の上乗せ分が利益になるのだろう。<br /> <br /> <br /> ボートを降りた後、日本食レストランで昼食を食べ、川沿いを散策する。<br /> <br /> そして時間が来たのでホテルに戻り、駅に向かうことにした。<br /> <br /> 列車は既に止まっており、中に乗り込むとどうやら部屋には私一人のようだ。<br /> <br /> 布のシートで、いい部屋のように感じる。<br /> <br /> <br /> 夕べから喉の調子が悪く、頭も少しぼおっとしており少し熱っぽいのでこのように落ち着ける部屋は本当に助かる。鏡を見ると目も充血していたが、体をウェットティッシュで拭いて着替えをしたら気分が落ち着いてきた。 どうやら何とかなりそうだ。<br /> <br /> そんな時、夕食は何にするか聞かれたが、どうやら私のために何か作ってくれるようだ。さすがは一等車である。インド人向け料理は100ルピーとのことだが、私の希望通りにチキンとライス、そしてオレンジジュースで200ルピーとのことだった。辛くないようにも頼んだ。<br /> <br /> <br /> <br /> 食事を済ませると、3人くらいの先ほどのインド人が部屋に入ってきた。何用かと思ったら、どうやらホテルの紹介らしい。「HOTEL ISABEL PALACE」という新しくできたホテルでガイドブックには載っていないということで400ルピーだそうだ。判断できなかったのでスマートフォンを使ってGoogle検索してみたが確かに出てこない。とりあえずそこでOKということにしてその日は寝ることにした。<br /> <br /> <br /> Sun, 26 Dec 2010 00:00:00 +0900 コルカタ https://w-jp.net/2010/112/ <br /> 約1週間のインド旅行に出かけることにした。<br /> <br /> 今回インド行きを直前になって決めたためか出発までどたばたしていた。<br /> <br /> まず航空券。<br /> <br /> 楽天トラベルで直行便(エアーインディア)が運良く1週間前に空いているからと思って予約を入れたら、最後の決済時に満室表示。度々楽天トラブルではこのようなことがあったのだが、「またか」と思わされた。<br /> <br /> 仕方がないので他を探したが見当たらず、ブノンペン(カンボジア)であれば大韓航空(韓国経由)が7.1万かつ残り1席(4区間のうち1つ)であったのでひとまず押さえた。先がなければアンコールワット観光という手もあるからだ。<br /> <br /> その先はエアアジアとキングフィッシャー航空を組み合わせ、最終的には以下のように組んだ。<br /> <br /> 12/23 成田(13:55発) -&gt; (大韓航空) -&gt; 韓国のソウル(16:35着、18:50発) -&gt; 大韓航空 -&gt; カンボジアのブノンペン(22:40着、市内一泊)<br /> 12/24 カンボジアのブノンペン(10:00発) -&gt; (エアアジア航空) -&gt; タイのバンコク(11:05着、16:05発) -&gt; (キングフィッシャー航空) -&gt; コルカタ(17:30着、ホテル直行)<br /> 12/25 コルカタ観光(美術館)、夜行列車 (Train No 3005/Amritsar Mail, First AC(1A)クラス, 19:10発)<br /> 12/26 バルナシ (9:12着, 乗車14時間)<br /> (この地区の定番観光地を観光)<br /> 1/3 デリー (11:55発) -&gt; (エアアジア航空) -&gt; バンコク (17:25着、18:25発)-&gt; (エアアジア航空) ブノンペン(19:40着、23:40発) -&gt; (大韓航空) -&gt; (翌日1/4) -&gt; ソウル (6:40) -&gt; (大韓航空) -&gt; 成田(11:25着)<br /> <br /> 日程的に厳しいが何とかなるだろう。<br /> <br /> 夜行列車はIRCTC Reservation System (http://www.irctc.co.in)で何度予約してもほとんどのクレジットカードが弾かれてしまったが、代理店と思われるCleartrip(http://www.cleartrip.com)で予約したところ一発で取れた。<br /> <br /> 前者は決済方法が様々に選ぶことができ、アメックスやCityBankなど各種決済サイトを選択して手持ちのセゾンアメックス、楽天VISA、セゾンMaster、みずほVISAなど各種で試みたがことごとく弾かれたのでまさにインドらしかったのであるが。<br /> <br /> 予約が取れたと言ってもWaitList 2番目(要はキャンセル待ち)なので取れるまでは安心できない。<br /> <br /> 途中カンボジアにビザが必要で空港で取ることもできるが写真を用意したり順番待ちのことを考えるとe-Visaをプラス5ドル(計25ドル)で取ってから行くことにする。<br /> <br /> カンボジアのe-VISAを取る時、決済後の表示ページに Failed (失敗) と書いてあったので「え?」と思ったのだが、同時に送られてきたメールには「決済完了」と出ていた。わけわからない。もう1通メールが届いたのでそちらを見ると、「現在貴方の申し込みはペンディングされており、3日以内に処理されます」と表示された。どうやら待てばよいようだ。紛らわしい表示だ・・・。確認用ページでレシートを印刷して持参する。<br /> <br /> <br /> <br /> <br /> <br /> <br /> 12月24日<br /> <br /> インドのコルカタ(カルカッタ)到着。<br /> <br /> 空港に着いて建物の中に入るといきなり入国審査。まずビザを取らないといけないので見渡すがそれらしきものがない・・・。どこだ? 係員に聞こうと思って見渡してもいないのでとりあえず入国審査を受けてビザを取得したい旨を話した。すると大声で誰かを呼んでくれてビザ手続きが始まった。まず紙の記入をした後、60USドル相当のインドルピーが必要とのことで係員に連れられて出口近くの両替所まで連れて行かされる。そこで、おそらく悪いと思われるレートで両替をしてから約2,500ルピーを払う。写真1枚と帰りの航空券確認をした後にスタンプと手書きのビザを発行された。この簡易ビザはホテル宿泊拒否などトラブルの宝庫らしいが・・・、どうなるかな。<br /> <br /> ところでビザを取るときに荷物を入国審査横に置いておくように指示されたのでその通りにしたのだが、その荷物が行方不明になりかけた。どういうことかというと、両替をしている間に係員なのか或いは乗客なのかよく分からない人が私の荷物を持って行こうとしていたのだ。順を追って言うと、両替を済ませて入国審査に戻るときにすれ違いに見知らぬ人が見慣れたバッグを持っていて、「あれっ」と思って遠くを見ると置いてあった場所にバッグがなく、少し開けてみると自分のバッグだったのですが、もしかしたらそのまま誰かが持っていって盗まれる或いは行方不明の可能性があった。その人と係員が片手で挨拶していたので係員だった可能性が高いが、もしもそうでなければ盗難であるし、係員であってもこんな管理ではどこかに置かれて紛失、となる可能性もあった。ビザ発給の手続きが仕組みとしてうまくいっていないというのがよく分かる出来事。危ない危ない・・・。<br /> <br /> ビザ発給は、行き先や帰りの便などの簡単な質問をされた後にすぐ発行された。<br /> <br /> <br /> <br /> そして外に出て、数千円分をルピーに換金してからプリペイドタクシーを手配した。約240ペソ(約480円)。本当は1ペソ単位もついているのだが、空港のような正式っぽい場所なのに細かなお釣りをくれないらしい。ふむ。<br /> <br /> プリペイドタクシーの場所は外に出てから30mくらい離れた場所だが暗かったので最初はよくわからず、タクシーが並んでいるところをよく見てみるとプリペイドと書かれていたのでそこから乗った。<br /> <br /> 噂では、プリペイドに行く途中に「プリペイドタクシーはこっちだ」と横に連れて行こうとするタクシー運転手がいるとのことだったが、「タクシーか?」と聞く運転手は沢山いたが「こっちがプリペイドだ」とは言われなかったので普通の客引きだった。意外に良心的(?)かもしれない。インドは悪質極まりないと聞いていたが、その一方で「コルカタは田舎なので割と素朴」との話もあったので後者が正解かもしれない。きっとインド入門者にとってはコルカタのような田舎で慣れるくらいがちょうど良いのだろう・・・。<br /> <br /> タクシーは見た目おんぼろで、でも走りは割と普通できびきび走った。道路が舗装されていないので埃が凄い。空港からは割と距離があったし田舎道を突っ走るので不安になったが、最近入手したXperiaのMapDroydというソフトを使ってGPSの現在地+地図を見ながら乗っていたので目的地に向かっていることが確認できて不安がかなり少なかった。ただ、私が山やバイクで使っているガーミンに比べるとGPS機能が弱いようで、窓に寄せないとなかなか場所を特定してくれなかったりしたが、目的地に向かっていることがたまに確認できただけでも十分だった。<br /> <br /> Xperiaも素晴らしいが、MapDroydはGoogle Mapのようにネットワークに繋がなくてもオフラインで概略地図(無料)でナビができるのでとても素晴らしい。<br /> <br /> ホテルにいよいよ到着するが、噂のサダルストリートは埃っぽい小さな通りだった。ここが何故有名なのが理解できないが、何かがあるのだろう。そして、そこにある Bawa Walson Spa 'O' tel というホテルに一泊する。日本から予約しておいたのだが、7,000円近くしたのでインド基準からするととても高いホテルである。値段にたがわず、中は落ち着いた雰囲気。<br /> <br /> ところで、他の国ではタクシー運転手は大抵、客を降ろしたらそのまま行ってしまうことがほとんどであるように思うが、なぜか今回、タクシー運転手がチェックイン終了までずっとフロントで待っていた。私はあえて無視していたので何もなかったが、もしかしたらチップを待っていた? 或いはホテルからのインセンティブを待っていたのか? よく分からない行動だった・・・。<br /> <br /> そしてチェックインですが、従業員にいきなり「このタイプのビザは初めてだ」と言われてしまう。先が思いやられるな・・・。従業員に部屋を案内してもらい、荷物を置いた後に「インターネットある?」と聞いたら「1時間175ルピーだ」と言われたので断った。しかし、ものは試しとケーブルを繋げてみると何もしなくても普通に使えた。なんだったんだ・・・。従業員のお小遣い稼ぎか? それとも計測されていて後で請求されるのか? でも、後でフロントに聞いたら同じことを言われた。ふむ。<br /> <br /> <br /> <br /> 12月25日<br /> <br /> 夜に少し寒くなってきたのでフリースを着たのだが、朝の目覚めは悪くない。シャワーを浴びてから朝食を取る。朝食は半分インド風で半分コンチネンタル風なビュッフェ形式だった。<br /> <br /> チェックアウトをしてから荷物をフロントに預け、町の散策に向かう。<br /> <br /> <br /> <br /> 最初に向かったのはマザーテレサ・ハウスである。ハウスに向かう途中に小さな道を通るのだが、インドらしい風景を見ることができた。<br /> <br /> 道で体を洗う人がいたりするが、まったく自然に振舞っており、この場所でそれを行うことが当然、という感じが伝わって来る。おそらく子供の頃から今までずっと道で体を洗っており、道で体を洗うことが普通なのだろう。<br /> <br /> 途中、人にマザーテレサ・ハウスを聞くとすかさず教えてくれたのでスムーズに辿り着くことができた。<br /> <br /> <br /> <br /> <br /> マザーテレサ・ハウスは意外とこじんまりとしていた。