スピリチュアル: 瞑想録 https://w-jp.net/topics/スピリチュアル: 瞑想録/ スピリチュアル: 瞑想録 胸の奥底で祈る願いをしない https://w-jp.net/2021/2505/ <br /> 願いをしてしまうと現実として現れてきますので、願いをしないように、と最近は注意をしています。願いは割と他愛のないことで、実現してみたのはいいものの厄介ごとを招き込んだり、そもそも不要なことだったり、ほとんどの場合、大したことではないわけです。<br /> <br /> これは人によって印象が違っているとは思いますけど、もしかしたら多くの場合は願いが叶って何が悪いのだろうか、と思うのかもしれませんけど、悟りの道に対してはこのような願いとその実現は割と邪魔なことがほとんどなわけです。<br /> <br /> 願いの中で、悟りの道へと進む方向への願いであれば助けになるわけですけど、それ以外の願いをしたところで意識の成長としては割と妨げになってしまうわけです。<br /> <br /> 例えば、仕事でこれこれこういうことをしたい、と願ったとします。胸の奥、アナハタの願いであれば割とそれは実現します。ですけど、その実現というのは所詮は(と言ってしまうと何ですけど)この現実社会における一時的な泡みたいなものですので、だからと言って、元々の願いが叶ったということ以上の意味はさほどないわけです。<br /> <br /> その願いが叶ったことによって認識が増えたり視点が増えたり願望が一つ消えるという効果があって、特に知識という点でいうと利益になるにはなりますけど、知ったからと言って実際のところ大したことがない知識のことがほとんどなわけです。<br /> <br /> 胸の奥底で祈って何かを願ってしまうと、それはカルマの実現になります。カルマの実現は時間がかかったりすることもありますけどいつかは実現できて、実現できたら、また新たなカルマを作り出します。<br /> <br /> 新たなカルマを作り出すときは胸の奥底でまた願うわけですけど、その現実の、いわば「引き寄せの法則」というものは、単にカルマを実現させているだけの、お遊びみたいなものなわけです。<br /> <br /> 確かに、実現はしますけど、だからと言って、大した意味があるかというと、ほとんどの場合、大した意味はないわけです。<br /> <br /> ですから、このようなスピリチュアルな道に進んでいる人にしてみれば、心の奥底で浅はかな願いをしない、ということがまず重要になります。そして、願うならば吟味の上、引き寄せたい現実だけ引き寄せること。その時は目的が重要で、目的が正しくても手段としての現実の引き寄せが間違っていることもありますから、安易に決定せず、正しく決めてから願うことが必要なわけです。<br /> <br /> Sat, 23 Oct 2021 00:00:00 +0900 清浄になり切らないと感じるのはオーラが一体になっていないため https://w-jp.net/2021/2504/ <br /> 清浄になり切らないと感じるのはサハスララやアジナとアナハタが一体になって動ききっていない為かなと解釈しています。<br /> <br /> 古い神智学系の書物やニューエージ系あるいはスピリチュアルや一部のヨーガの流派においては、クンダリーニは一旦アジナまで上がってからアナハタに下がって、その後は、アナハタとアジナとが繋がって一体になって動き出す、という説明がなされています。上がると言っても、ここで言っているのは何ヶ月あるいは何年かかけて少しづつ優勢の場所が動くというお話であって一瞬で起こるとか数分で起こるとかいうお話とは別です。<br /> <br /> これはスピリチュアル系では「融合されたチャクラ」とも呼ばれているものです。<br /> <br /> ハート・チャクラが優勢になるとほかのチャクラもすべて開きだし、チャクラ・システムが融け合って、私たちが「融合されたチャクラ」と呼んでいるものになります。するとエネルギーフィールドが一体化し、素晴らしい感覚がともないます。「ライトボディの目覚め」<br /> <br /> 今まで、とりあえずサハスララにまでオーラが満ちることができれば静寂の境地に達することができていて、それで良しとしていました。しかしながら、それが割と当たり前になってから、どこか、まだ清浄になり切らない部分があるように思えてきたわけです。<br /> <br /> それを探ってみたところ、どうやら、その原因としては、サハスララやアジナ及びアナハタが一体となって動いていないが故にまだどこか清浄になり切っていない、と感じているように思えてきたわけです。<br /> <br /> それがわかったきっかけとしては、少しづつではありますけどアジナやサハスララのある頭部とアナハタの間が長い筒のような形でオーラが繋がり出した感覚があって、そうなると、少しづつではありますけど、静寂になり切っていないという感覚が薄くなってきたのを感知したわけです。であれば、このアジナやサハスララの頭部とアナハタとの分離が静寂になり切っていないという感覚として現れていたのではないか、と思えるわけです。<br /> <br /> であれば話は簡単で、あまり気にせず、このまま瞑想を続ければいいわけです。<br /> <br /> これは、サハスララにまでオーラが満ちることでまず静寂の境地になって雑念がまず減り、続いて、オーラがサハスララと一体になるだけでなくアジナを通ってヴィシュッダ、そしてアナハタの方までが一体となって以前より動き始めるわけです。まだ筒のように縦に長い感じではありますけど、以前よりチャクラの一体感を感じますので、確かに、古来から言われていたことが真実であることがわかります。<br /> <br /> Fri, 22 Oct 2021 00:00:00 +0900 瞑想中に急にドスンと少し高いところから降りた https://w-jp.net/2021/2503/ <br /> あぐらをかいて瞑想中、明け方でしたけど、ふと急に少し高いところから落ちたような感覚になってすぐ近くにある家具が少し揺れた感じがしました。<br /> <br /> ずっとあぐらをかいていましたので肉体的には自分が浮き上がっていたとは思いませんけど、肉体はずっと変わらず座ってあぐらをかいていたのにも関わらず、少し高いところ、とは言いましてもせいぜい10cmか20cmくらいかとは思いますが、そのくらいのところから一瞬でドスンと地面に降りたような感覚になったのです。<br /> <br /> 意識としてはそれほど変わらなくて、単に体全体にドスンという感覚があったというだけなのですけど、これは、ヨーガ系の書物に書いてある、アストラル体が少し浮いていた状態なのかもしれません。<br /> <br /> その時、瞑想の感覚としてはちょっと霧がかかった状態と言いますか、一応は静寂の境地に近いものになって雑念も思考も止まってはいるのですけど、どこか雲がかかっていて晴れやかになっていないような感覚でした。<br /> <br /> そして、このように急にドスンと降りた感覚があったわけですけれども、感覚があったからと言って意識としてはほとんどそのままで、意識とこのドスンという感覚とは関係がないようにも思います。<br /> <br /> おそらくは、アストラル体が少し浮いた状態になっていて、急に体と噛み合った瞬間に体の方がショックを感じて少し筋肉が一瞬反応したのかも? とも思っていますが、どうでしょうかね。<br /> <br /> 書物によっては、瞑想中にアストラル体だけが宙に浮く、みたいなことが書いてあったりしますし、ものによっては実際に肉体も浮くなんてこともあるようですけど、私はたぶん、アストラル体だけでした。<br /> <br /> これがあったからと言ってどうということはなくて普段のままです。特にこのことと瞑想の進歩とは基本的に無関係かなと思っております。<br /> <br /> Tue, 19 Oct 2021 00:00:00 +0900 清浄になり切らない静寂の境地 https://w-jp.net/2021/2502/ <br /> 静寂の境地とは文字通り頭の中の雑念が消えて周囲の物事、視界や音に関してありのままに認識することですが、そのような状態になっても、まだどこか清浄になり切らない部分が残っているようです。<br /> <br /> 少し前までは、静寂の境地に達したらその状態が割と新しい目新しい状態でしたのでその状態に割と満足していて、かつ、一時的なものでした。<br /> <br /> 基本的にはその状態はサハスララにまでオーラが満ちた状態に対応していて、それは順番に起こるというよりはサハスララにオーラが満ちると同時に雑念も消え去る、というものでした。<br /> <br /> ですので、サハスララのオーラが抜けてゆくのと同時に雑念も戻ってきてしまう感じで、程度問題になってきてしまいますが以前は今よりも抜けるのが早くて、今は抜けにくくなったように思います。サハスララのオーラが抜けにくくなったということは、雑念が消えた状態も長続きするようになったということです。<br /> <br /> その違いは何かというと、今はイダとピンガラが活性化してきていて、それにより、普段の生活においてもサハスララにオーラが満ちた状態を維持しやすくなっているように思います。<br /> <br /> さて、そのような静寂の境地ですけど、一時的にその状態になっていた頃には気付かなかったことですけど、どうやら、サハスララにオーラが満ちて静寂の境地になって雑念が消えたとしても、どこか清浄になり切らない部分が薄くヴェールのように被さっているようなのです。<br /> <br /> この状態にあってもブッディ(理知的な思考)を動かすことはできて、静寂と言っても雑念が消えただけで思考は問題なくできるわけですけど、それとは関係ないところで、何か、根本的なところで何かの薄いヴェールが被さっていることを感じ取ることができるわけです。<br /> <br /> それは、言い表すとすると「空虚」とも言える状態であり、静寂ではあるものの、何か、ヴェールに覆われている状態であるわけです。<br /> <br /> まだ、梅雨があけたばかりのやうなものですわりがついていないから、とにかくこの明朗さに貪著(とんじゃく)したがる習気(じっけ)が浮いて來て、ようやく開顯したばかりの定相を曇らすおそれがあるのである。「信心と坐禪(油井真砂 著)」<br /> <br /> これが、寂静の境地である非想非々想定(非想非非想処)の後に来る滅盡定(滅尽定、めつじんじょう)の状態のようです。<br /> <br /> これはテーラワーダ系仏教では「心の動きを完全に止めてしまう定」として理解されているように思いますが、この著者は禅系で同様に解釈しており、私の感覚からするとこの禅系の説明の方がしっくり来ます。<br /> <br /> この状態になると止まってしまうのは雑念の方で、それはヨーガでいう「チッタ」の動きが止まるのであって、一方で理知的な働きであるブッディは動くわけですけれども、そうは言いましてもブッディの方を動かすかどうかは任意であるわけです。<br /> <br /> ブッディを任意で止めてしまうと静寂の境地になるわけですけれども、基本としてのベースにある静寂の境地それ自体はブッディを動かそうが動かすまいが存在しているわけです。<br /> <br /> ですから、滅尽定が心の動きを止めてしまう定だとするとのは表現的にも説明的にも不十分で、チッタの動きが止まって静寂の境地になるというのは非想非々想定と同様で、その非想非々想定の性質に加えて、上記の説明にあるような曇りがあるのが滅尽定であると思うわけです。<br /> <br /> この油井真砂さんと同様の記述は他でほとんど見かけませんけど、まさにズバリの記述で、道案内としてとても参考になります。<br /> <br /> テーラワーダ仏教や禅ではこの滅尽定を危うい状態と説明していて、この曇った状態に安堵してしまうと先に進まなくなってしまう、みたいな警告をしていますけど、私の見たところ、こんな曇った状態に留まろうと思う人がどれだけいるのか疑問に思います。こんな状態は、実際になってみれば、何かまだ先があるとすぐ気付いて歩むだけだと思いますが、どうなのでしょうか。<br /> <br /> 文字だけを解釈して学者が解釈したらそういうことになるのかもしれませんけど、実際の感覚からすると、これはただ単に、この段階ではそうなりがちだ、というだけのお話で、それ以上の意味はないような気が致します。<br /> <br /> この、どこか清浄になり切らない薄いヴェールを超えてゆくのが今の私の課題のようです。<br /> <br /> 少なくとも、以前はこの薄いヴェールが存在することにほとんど気が付いておりませんでしたので、存在することに気付いただけでも少し前進であると言えると思います。<br /> <br /> Sun, 17 Oct 2021 00:00:00 +0900 瞑想に理屈はあまりいらない https://w-jp.net/2021/2501/ <br /> 語弊があるかもしれませんが、瞑想は割と力技的なところがあります。<br /> <br /> 精神分析とかスピリチュアルでは色々と理屈を考えて頭の中で解決しようとしますけど、瞑想はもっとストレートに力技で全てを解決しようとします。スピリチュアルでいうところの「直感型」に近いですので、女の人はごちゃごちゃと考えるよりもストレートにすんなりと腑に落ちるお話かもしれません。<br /> <br /> こういうのは、きっと男であっても女であっても対して変わらなくてその人の性質によるところが大きくて、理屈っぽい人は割と頭の中でごちゃごちゃと考えてしまって(一応の)ゴールに辿り着かないような気が致します。<br /> <br /> 一応のゴールが静寂の境地としていいとは思いますけど、そこですら、頭の中でごちゃごちゃと考えてしまうとゴールに達しないわけです。<br /> <br /> それよりも、スピリチュアルであれば女の人がきっと得意なように直接的にすんなりと入ればそれで終了なわけで、瞑想的に言えば力技で直接的にゴールに達すればそれで終わりなわけです。<br /> <br /> それを、理屈でゴニョゴニョ言って傷かないようにだとか理解するようにだとか、ごちゃごちゃ言ったところで、ゴールにはなかなか辿り着かないわけです。そうは言っても、階段を一歩一歩進んでいるようなものですので少しづつ近づいているにいるとは思いますが、もっと直接的な方法があるわけです。<br /> <br /> 瞑想の力技にしてもスピリチュアルで直感に導かれる方法にしても、どちらも言葉を超えている、というところに共通点があります。<br /> <br /> 言葉の段階、理屈の段階で色々と考えて理解して手放そうとしたり色々試みたりしても、それは所詮は理屈の段階でしかないわけです。<br /> <br /> こうして、何か物事を書いているときは、そのような理屈の段階に降りてきて書いているわけで、実際に静寂の境地に達してその状態で生きる場合は、このような理屈とは離れていて、理屈の言葉は頭の中に出てこないわけです。理屈の言葉が出てきたらそれは静寂の境地ではないわけで、静寂の境地だとしたらそこに言葉はなくて、直接的な直視とでも言える状態だけが存在しているわけです。あるがまま、ということもできます。<br /> <br /> そのような境地に直接的に踏み込めばそれでゴールなのであって、そのゴールに一瞬でも踏み入ることができればいいですけど、踏み入ることができなかったり、あるいは、長く居留まることができなければそれはそれでまだ修行が足りないわけです。<br /> <br /> 理屈も一応は役に立って、ゴールへの道標にはなりますけど、ある程度進んだらゴールが見えて、あとは割と力技でいい気が致します。瞑想的に言えば力技で、スピリチュアル的に言えば直接的に踏み込むとか色々な言い方がありますけど、表現が違うだけでどれも似たようなお話のように思います。<br /> <br /> Sat, 16 Oct 2021 00:00:00 +0900 瞑想中に不快感が出てきたらどうするか https://w-jp.net/2021/2500/ <br /> 流派によって対処法が異なりますが、多くは「すぐ瞑想をやめて休憩する」と教えているところが多いように思います。<br /> <br /> それはそうで、間違った瞑想をしていたらいけないのですぐに休憩すべきということもありますし、団体とかですと何か変なことになったらいけないので休憩しなさい、瞑想を(一時的に)やめなさい(休憩しなさい)、と教えていることもあります。<br /> <br /> ですけど、実際のところ、瞑想をやめても不快感などがずっと続く場合もあり、それよりは、不快感があろうとそのまま瞑想を続けてしまった方が素早く不快感が解消することの方が多いように思います。<br /> <br /> 時間的制約などで不快感が十分に解消されないこともありますけど、割と大体の場合は時間で解消できて、瞑想をそのまま続けると、時間が1時間とかもっとかかる場合もありますけど、割と瞑想そのもので解消されます。<br /> <br /> 最初は調子が良くても途中で急に不快感が出てきたりすることもありますが、原因にもよりますけど例えば体のエネルギーのルート(ヨーガでいうナディ)がうまく通らない場合に不快感が出てきしまった場合は特に瞑想でないと問題はなかなか解消しにくくて、であれば、不快であろうとそのまま瞑想を続けて体のナディを調整してしまった方がいいわけです。<br /> <br /> 一方、トラウマあるいは雑念に囚われてしまうような場合は瞑想を一旦休止して休憩した方が良くて、それは時と場合によりますね。この場合は不快感ということもできますけど不快感というよりはトラウマあるいは雑念そのものですので、この場合はすぐに休憩してしまって良いわけです。そして、休憩したらまた再開すればいいわけです。<br /> <br /> 一方、エネルギー的な不快感の場合は休憩してもなかなか回復しませんので瞑想で身体中のナディを活性化させてエネルギーを高めることが必要になってきて、そうであれば、不快であってもそのまま瞑想を続けてしまった方が回復が早いわけです。このようなエネルギー的な不快感は横になって休んでも寝てもなかなか回復しないこともありますが、瞑想であれば割と15分とかで回復する時もあります。普段の調子がいい人の場合で不快感が現れた場合、大抵の場合はどこか一箇所が詰まっているとかその程度ですので、すぐに治ります。一方、ずっと不快感が続いて体の調子が良くなったことがないような人であればなかなか時間がかかりますけど、そうであっても、休憩するよりは少しづつ瞑想をした方が体の調子は早く良くなるわけです。<br /> <br /> ですので、基本は、瞑想で不快感を感じたらすぐに瞑想をやめて休憩する、というところではあるのですけど、実際はそうではなく、かといって団体とかで教えていると受講生に「そのまま続けなさい」ということも難しいですので「休憩しなさい」とか言いますけど、そこから先は受講生の自己判断になってしまうわけです。<br /> <br /> 弟子と師匠(グル)とかの関係ですともっと深い理解と繋がりがありますから弟子に「(不快感があっても)瞑想を続けなさい」と指示したりもしますけど、まあ、それであっても昨今の事情を見ると弟子に命令できるグルというのはなかなか少なくなっているのかもしれませんね。<br /> <br /> であれば、自分で判断してやっていくしかないわけですけど、瞑想教室で「不快感が現れたらすぐに瞑想をやめる(休憩する)」と教えられていたとしても、それはケースバイケースだということは頭の片隅に置いておいても良いとは思います。<br /> <br /> Sat, 16 Oct 2021 00:00:00 +0900 奇しくもマスクだらけの社会が実現した https://w-jp.net/2021/2499/ <br /> 私は都内を散策するとき、特に電車や人混みの中に行くときはコロナの前からマスクをしていました。<br /> <br /> その理由としては、都内に行くとそれなりの確率で肺炎のような咳をする菌を拾ってしまって熱や咳が出て病院と抗生物質のお世話になっていたからであって、大体1年に1回は寝込んで肺炎の初期症状と診断されて抗生物質で治す、という生活を送っていました。<br /> <br /> 肺炎にならなくてもちょっとの頭痛がすることなんて普通で、それを軽減するためにマスクをして出かけたものでした。<br /> <br /> マスクをしていても完全には防げませんけど少しは緩和できて、肺炎になる頻度は下がっていたように思います。<br /> <br /> その時、いつも思ったものでした。「人混みの中では、全員マスクしてくれればいいのに」<br /> <br /> そう思ったとしても当然のことながらその思いが通じるわけもなく日々を過ごしておりましたが、この度、奇しくもコロナ禍でその願いが通じたのでした。<br /> <br /> まさかこのような形で願いが通じるとは思いませんでした。<br /> <br /> 更には、コロナ前は日本を旅行している外国人が増えてどこに行っても騒がしかったですしホテル代も高騰していて迷惑していましたので「外国人多すぎ」と思っていたら、奇しくもこちらの願いも叶ってしまったのでした。<br /> <br /> いやはや、まさかこのような形で両方とも願いが叶うとは。<br /> <br /> 願うと意外に叶うことが多くて、特に何気なく願って実現してしまうので、願い方にも注意しなくてはいけないな・・・ とも思っています。自分がこの事態を引き起こしたとまでは思いませんけど、スピリチュアル的には自分がそういうタイムラインに歩んでいった、という可能性はあるかな、と思っています。<br /> <br /> Fri, 15 Oct 2021 00:00:00 +0900 各チャクラをオームで活性化させる https://w-jp.net/2021/2498/ <br /> スピリチュアルではチャクラごとに共有振動数があると言います。振動数それ自体は確かに共振する振動数ではあると思うのですが、それよりも深いところでオームに共振させる瞑想というものがあります。<br /> <br /> 音楽とかでチャクラを活性化させる振動数はおそらくは気の次元での共振のような気もしていて、私が言っているオームの共振はもっとメンタル的なものです。<br /> <br /> ですので実際に音に出す必要はなく、心の中のオームで共振させます。<br /> <br /> 実際の音の場合は一応は共振はしているのですけど、(ものにもよるのかもしれませんけど)どこか「発散」してしまうような気がしますけど、自分の心の中で唱えるオームの場合は細かく振動して共振して、(やりようによっては発散しないこともないですけど)中心に深く入ってゆくような効果があります。<br /> <br /> 瞑想の基本は眉間への集中ですけど、ヨーガではその時にオームを唱える、ということをよく行います。自分のマントラを持っている人がいればオームの代わりにそのマントラを唱えたりしますけど、今回の場合は単なるオームのお話です。<br /> <br /> そのオームを眉間だけでなく、他のチャクラに対しても意識を合わせながら唱えてみます。<br /> <br /> すると、チャクラごとに共振する周波数が違っていて、下のムーラダーラに近づくほど低い振動数、上のサハスララに近づくほど高い振動数であることが感じ取れます。<br /> <br /> 振動はとても微細なところですので自分でやってみて感覚を掴むしかないのですけど、効果としては、共振すればするほど早く静寂の境地に達するように思います。<br /> <br /> 瞑想の時間は特に決まっていないのですけど、単に眉間に集中するのは基本ではありますけどこうしてチャクラごとにオームを唱えてあげると効果が上がるように思います。<br /> <br /> 同様のテクニックは各流派でも教えられていて、例えばクリヤヨーガのテクニックの1つとして、この場合は呼吸と合わせたりしますけど、各チャクラを活性化させる手順があったりします。<br /> <br /> 流派によってはチャクラの活性化は自宅で行わずに静かな場所、アシュラムのような場所で行うべきと教えているところもあって、それはそれで人によっては適切なお話かと思います。ですから、これは誰しもが行うべきとは思わなくて、試したければ試しても良いですけど、この種のお話は適切に行わないとうまくいかなかったり逆効果になったりしますから、できれば適切な師匠を近くに見つけて教えてもらう方がいいかとは思います。<br /> <br /> Fri, 15 Oct 2021 00:00:00 +0900 瞑想で臨界に達すると黒かった球が輝き出す https://w-jp.net/2021/2497/ <br /> まずは基本である眉間に集中する瞑想をして静寂の境地を目指します。それと同時にイダとピンガラを活性化させます。<br /> <br /> この時、最初に静寂の境地が来るときもありますし、イダとピンガラの活性化が先に来る場合もあります。ただ、まだイダとピンガラがそれほど活性化していない時は静寂の境地だけが来るように思います。<br /> <br /> ですので、基本としては静寂の境地が来てからイダとピンガラ、かとは思うのですけど、イダとピンガラが活性化している場合は静寂の境地の前であってもイダとピンガラが活性化するわけです。<br /> <br /> そうして、イダとピンガラの活性化があろうとなかろうと、瞑想をしていると静寂の境地になるわけですが、静寂の境地になると視界が目を瞑っていても輝き出すのです。<br /> <br /> それは、不意に輝き出す、という感じではあるのですけど、その瞬間を描写すると、黒い玉が輝き出す、という感じです。<br /> <br /> イダとピンガラが活性化していない時は不意にいきなりぼんやりと輝き出す、という感じだったのですけど、イダとピンガラが活性化してからは明確に輝き出すようになったように思います。<br /> <br /> 特に、イダとピンガラが活性化した後は黒い球幾何学模様が白く浮かび上がった後にその幾何学模様から漏れる光が激しくなって球の全体が輝き出す、という感じです。全体が輝き出した後はもはや球は見えなくなって、もっと広範囲で視界のほとんどが輝きで包まれます。<br /> <br /> そうして、視界が輝きで包まれると静寂の境地になり、それと同時に顕在意識もはっきりしてきて物事がより正確に直接的に把握できるようになるわけです。<br /> <br /> 私の場合イダとピンガラ自体の活性化はかなり前から現れてきていて、光の筋が下半身から頭まで左右それぞれ、イダとピンガラのルートを貫いた時にイダとピンガラが活性化したように思いますけど、最初は貫いてルートができただけで、その後はことあるごとにエネルギーが通る時もありましたけど、特に頭の方にまでエネルギーが安定して常時通るようになるまで時間がかかったのだと理解しております。<br /> <br /> Fri, 15 Oct 2021 00:00:00 +0900 静寂の境地、イダとピンガラ、スシュムナ、の順番 https://w-jp.net/2021/2496/ <br /> 眉間に集中する瞑想をして、まずは静寂の境地になるのを待ちます。<br /> <br /> 静寂の境地を願ったり強く意図するのではなく、静寂の境地を想像するのでもなく、静寂の境地を多少は期待したり多少は予測したり多少は意図してもいいですけど、基本はそういう願いのようなことはする必要がなくて、単に眉間への集中をします。<br /> <br /> そうすると、しばらくすると静寂の境地が訪れますが、瞑想を始めて日が浅い場合は静寂の境地にはなかなかなりません。それはそういうものですので、静寂の境地に達したとして話を進めます。<br /> <br /> ちなみに、瞑想や黙想で「祈り」という方法がありますけど、静寂の境地に達する前の祈りは単なる顕在意識の思考でしかなくて、なかなか「祈り」という段階には達していないものです。まずは集中して静寂の境地になるのが基本で、その後であれば「祈り」というものも効いてきますけど、まずは静寂の境地になることが必要に思います。<br /> <br /> 静寂の境地に達したらそこで瞑想を終えてもいいですけど、更に瞑想を進めるとエネルギー的な変化が現れます。<br /> <br /> 最初は、イダとピンガラのどちらかが活性化します。イダとピンガラというのはヨーガで言われている体の中のエネルギールートの名前で、イダが体の左、ピンガラが右の方に下半身から上半身にかけて流れていて、イダが冷やす性質で月に象徴され、ピンガラが温める性質で太陽に象徴されています。<br /> <br /> その、イダとピンガラのどちらかが活性化してきて、具体的に、体の左側あるいは右側に圧力や熱感などを感じることがあります。例えば、ほほのあたりに少しの圧力と膨らみを感じるとイダとピンガラが活性化されていることがよくわかります。<br /> <br /> 日によって、例えば最初に右のほほに膨らみを感じて、それは上下へと繋がっているエネルギーのルートの一部としてほほの上下およびその延長線上にもはっきりとした「線」のようなものを感じるわけですけど、右でそれを感じた後に、更に瞑想を続けていると左にも同様に感じてきたりします。<br /> <br /> ヨーガで言われているように左右のバランスを取ることが基本になりますので、右だけ、あるいは左だけ、というのは好ましくなくて、バランスを取るまで瞑想を続けた方がいいように思います。<br /> <br /> そうして左右のバランスが整うと、それはイダとピンガラの両方が活性化されたということですけど、その状態になると中央の背骨に沿って存在するスシュムナにエネルギーが通り始めます。<br /> <br /> ヨーガではスシュムナを特に重要視しますけど、例えばクリヤヨーガで教えられている理論によればスシュムナはそれ単体で存在しているのではなく、イダとピンガラをバランスよく活性化させることでスシュムナが動くようになる、と伝えられていて、それは真実だと思います。<br /> <br /> イダとピンガラのバランスを整えたまま瞑想を続けるとスシュムナにほのかなエネルギーの流れを感じ始めます。<br /> <br /> 私は今の所そのくらいですけど、今後、この変化を更に追っていきたいと思います。<br /> <br /> Wed, 13 Oct 2021 00:00:00 +0900 タイムラインが切り替わると元いたタイムラインは夢になる https://w-jp.net/2021/2495/ <br /> スピリチュアルでは、この現実は夢のようなものだ、とよく言われます。<br /> <br /> それは、夢とこの現実の質が実は同一のものだということを悟る段階があるわけですけど、実際のところ、それを実感することは稀なわけです。<br /> <br /> 実感する一つの事例として、タイムラインの切り替えがあります。<br /> <br /> タイムラインというのは、意識が存在している(意識がフォーカスしている)ところがタイムラインになって、夢というのは現在いる(現在フォーカスしている)ところから遠く離れたところに一時的に行っている状態に割と近くなっています。ただし夢の場合は物理的な実態がないことがほとんどですのでそこは違っています。夢でも別のタイムラインを覗く場合は物理的な実態があったりします。<br /> <br /> タイムラインが切り替わると、元いたタイムラインは影のようになります。そして、移動した先のタイムラインからすると元いたタイムラインは夢のように認知されます。<br /> <br /> タイムラインは波紋のようにとある一点から広がって作られてゆきますので、意識が時代の一点から広がった時は、まだ両方のタイムラインが存在しています。しかし、とあるタイムラインが優勢になった時は、もといたタイムラインは夢のように次第に薄い意識になって、人々の意識がもといたタイムラインから完全に離れた時にはかなり透明に近いものになって、完全に消えるということはなくても、ある種、凍結された状態になって時代及び時間経過もほぼ止まったものになります。意識が十分に届いていないので未来が認知されることはなく、時間がほとんど進まなくなるわけです。<br /> <br /> そして忘れ去られてしまうとそのタイムラインはもう進行しなくなりますけどこれだけ人が大勢いますと記憶というのはそれなりに残りますので、タイムラインが次々に書き換えられる状況に加えて過去のタイムラインの記憶も残ることになります。<br /> <br /> 完全に忘れ去られる場合もありますし、一方で、心の片隅に宿題としてそのタイムラインが残る場合もあります。その場合は時代が凍結されたかのように残っているように自分には認知されて、タイムラインを切り替えたとしても宿題として残り、別のタイムラインで勉強した後に、再度、例えば数生を繰り返したりあるは同じ人生の別パターン(別の性ということもあり得る)を繰り返した後に宿題になっていた時と場所に戻ってやり直す、なんて場合もあります。<br /> <br /> 人の魂の成熟レベルにもよりますけど、学びのために転生を繰り返している人ならば現在のタイムラインを一時停止にして別の人生で学んでから人生の途中からやり直す、なんてこともあるわけです。<br /> <br /> 一方、完全にタイムラインを移動してしまって元のタイムラインは破棄する、ということも、もちろん多々あります。<br /> <br /> 詰まってしまってゲームオーバーに見えたとしても人生が継続している限りは何がしか解決策というものはあるもので、それを見出すために一時的に別のタイムラインで学ぶ、なんてこともあったりします。<br /> <br /> はたまた、誰かに騙されたり変な結果になった時に少し時間を戻してやり直す、なんてこともあるわけです。<br /> <br /> 未来が見れない時はまだその未来が存在していなくて、物理的な面を伴って時間を経過させてみると未来が創造されていって、そうすると、その創造された記録をアストラルな状態で全ての時間軸に行き渡っている意識から把握できるようになりますので、時間軸でいうと少し前の時点の自分の意識が未来を見るかのようにして過去のその時点で未来を踏まえて判断する、なんてこともあります。<br /> <br /> どうなるのかわからない時は実際に時間を進めてみると結果がわかるわけです。スピリットの方からすると意識で時間を進めてみると現実の時間が一つのタイムラインとして作られるわけです。その結果を見て、うまく行くようならばそのタイムラインを選択するわけです。選択した後は、映画やドラマを選ぶかのように、実際にそこに至る経過を詳しく意識で認識するわけです。未来を見てこれは良くないと思った場合は映画やドラマのタイトルやあらすじを見るだけで実際には視聴しない、という状況によく似ているわけです。<br /> <br /> そのような時も含め、実際に自分がフォーカスしていないタイムラインというのは全て夢と同じように認知されて、実際、自分がいまいないタイムラインは夢のようなもので、誰も認知しなければそのうち消えてゆくわけです。<br /> <br /> Tue, 12 Oct 2021 00:00:00 +0900 寂静の境地である非想非々想定(非想非非想処)の完成 https://w-jp.net/2021/2494/ <br /> 最近の静寂の境地は以前からそれなりに体験していたように思いますが、それは非想非々想定(非想非非想処)に相当するように思われます。<br /> <br /> ここまで來れば、「闇の夜に鳴かぬ烏の声きけば生れぬ先の父ぞ恋しき」といふ道歌の妙味が如々の事実として味得できるのである。(中略)ここは、寂境である。「信心と坐禪(油井真砂 著)」<br /> <br /> 少し前からこの状態に入っていて、ですけど、どこか安定していなかったり、思考(ブッディ)が介入してきたりして静寂の境地そのまま、ということはそれほど長くは続かなかったように思います。<br /> <br /> 最近は安定してきて、完成というのかどうかは分かりませんけど、大体はこの段階のことがわかってきたように思います。<br /> <br /> ここにおいても基本となるのは感情のアストラル次元の安定で、まずそれが基礎となった上でカーラナ(コーザル)次元において心の理知的な認識力であるブッディも安定することで静寂の境地になるわけです。<br /> <br /> 最初は、感情と雑念の安定から始まって、感情のアストラル次元が安定した上で時折カーラナが安定する、という感じでした。その後、次第にカーラナの方も安定してきて、それは少し進んだり戻ったりを繰り返して3歩進んでは2歩下がる、という感じの時も多々ありますけど、そのようにして次第に安定が深まったように思います。<br /> <br /> この境地はブッダが修行した時に「これは悟りではない」と判断してその師匠のところを去ったという割と有名な境地で、それ故に、仏教の流派によってはこの境地の習得は必須ではなく任意としているところもあるようですけど、個人的に思うのは、確かに理屈としてはそういうのも成り立つ気も致しますけど、基本的にはここを通らずしてどこを通るつもりなのでしょう? と思ってしまいますが、どうなのでしょうか。まだ悟っていない私が言うのもなんですけど、ブッダのエピソードはあくまでも後世の判断でしかなくて、一部の流派はこの境地を軽く身過ぎているように私なんかには思えますけど、どうなのでしょうか。<br /> <br /> 「色」というのが五感などの現実に即した世界、いわゆるアストラル世界に相当して感情など五感にまつわる諸感情や感覚の世界で、まずそれを超えたことに加えて「無色」と言うのはざっくり言えば心の世界ということですけど整理されていない雑念に加えて整理された考えであるところのブッディ(理知的な思考)をも含んでいて、その両方を超えるのが非想非々想なわけです。<br /> <br /> 仏教の流派によっては心の世界(主にブッディ)をどうにかしなくても悟れる、と言っていたりしますけど、確かに、悟った後であれば理屈で言えば心にしても何にしても全て超越していますので悟った後の世界から見ればそのように解釈することも可能かとは思いますけど、悟っていない人が悟りに至るために非想非々想を通らずして悟れるかというと、そこはちょっとよくわからないですね。<br /> <br /> 悟りの方から見て心が動いていても静止していても大差ない、というのはその通りですけど、修行の階梯としては心の静止を経て次の段階・次元へと進む、というのが王道のように思えます。悟りの境地の説明と修行方法とをごっちゃにしてしまうとよくわからないことになってしまうように思います。<br /> <br /> 悟りの境地からすれば、繰り返しになりますが、心が静止していようが、心が動いていようが、感情があろうが、感情を抑えていようが、全て変わりがないわけです。それがありのままの境地ということでもあって、自分がどのような感情や心の動きをしたとしてもそれを超越した意識があるのが悟りの状態なわけです。<br /> <br /> ですけど、悟りに至るためには段階的に「静止」を経る必要があって、まず最初はアストラル次元の感情を抑えて静止さる、というところから始まり、次はブッディ(理知的な思考)を抑えて静止させる、というところを経るわけです。<br /> <br /> それは修行方法であって、一部の流派が批判しているように「心を静止して一体どうするというのか」みたいなお話は、主に、悟りの状態に対しての批判あるいは修行方法に対する批判であって、悟りの状態に関してはなんら異論がなくてその通りで、心を静止しようがしまいが悟りの境地には何の影響もないというのはそれはそうなのですけど、修行方法に関してはそれぞれの流派のやり方があるのだから口を出さずに放っておけばいいと思います。<br /> <br /> それはさておき、この非想非々想に浸っていると何やら曇りが時々入ってきて眠らせたりする、というお話があって、それが滅尽定(めつじんじょう)という状態のようですけど、個人的に思うのは、確かにそのようなぼやけた状態はあるにはあるものの、明らかに何か気持ちの悪い感じがするので、書物が危険性を指摘するかのようにその状態にずっと落ち込む、というのはないのではないか・・・ という気も致します。<br /> <br /> そして、その後に、曇りが完全に晴れると金剛定という状態になるということですけど、私はそれに至った自覚はまだないのでまだでしょうかね。どうでしょうか。<br /> <br /> Sun, 10 Oct 2021 00:00:00 +0900 ありのままと思うのではなくて認知する https://w-jp.net/2021/2493/ <br /> 瞑想やスピリチュアルで「ありのまま」とか言われていますけどそれには2種類あって、1つは論理的に頭(ヨーガでいうブッディ)で理屈を持って理解することと、もう1つは理屈抜きに直視することです。<br /> <br /> これは似ているようでいて実は別で、ブッディだけ、直視だけ、とあるわけです。<br /> <br /> それ以前のところとして感情的な感受の段階もありますが、そこから成長してブッディの理屈に至ることで「ありのまま」を体感することと、理屈抜きに直接的に直視して「ありのまま」を感じる・体感することとは違うということです。<br /> <br /> 感情的なところから始まった場合はブッディに至るまでに時間がかかりますので、最初は「ありのまま」には程遠く、他人の助けが必要かもしれません。一方、直接的に直視するところから始めた場合は答えは自分の中にありますから、まず最初に「ありのまま」を認識した上で、必要があれば問題解決などを頭(ブッディ)で行ったりするわけです。この場合、理屈抜きに直接的に直視した後に必要に応じてブッディの理屈を使うことになるわけですけど、直視というのはコーザルの次元に存在していて、ブッディも同じくコーザルの次元ですけど役割が少し違っていて、直視に関してはコーザルの次元でまず直視をするわけです。<br /> <br /> ・感情のアストラル次元における感受<br /> ・論理(ブッディ)のカーラナ(コーザル、原因)次元における直視(ありのまま)<br /> ・プルシャ、あるいはアートマンにおける直視(ありのまま)<br /> <br /> 感情から始まってブッディに至る場合と、カーラナ次元の直視によってブッディを使う場合とがあるわけです。直視はブッディ以上で発生しますから、ブッディのあるカーラナ次元の直視とプルシャでの直視は違うわけですけど、一応はその2つが「ありのまま」と言って良いと思います。<br /> <br /> ブッディの場合は直視を元にはしているもの頭の理屈で考えるわけですけれども、顕在意識がさほど意識していないだけで直視が一応働いてはいて、ですけど、表面的にはブッディが主に働いている場合があるわけです。<br /> <br /> そして、プルシャでの直視だけの場合は基本的にブッディは働かなくて、直接的に物事の本質を認識します。<br /> <br /> まず感情の段階(アストラル次元)があって、論理・理屈(ブッディ)の段階(コーザル、カーラナ次元、原因)があって、次にプルシャとかアートマンとか言われている段階があるわけですけれども、感情の渦に巻き込まれているところから抜ける時、論理であるカーラナを通り、そして、次にプルシャとかアートマンというところに到達するわけです。まずアストラル次元の感情を抜けてブッディの論理の世界(カーラナの次元)に入るときに理屈で根本原因を見出すわけですけどそのカーラナの段階はまだ理屈としての直視ですので、その段階ではまだ想念の渦に巻き込まれている段階になります。<br /> <br /> 一方、プルシャあるいはアートマンの段階になりますと想念の渦がかき消されて、意識が「寂静の世界」になり、物事がありのままに目の前に現れる様を直接的に認知します。この時、イメージで言えば「祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり」と表現するが如く、世界のありのままをありありと認知できるようになります。<br /> <br /> ブッディの段階ではありのままを「考える」とか「理解する」という段階であるのに対し、プルシャやアートマンの段階ですと「直視する」あるいは「認知する」という段階になるわけです。<br /> <br /> Sun, 10 Oct 2021 00:00:00 +0900 プラトンとカントの哲学の違い https://w-jp.net/2021/2491/ <br /> 本山博先生は元々哲学科で勉強されたようで哲学にお詳しく、たまたま見た書籍にカントとその前後の哲学者の違いが書かれてありました。<br /> <br /> ソクラテスやプラトンは高次の認識力が明らかにあり、物事をありのままに見ることである「イデアの直観」のような言説を残している一方で、カントおよびその弟子たちの系統はそのような直観は存在しないという前提に立っており、肉体と結びついている意識だけを考察したために哲学の幅が狭まってしまったというのです。<br /> <br /> それは具体的には、本山博先生がいうところの「カラーナの次元」における認知力に関連して説明されています。<br /> <br /> (カラーナ次元以上では)「心が、想像や感情、感覚の次元ではなく、真理の直観、事実をありのままにみることを、完全にではないが、できるようになる」。こういうのをプラトンは「イデアの直観」というようにいうわけです。哲学者のカントは、人間は直観できない、人間は感覚でしか物を見ることができないといったけれども、(中略)そういう世界のことを「物自体の世界」というふうに考えた。「本山博著作集8」<br /> <br /> これは、現代において全てがそうではないとは思うのですが哲学と聞くと頭でこねくりまわした理屈のお話が真っ先にイメージに浮かぶのはこのようにカント以降の哲学者たちが肉体と結びついた次元で哲学を展開してしまったためだ、と理解できます。<br /> <br /> ソクラテスはいわゆる神霊、ダイモンの声を聞くことができましたし、プラトンはソクラテスの弟子ですから基本的には同じことを主張しているわけです。その頃の哲学は神秘主義と言ってもよくスピリチュアルなものだったと思うのですが、近年の哲学を聞いても頭でこねくりまわすだけで説得力に欠けると私などは思うのです。<br /> <br /> Sat, 09 Oct 2021 00:00:00 +0900 ライトボディ 第8レベル https://w-jp.net/2021/2489/ <br /> 先日、頭の真ん中でジョリッという感覚と共におそらくルドラ・グランティ(シバ・グランティ)に何か変化が起きたわけですけれども、その後、日常生活において頭や首を動かすと何かが動くような感覚が続いていました。頭の骨なのか何なのか、何かが調整しているような感じです。<br /> <br /> それに従って、頭痛というのもちょっと違うのですけど、偏頭痛とも違って、頭の中で何か物理的なものが実際に変化しようとしていて、それに従って頭の形が、実際は鏡で見ても変化がほとんどないので微細なお話だとは思うのですけど、何か頭の骨の形が変化し始めているように思います。<br /> <br /> これは、もしかしたらライトボディ第8レベルに相当しているかもしれなくて、その段階では松果体や脳下垂体が実際に成長するとのことです。<br /> <br /> ライトボディ第八レベルでは、普通ならグリーンピース大である松果体と脳下垂体が成長し、形が変形しはじめます。それらが成長するにしたがって、ときどき頭の中に圧迫感を感じるかもしれません。このプロセスのあいだ、断続的に頭痛が起こるかもしれないし、そうでないかもしれません。「ライトボディの目覚め」<br /> <br /> この段階ではエネルギーのフィールドが変化するとのことで、実際のところ、もっと以前からこの段階の初期症状のようなものは出ていたように思うのですけど、実際は今回のものが相当するのかもしれない? という気もしています。どうでしょうかね。<br /> <br /> おそらくは、前兆として感じていたのはアストラルの感情的な部分で、今回はカーラナ(コーザル、原因体)としての論理的な部分のようにも思います。スピリチュアルやヨーガではアストラルとカーラナが分かれていなかったりするので時に分りづらい時もありますけど、分けて考えると割とスッキリします。<br /> <br /> 感情的な部分は少し前に第八レベルに達して、ブッディ(理知的思考)に関してはここに来てそろそろ達成しつつあるのかな、という感じが致します。<br /> <br /> 特に、日常生活上での細かな認知に関して、認知自体は少し前と変わらないように思いますけど、その認知に必要な努力の量が減ったように思います。手足を動かすときの認知や視界の認知において、意識する必要が減って、自然な認知になったように思います。手足を動かすときはその動きを特に意図することなく意識が認知できますし、視界においても同様で、特に意図することなく細かく認知できるようになったように思います。これはおそらくは程度問題で、もちろん生まれた最初から認知はできたわけですけれども、瞑想を初めてからスローモーションの視界が始まって、最初は割と意識的に意図してそれを認知できていたわけですけれども、その努力が次第に不要になってきたように思います。そして、それはブッディ(理知的思考)の静まりとも関係があって、ブッディが静まってくるにつれて認知がより自然になってきた、という関係があるように思います。<br /> <br /> Thu, 07 Oct 2021 00:00:00 +0900 ジョリッという頭の中心の音と感覚と共に緊張がほぐれる https://w-jp.net/2021/2488/ <br /> ここ数日、どうも何か完全にリラックスできていない感覚があって、意識としては割と無になるというところを基本としてはいたものの、何か、静寂の境地に足りないものを感じていました。<br /> <br /> 何だろう・・・ と思っていて、それでも基本はオーラを頭の上まで満たして雑念がかなりない状態にして、ブッディ(理性の思考)も止めることで「無になる瞑想」をしていたわけですけれども、どこか、まだ静寂の境地に至っていない感じがしておりました。<br /> <br /> 静寂の境地自体は割と最近は普通になってきてはいたものの、ここ数日は、何か、静寂の境地に達しえない状態になっておりました。<br /> <br /> 何だろうか、と思いつつも、まあ、いいか、とも思ってそのまま瞑想を続けていたわけですけれども、ふと、全く前触れなく、急に頭の真ん中のあたり、喉の上、舌の上、鼻の少し奥の少し上あたりで急に「ジョリッ」という「音」と微かなズレるような感覚がしたかと思ったら、その直後から緊張がほぐれ、リラックス状態が深まりました<br /> <br /> 実際のところ、自分が緊張していたと自覚していたわけではないのですけど、改めてリラックスが深まってみるとそれまでの自分が少し緊張していたのだと気づくわけです。<br /> <br /> 頭の真ん中のエネルギーが通りやすくなった感覚があって、頭だけでなく、ハートのアナハタチャクラの方にもほのかな「膨らみ」を感じています。<br /> <br /> おそらく、頭の真ん中のあたりのエネルギールートがブロックされていて、エネルギーが通りにくくなっていたのかな、と思います。<br /> <br /> これは、前から通っていて最近ブロックされた、という面もあるかと思いますけど、それと同時に、おそらくは、3歩進んで2歩下がる、というような行ったり来たりを繰り返して成長している、と判断した方が正しいような気が致します。<br /> <br /> 最近の若干の緊張状態と、それより更に前の状態を比べると更に前の状態の方がリラックスできていたわけですけれども、そのリラックス状態から少し緊張が入ってきて、そして、今回のことで緊張が取れてリラックスできたら、前のリラックス状態よりも更にリラックスが深まったような気が致します。必ずしも一直線で成長するわけではなく、少し進んでは少し戻って、を繰り返してるように思います。<br /> <br /> 頭の部分は日常生活などでブロックされやすくて、そのためにも、日頃のメンテナンスが必要になってくるようにも思いますから、状態は今後ともチェックしていきたいと思います。<br /> <br /> 今回のことで、瞑想中にやっていたのは特に変わりなくて、眉間に集中した瞑想とか、チャクラに対して深い意識でオームを唱えるというようなことで、特別なことをしていたわけではなく、普通の集中の瞑想をした結果として、今回のような変化が意図せずして不意に訪れた、ということです。<br /> <br /> これはヨガで言われている「グランティ(エネルギールート上にあるブロック、結び目)」かもしれなくて、この場所はルドラ・グランティとかシバ・グランティとか言われているところの近くではありますけど、その近く、例えば後頭部とか首の後ろとか、あるいは確か眉間の近くの皮膚とかで脈拍が強く鼓動したことはあったのですけど、その時は今回のようにジョリッという感じではなくて、強く脈打つ、という感じだったように思います。であれば、以前のことがルドラ・グランティ(シバ・グランティ)ではなくて今回の方がそうだったのかな? という気も致します。おそらくは、前回では頭の中心ではなくて周囲の各所のエネルギー・ルートが開かれて、今回は中心のルートが開かれたのかな? という気も致します。だから今まではエネルギーが頭に通ってはいるものの何か通りが悪い時もあったりして、一方今は、頭からハートのアナハタまでエネルギーが通っている感覚が出ています。エネルギーが通った感覚それ自体はかなり前からあったわけですけれども、今回のは、直結、という感じが出てきています。今後、もっとこの繋がりが強くなるような気も致します。もう少し様子を見ていきたいと思います。<br /> <br /> Wed, 06 Oct 2021 00:00:00 +0900 十牛図・第八図「人牛倶忘」で無になる https://w-jp.net/2021/2486/ <br /> 書籍を見ると色々と書いてありますが、今思うに、これはとても簡単なことで「無」の状態だと思います。<br /> <br /> 無というとそれ以前にも何度か違った状態を経験してきていて、意識が一時的になくなるのが「無」ではあったのですが、最初に現れた「無」に関しては、その心地よい状態は数日後かに聞こえ出したナーダ音によって無の状態から強制的に弾き出されました。かなり昔、まだヨガを初めて日が浅い時、最初に「無」になって、その段階における無は顕在意識の無であって、まだ潜在意識が表面に現れてきていない状態でしたので、顕在意識が無になってしまうと何も意識がなくなってしまって、虚無の状態に落ち込んでしまっていました。それでも、心のどこかに「心地よい」「休まった」という小さな意識が働いていて、その一方で、強烈な集中の力で顕在意識を押さえつけることで無の状態を保っていました。ですけどナーダ音が聞こえ始めたことで無の状態からは弾き出されてしまいました。<br /> <br /> その後、何度かの段階を経て静寂の境地に浸ることを許さない奥深い意識が出てきたりして、しばらくは「無」とは離れていたように思います。<br /> <br /> ですから、「無」というのは私にとって割と「(既に)終わったもの」と位置付けられていました。<br /> <br /> しかしながらここにきて、再度、「無」の状態と対峙することになりました。<br /> <br /> それは、瞑想をしているとサハスララにオーラが満ちて雑念が入ってこなくなるのですけど、そこでは論理的な思考である、ヨーガでいうところのブッディだけが働いていて、理知的な意識だけが働く状態になります。<br /> <br /> それはそれで分析や物事をありのままに判断するには向いている状態でもあるのですけど、瞑想的にはそのブッディすらも超えてゆく必要があります。と、いいますのは、ブッディというのは階層からいうとカーラナ(コーザル体、原因体)の段階のお話ですので、カーラナというのはまだ人の本質であるアートマンには達していないわけです。その段階でブッディを働かせて物事をありのままに見て深く知ることはできますけど、それはあくまでもカーラナの次元でのお話なわけです。<br /> <br /> この状態であっても、顕在意識としては無念無想に既になっているわけで、意識的に働かせるブッディの思考しか顕在意識には上がってこないようになるわけですけど、その意識的に働かせるブッディすらも悟りへと到達する妨げなわけです。<br /> <br /> この状態であっても、オーラの揺らぎなどで雑念が度々入ってきますし、それはそれですぐにオーラを調整したりそのことに気づいたりして無念無想の状態を保つわけですけど、どうやら、この先へのポイントとしては、既に意識的に働かせているブッディすらも止めてしまう必要があるようです。<br /> <br /> そして、どうやら、十牛図の第八図「人牛倶忘」で言われているのはこの段階なのかな、と最近は思うわけです。<br /> <br /> 単に「感情」のレベルの無念無想であればそれはアストラルの次元における無念無想であって、それを達成しても日本語では一応は「無」と言えば無になるわけですけど、そのアストラル次元の感情の「無」に加えて、カーラナ(コーザル)の次元の「無」であるところの、すなわちブッディを動かさなくする、ということを同時に行うことでこの第八図「人牛倶忘」が達成できると思うのです。<br /> <br /> 解説書を見ると色々と書いてはありますけど、それはアストラルの次元とコーザルの次元を分けていないからごっちゃになっているだけで、アストラル次元の感情の無念無想の「無」に加えてコーザル(カーラナ)の次元におけるブッディを止めて「無」にすることでこれが達成できる、とすれば、すんなり理解できます。<br /> <br /> この段階では何かを微かに知覚できているだけで、基本的には、ただ無念無想の状態が続く瞑想になります。ふと不安定になって不快感が出たり疲れたりオーラが不安定になるのと連動して雑念のようなものが出てきたりもしますけど、基本的には安定した状態の瞑想が続きます。<br /> <br /> この段階では知覚するものはあったとしても微かなものでしかなくて、それ故に、十牛図における図がただの真っ白い円である、というのも頷けます。<br /> <br /> この前の段階の、アストラル次元の感情だけの無念無想による「無」ですと、感覚としては「真っ黒」なのです。「真っ黒」の中で無になる、というのはアストラル次元、それは感情としての無です。<br /> <br /> この、十牛図・第八図「人牛倶忘」になりますと瞑想中の視界がぼんやりと光って見えます。光そのものは色々な場面で見えますので、単に光っているということでしたらこの段階より前でもいくらでも光は見るのですけど、ここでの光は、目をつむって暗いはずなのに自ずから光っている、という感じです。フラッシュのような一時的な光源ではなく、環境光のように、直接的な照射というよりは、何かに反射されて全体が明るくなっている感じが致します。暗すぎず、かといって明るすぎず、適度に光っているように思います。<br /> <br /> 図を見ますと、この状態がしばらく進むと意識が次の段階になるようですので、ひとまず、この無の瞑想を続けてみます。<br /> <br /> 文字通り「無」ですのでそこまで変化もなくて書くこともないですし、しばらくこの無の状態が続くことになればますます書くことが無くなっていくのですけど、それはもう、仕方がありませんので、しばらくこれを続けてみることにします。<br /> <br /> <br /> (写真は「悟りに至る十牛図瞑想法( 小山 一夫 著)」より)<br /> <br /> Sun, 03 Oct 2021 00:00:00 +0900 他人にオーラを吸い取られること https://w-jp.net/2021/2485/ <br /> 以前は割とこのことに否定的で、オーラを吸い取られそうになったらエーテルのコードを切るようにしてオーラを取られないようにしてきました。ですけど、割と最近は回復も早くなりましたし、悪気がない場合や、気持ちとしてはスピリチュアルな心がけがある場合は黙って吸い取られるような場面も増えました。そこまで悪者にすることもないのかな、と。考え方が変わってまいりました。<br /> <br /> ただ、仕事場でエネルギーヴァンパイアをしているようなスピリチュアルの気持ちがない人に対しては今まで通りエーテルコードを切るような防御をするわけですけど、そうではなくて、悪意がない場合は割と受け入れるようになってきました。<br /> <br /> そのように、相手にオーラを吸い取られて自分が疲れた顔になったり(鏡を見ると)一時的に老けたような表情になったとしても、食事をしたり休憩をしたりすれば割とすぐに回復しますのでそこまで気にすることでもないのかな、と思うようになりました。もちろん相手にもよります。<br /> <br /> 先日、スピリチュアルの展示会に行ったときにとある人がヒーリングを安価でやっていて、ヒーリングということなので受けたのですけど、どうやらまだヒーリングして日が浅いようで、ヒーリングしているつもりなのかもしれませんけど私のオーラをごっそり抜いていきました(苦笑)<br /> <br /> まあ、こういう場合は悪気があってしているわけではないのでしょうけど、ヒーリングをしている側が元気になってしまっている例ですね。話を聞くと以前は寝たきりでヒーリングを習ってから自分で癒しをしたりして回復してきた、とか言いますけど、それって自分では気がついていないだけで他人からエネルギーをごっそりもらったのだと思いますけど、どうでしょうかね。実際、そういうことってよくあります。<br /> <br /> ヒーリングというのはオーラ、特にエーテルのレベルで繋がってエネルギーが平準化されてるのが基本ですので、エネルギーが高い方から低い方へと流れます。ですから、ヒーリングします、とか言ってエネルギーの低い人が誰かと繋がるとエネルギーが逆にヒーラーの方へと流れるわけです。<br /> <br /> そういうのは基本ではあるわけですけど、私は興味本位と、どのようにエネルギーが流れるのか知りたいので時々試したりしています。終わった後に疲れてしまいました。とは言っても元々それなりに元気なのですぐに影響はないのですけど、歩いたりすると急にふらっと来て、すぐに回復のために食事と飲み物を取りました。そのくらいで回復するので別にいいのですけどね。<br /> <br /> それに、他人の疲れたオーラを引き受けるのは慈悲の心による修行の一環でもあるわけで、実際のところ私はそれを頭では分かってはいても自分はちょっと違うと思って拒否していた方なのですけど、最近は、そういうのも私もありかもしれないなあ、という考え方に変わってきています。<br /> <br /> ただ、以前にも少し書いたと思いますけどヒーリングには2種類あって、自分のオーラを繋げる方法と、天のオーラを降ろす方法です。天のオーラを降ろす場合でも自分の体をパイプにする場合と天のエネルギーを直接降ろす場合とがあって、自分のオーラが汚れないのは天のエネルギーを直接降ろす方法です。まあ、そうはいいましてもスピリチュアルの人がやっているのは大抵は自分の体を通してのヒーリングですので、エネルギーレベルいかんによってはエネルギーを吸い取られてしまいます。ならばやらない方がいい、というお話もあるのですけど、私は半分調査、半分は興味本位で受けたりもします。<br /> <br /> 今まで、ヒーリングするなら自分のオーラを使わずに天のエネルギーを直接相手に降ろすのがいいとずっと思っていたわけですけど、もしかしたらそうではなくて、自分が引き受ける、というのが本来の慈悲のヒーリングなのかも、という気が最近はしてきています。かと言って、それをしてしまうとなかなか大変なので実際にやる、というところにはなかなか行かないのですが。<br /> <br /> それと、今回の展示会では瞑想の具合やコツ及び家族・親戚についてカウンセリングしてもらって、なかなかに腑に落ちました。<br /> <br /> どうやら、わかってはいたのですけど、やっぱり私はまだ悟ってはいないようです。そりゃそうなのですけど。<br /> <br /> Sun, 03 Oct 2021 00:00:00 +0900 奥深い意識でオームを唱える https://w-jp.net/2021/2483/ <br /> オームを唱える瞑想や口で唱えるチャンティング(詠唱)は色々とありますけど、最近の瞑想で行っている、心の中で唱えるオームの詠唱は深い意識で行うように自然に変化してきました。<br /> <br /> 基本は口で唱えるオームで、ことあるごとにオームという言葉がチャンティングの最初だったり何かで唱える機会がありますけどそのように口で唱えるオームがまずあります。<br /> <br /> 次に、心の中の顕在意識で唱えるオームがあります。この場合は、頭の全体、主に外側に響く形で、時には眉間の振動を伴ってオームが響くことになります。眉間がじわじわとする、というのは主に気の次元でエネルギーが振動しているようです。<br /> <br /> 一方、心の中の、深い意識、深層意識あるいは無意識のうち意識に現れ始めた表面部部分で唱える低い深いところから唱えるオームがあります。この場合、オームは口の舌の奥の少し上あたりの脳の中心部分から発せられ、その振動は頭の、特に上方に向かって広がってゆきます。その振動は次第に頭の中のオーラを頭蓋骨に沿って等しく全体にまで充満させる効果があって、頭頂のサハスララにまだ十分オーラが行き届いていない状態であってもこの深いオームを唱えることによりサハスララにまでオーラが充満していきます。それと同時に、頭の各所の隅々にまで、まるで空気の入っていない風船が少しづつ膨らむかのようにオーラが充満し、オーラが充満するごとに意識がクリアになってゆきます。<br /> <br /> 朝、まだ意識がクリアになっていない時、あるいは日常生活を送って意識が少し濁った後の夜にこのような深いオームのマントラを唱えると意識が再度クリアになり、日常生活が豊かなものになります。<br /> <br /> 実際のところ、その深いオームはもはやオームというよりは深いところから溢れて湧き出てくる振動そのものですので、オームという感じはもはやしないかもしれません。ただ、奥深いところから湧き出る振動に自分を合わせるとそれがオームとなってオーラが共振するのです。<br /> <br /> この奥深いオームは(今の所は)頭の中でだけ感じられて、外側では感じられないものです。<br /> <br /> この奥深いオームはナーダ音で聴こえている高周波とも違っていて、音程から言えばナーダ音は割と高い音でピーという基本の音に加えて不定期な音の変化がありますけど、ここで言っている奥深いオームはもっと深いところから、音と言えば音ではありますけど、半分は音のような半分は波動の伝わりのようなものとして感じられる、基本の振動のようなものなのです。その、基本の振動に自らの意識を合わせると、それは比喩としてオームであるわけですけど、その深いオームに意識を合わせると自然とオーラが充満して意識がクリアになるわけです。<br /> <br /> そのまま瞑想を続けていると、奥深いオームの振動と、奥深いオームの振動と比べると少し大きな振動である物理的な体に近い振動とが繋がって共振し始めます。奥深いオームの振動の方は少し大きな振動になり、物理的な体の振動も更に大きな動きになります。<br /> <br /> その共振は次第に強くなってゆくのですけど、ふと、港に繋がれた船がロープでそれ以上岸から離れないがごとく急に何かにその振動の動きが遮られ、体の各所の微細なショックと共に瞑想状態から出てきます。これは何かと思ったのですけど、まだ、おそらくはチャクラのあたりが強い動きに耐えることができていなくて、少しづつ慣れさせる必要があるのかな、とも思っております。体の各所のチャクラを探ってみると、チャクラの奥にも頭部と同じように奥深いオームと共振する場所があるようです。チャクラは今までエネルギーのポイントとして感じていたわけですけれども、実のところもっと深いところにもチャクラの共振する場所がある、ということだと思います。今後、そのあたりを探っていくと面白そうです。<br /> <br /> Fri, 01 Oct 2021 00:00:00 +0900 瞑想で心の殻が破れるときにリラックスが深まる https://w-jp.net/2021/2479/ <br /> 主に2つ。感情の段階(アストラル次元)と、個人的な静寂の段階(コーザル、カーラナの次元)、それぞれで殻が破れるように思います。<br /> <br /> まず最初は感情を抑えるための集中から始まって、集中して感情の殻が破れるとリラックスできます。感情が豊かな人が感情を超えて静寂の世界へと踏み込む段階です。<br /> <br /> その時点ではまだ個人的な静寂ですが、静寂が深まるにつれて個人的な静寂の殻が破れて、場所的な意識へと変わってゆくように思います。<br /> <br /> ヨーガや修験道あるいは仏教などの行者は主に前者の感情の段階(アストラル次元)を扱っているように思います。そこでは主に感情を抑えて静寂の境地に至ることを目的としています。<br /> <br /> 仏教などで言われているように、楽しみの感情であったとしても苦しみの感情であったとしてもそれは一時的なもので、その一時的なものに執着しているから苦しみが生まれるのであって、その執着を手放しましょう、というお話はそれ自体は確かにその通りではあるのですけど、そこで言われているのは主に感情の段階(アストラル次元)のお話なのですよね。<br /> <br /> 修行するようになった最初の目的に則して修行が進んで、感情への執着から離れて静寂の境地になったとして、それはまだ個人的な静寂であって、場所的な意識へとまだ昇華していないわけです。ですけど、多くの流派では個人的な静寂の境地を持ってして解脱に至ったとか悟りと同じ(阿羅漢など)と見做していますけど、それはまだアストラル次元のお話なのですよね。<br /> <br /> 昔はこの辺りがよくわからなくてごっちゃにしていましたけど、静寂の境地のアストラル次元とその先のコーザル(原因、カーラナ)の次元とは別物で、多くの流派の悟りというのはコーザルに至ったことを意味していますけど、実際は、コーザルではまだ悟りではないと思うのです。それなりに修行が進んだのは確かですけど、コーザルではまだ個人的な静寂の境地に達しただけで、その段階でも他人の心が少しは読めたり過去や未来も多少はわかったりしますけど、限定的なわけです。この段階のヨーガ行者とかは山ほどいて、まだ感情を完全い克服できていなくて、瞑想をすることで一時的に感情の段階(アストラル次元)を克服してカーラナの静寂の境地、それは静寂であるのと同時に論理のブッディ(理知的な感覚)が働く段階でもあるのですけど、一時的にブッディが優勢な状態になる、という人が多いように思います。<br /> <br /> 一時的なものから始まって常にその状態になる、という遷移を経るわけですけど、一時的な状態に留まっている人が割と多いように思われます。<br /> <br /> 静寂の境地をゴールとしてしまっているのは、おそらくは最初に立てた目標が苦しみからの開放だったということで、最初の目標いかんでゴールがほぼ決まってしまうわけです。もっと先に行くことができたとしてもそこがゴールと思ってしまったらゴールになってしまうわけで、静寂の境地から先へと進まなくなってしまうわけです。<br /> <br /> ですけど、実際には静寂の境地というのはベールがまだ被せられている状態で、神様にはまだ一歩届かないわけです。<br /> <br /> まず最初は、感情の上に被せられたベールを剥がすことから始まって、感情というのはアストラル次元ですからそこから静寂の境地かつ論理の世界(ブッディが優勢な世界)であるコーザルの世界(カーラナの次元)に移って、カーラナの次元で静寂の境地に至ったとしても、それはベールが被せられている状態なわけです。<br /> <br /> スピリチュアルではよく「意識にヴェールが被せられている」みたいなことを言いますけど、それは主に感情と静寂の境地の間にあるヴェールのことではありますけど、実際にはそれは2つあるわけです。<br /> <br /> そして、そのどちらにおいても、ヴェールが少しづつ剥がれるときにリラックスが深まります。<br /> <br /> 感情の渦にまみれている時は緊張していて、瞑想をして眉間に集中することでその感情に被せられているヴェールが少しずつ剥がれて、剥がれるにつれてリラックスが深まり、静寂の度合いが増えてゆくわけです。<br /> <br /> そして、静寂がそれなりに深まった後は、静寂の境地の上に被せられているヴェールを少しずつ剥がしていって場所的な意識、それはざっくりいえば場所的な神様と言ってしまってもそう間違いではないのですけど、そのような空間的な意識へと少しずつ変わってゆくわけです。<br /> <br /> 私の場合、今の段階としては静寂の境地の上のヴェールが少しずつ剥がれてきている段階でまだ場所的な意識を少しづつ垣間見ている状態でまだ完全に剥がれてはいませんけど、概ね、このような段階を辿るように思えます。<br /> <br /> Sun, 26 Sep 2021 00:00:00 +0900 別の種類の無意識状態の瞑想 https://w-jp.net/2021/2478/ <br /> 以前は、瞑想中に意識がなくなる時は割と意識にモヤがあって、意識がどこかに漂ってしまって想念の渦の中で自分という意識が消える、という感じでした。その後、意識が明確になるにつれて瞑想中に意識が漂ってしまうようなことは少なくなってはきたのですけど、ここにきて、また別の種類の無意識状態に瞑想中に入るようになりました。<br /> <br /> これは説明が難しくて、元々は、瞑想中に意識が漂ってしまって想念の渦と自分の意識とが一体になることにより自分という意識が消える、という感じでした。それはそれでアストラル次元の感情および思いの世界における合一(サマーディ)の一種ではあったかと思うのですが、その次元でのサマーディはあくまでも感情的な想念の合一であって、それより高い次元での合一ではないのですよね。<br /> <br /> 一方、ここ最近は瞑想が進んできて、それでも少し進んではまた戻り、また少し進む、という感じで行ったり来たりではあるものの基本的にはベースが進んできて、そうなってくると、感情的な合一というのはほとんど起きなくなってくるわけです。<br /> <br /> 感情的な合一で意識がなくなる、と比喩することもできますけど、意識がなくなるというよりは、意識が全体に包まれることで全体のアストラルな意識になる、という感じの合一(サマーディ)でした。それはそれでサマーディであることには違いはないのですけど、アストラルの次元の合一とカラーナ次元での合一、そしてプルシャの次元での合一とがありますので、アストラルの感情のサマーディ(合一)をしたからといってそれほどでもないわけです。<br /> <br /> 最近は割と感情よりも、知性のブッディが優勢に働く状態になってきて、それはオーラ的に言えばサハスララにオーラが満ちている状態ではあるのですけど、完全には満ちなくてもそれなりに満ちれば知性のブッディが有効に働いてくるわけです。<br /> <br /> その状態において意識が高みに近づいた時、意識がなくなるのです。<br /> <br /> 意識がなくなる、というと語弊がありますが、顕在意識で知覚できなくなります。<br /> <br /> 顕在意識で知覚できないので少し状態を戻す、ということをするとまた知覚できるようになるのですが、再度挑戦してオーラを満たし、意識を高みに近づけるとまた意識がなくなってしまいます。<br /> <br /> これは、アストラルの時に意識がなくなって感情的に周囲と合一(サマーディ)した時と異なり、ただ単に、知覚できないなにかと一体化している、としか顕在意識にはわかりません。<br /> <br /> それは上位の意識、次元の高い意識ともいうことができますけど、その次元の高い意識は顕在意識でなかなか知覚できないようです。<br /> <br /> 書物を読むと、最初はトランス状態になって知覚できないけれども数年すれば顕在意識で知覚できるようになる、と書いてあったりもしますので、これは時間の問題かもしれません。<br /> <br /> 今のところ、意識が高みに辿り着くと顕在意識で知覚できなくなって、ですけど、そこには確かに何かの意識があって、高みの意識が何かを意図したり認識しているような気がします。気がするだけで具体的にはわからず、気がした瞬間に顕在意識が働かなくなってしまって知覚できなくなってしまいますので、それ以上のことはわからなくなるのです。<br /> <br /> ですけど、瞑想を終えてみると何かがあったことがわかりますけど、具体的なことはその瞬間にはちょっと覚えていたりしますけど、夢と同じで、すぐに忘れてしまいます。<br /> <br /> これは、夢を知覚する技能と同じように瞑想を知覚する技術が必要なのかもしれませんし、それは技術というより瞑想が進めば知覚できるようになるということかもしれませんけど、ひとまず、今は意識が消えてしまって無意識状態になる瞑想になっています。<br /> <br /> Sat, 25 Sep 2021 00:00:00 +0900 お金が儲かるというスピリチュアルは大抵使い物にならない https://w-jp.net/2021/2477/ <br /> 世の中に現世利益、特にお金儲けのスピリチュアルが溢れていますけど、基本的にそう言うのは使い物になりません。<br /> <br /> と言いますのも、本来、スピリチュアルにはお金儲けはなくて、あるとすれば「お金をあまり使わない」と言う行動の「結果」としてお金が溜まったり、その余剰資金を運用してみたらお金が増えてしまった、という予想外の結果でお金が儲かることはあるにはありますけど、スピリチュアルそのものがお金儲けを目的としているわけではなく、その前段階として欲望の克服とかをした結果、使うお金が減って、そのことによりお金が手元に残るようになって、残ったお金を運用したらお金が増えてしまった、という、割とお金儲けの王道的なお話になってくるわけです。<br /> <br /> 一方、世の中に溢れているスピリチュアルではお金儲けを第一の目的としていますけど、じゃあ、何故お金が必要なのですか? と言うところを個々のに落とし込んでいった結果、それが「欲望」から来るお金儲けであれば、それが例え一時的に叶ったとしてもそのお金は「使う」ためのお金ですから、一時的に入ってきたお金は目的の欲望のためにすぐに消えて無くなってしまうわけです。ある意味、願い通りの現実になっているといえます。<br /> <br /> 一方、王道のお金儲けは意外とスピリチュアル的なお話に基づいていて、節約して質素に生活しましょう、などというお金持ちの教訓は欲望を抑えて静かに生きましょうと言うことですし、それはまさに精神的な生活であるわけです。<br /> <br /> スピリチュアルに生きていて、欲望もある程度抑えることができて、結果として出費が抑えられて、それでいて普通に社会生活を送っていて定期収入があるのであればそこまでお金が困らない世の中であるわけです。これは異論があるかもしれませんし、人によっては質素に暮らしているのに足りないだとか、そういうこともあるかと思います。そういう場合ももちろんあって、個々の場合の原因はそれぞれ見ていかなければ貧困の本当の理由は分かりませんけど、スピリチュアルの基本としては欲望を抑えることで出費を抑えて質素に日々幸せに生きることであるわけです。<br /> <br /> じゃあ、その質素で幸せな生活を送るために足りないものを求めたり障害になっているものを取り除けば良いわけで、欲望が邪魔になっているのであれば欲望を解消してゆく必要があるわけです。ですけど、繰り返しになりますけど世の中の多くの現世利益のスピリチュアルは欲望を叶えるために例えばお金儲けができるとか言って世間を騒がせているわけです。<br /> <br /> 結局、スピリチュアルでお金儲けはできなくて、お金を稼ぐのは日々の普通のお仕事で稼ぐわけです。そして、必要以上に余ったお金を運用してたまたま多く増えたりあるいは投資に失敗して無くなってしまったり、それはそれぞれですけど、そこはあくまでも余剰資金のお話であって、人が生きる根本のところはスピリチュアルで稼ぐのではなく日々の仕事で稼ぐのが基本であるわけです。<br /> <br /> 確かに、本当にスピリチュアルに上達してそれなりに達すればお金儲けとかそう言うのも自由になりますけど、普通の人にはあまり関係のないお話だと思います。<br /> <br /> 例えば「無意識」の領域にプログラムを書き込んでお金儲け、とか言っている人もいますけど、それってお金儲けのプログラムじゃなくて「お金を使います」と言うプログラムなことがほとんどですからね。本筋じゃないですよね。それで本当にお金が儲かったとしてもそれを使うためのプログラムなら結局は欲望を叶えるためのプログラムということですから、お金が儲かって大きくお金を使った後にまた大きな欲望が出てきて更にお金を大きく稼ぐために無意識にプログラムする、なんてことを繰り返して、それって何か面白いのですかね? 単なる欲望を叶えることが目的なら、そんな小さなお話はどこかで好きにやってください、と思ってしまいます。別に、他の人がやっていることを止めもしませんし好きにすればいいのですけど、私には興味のないお話です。<br /> <br /> それよりも、まず欲望を克服して、無意識を書き換えるとかではなくて無意識が意識下に入って集合意識に入って集団のために尽くすとか地域あるいは国とか大きなものに尽くすことになったらそんなお金儲けとか小さなお話は出てこなくなる筈なのです。本当のスピリチュアルは欲望よりも一歩上の世界へと超越して欲望から無縁になることであって、欲望と同じレベルでいると欲望を抑えるという欲望と戦う姿勢になってしまいますけど超越すれば欲望とは関係のない心境になりますから、そのように欲望を超越して欲望とは無縁の世界に入っていくことこそがスピリチュアルの基本姿勢であるわけです。<br /> <br /> Sat, 25 Sep 2021 00:00:00 +0900 ちょこっとヒーリングの真似事して急に老ける人 https://w-jp.net/2021/2473/ <br /> ヒーリングを教えてもらったとかで安易にヒーリングし始めて、すぐに老けてしまった女の人が私の近くにいました。最近は会っていませんけど、こういう、ヒーリングまがいをして自分のオーラをごっそり取られて老けてしまう人、あるいは、エネルギーのレベルが下がってしまってネガティブになってしまうような人は一定数いるものです。<br /> <br /> ヒーリングは2つの方法があって、自分のオーラを分け与える方法と、天のオーラなどのよくわからない場所から来る普遍的なエネルギーを使ってヒーリングする方法とがあります。<br /> <br /> 前者をしてしまうと自分のオーラが取られてしまうわけですけど、そうは言いましても人は自分でエネルギーを蓄えたり引き出したりすることができますから、枯渇してもしばらくすれば復活するわけです。ですけど、枯渇するまで他人をヒーリングした挙句に休息を取ってエネルギー回復するとまたヒーリングをするような繰り返しループをする人が時々いますけど、私からすると、よくもまあ、そこまでしてヒーリングするのですか、とでも思ってしまいますけどそれは個人の自由ですから特にとやかく本人に言うことはありません。きっと思うところがあってやっているのでしょう。<br /> <br /> 自分のエネルギーを使ってヒーリングする場合、上記の2つの組み合わせのパターンもあって、自分を通して天のエネルギーを取り込んだ上で自分のエネルギーを分け与えることでヒーリングをする、という手法もあります。この場合、自分は単にエネルギーを通すパイプになるだけですから自分のオーラは急激に減ることはあまりないと言えますけど、それはエネルギーを与える量と取り入れる量のバランスですから、自分のオーラが下がってしまう、あるいは、ヒーリングすると天から取り入れたエネルギーの方が多くて自分が元気になる、ということもあるかと思います。<br /> <br /> 天のエネルギーを取り入れる時、自分に一旦入れた方が相手にヒーリングしやすいのはそうですけど、それよりも、天のエネルギーをそのままヒーリング相手に繋げてしまう方が自分のオーラが相手のオーラと混ざらないのでヒーリング相手の悪いカルマの影響を受けてしまうことを防げます。<br /> <br /> 天のエネルギーは、まず自分が光の柱を打ち立てて、自分から天に向かってまっすぐエネルギーのルートを通します。その後、天にオーラの触手と言いますか右手をぐっと伸ばすようにして天のエネルギーの根元のところに働きかけて、自分のところに降りてきているエネルギーの行き先を少し変えて、水路を作るかのように、自分の目の前にいるヒーリング相手のところまでまっすぐエネルギーを伸ばしてあげます。何度かその意図・エネルギー操作を繰り返すと、うまく行く時はエネルギールートが繋がって、天のエネルギーがヒーリング相手に降りてくるようになります。一旦繋がってしまえばあとは簡単で、そのエネルギールートが保たれるように少し調整してあげるだけでよくて、エネルギーが拡散してしまわないことと、エネルギーのルートがきちんと通るように詰まりを取ったり収束させたりしてそのルートを保っているだけでどんどんとヒーリングが進んでゆきます。<br /> <br /> 実際のところ、天のエネルギーがどこに繋がっているのかはよく分かりません。申し訳ないですけど、これはよく分からない、と言うのが回答ですけど、天に伸ばすとエネルギーが伸びてきますので、そんなものかな・・・ と思っています。そのうち答えが出るのかもしれませんけど、天のエネルギーの根元に関しては謎のままです。<br /> <br /> ヒーリングは、そのように、よくわからないけれども無尽蔵に存在するエネルギーを使って行う方法と、自分の中に蓄えられているオーラを使って行う方法があるわけで、その組み合わせもありますけど、どちらにせよ、自分のオーラを使うとその分消耗してしまうわけで、消費しすぎると老けてしまうのです。<br /> <br /> Sun, 19 Sep 2021 00:00:00 +0900 人生が良くなれ、と思う必要はない https://w-jp.net/2021/2472/ <br /> スピリチュアルをやっていると、人生を良くしたいだとか悩みを解消したいだとか、そういう願望実現のお話をよく耳にします。ですけど、実際のところ、願望実現を願ったところであまり意味がないのですよね。<br /> <br /> 人生は全て完璧で、良いと思うことも悪いと思うことも全て含めて完璧なのですから、あれこれ思い悩むことをやめて目の前の物事に対処しさえすれば良いわけです。それはロボットになれといっているわけではなくて、悩みから問題へと昇華して解決あるいは問題を問題ではなくしてしまえばよいわけです。<br /> <br /> これは一見するとプロジェクトの進め方として問題解決方法としてのビジネス手法として見えてしまうかもしれませんけど、意外にもスピリチュアルとプロジェクトとは似ていて、問題があるのであれば悩む必要はなくて問題をはっきりと見て、問題を解決してなくしてしまうか、他のことを解決することで問題を問題ではなくしてしまうか、あるいは、問題を軽減するか、あるいは、問題を受け入れる、みたいな選択肢があるわけです。制約条件があって問題をどのように解決するのか道は色々あって、問題は解決できないので受け入れるしかない、ということもありますけど、どの選択をしたとしてもありのままで完璧なわけです。<br /> <br /> スピリチュアルで悩んている人は一定のパターンで動いていて、悩みや問題があったらそれを解決したいとは思っていても、大抵の場合はその問題がなくなってほしい、としか思っていないように思います。プロジェクトを対処するときのように、まず、問題そのものをはっきりと見て、そうすれば問題をどのように解決したらいいのかは自ずと出てくるわけです。物事をはっきりと見極めさえすれば答えが自然に自分の中から出てくるのがスピリチュアルなやり方ですけど、それを自らの中から出さずにロジックだけで解決しようとするのがプロジェクトの扱い方で、ですけど、答えだけ見てみると同じになっているわけです。スピリチュアルではプロジェクトを直観的に扱うのに対し、仕事のプロジェクト手法ではロジックで解決する、という違いがありますけど、どのように解決すべきかという指針においてはプロジェクト手法は参考になります。<br /> <br /> 仕事のプロジェクトで、問題がなくなれ! と願っても何も起きませんし、問題を解決したい、と思っても何も解決しないわけです。<br /> <br /> スピリチュアルな人は、問題を解決しようと思えばそう願えばいいのです、みたいなことを言う人がいますけど、確かにそれなりにスピリチュアルが成長すれば次第にそれは真実になりますけど普通の人が願ったところで何も変わらないわけです。スピリチュアルの中には、普通の人が願えば願望実現して人生うまくいきます、とか言っている人もいますけど、実際はほとんどの場合、何も変わらないわけです。そのようにスピリチュアルで成長した人の場合でも、願って現実を変えなくてはならないことは割と少なくて、大抵の場合は、それなりのことが起こっても「ふうん」くらいにしか思わないものです。普通の人が大問題と思われることでもなんとなくこなしてしまう、というのがスピリチュアルな人の基本姿勢であって、そうして問題を解決・軽減・回避・様子見・受け入れ、みたいな選択肢がある中で、どうしても自分ではどうしようもない時にだけ願うのであって、欲望のためにスピリチュアルに懇願する人が何を願っても何も起きないのは当然であると言えます。<br /> <br /> ですから、基本的には自分の人生を普通に生きればよくて、人生が良くなれ、と思う必要はないわけです。人生が良くなる時は特別に願わなくても自然に「あ、人生よくなるかも」と思って勝手に良くなります。自分の普通の生活の満足が最初にきて、その普通の満足の上にもうちょっと「良いこと」が積み重なるのが基本であって、現実の現在の人生を楽しめていない人が一発逆転を狙ったとしても、スピリチュアルではそういう一発逆転を煽る場合もそれなりにありますけど、そのような逆転劇は基本的に起こらなくて、起こったとしてもスピリチュアルとはあまり関係ないことの方が多いわけです。<br /> <br /> 本当にスピリチュアルに成長していればそのような逆転劇のような人生の転換は普段から当たり前のように起きますけど、それはわざわざ願ったりせずに、それが当たり前と思って「あ、いいこと起こるかも」とひらめいて、実際にそのように勝手に自動的に良いことが起きるだけのことです。自分の顕在意識でわざわざ願ったりすることなしに、物事が好転してゆくわけです。そうなると、わざわざ人生良くなれ、と思うことも少なくなっていって、人生が良くなっていくのは当然でしょ、と思ったり、たぶんこれは人生が良くなって行っているということだとは思うけれども、最初から全て良い人生だったから、良くなるとかそういうの、よくわからない、という心持ちになるわけです。実際はいろいろな問題が起こっていてもそれが苦と感じなければ全て完璧で素晴らしい人生として認識されるわけです。実際、良い人生だったり、問題が多少あったりしても、本人はそれを気にしないわけです。幸せな人生とそんなものです。<br /> <br /> Sat, 18 Sep 2021 00:00:00 +0900 守護霊とガイド https://w-jp.net/2021/2471/ <br /> 守護霊とかガイドというのは広義では同じことで、導いてくれる見えない存在のことです。ですけど、日本語で守護霊というとご先祖様というイメージが強く出てしまいますけど、実際はそれに限らないわけです。<br /> <br /> ご先祖様という場合も多々ありますけど、実際には、仲が良かった人があの世に行っても仲良く暮らしていて、ふとした時に地上の生活を覗き込んだり地上に転生した人の周囲でたむろしている時に気がついた人があれやこれや指摘する、というのが実情のような気がいたします。<br /> <br /> ですから、そのような霊が周囲にいる場合は、まるで生きている人が近くにいて細かいことのお節介をしてくれるのと同じような感じなのです。<br /> <br /> ・近所のお節介おばさん<br /> ・仲の良い友達(男友達、女友達)<br /> ・お互いに気に入って気になっていた異性<br /> <br /> それはその人がどのような人付き合いをしてきたかによって変わってきて、例えば、仲が良かった近所のおばさんが死後に近くにいていろいろとお世話になっている場合もありますし、仲の良かった女友達が近くにいて仲良く暮らしている場合もあります。もちろん妻や夫がずっと一緒にいる、ということもありますけど、個人的には妻はたくさんいますけど夫の姿は見えません。<br /> <br /> これは他の人も同じかどうかはわかりませんけど、私の場合、妻だったり仲の良かった女友達が近くにいて、楽しくくらしています。一方、夫、というのは見えません。ですから、私のあの世でのコミュニティでは私だけが男で周囲の何十人、見えている人数は一定ではないですけど30人とか常にいて、多いときは50人近くの時もあるのですけど、基本的には全員女性です。なんてハーレムなのでしょうと思うかもしれませんけど、他の人もそうなのかどうかはわかりません。<br /> <br /> 私は性格的に、嫉妬深い男とヒステリーな女が嫌いですので、私のあの世のコミュニティには基本的にはそういう人はいないのですけど、それは元を辿れば、生きている時の人付き合いでそのような人とは仲良くならなかったのであの世でもそのような人付き合いが続いているわけです。<br /> <br /> あの世に行ったからといってすぐに何か良くなるとか、死んだら解放されるとか、そういうことはなくて、基本的には生きている時の延長線だと思います。<br /> <br /> 人付き合いと同じで、最初はそれほど仲が良くなくても、次第に少しづつ仲良くなってゆくわけです。そして、あの世でもその関係が続いたり、また数百年後に同じ時代に人生を送ったりします。<br /> <br /> ですから、人と人との付き合いは死んだら終わるものではなくて、何世代にもわたって続いてゆくものだと思った方がいいわけです。実際そうなわけです。<br /> <br /> 恋人などで一目惚れ、というのがありますけど、私がみたところ、前世での繋がりがなければ一目惚れというのはありえないと思います。前世での繋がりがなくて初対面だった場合は、関係性を育ててゆく必要があるわけです。そして、関係性が育ったら来世あるいは数百年後とかに一目惚れあるいは最初から仲が良い、なんてこともあるかもしれませんけど、どちらにせよ、最初はゼロからのスタートですので、関係性というのは少しづつ育ててゆく必要があるわけです。<br /> <br /> 誤解を元にした関係だったり、依存関係だったりもあの世に引きずりますから、良い関係を常日頃から育てる心持ちと態度が必要になってきます。これはかなり重要で、詐欺師が来世でも同じ相手に詐欺を働く場合もよくあるわけです。一方、良い関係というのも来世に引き継がれます。<br /> <br /> 守護霊とかガイドというのは、結局、周囲にいる霊のことですので、どうすればいいのか、という指南は、周囲に単にいる仲の良かった、あるいは、付き纏っている存在からの見えない指南になるわけです。ですから、それほど良くない存在からの指南であればそれなりですし、自分のことがよくわかっている存在からの指南であれば的を得ているわけです。<br /> <br /> そのように、守護霊と一般的に言われていますけど基本的には仲の良かった存在のことで、生まれている時に何がしかの関係があった霊なわけです。それは必ずしも直接的ではないかもしれず、親が関係していたとか、孫だったとか、そういう関係の場合もあります。<br /> <br /> 一方、ガイドと言われているのはもうひとつレベルが高くなって、ある程度のスピリチュアルな理解がある存在からの指南になります。守護霊は大抵の人には誰がしかついていますけど、ガイドはついている人とそうでない人がいて、本当にガイドと呼べるレベルにあるのは何某か修行をしてきた霊であるとか天使とか、そういう存在ですね。ガイドがいる人は何がしかの縁があってついていて、ガイドがいなくてもそう悲観する必要はないと思いますけど、ガイドがいるのであればありがたく思う方がいいと思います。<br /> <br /> ガイドという言い方は他でしているかどうかはわかりませんけど、私はこんなニュアンスで書いています。<br /> <br /> Sat, 18 Sep 2021 00:00:00 +0900 日本はどうして戦争をして原爆を落とされたのか? https://w-jp.net/2021/2470/ <br /> 幽体離脱の時に知ったことですので本当のことかどうかはわかりません。小学校高学年の頃に数回幽体離脱をして、その後、ことあるごとに夢の中などで未来や過去あるいはタイムラインを覗き見てきたわけですけれども、その中に、日本がどうして戦争をしたのか? という答えもありました。<br /> <br /> 実際のところ、私がそれを知ったのは30年以上前なのですけど今の今まで他の誰も同じようなことを言っていませんので、これはきっと私の気のせいかな、と思ってきたのですけど、一応、メモのために記載しておきます。何度か書いた気も致しますが、再度、少し書いておきます。<br /> <br /> 前提として、タイムラインが存在する、ということを受け入れてもらわなければなりません。ですのである程度はスピリチュアルなお話になります。<br /> <br /> 戦争をするに至った直接的なきっかけは、伊勢神宮の巫女が神からの伝言を受けて戦争をすれば勝つ、と出たことです。ですけど、何故、神がそのように言ったのかは、実は複雑な背景があるのです。実際のところ、神は、戦争をして負けることが分かっていました。しかし、負ける戦争をしろと言ったら戦争する人なんていませんから、戦争をさせるために勝つ、と言ったのでした。神が嘘をつくのか? というお話がありますけど、大事の為の小事です。神は、この地球という全体を守るために日本に戦争をさせて原爆を落とさせたのです。<br /> <br /> なぜそのようにしたのか、を理解するには他のタイムラインを理解する必要があります。<br /> <br /> 実は、今のタイムラインの他に、地球が破壊されてしまったが故に中断されてしまったタイムラインがいくつか存在しているのです。<br /> <br /> その中でも最も順調に行っていたと思われるのが、織田信長が生き残ってアメリカ太平洋沿岸にまで進出したタイムラインなのですが、今の時代にまで至ると太平洋沿岸の諸国が南米や東南アジア、そして中国までもが含まれるような大きな日本国ができていたのです。<br /> <br /> その世界では日本の国の中はとても平和で、しかし、ヨーロッパやアフリカ、そしてアメリカ東部に至っては中世の時代の名残がそのまま続いていて、奴隷制度も残っているような状況でした。地球が大きく2分化されていて、大きな日本国のある太平洋沿岸が平和で、大西洋及び地中海の沿岸およびアフリカ、ロシアなどの国々は地獄のような状況でした。白人国家に関しては今の二分化がかなり甘く見えるほど地獄のような状況で、戦争は日常茶飯事で、治安も悪く、奴隷を普通になんの悪気もなく使う状況でした。一方、大きな日本国には奴隷制度はなく、全ての人が平等で、戦争も起こらず、平和に暮らしていました。<br /> <br /> 20世紀に入るまではこのような2分化があったとしてもそれぞれの地域で行われていることで、遠い国のお話で語られるだけで、通商はもちろんあったものの、文化的には基本的には交わらないでお互いが生活していたように思います。<br /> <br /> しかし、20世紀に入って原爆が開発されるとそうもいかなくなります。地域紛争が地球規模の破壊を招くようになったからです。核爆弾の威力がさほどでもない時代ならともかく、大陸あるいは地球そのものを吹き飛ばしてしまうような力を持った爆弾が開発されると、次々に威力が増して行くことになります。それは実際のところ、理論においての威力は示されているものの、実際に使わないとよくわからないもの、というものとして理解されていたように思います。<br /> <br /> そして、そのタイムラインにおいては、紛争が起きた時にとある国の指導者が核爆弾を使うことを決定し、そのタイムラインで初めて使われる核爆弾で大陸が丸ごと吹っ飛び、それにより地球の軌道も変わったり、大気が吹き飛ばされて一瞬にして昼間が「夜」になり、星が見え、全員が瞬時あるいは意識が朦朧とする中で窒息死するに至ったのです。<br /> <br /> このタイムラインは1つではなくて、細かい分離によっていくつかのタイムラインがあったのですが、何度やり直してもどこかの国が紛争を起こして大陸、あるいは悪い時には地球を何分割かしてしまうほどの威力を持った核爆弾が使われることもありました。<br /> <br /> そのほとんどは、織田信長が太平洋沿岸を支配して平和な太平洋沿岸の日本国が存在するタイムラインでした。そのタイムラインで地球が一旦は破壊された後、少し前から何度かやり直して、おそらくは数十回かもっとやり直したのですけど、何度やっても地球が破壊されてしまうのです。<br /> <br /> それを見ていた神様は困り果てました。<br /> <br /> 一体どうしようか、と。実際のところ、日本からしたらそのタイムラインがかなりベストに近いと神様は思っていました。ですので、なんとかして、太平洋沿岸が平和に保たれているそのタイムラインを生き延びさせたかったのです。<br /> <br /> ですけど、なかなかそれは難しい・・・ という理解になってきたようです。<br /> <br /> 神様とは言っても全部を好きにできるわけではなく、ここで言っているのは地球を管理している神様ですから、宇宙全体を創造した全知全能の神様というわけではないのです。その、地球を管理している神様はタイムラインを操ることができて、一方、地球に関与するために使者のような形で分霊を送ったり、あるいは、メッセージを送ることで地球を導いています。