スピリチュアル: 瞑想録 https://w-jp.net/topics/スピリチュアル: 瞑想録/ スピリチュアル: 瞑想録 真我(アートマン)の手足が5つの神通 https://w-jp.net/2020/2116/ <br /> 神通は5つとも6つとも言われていますけど、基本となる五神通が真我(アートマン、スピリット)の手足だと言います。<br /> <br /> これは今日の瞑想の中で教えられました。<br /> <br /> 確かに、そう思ってみれば当然であるように思われます。この神通を顕在意識の自我から見れば神通ですが、アートマンからしてみればそれは単なる手足なわけです。<br /> <br /> 手足ですから見る能力や歩く(移動)する能力、聞く能力があって当然なわけです。<br /> <br /> 天眼通は千里眼の能力で目ですし、他心通や天耳通は耳、神足通は足、宿命通も目ですね。六神通に入っている漏尽通はアートマンの手足とは違った感じですので、六神通というよりは五神通がアートマンの手足だというのがしっくりきます。<br /> <br /> ・天眼通、宿命通 目<br /> ・他心通、天耳通 耳<br /> ・神足通 足<br /> <br /> これは、神通が何やら神がかったものではなく、単にアートマンが動き出したことによる、別の言い方をするのならばアートマンが現れたことによるその手足の働きが五神通であると言えるわけです。<br /> <br /> 人間の顕在意識からすれば不思議な力に見えますが、観察状態が進んでアートマンが主に切り替わった状態に働く手足のことであるとすればなんてことはない、普通のことのようにも思えてきます。<br /> <br /> 普通の人はアートマンが動いていなくて顕在意識の欲望や反応で生きているわけですからアートマンの手足である五神通が動いていなくても当然であるようにも思います。<br /> <br /> 五神通の分類は流派によって色々のようですけど、アートマンの手足と考えると嗅覚と触覚がないので五感には1対1には対応してはいませんのでちょっと中途半端ですかね。<br /> <br /> いわゆる幽体になっても皮膚のような感覚はありますので、その感覚があってもよさそうなものですけどね。嗅覚に関しては、波動の感覚を匂いとして感じることもありますのでそれもアートマンの手足といいますかアートマンの五感として考えても良さそうな気が致します。<br /> <br /> そう考えますと、五神通は何も特別なものではなく、アートマン、いわゆる真我あるいは霊体・幽体の働きであると言えます。それを日常生活を送りながらも活用できるようになる、というところが五神通の実際なのではないかと思います。<br /> <br /> そのために、基本は瞑想をして意識を鎮めて静寂な境地に至ることでアートマンが出現してくるわけですが、一部の流派で能力だけを目的にしていると秘密の技法などで一時的に意識を鎮めてアートマンを働かせる、というようなこともできるように思います。<br /> <br /> ヨーガなどの聖典で言われていることですが、神通(シッディ)を得るためにはいくつかの方法があって、基本は瞑想ですけど欲望や雑念を持ったままシッディを得ることも一応はできて、例えば薬物・マントラ・苦行によっても得ることができると記されていますが、シッディを修行の目的にしてはならないとヨーガでは説きます。であれば手段は瞑想しかないわけです。<br /> <br /> シッディを目的にしてしまうとシッディを得るために薬物・マントラ・苦行で一時的に顕在意識を麻痺状態にしてアートマンを働かせる、ということになるかと思います。そして、そのような人はアートマンを働かせた後にしばらくすると元の欲望・雑念の世界へと戻ってゆくわけです。<br /> <br /> 一方で、瞑想でサマーディに達した人は意識が平らで静寂の意識に生きていて、多少は雑念や欲望も持ちますけど静寂な意識に立ち返る力がかなり強くなっていて、その状態ではアートマンが働きやすくなっていますからアートマンの手足である五神通を動かすのも自由自在なわけです。そして、手足ですから動かすも動かさないも自由で、シッディのように見えるかもしれませんけど、もはやそれは大した事柄ではなくなるわけです。<br /> <br /> Sun, 01 Nov 2020 00:00:00 +0900 前世でのパートナーや仲の良い友人が孫として生まれる https://w-jp.net/2020/2115/ <br /> 特に女性の場合、前世での妻としての生活が楽しかったので親族としてまた生まれてくる場合があります。また妻になりたい場合はそのように生まれる前にアピールしてくる場合もありますし、子供の場合は割と自由気ままに自分から動いて生まれてくる場合もあります。<br /> <br /> チャンスがあればそれを逃さず行動する人がそのポジションをゲットするわけです。そんなにきちんとは管理されていない気がします。割と自由です。<br /> <br /> そのように、前世でのパートナーが子供あるいは孫として生まれてきた場合、それはそれは可愛いでしょう。そりゃそうでしょう・・・。かわいすぎて困ってしまうくらい可愛いと思います。<br /> <br /> 一方で、他人がなんとなく生まれた場合はそこまでではなくて、ぼちぼち可愛い、という感じだと思います。<br /> <br /> よく、孫は目に入れても痛くないくらい可愛い、みたいなことを言いますけど、実際は人それぞれだと思います。<br /> <br /> 一定以上かわいければいいですけど、残念ながら、それほどでもない、という場合もあると思います。それは「付き纏われている」というパターンですね。どっかに行って欲しいのにつきまとわるタイプが子供あるいは孫として生まれるパターンはそのパターンを卒業しない限りは続きます。勉強のために親族になる、というパターンですね。<br /> <br /> 実際はそれらの混合もあったりして、そこそこ可愛いのだけれども、それに加えて、どこか憎たらしい気持ちも混ざっている、というような組み合わせの複雑な気持ちもそれなりに多いように思います。例えば、ぼちぼち可愛いのだけれどもどこかにくたらしくて、お金ばかり使わされるので奪われているように感じるおじいさん、みたいなこともあります。<br /> <br /> お金を使いたくなる孫なのかそれとも奪われていると思われる孫なのかで大きく別れる気が致しますね。感覚的には、お金を使いたくなる孫が8割以上で奪われていると思われている孫は2割以下かと思いますが、奪われていると思っていても可愛い面も含まれていたりして、そんなに単純なお話ではないと思います。しかしながら基本はあって、基本は前世との繋がりあるいはカルマ的な勉強のために家族になるケースですね。<br /> <br /> それが関係性の基本で、加えて人としての基本的な「愛する力」のようなものがそこに加わります。誰それとなく人を愛する人であれば基本が良くなくても愛することができるでしょうし、それほど人を信用・愛することができない人であれば基本がいくら良くても愛することに抵抗を感じるかもしれません。<br /> <br /> 私の場合、母方は基本が人を愛する、という家系で、父方は、どこか気難しい家系でした。母の実家に行くと愛されましたが、父方に行くと半分は愛されているものの、どこか気分が良くない感じを受けることが度々ありました。まあ、このくらいであれば世間に比べたらかなりいい方だったかなとは思いますけど、それでも、父方のおじいちゃん・おばあちゃんがたまに見せる「(私を)憎たらしいと思う感覚」が時々伝わってきて、孫が可愛くないというのはどういうことだろうかとずっと疑問に思っておりました。<br /> <br /> 私は今までの前世においてそれほどお金に困ったことがありませんでしたので、貧乏人の気持ちがよくわからず、今回は貧乏人の気持ちを学ぶためにそれほどお金のない暮らしを遊びでしてみていますが、ようやく貧乏人の気持ちがちょっとわかった気が致します。今まで貧乏人を見て「この人たちはどうしてこんなにひねくれているのだろう」と思っていたのですが、ちょっとだけ理解できた今、私の「理解したい」というカルマはほとんど解消されたように思います。要は、自分にお金がなくて他人を愛する力が弱くて孫がそれほど可愛く感じなければ孫が「自分から財産を奪う対象」に見えるのですよね。その単純なことが今までピンときていませんでしたが、ようやく貧乏人のひねくれた気持ちがちょっとだけわかった気が致します。貧乏だからひねくれて、ひねくれると他人が遠ざかって、他人が遠ざかると手助けしてくれる人も少なくなって、商売もうまく行かなくてますます貧乏になる、というサイクルを辿るわけですね。貧乏人あるある、です。こういうこと書くと「お前なんかにわかるか」とか「貧乏人を全部理解できる筈はない」とか言ってくるのがひねくれた貧乏人で、私は全部には興味がなくて自分が疑問に思っている範囲で理解したのでもう十分なのです。ひねくれた貧乏人の性質が以前は全く理解できなかったので、ちょっと味わってちょっと理解しましたので、もうそれは自分の関わる世界ではないということがわかりましたので、もう興味がないのです。<br /> <br /> ずっと疑問に思っていた貧乏人の気持ちはちょっとだけ理解したのでもうお腹いっぱいですのでこれ以上は要らなくて、やっぱり私は前世での繋がりのある可愛い愛のある妻たちと一緒に楽しく暮らしたいです。<br /> <br /> 今の時代をしっかり生きて、誰かを助けることの基本が妻ですよね。妻が楽しく暮らせるようになんでも「いいですよ」とOKを出し続けることで妻が来世も一緒にいたいと思うようになるわけです。<br /> <br /> 世間ではね、妻を道具とか奴隷とか召使のように思っている方も一部いらっしゃるようですけど、それじゃ、死後に妻は開放されてどっかに行ってしまうだけですよ。<br /> <br /> 妻だけではないですけどね。繋がりのある人で前世から仲のいい方というのはある程度同じ人生を生きるようになります。そうして人を大切にすることで来世に繋がってゆくわけです。その中で、特に孫が可愛い、というのは、前世から繋がりがある魂が転生した場合に可愛いのはそれは当然だと言えます。<br /> <br /> 一方で、損得勘定で生きている人は周囲にいる仲間も損得勘定になって妻も子供も孫も損得勘定になりがちですから愛の人生ではなくなってきます。<br /> <br /> どちらがいいのかはご自身の現在の人生が土台になって、来世に続くわけです。<br /> <br /> これは、どちらがいいとか言っているわけではありません。ご自身の好きなように生きればいいだけのお話です。ご自身が望んだものに人生はなりますから。<br /> <br /> ひねくれた人生を選ぶのも自分の自由ですし、愛の道を選ぶのも自由なわけです。貧乏人でひねくれを極めることを否定もしませんし推奨もしません。どちらでも好きにすればいいですし、もしかしたらその先に何かがあるのかもしれませんしね。自分の興味のあることをなさればそれでいいと思います。それを許容できるだけこの世界は広いです。しかしながら、貧乏人のひねくれのいる世界は私の住む世界ではありませんので、私には関わらないでいただきたいものです。<br /> <br /> 何度も転生をするにつれて、「なんだこれ???」と思うことは多々あって、その都度、色々と興味を持って眺めてきましたが、興味深いお話もあればこのように、結局は「な〜んだ」と思うような貧乏人のひねくれ話もあるわけです。とは言っても、そのような多様性のあるこの世界の全てが基本は素晴らしいわけです。<br /> <br /> 日本は核家族化が進んでいますけど、今世で家族を大切にして、来世でも同じ妻や子供たちが親族で生まれたいと思うくらいの豊かな家族生活を送る方がみんな笑顔で楽しいと思いますけどねえ。<br /> <br /> まあ、私が何を言ったところでそうそう他人が変わるわけでもありませんし、他人は好きにすればいいですけど。<br /> <br /> Sat, 31 Oct 2020 00:00:00 +0900 再度、目を閉じていても視界をシルエットで感じるサードアイ https://w-jp.net/2020/2114/ <br /> 昨年末に同様のことがありましたけど、再度ありました。今回は普通に瞑想をしている時で、単なる残像かと思って顔を傾けたりしてみましたけど同じ場所に続けて見えておりましたのでそれっぽいなと。<br /> <br /> ただ、今から思えば顔は傾けましたが視線はどちらに向けていたかあまり記憶がないのでもしかしたら視線は固定されていて単なる残像だったかもしれませんね。<br /> <br /> そのような可能性はありますけど、感覚としてはやはりそれっぽかったわけです。残像の感じより遥かにはっきりしておりましたしね。<br /> <br /> 前回の照度は5%くらいでボヤッとしておりましたが、今回もボヤッとしておりましたが前回よりははっきり見えていましたのでおそらく10〜15%くらいでしょうか。なんとなく形が見えるのも前回と同じですけど、今回の方が多少はっきりと見えました。暗くて見えにくいですけど、このくらいであれば物がそこにあることが分かりますので目を瞑っていても探れそうな感じです。<br /> <br /> これがサードアイなのかフォースアイなのかは微妙なところですけど、過去生の記憶を辿りますとフォースアイは360度全てを見渡せた気が致しますので、単に視界の延長線上ということであればこれはサードアイなのかなと思います。これをサードアイと呼ぶ流派もあると思いますし、このようなことができる人が少ない状況ではコンセンサスも生まれにくいでしょうから、まあ、言い方はどちらでもいいと言えばいいのかもしれませんが、個人的には頭の中の特に後頭部で見るのがサードアイで、頭の中から飛び出して頭の少し上あるいは視点をもっと違う場所に動かしてそこからの視点で見るのがフォースアイです。<br /> <br /> 今回は視界の延長でしたのでサードアイですね。<br /> <br /> ただ、視界が出てきたところで疑問や探究心が出てきて色々と思考が動き出してしまいましたので瞑想状態から早く抜け出てしまい、それほど長くは続きませんでした。<br /> <br /> 慣れてくれば状態を維持できるようになる気も致しますね。<br /> <br /> 昨年末の時はふとした拍子に見えたという感じですが、今回は瞑想で意識を静寂に近づけたときに見えた感じでしたので、おそらくは前回よりは再現性があるような気が致します。<br /> <br /> フォースアイは確か最初にサードアイの場所で生まれて頭の上から外に出てゆくような気も致しますので、まだ頭から出ていないフォースアイがサードアイと呼ばれているだけなのかもしれません。この辺りはおいおい確認して行ければと思います。<br /> <br /> Fri, 30 Oct 2020 00:00:00 +0900 幸福と平安の小サイクルは繰り返される https://w-jp.net/2020/2113/ <br /> 禅定のサイクルとして以下のようなお話があります。<br /> <br /> 1.幸福<br /> 2.(思考が止まることによる)喜び<br /> 3.(幸びが消えて)楽のある平安<br /> 4.(楽が消えて)平安のみ<br /> <br /> 禅定は特に2段階以降がサマーディと呼ばれますが、このような起伏の状態は禅定だけでなくそれ以前においても同様のサイクルが繰り返されているように思います。<br /> <br /> この性質により、往々にしてサマーディ以前においても自分が禅定に達したのではないかという誤解をしてしまう可能性があるようにも思います。私も、禅定の定義がいまいちピンときていませんでしたが、今思えば、サマーディ以前においても自分が禅定に達したのかな? と思い違いしていた場合もあるような気が致します。<br /> <br /> 例えば、プラティヤハーラの段階で雑念が逃れようとする段階においても同様の4ステップを踏むような気が致します。<br /> <br /> ■プラティヤハーラ<br /> → 雑念から離れて一時的な幸福に至る<br /> → 雑念が一時的に止まって喜びを感じる<br /> → 雑念が一時的に止まって、喜びが減って楽がある平安<br /> → 雑念が一時的に止まって、楽が消えて平安な状態に至る<br /> <br /> これらは、サマーディとある程度は同様のステップを辿るような気が致します。<br /> ディヤーナ(瞑想)でも同様な気が致します。<br /> <br /> ■ディヤーナ<br /> →→ 集中が高まり、一時的な幸福に至る<br /> →→ 集中力が高まり、喜びを感じる<br /> →→ 集中力が高まり、喜びが減って楽がある平安<br /> →→ 集中力が高まり、楽が消えて平安な状態に至る<br /> <br /> これと、サマーディはよく似ています。<br /> <br /> ■サマーディ<br /> →→→ 観察力が高まり、幸福に至る。これは昨年末から視界がスローモーションで認識されるという段階に対応しているように思います。喜びのある状態です。五感が働き続けていて、「面白い」という感覚があります。<br /> →→→ 観察力が高まり、喜びを感じる。これは最初にスローモーションで感じたような特別な状態から日常が映画になった段階に相当してるような気が致します。まだ面白いという感覚は残っていますが、最初の時のような特別感がなくなってきた段階です。自我が戸惑う、ということも起きます。<br /> →→→ 観察力が高まり、喜びが減って楽がある平安。これはその後、「面白い」という感覚が次第に減っていって日常生活と融合してきた段階に相当しているような気が致します。<br /> →→→ 観察力が高まり、楽が消えて平安な状態に至る。これは最近感じていて、面白いとか楽とかいう感覚がかなり消えていって、単に観察力だけが残ってきた感じが致します。この頃になると「自我が戸惑う」みたいなことはほとんどなくなってきて、普通な状態になってきたような気が致します。<br /> <br /> Thu, 29 Oct 2020 00:00:00 +0900 瞑想で集中(サマタ)すると観察(ヴィパッサナー)が現れる https://w-jp.net/2020/2112/ <br /> 瞑想の「行為」としては「集中」です。<br /> そして、「結果」として「観察」が生じます。<br /> <br /> これを取り違えて、「行為」として「観察」を行おうとしてもそれは単に観察しているつもりで集中している、というお話になります。例えば皮膚の観察をする瞑想(いわゆるヴィパッサナー瞑想の流派の手法)がありますけど、それは実際は瞑想的には集中に分類されるものです。<br /> <br /> 言い方として「観察」とか「ヴィパッサナー」とか呼んでいたりしますけど、それは個別の流派の言い方がありますのでそれはそれでいいと思いますし、その流派に属するならば好きに解釈して先生の教えに従えば良いと思います。私は私なりの解釈を書いているだけで、他人に解釈を変えろと言っているわけではなく、整理のためにこのように書いているだけです。<br /> <br /> 「行為としての集中」には「顕在意識」が対応し、「結果としての観察」には「潜在意識、あるいは深層意識」が対応します。心理学用語と解釈はいろいろありますけど、ここでは厳密なものではなく、わかりやすさのために階層をそれぞれ対応付けています。<br /> <br /> そのように、行為としては顕在意識の「思考・意志、いわゆる心」が対応し、結果としてはいわゆる潜在意識の深いところが対応するわけです。<br /> <br /> 潜在意識と言ってしまうとそれは人間が意識できないところじゃないか、と思われる方もいらっしゃるかもしれませんけど、ヨーガの修行の(途中の)目的(マイルストーン)の一つには潜在意識の部分を減らして顕在意識を増やす、というものがあります。ですから、その増えた部分を同様に顕在意識と呼んで顕在意識が増えたと解釈するのもそれはそれで正しいですが、それよりも、もともと潜在意識だった部分が新たに別の深い意思として現れてくる、という方が実態に近いと思います。<br /> <br /> その深い意識が現れた状態をヨーガではサマーディと呼んだりあるいはヴィパッサナーと呼んだりします。これは多少は流派によって意味合いが異なりますので解釈に混乱があったりもしますが、基本的な意味合いとしてはこのように深い意識が現れてきた状態だ、ということができます。<br /> <br /> その深い意識をヨーガでは「アートマン」とか言ったりしますし、ゾクチェンでは「リクパ(心の本性)」、あるいはスピリチュアル系では「スピリット」と呼んだりします。<br /> <br /> とある点にまで至ると、顕在意識の心がいわゆる普通の意思・思考で自分を動かしている段階から、潜在意識としてのアートマン、スピリット、リクパ、あるいは心の本性が動き出して、そちらが主導権を握ることになります。<br /> <br /> そして、アートマン(スピリット、リクパ)が主導権を握っている状態がサマーディでありヴィパッサナーであり観察であるわけです。<br /> <br /> その時、顕在意識はどうなっているかと言いますと、顕在意識に対応する思考・意思は動こうと思えば動くことができますが、割と鎮まっている状態になっています。顕在意識は論理的思考が得意ですし、アートマン(スピリット、リクパ)は俯瞰して見るのが得意です。そういう意味で役割分担がなされていると言えます。<br /> <br /> アートマン(スピリット、リクパ)も論理的思考および細かなところが見れますが、それは結果としてそのように論理的思考や細かいところが見れはしますけど、それはより直感的なものです。インスピレーションに近いものですね。いわゆる論理的思考で組み立てるというよりは結果が先に入ってくるようなものです。<br /> <br /> そのように、アートマン(スピリット、リクパ)が動き出した状態が観察(ヴィパッサナー)であると言えます。<br /> <br /> ですから、それに至るためにヨーガ・スートラに書かれているような「心の死滅(停止)」が「行為」の修行としては必要なわけです。死滅と言うと心が全くなくなってしまうかのように解釈してしまう方もおられるかもしれませんけど、これは一時的に顕在意識を鎮めるという意味であって、全く心を無くしてしまうという意味ではないのです。<br /> <br /> もともとはサンスクリット語で二ローダという意味ですし、そもそもの意味も難解ですので解釈してくれる人が必要で、例えばインドのリシケシでヨガニケタンを作ったスワミ・ヨーゲシヴァラナンダは「魂の科学」の中でヨーガとは心素の働きを死滅させることである、と明確に述べています。同所での心素というのはChittaで、心理作用の源であるとされます。ですから、そのような狭義においての死滅であって、心を全く無くしてしまうことではないのです。<br /> <br /> 修行としてチッタを死滅(停止)させることをすると、その奥にある真相意識とも言えるアートマン(スピリット、リクパ)が動き出してヴィパッサナー(観察)に至る、というわけです。<br /> <br /> Wed, 28 Oct 2020 00:00:00 +0900 瞑想での心の停止とプラティヤハーラとサマーディ https://w-jp.net/2020/2111/ <br /> ヨーガ・スートラでは「心の死滅(停止)」が一つの目的地になっています。<br /> <br /> この解釈は、プラティヤハーラの段階の人とサマーディの段階の人とで異なる場合があります。<br /> <br /> プラティヤハーラの段階の人は「瞑想で心を停止(死滅)しても一時的なことなので本質ではない」と言って集中瞑想や心の停止を否定しがちです。<br /> <br /> それはプラティヤハーラの段階の人であればある程度は真実ですけど、サマーディに至ってしまえば心の停止の静寂の境地とそれの奥に存在している深い静かな意思の働きが共存しますので、心の死滅はある意味正しいわけです。<br /> <br /> 確かに心の停止は本質ではないですが、本質ではないという説明を聞いたときにプラティヤハーラの段階の人は心の死滅(停止)を否定してしまうのに対し、サマーディの段階の人は心の死滅(停止)は真実として受け入れてその奥にある深い意識の働きもまた肯定するわけです。プラティヤハーラの人にとっての「本質ではない」という意味と、サマーディ段階の人にとっての「本質ではない」という意味が異なる場合があるということです。<br /> <br /> ヨーガ・スートラに述べられている心の停止(死滅)を否定するのはプラティヤハーラの段階の人が陥る可能性のある誤解の1つです。プラティヤハーラの段階ですと瞑想中に一生懸命雑念から逃れようと集中して努力しますが瞑想が終わるとまた雑念がわらわらと湧き出てきて翻弄されてしまいます。ですから、心の死滅をしても何にもならない、とプラティヤハーラの段階の人は判断してしまうことがありますが、それはまだ瞑想が進んでいないだけのお話です。プラティヤハーラの段階だと、心の奥にもう1つの本当の心の本性が眠っていることがなかなか理解できないわけです。きちんと説明してくれる人がいない限り、誤解してしまっても無理はないかもしれません。そうして誤解してしまうと「心の死滅なんてしてもしょうがない」と解釈してしまうのです。<br /> <br /> 一方、サマーディであれば心の死滅がある程度は続きますし、心が動き出したとしても心の奥底にある心の本性としての意思は表面的な心の動きに左右されずに存在して働き続けますので、雑念によって心の本性が妨げられることは少なくなります。雑念は程度問題ですのである程度は雑念によって心の本性の動きが妨げられますけど本質的に別々なものであることが実感としてわかりますから、そうして表面的な心・思考・意思と、奥底にある心の本性としての意思が異なるものであることがわかってしまば先のようなお話が誤解だということが分かるわけです。<br /> <br /> プラティヤハーラの段階の人はたまに誤解をして心の死滅(停止)とは全く別のところに悟りの道を求めてしまうことがあるのに対し、サマーディの人はまさに心の死滅(停止)と悟りとしての心の本性・意思とが共存する状態で生きているわけです。<br /> <br /> このように、プラティヤハーラの段階の人が時々陥る誤解として、心の死滅(停止)のお話について「集中は本質ではない」と言われた時に「集中を否定してしまう」ことがあります。そうではない人も多いですけど、誤解している方もボチボチいらっしゃるように思われます。<br /> <br /> サマーディの状態は心が動いているか動いていないかに関わらず心の本性が奥底で動いている状態ですから、心が死滅しているかどうかは本質ではないと言えばそうですけど、それでも以前に比べたら遥かに心が鎮まっている状態ですので、死滅が本質ではないのはそうであるにしても、心が静寂になったことで現れてくる奥にある心の境地があるわけです。<br /> <br /> その奥にある境地が重要というのはその通りなんですけど、そのためにはまず集中瞑想で心を一時的に死滅(停止)できるくらいまで集中力を高める必要があるわけです。<br /> <br /> ■行動か、理解か<br /> 一部の流派では「行動ではなく、理解によって解脱できる」とか説明されていますけど、それを言葉通り解釈してしまうと「瞑想しなくても良い。修行しなくても良い。理解するだけで良い」となってしまいますが、その流派の中にいる方でもそのように説明している方もおられますけど、そこは自由な立場の私ですから、そのような説明もこれと同様に解釈して「(顕在意識における心・意思による)行動ではなく、(潜在意識の働きによる心の本性、アートマンによる行動、それを比喩的に言い換えるならば理解、という意味においての)理解によって解脱できる(モークシャ)」と読み替えることができるわけです。最終目的地にあるのがいわゆる「行動」ではなくても、そこに至るために行動は必要だと私なんかは思うわけです。それを、文字通り解釈してしまって「行動しなくてもよくて理解しさえすれば解脱できる」と思ってしまうのは、「念仏唱えれば成仏できる?(そんなわけないでしょ)」、みたいなお話と同一になってしまう危惧もあるわけです。最終目的地が顕在意識の行動から離れたアートマンによる行動、それは顕在意識からしたら潜在意識に見えるかもしれませんし理解として解釈されるかもしれませんけど、単なる固定的な理解ではなくて深いところにある働きとしての動きのある意思が働き出すわけですので、実際は理解という言葉は適切ではなくて、それは「アートマンがまだ現れていなくて、しかしながら真実を理解した人による解釈」ではないかと思うのです。<br /> <br /> 実際にアートマンが現れて働き始めたならば「理解」という言葉は使わないと思うのですけどね。おそらくは、真実を勉強することで理解に至ったがまだアートマンが現れていない人によって解釈された流派の教義なのではないかなと思います。そのあたりがプラティヤハーラ段階ですと「理解」と解釈されるのに対して、サマーディですと「心の本性(アートマン)の働き」として理解されるのかな、と思います。<br /> <br /> Tue, 27 Oct 2020 00:00:00 +0900 頭のタマスをハートや下半身に落とすことで静寂の意識に至る https://w-jp.net/2020/2110/ <br /> 意識の平穏が段階的やってくるような瞑想を近日はしているわけですが、意識の平穏が訪れる時は上半身に漂っているモヤモヤとしたものが喉の辺りを通ってハートおよび下半身に流れ込むことに気が付きました。<br /> <br /> 日常生活を送ってタマスな愚鈍なものが溜まる時と、静寂の意識、平穏の状態が保たれている時とでは何が違うのかと言うと、そのようにタマスが頭から喉およびハートを通って下半身に流れ込むことができるかどうかと言う点が異なる気が致します。<br /> <br /> 例えば、日常生活を送っている時に緊張があったりすると頭とハートを結ぶエネルギー・ルートが少し詰まりがちになります。緊張・ストレス・マイナスの意識によってそのエネルギールート、ヨガで言うスシュムナが詰まりがちになってしまいます。そうすると頭の周囲に溜まってしまうタマスな愚鈍な性質が浄化されずに溜まってしまって、愚鈍な性質が強まって静寂の意識ではなくなってしまうわけです。<br /> <br /> 一方で、日常生活で緊張をあまりせずにスシュムナが開いている状態では多少のタマスな愚鈍な性質があったとしてもすぐに清浄な意識に戻ることができる気が致します。<br /> <br /> これは、瞑想中に起こっていたことですが、今までは清浄な意識が段階的に訪れる理由がそれほど把握できていませんでした。<br /> <br /> 今は、頭の周囲に溜まっているタマスが、まるで溜まっている風呂場の水が水栓を抜いた時に一気に抜けていくかのごとく、特に喉を通ってハート、下半身へと流れ込んでゆくのを感じます。タマスがそのように下に抜けることで清浄な意識に戻ってゆくことを同時に感じることができます。<br /> <br /> 特に喉のヴィシュッダチャクラで浄化がほぼ行われて、残りかすみたいなものが下半身に巡るような感じです。喉のヴィシュッダ・チャクラは浄化のチャクラだとも言われますけど、こういうことなのかもしれません。<br /> <br /> おそらく、ですが、以前はスシュムナがまだそれほどきちんと開けていなかったのでしょう。そして、スシュムナが開くと清浄な意識になる、と言うのはヨガの聖典に書いてあることと一致するような気が致します。<br /> <br /> プラーナがスシュムナー気道のなかを流れ、こころのはたらきが虚空のなかに埋没したときには、このヨーガの達成者は全ての業作の根を絶ってしまう。ハタ・ヨーガ・プラディーピカー 4・12「続ヨーガ根本経典(佐保田 鶴治著)<br /> <br /> その時の私の状態としては、上半身が清浄な意識で、下半身はクンダリーニの熱い熱気に覆われています。その時、静寂な意識が保たれます。一方で、タマスな状態の時は緊張があって頭の周囲がタマスで愚鈍で、下半身は同じです。違いはと言うとスシュムナが閉じ気味という点です。少しづつスシュムナが開く時はそれに応じて意識も段階的に静寂になっていたわけです。一方で、それなりにきちんと開かれているのであれば清浄な意識が保たれるわけです。<br /> <br /> これは程度のお話で、スシュムナが完全に閉じてしまうことは私の場合は今後はほとんどないのかなと思いますけど、少し詰まってしまうとこのように違いを感じることができます。<br /> <br /> 瞑想をして、単に眉間に集中するだけでなく、スシュムナを開くという意図を持つことが重要なのですね。そのために背筋をまっすぐにしたり、ソー・ハン瞑想をするなり、小周天をしたりしてメンテナンスが必要なわけです。これはヨーガで基本とされていることですけど、基本であるがゆえに割とスルーしがちでした。しかしながら、今となっては意識の清浄とスシュムナの関係がきちんと瞑想中に感じられますので、とても重要なのだというのがよくわかります。<br /> <br /> そもそも日常生活で緊張をもらわなければいいのかもしれませんけど、日常生活でどうしても疲れは溜まりますから、メンテナンスは必要なわけです。そのメンテナンスが瞑想なわけですけれども、座って瞑想をするのが一番ですが、座っていなくてもスシュムナを意識してエネルギーが通る状態にすれば割と清浄な意識が保ちやすい気が致します。<br /> <br /> 私の今生の目的の1つは覚醒への階梯を確かめることですので私は割と実験的なことをしていて、意図的にタマスを増やしてみたりしてますけど、普通の人はあまりこのような実験はしなくていいのかなという気も致します。その人の自由ですけどね。<br /> <br /> Mon, 26 Oct 2020 00:00:00 +0900 薄い紫色の猫のシルエットが浮かび上がる瞑想 https://w-jp.net/2020/2109/ <br /> いつものように座った瞑想をして、意識を集中していると何かの意識体が近くにいるような気が致しました。いつもに比べると情緒的に多少不安定で、どうしたものかと思っておりましたら、もしかしたらこの意識体が原因だったのかもしれません。<br /> <br /> 右側の少し前に、ふと、薄い紫色の猫のシルエットが浮かびました。<br /> <br /> 薄い紫色の模様の周囲は灰色あるいは黒に近い状態で、猫のシルエットの部分だけが薄い紫色で光っていたのです。<br /> <br /> どうやら、それは猫のように見える一方で、その実体はというと私の過去生での妻の1人が猫のように近くにいて見守っているような気が致しました。猫が実体なのかあるいは妻が実体なのかまではよくわかりません。重なっているのかもしれませんし、猫のように生きていた妻だったので、まあ、イメージとしては猫というのは確かにあっています。<br /> <br /> 順番としては最初に性的な情緒的なイメージが浮かび上がってきて、それは何だろうと思っていたら過去生の妻で、確かにその妻とはしょっちゅう濃厚接触をして楽しんでおりましたのでそういう面もあるでしょうし、その元妻も私と久々にしたいのかな? と言う気もしますので、その気持ちが元妻から流れてきていたとしても不思議ではありません。<br /> <br /> 死んでから幽霊になっても足はありますし、何気に、性的な器官もしっかりついておりますし、やろうと思えば夜の生活も普通にできます。基本的には生きていた頃の記憶と習慣が繰り返されているわけですけれども、一人の想像ではなくて、きちんと相手がいて起こる本当のことです。まあ、幽霊ですけどね。<br /> <br /> そんな元妻のイメージと共に、気高いペルシャ猫のような薄い紫色の猫のシルエットが浮かび上がってきていました。<br /> <br /> 場所としては右目の少し上です。<br /> <br /> そして、しばらくそれを見ていたら、やがて形が崩れてきて、何かよくわからない、ただのアメーバあるいは斑点のようなものになっていって、やがて、薄い紫色の模様は消えてゆきました。<br /> <br /> まあ、何か見えることはぼちぼちありますが、このように、一部だけ紫色で光る、と言うのはあまり記憶にありません。普通に映像がカラーで見えることはありますけど、紫色でシルエットが光る、と言う感じではありません。<br /> <br /> 特に意識を集中している時に紫色で光っていて、瞑想から解けてゆくにつれて紫色の光が消えて普通の灰色あるいは黒っぽい視界に戻りました。<br /> <br /> 目を瞑って瞑想をすると、周囲の光を感じることはありますし、部分的にピカッと光ったりすることはよくあります。その光はスポットライトとしてぼちぼち大きな光であることもありますが、今回のような、不思議な薄い紫色のシルエットと斑点模様のように見えることはあまりなかったように思います。あまり記憶にありません。<br /> <br /> ここまで気になるのは、何か、今日の瞑想が今までとちょっと違ったからです。<br /> <br /> 何でしょうかね。<br /> <br /> おそらくは、アストラル上層で動いている時のスミレ色なのかな、と言う気も致します。アストラル下層が黒でアストラル上層がスミレ色だとすると、理屈は合います。<br /> <br /> さて、どうでしょうかね。また様子を見てゆきます。<br /> <br /> Sun, 25 Oct 2020 00:00:00 +0900 タマスを奥に押し返して静寂な意識を保つ https://w-jp.net/2020/2108/ <br /> 瞑想中、自分の意識を押すことで静寂な意識を保ちます。<br /> <br /> 日常生活で溜まってしまったタマスが自分を覆っており、特にそれは前面に覆っているものとして感じられます。瞑想をする際、目の前にある重いものを押して動かすかのように意識を前面に押し出してあげることで静寂な意識を広げることができます。<br /> <br /> ウパニシャッドか何かでシバ神が瞑想の手ほどきをしている文脈において、「瞑想では内なるものと外のものを区別し、外のものは外に保つ」みたいな説明をしている文章があったように思いますが、この説明はまさにこの、静寂な意識を内に保ってタマスな愚鈍な性質を外に追いやることを意味していたのではないかなと思います。<br /> <br /> それはタマスといえばタマスですけれども、単なる意識としてのタマスだけではなくて、意識体としてそこらに浮かんでいる想念の雲を外に追い出す、という意味もあるかと思います。<br /> <br /> 以前にも少し書きましたが、例えば右腕に絡まっていた見えないものを引き抜くと言ったように何かに取り憑かれている時は「押し返す」というよりは「つまんで引っこ抜く」ということをします。それはそれでありますし、一方で、単にタマスな意識に囲まれているのであれば押し返すということをするのがいいのかなと思います。<br /> <br /> この辺りは色々とやり方があるでしょうし、人によっては気合で声を出して振り払う人もいるでしょう。しかしながら、おそらくはシバ神の説明の仕方は「押し返す」と言ったやり方だと思うわけです。<br /> <br /> 基本は前面に押し出すわけですけれども、弱いと思われる方向、例えば私の場合は右肩あたりですけれども、そのあたりを意識して中の方から右肩の方に「押し返す」ことで右肩が安定して、安定すると右肩の緊張が一段階取れます。<br /> <br /> 個人的には押し返すだけだとちょっと弱くて、かと言って気合で声を出すという気質でもない感じですので、押し返すのに加えて「つまんで引き抜く」ということを組み合わせれば大抵のことに対処できるのかな、と思っております。<br /> <br /> 単にタマスに覆われた時は押し返して、意識体に取り憑かれた時はつまんで引き抜いてから中から押し返して安定させる、という感じです。どちらの場合でも結果としては清浄な意識、静寂な意識が訪れれば成功したといえます。<br /> <br /> それに付け加えるならば左右バランスを取ること。主なチェックポイントは合わせて3つですかね。<br /> <br /> Sat, 24 Oct 2020 00:00:00 +0900 手のひらからエネルギーが発せられ、瞑想状態へと導く https://w-jp.net/2020/2107/ <br /> 普段、私は座って瞑想する際は手を前で組むか、あるいは膝の上に置いて親指と人差し指で輪っかを作って上に向けています(チンムドラ)。<br /> <br /> その際、特にチンムドラの場合、手の位置によって頭の中の反応位置が異なることに最近になって気がつきました。大体は同じ場所に手を置くのであまり気にしておりませんでしたし、日によって多少頭の中の反応が違っていたとしてもそんなものかと思ってスルーしておりました。<br /> <br /> ふとしたことで手の位置をちょっと変えてみたら頭の中の反応が変わって、普段は割と頭の両側、両耳に近いところで反応が起こっていたのですが、手の位置を変えたところ、頭の真ん中、前頭葉、頭の後ろの方など、自在に反応する場所を変えられることに気がつきました。<br /> <br /> 意思で変えるというよりは、単純に、手の位置によって反応する場所が変わるようで、座禅の時の手の位置と向きを少し変えるだけで頭の中の対応した場所が反応するようです。<br /> <br /> これは、手のひらからまっすぐ何かのエネルギーが発せられていると考えるのが自然のように思います。<br /> <br /> 試しに、座禅ではなく椅子に座ったまま掌を自分の顔の方に向けてみたところエネルギーを感じました。そして、割と簡単に瞑想状態に導かれるような気が致します。座禅を組まなくても手のひらを自分の方に向けるだけで瞑想状態に入りやすくなるようです。<br /> <br /> ・・・何で今までこのことに気がつかなかったのだろうかと、軽くショックです。おそらくはずっと昔からこうだった筈ですが、あまり意識しておりませんでした。<br /> <br /> ひょっとして、足の裏を上に向けて座る瞑想のパドマアサナ(結跏趺坐、けっかふざ)も同じ意味合いがあるのかもしれません。私はパドマアサナはできないですけど、やりたくなってきましたね。最近は骨折もしていましたが骨折も完治しましたので次の目標はパドマアサナな感じです。<br /> <br /> Fri, 23 Oct 2020 00:00:00 +0900 清浄な意識を意図的にタマスで強化する https://w-jp.net/2020/2106/ <br /> タマスとはヨガで言う愚鈍な重い性質のことですけど、清浄な意識の上に覆い被さるようにして意識を曇らせます。瞑想をすることでタマスの覆いを取り払い、清浄な意識に戻すことができます。<br /> <br /> この、清浄な意識に戻す力は最初は弱く、やがては強くなってゆくような気が致します。<br /> <br /> 最初、チェルドルとも言える状態の時はその力はまだ強くありません。じっと長く瞑想で観察を続けることによってようやくタマスの雲を取り払うことができます。やがて、シャルドルとも呼べる状態に至り、その力が強くなってきているのを感じます。<br /> <br /> これらの状態に至るまでは行ったり来たりを繰り返していて、日常生活において疲れが溜まったりするとそれに応じるかのように清浄な意識が弱まり、体や精神が休まっているとタマスが増える傾向にはありますが、根底にある、清浄へと戻す力というものは少しづつ強くなってきていてストレスに強くなってきているような気が致します。<br /> <br /> ストレスがある生活をただやめてゆけば良いわけでもなくて、日常生活を送る上においてはストレスはどうしてもありますから、ストレス耐性をつけるという意味でも、悟りがストレスによって簡単に失われてしまわないためにはある程度、タマスな愚鈍な状態およびストレスを日頃から多少は受けることが必要なような気が致します。<br /> <br /> それは常にストレスやタマスな愚鈍の状態にいるということではなく、清浄な状態にいることは絶対的に必要で、それだけでは不十分で意図的にストレスを作り出して清浄な意識にストレス耐性をつけてゆくことが必要なのではないかと思うわけです。<br /> <br /> おそらくは、ヨーガや伝統的な宗教の修行においてストレスを生むような苦行が行われるのもある程度はこのような意味合いもあるのではないかと思います。<br /> <br /> 苦行を行なってしまうとこのようなストレス耐性のお話だけでなくて、意図しない「能力」的なものを引き出してしまうこともありますので何が正しいのかを見極めるのは難しいのですが、少なくとも苦行にはこのような意味もあるとは思います。<br /> <br /> 清浄な意識を保つための座った瞑想は静かな場所で行われるべきで、それによって清浄な意識を育て、その清浄な意識を確固なものとするために苦行のようなもの、あるいは長時間にわたるマントラの詠唱みたいなものが行われるのではないかなと思います。<br /> <br /> 現代人はある意味、常日頃からストレスにさらされていますのでわざわざこのような苦行をする必要はあまりなくて、普通に日常生活を送って仕事をしさえすればそれが十分に修行になっているような気も致します。<br /> <br /> お寺やアシュラムですと外界から切り離されてストレスのない生活を送れたりしますけど、それだけだと不十分で、意図的にストレスを作り出すことで清浄な静寂の境地を確固たるものにするわけですね。<br /> <br /> 一方で、日常生活を送っている人は苦行はある意味、そこら中に普通に存在しておりますので改めて苦行を追加で行う必要はなく、静かな意識を育てるため早朝などに座って瞑想をすれば十分かなとも思うわけです。<br /> <br /> 誤解を与えてしまうと何ですので補足しておきますと、どちらにせよ、もともとタマスが厚く覆いかぶさっている人の場合はタマスを長時間かけて取り除くのが最初であって、その時はタマスをわざわざ追加でもらう必要はないと思います。<br /> <br /> ここで言っているのは、ある程度の意識の浄化ができた後に、清浄な意識に達したけれどもその力がまだ弱い段階においてはあえてタマスを意図的に加えることで清浄な意識を強めることができる、というお話です。<br /> <br /> 日本の場合ですともともとそれなりの清浄な意識で生まれてきている人も大勢いらっしゃいますし、であればそれを強化すればいいだけであるわけです。一方、タマスな愚鈍な性質がついてしまっている方の場合はまずタマスを浄化して清浄な意識を達成して、それから、ここで言うような意図的にタマスをつけて清浄な意識を強化してゆく話が出てくるわけです。ですから、最初のタマスが暑い段階でわざわざ追加でタマスをもらう必要はないわけです。<br /> <br /> これは、そういう手法もある、というくらいのお話ですので、やらなくても別にその人の自由です。ですけど、伝統的な手法を見ていると、今は単なるルーチンになってしまっている感もありますけど、もともとは清浄な意識を達成した後にそれを確固たるものにするためにしていたものもあるのかなぁ、という気がしています。<br /> <br /> Thu, 22 Oct 2020 00:00:00 +0900 水面に映った自分の顔が上の方に見える瞑想 https://w-jp.net/2020/2105/ <br /> 瞑想をしていると、ここ数日の間に複数回、自分の顔が頭の上に浮かびました。<br /> <br /> 最初は私が若い頃の顔で、瞑想中は目を瞑っているのですが見えた顔は目が開いておりました。顔をよく見ると若い頃の顔に似ていましたので、今の姿をそのまま鏡写しにしたわけではなさそうです。その顔がこちらを見て、少し和かにしておりました。証明写真のように顔だけが浮かんでいる感じでした。<br /> <br /> その数日後、再度、似たように顔が見えたのですが、今度はもう少し年を取ってからの、おそらく30代の顔でした。こちらも少し和かで、先日のに比べると水面に映ったかのように少しゆらゆらとしておりました。<br /> <br /> 心は鏡のようなものだ、とはよく言われることですが、心に映った自分の姿、ということなのかもしれません。あるいは時空を超えてどこかの時点の自分が将来の自分を覗き込んでいるのかもしれません。<br /> <br /> 禅の瞑想などで自分の頭の上に仏像や神様を思い浮かべる、という手法がありますけど、それらの手法は頭の上に意識的にイメージをして作り出すものだとは思いますが、私の場合はそのように意図してイメージしたわけではなく、かと言って、あらかじめそのようなイメージが来ますようにと願ったわけでもなく、不意に、普段通りの瞑想をしていたらたまたま、といいますか、不意に、といいますか、全く期待せずして上記のように自分の若い頃の姿が浮かんできたわけです。ですから、禅やチベットの瞑想法などにある、イメージする瞑想をしていたわけではありませんし、それとはおそらくは違う体験だったのではないかなと思います。<br /> <br /> 現時点ではこれが何なのか解明はできませんが、仮説としては、おそらくは意識が清浄になると心の鏡の上に対象が写り始めるのではないかな、と思っております。そのような記述をどこかで見たことがあるように思いますし、その心の鏡にいわゆるサードアイのような力が加わって遠くのものを映し出したりするのかな、という気も致します。<br /> <br /> これらの心の鏡の出現は瞑想で意識が清浄になり、かつ、ヨーガでいうスシュムナ・ナディにエネルギーがきちんと入った時に起こるような気が致します。意識の清浄とスシュムナのエネルギーは相関関係がありますので、瞑想をして、左右のバランスを整えてスシュムナにエネルギーを充満させることで意識が清浄になり、そうなると心の鏡が出現して対象を映し出すようになるのでは、というのが現時点での私の理解です。<br /> <br /> 心の鏡は水面とか言いますけど、水面というと地面に平行にあるものですけど、この場合の心の鏡は地面にあるわけではなくて壁にかけてある鏡のように自分に対して平行にあって、その壁にある鏡が水面のようになっているわけです。水面ですから、時には風が吹いて少し波打つこともありますし、全く平らな感じの時もありますし、波打っていたり霧がかかっていてよく見えないこともあります。<br /> <br /> 三種の神器の1つである八咫鏡は心をモチーフにした、というようなことをどこかで読んだ気も致しますがどうでしょうかね。そんなイメージです。ちょっと古い鏡は現代のような綺麗な鏡ではなくて金属板だったようですし、歪んでいたりもしますけど基本は水面のようなもので、磨けば磨くほど写りが良くなるわけです。<br /> <br /> 禅やチベットの瞑想にしても、最初は意識でイメージするのかもしれませんが自然に心の鏡に映ったものが自然に見えてくるまで瞑想するということであれば目的地は一緒なのかもしれません。<br /> <br /> Wed, 21 Oct 2020 00:00:00 +0900 頭から煙のような腕を伸ばして運命をたぐり寄せる https://w-jp.net/2020/2103/ <br /> アファメーションで「過去形」を使うようなことをしますけど、それはこのことを意味しているのではと思いました。<br /> <br /> 瞑想中、頭の上に煙のようなものが伸びているのを感じ、その先を探ってみると、どうやら頭の上のところでは時空を超えているような気が致しました。時空を超えていますので未来を探ろうとしたところ、どうやら未来は「右側」(右上)にありました。運命の糸が伸びていて、その選択肢のうちのいずれかが少しづつ自分の方にゆらゆらと近づいているのが見えます。<br /> <br /> おそらくはその未来が自分のところに来たらそのタイムラインが現実になるのでしょう。<br /> <br /> そこで、私はとある未来を思い描き・・・ と言いますか、少し前から、そうなるのではないかというヴィジョンがありましたので、そうなるタイムラインがどの方向にあるのか探ってみたのです。あの未来がどこにあるか、その未来をイメージすることで波動を合わせ、同じ波動のものがどこにあるのか探ってみたのです。<br /> <br /> そうして、なりたい未来が見つかったら、それを煙のような腕でギュッと掴みました。そして、その未来に行くようにタイムラインの糸をピンと張り巡らせました。<br /> <br /> その瞬間、特にアファメーションを意識してはいなかったのですが、無意識で「○○した」と、過去形で頭の中に意識が浮かびました。そこは時空を超えておりますので、その実現した時空の視点においてはそれは過去形なのかなと思います。<br /> <br /> これは、アファメーションを知識として知っていて過去形で言い表した、という順番ではなく、その逆で、アファメーションなんて効かないと私は今まで思っておりましたから知識としては知っていても信じておらず、たまたま今日の瞑想でアファメーションっぽい状態になったので、もしかしたらアファメーションとはこのことを言っているのではないかと思いました。<br /> <br /> であれば、巷に溢れている願望実現のためのアファメーションは言葉としては正しくても実際の姿はかなり異なるものだというのが理解できます。<br /> <br /> 巷のアファメーションは実現したい未来を「過去形」で宣言する、というものだと思うのですが、そのように顕在意識で宣言したところで実現しないと思います。アファメーションの説明で「潜在意識にすり込む」みたいなお話も聞いたことがありますけど、それなりに瞑想が進んでいないとそれはできないですし、お話を聞いただけでは「なんのこっちゃ?」という感じで、実際、そんなことはできないと思います。<br /> <br /> 今回の瞑想でアファメーションっぽくなったことで、確かにアファメーションは存在するのだなと認識を改めはしたものの、実際に最初にアファメーションを言い出した人の内容と同じかどうかはよくわかりません。なんとなくアファメーションに似ているというだけです。<br /> <br /> 私の場合、瞑想で意識を頭の上から煙のように伸ばし、未来を手繰り寄せました。それをアファメーションと言えばそうでしょうけど、未来のことですし、本当にその未来が実現するかどうかはこれからの検証次第です。このアファメーションが本当に効いたのかどうか、これから様子を見ていきたいと思います。<br /> <br /> Mon, 19 Oct 2020 00:00:00 +0900 涅槃に達することで人生ゲームがつまらなくてリセットしたくなる気持ちがなくなる https://w-jp.net/2020/2102/ <br /> 涅槃に達する前は人生がつまらないゲームのように感じることも往々にしてあり、いつリセットしてもいい気持ちになることが時々ありました。<br /> <br /> クンダリーニが動き出してマニプラ優勢になってポジティブになり、アナハタ優勢になってエネルギーの高まりを得たところで、次第に、人生がつまらないもの、取るに足らないものと感じることが増えました。それはきっと、煩悩の最後の抵抗だったように思います。<br /> <br /> 涅槃に達する前に、その煩悩の最後の抵抗として、人生ゲームをリセットしても全く問題ないというぼやっとした気持ち、人生ゲームに対して「飽きてしまった」「もう終わりでもいい(死んでも問題ない)」みたいな気持ちが、薄く浅く弱々しくふわふわっと常に心の奥底に存在していたように思います。<br /> <br /> それは、クンダリーニ覚醒前のネガティブな重々しい気持ちとは全く異なり、ある程度の覚醒をしたからこそ現れる、煩悩のはかなさやつまらなさを反映してこの世に未練がなくなっていつ死んでも問題なくて人生がゲームのようなものだとしたらそのつまらないゲームをいつリセットしても問題ない、という淡い気持ちが常に存在していたように思います。<br /> <br /> この気持ちはいつまで続くのだろうかと気にもなっていて、気にもなっていたからこそ死なずに今まで生きてきたという面もあります。もはや人生ゲームに興味を失っていて、もう死んでもいいといえばいいのですがその気持ちの根源が知りたいという奥底に眠っている一段深い欲求があったからこそ人生ゲームを継続させてきたといえます。<br /> <br /> そして、多少ながら涅槃を垣間見たことでわかったのが、そのような気持ちは涅槃に達していないからこそ現れていたもので、そのような気持ちすらも煩悩の1つの面だったのだ、ということです。<br /> <br /> クンダリーニを覚醒させた覚者とも思えるような人がたまに自殺してしまうことがあり、それは一体どうしてだろうと疑問に思っておりました。それはその人それぞれの事情があるでしょうしそれぞれ異なりますので全てがそうだとは言えないのですが、このように涅槃に達する前の最後の煩悩の抵抗として「自殺」という選択肢もあり得るのではないかと思いました。それは涅槃に達していないからこそ起こしてしまった「間違い」「勘違い」であり、言いようによっては「魔」とも「魔境」ともいえる段階なのではないかと思います。<br /> <br /> おそらくは涅槃まで到達してしまえばもはやそのようなネガティブな巧妙な煩悩の抵抗に屈することはなくて、これからもこの世に生きてゆくのだという確信を得るのですが、中途半端に覚醒してしまってまだ涅槃に届かない人は「魔」に巧妙に誘われて「もういいや」とか思って自殺とかしてしまうのかもしれません。<br /> <br /> しかし、ようやく涅槃を垣間見て雑念がありありと自動的に現れては消えてゆくさまを観察できるようになると、ネガティブな巧妙な煩悩の罠も見抜けるようになるものです。そうしたらもはや自殺とかいう選択肢はなく、この世もあの世も一続きのものとして見ることができますから、自殺とかする必要もなくて自殺なんてあり得なくなるわけです。だって、あの世もこの世も同じですからね。死んで何かが変わるものでもありません。<br /> <br /> 涅槃の少し前から生に対する執着がかなり消えていますから、その状態で涅槃にまだ達していないと「もう生きなくてもいいかな」みたいな煩悩あるいは魔からの巧妙な誘惑が出てきて、せっかく途中まで覚醒したのにいいところで失敗してしまうようなことになるわけです。そのような落とし穴もありますから、涅槃に達すればある程度は自身で好きに生きられますが、涅槃に達する前は信頼できる師匠につかないと落とし穴にハマりやすくて危険な気が致します。思うに、覚者と思われる方で自殺してしまった方は割と一人で修行されている方が多いような気が致します。しっかりと涅槃に達していて導いてくれる師匠がいないとおそらくはそのように間違った方向に行ってしまうような気も致します。人生はその人の好きに生きればいいとは思いますけど、この落とし穴は巧妙で、失敗して落ちてしまうと人生をまたやり直ししなくてはならなくなってもったいないと思うのですよ。まあ、そうして失敗から学んで、次の人生は失敗しないように再計画する人もいるのですね。人生いろいろです。<br /> <br /> Sun, 18 Oct 2020 00:00:00 +0900 般若心経の空即是色はサマーディの一部 https://w-jp.net/2020/2101/ <br /> ここ最近の理解に基けば、般若心経の空即是色も説明できることに気がつきました。<br /> <br /> 要素がいくつかあります。<br /> <br /> ・サマーディは不二の意識を土台とし、平穏な状態・静寂の境地を伴う。<br /> ・空の意識は「あちら側」に偏在する。<br /> ・空の意識から雑念・概念が現れ、そして、それは空へと消えてゆく<br /> ・人が対象を意識して概念を持つことで実態が現れる(存在する)というヴェーダンタの知識。<br /> <br /> 般若心経の空即是色とは、空である「あちら側」から概念・想念が現れ、そしてまたあちら側へと消えてゆくという状態を説明しているのだと思います。サマーディの一部です。<br /> <br /> 不二の意識を土台とし、三密に相当する意・口・身が整った時にテクチューとトゥガルの境地に達し、般若心経が真実だとわかるわけです。<br /> <br /> 具体的には、トゥガルの境地においてはいわゆる「空」である根本のエネルギーが顕現して「思い」という形になって現れることを認識します。そして、その「思い」はまた「空」であるところの根本のエネルギーへと返ってゆくのです。そしてヴェーダンタの知識により、その「思い」こそが実態を存在させているものだと理解するのならばこれは般若心経の空即是色そのものであることが理解できるわけです。<br /> <br /> このヴェーダンタの知識は更に修行が進めばより具体的に自分で確信が持てて理解できる内容のようですが、私の段階ですと実際に瞑想で体験できるのはトゥガルの境地においてエネルギーから思いが顕現してそれがまたエネルギーへと返ってゆくという部分を体感するところまでです。その瞑想の体験に加えてヴェーダンタの知識を加えることで般若心経が理解できるわけです。<br /> <br /> これは、土台としてサマーディの不二の意識があります。不二の意識とは最初は「雑念がない平穏な意識」から始まりますがトゥガルくらいまでサマーディが深まると「雑念があっても妨げられずに観察する平穏な意識」であるところの不二の意識に変わります。その状態において雑念を不二の意識で観察すると雑念が「あちら側」の空とでも呼べるものから生じ、また、その雑念が「あちら側」の空に返ってゆくのがわかるのです。<br /> <br /> ここで概念的に「空」と呼んでいますけど、概念が出てくるのは実際には「漆黒のもやもやとした平らな雲」から風船が膨らむかのように浮かび上がってきますので、これが本当に皆さんの言っている「空」と一致しているかどうかは分からなくて、ですけど、内容的に「空」であろうと推測して空と言っています。ゾクチェンの本を読むとこの根元の部分は「空」とは言わずに単に「根本のエネルギー」と呼んでいますので、私としてもその方がしっくりきます。しかしながら、日本の場合は般若心経が有名ですので「空」と言ったほうがしっくりくるので度々そう言っています。<br /> <br /> これは想像上の事項ではなくおそらく誰でも瞑想で確かめることができる事柄です。<br /> <br /> これらは不二の意識を土台にしていますので、その不二の意識そのものは清浄な意識ですので思考ではなく、よって、上記のヴェーダンタの知識をどうこう考察したりはしません。瞑想中は不二の意識ですので、ヴェーダンタの知識で解釈するのは意識を使いますから、それは瞑想が終わった後に行うわけです。ヴェーダンタの知識以外は瞑想中の体験および前提となる不二の意識の状態で、それらの瞑想体験をヴェーダンタの知識を使って解釈すると上のように理解できる、というわけです。厳密にいうと瞑想が終わった後にも不二の意識は働いておりますが、便宜上、このように説明しておきます。<br /> <br /> ちなみに、「空(くう)」というと2つの意味合いがあると思います。<br /> <br /> ・意識の状態としての空。ゾクチェン的にはテクチューの状態が空。覚醒の意識を保ちながら清浄な意識でいること。<br /> ・根元のエネルギーとしての空。ゾクチェン的にはおそらくはこれは単なる「根本のエネルギー」。エネルギー的な顕現とそれがエネルギーへとまた返ってゆくさまを見つめるという意味においてはゾクチェンのトゥガルに相当。おそらくこれを「空」と呼ぶのは歴史的な経緯があるのかなと。流派にもよりそうです。単に「根元のエネルギー」と言ったほうがしっくりきます。もやもやとした雲のように見えるので「空」っぽいと言われればそうかもしれませんが。<br /> <br /> これらは表裏一体ですが、般若心経が言っている空即是色とはおそらく後者のエネルギー的な空としての意味合いなのではないかと思います。もちろんその前提として意識の状態としての空も前提としてありますのでそれも含意していると解釈することもできますが、文字そのものの意味としてはエネルギー的なものではないかと思うわけです。<br /> <br /> 「空」というと様々な解釈があって、私も、「空なのではないか?」という瞑想体験は今までも何度もしてきたわけですけれども、今になって思えば、テクチューの状態こそが空であるという理解が一番しっくりきます。<br /> <br /> これで、般若心経の空即是色の謎が解けたように思います。<br /> <br /> ただしこれは私の理解であり、各派の公式な見解とは異なる可能性があります。<br /> <br /> とは言いましても、説明だけを見てみれば昔からどこかで聞いたようなお話も混じっており、目新しさはもしかしたらそんなにないかもしれません。しかしながら以前は「ほにゃらら? そうかもしれないですが。そんな気もしますが。」という感じで、わかるようなわからないようなボヤけた感じでした。それがここにきて、瞑想体験と結びついてはっきりと理解できるようになった気が致します。<br /> <br /> Sat, 17 Oct 2020 00:00:00 +0900 アナハタのマーガレットの花弁が半開きになる https://w-jp.net/2020/2100/ <br /> 瞑想をして、まずは静寂の境地に至ります。<br /> <br /> その後、何度か段階的に静寂を深めた後、ふと、頭のアジナチャクラと胸のアナハタチャクラ(ハートチャクラ)の間が線で結ばれたような気が致しました。それぞれのチャクラが丸く白く点になっていて、それらが白い線で結ばれたのです。<br /> <br /> そうしているうちに、ふと、胸のあたりで何か、白い花弁の花がつぼみから少しづつ花びらが開き始めたような気が致しました。おそらくまだ完全には開いていなくて意識の面では単に静寂の境地が深まったというくらいではありますが、静寂の境地が更に安定してきた感じではあります。<br /> <br /> 花は、よく言われているような蓮の花というわけではなく、白いマーガレットっぽいの花でした。これは文化的なものもあるのかもしれないですね。一般的にアナハタチャクラは12枚の花弁をもつと言われていますが、そのくらいだったような気もしますが、数はよく分かりません。半開きのような状態でした。ですので、完全に開いてはいないので花弁の数がよく見えなかったというのもあります。見た目はマーガレットっぽく見えました。<br /> <br /> 特に意識的には平穏の意識が更に少し安定したというくらいでまだ違いはそれほどありません。<br /> <br /> クンダリーニが動き出してきてからアナハタ優勢のオーラの状態を経てきてはいますが、おそらくはオーラ的に優勢な状態とチャクラが開くのとはまた違った状態なのだと思います。<br /> <br /> 今日の瞑想で少し変わってきたのが、(平穏の)意識のある状態での瞑想状態でも映像に少し色がつき始めて淡いカラーなものが少し増えてきた、ということです。今までもカラーはありましたけど意識が途切れてもうろうとしている時にカラーになって、意識がそれなりにある瞑想状態では大抵は白黒映像でした。<br /> <br /> 今は、意識がある状態でも意識が平穏ですので、映像体験を妨げなくなってきたのかもしれません。おそらくは以前は顕在意識が今日ほどまでに平穏ではなかったため映像が妨げられてきた、ということかもしれません。このあたりはこれからまだ様子見ですが。<br /> <br /> 山陰神道では、ヴィジョン・霊視について以下のように伝えられているようです。<br /> <br /> ①妄想 白黒映像。的中率3割以下<br /> ②幻想 カラー映像。的中率5割以下 <br /> ③思通 白黒の透明映像。的中率7割<br /> ④観通<br /> ⑤神通<br /> 「神道の神秘(山蔭 基央 著)」より<br /> <br /> とのことですので、おそらく私が今まで見てきたものを分類しますと、<br /> <br /> 以前:意識のある瞑想状態「①妄想」、意識がもうろうとした状態に時折「②幻想」<br /> 今日:意識のある平穏な状態で時折「②幻想」<br /> <br /> という分類のような気も致しますが、見たものが正しいかどうかも分かりませんし、何やら古い文献のよくわからない記述を読んだ感じですので理解できておらず、正しい内容なのかどうかも分かりません。ですのでこのあたりはおいおい、確かめることになります。<br /> <br /> 私の感覚が正しいのだとすれば「②幻想」はアナハタ相当ということになりますが、どうですかね。<br /> <br /> ■ランドル<br /> <br /> 瞑想状態を終えてからの、日常生活における自動的な意識の平穏の安定度が上がっています。雑念が来た際に自動的に解放されてゆく様は、まさに「ランドル」というにふさわしい気がいたします。なんとなくですけどね。<br /> <br /> Fri, 16 Oct 2020 00:00:00 +0900 ゾクチェンのテクチューとトゥガルは表裏一体 https://w-jp.net/2020/2099/ <br /> 瞑想で覚醒を保っていると、雑念が1〜5文字程度で崩壊する様を体験します。そして、その雑念が出てくる奥に漆黒の雲が存在して、その「裏側」から雑念が現れたり、あるいは、こちら側に裏側から漆黒が流れ込んでくると言う経験をします。<br /> <br /> その状態が、チベットの本にあるテクチューとトゥガルの内容に多少似ていることに気がつきました。<br /> <br /> テクチューは「断ち切る」と言う意味で、心の本性に留まっていることを目的とし、迷いを断ち続ける。一方、トゥゲルは「超える」という意味で、断ち切ることで自ずと生起するヴィジョンを活用する修行だ。しかし、これは本質的には同じ修行の2つの側面だ。「チベッタン・ヒーリング(テンジン・ワンギェル著)」<br /> <br /> これがそれぞれ、テクチューが雑念が1〜5文字程度で崩壊する様に相当し、トゥゲルの方が漆黒の雲を認識してそれと一体になるというプロセスに合致しているような気が致します。トゥガルの方はまだ始まったばかりという気も致しますが、方向性は分かります。<br /> <br /> テクチューによって修行者は、空の元素と統合する。(中略)すべての現象は、生まれては消えるにまかせ、執着も拒絶もせず放っておくのだ。このときは、起きていることに反応しようとする「主体」もない状態だ。ただ、清らかな空に留まっている。(中略)不二の覚醒意識のなかに、自己を溶かし込み、生き生きとした覚醒の空そのものとなり切ることだ。「チベッタン・ヒーリング(テンジン・ワンギェル著)」<br /> <br /> これはよく分かります。不二の意識で三昧に留まることで清らかな状態に留まることが「空」と呼ぶのでしょう。「空」について色々と定義がありますが、これはかなりはっきりと「空」を説明したものであるような気が致します。<br /> <br /> トゥゲルでは、光の輝きを強調する。これは、光の修行だ。(中略)トゥゲルでは、元素のエネルギーの顕現を心の本性に統合する。(中略)不二の覚醒意識のなかに留まっていると(つまりこれがテクチューだが)、空なる現象の連続、とぎれることのない光の流れが感受される。(中略)いっさいが顕現するままにまかせていること。それがトゥゲルの修行だ。「チベッタン・ヒーリング(テンジン・ワンギェル著)」<br /> <br /> ここで言っている「光」を私は「漆黒の雲」と認識しているという点こそ違いますが、内容的にとても類似しているように思われます。とは言いましてもこの黒はやがて輝くようになるということのようですので、あまり気にすることではないかなと思っております。黒と言いつつも漆黒の黒ですので黒光りしているキラキラとした黒曜石のような輝きをしたふわふわとした雲ですので、これが光だと言われれれば確かに内部には光を内包しているような気も致します。<br /> <br /> サマーディ(三昧)の状態でむきだしの心(リクパ)であるところの不二の意識が基礎となり、テクチューで空の意識を保ちながらトゥゲルでエネルギーの顕現に向き合うのですね。<br /> <br /> このように整理してみると、サマーディ以降の流れがとてもすっきりと理解できたような気が致します。<br /> <br /> Thu, 15 Oct 2020 00:00:00 +0900 エネルギーが増した状態で更に状態を安定させ、静寂の境地へと至る https://w-jp.net/2020/2098/ <br /> エネルギーが増すと体の周囲にふわふわとした静電気に近いものを感じられるようになりました。その状態で瞑想をすると、以前よりも若干、安定しにくくなっているように思われました。<br /> <br /> 安定しない理由は何だろうと探ってみると、どうやら、左右のバランスが取れていないことに気がつきました。具体的には、少し右側に偏っておりましたので、特に胸のあたりを意識して、右胸から胸の中央へと中心軸を意思でもって少しずらしたところ、急に意識が静寂な状態へと遷移しました。これは、体のエネルギーを整える基本だと思います。<br /> <br /> 瞑想での体験での3つの要素のそれぞれがあって、エネルギーが高まることによって他の要素もそれに応じた安定度を求められるような気が致します。<br /> <br /> ・雑念の減少(無分別の意識)<br /> ・エネルギーの高まり(光明)<br /> ・静寂の境地(楽の経験)<br /> <br /> これらはバランスが必要で、今回の場合はエネルギーが少し高まったことにより雑念の現象が少し高いレベルで求められ、と同時に、静寂の境地もそれに応じて少し安定しにくくなったのかなとも思います。<br /> <br /> もちろんこれを支えるのが不二の意識ですので、不二の意識を保つのが基本です。<br /> <br /> その上で、エネルギーが高まればより微細な雑念を観察できるようになりますし、それにより、静寂の境地へと以前より多少入るのが難しくなります。とは言いましても、これは程度問題ですし、格段に難易度が上がると言うわけではなく、比較すると少しその傾向がある、と言うくらいです。言葉で言い表しますと何やら凄い変化のように感じてしまうかもしれませんが、エネルギーが少し高まることで雑念の感度も少し上がって、静寂の境地へも以前よりもちょっとだけ入るのが難しくなった、と言うだけで、それほど大した問題ではないと思います。<br /> <br /> 静寂の境地が安定しない時、あるいは、深呼吸をしても数回の深呼吸で入れない時は、これら3つの要素をチェックしてみると現在の状態がわかる気が致します。これら3つは経験であって、状態を知ったところでそれらがすぐに治るわけではない感じですが、少なくとも、ビフォー・アフターの違いを知ることは自分の状態を知る上で必要かなと思います。<br /> <br /> そして今回の場合、エネルギーが右に少し偏っていたことが原因でしたので、意識で少し中央に移動させてあげることでこれら3つのバランスが整い、静寂の境地へと達したわけです。<br /> <br /> Wed, 14 Oct 2020 00:00:00 +0900 不二の意識かどうかは勉強しなければわからない https://w-jp.net/2020/2097/ <br /> 各流派で「不二の意識」とはよく言いますけど、個人的には、きちんと定義を確認するまでは自分の経験している状態が不二の意識だとはわかりませんでした。<br /> <br /> そこで思うのは、不二の意識とはなかなか分かりにくいお話ですので、実際にその状態で生きていたり不二の状態で瞑想していたとしても定義を教わらないと不二の意識だとはわからない、そのようなものだと思います。<br /> <br /> 自分の状態が不二の意識だと勉強しない限りは自分で「不二」という言葉を使うことはなかったと思いますし、今でも、単に不二と聞いただけでは言葉の意味だけを考えますとあまりピンときませんが、昔から言われている不二の意識とはこういうことだと説明されれば、ああ、それはきっと私のこの経験と同じことを言っているのだな、とそこで初めてわかるのです。ですから、不二と聞いて「なんのことかわからない」と思ったとしても、わからないのが普通だと思います。不二の意識に普段からいるような人であっても「これのことを不二というの?」という感じかなと個人的には思っています。そのくらい、不二とはわかりにくくて不二の境地にある人にとってすら不二が何なのか理解されていないものだと思いますので、不二のことをわかっているという人の方をむしろ慎重に見極めて本当にわかっているかどうか判断した方がいいのかもしれません。基本的には不二の意識が何なのかわからないのが普通だと思います。<br /> <br /> 最初は割と単にスローモーションのヴィパッサナー(観察)状態だと認識していたわけですが、勉強するにつて、それを成り立たせている心の本性が存在していて、その心の本性が観察する時は不二の意識になるということがわかると、経験が先に来て、説明としての不二の意識というのは後で理解したわけです。<br /> <br /> 確かに不二の意識は最初のうちは弱くてそれが完全に不二の意識だとは思っていなかった面もありますので、最初にスローモーションが始まった頃は不二の意識が少しだけ出てきて、まだ弱い段階であるチェルドルの状態だったわけです。そのくらいですと不二の意識だとはよくわからないわけですが、実際は不二の意識の始まりだったわけです。<br /> <br /> そして、最近になってシャルドルを超えてくると、次第に、不二の意識とはこういうものなのかおぼろげにわかるようになってきて、ランドルの前兆により不二の意識が割とはっきりと出てきたからこそサマーディが深まってきたのだと理解するに至ったわけです。<br /> <br /> ですから、ランドルに至るまでは不二の意識と言われてもピンとこなかったわけですが、今ですら、全く勉強していなければこれが不二の意識だとはわからなかったと思います。不二の意識というのは、言葉だけでは分かりにくくて、経験したことのある人であれば説明されると、「ああ、あれのことね」とわかるようなものでもあると思います。<br /> <br /> この分かり難さ故に、勉強しただけで経験せずに自分が不二の意識を知っていると思っている方もいらっしゃるようにも思います。ですから、不二の意識を知っているという人のことをあまりホイホイと信用しない方がいいと思います。私が言うのもなんですけどね。自称で真理を知っていると言う人に大勢会いましたけど、大抵の場合は知識で知っているだけでしたから。その中には本当に知っている方もいらっしゃったのかもしれないですけど、私はそう主張している人が本当に不二の意識を知っていること認識できませんでした。<br /> <br /> 勉強と経験の両方が伴って初めて不二の意識が理解されるものと思いますし、おそらくは、不二の意識で生きていても不二の意識なんてよく分からないと言う人の方が多い気がいたします。もちろん全員を見てみることはできませんが、会った限りでは、不二の意識に生きていそうな人ほど不二の意識が何のことなんてわからない事の方が多く、不二の意識を知っていると言う人はかなりの割合で単に知識を知っているだけで、そのうち一部は、知識をきちんと理解しさえすれば悟りが得られてモクシャ(自由)に至ると思っていたりします。そんな方々が本当に不二の意識を知っているのかどうかはよく分かりません。世間なんてそんなものです。不二の意識を知っていると言う、自称聖者は大勢いらっしゃいますけど、多くの場合において私はそれらの人々が本物かどうか分かりませんので、もはやあまり気にしないことにしています。<br /> <br /> 他人が不二の意識を得ているかどうかは言動では分かりにくく、しかも、自分が不二の意識に生きていると主張している人は割といるとすれば・・・。あまりそう言う人のことは気にせず、関わらずに生きるしかないわけです。だって、明らかにそうでない、関わり合い持ちたくない種類の人や、延々と長い話をしていつまで経っても本筋を言わずに焦らすだけの人がいたりして、なんだか時間の無駄であることが多いわけです。<br /> <br /> ある程度の勉強をして、本も読んで、正しいと思う筋道を自分で突き進むしかないかもしれないですよね。スピリチュアルな道なんてのは落とし穴だらけで、正しいグルを見つけるのはかなり困難ですし、まあ、あまり気にしすぎても仕方がないと思います。<br /> <br /> ・・・不二の意識とは、そのくらいよくわからないものです。ですから、あまり不二の意識を追い求めてセミナーに通ったり勉強に通いすぎない方がいいと思います。どちらにせよ時が来るまではわからないのですから、勉強は必要にしても、勉強はそこそこにして、まずは瞑想なりヨガアサナするなりした方が近道だと思います。どちらにせよ先に自分が変化すれば定義を見れば「ああ、このことだったのか」と分かりますので、私は勉強は必要と言いましたけど、勉強だけでいいとは言っていませんので、勉強はそこそこでいいのかな、と言う気も致します。<br /> <br /> まあ、スピリチュアルなんて人それぞれ好きにすればいいのですから、勉強も好きにすればいいのですけど。<br /> <br /> Tue, 13 Oct 2020 00:00:00 +0900 黒はアジナチャクラのアストラル下層の段階 https://w-jp.net/2020/2096/ <br /> ヨーガ行者の本山博先生によれば、黒はアストラル下層の段階であると言います。<br /> <br /> 雑念が消え、深い精神集中の状態に入ると、アストラル体は黒色にみえる。「密教ヨーガ(本山博著)」<br /> <br /> これが、しっくりきます。最近の静寂の境地はアストラル下層に相当しているのでしょう。半年ほど前から度々、瞑想中に漆黒の雲に包まれるようになり、ここ最近に集中力と言いますか静寂の境地に割とすぐに入れるようになってからは意識の裏側にある暗黒の雲を割と容易に認識できるようになりました。<br /> <br /> どうやら、この意識の裏側がアストラルの世界なのですね。そして、アストラルの中でも黒というのは下層のことなのですね。アストラル上層は薄いスミレ色のようですからそれはまだのようですね。そして、アストラルを超えてカーラナ(コーザル)に達すると光り輝くようです。<br /> <br /> その黒色のアストラル体に、さらに精神集中を続けていると、それは光り輝くようになる。「密教ヨーガ(本山博著)」<br /> <br /> アストラルという言葉は流派によって定義が少しづつ違っていて、例えば神智学とかですと多少異なった定義があるようですが、ここでいう本山博先生の流儀におけるアストラル体というのは個人的なスピリチュアルの範囲を意味するようです。アストラルの段階では個人的なカルマがわかって、超能力的なものが出てくる場合であっても個人的なものに限定されるとのことです。<br /> <br /> その上のカーラナ(コーザル、原因)の段階に進むと個人的なものを超越するので、アストラルからカーラナに進みましょう、と本山博先生はおっしゃっています。本山博先生のおっしゃる所のアストラル下層は感覚とか想念とか感情とかが主なようです。であればそれほど高級な世界ではありませんので、あまり気にせずにそのまま精神集中を続けてアストラル体の段階を抜けてしまうのが良さそうです。<br /> <br /> 瞑想中に黒が見えてきたということは、これらアストラル下層の感覚とか想念とか感情とかを超え始めたということだと理解しています。同書によると、その一つ前の段階は「煙色」だと言います。<br /> <br /> 1.ムーラダーラチャクラでは、アストラル体は煙色である。<br /> 2.アジナチャクラでは黒色である。<br /> 3.サハスララチャクラでは、光り輝いている。<br /> 「密教ヨーガ(本山博著)」<br /> <br /> これは同書によれば、精神集中の度合いにそのまま対応するとのことです。<br /> <br /> 1.ムーラダーラチャクラ。灰色。浅い精神集中。<br /> 2.アジナチャクラ。黒色。深い精神集中。雑念が消えた状態。<br /> 3.サハスララチャクラ。光り輝く。<br /> <br /> ただ、同書には、黒色が深い精神集中とも書いてある一方で、以下のような記述もあります。<br /> <br /> アジナをみていて、それが黒いというか、紫色の黒いような色あるいはスミレ色でみえる時は、主としてアストラルで動いている。「密教ヨーガ(本山博著)」<br /> <br /> 「チャクラの覚醒と解脱(本山博著)」によると、アストラル下層で動いている時はまだ感情とか想念を完璧にコントロールできない、と言います。確かに、昔より遥かに雑念が減ったとはいえ、まだ多少のトラウマは出てきますし5〜10秒くらいとはいえトラウマが頭の中で回転もします。<br /> <br /> とは言いましても、黒色ということは少なくともアジナが動き出しているということですから、そう悲観するものでもないと思います。<br /> <br /> Mon, 12 Oct 2020 00:00:00 +0900 体に「裏」の漆黒が注ぎ込まれ、圧力が高まる https://w-jp.net/2020/2095/ <br /> 先日の続きです。意識の裏側にある漆黒が表側に注ぎ込まれると、やがて、身体中にその漆黒が行き渡り、漆黒の濃度が濃くなってゆきます。すると、身体中が内側から外側に向かって膨張するかのような圧力を感じるのですが、体あるいは自分の微細体が一定の大きさの枠組みを持っているためにそれ以上大きくなれずに身体中に圧力らしきものを感じます。<br /> <br /> その圧力が一定以上になると少し圧迫されて苦しい感覚も少し出るのですが、言葉でいうほど苦しいわけではなく、圧力が強いので何となく苦しい気分がちょっとするだけで、実際は苦しいというよりも、単に圧力を感じて窮屈な感じがしているだけ、とも言えます。<br /> <br /> この圧力は、おそらくはエネルギーなのではないかと思います。かつては「こちら側」に現れる時は雑念や観念として現れてきたものが、そのエネルギーそのものが「むこう側」から「こちら側」へと流れ出るようになったのかなと思います。もしかしたらこれを人によっては次元の扉のようにいうかもしれませんが、次元の扉かどうかはよくわかりません。高次元のエネルギーが少し下の次元に流れ込んでいる、と考えることもできますが、それが正しいかどうかは今のところわかりません。<br /> <br /> 私は「圧力」とか「漆黒」として認識しましたけど、書物を読むと、これは「光明の体験」としてエネルギー的な観点から説明されているような気が致します。<br /> <br /> 光明の体験は、エネルギーすなわち声の側面と結びついている。そのあらわれ方は、感情や光のヴィジョンをはじめ、多様だ。たとえば、守護尊のマンダラの清浄な顕現は、光明の体験である。「ゾクチェンの教え(ナムカイノルブ 著)」<br /> <br /> 更には、これらの経験はあくまでも経験であり、サマーディ(三昧)の気付きの境地にい続けることこそが重要であるという。修行における経験は無限の種類があるが、気付きの境地に留まるという点においては共通だとのこと。これはよくわかります。<br /> <br /> 楽の境地や空性の境地にありながら、そこに三昧の覚醒が保たれていなければ、まるで体験の中で眠り込んでしまったようなものだ。(中略)楽の体験と空性の体験は、まったく違う。だが、それらの体験のもともとの本性は一つだ。(中略)覚醒した叡智は唯一のものであり、心を超えている。ありとあらゆる無限の顕現の土台となる不二の境地とは、この覚醒のことだ。「ゾクチェンの教え(ナムカイノルブ 著)」<br /> <br /> 同書によれば不二の境地には以下の3つの経験が生じてくると言います。<br /> <br /> ・無分別の経験<意に対応><br /> ・光明の経験(上記参照)<口(声)に対応><br /> ・楽の経験<身に対応><br /> <br /> 無分別の体験は、文字通り思考がわきあがってこない状態と、思考がわきおこってきても、それによってさまたげられない状態の両方を指している。この体験は、心の<空性>の境地として定義することもできる。それは、心がリラックスしたことから自然寺生じてくる現象だ。「ゾクチェンの教え(ナムカイノルブ 著)」<br /> <br /> 楽の体験は、身体のレヴェルと結びついている。寂静な境地(「止」)の修行を長い間続けていると、身体がなくなってしまったような感覚や、まるで自分が、虚空に浮かぶ雲の真ん中にいるような、大きな喜びを体験することがある。