大きな看板を見つけることができず、人に聞いてようやく場所がわかった。聞くと、中には自由に入ってよいらしく、マザーテレサのtomb(墓)が中にあった。体全てがそこにあるかどうかは知らないが、そこには多くの花がかけてあった。<br /> <br /> 墓自体は静けさの中に置かれていたが、それより感銘を受けたのがその墓に対して激しくも静かな祈りを捧げる人々だった。テレサの墓自体から漂ってくるのは遥かなる静けさであり、それに祈りを捧げる人々の情熱がこの活動を支えていると感じた。情熱といっても、遥かなる静けさを伴った、黙々とした情熱であり、いわば「根」がテレサにあって人々の活動が存在しているかのようだった。<br /> <br /> <br /> <br /> マザーテレサ・ハウスを出た後、横の路地からリクシャーに乗った。このおじいさんは英語が話せないらしく、近くの売店の人に伝達をお願いした。ビクトリアまで50ルピーということで案外良心的だな・・・と思っていた。<br /> <br /> しかし、途中でいきなり方向が変わり、おじいさんを呼び止めて話すと、経由してゆく、というようなニュアンスを言ってきた。<br /> <br /> しかし、止まったのはニューマーケット前。どういうことか? と問い質すと、わからない振りをしている。横にいる人が助けに入ってくれて、聞くと「ビクトリアにはリクシャーではいけない」と言うのでメトロに通じる大通り近くまで走ってもらう。<br /> <br /> 仕方がないのでそこで大人しく降り、50ルピー払おうとすると「100ルピーくれ」と言い出した。出ました! こんな良心的に見えるおじいさんであってもこれとは。<br /> <br /> しょうがないかなと思って10ルピー上乗せで終わろうとすると、「No,No、100ルピー」としつこいので、10ルピーを取り上げてからそのまま立ち去ろうとするが腕を強く掴まれた。骨の形が見えるようなギスギスのおじいさんなのに、リクシャー引いているからか、とても力がある。仕方がないので、「おい! ビクトリアと言ったじゃないか。 ここはまだ途中じゃないか!」と言ったら引き下がった。英語が実は通じるのか、或いは感情を読み取ったのか? よくわからない。<br /> <br /> 仕方がないのでそこから地下鉄方面に歩くが、ふと気がつくとそこはインド博物館の目の前。ふと思い立ち、今は朝だから多少は空いているだろうし戻ってくるのも大変だから今入ってしまおう、と決める。これが大正解。後ほどインドの人の多さを体験することになる。<br /> <br /> 入場券(150ルピー)を買った後に入り口横のクロークに荷物を預けたが、どうやら外国人枠があるらしく特別に取ってある棚に荷物を置いた。そして中に入るが、写真を撮るにはどうやら別券が必要のようなのでお土産物ショップで50ルピーを払って札をカメラにつけた。<br /> <br /> <br /> インド博物館を見た後、ビクトリア方面に歩く。地下鉄に乗ろうかとも思ったが、街中を見たいという気持ちもあるので暫く歩き、途中の公園に寄ったりもした。<br /> <br /> 公園でベンチに座り落ち着いていると、子供3人組が現れてサンタの帽子を買ってくれとせがまれた。「お腹が空いているの。何か食べたいの」と言っているが、付き合っていたらきりがないので「私は仏教徒だ。クリスチャンじゃないよ」と言ったら、「サンタの帽子はいらないのね。じゃ、帽子はいいから、とにかくお金ちょうだい」と言い出した。訳がわからないが、ようはお金をせびっているのだろう。「おなかがすいたよお。食べたいよお」と言うが、本当にお腹が空いているのであればもっと表情がくたくたの筈だが、どう見ても元気な3人組である(苦笑)。 もう面倒くさくなったので目を合わせず遠くを見ていたら2人は立ち去り、残る1人が「お金ちょうだい」と腕を引っ張ったが、その1人もしばらくしたらいなくなった。 どうやら他の人に金せびりに行ったようだ。ふむ。<br /> <br /> しばらく落ち着いた後、近くのマーケットに向かう。地図ではマーケットとのことだが、ぼろぼろのビルで本当にやっているか分からない・・・ と思ったが中に入ってみると確かにやっていた。ふむ・・・。不思議なビルだ。 ここではTシャツ(バングラディッシュ製、150ルピー)とYシャツ(バングラディッシュ製、400ルピー)、それに虫除けパッチ(タイガーバーム製、400ルピー)とフェイスオイル(Body Shop製、300ルピー)を買った。これでしばらく安心だ。<br /> <br /> そしてビクトリアに向かうが、途中から、長い長い列が出来ていて何かと思えば入場券を買う列と入場を待つ列とのことだった。外から建物は見ることができたので、この長い列に並ぶのも大変ということで外から見るだけで済ませた。<br /> <br /> <br /> そして大きな公園を通ってサダルストリート方面に戻るが、途中、マクドナルドとケンタッキーを見つけたので試しに入ってみた。どちらも味付けがインド風に多少ながら変更されており、特にマクドナルドのチキンはインドでしか食べられない味だと思った。ケンタッキーは基本的にグローバルな味付けだが、少しだけインド風の味がした、というくらいだった。<br /> <br /> インド料理を食べる気にはなれないのでマクドナルドとケンタッキーにはこの旅の間、いざとなった時にお世話になることを期待している。<br /> <br /> そして、まだ電車の発射時刻まで時間があるのでニューマーケットに行ってみる。特に買うものもないが、中に入ると後ろから白い服を着た誰かがしつこく着いてきた。私の先に回りこんで、「何か買いたいのか? ズボンか? 花束か?」と聞いてくるので無視したり、急に方向転換してかわそうとするが、すぐに追いついてきて私の前に回りこみ、再度「何が欲しいんだ? 花束か?」としつこいので「ついてくるな」と言うと「お前が私の行く方向に来ているだけだ」とふてぶてしいことを言う。仕方がないのでとりあえず外に出て、警備員のいる地下入り口に回りこむとそこでその男は引き下がった。 ふむ。 そして地下を散策し、違う入り口から1階に戻って再度散策しようとするが、どうやら先ほどの男が私を見つけたらしく、遠くから近づいてくるのが見えた。私はとっさにそこにある本屋に入り、見るふりをしてその男の様子を見たところ道の影に隠れたので、その瞬間を見てすかさず本屋を出て、隣の本屋に再度身を隠した。そしてその本屋の違う出口から逆方向に抜けると、どうやらその男の追跡をかわすことができたようだ。ふう。<br /> <br /> そんなこんなで安心したのもつかの間、今度は違う男が「紅茶はいらないか? 俺の店は地下にある」と付きまとってきた。 きっとこれでもインドにしてみればしつこくない方なのだろうが、後ろに付かれているとスられるのが心配なので交わそうと努力するがビルの上から下までずっと着いてくる。ちょっと怖いので階段の下りを少し加速して降り、曲がり角を曲がった瞬間にダッシュして外に出てかわした。ふう・・・。<br /> <br /> <br /> そしてニューマーケットの外をまわってサダルストリートに戻り、ネットカフェで時間をつぶした後、ホテルの荷物をピックアップする。どうやら荷物は失われずに済んだ様で、鍵をかけておいたので開けられてもいなかった模様。<br /> <br /> そしてハウラー駅に向かうことにするが、最初は歩いて向かえる距離かなと思っていましたが、とにかく人が多く、警備員に聞くと、すぐそこの交差点からタクシーで80ルピーとのことだったのでそうしようとするが、近づいてみると長距離用と思われるバスターミナルがあったのでまずそこでバスを探す。どうやらそこからは出ておらず、道を走っているローカルバスで行けるようなので道に戻ってバスを見るが、英語で書かれていないので全くわからない。<br /> <br /> もうタクシーでいいかな・・・ と思っていると、バスから「ハウラー、ハウラー、ハウラー」と叫ぶ声が聞こえてくるので「ハウラー駅か?」と聞くと「そうだ」と言うのでそれに乗る。 6ルピーである。<br /> <br /> 途中、どこにいるかよく分からなかったので不安にもなったが前にいる人に聞くと「まだだ」とのことだったのと、大きな橋を渡った時点で自分でもすぐそこだと気づくことができたし、車掌も教えてくれたので無事ハウラー駅に辿り着くことができた。<br /> <br /> ハウラー駅は人が多く、まさにカオスではあるが、自分に危害が加わるような雰囲気ではなかったので安心できた。<br /> <br /> <br /> <br /> <br /> 何番線か分からなかったので案内板を見に行って番線を確かめ、水を買ったりして出発に備えた。番線の入り口に自分の車両の情報が貼られるのでそれを確かめた後、中に乗り込んだ。<br /> <br /> クラスは1等であったが、日本で言うところのエコノミークラスかな、という気がした。同じ部屋に一緒になったのは日本人1名とインド人3名。4つしかベッドがないのに5人いるが、どうやら予約システムの異常らしく車掌が部屋の確保を一生懸命していた。<br /> <br /> 食事は簡素ですが、辛すぎることもないのでとりあえずは腹を満たせた。<br /> <br /> <br /> <br /> Sat, 25 Dec 2010 00:00:00 +0900 インド・クンバメーラ2019 https://w-jp.net/topics/インド・クンバメーラ2019/ インド・クンバメーラ2019 クンバメーラ、ISKCONテンプルのキャンプ https://w-jp.net/2019/1497/ <br /> ISKCONテンプルのキャンプも発見。敷地が他の普通のとこの2倍以上ありますね。巨大で、割とガラガラです。一部はまだ設営中のようにも見えます。期間が始まってオープンしてもまだ工事中なんてインドでは割と普通ですけど。<br /> さすが世界中にある団体なだけあって規模が違いますね。<br /> <br /> Sun, 20 Jan 2019 00:00:00 +0900 クンバメーラ、ヨガナンダSRFのキャンプ https://w-jp.net/2019/1496/ <br /> ヨガナンダのSRF(Self-Realization Fellowship) キャンプを発見。瞑想ホールのオーラが凄くてビビりました。これは本物ですね。キャンプですので施設は簡易的ですし騒然としているクンバメーラの中にあっても静寂のレベルがかなり違うということはここにいる人たちのエネルギーレベルがかなり高いように思います。<br /> <br /> <br /> <br /> スタッフに聞くと、ババジのクリヤヨガを正統に正しく継承しているのはここだけだと言います。あれ? なんだか似たようなことをリシケシのシャンカラナンダのクリヤヨガアシュラムでも聞きましたね... お互いにそれぞれが正統を主張しているんですかね? そう言えば口コミサイトで、過去にクリヤヨガの派閥闘争があったとかチラッと読んだ気がしますけど、今はそれぞれ勝手に正統を名乗っているのかもしれないですね。私としてはどれが正統かは分かりませんけど、エネルギーの高さで言ったらここはかなり高いと思いました。エネルギーの質もちょっと違うかも? 同じババジ系列なのに雰囲気が違います。<br /> <br /> <br /> <br /> リシケシのシャンカラナンダのクリヤヨガの先生は「ヨガナンダのところはテクニックを簡単にしてババジのテクニックを全部伝えてはいない。完全なのはうちだけだ」と言っていましたが、実際にヨガナンダのところを見た今としては「だから何?」という感じです。むしろ、現代の覚者が現代人向けにテクニックを解きほぐしてくれたことの意義の方が大きいと思います。<br /> <br /> ここは、クンバメーラのクリヤヨガキャンプに行ったときのような違和感も感じませんでしたしね。<br /> <br /> ここはちゃんとやっているところですね。基本的なところがしっかりしているという印象を受けます。シャンカラナンダのクリヤヨガの先生のように言葉の説明の中に煽りがありませんし、何より言葉の1つ1つ、行動の1つ1つが落ち着いていて好感が持てます。シャンカラナンダの方は人々がちょっとドヨンとした感じでしたが、ここにいる人たちはそんなこと全然ありません。