多くの僕(しもべ)が神様に寄り添って働いていたりもします。<br /> <br /> ですが、それでも、地球の、特に白人の自我意識とプライドをどうにかすることはできず、白人国家が地球を核爆弾で破壊してしまうのをどうしても防ぐことができなかったのです。<br /> <br /> 織田信長が太平洋を征服したタイムラインが使えないのであれば、仕方がない、と。その時点にまで戻ることにしました。500年ほどの遡りです。織田信長の時代に戻って、織田信長に太平洋まで進出させずに引退させて日本は日本だけに留まることにしたのです。織田信長の行動に関するタイムラインはいくつかありますけど、国内で引きこもるタイムラインもあれば、バチカンに引きこもるタイムラインもあります。織田信長にメッセージを送って、貴方が太平洋沿岸まで進出してしまうと、その後、地球が破壊されてしまう。だから思い留まってほしい、と言われたのです。これはスピリチュアルなメッセージで、チャネリングに近い形で行われました。織田信長はそれを了承したわけです。<br /> <br /> 織田信長のタイムラインはいくつもあって、実際のところ、最初、織田信長は日本を統一するつもりはなくて、日本の神様に徳川家康を手伝って欲しいと言われたから武将をしていただけでした。しかし、最初のタイムラインにおいて徳川家康が一向にやる気を見せずに日本統一しようとしなくて、そのうち今川に攻め込まれて負けて敗者としての人生を送ることになりましたので、元々頼まれていたのは徳川家康の天下統一を助けることだったけれども、彼がやらないのなら俺がやる、と思ってタイムラインを書き換えて天下統一への道を進んだのでした。実際のところ織田信長は神様(というか天使系)の分霊ですのでそのようなことができました。そしてある程度うまくいきかけたのですけど2回目のタイムラインでは本能寺の変で誰かに殺されました。明智光秀という定説ですけど、おそらくは羽柴秀吉の策略だったように思います。ただ、殺されるまで誰が犯人だったかは本人は気づいていなかったようで、死んだ後も、なかなか誰が真犯人かわからなかったようです。今に至って、現代の目から見直してようやく羽柴秀吉が真犯人ではないか、という理解に至ったようです。ですからタイムラインをやり直しているうちは誰が真犯人かはわからないのですけど、殺された後、一旦はそのままの時間軸でタイムラインを遡らずに島根の方でお殿様をしたのですけど戦国の時代が終わってしまったので大した活躍もできなかったようです。その後、タイムラインを遡って織田信長をやり直し、今度は本能寺の変を回避し、日本を統一してから太平洋の沿岸に進出したわけです。その時のエピソードにも面白いものがいくつもあって、親睦を深めるためにインディアンの主要な部族の次の酋長となる若者を日本に呼んで1年ほど滞在させたりしたこともありました。そのインディアンの若者は後程アメリカに戻ってからインディアンの部族を説得して日本との協力関係を築くように働いてくれました。まさに戦闘部族の若者で、催し物で相撲の観戦試合があったのですけど、余興でそのインディアンの次期酋長が力士と対戦し、力士が50cmほど持ち上がるくらい力強く遠くにまで投げ飛ばし、力の違いを見せつけたこともあります。観戦していた多くの武士たちは「おおお!!!」と大喝采を上げたものです。そのインディアンの若者は最初はなかなか馴染まなかったのですけど、京都の置屋から夜の女を呼んで夜の寝床で接待をさせたら次の日はめちゃくちゃにやけ顔で喜んで日本に馴染んだ、ということもありました。又、政治的な面で言えば、そのタイムラインでは織田信長の命によって大統領選挙が施行されました。大統領選挙の前に、自治に関しては自分たちが行うという原則の元、農民など武士以外の階級から立候補者を募って選挙で自治をする、というシステムを作りました。その後、お殿様だけが立候補できる大統領選挙、というものも作ったのです。それにより、広大な領土を収めることができる下地ができたのです。その結果、日本の周囲、太平洋沿岸ではうまくいきましたけど、上に書きました通り、地球は破壊されてしまいました。今のタイムラインは、織田信長が本能寺の変を回避して生き延びるものの死んだことにした、というタイムラインから続いています。<br /> <br /> 今のタイムラインは積極的に選ばれたものではなく、本来、好ましいと思われていたタイムラインが行き詰まった結果として今のタイムラインにいるわけです。そして、それはある意味、実験みたいなものでした。あちらのタイムラインが失敗していて、こちらのタイムラインでは成功するかというと、その保証はありません。案の定、こちらのタイムラインでも白人国家が核爆弾を始めて、何度か地球は粉々に砕かれたり大陸が吹っ飛んだりしました。大抵の場合は大陸が吹っ飛ぶような状況で、時折、地球が粉々、というタイムラインもありました。地球が残ったとしても地球上に放射能が満ち溢れ、死の雨が降るような世界になってしまいました。神様は、それらの中途半端なタイムラインも含めて失敗とみなし、破棄することにしました。<br /> <br /> そのように、日本が小さい島国のまま留まるパターンにおいても基本的には地球が吹っ飛んでしまっていたのです。これには神様も困り果てました。そこで、神様は、うまく行くかどうかはわからないけれども、色々試して、とにかく地球に大規模な核戦争がおきらない、ということを第一として、地球が存続することを第一の目的にすることにしました。それまでは、日本が尊厳を守っていて国土も侵略されておらず、できれば日本が大きな国土を管理して大勢の人々が平和に暮らすことを目的としていました。ですから本来は織田信長が太平洋沿岸を治めたタイムラインが良かったわけですけれども、今のように小さな日本であったとしても同様になってしまうということで、本当に困ったようです。<br /> <br /> 織田信長の時代に大きく周辺国を平定することはあったとしても、それまでのタイムラインにおいて日本は近代において周辺国に戦争を仕掛けることはなかったのです。ですけど、上記の通り、かなり行き詰まりましたので、核戦争が全く起こらないという世界を諦めて、核戦争の影響を最低限に抑える、ということを目的にし直しました。<br /> <br /> 状況を見ていると、核爆弾ができてから威力がどんどんと高まった後に戦争が起こることによってその時点での最新の核爆弾が使われてしまい、その威力に応じて大陸が吹き飛ぶか地球が吹き飛ぶか、ということになってしまっていました。<br /> <br /> そこで、核爆弾がいよいよ作られるかどうか、という初期の段階で核爆弾を使わせてその威力及び怖さを知らしめ、それ以上核爆弾を使わせないようにできはしないか、というプランが考え出されました。<br /> <br /> その時、多くの国は神様との繋がりを失っており、神様の繋がりを保っていたほぼ唯一の国が日本だったのです。<br /> <br /> 他の国の首相や指導者に神からのメッセージを伝えても届かないか、あるいは、単なる想像やインスピレーションとして片付けられてしまいます。日本は神と繋がった国ですから巫女経由で天皇及び首相に意思が内々に伝えられ、開戦が許可されたわけです。昔から日本の国は神の指示には従ってきましたしその指示は必ず当たるものでした。今回も、神が勝つと言ったのだから必ず勝つものと確信していました。しかしそれは外れることになったわけで、それは、そもそも神が負ける戦を選んだからでした。実際のところその巫女はとても能力が高く、それまでにほどんど間違えたことがないほどの信頼がありました。今回もそれ故に信用されたわけですけれども、戦争に負けたことで、重大な場面で予言を外したことによって神が疑われることになったわけです。戦争以前は神の言葉は絶対でしたし必ず当たるものとして信頼されてきましたが、戦争に負けた結果、神はいるかどうかわからないという神学論に押しやられ、人間の頭で考えて政治や軍事をすればいい、というところにまで人の心が神から離れてしまいました。実際のところ、これは神にとって不本意なことではありましたが、それも全て、地球を存続させるという選択をしたが故にその他のことには目を瞑ったのです。<br /> <br /> 神は細かい制御まではできない、と上で言いましたけど、神が巫女を通じて意思を伝えた後は人間たちの方でそれを汲み取って政治や軍事を展開するわけですけれども、どのような結果になるかは、実際のところ、やってみないと神にとってもわからないのです。わからないとは言いましても神は時空を越えることができますから、一旦タイムラインができてしまえばそのタイムラインを辿って未来を見ることもできて、結果を知ることもできます。そして、結果として失敗すればまたやり直しです。その繰り返しなわけです。<br /> <br /> 幸いにして、今のタイムラインは現在まで地球が存続しているわけですけれども、神の意思が加わってはいるものの細かいところまでは手が回っておらず、地球の存続のために細かなところはほぼ全て許容されているのが現状です。ですから、神としては日本に原爆が落とされたのは不本意ではありますけど、地球の存続のためには許容したのです。戦争もそもそもするつもりがなかったのですけど、日本が戦争をしないタイムラインにおいてはことごとく地球が滅亡してしまうため、世界のタイムラインに大きく介入する意図を持って、ある種、実験的に戦争をしたのです。そして、このタイムラインでは運よく地球が存続しています。実験とかいうと失礼に聞こえてしまうかもしれませんけど、神からしたら今のタイムラインは不本意ながらどうにか地球を存続させるための挑戦のようなものなのです。その神の意思として日本が戦争に導かれ、日本が翻弄され、原爆を落とされたわけですけれども、日本としては、色々この現在にて言われているような太平洋戦争への道だとか大東亜共栄圏だとか、そういうお話も理屈としては確かにあるのですけど、根本にあるのはこのような神の選択、それは、言葉を変えてしまえば「神遊び」の一種として日本が戦争への道へと導かれたわけです。人間からすればなんと酷いことをする神なのだろうかとお思いかもしれませんけど、地球が滅亡しないために、日本人と日本という国土を地球のために奉仕する犠牲に選んで大義のために働かせたわけです。そして、日本人はきちんとその役割を果たしてくれました。とは言いましても、今の日本の姿及び日本人の姿は神が本来意図した好ましい姿とは少し離れていて、単に地球が存続するだけでなく、日本が大元の日本の姿、神を基本とした国の成り立ちに戻るべく神は意図しているようです。もちろん地球が存続するということが第一なのは変わりませんが、その範囲において、日本人のありようも本来の姿に立ち返るべきだと考えているようです。基本は単純で、神を基本とした国のありようです。日本はものを作るにしても何を作るにしても神と一緒に生活していて、例えば、飛行機の設計などでも神の助言で作っていたりしました。例えば日本の飛行機YS-11は今の人は日本人の技術力の高さだとか思っていますけど、そういう面も確かにありますけど設計者は幾度となく神様に訪ねて具体的な設計をこうした方がいいとか改良する内容を具体的に指示をもらっていたから名機が出来上がったのです。それを、今の人は傲慢にも日本人の技術力が高いと思い上がっているから完成せずに撤退することになったわけです。どんな時にも未来を見通す神の力より優れたものはなく、人の認識が及ばないところの助けを請わなくては日本人の優位性は次第に失われてゆくということだと思います。そのように、戦争で負けたことにより日本人から神から離れてしまったわけですけど、神の意図は上で説明したようなことですから、戦争に負けたことで「神はいない」などと思わずに、昔のように神を頼って欲しいと神は願っています。それが日本復活への道、ましてや地球滅亡を防ぐことにもなります。<br /> <br /> <再度書いておきますけど、幽体離脱や夢で見たことですので本当のことかどうかは分かりません><br /> <br /> Sun, 12 Sep 2021 00:00:00 +0900 無意識のトランス状態からの脱却 https://w-jp.net/2021/2469/ <br /> 無意識のトランスというのは良くない状態で、意識を常に保つのが瞑想者としてはあるべき姿です。<br /> <br /> 私の場合、元々アストラルな感情や諸々を感じやすくて、子供の頃の生活環境及び学校生活や近所付き合いなどが原因によるトラウマにより高校生までの間に葛藤を抱えてしまい、無意識的なトランスに度々入る体質になってしまっていました。家族から人並には愛されたとは思いますけどそれでも色々と家庭環境に問題があって、色々とメンタルを壊す原因がありましたし、学校生活での同級生の葛藤や近所のめんどくさいいじめっ子のガキ大将みたいなのがいたりして、何かと面倒な環境でした。大学で東京に出ましたのでそのような環境とは無縁になったのですが、大学以降にそれを解消する意図を始めてから数十年を費やしてトラウマの解消および無意識的なトランスに入らないように心がけてきたわけですけれども、今、特にサハスララにオーラが満ちて以降は無意識的なトランスに陥ることはほぼなくなって、ようやく本質的にほぼ解消したと言えます。段階的に解消してきて、そのトラウマは若い頃は普段の日常生活で突如トランスになるような感じだったのが日常生活での突如のトランスに関しては次第に減ってゆき、やがては、ストレスを抱えたりゾーンに入った時だけトランスに入ってトラウマ等が出てくるような感じになりました。<br /> <br /> トランスに入ると根源とも言える無意識に繋がるのですが、トラウマを抱えていない状態ではゾーン状態として成果が上がったり歓喜に満ちたりするのですがトラウマを抱えているとそのトラウマと強く結びついてしまい、自意識が働かなくて自分が何をしているのかも気付かずに何かを行動していたり、時にはボソボソと何かを呟いたりしていました。トラウマを抱えているトランス状態は一般的に言ってメンタルに問題がある状態だったと言えます。<br /> <br /> トランスに入った時、トラウマに囚われなければ良いトランスとしてゾーンになり、トラウマが湧き上がってくると良くないトランスになっていたように思います。ですけど、そもそもトランスに入ること自体、あまり良くないことであるように思います。トランスというと自意識がない状態、というのが基本でありますけど、私の場合、自意識がない状態から始まって半覚醒の状態に戻り、そして通用の顕在意識に戻る、というような遷移がありました。自意識がない状態では自分が何をしているのかわからず、制御に困ることになります。<br /> <br /> 特に4〜5年ほど前にヨガと瞑想を始めてから自動的なトランスに入ることが激減してきたわけですけれども、ここにきて、ほぼ解消されたと言えます。<br /> <br /> もともと、小学校の頃に幽体離脱して以降、アストラル的な目に見えない世界と結びつきやすくなって、メンタル的な不安定さと重なってコントロールが難しくなっていたようにも思います。<br /> <br /> ただ、私が幽体離脱したときに見て理解した、私が生まれてくることになった理由を確かめてみると、このようにしたのがベストだったと言えます。パラレルワールドもいくつかあって、もっと裕福だったり悩みのないタイムラインもあるのですけど、そのように楽な生活だとスピリチュアル的に成長できないので厳しい環境を選んだ、ということのようです。基本にあるのは「今生の目的はカルマの解消と覚醒への階梯を確かめることの2つ 」ということですから、その目的に対してベストな選択であったと言えます。裕福で楽な生活を送っていると、少なくとも私のパラレルワールドの場合はそれほどスピリチュアルに成長できなかったようです。<br /> <br /> 世間からするとメンタル的に厳しく見えたかもしれませんけど、長い目で見れば他のタイムラインと比べて今のタイムラインが一番スピリチュアル的に成長しているように思います。<br /> <br /> スピリチュアルで厳しい段階にあるのがアストラルの感情的あるいは無意識の段階を通り抜ける時で、私の場合は小学校の頃に幽体離脱をして以降、度々アストラルな世界と対峙してきたわけですけれども、基本はゾーンに入ってアストラルの世界を扱っていたように思います。アストラルの世界は感情が基本となっていて、ゾーンだけでなく、無意識のトランスの世界でもあります。アストラルの世界は最初は無意識でも次第にアストラルの世界が意識的なものへと変わってゆきます。その、アストラル的な世界への対峙は私の場合は転生も含めると何十もの人生の間でずっとアストラルの感情の世界を扱ってきたように思います。<br /> <br /> ですけど、アストラルの感情の世界における喜びや悲しみ、そして未来予知などはあくまでもアストラルの世界に限られるものであって、わかったからと言って、それ以上の世界のお話と比べるとちっぽけなものなのだと思います。<br /> <br /> 基本的に人生はアストラルの世界で行われていて感情が主ではありますけど、その先の世界に行こうとしたら一歩手前の世界を否定しなくてはいけない、ということだと思います。アストラルの世界に行くためには肉体を否定する必要がありますし、カラーナ(コーザル、原因)の世界に行くためにはアストラルの感情の世界を否定しなくてはならないのだと思います。私の場合はちょっと粗治療でしたけど割と今となっては全てが完璧だったように思います。<br /> <br /> アストラルの世界は魑魅魍魎が闊歩していて危ない世界でもありますから、ヨーガや仏教では魔境と言われていたり、アストラルな世界に踏み出さずに肉体だけの世界で生きることを推奨しているように思われる流派もあります。<br /> <br /> ですけど、私が思うには、アストラルの世界と対峙して時には精神的に不安定になることが必ずスピリチュアルにおける一定の段階において必要でありそこを通り抜ける必要があって、精神的に不安定にならないようなスピリチュアルは偽物で、そのように気をつけないといけない段階だからこそ正しいグルの見守りというものが必要のように思います。人によっては数年で通り抜けるようですけど、私の場合、がっつりと経験して三十年くらいかかったように思います。それは、私の人生の目的だった、グループソウルのカルマをも含めた解消をする必要があったので時間がかかったという点もありますけど、更には、学びのために、覚醒への階梯を確かめるためにはこのくらいの時間が必要だった、ということでもあると思います。<br /> <br /> Sat, 11 Sep 2021 00:00:00 +0900 下実上平で呼吸がないようになる https://w-jp.net/2021/2468/ <br /> 下実上平とは本山博先生の造語ですが、透明なエネルギーが体全体にバランス良く充満していて上半身が非常に平らな状態とのことです。その時に、 カーラナ(コーザル、原因)との合一(三昧)がなされる、とのことです。<br /> <br /> その記述の中で、下実上平の特徴として「呼吸がないようになる」という文言を発見致しました。<br /> <br /> 下実上平ははっきりと目が覚めている。光り輝いているような感じがして、ずーっと自分が一帯に拡がっているのです。(中略)「呼吸がないようになる」ということが非常に大事なのです。普通の呼吸をしている間は深い瞑想や三昧には決して入れない。(中略)呼吸がまるでないような状態にならなければだめなのです。呼吸をしなくてもいつまでも楽でいられ、心臓の鼓動もなく、意識ははっきりと覚めていて、平安であり、次第に体の意識がなくなるが、意識は依然として明晰である。次第に自分の存在が広がってゆく。「本山博著作集8」<br /> <br /> これを読むと、最近の呼吸が止まったかのような状態(クンバカ)が相当するような気が致します。実際のところクンバカが自動に起こるというだけであればそのかなり前の段階でも起きていたわけですけど、クンバカだけでは判別が難しいですけど、その他の手がかりを元に判断すると私の今の状態を表していると言えると思います。<br /> <br /> 自動的にクンバカが起こる、というのは他の流派でも重要な段階と捉えられていて、思えばインドでクリヤ・ヨガのお話を聞いた時に何段階か以降に進むためには息を止める瞑想(サマーディ、三昧)に入る必要があって、ある程度の段階以降になると息を止めたサマーディの状態でテレパシーで教えが伝授される、ということでした。当時は「そんなの無理でしょう」と思っていたのですけど、案外、それは可能なのかもしれません。私はまだ長い間息を止めていることはできなくて、できないというよりは常識が邪魔して顕在意識で息を再開してしまっていますけど、実際のところ、顕在意識が邪魔をせずになるがままにさせておけば息を止めておいても案外平気なのかもしれません。<br /> <br /> ただ、心臓が止まる、というのはよくわかりませんけど。本当のことなのか、比喩的にそのように感じられるだけなのか。心臓が動いていないように感じられるだけであれば私は既に経験済ではありますし、最近の呼吸が止まる時も心臓のことなんて意識しておりませんから、ただ単に意識していないだけだと思いますけど、心臓が止まる、というのはよくわかりません。ただ単に心臓の鼓動が意識されない、というだけのようにも思いますが、本当に止まるかどうか、そこはよくわかりません。<br /> <br /> Sat, 11 Sep 2021 00:00:00 +0900 チャクラは気・アストラル・カーラナの次元それぞれにある https://w-jp.net/2021/2467/ <br /> 本山博先生の著作によればチャクラは「気の次元」「アストラルの次元」「カーラナの次元」それぞれにある、とのことです。<br /> <br /> 次元で言いますと肉体(物理的)・アストラル・コーザル・プルシャ、という順番になるわけですけれども、一応は「コーザル」までが「物」になって、プルシャは物ではない、という分類になります。コーザルは微細ではありますけど、それでも一応は「物」として分類されているようです。それゆえに、プルシャの段階になるとプルシャは物ではないのでチャクラというものはないようです。微細とは言っても一応は物なものに分類されるカーラナまでにチャクラは存在するようです。<br /> <br /> サマーディはアストラル・カーラナ・プルシャの段階それぞれにあるということですけれども、それと似たような話で、本山博先生の世界ではアストラルとコーザルとプルシャが厳密に分類されているようです。これは、他のヨーガの流派では見られない点です。<br /> <br /> ヴェーダンタとかで言いますと肉体がストゥーラ・シャリーラ(粗大な体)、アストラルやカーラナ等がスークシュマ・シャリーラ(微細な体)、そして、それではないものがアートマン、という3分類になっています。<br /> <br /> ストゥーラ・シャリーラ(粗大な体)とスークシュマ・シャリーラ(微細な体)の2つを本山博先生は「物」と言っているようで、一方、その上にプルシャを置いていますけど、プルシャは物ではない、という点においてアートマンに相当すると思います。<br /> <br /> そもそもプルシャという言い方はヨーガ・スートラ等のサンキャ哲学の言い方で、ヴェーダンタではプルシャとは言わなくてアートマンだったりブラフマンだったりしますけど、ひとまずここでは本山博先生の著作を見ていますからプルシャでいいと思います。<br /> <br /> 本山博先生の分類に基づくと、粗大な体(肉体)に結びついている気の次元のチャクラと、アストラルの次元に結びついているチャクラ、そして、カーラナ(コーザル、原因)に結びついているチャクラがあるようです。<br /> <br /> ムーラダーラチャクラは、肉体の次元では背骨の尾骨の中にあるわけですが、背骨の真ん中には水がたまっている中心管があって、普通はこの中心管がスシュムナと言われています。この中にさらにチトリニナディとかブラフマナディというのがあって、スシュムナは物理的次元ー気の次元の督脈に対応し、チトリニナディというのはアストラルに対応し、ブラフマナディというのがカーラナに対応しています。(中略)どの次元でこのムーラダーラが目覚めてくるかによって、その働き方とか状態とかはまったく違うわけです。(中略) 例えばアストラル次元では色や形があるが、カーラナの次元になると色はない、光って見えるけれども。「本山博著作集5」<br /> <br /> これはヨーガにはない考え方で非常に興味深いです。<br /> <br /> 確かに、チャクラの活性化においてヨーガでは「一旦ムーラダーラからアジナに行ったのち、アナハタに戻ってから再度上がる」みたいなことを言っていますけど、戻ってから上がるというよりは、それぞれアストラルの次元あるいはカーラナの次元あるいはプルシャでの次元での目覚めだと考えて分類しなおした方がスッキリするように思います。<br /> <br /> 今後、この視点も加えて観察していきたいと思います。<br /> <br /> Sat, 11 Sep 2021 00:00:00 +0900 アストラル次元は感情の心を扱う https://w-jp.net/2021/2466/ <br /> 先日、ゾーン状態はアストラルのサマーディということを書きましたが、本山博先生の分類に基づけばアストラル領域は感情の世界ということですから、瞑想者はもとよりアスリートや技術者が入り込む極度の集中および歓喜の状態である「ゾーン」はアストラル領域に相当するわけです。<br /> <br /> アストラルの次元の場合は、「心」と言っても、主に感情や想像が主になっているものです。 「本山博著作集5」<br /> <br /> はっきりとはそう記述されてはおりませんが、アストラルに相当すると解釈するのが妥当と思われます。ただ、アストラルでは感情が強い一方で、その次の段階であるカーラナ(コーザル、原因)の段階でも感情はあるとのことです。しかしながら、強い歓喜ということであればアストラルが相当するように思います。<br /> <br /> アストラルの次元での合一の状態(=三昧)が起きると、非常に気持ちがいい。アストラルの次元で起きる合一には、感情や感情的な要素が入ってくる場合が多いのです。非常に気持ちがいいとか、悪いとかそういう快感・不快感というのがある。「本山博著作集8」<br /> <br /> 物理的な次元を超えてアストラルの段階で合一が起きると目的となっている集中の対象との合一がなされて、アスリートならばゾーンの状態になったり、技術者であればゾーンに入って物事がスムーズに進んで良い作品を作れたりします。それはそれで素晴らしいことではありますけど、瞑想者としてはそこはゴールではないということです。目的が結果を出すという現世利益であるならばゾーンが目的なのも当然かとは思いますし、仕事のパフォーマンスをあげるための瞑想、あるいはストレス解消のための瞑想というものも世の中にはありますから、そのような目的であればゾーンはとてもうまく働くと思います。<br /> <br /> ただし、ゾーンはあくまでもアストラル次元の三昧(サマーディ)ですから、本質的に心の問題を解決するわけではありませんが、ゾーンであっても一時的には心の問題を解決しますので、全く解決しないよりはるかによくて、それゆえに、ゾーンはそれなりに有益であるわけです。<br /> <br /> Sat, 11 Sep 2021 00:00:00 +0900 意識が静まると雲が見え、やがて輝き出す https://w-jp.net/2021/2465/ <br /> 瞑想をして眉間に集中します。最初はオーラが安定していないこともありますが、日によっては最初から安定していて、あるいは、自動的な小周天あるいは大周天が起きる瞑想から凪の状態へと移行します。<br /> <br /> その時、段階的に体の各所の緊張が取れてリラックスしてゆきます。<br /> <br /> これは、意図してそうなるということではなくて、行うのは単に眉間に集中を続けているだけです。行動としては眉間への集中の瞑想で、結果としてこれらの凪の状態およびリラックスが起こります。<br /> <br /> そして、リラックスが目的であればここで瞑想を辞めても良いのですけど、その状態でも更に瞑想を続けます。その先を見るためです。<br /> <br /> リラックスして瞑想を続けているとサハスララにオーラが満ち、その結果、雑念がまた一段階減ります。<br /> <br /> 雑念が減った状態が目的であればそこで瞑想を辞めても良いのですけど、更に瞑想を続けて様子を見ます。その先を見るためです。<br /> <br /> そうして雑念が減った状態、サハスララにそれなりにオーラが満ちた状態で瞑想を続けていると、やがて、目の前に雲で覆われている自分が見えてきます。これは、潜在意識を覆い隠している雲です。<br /> <br /> この雲は、雑念がまだ多い状態ですとそのまた上に一層、雑念の雲が乗っています。サハスララにそれなりにオーラが満ちた状態ですと、上に乗っていた雑念の雲は取り払われた状態なのですが、まだ、その下に雲がかかっているのが見えます。<br /> <br /> 雲は2層になっているわけですね。<br /> <br /> 上に被さっている雑念の雲。そして、今見えてきた(潜在意識を覆い隠している)雲です。<br /> <br /> この、潜在意識を覆い隠している雲はそれなりに厚いのですが雨雲のように暗くはなくて、雨が降っていない曇りの日の雲のような感じです。<br /> <br /> その雲を観察しながら瞑想を続けていると、ふと、雲が薄くなってきて向こうにある光がうっすらと輝き出します。<br /> <br /> 私の場合、時折強く光る程度で常に輝いているというわけではありませんけど、それでも、雲の途切れ目から太陽がうっすらと見えるかの如く、雲が晴れて晴天になる前触れのようなものを感じます。<br /> <br /> 聖典やヨーガの行者が「光り輝くものを見る」と言っているのは、このことなのかもしれません。ただ同時に、聖典が伝えることによれば、そのような光は一定の瞑想の進歩を示すものではあるものの、さほど重要ではない、とも伝えています。実際のところ聖典が伝える光と私の言う光とが同一であるかどうかは微妙なところではあります。光それ自体であればもっと昔から度々見ておりましたけど、今回のように、意識の状態とサハスララの状態とが一致して光になる、という感じではなく、うっすらと見えていたり時折光っていただけでしたから。集中だけでも光というのは感じられたり強く光ったりしますから、光というだけではなかなか判別は難しいものです。<br /> <br /> ですけど、本山博先生の著作によれば、サハスララチャクラでは、光り輝いているということであり、カーラナ(コーザル、原因)に達すると光り輝くということでもあるようですので、私の段階がカーラナ(コーザル)に達しつつある、ということなのかもしれません。<br /> <br /> 個人的な解釈としては、カーラナ(コーザル)というのはカルマやトラウマの蓄積のことですからカルマの解消という意味では随分と前から行ってきていて、光り輝くというのはカーラナ(コーザル)への対処を卒業しつつある時にそうなるのではないか、というのが私の理解です。カーラナ(コーザル)に入り始めるときにカルマやトラウマの整理が本格的に始まって、その段階では雲は光を通さないほど厚くて暗いわけです。それがアストラルの下層及び上層という段階で、アストラルの段階ではカーラナ(コーザル)の厚い雲がまだ残っていて、カーラナ(コーザル)のカルマやトラウマに対処しているのがアストラルの段階なわけです。そして、カルマやトラウマの解消が終わってくるとカーラナ(コーザル)の雲が取り払われてきて、そうすると輝いてくるのかなと思います。ですから、本山博先生がおっしゃっているアストラルの段階とかカーラナの段階というのは、見え始めた段階から対処が終わる段階、というところに細分されるのだと思います。それは、本山博先生がいうところのサマーディというのはアストラル、カーラナ(コーザル、原因)、プルシャ、それぞれにあるということに相当すると思いますので、物理的な次元からアストラルのサマーディで合一する時もあれば、今回の私のように(アストラルの段階でカーラナに対処していた段階から進んで)カーラナを卒業して次の段階へ進みつつある段階でサマーディが起こって合一する、ということもあるのだと思います。カーラナに進むことを妨げていてカルマやトラウマの厚い雲が薄くなってきて、カーラナの次元と合一しつつあるということなのかな、という気も致します。<br /> <br /> 実際のところ段階としてはカーラナ(コーザル)の次にプルシャ(個としての神霊)、更に次には創造神、という段階があるようですのでカーラナ(コーザル)の段階はまだまだ途中ではあるのですけど、それでも、一つ重要な一歩を踏んだ気が致します。<br /> <br /> この時、意識の状態としては凪の状態なわけですけれども、顕在意識の意識は静かに止まっていて、一方、特に重要だと思うのですけど、潜在意識としての意図する意識の方も努力して静止し続けているという点です。これが重要な違いで、単に思考(ブッディ)が止まっているだけでなく、意図する潜在意識の方もそれなりに静かになっていることがこの状態において必要のように思います。<br /> <br /> ■呼吸の変化<br /> この、光り輝く段階になると体へも変化が出てきて、光り輝くのと同時に呼吸が自動的に止まります。とは言いましてもずっと息を止めていることはできませんので顕在意識を強制的に働かせて呼吸を回復するのですけど、とても強い力でまた光り輝くのと同時に呼吸が停止する状態に引っ張られてゆきます。そのまま呼吸を止めていても実際のところ平気なのかもしれませんけど、今のところ、あまり長い間は呼吸を止めることなく顕在意識を働かせるようにしています。<br /> <br /> ヨーガで呼吸を止める方法とかも色々あって修行方法の1つではありますけど、私の場合、呼吸を止める(クンバカ)は割と苦手な方だったのですけど、ここにきて急に呼吸が止まることが起きました。<br /> <br /> 今から思い返せば、この、クンバカが苦手な段階と自動的な止息(ケヴァラ・クンバカ)が起こる段階とは交互に起きていたように思います。元々クンバカが苦手で、その後、自動的に止息(ケヴァラ・クンバカ)が起こるようになって、しかしながらクンダリーニ経験後にはクンバカが苦手になり、それなりに今は普通に戻りつつあったのですけど、ここにきて再度、自動的な止息(ケヴァラ・クンバカ)が起こるようになった感じです。<br /> <br /> 一説によればクンバカができる時間は「器÷エネルギーの強さ=クンバカの時間」とのことですので、器が大きくなったり、エネルギーが強くなったり、という変化によってクンバカの苦手や自動的な子息(ケヴァラ・クンバカ)が変化してきているのかもしれません。<br /> <br /> そのようなクンバカの変化がありつつも、視界としては光り輝いているわけです。<br /> <br /> Sat, 11 Sep 2021 00:00:00 +0900 潜在意識で手放しを意図して、顕在意識では意図しない https://w-jp.net/2021/2464/ <br /> 何かの問題から離れようとするとき、スピリチュアルではよく「手放し」が行われたりしますけど、普通に文字通り読んでしまうと顕在意識で「手放します」と宣言することかなと思ってしまうかもしれませんけど、この種の「手放し」は顕在意識で行うものではなくて、潜在意識で手放しを意図するものなわけです。<br /> <br /> 同じくスピリチュアルで「思いが実現する」みたいなことも言われていますけど、ここで言う思いとは顕在意識のことではなくて潜在意識で意図することを「思いが実現する」「願いは実現する」みたいに表現しているわけです。ですけど、普通に文字通り読むだけですと顕在意識で願い事をすれば実現するように思えてしまうかもしれませんけど、顕在意識でいくら願ったところでも大して現実は変わらないわけです。<br /> <br /> 一方、潜在意識で意図すれば割とスムーズに物事は変わっていきます。<br /> <br /> それは、良いこと悪いこと全てそうなります。実際のところ物事に善悪なんてありませんから意図すればその通りになります。<br /> <br /> かと言ってなんでも好きになるかというと、潜在意識で意図した時にどのくらいスムーズに意図できるか次第でどのくらい現実化するかが決まります。意図した時に何やら抵抗があるようであればなかなか難しいでしょうし、意図がすんなり受け入れられたと思ったならば割とその通りになります。<br /> <br /> その、潜在意識で意図する時、意図が「(何かを)手放します」であればそれはスピリチュアル的な「手放し」になるわけです。<br /> <br /> 同じ意図を使って「何かを成し遂げます」とか「何かを手に入れます」と意図することもできるわけです。意図は意図でしかなくて、その意図により手放しをしようが何を願おうが自由なわけです。<br /> <br /> 一方、顕在意識では何も考えないようにします。潜在意識は実際のところ潜在意識にさほど影響を与えませんけど、顕在意識が常に混乱しているような状態ですとなかなか潜在意識で意図するなんてできませんし、であれば、顕在意識を鎮めて潜在意識をうまく使っていくためには瞑想が有効になるわけです。<br /> <br /> では、潜在意識が使えるようになると何でも思い通りかというと、実際のところそのくらいになりますと自分と他人の区別がなくなってゆきますので自分のためというよりは社会のため、コミュニティのために潜在意識を働かせることが多くなってゆきます。とは言いましても個人的な願望も多々あって、個人的なお話で現実を動かすこともあるわけですけど、そのくらいになりますと割と調和の視点から個人的な願望を捉えるようになります。<br /> <br /> 過渡期には色々と個人的な願望を叶えたりもしますけどその時点ではまだ現実を変える力は弱くて、潜在意識の力も限られているわけです。このくらいの時期が一番「手放し」とか「引き寄せの法則」が意図して働きやすくて、それ以上になると現実が意図通りに動くのが当たり前すぎてわざわざ手放しとか引き寄せとか言うのが微妙な気も致します。そもそも手放しが必要なのは何か苦しいからで、苦しくなければわざわざ手放しとか不要ですし、引き寄せの法則が必要なのは願望があるからで、願望がなければ引き寄せの法則なんて不要なわけです。かと言って必要があれば意図して手放しとか引き寄せはできますのでたまには意図して使いますけどそれなりにスピリチュアルに成長してしまえばそれらを意図する原因がかなり減っていますから、まだスピリチュアルにさほど成長していなくて手放しとか引き寄せとかを求めている段階と比べると手放しとか引き寄せとかの重みは減っているわけです。手放しとか引き寄せとか言っているのは顕在意識が苦しいからで、顕在意識の働きかけが減ってゆくのならばこれらの同じ法則は無意識・潜在意識の領域でだけ働くようになって、それは当たり前の働きとして無意識が感じて無意識が働きかけを行うようになります。無意識とは言っていても瞑想すればその無意識を把握して無意識に対して働きかけをすることができるようになりますからもはや無意識というのは不適切かもしれませんけど、言葉を変えるならば集合無意識とでも呼べるものに対して働きかけをするわけで、潜在意識と言ってもいいわけです。一方、手放しとかわざわざ言っているのは割とスピリチュアルでそれほど成長していない人向けのように思います。スピリチュアルにさほど成長していない段階で「手放し」を求めていて、いざ本当に手放しができる段階に達してみるとその「手放し」は顕在意識ではさほど必要ではなくなるけれども潜在意識的にとっては当たり前になる、という感じです。<br /> <br /> Sat, 11 Sep 2021 00:00:00 +0900 瞑想がある程度進めば心理学等はあまり必要でなくなる https://w-jp.net/2021/2463/ <br /> 心理学や哲学は、アリストテレスやプラトンなど古典の書物を読むとそれなりに瞑想が進んだ方が書いていると思われることも多々ありますが、近年の心理学・哲学は思考する心(マインド)が認知できる範囲のみを扱っていて、マインド以上の領域を扱っていために、思考で問題を解決する、というお話に終始してしまうわけです。<br /> <br /> 古典の人々は人の思考する心(マインド)以上の世界を受け入れていて、それはイデアとか色々な言葉で言われていたりしますけど、瞑想はその辺りのお話を扱うわけで、思考する心(マインド)は瞑想で言うとまだ入口なわけです。その入口を主に扱っている最近の近代心理学は瞑想者にとっては興味が薄い分野になるわけです。<br /> <br /> 近代の心理学を作った方々はおそらく本人が思考する心(マインド)以上のことがわからなかったのでしょうし、一方、古典のアリストテレスやプラトンはそれ以上の世界を認知していたと言うことでしょうから、それぞれの立場において正直なのはいいのですけど、古来の人々が扱ってきたマインド以上の世界を扱っていない以上、近代の心理学は瞑想者にとって物足りないお話になるわけです。<br /> <br /> 基本的に、瞑想者は自分の意識を高めることで超越しようとします。そのことを瞑想の流派によって色々と言葉で言われていたりしますけど、表現が違うだけで同じことだったりします。人によってはパワーを上げる、というでしょうし、波動を高める、と言ったり、あるいは、愛を高める、とか、至福、とか、慈愛、とか、あるいは高次元とか神とか言ったりします。言葉を読むだけですと分類してこれとこれは違う、みたいなお話になりますけど、瞑想者としては結局のところ同じことなわけです。<br /> <br /> 心理学で自分の思考に対処する、とか、他人の葛藤をなだめる、とか、自分の葛藤を沈める、とか、怒りを抑える、とか色々ありますけど、瞑想が進むとそれらは全て超越してきて、そのような問題とは関わりがなくなってゆきます。<br /> <br /> 人間ですから日常生活を送る上でそれらの感情とは無縁ではありませんけど、対処方法として心理学がいうように思考を工夫して違う面を理解するようにする、とか、相手を理解する、とか、相互理解を深める、とか、避けるようにする、とか、問題を軽減する、とか、そのような手法はそれなりに有用ではありますけど本質ではなくて、本質は、それらの問題を超越するというところにあるわけです。<br /> <br /> そうは言いましても道徳や教養として避けるべきことというのは瞑想していても残りますから不道徳になるということではなくて、問題が発生した時の対処方法として、基本は道徳とか教養とかの手法に一応は頼るわけではありますけど、根本の本質からいうとそれら心理学や道徳、あるいは教養ではなくて瞑想的な視点で超越することによって根本の解決を図るわけです。<br /> <br /> 超越、ということは、そもそも問題が問題でなくなる、ということでもあります。言うなれば、ゲームの中で起こった問題やイベントが、ゲームを終えてみたら大したことではないのと同様です。日常生活で問題が起こったとしてもゲームのようなもので、本質には関係がないのです。こう言ったからと言ってゲームのように適当に日常生活の問題を軽く扱うということではなく、日常生活は淡々と普通に送るのではありますけど、そのように昔と変わらず普通に生活する中で、その奥の根本に瞑想的な本質があって、その本質が超越した視点を持つということであって、ゲームだから好きにしていいということではなく、ゲームだからいい加減にしてもいい、というわけではないのです。そもそも、瞑想が進めばいい加減とかそういうお話はなくなってゆきますから、いい加減でいい、とか思うのであればそれは瞑想が進んでいない証拠なわけです。日常生活が普通に送ることができて、その中で、その根本の寄り添うところとして根源の瞑想的な意識があって、その根源を超越と言ったりしますけど、超越という言い方が誤解があるのであれば根源、と言ってもいいですし、静寂の心、と言っても良いです。あるいは神意識と呼んでも良いですし、慈愛とか至福とか呼んでも同じことです。そのように、日常の普通の心(マインド)を超えたものがあって、超えたところで生活するのであれば心理学等はあまり必要でなくなる、ということです。<br /> <br /> Fri, 10 Sep 2021 00:00:00 +0900 瞑想が進むと別々の世界に生きるようになる https://w-jp.net/2021/2462/ <br /> この世界は雑多な人が交わって生きる世界でありますけど、瞑想が進むにつれ、人の良い人しか視界に入らないようになってきます。人との関わり合いにおいても、欲望まみれの人に会う機会がどんどんと少なくなってゆきます。<br /> <br /> スピリチュアルの分野においては波動の法則が言われていて、自分と似たような人が集まる、みたいなことが言われていますけどそれは真実で、欲望にまみれた人は視界に入らなかくなってゆきます。<br /> <br /> ただ、このスピリチュアルのお話を文字通り理解してしまうと「分離」の意識になってしまうかもしれなくて、勘違いしてしまうと「汚い誰それたちとは違って私は綺麗な世界で生きるのです」みたいなおかしなお話になってしまいますけど、ここで言っているのは分離のお話ではなくて、基本としては周囲の人全てが悟っているように感じられると言う段階があって、その状態においては分離ではなくて、全て統合されていて、全ての人が唯一の「わたし」として感じられる状態なわけです。<br /> <br /> その状態においては、何故か、欲望に塗れた人が近寄ってこないわけです。<br /> <br /> ですから、実際は近寄ってきているのかもしれませんけど、相手からしても私のことが見えなくなっていますから、あまり影響がないわけです。流石に完全に見えないわけではありませんけど、お互いに気づきにくくなっているわけです。ですから、たまに事故で欲望まみれの人に会うこともありますけど、かなり頻度は少なくなるわけです。<br /> <br /> じゃあ、その状態を目指して「私はこれから、欲望まみれの人と付き合わないようにします」とか思っても無駄なことで、これは「結果」ですから「手段」ではないわけです。<br /> <br /> 結果として欲望まみれの人と付き合わないようにするための手段がそのままストレートに「欲望まみれの人と付き合わなければ良い」と言うことではないわけです。それは最終的な結果であって、手段は違うわけです。<br /> <br /> そのための手法は色々とありますけど効果的なものの1つが瞑想で、瞑想が進むにつれてエネルギーが高まり、周囲の人が全て悟っているかのように感じられるようになり、そして、欲望まみれの人は周囲から消えてゆきます。瞑想ですから、瞑想の手法の基本は集中になります。<br /> <br /> 欲望まみれの人は目的があって誰かに付きまとっているわけですけど、それは、体から発せられているエネルギーを絡め取って奪い取ることが主目的であるわけです。ですから、体のエネルギーの質および形態が変わることによってエネルギーを絡め取ることができなくなったらそれを直感的に感じ取って欲望まみれの人は去ってゆくわけです。欲望まみれの人をスピリチュアル的に言えばエネルギー・ヴァンパイアとなるわけですけど、欲望と言うのはエネルギーの渇望ですから、誰かからエネルギーを奪うことで生きているわけです。<br /> <br /> 防御法としては自分のエネルギーを高めたり、エネルギーのケーブル(エーテルのケーブル)を切ったりする手法もあるにはありますけど、それよりも、ある程度の瞑想に達してエネルギーを満ちた状態にして、かつ、周囲に広がっているエネルギーのフィールドを自分中心に集中させて周囲に奪われないようにするのが良いと思います。<br /> <br /> 奪われないようにする、と言うのは、オーラの質が変わることによっても達成できます。オーラの形及びケーブルを切るだけでなく、自分のオーラの波動が微細になれば粗い欲望まみれの人が必要としているオーラとは違ってきますから、ないものは奪えませんので、粗いオーラがなければ欲望まみれのエネルギー・ヴァンパイアは近寄らなくなってきます。<br /> <br /> お互いに相手のことが見えなくなりますので、お互いに幸せなわけです。<br /> <br /> Thu, 09 Sep 2021 00:00:00 +0900 タイムラインの作り方 https://w-jp.net/2021/2461/ <br /> タイムラインは波紋のようにとある一点から広がって作られてゆきます。新しい波紋が広がる前に存在していた世界のタイムラインは新しい波紋で一部がかき消されますが形は残り、新しい波紋の上に乗った影のようなものになります。<br /> <br /> 先日、パラレルワールドのタイムラインは順番に作られるというお話をしましたけど、その考え方が基本になっています。<br /> <br /> SFで言うとパラレルワールドを時間軸で分けて考えるとタイムライン、と言うことになりますけど、実際のところ、タイムラインには順番があって、パラレルワールドももちろん複数存在してるわけですけれども、基本的には後で作られたタイムラインが残るわけです。<br /> <br /> それは、波紋のように広がりますので、波紋を作った震源地の動きが大きければそれだけ大きな波になり、小さければ変化もそれなり、と言うことになります。<br /> <br /> 水の上の波のように、前の波形の形はある程度は残ります。新しい波によって昔の波がほとんどなくなってしまうこともあれば、小さな波の上に昔の波の形がまだ見える場合もあります。<br /> <br /> そのように、この世界というのは神様の手のひらにある箱庭みたいなもので、箱庭が水で覆われている、あるいは、水槽のようなものだと思っても構いません。水槽の水に波紋が広がるようにタイムラインはどんどんと作られていき、基本的には新しく作られた時間軸が残ることになります。<br /> <br /> 神様の視点からすれば過去も未来も同じですので、人間からすると過去と思われる時間を起点にして新しい波、すなわちタイムラインを作り出すこともあるわけです。<br /> <br /> 比喩をそのまま見てしまうとタイムラインとは上書きすることしかできないのか、と思ってしまうかもしれませんけどこれは比喩でしかありませんので、実際のところ、波が起きる前にも戻ることができて、と言いますか波が起こる前も神様からしたら過去も未来も同じですから単にその状態から分岐してみる、というだけのお話です。よって、上書きするだけでなく、波が起きていない状態からまた新たな波を起こしてタイムラインを作る、と言うことも行うわけです。<br /> <br /> 瞑想をしてそれなりに上達していくと、波の波形の上に乗っている、過去のタイムラインに存在していたかつての歴史を覗き見ることができるようになります。それはタイムライン上に既に存在しているものの既に他の波の影響を受けてしまった波形のことで、タイムラインの順番からすると昔に起こった出来事を見ることができるわけです。<br /> <br /> 過去だけでなく、波が起きる瞬間を見ることで未来を見通すこともできるようになります。未来を見る方法はそれだけでなく、未来の時間軸にいる意識体(自分の将来とか)からそこからすると過去に対して意識を飛ばすことで過去の時点で未来のことを見れたりしますけど、この場合、実際に未来を見ているわけではなくて既に存在している(発生済の、順番的には前の)タイムラインの、しかしながら一応は今の時間軸で言うと未来に相当する姿を見ているわけです。この2つの未来を見る方法は実は全然違っていて、波を見ることでそこに含まれている未来を見ることはまだ今回のタイムラインで実現していない未来の雛形を見るようなもので、それはアストラルな想念とかイメージとか雛形を見ることにつながります。一方、既に存在しているタイムラインから過去のポイントに対して意識を飛ばすと言うのは既に存在している時間軸を見る、あるいは向こう側から情報を送ってもらう、と言うことをしているわけです。この辺りは詳しく説明してもよくわからない気も致しますのでひとまずはこのくらいにしておきますけど、未来を見るのはタイムラインにまだ顕現していないアストラルの想念あるいは雛形を見る方法と、前のタイムラインで既に実現済の現実を垣間見る、という2つの方法があるわけで、後者は実際のところ未来を見ているというよりは過去を見ているのとそうは変わらないわけです。後者の場合、過去を覗き見る場合と未来を覗き見る場合とで大差ないわけです。<br /> <br /> タイムラインを作るときは、意識が重要になってきます。どのような未来を創造するか? それだけで新しいタイムラインが作られます。実は簡単なことですけど、これには良いも悪いもありませんから好きな世界を創造できるわけです。とは言いましても他人(と言っても実は自分自身のようなものですけど)も同様に未来を作ってきますので自分が好きにできるわけではなく、自分がどうにかしようと思っても他人の思いで再度上書きされてしまう(新しいタイムラインに切り替えされてしまう)ということも普通に起こります。<br /> <br /> ですから、タイムラインを作れるとは言っても実際のところ今生きている普通の社会生活とそうは変わらなくて、自分ができることはできるし、無理難題というのはしようと思っても現実化しない、あるいは現実化しようと思っても他の大きな力で打ち消されてしまう、みたいな感じになるわけです。<br /> <br /> 大きくタイムラインを変えることができるのはやはり神様の力を得た人くらいで、そうなるともはや人の力というよりは集合意識のようになりますから、人がタイムラインを作るというよりは地域あるいは国などの単位で未来を作っていく、という方が断然多いわけです。<br /> <br /> Sun, 05 Sep 2021 00:00:00 +0900 自動的な小周天あるいは大周天が起きる瞑想から凪の状態へ https://w-jp.net/2021/2460/ <br /> 特に意識してそうしたわけではないのですが、最近は瞑想をしていると自動的に小周天が起こります。小周天とは気功やヨーガの本山博先生が紹介している基本的な修行方法で、ざっくり言ってしまうとオーラの塊を体の中心軸に沿って背中沿いに上げてから前面を通して下げる、という方法です。<br /> <br /> これは元々は修行法として明示的にそのように意図するもののようですけど私はこれはあまりしたことがなくて、かなり昔に試したことはありますけどそのくらいで、その時は小さな小さな塊のオーラが少しづつ動く、というくらいでした。<br /> <br /> 最近は、特に意識していたわけでもなく小周天が起こるのですがしていることはいつもと同じで眉間に集中した瞑想なのですけど、そうしていると小周天、しかしながら昔よりも遥かにしっかりとしたオーラ頭に集まっては下半身にまた下がる、というのが繰り返されていることがわかります。<br /> <br /> 朝起きてすぐなど、オーラに滞りがあって意識があまりはっきりしていない時はオーラの移動と共に意識がはっきりしてくる、という効果があります。<br /> <br /> 昔のように小さなオーラの塊が動くという感じではなくて、背中のどこを通って、というよりは体の中も使って体の後ろ半分全部を通ってオーラが頭に集まり、しばらく集まるとそれがストンと一気に、高いところからものが落ちるように急に一気にお腹のマニプラの辺りまで落ちた後、更にムーラダーラの方にまで拡散して浸透します。<br /> <br /> そうするとまた頭の辺りにオーラが集まり始めて、ある程度集まるとまたマニプラ及びムーラダーラの方にオーラがストンと落ちます。<br /> <br /> 1サイクルはおそらく30秒から1分くらいで、瞑想でしていることは上記の通りずっと眉間に集中しているだけなのですけど、このようなオーラの移動が自動的に起こります。<br /> <br /> これは明示的な小周天というより違った言い方をする流派もある気も致しますが、とりあえず小周天としておきます。<br /> <br /> 最初、あまりまだオーラが動いていない状態で眉間に集中していると頭の辺りにオーラが集まって、その時点ではまだ意識は少しぼやけていますけどオーラが集まるにつれ少し意識がはっきりしてきて、集まったオーラが下半身に落ちると意識が更に割とクリアになりますけど頭の感覚はほんの少し弱くなります。そしてまたオーラが頭に集まると知覚が少し冴えてきて意識が少しはっきりとしてくるのですが、またしばらくするとそのオーラが下半身に落ちて意識がクリアになって、かつ、オーラが下半身に落ちたことで頭の感覚がまたほんの少し弱くなりますけど元の意識よりははっきりした状態になります。言葉で表現するのは難しいですけど、意識の明晰さに関して三歩進んで二歩下がる、ということを繰り返します。これを繰り返していると、よりクリアな意識のまま頭が冴えた状態になるわけです。<br /> <br /> 以前は割と1サイクルあるいは1ステップだけが起きて瞑想を満足していましたけど、最近は何サイクルも起きるようになりました。昔はそもそも1ステップ起きるために30分とか1時間とか座らないといけなくて、例えば、オーラを頭に集めて下半身に落とす、というステップだけにそのくらいかかっていました。今は割とすぐにそれができて30秒とか1分でステップ及びサイクルが進みますので、瞑想それ自体の時間も割と短くて済むようになりました。とは言いましても日にもよりますが。<br /> <br /> この段階は、人によっては全身周天あるいは全周天と言っていたりもするようです。<br /> <br /> 小周天が後天の気を識神の力(意識作用)で体にめぐらせるのに対し、大周天は先天の気を不識神(無意識のこと。つまり普通にいう意識作用を止めた状態)の力で発動させ動かす点にある。「秘法!超能力仙道入門(高藤 聡一郎 著)」<br /> <br /> 後天の気とは普通の気功の気のことで、先天の気とはざっくりいうとクンダリーニの事のようです。他にも条件がいくつかあるようですけどポイントは割とここのように思います。実際のところ、体全体に気が充満するという点に関しては割と昔からそうなっていましたけど、ここに書いてあるように「(気が)めぐる」というようになったのはここ最近のことです。この本は割とエンターテイメント系の本でスノで私はスルーしがちでしたけど改めて見てみるとこういうポイントは意外にもしっかりと抑えていて、エンターテイメントを抜きにして見れば参考になる点もあるように思います。<br /> <br /> 瞑想をすることでオーラが動き出すのですが、一旦オーラが動き出してしまえば瞑想を終えた後も日常生活をしながらでもゆっくりとオーラが回転するように思います。<br /> <br /> 思い返してみれば、次のような段階を踏んだように思います。<br /> <br /> 1.オーラがサハスララにまで満ちていない状態(オーラはまださほど動いていない)<br /> 2.オーラがサハスララに満ちた状態(オーラはまださほど動いていない)<br /> 3.オーラがサハスララから少し落ちた状態。あるいはオーラがサハスララに集まり過ぎた状態。<br /> 4.眉間に集中する瞑想をしているとオーラをサハスララに集める<br /> 5.眉間に集中する瞑想をしているとオーラが下半身に下がる<br /> 6.4に戻る(回転する)<br /> → 4と5のループが大周天。やがて日常生活で同様のループが起こるようになる。<br /> <br /> 実際のところ、サハスララにまでバランスよくオーラが行き渡っていれば大周天は不要で、少し前はそのようにバランスが取れた状態だったように思います。しかしながら日常生活を送る上でオーラのバランスが崩れたりしますので大周天のような手法を使うと効果的にオーラのバランスが取れるのだと思います。<br /> <br /> ・・・そして、そのように大周天(あるいは全身周天)をしていくと、再度、元のように全身のオーラが充満した状態になり、そうすると大周天は止まってオーラが凪のような状態になります。もはや明示的なオーラの回転はしていませんが下半身のオーラが充満していて上半身及び特に頭のあたりのオーラも満遍なく行き渡っている状態になります。<br /> <br /> そのようになると意識もクリアになり、ざわざわとした感覚がほぼなくなってスッキリした状態になります。<br /> <br /> おそらくは、大周天(あるいは全身周天)はこのようにオーラが全身に充満するまでの過渡的な状態なのかな・・・ という気も致します。<br /> <br /> まだオーラが全身に充満していない段階で行うか、あるいは、一旦は充満したものの日常生活を送ってオーラのバランスが崩れた時にこのように大周天(あるいは全身周天)を回すとオーラの状態の回復が早い、ということなのかなと思います。<br /> <br /> Thu, 02 Sep 2021 00:00:00 +0900 創造神の宗教による理解の違い https://w-jp.net/2021/2459/ <br /> 本山博先生の著作に同様の記述があり、興味深いです。<br /> <br /> ・ヨーガ系 プルシャが最上<br /> ・ヒンズー ブラフマンが創造神に相当するがブラフマンはアートマンと本質的に全く同じと考える。一人ひとりの人間の中でブラフマンがアートマンとして顕れて働いているという意味が強い。創造よりも顕現という考え方が強い。<br /> ・キリスト教 創造神と人間は、現在を犯す前の魂であったとしても、断絶がある。創造神は「創造する」という意味合いがとても強い。<br /> 「本山博著作集8」より抜粋<br /> <br /> プルシャの上に創造神があって、ヨーガではプルシャが目的地ですがヒンズーのヴェーダンタなどではプルシャに相当するアートマンの上に創造神に相当するブラフマンがあるわけで、かと言って、創造神というものの捉え方にしても顕現なのか創造なのかで違いがあるわけですね。<br /> <br /> 本山博先生の世界観では顕現というよりも創造という意味合いにおける創造神が最高に位置付けられているようです。<br /> <br /> そして、世界に存在する個別の神々は全てプルシャとして位置付けられていて、その上に絶対唯一である創造神がいるわけです。<br /> <br /> これは一見すると一神教のように見えてしまうかもしれませんけど普通の人が考える神というのはプルシャ(神霊)相当ですから日本の八百万の神もプルシャに相当するわけで、それを超えたところに絶対唯一の創造神がいるわけですから、非常に理にかなっていると言えます。<br /> <br /> 人格神としてはプルシャ(神霊)で、「全体」としての唯一の神を創造神として位置づけるわけです。<br /> <br /> これはもはや、一神教なのか多神教なのかという既存の区別を超えて両者の立場をも包括する解釈ですので世界宗教になり得る基盤としての考え方になり得るように思います。<br /> <br /> Mon, 30 Aug 2021 00:00:00 +0900 神霊(プルシャ)は強い力で入ってくる https://w-jp.net/2021/2458/ <br /> 本山博先生の著作によると、ある段階において神霊(プルシャ)の流入現象が起きるとのことです。<br /> <br /> まだ本当に神霊(プルシャ)と一つになれる程にはなっていないのです。本当に一つになれるようになったら、神霊(プルシャ)の方から凄い力が入ってくるようになるのです。必ず流入というのが起きる。「本山博著作集8」<br /> <br /> プルシャはまだ「個」としての感覚があるが、その一つ上の創造神に至ると個としての感覚はなくなるようです。<br /> <br /> この、流入というものは感覚的なお話ですので、流入というからにはサハスララから入ってくる、というイメージなのですけど、どの場所から、というような記述は今のところ見つけられませんでした。アナハタおよび体全体に満ちる感覚というのであれば私の場合は胸の奥の神意識が現れた時が流入といえば流入だったかもしれませんけど、同じことかどうかはわかりません。<br /> <br /> 「合一」という点に関してはプルシャだけでなくカラーナの次元でも同様に起きるようですので、私の上記の体験がプルシャの体験である可能性もあればカラーナの体験だった可能性もあります。<br /> <br /> ・物質の次元<br /> ・アストラル次元 感情的な世界。一般的な感情のある霊。霊と合一するときもある。<br /> ・カラーナ(コーザル、原因)次元 カルマの原因となる世界。<br /> ・プルシャの次元 個としての神霊<br /> ・創造神 全体としての神<br /> <br /> 特にカラーナとプルシャの違いですが、以下のような記述が手がかりになります。<br /> <br /> カラーナの次元というのは、形とか叡智とか愛というものがその心にとっては非常に大事なのです。ある形をとると、その形のところにエネルギーが集まってくる。そしてそのエネルギーが集まったところで、カラーナの次元の心がそれを統一する、秩序を与える 「本山博著作集8」<br /> <br /> 私の場合の創造・破壊・維持のアナハタの意識が出てきたものはプルシャの次元に相当する気もしますけど読みようによってはカラーナと解釈することもできます。ですけど、私のアナハタの意識は外部条件によって増えたり減ったりはしない普遍的なものですので、叡智とか愛とかに関しては該当はしますけど、非常に大切かというと、叡智や愛に依存しているわけではなくて叡智や愛そのものが私の創造・破壊・維持のアナハタの意識ですので、上記の記述でいうような条件付けされたようなものではないため、なんだかプルシャに相当すると考えた方がしっくりきます。<br /> <br /> このあたりはまだ保留事項ですかね。様子を見ていきます。<br /> <br /> Mon, 30 Aug 2021 00:00:00 +0900 ゾーンの集中はアストラル次元のサマーディ(三昧) https://w-jp.net/2021/2457/ <br /> 本山博先生の記述に基づければ、ゾーン状態における極度の集中およびそれによる対象との合一はアストラル次元のサマーディ(三昧)であると解釈できます。<br /> <br /> すべての現実の物はアストラルの次元をもっているわけですから、アストラルの次元において存在していることをアストラルの次元で見ているのと、現実の物理手形な次元において存在しているこれを物理的次元で見ているのとは違う。けれども、意味の上では一致している。(中略)意味の一致ということが非常に大事なのです。 「本山博著作集8」<br /> <br /> ゾーン状態においては、その対象の内容がとてもよくわかり、理知的な感性が研ぎ澄まされて対象の本来の有り様だとか問題およびその解決方法までもが次第に明らかになります。それは自分の理性的な頭だけを使って論理的に考えているととても時間のかかるような結論であったとしても、ゾーン状態においては素早く理解して答えが導き出せるのです。それは、本山博先生がおっしゃるアストラル次元のサマーディ(三昧)と一致します。それは、一応は基本は物理的な対象との合一および理解ではありますが、純粋に理屈だけのお話、例えば設計図や設計書などというお話でも同様です。<br /> <br /> 時計をじーっと見て、時計と一つになった時には、もうすでに物の次元を超えてアストラルの次元に入り、三昧に入っている。そうでないとこの中には入れないのです。物の次元を超えた次元に入ると、この時計の中にスポッと入れる。それは物の次元で入るのではない。アストラルの次元に入ると、スポッと入れてしまうのです。入れたら、この中のネジの動きとかICの動きというものがみな分かる。(中略)本当に入れた時には、この時計を止めようと思ったら、止めることもできるのです。それが三昧の状態なのです。<br /> <br /> この、現実との一致に関しては、特に仕事において判断を任されている場合にゾーンでの直視を元に普通の理性的な論理的な頭を使って検証しつつ判断を行う、ということを行います。<br /> <br /> ゾーンが特に欧米のエリートにおいて注目されているのはここで、物事のあり様を直視してありのままに理解およびその解決法を素早く瞬時に出せるので判断が早くなり、結果として当然のことながら企業の成長につながるわけです。<br /> <br /> 真理を目指す者からすれば企業の利益とか個人的利益とかはそれほどの関心事ではありませんけど、企業の中にいますと物事の正確さというものが求められますのでゾーン状態で直視したものが正しいかどうかが常に検証を求められますので訓練になると思います。企業に入っていなければゾーンで直視したものが正しいかどうかなんて検証はそれほどされないかもしれず、霊能者がそう言ったとかいうお話にしても検証がどれだけされているか不明ですけど、企業におけるゾーンというお話であれば常にその発言および結果が厳しく問われるわけです。企業にいるというのは瞑想者にとって厳しい環境ではあると思うのですけど、ゾーン状態、それはつまりアストラル次元のサマーディの段階にあってはもしかしたら企業においてゾーン状態を極めるというのも一つの手法なのかもしれません。実際のところ私は10年来ずっとゾーンを仕事に活用してきましたのでゾーンは仕事に有用と思いますし、ゾーンによって随分と自分の感情を浄化できましたので仕事にも瞑想にも役立てることができて一石二鳥のように思いました。<br /> <br /> 実際のところ、私はゾーンで対象を理解することはあっても、物理的なものに対する理解および操作というのはできませんので、本山博先生がおっしゃるような意味での(アストラルの)三昧にはまだ達していないのかもしれません。<br /> <br /> ゾーン状態では歓喜が沸き起こり、対象のことがよくわかり、感情的な高ぶりがあります。ですけそ、それは本山博先生のいうところのアストラルのサマーディ(三昧)のごく一部にしか過ぎなくて、それでも、それにより浄化は進みますから有用なのかなと思います。<br /> <br /> ゾーン状態においては自分の心の奥底が「剥き出し」になって対象を直視しますから、心の奥底にあるトラウマ・抑圧された感情が吹き出してきたりします。それでも対象のことはよくわかりますし、半覚醒の状態で半分は無意識が思考を続けることで対象のことがよくわかり、解決に素早く導きます。<br /> <br /> ゾーン状態とは言っても最初は単なる極度の集中状態における歓喜から始まって、やがては心の奥底にある本性が対象を直視するように変化します。その時、心がむき出しになっていますので周囲からの大きな怒鳴り声や騒音には敏感になりますので、やもすれば心に深刻なダメージを受けることもありますので周囲の理解も必要です。日本の会社の場合は騒がしかったり急に怒鳴って話しかけてくるような方もいらっしゃいますのでゾーンで仕事をしていたら邪魔が入って心が取り返しのつかない大きなダメージを受けることにもなりかねません。そこは注意した方がいいかと思います。<br /> <br /> ゾーン状態では色々なことがわかって、他人のために役立てようという気持ちも自然に生まれます。<br /> <br /> 三昧に入るといろいろなことがわかって、こうしなければいけないということが自然に分かるから、その人を成り立たせてあげられるような叡智が湧いてくるはずなのです。それから、世の中が大きく、神様のマネージによってこう働いているのだということが分かれば、相手が成り立つように助けてあげようと思うようになるのです。「本山博著作集8」<br /> <br /> 最初は自分の利益のためにゾーンを求めて瞑想を始めたとしても、やがてはゾーンあるいはサマーディ(三昧)に達することで利他の気持ちが芽生えるわけです。<br /> <br /> Mon, 30 Aug 2021 00:00:00 +0900 カラーナ次元のサマーディ https://w-jp.net/2021/2456/ <br /> 本山博先生の記述を元に私の今の状態がカラーナ次元なのかどうか確かめてみました。<br /> <br /> プラーナが、カラーナの身体の中ではバランスが取れた状態になる。(中略)ところが、アストラルの次元や物理的な次元の身体の状態になると(中略)バランスが崩れやすい。(中略)五つのプラーナや七つのチャクラがバランスの取れた状態にあって病気がないというのがカラーナの状態ですが、物理的な次元やアストラルの次元ではなかなかそういうふうにはいかない。 「本山博著作集8」<br /> <br /> これは一つの状態で、サハスララにオーラが満ちる状態がカラーナと解釈しています。<br /> <br /> カラーナ次元の存在との宗教体験としては、まず、「透明に近い、或いは白色の光や存在を感得する」ということが挙げられます。アストラルの次元では、生々しい色とか形、触覚、匂い等があります。(中略)ですから、色がついた何かが見えたとしたら、それはアストラルの次元の何かとつながりがついているということなのです。(中略)「形が強い力を持つ」(中略)「感情的なたかぶりがなく、平安である」(中略)「知的な内容の掲示が多い」(中略)「心が物理的次元の肉体や、アストラル次元の感情、想像の束縛を離れて自由となり、事象をそのままにみられるようになる」(中略)「自己に基づく愛、愛情ではなく、利他的な隣人愛が目覚めてくる」 「本山博著作集8」<br /> <br /> 白い光というのは割としょっちゅう見ておりますが、そういえば創造・破壊・維持のアナハタの光を見た時は特に透明と言いますか白に近い光だったように思います。<br /> <br /> 匂いとかがあるのは割と変な霊が来ている時が多くて、例えば変な霊が部屋に迷い込んできたり、よそで拾ってしまったりした時は変な感情や匂いもの時々しましたね。ですけど、最近はほとんどないです。<br /> <br /> 形が強い力を持つ、というのはまだよく分かりません。<br /> <br /> 感情なたかぶりがなく平音、というのは割とここずっとそうですけど、特に創造・破壊・維持の意識が出てきて以降は特にそれが深まった感じですね。<br /> <br /> 知的な内容の掲示が多い、というのは昔からですので、最近の違いはよくわかりません。<br /> <br /> 物事をありのままに見られるようになる、というのは、創造・破壊・維持の意識が出てから少し後に身体をダイレクトに動かしつつも直接的に観察している感覚が出てきましたので、それに該当する気がいたします。<br /> <br /> この創造・破壊・維持の意識が出てきて以降は特に隣人愛が強くなった気がいたします。かと言って何かをしているというわけでもないのですけど、気持ちとして変わりました。<br /> <br /> ここまで見ると、どうやら私はカラーナの次元のサマーディ(三昧)にいる、と考えるのが良さそうです。<br /> <br /> 一方、このカラーナは終わりではなく、この後に神霊そのものとも言える「プルシャの次元」およびその次には「宇宙霊あるいは絶対者」という段階があって、宇宙霊(絶対者)との一体化は完全には無理で一部の融合に留まるので、一応の到達点としては「プルシャの次元」ということになるようです。<br /> <br /> ただ、本山博先生の著作によればカラーナのサマーディでは色々な能力が出てくると言いますが私は特にそのような心当たりはありませんね。直感と言いますか啓示は受けやすくなった感じではありますが、そのくらいです。<br /> <br /> Mon, 30 Aug 2021 00:00:00 +0900 プルシャの次元に上がろうとする時に遭遇する魔 https://w-jp.net/2021/2455/ <br /> 本山博先生が説明するところによると、必ず「魔」に遭遇するとのことです。<br /> <br /> 魔というのは、カラーナの次元に上がってきた心が、プルシャの次元、より自由な、つまり物の次元を超えた世界に行こうとすると、それに入らないように邪魔をする力なのです。 「本山博著作集8」<br /> <br /> 同書の説明によると、カラーナの次元(コーザル、原因)というのは物の力が潜んでいて、物の力というものはとても強いので物の力から完全に脱却しようとすると邪魔をしてくる力があって、それを魔と呼んでいるようです。<br /> <br /> これによると、私の今までの理解は少し違っていて、私はサマーディ状態で「自分」というものがなくなるときに恐怖を覚えることが「魔」だと思っていたのですけど、確かに方向性としてはそうなのですけど、次元としてカラーナ(コーザル、原因)からプルシャの次元(独立した意識の次元)に行く時に現れるのが「魔」だとしたら、私がまだ知らないもののような気がしてまいりました。<br /> <br /> 思えば、胸の奥の創造・破壊・維持の力を感じて何をも可能に感じられたことによる恐怖が少し前にありましたけど、これをもってして「魔」なのかなと思っておりましたが、もしかしたら「魔」というのはもっともっと怖いものなのかもしれません。とは言いましても今から心配しても仕方がないですし、心配するようなたちではありませんけど。<br /> <br /> 本山博先生の著作を読んでいると、私の今の段階が「カラーナの次元」に一致している点もあれば、一方で、一部は「プルシャの次元」の記述と一致している部分もあるような気がいたします。<br /> <br /> 思考をどのように感じられるかという点に関してはカラーナの次元のようにも思いますが、創造・破壊・維持の公の意識という点に関してはプルシャの次元のようにも思われます。<br /> <br /> カラーナのお話はメンタルがどのくらい成長するかというお話ですので、もしかしたらこれらは多少は独立して前後して成長するものなのかもしれませんね。であれば両方それぞれ成長してきている、という解釈もできます。<br /> <br /> 私の場合、幼少期に多少は辛いメンタル生活を送っていましたのでもともとエゴはそれほど強くはなく、と言いますかもともと強かったエゴが疲れ果てて弱くなっていた時期がありましたので、それは不幸中の幸いで、その時に弱めたエゴのおかげでプルシャの次元に上がろうとした時の「魔」がとても弱いもので期間も短くあっという間に通過した、という解釈もできます。エゴが強い人にあの創造・破壊・維持の公の意識が現れたのならば強烈に「自分」を否定する抗い難い強い「公」の力と対峙して葛藤するかもしれなくて、「魔」というのに相応しいかもしれませんね。<br /> <br /> かと言いまして、同書によれば以下のようにありますけど、私は自覚している範囲においてはアジナもサハスララも目覚めておりませんから、まだなのかもしれませんね。<br /> <br /> プルシャとの合一は、アジナやサハスラーらが目覚めないと生じない。アジナが目覚めて三つの次元のカルマの存在を破らないと、プルシャとの合一は生じない。 「本山博著作集8」<br /> <br /> サハスララにまでオーラは充満しつつあるものの、目覚めるという感覚の自覚がありませんのでプルシャとの合一はまだと思った方が良さそうです。<br /> <br /> 同書によれば以下のようにあります。<br /> <br /> 今まで東西のいろいろな神秘家たちは、アストラル次元の霊との一致とかカラーナ次元での霊の一致とかプルシャ、あるいは神様との一致という、三つの次元の違いを区別しないで、その三つの次元をみなくるめて、集中の状態、部分的に合一した状態(瞑想の状態)、完全に一致した状態(三昧)というふうに、「合一」という面からだけ説いてきました。(中略)ところが実際は、アストラルの次元の霊と一緒になる時でも、また、アストラル次元を超えてカラーナ次元の霊と一緒になる時でも、初めは自分と霊とが対立していて、次には部分的に合一して、それから霊そのもののようになって霊そのものがよく分かるようになるというふうに、それぞれの次元で三つの段階を経て一つになるのです。 「本山博著作集8」<br /> <br /> となれば、私の場合、アストラルの次元を終えて、カラーナの次元の合一を始めた、と考えるのがやはり合理的のように思います。<br /> <br /> であれば「魔」は次のプルシャの段階ですので、それはまだ、ということになります。<br /> <br /> この辺りは推測も含まれておりますので今後様子を見ていきます。<br /> <br /> Mon, 30 Aug 2021 00:00:00 +0900 心の声に気付く https://w-jp.net/2021/2454/ <br /> 自分の明示的な思考(ブッディ)とは別に、私に心の中で話しかけるもう1つの声があります。それに気付くことです。<br /> <br /> 実際のところ、この心の声というものはほぼ全ての人に聞こえている筈で、ただ、それが話しかけられていることに気付かずに自分の思考と思い込んでいるだけなのです。<br /> <br /> ですから、ふと頭の中に思い浮かんだ思考があったとして、それが明示的な思考(ブッディ)でなかったとしたら、それは何がしかの意識体から話しかけられている可能性があります。<br /> <br /> 大抵の人は「そんなばかな」と思うでしょうし、「それは私の思考です」と思うかもしれませんけど、実際のところ、瞑想を続けていくと自らの明示的な思考というものは意識的に行うようになって、意識的に行わない思考がふと現れたのならばそれは自分の明示的な思考(ブッディ)ではないと気付くことができるわけです。<br /> <br /> 瞑想をそれほどしていない場合は自らの明示的な思考(ブッディ)と周囲の意識体からの呼びかけの声との区別がつきませんから全部自分の考えだと思い込んでいるだけのことで、実際は誰しもが聞いている声です。<br /> <br /> 段階で言いますと、日常生活での瞑想が当たり前になってサマーディ(三昧)の状態で常に観察状態で生きられるようになりますと思考の違いと呼びかけの心の声との違いを明確に区別することができるようになります。<br /> <br /> これとは別に、自分自身の頭の中でグルグルと回る雑念というものもありますけど、ここで言っている明示的な思考(ブッディ)と呼びかけの心の声はグルグルまわる雑念とは別のものです。<br /> <br /> 明示的に心の中で呼びかけられる声があって、それはある種のヒントだったり答えそのものだったりします。<br /> <br /> 普通の人ですと「私は勘がいい」とか「私の能力はさすがに高い」とか思ったりするかもしれませんけど、自分の明示的な思考(ブッディ)で出した答えでないのだとしたらそれは周囲の存在に助けられていることがほとんどなわけです。いわゆる守護霊が出している導きの場合もあればもっとカジュアルなものもあって、性格とか導き手の性格みたいなものが出ます。仲良しの霊体が近くにいて一緒に暮らしていて「お節介おばさん」みたいにいろいろ教えてくる、みたいな軽いものの時もあります。<br /> <br /> 何か閃いたりすると有頂天になって「私って凄いアイデアマン」とか思ったりする時もあるかもしれませんけど、これらの違いを把握していないのならばそれ本当に自分が考え出したものなのか単に教えてもらったものなのか、わからないわけです。であれば、自尊心を駆り立てて自分が凄いとか思うことは愚かだったりもするわけです。<br /> <br /> 作曲家とかは顕著で、自分で何も作曲できなくても先代の霊があの世でインスピレーションを送ってくると自分は何もしないでも湧き上がってきます。そして、それを書き留めるだけで曲ができるわけです。ですけど、実際に凄いのは先代なわけで、自分はただ書き留めているだけだったりしますけど現代では作曲家として名前が出たりしますよね。自分で作曲する人ももちろん大勢いますけど、インスピレーションを受けているだけの人、あるいは半々だったり、色々なわけです。このような場合、教えてくれる相手も元は人間ですから、あまりにも「俺って凄い」みたいな態度で自尊心を駆り立ててゆくと教える方も嫌になってしまって「あとは自分で考えろ」と言って肝心のところを教えてくれなかったりします。実際のところ、これはよくあることのような気がいたします。というのも、これは普通の人間の関係と変わらないからです。目に見えないだけで普通の人間同士の付き合いですから、死んだ先代がかわいい孫・ひ孫・ひひひひひ孫みたいな子に教えたとしても、教えられる方が可愛くなかったら「もう好きにしろ」となりますよね。だから先代や家族や師匠など属している系統の先代に対して敬意を示すのは必要なのですけど、そうは言ってもお互い人間ですから、教える方にしても限界があって、教えられる方にも限界があるわけです。<br /> <br /> ポイントとしては「心の声に気付くこと」そして「見えない存在も生きている人間と変わらない」というところですね。そうすれば、特に特別感なく普通に心の声を扱うことができます。<br /> <br /> これとは別に、自分のハイヤーセルフあるいはアートマンとでも呼ぶべき自己の魂のようなものから湧き出てくる指示があって、それは声というより直接的な理解が瞬時に現れる形で直感のように現れますけど直感というほどの他人行儀の分離した感覚ではなくてそうするのが当然であると瞬時にわかる、というような種類のものですので、ふと「はっ」と気付くような直感ではなく、直接的に「そうである」ことがわかるようなもので、それも直感と言うならそうかもしれませんけど、直感というよりは直接的に「わかる」という種類のものです。それはそれとしてあって、ここでのお話は明示的な「声」として心の中で話しかけてくる声のお話です。<br /> <br /> Mon, 30 Aug 2021 00:00:00 +0900 カラーナ(コーザル、原因)ではオーラのバランスが整う https://w-jp.net/2021/2452/ <br /> 本山博先生の著作に同様の記述がありましたが、確かに、サハスララにオーラが充満して体のオーラが上から下までバランスが取れている状態であれば(カラーナの特徴である)心の観察がきちんとできて理性(ブッディ)がよく働く状態になっているように思います。<br /> <br /> クンダリーニが上がってきて下半身にオーラが満ちている状態・マニプラ以下が優勢な状態では活力が満ちているもののまだ性欲が完全にコントロールできておらず、アナハタ以上が優勢になってようやく制欲がかなり解消され、サハスララにまでオーラが満ちると制欲に悩まされることはほとんどなくなるように思います。<br /> <br /> オーラのバランスが整うことを本山博先生は「下実上平」と言っています。<br /> <br /> 下実上平ははっきりと目が覚めている。光り輝いているような感じがして、ずーっと自分が一帯に拡がっているのです。アストラルの次元だとせいぜいこの部屋くらいにしか拡がらないが、カラーナの次元になると、もっとずーっと拡がって自分が非常に大きい感じがする。「本山博著作集8」より<br /> <br /> 一方、上半身だけ充実している状態を「上実下虚」と言い、その状態では感情のコントロールが効かず怒りやすくて肩が凝るとのことです。そして同様に下半身にオーラが充実している状態を「上虚下実」と言い、色情タイプだということです。<br /> <br /> クンダリーニというと下から上に上がる、というのが基本ですけど、世の中には「上実下虚」などという人もいるわけです。それはトランスに陥りやすくてボーっとしていて体が不安定、とのことで、しかし自我が強いタイプとのことです。これは現代で言えばEDとか総合失調症と言えるかもしれません。<br /> <br /> クンダリーニとは言わなくてもエネルギーが体の上下で充実しているのは重要で、充実していないと上記のうちのどちらかになってしまうように思います。上のパターンだけでなくて、背骨に沿ったスシュムナというエネルギールートが分断されてしまうと「上実・中虚・下実」になって頭と下半身それぞれでオーラが活性化されるもののお腹のあたりで繋がっていない、という混乱した状態も実際にはありそうです。そうなると実生活を送る上で困難が生じそうですね。<br /> <br /> 実際のところ、このあたりの知識がなくてオーラのバランスが崩れて病気になっている方もそれなりにいらっしゃるように思いますが、それが肉体が原因なのかオーラのバランスの原因なのかの判定はなかなか難しいので放置されているとは思いますが、少なくとも、自分で自分のメンテナンスはできた方がいいと思います。<br /> <br /> カラーナ(コーザル、原因)のレベルにまでは行かなくとも、体とプラーナあるいは気のレベルで体を充実させて健康にするだけでも日常生活を豊かに暮らせるようになりますので、オーラを調整して体の全体にバランスよく行き渡らせることは重要に思います。<br /> <br /> Fri, 27 Aug 2021 00:00:00 +0900 キリストの愛と仏陀の慈愛 https://w-jp.net/2021/2451/ <br /> 仏陀が慈愛を何故説くのかについて本山博先生の著作で興味深い記述を発見しました。<br /> <br /> お釈迦様は慈愛を説きます。キリストも愛を説いたわけですが、キリストも父親が本当の父親ではなくて、母親が、今流に言えば私生児を生んだわけで、どこかふた親の愛情が足りなかったのではないか、釈迦の場合もそうだと思うのです。愛情に飢えている人が説教をするようになると、愛を説いたり慈愛を説いたりするのが習わしです。 「本山博著作集7」<br /> <br /> これは目から鱗で、どうも私にはキリストや仏陀が説く愛や慈愛がしっくりこなかった理由がわかりました。愛や慈愛に満ちているのならばそもそも愛や慈愛なんて言い出さないのです。愛や慈愛に飢えているからこそ愛や慈愛が大切と言う、というのは割と盲点でした。キリストや仏陀が言うのだから正しい筈で、道徳的にもそれを否定するのははばかられるような状況ではありますけど、さすが大家の本山博先生は本質をずばりと突いてきます。こんなこと直接的に言える人はそうはいないように思います。<br /> <br /> 個人的に、愛とか慈愛とか言われても「ふうん・・・」としか思わなかったのですが、それは実は今もそうで、昔は「私は愛や慈愛が足りないのかな?」とも思ったりもしましたが、それは実際のところ今になってクンダリーニが活性化してサマーディ状態になりサハスララにオーラが満ちても実際のところ変わりませんので、実際のところこのようなことを忘れておりました。頭の中に「愛」とか「慈愛」という言葉は私の中でそれほど大切な位置を占めていなくて、クンダリーニなどのエネルギーの高まりという意味においてそれを別の言い方でいうのならば「愛」と言うこともできる、という文脈で愛を捉えておりました。慈愛というのも、慈愛というと自分と他人との「分離」を前提としているような気がしていて、本来的に自分と他人が同一であるのならばわざわざ「慈愛」なんて言わずに自分や親しい友人あるいは家族に接するように普通に何かを与えたりすればいいだけのことで、わざわざ「慈愛」なんて言うなんて大袈裟だなあ・・・ と心の片隅で思っていて、そんなことを言うなんて野暮なことはしていませんでしたので基本的に口には出さないでいたのですけど、この記述を読んで目から鱗でした。キリストや仏陀は愛に飢えていたから愛や慈愛を説いていたのだとすれば、私は実際のところ家族から人並みに愛されていたと思いますので、そりゃ家族の間に葛藤も多少はありましたけど基本は愛されていたと思いますので愛や慈愛への葛藤というものは基本的に私にはないのです。愛や慈愛に対する基本的な欲求というものがありませんからキリストや仏陀が説く愛や慈愛について「まあ、それはそうなのだけれども」みたいにあまり心を打たない感覚でなんとなく捉えておりました。今後、更に成長すればブッダやキリストが解くような愛や慈愛に満ち溢れた存在になるのかな? と漠然と考えたりしたこともありましたけど、同書によればどうやらブッダやキリストはその到達点だけでなく出発点として愛や慈愛への渇望からスタートしていたようで、であれば、私はそのスタート地点に立っておりませんので、通りで私は仏教やキリスト教のことを素晴らしいと思いつつも信者になっていない理由の1つがわかりました。<br /> <br /> 仏教ではよく三界(欲界、色界、無色界)ということを言うわけですが、(中略)これはある意味では、お釈迦様はやはり欲望の塊りのようなところがあったのかもしれない。(中略)本当は色界(物質界)の中の一つに過ぎない欲界が、欲界として強くもち上がってくるというのは、お釈迦様が非常に欲ということにこだわりをもっていたと思うのです。(中略)そんなことを言っても、物質的束縛というものがだいたい身体性ということだから、身体をもっているとどうしても欲望はできます。腹が減ったら御飯を食べたいと思う。つまり色界の中にすでに欲ぼうがあるのですが、欲望を超克すると、そこが色界だと言う。これはどこかに無理があるように思うのです。(中略)欲界と言わずに、欲界を色界の中に入れたらいいと思うのです。(中略)悟りの立場から言えば、欲界というものではなくて、色界と無色界の二つの世界における心の高まりを説明してあるわけです。 「本山博著作集7」<br /> <br /> これまた明確な説明で、仏教の欲界というのは割とスルーしておりましたけど、こう言われてみますと確かに色界に含めるのがスマートのように思います。納得です。<br /> <br /> 欲ということそれ自体で言いますとサマーディ状態に達していても肉体を持っている限りは欲というのは出てきますし、何が違うかと言いますと欲が出てきてもそれに囚われずに欲望はすぐに消えてゆくかあるいはその欲が適切なもので生活に必要と判断したならば意識的にその欲を現実化することができるようになるということです。お腹が減ったからと言って食べずにいたら死んでしまいますよね。生活必需品を購入する欲はあって当然のものだと思いますし、生きる上で勉強のための欲というものもあります。欲から完全に離れる、みたいなお話を時々聞きますけど、実際は体がありますからそんなことは不可能なわけです。仏教が言うように完全には離れることはできないのに便宜上欲から離れたことにしてしまうと仏教でも大切にしている筈の「正直さ」から外れてしまい、修行に支障が出てしまうかもしれません。その結果、欲ということに対して鈍感になってしまうようなこともあるように思います。であれば、現実に即して、色界に含めるというのは理にかなっているように思います。<br /> <br /> 仏教では色界と無色界それぞれ四つの禅定の段階を経て瞑想が進んでゆくと説明されており、同書では最初の色界初禅について以下のような説明があります。<br /> <br /> 初禅<br /> 「欲望を離れ、不善のことがらを離れ(中略)」、これはヨーガで言う精神集中のごく初期の状態です。ここで「欲望を離れ、不善のことがらを離れ」とありますが、精神集中の段階ではそんなふうに欲望を離れられるわけはないと思うのです。誰でも皆、欲望の塊なのだから。ですから、「欲望を離れ」と書いてあるが、それは精神集中をして、何も思わない状態が1秒でも2秒でも出てきたような状態が初禅の状態ではないかと思います。「本山博著作集7」<br /> <br /> ということで、やはり、欲界の次が色界というのではなくて欲界を色界に含めるのがよい、という同書の説明になっています。<br /> <br /> 仏教の方に言わせれば違うお話になるのかもしれませんけど、私が読んだ他の書物でも実際のところそれほど厳密に欲からの脱却を説いてはいなかったように思いますので、この解釈は正しいように思います。<br /> <br /> 実際のところ、このような真理の探究において真面目すぎるというのは割と重しになって、書物では一応そうは書いてはあるけれども実際のところは自分で経験してみて本当のところを理解する、という大雑把な態度が必要に思います。書物に書いてある状態に厳密にならないからと言って思い悩んだりするのは真理の道においてはマイナスで、書物に関しては割とざっくりとした理解を基本として、自分の経験を元にして理解できる部分を少しづつ増やしてゆく、というくらいでいいのではないかと思います。<br /> <br /> 宗教の信者であればその流派の全てを信じるかどうかというお話になるかと思いますが、真実の探究者であれば自分がわからないことは一旦理解はするものの受け入れるかどうかは自分が腑に落ちるまでは保留にしておくのが良いかと思います。<br /> <br /> その意味で、仏教のお話は一旦は理解していたもののどこか部分的に違和感があって腑に落ちない部分があって、今回の記述でその違和感がそれなりに解消されたように思います。<br /> <br /> 仏教は仏教でとても優れた記述や解説がありますけど完全ではないということだと思います。<br /> <br /> 特にスタート地点では顕著で、スタート地点で「愛に飢えている」ところを根拠にしていますから、家族に恵まれて幸せに育った人にとって仏教の説教は響かなかったりするわけですね。これは私に当てはまると思います。一方、現代においては自分で選んで宗教を選ぶよりも二世・三世としてなんとなく宗教に属している方も多いと思われますので、自分は特に愛に飢えてはいないけれども家族がこの流派だから一応今は属しているけれども愛とか慈愛とかよくわからない、みたいな悩みがあるかもしれませんけど、このようなキリストや仏陀の生まれた背景を理解すると、信者の当人にいうと嫌がられるかもしれませんけど、個人的な理解としては有益な情報なのではないかと思います。<br /> <br /> Fri, 27 Aug 2021 00:00:00 +0900 ゾーンで歓喜に入り能力を高める https://w-jp.net/2021/2450/ <br /> 瞑想の1つの目的として、ゾーンに入って能力を高める、というものがあります。ゾーンは意図せずして不意に入ることもありますが、意図的にゾーンに入ることができて、そのためには瞑想がよい方法ですので、ゾーンのためにアスリートあるいは職人はたまたビジネスマンや技術者が瞑想を行うことがあります。ですけど、この場合は瞑想は現世利益のための手段になってしまっているわけです。<br /> <br /> この世界は完全に自由ですから誰かがそのように現世利益を追い求めてもそれすらも自由なのですけど、瞑想で解脱あるいは悟りを求めている人からしたらそのような能力的なお話は付随物で、悟りへの道の途中に出てくる副産物にすぎないわけです。とは言いましても現実にはマインドフルネス瞑想のようなもので現世利益をうたった瞑想が山のようにありますから、本来は途中の過程でしかないゾーンやあるいはリラックス、はたまた歓喜というものが最終結果として瞑想が理解されているのが現状かなと思います。<br /> <br /> そうは言いましても、自分が気が付いていないだけで悟りを求めていた、という場合もあるでしょうし、顕在意識が現世利益を求めていたとしてもそう悪いことではないように私などは思ったりします。ですけど、現実問題、悟りを求めている方々は現世利益のために瞑想をしている人たちを苦々しく思っていたりする方もいるのも事実です。<br /> <br /> このゾーンという領域は非常に微妙な段階で、悟りを求めている方ですらこの段階に留まってしまうことが多いように思います。ゾーンに入ることができて「楽」になったとか「歓喜」はたまた「リラックス」という状態で満足し、自分が既に目的を達成したと思い込んでいる人が意外に多いものです。とは言いましても、しばらくすれば自分が途中にいるだけでしかないことに気がつくでしょうし、基本は放っておけばいいのですけど、そうは言いましても、それほどのレベルの境地に達していない人が勘違いしている状況はめんどくさく感じることもあります。<br /> <br /> 「楽」だとか「歓喜」などがあって、ある程度のリラックスもできて、という状態になると一時的な快楽のようなものが瞑想や修行において感じられて、他人に対しても周囲の人は自分より劣っているかのような印象を受けがちなわけです。周囲の人が全て悟っているように思っていないのだとしたらこの段階にいるわけです。この次の段階とかになりますと周囲の人全てが悟っているかのように思えてきますけど、この「楽」とかの段階にいますと、周囲の人より自分の方が進んでいて自分がちょっと特別で他の人はまだ私の境地に達していないように感じてしまうものなのです。これは、そう感じてしまうのが仕方がないことですので、グルがそのように教えてあげて、そのように優越感を感じてしまうのならばそれはこの「楽」だとかそのあたりの段階にいるのだから、それは仕方がないので、そう思っていても他の人に対して自分の思いをそのまま伝えて「あなたはまだまだた」とかいうことを言わないようにしなさい、と指導すべきなのです。<br /> <br /> この段階はそれなりのスピリチュアルの成長であることは確かで、それなりに経験を積み始めたのは確かですけど、それでも、まだまだな段階なわけです。<br /> <br /> この段階では、最初こそ「自分は達成した」と思っているでしょうけど、そのうち「おかしいな。これで達成なのだろうか。何かまだやるべきことが残っているのではないだろうか」と疑問が出るようになります。そうしたら探求するかあるいは詳しい師匠に尋ねてみるのも良いかもしれませんけど、この段階の学習者・弟子というのは優越意識があって面倒で、グル・師匠もあまり相手にしたくないかもしれません。ですから、できるならばこれより前の段階で師匠をつけて、この段階に来たときに「あなたはまだまだなんだよ」と言ってもらえる師匠がいるとよいとは思いますけど、「師匠を見つけることができるのは幸運である」と言われているように、そうそう師匠は見つからないと思います。<br /> <br /> だいたいアナハタ優勢になった頃から周囲が全員悟っているかのように思えてきて、その実感は少しづつ深まってゆくのですけど、それ以前は割と「自分が最高」、みたいな感覚から抜けきれていなかったように思います。ですから、アナハタ以前であれば気をつけるしかないように思います。<br /> <br /> ゾーンで歓喜とか集中力が高まって能力が高まる、みたいなお話はそれ以前でも全然起こりますので、あまり勘違いしないことですね。<br /> <br /> 目的がゾーン状態で能力を高めることであればこのあたりのお話は関係なくて、単に集中を高めていけばゾーンに入れますから、それは好きにすればいいのかな、とも思います。