それが楽の経験の例だ。「ゾクチェンの教え(ナムカイノルブ 著)」<br /> <br /> これらの経験は素晴らしい経験ではありますが、それはサマーディ(三昧)の境地に往々にして付随する経験であり、ただそれらはサマーディの境地そのものとは異なると言います。不二の意識のみがサマーディの本質であり、不二の意識以外のこれらの経験はあくまでもサマーディではないサマーディに付随した経験であり、大切なのは覚醒の意識そのものであり、覚醒の意識とは不二の意識のことであるというのです。<br /> <br /> これはとても単純なお話ですが、説明しようとするとなかなか困難なお話のような気が致します。静寂の境地そのものは経験であるとも言えますし、その状態においては不二の覚醒の境地が伴っているとも言えます。静寂の境地に至った結果、静寂の境地の中に眠り込むこともなくはありませんが、不二の覚醒がなければすぐに静寂の境地から滑り落ちてしまいます。ですから、静寂の境地はいわばシンボルであり、人はそこを目指しますが、静寂の境地のためには土台として不二の意識が必要なのですよね。そして、不二の意識の部分こそがサマーディの本質であるわけです。<br /> <br /> これは、サマーディが育ってくるときに出てくる主な能力であるチェルドル、シャルドル、ランドルにも関連性があるように思えます。不二の意識が育つにつれて3つの能力(チェルドル、シャルドル、ランドル)が出てきて、それに付随して、3つの経験(無分別の境地、光明の経験、楽の経験)が生じるわけですね。<br /> <br /> このような「経験」の部分を重視しすぎる必要はないですけど、軽視しすぎる必要もないわけです。それはそれとしてあるわけですから、ありのままで良いわけです。重要なのはサマーディの不二の意識なのですから、それさえわかっていれば、経験を捨てる必要もないわけです。<br /> <br /> 古典ヨーガやヴェーダンタの一部の流派によっては「経験」の部分を軽視していたりしますけど、グルに「経験は重要ではない」と言われたからと言って探求を簡単にやめる人は上達しない、と個人的に思います。グルに「経験は重要ではない」と言われたとして、その意味はこのように「サマーディの不二の意識が大切なのだ」という意味であって、経験を捨てなくてはならない、という意味ではない筈です。経験はありのままに存在していれば良い。しかし弟子は勘違いして経験は重要ではない、という言葉だけが一人歩きして、経験をした人に対して「経験は重要ではない」と言ってマウンティングの道具にしてしまう。そんな愚かなお話が時々散見されます。そのようなマウンティングに屈せず、経験は経験そのものとしてありのままとして存在していて、経験すらもどのようなことなのだろうかと探求し、サマーディの不二の意識と経験の関係、意識との関係の探求を続け、グルの教えを鵜呑みにしたりせずにどのような意味なのだろうかと自己で探求する人だけが成長するのだと思います。せっかく古典ヨーガやヴェーダンタを勉強していても、このようなマウンティングの罠にハマっている人がぼちぼち散見されます。そんなことに関わらず、本質である、不二の意識に留まり続ければ全てはありのままの世界として見えてくると思うわけです。<br /> <br /> 体のエネルギーが高まって圧力が高まる経験はあくまで「経験」ですけど、古典ヨーガやヴェーダンタの流派によっては簡単に「そんなことは重要ではない」と切り捨ててしまっています。そのように捨てることで否定してしまうことはマイナスでしかなく(本人たちは否定していないというでしょうが)、個人的には、その経験自体をありのままに眺めればよくて、結局、必要なのは不二の意識だけであるわけです。古典ヨーガやヴェーダンタを勉強している人は同じように不二の意識だけが重要と言いますし、言葉だけを見ると正しいのですけど、何か、どこか違和感があったりします。もちろん人によりますけどね。その違和感を捨てずに追求しないと落とし穴にハマってしまうこともあるわけです。これは、不二の意識を勉強する人が勉強しすぎることによってハマる落とし穴の1つです。であれば、そんなに勉強しなくても、まず瞑想するなどして自分の意識が進んで変化してから初めて書物を探して確かめる、という方がよほどいいと思うのですけどね。<br /> <br /> 何が一番大切かと聞かれたらもちろんサマーディの不二の意識が重要と答えますが、ですが、エネルギー的な観点も重要でエネルギーが高ければネガティブに影響されにくくなってポジティブになりますから光明の経験は重要ですし、意識の平穏がなければエネルギーも安定しませんから無分別も大切です。リラックスできていなければエネルギーの消費が激しくて疲れやすいですから楽の経験だって同じくらい重要です。ですから全部重要なわけで、何か1つだけあればそれで完璧と言うわけにはいかないと思うのです。そして、それを支える土台の部分がサマーディの不二の意識であるわけです。<br /> <br /> ■真言宗の三密<br /> <br /> 私は真言宗の修行はしたことがありませんが、上記の内容は真言宗の三密と似ていて興味深いです。<br /> <br /> 身密 印を組む。身体。<br /> 口密 真言を唱える。言葉。<br /> 意密 仏を観想する。心。<br /> → これらを達成して御本尊と一体となることが三密加持。<br /> <br /> 意味が少し変わって伝わったのか、それとも、表向きはこのような意味で、実際は同じような意味なのでしょうか? ひとまずメモしておきます。<br /> <br /> Sun, 11 Oct 2020 00:00:00 +0900 意識の裏側にある暗黒の雲に近づく。ランドルの前兆 https://w-jp.net/2020/2094/ <br /> 意識が静まってきて静寂の意識に達したのち、雑念が出てきても1〜5文字くらいで消えてゆくようになります。その時、雑念が出てきたところにギュッと意識を近づけてみます。意識を近づければ近づけるほど雑念が素早く消えるようになるのですが、そのためには集中が必要です。<br /> <br /> 集中しなくても自然にいられるのですが、観察をして雑念の元を見るためには集中が必要のようです。<br /> <br /> 集中しなくても自動的思考を流すことはできて、以前は自動的思考と観察者としてのわたしが割と結びついていたのですが最近は更に分離されてきて、純粋観察者とまでは行かないかもしれませんが観察者として自動的思考を見守ることはできています。<br /> <br /> その状態において雑念を観察しますと、雑念が出てくる元のところに時空の反転箇所があって、その反転箇所の向こう側はいわゆる「裏」の世界になっているようなのです。<br /> <br /> 裏の世界は漆黒の雲によってできており、その漆黒の雲から煙が上がるようにして雑念あるいは雑多な観念が生まれ、その雲から出た雑念が発散すると拡散して消えてゆくようなのです。近づけば近づくほど素早く消えてゆきます。<br /> <br /> その状態を続けてゆくと、やがて、漆黒の雲自体が少しづつ「こちら側」の世界へと流れ込むようになりました。何でしょうこれ?<br /> <br /> 今までは、漆黒の雲が雑念として現れては消えるか(あるいは以前であればその雑念のループ)しておりましたが、ここにきて、漆黒の雲、それ自体がいわゆる「こちら側」の世界へと流れ込んできて、少しづつ「わたし」と融合しているようなのです。まだ濃度的には薄いのですが、私の体と重なっている部分のオーラに対して漆黒の雲が少しづつ流れ込んできているのがわかります。<br /> <br /> シャルドルの時までは、単に、雑念が消えるだけでした。<br /> <br /> この現在の状態がランドルかどうかは確実な確証はありませんが、シャルドルとは違った感じを受けます。雑念として上がってきたものが消える有様に関してはシャルドルとそう変わりません。シャルドルの時は雑念にしても自動的な思考にしてもどちらも割と同じように扱っていましたが、ランドルっぽい状態においては、自動的な思考は残り、雑念の方だけ自動的に消えるようになったような気も致します。これは質の違いで区別ができるようになったということでしょうか。それともたまたまかもしれませんが。<br /> <br /> 更に、この状態では、雑念の奥底から漆黒の雲がこちらに流れ出てきているのを感じるのです。<br /> <br /> 漆黒の雲が平らに存在していて、それは地面というよりはガラス面のように横に存在していて、そのガラス面の向こう側は「裏側」で、そのガラス面のような漆黒の雲から竜巻あるいは煙の雲が上がるようにして漆黒の雲の一部が「こちら側」の世界、特に「わたし」の中に流れ込んできているのを感じます。<br /> <br /> この「裏側」から雑念・観念が現れ、そしては消えてゆく。あるいは、その「裏側」それ自体がこの世界を構成している。この世界は「裏側」からちょっと漏れ出た部分に過ぎないのかもしれません。そして、その「裏側」に繋がることができて「本当のこの世界」を知ることができるのかもしれない? 今は、何となくそんな気がしています。<br /> <br /> これは、魔術等で無理やり扉を開くとかいう種類のものではなく、平穏なる意識の中で現れるものです。神秘的に聞こえてしまうかもしれませんが、至って普通な、平凡な状態、しかしながらエネルギーに満ちた、静寂な意識の中で認識されている変化です。<br /> <br /> これに至ったからと言ってどうこういうわけでもなく、ほとんどは、単に自分の記録としてメモをしているまでです。<br /> <br /> Sat, 10 Oct 2020 00:00:00 +0900 呼吸による瞑想状態(静寂の境地)への入り方 https://w-jp.net/2020/2093/ <br /> 割とありきたりですけど、呼吸に意識を合わせます。すると、割とすぐに静寂の境地へと達します。<br /> <br /> 最近は割と単に座ることも多くて、それでも静寂の境地は現れるわけですが、時々、昔のように雑念が繰り返されて静寂の境地に至らない時もあります。かと言って昔のように悩まされるわけでもなく、内容といえば私生活のことだったり仕事のことだったりと割と役立つことも多いので自動的な思考を気付きの一環として利用できたりもします。ですから特に思い悩むこともないのですが、それが瞑想かというとちょっと違う感じですので、なかなか静寂の境地に自動的に入らない場合は意識的にその状態へと持っていってあげる、ということをします。<br /> <br /> 最初から呼吸に意識を合わせてもいいのですけど、普段の日常生活で気付いていなかった思考を一旦は整理した方が良い感じですので最初は自動的に思考を流しています。そして、そろそろいいかなと思ったら静寂の境地へと持っていくために呼吸に意識を合わせるのです。これは私の最近のやり方ですので、後で変わるかもしれませんし、人それぞれ好みもあるでしょうし、古典的ヨガの瞑想ですと最初から割と呼吸に意識を合わせて静寂の境地に持っていくと思います。<br /> <br /> 普通に呼吸を観察するだけでも静寂の境地になりますし、1呼吸か2呼吸、割とすぐに意識は静まります。よりはっきりと明確に意識を鎮めたいときは深呼吸すれば更に鎮まります。<br /> <br /> この深呼吸で、観察と集中、両方とも高まります。瞑想は観察だけでもなく集中だけでもありませんので、この深呼吸のことを集中ということもできますし観察ということもできます。言い方に違いはあれど同じことです。流派によっては「観察ではなく集中だ」とか「集中ではなく観察だ」とか言ったりもしますけど、私からしたら同じことです。かと言って、そう言われたからと言ってわざわざそれを指摘したりするような野暮なことはする必要なくて、実際のところ、観察と集中は裏表で一体のようなものだと心に留めておけば十分だと思います。単に、その流派ではその言い方が合っているというだけのお話で、このような言い方の違いに初心者は惑わされたり、他の流派と比べてしまって「あっちが良い、集中が良い、いや、観察が良い」とか様々に思ってしまったりしますけど、単に瞑想の一面を述べているだけで、実際は大差なく、対局を見ればどちらも割と同じことです。それでも一応はヨーガスートラ等で階梯があって、対局としては集中から観察へ、という流れはあります。ただしその集中に至るための準備としての観察というものもあって、なかなか瞑想の世界はわかりにくいものになっています。<br /> <br /> ・・・そんなわけで、瞑想というと小難しいお話が色々と出てきますけど、それはおいおい理解すればいいことで、実際の瞑想はもっと単純なわけです。<br /> <br /> 何か、例えば職人や技術職で自分の得意な仕事をしようとするとき、意識を切り替えて集中しようとして深呼吸して仕事モードに入ったりするでしょう。その時の深呼吸は瞑想に入る時の呼吸に似ています。というか、ほとんど同じものです。深呼吸をして意識を鎮め、仕事に集中するのです。その境地に達していないのであればその職人や技術職はまだ熟練したとは言えないと思います。これは別に瞑想しているからとかそういうお話とは関係なく、おそらくは普通にどこでもあるものと思いますが・・・。少なくとも私の知っている範囲であれば。音楽の世界などでも楽器を演奏するときなど深呼吸して静寂の意識に入るでしょう。それを集中と言う場合もあるでしょうしモードに入ると言う時もあるでしょうし言い方は色々あるとは思いますが、同じことだと思います。そのことをここでは瞑想状態に入る、と表現しています。<br /> <br /> そのように実際は瞑想状態に入ることは特別でも何でもないのですが、最近は割と瞑想状態が何なのか忘れられてしまっているような気が致します。多くの人が欲望に身を任せて瞑想状態がないまま生活するのが普通になってしまっています。<br /> <br /> 特に座った瞑想をしなくても静寂の境地に入るような習慣があれば割と瞑想と同じことをしているとは思います。一つでもそのような境地への入り口を知っているのであれば瞑想に入るのも簡単なことで、ただやり方がちょっと違うだけで、座ってからその時のように深呼吸をして静寂の境地に入ればいいのです。<br /> <br /> 最近は割と瞑想が全く違う世界のものとして、例えばスピリチュアルだとか神秘体験に結びつけられて考えられることが多くなってきました。しかし、本来の瞑想と言うと必ずしもスピリチュアルや神秘体験と結びついたものではなく、職人や音楽家、あるいは武士などが静寂の境地に達するための手法として存在していた面も多いように思います。そして最近はそれらが同じ境地であることが忘れ去られ、瞑想というものがどこかふわふわとした実体のないものになっているような気が致します。<br /> <br /> 確かに瞑想と言うと神秘体験を伴うこともありますが瞑想と言うと本質はそこではなく、自らの本質と繋がる行為、それはすなわち静寂の境地に至って自らの本質を外側へと顕現できるような境地に至ることであると思うわけです。まずは自らの心の本質がありのままに外を認識できるようになり、やがては、その心の本質が自在に体を動かすようになるわけです。<br /> <br /> 心を覆ってしまっている雑念や欲望、葛藤などがその心の本質を覆い隠し、心の本性が出てくることができないのが多くの今の人の現状です。そして、その状態を更に強化させるべく世の中に欲望・葛藤・刺激・妬みなどが宣伝され、霊的な観点は失われ、欲望に生きることこそが人間として正しいと教えられてしまっているが故に救いがなくなっているのです。<br /> <br /> 救いにしてみても、心の本性をむきだしにすることだけが救いである筈なのに、別の欲望や依存を作り出して救いだと言っている悪魔の団体が多くあります。そのような悪魔の団体が宗教の仮面をかぶったり心理学カウンセリングあるいは啓蒙セミナーと称して人を更なる混迷へと導いているわけです。それは救いがないです。<br /> <br /> 瞑想は、そのような「追加」するアプローチとは全く逆です。瞑想とは、雑念を取り払うプロセスであり、人によっては深呼吸をするだけで雑念が取り払われ、静寂の境地に達します。しかしながら厚い雑念や強い葛藤に覆われてしまっている人は数回の深呼吸で静寂の境地に達することはできません。ですから、そのような場合は地道な日々の努力で雲を取り払う必要があるわけです。それが日々の瞑想のプロセスになり、やがては、雲が晴れて静寂の境地に達するわけです。<br /> <br /> 個人的に思うのは、最初の段階では瞑想をするより職人や技術職などで集中のプロセスを辿る方が結局は早道なのではないかな、とは思います。これは人によると思いますので必ずしもこの道を勧めるわけではありませんが、個人的にはそう思います。<br /> <br /> 瞑想の教授を受けると、呼吸で静寂に達します、などと軽々しく説明されることも多い気がしますけど、実際はそんな単純ではなく、色々とプロセスがあるわけですね。そんな簡単に呼吸で静寂な意識に達することができるならわざわざ瞑想を習いにきたりはしない、とも個人的には思ってしまうわけで、瞑想の指導をしているのであればもう一歩二歩と踏み込んだ上で、どうして呼吸で静寂の境地に達することができないのかを説明すべきでありますし、その場合も、大抵は「雑念などの雲で覆われてしまっている」と言う説明は割とどこでも聞けると思いますけど、実際に教えている人が静寂の境地に達していないことも多くて、その言葉が空虚で空回りしていることも多々あるのが悲しいところです。言葉としてはその通りなんですけど、実際にそれを言う人がその境地を知っていないと伝わらないと思いますけどね。<br /> <br /> そのように、瞑想の手法としてはとても簡単で、「ただ、呼吸しさえすればいい。そうすれば静寂の境地に達する」と言うものではあるのですけど、そこに至るにはステップが必要なのだと思います。<br /> <br /> 深呼吸をしてもぜんぜん静寂の境地にならなかったのだとしたら、それは手法の問題ではなくてまだ心に雑念が厚く覆い尽くしていると言うことですので、地道に瞑想をしたり仕事に打ち込む必要があります。秘法で簡単に取り払うとかそう言うものではありませんので少しづつ行う必要があります。ある程度の筋道がありますのでそれに従えば半年あるいは年単位で変化が起こります。1回やっただけで変化があるものでもありません。<br /> <br /> リラックスする方法で「深呼吸しましょう」なんて人は気安く言いますけど、深呼吸くらいでリラックスできるなら最初からリラックスする方法なんて聞かないですよ、と言うことでもあります。深呼吸は手法でもあり、その一方で、深呼吸でどのように変化するかは意識の状態を測る目安でもあるわけですね。<br /> <br /> 静寂の境地への入り方は説明としては簡単で「瞑想しましょう」「呼吸に意識を向けましょう」と、言うことは簡単ですけど、本当にできるのであれば瞑想を始めて呼吸を1回か多くても数回も観察すれば後は静寂の境地に入ってゆけるわけです。<br /> <br /> ここで勘違いして欲しくないのは、呼吸に意識を向けること自体が静寂の境地ではないと言うことです。呼吸に意識を向けるのは静寂の境地に入るためのただのきっかけです。きっかけですから、補助輪のようなもので、最初に少し呼吸に意識を向けて意識を平らにすればあとは補助輪であるところの呼吸への意識をやめても問題なく静寂の境地が続くのです。<br /> <br /> たまに、瞑想の流派で呼吸の観察をすることが瞑想だと思っている方がいらっしゃいますけど、それも瞑想の手法の1つではありますがここで言っている呼吸による静寂の境地の瞑想とは異なっていて、呼吸に集中している状態というのはあくまでも雑念から離れると言う観察、あるいは、呼吸に集中するという行為をしているのであって、瞑想における静寂の境地とはかなり異なります。呼吸の観察あるいは呼吸の集中というのはあくまでも補助輪であるところの呼吸への観察あるいは集中を延々と繰り返すということであり、瞑想の静寂の境地はその補助輪を外した後にやってくるわけですね。<br /> <br /> ですから、瞑想の「入り方」として呼吸へ意識を合わせることはしますけど、静寂の境地の瞑想状態そのものが呼吸へと意識を合わせることではないわけですね。<br /> <br /> それは一旦できてしまえばとても簡単で、シンプルなお話なのですが、試してみてできなければなかなかできない、というお話になります。ですがおそらくは誰でも可能で、自分の意識を少しづつ鎮めて行けば誰にでも可能なお話なのだと思います。<br /> <br /> Fri, 09 Oct 2020 00:00:00 +0900 集中すればするほど瞑想が深まる。ランドルの前兆 https://w-jp.net/2020/2092/ <br /> チェルドルでは、多少時間をかけて段階的に静寂の意識が表れました。意識が多少ざわざわしている平準状態がしばらく続き、ふとした拍子に一段階づつ静寂の意識に近づいて行きました。<br /> <br /> 最初の頃はチェルドルでも瞑想が終わると次第に意識が雑多なものへと帰ってゆきましたが、次第に、それほど戻らなくなり、それなりに静寂な状態を日常生活で保てるようになります。<br /> <br /> 最初の頃は瞑想を始めたときにチェルドルで何度も意識の平穏に鎮めてゆかなくてはならなかったところが、やがて、日常生活および瞑想のスタート時点でそれなりに意識が鎮まっているのでそこからチェルドルで意識を鎮める程度が少なくて済むようになりました。<br /> <br /> そして、チェルドルである程度の意識が平穏になった後、シャルドルが起こります。シャルドルでは雑念が生じても少し観察すれば滴が太陽に照らされて蒸発するかのように消えてゆきます。おおよそ5文字から10文字くらいで携帯の電波が悪くなるかのように、あるいは、ラジオのボリュームが小さくなるかのように消えてゆきます。<br /> <br /> そして、その状態から更に集中を深めると、文字でいうと1文字表れたかどうかのところで消えてゆくようになります。おそらくこれがランドル、あるいはランドルの前兆のようなものではないかと思います。<br /> <br /> 1.チェルドル<br /> 2.シャルドル<br /> 3.ランドル<br /> <br /> 究極的な自己解脱の能力は、ランドルと呼ばれる。これは「自然にみずからを解放する」ことを意味し、蛇が自分のどくろをやすやすと、瞬間的に、素早く解くようすにたとえられている。「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」<br /> <br /> この状態に完全になったわけではない感じが致しますが、その前兆はあるような気が致します。<br /> <br /> ここでいう「集中を深める」とは、五感の何かに集中するという意味ではなく、意思を使って体の奥底にあるオーラを律するという感じのものです。既に自我は鎮まっていますから五感も鎮まっておりますのでそこは手を加える必要はなく、意思でオーラを律することで、具体的には思考をまずは制御するわけですね。<br /> <br /> まずチェルドルで意識を段階的に鎮めます。意識を鎮めるということはオーラを鎮めるということです。その後、オーラと意識が安定するとシャルドルで雑念が自動的に消えるようになります。そして、ランドルに至るためにはおそらく、もう一段階、意識とオーラを鎮める必要があると思うのです。そのことを意思でもって「更に集中」と表現しています。おそらくはもっと進むとこのような努力も不要になるとは思うのですが、今一歩足りていなくて、今のところは意思で段階的に進める必要があるのかなと思っております。そうして瞑想である程度の集中状態になると、ランドルの前兆ではないかと思われる状態に達したわけです。<br /> <br /> 書物の説明を読むと、この状態こそが二元論を超えた状態であると言いますが、今のところ、それほどピンときません。しかし、説明を読む限りは一応は理解できます。<br /> <br /> 完璧に二元論を超えた、瞬時の、瞬間的な自己解脱である。主体と客体の分離は自然に崩壊し、習慣となった見方、区切られた鳥籠のような自我の声は、存在そのもの(法性)の、空のような顕現の中に解き放たれる。(中略)修行者は原初的な知恵を体験する。対象が生じると同時に、それが自らの空性の境地と同じく、空であることを認識するのである。空性と顕現の統一の境地、そしてその境地そのものと空性が、ともに存在しているということが、すべて同時に経験される。だからすべては「一味である」すなわち主体と対象はいずれも空である、ということになる。二元論は完全に克服される。主体や対象が存在しないというわけではない。とだえることなく三昧が持続し、自己解脱の修行をつうじて、二元論に限界づけられなくなるのである。「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」<br /> <br /> 私はどうやらまだ完璧に二元論を超えてはいないように思いますが、内容はよく理解できます。雑念が印象を生み出し、実態があるかのような幻想を作り出している一方で、その幻想を作り出している雑念あるいは思考というものが瞬時に(空に、あるいは、無として)消えてしまうということは、存在と非存在、どちらも実は空なのだとしたらそのようなものなのでしょう。実在というものは人の印象があるからこそ存在しているもので、人の印象というものは雑念がすぐに消えてしまうようにはかなく、空から雑念が生まれたことにより実在が生じたかと思えば瞬時にそれはすぐに雑念として消えてしまうことで実在としてもなくなってしまうのだと思います。このことを古来、「空」から生じて「空」に消えるとか、そのように様々に表現してきたのかな、とも思います。<br /> <br /> これは、認識がこれ以上進んでしまうと変化が早すぎてわかりにくくなってしまうので、今くらいの中途半端な状態の方が細かく見れていいような気も致します。なんとなくの感覚ですけどね。もっと進めば瞬時にこれが起こってしまうのでよくわからなくなってしまうような気が致します。今は、言葉にすれば1文字くらいではあっても一瞬の時間差があって雑念が消えてゆきますので、これが更に進んで瞬時に消えてしまうとなると、それはそれで違った印象になりそうです。<br /> <br /> 雑念が起こる前は静寂の境地で、それはいわゆる「空」の境地にいると思います。そんなときにも雑念は浮かんできますので、雑念が浮かんできたらそれと同時に具体的な印象も生じ、それはいわゆる「実在」として実体のあるものとして心の中に(一瞬とは言え)浮かんできます。ヨーガでは、対象というものは人が認識するからこそ存在する、と説いています。その原則を当てはめるのであれば、心の中に雑念あるいは印象として実在が存在する時だけ対象が存在しているわけです。しかし、その対象というものは元々は雑念でしかなく、その雑念というのは、もともとは「空」の意識から浮かんできたものなのです。そして、(いわば無あるいは)空から生まれた対象が、またすぐに(無であるところの)「空」へと帰ってゆく。ですから、実在は全て「空」である、と言えると思うのです。<br /> <br /> この世界は全てが神様の意思で充満していて、本来は「無」とは言えないと思うのですが、何もないような空間という意味であれば「無」と言っても良いとは思いますが、それよりも、存在しているのだけれども空っぽのように認識される、という意味合いからすれば「空」の方が適切のような気も致します。<br /> <br /> 引用分にある、主体と対象(客体)との違いがなくて両方とも空であるということは、このあたりから理解できると思うのです。まず、自分の意識というものは清浄な意識で平穏なもので、それは無ではなくむしろ空ともいうべき意識が空間に充満したものになります。そこに、印象として雑念あるいはトラウマでもいいですけど何かが浮かぶと、それにより対象が表れます。自分の意識が生じて対象を認識して初めて対象が存在するのですから、それは、自分の意識そのものであるとも言えるわけです。実際、自分の中に生まれた感覚・雑念・印象そのものが実在としての対象を生み出すわけです。自分の中にそれらが生じて初めてこの世界に対象が存在できるわけで、自分が認識していなければ対象が存在しないわけです。<br /> <br /> その知識の前提に立てば、瞑想中に起こっている雑念の生起および消滅のはたらきが、実は二元論を超えることの証明になっていることが理解できるわけです。<br /> <br /> おそらくは、これは瞑想で経験するだけではわからないことで、瞑想で経験することと、知識(ニャーナ)が組み合わさって初めて起こる理解なのだと思います。・・・と今は思っているだけで、実は瞑想だけでも理解できるかもしれないですけど、今のところは、そんな気がしています。<br /> <br /> 瞑想で知覚できるのは上記に書いたように、静寂な境地で雑念が生起してそれがすぐに消滅するということだけです。それに、印象が対象を生み出している、という知識を加えた時、その知覚は単なる知覚ではなく、知識になるわけです。ただまあ、もっと瞑想を深めればそのうち理解できる気も致しますけど、それはそれで、また実証すればいいことですし。<br /> <br /> ひとまず、理屈として理解するのはそれはそれであっていいと思います。<br /> <br /> Thu, 08 Oct 2020 00:00:00 +0900 静寂の意識の中に生きる https://w-jp.net/2020/2091/ <br /> わたし、と体が一体化している時、その時は、静寂の意識の中に生きています。それらは表裏一体で、静寂の意識とは「わたし」と身体が一体化している状態なわけです。<br /> <br /> 瞑想を始めると、最初はちょっとモヤモヤとしています。<br /> <br /> 以前であれば段階的に静寂の意識が表れていましたが、今は、意識は割と静寂の意識のまま、雑念だけが雲が晴れるかのように本格的な静寂な意識に移行するようになりました。<br /> <br /> 以前は、雑念があってモヤモヤしていると意識も淀んでいました。<br /> 今は、雑念があっても割と意識が明確で雑念に気付いています。<br /> <br /> 以前は、雑念が晴れると同時に静寂の意識に移行していました。雑念の状態と意識の清浄な状態とが割とシンクロしていたわけですよね。<br /> 今は、雑念と意識の清浄な状態とが割と独立するようになってきました。<br /> <br /> これは程度問題で、似たようなことは以前から起こってきました。<br /> <br /> しかし、今まではそれほど明確にこの違いを意識することはありませんでしたが、ここにきて、意識が静寂で明らかなものになってきたことで違いが明確に認識できるようになった気が致します。<br /> <br /> かなり昔は雑念に「襲われる」と言う感じで、私の周囲を雑念が完全に覆い隠すと言う感じでした。私の意識全てが雑念に囲まれて逃げられなくなり、攻撃されているかのようでした。実際、攻撃を受けていたのかもしれません。それも、ヨーガを始めてクンダリーニが動き出してからは段階的に、劇的に違う感じのものに変わってゆきました。<br /> <br /> 今は、雑念はラジオのようなものです。雑念が聞こえてきても、途中で不意に、ラジオのボリュームを誰かが小さくしてくれたかのようにどんどんと音が小さくなっていって消えてしまいます。一旦消えた雑念はもはや聞こえてきません。そして、雑念が何だったのかもすぐに忘れてしまいます。雑念が現れると同時に消えるシャルドルの状態なのかな、と思います。<br /> <br /> これは五感がなくなってしまったわけではありません。むしろ逆に、目や皮膚の感覚が明確に心の奥底が直接的に感じられている状態です。今までは雑念があったことで五感の感覚が心の奥底に届くのを妨げられていて、今はより直接的に五感を感じられています。雑念が出てもすぐに水が太陽に照らされて蒸発するかのように消えてゆくので、雑念が消えたあとはまた五感の感覚が直接的に心の奥底に伝わるようになります。<br /> <br /> 思考というものも明示的に意思の力で働かせることができますので、意思がなくなったわけでもありません。ただ、自動的にやってくる雑念に惑わされにくくなったというだけのことです。<br /> <br /> ただ、それでも溜まったカルマによるトラウマは時々出てきて、一瞬はそれに囚われて苦痛の表情や声に出そうになる時もあります。しかしながら、それも5秒や10秒もすれば蒸発するかのように消えてゆきます。これは今生の目的の1つがグループソウル全体のカルマの精算ですから、ある程度は仕方がないと思っています。私の個人でそれほど重荷に感じることはない、と言われています。今まではこれがかなり負担でしたが、シャルドルの状態になったら割とすぐに解消してくれるので大した負担ではなくなりました。<br /> <br /> そして、また静寂の意識の中に戻ってゆくわけです。<br /> <br /> Wed, 07 Oct 2020 00:00:00 +0900 アートマン(真我)を安定させてヴィパッサナーの観察状態に至る https://w-jp.net/2020/2090/ <br /> 先日の続きです。<br /> <br /> 瞑想をして、「わたし」が肉体の体と一致すると、その時、スローモーションのような微細な細かな動きと感覚が奥深いところにある「わたし」に伝わってきます。その時、まだ慣れていないのか、同時に「自我」としての私も少し動きますので、自我が動いてしまったら一旦動きをやめて、奥深いところにある「わたし」だけが動いて体の感覚と一致するように少しづつ意図します。自我が動いた時は一旦また集中瞑想に戻り、緊張が少し出てきた時には静寂の境地が現れるまで一旦は落ち着きます。そして、静寂の境地に達したら、再度、奥深いところにある「わたし」を動かして、肉体の体を一致させます。<br /> <br /> おそらくはこの奥深い「わたし」のことを「アートマン(真我)」と呼んでいるような気が致します。<br /> <br /> 「悟りに至る十牛図瞑想法( 小山 一夫 著)」には、Step6として「心身脱落から真我の安定へ」が説明されています。<br /> <br /> まず考えるべきは安定度だと言えよう。(中略)身体の中府に安定させ、その後「止」がさらに深まり、「観」の働きが高まった時に、真我が観照できるのだ。「悟りに至る十牛図瞑想法( 小山 一夫 著)」<br /> <br /> アートマンを肉体と合わせるようにして安定させる。そこがポイントのような気が致します。<br /> <br /> おそらくはこのことが達成できるとスローモーションのように体の動きを感じるヴィパッサナー状態になるのかな、と言う気が致します。<br /> <br /> 十牛図のステップと比べると私の状態は完全には一致していませんけど、この部分の記述はとてもよく似ていて、参考になります。おそらくはここに至るまでの道筋はいくつもあるのかな、と言う気も致します。<br /> <br /> シャルドルの段階とこの段階との対応も興味深いです。シャルドルに至って雑念が太陽の光を受けて蒸発するかのように消えてゆく境地に達し、真っ白い平らな大地の少し上に浮いている境地の瞑想に達しましたが、その時、私は白い平らな大地の方ばかり目が行っていましたが、その上に「わたし」がぽっかりと浮いていたと思います。その「わたし」の方は私はスルーしていたのですが、この十牛図瞑想法の本の記述を見ると、もしかしたらその時に見えたぽっかりと浮いていた「わたし」こそがアートマンだったのではないか、と言う気がしてきます。どうでしょうね? あんまり重要なところではないかもしれませんけど、同じような記述のような気が致します。そのように考えると階梯も割と似通っている気も致します。<br /> <br /> 十牛図瞑想法の本のこの後のステップもわかりやすく、今後はこのアートマンを更に安定させて活性化する、と書いてあります。これは私の中でおそらくそうなのではないか、と思っていたことと一致します。と言いますか、少し前にこの本を何度も読んでいましたのであまり記憶に残っていなかった箇所ではありましたけどなんとなく覚えていたのかもしれませんね。その時はピンときませんでしたけど、今読むと、とても本質的で正しいことがぎっしり書かれてあるように思います。ただ、流派の独特の記述も多いので最初はわかりにくかったと思います。今はある程度は読み飛ばして確認したいところだけ読んでいます。<br /> <br /> これは、次のステップも明確ですね。ゾクチェン的にもシャルドルの次の段階はランドルで、その辺りと対比して見ていくと良さそうな気が致します。<br /> <br /> Fri, 18 Sep 2020 00:00:00 +0900 体と「わたし」が一致する感覚のヴィパッサナー状態 https://w-jp.net/2020/2089/ <br /> 先日の続きです。スローモーションのように体の動きを感じられるようになりましたが、その状態の時は「わたし」という感覚が「(肉体の三次元的な)体」と一致しているような気が致します。<br /> <br /> これは説明を要するかもしれません。<br /> <br /> スピリチュアル等で、「わたし」は体ではない、と散々言われてきた方もいらっしゃるかもしれません。本当の「わたし」は肉体の体ではなく魂の方であって体は仮の姿に過ぎない、と。確かにそれはその通りなのですが、ここでは、私が感じたそのままの感覚を表現しています。<br /> <br /> 更に、もう少し説明がないと混乱してしまうかもしれません。<br /> <br /> まず、大きく分けて2つの潮流があります。<br /> ・プラティヤハーラこそが悟りとする流派。主に顕教。<br /> ・サマーディを悟りとする流派。主に密教。<br /> <br /> このうち、プラティヤハーラの段階ですとまだ確固に「わたし」という自我(サンスクリットでアハンカーラ)が存在しておりますので、「私は肉体ではない」という教えが重要になります。自我が強いために自分と肉体などを強く結びつけてしまっているのですよね。この段階の人にはスピリチュアル等で「私は肉体ではなくて魂こそが本当の自分なのです」と説くのは正しいと思います。<br /> <br /> 一方で、プラティヤハーラを越えてサマーディに到達した場合は自我がかなりなくなっております(ゼロではありません)ので、「私は肉体」という感覚は希薄になっております。ですから、自我と肉体との結びつきはかなり弱まっている状態なのです。<br /> <br /> 最初の方で、「わたし」という感覚が「(肉体の三次元的な)体」と一致している、と書いた時、ここでいう「わたし」とは自我のことではなく、サマーディ状態に存在する、自我を越えた「観察している、奥深くにあるわたし」という感覚のことを意味しているのです。<br /> <br /> 自我としての私は論理的思考などでまだまだ活用していく必要がありますのでそれは永久になくならないと思います。ヨーガ的には自我と言うと単にアハンカーラで思考能力はなく、ブッディ等が該当するのですが、まあ、分かりやすく言うには自我が思考する、と思っても差し支えないと思います。<br /> <br /> そのように、プラティヤハーラの段階では自我を抑える必要があり、それ故に体と「わたし」を結び付けようとするとそれは自我の強化に繋がってしまいます。<br /> <br /> しかしながら、サマーディの段階では自我は落ち着いておりますので、奥深いところにある「わたし」と言う微細な感覚と「肉体の体」とが結びつくことで日常の状態でスローモーションのように体の動きを感じる観察状態が続くわけです。<br /> <br /> これらの違いを踏まえずに、プラティヤハーラの段階でサマーディを真似して「体の感覚を観察」しようとすると自我が深まり、自我が確固なものになり、よって自我が拡大したために怒りの沸点が下がってキレやすくなったり自己嫌悪に陥いる・・・。と言うのが例えばゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想で陥っている落とし穴のような気も致します。この辺り、長年の疑問がようやく最終解として解けた気が致します。<br /> <br /> 体の観察をする、と言う瞑想は自動的に起こるようになるもので、やり方を真似するものではないのですね。そう言うことだと思います。<br /> <br /> 一部の流派、テーラワーダ仏教やミャンマーの流派ではヴィパッサナー瞑想として体の感覚の観察を行うとかしていますけど、ああ言うところは歴史があって瞑想のグルがきちんと指導してくれるからこのような落とし穴に落ちても気がついてくれるのでしょうけど、ゴエンカ式のように単なるビジネスマンが始めたセミナーですと指導者と思しき人がいるにはいるのですがそう言うところまで指導できないのでしょうね。ゴエンカ氏本人が無償で始めたと言うのは評価できますけど、あんまり瞑想がわかっていないビジネスマンがブッダの瞑想を書物で勉強して真似して始めてしまったが故に色々と変なことになっている気が致します。最近はその状況に気がついたのか、歴史のある流派で勉強した人が入ることで是正している面もあるようですが、相変わらず落とし穴に落ちっぱなしの人もいらっしゃるように思います。この世界は瞑想が足りていませんから間違いだとしても勉強のために瞑想をするのは良いことだと思います。回り道でも瞑想は世界のためになります。このブログは単なるメモですので、特にその団体に是正しろとは言いません。ただ単に、興味深く世界を眺めているだけのことです。<br /> <br /> Fri, 18 Sep 2020 00:00:00 +0900 スローモーションのように体の動きを感じる https://w-jp.net/2020/2087/ <br /> 昨年末にスローモーションで視界が感じられるヴィパッサナー状態に変化し、ここ最近は割とその状態が安定してきました。その結果、最初の頃ほど激しい感覚を視界に感じなくなり、変わらずそれなりに早い速度で視界を認識できてはいるのですが、それが普通かな、というくらいに当たり前になりました。ですので、もはや視界がスローモーションのコマ割りのように特殊に感じられなくなりました・・・ と言うと語弊がありますが、変わらずそれなりに良い動体視力を保っていますがスローモーション映像のような不思議なムービーのように特別なものに感じることは徐々になくなり、普段通りの当たり前のことになってきたと言うことです。当たり前になったからと言ってつまらなくなったわけではなく、普通に視界は美しいですけど、最初の頃の面白い感じに比べると8割くらいの微細な感覚で落ち着いた、と言う印象があります。最初の頃は視界の変化が面白くて割と常に目にエネルギーを送っていて焦点を合わせてくっきりと見ていましたが、今は焦点に関しては割と普通です。<br /> <br /> そのように視界のヴィパッサナーが落ち着いてきた一方で、9月頃から体の動きのヴィパッサナー状態が次第に現れてきました。ある程度は目の感覚が戻る一方で、全身の感覚が出てきた感じです。そして、普通の生活の中にヴィパッサナーの気づきの状態で生きる時間が増えるようになってきています。<br /> <br /> 体のどこを動かしても以前より細かく動きを感じます。特に意識していなくても体の各所の動きを感じるのです。単に動くかどうかだけでなく、細かく動いていることがわかるのです。これは、昨年末の、視界に関するヴィパッサナー状態の変化の時にも多少は変化に現れたことですが、ここ最近の変化ほど顕著ではありませんでした。<br /> <br /> その状態を表現すると、時間は変わらないのですが、比喩的に言うと「スローモーションのように」と言うのが割と状態を示しているような気が致します。昨年末の視界のスローモーションのヴィパッサナーというのも実際の時間は変わっておらずに細かく認識できるようになったことを比喩的にスローモーションと表現した、というのは以前にもお伝えしましたが、今回もそれと同様で、時間は変わらないのですが、細かく認識できるようになったということを比喩的に表現するとスローモーションと表現するのが割と通じるのかなと思っております。<br /> <br /> ゲームやアニメの動きが以前はカクカクでしたが、私の体の動きの認識もそれと同様にカクカクで以前は認識していたように思います。それが、今は細かい体の動きが分かります。<br /> <br /> 少し前には、まず、指の動きなど、小さなところでその変化が現れました。しかし、その時点ではきちんと意識していないと体の動きが細かく分かりませんでした。<br /> <br /> 今は、それほど意識していなくても自然に体の細かな動きが各所でよくわかるのです。<br /> <br /> これはきっと程度問題で、世の中には才能があってダンスがうまい方などは私のこの状態よりも遥かに体の細かな動きがわかるような気も致します。ですから、体の細かな動きがわかるようになったからと言ってダンスをやっている方やスポーツ選手などにかなう気はしないのですが、少なくとも、自分自身の変化として以前より遥かに細かく体の動きがわかるようになったということです。<br /> <br /> 私は昔は体の動きがそれほどスムーズではなくて、体育も苦手ですし動きもちょっと悪かったように思いますが、今は以前より細かなところが分かります。<br /> <br /> 瞑想をすることで、このように体の動きの変化も現れるのですね。<br /> <br /> そうは言っても、もともと才能がある方には敵わないとは思いますけどね。<br /> <br /> 昔の剣士などが瞑想をしていた理由もよく分かります。きっと、生まれながらの才能に加えて瞑想で更に動体視力と体の動きを上げていたのですね。体の筋肉を鍛えるだけでなく瞑想で頭と体のレベルアップができるということかなと思います。<br /> <br /> Thu, 17 Sep 2020 00:00:00 +0900 <link>https://w-jp.net/2020/2084/</link> <description><br /> </description> <pubDate>Thu, 17 Sep 2020 00:00:00 +0900</pubDate> </item> <item> <title/> <link>https://w-jp.net/2020/2083/</link> <description><br /> </description> <pubDate>Thu, 17 Sep 2020 00:00:00 +0900</pubDate> </item> <item> <title/> <link>https://w-jp.net/2020/2082/</link> <description><br /> </description> <pubDate>Thu, 17 Sep 2020 00:00:00 +0900</pubDate> </item> <item> <title>成仏するのと似た境地のシャルドル https://w-jp.net/2020/2080/ <br /> 先日の続きです。シャルドルで雑念がどんどんと断ち切られる境地は、成仏するのと似た境地であるように思われます。<br /> <br /> 私のグループソウルの過去生を辿りますと、何世代か前に成仏してグループソウルに合流致しました。死ぬとあの世に行くわけですけど、そこで友人知人の霊および元の家族の霊たちと合流します。<br /> <br /> 成仏の前に生きた人生ではとある上場会社の社長をしており、かなり満足の行く人生でした。<br /> <br /> ですので、死後、その時の元妻だけでなく多くの縁のある過去生の妻達などとも合流し、「ああ、幸せ。幸せ。幸せ。満足・・・」と言う気持ちになり、天に昇って成仏したのです。いわゆる昇天ですね。<br /> <br /> 昇天をするとグループソウルに戻り、グループソウルと溶け合います。その辺りの説明は今まで何度かしてきましたし、これからも度々しようとは思いますけど、今回のお話はそこではなくて、昇天する時の満足する感覚です。<br /> <br /> 成仏して昇天する時の満足する感覚と、このシャルドルで雑念が消えてゆく感覚とがとても似ているわけです。<br /> <br /> 成仏して昇天するときは雑念がかなり減っており、それは必ずしもシャルドルのような観察する力を伴わないようにも思いますが、このシャルドルの状態ですと各種の葛藤やトラウマがあったとしても成仏して昇天するかのような感覚に導かれてゆくのです。<br /> <br /> まだ完全に成仏とは言えないとしても、成仏の感覚にどんどんと近くなってゆくのを感じます。<br /> <br /> ただ、そこには満足と熱感だけがあった。人によってはこの熱感を「光」と表現するかもしれませんが、単に熱と言った方がしっくりきます。<br /> <br /> ゾーンの歓喜のような激しい浮き沈みはなく、ただただ満足する境地。それはまさに、私のグループソウルの過去生の記憶にある成仏した時の記憶ととてもよく似ているのです。<br /> <br /> 何故その記憶があるかと言うと、成仏してグループソウルに合流した後、残された妻たちのことが気になり、再度、グループソウルから分離したからです。私がいなくなると残された妻たちが困るかもしれない・・・ と思って、グループソウルから再離脱しました。その時、必ずしも以前と同じではなく、コアになっている部分は同じですけどグループソウルとある程度は混ざり合って、少し違った私となって分離しました。その時に分離した魂が私の今の人生の一つの系統の基になっているわけですけど、まあ、それは余談というもので、ここで言いたいのは、成仏して昇天する時の感覚がシャルドルの感覚にとても似ている、と言うことでした。<br /> <br /> Tue, 15 Sep 2020 00:00:00 +0900 電波の悪い携帯電話の通話のように雑念が切られる境地 https://w-jp.net/2020/2079/ <br /> 先日の続きです。シャルドルになって瞑想をしても雑念は上がってくるわけですが、それ以前と異なり、雑念がまるで電波の悪い携帯電話の通話のようにプツプツと途切れ途切れになってすぐ雑念が切れてしまいます。<br /> <br /> 昔はもちろん、雑念があったらあったで雑念の文脈一塊の分だけはとりあえず聞いた上でその先は囚われずに受け流すとか、そんな感じで一応は雑念が来たら受け止めていました。<br /> <br /> しかし、ここシャルドルでは雑念が来たら途中で勝手に切れてしまい、雑念は一応は雑念ではあるのですが雑念が意味ある文脈を持ちにくくなったような気が致します。<br /> <br /> 何やら意味を持つ前に雑念が切れてしまい、何の雑念だったのかすらよくわからない状態です。<br /> <br /> その切れ方がまるで、携帯電話で電波状況が悪くてプツプツと切れ始め、やがてプッツリと切れてしまう状況に似ているのです。<br /> <br /> 明示的な思考は意思を使わないとならず、雑念が勝手に思考のように振る舞うような動きはかなりなくなったように思います。<br /> <br /> 以前であれば、雑念は所詮は雑念ではある筈なのに何か考えついたかのような自動的な思考が生まれたり論理的であるかのような振る舞いを雑念がして見せたり、はたまた、性的欲求のシナリオだったり、あるいは、あたかも崇高な思考が出たりしました。<br /> <br /> しかしながら、シャルドルですとそのような自動的な思考がプツプツと途切れてしまい、自動的に静寂の境地、いわゆる涅槃の状態に強く引き込まれるようなのです。<br /> <br /> 又、以前の、まだ意識が荒い時は雑念と指導霊のインスピレーションを見分けることができずに両方とも雑念として認識していたように思います。それも、次第に見分けることが容易にはなってきたのですが、このように雑念がプツプツと勝手に切れるようになると指導霊のインスピレーションと雑念との違いが明らかになったような気が致します。<br /> <br /> 雑念は必ずしも言葉ではなくて雑多な感覚であることもあります。雑念であれば波動が低く、インスピレーションというほどの高い波動の感覚とは異なり、単なる雑多な感覚あるいは言葉のようなものになります。そして、わかりやすいようにここでは言葉の場合で説明いたしますが、例えば早ければ1文字目、だいたい3文字から5文字目くらいまで雑念が来たところで携帯電話の電波が悪くなった時のようにプツプツと言葉が切れ始め、そのまま切れてしまいます。雑多な感覚であれば受け始めるとすぐに感覚が切れ始め、そのまま切れてしまう感じです。<br /> <br /> この他に、記憶の奥底に眠っていたトラウマ的なものはこんなに簡単にはいきませんが、それでも、以前より遥かに早く切れてしまう感じが致します。<br /> <br /> 瞑想中はこんな感じでしたが、瞑想が終わった状態では必ずしもこんなすぐに雑念が途切れません。何が違うのかな・・・ と観察してみましたところ、おそらくは体の中に熱や深い宇宙を感じている境地になってエネルギーが高まっているとこのように雑念がプツリプツリと切れるのかな、という気も致します。必ずしも毎回このような感じになるわけではなく、体の中心に漆黒の宇宙と煌めく数多くの銀河の小宇宙を少なからず感じた時にこのようになる気が致します。<br /> <br /> これは、パワーが上がればポジティブになって雑念が減るという基本的な法則に沿っている気が致します。<br /> <br /> ただ、瞑想したからと言って必ずシャルドルになるわけでもなく、うまく行っている時はこうなる感じです。<br /> <br /> Tue, 15 Sep 2020 00:00:00 +0900 馬陰蔵相が深まり、性的欲求が更になくなる https://w-jp.net/2020/2078/ <br /> 仙道に馬陰蔵相(ばいんぞうそう)というものがあります。<br /> <br /> 馬陰蔵相とはは性欲が収まってきたことにより体に具体的な変化が起こることですけど、男であれば性器が引っ込んできて子供のようになることですし、女性であれば胸が小さくなってきたりするようです。<br /> <br /> ここ最近、おそらく半年以内は特にその傾向が強くなりました。<br /> <br /> 今後、また性的な夜の営みをすることがあるのだろうか? という疑問すら出てきます。<br /> <br /> 完全に性欲がゼロになったわけではなく、やろうと思えばそのような行為もできるようですし、夢精もゼロになったわけではないです。とは言いましても、普段の生活において性欲がかなりのところまで制御されてきたように思います。<br /> <br /> 最初はクンダリーニ経験(2回目)の時に始まり、マニプラ優勢になりました。<br /> その後、アナハタ優勢になったときに更に10分の1くらいになりました。<br /> <br /> 約10ヶ月前、視界がスローモーションで認識されるようになってから更なる変化が現れました。性欲がどんどんと減っていったのです。<br /> <br /> そうしているうちに、数ヶ月前から体に変化が現れ、性器が更に引っ込み始めたのです。その時はまだ小さな変化だったのですが、ここにきて、また更に引っ込んだ感じが致します。<br /> <br /> 性欲が完全にゼロになったわけではありませんが、こうして段階的に性欲が下がってきて、それと入れ替わるように平穏な意識が出てきております。<br /> <br /> 生殖行為はまだ可能なようですが、いつまで可能かはよく分かりません。<br /> <br /> 単に歳を取っただけというお話もなくはないですけど、こうして段階的に追ってみるとクンダリーニの経験と共に劇的に性欲が解消されていますのでヨーガ的な変化が関連しているのは間違いないと思います。<br /> <br /> 特に昨年末以降は、素敵な女性を見てもほとんどときめかなくなりましたので、仲が良くて時々話す女性と会ったりすると変化に驚かれます。ヨーガ的な観点がないと「私のこと興味なくなっちゃたのかな」と思われてしまう可能性は大いにあります。その辺り、なかなか難しいです。実際に性欲はほとんどないですけど生殖活動としては一応は可能ですが夜を楽しむなんて感じでもないですので、はてさて、どうしたものですかね。もはや、世間を離れて暮らすしかないのかなとも思ってしまいますが。まだそういう選択はしていないですけど。<br /> <br /> あるいは、そういうことに理解のある相手ならパートナーとしてありかもしれないですね。それで相手が満足してくれるかどうかはわかりませんけど。<br /> <br /> 以前は生殖器が小さくはなったもののまだ出ていましたので、馬陰蔵相の説明に書かれてある睾丸やペニスが、子供のように奥に引っ込んでしまいという部分が、程度としてはそれっぽいのですが完全にそうではありませんでした。今は、かなりそれっぽくなってきました。そのような違いがあります。<br /> <br /> これは、目に見えてわかる変化のサインだと思います。<br /> <br /> Tue, 15 Sep 2020 00:00:00 +0900 シャルドルでもトラウマなど葛藤は存在する https://w-jp.net/2020/2077/ <br /> 先日の続きです。シャルドルの状態になっても時々トラウマが出てくることはありますし、雑念も浮かびます。しかしながら、出てきた後の対処が割と自動的に行われる点が違うと思うのです。<br /> <br /> 瞑想あるいは日常生活において不意に過去のことを思い出して葛藤が出てくるとします。以前であれば尾を引いてしまったりしますが、今は、自動的にそれが消えてゆきます。太陽が水滴を照らして自動的に蒸発するかの如く、出てきた葛藤は次第に消えてゆきます。<br /> <br /> これらの力は程度の差こそあれ、以前から育ててきたものです。ですから、言葉で言い表そうとするとどれも似たり寄ったりにはなってしまうのですが、チェルドルですとある程度自分が意識してその葛藤を見てあげないと消えてゆきません。しかしながら、シャルドルの場合は何か自動的に「見る力」が働いてすぐに消えてゆきます。そこが1番の違いのような気が致します。<br /> <br /> 大きなトラウマであれば一瞬は深く傷付いたりします。ずっと忘れていた深い過去の記憶が出てきた時は、それが久々であれば久々であるほど大きく精神的なショックを受けます。<br /> <br /> ですから、シャルドルはおそらくは涅槃の入り口ではあるのですけど、涅槃に達したからと言ってすぐにトラウマなどの葛藤がゼロになるわけではないのだと思います。<br /> <br /> 先日お伝えしましたように、煩悩やそれに類する感覚、トラウマも含めてそれらの諸感覚は全て「装飾」であるが故に、装飾として認識できるようになったという違いはあれど、その諸感覚はやはり、ある程度は存在し続けるということなのでしょう。<br /> <br /> カルマは何種類かありますがこの世に生まれてきたカルマはまだ継続していて、いくつかのカルマの種類は悟り・モクシャ(自由)を得ても継続すると言います。<br /> <br /> トラウマも過去の行いが原因で起こるものであれば、その結果としてのトラウマが出てくるのは避けられないことなのでしょう。<br /> <br /> ただ、もはやトラウマに囚われる間隔はとても短くなり、そのトラウマから解放されるプロセスもシャルドルにおいては自動的ですから、一時的な記憶と傷つく感情としてトラウマを体験することになると思います。それは心が痛むのは痛みますし、その痛みがなくなるわけではありませんが、シャルドルの涅槃の力によってその痛みから解放する力が一定以上にまで上がったと言うことができると思います。<br /> <br /> Tue, 15 Sep 2020 00:00:00 +0900 諸派の見解から自分の状態に合ったものを引用する https://w-jp.net/2020/2076/ <br /> 私は色々な流派の見解を引用していますけど、これは流派を混ぜているとかそういうことではなく、自分の状態を一番よく説明できるものを流派に無関係に選んでいるだけです。<br /> <br /> 私の魂の遍歴から見ても色々な流派を世界各地で行っており、イギリスで魔法使いだったこともあればスペインで占い師だったりインドでグルをしていたり、色々ですので、混ぜているように見えるかもしれませんがそれは逆で、まず自分の状態があって、その自分の状態を一番きちんと表現できる流派の説明を引用しているだけです。<br /> <br /> 本来、このようなものをスピリチュアルとか仏教とかヨーガとかに分類することすら不要なわけです。そもそもスピリチュアルや本来の宗教というものは根元において同一ですので、スピリチュアルと言っても宗教と言っても本質的には変わりがないのです。<br /> <br /> 自分の属している流派が特別だと思っているのであればそれは大抵スピリチュアル初心者だと思います。あるいは本当に特別な場合も稀にあるとは思いますけど、大抵の場合は初心者がそう思っているだけだと思います。<br /> <br /> 私のように長い時代を生きてきてキリスト教が栄える前も知っていますしキリスト教が魔女を弾圧したりインドでヒンドゥー教が栄えた頃も知っていますから、今更諸派に属するとか1つの流派に属すべきだとか流派を混ぜるなとかいうお話をされても時代の視点が短すぎて困ってしまいます。<br /> <br /> キリスト教や仏教は1000年以上の歴史がありますけど、まあ、それも多くあるうちの1つです。そもそもキリストもブッダも今は生きていませんからね。流派にこだわる必要はないのではないでしょうか。キリストやブッダも割と普通の人として今は生活しているかもしれませんしね。そういうことだって時代によってはあります。<br /> <br /> 根元は同一ですので精神的な修行をする流派は根本において大差なくて、人によってやりやすいかどうか、文化的に合っているかどうかの違いがあるだけです。ですから近所の行きやすいところに行ったらいいと思うのですよ。どこだってそうは変わりないですよ。ですから、本来はスピリチュアルにせよ仏教にせよ何を名乗っても良いのです。そうは言いましても、ある程度の整理をしたいので、一応はスピリチュアルという位置付けにしています。なんとなくスピリチュアルと言った方が広範囲をカバーできている気がしますからね。<br /> <br /> ですが、基本は上に書いたように自分の状態がまずあって、それを表現する記述を探す、という順番です。逆ではないです。<br /> <br /> 色々書いたりすると「想像することと実際は違うとか」言ってくる人がいますけど、逆なのですよね。自分の状態が先で、記述を探すのが後ですので、想像とかそういうことではないのです。<br /> <br /> 書物を読むときに特定の流派だからと言って流派で選別して全てを鵜呑みにするということはなく、自分の状態と照らし合わせて納得できる表現を流派に関係なく探すという読み方をしています。そしてそれらの表現を見つけたら自分の状態と一つ一つ比較して、おそらくその記述が自分の状態と一致しているかどうかを確認した上で引用しています。このような読み方は諸派に属している人にとっては反感を買うこともありますけど、諸派の読み方が違うのであればそれは好きにすればいいのではないでしょうか。<br /> <br /> 私の場合、グルと言える存在があるとすればハイヤーセルフと守護霊で、ハイヤーセルフはあまり口出ししないですけど元チベット僧の守護霊の方は色々と細かく教えてくれます。守護霊のお姫様の方は基本的に見守っているだけですね。<br /> <br /> ですから、系統があるとすればそれですので、特に流派に属する必要性を感じません。多少、諸派のグルのお話を聞いたこともありますが、弟子になりたいとは思いませんでしたしね。最近は大川隆法にちょっと興味がありますが、グルと弟子という感じではなく、もしかしたら本物かもしれない、と思ってウォッチしているくらいですね。<br /> <br /> 私の元々の魂の経歴から言ってそれがそのまま流派になっておりませんので諸派に属するのもちょっと違う気がしております。属するとしたらその他にいくつか候補がなくもありませんが、それはここでは関係のないことです。ある種の戯れ、あるいは、新たなる使命のために諸派に属するということは可能性としてはなくはないですけどね。<br /> <br /> ですから、原始仏教であってもゾクチェンであってもピンとこない文章は基本的にスルーしていますし、ピンとこない記述を暗記するなんてこともしません。例えばそのような読み方をすると、おそらく今の自分の状態はシャルドルに相当するのでは、と読み解けたりするわけです。<br /> <br /> Tue, 15 Sep 2020 00:00:00 +0900 雑念が生じると同時に解放して涅槃に近づくシャルドル https://w-jp.net/2020/2075/ <br /> 先日の続きです。平穏な意識状態、いわゆる涅槃とでも言える状態はおそらくはゾクチェンでいうところのシャルドルに相当するような気が致します。涅槃という言葉の意味は幅広いように思われますのでシャルドルだけでなくその次の段階であるランドルも該当するように思われますが、いわゆる涅槃に達したと言われるような、境地あるいは入り口に達したという意味合いにおいてはおそらくシャルドルが適切かと思われます。<br /> <br /> これは、サマーディを続けるうちに育ってくる3つの能力のうちの1つです。<br /> <br /> 1.チェルドル<br /> 2.シャルドル →これ<br /> 3.ランドル<br /> <br /> シャルドルの定義は以下のようなものです。<br /> <br /> シャルドルは「生じると同時に解放する」ことを意味している。すなわち、いかなる種類の感受が生じても、それはみずからを解放する。知恵を保とうとする努力すら不要だ。(中略)煩悩によって制約されることはなくなる。「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」<br /> <br /> 最初のチェルドルの段階では雑念は段階的になくなり、瞑想することで平穏な状態に達しました。今は、特に瞑想中、特に努力しなくても自ら雑念がすぐに解放され、強い太陽の光に照らされた水滴のようにすぐに蒸発してしまうように思います。そしてそれは、明示的な座った瞑想が終わってもしばらく続くのです。<br /> <br /> この状態はもちろん行ったり来たりしておりますので多少状態が戻ったり進んだりということがあります。しかしながら、平均すると割とシャルドルの状態が多くなってきたような気が致します。<br /> <br /> ゾクチェンでは、この状態を以下のように説明しています。<br /> <br /> ゾクチェンにおいては、あらゆる煩悩や、カルマから生じるあらわれも、ただの飾りになると言われるのはこのためである。執着することなく、単にあるがままのものとして、すなわち自分のエネルギーのたわむれとして、それを楽しむのである。密教の守護尊の中には、克服された五つの煩悩を象徴する、頭蓋骨できた王冠を、装飾として身にまとっているものがある。その王冠は、このことを意味している。「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」<br /> <br /> 最初の段階のチェルドルではまだ自分の努力が必要で、であれば、まだ五感の煩悩は装飾品とまではみなせていなかったような気が致します。チェルドルではまだ五感の煩悩が自分自身と幾分かは一体化しており、それを引き離すためにある程度の瞑想が必要でした。そのことが段階的にやってくる平穏状態として認識されていたのかなと思います。<br /> <br /> そうは言いましてもこの種の煩悩・雑念からの分離はヨーガスートラ的にはプラティヤハーラとして識別されており、かなり初期の段階から意識されていることではあります。初期の基本であるからこそ初めのうちから意識され、ここにきてようやくほぼ完成に至るということかなと思います。<br /> <br /> ・プラティヤハーラ 雑念からの分離を試み始める。1〜2割<br /> ・サマーディのチェルドル 雑念からの分離の最終段階の始まり。7〜8割<br /> ・サマーディのシャルドル 雑念からの分離の最終段階がほぼ終わる。9割。ここ以降が涅槃<br /> <br /> そして、次の段階であるランドルに達するとその分離が更に進むように思います。<br /> <br /> このチェルドルにせよシャルドルにせよ、ヨーガスートラではきちんと説明されていません。サマーディ以上になるとヨーガスートラでは説明不足で、ゾクチェンや原始仏教をあたらないときちんと自分の状態を把握できないような気が致します。<br /> <br /> Tue, 15 Sep 2020 00:00:00 +0900 目を開けていても平穏な瞑想状態が続く境地 https://w-jp.net/2020/2074/ <br /> 先日の続きです。平らな境地に達すると、やがて、瞑想中だけでなく日常生活にまで平穏な意識が広がってゆきます。<br /> <br /> 最初は視界がスローモーションで感じられると言うような動体視力による変化でした。やがてその視界の感覚は普通になり、特に視界だけに変化があると言うよりは五感全てに行き渡る感覚に変わりました。最初は、視界だけが強烈になったのですが、今はその頃のような強烈さはなく、目へのエネルギーは抑えられているようです。目に集中すれば視界が細かく入ってきますが、普段はそこまで目にエネルギーを送らず、節制しているようです。最初はコントロールできなかったのと、視界が面白いのでずっと映画のような感覚を楽しんでいました。<br /> <br /> 今は五感全てに感覚が行き渡り、瞑想中だけでなく、周囲の感覚が静かに常に入ってくるようになりました。程度問題と言えばそうかもしれませんが、そうなった鍵は、平穏な意識にあるように思います。<br /> <br /> そのように、最初は瞑想中だけであったものが、日常生活まで広がったのです。<br /> <br /> 少し前は、何段階かに分かれて平穏状態になると言う種類のもので、瞑想が終わると少しづつ戻っていきました。今は、日常生活でかなり平穏状態で、瞑想をすることで更に深める、と言う種類のものになっています。<br /> <br /> それにより、座った瞑想においても変化がありました。<br /> <br /> 以前は、座った瞑想で目を開けると視界がスローモーションのヴィパッサナー状態になってそれが映画のように感じられて心が高揚するという感じでした。それ自体は面白いのですが、瞑想という観点からいうと、目を瞑っていないと何段階かに分かれて平穏状態になるというような瞑想の効果が出なかったのは事実です。<br /> <br /> 瞑想で平穏状態に持っていくためには目を閉じて行う必要がありました。<br /> <br /> しかし、最近の変化で、座った瞑想中に目を開けていても平穏な瞑想状態が続くようになりました。<br /> <br /> ・・・これは、言葉で言い表すのは難しいかもしれません。<br /> <br /> ヴィパッサナーと呼んでも良い平らな境地あるいは、もしかしたら涅槃と呼んでもよいかもしれない意識、それが目を開けていても続くのです。<br /> <br /> おそらく、目というものはかなりエネルギーを消費するのです。ですから、やはり今でも目を瞑った方が瞑想はやりやすいと言えばやりやすいのですが、目を開けていても涅槃が続きます。<br /> <br /> これを涅槃と呼んでいいのかどうかは微妙ですが、とりあえずそう呼ぶことにします。<br /> <br /> 他の違いはというと、スローモーションのヴィパッサナーの時は目にエネルギーが行くことで目の前の対象にフォーカスが自然に合わせられます。視界がはっきりとします。今は、意識的にフォーカスを合わせることもできますが、瞑想状態であれば視界がそれほど合わないぼやけた状態でいることが普通です。焦点を合わせるということは意思の力が必要で、涅槃の状態ですとそれは意識的に働かせないとならず、自動的にはそんなに動いていないようなのです。<br /> <br /> この状態ですと、自身の本体が肉体の皮膚という皮の内側に存在しているのを感じます。<br /> <br /> おそらくは、周囲に興味を持ったりするときは自分の本体、オーラと言っても良いものが体から出て対象に向かって伸びている状態なのではないかとも思います。<br /> <br /> 一方で、このいわゆる涅槃の状態では自分自身が体の内側にすっぽりと入っており、皮膚の厚みがしっかりと感じられて、皮膚の内側に自分が収まっているのを感じます。<br /> <br /> 自らの中にしっかり収まっているので、周囲の思念波にもほとんど影響されません。<br /> <br /> きっと今まではオーラが外に向かって発散しており、オーラが自らの中に凝縮されたということもできるのではないかと思います。<br /> <br /> この状態ですと、目を開けていてもいわゆる涅槃の平穏の状態が続くようです。<br /> <br /> Tue, 15 Sep 2020 00:00:00 +0900 ヴィパッサナーと呼んでも良い平らな境地 https://w-jp.net/2020/2072/ <br /> 先日のように真っ平らな平静な意識で瞑想を続けます。<br /> <br /> ゾーンの時に沸き起こるような激しい歓喜はありません。ただ平静で、ただ、熱だけを感じています。<br /> <br /> 熱があって、それしかない。意識はあります。意識が存在していることを感じます。意識は寝ていません。<br /> <br /> 意識が深いところに行くと、体を忘れます。<br /> <br /> そして、意識が戻ってくると意識は熱を感じます。あるいは、呼吸の動きを感じます。<br /> <br /> 意識がなくなってしまう状態ではなく、意識が起きたまま深いところに時々、辿り着くことがあります。あるいは、意識があって深く潜れていない時は熱や呼吸を感じています。<br /> <br /> これらの状態は、言葉で言い表そうとすると昔の状態とかなり似ていて、読んだだけでは違いがわからないかもしれません。<br /> <br /> 世間では呼吸を観察する瞑想なども行われていますが、多くの場合、それはプラティヤハーラ(雑念からの離脱)あるいはダーラナ(集中、ゾーンによる歓喜)を意味すると思います。ここで言っている観察はプラティヤハーラのように雑念から逃れようとする行為ではなく、また、ダーラナのように集中しようとする行為ではありません。ここでいう静かに眺める、とは、意識が静かになっていることを前提としており、文字通りそのまま静かに眺める行為を指します。<br /> <br /> 熱を感じたり呼吸に意識しているとき、そこにはほんの少しだけ意識が動いています。雑念がなく、ただ、熱や呼吸を感じます。そこに雑念があるかないかが以前と今の違いです。<br /> <br /> このメモのように、意識的に状態を観察して記録しようとする時は雑念ではないですけど分析的観察と思考が明確に働き、言語化します。その明示的な言語化はあります。また、雑念が完全にゼロになるわけではなく、雑念なく瞑想を続けられる時間が以前より長くなり、おおよそ50%を超えているのではないかと感覚的には思われるのですが、実際のところ瞑想はあっという間に時間が経ちますのでもっと割合は高いかもしれませんし低いのかもしれません。どちらにせよ雑念に惑わされなくなったという点においては確かです。<br /> <br /> そのように意識が明示的に働く、あるいは、多少の雑念が働いたとしても、心の観察する力がかなり強くなっていますから、観察だけしていればやがて雑念は消え去ってゆきます。<br /> <br /> 実際、雑念を維持する方が大変で、同様に、思考や観察をしてこのメモのように瞑想中の状態を記録することの方が大変だったりします。瞑想的にはメモなんて何も取らない方が楽ですし、きっと時間的にはその方が早く進むのですが、私の場合は人生の目的の1つが悟りへの階梯を確かめることですので事細かに記録したいわけです。私に縁のある数々のグループソウルが転生する際は生まれながらにして悟っているのが当然だったために、私のように悟らずに生まれるパターンは貴重で、皆にフィードバックしてあげたいのです。それが人生の目的の1つであります。<br /> <br /> そのように、想念が勝手に消えてしまう境地はリクパが動き出した境地と言うこともできると思います。<br /> <br /> よく、瞑想の指導を受けたりすると「瞑想中に浮かんだ雑念とは戦わず、ただ観察しましょう。観察すればその雑念は力を失って消えてゆきます」とか教えられたりしますけど、それはある程度瞑想が上達してこの種のリクパが動き出した人であればその通りですけど、大抵の人はただ雑念に翻弄されるだけだと思います。聖者がかつてそのようなことを言ったのを真に受けているのでしょうけど、それっぽく聞こえますけどそれなりの瞑想中級者にならないとこれは真実ではないのですよね。<br /> <br /> この種の、雑念が自動的に消える境地に達すればそれはおそらくヴィパッサナー(観察)と呼ぶ状態に相応わしいような気が致します。<br /> <br /> 流派や技法としてのヴィパッサナー瞑想は段階的にはもっと手前のプラティヤハーラ(制感)だったりしますので、ここで言っているヴィパッサナーはそう言った流派や技法のことではなくて、本来ブッダが言っていたであろうヴィパッサナーとはこのくらいの境地のことを意味していたのではないか、と言う私の推測です。<br /> <br /> Mon, 14 Sep 2020 00:00:00 +0900 真っ白い平らな大地の少し上に浮いている境地の瞑想 https://w-jp.net/2020/2071/ <br /> そこは静かで、何もありません。<br /> <br /> 少し前であれば、何もない状態になると心が動揺していました。その動揺にも程度があって、1年くらい前には動揺の度合いがかなり減って、それはそれで動揺がなくなった境地ではあったのですが、ここ最近、更にその動揺が減りました。<br /> <br /> 言葉で表すとどちらも同じようなものになってしまいますが、平静な状態になると何某か心が動揺するものです。あまりにも静かですから心が「これでいいのだろうか?」と騒ぎ始めるのです。<br /> <br /> その大きな変化が1年前くらいにあって、心がかなり平穏になったが故に心が動揺すると言うことがそれから度々あったように思います。<br /> <br /> 今回は、平穏な境地と共に、動揺がほとんどない状態に変化しました。<br /> <br /> 平穏な境地そのものも1年前と比べて少し変化しており、もともと1年前でもそれなりの平穏の境地だったように思いますが、今回は地平線が見えるほどに真っ白な平らな大地がずっと続いています。<br /> <br /> その上に、少し宙に浮くように私が漂っているのがわかります。<br /> <br /> そして、そのような平穏な状態であっても心が動揺していません。<br /> <br /> 瞑想から終わった後にその状態を言葉で表現しようとして今回は色々と状態を言い表していますが、瞑想中は特に気にすることなく平穏な状態が続いています。<br /> <br /> これは、「至福」と言う感じではない・・・ と言ってしまうと語弊があるかもしれませんが、「歓喜」と言う感じの激しい喜びではなく、平穏でいてささやかな幸せな境地とでも言えるものです。<br /> <br /> 言うならば、「あの世」が存在しているとすればこのような平穏なものなのではないかとも思えてきます。人の世界から離れ、あの世があるとすればこのような平らで平穏な境地なのではないかとも思えてきます。<br /> <br /> 実際には、幽体が存在している人間界に似た世界は割と騒がしいのでここで言う「あの世」の概念とは違っていて、ここで言う「あの世」とは、死ぬときに昇天することができて成仏する時のイメージとして「あの世」と表現しています。そのように、成仏する時があるとすればこのように平穏でささやかな幸せがある境地なのではないかと思います。<br /> <br /> これが「涅槃」なのかどうか・・・? と言われると、よくわかりません。そうなのかもしれないですし、そうでないのかもしれません。<br /> これが涅槃なのだとしたたらこれが「悟り」なのかもしれませんが、そうかどうかはよくわかりません。そうかもしれないですけどね。<br /> <br /> おそらく、これで終わりではなく、単なるプラトーであるような気も致します。<br /> <br /> もし悟りというものがあったとしても、もしかしたら、それは単に一つの段階を終えて次なるサイクルに入る、入り口であるようにも思えます。<br /> <br /> であれば、この状態がプラトーであり、まだ先があるということが理解できます。<br /> <br /> 今の状態は瞑想中で起こる一時的なものと瞑想後にも緩く続く同じ感覚ですので、これが確かなものになるまで瞑想を続ける必要があるのだと思います。<br /> <br /> 最高の悟りというものは上には上があると思いますし、この状態では、今の状態がどうであれ思い悩むことのない境地ではありますので、上があったとしても「ああ、そうですか」というだけのお話です。気にすることでもないですが、たぶん、これより上があるのだな、というのはなんとなくわかります。<br /> <br /> 「ミャンマーの瞑想(マハーシ長老 著)」によると似たようなお話がいくつか書かれてあり、涅槃に達したとしてもそれが継続して起こるようになるまで繰り返し修行しましょう、と書かれてあります。<br /> <br /> 日本での悟りのイメージですと一回でも涅槃に達したらそれで悟りとみなされるようですが、継続して涅槃の状態に留まれるようになるまで修行して、継続して涅槃にいられるようになってもまだ尚、その上の境地への修行があるようです。<br /> <br /> これは私の感覚と合っていますので、この本はガイドとして利用できそうです。<br /> <br /> Mon, 14 Sep 2020 00:00:00 +0900 瞑想でうとうとしている時に3年後や銀河と少し繋がる https://w-jp.net/2020/2065/ <br /> 数日前、瞑想をしていると左の目の中に小さな光が飛び込んできてびっくりして目を開けました。光は何度となく瞑想中に感じておりますが大抵の場合は光がきらめいて消えるという種類のもので、今回のように光が飛んでくるということはほとんどなかったように思います。それほど大きな光ではなく、蛍あるいはもう一回り大きいくらいのささやかな光でした。瞑想は目を瞑っておりましたが、少し前に光を感じ、その光が左目の中に飛び込んできたのです。<br /> <br /> それ自体はそれだけで終わり、何事もなく数日が過ぎました。<br /> <br /> その光の体験と次の体験が直接的に関係があったのかなかったのかはわかりませんが、その数日後、また違った体験を瞑想中でしました。<br /> <br /> それは、意識がもうろうとなり、意識が奥深くにまで引き込まれ、体の中が漆黒の銀河となり、3年後に向かって細く糸が伸びているかのような感覚でした。<br /> <br /> どこか外に繋がっているというよりは、自分自身の体を中心とした縦長の楕円形の部分が奥の深いどこかに繋がっている感覚。自分の体が漆黒の実感のある厚い雲に覆われたようになっており、そこがワームホールになっていて、ワームホールの先を辿るように覗き込むと竜巻のような渦のような糸が3年後にまで繋がっている感覚です。<br /> <br /> それはきっと30年後にまで繋がっているのではと思って探ってみたが、30年後に対する実感はなし。<br /> <br /> 自らを観察してみると、体の各所に銀河のように星の煌めきがあり、輝いているのを感じます。<br /> <br /> 更には、ハートの中心が反応して酷使しているような、ちょっとした圧迫感が点のように感じます。ごく一部の1点が特に使われている感じです。<br /> <br /> 体全体、特に上半身が銀河そのものとなり、奥深くの銀河を覗き込んでいる感じです。<br /> <br /> 外に銀河が広がっているという感じではありませんでした。上や横、あるいは後ろ、下などには何も感じませんでした。体そのものが銀河全体であって、体の中に小宇宙や銀河がいくつも存在している感じでした。あまりにもアニメとかの映像と似ていたのでこれは想像なのかなとも少し勘ぐりましたが、この「繋がっている」「存在している」感覚はイメージではありませんね。<br /> <br /> 人間の体は小宇宙であってその中に銀河や太陽系が存在しているというお話、今までそれは単なる理屈か何かかと思っていましたが、実際に体験してみると、「あれって本当のことだったんだ・・・」と、思いを新たにしました。<br /> <br /> チャネリングみたいな感覚ですとどこか「外」に繋がる感覚がありますけど、これは完全に私の内で起こっていたことでした。<br /> <br /> 外部にいる意識体、あるいはテレパシーでは「外」に繋がる感覚があります。しかしながら、これは自分自身が小宇宙になって、自分自身の小宇宙に潜ってゆくとその先は時空を超えているのだと思いました。<br /> <br /> 今回は、半分は夢見のようなうとうととした感覚で小宇宙に繋がっていました。<br /> <br /> まだ自由自在に探検できるというほどではないですけど、うとうとしていても意識を保てるという感覚があって、そのうち情報を引き出せそうな気も致します。<br /> <br /> この状態はおそらくエネルギー的にも高まっていて、オーラが体の中に凝縮されているような感じが致します。<br /> <br /> とりあえず、現在勉強中のサンスクリットの未来3年分の印象をちょっと辿ってみて、もう少し文字を読むのが早くなったらいいな・・・ という意図の元、未来の自分の印象を少し辿り寄せてみました。すると、急にサンスクリット文字がちょっとだけ読みやすくなったような・・・? 気のせいかも? まだ様子見ですけど。ほんのちょっとだけ繋がっていた気も致します。<br /> <br /> これ、よくスピリチュアルで言われているように「過去から未来が作られるだけではない。未来から過去が作られる」というお話そのものかもしれませんね。過去から未来に向かって経験を積み重ねて、その結果を過去にフィードバックするわけです。それができるようになったら私の人生もガラリと変わる気が致しますが、さて、どうなりますかね。<br /> <br /> Fri, 11 Sep 2020 00:00:00 +0900 悟っていると言われて試される https://w-jp.net/2020/2060/ <br /> 朝、瞑想から終える瞬間に目の前の2〜3m離れたところにある窓の空間から「悟っています」と話しかけられました。明らかにこちらに向かって言っていた思念波でしたし、あまりにも唐突に言われたので「はい?」と疑問符が頭の中にいくつも浮かんでしまいました。姿は見えませんでした。空間が私に話しかけてきました。おそらくそこに何某かの意識体がいたのだと思います。<br /> <br /> 特にここ数日で大きな変化があったわけでもないですし、基本的には静寂の境地の瞑想をしていたわけで、それ以上になったわけでもありません。<br /> <br /> 何だろうな・・・? と、あまり腑に落ちないでいました。 ひょっとして、悟りってこの程度のものだったのかな・・・? と少し考えてみましたが、どうもしっくりきません。<br /> <br /> 私の中の悟りというのは、いわゆる「宇宙意識」と一体になって自他の区別がなくなるのはもちろんのこと、他人の思考や民族・集団としての集合意識もよくわかるようになり、それだけでなく、意識的に時空を超えて過去と未来を行き来できて見てこられる状態にまで達して初めて悟りだと思っているわけです。<br /> <br /> 宇宙意識にしても最初は「一瞥(いちべつ)」とでも言えるような瞬間的なものから始まり、それはまだ悟りではなく、意識的に宇宙意識とほぼ常に繋がって時空を超える際も意識的に行えるようになってようやく悟りと言える状態になるのだと思うのです。<br /> <br /> ですから、いくら、空間にいる何某かの意識体から「悟っています」と言われたからと言って、それを鵜呑みにはできないのです。