凄くパワフルです。エゴの力強さではなく、基本的な生命力の強さがあるように感じます。おそらくその生命力の強さが根源的な「愛」とか言われているものなのでしょう。<br /> <br /> いろいろなところをちょっとづつ見学できるのはクンバメーラの良いところです。<br /> <br /> クリヤヨガ系列はその始祖のババジから始まっていてババジの弟子は沢山いるのでババジもクリヤヨガもヨガナンダも全部クリヤヨガ系列で、クリヤヨガを名乗っている団体が多いので未だに混乱します。しかも、パタンジャリのヨガスートラなどにも基本的概念でクリヤヨガって出てくるので団体名なのかヨガスートラの話なのかも最初は混乱するのです。<br /> <br /> そんな同じクリヤヨガや同じババジでも団体によって随分と雰囲気が違うんだなあ、と思いました。<br /> <br /> 寝床は雑魚寝のドミトリですが広いのでシャンカラナンダのクリヤヨガより1人あたりのスペースが十分にありそうです。あちらは畳1畳の割当でしたからね... しかも一泊5,000円(苦笑) こちらは値段を聞いても外国人料金は問い合わせてくれと言われました。<br /> <br /> そう言えば、そもそもクリヤヨガには瞑想ホールすらなかったですしね。あるいはあの小さいテントが瞑想ホールだったのかもしれないですが。<br /> <br /> ヨガナンダのところは1年間練習を続けたらイニシエーションができるそうです。ここのスタッフが言うには、よそでいきなりイニシエーションを受けさせるのは間違っているとのこと。それは確かにそうだよねえ、と妙に納得しました。よくわからないうちにイニシエーション受けさせてドネーションっていうシャンカラナンダのクリヤヨガは違和感ありましたからね。そちらのスタッフの説明も納得いかないものでしたし。お金儲けと思われても仕方がないです。<br /> <br /> ヨガナンダのところは有名すぎて今まで割とスルーしていましたけど、このブースを見て見識を改めました。<br /> <br /> Sun, 20 Jan 2019 00:00:00 +0900 クンバメーラ、ヴィヴェーカナンダのキャンプ https://w-jp.net/2019/1495/ <br /> ヴィヴェーカナンダのキャンプを発見。西洋に広くインド哲学を広めた初期の巨人の1人で、私も「ラージャヨーガ」本を読んで勉強になりましたが、どんなところかと思えば意外にこぢんまりとしています。割と普通というか巨人にしては普通すぎて、イメージより随分と小さいかも。<br /> <br /> Sun, 20 Jan 2019 00:00:00 +0900 クンバメーラの堂々としすぎなドラッグ密売人 https://w-jp.net/2019/1494/ <br /> クンバメーラ会場を歩いていたら変なインド人が「スモーク、スモーク!」と言って話しかけてきたのです。私はタバコは吸わないのでそう伝えても何故か引き下がらず懐から何か鉄の塊を引っ張り出して口に当てるそぶりをして「これだ、これだ」と言います。なんじゃこりゃ? この鉄の塊、初めて見たぞ... するとその変な男が懐からもう1つの袋を出して「これだ、これだ」と再度言いますが、何のことかよく分からないので「なんじゃこりゃ?」と聞いたら「ドラッグだ」と言うではありませんか。はぁ~。すぐ目の前に特設の警察出張所があるのに堂々とドラッグ売りつけてくるような場所なんですね、ここ。警察が見ていますよ。<br /> <br /> <br /> <br /> 私がたしか2006年頃、初めてインド旅行をした時にバラナシで数回ドラッグ買わないかと言われて無視したことがありますが、その時はこっそりという感じで密売人が話しかけてきたのに、こんなに堂々としていて、しかも写真撮らせてくれと言ったら普通に撮らせてくれるなんて、なんて堂々としているドラッグ売人なのでしょう(苦笑)<br /> <br /> ドラッグがこういう形をしているなんて初めて知りましたよ。まあ、あんまり興味ないですけど。話のネタ程度ですね。まあ、北のカシミールとかにはドラッグ多いらしいですし、外国人が集まるゴアとかバラナシとかには売人が多いという噂は聞きますけど、バナラシは上のような感じでしたし、ゴアにしても私は滞在が短かったせいか、ドラッグなんて聞いたことないですけどね。まあ、聞けば教えてくれるのかもしれないですけど、興味ないので。<br /> <br /> それにしても、旅行記とか読むとドラッグのことがよく書いてあってインドはドラッグ大国だというイメージが元々あったのですが、実際に旅行してみるとドラッグなんて接する機会は皆無というか、上に書いたバラナシ(2006年)以降は全くそういうことがなくて今回13年ぶりにドラッグの売人に話しかけられました。しかもこんなに堂々としている密売人がいるんですね(苦笑)<br /> <br /> もちろん私は買わなかったのですが、写真を撮ったのでチップをくれと言われてチャイ代10ルピー(約18円)渡しました。<br /> Sun, 20 Jan 2019 00:00:00 +0900 クンバメーラ2019ヨグマタ相川圭子キャンプを見学 (クンブ・メラ) https://w-jp.net/2019/1489/ <br /> インドのクンバメーラ(クンブ・メラ)2019にてヨグマタ相川圭子のキャンプを発見。ほんとにあるんですね... ただ、いまヨグマタはここにはいないそうです。<br /> <br /> <br /> <br /> パイロットババジっぽい人が人々に祝福を与えていたので私も列に並ぶことに。(別人かも?)<br /> 正座から足元にお辞儀しておでこを床につけるのですが、このグルジが貫禄あって皆のお辞儀に全く違和感がないです。こういうのがカリスマのあるグルジなんですねえ。しかも嫌味っぽくなくて超自然体。確かに修行進んでいそうです。弟子たちも落ち着いているので、真面目にきちんとやっているところなのでしょう。<br /> <br /> 私も皆と同じようにおでこを床までお辞儀したけど自然な感じでした。私はここの信者ではないしヨグマタの本もほとんど読んだことありませんけど、祝福を受けるのは誰でも良いみたいな感じでした。<br /> <br /> ふと思いましたが、クンバメーラはお祭りであることはもちろんですが、ヨガ団体の展示会みたいなものでもあるかもしれませんね。ヨガの人たちは一生に1人のグルとか言っていますけど多くの伝記を読むと複数人数から教えをもらうのがほとんどな気がしますしね。良い人たちが集まっているところにもっと人が集まるし、逆もまたしかり。<br /> <br /> その後、急に具合悪くなって、隣が政府の無料アユールベーダ病院だったので薬をもらいました。しばらく安静にします。3時間ほど眠ってから帰ってきました。<br /> 具合が悪くなったらすぐそこに無料の病院があるなんて、なんて運が良いのでしょう。<br /> きっとグリーンサラダが原因ですね。<br /> バンガロール長期滞在時はお腹が強くなって、お腹が痛くなっても半日で回復していましたが、久々に滞在したらお腹が弱くなっているみたいです。<br /> ただ、最初にインド旅行した時は4~5日調子が悪かったのが、今回は1日半くらいで回復してきたのでまだ耐性は残っているようです。<br /> <br /> <br /> <br /> ヨグマタのキャンプ(ブース)がクンバメーラにあることがあまりよくわかっていなくて都市伝説の類いと思っていましたが、この看板と写真の大きさ本気ですね。家の作りもよそより随分としっかりしていました。<br /> Fri, 18 Jan 2019 00:00:00 +0900 クンバメーラ会場で見かけた興味深い人達 https://w-jp.net/2019/1491/ <br /> ずっと単焦点の標準レンズ相当ばかり使っていましたが、今度の新しいコンデジが40倍ズームなので意外に構図の自由度があって面白いです。<br /> 遠くからまるで隠し撮り状態で撮れてしまいます。今までミラーレス一眼でしたがこの新しいカメラはコンデジで、コンデジなのに機能が良くてカメラの進化に驚いています。使いやすくて思い通りに撮れるので気に入っています。<br /> <br /> 女性ももっと撮りたかったのですが、実はサドゥやスワミはほとんど男性なので女性はサリー着たメイドさんがいるくらいです。<br /> <br /> Wed, 16 Jan 2019 00:00:00 +0900 クンバメーラ会場の寺院からの展望 https://w-jp.net/2019/1493/ <br /> クンバメーラで展望の良い寺院に登ってみました。<br /> ここから見える範囲でクンバメーラの10分の1あるかどうか? さっぱり規模感がわからないくらい広いです。来場者数も多いですけど敷地も広いので意外に混雑はそれほど感じません。というか空いている印象すら受けます。<br /> 日本の有名な祭りの方がよほど混雑している気がします。<br /> <br /> Tue, 15 Jan 2019 00:00:00 +0900 クンバメーラ2019 早朝パレード見学 https://w-jp.net/2019/1490/ <br /> 今朝はクンバメーラの興味深い儀式(?)を見ました。ガンジス川とヤムナ川が交わる地点(概念的にサラスワティ川とも言うらしい)に向かって裸のサドゥたちが行進し、最後には沐浴するのです。<br /> バラナシやリシケシで沐浴見てもいまいちその重要性がピンと来ていなかったのですが、この本気の人たちを見たら沐浴とはこういうことなのかと少し実感した気がします。<br /> <br /> 日本人からすると汚いガンジス川の沐浴なんて微妙な人が多いでしょうが、こういう感覚でインド人は沐浴しているのでしょうかね。<br /> 何故真っ裸なのかはよく分かりませんけど。どうやら裸なのはシバ派の人たちのようです。<br /> <br /> 時間と場所がよく分からなかったので2時に起きて2時半に出かけて3時半頃から散策し、それっぽい場所でスタンバイしていたら5時55分から見れました。どうやらパレードが始まってから最後のガンジス川&amp;ヤムナ川合流地点に移動して来るまで結構かかるみたいですね。私はゴールで待っていましたのでかなり時間がかかりましたが見れて良かったです。<br /> <br /> <br /> <br /> インド人に聞いたらこれはMain Bathの日限定だそうで、明日の朝にこれはないそうです。着いて早々にこれが見られてラッキーでした。<br /> 次は21日の朝がチャンスかも? とも思いましたが21日にはありませんでした。初日限定なのでしょうか?<br /> <br /> 裸な上、早朝で気温7度しかないので震えてます...<br /> <br /> <br /> <br /> Tue, 15 Jan 2019 00:00:00 +0900 ゲーム https://w-jp.net/topics/ゲーム/ ゲーム 懐かしのネットハック(NetHack)をチートでプレイ [RPGゲーム] https://w-jp.net/2018/1488/ <br /> 30年前のコンピュータ黎明期に私を熱狂させたネットハック(NetHack)がまだ生き残っていることにびっくりしました。<br /> 当時は普通にプレイして最高で15階前後(?)の別世界みたいなところに行くのが限界だったような気がしますがあまりよく覚えていません。<br /> <br /> <br /> <br /> 今回ちょっとプレイしてみたくなりましたが、流石に真面目にプレイしている年ではありませんのでもちろんチートします。 元々NetHackには探索モードとかついていますがそれを使ってしまうと正式クリアにならなかったり何かと不便なことも多いので、せっかくソースコードがあるのですからソースに手を入れます。<br /> <br /> 普通はワルキューレが最初から良い盾を持っているのでやり易いですし、魔法は何度も覚え直さないとどんどんと忘れるシステムなので普通にやるには力が強いキャラの方がやり易いのですがチートしてしまえば魔法は何回でも使えますしHPとMPは関係ないのでエルフの女魔法使い(ウィザード)で行きます。