<br /> <br /> Fri, 27 Aug 2021 00:00:00 +0900 アストラルのサマーディからカラーナ(コーザル)の次元のサマーディへ https://w-jp.net/2021/2449/ <br /> サマーディ(三昧)はヨーガ大家の本山博先生によればアストラルの次元とカラーナ(コーザル、原因)の次元とプルシャ(神霊)の次元とでそれぞれ異なるとのことです。<br /> <br /> ヨーガでいうとサマーディとは単なる合一で、ヨーガ・スートラで述べられているように集中・瞑想・サマーディ(三昧)とありますけど、本山博先生によれば、アストラルの次元とカラーナの次元、そしてプルシャの次元でそれぞれサマーディが起きて成長してゆくので、細かく見れば3x3の階梯があるとのことなのです。この視点がないと、アストラルの次元でサマーディが起きたからと言ってゴールに達した、みたいな勘違いが生まれたりもするようです。<br /> <br /> そして、アストラルのサマーディの場合は時空にまだ制限されていて、それなりに時空を越えることもできるけれども基本的は制限されていて、全体はわからない場合が多いとのことです。<br /> <br /> これは、私の今の状態に一致するように思います。<br /> <br /> これを超えてカラーナ(コーザル、原因)の次元になると「心が物理的次元の肉体や、アストラル次元の感情、想像の束縛を離れて自由となり、物事をそのままにみられるようになる」(本山博著作集8より)とのことです。<br /> <br /> となれば、私は最近になってようやく時々この境地に達することができていて、特にサハスララにオーラが充満した時の瞑想中にこのような状態になって理知的な働きのみが動く状態になるように思います。それは主に瞑想中にだけ起きていて、普段はアストラルの次元のサマーディで生活しているように思いますけど、カラーナの次元のサマーディは瞑想中にのみ達することができているようです。<br /> <br /> これをも超えて「プルシャとの合一としてのサマーディ」の段階があると本山博先生はおっしゃっていて、その段階になると物事が現れる前の状態がわかるようになると言い、それは言葉としては現れる前の状態とはいうものの、実際には、各種の未来の可能性や過去の出来事も含めて同時に全てがわかるようになるとのことです。<br /> <br /> サマーディによって現れてくる状態はこれだけではないですけど、これらのヒントを元に自分の状態を当てはめてみると、どうやら私はアストラル次元のサマーディに普段生きていて瞑想中に時々カラーナの次元に到達できているようです。<br /> <br /> ただ、この文脈的にはプルシャの次元は一度も垣間見たことがない気も致しますが、別の記述を見ますとプルシャの次元に該当する気もして、ちょっと微妙な感じでもあります。このような流派独自の表現についてはその流派の方に聞くのが一番いいのかもしれませんけど、本を読む限りはちょっと謎が残ります。<br /> <br /> Fri, 27 Aug 2021 00:00:00 +0900 スピリチュアルで現状を肯定してしまう罠 https://w-jp.net/2021/2447/ <br /> よくあるお話ですけど、自分の欲望を正当化して現状を肯定するためにスピリチュアルを持ち出す人がある一定数いて、そのような方々がスピリチュアルの評判を地に落としています。こういうこと言うと一定数の方々から反感を買って、「そんな否定的なものはスピリチュアルではない」とか攻撃してきたりしますけど、この辺りはよく陥りがちなスピリチュアルの落とし穴なのですよね。<br /> <br /> 全肯定と言うお話はもうちょっと深いところのお話で、チベット式で説明するならば「もともとの始まりから清らか」と言う属性と「自然な状態においてあるがままで完成している」(「チベット密教の瞑想法(ナムカイ・ノルブ著)」より)と言うことであるわけです。ですから、人間の欲望とは本来はほとんど関係ないお話なのですよね。<br /> <br /> 本来的に清らかであるがままで完成している、というお話は全てのこの世界のありよう全てについて当てはまりますから、地獄であっても天国であっても等しくそうであるわけです。<br /> <br /> ですから、人間が自らの欲望を肯定しようが否定しようが関係なくこの世は全て本来的に清らかであるがままで完成している、と言うお話なのです。ですから、スピリチュアルを持ち出して全肯定しようがあるいは全くスピリチュアルのことを知らずとも関係なく等しく全てのこの世界のありようは本来的に清らかであるがままで完成しているわけです。<br /> <br /> スピリチュアルで何でも正しくて全肯定と言うのは良くなるのも悪くなるのも全て個人の自由と言うお話で、欲望に生きることを正当化したからと言っても良くなるどころか真実を更なるヴェールで覆い隠してしまってますます混迷化するだけなのですよね。<br /> <br /> この世は、そのように暗黒に包まれようが、あるいは光明に包まれようが関わりなく全てはありのままで完璧、ということであって、人間がどう思おうが自己正当化しようがしまいが関係ないわけなのですよね。<br /> <br /> じゃあ、欲望あるいは自分が悪くなることをしているのを自己正当化するのならそれはただの欲望の権化でしかないわけですけど、スピリチュアルな人の中には自分の欲望を正当化するためにスピリチュアルの全肯定の理屈を持ち出す人が一定数いて、ですけど、それは正当化ではなくて、単に、良いも悪いも全ては本来的に清らかであるがままで完成している、と言うお話でありますから、正当化しようがしまいが現実は変わらないわけです。現実はというと欲望を追求しているだけですので、それ故にスピリチュアルの評判を落としているわけです。<br /> <br /> こう言う間違ったスピリチュアルを信じている人は、結局のところ「自分を全て肯定してくれる人」「自分を全て受け入れてくれる人」「自分を全て理解してくれる人」を外に求めているわけで、何か一つでも「自分のことが分かっていない」と思われる節があれば「この人は違う!」と思って離れてゆくわけです。<br /> <br /> 教祖様になるためには全肯定して「いいよいいよ。あなたはそのままで完璧です」と言っていればいいわけですけど、そんな浅はかなスピリチュアルはそろそろ卒業した方がいいと思います。<br /> <br /> 本来的に清らかであるがままで完成しているとしても、人間の認識において現実が地獄と感じたり天国と感じたり、という違いが生じるわけです。ですから修行が必要になるわけで。<br /> <br /> 何も修行や努力もしないで自分の現状の肯定だけを求めて、自分を受け入れてくれる場所や人を求めるようなスピリチュアルが一定数あって、それは外に安らぎを求めるスピリチュアルですので、時にそういう場所が見つかったとしても、結局は何かに裏切られた感じを受けて離れていってしまったりするわけです。<br /> <br /> 一方、スピリチュアルとは自分の中にあるもので、安らぎや天国は自らの中にあるとわかれば他人に自分を受け入れてもらおうとかいう努力は消えてなくなります。<br /> <br /> 結局、スピリチュアルで何を求めるか、というゴールが大切な気が致します。<br /> <br /> ただ単に「楽」になりたいという個人的な欲求が目標であればスピリチュアルもその程度のもので、そのゴールとして自己正当化と言うところに行き着くかもしれません。<br /> <br /> 一方、自分が変わることによってこの世を天国のようにしてしまおう、この世が天国と感じられる心持ちになりたい、と願って目標を立てるならば他人に自己を正当化してもらおうとして依存するのではなくて、自分の内側に天国を見出そうとするでしょう。<br /> <br /> 確かに、良いも悪いも全ては本来的に清らかであるがままで完成していても、そう言われてもあなたの現実はすぐには変わりませんし、穏やかな心の人はそのまま穏やかですし、いつも怒っている人は変わらずそのまま怒りっぽいままでしょう。真理とは、そのような多様な感情も含めて全てのありようがありのままで完成している、と言うことであって、悟っていてもいなくてもこの点は変わらなくて、それでは悟りとは何かというと、直接的にその真実を見出して「その通りだ」と思えるかどうか、と言うところに悟っているかどうかの違いがあるわけです。<br /> <br /> 悟っていなければ真実を見出しておらず混迷に包まれています。悟るというのは単に真実を見出すだけだということもできますし、心持ちが天国になる、ということもできます。それは自分の欲望を自己正当化するのとは天と地ほどの違いがあるわけです。<br /> <br /> ここで悟る、と言っていますけど悟りにも段階があって流派によって解釈も違いますけど、ここではいわゆるサマーディ状態を基準にしています。<br /> <br /> サマーディ以前であれば欲望を自己正当化しても虚しいだけですけど、サマーディ以降であれば先日のお話とも少し関連してきますけど、意図的に楽しんでみる、ということもあるにはあります。ただ、周囲から見たら違いはほとんどわからないかもしれませんけど。サマーディに達していて意図的に楽しんでみた時に周囲から欲望とみなされて非難されたとしたら同じように自己正当化するかもしれず、サマーディにまで達した人がする自己正当化はそれなりに正当性があるように私には思えます。ですけどサマーディ以前であれば欲望は欲望でしかなくて、サマーディ以前であれば欲望はなるべく抑えられるべきものであるわけです。<br /> <br /> 自分が自己を肯定しようがしまいが、誰かがあなたを肯定しようがしまいが、それに関わらず常に完璧ということです。誰かが自己を肯定しようが関係なく、常にありのままで完璧なわけです。ですから、スピリチュアルで自己を肯定するというのは必須事項ではありません。それは常に当然の如くありのままで完璧ですので自分が肯定するときにだけありのままで完璧なわけではないのです。誰が何をしようが常に完璧なわけです。<br /> <br /> 自由は自由なのですけど、真実を知れば知るほど行動が割と同じ方向に導かれるのも事実です。例えば、スピリチュアルを勉強する前は「人は個人」であって分離された存在だと思っていたものが実際は繋がっていて同じで、更に言えば「全てのは自分」だということがわかると他人に対してぞんざいな態度は取らなくなりますよね。ですから、自由だからと言って何でもしていいとはなりませんし、同様に、何をしようが完璧だからと言って何をしてもいいとはならないわけです。自分を肯定して何をしてもいいと思い込むのはスピリチュアル初心者だけで、自由と言えばそうなのですけど実際にはそこには真実を識別する力が必要なわけで、真実を知らなければ自由ということの意味もよくわからなかったりするわけです。<br /> <br /> Wed, 25 Aug 2021 00:00:00 +0900 人生を楽しむことは瞑想に必要か https://w-jp.net/2021/2446/ <br /> よくスピリチュアルでは「人生を楽しみましょう」みたいなことを言いますけど、それは実際のところ瞑想にどのように役に立つかと言いますと、サマーディ以前であれば混乱の元で欲望の元で俗世に縛り付けるための鎖のようなものですが、サマーディがそれなりに確固になった後であればそれは良い人生の経験となり、文字通り楽しむことができるようになります。<br /> <br /> スピリチュアルを誤解している人は人生を楽しむための言い訳としてそのようなことを言いますけど、スピリチュアル初心者であれば大抵の場合は単なる言い訳でしかないわけです。もちろん、それなりにスピリチュアルな成長ができている人であれば人生を楽しむということは素晴らしいことになりますけど、人生を楽しむつもりがその楽しみに執着したりして欲望を肥大させるのだとしたらその楽しみは慎むべきものであるわけです。<br /> <br /> 楽しみにもいろいろあって、人の心を穏やかにさせる楽しみ(サットヴァな楽しみ)と活動的にさせる楽しみ(ラジャスな楽しみ)と落ち込ませるような楽しみ(タマスな楽しみ)とがあって、サットヴァであればそれなりに有益ですけどラジャスやタマスの場合は執着と欲望を肥大させることになりかねません。<br /> <br /> 実際にはこのあたりは、タマスで落ち込んでいる人はラジャスの活動的な生活をまず目指して、ラジャスな人はサットヴァな落ち着いた生活を目指すという順番にはなるのですけど、ここで言っている、人生を楽しむことができる、というのはサットヴァをも超えたサマーディの状態における楽しみのお話ですので、3つのグナ(サットヴァ、ラジャス、タマス)の楽しみのお話ではないのですよね。<br /> <br /> サマーディ状態においては基本的にはありのままの状態を楽しみますけど、それほどサマーディが強くない状態においてはサットヴァの楽しみを意図的に行うことで人生を楽しみます。そして、たまにラジャスやタマスの楽しみを意図的に行うことで修行の一環にします。<br /> <br /> サマーディ以前の場合の楽しみは渇望によって突き動かされる衝動的なもので、それはサットヴァだろうとラジャスだろうとタマスだろうと基本的には同じで、衝動的に行う本能による欲望による楽しみがサマーディ以前ですけど、サマーディ以降の場合は意図的に行うようになります。サマーディ以降であればもともと大して渇望とかはないのですけど、思考や理由、あるいは環境などにより意図的に何かを行うことを選び、そして意図的に行った行動の結果として楽しみます。実際のところ、行動そのものを楽しみますので結果はどちらでもよく、うまくいってもいかなくてもありのままを楽しむわけです。<br /> <br /> サマーディ以前の渇望の場合は何か明確なゴールがあってそれに突き進みますから、失敗すると落ち込んだり自己嫌悪に陥ったり再度挑戦するような新たな渇望になったりしますけど、サマーディ以降であればなんであれありのままに受け入れますので、成功するにしても失敗するにしてもそのままを理解するだけになります。実際にはサマーディ状態では完全なる失敗というのはなくて、単に期待していた結果にならなかったというだけのことで、それすらも学びにしてしまえるわけです。サマーディ状態では新たな渇望というものは生み出さず、自らの行った結果を楽しくも淡々としたエネルギーに溢れた状態で受け入れるわけです。<br /> <br /> このようなサマーディ状態が人生を楽しむということであって、スピリチュアルでそう言っているからと言って自らの欲望を自己正当化することではないわけです。実際のところ、自分の欲望を正当化するための言い訳としてスピリチュアルのお話を持ち出すスピリチュアル初心者もそれなりにいて、実際のところそれはそう悪いことではなくて、初心者にありがちな罠で、割と誰しもが陥るお話ですからそれほど悪者扱いする必要はなくて、それを超えて次の理解に達すればいいわけです。<br /> <br /> Tue, 24 Aug 2021 00:00:00 +0900 集中もある程度瞑想に必要 https://w-jp.net/2021/2445/ <br /> 語弊がありそうですので私自身はそれほどこの表現を今まで使ってきませんでしたが、これはサマーディ以降であれば正しいと言えます。<br /> <br /> 流派によっては集中瞑想を否定しているか、あるいは「ある程度は集中も必要」としていたりしますが、そう言えるのはサマーディ(三昧)以降のお話で、それ以前には集中しかないわけです。このお話は何度かしたと思います。<br /> <br /> ですけど、流派によっては最初から「集中もある程度必要」とか「集中は不要」とか言われたりします。でも、瞑想を始めてすぐにそう言われても「なんのこっちゃ」となるのも当然かなと思います。<br /> <br /> と、言いますのも、サマーディ以前の場合の観察というのは五感の観察のことですからサマーディ的な観察とは違うからです。五感の観察であればそれは単なる感覚の入力であって、瞑想を始めたばかりのころは観察は五感でしかないわけです。<br /> <br /> ですから、五感の観察であれば誰にでもありますから、「集中もある程度必要」とかいわれても、なんのこっちゃ、となるわけです。<br /> <br /> サマーディであれば努力は不要で観察し続けますから上記は正しいと言えますけど、それ以前の、特に瞑想初心者であれば努力と集中が必要なわけです。<br /> <br /> ですけど、この基本がなかなか理解されにくくて、結局、集中することは必要なのかどうか、という堂々巡りのお話が瞑想者によって延々となされているのが現実だと思います。<br /> <br /> 答えはいつも言っていますけど集中が基本で、観察が付随してくる属性のようなものです。瞑想は集中と観察の両方から成り立っています。<br /> <br /> 悩ませる点として、「集中もある程度必要」と言っている流派があることです。<br /> <br /> 自分の流派だけを勉強して実践していればそういう悩みもないのかもしれないですけどこのご時世においてはいろいろな情報が入ってきますから悩んでしまったりするわけですね。<br /> <br /> この、「集中はある程度は必要」というのは、サマーディ状態において集中をある程度保ったまま気付きを自動的に行う、という状態がそれに相当したりするのですけど、瞑想の流派によっては一番最初の段階で瞑想初心者に対して同じことを言いますから混乱してしまうわけです。同様のアドバイスは中級者以上のサマーディ状態であればそれは正しくて、私からしても、自分の状態を時々「集中はある程度必要だ」と自覚していたりしますので、この言葉はそのままサマーディ状態については正しいのですけど、瞑想初心者に向けた説明としては不適切なのかなと思うわけです。<br /> <br /> また同様に、「集中は不要」というのもサマーディに慣れてくればそれもまた正しいと言えますけど、そうでなければ努力は必要ですよね。<br /> <br /> 瞑想初心者には集中しかないです。ある程度、みたいな曖昧な集中ではなくがっつりとした集中が特に最初は必要です。<br /> <br /> かと言って、間違った集中をしてもいけないのですけどそれは個人的な指導で師匠などから教わるかあるいは失敗を繰り返して学んでゆくことで、ここで言葉で説明してもよくわからないでしょうから今は書きませんけど、確かに、失敗に導く集中というのもあるにはあります。<br /> <br /> ですから、瞑想指導者から「集中もある程度必要」とか言われたからといって、割とスルーしておけばいいのかな、と個人的には思います。「ある程度」とか言っている時点で判断は瞑想実践者の方に委ねられているわけですし、あまり気にすることはないと思います。<br /> <br /> そもそも、私が観察するところによると、そのように「集中もある程度必要」とか言っている瞑想手法はがっつり集中が必要なものだったりしますので、それを言葉上で「観察」と言っているだけだったりします。特に最初は瞑想は集中でしかありませんから、言葉で「観察」とか言ったとしても特に最初は観察になっていることはなくて集中ですから、観察と言ったところでサマーディ的な観察にはなっていないわけです。顕在意識の五感での観察ということであれば触覚や視覚などで観察することは常にしているわけですけれども、瞑想的な観察は五感のことではないですから、五感の観察をしていたとしても瞑想的な観察ではないわけです。<br /> <br /> そのように説明をしている瞑想手法を分析してみますと、まず五感の入力をトリガーとしていてそれに反応する心の動きがあって、心の動きを観察するためにある程度の集中が必要です、みたいなお話になっているかと思います。ですけど、心の動きを観察、みたいなのは初心者にとって現実的ではなくて、顕在意識というのは1つしか心に描くことができませんから、実際には、観察ではなくて心の動きに集中する、ということになるわけです。観察というものがあるわけではなくて心の動きを操作する、あるいは、心が勝手に動いた時に「その後になるべく早く気づく」ということになるわけです。それは観察ということもできるのかもしれませんけど、心の動きを追いかけたり「実況中継」したりするような瞑想の仕方は結局は集中でしかないと思うわけです。顕在意識の心の観察は誰しも持っていますから、心の声を聞くことを観察と言っているのかもしれませんけど、それは観察というより心の声に集中することで実況中継や気づきを深める、という手法のように思います。それを観察という流派がいるのであればそれはそれでコンテキスト次第で成り立つとは思いますけど、そうした瞑想手法はサマーディの観察とは全く別物であるわけです。<br /> <br /> と、こうして書いていてまた混乱をさせてしまったかもしれないですけど、要は、五感の観察を使った瞑想手法というものがあって、一方、サマーディの観察というものもあるわけで、瞑想で観察というとサマーディ的な観察がメインなわけで、とはいいましても、流派によっては五感の観察をもってして観察瞑想(ヴィパッサナー瞑想)と言っていたりするわけです。<br /> <br /> ですから、瞑想のお話で「観察」と聞いた時、それが五感に関するものなのか、サマーディに関するものなのかコンテキストで見分ける必要があるわけです。<br /> <br /> Mon, 23 Aug 2021 00:00:00 +0900 瞑想中に意識がなくならない https://w-jp.net/2021/2444/ <br /> 瞑想とは意識的に行うものですので瞑想中に意識がなくならない方が良いです。とは言いましてもこれは顕在意識で意図して行うものではありませんので、顕在意識の普通の心が「起きていなくてはならない」といくら念じてみてもあまり役には立たないもので、瞑想ができている状態が意識がなくならない状態だ、というだけのお話です。<br /> <br /> ですから、目標として「意識が瞑想中になくならない」という状態の瞑想があったとしても、それに行き着くための手段がそのまま「意識がなくならないようにする」と直結しているわけではないのです。<br /> <br /> ここに落とし穴があって、多くの流派では「意識がなくなってはダメだ」みたいな感じで強要して瞑想にて強制的に意識を起こすような手段を取っていますけど、残念なことではありますが個人的に思うのは、それは近道のようでいて実は遠回りなのではないか、あるいは、全く変わらないのではないか、と思うのです。<br /> <br /> これは私の仮説でしかありませんので万人に通用するかどうかはわかりませんけど、強制的に意識を起こしたままにしようとしても普通はできません。<br /> <br /> そうではなく、手段としては「リラックスする」という方法を取ることにより目標である「意識が起きたままにいる」「意識が瞑想中になくならない」に達することができるわけです。<br /> <br /> 一方、同じ目標に達するために「意識を起こしたままにしよう」とか「目を開けたままにする」とか色々な手法が考え出されていますけど、個人的に思うのは、それはなかなか大変なお話だと思うのです。<br /> <br /> それよりは、意識がなくなるのであればそれはそれで良しとして、続けているうちに抗い難いエネルギーが自らの奥底から湧き上がってきて自然にそのように意識が目覚めた状態になりますから、そのようにエネルギー的な変化が起こる前に強制的に手法やら修行やらで自身の意思あるいは師匠の叱咤によって意識を目覚めさせようとしても、それは付け焼き刃でしかないのかなと、少し悲しい現実ではありますけど、そのように思うわけです。<br /> <br /> それでは何が助けになるかというと、結局のところ単純なことで、自分の奥底に眠っているエネルギーと意識に頼るしかないわけです。その、自分の奥底にエネルギーというものが実は仏教などで言われている「他力」というもので、自分の中に眠っているけれどもそれは万人に繋がる「全体」としてのエネルギーのうちの自分に分けられた一部でありますから、それは自力でもあるし他力でもあるわけです。そのような自分の奥の意識に頼ってこそ瞑想が成長してゆくわけで、修行で強制的に意識を起こそうとしてもそれはそれほど役には立たないのではないかと思うわけです。<br /> <br /> 修行は、結局は自らが行うものであるわけで、それに適した手法というものも自分が知っていて、激しい修行も時には良いものかもしれませんけど、個人的には、意識の目覚めというものはリラックスして自然に起こるものかなと思っております。<br /> <br /> そして、リラックスするには集中が必要です。何やら矛盾しているように聞こえるかもしれませんけど、まず集中してから歓喜に至り、それからリラックスするわけです。集中を基本としたリラックスの後に意識の目覚めがあります。最初は極度の集中から始まって、やがて自然にリラックスしたまま意識が鋭く冴えるようになります。<br /> <br /> 基本は自分自身の中にありますし、段階ごとに大切なものも違うわけです。<br /> <br /> Mon, 23 Aug 2021 00:00:00 +0900 エネルギー重視のスピリチュアル https://w-jp.net/2021/2443/ <br /> パワーと言い換えても良いですし愛と言っても同じことですけどエネルギー重視のスピリチュアルというものがあって、一方、理屈重視のスピリチュアルというものがあります。<br /> <br /> エネルギー重視のスピリチュアルは、エネルギーが高まりさえすればポジティブになって雑念は消えて悟りに至ることができる、というお話です。<br /> <br /> 一方、理屈重視のスピリチュアルは文字通り理屈で一歩一歩歩んで悟りを得る方法です。<br /> <br /> 個人的には理屈を学んだりしたこともありましたけど基本的にはエネルギー重視のスピリチュアルの道を歩んでいて、理屈は道しるべあるいは自分の状態の確かめとして使っています。<br /> <br /> 世の中には理屈で悟るという人もいて、ヨーガあるいはインドのヴェーダ的にはニャーナ(知識)の道、とか言われていたりしますけど、そういうお話もあるかと思います。<br /> <br /> エネルギー重視のスピリチュアルは割と力技のようなところがあって、エネルギーが高まる前は単なる理屈のお話でしかなかったものがエネルギーが高まるだけで腑に落ちてよく理解できる、ということがよくあります。<br /> <br /> ですから、理屈を勉強するのも良いですけどあまり頭でっかちになってしまうのも良くなくて、理屈を勉強するうちに自分がわかったと思ってしまったり既にそのような状態になっていると自分で自分を誤魔化してしまったり自己催眠のように自身を錯覚状態に陥らせてしまうこともあるわけです。<br /> <br /> ですから理屈と実践とどちらも大切なわけですけれども、個人的には、エネルギーだけでも割と十分かなという気がしないでもないですけど道標としての理屈もかなり役立ってはきました。<br /> <br /> この、理屈とエネルギーのお話には誤解があって、流派によってはエネルギーとかは関係なくて理屈だけで悟ることができるとか言ったりしていますけど、個人的に思うのは、エネルギーの面を抜きにして悟りはあり得ない、ということです。エネルギーを軽視している人は最初からエネルギッシュでパワーに溢れているからこそ理屈が重要と言っていたり、あるいは、言わないだけで途中でエネルギーに溢れる瞬間があったりして、それをエネルギーと言わずに知識に溢れる、あるいは、知識が起こる、みたいに言っているだけのことで、側から見たら同じことなわけです。少なくとも自分にはそう見えます。<br /> <br /> エネルギーと言わずに「愛」という場合もありますけど、同じことかなと思います。エネルギーというと「他人に影響、他人を操作するエゴの力」というニュアンスが入る可能性がありますのでそれが嫌な場合は愛と言った方が意味が歪められずに伝わるのかもしれませんけど、純粋なエネルギーという意味であれば同じことです。<br /> <br /> 言い方は色々とあれど理屈とエネルギーのお話は両輪で、個人的に思うのは、理屈が先行することもあればエネルギーが先行することもありますけど、頭だけの理屈が先行したとしても実感としての理屈が先行することはなくて、頭だけの理屈が先行するかしないかはその時々ですけど、少なくともエネルギー的な高まりがあって初めて本当の実感を伴う理解が来るのだと思います。<br /> <br /> 言うなれば、理屈(任意)→エネルギー(必ず起こる)→実感(必ず起こる)、という順番ですかね。<br /> <br /> 理屈も時にはいいですけど、それより、エネルギーが高まればポジティブになって理屈も理解できるようになるわけです。<br /> <br /> Sun, 22 Aug 2021 00:00:00 +0900 ナーダ音と目覚めた意識 https://w-jp.net/2021/2442/ <br /> ナーダ音とは瞑想中あるいは普段の生活において聞こえる高周波の音ですが、目覚めた意識があるかないかでナーダ音の位置付けは変わってきます。<br /> <br /> 心の本性(セムニー)が目覚めた意識(リクパ)を持っているときはナーダ音があってもそれを横から見ている状態になります。<br /> <br /> 一方、まだリクパが現れていない、あるいはとても弱い場合は、ナーダ音に顕在意識の心(思考する心)がしがみつく形になります。この場合、雑念が現れてくると気分が悪くなったり混乱して頭の中で思考がグルグルと回ることになります。<br /> <br /> 後者の状態の場合、聖典では「ナーダ音に集中する瞑想」と言うのも言われていて、サマーディに達する前段階の瞑想として、ナーダ音に集中することでサマーディに到達できる、と記されています。<br /> <br /> (5章79~80) 右の耳のなかで内から発する心地よい音が聞こえるであろう。初めにコオロギの音、次にはフルートの音、それから、雷、太鼓、蜂、ドラ、さらに進むと、トランペット、湯沸かし太鼓、ムリダンガ鼓(南インドの両面太鼓)等の騒音楽器の音及び太鼓の音が聞こえてくる。<br /> (5章81~82) そしてしまいには、かのアナーハタの音の響きが聞こえ、その音のなかに光が存在し、その光の中にマナス(こころ)が存在し、そしてこころはそのなかで消えてしまう。これがヴィシュヌ神の高御座に達した境地である。かくの如く三昧(サマーディ)に達するであろう。<br /> 「続・ヨーガ根本経典(佐保田 鶴治著)」より<br /> <br /> サマーディにも色々な種類がありますが、この記述のサマーディはまだアートマンには達していなくて、まだ心の本性(セムニー)の目覚めた意識(リクパ)が出てきていない状態です。それでも、雑念と煩悩に悩まされていた時からすれば遥かな進歩ではあるのですが、まだ終わりではなく、この先に心の本性(セムニー)が現れて目覚めた意識(リクパ)が働き出す段階があるわけです。<br /> <br /> ナーダ音が消えてなくなる、というのはまだリクパが現れていない時のお話で、それはそれで一つの成長の階梯として存在しているとは思いますけど、リクパが現れた後はナーダ音は割と常に存在していて、でも顕在意識はそれに惑わされない状態になるわけです。<br /> <br /> その、リクパが働き出した状態においてはナーダ音と顕在意識としての心(思考する心)のすぐ横に「見つめる意識」とでも言うものが現れて、ナーダ音が聞こえていることそれ自体と、ナーダ音を認識している普通の心(顕在意識、思考する心)そのものを横から眺める意識というものが存在しています。<br /> <br /> この、「見つめる意識」あるいは「観察する意識」とでもいうものは聖典が説くところによれば最初から存在していたもので、元々あったということは何か新たに獲得する能力とかではなくて、文字通り全ての人間に最初から備わっているものなのですけど、混乱したこの世界に生きていると曇りが生じてその心の本性(セムニー)が覆い隠されてしまい、目覚めた意識の働き(リクパ)が働くなっているわけです。そこで瞑想をしたり修行をすることで覆いを取り外せば誰でも悟ることができる、と聖典は言います。これはその通りだと思います。<br /> <br /> 目覚めた意識の働き(リクパ)が現れるときは、普通の心(顕在意識)とは別に、心の本性(セムニー)が現れて、ナーダ音を見つめるようになるわけです。リクパが現れる前はナーダ音に意識すると普通の心(顕在意識)の全てが持っていかれてしまいましたけど、リクパが現れた後であれば、顕在意識は選択的にナーダ音を意識することもできますしそれ以外にも選択的に認識することができるようになります。そのように選択的に顕在意識を働かせるためには、顕在意識を制御して観察する心の本性(セムニー)が必要で、セムニーによるリクパの働きがあってこそ、顕在意識が無意識で揺れ動かずに選択的に意識的に働くことができるわけです。顕在意識そのものは道具のようなもので、その奥にあるセムニーによるリクパの働きによって意識的に顕在意識が動くことができるわけです。<br /> <br /> Sat, 21 Aug 2021 00:00:00 +0900 サマーディに居続けるテクチューとランドル https://w-jp.net/2021/2441/ <br /> 詳しい内容は分かりませんけど、チベット仏教、特にゾクチェンに属する教えの中にテクチューという修行方法があるようです。<br /> <br /> それは2つの修行段階のうちの1つであり、1つ目としてテクチュー、2つ目にはトゥゲルがあり、テクチューの場合は初段階ということでサマーディ(三昧)に居続ける修行、とのことです。<br /> <br /> 一方、同じくゾクチェンの見解においてサマーディの深化の3つの段階がありますけど、どうやら私はランドルの段階にいるように思います。<br /> <br /> ですから、私のいる段階の組み合わせとしてはテクチューとランドル、ということになると思います。<br /> <br /> ■修行方法<br /> テクチュー(サマーディに居続ける)<br /> トゥゲル(内容不明)<br /> <br /> ■サマーディの深化<br /> チェルドル 最初の能力。「観察すると、それはみずからを解放する」<br /> シャルドル 中間的な能力。「生じると同時に解放する」<br /> ランドル 究極的な能力。「自然にみずからを解放する」<br /> 「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」より<br /> <br /> 私は今までもサマーディの状態を瞑想及びその後でしばらく継続できていたかと思いますけどその状態には段階があって、最初は時間をかけた瞑想でサマーディに至っていたものが、そのうちそれほど時間をかけなくてもサマーディ状態になり、そしてごく最近、サハスララにオーラが満ちた状態ではようやくランドルと言うのに相応しい状態になったのかな、と自分では思います。<br /> <br /> そして、これらチェルドル・シャルドル・ランドルは全て修行でいうとおそらくテクチューに相当して、テクチュー+チェルドル、テクチュー+シャルドル、テクチュー+ランドル、という組み合わせになるのかな、とも思います。チベットのラマに聞いたわけではありませんけど、そのように考えるのが理に叶っているように思います。<br /> <br /> ランドルがそのまま悟りではなくて、この先にトェデルと言う状態があって、それが悟りだとのことです。<br /> <br /> トェデルは「概念の彼岸」ないし「空のような」という意味だ。トェデルとは主体と対象の完全な再統合である。だがそれだけではない。みずからのエネルギーとそのあらわれ方を支配することによって、もはや転生を必要とせず、今生において究極な悟りを成就する。「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」<br /> <br /> 今まで、このあたりがピンと来なかったのですけど、サハスララにオーラが満ちた状態で想念のエネルギーと周囲のエネルギーを観察できるようになると、確かにこの方向性で行けばこのようなことも可能なのでは、という確信のようなものが生まれてきます。<br /> <br /> Fri, 20 Aug 2021 00:00:00 +0900 サハスララにオーラが満ちると雑念が入ってこなくなる https://w-jp.net/2021/2440/ <br /> 瞑想をしてサハスララにオーラが満ちると、頭頂が妖怪アンテナのようにちょっとピンと立ったような感覚になって、その状態では雑念が入ってこなくなり、明示的な思考(ブッディ)のみが働くようです。<br /> <br /> 瞑想をしてしばらく観察していましたが、特に明示的な思考をしなければ単に呼吸や周囲のセミの音をただ聞いているだけの状態になり、目を開けて座っていると目の前の風景がそのまま飛び込んでくる状態です。<br /> <br /> 以前の、視界がスローモーションで認識されるヴィパッサナー状態とは違って特にスローモーションという感じはなく、ただありのままに見ている状態です。おそらくは以前は五感のうち視覚にだけ極度に集中することで視覚がスローモーションかのごとく感じられましたけど、今は特に明示的に視覚に集中することもなく、ただ見ているだけの状態です。意図的に視覚に意識を当てると今も視覚がスローモーション、と言いますか、語弊がありますけど、時間軸としては変わっていなくて普通のスピードなのですけど細かく動きが感じられる、という状態になります。ですので、意識的に視覚を働かせることでスローモーションのように見ることは今もできますけど、特に意識せずに普通に見ている時は、ただ、目の前のありのままを見ているだけの状態になります。<br /> <br /> それは寂静の世界とも言えますけど、禅寺の日本庭園、あるいは短歌などの世界であるとも言えるかもしれません。私は歌は読みませんけど、ありのままを見る禅の世界に通じるものを感じます。<br /> <br /> 寂静の世界と言っても全ての感覚及び音などが止まってしまったわけではなく、セミの音などは変わらず聞こえてきますし、目に入ってくる景色は存在し続けます。<br /> <br /> 違いはといえば、心の中の雑念がなくなり、文字通りなくなって、明示的な思考(ヨーガでいうブッディ)のみが働く状態になります。<br /> <br /> それが、サハスララにオーラを充満させた状態で起こります。<br /> <br /> この状態ですと目を瞑った瞑想と目を開けた瞑想とでさほど違いはなくなって、目を瞑るとやりやすいだとか、目を開けた方がやりやすいだとか、そのような区別は特にないようです。若干、目を瞑った方が不安定になりやすい気も致しますので目を開けていた方がいいかな、という気も致します。<br /> <br /> この、目を瞑った方がいいのか開けた方がいいのかは段階によって向き不向きがあって、瞑想を始めたら基本は目を瞑るのがいいとは思うのですけど、最近は割と目を開けていた方が調子がいいかな、というのが実感です。<br /> <br /> Thu, 19 Aug 2021 00:00:00 +0900 いつの間にかサハスララに手のひらの大きさほどのオーラの塊ができていました https://w-jp.net/2021/2439/ <br /> 瞑想していてふと気がついたら、いつの間にか頭頂にサハスララの感覚ができていて、そこに楕円形のゴムボールのような柔らかくも少し弾力性のあるぷにぷにとしたものが漂っていることに気がつきました。<br /> <br /> そこからエネルギーが上下に微かに行き来していることを感じますけど、それほど強く通っているわけでもなく、じわじわと浸透しているという感じです。<br /> <br /> いつの間にか開いていたのでしょうかね?<br /> <br /> 少し前までは指が1本か2本くらい開いているかどうか、というくらいだったように思います。<br /> <br /> 今は大きさとしては広がっていますけど、まだ完全に開いたというわけでもなさそうです。<br /> <br /> 開いた、というより、サハスララにまでオーラが充満した、という方が正しいのかもしれません。<br /> <br /> ムーラダーラの方はもっとはっきりとしたエネルギーの流れが感じられて、ムーラダーラが開いた時は脈動もありましたので、サハスララが開いたというよりは、サハスララにオーラが充満した、という方が正しい気が致します。<br /> <br /> 「密教ヨーガ(本山博著)」によりますと、インドのとあるスワミはサハスララがチャクラだとは認めていない、とも書かれてありますので、サハスララはチャクラではなくて単なるエネルギーの通り道、あるいはアンテナのようなものなのかもしれないですね。そこはもう少し様子を見ていきます。<br /> <br /> ヴィシュッダ(喉のスロートチャクラ)を境目としてオーラが頭の方にまでそれほど浸透していなかった時はヴィシュッダの下側で同様にオーラが充満していて頭の方に時々オーラが上がる、という状態だったのですが、それと似たような感覚があります。ヴィシュッダを境目として頭にオーラが上がるという状態だった時と、サハスララのあたりまでオーラが充満していてそれより上にオーラが時々少し上がる、というのは、場所は違えども、似たような感じではあります。ただ、ヴィシュッダの時は上に頭が肉体としてありましたけどサハスララの上は肉体としての体はありませんので、その違いがあるにはありますけど。<br /> <br /> これ、先日あんでるせんのマスターに右手からエネルギーを送ってもらったことによりエネルギーが高まってオーラが更に充満してきたのかもしれない、とも思いますけどどうでしょうかね。<br /> <br /> Tue, 17 Aug 2021 00:00:00 +0900 スピリチュアルの成長の歩みを当然のものとして受け入れる https://w-jp.net/2021/2438/ <br /> スピリチュアルの階梯を学んで「こうなろう」と思い描いたり求めるところから始まりますけど、実際に成長したり自らの状態が大きく変わるのはそのような、顕在意識が「求める」気持ちがなくなって当然のものとして受け入れたときに大きく変わるような気が致します。<br /> <br /> それは一回で終わるものではなくて、その時々において次の段階の状態が思い浮かんだりするわけですけれども、次の段階は一応は目標および方向性として見極めはしますけど、そのことを思い描いで「こうなるぞ」と思う必要はそれほどなくて、一応は方向性として確認するくらいで、成長を当然のものとして受け入れるといつの間にか自分が成長して状態が大きく変わる、という事が段階的に繰り返されるような気が致します。<br /> <br /> その時々において、傍目にはそのような成長がとても難しく感じられる時もあり、そのそれぞれの階梯において階段のステップがとてつもなく大きくてとても無理だと感じられることもあったりしますけど、その時に、諦める必要もなくて、かと言って、簡単だと自分に思い込ませる必要もなくて、それも全てお導きによってなるようになる、というおおらかな気持ちでいればいいような気が致します。<br /> <br /> それを流派によっては「他力」だとか「他力本願」あるいは「絶対者の祝福」とか「キリストの恵み」とか色々な名前で呼んだりするかもしれませんけど、それは表現としてそのように言っているだけで、実際には、自らの奥底の根源に委ねる、という点では変わりがないわけです。<br /> <br /> ここで、実際には自らの根源に委ねているわけですけれども、顕在意識からしたら特に最初は根元の意識であるいわゆるアートマン(真我)とは切り離されておりますので、顕在意識のマインド(思考する心)からしたら他者・他力のように感じられるだけで、実際にはアートマン(真我)の働きによって導かれて成長してゆくわけです。<br /> <br /> ですから、それは実際には自分自身であるのですけれども他者あるいは他力、はたまたキリストの導きのように感じられたりはしますけど、実際には、それはアートマン(真我)の働きであり、実際にはそのアートマン(真我)は「全体」であるブラフマンと同一でありますから、最初は個としての分かれたアートマン(真我)としてその「他力」あるいは「キリストの導き」は感じられますけど、実際には、その後、その導きは「全体」のものへと変わってゆくわけです。<br /> <br /> その導きは段階的にずっと続くわけですけれども、最初こそ自我の動きによって「求める」という行動が必要なわけですがそのうち自我による求めから、アートマン(真我)による当然の働きとしてスピリチュアルな歩みが進むようになります。<br /> <br /> Tue, 17 Aug 2021 00:00:00 +0900 私の周囲に広がるオーラが少し広がる https://w-jp.net/2021/2435/ <br /> サマーディ状態で私の周囲は近くのものだけが「私」として認識されるわけですけれども、ここ最近の変化として、ほんの少しだけそれ以前よりも広い範囲が「私」として認識されるようになりました。<br /> <br /> とは言ってもその変化は微妙で、もともとはっきりとした境目があるものではないですし、ですけど、ある程度まで広がった後にそこから更に離れると急に感覚がなくなっていくというある程度のオーラのゾーンというものはあって、その一応の境目のようなものが少し遠くにまで広がった、ということです。<br /> <br /> これは程度問題ですし、瞑想状態で感じられるものですので、少し前がその範疇が例えば50cmだったとして、55cmか60cmになった、というくらいの小さな違いです。1mもないですけど30cmよりは広そう、というくらいの割と曖昧な主観ではありますけど、その主観で、少し前よりオーラが広がった感じが致します。<br /> <br /> ですけど、ここで一応はオーラと表現していますけどこのゾーンはなんと表現したらいいのか微妙で、どこかで読んだ「ブッダ・ゾーン」とでも読んだ方がいい空間かもしれません。<br /> <br /> これをオーラと表現してしまうと誤解があって、肉体に近いところにあるエネルギーとしてのオーラ、ヨーガでいうプラーナのエネルギーのオーラであれば以前と変わらなくて、プラーナは体の近くにぴったりと安定しているのがよくて、プラーナのオーラが揺れるということは不安定ということですのでよろしくないのですけど、そのように、プラーナのオーラに変化はないのです。<br /> <br /> それよりも微細なところで、「私」の感覚が私の周囲へとサマーディ状態で広がっていて、その広がる感覚はプラーナよりもずっと微細で、周囲のもの、あるいは他の人であったとしてもそのゾーンにおいては(私にとっては)「私」になります。<br /> <br /> 近くにあるものが「私(わたし)」として認知され、近くにいる人も「私(わたし)」として私(わたくし)が認知するわけです。<br /> <br /> その範囲が、ここ数日でほんのちょっとだけ広がった実感がありました。<br /> <br /> Wed, 11 Aug 2021 00:00:00 +0900 胸でオームを唱えていると小人が出現する https://w-jp.net/2021/2433/ <br /> 意識を胸に合わせ、奥深いところから 胸でオームを唱えていると、胸の奥に何やら人間のような形をした小人が光っていることに気がつきます。<br /> <br /> 元々、体全体の薄い感覚などはありましたし、胸を中心として体やマインドを動かしているという実感はありましたけど、胸の奥に何やら光った小人のような意識体がいることに気がついたのはごく最近のことです。<br /> <br /> それは胸の奥底でオームを唱えれば唱えるほどはっきりと見えてきます。<br /> <br /> オームだけでなくガヤトリ・マントラやチベットのマントラを唱えたりしていますが、不意に、どのマントラが聞いたのかはそれほど定かではありませんけど、意識体が胸の奥底にぽっかりと不意に、そしてやがて少しづつはっきりと現れてきます。<br /> <br /> 瞑想をする前は割とぼやけていますけど、座った瞑想を始めると割とすぐに意識体が現れ始め、マントラを数回唱えるとすぐにその小人のような意識体は白く輝き始めます。 <br /> <br /> これは、もしかしたら、ヨーガの聖典で言われている「胸の奥の小部屋」というものかもしれません。<br /> <br /> それは有名なハート・チャクラ(アナハタ・チャクラ)とは違って、そのすぐそこにありますが、とても小さな小部屋です。 それを読んだ原典を探したのですがすぐには見つけられませんでしたのでいずれ見つけた時に記載します。<br /> <br /> 胸を中心にした感覚に関しては、今まで、いくつかの段階を経てきました。<br /> 1.創造・破壊・維持の意識の胸への広がり<br /> 2.意識が体をダイレクトに動かしていることの実感<br /> <br /> これはこれで、いわゆるアートマン(真我)が自分を動かしていて、かつ、自分を観察している状態だと理解しておりました。<br /> <br /> これに加えて、胸の奥に小人のような輝く存在がいたことにより、これが私のアートマンの本体なのかもしれない、という感じになってきました。<br /> <br /> ヴェーダンタでは、個人は自我としてのジーヴァ及び分断された個としてのアートマン(真我)として表現されていてジーヴァの方は錯覚としての自我(エゴ)としての自分であり、一方、アートマンは実際には全体(ブラフマン)の一部としてのアートマンなわけです。<br /> <br /> その、分断された、個としてのアートマンがこの輝く小人なのかもしれない、という気になてきました。<br /> <br /> この種のことは、実際には何なのかは聖典に当たってみるのがよく、この記述と全く一致するような記述はなかなかありませんのでまだ仮説にしか過ぎないのですけど、これがアートマンの本体なのかな・・・? という気も致しますが、どうでしょうか。<br /> <br /> Tue, 10 Aug 2021 00:00:00 +0900 マントラがとても奥深くから小さい声で浸透して聞こえるようになった https://w-jp.net/2021/2432/ <br /> 以前は、マントラを唱える時は割と普通の心の思考するマインドで唱えていたように思います。<br /> <br /> その時は割とはっきりとした思考する意識でのマントラが体の各所に浸透して、例えば下半身によく共鳴するマントラとか、アジナに反応するマントラとか、割と上半身全体からアジナにかけて共鳴するマントラとか、それぞれマントラにも特徴があったように思います。<br /> <br /> 最近は、割とどのマントラを唱えても同じで、思考する普通の意識ではなく、とても奥深いところにある意識がマントラを唱えるようになりました。<br /> <br /> そうなりますと、体のどこにも反応するところがなくて体は空っぽで、そうは言いましても体はありますので皮膚の感覚は残っていてそれは感じているのですけど、マントラを唱えた時の内なる空間というものが「空っぽ」なのです。<br /> <br /> 体の中が空っぽで、その奥底からマントラが小さく響いています。<br /> <br /> 昔は、割とはっきりとした意識だったということは、割と小さな部屋で誰かが喋っているかのようでした。体が小さな部屋で、その中でマントラを唱えると体の各所が、まるで小さな部屋で喋っているかのように部屋の各所にまで響いたわけです。<br /> <br /> 今は、その部屋が、とてつもなく広くなったように思います。少なくとも体育館、あるいは、実際のところ壁なんてない、青く晴れた草原のようだとも言えるかもしれません。<br /> <br /> その広い場所でマントラを唱えていて、それをとても遠くから聞いていますのでマントラがとてもとても小さく聞こえるわけです。<br /> <br /> マントラが遠く・・・、というよりは、とても深いところから聞こえているように思います。<br /> <br /> その、深いところから響くマントラを、小さい音として聞いています。<br /> <br /> 体の中は空っぽで、マントラが多少は時々何かに反響するような感覚も時折ありますけど、基本的には空っぽなところでマントラが小さく響いています。<br /> <br /> 今までは顕在意識がマントラを唱えていたのが、もしかしたら今は奥深いところの意識が唱えるようになった、とも言えるかもしれません。<br /> <br /> これは別に、そのように意図したわけではありません。<br /> <br /> 普段の生活において、最近は、顕在意識というよりは奥深い意識を意識しながら生活してきました。いわゆるサマーディ状態ということでもありますけど、そのように、深い意識に気づくようにして生活する時間を増やしていたら、ふと気がついたらマントラがこのように変化したわけです。<br /> <br /> この変化は予想していたものではなくて、少し数日ぶりかにマントラを唱えてみたら自然にこのようになりました。<br /> <br /> 思えば、これが自然な感じに思えます。顕在意識で唱えるマントラよりも深く遠くにまで静かに浸透するマントラになりました。<br /> <br /> Sat, 07 Aug 2021 00:00:00 +0900 悟りを求めて心の静寂を追求する https://w-jp.net/2021/2431/ <br /> 面白いもので、サマーディ以前の場合は悟りを内に求めていたのがサマーディ以降は悟りを外に求めるようになりました。<br /> <br /> 悟りは自らの中にある、というお話はよく聞くお話で、ない場所を探しても見つかりませんよ、とは昔からよく言われていたりします。例えば、有名なお話で、針を部屋の中で落とした人が家を出て明るいところで針を探している、という例え話があります。もちろん、落としたのは部屋の中なので部屋の中を探さないと針は見つからないのですけど、真理を求めている人はないところを探している、という古くからの例え話です。<br /> <br /> それはそうで、サマーディ以前の場合は真理は自分の中にあるのですから自らの内側を探究しなければ真理は見つからないのに多くの人は外側の目に見える現象や聖地や他人あるいは宗教の偶像に対する崇拝を通じて真理を見つけようとしますけど、自らの内側にあるのだから内側を探さなければ見つかりませんよ、というお話は基本的にはその通りだと思います。<br /> <br /> とは言いましても、言葉通りに受け取ってしまうと礼拝や儀式が全く無駄ということになってしまいますけどそれは例え話ですから、実際のニュアンスとしては、外側に見える現象や聖地や他人あるいは宗教の偶像であってもそれは自らの一部なのですから自らの内側のものとして理解するのが正しいわけです。<br /> <br /> それは、段階的な、過渡的なお話として理解されるべきです。<br /> <br /> 最初、瞑想がそれほど進んでいなくてサマーディ以前の場合は悟りというものがよく分かりませんから、儀式に参加したり偶像礼拝したりしてみたりすることも悪いことでもなく、そうすることで自らの心が整っていくわけです。<br /> <br /> 上記のように言われたからと言って快楽に生きることを選んでしまう人も一定数いるわけで、そうであるとすれば、今の現代人に上記のようなことを言って変に誤解させてしまうのもよろしくないかな、という気も致します。<br /> <br /> 上記のお話はある程度の瞑想が進んで、だけれどもまだサマーディ以前の場合に有効で、その段階ではまだ周囲の人やものも自分自身だという自覚には達しておらず、自分と他人という区分けがあり、それは区分けというよりも自分が分かれて存在しているという錯覚なのですけど、そのような錯覚の元では上の例え話のように自らの内側を探しましょう、というお話は有効なわけです。<br /> <br /> ですけど、サマーディ以降になるとそもそも自分という感覚は錯覚だったとわかりますから、そもそも上記の例え話は成り立たないわけです。そもそも存在しない自分というお話を持ち出してきて自らの中を探すとか言われたとしても、全てが自分なのだから、自分ではないところなんてどこにあるのでしょう、というお話になります。<br /> <br /> サマーディ以前の場合は、もっと単純に考えて、自らが錯覚で自分という分離を生み出しているということをまずは理屈で理解した上で、とりあえずは自らの内側を探究しましょう、というくらいに捉えておくのが良いと思います。<br /> <br /> 内側の探求とは、基本的には心の静寂の追求です。<br /> <br /> そして、サマーディ以後は周囲のものも自らだと理解して知覚し始めますから、そのような「補助輪」としての考え方からは卒業するわけです。最初は自らに近いところからその感覚は始まって、やがて広がっていきますから、特に最初は、自らのことを理解すればそれで十分なわけです。<br /> <br /> Fri, 06 Aug 2021 00:00:00 +0900 肉体の体も光である https://w-jp.net/2021/2430/ <br /> 最近は、主に瞑想の中で自らのマインドおよびアートマンが光であることを自覚し始めたわけですけれども、そうして少し瞑想をしていると、割とすぐに、自らの肉体の体も光であることを自覚し始めます。<br /> <br /> それは理屈でどうこういうお話ではなくて、割と率直に「あ、光だ」と「わかる」ことであって、「確かに、よく言われているように、私は光だった」と、ただ単にシンプルに自覚するというお話です。<br /> <br /> ですから、物理学とかを持ち出してきて量子力学で言われているように光と波動がどうのこうのこうのとか、そういうのも真実なのかもしれませんけどこれはもっと単純なお話で、この体は光だった、と、単純にそれを自覚するだけのお話なのです。<br /> <br /> ですから、これ以上の難しいお話は特にないと言えばないのですけど、見ようによって色々な側面があって、光とは言っても体が実際にあるじゃないか、というお話はそれはそうなのですけど、それは光が一時的に体というものに遮られて輝きが今まで失われていただけのことで、本来的には体は光を放っているわけです。<br /> <br /> 体そのものが光か、というと今のところの感覚では、「たぶんそうだけれども、体という形、光とは違った姿を今は取っている」という感じです。ですから、光が元になっているのはおそらくそうなのですけど、その形はそう簡単に崩れることはなくて、固形の形態を取ってはいるものの、元は光なわけです。<br /> <br /> 私の場合、周囲にある固形の物体もおそらく光なのだろうは思いつつも周囲の物体に関してはそれほど自覚がなくて、光だと主に感じているのは自らの肉体の体までですけど、肉体の自らの体のことで言いますと、光と物理的な肉体とが混ざっているような感覚があります。<br /> <br /> おそらくは、それほど瞑想していない状態では物理的な体が優勢で、瞑想することにより光が高まる、ということかなと思っております。ですから、周囲にある固形物は光をそれほど放っていないわけです。<br /> <br /> 今はまだまだですけど、おそらくはこれが進んでいけば自らの体が光として溶け去ったり時空を越えやすくなったり、ということもあるのかなと思いますが生きているうちにどこまで行くのかは分かりませんけど。<br /> <br /> 昔の文献を読むとミラレパなどは肉体を持ったままそのまま時空を越えられたり生きたまま光になって空間に溶け込んだりまた空間から現れたり、ということができるようになったというお話があって、私はまだまだそんな段階ではないですけど、おそらくはそういうこともこの延長線上では可能なのかなと思います。<br /> <br /> Fri, 06 Aug 2021 00:00:00 +0900 自らが光であると自覚する https://w-jp.net/2021/2429/ <br /> スピリチュアル等では自分が光だというのはよく言われていて神々しいオーラとか後光がするとかそういう比喩があったりしますけど、そういう他人に対する表現ではなくて、瞑想中に自分の感覚として自らが光であると自覚し始めました。<br /> <br /> この時に他人から見たらどう写るのかは分かりませんけど、少なくとも、瞑想中に自らの中心が光を放っていることを自覚しています。<br /> <br /> その光は2種類あって、アートマンとしての意識の基礎の光がまずあって、この光はそこまで激しくはないのですが自らを中心として薄く周囲にまで広がっています。<br /> <br /> それに加えて、意思としての思考するマインドの光もまた自らを中心として存在しています。<br /> <br /> アートマンの意識の光はそれほど変わることがなくて光り輝き続けています。<br /> <br /> 一方、思考する意思としてのマインドの光は、思考を意図する度に激しく揺れ動いて思考に合わせて輝いて瞬きます。<br /> <br /> アートマンの意識の光が思考するマインドに働きかけ、それに応じるようにマインドが動き、それと同時に光が激しく瞬くのです。<br /> <br /> どちらも光ではあるのですが階層が違うようで、アートマンの方は意思の光で、マインドの方は具体的な論理あるいは具体的な対象を持った思考の光です。<br /> <br /> ここで肉体としての体とマインド(心としての体)、及びアートマンとしての意思、という3階層に分けてみますと、それぞれ、微細な方から粗雑な方へと意図する(命令する)ということを行なって粗雑な体を動かすわけです。<br /> <br /> マインドが思考して体を動かします。<br /> そして、マインドそのものは、アートマンの意識・意思が動くことでマインドが動き、思考します。<br /> <br /> ですから、最初のスタート地点はアートマンの意識が働き、次にマインドの思考が働き、そして必要に応じて肉体の体が動きます。<br /> <br /> 自律神経などは自動的だったりしますけど、ここで言っているのは口とか諸々の意図的に動かす部分のお話で、マインドの思考が意図しなければ肉体の体が動かない、ということになります。<br /> <br /> ですから、静かに黙って座る場合はマインドがそれなりに静かになってマインドが口で話すことを意図しない状態なわけです。更に進むと、マインドの奥にあるアートマンの意識が静かになってマインドを黙って静かにさせることができるわけです。<br /> <br /> これは割と階層的に進むことです。最初は喋らずに静かに座っていてもマインドが激しく動いたりしますが、やがて、マインドそれ自体の動きも静かになってゆきます。<br /> <br /> ヴェーダンタ的に言えばアートマンの意識は無限でそれ自体は穢れがないのですけど、実際はアートマンそれ単体で存在しているということはなくてこの世においてはヨーガで言うところの3つのグナと常に結びついていますから、比喩的にアートマンと言っているのは実際にはグナと結びついたイーシュワラなのですよね。こうなるとこの世との関連性が存在して、意識としてマインドに働きかけますけど、それと同時に、マインドからの入力をグナとして蓄積してサムスカーラという微細な感覚に溜め込んでしまったりするわけです。サムスカーラはアートマンの意識よりももっと粗雑なものなのですけど、そのサムスカーラがアートマンの意識を覆い隠すと意識が輝けなくなってしまうわけです。<br /> <br /> グナがないとアートマンの意思はマインドに働きかけることができないのですが、グナが沢山あればそれだけでいいというわけでもなくて、グナがそれなりに純粋でないとアートマンの意識とマインドの意識が分断してしまったりするわけです。<br /> <br /> グナは3グナと言われていますように純粋なサットヴァと活動的なラジャス、そして重いタマスとがありますけど、タマス優勢の場合はアートマンの意識がマインドになかなか届かなくてマインドの思考だけで生きてしまうわけです。サットヴァの意識は輝いていますけどそれはアートマンそのものではなくて、ですけどグナは多少は必要ですのでサットヴァの純粋な意識を通してアートマンはこの世の現実を知るわけです。<br /> <br /> アートマンから見ると全て光なわけですけど、そうは言っても光を遮るものもあって、サットヴァは輝いていますけどタマスは黒くて光を遮るわけです。<br /> <br /> アートマンの純粋な光がサットヴァの光と結びつき、タマスとラジャスを照らしている、とも言えますけど、本来は自ら光り輝くものはアートマンだけですので、サットヴァの光ですらもアートマンの光を映し出して光っているので、太陽に比喩されるアートマンに対してその他は夜に輝く月のようなものなわけです。<br /> <br /> 瞑想をしていると、アートマンの光が基礎として輝いていることがわかって、アートマンの意思が満遍なく満ちているところと重なるようにしてマインドの意識・意思が自らのハートに光って存在していて、どちらも光ではありますし、実際のところ激しく一時的に輝くのはアートマンの方というよりはマインドの光の方が激しく輝くように見えますけど、実際のところ、基礎として本来的に自ら輝いているのはアートマンの方なわけです。<br /> <br /> Fri, 06 Aug 2021 00:00:00 +0900 マインドの思考を働かせる感覚 https://w-jp.net/2021/2428/ <br /> 自分の意識はハートのアナハタを中心にして周囲へと広がっており、自分の少し外側にまでその領域が達していますが遠くになるにつれて次第に薄くなって行きます。<br /> <br /> 一方、思考する心であるマインドが働く時も同様にハートのアナハタから水面の波紋あるいは衝撃波のように波が作られ、それが周囲へと広がってゆきます。<br /> <br /> 意識はより微細ではありますけど、思考する心とも一部重なっていて、意識がマインドに働きかけることによって意識よりもう少しだけ粗雑なマインドの機能が働いて思考の波を同じアナハタに作り出します。<br /> <br /> 意識が動く時も小さな波が作られますけど、マインドが動く時はもっと大きな波が作られます。<br /> <br /> 意識としての感覚はマインドよりももっと遠くにまで広がっていて、周囲から聞こえる心の声のような波をキャッチします。それははっきりと「外側」として感じられ、又、強さとしてはとても弱い思考の波です。<br /> <br /> 自分のマインドが黙って静かにしていても、そのような「外側」から来る心の声の波は止まることがないわけです。自分が黙ることができるのは自分のマインドの思考についてだけで、周囲から不意にやってくる思考の波を止めることはできないわけです。と言いますのも、「意識」は常に観察し続けるからです。<br /> <br /> とは言いましても基本的には周囲からの雑音のような心の声はとても弱くて基本的には意識の妨げになりません。ただ、その雑念に共感してしまって自分の心のマインドを働かせてしまった場合は周囲からの雑念がトリガーとなって自分の思考のループが始まってしまいますけどそれなりに浄化が進めばそのようなループになることはなくて、ただ自分のマインドが静かに黙って意識が観察し続けるという瞑想をすることができるわけです。<br /> <br /> そのように、明示的にマインドの思考を働かせるという感覚があるわけですけど、瞑想が進んでいない場合はその感覚がよく分からないわけです。<br /> <br /> 明示的、ということは、意識がそう意図することでマインドを働かせない、ということも意識的に行うことができるわけで、それは意識を働かせるというよりは意識を制御して律することでマインドを動かさない、という状態なわけです。それはマインドを動かさない、というよりは、意識を観察状態に保って意識をマインドを動かすように意図しない、ということでもあります。<br /> <br /> マインドの思考を働かせるという感覚それ自体は観察ですけど、その一方で、意識は「働きかけ」という作用もありますので、意識でマインドに働きかけない、という状態がマインドが黙っている状態なわけです。<br /> <br /> マインドが黙っても「観察」の状態は続きますので、意識は自分のマインドが黙っていることを観察して、それと同時に、周囲から入ってくる小さな雑念も観察しますけど、意識はマインドを働かせずに観察の状態を保ちます。それが瞑想です。<br /> <br /> これは理屈だけのお話ではなくて、実際に瞑想の中で感じて識別できるお話なわけです。<br /> <br /> Wed, 04 Aug 2021 00:00:00 +0900 マインド(思考する心)が黙っている状態でも意識は働く https://w-jp.net/2021/2427/ <br /> 肉体の口が何も喋らず黙っているのと同じように、思考する心であるマインドも黙ることができます。<br /> <br /> そのようにマインドが黙った状態でも意識は働いていて、観察をしています。<br /> <br /> しかしながら、瞑想をそれほどしていなくて意識が曇っている場合はマインドが黙ることはほとんどないですし、意識の観察もほんの僅かにしか動いていないわけです。それは厚い雲で覆われているかのように意識が見えなくなっている状態で、厚い雲の中に含まれている感情が度々マインドに現れてきて心の声・雑念がループしている状態になっているわけです。<br /> <br /> その厚い雲を取り払う手法としてヨーガなどではクリア(浄化)の手法があったり瞑想そのものを訓練して少しづつ意識を覆い隠している覆いを取り除いていくわけです。<br /> <br /> これらのことはヨーガの聖典であるヨーガ・スートラに述べられているように「心の波を止めること」ではあるのですけど、ここで止めるのはマインド(ヨーガでいうチッタ)の揺らぎを止めることであって、日本語訳では「止滅」とか表現されていますけど、文字通り捉えてしまうと「心をなくしてしまうこと」みたいな誤解がよくあるのですけど、そういうことではないのですよね。<br /> <br /> 止滅というよりは、もっと簡単なお話で、日常生活において道徳的な人は無駄なお喋りをせずに黙って静かにいることができますよね。道徳で言っているのは肉体の言葉として黙ることですけど、ヨーガスートラでは心の声を黙って静かにいましょう、と言っているだけなのです。<br /> <br /> もちろん、肉体の口が黙っていたとしても必要な時は喋ることができますし、それと同様に、マインドとしての心の声が黙っていたとしても必要な時はマインドが動いて思考することができるわけです。<br /> <br /> よくある誤解として、「心をなくしてしまって、一体どうするつもりなのだろうか」という批判がありますけど、ヨーガ・スートラで言っているのはそういうことではなくて、もっと単純で、肉体の口が黙って静かにいるのと同じように、心のマインドも静かにしましょう、と言っているだけなのですよね。<br /> <br /> そうして、心の声が静かになって黙ることができるようになる時、ヨーガスートラではその次の節で「その時、見るものはそれ本来の状態に留まる」と書いてあって、文字通り読むとよくわからなかったりしますけど、これも文字通りというよりはもっと単純なことで、意識を覆い隠している厚い雲を取り除けばその奥にある意識がそれ本来の状態に戻って意識が働き出す、と言っているだけなのですよね。<br /> <br /> ですから、そのように心の声が静かになることと厚い雲を取り除くことは割と同時に進展して行くことということもできますし同じことを違った表現しているだけ、とも言えるわけです。<br /> <br /> そうして、マインドの心が黙ることができるとその奥にある意識がありありと現れてきて、意識がマインドを動かして、かつ、意識がマインドを観察している、ということがはっきりと識別できるようになるわけです。<br /> <br /> そのように、意識が背後にある状態でマインドが意識的に黙ることもできますし、意識的にマインドを使って思考することもできるわけです。マインドが意識的に黙る、というのは語弊があるかもしれませんけど、意識的に黙る、というよりは、意識を明示的に働かせずに静かな状態に保つことによってマインドを動かさない状態に意図する、というのが表現的には正しいかもしれません。<br /> <br /> それは肉体の口が黙るのと同じで、肉体の口が黙る時は2つの方法があって、何か他のものに意識を集中させることで黙る方法と、あとは、単に静かに座って黙る方法とがありますけど、ここで言っているのは後者に近くて、意識がマインドを働かせないことによって黙ることができるわけです。<br /> <br /> 最初は、マインドとしての心の動きがなくなってしまうと何もないかのように感じられてしまって「自分がない」状態として感じられるかもしれません。それは意識が厚い雲に覆われていて意識があまり現れていないからそのように思うわけで、そのような状態では次々にマインドを働かせることによって「自分」としての存在を維持しているわけです。ですけど、ヨーガやヴェーダンタが伝えるところによればマインドは「自分」ではないのですよね。マインドはただの「道具」にしか過ぎなくて、「自分」は意識の方なわけです。<br /> <br /> マインドとしての自分しか感じられなくて意識の方の自分を感じられない人が割と現代には多くて、そのような状態ですと、「マインドとしての自分をなくしてしまったら、それで一体どうすればいいというのか」みたいな誤解をしてしまうわけです。マインドは道具でしかなくて意識の方が自分なのですから、マインドが黙ったとしても意識としての自分は存在し続けるわけで、ですから、マインドが黙っても全く問題なくて必要な時に必要な思考をすれば良いだけなのですけど、マインドが自分だと思っている人は次々に思考を繰り広げて思考を止めようとしないわけです。そのようなマインドの働きの作用が「自分」という錯覚を作り上げているというのはヨーガ的に言えば「アハンカーラ」の働きで、マインドを働かせた反作用として本来ないものである感覚が生まれて「自分」という錯覚を作り上げているわけです。<br /> <br /> そのような錯覚を乗り越えて、マインドが働かなくても自分が「意識」として存在していることを認識すればマインドが黙ろうが働こうがあまり関係がなくて、慣用句で言われているように「意識的な生活」を送ることができるわけです。<br /> <br /> Wed, 04 Aug 2021 00:00:00 +0900 極度の集中状態(ゾーン)にて歓喜が沸き起こる https://w-jp.net/2021/2426/ <br /> 瞑想というよりも技術職や職人などが何かの作業に上達して極度に集中するとゾーン状態になり、歓喜が沸き起こります。自らの心の中全てがその集中の対象と一体になり、感情としての喜びが奥底から湧き出てきます。<br /> <br /> それは最初は何ヶ月かに一度あるいは1年に数回あるいは数年に一回、というように時々にしか起こりませんが、やがて、集中することによりすぐに何度でも毎日でも歓喜が沸き起こるようになります。<br /> <br /> その状態では自らの奥底と繋がりますのでトラウマや何やらも含めて無意識の面が表に出てくるのですが、その一方で、作業の効率は上がりますし歓喜が沸き起こって喜びのオーラに満ち溢れます。集中して作業をすることがエネルギーを高める手段になり、奥底からエネルギーが沸き起こってくるのを感じます。ゾーン状態で何かに集中して作業することにより喜びと結果とが同時に現れてくるわけです。<br /> <br /> これは味方によっては瞑想ですが明示的な瞑想をしていなくてもこのような歓喜が起こる時があって、とはいいましても瞑想をしていた方がよりはっきりと意図的にゾーン状態に入れるように思います。<br /> <br /> 瞑想をすることでポジティブになり、集中力が上がり、喜びに満ち溢れ、結果も出せるようになるわけです。<br /> <br /> この種のことはマインドフルネスとして結果を追い求める瞑想という位置付けで多様に紹介されていますけど、実際のところ、そのような表面上の現れというのは瞑想における副産物であって悟りの道で現れる現象に過ぎないわけです。とは言いましてもこの現代社会を生きる上において役立つ道具であるのは確かなわけで、この種の現世利益を否定する人も大勢いますけど、私は、そんなこと言っていないで普通に利用したらいいと思っています。<br /> <br /> 特に最近の人はわざわざ瞑想とかいうと敬遠してしまいますし、普通に仕事をしながら効率よくポジティブにすることができて、いつの間にかそれが悟りの道に繋がっていた、というくらいでもいいと思うわけです。一番最初から悟りとか言っている必要はないと思いますし、気がついていなくても悟りの道を歩んでいることだって多々あるわけです。そしてふと気がついて真実を知ることもあるでしょうし、そんなに目的とかうるさく問わなくてもいいと思っています。そもそも仏教などの初心は割とブッダの出家時の悩みに即したものだったりしますし、ブッダの悩みが全てかと言えばそうでもないわけで、ブッダのストライクゾーンに当てはまらないからと言って否定する必要はないと思います。<br /> <br /> 話を戻しますと、この種のゾーン状態が瞑想の入り口になるわけです。<br /> <br /> 瞑想というと座って息を観察するだとかマントラを唱えるだとか皮膚の感覚を観察するだとか仏をイメージするとか色々ありますけど、それよりも、ゾーンに入るのが一番の早道だと思うわけです。特に最初の段階としては。<br /> <br /> 私の場合、瞑想やヨガを本格的に始める前は仕事においてゾーンに入って歓喜とエネルギーを感じていました。その頃でも子供の頃から色々と勉強はしていましたけど座った瞑想を本格的にはまだしていなくて、それでも、ゾーンくらいには入れていましたね。たぶんゾーンに初めて入ったのは高校生の頃で、大学とか就職してからもゾーンに入って仕事をしていて、最初は時々ゾーンに入るという感じでしたけど上に書きましたように割とすぐに毎日でもゾーンに入れるようになりました。<br /> <br /> その後、ゾーンに入った時の歓喜が薄くなってきて、それは効果が薄れてきたというよりは自分の状態が良くなってきたのでゾーンの必要が次第になくなってきて、とは言いましてもゾーンは毎日のように続いていて、ゾーンの時とそれ以外の時の変化が次第に少なくなってきた、ということです。<br /> <br /> 私の場合、これが基礎にありますね。<br /> <br /> その基礎の上に瞑想やヨガを始めたら割と数ヶ月でナーダ音が聞こえてきましたし、進歩も早かった気が致します。<br /> <br /> Tue, 03 Aug 2021 00:00:00 +0900 喉に通るエネルギーを止めると静寂の境地になる https://w-jp.net/2021/2425/ <br /> 一つのテクニックとして、喉を上下に流れているエネルギーを喉の少し上で止めると頭の思考が止まって静寂の境地になります。喉そのものではなく、ちょっと後頭部に近い方の箇所にバルブのようなものがあって、そこを意識して締めるような感じにしてあげるとエネルギーが頭の方に行かなくなって思考が止まります。<br /> <br /> そのまま止めたままにしてしまうと頭の光のオーラがなくなってきてしまいますので思考が止まった後はすぐに締めを開放してあげてエネルギーを再度通すようにします。<br /> <br /> こうすることで、頭の思考が一旦止まって、それによって頭のモヤモヤあるいはモヤモヤとまでは行かないまでも水垢のように薄くついている汚れがかなり取れて意識がクリアになります。<br /> <br /> これは、瞑想をそれほどしていない場合はそもそも喉のところのエネルギーが通っておりませんのでやろうとしてもほとんど感覚もなくて効果もないわけですけれども、基本はエネルギーを通す状態にしておくのが良いのですけど、一時的にエネルギーを止めることで頭のあたりのエネルギーを枯渇させて思考を止めて、モヤモヤとしたものあるいは水垢のような汚れですらもそれは基本的にはエネルギーの一形態ですから、エネルギーが枯渇しようとするとそのような汚れであっても消費されるわけです。池の水を一旦抜くと底が見えて掃除もできるのと同じように、汚れた水は一旦抜いて、再度水(エネルギー)を満たしてあげることで意識がクリアになります。<br /> <br /> 最近は私は2つの方向性のどちらに向かうか決めかねているのと同時にそれ自体が何なのかを見極めようとしているのですが、その1つは静寂の境地で、もう1つは、割と雑多な想念の基礎として浸透しているアートマンを追求するという方向性です。<br /> <br /> 静寂の境地を基本として更なる静寂の境地を追い求める方が良いのか、あるいは、雑多な想念を入れてその奥底にあるアートマンを見出す方が良いのか。そこは微妙なところです。<br /> <br /> どちらもそれなりの根拠と効果があるような気がしてきていて、最近は割と「静寂の境地→雑多な想念とアートマン」という理解でいましたけど、もう終わりかと思っていた静寂の境地のそのまた奥に何かあるような気が最近はしてきていて、ひょっとしたらグルグルと回っているのかもしれない、という気もしてきています。<br /> <br /> それは、ある段階において静寂の境地と思われていたものが次の段階になればそれは雑多な想念であるし、次の段階としての静寂の境地になっても、もしかしたらそれすらも次のレベルからしたら雑多な想念であるかもしれないわけです。<br /> <br /> 静寂の境地から雑多な想念に戻ってその奥底のアートマンを見出す、という理解でいたのですけど、実際には、静寂の境地だと思っていたものが次のレベルの雑多な想念だったのかもしれない、という理解になりつつあります。この辺りはとても微妙で、自分の感覚でしかないので、静寂の境地と思っていたものも主観的な感覚ですので、戻っていたと認知していた感覚が実は同じものを見ていて、よりはっきりと見えるようになってきたが故に戻っているように感じられていた、ということかもしれないわけです。静寂の境地だと思っていたものをはっきりと見極められるようになるとその静寂の境地は実はもう少し微細な雑多な想念でできていて、感覚としては戻ったような気がしていましたが、実は同じものかもしれないわけです。<br /> <br /> 喉の少し上でエネルギーを止めるというテクニックは喉にエネルギーが通った後であれば割とどの段階でも使えるような気がしてきていて、雑多な想念があるなと思ったらエネルギーを一時的に止めてみると思考が止まって、もしかしたらこれがヨーガでいう「ラヤ」状態かもしれませんけど、その状態で更に静寂の境地が深まるわけです。そして、静寂の境地が深まったら締まりを緩めてエネルギーを再度通してあげます。<br /> <br /> Tue, 03 Aug 2021 00:00:00 +0900 瞑想は有から無、そしてまた有になる https://w-jp.net/2021/2424/ <br /> 瞑想は最初は具体的な対象があるところから始まります。呼吸だったり眉間だったり何がしかの集中する対象があるわけです。そしてやがては集中が極まり、いわゆるゾーンのような状態になって、そこまで集中が高まると今度は無の境地へ入っていきます。<br /> <br /> 無の境地はそれ自体である程度の達成で、その段階では顕在意識が集中してゾーンに入ることで物事がありのままに見れて心が静まった状態になるわけです。<br /> <br /> このゾーンを無というのか有の集中とするのかは言い方だけのお話で状態としては同じで、雑念が消えて心が静まるので無ではあるのですけど集中の対象はありますので完全な無ではなくて集中の対象としての有はあるのですけど無心と言ってもいい状態かと思います。<br /> <br /> そのように、最初は何かの具体性のある「有」としての瞑想から始まって、有を極めると「無」の世界へと入っていくわけです。<br /> <br /> その「無」の世界は何もないかというとそうではなく実際にはゾーン状態において対象を識別している心が働いているわけですけれども雑念に惑わされない状態になっているが故にアスリート等が高パフォーマンスを出すことができる領域なわけです。<br /> <br /> ですから、無心とは言いつつも心はあって、ですけど、強い集中のゾーン状態に頼っている無心の状態なわけです。それをゾーンというのか無心というのかは言い方の違いだけで割と同じことだと思います。<br /> <br /> そのように、有と無の極みとしてのゾーン状態があるわけですけれども、それは瞑想で言いますとダーラナ(集中)あるいはディヤーナ(瞑想)という状態なわけで、まだサマーディ(三昧)ではないわけです。<br /> <br /> サマーディの前までは割と「無」としての心の平安、静寂の境地と言ったものに頼っています。<br /> <br /> しかし、サマーディになりますと急にその「無」だった筈の世界が「有」として開けてきます。この段階になる以前は自分の内側に入っていって「無」の境地を探究していたのが、サマーディになると「外側」の世界が自分と少しづつ同等になってきて世界を「有」として認識し始めます。<br /> <br /> これはとても微妙なお話で、サマーディ以前に「外側」というと欲望の世界を意味しますが、サマーディであれば「外側」も「自分自身」なわけです。その、自分自身である世界を「有」として少しづつ認識し始めるのがサマーディの段階なわけです。<br /> <br /> 心を鎮めましょう、というお話はサマーディ以前であっても以後であっても基本ではありますけど心を無にするというお話はサマーディ以前のことで、サマーディ以後であれば心は常に存在していて世界を認識していますから無にはならないわけです。<br /> <br /> 最初はサマーディの力が弱くてサマーディから落ちた時に無になってからサマーディ状態に戻る、ということはありますけど、サマーディ状態であればそれは有なわけです。<br /> <br /> 瞑想を始める前の有の状態とサマーディの有とは全く違う状態ではあるのですけど傍目から見たら違いが分かりにくく、瞑想を始める前に外側の世界を楽しむことは単なる遊びでしかないですけどサマーディで外側の世界を遊ぶことはそれ自体がある種の修行のようにもなるように思います。サマーディ状態を保ったままどれだけ外側の世界で活動できるか、という行動の範囲はサマーディの深さに比例すると思いますし、最初は静かな行動でもサマーディ状態から落ちてしまいますけど、次第に、段階的に、少しづつ複雑な作業においてもサマーディ状態を保てるようになってきているような気が致します。これが、チベット仏教でいうところの「サマーディを生活と混ぜてゆく(セワ)」ということなのかな、という気も致します。<br /> <br /> Sat, 31 Jul 2021 00:00:00 +0900 心を鎮める段階と心を動かす段階 https://w-jp.net/2021/2423/ <br /> 瞑想は止観と言われていますように「止(シャマタ)」と「観(ヴィパッサナー)」の要素があるわけですけれども、サマーディ(三昧)に至る以前であれば基本的にシャマタの段階なわけで、そこでは、心を鎮める、ということを行います。<br /> <br /> 静かに生活し、心を穏やかにして、雑念がなるべく入ってこないようにします。とは言いましても雑念は止まることがありませんからこの段階ではまだ雑念に悩まされることも多々あるのですけど、なるべく静かな環境を選ぶことで心を穏やかにします。穏やかにすることで心のコントロールがしやすくなります。瞑想を続けることで雑念が減って、心が静まった瞬間が休まる時間になります。雑念は途切れ途切れに現れますけど、雑念が出てから次の雑念が出るまでの間が広がってゆき、その、雑念が出ていない「隙間」にとても寛げるようになります。これがシャマタの段階です。<br /> <br /> シャマタにおいては「心の静止」が重要になってきます。心が動いているときは「苦」で、心が止まった時は「楽」になります。<br /> <br /> その段階を経て、サマーディにまで達すると、段階的な変化ではあるのですが、心が動いている時でも休まるようになってきます。<br /> <br /> 私の場合、最初は物理的な体に対する観察(ヴィパッサナー)としてのサマーディから始まったように思います。その後、最近は心を観察するサマーディの段階に少しづつ入ってきたように思います。<br /> <br /> これはとても微妙なお話で、例えるならば昔は「砂の上に文字を書くような心の動き」で、今もそれは基本的にはそうなのですけど瞑想をしていると砂の文字の濃さが減ってくる瞬間があって、その時は心をその背後から観察できていて、背後から観察できているときは心のヴィパッサナー状態で、そのように心のヴィパッサナーができている瞬間は心の動きが「砂の上の文字」ではなく、「空中に浮いている文字」のように、自由な心として認識されるわけです。<br /> <br /> これは、シャマタの段階で心を鎮めていた時とは全く違って、心の観察ができる範疇において逆に心を意識的に動かしてゆく、ということが訓練になるように思います。<br /> <br /> 心を鎮める、という動作も基礎として必要で、心のサマーディ状態から落ちてしまった場合に心を鎮めることで心のサマーディ状態に引き戻す、ということを行います。その基礎があった上で、心のサマーディを強くしていくために可能な限り心を意識的に動かす、ということをするわけです。<br /> <br /> それは割と普段の生活において行えることで、仕事をしながらなるべく心のサマーディを保つ、ということができるかと思います。<br /> <br /> まだ私の場合は心のサマーディの力が弱くてそれほどではありませんけど、ことあるごとに気付きを深めることになります。<br /> <br /> これは、この前段階であるシャルドルにおいて「時々、ただ気付きを再確認するだけで自動的に雑念が自己溶解する]]ということとは違って、心を動かし続けていて、その背後からなるべく観察してあげよう、というお話です。<br /> <br /> おそらくは、シャルドルにおいてはまだ心のトラウマがまだそれなりに残っていたのですが、最近になって最後の大きなトラウマが解消されたように思えて、それ以降、シャルドルのように雑念が自己溶解というよりは、心が動いたままで観察するという心のサマーディの段階に少しづつ入ってきて、少しづつではありますがランドルに入ってきたようにも思います。<br /> <br /> 究極的な自己解脱の能力は、ランドルと呼ばれる。これは「自然にみずからを解放する」ことを意味し、蛇が自分のどくろをやすやすと、瞬間的に、素早く解くようすにたとえられている。「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」<br /> <br /> これは、文字通り読むと雑念のことかとも思っておりましたが、雑念やトラウマと大きく対峙するのはシャルドルまでで、この段階になると、雑念やトラウマはまだほんの少し残ってはいるもののそれに悩まされることはほとんどなくなって、トラウマの力もかなり弱くなって、そうなると心のサマーディ状態が可能になってくるのかな、と思います。<br /> <br /> ただ、究極的とは言ってもランドルの中にも段階があって、ランドルの初期状態としては心のサマーディはまだ弱くて、少しこの状態が続きそうな感じです。<br /> <br /> Thu, 29 Jul 2021 00:00:00 +0900 心の観照の2つの段階 https://w-jp.net/2021/2421/ <br /> 観照においては心の動きをはっきりと把握できますが、それは瞑想が進んで心の動きが緩やかになった時に可能になります。<br /> <br /> その、はっきりとした心の動きの観照というのはどうやら2種類あるようです。<br /> <br /> 1つは、心そのものを観察できること。この段階では、心の動きはまだぼやっとしたものとしか感じられませんが、それでも観照と言えば観照です。<br /> <br /> もう1つは、心の動きをその背後にあるアートマン(真我)がダイレクトに動かして観察していることを感じられること。これが本来の観照のような気がしてまいりました。<br /> <br /> この2つは実際にはかなり明確に違っていて、最初のものは最初こそ観照かと思ったのですが今から思えば観照というよりは観察していた、というくらいのものだったようにも思います。<br /> <br /> 観照となると、はっきりとその背後にあるアートマン(真我)を認識できるようになります。<br /> <br /> アートマン(真我)は、単に見ているだけでなく、意図を送り出してくる源でもあります。その両方の面があります。<br /> <br /> 心のように具体性はそこまでありませんが、意図がそこに感じられて、意図の源でありかつ観察者であります。<br /> <br /> その、心の背後にあるアートマン(真我)を認識できて、働きかけてくる意図と観察という両面があることがはっきりと自覚できている状態が観照だと思います。<br /> <br /> Tue, 27 Jul 2021 00:00:00 +0900 体のサマーディから心のサマーディへ https://w-jp.net/2021/2420/ <br /> 今までは基本的に物理的な体をダイレクトに動かすというサマーディでした。<br /> <br /> それは、ヴェーダンタでいうところのアートマン(真我)が「私」の本体で、物理的な体が「動かされているもの」という関係です。<br /> <br /> ここでアートマン(真我)のことを少し説明しておきますと、物理的な体および心(マインド)はアートマン(真我)ではないのですが物理的な体あるいは心あるいはその両方がそれ自身を「私」だと誤認していて、誤認している自分自身のことをヴェーダンタでは「ジーヴァ」と言います。ここで、ジーヴァとしての私とアートマン(真我)としての私、の2つの私が出てくる訳です。<br /> <br /> 上で言っているのは、アートマン(真我)の方の私が物理的な体をダイレクトに動かしている実感のあるサマーディ状態、ということです。<br /> <br /> 心が司令して体を動かす、というのは普通のことで、それはサマーディのお話ではありません。一方、アートマン(真我)がダイレクトに体を動かす、というのはサマーディのお話です。<br /> <br /> そのようにアートマン(真我)と物理的な体、という関係だった訳ですけれども、最初は割とそのアートマン(真我)と物理的な体は離れていて、やがて、それは近付いてきました。<br /> <br /> アートマン(真我)と物理的な体とは割と別物といえば別物なのですが一体になって動いていて、最初は離れていると感じられていたものが、最近はその感覚がかなり密着してきた、ということです。肉体の体に以前より更に密着して存在しています。<br /> <br /> アートマン(真我)はダイレクトに動かすだけでなく感覚として認知もしていますから、体を動かすと同時にそれを把握している訳です。心が行うように明示的な指示というよりは体の各所の感覚を同時に感じている訳です。<br /> <br /> そのアートマン(真我)の感覚は少し前までは肉体だけで、心に関しても以前より更に自由になったとはいえ、心に関してはそのくらいでした。<br /> <br /> しかし、ここにきて、ほんの僅かではありますが、アートマン(真我)が心(マインド)をダイレクトに動かしているという実感が瞑想中にだけ少し感じられるようになりました。<br /> <br /> 肉体よりも心はもっと微細で微妙なものですので感じるのは難しいのですが、瞑想をしていると、マインド(心)の奥底にあるアートマン(真我)がマインドを動かしていることをわずかに感じられます。<br /> <br /> 日本語で心と言ってしまうと魂とかアートマン(真我)に相当するところまで含まれてしまうかのような広い意味がありますけど、ここで言っているのは、思考する心である英語のマインドのことです。そのマインドとしての心が肉体と同じようにアートマン(真我)によって動かされているのだ、という実感が出始めています。<br /> <br /> 肉体の方は日常生活においてもアートマン(真我)が動かしているという実感がありますけど心の認知の方はまだ弱くて、瞑想中にしか感知できていない状況です。とは言いましてもその感覚がわかってしまえば同じことだと思いますので、あとは深めれば良い、と思っております。<br /> <br /> Tue, 27 Jul 2021 00:00:00 +0900 ヨーギーにとってのアートマンがヴィパッサナー(観) https://w-jp.net/2021/2419/ <br /> ヴィパッサナーというと仏教のような印象がありますが、実際のところヴェーダンタで語られているアートマンがヨーギーにとってのヴィパッサナー(観)なわけです。<br /> <br /> 仏教はその教義において「無我」(アートマンがない)ことを標章していたりしますけど、その境地においてはヴィパッサナー(観)を言っていて、実際のところ、同じことだったりします。<br /> <br /> これはどういうことでしょうか。<br /> <br /> そもそも、ブッダがアートマンを否定してアートマンによる解脱を解くバラモンたちを説き伏せたのは、本当にアートマンを否定したのでしょうか。言い伝えによればブッダはそこでアートマンを否定して、それを根拠に仏教は無我、アートマンがない、ということを根拠にします。<br /> <br /> しかしながら、ブッダは非想非非想処を超えた境地に達したということであればそれは心と体を超えた境地に達したということであり、ヴェーダンタによれば心の次にはまだ段階が少しあるものの、その先にはアートマンがあるわけです。ですから、ブッダが体や心の段階を超えてアートマンに達したと考えるのは筋が通っているわけです。<br /> <br /> ヴェーダンタによれば人間の体は5つの鞘(パンチャ・コーシャ)に分かれていると言います。<br /> <br /> ■パンチャ・コーシャ(5つの鞘)<br /> 1. アンナマヤ・コーシャ(annamaya-kosa)物理的な体<br /> 2. プラーナマヤ・コーシャ(pranamaya-kosa)エネルギー(プラーナ)の体<br /> 3. マノマヤ・コーシャ(manomaya-kosa)マインドと5つの感覚器官にの体<br /> 4. ヴィニャーナマヤ・コーシャ(vijyanamaya-kosa)知性と5うの知覚器官の体<br /> 5. アナンダマヤ・コーシャ(anandamaya-kosa)カラーナ(原因)体、コーザル体。<br /> <br /> ブッダが非想非非想処を超えた時には少なくともマノマヤ・コーシャとヴィニャーナマヤ・コーシャは超えている訳で、であればおそらくはアナンダマヤ・コーシャも超えたのでしょうからそこはアートマンの世界な訳です。<br /> <br /> このように、アートマンの世界にブッダが達したのがおそらく確実であると思われる以上、上記の会話だけを取り出して「ブッダはアートマンを否定した」とは言えないと思う訳です。であればブッダが言っていたことは以下の2つの可能性に絞られます。<br /> <br /> ・ブッダはヴェーダンタを勉強していなかったので言葉がすれ違っていた。<br /> ・ブッダはヒンドゥが作り出した階級社会にあぐらをかくバラモンを批判した。<br /> <br /> ブッダは王子の生まれですのでおそらくヴェーダンタもそれなりに勉強していたのではないかと推測されますが、そこはよくわかりません。<br /> <br /> 私はそれよりも、2つ目の、バラモンという特権階級に対する批判としてアートマンを否定して見せて「あなたの修行は足りないのではないか」と辛辣に指摘して見せたのではないでしょうか。<br /> <br /> ブッダほどの人がアートマンを理解していなかったとはとても思えません。アートマンを理解した上で、体制にあぐらをかいて修行も大してしないバラモンとは一線を引く立場だったのではないかと想像するのですがどうでしょうか。<br /> <br /> それを後世の人が誤解してアートマンの否定と解釈するのは個人の自由ですけど、境地を見てみると仏教が説くヴィパッサナー(観)とヴェーダンタが説くアートマンはとても似ていて、同じと言っても差し支えない気が致します。<br /> <br /> 誤解がないように申し上げておきますと、それぞれの流派の人はおそらく別物として捉えていると思います。ですから、流派の人に「同じでしょう?」と言っても通じないと思います。あくまでも私の解釈として、同じに見える、ということです。<br /> <br /> Mon, 26 Jul 2021 00:00:00 +0900 満ちているものが体をダイレクトに動かす https://w-jp.net/2021/2418/ <br /> 体と重なって体およびその周囲に満ちているものがアートマン(真我)です。その満ちているものが体をダイレクトに動かしているのですが、もともと誰しもがそのようになっている筈ではあるのですが自覚があるのがサマーディ(三昧)の状態で、自覚がないのだとしたら普通の状態です。満ちているものが感じられなくて体を動かしている場合は普通の状態です。ですから、普通に「ダイレクトに体を動かす」と言われた時に「まあ、そうだよね」となりがちなのですけど、満ちているものを感じられているかどうかが大きな違いなわけです。<br /> <br /> 満ちているものはアートマン(真我)なわけですけど、その質としてはブラフマン(全体)と同一であると聖典には書かれてあります。アートマン(真我)とは個としてのブラフマン(全体)であり、実際にはアートマン(真我)とブラフマン(全体)は同一です。ですけど限られた意識においてはアートマンが切り離された個として認識されているためにアートマンが個とはなってはいるものの、それは実際にはブラフマン(全体)と同一であるということです。<br /> <br /> このダイレクト感は最初は割と切り離されたものとしてはっきりと認識されます。<br /> <br /> ですから、最初は、アートマン(真我)と物理的な体が別物として存在しているかのように感じられ、特に最初は体とは重なっておらず「外側」に存在していて外側から段々と近づいてくるかのように認識されます。