<br /> <br /> 数日経って、気持ちの整理がついた今、おそらくそれは、「悟っています」と言われた時にどのように反応するのか、心の状態を試されたのではないかなと思います。そう考えるのが一番しっくりきます。<br /> <br /> 試されたからと言って、その意図がきっとある筈ですけどそこまではまだわかりません。単に守護霊が成長を確かめるために意図しただけかもしれませんし、あるいは、もっと重大な意味があるのかもしれません。とは言いましても、そんなことを気にしても仕方がないのです。そのように、想像を膨らませることも含めてどのように心が反応するのか、最初から最後まで全部試されていて、全てお見通しなのかな、という気が致します。であれば、取り繕っても仕方がないですしね。<br /> <br /> 私はきっと試されたのだと判断しましたけど、実際は違うのかもしれません。ですけど、それもまた、どうでもいいことです。<br /> <br /> Tue, 08 Sep 2020 00:00:00 +0900 君が代の祝詞の唱え方を夢で見た https://w-jp.net/2020/2059/ <br /> 国家は福岡県の志賀海神社の古い祝詞の一部だと言う噂を前々から聞いていまして、噂でしかなかったために今まで確認のしようがありませんでしたが唱え方が気にはなっていました。<br /> <br /> 国家:<br />  君が代は<br />  千代に八千代に<br />  さざれ石の<br />  いわおとなりて<br />  こけのむすまで<br /> <br /> このメロディは国家として当然あるわけですが、祝詞としての節もあった筈です。<br /> <br /> 前々からその祝詞の節が気になっていて、どこかで聞くことができないかな・・・ と思っていたら、夢で見ました。<br /> <br /> 単にメロディだけではなく、和服を着た神主っぽい人がきっちりと唱えてくれたのでそれっぽいです。<br /> <br /> 夢ですので、本当の節かどうかはわかりませんけど。<br /> <br /> それによりますと、基本的には一本調子で、一文字づつ区切って歌い上げるのが基本。最後の方だけ少し伸ばします。<br /> <br /> 具体的には、最初から以下の手前までは一音ずつ区切るようにして男性の少し高めのテノールではっきりと1文字づつ発音。全て一音節。最後の以下だけ伸ばします。<br /> <br /> むーーー 3音節<br /> すーーー 3音節<br /> まーーー 3音節<br /> でーーーー 4音節<br /> <br /> 音量は、最後の「で」の2音節目くらいまではずっとその前と同じ音量。最初からずっと同じ音量で、最後の「で」の最後の2音節だけ音量を下げる。「で(祝詞の最初から同じ音量)→で(同じ音量)→で(ボリューム2/3)→で(ボリューム1/3)、終了。<br /> <br /> 国家ですと1行づつ区切ってますけど、そこも区切らないです。<br /> <br /> 君が代は千代に八千代にさざれ石のいわおとなりてこけのむーーーすーーーまーーーでーーーー<br /> <br /> と言う感じですね。<br /> <br /> もっとはっきり書くのであれば<br /> <br /> き・み・が・よ・は・ち・よ・に・や・ち・よ・に・さ・ざ・れ・い・し・の・い・わ・お・と・な・り・て・こ・け・の・むーーーすーーーまーーーでーーーー<br /> <br /> と言う感じですね。<br /> <br /> 更に言うと、音程は各音ごとに母音のところだけちょっと上げます。文字の子音部分は全て同じ音で、母音だけ上げます。<br /> <br /> きぃ↑・みぃ↑・がぁ↑・よぉ↑・はぁ↑・ちぃ↑・よぉ↑・にぃ↑・やぁ↑・ちぃ↑・よぉ↑・にぃ↑・さぁ↑・ざぁ↑・れぇ↑・いぃ↑・しぃ↑・のぉ↑・いぃ↑・わぁ↑・おぉ↑・とぉ↑・なぁ↑・りぃ↑・てぇ↑・こぉ↑・けぇ↑・のぉ↑・むぅ↑→すぅ↑→まぁ↑→でぇ↑→→→<br /> <br /> こんな感じですかね。凄く上げるわけではなくてちょっと上げるくらいです。おそらく勝手にちょっと上がるのではないかと思います。<br /> <br /> 神社で聞くような笛の感じと合わせるとそれっぽくなります。最初に神社の笛をイメージすると歌いやすくなります。<br /> <br /> ・・・夢ですけどね。夢と言っても起きた時に覚えていたと言うよりは、寝ようとして横になって意識が落ち着いたらすぐに見えて聞こえてきて、そのまま寝ずに起きてメモしたのです。ですから白昼夢に近いものではありますけど。<br /> <br /> Tue, 08 Sep 2020 00:00:00 +0900 ゾーンの歓喜と瞑想の階梯 https://w-jp.net/2020/2058/ <br /> ■ステップ1 5〜20年<br /> 瞑想あるいは仕事に打ち込むことによって対象と一体となり、ゾーンに入る。<br /> 最初は1年に一度、あるいは数ヶ月に一度ゾーンに入ることができる。<br /> 強烈な感情の高揚、歓喜が沸き起こる。感情が沸騰したかのような激しい感情を伴う。<br /> 対象に対する強烈な集中。観察という感覚はあまりなく、100%集中しているかのように感じられる段階。集中すればするほどゾーンに入れて激しい歓喜が沸き起こる段階。<br /> ゾーンに入っていない時は精神が不安定で雑念に囚われている段階。<br /> 個人的には、この段階であれば瞑想をするよりも仕事に打ち込んでゾーンに入って歓喜を感じる方が成長が早いように思います。<br /> <br /> ■ステップ2 3〜5年?<br /> ゾーンに入りやすくなる。1週間〜数日に一度ゾーンに入ることができる。<br /> ゾーンに入りやすくなるにつれて精神が安定し、歓喜の度合いが減ってゆき、心の平安が増えてゆく。歓喜が減ったからと言って不幸せになった訳ではなく、歓喜の変わりに心の平安が増えてゆく段階。激しい歓喜の変わりに静かな楽しさと心の平穏が伴って行く段階。<br /> 強烈な集中は必要だが以前ほど必要としなくなってゆく。心の平安が増えるにつれ観察している感覚が増して行く。集中と観察が共存し始める段階。集中と観察とを比べると集中が優勢な段階。<br /> ゾーンに入っていない時は精神がまだ不安定。<br /> <br /> ■ステップ3 1〜数年?<br /> 集中は未だ必要だが以前ほど強烈に集中する必要はなくなる。<br /> 瞑想で心が安定し、一定段階を超えると浄化の印であるナーダ音が聞こえるようになる。<br /> 精神が安定し始める。まだ精神が不安定になることも多いが以前のように雑念に惑わされることが減って行く。<br /> この段階になるともはや「ゾーン」と呼ぶような強烈な歓喜はほとんどなくなる。ゾーンの終わり。<br /> <br /> ■ステップ4 1〜数年?<br /> 日常生活で瞑想状態が保てるようになり、動体視力が上がり、視界がはっきりとしてくる。思考がクリアになり、雑念に惑わされることもかなり少なくなる。<br /> 人によってはこれをサマーディ、あるいはヴィパッサナーと呼ぶ。(サマーディとヴィパッサナーは説明だけ読むと違うように見えるが実際は同じ)<br /> 日常生活が映画のように鮮やかで落ち着いていて楽しげなものになります。<br /> <br /> <br /> ・・・・これらの段階は個人的な経験を基にしています。違った階梯を辿る方もいるでしょう。多様な人がいるのですからそれは否定しませんし、自分の道があるというのならばそれは好きにすればいいと思います。<br /> <br /> これらは階梯であって対立軸ではないと思います。人によってはこれらの階梯を対立軸のように捉えてしまって、最初の方の段階を否定して「集中しているだけではだめ」とか言ったりしていますし、あるいは逆に「観察ではなく強烈な集中が必要だ」とか言っていますけど、それは私なんかからすると階梯の段階によって重要なことは異なりますので、それらを対立しているものと考えてもあまり意味がないんじゃないかなと思います。これらは対立すべき概念ではなくて、ただ単に、それぞれの段階において意識の状態が異なる、というだけのことだと思います。<br /> <br /> もしかしたら最初の段階は全く不必要なのかもしれませんけど、自分がそうだと思ったとしても実際はそれらの段階を前世で既に終えているというだけのことかもしれませんしね。そして、前世でしっかりそれらの段階をやっているのにも関わらず覚えていないだけで不要と言っているだけかもしれませんしね。前世じゃなくて前の前の人生で終えていたかもしれませんしね。あんまり、不要とか必要とか、そんな議論はあんまり意味がないと思います。自分に必要なものは自分が一番わかっていて、他人のそういうノイズはあまり気にする必要がなくて、他人の言葉は足を引っ張るだけのことも多々ありますし、自分の奥底に聞いて自分に一番必要なことをやればいいのかな、と思います。自分の今の状態を蔑ろにしてステップを飛び越えてもあまりいいことはないと思いますしね。これらの階梯にしても他人にとってみればただの参考でしかなくて、自分の階梯は自分で確かめてゆけばいいのかなと思います。<br /> <br /> 多くの人は最初の段階のことをゾーンと言っていると思いますけど、ごく一部のアスリートの発言はサマーディあるいはヴィパッサナーの状態のことをゾーンと言っているような気も致しますね。ですが、基本はゾーンと言うと最初の段階にあるような強烈な歓喜のことだと思います。<br /> <br /> それと、おそらくは昔の武士が言っていたお話もサマーディやヴィパッサナーの境地でしょうね。最近の人は瞑想をあまりしないですけど昔の武士は瞑想していたでしょうし、それらの境地を知っていたとしても不思議ではありません。アスリートにしても瞑想をしているのとしていないのとではパフォーマンスが大きく異なるでしょうね。日本人が世界で勝てなくなった理由もこの辺りにあるかもしれませんね。瞑想は勝負に勝つためにある訳ではありませんけど、生きる上においてパフォーマンス向上のために瞑想はかなり役に立つわけです。最終的には勝負とかそのようなものを捨てて静寂の境地に辿り着くのかなとは思いますが、それでも、生きる上において意識を鎮めて静寂の境地に達し、頭の回転を良くして動体視力を高めておくことは勝負とは無関係にそのまま人生を豊かにすることに繋がると思うわけです。静寂の境地に達すれば他人と比べる必要もないですし勝負をする必要もないわけです。最近の人は武術なんてそんなにしないですけど、昔の人は武術は当たり前だった訳で、そうだとしても静寂の境地に達すれば武術は意識から消え去るわけで、私は今生で武術は学んだことがありませんけど、同じ静寂の境地に達したとすればもはや勝負の勝ち負けなんて意識からなくなったのだということは容易に理解できるわけです。<br /> <br /> Sun, 06 Sep 2020 00:00:00 +0900 ナチスに拷問されて呪っていたインナーチャイルドに癒しを与える https://w-jp.net/2020/2057/ <br /> これまた夢や瞑想で見たお話です。本当のことかはわかりません。<br /> <br /> 以前に書きましたように私の一部の系統をグループソウル経由で辿るとナチスに拷問された霊能者がいるわけですが、どうやら、それがインナーチャイルドとしてことあるごとに私のトラウマとして浮かび上がってきていたのだとはっきりとわかってきました。<br /> <br /> 瞑想をして静寂の境地に何段階かに分けて入っていくわけですが、その中に、どこか深く入れない重荷のようなものを感じていたのです。<br /> <br /> 何度も瞑想をして、それが一体何なのか探っていました。<br /> <br /> 私の若い頃に学校生活やその他で生じたトラウマであれば大体は瞑想中にその時のことを浮かび上がらせて消すことができたのですが、この種の深いトラウマはふとした時に顕在意識に出るので厄介なものでした。<br /> <br /> 普通の生活をしていて、不意にトラウマが浮かび上がってきて、かと言ってそのトラウマは単なる葛藤だけで感情でできているものなので、不意にトラウマになったからと言ってその理由がナチスの拷問だとはなかなか気がつけずにいました。ただ単に、若い頃にカルマの解消のために自分自身をどん底に突き落としたことによるトラウマかとばかり思っておりました。ずっと、このことに気がつくまでは。<br /> <br /> おそらく、ことあるごとに少しづつ気が付いてはいたのだと思います。しかし、まだ、それと正面から向き合う準備ができていなかったのだと思います。<br /> <br /> クンダリーニが上がってきてアナハタ優勢になってきた頃にはエネルギー量が上昇して子供の頃のトラウマまではそのエネルギー量でポジティブに解消することができるようになっていました。これは、パワーが上がればポジティブになって雑念が減るということだと実感しています。<br /> <br /> しかしながら、ナチスに投獄されて拷問されながら霊視をさせられたことはこれらとは根本的にレベルが異なります。どうやら、それらのトラウマがまだ解消できていなかったようです。アナハタ優勢、そしてマントラを唱えずともアジナに感覚が出てきた(注1)わけですが、それらで解消できていたのは今生でのトラウマまでだったようです。<br /> 注1:(マントラでアジナがグリグリくるのはかなり以前からあった<br /> <br /> 時々、ふとした時に日常生活上にこの種の強い感情の突き上げと呪いが吹き上げてくることが青年期以降にありました。子供の頃はまだ生まれた時から所有していたオーラでネガティブなことはそれほどなかったのですが自分がどん底に突き落とされてから以降、トラウマが付き纏うようになったのです。<br /> <br /> そして、今生で解決すべき基本的なカルマは大体解消し終わったのですが、どうやら、深いところに眠っているカルマとしてナチスに拷問された恨みと呪いが時々出てきていたようです。<br /> <br /> 時々、ふと我を失って「(ナチスを)死ね、死ね、死ね・・・」と呪う自分がいました。今でこそ我を失う前に気がついて正気に戻ることができますが、日常生活を平穏に送ることに困難さを感じることもありました。<br /> <br /> 前にも書きましたけど、ナチスは殺風景な牢屋に私(の一部の過去生)を押し込めて、逃げ出そうとして失敗した罰として私の頭に輪っかのようなものをつけ、その輪っかをネジで頭蓋骨にはめたのです。体を動かす時もゆっくり動かさないと痛いし、ことあるごとに頭痛がします。眠る時は気をつけないと寝返りを打った時にネジが食い込んで痛くて飛び起きます。<br /> <br /> もともと粗末なベッドでしたがますます寝られなくなり、能力も落ちてゆきました。そして、その都度、ナチスへの呪いを深めました。毎晩のように「(ナチスを)死ね、死ね、死ね・・・。」と呪い、戦時中でしたから戦況を霊視させられるのですが、ナチスが負けるように霊視の結果を意図的に選んだり、見せなかったりしたように思います。口で説明するような霊視ではなくて手のひらから映像として空間に照射しますので映像自体はなかなか騙せないのですが、それでも、見せるものを選択することでナチスの役には立たないかあるいは勘違いさせるように意図しました。<br /> <br /> 更には、ナチス自体の精神に入り込んで精神崩壊もさせたような気が致します。他の人もナチスを呪っていたのでしょうが、少なくとも私の過去生もナチスの精神崩壊を意図して呪い続けていました。願いは2つ。ナチスの死と、戦争におけるナチスドイツの敗北です。<br /> <br /> 長い間は、この突然のトランスと「死ね、死ね、死ね・・・」と言う感情と呪いがどこから来ているのかよくわかりませんでした。瞑想を続け、今生のトラウマを整理して行っても尚そこに残る深いトラウマを探って行ったらナチスに行き着いたわけです。<br /> <br /> 私に限らず、能力者を怒らせない方がいいと思いますよ。ナチスは霊能者を利用しているつもりでしたけど、怒りを買ったら必ず仕返しされます。<br /> <br /> 死んだから終わりではなく、死んだ後の方が自由に活動されますから更に根本から仕返しされます。呪いは死後に強まることはそれほどない気が致しますが、生きていれば色々なことがありますので呪いも小さくなってゆきますが、死んだらなかなか呪いは小さくならず、呪ったまま死んだら長く呪いが続く気が致します。<br /> <br /> ある意味、ナチスドイツは私の一部の過去生の怒りを買って戦争に負けた、ということもできるかもしれません。おそらくは私の一部の過去生を牢獄して拷問なんてしていなければ戦争でもっといい線行っていたようにも思います。今の時代までドイツ帝国が東ヨーロッパを治めているタイムラインもある気が致します。まあ、私の一部の過去生を怒らせたのが運の尽きだったということかもしれないですね。<br /> <br /> 呪いでナチス自身の精神を崩壊させて判断を鈍らせればナチス帝国の崩壊なんて簡単なことです。ナチスの脳か心臓にショックを与えてコロリと殺すこともできましたがそうすると精神が解放されてしまい、また次の転生において他人を拉致・拷問しようとするかもしれません。そんな簡単に殺してしまうより精神を崩壊させて二度と他人を拷問しようとなんて思わないほど痛めつけてあげる方がよっぽど効果があるのです。それは呪いと言うだけでなくこの世から悪を排除することでもあります。<br /> <br /> ・・・再度書きますけど、夢と瞑想のお話で、本当かどうかは分かりませんよ?<br /> <br /> そんな私の一部の過去生があって、瞑想で深く潜って行った時に、この呪いが眠っていたのです。<br /> <br /> 私は今まで「インナーチャイルド」とか興味がなくて、そもそも「インナーチャイルドって説明は何度も聞くし色々な人が言っているけど、いまいちピンと来ない」と思っていたのですが、最近、瞑想で見た私の中に眠っているこの呪いとそれを発している女性の魂(その当時の私は女性だった)は、まさにインナーチャイルドと言うのが相応しい気が致します。<br /> <br /> ナチスドイツに拷問された私の一部がインナーチャイルドとして呪いと悲しみにふけているのです。それが最近の瞑想で見出したことでした。体育座りのように足を抱えてうずくまり、呪いつつも泣いているインナーチャイルドがいます。<br /> <br /> そのインナーチャイルドに対して、「大丈夫。もうナチスはいません。貴方を拷問するような人はいません。安全です。起き上がってください。」と言いつつ、優しく頭を撫でてあげます。<br /> <br /> そうすることで、インナーチャイルドが抱えている昔の呪いが少しづつ解けて来ている気が致します。<br /> <br /> ヨーガでは体の右半分がピンガラで男・太陽の性質を持っていて左半分はイダで女の月の性質を持っていると言いますが、このインナーチャイルドは体の左半分に眠っていました。<br /> <br /> 元々は元気な女性でしたが拷問を受けるうちにやつれて来て、能力があまり出なくなって(そのように装っていたと言う面もありますが)最後に捨てるように放り出された時にはハリーポッターに出てくるシビル・トレローニーのような雰囲気になっていました。その姿のインナーチャイルドが私の中に眠っていて、癒しを必要としていたのです。<br /> <br /> どうも、私が今生で霊的な能力が出ないのはこのインナーチャイルドを癒していないからのような気がして来ました。<br /> <br /> その転生ラインを辿ってみると、拷問を受けた後の転生ではとにかく能力を隠すようになって、普段あまり能力を使わないようになっていました。それは単に隠すと言うだけでなく、拷問を受けたことによるトラウマが癒されていなくて能力を出すことに対する恐怖が能力に蓋をしていたのではないかと思うのです。<br /> <br /> 拷問を受けた後は拷問痕が頭蓋骨に残って冠のように無残な姿をさらけ出し、そんな拷問を受けて傷があり、悲痛の表情を浮かべ、しかも年老いた女なんて誰も相手にしてくれません。そのトラウマがインナーチャイルドとして眠っているのです。<br /> <br /> 私の今生の目的は過去のカルマの清算でありますので多種多様な過去生の一部が今生の魂に取り込まれていますが、その中に、このインナーチャイルドも含まれていたようです。このインナーチャイルドのラインを辿ってみると、最近ほとんど転生していないようです。ナチスに拷問された後、1回か2回くらい転生しただけで、あとはグループソウルの中にカルマとして眠っていました。最近の転生は他のラインの男性性としての転生が多いですね。男性性の転生は天皇から庶民に降りて来て一般人を理解すると言うラインで、それに、時々グループソウルで合流・分離(分霊)を繰り返してはいますが女性としての魔女系のラインがあって例えばジャンヌ・ダルクなどがいます。<br /> <br /> どちらにせよ今生はカルマの精算という位置づけですのでいずれもそのカルマを背負った本体ではなくてそれぞれの人生で負ってしまったカルマの一部を集めて一つの魂にしておりますので、私がジャンヌ・ダルクだったという訳でもありませんし、私自身がそのまま魔女だった訳でもありません。私の一部としてそれらの系統から繋がっている一部があるというだけです。ただあるだけでなくてカルマの部分、一番悪いトラウマの部分だけが集まっておりますので、私がそれらの聖女を名乗ったら失礼にあたるというものです。グループソウルとはそういうものです。<br /> <br /> そのように分霊として私が生まれ、カルマ精算の対象としてナチスに拷問された当時の魔女(の一部)が私の中にインナーチャイルドとして眠っていた、という訳です。<br /> <br /> 色々できたとしても、大抵の能力者は無害ですし、そもそも世俗の現世利益に興味がない人がほとんどです。ただ、そのような人を捕らえたり拷問したり、何某かしたら必ず強い仕返しをされます。それは、ほぼ決まっているその人の人生すらもねじ曲げて、時には国家がほぼ既定路線で決まっていた未来すらもねじ曲げることがあるということです。ですから、色気を出して能力者を使役させようなんて思わないことです。例えば平家の呪いとかあるでしょう。あんなのはまだ甘い方です。本当に強い能力者であれば国が滅びていますから。<br /> <br /> Fri, 04 Sep 2020 00:00:00 +0900 物理数学者としての人生と、商人としてパリのフランス革命を目撃する https://w-jp.net/2020/2056/ <br /> これまた夢で見たお話。本当のことかはわかりません。<br /> <br /> 幾つかの人生を転生して、ある時、物理数学者としてフランスかどこかの王立のような名誉のあるアカデミーに所属していました。若い頃にとある理論を発表し、それについて研究を進め、年寄りになる頃には学校でその理論が教科書で教えられるようになってやがてはその理論は当たり前のようになってゆきました。<br /> <br /> その人生では割と著名な学者で若い頃に作った理論の上に更なる理論を積み重ねて行ったものです。<br /> <br /> 長らくその世界にいると権威のようになって、威厳も増えて、しかしながら、そのような権威ある立場ですからチヤホヤされて自尊心が拡大し、細かいことでいちいち怒りっぽくなってしまったように思います。自分だけが理解して他人が理解できないという状態が何十年も続いて、やがてそれが教科書に載るようになったものですから、他人をどこか小馬鹿にしていたのですね。これは反省点です。<br /> <br /> その反省をするためなのかあるいは反作用が働いたのか、次の人生でも学者になろうとしましたがうまくいかず、アカデミーには入れず、教員として生計を立てましたがなかなか家計は苦しかったように思います。<br /> <br /> この時はあまり心配せずに次の人生に生まれてしまったために金銭面で苦労したことを覚えています。<br /> <br /> そうして金銭で苦労しましたのでそのまた次の人生は金銭に苦労しないようにパリのフランス革命革命前夜のパリの商人の家に生まれました。商売は割と順調で、予定通り、金銭には苦労しない生活をしていました。<br /> <br /> しかし、次第に景気が悪くなってきて、人々が食べるものにまで困るようになります。<br /> <br /> 私は商人でもありましたし、小さなバーと雑貨店を兼ねているようなお店も運営していましたからパリ郊外からの商人との取引がありました。<br /> <br /> ある日、私は他の行商人の取締役たちを呼んで会議をしました。<br /> <br /> 品物がどんどん高くなる。それはパリに品物を卸している大手の業者が値段を吊り上げているからだ。しかし、我々も厳しい。このまま仕入れ価格が上がって行って小売価格がそのままでは我々は破産してしまう。よって、皆で価格を調整し、主要な品物を一斉に引き上げることにしよう。そして、それは同意されました。<br /> <br /> ここに、フランス革命前夜の商売のカルテルが出来上がったのです。<br /> <br /> もともと少しづつ価格は上がっていましたが、カルテルによって一気に価格を引き上げたのです。これで小売業の収支は持ち直しました。しかし、住民が困ることになりました。<br /> <br /> ある日、パンや小物を買いに来たお得意さんの住民が一気に値段が上がったのを見て「どうしてこんなに高いのか?」と苦情を言いました。<br /> <br /> それに対して、答えました。<br /> <br /> 「仕入れ価格が上がっているんだ。他のお店に行ってみろ。どこだって高くなっているぞ。先週はこれで○○で仕入れた。しかし今週は○○になっている。今週の仕入れ値は少し前の売価よりも高いんだ。それに手数料を載せて売ったらそのくらいになる。仕方がないだろ」<br /> <br /> お得意さんが「それじゃ、その仕入れ値で売ってくれ」というものですから、「だめだ。手数料がなければ儲けが出なくて、次の仕入れができなくなる。次の仕入れはもっと高くなるだろう。品物が手に入らなくなったらお前さんだって買えなくて困るだろ。仕方がないんだ。卸業者が高く値段を釣り上げているのだかな・・・」<br /> <br /> それは真実ではありましたが、カルテルを結んで価格を安定させていたのもまた、事実でした。<br /> <br /> そんなことを繰り返していた結果、かなり不満が溜まったのでしょう。やがて、「住民が街に集まっているぞ!」「王を倒そう!」という声がそこかしこから聞こえてくるようになります。<br /> <br /> 私は「王を倒すなんて、そんなことできないだろ」と思っていましたから特にデモ隊には参加せずにお店を開いていましたが、やがて王が倒されたと聞いてびっくりしました。<br /> <br /> 当時は単にびっくりしただけでしたが、今から思えば、そんな歴史的瞬間に立ち会えたのであればもっと歩き回って雰囲気を見ておけば良かったとちょっと後悔しています(苦笑)<br /> <br /> とは言いましても、レ・ミゼラブルに出るようなあんな熱い感じでもなくて、もっと怒りに震えた感じ、不満が爆発する感じですので、レ・ミゼラブルは美化しすぎかな、という気が致します。同時代に生きた感覚としてそんな気が致します。<br /> <br /> そうして王は倒され、ある程度、物価も戻りました。<br /> <br /> しかし、多少は良くなりましたが、根本的には変わりません。いつの世も、庶民は権力者に利用されるものですね。王を倒したい人がいて、庶民は動かされただけだったのだと思います。<br /> <br /> Thu, 03 Sep 2020 00:00:00 +0900 私のグループソウルは遠い過去から霊性の進化を教育してきた https://w-jp.net/2020/2055/ <br /> 夢で見たことです。本当のことかはわかりません。<br /> <br /> 遥か昔、宇宙のとある星で争いがありました。私のグループソウルであるハイヤーセルフとしての存在はその戦いに一旦は破れ、仲直りをし、その後、国を離れて地球の面倒を見ています。グループソウルの本体が遠い宇宙の果てから地球にやってきて、初めは本人だけでしたが次第に仲間たちも集まり、大師としてこの地球上に関与し続けています。<br /> <br /> 時空を超えられますので遥か遠い過去にも関与しておりましたが、かなり昔の歴史においてはポイントポイントごとの関与に留まり、深く関与し始めたのはレムリア時代の終わり頃からだったと思います。もちろんレムリア時代の中期以前にも関与していたのですが、その頃に私の分霊の核の部分も切り出され、レムリア時代の終わりの頃に私としての分霊が初めて地球上に転生しました。<br /> <br /> 核と言っても、必ずしもずっと分離したままだったわけではありません。グループソウルのことですので統合・分裂をしますが、分霊を作るときにある程度の方向性というものはあるのです。その性質のことを核と言ったりします。比喩的なものです。今生ではカルマの解消が一つの大きな柱でしたので私にはその他にも多くの人生が混ざっています。ですから私の全てがそうだったわけではありません。系統として、そのようなものがある、ということです。<br /> <br /> その、分霊の一つの系統として、レムリア時代に分霊として別れた魂がありました。私の目的は、人間たち、地上の生き物、地上の生活を知ること。興味を持って眺めていました。<br /> <br /> ですから、その時点では特に地上の人たちを教育するということはありませんでした。<br /> <br /> 地球に初めて分霊として降りた時は、まだ肉体を持ってはいませんでした。・・・いや、肉体らしきものはありました。しかし今の普通の人のような重いものではありませんでした。そして程なくレムリアがアセンションをします。その時は、肉体らしきものが丸ごと軽くなり、物質らしき物質はより物質の薄いものになり、より微細なものになりました。人々は喜びに溢れ、次の世界、地球の別の面といいますか、並行宇宙といいますか、今の地球のすぐそこに存在している別の惑星にある美しい別世界へと旅立ちました。<br /> <br /> 私は地球に来たばかりでしたしまだ地球のことを知りたかったので地球に残りました。<br /> <br /> その後、遥かなる時間を地球で過ごしたような気が致します。肉体は纏わずに、霊のまま漂っていました。<br /> <br /> 地上に住む人々は野蛮でしたが、女性は美しい姿をしておりました。理解力や直感力は高くなく、欲望のまま生きているという点においては今の人とそれほど変わらなかったと言えます。<br /> <br /> まだ地球には木々が多く、街の周囲は森に囲まれていました。<br /> <br /> そんな時、とある一向を発見しました。<br /> <br /> 地上に住まず、空中に浮かんだ住居に住む人たちです。人数はさほど多くはなく、10人か多くても20人に満たないグループだったように思います。プレアデス系の先遣隊です。<br /> <br /> 彼らは最初、空中に住んで、そこに地上の女性を招き入れて生活していました。今の科学技術を持ってしても魔法としか思えないような技術を持っており、願えば何でも出てくる魔法の杖のようなものもあり、不自由せずに暮らせたように思います。<br /> <br /> 私は興味を持ち、その人たちについていくことにしました。その人たちは見えない霊も見えて、話もできる人たちでした。ことあるごとに私の人生とその人たちはクロスすることになります。<br /> <br /> プレアデスの先遣隊は地上の人を調査し、可能ならば霊的成長を教育するというミッションを持っておりました。それはかなり昔から行われてきた長い長いミッションで、同じ魂が地球に何度も何度も転生をして同様のミッションを継続するという辛く長いものです。特に魔女が弾圧されて火炙りにされたりと言ったことは中世だけでなく何度となく行われてきました。地上の偏見のある人たちの中でひっそりと暮らすことも多くありました。<br /> <br /> 私の元々の目的は地上の人たちを理解することで、それは学術的に理解するというよりは楽しみの感覚、興味を持って喜びを感じると言った種類のものでした。ですから私の根本から言うと教育ということにはならないのですが、プレアデスの先遣隊と関わるにつれて人々の霊的啓蒙というものにも少しづつ興味が出てきたのは事実です。<br /> <br /> 元々は、私は地上の人の悩みとか欲求とかには全く興味がなかったのです。なんで悩んでいるかなんて興味もないですし、そもそも悩みとは何ぞやという根本的なところが理解できませんでしたので、よくわからない「悩み」とやらを人間たちが持っていて、それを解消してあげることの何が嬉しいのかよくわからなかったのです。基本的には私は悩むとかそういうことはなかったですからね。今生でこそカルマの解消のために一旦どん底に落ちたからこそ人生の悩みがあるとはどういうことかわかるようになりましたけど、それまでは、人々がなんで悩んでいるのかよく分かりませんでした。正直、ある程度覚醒してしまった今となってはまた他人の悩みがなんぞやということがよくわからなくなってきています。記憶では悩みとはどういうことかわかりますので有益ですけど、覚醒してくると他人の悩みがよくわからなくなるのかな、という気がしています。そんなわけで、私は他人の悩みとかその解消とかいうものに興味はなかったのですが、付き合いのあるプレアデスの先遣隊と一緒にいるうちに教育というものの手助けをすることもありました。<br /> <br /> プレアデスの先遣隊の方々は今の時代にも生きていて、私がまだ20代の頃に何人か直接お会いしたりしました。その方々は今でも人々の意識の啓蒙を続けているようです。一時期はかなり盛り上がったようですが今はどうなのですかね。あまり噂を聞きませんね。知らないところで色々とされているのですかね。今生では日本神界の神々との繋がりもあったようで、色々とされていましたが、神々から言われた秘儀は全て実行したと言われていましたが、私なんかからすると、それって本当に日本の神々なのかよく分からないですけどね。その方々が自分の判断ですることですし、基本的に私とプレアデス先遣隊とは独立した存在ですので口出しもしないですけど。<br /> <br /> そんな感じでクロスしながら、例えば、プレアデス先遣隊のゴーストライターのような立場でカウンセリング相手を代わりに前日夜に霊視していたことがあります。あるいは、占い師だったり、インドでグルをしたり、イギリスでスピリチュアルな教師をしたり、色々と関わっています。<br /> <br /> ですが、私の分霊のラインだけでなく、グループソウルの他の分霊は何十人も今でも世界の各地でグル(霊的指導者)をしていたりしますので、私のグループソウルと霊的な啓蒙とは関わり合いが深いと言えます。<br /> <br /> Sun, 30 Aug 2020 00:00:00 +0900 中国の皇帝になって国民に虐殺された https://w-jp.net/2020/2054/ <br /> これもまた夢で見たお話。本当のことかどうかはわかりません。<br /> <br /> 今生の目的のお話の続きです。<br /> <br /> 私のグループソウルの分霊は割と国王みたいな立場で転生することも多く、例えば、ローマの皇帝や中国の皇帝として生まれたこともありました。<br /> <br /> ローマの方は共和制か何かで国民からの突き上げもあり、ノイローゼ気味になったりしたこともありました。そう言えばローマ皇帝でノイローゼだった人もいましたね・・・。名前は覚えていませんが。<br /> <br /> 一方で、中国の皇帝になった時に国民が怒り狂い、殺されたこともありました。<br /> <br /> 中国の政治はその当時かなり混迷しており、あの世の会議で「あーでもない、こーでもない」と言って「困った、困った。どうしよう」と皆が悩みに悩んでおり、そんなところに私が呑気に「俺に任せろ」と言って転生したのですが、反逆者に殺されてしまったわけです。<br /> <br /> 中国の皇帝として生まれたとき、国民の気持ちがわからず、周囲にいる宦官たちを信じていたら失政してしまったわけです。<br /> <br /> そして、その時の失敗の思いを元に「国民の気持ちを理解する必要がある。私はしばらく、国民の一人として下って国民を理解する」と言ってしばらく国王の任から離れることにしました。<br /> <br /> そして、まず第一に選んだのが江戸時代だったかそのくらいの武士の家庭でした。ぼちぼちの広さの家を持つ下級武士で、正妻がいて、奉公人が3人か5人くらいいる、小さな家に生まれることにしたのです。そこでまず、庶民の暮らし、庶民の気持ちというものを理解しようと思いました。<br /> <br /> 今生の目的はいくつかあって、このラインも含まれているということです。別のラインもあって、グループソウルのとある系統の分霊は何度か、たぶん平安時代の頃に日本の天皇だったことがあったように思いますが、そのラインからもやはり、庶民の気持ちを理解したい、という気持ちがあって今の今生に繋がっているように思います。グループソウルと分霊のお話ですから、天皇の時の魂がそのまま転生しているわけではなく、グループソウルに一旦合流して、今生の目的がありますから、天皇だった時に疑問になっていた気持ちの部分だけが切り離されて今生の私としての分霊に取り込まれ、今の私の記憶の一部として残っているというわけです。中国の皇帝になって国民に虐殺されたという記憶も同様で、グループソウルに戻った後、疑問になっている気持ちの部分が切り離されて分霊になって庶民として暮らしているわけです。そうすることで、一部のグループソウル(分霊)は使命を優先させ、又、一部のグループソウル(分霊)は庶民の気持ちを理解するために庶民として生活をしているわけです。<br /> <br /> Sun, 30 Aug 2020 00:00:00 +0900 今生の目的はカルマの解消と覚醒への階梯を確かめることの2つ https://w-jp.net/2020/2053/ <br /> 私の場合、転生する際はほとんど場合、使命がありました。使命は人生によってそれぞれですけど、使命を優先させておりましたので葛藤や摩擦でカルマを抱え込んでゆきました。そのカルマは一定量であれば横に避けておけるのですが溜まってくると重くなりますので解消する必要があります。<br /> <br /> 使命を優先しますから、基本的には私の人生でカルマの解消なんてわざわざしないのですよね。今回は特別とも言えます。<br /> <br /> カルマはグループソウルに溜まってゆきます。普段の人生においては使命を優先させますからグループソウルから分霊として転生をする際にはそのカルマは持ち込みません。よって、ますますカルマが溜まってゆくわけです。<br /> <br /> ここでいうカルマとは根本的なシステムとしてのカルマというよりは不浄な微細な印象(サムスカーラ)という狭義の意味で使っています。広義のカルマ・システムから言えば全てがカルマなのですが、そのカルマ・システムの保留事項が溜まっていってしまっているというわけですね。しかもそれが良いものではなく悪いものですので、解消する必要があるというわけです。<br /> <br /> 使命を果たす上で様々な人と関わり合いを持つことになるのですが、大半はそうして関係を持った人から受けた不浄な印象が積もってしまったものです。使命があると人里から離れて生活というわけにもいかないですからね。<br /> <br /> そうして溜まってしまった不浄な印象(サムスカーラ)を解消するという目的がまず大きく1つありました。<br /> <br /> それに合わせて、同じくらい大きな目的として、覚醒への階梯を確かめる、ということがありました。これはどういうことかと言いますと、私のグループソウルは過去生においてグル(霊的指導者)のような役割を果たすことも多く、実際のところ過去生だけでなく今生においても何人も現在もグルとして私のグループソウルから生まれた分霊が活躍しているわけですが、その際に共通の悩みとしてあるのが「弟子たちがなかなか覚醒しない」「弟子たちの悩みが理解できない」というジレンマでした。私のグループソウルから生まれた分霊は自分で一から覚醒するというよりは生まれた時から既に覚醒しているようなものですので特に悩みもなく覚醒を深めて行けるのですが、一から覚醒まで辿り着いたという経験がないために弟子たちの悩みを理解できない、というのが課題としてあったのです。<br /> <br /> そこにきてこの度、カルマの解消をするにあたって都合よく自分自身がどん底に落ちることができますので覚醒への階梯を確かめることができる、というわけです。<br /> <br /> グループソウルはいわゆるハイヤーセルフと同義だと私は思っていて、ハイヤーセルフとしての巨大な自分としての実態があって、それはモヤモヤとした雲のようなものではなくまさに人格を持った、形としても人間のような姿形を持った存在として意思と実態(アストラルな霊的なものですが)が存在しているわけです。それがグループソウルで、その中には細かな色々な意思が存在しているわけです。そのハイヤーセルフが今回、このような決定を下して分霊を作り出したわけです。<br /> <br /> グループソウルとは言っても肉体の各臓器のように役割や偏りがあって、それはハイヤーセルフの意思で各所が分離されて整理されて統合されているわけですが、グループソウルの一部に溜まっていた未解消な悪い印象(サムスカーラ)と、これまた一部に溜まっていた「弟子たちが覚醒する階梯を詳しく知りたい」という欲求がそれぞれあって、お互いが結びついて今生としての私が生み出されたわけです。<br /> <br /> 悪いカルマの方は各人生の悪い印象ばかりが集まったものですので、生まれた時から重苦しい愚鈍な(タマスな)オーラを持ち、その一方で、ある程度の覚醒した意識も持つという二面性のある人生をスタートさせました。<br /> <br /> 人生始まってからすぐに苦労し始め、だいたい40年かかって8割は悪いカルマが解消できたように思います。ここまで来ればあとはグループソウルと融合した後はそれぞれの分霊の人生がカルマを引き取ることで問題なく残りのカルマも解消できるから今回の人生はほぼ達成したようなものだ、と言われています。<br /> <br /> もう1つの目的である覚醒への階梯についても、興味は階梯の特に最初の方にありましたので、それらの階梯はとっくの昔に通り過ぎておりましたのでこれから先はあってもなくても良い、ということのようです。ですので、こちらの目的もほぼ達成したと言えます。<br /> <br /> と、いうことで、人生の大きな目的2つはほぼ達成したとお墨付きを頂いており、かと言ってこれから特に使命があるわけでもなく、後は好きに生きてください、とだけ言われています。<br /> <br /> そうは言っても、色々とできることはあるので何かやってみてもいいかな、という気はしておりますけどね。<br /> <br /> グループソウルの他の分霊は色々と使命を果たしていて地球人類の覚醒に貢献しているわけですけれども、最近の共通の課題は、分離してしまっている宗教を統合してゆく、ということにあるようです。そのために私のグループソウルの分霊は知恵を絞って活動しているようです。<br /> <br /> それに合わせて地球滅亡を阻止する、という大きな目標もあります。<br /> <br /> まあ、私の今の人生・立場からするとそのような活動もしにくいですし、もともとそのような使命があるのであれば家柄や教育なども厳選して行われますから、やるとしても一旦はこの人生を終えて、グループソウルに合流してからまた分霊になって活動した方がやりやすいかなとは思います。その時は今の私とはかなり異なる資質になると思います。時間軸についてもあの世というものは時空を超えておりますから死んだ後に同じ時代に重なって転生というのもあり得るわけです。<br /> <br /> ですので、今生はたまに休暇をもらったと思ってゆっくりすればいいかなと思っておりますが、それでも、何かするかもしれませんけどね。もう十分休んだ気もしますので。<br /> <br /> 今までは使命もありましたし、そのためにはある程度のお金も必要ですのでそれほど貧乏をしたことがなかったのですが、カルマの解消をするためには貧乏な家庭の方がしやすかったというのもありますし、又、弟子たちの悩みの根本には貧困の悩みというものも横たわっておりましたので弟子たちの悩みを理解するためにも貧乏暮らしをしてきましたが、もう貧乏暮らしをする理由も無くなりましたので、とりあえず金銭的な解消をしてもいいかな、とは思っています。<br /> <br /> Sun, 30 Aug 2020 00:00:00 +0900 ヴィパッサナー状態のまま遠近感が戻ってきた https://w-jp.net/2020/2031/ <br /> 最初、ヴィパッサナーで遠近感がなくなってきたわけですけれども、ここにきて、最近はヴィパッサナーのまま遠近感が戻ってきました。<br /> <br /> 昨年末に始まった、視界がスローモーションで認識されるヴィパッサナー、あるいはサマーディとも言える状態ですけれども、それは映画のスクリーンを見ているかのように割と二次元ののっぺらとしたものでした。<br /> <br /> 割と平面ですけれども映画のように各所までがはっきりと見えてその動きもスムーズですので日常生活が映画のシーンのように感じられ、日常生活で見える景色が美しくなったのです。<br /> <br /> 日常生活が映画のようになって、視界に映る景色はまさに映画のように二次元のスクリーンのように感じられていたわけです。文字通りの意味です。視界ですので四角の画面ではなくて横に広い楕円というのは昔と変わらないですけどね。<br /> <br /> ですが、ここにきて、その映画のように美しい視界はそのままに、遠近感も出てきたように思います。<br /> <br /> これ、目の使い方と脳の使い方の切り替えですね。<br /> <br /> 映画のワンシーンのように美しく静止画を見る視界モードと、その状態のまま自分が動いた時に遠近感を感じるモードとがあって、完全にオンオフではないのでそのモードの割合によって遠近感が出ますね。<br /> <br /> 少し前までは遠近感を感じるモードにすると静止画モードがかなり弱くなってしまっていましたが、今は、遠近感を感じるモードでも静止画モードがそれなりに動いています。<br /> <br /> そのように、遠近感を感じるモードと静止画を感じるモードが共存できるようになったというのが最近の変化のような気が致します。<br /> <br /> 少し前までは単に静止画としてスローモーションで認識されたわけで、それは点が連続しているような認識でした。しかし、今はその点が線として認識できるようになったのが違いと言えます。<br /> <br /> 少し前までは日常生活の景色を静止画として楽しんでいたわけですけれども、ここにきて、動画として楽しめるようになった感じです。少し前まではスローモーションで静止画として各コマの景色を楽しんでいたのに対し、最近は、その感覚を残したまま動画として楽しめます。ちゃんと景色を見たい時は静止画モードで切り取って見ますし、動きを楽しみたい時は動きのある遠近感モードで認識するわけです。<br /> <br /> このように日常生活の景色を認識すると、映画とかテレビとかよりも現実が断然面白く感じられます。遠くに行かなくても日常生活が楽しめます。何の変哲もない自分の部屋であっても景色が美しくてその動きも全て含めて神の所業のように輝いて見えるわけです。<br /> <br /> Wed, 26 Aug 2020 00:00:00 +0900 古代のマントラで前頭葉上部の感覚が出てくる https://w-jp.net/2020/2030/ <br /> 今まで、頭の上のあたり、特に頭の上の前の方の感覚があまりありませんでした。ずっと昔は前頭葉全体の感覚だけでなく頭の上半分くらいの感覚があまりなかったのですが、下の方から次第に感覚が出てきて、それでも前頭葉の上の方の感覚はまだ出ておりませんでした。<br /> <br /> それと対応するかのように、昔はマントラの共振が体全体だったわけですが最近は頭の眉間のあたり、前頭葉の下部やその周辺で反応しておりました。<br /> <br /> 最近は単に沈黙の瞑想をして静寂の境地に段階的に至ったり、あるいは、ことあるごとに古代の唱え方でマントラを心の中で唱えながら瞑想をしているわけですが、本日、ふと試しに唱え方を少し変えてみたところ前頭葉の上の方の感覚が出てきてびっくりしたのです。<br /> <br /> 先日までチベットのマントラの最後の「タット、サット」の分はそのまま日本語で小さい「ッ」で唱えていたわけですが、本日、一文字づつきちんとはっきりと称えるようにして「タツト、サツト」のように変えてみましたら「ツ」が前頭葉の上部を活発化させる効果があったのです。<br /> <br /> 何故そう変えてみたかというと、言葉を一文字づつはっきりと発音しようと心がけたのです。瞑想中に気づかぬところでインスピレーションをもらっていたのかもしれないですね。<br /> <br /> マントラの発音は大切で少し違うだけで効果が出ない、なんて言いますけど、それはその通りだと思います。こういうこともあるのですね。<br /> <br /> Sun, 23 Aug 2020 00:00:00 +0900 はっきりと感じるクレアセンシェンス(クリアセンセス) https://w-jp.net/2020/2024/ <br /> 昔からこのような直感はよくありましたが、最近、その感覚が鋭くはっきりとしたものになってきたように思います。<br /> <br /> 昔の直感は無指向性の頭の中あるいは胸やお腹などで感じるぼんやりとしたものでした。時にその直感を無視してしまって後悔することもありましたし直感を感じていつつもそれをスルーしてしまうことも多かったように思います。<br /> <br /> 最近は、指向性の直感になってきたように思います。意識を何かに向けるとその感覚が昔よりきちんとわかるようになりました。<br /> <br /> 例えば、わかりやすい例でいいますとスーパーの食品の商品棚が挙げられます。<br /> <br /> 同じ商品がずらりと並んでいて、食品とはいえ工場で作られた製品ですから同じ品であれば基本的に同じはずですが、何か違いがあるような気がして良い波動を感じるものとそれより悪い波動とを比べてみると賞味期限の違いだったりします。賞味期限の違いが波動の違いとして現れていたわけです。<br /> <br /> このような賞味期限の違いは以前はわかりませんでした。<br /> <br /> もちろん波動に大差なければ感覚として違いがないのでわからないのですが、品によっては波動に差があるようです。賞味期限の違い、あるいは、作られた日が違うので材料の違いというものも多少はあるのかもしれません。同じ材料でも産地が違うとか。<br /> <br /> 以前はこのようなことを漠然と感じていて、商品ごとの違いまではわからなかったように思います。<br /> <br /> 以前は意識せずとも周囲の感覚をまとめてぼんやりと受け取ってしまっていました。今は、意識しなければ感覚を受け取ることはなく、意識を向けると感覚を受け取るようになりました。<br /> <br /> これは単なる違いだけでなく、生きる上でのメリットでもあります。これのどこがメリットかというと、受け取りたくないような低い波動のものが割と近くにあってもその影響を受けにくくなった、という点が挙げられます。これは地味にかなり良いメリットです。ネガティブな物体あるいは人の影響を受けにくくなるわけですからね。<br /> <br /> おそらくは瞑想の時にオーラを自分の周囲に凝縮することで心も安定してオーラも安定するようになって、感じたくないものは感じないという副次的効果が生まれているのだと思います。<br /> <br /> 霊能者とか霊障になりやすい人とか冷媒体質とか言われる人たちはオーラがゆらゆらと広がっていますけど、私もどちらかというとそのようにオーラが静まっていなくて広がっている人だったように思います。それで、感じたくないものまで感じてしまっていたように思います。<br /> <br /> それが安定してきて、このように、選択的にはっきりと感じることができるようになったように思います。<br /> <br /> オーラが不安定だと他人にエネルギーを吸われやすくてエネルギーが枯渇しがちな気も致します。エネルギーヴァンパイアはオーラが不安定な人からエネルギーを吸うのだと思います。そのような被害も減ったように思います。感じることが選択的になったということは接触も選択的になるということで、接触が減ればエネルギーヴァンパイアの被害も減るということなのでしょう。これは程度問題でもありますし向こうがオーラの触手を伸ばしてきた場合には被害もありますので完全に防ぐことにはなりませんが、意図せずして自分のオーラが周囲に広がっていてエネルギーが奪われるという状態は以前より減ったような気が致します。<br /> <br /> そのようにオーラが安定してくると感覚としてもはっきりしてきて、指向性で選択的にはっきりと感じるクレアセンシェンスになるような気が致します。<br /> <br /> Tue, 18 Aug 2020 00:00:00 +0900 スローモーションのヴィパッサナー瞑想で生活する時間が増える https://w-jp.net/2020/2023/ <br /> 日常生活が瞑想になってきましたが、最初は気がつかないうちに割とすぐに元の状態に戻っていました。瞑想状態が解除されると再度瞑想をして瞑想状態に持ち上げた後に日常生活をその瞑想状態で続ける、と言うことを繰り返していました。<br /> <br /> 最近は、半年前と比べてその瞑想状態の継続時間が増えたような気が致します。<br /> <br /> 以前は瞑想状態で生活するためにある程度の気付きの集中力が必要でした。例えば視界がスローモーションで認識される状態はある程度の「行為」としての集中が伴うものでした。一方、最近はその「集中」がさほど必要なくて集中自体も無意識のものに変わってきているように思います。これは「集中」というと語弊があるかもしれず、「観察」と言った方がいいかもしれません。<br /> <br /> この、以前の状態である「集中」についてもう少し書きますと、まず、ヴィパッサナーで見ているのは顕在意識ではなくその奥にある潜在意識ですので、その潜在意識が集中すると言うと違和感を感じる方もいらっしゃるかもしれませんが、あくまでもその潜在意識が活動するための集中が昔は必要でした。このあたり、誤解がないようにもう少し説明しておきますと、普通に言われる「集中」とは顕在意識における「行為」であり、五感にまつわる集中です。五感ですから体を動かすとか目で見るとか言う「行動」に即したものを普通は「集中」と言うと思います。しかしながら、ここで言う「集中」とはそのような五感にまつわる集中ではなくその奥にある顕在意識を働かせ続けると言う意味における「集中」であるわけです。この世界を見ているのは普通は五感における目であるわけですが、ここで言う「見る」とか「気付き」とか言うのは、境目が曖昧ですしもちろん五感も動いているわけですから五感としての「見る」や「気付き」も当然あるのですが、それに加えてその奥にある潜在意識としての「見る」が働いている状態のことを言うのです。その潜在意識としての「見る」を動かし続けるために「集中」が必要なのですが、それは奥深いところに意識を「合わせる」「意識を凝縮させる」と言った種類のものですので、五感で筋肉などを集中させることではないわけです。これを、流派によっては「行動ではない」と言ったりすると思いますし、「集中ではない」「観察だ」とか言ったりすると思いますが、どれも状態としては同じことを言っているのではないかと思います。この状態を「集中」と言うこともできますし「集中ではない」と言うこともできますし「観察だ」と言うこともできますけど、別にどう表現しても良いのではないかと私なんかは思います。流派によってはこれを「ヴィパッサナー(観察)」と呼びますし、「サマーディ(三昧)」と呼ぶ流派もあります。サマーディと言う言葉の解釈は多様ですのでこれまた混乱します。と、言うことで、言葉としては色々ありますけど、いわゆる潜在意識が見ている状態が続くのがいわゆる「瞑想で生活する」と言う状態なのではないかと思います。<br /> <br /> そのような「瞑想で生活する」という状態を続けるためにある種の、潜在意識に対する「集中」が以前は必要だったのですが、最近はそれほど必要でなくなってきたということです。潜在意識に対するものですので「集中」というよりは「観察」と言った方がいいかもしれませんが、どちらの言葉も必ずしも全てを表現できていないような気が致します。「集中」「観察」どちらの要素もあります。<br /> <br /> 「集中の感覚が消えてゆく」とは「観察状態になる」ということであると言えます。「集中」がより「行為」に近いものだとしたら「行為」としての感覚が減っていった、と言えなくもありません。このように「集中」という「行為」の感覚が消えるとどうなるのでしょうか。それは行為ではありませんので「習慣」「風習」に近いものになると思います。<br /> <br /> 余談ながら、日本の昔ながらの習慣ですと、この状態のことを「日々、周りのものに感謝しましょう」とか「食べる時に箸を動かしたり食べ物を感じて頂きましょう」みたいな言い方になるのかと思います。そう思うと、日本の昔の人って実は瞑想状態が当たり前で生活していたのかもしれないと思わされます。今の人は瞑想状態から落ちてしまっていますのでこのことが理解できないのでしょう。これらの日本の習慣は習慣というよりも瞑想状態で生活していたら勝手にそのようになると言う自動的なものではないかと思うのです。それが瞑想状態を忘れてしまって習慣だけが残ってしまい、しばらくはその習慣が続いたもののやがては忘れられてしまうかもしれない時代になってきているような気も致します。であれば習慣を取り戻すと言うよりは瞑想状態を取り戻せば日本の習慣も自動的に戻るとも言えると思います。日本の文化を取り戻すとか言っている方がぼちぼちいらっしゃいますけど、文化を取り戻すと言うよりも瞑想状態を取り戻す方が早道な気も致します。この日本の風習であっても、瞑想的な感覚なしに生まれながらに習慣としてただ継続的に行っていることと、瞑想的な感覚を伴って行っているのとでは大きく違うのだと思います。ある種の、超えにくい大きな壁というものが存在するわけですね。おそらくは日本の昔ながらの人は「日々、周りのものに感謝しさえすればいい」とか言いますし、それは「既に到達した人」のお話であって、まだ到達していない人はヨガやら瞑想やらをしてそこにまず到達する必要があるのかなと思います。感謝しさえすればいいのはそうなのかもしれないですけど「まだ到達していない人」にはおそらくそれだけだと難しくて、他のものが必要になってくるのかなと思います。<br /> <br /> 余談はさておき、ここまで書いてみて改めて気がついたのは「意識の集中」が不要になってくるという表現もまた語弊があるような気がしてまいりました。集中しなくなるわけではなく、観察は変わらず続くので、集中が観察に変わったというのもまた正しい表現ではない気もしてまいりました。であれば、以下のような表現はいかがでしょう。<br /> <br /> 「集中と共に観察をすることで日常生活がスローモーションとして認識できるようになり、それは瞑想しながら生活するということに繋がっていました。昔は集中と観察をする際に『力』が多少入っており、その力が集中と観察を維持しておりましたので時間が経つと力が抜けると共に集中と観察が弱まってゆき、そうすると再度座って瞑想をしてスローモーションの状態に戻す、ということを繰り返していました。今は、その『力』が次第に不要になってきており、『力』を入れなくてもスローモーションの瞑想の生活が長く続くようになりました。」<br /> <br /> このように表現すると、より現状に近いような気が致します。ただ、力と言ってもエネルギー的にはそれほど変わりがありませんので、エネルギーという意味での力は変化がなく、ここでいう力とは「余分な力」とでもいうべきもので、いわば「余分な力が抜けた」とでもいうべき変化であります。<br /> <br /> とりあえずこのことを「ヴィパッサナー瞑想」と言ったりしますけど、世間で言われている「流派」「手法」としてのヴィパッサナー瞑想が優れているとかそういうことではありません。ヨガ瞑想をしていてもヴィパッサナー瞑想をしていても同様の状態にたどり着くと思います。ただ単に表現としてそれを選んでいるだけのことです。流派の良し悪しを述べているわけではありません。同様の状態をヨガ風にサマーディと言っても良いです。表現としては色々あると思います。同じことです。どちらも手垢のついた表現ですけど、とりあえず表現するにはそのようになるというだけのお話です。<br /> <br /> Sat, 15 Aug 2020 00:00:00 +0900 胸の奥にある粘着テープを剥がすような感覚 https://w-jp.net/2020/2020/ <br /> 瞑想をしているといつものように段階的に静寂の意識が訪れました。そうなると同時に、体の各所の緊張がほぐれてリラックスしてゆきます。<br /> <br /> 更に瞑想を続けていると、胸のあたりに、粘着テープあるいはバッグの口に昔はよく貼ってあった剥がせるプラスチックの細かいプチプチのようなものがくっついているのが見えました。二枚のプラスチックのシートがそのプラスチックのプチプチでくっついているような感じです。<br /> <br /> なんだろう・・・? と思って観察を続けていると、どうも、そのシートは2枚に剥がせるような感じがしました。<br /> <br /> しかし、一気に外そうとしても痛い感覚があって少しの躊躇がありましたので少しづつ剥がしたところ、片側から剥がれてゆきました。そのシートが剥がれてゆくにつれて更に体の緊張が取れ、深いところの筋肉がほぐれてリラックスの度合いが深まってゆきます。やがてはそのシートの面積は次第に小さくなり、3分の1位にまで小さくなりました。<br /> <br /> シートは完全になくなったわけではないですが、胸の奥にある錆び付いた胸の扉をまた一段階、少し開いた感じが致します。<br /> <br /> その状態になってみると、ふと、体の各所に細かな針のようなものが突き刺さっているのに気が付きました。とても微細なものなので、きっと今までその存在に気付かなかったような気が致します。ただ単に緊張としてそれは体に現れていたわけですが、試しに1つ抜こうとしてみました。針ですし奥深いところにありましたのでゆっくりと動かして体の外にポイっと捨ててみます。それほど劇的な変化が現れたわけではないですが少し緊張が抜けた気が致します。<br /> <br /> なんとなく、この針はHUNTER×HUNTERでキルアが頭の針を取るシーンに似ている気が致しました。1つだけだけでなく沢山埋まっているようです。何か気がつかないところで色々としてやれているのかもしれません。<br /> <br /> これから、気がついたら少しづつこの針も抜いていきたいと思います。<br /> <br /> Sat, 08 Aug 2020 00:00:00 +0900 静寂の境地になる時、後頭部から下がるのか上がるのか https://w-jp.net/2020/2011/ <br /> 静寂の境地になる前の状態は大抵は後頭部およびその周辺がちょっとモヤモヤとしてます。<br /> <br /> 静寂の境地に達するとそのモヤモヤが晴れて凝縮した塊のようになるのですが、少し前であればその塊が喉を通って胸の方にまで降りていました。<br /> <br /> しかし、ここにきて、その塊が眉間のちょっと奥まったところに集まるようになりました。<br /> <br /> これは、マントラの共振の位置が変わってきたことと同期しているような気が致します。<br /> <br /> マントラの共振が胸や下半身だった頃はこの塊が胸の方に降りていたのですが、マントラが眉間で共振するようになってからは塊が眉間の奥に集まるようになった気が致します。<br /> <br /> 意識が下半身に降りていた時は思いが浮かぶごとに想念の起滅による苦の感覚が出ることがありますが、意識が眉間に集まっている時はそのような苦の感覚はないようです。<br /> <br /> 意識がまだ眉間に集まっていない時はマントラを唱えると頭の中で変化が起こりますが、意識が眉間に集まれば集まるほどマントラの効果がなくなっている気も致します。と、いうことは、マントラの効果としてはこの準備として有益なのかな、という気も致します。<br /> <br /> 新しいマントラが必要なのか、それとも、マントラの効果がある領域ではないのでしょうか。この辺りもこれから様子を見ていきます。<br /> <br /> Thu, 06 Aug 2020 00:00:00 +0900 サマーディが超感覚に繋がるという実感 https://w-jp.net/2020/2010/ <br /> 今までサマーディと言ってもスローモーションあるいは静寂の境地のようなものでした。<br /> <br /> しかし、ここにきて、ほんの少しですが視界の先に地平線のようなところまで続いている感覚が出てきたのです。<br /> <br /> 瞑想を終えて視界を確認すると、静寂の境地に至っている場合は部屋の壁がはっきりと見えてスローモーションのような感覚が出ます。それに加えて、単なる壁である筈なのにそれが地平線の先まで奥行きがあるかのような錯覚? が時々現れるようになりました。<br /> <br /> それは割と短い間隔で消えてなくなってゆく感覚ですが、これがいわゆる「彼岸の知識」というものなのかもしれません。<br /> <br /> 確かに、「彼岸の知識」というと個人的にはまだしっくりきませんが、それよりも、「地平線にまで続く感覚」ということであれば自分の感覚と合っています。人によっていろいろ言い方はあるでしょうし、もしかしたら同じことを表現しているのかもしれませんね。<br /> <br /> 目に見えている物体はそれ自体で存在していますが、それぞれの物体はそれぞれ「彼岸」あるいは「地平線の先」にまで遠く伸びていて、その地平線の先ではおそらく消えているのかなと思います。<br /> <br /> これは視界として地平線が見えているということではありません。なんとなく地平線のようなイメージはちょっと浮かびますがそれは感覚的なもので、物体そのものというよりは物体の少し背後、少しズレた背後からそのまま後方に地平線の先まで何かが伸びていて、おそらくはその地平線の先では消えているのかなと思います。<br /> <br /> 地平線の先が「無」あるいは「空」だとすれば、物体はその実態が目に見えてはいるもののその実態が「空」であるというどこかで読んだ知識と一致します。<br /> <br /> 主体の感覚は自然に静まっていき、修行者は原初的な知恵を経験する。対象が生じると同時に、それがみずからの空性の境地と同じく、空であることを認識するのである。空性と顕現の統一の境地、そしてその境地そのものと空性が、ともに存在しているということが、すべて同時に経験される。「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」<br /> <br /> この境地を垣間見たのかな、という気も致します。<br /> <br /> Wed, 05 Aug 2020 00:00:00 +0900 覚醒した意識を保つ準備としての瞑想 https://w-jp.net/2020/2009/ <br /> 静寂の意識に達した後、その意識を保ったまま生活ができるようになります。生活するうちにその状態から落ちてしまったり意識がぼんやりとしてきてしまうことがありますが、そのようなぼやけた状態から清浄な意識へと戻してあげるのが瞑想だとも言えます。<br /> <br /> ですから、清浄な意識を保てるのであれば瞑想をわざわざする必要がないとも言えます。そうは言いましても普通は瞑想をすると何某かの変化が訪れますので瞑想は有益です。<br /> <br /> この覚醒した清浄な意識は一般的には「サマーディ(三昧)」とも呼ばれていますが、ある種、スローモーションのような感覚を伴う心そのものが世界を認識している状態です。<br /> <br /> いわゆる一般的な意識においては心はぼやけていて心そのものが世界をそれほどはっきりと認識できずにいます。ぼやけた心の状態ですと想像や外部の刺激に反応して日常生活を送ることになりますが、心がはっきりして心そのもの、ゾクチェンでいうところのリクパが動き出すことによりサマーディの状態になります。<br /> <br /> そのサマーディの覚醒した意識の状態を保って生活することこそがやがていわゆる「悟り」に通じる道なのだと思います。<br /> <br /> ゾクチェンでチェルドル、あるいはシャルドルと呼ばれている状態において以下のようなことが起こります。<br /> <br /> シャルドルは(中略)海に降りると同時に溶ける雪のイメージによって表現される。この場合、雪は感覚をつうじた対象との関係、すなわち煩悩を意味し、シャルドルは、「生じると同時に解放する」ことを意味している。「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」<br /> <br /> この種の「煩悩に左右されにくくなる」状態は様々に起こり、瞑想の各段階でそれぞれに起こりますので、初期のぼやけた少しだけ左右されない状態でも同様に言えなくもありませんし、このように「生じると同時」と言えるほどの素早い解放の段階もあります。<br /> <br /> 人によっては生まれてずっと「私は煩悩に左右されにくいし欲望も少ない」という方もいらっしゃいます。それは人それぞれですしその通りの場合もあるとは思いますが、その一方で、そのように心が想像あるいは自己の理屈でそのように思っているだけで実際はそうではない場合もあります。<br /> <br /> 実際のところ、このような「即時」の解放がどのようなものなのかはなってみないとわかりませんし、まだ先があるのかもしれません。それは私にしても同様のことです。まだ私が思っている状態は段階が低いのかもしれません。そんな感じで瞑想を続けています。<br /> <br /> Tue, 04 Aug 2020 00:00:00 +0900 頭から天に向かって唱える古代のマントラ https://w-jp.net/2020/2008/ <br /> 今まではオームを唱えるとアーは眉間あるいは頭、ウは胸、ムは下腹部が反応しておりました。古代のマントラを唱えても同様で、頭から下半身が満遍なく、唱える最初は頭の方、それからマントラの最後に行くにつれて下腹部が反応しておりました。<br /> <br /> しかしながら、今日の瞑想では頭、特に眉間を中心に同じマントラが反応しておりました。<br /> <br /> 胸はまだいいのですが下腹部が反応するとそれほど心地が良くないのでマントラを唱える回数は少なめにして沈黙の瞑想の時間を長めに取っていたのですが、今日の状態ですと頭のみが反響しておりますので長くマントラを唱え続けることができます。<br /> <br /> すると、マントラの微細な部分に共鳴するようにして地響きのような振動音が音が小さく聞こえてきました。音自体は小さくて遠くで鳴っているかのようではあるのですが感覚的には頭の近くで鳴り響いているような気が致します。そのような、遠くと近くが混合しているかのような不思議な地響きです。<br /> <br /> そうこうしているとマントラが眉間に集中したり後頭部に集中したり、共鳴部が細かく変わっているのを感じます。<br /> <br /> 時々、マントラが頭の上の方にまで少し伸びていっているのを感じます。<br /> <br /> そうは言いましてもまだ頭の上の方にまできちんと繋がったというわけではなさそうな感じです。<br /> <br /> マントラを唱えていると、チベットなのか何なのか、山岳地の荒野に小さな石作りの小さな家というか半分テントのようなものが見えて、その家の前に少しふくよかな体つきをしたチベットのお坊さんが座って通りかかる人に供養しているのが見えました。<br /> <br /> ・・・誰でしょう? これ。<br /> <br /> 前世・・・? のような気もしないでもないですが確証は持てません。空は青く晴れていて、山に緑は少ないです。<br /> <br /> このマントラに共鳴した何方かでしょうかね? それとも単なる想像か。<br /> <br /> まあ、誰なのかはよくわかりませんが、今後も様子を見て行きます。<br /> <br /> Mon, 03 Aug 2020 00:00:00 +0900 0.1秒の光のフラッシュを5分おきに前方上方に見る https://w-jp.net/2020/2007/ <br /> 瞑想をして、まず眉間に集中します。その後、マントラを使って意識を安定させます。<br /> <br /> マントラで意識が眉間に定まってくると、やがて思考も鎮まってきます。<br /> <br /> 不確かなぼやけた思考はなくなり、明確な思考だけが残るようになります。<br /> <br /> それは、まるで自転車で雨上がりの水溜りを惰性で通り抜けるようなもので、足を上げて水をかぶらないように気をつけている感覚が、下の方にあるぼやけた意識に触れないように意識を上の方に持ち上げている感覚と似ているような気が致しました。<br /> <br /> 意識を上の方に集めてぼやけた意識に触れないように気をつけながら瞑想をし、眉間に意識を集めていると若干の状態の考察およびたまに思考に入ることこそあれ、雑多な管理されていない意識のループにはまり込むことはそれほどないように思われます。<br /> <br /> そうして管理された状態で瞑想を続けていると、ふと、0.1秒の光の点滅を時々感じます。<br /> <br /> 実際のところ目を瞑っておりますので、これはもしかしたら電気が不安定になったことによる照明の点滅かもしれませんし、天気によるものかもしれません。とは言いましても、それほど大きな光の点滅が度々あるようにも思えません。頻度が高すぎます。<br /> <br /> 以前はこういう光のフラッシュがあってもそれほど頻度が高くなく、瞑想の基本として「光などを見ても重要ではないので無視して良い」ということが言われていますのでそれほど気にしてなかったのですが、これほど頻度が高まるとどういうことでしょうかとちょっと気にはなります。<br /> <br /> 以前から時々見た時はそれなりに強い光だったのですが頻度は高くなく、今日見えているのはそれほど強い光ではなくてうっすらと光る感じなのですがおそらく5分おきとかに何度も見えているので頻度は高いです。<br /> <br /> 脳内の特定の箇所が活性化されてきたのか、あるいは、外で感じている何かがうっすらと光として認識さえているのでしょうか? それはまた今後、様子を見てゆきます。<br /> <br /> Sun, 02 Aug 2020 00:00:00 +0900 マニプラ優勢あるいはそれ以前の場合は思考を止める瞑想をする https://w-jp.net/2020/2006/ <br /> 一方で、アナハタ優勢あるいはそれ以上の場合は思考を観察する瞑想をします。<br /> <br /> 私が最近はこうしているというだけで、必ずそうしなくてはいけないわけではありませんし、推奨しているわけでもありません。瞑想録のようなものです。<br /> <br /> 思うに、瞑想について色々と誤解があって、思考を止めることが瞑想の基本ではあるのですけれども、観察瞑想というのも一方であります。<br /> <br /> 集中と観察が瞑想の要素であって片方だけでは成り立たないものではあるのですけれども、その基準といいますか。瞑想の段階に応じてどうすればいいのか、という基本的なスタンスのようなものが存在すると思うのです。<br /> <br /> その1つの基準がマニプラ優勢あるいはそれ以前なのか、それともアナハタ優勢以降なのかという判断基準のように思います。<br /> <br /> マニプラに至っていない場合は下位の欲望がまだかなり残っておりますので思考を止めないと高位の意識が出てこられないと思います。ですから瞑想は思考を止めるものになると思います。<br /> <br /> マニプラに至った場合でもそれなりに制御できるようになって「良き人」「倫理のある人」「立派な人」になりますが、それでも、まだ下位の欲望がそれなりに残っているような気が致します。<br /> <br /> 一方で、エネルギー的にアナハタ優勢以上になりますとそれを超えて上位の意識が優勢になりますので思考を観察する瞑想に入っていけると思うのです。<br /> <br /> Sat, 01 Aug 2020 00:00:00 +0900 サマーディのために瞑想で思考を止める https://w-jp.net/2020/2005/ <br /> 最初は思考を止めます。<br /> ヨーガスートラにあるように思考を止めること(プラスアルファ)でサマーディの状態になります。<br /> <br /> しかし、時間が経てば思考があってもサマーディを保てるようになります。<br /> <br /> ですので、訓練方法として思考を止めるというのはその奥にある深い意識を目覚めさせるために有効なわけです。<br /> <br /> ですので、よく聞くサマーディへの批判である「サマーディで思考を止めても悟りには至らない」みたいなお話はそれはそうなのですけど、瞑想においてサマーディは必ず通る道なわけです。<br /> <br /> ヨーガでいうサマーディは深い意識が目覚めてきた状態なのですけど特に仏教ではサマーディは思考を止めるだけを意味するという言葉の意味の違いがあります。<br /> <br /> コンテキストに合わせて解釈しないと相手の言っていることを誤解してしまいます。<br /> <br /> ヨーガ的にはサマーディは最上でサマーディの中にはいくつもの種類があって、それでも基本は深い意識が出てくるというところを根拠にしています。<br /> <br /> 仏教的にはサマーディは思考を止めるだけのお話でその先に観察状態であるヴィパッサナーがあります。<br /> <br /> ですけど、ヨーガ的なサマーディを仏教がヴィパッサナーと呼んでいるだけで実際には同じことだと思うのです。<br /> <br /> このことを踏まえておらずに「ヴィパッサナーはサマーディよりも上だ」みたいに言う方がいらっしゃいますけど、それは仏教の視点のお話であって、ヨーガの言い方は違うのですよね。<br /> <br /> 特にスピリチュアル初心者は自分のやっている修行などを最上で特別だと勘違いしてしまいがちですけど、本質を見ればどれも大差ないことが多いです。<br /> <br /> どちらにせよ最初は思考を停止して深い意識を目覚めさせると言う点に関しては一緒ですし、深い意識が目覚めたら思考を動かしても深い意識が同時並行に動くようになります。最初こそ思考を止めないと深い意識が出てこないですけど慣れれば深い意識と浅い顕在意識が独立あるいは強調して動くようになります。<br /> <br /> ですから、仏教やヴィパッサナーやヨーガの間で喧嘩なんてしてもしょうがないわけですね。<br /> <br /> 私なんかからすれば、宗派を1つに絞る必要性すら感じません。他の修行法をせずに自分のところだけするように言う流派も多いですけど、そんなことより多くのいいところを組み合わせて成長していけばいいと思うのですけどねえ。<br /> <br /> その辺りの囲い込みって、精神修行が根拠になっているのではなくて現実的にスタッフを確保しないと運営していけないとかコストがかかるとか会費を集めたいとか、そう言う理由だと思うのですけどね。であれば、そんなことにあまり関わる必要もないと思うのです。<br /> <br /> 師匠という意味であれば別ですけどね。深い関係を築くためには定期的に通うべきです。ですが、宗派にそれほどこだわる必要はないと思うのです。<br /> <br /> Fri, 31 Jul 2020 00:00:00 +0900 眉間で小さな雷の音を聞いた後、後頭部のあたりで圧力感による鈍い軽い頭痛がするようになった https://w-jp.net/2020/2004/ <br /> いつものように瞑想をしていると、何段階かに分けて次第に意識が鎮まって行きました。朝早かったために少し意識がうとうとしていたのですが奥底では明るい意識が段階的に出てきておりました。<br /> <br /> 普段であればそのくらいで瞑想を終えるのですが、今朝は、急に眉間で小さな雷というか大きなものが遠くで崩れて遠くから重厚「ズザザザ」という音を小さく聴くかのような感覚がして、それと同時に急に後頭部のあたりに圧力を感じて鈍い頭痛がするようになりました。<br /> <br /> 思えば、その時にはちょっとした夢を見ていて、蛍光灯のような一本の光の棒を見ていたような気が致します。<br /> <br /> 最初は何だろうと思っていたのですが蛍光灯っぽいと思い、しばらく見ていると天井にその蛍光灯が付いているのが見えました。蛍光灯はその端の2箇所が天井に止められており、最初はただ見ているだけでしたが、しばらくしていると、それが蛍光灯ではなく、光っているドアのノブのように見えてきました。天井についている光っているドアのノブです。<br /> <br /> そのドアの周囲には、何やら紐のようなものがいくつか垂れ下がっています。家の電灯をつける紐でしょうか? それにしては電灯そのものがなくて単に紐だけがあります。<br /> <br /> でも、それらの紐も興味深いですが、一番気になったのはやはり光っているドアノブです。<br /> <br /> なんだこれ・・・? 無意識のまま光っているドアノブに手を伸ばして、ちょっと引っ張ってみました。<br /> <br /> すると、ちょっと動きました。完全にドアは開くまでは動かしておらず、ちょっと片側が開いたように思います。すると、すかさず上のような雷の音が眉間からして、びっくりして手を離したのです。<br /> <br /> この状態では、瞑想のこれらのヴィジョンと眉間の感覚の両方を認識していたのです。ドアノブを見ながら眉間の奥で聞こえた音も感じていました。<br /> <br /> そうして、少し離れたところからまだ開いていない光っているドアノブを眺めていると後頭部に圧力がかかっているのを感じ始め、やがて瞑想から抜けてきました。<br /> <br /> なんだったのでしょうね。<br /> <br /> このようなイメージは、今までの経験で言うと単なる想像ではなくて実際のスピリットの状態と密接に関連しています。<br /> <br /> 解釈はまだこれから少しづつ行っていきたいと思いますが、おそらくは、「天井」についていたということは頭あるいはそれより上と関係しているような気が致します。<br /> <br /> 候補としてはアジナやサハスララですけど、この光っているドアノブは体の部位とは関係ないところで見えていましたので単に上方にあったことしかわかりません。<br /> <br /> 今後、様子を見ていきます。<br /> <br /> Thu, 30 Jul 2020 00:00:00 +0900 静寂の意識と自然に起こる止息(ケヴァラ・クンバカ) https://w-jp.net/2020/2001/ <br /> かなり前、クンダリーニが動き出してマニプラ優勢になる前に同様に自然に起こる止息が起こっていたことがあります。<br /> <br /> その時も静寂の境地に達して心穏やかな状態になっておりましたがクンダリーニがそれほど動いておりませんでしたのでエネルギー的には低かったように思います。<br /> <br /> その低いエネルギーの状態で静寂の境地を味わい、ケヴァラ・クンバカが当時起こっていたわけですが、クンダリーニ経験後にはむしろクンバカが苦手になりました。<br /> <br /> その後もずっと基本的にはクンバカが苦手な状態が2年近く続いていたわけですが、ここにきて、段階的な静寂の境地が得られるようになってからは急に息も穏やかになってきてケヴァラ・クンバカも起きるようになってきました。<br /> <br /> 今から思えば、当時の静寂の境地はエネルギー状態が低いところでの静寂の境地だったように思います。<br /> <br /> 今は、クンダリーニが動き出してある程度のエネルギーがあるところでの静寂の境地です。<br /> <br /> 表面的にはどちらも「静寂の境地」として言い表されるものですが、その基本的な状態はかなり違うように思います。<br /> <br /> 特にエネルギーの量の差は顕著で、クンダリーニが動き出す以前はポジティブさが今ほどなかったように思います。これは、パワーが上がればポジティブになって雑念が減るというお話で、エネルギーの絶対量が増えないままに静寂の境地に達したとしてもそれはそのエネルギーレベルにおける境地の到達であって、エネルギーが増えたらその静寂の境地の難易度が高まるような気がしています。<br /> <br /> エネルギーが高まればその制御も難しくなりますし、そのエネルギーを安定させるスキルも高いものが要求されます。体の各所の制御もエネルギーが高い場合は難しいですし、呼吸や熱感の制御にしてもエネルギー量次第で難易度が変わってくるように思います。<br /> <br /> それと、以前の静寂の境地は意識がそれほど活性化されていなかったように思います。静寂を感じる意識は動いているのですが、その意識の明確さが今よりも随分と低かったような気が致します。<br /> <br /> それが、今回の静寂の境地においては常に意識が生きていて、体はというと睡眠に近い状態になったりしていびきをかくくらいになることもありますが、寝ているという感覚はあまりなくて意識が動いているように感じられる状態です。夢見に近いかもしれません。<br /> <br /> 瞑想、あるいはヨガにおける意識の状態であればすぐにこのような状態になれますし、普段の生活においても静かにしていれば割とこのような状態には入ることができます。<br /> <br /> どちらにせよ、この状態の類似点を見るに、おそらくは成長のサイクルがループになっていて割と似通っている状態をぐるぐると体験しつつ成長していくのではないかなと思います。<br /> <br /> Mon, 27 Jul 2020 00:00:00 +0900 思考を止めて超感覚の意識を目覚めさせる https://w-jp.net/2020/2000/ <br /> ヨーガスートラのような古典では「思考を停止させることがヨーガ」みたいに語られています。<br /> <br /> これは普通に読むと「思考を停止させて、それって人間と呼べるのだろうか?」みたいな疑問が生まれますし、一般的には「我思う故に我あり」とか言われていますから、理解するのが困難に思われるかもしれません。<br /> <br /> しかしながら、人間の心には2つあることを前提にすれば上記の表現は「低位の意識を停止させることがヨーガ」だということが理解できます。<br /> <br /> ヨーガやヴェーダの流派には色々あって、流派によってはこの種の批判をストレートに言っている方もいらっしゃいます。<br /> <br /> とあるインドの流派が他の流派に向かって「思考を停止させてしまって、それは人間と呼べるのだろうか」とか批判していたりします。<br /> <br /> それぞれの流派にはそれぞれの主張があるのだと思いますし、言葉の意味も流派によってまちまちです。しかしながら、文献を読むときはその流派の用語と主張を踏まえないと読み間違えます。どちらも割と似たようなことを言っているように思えるのにも関わらず自分の流派が正しいと主張していることが多いように私なんかには思います。<br /> <br /> 言い方はどうであれ、人間には低位と高位の意識があって、低位の意識は止めるべきで高位の意識は目覚めさせるべきなのです。<br /> <br /> 低位というと欲望かと思われるかもしれませんけど、欲望というよりは五感に属する感覚が低位です。五感を超えた感覚が高位です。<br /> <br /> 例えばですね、幽体離脱の事例が分かりやすいかと思います。