魔法使いと言えばなんとなくロードス島戦記の女性のエルフのイメージが残っています。<br /> <br /> 今回はチートするためにソースコードからビルドします。環境はMacです。<br /> まずは以下をダウンロード<br /> ソースコード nethack-361-src.tgz (公式ページ)<br /> 日本語パッチ jnethack-3.6.1-0.3.diff.gz (JNetHackページ)<br /> メモ: 以下のように文字コード変換しつつパッチ適用する必要がありそう。 <br /> cat jnethack-3.6.1-0.1.diff |iconv -f cp932 -t utf8 | patch <br /> ・・・と思ったら3.6.1はgcc5を使っていて、gcc5はMac OS Mojave Ver 10.14.3 には対応していなくてビルドが通らないので英語の最新版を以下からゲットしてやり直し。<br /> https://github.com/NetHack/NetHack Ver 3.6.2 (Beta)<br /> <br /> ■コマンドのメモ<br /> GCCが必要なのでBrewを使ってインストール<br /> brew install gcc<br /> <br /> ビルドしてインストール<br /> sh sys/unix/setup.sh sys/unix/hints/macosx10.10<br /> make install<br /> <br /> どこにインストールされたのかなと思ったら Users/ユーザ名/nethackdir にインストールされていましたので起動するにはコマンドラインから以下を実行すると開始します。<br /> nethackdir/nethack<br /> <br /> このままでは移動にテンキーを使えなかったり不便なので Users/ユーザ名/.nethackrc というファイルを作って設定します。<br /> <br /> OPTIONS:number_pad<br /> 参考:<br /> や &lt; で同じキーを押すと階段を上り下りする。ペットがいる場合は隣接していないと付いてこないので注意<br /> k を押してから方向キーを押すとキック。閉じている扉を蹴り破ることができる。<br /> dで荷物を置く。魔物の死骸をペット近くに置くとペットに餌をあげるという意味になる。<br /> eで食べる(チートするなら関係ない)<br /> ,で拾う(お店の商品など)<br /> pでお店で買った代金を払う<br /> wで剣装備, Wで鎧装備, Aで剣/鎧解除<br /> Pで指輪やお守り(アミュレット)装備, Rで指輪やお守り(アミュレット)解除<br /> Zで魔法<br /> @ 自動で物を拾うモード(Auto Pick up)の切り替え<br /> aで道具を使う。例えば、暗いところでランプを使うと遠くまで見えるようになる。魔法のマーカ(Magic Marker)を使うと何も書いていない巻物に呪文を書き込むことができる。何を書けるかはNethack Wiki: Magic markerを参照。「magic mapping」等。<br /> $で現在の所持金表示<br /> r 巻物を読む<br /> qで何かを飲む<br /> tで物を投げる<br /> #chat で話しかける<br /> #loot で地面にある大箱(Large Box)を開ける。鍵がかかっている場合は鍵を「.」に対して使うと箱の鍵を開けることができる。<br /> #adjust で道具に割り当てられたレターのアルファベットを変更できる。<br /> <br /> ■チート<br /> ビルドし直す度にsaveディレクトリがクリアされてしまうのを避けるためビルドは make install の前後に少しコマンド追加して行います。<br /> mkdir save_backup ; mv ~/nethackdir/save/*.Z save_backup/ ; make install ; mv save_backup/*.Z ~/nethackdir/save/<br /> <br /> src/allmain.c<br /> 83行目のfor (;;) {のループがコマンド入力の処理なのでこの辺りにいくつか処理を埋め込む。if (context.move) {の上あたりが良さそうです。<br /> <br /> MAX HPを9999に設定<br /> u.uhpmax = 9999;<br /> 常時体力回復、体力が少ない時の急回復。ずっと体力MAXでも良いのですがどのくらいダメージ食らっているのか分かるようにこうしてあります。<br /> if (u.uhp &lt; u.uhpmax / 2) {<br /> u.uhp = u.uhpmax * 2 / 3;<br /> }<br /> if (u.uhp &lt; u.uhpmax) {<br /> u.uhp++;<br /> }<br /> MAX MPを9999に設定<br /> u.uenmax = 9999;<br /> 常時MP回復、MPが少ない時の急回復。ずっとMP MAXでも良いのですがどのくらいMP消費しているのか分かるようにこのようにしてあります。<br /> if (u.uen &lt; u.uenmax / 2) {<br /> u.uen = u.uenmax * 2 / 3;<br /> }<br /> if (u.uen &lt; u.uenmax) {<br /> u.uen++;<br /> }<br /> 常時食事回復 (これで、倒した獲物はペットに全部食べてもらえば良いです)<br /> if (u.uhunger &lt; 900) {<br /> u.uhunger++;<br /> }<br /> すぐにレベルアップするためのおまじない<br /> if (u.ulevel &lt; MAXULEV &amp;&amp; u.uexp &lt; newuexp(u.ulevel) - 20) {<br /> u.uexp = newuexp(u.ulevel) - 20;<br /> }<br /> <br /> <br /> 食事での死亡(体力0)を避けます。<br /> src/eat.c 2215行目の u.uhp += otmp-&gt;cursed ? -rnd(20) : rnd(20); でランダムにより体力低下して死ぬ可能性があるのでこの後に判定入れます。<br /> u.uhp += otmp-&gt;cursed ? -rnd(20) : rnd(20); ここはそのまま<br /> if (u.uhp &lt; u.uhpmax / 2) { この行追加<br /> u.uhp = u.uhpmax / 2; この行追加<br /> } この行追加<br /> <br /> <br /> お金たくさん<br /> src/hack.c の以下を変更<br /> money_cnt(otmp) ここはそのまま<br /> struct obj *otmp; ここはそのまま<br /> {<br /> return (long) 9999; この行追加<br /> <br /> お店で買い物をするときに変なメッセージが表示されるが購入はできるので気にしない。<br /> <br /> <br /> ウィザードモードでなくても常に「Saveファイルを取っておくか」を選択できるようにする。<br /> <br /> sys/mac/macmain.c 101行目あたりの条件文を外す<br /> // if (discover || wizard) { この行をコメントアウト<br /> if (yn("Do you want to keep the save file?") == 'n')<br /> (void) delete_savefile();<br /> else {<br /> (void) chmod(fq_save, FCMASK); /* back to readable */<br /> nh_compress(fqname(SAVEF, SAVEPREFIX, 0));<br /> }<br /> // } この行をコメントアウト<br /> 常にSaveファイルを残したいのであれば更にコメントアウト。(この場合「最初からやり直す」場合はセーブファイルを消せば良い。)<br /> // if (discover || wizard) { この行をコメントアウト<br /> // if (yn("Do you want to keep the save file?") == 'n') 更にこの行をコメントアウト<br /> // (void) delete_savefile(); 更にこの行をコメントアウト<br /> // else { 更にこの行をコメントアウト<br /> (void) chmod(fq_save, FCMASK); /* back to readable */<br /> nh_compress(fqname(SAVEF, SAVEPREFIX, 0));<br /> // } 更にこの行をコメントアウト<br /> // } この行をコメントアウト<br /> src/restore.cも変更する必要があります。<br /> // if (!wizard &amp;&amp; !discover) この行をコメントアウト<br /> // (void) delete_savefile(); この行をコメントアウト<br /> <br /> 既存Saveファイルの上書き確認を無くして常に上書きにしたい場合は src/save.c 149目以降 を直します。<br /> if (fd &gt; 0) {<br /> (void) nhclose(fd);<br /> clear_nhwindow(WIN_MESSAGE);<br /> // There("seems to be an old save file."); この行をコメントアウト<br /> // if (yn("Overwrite the old file?") == 'n') { この行をコメントアウト<br /> // nh_compress(fq_save); この行をコメントアウト<br /> // return 0; この行をコメントアウト<br /> // } この行をコメントアウト<br /> }<br /> これで「死んだら最初からやり直し」みたいな鬼ゲーから普通にSaveできるゲームに変わります。<br /> <br /> <br /> 魔法を「必ず成功」にする。<br /> src/spell.c 1713行目のpercent_success関数のreturnを100にする。<br /> percent_success(spell)<br /> int spell;<br /> {<br /> return 100; この行を追加<br /> 魔法は使うごとにどんどん忘れてしまうので、忘れないように記憶度(Retantion)を強制上書き<br /> src/spell.c 912行目あたりで<br /> spellknow(spell) = KEEN; この行を追加<br /> if (spellknow(spell) blessed = 1; この行を追加<br /> otmp-&gt;cursed = 0; この行を追加<br /> <br /> <br /> アイテムを拾った時に強制的に「ろうそく」にする。クリアに必要だが見つからない時の緊急用。<br /> 上と同様にsrc/pickup.c 1530行目のpick_obj関数の先頭で設定<br /> otmp-&gt;otyp = TALLOW_CANDLE; この行を追加<br /> ただし、これは他の属性はそのままなので重さや種類などは変わないままなので挙動が変になります。あくまでもクリアのための緊急用。拾う場合は「a 使う」コマンドが使える種類のものを拾ってすぐに祈りの燭台(Candelabrum of Invocation)に付けてしまいましょう。