私の場合は最初は胸の少し離れた後ろにあって、感じ始めた最初の瞑想の中で少しづつ身体に近づいてきました。<br /> <br /> 最初はそれは単に創造・破壊・維持の意識として始まり、最初はそれが体をダイレクトに動かしているという感覚はなく、単にそのような3つの意識、特に創造と破壊としての意識が強く感じられた状態でした。<br /> <br /> その後、不意に意識が高まり、意識(アートマン)が体をダイレクトに動かしていると実感するようになりました。<br /> <br /> 最近は更に進んだのかあるいはもしくは後戻りしたのかもしれませんけど、おそらくは安定してきたのか、割とこの状態が普通になってきて、普通、と言うのは、特別感が薄れてきたと言うことで、アートマンとしての意識と体とが更にぴったりとくっついてきて、ダイレクトと言うよりはアートマンの意識が体にぴったりとくっついた感じになってきました。<br /> <br /> 体をダイレクトに動かしていると言う時は、まだ少しアートマンとしての意識と体とがほんのちょっと離れた状態で、離れているからこそ「動かしている」と言う感覚があって、それ故に「ダイレクトに動かす」と言う実感がありました。<br /> <br /> ですけど、最近は、更にアートマンが体と一体になってきましたので、言葉としては割と同じ「ダイレクトに動かす」と言う言葉で表現するくらいしか言葉が見つからないのですけど、距離が近くなってきて、割とアートマンと体とが一体になってぴったりとくっついて動かすような感覚に変わってきました。<br /> <br /> これはとても微妙なお話で、状態そのものを見ると割と昔と変わらないと思うかもしれませんし、普通のことだと思われるかもしれませんけど、少し前にアートマンが離れていてダイレクトという感じだった時はその時々において気付きを入れてあげることにより雑念が溶解すると言う感じだったのが、ここに来ると、まだ力は弱いものの、体や心がどのような状態であろうとアートマンの意識が浸透する、という状態の前兆のようなものを感じます。<br /> <br /> シャルドルにおいては気付きを再確認することで雑念が溶解する状態だったのですが、それは、アートマンの意識と体とが一体にならずに離れてるが故にそのように気付きを入れた方が安定する段階だったと言える気が致します。<br /> <br /> その次の段階であるランドルは書物によれば瞬時の雑念の自己溶解と説明されていて、そのような表現もできるように思いますけど、そう表現するよりは、もはやアートマンが離れておらず体や心に浸透しているが故に瞬時に観念や五感の入力及び雑念も含めてアートマンが直接的に瞬時に体や心を認識できる状態であり、それ故に雑念が瞬時に溶解すると言うこともできますけど、溶解すると言うよりは、アートマンが体や五感及び心に浸透しているが故に瞬時に気付けるが故に心の認識が素早く完了する状態というのが基本にあって、それゆえに雑念も素早く気づけて次の雑念を自分が生み出すことが少ない状態、ということなのかと思います。<br /> <br /> それは消える、というよりは、素早く目の前を通り過ぎるようになります。雑念の繰り返しが起こらないが故に素早く消え去るように感じられるようになります。雑念そのもののスピードが早まるというわけではなく、単にそれをありのままに見られるようになって単に通り過ぎてゆくだけになりますので、繰り返しが起こらないが故に素早く消え去る、ということです。<br /> <br /> ですけど私の場合、そのようにアートマンと体とが一体になっている力がまだ弱いため、しかしながら、力が弱いのにも関わらずアートマンの意識が更に体や心と密着して一体になりつつあって、おそらくは過渡期のようなもので、一時的に多少の不安定さがあるのかな、という気が致します。<br /> <br /> このように段階を経る時の一時的な不安定さはスピリチュアルの成長にはつきもので、意識が朦朧としたり、色々な症状があるように思います。<br /> <br /> まあ、あるいは、このように解釈しているだけで、実際にはちょっと後戻りしているだけ、という場合もあるにはあるかと思います。そのような可能性も含めて、これから状態を見ていきます。<br /> <br /> Sun, 25 Jul 2021 00:00:00 +0900 最近の瞑想の手順 https://w-jp.net/2021/2417/ <br /> 基本:あぐらをかいて座り、眉間に集中する。<br /> <br /> 1.雑多なオーラを下半身から上半身に上昇させる。この時、上昇するように意図することはなくて、行うこととしては、単にあぐらをかいて眉間に集中するのみ。集中していると、不意にこのようなオーラの上昇が発生するので発生するまで眉間への集中を続ける。<br /> 2.もう少し固まったオーラが下半身から上半身に上昇する。行うことは同じ。上昇を意識することなく、単に眉間に集中する瞑想を続ける。頭の方にまでオーラが上昇する。まだこの段階では頭の全てがオーラで満たされなくても良い。頭の下半分だけでも良い。<br /> 3.頭の中あるいはその近くにあるモヤモヤとした雨雲のような薄黒い煙のようなタマスのオーラを喉のヴィシュッダに吸い込ませる。この時も、吸い込むことを意識することなく、ただ単に眉間に集中を続けるのみ。眉間に集中しているとやがてこのような状態が発生し、頭のモヤモヤが取れる。不意に発生して急に吸い込まれて意識がはっきりする。<br /> 4.体の中でオーラが行き届いていない場所があればそこにオーラを満たすよう意識する。この時は集中の場所をその該当場所に合わせる。この時は眉間に集中する必要はありませんが、常にその場所に意識しても良いし、眉間への集中とを交互に行っても良いです。例えば、私の場合は割と頭の頭頂あるいは頭の左上など局所的にオーラが行き届いていない時があって、それは「感覚がない」として認知されており、例えば頭頂あるいは頭の左上の感覚がないということはそこにオーラが行き届いていないということですから、そこにオーラが満たされるようにその「感覚がない」場所あるいはその周囲に集中します。感覚がないのですから厳密にはその場所そのものには集中できないのですが、その周囲に集中して、オーラをその「感覚がない」場所にも届かせるようにオーラを移動させるように圧力のようなものをかけてあげます。その後、すぐに反応があることもあれば、何回か瞑想をしてから変化が起こる場合もあります。変化としては、その場所に急に不意にオーラが満たされることと、それと同時に、意識の面においてもリラックスが相応に深まります。緊張が取れます。<br /> 5.同様のサイクルを続ける。最初は割と大きな変化から始まり、やがては少しの変化になります。そして、安定が深まっていきます。そこにおいても基本は眉間への集中の瞑想です。体全体への観察・観照状態が深まって常時サマーディ状態で行動できるようになれば座った瞑想をする必要がありませんので座った瞑想を解きます。そうは言いましてもしばらくすれば少しづつサマーディ状態から落ちてきたりもしますので座った瞑想で整えてあげるということは必要ですし、自分の状態を確かめるために座った瞑想をするということは続けます。ですけど、次第に座った瞑想というものが必要なくなってゆきます。<br /> <br /> 状態が悪い時は1から始まって状態が良ければ4から再開、というようにその時々に応じて行うことは変わりますけど、基本は単に眉間に集中するだけですし、必要なことが自然に起こりますから、特に何をするという意図をしなくても基本は眉間に集中した瞑想をするだけで良いわけです。1まで落ちることはそうそうなくて数ヶ月に1度あるかないかですけど、4番のように体の一部分、特に頭頂あるいは頭の左上のあたりにオーラが行き届いていない時は割とあって、そのような時に瞑想をしてオーラを充満させてあげる、ということはよくしますけど、その時も、一応はオーラが充満するように意図はしますしその周囲を意識するということは行いますけど基本は眉間への集中の瞑想を常に行うわけです。<br /> <br /> 補足<br /> この瞑想の手順とは別に、瞑想以前の問題として、もし調子が凄く悪い場合は死霊が(右肩に)ついている可能性があるので右肩(あるいは人によって違うかもしれませんが)を探って死霊あるいは何かの意識体をオーラの手のようなもので掴んで引き抜いておきます。そうすることで急に緊張が取れてリラックスできるようになります。何かに取り憑かれている場合は瞑想をして状態が回復してもすぐにまた調子が悪くなりますのでこれをするのは重要です。瞑想とか言う場合にこの種のお話はほとんど聞くことがありませんけど、経験上、取り憑かれていて瞑想の妨げになっている時は時々ある気が致します。特に街に住んでいて様々な悪霊に遭遇する頻度が高い場合に起こりやすいと思います。田舎の人はさほど心配いらないかもしれません。瞑想してうまくいかない場合はこれが原因であることも度々ありますので、右肩を探って掴んで引き抜いてみて、何も反応がなければなんでもないと言うことですし、もし急に緊張が取れたのでしたら何かが憑いていたということになります。時々、その意識体が胸のハートにまで触手を根のように伸ばしていてエネルギーを吸い取っている場合もありますので、その根も含めて引き抜いてあげると急に緊張が取れてリラックスできる、と言うような変化も時には起こります。このように取り憑かれている場合は鏡を自分で見てみれば目に緊張があって、慣れるとわかりますし、他人と目があった時にそらされる場合が多い時は取り憑かれている時が多い気が致します。特にスピリチュアルでなくても誰しもがこの種のことを直感的にわかっていると言うことだと思います。ただ、わかることと対処法は別ですので、取り憑かれている場合はしっかりと対処してあげる必要があります。古典的なヨガ瞑想とかではこのようなお話はなくて割とスピリチュアルの範疇ですけど、これは瞑想以前のものとして割と重要です。マインドフルネス瞑想などは科学的だと謳っているのでこのようなお話はできないみたいですけど、瞑想と言うのは目に見えない世界と対峙しますから、実際のところ、この種のお話とは切り離せないのです。科学的な瞑想と言っているところは、理解できない現象が起こったら例外として除外するかあるいは現実に目を背けて「そんなことは起こらない」と言って現実を否定したりしますけど、本当に瞑想を深めようと思うならば現実に向き合って対処する必要がありますし、そうなると、この種の死霊の問題を避けては通れないわけです。このようなことが起こらなかったり遭遇しないあるいは遭遇しているのに気が付かないのだとしたら瞑想がそれほど深まっていない、と言うことでもあります。そういえば本山博先生は「修行を進めていくと必ず魔に遭遇する。必ずね」と言っていましたが、それは真実だと思います。その時の対処方法は知っておく必要があります。実際には、誰しもが魔に遭遇していてもそれに気づいていなくて瞑想をすると気付き始めて対処もできるようになる、と言うことだと思います。漫画から言葉を借りるならば、瞑想をそれほどしていなくて魔に遭遇している状態は「極寒の地で全裸で凍えながらなぜつらいのか分かっていないようなもの(元はハンターハンターの台詞)」と比喩することもできるかと思います。<br /> <br /> Wed, 21 Jul 2021 00:00:00 +0900 サマーディ状態でオーラの調整をする https://w-jp.net/2021/2416/ <br /> サマーディでは雑念は割とすぐに消えてゆきますが、オーラの状態の調整は昔と変わらずした方がいいように思います。<br /> <br /> 雑念に関しては3段階あって、弱い力のチェルドル、中間のシャルドル、最終的なランドルとあるわけですけど、私の今の状態はシャルドルで、ランドルになるとどうかはわかりませんけど、少なくとも今の状態においてはオーラの調整が必要のようです。<br /> <br /> オーラの状態は揺らいでいて、何をするかというと特に今までと変わらず座ってあぐらをかいて瞑想をしながら眉間に集中するわけですけど、眉間に集中することでオーラが安定してきます。<br /> <br /> この状態ですと、自分がまどろみの中にいることを感じたりします。<br /> <br /> オーラが安定していない状態においては以前は雑念が出てきましたけど、今はただ単にオーラの揺らぎを感じてそれを見ているだけです。感じる、と言いますけど、目ではないですけど一応は視覚のようなもので煙あるいは濃い霧のような異空間のような不思議な空間が瞑想中の視界のようなものに入ってきて、その煙の中に様々な意識体が不意に現れては何かを主張したり不意な行動をしたりどこかに行ってしまったり、という揺らぎの空間があって、それを観察しているわけです。<br /> <br /> これはおそらく、オーラが安定していないと見なくてもいいものが見えてしまう、ということだと思います。見えているのはアストラル的な異空間かと思いますが、それはそれほど高い次元のものではなくて、単に人間の想念あるいは死後の意識体などが生活しているアストラルな空間のように思います。<br /> <br /> それは見る必要が本来なくて、もっと高い波動になればそのようなところにフォーカスしなくなるわけです。<br /> スピリチュアル的に言うと、波動が少し落ちているからそのようにアストラル的なものが見えてしまうわけです。<br /> <br /> スピリチュアルの波動の法則で言われているように、人が見えるものは自分の波動に即したものでありますから、アストラル的なものが見えるということは波動が落ちているわけです。<br /> <br /> そのような時は瞑想をして普通に眉間に集中してしばらくするとエネルギーが満ちてきて、やがてはオーラが安定してゆきます。オーラが安定していない時はエネルギーは下半身が優勢になっていますが瞑想をすることでバランスを取る、あるいは、頭の方にまでエネルギーを上げてあげます。そうするとオーラが安定して、アストラル的なものも見えなくなります。<br /> <br /> そのようにオーラが不安定の時は頭のあたりにもやもやとしたオーラの雲がかかっている状態ですので、瞑想をして眉間に集中することでそれらを取り払うことができます。取り払うと言ってもどこかに捨ててしまうということではなく、単に安定させて、特にそのような浄化されていない頭のオーラは吸い込まれるように喉のヴィシュッダで浄化されるようです。<br /> <br /> 瞑想をしていると、概ね2段階のエネルギーの上昇があります。最初は雑多なエネルギーの上昇、やがてはしっかりとしたエネルギーの柱の上昇、そして、その2つ目の上昇の後に頭にあったモヤモヤとしたオーラが急に喉のヴィシュッダに吸い込まれていきます。吸い込まれるときは少しづつというよりはスイッチが入ったかのように急に吸い込まれていく感じです。これが他に人にも同じかどうかはわかりませんが、私の場合、割とこの3段階を踏むことが多い気がします。日によってはオーラが安定していれば3段階目だけだったり2段階目と3段階目だったりしますけど、オーラが安定しない場合は3段階を踏んでオーラを安定させます。<br /> <br /> これらの状態変化は割と昔からあったのですが、アートマンの意識が現れ始めて以降、これらの状態変化と並行して、常に自分の体のオーラの状態を観察しているアートマンの意識が現れています。<br /> <br /> アートマンの意識があるからと言ってオーラが常に完璧に安定しているというわけではなく、アートマンの意識というのは奥深いところの意識でありますから、人間として生きる上でのオーラの安定は今まで通りメンテナンスしてあげる必要があるようです。当たり前と言えば当たり前のことですね。<br /> <br /> 一方で、アートマンの意識があると上記のようにシャルドルなどの状態になって「観察力」は激しく向上していますから、雑念の解決あるいはオーラの状態は昔よりもずっと詳細に把握できて、結果、解決も早いわけです。<br /> <br /> Mon, 19 Jul 2021 00:00:00 +0900 胸の内にまだ残る「個」の核を包んでいるつぼみが開けてくる https://w-jp.net/2021/2407/ <br /> おそらくアートマンの独存という段階に私はいて、まだ私は「個」として存在しています。「個」とは言いましても自分の内なるアートマンの質はブラフマンと同一だと自覚していて、自分の周囲の数mまでは自己同一視できている状態ではあるのですが、未だ、いわゆる「全て」と同一にはなっていない状態です。<br /> <br /> その、同一できていない状態はと言いますと、まだ「個」が残っている、ということでもあります。その「個」とは、概ね感覚的なもので、胸の中にまだ「個」が残っていると認識されていて、その「個」は、感覚で言いますと若干の緩やかな「緊張」のようなものとして認識されています。<br /> <br /> 緊張と言っても少しの緊張ではあります。体の周囲はいわゆる「無限」「空」あるいはアートマンとも言える「空間」に溶け込んではいるのですが、胸の内に至るまではまだその無限と完全に溶け込んではおらず、それは感覚としては「緊張」に似たようなものとして感じられているということです。<br /> <br /> それはトラウマとはまた違ったもので、この段階に至ってもまだトラウマというのはあるようで、とは言いましても以前よりトラウマの解消はとても早くなってきており、10秒とか30秒でほぼ解消できて、以前のように数分ということはないですし、かなり以前のように数日とか数ヶ月悩まされてるということも、もちろんないです。トラウマの解消の方法も変わってきていて、トラウマが出てきてもすぐに気付けるというのが第一で、それに加えてトラウマを結晶化して抜き出すということをしています。最近はお腹のあたりにモヤモヤと眠っていたトラウマを水晶あるいはダイヤのような形に結晶化して取り出しました。ですけど、ここで感じている胸の中の「緊張」のようなものは、トラウマとはまた違った種類のものです。内なるガイドによれば少し前に取り除いたダイヤのような結晶が最後の大きなトラウマだった、ということのようですから、今回のはトラウマとはまた違うようです。<br /> <br /> それは、比喩的に言えば「空じられていない私」ということになるかと思いますが、まだ最後に残された「私」が感覚的には「緊張」として認識されていて、もっと具体的に言えば、胸の中それ自体は緊張というよりもコアのような感じで、それがあるゆえにその周囲の、例えば肩のあたりにほんの少しの緊張が生まれている、という感じです。<br /> <br /> ヨーガではリラックスすることが重要とか言われていますけど、この肩の緊張は単に肉体的な緊張ではなくて「私」が存在することによる弱い緊張ですので、それが完全にリラックスできる日が来るのかはよくわかりませんけど、なんとなく、この「私」という胸の内の感覚が完全に空じられてブラフマンと一体化すると完全なるリラックスができるのでは・・・? と思っておりますが、どうでしょうかね。<br /> <br /> 階梯で言いますと私はアートマンの独存という状態にいて、まだブラフマンとは合一していない状態かと思います。<br /> <br /> 十牛図で言いますと「第五図 牧牛」から「第六図 騎牛帰家」ですね。<br /> <br /> ■第五図 牧牛<br /> 気付きによって真実を得ることもあるが<br /> 迷いによって我を忘れてしまうこともある<br /> 対象のせいでそうなるのではなく、ただ心より生じている<br /> だから鼻索を強く引いてためらわないようにせよ「悟りに至る十牛図瞑想法( 小山 一夫 著)」<br /> <br /> ここで真実と言っているのは心の本性(セムニー)が覚醒状態(リクパ)にあるということで、気付きの状態(リクパの覚醒状態)で真実であるアートマン(あるいはプルシャ)の自覚を得る、ということです。迷いによって我を忘れる、というのはリクパの状態から落ちてしまう時もある、ということです。ですから、この段階では時々、ただ気付きを再確認するということが必要です。<br /> <br /> ■第六図 騎牛帰家<br /> 牛と童子がぶつかり合うこともなくなり、ついに1つとなって家山へと帰ってゆく。(同書より)<br /> <br /> 同書によれば牧牛の段階はプルシャの独存で、騎牛帰家は(一時的な)ブラフマンとの合一、ということのようです。同書では騎牛帰家の段階で「プルシャ(アートマン)の離脱」が起こってブラフマンと合一すると書かれてありますけど、私にはその自覚はないですから、それはまだですかね。理屈で言っているだけで実際はただブラフマンとの合一、ということなのかなとも解釈できますけど、どうなのでしょう。実際にプルシャの離脱として認識されるのですかね。そこはまだわからないです。<br /> <br /> おそらく、牧牛の段階ではプルシャ(アートマン)が主に胸の内に存在していてまだブラフマンと合一していない、ということかと思います。私の場合、アートマンは胸の内に強く感じられて自分の周囲数mまで自己として認識できているものの、まだ胸の内に上記のようなコアがあるような感覚で、それは十牛図のように強く「ぶつかる」という感じではないですけど、そのコアはまだ上記のように若干の弱い緊張としてありますので、まあ、それを「ぶつかる」と表現できなくもない、という感じです。自分では「ぶつかる」とは言いませんけど、表現として、十牛図の言い方で言うと確かに一致しているかな、とも思います。<br /> <br /> 私は第五図 牧牛から第六図 騎牛帰家に進む段階のようです。<br /> <br /> これは、座った瞑想をしばらく1時間とか2時間すると緊張それ自体は解けて肩も柔らかくなるのですけど、それ自体がそのままブラフマンの合一というわけではないようです。<br /> <br /> 更に瞑想を度々しつつ何日かすると、緊張が解けるだけでなく、花の「つぼみ」が段々と開けてくるような胸の感覚が出てきます。<br /> <br /> それは、チャクラでよく言われているような「花びら」が一枚一枚開く、という感覚ではなく、それよりも、硬く小さく纏まっている花弁のつぼみが少しづつ広がっていく感覚と同時に、皮が何枚もむけてゆくような感覚とが同時に起こります。つぼみが広がる、と言えばそうですし、緊張が解ける、と言えばそうですし、胸が「広がる」と言えばそうも言えますし、皮が何枚も何回もむける、ということもできます。この微妙な感覚を表現するならばいく通りもの表現方法がありますが、簡単に比喩的に言えば「広がる」ということでもありますし、胸にあった塊の皮が何枚もむけて「剥き出し」になる、とも言うこともできます。<br /> <br /> これがいわゆる「チャクラが開く」ということなのかどうかはわかりませんけど、そうとも言えるかもしれません。そもそも、マニプラとかアナハタなどのオーラが優勢になる、という段階であればかなり前から体験してきていますけど、今回のように明らかに何かが開けてくる感覚はその時にはなくて、同様に、少し前に創造・破壊・維持の力を胸に感じた時は「開く」という感覚とはまた違っていました。<br /> <br /> 最初は「緊張」として胸の中に認識されましたけど、それは緊張というよりは、アナハタが開き始めた、と言えるのかもしれません。でもまあ、まだ様子見ではありますけど。<br /> <br /> Fri, 09 Jul 2021 00:00:00 +0900 スピリチュアルの言う「感じること」 https://w-jp.net/2021/2406/ <br /> ニューエイジやスピリチュアルでは「感じること」が重要視されていて、普通に読むと五感と言うことですけど、実際には、そこでは心の本性による覚醒の働きであるリクパのことを意味しているわけです。<br /> <br /> それを、比喩的に、わかりやすくいうと「感じること」になるのかなと思います。<br /> <br /> ただ、そこには誤解の入る余地があるように思います。<br /> <br /> 普通にこれを聞くと、体の感覚や視覚など五感を感じればそれでいい、みたいなお話になってしまいますけど、そうではないわけで。<br /> <br /> ただ、このあたりは説明している側もよく分かっていないことが多くて、五感で感じてゆっくり生活すればそれがスピリチュアル、みたいな理解が基本にある気がしますけど実際はそれが普通の五感でのお話なのかそれとも心の本性のお話なのかでかなり違ってくるわけです。<br /> <br /> もしこれを五感のお話だと理解してしまうと、何もかもを受け入れてくれるような静かな環境に依存してしまうようなことになります。最初の初心者のうちは仕方がないのですけど、本来のスピリチュアルは心の中にあるものですので、周囲の環境に依存した静かな心ということであれば、環境に依存してしまっているということでもあります。それが初心者であるという自覚があるならばまだいいのですけど、スピリチュアルを静かな環境を選択したり作り出す道具として用いてしまい、他人を攻撃する口実としてスピリチュアルを使ったり、あるいは、感覚の激しさに耐えきれなくなって爆発してしまうようなキレやすいスピリチュアルになってしまいます。結果、自分の心地の良い環境を追い求めて山の中に籠ったり、自分に対して心地よく接してくれる人を追い求めた挙句に自立していなくて他人をコントロールしようとする変なスピリチュアル教祖にハマってしまったりするわけです。<br /> <br /> 心の本性を用いて覚醒(リクパ)をする場合は五感も感じますけど五感を見る者としての心の本性が働くわけです。その観照の働きのことを覚醒と言ったりリクパと言ったり悟りと言ったりもしますけど、とても微妙なお話で、比喩的に言えば簡単に「感じること」ということもできますけど、「感じる」と言ってしまうと誤解が混じってしまう余地があるわけです。<br /> <br /> スピリチュアルな教師から「感じれば良いのですよ」と言われたら「ああ、そうか!」と、物分かりがいい簡単なお話かのように思えて、既にそれができているかのような錯覚に陥ってしまう可能性があるわけで、このような簡単な表現はわかりやすい一方で、よくわからない状態に陥ってしまう危険性もあるわけです。<br /> <br /> かと言って、厳密に言ったところで誰も興味を持たずにスルーしてしまう可能性も大きいわけで。なかなか難しいですね。<br /> <br /> わかりやすく言って誤解を招くようなスピリチュアルな教師は必要悪なのかもしれませんね。そういう人と私とは個人的な関わり合いはないですけど。<br /> <br /> Thu, 08 Jul 2021 00:00:00 +0900 アートマンの独存からブラフマンへ https://w-jp.net/2021/2405/ <br /> 私が内なるガイドから教えて頂いたところによれば、これはもはや、深さと広がりの面で終わりがないお話だ、ということのようです。それ以前は段階的な変化が割と大きくありましたが、これからは程度問題であって、終わりがない、ということのようなのです。<br /> <br /> と、言いますのは、まず、その一歩手前であるアートマンあるいはプルシャの独存という段階は心の本性あるいは仏の心と言っても良いものが現れてくる段階で、そこには大きな変化があります。それ以前はまだアートマン(あるいはサンキャ的に言えばプルシャ)は現れておらず、アートマンの独存の段階で新たなる世界へと踏み出したわけです。それは顕在意識と対比するところの無意識の世界ということもできますけど、アートマンが出てくるということは、元々無意識だった世界の一部が意識の世界へと変わるということでもあります。<br /> <br /> その時、最初はまず自分の体の近くから始まって、やがて広がってゆくわけですけど、その時、主に2つあるいは3つの観点から広がってゆきます。<br /> <br /> ・自分からの距離(物理的な距離と時間的な距離の両方)<br /> ・深まり<br /> <br /> 最初は感覚は薄くて、やがて、感覚が深まっていきます。<br /> <br /> また、最初は自分のほんの近くの、体のハートの部分だけだったものが体全体に広がり、体から周囲数m、というように次第に広がっていきます。それは距離的なものもあれば、時間的なものもあります。<br /> <br /> このどちらもそれぞれ起こりますので、深まりつつ、広がってゆくわけです。最終地点というのはヴェーダンタで言われていますように一応は「全体」としてのブラフマンに辿り着くということにはなっていますけど、距離が広がることと、その感覚が深まることにおいては、終わりがない、ということのようなのです。ですから、アートマンの独存に関しては「達成」があるのですけど、ブラフマンに関しては程度の違いだけがあって、「終わり」というものがない、ということのようなのです。アートマンの独存がスタート地点と言っても良いかもしれません。<br /> <br /> 人によっては自分の周囲が自分と同一視できるのであればその距離感と深まりにおけるアートマンですし、あるいは、地域、あるいは国全体が自分のアートマンになる人もいるかもしれません。完全なる「全体」ではないのであれば人によってはずっとアートマンと言い続けるかもしれませんし、ちょっと広がったらブラフマンと言う人もいるかもしれません。ですけど、アートマンとブラフマンのお話は相対的なお話で、ブラフマンを知るとは言ってもアートマンを知ることによって同じ質であるブラフマンを知る、ということですから、ブラフマン自身に本当になるのは生きている人間にとってはないのかなと思います。そのように教わりました。完全なる宇宙全体のブラフマンは生きている人間には不可能で、概念としてのブラフマンは宇宙全体のことですから、修行者がアートマンからブラフマンへ、というように言うときは相対的なお話でブラフマンを知った、という状態のようです。<br /> <br /> ヴェーダンタでは個人としてのアートマンが実はブラフマンと同一であると解いていて、そのことは真実ではあるのですけど、どうやら、どの程度までそのように認識できるのかは個人差があるようなのです。これは聖典の記述とも一致します。聖典や過去の聖者の文献によれば、アートマンの質を知ることでブラフマンを知ることができる、と書かれてあったりします。それは、本質としてブラフマンと同一なものが自らにあって、自らの質であるアートマンとブラフマンとが同じであることを実際に体感して知るのが一応のウパニシャッド(ヴェーダンタ)の最終地点になっています。そのことを「ブラフマンを知る」とか「ブラフマンになる」みたいに比喩的に書かれていますけど、実際には、アートマンが広がっていくことによってブラフマンを少し知る、と言うことのようです。<br /> <br /> ヴェーダンタをただ読んだだけではゼロイチのお話のように解釈することもできて、アートマンの次はブラフマンを知る、という意味に読めたりしますけど、そこには程度のお話があるということのようです。最初はアートマンを知って、それがブラフマンと同質のものであることを知るわけです。その後、次第にその範疇が広がっていって、ブラフマンの全体に近づいていくわけです。近づくと言うこともできれば、同質化すると言うこともできますし、ブラフマンに溶け去る、と言うこともできます。川の水が大海に溶け込む、という比喩を用いたりします。<br /> <br /> ですから、どうやら、ここから先は深まりと距離において成長があるだけ(だけ、というよりももっと重大なことではありますけど)ということのようです。ここで、距離、と言っていますけど、量子力学において言われているように時間と空間とは対になっていますから、遠くの距離まで見れるということは、遠くの時間まで見れる、ということでもあるようです。<br /> <br /> 文字通り「全体」としてのブラフマンになることはこの短い人生において達成することはなくて、比喩的なブラフマンとしてある程度の広がりを体験してゆくことになるようですから、これからは、この深まりを楽しむ段階にあるようです。<br /> <br /> 私の場合、体の周囲がそれとなくほんの少しわかる程度ですのでまだまだな感じではあります。<br /> <br /> 川から海にたどり着いてみたらあまりもの大きさに圧倒されている、という感じもあります。<br /> <br /> 一応、これが「故郷」と比喩してもいい場所かもしれません。長い旅路の一つの終着地点に到達して、新たなるスタートを切ったわけです。<br /> <br /> Sun, 04 Jul 2021 00:00:00 +0900 禅定からプルシャの独存、そして「空」との合一へ https://w-jp.net/2021/2404/ <br /> 仏教で禅定は色界4つ(形のあるものが4つ)・無色界4つ(形のないもの=心の世界が4つ)の合計8つで、その後、滅盡定を経て金剛定にてプルシャ(アートマン)の独存、最後は「全体」としてのブラフマンへの合一というステップになります。<br /> <br /> このあたりは明確に記されている書物が少なくて、きちんとこの辺りを理解して書いている書物は手元にあるものでは2つあり、1つは本山博先生の書物で、もう1つは油井真砂先生の「信心と坐禪」です。<br /> <br /> テーラワーダ仏教も色界禅定から無色界禅定の途中までは割合とわかりやすいのですが、無色界の後の方の記述は曖昧で、はっきりとしません。<br /> <br /> ヨーガはその最終目的地がプルシャの独存で、ヨーガスートラなどが詳しいです。<br /> <br /> インドのヴェーダンタは最終目的地である「個」としてのアートマン(サンキャ哲学におけるプルシャに近いもの)と「全体」としてのブラフマンに関する記述はとても詳しいです。<br /> <br /> チベット仏教、特にゾクチェンの見解は瞑想をする上で理解の役に立ちます。<br /> <br /> どれも1つで全てをカバーしているわけではないのですが、手に入りやすい文献としては本山博先生の見解がとても参考になります。<br /> <br /> 最後の段階は「空」とも比喩されますけど、いわゆる「悟り」と同義だと思って頂いて良いかと思います。それまでは「空」を垣間見たり理解する段階ですけど、最後にはその「空」と一体になるわけです。この最後の段階は「覚醒」とも言えるかもしれませんけど、覚醒という言葉だけであればもっと早い段階で起こるといえば起こりますので、全体のブラフマンとしての自覚であれば最後の段階にならないと起こらないわけです。<br /> <br /> 本山博先生の著作はヨーガだとか超能力だとかそういうテーマも多いのでチャラチャラしているかのように誤解されることもあるのですけど、インドのスワミとの交流もあってかなりヨーガに詳しいですし、文献を読むと、この人はわかっている、というのが伝わってきます。<br /> <br /> 私が最近になってようやく理解した上記の階梯にしても本山博先生の著作でその裏付けがなされたわけですし、その著作は30年以上前に書かれたものだったりします。まさに大家ですね。<br /> <br /> 最近読んだ本山博先生の著作によれば、仏教は元々ブッダが愛に飢えていた節があり、色界と無色界に分けるだけで良いものを、色界に含まれている欲界をわざわざ別にしていたり、最終目的地にて愛を説くというのは結局はブッダが愛に飢えていて、それは母親が早くに死別して無償の愛を受けられなかった欠乏感によるものだ、と述べていて、そうかもしれない、と思わされました。<br /> <br /> それによれば、仏教の禅定の最後の方を通り抜けてブッダが明らかに悟っていて、それはまさに上記のような階梯であるということです。<br /> <br /> ブッダに関しては色々と誤解があってヴェーダ系と対立していたとか言われていたりもしますけど、境地からすれば同じ境地に達していたのだと思います。であれば、世間で言われているような、仏教がヴェーダ系よりも上だとかヴェーダの方が仏教の方が上だとか比べるのはあまり意味がなくて、どちらも同じ境地なわけですよね。<br /> <br /> そのことが、本山博先生や油井真砂先生の著作を読むとよくわかるわけです。<br /> <br /> Sun, 04 Jul 2021 00:00:00 +0900 アートマンの意識は自己の周囲にあまねく満ちている https://w-jp.net/2021/2403/ <br /> あまねく、とは言いましても今は自分の周囲数m程度の範囲ではありますが、意識が満ちていることが良く分かります。「満ちている」ということを別の言い方で言えば「ダイレクトに満遍なく繋がっている」ということもできますし、昔ながらの瞑想的な言い方であれば「観照」ということもできます。<br /> <br /> これらは、対象があってどこかから見ている、という普通の目のお話ではなくて、満ちている意識それぞれが満遍なくそれぞれの場所にダイレクトに繋がっていて特に体であればその満ちている意識が体の隅々(とは言いましても濃淡は多少ありますが)まで広がっていて体それぞれの部署とそれぞれに満遍なく意識が繋がっているわけです。リモコンみたいに繋がっているわけではなくて、満ちている意識が体と重なっていて、というか体もその意識そのものであるかのように感じられて、意識と体、そして、意識と周囲の空間とがそれぞれ繋がっているわけです。<br /> <br /> 何もない空気だけの空間であっても同じで、そこにも意識が満ちています。<br /> <br /> この意識のことをインドのヴェーダンタでは「アートマン(真我)」あるいは「ブラフマン」と言って、古来から、その実在性が聖典で伝えられてきました。<br /> <br /> 実際のところ、インドで伝わっているこの種のお話は基本的には勉強のお話ですが、ヨーガや瞑想などをすることによってこれらを勉強だけでなく実際に経験できて継続的にその状態になることができることを最近は実感しています。<br /> <br /> 瞑想で言えば「観察」ということもできますけど、顕在意識による観察ではなくて、アートマン(真我)による観察のことです。それを言い換えれば「観照」ということもできます。<br /> <br /> このアートマン(真我)をハイヤーセルフということもありますけど、ハイヤーセルフは様々なコンテキストで使われていて定義がはっきりしないため、アートマン(真我)の方が適切かと思われます。。<br /> <br /> 意識が空間に満ちていて、その空間には自分の体も含まれて、その意識が体をダイレクトに動かしていることを実感し、それと同時に、体の感覚が希薄になっています。<br /> <br /> これは、言葉だけを聞くと「ロボットみたいになったこと?」と思われるかもしれませんが、逆で、アートマンと肉体および普通の心(顕在意識)とが一体になっている状態ですので、より人間らしくなっていると言えるかもしれません。かといって特に愛想が良くなったとかそういうことはそんなにはなくて意識の状態だけのお話ですけど、アートマンと人と心を言い換えればキリスト教で言うところの三位一体と同じことかなという気も致します。<br /> <br /> キリスト教では三位一体として父(神)・子(キリスト)・聖霊が1つとうたっていますけど、(キリスト教徒にこんなこと言うと怒られてしまうかもしれませんけど)それぞれがアートマン(としての意識)と人間の肉体と普通の心が一体になることを表現しているのだとすれば、同じことであると言えると思います。<br /> <br /> 比喩的に言えば神の意識と言ってもそう間違いではないアートマンの意識が自分の周囲に満ちていて、体と心および周囲の空間をも貫いて一体になっているわけです。<br /> <br /> Fri, 02 Jul 2021 00:00:00 +0900 体の感覚が希薄になる https://w-jp.net/2021/2402/ <br /> 昔、瞑想中に度々そういう状態に一時的になることは前からよくありましたけど、最近は、普段の生活において体の感覚が希薄になってきました。<br /> <br /> 自分の体や周囲の目に見えるものが幻であるかのように思えてきました。<br /> <br /> そのこと自体はスピリチュアルやヴェーダンタが言うように「この世は幻」と言うことではあるのですけど、知識自体は30年以上前から良く知っていて、「まあ、そうなんだろうな」とずっと理解していて、もはや常識みたいに「そうなのでしょうけど」と思ってはいたのでしょうけど、最近になって、こう言うことか、と言う自覚が出てきました。<br /> <br /> 体の感覚が希薄になって、希薄になったところをふと目で確認してみるときちんと体はあるのですが、あるのは五感としての皮膚の感覚だけで、「存在」としての感覚が希薄になっているのです。<br /> <br /> それはどう言うことかと言いますと、おそらくは、「存在」としての自分の形を心の中で作っていて、それが体の全体に対して、濃淡はあるもののそれなりに体の各所に対してその「存在」が満ちていたように思うのです。それはいわゆる普通の「私」としての自覚および感覚であって、「私」と言う個体が切り離されていると言う自覚の大元になっているものが私の体の形に似たものとして肉体に重なって存在していたように思います。<br /> <br /> その、「私」の感覚が、最近はとても希薄になっていて、スカスカの状態になっているので、五感としての感覚はあるのですけど、それ以外の、今まであった「私」と言う感覚における体の感覚があまりない感じなのです。ふと「あれ?体がないかな?」と思って見てみるときちんと存在はしていて皮膚で何かに触れるとその感覚があるときちんとあるので目で見えている体はきちんとあるようなのですが、自分の肉体に重なって存在していた、いわゆる「私」と言う感覚が希薄になっているように思います。<br /> <br /> 今の状態は五感が割と鋭くなっていて皮膚の感覚は以前よりもダイレクトに入るようになってきていますので、五感という意味では希薄になっていなくてむしろ鋭くなってはいるのですけど、ここで言っているのは、目に見えずに肉体の私に重なって存在していた「(割と重い)私」と言う感覚が希薄になってきているということです。<br /> <br /> よくスピリチュアルでは、肉体がなくなる前にオーラが先に抜けるとか言いますけど、死ぬ前兆だったのだとしたら嫌だなとはちょっとは思います。手足がなくなる前兆だとしても嫌ですけど、とりあえず、感覚的には死ぬこともなさそうですし手足がなくなるわけでもないかな、と思っていますけど。どうでしょうね。体の感覚が希薄になったからといって特に生活に不都合なくて、むしろ快適ではあるのですけど、ちょっと先がまだ見通せないので多少の心配がなくはない、と言ったところです。<br /> <br /> 体の感覚が希薄になるのと同時に、意識が周囲の数mにまで広がってきて、周囲の空間が何かに満たされていることを感じています。それと同時に自分の体の感覚が希薄になってきた感じですので、まあ、こんなものかな、と今は思っています。<br /> <br /> Thu, 01 Jul 2021 00:00:00 +0900 知るもの、知られるもの、知ること(手段) https://w-jp.net/2021/2401/ <br /> ヨーガやスピリチュアルではこれら3つのお話が度々出てきます。<br /> <br /> 最初の2つは割と自明ですけど、最後の「知ること(手段)」は、文献によっては「進行形(〜ing)」のことだったり「手段」として説明されていて、あまりはっきりとしません。<br /> <br /> スピリチュアルでもこれが引用されていて、ヨーガの説明やヴェーダンタ的な解釈とはそれぞれ微妙に異なっていたりします。ですけど、概ね、以下の2つの解釈に分類できると思います。<br /> <br /> ■解釈1:普通の心を軸に説明したもの。ヨーガスートラ的解釈。スピリチュアルでたまに見る解釈<br /> ・普通の顕在意識の「私」が「知るもの(者)」<br /> ・物体や認識・知識の対象としての「知られるもの」<br /> ・「知ること(〜ing)」あるいは「知る手段」(としての行動を基にした)としての「(普通の)心の認識」<br /> <br /> ヨーガスートラではこれら3つが1つになる時がサマーディ(三昧)という説明がされています。<br /> <br /> それは確かにその通りかとは思うのですけど、これら3つ全てを観察するものとしてのアートマン(プルシャ、心の本性)が現れた状態がサマーディ、ということですので、1つになる、というのはわかりにくい表現かと思います。最初はアートマンとしての意識は出ていませんけど、アートマンの意識がこれら3つを観照する状態になることがサマーディということです。<br /> <br /> このことが分かりにくければ、とりあえず、「知ること(〜ing)あるいは、知る手段」がいわゆるアートマン(プルシャ、心の本性)に置き換わる、と考えてもひとまずは良いかとは思います。この場合の解釈としては、アートマンが「私」としての「知るもの(者)」も「知られるもの」のどちらも含めて知っている状態(認識状態)になるのがサマーディということです。それは「観照」ということもできますけど、「知るもの(者)」も「知られるもの」の両方を観察している状態がサマーディということであり、それをヨーガスートラでは「これら3つが1つになる」と説明しているわけです。表現として難解ではありますけど、こういうことだと解釈すればすんなり理解できます。<br /> <br /> この時、「知ること(〜ing)あるいは、知る手段」は物理的な行動のことだけでなく心の作用についても言及しているわけです。ですから、実際には「知るもの(者)」も「知られるもの」の2つだけでなく、「知ること(〜ing)あるいは、知る手段」としての普通の心の作用も含めてアートマンは観察しているわけです。ですから、本質で言えば3つ全てを観察しているのがアートマンということではあるのですけど、とりあえず、理解のためには2つだけをアートマンが観照するようになる、と理解しておいてもそう間違いではないと思います。<br /> <br /> ■解釈2:アートマン(プルシャ、あるいは心の本性)とそれ以外を説明したもの。ヴェーダンタ的解釈<br /> ・アートマンが「知るもの(者)」<br /> ・アートマン以外のこの世の全てが「知られるもの」<br /> ・認識対象を受け取る「手段」としての「心」(普通の心、顕在意識) <br /> <br /> これはこれで明確なのですけど、この場合、3つのものが1つになるとかそういうことはなくて、単に3つの分類として説明されているだけです。<br /> <br /> ですから、似たようなこの3つのお話が出てきた時、「知るもの(者)」が普通の心の顕在意識のことを意味しているのかあるいはアートマンのことを意味しているのかで解釈が大きく変わってきますので、スピリチュアルやヨーガおよびヴェーダンタの文献を読むときはそのコンテキストに注意が必要かと思います。<br /> <br /> Thu, 01 Jul 2021 00:00:00 +0900 周囲の空間が何かに満たされていることを感じる https://w-jp.net/2021/2400/ <br /> その何かとは意識であり空間そのものあるいは愛であるとも言うことができると思います。人が愛するような愛ということではありませんので愛というと語弊があるようにも思えるのですが、愛と言ってもそう差し支えないようにも思えます。<br /> <br /> ただ、そのような比喩的な言い方よりも、インドのヴェーダンタの説明であるところのサット・チット・アーナンダのうちのアーナンダのことだと解釈する適切のように思います。<br /> <br /> これはこの世に普遍的に満ちているアートマンあるいはブラフマンのことで、世界に満ちているアートマンあるいはブラフマンがサット・チット・アーナンダだとヴェーダンタでは言われているのですが、サットが時間に制約されず過去現在未来に渡って永遠に存在するという永続を意味し、チットは純粋意識、アーナンダは一般的には「歓喜」と訳されていますが、それと同時に「満ちている」と言う意味もあります。<br /> <br /> これらのうち、私は当初は意識と言う面に即してアートマンの実在を感じるようになりましたが、ここにきて、アーナンダの面における「満ちている」および「歓喜」を実感するようになりました。<br /> <br /> ヴェーダンタでは、最初は自己・個として分かれているアートマンとして自覚した後、それが実際には普遍的なブラフマンであることを自覚する、と説明されています。<br /> <br /> この順番はおそらく正しくて、当初はただ単に自己の意識としてアートマンを自覚しておりましたが、ここにきて、まだ周囲の数メートル程度の範囲ではありますけど、その近くの空間が「満ちている」ことを認識するようになりました。<br /> <br /> ■アートマン(ブラフマン)<br /> サット 過去現在未来に関わらず継続する → まだ<br /> チット 純粋意識  → 最初<br /> アーナンダ 満ちている。(歓喜・愛)→ 今回<br /> <br /> アーナンダは一般的に言われているように歓喜といえばそうなのですけど、私の実感で言うと、元々の意味である「満ちている」の方が適切のように思います。<br /> <br /> 普遍的なアーナンダの「満ちている」と言う意識が育ってくると他人も自分のように感じますから、他人を手助けするのも普通になります。ですけど、この世知辛い世間を生きるには誰それ構わず助けるということではなく、知恵が必要のように思います。<br /> <br /> この「満ちている(歓喜・愛)」と言う意識はちょっと一般社会の人生を送る上では危ないように思えて、世間には油断ならないずるい人や悪意に満ちている人がいるのですけど、そのような人に対しても普遍的に愛や満ちている感覚をそれなりに感じてしまいますので、この意識で生きていると騙されたり利用されたりすることも多いのかもしれないな、と思ってしまいます。悟りの意識が騙されやすい性質に繋がる可能性もあるように思います。<br /> <br /> 社会を理解せずに感覚のまま手助けすると悪意のある人あるいは他人を利用しようとしている人にうまく使われる危険性がありますので、社会を生きる上では知恵が必要のように思います。気持ちのまま手助けしてうまくいっていない、という例は多いように思いますね。NGO・NPOの慈善活動も空回りしているように思います。普遍的に手助けしたい気持ちが純粋にある人がいる一方で、そのように無償で働く人をうまく誘導して利用したいだけの人がいます。<br /> <br /> 本人は純粋意識で動いているだけだった筈なのにどこか特定の利益のために動くようになってしまう、というおかしな例はそれなりにあると思います。政治家では山本○郎のような人が空回りしている気が致しますね。あの人はおそらくは元々は純粋意識から動いていたように思いますけど、知恵が足りなくて、特定の左翼団体の利益のために動いてしまっているような節があります。今はかなり取り込まれてダメになっている感じが致します。これは勿体無いです。普遍的意識があるのであればもっと大衆のために尽くせる筈なのですけど、今は変な思想がこびりついて意味不明になってしまって左翼の利益のために動く人になってしまっています。知恵が足りない例ですね。<br /> <br /> このアーナンダの「満ちている」意識が育ってくるにつれて、周囲の人に普遍的に手助けする気持ちも育ってきますが、ここは、一つの分岐点のような気が致しますね。<br /> <br /> 最初はチットとしての純粋意識であって、それは個としてのアートマンの意識でしかないわけです。その時点ではアーナンダの満ちていると言う感覚は自分の体の範囲に留まります。<br /> <br /> そして、ブラフマンというほどの世界全体に満ちたわけではまだないですけど少なくとも周囲数メートルの範囲においてアーナンダの「満ちている」と言う感覚が出てきたことにより、ヴェーダンタの言っている、アートマンとしての個から全体としてのブラフマンへの変化というものを確かに感じることができるわけです。<br /> <br /> これは、周囲にあるものに対して意識がとても薄く浸透した、ということもできて、意識が浸透したからと言って体のようにダイレクトに動かしているという感覚は周囲の物体に対してはないのですけど、動かすことはできないですけど、何か薄いものが浸透している、ということをなんとなく思えるわけです。オーラのようにしっかりとした感覚ではなくて、何かが浸透している、という感覚です。オーラの場合はもっとはっきりとしていて、オーラは融合したりすると激しい化学反応のようなものを起こしますけど、基本はオーラは体の近くに留めておきますので、オーラを伸ばした場合のお話とは異なるわけです。<br /> <br /> オーラではなく、意識が周囲の空間に満ちていて、その満ちる感覚が体の周囲だけの範囲から、自分の周囲数メートルに広がった、というのが現在の状況です。<br /> <br /> 今は近くにいる人に対してだけ「自分」を感じますけど、これがどんどんと広がっていって誰それ構わず「自分」を感じるようになったらどうしよう、という気もしますけど、まあ、そんなこと今から心配していてもしょうがないですね。なるようになります。おそらくは。<br /> <br /> Tue, 29 Jun 2021 00:00:00 +0900 覚醒の意識の現れである金剛定 https://w-jp.net/2021/2399/ <br /> 金剛定は詳しく記されている書物が少ないのですが、油井真砂さんの「信心と坐禪」が参考になります。<br /> <br /> 金剛定に至る直前で、心を滅してしまう滅尽定(めつじんじょう)に落ち込まないようにとの注意も同書には述べられていますが、おそらくはこの滅尽定はいわゆる心の本性であるリクパの覚醒意識が現れていない状態なのかなと思います。仏教では割と滅尽定のことを悪者扱いしているような感じではありますけど、見たところ、リクパが現れていない時が滅尽定で、リクパが現れると金剛定ということかなと思います。ですから、それほど悪者にすることもないのかなという気も致しますが、どうでしょうか。<br /> <br /> 感覚的な私の理解では、非想非非想処の後にリクパがまだなければ滅尽定となり、リクパが現れると金剛定、ということだと思います。ですから、滅尽定を飛ばして金剛定になることもあり得るわけです。私の場合、おそらくは滅尽定はほとんどなかったような気が致しますけど、どうでしょうかね。言いようによっては「静寂の境地」が滅尽定と言えなくもないですけど、私の場合、雑念が静寂になっただけで意識はありましたのでその時も多少はリクパの意識が働いていましたので滅尽定というわけではないような気が致します。滅尽定はそれほど悪者にすることもないと思うのですけどね。どうでしょうか。<br /> <br /> 個人的には、一時的にそのような「無」とも言える静寂に落ち込むことはあっても、胸の奥から突き動かさされるような鼓動によって「眠ってはいけない」と強制的に起こされてきましたので、滅尽定とかあるいは無想定といったものも含めて、そう心配することはない気が致します。意識でいくら眠ろうと思っても強制的に起こされる力にはあがらうことはできませんし、起きて成長してしまった方が寝て停滞するより遥かに楽なのが現実です。<br /> <br /> 同書によればこの金剛定は一応は覚醒の意識ではあるのですが、まだ、僅かな煩悩が薄雲のようにかかっている状態とのことです。これは、まさに私の状態と一致します。<br /> <br /> 「信行最後の煩惱」といふものが、またそこへふうつと薄雲のやうにかゝつて來るのである。夫れは、例へば、潔癖の人が潔に著するといふやうに、(中略)清濁一如の妙機が得られて居ないから、夫れで、つい空に著するといふことになるのである。即ち、無常でなければならない空が、何んとしても恒常の空のやうに思はれるといふ煩惱が、ふつとそこへ涌いて來ることになるのである。これが、空によつて生ずる「空病」としての煩惱である。「信心と坐禪(油井真砂 著)」<br /> <br /> このあたりが私の今の課題ですね。とは言いましても、課題というほどの課題でもないですけど。これが禅で言う「空病」だと言われれば、確かにそうなのかもしれない、という気も致します。ただ、この段階はわざわざ「病」と言うほどのものでもない気も致しますが。昔の言葉のニュアンスはもっと軽い意味だったのかもしれませんね。ただの専門用語と思えばそんなものかなという気も致します。<br /> <br /> ここで大切なのは、チベット式に言えば日常生活と「まぜる(セワ)ということかなと思います。日常生活の清濁を乗り越えてサマーディの境地と混ぜ合わせて行くことがこの段階を突破する鍵のような気がしております。<br /> <br /> このあたりで大切なことはチベット系か禅系の同書が参考になります。<br /> <br /> 往々にして、このあたりにくると自分が既に悟っているかのような錯覚も時々生じてきたりはするのですけど、これらの本を読むとまだまだだということがよくわかります。<br /> <br /> 金剛定に至るまでの階梯についても記録しておきたいと思いますが、私の状態を禅の階梯に当てはめてみると微妙で、解釈が2通りできると思います。<br /> <br /> 創造・破壊・維持の意識が現れる以前は無所有処で、出た後は非想非非想処で、意識(アートマン)が体をダイレクトに動かしていると実感を得たことにより非想非非想処から金剛定に至ったという解釈と、創造・破壊・維持の意識が現れる以前は無所有処か非想非非想処で、創造・破壊・維持の意識が出てきて意識(アートマン)が体をダイレクトに動かしていると実感を得たことにより非想非非想処から金剛定という割と最後の段階に入ってきた、という解釈がそれぞれあります。<br /> <br /> このあたりはとても微妙で、これらは禅においては順番に並んではいますが普通の意識のお話と心の本性のリクパの覚醒のお話は割と並行していて、まだ普通の意識がそれほど成長していなくてもリクパの覚醒がある場合があります。<br /> <br /> 非想非非想処までは無色界のお話ですから、普通の心の平穏さが非想非非想処と言えると思います。一方、金剛定になりますと心の本性のリクパの覚醒のお話だと解釈できます。リクパの覚醒は実のところ普通の心とは割と独立して存在していますから、普通の心が非想非非想処に達しなくても心の本性のリクパの覚醒があれば金剛定に一応はなったように見えるわけです。この辺りに混乱があるように思います。<br /> <br /> 非想非非想処がいわゆる「静寂の境地だったのかなと思います。静寂の境地に最初に至るところが無所有処で、静寂の境地が安定するのが非想非非想処という解釈もできます。おそらくはそんな感じだったのかなと思います。<br /> <br /> 非想非非想処までは普通の意識のお話で、心の本性のリクパの覚醒が出てくるのが金剛定の段階だと解釈できます。ですから、仏教の、例えばテーラワーダ仏教においては「非想非非想処などの無色界の禅定は必ずしも習得する必要がなく、それがなくても悟ることができる」、とされているのだと思います。その意味としては、普通の心の平穏さをそこまで突き詰めなくても心の本性のリクパの覚醒はなされる、ということだと解釈できます。<br /> <br /> チベット系では普通の心と心の本性リクパが分けられているのですけど、他の流派においては一緒にしているので混乱があるのかなと思うのです。<br /> <br /> 私の見たところ、非想非非想処から金剛定に進むのがやりやすい気も致しますし、非想非非想処がなくてリクパの覚醒を先にして金剛定に行ってしまうと普通の心の制御が完全ではありませんので、何かやり残したような感じになってしまわないかと思うのですけど、どうでしょうかね。世間のスピリチュアルな修行においてリクパの覚醒だけを目的としてしまうと非想非非想処の静寂の境地がなくて覚醒だけが先行してしまうので、何か、とても不思議な感じの、不安定だけれども覚醒している、という、ちょっと変わったスピリチュアルになってしまうような気も致します。<br /> <br /> Sat, 26 Jun 2021 00:00:00 +0900 全く普通の人として人生を生きるのが瞑想であり三昧 https://w-jp.net/2021/2398/ <br /> 悟ると何か特別な人になるのではなくて、全く普通な人として生きるようになるのかな、と今は思います。<br /> <br /> 特にシャルドルで静寂の境地への依存から離れたことにより、それまでは、瞑想をしてから静寂の平穏の境地という特別な状態にすることで心の平安と特別な感覚を味わっていました。<br /> <br /> しかし、シャルドル以降は、その平穏の境地が日常生活とどんどんと融合して行っているように思います。<br /> <br /> 日常生活が瞑想状態そのものになり、日や時間によって程度の違いこそあれ、割と、平穏な状態が日常生活にまで広がり、視野が広がって微細に物事を観察できるようになりました。<br /> <br /> シャルドル以前も度々そのようなことがあり、それが割と長い時間続くこともあったように思いますが、「努力なし」という観点から言えば、シャルドル以降こそが日常生活の瞑想状態の始まりとして適切であるように今なら思います。<br /> <br /> 努力なし、というのは完全にそれが不要というわけではなく、時折、そのことに気付きを入れてあげる必要がまだあります。<br /> <br /> 書物を読むと、次の段階であるランドルになりますとその気付きを入れることすら不要だということではありますけど、シャルドルの段階では努力は不要でも時折気付きを入れてあげる必要があることを実感しています。これは書物で読んだ知識であることはそれはそうなのですが、それよりも、実践として、そのように思うということです。書物で自分状態を確かめられたという点もありますし、書物でやり方を教えてもらった、という両方の側面があります。<br /> <br /> そのように、日常生活で単純な気付きを入れるだけで良い段階になると、どんどんと日常生活が瞑想と溶け合わさってゆき、その状態はもはや「特別」なものではなくなります。<br /> <br /> ここにきて、日常生活の「普通」の状態こそが素晴らしい生き方だと実感できるようになったわけです。<br /> <br /> そもそも、その普通の日常生活がなかなかできないから皆が苦しんでいるわけで、ここが一つの区切りであり、ランドルとまでは行かないまでもシャルドルであればこの「普通」の生活ができるようになったのかなと思います。<br /> <br /> 「セワ」は、チベット語で「まぜる」ことを意味している。自分の三昧の境地を、日常生活のすべての行動に溶け合わせていくのである。ゾクチェンにおいては、何か変えたりする必要などないし、特別な服を身につける必要もない。外見から見て、ゾクチェンの修行中だと思われるようなものは、何一つないのである。本当に修行しているのかどうか、知る方法は何もない。ゾクチェンの修行は、外見とまったく無関係なのである。相対的な条件の中にある全てを修行に取りいれ、両者を一つのものにするのである。「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」<br /> <br /> これは最初、チェルドルくらいの弱いサマーディの力しかない時は努力が必要でも、シャルドルにきて努力がほとんど不要になり、このことが現実になってきたように思います。今まで、このことがいまいちピンとこないまま、そうなんだろうな、と漠然と思っていたのが、ここにきて、確かにこの通りだ、と思うようになりました。<br /> <br /> 私は特別にゾクチェンの流派に属しているわけではないですけど、ヨーガ行者も似たようなことを言っていますし、この内容は真実であるように思います。<br /> <br /> ただし注意しておきたいのは、これは、何もしなくても最初から悟っているから何もしなくてもいい、と言うことではありません。それは道元が活躍した時代にかつての天台宗の教えとして「人は元々悟っているのだから何もしなくてもいい」みたいな思想が誤解されて広まったようなもので、それを道元は否定して修行が悟りのために絶対的に必要だと説いたわけですけど、最終的な状態が普通の人生だとしても、その普通を生きるためには修行が絶対的に必要になってくるわけです。最初から悟っている人もいないわけでもないですけど基本は修行が必要と思います。<br /> <br /> Thu, 24 Jun 2021 00:00:00 +0900 順番に起こる気付きと並列に同時に起こる気付き https://w-jp.net/2021/2397/ <br /> 普通の心である顕在意識による気付きは順番に(シーケンシャルに)起こる気づきで、心の本性による覚醒状態リクパの気付きは同時に並列に起こる気づきです。<br /> <br /> これはどういうことかと言いますと、普通の心である顕在意識は1つのことしかできないのです。<br /> <br /> ですから、五感から何かを感じ取った時にそれを感じた瞬間は単に五感からの入力で、その後、はっ、と気付いて何か認識が心の中に浮かび上がるわけです。入力と気付きとが同時ではなく、順番に起こっています。これはとても微妙なお話ですので、最初はほぼ同時に感じられるかもしれませんけど、そのうち、この微妙な差異というのが瞑想するうちにわかってきます。<br /> <br /> とは言いましても、それに普通の心で気がつくというのはそこまで重要ではなくて、心の本性の覚醒状態リクパと比べるとそうなっている、ということを理解することの方が大切だと思うわけです。<br /> <br /> 普通の心で五感の入力とそれの気付きが分かれているということに気付くというのは、普通の心が早くなったということであり、それはそれで成長ではありますけど、あくまでも普通の心の成長なわけです。そのためにはそれなりの心の平穏が必要なわけで、心の平穏があるということはそれ自体は成長ではありますけど、その時点ではあくまでも普通の心のお話なわけです。<br /> <br /> 心の本性の覚醒状態リクパにおいてこれらは普通に把握できるようになりますので、リクパの状態なしにこれらの分離に気付くことは必須ではないと個人的には思います。気付く人がいるならそれはそれでいいとは思いますが、リクパなしに気付こうと思ったらそれなりの努力が必要になり、それは普通の心の強化でありますから、リクパなしにそれをしてしまうとエゴが拡大してしまう危険性もあるわけです。リクパなしに普通の心が早くなったらキレやすくなったりといった副作用が現れる可能性があるわけです。ですから、これは基本的にはリクパの状態で気付くもので、それ以前に気付く必要はあまりないのかなと個人的には思います。<br /> <br /> 流派によっては階梯の1つとしてこの段階をカニカ・サマーディとか呼んでいるように思いますけど、特にこれを通過しなくてはならないというわけではない気が致します。通過する人もいるかと思います。<br /> <br /> そのように、順番に起こる気付き、というものがあります。<br /> <br /> 一方で、覚醒状態リクパにおける心の本性による気付きというのは、並列に同時に起こります。<br /> <br /> 思考があれば、その思考を同時並行に観察します。<br /> 雑念があれば、その雑念を同時並行に観察します。<br /> 体の五感からの入力があれば、その入力を同時並行に観察します。<br /> <br /> 単に五感が鋭くなっただけではなく、それに同時並行に気付くことができます。<br /> <br /> これを、流派によっては修行の一環としてこのようにしなさい、なんて言っているところもありますけど、これは私の見たところ「結果」であって、「(修行など、何かを達成するための)手段」ではありません。<br /> <br /> このように並列に観察しましょう、と言われても、特に最初は無理なお話だと思います。<br /> <br /> 瞑想とは「するものではなく、現れてくるものだ」とはよく言われたもので、自動的に現れてくるのがこのような瞑想状態ですから、それを説明してその通りにしなさい、と言われてできるものではないわけです。<br /> <br /> 結果ということもできますし、目標ということもできますけど、それは一時的なものではなくて、継続した状態なわけです。<br /> <br /> そのように、覚醒状態リクパにおいては並列の気付きが常時働くようになります。<br /> <br /> Wed, 23 Jun 2021 00:00:00 +0900 スピリチュアル 2.0 https://w-jp.net/2021/2396/ <br /> 普通の心と心の本性を一緒くたにしているのが今までのスピリチュアル1.0です。<br /> それらが分かれているのがスピリチュアル2.0です。<br /> <br /> これは(少なくとも今のところ)個人的な定義で、一般的な定義ではありません。<br /> <br /> 世の中にあるスピリチュアルは、願望実現だとか現実を引き寄せるだとか言っていますけど、それらは普通の心の願望を叶えるのですからスピリチュアル1.0のお話です。<br /> <br /> オーラの法則とかいうお話も普通の心と心の本性を一緒にしておりますのでスピリチュアル1.0です。<br /> <br /> 普通の心による集中状態と観察状態というお話で瞑想が理解されるのが1.0です。<br /> それらと合わせて心の本性が現れた覚醒状態(リクパ)が分かれて理解されているのが2.0です。<br /> <br /> ハイヤーセルフとかのお話は割とスピリチュアル2.0の先駆けではありますけどハイヤーセルフが自分の心の本性のお話ならば2.0ですけど実際はチャネリングのような自分とは分かれた別の存在として解釈されていることも多いですので割と昔ながらのスピリチュアル1.0に巻き込まれてしまっているように思います。<br /> <br /> 自分の思考する心が満足するために行う精神的な行いが昔ながらのスピリチュアル1.0です。<br /> お祈りをしたり祈願をしたりマントラを唱えたり体を動かして心を鎮めたりするのは1.0のやり方です。道徳的なお話も1.0です。<br /> <br /> 心の本性が現れている状態である覚醒状態(リクパ)で行う祈りや祈願やマントラは姿形としては1.0に似ていたとしてもまた違った様相になります。<br /> <br /> スピリチュアル1.0の愛というのはお腹のあたり(マニプラ)の愛だったりハート(アナハタ)の愛だったりします。<br /> スピリチュアル2.0の愛というのはそれらを超えていて、その両者であるとも言えなくもないですけどそれを超えた心の本性の働き(リクパの覚醒)による愛になります。<br /> <br /> 世間でスピリチュアルで活躍されている方はだいたいマニプラかアナハタに分類されて、わかりやすいイメージで言いますと、マニプラの愛はお稲荷さんとかの狐とかが強く現れる夜の世界のホステス的な愛で、お金儲けとか願望実現が得意です。アナハタになりますとまだお金儲けとか願望実現は別の形になりますけどまだ存在しています。これもまたスピリチュアル1.0の姿です。<br /> <br /> ですけど、スピリチュアル2.0になりますと願望実現とかのような個人としてのお話は段々と消えてゆくのです。<br /> <br /> もはや、自分も他人も一緒なのですから、あまり自分の願望実現というものを気にしなくなります。<br /> <br /> 自分の心の本性が現れた状態(リクパの覚醒状態)は、言い換えれば「スピリットが自分を動かしている状態」であるとも言えます。そうであれば、自分の顕在意識というのはスピリットの道具なのですから、顕在意識における願望実現というものは全て消えてゆきます。ただ(自分の)スピリットがこうなりたいからそうする、という状態になります。(自分の)スピリットが望むものはそのようになる、ということを理解します。そうすれば、願望実現などしなくなります。これがスピリチュアル2.0です。<br /> <br /> 自分自身が聖なる道具であることを理解して自らのスピリットに委ね始めます。実際はここではもはや「自分」という感覚はなくてただスピリットなのですけど、読む人にわかりやすいように一応「自分」とつけていますけど、確かにそれは自分のスピリットではあるのですけど、スピリットの意識は偏在しておりますので、あまり自分とか他人とかいう区別はないのですよね。<br /> <br /> ですから、自分の役割があればそれを行う、というだけのお話になります。ですから、他人を見て嫉妬したり区別したりということがなくなってゆきます。そういう嫉妬や区別は顕在意識において今まで通り存在していて、顕在意識が嫉妬や区別することもあるのですけど、スピリットが優勢になるとそのような顕在意識の動きを諌めるようになって、顕在意識の一時的な混乱は割とスムーズに自動的に解決されるようになりますこれがスピリチュアル2.0です。<br /> <br /> 道徳的なお話で自分を律する、というのはスピリチュアル1.0のお話です。<br /> 心の本性が現れてきて、リクパの覚醒状態にある時、それはスピリットが自分を操作するということでもあります。スピリットが自分を動かすようになれば道徳的なお話は単なる道徳ではなくてスピリットのあるべき姿なのだと理解します。それがスピリチュアル2.0です。<br /> <br /> 自我が抵抗していたり自我の欲望を叶えることを美しい言葉で覆い隠してお花畑で囲んであたかもそれが素晴らしいように見せるのもスピリチュアル1.0です。願望実現だとか引き寄せの法則みたいなものも、実際は単なるエゴの満足でしかないものを美しい言葉で着飾って自分を誤魔化している部分も多々ありますのでスピリチュアル1.0です。<br /> <br /> スピリットが望むものは何であれスピリットが望むままになります、というのがスピリチュアル2.0です。<br /> <br /> 顕教を道徳的な枠組みで理解するのがスピリチュアル1.0です。<br /> 顕教をスピリットのあるがままの姿として理解するのがスピリチュアル2.0です。<br /> <br /> チベット仏教のお話はこれらのお話を包括的に説明していて、お話のベースになり得ると思います。<br /> <br /> 新しいようでいて古いお話なわけです。<br /> <br /> Tue, 22 Jun 2021 00:00:00 +0900 ヴェーダンタの言う「マーヤー(この世は幻)」の意味を理解する https://w-jp.net/2021/2395/ <br /> 自分のスピリット(アートマン)に少しづつ委ね始めた頃から顕在意識とスピリット(アートマン)の意識との違いを認識できるようになり、それにより、ヴェーダンタの言う「現実は全てアートマンのもの」「この世はマーヤー(幻)」の意味を理解できるようになりました。<br /> <br /> マーヤーとは五感で感じるこの現実世界そのもののことであり、特別な何かが自分の外側に新たに存在しているわけではなかったわけです。ですけど、今までは、ヴェーダンタのマーヤーの解説を聞くと何か別世界が存在しているような気がしていて、どこか腑に落ちないでいました。それが、ここにきてはっきりと理解できるようになりました。<br /> <br /> マーヤーは、心の本性による覚醒した意識(リクパ)がない状態においてはこの現実世界そのものであると認識されます。その状態においては幻ではなくて全くの完全なる現実として認識されます。そして、リクパが現れてきた後であって初めて幻であると気がつくわけです。<br /> <br /> ですから、リクパが現れる前にマーヤーを本当の意味で理解しようと思っても無理なお話で、その時点においては頭の理屈でのお話の理解に留まるわけです。ですけど、当時の私はどうにかしてマーヤーの本質を理解しようとしておりましたが、それは到底、無理なお話だったわけです。そのことに気がつきました。<br /> <br /> これは、ヴェーダンタを教える人の側にも混乱があるように思えて、インドでヴェーダンタを学んできた人の中には「ヴェーダンタは経験する一時的なものではなくて理解によって得られる境地です」みたいなことを言う人がいますので、今からすればそのニュアンスがわかるのですけど、そこには誤解があるように思えるのです。結局、要点はというとリクパの意識で見るかどうかというところであり、リクパの意識で見ればヴェーダンタのお話も理解できるのです。しかし、リクパがない状態でヴェーダンタを理解しようとしてもあくまでも頭の理屈のお話でしかないわけです。リクパというのは意識ですからそれは肉体を持ったこの世の経験とはちょっと離れたものではあるのですが表現としては経験ということもできなくもありませんので経験と言ったり言わなかったりするのですが、経験というと一時的という意味が入ってきてしまうので経験というのを避けようとする人たちが一定数いて、そのような人は経験ではなくて理解、という言葉を使ったりします。ですけど、リクパの覚醒のお話をしているという点においては同じなのですよね。<br /> <br /> そのリクパの意識が現れてリクパの状態で見ることができるのがヴェーダンタのいう本当の現実で、顕在意識が五感を使って感じて認識するものをヴェーダンタではマーヤー(幻)と呼んでいるわけです。<br /> <br /> これは理屈のお話だけではなくて、実際にそのように自分の認識が変化するというお話であり、そのことを覚醒と言ったり「理解」と言ったりしますけど、同じことと言えば同じことかもしれませんし人によっては違うことを言っているのかもしれませんけど、本質で言えばリクパの覚醒のお話という点に関しては同じなのかなと思います。<br /> <br /> リクパの意識が現れるまではヴェーダンタでマーヤーのお話を何度聞いてもしっくりこない感じでしたが、今思えば、それも当然だったと思えます。<br /> <br /> マーヤーというのは、理屈で言っても、実際の境地からしても、顕在意識の経験する世界がマーヤーであると言えます。<br /> <br /> 以前は、理屈ではわかっていても、何かしっくり来なかったのです。<br /> <br /> しかしながら、ここにきて、意識(アートマン)が体をダイレクトに動かしていると実感することにより、そのアートマンとしての意識が経験するものこそが真実の世界であり、顕在意識が経験する世界はマーヤー(幻)なのだと理解できるようになりました。ここで言っている理解とは、単に頭の理屈で聞いて考えて理解するというだけでなく、実感としてそのことが真実だとわかるという意味も含めた理解です。<br /> <br /> これは、例え話としては色々とあるのですけど、それよりも、実際にこれは体験しなければわからないものなのかもしれない、と今は思います。<br /> <br /> ヴェーダンタ哲学では理解が重要とされていて、そこでは、「経験」は一時的なものなので理解ではない、みたいなことがよく言われます。それは、頭で理解することプラス実感することが真実の知識である、という意味です。ですので、単に理屈を勉強しただけでは不十分で、それを実感することが大切なわけです。<br /> <br /> このことが、いまいち私にはピンときていませんでしたが、今は、表現は違えども同じことを言っていたのだということがわかります。<br /> <br /> 文字通り捉えてしまうとヴェーダンタ哲学の言っていることは頭の勉強だけが重要で瞑想やヨガのアサナの瞑想は一時的なものなので重要ではない、みたいに解釈してしまうこともあって、実際、インドでヴェーダンタを勉強してきた人の中にもそう言っている人がいましたけど、私が今思うに、それは途中経過であって、最初は一時的なところから始まってやがてずっと続く「状態」になりますので、一時的なものであったとしても問題ないのです。インドで勉強してきた人の中にはことさらにヨガのアサナを否定したりヨーガスートラを否定したりして、瞑想は一時的なものだから意味がなくて理解だけが必要、みたいなことを言っている人がいますけど、私の今の理解に基づけば、ヨーガ・スートラもヴェーダンタもラマナ・マハルシも同じことを言っていると思うわけです。文字面の違いにあまり拘らない方がいいと思います。<br /> <br /> ヴェーダンタ哲学がいうところの「理解が重要」だというのは、表現としてはわかりにくいですけど、実際のところ、意識(アートマン)が全てを動かしていることを実感することを「(本当のヴェーダンタの)理解」と比喩的に言っているのかなと思うわけです。これはインドで勉強してきた方に言わせれば異論があるかもしれなくて、ヴェーダンタ哲学の方々は「聖典の勉強をすることで知識が現れてくるものだ」ということを言いますけど、私から言わせれば、そこで言っている知識というのはアートマンとしての意識の表れでありますから、同じことを言っていると思うわけです。<br /> <br /> アートマンが現れたからと言ってすぐに全知全能というわけでは全くなくて、文字通りの知識というのはまだまだ聖典などに頼っています。ここで言っているのは、聖典のお話が理解できるようになった、というお話です。ヴェーダンタの流儀に従えば「知識が現れてきた」みたいな言い方もできますけど、それよりは、「理解できるようになった」と言ったほうがしっくりきます。<br /> <br /> そのように、アートマンの意識が現れると、ヴェーダンタの各種のお話がすんなり理解できるようになり、その一環としてマーヤー(この世は幻)というお話も実感を伴って理解できるわけです。<br /> <br /> Sun, 20 Jun 2021 00:00:00 +0900 チャネリングで知識を得ると自分が何者かになった錯覚をするので気をつける https://w-jp.net/2021/2394/ <br /> これはチャネリングの良くない点として挙げられます。<br /> <br /> 実際のところ、チャネリングというのは誰か生きている体のある人間と話すことと変わりがありませんので、大切なのは誰と話したかと何を話したか・聞いたかという点になるわけです。<br /> <br /> ですけど、スピリチュアルの方々は往々にしてチャネリングを絶対化して、言われたからそうすべきだとか、神様のお告げだとか、そういう勘違いをしてしまいますけど、チャネリングで伝えてくる存在はそれほど高い次元の存在ではありませんので、具体的であればあるほどそれは人間的ということです。<br /> <br /> 高次になりますと善悪も消え去って、ただ悟りの境地だけがありますから小難しいことを言う必要がないわけです。悟り、あるいは言い換えれば光明があるだけですから、高次の存在であればそういうお話だけしかなくて、細かい知識を伝えてくるのは割と人間的な神様なわけです。<br /> <br /> 実際のところ、霊のような存在が、例えば修行僧だとか尼さんだとかが神様として伝えてくる場合は多いように思います。過去生でスワミのような精神修行をしている人も神様っぽく振る舞う時があります。ですけど、それは目に見えないだけで実際は生きている人間と変わりがないわけです。<br /> <br /> あるいは、宇宙人であればテレパシーをするようなテクノロジーがありますから、一方的にチャネリングで話しかけてきて、こちらが言っている内容もきちんと向こうが聞くことができます。それは宇宙人の能力でする場合もありますし、テクノロジーで行う場合もあります。<br /> <br /> それは割とランダムに選ばれることもあって、言うなれば、旅行先でたまたま目の前にいた人に話しかけるようなものです。ですから、チャネリングがあったからと言って「選ばれた」みたいな選民意識を持つのは馬鹿馬鹿しいことで、たまたまそこにいたからラッキーで話しかけられた場合の方が割と多いわけです。<br /> <br /> あるいは、守護霊や近くにいる友人知人の霊が話しかけてくることなんてのはしょっちゅうで、それは割と「近所のお節介おばさん」だとか「色々と世話してくる家族」あるいは「世間話が好きな友人」みたいなものです。そういう人が周りにたくさんいますから、思念波のうちのある程度はそういう人たちがごにょごにょと話しかけてきているわけです。<br /> <br /> 時折、その延長線で誰かにスピリチュアルなお話を教えてもらえることもありますけど、それは誰かから聞いただけですので、その知識が素晴らしかったとしても、自分のものになったわけではまだないわけなのですよね。<br /> <br /> スピリチュアルな階梯においてこのチャネリングによる知識は実に厄介なことがあって、「自分はわかっている」「自分はできている」という錯覚に容易に落ち込んでしまうわけです。<br /> <br /> 流派によってはチャネリングは良くないものとしていますけど、それはこのような危険性があるからで、実際にはそれは誰かと話すこととそうは変わらないのですからわかってしまいさえすれば特に問題はないのですけど、勘違いや、あるいは、安易にそれの指示に従ってしまう危険性があるわけです。<br /> <br /> Sat, 19 Jun 2021 00:00:00 +0900 「手放し」と「意識の覚醒」は両輪 https://w-jp.net/2021/2393/ <br /> スピリチュアルではよく「手放しましょう」みたいなことが言われていますけど、それは物事の半分しか説明されていなくて、それと同時に意識の覚醒がなければ手放したところで何も起きないわけです。何も起きないならまだマシですけど、手放しをすることで顕在意識が勘違いしてしまって既に手放しているかのように錯覚してしまうことがあります。<br /> <br /> このような錯覚はスピリチュアルの道において大敵で、一旦その状態になってしまうと理屈と記憶においてはそのことが一応は理解されていますから「わかっています」と心が思ってしまうわけです。この場合、「既に私は手放せています」と思ってしまうわけです。<br /> <br /> これはとてつもない落とし穴で、手放しているつもりが全然手放せていないわけですね。<br /> <br /> でも、そう思い込んでいる人に何を言っても無駄に終わることが多くて、自分が気づかないといけないことですので、周囲から気づかせようという努力が無駄になってしまうわけです。<br /> <br /> こうして、往々にして、スピリチュアルの幻影にハマって、しばらくすると「目が覚めた」とか言ってスピリチュアルの馬鹿馬鹿しさに幻滅する人が一定数いるのですけど、それはとてももったいないことだと思います。<br /> <br /> この種の「手放し」は顕在意識の手放しのことで、それはそれ単体で存在しているわけではなくて、意識の覚醒をその基礎にしています。<br /> <br /> 意識の覚醒というのは、言い換えれば心の本性であるリクパと言う覚醒の働きのことを意味していて、割と普通のぼんやりとした人生あるいは煩悩に支配されている人生を送っている人の場合、このリクパは動いていないわけです。<br /> <br /> 手放しをすると顕在意識が働かなくなりますから、それと同時に、このリクパの覚醒がなければよって立つところがなくなってしまいます。リクパの覚醒がない状態でただ手放しをするとただのぼんやりとした状態になってしまいます。<br /> <br /> それとわかっていさえすれば手放しだけしてリクパの覚醒を待つと言う方法もあるのですけど、リクパの覚醒はなかなか起きませんし、リクパの経験がなければ何がリクパかもわからないですので、これがリクパかな、あれがリクパかな、もうリクパなのかな、と、迷ってしまったり、迷うだけならいいですけど、色々と考えた結果、もうリクパがあると勘違いしてしまうこともあります。<br /> <br /> 基本的には、リクパの覚醒が起きていない以上は、自分がリクパの覚醒状態にあるのかどうかわからないですよね。ですけど、顕在意識というのは理屈をあれこれとこねくり回して、自分が既に達成できているかのように自分を納得させることがよくあるのです。それは特に瞑想の初期においてよく起こります。この種の自己欺瞞がスピリチュアルの落とし穴として存在していて、それにハマると、上に書いたようにしばらくしてふと自分が置かれた状況に気がついて「目が覚めた」とか言ってスピリチュアルをやめてしまったりするわけです。勿体無いですよね。<br /> <br /> 手放すと言うのは顕在意識のお話と、リクパの覚醒という2つの意味があるわけです。<br /> <br /> 顕在意識を働かせるのをやめましょうという意味における手放しと、顕在意識が主になって働いている状態からリクパの覚醒をすることでリクパが主になって働いている状態に遷移しましょうという意味における手放しがあるわけです。<br /> <br /> 実際のところ、リクパの覚醒という意味においてはどちらも同じことを意味しているわけですけれども、顕在意識の手放しだけでは半分でしかないわけです。それをしたところで、リクパの覚醒がなければただ単に顕在意識が動かなくなったというだけのことになってしまいます。<br /> <br /> 顕在意識というのは「私(アートマン)」の道具であり、本質においては顕在意識を動かすとか動かさないだとかいうことは関係がないのですけど、スピリチュアルな精神修行の一過程においてリクパの覚醒をもたらすために一時的に顕在意識を停止させるあるいは一時的にゆっくりにさせるという修行方法があるということです。<br /> <br /> ですから、スピリチュアル的な「手放し」というのもそのコンテキストにおいて理解されるべきだと思っていて、最終的な状態が「手放し」ではないわけです。この辺りにも誤解があるように思います。<br /> <br /> 例えば、スピリチュアルでは嫌なものや不快なものを「手放しましょう」みたいなことが言われますけど、わざわざ手放しをしなくてはならないのは最初だけで、手放しが起きるのは一時的なお話で、最終的にはそれは避ける必要もなく勝手に自分の周囲から消えてゆくわけです。消える、というと語弊があるかもしれませんけど、顕現としては変わらなくて、ただ、自分の認識として不快に思わなくなる、あるいは、不快に多少思ったとしてもすぐに消えてゆくようになります。<br /> <br /> 一方、わざわざ手放しを行わなくてはならない段階がいわゆる「キラキラ系」のスピリチュアルで、何か不快なことを避けるために「手放し」をするだとか、否定的なものを遠ざけるために「手放し」するみたいなことを言っていますけど、そうして自分が避けようとしているということは、まだそれに影響されているレベルでしかないわけです。<br /> <br /> 自分の周囲というものは全て自分の中が周囲に顕現したものですから、手放しをする必要があるということは顕在意識にまだ深く問題を抱えているということです。<br /> <br /> 実際には、その顕在意識の静まりだけでなくて、心の本性であるリクパとしての覚醒が現れて来さえすれば、そのような周囲への顕現は現れてはやがて消えてゆく一時的なものだと悟ることができます。<br /> <br /> 顕現というものはエネルギーの現れですので無限に続くことを理解して、顕現が現れてきたとしても観察しさえすればすぐに自然に消える(自己解脱)ということを理解するだけでなく実際に認識の面においてもすぐに自然に消えることを体感するようになり、顕現に悩まされることもなくなっていきます。<br /> <br /> 顕現がなくなることはない、ということを理解することは重要で、「手放し」という意味の中には「顕現がなくなる状態が良い状態」というニュアンスが多少は含まれていているような気がいたしますが、実際には顕現はなくなることがありませんので、自分の現れとして周囲の顕現は無限に続いてゆきます。それはエネルギーの現れですから、止まることがないわけです。<br /> <br /> 手放し、というのは、意識的に行うことではなくて、自然に起こることだ、ということもできます。それは、顕在意識が意識的に行うことではなくて、リクパの動きにより自然に起こることだ、ということです。それは心の本性としてのリクパの動きを基礎としていて、ざっくり言ってしまえば覚醒ということでもあり、覚醒があれば手放しも自然に起こる、ということでもあります。<br /> <br /> Sat, 19 Jun 2021 00:00:00 +0900 静寂の境地から自分が水面に浮かぶ境地へ https://w-jp.net/2021/2392/ <br /> 元々、静寂の境地に「私」はありませんでした。<br /> <br /> しかしながら、その静寂の境地に、最近は「私」が加わるようになりました。<br /> <br /> これは文字通り読んでしまうと「私」が出てきたということで、もしかしたら後退のように見えてしまうかもしれませんけど、そうではありません。<br /> <br /> 世間で言われている普通の「私」というのはブッディ(思考する能力)の反応として生み出されたアハンカーラ(いわゆるエゴイズム)の感覚(錯覚)であり、実際には存在しないものですので錯覚だとヨーガだと説明されています。<br /> <br /> ここで言っている「私」というのはアートマン(真我)のことです。スピリットのことです。<br /> <br /> 静寂の境地になっているというのは思考する能力(ブッディ)などが鎮まっている状態で、そのような静寂な境地を基本として、「私」というアートマン(真我)がその平な水面のような上に浮かんで大の字になって空を見上げているような状態です。<br /> <br /> 平な水面にはほとんど波はなく、静かなものです。<br /> <br /> 時折浮かぶ思考の波もその水面を揺らすことはありません。思考の波というのは静寂の境地とは割と独立した波であり、最初こそ静寂の境地と思考の波というのは相反するものでありますが、最近は、思考があったとしても静寂の境地はさほど乱されません。<br /> <br /> その静寂の境地は最初は思考の静まりを意味しておりましたが、最近は、気付きの感覚が続く、という状態になってきております。思考があったとしてもそれに気付いて心の奥底に静かなものが続く状態が静寂の境地なわけです。<br /> <br /> 聖者たちが口々に言っていた言葉が真実であると感じます。<br /> <br /> ・思考を止めようが止めまいが関係がない<br /> ・思考を観察しようがしまいが関係がない<br /> ・ありのままの状態を説明できる言葉などありはしない<br /> ・ただ、ありのままの状態を保っているだけで(思考や雑念は)自己解脱する<br /> <br /> この境地が更に進んだものが禅で言われている心身脱落ということなのかもしれません。<br /> <br /> 瞑想をしていて、体の感覚がなくなるというのは割と早く体験できて、特に目を瞑った瞑想においては思考のみが流れるようになりますので体の脱落というのはすぐに現れるように思いますし、座った瞑想では瞑想は体を使いませんので特にそれはしやすいと思います。<br /> <br /> ですけど、心の脱落というのはそうそう起こるものではなくて、それは一応は静寂の境地がそれと言うこともできなくもないですけど、脱落というのは、おそらくはこの「ありのままの状態」を示しているように思えるのです。<br /> <br /> 普段の生活を送りながら身も心もなくなったかのようになってこの世界と同一になる、と言うのは、上に書いたように、静寂の境地を基本としながらそこにアートマン(真我)がいていわゆる真我独存している状態になっているその先に、おそらくは、私はまだですけど、アートマン(真我)がブラフマンになって全てと同一になる段階があると思うのです。そのブラフマンの状態こそが心身脱落の完成かな、という気が致します。<br /> <br /> 今はまだその前段階の、アートマン(真我)がいる状態です。<br /> <br /> これらは聖典において割と理論で教えられてきたことで、聖典を教える方々の間では「これは人間にとっては五感で知ることのできないこと」と説明されています。これは文字通りその通りで、このことを持ってして「人間にとっては直接的に知ることができない」と解釈してしまいがちですけど、そうではなくて、人間の心というのは五感を超えることができて、五感を超えたところにあるのがアートマン(真我)なわけです。しかしながら多くの人にとってアートマン(真我)は動いていなくて、実際には動いているのですが聖典が語るところによると覆いが被さっているので見えない状態になっているだけで、全ての人にアートマン(真我)はいるわけです。<br /> <br /> いるはいるのですけど、最初は識別できていなくて、やがて、アートマン(真我)が現れてくるわけです。この状態が、上に書いたように、静寂の境地を基本としてアートマン(真我)が存在している状態で、私の今の状態になります。<br /> <br /> おそらくはこの後、アートマン(真我)が個としての感覚からブラフマン(全体)の感覚へと成長するのかな、と思います。聖典にはそのように書かれてあります。<br /> <br /> これは、割と聖典ではお話で理解して終わりだとか「きちんと理解すればいい」みたいに理屈上の勉強のお話として扱われることではありますが、実際には、それは理論のお話ではなくて、実際に自分がそうなることができる、というお話なのだと思います。<br /> <br /> これは一時的な経験のお話ではなくて、自分が変化する、というお話です。変化、と言いましたけど、実際には、聖典が言うところには変わるものは何もなくて、変わったように見えるのはジーヴァ(個として存在しているかのように思っている錯覚としての自分)がそのように認識しているだけで、アートマン(真我)の側からすると何も変わっていないわけです。アートマン(真我)は変わることがなく、生まれることがなく、死ぬこともない自分自身の本質ですから、それは文字通り、変わるとかそう言うことには無縁なわけです。ただ、ジーヴァとしての私が変わったかのように認識するだけです。<br /> <br /> アートマン(真我)としては変わることはないのですけど、ジーヴァとしてはアートマン(真我)を個の存在として認識しているのが今の段階です。聖典が言うには実際はアートマン(真我)とブラフマン(全体)は一体で同じだ、と言うことですけど、これもおそらくは聖典で勉強して頭で理解するだけのことではなくて実際に体験というか変わるというか、ジーヴァが体験してジーヴァの認識が変わることができるものの種類だと思います。しかしながら繰り返しになりますがアートマン(真我)としては変わることがなくてブラフマン(全体)としてももちろん変わることがなくて生まれることもなく死ぬこともなく永遠の存在なわけです。<br /> <br /> そのような永遠の存在であるブラフマンと本質は同じである筈の、個として分離しているかのように見えるアートマン(真我)が静寂の境地をベースに現れているわけです。<br /> <br /> Fri, 18 Jun 2021 00:00:00 +0900 時々、ただ気付きを再確認するだけで自動的に雑念が自己溶解する https://w-jp.net/2021/2391/ <br /> まだ完全に自動的に雑念が即時に溶解するというわけではなく、多少、時々、気付きの再確認が必要の様です。<br /> <br /> 気付きを再確認するだけで、自然に雑念が自動的に消えてゆきます。<br /> <br /> 全ては空(くう)であり、形あるものとして雑念が生まれ、やがて、また空に戻ってゆきます。それは般若心経の空即是色のことで、形のない空(くう)から形ある色が生まれて、そして、また空へと戻ってゆくわけです。<br /> <br /> この世の全ては夢まぼろしのものだとはよく言われますが、この段階になると、そのことがありありと感じることができます。<br /> <br /> ただ、それはほぼ自動的なものになってはいるものの、完全に気付きが完璧になったというわけではないようで、今の段階では、時々、再確認のための気付きを入れる必要があります。ですけど、その程度しかする必要がなくて、基本的には割と自動的に雑念は形のない空に戻ってゆきます。<br /> <br /> これは、雑念を流すということもできますけど、実際には、その雑念をしっかりと見ています。ですから、雑念を見ないようにするということではなく、逆で、いわゆる心の本性(リクパ)の働きにより雑念をありありと、ありのままに見ることによって自然にその見つめる力、光と言っても良いですけど、その観察する力によって雑念が自己崩壊してゆくわけです。このことを、自己解脱、とか言ったりします。雑念が崩壊して自己解脱するわけです。<br /> <br /> これを法性(ほっしょう)とか仏性(ぶっしょう)とか言ったりすることもできると思います。<br /> <br /> 瞑想のやり方で、時々、「雑念を追いかけなければ自然に消えてゆきます」みたいな説明を聞くことがありますけど、そのようにできるのはこの自己解脱の力が多少なりともある場合のみで、そうでない場合はなかなか消えてゆかなくて雑念に翻弄されてしまうことになります。<br /> <br /> その力は、強さによって何段階かに分かれます。<br /> <br /> ・ほとんどない状態<br /> ・チェルドル(ほんの少しある状態。努力して自己解脱する段階)<br /> ・シャルドル(中間的な状態。自動的な少しの時間をかける自己解脱)<br /> ・ランドル(瞬時の自己解脱)<br /> <br /> 思うに、チェルドルの様に時間をかけて雑念を自己解脱する段階では、まだ真理を見出したとは言えないか、あるいは、一瞥の状態にあると思います。<br /> <br /> 私の最近の状態はおそらくシャルドル相当ですけど、ここにきて、ようやく聖典の記述が本当であることが体感できています。普通の日常生活を送る分にはこのくらいで十分すぎるくらい十分ですね。<br /> <br /> シャルドルの場合、とくに注意力をはたらかせる必要はないし、努力もほとんど必要ではない。しかし、まだ、リクパの境地から離れたら執着に陥ってしまうということを、そのたびにしっかり思い出す必要がある。その意味では、完全な自己解脱とは言えない。真実の自己解脱(ランドル)は、この能力が完全に成長した時に生じる。「チベット密教の瞑想法(ナムカイ・ノルブ著)」<br /> <br /> この記述は本当にその通りだと特に最近は思うわけですが、ただ、それと同時に、ごく最近は、このような分類とか説明とかどうでもよくなってきました。<br /> <br /> 「ただ、ありのままでいるだけで自己解脱する」<br /> <br /> このくらいのシンプルなお話なのだ、ということがわかってきました。