<br /> <br /> 幽体離脱するときは、だいたい2パターンあるように思います。<br /> <br /> 1.低位の意識が麻痺状態(トランス状態)になって高位の意識だけが体から抜け出す状態<br /> 2.低位の意識が働いたままで高位の意識が体から抜け出す状態<br /> <br /> 前者のトランスは低位の意識が純化されておらず高位の意識が働くためには低位の意識を停止させなくてはならない場合にこうなります。<br /> <br /> 一方、後者の場合は低位の意識が十分に純化されておりますから低位の意識と高位の意識とが同時に活動することができます。例えば、幽体離脱して遠くの場所を見たり過去や未来を巡っているのと同時に、肉体の手を動かそうと思えば動かせますし目からは三次元の視野が見えます。この場合、両方見ようとするとどちらも薄らとしていてぼやけた感じになります。意識を五感に向ければそちらが優勢になりますし、幽体離脱の方の意識に集中すれば体のことはほぼ忘れて超感覚が優勢になります。<br /> <br /> ここでわかることは、肉体の五感を使った低位の感覚とそれを超えた高位の感覚とは別物であるということです。<br /> <br /> これらを、流派によって様々な言葉で言い表しているように思います。<br /> <br /> ・仏の心と人間の心(仏教等)<br /> ・低位の心と高位の心(スピリチュアル)<br /> ・ロウアーセルフとハイヤーセルフ(私のいうハイヤーセルフとは意味合いが異なりますが)<br /> ・キリスト意識と人間の意識(キリスト教系のスピリチュアル)<br /> ・天使(の意識・心)と悪魔(の意識・心)(キリスト教)<br /> <br /> 多くの人は低位の意識のみで生きていますから、そういう人にとっては「思考を停止させて、それって人間と呼べるのだろうか?」という疑問が出るのはもっともだと思いますが、実は意識には2つあるのだという前提に立てばこのような「思考を停止」という教えもすんなり理解できるのだと思います。<br /> <br /> Sun, 26 Jul 2020 00:00:00 +0900 思いが浮かぶごとに「苦」を感じる境地 https://w-jp.net/2020/1999/ <br /> 意識がモワッとしていて、想念が浮かぶ度に「苦」を感じることがあります。<br /> <br /> 基本は静寂の境地ですが多少はモワッとしていて、そのモヤモヤとしたところにポコポコと思いが浮かびます。その思いが大きくて完全に飲み込まれた場合は普通の雑念になるのですが、雑念というほどまでに大きくはなくて小さくポコポコと生まれては消える思いの波は大きな雑念よりも意外に「苦」として感じられるように思います。<br /> <br /> 波のない湖で小さな波が現れると大きく感じるのと同様、静寂の境地における「苦」の感覚は意外に大きく認識されるように思います。<br /> <br /> 以前は湖がかなり激しく波打っておりましたからそんな余裕もなく単に雑念を沈める瞑想をしていたわけですが、心が安心しきっているところに不意に想念の波が現れると意外にも大きなものに感じられて「苦」として認識されるように思います。<br /> <br /> その「苦」の瞬間、緊張が少し強くなります。<br /> <br /> しかし、その「苦」を見つめていると、すぐに消えてゆきます。苦が消えると共に緊張も解れます。<br /> <br /> そうしてモワッとした状態からしばらく経つと、不意に平穏の境地が現れます。<br /> <br /> おそらくは、こうして瞑想をすることで深いところにあるカルマを吸い出しているのかな、という気も致します。<br /> <br /> 過去や未来の思いもやってきます。それに付随する感情も疑似的に体験します。<br /> <br /> そのいくつかは大きなカルマで多少は激しいトラウマを伴うこともありますが、基本は全て見つめることでやがては消えてゆきます。<br /> <br /> 仏教とかですと人生は全て「苦」だ、とか言ったりもしますけど、ここでいう「苦」とは人生のことではなくて、単に、思いの波が「苦」として感じられるということです。<br /> <br /> 人生そのものが「苦」かどうかは分かりません。個人的には人生は自由に楽しめばいいと思います。ただ、瞑想においてはある種の状態においては想念は「苦」として感じられるということです。<br /> <br /> これは、瞑想状態にいる人を驚かせてはいけない、という理由にも繋がります。<br /> <br /> 日本は瞑想状態ということに対する理解が薄いですから特に子供とかは他人を驚かせたりしてふざけたりしますけど、普段の生活においても静かに暮らすべきで、驚かせたり驚かされたりするべきではありません。精神的に深刻なダメージを負ってしまうこともあるからです。このあたりの理解が日本では薄いですし、他人を貶めるための手段として驚かすという手法が使われることもあるように思います。<br /> <br /> 瞑想中の人がいる場合は大きな物音を立ててはいけない、という基本的なルールもこのあたりが根拠になっているように思います。騒がしいところで瞑想は進まないと思います。<br /> <br /> Sat, 25 Jul 2020 00:00:00 +0900 意識がモワモワっとして何を感じても「苦」に感じる境地 https://w-jp.net/2020/1998/ <br /> これは瞑想の初期に起きていた雑念による苦ではなく、意識がはっきりしてきたことによって雑念が生じる瞬間に「苦」を感じられるようになったということで、成長の証でもあります。<br /> <br /> これは、言葉で言い表してしまうと雑念もこの種の「苦」も似たり寄ったりになってしまい、違いがわかりにくいかもしれません。<br /> <br /> 雑念に押しつぶされる種類の苦しみは混沌としたものです。雑念が止めどなく出てきて雑念に翻弄され、雑念にエネルギーを奪われて疲れたり怒りや悲しみの感情が出てきたりします。それはカルマの浄化でもあります。<br /> <br /> それに対して、この種の「苦」は、それもカルマの浄化の一環ではあるのですが基本的な瞑想状態ではあまり雑念が浮かばなくなっており、それでも時々雑念が浮かんだその瞬間にその心の浮き沈みを感じて「苦」を感じるのです。<br /> <br /> その雑念は完全に表には出てくることはそれほどなくて、雑念が出てこようとした瞬間に「苦」を感じて、その雑念の出現を観察するや否やすぐにその雑念が消えてゆきます。<br /> <br /> 波のほとんどない水面に時々波紋が広がってその痛みを感じているとでも言いましょうか。<br /> <br /> 以前よりは遥かに意識が明確にはなっているものの、完全に雲が取り払われたわけではない状態。であるので、昔のどんよりとした雲に比べると随分と晴れ渡ってはいるものの、それでもちょっとモワモワっとしている意識の状態。<br /> <br /> そのモワモワっとした意識の中から時々カルマの想念が浮かび上がってきて、それを感じ取ると「苦」として認識されるようです。<br /> <br /> しかし、「苦」と言ってもすぐに消えてしまう種類のものです。<br /> <br /> これはなんだろう、と思っていたのですが、書籍を探ってみると以下のような記述がありました。形状が表面化すれば現実が潜在する、と言う昔からの教えの続きの部分です。<br /> <br /> ■壊滅智(かいめつち)ただ、全てが滅んでしまったと理解する智慧<br /> 修行の叡智が一段と発展し熟すと、念じられた対象の始まりである<生じている瞬間>は智慧の対象から消え去り、終わりである<滅する瞬間>だけが次の叡智の対象になっています。それは「すべては速い速度で滅尽してしまうのだ」と思われるほどです。「自分の念じる心でさえ、次々と尽きてしまう」ということも分かります。「ミャンマーの瞑想(マハーシ長老 著)」<br /> <br /> このミャンマーのヴィパッサナー瞑想は「現在の感覚をラベリングする」という手法を用いていますので表現がそれに沿ったものになっていますが、ここでのポイントは、生じた瞬間にすぐ滅するので滅する瞬間だけ把握できていれば十分、という理解にあります。<br /> <br /> 点灯したらすぐに消えるランプのように意識に雑念というランプが点灯したらすぐに消えてしまうため、意識には消えたという認識しか残りません。それでいいのだ、とこの教えは解いていると解釈できます。<br /> <br /> それに、この章の説明を読むと私の今のようなモヤモヤとした状態は瞑想が進んだが故に起こることで、変わらず瞑想を続けること、と記されています。<br /> <br /> 一生懸命に念じていれば、気持ちが次第に澄み切ってきて、最後は、現れてきたなってとや悟ったことだけで満足できない気持ちや不満、姿勢を変えたい気持ちは完全に治ってしまいます。「ミャンマーの瞑想(マハーシ長老 著)」<br /> <br /> Fri, 24 Jul 2020 00:00:00 +0900 錆び付いた胸の扉を開く https://w-jp.net/2020/1996/ <br /> ずっと眉間に集中する瞑想をしてきて、今まで胸に意識を合わせる瞑想はほとんど行ってきませんでした。<br /> <br /> クンダリーニが活性化してマニプラ優勢になったりアナハタ優勢になった時も基本的にはずっと眉間のアジナチャクラに集中しておりました。<br /> <br /> しかし、ここにきて統合されたチャクラとでも言えるようなハートを感じる瞑想状態に達したことでハートに意識を合わせる瞑想を試みるようになりました。<br /> <br /> 眉間の瞑想は基本として存在しており、まずは眉間に集中して意識が凪の状態になるまで瞑想した後、集中ポイントを胸のあたりに移してみました。<br /> <br /> すると、最初は慣れていないせいか、何やら古傷のような鈍い痛みが走って胸への集中を拒みました。<br /> <br /> 何だろうと思って再度ゆっくりと胸に意識を合わせてみますと、ちょうど胸のあたりに古傷のような鈍い塊のようなものがあるのがなんとなくわかります。肉眼では何もわかりませんけど、感覚的なものです。<br /> <br /> そこで、あまり無理せずにその辺りに意識を合わせてみると、意外にすぐにその胸の古傷は消えてゆきました。9割以上なくなったように思います。<br /> <br /> おそらく30分かそこらですぐになくなりました。<br /> <br /> これ、30分と言うとそんなに大したことがないと思われるかもしれませんが、今まで何度か同様に胸に意識を合わせて瞑想を試みてもしっくりこなかったので、今回、たった30分でこのような変化が現れたのは大きな変化であると言えます。個人的にはそうです。<br /> <br /> これで、眉間の瞑想以外に胸への瞑想という選択肢が増えました。<br /> <br /> 安定感で言うとまだ眉間ほどではないですが、これから少しづつ様子を見ていきます。<br /> <br /> Wed, 22 Jul 2020 00:00:00 +0900 意識を中央に合わせることで緊張が取れ、リラックスできる https://w-jp.net/2020/1995/ <br /> 頭の中で意識を中央に合わせると急に緊張が取れてリラックスできます。<br /> <br /> そもそもハタヨガのハタ(Hata0の意味はハが太陽で右側、タは月で左側です。ヨガで言うところのエネルギールートであるナディで言うとピンガラが太陽で右側、イダが月で左側です。ピンガラは熱でイダは冷のエネルギーです。<br /> <br /> これらのバランスを整えると緊張が取れてリラックスできます。<br /> <br /> これは、ハタヨガなどのヨーガにおける重要な理解の一つです。<br /> <br /> 呼吸法およびエネルギーのコントロール技法であるプラナヤーマをすることによっても左右のバランスを整えることができます。<br /> <br /> 単に体操と思ってやっていてもこれらの微細な感覚が備わってゆきます。<br /> <br /> 意識は単なる意識ではなくエネルギーの流れですから、意識が中央に合わさると違った種類のエネルギーが発生します。<br /> <br /> 一説によればイダとピンガラのエネルギーのバランスが整うとクンダリーニが生じると言われていて、私もこの考え方が正しいと思っております。<br /> <br /> 一般にはイダとピンガラの他に独立してクンダリーニのエネルギーが存在していると理解されていると思いますが、そうではなく、左右であるイダとピンガラのエネルギーを両方とも活性化してバランスを整えることでクンダリーニが動き出す訳です。<br /> <br /> 私の場合、クンダリーニらしきエネルギーは常に発生している訳ですけれども、基本の状態ですと私は左の方がエネルギーが強く、中心より少し左に引っ張られている状態です。<br /> <br /> それを、中央に揃えるように少し右側であるところの中央に少し意識をかけて動かしてあげることで急に細かな緊張が取れてリラックスできます。<br /> <br /> 最近はそもそもそんなに緊張はないですが、それでも、気がつかないところで細かい緊張が各所に残っておりますので、それらの各所の緊張も取れて更なるリラックス状態になるわけです。<br /> <br /> そして、その鍵になるのが意識の「中央」であるわけです。<br /> <br /> これは、先に意識を中央に合わせてもきっとうまくいかなくて、先に凪の状態まで持って行った後に微調整として意識を中央に合わせると緊張が取れてリラックスできるのです。最初から中央に収まる場合もありますが、私なんかの場合ですとちょっと左にずれていることが多いので調整してあげます。<br /> <br /> Tue, 21 Jul 2020 00:00:00 +0900 ナーダ音というベッドの上に横たわって寛ぐ https://w-jp.net/2020/1994/ <br /> 意識が凪の状態になるのは意識の個別の領域ごとに起こっていました。例えば眉間であればそこを中心として頭や肩などの力が抜けて寛ぐ感じです。<br /> <br /> それはそれで有益で瞑想の基本ではありますけど、その凪の状態の先に更なる状態がありました。広範囲の力が抜けた、深いところまで届く意識のリラックスです。<br /> <br /> その状態に入るにはいくつか方法があって、最初は凪の状態まで瞑想を続けて、その先で深い意識のリラックス状態に入っていました。<br /> <br /> しかし、瞑想を続けるうちにその状態が徐々に解除され、また5分くらい経つと凪の状態になるという段階的な変化が起こっていました。<br /> <br /> これ、最初のうちは階段上の変化ではあるのですが、続けていくうちにその変化分が小さくなっていって、一定以上は意識の平穏が進まない臨界点に達するのです。<br /> <br /> 変化が少ない場合は割と平準なところを行ったり来たりするところまで瞑想が達します。<br /> <br /> その行ったり来たりの状態が意識の落ち着いた状態で、それはそれで重要なのかなと思います。<br /> <br /> 意識が平穏で、行ったり来たりの幅が狭くなった状態で更に瞑想を続けてゆくと、「あれっ。これ、全身の力を抜いても平気なのでは?」という突然の理解に達します。<br /> <br /> 今までナーダ音によって強制的に意識が働く状態になっていて、それは基本として働き続けていました。ナーダ音によって眠りを許さないが故に意識が活性化され、瞑想が進んだのです。<br /> <br /> しかし、ここに来て、その「ナーダ音に引っ張られる意識」それ自体をリラックスさせることができるのでは、と、ふと突然に気がついたのです。<br /> <br /> 早速やってみると、それはまるで、ナーダ音というベッドの上に横たわる意識、という感じでした。<br /> <br /> ナーダ音が聞こえ続けていて、しかしながらナーダ音に意識が引っ張られずにリラックスするのです。<br /> <br /> 今までは、ナーダ音というベッドに横たわってしまうことを、どこか意識が拒否していました。この拒否する意識は、ナーダ音に引っ張られる意識と同類のものです。おそらくは心(チッタ)は何かにすぐに引き付けられる性質を持っており、それがナーダ音に引き付けられて雑念から引き離されるという効果はあるものの、ここに来て、雑念が減ってきたが故にその役割を一旦は停止してナーダ音にすら引っ張られない状態に意識を持っていけるようになったのではないかなと思います。<br /> <br /> ナーダ音というものに引っ張られていた心を、俗にいう「中心」に戻してあげることでリラックス状態になります。<br /> <br /> それを比喩的に表現すると、ナーダ音というベッドの上に意識が横たわる、とでも言える状態です。<br /> <br /> こうなると肩の力だけでなく全身の力が抜け、更に意識が深くなってゆく気が致します。<br /> <br /> ナーダ音は悪者ではありません。それは浄化の印です。しかし、それは補助輪のようなもので、ある程度までは役に立ちますが、ここから先はその補助輪なしで行く領域な気が致します。<br /> <br /> Mon, 20 Jul 2020 00:00:00 +0900 凪の状態の先で、深い意識の平穏と寛ぎが訪れる https://w-jp.net/2020/1993/ <br /> かつてナーダ音が聞こえ始める直前の1週間ほどの間、意識をギュッと鎮めて意識を止めることでいわゆる「無」の状態に入って安らげるようになりました。今回の平穏はその時の感覚と似ていますが、今回は意識は動いたままの安らぎです。<br /> <br /> その時はヨガをほぼ毎日し始めてから約3ヶ月後のことでしたが、夜に眠る時に非常によくリラックスできて深く穏やかに平穏の意識で眠ることができたのを覚えています。<br /> <br /> しかし、その安らぎもわずか1週間のものでした。ナーダ音が聞こえてきたのです。ナーダ音は瞑想中の眠りを許さない自動的な意識の覚醒を伴いますのでそのような「無」の感覚は無くなったのです。<br /> <br /> 最初は、このナーダ音を苦々しく思ったものでした。せっかく「無」の状態になって安らぐことができるようになったのに、どうしてこのような音が聞こえてきて静寂を邪魔するのだろうか、と。<br /> <br /> しかしながら、勉強するにつれ、私が行っていたのはヨーガ行者としては行ってはならないとされている「意識の停止状態で寛ぐ」という種類のものだったのかもしれないと思うようになりました。それをわずか1週間でナーダ音が聞こえてきて強制的に解除されてしまったのは良かったことなのではないかと今では思います。<br /> <br /> 誤解をして欲しくはないのですが、ナーダ音そのものは「ある程度の浄化がされたことによる成長の印」です。しかしながら、それはより微細な世界への扉をも開いてしまい、意識が敏感になってしまったのです。<br /> <br /> かつて、ナーダ音が聞こえる前はかなり鈍感だったように思います。感覚もそれほど微細ではなく、その当時の意識を鎮めることができて安らぐことができました。それはそれで成長だったと思います。<br /> <br /> 意識が静まると微細な世界が私の目の前に開け、そして、やがてはクンダリーニ経験もしてエネルギーは高まってゆくわけですが、微細な世界が開ける前、クンダリーニ経験をする前に「無」を体験した時に感じた安らぎと、最近私が感じている意識の平穏とが割と似通っているのです。<br /> <br /> 前回は強制的に意識を抑え込んで「無」の状態にすることでリラックスしました。意識はほぼ止まっており、ナーダ音も何も聞こえず、息の感覚だけがするくらいの意識で「平穏と安らぎ」を感じておりました。そのような深いリラックスはそれまでは意図的に作り出すことができませんでしたが、その1週間はすぐに意識を抑え込むことで簡単にその「無」の状態でリラックスすることができました。<br /> <br /> それから何年もの間、同種の「無」のリラックスは体験しておりませんでしたが、今回、意識が凪の状態になって瞑想を続けていたところ、意識は働いているにも関わらず昔体験したような「無」の時のリラックス状態がやってきたのです。<br /> <br /> リラックス状態は、ナーダ音が聞こえて以降は意識が敏感になっていてここまで深く入ることが難しかったように思います。<br /> <br /> しかし、今回は、意識が働いているのにも関わらず同様のリラックス状態になったのです。<br /> <br /> 前回の時も、今回の時も、「見る」という意味での観察は変わらない気が致します。一方で、前回は強制的に雑多な意識を抑え込んでいたのに対し、今回は自然にしていながら雑多な意識が鎮まっている、という違いがあります。<br /> <br /> 前回は雑多な意識を抑え込むことで「無」の状態を作り出し、「観察」は動いたままで深いリラックス状態を体験していました。しかしながら、ナーダ音が聞こえてきた後は意識がナーダ音に囚われてしまうためにそのような深いリラックス状態に入れずにいました。<br /> <br /> 雑念がナーダ音に引きつけられることで瞑想自体はやりやすくなったのですが、雑念を強制的に止めて「無」に入ろうとしてもナーダ音は意識では止めることができないので完全なる「無」には入れなくなってしまったのです。<br /> <br /> 今回は、雑多な意識が自然に静まる状態まで瞑想を続け、「観察」は動いたままで深いリラックス状態を体験しています。ナーダ音は変わらず聞こえていますが、ナーダ音が聞こえたとしてもそれに反応して飛びつく雑多な意識というものがそもそも鎮まっていますのでナーダ音が聞こえていたとしてもリラックスは邪魔されません。<br /> <br /> これは、似ているようでいてかなり違う状態であるように思います。<br /> <br /> 最初の状態は単に雑多な意識を強制的に抑え込んでいる状態で、それは「無」と表現するにふさわしい気が致します。もちろん言い方は流派にもよるでしょうが、「無」と呼ぶのが個人的には一番しっくりきます。それによってリラックスを体験し、そのリラックスは非常に有益だったように思います。<br /> <br /> しかしながら、微細な世界に入り、更にはクンダリーニが動き出してエネルギーが高まるにつれてナーダ音にしろ体のエネルギー的な不調にせよ様々な悩みが出てきたものでした。<br /> <br /> ここにきて、エネルギー的にも調和が取れ、意識としてもナーダ音に左右されないリラックス状態が保てるようになったように思います。<br /> <br /> ナーダ音は雑念が多い時に瞑想する際は助けになると思いますし、雑念に飛びつくような雑多な意識はナーダ音が聞こえるとそちらにしがみつくようになりますからナーダ音が聞こえ始めたら瞑想が早く進むようになります。<br /> <br /> しかしながら、それに頼っているうちはまだ雑多な心が「何かに飛びつく状態」であることには変わりがないのですね。きっとそうなのだと思います。<br /> <br /> 瞑想が進み、意識が簡単に外の刺激に飛びつかなくなった状態であれば、ナーダ音にも飛びつかなくなります。そうして意識の平穏が保たれる時にようやく微細な意識のままリラックスできるようになるのかなと思います。<br /> <br /> まだ荒い意識のままでリラックスできたとしてもより微細な意識に入ることでリラックスが妨げられ、そして、今回、微細な意識の状態でリラックスができるようになったのかなと思います。<br /> <br /> ナーダ音が聞こえなくなったわけではありませんが、ナーダ音が意識に入らなくなった状態でもあります。ナーダ音を探せばナーダ音が聞こえますが、そのことによってリラックスが邪魔されることはありません。<br /> <br /> ナーダ音が聞こえ始めてからしばらくの間に瞑想をしていた際は、ナーダ音にしがみつくことによって安らぎとリラックスを得る瞑想でした。しかし、今回は、ナーダ音が横にいて、それにしがみつくことなしに達成できるリラックスです。これは似ているようでいて、かなり違う状態であるように思います。<br /> <br /> Sun, 19 Jul 2020 00:00:00 +0900 ハートを感じる瞑想 https://w-jp.net/2020/1992/ <br /> 脳内の各所を段階的に瞑想で緩めて行くと、やがて、脳がふわふわになってエネルギーの滞りがなくなってゆきます。<br /> <br /> 頭頂から胸、そして下半身までエネルギーが充満していることを感じます。<br /> <br /> もともと胸のあたりまでエネルギーは充満していましたが、最近は割と頭のあたり、特に後頭部や眉間などに意識およびエネルギーが集まっているのを感じていました。<br /> <br /> これは、クンダリーニ覚醒後にまずマニプラ優勢から始まり、アナハタ優勢になり、そして、最近はアジナ優勢と言っても良い状態になっていました。<br /> <br /> しかしながら、瞑想で脳内の緊張がほぐれて行くと、やがてアジナ優勢というよりは頭のアジナと胸のハートが一体になって大きなオーラが体を包むような感じになってきました。<br /> <br /> これは、わかりやすく表現するならば「ハートを感じる瞑想」とでも言って良いものかもしれません。<br /> <br /> ハートを感じることが大切だとは昔から言われていることですが、ハートを感じるにしても様々なのだと思います。<br /> <br /> おそらく、人によっては生まれた最初からこのようなハートとアジナが統合されて生まれているような気も致します。<br /> <br /> しかしながら、一般人にとってはハートとアジナは融合されておらず、ハートとアジナが融合された後のハートはそれ以前のハートとはかなり違ったものであるように思います。<br /> <br /> そういえばこれは、以前読んだ本に「統合されたチャクラ」とかいう説明が書いてあったような気が致します。<br /> あるいは他の本では、「アジナに登ってから、ハートに降る」みたいなお話も書いてあったような気が致します。<br /> <br /> おそらくどちらも同じことの違う側面を表現しているのかとは思いますが、自分の感覚に照らし合わせてみると「ハートに降りる」というよりは「統合されたチャクラ」の方が表現としてしっくりきます。<br /> <br /> 流派によってはエネルギーをアジナに巡らせてからハートに下ろすような行法がありますけど、これはエネルギーを下ろすという感じではないです。それよりも、チャクラが統合されて動き出した、という感覚の方が正しいです。おそらく行法はこの状態を作り出すためのもので、行法が完成した際には統合されたチャクラの状態になるのかな、という気も致します。<br /> <br /> 私の場合はエネルギーを降ろすという行法はしていなくて、単に瞑想で各所の緊張を解いていったらチャクラが統合されました。おそらく、この辺りは色々とやり方があるのかと思います。降ろすというわけではないですが古代のマントラで上から下まで活性化させる、ということはしていました。結果としてはどちらも同じように体全体のエネルギーが活性化されるのかなと思います。<br /> <br /> Sat, 18 Jul 2020 00:00:00 +0900 脳内の各所を瞑想で緩める https://w-jp.net/2020/1991/ <br /> 瞑想をして何段階かで意識が平穏になると共に、緊張もほぐれてゆきます。<br /> <br /> その緊張は、まず肩などわかりやすいところから始まり、やがて、脳内の各所の緊張もほぐれてゆきます。<br /> <br /> 瞑想の基本は眉間に意識を合わせる、いわゆる集中を行う訳ですけれども、その場合、眉間など意識を合わせた場所の緊張が先に取れてゆきます。<br /> <br /> やがて、意識を眉間だけでなく頭頂や後頭部、そして頭の左側や右側など、ちょっと強張っていると思われる部分に意識を当てて瞑想をすることでその部分が不意に「ふっ」と段階的に緊張がほぐれて柔らかくなってゆきます。<br /> <br /> そうして行くと頭の中も次第にふわふわのスポンジみたいになってゆきます。<br /> <br /> 体がなくなるわけではありませんけど体の緊張が抜けて、意識が体の全体に広がっているのを感じます。<br /> <br /> その状態では、体が主で意識が備わっているというよりも、意識が主で体がそれに付随しているという感覚になります。<br /> <br /> Fri, 17 Jul 2020 00:00:00 +0900 サマーディという言葉の多様な解釈 https://w-jp.net/2020/1990/ <br /> ヨーガ系のサマーディと仏教あるいはヴィパッサナー系のサマーディとでは内容が異なります。<br /> <br /> 基本的な概略は以下です。<br /> <br /> ・ヨーガ系はサマーディが最上でそれより上はない。<br /> ・仏教あるいはヴィパッサナー系はサマーディは通過点であり観察状態(ヴィパッサナー)に至ってから悟りに到達する。<br /> <br /> これは、様々な誤解を含んでいます。<br /> <br /> これだけを見ると仏教が最上と読めてしまいますが、実際のところ、ヨーガ系と仏教は同じようなことを言っているに過ぎません。<br /> <br /> 特にヨーガは秘密主義で弟子にしか本質を教えませんから一般向けの説明と弟子向けの説明は異なっています。仏教は誰にでも教えますから、両者の説明を比べるならば弟子向けの説明、いわゆる秘伝・奥義とを比べなくてはならないわけです。<br /> <br /> ヨーガ系は、一般的にはサマーディは集中だと理解されていますが、実際には観察状態(ヴィパッサナー)です。今でこそ書籍に普通に書いてあったりしますが、そんなお話は弟子になってからかなり修行して瞑想が高まらないと教えてもらえないものでした。そんなわけで、色々と誤解が蔓延しているように思います。<br /> <br /> ヨーガ系でのサマーディは「人間の心を超越した仏の心」とでも解釈できるものが表れて初めて達成されます。一般的に理解されているように「ただの集中」ではありません。集中というのは一般向けの説明です。集中を高めればサマーディになるというのは間違いではありませんから一般向けの説明としてはそれで十分だと彼らは判断しているようです。<br /> <br /> 仏教はというとその一般向けのサマーディの解釈を使って理屈を組み立てていますので特に仏教を学んだ人はサマーディという言葉を集中として解釈しがちです。しかし、ヨーガのサマーディは異なる意味だということを押さえておかないと話の理解が違ってきてしまいます。<br /> <br /> 流派によって言葉の使い方が違いますのでこのあたりはコンテキストに沿って解釈しないといけませんね。<br /> <br /> 他人が話す言葉に対してありきたりの反応をすぐにしてしまうような人もいますけど、特にこの辺りの言葉は流派および話す人によっても解釈がまちまちですから言葉通りに受け取ることができず、その時、その時に応じて解釈しなくてはならないのでなかなか大変なところでもあります。<br /> <br /> Thu, 16 Jul 2020 00:00:00 +0900 目のスローモーションと全身の感覚 https://w-jp.net/2020/1989/ <br /> スローモーションのヴィパッサナーが始まり、やがて視界のコマ送りの激しさは物珍しいものではなくなってゆきました。その後、コマが細かく見えるという感覚は減って、視界がスローモーションではなくなってきました。<br /> <br /> 視界が元に戻りつつありますが、以前よりははっきりと見ています。しかしながら、どこかぼやけた感じです。<br /> <br /> 一方で、全身の感覚が微細になり、ヴィパッサナーという感じになってきました。<br /> <br /> この全身の感覚はおそらくスローモーションのヴィパッサナーが始まった頃から既に存在していたものですが、目の感覚が面白かったが故に私が目のスローモーションに着目していたのだと思います。<br /> <br /> 意識的に目を強く使っていたということで、目への興味が減って行ったことによりそれほど視界にエネルギーが行かなくなったのかなと思います。<br /> <br /> それと同時に、目に対しても形状が表面化すれば現実が潜在する、と言う昔からの教えが適用されるのかなと思います。初めは現実が表面化していて現実がスローモーションに見えていたのですが、その後、視界の形状・表面的な印象が小さくなっていって、「捉え所のないもの」(本質)が表面化してきているが故に視界がぼやけて見えるようになったのかなと思います。<br /> <br /> 最初はこの視界の明確さのなくなりは衰退なのかなとも思ったのですが、昔ながらの教えに従うならばこれは衰退ではなく成長なのだと思います。<br /> <br /> そのように目の感覚がぼやけてきた一方で、全身の感覚が出てきました。<br /> <br /> この感覚は皮膚の感覚とはちょっと別にあって、その感覚はというと、全身をコントロールしている微細体が確実に存在しているという実感に繋がるものです。<br /> <br /> 今までは微細体を熱感やら皮膚の感覚やらエネルギーの高まりとして感じていたわけですが、それが、微細体としての感覚が表れてきた、とでも言いますでしょうか。<br /> <br /> 私の体を動かす時に、体を動かすというよりは微細体を動かすと体も動く、という感じが少しづつ出てきています。<br /> <br /> この感覚でわかったことは、おそらくはこれが普通のことであり、基本は微細体と肉体がロックされていて外れないようになっており、幽体離脱とかはかなりイレギュラーなことなのかなと思いました。<br /> <br /> ここ数ヶ月は色々と試しましたが、一番効果があるのは何段階かに分けて意識の平穏をもたらす瞑想ですね。これが、この感覚へと繋がっている気が致します。<br /> <br /> Wed, 15 Jul 2020 00:00:00 +0900 意識の平穏が5分、10分おきに何度も現れる https://w-jp.net/2020/1988/ <br /> 一歩進んで、ゆっくりと少しづつ後退して、また一歩進んで、を繰り返しているのかもしれません。<br /> <br /> 遥か昔は、意識の平穏が瞑想中に現れることはそうそうなかったように思います。<br /> <br /> 最近は、調子が悪くても1時間、普段は5分から15分もすれば意識の平穏の段階的な変化が訪れます。<br /> <br /> その後、日にもよりますが、何度も連続して5分おきくらいに起こる時もあります。<br /> <br /> 瞑想中ですので時間は曖昧ですが、1時間とか30分の間に何回も連続して起こっていたりしますので大体そのくらいだなというのがわかります。<br /> <br /> そうしていますと、時々、意識といいますかオーラの塊が後頭部あたりから頭頂にまで登っていってサハスララのあたりに達するのがわかります。その後、オーラは静かに頭の上に抜けてゆきますが、それに要する時間は、だいたい1分前後になるでしょうか。<br /> <br /> 意識の平穏は、マントラを唱えていない時の方が来やすい感じです。<br /> <br /> ですので、基本的な流れとしては、まず意識の平穏によって凪の状態にした後、マントラを唱えるという順番にしています。<br /> <br /> このあたりはそれほど厳密ではなく、なんとなくその時の調子によって変えています。<br /> <br /> オーラが不安定だなと思ったらマントラは唱えずに意識の平穏の瞑想をして、凪の状態がやってきたらまたその状態を確認し、更なる凪が必要と思ったら意識の平穏の瞑想を継続。どこかのチャクラ、特にアジナや後頭部などの活性化をしたいと思ったならば何かのマントラを唱えてそこを活性化させます。<br /> <br /> 一旦、凪の状態にした後にマントラを唱えるのと最初からマントラを唱えるのとでは効果がかなり違うように感じています。<br /> <br /> 特に、凪の状態にした後のアジカリムン(アジマリカム)は効果的です。「アー」だけも良いです。<br /> <br /> マントラによって反応するチャクラが違いますので、私は最近はアジナと後頭部のみ活性化するマントラを選んでいます。<br /> <br /> Tue, 14 Jul 2020 00:00:00 +0900 形状が表面化すれば現実が潜在する、と言う昔からの教え https://w-jp.net/2020/1987/ <br /> ヨーガの世界では、例えクンダリーニが活性化してもやがて「普通に戻る」と言うお話があります。あるいは、歓喜が現れても「やがて普通に戻る」と言うお話があります。<br /> <br /> これは、普通に聞いてしまうと「後退」のように見えてしまうかもしれませんが、実際は、これは進歩であると言います。<br /> <br /> その理屈を説明するのは難しいのですが、仏教の教えを使って説明するとこうです。<br /> <br /> 修行の未熟なうちは、見えたり、聞こえたり、または触れたりした時に、形などの形状が先に立ち、はっきり現れてきます。「ミャンマーの瞑想(マハーシ長老 著)」<br /> <br /> 一方で、段階が進むとはっきりした形としての現れは減ってゆき、チラリチラリと滅する想念が認識できるようになります。<br /> <br /> これは、最初に感じた時は「調子が悪い」とか「うまく瞑想ができていない」「後退したのではないか」と思うかもしれません。私もそうでした。しかしながら、ヨーガでの体験談にもあるように、あるいは、仏教でこのようなお話から読み取れるように、それは正しい成長の過程であることがわかります。<br /> <br /> そのことを、昔からの言い伝えで以下のようにいいます。<br /> <br /> 形状が表面化すれば現実が潜在する。<br /> 逆に、<br /> 現実が表面化すれば形状が潜在する。<br /> 「ミャンマーの瞑想(マハーシ長老 著)」<br /> <br /> 形状 → 表面上の物や形、印象<br /> 現実 → 全ては滅するという本質<br /> <br /> 表面上の印象や形状が表れているときは本質は潜在し、本質が認識されているときは表面的な印象や形状が捉えられなくなる、ということのようです。<br /> <br /> これは、同書によれば「念が清浄になった」と言うことだそうです。<br /> <br /> はっきりと感じられなくなったことが実は「清浄になった」ことを示すのだと言うお話は、言われないとなかなか気付けないような気も致します。<br /> <br /> 私の場合、これらの状態になった時に一旦は後退したのではないかと思って色々とやってみました。普段通りの瞑想やヨガだけでなく、試しにテレビゲームなどの修行の妨げになるようなことにも熱中してどうなるか試してみたことがあります。<br /> <br /> そこでわかったのは、やはり、モヤモヤとした昔の(ヨガでいう)タマスな愚鈍な状態と、これらの「うまく言えないけれども、うまく瞑想ができない、何か調子が悪い状態」とは明確な違いがあるということでした。<br /> <br /> 一旦、テレビゲームをしてタマスな状態を一時的に作り出した時に昔ながらの懐かしいタマスを思い出し、その後、再度、瞑想をして清浄な状態まで再度一歩一歩状態を確かめながら元の不思議な状態まで変化を確認したことがあります。<br /> <br /> それでやはりわかったのは、「不思議なモヤモヤとした何となく調子が悪い状態」はやはり、いわゆるタマスな愚鈍な状態とは明らかに異なるということです。<br /> <br /> 夜は意識がはっきりしていますし朝は割と早起きできますし、それでいて以前のような愚鈍なタマスな状態とは違った不思議なモヤモヤとした感じです。<br /> <br /> そこらの瞑想やヨガの先生に言っても、きっと理解されないでしょうから特に相談はしていないです。言ったところで「タマスですね」と言われるだけな気がします。ですが、これは表面上は微妙な違いですが内面は非常に違うものであると思われるのです。<br /> <br /> 「清浄になったからこそ、不思議な、何か調子が悪い状態」が生まれるのだ、ということは確かにあるのだと思います。<br /> <br /> Mon, 13 Jul 2020 00:00:00 +0900 意識を眉間に合わせるのが瞑想の基本 https://w-jp.net/2020/1986/ <br /> 雑多な心を眉間に合わせ、<br /> それと同時に<br /> 微細な意識を眉間に合わせる。<br /> <br /> 両方合わせて「集中」と言ったりします。<br /> 後者は「眉間を観察」と言えなくもないですが伝統的にこれらは「眉間に意識を集中」と言うことが多いです。<br /> <br /> この「集中」は力を入れることではありませんし、「集中だけで観察しない」というわけでもありません。<br /> <br /> 実際のところ、雑多な心であっても観察の作用がそこに含まれていますし、<br /> 微細な意識であってもそれは観察だけでなく「思う」という心理作用もそこに含まれています。<br /> <br /> 同じような心の作用が雑多な領域で五感と関連して働く場合と、微細な領域で細かな変動を感じて働く場合とがあって、その両方とも意識と呼ぶこともあれば、場合によって片方を心と呼んだり「観察」と呼ぶこともあります。<br /> <br /> ですから、最初の言葉は以下のように言い換えることができます。<br /> <br /> 雑多な心で眉間に集中しつつ観察する。<br /> それと同時に<br /> 微細な意識で眉間に集中しつつ観察する。<br /> <br /> ですが、瞑想においては前者は集中という色合いが強くて後者は観察という色合いが強いために最初のように解釈する方が適切かと思います。<br /> <br /> この辺り、流派によって言い方が異なっていますので文脈に即して理解する必要があると思います。<br /> <br /> 特にヨーガの場合はこれらの瞑想を「集中」と説明していますけど、実際には上のようなものです。<br /> <br /> 流派によっては一定以上の教えを門下生以外には教えないという方針を取っているところも多く、ヨーガなどはその傾向がありますので、一般者が質問したら「瞑想とは集中することだ」と答えて詳しくは教えないことが多いように思います。実際のところ初学者向けの回答としてはそれで十分なのですが、それ故に一般人からヨーガの瞑想はそんなものだと誤解されている面もあります。<br /> <br /> ヨーガにせよその他の流派にせよ、奥義はそう簡単に人に教えないと思います。<br /> <br /> 奥義の本質は教えないにしてもその根幹なものは常に表に出ていますので、その本質に気がつくかどうかの違いしかないわけです。瞑想で言えば「瞑想は集中である」という言葉を聞いて「ふーん」と思うのか、その奥に奥義を見出すのか、その違いとも言えると思います。<br /> <br /> もっと細かく言うのであれば、以下のようになります。<br /> <br /> 雑多な心を眉間に合わせる。これはゆったりとした集中で良い。<br /> それと同時に<br /> 微細な意識を眉間に合わせる。これははっきりと認識するようになるべく集中する。<br /> <br /> 後者は最初はその感覚があまりありませんが、やがて感覚がはっきりしてゆきます。後者のためには集中が必要です。<br /> しかしながら前者はゆったりと眉間あたりに置くだけで十分です。<br /> <br /> 後者を集中しようとするとどうしても前者にも力が入ってしまいますが、それはなるべく力が入らないようにします。<br /> <br /> 理想的には、微細な意識だけに集中するようにします。その時、雑多な心は既にゆったりと弱いものになっている筈ですのでなすがままにさせておきます。その時、「観察」は常に働いています。<br /> <br /> 雑多な心は観察だけしてなすがままに任せる。<br /> それと同時に<br /> 微細な意識を眉間に合わせて集中する。微細な心で観察は常に行う。<br /> <br /> このような感じになるよう最近は瞑想を試みています。<br /> <br /> Sun, 12 Jul 2020 00:00:00 +0900 雑念があっても深い平穏なる意識は段階的にやって来る https://w-jp.net/2020/1985/ <br /> 意識の平穏は段階的に訪れるわけですが、雑念があってもその雑念と独立して雑念の背後で深い平穏なる意識がやって来ます。<br /> <br /> 先日書きましたように平穏なる意識の変化は3秒ほどの短い時間で起こるわけですが、平穏なる意識がやって来る前と後の、変化の数秒間があったとして、その変化が起こる前から湧き出ている雑念を観察しながら変化の数秒間が起こり、雑念が継続していながら深いところで意識が平穏になる、ということが起こります。<br /> <br /> 雑念はおそらくは深い意識から湧き出ていますので、平穏なる意識に達したならばその後は新たな雑念が出にくくなります。しかしながら、変化が起こる前から継続していた雑念は変化後も少しの間、継続するようです。<br /> <br /> この状態は、集中と観察が同時に行われています。<br /> 集中だけではありませんし、観察だけでもありません。<br /> <br /> 雑念を抑え込む必要はなくて、意識は眉間に集中しています。雑念は耳で聞こえるのと同様に、雑念が聞こえてしまうのですからあまり気にかけなければいいだけです。雑念は表面的な心の声でしかありません。それは「自分」ではありませんし、一時的なものでしかありません。<br /> <br /> 意識を眉間に集中し、雑念は聞かないようにしていれば、肉体の耳で聞こえる音が気にならなくなるのと同様に雑念も気にならなくなってゆきます。<br /> <br /> それが流派によって「定(三昧)」と言われたりもする状態のようです。雑念や心の声より奥にある意識が働いている状態です。<br /> <br /> 雑念や議論・理屈を考える心は表面的な意識で、その奥に、深くて広がっている意識があります。<br /> <br /> ヨーガスートラの段階におけるダーラナ(集中)は表面的な意識での集中であり、ディヤーナ(瞑想)は表面的な意識から深い意識への遷移の途中の状態。そしてサマーディ(三昧)になると深い意識が働き始めます。<br /> <br /> 深い意識で眉間に集中します。そうすると、段階的な変化が起こります。<br /> <br /> 多くの流派で「雑念とは戦わないようにしましょう。観察していれば雑念は消えてゆきます」と言われていますが、基本的にそれは正しいです。ただし、本当に雑念が強力で体力を奪われてしまうような場合は戦うのではなく「消す」ということはした方がいいと思います。<br /> <br /> それ以外の場合は、深い意識で集中して瞑想をすれば平穏な意識が現れ、雑念もそれに応じて少なくなってゆきます。<br /> <br /> 世間で集中瞑想と観察瞑想とが「どっちが優れているか」みたいなお話になっていたりしますけど、瞑想とは両方の面がありますので両方必要です。<br /> <br /> 集中というのは「深い意識を自在にコントロールすること」です。<br /> その時、深い意識は雑念や五感を「観察」しています。<br /> <br /> ■その他諸々のお話<br /> 前者をサマタ瞑想(集中瞑想)と呼んだり、後者をヴィパッサナー瞑想(観察瞑想)と呼ぶ人もいるかもしれません。ですが、両方なければどちらも成り立ちません。ぶっちゃけ、どちらの瞑想であっても一緒だと私なんかは思います。単に、その流派の呼び方が違うだけなのだと思っています。<br /> <br /> 例えば、<br /> サマタ瞑想(集中瞑想)のよくある批判として「集中だけしていても何も起こらない」というお話があります。それは、まだ深い意識が働いていないだけです。ざっくり言えば「修行が足りない」ということです。それを瞑想のせいにしてしまうその人が未熟なだけです。<br /> <br /> 他によく聞くのは、<br /> ヴィパッサナー瞑想(観察瞑想)は変になる人が多い、というお話があります。これはね、基礎であるサマタ瞑想(集中瞑想)をジャンプしてヴィパッサナーの真似をしているから意識がおかしくなるのですよ。五感で観察することをヴィパッサナーだと思い違いをした人が皮膚の観察を観察したり、あるいは、「体全体を感じましょう」「周囲を感じましょう」みたいな上級のお話を真に受けて五感しか働いていない人がヴィパッサナーの真似事をするから五感だけが敏感になってすぐにキレやすくなったりするのです。<br /> <br /> 瞑想は自分の心の中で行うものですからね。初心者ほどすぐに「私はできている」と思いがちですし、最近は特に宗教的な歴史伝統から切り離されたところでテクニックだけマインドフルネスとかで教えているところがありますけど、歴史が浅くて瞑想を教えているところは危険だと思いますよ。何かあったときに対処できませんよ。<br /> <br /> 例えばね、有名なところでいうとクンダリーニ症候群とかになったらマインドフルネスで対処できますか? 「そんなことになるわけがない。実証されていない。マインドフルネスは安全だ。」と言われて終わりなのではありませんか。「安全な筈」というお話と、実際に何か起こった時にどうするかは別のお話です。瞑想とは自分の中で行われるものですから正しい瞑想なのかそうでないのか判断するにはそれなりの人が必要で、マインドフルネスで教えられているような「テクニックや理論を教えてくれるだけの先生」では不十分なことは明白です。<br /> <br /> マインドフルネスは宗教じゃないから安全だと思っている方が大勢いらっしゃいますけど、それは逆で、瞑想をして宗教的なお話に踏み入ることがタブーとなっているから伝えられていることが浅くて、現世利益優先で、本質的なところが教えられていないわけです。マインドフルネスは精神を安定させるセラピーでその目的は仕事の効率をアップさせることというところだと思いますが、宗教的な知見に踏み入らないと本質はわからないものです。マインドフルネスが宗教じゃないからいいと言っている人は、自分の意識の限界を自白しているようなものです。宗教にしても思想にしても、深く理解してゆけばどれも一緒という理解に達するので、「宗教だからいけない」「マインドフルネスは宗教じゃないからいい」とか言っているのであれば理解が浅いということです。自分で理解して経験させる宗教もあれば盲目的に信じさせる思想もあります。どちらも似たようなものです。利益目的の宗教もあればそうでない宗教もあります。利益目的の思想もあればそうでない思想もあります。瞑想にしても似たようなもので、もの次第です。法人格があるかないかというところは違っていますけど。<br /> <br /> 各所で瞑想のお話を聞く時、流派のテクニックにつけられた名前のお話をしているのか、あるいは、本質におけるお話をしているのか、用語があまり統一されておらずコンテキストによって読み替えなくてはいけないのでなかなか理解が大変だったりします。そういうこともあって、色々と落とし穴に落ちている人が散見されます。本質がわかっていればお互いに分かり合える筈だと思いますけどね。本質はそうそう変わりませんよ。<br /> <br /> とは言いましても、個人的には、成功も失敗も含めて全て人生は完璧だと思っておりますので、そうして色々な瞑想を体験したり学習したりして人生を楽しむことができたら全てオッケーだと思います。<br /> <br /> 瞑想にまつわる色々な面倒なお話もありますけど、基本的には人それぞれ好きにすればいいと思っています。<br /> <br /> この記事は自分の記録も兼ねていますので後で理解が変わるかもしれませんし、それはそれでオッケーです。<br /> ですが今のところ私は前半部分に書いたように瞑想を理解しています。それをどう解釈するのも好きにすればいいと思います。<br /> <br /> Sat, 11 Jul 2020 00:00:00 +0900 意識の平穏は何段階かに分かれて瞑想中に現れる https://w-jp.net/2020/1984/ <br /> 意識の平穏は何段階かに分かれて瞑想中に現れる<br /> <br /> 雑多な意識が平穏になり、凪の状態になるとしばらくその状態が保たれます。やがて、その状態から更なる平穏なる凪の状態に遷移します。更にしばらくすると次なる凪の状態へと遷移します。<br /> <br /> その意識の遷移は直線的なものではなく、一定時間経つと段階的に変化するものです。<br /> <br /> <br /> <br /> 変化に要する時間は3〜5秒程度の短いもので、駒やゴムが収束するかのように一気に変化をします。<br /> <br /> 例えば、このような時間軸です。<br /> <br /> 1時間:(日にも程度にもよりますが瞑想後よりは)雑多な意識状態で瞑想開始。基本的にはこの間は同じ状態で続きます。<br /> 3秒:最初の変化。平穏な状態が訪れる。静寂の境地。凪の状態。<br /> 10分:最初の変化後の状態で瞑想。<br /> 3秒:更なる変化。更に平穏な状態に変化。<br /> 5分:その状態で瞑想<br /> 3秒:更なる変化。更に平穏な境地に変化。<br /> <br /> 何段階起こるかはその時次第ですし時間があるかどうかにもよります。<br /> 最近は、この変化が起きたタイミングで瞑想をやめるようにしています。<br /> <br /> ■緊張のほぐれ<br /> 変化が起こる時、体の各所の緊張も同時にほぐれます。<br /> それは、緊張をほぐそうとして意識的に行っているわけではなく、意識の変化と共に自動的に同時に起こります。<br /> <br /> 例えば上の例に則して言うならば、瞑想を開始して最初の1時間は緊張をもともと多少は意識しておりましたが、それは緊張というよりも意識の雑多な状態として認識されており、意識が揺れ動いている状態が体の緊張として現れている感じです。そして、次の3秒間で意識が平穏になると同時に体の緊張も瞬時に自動的に解かれます。<br /> <br /> 体の緊張は意識の緊張が原因で起こっており、意識の緊張が解ければ自動的に体の緊張もほぐれるということだと思います。<br /> <br /> 意識が静寂になって凪の状態になれば自然と体の緊張もなくなります。その変化も同時に起こりますので、瞬時に変化します。<br /> <br /> これは、逆であるところの「体の緊張がほぐれるから意識が静寂になる」のではありません。意識の変化と体の緊張の変化はほぼ同時に起こりますので識別が難しいですが、私が瞑想中に観察したところによると、意識が先に変化して瞬時に体の緊張もほぐれるのだと理解しています。<br /> <br /> これは、整体などで体をほぐすことによってリラックスな精神状態を得ることを否定しているわけではありません。瞑想における上記の状態の変化を説明しているだけです。<br /> <br /> Fri, 10 Jul 2020 00:00:00 +0900 意識が凪の状態になり、そこでオームを唱える https://w-jp.net/2020/1983/ <br /> 海が凪(なぎ)の状態で風がなくなって穏やかな水面になるのと同様、瞑想をしていると不意にふっと意識の凪の状態が訪れます。それは清浄な意識のことでもあります。<br /> <br /> 清浄といえばそうなのですが、それよりも凪と言った方が正確かと思います。これを「透明」とか「無」とか言う人もいらっしゃるかもございませんが、何もなくなったわけではないのは明らかですので「無」と言うのは語弊があるような気が致します。意識はあるのですが意識が凪の状態になるのです。意識の波立ちが穏やかになっていることをはっきりと感じ取ることができます。<br /> <br /> その状態になってから心の中でオームを唱えるとオームが体のどの部分に反応するのかがよくわかります。<br /> <br /> アーは眉間。<br /> ウは胸<br /> ムは下腹部<br /> <br /> もともとオームは古代において3節で唱えていたと言いますから、私の場合、アーだけ頭の中で唱えると心地が良いです。<br /> <br /> 意識が凪の状態になり、アーを唱えると眉間がザワザワとした感触になります。<br /> <br /> このザワザワとした感触はマントラを唱えたりアサナ(ヨガの体操)をしたりするとそのような感触が出ることもありますし、瞑想中に感触が出ることもございます。<br /> <br /> しかしながら、このように意識を凪の状態にしてアーだけを唱えるととても純粋に眉間が反応しているように思われるのです。他のマントラではこの感触を長く続けることができますが、このように意識が凪の状態でアーだけを唱えると強すぎる感もあります。そのくらい眉間に反応が出ています。無理して続けようとするとクラクラして来るくらいです。<br /> <br /> 色々と試したところ、この2ステップがとても効果的で自らの意識を変えてゆくのに良いような気がしています。<br /> <br /> どう変わるのかはこれからのお話ですが。<br /> <br /> なんとなく直感としてこの2ステップが良いように思えたのです。<br /> <br /> 1.意識に凪の状態が来るまで瞑想する。この時はまだマントラを唱えない。<br /> 2.凪の状態でマントラを(心の中で)唱える。<br /> <br /> こうすることで、マントラが単なる心の詠唱ではなく深いところに直接的に働きかけるようになるような気が致します。<br /> <br /> Thu, 09 Jul 2020 00:00:00 +0900 30分から1時間の瞑想で意識が集約し、清浄な意識が現れる https://w-jp.net/2020/1981/ <br /> ヨーガスートラにおけるヨーガの定義<br /> <br /> (1-2) 心の作用を止滅することが、ヨーガである。<br /> (1-3) そのとき、見る者(自己)は、それ本来の状態に留まる。<br /> 「インテグラル・ヨーガ(スワミ・サッチダーナンダ著)」より<br /> <br /> 前半は、心の雑多な荒い面を鎮めること。<br /> 後半は、心を鎮めることができたならその奥に清浄な意識が現れてくる、ということを示しています。<br /> <br /> ですから、ヨーガスートラへのよくある批判である「心をなくしてしまったらその人は人間と言えるのだろうか」みたいなお話は当てはまらないわけです。<br /> <br /> これは、前半は主にダーラナ(集中)とディヤーナ(瞑想)のことを言っていて、後半はサマーディ(三昧)のことを言っています。<br /> <br /> 肉眼だけでなく、心の眼によって目標がしっかりと捕獲された時、それをまことの精神集中と呼ぶのであって、即ちそれがディヤーナ(ダヤナ)の達成である。「ヨガ行法中伝(関口野薔薇著)」<br /> <br /> ダーラナは主に肉眼や心による1点集中。それを進めるとその対象が心に占めた状態であるディヤーナに達します。その後、「見る者(自己)」が現れてくるのがサマーディです。<br /> <br /> このあたり、様々に誤解があって、ディヤーナ相当でも自分がサマーディだと思っている方もいらっしゃいますし、流派によっても何と呼ぶか様々なようです。サマーディ以上のものがあると言っている方もいらっしゃいますし、サマーディが最高だと言っている方もおられます。<br /> <br /> しかし、ヨーガスートラの最終地点をこのように「自己(アートマン)」の顕現だとするのならば確かにその先もあるでしょうが、とりあえずの終着地としては十分ではないでしょうか。<br /> <br /> その境地にすらなかなか達しないのですから、あまり理屈でどうこういうよりもその時間だけ修行したらいいと思うのです。<br /> <br /> 確かに「自己(アートマン)」の顕現が悟りそのものではないですが、悟りへと辿り着く中間地点であることは間違いありませんのでヨーガスートラは良い道しるべになると思います。否定する必要は全くないと思います。<br /> <br /> サマーディは上級者は日常的に状態を保つことができるようですが私なんかですと時々瞑想をして30分なり1時間なりして意識を清浄に保つ必要がありますね。<br /> <br /> その時は、最初は意識が多少もやっとしていて、30分なり1時間なり瞑想をすると急に意識が収束し、そして、清浄な意識が現れてきます。<br /> <br /> それは全く異なる2つの質です。<br /> <br /> もやっとしている、と言っても比較した時のお話であって普段はあまりそうと気が付きません。瞑想をしてその意識が収束して初めて今までがモヤッとしていたことに気付く、という種類のものです。<br /> <br /> そのサマーディはいわゆるスローモーションのヴィパッサナーの境地でもあるわけですが、疲れや日常生活の行動が原因でその境地から少しずつ解除されてゆくのですよね。ですから定期的に瞑想をして再度、清浄な意識に戻してあげないといけません。<br /> <br /> 上級者だとそんな必要もないのかもしれませんけど私には定期的なメンテナンスが必要です。<br /> <br /> このサマーディについて参考になる一節を引用します。<br /> <br /> 単に生理的機能として観たる「人間の心」は、決してサマディの境地には移行し得ない。人間には「生理的な心」とは別に、それに超越した「仏の心」というものがあり、此の仏心が自己顕現を行うことによって飲み、サマディの心境が顕れて来るのである。「ヨガ行法中伝(関口野薔薇著)」<br /> <br /> この本はつい先日入手したばかりですが、まさに今まで私が「そうなのではないか」と思っていた内容がズバリ書かれてあって本質的です。自分の中で組み立てられていた仮説が裏付けられた気が致します。<br /> <br /> 一体この著者はどのような人だろうと思ったのですが、どうやらあのヨガナンダ師の弟子だそうです。であればこの見解も納得です。ここまでの見解を出せる人はそうそういないと思います。<br /> <br /> Tue, 07 Jul 2020 00:00:00 +0900 観察ではなく集中こそが瞑想の基本 https://w-jp.net/2020/1980/ <br /> 息を観察する瞑想とかありますけど、観察よりも集中こそが瞑想に必要になります。<br /> <br /> 最近は理屈っぽい人が多くなっていて、ヴィパッサナー瞑想なども有名になったりして観察瞑想とか言われていますけど、瞑想の基本は観察ではなくて集中です。<br /> <br /> 瞑想の宣伝文句で「集中瞑想は本質ではなく、観察瞑想こそが本質」とか宣伝されていますけど、そういう謳い文句に流されない方が身のためです。<br /> <br /> 瞑想というものは何千年も歴史があって、瞑想というのは集中瞑想が基本です。<br /> <br /> その基本をないがしろにして「実は瞑想は集中のことではなくて観察のことなんですよ!」なんていう煽り文句に騙されてしまうと痛い目を見ます。<br /> <br /> 特に瞑想なんてのは自分の内面で行うものですから、気がつかないうちに混乱をきたしてしまうこともあります。<br /> <br /> 上のような無責任な宣伝文句に惑わされて「観察瞑想」とやらをしてしまった結果、集中が疎かになってしまって精神的なダメージを受けてしまう方が多くいらっしゃいます。<br /> <br /> この辺り、やはり歴史というものは重要で、歴代に渡って瞑想をされてきた流派と最近ぽっと出てきて瞑想を教えている人とは一味も二味も違うと思います。<br /> <br /> 瞑想とは何か? を聞いたときに「集中です」と答える人は本質がわかっています。<br /> <br /> 「観察です」という答えも間違いではないです。ですが、基本は集中です。<br /> <br /> 実際のところ、瞑想とは両方です。<br /> <br /> 特に初心者向けには「瞑想は集中です」と言っても間違いではないですし、「はじめての瞑想」なんていうお話であればそう言い切ってしまっても問題はないと思います。<br /> <br /> それを、どこから持ってきたのかはそれぞれですけど「ブッダ伝来」とか理屈をつけて「観察瞑想」こそが本質だ、なんて言い出している方がいらっしゃいます。<br /> <br /> 人々は物珍しいものに惹かれるのでしょうね。そう煽られれば「そうか。集中瞑想は本質じゃないんだ。観察瞑想こそが本質なんだ」とか思ってしまうでしょう。<br /> <br /> 確かにね、中級者以上であれば観察瞑想が本質です。<br /> <br /> しかし、ほとんどの人は瞑想初心者でしょう。質問で「瞑想とは何か」とか「瞑想は集中ですか、観察ですか」なんて聞いている時点で初心者ですよ。であれば「瞑想とは集中です」という回答で十分だと思いますよ。<br /> <br /> 書物で瞑想をかじった人は「集中です」と言われると「古典」だとか「古い」とか思ったりして、ガッカリしたりするようです。<br /> <br /> しかしですね、やっぱり瞑想は「集中」なのですよ。そこのところがわかっているかどうかが大きいのです。<br /> <br /> 「瞑想が集中なんて言っている人は古い。瞑想は観察だ」とかいう人は瞑想の初心者確定です。そんなこと言うのは初心者だけです。<br /> <br /> ぐるぐると大回りして、最後に「ああ、やっぱり瞑想は集中だった」と気付く人もそれなりにいらっしゃいます。<br /> <br /> であれば、最初から古典である「瞑想は集中」から始めれば早いと思うのですけどねえ。人は、新しくて物珍しいものに惹かれますからね。「瞑想は集中ではなく観察だ!」と煽られれば「そうだ」と思ってしまうのでしょうね。<br /> <br /> 瞑想とか精神世界って落とし穴がいっぱいで、簡単に誰かを精神的な奴隷にできてしまいますから、何某かで煽ることで引き付けたい、という人もいらっしゃるのでしょうね。あるいは、何か単に瞑想について勘違いしているだけかもしれませんね。どちらにせよ、そんな煽り文句など放っておいて、古典的な瞑想である「集中」から始めるのが早道だと思うわけです。<br /> <br /> 例えば、息を観察する瞑想。これは、息に集中する瞑想のことです。中級者以上は息を観察する瞑想ですけど、初心者にとっては息に集中する瞑想のことです。<br /> <br /> 瞑想において「力を入れない」なんて言われますけど、これまた中級者以上のお話です。<br /> <br /> 初心者は瞑想においてかなり力を入れて集中しないと意識がさまよってしまいますから頑張って集中する必要があります。そんなものです。「ほんわかと観察しましょう」なんてお話を本気にしたらいつまで経っても瞑想の効果が出ないです。特に急いでいないのならばいいですけどね。悩みを早く解決したいなら集中から入るべきです。<br /> <br /> 皮膚を観察する瞑想なんてのも同じことです。これも中級者以上が観察で初心者は皮膚に集中する瞑想です。<br /> <br /> どちらにせよ、皮膚の観察をしたところで五感の範疇ですから、強い弱いの違いがあっても全て集中瞑想とも言えますし全て観察瞑想とも言えます。所詮は割合が違うだけです。それを集中瞑想だとか観察瞑想だとか分けることこそ意味がないと言えば意味がないわけです。<br /> <br /> 五感を超えたところの意識が現れてくる段階があって、それをヴィパッサナー(観察)瞑想とも言うことができますが、そんなのは先の先のお話であって、皮膚をいくらやんわりと観察したところで所詮は五感の観察ですから、観察だとかに拘らず、基本である集中瞑想をしっかりやればいいと思うわけです。<br /> <br /> Mon, 06 Jul 2020 00:00:00 +0900 後頭部が脈打ち、鼻頭がピリピリする https://w-jp.net/2020/1977/ <br /> 最近の瞑想では頭の各所に反応・感覚が出ているわけですが、特に最近は後頭部が脈打って、鼻頭がピリピリするようになりました。<br /> <br /> 瞑想中にマントラを唱えると特にその反応が出ます。<br /> <br /> 古代のマントラを唱えると頭から下半身まで満遍なく反応が出て特に下半身に強く出るので最近は古代のマントラは数回唱えるだけにしていて、最近は「アジカリムン(アヂマリカム)」がお気に入りです。<br /> <br /> このマントラを唱えると後頭部のあたりに反応が出てグリグリと動き出しそうな感覚が現れます。<br /> <br /> 時々、試しに後頭部の中で筋肉を動かして水平に回転させたり横に寄せてみたりしてストレッチっぽいこともしてみています。後頭部の下の方がやりやすいですが、それより少し上のあたり、つむじの内側辺りでも同様に脳内ストレッチしてみたりしています。<br /> <br /> そうして日々の瞑想をしていたら、血行が良くなったのか何なのか、後頭部の、つむじの少し下寄りの表面近くで脈打つ感覚が現れるようになりました。<br /> <br /> 以前から何度か、うなじや各所で脈動を感じることがありましたので似たようなものかなとは思います。<br /> <br /> おそらくは、もともとそのあたりでエネルギーが滞っていて、エネルギー的にその箇所が活発になったのかなと思います。瞑想の効果ですね。<br /> <br /> 視界にも変化が現れていて、最近は基本的にいつもヴィパッサナー状態ではあるのですがその濃淡といいますか見え方には微妙な違いがあって、具体的には自分の意識がクリアであればあるほどはっきりと視界が細かくスローモーションで感じられます。補足しておきますと、時間が遅くなるわけではなく細かいコマでスムーズな動きで感じられるということです。それを比喩的にスローモーションと表現しています。<br /> <br /> 瞑想で脳が活性化すればするほど視界が細かいコマで感じられてスローモーション画像のように細かいコマをリアルタイムで見ている感じになるわけですね。時間経過は変わらないですが感覚的にスローモーション動画のように意識には認識されるということです。<br /> <br /> それは意識の状態に対応していて、ちょっと眠気があってぼっとしている時はそれなりの認識ですし、瞑想後にはっきりとした意識の時ははっきりとしたコマで視界が認識されます。<br /> <br /> その辺りの認識と、脳のあたりで脈打つ感覚が連動しているのがよくわかります。瞑想で頭が活性化すればするほど認識が細かく微細になるわけです。<br /> <br /> 認識が微細になるためには意識が静まる必要があるわけで、スローモーションで認識されたからと言ってそれで意識が特別に活性化するわけでもなく淡々とした・・・ というと語弊がありますが、意識は活性化しているのですが、それは激しい意識や感情を目的としたものではなく、一瞬で認識が入ってきて一瞬で識別するという瞬間・瞬間が連続するということです。<br /> <br /> ですから、最初ヴィパッサナーが始まった頃は割と驚きと物珍しさで意識が多少高揚しましたが、慣れてきた今は割と淡々と識別を行っている感じです。<br /> <br /> そうしてヴィパッサナーに慣れてきた今は、更に脳が活発化してきて、脈打つこともありますし、鼻頭がピリピリすることもよくありますけど、それも慣れたもので、違和感がなくなってきています。<br /> <br /> このくらいになると瞑想始めた頃のようなワクワク感による期待というのはほとんどなくなってはいますけど、おそらくはまだ先の境地があることがよくわかりますので、違う意識における期待というのは多少はあります。それは一般的に言われているような期待とは違って予測に近いもので、期待するというよりは予測が感じられて、予測を感じた意識が「はい。そうですか」と思っているだけですので、それを期待と言えばそうなのかもしれないですけどよくある一般的な期待とは異なるものです。<br /> <br /> 細かい変化ですけどまだ先があるということがわかります。<br /> <br /> この種の脈動やピリピリという感覚はその人の状態を知るための「ヒント」あるいは「しるし」として使えそうですね。<br /> <br /> Fri, 03 Jul 2020 00:00:00 +0900 瞑想は経験が先に来て説明が後に来る https://w-jp.net/2020/1975/ <br /> 流派によって定義が様々で、サマーディとかヴィパッサナー等の用語に差異があります。<br /> <br /> 例えば、今日ネット配信で見たスワミジ(Swami Muktananda Yati)が言うには以下のようなものでした。<br /> <br /> ・サマーディは思考を止めること。(パタンジャリのヨーガ・スートラの定義)<br /> ・ヴィパッサナーは息を観察すること。ヴィパッサナーはサマーディへの入り口で体験する。<br /> <br /> 流派によって色々な言い方があるんですね。それに、きっと相手によって簡単な説明を選んでいるような感じです。<br /> <br /> 話を聞いていると、どうも、サマーディとかヴィパッサナーと言う言葉の意味がこのスワミジは違うみたいですね。<br /> <br /> 世間では、サマーディ1つだけで悟れるとかヴィパッサナー1つだけで悟れると言う誤解が溢れていますけど、このスワミジはサマーディやヴィパッサナーを瞑想の一面を表す説明として用いています。<br /> <br /> 瞑想の説明としてはもっと複雑で、サマーディと言うのは瞑想の一面である「思考を止める」と言う説明だけに使っており、一方、ヴィパッサナーは息を観察すると言う説明だけに使っています。<br /> <br /> こう言う視点もあるのですね。<br /> <br /> 何やら、世間ではサマーディとヴィパッサナーの対決みたいになっていてどちらが優れているのかとかどちらで悟れるとか、そんなくだらないお話に熱心になっている人がいますけど、本質は瞑想そのものですから、瞑想の一面を説明するためにサマーディとかヴィパッサナーと言う言葉を使う場合もあるのですね。<br /> <br /> まずは瞑想してみて、説明としては色々することが出来て、その時に瞑想の要素としてサマーディとかヴィパッサナーという言葉が使われるだけで、サマーディやヴィパッサナーがゴールではないわけですね。<br /> <br /> 言葉の定義としては私が普段使っているものとは違いますが、説明の内容からはこのスワミジはとてもよくわかっているという印象を受けます。<br /> <br /> ですから、言葉の定義なんて本当はどうでもいいと言えばその通りなのかもしれないですね。<br /> <br /> ・・・このスワミジ(Swami Muktananda Yati)、私が通ったアシュラムのゆかりのスワミジみたいですけど会ったことがありませんので詳しくは知りません。誰かに聞けば知っているでしょうけど。<br /> <br /> Wed, 01 Jul 2020 00:00:00 +0900 我思わなくても我あり https://w-jp.net/2020/1974/ <br /> よく「我思う故に我あり」なんて言われてますけど、実際には、我思わなくても我あり、なのですよ。<br /> <br /> だって、思考を止めたらあなたの体が消えてしまいますか? 消えないでしょ。<br /> <br /> 思考を止めても全く安全なのですよ。<br /> <br /> 「我思う故に我あり」なんて言ってるから精神病が生まれるのですし、あまり考えないで反射的にしか物事を捉えられない人が量産されます。<br /> <br /> 実際のところ、思わない時に何をしているかというと「じっくりと見る」ということをしています。思っている間は「じっくりと見る」なんてことはできないです。<br /> <br /> ヨーガとかゾクチェンではその状態を「むきだしの心(が物事を観察する)」とか言ったりします。<br /> <br /> 頭でグルグルと物事を考えているときに「じっくりと見る」なんてことできないですよ。頭でグルグルと延々に回転させてできることは過去のノウハウを取り出すことだけで、「じっくりと見る」なんてのは不可能です。<br /> <br /> この辺りが、本当の知恵者と小賢しい子知恵を働かせる人との違いですよね。<br /> <br /> 頭でグルグルと回転させて反応的に生きていたら物事の真の姿は見抜けなくて小賢しい知恵しか出てきません。しかもそれは自分が生み出したというよりは何処かから拾ってきた知恵でしかありませんから自分で生み出したものではない分、たちが悪いです。というのも、自分で生み出していませんから責任感が薄くて、愛着も少なくて、実行時にもやり遂げる責任感が足りず、自分がやっているという主体者意識にも欠けることになります。<br /> <br /> 小賢しい人はそれでいて知恵は回って自分のエゴを満足させようとしますから更に厄介です。こういう人が国や故郷及び自分がいる会社を売ったりするのですよね。小賢しい知恵者に権限を与えてはいけないですし、それでいて不遇だと思ってしまった小賢しい知恵者が工作することにも気を付けていなければなりません。最初から小賢しい人はグループに入れないことですよね。それでも多少は入ってきてしまうのが小賢しい人の厄介なところですけど、いくつも防波堤を築くことです。<br /> <br /> 物事を聞いたときにすぐ反応が返ってくる人は頭が良いと言えば良いですが、「我思う故に我あり」と思っているのか「我思わなくても我あり」と思っているのか、そこが大きな違いになります。<br /> <br /> 単純に頭の回転が早くて「我思わなくても我あり」と思っている人は優秀ですが、頭の回転が早くても「我思う故に我あり」と思っている人は小賢しいだけの人です。<br /> <br /> これ、小さな違いに見えるかもしれませんけど、かなり大きな、絶対的な違いであって、そうそう超えられない壁になるほどの大きな違いです。<br /> <br /> 安全策を取るのであれば、頭の回転を抜きにして自分というものが何だと考えているのかを焦点にするべきかもしれませんね。今の社会はそうはなっていませんけどね。<br /> <br /> 瞑想的に考えるならば、現時点で頭の回転がそれほどではなくても、瞑想をして行くに連れて頭の回転は早くなります。ですから、本当に瞑想を突き詰めることができる環境があるのであれば根本的な「自分は何だと考えているのか」のみが重要になるのですけど、これはこれで、必ずしも瞑想でそこまでの境地にたどり着けるとは限らないのが困ったところです。<br /> <br /> 瞑想でそこまでの境地にたどり着くことが出来なくても、「我思わなくても我あり」ということを知っておくだけでも有益だと思います。<br /> <br /> <br /> 思考がなくなると貴方はいなくなるのかどうか? という点に関しては哲学者が様々に答えを考えてきました。ですけど、所詮はそれは頭で考えた答えなのですよね。<br /> <br /> 例えば意識だけのことを取り上げてみると、思考を止めたら貴方がなくなってしまうのならば、しばらく思考を止めた後にもう一度思考を開始することができるのはどういうことでしょう? 思考が自分で、思考が止まったら自分がなくなるのならば、なくなるというのはゼロですから、もう二度と思考できなくなってしまうわけでしょう。それとも、思考がなくなったら貴方というものはなくなってしまうけれども、また思考をしたら貴方が再度作られる、ということですか? だとしたら、前の貴方と新しい貴方との関係は何でしょう? 繋がりがあると考える哲学者と繋がりがないと考える哲学者がいるらしくて、前の思考と後の思考は繋がっていると考える哲学者と、前の思考と後の思考とは全く別の自分だと考える哲学者がいたりします。<br /> <br /> ・・・・こんな話を延々と聞いて、何か貴方の役に立ちますか? 単に頭の中でごちゃごちゃ考えているだけですよ。普通の人はそんな哲学者のグルグル思考に付き合う必要はないですよ。<br /> <br /> ヨーガは、もっと単純な答えを用意しています。<br /> <br /> 思考が止まっても再度思考ができるということは、思考よりも根本のところに異なる根元の何かがあるということですよ。その根元の方をヨーガでは「私」と呼んでいて、ヨーガでは思考は「私ではない」としています。<br /> <br /> だとしたら、「我思わなくても我あり」なのは当然でしょう。<br /> <br /> Tue, 30 Jun 2020 00:00:00 +0900 瞑想中、頭のてっぺんに感覚が現れる https://w-jp.net/2020/1965/ <br /> 少し前までは頭の真ん中から下半分にかけてのみ感覚が出ていて、てっぺんの辺りは感覚がほとんどありませんでした。<br /> <br /> 時々、頭の上の方にまでエネルギーが行くこともありましたけど、砂浜で時折強い波が上の方まで上がってくるのと同じで、時々そういうことがあるだけで基本的には頭の上の方は感覚がありませんでした。<br /> <br /> しかし、ここ最近、頭の上の方にまで感覚が出てきました。<br /> <br /> 一番のてっぺんにだけまだ感覚が出ていませんけど、頭の9割は感覚が出てきたように思います。<br /> <br /> つむじより少し上の辺りに少しだけ感覚がない部分が残されていて、しかし、その周囲を感じてみますとちょっとだけぽっこりとオーラが上の方に押されたかのように膨らんでいるのを感じます。<br /> <br /> 少し前までは同じように頭までオーラが届いた際もそのまま体の前面を下に降りて行っていましたので、まるで小周天のように背中から頭、そして体の前面へと回転していました。<br /> <br /> しかし、ここ最近は頭でオーラが止まって、上の方に圧力をかけています。<br /> <br /> かなり昔に小周天を試した頃はちっちゃな感覚がモゾモゾと動くくらいでした。その後、クンダリーニ覚醒後は小周天がよくわからなくなって、単にエネルギーが上下するだけの感覚になっていました。それが、ここに来てしばらくは、本当の小周天っぽくなってきたところでした。しかし、それがまた、動かなくなりました。<br /> <br /> 瞑想で動かなくなった頭の上のオーラを観察していると、その圧力は上の方に継続してかかり続け、やがて何か隙間を見つけたのか何なのか、エネルギーが上の方に少しづつ抜けてゆきました。<br /> <br /> 上へのルートが完全に開いたというわけでもなく、時間をかけると少しづつ抜ける、という感じです。<br /> <br /> これは、クンダリーニがマニプラ優勢からアナハタ優勢になった時の遷移に似ています。その当時は、最初マニプラ優勢でエネルギーがなかなかアナハタに上がらない状態でした。瞑想をしてもマニプラでエネルギーが溜まっていて、時間をかけると少しだけアナハタに抜ける、という状態でした。その時は、まだアナハタに感覚がなかったのです。<br /> <br /> 今回においては頭の9割に感覚は出ているものの頭の上、サハスララの上の感覚は出ていません。やっていることが同じだとすれば、次第にサハスララを超えて上の感覚が出始める前兆なのかな、とも思います。 <br /> <br /> アナハタ優勢になった時はその変化は一気に来ましたので、今はサハスララのところでブロックされていてその上に行くことができなくて、やがて、時が来たら一気にサハスララを超えられるのかな??? と思っていますが、どうでしょうね。<br /> <br /> 少し前にインスピレーションが与えられて、ある程度の次のレベルに達するにはあと3年だと瞑想中に言われたのでそんなに慌てることもないですね。3年って意外にあっという間ですしね。<br /> <br /> そう言えば似たような物語を読んだことがあって、「貴方はあと〇回の転生で悟る」と言われた2人のうち、一人はそんなに転生が必要なのかと嘆いて、もう一人はたった○回でいいのかと喜んだらその瞬間に悟ったという割と有名と思われるお話がありますけど、私はどっちかというと「あとたった3年でいいのね」って感じでした。3年で悟るかどうかは言われてなくて単に次のレベルってだけですけど、それでも十分です。<br /> <br /> Sun, 21 Jun 2020 00:00:00 +0900 自我が戸惑った後、時間が経てば自我が静まる https://w-jp.net/2020/1961/ <br /> 先日の続きです。自我が戸惑う段階に来て、その後は特にすることはありません。瞑想でその戸惑いを静かに観察し続けるだけです。そうすると、ふとした瞬間に ふっ と戸惑いが消えて自我が鎮まります。その時は、特に力は必要ありません。<br /> <br /> シャマタ(集中)の境地においてはある種の集中「力」が必要でした。最初は特別に強い力が必要で、同じシャマタでも次第に力が要らなくなってゆきます。<br /> <br /> そうしてヴィパッサナーあるいはカニカ・サマーディになってもまだ多少の力は必要ですが、ここに来て、ようやく力が不要な状態になります。<br /> <br /> 不要とは言っても、お盆を片手で持っているかのような、あるいは、頭の上に荷物を載せているかのような体幹によるしっかりとした土台が瞑想の力として必要にはなりますが、それは力を入れているというよりは、心の体幹がどっしりとしていて、もはや特別な努力が要らなくなる、と言った種類のものです。<br /> <br /> ですから、その体幹を力とは言わないですけど、体幹がしっかりしていることで心が揺れ動かなくなり、それにより、意識で力を加えなくても心が安定しているのです。<br /> <br /> その状態になれば、自我が最初は戸惑ったとしてもやがては戸惑いが薄れ、自我が自分の安全さに気付くかの如く自我が鎮まってゆきます。<br /> <br /> それは丸い鉄の玉が磁石によって引き寄せられているかの如く、自我それ自体は何者かによってきちんと制御されている状態になります。<br /> <br /> この状態をなんというのか微妙なところです。ヴィパッサナーと呼ぶこともできるでしょうし、サマーディの一形態と呼ぶこともできるかもしれません。<br /> <br /> 今まで自我が何某か反応をしていたことに対しても自我が表面的には反応しなくなり、むしろその奥にある真我と呼ぶべきかあるいは潜在意識と呼ぶべきものだけが受け答えをするようになります。<br /> <br /> その時、奥にある潜在意識が反応する度に自我が「自分は答えなくても良いのですよね?」と言わんばかりに、都度、戸惑いを見せます。これは単なる戸惑いを言葉で表現しているだけですので自我がこのように意識を発するわけではなく、単に、戸惑いが広がるのみです。この段階では、自我はいわゆる「待て」の状態で待機しています。それでも、周囲で何が起こっているのだろう、と気になって戸惑いを見せるのです。<br /> <br /> 真我と自我の関係は、まるで飼い主とよく躾けられた犬との関係に似ているような気が致します。真我が自我に対して「伏せをして待て」と命令すれば、まるで犬が、飼い主の意図はわからないまでもそれに従って、それでいて犬ですから周囲が気になって仕方がない、という、その関係によく似ているような気が致します。<br /> <br /> 戸惑いはするものの、自我は雑念に対しては何も反応しなくて良いのだと訓練されていますから戸惑うだけで終わりで、深い潜在意識が少し反応を見せたり見せなかったり、時によって色々です。<br /> <br /> <br /> 昔からよく聞く例え話で、真実を知るためには「力を抜かなくてはならない」とか、「握り締めてしまうから真実を失う。握りしめる手を緩めなくてはならない」みたいなお話は、ひょっとしたらこの段階のことを表現しているのかもしれません。<br /> <br /> Wed, 17 Jun 2020 00:00:00 +0900 ヴィパッサナーを超えた瞑想で自我が戸惑う https://w-jp.net/2020/1959/ <br /> 瞑想の階梯において最初はシャマタ(集中)があり、それは自我が押し留められて自我が一時的に消滅している状態における静寂でした。