<br /> <br /> 巻物を必ず「祝福された」属性にする。<br /> src/read.c 402行目のif (!seffects(scroll)) {の上あたりで強制的に属性を設定。<br /> scroll-&gt;blessed = 1; この行を追加<br /> scroll-&gt;cursed = 0; この行を追加<br /> 稀に呪われた巻物を読みたい時もあるかもしれないですが、その時はコメントアウトしてビルドし直して下さい。<br /> 上にある「アイテムを拾った時に必ず”祝福された”属性にする。」で十分ならばこれは不要。<br /> <br /> <br /> 巻物を読む時、数量を2に設定(その後1つ使われるので残りは2になる)<br /> 上と同じくsrc/read.c 402行目のif (!seffects(scroll)) {の上あたりで強制的に設定。<br /> scroll-&gt;quan = 3; この行を追加<br /> <br /> <br /> 巻物を読んだ時に特定の巻物を読んだことにする。[非常用]<br /> src/read.c 402行目のif (!seffects(scroll)) {の上あたりで強制的に巻物の種類を設定。 これは、使用する巻物に該当の属性をつけてから巻物を読むと言う処理になる。よって、2つ以上持っている場合はその巻物の種類が変わってしまって1つ消費すると言う動きになるので注意。<br /> <br /> 虐殺の巻物の場合。<br /> scroll-&gt;otyp = SCR_GENOCIDE;<br /> 祝福された巻物ならクラスごとまとめて虐殺できる。(参考: 何を虐殺すべきか)<br /> 虐殺候補: 「lich」 リッチ等 「;」巨大ウナギ系 「V」ヴァンパイア 「Z」ゾンビ 「T」トロール 「N」ナーガ 「P」プリン 「n」ニンフ 「h」マインドフレア(ドワーフも) 「c」コカトリス <br /> <br /> 鑑定の巻物の場合<br /> scroll-&gt;otyp = SCR_IDENTIFY;<br /> これは非常用。例えば敵が強過ぎて通過できない時に虐殺の巻物を読みたい、等という時に一時的に使うことを想定。読み終わったらソースを戻してビルドし直さないとその巻物しか使えなくなるので注意。<br /> <br /> <br /> 敵へのダメージ増大<br /> src/weapon.c 349行目の return tmp; の上で値を増やす<br /> tmp = (tmp * 5) + 100; この行を追加<br /> return tmp; この行はそのまま<br /> 強い敵が出るまではこれは不要かも。普段はノーマルで、増殖したデーモンなど倒すことができない魔物に一面囲まれて倒すこともできず逃れることもできないような状況でのみ使うと良いかも。ダメージを与えられない敵が現れたら値を増やす。<br /> <br /> 杖の使用可能数を強制設定<br /> src/zap.c 2199行目の if (!zappable(obj)) の上で値を強制設定<br /> obj-&gt;spe = 10; この行を追加(10回に設定)<br /> if (!zappable(obj)) この行はそのまま<br /> <br /> <br /> 「祈る」(#prayコマンド)を必ず成功させる。<br /> src/pray.c 1834行目のdopray関数の中にあるウィザードモードの処理を流用する。<br /> <br /> 1846行目の<br /> if (wizard &amp;&amp; p_type &gt;= 0) {<br /> を<br /> if (p_type &gt;= 0) {<br /> にする。<br /> <br /> <br /> <br /> ■攻略<br /> 階段が2つある階の片方からノームの鉱山(Gnomish Mines)に行ける。まずはそこを攻略してから階段が2つある階まで戻る。<br /> 普通は攻略までに何十回も死んで(最初から)やり直しで、たまにしか攻略できません。毎回レベル1からやり直しなので、そのくらいまでで大抵は気力が果てます。今回はチートしているので更に先に進みます。これから先はあんまりしたことがないので初めての場所が多いです。<br /> <br /> オラクルの神託所(The Oracle)に到着<br /> <br /> 拡張コマンドの #chat で話しかけることができる。50じゃ大したことは聞けないが2000払えば重要な情報を教えてもらえます。例えばメヂューサの倒し方とか、最後の破壊神モーロック(Moloch)の聖域(サンクチュアリ)に入る方法など。<br /> <br /> <br /> そのうちまた階段分岐(登る階段が2つの部屋)が出てくるが、倉庫番ゲームのような岩動かしパズルを解く必要がある。なんとまあ。こんなの昔あったっけ? 最後の通路は落とし穴なので岩で塞がないといけないようだ。最初はクリア不可能かと思ったが、これは倉庫番そのものではないので幾つかの岩を杖の魔法で破壊することでクリア。この階、魔法のdig(掘る)は無効にされてしまうので杖がないとクリアできないのかも? 前の階で拾った2つの杖を使ってクリアするという面な気がしてきました。<br /> <br /> <br /> この階はそんなに難しくありませんが一番奥の岩の下に杖が隠れていました。<br /> <br /> <br /> この階は敵が多く出るので最後の通路に敵が挟まるとクリア不可能になるので注意...<br /> 攻略すると動物園(というか魔物ぎっしり部屋)があり、その奥に良いアイテムが落ちている。今回の場合は軽量化の鞄。鑑定しないと普通の鞄のように見えるが、中に入れると重量軽減される筈。<br /> <br /> そして、元のダンジョンまで戻る。<br /> <br /> <br /> すると、祭壇「_」を発見。アンダーバーですけど、祭壇です。属性があって、自分と同じ属性でないと変なことが起こります。<br /> これは低い階に出現することもありますが今回はこれが初です。ここに物を置くと呪われているかどうかを調べることができます。<br /> 又、新鮮な魔物の死体を #offer コマンドで捧げると良いことがあります。属性を自分のものに変更できたりします。<br /> とても困った時は #pray で何かいいことがるかもしれませんが祈りすぎると神様が怒って罰が下ります。<br /> <br /> <br /> もうちょっと進んだらいきなりテレポートの罠(?)に引っかかり、故郷(Homeland)っぽいところに飛ばされました。これは職業によって飛ばされるところが違うようです。どうやら Dark Oneというのを倒してEye of the Aethiopica というのを取り戻せば良いらしい。依頼を受けた部屋の奥の隠し扉の奥に階段があったのでそこからクエスト開始。<br /> <br /> <br /> Dark Oneを倒してEye of the Aethiopicaを入手し、依頼主に話しかければクエスト終了。<br /> 銀のベル(silver bell)入手。鑑定すれば開放のベル(Bell of Opening)になる。クリアに必要。<br /> ちなみに、クエスト最後にある祭壇で祈ったら魔法使い最強の武器 マジックベーン (Magicbane) が出てきました。<br /> <br /> <br /> その後、深い階の隠し金庫に入るとローディオス砦(Fort Ludios, フォートローディオス)に飛ばされた。<br /> <br /> <br /> 魔物の群れを倒すと沢山のお金が手に入るが、チートしているのならばあまり関係ない。<br /> <br /> <br /> 元のダンジョンを更に降りてゆくとメデューサレベル(Medusa level)に到達。<br /> <br /> オラクルの神託所(The Oracle)で以下のような情報が入手できますが、普通にメデューサの神話の話を知っていれば想像がつく内容です。<br /> <br /> <br /> 私はたまたま魔法使いで cone of cold の魔法が使えるのでそれで地面を凍らせて進むことができますしチートしているから魔法使い放題だから良いものの、魔法やアイテムがなければ途方にくれそうな場所です。同魔法が使えてもチートしていなければ魔力や魔法の記憶度(Retantion)が足りなくなりそうなくらい水に囲まれています。彫像の1つに入っている反射の盾(shield of reflection)を装備してメデューサの部屋に行くとメデューサが石像になっている。何もメッセージがないので分かり辛いが反射の盾無しで行くと石化されてゲームオーバーなので違いがわかる。メデューサがいた場所に石などが散乱しているので分かり辛いが、その場所に下に行く階段がある。<br /> <br /> <br /> 地下29階の「城(Castle)」に到着。落とし穴はジャンプの靴を履いて #jump あるいは浮遊の靴で飛び越える。<br /> <br /> <br /> 地味に攻略して地下30階に到達。ここは「死の谷(Valley of the Dead)」と言う階のようです。攻略ページだとこの階からゲヘナとなっていますが、メッセージを読むとこの階はゲヘナではなくて次の階からゲヘナのようです。変わったのかな? 流石に敵が強くなってきて進みが遅くなってきました。祈っても自分の神様に願いは届かない階にまで来てしまったようです。デーモンが増殖して囲まれたら動けなくなってやられ放題なので、チートしていなければあっさりゲームオーバーっぽい感じです。<br /> <br /> <br /> 階段が見つからないのでそこらじゅうdig(掘る)魔法で穴を開けてようやく階段発見。ほとんどの壁はdig(掘る)が無効ですが一部の壁は掘ることができました。<br /> <br /> <br /> そして31階のゲヘナへ突入。<br /> <br /> ちなみに、ここまでに覚えた魔法は以下。<br /> <br /> 魔法を覚えたならば同じ巻物は不要になります。巻物は1回使うとなくなりますが魔法であればMP消費するだけですので。例えば鑑定の魔法を覚えたら鑑定の巻物は不要になります。<br /> よく使う攻撃の魔法は Finger of Death ですが敵の種類によっては Cone of Cold や Magic Missile が効いたりします。<br /> 池などを凍らせてその上を歩くには Cone of Cold が使えます。<br /> 壁を壊すには dig (掘る) を使います。<br /> <br /> <br /> 何階か下がると迷路っぽい面に来ますが、dig (掘る) 魔法が使えるので迷路になりません。<br /> <br /> <br /> 迷路を超えると広い部屋に出ました。地下34階です。暗いのでランプを使っても周囲しか見えません。どうやら水が多い階のようです。<br /> どうやらここはジョウビレックスの沼(Juiblex's swamp, ジョウビレックスフロア)と言うようです。<br /> <br /> <br /> やがて、アスモデウスの隠れ家(Asmodeus' Lair, アスモデウスフロア)に到着。地下36階<br /> アスモデウスはチートしていてもなかなか倒せない。30攻撃くらいしても倒せなかったのでチートのダメージ数を少し増やしたら一撃で撃退。ダメージを与えるためのしきい値を超えていなかったのかな?<br /> <br /> <br /> 地下37階、バアルゼブの隠れ家(Baalzebub's Lair, ベルゼブブフロア)に到着。<br /> <br /> <br /> バアルゼブ(Baalzebub)は通行料を要求してくるので素直に払います。<br /> 払わないか金額が少ないと怒って悪魔を召喚してきますが、これがとてつもなく強くてチートしていても倒せずに殺されてしまいますので払ったほうが良さそう。他の抜け道は知りませんけどこのあたりになるとお金なんて使い道もないので払っても問題なしですし、そもそもチートしているのでお金は関係ないです。