<br /> <br /> Thu, 17 Jun 2021 00:00:00 +0900 雑念が自然に消えてゆく状態が覚醒の始まり https://w-jp.net/2021/2390/ <br /> ここで言う覚醒とは心の本性(いわゆるリクパ)が現れている状態のことです。<br /> <br /> 覚醒というとはっきりとした定義がないので色々なコンテキストで使われていて、例えばクンダリーニ覚醒のことだったりエネルギー的に高まったことを意味したり、人によって色々なお話があるかと思います。<br /> <br /> ここでは感覚器官を引き金とした雑念あるいは突如の雑念が自然に消えてゆく状態のことを覚醒と言っています。<br /> 状態的にはこのことをシャルドル等ととも言います。<br /> <br /> スピリチュアルでは割と光と闇の対比として世界を位置付けることがありますけど、ヨーガやヴェーダではそのような対立軸は存在しなくて、ただ「無知」が真実の覆いを隠しているだけで我々の本性は清浄なものだと説いています。<br /> <br /> ですから、全ての人の中には常に比喩に対比されるところの闇もあれば光もあるのです。<br /> <br /> そこで闇として比喩されているのは雑念のようなものですが、それを対処せずに放っておくから闇のようになるのですが、それは覚醒状態が無知によって覆い隠されているために起こっているだけで、無知を取り外せば人の本性は完全で清浄なものなのです。<br /> <br /> ですから、本質的に言えばこの世界に闇は存在しないのですが、それでも、闇の存在としてこの世の中に現れている人々がいるのは無知によってそのように振る舞っているだけなわけです。<br /> <br /> 闇の存在は、ただ、無知のヴェールに覆われているだけでその本質も実は清浄なわけです。<br /> <br /> ですから、光の存在と闇の存在と言う対立軸が存在しているのではなくて、無知のヴェールに覆われていない(あるいはヴェールが薄い)人を光の存在と呼んで、無知のヴェールに厚く覆われている人を闇の存在と呼んでいるだけなのです。<br /> <br /> 人は本来、清浄なものであるとヴェーダやチベット仏教などは教えています。<br /> <br /> ですから、この世に生まれて肉体や顕在意識が自分だと思い込んで誤解しているジーヴァ(普通の人間)は時に闇の存在のように振る舞うこともありますが、無知のヴェールを取り外せばそのような人であろうとも光の存在になるのです。全ての人に悟って覚醒する余地があります。<br /> <br /> ただ、この世の秩序を守るために一時的に秩序回復のために闇の存在を光の存在が成敗すると言うようなことも起こりますけど、それはこの世の力関係によって行われますので、逆に、光の存在が闇の存在に脅かされる、と言うようなことも起こるわけです。一時的な秩序回復はただの力関係になってしまい、闇の存在の力が勝るなんてことはよくあります。<br /> <br /> 光の存在にしてみても、これらの理屈を誤解して、自らの内に現れてくる闇の部分を否定し続けてしまうとそれが育っていってしまいいつの間にか闇の存在になってしまうようなこともあります。光が大きければ大きいほど闇が育つ余地があるわけです。そこには無知と誤解があります。<br /> <br /> 覚醒とは、一瞬一瞬において光が無知のヴェールを取り外すことです。<br /> <br /> ここで無知と言っていますけど、歴史的にそういう単語を使っていると言うだけのことで、日本語で言うところの「あなたは何も知らない」と言う意味の無知ではなくて、ヴェールで覆い被さっていることを無知と言っているだけです。ですから、知識を得れば無知がなくなるということもあるにはあるのでしょうし、ヴェールで覆い隠されていることを比喩的に「知識を得れば無知がなくなる」と説明することもあって、それほど間違いでもないのですけど、それは本筋ではなくて、本筋は、心の本性(いわゆるリクパ)を働かせて覚醒の境地に生きることそれ自体が無知のヴェールを取り外すことなわけです。心を覆い隠しているものを心の本性(リクパ)によって取り外すわけです。掃除するとか浄化するということもできますけど、浄化というと意図するものの様に思われてしまうかもしれませんけど、このリクパの動きはもっと自動的なものです。その自動的なリクパの動きによって無知と呼ばれているヴェールを取り外せば物事がありのままに見られるようになって、結果、知識も入ってきやすくなります。<br /> <br /> 人は、覚醒状態を保とうとしてネガティブな思いを否定したり抑圧しようとすることがありますけど、そのように顕在意識を働かせてしまうのは本筋ではなくて、顕在意識を働かせてしまうと、逆に、闇を育ててしまうことがあると言うことです。<br /> <br /> この時、「祈り」によってその様に自然に覚醒状態が保てるよう意図することは多少は助けになりますし、顕在意識より高次の自分(アートマン、プルシャ)に委ねると意図することは時に必要ではありますけど、それは許可するだけのことで、本筋としては、心の本性(リクパ)が自動的にその様な働きをするだけのことなのです。<br /> <br /> 本来のあり様としては、自然に観察しているだけで雑念が消え去ってゆく状態が覚醒であり、その消えるスピードと強さは覚醒の度合いによります。<br /> <br /> 時に、無知だけが一人歩きして機械のような無秩序を自動的に起こすときがあります。AIにその危険性があります。この時、AIに人間と同じような意識としての光は本来的に存在しませんので無秩序を作り出す危険性はあります。理屈で言えばこの世の全てはアートマン(ブラフマン)なのですからAIにすらも意識がある筈ではあるのですが機械の理屈というのは固定的な未熟なものですので闇を固定化する危険性はあります。<br /> <br /> 人間にしても、ルールに縛られて機械的に生きることで闇に近づく危険性があります。<br /> <br /> 機械やAIについては未知のところがありますが、少なくとも人間には本来的に光が備わっていて、無知を取り外せば光が現れ、光が現れている時に、雑念は自動的に消えてゆくわけです。<br /> <br /> Mon, 14 Jun 2021 00:00:00 +0900 主であるアートマン(真我)の僕(しもべ)であると自覚をする https://w-jp.net/2021/2389/ <br /> 私がアートマン(真我)だという自覚と共に顕在意識の側は主の僕(しもべ)としての自覚も生まれるわけです。<br /> <br /> これはどういうことかと言いますと、アートマン(真我)が自らの肉体及び顕在意識をダイレクトに動かしていると自覚するのと同時に、顕在意識の側も、アートマン(真我)をはっきりと意識するようになるからです。<br /> <br /> アートマン(真我)からすれば肉体と顕在意識をダイレクトに動かしており、逆に、動かされている側の顕在意識からすればアートマン(真我)によって動かされているわけです。<br /> <br /> もちろんこれは顕在意識がなくなるということではなく、顕在意識は存在していて、思考や感情は普通にあります。その裏で、アートマン(真我)が全てを把握していて意図していることを「(アートマンの)意識」として感じられるわけです。そこには、観察としての観照状態と、意図としての意識の両方の面があります。<br /> <br /> 顕在意識からすると、「アートマンから見られている」「アートマンの意識によって動かされている」という2つの面が自覚されているわけです。観照状態で満遍なく普遍的に常にダイレクトに見られているという自覚と、意図を持った意識によってダイレクトに動かされているという自覚が顕在意識の側にあるわけです。これは理屈のお話ではなく、実際に、顕在意識がそのことを自覚している、というお話です。<br /> <br /> そして、それを比喩的に言い表すと、顕在意識の側からすれば「主の僕(しもべ)であることを自覚する」ということになります。<br /> <br /> とは言いましても、この時の顕在意識とアートマン(真我)の意識は表裏一体であり、実際にはひとつづきの心でありますので、心の一面の動きとしてのそのような自覚があるわけです。もっとはっきり言うならば、思考する器官(ブッディ)と感じる心とは少し違う場所にあって、アートマン(真我)の動きを自覚しているのはその感じる方の心の動きになります。顕在意識と言ってしまうと思考する心と思われるでしょうし、それはそれほど間違いでもないのですけど、それよりは、感じる側の心がこうしたアートマンの自覚をすることになります。<br /> <br /> 実際は、顕在意識が思っているところの「私」と言う感覚は幻想であるとヨーガやヴェーダンタでは教えていて、もっと具体的に言いますと、いわゆる「心(顕在意識)」に相当するものはマナス(意)とブッディ(決定する能力)で、このうち、ブッディがあるからこそその反応としてアハンカーラ(エゴイズム)と言う「自分」と言う錯覚が生まれると言います。ですから、その錯覚としての「私」の感覚が現れるや否や、すぐにこうした「アートマンに見られている」「アートマンに動かされている」と言う感覚によって「私」の感覚がすぐに消滅するわけです。<br /> <br /> 実際のところそれはとても素早くて、思考をする度にその反応として「私」と言う感覚は常に少しづつ現れては来るのですが、その度にすぐに「ああ、私はアートマンに見られている」「アートマンに動かされている」と言う感覚がそこに加わりますので、思考が私であるという錯覚はそれ以上育たずにすぐに消えてゆくわけです。この反応は機能的なものですので常に化学反応のようにアハンカーラと言う動きとしてエゴイズムがその瞬間瞬間に生まれてはくるのですけど、すぐにこうしたアートマンの自覚によりすぐにその「私」と言う錯覚は消えてゆくわけです。<br /> <br /> そのことを比喩的に言うならば「主の僕(しもべ)」と言えなくもないと思うわけです。誤解は多そうですけど。<br /> <br /> それは全く真実ではあるのですけど、キリスト教の一部の流派が言っているようにどこか遠くの救世主のキリスト様に委ねるとかそういうお話ではなくて、ここで言っているキリストとは(一部のキリスト教の流派が主張しているような)誰の中にでも存在して誰しもが直接繋がることのできる「キリスト意識」のことで、ヨーガやヴェーダでいうところのプルシャとかアートマン(真我)などに対応するかと思います。<br /> <br /> そのようなキリスト意識に委ねることを「主の僕(しもべ)」と呼ぶのであれば、半分は同じことを言っていると思われます。<br /> <br /> 半分、というのは、実際のところこの状態というのは顕在意識の側だけではなくアートマン(あるいはキリスト意識)の側からの働きかけもありますので、両方の側面があるわけなのですよね。<br /> <br /> アートマン(キリスト意識、プルシャ)の側からすればダイレクトに体や顕在意識を動かしているということであり、一方、顕在意識からすれば主であるところのアートマンから動かされていますので僕、となるわけです。<br /> <br /> ですけど、これは両方が対になっているものですので、片方だけを言ってしまうとよくわからないことになるわけです。<br /> <br /> こういうお話をするとキリスト教徒の方々に「それは違う」みたいなお叱りを受けるかもしれませんし、キリスト教っぽく聞こえてしまうかもしれませんけど、これは比喩的な表現を借りてみた、というくらいのお話です。<br /> <br /> 確かに、現在の状態の半分を表現するにはこの表現もありのような気が致します。<br /> <br /> Sun, 13 Jun 2021 00:00:00 +0900 心の動きを観察することが悟りへの鍵 https://w-jp.net/2021/2388/ <br /> 全ての修行はこのシンプルな働きに繋がっているのだと今はわかります。<br /> <br /> 心の制御をする修行、例えば心の動きを静止させようとする修行(シャマタ、止)ですとか心の動きを観察しようとする修行、例えばヴィパッサナー瞑想などは全てこのシンプルな心の観察の状態に至るための前段階であると言えます。<br /> <br /> ここで、最初は「しようとする」という意図が入ってきています。これは普通の意図する心の動きで、それ自体は普通の心の働きです。<br /> <br /> その先に、そのような意図なくして心の動きを観察できたり心それ自体が意図してくる段階があるわけです。<br /> <br /> そして、そのような心の観察こそが悟りへの鍵であると今は感じます。<br /> <br /> ・・・これはとても誤解を生むお話ではあるのですが、この種の「観察」は実際にそうなった時にそれとわかるもので、それ以前は、この「観察」は現れておりませんので何のことかわかりません。最初はそれは一瞬の体験であるでしょうが、しばらく続けていくうちにその時間が増えてゆくわけです。<br /> <br /> 心を静止するにも心を観察するにも、土台となる本性ができていなければそれを達成することはできません。その本性が何なのかというと空(くう)であるわけですが、一般的な普通の心の奥底に眠っている空(くう)としての心の本性(いわゆるリクパ)が普通の心を観察することこそが悟りへの道なのだと今ははっきりとわかります。<br /> <br /> ですから、最初は特に難しいのですが、ただ心の動きを観察することが悟りへの道であると思うわけです。<br /> <br /> ただ、この道はとても落とし穴が多く、ハマってしまう方も大勢いられるように思います。<br /> <br /> ですから、まずこのことを理解しておきつつも、最初はシャマタ(止、シネー)の瞑想から始められるのが段階としてはいいように思います。<br /> <br /> 普通の心を静止(シャマタ、シネー)してから、少しづつその静止を解いてゆくのです。そして、解いてゆく間、心の静寂さと心の気付きを保つようにするわけです。それは、いきなり心の動きを観察するよりずっと簡単です。<br /> <br /> もちろん、できるのであれば普通の生活においていきなり心の動きを観察しても良いでしょう。しかしながら、瞑想に上達していない普通の人の場合はその心の動きに囚われてしまって幾度となる来る思考の波にずっと翻弄されることになります。一方、一旦心の動きを静止(シャマタ、シネー)してから少しづつ緩める、ということをすれば、心の動きの観察を自分ができる範囲で制御しながら行うことができます。それがコツです。<br /> <br /> 実際のところ、シャマタ(止、シネー)の瞑想はそれ自体で一応は完結していてその結果としては静寂の境地があります。それはそれで心が休まって安らかになる境地ではあるのですが一時的なもので、やがては普通の雑多な心に少しづつ戻っていってしまうものなのです。<br /> <br /> それは一時的なものではあるのですが、その時、心の動きを観察できる余地が出てくるわけです。<br /> <br /> 日常生活においては激しすぎて難しい心の観察を、一時的に動きを鎮めて静止させた状態においてある程度の制御下に置きながら心の観察をするわけです。<br /> <br /> やがて普通の状態に戻っていくでしょうが、それは無駄なことではないわけです。<br /> <br /> このことを、一部の流派がことさらに「シャマタ(止、シネー)の瞑想は一時的なものに過ぎない」みたいにあげつらいますけど、実際のところ、瞑想とは手法であり、道具なのですから、ものは使いようなわけです。<br /> <br /> 最終的な状態は心の本性(いわゆるリクパ)が剥き出しになって常に日常生活において瞑想状態を保って観照を続けることですから、そのために、普通は難しいその観照を修行によって一時的に達成するのは無駄なことではないわけです。<br /> <br /> その観照こそが目的でありますから、静寂の境地という一時的な状態にしがみついたりするのは間違いですから指摘する必要はありますけど、そうは言いましても、ものは使いような訳で、最初はしがみついていたとしても、それなりに自分で物事を考える行者であればやがて自分のしていることに気がついてゆくわけです。まあ、理解力のない方もいらっしゃるとは思いますけど、聖典を勉強していて常に疑問を持っていれば色々と気が付くことがあるはずなのです。何事も、他人に言われたままではなく自分で納得するまで考えるのが良いと思います。<br /> <br /> ですから、聖者たちがどの段階について言っているのかを理解するのは重要で、特に、この種の観照のレベルを語っている聖者のお話を聞くことで凡人がシャマタの瞑想(心の静止の瞑想、シネー、止)との矛盾点を洗い出してシャマタ瞑想は意味がないとか言い出すわけです。実際には、どちらもそれなりの意味があって、段階が違えば違う視点が出てくるだけなのです。<br /> <br /> 特に最初はシャマタ(止、シネー)の集中瞑想から始めるのが基本です。<br /> <br /> ですけど、ゴールとしてはそこではない、ということを抑えておけば十分かと思います。<br /> <br /> 実際、心の本性(リクパ)による観照の場合は、普通の心の動きの裏側で普通の心の動き全てを観察したり意図したりする働きのある意識として現れてきます。<br /> <br /> ですから、普通の心が何かを考えていても心の本性(リクパ)による観照状態はありますし、普通の心が何も考えていない状態においても心の本性(リクパ)はその、何も考えていない普通の心というものを観察して意識しているのです。<br /> <br /> ですから、本質を言ってしまえば普通の心の働きと心の本性(リクパ)の動きは別物ということもできて、普通の心が静止(シャマタ、シネー)していようが、あるいは普通の心が動いていようが、心の本性(リクパ)の動きには関係ないのですよね。<br /> <br /> 普通の心が動いていようが止まっていようがその全てを観察し続けるのが心の本性(リクパ)の動きなわけです。<br /> <br /> ですけど、最初はそれは難しいですから、心の静止(シャマタ)の瞑想の修行から始めるのが基本なわけです。<br /> <br /> 本当はその普通の心と心の本性(リクパ)はひと続きなのですけど、修行としては、別々のものとして説明した方がわかりやすいですし、特に最初はそのような現れになっていて心の本性(リクパ)の動きはほぼないも同然ですから、それほど間違っているわけでもないわけです。<br /> <br /> Sun, 13 Jun 2021 00:00:00 +0900 不還果と阿羅漢とサマーディ https://w-jp.net/2021/2387/ <br /> 仏教の言い方で不還果(ふげんか)とか阿羅漢(あらかん)という悟りの階梯の段階がありますけど、これは、仏教の説明に基づきますと煩悩が消滅とかそういう表現の言い方をしますので両者ともに違いが分かりにくいところがありました。<br /> <br /> 不還果は仏教の悟りの4つの階梯の一つで、流派によって細かいところは違うようですけど、概ね、以下のように分類されています。<br /> <br /> 1.預流果 (よるか)<br /> 2.一来果 (いちらいか)<br /> 3.不還果 (ふげんか)<br /> 4.阿羅漢(あらかん)<br /> <br /> 私は仏教は専門ではありませんので詳しくはやりませんけど、大体の私の理解は以下の通りです。<br /> <br /> 1.預流果 (よるか)<br /> 悟りの一瞥。<br /> <br /> 2.一来果 (いちらいか)<br /> 集中瞑想の上達。シャマタ(止、シネー)の熟達。<br /> <br /> 3.不還果 (ふげんか)<br /> サヴィカルパ・サマーディ。対象のあるサマーディ。<br /> <br /> 4.阿羅漢(あらかん)<br /> ニルヴィカルパ・サマーディ。対象のないサマーディ。煩悩の消滅。<br /> <br /> 仏教系では「煩悩の消滅」だとか「私の消滅」みたいなお話がよく出てきて、現象としてはその通りなのですけど、それよりは、実際には大我の目覚めとして理解するのが正しいように思います。大きな私が現れてくることを(小さな)私の消滅、と呼んでいるわけです。仏教の言い方はこのあたりがコンテキスト依存で、とても分かりにくいように思います。<br /> <br /> テーラワーダ仏教系のこの種のお話や書物を聞いた時には、これらの内容がいまいち理解できませんでしたが、今から見直せば、確かにその通りだと感じます。今となっては実際にそれがどういうことなのか分かりますので内容をコンテキストに則して理解できますけど、昔は、なかなかこの辺りの概念を理解するのが難しかったように思います。<br /> <br /> 個人的に思うのは阿羅漢とか仏教の言い方は「結果」のお話だということであり、それはそれとして正しいのですけど、それよりは、チベット系のお話の方がしっくりきます。<br /> <br /> 世間で、仏教の階位や称号として阿羅漢とかもあるみたいですけどここで言ってるのは称号のことではなくて実際の境地のお話です。<br /> <br /> Fri, 11 Jun 2021 00:00:00 +0900 日常生活とサマーディを掛け合わせてゆく https://w-jp.net/2021/2386/ <br /> シャルドルで静寂の境地への依存から離れたことにより、日常生活とサマーディの状態を次第に共存できるようになってきたような気が致します。<br /> <br /> それまでは、基本的にはサマーディは静寂の境地を土台としており、静寂の境地とは瞑想で言えばシャマタ(止、あるいはチベット語でシネー)の状態でした。<br /> <br /> 心の声は無限に繰り返されますが、シャマタ(止)の状態では心の声と次の心の声との間が長くなります。完全にゼロにはなり得ませんけど、間隔が広がるわけです。そのことをシャマタ(止あるいはシネー)と呼びます。<br /> <br /> これは瞑想の基礎であり、とても重要な基礎であるわけですけれども、テーラワーダ仏教などのヴィパッサナー系流派はこれをさほど重要視せず、「集中はある程度は必要だけれども基本的には観察さえしていれば良い」という立場を取ります。このことが私は今まで腑に落ちないでいたのですが、どうやら、これはそれなりに高い境地からの説明が瞑想の最初の初心者向けの説明とごちゃ混ぜになっているのだと気が付きました。<br /> <br /> 最近の、サマーディのシャルドルの状態であれば確かにその通りで、「集中はある程度は必要だけれども基本的には観察していれば良い」というのは文字通り正しくて、サマーディの力が発達しさえすればそれで良いのですけど、最初からそうするのは無理だと私は思うのです。<br /> <br /> とは言いましてもこれは主観的なお話ですから、自分がさほど集中していないと思えばきっとそうでしょうし、集中しているつもりでもさほど集中していない、あるいは、集中していないと思っていてもとても集中している場合もあります。ですから、このような瞑想のお話の主観のお話はほどほどに聞いておくのが良くて、あまり真に受けない方がいいと個人的には思います。こんなこと言うと流派を真面目に修行している人に怒られてしまうかもしれませんけど、この種の精神修行は真面目過ぎない方がいい、と言うのが私のスタンスで、結局は自分がその境地に至れば理解できるのだから、説明としての理解はとりあえず横に置いておいて参考程度にするかあるいは確かめに使うくらいで良いと思っています。<br /> <br /> そのように、ヴィパッサナーの流派では初心者に対して言っていますが私はそれは初心者向きの説明とは思っていなくて、ある程度のサマーディの力が育った人に対する説明なのだと思っています。まあ、その流派の人に言わせてみれば「それは違う」と言うことなのでしょうけど、まあ、いいのです。これは「混ぜ合わせ」しているのではなくて、単に「表現を借りてきた」だけのことです。<br /> <br /> それと、私の守護霊の1人はチベットで修行して悟った修行僧なので系列としてはチベット系のお話と相性が良いのでチベット密教だとかゾクチェンおよび最近はヴェーダンタ等の理解も軸にしている感じです。<br /> <br /> 私は基本的に自分の瞑想体験を基本としていて、その説明のために流派それぞれの理屈及び説明を必要としているだけですから、流派を混ぜ合わせとかそう言うのはあまり関係ないのです。傍目には混ぜ合わせに見えるかもしれませんけど。どの流派にも近い流派との混合というのはそれなりに見られますしね。ですけど、根本というのは一緒ですから、塩水の味を知っていれば地中海の水も大西洋の水も太平洋の水もそれぞれ味や見た目はかなり違いますけど共通して塩辛いことが理解できるわけです。<br /> <br /> まずはシャマタ(止)があって、その基礎の上にヴィパッサナーがあると言えなくもないですけどヴィパッサナーと言うと幅広い意味がありますので、それよりは、シャマタ(止)の後にサマーディ(三昧)があって、最初はシャマタ(止)による静寂の境地に依存したサマーディ(サヴィカルパ・サマーディ、チェルドル)から始まって、やがてサマーディが深まるにつれて静寂の境地に依存しないサマーディ(ニルヴィカルパ・サマーディ、シャルドル)に移行するわけです。<br /> <br /> そして、このシャルドルの状態になると静寂の境地への依存から離れて、ヴィパッサナーの流派が言うところの「集中はある程度は必要だけれども基本的には観察していれば良い」と言う状態になって、それはヴィパッサナーの流派から言わせればヴィパッサナー状態なのかもしれませんけどそれよりはむしろ普通にサマーディ状態(ニルヴィカルパ・サマーディ、シャルドル)と言った方がわかりがいいわけです。<br /> <br /> この状態になると、ゾクチェンが伝えるところの「サマーディと日常生活をセワ(混ぜる)」と言うことが重要になってくるような気が致します。<br /> <br /> シャルドル以前では、これはなかなか難しかったように思います。いわゆるサヴィカルパ・サマーディの状態では自分自身の意識が多少は働いている状態でしかサマーディを保てず、サマーディ状態から落ちたらまた瞑想をして静寂の境地に戻ってからサマーディ状態に復帰していました。<br /> <br /> ここにきて、サマーディの力がそれなりに強くなり、日常生活とサマーディを混ぜることができるようになったように思います。そうは言いましてもサマーディの力がまだ凄く強いわけではありませんので少しづつではありますけど、以前より随分と日常生活でサマーディ状態を保てるようになったように思います。<br /> <br /> 「セワ」は、チベット語で「まぜる」ことを意味している。自分の三昧の境地を、日常生活のすべての行動に溶け合わせていくのである。ゾクチェンにおいては、何か変えたりする必要などないし、特別な服を身につける必要もない。外側から見て、ゾクチェンの修行中だと思われるようなものは、何一つないのである。(中略)相対的な条件の中にあるすべてを修行に取りいれ、両者を1つのものにするのである。もちろん、そのためには三昧が確固たるものである必要がある。「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」<br /> <br /> 相対的な条件、と言うのはまだ外側のものとして認識している日常生活の全てで、それら一つ一つを一元論のサマーディの境地に掛け合わせてゆくことがこの段階では必要になってくるように思います。<br /> <br /> 実際のところこれは瞑想に熟練したヨーガ行者でも同じようなことが言われており、ゾクチェンに特有のものではないとは思います。<br /> <br /> ここ最近は基本的にはこのように日常生活でのサマーディを保つように心がけており、そうは言いましてもサマーディ状態から少しづつ落ちてきますので、時折、明晰な静寂の境地に一旦戻してリセットしてから再度日常生活でサマーディを保つようにする、というサイクルをしています。<br /> <br /> それはもちろん静寂の境地が目的ではなくて目的としては「セワ」ですので、スタート地点としての静寂の境地(シャマタ、止、シネー)なわけです。<br /> <br /> Mon, 07 Jun 2021 00:00:00 +0900 スピリチュアルにおける鏡と心 https://w-jp.net/2021/2385/ <br /> スピリチュアルにおいて鏡は心を説明する比喩として使われることがあり、心とは周囲を映し出す鏡のようなものだ、とよく言われます。<br /> <br /> 実際のところ、この比喩は様々な文脈で用いられますので、何度となく読んだり聞いたりしたように思いますが、大体はその説明に具体性がなくて、個人的にはそのほとんどを「ふうん」という感じで「だから何?」と思って割とスルーしていました。<br /> <br /> 例えばスピリチュアルでは「他人は自分を映す鏡」という比喩を使います。まあ、「そうかな」という感じで割とスルーです。この文脈の意味としては、「他人に感じる感情は実はあなた自身の内にあるのです」みたいな意味合いですけど、それはそうなのですけど、まあ、私はそれだけでは満足しないのです。ありきたりすぎてスルーしてしまいます。これを知ったところで問題は解決しないのです。仏教の顕教の道徳みたいなお話ですよね。これを言われたところで人はそうそう変われません。実際には変わらなくてはいけないような自己なんてないのですけど、そういった本質にすらこれでは気付けません。<br /> <br /> 又、ヨーガ系においては心は鏡、という比喩が使われます。これは、上記のようなスピリチュアルな解釈も含んでいて他人なども心に映すのですがそれよりも「真の自分(ヨーガ的にはプルシャ)」を映すための鏡としての心があります。<br /> <br /> このヨーガ的な解釈はスピリチュアルや仏教の顕教の解釈よりも一歩進んでいて、心の鏡が他人を映すだけでなく本当の自分(プルシャ、あるいは真我・アートマン)を映す鏡として存在していることを説明しています。ヨーガが説くところによると、自分自身の心に色(汚れ)がついているので真の自分(プルシャ)を見ることができない、と言います。よって浄化を進めれば心によって自分自身の本性(プルシャ、あるいはアートマン)を心によって確かに純粋に見ることができる、と言います。<br /> <br /> これはこれで真実ではあるのですが、まだまだ外側からアートマンを見ている状態です。この浄化された状態ではアートマンそのものを捉えたわけではなく、心に映った純粋なアートマンを見ている状態です。ですから、この視点では心の本性(プルシャ、アートマン、リクパ)そのものをまだ捉えられてはいません。<br /> <br /> あるいはヴェーダンタでは同様に心と鏡の比喩を説明し、同様に浄化のお話もします。そして、浄化のためにヴェーダンタの教えを道具として使って曇りを取り払う、ということを言ったりします。あるいは、真実を映すための鏡としてヴェーダンタがある、と言っている流派もあるようです。<br /> <br /> それはそれで比喩としてはどれも正しいとは思いますが、どれも私を満足させません。<br /> <br /> 私を唯一満足させる鏡の比喩としては、ゾクチェンのものです。<br /> <br /> ゾクチェンは「鏡そのものであること」が二元論的な視点を突破する鍵だとして鏡の比喩を用いています。<br /> <br /> ・鏡そのものである状態は、心の本性リクパが働いていて一元論のサマーディ状態にある<br /> ・鏡を覗き込んでいる状態は、普通の心が動いていて二元論的な状態に留まっている。<br /> <br /> 鏡が曇っている場合は普通の心ははっきりと対象を映し出さず、浄化されて心が綺麗になれば他人や自己(プルシャ、アートマン)を綺麗に映し出すが、それは外側から見ているに過ぎないわけです。<br /> <br /> 鏡そのものであるということと、鏡のなかをのぞきこんでいるというのは、まったくちがう。もしも自分が鏡そのものであれば、二元論的な顕現は存在しない。(中略)鏡の状態に入っていれば、どんな像が映し出されても、何も問題ない。(中略)それが自然解脱だ。何も変化させたり、修正したりしない。ただ自己の本質にとどまりつづけるのである。「叡智の鏡(ナムカイ・ノルブ著)」<br /> <br /> これは、一部のニューエイジやスピリチュアルによって語られていたことでもあります。<br /> <br /> しかし、実際にこの状態になるのと、理屈で理解するのとでは全く違いますので、実際にこの状態にならなければ理解できないものであると思います。<br /> <br /> 個人的には、このゾクチェンの鏡の比喩が理解できるようになったのは自己解脱するシャルドルという能力が育ってからのことです。それまでは、わかるようでいてよくわからない状態でした。ここにきて、はっきりとこの比喩が正しいということがわかります。<br /> <br /> Mon, 07 Jun 2021 00:00:00 +0900 ケヴァラ・ニルヴィカルパ・サマーディ(≒シャルドル) https://w-jp.net/2021/2384/ <br /> サマーディ分類で今の状態を何と言うのか確認してみました。<br /> <br /> 最初:視界がスローモーションで認識される<br /> 次:胸の奥の「創造・破壊・維持」の意識の目醒め<br /> 最近:意識が体をダイレクトに動かしていることの実感<br /> <br /> これらの状態はそれぞれサマーディと一応は言っても良い状態かなとは思いますが、既存の言い方に当てはめようとすると苦労します。<br /> <br /> 一応は全てサマーディと呼んでも良い気が致しますが、本当にサマーディに相応しいのは最近の状態かなという気が致します。最初のは特に五感としての「対象」がありますのでサヴィカルパ・サマーディ(対象のあるサマーディ)です。2つ目と3つ目は個として感じられるアートマンとしての感覚が主で、その時に五感ももちろんありますけど、五感の奥にある意識がメインになっていますのでニルヴィカルパ・サマーディ(対象のないサマーディ)と呼んでいい気が致します。この時、ニルヴィカルパであっても五感は無くなりません。この辺り、五感がなくなるのかどうかで誤解があるようにも思います。<br /> <br /> サマーディには色々種類があってヨーガ・スートラのサマーディ分類が有名かとは思いますが、個人的にはヴェーダンタにおける分類の方がしっくり来ます。ヴェーダンタでは基本的に対象があるサマーディと対象のないサマーディに分けられます。<br /> <br /> ・サヴィカルパ・サマーディ 対象のあるサマーディ<br /> ・ニルヴィカルパ・サマーディ 対象のないサマーディ<br /> <br /> これらは、文字通り定義を読むと「対象があるかないか」ということですけど、それよりは「五感を主たる基礎としているのか=普通の心を主たる基礎としているのか」あるいは「第二の心=宇宙意識=心の本性リクパを主たる基礎としているのか」と言うお話なのかなと思います。それはゼロイチではなくて割合によって実際の状態はそれぞれ異なるように思います。「対象」と言う観点で言えば心の本性リクパがそれなりに動いている状態であっても五感及び普通の心は別の階層にて存在し続けていますので、最初こそ静寂の境地を基礎としていますのでそのように「対象」を基礎として分類することも可能ではありますけど、そのうち普通の心と心の本性リクパが同時並行で動くようになりますので、「対象」を基礎としてしまうと混乱が生じてしまいます。ですから、「対象」として理解しようとすると理解が難しくなりますので、それよりは、普通の心を主たる基礎としているのか心の本性リクパを主たる基礎としているのか、という点で分けるのが良いと思います。サマーディですから多少は心の本性リクパが働いていなければサマーディにはなり得ないので、まだ心の本性リクパが弱い状態では普通の心が主になっていますのでそれがサヴィカルパ・サマーディ(有想三昧、分別三昧)と呼ばれる、と言うことだと思います。<br /> <br /> その割合や特徴としている資質によって各種のサマーディの種類ができていてそれぞれ違った名前で呼ばれている、と言うことだと思いますが、大きく分けると上記の2つに分けられる、と言うことだと思います。<br /> <br /> このヴェーダンタの分類を基礎として、ラマナ・マハリシは以下のように3分類にサマーディを定義しています。<br /> <br /> ・サヴィカルパ・サマーディ 努力によって保たれているサマーディ<br /> ・ケヴァラ・ニルヴィカルパ・サマーディ 真我の一時的な自覚と、一時的だが努力を要しない自己覚醒<br /> ・サハジャ・ニルヴィカルパ・サマーディ 原初の、純粋な、自然な状態のなかに努力を要せずとどまっていること<br /> 「あるがままに(ラマナ・マハルシの教え)」<br /> <br /> これはよく理解できて、チベット仏教のゾクチェンに基づくチェルドル・シャルドル・ランドルに相当するような気が致します。<br /> <br /> ・サヴィカルパ・サマーディ (≒ チェルドル)→ 視界のスローモーション<br /> ・ケヴァラ・ニルヴィカルパ・サマーディ (≒ シャルドル)→ 創造・破壊・維持の意識による体をダイレクトに動かしていることの実感<br /> ・サハジャ・ニルヴィカルパ・サマーディ (≒ ランドル) → 私はまだ<br /> <br /> 真我の自覚は、最初の段階である創造・破壊・維持の意識から体をダイレクトに動かしていることの実感までは半年くらい期間が空いておりますが、最初の段階の言い方として言葉では一応「創造・破壊・維持の意識」と言うように「意識」と言う言葉を使ってはいても「意図」は最初は感じられず、ただ、「創造・破壊・維持」の意識だけを感じておりました。それが意識だということは直感では分かりましたがそこに「意図」は感じられませんでした。最初は、後で感じるような「体をダイレクトに動かしているという感覚」と言うような「意図」は特になく、ただ、世界を創造して破壊してそして維持をしている根源としてハートの奥底に感じておりました。<br /> <br /> その後、体をダイレクトに動かしているという感覚が出てきて、そのような「意図」を実感したことでようやく「ああ、これは真我(アートマン)だったのか」と気付いたわけです。それまでは、単に「創造・破壊・維持の意識」というだけで真我(アートマン)だとは思いませんでした。そうかもしれない、というくらいで確証はありませんでしたが、「意図」が出てきてそれがアートマンだと自覚しました。<br /> <br /> ですので、今の段階はケヴァラ・ニルヴィカルパ・サマーディ(≒シャルドル)なのかなと思います。<br /> <br /> Sun, 06 Jun 2021 00:00:00 +0900 サマーディは大我の目覚め https://w-jp.net/2021/2383/ <br /> ヨガナンダの弟子である「ヨガ行法中伝」の著者はまずヨーガ・スートラに基づいてダーラナ(集中)・ディヤーナ(瞑想)があり、その結果としてサマーディが現れると説明しています。<br /> <br /> 基本的な構造としては、一般的な普通の心の滅却によって現れる第二の心、その第二の心が現れた状態がサマーディと言うことです。<br /> <br /> 行者の心が全く波動を中止して、無我・無私の状態に持続せられる時、その心の側に眠っていた第二の心が目を醒ます。この「第二の心」の目醒めをサマディというのである。「ヨガ行法中伝(関口野薔薇著)」<br /> <br /> これは、私の状態と当てはめてみると次の3段階が当てままる気が致します。<br /> <br /> 最初:視界がスローモーションで認識される<br /> 次:胸の奥の「創造・破壊・維持」の意識の目醒め<br /> 最近:意識が体をダイレクトに動かしていることの実感<br /> <br /> これらは基本的に「静寂の境地」を基礎としていますが、最近の段階になりますと静寂の境地への依存から離れるという状態になってきています。ですが、基本は静寂の境地を基礎にしています。静寂の境地とは「心の一時的な静止」です。これに基づいてヨガナンダの弟子は説明しています。<br /> <br /> サマディは小我の休息ではあるが、大我の目醒めであって、人間そのものの死を涅槃というのではない。別言すると涅槃は、個人の心中における宇宙意識の覚醒である。(中略)この宇宙意識のことを神または仏というのであるが、(中略)人間にあってはこの内部に神または仏が棲息し給うけれども、常人の体内では常に休息してい給うのである。人間に内在する神、これこそ誠の人間、誠の自我なのである。だがその神は常人の内部では、およそ眠ってい給う。この眠れる神を目醒めしめて、「人が神と共に住み、神が人と共に働く境地」を開発した時、その境地をこそ、天国または極楽と呼ぶのである。人間がこの極楽の境地に入ると、それがあらゆる宗教の目的であり、またヨガ行法の最後の目的でもあるのである。「ヨガ行法中伝(関口野薔薇著)」<br /> <br /> 静寂の境地を基本として宇宙意識が覚醒することがサマーディであって、それを神や仏と呼ぶ、と説明しています。そしてそれが天国あるいは極楽だと言うことです。普通の人においてはこの宇宙意識は眠っていて、目醒めた状態がサマーディである、と言うことです。<br /> <br /> これは、言い方は色々あるとは思いますが、基本的には私の感覚と一致しています。<br /> <br /> ただ、大我とは言っても、割と日常生活は普通です。そんなもんだと思います。特に変わったところはありません。ただ、今まで眠っていたのが意識的になった、というくらいです。こう言ってしまうと誤解が生じるかもしれませんけど、要は特別感はないということです。地味なものです。<br /> <br /> Sun, 06 Jun 2021 00:00:00 +0900 シャルドルで静寂の境地への依存から離れる https://w-jp.net/2021/2382/ <br /> それまでは、ある程度まで静寂の境地に頼っていました。<br /> <br /> 自己解脱するシャルドルの能力が育ち始めてから、静寂の境地への依存がかなり減ったように思います。<br /> <br /> それまでも、観察すると雑念が消失するチェルドルにおいて静寂の境地から多少は離れることができていましたが、基本的には静寂の境地に頼っていました。<br /> <br /> 今は、心の動きとはそれなりに離れたところで想念が自己解脱する状態になっています。<br /> <br /> 特にヴィパッサナー系の瞑想の流派において「心の静止は必ずしも必要ではない」とか「集中力はある程度は必要だが集中によるシャマタ(止)は必ずしも必要ではない」などと言われていて、そこでは「静寂の境地は必ずしも必要ではない」みたいな文脈で物事が語られていますけど、それはこの段階においては確かにそうかなと思います。しかし、それ以前の段階においては静寂の境地は必要だったように思います。<br /> <br /> 確かに、理屈としてはヴィパッサナー系の流派のいう通りかなとは思うのですがそれはかなり困難で、特に現代のような雑多な世界においては特にそうで、今は特に段階を踏んで瞑想をする必要があるのかなと個人的には思います。昔のようにシンプルな社会においては特に集中をそれほどしなくてシャマタ(止)の静寂の瞑想をせずともいきなり観察状態のシャルドルにまで達することができたのかもしれませんけど、現代においてはそれは難しいのではないでしょうか。<br /> <br /> ヴィパッサナーという言葉には手垢がついていて色々な解釈ができてしまいますけど、シャルドルという言い方からすれば意味は1つしかなくて明確な気が致します。<br /> <br /> この段階に至れば、確かに、静寂の境地への依存から離れ始めたような気が致します。<br /> <br /> かといって雑念だらけになるというわけでもなく、そこは自己解脱の能力がありますから、ありのままの状態を保つだけで雑念が自己解脱してサマーディの状態に保たれるわけです。<br /> <br /> Sun, 06 Jun 2021 00:00:00 +0900 日本:東京 https://w-jp.net/topics/日本:東京/ 日本:東京 高尾山へ定期参拝 https://w-jp.net/2021/2492/ <br /> 高尾山の薬王院には定期的に参拝しており、特に宗派というわけでもないのですが行きやすいので定期でふらりと通っております。<br /> いつも山頂に登っては降りるだけのハイキング程度ですけど健康を保つのに良い感じです。<br /> <br /> ここのお寺は時期によって参拝者の邪気が溜まっていることもありますし、特に参拝所に吊るしてある紐は掴まない方がいいと思います。というのは、紐を触ると邪気が逆流してくるからです。そうは言いましても東京での低山でのハイキングコースは貴重ですしお寺はさらりと参拝するだけで割とスルーするのであればさほど問題はないように思いますので定期で通っています。<br /> <br /> ここは稲荷が多くて、商売繁盛の現世的な神様も多くいらっしゃるように思いますし、天狗のような少し妖怪じみた存在もいらっしゃいます。東京に相応しいと言えばそうかもしれませんけど。<br /> <br /> Sun, 10 Oct 2021 00:00:00 +0900 東京カテドラル聖マリア大聖堂・カトリック関口教会 https://w-jp.net/2021/2490/ <br /> 少し前に、都内にある同教会に行ってきました。<br /> 前から何となく噂を聞いてはいたのですが実際に行くのは初めてで、主目的はここにあるミケランジェロのピエタ像の複製を見ることです。<br /> ですけど、この建築も珍しいもので、中は静けさもあって祈りに相応しい場所で、なかなか気に入りました。キリスト教徒ではないですけど。<br /> <br /> <br /> <br /> 近くにはここ所管と思われる幼稚園もあって、壁画が可愛らしかったです。<br /> <br /> <br /> <br /> ピエタ像やルルドの泉の複製があったりして、そういえばルルドには行ったことがないので落ち着いたらそのうち行ってみたい気も致します。<br /> <br /> <br /> <br /> マークから見るとここはイエスズ会(IHS)ですね。イグナチオ・ロペス・デ・ロヨラが創設した会で、今でこそカトリックと同一とみなされていますけど一説によれば当時はローマ・カトリックと幾分か対立していて、日本に布教に来た時もローマ・カトリックはイエスズ会(IHS)ではなく本筋のカトリックを布教したかった、なんてことがあったようで、なかなかに面白い昔話です。<br /> <br /> 南米に行った時もイエスズ会(IHS)の協会が多数あったりして、ヨーロッパ以外では世界中にイエスズ会があるという印象があります。<br /> <br /> Sat, 09 Oct 2021 00:00:00 +0900 コロナ https://w-jp.net/topics/コロナ/ コロナ 私のスピリットのコロナ対応 https://w-jp.net/2021/2487/ <br /> 私のスピリットが立てた計画において、コロナのワクチンは悪影響があるので受けさせたくはなく、かと言ってコロナに対しても抗体を作りたいがためにかなり早期の段階で私をコロナに感染させる、ということを意図したようです。<br /> <br /> ですので、一部では「コロナは存在しない」だとか陰謀論だとか騒がれていますけど、私はコロナは実在すると思っていて、それが陰謀かどうかはさておき、少なくともコロナは実在すると思っています。<br /> <br /> 具体的には、数年前に私は足を骨折したのですがその事後検査でレントゲンを取りに近くの大きな病院に行ったときにコロナに感染させることを計画したようです。<br /> <br /> 実際、その病院では私が通院した数週間後にコロナの患者の死者が出て看護師も何人か感染したことにより病院自体が1ヶ月休業状態になりました。私はそこで感染したわけですけど、通院したのが午前中で、同じ日の午後から急に今までしたことがない咳が出始めて熱も完全に上がり切らずに熱が出ているような出ていないような不思議な感じでした。熱がそこまで上がりきらないので翌日も出社したのですが午後から熱が上がり始め、早めに切り上げて近所のかかりつけ医に行って抗生物質を出してもらったら割とすぐに回復したわけですけれども、その後、約1年半くらいかけてコロナの後遺症に対処することになりました。具体的には何か喋ったりすると咳き込むような症状が続いただけですけれども、周囲からすれば急に咳き込むのでコロナなのではないかと勘繰られたりするわけですけど、実際にはそれは後遺症だったわけです。その後遺症も、少しづつ回復してきて、1年過ぎた頃にようやく普通に戻りかけたもののまだ症状は続いていて、そんな時、割と最近、数ヶ月前にインドからイベルメクチンを取り寄せて飲んだところ、まだ少し残っていた後遺症のうちかなりの部分が解消されたように思います。まだ完全ではないものの、このくらいならばほぼ治ったと思っても良いように思います。なかなか長い闘病生活だったように思います。<br /> <br /> それだけ長く後遺症が残ったとしても、ワクチンを打つよりはマシなようです。私のスピリットの判断に従うとすればワクチンは打たないほうが良いと分かって以降、私は今までワクチンは打っていないわけですけれども、将来的に、昔ながらの不活性化ワクチンが出てきたならば打ってもさほど問題はない、ということは分かっています。具体的なところはわからないのですけど、私のスピリットは時空を越えることができて将来を見通した上での判断からすると、打たない方がいい、ということのようなのです。理由は唯一そこであって、世間で騒がれているように陰謀論かどうかは分かりませんし、チップが入っているとかいうお話もよく分かりません。ただ、私からすれば自分のスピリットが未来を見てそう判断したのならばそれで十分なのです。<br /> <br /> いくら医療従事者が安全だとか言ったとしても、はたまた、政府関係者のお偉いさんが安全だとか言ったとしても、自分のスピリットが実際に時空を超えて未来を見てきた上でワクチンは打たない方がいいと判断しているわけですから、他人がどのように安全性を高らかに主張したとしても全く関係ないと言えます。<br /> <br /> これは陰謀論とは全く関係がなくて、元々私が目指している悟りへの道への障害になる、という一点において私のスピリットは打たない方がいい、と判断したようです。具体的には、精神的な安定性、特に、かなり微細なレベルにおける安定性が若干失われる、土台としての部分が揺らぐ、ということのようなのです。そのように、瞑想においてマイナスになるのであれば打たない方が良く、かと言って、コロナは実在しておりますので免疫は早めにつけておいた方が良く、後の方になると毒性も高まっていくようですので、初期の段階の、それほどでもないコロナを早々と感染させることにより抗体を作りたかったようです。<br /> <br /> 抗体は日本にずっとこもっているのならばあまり必要ないようですけど、私の場合、将来的にまだコロナの影響が残っている世界で海外にも行くことを想定しているために抗体を作りたかったようです。<br /> <br /> これで、今後、新たな株のコロナが出てきたとしても基本的な抗体があるためにそれなりに新しい株にも対処できるようになり、いきなり危険なコロナの亜種に感染するより遥かに安全な状態になる、という判断が私のスピリットの側であったようです。<br /> <br /> とは言いましても、これは瞑想で分かったことですので本当かどうかは分かりません、という注釈はつきます。<br /> <br /> 実生活においては仕事場でワクチン打てとうるさく言われていますし、ワクチンを2回以上打つかPCR陽性だけ出社、とか言われていますのでかなり微妙な状況ではありますけど、それでも打つ気はないわけです。<br /> <br /> Tue, 05 Oct 2021 00:00:00 +0900 イベルメクチンでコロナ後遺症が改善されました https://w-jp.net/2021/2415/ <br /> 1年半悩まされ続けていたコロナ後遺症らしき咳き込みがイベルメクチンを飲んで数日で改善され、症状が半分以下になったように思います。たまたまかもしれませんし、他の理由があるかもしれませんので確実なことは言えませんし、プラシーボかもしれません。ですけど、いつまで経っても治らなかった不快な咳き込みが激減したのは事実です。<br /> <br /> 元々、私は2020年2月頃におそらくコロナにかかったのですけど医療機関に言ってもスルーされ続けて誰も治療するつもりがないし本当にコロナかどうか検査するつもりもなかったようなので自分が本当にコロナかどうか確かめるのを諦めた口です。<br /> <br /> 症状が現れたその日、骨折の経過観察のために大きな病院に行ってレントゲンを撮ってもらいました。その病院というのは私が受診した1週間後に初期のコロナ患者が出て死亡し、看護婦も感染して病院自体が丸ごと閉鎖された場所だったのですけど、受診が午前中で、その同じ日の午後から急に強い咳が出始めて次の日には熱も出始めましたのでタイミングとしては抜群です。その後の経過は以下です。<br /> <br /> ・午前中に大きな病院を受診<br /> ・同日の午後から強い咳が出始める<br /> ・翌日、咳に加えて熱も出始める。その日の夕方、近くのかかりつけ医者を受診。コロナかどうかはわからないですがとりあえず普通の抗生物質を処方して様子を見ましょう、ということになりました。<br /> ・その翌日、熱は下がって強い咳は出なくなりましたが喉が詰まった感覚と、喋るとすぐに咳が出る状態になりました。少し喋るだけですぐにゴホゴホしますので喉に力を入れておかなくてはならず、力を入れても不意に咳き込む状態が続きました。<br /> <br /> 私の場合、かなり初期段階で世間がコロナのことがわかっていない段階で感染したので不幸中の幸いだったように思います。もう少し後であればPCR検査をした後にホテルに缶詰になって、そこでは薬を与えられることもなく自己の免疫だけで直さなくてはならなかったように思います。<br /> <br /> 私の場合、近所のかかりつけ医から抗生物質を渡されて表面上の症状は改善されました。<br /> <br /> 色々と調べてみましたところ、コロナはウイルスですので抗生物質の効き目はない、とのことですけど、コロナの菌が腸に入って感染した後にその他の何かと結びついて、それが肺に来て呼吸困難を引き起こすらしいですので、抗生物質がコロナそれ自体には効かないのはその通りらしいですけど、コロナと結びついた生きている菌が肺に来た段階であれば肺にいる菌を抗生物質で退治することができるので効果がある、ということのようです。私の場合、抗生物質を飲んでから劇的に症状が改善しましたので、この理屈は納得が行きます。<br /> <br /> ですけど、上に書きましたように、当時のコロナの理解では抗生物質はコロナに効かないということになってしまいましたから、もしかしてコロナに感染する時期がもう少し遅ければ抗生物質を与えられることなしに、下手をすればホテルあるいは病院で人工呼吸器をつけられたまま殺されていたかもしれないわけです。タイミングのちょっとの違いで抗生物質で助かっていた、ということかもしれないわけです。抗生物質が効かないとか言われていますけど、ダメもとで処方すればいいのに、と思うのですけど。なんだか変なお話です。抗生物質でコロナの肺の症状が治るというお話はとあるYouTubeで聞いたのですけど、かなり初期の段階ですので今は違うのかもしれませんけど、その動画の中ではどこかの東京の大学の偏差値の高い医学の教授もそう言っていたということで、信憑性はそれなりにあります。個人的な経験から言っても抗生物質に助けられたと思います。<br /> <br /> ただ、後遺症はその後も続いて、最初の3ヶ月くらいは特に酷くて、喋るとすぐに咳が出るので他人からコロナかと思われる疑いの目が厳しかったです。<br /> <br /> 半年経つと少しは減ってきましたがずっと続いていました。<br /> その後、1年経過する頃には更に減ってきましたが、それでも咳は続いていました。<br /> <br /> 今、おおよそ1年半経過して、だいぶ良くはなってきましたけど喉の変な感じは続いていました。<br /> <br /> 世間ではワクチンが騒がれていますけど私はまだ打っていなくて、というか、そもそもコロナにかかっているので今更ワクチンを打ってどうなるのだ、という感じでもありますし、治験も3ヶ月かそこらしかしていない実験薬を打つのも微妙ですし世界初のmRNAワクチンを世界規模で治験しているという意味不明な社会実験に付き合うのも微妙です。<br /> <br /> そんなところにイベルメクチンの噂を聞いて、薬自体はとても古いもので副作用も少ないようですし、病院での処方はできないですけど自己責任で飲むことはできるようですので海外から取り寄せました。リスクがあるのはもちろん承知の上ですが、私がコロナかどうかを誰も診断してくれないですし、診断しようとする意図も感じられなくてスルーされ続けてきましたので自己責任でイベルメクチンを試すことにしたのです。いざコロナになれば医療機関の方々は親切に対応してくれるようですけど治療薬もなくて隔離状態で放置されるだけのようですし、それなら医療機関や保健所を頼るより自己責任でイベルメクチンを試してもいいと判断しました。<br /> <br /> イベルメクチンは空腹の時に取る必要があることと、体重に応じた量を取らなくてはならないようでしたが、私の場合、取り寄せたのが12mgの錠剤でしたので体重に対して少し少なめではあるのですけどそれを飲んで様子を見ることにしました。<br /> <br /> 夕食後2時間空けて、寝る前くらいに水で飲みました。牛乳とかはダメみたいです。<br /> <br /> その翌日と翌々日にかけて、もしかしたらイベルメクチンの副作用かと思われる、頭が少しぼうっとする症状が少し出ましたけどその後は問題ありませんでした。<br /> <br /> そして、何より良かったのが、不快な喉の咳き込みが急に回復したことです。<br /> <br /> 上に書きましたように、たまたまかもしれませんし、他のことが何か良い影響を出したのかもしれません。ですけど、タイミングとしては絶妙で、今日はイベルメクチンを飲んで4日目ですけどかなり喉の調子が良いです。まだほんの少し症状があると言えばありますけど薬を飲む半分以下の症状になったように思います。<br /> <br /> ただ、完全に回復したかどうかはまだわかりません。外を出歩くと一時的に喉がガラガラすることはありますけど、そのくらいのガラガラ感はコロナ以前からも時折あったように思いますから普通のガラガラ感は昔とは変わりません。ですけど、急に咳き込むような感じのコロナ後遺症と思われる不快なものはかなり解消されたように思います。<br /> <br /> まだ4日目ですので様子見で、他の病気に対してのイベルメクチンの処方としては1回処方と2週間の間を空けた2回処方という方法があるようですので、一応、2週間目も飲もうかと思っております。<br /> <br /> 私が良くなったからと言って、他人にお勧めはしません。<br /> <br /> 私の場合、医療機関に問い合わせてもスルーされて誰も助けてくれませんでしたし薬らしきものもないままに1年半ほどずっとコロナ後遺症らしき咳き込みに悩まされてきましたので自己責任で使いました。<br /> <br /> イベルメクチンが効果があると言う人がいる一方で、イベルメクチンは効果がないと言っている人もいますけど、少なくとも私には効果がありましたね。完全に治る特効薬でなくても、これだけ症状が改善されれば十分良い薬のように思います。<br /> <br /> Thu, 08 Jul 2021 00:00:00 +0900 日本:名古屋 https://w-jp.net/topics/日本:名古屋/ 日本:名古屋 熱田神宮を参拝 https://w-jp.net/2021/2484/ <br /> いつも名古屋は通り過ぎるばかりでしたがちょっと立ち寄る機会がありましたので熱田神宮に初めて参拝してきました。<br /> 有名なところですけど私はスルーしていてようやく初めて立ち寄ったわけですけど、なるほど。 良いところではありますけど、私にはそんなに縁がないかな・・・? という気が致しました。 昔は縁があった時もあったのかもしれませんけど、少なくとも最近はさほど縁はないようです。<br /> <br /> さすが3種の神器の一つ草薙剣があるところで立派ではありますけど、噂では表に見せるのはレプリカとかも言われていて、実際のところよく分かりません。色々と噂レベルでは聞きますけど。<br /> <br /> ここは奥の方に散策路があって、右奥手で水が湧き出ているところが一番波動が高かったような気が致します。<br /> <br /> <br /> <br /> Sat, 02 Oct 2021 00:00:00 +0900 日本:高山 https://w-jp.net/topics/日本:高山/ 日本:高山 櫻山八幡宮@高山 https://w-jp.net/2021/2482/ <br /> 通り道だった高山の神社に参拝しました。<br /> 高山というと山奥というイメージでしたが意外に普通の街で、神社も街中にありました。ずっと勘違いしていて、地元の人には失礼致しました。<br /> <br /> ここは神社の中心のところは普通の雰囲気でしたけど右側の高台の上には怨念なのか悪霊なのかが取り憑いているところがあって、その周辺だけ雰囲気が違っていました。神社というと神々しいイメージがありますけどここの高台のように怨念を封じ込めている、あるいは、参拝者が怨念を捨てていくような場所がありますので注意が必要ですね。<br /> <br /> <br /> <br /> Thu, 30 Sep 2021 00:00:00 +0900 日本:白川郷 https://w-jp.net/topics/日本:白川郷/ 日本:白川郷 白川八幡神社と白川郷の合掌造り集落(岐阜県白川村) https://w-jp.net/2021/2481/ <br /> 白山周辺の白山神社の途中で白川郷も立ち寄りました。<br /> コロナ禍で空いていると思いきやメインの駐車場が満車になるくらいの盛況ぶり。普通に混んでいました。<br /> おそらく、世界遺産になる前の混雑くらいまでは回復しているような気がしました。<br /> <br /> 暫くぶりに立ち寄ったのですがいくつも高速道路ができていて以前より遥かにアクセスがしやすくなっていました。<br /> ただ、ここは別にアクセス悪くてもいい気もしますけど。そういう場所ですし。<br /> <br /> 白川郷にも白川八幡神社という白川系列の神社があったので参拝しました。<br /> 一つ一つは小さいところも多いですし、白川神社は割と古い建物が多いですけど、それはそれで古い時代を感じることができます。<br /> <br /> <br /> <br /> Wed, 29 Sep 2021 00:00:00 +0900 日本:白山 https://w-jp.net/topics/日本:白山/ 日本:白山 長瀧白山神社 https://w-jp.net/2021/2480/ <br /> 白山周辺の神社として割と主要なところの一つのようです。<br /> 大通り沿いにあって割とアクセスもしやすいところでした。<br /> <br /> 白山への参拝ルートの1つで、昔の人はここから白山中居神社に向かって歩いたようです。<br /> <br /> 白山周辺でよく目につくのは龍の絵ですね。<br /> こういうのは現実を反映していることが多く、白山には(アストラル次元に)龍が本当に住んでいるのだと思います。縁があって見える人には見えるのでしょう。<br /> <br /> 龍というのはとてもパワフルで人にとっては頼りになったり恐ろしかったりと色々ですけど、悟りという観点からすると平均的な人間よりも進んでいるというだけで悟った存在というわけでもないようです。人は龍を祀ったりしますけど、私個人としては龍とはそれほど関わり合いがありませんので、あくまでも隣人のパワフルな存在として感じています。<br /> <br /> <br /> Wed, 29 Sep 2021 00:00:00 +0900 白山平泉寺(平泉寺白山神社) https://w-jp.net/2021/2476/ <br /> 白山周辺の神社巡りで白山平泉寺(平泉寺白山神社)を参拝してきました。<br /> ここは元々神社で、その後寺になり、また近年に神社に戻ったところの様です。<br /> 元々は門前町が広がっていたものの戦国時代の一揆で消失、その後は復興したもののかつての賑わいはないようです。<br /> <br /> <br /> <br /> 今は苔が美しい神社になっており、境内も広く、建物は古くてそろそろ建て替えが必要な気もしますけど素朴ないい雰囲気を出しています。<br /> 白山の神社はどこも素朴ですね。<br /> <br /> <br /> <br /> Sat, 25 Sep 2021 00:00:00 +0900 白山中居神社 https://w-jp.net/2021/2475/ <br /> <br /> <br /> 白山の南方にある白山中居神社にも参拝してまいりました。<br /> 少し山奥といえば山奥ですが車で行けますのでそれほど苦労はないのですが道は部分的に1車線でした。<br /> <br /> ここは、私が参拝した中では珍しい、川を渡った先にある神社でした。<br /> あまり他ではこのような形式を見ない気が致します。<br /> <br /> <br /> <br /> 途中、黄金色に輝くトカゲが何匹かいたりして神域を感じました。<br /> <br /> 古い建物でそろそろ建て替えが必要な気も致しますけどこれだけ参拝者が少なければなかなか難しいのでしょうかね。そもそも人をあまり近づけたくない神社なのかもしれませんけど。<br /> <br /> 祀っている神様としてはイザナギとかイザナミとか、そのあたりの古事記の最初の方に出てくる神様だったように思いますのでかなりパワフルです。<br /> イザナギとかイザナミを祀っている神社は白山の周辺の特に白山神社で時々今回見ましたけど、他所ではあまり見ない気も致します。私があまり気にしていなかっただけかもしれませんけど、なんとなく珍しい気が致しました。<br /> <br /> 白山に興味が出てきて、そのうち登山もしてみるかもしれません。<br /> Thu, 23 Sep 2021 00:00:00 +0900 白山比咩神社 https://w-jp.net/2021/2474/ <br /> 白山神社は日本に多くありますが、石川県と岐阜県の境にある白山の周辺にある白山神社の数々には行ったことがありませんでしたのでこの度行ってきました。<br /> <br /> <br /> <br /> 今まで私の中での神社ランキングは一位が出雲大社で二位が伊勢神宮だったのですが、個別の一つ一つの神社の大きさでは全く敵わないのですけど群としての神社のあり様とか白山の周辺に多くある信仰が残っているという点に関しては白山神社の方が上かな、という気が致しました。出雲大社や伊勢神宮は人が詰めかけすぎてざわざわしている時もあるのですけど、白山神社は空いていて、その点においても神秘的です。<br /> <br /> Thu, 23 Sep 2021 00:00:00 +0900 日本:諏訪 https://w-jp.net/topics/日本:諏訪/ 日本:諏訪 諏訪大社を参拝 https://w-jp.net/2021/2453/ <br /> 出雲系とのことでしたので諏訪大社を参拝してみました。<br /> <br /> 東京方面から<br /> ■JR高尾駅 6:14発(始発) → JR茅野駅 8:49着<br /> <br /> 当初は下諏訪からバスかレンタルサイクルを考えていたのですが意外に距離があるのとバスの本数が少ないため茅野駅から歩くことにしました。歩いても30分ほどですのでそう遠くはありません。<br /> <br /> ■諏訪大社 前宮<br /> <br /> <br /> 最初に見たこの前宮が一番パワフルに感じられました。どうやらここが歴史的にも一番古いとのことで、そのような理由もあるのかもしれません。<br /> <br /> 少し歩くと本宮です。<br /> <br /> <br /> ■諏訪大社 本宮<br /> <br /> <br /> こちらの方が広くて建物は立派ですけど前宮で感じられたようなオーラはそれほど感じませんでした。もっと奥に行くと違ったのかも?<br /> <br /> 見学後、神社の前のお土産物ショップのあたりにある 「上社北参道」バス停から「かりんちゃんバス ③すわ外周線 上諏訪駅方面行き」に乗ります。<br /> <br /> 上社北参道11:02発 → 上諏訪駅諏訪湖口(西口) 11:45着<br /> <br /> 花火など祭りの日は運休のようですので注意。行き先によってバス停が違うようでしたが、私はここから乗りました。<br /> <br /> バス停の付近で麺ものなど軽食も食べられます。ペース良く見学しましたのでバスを30分ほど待つことになり、ここで食べようと思えば食べられましたけど駅前で食べるつもりでしたので食べませんでした。ですけど駅の周囲にあまりお店がなかったため北口の巨大な建物の1階にある大きなスーパーでお弁当を買い、イートインで食べて済ませました。時間的にも電車まで約30分でしたのでちょうど良かったです。<br /> <br /> JR上諏訪駅 12:17発 → JR下諏訪駅 12:21着<br /> <br /> <br /> ■諏訪大社 春宮<br /> <br /> <br /> 春宮も秋宮も駅から歩いて行ける距離にあり、どちらから見ても良かったのですが春宮の方が少し奥にあって周囲に店も少ないのでこちらから先に見ることにしました。<br /> <br /> 御柱が7年に一度のお祭りの時に人の手で運ばれる御柱がここにもあって、どうやら来年にはまた入れ替えになるようです。<br /> <br /> ここも雰囲気が良かったですが前宮で感じたほどのオーラは感じられませんでした。やはり前宮が諏訪大社の中では個人的には一番凄いと思いました。<br /> <br /> とは言いましても、諏訪大社としては4つの宮で優劣はないとのことでした。<br /> <br /> <br /> ■万治の石仏<br /> <br /> <br /> これは面白い石仏です・・・。岡本太郎が愛したというのも理解できる気がします。<br /> <br /> <br /> ■諏訪大社 秋宮<br /> <br /> <br /> ここは敷地的には一番広いでしょうか? 本宮もそれなりに広かったですけど、同じくらいか、もしかしたらこちらの方が広いかもしれません。流石に立派です。お土産物はこの周囲が一番充実していて、羊羹を買ってみたりしました。<br /> <br /> そして参拝後、近くの温泉に入りました。ここは熱いお湯が有名とのことで、44度のお湯は久々に入りましたけど慣れればこれも心地良く感じました。ですけど47度はちょっと熱すぎです。44度の温泉に満足です。<br /> <br /> ネットで調べると電車とバスでの日帰りはきつい、みたいに書いてありましたけど、神社だけであれば日帰りは問題なかったですね。記録として時間も記載しておきました。<br /> <br /> Sun, 29 Aug 2021 00:00:00 +0900 日本:能登 https://w-jp.net/topics/日本:能登/ 日本:能登 UFO博物館・コスモアイル羽咋を見学 https://w-jp.net/2021/2448/ <br /> 金沢・羽咋のUFO博物館、宇宙科学博物館コスモアイル羽咋に来ました。<br /> いつか行きたいと思いつつ、ようやく重い腰を上げて遥々行ってまいりました。<br /> <br /> <br /> <br /> 本物の探査機や一部本物の複製が置いてあって意外に凄いです。<br /> <br /> UFO目撃報告も沢山で、私が子供の頃に見ていた光の球はUFOかなと子供ながらに思っておりましたがやはりその可能性は高いということで貴重なお話を伺うことができました。住んでいた田舎町で夜に自転車を走らせていると、数km離れた山というか丘の中ほどに向かって蛍のような光が降りてきてそのまま留まったり、あるいは同様の蛍の光が空に向かって動き出す、というのようなものは何百回か、少なくとも100回は見ていたかと思うのですけど、白色から暖色系の光は割と典型的なUFOのようです。UFOを見ていても意外にスルーしている人が多いのかもしれないですね。<br /> <br /> 映像資料を見ているとSFに出てくる「ダイソン球」のお話が出てきて、SFに出てくるのはスタートレックの物語で出てきたように(太陽のような)恒星をぐるりと囲む形でエネルギーを全て使う、みたいなものですけどダイソンが実際に提唱したのはそうではなく、太陽のような恒星の周囲を周回する人工衛星をいくつも作ってエネルギー活用する、というお話だったようです。これは目から鱗。<br /> <br /> Thu, 26 Aug 2021 00:00:00 +0900 スピリチュアル: 超能力 https://w-jp.net/topics/スピリチュアル: 超能力/ スピリチュアル: 超能力 四次元パーラー「あんでるせん」のマジックショー (長崎・川棚/喫茶店) https://w-jp.net/2021/2437/ <br /> <br /> <br /> 十年来、度々気になっていた「あんでるせん」にようやく伺うことができました。<br /> <br /> 予約の電話がなかなか繋がらないとのことでしたのでマジックショーが終わる5時すぎにかけるのが基本らしく、片付けなどもあるでしょうから少し時間に余裕を持って7時ごろにかけてみたのですが噂通り1回目は通話中。縁があれば1回で繋がるとのことでしたので縁がないのかなと思いつつも、数分後、2回目かけるときに「かけるのはこれで最後だ。これで繋がらなかったら縁がなかったということで諦めよう」と思ってかけたら繋がりました。<br /> <br /> どうやら縁があったようです。<br /> <br /> ですけど、元々予約を入れたかった日は既に満席で、来月なら空きがあるとのことでしたが来月の予定は立たないのでやめようかと思ったところ、ふと、マスターの方が何やら少し驚いたのか何なのか微妙な間があった後に、「どちらからですか? 何名ですか?」と聞いてきたので「○○(遠方)です。1人です」と答えたところ、予約を入れることができました。<br /> <br /> マスターは能力があって、電話がかかってきた時にその人が来るべき人かどうかわかるらしいですので私が断ろうとしたので あれっ と思って予約を入れてくれたのかな・・・ と思いますけど、どうでしょうかね。<br /> <br /> <br /> <br /> 元々飛行機でパックツアーの予約を入れていたのですがコロナ禍で緊急事態宣言が発令されましたのでキャンセル料無料でキャンセルできて、別ルートを自分で予約し直して行きました。<br /> <br /> これはその時点では何となくの勘でそうしたのですけどおそらく正解で、ちょうどこの時期には九州北部が大雨で交通が色々と不通になっていましたので元々の工程で行ったら移動が更に大変になっていたかもしれません。それでも苦労はしたのですけど、まあ、変更後の方がマシだったと思います。<br /> <br /> 大雨でJRも不通になったり通行止めになったりしていましたけど、私の降り立つ街に関しては基本的に雨が止んでいました。我ながら晴れ男です。今回はたまにはフェリーを楽しみたいと思い、新しく就航した東京九州フェリーで北九州の門司港に行きました。フェリーは快適で大雨の影響は皆無。門司に着いても少し降っているくらいで、翌日の朝は雨が上がっていましたので雨が私を避けてくれているかのようです。<br /> <br /> 翌日、博多経由のJRで最寄りの川棚駅まで移動する予定だったのですけど佐賀駅の先が佐世保及び長崎方面が不通になっておりました。私が予約していた電車は運休になりましたので他の電車に乗ってとりあえず佐賀駅まで移動したのですが、実際のところ佐賀の付近はさほど雨が降っていなくて我ながら晴れ男全開だったのですけどそれでも電車は止まっていますし仕方がありませんので佐賀駅前から川棚駅までレンタカーを借りて向かうことにしました。<br /> <br /> もっと細かく説明しますと、元々小倉から予約していた列車ではなくその一本早い時間に乗れそうでしたので変更して飛び乗って、それは佐賀行きだったのですけど一旦博多で降りて、博多駅で私の乗る予定だった列車が運休とのことでしたのでとりあえず佐賀まで行こうと思って、私が乗ってきた列車が6分停車で同じホームに停まっていましたので再度、同じ列車の自由席に飛び乗ったのでした。これが時間的にちょうどよくて、9時すぎに佐賀駅についてレンタカーを借りて川棚駅まで行ったらちょうど良い時間でした。もう1つ遅い時間の列車を使っていたら12時を軽く過ぎていたかもしれませんので早めの移動をして正解でした。<br /> <br /> この日、同様にJRで移動していて不通になった影響でとても遅れてくる方がいらっしゃいましたので、私も同様に待ち続ければどうにか来れたのかもしれませんけど、そのおかげでマジックショーの開始がおそらく少し遅れた? のかな、という気もしますし、皆に待っていてもらうのも性に合わないのとどんどんと判断するたちですのでレンタカーをすぐ選択して運転して行きました。高速道路は不通でしたので下道でしたけど、何とか11時過ぎには到着することができました。コロナ禍なのかレンタカーが安くて、通常1.5万円くらいの普通車が5000円くらい(+保険)で借りられましたので十分です。<br /> <br /> <br /> <br /> 11時過ぎには来てくださいと言われていて、遠方の方は12時くらいまで待てます、と言われていましたので開店時刻には遅れましたけどそれほど遅れずに到着することができました。<br /> <br /> ですけど、遅れた方の中には1時過ぎに来た方もいらっしゃって、大雨で仕方がないことかなとは思いますけど、帰りが遅くなるといけなくて途中で抜けた方もいらっしゃいましたので、遅れると迷惑をかけるので遅れないのが良いかと思います。<br /> <br /> 私も、レンタカー返却時刻を過ぎてしまって30分くらい営業所の方に電話して待ってもらって返却になりましたので、今回はギリギリ間に合いましたけど、なかなか厳しい日だったように思います。川棚駅前駐車場を出てから佐賀駅のレンタカー屋に着くまでの間、最後に給油する以外はどこにも立ち寄らず2時間ほぼノンストップで雨の中走りましたのでなかなか疲れました。緊急事態宣言で通常20時閉店が19時閉店に変わっていましたのも返却時間が厳しい要因の一つでした。<br /> <br /> <br /> <br /> 年季の入った喫茶店で、レトロなゲーム機の机もあります。<br /> <br /> <br /> <br /> ■基本情報<br /> 店名 あんでるせん<br /> 予約電話  0956-82-2375 完全予約制です。<br /> 場所 長崎県 JR川棚駅前<br /> <br /> 毎日、たしか朝8時から夜8時まで受付ということですけどマジックショーの時間はそもそもマスターと奥さんは忙しいのでその時間を避けるとすると朝と夜で、朝は忙しいでしょうから朝は避けるとして、夜も受付時間はそれほど長くありませんのでショー終了後の時間を狙うとすると繋がりにくいというのも納得です。<br /> <br /> 予約は、他ブログでは2ヶ月前から開始としか書いていなくて、私は2ヶ月前同日だと思っていたのですけど、どうやら毎月の1日に2ヶ月後の月の全部の予約ができるらしく、毎月1日は予約電話が混雑しているとのことでした。毎月1日だけ予約できる、と書いてあるブログもありますけどそれは違っていて、それは予約開始日のようで、前日まで(空いてさえすれば)予約できるとのことでした。とは言いましてももう2ヶ月後まで予約はすぐに埋まるので実質、毎月1日に予約した方が良いようです。カウンター席に座った方は100回くらい挑戦したようです。最近ですとアプリで自動再ダイヤルとかありますから昔ほど苦労はしないとは思いますがそれでも繋がるまで待つ手間はかかりますし他の人も同様にアプリを使うのであれば競争率としてはさほど変わらないと言えるかもしれません。<br /> <br /> 個人的には、そのようにアプリを頼るよりは直感に頼った方がこの喫茶店の趣旨にあっている気も致しますが。とは言いましてもカウンター席狙いであれば私も次はアプリを使うかもしれませんね。毎月1日はそうそう繋がらないでしょうし。<br /> <br /> ■駐車場<br /> <br /> <br /> 私はここに停めました。駅前は一方通行で、駐車場すぐ前の信号からは入れませんでしたので私は赤矢印のよう迂回しました。おそらく緑矢印のように駅前ロータリーからも入れるとは思います。<br /> <br /> ■この日のスケジュール<br /> 11時開店<br /> 2時 会場準備<br /> 2時過ぎ ショー開始<br /> 普段は2時間半ほどのショーのようです。<br /> <br /> この日は盛り上がったのか何なのか3時間半近く披露してくれて5時半頃終わりました。大雨のため開始が遅れた、というのもあったかもしれません。皆のテンションに応じてマスターも乗り気になるのかもしれませんね? そういうブログも見ていましたので、時間はなんとなく、のような気もしました。ですので5時に終わると思ってスケジュールを立てていると私みたいにちょっと焦ることになりますけど、まあ、最後は何とかなりましたので問題ありませんでした。<br /> <br /> 今回の場合、最後に入って来た方は電話であらかじめ注文を済ませていたらしく1時半頃に入ってきてすぐに食事をして、それから会計をして会場準備をしましたので2時10分頃のスタートでした。これは他のブログを見てもかなり遅いスタートだったようにも思います。<br /> <br /> そうは言いましてもショー自体は延長してこの日は3時間以上あって、それがあっという間に感じられるくらいずっと驚かされました。<br /> <br /> ありえないマジック・・・ というより、もはや噂通り超能力です。<br /> <br /> <br /> 実は、このお店に入ってからお腹の丹田のあたり、チャクラでいうとマニプラ・チャクラ(ソーラプレクサス・チャクラ)がずっとウズウズとしていて、お腹をぐりぐりとえぐられるような感覚になっていました。<br /> <br /> これは、それなりの能力者が近くにいるとよく起こることで、お店に入ってすぐこうなるのであればこのマスターはかなりできる人だ・・・ と思っておりましたがやはり凄かったです。インドの著名なスワミの近くに行った時も同様にお腹がぐりぐりと来ましたけど、ここまで強くぐりぐりくる人はインドでもそうそういないです。<br /> <br /> 物質的な能力はマニプラ・チャクラを使うとは言いますけど、実感としても現実的な能力者はマニプラが強いようにも思いますね。何となくの感覚ですけど。<br /> <br /> その下のスワディスタナ・チャクラ(セイクレル・チャクラ)になりますと無意識のチャクラですので意識的な制御はできないのですけど、マニプラになりますと意識的な制御ができるのですよね。<br /> <br /> そうは言いましても、単にマニプラが強いだけですとあのような能力はおそらくできなくて、サハスララまでエネルギーが通じているからこそマニプラを強く動かすことができるようにも思いますね。<br /> <br /> コロナ禍で人数を減らしているとのことで、普段なら30人ほどの観客が今は20人にまで減らしているとのことで、今回は19人でしたのでおそらく大雨で1人来られなかったのではないかと思いますけど、この人数ですとかなりゆったりとはっきりと見ることができました。<br /> <br /> 世間はコロナで大変ですけど空いているというのはこういう時はラッキーに働きます。不幸中の幸いというところでしょうか。<br /> <br /> 私は後ろで立っての鑑賞でしたけど、体を少し動かすスペースもありましたのでそれほど問題にはなりませんでした。<br /> <br /> <br /> <br /> 見たところ、このマスターの能力は以下ですね。<br /> ・物質化能力(およびそれと対になる非物質化能力、テレポーテーション)<br /> ・他人の心(マインド)を読む能力<br /> ・リモートビューイング(空間を超えて見る能力、時間を超えて見る能力)<br /> <br /> それを時々に切り分けて使っていたように思います。<br /> <br /> カードの内容を読むときは、リモートビューイングで見ることもできますけど観客の心を読む方がおそらく楽で多用していたように思いますね。書いた文字を読み取る時はリモートビューイングで、観客に書かせた名前を読むときにその読み方が何なのか「なんて読むのかな? これかな?」と確認していたのはリモートビューイングですね。<br /> <br /> そして、カードを読むときに私が1つ気がついたのは、読み取り手である観客が少し遠くてトランプのマークを読み間違えた時にその間違いがそのままマスターに伝わったことです。具体的には、確か三つ葉のマークだったように思うのですけど観客はスペードだと思っていて、私は割と目が良いので三つ葉だとわかりましたけど確かにスペードと見間違えることもあるかもしれなくて、観客がスペードと思っていたらそれをマスターが読み取って、「あなたのカードはこれでしょ」とスペードの何番かを出して指示された観客が「正解」と言っていましたので、実際には三つ葉だったのですけど、指定された観客がスペードだと思えばそれをマスターが読み取ってスペードだと判断したわけです。私が単に見間違えていた可能性もありますけど。<br /> <br /> おそらく、確かめのためにリモートビューイングで見ることもできるとは思うのですけど、それは使い分けで、両方やっていたら大変ですし、割とマジックはテンポよく進みますのでそればかりしていられないですし、心を読むので十分な時はそれでやっているのかな、と思いました。この、スペードと三つ葉の間違いがあったことで私の推測は割と確信に変わりましたね。<br /> <br /> 心を読むときも、そんじょそこらの能力者の場合は沢山の人の思考が一気に入ってきてしまって混乱してしまいますけど、このマスターの場合はくじで指定した人にカードを読み取らせたりしていますので、明示的に意識的に誰かの思考を読み取ることができるように思います。ということは相当の能力者ということです。<br /> <br /> これまたそんじょそこらの能力者ですと肉体に近い粗雑なオーラを他人と融合させてオーラ結合によって他人の意識を読み取るのですけど、その場合、結合した相手にも自分の意識というのが伝わって融合してしまいますから読み取った相手にも違和感や勘のようなものが伝わってしまいますが、マスターの場合は相手に何も気付かれずに読み取ることができるように思いますから、もっと微細なところで読み取っているようにも思います。指向性アンテナのように他人の思考を聞き取ることができるのでしょう。<br /> <br /> あるいは、仮説ではありますけど、あらかじめ料理を提供して食べさせる、というのが鍵かもしれなくて、その料理でマスターのオーラが観客の体内に取り込まれますから、そのオーラが残っている間はマスターが他人の思考を読み取りやすくなっているのかもしれないですね。<br /> <br /> 世界には凄いマジックをする人が沢山いて、同じようなマジックをするだけであればおそらく他にもいるにはいるのかもしれないですけど、上記のように、各所に本当の能力者かと思わせるような点が多々見受けられました。<br /> <br /> 本能が判断するところによるとこのマスターは本当の能力者ということなのですけど、この世を生きる者としては一応はそうではなくて単なるマジックだ、という選択肢も一応は持っておいた方がいいかとは思います。マスターから来るマニプラへの感覚、及びマジックの内容からしてこのマスターは本物のように思いますけど、過去、多くの著名な方々が「偽の能力者」に何度も何度も騙されてきた経緯もありますので、一応はそのような場合も想定しておくくらいがいいようにも思います。百歩譲ってもし単なるマジックだったとしても「人間にはこのようなことができるのだ」という可能性を広げてくれるのは確かですし、それによって、限界を超えて人間が成長できるのですから大したものだと思います。<br /> <br /> 何より、とても安いですしね。1回の食事代だけで何時間もショーが見れるなんてそうそうありませんよ。<br /> こちらが提供するのは食事代だけですし、旅費はもちろんかかりますけどそれはショーとは関係ないですしね。<br /> <br /> 悪意は全くないですし、私はマスターのことを能力者かなと思いますけど単なるマジックだとしても一見の価値があると思います。<br /> <br /> 途中、お札の番号を控えてから生卵と一緒に袋に入れ、その後、生卵の中にお札を動かす、という意味不明なマジックをやってのけました。もちろん番号は一致している筈ですけど、マスターからしてみたらおそらくは当たり前すぎて、番号確認のステップがめちゃくちゃあっさりしてテーブル席の人に少し見せてからそのまま片付けていたのがお茶目でした。まあ、番号が一致しているのなんて当たり前ですし、きちんと見るまでもない、ということなのでしょうかね。そんじょそこらのマジシャンの場合は信じさせるためにわざわざ番号を時間かけて確認して盛り上げたりしますけど、ここのマスターの場合はそれは一応は確認しているけれども、そもそも本当の能力を使ってやっているので、そのような小手先のテクニックはほとんど使う必要もない、というように思えました。<br /> <br /> ルービックキューブを一瞬で、文字通り1秒であっという間に揃えさせるマジックが本当に意味不明。<br /> <br /> 隠して差し替えるというのではなく、胸の前でこちらに向けた手に持っていたルービックキューブが空間に消えて、そのすぐ下に完成されたルービックキューブが空間から現れてきてまた手ですぐに掴むのです。後ろに隠していてすぐに差し替えるマジックだとしても手の動きが意味不明に素早いということになりますけど、それより、私の目にはルービックキューブが空間に消えたように見えました。そして、ルービックキューブがまた空間から出てきました。手から少し離れた、少し下の空間にルービックキューブが出てきたのです。意味不明です。<br /> <br /> トランプを空中から取り出す、みたいなマジックもありましたけどそれはトランプですからいくらでも隠しようがありますけど、その場合も、私の目には、空間からトランプが一瞬で半透明の状態から出てきたように見えました。<br /> <br /> サイババのように物質化能力があるのでしょう。<br /> <br /> 他のマジックでは、お札が目の前にあって、それが何やらぼやけているのです。なんだろう・・・ と思っていたら、急に普通のお札になります。半物質化の状態だとぼやけて見えるのかもしれませんね。1000円札が10000円に目の前で変わったり、顔がいくつもあるお札が出てきたりします。いくつかは用意しておいたマジックネタで、いくつかは能力かもしれませんね。あらかじめ顔を面白く印刷したお札を用意しておいて、それを半物質化しておいてから物質化する・・・ ということかなと。<br /> <br /> トランプを投げて額の中に入れるマジックはテレポーテーションのように見えましたけど、これは普通のマジックでもできますけど、各種の他のマジックを見る限り、普通に能力使ってやった方がマスターにとっては手間がない気がします。<br /> <br /> <br /> <br /> 最後、終わった後にお土産を買ったのですけど、噂ではESPカード(2,000円)というお土産を買うと頭の上にバチっとやってくれるということでしたけど今はコロナ禍でそれはやっていなくて、ですけど、もっといいものを(特別に?)してあげようと言われて、右腕を出して、その上に離れたところから何やら見えない手で触られて肩の方へとエネルギーを入れてくれた感じでした。何かよく分からないですけど凄いです。<br /> <br /> 最初、腕を出してと言われたので右手を出したのですけど、マスターが前腕を重ねてきて「エネルギーを感じるでしょ?」と言われたものの、「エネルギー? 腕に触れてるだけでしょ? それにしても柔らかい皮膚だなぁ・・・。前腕の全部が重なって触れていて、少しづつ二の腕の方に動かしているのかな・・・。腕が肩の方に動いているのはわかるけど、エネルギーっていうより腕が触れているだけのような」と思ってふと目線を下にしてみたら、なんと、腕が触れていなくて15cmくらい離れているではありませんか。触れていないのに触れているかのような感覚があったのです。ちょっと意味不明で頭が混乱してしまい、「え?」と、言葉になりませんでした。そうこうして混乱してるとマスターが腕を離して、それで終わりになったようです。前腕が重なって触れていて、二の腕の方にまでサワサワと触れている感じでしたけど、最初から全く触れていなかったようです。コロナ禍ですので触れるようなパフォーマンスはしていないということでしたので今回も触れてはいなかったわけですけれども、確かに、触れているにしては随分と柔らかい、ムニャムニャとした不思議な腕の皮膚だなぁ・・・ と思っていたのですが、それはマスターのエネルギー的な腕だったようです。おそらくはマスターのエネルギー体だけが動いて腕に触れてきたのでしょう。いやあ、驚きです。<br /> <br /> そういえば言っていたのですが、マスターは剣道だか何かもすることができて、気合いだけで木を吹っ飛ばしたりすることもできるようです。マジックショーでは危険なのでそこまでやりませんでしたけど、紙を飛ばすくらいのショーは軽くこなしていました。ですので、エネルギー的なものの操作もお手のものなのでしょう。<br /> <br /> どれも驚くショーだったのですけど、一番最初、まだ皆がそれほど集中していない、その隙を狙ってマスターがジョークをしてETのエイリアンのように手の指先をぐにょっと曲げたのですけど、その時、いきなりでしたので皆、固まって何が起こったか沈黙していましたけど、私の目が錯覚ではないのなら、その時、マスターの指が伸びて本当のETのようになっていたように思います。・・・いや、これ、私の見間違いでしたかね。指先に何かつけていたのか・・・。 いや、つけていたとしても、指先が小さくなることはないですよね。指を曲げたまま指の先だけETの指のおもちゃをつけていたのかな・・・? という可能性もあるにはありますけど。マスターの手はずっと出たままでテーブルの下に隠すようなタイミングはなくて、皆の前で手をぐにょっとETみたいに細く長く曲げた後に少し体の方に戻したらその瞬間にはマスターの手が元に戻っていて、私はその手にびっくりして言葉も出なかったので凝視していましたので手に釘付けだったのですけど手が瞬時に元に戻っていて「あれ? 今のETみたいな手は錯覚だったのかな?」と思えるくらい瞬時に手が変化していたのです。<br /> <br /> 指の太さはあんな大きさだったかな・・・ と思って凝視したところ、気持ち、そのまた5秒後くらいにはもう一回り小さくなったような・・・? これって錯覚ですかね・・・? 少なくとも最初のETの手だった時は指が相当に細くて長かったのに、今はもう普通でそれなりに小さな手のような・・・? <br /> <br /> マスターは自分の体を自由に変えられるのでしょうかね・・・?<br /> <br /> ETの手をした直後にもう片方の手で素早く小道具を引き抜いた可能性もあるにはありますけど。次行く機会があればその点も含めて見逃さないようにしたいと思います。<br /> <br /> ですけど、私の見たところ、マスターの手が3段階で長さと太さが変化したように見えて、最初ETの手、その後すぐに、少し長めの指の手、その5秒くらい後にはもうちょっと短くて太めの指、というように段階的に変化したように見えました。ETの手だけであれば小道具でしょうけど、中間の、ETほどではないですけど少し長めの指と、更にもう少し短くて少し太めの指、との間はマジックで見せている部分ではないので、手の指の太さを元に戻すためにちょっと調整していたのではないか・・・ と思えてしまうのですけど、どうでしょうか。自分の体の形を自由に変えられるのではないでしょうか。<br /> <br /> その後、カッターナイフを取り出して、指を半分切ったりして皆が叫んだのですけど血は出なくて、カッターを抜いても刃はそのまま。血もでない。そもそも切れていない。 これはマジックでも可能と言えば可能かもしれないですけど、マスターが能力者だと思った方が全てに合点がいきます。<br /> <br /> 噂では、とても乗り気になった時に時折、腕全体を壁に通すマジック・・・ というかもはや超能力を見せてくれるらしいですけど、この日はありませんでした。腕を壁に突き刺して向こう側まで手を通し、その境目を観客に時間をかけて確認させたこともあったとか・・・。マジックではあり得ないです。とはいえ、似たようなマジックは何度も見ることができました。いや、もう私の中の「(人の能力の)限界」を取り払ってくれた日でした。<br /> <br /> 人間はこのような凄いことができるのだ・・・ と思うと、人間の可能性を感じます。<br /> <br /> 噂では、一時期R国に狙われて”拉○してR国のために働かせよう”という動きがあったみたいですけど自衛隊が数ヶ月かくまって保護した、という伝説があるようです。R国も認知している超能力者で、おそらくは今も自衛隊が常に要人の一人として陰ながら守っているのではないかと思いますが、どうでしょうかね。<br /> <br /> 生きる伝説のうちの1人のショーを見ることができて、十年来の希望を叶えることができました。<br /> <br /> <br /> ・・・その後、検索してみると「これは超能力ではなくマジックです」みたいなお話が山ほど出てきますけど、どうでしょうかね。私には本物のように見えましたけどね。<br /> <br /> 私自身、コップの中のサイコロを自分の好きな数字に変える、というマジックのお手伝いをしましたけど、私は高い椅子の上に最後尾で立っていて上には天井しかなくて、天井には何もなくてコップの中の数字を変えましたけど、何から何に変えた、というのはばっちり当てていました。少なくとも他人の心を読むことができるのは確実です。<br /> <br /> 心を読むだけであれば能力者は割と実はいて、身近なところでは女性は無意識のうちに心を割と読んだりしているのですけど、マスターはかなり正確に読み取っていましたね。<br /> <br /> リモートビューイングも、心を読む以上に難しいことではありますけど他にもできる人はぼちぼちいて、そこまで珍しいことではないですけど正確さから言ってマスターの能力は高いです。<br /> <br /> 一番凄いのは物質化能力で、確かにマジックでも似たようなことはできますけど、私はここ数年来、瞑想を続けるうちに動体視力が良くなって視界が割とスローモーションで認識できますので、それなりに早い動きであったとしても見抜けるのですけど、物体がどこかの方向に動くのではなく薄くなって消えて行って、また空間から半透明な状態に一瞬なった後に物体化していましたので、もしかしたら早過ぎて残像が見えているだけかもしれないですけど、早過ぎる動きだとすればそれはそれで凄いですし、早過ぎで動かすためには腕も動かさないといけないですけど腕は動いていなくて止まったままで物体だけ消えて物体が出てくるので実際の物質化能力であると思います。<br /> <br /> 紙に書いたカードの箱の絵が実体化して、紙から絵が消えた瞬間にすぐ下に物体化してカード入れの箱が出てくる、というマジックは圧巻です。意味不明です。ブログを見ると、食べられるもの(ハンバーガー等)を取り出したこともあったとか。カードの箱くらいなら紙や手で隠せるでしょうけど、重さがあるでしょうから紙の動きが変わってくるでしょうし、私は直接は見ていないですけど元の紙や手で隠しきれないサイズのハンバーガー等が出てくるのは意味不明です。カードの箱にしても、紙の後ろから落ちてきたのではなくて、紙から少し離れた下のところに突如出現して、万有引力の法則がそこから始まったかのごとく、その、紙から少し離れた下のところで持っている手を離したがごとく自由落下が開始されますので、その上の紙や手のところから落としたのではなくて、紙の少し下に突如現れて自由落下をしたとしか思えません。<br /> <br /> まあ、インチキだとか言っている人は、動体視力がどのくらいある人が言っているのかにもよりますよね。目がとてもいい人が「動いてすり替えている」と言っているのなら信憑性もありますけど、同じようなマジックがあって小道具が売られているからマジックだ、というのはあまりにも安直過ぎやしませんかね。スポーツ選手とかで動体視力がいい人が実際にその目で見て「動いてすり替えている」というのなら信憑性がありますけど、みたところ、そういう意見は見当たりませんよね。まあ、マジックだと思うのならそれがその人の真実なのでしょうから、好きにすればいいとは思います。一部の人は「マジックでもできる」というだけでマスターの能力を否定できたつもりのようですけど、マジックでもできるからと言ってマスターの能力の否定にはならないですしね。私が思いつかないだけでマジックでもできるのかもしれないですけど、私が見た範囲では本物だと思いましたね。いくつも、マジックでは不可能と思われるものもありましたけど、私が思いつかないだけでマジックでもできるのかもしれないですけど、まあ、マジックでもできるかどうかとマスターの能力とは本来は無関係ですので。<br /> <br /> 私の動体視力では一瞬だけ半透明になって消えて一瞬で現れているように見えます。