<br /> <br /> そのシャマタ(集中)にも2種類あって、最初はゾーンでの激しい歓喜から始まって静かな歓喜に変化してゆくわけですが、静かな歓喜の状態にある程度留まるとその先はスローモーションのヴィパッサナー(観察)瞑想あるいはカニカ・サマーディ(瞬間定)と呼ばれる状態に遷移するわけですが、その先で、次第に自我を留めおく力が不要になってくると自我が動き出して戸惑うようになります。<br /> <br /> シャマタ(集中)の瞑想をしている間は自我が止まっていますので歓喜が湧き起こります。自我が止まると歓喜になるのかと思いきや、慣れてくると歓喜が治ってゆき、やがてはヴィパッサナーあるいはカニカ・サマーディと呼ばれている状態になるわけですが、その状態ではまだ力がどこか入っていて自我をコントロールしている力が入っているわけですね。<br /> <br /> おそらくは、そのあたりが自我とそれ以上の存在、いわゆる非我とか無我とかあるいは真我(アートマン)との主従の入れ替わりの段階なのかなと思います。<br /> <br /> ヴィパッサナーあるいはカニカ・サマーディの段階ではまだ自我の方が主で真我(アートマン)はあまり動いておらず、せいぜい奥深くの感覚で何となくそれがあるという感じ、あるいは、ヴィパッサナーによって観察しているのがアートマンなのだと何となく認識している段階です。<br /> <br /> ヴィパッサナーあるいはカニカ・サマーディを超えた段階で真我(アートマン)が主になって、その段階では自我が従へと入れ替わるのだと思います。<br /> <br /> すぐに完全に入れ替わるというよりは、そのあたりの段階でようやく自我のコントロールが不要になって自我を縛っている手綱を緩めることができるのだと思います。<br /> <br /> そうして、真我(アートマン)が自我をコントロールするにあたって、自我としては今まで認識していなかった何ものかに自分がコントロールされるのだという、えもいわれぬ不安で戸惑うわけです。<br /> <br /> それが、私の瞑想で最近起こっています。<br /> <br /> この段階になると、もはやシャマタ(集中)の時のようにどっぷりと瞑想の中に沈み込むというか落ち込むというか時間を忘れて瞑想だけに浸って時間を過ごすという感じではなくなり、意識が常に起きているので自我の戸惑いを幾度となく常に認識するようになります。<br /> <br /> 昔のように瞑想に落ち込むという感じでもなく、そうなる気配もなく、ただ意識がずっと動き続けるので、もはや瞑想として座る必要もないのではないかと時には思ってしまいますが、それでも座ると多少は違うので座ることは続けています。<br /> <br /> この戸惑いは、瞑想を始めた時の雑念に惑わされる混乱とは全く別のものです。<br /> <br /> 自我がもはや雑念に囚われなくなって、自我が何も活動しなくても良い、と真我(アートマン)から指示されて、それでも時々は雑念に囚われもしますが、自我が何もしなくても良くなって戸惑う時間の方が雑念によって惑わされている時間よりも多くなってきているような感じがいたします。<br /> <br /> 人によってはこれを恐怖と表現するのかもしれませんが、恐怖というほど怖いわけではなく、ただ単に、自我がどうしていいのかわからず戸惑っている、という感じを受けます。<br /> <br /> おそらくはしばらくすれば自我は自らが何もしなくても安全だと分かって落ち着くのかな・・・ という気がしています。きっと時間の問題なのかなと。まだしばらく様子を見てみたいと思います。<br /> <br /> Mon, 15 Jun 2020 00:00:00 +0900 周囲と自分を混ぜれば混ぜるほど自分が消えてゆく https://w-jp.net/2020/1935/ <br /> セワ(混ぜる)によって周囲の空間と自分のむきだしの心(リクパ)を混ぜてゆくと、次第に自分がなくなってゆく感じがします。特に瞑想中というわけでなくても、普段の生活において自分がなくなってきて、以前に比べると30%減になった感じが致します。これは感覚的なもので、もっと前と比べたら50%減と言えるかもしれませんが、特にここ半年くらいで一気に30%くらい自分の存在がなくなって透明になってきた感じが致します。<br /> <br /> おそらく完全にゼロになることはないのでしょうが、少なくとも自分というものが消えてゆく感じがします。<br /> <br /> この感覚が今のところ自分の体くらいまでで周囲の物体はまだ存在しておりますが、それがどう変わるのかも今後、観察していきたいと思います。<br /> <br /> これらを表現すれば「周囲と自分を混ぜる」という言い方になるのでしょうが、ここで誤解があって、もっと正確に表現すれば「自分の体も含めた、自分の体およびその周囲と、それを観察しているむきだしの心(リクパ)とを混ぜる」となるわけです。<br /> <br /> 比喩的に昔から「周囲と自分を混ぜることで自分がなくなります」なんてことがスピリチュアルやらニューエイジやらで言われているわけですけれど、そのまま文字通り捉えてしまうと「自分という体」と「周囲の物体や他人」とを混ぜようとしてしまうわけですが、そのように文字通り読んでしまうと間違った理解になってしまうわけです。<br /> <br /> 元々こういうことを言い出した人が言葉の表現にもっと気をつければ良かったのだと思いますが既に広まってしまったこのような、一見すると「わかりやすい」表現は実際はちょっと違うものなのだと思います。「自分という体と周囲の物体や他人」を混ぜようとしても混ざりませんし、せいぜい体を密着させて濃厚接触するくらいでしょうし、その本質であるところを理解するまでにはなかなか行きつかないような気が致します。<br /> <br /> もう少し進んで「自分の心と周囲の物体や他人の体や心と混ぜる」というところに辿り着いたとしても、そこには自分の体すらも「外」であるという理解が抜けていますから、いつまで経っても何も起こらないし何も理解できず、逆に、他人のオーラに影響されやすくなって脆弱になってしまうかもしれません。<br /> <br /> 文字通り読むことでそのような誤解が生じてしまう危険性があるわけですけれども、スタート地点としてまず瞑想から入ってシネーの境地、テクチュの境地に達して、それからようやく自分も含めた周囲の空間とむきだしの心(リクパ)とをセワ(混ぜる)ことをすることで自分というものが消えてゆくのだと思います。<br /> <br /> それ以前に周囲と混ぜるというようなことを試みても無駄どころか、害が多いような気が致します。<br /> <br /> Wed, 20 May 2020 00:00:00 +0900 自然に瞑想を続けるだけで良い https://w-jp.net/2020/1934/ <br /> そんなことが言えるのはいわゆるヴィパッサナー状態であるテクチュ以降です。一般受けは良いですけど、こんなことを言う人のことを真に受けていたら成長しません。<br /> <br /> 少し前まではこのことがしっくりこなくて、「何かをしなくてはいけないのでは?」と言う思いが常にどこかにありました。それはそれでその時々としては正解で、何かをしなくてはいけないと思うのであればそれは正解だったと思うのです。<br /> <br /> ですが、世間一般で「わかりやすい」教えというものがあって、例えば瞑想であれば特に難しいことを考えなくてもただ座って自然に瞑想を続ければ良い、みたいなお話があるわけですけれども、それは最初は理解しやすいですけど、実際やってみるとそんなにうまくいくわけでもないわけです。<br /> <br /> この種の「簡単」なお話は、「最初」と「ある程度の経験者」にとって有益なのではないかなと思います。<br /> <br /> 最初のとっかかりとしては簡単でよくて、次第に、その簡単な境地こそが本質だとわかってゆくのだと思います。<br /> <br /> 最初は本に書いてある「三昧(サマーディ)を続けるだけで導かれてゆく」ということを読んでも「なんのこっちゃ」という感じでしたけど、最近は、特に難しいことをしなくても日々、瞑想が少しづつ深まってゆくような気が致します。厳密には日々というよりも数日あるいは1週間とかことあるごとに違いがわかるようになってゆくわけですけれども、比喩の表現としては日々深まってゆく、と言っても間違いではないと思います。<br /> <br /> ゾクチェンでセワ(混ぜる)というお話にしても、読んだときは「どういうことでしょう?」と思ったものですが、実際やってみてふに落ちると「あれ。特に特別なことを言っているわけでもなくて、自然に導かれてゆく状態を事細かに段階わけして説明していただけでした」ということに気づいたわけです。<br /> <br /> ですから、どこかの本に書いてあったように、おそらくはテクチュ以降は特別な努力なしに自然に瞑想が深まってゆくのだと思います。<br /> <br /> Tue, 19 May 2020 00:00:00 +0900 瞑想は駒あるいはモーターを回すようなもの https://w-jp.net/2020/1928/ <br /> 最初は回転する力が要りますが回り始めてしまえば軽い力で回り続けます。<br /> <br /> あるいは、長いゴム紐あるいは縄跳びの紐をピンと引っ張るときのようなもの、とも言えるかもしれません。長いゴム紐を軽く引っ張ってもゆらゆら揺れているだけですがある程度のテンションをかけると細かく揺れ動くようになります。最初は引っ張る力が要りますが、ある程度のテンションがかかってしまった後は維持するのにさほどの力を要しません。<br /> <br /> 駒が回る時に最初に力がいるのと同様に、瞑想においても、最初は「集中(サマタ)」という力が必要です。<br /> <br /> 瞑想が進むにつれて努力が次第に不要になってゆき、やがては「観察(ヴィパッサナー)」の状態に辿り着きますが、それは長い道のりであったりもします。これは人によります。人によってはなかなか辿り着かないでしょうし、あっという間に辿り着く、あるいは、生まれながらにその状態を知っている人もいらっしゃいます。<br /> <br /> 瞑想初心者の場合は集中(サマタ)から始めるわけですが、人によっては、誰が教え始めたのかは知りませんが「観察だけしていればいい」という教えに固執していたりします。そのような人は「雑念は放っておけば次第に消える」と主張するわけですが、それが真実なのは中級者以上の、特に観察(ヴィパッサナー)の領域で迷走をしている人たちにとっての身であり、初心者がそのようにしたら雑念が増大して精神に混乱を来すようになります。<br /> <br /> ゴム紐を力を入れずに引っ張ってもふにゃふにゃのままですし、力を入れずに駒を回そうとしてもすぐに止まってしまいます。瞑想も同じようなものです。最初は集中(サマタ)という力が必要です。<br /> <br /> バガバッドギータというインドの聖典においてもクリシュナが瞑想の手ほどきの中で「外にあるものを外に保つ」というようなことを言っていますけど、いわゆる「集中(サマタ)」とこのことは、割と似ています。雑念が入ってきたら、それは自分ではないのだから集中することで外側に保って内に入れないようにするわけです。説明として外と内という言葉を使っていますが、それがわかりにくければ、単に雑念を集中によって止める、という理解でいいと思います。<br /> <br /> どちらにせよ、瞑想は「雑念を受け流すこと」というお話が誤解されていて、これは確かに真実ですが、雑念は力を入れて消すのが基本で、受け流すのはその先のお話になるわけです。<br /> <br /> Wed, 13 May 2020 00:00:00 +0900 集中(サマタ)瞑想を否定する流派 https://w-jp.net/2020/1919/ <br /> サマタ瞑想でまず行き着くのはいわゆる「止(シャマタ)」の境地であり、ゾクチェンでいうところのシネーの境地であって、その先にテクチュの境地やトゥガルの境地があります。仏教やヨーガではそのシネーの境地に相当する状態を通ってからその先のテクチュやトゥガルの境地に達します。<br /> <br /> しかし、サマタ瞑想を頑なに否定する流派がこの世の中には存在しています。サマタ瞑想、例えばヨーガ・スートラ等で述べられている静寂の境地を否定して、頑なに、時にはヒステリックに、時にはマウンティングしてサマタ瞑想を否定する方がいらっしゃいます。これはある程度は根拠があって、サマタ瞑想のシネーの境地を通らずにいきなりテクチュの境地やトゥガルの境地に達することも可能なわけです。ただ、一般的にはそれは難しく、普通はシネーの境地を通るのが無難かと思います。<br /> <br /> テクチュや最終的なトゥガルの境地はヴィパッサナーの状態であり、特に、ヴィパッサナー系の流派やヴェータンタの流派がそのような主張をしています。その主たる主張では、「(シネーの境地で)心を停止させたら、それは人間と言えるのだろうか?」みたいなことが言われていて、それはそれで理に叶っています。<br /> <br /> 一部の仏教やヨーガ派の人たちはシネーの境地に相当する状態で心を停止させさえすれば最上の状態になると誤解して信じ切っておりますので、そのような誤解している人たちに対する反論としては正しいです。しかし、どちらもお互いの一面を見ているだけでしかなく、仏教やヨーガ派の一部の誤解している人たちはシネーの境地の先をきちんと見てテクチュやトゥガルの境地に進むべきですし、ヴィパッサナーやヴェーダンタを信奉している人たちの中には仏教やヨーガを誤解している点があることを学ぶべきです。<br /> <br /> 仏教やヨーガであってもシネーの境地相当が最終的な悟りだとは言っていませんし、シネーの境地であるシャマタ(止)が最終的な悟りだというのは良くある誤解でしかありません。その、良くある誤解を持ち出して「それは悟りではない」とか外から指摘しているように思えるのです。<br /> <br /> お互いに色々と言い合っていますけど、普通はシネーの境地ですらなかなか辿りつかないので、要らぬ心配でもあります。その先のテクチュの境地であるいわゆるヴィパッサナーな状態も同様だと思います。<br /> <br /> であれば、相手の流派についてどうこういうのは時間の無駄ではないでしょうか。<br /> そんな論争する暇でもあったら自分の修行でもしたらいいと思います。<br /> <br /> と、言いますのも、どちらにせよシネーの境地あるいはテクチュの境地に達すれば理が分かるわけですから。<br /> <br /> 世の中には生まれながらにある程度の境地にいる人がいて、そのような人が例えばシネーの境地が生まれながらに当たり前だったりするとシネーの境地を否定してテクチュの境地のヴィパッサナーだけを良しとするかもしれませんけど、一般的にはシネーの境地を通るのが普通だと思います。<br /> <br /> 世の中にはシネーの境地すらうまくできない人が大勢いらっしゃいますから、シネーの境地であるシャマタ(止)を否定しても、それは修行者を混乱させるだけかもしれないわけです。基礎としてシネーの境地があってその境地が最終的な悟りではないことを示唆するために否定するのならばわかりますが、全く否定してしまうのは違うと思います。シネーの境地を否定したら、ふにゃふにゃの集中できない状態しか残りません。<br /> <br /> 生まれながらにきちんとシネーの境地で集中できていて、その上で、自分が当たり前なことに気が付かずに集中することを否定してしまって相手を混乱させている方がいらっしゃる一方で、受けた教えを盲目的に信じてシャマタ(止、集中)を否定している方もいらっしゃいます。前者は勘違いなので仕方がないかなあ、とも思うのですが、後者はちょっと微妙ですね。<br /> <br /> スピリチュアル初心者でも運良く最初から本物の教えを受けることがあるわけで、それが高度なヴェーダンタですとかテクチュやトゥガルの境地だったりしますと、それは確かに集中(サマタ)ではありませんので、教えをする過程においてその説明の表現では集中(サマタ)瞑想を否定したりもしますけど、それは通過点としてのサマタ瞑想を否定しているわけではなくてただ単に説明してるだけなのですが、スピリチュアル初心者はその辺りのことを良くわかっていないのかなんなのか、言葉通りにサマタ瞑想を否定してしまったりするわけです。<br /> <br /> 流派として伝統的にサマタ(集中)を否定している流派もありますけど、おそらくは創始者あるいは過去のどこかの点でそこのマスターがそのように説明したのでしょうね。きっと創始者やマスターはわかっていると思いますけど、流派として伝統的な団体になってしまうと伝言ゲームで教えが異なってきたりもしますよね。<br /> <br /> シネーの境地は基礎ですから、その先を語って説明する時にはシネーの境地を否定する表現になってしまったりもしますけど、階梯としてのシネーの境地を否定するかどうかは別の問題であるわけです。<br /> <br /> 生まれながらにある程度の境地にある人は自分の認識としてはシネーの境地を通らずにテクチュの境地であるいわゆるヴィパッサナーの境地に達したりするでしょうし、そうなればシネーの境地を否定するかもしれませんが、それを言ったところで、瞑想の初心者を混乱させるだけだと思うのです。<br /> <br /> ただでさえこの辺りはごちゃごちゃしていてわかりにくいのに、このようにサマタ(集中)瞑想を否定する人たちが一定数いて、集中を否定するような説明があると初心者が訳わからない状況に陥ったりします。<br /> <br /> その上、集中を否定するようなヴィパッサナーの流派の教えを見てみるとぜんぜんヴィパッサナーじゃなくてサマタ(集中)瞑想を自分たちでしていたりしますし。実態が集中瞑想なのに集中瞑想を否定しているなんてわけがわからないです。まあ、全てではなくて、そういうところもあった、ということです。<br /> <br /> 学ぶ側としましては、自分の感覚と比べて理解できるところだけ理解して、不思議なところは判断を保留する態度が必要だと個人的には思います。<br /> <br /> スピリチュアルや宗教では基本的にこのような態度が必要だと思います。宗教と言うと盲目的に信じることだと思われていますけど、信じるかどうかは自分次第です。私はある程度は信じた方が成長は早いと思いますけど信じるかどうかは自由意志に委ねられていますし、信じた内容が正しいかどうかを考えても良いわけです。瞑想なんてのは心の中の出来事ですから、きちんと自分の内面と向き合わないと変な流派に囚われてしまったりしまいますしね。<br /> <br /> この辺りは人によりますので好きにすればいいと思います。この世は自由の世界で、良くなるのも悪くなるのも全部自分次第で、いかようにもなります。<br /> <br /> Mon, 04 May 2020 00:00:00 +0900 仏教の「空」はゾクチェンのシネーの境地 https://w-jp.net/2020/1918/ <br /> スピリチュアルや仏教で「空」という言葉は人気がありますけど、この言葉は幅が広すぎていまいち掴み難いところがありましたが、ふとパラパラとゾクチェンの本をめくっていたらその対応が書かれておりましてはっきりしました。<br /> <br /> 「空」は「集中(サマタ)」している静寂(シネー)の境地に対応するようです。<br /> <br /> すべての仏教の伝統において、修習には二つの段階がある。すなわち<静寂な境地(シネー)>(「止 」zhi-gnas)と<直観的洞察(ラントン)>(「観」lhag-mthong)である。(中略)シネーは空に、またラントンは光明に対応する。「ゾクチェンの教え(ナムカイノルブ 著)」<br /> <br /> 同書はゾクチェンの本ですが、仏教にも造詣が深いように思います。<br /> <br /> 仏教だと「止」と「観」の対応で語られていますけど、ゾクチェンの3分割の方が明確な気が致します。<br /> <br /> (仏教の)顕教において、ラントンは(中略)静寂の境地の修習の後、自動的に生じてくると考えられている。これに対して、密教においては、ラントンは、変化の修行における悟りの一定の段階と考えられている。「ゾクチェンの教え(ナムカイノルブ 著)」<br /> <br /> この対応も興味深いです。どちらにせよシネーの境地の後にラントン(テクチュの境地)到達するわけですね。ラントンはチベット語で、サンスクリットでいうとヴィパッサナー(観察)に対応するようです。であれば以下のような対応になると思います。<br /> <br /> ・仏教の空 → 「サマタ」(集中)。チベット語(ゾクチェン)で「zhi-gnas」。ゾクチェンのシネーの境地。<br /> ・仏教の光明 → 「ヴィパッサナー」(観察)。チベット語(ゾクチェン)でラントン(lhag-mthong)。ゾクチェンでのテクチュの境地やトゥガルの境地。覚醒の境地。<br /> <br /> 完全な対応ではないにせよ、概念的に上記のような対応だということが読み取れます。<br /> <br /> 仏教の「空」は色々な人が様々に語っていてどうも掴み所がなくて不思議な感じがしていたのですが、ゾクチェンの階梯に合わせると明確になった気が致します。同様に「光明」の意味も明らかになりましたね。<br /> <br /> 日本語で「光明」というとまるで悟ったかのような印象を受けてしまいますが、光明がヴィパッサナーだとすれば光明そのものが悟りではないですね。とは言いましても悟りに近づくための重要な一歩ではあるわけですが、日本語で「光明を得た」というとそのまま悟ったかのような印象を受けてしまいますけど、光明がヴィパッサナー(観察)に対応するのだとすればまだ続きがあるということですね。<br /> <br /> Sun, 03 May 2020 00:00:00 +0900 カニカ・サマーディ(瞬間定)の解釈 https://w-jp.net/2020/1913/ <br /> ヴィパッサナーの本を読んでいたところ、カニカ・サマーディ(瞬間定)と言うものがあると記述がありました。<br /> <br /> サマーディの強力な集中がサティ(気付き)の精度と速度を矢のように鋭くし、一瞬一瞬の事象に撃ち込まれ、その本質を暴き出していく...。「ブッダの瞑想法(地橋 秀雄著)」<br /> <br /> これは、以前に長い瞑想をした時に何気ない山の木々の景色が映画のスローモーションのように綺麗に見えた時のことを指しているのか、あるいは、最近のスローモーションのヴィパッサナー状態を指しているのか、どちらでしょうね。<br /> <br /> おそらくは、カニカ・サマーディ自身は前者のことを意味していて、深まると後者のヴィパッサナーになるのかな、という気が致します。であれば、次のように解釈できます。<br /> <br /> カニカ・サマーディでは強烈な「集中」が必要で状態がまだ不安定ですが、それでも、スローモーションで物事が感じられるくらいの強烈な気付きと集中があります。それはヴィパッサナーと呼ぶというよりもカニカ・サマーディの漢字にあるように「瞬間」のサマーディだとすれば状態を正確に表しているような気が致します。ただ、状態としてはあくまでもサマーディで「集中」が優勢です。ヴィパッサナーの観察する力はその集中に頼り切っているのがカニカ・サマーディだと思います。<br /> <br /> その後、集中の努力がそれほどいらないヴィパッサナーに移行するわけです。そのように解釈するのが理に叶っていますし、自分の感覚とも一致するような気が致します。<br /> <br /> 瞑想中だけのサマーディからある程度は日常生活まで続く断続的なカニカ・サマーディになり、やがては日常生活で集中の努力がそれほど必要ないサマーディになるとヴィパッサナーと呼ばれるのかな、と思います。<br /> <br /> 同書によりますと、この状態はサマーディの後に訪れる「ウペッカー<捨>」の状態であると言います。<br /> <br /> 心に入ってくるすべての対象を公平に、等しい距離をもって眺め、無差別平等の精神に貫かれた明確な無関心の状態を保つ。ウペッカー<捨>「ブッダの瞑想法(地橋 秀雄著)」<br /> <br /> これはいわゆる「七覚支」のうちの1つですが、解釈としてヴィパッサナー的な観点から記載されている点が興味深いです。言っていることは本来は1つの筈ですけど観点が違うと気づきがあります。<br /> <br /> この「捨」の境地は、今よりも前、アナハタ優勢になった頃にも「捨」と言えばそう言えるかな、と思えたこともありますが、今のスローモーションのヴィパッサナー状態の方がより「捨」と呼ぶに相応しい気が致します。アナハタ優勢になった頃は完全な「捨」と言うよりもまだ「喜」が混ざっていたような気が致しますし、意識としてスローモーションで感じられるような奥深くまで浸透するかのような意識ではなかったように思います。<br /> <br /> 七覚支は一つづつの力をそれぞれ個別に伸ばすと言うよりは総合的に少しづつ全体的に伸ばしてゆくものなのかもしれません。であれば、「捨」に関しても以前より進歩したと言えるのかもしれません。<br /> <br /> 厳密には言葉的に違うことなのかもしれませんが、「捨」をカニカ・サマーディあるいはヴィパッサナーの段階と当てはめてみるとそれなりに一致するような気も致します。<br /> <br /> Tue, 28 Apr 2020 00:00:00 +0900 瞑想中に見えるアストラル体の色 https://w-jp.net/2020/1906/ <br /> ヨーガ行者の本山博先生はアストラル体の色について記述しています。<br /> <br /> アストラル体の3つ色(オーラ)<br /> 1. ムーラダーラチャクラでは、アストラル体は無色である。<br /> 2. アジナチャクラでは黒色である。<br /> 3. サハスララチャクラでは、光り輝いている。<br /> 「密教ヨーガ(本山博 著)」<br /> <br /> 同書によれば、これは精神集中の3つの異なる状態に該当すると言います。<br /> ・浅い精神集中では煙柱。<br /> ・雑念が消えた集中では黒色。<br /> ・やがて光り輝くようになる。<br /> <br /> 先日の漆黒の闇はおそらくアジナチャクラに関係しているものかな、と言う気も致しますが確信はありません。<br /> <br /> 光は外の光かもしれないので、光は進歩の判断に適していないような気もしています。単に筋肉の緊張で光を見ることもありますし。<br /> <br /> ヨーガの瞑想の基本としては何を見ても重要ではないので気にしない、と言うことはありますけど、こう言うのは「しるし」として役立つ時があるのです。<br /> <br /> Tue, 21 Apr 2020 00:00:00 +0900 瞑想中、漆黒の雲に包まれる https://w-jp.net/2020/1903/ <br /> 普段の瞑想では薄明かりを感じることが多いのですが、今日は、最初はいつものように薄明かりを感じていたのですが、ふと目の前に黒い雲が現れ、それが顔の周りを包み込んで視界が急に暗くなり、そのまま漆黒の闇に包まれました。<br /> <br /> その雲は、雲というよりも見た目は黒い脳味噌のような有機的な鼓動を打っており、雲であるような脳味噌のような有機的な黒い雲でした。それが顔の周囲、頭のあたりまで包み込んで私を深い意識に送り届けているような感じでした。<br /> <br /> 今までの瞑想で「無」というと意識がなくなる感じでしたが、これはまた違った「無」とも言えるもので、ですが、意識は依然としてしっかりあって、それでいて意識が深いところに導かれてゆきました。<br /> <br /> それは「無」というと語弊があるかもしれません。それよりも、「漆黒」と呼んだ方が的確かもしれません。漆黒の雲あるいは漆黒の磁気嵐の中に意識が入り込んだ感じが致しました。<br /> <br /> その意識状態でいると、今までの瞑想とはまた違った、電気的に意識が常に刺激されている感じが致します。<br /> <br /> 特にそれでトランス状態になるとか彷彿状態になるとか変性意識になるとか、そういうことはないのですが、ただ単に、漆黒の中に意識が入り込む... というか、意識が漆黒の状態に導かれてゆくような感じが致しました。<br /> <br /> 雲は電気を帯びており、まるで雷雲のような感じも致します。<br /> <br /> 「無」と言えばナーダ音が聞こえ出す1週間前くらいにも無の中に入り込む経験をしましたけど、その時は意識が停止するいわゆる「ラヤ」状態だったように思います。<br /> <br /> 今回も似たような「無」ではあるのですが、質としてはおそらく同じ「無」であっても無に包まれた際にも意識が明確なままである、という点が違います。昔は無に包まれるとそのままラヤ状態になって意識がなくなっていましたが、今は起きています。<br /> <br /> 懐かしい「無」に再開した感じが致しますが、その時は本当に真っ黒で漆黒でしたが今回は電気を帯びていて微かに電気のほとばしりが雲の所々に見えるところが違います。<br /> <br /> 瞑想はどこまで行っても色々な変化が次々に現れてきますね。<br /> <br /> Sat, 18 Apr 2020 00:00:00 +0900 観察すると雑念が消失するチェルドル https://w-jp.net/2020/1902/ <br /> ゾクチェンに基けば、テクチュの境地において不二の境地であるサマーディの状態に止まり、ヴィパッサナー(観察)をすることにより雑念が消失すると言います。<br /> <br /> チェルドルとはサマーディにおいて現れてくる3つの能力のうちの最初のものであると言います。<br /> <br /> 最初の能力であるチェルドルにおいては、自己解脱の過程は、まだわずかな力しか持っていない。チェルドルは、「観察すると、それはみずからを解放する」ということを意味し、水滴が太陽の光を浴びて蒸発するのにたとえられている。「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」<br /> <br /> ゾクチェンのシネーの境地までは瞑想をした場合にここまでの力はまだなく、瞑想を長い期間繰り返すことで自らの想念を少しづつ浄化してゆきます。シネーの境地とは「集中(シャマタ)」の境地であり、雑念を押さえ込むことで安定に至る境地です。その後にテクチュの境地であるサマーディがあるわけですが、このチェルドルはサマーディの段階を示しています。<br /> <br /> ゾクチェンに基けば、サマーディの基本的な境地がこのチェルドルであると言います。<br /> <br /> ただ、個人的な感覚に基づきますと、サマーディの最初においてはこのチェルドルすらもかなり不安定だったように思います。というか、そこまで観察できていなかったのかもしれません。サマーディというかスローモーションのヴィパッサナーで観察をする際に、最初はとにかくサマーディ状態を維持するために努力が必要で、チェルドル的な感覚はあまりありませんでした。<br /> <br /> チェルドルのように「太陽の光を浴びて水滴が蒸発する」というよりは、最初に想念をちょっとした努力で断ち切ってからサマーディのヴィパッサナー状態に入るという感じでした。<br /> <br /> それが今は、ヴィパッサナーに入るための努力の必要度がかなり下がってきましたので、割と簡単にヴィパッサナーに入れるようになり、そのおかげで、ヴィパッサナーに入った時の「特別感」が抜けてきました。割と日常の感覚になりつつあります。<br /> <br /> おそらくは、子供の頃から最初からヴィパッサナー状態の人が一定数いて、その人はこれがヴィパッサナーだとはわからないのではないか? という気も致します。であれば、瞑想の上級者がサマタ瞑想(集中瞑想)を否定してヴィパッサナー(観察瞑想)のことだけを語るのも理解できなくもありませんが、やはり、一般人にとってみれば瞑想といえばサマタ瞑想(集中瞑想)から入ると思うのです。<br /> <br /> そうしてヴィパッサナー(観察)状態にいる時に、そのヴィパッサナー・サマーディ(不二の意識による観察)を維持する努力が減ってくると、その意識をより繊細な部分に向けることができるようになったような気が致します。<br /> <br /> その時に、このチェルドル的な感覚が見えてきたのです。<br /> <br /> 例えば、朝起きた時にオーラが不安定だったり、ちょっとした雑念、例えば過去の記憶だったり性的なイメージだとかが湧き上がってきた時に、このチェルドル的な能力によって観察をすると、まさに上記のごとく、水滴が太陽の光を浴びるかのように想念がバラバラに消失してゆくのがわかるのです。<br /> <br /> 水滴が太陽の光を浴びて蒸発するのは物質界ですとかなり時間がかかりますけど、これは比喩だと思いますし、私の場合、実際に想念がバラバラになるのは十数秒から数十秒かかります。早ければ5秒くらいですが、せいぜいそのくらいです。<br /> <br /> 関連: 想念が20秒かけて消えてゆくのを観察する<br /> <br /> Fri, 17 Apr 2020 00:00:00 +0900 銀河系の形のように部屋の隅々まで広がるオーム https://w-jp.net/2020/1901/ <br /> 銀河系の中心を自分として、銀河系の周囲に星々が広がるかのように自分の周囲にオームが広がってゆくのを感じます。<br /> <br /> 今まで・・・ というか、ふと気がついたのですが、昔は割と眉間への集中のためにオームやマントラを使っておりましたが、次第に集中が不要になってきました。以前にも似たようなことを書いたかと思いますが、最近はその度合いが増えました。<br /> <br /> 最近でもオーラが発散しがちな時は眉間への集中でオーラを凝縮させていたわけですが、今日のことで言いますと、集中しなくてもオーラが割と凝縮されて安定しています。であれば集中が不要であると言えます。<br /> <br /> その状態でオームを瞑想中に座禅を組んだまま心の中で唱えると、今までは眉間が反応していた、ということはあったのですが、周囲に広がる感じはあまりありませんでした。今朝は、自分が銀河の中心にいて部屋全体あるいはそれよりもちょっと広い範囲までオームが響き渡るのを感じました。それは静けさと共に広がるオームです。<br /> <br /> 瞑想中の状態の違いと言えば、目の筋肉の使い方が変わりました。<br /> <br /> 以前は集中する時はどうしても目の筋肉が入ってしまいましたが、今は、目を開けた状態から軽く目を閉じるだけになりました。<br /> <br /> 禅で半眼の瞑想をしたりするようですが、目を緊張させないという観点からは似ている気が致しました。ただ、半眼ですと周囲が見えてしまいますので、それよりは目を閉じた方が私はやりやすいです。半眼の時は強制的に目の緊張が解除されますが、目を閉じると緊張しがちという難点はありますけど、今は割と目に力を入れないようになってきています。<br /> <br /> もともとヨーガの瞑想の基本として、眉間に意識は集中するけれども筋肉の力は入れない、というのは言われています。そうではあるのですが、瞑想を続けるうちにどうしても力が入ってしまうのです。ですからそのような注意がされているわけですけれども、最近は集中がなくてもオーラが安定しておりますので眉間の緊張も取れてきた、ということだと思います。<br /> <br /> ヴィパッサナー状態になるためにはリラックスをして意識の緊張は解く必要があるわけですけれども、ヴィパッサナー状態を維持するためには緊張を解くための逆方向の力とでも言いましょうか、そのような維持する努力が今までは必要だったわけですが、最近は、維持する努力が次第に不要になってきた、ということも言えると思います。<br /> <br /> ふとしたことでヴィパッサナー状態になり、最初は努力が必要でしたが、努力が不要になる、ということかと思います。<br /> <br /> 勘違いして欲しくはないのですが、ヴィパッサナー状態それ自体は努力とは無関係に起こります。意識の深いところで観察が起こります。それはそれとして依然として観察が存在し続けるのですが、観察する認識を妨げる顕在意識を抑えるために顕在意識と同じレベルでの抑える努力が必要なのであって、ヴィパッサナーの観察する意識に対して努力をすることはできません。<br /> <br /> 顕在意識で見ていたものを、より潜在意識に近いところで見るのがヴィパッサナーであると言えます。そして、顕在意識を抑えた時にだけヴィパッサナー状態になる... と言いますか、ヴィパッサナーの観察は顕在意識とは無関係に常に現れ続けますが顕在意識が働いているとヴィパッサナーで識別するのを妨げますので顕在意識を押さえる必要がある、ということです。<br /> <br /> そして、今回の場合、その、潜在意識を抑える力が次第に不要になってきた、ということです。そのことにより、普段の生活でヴィパッサナー状態を維持することが以前より容易になってきたと言えます。不要になってきたと言っても力が抜けてきたということですので程度問題であってゼロにはなっておりませんのでヴィパッサナー状態を維持するためにはまだ弱い努力が必要で、まだ先があると言えます。<br /> <br /> Thu, 16 Apr 2020 00:00:00 +0900 瞑想中に聞こえてきた真言宗っぽいマントラ https://w-jp.net/2020/1895/ <br /> 古代のマントラを唱えていましたところ、それに被せるように違うマントラが頭に響き、それと同時に、そのマントラがもともと掲げてあった真言宗のお寺の映像記憶が蘇ってきました。<br /> <br /> マントラ<br /> 「オーム、アジカリムン(アジカリウム? アジカリアム? アヂマリカム?)」<br /> <br /> どこのお寺だったでしょう? 真言宗っぽいのですが、真言宗の神様のマントラ一覧には空らしきものは見当たりません。私が最近旅行した先で撮ったそれっぽい写真の記録をいくつか確認してみましたが載っていません。<br /> <br /> 古代のマントラを唱えていた時は頭上から下半身まで満遍なく反応していたのですが、こちらのマントラでは主に眉間が反応します。<br /> <br /> 今回は、あぐらで座ってプラナヤーマの呼吸法をしながらクンバカをして古代のマントラを心の中で唱えていたら上記のマントラが聞こえてきたのです。<br /> <br /> 一瞬聞こえただけですので、本当の発音をきちんと確認したいのですけど、これの出所がわからないので困ってしまいます。<br /> <br /> そういえば、足首を骨折して入院中に病院の椅子から窓の外を眺めている時にもマントラが聞こえてきました。<br /> om rama sri rajinisi namaha<br /> om sri bagabante namaha<br /> <br /> まあ、この後、退院した後にアナハタ優勢になったわけですので、今回もマントラが何かの鍵を握っているかもしれないですね。<br /> <br /> ・・・書籍にも載っている気がして、家にある蔵書を色々と調べてみました。すると、真言宗ではなく神道系の書籍に載っていました。<br /> <br /> 「アヂマリカム」「神道の神秘(山蔭 基央 著)」<br /> <br /> この本では祝詞「大神呪(だいじんじゅ)」の最後に載っており、「オーム」はついておりませんでした。私が聞こえたのはオーム付きです。<br /> <br /> この言葉の意味は載っていませんね。神道系の筈なのに私がヴィジョンで見たのは真言宗っぽいお寺でした。まあ、お寺も神社も昔はそんなに区別ありませんでしたので一緒といえば一緒かもしれませんけど。<br /> <br /> ですが、私が聞こえて眉間に反応があるのは最初の方で、本の通りに読んでも微妙な感じです。本のまま師匠なしに真似すると危ないかもしれないので微妙に発音を変えているのかもしれませんし、あるいは、人によって合う合わないがあるのかもしれませんが。<br /> <br /> Fri, 10 Apr 2020 00:00:00 +0900 エネルギーの柱が下方まで通じる https://w-jp.net/2020/1890/ <br /> 先日の続きです。<br /> <br /> そうして古代のマントラを唱えていると胸のあたりにまで感触が出てきたわけですが、そのまま続けていましたところ、お腹のマニプラのあたりも同様になってきました。そうするうちに会陰のムーラダーラまで伸びて行きました。頭から会陰まで、濃紺はありますがエネルギーの柱が繋がったような気が致します。<br /> <br /> いわゆるチャクラ、後頭部の松果体あるいは脳下垂体の近くや胸、お腹が特に濃い部分です。<br /> <br /> マントラの後半部分で頭から下半身まで繋がる感じでしたのでそこだけ繰り返し唱えたりしました。<br /> <br /> そうこうするうちにマントラの全体を唱えたりしましたところ、頭の上の方にまで少し感触が出てきました。<br /> <br /> このマントラが載っていた書物によりますと、マントラの前半部分は高次の意識を表していて、後半部分がそれよりは低次の意識に影響を与えると言います。少し前まで前半部分と後半部分の区別をあまりしていなかったのですが、ここ数日は後半だけ唱えてみたりしてその違いを感じ取りました。<br /> <br /> 同書では、音節数によって繋がるものが違うと言います。同マントラは現代では6音節と4音節ですが、古代の唱え方ではオームはAum(アウム)と二音節になり、前半部分は7音節、後半部分は6音節になると言います。<br /> <br /> そして、それこそが意識の変貌を司る鍵だと言うのです。<br /> <br /> ”蓮華の宝石”の目覚め、活発化は、一部の者によって次の様に考えられている。すなわち、第六感の目覚めは、マントラムの第二句(オーム・タット・サット・オーム)を正確に唱えることによって、その人の肉体および心に聖なるものの悟りと霊的知覚、霊的意義を受けさせてくれる。これが第三の目の一つの開眼であり、第三の目を開くと、その人の五官感覚のほかに霊的な感覚が加えられるのである。しかし、もし、第七感を目覚めさすと、つまり、蓮華の中の宝石を見出すと、感覚の世界を超えて上昇し、すべての存在の絶対的根源と一体となる。これが最も望ましいことなのである。「ヨガの真義(M.ドーリル著)」<br /> <br /> これは、最初に読んだときはそんなものかな、と思っていたのですが、ここ数日の感覚の変化を見ますと、なかなかこの記述は本物のような気がしてまいりました。<br /> <br /> Sun, 05 Apr 2020 00:00:00 +0900 古代のマントラによる瞑想で胸に変化 https://w-jp.net/2020/1889/ <br /> 古代のオームの唱え方でマントラを唱えていましたところ、胸のあたりに感触が出てきました。<br /> <br /> もともとクンダリーニがアナハタ優勢になって以降は胸のあたりにエネルギーは満ちていたのですが、今日は、その中心に核というか空間というか部屋というか、心臓の形をした空間がぽっかりと浮かんできた感じが致します。<br /> <br /> 特に胸のアナハタを意識していたわけではなくて、基本は眉間や後頭部の方の松果体の周辺を意識してマントラを唱えつつ瞑想していたわけですが、この古代の唱え方をする際はいつも頭の中の何かがバリバリと割れて破片に別れるような感じをしているわけですが、それが今日は胸のあたりで起こりました。<br /> <br /> マントラを唱える前は特にそこが強張っているだとかそういう感触はなくて、瞑想を始めるとまるで地震の時に地面が揺れるかのようにもともと止まっていたものが液状化現象のようにグラグラと動き出して割れ目が現れるのですが、今日は、それが胸のあたりで起きました。<br /> <br /> このマントラで以前はアジナ優勢に変化したわけですが、その後はそれほどこのマントラを重視していなくて頭頂のあたりが開いた際もこのマントラに頼りきっていたわけでもないのですが、どうやら、効果を見るとこのマントラの効果が地味に効いていたような感じも致します。<br /> <br /> 古代のチベットのマントラは前半と後半があって、どうやらアジナとかに効くのは前半部分のような感じが致します。後半部分はアナハタに効く感じですね。個人的な感触による主観ですけどね。<br /> <br /> その後、その感覚は変化して、割れ目というよりは流動的な塊が頭の中と胸の中にできた感じです。<br /> <br /> 更に様子を見てゆきます。<br /> <br /> Sat, 04 Apr 2020 00:00:00 +0900 サマーディの不二の意識とシッディの謎解き https://w-jp.net/2020/1882/ <br /> ヨーガでシッディと呼ばれるいわゆる超能力は悟りに至る副産物でありそれ自体を追い求めるものではないと良く言われます。ヨーガスートラでもそのようなシッディを求める態度を諫めております。<br /> <br /> 単語 シッディ は通常は力という意味だが、それは実際には進歩したヨーギの達成を意味 する。ヨガの力を習得することが目標ではないということを理解するのは生徒 にとって重要です。実際にそうではなく、そうすべきではありません。 それらは神に至るための努力の副産物です。 力だけを求めている人は自我に縛ら れ、最終的にこの浄化の欠如のために苦しんでいます。初心者の学生にとってはヨガの力を持つことはなかなか魅力がありますが、これは、力によって堕落 することがあるという理解に置き換えられます。最終的にそこで得られた力は、誠実なヨギにしてみたら単なる気晴らしや誘惑に過ぎないのです。「MEDITATION and Mantras(Swami Vishnu-Devananda著)」<br /> <br /> それはそうだなと思うのですが、実際、サマーディやヴィパッサナーとシッディとの関係が今ひとつ腑に落ちないでいました。<br /> <br /> 基本的にはサマーディから現れるとなっています。ゾクチェンによる理解でも同様になっていました。<br /> <br /> 今回は、そのゾクチェンの続きです。<br /> <br /> 前回では基本的な理解としてサマーディと二元論を超えてサマーディに至ることが確認できました。理論的にはそれでスッキリしました。<br /> <br /> 同書を更に読み込んでいくと、現在の自分の状態との対比がよく分かります。仏教でもヨーガでも悟りやサマーディが語られていますが、ゾクチェンほど悟りに至る境地を詳しく表現しているものを見たことがありません。<br /> <br /> ゾクチェンでは、基本的なサマーディ・ヴィパッサナー状態に達した後に何をすることで悟りに近づくのか明確に記してあります。<br /> <br /> 前回にも引用しましたが、まず、基本的な自分のサマーディ(三昧)の境地を日常生活のすべての行動に溶け合わせていくことが必要だと説明されています。<br /> <br /> 「セワ(sre-ba)」は、チベット語で「まぜる」ことを意味している。自分の三昧(サマーディ)の境地を日常生活のすべての行動に溶け合わせていくのである。「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」<br /> <br /> その後、前回に引用したようなチェルドル、シャルドル、ランドルと言う3つの能力が育ってくると言います。3つの能力を読むと色々と書いてありますけど、要はサマーディが深まってくる、と言うお話だと思います。<br /> <br /> そして、明確に以下のように記してあります。<br /> <br /> 二元論の幻影は終わり、主体と客体の再統合をつうじて、修行者には五つの神通(ンゴンシェ mngon-shes)、つまり五つの「高度の知覚」があらわれてくる。「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」<br /> <br /> ここで現れるシッディは仏教やヨーガとほぼ共通のもので、千里眼などの能力です。似たような説明はヨーガや仏教にもありましたが、ゾクチェンはことのほか分かり易いです。<br /> <br /> この経験が悟りに向かって深まっていくにしたがって、いくつかの能力があらわれてくる。だが、そういった能力がそもそも何なのかを理解するには、いかにして二元論の幻影が、諸感覚の主体ー客体の二極化によって維持されているのかを理解する必要がある。(中略)まず、視覚の場合を例にして考えてみよう。視覚は、視覚的な形態として知覚されるものと相互依存的に生じてくるし、また逆に、知覚される視覚的な形は、視覚能力と共に生じてくる。それと同じように聴覚と音はともに生じてくる。(中略)意識と存在は相互依存的に生じる。(中略)主体は潜在的に対象をふくみ、逆に対象は主体をふくみながら、二元論の幻影が自己を維持しているということ、そしてついには、意識をふくむあらゆる感覚が一体となって、知覚主体と切り離された外的世界の幻影をうみだしているようすが理解できる。「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」<br /> <br /> このお話、それ自体はヨーガや仏教でも語られています。しかし、シッディとは割と切り離された文脈で説明されているように思います。ゾクチェンではこの説明がシッディとサマーディのお話と有機的に繋がっているところが単なる理屈だけでなく実践者が多くいて生きている流派であることを感じさせるのです。<br /> <br /> まずサマーディ(ヴィパッサナー)の基本的な状態で二元論の克服の入り口に至り、次に日常生活とサマーディを統合することで「観察(ヴィパッサナー)、サマーディの別の面」に至り、観察(ヴィパッサナー)・サマーディによって「解放する(二元論の克服)」(チェルドル、シャルドル、ランドルの3つの能力)ことを深め、二元論の幻想が解かれる過程でシッディが現れ、そして悟りに至るわけです。<br /> <br /> ヨーガでは二元論の幻影の克服のお話が割と早い段階で論されますし割と有名なお話のようにも思いますが、それは本来はサマーディ後のお話であるわけです。<br /> <br /> この順番であるならばサマーディや二元論の克服なしにシッディだけ求めても無駄な努力に終わることが明らかです。可能であるとすればそれは修行ではなく魔術や秘術の類ですから私はあまり興味がありません。一方で、せっかく二元論を克服しかけたのにシッディに囚われると悟りへの道を踏み外すと言うのも良く分かります。<br /> <br /> ヨーガスートラなどではすごく簡単に、サマーディを達成すればシッディが得られる、としか書いておらず、仏教でも似たようなものだったのでなかなかに謎めいていたのですが、ゾクチェンはしっかりと書いてくれています。<br /> <br /> であれば、私は日常生活におけるヴィパッサナー(サマーディ)をこのまま続ければ良いことが分かります。<br /> <br /> Sat, 28 Mar 2020 00:00:00 +0900 オーラの塊を使って体の各所にエネルギーを通す https://w-jp.net/2020/1879/ <br /> 最近は瞑想でオーラを凝縮させているわけですけれども、その凝縮したオーラの使い方として、最初は頭の後ろから頭頂にかけてのエネルギーのルートや体の前面を通るルートを開拓しておりました。<br /> <br /> その後、色々と試してみて、例えばお腹にまで下ろしたエネルギーを使って足の方まで通してみたところ、足の感覚が高まりました。あるいは、頭のエネルギーを肩の方に動かして手先まで往復させたりすると、手の感覚が敏感になったりしました。<br /> <br /> これは、以前からヨーガ等で手先や足先の感覚を高める方法として似たようなものはありましたが、それはただ単に意識を通すというもので、今回の場合はあらかじめ頭で凝縮したオーラを体の各所に移動させてエネルギーのルート、いわゆるナディを開拓するという点が異なります。<br /> <br /> 最近はヴィパッサナー状態で視界や体の感覚を観察したりしているわけですけれども、それも、今回のようにエネルギーをあらかじめ通してあげるとよく観察できるようになる気が致します。<br /> <br /> 観察の粒度も細かくなったような気も致します。<br /> <br /> 例えば、食事をする時に箸の動きが細かく把握できるようになったりしました。<br /> <br /> そうして瞑想をここ何日か続けておりましたところ、手足だけでなく、背骨の、いわゆるスシュムナのルートにも凝縮したエネルギーを通してみました。<br /> <br /> すると、どうしたことでしょう。背中の、ちょうど心臓の後ろくらいのところにエネルギーを通そうとしたら激しい抵抗があって、一気にトラウマが吹き出してきたのです。子供の頃からあったトラウマも含めて出てきましたので急に目を開けて立ち上がってしまったくらいのトラウマが出てきました。<br /> <br /> こんなところに眠っていたのですね。<br /> <br /> 確かここは、中学校時代に金網を通り抜けようとしたら背骨をひっかけてしまって背骨を傷つけた箇所だったと思います。そうした損傷と、おそらくはエネルギー的な淀みができてしまっていて過去のトラウマがそこに溜まりやすくなっていたのだと思います。<br /> <br /> そういえば、以前は肩や胸の横にトラウマが眠っていたことに気づいたこともありますが、この背骨の部分に眠っていたトラウマはそれなりに巨大でした。とは言いましても過去に退治してきたものと比べるとそれほどでもないのですが、久々に中くらいのものを発見した感じです。<br /> <br /> それがあったのは1日だけで、次の日にエネルギーを通しましたら多少のしこりがあるくらいでエネルギーは通りました。<br /> <br /> おそらくはスシュムナ、あるいはその周囲を通ってエネルギーがお腹から頭頂まで達し、頭頂のエネルギーの状態がまた少し変わった気が致します。<br /> <br /> 頭で凝縮したエネルギーは一度凝縮してしまえばある程度の凝縮をその後も保つようで、このようなことにも使えることがわかりました。<br /> <br /> それとは別に、<br /> 今までは両肩に刺さっていた見えないものを引き抜くとかエネルギーを吸い取る意識体とか取り憑いてきた意識体とかに対して引き抜くような対処をしていたわけですけれども、この凝縮したエネルギーがあれば体の中から意識体を外に押し出すこともできそうな感じです。内側から防御膜を作るような感じでしょうか。これはまだ様子見段階ではありますが、使えそうな気がしております。<br /> <br /> Wed, 25 Mar 2020 00:00:00 +0900 頭から体の前を通ってお腹までエネルギーのルートが通る https://w-jp.net/2020/1871/ <br /> 最近の瞑想は集中というより凝縮という化学反応になってきています<br /> <br /> かなり以前は瞑想をする際に、例えば眉間であるとかお腹であるとか胸などに集中をした場合、心の動きを押さえつける役割としての集中でした。<br /> <br /> 最近の、特にテクチュの境地になってからの集中は、意識は集中するのですが、それよりも「集める」という方が正しいものになってきています。<br /> <br /> ただ、特別に「集めよう」と意識しているわけではありません。<br /> <br /> 意識を、例えば眉間に集中して・・・ と言いますか、単に意識を眉間に「置く」というくらいの感覚ですが、そのように意識を眉間に置いた場合、瞑想を始めるとすぐに周囲のオーラが規則性を持って安定し始めます。・・・そんな気がしてきます。<br /> <br /> そうして30分とかもう少しか瞑想を続けていますと、意識はそのままなのですが、急激にオーラが眉間のあたりに凝縮されてくるのを感じます。特別にそのように動くように意識したわけでもありませんが、意識を眉間に置いておく状態、いわゆる集中という状態を続けますと、そのように、意識というかオーラのようなものが眉間および体の内側に沿った形で、特に眉間や胸のあたりに凝縮されることがわかるのです。分かる、と言っても良いですし、感じる、と表現しても同じことです。感じて、分かるのです。<br /> <br /> 例えるならば、流しやプールに入った水と排水溝があった時、排水溝から少しだけ水を下に流すと、排水溝のあるところを中心にして水が渦巻きのように回転し始めます。遠くに葉っぱを浮かべてもゆっくりゆっくりとしか動きません。葉っぱが排水溝に近づくと急に動きが早くなって排水溝に勢いよく流れ込んでいきます。それと同じで、瞑想を初めて30分くらいはゆっくりとしか動かないのですが、最後は急激に凝縮するのです。<br /> <br /> そのようにして最近は瞑想を続けていたわけですが、その凝縮した感覚で瞑想を続けていますと、やがて、そのエネルギーが飽和して近くに流れ始めました。<br /> <br /> 最初は、眉間から下方向に流れて喉に入り、胸の前を通ってお腹のあたりまで届きました。そして、ムーラダーラのある会陰のあたりも脈打って反応してエネルギーが通じているのを感じたのです。<br /> <br /> かなり以前にクンダリーニのエネルギーが解放されてマニプラやアナハタのエネルギーがそれぞれ優勢になった段階においては、特別に前とか後ろとかそのようなことを意識はしておりませんでした。その際は、体の内部がエネルギーに満ちた感じをしており、今もそれは変わらないのですが、今回は、その体の内部に満ちたエネルギーとは独立して体の前面にエネルギーのルートが通ったような気が致します。<br /> <br /> まず最初にそうして眉間のアジナから喉のヴィシュッダ、そして胸のアナハタの前面、そしてマニプラ。マニプラは前面と言うより内部な感じでした。そして会陰のムーラダーラもいつも通りの内部な感じでした。<br /> <br /> ですから、今回新たにエネルギーが通ったルートは眉間のアジナからマニプラまでの前面ルートだったと解釈して良いと思います。アジナからアナハタまでは前面、アナハタからマニプラにかけては上半分が前面で下半分が斜めに横切って内部のマニプラに接続されているような感じでした。<br /> <br /> そして、それだけでなく、アジナから後頭部にかけて真っ直ぐ伸びるルートおよび後頭部から頭頂に向かってのルートも更に活性化してきたように思います。少し前に頭の頭頂が割れたような感じになったところからエネルギーの交換がされているような感じです。頭頂だからといってそれがサハスララとは限りませんが、まあ、頭頂の感覚があります。<br /> <br /> これで、基本的な部分に関しては頭頂から前面を通って下半身までルートが通ったように思います。<br /> <br /> 今は体の中はポカポカしていますし、今回のことで前面にもエネルギーが通り始めましたが、背後に関してはそれほど明確なエネルギー・ルートがありません。背後についてはまだまだ様子見と言ったところです。<br /> <br /> それでも、とりあえず小周天あるいは大周天っぽい真似事でぐるりとエネルギーを回転させてみましたらそれなりに通りました。眉間から体の前面を通って下半身にたどり着いた後、背後というよりは体の中の背骨のあたり半径10cm前後の大きさでぐるりと頭までエネルギーが通りました。エネルギーが通る時、特に胸のあたりで骨をボキボキ鳴らすのと同じような感覚で何かがちょっと動いたような感じがしました。物理的には動いていない筈ですけどね。これが小周天なのか大周天なのかよくわかりませんが、小周天っていうともっとちょろっとしたエネルギーのような気もしますし、かといって大周天は定義が色々でイマイチ判断がつきにくいですが、大周天ぽい感じだった、とでもしておきます。<br /> <br /> Tue, 17 Mar 2020 00:00:00 +0900 意識の集中を解いても発散しない意識 https://w-jp.net/2020/1865/ <br /> 瞑想中、最初は頭の中に集中しました。<br /> <br /> それは頭の中にオーラの塊を集めて凝縮あるいは固定させて発散させないように注意している状態ですが、ふと、その集中を解いても平気な気がしました。<br /> <br /> その直感に従って集中を少しづつ解いてみました。<br /> <br /> すると、実際に頭の中にオーラがほぼその形を保ったまま維持されていたのです。確かに周囲の形は少し崩れた感じですが、基本的な形は保持しています。<br /> <br /> ヴィパッサナー状態になってからは意識的に体の緊張を解除してきたわけですけれども、それはあくまでも体の緊張であって、精神的な緊張を解いているわけではありませんでした。<br /> <br /> 体の緊張は精神的な緊張と繋がっていますので体の緊張を解けば精神的なストレスや緊張も解除されますが、今回のように精神的な緊張あるいは意識的な集中を意図的に解除できたのは初めてでした。<br /> <br /> おそらくは体の緊張も精神的な緊張も似たようなものではありますが、その微細さとやりやすさが違うのです。<br /> <br /> オーラの塊を集めるのはそれは緊張というよりも発散させないようにして周囲との無意識的な接触を防ぐという意味もありますし、微細な感覚を出しやすくするという意味もあると思います。各種の意図があって、そのために集中ということをしていたわけですが、その集中はそれ自体が目的ではなくてオーラを集めることが目的だったのかなと思います。<br /> <br /> 今までは集中それ自体が何か意味があるような気がしておりましたが、目的はオーラを凝縮させることであって、集中とはその手段に過ぎないのだとすれば、オーラが十分に凝縮して発散しにくくくなったらその集中を解いてあげても良いのかなと思います。<br /> <br /> おそらくは定期的に集中してオーラを凝縮させてあげる必要があるのですが常に集中している必要はなく、意図的に集中したり解除したりしてあげる必要があるのかなと思います。<br /> <br /> そのやり方が、肉体の緊張を解くやり方と割と似ていると思うのです。<br /> <br /> ヴィパッサナー状態になってまず最初は肉体の緊張を解いて行ったわけですけれども、その同じやり方がオーラの凝縮の際の集中と集中解除とに応用できたわけで、その両者が方法において繋がっていたわけです。<br /> <br /> 剣術の奥義書に「緊張を解く」「リラックスする」とか書いてあると言いますけど、私は剣術はできませんし奥義書も読んだことありませんので単なる想像になってしまいますけど、それはひょっとしたらこういうことを意味しているのかもしれない、とちょっと思いました。ここは仮説ですけど、それっぽい気もします。<br /> <br /> 緊張を解くとかリラックスには二段階あって、肉体の緊張を解くというお話と、今回のように精神的な緊張を解くというお話があるのだと思います。<br /> <br /> そして、精神的な緊張を解くというお話はオーラの凝縮および意識の改革に更に繋がっていくと思うのですが、この最後のあたりはまだこれから検証していくところで、まだまだ様子見といったところです。<br /> <br /> Wed, 11 Mar 2020 00:00:00 +0900 別々ということが分からなくなることが同一の意識 https://w-jp.net/2020/1864/ <br /> スピリチュアルやヨーガでは「他者や周囲の物と同一だと感じられる意識の状態になります」と言われたりします。<br /> <br /> ヨーガではこの状態のことをサマーディと呼び、スピリチュアルではトランス状態だとか天使と繋がっている状態だとかハイヤーセルフと繋がっている状態だとかキリスト意識だとか様々に表現されていますが、きっとそれらは同じ状態を様々に表現しているのだと思われるのです。<br /> <br /> ただ、表現の違いと言えばそうなのかもしれませんが、私の最近のスローモーションのヴィパッサナー状態やサマーディの状態を率直に言い表しますと「同一である」という意識状態ではありません。かと言って「別々だ」という意識状態でもありません。言い表すならば、「同じかどうか分からない。別々かどうかもわからない」という意識状態になっています。これをきっと便宜上「いわゆる同一の意識」としているのかなと思います。<br /> <br /> 最初は「別々」という意識状態なわけですが、そのうち「いわゆる同一」という意識状態に達します。ただ、それはもともと「別々」だったので「同一」と一応解釈しているだけで、実際はきっと「同一かどうかすらわからない。別々かどうかもわからない」状態であって、それを便宜上「同一」と表現しているに過ぎないと思うのです。<br /> <br /> 実際にはそれとは別に「同一な気がする」という前段階があって、そこでワンステップ踏んでから「同一(同一か別々かわからない)」の状態に進むわけですが、その前段階はとりあえず置いておいて、ここでは本来の意味における「同一」が実際は「同一か別々かわからない意識」のことなのだと解釈しています。<br /> <br /> 1.別々<br /> 2.同一な気がする(サマーディの前段階)<br /> 3.いわゆる同一、サマーディ。同一かどうかすらわからない。別々かどうかもわからない。<br /> <br /> 自分の実際の意識を観察すると、まず、分離の意識では「別々」は明確にわかります。・・・たぶんわかった筈です。最近はあまり分離の意識にならないので昔の記憶に基づいたことですけど、たぶん、明確に別々だったような気が致します。<br /> <br /> 次に「同一」というものですけど、既に繋がってしまっているのでどこに切れ目があるのかがわかりません。意識がそこにまで通ってしまっているから同一な気もしますが、同一かと聞かれたらそうかもしれない、というくらいにしか答えられません。自分の体のどこが同一なのかも良くわからないのと同様に、サマーディの状態で周囲のものや人を観察した時に同一か別々なのか良くわからない状態になるのであって、周囲のこれとこれが同一だ、みたいな明確な意識を持てるわけではないと思います。明確な意識というのは分離の意識ですのでそれは「同一」の意識ではないと思います。<br /> <br /> 意識の状態はクリアですけど、分離しているかどうかという点に関しては非常にわかりにくいと言いますか、その、「良くわからない」という状態そのものが古来から「同一の意識」と呼ばれてきたのかな、と解釈しています。<br /> <br /> 意識で説明しますとわかりにくいかもしれませんので肉体を例にして説明しますと、例えば自分の体を見てみた時に、肉体の一部が他の一部と同一かどうかを判断することなんて出来ないと思います。どちらもいわゆる「(肉体の)自分」と言われていますが、例えば、右腕と左腕がどちらも「じぶん」であることをどうやったら知ることができるのでしょうか。それは難しい・・・ と言いますか、「良くわからない」「なんとなく同一な気がする」というくらいの認識になるのではないでしょうか。肉体と外を分けて、右腕と左手も両方とも内側だから両方とも自分だ、という理屈は成り立ちますが、ここで言いたいのはそういうことではありません。ここで言いたいのは、サマーディの状態で自分と周囲が同一になることと、自分の体の一部と一部が同一であることは似たような認識になる、ということです。<br /> <br /> 理屈を抜きにして認識だけを使った場合、自分の体の一部と他の一部が同一であるかどうかは明確に同一であるかどうかは「認識」出来ず、「認識」できるのは「同じかどうかわからない。別々かどうかわからない」という認識になって、それを便宜上「同一」と呼んでいるに過ぎないと思うわけです。<br /> <br /> サマーディも、似たようなものです。周囲と明確に「同一」という意識になるのではなく、「同じかどうか分からない。別々かどうかもわからない」という意識になったらそれはサマーディだと思います。言い換えれば、「じぶん」という意識が良くわからなくなったらサマーディと言っても良いかもしれません。<br /> <br /> Tue, 10 Mar 2020 00:00:00 +0900 せきを切ったかのように喉に流れ込む頭のエネルギー <ルドラ・グランティ> https://w-jp.net/2020/1856/ <br /> 本日の瞑想中、急に喉に上から下へと流れてくる強いエネルギーを感じ、一体何事かと思いました。観察してみると、エネルギーが頭の上の方から喉を通じて胸の方に流れ込んできて、お腹や下半身の方までじんわりと浸透して行っているではありませんか。その中でも、最も喉に強い感覚がありました。<br /> <br /> 今までエネルギーが下から上に移動するようなことがあっても、上のエネルギーが下に浸透するなんてことは初めてでびっくりしました。以前に何度か体験したような強烈なクンダリーニ経験とはまた違い、確かなエネルギーの流れではあるのですがじんわりとしたゆっくりとしたエネルギーの流れです。<br /> <br /> 最初は喉のヴィシュッダチャクラに何かが起こったのかと思ったのですが、どうやらそうではなさそうです。観察してみると、頭の上半分の中の方が、何かが崩れたような、崩壊したようになっていました。まるで、そこにあった岩が幾つかに割れて崩壊したかのようです。その頭の上半分の崩壊と共に、崩壊した割れ目からエネルギーが頭の上から下へと滲み出ているように感じられました。そうして、喉から体の方までエネルギーが降り始めたのでしょう。完全にエネルギーが通るようになったわけではなさそうですが、今までそこにほとんど通っていなかったエネルギーが通り始めたように思います。<br /> <br /> これが頭頂より上の方から来ているエネルギーかどうかは分かりません。頭頂の髪の毛がザワザワとした感覚はありますが、頭頂より上には感覚がありませんのでそこから来ているエネルギーなのかもしれませんが、感覚的には、エネルギーは頭の上半分、眉間あたりに忽然と現れてそこから下へと流入しているように感じられます。<br /> <br /> 今日の瞑想では目を瞑ったまま意識を集中(サマタ)して思考を止めつつ、周囲の観察をしてヴィパッサナー状態を断続的に保っていました。<br /> <br /> 最近はだるまさんのようなオーラの状態で、眉間など頭の上だけ感覚がなくて、両手で頭の上を支えているようなオーラの感覚がしていました。<br /> <br /> それはまるで、中東やアフリカのテレビ番組で見るような、頭の上に水をくむ「かめ」を持った人が両手を頭にあげている姿のようで、瞑想中は両手は膝にのせるか前で組むかしてあぐらをかいているのですが、肉体の手はそのようにしていても、オーラの手で頭の上に手のひら2つを水を組むかあるいは「かめ」を両手で支えるような形にして頭を支えているような感覚がしておりました。<br /> <br /> 感覚としてはそんな不思議な感じでしたが、ポイントは、頭の上に感覚がない、と言う点と、オーラで頭の上を支えようとしている点です。<br /> <br /> ここ数日は食生活と意識および仕事などから来るエネルギー的な若干の詰まりと意識の不調が少しあり、そのエネルギー的な解消もしたいと思って瞑想しておりましたが、具体的にそのための瞑想をしたわけではなく、普通の瞑想をしておけば問題ないと言う判断でした。<br /> <br /> 今回の現象はもっと根本的なところでエネルギー的な変化が起きたような気が致します。<br /> <br /> もしかしたらこれがヨーガで言うところの「ルドラ・グランティ」なのかもしれません。グランティとは体に3つあるエネルギーのブロック・結節で、ルドラ・グランティは頭のアジナ・チャクラの中にあります。今回は一気にそれが解放されたと言うことではなさそうですが、少なくとも、ブロックが解除され始める兆しを感じ取った感じです。じわりじわりとエネルギーが通ってきているのを感じます。<br /> <br /> これがルドラ・グランティなのだとすればアジナ・チャクラが活性化される前兆なのかもしれません。まあ、まだ喜ぶのには早いですが。<br /> <br /> ひとまずの変化としては意識がよりクリアになって最近のエネルギー的な不調がかなり解消されたと言うことと、ヴィパッサナーのスローモーションの識別力が瞑想前に比べると若干高まったことくらいです。<br /> <br /> ですので、今回の出来事が直接的にそのまま大きな変化を意味しているわけでもなさそうですが、前兆としてはなかなかに大きなもののような気が致します。<br /> <br /> このあたり、表現で誤解があるかもしれません。この変化が起こる前は十分に元気だと思っていたのですが、変化してみると意外に違う、という感じです。<br /> <br /> その数日後に行った瞑想では、空気の圧力のようなものが後頭部のあたりから数分かけて徐々に眉間にまで移動し、眉間に圧力のようなものが集まりました。特に力を入れているわけではありませんが、その圧力のところを意識していたのは確かです。圧力がどこに移動するのか観察していただけで自動的に眉間にまで移動しました。<br /> <br /> この動きは、遥か前に「小周天」というものを試していた時に背筋に沿って圧力が移動したのと似ていますし、他の日に瞑想していた時にマニプラあたりからアナハタあるいはヴィシュッダのあたりまで圧力が移動した時の感覚に似ています。<br /> <br /> その時の感覚と照らし合わせると、おそらくはまだ開通していないエネルギーのルート、ヨーガ的に言えばナディの開通が徐々になされてきていると解釈できます。<br /> <br /> 以前は背筋の皮膚の表面だったりもうちょっと体の中の背骨のあたりがその対象だったわけで、その後しばらくしてクンダリーニが動き出したりしたわけですけれども、おそらくは今回も同様で、後頭部から眉間にかけてのルートがまだ開いていなくて少しづつ開通し始めているのだと解釈できます。<br /> <br /> 眉間にまで移動した後は圧力がその眉間に集まり、その幾分かは分散して喉の方にまで降りていっているような感じです。ですから、最初の時にせきを切ったかのように喉にエネルギーが流れ込んだのはこのルートだったのかなと思います。クンダリーニは下から上に上がるということになっておりますが、今回のエネルギーは逆で、上から下に向かうエネルギーです。クンダリーニの上昇エネルギーは常にありますので、質の違うエネルギーが上から下、下から上とそれぞれあって、各所で混ざり合う感じです。波が上から下に伝わる感じがしています。<br /> <br /> ヨーガの概要ではクンダリーニは真っ直ぐ頭上まで上がるということになっておりますが、ヨーガの流派たとえばクリヤヨーガあるいはスピリチュアルの流派によっては眉間から後頭部は主要なエネルギールート(ナディ)があることになっております。例えば「フラワー・オブ・ライフ 第2巻(ドランヴァロ・メルキゼデク著)」によると眉間のあたりはこのようになっています。<br /> <br /> 同書では「半歩」として壁が描かれておりますがヨーガ的には「グランティ」と呼ばれる主要なエネルギーのブロックでここはルドラ・グランティに相当します。<br /> <br /> 今回の頭の中での「岩の崩壊」がルドラ・グランティの解放だとしたら、ようやく私の中でこの部分のナディ(エネルギー・ルート)が開通し出したということだと解釈できます。<br /> <br /> これにより、眉間の集中が新たな感覚に変わりました。眉間にその「圧力」のようなものが集まり、今までのように「眉間の周囲で支えているが眉間そのものはさほど感覚がなく、時々ざわつく程度」のような感覚から、「眉間そのものが圧力のようなものを保持する」感覚に変わりました。<br /> <br /> 圧力が定期的に後頭部から時間をかけて眉間にまで移動し、眉間に圧力が溜まってゆく感じです。<br /> <br /> 以前のと比較してみますと、おそらくは「圧力」と感じている間はまだ十分に開いていない初期の状態かと思われます。十分に開いたら圧力と言うよりはそのあたりが常にエネルギーに満ちた感じになるのかなと。<br /> <br /> 今後、これを更に観察していきたいと思います。<br /> <br /> <br /> <br /> Tue, 03 Mar 2020 00:00:00 +0900 だるまさんのような丸いオーラの体になって眉間の周囲にオーラが集まる https://w-jp.net/2020/1846/ <br /> 感覚的なものですが、瞑想が安定するにつれて首から下の下半身がだるまさん、あるいはドラえもんの体のように丸くなった感じがしております。<br /> <br /> その上に、ドラえもんの頭のようにちょこんと丸い頭が乗っかっています。<br /> <br /> かなり昔はオーラを頭に集めたままにしていると不安定になって情緒不安定になったりしたものでした。ですから、以前は瞑想中に頭にオーラを集中させても瞑想を終える前にオーラを胸かお腹の辺りまで下ろすことが肝心でした。<br /> <br /> しかし、今はオーラを頭に集めても安定していますし、そのまま瞑想を終えても特に問題ありません。<br /> <br /> 今から思えば昔はオーラが縦長だったかもしれません。体のオーラが安定していなくて、体に沿った縦長のオーラの上にある頭にオーラを集めようとしてもなかなか集まらなかったり安定しなかったように思います。<br /> <br /> しかし、今は体の部分がどっしりと安定しておりますので、頭にオーラを集めてもそのままで安定しています。<br /> <br /> 頭の、眉間の辺りにオーラが集中している... と言いますか、勝手にそうなる感じです。<br /> <br /> 昔は意識してオーラを頭に集める必要がありました。<br /> <br /> 今は、眉間のあたりにオーラが勝手に集まる、という感じです。<br /> <br /> これを集中と言うのかどうかは微妙なところで、オーラが集まっているという結果からすればそうですけれども意思として特に集中しようと意図したわけではありません。<br /> <br /> 下半身のオーラがだるまさんのように丸く安定した結果、勝手にオーラが眉間のあたりに集まるようになった、というお話です。<br /> <br /> もしかしたら、そもそもの瞑想の意義とはこういうものなのかもしれませんね。<br /> <br /> 意図的に集めようとしているうちはまだまだで、オーラが勝手に集まるような状態を目指してその練習をしているのが瞑想である、とも言えるのかもしれません。<br /> <br /> これは、呼吸法にも言えますね。最終的な目標の状態をマスターが弟子に教えて弟子はマスターの真似をする。しかし、マスターは努力をそもそもしておらず、単に自分の状態を伝えただけなのでしょう。であれば、瞑想にしても努力するものではなくてマスターの状態が眉間に集中... と言いますか眉間にオーラが集まっている状態なのだ、という解釈もできます。<br /> <br /> そんな気がしてきました。<br /> <br /> 表現の違いといえばそうかもしれませんけど、以前および今日くらいまではこれらの状態を「オーラを集める」だとか「オーラが眉間に集まる」とか「眉間に集中する」とか表現していたわけですけれども、瞑想でこれらの状態を観察していましたところ、どうやらオーラを集めるというのは一応は正しいものの、手のひらでオーラを持って頭の上に集めようとしているようなイメージ、あるいは、頭の上半分が空洞で、そこの周囲にオーラを集めている、という表現の方が正しい気がしてきました。<br /> <br /> 昔、マニプラ優勢の頃にアナハタの感触がなくてアナハタにエネルギーがあまり通っていなかった時の感覚に似ています。今は頭の上半分のアジナに感触がありませんのでアジナにエネルギーがあまり通っておらず、アジナにエネルギーを集めようとしている状態なのだと思います。アナハタ優勢になる以前の経過を踏まえて、アジナも同じような経過を辿るのだと仮定すればおそらくは今はアジナにエネルギーをようやく通そうとしている状態なのかなと思います。<br /> <br /> チャクラって「開く」って表現されますけど、開くというのも間違いではないにせよ、エネルギーがそこに通る、という感じだと思いますので、アジナにエネルギーが通っていない現在の状態においてようやくその「境目」が認識されるようになったのであれば、それはマニプラ優勢の頃にアナハタに対して境目とアナハタの感触のなさを感じていてその後アナハタにエネルギーが通り始めたのと同様、アジナより下にエネルギーが満ち始めてオーラの体がだるまさんのようになってアジナに対して境目とアジナの感触のなさを感じているのは、割と良い傾向なのではないかなと思っております。<br /> <br /> Mon, 24 Feb 2020 00:00:00 +0900 日常が映画になるヴィパッサナー瞑想 https://w-jp.net/2020/1845/ <br /> 最近はヴィパッサナー状態でスローモーションのように視界を観察しているわけですが、その状態のオンオフや深度に変化がつくにつれ、日常生活が次第に映画のように緩急のあるものになってきました。<br /> <br /> なんてことはない景色が映画やドラマの一場面のように感じられることが多くなってきています。<br /> <br /> 例えば渋谷の人混みで、遠くに視点を合わせます。<br /> <br /> ヴィパッサナー状態では全体がスローモーションで感じられますが、そこはあえて緩急をつけて、目のフォーカスを遠くに合わせてみます。すると、手前がぼやけて見えます。<br /> <br /> 以前ですと非ヴィパッサナー状態ですから遠くを見た時は遠くしか意識に入りませんでした。<br /> <br /> 調子にもよりますが今は視界の全体が割と広めに見えますので、遠くに視点が合っていても近くがぼやけて人の動きが感じられます。<br /> <br /> それが、まるで映画やドラマで遠くに焦点が合っていて手前がぼやけている場面のように感じられるわけです。<br /> <br /> これは、現実世界でドラマや映画を見ているかのようです!<br /> <br /> 視点を例えば近くに向けると、遠くの景色は焦点が外れてぼやけて見えますから、まるでボートレートの写真を見ているかのようです。<br /> <br /> 風景画のようにパンフォーカス(全焦点状態)で見ると手前も奥も平べったく見えますから、それはそれで楽しいものです。<br /> <br /> そうすると、視界全てが美しい場所、というのがいいな、と思うようになりました。<br /> <br /> 映画やドラマだって美しい景色が良いでしょう? それと同じです。<br /> <br /> ヴィパッサナー状態になるにつれて、自宅の部屋もちょっと気になり始めました。<br /> <br /> もともと美術館や博物館にはちょくちょく出かける方ですが、ヴィパッサナー状態になって視点が変わりましたので今まで見たことのある作品も一旦はリセットして気持ちを新たにしてもっと美というものに焦点を当て直してみるのもいいかなあ、と思い始めています。<br /> <br /> Sun, 23 Feb 2020 00:00:00 +0900 心が水面のように穏やかになるのは比喩ではない https://w-jp.net/2020/1844/ <br /> 瞑想を始めたばかりの頃は瞑想の例えで水面のお話を聞いても「そんなものかな」という感じでした。理解はできても一体どうすればそのようになるのか、実態が伴いませんでした。<br /> <br /> 水面のお話とは心の例えで、心が穏やかになることは湖の水面の波立ちが静まるようなものであり、水面の波立ちが静まると水面下にあるものが見えるかの如く心の奥に眠っている本当の自分、真我(アートマン)が見えてくる、あるいは、現れてくる、というお話です。これは水面だけでなく鏡で例えられたりします。<br /> <br /> まあ、このお話は有名でスピリチュアルや色々な人がよく言うわけですけれども、その大元は確か古典ヨーガスートラの記述だったかと思います。<br /> <br /> その比喩ですが、最近は単なる比喩よりも実感のあるものになってきました。<br /> 昔ながらの比喩であることに変わりはないのですが、最近はそれが単なる比喩ではない、実感のあるものに変わってきたのです。<br /> <br /> 昔は「比喩ですね。ふんふん。理解できます。そうですよね。その通りだと思います」という感じでしたが、今は、心の状態の「これがそのことだ」と実感が伴っています。<br /> <br /> 今の私の心の状態は、「水垢のついている鏡」「少し曇っている鏡」「汚れがついている鏡」「そよ風で少し波のある水面」と言う感じです。自分の心の表面についている曇りの状況がよく分かります。<br /> <br /> なるほど。この実感を味わってみると、ここに来てもまだまだ先があると言うことだと思います。<br /> <br /> ヨガや瞑想を始める前の心の波を100とすれば、ゾクチェンで言うところのシネーの境地で心が統一された時の心の波が10であり、最近になってスローモーションのヴィパッサナー状態になると心の波が1〜2程度だと思いますが、それでもまだ先があると言うことだと思います。<br /> <br /> 心の波が1だと動画でいうところの24fpsくらいの滑らかさで視界が認識され、1.5〜2くらいだと8~12fpsくらいの少しカクカクで認識される、という肌感覚です。<br /> <br /> 心の波、あるいは心の曇りの度合いによってヴィパッサナーの深度が変化するとすれば、心の波が更に静まれば心的な変化が更に起こる可能性があるのだと予想できます。<br /> <br /> 昔は、心の波としての水面が穏やかになるというのは魔術や瞑想などの秘術で心を押さえるもののようなイメージが最初にあって、心とはこんなものだ、という既成概念がありましたが、心の状態そのものがこれだけ変化してきている今とあっては、もっと心の変化があっても不思議ではないと思っています。<br /> <br /> であれば、水面や鏡の比喩も、心の姿にもっと先があるのだとすれば単なる1つの面としての比喩としてではなく、比喩としてのイメージとして表されて理解されたかつてのイメージの一面としての理解上の心の姿以上のものが実際の心の姿として存在しているわけです。<br /> <br /> 比喩として表現されるのは理解の一面にしか過ぎず、実際の心の姿は変化し、それ故にかつての理解を超えたものに心は変化し、再度心が理解されてもかつての理解とは異なり、かつて表現して理解された比喩としての心の姿も、心のありようが深化して変化すれば比喩としての心のありようもまた変化する。<br /> <br /> よって、心を例える水面や鏡の例えそれ自体は比喩ではありますが実際の心の姿は実質的なことでありますので比喩を超えたものであると思うわけです。<br /> <br /> これが、心で捉えることのできない観念的な事柄であれば比喩として説明して終わりなのでしょうが、瞑想で心を捉えることができて、それが深化するからこそ心は比喩を超えたものであると思うわけです。<br /> <br /> それは、もはや心やマインドと呼ぶべきものかどうかすらわからなくなってきておりますが、それでも、意識がそこにあって、いわゆる思考や心やマインドと呼ばれている顕在意識と並行、あるいは階層的になっている静かな意識が深化していっていると思うわけです。<br /> <br /> Sat, 22 Feb 2020 00:00:00 +0900 想念をもありのままに観察する、なんてのは上級者のお話 https://w-jp.net/2020/1841/ <br /> 少なくとも私は想念、いわゆる思いや考えが出てくるとスローモーションのヴィパッサナー状態が解除されます。<br /> <br /> よく瞑想の本に、考えや思いが出てきても妨げずにありのまま観察します、なんてことが書いてありますが、少なくとも私は無理です。<br /> <br /> おそらくはこの種のお話は二つのことが入り混じっているのかなと。<br /> <br /> ・思いや考えが出てきても否定しないでください。<br /> ・思いや考えに意識が向いていることに気が付きましょう。<br /> <br /> これは瞑想の基礎のお話です。