チートしているととてつもない金額を要求されてびっくりしますが、チートを外して何度か試してみたら1500とかの要求の時もあったので、それほど法外と言うわけでもなさそうです。相手の懐具合をみて決めているようなな感じです。<br /> <br /> <br /> 地下39階、オーケスの町(Orcus-town, オーケスフロア)を通過します。<br /> <br /> <br /> 同階に分岐があったので階段を登ってみると「熱と煙が消えた」と表示されたのでゲヘナ以外のところに通じているような感じですね。<br /> <br /> <br /> どうやらここは「ヴラドの塔(Vlad's Tower)」らしい。<br /> 吸血鬼ヴラド(Vlad the Impaler)を倒して祈りの燭台(Candelabrum of Invocation)を入手する。クリアに必要。<br /> <br /> <br /> 地下45階で 偽の魔法使いの塔 (Fake Wizard's Tower)を発見。<br /> 池を魔法で凍らせてから壁をdig(掘る)魔法で穴を空け、中にいる吸魔の怪物(disenchanter)を倒したけど大したものを持っていない。<br /> <br /> <br /> 地下47階で同様の 偽の魔法使いの塔 (Fake Wizard's Tower)を発見。<br /> この真ん中に行くと魔法の入り口が作動して本当の魔法使いの塔 (Fake Wizard's Tower)に行ける。<br /> <br /> この奥に イェンダーの魔法使い(Wizard of Yendor)がいて倒す必要があるが、倒しても倒しても強くなって復活してくるのでまだ倒さずに入り口だけ確認してまずは通常の迷宮を行けるところまで攻略する。その後、魔法使いの塔 (Fake Wizard's Tower)でイェンダーの魔法使い(Wizard of Yendor)を倒す。<br /> <br /> <br /> 最後の部屋は何やら凄い感じがするらしい。そこでイェンダーの魔法使い(Wizard of Yendor)を倒します。<br /> <br /> <br /> 倒したらスペルブック(Spellbook)を入手し、鑑定すれば 死者の書(Book of the Dead )になります。クリアに必要。<br /> <br /> <br /> 地下48階の「足元から神妙な振動を感じる」場所に行きます。<br /> <br /> ここで何をすれば良いのかはオラクルの神託所(The Oracle)で聞くことができます。<br /> <br /> まず、祈りの燭台(Candelabrum of Invocation)にろうそく7本を付けます。<br /> <br /> <br /> その後、その祈りの燭台(Candelabrum of Invocation)を使います。<br /> <br /> <br /> 次に開放のベル(Bell of Opening)を使います。<br /> <br /> <br /> 次に死者の書(Book of the Dead )を読みます。<br /> <br /> <br /> すると、マップが変わって階段が現れます。<br /> <br /> <br /> 地下49階。この部屋の入り口でも特別なメッセージ「薄気味悪い感じがする部屋だ」が表示されました。<br /> <br /> <br /> 破壊神モーロック(Moloch)の祭壇および司祭を発見。<br /> <br /> <br /> 警告を無視して侵入すると神聖を犯したことで怒って攻撃してきます。<br /> 倒すと イェンダーの魔除け(Amulet of Yendor)を落とすので入手。<br /> <br /> その後、地上まで延々と戻る。<br /> <br /> <br /> 地上に戻ると、もう少し試練が続きます。<br /> <br /> <br /> 最終試練(Final Test)だそうです。<br /> <br /> ここまではRPGですが、この最終試練(Final Test)は5階あるが、そのうちの最初の4階、土のレベル・風のレベル・火のレベル・水のレベルは毛色が違うというか、作者が別でしょ? って思わせるほど雰囲気が違う。ただ単に面倒なだけで「ゲーム」になっていない。ここまではちゃんとした古典的RPGなのにここは攻略方法らしき攻略方法も大してなくて、どっかの意地悪な頭の良いプログラマが後付けした感がプンプンします。せっかくここまで面白いゲームなのに、こういう意地悪なプログラマが首突っ込んでゲームバランスを崩すのは許せないね。ほんと、もったいない。この最終試練(Final Test)いらないでしょ。 面倒で時間かかるだけでゲームになってないし。最後の天上界(Astral Plane)は最後だからこのくらいでも良いと思いますけど。<br /> <br /> 最初は土のレベル(Earth Plane)。どこかにある魔法の入り口(ランダム)を探すと言う微妙な構成。魔法の入り口は元々空間だった所のどこかにある。<br /> <br /> <br /> 次は風のレベル(Air Plane)。空に浮いているので浮遊の靴などを使わないと移動できない。<br /> 広いマップだが、動くと所々雲が晴れて、雲が晴れた範囲では扉探索の杖(wand of secret door detection)が使える。<br /> <br /> <br /> 今回は右上で見つかった。どうやら大体同じあたりにあるらしい?<br /> <br /> <br /> 次は火のレベル(Plane of Fire)<br /> 地上のどこかに魔法の入り口があるので探す。今回は中央上部にありました。<br /> <br /> <br /> 次は水のレベル(Water Plane)。水の中の水たまりを動きながら魔法の入り口を探す。<br /> とは言っても、入り口は移動しているらしいのでこんなの運次第。<br /> しばらく動いていたらなんだかよくわからないうちにワープして天上界(Astral Plane)へ。<br /> <br /> <br /> 「&amp;」マークのペスティレンス(Pestilence)が死に至る病気を撒き散らすのでユニコーンの角で直しつつ撃退。チートしていても油断していたら数<br /> ターンでやられてしまうほど手強い。<br /> <br /> <br /> さて、最後の祭壇に到着。イェンダーの魔除け(Amulet of Yendor)を捧げてみますが、何か変...<br /> <br /> <br /> エンディング?<br /> 「トート神は捧げ物を受け入れた。そして、力を得たことで戦いの神アンフル(Anhur)に対して優位になり、トート神は支配力を得た。」<br /> 「アンフル神(Anhur)は激怒したが、貴方はトート神により守られているため死ぬことはなかった。」<br /> 「オレンジ色の煙が貴方を包んだ...」<br /> <完?><br /> <br /> あれ? 何かメッセージが変... 昇天する筈だけれども... この神殿の司祭に話しかけたら、どうやらここはトート神の神殿らしい。ふむ。 確認してみたら最初はアンフル神(Anhur)を崇めていたので、違う神に捧げてしまったっぽいです。どうやらバッドエンドしてしまった模様。チートしているのでセーブポイントからやり直し。<br /> <br /> <br /> 同じ階の左の方に行ってみる。そこにも祭壇と司祭がいる。<br /> <br /> <br /> ここは神が違って プタハ神(Ptah)の神殿らしい。<br /> <br /> <br /> 試しに捧げてみると、やはり同様のバッドエンド。<br /> <br /> <br /> 右の祭壇に行ってみるとそこはアンフル神(Anhur)の神殿。ここがどうやら正解のようです。<br /> <br /> <br /> エンディング<br /> 「貴方はイェンダーの魔除け(Amulet of Yendor)をアンフル神(Anhur)に捧げた...」<br /> 「目に見えない合唱団が歌い始めた。そして貴方は輝き始めた...」<br /> 「アンフル神(Anhur)の声が鳴り響いた:(死ぬべき運命にある人などの)生物よ! よくやった!」<br /> 「お前の貢献の見返りに、お前を不死にしてやろう!」<br /> 「貴方は (神話などの)神格化された半神半人の称号を得て、昇天した。」<br /> <完><br /> <br /> <br /> 全マップ<br /> <br /> <br /> <br /> <br /> <br /> <br /> <br /> <br /> <br /> <br /> <br /> <br /> Fri, 30 Nov 2018 00:00:00 +0900 openMSXでクリムゾン3 チートコード付 https://w-jp.net/2018/1545/ <br /> クリムゾン1と2は以前やりましたので続きをプレイ。<br /> <br /> <br /> <br /> 2もそうでしたが、このゲームはopenMSXでプレイすると戦闘開始時にハングアップして止まることがありますので度々セーブしながら進みます。それでも何とかなります。<br /> 実機でプレイした時も思いましたが、やっぱり1の方がバランスが良いです。<br /> <br /> ■openMSXのチート(メモ) (チートのやり方はこちらを参照)<br /> GOLD沢山 poke 0xB4D7 255<br /> <br /> 主人公HP poke 0xB3A1 255<br /> 主人公MP poke 0xB3A2 255<br /> 主人公EXP poke 0xB3A9 255<br /> ソーニアHP poke 0xB3C1 255<br /> ソーニアMP poke 0xB3C2 255<br /> ソーニアEXP poke 0xB3C9 255<br /> クラウンHP poke 0xB3E1 255<br /> クラウンMP poke 0xB3E2 255<br /> クラウンEXP poke 0xB3E9 255<br /> マリウスHP poke 0xB401 255<br /> マリウスMP poke 0xB402 255<br /> マリウスEXP poke 0xB409 255<br /> <br /> ■攻略<br /> それほど難しくありませんので基本的には普通にクリアできると思います。<br /> キャラクタの星を当てるところは占い師に聞けば良いです。<br /> <br /> Sat, 27 Oct 2018 00:00:00 +0900 openMSXでクリムゾン2 チートコード付 https://w-jp.net/2018/1544/ <br /> クリムゾン1は以前やりましたので続きをプレイ。<br /> <br /> <br /> <br /> このゲームはopenMSXでプレイすると戦闘開始時にハングアップして止まることがありますので度々セーブしながら進みます。それでも何とかなります。<br /> <br /> 実機でプレイした時も思いましたが、やっぱり1の方がバランスが良いです。<br /> ただ、エミュレータの方がスピードを上げられるのでスムーズなのが良いです。実機だと遅いので。<br /> <br /> ■openMSXのチート(メモ) (チートのやり方はこちらを参照)<br /> お金沢山 poke 0x9F5C 255<br /> <br /> 主人公 HP回復 poke 0x9E32 255<br /> ゴーバス HP回復 poke 0x9E52 255<br /> リーマ HP回復 poke 0x9E72 255<br /> マーロン HP回復 poke px9E92 255<br /> ナターシャ HP回復 poke px9EB2 255<br /> <br /> 主人公 MP回復 poke 0x9E33 255<br /> リーマ MP回復 poke 0x9E73 255<br /> マーロン MP回復 poke px9E93 255<br /> ナターシャ MP回復 poke px9EB3 255<br /> <br /> 上記だけでゲームはある程度進みますが、最後の方でいきなり敵が強くなるので最後は経験値を増やしてレベルを上げます。