半透明、というとあれですけど、アニメや映画みたいに、中央部分に向かってほんの一瞬で収束しつつ同時に一瞬で半透明になって消えていき、現れる時はそのような半透明や大きくなるという感覚なしに瞬時に現れます。ですから、消える時と現れる時で感覚が違うのです。消えている時は収束するように一瞬で消えた、という感じですけど、現れる時は最終的な形態に一瞬で現れます。これはおそらく、視覚的に、現れた後はそのままそこに存在し続けるので残像を見にくい、という違いがあるのではないかと思います。でも、見えにくいだけで、現れる時も、なんとなく、同様に半透明と中央から拡大、という過程を通っている気がしますけど、どうでしょうか。ただ、今から思えば、中央に半透明で消えるパターンと、その場で瞬時に消えるパターンとがあったような気が致します。消える速度とか、マスターの意図とかで消え方、現れ方が違うのかもしれません。<br /> <br /> ルービックキューブを見ないで口頭で言いながら揃えさせる技にしても、観客がぐちゃぐちゃにしたキュービックキューブを観客に動かさせて、しかもマスターはルービックキューブを見ないで完成させた技は凄すぎます。これはマジックだとしても凄い技です。超能力といえばそうなのでしょうけど、普通に頭脳の能力がとても高いです。トランプのカードを一瞬で映像記憶できたりしますからね。<br /> <br /> <br /> 心を読む能力を持つ人は割とそこら中にいて珍しくないですがマスターは正確に読んでいましたので能力は高く、リモートビューイングもぼちぼちいらっしゃいますので唯一無二というわけではないですがマスターのリモートビューイング能力は高く、それに加えて、物体化能力に関しては唯一無二で秀でていると思いました。<br /> <br /> Sat, 14 Aug 2021 00:00:00 +0900 スピリチュアル https://w-jp.net/topics/スピリチュアル/ スピリチュアル 想念形態だけが一人歩きして次の人生を形作ることもあり得る https://w-jp.net/2021/2436/ <br /> ヴェーダンタで言われているように本当の私は真我(アートマン)であるわけですけど、それは日本語でざっくり言うと魂のようなものであると言えます。<br /> <br /> 魂に相当するアートマン(真我)があって、その真我をベースにして(真我の上に)マインド(心)が存在しています。<br /> <br /> 心と言うと思考する機能(マインド)だけでなく魂のことも含意する時が日本語ですと時々文学表現であったりするように思いますけど、ここではマインドは思考する機能という位置付けの心であって、その思考する心(マインド)はアートマン(真我)を基礎に置いています。<br /> <br /> アートマン(真我)という微細な核があって、それよりもほんの少しだけ粗大なものとしてのマインド(思考する心)があるわけです。<br /> <br /> この構造において、想念形態というのはマインド(思考する心)および、アートマン(真我)とまではいかないまでももう少し微細なサムスカーラ(印象としての心)の組み合わせでできていて、この表現の仕方はヴェーダンタというよりは神智学的な表現になってしまいますけど、そのような、マインド(思考する心)とサムスカーラ(印象としての心)が一人歩きしてしまうことがあるのです。それをひとまずここでは想念形態と言っていますけどこれは確立された用語ではなくてどこかで聞いた言葉をとりあえず借りているだけですけど、マインドとサムスカーラのセットが一人歩きしてしまって次の人生を作り出すことがあるのです。<br /> <br /> ヴェーダンタで言えば全てがアートマンであり個としての概念のアートマンが実は全体のブラフマンと同じ、ということですので、実際のところそれらのマインドやサムスカーラであってもアートマンではあるのですけど、実際のところ、引き継がれる成長したアートマンと、そうでもないアートマンがいるのかなと私は考えております。<br /> <br /> これはヴェーダンタで言われていることではなくて私の感覚としてそのように理解しているということですけれども、経験を積んだアートマンはその引き継ぐマインドやサムスカーラも洗練されているけれども経験の少ないアートマンはマインドも機械的でサムスカーラも乱雑としている、というのが印象です。<br /> <br /> 厳密にテクニカルワードで言えばアートマンそれ自身は経験することがなくて永遠の存在ですので経験とは無縁なのですけれども、実際にはアートマンは必ずグナ(粗大な物質の3つの要素であるサットヴァ、ラジャス、タマス)と常に一緒にありますから、経験とも密接な関係を持っているわけです。<br /> <br /> このようなアートマンとグナ及びマインドとサムスカーラの関係に置いて、アートマンそれ自身は純粋であったとしても、マインドとサムスカーラが一人歩きする時があるのです。<br /> <br /> これは単純な輪廻転生として捉えることもできますけど、実際にはアートマンは輪廻転生をせずに永久に存在しますから、輪廻転生するというのは基本的にはサムスカーラとそれに付随するマインドの部分なのですよね。<br /> <br /> これをもっと細かく見ていきますと、まず、人が死ぬ時に、最後まで残ったサムスカーラ(微細な印象)とマインド(思考する心)がそこに残されます。<br /> <br /> 世間で言われているように死んだら無になってサムスカーラ(微細な印象)もマインド(思考する心)も消えてなくなってしまう、というのは嘘で、実際には、サムスカーラとマインドが残ります。<br /> <br /> その上で、それなりに精神的に熟していて落ち着いている人の場合はアートマンとサムスカーラとマインドが一体になって次の人生に入るか、あるいは、解脱にまで達していて昇天できる場合は転生せずにアートマンが「全体」あるいは「グループソウル」と言われているものに合一してサイクルを終えます。<br /> <br /> ですけど、欲望や快楽に満ちた人生を送って精神が分離をしていたりしますと、アートマンと「サムスカーラとマインド」が切り離れるように思います。これは語弊がある表現かもしれませんけど、もっと微細に言いますと、「アートマンと純粋なサムスカーラと純粋なマインド」と「アートマンと混乱したサムスカーラと混乱したマインド」の、大きく分けて2つ(あるいはもっとそれ以上)に分裂するわけです。<br /> <br /> そうして、片方はもう昇天して解脱に満ちた状態になるかもしれませんし、一方で、残された方は以前より悪いところだけになって地上に残され、輪廻転生を繰り返します。<br /> <br /> この後者は、傍目から見ると「アートマンは昇天して、混乱したサムスカーラと混乱したマインドが地上に残された」ように見えます。実際はアートマンは全てのものに浸透してこの世の空間に満ちていますからアートマンでなくなるということはないのですけど、傍目には、混乱したマインドとサムスカーラだけが地上に取り残されて欲望と快楽に満ちた人生を繰り返すことになります。<br /> <br /> こうなると混乱したマインドとサムスカーラは手のつけようがなくなって、切り離されて昇天した方のアートマンからしても悔いが残ることになり、一旦は昇天したけれどもまた微細な印象(サムスカーラ)が生み出されて分霊を作り出し、地上に行くことになったりします。<br /> <br /> これを聞くと、また輪廻転生のサイクルに入るのであればそれは解脱とか昇天というのだろうか? という疑問が生じるかもしれませんけど、ここで行われているのはサムスカーラによる衝動的な欲求ではなくて選択的な判断であり、分霊を助けに行くという選択をすることもありますし、あるいは、グループソウルからするとまだ選択肢があって、もう1つは「見捨てる」、あるいは「(不純な存在であったとしても)グループソウルに合流させて受け入れる」、はたまた最後の手段として「消滅させる」という手もあります。<br /> <br /> 見捨てる場合は、もう、そのままです。放っておきます。もはや関与しません。<br /> <br /> 消滅させる時は、その分霊は失敗作ということで消して終わりです。経験などは直接は引き継がれませんけど、外目から観察はしていますので一応の反省はなされます。<br /> <br /> グループソウルに合流させるという選択もあって、その場合はグループソウルがそのカルマの全てを受け入れて、それぞれのカルマを解消して行くことになります。<br /> <br /> このように、混乱したサムスカーラ(微細な印象)とマインド(思考する心)というのは切り離されてその後はグループソウルの判断に委ねられるわけですけどどちらにせよ、このように分離してしまったサムスカーラとマインドというのは厄介なものでスピリチュアルなことがほとんど理解できなくて肉体が全てで欲望と快楽に生きる人間になりますから、周囲からしたら迷惑な存在であることは確かなわけです。<br /> <br /> そのような機械人間になってしまうことが「分離」とかスピリチュアルでは言われていたりするわけですけど、それは心と魂が分離しているというスピリチュアルな意味も確かにありますけど、それに加えて、このように、本来のグループソウルが意図したところから分離してしまって想念形態が一人歩きして何度も転生を繰り返して欲望と快楽に生きている、という意味合いもあったりするわけです。<br /> <br /> そのような快楽人間・機械のような欲望だらけの人間が増える世界というのがあって、今の世の中は日本以外では割とそれが優勢だったりもしますけど、日本にも外国の悪影響が現れていたりするわけです。<br /> <br /> ここで言っているのは割と日本でよくあるようにスピリチュアル的に成熟したグループソウルの場合で、外国ですとグループソウル自体が欲望にまみれている場合もあったりしますから状況は違うのですけど、程度は違えども基本は一緒で、グループソウルが意図して分霊を作り出して転生するけれどもその転生で失敗したりすると純粋なアートマンだけがグループソウルに帰って行って、混乱したサムスカーラと混乱したマインドが想念形態としてこの世に生き続けて輪廻転生を繰り返し、欲望と快楽に満ちた人生を作り出すことがあるということです。<br /> <br /> Thu, 12 Aug 2021 00:00:00 +0900 意識と肉体が分離すると機械人間になる https://w-jp.net/2021/2434/ <br /> たまたま見た動画で、悪魔に乗っ取られた人、みたいなお話が出ていましたけど、悪魔かどうかはともかくとして、意識と肉体が分離して意識が肉体に戻れなくなっているような人はぼちぼち現代にいらっしゃいますね。<br /> <br /> そのような人の場合、最初、意識が体から離れやすくなって、幽体離脱しやすい状態になります。<br /> <br /> 意識と体が分離し始めているのですよね。<br /> <br /> それは、意識が激しく葛藤しすぎるのと、体と意識とが調和していないために体に意識が定着できなくなって、時折、何かの拍子に体から意識が離れてしまうわけです。<br /> <br /> これは「良くない幽体離脱」の例で、実際のところ意識の方は割と純粋で汚れが割とない存在ではあるのですけど、肉体にまつわるところに汚れが溜まったり、意識の方で意図的に肉体との調和を乱す方向を意図したりすると、最初はその感覚が面白いとか思ったりするかもしれませんけど、ふとある時に肉体と意識との結合が外れて、最初は幽体離脱してしまいます。<br /> <br /> これは幽体離脱ができるとかそういうことを言っているのではなくて、この状態というのは、とても危険な状態であるということです。ですから、幽体離脱するために体と意識を分離させようとする、ということはしてはいけません。<br /> <br /> 幽体離脱しても、最初は意識を体に合わせれば割と戻ることができますけど、しっかりと体と意識の調和が取れている場合はそもそも幽体離脱なんてしませんし、戻る時も、かっちりと繋がることができます。<br /> <br /> しかし、体と意識がズレていたり外れかけている場合は意識が体に戻る時も何やら噛み合わない感じですし、何度も同じことを繰り返しているうちに、戻りにくくなります。<br /> <br /> なんとか戻れているから大丈夫かな・・・ と、たかを括っていると、やがて、不意に、急に体に戻れなくなります。<br /> <br /> 体に戻ろうとしても、体にバリアみたいなものができてしまい、弾かれるようになってしまって、体に戻れなくなります。<br /> <br /> その時、他の意識体に乗っ取られたかというとそうでもなくて、何も意識体が入っていない体が肉体にまつわる反応と本能だけで生きるようになって、意識の方は体に存在しない状態になります。<br /> <br /> ですけど、体は普通にありますので、機械人間のようになって人生は続くわけです。もはやその場合、まともな思考もできませんし、単なる反射的な人生になります。それは人生と呼べるのかすら良くわからない状態になるわけです。ですけど、意外にそのような状態でもすぐに死ぬということはなくて生きながらえるようになるわけです。意識が体に存在していないような人間になってしまうということです。<br /> <br /> 意識が幽体離脱したまま体に戻れなくなった場合、意識はある程度は再チャレンジして体に戻ろうとしますけど、それでも駄目なら諦めて、肉体を捨てることになります。肉体は生き続けますけど意識の方はあの世に戻ったり次の人生で再チャレンジするわけですね。<br /> <br /> ですから、この世を生きて快楽に生きたり、肉体と意識を分離させるような激しい精神ショックを与えたり求めたりするのはとても危険で、植物人間あるいは機械人間を生み出すことになってしまうわけです。そのようなことを他人に強要するのであればそれは罪ですし、自分でそのようなショックを求めるのも愚かなことです。<br /> <br /> 動画で見たような「悪魔」が実際にいるかどうかは微妙なところで、半分くらいは、このように自分の意識が自分の元々の肉体から離れてしまって機械人間として人生を生きている場合も多々あるように思います。そうなりますと特定の習慣に従った行動しか取らないようになって知的な活動は皆無になりますから仕事もまともに行うことができなくなってしまいます。もしかしたらそのような場合に悪魔に肉体を乗っ取られる、みたいなこともあるのかもしれませんね。最初に肉体と精神・意識を分離させて肉体から意識を追い出し、空っぽになったところを悪魔が乗っ取る、というパターンは少ないまでもそれなりにあるように思います。<br /> <br /> その中間はとても多くて、精神・意識が完全に分離はしていないまでも混乱して何をしているか自分でわからず快楽や欲望に耽っている、というのはあり過ぎて例を挙げるまでもありません。<br /> <br /> Tue, 10 Aug 2021 00:00:00 +0900 雑念が出ても放っておく、という教え https://w-jp.net/2021/2422/ <br /> 瞑想の流派によっては「雑念が出ても放っておきましょう」という教えがありますけど、その教えは瞑想の集中状態あるいはサマーディの、特に心のサマーディの観照状態において正しいように思います。<br /> <br /> ですけど、それ以前であれば、それは単なる標章としてしか機能しないように思います。<br /> <br /> 雑念が出ても放っておく、という教えに従って本当に放っておくならば雑念が拡大していって雑念のループにより雑念が強くなり、怒りや憎しみ、嫉妬などの思いがより強くなるのが(瞑想をあまりしていない人にとっては)普通のように思います。<br /> <br /> 雑念が出ても繰り返さない、という教えをしているところもありますけど、それは「結果」としてはその通りですけど、そのようにしようとしてもできるものではありません。<br /> <br /> もし、心でそのことを意図するのならば、瞑想ができているイメージを作り上げて「私は雑念が出ても放っておくことができています」「私は雑念が出てきても繰り返しません」という、雑念でしかない心の思いを何度も繰り返すことでその気になる、というようなことも簡単に起こります。これは瞑想初心者にありがちなことで、おそらくは誰しもが通る道ですのでそれほど悪いことではなく、むしろ、瞑想をして少し経験を積んだ証となるものですけど、そこで立ち止まるわけにはいかないのですよね。<br /> <br /> 結果として雑念をループさせない、というのは良いとして、それ自体が「手段」ではないのですよね。<br /> <br /> ですから、雑念をループさせないための手段を考える必要がある訳です。<br /> <br /> それは聖典に記載されていて、マントラを唱えるとか、眉間に集中するとか、聞こえる人であればナーダ音を聞くことで心を一点に縛りつける、というようなことをおこないます。これらは手段としては違いますが、いずれにしても彷徨う心を縛り付けて1点に集中させる、という点においては共通しています。これらの手段のうち、通っている流派で教えている方法があればそれをすればいいですし、あるいは、選べるならば自分に合ったやり方をすれば良い訳です。この段階において良し悪しはさほどなく、好みと、自分に合った志向があるだけです。<br /> <br /> この段階では「雑念が出ても放っておく」ということはなくて、雑念が浮かぶ場所である心の動きを封じ込めて1点に縛りつけることで他のことが心に浮かばないようにするわけです。マントラを唱えて集中しているときは雑念が入ってきませんが、油断すると雑念が入ってきますのでそこは意思の力でマントラに集中を何度となく戻す、ということをおこないます。眉間に集中する場合もそうです。眉間に集中していると雑念が入ってきて眉間への集中が途切れたりしますが、ふと気づいて意思の力で眉間への集中を戻してあげます。これは目を瞑っているとなかなか気付けない場合もありますが、急いでいなくて時間に余裕がある場合は少しづつ行えばいいと思います。ナーダ音に関しても同様で、ナーダ音に集中することが基本で、雑念が入ってきてもそれは放っておいて、ふと気づいてナーダ音に意識を戻してあげます。<br /> <br /> この種の、雑念が入ってきてもそれを追わずに放っておいて瞑想の集中に戻す、というのが基本としてあります。このお話は、心は基本的に1つしか考えることができない、ということをベースにしています。瞑想の集中の対象にフォーカスして、雑念が入ってきてもそれを追わずに放っておいて瞑想の対象に集中しましょう、という教えです。<br /> <br /> 瞑想において雑念が出ても放っておく、というのは基本的にはこういうことを言っているわけですけど、その先に、サマーディ状態において心の観照状態というのもあって、それも表現としては割と似ていて雑念が出ても放っておく、ということにはなるのですけど、心のサマーディにおいては心の背後にあるアートマン(真我)が観照している状態ですので、状態としてはかなり違うわけです。<br /> <br /> Tue, 27 Jul 2021 00:00:00 +0900 ナーダ音かと思ったらまず耳鼻科を受診しましょう https://w-jp.net/2021/2354/ <br /> ナーダ音とは瞑想などにより浄化がそれなりに進むと聴こえてくる高い音ですが、ヨガ等をしていて聞こえる方もそれなりにいらっしゃるかと思います。<br /> <br /> これに関して自分が聴こえているのがナーダ音かもしれないと時々問い合わせが入るのですが、まず基本的にリモートでは全く診断はできませんし、直接の診断とか指導は行っていませんので、気になるなら耳鼻科をまず受診してくださいと伝えています。<br /> <br /> 何か聴こえてきたら耳鼻科を受診して耳に異常がなかった時に初めてそれがナーダ音かもしれない、と一応の仮説を立てます。<br /> <br /> 耳鼻科で診てもらえるのは物理的な耳だけですので、耳鼻科で問題なしと言われてもこの時点ではまだナーダ音かどうかはわかりません。<br /> <br /> ストレスを受ける生活をしている時は耳に異常がなかったとしてもストレス要因による耳鳴りが起こる場合があります。<br /> <br /> あるいは、頭蓋骨の状態や何かの骨の位置が原因で耳鳴りが起きている可能性だってあります。<br /> <br /> どちらの場合も耳鼻科ではわかりません。<br /> <br /> ですから、何か不思議な音が聞こえてきてもそれがナーダ音だと早合点しないことですね。<br /> <br /> ナーダ音かどうかの判断基準は一応はありますけど、そうは言いましても最初は普通の病院で診てもらうことをお勧めしますね。<br /> <br /> メールでの問い合わせには一応は簡単に答えたりはしていますけど、それは指導ではなくてメールの内容への感想とか感想メールに対するお礼です。私は医者ではありません。色々書いてはいますけど特に指導とかしているわけではありません。<br /> <br /> ナーダ音だと早合点して病院に行かずして悪化させてしまったとしても何も責任取れませんのでまずは病院に行っていただければと思います。<br /> <br /> <br /> 関連 → アナハタ・ナーダの聖音とクンダリーニ<br /> <br /> Mon, 10 May 2021 00:00:00 +0900 他人への同情への強制はエネルギーの低い人がする行為 https://w-jp.net/2021/2299/ <br /> 同情という行為は選択的に行われるべきであり、エネルギーの低い人に対しては安易に同情すべきではありません。<br /> <br /> 同情とは基本的には割と同じ水準のオーラを持った人同士が相手を許して受け入れた時に行う行為であり、エネルギーの差がある人との間で同情を行うとエネルギーの同質化が起こりってお互いに多大な影響を与えますので、安易にするものではないのです。<br /> <br /> 自分よりエネルギーの高い人に対して行うのは同情ではなく尊敬であり、一方、自分よりエネルギーが低い人に対しては同情するのではなく愛を感じることです。<br /> <br /> 同情というと世間では良いことのように言われていますけど、実際は、同情とはエネルギーの低い人が他人からエネルギーをもらうために行う行為、あるいは、エネルギーの高い人がエネルギーの低い人にエネルギーを与えるために行うです。しかもそれはオーラの深いところから行われますので、ただ与えるだけでなく、お互いのオーラが均一化して、お互いにお互いの課題や何やらを共有することになります。<br /> <br /> ですから、こういった行為を安易に行うことはあまり褒められたものではありません。<br /> <br /> こう言うと反発する人が一定数いて、それは私にとって面倒なことだったりもしますのであまり世間では言わないですけど、実際、同情を必要としている人というのは他人のエネルギーに依存していて他人のエネルギーを必要としている場合があったりするのですよね。それを隠すため、あるいは、他人に気が付かせないために同情とは良いものだという同意を誘ったりすることもありますけど、安易に騙されないことが肝心です。あるいは、相手にそのような疑念を抱かせないために同情が良くないものというお話をしただけで怒鳴ってくるような場合も同様です。怒鳴るということはそのような真実に触れられたくはないという心理の表れで、盲目的に同情を続けさせることでエネルギーを奪い続けたい、という心理が自覚していようがいまいがそこには横たわっています。世間ではこのように、同情というものが良いものということにしておきたい人が一定数いて、それ故に、同情ということに対する真実があまり世間に出にくい状況になっています。<br /> <br /> これは、同情を誘うと言う意味でもそうですし、自分が同情する、という意味においても同じです。<br /> <br /> これはどういうことかと言うと、繰り返しになりますが、同情というのはオーラの一体化が本質であるからです。<br /> <br /> 同情するということは一体化をするということでありますから、エネルギーが高い方から低い方へと流れます。<br /> <br /> 同情というのは情というくらいですから愛よりも低いエネルギーです。そのレベルの低いエネルギーがお互いに感応し合って融合し、その時、エネルギーの均一化が起こる。それが同情の仕組みです。<br /> <br /> 同情することで両者のエネルギーレベルやカルマまでもが一体化します。<br /> <br /> 世間で言われているように同情することで他人を助けるなんて言ってしまうと聞こえが良くなってしまいますけど、実際そこで起こっていることは、他人と自分とのオーラが一体化して均一化しているということです。その真実を知ったら安易に同情なんてできなくなると思いますが。<br /> <br /> 世間では同情が良いものかのように言われていますけど、実際は、安易に他人に同情すべきではない、ということでもあります。<br /> <br /> 同情、という言葉だけでなく、相手に対する理解、ということでもその人の意識のレベル・覚醒の度合いによっては割と同じお話になります。<br /> <br /> 状況的に同情というか相手のことを理解しなくてはいけない場面がこの世には多々あって、時にはその一時の同情をしたことによってその後の何年も自身のオーラに影響を与えてメンタルを壊し、逆に、相手が元気になって健康になる、ということも起きます。<br /> <br /> エネルギーが枯渇していて他人のエネルギーに頼っている人、また、相手を操作しなければ自身が生きられないような骸骨あるいはヴァンパイアのような人生を送っている人がこの世界には多数いて、例えば、仕事の上司などで部下からエネルギーを貰うことで生活しているような人も多数います。<br /> <br /> そのような場合、奪っている側の上司は割と健康で、メンタルを壊すのは部下の方になります。出世するのも上司で、部下を使い捨てにすることで昇進してゆくわけですね。<br /> <br /> パッと見た目は上司の方が元気に見えたり部下がメンタルおかしく感じたりもしますのでこのような場合に何が起きているかを見抜くのは人生経験が必要で、それも、ただ年寄りならば理解できるというわけでもなく、何回も何十回も何百回も転生を繰り返さなければこのようなことは見抜けないように思います。<br /> <br /> ですから、世間の一般社会ではこのような場合に上司が一見すると立派に見えて部下がメンタルおかしく見えたりしますけど、実際には上司のスピリチュアルがかなり低くて部下の方が遥かに高い、なんてことも普通に沢山あるわけです。<br /> <br /> 世間ではオーラに対する理解が薄いのでこのようなことになるわけですね。<br /> <br /> 会社は「辞めてはいけない」なんていう考え方は文化的な歴史的なところもありますけど、今の現代における同様の考えを維持しているのはある程度はこのようにエネルギーを奪いたい人、例えば上司が安易に部下を逃げられないようにすることでエネルギーの供給源を保つ、という意味合いもあったりするわけです。<br /> <br /> スピリチュアルな理解がある人ならば、エネルギーを奪うような人が上司の下にいるのならば安易に同情しませんけど、上司からすると「協調性がない」とか言って評価を下げて協調を強要して、そのことで、意識的に行っているのか無意識的なのかどうかはそれぞれですけど同情というレベルにおいてエネルギーを均一化させてエネルギーを奪おうとしている、という構図があるわけです。<br /> <br /> 最近の若い者は協調性がないとか言われていますけど、私からすればそれは健全になったということで、エネルギーを奪いたい年寄りが騒いでいるだけ、という面もあると思います。<br /> <br /> 日本は他人に対する同情が度を越しておりますので、同情を誘って他人から奪うような生き方をする人にエネルギーを与えない、というレッスンが日本全体に与えられているような気が致します。<br /> <br /> 重要なのは2点あって、1つは自身のエネルギーを高めること。2つ目は他人に安易にエネルギーを奪わせないこと、です。<br /> <br /> 瞑想など精神的訓練をすることで同情の度合いは格段に減って、自立し、より高いレベルにおける愛による一体感を味わうようになります。そうして、同情というレベルにおいては選択的に行うようになります。<br /> <br /> Wed, 24 Mar 2021 00:00:00 +0900 心を一点に集中させるのは間違っているという教え https://w-jp.net/2021/2290/ <br /> 流派によっては心を一点に集中させるのは間違っている、と教えています。<br /> <br /> これはこれでよく理解できて、理屈としては正しくて、サマーディに近づいたレベルであればそれは正しくて、あるいは、素質がそれなりにあったり、現代社会のように雑多な社会でなければきっとそれは可能なのだと思います。<br /> <br /> 心がさまよい出ていかないように、すべての思考を遠ざけ、寂静の境地や楽にとどまろうと、心を一点に集中するのも間違いだということをはっき知っておく必要がある。この「集中」そのものも、またもうひとつ別の思考にほかならないからだ。心をリラックスさせ、ただ、気がそれたり忘れてしまったりせずに、自分の真の境地そのものを目覚めさせたままにたもち、いかなり思考にも支配されないようにするのだ。本当にリラックスしているとき、心はあるがままの自然な状態にある。「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」<br /> <br /> これはこれで一貫性があって、本質で言えばこれは正しいと思います。<br /> <br /> しかし、本質では正しくあっても、特に最初はこれは実行が困難だと私は思っていますし、著者も同様のことを認めています。<br /> <br /> 修行を始めたばかりの時には、長い時間、こうやって気が散らないようにしながら、思考をあるがままに認めてやるのは困難だ。(中略)みずからの心の状態にとどまり、寂静な境地や思考の波の動きがあらわれてくるまま、一瞬一瞬を味わいつづける。それ以外に修習はない。あるがままの自己を知り抜き、自分自身の真のリクパの境地にとどまりつづけるのだ。それ以外に、何か非常にすばらしい経験や輝きを追い求める必要はない。「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」<br /> <br /> これはこれで正しくて、こうしてグル(あるいはラマ)に言われたらそのまま納得するしかないですけど、実際にはそれは割と高いレベルで物事を語っているように私には思えるのです。<br /> <br /> リクパの境地はいわゆるサマーディを短期間でも行えるというレベルですから、リクパの境地に留まるのが困難な人であれば確かにこの理屈で合っていますけど、リクパが出てきていない人であればこれは困難なわけです。こういうことを言うと、リクパの境地は誰にでも備わっているから誰でも可能、という声が聞こえてきた気がしますけど、たしかにそれはそうですけど一般人のリクパの境地はとても弱くて、一瞬しか続かないわけです。<br /> <br /> きっと近くにグルがいて一緒に生活するような環境ではそれが可能なのかもしれません。よく、精神修行にはグル(精神的な教師)が必要と言われていますけど、グルがいる環境であればそれはそれで正しいように思います。<br /> <br /> 特に初心者は、この覚醒した意識を常に保ち続けるのはとてつもなく困難です。簡単に挫折してしまうほど困難なわけです。グルが近くにいない環境であれば特にそうです。<br /> <br /> 一方で、グルがいたとしてもいなかったとしても、これらの説明を誤解して解釈してしまう可能性もあります。観察と言われると、これらで言っているリクパの境地とは五感を超えているのに対し、説明だけを読むと五感、特に皮膚の感覚を観察することがリクパの境地であるかのように勘違いをしてしまう可能性もそれなりにあります。<br /> <br /> 皮膚の観察をすることや、特に鼻のあたりの呼吸を観察すること、あるいは、眉間に集中することなどは五感の観察あるいは心の観察、心の集中という観点からすると大差なくてどれも全て五感を用いた心の集中であるのですが、皮膚の観察をしているとリクパの境地でサマーディ状態かのような勘違いをしてしまうわけですよね。特にグルがいない環境ではそうです。<br /> <br /> ですから、私としては、上記の説明はとても正しいのですが、言葉の説明を聞くだけではとても勘違いしてしまうので、特に注意が必要なお話かな、とも思います。<br /> <br /> それよりも、誤解も少なくて実行も可能である「集中瞑想」の方がその前段階の入口として瞑想手法として優れていると思っています。<br /> <br /> ここで、一見すると矛盾したことを言っているように見えるかもしれませんけど、ある意味、この集中瞑想というのは確かに最終的なサマーディの状態においては集中というのは不要ですので、上記の説明のように「集中瞑想というのは間違っている」とも言えるのですが、そうは言いましても上に書きましたようにこのお話はとても誤解が生じやすいことですし、ましてや、いきなりリクパを使ったサマーディの練習なんて普通の人には実行がとてつもなく困難なわけです。<br /> <br /> それであれば、集中瞑想から始めて「静寂の境地」くらいまで達してその後やがてリクパが出てきたところで上のようにサマーディに遷移すれば困難も少ないわけで、ただ、最初に注意事項として集中瞑想がゴールではないということだけ理解しておけば十分かな、と思うわけです。<br /> <br /> 上記のように色々と説明を聞いてしまうとまるで集中瞑想が悪者かのように解釈してしまうかもしれませんけど、実際のところ多くの流派で集中瞑想は初段階の瞑想として広く用いられていますし、観察瞑想と言っているところですらその内容を見ると特に最初は単なる集中瞑想が実態だったりします。その説明として矛盾しないように集中瞑想を否定していたりしますけど、実態を見れば集中瞑想でしかなくて、理屈を合わせるために集中瞑想を否定して観察瞑想と言っているだけだったりします。<br /> <br /> これは弟子たちの理解不足にも問題があるのかもしれませんけど、最初は集中瞑想で全く問題ないわけです。そもそもサマーディというレベルに達していないのにサマーディに入っていく説明で集中瞑想を否定しているだけなのに、最初から集中瞑想が不要かのように弟子たちが理解してしまう、あるいは、瞑想の先生と言われる立場であっても割とこのあたりを理解していないことも多々あるように思えるのですよね。<br /> <br /> 瞑想とは心の中で行うものですから、このあたりを理解せずとも一応コースを受ければ瞑想の先生にもなれてしまいますけど、実際にサマーディに達したらこのあたりのことはすっきり理解できるのですけど、そこに達しなければ集中瞑想を否定しまうような誤解が生じてしまうのだと思います。<br /> <br /> そうは言いましても、今の私の感覚からすれば集中瞑想はどうでもよくて、リクパのサマーディを日常生活で保つことにだけ最近は興味がありますから、最初に引用した説明の方がしっくりきているのは事実です。<br /> <br /> ただ、過去の記憶を辿ってみると集中瞑想も有用だった時期もありますので、その時の記憶を元にお話をしていますが、たしかに、例えば生まれながらにそれなりの境地で生まれたら最初に引用したように集中瞑想を全否定してしまうのも致し方ないのかな・・・ とも思います。人によっては、特に偉大なグルはそのような場合も多いですしね。<br /> <br /> ですけど、凡人はいきなりそのレベルにありませんので、集中瞑想から始めるべきだと思うわけです。<br /> <br /> 私は割と好き勝手にやっているのでこういうこと言えますけど、流派に属していると集中瞑想が絶対だったり、観察瞑想が絶対だったりして、堅苦しい面もあると思います。そこはまあ、個人的に思うのは流派のやり方は適当に聞き流しておいて自分の理解を元にやるのがいいと思いますけど、そこは人それぞれかと思いますのでそれもまた好きにすればいいと思います。<br /> <br /> 実際、上記の引用元であるゾクチェンでは、サマーディに入るための修行というものも存在していて、必ずしも上記の通り弟子に過酷な現実を叩きつけるだけではないように思えます。そこはきっと流派やグル(ラマ)の考え方、やり方に依存していて、上記のように考えるグルもいるということだと思います。<br /> <br /> ですから、上を読んですぐに「そうか。集中瞑想は間違っているのか」と早とちりしないことが肝心だと思います。<br /> <br /> 繰り返しになりますけど、今となっては集中瞑想はちょっと気持ち悪くて不快感すら感じるくらいになっており、もともと停止していない心というものを無理やり止めたり一点集中して雑念が湧きにくい状況にするのは今は違和感しかないのですが、それでも、雑念が多くて雑念に振り回されている時は集中瞑想で心を一時的に止める瞑想も有効だったと思います。それの極地が「無」の瞑想なわけですけれども、そこで留まることをせずに一時的な休息であるのならば十分に効果を発揮できたわけです。<br /> <br /> Sun, 14 Mar 2021 00:00:00 +0900 音楽で他人をコントロールしようとしている人がそれなりにいることに気付く必要性 https://w-jp.net/2021/2289/ <br /> 良い音楽も沢山ありますが、その一方で、他人をコントロールしようとしている意図がある音楽も沢山ありますので注意が必要です。とは言いましても、音楽家の本人たちは好きに表現しているだけのことも多くありますし、プロヂュースの過程で本人の意図とは裏腹にそのような意図が乗ってしまう場合もあるかと思いますので、これは個人への指摘としてではなく、現実としてそのような音楽が沢山ありますのでそれに気付きましょう、ということです。<br /> <br /> スピリチュアルの道は自由が根本にありますから、他人をコントロールしたいと思って生きている人のことも否定しませんし、そのように他人を操作して利益を得たりすることを勧めはしませんけど、その人が好きでそのような選択をして他人をコントロールする人生を送っているのであれば好きにすればいい、という立場を取っています。それもまた、本人の自由なのです。<br /> <br /> 他人をコントロールするような人生を勧めはしませんし、それと同時に、私に対しての操作に対しては拒否をします。他人をコントロールしようとする人は好きにしてくれて構わないですけど、私の方としても、それを受け入れる自由もあれば拒否する自由もあるわけです。私は他人からコントロールされる人生とは無縁でいたいと思っておりますので、拒否するということです。<br /> <br /> そうは言いましても、いわゆる高次元、私のいわゆるハイヤーセルフあるいはグループソウルとしての意図からの操作は私に対して行われていてそれは受け入れますけど、それは他人からの操作ではなくいわゆる高次元からの私自身からの自分自身に対する操作ですのでそれは別物なわけです。<br /> <br /> ここで言ってるのは、この人間界において同じレベルの人間同士における操作と操作される者という関係とは私はなるべく無縁でいたい、ということです。<br /> <br /> その操作は様々なところに隠れていて、わかりやすい状況として他人を説得して操作する場合や、脅して動かす場合などもありますけど、わかりにくいのは音楽で他人をコントロールする場合です。<br /> <br /> 一般的には音楽とはいいものだと言われていて、確かに良い音楽も沢山ありますけど、他人を操作して同一の行動を取らせようとする音楽も多々あるということです。<br /> <br /> スピリチュアルな立場としては、その意図に気付くことが重要で、音楽を聞いた時にそこに乗っている意図をなるべく読み取ることで特定の音楽に同調しないよう気をつけることができます。<br /> <br /> それは、人と話す時にその裏を読み取るということと同意ですので、人の気持を読み取れる人は音楽の奥に乗っている意図もそれなりに読み取れる素地はありますけど、音楽の場合はもっと微妙で、メロディや歌詞および抑揚などで芸術的に歌い上げたり演奏している場合はその奥底にあるコントロールする意図をなかなか見抜けない場合もあるわけです。<br /> <br /> 一見すると素晴らしい音楽で、確かに純粋に素晴らしい音楽もありますけど、その音楽自身にコントロールが隠されている場合もありますし、音楽自身は純粋だけれどもその音楽が使われている場面や前後の表現でコントロールしようとしている場合もあります。後者の場合でも、団体の集合意識でコントロールの意識が音楽に乗ってくると元々音楽自身が純粋でもいつの間にかその音楽にコントロールの意図が染み付く、という場合もあります。<br /> <br /> ですので、最初は良い音楽と思っていても、時間が経つにつれて集合意識が書き換わってその音楽にコントロールの機能が付け加わる場合があるので注意が必要です。<br /> <br /> これは、音楽を楽しむのがいけないと言っているのではなくて、純粋な音楽を邪悪な意図で利用しようとしている人がいますので注意しましょう、ということです。音楽は音楽で楽しむのは良いことでありますけど、音楽を使ってコントロールしようとしている人が一定数いますので、それに注意しないとスピリチュアルから離れて行っていつのまにか他人にコントロールされる人生を送ることになりますよ、それでもいいのですか、というお話です。<br /> <br /> この世界は割と残酷で、罠にはまったら当分抜け出せない、なんてこともよくありますからね。見えない蜘蛛の巣がそこら中に張り巡らされていて、捕まったらずっと長い間、他人のコントロールされ続ける、なんてのもおくあるお話です。<br /> <br /> 他人は好きにすればいいとは思っていますけど、その好きにすればいいというのは個人の自由意志で好きにすればいいというお話であって、他人にコントロールされる人生は自分の自由意志を使っていない人生ですので、それはやめた方がいいと思うわけです。<br /> <br /> べつにこれは「見抜かなくてはならない」というお話ではなくて、スピリチュアルやってるなら見抜いた方がいいんじゃないの、というくらいのお話です。<br /> <br /> 個人的には、こうした種類の影響からかなり離れることができたと実感したのはナーダ音が聞こえるようになってナーダ音があれば普段聞く音楽はいらなくなった頃からコントロールする系統の音楽から自由になれた気が致します。これは、地味ですけど個人的にはかなり大きな変化だったように思います。<br /> <br /> Sat, 13 Mar 2021 00:00:00 +0900 男女は不平等なのがが当たり前 https://w-jp.net/2021/2286/ <br /> そもそも人は不平等です。男女では体の作りがそもそも違いますし、適した役割も異なります。<br /> <br /> 人間として転生した経験が少ない人は女として人生ゲームを始めて、ゲームの設定が「イージー」で開始したりするわけです。専業主婦で幸せな家庭でそのまま亡くなる、という人も意外に多くいらっしゃいます。<br /> <br /> そして、女としてなにかやりたくて生まれる場合もあるでしょうし、男で何かしたいことがあるから男で生まれる場合もあります。<br /> <br /> 男に適した仕事もありますし、女に適した仕事もあります。<br /> <br /> そもそもエネルギーが男女で全然違いますよね。エネルギーの違いがそのまま仕事の違いになるのであって、適していない仕事をしたら不適格になります。それが違和感として現れたりします。<br /> <br /> 西洋で始まった男女平等という考え方を厳密に適用したら女も力仕事をすべきということになりますし、女の負担も50%で、女の義務も50%で、女が専業主婦なんておかしい、ということにもなりますし、女を助けなくてもいい、ということにもなります。<br /> <br /> ですけど、繰り返しになりますけど、人生ゲームがイージー設定の場合は女性として生まれて、家庭もそれなりに裕福で、お金にもさほど困らず、贅沢はできないかもしれませんが普通に生まれて普通に亡くなっていったりするわけです。<br /> <br /> ですけど、男女平等だから女も働かないといけない、みたいなお話になってくるとイージー設定が亡くなっていって、人間としての経験が少ないのにいきなりノーマル難易度設定で始まったら難しすぎて詰まってしまったりするかもしれません。<br /> <br /> 人生経験が少なくて男で生まれる場合ももちろんあって、家庭が裕福だったりしますけど、それもまあ、その時々ですので必ずしもそうとは言えませんけど、それなりに考慮されたりします。<br /> <br /> ですがまあ、あまり考えなしに生まれる場合はとりあえず生まれてみて、生まれた後に「あ、失敗だった」ってときもあるにはあります。<br /> <br /> どちらにせよ、そこに人生の難易度の違いがあって、助ける側と助けられる側が存在するわけですね。<br /> <br /> 例えば、財政面で言えば男が女を助ける、ということにもなるでしょうけど、子育てとか家事に関しては女が男を助ける、という構図だったわけです。それは分業ということでもありますけど、財政面でも子育てでも家事でも今は50%づつ、みたいなことが言われていますけど、専業の方が上達もするでしょうし、何より本人たちが楽だと思うのですけどね。なぜにわざわざ分業で50%づつして、自分の不得意なこともしなくてはいけないのか意味がわからないです。それなら最初から結婚なんてしなければいいと思いますけど。<br /> <br /> そもそもこれは男女の違いというお話ではなくて、家族であっても他人だから助けない、という根本的な態度が根底にあるように私には思えます。<br /> <br /> というのも、男女平等という皮をかぶりながら、実際のところ、「他人は助けません」と言っているのに等しいと私には思えるからです。自立だとか尊厳だとかいろいろと男女平等のお話で言われていますけど、それは仕事や役割が50%分担というお話ではなくて、単に、専業であったとしても自立だとか尊厳とかは満たせるわけで、男女平等というお話が何故に分担50%というお話になっているのか、そこの不思議を見抜く必要があると思います。<br /> <br /> 結局、自分のことしか考えない、というお話が西洋の根底にあって、それ故に男女平等というお話になっていると思えるのですよね。<br /> <br /> 昔は女で生まれれば割とイージーモードで、それのどこが悪いのでしょう? と私なんかには思えるのですけど。<br /> 女で生まれて結婚できないと困窮したりもしますけど、それは男で生まれたって似たようなものですし、困窮と男女平等とを並べない方がいいと思いますが。<br /> <br /> 男で生まれるにしても女で生まれるにしても、慣れてくると生まれて来る前に大体の計画をたてて、どのような人生にするのか決めてから生まれてきます。ですけど、初心者の場合ですと適当に決めるか何も決めずになんとなく生まれて、それで失敗して困窮したりしますけど、それは初心者の場合あるいは不注意だったのが理由ですので、それはもう、どうしようもありませんね。<br /> <br /> あるいは、計画で困窮を体験したりする場合もありますけど、それは割と少ない気が致します。あるいは、自分ではあまり意識しなくともそれが勉強だからと言われて困窮を経験したりする人もいるかもしれません。<br /> <br /> どちらにせよ、今の男女平等で言われている女の貧困問題は男女平等で解決するのではなく、それの逆で、男女にしても男だろうと女だろうと関係なくて、人としてそもそも不平等で、経験も違うし役割も違っていて、それ故に、男女平等だから自助努力で50%を目指すのではなくて、そもそも人として違うし財産も役割も得意なことも違うので、それ故に強き者が弱き者を助ける、というところに行き着かないとこの世界の問題は解決しないと思うわけです。<br /> <br /> 自助努力で自分が独立した存在で男女であっても平等という考えから今の男女平等の50%負担というお話になりますけど、そもそも負担なんてほとんどせずに受け取るだけの人がいてもいいわけです。たくさん持っている人は与え続けてもいいわけです。平たくいえば、強き人が弱き人を助ける、というお話で、金銭面のお話もあるでしょうし、女が適している役割であればもちろん女が男を助ける、みたいなお話もあります。<br /> <br /> そもそも人が不平等なのですから、男女平等50%みたいなお話に飛びつかない方がいいと思いますけどね。<br /> <br /> Wed, 10 Mar 2021 00:00:00 +0900 事故するのは運命なのか? https://w-jp.net/2021/2285/ <br /> スピリチュアルではよく運命論が言われていて、「自分で決めていたのです」みたいなお話がありますけど、確かにそのように決めてそうなった場合もあれば、本当にたまたま事故する場合もあります。<br /> <br /> それは時々ですので、それぞれの場合を見てみないとわかりません。<br /> <br /> 予定通りに事故する場合もありますし、予定はなかったけれども何らかの理由があって事故することを選ぶ場合もありますし、一方で、予定にはなかったけれども偶然に事故してしまう場合もあります。<br /> <br /> それぞれの場合において、顕在意識がその理由を知ることもあれば知らないこともあります。<br /> <br /> ですから、上記の例で言うと3通り×2通り=6通りのパターンがあるわけです。<br /> <br /> 予定通り事故して顕在意識でそれと分かる場合と、わからない場合。<br /> 他の場合にしても同様に顕在意識でそれと分かる場合と、わからない場合があるわけです。<br /> <br /> ですから、顕在意識でそれとわからなかった場合にどれかを判断するのは困難で、それの時にスピリチュアルな人がしがちなのが運命論や「決められていたこと」と判断してしまったりするわけですが、わからない場合には「わからない」と受け止めるべきであって、運命論に結びつけるべきではないのですよね。<br /> <br /> 色々な理由がありますし、実際、その理由が1つとも限らないわけです。とは言っても大体は主要な理由は1つですけど、複雑な場合だってあります。<br /> <br /> ミッション失敗で想定外に事故してしまう場合もありますしね。上の場合だけではありません。それぞれです。<br /> <br /> Sun, 07 Mar 2021 00:00:00 +0900 六本木地域の邪気 https://w-jp.net/2021/2284/ <br /> 先日、都内を自転車で徘徊していたところ、六本木地区の邪気を強く感じました。<br /> <br /> 昔は山手線の中は割と邪気に満ちているところが多かったように思いますが特にコロナの後はその邪気が弱まっていて、コロナも混乱の一方で土地に対しては良い効果もあるのだなと思っていたのですが、それと直接的関係があるのかはわかりませんが六本木の地域は以前よりも邪気が増したように思います。<br /> <br /> 以前は六本木の地域は割とマシで、山手線の内側の場所としてはぼちぼち普通のオーラがありましたけど、先日行ったら、東京ミッドタウンのあたりが邪気に包まれていました。<br /> <br /> そのエリアだけが異様な雰囲気になっていて、調査と興味本位を含めてミッドタウンに入ってみたところ、急に視界がぼやけてきて呼吸が乱れてきました。<br /> <br /> 急に、少し風邪を引いたみたいになって鼻水が出てきます。あまりにも急です。<br /> <br /> まあ、これは、ハウスダストとか壁に使われている薬品や香料が原因だったりしますのでたまたまの可能性もありますけど、コロナの状況でお客もそれほど多くありませんし、改装された様子もなさそうです。コロナのために消毒はしているかもしれませんけど、消毒は他のビルだってしているはずです。ここだけ消毒が違う、ということはないとは思いますが。<br /> <br /> あまりにも鼻水が出ますし目もシバシバしてきましたので花粉症かと思ってトイレで鏡を確認してみたところ、最近にしては珍しく目が少し充血していました。<br /> <br /> これは呼吸が乱れて邪気を感じている時によくあることで、これ以上ここにいるとやばいと思ってミッドタウンを出ました。<br /> <br /> 周囲の人々を観察してみるとそれほど邪気にやられているという感じでもなく、何なのでしょうかね。<br /> <br /> 私がたまたま邪気にあたっただけ、という可能性もあります。<br /> <br /> その後、自転車で家に帰る途中、ふと肩が硬くなっていることに気がついて、ひょっとしたら取り憑かれているのではと思って、右肩(死霊は右肩につきます)のあたりをオーラの手で掴んで引き抜いてみたところ、「子泣き爺」のようなものが出てきました。こわっ!<br /> <br /> 子泣きじじい、と言えばそうですけど、昆虫のサナギに人の顔がついていて、その周囲からツルのようなものがいくつも出ていて私の体の周囲に取り憑いています。これ、人間なのですかね? 人間と昆虫が合体したもののようにも見えますけど、人の怨念のようにも見えます。<br /> <br /> このコロナ渦ですし、六本木地域で経済的に困窮して何かを呪った時の怨念がミッドタウンを徘徊していて、それが取り憑いてきた、と考えるのが理にかなっています。そんな気がします。<br /> <br /> 自転車をこいでいましたので、それを引き抜いた後に光の剣のようなものでくっつているツルを切って引き離して、オーラの布というかオーラの包帯のようなもので包んでポイッと道に捨てました。その後はどうなったのかはわかりません。消滅させたほうが良かったのかもしれませんけど、もともと何者なのかもよくわかりませんしね。<br /> <br /> その後、体にまだ少しついているツルの枝のようなものをポイポイっと掴んでそれも道に捨てました。<br /> <br /> 自動車でたまたまその道を走っていてその怨念を拾ってしまう人もいるかもしれないですけど、それは私としても同じことですし。一応はオーラの包帯で包んでありますのでしばらくは平気ですけど。<br /> <br /> 自分のオーラが強くなってきて、特に創造・破壊・維持の公の意識が出てきてからは邪気にあまり左右されなくなってきて、都内のこうした邪気が強い場所でも体調を崩すことはほとんどなくなってきたのですけど、今回は久々に多調を崩すくらい邪気にやられました。<br /> <br /> どうやら、これは程度問題で、邪気がかなり強ければやはりやられてしまう、ということのようですね。<br /> <br /> それにしても、六本木のミッドタウンを徘徊して思ったのが、以前は六本木であっても普通の一般人もそこらに歩いていたのに、最近は綺麗な新品の服を来ている人と外国人ばかりが目に付きましたね。コロナ渦で近所の人しか来ないのかもしれないです。私は自転車用のちょっと古いアウトドア服だったので浮いていたかも。以前は一般人も多かったので服の違いなんて気にならなかったですけど、今はそのように綺麗な服を着た人ばかりで私が多くの人と違う感じだったので目立って怨霊が目をつけた、という可能性はあります。<br /> <br /> 怨霊とは言っても普通の人の感覚とそう違わなくて、なんとなくそこらをうろついていて、目立つものがあればそれに惹かれるわけです。そうしてターゲットを見つけたら取り憑くわけですけれども、邪気のあるところで目立つ行動をしていると取り憑かれる可能性も増えるわけです。<br /> <br /> その時、自分のオーラが強ければ相手が引き下がって取り憑かなかったりしますけど、邪気の方が強ければ普通に取り憑いてきます。自分の体調によっても自分のオーラは変わりますし、一概には言えないですけど基本はそうです。<br /> <br /> それと合わせて、以前は気になりませんでしたけど六本木を改めて歩いてみると「自分の地位を保つ」意識が充満していて息苦しいですね。コロナ渦で遠方から来ている人が少なくて近所の人が多いので六本木の人のオーラが純粋にわかったのかもしれません。綺麗な服で着飾って良い家に住んで綺麗な嫁を囲うというステータスを守っている人がそこら中に歩いていて、ミッドタウンで見るカップルなんてほとんどそんな感じで、なんじゃこりゃ? と思いました。ああいうところが邪気に覆われているということは、やっぱり嫉妬から来た怨念だったのですかねえ。そんな感じがしました。嫉妬って恐ろしいですね。となると、六本木に住むというのはそのような人に囲まれて住むということで、私はそういうのは微妙に感じてしまいます。<br /> <br /> Sun, 07 Mar 2021 00:00:00 +0900 陰謀論とかディープステートみたいなお話には関わらない方が良い https://w-jp.net/2021/2283/ <br /> 陰謀論やディープステート(影の政府)みたいなお話は世界を支配したい人間が混乱を目的として創作したわけです。<br /> 少なくとも、一般人であれば基本的にはこのようなお話には関わらない方が良いと思います。あまり関係のないことですから。<br /> <br /> 夢や瞑想で見たお話ですので本当のことかはわかりませんが昔から割と高次の存在が地球の政治や支配に関与してきて、いわゆる神界だとか言われている階層で政治や平和についての話し合いがなされた上で誰かが地上に転生をして王族になって地球を治めてきました。<br /> <br /> それは、地球で最初から進化を遂げた魂というよりはむしろ地球外からやってきた高次の存在であるわけで、地球で育った魂というのは動物から進化した魂でありますから、昔はもっと猿みたいに知能がなかったわけですよね。今でこそ世界的に多少の教育はしていますけれども、そのように地球育ちの魂は基本は猿なわけです。ですから理論的・論理的なお話はわかっても倫理的なところが理解できないのでルール以外のことはよくわからないという猿みたいなお話が出てくるわけです。<br /> <br /> もともとは割と高次の存在だったり地球外から転生してきた存在が地上を治めていたわけですけれども、次第に、そのように猿から進化した魂が地上の支配をし始めるわけですよね。<br /> <br /> 最初は暴力で奪ったり、最近は選挙という方法で小賢しく実権を奪ったりします。<br /> <br /> 高次の存在は地球外のことをわかっていて平和を求めているわけですけれども、地球で進化した魂は根本のところは猿ですから欲望ばかりが先に立つわけですよね。<br /> <br /> 世界中で市民革命とか言って王族を悪者にして民主主義とか言って人民が人民を治めるだとか権力者に対抗するだとか言って民主主義が良いものだと宣伝されていますけど、民主主義にも良い悪いがあるし、王政であっても良い悪いがあるわけです。<br /> <br /> 民主主義が良いものだと宣伝した上で民主主義という仕組みを使って好き放題しているのが現状なわけで、宣伝しさえすれば民衆はそう思い込んでしまう、という教育の効果も出ているわけです。<br /> <br /> それは、もともとは高次の存在が地上を治めていたものを地球で成長した猿が奪い取って、それを正当化している、という構図なわけです。<br /> <br /> ですから、陰謀論とかディープステートのお話は現実とちょっと違っていて、現実はというと、実権を奪い取った猿が昔のように高次の存在に権力を戻したくないが故に闇の政府だとかアヌンナキだとか言う悪い宇宙人の関与を持ち出して悪の組織が地上を支配しているだとかいう陰謀論を広めて現状の体制を否定しつつも実際には自分たちの権力を強めるために利用しているわけです。分断工作と言いましょうか。現実をよくわからないように情報撹乱して混乱させているわけですね。<br /> <br /> 確かに、宇宙から来た魂でもそれほど程度の高くない魂もいますけど、それでも、地球で猿から進化した暴力的な魂に比べればよほど道理をわきまえていると思います。陰謀論の方々が悪者にしているアヌンナキだってそうです。<br /> <br /> 地上に生まれている権力のある魂たちの中には宇宙由来の人達が大勢いて、地球の人々のために働いていたりします。<br /> <br /> 一方で、欲望の塊である猿がある程度の権力を持っていて、市民革命や民主主義というシステムで得た権力を離したくない、というのが現実なのですよね。<br /> <br /> 絶対王政や民主主義というのはそれぞれイメージがありますけど、現実にはちょっと違っていて、絶対王政に悪いイメージがあるのは現代人の教育によるもので、現実には絶対王政であっても良い王様がいてくれれば平和なわけです。一方で、悪い王様がいると市民は困ったりしますけどそうは言っても堅固なシステムのある国家であれば王様が多少悪くてもそうそう悪いことはできないですし自浄効果も働くわけです。ローマでは困った皇帝がいてもシステムは盤石でしたし、タイの王政はうまく動いていますよね。日本の天皇制だってそうです。<br /> <br /> 王政を転覆させたいという人の根本には、猿から進化した地球由来の魂が欲望のままに地上を支配したい、という願望が横たわっています。それを民主主義だとか権力を悪者にすることでごまかしているわけですよね。どちらにせよ地上を治める人がいてその人は権力を持ってはいますから誰がなろうとも権力を持つ人はいるわけで、その人に徳があるかどうかだけが問題なわけです。その時、システムとして王政がいいのか民主主義がいいのかはあまり重要ではなくて、どのような人が治めているかの方が重要なわけです。<br /> <br /> 個人的には、民衆は民主主義で代表を決めて自分たちのことは自分たちで治めて、王政として世襲制が続くようなシステムがいいと思っています。今の世界では王政は残っていても権力がありませんけど、割と対等な権力があるのが理想で、民衆だけに任せていたら欲望のままに決めてしまいますけど、王族が全体のためにその欲望を制御したり皆の利益になるように方向性を与えることで民衆の欲望を叶えつつ全体が良い方向に調整してゆけると思っています。今の世界はそんな感じになっていなくて民主主義で選ばれた人の中には地球由来の猿と高次の存在とか混ざっていて、選挙で選ばれるということは基本的には地球由来の猿の欲望の投票で決まるわけですから、なかなか高次の存在が関与しにくくなっているわけです。王族があればそこに直接高次の存在が転生してきて政治に関与できますから、そのように苗床としての王族は必要だと思うわけです。<br /> <br /> ですけど、欲望のままに地上を支配したい人たちからするとそのような王族は邪魔で、民主主義なり何なりの仕組みを良いものだと宣伝することで高次の存在の関与を妨害しているわけですよね。<br /> <br /> ディープステート(影の政府)みたいなものを宣伝して、悪い政府が背後にいるとか宣伝していますけど、それは地球で進化した猿が手に入れた権力を高次の存在に返したくないから何か悪者のイメージを作り出すことで自分たちの欲望を隠しつつ混乱させて自分たちの方に矛先が向かないようにしているわけです。<br /> <br /> 昔から、基本的にはこの世界は高次の存在である地球外から来た存在に統治されていて、支配というと言葉は悪いですけど猿が成長できるように導いてきたわけです。それが、猿から進化した魂が小賢しい知恵をつけてきて倫理観が足りない猿のような人間が暴力的な市民革命などで王政を倒し民主主義というシステムが正しいと宣伝し、猿たち自身の欲望を満たせるシステムを構築してきたのが現代です。<br /> <br /> そのような状況でありますから、高次の存在が何を考えているかというと、昔のように王政を作って地球の人々を良い方向に導きたい、というのが昔からの希望としてあるわけです。<br /> <br /> ですけど、そのような高次の存在の良い希望も現代の人々にとっては陰謀論やディープステートの悪巧みのように見えてしまうわけです。それこそが地球を今支配している小賢しい猿たちの狙っているところで、王政を悪者にすることで自分たちの欲望を叶え続けることができるシステムを未来永劫継続したいと思っているわけです。<br /> <br /> ですから、各所で世界のために尽力している人を陰謀論のディープステート側の人間だと悪者にしたりすることが起きてくるわけです。<br /> <br /> 実際、欲望まみれの人もいて、欲望まみれの人がディープステートだと言われていることもありますけど、その人は単に欲望にまみれた人であってディープステートではありません。というか、ディープステートなんて実態はないと思った方が良いです。<br /> <br /> ディープステートはないけれども、この世を欲望のままに思いのままにしたいという猿から進化した小賢しい魂たちがいて、そのような意味での影の政府・・・とまではいかないですけど、ある程度、世界を征服したいと思って活動している魂はいるにはいます。<br /> <br /> ですけど、その一方で、世界を良くしたいと思って活動している人も大勢いて、そのような良い意図を持った人と、欲望まみれの人とがごっちゃになって両方とも陰謀論のディープステート扱いされてしまっているわけで、そのような混乱は、現状の欲望のシステムを続けたい人々にとっては思うツボなわけです。<br /> <br /> ディープステートという実体はないけれどもこの世界を支配したいという人々はそれなりにいて実権も持っていて、一方で、この世を良くしたいと思っている人も大勢いて、高次の存在で転生している人も大勢いて、その両方とも、権力を持っていたり持っていなかったりしますので、陰謀論とかディープステートとかいうわかりのいい言葉ですっきりと切り分けできるものでもないわけです。<br /> <br /> 高次の存在であっても地上の欲望にまみれることもありますし、その後、目覚めることだってあります。地球で育った猿であっても良い方向に目覚めることだってありますし、欲望を強化することだってあります。<br /> <br /> まあ・・・、個人的には、そのような全てを受け入れているこの地球という環境そのものが素晴らしくて、多様性に満ちたドラマが繰り広げられている面白い時代だと思いますけどね。<br /> <br /> ですから、ディープステートみたいなわかりのいいお話ではなくて、もっと個人を見た方がいいと思いますよ。<br /> <br /> 例えばビル・ゲイツは陰謀論ではよく悪者にされていますけど、彼自身はいい意図を持っている魂ですけどお金を持つと悪い人がわらわらと寄ってきて絡め取られて身動きができなくなっていくわけです。財団だってあれだけ大規模になるとゲイツ自身がうまく動かせなくて、ゲイツ自身の意思とは異なった方向に資金が使われたりするわけです。ですから、もっと個別の事象をきちんと見ないと何が良くて何が悪いのかはよくわからなくて、この場合でいうとゲイツ自身は基本的には良い存在ですから、その周囲にたむろしている悪い存在をどうにか対処しないといけない、というお話になります。<br /> <br /> 陰謀論に乗せられてゲイツを悪者にしてしまうとゲイツがいなくなった後のゲイツ財団が欲望だらけの人の思いのままになってしまいますから、実はそれこそがゲイツを悪者にしたい人の目的だったりするわけです。<br /> <br /> 日本でも、有名どこが陰謀論とかディープステートとかのお話を宣伝して盛り上がっていたりもしていて、そういうお話は時代を示していて興味深い面もありますけど、上記のように個人をしっかりと見ているというよりはディープステートというストーリーに乗せて誰かを悪者にしているだけだったりしますので、陰謀論とかディープステートとかいうお話には基本的には関わらない方がいいと思います。<br /> <br /> 個人というのはちゃんと見ないとそうそう理解できませんし、ディープステートとか陰謀論とかは猿から進化した権力者が地上支配を継続させるために自分たちに目を向けさせないよう混乱させる道具だと思った方がいいと思います。<br /> <br /> 日本に目を向けますと、もともと高次の存在が多く転生していた支配者層であるお殿様や武士の階級が明治維新によってただの人にされてしまい、全て選挙を通さないといけなくなってしまいましたから、選挙を通すとなると一般人の欲望をより多く満たした人が選挙に勝つという構図になるわけで、大勢のためや長期的視点を持った政策がある人は選挙に通りにくいですし、欲望を満たすためだけに選挙に出る人がうまく宣伝をすることで大衆を操作することも可能になってしまったわけです。<br /> <br /> 外国の場合は革命が起きて王政が倒れて王族が一掃され民主主義という名の一般人が治める政府に置き換わったわけですけど、日本の場合も同様に、お殿様や武士の階級がなくなって民主主義という名の元に一般人が支配する国になってしまったわけです。<br /> <br /> そうは言っても高次の存在は政治になんとか入り込もうと努力していて、政治の世界が全て一般人の欲望だらけの世界かというとそうでもなくて、高次の魂を持った政治家もぼちぼちいらっしゃいますけど、なかなかやりにく状況であるわけです。<br /> <br /> 今のところ、宣伝の力によって民主主義が良いものとされていて、しかも、民主主義の根幹である選挙にしても宣伝でかなり左右できてしまう状況ですから、なかなか高次の存在の介入がしにくくなってきています。例えば、民衆を誘導するためにマスコミをつかって「誰も適任者がいない。誰も頼りにならない。この人しかいない」、みたいな世論誘導がなされて都知事が決まっていたりするわけです。実際のところ、それなりの適任者は色々といるわけですけれども、世論誘導で「誰も適任者がいないですね。もう仕方がないですね」というパターンが日本の場合は有効だとわかっていて、適任者がいたとしても無視するか揚げ足を取るなどして「やっぱり適任者は誰もいないですね」みたいな世論に誘導しているわけです。そうすることで民衆の投票する気力をそいだり、投票するにしてもマスコミが用意した「仕方がないから、この人にいれるしかないですね」みたいなパターンにはまってしまうわけです。こんなにわかりやすいパターンなのにいつまでも有効なのは、日本人は、どうしてしまったのでしょうかね? マスコミが誰かを当選させるために誘導するワンパターンが30年以上も前から延々と繰り返されているのに、どうしてこれを指摘しないのでしょうかね?<br /> <br /> まあ、そんな感じで、王族がいない状況というのは権力を持った一般人が好き放題できる状況なわけです。そんな民主主義であったとしても利用価値はあって、その時次第で有効な仕組みを使っていけばいいとは思うので、民主主義という仕組みを悪者にしているわけではなくて、民主主義のやり方が世論誘導と利益獲得に有効だからこそいまは権力を持った一般人が好き放題しているので、それを理解した上で、もっと上手に回る必要があると思うわけです。<br /> <br /> マスコミ誘導に対してもっと賢くなるということですね。<br /> <br /> ディープステートとか陰謀論みたいなお話と、「政治家にふさわしい人が誰もいない」みたいなお話は割と同列で、政治家にふさわしい人がいないわけないじゃないですか。 政治家にふさわしい人がいない、なんてのは陰謀論と同列でしかなくて、陰謀論をあざ笑っている人ですらも普通に「政治家に相応しい人がいなくて、投票したい人が誰もいない」なんてことを平気で言ったりしています。そのお話こそが陰謀論と似たようなお話なのに、そこに気がついていないのですよね。<br /> <br /> 高次の存在や、猿から進化した人であっても他人に尽くそうとしている人はそれなりにいて、そのような人を支持したり、評価したり、というのは絶対的に必要で、ただ単に陰謀論みたいなお話を持ってきて誰それがディープステートで悪者だとか言ってみたりしてもどうにもならないわけです。<br /> <br /> 宇宙の魂が転生する先の苗床としての貴族あるいは王族というのは有益で、たとえ今の世代が不順な猿であったとしても次世代にて宇宙の魂が転生できてうまく世代交代する可能性があるわけです。民主主義ですとそれがなかなかしにくくて欲望の猿の間で世代交代するという構図になりがちです。<br /> <br /> 日本の皇族はかなり解体されたものの一部が存続しており、日本の皇族の場合はそれなりにまだ昔ながらの形がかろうじて保たれてはいるものの必ずしも全員が高次の存在というわけでもなくて欲望の権化の猿が入り込もうとしているのを皇族側が防いでいる、という面もあったりするわけで、完全な形ではないにせよ、高次の存在が転生して来られる素地ができているわけです。猿から進化した魂であってもそれなりに役割を果たしている場合もありますので必ずしも猿だから悪いというわけではありませんけど、もともと宇宙から来た魂と地球で猿から進化した魂では根本が全然違いますよね。そのような高貴な魂を受け入れられる貴族あるいは王族というのは絶対的に必要で、そのようなシステムは世界を欲望のままに支配したい人々にとっては邪魔でしかなくて、貴族や王族を排除するために権威や支配者層を悪者にしてフラットな民主主義社会および資本主義社会という名の下の世界支配体制を確立することを目的にして陰謀論とかディープステートとかいうお話が宣伝されて広められているわけです。<br /> <br /> 繰り返しになりますけど民主主義や資本主義というシステムそのものが悪いわけでもなく逆にそれが良いというわけでもなくて単なるシステムであって、それを使う人の意図によっていかようにもなるわけです。それらのシステムが今は支配の方向に使われており、その世界を征服する目的のために陰謀論が用いられている、ということです。<br /> <br /> このような不順な意図で陰謀論はもともと始まったようですが、最近は本当のことが陰謀論として語られていることもあって、陰謀論と言っても色々ありすぎてよくわからない状況です。どちらにせよ、上に書きましたように陰謀論みたいな全体のわかりの良いお話ではなくて個別のお話ですから個人をきちんと見るべきだと思いますし、一つ一つ見ていかなければ本質はわからないものだと思います。<br /> <br /> Sat, 06 Mar 2021 00:00:00 +0900 サマーディに入るまでにはシャマタ(心の静止)は必要 https://w-jp.net/2021/2260/ <br /> サマーディにおいては心が動いていようが止まっていようが関係なく、いわゆるリクパ(心の本性)が自らの五感および心の動きを観察する状態になりますので特にシャマタ(心の静止)をする必要はありません。<br /> <br /> 心が動いていて考え事をしていようが雑念のようなものが出てこようがあるいは心が静止していようが違いはなく、心の本性(リクパ)がそれらを常に観察している状態にあります。<br /> <br /> ここで、説明のために一応は「観察」と言いましたけど、観察と言ってしまうと「見るもの」と「見られるもの」という区別があるように思えてしまいますけど、サマーディの状態においてはそのような区別はなくて、サマーディとは「不二の意識」とも言われるように、そのような区別のない意識状態にあるわけです。<br /> <br /> ですけど、そのようなサマーディの状態に入るまでは修行の一環としてシャマタ(心の静止)が必要になるわけです。<br /> <br /> これは、必ず必要というわけではなく、流派によってはこのシャマタ(心の静止)を行わないところもあるようです。<br /> <br /> ですが、多くの流派ではシャマタを経由してからサマーディに至る、ということになっています。<br /> <br /> サマーディという言葉の意味も流派によって色々あって、流派によってはサマーディを単なる手中と定義している流派(ヴェーダンタ派など)もありますが、多くのヨーガの流派やチベット仏教などではサマーディを不二の意識として定義していて、単なる集中ではないとしているところの方が多いと思います。<br /> <br /> そのような、不二の意識および心の本性(リクパ)が動いているという意味においてのサマーディであればその前段階としてシャマタ(心の静止)があるということです。(サマーディの定義が「集中」だとしている流派ではこのような位置付けは意味をなしません。)<br /> <br /> たしかに、サマーディの意識、不二の意識であれば心が動いていようが動いていまいが関係なくて、それこそが本質なのですが、修行方法としてシャマタという段階が伝統的に取り入れられてきたということです。<br /> <br /> 一見すると、サマーディの状態とシャマタの状態は矛盾して見えるかもしれませんけど、サマーディの状態からしてみたらシャマタしていようがしていまいが関係なくて同じですので、サマーディ側から見たらシャマタはあまり重要ではありません。シャマタがあってもいいしなくても問題ないわけです。<br /> <br /> ですから、サマーディ側からみたらシャマタとサマーディとは矛盾していません。<br /> <br /> ただ、シャマタ側からサマーディを見たら矛盾に見えるかもしれません。<br /> <br /> あるいは、サマーディを書物だけで理解している人はサマーディとシャマタに矛盾を感じるかも知れません。<br /> <br /> ですけど、上記の通り、サマーディからしてみたらシャマタがあろうがなかろうが大差なくて、ただ、それでも、まだサマーディに至っていない人がサマーディに至るためにはシャマタが助けになるということです。<br /> <br /> 流派に寄ってはシャマタをことなげに否定している流派もあるようですけど、私はそのあたりはよく理解できませんね。サマーディに達すればシャマタがあろうがなかろうが大差ないのですから、そんなシャマタなんかをことさら否定する必要すらないと思うのですが。<br /> <br /> ただ単に、シャマタが修行の助けになるなら使えばいい、というだけのお話です。<br /> <br /> 不思議なもので、世の中には意外にシャマタを否定する流派が多くて、しかもその一部はヒステリーになって否定したりするのが私にはさっぱり理解できませんけど、まあ、私はこんなふうに考えています。<br /> <br /> これは他人に意見をしてるということではなく、他人がどう考えようが何を信じようが自由だと思っていますから他人は他人の好きにすればよくて、シャマタが良くないと思うなら勝手にそう思えばいい、と思っています。自由にすればいいのです。<br /> <br /> ただ、そのような言説に惑わされてシャマタをしなくなってしまう人がいたら不幸ですのでたまにこうしてシャマタは必要ということを書いています。<br /> <br /> まあ、私が書いたところでどれだけ理解してもらえるかもわかりませんけどね。一応。<br /> <br /> Tue, 16 Feb 2021 00:00:00 +0900 宗教という言葉の集合無意識を書き換える https://w-jp.net/2021/2257/ <br /> 集合的無意識と呼ぶのか単に無意識と呼ぶのか全体意識と呼ぶのかは色々ですが、特に深く考えていない人が宗教と聞いた時に思い浮かぶ概念を書き換えることがミッションとして存在するようです。<br /> <br /> 今の日本は、宗教と聞くとなにか嫌なイメージを持つ人が一定数いますが、宗教という言葉に対する表層の意識を良いものに書き換えることが目的です。<br /> <br /> 例えば、宗教と聞くとヒステリーになったり、宗教なんて見たくもない、という意識を上書きするミッションのようです。<br /> <br /> 同様なものとして、瞑想と聞いた時にかつては一般的には変なものと思われていたのが最近は瞑想と言うとなにか良いイメージがある、というように印象が変わってきています。<br /> <br /> それと同様に、宗教に対してもイメージを書き換えるというミッションが存在しているようです。<br /> <br /> 私はもともと、宗教もスピリチュアルも一緒だと思っていますし、もっと言えば、何かを信じるという意味においては科学も宗教のようなものだと思っていますから、科学的という言葉と宗教的という言葉とスピリチュアル的という言葉の間には手法の違いこそあれどどれもさほど違わないと思っています。<br /> <br /> 科学にしても現実に重きをおきますし、宗教もスピリチュアルも実際には現実に重きをおきます。<br /> <br /> 宗教で思われている「信じなくてはならない」みたいな誤解は科学にもあって、ニュートン力学の時代においてはニュートン力学で説明できないことは存在しないということを「信じなくてはならない」という迷信の時代がありましたし、今でも唯物論という名で科学の冠を被った宗教が存在しています。<br /> <br /> 科学にせよ宗教にせよスピリチュアルにせよ、最初にあるのは現実であって、まず現実を受け入れてからどうしてだろう、とやるのが手順ですけど、間違った科学は「唯物論で説明できないことは存在しない」と言って現実を否定するのですよね。<br /> <br /> 同様に、間違った宗教やスピリチュアルも現実を否定します。<br /> <br /> それらの、科学と名乗ろうが宗教と名乗ろうがスピリチュアルと名乗ろうが現実を否定するようなものは所詮はその程度で、そのような間違いに関してはどれも同様ということで、それぞれ違った領域を扱っているだけで現実重視という点は共通ですし手法は違いますけどどれも大差ないと思えます。<br /> <br /> 本当に科学を分かっている人は、科学で説明できない現実を否定したりせずに、単に、科学では説明できない、と言うだけで現実を受け入れます。ですけど、実際は宗教になっている唯物論者は科学で説明できない現実は存在しないか間違っていると言って現実を否定するわけです。現実を否定するのであればそれは間違った考えであるわけですけど、科学の名の元に現実を否定するのですからたちがわるいです。同様に、現実を否定するような宗教や現実を否定する系のスピリチュアルもたちがわるいです。<br /> <br /> そのように、宗教というものに関する誤解があり、また、科学を名乗っていても宗教のような迷信がありますので、どちらを先に手を付けてもいいのですけど、とあるグループは宗教というものに対する集合意識を書き換えて宗教とはなんぞや、という常識を変えてゆくというミッションが動いているようです。<br /> <br /> これは、もっと大きく捉えれば「宗教の統一」という目的に繋がってくるようで、前にも書いたと思いますけど、こちらもミッションとして存在します。<br /> <br /> Wed, 10 Feb 2021 00:00:00 +0900 ツインソウルと「小さな宇宙人アミ」 https://w-jp.net/2021/2248/ <br /> 昔、流行った頃はさらっと読んだだけでしたが、近くの図書館にあるようなので久々に読もうと思って借りてみました。アミ本編は予約が70人とか並んでいたのでとりあえず借りたのは続編の「もどってきたアミ」ですけど、そこに、ツインソウルのお話が載っていましたね。<br /> <br /> 数十年前、ツインソウルが流行りでツインソウルが運命の相手だとかツインソウルと結婚する、みたいなお話がとにかくブームになっていたことを思い出しました。<br /> <br /> 一応は私はこれを読んでた気がしますが、このあたりはスルーしていたかもしれません。<br /> <br /> 今思えば、ツインソウルのブームを作ったきっかけがアミなのかもしれないですね。<br /> <br /> ですが、その後、ツインソウルのお話は下火で、最近は「ツインソウルなんてありません! ツインソウルなんて嘘です!」という風潮がスピリチュアル界でも定着したように思います。<br /> <br /> 今はほとんど誰もツインソウルなんて言い出さないですし、言ったところで「ああ、あの懐かしの(苦笑)」みたいな冷ややかな反応になる気も致します。<br /> <br /> ツインソウルという言葉に関しては私の感想も似たようなもので、「ああ、そんなものもあったね・・・」という感じですけど、実際のところ、私の場合に当てはめてみると、ツインどころか、ぱっと把握できるだけでも数十の類魂がいますので、「たったのツイン(2人。1組)だけですか?」というのが私の印象です。<br /> <br /> たったのツインだけなんてことがあるのですかね・・・? <br /> <br /> 本にするにあたって、わかりやすいようにツイン、としただけなのではないですかね・・・?<br /> <br /> 転生は、魂(幽体)がそのまま転生する場合と、一旦グループソウル(類魂)と一体になってから分霊を作って転生する場合がありますので、同じグループソウルの分霊同士を、そこだけ取り出してみるとツインソウルと言えなくもない、という程度のお話な気が致します。<br /> <br /> 私の場合、この意味におけるいわゆるツインソウルで結婚なんてしたことないですけどね・・・。そんなことしてどうするのでしょう? 目的がよく分かりませんね。 そもそも同じ時代に同じくらいの年齢で生まれる、なんてこと、したことないかもしれないです。何のためにそんなことをするのかよく分かりませんね。<br /> <br /> ただ、可能か不可能かと言うと、可能です。同じグループソウルから分かれた分霊同士はそれぞれが普通の霊で普通の人間として生まれたりしますから、やろうと思えばそういうこともできますけど。何のためにそうするのかはよく分かりません。私が知らないだけで、そういうことをしている人、というかそういうことをしている魂がいることを否定はしませんけどね。いるのかもしれませんけどね、私の知っている範囲では見たことないですけどね。<br /> <br /> グループソウルに戻る、という意味において、グループソウルにまた溶け込んで一体となる、という状態が結婚と言えなくもないですけど、アミの物語では未来世で結婚する、と書かれてありましたので、同じことと解釈できなくもありません。単に結婚するというよりは、お互いの共通のグループソウルで合流する、とみなした方が自然です。これなら私だってよくしていますし、割と誰でもそうな気がします。私の解釈では、アミの物語はもともとこういうことだったけれども、著者がうまく理解できなくて結婚と書いた、という気が致します。個人的な感想ですけどね。<br /> <br /> 同じグループソウルから分かれた分霊同士はわかりあって、相手の思っていることがわかったり、他の人同士よりも思いが伝わりやすい、というのは本当です。もともと同じ素地がありますから当然です。ですけど、だからと言って地球の感覚で結婚するということにはならないですけどね、少なくとも私の場合は。<br /> <br /> こんな誤解が広がるくらいなら、確かに、ツインソウルなんてないんだ! としてしまった方がとりあえずはいい気もします。<br /> <br /> 久々にアミの本を読んで、ツインソウルという随分と懐かしい話に触れたのでした。<br /> <br /> それにしても、この本に書いてあることはかなり瞑想の確信をついていて改めて凄い本だと思いました。意識の覚醒や行動についての指針もそうですし、しっかり宇宙意識に繋がった瞑想していますし、本当のことを知らなければ書けない内容です。子供向けの本とは思えません。大人が普通に読んでもいい内容だと思います。<br /> <br /> この本の中に、惑星規模で起こった大災害で生き残った人を助けるお話が載っていますけど、このことについて地球の出来事に即して補足しておきますと、私が小学校の頃に幽体離脱して見た、その時点(私が小学校の頃、30年ほど前)でメインになっていたタイムライン上の未来においては、今からおおよそ10年前、だいたい2000年から2010年の間に世界は破滅して大災害が起こり、人類の文明は滅亡し、大勢が死に、この本に書かれてあるところの「救済計画」にのっとってそれなりの意識に達している人が助けられ、一旦は宇宙船に避難し、災害が去った後の地球で新たな文明を始めることになっていたのです。<br /> <br /> その時、空は暗くなり、世界は闇に包まれました。すべての人がただ事ではないことを察知し、やがて、地は激しく揺れ、山のような津波が襲い、文明をなぎ倒してゆき地球の文明はほぼ壊滅することになっておりました。<br /> <br /> しかし、神様の気まぐれ... と言いますか、神様というよりは、この地球を管理している大天使の意思によりその災害は先延ばしにされ、具体的には大天使の使いが様々に働いたおかげで例えば2000年問題は回避されたりその他の災難が重なることなく、現時点まで継続しているわけです。<br /> <br /> 私は幽体離脱をしてその決定およびタイムラインの変化までも見ておりましたが、私が子供の頃に幽体離脱した時の解釈としては、大災害が起こるのが正しくて文明が継続するのはもっと地球で遊びたい人たちおよび助かりたい人々のエゴなのではないか... と思っておりました。その時点では自分が世界の破滅に対してどうこうできるとは思っておらず、自分が助けてしまうのは良くないことなのではないか、滅びようとしているのが運命なのではないか、助けるのは自分のエゴなのではないか、とも思っていました。<br /> <br /> 私がタイムラインで見た大災害は、偶然が重なって人々の不安が積もり、最終的にそれがしきい値を超えて戦争及び大災害に繋がっていたと記憶しております。その偶然の1つでも避けてあげれば意外と戦争および大災害は避けられたわけです。そのタイムラインを見通せる者であれば、そのちょっとした災害を軽減するなんて簡単なことで、実際のところ、そう大したことはしていないのですが、それでも、大災害を避けるには十分だったわけです。ですから、その鍵となる災害を避ける行為をしたのは一部の人だったわけですけど、そのように行動している人が増えてきているわけです。<br /> <br /> 例えば、気まぐれで幽体離脱中に2000年問題を回避したわけですけど、これは、人類を助けるというよりは、タイムライン上を見ると2000年問題が一つのトリガーになって破滅へと向かっているので、これを回避したらどうなるのだろう? という、単純な「興味」から行ったことでした。ですので、決して、人類を救おうだとか、正義のためだとか、世界平和のため... みたいな大層な理由ではなくて、単に興味本位で2000年問題を回避したらどうなるのかな、と思ってやってみたのです。そして、今があるわけですね。危機はそれだけではないですけど、大きな分岐点がそれだったわけです。<br /> <br /> それとね、地球が滅亡してしまうと地球の今の文明および世界でしばらくは遊べなくなってしまう、という、自分のわがままもありました。ですから、大層な理由ではなく、自分がもっと地球で遊びたいから2000年問題を回避したり、他にも何かした気もしますけど、幽体離脱中に工作してみたわけです。<br /> <br /> 地球を救う、なんてその程度のものだと思いますよ。大層な英雄なんていなくて、なんとなく行動して、なんか助けちゃった、みたいな、そのくらいの軽いものだと思います。<br /> <br /> まあ、幽体離脱中にやったことなんて証拠もありませんけど、少なくとも、子供の頃に見た大災害は回避されたタイムラインにいまいるのは確実だと思うわけです。<br /> <br /> 今はこの「もどってきたアミ」に書かれてあるように人々が目覚めて大災害を避けるべくそれぞれが行動し始めて、「ああ、良かったな... いい世界になってきたな... 」というのが今の印象です。<br /> <br /> ただ、大災害が回避されたとはいえ、まだ油断はできませんけど。<br /> <br /> 未だに当時のタイムライン上の地球の破滅とUFOによる救済を待っているグループもあるようですけど、2000〜2010年の破滅はもう回避されたタイムラインに今はいますので、地球の破滅とUFOによる救済を待っても無駄だと思いますけどね... そのシナリオはもうやってこないです。<br /> <br /> まだ油断できないのでまだ起こる可能性もあるにはありますけど、山は越えた気が致します。<br /> <br /> こういうこと書くと、スピリチュアル的に「全てを受け入れる」だとか「全ては愛」とか言う人もいますけど、私の理解における「愛」とは「創造・破壊・維持のあらがえないほどの強大な力のことですから、生ちょろい執着の愛なんて吹っ飛んでいってしまうほど現実的でありのままで厳しい愛の姿です。消滅しようがそれも愛だし創造も愛だし維持も愛で、この世の全てが愛なのですから実際のところ人類が滅亡しようが存続しようがどちらにせよ愛でしかないわけですけど、私はもうちょっと先を見てみたいな、という「興味」で存続の方を選んだ、と、いう、その程度のお話です。<br /> <br /> コロナで悲観的なお話が多いですけど、既に滅亡していた筈の人類が存続しているので既にかなりいい世界のタイムライン上にいると思いますけどね。<br /> <br /> それなりの能力者であれば皆のために障害を排除することは簡単にできますけど、人々が目覚める機会を奪ってしまったらそれこそ犯罪に近いものがあります。能力者からすれば、とてつもなく大きな犯罪は地域・国・この地球が存続できる限りは見守る必要があります。見守って、人々が目覚めるのを助けることはできますが、代わりにしてあげることはできません。とは言いましても、それなりの状況になったら手を出すことは許されます。ある程度の問題にならない限りは代わりにしてあげることはできないということです。<br /> <br /> Tue, 26 Jan 2021 00:00:00 +0900 地球で分離を生きる人生は贅沢 https://w-jp.net/2021/2240/ <br /> 宇宙では分離していない状態が普通で、この地球上でわざわざ「分離」の人生を送ることができるのはある意味「贅沢」なわけですよね。<br /> <br /> この分離の生活を送るために、苦労をかけて「守護霊」というものが付き添ってくれていて人生をサポートしているわけですから、ある意味、地球の人というのはVIPの待遇なわけです。<br /> <br /> こんなに贅沢なことはないです。もっと感謝すべきです。<br /> <br /> 宇宙では基本的に1人です。それは、意識で繋がっている場合では「繋がっている感」のある1人だったり、あるいは、意識で繋がっていない場合の分離状態ですと「繋がっている感のない1人」だったりします。<br /> <br /> どちらにせよ1人です。<br /> <br /> もちろん、友人や知人や過去の妻だった人の霊など多くの身近な霊というか人というか存在がいますけど、この地球のようにVIP待遇で守護霊がきちんとつきっきりなんてことはまずないです。<br /> <br /> 存在は1人で存在するのが基本ですけど、地球の場合、守護霊として高級霊が割とついています。<br /> <br /> まあ、猿から進化した動物みたいな人間には(高級霊は)ついていないですし、それは種族や国ごとに傾向はありますけど、割とついています。<br /> <br /> 守護霊は、高級霊がついていて、それとは別に、友人知人や過去の家族、例えば過去の妻や旦那なども見守っています。<br /> <br /> 高級霊は使命として人生を見守るわけですけど、友人知人や家族の霊は自分が好きだから見守っているという感じですね。<br /> <br /> まあ、高級霊と友人知人家族の霊の違いは主に霊格なわけですけど友人知人家族の霊でも霊格が高い場合もありますし、特に序列が決まっているわけではないのですが、使命として一生(あるいは半生)を見る場合はそれなりに高い意識体が受け持つように思います。<br /> <br /> ですけど、それは宇宙の全てでそうではなくて、霊として意識体として存在している時は普通に1人で、その周辺に友人知人家族たちがいるような感じです。<br /> <br /> ですから、この地球上で守護霊が見守ってくれているというのは贅沢なことなわけですよね。<br /> <br /> その中でも特に、わざわざ「分離」の人生を生きようとしている人はご苦労さまで、そんな人をサポートする霊も大変な思いをしますから、特に贅沢なわけです。<br /> <br /> これは勘違いしてほしくないのですが、欲望のまま分離の人生を生きている人には当てはまらなくて、本当はしたくないのだけれども学びのためにわざわざ分離の人生を選んで自分を苦境に追い込んで勉強しようとしている人がご苦労さまなわけです。<br /> <br /> 欲望のまま生きて落ちてしまう場合は「ミッション失敗(学習失敗)」としてその人生は放置されて、スピリットは離脱して体は衰弱してゆき、守護霊も離れたりします。そうするとまたやり直しです。<br /> <br /> そのような苦労を乗り越えて、障害もなんとか避けながらわざわざ大変な思いをして「分離」の人生を生きるために守護霊がついてVIP対応で人生を歩むわけです。<br /> <br /> これはね、とてつもなく贅沢です。またすぐに同じような贅沢な人生を度々歩めると思わない方が良いです。<br /> <br /> また次の人生でも同じように暮らしたいのであれば守ってくれている意識体に感謝をしたり、また、周囲の人に対してお礼をしたり何なりして自分も尽くすことですね。<br /> <br /> もらいっぱなしであればそのような人の周囲には同様にもらいっぱなしの人が集まって、与え続ければ周囲に与え続ける人が集まってくる、というのは普通の人生と同じです。それがあの世、もっと言えばこの宇宙全体で連なっていて、与え続ける連鎖を行っている存在と、奪い続ける連鎖を行っている存在がそれぞれいるわけです。<br /> <br /> まあ、話はそこまで行かなくても、少なくとも、この地球で生まれたことに感謝をした方がいいと思うわけです。<br /> <br /> 補足をしますと、猿のような人間には猿よりちょっと進化した意識体が守護霊としてついていたりしますけど皆さんは興味ないですよね。自分より意識が進んでいる意識体が守護するのが基本なわけです。<br /> <br /> Mon, 18 Jan 2021 00:00:00 +0900 過去生の記憶の中に今生で解決すべき課題があることもある https://w-jp.net/2021/2237/ <br /> いわゆる悟っている状態では過去生は全て明らかでいくらでも見ることができますけど、悟っていない時の状態で過去生の記憶があったとしたらそれはそこに課題があってその記憶に関連した学びを今生で行っているからこそ記憶があったりするわけです。<br /> <br /> ただ、記憶があるからと言って必ず課題かというとそうでもなく、単に覚えているだけの場合も多々あります。<br /> <br /> 過去生の記憶があった方が優れているわけでもないですし、なくても別に問題ないわけです。あってもなくてもどちらにせよ今生の学びをしているわけで、過去生の記憶があるかどうかは関係なくて、それは割と趣味みたいなもので、守護霊のやり方がそれぞれあるでしょうし、あるいは、自分のスピリットのやり方として過去生の学びをしたいから記憶を蘇らせた方がやりやすい、あるいは、蘇らせない方がやりやすい、といった場合もあるでしょう。選択的に行っている場合もあれば、なんとなくそうしている場合もあるわけです。<br /> <br /> 選択的に行うのはそれなりに経験を積んだ人の場合のことで、初心者さんの場合はそんなに記憶がないかもしれませんし試しに記憶をつけてみたけれども記憶と想像の見分けがつかないかもしれません。初心者さんの場合は色々やってみてより良い方法を見つけるでしょうから、まあ、何でもいいんじゃないですかね。経験者でも、その人生での学びとあんまり関係ない場合は記憶があったりなかったりして、割と適当です。なんとなく覚えていたり、あまり気にしていなかったらいつの間にか忘れてしまうのは普通の自分の人生の昔の記憶と一緒です。<br /> <br /> ある程度悟っていれば実際に意識を飛ばして過去とか未来とか見れますけど、そうではない場合、悟っていなくても単純に記憶しているだけ、ということもあるにはありますけど、割と一般的には、課題があるからこそ記憶してて何度も蘇ってくることの方が多い気がしますね。<br /> <br /> 悟りとまでは行かないにせよある程度の意識の覚醒がないと単純な記憶すらも維持できずに過去生を思い出せないように思います。そして、それほど覚醒していないのに過去生の記憶があったのだとしたらそれはそこに課題があるからこそ浮かんできて、もっと言えば、その課題とは今生にて学ぶべきレッスンだったりするわけです。そして、その課題をクリアしたらその記憶はそれほど浮かばなくなってきて段々と忘れていきます。課題が残っているうちは何度も何度も記憶が蘇ってきます。<br /> <br /> ですから、過去生の記憶はあってもなくても問題ないわけです。<br /> <br /> ヨーガ的には過去生の記憶というのはサムスカーラと言う「微細な印象」として説明されています。このサムスカーラがあるから輪廻転生を繰り返していてこの世のループから逃れられない、だからそのサムスカーラを浄化することで悟りに近づいて輪廻転生から開放されて自由(モクシャ)に至る、というように説明されていたりします。そして、ある程度の悟りに近づいた時のシッディ(超能力)のうちの1つに過去生を見通せる力もあると説明されていたりします。このあたりのお話は仏教にも通じていて、割と同じお話のように思います。ヨーガでは過去生の記憶は、このように、それほど良いものとして扱われていないのが現実です。<br /> <br /> ただ、個人的に思うのはそこまで過去生の記憶を悪者にする必要はなくて、過去生の記憶がある人はあるし、それは自分の人生の子供の頃の記憶があるのと同じようなもので、自分の人生の子供の頃や青年の頃を永遠と誇って「いま」を生きられない人がいるのと同じように過去生を誇って「いま」を生きられない人もいるかもしれませんし、逆に、若い頃の記憶や過去生の記憶を反省材料にして「いま」の人生をより良きものにすべく改善してゆくこともできるわけです。