<br /> <br /> それを「観察します」とか言われても、言葉が間違っていると私なんかは思うのです。これは、「観察」とは言わない気がします。表現の違いだけであれば、そういうことだと思います。<br /> <br /> 「観察」なんて言われると、まるでヴィパッサナー状態で考えを妨げずに観察することだなんて解釈してしまいますけど、それはかなりの上級者向けのお話だと思いますし、私の場合、完全にそのように観察するのは無理です。<br /> <br /> 意識の半分をスローモーションのヴィパッサナー状態に保ったままもう半分の意識で考えや思いを観察する、ということはできますが、その場合、スローモーションの観察で認識できる景色のコマ数が半分くらいに落ちて、カクカクな飛ばし飛ばしの映像で視界が認識されます。<br /> <br /> ですから、同じようにスローモーションで完全に認識したまま思いや考えを同時に完璧に観察することは私にはできないのですが、もしできたとしても上級者向けのお話かなという気が致します。<br /> <br /> 想念だけであればしっかり観察できますので、想念に対してヴィパッサナー瞑想している、と言えなくもありませんが、想念の場合は映像と違ってどのくらいの速さで認識しているのか分かり辛いために本当にきちんとヴィパッサナー状態でいるのかどうかなかなか判別が難しいという面もあります。<br /> <br /> 想念はいわゆる心(マインド)が認識するものですので、視界に対するスローモーションのヴィパッサナー状態では心(マインド)が停止して、その奥にある認識力(いわゆるアウェアネス)が働いて視界をスローモーションで認識しますので、そうであれば、心(マインド)が想念を観察するというのは視界に対するスローモーションのヴィパッサナーとはちょっと違うのかな、という気もしています。<br /> <br /> もしかしたら、ヴィパッサナー状態で想念を観察する際は思いや考えという論理を司る心(マインド)のような認識ではなくて、もっと根元に近いものを直感で把握するという種類の認識になるのかもしれません。このあたりはまだ仮説ですけど。<br /> <br /> ですが、割と上級者の書いたと思われる瞑想の記録には想念を観察してどうこうするというお話も書かれてあった気がしますので、そのコンテキストから言えばスローモーションのヴィパッサナーで想念(思い・考え)を観察する、というのもあるのかもしれないな、というくらいの認識で頭の片隅に置いてあります。<br /> <br /> Wed, 19 Feb 2020 00:00:00 +0900 日常生活でなるべくサマーディ状態を保つ https://w-jp.net/2020/1839/ <br /> 最近は日常生活が修行になるヴィパッサナー瞑想を心がけているわけですけれども、私の言うサマーディとヴィパッサナー瞑想とは同じことです。<br /> <br /> やっていることは24時間瞑想の考え方と同じです。日常生活で思考に囚われていたら一旦脇に置いておくか素早く結論を出してからヴィパッサナー状態に戻ります。その状態をサマーディと読み替えても同じことです。スローモーションで感じるサマーディ状態をなるべく保ちます。<br /> <br /> 日によってその観察の深さが違うのを感じます。ここでいう深さとは、1秒間に何コマくらいのスムーズさで視界を認識できているのか、という点で私は判別しています。<br /> <br /> これは、以前にも動画編集の例えを出しました。24fpsや30fpsくらいの割とスムーズな映像として視界が認識されているのが基本のヴィパッサナー状態で、疲れやどんよりとして認識力が弱まっている時は8fpsや12fpsなどで視界を認識しているように思います。明らかに視界の動きの滑らかさが違いますので自分の状態が客観的に判別できるわけです。<br /> <br /> 思考をしていると目の前の景色を見ているような見ていないような状態になります。その思考に気付いて視界に意識を戻すと24fpsですとか12fpsですとかその時の状態に応じた認識の状態に戻るわけです。<br /> <br /> ですから、修行と言えるほどのものでもありませんが、思考している自分に気付いたら、それが大切なことであれば素早く結論を出して、単なる雑念であればその雑念を止めて視界の認識に戻してサマーディ状態、ヴィパッサナー状態に戻るということを最近は日々、心がけています。<br /> <br /> ですから、座った瞑想もそれなりに行いますが、むしろ、最近はこちらの日常生活のヴィパッサナー瞑想によるサマーディの方が重要な気がしてきています。<br /> <br /> どちらも必要ですが、座った瞑想を以前のように長くする必要はない感じで、日常生活のヴィパッサナー瞑想をなるべく長くするように心がけています。<br /> <br /> 基本的にヴィパッサナー瞑想とサマーディとは同じことであるわけですけれども、単に視界をスローモーションで認識している時はヴィパッサナー瞑想とは呼びますが不二の意識は働いておりませんのでサマーディと呼ぶのは不適格かもしれません。<br /> <br /> ですが、ヴィパッサナー状態を続ければすぐに不二の認識が働いてきてサマーディに導かれてゆくと思いますので同じと言ってしまってもさほど支障は無いように思います。<br /> <br /> このあたり、用語が混乱しておりますので私のコンテキストを他の流派の定義に当てはめて読むことは難しいと思います。私の考えるヴィパッサナーとサマーディに当てはめるとこんな感じ、というだけのお話です。<br /> <br /> Mon, 17 Feb 2020 00:00:00 +0900 朝起きたら、体が溶けたようになっていた https://w-jp.net/2020/1831/ <br /> 手で触ってみたら体はきちんとありましたが、意識で体を探ってみても感触がない感じです。<br /> <br /> 瞑想の本などでよく「体の感覚がなくなります」と書いてあって「ふむふむ」と読んでいて、それはきっと瞑想中に体の感覚がなくなる、あれのことかなあ、と割と読み流していたのですが、今朝の感覚と比べるとちょっと透明感と言いますか本当に「何もない」感覚が微妙ですが確実に違いました。<br /> <br /> これはどういうことかな・・・ と思っていましたら、おそらくは、最近はヴィパッサナーで気付きながら体の緊張をリセットし続けているので体の緊張がかなり抜けてきているのかな、というのが1点。<br /> <br /> もう1点は、意識の広がり。今までは割と自分を中心とした体の周囲に意識があったように思いますが、今は、もうちょっと末広がりと言いますか、銀河系のように自分を中心として楕円形に末広がりの意識が広がっているような気が致します。寝ている自分を中心として意識が横方向にペタッと溶けたように広がっているようです。<br /> <br /> 起きてみましたらいつもの朝起きたときの体の硬い感覚はありましたので、完全に体が柔らかくなったわけでもなさそうです。ですので、これは主に意識の問題かなと。<br /> <br /> もともと体の各所が意識の緊張により硬くなっていて、最初に意識がリセットされて意識の緊張がリセットされてから体の緊張が少しづつ取れ、そのサイクルが進むうちに次第と意識が広がってきたのかな、と解釈しております。<br /> <br /> 瞑想などで「体の感覚がなくなる」と言われていたことが実際はこのくらいの状態を指していたのだとすると今まではまだその状態になかった、ということなのかもしれません。本当に体がスカスカな感じです。皮膚の感触はまだあるので体があることはわかるのですが、体の中の意識がスカスカになってきています。<br /> <br /> 内なるガイドが示唆するには、これはあまり言葉で言い表せない状態ですので味わいましょう、とのことです。<br /> <br /> Wed, 12 Feb 2020 00:00:00 +0900 ヴィパッサナー瞑想と思考の停止 https://w-jp.net/2020/1828/ <br /> 最近しばらくヴィパッサナー瞑想と思考の停止と体や息の観察について書いてきたわけですけれども、もう少しまとめたいと思います。<br /> <br /> 瞑想の段階としてはゾクチェンの段階を引用します。<br /> <br /> 1.ゾクチェンのシネーの境地に至る以前の状態<br />  私はこの状態はヴィパッサナー瞑想とは呼びたくありませんが流派によってはこれもヴィパッサナー瞑想と呼んでいます。<br />  個人的にはこれはサマタ瞑想です。<br /> <br /> 2.ゾクチェンのシネーの境地<br />  同様に、これは私はヴィパッサナー瞑想とは呼びたくはありませんがこれも流派によってはヴィパッサナー瞑想です。<br />  これも個人的にはサマタ瞑想です。<br /> <br /> 3.ゾクチェンのテクチュの境地<br />  個人的にはこれだけがヴィパッサナー瞑想です。<br /> <br /> その上で、世間一般でどのように呼ばれているのかを追記します。<br /> <br /> 1.ゾクチェンのシネーの境地に至る以前の状態<br />  日本で有名なゴエンカ式は最初からヴィパッサナー瞑想と呼んで体の観察や思考の観察を行う。最初の数日にサマタ瞑想を行うものの、軽視されている。<br />  テーラワーダ仏教は思考の停止を行う。テーラワーダ仏教はそれをヴィパッサナー瞑想と呼びますが、集中瞑想であるので実際はサマタ瞑想相当と個人的には解釈します。<br />  サマタ瞑想では集中して思考の停止を行います。ヨーガスートラ形式。<br /> <br /> 2.ゾクチェンのシネーの境地<br />  おそらくゴエンカ式では辿り着くのが困難。ゴエンカ式はシネーの境地を通び越してテクチュの境地を目指し、テクチュの境地のヴィパッサナー状態の真似事をしている。瞑想で体の感覚の観察をしてしまうので五感が敏感になってキレやすくなってしまう効果がある。実際のシネーの境地は逆に五感を抑える必要があるので、全く逆のことをしているのでシネーの境地にはたどり着かない。<br />  テーラワーダ仏教は辿り着くと思います。ヴィパッサナー瞑想と唄っていますが実際はサマタ瞑想相当でありますので。テーラワーダ仏教はサマタ瞑想だと分かっていてあえてヴィパッサナー瞑想と言っている節があると個人的には思います。そうは言いましても、説明が紛らわしいのでゴエンカ式と同じ危険性はあると思います。<br />  サマタ瞑想の集中によりシネーの境地に辿り着きます。個人的には、最初はサマタ瞑想で五感を抑えるのが一番スマートかなと思います。<br /> <br /> 3.ゾクチェンのテクチュの境地<br />  シネーの境地を続けているとテクチュの境地に導かれます。ただし、ただ単にサマタ瞑想をしているだけではこの境地の存在に気付かない可能性があります。シネーの境地が最終的な悟りだと勘違いする可能性があります。<br />  テーラワーダ仏教方式であれば集中が目的地ではありませんので自然とテクチュの境地に向かって鍛錬は続けられると思います。<br />  ゴエンカ式は最終的なテクチュの境地であるヴィパッサナー瞑想を真似て瞑想に入りますが、シネーの境地を経ずにテクチュの境地を目指すことで達成が困難になるばかりか、五感が敏感になりすぎて精神的に破綻をきたす可能性が高いと思われます。<br /> <br /> <br /> このあたりを調べていますと、ヴィパッサナーをしている流派の中ではテーラワーダ仏教が正しい理解をしていることに気が付きました。ヴィパッサナー瞑想やマインドフルネスの本やセミナーは沢山ありますが、このあたりのシネーの境地とテクチュの境地について正しく理解しているところは稀だと思います。例えば以下の書籍です。<br /> <br /> ヴィパッサナー瞑想によって私たちのなすべきことは、思考、妄想をストップさせることだけなのです。つまり、考えないようにするのです。(中略)やり方は「今の瞬間」に自分が何をやっているのかということを「実況中継」するのです。実況中継を始めると、思考できなくなってしまうのです。妄想したくてもできなくなる、そういう簡単な方法なのです。「自分を変える気づきの瞑想法(アルボムッレ・スマナサーラ著)」<br /> <br /> これは、実はヴィパッサナー瞑想という言葉の意味からしたら違っていて、この説明は実際はサマタ瞑想(集中瞑想)のものなのです。ですから、テーラワーダ仏教は分かっていてあえてサマタ瞑想をヴィパッサナー瞑想と呼んでいるのかな、と個人的には思うわけです。一方、ゴエンカ式では思考の停止であるところのシネーの境地に至る段階が丸ごと抜け落ちているのです。<br /> <br /> このあたりが、瞑想に理解の深いテーラワーダ仏教と元々はビジネスマンで瞑想を始めたゴエンカ氏との見識の深さの違いということだと思います。<br /> <br /> 別にゴエンカ式を貶めようとかそういうことはなく、シネーの境地に至っている人あるいはそれに近い人がゴエンカ式をやればそれなりに効果が出るかと思います。ですが、実際にはシネーの境地に全然遠い人が瞑想している状況ですから、精神的に破綻をきたす人が続出していたり、長い瞑想をしている間に不思議な感覚が出て特別視したり自分の「挑戦」にプライドを持ってしまって瞑想がエゴを拡大するという逆効果になったり、怒りの沸点が下がってキレやすくなる、という人がそれなりに出てきているのだと思います。<br /> <br /> ですから、私はゴエンカ式は全くお勧めしません。場として利用するのはありですから、シネーの境地に至った後に受けるのはアリかもしれませんが、基本的にはお勧めしません。と言いますのも、他の瞑想をしている人は拒否するという方針らしいですので。ヨガ瞑想をしていてこっそり受けている人の噂はよく耳にします。<br /> <br /> ヴィパッサナー瞑想は本来の意味においてはシネーの境地の後に現れるものだ、というのが私の理解で、それ以前の瞑想をヴィパッサナー瞑想と呼ぶかどうかは流派の方針次第でありますが実態はサマタ瞑想をするべき段階だと思うわけです。そのサマタ瞑想をしっかり指導している流派が良いかと思うわけですが、瞑想について深い理解のある筈のテーラワーダ仏教はサマタ瞑想の段階にヴィパッサナー瞑想と名付けてしまっているので混乱がありますし、もっと直接的にサマタ瞑想をすれば良いのではないかとも思うのですが、そこは私の口を出すところではありません。ゴエンカ式はシネーの境地を飛ばしてテクチュの境地を目指していますので問題外です。<br /> <br /> ですので、個人的にはシネーの境地に至るまではヨガ等で集中の瞑想であるところのサマタ瞑想をして、それからヴィパッサナー瞑想をするのが良いかなと思います。<br /> <br /> よくあるサマタ瞑想への批判として思考を停止させても悟れないというお話がありますが、サマタ瞑想をしていてもシネーの境地に到れば終わりではなく、続きがあることさえ知っていればヴィパッサナー瞑想に移行するだけのお話ですから、それぞれの段階で都合の良いやり方をすれば良いと思うわけです。最初はサマタ瞑想の方が成長が早いことは明らかだと思いますから、最初はサマタ瞑想をすれば良いと思うわけです。<br /> <br /> ヴィパッサナー瞑想をしている東南アジアの各種の仏教の流派も、どうやら最初はサマタ瞑想を集中的にする流派もあるようです。ゴエンカ式も最初の数日にサマタ瞑想を一応しますけど軽視している印象で、個人的には、ほとんどの人は10日間の間、最初から最後までサマタ瞑想で十分だと思いました。そんなもんです。本当のヴィパッサナー瞑想なんてそうそうできないと思います。であれば何年間も、人によっては死ぬまでサマタ瞑想で十分なわけで... であればヴィパッサナー瞑想なんて持ち出す必要はないのかな、なんて思ったりします。<br /> <br /> こんな感じでヴィパッサナー瞑想の考察を書いてみてもほとんどの人にとっては「何のこっちゃ?」という感じかなとも思います。<br /> であればテーラワーダ仏教みたいに実態はサマタ瞑想でもヴィパッサナーと言うのも流派としてはアリかもしれない、と言う理解です。<br /> <br /> Sun, 09 Feb 2020 00:00:00 +0900 異空間の虹色の枠 https://w-jp.net/2020/1827/ <br /> 瞑想中、ここ最近数回ほど異空間のような虹色の枠が視界に現れてきています。実物はもっと虹色が鮮やかで滑らかですけど。<br /> <br /> 最近はスローモーションのヴィパッサナー状態で遠近感がなくなってきているわけですけれども、そうして視界をまるでテレビやディスプレイの画面のように平らなものとして観察していると、時々視界の一部に異空間のような虹色の枠が出てきていることに気が付きました。<br /> <br /> 以前からあって気がついていなかったのか、あるいは、最近になって現れるようになったのかは不明です。<br /> <br /> 最初は確か右目の少し上、2回目は左目の少し中央寄りだったかと思います。<br /> <br /> モヤモヤっとした虹色のやや横長の楕円あるいは長方形が現れて、まるで、視界のディスプレイの一部の調子が悪くなって意図した画像を写せていないかのような感じになってきています。<br /> <br /> その虹色のモヤモヤの先はまだ雲のようなものしか見えず、何があるのかはわかりません。<br /> <br /> 何となく直感でその先は異空間かな... という気がしてきています。<br /> <br /> あるいは、逆に今の世界が異空間のまやかしの世界で虹色のモヤモヤの先こそが本当の世界なのかもしれませんが。<br /> <br /> まあ、今後どうなるのか、更に観察を進めてゆきます。<br /> <br /> Sat, 08 Feb 2020 00:00:00 +0900 ヴィパッサナー瞑想で体や息を観察すること https://w-jp.net/2020/1821/ <br /> ヴィパッサナー瞑想とは観察瞑想のことですが、 世間一般でヴィパッサナー瞑想というと体や息を観察することだと言われているように思います。<br /> ですが、実際のところ、それはサマタ瞑想(集中瞑想)であると思うわけです。<br /> <br /> これはかなり以前からそうではないかと思っており、半ばそのような結論を出していたわけですが、この度、それが更に深く理解できたような気が致します。<br /> <br /> ヴィパッサナー状態で周囲がスローモーションに見えたり体の内部の感覚を感じられるようになるというのは確かにその通りですが、瞑想の手法として体や息を観察しましょう、ということになるとそれはサマタ瞑想(集中瞑想)でしかないわけです。<br /> <br /> 目的地を見据えてその覚者の真似をして体の観察をしたり息を観察することは無駄だとは言いませんし、それはとても効果があると思います。ですが、それはヴィパッサナー瞑想としての効果ではなくサマタ瞑想(集中瞑想)としての効果であると思うわけです。<br /> <br /> ヴィパッサナー瞑想をしている人たちは、二つの種類に分類されると思います。<br /> <br /> それが本当はヴィパッサナー瞑想ではないとわかっていながら弟子や生徒たちにヴィパッサナー瞑想としてサマタ瞑想の上記の手法やその他を教えている人たちや団体と、もう1つは、あまりよくわかっていなくてサマタ瞑想を見た目上の分類でヴィパッサナー瞑想だと思って行っている分類です。<br /> <br /> 実際のところ、神秘行とはその表向きのお題目とは違った効果が現れることがよくありますので、ヴィパッサナー瞑想だと思ってサマタ瞑想をしたところで精神修行という観点からはおそらく問題はないと思いますが、私はそういう細かいところが気になるたちなのです。<br /> <br /> 私の見たところ最初の段階では何をしようともサマタ瞑想としての経験値を積むことになりますので、ヴィパッサナー瞑想として体を観察したり息を観察しても、あるいは、サマタ瞑想として眉間などに集中をしたとしてもほとんど同じ成長過程を辿ると思います。<br /> <br /> 個人の嗜好や性格に合わせてやり易い方を選べば良いのではないでしょうか。<br /> <br /> ゾクチェン式に言いますと最初はシネーの境地で心を沈めて、その後、テクチュの境地でヴィパッサナーあるいはサマーディと呼ばれている境地に移行しますので、シネーの境地なくしてサマーディあるいはヴィパッサナーは到達し得ないわけです。<br /> <br /> 例えば一部の団体は最初のシネーの境地に相当するサマタ瞑想を軽視して最初からヴィパッサナー瞑想(の真似事)をした挙句に怒りの沸点を下げてしまって心に破綻をきたしているような気も致します。<br /> <br /> 一方で、例えばテーラワーダ仏教はヴィパッサナーと称して実際はサマタ瞑想を教えているのではないかと私は思ってしまうわけですが、そんなことを聞いたところでどうしようもありませんのでわざわざ聞くような野暮なことはしていませんけど。<br /> <br /> ただ、特に日本の場合は天界出身者がそれなりにいて生まれた最初からテクチュの境地でヴィパッサナー状態で生きている人も相当数いるように思われますので、瞑想がどうこうとかシネーの境地がどうこうとか言っても理解できない人がいるようにも思います。逆の意味で、下の境地が理解できない、というわけです。<br /> <br /> ですから、体や息を観察するように言われたらいきなりテクチュの境地な人もいるわけです。そうとなれば最初からヴィパッサナーと言っても良いのかもしれませんけど、瞑想しようとかいう人は、まあ、やはりシネーの境地から入るのが割と一般的かなと思います。<br /> <br /> Sun, 02 Feb 2020 00:00:00 +0900 サマーディという言葉の2つの意味 https://w-jp.net/2020/1820/ <br /> サマーディが神秘的な不可解なものになっている上に、訳語に禅定や三昧などの当て字がつけられて、更に混乱しているように思います。<br /> <br /> 例えば、テーラワーダ仏教系の著書には以下のように記されています。<br /> <br /> 当時はサマーディ瞑想で禅定に達した修行者が、輪廻転成を乗り越えて解脱に達するためにヴィパッサナー(観察)瞑想に入ったのです。現代ではそのような回り道はしないで、ヴィパッサナー瞑想を実践しています。ヴィパッサナー瞑想だけで、集中力やさまざまな智慧など、解脱に必要な条件はそろうのです。「沙門果経」(アルボムッレ・スマナサーラ著)より<br /> <br /> これは最初に読んだときは「ふむふむ」と読んだのですが、今では違う読み方ができます。<br /> <br /> 前提として、サマーディとヴィパッサナーは同じという個人的な見解があるのですが、それに基づきますと、一般的にサマーディとは2つの意味を持つような気が致します。<br /> <br /> それは、チベットのゾクチェンで言うところのシネーの境地とテクチュの境地です。おそらくは、一般的にはどちらもサマーディと呼ばれています。この辺りに混乱があるような気が致します。<br /> <br /> ゾクチェンにおいてはシネーの境地とテクチュの境地はかなり違うものとして説明されておりますし、サマーディに関しても同じ言葉で2つの意味があるように思います。<br /> <br /> ・シネーの境地 → サマーディ(という誤解)<br /> ・テクチュの境地 → サマーディ<br /> <br /> よって、サマーディと一言で言った時にシネーの境地なのかテクチュの境地なのかコンテキストを読み解かなければならなくなるわけです。<br /> <br /> 上記のテーラワーダ仏教でのお話はシネーの境地のお話ですね。<br /> <br /> そして、私の個人的な見解ではシネーの境地はサマーディではありませんが一般的にはシネーの境地もサマーディだと誤解されているのだと思っております。<br /> <br /> ほんと、ややこしいですね。<br /> <br /> ですから、昔からサマーディでは悟れないと言うお話がヴィパッサナー信奉者から聞かれるのかな、と思います。そりゃ、シネーの境地はまだまだ入り口なわけですから先は遠いわけです。それをサマーディだと思ってしまうことが問題なわけですが、昔からそれでサマーディだと思われてきたのだから、ある程度それで意味は通ってしまうのでしょう。<br /> <br /> 古典であるヨーガスートラに記されておりますサマーディの定義を見ますと二次元的な心の動きが止んで対象と自身の区別がなくなった状態だとありますので、これは明らかにテクチュの境地のことを意味しておりまして、テクチュの境地であればそれはヴィパッサナー状態なわけですから、それがサマーディと同一だと分かるわけです。その意味で言うと上のテーラワーダ仏教のお話はよく分からないお話になりますが、サマーディが2つの意味を持つとわかってしまえば読み解くことができるようになるわけです。<br /> <br /> 禅定はシネーの境地で、三昧はサマーディの当て字でサマーディと同じく2つの意味がある。そのことがわかってしまえばお話を聞いたり文献を読むのが楽になります。<br /> <br /> ・シネーの境地 → サマーディ(という誤解)、三昧(という誤解)、禅定<br /> ・テクチュの境地 → サマーディ、三昧、ヴィパッサナー<br /> <br /> Sat, 01 Feb 2020 00:00:00 +0900 目の前にあるオーラの壁にすり寄る https://w-jp.net/2020/1816/ <br /> 座った瞑想をしていると、目の前にもやっとした壁が感じられました。それは壁のようにも見えますし、シュタイナーの言う「境域の守護者」かもしれません。色は黒ですが嫌な感じはしません。見た目ではドラゴンクエストに出てくるフレイムに似ていますが色は黒です。<br /> <br /> 広い壁だということはなんとなくわかりますが目の前を見るとそこだけはフレイムっぽいので、大きなフレイムがいるというわけではなく、目の前に自分と同じくらいのフレイムがいるということです。その周囲と言いますかすぐ背後に広く壁があるようです。<br /> <br /> それは、例えば水面を水の中から認識することに似ています。穏やかな湖あるいは湾の中の海に潜り、浅い砂地の底に横たわって透明な水を通して水面及び空を眺める感じです。そして、最近はその距離が近づいて次第に自分が水面に近づいているのを感じます。水面に近づくにつれ、上記のような壁及び越境の守護者のようなものを感じ始めています。<br /> <br /> これは、大前提としてヴィパッサナー状態でないと感じられません。ヨーガ的に言えばサマーディ(の基本的な状態)なわけですが、思考が止まって周囲を感じる(五感の皮膚の感覚とちょっと違いますが)と、上記のように感じられるわけです。<br /> <br /> 境域の守護者は以前にも少し言及しました。ちなみにシュタイナーは薔薇十字系です。これは、以前に載せた、瞑想中に一瞬見えた小悪魔の影に似ていますが今回は特に目は光っていませんでした。<br /> <br /> 記憶が曖昧なのですが、攻殻機動隊という映画の初代の確か最初の方で主人公が水面に浮かぶシーンがあったかと思うのですが... 探してみたらやはりありました。これです。今は探せばすぐに見つかりますね。この画像は同映画のワンシーンです。カラーだとイメージと少し異なりますので白黒にしました。<br /> <br /> 感覚としては、そんなイメージに似ています。<br /> <br /> 思えば私が子供の頃、隣町の湾の海岸で泳いでいたことがありました。その時、水深3m前後の砂地に潜り、水中の砂に横たわって海面と空を見ていました。そこは砂地の部分ではありましたが岩場の多い海岸でしたので基本的には水は澄んでいて綺麗で、息はもちろん止めていましたが肺だけを動かすとある程度は呼吸っぽくなるので潜ったまま肺だけを動かし、砂の上でうとうとし始めました。心地良くて、そのまま眠ってしまいそうです。意識が落ちかけて、ふと、このまま意識が落ちて眠りこんだら死ぬかもしれないというかすかな気付きが現れました。そうして手で軽く砂を押して海面に上がりました。その時の清々しさは今でも度々思い出します。今回のものは海の体験の清々しさとはちょっと違うのですが、似ている部分もあります。<br /> <br /> 今生きているのは水面の下の世界で、すぐ目の前に水面があって、その先には本当の・・・ と表現すれば良いのでしょうか、なんと表現すれば良いのでしょうか。水面の向こう側に世界があって、それをこちらから眺めている感覚です。<br /> <br /> その壁との距離が近づきつつあって、その向こう側に何があるのかまだ不明です。ちょっとドキドキする反面、ちょっとだけ期待があって、ほんの少しの緊張感と共にその壁を眺めている感じです。壁の向こう側は「無限」と繋がっているかもしれない??? 実際はどうなのでしょう...<br /> <br /> 少しだけ自分とその壁とが交わりつつある気がしますが、まだ1割くらいの感じが致します。<br /> <br /> Tue, 28 Jan 2020 00:00:00 +0900 日常生活が修行になるヴィパッサナー瞑想 https://w-jp.net/2020/1814/ <br /> ヴィパッサナー状態に移行する前はそんなことはありませんでした。以前は、日常生活は日常生活で精神的訓練(というほどのものではないですが)は精神的訓練で、例えばヨガはヨガ、仕事は仕事、趣味は趣味、遊びは遊び、散歩は散歩でした。<br /> <br /> しかし、日常生活でスローモーションのヴィパッサナー状態が可能になると、特別に何かをしなくても割と日常生活が修行のような感じになってきました。<br /> <br /> 「修行」とか言いますと何か重苦しくて山にこもったり苦しい苦しい苦行をして誰よりも大変な思いをしなくてはならないイメージがありますが、ここでいう修行はそういうことではありません。ただ単に、日常生活で、例えば散歩をするなどをして、その時にスローモーションで感じるヴィパッサナー状態にいるだけです。ヴィパッサナー状態で日常生活することそれ自体が修行のような感じになってきたと思っています。<br /> <br /> ですから、ただ単にヴィパッサナー状態になってスローモーションを感じながら日常生活を送るだけのことです。<br /> <br /> 滝行もしなければ、険しい山にも登らなければ、お経やマントラも唱えなければ、ストレッチもしません... と言いますか、やってもいいのですけど、それをすることと、ここでいう修行とはあまり関係がない、ということです。<br /> <br /> 誰かにこれが修行だなんて言ったら激しく説教されそうなくらいです(苦笑)<br /> 特に、ヨーガの人は「想像で出来たつもりになるな」と言うのが好きですからね。<br /> <br /> 散歩しながらスローモーションのヴィパッサナー状態であれば修行のような感じ、というだけのお話です。<br /> <br /> 傍目からすれば、ただ散歩しているだけです。<br /> <br /> 誰も修行とは思わないですし、誰かに修行だなんていう必要もないですし、言っても理解されないと思います。<br /> <br /> 最近は、わざわざ誰かに言わなくてもいいかな・・・ という感じになってきています。 まあ、ちょっとは雑談とかで言いますけど、そのくらいですかね。<br /> <br /> この、日常生活が修行のような感じになってきたら、今までヨガやスピリチュアルで言われていたことがかなり「溶けて」きた気がします。<br /> <br /> 当時は、色々なことが「納得」の上で精神的なスピリチュアルを捉えていました。<br /> <br /> 例えば、瞑想について言えば以前に ヨガ瞑想、サマーディ、マインドフルネス、ヴィパッサナー等について とか書きましたけど、今の視点からすれば全てはヴィパッサナーのスローモーション状態からの視点になってしまって、理屈どうこうはあまり考えられなくなってきています。<br /> <br /> 今は、ヨガやスピリチュアルの古典的な説明よりもゾクチェン的な「ありのまま」という一言が全てを表しているような気がしていて、それが全てであるなら何にも説明は実はいらないのだ... という気になってきています。<br /> <br /> このまま意識が溶けてしまうのでしょうか。<br /> <br /> まあ、あまり心配しても仕方がないですし、こうして書いているほどには実際は心配していません。<br /> <br /> それは「流れに身を任せる」という感じでもなくて、パワーが漲っているので行き着くべき場所にどんどん自分から根元から突き動かされるように進んでいくから大丈夫、という感じです。<br /> <br /> まあ、今わかるのは、やるべきことは日常生活でのスローモーションのヴィパッサナー状態を今は続ければ良い、というだけです。後のことはそのうち開けてくるでしょう。<br /> <br /> Sun, 26 Jan 2020 00:00:00 +0900 両肩に刺さっていた見えないものを引き抜く https://w-jp.net/2020/1813/ <br /> 以前にも似たようなことがありましたけど、今回も、不意に意識に緊張が走って肩や頭の緊張が抜けなくなりました。ここ最近は体の感覚を観察してスローモーションのヴィパッサナー瞑想を行うなどしておりましたが、そのヴィパッサナー状態も解除されてしまいました。<br /> <br /> ヴィパッサナー状態になったからと言ってこの種の緊張と無縁になるわけではないようです。<br /> <br /> 瞑想で意識を統一しようかな... と最初は思いましたが、特に意識が乱れているというわけではありませんのでそれはちょっと違うなと思い、代わりに体を観察しましたところ、両肩、特に右肩とうなじの中間くらいに大きな何かが刺さっているような気がいたしましたので、前回は瞑想中に取り除きましたけど今回は椅子で意識を保ったままそのあたりにある”なにか”を引き抜いたところ、急に右肩の緊張が取れてきました。<br /> <br /> どうやら、何かの意識体の塊かトゲのようなものが刺さっていたような感じです。<br /> <br /> 以前に右腕に絡まっていた見えないものを引き抜くことをした際はおそらく何かの意識体が刺さってエネルギーの吸血状態になっていたのですが、今回は吸血状態というわけではなく、ただ単に、意識の何かが刺さってしまったので引き抜いた、という感じです。<br /> <br /> もともと私は右側のオーラのガードが弱くて、左肩よりも右肩の方が影響を受けやすいのです。<br /> <br /> これは、私に対しての念かなと最初は思ったのですが、どうも、ただ単にそこらへんにぷかぷか浮いていた見えないトゲがぶつかってオーラが怪我してしまった、という感じのような気が致します。<br /> <br /> そのトゲは誰かが作り出した残存物に過ぎないのですが、ぶつかるとこうして被害を被るようです。というか、昔からよくぶつかって被害受けていました。<br /> <br /> 霊視できればそういう障害物とかは避けられると思うのですけど、今生の私はまだ見れないです。<br /> <br /> 定期的にこういう被害を受けていますのでその度に引き抜いて治療しています。<br /> <br /> 今回のことを踏まえますと、具合が悪くなったら以下のように対処が必要のように思います。<br /> <br /> 0.肉体の問題かどうか確認します。肉体の問題の場合は普通に対処。<br /> 1.まず、体に見えない何かが刺さっていないか確認する。具体的には、体が極度に緊張しているところを探す。<br /> 2.体の極度の緊張を確認したら、目に見えない自分の「手」を使って緊張しているあたりを「つまんで」引っ張る。うまく行けば何かの塊が抜けてゆくような感覚がします。オーラを吸引している吸血性の意識体であれば触手を奥深くのチャクラまで伸ばしているかもしれませんので触手が千切れないようにゆっくりと引き抜きます。<br /> 3.引き抜いたら、オーラがその部分だけ損傷しているので団子や粘土を丸めてくっつけるようなイメージでオーラの裂け目を修復します。目に見えない自分の「手」を使うとやりやすいかもしれません。<br /> <br /> このようにまずはオーラを整えないとヴィパッサナー状態に入れないような気がいたします。<br /> 極度の緊張が取れたらスローモーション的に認識するヴィパッサナー状態になって、以下を確認します。<br /> <br /> 4.体を日常的に観察して緊張が現れたらすぐに気づく。<br /> 5.気付いた緊張を意識的に解除してリラックスする。<br /> <br /> ヴィパッサナー状態に入れるかどうかはともかくとして、その前段階はやってみさえすれば割と誰でもできる気が致します。<br /> <br /> このようなことって、可能なのだということを誰も言ってくれないので誰もやっていないだけで、具合が悪くなったらその部分を上記のように手当てしてあげると良いと思います。<br /> <br /> もちろん、肉体の怪我や病気や不調もありますので全部がこれで治るわけではありません。<br /> <br /> この種の具合の悪さは分かる人にはわかる筈で、これを読んで「ああ、あれのことか」とわかるのであればやってみれば良いし、何のことかわからなければスルーするのがいいと思います。<br /> <br /> 割と簡単なことでも、こうすれば良い、ということを知らないが故にエネルギー・ヴァンパイアに長い間ずっとエネルギーを吸われ続けて具合を悪くしている人がこの世界には割と多くいらっしゃる気が致します。<br /> <br /> 関連:<br /> ・体のオーラに取り憑いているエネルギー体<br /> ・床屋で取り憑いてきた意識体<br /> <br /> Sat, 25 Jan 2020 00:00:00 +0900 体の感覚を観察してスローモーションのヴィパッサナー瞑想を行う https://w-jp.net/2020/1812/ <br /> 先日は座った瞑想で準備をして日常生活でヴィパッサナー瞑想を行うような感じでしたが、今日の座った瞑想ではヴィパッサナー的な感じになりました。ただ、やはり体の感覚は感じにくいのか、視覚ほどはっきりとわかるヴィパッサナー瞑想にはなっていない感じです。とは言いましても、座った時に感覚が細かくわかることで一応はヴィパッサナー瞑想になっている気が致します。<br /> <br /> ヴィパッサナー状態で視界を観察したり音を聞いたりするよりも、感覚は微細でわかりにくい感じが致します。もともとの感覚と同じといえば同じで、ヴィパッサナーになっているといえばなっているかな... という微妙な感じではあります。<br /> <br /> とは言いましても、これで、座っていても視覚のスローモーションのヴィパッサナー瞑想と同じ観察が感覚に対してもできることが一応は確認できました。<br /> <br /> とりあえず、ヴィパッサナーは視覚を中心に行うのが良さそうです。<br /> <br /> 視覚はいつもそこにありますので、最初こそスローモーションのような不思議な感じがしておりましたが、慣れてしまえばこれが普通かな... という感じで視覚を認識しております。<br /> <br /> 視覚が以前のようにコマ送りではなく細かく認識されるのがヴィパッサナー状態ですが、もしかしたら、もともとこのくらいの動体視力を持っている人にとっては当たり前のことかもしれませんね。そんな気がしてきました。<br /> <br /> と、言いますのも、日常生活上のスローモーションのヴィパッサナー状態が可能になって約3週間経ちましたが、次第にこの状態に慣れてきたからです。<br /> <br /> 私の場合は変化があったために違いを感じましたが、変化がなければおそらくは自分の認識が普通だと思うことでしょう。<br /> <br /> 日常生活を楽しめている人とそうでない人の違いはこんなところにもあるのかな... と思いました。<br /> <br /> ヴィパッサナー状態であれば日常の変化だけで人生が楽しめるのに対し、そうでなければ日常生活に変化はなくて頭の中の考えが何度も続くだけですので面白くない人生と感じて遠くの何かを追い求めたりします。<br /> <br /> ヴィパッサナー状態であればありきたりないつもの道も毎回その変化を感じて視界の微妙な変化ですら楽しむことができますが、そうでなければ同じ道としか感じずに面白くない人生になります。<br /> <br /> これは、昨日や前回と同じかどうか比べてどうこういう話ではなく、最初であっても2回目であっても10回目であっても変化を楽しむことができるのがヴィパッサナー状態ということだと思います。<br /> <br /> 思うに、ヴィパッサナー状態を封じてしまえば人間がロボットになって「消費」という罠にはまり込んで経済を回し続けるので消費させたい人にとってはヴィパッサナー状態なんて邪魔かもしれません。<br /> <br /> まあ、このあたりは、気付く人だけが気付いてラットレースから抜け出すのでしょう。<br /> <br /> Fri, 24 Jan 2020 00:00:00 +0900 くつろぎの3段階 https://w-jp.net/2020/1811/ <br /> W.E.バトラーによると、くつろぎには3段階あると言います。<br /> <br /> 第一は緊張している場所をさがすこと。次には緊張をくつろがせること。そして最後に、つりあいのとれた筋肉の状態を確立することである。(中略)着実にこれを実践すれば、君は完全なくつろぎと、正しいつりあいを手に入れることができよう。(中略)これは大切なことなのである。「魔法修行(W.E.バトラー著)」<br /> <br /> 緊張している場所を探し、意図的にわざと緊張させたりすることでその緊張を理解し、意図的に筋肉をくつろがせ、最後には、同書で「つりあい」と表現されているような状態にするべきと言います。それはくつろぎがぐったりしたものでなく意識の通ったいつでも動けるリラックス状態に達することと説明されています。いわゆる「緊張と弛緩」のようなテクニックに加え、意図的に緊張をほぐすというテクニック、そして、くつろいだときにありがちなどんよりとした気持ちに落ち込むのを避ける、という重要な点を指摘しているようです。<br /> <br /> この本はヨガの本ではありませんがヨガの体系も参考に書かれており、同著者のやり方ではこれが一番最初に来て、ヨガのアサナ(体操)やプラナヤーマ(呼吸法)よりも前に行うべきことであると記されています。<br /> <br /> 私の場合はヴィパッサナー状態に達してからようやく「意図的に緊張をほぐす」というテクニックが(簡単に)使えるようになりましたが、同書の順番でヨガのアサナや瞑想をする前の一番最初にそれをしようとしたらきっとなかなかうまくいかずに苦労していたのかな、と推測致します。<br /> <br /> 確かに、筋肉の緊張という意味では最初に来ると思いますが、意識の方がそれについてくるのはかなり後なのかな、という気も致します。<br /> <br /> 一方、リラックスを以下のように説明している方もおられます。<br /> <br /> 宇宙に命令しても(実現を心像化しても)そのことが実現しない理由は、リラックスの欠陥によるものだということを知っている人は殆どいない。何かのことを達成しようとしてそのものに精神集中をし、それの出現を命じた後に、よりよい結果を得ようとするには、もしその場合に命令だけをしているのであったのなら、命令(心像化)の後にリラックスをしなければならないのである。(中略)リラックスは、筋肉のリラックスに加えて心のリラックスが必要なのである。「秘教真義(M.ドーリル博士著)」<br /> <br /> これは度々スピリチャルでも言われていることですが、これは古い本ですので昔からこういうことが一部では伝えられていたようです。<br /> <br /> Thu, 23 Jan 2020 00:00:00 +0900 座った瞑想で準備をし、日常生活でヴィパッサナー瞑想を行う https://w-jp.net/2020/1810/ <br /> 最近は日常生活上でスローモーションに見えるヴィパッサナー瞑想を行っているわけですが、座った瞑想をしてもスローモーションな感じにはならないようです。私が座った瞑想をする際は目を閉じて行っているわけですが、視覚情報がないとスローモーションを感じられないということでしょうか。<br /> <br /> 座った瞑想は、少なくとも気持ちを落ち着かせる効果はあって、日常生活上のヴィパッサナー瞑想の準備としてオーラを安定させる手段としてここ最近は効果が出ている感じが致します。<br /> <br /> 日常生活上でヴィパッサナー瞑想ができるようになったからと言って座った瞑想が必要なくなったわけではなく、今のところ、両方がそれぞれの役割を果たしている気が致します。<br /> <br /> 日常生活を送る上で不安定になりがちなオーラを座る瞑想で安定させるということと、それと同時に、発散しがちな思考を落ち着けてヴィパッサナー状態をしやすくするために座る瞑想が最近は役に立っています。単純に疲れを取る、という効果もあります。<br /> <br /> そうすれば座る瞑想が終わった後に日常生活でヴィパッサナー状態に簡単に入ることができるようです。<br /> <br /> 座る瞑想はそれはそれで有用で、色々なやり方はありますが、最近は特に眉間に集中するということもなくチベットのマントラを(古代の唱え方で)唱えるということもなく、ただ単純に、ヴィパッサナー瞑想の準備としてオーラと思考を落ち着ける、という単純なやり方に落ち着いています。<br /> <br /> 特にそれがいいとか悪いとか読んだわけでもないですし指導を受けたわけでもありませんが、自然にこんな感じになっていています。<br /> <br /> そして、スローモーションに感じるヴィパッサナー瞑想や私の最近のマイブームである日常生活中に体の緊張に気付いて意図的に緊張を解除してゆく、みたいなことを最近はしています。<br /> <br /> Wed, 22 Jan 2020 00:00:00 +0900 昼も夜も半覚醒の状態で体の緊張をリセットし続ける https://w-jp.net/2020/1809/ <br /> 今まで随分と体の緊張を続けてきたことを最近はよく感じるようになりました。<br /> <br /> 最近は、昼の日常生活において顕在意識と並行して半覚醒の意識が体を観察していて、体に緊張があるとそれに時々気が付くのでその度に強制的に緊張をリセットしてあげています。これは以前はここまで気付くことはありませんでした。時期としては景色がスローモーションで認識されて日常生活上のヴィパッサナー瞑想で無情を感じるようになった頃から次第にこの種の緊張に気付けるようになりました。<br /> <br /> 最近は夜も、全時間ではないですが時々深夜に半覚醒の意識が自分の体の緊張に気付いてその度に緊張を強制的にリセットするような睡眠の取り方をしています。熟睡で意識がなくなってしまうような睡眠から、半覚醒の睡眠に徐々に遷移してきているような気が致します。<br /> <br /> 起きているときに何か作業をしている時や歩いている時もその同様の半覚醒の意識が働き続けていて、自分の顕在意識とは別なのか一続きの別の意識になっているのか、その関係は微妙なところですが、明確な脳の働きの思考とは並行して半覚醒の意識が体の状態に気付き続けているような感じが致します。<br /> <br /> それと同じ半覚醒の意識がスローモーションのヴィパッサナー状態を作り出していて景色なども細かく認識しているように思います。ですから、必ずしも視覚で読み取っているわけではなく、ヴィパッサナー状態はおそらくはオーラが感じているという種類の感覚なのではないかと推測しています。<br /> <br /> ただ、目を閉じるともちろん視界の情報は消え去りますので、オーラが感じていると言っても、副次的なものなのかなと思います。<br /> <br /> 目で見える視覚情報の処理スピードが上がったことと、体の感覚を微細に感じられるようになったことの2点ですかね。<br /> 後者はオーラというよりは単に皮膚や内的感覚が微細になっただけとも解釈できなくはないですし、そういう面もあるかと思います。<br /> <br /> ですから、もっと細かく言うのであれば、視覚処理能力向上と皮膚や内的感覚を感じる力の向上および微細な周辺の雰囲気を感じる力(オーラ感知力)の向上、という3つに分けられるのかなと思います。<br /> <br /> この3つのうち、オーラの感知力はまだまだ低いです。以前感じたような五感以外の感覚でもあるのですが、動いてる時と動いていない時があって、動いている時でもやはり5%くらいの照度(比喩です)でしか感じません。これはまだまだのようです。<br /> <br /> そんな感じで最近は昼も夜も感知力が高まって、ここ最近は体の緊張を意識でほぐすことがマイブームになりつつあります。<br /> <br /> ストレッチ等は以前の通りヨガのアサナ(体操)とかでやりますけど、意識で緊張をほぐす、というやり方でどのくらい変化があるのかが最近の興味です。経過観察中です。<br /> <br /> Tue, 21 Jan 2020 00:00:00 +0900 思考を止めただけではテクチュの境地にはならない https://w-jp.net/2020/1804/ <br /> おそらく、そういうことではないかと思います。ここ最近のお話でテクチュの境地とはおそらくスローモーションのヴィパッサナーでありサマーディでもあるという結論に至ったわけですが、テクチュの境地がそうであれば、単に思考を止めただけのお話ではないように思います。<br /> <br /> ゾクチェンでは、以前引用しましたように3つの境地があり、思考を止める境地は「シネーの境地」であり、それはそれで心地の良い境地であると説きます。実際、私もヨガを始めてしばらく後、思考が落ち着いてきて「無」の境地とか瞑想中に集中する境地を味わったわけですが、それらがおそらくシネーの境地に相当しているのでしょう。<br /> <br /> その後、私が体験したマニプラ優勢の状態とかアナハタ優勢の状態がゾクチェンでどれに相当するのかはわかりませんが、おそらくはシネーの境地とは瞑想で集中した状態のことを指すのだと思います。<br /> <br /> そして、テクチュの境地がヴィパッサナーおよびサマーディであるわけですが、私の場合、順番としては以下の順番だったと思います。<br /> <br /> 1.ゾクチェンのシネーの境地 = 良く集中できている心地よい状態 = ヨーガ・スートラのヨーガの定義の最初にある「心の作用を止滅」の段階。止滅とはインドで「シャマタ」。<br /> 2.クンダリーニ活性化、マニプラ優勢の状態。生命力(パワー)の増加。<br /> 3.アナハタ優勢の状態。よりポジティブになる。<br /> 4.ゾクチェンのテクチュの境地 = スローモーションのヴィパッサナー(観察)瞑想状態 = サマーディ<br /> 5.オーラの意識的な活用 = サムヤマ (私はまだまだこれから)<br /> <br /> もちろんこの前後や途中にも色々とありましたが、いくつかのポイントを列挙してみました。<br /> <br /> それぞれの段階において、それぞれの程度において「悟り」と呼んでも良い意識をいくつか通過してきました。<br /> <br /> シネーの境地では、さすがにこの段階では自分でも「悟り」とは思えない状況でしたが、それでもある程度の悟りの片鱗を垣間見た気がしたこともあります。その後、クンダリーニ活性化してマニプラ優勢になり、これが最終形態にしては何かが足りないという気がしてはいたもののある程度の悟りの片鱗を垣間見た感じがしておりました。次のアナハタ優勢になった時は更にポジティブになり、最終ではないことが今度も流石にわかりましたが、それでも一般的には悟りと言っても差し支えない状態になり、きっと一昔前であればアナハタ優勢でも悟りと言って良い状態だったのかと思います。今は人々の意識レベルが上がってきていますのでアナハタ優勢の人は数多くいらっしゃる気が致しますし、社会の中で活躍されている方にはこのアナハタ優勢のレベルを、本人はそれと気付かずに生活されている場合も多いような気が致します。<br /> <br /> そして今回、ここ1ヶ月くらいでスローモーションのヴィパッサナー状態に突入したわけですが、ゾクチェンの段階を勉強するとそれがようやく2段階目だということが明らかで、私が今まで悟りの片鱗を垣間見たと思っていたのは、実はまだまだだったのだ、というのが良くわかります。<br /> <br /> ですが、ゾクチェンの本を読みますとシネーの境地とテクチュの境地の間は溝が大きいとのことですが、テクチュの境地の後は一続きのようですので、一旦テクチュの境地のスローモーションのヴィパッサナー状態のコツが分かってしまえば、あとはその先に進むだけだと明確にわかりましたので迷わなくて良いです。<br /> <br /> 今までゾクチェンの本を何冊か読んできましたが謎な表現が多く、なかなか読み解くのが難しかったですが、最近になってわかりやすい本「ゾクチェン瞑想マニュアル(箱寺 孝彦 著)」が出てきて参考になりました。<br /> <br /> 本当はこういうのは師匠に見てもらうのが一番なんでしょうけど、師匠になり得るほどの人かどうか見極めるために質問を浴びせまくると逆にめんどくさがられることが多いので、今まで師匠と思えるような人に巡り合ったことはありません。べつに議論をしたいわけではなくて、師匠になってくれるほどの人であればそのくらいの質問に簡単に答えて欲しい、という気持ちの方が多いのですが、どうも、ピントがずれた回答ばかりだったりめんどくさがられたりして、師匠と思える人に巡り合ったことはないです。 私の場合、内なるガイドがいるので、それで十分と言えばそうなのですけど。<br /> <br /> Fri, 17 Jan 2020 00:00:00 +0900 生きているが生きていない人生 https://w-jp.net/2020/1803/ <br /> 昔、誰かがそう言っていたのを思い出しました。<br /> <br /> 人は、生きているが生きていない。<br /> 人は、ものを見ているが見ていない。<br /> 人は、人を見ているが見ていない。<br /> 人は、歩いているが歩いていない。<br /> 人は、食べているが食べていない。<br /> <br /> ・・・たしか、そんな感じの言葉だったと思います。<br /> <br /> とても昔、20~30年前にどこかの本で読んだのか、あるいは、誰かが言っていたのか、そんなことをふと思い出しました。<br /> <br /> どうやら、その境地とは ヴィパッサナー(観察) あるいは サマーディ のことを意味していたのだと今はわかります。<br /> <br /> ヴィパッサナー状態あるいはサマーディの状態であれば、生きていることが瞬間瞬間の経験になりますが、それ以前であれば、生は鈍い体験にしかなりません。<br /> <br /> ヴィパッサナー状態であればスローモーションで認識されるほどの細かな経験になり、それ以前であれば遥か昔のカクカクなアニメあるいは4コマまんがのような経験になります。<br /> <br /> そのことを、昔の人は上のように表現したのかなと思います。<br /> <br /> 上の文は詩ですので論理的には何のことを言っているのかわかりませんが、それを理解するにはヴィパッサナーの状態が必要だったわけです。<br /> <br /> そういえば、この話を聞いた時、同時に次のようなことも聞きました。「頭で考えるんじゃない。感じるんだ」、と。 スターウォーズやニューエイジや禅の好きな人が言いそうな言葉ですが、感じたところでわからない人にはわからないものです。それよりも、事細かにきちんと説明してくれた方がよくわかります。<br /> <br /> 今となれば日常生活上のヴィパッサナー瞑想を経験できるようになってこのことがわかるようになりましたが、かと言って、上の詩のような文を改めてみたところで「感じる」ことでその内容を読み解くのは今ですらかなり困難です。「感じる」ことではなくて、自分の経験と照らし合わせて論理的に組み立てるとこのことを言いたかったことがわかるのであって、当時は、「ふうん。感じることでわかるんだ???」と謎な感じを受けていましたが、今わかるのは、「感じることでは理解できないので、感じようとして理解できなくても全く問題ない」と言うことでした。「感じる」というのは結果であって、ヴィパッサナーに至るための方法ではなかったわけです。結果として感じられるようになるということであって、感じていれば辿り着くわけではないのだと思います。<br /> <br /> 今わかるのは、スピリチュアル業界にはわかるようなわからないようなことをあれこれ言う人が大勢いますので、あまり事細かに付き合う必要はない、ってことですね。詩的表現は目を引くものがありますけど、実際の感覚とは随分と違うなあ... というのが感想です。詩的表現を読むと、本当はわかっていない人が分かった感じになるのも良くない気もします。<br /> <br /> 言葉の追求をしすぎても仕方がなくて、自分の状態が先にふと変化して、その経験を元に表現をしたり、その経験に照らし合わせて書物に書かれてある内容を読み解く、と言うのが良い気がしています。<br /> <br /> コンサルとかカウンセリングと一緒で、書籍や文章というのは外側にあるものですので「確かめ」のために使う、という感じですかね。本当の理解は自分にしか作り出すことができないのだと思います。ですが、幅広い見解を持つため、あるいは、自分の状態を確認するために外部の情報は使えると思います。<br /> <br /> Thu, 16 Jan 2020 00:00:00 +0900 半眼の瞑想、座禅 https://w-jp.net/2020/1802/ <br /> 座禅では半眼で瞑想をするようで、私はヨーガ式に目を閉じてしていますが、最近になって半眼もありかな、と言う感じになってきました。<br /> <br /> 半眼あるいは普通に目を開いて瞑想をするともちろん視野に物理的な映像が見えるわけですが、おそらくは日常生活上のヴィパッサナー瞑想が可能になる以前に目を開けてしまうと雑念が多くなってしまってうまく瞑想できない気が致します。<br /> <br /> 一方で、スローモーションで見えるくらいのヴィパッサナーが可能な状態で目を開けて瞑想をすれば視野に惑わされずに視野を観察するだけのヴィパッサナー瞑想が可能になるように思います。<br /> <br /> ただ、個人的には、ヴィパッサナー瞑想をするのであれば止まった視界よりも歩きながらの変化のある視界でヴィパッサナーをした方が効果が高いかなあ、という気が今はしております。慣れると違うのかもしれませんけど。<br /> <br /> 視野をスローモーションで観察しても、座っているとさほど景色が変わりませんので変化を見極めようとしますと目を凝らして細かいところを見なくてはなりませんので、ちょっと目が疲れやすい気が致します。一方で、歩きながらであれば景色はよく変化しますのでさほど目を凝らさなくてもヴィパッサナー状態が保てます。<br /> <br /> そのような違いもありますし、座っている時は視野よりも内的な体の感覚にフォーカスした方がヴィパッサナー瞑想しやすい、という個人的な好みもあります。<br /> <br /> どちらにせよ、おそらくは目を開けて行う瞑想は中級者以上向きかなあ、という気がしております。<br /> <br /> 上に書きましたように視界に惑わされて雑念が増えやすいということもありますし、そもそも瞑想の基本である集中ができていない段階で目を開けても混乱しやすい気が致します。<br /> <br /> ただ、目を開けると言っても、目の前に絵や文字を置いて心の中に浮かべる、例えば禅の阿字観(あじかん)のようなものであれば目を開けていても実際はその映像に釘付けにするわけですから、それは初心者でもありかな、という気も致します。ただ、個人的にはそういうやり方はしてきませんでしたのでここは想像ですけど。<br /> <br /> Wed, 15 Jan 2020 00:00:00 +0900 散歩中に湧き上がってくる雑念を観察しつつヴィパッサナーに即座に立ち返る瞑想 https://w-jp.net/2020/1797/ <br /> 街を散歩する意識が昔とは随分と変わってきました。<br /> <br /> 今は、街を歩くと景色がスローモーションになってヴィパッサナー瞑想の状態ですので、その目の視野を純粋に楽しみます。スローモーションで撮ったカメラをスロー再生するかのように景色の移り変わりを楽しむと言う散歩です。<br /> <br /> 時々、ふと雑念が湧き上がってきますが、その雑念が湧き上がってきたことにも割とすぐに気付いて再度スローモーションのヴィパッサナー状態に立ち返ります。<br /> <br /> 以前、ヴィパッサナー瞑想の説明を受けた時に「雑念を観察しましょう」などと説明されたことがありますが、その説明が下手だったのかあるいは私が誤解して理解したのか、今から思えばそのように湧き上がってくる雑念を観察すること自体は本質ではなく、雑念なしにありのままに景色を眺めることが本質なのだとわかります。<br /> <br /> その本質の状態になるべく長く居座り、雑念が出てもすぐに気付いて本来の雑念なしのありのままのスローモーションに見えるヴィパッサナー瞑想状態に戻ることが清々しいのであって、散歩とはそのような状態で行うものへと最近は変わってきました。<br /> <br /> かなり以前の私の散歩は、ストレスなどのモヤモヤした気持ちを散らすために散歩しているような感じでした。今では全く違いますね。<br /> <br /> 最近は以前のようなモチベーションに基づく旅行にも興味がほとんどなくなっており、その意味としましては、以前のようにストレス解消やモヤモヤした気持ちを発散させるための旅行はもう興味がないのですが、散歩と同様に、このスローモーションのヴィパッサナー状態で様々な景色を見るのはありかもしれない、と最近は思うようになりました。<br /> <br /> Mon, 13 Jan 2020 00:00:00 +0900 ゾクチェンのテクチュの境地がヴィパッサナーのスローモーション体験 https://w-jp.net/2020/1796/ <br /> 半分は推測ですが、そういうことではないかな、と思います。先日にゾクチェンの3つの境地を引用しましたけれども、テクチュについて以下のようにあります。<br /> <br /> テクチュの境地とは、思考から離れた心の本性があらわれてきた状態のことです。(中略)むきだしになった心の働きのことを「リクパ」または「認識」と呼びます。(中略)あなたがテクチュの境地に留まり、リクパの認識が輝いているとき、対象とあなたの心を媒介していた思考は消え去ります。つまり、対象とあなたの心のあいだに設けられていた垣根が消え去るのです。対象とあなたの心の区別ができなくなり、対象があなたの心で、あなたの心が対象だという心の状態が生まれてくるのです。「ゾクチェン瞑想マニュアル(箱寺 孝彦 著)」<br /> <br /> 前半では重要なゾクチェン用語「リクパ」が出てきます。おそらくは、リクパとはヴィパッサナーのスローモーションな観察状態のことを意味しているのかなと思います。と言いますのも、その後に「媒介していた思考は消え去ります」と書いてあるからです。<br /> <br /> 更に続く説明には、「対象とあなたの心の区別ができなくなる」と書いてありますが、これはヨーガでいうところのサマーディの状態のことを言うように思います。となれば、サマーディはかなり多くの種類がありますが、このヴィパッサナー状態もサマーディの一部であるとヨーガ 的には言えるように思います。ヨーガでのサマーディの種類および定義は沢山ありますが、ヨーガ・スートラにはこのような「対象と心の区別がなくなるとき」にサマーディになる、と言うような定義が書かれてあったように思います。<br /> <br /> サマーディは悟りではなく中継地点ですが、それがゾクチェンで言うところのテクチュの境地であるとすればスッキリします。<br /> <br /> ただ、同書をみますとその1つ前のシネーの境地でも表現としては似ていますので、人によってはこのヴィパッサナーのスローモーション状態をシネーの境地だと判断する人もいるかもしれませんね。この辺りは、ゾクチェン的な視点で見るのであればゾクチェンのラマ僧に見て判断して頂くのが本当は一番良いのでしょうね。<br /> <br /> 今のところ、本を読んだ限りの推測のお話です。それでも、このテクチュの境地はとても興味深いものがあります。<br /> <br /> Mon, 13 Jan 2020 00:00:00 +0900 スピリチュアルと頭痛 https://w-jp.net/2020/1794/ <br /> 色々な頭痛がありますが、頭痛はスピリチュアルで様々に解釈されるものの1つだと思います。<br /> <br /> まず、肉体的な力による緊張がある場合。特に瞑想で眉間に集中するようなやり方をしている場合は力を入れてしまうと頭痛になったりします。瞑想で眉間に集中するのは力は入れずに意識だけ集中するのですがなかなかそれがうまくいかずに無意識に力が入ってしまって緊張になり、頭痛がしてしまうことがあります。この場合は、瞑想に慣れるなどして頭の緊張をほぐします。<br /> <br /> 次の解釈としては、悪い予感などのインスピレーション。これは頭痛の場合もあれば体全体が反応する場合があります。<br /> <br /> あるいは、何か高次の存在からのメッセージだという解釈もあります。個人的にも、こういう場合もあると思います。<br /> <br /> 一般的には風邪を引いた場合ですとか、あるいは、精神医学的にはストレスによるものだ、と解釈されたりすると思います。<br /> <br /> 一方で、スピリチュアルの中でも特にサイキックな人々の中で昔から語り継がれているのが、サイキックになる予兆としての頭痛です。これは頭痛の中でも不思議な頭痛で、単に頭痛と言われていますが、ストレスの頭痛とも違えば風邪を引いた時との頭痛とも違います。<br /> <br /> このサイキックな頭痛は特にイギリス等で有名らしいのですが、日本ではあまり聞きませんね。文化的なものもあるのでしょうか。イギリスとかであれば自分の症状を表に出して表現しますが、日本ですと頭痛があっても他人に言わない気もしますからね。<br /> <br /> 例えば、スピリチュアル系の書籍では以下のように記されています。<br /> <br /> ライトボディ第八レベルでは、普通ならグリーンピース大である松果体と脳下垂体が成長し、形が変化しはじめます。それらが成長するに従って、ときどき頭のなかに圧迫感を感じるかもしれません。このプロセスのあいだ、断続的に頭痛が起こるかもしれませんし、そうでないかもしれません。「ライトボディの目覚め」<br /> <br /> 個人的には、これに該当するかどうかはまだ不明ですが、後頭部の下の中程で変な緊張と痛みがあって、どういうことかなあ? と様子を見ている感じです。 普通に病気で、脳腫瘍とかじゃなきゃいいですけど。<br /> <br /> Sun, 12 Jan 2020 00:00:00 +0900 瞑想とコーヒー(カフェイン、お茶) https://w-jp.net/2020/1793/ <br /> 昔から疑問だったのですが、ヨーガや瞑想においてコーヒー(カフェイン、お茶)を取らない方が良いとしている流派と、取る方が良い、あるいは、意見を表明していない流派があることを疑問に思っていましたが、最近、自分の中で整理がついてきました。<br /> <br /> ・ヨーガの流派の多くは、カフェイン非推奨です。例えばシバナンダ。<br /> ・瞑想の一部の流派やサークルではカフェイン推奨のようです(聞いたのは随分と昔の話なので具体的な名前は忘れました)。<br /> ・以前、テーラワーダ仏教のお話を聞きに行った時「ブッダのいた当時はカフェインが良いとか悪いとか、そういう話はなかったからそれについて指定はない」とおっしゃっていました。<br /> <br /> 個人的には、最初はカフェインは非推奨でいいのかな、と思います。後になればカフェインを取るのも自由だとは思いますが。<br /> <br /> ヨーガの先生に聞いた時は、「実際、試してみて違いを見ると良い」と言われました。誰かに言われたからやる、ということではなく、実際に確かめるというのがヨーガの基本スタンスだと理解しました。<br /> <br /> 私はもともとコーヒーはほとんど飲みませんがお茶は時々飲んでいました。お茶をずっと飲まない時もあればよく飲む時もあり、急須で入れることもあれば買うこともありました。付き合いで珈琲店に行く時は試しでコーヒーを飲んでいました。<br /> <br /> そんなこんなでカフェインについてわかるようなわからないような状態だったのですが、最近になって整理がついてきたのです。<br /> <br /> まず、カフェインの効果はヴィパッサナー瞑想の日常生活上の観察状態に似ている、ということです。しかし物質に頼っていますので反動があります。私の場合、コーヒーを飲んだ場合に、すぐ後は良いのですが1日以内に不快感を感じることが多かったように思います。コーヒーを飲まない場合と比べて違いが顕著なのでよくわかりました。<br /> <br /> 昔、ヒッピー文化の時は瞑想にも薬(今は法律で禁止)を使ったりしたようですね。強制的に意識を覚醒させても反動があるという意味では、効果の大きさはかなり違えども、薬とカフェインは方向性は同じなのかもしれません。<br /> <br /> ヨーガ的には、そう言った薬の使用は推奨しませんが、それを使うかどうかは個人の自由意志ですから他人の行動を否定しません。取りたい人は好きに取れば良いが、推奨しない、というスタンスのようです。<br /> <br /> 瞑想の一部の流派は、おそらくその覚醒効果を狙ってカフェイン推奨しているのかな、と推測していますが、具体的な話を直接聞く機会は最近ほとんどありません。<br /> <br /> ヨーガでカフェイン非推奨である理由をヨーガの先生に聞きますと、団体でそういうことになっているという理由だったり、アユールベーダ的な説明をして頂いたことがあるように思います。簡単に言えば、コーヒーなどのカフェインは刺激があるから瞑想に良くない、という理由のようです。<br /> <br /> ヨーガではカフェインのみならず、辛いものなども非推奨になっています。<br /> <br /> 個人的な経験と比べてみますと、瞑想の最初はサマタ(集中)で意識を鎮めていく必要があり、その後、ヴィパッサナー(観察)の段階に移るのですが、ヴィパッサナー状態に移行してしまえばその後で刺激物やコーヒー(カフェイン、お茶)を取ろうとも影響は少ないと思うのですが、段階としてサマタをしなくてはいけない人がコーヒー(カフェイン、お茶)を取ると瞑想の妨げになるのではないかな、と思います。あるいは、サマタを育てずにヴィパッサナーを育ててしまうことになります。<br /> <br /> これはカフェインに限らないのですが、サマタなしにヴィパッサナーだけを育てると神経過敏と言いますか、色々なことが見えるようになる一方で自分の制御が効かない状態になりやすい気がします。平たく言いますと「キレやすい」状態になり、危険だと思います。<br /> <br /> そういうことで、個人的には、やはり最初はカフェインは非推奨でいいのかな、と思います。<br /> <br /> カフェインなしに「鎮める」サマタ瞑想を最初に行って、後でヴィパッサナーに移行したら好きにすればいいわけです。<br /> <br /> ですが、ほとんどの場合はヴィパッサナー瞑想にまで行かない気がします... と言いますか、ヴィパッサナー瞑想に行ける人は、最初からそういう素養がそれなりにある気が致しますので、素養がある人はカフェイン取っても影響少ないのかもしれませんが、やはり、基本はカフェイン非推奨がいいと思います。<br /> <br /> Sat, 11 Jan 2020 00:00:00 +0900 オーラのざわつきを鎮める瞑想 https://w-jp.net/2020/1791/ <br /> 最近はオーラを凝縮させて後頭部に集中していたわけですが、今朝はその範囲が広がって、身体中の皮膚の表面に合わせて凝縮させるような感じになってきました。後頭部に集中させるよりは密度は薄いですが範囲は広く、日常生活向きのような感じが致します。<br /> <br /> 朝起きた時などはオーラが揺らいでいてオーラの波がざわついている感じですが、こんな感じに皮膚に合わせてオーラを安定させることを意図するとその意図通りに皮膚に合わせて安定する感じが致します。<br /> <br /> 今日は、以前書いたようなゼリーのような感覚はしていません。<br /> <br /> 後頭部への集中とかあるいはサードアイの変化で書いたような変化はこれとは関係なさそうな感じですが、そういったことを抜きにしても、日常生活を送る上においてオーラを安定させるためにこのような瞑想をするだけでも役立つような気が致します。<br /> <br /> 瞑想では止観が重要とされていて、それは止(集中、サマタ、シャマタ)と観(観察、ヴィパッサナー)のことですが、サマタが足りないとこんな感じにオーラは安定しないかもしれません。<br /> <br /> Fri, 10 Jan 2020 00:00:00 +0900 スピリチュアル https://w-jp.net/topics/スピリチュアル/ スピリチュアル オーラの感覚を論理より重視する https://w-jp.net/2020/2104/ <br /> オーラの状態は一時的なもので絶対的なものではありませんけど、ある程度の判断材料になります。オーラと判断の関係は、私の中で時系列的に以下のように変化してきました。<br /> <br /> 1.オーラ絶対説。20年前のニューエイジ時代に、当時はオーラがその人のスピリチュアルな成長度合いを示す指標として絶対視されていたように思います。私も少なからず「そんなものかな」と思っておりました。<br /> 2.オーラ相対説。10年前から現在に至る。オーラは一時的な状態で絶対的な状態ではない。多少の判断基準にはなるがそれに左右されることはない。<br /> 3.オーラ瞬間説。(いまここ)<br /> <br /> オーラの状態を論理より重視するかどうかは時によって変わってきますけど、昔は周囲も自分もオーラの状態で人を判断したりされたり、と言った風潮だったように思います。<br /> <br /> 今もその風潮はある程度は続いているように思いますが、それに加えて、オーラの状態とは一時的なもので、ゴールドや青や緑の波動(オーラ)を持つ人であっても一時的に赤いオーラを持つことはある、と理解されています。<br /> <br /> ニューエイジ時代はオーラが絶対視されていてオーラが美しくなければスピリチュアリストにあらず、という風潮だったように思います。一方で、今は多彩なオーラが存在することが理解されています。<br /> <br /> 20年前は、他人と自分を比べて優越感を感じたりマウンティングするための道具としてオーラのカラーが利用されていたような風潮があるようにずっと感じておりました。であればそれはレベルが低いお話で、であれば、その次の段階であるオーラ相対説が広まってきたのは良い風潮であるように思います。<br /> <br /> それら2つの面はどちらもある程度は真実で、そのような面もあるかと思います。<br /> <br /> 波動の高い人は平均すればそれなりに高いオーラを保っていますし、逆もまたしかりです。そのような高い波動を持っている人でも一時的に真っ赤のドス黒いオーラを持つこともあります。そんなものです。一時的に黒いオーラを持ってもその人の本質は清浄ですのでオーラを浄化することは時間をかければ可能です。<br /> <br /> 最近の理解では、それに加えて、オーラはその「瞬間」が重要だと思うようになりました。<br /> <br /> 人のオーラは時によって変化します。瞬間・瞬間、その人のオーラは変化します。言葉の理屈で相手を説得させようとしても、オーラは正直です。言葉を発したときのオーラが言葉と一致していなければそれは何か嘘をついているか何かを隠しているわけです。<br /> <br /> ・・・こう書くと、まあ、ごく当たり前のことを言っていると思われるかもしれません。嘘は見抜ける人には簡単に見抜けますし、騙される人は何度も何度も騙され続けます。嘘を見抜く人は論理で見抜く人もいますけど、もっと簡単なのは、相手のオーラの変化を見ることです。見る、と言っていますけど視覚で見るわけではなくてオーラの変化を感じる、ということです。見る、と言っているのは歴史的にそう言っている人が多いのでスピリチュアルな文化によるものです。スピリチュアルでオーラを見る、という時は「感じる」と置き換えると言葉的には正しいです。<br /> <br /> 論理とオーラが相対した時、どちらが正しいのかと言えばオーラが正しいです。相手の論理を頭で考えても論理は大抵は間違っています。<br /> <br /> これは、実際、いろいろなところでずっと昔からいろいろな人が言っていることです。この単純な事実が何度も何度も多くの人が言っているということは、これが正しいことを示しています。<br /> <br /> しかし、頭は論理で抵抗します。「いや、これが正しいはずだ」と、論理は抵抗します。相手の理屈に加えて自分の頭が論理で抵抗してそれが正しいと思ってしまえば一旦はそれを受け入れてしまい、変な判断をしてしまうことになります。そして後で、「ああ、やっぱり直感が正しかったのだ」と後悔するわけです。<br /> <br /> 瞑想を続けてゆくと、このような論理と「感覚」の分離ができてきます。どの感覚がオーラのもので、どこからが論理によるものなのか明確に判断できるようになってきます。それは程度問題ではありますが、上記のようなことが、事が起こってしまった後ではなく、判断する前に自分の奥深いところで相手のオーラを感じて相手の言っていることがわかり、それと同時に、自分の頭で論理的に判断してその内容を理解することができるのです。<br /> <br /> 瞑想をしていない人の場合は往々にして、これらがごっちゃになっています。感覚で判断したものと論理的に判断したものが判別つかなかったり、あるいは、感覚だけで生きていたり、論理だけで生きていたりします。実際は、どちらも有益なものです。直感がオーラを感じてまず大体は正しいことがわかり、細かなところは論理を使って詰めてゆけば良いわけです。使い分けが必要ということですね。<br /> <br /> 直感は細かなことはわからないことが多いですから、直感は相手のオーラを感じて方向性を確かめることに使って、論理は細かいところを詰めるわけです。それらは本来、協調して動くもので対立するものではないのですが、瞑想をしていないとこれらが対立するものになってしまいます。<br /> <br /> 現代の人は往々にして論理が優勢ですから、むしろ、オーラの感覚こそ重視すべきだと私なんかは思いますけどね。特に誰かと話をするときはオーラの感覚でその正しさがある程度は判別できると思います。それに頼りすぎてしまうと間違ってしまうこともあります。というのは、相手が勘違いをしていて勘違いしたままの条件においては正しいということもあるからです。しかしながら、論理で「確かめ」をする限りにおいてはオーラの感覚をまず優先して判断して良いと思うわけです。<br /> <br /> Tue, 20 Oct 2020 00:00:00 +0900 プラティヤハーラのレベルではサマーディをただの集中だと誤解する https://w-jp.net/2020/2086/ <br /> 細かいお話です。<br /> <br /> まず、プラティヤハーラは観察と言えなくもありませんので、プラティヤハーラが観察瞑想だとすればその他の瞑想を集中瞑想だと勘違いしてしまっても不思議はありません。<br /> <br /> ヴィパッサナー瞑想とは観察瞑想のことですが、流派の瞑想の名前にもなっています。ですから、手法としてのヴィパッサナー瞑想と、サマーディにおけるヴィパッサナー状態(観察状態)と、とても紛らわしいのです。<br /> <br /> そして、プラティヤハーラの段階にいますとその次の段階のことが分かりませんから、時々、集中瞑想を否定する人、あるいは流派がいたりするわけです。<br /> <br /> その集中瞑想は、ヨーガスートラ的なダーラナ(集中)の段階のことを意味したり、あるいは、人によってはサマーディも集中瞑想だとみなしている人がいらっしゃいます。<br /> <br /> これは、サマーディという言葉の定義が流派によって異なるために生じている誤解です。<br /> <br /> いくつかの要素が絡み合っているわけです。<br /> <br /> ・プラティヤハーラは観察とも表現できる。(ヨーガスートラ的には感覚から離れること。制感。)<br /> ・ヴィパッサナーとは流派の名前あるいはサマーディの状態を意味する。<br /> ・ヴィパッサナーの流派によっては集中瞑想(サマタ瞑想)を否定する。<br /> ・集中瞑想(サマタ瞑想)というとヨーガスートラ的なダーラナ(集中)のみならず一部の流派ではサマーディも含まれる。<br /> <br /> 実際のところ多くの団体はプラティヤハーラとは言っていませんので、以下は私の主観による判断になりますが、私の理解を記してみます。<br /> <br /> プラティヤハーラを「観察」と位置付けているのは以下と思われます。<br /> ・大衆向け瞑想のマインドフルネス式<br /> ・ゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想<br /> ・その他各種のヴィパッサナー瞑想の流派、テーラワーダ式とかミャンマー式<br /> これはおそらくヴィパッサナー系では統一されている認識のような気が致します。<br /> ヨーガ系では「観察」とは言わずにプラティヤハーラという言葉そのままな気が致します。<br /> <br /> ヴィパッサナーという言葉の意味は以下の対応のような気が致します。<br /> ・マインドフルネス式 → プラティヤハーラ相当の「観察」という意味。<br /> ・ゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想 → 説明ではヴィパッサナーとはブッダの観察瞑想、実際やっている手法のヴィパッサナーはプラティヤハーラ相当の五感・雑念から逃れるための努力。<br /> ・テーラワーダ式 → おそらく、全てを分かった上でプラティヤハーラ相当を「観察」と言っている。<br /> ・ミャンマー式 → こちらも、おそらく全てを分かった上でプラティヤハーラ相当の「観察」から始めている。<br /> <br /> 集中瞑想(サマタ瞑想)を否定するかどうか?<br /> ・マインドフルネス式 → 否定しない<br /> ・ゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想 → 否定する(ヒステリーに集中瞑想を嫌う)<br /> ・テーラワーダ式 → 否定しない<br /> ・ミャンマー式 → 否定しない<br /> (捕捉:インドのヴェーダンタ系 → 否定する。これは意外でしたが、ヴェーダンタ系は知識(ニャーナ)によってモクシャ(自由、輪廻からの解放)を目指すのでやり方が違うようです。)<br /> <br /> 集中瞑想(サマタ瞑想)が意味するところ<br /> ・マインドフルネス式 → 単に「集中」というのみ<br /> ・ゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想 → ヴィパッサナー瞑想(観察瞑想)のための準備としてアーナパーナ瞑想(集中瞑想)という位置付けだが、実際にはそれはプラティヤハーラをするための準備になっている。集中瞑想(サマタ瞑想)が準備としておきながら、ひたすらに集中瞑想(サマタ瞑想)を否定するネガティブな見識になっている。これはプラティヤハーラのレベルの特徴。<br /> ・テーラワーダ式 → 前提条件としての集中力<br /> ・ミャンマー式 → 前提条件としての集中力<br /> <br /> これらの流派の中で、いくつかの特徴が見て取れます。<br /> <br /> ■集中瞑想を否定する流派、あるいは人々<br /> ・ゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想<br /> ・顕教の流派にいる一部の宗教家<br /> ・プラティヤハーラ相当に到達した結果、自分がサマーディの悟りを得たと勘違いしている人。<br /> (補足:インドのヴェーダンタ派もそうだが毛色が異なる)<br /> <br /> ■サマーディを単なる集中瞑想だと誤解している流派、あるいは人々<br /> ・ゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想<br /> ・プラティヤハーラ相当に到達した結果、自分がサマーディの悟りを得たと勘違いしている人。<br /> (補足:インドのヴェーダンタ派は誤解というよりはやり方がそもそも異なり、サマーディという言葉の意味そのものは集中である、と主張する)<br /> <br /> まず、流派として誤解している人がいるわけです。それに加えて、教えは正しくても、自分が悟ったかのように勘違いしている人がいるわけです。そのどちらも、似たような傾向があるような気が致します。<br /> <br /> プラティヤハーラ相当ですと見識に勘違いがありますのでマウンティングをしたり、比べたり、自己主張をします。<br /> <br /> その勘違いの一つとして、この、集中瞑想に対する誤解があるわけです。<br /> <br /> Thu, 17 Sep 2020 00:00:00 +0900 体の感覚の観察はサマタ瞑想でもありヴィパッサナー瞑想でもある https://w-jp.net/2020/2085/ <br /> ヴィパッサナー瞑想のやり方の説明で「皮膚の観察を観察しましょう」とか「歩くときの感覚を観察して気付くようにしましょう」というのがありますけど、これには2つの意味があります。<br /> <br /> A. 努力して皮膚や歩くときの感覚を観察しましょう。(時にはそれを言葉にしてラベリングしましょう)<br /> B. 努力せずに皮膚や内的感覚を観察しましょう。<br /> <br /> これは往々にして同じ文節で、一つのヴィパッサナー瞑想というやり方の説明でさらっと並列に並べられることが多いような気が致しますが、実際、別々のお話です。<br /> <br /> A. 努力して意思を駆使して体の観察をするのであればそれはサマタ瞑想(集中瞑想)です。<br /> B. 努力せずに意思が自動的に働いて体の観察をする状態であればそれはヴィパッサナー瞑想(観察瞑想)。<br /> <br /> ですから、体の観察をしています、とか、ヴィパッサナー瞑想(観察瞑想)をしています、とか言った時に、どちらをしているかで状態が全く異なるわけです。<br /> <br /> これは、それぞれ以下の段階に相当します。<br /> <br /> 5.プラティヤハーラ(制感) → Aの段階<br /> 6.ダーラナ(集中)<br /> 7.ディアーナ(瞑想) <br /> 8.サマーディ(三昧)→ Bの段階<br /> <br /> ですから、相当に違う状態であるのですが、何故か、ヴィパッサナーの流派によってはこの説明がごっちゃになっていることがあるような気が致します。<br /> <br /> どちらも言葉で言い表しますと「観察」と言えなくもありませんから、6以降の境地を知らない人は5のプラティヤハーラの境地を悟りのように勘違いしてしまうこともあり得るわけです。これは比喩で言っているわけではなくてそれっぽい人がぼちぼち散見されますのでこう言っているわけですが、そのように勘違いをしている人の特徴として「集中を否定する」ということが挙げられます。