<br /> <br /> 主人公EXP増やす poke 0x9E3A 255<br /> ゴーバスEXP増やす poke 0x9E5A 255<br /> リーマEXP増やす poke 0x9E7A 255<br /> マーロンEXP増やす poke 0x9E9A 255<br /> ナターシャEXP増やす poke 0x9EBA 255<br /> <br /> ■攻略<br /> <br /> <br /> 特に悩むことなく攻略できると思います。仲間集めの時にどこにいるのか最初ちょっと迷いますが、迷いポイントはそのくらいです。<br /> <br /> Fri, 26 Oct 2018 00:00:00 +0900 openMSXで三国志II MSX2版 チートコード付 https://w-jp.net/2018/1487/ <br /> 懐かしの三国志IIをプレイ。<br /> <br /> <br /> <br /> ■openMSXのチート(メモ) (チートのやり方はこちらを参照)<br /> 国4番并州のお金沢山: poke 0xBD40 255<br /> <br /> Thu, 25 Oct 2018 00:00:00 +0900 openMSXで大航海時代[初代] MSX2版 チートコード付 https://w-jp.net/2018/1486/ <br /> 懐かしの大航海時代[初代]をプレイ。<br /> <br /> <br /> <br /> ■openMSXのチート(メモ) (チートのやり方はこちらを参照)<br /> 主人公キャラのボーナスポイントを50にリセット: poke 0xBDF9 50<br /> 所持金たくさん: poke 0x9DB2 255 (「自分の情報」画面および取引前に有効。画面次第で有効)<br /> 名声: poke 0xA8D4 数字 (イベント発生するように少しづつ) (「自分の情報」画面および取引前に有効。)<br /> <br /> Wed, 24 Oct 2018 00:00:00 +0900 openMSXでシュヴァルツシルトII ~帝国の背信~ MSX2版 チートコード付 https://w-jp.net/2018/1484/ <br /> 懐かしのゲームをプレイ。<br /> <br /> <br /> <br /> openMSXのチート(メモ) (チートのやり方はこちらを参照)<br /> FUND poke 0xC49F 255<br /> RESOURCES poke 0xC4C1 255<br /> 第1艦隊 poke 0xBC3E 5<br /> 第2艦隊 poke 0xBC49 5<br /> 第3艦隊 poke 0xBC54 5<br /> 第4艦隊 poke 0xBC5F 5<br /> 無所属A poke 0xC277 5<br /> <br /> Tue, 23 Oct 2018 00:00:00 +0900 openMSXでシュヴァルツシルト ~狂嵐の銀河~ MSX2版 チートコード付 https://w-jp.net/2018/1483/ <br /> 懐かしのゲームをプレイ。<br /> <br /> openMSXのチート(メモ) (チートのやり方はこちらを参照)<br /> 資金 poke 0xC49F 255<br /> 資源 poke 0xC4C1 255<br /> 第1艦隊 poke 0xBC3E 35<br /> 第2艦隊 poke 0xBC49 35<br /> 第3艦隊 poke 0xBC54 35<br /> 第4艦隊 poke 0xBC5F 35<br /> 無所属A poke 0xC277 35<br /> <br /> Mon, 22 Oct 2018 00:00:00 +0900 openMSXでXak2 (サーク2) MSX版 チートコード付 https://w-jp.net/2018/1482/ <br /> 懐かしいプレイ。<br /> <br /> <br /> <br /> TurboRでないと動きが遅いのでTurboR推奨です。(BIOSの変え方はこちら)<br /> <br /> openMSXのチート(メモ) (チートのやり方はこちらを参照)<br /> 所持金たくさん: poke 0x6E15 255<br /> EXP(0~255): poke 0x6E10 数字<br /> EXP(たくさん): poke 0x6E11 数字(1から加減して)<br /> <br /> パン: poke 0x6E16 数字(100くらい)<br /> 干し肉: poke 0x6E17 数字(100くらい)<br /> ゲミルポーション: poke 0x6E18 数字(100くらい)<br /> テレポートマジック: poke 0x6E1B 数字(100くらい)<br /> アストラルリング: poke 0x6E1F 数字(100くらい)<br /> <br /> ■操作方法<br /> F2 メニュー<br /> X ジャンプ<br /> C 攻撃 (剣あるいはフォースショット。切り替えはMSXの「かな」ロックなのでMACだと右OPTIONキーで切り替え)<br /> <br /> ■攻略<br /> 特に悩まずシナリオを進めれば良い。<br /> <br /> <br /> ■分かり辛いポイント<br /> 東天王ボグレウスは蛇のリングを装備してから対戦。<br /> Mon, 08 Oct 2018 00:00:00 +0900 openMSXでハイドライド[初代] [MSX版] チートコード付 https://w-jp.net/2018/1479/ <br /> ハイドライド[初代]をプレイ。<br /> アクションRPGとして当時は随分と人気でした。久しぶりなのですっかり忘れていました。<br /> <br /> <br /> <br /> openMSXのチート(メモ) (チートのやり方はこちらを参照)<br /> LIFE回復<br /> poke 0xE002 100<br /> <br /> EXP増加<br /> poke 0xE004 100<br /> <br /> ■簡単な操作方法<br /> スペースキーを押している間は攻撃モード<br /> <br /> ■目的<br /> フェアリー3匹を見つけ出した後、アン王女を助け出す。<br /> <br /> ■簡単に攻略<br /> <br /> 以下でフェアリー救出<br /> <br />  <br /> 十字架入手 <br /> <br /> お城に入り、吸血鬼を倒してランプ入手 <br /> <br /> 魔法の壺を入手し、開いた洞窟に入る。<br /> <br /> 鍵を入手 <br /> <br /> 洞窟の先から出て、動く木をつついて2人目のフェアリー救出<br /> <br /> <br /> 墓場の宝箱からイエローストーン入手。<br /> <br /> ウィスプがいる洞窟で勇者の剣入手。<br /> <br /> レッドアーマーを何匹か連続して倒し、正義の盾を入手。<br /> <br /> 同じ迷宮でゴールドアーマーを何匹か連続して倒すと宝箱出現、ブルーストーン入手。<br /> <br /> ファイアーボールを連続で5回受けてからウィザードを倒すと3人目の妖精救出。<br /> <br /> <br /> 3人目の妖精救出と同時にバラリス城の島に自動的にワープ。<br /> <br /> <br /> ドラゴンを倒すと不死の薬を入手。<br /> <br /> バラリス城の前でスペースキーを押すと中に入れる。<br /> <br /> 一旦は閉じ込められるが、十字架を下から壊すと脱出できるので一旦外に出る。<br /> <br /> <br /> 外に出ると水路が干上がっている。<br /> <br /> <br /> 干上がっている通路に出てきた宝箱からレッドストーン入手。<br /> <br /> バラリス城に再度突入。<br /> <br /> <br /> バラリスを倒すとエンディング<br /> Sun, 23 Sep 2018 00:00:00 +0900 openMSXでハイドライド2 [MSX版] チートコード付 https://w-jp.net/2018/1475/ <br /> 懐かしのハイドライド2。昔、頑張って自力でクリアしたことを思い出します。それにしても、当時の自分はよくこんなの自力でクリアしたな... 確か、ノーヒントのRED CRYSTALも探しまくって自力で見つけた筈。<br /> <br /> <br /> <br /> ■openMSXのチート(メモ) (チートのやり方はこちらを参照)<br /> LIFEを9千9百に: poke 0xE020 0x99<br /> MAGICを9千9百に: poke 0xE026 0x99<br /> STRを99に: poke 0xE022 0x99<br /> GOLDを5万に: poke 0xE056 5<br /> <br /> ■操作<br /> リターンキーでメニュー。物を捨てるにはDボタン<br /> スペースキーでATTACK/DEFEND切り替え<br /> 会話モード切り替えは 0キー<br /> F1~F5 ATTACK/DEFENDモードに応じた魔法。DEFENDのF2でサーチの魔法<br /> <br /> ■攻略<br /> とりあえずレベルを上げてDEFEND中にF1キーで使えるSEARCHの魔法を身につける。<br /> これで、画面の中に何が隠されているのかがわかる。<br /> 次に、墓場の中で1つだけ、体当たりすると赤く光って壊れる墓石がある。これを壊すと砂漠の中に街が出現する。<br /> <br /> <br /> <br /> 川の横でキーを入手<br /> <br /> <br /> <br /> 岩の下のダンジョン攻略<br /> <br /> <br /> <br /> キー 1つ入手。<br /> 呪文「PURITY」入手<br /> <br /> 次に塔に向かう。<br /> <br /> <br /> <br /> 5階でレーザーソード入手。<br /> 5階でORCをいくつも倒してキーを入手。<br /> <br /> 次に、水路に入って浮島のダンジョンへ。<br /> <br /> <br /> <br /> 鍵を使う場所が2つあり、エレメントを左右それぞれ2体倒す。<br /> エレメントそれぞれから、右側は鍵1つ入手、左側は鍵を使ってGREEN CRYSTAL入手。<br /> <br /> 次に、BLACK CRYSTALを持って砂漠の街がある座標に行き、左上でMYSTIC-DRUGを入手。<br /> <br /> <br /> <br /> BLACK CRYSTALを捨ててから砂漠の街に行き、岩の下のダンジョンで入手した呪文を唱える。右側の水門から地下迷宮へ。<br /> <br /> <br /> <br /> 地下迷宮・地下1階<br /> <br /> <br /> <br /> 鍵を入手。<br /> オイルが湧いているので補給。<br /> <br /> <br /> <br /> 地下2階にワープ<br /> <br /> <br /> <br /> この顔を下から押して道を開く。そして、そのすぐ横にある宝箱からキー入手。<br /> <br /> 次に、以下でGOLD CRYSTALを入手。<br /> <br /> <br /> <br /> 続いて、DREAM STAFF入手。これで、敵の魔法で能力値が下がらないようになる。<br /> DREAM STAFFのすぐ下からWARPして地下3階の上の方に行き、以下の階段で地下2階に戻る。<br /> <br /> <br /> <br /> そして、以下でPURPLE CRYSTAL入手。<br /> <br /> <br /> <br /> 地下3階の以下から地下4階へ<br /> <br /> <br /> <br /> 以下のマップで一旦上の画面に行ってから戻ると石像が出てくる。その状態で再度上の画面に行くと裏画面に切り替わる。いわゆるデュアルダンジョン。<br /> <br /> <br /> <br /> ドラゴンを倒して先に進み、鍵を入手。