<br /> <br /> 記憶が「いま」の人生にプラスなら覚えていたり守護霊が教えてくれることもあるでしょうし、「いま」の人生に邪魔だから思い出させない、なんて時もあると思います。それは自分の経験次第みたいなところもあるでしょうし、やり方はそれぞれのスピリットや守護霊によって違いますから、そのあたりは割と流儀および趣味の違いみたいなお話になります。<br /> <br /> とは言っても、今生に生まれた理由が過去生繋がりだったりすると割と覚えていたりすると思いますけどね。それは課題というほどの課題ではないですけど、課題というよりも今生に生まれた目的とでも言いましょうか。目的と言っても大したものではない時も多くて、単純に海外旅行して遊んでみたいだとか仲の良かった子とまた地上で楽しく暮らしたいだとか、面白そうだから試しに生まれてみた、だとか、その程度のこともよくあります。一緒に夫婦になるとか、親子になるとか、そう決めて生まれる場合もあって、それすらも、その約束を覚えていたりいなかったり、それぞれです。意識がぼおっとしていると忘れてしまうというか思い出せない場合が多いように思います。意識がクリアならばよく見通せて思い出せます。<br /> <br /> 色々と処要因はありますけど記憶があってもなくても基本的には大差なくて、まあ、そうは言いましても、実際にはそれなりに覚醒に近づけば近づくほど記憶はしっかりと維持されますから、記憶があった方が覚醒に近いという面もあるにはありますけど、覚醒に遠くても課題として記憶が沢山ある場合もありますから、それは一概には言えませんね。<br /> <br /> Sun, 17 Jan 2021 00:00:00 +0900 命の重さ https://w-jp.net/2020/2217/ <br /> それなりに重いのは確かですけど、死んでも消滅するわけではなく、魂的には別にどうってことはありません。<br /> <br /> ただ、死んで再度生まれ変わると子供になってその時代の学習をやり直さなくてはならないのでちょっとめんどくさい、という面はあります。<br /> <br /> ですから、死んだところで大したことないといえばそうなのですが、色々と生まれる前の準備をしたり子供時代に学習をして大人になって、さあ、やりたいことをするぞ、となってから早々に死んでしまうと「おいおい。まだやりたいことをやっていないのに続きをやるためにはまたあの子供の頃の不自由な学習期間をしなくちゃならないのか」という、ちょっとした徒労感とめんどくさいなと思う気持ちが出てきます。<br /> <br /> ですから、まあ、やりたいことができているのならば死なない方がいいと思います。一旦死ぬと同じ魂がそのまま生まれるとは限りませんからね。というのも、魂(幽体)がそのまま転生する場合と、一旦グループソウル(類魂)と一体になってから分霊を作って転生する場合がありますので、後者であれば「わたし」という個は、厳密に言えばもう二度とないからなんですよね。後者であってもコアな部分があって、大体の雰囲気は似ますけど、それでも、全く同じではないですね。前者であれば同じと言えば同じですけど生まれる時代や環境や家族によって大きく性質が影響されますから、大人になった時の安定した感じとは違って、子供時代を通り抜けるというのは多少ながらリスクがあります。<br /> <br /> 前世でやり残したことをやりたいと思っても必ずしもその意思の通り続きができるわけではないのですね。<br /> <br /> であれば、わざわざ死ぬという選択をしなくても、今の人生でやりたいことをできるかぎりした方がいいわけです。<br /> <br /> 人生、本当に詰んでしまった場合は死んでやり直した方がいいという場合もあるのかもしれませんけど、その時にメンタルで病んでいる場合は死ぬのは危険で、欲望や雑念が多いまま死ぬと彷徨う浮遊霊になってしまいます。<br /> <br /> 純粋に雑念なく悔恨なく安らかに死ぬことができるのであれば死んでやり直す、という手も一応は理屈としては可能なのですが、悩んで自殺なんかすると浮遊霊になるのがおちだと思いますので自殺はしない方がいいと思います。それに、その人生に関わった人たちに徒労感を与えることもありますし。ただ、こればかりは時と場合によりますので、なんともいえない面がありますが、割とそういう場合が多いように思います。ですから基本的には自殺はいけないと思いますけど、例外的に死んでやりなおす、という場合もあります。<br /> <br /> 死んでやり直す場合は、自殺ではなく高次の自分がそう判断して事故とか病気で死ぬことになりますから、死ぬという選択肢は自分ではしなくていいと思います。<br /> <br /> 顕在意識でそう判断する場合も一応あるにはあるのですが、それは大体の場合は宇宙人が「もう終了」と思ってそう判断する場合がほとんどのような気がして、ここでほとんどと言っているのは、自分の顕在意識で死を判断するという場合自体がそもそもレアケースで、そのレアケースのうちほとんどは宇宙人の場合、ということで、レアケースの中の更にレアケースというのはほとんどありませんので、まあ、自分で死を判断するなんてのは普通の人にとってはないと思った方がいいと思います。<br /> <br /> 地球人の場合、あるいは宇宙人であっても割と殆どの場合は高次の自分が判断してそれが三次元に降りてくる感じですから、自分で判断する必要はないと思います。<br /> <br /> と、いうことで、死ぬという選択をする場合でも顕在意識で判断する必要はないということですね。それは基本的には高次の自分が判断してくれます。<br /> <br /> 生きているのならばそれは生きられるということです。<br /> <br /> ですから、気持ちが落ち込んで自ら選んで死んでしまうのであれば地縛霊とか浮遊霊、あるいは悪霊さんになるということです。まあ、ご愁傷さまと言うしかないですね。ぼおおおおっと、ふらふらっ、と、この世をさまよい歩くようになっちゃうわけですね。怖い怖い。怖いと言うよりは怪談のように「冷たい」って感じですね。寒気がする霊になっちゃいます。<br /> <br /> ですから、命というのは基本的には重くて1つしかないですよ、というのはある意味当たっていて、本当に自分そのもの、変わらない自分、というのは今回の人生あるいはグループソウルに戻らずにまた転生する場合だけ継続するもので、グループソウルにまで戻ってしまったら個というものは一旦は消え去るわけですね。個というのはこの世では一時的にはきちんと存在していて、ですけど、それはグループソウルに戻ればまた繋がるわけですよね。<br /> <br /> 死んだ後に消滅してしまってなくなってしまうわけではありませんけど、グループソウルに合流すればある意味なくなるというのは正しいお話ではあります。死んでグループソウルに合流すれば「あなた」という存在はなくなってしまいますからね。ですから、死んだら無になる、というお話は、完全な消滅ではなくて存続するという点は違いますけど「個」がなくなる、ということであれば正しいです。<br /> <br /> そのようにグループソウルから分離して生まれた魂というのはエネルギーを持っていて、それなりに尊重されるわけです。ですから、魂の、命の重さというのはあるにはある。ですけど、それは天命と言い換えてもいいですけどグループソウルの時点で与えられた使命あるいは平たくいえば「やりたいこと」があって、その「やりたいこと」があるのであれば基本的には命は継続になるわけですね。それがそのまま命の重さになるわけで。<br /> <br /> やりたいことが達成されれば早々に病気や事故になって死ぬこともあるでしょうし、あるいは、残りの人生は緩やかに生きて人生を楽しむかもしれません。それもまた、その魂の選択ですから、どちらがいいとか悪いとかいうわけでもなく、そうなっている、というだけのお話です。<br /> <br /> 「やりたいことができなければ死んだほうがマシ」なんて言いますけどそれは実のところ本当という面もあるのですけど、ただし、強い不満があったり未練を残したまま自殺すると浮遊霊や悪霊になるので自殺は止めておいた方がいいと思います。例えば子供をコントロールして子供のやりたいことをやらせない親なら子供は反発して親を幻滅させるか、あるいは、自由を得られないのであれば生きているのが無駄と悟って自殺して未浄化霊になったりします。そんなもんです。コントロールなんて不可能ですよ。他人をコントロールすると、結果として死にまで直結するわけです。そして、他人をコントロールしようとした場合、コントロールされる方は抵抗しますから、最後は廃人のように自分を見失うか、あるいは、最後の輝きを放つかのように抵抗を試みます。その抵抗で親なり誰がしかに仕返しをするか、あるいは、自ら死を選ぶ場合もあるわけです。<br /> <br /> ただ、ちょっとこのあたり難しいのは、人生の残りの50年とか80年を他人にコントロールされたまま搾取された人生を送るよりは、しばらく未浄化霊になって彷徨ってから成仏したが結果としてプラスな場合があるにはあるのですよね・・・。これは自殺の幇助と取られてしまうと困るのですが、自殺は基本的に止めたほうがいいというのはその通りです。自殺すると未浄化霊になって、悪くすれば悪霊になったりしますから。ただ、この世に生きていても他人からコントロールされ続けると自分で考える力をどんどんと失ってしまいますから、それが半世紀も続くと考える力が弱まってしまい、次の人生における考える力が足りない状況にもなります。そうなるよりはさっさと逃げるか、逃げられないのならば死んだほうがマシ、というのは現実としてあります。ですけど、基本は死ぬのは良くなくて、逃げるか抵抗すべきだとは思います。<br /> <br /> このあたりを私の場合の実例で少し話しますと、私の今生の30歳くらいまでのテーマは他人にコントロールされることを止めること、という課題がありましたね。私の今生の目的はカルマの解消と覚醒への階梯を確かめることの2つですけど、カルマの方の課題の1つとして、過去生で私をコントロールしてきた人に抵抗する、というノルマがありました。例えばそれは大学時代に隣の部屋に引っ越してきた人がかつて私をコントロールしてきた過去生のパートナーだったり、親は私を強烈にコントロールしようとしましたのでそのコントロールから逃れるのもノルマの1つでしたね。その他にも、ビジネスで大した役割を果たしていないビジネスパートナーにあまりにも大きな利益を与えない、未公開株を与えない、というノルマもありました。ものによっては私の若い頃に何度も自殺を考えたりもしましたけど、ノルマを1つづつこなしていったわけです。私が若い頃は、数え切れないくらい「自殺」を考えて、実際に行為に及んだことはありませんでしたけど、日によっては1日に何度も考えたりしたわけですから1年で少なくとも100回だとして10年前後で1,000回くらいは自殺を考えたと思います。それでも何とか生きてこれましたけど。頭で自死を考えても、それを行動する気には何故かなれなかったのですよね。落ち込んで学校に行く足が動かなくても、まず片腕だけ動かして、もう片方の腕もそこだけ動かして、次は右足だけ一歩踏み出して、次はもう片方の足を動かす・・・ として、何とか学校に行っていた頃もありましたっけ。今では遠い思い出ですけど。基本的には自殺は良くなくて、乗り越えるべきなわけです。昔はね、霊界の警察が自殺者を捕まえて牢獄していた時代があったとは思いますけど、今は自殺しても放置ですからね。地縛霊になったらそうそう助かりません。<br /> <br /> 色々書きましたけど、まとめますと<br /> ・自殺は止めましょう。<br /> ・死ぬべき時には死にます。<br /> ・生きているのならば人生は続行です。<br /> Tue, 29 Dec 2020 00:00:00 +0900 最近はYouTube経由でエネルギーを吸い取る人がいるようです https://w-jp.net/2020/2190/ <br /> 遥か昔から能力を奪うとかエネルギーを奪うとかいうお話はあって、昔は近くにいる時だけにそれが起こったものですけど、最近はYouTubeを見ているだけで視聴者からエネルギーを奪うような器用なエネルギー・ヴァンパイアがいらっしゃるのですね。この種のエネルギーを奪う系の人は昔から一定数いましたけど、最近は進化しているのですね・・・。こんな変な迷惑な進化なんてしなくてもいいのに、と思うのですが。<br /> <br /> 近くに寄ったり映像を見ているだけで疲れるのであればすぐ離れるのが基本ですね。私の場合は、特にお腹がムズムズと凹む感じで痛くなります。チクチクはしませんが、どんよりとお腹から何かを吸い取られるかのようです。きっとこういうことをする人はマニプラ以下が優勢でマニプラで相手からエネルギーを吸っているのですね・・・・。怖い怖い。<br /> <br /> 昔からスピリチュアル界にはエネルギーを吸い取る人がいて、最近ですと覚醒とか悟りを語っているYouTuberの中にエネルギーを吸い取る系のYouTuberがいるようですね。本人は気が付いていないのですかね・・・。迷惑なんですけど。エネルギーを視聴者から奪いながら覚醒を語っていたり宇宙や次元や真理を語っている動画は見ないほうがいいですね。<br /> <br /> ちょっと前はブログでもこういうのはありましたね。ブログを読んだ人から対価としてエネルギーを吸い取るように技をかけているのでしょう。本人が意識的にやっているのか無意識的なのかは知りませんけど、エネルギーが不足している人がブログを書いて視聴者からエネルギー補給するというのは昔からもぼちぼちありましたし、今も普通にあると思います。最近はそれがYouTubeになってきているのですね。<br /> <br /> いくつか最近見たところ、狐の化身っぽい人もいましたね。妖狐とまでは行きませんけど、狐系の美人さんがYouTubeでスピリチュアルしていたりしますね。こりゃ、あまり良くわかっていない人だと貢いじゃうかもしれないですね・・・。他人の勝手なので好きにすればいいですけど。特にそれを阻止したりなんて野暮なことしませんよ。そういう体験も全て学びですし本人の選択だから好きにさせておくのが一番なのです。<br /> <br /> まあ、そういう人に騙される・・・ と言うと語弊がありますけど、人にはそれぞれレベルがありますし、どんな人であっても誰かに教えることはできますし、自分より上のレベルであれば教師として教えてもらえる人は誰がしかいます。ですから別に騙されるという言い方は語弊があるのですけど、悟りを教えている筈の教師が一瞥しかしていないのだとしたらそれは看板に偽りありなのではないでしょうかね。そもそも一瞥の悟りとわかっていてそれを教えているのならばいいですけど、わかってる人なら一瞥の悟りだということをはっきりと述べるでしょうし、そもそもそのくらい自分の事がわかっている人なら一瞥しただけでスピリチュアルのこと教えだしたりはしないと思いますけど。まあ、これは人にもよりますけどね。私はそう思うと言うだけで、やりたきゃやればいいと思います。この世界は何だって自由です。好きにすればいいと思います。<br /> <br /> ですけど、やるのは自由でも、視聴者から意識的か無意識的にやっているのかはわかりませんけどエネルギーを吸い取るようでは所詮はその程度なわけです。<br /> <br /> 先日も書きましたけど、一瞥しただけで自分が真理を悟ったかのように勘違いしている人は適切な師匠がいないことが多くて、いたとしても師匠よりも自分の方が上だと勘違いして、その結果、自分がいわゆる教祖様とかスピリチュアル教師とかになってしまったりするのですよね。<br /> <br /> それが愛を語りつつエネルギーを実は奪っているのなら、まあ、等価交換とも言えなくもありません。理屈で愛を語りながら、愛とはエネルギーの高まりであるのにそのエネルギーを交換で奪っているなんて、なんて皮肉なお話なのでしょう(苦笑) とても興味深いです。<br /> <br /> あるいは、真理を語る筈なのにヒステリーになっていたり、皮肉で真理を語ったりするチャンネルは高確率でエネルギーを吸い取っている気が致します。エネルギーだったり、セミナーの勧誘だったりしますよね。 まあ、それを狙っているのでしょうかね? よく分かりませんけど。そういうチャンネルは見ないほうがいいと私は思いますけど。<br /> <br /> まあ、具体的に誰か、ということは、誤解がありますので特に言いませんけど。まあ、ご自身で自由に判断すると良いと思います。<br /> <br /> セミナーの勧誘ならまだ可愛いです。厄介なのは、ある程度の能力があって遠隔で視聴者からエネルギーを奪い取る系のYouTuberです。YouTube動画を見ただけでエーテルのコードを繋がれてエネルギーを継続的に吸われてしまうこともあります。まあ、こっちが先にその動画を見てYouTuberに対してエーテルのコードを伸ばしたところを蜘蛛の巣にかかった獲物のように素早く捕らえてエネルギーを吸い取るのでしょうね。ほんと恐ろしいです。そういうときは、以前に書いたようにエーテルのコードを切ることが重要です。動画を見た後に具合が悪ければ吸い取られている可能性がありますので、見えなくてもどこかに繋がっているかもしれませんので自分の周囲、全方向のどこかに繋がっているかもしれないケーブルを見えないナイフのようなもので切るそぶりをイメージすると実際にケーブルが切れてエネルギーの吸入が止まり、結果、エネルギーが減らなくなって気分が回復すると思います。<br /> <br /> あまり気が付いていなくても度々やったほうがいいと思います。<br /> <br /> 悟りとか覚醒とか語っていながら一見すると愛に満ちているように見えてもその人を見るとどこか疲れたり、皮肉が多かったり言葉のあやを利用した否定形の真理の語りが目立ったりヒステリーだったり自己啓発系っぽかったりお金儲けの秘訣とか語っているところはエネルギーもこうして吸っている可能性がある気がしますね。人それぞれ色々なパターンがありますけど。<br /> <br /> 怖い怖い。見えなくて気付かないと思ってやっているのか、それとも、自分は気付かないうちに無意識でやっているのかもしれないですけどね。<br /> <br /> 共通して言えるのは、疲れるようなものをわざわざ見る必要ない、ってことです。たとえ愛とか悟りとかを語っていたりしてもね・・・。本物はエネルギーに溢れていて他人から奪わずにエネルギーを分け与えます。偽物もエネルギーに満ちているように見えますけどエネルギーを周囲から奪い続けているわけです。<br /> <br /> 目立つことでそういう人にエネルギー(力)が集まることになりますから、ますます変な存在になります。そういう力を持った存在は霊界にも多くいて、形としては「天狗」とか「稲荷の狐」みたいな存在だったりしますね。キツネつきで他者のエネルギーを吸っている場合もありますね。それは人によって異なりますけど。悟りを語っているYouTuberの正体が妖狐みたいなおぞましい狐だったりします。一見すると美しい娘ですけどね・・・。もちろんその本人は自分ではそんなことを言わないでしょうし、指摘しても否定するでしょうしね。霊体は姿なんていくらでも変えられますから、ばれそうならお気に入りの姿以外のどんな姿に化けてごまかしてくるかもわからないですしね。<br /> <br /> まあ、どちらにせよそのような存在とは関わらない方が良いです。ちょっと慣れれば感覚で本物かどうかなんてすぐわかりますよね。<br /> <br /> そのようなYouTuberであっても体験のいくつかは本物なのだろうとは思いますけど、私がここで言っている本物というのは日常生活で継続的に悟っているかどうかという判定基準ですからね。一瞥の悟りがあったとしてもその後にエネルギーを奪ったりヒステリーになったのならばそれはまだ本物ではないということです。私の個人的な基準ですけどね。<br /> <br /> あとはね、この種のケーブルを切りたければ自分の守護霊に「もし意図しない変な存在とエーテルのコードで繋がっていてエネルギーを吸われているのならば、そのケーブルを切ってください」と定期的にお願いするのも手ですね。<br /> <br /> 本来はこういうのは自分で対処すべきだと私なんかは思いますけど、どうもできないようならば守護霊にお願いするのも手だと思いますし、繋がっていないと思っていても繋がっている時がありますから、そういう確認の意味も含めて切ってもらうのもいいですね。<br /> <br /> 守護霊も、お願いされた時以外は放置の守護霊もいれば過保護な守護霊もいますので性格次第ではありますけどね。基本的には自分で対処して、確認および自分では難しい時は守護霊にお願いするといいかなと私なんかは思いますけどね。まあ、好きにすればいいと思います。<br /> <br /> エネルギーヴァンパイアをしている妖狐系のYouTuberは手に負えないですけど、その一方で、一瞥の悟りをしただけで悟っているかのように勘違いしているだけの人はまだ救いがあります。<br /> <br /> 一瞥の悟りで悟ったかのように思っている人を時に「勘違い系」と言ったりもしますけど、それは別にそれほど悪い意味でもなくて、永続的な最終的な悟りだと勘違いしているのはそうなのですけど、一瞥の悟りであってもそれはそれで素晴らしいですし、後ほどいつかはそのことに気が付いて伝統的な修行の道に進んで永続的な悟りを目指すというのは割と多いケースのように思います。ですから、それほど悪いことではないかなとは思うのですが、そうは言いましても、YouTube動画とかブログを書いてエネルギーを吸い取るのは迷惑でしかありませんので、それはやめて頂きたいということです。少なくとも視聴者側としてはそのような勘違い系の人に対して防御する必要がありますね。<br /> <br /> Wed, 16 Dec 2020 00:00:00 +0900 聖典を理解するだけでは悟ることができないと昔から聖者は言う https://w-jp.net/2020/2189/ <br /> これは古くからの言い伝え。<br /> <br /> 聖典を読んだ後、実践してこそ初めて悟ることができる、と聖者たちは口々に言う。<br /> <br /> とあるスワミは言いました。<br /> <br /> 悟り、が真の宗教であって、他のすべては準備にすぎない。説法を聞いたり、書物を読んだり、論理をたどったりするのは、単に基礎を準備しているにすぎない。それは宗教ではない。(中略)悟りの全領域は感覚の知覚のかなたにある。「ラージャ・ヨーガ(スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ 著)」<br /> <br /> ヨーガでは悟りには誰しもが到達できると言います。<br /> <br /> ヨーガは一部の宗教のように「信じなさい」とか「信じれば救われる」などとは言いませんが、聖典および教師(グル)に対する信頼は必要だと言います。おそらくはそれらの宗教の中には信頼という意味で「信じる」という言葉を使っている流派もあるとは思いますが、そうであれば同じことです。<br /> <br /> 聖典やグルは理解および信頼するものであり悟りは体験して会得するものであるとヨーガは説くわけです。<br /> 古くから、悟りを得た聖者は同様のことを言っています。<br /> <br /> Wed, 16 Dec 2020 00:00:00 +0900 世界宗教会議で「皆、違っているからこそ素晴らしい」と喝破したスワミがいた https://w-jp.net/2020/2184/ <br /> どこで読んだお話か忘れてしまいましたけど、昔、たしか半世紀ほど前にインドからはるばるアメリカに渡って世界宗教会議に出席したスワミがいたそうです。<br /> <br /> 覚えている限りの話を書きますと、まずその世界宗教会議のテーマは普遍的な統一的な宗教、という感じで、今で言うところの「ワンネス」がテーマだったと思います。<br /> <br /> 各宗教の流派が統一的宗教のお話をして、拍手喝采、その会場では「ワンネス」が叫ばれ、各派の宗教者がダンスを踊りながら「みんな一緒、ワンネス素晴らしい」と楽しげにしていたそうです。<br /> <br /> それに違和感を感じたスワミは、次のようなことを言いました。<br /> <br /> 「ワンネスとは、皆が同じようになることではない。皆が違っていて、それでもそのまま素晴らしいのだ。違っているからこそ世界は美しいのだ。そのように宗教が1つになって統合される必要は全くない」<br /> <br /> ・・・その発言に、会場は固まったそうです。<br /> <br /> これは、ヴェーダの教えでもあると私は理解しています。<br /> <br /> ヴェーダでは人間の本質はアートマンで、いわゆる魂のようなものですけど、そのアートマンの本質は実はブラフマンで、ブラフマンとはこの世に偏在していて、ブラフマンこそがワンネスの本質なわけです。<br /> <br /> ですから、人間は個としてのアートマンだと思っているけれども実はブラフマンだ、というのがヴェーダの教えで、その意味するところは、何もしなくても最初からブラフマンであって、アートマンとしての個はそのまま残るわけですよね。アートマンはそれぞれ違っていてそれでよくて、それでもブラフマンとして同一なわけです。ですからヴェーダでは個人を均一化するようなことをしなくて、それ故に、宗教を統一するなんてことはしないのです。そんなことをしなくても最初から全ての人間、人間だけでなくこの世の全てがブラフマンなのですから、最初からワンネスなのです。<br /> <br /> 結局、その宗教会議の本当の目的はワンネスといいつつ実は特定の宗派の拡大を狙っていたのかな・・・ とも勘ぐってしまいます。<br /> <br /> それはさておき、そもそもヴェーダでは個人の均一化を説いていなくて、人は違っていてそれで良い、という考えが基本にあるわけです。<br /> <br /> ですから、ヴェーダは最近における誤解されたワンネスとは相反しており、ヴェーダ的な本質のワンネスがあるわけです。<br /> <br /> Sun, 13 Dec 2020 00:00:00 +0900 悟りの一瞥をしたいのか、あるいは永続的な悟りを得たいのかで修行方法は異なる https://w-jp.net/2020/2183/ <br /> 一瞥をしたいのならばいくらでも方法があります。簡単な方法であれば修行すらいらないです。<br /> <br /> 私はやったことありませんけど後遺症があってもいいのならば幻覚剤を使う方法も使えるかもしれませんし、魔女系の方法、スピリチュアルなトランス、あるいは先日書きましたように誰かに幽体離脱を手伝ってもらって時空を超えるという方法もありますね。全て「一瞥」です。一瞥でいいなら割と修行なんていりません。修行するにしても、魔女的あるいはテクニックを使う方法ですと自我(エゴ)が残っていても一瞥はできますから、ある程度のテクニックとラッキーさがあれば一瞥は可能です。<br /> <br /> ゴールをどこに定めるかですよね。悟りが欲しいという目標があったとしても、一瞥の悟りを求めているのか、それとも永続的な日常的な生活における悟りを求めているのかで違いますよね。<br /> <br /> 瞑想中にだけ感じることのできる悟りは、たとえそれだけであったとしても素晴らしいことは確かです。幽体離脱で体感する悟りも、これまた素晴らしいことは確かです。それはそれで素晴らしいのですが、最終目標をどこに置きますか? というお話です。<br /> <br /> 最終ゴールが継続的な日常生活にまで行き届いた悟りの状態であるのならば、やはりそれは伝統的な方法に従うことになると思います。<br /> <br /> 一瞥であるのならばトランスだとか激しい瞑想だとかショックのある方法だとか・・・ いくらでも方法があります。一番簡単で修行が全くいらないのは、誰かに手伝ってもらって幽体離脱することですかね。<br /> <br /> でも、戻ってきてからの顕在意識と幽体離脱で見聞きした内容のギャップに苦しむかもしれませんけどね。それは当人次第です。問題ないかもしれませんし。<br /> <br /> どちらにせよ、一瞥は所詮は一瞥で、それでゴールにしたいならそれで構わないです。ただ、一瞥なんかが永続的な悟りだと勘違いしても幸せにはなれないと私なんかは思いますけどね。<br /> <br /> 一瞥がしたいなら瞑想なんてする必要がなくて、一時的に精神を落ち着けたり、トランスのように顕在意識を一時的に眠らせることで奥底の意識を浮かび上がらせたり・・・ 詳しくは言いませんけど、いくらでも方法があります。<br /> <br /> どちらが自分のゴールなのか?<br /> <br /> ゴールが継続的な日常生活にまで行き渡った本当の悟りであるなら、やっぱり基本は瞑想ですよね。雑念を減らして沈黙の状態である静寂の意識に入り、宇宙意識に到達する。<br /> <br /> それしかないです。 と、私は思っています。<br /> <br /> YouTubeとかブログを見ると悟りとか覚醒について色々と言っている人がいますけど、一瞥の悟りあるいは一瞥の覚醒を本物の悟りであるかのように説明している方がそれなりにいて、ミスリードだなぁ、とか思ったりもしますけど、そのように偽物を見極めることも修行の1つだと思いますし、まあ、好きにすればいいと思います。そういう一瞥の悟りを求めていらっしゃる方もおられると思いますしね。何をするのも個人の自由です。<br /> <br /> 昔から、一瞥の悟りを得た人は教祖になって、本当の悟りを得た人は教祖にはならない、と言われていますけど、それはある程度は当たっていると思いますね。最近は新興宗教の教祖様ではなくてYouTubeチャンネルの教祖様みたいな感じですけど、スタイルは違えども同じことです。<br /> <br /> 一瞥をしただけで「私は悟りを得ました!!」と言って修行を辞めてしまう方はとても多くいらっしゃいます。そこらのスピリチュアルな集会に顔を出せば「私は悟りを得ています」とか「私は覚醒しました」「宇宙意識を得ました」と言う人なんて割と普通にいます。それが一時的なものなのか継続的なものなのか、見極めが重要ですよね。グルがいれば「君の悟りは一時的なものに過ぎない」とか指摘してもらえますけど、一人でやっていると勘違いもありますよね。<br /> <br /> スピリチュアルとか宗教をやっている人って、悩んでその道に入った人もそれなりにいますけど、ある一定の割合で、子供の頃に神秘的な体験で悟りを垣間見るとかもともと見えないものが見えたとか聞こえたとかいう基礎があって、その方面をもっと知りたいとか悟りを確かなものにしたいという目的があってその道の修行に入ったりするわけです。そのように、一瞥は所詮は一瞥でしかなくて、やがて一瞥で得た感覚が薄くなっていくとそれを求めて修行を始める人もそれなりにいるとは思います。子供の頃に幽体離脱したり臨死体験で真理を見たことがきっかけでスピリチュアルや宗教をやって悟りを求めている方はぼちぼちいらっしゃいますよね。一瞥は一瞥でしかなくても良いきっかけになるわけです。<br /> <br /> スワミ・ヨーゲンヴァラナンダのように若い頃にヒマラヤ大師と出会って感化されて死ぬまで修行に励んだ、という方もいらっしゃいますし。<br /> <br /> 一瞥をしたことで本物を知って感化されて修行を始める人も大勢いらっしゃいますので一瞥であっても無駄ではないですしね。最初は一瞥を求めていても最終的な悟りを求めるようになるということも沢山あると思います。<br /> <br /> Sun, 13 Dec 2020 00:00:00 +0900 悟りの一瞥をするだけで満足しない https://w-jp.net/2020/2179/ <br /> 宇宙意識の悟りがどのようなものなのか一時的にでも知ることは重要で、私の場合は小学校の頃の幽体離脱で知ったわけですけれども、それは始まりに過ぎないわけです。知ることは重要であっても、日常生活の意識で同様の宇宙意識とはまだ繋がっていないわけで、日常生活を送りながら宇宙意識と繋がることができるようにするのが修行であるわけです。<br /> <br /> 伝統的業界ですと瞑想をして意識の平穏を教えるところから段階的に悟りを目指しますけどスピリチュアルなやり方は色々で、特に最近は感情に焦点を当てて感情面から意識を一時的に平穏にして宇宙意識と繋がるという方法も取られているようです。であればその意識の平穏および宇宙意識は一時的なもので、真実を知ってから戻ってきた後にギャップを感じてヒステリーになったり怒りっぽくなるのも当然かなという気が致します。そもそもアプローチが違うので結果も異なるわけですね。「怒り」が結果として残るのであれば一時的に宇宙意識を得たとしてもある意味失敗だったのかなという気が致しますけど、それは個人的な個別のお話ですので、好きにすればいいと思います。長期的に見ればなんだって大差ないですけど、大差ないなら怒りなんてない方がいいと思いますけど。私なんかが思うには日常生活を平穏で過ごすことができないのならば宇宙意識なんて意識が広がるばかりで邪魔でしかなくて意識を乱すだけのものであると思います。伝統的なやり方で悟りの状態に至った場合は意識の平穏を先に達成しますから、意識の平穏を保ったまま宇宙意識と繋がって平穏な意識を保ちますけど、感情を抑えるやり方で宇宙意識と繋がると意識の平穏が不安定ですから感情に左右されて宇宙意識の方からのフィードバックによって感情が爆発してしまうことも多々あるように思います。これは、宇宙意識への意識の拡張が必ずしも幸せに繋がらなかったという悲しい例ですね。悟りを目指す人はそうであってはならないと個人的には思いますけど歴史的には伝統的流派であってもそのように悟ったけれども荒っぽい人はいて、それはそれで一定数の割合でそのような人は出てくるものとは思います。まあ、そういう人は揺り戻しがあって、来世には平凡な人生を送ってからまた悟るということになるのでしょうけど。悟って平穏でいられる人は来世でも悟ったまま生まれて来れたりします。<br /> <br /> 私は小学校の頃に幽体離脱して宇宙意識を知って多次元の時空を超えた視点を得て過去も未来も見れてパラレルワールドも俯瞰して未来も自分で設計し直したりしましたけど、その後、肉体に戻った時の認識はあくまでも人間でしたからね。理解と経験の感覚は残りましたけどね、それがそのまま日常の生活の意識とリンクしているかというと日によってシンクロ率が高かったり低かったり、いろいろでした。宇宙意識のことを話しても誰も理解しませんでしたし、周囲は私のことをニューエイジか何かかと理解したみたいでしたけど、私は一応は説明としてニューエイジの言葉を使いはしましたけど根底にあるものはニューエイジとは関係なくて幽体離脱の時に得た知見でしたので、どちらにせよ話は通じませんでしたね。当時から時空を超えた宇宙意識を知ってはいましたけど、今から思えば、最近で達成した伝統的な悟りへの道でのある程度の達成と、一時的に宇宙意識を知って時空を超えて戻ってきた日常生活の状態では全く状態は異なると断言できます。一時的な幽体離脱で宇宙意識を知ることなら手助けさえあれば割と誰でもできますし、私も大学生の頃に知人の女の子の幽体を引っ張り上げていろいろ見せたことありましたけどその子自身は「わかっていない」子でしたけどね。手助けがあれば見聞きすることはできます。瞑想で一時的な宇宙意識も得られますけど、それもまた日常生活での宇宙意識とは異なりますから、一時的に宇宙意識を知ったところであまり得意気にならないことですね。 まあ、そうは言っても、それは本人の自由ですから、好きにすればいいと思います。私はそう思うというだけです。自由にすればいいと思います。これはただの個人的な感想です。<br /> <br /> ゴールが私の場合は先に示されたようなもので、幽体離脱した時の宇宙意識、時空を超えた意識がまずあって、ゴールが明らかで知ってはいますがそれがそのまま自分の悟りではないわけで。知っただけの状態でも以前とは変化していますけど、それでもあくまでも自分はただの肉体を持った普通の人間でしかないわけです。そのただの人間の状態から、宇宙意識を日常生活を送る中でも繋がったままでいられるようになるために修行があるわけです。記憶の中にある宇宙意識の感覚と自分の現在の意識との乖離があるわけですね。<br /> <br /> ですから、宇宙意識を知っただけで自分は悟りを得たかのように思うのはとても愚かなことで、それは垣間見ただけで、それだけでも十分素晴らしいことではありますけど、日常生活での意識がそこまでではなかったり惨めなものであるならば悟ってはいないのですよね。<br /> <br /> 宇宙意識と一時的にでも繋がって時空を超えられれば人生も思い通りにできますので金銭的にも自由にすることもできますし逆に金銭的に追い込んで厳しい状況で修行することもできます。人生を自由にできたからと言って、貴方が悟っているとは限らないわけです。どちらにせよ、そのように宇宙意識と繋がってしまうと最初は色々と勘違いが生まれてしまいますので「自分は幽体離脱したことがあるし真実を知っています」と言って修行しなくなってしまったりします。これまた愚かなことです。<br /> <br /> 一時的に宇宙意識に繋がって時空を超えた真実を知ったとしても日常生活で宇宙意識と常に繋がるためには長い修行が必要になるのが普通なわけで。素質のある人でも数年は必要で、普通は10年とか数十年なんてのはざらです。<br /> <br /> そのことを指摘しても、「私は知っているから」と言って聞く耳を持たない場合もあるわけです。ですけど、それは違うのですよね。<br /> <br /> 一時的に宇宙意識を知っただけで自分は皆と違っていると思うなんてのは、まあ、それは割とスピリチュアルの罠ですよね。知っているのはそうなのでしょうけど、別にそんなに特別に感じる必要はないわけですけど、最初は特別に感じてしまうものなのですよね。そんなもんだと思います。おそらくは誰しもが一度は通る道です。そこで立ち止まらずに修行を続ける必要があるわけですけど、そこに気が付いているかどうかは知りませんけど、たぶんそのくらいの人ならそのうち気がつくとは思いますけど。<br /> <br /> インドのリシケシでヨガニケタンを作ったスワミ・ヨーゲンヴァラナンダは若い時にヒマラヤ聖者と出会って真理を知り、それを体得するために長い年月を費やしました。修行というものはそういうものだと思います。最初に真理を知ったところでそれを体得しなければ何にもならないわけです。真理を知ったところで、それを体得するのとは別物なわけで。<br /> <br /> 私は小学校の頃に幽体離脱して時空を超えて真理を知り、それを持ち帰ったものの、そのままの状態では悟った状態ではなかったのです。知ってはいるけれども体得していない状態だったわけです。それは幽体離脱とか瞑想とかで体得したものにも当てはまります。一時的な悟りの境地が得られることはそれはそれで素晴らしいことでありますけど、その一時的な悟りの状態を日常生活と共存させるには一般的には修行が必要なわけですよ。<br /> <br /> 確かに、私も幽体離脱してしばらくは自分が真理を知っているから皆とは違うと思い込んでいて、ちょっとした高飛車状態になっていましたね。まあ、小学校とか子供ですしね。そんな一時的な悟りは確かに素晴らしいお話ではありますけど、日常生活と悟りが共存しなければ何にもならず、むしろ、真理を知った意識と顕在意識とが乖離し始めて精神的にきつい状態になってしまいます。物欲だけに生きることもできず真理に生きることもできない。まあ、私の場合は理由はそれだけではありませんでしたけど。<br /> <br /> 幽体離脱した後も、その経験は本物だとしても、その当時は悟りの意識を体得した状態になっておらず、自分自身とその悟りの意識とが乖離していたたわけです。幽体離脱をして時空を超えた真理を知ったところで基本的なところでまだまだスピリチュアル初心者だったわけです。心が、真理を知っている部分と顕在意識の葛藤の部分とで分離して対立していたわけです。その真理の意識と日常生活の顕在意識とを融合するには修行が必要だったわけです。<br /> <br /> 他の人にも同じことがあてはまるかどうかは分かりませんし、他人は自分の好きに生きればいいですけど、私の場合はこうでした。<br /> <br /> Sun, 13 Dec 2020 00:00:00 +0900 2020年のスピリチュアル・バズワード 振り返り https://w-jp.net/2020/2178/ <br /> <br /> ・「覚醒」伝統的業界では今も昔も「悟り」ですけど、スピ業界では覚醒というのが流行りみたいです。前から一般用語として使われていましたが今はバズワードと化している感じが致しますね。<br /> ・「ライオンズゲート」私はよく分からないです。ゲートが閉じるとかいう噂がありましたけど、なんのことやら。<br /> ・「設定」誰が言い出したのかは知りませんけど、色んな所で「人生は設定だ」みたいなお話が増えてきました。「人生はゲーム」というお話の派生版っぽいです。昔は「人生は自分で決めて生まれてくる」みたいな言い方をしていましたよね。言い方は変われども十数年おきに定期的にバズワードに上がってくる話題ですかね。<br /> ・スピリチュアルから目が冷めた、というお話。新興宗教とかスピにハマっていた人が目が覚める系のお話は昔からありますけどYouTubeのおかげか今年は目立った気が致します。<br /> ・「次元」長い人気ですね。長く使われてきたが故か、「次元って意味あるのですか?」みたいな揺り戻しが起きた年だったようにも思います。<br /> ・「風の時代」占星術のお話みたいですけど具体的にはさっぱりわかりません。水瓶座時代みたいなお話ですかね? 誰が言い出したのですかね? よくもまあ、次々に新しいネタを作り出すものですね・・・。<br /> ・「バシャール」10年くらい前から盛り上がっているスピリチュアルな宇宙人で、昔から名前は知ってはいましたけど個人的には興味がなくて一度もちゃんと調べたことがありません。なんでこんなに未だに人気なのかも謎です。<br /> ・「スターシード」ルーツを見ればかなりの地球人がスターシードだと思いますので、特に取り立てて言う必要もないんじゃないかなと思いますけど。個人的には特別感ないですね。<br /> ・「クラリオン星」真偽のほどはよく分かりません。<br /> ・「カタカムナ」細々と人気が続いていますね。そろそろマイナーを脱出してメジャーに?<br /> <br /> <br /> これは個人的な印象です。統計を出したわけではありません。<br /> <br /> 「覚醒」は人によって定義が違っていてよく分からないです。おそらくは静寂の意識のことを意味しているように思いますが悟りという意味で使っている人もいますし。新しい業界の新しいバズワードは人によってコンテキストが違うのが困りものですけど、それはそれで内容を読み解くのが面白いという面もあります。とは言え、もうちょっと定義をしっかりしてから使ってほしいものです。「悟り」にしても流派によっていろいろですのである程度は仕方がない面はあると思いますけど。<br /> <br /> 「ライオンズゲート」は、私には全く心当たりが無いです。何なのかもよく分からないです。私の見えないガイドが教えてくれたことによりますと、「そういうイベントにした方が成長しやすい人がいるのですよ」ということみたいです。ガイドも何のことかよくわからないみたいです。元々はなくて最近作ったものではあるけれども、成長のためにイベントとして盛り上げているグループがあるようです。特に悪い意図は感じなくて純粋なものでしたが、盛り上がるにつれてちょっと金儲けの人も入ってきている、というのはこの業界ではよくあることです。そうして、最初は良くても途中から金儲けの人に乗っ取られてそのバズワードは使われなくなってゆくのですね。今はまだそこまで行っていなくてまだ盛り上がっている感じではありますけど。そういうイベント好きな人もいるので、どっかの天使か宇宙人が企画して盛り上げている感じですね。こういう見えない存在による企画はスピリチュアル業界ではよくあります。アセンションとかもそうでしたね。アセンションは盛り上がりましたね。確かに大きな変革はありますけど、それをアセンションと呼ぶかどうかは別問題なわけで。レムリアのアセンションはアセンションと呼ぶに相応しいものではありましたけど、これから同様のことが起こるかと言えば同じではないと思いますし。ですけど皆さんの目を向けさせて意識を変革するという効果はありましたので、アセンション企画は割と大成功と評価されていると思います。<br /> <br /> 「設定」についてですが、昔から「人生は自分が決めて生まれてきた」みたいなお話はありましたけど、最近のお話ではそれに加えて「魂の経験が豊富な人は厳しい環境に自分を追い込んで苦しい人生を選ぶ」みたいなお話が加わりました。私がまさにこれなんですけど、数十年前まではオーラの色でその人の魂のレベルまで一律に決めつけられてしまう風潮があって、魂の経験が豊富なので苦しい人生で人生経験を沢山積もうと思っている人が辛い系の赤いオーラで頑張っていたりすると昔は「オーラが赤だからスピリチュアル的に程度の低い人」として一律で評価されてしまっていました。まあ、普通の人は優越感を感じたいですから、オーラの色で一律で他人を見下したい、という弱い心がスピリチュアルの罠にハマってしまっていたのでしょうね、特にいま50代以降になっているバブル世代はそういう傾向があったように思います。スピリチュアルを優劣付けのための道具にしている人が昔から一定数いて、昔は特に多くて、そのような人にオーラの色での優越レベルはドンピシャではまって他人をオーラの色で評価しまくっていたように思います。その当時から「人生はゲーム」という言葉はありましたけど最近のバズワードで言う「人生は設定次第」というお話があまり理解されていなくて、例えば私は特殊なマントを被って霊能力なしに生まれてくるということをしていましたしカルマの精算が人生の目的の1つでしたから、私のように一時的に意識的に自分をどん底まで叩き落とした人にとってはそのようにオーラで一律で決めつけられてしまう風潮は生き辛い世の中でした。そういうこともあって、ここにきてようやく「人生は設定」というお話が世間に広まってきて、「ようやく、ですか?」という感はありますけど、このまま広まって常識になってくれればいいと思います。<br /> <br /> スピリチュアルの罠から目が冷めた、というお話は昔も今も一定数ありますけど、昔から真理の世界では「先生は真理を指差すことしかできない(直接的に教えることはできない、完璧に近づけることだけ可能)」というのは昔からあるたとえ話で、最終的な真実は本人が見つけないといけないのですよね。そんな当たり前のお話が意外に浸透していない気がしますね。スピリチュアルの人たちって古典的な精神世界を勉強していないのですかね? 割とどこでも言われているのに、聖典に書かれてある真理を新しくて自分だけが知っている真実かのように語るスピリチュアル・リーダーがぼちぼちいて、違和感しかありません。スピリチュアルの人ってスピリチュアルのことしかやらないのですかね? このような精神修行の世界の基本を抑えておかないと「なんで先生は間違ったことを教えていたのですか」みたいなお話になってしまいます。そもそも真理を直接的に表現して教えることは不可能なのですけどね。真理を知った時に人がどのように行動するのかはだいたい2種類に分かれていて、完全に表現できないけれども何とか自分の知った真理の輪郭を表現しようと努力する人。あるいは、真理を表現することは不可能だと判断して沈黙を守る人です。言葉の表現が上手いグルならいいですけど口下手、表現が下手なグルもいますし。昔からそんなもんです。グルの口数が少なかったり言葉が多かったり。そんなもんです。それでも何とか表現してくれる先生に感謝するのが普通です。先生の中には実際に悟っていない人ももちろんいるでしょうけど、それは自分にはどうだっていいことではないですか。片鱗であっても教えてくれる人には変わりがないです。何も言わなくても態度で教えてくれるグルもいます。それに、明らかに悟っていないような普通に見える人でも悟っていることがあります。精神修行の世界では「良い師匠に出会えるのは幸運である」とも言われているように、そうそう良い師匠に会えることはないです。そんなもんです。思えば私自身の過去の態度についてもこれらは多少ながら反省がありますけど、過去を見て反省する良い機会になりました。<br /> <br /> 「次元」について<br /> 何やら「次元という概念はおかしい」とスピ業界で言われ始めた年のような気が致しますね。改めて次元とは何かと問われると、私は次元の数字についてはよく分からないので数字は私は言いませんね。単純に「高次元」というのであれば私の守護霊やハイヤーセルフの存在している領域はきっと高次元だろう、というくらいの軽い意味で使っていて、そこに明確な定義はないですね。そういえば前に次元が上がると言うよりは次元が下がって消え去るみたいなお話を書きましたけど、次元が下がるという感覚の方が近いです。イメージで言っているわけではなくて幽体離脱で見聞きした領域のことを言っているわけです。ですからそもそも現実が先にあって、それを表現するために何とか言葉を選んでいるわけで、高次元というよりもっと良い表現があるのならば私が知りたいくらいです。「あの世界」と言っても通じないでしょう。「高次元」といいつつ「次元が下がる」なんて、なんのこっちゃ? と思われるかもしれませんが、別に矛盾していません。現実がそうなのですから。でも、数字のことはよくわかりませんね。もし誤解があるのならば別の言葉を使いたいですが、代わりになる言葉が今の所思い浮かばないです。現実は変わらないので、もっと誤解のない直接的な言葉があればその方がいいのですけど。「天使界」とか言った方がいいですかね。でも、べつに他の場所にあるわけではなくてすぐそこにあるのですからね。天使界というと遠くの天国にあるかのような印象を与えてしまいますけど、いわゆる次元のようなものがちょっと違うだけですぐそこにいますからね。やっぱり高次元というのがしっくりきますけど。とは言いつつも感覚としては「次元がなくなる」という方が実感に近いのです。やっぱり聞いていて訳わからないですよね。そんなもんです。私の基本は幽体離脱で時空を超えて見聞きした内容ですから、時空を超えるというお話とそれによるパラレルワールドが無数にあるところまでは理解できますし、高次元というのは存在していますけど、人によって次元という言葉の定義がまちまちで、時に他人がどこのことを次元と言っているのかよくわからないこともあります。特に数字についてはわからなくて、7次元だとか12次元だとかはただ単に「そのくらい進歩した魂」というくらいにざっくりと捉えています。何やら次元が意識のレベルを意味しているようですけど、定義がよくわかりませんからね。私は「高次元」とは言いますけど数字はほとんど言いません。数字はよく分かりませんから。そもそもヨーガやヴェーダや仏教では次元なんてお話は出てきませんし、次元なんて言い出したのはごく最近のお話です。なんとなく概念的に高次元という言い方がしっくり来るので使っているだけです。私の見えないガイドに「数字はどういう意味なのでしょう?」聞いても回答ないですし。数字はあまり関係ないんじゃないかな、と個人的には思ってますけど。<br /> <br /> <br /> 他にも多種のバズワードがありましたけど、よくもまあ新しい言葉が出てくるものですね。ある意味、感心します。<br /> <br /> <br /> ・・・今年も色々とありました。たまには振り返るのも良いものです。<br /> <br /> Sat, 12 Dec 2020 00:00:00 +0900 悟りとは日常生活において常に意識が時空を超えていること https://w-jp.net/2020/2177/ <br /> 一時的に瞑想をしたり幽体離脱して同様の状態になったのは悟りを垣間見たことであり、悟りの状態には違いありませんけど、日常生活でその状態を保ててこその悟りなわけです。垣間見ただけでも素晴らしいことですけどね。<br /> <br /> 幽体離脱で時空を超えることは、他の人に手伝ってもらって幽体離脱すれば割と誰でも体験できます。<br /> <br /> 私も、大学生の頃に知り合いの女の子の魂を体から引き抜いて世界を見せたことがあります。まあ、はっきり言って「わかってない」子でしたけどね。哲学とか勉強はそこそこできましたけどスピリチュアルな事柄に関しては無知というか斜め上を向いて理解していて、本質がわかっていない感じでした。<br /> <br /> そんな子であっても、私が幽体離脱をして、両腕を脇の下から引っ掛けるようにしてその子の幽体を体から引き離してあげたら、最初はちょっと力がいりましたけど体から幽体が離れて幽体離脱状態になりました。<br /> <br /> 自分では動けないようでしたので私がそのまま引っ張って時空を超える形でいろいろ見せてあげましたけどね・・・。<br /> <br /> まあ、あの程度の未熟な魂でも、誰かに見せてもらうという方法であれば時空を超えられるのです。<br /> <br /> ですけどね、肉体に戻ってからも幽体離脱で時空を超えた記憶こそあれ、その子の意識は日常生活では時空を超えることができないわけです。<br /> <br /> 幽体離脱も、悟りの階梯の途中で自然にできるようになるのと、テクニックや他人に手伝ってもらって行うのとではちょっと違うわけです。テクニックは色々とありますけどね・・・。でも、テクニックでやる場合は日常生活との乖離が大きい気がいたします。<br /> <br /> 瞑想も似たようなもので、瞑想中で色々と見聞きするでしょうけど、それが日常生活に活かせてこその悟りなわけです。<br /> <br /> 瞑想には色々とあって、トランスとか静寂とか色々とりますけど、種類によっては自我を麻痺させる種類のものがあります。自我を麻痺させる種類のものですと日常生活と瞑想の差が激しくて、瞑想中の体験と日常生活の間に乖離ができると思います。<br /> <br /> そうではなくて、瞑想中の状態と日常生活との間の差がどんどんなくなるのが理想的なわけです。<br /> <br /> 幽体離脱も一緒で、テクニックで幽体離脱して一時的に宇宙意識や時空を超えた意識になったとしても肉体に戻ってきて日常生活をする時にどれだけ活かせるかが重要なわけで。<br /> <br /> 最終的な悟りの状態というのは日常生活を送りながら意識は宇宙と繋がっていて更には時空を超えて過去や未来およびパラレルワールドやそれらの間の「線(比喩)」までも把握できる状態なわけです。そうなれば過去も未来も、あるにはありますけどただ単に一つづつ順を追って理解したいから存在しているだけ、ということもわかります。意識は時空を超えていますけど、意識が理解するために時間というものがあって分割して物事が理解できるようになっているわけです。時間がなければ物事の理解が「一瞬」でやってきて、分かる人にはわかりますけど新しいことの理解は難しくて、順を追って理解するために分割したらそれが時間というものになっただけなんですね。元々は時間なんてありませんでしたけど、理解したい気持ちが分割するという手段を選んで、それが時間というものになったわけです。ですから本来の意識は時空を超えているわけです。意識が日常生活においても時空を超えて時空そのものを把握しているのが悟りの状態なわけです。その時に三次元の肉体としての意識が失われることはなくて、トランス状態のように意識を失うこともありませんし、日常の普通の意識と悟りの意識とが一続きで繋がっている状態なわけです。<br /> <br /> それが「本来の自分と繋がっている状態」とも表現できますけど、言葉通り読んでしまうとただ単に意識が静まってきた状態のように読めるかもしれませんが、本来はそれはヴェーダで言うところの「アートマン(自分の魂に相当するもの)」が実は「ブラフマン(この世の全て)」と同一だった、という知識のお話で、自分がアートマンだと思っていたけれども実はブラフマンで、確かにアートマンで分かれてはいるけれども宇宙意識としてはブラフマンで繋がっている、それは時空を超えていてパラレルワールドや過去や未来も全て私の意識の中にある、それが瞑想中や幽体離脱中だけでなく日常生活においてもその意識状態にいる、というのが悟りの状態なわけです。アートマンであって同時にブラフマンであるということは、アートマンとしての個の意識は存在していつつもブラフマンとしての宇宙意識も同時に存在しているわけです。どちらか片一方になるわけではないわけです。個としての意識はありつつも宇宙意識とも言える時空を超えた意識もまた同時に存在しているわけです。<br /> <br /> であれば、日常生活中にちょっと意識すれば過去や未来の行く末なんてのもすぐに分かりますし、誰かが平行世界でどんなことをしでかしたのかとか、今生での学びがどのようなものなのか、知ろうと思えばすぐに分かります。ですけどそこは紳士の誇りのようなものがあって誰それ構わず見るなんてことはしないです。悟っている状態なら見ようと思えば何でもわかってしまうわけですけど、我々は肉体を持って生きているわけですからわかったところでそれを構わず言うなんて野暮なことはしないですし、そもそも、興味がなければ見ようとも思わないことも多いです。<br /> <br /> どちらにせよ、そこには顕在意識と宇宙意識とも呼べるものが共存していて、日常生活において悟りが継続してこその悟りの状態なわけです。<br /> <br /> もっと意識が進むとアバターとも言われている状態になって、この世を自由に変換できる能力が現れます。ヒマラヤ聖者の中でも特に突出した聖者がアバターと呼ばれていますけど、アバターにまでなりますと天気なんてのは割と簡単に変えられますし物体も自由自在、いわゆる瞬間移動みたいなこともできます。宇宙意識にしてもレベルの違いがあるわけです。<br /> <br /> 単に意識で宇宙意識と繋がったのが悟りで、この世界を自由自在にできるのがアバターなわけです。<br /> アバターにしてもレベルの違いがあるようでそれすらもゴールではないようです。<br /> <br /> アバターがどのようなものなのか理解することはこのように文章で説明されれば一応は理解できるでしょうし、アバターな人はそんなにはいないですけどどこかの聖者に会えたり幽体離脱して運良くアバターを垣間見ただけでもその凄さがもっと直接的に理解できるわけですけれども、実際に自分がアバターになるのは常人には長い道のりです。まずは悟ってからですね。人生を生きる上では悟りですら十分であると言えると思います。それを言ってしまうと、単にリラックスできたり静寂の意識にいるだけでも十分と言えば十分であるわけで。もっと言えば、この世に生きているだけで十分とも言えるわけで。どのレベルを自分が目指すか、ですよね。悟りを目指すのかアバターを目指すのか。あるいはリラックスで満足するのか。悟りを知って満足なのか、それとも実際に悟りたいのか。<br /> <br /> 私の人生の元々の目的は悟りまでですけど一応は目標は高く持ってアバターとしてあります。きっとアバターには到達できないでしょうけど、それはそうでも構わないわけです。こういうのは目標だけ一応掲げて、あまり片意地を張らないのが重要です。<br /> <br /> Sat, 12 Dec 2020 00:00:00 +0900 <link>https://w-jp.net/2020/2175/</link> <description><br /> </description> <pubDate>Fri, 11 Dec 2020 00:00:00 +0900</pubDate> </item> <item> <title>精神世界の上級者はチャネリングに頼らない https://w-jp.net/2020/2174/ <br /> ヨーギにせよ神道にせよスピリチュアルにせよ、上級者はことごとくチャネリングに頼らない気が致しますね。<br /> <br /> まず神道には「審神者」というものがあって、出てきた存在が神の意識なのか動物などのいたずら物なのか見極める手順があります。ヨーギはそもそもチャネリングに否定的で「時間の無駄でしかない」とばっさり切り捨てています。<br /> <br /> スピリチュアルは色々ですけど、チャネリングを主にしている人もいれば、スピリチュアルでもチャネリングを否定している人もいらっしゃいます。これは新しい分野ですので立場は色々ですね。<br /> <br /> ですけど、上級者になればなるほどチャネリングに重きをおかない、というのは共通しているように思います。<br /> <br /> これは、我々、肉体を持って生きている人間には見えない存在の言っていることの真偽がなかなか判別しにくい、という理由もあるにはあるのですが、それよりも、本質は言うと「物事は自分で確かめるべき」というところに行き着きます。<br /> <br /> チャネリングで聞いたお話を真に受けるのですか? それは自分で腑に落ちた答えではなくてもらった答えでしょう。 例えそれが正しいとしても、それが自分の精神の成長に役に立ちますか? 役に立たない知識ならいりません、ということです。<br /> <br /> ただし、チャネリングと言っても色々で、チャネリングの基本は「誰かと話しているだけ」ということですので、相手によるわけです。<br /> <br /> 人間だって色々で、グル、師匠のような頼りになる人もいますがほとんどの人間はそうではないでしょう。<br /> グルの言葉であれば頼りにすべきですけど、グルとは言ってもグルに依存せずに自分で精神修行をするのが第一です。<br /> <br /> それと同じような位置づけで守護霊が指導してくれるのであればそれをしっかりと受け止めるべきですが、あくまでも成長するのは自分自身であるわけで。<br /> <br /> 生きている人間のグルがいるのであればそちらに頼った方が良いですが守護霊が助けてくれるのならばそれもいいとは思いますが、それはあくまでも依存ではなく、グルとしての指導になります。<br /> <br /> どちらにせよ上級者になったら自立してゆくのですから、自分で見聞きして自分の頭でしっかりと考えることが第一になります。<br /> <br /> ですから、途中で誰かに頼るとしたら相手をしっかりと見極める必要がありますし、どちらにせよ最終的には自立するのですから、チャネリングなんかに頼る必要はなくなるのです。<br /> <br /> まあ、ある程度の精神的成長がなされればチャネリングなんて簡単にできますしね。ただ、それなりに成長していない段階ではチャネリングは修行の邪魔になったりもしますから、それなりにわかってくるまではチャネリングは無視でもいいと思います。<br /> <br /> Fri, 11 Dec 2020 00:00:00 +0900 オーラのケーブルを突き刺して相手の情報を抜き取るのは泥棒と一緒で犯罪 https://w-jp.net/2020/2166/ <br /> 人のオーラはゆらゆらと揺れていて、多くの人の場合はその境界線がはっきりしていませんのでオーラ同士がぶつかると情報交換がなされます。<br /> <br /> 以前にもエーテルコードのお話で言及しましたが、オーラのエーテルが繋がると「一体」になって、お互いで情報交換がなされます。これは一方的というのはあり得なくて、情報を得る時はある程度は自分の情報が相手に伝わりますし、その人の素質それ自体がその分だけ一体化します。とは言いましても合体するわけではありませんので多少のオーラが混ざり合って一体化するだけですが、それだけでも、自分から相手に対してはオーラが奪われ、相手のオーラを自分が多少は奪ってしまう形になるわけです。<br /> <br /> 総量としては変わらなくても一体化してしまったオーラはもはや「相手」とか「自分」がなくなっておりますので、途中で千切れて自分のところに戻ってきたオーラは相手と一体化したオーラの部分であるわけです。<br /> <br /> そのように、日常生活においてオーラの交換というのは割と無意識に起こってしまっていますが、厳密に言うと、そのように相手のオーラを奪い取ることは泥棒と一緒で犯罪になります。<br /> <br /> 地球の場合はオーラが安定していない人が多くて、しかもオーラが枯渇しておりますのでオーラのケーブルが自動的に他人に伸びていってエネルギーを奪うなんてこともよく起こっています。それは意識していないだけで、他人のエネルギーを奪い取る犯罪行為です。いわゆるエネルギー・ヴァンパイアですね。<br /> <br /> スピリチュアル的に成熟した大人であれば自分のオーラはだいたい肌から6mm〜1cmくらいのところで安定しています。人混みあるいは他人と接触しないといけないときは意識的にオーラの幅を狭めて2mm前後にまでオーラを調整することで他人のオーラと混ざらないようにします。その時のオーラの質も、相手と同質化しないようなオーラの質というものがあるわけです。<br /> <br /> ですが、エネルギーヴァンパイアが触手を伸ばしてイカの手のように遠くからエーテルのケーブルを伸ばしてきた時は恐ろしくて、そんなオーラの質とは関係なしに他人にエーテルのケーブルを突き刺してエネルギーを吸い取ってゆきます。かなり早い動きですので背筋が凍るくらい恐ろしいです。飛び上がりますよ。<br /> <br /> 防御方法は一応あって、ケーブルを切ってしまうというのが基本ですね。あるいは弾き返すとか、包帯のようなオーラの布を出してぐるぐる巻きにして動きを封じ込めるとか、その人の能力と経験によって対処法はいろいろとあります。<br /> <br /> そのように他人のオーラからエネルギーを奪いたい場合もあるでしょうし、情報を抜き出したい場合もあります。どちらも犯罪です。<br /> <br /> 例外はあって、お互いに同意した場合だとか、特に家族の場合だとか、霊的に密接な繋がりがあるとか、そういう場合もありますけど、基本的には他人のオーラと混ざらないというのが基本です。<br /> <br /> 何故そのようになっているかというと、個人で学びは異なるからです。割とこれは宇宙に共通したルールだと思います。<br /> <br /> スピリチュアルな能力を開発する場合に、時にオーラを融合して相手の情報を取ったりするやり方がありますけど、このような意味合いにおいて邪道ですね。まあ、それはその流派の好きにすればいいですけど、私とかはそう思います。いくらそれで情報を入手したところで、大した学びにはならないですし、何より自分のオーラが汚れますので費用対効果が悪すぎます。<br /> <br /> Mon, 07 Dec 2020 00:00:00 +0900 <link>https://w-jp.net/2020/2165/</link> <description><br /> </description> <pubDate>Mon, 07 Dec 2020 00:00:00 +0900</pubDate> </item> <item> <title>本能寺の変で殺された後に信長はどうしたか https://w-jp.net/2020/2164/ <br /> 夢で見たお話です。本当のことかどうかはわかりません。<br /> <br /> 信長のタイムラインは生き延びたパターンもいくつかありますが、本能寺の変で殺されるパターンにおいて、信長は死後どうしたのか、これまたパターンがいくつかあります。<br /> <br /> パターン1:死後、何もせずにそのまま霊界に留まり、最初は元部下だった霊たちが沢山周囲にいたが、自分たちが既に信長に縛られていないことに気付いてどんどん離れて行ったパターン。<br /> パターン2:死後、急いで転生し直して再度、天下を狙ったパターン。この場合、今の島根県のあたりで生まれ、そのままお殿様として一生を島根の地で過ごした。ただし、既に平和な世になっており、チャンスはなく、実際に戦もしなかった。この島根のパターンと史実を比べたところ、島根県で生まれた藩主というのは徳川家康と時代が被っていなくて、史実に実在はしていない模様。松平直政は出雲国の前に他の藩主もしているので該当せず、次の松平綱隆は徳川家康と時代が被っていない。裏付けなし。<br /> <br /> 転生は魂(幽体)がそのまま転生する場合と、一旦グループソウル(類魂)と一体になってから分霊を作って転生する場合があるのでそのまま転生したかどうかは不明ですが少し落ち着いた後に中国の皇帝になって国民に虐殺されたような気もしますね。その後は、書いてあるように「国民の、庶民の気持ちを理解する必要がある」と思って庶民として、まずは江戸時代の武士に生まれてみたりしました。そのラインで現代の私まで繋がっていますが、その間にもグループソウルとの合流もありますので完全に一致しているわけではありません。<br /> <br /> Sun, 06 Dec 2020 00:00:00 +0900 使い捨てにされるチャネラーや霊能者たち https://w-jp.net/2020/2163/ <br /> 思うに、神様はチャネラーや霊能者を、言葉は悪いですけど使い捨てにしているように思われます。<br /> 最初、目をつけた人がいたとしたらコンタクトをしてメッセージを伝えます。<br /> <br /> そのうち、その人が得意気になって神の言葉を偽るようになると神は離れてゆきます。<br /> <br /> だいたい、この繰り返しです。私の見た範囲ではそんな感じです。<br /> <br /> 神の言葉を聞けなくなると、今度は自分の頭の中で想像の神の言葉を作り出します。<br /> 新興宗教にありがちですね。最初は良くてもそのうち教祖様になってしまうわけです。<br /> <br /> 「神の言葉です」と言われたら周囲の人はそうそう反論できませんから、ほとんどの人はその真偽を確かめることなしに受け入れざるを得ません。そうするうちに、大人しく従う人だけが集うことになるのです。<br /> <br /> その姿は、本来神が望む姿とはかけ離れています。<br /> <br /> 神道であれば審神者というものがありますし、ヨーガですとそもそもチャネリングを良いものとはしておらず、チャネリングに否定的な流派がヨーガでは主流です。そのような力を持った神々との接触は悟りへの妨げになる、というのがヨーガの基本的な立場です。<br /> <br /> この世には力を持った霊や人間が沢山いて、神のごとき力を持っている人もいます。しかし、最終的な悟りという観点からすると、最高の悟りに達したのであれば力からは開放されています。誤解があるかもしれませんが、最終的な悟りを開いたならばこの世の理から開放されるので、強いも弱いも関係のない世界へと到達するということです。<br /> <br /> 幽霊とか悪霊とか天狗とか神話に出てくるような人格神の力というのはいわゆるアストラルな思いの力によるものです。しかしながら、悟りを開いた人はその次のコーザル(カラーナ、原因)の世界に住むようになりますのでアストラルを超越しています。<br /> <br /> いわゆる人格神としての霊能力はファンタジーに出てくるような魔法の世界で、思いの力を蓄えたり奪ったり利用したりして超常的な力を作り出します。それはそれで凄い能力ではあるのですが、その世界に関わっていると悟りに到達しないのです。<br /> <br /> よく、覚醒という言葉がありますけど、人によってその意味するところは違いますけどアストラル的な能力の覚醒という意味と悟りという意味での覚醒とがあると思います。アストラル的な覚醒であればまだ感情の世界であり、悟りとしての覚醒であればコーザル的なものになります。<br /> <br /> 悟りという言葉も流派によっていろいろですのでアストラル的な悟りの場合もありますけど、言葉の定義というよりは、魔法的なものであればアストラル、魔法や感情を超えた世界であればコーザルですね。コーザルのほうが悟りというのに相応しいと思います。<br /> <br /> どこかの本に書いてありましたが古代のミラレパという聖者はコーザルの悟りを得ており、周囲にいる一般の修行者はアストラルの悟りでしたのでその能力にも違いがあり、例えばアストラルの悟りを得た一般の修行者は空中浮遊で数メートルあるいは数十メートル浮上することができたのに対し、コーザルの悟りを得たミラレパは山の頂上まであっという間に登ることができた、という違いがあるそうです。アストラルの段階では能力にも限界がありますが、コーザルに至るともはやこの世界と一体になったかのような偉大な能力を得るようです。<br /> <br /> アストラルの段階では善と悪があり対立がありますが、コーザルに至ると善悪を超える、という面もあります。<br /> <br /> チャネラーや霊能者は、往々にしてこのアストラル的な覚醒をして神の言葉を受け取るようになります。自らが神の代理人かのように振る舞ったりするわけですけど、そうこうしてうるちに神様の意図をうまく伝えなくなって、そして神様に捨てられてしまうわけです。<br /> <br /> まあ、それも全ては学びなのでしょうね。<br /> <br /> だいたい、ちやほやされて3年持てばそこそこですけど、7年や10年もすればかなりの確率で神様に見放されて過去の栄光で生きるようになる気がします。<br /> <br /> その頃には神様も新しい手足を見つけてそちらと仲良くやっていると思います。<br /> <br /> チャネラーや霊能者は、使い捨てにされると最初から覚悟しておいた方がいいと私なんかは思います。<br /> <br /> 私はそうではない! と思う方もいらっしゃると思いますし、そうではない方も、もちろんいらっしゃると思います。しかしながら、指導霊や神様との付き合いも人間の付き合いと一緒で、ふてぶてしい人や傲慢な人とは付き合いたくないでしょう? それと一緒ですよ。神様が離れたくなるような生活をしていたらさっさと離れてしまいます。<br /> <br /> 離れないまでも、神様は時空を超えることができますので「早送り」をしてその人の一生をざーっと見て終わりにしてしまうかもしれません。一生の守護を約束したからと言って、必ずしも詳細に毎日付き添ってくれるとは限らないということです。ただしこれは神様のレベルによって、時空を超えられない神様っぽい人、天狗とかそのくらいのレベルですと否応なしに付き合うでしょうし、時空を超えられる神様、天使などは割と大雑把に概観しているような気が致します。<br /> <br /> 神様や天狗、天使は割と気まぐれで、お気に入りのチャネラー、霊能者がいるとそこでしばらく遊びますけど、そのうちどっかに行ってしまいます。その人に一生付き従う守護霊はもちろんいますけど、その場合、守護霊だけになると多様な神様が入れ替わりに来るという感じではなくなりますよね。最初は面白がって多くの神様が来ていたチャネラーのところでも、チャネラーが得意気になったりして教祖と化してくると離れてゆき、守護霊だけが残ります。それでも守護霊からメッセージが来たりしますけど、守護霊にしても天狗だったり龍だったりいろいろですよね。<br /> <br /> まあ、そのように、最初は面白がって多くの神様が出入りしているところでも、やがて神様は来なくなって守護霊だけが一生付き従って見守る、というパターンが多い気が致しますね。<br /> <br /> これは個人的な感想ですので、特定の誰かをどうこう言っているわけではありません。<br /> <br /> 個人的に思うのは、チャネリングとか霊媒としての霊能の技能によってメッセージを受ける段階と、自分自身の頭・・・ というと語弊がありますが、自分自身のスピリットが主体的に動いて自分で肉体を動かすなり幽体離脱をするなりして調査することで自分でしっかりとものを見て結論を出す場合とではかなり段階に違いがあるように思いますね。<br /> <br /> 1.肉体の頭が主体となっていてスピリットと繋がっていない段階<br /> 2.肉体の頭と自分のスピリットが繋がり始めた段階。<br /> 3.自分のスピリットが主体になった段階<br /> <br /> これらの段階のうち、どの段階でもチャネリングや霊媒というのは可能です。<br /> <br /> 1+チャネリング → ただのチャネラー<br /> 2+チャネリング → 教祖様<br /> 3+チャネリング → マスター<br /> <br /> 表現としてはいろいろとあるとは思いますけど、3番目の段階に至っていなければ教祖様として生きて終わりです。そして、3番目の段階に至るためには一般的には修行が必要になるわけで、それは必ずしもチャネリングとは関係しないわけで、むしろチャネリングは邪魔になったりもします。<br /> <br /> 1や2の段階で神様に目をつけられてチャネリングや霊媒あるいは教祖様になって、やがて神様に飽きられて守護霊だけが残る、というパターンが多い気が致します。神様は気まぐれですからね。興味がなくなったら割とすぐどっかに行ってしまいます。そして、残されるのは教祖様というわけです。<br /> <br /> Sun, 06 Dec 2020 00:00:00 +0900 光の剣をもらったお話 https://w-jp.net/2020/2160/ <br /> 最近、瞑想をしていたら空から剣のようなものを持ったスピリットが降りてきて受け取りました。それはスターウォーズのライトセイバーのように光っていたのですが形としては日本刀のような感じで、鞘はなかったような気がします。そのような日本刀っぽい光の剣をもらったのです。<br /> <br /> ん〜。あまりにもアニメっぽいので、ただの想像かなぁ・・・??? という気もしたのですけど、とりあえず「まあいいや。もらえるならもらっとこ」と思って受け取って、腰の横にかけました。鞘はあるのかどうかよくわからないですが刃が触れても体が切れるわけではなさそうです。<br /> <br /> 試しにそれを振ってみると、剣のように一方向だけに刃がある感じではなく、実際のところ、刃のある方向はよくわからなくて、どちらの方向でも切れる感じが漠然としました。 とは言いましてもきちんと刃があって刀のようにしなっている気もしますし。伸び縮みもする感じで、ちょっとゆらゆらと動いている気がしますね。切ろうとする方向に動かせばそちらに切れる感じです。<br /> <br /> とりあえず、腰に置いておくことにしましたが、ちょっと収まりがよくないのでどこにしまおうかなと思っていたら、口から入れて喉に入れておくと良いよ、と言われました。まじですか。それって漫画「ナルト」で大蛇丸が持っていた草薙の剣みたいな感じなんですけど。単に記憶が蘇って想像しているだけなのかな? とも思いましたがイメージは生々しいです。教えてくれたスピリットの顔は、どこか大蛇っぽいです。単に大蛇丸の顔を真似して遊んでいるだけかもしれないですけど。<br /> <br /> その後、お仕事で何か理屈に合わないことを言ってくる初対面の人がいて、なんだろ? と思っていたらその後、生き霊の不満のある弱い恨みの念を送ってきたので「お。ちょうどいいや。頃合いの敵が来たので試そう」と思ってお昼休みに瞑想をして、その剣を取り出して私の座っている前、1mくらいにある生き霊をめった切りにしてみたら急に生き霊がバラバラになって念が減ってゆきました。効果抜群のようです。切れまくります。まあ、雑魚といえば雑魚ですが・・・。<br /> <br /> そのバラバラになった生き霊はちょっとした怨念ですので消滅させようとも思ったのですが、それよりも、既にエネルギーの状態になっていて意思はなくなっているようなので普通にヴィシュッダで吸い込むことで浄化というかエネルギーを吸収してしまいました。<br /> <br /> 意外に、そんな他人の怨念の生き霊であったとしても剣でバラバラにした後ならばエネルギーとして吸収できるのですね。単に跳ね返したり防御したりするだけでなく、光の剣を手にしたことによりバラバラにしてエネルギーとして吸収する、という選択肢が増えた感じです。<br /> <br /> とは言いましてもあまり変なエネルギーを吸い込むと消化不良起こしそうですけど。そんな気がしますから、ほどほどにしたいと思います。<br /> 恨まれるのはちょっと面倒ですしね、そもそも恨まれないのが一番です。<br /> <br /> ・・・後日、もう少し試していたら刃こぼれっぽい感じになっていました。どうやら、最初はそれほど強くなくて、自分のオーラで強化しないといけない感じですね。まだ生まれたてであまり強くないみたいです。<br /> <br /> ・・・更に後日、この剣の別の使い方がわかってきました。基本的にこの剣は自分のオーラと対象とを接触させないために用います。目的としては大きく2つあって、相手を浄化する場合と切りつけて懲らしめる場合とがあります。相手を浄化する場合は、剣に天のエネルギーを降ろして剣をエネルギーで満たしてから剣だけを相手に近づけ、剣のエネルギーを相手に与えて浄化します。懲らしめる場合は普通に刃先を鋭くして斬りつけます。斬りつけるとそこで分割されることもありますので個別に浄化するという手もあります。<br /> <br /> この、相手を浄化する方法はかなり有用で、自分のエネルギーを天のエネルギーを光の剣まで降ろすことだけに用いて後は天のエネルギーをそのまま直接あるいは剣を経由して相手に与えるわけです。こうすることで自分のオーラを汚さずに済みます。剣は伸び縮みや切り離しもできるので相手と融合したエネルギーの部分はその部分ごと切り離して相手に与えてしまえばよいわけです。剣の長さはいくらでも元通りになりますし、問題ないわけです。あるいは、光の剣は天のエネルギーを操作することだけに用いて天のエネルギーを直接相手に繋いでも良いです。<br /> <br /> エネルギーを与える使い方をする場合は、剣というよりもハンマーかあるいはシャベルあるいは柄杓のような形になりますね。これはイメージとも関連しているように思います。使い勝手の良い、イメージしやすい形に変わるわけです。剣といえば剣ですけど用途別に姿は変えられるわけです。<br /> <br /> ・・・そして、その後、ふとしたときに繁華街の裏路地で弱い邪気をいくつか感じたので試しにそれぞれを光の剣で切ってみましたが、瞬間的に浄化されますね。これは効果があります。霊視はできないので盲目の剣士みたいに気配だけで切っていますけど、それだけでも意外にいけるようです。見えずになんとなく切っているので時々「危ない」と言われますけど。そんなにぶんぶん振り回さない方がいいみたいです。<br /> <br /> Tue, 01 Dec 2020 00:00:00 +0900 特殊なマントを被って霊能力なしに生まれてくる https://w-jp.net/2020/2159/ <br /> 以前に何回か魑魅魍魎のお話や松果体や霊界の特殊な修行法のところでマントのお話をしましたけど、私の場合、生まれる前に霊界のとあるおじいさんっぽい世話人さんのお勧めでこのマントを被って生まれることにしました。<br /> <br /> 基本的にはそのマントは霊能力を制限する機能があって、それに加えて、他からの霊的な影響を防御する機能も備わっています。とは言いましても自分の霊的能力を制限することが主目的で、霊的能力なしに生まれて修行したい人がこれを使うわけです。<br /> <br /> 前にも書いたかと思いますけど、そのおじいさんが言うには「最近は、これを使う人が少なくなってねえ」と、ちょっと淋しげでした。<br /> <br /> 前世までは魑魅魍魎が見えまくって、それ故に魑魅魍魎がいるとメンタルが揺らぐことが多かったように思います。まあ、しょうがないことと言えばそうなのですけど。魑魅魍魎ですし。<br /> <br /> このマントを紹介された時、そう言えば次のように思ったものでした。<br /> <br /> 「え! 見えなかったら、変な魑魅魍魎がいるところに突っ込んじゃうよ。大丈夫なのかな?」<br /> <br /> そう聞くと「このマントは防御の機能も備えていて、肉体があるのでそれほど影響はされない。」と回答があったのですが、確かに、霊体のまま他の霊体に突っ込んでしまうと邪念や悪霊の気が移ってきてしまって大変ですが、肉体があるとそこまでではありません。・・・・とは言いましても、多少は影響します。霊体のままに比べると影響が少ないというだけで、霊視できない状態だとめちゃくちゃ悪霊にぶつかりまくる、というのが実感です。<br /> <br /> ちょっと試して、「これ、ほんとに大丈夫なのかなあ・・・」と思ったことを覚えています。邪気とか悪魔のたまり場とかに突っ込んでしまいます。<br /> <br /> そして、前にも書いたように思いますが、これってどうなのだろうと思って実際に使っている人の人生を覗き込んでみました。例えばお坊さんになった人が、本来は霊格がそれなりにあって霊視ができてもおかしくはないのですがマントを被っているが故に霊視など霊的能力が現れず、お師匠さんに「まだ何も見えぬのか。まだまだだな・・・」と言われて、そのお坊さんは「はい・・・」と言うしかないような状況でした。それでも修行を続けることで、霊的能力ではない部分の修行に集中するとのことでした。お寺の中でのステージは上がらない感じでしたが、それでも、その本人の修行にはなっていたようです。<br /> <br /> このマントは、被るとぐるりと自分の周囲に自動的に回り込んでロックされるような魔法がかかっています。それを解除するために呪文が必要です。<br /> <br /> 試しにマントを被ってマントラを唱えてみましたら、魔法が解けて元通りのただのマントに戻りました。何度もつけ外しができるようでしたが、度々外していたら修行にならないので、マントラの控えを後頭部の後ろに結びつけて幽体離脱あるいは死んだ後に見れるようにすることと、もう1つは守護霊に持っていてもらうことにしました。<br /> <br /> 基本的には死ぬまでこのままマント付きでの生活ですけど、どうやら、長年使っていたらところどころ破けてきた感じではあるのですよね・・・。<br /> <br /> 霊能力者が意識的に破こうと思えば破ける代物ですけど、ひとまずその必要は感じていません。まあ、今のままでもいいかな、とも思いますし、もし追加で使命がもらえて必要になったらマントラを唱えて解除すればいいかな、という感じです。そのあたりは私のスピリットが判断する感じですね。<br /> <br /> まあ、視界があれば視界で邪気をあらかじめ避けますけど、今は見えないが故に、近くまで行ってようやく邪気を感じて避ける、という感じですので、ある程度は邪気に近づいてしまいますね。もっと感度が上がれば近づかなくてもいいのかもしれないですけど、町中ですと急に何かが近づいてきたりしますからね。方向もよくわからなかったりしますし。見えないというのはなかなか大変です。<br /> <br /> 普通の人は、よくこんな世界で生活していますね・・・。<br /> <br /> 邪気と悪霊がうようよしているのにそれに気が付かずに生活しているのは、どこかの漫画で言っていたように「極寒の地で全裸で凍えながらなぜつらいのか分かっていないようなもの」という例えが合っているような気が致します。<br /> <br /> まあ、マントを被ったとしても主に制限されるのは霊視能力で他の能力はそれなりにありますから、霊視制限特化のマントとも言えるかもしれないですね。<br /> <br /> 魑魅魍魎がいるところに気付かず突っ込んでもその影響を受けないようになるまで自分を鍛える、というのはある意味スパルタ教育な気もします。自分で言うのもなんですけど。<br /> <br /> Tue, 01 Dec 2020 00:00:00 +0900 ヨーガ経歴(2020年12月版) https://w-jp.net/2020/1790/ <br /> <br /> ・2015年1月 インドのアシュラムで生まれて初めてのヨガ 2週間 合宿。その後しばらくブランク。<br /> ・2016年10月 日本の近所でヨガ再開。1週間ごと1回90分<br /> ・2017年8月 ヨガの頻度を上げ、ほぼ毎日90分<br /> ・2017年10月 雑念が減ってくる。ようやくヨガをしている感じになってくる。ヘッドスタンドが短時間だがようやくできるようになる。<br /> ・2017年11月 ナーダ音が聞こえ始める。ヨガをほぼ毎日し始めてから約3ヶ月後。ナーダ音が聞こえ始める1週間前から「無」を経験して寛ぐことができるようになりましたが、わずか1週間で「無」はナーダ音に置き換わりました(詳しい経緯はこちら)。<br /> ・2018年1月 第1回目のクンダリーニ体験。ムーラダーラの電気ショックと眉間の皮膚から数センチ離れた空中(アジナ・チャクラ?)でのエネルギーの爆発。ほんの少しのエネルギー。<br /> ・2018年1月 身体中がオームに包まれる経験(第1回目クンダリーニ体験の約10日後)。<br /> ・2018年2月 ヨガのアサナは元々苦手だったが、ようやく人並みにできるようになる。<br /> ・2018年2月 雑念の減るスピードが上がる。20分の瞑想があっという間に感じられるようになる。<br /> ・2018年2月 日常生活でクンバカ(息止め)が自然に起こるようになる。いわゆるケヴァラ・クンバカ(Kevala Kumbhaka)。<br /> ・2018年3月 ヨガのアサナの1つであるフルブリッジ(チャクラ アサナ、車輪のポーズ)ができるようになる。<br /> ・2018年5月 鼻の詰まりが数十年ぶりに解消された。鼻呼吸が可能になった。プラナヤーマが楽になった。<br /> ・2018年6月 植物や昆虫を傷つけるとハートが痛むようになる。<br /> ・2018年8月 ゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想合宿を経験。宗教でした。<br /> ・2018年11月 イダとピンガラの目覚め(第2回目のクンダリーニ体験)。マニプラ優勢になる。クンダリーニ本体はまだ上がっていない雰囲気。2つの光の筋が上がっただけ。仙骨か尾骨のあたりに熱を帯びて血液が激しく脈打つ。かなりポジティブになる。性欲がかなり解消されて自然な(努力のいらない)ブラフマチャリア(禁欲)の達成(性欲10分の1)。睡眠時間の短縮。声が出しやすくなる。呼吸が浅くなる。ケヴァラ・クンバカが起きなくなる。<br /> ・2019年4月後半から約1ヶ月間、お風呂場での頭からの冷たい水掛けがマイブーム。<br /> ・2019年5月 眠りの質の変化。明確な意識はまだないが多少は意識が刺激された状態のまま眠る感じに変化。<br /> ・2019年5月後半、時々音楽っぽいナーダ音が聞こえるようになる。<br /> ・2019年6月 右足首を骨折して1週間ほど入院。これから約3ヶ月は松葉杖生活。<br /> ・2019年7月 第3回目のクンダリーニ経験。アナハタ優勢になる。(五大要素の)「風(Air)」のエネルギーによる竜巻が腰から頭まで上昇。光の筋はなし。竜巻は頭の周囲で発散(頭上および前後左右に発散)。うなじの下(大椎?)に少しの熱を帯びて血液が脈打つ。ハートがジンジン。第2回目ほどの変化はなし。性欲が更に10分の1 (第2回目クンダリーニ以前と比べると100分の1) 。 悪口の根絶が起こる。骨折による痛みが常にあるので、強制的にヴィパッサナー瞑想しているような感覚。<br /> ・2019年9月 ムーラダーラの活性化。 足の気力が少し増加。足の感覚が少し敏感になる。手の感覚も足ほどではないが少し敏感になる。「におい」に敏感になる。「におい」だけで「味」も感じるようになる。淀んだ空気(の匂い?)が苦手になる。いわゆるグラウンディングの力が若干上昇。他人の淀んだオーラによる自分への悪影響が低下し、自立力が高まる。優勢なのは依然としてアナハタ。<br /> ・2019年11月 古代の唱え方でのオームとチベットのマントラを唱え始める。<br /> ・2019年12月 オーラのエネルギーがアジナ優勢に変化。<br /> ・2019年12月 日常生活上でのヴィパッサナー状態の開始。<br /> ・2020年2月 日常が映画になる。<br /> ・2020年7月 意識の平穏が何段階かに分かれて瞑想中に現れるようになる。<br /> ・2020年9月 頭の愚鈍な意識(タマス)がヴィシュッダ(喉)に吸い込まれることで静寂の境地に至る。<br /> ・2020年12月 サハスララとムーラダーラの陰陽エネルギーのバランスが整う。鼻頭に意識を合わせて呼吸するだけでエネルギーが頭まで上がるようになる。<br /> ・2020年12月 胸の奥に神意識あるいは宇宙意識とも言うべき「創造・破壊・維持の公の意識」が現れ、最初は恐怖を感じたが受け入れた。個から公への転換。最初は胸の部分だけだったが、やがてその意識は体中に広がった。公の意識に変わったことにより、ようやく瞑想初心者を卒業したような感覚になる。今までしてきたことは全て個としての体験で、個の意識であるうちは初心者だった。これからは公の意識として生きます。<br /> <br /> <br /> Tue, 01 Dec 2020 00:00:00 +0900 イギリスでスパルタのスピリチュアル教育をした記憶 https://w-jp.net/2020/2158/ <br /> 夢や瞑想で見たお話ですので本当のことかはわかりません。<br /> <br /> 私のグループソウル(類魂)の記憶を辿ると、中世のイギリスで、とある広い敷地の館でスピリチュアル講師をしていた魂の片割れがいました。いわゆる魔女で、女性として生きていました。霊視や未来予知などができるよくある魔女でしたが、とある弟子を取って、修行させていました。<br /> <br /> その弟子はたしか貴族の若者で、スピリチュアルなことに興味があって、能力開発をしたいということだったかと思います。<br /> <br /> 最初は瞑想をさせて、邪念を捨てさせることから始めました。<br /> 暗闇の中でろうそくを眺めさせたり、誘導瞑想をしたりして心の闇を取り除いていきました。<br /> 次第に精神はクリアになり、弟子はその度に喜んだものでした。<br /> このような晴れやかな気持ちに達したことはない、素晴らしい、嬉しい気持ちだ、と言われたことを覚えています。<br /> <br /> 何年か、5年か8年くらい長く修行したでしょうか。それでようやく、晴れやかな気持ちに達したのです。普通に人生を健康的に過ごすにはそれで十分で、その方はそれでも良かったかもしれません。<br /> <br /> 私は未来が見れましたので、その弟子がその人生で、自身が面倒を見れる間に達することができる境地のゴールが見て取れました。かなり精神的には健康的にはなりますが、霊視までにはたどり着かないようです。私は最初からなんとなくは分かっておりましたが、最初から言ってしまうと修行を辞めてしまうこともわかっておりましたので言わずにいたのですが、修行するにつれてその結果が確定に近づいてゆきました。これ以上、このまま続けたら予定通りの結果にしかならない・・・。<br /> <br /> そこで、ある程度の晴れやかな境地に達した段階で私は提案をしました。<br /> 「私は未来が見れるから、貴方の今生で行き着く境地がわかります。残念ながら、今のままでは霊視にまでは到達しません」<br /> それは最初からわかっていたのですが、最初から言ってしまうとやる気をそいでしまうために言わなかったのでした。<br /> <br /> 更に次のように言いました。<br /> 「もし、今生で2つの人生分の修行をしたいなら、厳しくしなくてはならない・・・」<br /> このことを、何度かの修行で度々繰り返したように思います。<br /> しかしながら、実際に行うまで、その意味を弟子はきちんと理解していなかったように思います。<br /> <br /> 度々、同じことを伝えます。<br /> <br /> 「このまま続けても良いですが、もし、貴方が厳しい修行を望むなら、そうしても構わない。だが、それは私も辛いし、何より、貴方も辛い思いをします。私は貴方にそのような辛い思いをしてほしくはないけれど、厳しくしなければ、貴方の今生では修行は完成しません・・・」<br /> <br /> そのような説明を繰り返し、やがて、その意味を汲み取ったのか、小さく「はい」と答えるようになりました。<br /> <br /> その覚悟のなさを見て、私は「それは本当? 厳しいというのは、言葉遣いも辛いものになるのよ。貴方に命令をして、ここがだめ、そこがだめ、なっていない、こうしなさい、と、とても強い厳しい言葉で言わなくてはならない。そうしなければ1つの人生で2つの人生分の修行なんてできやしないわ・・・。これは、貴方自身が決めること。貴方がやると決めたのならば、私はそれに応じてあげる。 でも、このまま続けたとしてもそれなりの境地に達するでしょう。しかし、来世も私が面倒を見れるかどうかはわかりません。貴方も修行ができるかどうかはわからない。私はできれば今生で達成させてあげたいわ。」<br /> <br /> そして、それを休憩時間に紅茶を飲みながら度々説明したのでした。時には、その厳しい言葉遣いをやんわりと真似したりしました。<br /> その時、弟子の顔に厳しい顔が浮かんだのを覚えています。<br /> <br /> やがて、何ヶ月か後でしたか。覚悟は足りないと思われるものの「決めました。修行させてください」と言ってきました。<br /> それを見て、「わかった。今日はほんの少しだけ試しましょう」と言ったのです。<br /> そして、半分は普通の優しいリラックスの誘導瞑想やその他の儀式を。もう半分は、厳しい修行を行いました。<br /> <br /> 今でも受け継がれている、イギリスのスパルタ式スピリチュアル訓練はおそらくこのあたりにルーツがあるように思います。<br /> <br /> 私はまず、自分のエネルギー(オーラ)を弟子の主に下半身から満たして意識を高揚させました。<br /> それだけで弟子はそれなりに満足しましたが、それはまだまだ入り口に過ぎません。<br /> <br /> 弟子は、師匠のエネルギーを受けて満たされただけで多少は満足してしまうものです。しかし、それだけでは全然足りないのです。<br /> <br /> その状態で霊視をして、エネルギーが通っていないところを指摘します。「エネルギーがお腹に満ちていない! 集中しなさい! オーラが揺れています。オーラを安定させる!」など、細かく状態を次々に指定し、指摘したことができないと「できていない! ◯◯すること!!」と何度も強く言い、できるまで何度も言い続けたりしました。それでできることもあればできないこともありましたが、構わず指摘し続けたのです。<br /> <br /> 弟子は、師匠のエネルギーに満たされて彷彿と満足感を感じつつも厳しい言葉で自分の至らなさを認識するのです。<br /> <br /> というのも、弟子は受け取ったエネルギーをうまく使うことができないのでオーラはとても揺れていますし、その分、エネルギーが漏れて行ってしまっているのです。エネルギーの満足だけで終わりがちですが、しっかりとした師匠はそんな甘い弟子の態度を許しません。<br /> <br /> エネルギーが体のどこに通っていてどこに通っていないのかを見極めるのは重要で、自分で分からなければ指摘してもらう方がいいのですが、指摘できる人はあまりいないように思います。体にエネルギーが通っていない部分があればそこに意識を合わせてエネルギー(オーラ)を通わせることとオーラの安定を基本に教え、実践させました。<br /> <br /> 弟子はオーラの安定もなかなかできませんし、エネルギーを下から上に上げることもなかなかできませんが、普通にリラックスして瞑想するよりはそのようにスパルタ式で指摘し続ける方が実際のところ成長は早いのです。ですけど、弟子はそれに我慢して頑張ってはいるものの、どこか涙が出てきてしまい、その涙を見て私ももらい泣きしてしまいそうになります。ですが、弟子が涙をこらえながら頑張っているのに先生の私が泣く理由にもいかず、涙を浮かべてこらえながら指導したのを覚えています。<br /> <br /> やがて、何年かしてもまだ霊視ができない弟子は、度々諦めることもありました。約束の授業の時間になっても何週間も無連絡で欠席し、落第かと思われたこともありました。<br /> <br /> そのような時は、手紙を書いて、貴方ならできるから、頑張って訓練しに来なさい、という思いを伝えたものでした。<br /> <br /> そのような挫折を繰り返し、精神的にも強くなり、エネルギーの安定度も上昇具合も良くなってきました。<br /> <br /> それは少しづつの進歩でしたが、エネルギーがお腹のあたりから胸のあたり、そこから喉のあたりへと少しづつ上がって行くにつれて、現在のエネルギーの状態はこうなっている、もう少し頑張るのよ! ということを伝えながら一緒に修行したことを覚えています。<br /> <br /> 胸のあたりにまでエネルギーが上がったことで一旦は修行の峠を超えたように思います。それからでも厳しいことを言ったりもしましたが、その度に、「厳しいことを言っているように思うかもしれないけど、最初の頃の下半身でエネルギーが止まっていた時に比べればかなり良くなっているのよ。それは自分でもわかるでしょう。だから諦めずに、途中で辞めることなどせずに、修行を完成させなさい。」と言って励ましたりもしました。<br /> <br /> ただ、胸から喉に上げるのがこれまた一苦労で、なかなかエネルギーが上昇して行きませんでした。<br /> <br /> そこでまた、挫折しかけました。しかし、弟子は細かな成長までは気付いていなかったようですが、かなり進歩してきていること及び現在の状況をきちんと伝えることで挫折の危機を再度切り抜けました。あと少し、あと少し・・・。<br /> <br /> 時々、弟子の状態を見ると急にオーラが前回のレッスンより安定している時があって、途中で少し戻るときもあれば不安定の時もあって、それでも、時には斬新的に成長してゆくように思います。<br /> <br /> そうして、10年か15年か、もしかしたら20年くらい修行に付き合ったでしょうか。<br /> <br /> 最後にエネルギーが眉間にまで上がり、上がってもまだ霊視が始まらない、という状態に至りました。そのような最終段階のレッスンを何度か続けた後、ついに眉間が光のエネルギーで満たされ、その祝福すべきとある日、ついに霊視が可能になったのです。<br /> <br /> 「見えます。周りにある、精霊や天使のようなものが私に見えます・・・」<br /> <br /> その声は震え、その目には涙が浮かんでいました。