ですから、必ずとは言えないのですが簡単な見分け方は「集中瞑想を否定する人はプラティヤハーラの段階にいる」と思うとそんなに間違いではないと思います。<br /> <br /> どちらも表現としては似ていて、だからこそ言葉だけで勉強してしまうと混同しがちなのですよね。<br /> <br /> こういう時に適切なグルが近くにいればすぐに見抜いて指摘してもらえることを期待したいですけど、最近はグルっぽい人がいたとしてもよく分かっていなかったりしますし。グル次第ではありますけどきちんとしたグルがいれば修正が効くものとは思います。<br /> <br /> プラティヤハーラのレベルは悟りと混同しがちな落とし穴ですので、そこにハマってしまっている方も多いですよね。<br /> <br /> ですけど、とりあえず今世を幸せに暮らす分にはプラティヤハーラでもそこそこ楽しく幸せに暮らすことができますので、わざわざその勘違いを指摘する必要もないかな、という気も致しますよね。この世にはプラティヤハーラにすら達していない世俗の人間が大勢いますから、そのような人たちと比べると十分に進歩していますので、自称悟りに達したとは言っても物足りなくはあるのですが、ある程度は幸せでしょうし、自分がそういうのでしたら好きにすればいいと思います。<br /> <br /> プラティヤハーラのレベルですと、宗教をどちらかというと唯物論で捉えがちな気も致しますね。よく分かっていない世俗の僧侶が道徳を持って語る時はこのレベルですし、瞑想の流派によってはマインドフルネスですとかゴエンカ式はこのレベルです。<br /> <br /> 一方で、サマーディのレベルになると割と霊的な世界に入ってきて、先祖霊や守護霊、ハイヤーセルフ、過去生、未来生、遠隔視などのお話が入ってきます。割と今ではスピリチュアルな分野のように思われていますけど、ヨーガでも仏教でも、ある程度のレベルに達すればこのようなお話は普通に入ってきます。<br /> <br /> この種のお話になると唯物論の人は入ってこられないですよね。プラティヤハーラのレベルで自分が悟っていると思っている人たちは往々にして霊や高次元のお話を拒否したり否定したりばかにしたりしますから、そのような言動があればその人がプラティヤハーラのレベルで唯物論のレベルなのかそれとも高次元のことがわかる人なのかよく分かるわけです。<br /> <br /> 仏教ですと何か見えたりすると魔境とか言って否定したりするみたいですけど、別に、大したお話でもないと思いますけどね。魔境とか言っているのは、教義の根本のレベルがプラティヤハーラで留まっているからこそその上の階層を理解できないでいるような気も致します。実際のところ魔境でもなんでもなくて、それがこの世界の姿なのですから、もう、仕方がないですよね。魑魅魍魎に気付かずに魑魅魍魎の中で暮らすよりも魑魅魍魎に気付いて少しづつでも対処してゆく方が遥かに健全だと思いますけどね。魑魅魍魎にやられてしまうのはエネルギーが低いからであって、クンダリーニを活性化してエネルギーを上げないといけませんしね。<br /> <br /> まあ、そんな感じで、プラティヤハーラのレベルですと色々と勘違いをしていて、サマーディのレベルを思い違いしていたりすることもあるのかなと思います。<br /> <br /> Thu, 17 Sep 2020 00:00:00 +0900 プラティヤハーラの段階にある数々の落とし穴 https://w-jp.net/2020/2081/ <br /> ■集中瞑想を否定する人はプラティヤハーラの段階にいる<br /> <br /> 瞑想初心者でプラティヤハーラをしている段階ですと集中と観察が相反するものとして作用し、集中をすると観察が妨げられる作用が起こります。一方、ディヤーナ以降に進みますと集中しても観察が妨げられにくくなります。<br /> <br /> 5.プラティヤハーラ(制感) 集中すると観察が妨げられる。<br /> 6.ダーラナ(集中)<br /> 7.ディアーナ(瞑想) 集中と観察が共存し始める。<br /> 8.サマーディ(三昧)<br /> <br /> プラティヤハーラは感覚から離れて雑念のしがらみから(少しだけ)解放されることですが、それを「観察」と表現している流派もあります。<br /> <br /> 初心者の場合はプラティヤハーラをまずは目指しますが、その段階ですと、集中すると観察が妨げられる感覚になります。<br /> <br /> これは、プラティヤハーラがまだできていない段階ですと意思が自我と深く結びついており、集中しようとすると自我が強くなってしまうからです。<br /> <br /> 一方、ディアーナ以降になりますと自我の抑制が効いておりますので集中というものが自我の抑制として作用し、自我が安定し、瞑想が深まるわけです。かと言って観察が弱まるわけではなく、ディヤーナからサマーディに移行する頃には次第に五感を超えた意識が生まれてきて、その新たなる感覚が「観察」を司るようになります。ですからプラティヤハーラもサマーディも両方とも「観察」と表現できますけど、それはかなり違う状態なわけですね。<br /> <br /> 5.プラティヤハーラ(制感) 集中すると観察が妨げられる。観察瞑想。集中をある程度否定する観察瞑想。<br /> 6.ダーラナ(集中)集中瞑想。<br /> 7.ディアーナ(瞑想) 集中と観察が共存し始める。<br /> 8.サマーディ(三昧)観察瞑想。自我は集中によって安定。五感を超えた観察。集中によって五感を超えた観察が妨げられない。<br /> <br /> この、プラティヤハーラとサマーディの状態はかなり違うものであるのに、言葉の説明としては部分的に似通っています。それ故に、各種の誤解が生じているような気が致します。<br /> <br /> 見たところ、特に瞑想初心者、スピリチュアル初心者はプラティヤハーラを達成することが悟りのように思ってしまう方がぼちぼちいらっしゃるようです。その場合、「集中」を否定して「観察」することが重要だと言われるわけですが、その説明を聞いてみるとサマーディっぽいことを言ってたりもするのですけど何か説明が食い違っており、どうやら段階としてはプラティヤハーラにいるのだとわかったりするのです。<br /> <br /> おそらくは・・・、プラティヤハーラのところでプラトーが存在して、人によって何世代も転生をして、人によっては10回、20回と転生をして、それでもプラティヤハーラから上にはいけない・・・。そんなものなのではないかなと思います。<br /> <br /> ですから、プラティヤハーラをして悟りだと称している人のことを責めることはできないと思います。<br /> <br /> この視点を持って世の中の宗教を見てみれば、特に世俗宗教と化して世襲が継いでいるような流派が庶民に寄り添うと称してプラティヤハーラが悟りだと教えを説いているような気が致します。世間的にはそれは顕教として分類されるのだとは思いますが、宗教を見る上でプラティヤハーラをしているのかそれ以上をしているのか見極めるのは重要であるように思います。<br /> <br /> プラティヤハーラは世俗の権益と迎合しやすく、権力が人々を操りやすくするために利用してきたと言う歴史もあると思いますし、それ以上の真理を知ってしまうと自由になってしまうからあえて教えてこなかったと言う腹黒い事情もあるかと思います。顕教にいる人は権力的なものと結びつきやすいのだと思います。<br /> <br /> プラティヤハーラの顕教のわかりやすい教えが真理で悟りだと思ってしまった人々は本質が分からなくなり、よくある宗教のように「○○さえすれば救われる」「○○をしていれば良い」などと道徳を解くようになるわけです。<br /> <br /> それ故にプラティヤハーラは悟りと混同されることがあり、最近の宗教者は世襲制が多くて真理がわからなくなっていますから、尚更、世間が一応は納得してもらえるような道徳的なところにしがみつくわけですが、宗教者としてはそれでは全く不十分であるわけですよね。<br /> <br /> 宗教者でなくともテクニックとして瞑想だけをしている人も同様で、求めるところが世俗の利益や単なるリラックスであれば求めるところはプラティヤハーラ、あるいはダーラナのゾーンで歓喜に至るところがゴールになるかと思います。<br /> <br /> 本人が何を求めるのも自由で、それは好きにすればいいとは思いますけど、プラティヤハーラを悟りのように扱うのはやめていただきたいところですね。それは悟りを貶める行為です。観察瞑想と名乗るのは自由ですけどプラティヤハーラのことを観察瞑想と言うのであればその自覚くらいはしていただきたいのです。そうでなければ、説明であれやこれや悟りのことを言っていて、でも、実はそれはプラティヤハーラでした、みたいな喜劇が生まれてしまいますからね。<br /> <br /> その喜劇を見分ける方法として簡単なのがおそらく「集中を否定して観察瞑想を主張している人は(例え悟りのことを言っていたとしても)プラティヤハーラのことを言っている」と言う判断基準かなと思います。<br /> <br /> これは顕教だけでなく密教のように見える流派であってもそうであることがあるように思えます。最近はそこまで真理が忘れ去られてしまっているのでしょうか。あるいは全て分かった上で隠しているだけと言う場合もあるように思いますが。さて、どうでしょうか。<br /> <br /> ■プラティヤハーラを超えられない流派は他派を拒否する<br /> <br /> プラティヤハーラは世俗利益と結びつきやすく、又、流派としても自分たちの教えの中に閉じこもりがちです。<br /> <br /> これは悪いと言っているのではなく、その段階においては必要なことなのだと思います。そのくらいの段階ですと他者のことはよくわからず、分かっていると思っていても誤解が多いのかなと思います。<br /> <br /> 色々な理由があるとは思いますけど、プラティヤハーラを悟りだと勘違いしている流派はダーラナ以降を否定しがちだと思います。<br /> <br /> プラティヤハーラはいわば「観察」ですから、「集中」を否定するわけです。<br /> <br /> そのパターンに落ち込んでいる流派もぼちぼちいらっしゃるように思われます。例えばゴエンカ式はその典型のように思います。あるいは、伝統的な仏教の流派でそこまで否定的ではないにせよそれっぽいところを見たことがあります。仏教は幅広く、カトリックっぽい仏教から禅のような仏教まで様々ですので一概には言えないのですが、いわゆる大衆向け仏教はその傾向が強いようにも思います。<br /> <br /> 一方で、世俗的権威と結びついたり、あるいは、結びついてはいなくても変な思い込みに支配されてしまった流派でプラティヤハーラを悟りのようにみなしている場合は他派を拒否する傾向が強いように思われます。<br /> <br /> 家系だとか一族だとか、そのようなところで宗教が代々受け継がれている場合も実力主義ではなく世襲になってしまってプラティヤハーラを超えられず、自尊心ばかりが肥大化してしまっている方がぼちぼち散見されるような気も致します。<br /> <br /> ある程度歴史のある一族に生まれたからと言って前世もその一族だったとは限らないですし、私が見たところ、単に修行のために一族に生まれただけなのに勘違いして自分がその流派を背負っているかのように思い込む方もいらっしゃるようですしね。自分自身のことがわかっていないとこのように他の流派を否定してしまうのですね。<br /> <br /> スピリチュアルについては多様で、昔と今とで気質が変わってきていますね。<br /> <br /> 昔はプラティヤハーラ以外は否定するようなマウンティングが多かったですし、スピリチュアルな人同士が仲が悪かったように思いますが、最近スピリチュアルやっている人は仲がいいような気が致しますね。昔はね、プラティヤハーラしかやっていないで悟りのように思っている人に指摘したら「もっとおおらかにしないと」とか「今は教師のいらない時代だから(だからあなたはその程度なのよ)」とか言われて拒否されるどころか逆にマウンティングされたりするスピリチュアルが多かったですが、最近はあまり聞きませんね。昔はスピリチュアルな領域に世俗の宗教のはぐれ組が入ってきて権威付けをしていたと言う面もあったように思います。<br /> <br /> 昔も今もスピリチュアルの多くはプラティヤハーラだと思いますが、最近は整理されているのと、スピリチュアルの領域に本質を知った人が続々と参入してきているのが大きい気が致しますね。その一角には宇宙由来の魂も大勢いらっしゃるように思います。そのような宇宙的な背景もあるのか最近のスピリチュアルは割と仲がいい気が致しますね。新しく入ってきたスピリチュアルな人が、昔からいた権威と結びついている面倒なスピリチュアルを駆逐した感があります。まだあるにはあると思いますけど目にすることは少なくなったように思います。<br /> <br /> そう言うわけで、私はスピリチュアルの方面に可能性を感じるのでこれらの記事もスピリチュアルとして位置付けているわけです。本質はどれも変わらず一緒だとは思いますけどね。<br /> <br /> ■プラティヤハーラのレベルでは相手を自分の流派に変えさせようとする意思が働く<br /> <br /> これは自分の流派が一番だと思っている裏返しですけど、理屈としては全ての宗教や流派の根元は同一なので尊重すべきだと頭では理解できたとしても、プラティヤハーラのレベルではその意味をきちんとは理解できませんので、何某かの「わかっていない」行動が出てきます。これもその1つです。<br /> <br /> サマーディのレベルに達したことで全ての宗教や流派の根元は同一だと理解することと、プラティヤハーラのレベルにいて頭でだけそのことを理解することでは納得度と態度・行動が異なってくるのも当然だと思います。<br /> <br /> プラティヤハーラのレベルですと、例えば「全ての宗教や流派の根元は同一だから、みんな私の流派に属するべき」と考えてしまうわけです。一方、サマーディのレベルに達すると宗派や流派なんてどうでも良いことがわかりますから相手の宗教を尊重しますし、他の宗教の良いところは取り入れたりもします。<br /> <br /> 教義に凝り固まっている「信じなくてはならない」宗教はプラティヤハーラのレベルなのですよね。そして、自分たちだけが最高の真理を知っていると思っているのもプラティヤハーラのレベルの特徴です。<br /> <br /> おそらくは誰しもが通る道ですので別に悪いこととは言いませんけど、あらかじめそう言うものだと思っておいても損はないと思います。<br /> <br /> あるいは、知ったところで更なるマウンティングに使われるだけかもしれませんので、何も言わないのが本当はいいのかもしれませんけどね。何を伝えてもうまく自分の利益に誘導してしまう人がいるので、このようなお話をしたとして、相手に対してマウンティングするためにオウム返しをするのだとしたら本末転倒なわけです。まあ、マウンティングに使うとしたらその程度のレベルなわけですけどね。<br /> <br /> 何を言ったところで本質がわかっている人はわかっているし、何も言わずにマウンティングされまくっていて下に見られていても実際は本質がわかっている場合もあります。本質がわかっている人はマウンティングなんてどうでもよくて、ただ単に、めんどくさくて付き合う必要もないと思うくらいのことです。<br /> <br /> そのように、プラティヤハーラのレベル同士ではマウンティングが始まり、お互いの流派の良いところを認める代わりに自らの流派が優っていることを証明しようとします。そうしてまた分裂が始まるわけですよね。<br /> <br /> どんなに努力してもプラティヤハーラのレベルではお互いを理解することはなく、次なる段階に進まないと本質の理解はないわけですね。<br /> <br /> このようなプラティヤハーラのレベルにおいて、例えば「家系」だとか「宗教の本家の一族」だとか言う特権意識が生まれ、自分たちの流派は正しくて絶対だと言う認識が代々生まれ続けるわけですね。<br /> <br /> 由緒正しき仏教の本家の家系の物語について最近認識が変わったのですが、もともとこれは「ずる賢い男が由緒正しき家系に入り込んで食い物にする物語」かと思っておりました。しかしながら、今思うに、由緒正しき本家の家系においても、プラティヤハーラを超えられずに世俗的な権益を求める人たちの良い道具になってしまっていてサマーディに達することができないと言う先祖代々の悩みがあるようなのです。であれば、このようなプラティヤハーラを超えられずに他の流派と不和を起こしてしまうのは必ずしも意図しているわけではなく、超えられないからこそ不和を起こしてしまうと言う先祖代々のカルマを背負っているとも言えるわけです。<br /> <br /> 余談になりますが、どうやら、この物語に出てくる、どこぞの馬の骨とも知れない欲望だらけの男を何故本家の家系に受け入れて家族にしたかと言うと、この母親である「お節介おばさん」が次のように考えたようなのです。「この欲望だらけの男は、我が家系を食い物にしようとしている。よくいるような、修行だけしに来て看板だけもらってあこぎな商売をする人か、あるいは、権力者が宗教を利用するかのような、そのような下世話な意図を持っているのが見え見えだ。普通なら追い返すところだ・・・。しかし、この者は魂としても若く、未熟で、まだ矯正できそうであることと、先祖代々のカルマを解消するためにはこのような欲望だらけの男を身近において理解し、それを矯正するという経験を積むのが我が一族のためなる」と判断したようなのです。由緒正しき仏教の本家のカルマというものがあるのですね。そのために自分たちの家庭に欲望まみれの人を入れて学ぶというのは、どこか私の今生のやり方に似ていて共感を覚えます。なんで由緒正しき仏教の本家にあんな欲望まみれで、しかし表面はよくて、しかし時にヤクザのような人がいるのか不思議だったのですが、根がヤクザでこのような事情があって子供の頃から矯正されて躾けられてある程度の振る舞いをしているのだとしたら理解できます。そういう人もいるのですね。最初はいい人かと思いましたけど怖い人だとわかりましたのでもう関わり合いたくはないですけどね。<br /> <br /> そのように、表づらは良くてもプラティヤハーラでは相手を完全に受け入れることはなく、自分の方へと相手を迎合させようとします。<br /> <br /> まあ、私なんかは、その意図が分かったとしてもわからないふりして相手がどう動くのか、どのような表情をするのか観察するのが割と趣味みたいなもので相手のいいようにさせてみることが多いですけどね。私のことを単純なカモだと思っていてニヤニヤと笑いを堪えられなくなっている詐欺師の腹の中まで透けて見えていますけどとりあえず私は「そうですね。ああ、わかります」とか言ってとりあえず話を合わせているので、まあ、引き出せるだけ相手の情報を引き出してあげるのはこっちですけどね。<br /> <br /> まあ、プラティヤハーラな人は損得勘定で動きますので所詮そのレベルですよ。本気になって付き合う必要もないです。<br /> <br /> 相手の流派を受け入れるのも自分たちの流派に入れるための口実でしかないですし、あるいは、自分たちの流派が相手より優れていると相手に納得させてマウンティングを取るための単なる導入のアイスブレイクでしかないわけです。<br /> <br /> プラティヤハーラな人の認識は、そんなもんです。色々説明したとしても自分の流派のことを傷付けられたと感じて逆に怒り出すことも多いので、わざわざ説明なんてしません。好きにすればいいんです。まあ、話しかけられたら「○○は凄いよいですよね」とか適当なことを言ってあげると勝手に喜んでくれます。私なんかは全部の流派はそれぞれ優れていると思っていますのでその発言は嘘ではないですし、実際に凄いと感じることも多いです。私は社交辞令はあんまり言わないですからね。割と適当で、それは神様がぽんっと口に出させた発言ですけど、それで喜んでくれるならそれでいいですよ。そんな感じで、プラティヤハーラな人との会話はこのブログで書いているような込み入ったことではなくて、神様がポンと口に出させた簡単で良い言葉くらいで軽く流しています。プラティヤハーラは雑念から逃れる「観察」が目標になるレベルなので、あまり難しいことを言わずに、会話をするにしてもそのくらいで十分なのだと思います。<br /> <br /> そのように、プラティヤハーラのレベルですと争いが絶えず、心の安らぎに達しません。しかしながら、ひとまずの目的地としてはプラティヤハーラは必要であると思うわけです。<br /> <br /> ■プラティヤハーラのレベルでは相手をコントロールする意思が働く<br /> <br /> 顕教などの「わかりやすい教え」「道徳的な教え」を相手をコントロールするために使うのがプラティヤハーラのレベルです。<br /> 例えば、本質から目を逸らし、「わかりやすい教え」で煙に巻くために顕教の教えが使われたりします。<br /> <br /> あるいは、「わかりやすい教え」さえ理解していれば悟ることができるかのように説くのも、本質から遠ざけてコントロールしやすくするために使われるテクニックです。<br /> <br /> 「わかりやすい教え」は解釈が幅広いですのでマウンティングに利用しやすいです。<br /> <br /> 何か本質的なところに気付きそうになった時、「わかりやすい教え」で分かった気になります。しかしながら、それはあくまでも顕教の道徳的なお話であって、密教の本質ではないのですよね。密教の本質を求めている人がまずそんなにいないですけど、本質に目を向けさせる代わりに顕教の教えで終わりにしているところが罪作りなわけです。<br /> <br /> 悩みがあって宗教や真理を勉強している人に顕教のわかりやすい教えで満足しなさいと説くのは真実を隠しているということであり、かなり深い罪であると私なんかは思います。それは口調では優しいですし顔ではニコニコしていますが、その教えで悟ることはできず、ただ単に、それは相手をコントロールするための手段として用いられているだけのことです。<br /> <br /> ・・・これ、きっと実例がないと分からないと思いますので、そのうち何かあったら書きたいと思います。前にあった実話は、細かいところを忘れてしまいましたので。<br /> <br /> 言葉では色々と言っていても、本質を見ると、結局は顕教はプラティヤハーラを解いているのです。顕教の「わかりやすい教え」はプラティヤハーラであり、雑念からの離脱を解いており、雑念に惑わされないようにしましょう、穏やかに生きましょう、と解いています。もちろんそれ自体は入り口ですし良いことですが、プラティヤハーラができればそのまま悟りだと解いているところが罪作りなのです。そんなわけがありません。<br /> <br /> この種の勘違いは古典的な流派にもその毒を撒き散らしており、プラティヤハーラ相当しかしていないのに自分はそれなりの境地に達したと思っている方がぼちぼちいらっしゃるような気が致します。プラティヤハーラ相当ですと、グル等の監視がなければ自分一人では必ず他者と比べ始め、相手をコントロールしようとする意思が働き始めます。しかもそれが顕教の「わかりやすい教え」を手段として用いてコントロールを意図されると厄介です。慣れれば胡散臭い人はすぐに見分けることができますけどね。<br /> <br /> ただ、本人は良かれと思ってしている場合もありますので、指摘すると自分はそんなつもりではない、と言ったりします。そのように、プラティヤハーラで止まっている場合は自分が何をしているのかすらわかっていない場合もあります。行動としては現世利益をしていても言葉では真理を説く、と言うような分離状態であることに自分が気付けないのがプラティヤハーラのレベルです。ですから、プラティヤハーラのレベルの人が大勢いる団体は真理を説いていながら現世利益を求めたりするわけです。そのような団体では往々にして顕教の「わかりやすい教え」が自分の現世利益の行動を覆い隠して誤魔化すための道具(方便)として使われてしまうようなおかしなことにもなっていたりするわけです。<br /> <br /> Wed, 16 Sep 2020 00:00:00 +0900 霊視などの能力とエネルギー総量は別のお話 https://w-jp.net/2020/2073/ <br /> 霊視はサードアイ等の能力。<br /> エネルギー総量はクンダリーニの活性化などのお話。<br /> <br /> それぞれ別です。<br /> <br /> 能力は周囲の霊的なものを感じ取る力。<br /> エネルギーレベルはポジティブさに関連しています。<br /> <br /> この両者はバランスよく育てる必要があります。<br /> <br /> 理想を言うのであればエネルギー総量を上げるのが先、能力は後がいいと思います。<br /> <br /> 能力だけ上げてしまうと、能力が上がったことによって感じやすくなったことで周囲のポジティブおよびネガティブの両方に感応しやすくなってしまい、エネルギーが足りないとネガティブの方に引き寄せられてしまいます。<br /> <br /> パワーが上がればポジティブになって雑念が減ると言うのが基本です。<br /> <br /> 能力だけアップしてエネルギーが足りない場合は体調の不良に悩むことにもなります。<br /> <br /> 基本は自分で自分の能力を磨く、それは浄化ということですけど、浄化を進めることが1つ。<br /> それと、エネルギー的に自分の体を活性化してクンダリーニを動かすことが重要です。<br /> <br /> まあ、そうは言いましても人は色々で、このような地道な方法を選ばない人も多いのです。<br /> <br /> 例えば、自分のエネルギーを上げる代わりに妻などのパートナーあるいは会社の従業員からエネルギーを吸い取っている方も大勢いらっしゃいます。本人はそれと気付いていないことも多いですし、周囲から見るとポジティブに一見すると見えますけど、よく見れば本人のエネルギーが活性化していなくて他から奪っていたりするのがわかります。往々にしてそう言う人はうまく周囲からエネルギーを奪っていますので、あまり関わり合いにならないのが良いかと思います。<br /> <br /> 妻が年齢に対して衰弱しているのを見ると夫がよほどエネルギーを吸い取っているのだなあ、というのが一目瞭然なのですが、それは、妻を養う変わりにエネルギーをもらうという関係になっている場合もありまし、家庭のことには興味がなくて、ただ単にエネルギー的にそういう関係になっているという点が目につくだけのお話です。私なんかからすれば、よく妻が離れずついているなと思うわけですけど、その人の勝手ですから好きにすればいいと思います。<br /> <br /> 能力は自分が持つ必要がありますが、それすらも、他人から奪うことが一応はできます。古い神話を見ると「能力を奪う」お話がいくつも出てきていますけど、それは事実なわけです。とは言いましても最近の能力者は大したことないので能力を奪うとかそういうレベルではないですけど。<br /> <br /> 大抵の場合、能力があると言っても周囲の人の考えることがわかるだとか、オーラの感じがわかるとか、その程度であることがほとんどです。それは、本来は日本人であればほとんどの人に備わっていた能力で、特に特別でもなんでもない能力です。<br /> <br /> 今更、それをわざわざ修行とかして開発したとか言っている人がいますけど、日本人にしてみたら当たり前すぎて「あ、そのことをサードアイとか霊視とか言っているのですか? な〜んだ。拍子抜け・・・」っていうくらい平凡なことだと思います。<br /> <br /> まあ、そういう能力的なところと、エネルギー的なところですね。そのバランスが取れていないとネガティブに悩みます。<br /> <br /> それと、それなりに修行が進んだ後であれば、尊敬を集める、権力を握るなどの方法でエネルギーを集める方法があります。例えば戦国時代の天下人にでもなれば全国からの尊敬を集めたわけで、スピリチュアルなエネルギーも相当に集まるのです。<br /> <br /> 現代人の有名人も同様ですね。世界にあまり良い影響を与えないような存在であってもそれなりに有名になればエネルギーが集まって、その集まったエネルギーで更に活動することができてしまいます。ですから、有名でエネルギーに溢れているからと言って良い存在とは限らないわけですね。有名になりさえすればポジティブ・ネガティブの両方のエネルギーが集まりますから、それを扱うことができる器がなければ壊れてしまうわけです。ある程度の修行をしてクンダリーニが活性化し、自分のオーラがしっかりした状態でないと有名になるのは危険なようにも思います。<br /> <br /> 現代はスピリチュアルなことが軽視されすぎていますけどね。有名になっている人を見ると前世などでしっかり何某か修行してきた人も多いような気が致します。今生では割と普通の人生であったとしても、ある種の基礎ができているわけですね。そうでなければ若くして有名になるのはもちろん、歳を取ってからであっても何某かのスピリチュアルな基礎がなければ有名になった後すぐに倒れてしまうと思うわけです。<br /> <br /> Mon, 14 Sep 2020 00:00:00 +0900 <link>https://w-jp.net/2020/2070/</link> <description><br /> </description> <pubDate>Sun, 13 Sep 2020 00:00:00 +0900</pubDate> </item> <item> <title>霊界を超えた天使界のはたらき https://w-jp.net/2020/2069/ <br /> 昔、夢で見た天使界のお話を書いて、最後に、そのお姫様が私の守護霊だと言いました。<br /> <br /> そのお姫様はいわゆる天使界に相当する宇宙の彼方の惑星から地球に訪ねてきているわけですが、天使が存在している世界は、一般の人が死んでから行く霊界、あるいは幽界と言った方が適切かもしれない世界よりももっと高次元に存在します。<br /> <br /> 幽界あるいは霊界は思いがそのまま現実化する世界で、基本的には生前の姿の中で一番良いと本人が選んだ姿をしており、男性であれば健康的な青年の姿をしていることが多く、女性であれば一番綺麗な年代の姿をしていることがほとんどです。その世界では思いによって家や家具や地形なども好きにできます。体をぐにゃぐにゃ動かしたりすることなんて簡単です。あの世の世界は、いわば「思いこみ」によってできていると言えます。<br /> <br /> その一方で、天使界はそれよりもっと上の世界にいます。<br /> <br /> とは言いましても割と地続きみたいなもので、人の意識が高まればその世界も認識できるようになります。しかしながら、特に修行もしていない人ですと死後であってもその世界の存在に気づきません。死後に幽体となっても天使界の存在に気づかないのが普通です。生前であればもっと気付けないのは当然です。<br /> <br /> しかしながら、人間であっても天使界に辿り着くことは可能です。<br /> <br /> 例えば私の守護霊は2人いて1人は上に書いたお姫様ですが、もう1人はもともとチベットで修行した僧侶が天使界にまで登り詰めて大師に仕えて使役していて、そんな人が私のハイヤーセルフにお願いされたという事情があって今は私の守護霊をしてくれているわけですけど、そのようにもともと人間であっても天使界にまで上ることは可能なわけです。<br /> <br /> ですから、特に世界が分断されていると言うわけではなく、認識できる世界に違いがあると言うことです。<br /> <br /> 天使界も、正確に言いますと宇宙の彼方にある天使が元々住んでいた惑星こそ天使界と言った方が適切ではあるのですが、一般的には、この地球の存在している次元の領域で天使が活動している高次元の世界を天使界と言っていると思いますので、ここではそのような高次元の世界という意味で使っています。<br /> <br /> 天使たちのいる高次元では、いわゆる大天使が中心となり、その指示に従って天使あるいはこのような地球育ちで天使界に辿り着いた人たちが活動しています。時々、宇宙人も相談しに来ています。元々、天使たちは遠い惑星からやってきた宇宙人でありますし、割と宇宙人というのは普通の存在です。<br /> <br /> そのように高次元で天使あるいは天使と関わり合いのある存在たちが協力して地球を導いています。<br /> <br /> 特に、地上に派遣される人員の中でも重要な人物を「大師」と呼んだりします。秘密結社あるいはヒマラヤ大師などでかつては有名になりましたが、そのような姿だけでなくても現実の社会に普通に溶け込んでいたりします。それと明かす人もいれば明かさない人もいます。<br /> <br /> このような関係は昔からありましたし、今も存在します。そのように、天使界と人間界は密接に関与しているわけです。<br /> <br /> これは、以前書きましたように、大天使が「完了」と判断して新時代の地球の黄金時代が始まるのを見届けるまで続く体制です。<br /> <br /> 大天使からすれば時空を超えて働いておりますので、天使たちの感覚からすれば割とすぐその時代はやってきますが、地上の人間からしたらまだまだ何世代も時間がかかると思うかもしれませんね。あるいは意外とすぐかもしれませんけど。その辺り、天使の時間感覚と違うので天使たちがいう「すぐ」は人間感覚ではよくわかりません。<br /> <br /> Sun, 13 Sep 2020 00:00:00 +0900 私への恨みは全てそのままお返しします https://w-jp.net/2020/2068/ <br /> 瞑想中、かつて私を恨んだであろう人の姿がイメージに出てきました。<br /> <br /> 今までは、基本的に恨まれても放っておきました。何故かそうするのが良いと思っていたからですが、今から思えば、私の今生の目的はカルマの解消と覚醒への階梯を確かめることの2つでしたからこそ、どん底に突き落としたり、あるいは、恨まれた時の状態を理解して学ぶために恨まれても放っておくべきと判断していたように思います。<br /> <br /> 顕在意識では恨まれたくないですし恨まれたらその分、跳ね返して返すべきと思っておりましたが、潜在意識において恨まれることは必要な学びだから跳ね返さずに恨まれたことでどのように自分が変化するのか学ぶと良い、と判断していたように思います。顕在意識より潜在意識が勝ちますから、今までは、恨みに対してなされるがままでした。<br /> <br /> ですから、相手からしたら簡単な相手だと思われていたことでしょう。相手からすればうまく恨んで私をどん底に落としたつもりになっていい気になっていたでしょうが、ことあるごとに、誰かから私が恨まれる度に、私が必要な学びの環境へと誰かが私を突き落としてくれていたわけですから、実際のところ、私の思い通りに相手が動いて私を恨んでくれたのだと言うこともできます。全ては私の掌の中で動いていたわけですね。<br /> <br /> そうは言いましても、最近はその必要もほとんどなくなっており、そろそろ、清算して自分をガードすべきではないかと思いました。<br /> <br /> 瞑想中に自分の中を探ってみると針のようなものが見つかることがあるのですが、大きなものはほとんど取り除いたと思うのですが、まだ細かなものが残っているのです。<br /> <br /> 今回、試しに「私への恨みは全てそのままお返しします」と宣言したところ、残っている細かな針が少しづつ消えてゆくではありませんか。どうやら、私のオーラの中に根深く残っていたようですね。<br /> <br /> 宣言は更に続き、「私への恨みは、相手ごとに、現在あるいは過去のとある1点にまとめてお返しします」と宣言しました。<br /> <br /> これはどう言うことかと言いますと、相手は私を何日、何週間、何ヶ月に渡ってしつこく恨んだりするわけですが、それを都度返すのではなく、時空を超えて全てひとまとめにして、これまた時空を超えた1点にまとめてお返しします、と宣言したのです。<br /> <br /> こうすることで、個別であれば跳ね返されてしまって再度私に戻ってきてしまうかもしれない恨みが、強力な自分自身の刃となって帰って行くように意図したのです。<br /> <br /> その結果、相手がどうなるのかはよくわかりません。交通事故かもしれませんし単なるトラウマあるいは鬱になるのかもしれません。<br /> <br /> もはや私は特に相手を恨んではおりませんので、更にこのように宣言しました。「何も付け加えません。しかし、何も引きません。相手が私を恨んだ分、100%そのまま相手にお返し致します。」<br /> <br /> こうすることで、私の方にカルマが残らないようにします。<br /> <br /> 私の体に刺さっている針は針と見ることもできますが、それは恨みの塊ですから、よく見ると気持ち悪くて、まるで毛穴に黒い垢が詰まったかのようなおぞましい様相をしています。それが、このように宣言するごとに少しづつ消えてゆき、おそらくは恨みを発した人にそのまま帰って行っているような気が致します。<br /> <br /> 今までは私に必要だったからこそ相手の恨みを利用したとはいえ、そうは言いましたも恨みは恨みでありますから、相手にはその恨みは返してしまうのが一番だと思います。そこらに捨ててしまうと、このような恨みの想念はぷかぷかとそこらを雲が流れるように漂って行って無害な人の体にくっついてしまうことがありますからね。世間で不意にネガティブになったりする人の原因はこのような単なる事故の時もありますから、そこらに放ってしまうよりは、本人に引き取ってもらうのが一番なのです。<br /> <br /> このような「呪い返し」をするときに重要なのは、相手の方がエネルギーが高いと呪いが逆に返される場合があると言うことです。<br /> <br /> 呪い返し成功パターン:呪ってきた人 →(呪い)→ 私 →(呪い返しで跳ね返す)→呪ってきた人が私よりエネルギーが低い場合は呪い返し成功。呪いは全て呪った人自身に戻る。<br /> 呪い返し失敗パターン:私より呪った人の方がエネルギーが高い場合は呪い返し失敗する。<br /> <br /> ですから、おそらくは私の若い頃に、わざわざ自分をどん底に落としてエネルギーを枯渇させて覚醒への階梯を確かめるなんてやっていた頃に呪い返ししようとしても相手の方がエネルギーが高くて呪い返しなんて成功しなかったと思うのです。おそらくは同様の意図を何度もしていたのですが、失敗していたと思います。その失敗すらも過去生ではほとんど失敗していなかったと思いますので、エネルギーが低いと呪い返しに失敗すると言うことも含めて学びの一環だったわけですが。過去生では大体の場合に覚醒しておりましたので呪い返しが失敗するなんてほとんどなかったように思います。エネルギーが低いとこんなにも呪いへの対処に失敗するのか、と言うのは必要な学びでした。<br /> <br /> しかしながら、今はクンダリーニが覚醒して、オーラのエネルギーがアジナ優勢に変化して、エネルギー的に不足はありません。<br /> <br /> そこで、そろそろもういいかな、と言うことで上記の宣言をしたところ、どうやらうまく行ったようなのです。<br /> <br /> 恨みだけでなく、他にも色々返すことにしました。<br /> <br /> ・私を馬鹿にした人に、その思いをそのままお返し致します。<br /> ・私を蔑んだ人に、その思いをそのままお返し致します。<br /> <br /> 等、恨みに類した事項もこの宣言に加えました。<br /> <br /> どうやら、このように言葉にすることで精妙な世界ではそれがルールとして働くようですね。<br /> そして、一旦ルールとして潜在意識に書き込まれたら特別な指示をしなくてもそのルールは働くようです。<br /> <br /> 過去だけでなく、基本的には未来も同様のルールで恨みや蔑みはそのままお返しします、と言う宣言もしました。<br /> <br /> この種の宣言は、おそらくは宇宙とほんの少し繋がったことで宣言が有効になる気が致します。おそらくはそれ以前ですと宣言しても宇宙に届いていなかったように思います。以前とは異なり、全てではないですが自分の発する宣言が有効になってきたように思います。<br /> <br /> ■私を貶めようとした人にお返しをする<br /> <br /> 一旦は瞑想でお返しして、その後、数時間経ったらフィードバックがありました。<br /> <br /> 特に頭の右上方に圧迫感があって、誰かが押し返そうとしているようです。<br /> <br /> 誰だろう・・・ と思って探ってみると、どうやら、小学生の頃に私を貶めようとしていた人のようです。時空を超えてこんなところまで私を恨みますか。仕方がないので眉間に力を入れてその念を押し返します。すると、眉間あるいはもう少し右上のところで「ピキピキ」という音がしました。圧力がかかっているようです。<br /> <br /> その人はどんな人だったかと言いますと、次のようなことがありました。<br /> <br /> ある時、学校の先生が道徳の授業で、匿名で教室の他の誰かに原稿用紙1枚程度で「良いところ、悪いところ」を書いて送ろう、というお話があったのです。くじ引きで相手を決め、原稿用紙の「右上に自分の名前、左上に相手の名前」を書いて、右上のところは先生がハサミで切り取ってから相手に読ませます、というルールでした。今から思えば、匿名ならそもそも自分の名前を書かなくてもいいのではないかと思うのですが、とにかく、その時はそのようなルールでした。私はその時、たしかあまり興味のない女の子のことを書いたと思います。そして、私には「ちほ」ちゃんという人から届きました。<br /> <br /> その授業の時、教室の誰かが私を貶めようと、私の名前をわざと違う場所に書いて、とてつもなく嫌なことを書いて女の子に送ったのです。名前の場所は指定されていましたし、そもそも私はそんな子のことは書いていませんし。誰かが私のことを貶めようとしていたわけです。<br /> <br /> そして、今回、もはや名前は覚えてはいないですけどその時に同級生だった人の顔が今見えてきましたので、「ああ、やっぱりあの人だったのか」とわかったわけです。<br /> <br /> その人は、落ち込んでいるその女の子のところに言って大きな声で嬉しそうに「なんて酷いことを言う人なんだ!!!」と、言葉とは裏腹に、とても嬉しそうに言っていました。<br /> <br /> ちょっと人生経験のある人であればこのようなことを言う人こそが犯人だなんてすぐわかるわけですけど、流石に小学生ですから、その女の子を中心にして私を睨む人、それと、一体誰が本当はそれを書いたのか疑問に思う人とに分かれました。まあ、女の子は勘が鋭いですから誰かが私を貶めようとしたのはすぐにわかりましたけど、それでも、多少の不和は残ったような気が致します。<br /> <br /> それは、このような構図でした。<br /> <br /> ・私 → 名前すら忘れた女の子のことを書いて提出<br /> ・ちほ、ちゃん → 私に提出。内容は私のことと言うより、自分(ちほ)のことをみんな変に思わないでほしい、と言う内容。<br /> ・Aちゃん → 私のことを、好きと言うほどではないがちょっと気になっている。<br /> ・Bくん → おそらくAちゃんが好き。Aちゃんの私に対する思いを壊したい。<br /> ・私 → Aちゃんのことは何とも思っていない。(ごめんなさい)<br /> <br /> ですから、私を貶めることとAちゃんの気持ちを私から離れさせることができる一石二鳥の策だったわけです。<br /> <br /> よくもまあ、小学生でこんな悪巧みが出来ますよね。<br /> <br /> どうやら私に圧迫感を送っているのは過去のその人だと言うことがわかりましたので、念で押し返したら意外にあっさりと戻っていきました。<br /> <br /> 昔でしたらエネルギーが足りなくて九字切りでもしなくては防げなかったように思いますが、今はクンダリーニも動いていてエネルギーに不足はなく、防御および跳ね返しているような感じです。しかしながらなかなかこの人はしつこい性格のようで念が途切れませんので、霊剣で何回か切ってあげようと思います。オーラに切れ目ができればそこから不浄化の霊が入り込んで勝手に自滅しますからね。こう言う人には直接手を下す必要はなくて自分の念で落とすのが一番です。<br /> <br /> それと、こう言う時は、守護霊にお願いするのも手です。<br /> <br /> 私を恨んでいる相手をどうにかしてください、とお願いすれば守護霊がどうにかしてくれます。<br /> <br /> 主に男の方のチベットの修行僧がこう言うことを対処してくれることが多いですけど、幽界に漂っている、私に縁のある友人知人および親類たちの霊であっても対処してくれたりします。例えば、私の過去生の妻や仲の良かった元気な女の人が「けしからん!」と言って相手の守護霊に直談判に行ってくれたりします。<br /> <br /> まあ、そのあたり、近所のお節介な仲の良いおばちゃんとそう変わらなかったりします。その人なりの対処方法があって、元気のいい女の人が私の知り合いに大勢いますから、相手の霊の守護霊のところに言って文句を言えば相手は引き下がったりしますし、あるいは、どうしようもない相手であれば忖度してくれて私の代わりに相手をそれどころではないくらいに徹底的に酷い状況に落としてくれたりします。<br /> <br /> 守護霊の2人は守護霊としてのやり方で対処してくれますけど、知り合いや家族の霊が対処する場合は近所のおばちゃん風の怒鳴り込み、みたいなことも多いですね。<br /> <br /> 意外に、人間界での対処とあの世での対処は似ているところがあります。<br /> <br /> 他人を貶めることは、やっている方は現世利益でやっているのでしょうけど、そんな他人を恨んでいたりすると自分のオーラが汚れますし、そのような汚れたオーラを助けてくれる友人知人の霊あるいは家族の霊は少なくなってゆくでしょう。その辺りも人間界と意外と変わりがないですね。守護霊にしても、そのように現世利益で生活する人に高級な霊はつかないです。<br /> <br /> まずは人間界をしっかり生きて、会う人を大切にして、家族を大切にして、それで、家族があの世でも助けてくれるようになるのが基本です。ですから、基本は人間界での生き方がありますので、他人を貶めてそれで女を手に入れたとしても、それで作り上げた夫婦というのは所詮はそのようなものであり、あの世でも、来世でも、何度となくトラブルを引き起こすことでしょう。恨んだり恨まれたりと言う人生には関わり合いを持たないのが一番だと思います。あの世に行ってしまえば結婚に縛られる必要はないですが、来世も一緒に暮らしたいと思う人や仲の良かった人は同じところに集って人生を助けてくれます。<br /> <br /> 助けてくれるだけでなく、例えば、誰かを貶めようとしているのであれば、それは霊界からみたらその意図は明らかですので、霊界で見守っている多くの友人知人の霊および元家族の霊たちを心底落胆させることだってあるのです。そうすることで友人であることをやめ、見守ることをやめ、元家族からも見放されて孤立して人間界で生きている方もいらっしゃるようです。<br /> <br /> 守護霊が必ずいるわけでもなく、そのように見放されてしまった人は運にも巡り合わず、死後に導いてくれる友人知人の霊もおらず、死んだことにも気付かず地上を浮遊霊として彷徨うことにもなります。ここまで落ちるのは相当でしょうけど、その中間などは山ほどあるわけです。<br /> <br /> ですから、他人を貶めようとしたり他人を恨んだとしたら、まず、過去生からの繋がりのある友人知人の霊および元家族の霊から軽蔑されると思った方がいいです。軽蔑されなくて同類が集まっている場合もありますから、それはそれで落ちるところまで落ちたと言うことでもありますけど。<br /> <br /> どちらにせよ他人を貶めようとする人とは関わりあうべきではありませんし、恨み返すべきでもありません。<br /> <br /> しかしながら、恨みを跳ね返すことはしていいわけです。<br /> <br /> Sun, 13 Sep 2020 00:00:00 +0900 顕教と密教とヨーガスートラ https://w-jp.net/2020/2067/ <br /> 先日の続きです。瞑想の多くがプラティヤハーラだとわかったわけですが、それと同様に、おそらくは顕教(けんぎょう)もプラティヤハーラ以前を扱うのだとすればすっきりします。<br /> <br /> 顕教はわかりやすい教えで一般大衆に向けた道徳観などを解きますが、ヨーガスートラ的にはヤマ・ニヤマのような道徳を説いていますし、雑念から離れることを主目的にしているところなどはプラティヤハーラそのものです。<br /> <br /> 多くのお坊さんが道徳を説いて、あまり難しいことを考えずとも素直に穏やかに道徳的に過ごせば良い、と説くのも顕教的なヤマ・ニヤマ、そしてプラティヤハーラなのだとすれば納得がいきます。<br /> <br /> お坊さんにヨーガスートラのダーラナ(集中)、ディヤーナ(瞑想)、サマーディ(三昧)のことを聞いてもサッパリだったり「そんなことは考えなくても良い」などと言われたりするのは顕教であって目的がプラティヤハーラなのだからですね。<br /> <br /> そのように顕教の教えを説いている宗派のお坊さんあるいは信者に対して他のことを聞いたり教えを疑問に思ったりすることは、いわば野暮な行為なわけですね。だって顕教ですからそんなことを答えてくれるわけもありません。<br /> <br /> 先日のマインドフルネスのお話やゴエンカ式ヴィパッサナーもそうでしたが、かなり高い教えっぽく聞こえるものであったとしてもその実態はプラティヤハーラだったりします。言葉で「悟り」とか色々言っていたとしても、実際はプラティヤハーラであることがほとんどな気が致します。そう分かってしまえば、わざわざそれ以上を説く必要はなくて、プラティヤハーラであるところの「感覚に囚われないようにしましょう」とか「雑念を取り払いましょう」と教えることで一般大衆向けには十分すぎるほど十分なわけです。それがきちんとできるだけでもこの世を幸せに過ごすことができますので、悩みに囚われている一般大衆を助けるにはプラティヤハーラが重要になってくると思うわけです。<br /> <br /> 私は長い間、それらの一般大衆向けの流派および瞑想団体・宗派を勘違いしておりました。どちらかというと、私は一部の大衆向け流派を、ある意味では買いかぶっておりました。これはいい意味に捉えていただきたいのですが、おそらくは団体を立ち上げた中心人物の多くはすべてを分かった上でプラティヤハーラをしているように思えるのです。それでいてそれより上のレベルである悟りとかを説いて人々を惹きつけていたのだと思います。一部、立ち上げた人がよく分かっていなかったのではと思われるような事例もありますけど、歴史のある団体であれば分かった上でプラティヤハーラを説いているような気が致します。<br /> <br /> そうした、団体の布教の対象として大多数である庶民をターゲットにし、であるからこそプラティヤハーラを主目的にあげるのは信者を増やすという点で有効だったように思います。<br /> <br /> 一方で、それ以上の境地、ダーラナ(集中)、ディヤーナ(瞑想)、サマーディ(三昧)は密教の領域であると言えると思います。<br /> <br /> 一般教養の本を見ると顕教と密教はもっと違う定義がしてあったように思います。例えば顕教は道徳やわかりやすい教えだとして、密教はタントラのようにイメージを使ったりマントラを使うとか、そういう話はあると思います。しかしながら、ここで言っているのはあくまでも私の理解の上での分類であって、一般的な分類ではありません。<br /> <br /> 私は一般教養の説明より、こちらのヨーガスートラを基にした分類の方がすっきりするのです。<br /> <br /> 今、割と世間で話題になっているマインドフルネスなどの瞑想は、以下のような構図になっているように思います。<br /> <br /> ・テクニックとしてはプラティヤハーラ。顕教。雑念から逃れてリラックスする。よくてダーラナ(集中)でゾーンに至る。<br /> ・宣伝としては現世利益のリラックスおよび仕事の能率アップ。<br /> <br /> 他には、ゴエンカ式は以下のような組み合わせだと思います。<br /> <br /> ・テクニックとしてはプラティヤハーラ。顕教。雑念から逃れてリラックスする。そのことを「観察(ヴィパッサナー)」と呼んでいる。<br /> ・宣伝としてはブッダの瞑想。サマーディを超えた、悟りに至る観察瞑想(ヴィパッサナー)。<br /> <br /> 実際、大衆向け、特にビジネス向けであればプラティヤハーラを超えることはなく、サマーディを超えた瞑想とか言っていたとしても全然サマーディに達していないわけです。これは蔑んで言っているのではなく、プラティヤハーラはそれでもサマーディに達する一段階であるわけですから無駄ではないわけです。確かにそれは悟りに辿り着くことができますが、何やら勘違いがあるだけのお話です。<br /> <br /> このように、一般大衆向けの宗派・団体であればほとんどがプラティヤハーラを主眼に置いているのだと思います。<br /> <br /> 特にそれが悪いわけでもなく、そうすることで多数が救われるのだと思います。<br /> <br /> 個人的にはプラティヤハーラはもちろん重要ですけど、それに絞った顕教の活動はあんまり興味がないです。色々なパターンがあるのでしょうね。<br /> <br /> ・プラティヤハーラが分からなくて信徒あるいは団体に入るパターン<br /> ・プラティヤハーラを超えてサマーディ等に達した後に一般大衆を導くため顕教の教祖になるパターン<br /> ・プラティヤハーラを完全には超えていなくて自分も信徒と一緒に学ぶために教祖になるパターン<br /> ・プラティヤハーラこそが悟りだと勘違いして信徒になるパターン<br /> ・プラティヤハーラを達成して自分が悟ったと勘違いして教祖になるパターン<br /> <br /> 色々あるのだと思います。信徒や教祖にしても様々ですし、団体も多様です。<br /> <br /> しかしながら、その根元である、顕教はプラティヤハーラを目的とする、という1点さえ抑えていればかなり見極めができると思うわけです。<br /> <br /> Sun, 13 Sep 2020 00:00:00 +0900 プラティヤハーラ、ダーラナ、それぞれにプラトーが存在する https://w-jp.net/2020/2066/ <br /> 先日、多くの瞑想は実はプラティヤハーラだったのだとわかって目から鱗が落ちましたが、その前提に立つと、色々なことが見えてきます。<br /> <br /> 5.プラティヤハーラ(制感) 雑念から離れる。雑念に気付けるよう努力して観察する段階。一般向けのヴィパッサナー。<br /> 6.ダーラナ(集中) 集中してゾーンに入り、至福に至る。<br /> 7.ディアーナ(瞑想) 意識が安定し、穏やかな境地に至る<br /> 8.サマーディ(三昧)感覚の微細化。本来のヴィパッサナー。五感を超えた観察状態。<br /> <br /> という分類になるわけですね。<br /> <br /> この分類に対して世の中の瞑想手法を当てはめてみることができるわけです。<br /> <br /> ■マインドフルネス<br /> 観察と称してプラティヤハーラ(制感)を行い、葛藤から離れる。リラックスの手段。<br /> 一部の人はダーラナ(集中)のゾーンの境地に入り歓喜と共に仕事を効率的に行う。<br /> 現世利益の追求のための手段としての瞑想。<br /> <br /> ■ゴエンカ式ヴィパッサナー<br /> 本人たちはブッダの瞑想だと思っているが、実際やっているのはプラティヤハーラ。<br /> ブッダの瞑想はサマーディのレベルで、説明も原始仏教を元にしているのでサマーディっぽい話もあるが、手法としては完全にプラティヤハーラ。<br /> まず息の観察をしてプラティヤハーラに入る準備をする。そして、体の皮膚の観察をして本格的にプラティヤハーラに入る。<br /> ゴエンカ式は観察瞑想のヴィパッサナー瞑想をうたっており、サマーディを超えた瞑想をしていると本人たちは思っているのでダーラナ(集中)やサマーディが徹底的にヒステリックに否定される文化。<br /> 実際はプラティヤハーラのレベルでほとんどの人はそれ以上に達しない。<br /> ゴエンカ式をして精神的に混乱をきたしたり、怒りの沸点が下がってキレやすくなる、あるいはプライドが拡大するという効果は瞑想している人の多くがプラティヤハーラのレベルだということを示している。<br /> 実際はサマーディとヴィパッサナーは同じだが、それが理解できるようなレベルではない。<br /> <br /> ■他のヴィパッサナー<br /> 本を読む限り、ミャンマーのヴィパッサナー瞑想は本質を捉えているように思いました。<br /> それと、テーラワーダ仏教も本質がわかっているように思いました。<br /> <br /> 同じヴィパッサナー瞑想の看板を掲げていても中身を見るとプラティヤハーラをサマーディだと勘違いをしているゴエンカ式もあれば、その一方で、本質をわかっていてプラティヤハーラ相当から始めている流派もあるのだなと思いました。<br /> <br /> おそらくヴィパッサナー瞑想を勘違いしているのはゴエンカ式くらいで、他の流派は、プラティヤハーラ相当からのスタートだと明確にわかっていてヴィパッサナー瞑想をしているように思われます。そのように感じられます。ですからダーラナ(集中)もディヤーナ(瞑想)も否定しないのですね。ゴエンカ式だけが集中瞑想(サマタ瞑想)を下に見て自分たちのヴィパッサナー瞑想こそが悟りへと至る瞑想だと主張していますが、そのように自分たちだけが最高だと思うような思想であればスピリチュアル初心者ということですので、ゴエンカ式を信奉している人の多くはスピリチュアル初心者であるように思われます。これは悪いと言っているのではなく、この世界はいま、瞑想が足りていませんから初心者向けであっても瞑想は大切なものです。ただ、勘違いをせずに、自分たちがしているのはプラティヤハーラであると明確に自覚してほしいと思っているだけです。プラティヤハーラ相当をしていても無駄ではありませんので悲劇ではありませんが、自分たちはサマーディをしていると思っていても実際はプラティヤハーラだったりするのは喜劇のようなもので後で笑い飛ばすしかない状況です。まあ、本人たちが好きで喜劇しているのは勝手にすればいいのですけど、周りを巻き込んで他人の瞑想を貶めるのはやめていただきたいです。ゴエンカ式をしている人の、他の人の瞑想に対する評価と態度が酷すぎます。本来は瞑想を長年してきた人の指導を受けるべきなのに新たな手法にしてしまって歴史が足りないからこんなことになっているのかもしれませんね。ゴエンカ氏は古代の瞑想を数千年ぶりに発掘して復活させたと主張していましたがそれは無知というもので、実際はブッダの瞑想の手法は各種の流派で受け継がれていますからね。各種の瞑想の流派では千年以上の歴史がありノウハウも数多く蓄積されているのです。落とし穴に落ちないための知恵もそれらの流派では蓄積されていますから、新たに始めたゴエンカ式に蓄積がなくて同じような落とし穴に落ちていたとしても不思議ではありません。<br /> <br /> ■ヨガ瞑想<br /> 古典のヨガ瞑想は、時間がかかります。<br /> プラティヤハーラにまず時間がかかり、ダーラナに至ってもそこでまたプラトーがあります。<br /> 感覚的には、ダーラナを超えてしまえばその先は早いのではないかなと思っています。<br /> <br /> Sat, 12 Sep 2020 00:00:00 +0900 <link>https://w-jp.net/2020/2064/</link> <description><br /> </description> <pubDate>Fri, 11 Sep 2020 00:00:00 +0900</pubDate> </item> <item> <title>マインドフルネスはダーラナではなくプラティヤーハーラ(制感) https://w-jp.net/2020/2063/ <br /> 朝の瞑想で見えない存在にインスピレーションで教えられました。どうやらマインドフルネスはダーラナではなくプラティヤーハーラ(制感)のようです。なんてこった・・・。私はどうやらマインドフルネスを買いかぶっていたようです。確かに、初心者向けのマインドフルネス瞑想はやっていることはプラティヤーハーラですね。<br /> <br /> マインドフルネスあたりですとダーラナ(集中)にすら達していなくて、プラティヤーハーラ(制感)なのですね。プラティヤハーラは感覚器官の呪縛から逃れて雑念から逃れよう、雑念と自分の心を引き離そうとする段階ですので、確かに、プラティヤハーラのことを「観察」と言うとそれっぽく聞こえるかもしれませんね。プラティヤハーラですとゾーンに入ることはなくて、雑念から一時的に少し離れるだけです。マインドフスネスは新たな流派ですので説明が混乱していますけど、確かに、いくつかを読む限りプラティヤハーラを観察と表現しているとすれば筋が通ります。<br /> <br /> 5.プラティヤーハーラ 雑念を取り払いましょう! 観察するのです!<br /> 6.ダーラナ → 集中しましょう! 集中による至福! ゾーン!<br /> <br /> ヨーガスートラ的にはプラティヤーハーラのことを観察とはあまり言わないと思いますけど、確かに、説明としては観察と言った方が分かりが良い気が致します。ヨーガとかの古典瞑想をしていて観察とか言われるとディヤーナやサマーディのことかなと勘違いしてしまいますけど、プラティヤーハーラのことだとすればスッキリします。<br /> <br /> この理解は最近流行のヴィパッサナー瞑想についても言えて、私はどうやらずっと勘違いしていたのかもしれません。ゴエンカ式が観察のヴィパッサナー瞑想とか言っているのは、長らくディヤーナやサマーディのことかと思っていましたけど、実際はプラティヤハーラのことを観察だと言っていたのだとすれば全ての説明がつきます。と、すれば、私は長い間、ゴエンカ式も買いかぶっていたことになりますね・・・。なんてこった。<br /> <br /> マインドフルネスやゴエンカ式が割と宗教色を無くして一般人に受け入れやすくなっているのは、やっていることがプラティヤハーラで雑念を取り払うように「観察」することを瞑想手法として取り入れているからなのですね。<br /> <br /> プラティヤハーラで雑念から離れることとサマーディで観察状態に入ることとは天と地の差がありますけど、どちらも言葉で言い表すと「観察」と言うこともできるのですね。これはしてやられました・・・。<br /> <br /> であれば、今後、マインドフルネスやゴエンカ式の人が「観察瞑想」と言ってきたときはプラティヤハーラのことを言っているのかもしれない、という頭の切り替えができます。人によってコンテキストは違いますけど、私の中にこのコンテキストは今までありませんでした。サマーディとかの高い境地のことを言っているのかなと思っておりましたが・・・・、まさか、観察瞑想がプラティヤハーラのことだったとは・・・。<br /> <br /> 最初からそう言ってくれれば何も悩むことはなかったのに。ほんと、買い被りもいいとこです。瞑想の世界というのは本当に落とし穴がいっぱいですね・・・。ブッダを持ち出してきて観察瞑想の名を掲げ、ヴィパッサナー瞑想と言っているものは、実際にはヨーガスートラ的にはプラティヤハーラだったりもするのですね。<br /> <br /> マインドフルネスの説明でサマーディっぽいお話もあったりしますので勘違いしていましたけど、手法や説明をしっかりと見るとプラティヤハーラのことを言っており、それを観察とか表現しているのですね。宣伝する方としては何か凄いことを言いたいでしょうからサマーディっぽいお話もするのかもしれないですけど、手法としてはプラティヤハーラで、よくてダーラナ(集中)でゾーンに入って歓喜に至る、というくらいなのでしょうね。<br /> <br /> ゴエンカ式はそれが顕著で、サマーディとか悟りとかのお話をしているのでそれっぽく聞こえてしまいますけど、やっている手法だけを着目してみると息の観察やら感覚(五感)の観察だったりしますので、確かにプラティヤハーラと結びつけた方がしっくりきます。息の観察をするアーナパーナ瞑想のことをゴエンカ式では集中瞑想と説明していましたので私はダーラナ(集中)だと思っていましたけど、アーナパーナ瞑想も含めてゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想でやっていることは全てプラティヤハーラだとすれば違和感がほぼなくなります。<br /> <br /> 宗教を切り離して手法だけ取り出した瞑想の手法はプラティヤハーラが中心という共通点があるのですね・・・。今までずっと買い被っていました。<br /> <br /> これらの理解があると、各種の疑問が氷解します。特に観察系のヴィパッサナー瞑想の流派で感じていた違和感の根本理由がわかったような気が致します。<br /> <br /> ■プラティヤハーラだとわかってしまえば指摘するなんて野暮なことはしない<br /> <br /> もしかしたら、これらのことに気付いた先人たちがかつてゴエンカ式で素直に指摘したのかもしれないですね・・・。一つの仮説を立ててみます。<br /> <br /> ゴエンカ式をやっている当人たちは悟りを開くための瞑想だと思っているようですから、その人たちに自分たちがしているのはプラティヤハーラだと指摘したらいい顔されないどころか、プライドが傷付けられてキレられるのも当然のような気が致します。<br /> <br /> そんなプライドが残っていてキレるような人たちが先生をしている団体はその程度のレベルなわけですけれど、それでも、一般向けのビジネス講座だとすれば十分すぎるほどであると思うのです。この時代、瞑想が蔑ろにされていますから、プラティヤハーラであろうとも有益だと思います。<br /> <br /> しかしながら、当の本人たちは悟りを開くためのブッダの瞑想だと思っているわけです。<br /> <br /> これは、悲劇というか喜劇ですね・・・。一応はやっていることはプラティヤハーラですので悟りに向かう一段階であるわけで、特に間違ってはいないのですが、それだけしていれば悟ることができるかのように思っているのが喜劇です。わかってしまえばギャグのように笑い飛ばせますし、無駄ではないので悲劇ではないですけど、やっている当人はまだプライドの塊ですので、わかってしまうまでは喜劇のように深刻になってやっているわけですし、他人のそのような指摘はプライドを傷つけるのでキレて拒絶するわけです。<br /> <br /> ですから、ゴエンカ式のようなビジネスマンが始めた一般向け非宗教を装っている瞑想コースでヨーガの人が嫌われるのかもしれないですね。本当の自分たちの姿がさらけ出されてしまうとプライドが消えてしまうので拒否反応を起こしているのでしょう。<br /> <br /> ゴエンカ式の人がどうしてあれだけ怒りの沸点が低くてキレやすくなるのか疑問に思っておりました。今まで私はそれは瞑想手法に問題があるのではと思っておりましたが、瞑想手法は単にそこらのとそんなに変わりなく、どうやら、手法そのものというよりもそれに関わる人々のスタンスと考え方に問題があって、ゴエンカ氏もキレやすい性質だったと言いますから、おそらくは歴史的に団体の性質としてそのような文化が熟成されているのでしょう。であれば、キレやすい団体に私は関わり合いたくはないです。<br /> <br /> その先のレベルに達する人もいる筈だとは思いますが、もはやカリスマのゴエンカ氏は死去しておりますので団体としての性質が変わることは考えにくいですね。であれば、わざわざ指摘するなんて野暮なことはしない方がいいと私なんかは思います。<br /> <br /> プラティヤハーラの修行を必要としている人たちであればまだプライドもエゴもたっぷり残っているでしょうから、その運営者にしても参加者にしても大概はエゴ丸出しなのは当然といば当然でしょうね。<br /> <br /> それを否定する必要はなくて、これは一段階ですので、それを超えてゆけばいいわけです。<br /> <br /> この世界には瞑想が足りていませんので、プラティヤハーラをして悟りを求める団体があったとしても全く問題ないわけです。むしろもっとそのような団体が増えてもいいくらいです。<br /> <br /> ゴエンカ式が他人の指摘を素直に受け入れずに自分たちの考えに固執しているからこそすぐキレる性質になってしまっているのだとしても、それはプラティヤハーラを必要としている人たちが運営しているのであればそのくらいなのは当然です。<br /> <br /> ゴエンカ式がブッダの悟りを求める瞑想をしている筈なのにどうしてそんなにプライドが高くてエゴが大きくてキレやすい人がゴロゴロしていて、また、ゴエンカ式をすることで自分を見失って精神的に混乱する人が大勢いたとしても放置するのが何故なのか理解できないでいました。<br /> <br /> ですが、ゴエンカ式の運営者・指導者にしてもプラティヤハーラのレベルだとしたら同レベルでありそれらの精神的な混乱をしている人を助けることはできず、ただ静観するしかないのは当然と言えます。<br /> <br /> ゴエンカ式は、運営者もプラティヤハーラのレベルで、参加者も多くはプラティヤハーラあるいはそれ以前の段階だとすれば、教えられることもプラティヤハーラですし、混乱してしまった人を助けることができないのも当然なのです。<br /> <br /> ゴエンカ式では鼻呼吸への集中であるアーナパーナ瞑想をヴィパッサナー瞑想(観察瞑想)の準備のサマタ瞑想と位置付けていますが、これも実際には違うということになりますね。<br /> <br /> ■ゴエンカ式による説明<br /> ・アーナパーナ瞑想 観察のヴィパッサナー瞑想に入る前準備としての集中瞑想(サマタ瞑想)おそらくこれはヨーガスートラのダーラナ(集中)に相当すると推測。<br /> ・ヴィパッサナー瞑想 皮膚の観察。観察瞑想。悟りへと導く瞑想。ヨーガスートラのディヤーナ(瞑想)からサマーディ(三昧)に相当すると推測。<br /> <br /> ■ゴエンカ式の実際<br /> ・アーナパーナ瞑想 プラティヤハーラの準備として集中力をつける集中瞑想<br /> ・ヴィパッサナー瞑想 プラティヤハーラの実践<br /> <br /> ですので、説明と実際やっていることと乖離があるわけですね・・・。どこまで本人たちが気づいているかどうかは人それぞれでしょうが。<br /> <br /> ・・・そのように考える方が素直な気がしてきました。これらのことがあらかじめ全てわかっていれば本人たちにわざわざプラティヤハーラだと指摘するなんていう野暮なことはしませんし、自分がヨガをしているなんていう野暮なことをゴエンカ式のところで明かしたりもしません。<br /> <br /> おそらく昔から同様の指摘をする人がいて、まるで戦争が何代も続くうちに理由が忘れ去られてしまっているのと同じように、ゴエンカ式でキレやすい性質が何代も続いていてもはやキレやすい理由が忘れ去られてしまっているような気も致しました。<br /> <br /> しかしながら、これらの仮説を立ててみるとゴエンカ式がキレやすい理由もしっくりきます。この仮説は、私の中ではしっくりきます。<br /> <br /> これは、ゴエンカ式の程度が低いと言っているわけではありません。説明がちょっと拡張気味で、誇大宣伝だな、と言っているだけです。<br /> <br /> Fri, 11 Sep 2020 00:00:00 +0900 集中瞑想はヨーガスートラ的にはまだ瞑想ではない https://w-jp.net/2020/2062/ <br /> ■ヨーガスートラの八支則<br /> 1.ヤマ(アヒムサ、サッティア、アステヤ、ブラフマチャリア、アパリグラハ)<br /> 2.ニヤマ(シャウチャ、サントーシャ、タパス、スヴァスティアーヤ、イーシュワラ・プラニダーナ)<br /> 3.アサナ<br /> 4.プラーナヤーマ<br /> 5.プラティヤーハーラ<br /> 6.ダーラナ → 集中<br /> 7.ディヤーナ → 瞑想<br /> 8.サマーディ → 三昧<br /> <br /> 何かに集中する瞑想はヨーガスートラ的にはディヤーナではなくダーラナです。<br /> 多くの場合、瞑想していると思っていてもヨーガスートラ的にはダーラナ(集中)です。<br /> <br /> ダーラナとディヤーナ、サマーディは割とはっきりとした区別があるのですが、最初は自分ではその違いはわからないと思います。<br /> <br /> ざ〜っくり言うと以下のような分類です。<br /> <br /> 1&2.ヤマ・ニヤマ 道徳を大切に!<br /> 3.アサナ 体を動かしましょう!<br /> 4.プラーナヤーマ 呼吸をしっかりしましょう!<br /> 5.プラティヤーハーラ 雑念を取り払いましょう!<br /> 6.ダーラナ → 集中しましょう! 集中による至福! ゾーン!<br /> 7.ディヤーナ(瞑想) → 落ち着いてきましたね!<br /> 8.サマーディ(三昧) → 静寂の境地!<br /> <br /> 以下のようなものは、基本的には全てダーラナ(集中)だと思った方が良いと思います。<br /> ・呼吸瞑想<br /> ・皮膚を観察する瞑想<br /> ・歩く瞑想<br /> ・眉間に集中する瞑想<br /> ・マインドフルネス(息を観察する瞑想)<br /> <br /> もちろん同じ手法を用いていてもその先のディヤーナ(瞑想)やサマーディ(三昧)の境地に辿り着くこともありますけど、違いがわからないうちはそれは単に「集中(ダーラナ)」だと思っておいた方がいいと思います。<br /> <br /> 世間で最近は「観察瞑想」とか言われていますけど、そんなのは名前が観察というだけで、確かに上級者は観察だと言うのは分かりますけど、初心者が真似て見たところで全て「集中」瞑想です。 初心者であれば例外なくみんな「集中」瞑想です。前世で修行した人とかであればいきなり観察瞑想と言うかディヤーナやサマーディできるかもしれませんけど、初心者であればみんな例外なく「集中」瞑想です。何やら世間で「観察瞑想」がどうこう言われていますけど、例外はないです。・・・こんなこと言うと反感を感じる人がいるかもしれませんけど、初心者であればみんなダーラナ(集中)です。それに疑問の余地はないです。<br /> <br /> そう言うわけで、瞑想はいろいろありますし、言い方や説明で「観察」とか言ったりしますけど、観察という説明であってもやっていることは集中瞑想です。<br /> <br /> 初心者に向かって上級者向けの指示で「力を入れずにただ観察しろ」とか教えている流派もありますけど、それは無茶というものです。初心者は観察瞑想であるディヤーナ(瞑想)やサマーディ(三昧)なんてできないですよ。であれば、やっていることは集中瞑想でしかないわけです。いくら観察瞑想だと思っていても集中瞑想をしているのが初心者です。<br /> <br /> マインドフルネスとかでも、息を「観察」しましょう、とか言っていますけど、それは息に意識を「集中」しましょう、ってことですよ。本当の観察であればそんな焦点など必要なしに体全体の動きをただ観察できます。それはディヤーナ(瞑想)を超えてサマーディ(三昧)くらいにまで達したらそうなりますけど、それができるのであればもはや初心者ではありません。初心者であればディヤーナ(集中)しかできません。そんなものです。あまり気負いせずに、観察だとか放っておいて、とにかく集中瞑想(ダーラナ)をした方が早道だと思いますよ。<br /> <br /> ダーラナ(集中)を深く経験して次の段階に進むのが良いと私なんかは思うのであって、ダーラナ(集中)を抜きにして上の段階の「観察」なんて成り立たないと思うのですけどね。もともと葛藤がかなり少なくてダーラナ(集中)がほとんど不要な人もいらっしゃる気も致しますけど、それはダーラナ(集中)が完全にいらないわけではなくて早くダーラナ(集中)を通り抜けると言うだけで、飛び越してはいないでしょうからね。多くの人は葛藤や雑念に悩まされているでしょうから、まずはプラティヤハーラから初めてダーラナに進むのが普通だと思います。<br /> <br /> マインドフルネスとかは、説明を読むと「観察」となっているので何やら上級な雰囲気がありますけど、実際のところやっているのはダーラナ(集中)です。それを瞑想と呼んでいるわけですし、説明では「観察です」とか言ったりするわけれども、それは説明のために言っているだけであって、本質はダーラナ(集中)です。一般向けに観察とか瞑想とか言っても違いが分からないと思いますし、観察と言った方が受けがいいから観察と言っている、という面もあると思います。観察という言葉を使っていても、説明の全体を聞く限り、ダーラナ(集中)の瞑想をしています。一般人は単に「ふむふむ」と聞いて、わかったような分からないようなもやもやした気持ちになっているだけなのかなと思います。はっきりと分からない、というのは当然で、そんなものだと思います。<br /> <br /> ダーラナ(集中)によってゾーンに入ることができて強い歓喜が沸き起こってきて仕事の効率が上がるわけで、ダーラナのゾーンだけを使うのであればビジネスに有益だからマインドフルネスが話題になっているのでしょう。でも、それはディヤーナではなくてダーラナ(集中)ですけどね。説明で「観察」とか言ってて混乱したり誤解したりしている方も多いですけど、やっていることはダーラナ(集中)です。マインドフルネスはそれ以上の世界を教えませんし、扱いませんからね。それ以上に達した人もいるとは思いますけど、その体験すらも同じ土壌で語られますのでマインドフルネスが何なのかがますます分からなくなってきます。マインドフルネスが扱うのは基本的にはダーラナ(集中)の世界であって、その準備あるいはそれ以上の世界を求めるのであればマインドフルネスでは不足なわけですよね。マインドフルネスが宗教を切り離してただの技法にしているから素晴らしいとかおっしゃる方も大勢いて、もちろん個人の自由ですから好きにすればいいと思います。マインドフルネスのレベルであるダーラナ(集中)を極めてゾーンに入るだけでも人生を豊かに過ごすことができますし、頭の回転も良くなって仕事も効率的にできるようになりますから、それが目的だとおっしゃるなら好きにすればいいのだと思います。現世利益を求める方が現世利益のためにするのがマインドフルネスであると言えます。私なんかは物足りなさを感じて面白くないのですけど、技法だけで満足している方も大勢いらっしゃいますし、マインドフルネスで満足している方の気持ちは私はよく分からないですけど、満足を否定はしませんので、好きにすればいいと思います。この世界は自由の世界ですから、好きに生きればいいのです。<br /> <br /> ダーラナ(集中)瞑想を極める期間は個人的にはそれなりにかかって、最初の10年くらいはゾーンに入るだけで歓喜が沸き起こってきてそれが楽しみではありましたけど、次の段階へと進んだ今となってはあのような彷彿と葛藤を繰り返す世界に戻りたくはありませんけどね。ですけど、そのダーラナの段階が無駄とは思っていなくて、それはそれで有益だったと思いますし、必要な段階だったと思います。<br /> <br /> 今から瞑想を始める方は不幸かもしれなくて、昔なら素直に集中瞑想だけできたのに、小賢しい人が大勢出てきて「瞑想の本質は観察だ」とか瞑想のテクニックを煽って宣伝する人がちらほらいて、何が本質なのか分かりにくくなっています。<br /> <br /> おそらくは、よく分からずに変な瞑想手法をするよりは、単に今やっている仕事に集中してゾーンに入って歓喜が沸き起こるくらいになる方が精神的成長が早いと思います。特に最初のうちは。<br /> <br /> 基本的には最初は瞑想というと集中(ダーラナ)なのですから、そこをわきまえておいた方がいいと思います。<br /> <br /> Thu, 10 Sep 2020 00:00:00 +0900 ライトボディ第八レベル https://w-jp.net/2020/2061/ <br /> 書籍「ライトボディの目覚め」に基づきますと私は現時点で第八レベルだと思われます。<br /> <br /> 昨年末に視界がスローモーションで認識されるヴィパッサナーになった頃から第八レベルになったように思います。それ以前は第七レベルで、それは雑念が減り、「いま」に生きるというような、割とアナハタ優勢の段階だったように思います。<br /> <br /> ざっくりいうと以下のようになるかと思います。<br /> <br /> ・第七レベル アナハタ優勢<br /> ・第八レベル アジナ優勢<br /> <br /> 第八レベルでの大きな変化は、自らの奥深くにある自らのスピリットに従うようになる、という点だと思います。第七レベルまではまだ「私」という感覚が残っていました。第八レベルになると次第に「自分」というものが幻想だということがよくわかるようになってきます。<br /> <br /> 第七レベルまでは、自分というものは本当はいない、ということを「知識」として知っており、実感も伴っており、理屈にも合っていて、正しいと思ってはいるものの、自分という感覚と宇宙意識とを比べるとまだ自分という感覚の方が優勢な状態でした。自分という意識と宇宙意識の比率は8対2から7対3です。<br /> <br /> 第八レベルでは深い実感を伴って、やはり自分というものは本当はいないんだ、ということを実感します。それは自分がいなくなるというよりは宇宙意識の方が徐々に表に出てきている状態で、自分という意識と宇宙意識との比率は6対4あるいは5対5に近づいた状態だとも言えます。自分が消えるだけでは十分ではなく、宇宙意識との融合が伴います。宇宙意識との統合のことを、自分の奥底のスピリットと繋がる、と言い換えてもいいと思います。言葉で言うと別々の事柄のように思えてしまいますが、同じ現象を別の表現で言い表しただけのことで、同じことです。<br /> <br /> 第七レベルでは光の意識と平凡な意識を行き来して起こる葛藤がそれなりにありました。光の存在であると言う自覚が深まったものの、まだ平凡な自分としての意識に戻ることがあり、揺れ動く意識の中で、ある種の、躁鬱状態に似たような光の彷彿と平凡な意識を行き来していたと言えます。<br /> <br /> その悩みが第八レベルではほとんどなくなり、基本的には光の意識の中に存在するようになりました。<br /> <br /> 昔、最初にこの本を読んだときは第七レベルと第八レベルの違いがいまいち分かりにくかったのですが、今思えばこのレベルはかなり明確な違いがありますね。<br /> <br /> それ以前のレベルはあまり意識しておりませんでしたが、今改めてざっと読むと以下のような感じでしょうかね。本文ではヨーガの用語は使っていませんが、自分が分かりやすいようにヨーガに当てはめてみました。<br /> <br /> ・第一レベル クンダリーニの目覚め<br /> ・第二レベル クンダリーニの安定<br /> ・第三レベル ムーラダーラチャクラ活性化。「匂い」に敏感になる。性の活性化。<br /> ・第四レベル スピリチュアルの始まり。<br /> ・第五レベル スワディスタナチャクラ活性化<br /> ・第六レベル マニプラチャクラ活性化<br /> ・第七レベル アナハタチャクラ活性化<br /> ・第八レベル アジナチャクラ活性化<br /> <br /> ただ、必ずしもクンダリーニやチャクラと関係しているわけではなく、第五や第六くらいまでは色々なものが混ざっているような気が致します。これはスピリチュアル系の階梯の作り方として必ずしもチャクラを基準にはしていないようです。<br /> <br /> 第九レベルは「神聖さ」を宿し始める段階とのことで、いわゆる「悟り」とは第九レベル以上のことだと言っていいと思います。<br /> <br /> Wed, 09 Sep 2020 00:00:00 +0900 宝塚の阪急電車への一礼とサイキック https://w-jp.net/2020/2088/ <br /> 私は関東なので実際に見たことはありませんけど、これ、おそらくは本当に乗っているのが分かるのだと思いますけどね。どうでしょうかね? 宝塚の方々? それとも、今の若い人はそこまでサイキック能力が落ちてしまって乗っているのが分からなくなり、一礼する意味が分からなくなってしまったということなのでしょうかね?<br /> <br /> 本当に乗っていることがお互いにわかったから阪急電車への一礼をするのは当然だと思いますけどね。そういう方はいらっしゃるのでないでしょうかね。<br /> <br /> あのような芸術の分野は多少ながらサイキックでないとやっていけないと思いますけど。<br /> <br /> 例えば分野は違いますけどミケランジェロだってサイキックですし、作曲家なんてほとんどがサイキックだと思いますよ。<br /> <br /> 今まで書いたことありませんでしたけど私のグループソウルにオーストリアあたりで作曲家の一族に生まれたことのある人がいて、その一族は初代がインスピレーションを子孫に伝えるのが伝統でしたけどね。そのくらいのサイキックはゴロゴロいて、本当に信頼しあえる師弟であれば電車に乗っていてお互いに気付くなんて普通だと思いますけどね。<br /> <br /> ですから、ルールあるいは不文律で必ず一礼しなければいけないとは思わなくて、お互いにわかるからこそわかった時に一礼すべきものだと思います。ですから、不文律で一礼を止める、というのはおそらく正しくて、それでも、本当に乗っているのが直感でわかったら一礼をするのは自由なのではないかなと思いますけどね。本当に一礼する意味が分からないのだとしたら寂しい気が致しますけどね。<br /> <br /> これは個人的な感想ですけどね。宝塚の判断ですから好きにすればいいと思います。<br /> <br /> 宝塚のような芸術をしている人たちがサイキックではなくなってただの人形だとしたらそんなに人気が出る筈もありませんから、きっと今でもサイキックな人が大勢いるとは思いますけどね。<br /> <br /> ただ、見方を変えれば、不文律だと思われていると言うことはサイキックではない人が混ざっていると言うことなのでしょうね。全員がサイキックであれば本当に乗っている時だけ一礼すれば済む筈ですし。<br /> <br /> ただ、サイキックとは言っても意識が散漫になっていたりすると気づかなかったりすることもありますから必ず一礼するのが楽と言えば楽なのかもしれません。とすれば、気付かなかった時のことを考えるとルールで一律に中止する方が負担が減ると言えばそうなのかもしれません。<br /> <br /> まあ、そんな事情を一般大衆に向かって堂々と言うことはないと思いますし、きっと公式には不文律は時代にそぐわないからやめたと言うことで理解しておけば十分だとは思いますが、内部では違う受け止め方をされていると思いますけどね。<br /> <br /> <br /> <br /> Sun, 30 Aug 2020 00:00:00 +0900 <link>https://w-jp.net/2020/2052/</link> <description><br /> </description> <pubDate>Sun, 30 Aug 2020 00:00:00 +0900</pubDate> </item> <item> <title>エネルギーヴァンパイアをする本 https://w-jp.net/2020/2013/ <br /> エネルギーヴァンパイアとはエネルギーを奪う者(物)という意味ですが、入手した本の中にはエネルギーヴァンパイアをしてくるものがあります。古本だったりもしますので前の持ち主がそうなのかなとも勘繰っていたのですが、傾向を見ると前の持ち主の場合は単にオーラが残っているだけで、エネルギーヴァンパイアの場合は本の著者であることが多いように思います。<br /> <br /> 本に前の持ち主のオーラが残っているだけの場合はしばらくすればそのオーラが発散して消えますので普通になります。