かなり硬いが、CLOUDの魔法を使うと楽。<br /> <br /> <br /> <br /> 同じ階で BLUE CRYSTAL を入手。<br /> <br /> <br /> <br /> 地下3階に戻り、以下(或いは他の落とし穴などから)から地下4階へ。<br /> <br /> <br /> <br /> この石像をFIREで打つと壊れる。その場所の宝箱から RED CRYSTAL 入手。<br /> <br /> <br /> <br /> 地下1階に戻り、妖精を見つける。(GOLD CRYSTALを入手した後ならいつでも良い)<br /> <br /> <br /> <br /> 地下4階の以下に妖精と一緒に行くと隠し階段が見つかる。<br /> <br /> <br /> <br /> クリスタルを一通り入れる。<br /> <br /> <br /> <br /> 最後に、チェスのコマみたいなものを左右にそれぞれ押すとエビルクリスタル出現。<br /> <br /> <br /> <br /> MYSTIC DRUGを使用する。使用する際に BLACK CRYSTAL を持っていると効果がないので持っていたらあらかじめ捨てておく。半透明状態になってエビルクリスタルに重なる。しばらくそのまま動かずに耐えているとエンティング。<br /> <br /> Wed, 23 May 2018 00:00:00 +0900 openMSXでドラゴンスレイヤー4 MSX2版 チートコード付 https://w-jp.net/2018/1474/ <br /> 久々にドラゴンスレイヤー4をプレイ。昔、自力ではクリアできなかったのだがチートを使って攻略を見ながらようやく攻略。こんな難しいゲーム、よく他の人はクリアしていましたね・・・。チートなしでクリアできる気がしませんよ。<br /> <br /> <br /> <br /> ■openMSXのチート(メモ) (チートのやり方はこちらを参照)<br /> HP: poke 0xC067 100<br /> MAGIC: poke 0xC068 100<br /> KEY: poke 0xC06A 100<br /> GOLD: poke 0xC069 100<br /> <br /> <br /> <br /> 攻略で参考にしたファミコン版とは微妙に違うが、そのくらいは攻略の面白さということで許容範囲内。だいたい一緒です。<br /> <br /> ■操作方法<br /> SHIFTでジャンプ<br /> Zで砲(?)を発車<br /> リターンキーを押すと道具選択モードになる。もう1回リターンキーを押すと道具次第で選択中状態あるいは1回だけ使えるものであれば即使用する。<br /> ESCキーでステータス表示、もう1回ESCキーを押すと戻る<br /> <br /> ■大まかな手順<br /> ポチで出撃。ドラゴンの肖像画から右下に行き、階段状になっている所の最上段から隠し道を上に行き、ファイアロッドを売っているショップのすぐ横から隠し道を通って上に行き、ボス撃退してクラウン入手。<br /> <br /> ゼムンで出撃。最初ずっと右に行き、一番奥を1つ下に行った画面でグローブ入手。ドラゴンの肖像画から左上に行き、グローブを使って先に進み、ショップでマトックを購入。クリスタルがないと途中から戻れなくなるので注意。マトックを購入したら一旦戻る。<br /> <br /> リルルで出撃。マトックとクリスタルを持つ。ドラゴンの肖像画から左下に進み、下に落ち、画面をずっと右に行き、ハシゴをずっと下った後、左にずっと進んでから一番奥の画面で上に抜ける隠し道を通り、マトックで岩を崩してジャンプシューズ入手。<br /> <br /> リルルで出撃。マトックとジャンプシューズとクリスタルを持つ。ゼノンでマトックを入手した先に進み、ボスを撃退してクラウン入手。<br /> <br /> リルルで出撃。マトックとジャンプシューズとクリスタルを持つ。ドラゴンの肖像画から右上に進み、下に落ちないように右に進み、肖像画があるところから下に落ちてウィング入手。回り込んで上に戻るか、あるいは再出撃し、ウィングを入手するために落ちた場所にある肖像画から上に進む。その後、左にずっと進んでボスを倒し、クラウン入手。<br /> <br /> メイアで出撃。ウィングとクリスタルを持つ。ドラゴンの肖像画から左下に進む。ショップでロッドを購入。途中のInnでロッド装備してから先に進む。そのショップのある画面の左下から隠し道を通って下に行く。<br /> <br /> ロイアスで出撃。クラウンとジャンプシューズとクリスタルを持つ。ドラゴンの肖像画から右下に進み、とある小さな肖像画の下でクラウンを持ったまま上を押してワープ。ワープ先でドラゴンスレイヤー入手。クリスタルで戻る。<br /> <br /> ロイアスで再出撃。ドラゴンスレイヤーを持ち、ドラゴンの肖像画に行ってドラゴンを倒す。エンディング。<br /> <br /> <br /> <br /> ↓ドラゴンスレイヤーの入手先。MSX2版はドラゴンの肖像画から右下に行った先にあるここからワープ<br /> <br /> <br /> <br /> ↓ラスボス<br /> <br /> Mon, 21 May 2018 00:00:00 +0900 openMSXで悪魔城ドラキュラ [MSX版] チートコード付 https://w-jp.net/2018/1464/ <br /> 久々に悪魔城ドラキュラをプレイ。<br /> 以前はつまらないミスで体力減らしてやり直しなんてことも多かった気がするが、チートを使えば純粋にゲームとして楽しめます。<br /> チートするだけで現代ゲームになるということは、それだけ出来が良いということでしょう。<br /> <br /> <br /> <br /> ■openMSXのチート(メモ) (チートのやり方はこちらを参照)<br /> 体力回復 poke 0xC415 32<br /> ハート最大 poke 0xC417 0x99<br /> プレイヤー数を9に設定 poke 0xC410 9<br /> <br /> Sun, 25 Mar 2018 00:00:00 +0900 openMSXでアルギースの翼 MSX2版 チートコード付 https://w-jp.net/2018/1463/ <br /> 懐かしのアルギースの翼をプレイ。<br /> かつて名作を輩出した工画堂スタジオの作品です。<br /> <br /> <br /> <br /> ■openMSXのチート(メモ) (チートのやり方はこちらを参照)<br /> 王子のHP回復 poke 0xDC33 255 (非戦闘中に実行) (虹の指輪を取ると自動HP回復で無効にされてしまうのでボスの場合は戦う直前に実行、或いは虹の指輪をそもそも入手しないようにする)<br /> 姫のMP回復: poke 0xDC3D 255<br /> お金たくさん poke 0xDC2F 255<br /> 鷹の餌MAX(20) poke 0xDC40 20<br /> <br /> ■攻略メモ<br /> 街を出てすぐ右上にあるオーグネットの街に行って鷹をもらう。<br /> 古文書を読む。<br /> <br /> <br /> 「ドメルの泉から東に向かい、地の精霊のいる山に行き、れっちの杖を使う」<br /> <br /> 右下にある大きな木に行く。<br /> <br /> <br /> 「れっちの杖」入手。以下で「れっちの杖」を使って山を超える。<br /> <br /> <br /> <br /> 以下で「聖なる壺」を入手<br /> <br /> <br /> <br /> 以下の枯れた泉で「聖なる壺」を使って蘇らせる。「水晶の玉」入手。<br /> <br /> <br /> <br /> 「水晶の玉」を使ってメイの塔に入る。本龍神を倒して「黒き龍の鍵」入手。<br /> <br /> <br /> <br /> 「黒き龍の鍵」を使ってお城に入る。<br /> <br /> <br /> <br /> 宝物殿で「水の木馬」入手。<br /> <br /> <br /> <br /> 古文書発見。<br /> <br /> <br /> <br /> 以下で「水の木馬」を使って西の地に行く。<br /> <br /> <br /> <br /> 砂漠のオアシスに入り、「黒き龍の鍵」を使い、妹を仲間にする。「白き龍の鍵」入手。<br /> <br /> <br /> <br /> ゼラム高原で風の精霊を呼び出す。「風の鈴」入手。<br /> <br /> <br /> <br /> 「風の鈴」を使って風の塔に入る。<br /> <br /> <br /> <br /> 古文書発見。<br /> 「虹の指輪」入手。(HPのチートが無効化されてしまうので注意)<br /> 「ぐふうしん」を倒して「天空の鐘」入手。<br /> <br /> 白き龍の鍵でアテパル城に入り、天空界に行く。<br /> <br /> <br /> <br /> 神殿で「空の冠」入手。<br /> <br /> <br /> <br /> 「空の冠」を使って天空城に入る。そうえんしんを倒して「龍の玉」入手。<br /> <br /> <br /> <br /> 沼地で「龍の玉」を使って妖獣の城に入る。<br /> <br /> <br /> <br /> ラスボスの「ミノリン」を倒してエンティング。<br /> <br /> Thu, 22 Mar 2018 00:00:00 +0900 openMSXでメタルギア2 ソリッドスネーク MSX2版 チートコード付 https://w-jp.net/2018/1462/ <br /> MSX版メタルギア、PS2版のメタルギア1~3はクリアしたのだがこのメタルギア2ソリッドスネークはプレイしていなかったのでプレイ。<br /> <br /> <br /> <br /> ■openMSXのチート(メモ) (チートのやり方はこちらを参照)<br /> HP回復(32,或は任意) poke 0xCA53 32<br /> ハンドガン銃弾回復(9xx) poke 0xD602 9<br /> サブマシンガン銃弾回復(9xx) poke 0xD606 9<br /> プラスチック爆弾回復(99) poke 0xD619 0x99<br /> 対空ミサイル回復(99) poke 0xD611 0x99<br /> 地雷回復 (15) poke 0xD61D 0x15<br /> グレネード回復(9xx) poke 0xD60A 9<br /> リモコンミサイル回復(9xx) poke 0xD616 9<br /> ※武器は数が0になると消えるものもあるので注意。<br /> <br /> ■操作方法<br /> F1 ポーズ<br /> F2 武器<br /> F3 装備<br /> F4 無線<br /> F5 セーブ・ロード<br /> SPACE + (M or N) スタンディング→ホフク<br /> SPACE or M or N ホフク →スタンディング<br /> SPACE スタンディング中:武器<br /> M or N スタンディング中:パンチ<br /> <br /> ■無線周波数<br /> 140.85 ロイ・キャンベル (FOX HOUND) 作詞司令官 →途中で140.66に変更<br /> 148.38 マスター・ミラー 教官<br /> 140.93 ジョージ・ケスラー 軍事顧問<br /> 140.15 ホーリー・ホワイト ジャーナリスト。敵施設情報<br /> 140.40 ヨゼフ・ノルデン 動物情報<br /> <br /> ■タップコード<br /> 以下の表の縦横の組み合わせ<br /> A B C D E<br /> F G H I J (Kがない)<br /> L M N O P<br /> Q R S T U<br /> V W X Y Z<br /> 1 2 3 4 5<br /> 6 7 8 9 0<br /> <br /> Wed, 21 Mar 2018 00:00:00 +0900 openMSXでディ