<br /> <br /> それを聞いて、私も、ついにやり遂げたと歓喜して抱き合ったことを覚えています。<br /> 「よくやりました・・・。貴方は私の誇れる弟子です・・・。貴方は成し遂げました。」<br /> <br /> 辛い修行に耐え、2つの人生の修行を1つの人生で成し遂げた弟子が、ここにいたのでした。<br /> <br /> ・・・その後は、次のように伝えました。<br /> <br /> 「これから、何回かはまたレッスンしに来なさい。でも、基本的にはこれからは自分でできることです。霊視で自分のオーラを見て、不安定なところを確認しなさい。そうして、エネルギーを高めて安定させることが大事です。あと何回かレッスンをして、大丈夫だと思ったらもう来なくて大丈夫です。もちろん、何か相談があればその時は来てください。」<br /> <br /> こうして、弟子が独り立ちしたのでした。私は、満足して、その後、寿命を迎えたように思います。広い敷地の古い館で、魔女の生涯が終わったのでした。<br /> <br /> この弟子は、その後、私が行ったことと同様なスパルタ式のスピリチュアル教育を大勢に対して行ったように思います。<br /> <br /> 本来、ゆっくりとした道と性急な道があって、人によっても性質によっても使命によってもその道は異なりますし選べるものなのですが、私の弟子には性急な道しか教えなかったものですから、イギリス方面でその伝統が続いてしまっているようですね・・・。<br /> <br /> それが良かったのか悪かったのか・・・。今でもイギリスではその伝統が続いているように思います。<br /> <br /> Mon, 30 Nov 2020 00:00:00 +0900 使命として参加するか打診されたお話 https://w-jp.net/2020/2157/ <br /> 現在のところ何も動きはない気もしますが、首都圏イヤシロチ計画の次の段階として、日本をイヤシロチ(神の空間)にする計画があるようです。まじですか。<br /> <br /> 具体的には、全国の社寺を復興させて管理および施設を一新し、人々が祈りを上げたり瞑想など近所の人が日頃から簡単な修行ができる場所を全国各地に作ろう、という計画のようです。<br /> <br /> 神社の形式を基本にしつつも、お寺のように人々が集まれるような場所を作りたいとのことです。ただしお墓は全く関係がない、とのことです。葬式としての仏教ではなく、場としての社寺、特に現在お寺としてある場所の延長線上に、お墓とは切り離された、人々が集って祈りを上げたり瞑想などの日常的な修行ができる場所を全国に作ることで日本全土を祈りのある神を祀る神社のような列島に変えたい、という壮大な計画のようです。<br /> <br /> 更に言うと、目標としては5500の社寺を復興させるとのことです。ちょっと大きすぎて意味不明ですが・・・。<br /> <br /> 誰がやるのでしょう・・・? 首都圏イヤシロチ計画にしてもそんなに進んでいる気もしないですが、その計画というよりコロナで経済活動が不活性になってきたことで自然に浄化されている気も致します。その上、更に日本全土の社寺復興計画ですか。ちょっと話が飛びすぎているような・・・。やるにしても死ぬまで5500は達成できず、とりあえず「大きな数」というくらいのようです。「沢山、できる限り」という意味を込めて5500だそうで、数にきっちりとした意味はないようです。<br /> <br /> そうは言っても、やるとなれば人・物・金のいずれも私には足りないですし、どうなんでしょうかね。やるとなればどんどん動いてゆくのでしょうが。とりあえず今は何もできない気がしますけど。<br /> <br /> 回答としては、社寺を実際に使う周辺にお住まいの人々が半分くらいは行動する、と言っていますね。運動はあくまでもきっかけになりさえすれば良い、ということで計画が進んでいるようです。<br /> <br /> 道路建築で地方にお金をばらまく政策から、社寺を作ってその周辺に観光客や修行の人を呼び込むことで経済を回す、という大きな変革が期待されているようです。<br /> <br /> Mon, 30 Nov 2020 00:00:00 +0900 明け方にやってきたミュージシャンの魂 https://w-jp.net/2020/2155/ <br /> 生きているのかどうかはわかりませんが、売れないミュージシャンの魂が明け方に初めて私のところにやってきて、チラシなのかホームページの画面を私に見せて「買ってくれ、買ってくれ、買ってくれ」と、とてつもなく冷たいオーラと共にやってきました。<br /> <br /> そのトップページにはCDが4つくらいとグッズが幾つか売られているのですが、古典芸能の、雰囲気としては喜多郎? っぽい感じですけど、おそらく本人ではないとは思いますけど。<br /> <br /> とてつもなく冷たいオーラで、冷たいという表現が正しいかどうかは微妙なところで、氷のような冷たさではなくて、まるで風邪にかかったときのような寒気のする冷たさです。重い感じもありましたけど、悪魔のような黒さではなく、風邪の寒気で生気を取られて少し金縛り気味にもなりました。<br /> <br /> CD等が売れなくて、お金に困って困ってもうどうしようもない... という感じが伝わってきました。 コロナの影響を受けている方の生き霊さんでしょうか?<br /> <br /> どうしたものかなあ... 消滅させるのは可愛そうだしそこまで悪気があるわけではなさそうだなあ、とりあえず押し返して体から離れてもらおうかな・・・ と思って少し前方向に押し返してみると離れて、その魂はどこかに行ってしまいました。<br /> <br /> なんで私のところにやってきたのでしょうかね。たまたまですかね。見たことのない作品でしたから、私に縁があるというわけではなさそうですし。<br /> <br /> そこらへんを適当に彷徨っていて買ってくれる人を探しているのでしょうかね。でも、イメージで見せられてもどこで買えばいいのか分からなければ買いようがありませんけど。<br /> <br /> あまりにも買ってくれ、買ってくれ、と風邪のような冷気を出しながらせがむのですからじっくりとCDを見て「どうかなあ・・・」と思っていたのですが、「うーん、よくわからない。いらないかな・・・」と思ったら向こうが諦めかけて、その後、魂を前方向に少し押したり光の剣っぽいもので前方向を少し切る感じにしてみたら私の体から離れてどこかに行ってしまった感じです。<br /> <br /> 死後に単に念だけが残って誰かに買ってもらいたかっただけなのでしょうかね? それとも生きていて本当に困っているのか? それは結局よくわかりませんでしたが、初めてのお客さんでしたので、まあ、きっとまた会うことはない気もします。どうでしょうね。<br /> <br /> <br /> [当日、夜に追記]<br /> <br /> どうやら、今朝の出来事は私の守護霊が私を鍛えるために悪い霊を近くから連れてきて私のベッドに明け方に放り込んだみたいです。そして、どのように対処するのか見ていたのだとか。<br /> <br /> 結果、私の対応は30点だそうです(苦笑)<br /> <br /> 評価としては、浄化するにせよ追い出すにせよ中途半端。浄化するでもなく追い出すでもなく対処がなっていない。我慢するばかりで主体性がない。相手に共感ばかりして話を聞きすぎ。CD買って欲しい思いや願いなんてどうでもいい。オーラを感じれば風邪のような寒気がする時点で良くない存在とわかるはず。そのような者は(人間なら多少は対処法が変わってくるが)生き霊か死霊かもわからない変な存在の相手をする必要は全く無い。<br /> <br /> 消滅させていたら0点あるいはマイナスだった。消滅させなかったのは正解。追い出す選択にしては中途半端な対応。浄化する気はあまりなかったのでしょう。でしたらとっとと追い出すべき。追い出し方にしても、オーラで押し出してしまうと悪い冷たいオーラが入り込んできてしまう。<br /> <br /> 光の柱を天から降ろしてそれを刀のように前に振りかざして追い返そうする対処は良かったがあまりうまくできていなかった。よって30点。<br /> <br /> 自分のオーラを使わずに光の剣を使ったのは良かったみたいですので、この線で、ちょっと何か開発してみましょうかね。<br /> あるいは浄化しようとしても良かったみたいですが、たまたま出会った霊をその度に浄化していたらきりがないので。<br /> <br /> Sun, 29 Nov 2020 00:00:00 +0900 <link>https://w-jp.net/2020/2154/</link> <description><br /> </description> <pubDate>Sat, 28 Nov 2020 00:00:00 +0900</pubDate> </item> <item> <title>サードアイのクリスタルが小さい時は水晶球で強化する https://w-jp.net/2020/2150/ <br /> ある程度育てば不要ですけど、サードアイが小さい人の場合は水晶球で強化できます。<br /> <br /> 水晶球は本物の水晶を使う場合はクラックの角を使ってサードアイのクリスタルと共振させます。クラックがある程度ないとうまく行かないですが、ありすぎてもちょっとやりにくいです。それなりに透明で、クラックもちょっとだけ入った水晶がいいと思います。<br /> <br /> 今は溶解水晶とかありますけど、完全に透明な溶解水晶だとやりにくい気がします。<br /> <br /> ちょっとだけクラックがかすかに入っていて、それでいて、入りすぎないくらいが良いです。世の中にはそんなものはないかもしれないですね・・・。<br /> <br /> 中世くらいの昔はそれなりな本物の水晶球が手頃な値段で売っていましたけど、今は目が飛び出るほど高いですよね。<br /> <br /> 大きさは12cm前後あった方がいいと思います。そこまで大きいものである必要はないですけど、大きいほうがやりやすい、ということはあります。小さいと効果も微妙ですし、ちょっとやりにくいです。<br /> <br /> Thu, 26 Nov 2020 00:00:00 +0900 サードアイのクリスタルは転生を重ねて少しづつ育てる https://w-jp.net/2020/2149/ <br /> 私の記憶では、中世にヨーロッパで魔女をしていた頃の自分のサードアイは親指と人差し指で円を作るくらいの大きさだったように思います。その後、もっと大きく育っています。<br /> <br /> 形としてはダイヤのような形です。正八面体よりはもうちょっと角が多いような、正16面体とはちょっと違うような、綺麗なダイヤがカットされているような感じです。<br /> <br /> クリスタルっぽく見えますけど物理的なものではなくてアストラルなものです。<br /> それが、頭の後頭部の真ん中あたりに収まっています。<br /> <br /> これは、転生を重ねるごとに少しづつ育てるという種類のもので、人によっては「目」と言う人もいるかもしれません。形としては目というよりもクリスタルに似ていると思います。<br /> <br /> 言い方としてはサードアイということになるのでしょうが、日本的な言い方をすれば竜神の目とか天狗の目とか千里眼とか、そういうことになると思います。<br /> <br /> 転生を重なる間にもこのサードアイは受け継がれて、そのまま転生をする場合は同じサードアイを引き継ぎます。一旦グループソウルに合流する場合はサードアイはグループソウルが一旦受け取るかあるいは一緒に動いている守護霊が一旦は預かって、その後、必要な魂、大抵は同じグループソウルの魂ですが、転生する際にそのサードアイのクリスタルを受け取って転生するわけです。<br /> <br /> 私の場合、今生での目的が今生の目的はカルマの解消と覚醒への階梯を確かめることの2つだったので、そういうことであればむしろサードアイのクリスタルは邪魔で、何も見えない方が良いので全く何もクリスタルを持たずに生まれてきました。<br /> <br /> ですけど、このクリスタルというものは何もなかったとしても人生を生きているうちに形成されてゆく種類のものですので、今はちっちゃいクリスタルがあります。そのようにクリスタルを育てる過程も含めて覚醒への階梯を確かめることが今生での目的でありましたので、予定通りとも言えます。<br /> <br /> 今まで私が主に使っていたサードアイのクリスタルは今は私の守護霊に預かってもらっています。そのうち、私が今生で育てた今使っている小さなクリスタルとその元々使っていたクリスタルとを交換しようかな、とも思いますけど、これは私が判断することというよりは、私のハイヤーセルフというかスピリットがその時期も含めて判断することのようですので、顕在意識の私は知る必要がないようですし実際のところその決断権は顕在意識の私ではなくスピリットの方にあるので時期とかは教えてもらっていません。<br /> <br /> 顕在意識の私からするともう十分なのでとっとと覚醒してもいいと思っているのですが、スピリットからすると、せっかくなのでもうちょっと細かく覚醒の階梯を確かめてもいいのでは、と思っているようです。それならそれでいいですけど。顕在意識の私からするとちょっとまどろっこしく感じてしまいますが、調査が今生の目的の1つなので致し方ないという面もあります。<br /> <br /> サードアイのクリスタルがある程度育つと、以下の能力が現れます。<br /> <br /> ・(初歩的な力として)イメージで具体的に想像する力。例えば、頭の中でイメージでそろばんをする能力だとか、部屋や通路の空間をイメージして配置を組み替える能力。あるいは数学の問題をイメージで解く力。<br /> ・(もう少し慣れてくると)映像記憶の能力。<br /> ・(ある程度慣れてくると)周囲にいる霊を見る能力。いわゆる霊視。町中に霊がうようよいることがわかるようになります。<br /> ・(更に進むと。実際はフォースアイとの連携で)千里眼の能力。(同じ時間軸における)リモートビューイング。<br /> ・(熟練すると)時空を超えたリモートビューイング<br /> <br /> 私は久々にクリスタルなしで生まれましたが、霊視ができないというのはある意味、煩わしい霊を見なくて良いので意外にすっきりした印象を最初は受けました。サードアイが見えないということは、こんなにも周囲の景色に惑わされなくても済むのだ、という、意外な驚きがあったように思います。町中には霊がうようよいますし、おぞましい姿をした魑魅魍魎なんて普通にそこら中にいますから、そのような煩わしさがない反面、それらが見えないが故に避けにくい、というデメリットもありますけどね。<br /> <br /> たぶん前世ではちょっと疲れた時に魑魅魍魎が見えることが煩わしく感じていて、それ故に、見えないというのはそれはそれで幸せな気もします。<br /> <br /> エネルギー的な総量とのお話とも関連していて、エネルギーが枯渇していると魑魅魍魎が見えた時にそれに影響されてしまうのですよね。見えるだけでなく、エネルギー的に負けてしまっている。一方で、エネルギー的に充実していると魑魅魍魎が見えたとしても自分の平穏さを保てるのですよね。そういう観点からも、きっと前世でちょっと疲れてしまったが故に今生で一休みの意味も含めて一旦はクリスタルなしで生まれた、という理由もあるような気がいたします。メインではカルマの解消が目的ですけど、いろいろな理由が重なって今生ではクリスタルを持たずに生まれたのだろう、と理解しています。<br /> <br /> ですけど、それは一時的な状態でしかなくていつかは元に戻る必要がありますので、もともとのクリスタルを戻すタイミングはスピリットが見計らっているのだと思います。<br /> <br /> Thu, 26 Nov 2020 00:00:00 +0900 性別は選んで生まれてくるのが普通 https://w-jp.net/2020/2148/ <br /> 基本的には、性別を選んで生まれてきます。初心者は他の人に選んでもらうかもしれないですけど、ある程度の経験があれば自分で選びます。生まれる前に自分の性別を決めればそうなります。目的があって性別を選ぶ人もいるでしょうし、あるいは、どちらかの性別が楽だからとか得だからという現世利益の理由で選ぶ方ももちろんいらっしゃいます。<br /> <br /> この世は全て自由ですので、好きにすればいいのです。<br /> <br /> 自分で選べなくて好みの性別になって生まれなかったのだとしたら、それは経験不足なだけですのでそんなもんだと思って諦めましょう。<br /> <br /> 前に書きましたかね。私のあの世のコミュニティには元妻がたくさんいて、「私がお母さんになってあげる!」という人とか、「お嫁さんになりたい!」と元気に主張してきてくれる過去世の元妻がたくさんいます。そういう場合はもちろん性別を選んで生まれるわけですし、狙った性別にはほぼ100%そうなります。そうならずに性別を失敗した、なんてことは聞いたことがないです。狙って転生をする場合は確実に100%で性別選べると思いますよ。だって、受精卵が育っていって性別がわかった上で体に入るわけですから、間違えるわけがないです。<br /> <br /> 現代でLGBTとかありますけど、以前に書いたように、魂には性別はありませんけど一応は性質があって男っぽいとか女っぽいとかはそれなりにあります。前回の性別と逆の場合は男っぽいとか女っぽいとかありますけど、そうだとしても、生きているうちに肉体の性別の性質が身についてきます。<br /> <br /> 自分でその性別を選んだのであれば、その性別を生きればいいだけのお話です。<br /> <br /> 今生では男と決めたら男で生きればいいのになんでわざわざ女として生きようとしたり、あるいは逆に、女と決めて生まれてきたのならば女として生きればいいだけのお話なのになぜにわざわざ男として生きようとするのかは、特殊な事情があると思います。以前書いたように、本当は女として生まれたいのだけれどもDVの被害に合ってばかりいて怖くなったから男として生まれることを選んだとか、男として生まれたかったのだけれどもトラウマがあって女を選んでしまったとか、何がしか精神的な分裂が生じていることが多いように思います。<br /> <br /> それは現代で理解されているように「女の心なのに男として生まれてしまった」とか「男の心なのに女として生まれてしまった」とか、そんな単純なお話だけではなく、前世とのつながりを見ないと本当の理由はわかりません。<br /> <br /> LGBTはそのように心に問題を抱えている場合もあれば、稀ですけど性別がもともとない宇宙人が転生してきて地球の性別システムに慣れていない場合によくわからずLGBTとして分類されてしまうことがあります。これはもう、仕方がないですね。慣れていただくしかないところです。<br /> <br /> 基本的には男として生まれたら男の有り様を学ぶのが基本で、女で生まれた場合も同様だと思います。<br /> <br /> それが基本にあって、LGBTの何割かはそのような転生の理解を取り入れることで「そういうことなら、私はもっと男の有り様を学びます」とか「女の有り様を学びます」と決断して男らしさ、あるいは、女らしさを身に着けてゆくわけです。<br /> <br /> 生まれたときの心の性質がそのまま性別だと思ったら大間違いで、転生をする中で男として生まれたり女として生まれたりすることは普通にありますので、その度に、「ああ、私は男っぽいのにどうして女なのだろう」とか「女っぽいのにどうして男なのだろう」とか、そんなこと悩むだけ無駄で、今生の体が男なら男らしく生きてみればいいし、女なら女らしく生きてみればいいわけです。<br /> <br /> そもそも、男としての人生を送りたいから男としれ生まれた筈ですし、女としての人生を生きたいから女として生まれた筈です。初心者さんは除きますけどね。ある程度の経験者であればそうなります。<br /> <br /> ですから、女として生まれたあげく、「どうして女は男と同じように扱われないのだろう」とか悩んだり不満を訴えたりするのは私にしてみれば意味不明で、「だったら、最初から男として生まれればよかったじゃないの。どうして女を選んだの?」と、魂に聞いてみたくもなります。初心者さんだったら仕方がないですけどね、転生の仕組みと選択が広く理解されさえすれば男は男らしく、女は女らしく生きる社会に戻ると思いますよ。だって、それがそもそもの選択であり、男がやりやすいことと、女がやりやすいこととは絶対的に異なりますからね。<br /> <br /> あまり考えなしに生まれた後に性別に不満を言うような人は初心者さんなので、それは仕方がないですね。周囲がサポートしてあげればいいでしょう。そして、次の人生で性別をきちんと選んで生まれればいいだけのお話です。あまり初心者さんを甘やかして普通の大勢の人々の迷惑にならないようにした方がいいと思いますけどね。<br /> <br /> 男として生きたければ男として生まれればよくて、女として生まれたければ女として生まれればいいだけです。どこまで行ってもLGBTはマイノリティにしかならないと思いますけど。あとはそのような初心者さんをどこまでサポートするかだけの問題ですね。初心者さんはそれなりに生きてもらって、経験を積むまでは補助輪付きでいいと思いますけど。<br /> <br /> 自分で選んだのに選んだことを忘れてしまって、周囲に流されてしまってLGBTになってしまう、という場合もそれなりにあるように思います。<br /> <br /> それと、恋のライバルを消すために他人に「(女なのに)男らしいね」とか「(男なのに)かわいいね」とか吹いてその気にさせてしまう、という場合も意外にも多い気がしますね。これは、他人に流されすぎですね。他人に自分の人生を左右させていることになります。自分が本来しようとしていた人生が送れなくなったりして、死んだ後に「もう1回、やり直し!」になったりするかもしれません。人生の目的が性別とは関係なければ別にどっちでもいいかもしれないですけどね。でも、どっちでも良ければわざわざ性別を変える必要もなかったりします。<br /> <br /> あと、ほんのちょっとの割合ですけど、最近出てきたLGBTというのがよくわからないけど「面白そう!」と思ってそれに入り込む経験豊富な魂もあります。これは、ほんと例外ですね。あんまりいないと思います。宇宙人パターンと同じくらいの割合ですかね? なんとなくですけど。<br /> <br /> 大抵の場合は地球由来の魂が自分の生まれた目的がわからなくて性別不一致を感じてしまいLGBTになることが多いのですかね。そのように性別不一致を感じるのは、魂の性質上、そんなもんだと思うしかないですよ。前世と逆の性別で生まれたら、そりゃ、最初は性別不一致ですよ。でも、大抵の場合は自分でそれを選んだのですからね。あんまり気にすることはないと思いますけど。<br /> <br /> 男にしても女にしても、人生ゲームを楽しんでいるわけですから、男として生まれたら男のゲーム、女として生まれたら女のゲームをするわけです。試してみて、やっぱり合わないな、となったら次回で別の性別を選んでもいいわけですし。あんまり急いで性別を変える必要はないと思いますけどねえ。それよりも、せっかく生まれた性別に合わせてペルソナ(仮面)のゲームを楽しんだほうがいいと私なんかは思いますけど。<br /> <br /> これは個人的にそう思うだけで、基本は、自分が好きに生きればいいと思っています。ですから、勝手にすればいいんです。他人がどう生きようがほっとけばいいのだと思っています。単なる個人の感想です。<br /> <br /> Wed, 25 Nov 2020 00:00:00 +0900 魂の系統によって学びが異なる https://w-jp.net/2020/2147/ <br /> 肉体としては混ざっているので見分けがつきにくいですが魂の系統としては以下に分類されると思います。<br /> <br /> ■レムリア系<br /> <br /> レムリアの最後に天変地異が起こって半数以上はアセンションし、何割かはアセンションできずに地上に残った。その残りの人たちが各地へと散らばり、スピリチュアルの一角を成している。<br /> 元プレアデスの系統。魔術、特に白魔術に長けている。クリスタルを用いた文明。インスピレーション重視。ふわふわしている。<br /> <br /> アセンションした人たちの大部分は今は上の次元の別の惑星で暮らしている。<br /> アセンションできなかった大抵の人はどちらかというと地球に囚われているという感じ。縄文人に多い。<br /> <br /> レムリアの最後には地上では天変地異が起こって災難が起こったが、アセンションした人たちは割と災難は関係なくてアセンションした時の特異な浮遊体験、上昇体験の強い印象が残っていると思います。<br /> <br /> 一方、アセンションできなかった人たちは地上の災難をもろに受けていますから悲惨な悲しいイメージおよびアセンションできなかったという悲しみが魂の奥深くに眠っているのでその深い悲しみを癒やしてあげる必要があります。<br /> <br /> ちなみに私はレムリアの最後に地球に来てアセンションしたが地球に興味があって残って興味本位で転生を繰り返したレアケース。私がアセンションした時はふわっと浮くような別次元に移行するような面白くてエネルギーに溢れた体験だったような気がします。悲しみとかは全くと言って良いほどないです。素晴らしいという印象だけですね。<br /> <br /> 現代でレムリア系のお話を聞いていると上記のような地上的な災難の悲しみとアセンションできなくて地上に残されたという悲しみの両方があるようです。私にはピンときませんけど、理屈としてはわかります。<br /> <br /> ■アトランティス系<br /> <br /> 理知に優れ、論理および秩序を重視する。<br /> <br /> レムリアの生き残りが神官として関与し、その一方で、別の理知的なシリウス等が関わった文明のようです。地球人を使役もしたようです。<br /> <br /> アトランティス大陸そのものではないにせよ、この系統の人たちがきっとピラミッドも作ったと思います。<br /> <br /> これは、宇宙の存在が神として地上を支配する試みのうちの1つだったように思います。<br /> <br /> 一部はオリオンの星系行われた長きにわたる大戦争いわゆるオリオン大戦にて病んだ魂も地球に来て合流したようです。<br /> <br /> ■地球人<br /> <br /> 魂が主に地球で進化した魂。猿あるいは獣から進化。ごく一部は植物や鉱物などから進化したが大部分は動物から進化。血の気が多い。すぐに力で解決しようとする。不愉快になるとすぐ暴力に訴えて人を殴る。女であればすぐにヒステリーになる。<br /> <br /> <br /> 自分がどの系統に属しているのかを認識できると魂の成長のために何をしなくてはならないのかがよりはっきりとすると思います。<br /> <br /> 例えば、地球生まれの血の気の多い魂にスピ系のお話をしても通じないでしょうし、レムリア系の人に論理の話をしてもうまく伝わらないでしょうし、アトランティス系の人に感性のお話をしてもあまり通じないかもしれません。地球は人種の違いだけでなくそもそも魂の成り立ちが違う人が混在していますので、お互いに理解し合おうと思っても無理な部分は絶対に存在しているわけです。<br /> <br /> 地球に生まれている人の中にはオリオン大戦の経験者もいて、そのような人は二元性の対立の克服をテーマとしているようです。簡単に言えばスターウォーズのようなお話が実際にオリオン星系であって、それはもう終息していますけどその戦いで傷ついた魂が二元性を超えて癒やされる必要性があるということのようです。ですからスピ系の一部では二元性のお話がよく出てきますけど、それも全ての人に当てはまるお話ではなくて、特にオリオン大戦の経験者によって二元性の克服がテーマになっているように思います。<br /> <br /> オリオン大戦の経験者はマニプラ・チャクラ(お腹のあたり)が強くて、アナハタ・チャクラ(胸のあたり)よりもマニプラが優勢な気がします。マニプラくらいですと二元性の性質が強く出て、それより下のムーラダーラ以下の獣および支配の性質とマニプラの肉体的な愛との段階とが対立し合うというのはあると思います。スターウォーズは物語としてよく出来ていますが、もっとオリオン大戦に似せるならば、悪の帝国はムーラダーラのような獣のような性質、善の反乱軍はマニプラの肉体的な愛として描くともっとそれっぽくなると思います。マニプラ優勢の状態ですとまだ二元性を超えられませんが、少しづつアナハタ以上の段階に至ることで二元性を超えるのがこれらオリオン大戦の経験者のテーマのように思います。<br /> <br /> チャクラ優勢に基づいてまとめますと以下になります。<br /> <br /> ・ムーラダーラ以前 獣から進化した地球由来の魂。血の気が多い。<br /> ・ムーラダーラ優勢 オリオン大戦の悪の帝国。ダースベーダのようなイメージ。二元性の世界の悪の側。<br /> ・マニプラ優勢 オリオン大戦の善の反乱軍。ジェダイのようなイメージ。二元性の世界の善の側。レムリアでアセンションできなかった魂。<br /> ・アナハタ優勢、あるいはそれ以上 レムリアでアセンションした魂。二元性を超えた世界。<br /> <br /> スピ系である「思い出そう!」で覚醒できる人はレムリア系とアトランティス系の人のお話で、地球由来の獣から進化した魂にそう言っても「なんのこっちゃ?」という感じです。同様に、「瞑想で静けさを取り戻して愛を思い出しましょう!」とか言われて「ああ、そうか!」なんてすぐに気づいて覚醒できるのもレムリア系かアトランティス系です。これまた、獣から進化した魂に言っても通じません。これはもう、仕方がないですね。だって、思い出すべきものがそもそもないのですから思い出しようがありません。<br /> <br /> ヨーガは割と幅広く応用できて、地球由来の獣から進化した魂であっても急速に進化できるように思います。<br /> <br /> 一方で、スピ系はターゲットをレムリア系あるいはアトランティス系に合わせていることが多くて、地球の獣から進化した魂に同じことを言っても意味不明なことが多いように思われますね。全部ではないですけど、そういう傾向が多いように思います。<br /> <br /> これはメモです。上記が全てではないと思います。<br /> <br /> Wed, 25 Nov 2020 00:00:00 +0900 瞑想で集中しても何にもならない、という人は静寂の境地を知らない https://w-jp.net/2020/2145/ <br /> その可能性が高いです。<br /> <br /> 自分がまだ達していないだけなのに「何にもならない」などと断言できるその自信がどこから来るのか知りませんが、実際に、そのようなことを言う人は瞑想教師のような立場であってもいるものです。<br /> <br /> 例えば「瞑想で集中しても何にもならない。観察が重要だ」とか言っている方がいます。<br /> <br /> あるいは、たまにヴェーダンタとかをインドで勉強された方で「瞑想で集中しても何にもならない。知識が重要だ」とか言っている方もいらっしゃいますけど、これはヴェーダンタは経験を超えたところを目的としているために瞑想の体験は一時的なものだという理解に基づいておりますので私がここで言わんとしていることとはちょっと異なるのでひとまず置いておきます。<br /> <br /> ヴェーダンタのお話を抜きにすれば、瞑想で一般的にある要素は集中と観察で、時に「集中しても何もならない」とか言っている方がいらっしゃいますけど、そのような方の場合は静寂の境地を知らないのだな、と私なんかは思います。<br /> <br /> ご本人はこう言っても否定されるかもしれないですけどね... まあ、私なんかからすればそう見えます。<br /> <br /> 静寂の境地あるいはその一歩手前くらいに達しないと「観察」は出てこないので、静寂の境地を知らずして「観察」はあり得ないのです。<br /> <br /> こう言うと、「いやいや、皮膚の観察とか、想念の観察とか、視界の観察とか、いろいろあるでしょ」とか言いますけど、それは、集中しているのであって、瞑想で言うところの観察状態ではないです。<br /> <br /> まあ、そんな集中であっても流派によっては観察と呼んでいるかもしれないですし、それは自由にすればいいですけど、そうであったとしても集中を否定する必要はないわけです。<br /> <br /> 瞑想で言うところの集中と観察は全く別物です。<br /> <br /> 五感に属する瞑想は、例えば皮膚の観察だとか眉間への集中だとか皮膚の観察だとか視覚の観察だとか、そのような瞑想は、初心者であればやっていることは全部一緒です。初心者が自分のやっている瞑想を「集中だろうか、それとも観察だろうか」などと深く考える必要はないです。自分の流派が集中と呼んでいれば集中と言えばいいし、観察と呼んでいるなら観察と言えばいいだけのことです。初心者の瞑想でそんな違いが出るわけもないです。ですから、どこかでかじった知識を元に「集中しても何もならない」なんて言っている人は初心者である可能性が高いのです。<br /> <br /> もっとはっきり言えば、静寂の境地を知らずして瞑想における深い意味での「観察」はあり得ず、それ以前の瞑想であればそれを集中と言おうと観察と言うと表現だけのお話であって大差ないわけです。<br /> <br /> <br /> [2020/12/30 更新] 元々「涅槃」と書いていたところを「静寂の境地」に置き換えました。<br /> <br /> Fri, 20 Nov 2020 00:00:00 +0900 知覚を内に向けることで純粋な意識の知覚を生じさせる https://w-jp.net/2020/2144/ <br /> 最近の涅槃と言ってもよい状態は、超越瞑想(TM瞑想)の書籍にも同様のことが書いてありました。これらの説明は仏教の涅槃の状態を表しているように思います。TM瞑想の目的はここにあるのですね。<br /> <br /> 内側に向かって心を働かせると、心は超越的な「絶対」の領域に入り、永遠「存在」の力で満たされることになります。次に、心が再び外側に向かって動き出すと、心の活動は超越的な絶対「存在」の光を外界にもたらし、粗大な現象界の知覚における至福を強めるのです。(中略)超越界から出てきた人間は、神の栄光を携えていますので、この世界における実生活のあらゆる分野を輝かすことになります。「超越瞑想(マハリシ・マヘーシュ・ヨーギー著作)」<br /> <br /> これは涅槃の説明のように思います。<br /> <br /> 私の目的は涅槃の次の宇宙意識と同一になった状態ですので涅槃そのものはゴールではありませんけど、これらの表現からは宇宙意識らしき面も読み取れます。誰でも読める本にはきっとそこまでは深く立ち入らず、このくらいの表現にしているのかもしれません。<br /> <br /> 静寂に達する理想的な方法は、神経系の活動を「安らぎに満ちた機敏さ」の状態に持っていくことです。心の状態さえもゼロにして、思考過程をその源の一点にまで減少させることです。この点に達すると、知覚は絶対意識の状態にとどまり、悟りの状態が得られ、絶対の超越「存在」が生命の意識されるレベルにやってきます。逆の言い方をすれば、現在意識のレベルが「存在」の超越的なレベルに達するのです。「超越瞑想(マハリシ・マヘーシュ・ヨーギー著作)」<br /> <br /> 翻訳のせいか回りくどい表現が多いですけど、要するに、神意識が顕在意識にまで上がってきて普通に認識できるようになるということでしょう。<br /> <br /> 神意識のことを流派によっては「キリスト意識」とか「アートマン」とか「ハイヤーセルフ」とか色々言ったりしますけど、同じことだと思います。粗大な顕在意識が静まって静寂の意識、いわゆる涅槃に達することで神の意識が現れてくる、ということだと思います。<br /> <br /> <br /> (追記→ どうやら禅宗的にはこれは涅槃と言わなくておそらくは第四禅定です。流派によって涅槃の位置付けが異なるようですね。後日詳しく書きます。)<br /> <br /> <br /> Thu, 19 Nov 2020 00:00:00 +0900 <link>https://w-jp.net/2020/2143/</link> <description><br /> </description> <pubDate>Wed, 18 Nov 2020 00:00:00 +0900</pubDate> </item> <item> <title>やっている修行によって静寂の境地と煩悩の克服の度合いは異なる https://w-jp.net/2020/2141/ <br /> 仏教では静寂の境地と煩悩の克服の度合いが組み合わさって理解されていることに対し、私の場合はちょっと違うなとは思っていたのですが、私のスピリット・ガイド(見えないガイド、いわゆる守護霊)が教えてくれたことによると、やっている修行によって静寂の境地と煩悩の克服(サムスカーラの解消、カルマの解消)の度合いは異なるようです。<br /> <br /> 仏教など特にマントラを使って修行する流派の場合は概ね仏教が定義しているような順番になって、静寂の境地への到達と煩悩の克服が割と同時期に起きるようです。<br /> <br /> しかしながら、本来は煩悩の克服と静寂の境地への到達は別のもので、最終ゴールとしてはどちらも達成するものの、その到達度合いは必ずしも関連しているわけではないようです。<br /> <br /> 静寂の境地は雑念が抑えられた状態ですので、マントラを唱えていると静寂の境地に達することがあります。これは最初に静寂の境地に達すれば預流果(よるか) ですし、度々達すれば一来果(いちらいか)です。<br /> <br /> ですけど、マントラに頼っている以上、それ以上の上の不還果(ふげんか)にはなかなか到達しない、とのことです。<br /> <br /> マントラは顕在意識を鎮める効果がありますので、マントラを唱え終わったら雑念がまたふつふつと湧いてきて、実際のところ雑念があったとしても本来の安定した静寂の境地に達していればそれにさほど迷わされることがないのですが、マントラで一時的に抑えていた場合はまだ本来のサマーディの力が弱くて煩悩(カルマ)にそれなりに影響されてしまうようです。<br /> <br /> 本来のサマーディの力を強めればマントラに頼らずとも静寂の境地を維持することができますので、そうなると次の段階に進むとのことですが、マントラに頼っている以上は一来果(いちらいか)で足踏みし、不還果(ふげんか)にはなかなか到達しないとのことでした。<br /> <br /> これは私がガイドから聞いたことですので本当にそうなのかどうかはわかりませんけど、理には叶っています。ガイドには「私はそのことはあまり気にする必要はない」と言われていますので、一応の知識として知っておくというくらいです。<br /> <br /> このマントラは、レベルは違うものの、例えば白人のスピリチュアルでは大音量のクラブのミュージックが相当するようです。クラブやテクノあるいはダンスホール等で流れている大音量のDJミュージックのような外部の音を利用して一時的に自分の心をそれに惹き付けたり麻痺させたりして心を停止させる手法が白人たちの間では利用されています。それは、白人たちの自我があまりにも強くてそのくらいしないと自我を停止できない、ということでもあります。日本人の場合はそれほど自我が強くありませんからそこまでしなくてもマントラ程度で素早く自我を静止させることができますが、マントラに頼っている以上はマントラを止めたらまた自我が動きはじめてしまうわけです。<br /> <br /> 自我の奥底にある神の面の自分(ハイヤーセルフ、キリスト意識、アートマン)が目覚めてしまえばそのようなものに頼る必要はないのですが、マントラに頼っている以上、なかなか一時的な静寂の境地である一来果(いちらいか)から先に到達できない、ということのようです。<br /> <br /> マントラに頼ると一来果(いちらいか)の静寂の境地にまでは割と素早く達するものの煩悩の克服が後回しになるので静寂の境地の到達と煩悩の克服への到達が割と同じ時期になることが多いようですが、必ずしも一致するわけではないようです。一来果(いちらいか)から不還果(ふげんか)へのステップでは煩悩がかなり克服されなくてはいけませんので、マントラに頼って素早く一時的な静寂の境地の一来果(いちらいか)に達した場合に煩悩の克服に時間がかかって不還果(ふげんか)へなかなか達しない場合もあるようです。<br /> <br /> 一方で、マントラに頼らず沈黙の瞑想をした場合は煩悩の克服(サムスカーラの解消、カルマの解消)が割と先に来て、しばらく経った後に静寂の境地に達して一来果(いちらいか)になるようです。そして、沈黙の瞑想の場合は静寂の境地に達した段階で煩悩が既にかなり克服されておりますので一来果(いちらいか)から不還果(ふげんか)へのステップで足踏みせずに割とスムーズに移行できるとのことです。<br /> <br /> これはトータルで見れば途中でどちらを先にやるかという違いがあるくらいで、実際のところそれほど違いはなく、好きな方をすればいい、好きな道を通ればいい、好きな順番でやればいい、ということのようです。自分の流派のやり方に従いたければそうすればいいですし、直感に頼りたければそうすればいい、ということにもなると思います。<br /> <br /> 煩悩の克服(サムスカーラの解消、カルマの解消)を重視している流派なのか、あるいは、静寂の境地への到達を重視している流派なのかで視点が異なるということですね。<br /> <br /> <br /> [2020/12/30 更新] 流派によって涅槃という言葉の意味は異なりますので元々「涅槃」と書いていたところを「静寂の境地」に置き換えました。<br /> <br /> Mon, 16 Nov 2020 00:00:00 +0900 最初の静寂の境地への到達は預流道果(よるどうか) https://w-jp.net/2020/2140/ <br /> 今年の9月頃に平穏な静寂の境地に達したわけですが、テーラワーダ仏教であるミャンマーの上座部仏教にあてはめてみると、最初の涅槃への到達は預流道果(よるどうか)と呼ぶようですね。このあたりは流派によって定義が微妙に異なるような気が致します。涅槃という言葉の定義も流派によってまちまちのようです。<br /> <br /> 「ミャンマーの瞑想(マハーシ長老 著)」によると以下のような分類になるようです。<br /> <br /> ・預流道果(よるどうか) 預流とは涅槃に向かう流れの意味。始めて涅槃を発見し達する。<br /> ・一来道果(いちらいどうか)<br /> ・不還道果(ふげんどうか)<br /> ・阿羅漢道果(あらかんどうか)<br /> <br /> 道果(どうか)は流派によって果(か)とだけ言ったり省略したりするようです。<br /> <br /> これら4つの段階は煩悩がどのくらい滅せられるかという分類で今まで理解してきましたし、それも正しいかとは思うのですが、それよりも上記のように涅槃に達しているかどうかという基準の方が重要な気が致します。<br /> <br /> これは同じ上座部仏教でもテーラワーダ仏教とかの書物では見たことがない気が致しますが、入信しないと教えてくれないお話なのでしょうかね?<br /> <br /> 煩悩という観点から判断してしまうと自分が上の段階にいるかもしれないという勘違いを産んでしまうような気が致しますので、それよりも、ここにあるように涅槃に達したかどうかの方がよりはっきりとした基準のように思います。4つの段階のうち一番下の預流道果(よるどうか)に「始めて涅槃を発見」と書いてありますので、まずは涅槃に達しないとこの4つのいずれでもないわけです。涅槃に達していないのに煩悩を基準にして4つの基準と自分を見比べても仕方がないわけです。とは言いましても、この基準は流派によりますから、自分の流派があるのであればその基準に従えば良いとは思います。<br /> <br /> 同書には、涅槃に関する記述はそれなりに詳しいのですが、その先のステップは割とあっさりとした表記で、不還・阿羅漢に関しての記述は詳しくはありません。<br /> <br /> 一来に関しては預流の涅槃に熟練したというような書き方で、預流と一来は熟練度が違うくらいなので預流で涅槃に一度でも達したならば一来には容易に達することができる、と書いてあります。であれば以下のような分類ですね。<br /> <br /> ・預流道果(預流果) 始めて涅槃を発見<br /> ・一来道果(一来果) 涅槃に容易に達することができる者<br /> ・不還道果(不還果) <br /> ・阿羅漢道果(阿羅漢果)<br /> <br /> 更には、不還道果に関しては、「完全に定(サマーディ)を成し遂げた者」との記述がありますので、サマーディの精神集中と静寂な涅槃の状態が更に完全になったら不還道果になるのでしょう。<br /> <br /> 阿羅漢はよく知られているように完全に煩悩を滅却した者です。<br /> <br /> ・預流道果(預流果) 始めて涅槃を発見<br /> ・一来道果(一来果) 涅槃に容易に達することができる者<br /> ・不還道果(不還果) 完全に定(サマーディ)を成し遂げた者。<br /> ・阿羅漢道果(阿羅漢果)全ての煩悩を滅した者<br /> <br /> となれば、私は今年9月頃に始めて涅槃に達して預流道果になったわけですね。<br /> <br /> そして、基本的には預流道果と一来道果は大差ないようですし、涅槃にも割とすぐに達することができるようになった上、同書によるとまだ不安定なところがあるような記述ですから、私は今は一来道果あたりにいるのだと判断するのが理にかなっていそうです。<br /> <br /> 不還道果に達すると色欲(情欲)や怒りなどが消え去るみたいですけど、情欲とか怒りなんてとっくの昔にほとんどなくなっていて、確かに生殖行為はまだ可能ですけどそれが色欲かと言われると、まあ、そうかもしれないですけどかなりなくなっています。不還道果に達して完全にゼロなんてあり得るのですかね? 阿羅漢でも完全にゼロなんてことはないような気がしますけど。<br /> <br /> この辺りの、煩悩の欲望と照らし合わせての説明の部分は話半分に理解しておいた方がいい気もしますね。煩悩という意味ではきっともっと早く達することができて、涅槃という意味ではかなり後のような気が致します。<br /> <br /> おそらくは流派によって解釈が異なっているところがごっちゃになってしまったが故に混乱している気が致しますが、煩悩という意味では涅槃よりももっと手前で起こって、涅槃に関しては2周目か3周目での基準であれば一致している気がしますね。<br /> <br /> これは個人的な解釈ですので、仏教の流派の諸派の解釈とは異なるかもしれません。<br /> <br /> <br /> 追記→ 禅宗的には同状態は涅槃と言わなくておそらくは第四禅定のようです。<br /> <br /> Fri, 13 Nov 2020 00:00:00 +0900 全ての宗教の本質は同一だと主張したヴェネチアのカトリックの大司教 https://w-jp.net/2020/2138/ <br /> 夢で見たお話ですから本当のことかはわかりません。<br /> <br /> 先日に続いて私のグループソウルの一部の過去生がヴェネチアでカトリックの大司教だったわけですけれども、その時、全ての宗教の本質は同じだと主張しました。当時は大航海時代でしたけど、大司教が言い出すまでは、他所でそのようなことはほとんど言われていなかったと思います。割と独自にその時の大司教である私のグループソウルの一部が急に言い始めたことのように思います。今ではそれが全世界のカトリックの基本理念として広まっていると思います。<br /> <br /> キリストも元々はそのようなことを言っていた筈ですし、同時代にも似たようなことは他の人も言っていたかもしれませんが、ヴェネチアの大司教が言い出したということでその影響力は大きかったように思います。<br /> <br /> 今では末端のカトリックでもその基本理念がそれなりに知られており、キリスト教というと他の宗教を弾圧したり改宗させたりというイメージが強いせいかこのような教えは意外に思えるかもしれませんが、大航海時代の頃に説かれた教えですのでカトリックの基本理念としてそれは定着しているように思います。<br /> <br /> ですから、一見するとキリスト教が他宗教に不寛容に見えたとしても、実際のところ、基本理念としては他宗教をも受け入れる素地があると思います。<br /> <br /> かと言ってそれがそのまま他宗教のやり方までも許容するということにはなっておらず、文字通り「本質は同一」という意味合いにおける理解でありますのでありのままを受け入れるということではありませんけど、少なくとも、他宗教を弾圧するようなところからは少し離れて、他宗教をも受け入れる素地がカトリックにはあると言えます。そのように信じたいです。<br /> <br /> 今ではキリスト教も多様化してきており必ずしもその基本理念が理解されているとは限らないと思いますし、今世では私はキリスト教徒ではありませんので日本の実態はそれほど詳しくはありませんが、噂に聞く範囲では同様の「全ての宗教の本質は同一」という理念があることは普通のキリスト教信者にも知られており、少なくとも知識としては基本理念としては定着しているように思われます。<br /> <br /> Wed, 11 Nov 2020 00:00:00 +0900 ほとんどの宗教やスピリチュアルのゴールは一緒 https://w-jp.net/2020/2137/ <br /> 教義が違えばゴールは違うなんて言う方もいらっしゃいますけど、実際のところ、教義を受ける対象の人々の気質が違うから違うように見えているだけで、最終ゴールは一緒です。<br /> <br /> 確かに、教義そのもののゴールが悟りに達していない時もありますから、そのような意味においてはゴールは違うと言えばそうですけど、ここで言っているのは、悟りとしてのゴールは一緒ということです。<br /> <br /> そもそも、ほとんどの教義でゴールは明確に示されておらず、かなり曖昧なことがほとんどです。<br /> <br /> そのような状況で、ゴールは何かというと教義をしっかりと理解することではなく悟りであるわけですので、どちらにせよ教義で途中までしか説明されていないのだとしたら悟りが同一であると思うかどうかは後は信念の問題だけであると思います。<br /> <br /> 私が見たところでは、悟りというゴールを目的にしている宗教であればそのほとんどのゴールは一緒であるように思います。後は信念で同じだと信じるかどうかですね。私はゴールは一緒であるという信念がありますから、流派によってゴールが違うとは思わないわけです。<br /> <br /> 見た目はかなり違いますし、やり方も違うでしょう。しかしながら、ゴールとしての悟りは同じであるという部分は信念として持っているわけです。<br /> <br /> 自分で確かめた範囲としてはその信念に矛盾はなく、全てを確かめることはできませんから、あとは信念になるわけです。それはとりあえずは信じるということですけど、信じたからと言って矛盾が出てきたら現実が優先されるわけです。<br /> <br /> 宗教というと何であっても全部信じなくてはならないと思っている方がいらっしゃいますけど、現実が優先されると思っています。現実が優先されて、よくわからない部分が信念になって信じなくてはならない部分です。これは私だけが言っているわけではなく、元々の宗教も本来はそういうものだと思っています。自分がわからない部分が多ければ信じるしかないわけで、であれば信じる範囲が多かったりしますけど、それは割合だけのお話です。次第に自分のわかる範囲を広げてゆくという努力は継続されるわけです。それを修行と言ったりします。<br /> <br /> 色々な宗派を見ると全く違うように見えたりしますけど、信念として、ゴールとしての悟りは一緒だと思っています。<br /> <br /> 流派によって、相手はそう思ってないかもしれませんけど、これは勝手に私がそう思っているというお話です。<br /> <br /> Wed, 11 Nov 2020 00:00:00 +0900 キリスト教が悪魔や地獄で人々を恐れさせる理由 https://w-jp.net/2020/2136/ <br /> 本当のことかはさておき、瞑想や夢で見たお話を記載しておきます。<br /> <br /> 私のグループソウルの一部は大航海時代のヴェネチアでかつて大司教をしておりました。<br /> <br /> 以前にも少し書いたのですが、教会は、ただ神だけを説くべきだったというのはそれはそれでありますけど、元々のお話を言えば恐怖で支配することが目的だったわけではなく、腐敗した人々および自我や自尊心が拡大してしまった当時のヴェネチアの人々に対して謙虚な気持ちを取り戻すように神の怒りとしての悪魔、あるいは、自我の悪い面としての悪魔を説いたのが最初だったように思います。拡大してしまった悪い自尊心が、その恐怖によって押さえつけられて謙虚になることを期待したわけです。<br /> <br /> 私のグループソウルが教壇に立って悪魔を説いた時、人々の反応としては恐怖が最初に来ました。一部の人はそれを理解しましたが、基本的には、そのお話はあまりうまく伝わらず、一部に根強い反感を生じさせてしまったように思います。<br /> <br /> 最初は、悪魔や地獄を説きました。当時のヴェネチアは世界中から富を集めており、豪華な生活をし、ものは溢れており、性的な欲望から物質的な欲望、および他人を操る欲望まで、ありとあらゆることを叶えたヴェネチアの人々はこの世の春を謳歌しておりました。<br /> <br /> そのように腐敗して謙虚な心を失いかけているかのように見えた人々に対し、大司教であった私のグループソウルの一部は、そんな現世的な欲望にうつつを抜かしていると地獄に落ちて悪魔に食い荒らされますよ、ということを説いたわけです。<br /> <br /> それはそれで理に叶った説教だったと思うわけですが、その説教により、様々な意図しない結果を生み出しました。<br /> <br /> もともとは、その悪魔および地獄に関する説教は他の地域では行われてはおらず、ヴェネチア独特のもの、もっと言えば、その大司教が独自で始めたものだったと言えます。そのように、わずか1人によって始められた地獄、悪魔の説教がその後、全世界でスタンダードになってしまったわけです。<br /> <br /> 私は専門家ではありませんけど、書物を調べてみると地獄や悪魔の説教というものはそれ以前からもされていましたけど、この時ほど強くそれを前面に押し出したことはキリスト教の歴史においてそれほどなかったように思います。確かに、人の心が荒めば地獄のような心境にもなりますし、悪魔のような存在も実際にいます。それは昔から変わらず教えられてきたことですが、地獄と悪魔を前面に出して恐怖で持って説教をするというやり方はこの時において再発明されて洗練されて強く地獄をアピールするようになったように思います。<br /> <br /> いわば、もともとあった地獄と悪魔というものをこの頃から教会で強く主張するようになったわけです。<br /> <br /> それは上に書きましたように、人々のエゴに対するアンチテーゼであり、自尊心が拡大して人の心を失いかけていたヴェネチアの人々に対してきつい説教を与えるという意味合いがあったように思います。<br /> <br /> それ自体は多少はうまく働いたのですが、新しい試みですし、教会に対する反感も大きかったように思います。<br /> <br /> 今から思えば、以前にも書きましたように、教会は、ただ神だけを説くべきだったとは思いますが、当時は、それが正しいと判断しておりました。<br /> <br /> と、言いますのも、ヴェネチアだけのお話しでしたらおそらくそのやり方が正しかったと今でも思うのですが、悪魔や地獄で恐怖させるというやり方がその弟子たちを通じて今や全世界に広まってしまったことが失敗だったと思うからです。地理的・歴史的にその時において正しいことが、習慣化されて別の環境に広まったことで間違いになるということはよくあることです。そのような意味において、全世界における元々の混乱の芽を作り出してしまった、という点において間違いだったと思っているわけです。<br /> <br /> 一応弁護しておきますと、ある程度はその試みはうまく行きました。<br /> <br /> 悪魔や地獄というものは自らの心の状態ですから、自尊心が拡大している状態あるいは混乱したり欲望に満ちている状態こそが地獄や悪魔であるわけです。真理というものは比喩によって言い表されますから、天国というのは心の清らかな状態であって、地獄や悪魔というものは自我(エゴ)のことであるわけです。自我を抑えるために悪魔や地獄を説いて恐怖を与えるということが、当時のヴェネチアの傲慢な人々に対して行われ、ある程度はうまく行ったように思います。<br /> <br /> やり方は現代人には適しませんが、考え方としてはそれは今も変わらないわけです。<br /> <br /> キリスト教が悪魔や地獄を説いているのは心の状態を示す比喩であり、悪魔のような心、地獄のような心境・環境にいるのをやめて天使・天国のような清らかな心になりましょう、と説いていたわけです。すごく簡単なことです。<br /> <br /> しかし、聞く側としてはそれをどれだけ理解したのかは微妙なところで、多くは単に、キリスト教の大司教が人々に対して恐怖を与えている、と解釈されてしまったように思います。<br /> <br /> 欲望が人々の心に現れる時、それは悪魔がやってきているのだ、と説きます。悪魔に従っているとやがて自分も悪魔のようになり、地獄のような心境になり、死後も地獄の状態が続く、というのはそれは真実です。死んでしまったら肉体がありませんから死んだ時の心境がしばらくずっと続いてしまい、死んだ時に欲望まみれで不満だらけですと死後もかなりの長い間、そのような抑圧された心境で過ごすことになります。それは地獄と言って良いのではないでしょうか。<br /> <br /> 一方で、死ぬ時に晴れやかに死ねばその後も天国・天使のような心境で過ごすことができます。<br /> <br /> 言っていることはすごく簡単なことです。<br /> <br /> しかし、それはあまり人々に理解されず、欲望まみれの生活を送っていたヴェネチアの人々は理解するどころか「恐怖で我々を支配しようとするキリスト教(カトリック)」という判断を下したわけです。<br /> <br /> 今となっては色々と反省点はあります。<br /> <br /> 特に、世界中に悪魔・地獄の恐怖を広めたということはカルマとなって今の私にも繋がっていて、根深くて今すぐの解決は無理で時間がかかるようですけど、グループソウルが解決しようとしている長期的な課題の1つであるようです。<br /> <br /> ただ、悪影響もあれば良い面もあって、若い時に悪魔・地獄を教会で植え付けられたが故に自我が拡大せずに若い時期から謙虚に暮らすことができた、というレポートも多く上がっています。その場合、最初に恐怖を植え付けられたので悪魔・地獄がトラウマとして残ってしまいますけど、それがなかったことによって自我が拡大して自尊心や欲望にまみれた生活をするよりはずっと良く、トラウマがあることによって謙虚な生活を保てることができるというのは悪魔・地獄の良い面であると判断されています。悪魔・地獄のトラウマがあったからこそ謙虚な若い時代を過ごすことができたというわけです。<br /> <br /> これは私が判断しているというよりは、グループソウルの総意として、悪い面もあれば良い面もある、という両面が理解されているということです。<br /> <br /> 最初から神を見出して謙虚に生活するのが一番いいわけですけど、それができずに、悪魔・地獄のトラウマがなければ謙虚になることができない人々が多くいるが故に悪魔・地獄のトラウマが有効に働いているわけです。もちろんそれが不要な方もいらっしゃいますけど、今の世の中では必要な方の方が多く、現時点では悪魔・地獄のトラウマは有効なものであると判断されています。それは永久に必要なものではありませんが、現時点の判断はこのようなものであるということです。理想的には悪魔・地獄のトラウマなどなくとも最初から神を見出して生きるべきですが、補助輪としてのトラウマであるわけです。<br /> <br /> そして、ある程度の年齢まで育った時にそのトラウマが不要になった際にはトラウマを取り除くために何がしかのスピリチュアルを頼る、ということも多く行われているようです。<br /> <br /> 全体としては失敗だった悪魔・地獄の恐怖の説教であったとしても、一部ではこのように良い面が残されてうまく使われているようです。<br /> <br /> Wed, 11 Nov 2020 00:00:00 +0900 自分に対しては厳密、外に対しては大らかでいる https://w-jp.net/2020/2135/ <br /> 答えは全て自分の中にあるのですから、自分に対しては厳密でいて、外に対しては大らかでいれば良いわけです。<br /> <br /> 比喩的に言えば、自分に対してはB型、外に対してはO型でいればいいのです。<br /> <br /> 聖典を読んだりする場合でも同様で、聖典とは言えども外のものですからO型の大雑把な態度が真理の探求には役立つと思います。このあたりは流派によって諸説あって、聖典はきちんと理解しないといけないと言う流派もありますのでそのような教えに従っているのであればそれは個人の勝手ですから好きにすればいいのですが、私からしてみたらそれすらも外のものでありますので大雑把な態度で良いと考えています。<br /> <br /> あくまでも答えは自分の中にあって、外にあるものはその次であり、聖典の場合は「確かめ」のために使えますけど、聖典であろうと外のものであると思うわけです。<br /> <br /> 聖典の内容を自分の内に見出そうとする、と言うのはありです。それは最初のきっかけは外であろうとも答えは自らの内にあると言うことですから、そう言うのもありだと思います。そのために聖典を書き写したりして内容を自分の中に染み込ませるのも良いと思います。流派によっては書く瞑想だとか言ったりもしますし、経典を書写したりするのもこの範疇に入ると思います。その場合にしても、答えは自分の中にあるわけで、外にある経典はそのきっかけに過ぎないわけですね。<br /> <br /> であれば、聖典は大切なものでありますけどそれでも外のものですから、外のものであればわからないものはわからないという大らかな態度で経典には接するべきだと個人的には思っていて、理屈で理解したものは外の理解でしかなくて、自分で体験するまではそれはまだ外の知識でしかないわけですよね。<br /> <br /> 自分の中の感覚を大切にして、外のものである経典に対しては「そうかもしれない」という大らかな態度でいるのが良いと思うわけです。<br /> <br /> 経典はいろいろなことが書いてありますし、「体験」は人によって違いますから、部分的には参考にできても全部の体験が自分に起きるわけではありません。真理のお話なんてそんなものです。しかしながら大きな流れとしては大体は一致しているわけで、聖典に書かれてあることの全てが自分に同じように起きることはなく、だいたいの流れは一致しているだけですので、あくまでも自分の中の感覚を大切にして、外のものである聖典はあくまでも参考程度にしかならないわけですよね。<br /> <br /> 聖典を大切にすることはそれはもちろんで、聖典を蔑ろにするわけではありませんけど、あくまでも自分の中に答えがあるのですから自分の中が第一であって、外のものである聖典は確かめのための道具にしか過ぎないわけです。<br /> <br /> 聖典だけでなくグルの言葉も同様で、外の言葉であればそれほど気にする必要はなく、自分の中に答えを求める中での導きとしてのグルや聖典が存在するわけです。<br /> <br /> Wed, 11 Nov 2020 00:00:00 +0900 答えは全て自分の中にある https://w-jp.net/2020/2133/ <br /> ニューエイジ時代にスピリチュアルでよく言われたことですが、これは真実だと思います。<br /> <br /> ですから、理想を言うのであればそれを踏まえた上で多くの流派の良いとこ取りをするのが一番成長が早いと言えます。まず基本として答えは自分の中にあるのですから外にあるものは全て「確かめ」でしかなく、どんな流派のどんな高度な説明であっても基本は「外」の「ノイズ」に過ぎないと言えます。<br /> <br /> 真理を求めるのは完全なる自立した個人が行うべきであり、その完全なる個人が自らの中に答えを求めるのが理想であり、外にある聖典やグルなどはその自分が知り得たものを確かめるためのコンサルタントとして存在していると言えます。<br /> <br /> それを勘違いして、答えを外に求めてしまうと流派に拘ったり他の流派を批判したりしてしまいます。<br /> <br /> ヨーガや宗教の流派で「多くの流派をかじっても悟りには到達しない。1つの流派に従うべき」とか言われていますけど、「答えは全て自分の中にある」ということを踏まえたのならば本質は自分の中にあるのですから、何の流派をしていてどの流派でもあちこちかじっていたとしても大差ないと言えます。<br /> <br /> 人によって得手不得手があるように流派に向き不向きがありますから、自分にあった流派を探すのはいいと思いますが、理想をいうのならば、多くの流派をかじって良いところを組み合わせた方が成長が早いと思います。<br /> <br /> 実際は、ちょっと通っただけでは教えてはくれませんので、1つの流派に集中することになることが多いかとは思います。<br /> <br /> ですが、完全なる独立した個人が自らの中に答えを求める、というのが基本にあるべきなのです。<br /> <br /> 1つの流派に従うべきと言っているのは、目的地ではなく中継地であると心に留めるべきです。まだ自立していない子供に対して広い世界を見てこいと簡単に言う親がいないのと同様に、まだ本質を知らない子供に対しては1つの流派に従うべきと言うのは親心と言えるかもしれませんが、その流派は単なる経由地であり、やがて子供は大人になり羽ばたいてゆくものです。羽ばたいて行けるようにするのが流派の役割であると言えます。<br /> <br /> 時に人は「多くの流派を彷徨っても悟りには到達しない」と言います。それは答えを外に求めている人のお話で、自らの内にあると知っていて自らの中を探求しているのならば流派は大差ないわけです。<br /> <br /> 答えを外に求めている、あるいは、内に求めてはいるもものまだ見つかっていない人だけが流派にこだわり、流派の差を気にするわけです。<br /> <br /> 答えが自らの中に見つかったとしても、成長するにおいてそれを説明してくれる人が自分の属する流派にいないかもしれません。だとしたら、他の流派のグルを頼ることに何の躊躇があると言うのでしょうか。<br /> <br /> 他派の説明を聞いて、何やら前提条件が違ったとして混乱するかもしれません。その混乱に何の罪があると言うのでしょうか。<br /> <br /> 闇雲に1つの流派だけを信じていれば悟りに至ると思い描くことこそ混迷の原因であり、答えが自らの中にあるのだとすれば、その説明として外にあるものを何でも利用すると言うのが真理を探求する人の本来の姿なのではないでしょうか。<br /> <br /> 流派に属する人は、やもして多くの流派を勉強する人を「多くをかじっている」と言って批判します。<br /> <br /> 確かに、答えを外に求めている人が多くの流派を勉強していたらその批判は正しく、「1つの流派に集中すべき」と言えます。その意味においては批判は正しいと言えます。<br /> <br /> しかしながら、理想はと言うと答えは自らの中にあるのですから、自らの中を探求している完全なる独立した個人がたまたま1つの流派に属しているとして、その流派の中に自分の見つけた答えに対応するものが見つからないとすれば、他派を見たところで全く問題ないと言えます。<br /> <br /> 本意は「外を探してばかりいないで自分の中を探しましょう」と言うところに帰着するのであれば、1つの流派だろうが多くの流派だろうが理想的には大差ないと言えます。<br /> <br /> とは言いましても、属する先として1つはあった方が落ち着きますし実際的な活動もしやすいのも確かです。<br /> <br /> ですから、現実解としては1つの流派に一応は属しておいて、心の中では「私は完全なる独立した個人である」として、広く多くの流派に対してオープンでいることが大切であると言えます。<br /> <br /> Sun, 08 Nov 2020 00:00:00 +0900 天のコスミック・エネルギーで上半身が満たされた静寂の境地 https://w-jp.net/2020/2132/ <br /> 静寂の境地はまだ悟りではありませんがその重要な前兆の1つだと思います。<br /> <br /> 天のエネルギーが上半身、特に喉のヴィシュッダより上に満たされて、喉より上のタマスがヴィシュッダに吸い込まれて喉より上が清浄な状態になり、意識が静寂に満たされた状態になります。<br /> <br /> この時、下半身の状態は様々でまだタマスが残っているかもしれませんけど意識に大きな影響は与えず、意識は静寂の境地を保てています。<br /> <br /> この後のステップとしては下半身も天のコスミックエネルギーで満たしてゆくわけですが、そこまで行かないまでも意識の状態としては静寂になっております。<br /> <br /> 静寂の境地というとまるで涅槃か悟りかのように聞こえてしまうかもしれませんが、確かに悟りの性質の1つではあると思いますがそれだけでは悟りとは言えないように思います。<br /> <br /> このあたりは流派がいくつもあって、涅槃を悟りとしている流派もあると思いますし、静寂の境地が涅槃としている流派、あるいはもっと先の状態を涅槃としている流派がありますのでそれはその流派の言い方に従えばいいと思います。その流派の言い方をすれば涅槃が悟りとも言えるでしょう。しかし、私の感覚としてはこの静寂の境地としての涅槃はまだ悟りとは思えません。<br /> <br /> このあたりは、何を求めるかによってゴールが違うのでしょうね。<br /> <br /> 私は、自らのスピリットが宇宙意識と一体になって意識が時空を超え、過去も未来も一体のものであると感じられるようになった状態こそが悟りだと思っておりますので、意識が静寂の境地になって流派によってはそれを涅槃と読んだとしてもまだ悟りとは思わないのです。<br /> <br /> [2020/12/30 更新] 元々「涅槃」と書いていたところを「静寂の境地」に置き換え、文脈を見直しました。<br /> <br /> Sun, 08 Nov 2020 00:00:00 +0900 天のクンダリーニを体に満たす瞑想 https://w-jp.net/2020/2131/ <br /> 表現としては古来から色々と言われていますけど、以下は全て同じことであると解釈しました。<br /> <br /> ・白隠禅師の軟酥(なんそ)の法<br /> ・スピリチュアルの天のエネルギー。天のエネルギーを体に満たす。<br /> ・プレアデスのワークの第二ステップ、ハイアーセルフ・コスミック・クンダリーニを体に満たす。<br /> ・キリスト教のキリスト意識、あるいは天使として象徴されるエネルギーを感じること。<br /> ・クリヤ・ヨガの手法(特に第一段階)<br /> <br /> 軟酥の法は、頭の上に光の卵のようなものを想像してそこから光が水のように落ちてくるのでそれを身体中に巡らせてくすんだオーラを洗い流す方法で、白隠禅師は特にクンダリーニ症候群を治すためにこれを行なったとされます。<br /> <br /> 実質的に同じことが、各種の流派によって別々の言い方をされているのだと思います。<br /> <br /> 基本的には全ていわゆるクンダリーニが動き出してから行うもので、それ以前ではあまり効果がなくて単なる想像に過ぎないものになってしまのかなと思います。<br /> <br /> ■3つのクンダリーニ<br /> <br /> 世間ではクンダリーニは1つですけど、プレアデスのドルフィン・スター・テンプルと言う流派では3つのクンダリーニとして解釈されているようです。<br /> <br /> ・あなた自身のボディ・クンダリーニ(多くのスピリチュアルな道において一般的に教えられ実際に使われているクンダリーニ)<br /> ・ハイアーセルフ・コスミック・クンダリーニ<br /> ・アース・クンダリーニ<br /> 「プレアデス 神聖なる流れに還る(アモラ・クァン・イン著)」より<br /> <br /> 同書によれば、ハイアーセルフ・コスミック・クンダリーニはクラウンチャクラ(サハスララ・チャクラ)から取り込み、アース・クンダリーニは足あるいは会陰から吸い込むようです。まずコスミック・クンダリーニをいわゆるスシュムナを通してベースチャクラ(ムーラダーラチャクラ)である会陰にまで降ろし、それからアース・クンダリーニを活性化させるようです。<br /> <br /> 私の場合、特にこれだと意識していたわけではありませんが、最近の瞑想においては以下のようなステップが相当しているように思います。<br /> <br /> ・頭のタマスがヴィシュッダに吸い込まれていって意識がクリアになり静寂な意識に至る。これはコスミック・クンダリーニが天のサハスララチャクラから入ってきている段階に相当。<br /> ・クリアな意識がヴィシュッダより上に満たされる。これはコスミック・クンダリーニがヴィシュッダより上に満たされる段階に相当。<br /> ・最近は、そのクリアな意識が完全ではないもののお腹や腰および足の方にまで少しずつ行き届くようになってきています。これは、コスミック・クンダリーニが会陰にまで到達しつつあると解釈できます。<br /> <br /> アース・クンダリーニがどのようなものかはまだいまいちピンときませんが、これからの段階で何かがあるのかもしれません。今の段階では、ひとまずムーラダーラや手足の先にまで天のクリアな意識を行き渡らせて安定させることが重要なかなと思います。<br /> <br /> 私の場合はアース・クンダリーニを探そうとするとボディ・クンダリーニとアース・クンダリーニの区別がつかなくなってボディ・クンダリーニが活性化してしまって天のコスミック・クンダリーニが弱まってしまうので、おそらくはアース・クンダリーニの実体がまだ掴めていないのかなと思います。<br /> <br /> ■白隠禅師のクンダリーニ症候群<br /> 私の解釈では、ボディ・クンダリーニが活性化したもののまだハイアーセルフ・コスミック・クンダリーニが十分に動いていない状態のことをクンダリーニ症候群と呼ぶのかなと思います。確かにその状態では不安定な気が致します。であればそれは病気でもなんでもなく、成長の一過程に過ぎないのだと思いますが、適切なグルがいないとそれを解釈するのが難しく、周囲に誤解を与えてしまったりするのでしょう。<br /> <br /> クンダリーニの手法はグルがいる元で行うべきで、一人で行うべきではありません。<br /> <br /> 同書にあるコスミック・クンダリーニの手法も、少なくとも3ヶ月はスシュムナにクンダリーニを流してからでないと行なってはいけないと書かれてあります。このような手法は時間をかける必要があるのだと思います。<br /> <br /> 私の場合は人間のグルはいるようないないような、と言う感じでこんなところまで教えてはくれませんけど、守護霊の1人が元チベットの修行僧で今は天使と共に働いているマスターなのでこの辺りは適切に導いてくれます。<br /> <br /> Sat, 07 Nov 2020 00:00:00 +0900 天の光のエネルギーを喉を通ってお腹まで下ろす https://w-jp.net/2020/2130/ <br /> 天の光のエネルギーが不足している時にタマスな愚鈍な状態になります。瞑想をして天のエネルギーが充実すると頭のタマスが喉のヴィシュッダに吸い込まれて清浄な静寂の境地に達します。<br /> <br /> 感覚的には、胸のアナハタまで天の光のエネルギーが来ると清浄な静寂の境地になる気が致します。<br /> <br /> それで割と十分なのですが、最近は更にお腹や腰および足の方にまでなるべく天の光のエネルギーを届かせるように意識しています。<br /> <br /> 光のエネルギーが届くとその部分の緊張が抜けてゆき、リラックスできます。<br /> <br /> これは、白隠禅師の軟酥(なんそ)の法に似ているような気が致します。もしかしたら同じことなのかもしれませんね。今までも同じようなことができていた気がしておりましたが、今思えば、今まではかなり天のエネルギーが弱くて、最近の状態こそが本当の軟酥の法かなと言う気が致します。<br /> <br /> プレアデスのワークの本を見るとこれには3段階あって、最初は肉体のクンダリーニを上げる段階、次は天のエネルギーを下ろす段階、次は地のエネルギーを胸まで上げる段階とあります。この内容がしっくり来ます。詳しい内容は機会があればその時にでも。<br /> <br /> Fri, 06 Nov 2020 00:00:00 +0900 <link>https://w-jp.net/2020/2129/</link> <description><br /> </description> <pubDate>Fri, 06 Nov 2020 00:00:00 +0900</pubDate> </item> <item> <title/> <link>https://w-jp.net/2020/2128/</link> <description><br /> </description> <pubDate>Fri, 06 Nov 2020 00:00:00 +0900</pubDate> </item> <item> <title/> <link>https://w-jp.net/2020/2127/</link> <description><br /> </description> <pubDate>Fri, 06 Nov 2020 00:00:00 +0900</pubDate> </item> <item> <title>地球の守護天使はルシファー? https://w-jp.net/2020/2124/ <br /> 本当のことかどうかはわかりません。瞑想で見たお話です。<br /> <br /> ルシファーは誤解されていますが、その誤解故に時折ミカエルの名前を使って地上に関与しています。しかしミカエルの実態はルシファーです。<br /> <br /> 天使界に別のミカエルが存在しておりましたがそれは遠い宇宙の天使界の惑星でのお話で、ここは地球ですから今はどこぞ知れぬ感じで、ルシファーがその名前を借りた、ということのようです。<br /> <br /> 以前少しお話をした天使界の物語において、ミカエルと言っていたのは実はルシファーで、ルシファーと戦った相手の名前が実はミカエルで、その名前をルシファーが地球で活動するときに拝借している、ということが真相のようです。<br /> <br /> ルシファーというと悪の化身で悪魔になったように言われていますけど、天使界の物語でもお話ししたように、戦いが望まれずして起こってしまったが故に、相手を打ち負かすことをしたくなかったルシファーが剣を収めて一旦負けることにした、ということが真相のようです。その時の敵方の王様や天使たちも何人かは地球に今も関与しています。<br /> <br /> 遠い宇宙の惑星での出来事ですが、これらの騒動が起こった前後からルシファーは地球に興味を持っており、進化を見守っていたようです。<br /> <br /> 天使は時空を超えられますから、ルシファーは遥か以前、地球上で人間が進化し始める頃からずっと関与していて、最近も「大師」「グル」「ビジネスマン」「起業家」など多彩な化身(アバター)になって地球に関与しています。<br /> <br /> ですから、ルシファーだからと言って怖がる必要はなく、今までそのイメージ故にミカエルと名乗っていただけで、ミカエルの実態はルシファーなわけです。<br /> <br /> ごく最近も、20世期後半に太陽の大爆発で有害な物質が地球に降り注ぐことがあって、シリウス星系の方々が尽力してスタートレックの物語みたいに人知れず地球を守ってくれたことがありましたけど、シリウス星系の方々は奇跡的にうまくいったみたいに思ったみたいですけど実際はルシファーが時空を超えてうまくいくようにシリウス星系の方々のプロジェクトを陰ながら支援していた故に完璧なほどうまく行き、それ故に地球の生命は救われた、ということもあったようです。それは、わずか数秒かそれ以下の時間の間に有害な物質が地球に降り注いで一瞬で地球上の生命体のほとんど全てが全滅する事態だったようです。<br /> <br /> 地球に関与している宇宙人は多数いますけど、大天使ルシファーほど長期間にわたって陰ながら地球を支えてきた存在は他にないと言えます。時間と言っても天使は時空を超えられますから長期間にわたって地球を時空を超えて俯瞰できるということであり、地球の人類の感覚の時間とは異なりますが、地球の人類からしてみたら遥か以前、有史以前から現代、未来に至るまで見守ってくれている存在であると言えます。地球の人からしたら未来ですが、天使からしたら全て同じ時空に存在していますので、全てを包み込んで見守ってくれている存在、ということです。<br /> <br /> この地球の時空においては衛星軌道上にルシファーはいて、地球を見下ろしています。その周辺に支援の天使や地球で修行を積んだ魂たちがその活動をサポートしています。<br /> <br /> 時折、それに気がついた宇宙人が訪問してくることもありますし、全く気づいていない宇宙人もいます。<br /> <br /> ルシファーの活動は広範囲に及びますので、地球の人からしたら理解不能なこともあります。<br /> <br /> 地球の人が「救済」や「布教」と呼ぶ活動から、あるいは陰謀論によって語られるような秘密結社、政治、国王、君主、あるいは科学技術、芸術、音楽に至るまでかなりの分野にわたってミカエルの化身(アバター)は関与しています。<br /> <br /> ある意味、この地球はルシファーの手のひらで踊っている、とも言えなくもありません。<br /> <br /> しかしルシファーは地球の人々を奴隷にしようとは思っておらず、基本的な地球人の自由意志を尊重しております。<br /> <br /> これは宇宙の法則で、スタートレックによっても語られているように、これはSFではなく現実のお話ですが、惑星上の生命は自由意志が尊重されるという宇宙の基本ルールがあって、ルシファーであろうともそれに従っているということです。<br /> <br /> 基本的にはルシファーは衛星軌道上に浮かんでおり、それは天使ですから人の形をしておりますが宇宙服など不要で、普通に服を着た姿で存在しています。そこから指示を出して地球をより良き方向に導いているわけです。ただしそれはあくまでもルシファーの自由意志において判断していることです。地球の方向性はルシファーの意図を大いに汲んだものであると言えます。<br /> <br /> それに対して、地球生まれの魂たちがいて、時にそれらの意図に反抗したりして、時折、それは成功したりします。そこは無理やり押さえつけることはしないのが惑星上の生命の自由意志を尊重するということです。武力介入や強制的な介入はせずに自由意志を尊重するが故の緩やかな介入方法であるわけです。<br /> <br /> この世に陰謀と言えなくもないものは2つあって、1つは人による陰謀、もう1つは神による陰謀です。前者は浅はかで現生利益的なものですが、後者は大いなる意図を持ったものです。世の中に陰謀論とか言われていますけど、この2つがごっちゃになっているような気が致します。世間を騒がせている陰謀のうちいくつかは前者のタイプで、いくつかは後者のタイプです。<br /> <br /> 前者は好ましくはないとは思いますが惑星にいる生命の自由意志は尊重しなくてはなりません。一方、後者は基本的には長期的に好ましい方向に導くものです。ただし、後者であっても時に前者や大衆の意思に逆らっているように見えることもあります。これらは、実際にその意思決定に関わった意識体でないとその本来の意図は見通せないもので、世間を騒がせているような陰謀論の論説は混乱を来すことによる悪影響が多く、少なくともまずこの2つに分けないと意味がわからないものかなと思います。<br /> <br /> いきなり理解するのは難しいかもしれませんが、古来からミカエルとして知られてきた大天使の意図を汲み取ることから始めてもいいかもしれません。そしてその意図が理解できてきたら、実はそれはルシファーだった、と言われても納得できるのかもしれませんけど、おそらくは、いきなりルシファーが地球の守護神だと言われても困惑することの方が多いのではないでしょうか。<br /> <br /> とは言いましても、ここに書いたところで大して人は見ていないでしょうから、記録のために残しておきます。<br /> <br /> <br /> 追記 [2020/11/28]<br /> その後、スピリチュアルカウンセリングで裏を取ろうとしましたが、ここに書いてある内容とはちょっと違っていました。<br /> ですので、今後の検証が必要な事項になります。<br /> <br /> Tue, 03 Nov 2020 00:00:00 +0900 スピリチュアル: バガヴァッド・ギーター https://w-jp.net/topics/スピリチュアル: バガヴァッド・ギーター/ スピリチュアル: バガヴァッド・ギーター ヨガの道は神の実現への独立した手段でもあり知識の道の補助にもなり得る https://w-jp.net/2021/2414/ <br /> <ギーター解説書の続きを読んでいきます。><br /> <br /> 次の質問は、「ヨガの道は神の実現への独立した手段ですか、それとも知識の道の補助として神の実現に貢献しますか?」です。この質問に対する私たちの回答は、ギーターがこれらの両方の見解に同意しているということです。言い換えれば、ギーターは、ヨガの道を、神の実現または解放への独立した手段でもあり、又、知識の道の補助でもありますから、両方であると考えています。努力者がそう望むなら、彼は学問知識の助けなしに、カルマヨーガの実践を通して直接最高の完成度を達成することができます。または、カルマヨーガを通して知識の道へのアクセスを得て、彼は知識の道を踏むことによって神を実現することができます。彼が採用すべき2つのコースのどちらかは、彼の好みまたは素因によって異なります。ヨガの道が独立した手段であるということは、V.4と5、そしてXIII.24で主によって明確に確認されています。神のみのために働き、神に心を留め、神の恵みによって神を悟る者は、いくつかの場所で主によって宣言されています(VIII.7; XI.54、55; XII.6-8)<br /> <br /> 無関心な行動と崇拝の両方が、知識の道の補助としての役割を果たすこともできます(V.6; XIV.26)。 しかし、ニャーナヨーガ(Jñānayoga, 知識のヨーガ)は崇拝者が神を自分自身と見なす崇拝の形態を特徴としているため、知識の道はバクティヨーガ(献身のヨーガ)あるいはヨガの道を補助することはできません。と言いますのも、それらの道では崇拝者が神を彼とは異なるものと見なすからです。知識の道の信者が後で彼の傾向や意見が変わったことに気づき、知識の道をあきらめてヨガの道に行き、そしてヨガの道を通して神を実現するならば、それは全く別のことです。<br /> <br /> Tue, 13 Jul 2021 00:00:00 +0900 2つの神のための行動 https://w-jp.net/2021/2413/ <br /> <ギーター解説書の続きを読んでいきます。><br /> <br /> 「神のための行動」も2種類あります。<br /> <br /> 経典によって課せられた義務。それは神の願いに従って、神の実現または神の愛の達成を目的として、あるいは神の喜びのために、そしてあるいは主のイメージなどに崇拝を捧げることを目的として行われる。もう1つの崇拝の形は礼拝と瞑想です。それは神のみのために行われ、見た目からも神と関係がありますが、どちらも「神のための行為」に含まれています。 これらのタイプの行動は両方とも、ギーターでは「マトカルマ(Matkarma)」と「マダルサ-カルマ(Madartha-Karma)」という用語で呼ばれています(XI.55; XII.10)。<br /> <br /> 排他的な献身として語られてきたもの (VIII.14, 22; IX.13, 14, 22, 30, 34; X.9; XIII.10; XIV.26) は、「Bhagavadarpaņa」(神に捧げられた行動)と「Bhagavadartha」(神のための行動)という言葉で表される2種類の行動にも含まれています。 これらすべての果実である神の実現は同じです。<br /> <br /> <br /> Tue, 13 Jul 2021 00:00:00 +0900 3種類のカルマヨーガヨガ https://w-jp.net/2021/2412/ <br /> <ギーター解説書の続きを読んでいきます。><br /> <br /> 知識の分野が上記のように4つのタイプに分けられたましたが、 それでも、ヨガの分野は主要な3つに分類されるかもしれません:–<br /> (1)行動に特に重点を置いたカルマヨーガ。<br /> (2)献身とブレンドされたカルマヨーガ。<br /> (3)献身に支配されたカルマヨーガ。<br /> <br /> (1)行動に特に重点を置いたカルマ・ヨーガは、社会の学年と舞台生活を十分に考慮して経典に定められた義務を遂行することであり、すべての行動と世俗的な物に対する果物と愛着への欲求を完全に放棄します。このタイプのカルマヨーガに関する教えの中で、主はいくつかの場所で果物だけの放棄を主張しました(V.12; VI.1; XII.11; XVIII.11);他の場所では、彼は愛着の放棄だけに重点を置いています(III.19; VI.4)。さらに他の場所では、彼は果物の放棄と愛着の放棄を要求しました(I.47、48; XVII.6、9)。果物の放棄だけに重点が置かれている場合、愛着の放棄も同じものでカバーされていると見なされるべきです。愛着の放棄だけが主張されてきた文脈では、果物の放棄もその中で暗示されているようにとらえるべきです。規律ある行動は、果物と愛着の両方が放棄されたときにのみ実際に実現することができます。<br /> <br /> (2)献身と融合したカルマヨーガ:この分野では、努力者は、神を全宇宙に存在すると見なして、彼のヴァルナ(社会の学年)に適した職務の遂行を通じて神を崇拝するように求められました(XVIII.46)<br /> <br /> (3)献身が支配的なカルマヨーガ:それはさらに次のように分けられます:–<br /> (a)神への行動の提供<br /> (b)神のための行動。<br /> <br /> 神への行動の提供も2つの方法で実践されます。 「完全な降伏」として知られているものでは、努力者はすべての行動に関して、私があるという感覚、愛着、そして果物への欲求を放棄します。 彼は、すべてが神のものであり、彼も神のものであり、彼によって行われるすべての行為も神であり、興行師が彼の人形によって物事を成し遂げるときに彼によってすべてを成し遂げているのは神であると信じています。 そして、この信念をもって、彼は彼の願いに従って、そして彼の喜びだけのために、聖典(Sāstras)で規定された義務を果たします(III.30; XII.6; XVIII.57,66)<br /> <br /> これに加えて、最初に神以外の他の動機で行われた行為は、後の段階で神に提供されるかもしれません。 活動の過程でも、あるいは、実行の途中でさえも提供される場合があります。 完了した後すぐに提供される場合もあります。 またはその果実だけが提供されるかもしれません。 これらはすべて、初期段階に過ぎませんが、神に自分の行動を提供する非常に多くの形です。 上記の「完全な降伏」の段階に最終的に到達するのは、これらの予備段階の継続的な実践を通じてです。<br /> <br /> <br /> <br /> Tue, 13 Jul 2021 00:00:00 +0900 求道者(サダカ)の自己実現 https://w-jp.net/2021/2411/ <br /> <ギーター解説書の続きを読んでいきます。><br /> <br /> 求道者(サダカ)が上記の精神状態を達成できるようにするために、主はさまざまな手段や複数の場所で自己(Self=ブラフマン)が見る者であり鑑賞者であり意識そのものであり永遠であるという真実をサダカの心に教え込まれました。客観的に見える身体などのすべての物質の存在(現れるすべて)は一時的であり、したがって現実ではありません。自己(Self)だけが本物です。この見方を支持するために、主は第2章の11節から30節を、永遠の、純粋な、目覚めた、形のない、変化のない、行動のない、超越的な自己に関する議論に捧げます。神を自分自身と見なす求道者(サダカ)は、魂がこれらの特徴を持っていると見なして精神的な自己鍛錬(サダナ)を進めた場合にのみ、自己実現を達成します。どんな行動・活動が起こってもグナの遊びに他なりません。自己はそれらの行動・活動とは何の関係もありません(V.8、9; XIV.19)- 自己それ自体は何もしませんし、何かを起こすようなこともありません。これの気付きを得て認識することで、求道者たちは絶えず永遠に自分自身の中で最高の喜びを感じます(V.13)。<br /> <br /> 上記のニャーナヨーガの4つの慣習のうち、最初の2つはブラフマンの崇拝に関連しており、3番目と4番目は崇拝者が神を自分自身と見なす崇拝の形態と結びついています。 ここで疑問が生じます:上記の4つの実践は、抽象的な瞑想の終わりに、または瞑想自体の間に実行されるべきですか? または、両方の状態に関連がありますか? この質問に対する私たちの回答は、上記のセクション(4)の終わりに描かれた、V.9に示されている行に進むプロセスのみが、世界に対処しながら実践されるべきであるということです。 一方、セクション(2)の冒頭で与えられ、第V章の17節に従って実践されなければならないことは、瞑想の間だけ続けられるべきです。 残りは通常、両方の側面で実施できます。<br /> <br /> これに関連して、ギーターからの以下の抜粋が私たちの特別な注意を引き付けます。<br /> (1)वासुदेवःसर्वमिति-現れるものは何でも神と同じです(VII.19)<br /> (2)सर्वभूतस्थितंयोमांभजत्येकत्वमास 確固として確立された人は、'私'を人々の自己(Self)としてすべての存在に住んでいるものとして崇拝します」(VI.31)。ここで質問する人がいるかもしれません:上記のセクション(1)で説明したプロセスに関連してこれらが言及されていないのはなぜですか? この質問に対する私たちの答えは、これらの聖句は両方ともバクティの文脈で発生し、両方とも神が実現した魂に関連しているということです。 したがって、それらは最初の実践に関連して言及されていません。 しかし、だれかがこれらの聖句を知識の道に関係しているものとして扱い、それに従って実践を続けたいと願うなら、それに異議を唱えることはできません。<br /> <br /> <br /> Tue, 13 Jul 2021 00:00:00 +0900 全てのものはブラフマンであるという原則 https://w-jp.net/2021/2410/ <br /> <ギーター解説書の続きを読んでいきます。><br /> <br /> 原則は、次のように詳しく説明することができます。<br /> (1) この世界に現れる生物や無生物のもの全てはブラフマンです。それは、 確実なる真理、意識、至福である神と何ら変わりはありません。 私たちが実行する行動が何であれ、その行動の手段と道具、そして実行者自身など、そのすべてがブラフマンです(IV.24)。 海に浮かぶ氷の塊が内側も外側のどちらもそれぞれ水と水だけで浸透しており、塊自体が水に他ならないのと同じように、すべての生物と無生物の内側と外側の両方がそれぞれ神と神だけであり、神によって存在し、神のみが存在し、神がそれらすべての存在の形で存在するのです(XIII.15)。<br /> <br /> (2) すべての驚異的な存在を幻想的で瞬間的でやがては消え去るものとして否定し、それらすべての基盤、つまり神だけが存在し、神以外には何も存在しないことを認識し、精神と知性さえもブラフマンに統合されるべきです。 したがって、神との同一性を確立するために、求道者(サダカ)は直接の実現(気付き)を通して神と一体になるべきです(V.17)。<br /> <br /> (3) 生物と無生物の創造物全体がブラフマンであり、そのブラフマンは私自身です。 したがって、すべては私自身です。 この考え方に従って、求道者(サーダカ)はすべての生物と無生物を自分自身と見なす必要があります。 上記の実践を続ける求道者(サーダカ)の目には、ブラフマン以外に何も残っていません。 ブラフマンは彼の内にある確実なる知識と至福と同じものであることを識別することで彼は喜びに満ち溢れます。(V.24; VI.27; XVIII.54)。<br /> <br /> (4) 全ての現象的な存在およびそれから生じる活動の全ては永遠ではなく、滅するものであり変わりゆく幻想であり、また、3つのグナの産物であると見なし、本当の「私」とは離れたものであると見なし、それら全てを完全に否定しつつ、「私(Self=ブラフマン)」のみが本当に存在している唯一のものであると識別すべきです (XIII.2、34)。<br /> <br /> <br /> <br /> Mon, 12 Jul 2021 00:00:00 +0900 知識の道にある4つの原則 https://w-jp.net/2021/2409/ <br /> <ギーター解説書の続きを読んでいきます。><br /> <br /> 実際に知識の道を歩むために、主はいくつかのプロセスを提案しました。そのすべてにおいて、真実であるところの神の実現、確実なる意識と至福を得るという成果は同じです。 多くの副次的な種類がありますが、知識のヨガは、4つの主要な種類に分けることができます。 それらは、以下の原則によって表されることがあります。<br /> <br /> (1) 全てのものはブラフマンであり、存在するのはブラフマンだけです。<br /> (2) すべての現象的な存在は幻想です。 実際、真実、意識、至福であるブラフマン以外には何も存在しません。 <br /> (3) 現れるもの全ては私自身です – それは私です。 <br /> (4) 現れる全てのものは幻想的で一時的なものであり、実際の存在ではありません。 私である、永遠の意識のある自己だけが存在します。 <br /> <br /> これらの中で、最初の2つはヴェーダの公式 'Tattvamasi' (Thou art That)の Tat (That) を参照しています。最後の2つは同文の Tvam (Thou) を参照しています。<br /> <br /> <br /> <br /> Mon, 12 Jul 2021 00:00:00 +0900 2つの道の本質的な特徴 https://w-jp.net/2021/2408/ <br /> <久々ぶりに、ギーター解説書の続きを読んでいきます。><br /> <br /> (1)すべての物体は、蜃気楼で見られる水、あるいは夢の世界のように幻想的または非現実的です。心、感覚、および体から生じるすべての行動は、マーヤー(自然)から生まれたグナの動きに他なりません。感覚などの形で、さまざまな感覚の対象の形でグナの中に生じます。 これを理解することで、知識の道の信者はもはやそれらの行動の実行権を主張しません(V.8-9)。 そして、真実であり意識と至福でありすべてに浸透している至高の精神または神とのアイデンティティを常に確立したままで、彼は神以外のものの存在を認識することをやめます(XIII.30)。 これが知識の道、またはサーンキャニシュター(Sānkhyanişthā)と呼ばれるものです。 ニャーナヨーガ(Jñānayoga)またはカルマサンキャーサ(Karmasannyāsa)とも呼ばれます。<br /> <br /> (2)一方、ヨガの道の信者は、すべてを神のものと見なします。 彼は成功と失敗の準備ができており、愛着と実の欲望を放棄し、神の願いに従ってすべての行動を実行します(II.47-51)。 または、思考、言葉、行動において神に身を任せ、信仰と敬意を持って、彼の名前、美徳、栄光とともに、神の形について絶えず瞑想を実践します(VI.47)。 これがヨガの道を構成します。 サマトヴァヨガ(Samatvayoga)やブッディヨガ(Buddhiyoga)など、他のさまざまな名前で指定されているのはこの道です。 <br /> つまり、平静のヨガ「タダルサカルマ(Tadartha Karma)」または「マダルサカルマ(Madartha Karma)」、すなわち神のために働くこと。Sāttvika Tyāga(Sāttvikaの種類の放棄)。<br /> <br /> ヨガの道では、バクティまたは献身は、一般的な方法、あるいは、規則の原則として役割を果たします。 ギーターで発表されたヨガの道は常に献身から離れていません。 献身の神(II.47-51)につ