<br /> <br /> 一方で、本の著者がエネルギーヴァンパイアである場合は、おそらくは本を読んだ時点で呪術が発動してエネルギーヴァンパイアするのではないかなと思います。<br /> <br /> 魔法とかは一般的には想像上の産物だと思われていますけど、普通に書いた文字であってもそこには魔術と同じような特殊な波動が込められますので、読んでその波長に同調しただけで術が発動することになります。<br /> <br /> 最近でいうととあるスピリチュアル系でそれなりに有名な著者の本がことごとくエネルギーヴァンパイアしていました。<br /> <br /> たまたまかと思っていくつかその著者の本を並べてもみましたけど、やっぱりその著者に限ってエネルギーヴァンパイアしているようでした。<br /> <br /> 瞑想中に探ってみると、どうやらその著者がエネルギーを周囲から奪い続けているようでした。瞑想中ですから本当かはわかりませんし、なりすましの別人、あるいは、イメージが重なっているだけで別の存在かもしれません。ですが、誰かがエネルギーを吸い取っているということは確かなようです。<br /> <br /> そのエネルギーヴァンパイアから管のようなものがスルスルスルっと伸びてきて私の方に触手のように絡んでくるのが見えます。とても気持ちが悪いです。さっきからエネルギー吸われている気がしていたのはこのせいだったのですね。<br /> <br /> その人はどうやらエネルギーが枯渇して周囲にオーラの触手を伸ばしているようです。<br /> <br /> スピリチュアルな能力のうち、チャクラ開花ばかりしてクンダリーニ によるエネルギーの開発が行われていないとこのようにエネルギーが足りなくなって周囲から奪い続けるエネルギーヴァンパイアになるような気が致します。<br /> <br /> この著者は松果体とかチャクラ開花のことを本で書いていますが、エネルギー的な開発が足りていなくて、実際のところエネルギーは周囲から奪うことで自分を維持しているのかな、と思いました。<br /> <br /> 本人の課題はどうであれ、私に危害を加えていることがはっきりしましたので対処をします。<br /> <br /> 放っておけば危害を加えてこないのであれば何もしないのですが、本があるだけで読者にまでオーラの触手を伸ばしてきてエネルギーを奪うのであれば問題です。<br /> <br /> 私の対処としては、瞑想中に包帯のようなものをイメージで作り出してからその人の体をミイラのようにグルグル巻きにしてオーラの触手がその人から伸ばせないようにしました。最初は隙間からオーラの触手が伸びてきて気持ちが悪かったですが、文字通りミイラのように隙間なく全身を覆うことでその動きも治りました。<br /> <br /> これでしばらくはその本人はエネルギー枯渇状態になるかもしれませんけど松果体とかチャクラ開発だけでなく自分のエネルギー開発(クンダリーニ開発)にもっと熱心になってくれればなと思います。<br /> <br /> 私が巻いた包帯がいつになれば元に戻るのかはよくわかりません。誰か気がついたら解いてくれるのではないでしょうかね。自分のオーラを動かせないのできっと自分では解けません。そのうちインスピレーションで助けを求めて来たら何かするかもしれないですけど。<br /> <br /> その後、その著者の本は全てメルカリで売っ払ってしまいましたけどね。割と有名な人なのですぐに売れてすっきりしました。<br /> <br /> こういうのは瞑想中で起こっていることなので、本当のことかはわかりません。ですけど、いいのです。単なる瞑想録ですから。<br /> <br /> Sat, 08 Aug 2020 00:00:00 +0900 雑念が多いまま死ぬと彷徨う浮遊霊になります https://w-jp.net/2020/2012/ <br /> 個人には自由がありますから求めるものになるだけです。良いも悪いもありません。<br /> <br /> 生きている間に欲望に従って生きれば死んだ後も同様の生活が続くだけのことです。死んだ後に「無」になると思っている方も大勢いらっしゃいますけど、死んだ後のことを知らないのにそんなことを信じるなんてのは無神論という宗教に入信しているのと同じことです。それもまた個人の自由で、好きにすればいいと思います。生きている間に精神的なことに興味がなくて欲望に従って生きるのも自由ですし、そうなれば死んだ後もその欲望に従って生きることになります。死んでいますけど意識は生き続けますからね。死んだ後に「無」になると思うのであればそれも個人の自由です。好きに信じればいいと思います。<br /> <br /> 雑念が多いと死んだ後も欲望を満たそうとして想像を自分の周囲に作り出して欲望を満たしているかのような「夢見」の状態が続いたり、あるいは、地上のものを手に入れようとしてちょっかいを出したりするようになります。生きている人に話しかけて「○○が欲しい」「○○がしたい」「○○は面白そう」とかけしかけて生きている人間に自分の欲望を代理で叶えさせようとしたりします。あるいは憑依して行動させるということもあります。<br /> <br /> これらは幽霊と言えばそうですけど、幽霊にも色々とあって、それは生きている人間と同じことです。<br /> <br /> 生きている人間で元気な人もいれば落ち込んでいる人もいて、欲望に生きている人もいれば清貧に安らかに暮らしている人もいます。あの世も一緒です。あの世の生活を謳歌している幽霊も大勢いらっしゃいますし、幽霊は幽霊でもふらふらとどこ行く宛もなく彷徨う地縛霊あるいは悪霊とも呼べる霊もいます。<br /> <br /> これは、宗教を信じているかどうかとは直接的には関係がありませんけど、宗教的な事柄に多少なりとも理解があれば地縛霊あるいは悪霊になりにくいのは確かだと思います。生きているうちに宗教を奇異して物欲に生きた人は死後にふらふらと宛もなく彷徨う浮遊霊になる割合が多いような気が致します。<br /> <br /> 人は完全なる自由がありますから、その人の好きにすればいいと思います。地縛霊になって彷徨うからと言って悪いことはなくて、その人の勝手にすればいいのです。<br /> <br /> 直接的には雑念があるかどうかが関係していて、心が綺麗であればあるほど死後も幸せになれます。<br /> <br /> ですから、物欲まみれの生活を送っていても最終的に満足して雑念と物欲が消えた状態で死ねば死後も幸せになれます。しかし、欲望を抱えたまま死ぬと死後もその満たされない欲求が頭の中をぐるぐると回って欲望に支配される生活を続けることになります。<br /> <br /> 生きている間は体があるので体の制約によって例えば「お腹がすいた」とか「どこかが痛い」とかで強制的に「我に帰る」ということが起きますけど、死んでしまったらそんな感覚はなくなりますので、かなりの長い間、物欲の思いにずっと囚われることになります。<br /> <br /> お腹が空いたとかどこかが痛いとかいう感覚に惑わされずに物欲の思いにずっと浸ることができるのですから、その人の好きなだけずっと浸ればいいのです。<br /> <br /> これも程度があって、かなり低い欲望を抱えていたりすると悪霊ですし、普通の人であっても「幸せな生活をもう一度送りたい」とか「良い嫁、良い旦那とまた地上で生活したい」みたいなささやかな願望もあったりします。ですから欲望とは完全に無縁ではありえないのです。<br /> <br /> 地上の方が制約が多くて欲望を解消しやすいですけど、死んだ後でも欲望を解消できなくもないです。想像すれば周囲にパッとそれが魔法のように現れますから、あっという間に欲望を実現できます。あの世には制約はないのでやろうと思えばなんでもできます。ただし、相手の魂は自由にはならないです。自分のことであれば勝手にすればいいのです。その人の自由です。<br /> <br /> ある程度の幸せな死に方をすればいいですけど、欲望と不満がかなり残っていたりすると彷徨って浮遊霊とか呼ばれたりします。それはこの地上の欲望があの世までずっと続いている人たちです。<br /> <br /> 実際、そのような霊はこの世界に大勢いるのですけど、他人のことですからどうしようもありませんし、自分に関係がないのであれば放っておけばいいのです。あの世は時空の制約を超えていますからその物欲に何百年も浸り続ければいいのです。好きなだけ浸っていてください。誰もそれを妨げたりはしません。<br /> <br /> その一方で、物欲とは関係ないところで静かに暮らしている霊もあります。あの世は広いですから、同じ意識の状態の人たちとは交流があってもその他の人たちのことは見えないことが多いです。<br /> <br /> ですから、物欲まみれの人はそれなりの世界に住みますし、それは「欲求」「妬み」「恨み」「欲望」と言った種類のものですからその霊同士でトラブルも当然起こりますけど、私なんかからすればそんな他人のことに興味はありませんし放っておけばいいと思うので口にも出しません。<br /> <br /> ただ、こちらに危害を加えてきた場合は別で、まずは「あっち行け」「威嚇」をして、それでもしつこい場合は何段階かに分けての「封印」、そして最悪の場合は「魂を消去する」という方法も取られます。そんなことはほとんどしませんけど、かなりの危害を加えてきたら相手の魂を消し去ることもあり得るわけです。これは、干渉してきた場合のお話です。<br /> <br /> ですが、基本的にはあの世は自由が基本ですので、欲望に生たければその人の好きにすればいいと思います。<br /> <br /> 私の生き方とは違いますけどね。他人のことなのでその人の好きに生きればいいと思うのです。<br /> <br /> 死後の生活に興味がなくて死後は「無」になると思っていて欲望のままに生きている人は好きにすればいいと思います。なるようになるだけのお話です。<br /> <br /> Fri, 07 Aug 2020 00:00:00 +0900 ヨガ経歴(2020年7月版) https://w-jp.net/2020/1790/ <br /> 以前に書いたものに少し追記しておきます。(太文字部分を追記)<br /> <br /> <br /> ・2015年1月 インドのアシュラムで生まれて初めてのヨガ 2週間 合宿。その後しばらくブランク。<br /> ・2016年10月 日本の近所でヨガ再開。1週間ごと1回90分<br /> ・2017年8月 ヨガの頻度を上げ、ほぼ毎日90分<br /> ・2017年10月 雑念が減ってくる。ようやくヨガをしている感じになってくる。ヘッドスタンドが短時間だがようやくできるようになる。<br /> ・2017年11月 ナーダ音が聞こえ始める。ヨガをほぼ毎日し始めてから約3ヶ月後。ナーダ音が聞こえ始める1週間前から「無」を経験して寛ぐことができるようになりましたが、わずか1週間で「無」はナーダ音に置き換わりました(詳しい経緯はこちら)。<br /> ・2018年1月 第1回目のクンダリーニ体験。ムーラダーラの電気ショックと眉間の皮膚から数センチ離れた空中(アジナ・チャクラ?)でのエネルギーの爆発。ほんの少しのエネルギー。<br /> ・2018年1月 身体中がオームに包まれる経験(第1回目クンダリーニ体験の約10日後)。<br /> ・2018年2月 ヨガのアサナは元々苦手だったが、ようやく人並みにできるようになる。<br /> ・2018年2月 雑念の減るスピードが上がる。20分の瞑想があっという間に感じられるようになる。<br /> ・2018年2月 日常生活でクンバカ(息止め)が自然に起こるようになる。いわゆるケヴァラ・クンバカ(Kevala Kumbhaka)。<br /> ・2018年3月 ヨガのアサナの1つであるフルブリッジ(チャクラ アサナ、車輪のポーズ)ができるようになる。<br /> ・2018年5月 鼻の詰まりが数十年ぶりに解消された。鼻呼吸が可能になった。プラナヤーマが楽になった。<br /> ・2018年6月 植物や昆虫を傷つけるとハートが痛むようになる。<br /> ・2018年8月 ゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想合宿を経験。宗教でした。<br /> ・2018年11月 イダとピンガラの目覚め(第2回目のクンダリーニ体験)。マニプラ優勢になる。クンダリーニ本体はまだ上がっていない雰囲気。2つの光の筋が上がっただけ。仙骨か尾骨のあたりに熱を帯びて血液が激しく脈打つ。かなりポジティブになる。性欲がかなり解消されて自然な(努力のいらない)ブラフマチャリア(禁欲)の達成(性欲10分の1)。睡眠時間の短縮。声が出しやすくなる。呼吸が浅くなる。ケヴァラ・クンバカが起きなくなる。<br /> ・2019年4月後半から約1ヶ月間、お風呂場での頭からの冷たい水掛けがマイブーム。<br /> ・2019年5月 眠りの質の変化。明確な意識はまだないが多少は意識が刺激された状態のまま眠る感じに変化。<br /> ・2019年5月後半、時々音楽っぽいナーダ音が聞こえるようになる。<br /> ・2019年6月 右足首を骨折して1週間ほど入院。これから約3ヶ月は松葉杖生活。<br /> ・2019年7月 第3回目のクンダリーニ経験。アナハタ優勢になる。(五大要素の)「風(Air)」のエネルギーによる竜巻が腰から頭まで上昇。光の筋はなし。竜巻は頭の周囲で発散(頭上および前後左右に発散)。うなじの下(大椎?)に少しの熱を帯びて血液が脈打つ。ハートがジンジン。第2回目ほどの変化はなし。性欲が更に10分の1 (第2回目クンダリーニ以前と比べると100分の1) 。 悪口の根絶が起こる。骨折による痛みが常にあるので、強制的にヴィパッサナー瞑想しているような感覚。<br /> ・2019年9月 ムーラダーラの活性化。 足の気力が少し増加。足の感覚が少し敏感になる。手の感覚も足ほどではないが少し敏感になる。「におい」に敏感になる。「におい」だけで「味」も感じるようになる。淀んだ空気(の匂い?)が苦手になる。いわゆるグラウンディングの力が若干上昇。他人の淀んだオーラによる自分への悪影響が低下し、自立力が高まる。優勢なのは依然としてアナハタ。<br /> ・2019年11月 古代の唱え方でのオームとチベットのマントラを唱え始める。<br /> ・2019年12月 オーラのエネルギーがアジナ優勢に変化。<br /> ・2019年12月 日常生活上でのヴィパッサナー状態の開始。<br /> ・2020年2月 日常が映画になる。<br /> ・2020年7月 意識の平穏が何段階かに分かれて瞑想中に現れるようになる。<br /> <br /> <br /> Fri, 31 Jul 2020 00:00:00 +0900 忖度はテレパスの特徴 https://w-jp.net/2020/2003/ <br /> 日本人は自分たちがテレパスだということを自覚していないので忖度とか言われるといけないことのように思ってしまいますが、それはお人好しというものです。テレパスであれば相手の思いは分かりますし、それに応じて勝手に何かをしてしまうということはいくらでもあります。それをダメと言われるのは、日本人であることをやめろと言われているのと同じことです。<br /> <br /> 昔、中世で魔女狩りなんてありましたけど、現代は日本人狩りの時代ですよ。周囲の国の人々は日本人というものが分からなくて気持ち悪いのです。ですから排除して消し去ってしまいたいのです。それは魔女狩りと同じ構図です。<br /> <br /> それを、お人好しにも「そうか。忖度はいけないのか」と思ってしまって自分のテレパス能力を封印してしまう人が少なからずいらっしゃいます。ほんと、日本人は温室の中で育てられた世間知らずが多いのだなと思います。<br /> <br /> テレパスであるのならば相手の思いを汲み取ることができますし、政治家でもあればそれができて当然と言えましょう。それができずに相手の忖度を攻撃するのであれば、それはテレパス狩りと言っても良いでしょう。現代の魔女狩りです。<br /> <br /> 陰陽師は幕末に惨殺されて散り散りになっていますし、一般人で神と対話できたり守護霊と対話できたり相手の気持ちを読み取ることができる人はごまんといらっしゃいますけど、あまり口に出していないように思われます。それは、そんなことを言えば変に見られるという社会の風潮もありまし、見えないものが見えると精神科に連れて行かれるという現実もあります。<br /> <br /> とは言いましても、日本人が「空気を読む」のは当然と今でも思われていますので、その点、救いがあります。<br /> <br /> 身近な人のことを思うと、その人の気持ちがわかるでしょう。そして、それを「空気を読む」というでしょう。それがテレパスの基本です。<br /> <br /> 外国人はそれがあまりできない人が多くて、珍しいが故に海外では「サイキック」と呼ばれていますけど、日本人からしたらそんな「空気を読む」なんて普通ですから、言ってみれば海外から見たらかなりの日本人がサイキックです。そんな国が存在していたら海外からしたら気持ち悪くて国と民族を丸ごと消そうとするのも分からなくもありません。<br /> <br /> 日本人はもっと、自分自身がテレパスだという自覚を持った方がいいと思いますよ。<br /> <br /> この世界は非テレパスによって支配されていますからね。日本人は自分がテレパスということをあまり言わない方がいいですし、そのための処世術を身に付ける必要があると思います。少なくとも、テレパスである日本人をこの世から抹殺しようとしている勢力があることを知っておくべきかなと思います。その目的は「日本人を全員抹殺、あるいは、日本人全てからテレパス能力をなくすこと」ですから、どちらも防ぐ必要があります。<br /> <br /> そのような視点から見ると学校教育に仕掛けられた罠ですとか政治にまつわる罠、会社などの社会構造にまつわる罠がたくさん見えてきます。ここまで理解すればあとはいくらでも自分で見抜くことができます。<br /> <br /> Wed, 29 Jul 2020 00:00:00 +0900 テレパスのテレパシーは空気を読むことと同義 https://w-jp.net/2020/2002/ <br /> テレパスというとSFで出てくるテレパシーを使える人のことですけど、テレパシーを日本語でわかりやすく表現すると「察する」とか「空気を読む」という能力です。<br /> <br /> こう言われると「な〜んだ。そのくらい私もできるよ」という方が大勢おられると思います。そ〜んなもんです。<br /> <br /> 特に日本人であればテレパスなんて当たり前に近いものです。その能力の強さに違いはあれど、かなりの人がテレパスであると言えます。<br /> <br /> 日本人であっても空気を読めない方がいらっしゃいますけど、そう言う人はテレパスではないのです。外国人で空気を読めない、と言う場合もテレパスではありません。もちろん外国人にもテレパスはいます。<br /> <br /> この社会の構造はテレパスではない人によって作られておりますので、テレパス型の社会に変革する必要を感じております。特に非テレパスのシステムは日本人には合わないでしょう。<br /> <br /> 例えば、日本社会でありがちな「リーダーシップに欠ける」とか「トップが責任を取らない(連帯責任にする)」と言うのもテレパス型社会の特徴であると言えます。テレパスですと思考がお互いに行き来しますので「わたし」とか「相手」と言う感覚が希薄になります。アイデアであっても自分のアイデアなのか相手のアイデアなのかよくわからないことになります。<br /> <br /> その人たちのところに非テレパス型の社会構造を持ってきてトップが成果を全て手に入れる資本主義システムを適用しているわけですからトップにしても「俺が決めたのではない」となるのは当然のことでしょう。テレパス型の社会は全体の思想が強調して動きますからトップの責任というよりは全体の責任になります。それ故に無責任社会になると言えます。<br /> <br /> 非テレパスのシステムにもメリットはあって、素早く大きく変えるにはリーダーシップが向いています。この辺りは一般に言われている通りです。ですけど、テレパスの人たちに向かってリーダーシップがどうこう、というお話をしても響かないのが現状なのではないでしょうか。<br /> <br /> 特に日本人は、自分たちがテレパスで他の民族の多くはテレパスではない、という自覚が必要だと思います。多くの日本人は外国人に向かって「空気が読めない人たち」とか言っていますけど、テレパスではないのでそこには超えられない壁があるのです。そんな、空気を読めるかどうかで嘆くよりも非テレパスの人たちとの付き合い方を学ぶべきかなと思います。<br /> <br /> これは単純に「外国人が空気が読めない」ということでもありますけど、その奥には、テレパスの社会かどうか、という根本が違っているわけです。多くの日本人はそれを言語が原因だとか日本人が英語を学べばコミュニケーションギャップが解消するとか思っていますけど、問題はそこじゃありませんから。テレパスかそうではないか、というのは根本的に違うということを理解すべきだと思います。<br /> <br /> テレパスは相手にもテレパスであることを期待しますし求めますけど、それを外国人に求めるのはかなり無理難題でかなりの時間がかかる(無理ではない)ということを理解しておかないと日本人が国際社会でうまくやっていくことは難しい気が致します。<br /> <br /> テレパスの基本は単に雰囲気を読むことですけど相手の思い描いている背景を読み取るなんてのも普通にできます。というか、みなさん、普通にしていますでしょう? それができない、空気が読めない、つまりはテレパスではない人がこの地球上に多くいるということは知っておいて無駄ではないと思います。<br /> <br /> Tue, 28 Jul 2020 00:00:00 +0900 オーラのためにソーシャルディスタンスを保つ https://w-jp.net/2020/1997/ <br /> コロナは割と茶番ですけどオーラのためにソーシャルディスタンスを保った方がいいと思います。<br /> <br /> 特にエネルギー・ヴァンパイアの近くに行ったらエネルギーを根こそぎ吸い取られます。<br /> <br /> スピリチュアルな成長は意識としての成長とエネルギー的な成長があり、両者が組み合わさると能力としえ現れたりしますけど、エネルギー的な成長がなくてエネルギーを外から奪い取るような形でスピリチュアルな成長をしてしまうと変なオーラになります。<br /> <br /> エネルギー・ヴァンパイアは一見すると強い光を放ってはいるものの、どこか禍々しいオーラを放つようになります。<br /> <br /> チャクラがそれほど動いていなくてクンダリーニも動いていないのでエネルギーを自分で取り入れることができません。<br /> <br /> 自分自身でエネルギーを取り入れることができないのにも関わらずアジナチャクラや松果体等が活性化してエネルギーが使えるようになった人はエネルギーをどこかから入手しようとします。<br /> <br /> 能力を使うためにはどうしてもエネルギーが必要になるわけで、自分でエネルギーを作り出すことができないので周りの人から構わず奪い取るようになるわけですね。<br /> <br /> 恐ろしいですよ。<br /> <br /> 触手がグワーーーーーーーー と伸びてきて、特にお腹のあたりからエネルギーを奪い取っていきます。<br /> <br /> 触手は、例えるならば「鋼の錬金術師」で出てきた黒い影を持つ大ボス(名前忘れました)が影を伸ばして相手を捕まえるのに似ています。感じとしてはそうですが、エネルギーヴァンパイアの場合はその触手からエネルギーをグングン吸い取ってゆきます。触手は結構速いです。<br /> <br /> オーラも禍々しく歪んでいて、他人が近づくと自動的に触手が触れてエネルギーを奪うようです。<br /> <br /> 本人はそれに気がついているのか気がついていないのか? 自覚しているとしたら大悪人ですし自覚していなくてスピリチュアリストを名乗っているのだとしたら大迷惑な人です。<br /> <br /> それは、また違うものに例えるならば、「ナルト」に出てきた「屍鬼封尽 (しきふうじん)」の術にも感じが似ています。漫画では封じるための術でしたがそこは似ていなくて、封じると言うより、相手のオーラをお腹から根こそぎ無理やり引き抜く、というところが似ています。<br /> <br /> この種のエネルギーヴァンパイアは世間によくいますけど、他人からエネルギーを奪わない限りは好きに生きればいいと思います。この世界は自由な世界ですから自分で勝手に生きるのは全く問題ないわけです。ですから、エネルギーヴァンパイアが悪いと言うよりも、他人のエネルギーを奪うことだけが問題です。<br /> <br /> 誰しもクンダリーニ覚醒がうまくいくわけでもないですし、エネルギー不足の状態でエネルギーを使おうと思ったらオーラが勝手に伸びて周囲の人から奪おうとするでしょう。エネルギー保存の法則じゃないですけどエネルギーというのは高いところから低いところに流れるのです。<br /> <br /> 能力が使えるからと言ってスピリチュアルで成長しているとは言えない、というのは有名なお話ですけど、エネルギーが足りていないのに能力を使おうとするからエネルギーヴァンパイアになるのです。<br /> <br /> この辺り、よく分かっていない人も大勢いらっしゃるように思います。<br /> <br /> セミナーとかで人を集めて顧客からエネルギーを奪って能力を保っている人もいらっしゃるようです。あるいは対談をして対談相手からエネルギーを奪って生活しているような人ですね。<br /> <br /> そのような人と関わり合いを持つべきではありません。<br /> <br /> 関わり合いを持ってしまった時の対処法としては、これは可能な人に限りますけど、可能であるならばエネルギーヴァンパイアのオーラを封印してしまえば良いです。<br /> <br /> オーラがゆらゆらと禍々しい輝きをして周囲からエネルギーを奪うのですから、そのオーラを封印してしまって、ついでにアストラルの視界と聴覚も封印してしまえばスピリチュアルな能力は一時的に封印されます。<br /> <br /> 封印できる人がどのくらいいるか知りませんけど、とある人の例で言いますと、道を歩いていて自分に危害を加えようとしている人、あるいは数分後、数十分後、あるいは翌日にエネルギーバンパイアしてくるような人がいたらあらかじめ霊的に相手を封印しちゃいます。<br /> <br /> 特に悪気がないようでしたら自分と関わり合いがなくなった頃、例えばすれ違った後に封印を解いてあげますけど、解かないとその後どうなるのかよくわかりません。ずっと封印されたままということはない気もしますけど、しばらくは封印されているように思います。<br /> <br /> それは、道を歩いていて、急に攻撃を仕掛けられたようなものです。<br /> <br /> オーラのエネルギーヴァンパイアをするということは、霊的に言えば「攻撃」ですよ。攻撃されたのだから反撃しても全く問題ありません。<br /> <br /> かと言って相手を傷つけるのは大変ですから、相手のオーラを包帯みたいなのでグルグル巻きにして全身を囲ってしまえば相手のオーラは周囲を感知できなくなりますし、エネルギーヴァンパイアもできなくなります。<br /> <br /> 本人にしてみればいきなり周囲を全く感じられなくなるので恐怖でしょうけど、それは自分が先に攻撃を仕掛けてきたのが悪いのです。<br /> <br /> 職場とかでもね、エネルギーヴァンパイアで生きている人は大勢いらっしゃいますよ。そんな人とは関わらないことです。近くの席にいて攻撃を仕掛けられているのならば相手を封印してしまえばいいのです。それは相手が悪いのですからそのくらいの自己防衛は問題ありません。<br /> <br /> Thu, 23 Jul 2020 00:00:00 +0900 ジョブスは神の怒りを買って処分された https://w-jp.net/2020/1982/ <br /> 一緒にアップルを立ち上げたウォズニアックは神の如き人格なのに対してジョブスは人を煽って世界の不幸を加速させたが故に神の怒りを買って処分されたようです。<br /> <br /> ・・・瞑想中で見たお話ですので本当かどうかはわかりません。ファンタジーだと思っておいてください。<br /> <br /> どうやら、とある神はジョブスに苛ついていたようです。<br /> <br /> 他人と分かち合うことをせずに世界を煽りに煽って自分の製品を高値で売り抜ける手法は神の本意にはそぐわないようです。<br /> <br /> 実際、アップルの製品は半分はアップルマークがついている故のブランド価格ですし、寡占化してしまえばソフトのサブスクリプション等で利益は思うがままです。<br /> <br /> 良い製品を出すということは問題ではありません。<br /> <br /> 問題なのは、良さを煽ることでアップル製品が買えない数十億の人たちの不満を増大させるという点にあります。不満、妬み、恨み、怒り。そのようなものをジョブスが世界中にばら撒いているのです。それも数十億人の単位で不満をばら撒いているのであれば神も懸念します。<br /> <br /> 本人はそのつもりがないのかもしれませんが、やっている行動が多数に影響を与えてこのような不幸を世界中に大量生産すると神の怒りを買うということのようです。<br /> <br /> アップル製品を半額以下のお手頃価格にしてライセンス料金も良心的な価格にし、更には財産を人に分け与えるということをジョブスには期待されていたようですが、そのようなことをせずにプレミアをつけ続けたが故に神の堪忍の尾が切れたということのようです。<br /> <br /> 神は、そのような独占を加速させるジョブスを許さなかったようですね。<br /> <br /> ジョブスを神格化している人も大勢いらっしゃいますけど、神そのものというよりは、神によって選ばれ、やがて神の怒りを買って処分された人間だ、ということのようです。<br /> <br /> ジョブスが禅を学んで実践していたというお話はよく聞きますけど、それも神によって導かれたもののようです。しかし、それを個人的に実践はしていても他人と分かち合うという精神を広く発揮できなかったが故に処分されたようです。<br /> <br /> 影響力が大きい人はそれなりに大きなものが求められるということですね。<br /> <br /> iPhoneのようなインスピレーションはそれが可能な人には神が与えることがありますが、往々にして自分のアイデアだと思いがちのようです。しかし、それは実際は神が与えたものなのですよね。<br /> <br /> それを勘違いして自分のものとして利益を享受したら神に処分されるということのようです。<br /> <br /> 処分とは言っても、そこは神ですから、「もう十分だ」ということのようです。これ以上続けると独占と利益重視の王国が堅固になるため、それはさすがに許容できないということのようです。今でも既に許容範囲を超えていますが、更に堅固になることは絶対に許されなかったようです。<br /> <br /> このように、神に選ばれたものの使命を果たした後は変な方向に行かないように早急に早死にする方は大勢いらっしゃいます。聖人のような方ほど早死にするとはよく言ったもので、それは、聖人が不幸にあうというよりは聖人がこの世に生きていると堕落してしまうのでそれを避けるために早めに死ぬという面もあります。それは自身のスピリットが自分のためにそのように選ぶ場合もありますし、ジョブスのように他の神の怒りを買って処分される場合もあるようです。<br /> <br /> Wed, 08 Jul 2020 00:00:00 +0900 サードアイとフォースアイ https://w-jp.net/2020/1979/ <br /> 第三の目(サードアイ)とはよく言われていますけど、目といいつつ、実際のところ肉眼のような視界ではなく直感力が鋭くなります。ですので、肉眼のように微細な霊界が見れるようになるわけではありません。<br /> <br /> その先にある、俗に言うフォースアイであれば周囲も見られますし時空も超えられます。周囲から自分を外側から見る能力はサードアイではなくてフォースアイの能力です。<br /> <br /> ただし、そのことをサードアイと言っている方もいらっしゃいます。この辺りは流派によってそれぞれですね。<br /> <br /> 先日、リシケシ在住のスワミの講和を聞きましたがサードアイは視界のことではなく直感力およびポジティブな力のことだとおっしゃっていました。ですから、サードアイによって視界が開けると言うわけではないようです。<br /> <br /> この辺りは、実際の姿は同一でも、その表現が異なるわけです。<br /> <br /> 流派によっては直感力やポジティブ力のことはサードアイだとはいいませんけど、先日私が聞いたリシケシ在住のスワミのお話だとそんな感じでした。<br /> <br /> 私個人の言い方ですとこのスワミに似ていて、直感力みたいなものはサードアイの範疇で、時空を超えたり自分の周囲を自由な視点で見るのはフォースアイ的なものの力です。<br /> <br /> サードアイまででも時空を越えることはできますが受動的なものになります。自分で探しに行くというよりは直感を受け取る力になります。直感を送る方は時空を超えた先の未来の自分だったり過去の自分だったり守護霊のスピリットだったりするわけですが、それを受け取るのがサードアイの能力です。送る能力もあるにはありますけどこのくらいですとそんなに力は強くないと思います。大体の感覚を送ったり受信したりする能力がサードアイの基本的な能力です。<br /> <br /> その先にあるフォースアイは、最初の場所としてはサードアイのあたりで近いですがクリスタルのコアのようなものがアストラルで作られて、そのクリスタルが周囲を見たり時空を超えたりします。飛行機やドローン、あるいは地球の外に浮かぶ人工衛星や宇宙船みたいなもので、離れたところからの映像を自分のサードアイに送信します。それがフォースアイです。<br /> <br /> これはサードアイとしての基本的な送受信能力に加えてアストラルのクリスタルの両方が作られて初めて発揮する能力です。前者だけですとサードアイですし、後者のこともサードアイと言ったりもしますけど私はフォースアイと呼ぶ方がしっくりくると思っています。<br /> <br /> サードアイは英語で「3番目の目 3rd Eye」、フォースアイは「4番目の目 4th Eye」です。フォースと言ってもジェダイのフォースではないのです。語呂合わせがいいのでそう言うことにしてしまってもいいかもしれないですけどね。<br /> Sun, 05 Jul 2020 00:00:00 +0900 プレアデスの宇宙船で暮らした時のお話 https://w-jp.net/2020/1978/ <br /> ・・・ファンタジーだと思っておいてください。<br /> <br /> 私のグループソウルの過去生において、宇宙船に暮らしたことがあります。<br /> <br /> 前にも少し書いたような気が致しますが、その時は確かヨーロッパの方で教会かあるいはそれに類する思想家のような立場で暮らしており、ある程度は有名になっておりましたので宇宙人が定期的に観察をしており、やがて、宇宙船が降りてきてコンタクトしてきたのです。<br /> <br /> 実際のところ未来予知の能力もそこそこありましたので子供の頃からそれは予感しており、それが来た時は実物を見て驚きはしましたし感動もしましたが予見が実現したという思いも同時にありました。<br /> <br /> それはたぶんプレアデス系の宇宙船だったのではないかと思うのですが彼らはとても長寿で、その時に知り合った人たちは未だ存命のような気が致します。たぶん200年は経っているとは思いますが。<br /> <br /> 宇宙船と言ってもかなり広く、いわゆるアダムスキー型のような円盤の形をしておりますが円周は数キロはあったように思います。広すぎず、かと言って狭すぎない程度です。<br /> <br /> 子供が大体10人くらいいて、家族ぐるみで生活をしていたように思います。人数は数百人くらいだったでしょうか? 選ばれたメンバーが母星から遥々と遠征してきており、定期的に補給物資を運ぶ輸送船が来ていたりしていましたが基本的には独立して活動しておりました。<br /> <br /> その時、どうやらプレアデス系の宇宙船は地球との関与を久々に再開したばかりで、人間を知りたがっていました。<br /> <br /> この背景は半世紀前に話題になったスイスのビリーマイヤーによるコンタクト記録などに詳しいですが、最近の書物ですと「プリズム・オブ・リラ」などにもその背景が描かれております。細かいところは当たらずとも遠からずという感じで、基本的には参考になると思います。<br /> <br /> いわゆる宇宙艦隊といいますか宇宙連合が組織されていて、人間型宇宙人の一角をプレアデスが占めております。そして、地球だけでなく他の星の精神的成長を助けたりしています。<br /> <br /> 例えば、私もその後、宇宙艦隊のメンバーになって他の星に転生したことがあります。<br /> <br /> 具体的には、卵に手足がちょこんとついていて可愛い目と口がついているような生命体でしたが、今の地球のようにエゴが前面に出ていて自尊心が強く独占欲が強く、その星の生命体の精神を向上させるというミッションでした。<br /> <br /> 宇宙連合のメンバーは宇宙船から惑星を観察したり、時には上記のように実際にその星に転生したりして任務を全うしました。<br /> <br /> もちろん、この地球に転生をしてきている人も大勢いらっしゃいます。<br /> <br /> 人間の転生とプレアデスの転生はちょっと変わっていて、人間の場合は転生の時点でグループソウルといいますかハイヤーセルフといいますか根元と一旦一緒になってから再度分裂して転生をする、ということを行っておりますので前世と今世の魂が同じようでいて異なる質として生まれます。<br /> <br /> 一方、プレアデスの場合はまず寿命がとても長く、転生するにしても同じ魂がそのまま新たな肉体に宿る、あるいはアストラル体のまま生き続ける、という選択をするように思います。<br /> <br /> ですから、プレアデスの人からすると人間の転生は不可解で、どうして前世であのような資質を持っていた人が来世でこのようになるのか、そこのところが最初は理解できなかったようです。その辺りもプレアデス人の興味を引くところで、地球人はプレアデス人にとって興味深い観察対象だったと言えます。<br /> <br /> プレアデス人は地球の軌道上から地球を観察しているわけですが、基本的に地球は「野蛮で危険なところ」という認識です。ですから、地球に転生をしたいという人に対しては「やめたほうがいい。危ない」というのが常でした。<br /> <br /> プレアデス人の気質は何事にも興味を持つ探求心を持っており、技術にも優れておりましたので工作による改造やら趣味やら、とても人間臭いところを感じました。<br /> <br /> プレアデス人は地球の人が思うような神のような存在ではなく、親しみのある愛情豊かな人間であると言えます。実際、向こうも自分たちのことをそう思っております。<br /> <br /> それはアメリカ人のオープンな気質とも似ています。<br /> <br /> プレアデスの技術はアストラルな面にも及んでおりますので、地球の観察をする時は観察対象の人が頭の中でどのようなことを考えているかを読み取ります。口でどのようなことを言おうとも、どのような時であれ頭の中まで観察できますので本気になって調べられたら誰であろうと頭の中まで裸にされてしまいます。それが技術の差です。<br /> <br /> そんなことをしていますと地球人の恥ずかしいところもよく目にしてしまうわけですが、それを読み取ったとしても恥ずかしいことは相手に言わない、あるいは、見て見ぬふりをする、という紳士の誇りというか紳士の名誉のような不文律がありますし、地球人の恥ずかしい面を見たところでプレアデスの人は気にも止めません。プレアデスの人は相手を貶めて辱めるようなメンタルにはありませんから、そこは安心して良いと思います。<br /> <br /> その後、私はプレアデスの居住星の方でも転生したことがありますけど、プレアデスの人はメンタルが平穏すぎて地球育ちの人が生きるには純粋すぎてちょっと息苦しい感じを受けました。透明な水の中で生きられない魚の気持ちがわかりました。<br /> <br /> プレアデス人の性に対する感覚も違っていて、プレアデスの人にとって性とは子供を作る手段であり、地球の人のように性でコミュニケーションを取るというよりも性を超えた普遍的な愛の先に子供という選択があって、子供を作るために性を用いる、という感じでした。よって、性的な接触は最低限しかありませんし、地球人のように性的欲求のためにコトを行う、ということはあまりないようです。それよりも、語り合ったり近くにいたりという純粋な愛情表現が優先されているように思われました。<br /> <br /> ですので、地球の人がプレアデスの世界で暮らすのはおそらく窮屈で欲求不満になってきついと思います。あまりプレアデスのような世界に憧れるよりは今いるこの地球で満足に暮らすほうが幸せだと思います。上の世界を夢ていたとしても、今いる世界が自分に一番あっているのだと思います。<br /> <br /> 地球の場合は幼い頃から学びを続けて大体40歳前後で真実を悟り、それ以前の生活とは変わるような気が致します。一方で、プレアデスでの場合は幼い頃からかなりの真理を悟っている気が致します。プレアデスの環境は地球の人が学ぶべきことを学べない環境ですので辛いと思います。<br /> <br /> プレアデスの世界は、ヨーガ的基準で言うとアナハタ以上の世界です。地球の聖者と言われている人がプレアデスでの普通です。聖者だらけの世界に生きたら、普通の人は苦しいと思いますよ。<br /> <br /> メンタル的にはそのくらいの違いはあっても、人の資質としては上のようにオープンで気軽で楽しい人たちばかりです。<br /> <br /> 宇宙船の司令室は宇宙戦艦ヤマトのように天井が高くなっており、どちらかというと銀河英雄伝説に出てくる自由惑星同盟の戦艦の司令室の方がイメージに近いですね。広さはそこまでではありませんけど感じとしては似ています。<br /> <br /> SFはファンタジーだと思われていますけど、意外に現実に即しているとよく思わされます。スターウォーズなんてオリオン大戦そのものですよね。<br /> <br /> Sat, 04 Jul 2020 00:00:00 +0900 スピリチュアルも宗教も思想も全部一緒 https://w-jp.net/2020/1976/ <br /> よく分かっていない人だけが分けたがります。<br /> <br /> 思想も「信じなくてはならない」という誤解があります。<br /> 宗教も「信じなくてはならない」という誤解があります。<br /> スピリチュアルも「信じなくてはならない」という誤解があります。<br /> <br /> 例えば思想の「唯物論」にしても、単なる論ですのにあたかも絶対的な真理として語る人がいます。それは宗教みたいなものです。<br /> <br /> ダーウインの「進化論」にしても科学の絶体的な真理みたいに日本では語られていますけど、単なる論です。科学というのは証明が必要ですから実際に進化論を証明するには何万年もかかります。タイムマシンでも発明しない限り証明は遥か先のことになりますから、所詮は理論に過ぎません。<br /> <br /> 科学の大御所といえばノーベル賞ですが、進化論のような生物学でノーベル賞なんて聞いたことがありません。進化論なんてそのようなものなのに絶対的な真理だと思い込まされていて、「信じなくてはならない」という圧倒的な雰囲気に飲み込まれているのが日本です。これは宗教とそう変わりがありません。外から見たら、進化論を信じなくてはならない宗教団体のようなものです。<br /> <br /> 思想は単なる表面的な思いですので人間の頭が作り出したものです。<br /> <br /> 宗教にしても表面的なものがあって、それは人間の頭が作り出したものです。<br /> <br /> スピリチュアルにしても表面的なものは人間の頭による創造物です。<br /> <br /> 思想はもともとはピタゴラス派のように神秘主義の団体によって形成されたものですので、宗教みたいなものです。思想が科学だと思っている人も多いですが、思想は宗教みたいなものです。<br /> <br /> スピリチュアルにしても誰かの頭によって作られたものです。であればスピリチュアルも宗教みたいなものです。<br /> <br /> どちらにせよ、作った当初は柔軟で本質に近いものでしたが、時間が経つにつれて形骸化してもともとの本質が失われるが故に避けられるようになるわけです。<br /> <br /> 今でこそ宗教が避けられていますが、宗教が作られた当初は現在の「思想」とかの意味に近かったと言えます。<br /> <br /> 今でこそスピリチュアルに新しいイメージがありますが、宗教が作られた当初、あるいは、思想が作られた当初は新しいイメージがありました。<br /> <br /> 何であれ、新しく作られるものに対しては良いイメージがあって、古いものは避けられるということです。そして、新しいものは生きていて、古いものは死んでゆくということです。<br /> <br /> 思想も古くなり、死んでゆき、宗教も古くなり、死んでゆき、やがてはスピリチュアルも古くなり、死んでゆきます。<br /> <br /> しかし、思想を選んだとしても宗教を選んだとしてもスピリチュアルを選んだとしてもその本質は変わらないわけです。<br /> <br /> 宗教は1つだけ選ばなくてはならないと思っている人がいらっしゃいますけど、この世の中の徒弟制度にしても流派にしても、かなりのものが「1つだけ選ばなくてはならない」ものだらけですので、宗教だけ避けているのも何だかなあ、という気が致します。<br /> <br /> 昔から新興宗教みたいなものは多くありましたし、今更になって増えたわけでもありませんし。昔は宗教というよりもミステリーサークルみたいな神秘主義の集まりだったものが今は宗教団体という形を取っているだけです。<br /> <br /> 昔からカルトはいましたし、カルトは宗教団体だけのものではなく思想団体にも多くみられました。<br /> <br /> 思想も宗教もそれほど変わりがないと言えます。<br /> <br /> 昔はミステリーサークルでしたが、今はそのような任意団体だけが宗教になっているわけではなく、宗教団体を隠れ蓑にした税金対策みたいな変な団体もいたりして、宗教法人というものが利益のためにも使われている点が純粋ではないとは言えますが、昔からそういう資金流用とかはありましたので今に始まったことではありません。<br /> <br /> 「信じなくてはならない」という宗教は実際のところそれほど多くありません。初心者向けに「信じなくてはならない」と言っているだけで、実際は、本人が理解して経験しなくてはならないことだらけです。<br /> <br /> 中級者以上になったら「信じなくてはならない」なんて言われません。<br /> <br /> 思想にしても自分で考えるでしょう。<br /> 宗教にしても自分で瞑想して本質とは何かを考えて理解しようとするでしょう。<br /> スピリチュアルにしても自分で探索して自分の頭で理解・体験しようとするでしょう。<br /> <br /> どれも大差ないと言えます。<br /> <br /> もっと拡張すれば、ヨーガとかも広義における思想・宗教・スピリチュアルに含まれます。<br /> <br /> もちろん仏教もそうですし神道もそうです。キリスト教も同じです。一神教にせよ多神教にせよ、単に伝え方が違うだけで本質は同じです。<br /> <br /> ただ、住んでいる環境や人の性質に応じて違った様相が現れているだけのことです。<br /> <br /> 思想にせよ宗教にせよ、何某か導く人は現れますし、その人を先生と呼ぶかグルと呼ぶか教祖と呼ぶか教授と呼ぶか博士と呼ぶかはそれぞれですけど、大差ないと言えます。<br /> <br /> どちらにせよ、他人を従属したいと思っている団体はその程度ですし、本質を見極めたいと思っている団体にしてもそれぞれです。<br /> <br /> 自分の宗教があるから他の宗教はできない、みたいな方もいらっしゃいますけど、本質は同じですのであまり拘らなくてもいいのではないかと私なんかは思いますけど、1周目であれば1つの宗教なり思想なりにどっぷり使った方がいいと思うのも確かです。<br /> <br /> 最初は1つの流派でとことん極めて、その理解を元に他の流派の理解を深めてゆくのもいいかと思います。<br /> <br /> どちらにせよ、本質は変わりません。<br /> <br /> Thu, 02 Jul 2020 00:00:00 +0900 我思う故に我ありと教えられて思考をフル回転させようとする愚かさ https://w-jp.net/2020/1973/ <br /> 子供の頃に先生から習ったでしょう。「我思う故に我あり」とか説明されて、「心が自分なんだ」「思いが君なんだ」「思考が君なんだ」と教えこまされたでしょう。 それ、嘘ですから。<br /> <br /> いわゆる「頭の良い人」とは思考をフル回転させることができる人だと習ったでしょう。<br /> <br /> 延々と思考が続いて論理がフル回転し、話をし出したら止まらない人。いますよね。<br /> <br /> 学校の教育では「答え」を出す必要がありますから「問題」がインプットで頭をフル回転させて「答え」を出す機械の人間が頭が良いとされます。<br /> <br /> それ自体は問題ないのですが、フル回転しなければ「自分」がいなくなってしまう、という根本理解が問題です。<br /> <br /> だって、「我思う故に我あり」ですからね。<br /> <br /> 頭を回転させていなくて思考していなければ「私がない」ってことになってしまいますから、私が存続するためには必死になって頭をフル回転させる訳です。<br /> <br /> 思考を止めてしまったら「私」がいなくなる、ってことですから。<br /> <br /> ・・・これが、普通の教育で教えられることです。<br /> <br /> 「思考を止めるな」と教わります。・・・学校にもよるかもしれませんけど、少なくとも受験や勉強ではこの辺りが根本的思想になっていると思います。<br /> <br /> 思考を止めると私がいなくなってしまうのでしょうか? という子供の質問に対して先生は「そうだ」と答えたり、曖昧な答えでぼかします。子供は素直ですから、思考が私であるならば先日私が思い描いた残忍な思考や下ネタも全てが自分だと思って嫌悪感に浸ります。<br /> <br /> この辺りの、「自分とは何か」という教えが、ヨーガやヴェーダで教えられているところと、学校教育で教えられている「我思う故に我あり」とで全く異なっています。<br /> <br /> 学校教育では「我思う故に我あり」ですから思考がなくなったら自分が消えて無くなり、残酷な考えを抱いたら自分が残忍だということであり、下ネタを思い描いたら自分がすけべだということになります。しかも、思考を止めたら自分がなくなってしまいますから考えを止めずに24時間ずっと思考を続けていることを強要します。・・・・まあ、先生によるのかもしれませんけどね。<br /> <br /> 昨今ではネットでの情報も増えて学校の先生のお話を真に受けることも少なくなったかもしれませんけど、一部ではまだこんな意味不明な教育が行われているように思います。<br /> <br /> その愚かさの根本は、思考が自分だと思っている点です。じゃあ、思考がなくなったら自分もなくなるのでしょうか? 一部の教育者は思考がなくなったら自分がなくなると思っています。それが自我であると一部の教育者は主張します。<br /> <br /> 実際、考えるべきことはそんなに多くないのに、「自分」を失わないために思考を頭の中に詰め込んで24時間ずっと頭を動かし続けるというこの社会・・・・。まともではありませんよ。<br /> <br /> その思考の中に、マスコミが埋め込む宣伝を入れたら消費者は一斉にそれを買うので会社は大儲けするでしょうし、戦争やヘイトスピーチ、いくらでも他人が大衆をコントロールできるようになります。<br /> <br /> 根本には、「我思う故に我あり」という間違った考えが浸透しているから大衆コントロールが簡単になっているのですよね。<br /> <br /> 何かの疑問やトピックに対しては全て答えを用意しておいて、その答えこそが正しいとすり込みさえすれば「反応」しかしないようになり、大衆の反応が予想可能になり、商売にせよ政治にせよいくらでも掌で踊らせることができるようになります。<br /> <br /> その根本は「我思う故に我あり」だと思っているから、自分の頭を自分でコントロールできていないのですよね。ヨーガ的に言えば思考なんてのは一時的なものであって「自分」ではないです。思考を自分だと思っているから自己が汚れたとか自分が間違っているとか勘違いをするのですよ。<br /> <br /> 最近はこういうことを教えてくれる人も多いので、昔ほどは教育で汚されることも少なくなった気もしますけどね。それでも、特に年配に昔の教育の弊害が残っているような気が致します。<br /> <br /> Mon, 29 Jun 2020 00:00:00 +0900 精神病のエネルギーヴァンパイアは隔離すべき https://w-jp.net/2020/1972/ <br /> これは、精神病を卑下するように言っているのではありません。精神病はオーラの境目が曖昧で激しく揺れ動いているために近くに誰かが近づくと精神病患者のオーラが健常者と混ざってしまって病気が移ってしまうからです。<br /> <br /> 特定病原菌にかかった患者は隔離するでしょう。病原菌であれば三次元の物体で隔離できますのでやりやすいですがオーラの場合はある程度は壁も通り抜けますので絶対的な距離を保たなければ周囲の人のオーラが破損してゆきます。<br /> <br /> 昔と違って学校などでは精神病患者と健常者が同じ教室で過ごすようになって来ているようですが、私も子供の頃にオーラが不安定な人の横の席に座らされてオーラを延々と引き抜かれたことがあります。横にいるだけでオーラが奪われて、私が精神的に不安定になってイライラしやすくなる一方で、どんどんとその知恵遅れの人の症状が回復してゆくのです。<br /> <br /> まったく、いい迷惑です。<br /> <br /> これは、先日書いたようにオーラを混ぜてはいけないと言う宇宙の法則に反しています。<br /> <br /> 生命体はそれぞれの進化の度合いがあってそれぞれの学びがありますから、オーラを奪うことでその学びを飛び越えてしまうと「抜け」ができてしまうのです。<br /> <br /> 私もどうしてこんな宇宙の法則ができたのかその根元までは知りませんが、どうやら地球以外では広く行き渡っている法則のようです。<br /> <br /> ですから、精神病患者は単に動物から人間になる成長過程を学んでいるだけであってそれが悪いことではなくて卑下する必要もなくてそれなりに生活しさえすればいいのに人間は平等だからとか言う訳の分からないイデオロギーに洗脳された教育現場で「知恵遅れの動物人間」と「普通の人間」とを隣に座らせたら普通の人たちの精神が不安定になるのも当然と言えます。<br /> <br /> その状況を見て「学級崩壊」とか言っていますけど、一体、どこをどう見て学級崩壊だと嘆いているのかサッパリわかりません。<br /> <br /> そもそもの原因は精神の成長段階が異なる人たちを同じ部屋に詰め込むから学級崩壊と呼ばれていることが起こるのです。<br /> <br /> 今の学校教育は最悪ですよ。<br /> <br /> 昨今、コロナでネット授業になってホッとしている人も多いのではないでしょうかね。<br /> <br /> 近くにいるだけで精神が病む人がいて、その人と対面で会う必要がありませんからね。<br /> <br /> 今の学校教育、もっと言えば社会のほとんどでエネルギーヴァンパイアが有利なようにできています。嫌がらせをして精神病でいた方がエネルギーが奪えると言う社会構造が出来上がっています。<br /> <br /> まずは教育から変えないといけませんよね。<br /> <br /> 子供はある程度は耐えてしまいますけど、耐える必要はないと私は考えます。<br /> <br /> 合わない人とは付き合う必要がありません。<br /> <br /> 学校の先生に「誰々君は友達がいなくてかわいそう」とか言われても、エネルギーヴァンパイアと友達のふりをしてエネルギーを奪われ続けるよりは友達なんて作らない方が良いです。そのような多様性を学校の先生は理解する必要があります。先生はあまりにも1つのステレオタイプに合わせようとしすぎます。学校や先生によるところは大きいとは思いますけど、所詮は人間ですから子供のことなんて真には分からないのです。子供は、そんな程度の先生を信じすぎないことですね。特に、友達と仲良くしましょうとか言ってくる先生には要注意で、複雑な人間関係を理解していない、魂として成熟していない若い魂である可能性があります。<br /> <br /> 動物上がりの動物人間とどうやって理解し合えと言うのでしょうかね。学校の先生が言うことは訳が分かりませんよ。<br /> <br /> 先生の強制や、会社での強制で動物上がりの動物人間と付き合った結果、まともな人の精神が崩壊するのです。<br /> <br /> そうして、精神が崩壊した人を指して「あいつは頭がおかしい」とか、まさにその動物人間が状況も理解せずにエネルギーヴァンパイアしつつ他人を蔑むのが現在の社会の姿です。頭がおかしいのは動物人間であるのに、そんな動物人間と付き合って精神が疲れてしまったまともな人が頭がおかしいと動物人間に言われると言う奇妙な現象が起きています。<br /> <br /> ですからね。最初から動物人間のような精神病のエネルギーヴァンパイアとは付き合わないことですよ。<br /> <br /> 子供の頃から、最初から付き合わないことです。会社でも付き合わないことです。<br /> <br /> 学校では登校拒否していいし、会社であればすぐに辞めてもいいです。<br /> <br /> ちょっと前なら人生に困りましたけど、今はいくらでも手がありますし、やがてはそう言う子供がどんどんと増えて行きますから、お互いに同じような子供たちでシステムを作り上げてゆくことと思います。<br /> <br /> その時、新しいシステムに入ることができるのはまともな人間だけであり、エネルギーヴァンパイアの動物人間はそのシステムに加わることを拒否されることになります。<br /> <br /> そろそろその入れ替わりの時期なのでは、と思います。<br /> <br /> エネルギーヴァンパイアしてこの世の春を謳歌していた動物人間たちは、そのうち、いつの間にか自分たちの居場所がなくなっていることに気が付くと思いますよ。<br /> <br /> エネルギーヴァンパイアにエネルギーを与える人がいるから現在の社会が継続するのです。まずは意識の中で「私はもうエネルギーを奪わせません。私はもうエネルギーを奪いません。」と宣言しましょう。そうすることで自分のエネルギーの動きが変わっていって、自分をカモだと思っている人が少しづつ減ってゆきます。<br /> <br /> エネルギーヴァンパイアは、親切かどうかとは関係がないですよ。親切そうに見せておいて他人のエネルギー、他人の労力、成果を奪おうとしている人はいくらでもいます。そう言う人は全員、エネルギーヴァンパイアです。奪われることを拒否して、「自分でやってください」と宣言することです。<br /> <br /> 「仲良くしましょう」みたいなのはエネルギーヴァンパイアの常套句です。そんなことを言う人がいたら気を付けましょう。<br /> <br /> 本当に仲良くすべき人はそんなこと言わなくてもお互いに分かりますよ。まずは、エネルギーヴァンパイアのエネルギー供給元であることを辞めることからですね。そうして自立して、それからようやく本当に仲良くすべき人が現れます。自立していない人には仲良くとかそう言うお話はありませんからね。<br /> <br /> まずはエネルギーヴァンパイアを拒否し、次は、自立することですね。<br /> <br /> 見分け方として、一見良い人のように見えるが何か違和感を感じる人がいたとします。違和感があるので仲良くするのをやんわりと拒否したら「潰す」とか脅してくるのがエネルギーヴァンパイアです。分かりやすいでしょう? 最初に感じた違和感を大切にしましょう。騙されないことですよ。<br /> <br /> 自立するまでは仲良しごっこを拒否すると言うのも手ですね。子供は、本当の自立が何かすら分からないかもしれませんから、社会がわかるようになるまで他人には気を付けることです。<br /> <br /> 大人は、子供に向かって「友達と仲良くしましょう」なんて無責任なことを言わないことです。よく見て友達は選ばせましょう。そうしないと同質化してエネルギーヴァンパイア化してしまいます。それが子供というものです。<br /> <br /> 多くの人は、エネルギーヴァンパイアして他人からエネルギーを奪うことが自立だと勘違いしていますからね。それって自立じゃなくて他に依存していることに気がついていないんですよね。世の中、その程度ですよ。その程度の認識で自立だとか言っている人が大勢います。<br /> <br /> まあ、この世の中は難易度高いですからね。かなりの場合にゲームオーバーになりますからね。本来の目的を達成できずに寿命を迎えます。そんなものですよ。<br /> <br /> 子供が変になったとしても、あまり嘆かないことです。難易度高いゲームに挑む子供が失敗しても、そんなものだと思った方が気が楽かもしれません。<br /> <br /> 親も同類なら逆にエネルギーヴァンパイアになることが成功だと思ったりしますからね・・・。勝手にしてくれ、って感じです。私に関与しないでください。<br /> <br /> 今の世の中で子供を育てるのはなかなか難易度が高いですからね。今の時代に子供は作らない方がいいと私なんかは思います。前世まで普通でも、この時代に生まれたらおかしくなる可能性が高いですから。<br /> <br /> Sun, 28 Jun 2020 00:00:00 +0900 スピリチュアルな人は印象で他人をすぐに判断しがち https://w-jp.net/2020/1971/ <br /> そうでない人も大勢いらっしゃいますけど、割と昔からスピリチュアルな人ほど他人をすぐに初印象で判断しがちな気が致します。特に生まれながらに能力がある人たちがその傾向が強い気が致します。<br /> <br /> 他人を理解する時に印象はある程度は参考になりますけど、深いところまで見ていないことがほとんどです。しかし、それでも人をすぐに判断してしまうという過ちをよく犯します。そして、時々、それが絶対的に正しいと思っていたりするのです。<br /> <br /> 本当にある程度他人を理解しようと思ったら、幽体離脱して他人の人生の過去と未来をある程度見る必要があります。それは時空を超えた活動でありますので時間でそのまま言い表すことは難しいですが、エネルギー的な消費量と幽体離脱の時の活動を普通の時間経過と合わせてみた場合は、だいたい3時間くらいで基本的なことは把握できます。<br /> <br /> スピリチュアルな人が他人の印象を読み取って他人を理解したと思っているのは単なるファーストインプレッションであって、表面的な基本的な性質であり、それで読み取ったイメージを自分の好きなように解釈してしまうという過ちを犯しがちです。<br /> <br /> 実際のところ、人間というものはもっと複雑な生き物です。<br /> <br /> 基本的なことを理解するだけでも大体3時間はかかります。カウンセラーで優秀な人たちは翌日に来る相談者のことを前夜に3時間ほどかけて把握する、ということを行います。<br /> <br /> そして、実際のカウンセリングで確認しつつ1時間なり数時間なり再度かけるわけです。<br /> <br /> そこまでして、ようやく他人の内面に入り込んで現在の解決方法まで導き出してあげることができます。<br /> <br /> それは、スピリチュアルな人がインスピレーションを元にして簡単に他人を判断してしまうのとは全く次元の異なる作業でもあります。<br /> <br /> 次元は異なりますけど、やっていることは割と似ているとも言えます。<br /> <br /> 印象で判断する、と言うのは幽体離脱においてもそれはそうです。そうして周囲から観察して判断するしかないわけですけれども、葛藤が作り出された大本の出来事にまで遡ってその時の時空に移動し、その人が感じた感情や表情を近くで観察して大本の原因を突き止めるわけですから、幽体離脱なしに印象を対面で受け取るのとは全く違うものです。<br /> <br /> そのほかに、他人の中に潜り込んでオーラを同一にすることで相手を理解する、という方法もありますけど、宇宙の波動の法則からするとそれは他人への干渉になりますので世界によっては厳密に禁止されていたりします。地球じゃ割と野放しですけど、一人一人の成長や学びは違うのですから他人に迷惑をかけますし自分の成長も滞ってしまいます。オーラを同一にして他人を理解すると言う方法を抜かせば幽体離脱して時空を超えて過去の根本原因を観察すると言う方法が最上です。<br /> <br /> それでも、他人の更に奥底を知るにはまたその大本の原因にまで遡らなければなりません。それは3時間では足りないかもしれませんし、見逃す可能性もあります。ですが、基本的には3時間で十分でしょう。慣れれば1〜2時間で基本的なことはわかります。そうして他人を理解することができたとしても、所詮はそれは他人の人生であり、他人の経験ですから、それを知ったところでどうなるものでもない・・・ ということもあります。そもそも、他人のことなんて気にする必要がない、と言う理解に達するわけですね。<br /> <br /> ですが、その理解に達するまではスピリチュアルで他人の印象をすぐに判断しがちで、それで他人がわかったつもりになってしまうわけです。それはスピリチュアルの病理みたいなもので、誰しもが初心者のうちは通る道なのかもしれませんね。<br /> <br /> Sat, 27 Jun 2020 00:00:00 +0900 今後来るスピリチュアルな世界に備えて論理思考を磨く https://w-jp.net/2020/1970/ <br /> いずれ50年100年経った時にはスピリチュアルな世界になります。歴史を見ると今の時代が異常なだけで昔からスピリチュアルというか陰陽道というか魔法というか魔女の系統と言いますか、そのような超常的能力を使いこなす人々は一定数いました。<br /> <br /> 前世紀までに魔女狩りで魔女は減り、日本の陰陽道は明治政府の弾圧により惨殺され、今や残っているのは大した能力のない人たちだけです。本当に能力のある人は表に出ないか、あるいは、今生では能力を持たずに転生しています。そもそも能力がないのが一番安全ですからね。能力というのはいくらでも出し入れできるのですが、いったん生まれたら基本的に変えることはできません。<br /> <br /> それは、ある意味、今後来るべきスピリチュアルな世界に備える、ということでもあるかもしれません。<br /> <br /> 次の世代あるいはそのまた次の世代になる頃には再度、スピリチュアルが当たり前の時代になります。<br /> <br /> その時、今の時代に培った論理思考能力であるとかビジネス遂行能力とスピリチュアルが組み合わさって能力が倍増することになります。<br /> <br /> 昔のスピリチュアルな世界はどちらかというと論理思考が弱かったものでした。インスピレーション重視で物事の本質が全てわかったような気がしていたものでした。<br /> <br /> 今の時代はスピリチュアルを否定して論理思考に偏っていますが、それは、今までスピリチュアルで生きて来た人が論理思考を訓練する良い機会を与えていると言えると思います。<br /> <br /> 実際、今の時代に論理思考を避けてスピリチュアルを貫いている人は次の世代になってもそれを継続することが見えています。<br /> <br /> むしろ、今の時代に論理思考にどっぷりと浸かってスピリチュアルを軽視している人たちが来世になってスピリチュアルな能力を開花させ、論理思考とスピリチュアルを統合して限りない能力を発揮してゆくのが見えます。<br /> <br /> ですので、今は次のスピリチュアルな時代に備えるための重要な期間であると思うのです。<br /> <br /> 論理思考を毛嫌いせずに、今の時代は論理思考でだけ生きることができる稀有な時代であることを喜んで、論理思考をどんどんと学べば良いのです。<br /> <br /> 例えばコンピュータなど論理思考を学ぶ良い教材です。そのような仕事について論理思考を高めることで今までスピリチュアルな人に欠けていた論理思考を養うことができます。<br /> <br /> 私の場合にしてもまさにこれで、前にも書きましたが私の魂はいくつかのカルマの統合として成り立っていて、主たる魂は前世まででも男性でビジネスとかもしてきましたが論理思考より印象を重視するきらいがありました。このままでは次のスピリチュアルな時代において論理思考が足りないと思い、コンピュータを仕事にすることにしたのです。はっきり言って、今までの流れからしたら真逆です。かなり苦手な部類に入りますが、小学生の頃からコンピュータに触れて趣味でプログラミングなどもしたことで論理思考能力を養いました。他の人はもっとすぐに学ぶことができたりしましたが、私は時間がかかりました。それでも同年代の人よりはコンピュータに詳しいですが、それは単に長くやってきたからです。それだけ今世ではコンピュータを重視しました。<br /> <br /> いくつかの前世では会社経営とか貿易ビジネスとか様々して来ましたが、どちらかというと人付き合いを重視していたように思います。今世では、特に苦手な論理思考を養うためにコンピュータを仕事に選んだと言えます。そして、それが次に来るスピリチュアルな時代に備えることになるわけです。<br /> <br /> 今の時代に論理思考を鍛えた人とスピリチュアルなまま通り抜けた人とでは、次の世代においてスピリチュアルが当たり前になった時に「論理思考+スピリチュアル」なのかスピリチュアルだけなのかで大きな違いになります。<br /> <br /> 今は、今後来るスピリチュアルな世界に備える時期だと思います。<br /> <br /> その時になればスピリチュアルな方は大勢の方に自然に訪れますから、今から心配する必要はないと思います。スピリチュアルが普通に語られるようになりますのでスピリチュアルな能力を伸ばしやすくなります。<br /> <br /> Fri, 26 Jun 2020 00:00:00 +0900 神と話をしていない人が天意とか世の中の万人のための国づくりだとか言う茶番 https://w-jp.net/2020/1969/ <br /> チベットが崩壊する際に中国側について政権崩壊を助けた役人にしても、維新で江戸幕府を倒した役人にしても、みんな、世の中のためだとか万人のためだとか成長のためだとか天意だとかを持ち出して正当化したんですよ。<br /> <br /> ですけどね、神様とお話をしましたか? ってとこが重要なのですよ。いくら本人が天意だとか国民のためだとか世の中のためだとか万人のためだとか人民解放だとか言っても、神様と話をしていなければ茶番なのですよ。<br /> <br /> 昔は神様がその意思を地上に降ろして万人を支配・・・ と言うと言葉は悪いですけど、人々を導いていました。それを支配と見るのか見守ってると思うのか、歴史の場面においては厳しい選択もしましたけど、人々が幸せに豊かに暮らせるために王族が判断していたのが歴史なのですよ。そして、そこには必ず神との対話というものが含まれていて、王族の選択においては欲望というものは二の次でした。<br /> <br /> 王族は贅沢をしていたじゃないか、とか言う人がいますけど。そりゃ、こんな野蛮な地上の面倒を見るのだから安全で多少の健康的な食物だって取りますよ。昔に比べれば随分と地上の人々の食生活も改善されましたし、その第一は王族の食生活も良くなって行きましたけど、歴史を見ればどんどんと豊かになって食べるものにせよ家にせよ、良くなって来ていますよ。それを不公平だとか言うのが浅ましいのですよ。誰によって人々の生活は良くなりましたか? ってとこの理解が抜けています。<br /> <br /> まあ、昔の王族はそんな感じでしたけど、今の政治家は神様と対話していませんので、自分の欲望を最大限に満たすためにまず政治をして、それから、有権者を煽って欲望に走らせていますよね。豊かになります! と叫んだり不安を煽ればある程度の票は取れます。<br /> <br /> 昔の王族は、もっと毅然としていましたよ。民がどう思っているかを知りたがることはあっても、民に政策を尋ねたことはありませんでした。王族ですから、何でも自分たちで決めて行っていました。それを見て民は喜んだり不満やらを言ったりもしましたけど、それでも、王族が決めたことにはある程度の納得が伴っておりましたので、今のように非難合戦になることはほとんどなかったように思います。<br /> <br /> 王族も大変なのですよ。何をしても民から色々と言われます。そこは昔も今も一緒です。<br /> <br /> 例えばローマにおいては皇帝は普通に一人で町を歩いたりしていました。意外ですか? 王族と言っても割と普通だったのですよ。町で、人々から様々な不満や意見を聞いたりしました。その頃でも、人間出身の政治家と言うか王族と神の系統の政治家というか王族がいまして、神と話をしている人とそうでない人がいました。<br /> <br /> 神と話をしたところで神と話ができない人間には何のことかわかりませんし、最近だと「神の名を借りた不届き者」とか言って粛清の理由になったりしますからね。最近は神と話をして政治をしいても言わない人がほとんどでしょうし、そもそも神と話ができる政治家はほとんどいないと思います。<br /> <br /> その点、人間出身の政治家の方が民主主義に向いていますよね。欲望あるいは不安を煽って票を集めればいいのですからね。不安の方は十歩譲っていいとしても、欲望はよろしくないです。<br /> <br /> どちらにせよ、神と話をしていないという時点で茶番ですけどね。<br /> <br /> 昔の政治家は、大きく分けると神と話ができるかできないか、という点でかなりはっきりと線が引かれていました。<br /> <br /> 例えばね、チベットでは政治が宗教によって行われていた、なんて言われていますけど、宗教というよりも神と対話できる人たちが国を支配していたのです。<br /> <br /> その一方で、頭は多少回って賢いが神と話ができない小役人が大してない知恵を働かせて国の転覆に加担し、中国がそのような小賢しい役人を利用してうまく政権を奪ったのがチベットの騒乱です。チベットにはしばらく騒乱がありませんでしたし、神と話ができる人たちは神と話ができない人たちを軽視しすぎたのでしょうね・・・。そのような小役人が何をしでかすか、想像力が足りなかった。小役人からすれば知恵のある自分の意見が取り入れられないのはおかしくてチベット権力者は遅れているので自分たちがどうにかしなくてはならないと思い違いをしたのでしょうね。そもそもチベット権力者は神と話をしていたのであって小役人のことなんてどうでも良かったのです。小役人にしてみれば、チベット権力者が神と話をしているということが想像のお話としてしか理解できず、本当のことだとは思えなかった。そこに、超えることができない壁があったのですね。神の声を聴ける者と聞けないものの間で、理解の溝が深くなりすぎていたのです。<br /> <br /> 神がついていて話ができるのに対処できなかったのはどうしてでしょう? というお話もありますけど、そこは謎ですね。私が知るべきことではないようです。理由はあるようですけどね。あまり言いたくない感じです。どうやら、チベットの歴史と関連があって、内輪揉めみたいな面もあったようですね。神にしても、チベットの権力者のことを苦々しく思っていたという面もあったようです。だから、一旦は中国の思い通りにさせてみよう・・・ という選択に至ったのかもしれません。あるいは、もっと大きな判断があったように思います。それは今回のトピックと離れるので一旦は保留します。<br /> <br /> 中国は内輪揉めしている内情につけ込んだ上、不遇の境遇にあると思い込んでいる小役人と繋がってうまく動かし、チベットを簡単に転覆させました。<br /> <br /> 日本においても、不遇の境遇にあると思い込んでいる岩倉具視みたいな小役人と繋がってうまく動かし、江戸幕府を簡単に転覆させました。この種の、小賢しい小役人は本当に要注意ですよ。今でも政治家や官僚にいるでしょう? 神と会話できないのに妙に小賢しい人たちが。<br /> <br /> 日本の場合は、一般的には維新は自身で立ち上がって討幕に至ったなんて言われていますけど、それ、嘘ですから。後から自己正当化のために政府が作り出したストーリーですから。勝者が歴史を作る、っていうやつです。外国からの工作にしてやられたが、その後、何とか外国の植民地になるところは防いだ、というのが真相です。<br /> <br /> 日本の場合岩倉具視みたいな小役人が暗躍して政権転覆を企んだ、というのがチベットの構図と似ています。政権の中枢ではなく、自分では能力があると思っていて不遇の境遇にあると思い悩んでいる人を狙うという点がチベット騒乱にしても維新にしても共通点ですよね。両方とも、外部からの工作がないとあんなにうまくクーデター成功しませんよ。どちらも、小賢しい小役人を外部からうまく操って政権転覆させているのが共通点です。<br /> <br /> チベットは中国に併合されましたけど、日本の場合は併合が免れたのは不幸中の幸いで、江戸幕府の転覆においては外国の謀略にしてやられて惨敗。歴史というのは勝者が作りますから維新は良かったなんて言われていますけどそれは勝者の作り出した都合の良い歴史でしかなくて、実際は、日本の古来から栄えて来た神道とか修験道といった霊的能力者を個別に抹殺し、特に有名どころは宗家から一族の有力者を始末してお家断絶させたのです。そうして精神的・超常的能力を扱うのが当たり前だった文化を崩壊させ、不思議な能力を表立って使わせないようにしました。天皇ももちろん、その力を封じられました。本当に大切なことを天皇に教えないようにしたのです。神との対話ができることなど王族にとっては当たり前のことでしたが、それも表立って言うと始末の対象になりました。<br /> <br /> 今の日本で有力な超能力者と言われている人たちは、一昔前の能力者が見たら鼻で笑われるくらいの能力しか持っていないですよ。そのくらい、日本で能力者は排除されました。維新の頃に多くが抹殺されましたから、そんなのは維新の一部としか思われていません。<br /> <br /> 神と話ができる能力者が表に出にくい状況で、昔のことを知らない呑気なYotuberがノコノコとチャネリングしていたりしますけど、政府の方で能力者のリストがきちんと作られていて政府の意図にそぐわない集団活動が見受けられた場合は始末の対象になりますからね。よくもまあ、こんな怖い世の中で顔を出して自分の能力をひけらかすものですね。それだけ有力なバックがいて見えない世界から守られていたりするのですのかね? ならばいいですけど。<br /> <br /> 安全のために現代に何の能力を持たずに生まれて来ている人もそれなりにいらっしゃるような気がいたします。能力というのは必要性があって現れますから、不要と判断すれば出て来ません。安全のためとあれば尚更です。<br /> <br /> 能力者が裏に隠れ、精神的なことも言いにくくなった現代。<br /> <br /> チベットにしても日本にしても精神的な文化は20世紀でかなりの部分が既に破壊されたのです。日本は日本語がそのまま残っていて国というものは残ってはいますけど、昔からあった神道等の能力者が表に出にくい状況になっています。<br /> <br /> 古くあった神道の家系も後継がいなくて断絶したりしていますしね。<br /> <br /> そりゃ、マスコミが煽りに煽って神道や精神的なものを「古い」とか言い続けたら何も知らない若者が感化されてそういうものから離れてゆきますよね。国を破壊するには若者から、とはよく言ったものです。教育で考え方を変えてしまえば本当に大切なものは守られなくなり、引き継がれなくなります。<br /> <br /> 何とか外国の侵略は防いだにせよ、国の形は歪められ、江戸時代まではある程度続いていた、神との対話によって政治を行うという形態は明治政府以降には無くなってしまいました。そして、その政府が今も継続しているのです。<br /> <br /> 明治政府は人間の作った政府です。そして、今の政府もそうです。そこに神との対話はありません。人間の欲求と不満を餌にして自身の権力欲などを拡大させるために政治家になろうとしている人がほとんどです。<br /> <br /> それでも日本の場合に救いがあるとすれば、個別の政治家を見てみると、神と対話はできないにせよ、ある程度の真面目さがある人がポツリポツリいることです。自民党は色々言われていますけど、各所各所を見ると何とかうまくやっている面もあると思いますよ。それが神の意図と合っているかどうかはまちまちですけど、それはしょうがないですしね。<br /> <br /> 今は、神の意図としてはこのまま人間たちが自分たちの力でどのくらいできるのかどうか、高みの見物をしているようですね。<br /> <br /> Thu, 25 Jun 2020 00:00:00 +0900 神の潮流と人が神に挑戦する潮流 https://w-jp.net/2020/1968/ <br /> 神は昔から人類を治めてきて、王族やら何やらとして一応は民の上に君臨する、という形式を取っていました。神と一般人は魂がそもそも違っていて、神はあの世で神様同士が知り合いですから国の行く末をどうするのか話し合いが持たれていたのです。<br /> <br /> 最近は国の姿も変わってきて、人間が統治をする場合も多々ありますけど、ほとんどが茶番ですよね。人間が統治をすると戦争か経済主義による他国搾取とか、何某かの競争で欲望を満足させる方に動きます。人間の欲求は「食う、寝る、遊ぶ」ですから、その欲求を満足させる方向に国の政策が動くわけです。<br /> <br /> かつて、神あるいはその代理人が国を治めていた時代がありました。これは神聖ローマ帝国みたいな宗教に基づく帝国のことではなくて普通の王族が神の魂の眷族だった頃のことですが、その頃は神の意思をあらかじめ教育されてから転生してその意図を実現するために国政を司ったのでした。<br /> <br /> 今の人間の政治は「食う、寝る、遊ぶ」の欲求に基づいていますが、昔の政治は「そこそこに食う、そこそこに寝る、そこそこに遊ぶ、最重要なのは精神的な成長」という根幹が徹底していました。<br /> <br /> 今の民主主義とやらを見ても、最後の精神的な成長がないがしろにされていて経済成長やら自由やら武力やらが論点になっています。それでは政治は救いがないです。政治が欲求を満たすための場になってしまっているわけです。昔、国王が治めていた時代は精神的な成長が第一で、次に「食う、寝る、遊ぶ」がありました。<br /> <br /> これは宗教という観点よりも、もっと根元のお話です。道徳や精神性と言っても良いです。神道にも通じるものがあります。神の意図は精神性の向上ですから、それが国の形として最初に来たのです。かと言って宗教というわけでもありません。<br /> <br /> 実際は宗教は誤解されていて、本当の宗教はもっと純粋な崇高な意識であるわけですが、本当の宗教という意味であれば王国はそれを目指していたと言えます。しかし、昨今の宗教とは違う姿であるわけです。<br /> <br /> 民主主義なんてのは茶番で、人類に欲望を追究させるためのシステムですから、多数決で物事を決めれば決めるほど政治は低俗なものになるのは当然のことです。<br /> <br /> ここで言っている神とは独裁者のことではなく、神の意思と疎通できる人が政治を行うべき、と言っています。<br /> <br /> 昨今では政教分離が政治の基本なんて言われていますけど、実際のところ、昔から政治は神と深く結びついていますから、政教分離なんてのは人類に低俗な欲求を追求させて精神性を崩壊させ家畜同然に操りたいと思っている人たちの口実として使われているだけなのです。昔も今も、本当にわかっている人は政教分離なんて嘘だなんてわかっていますよ。そんな野暮なことを口に出しては言わないでしょうけどね。<br /> <br /> 政教分離は、今は欲求を追求する口実になっていますけど、おそらくは元々は世俗的な宗教の影響を排除するための口実として用いられていたと思いますよ。その場合でも本当の意味における宗教と政治は密接に繋がっていたと思います。少なくとも王族が国を治めている間は本来の神と政治とは密接に結びついていました。時代が下るにつれて権力競争に明け暮れる世俗的な宗教が政治に介入することが多くなって、その悪い影響を排除するために政教分離が謳われたのであって、元々は欲望を追求するための口実ではなかったのです。理屈が全く違う文脈で使われて自己正当化に使われているのですよね。<br /> <br /> 政教分離をやめて神の意思に基づく政治とか言う人が少ないのは、今が民主主義のシステムだからですよ。大衆は自分の欲求を満足させたいので欲求を拡大するにはうるさい事をいう神なんていない方が好都合でしょう。神のことを言う政治家がいたら政教分離とか言い出して非難して追い出すでしょうしね。いい口実になるだけです。政教分離と民主主義システムは欲望を追求するためにお互いが補完し合っています。<br /> <br /> ですけどね、民主主義も茶番ですし、政教分離も茶番ですよ。そろそろみんな、それに気がつき始めたんじゃないですかね。<br /> <br /> こういうのがね、神の潮流と、人が神に挑戦する潮流との違いですよ。神の潮流は人をより高いところに導こうとしている。人が神に挑戦する潮流は自分の欲望を満たしたいだけですよ。今は後者が優っているのです。<br /> <br /> 政治家がなんであれほど権力に卑しいかというと、システムとして力が集まっているからですよね。力とはもちろんお金で、お金を生み出すものは税金や特別会計および日本銀行の印刷機です。 税金に関して言えば今後は税制も減っていきますので日本の政治家の力も減って行きます。それでも特別会計で税金の範囲を超えてお金は使い放題なわけですし、税金とは関係ないところで日本銀行はお金を刷れるわけです。刷ったお金は株式市場などにどんどん流れて行っています。お金余りの時代です。<br /> <br /> こう言うお話は有名で、人々はこのシステムを嘆いたり批判したりしていますけど、本当に神と繋がった人であれば現状をまず理解してそのシステムを最大限活用して自分の意思を実現させようとします。例えば、神の意識があれば株式市場で相場を張ってお金を無尽蔵に抜き取るなんて簡単な事です。そして、その抜き取ったお金を世の中に回せばいいのです。政治家の手なんて借りずにね。そんなアイデアはいくらでも浮かびます。<br /> <br /> 例えばね、一つのアイデアとして、そうしてお金を作ってばら撒いたり事業を次々に起こして人々を豊かにするという手があります。そうして、お金なんて誰でも十分に持っている状態にしてしまえばいいのです。お金が有り余っていれば政治家に擦り寄る必要もないですし、政治家も権力を操って面白がることもできなくなります。政治家が無視される世の中になるのが理想です。神の意識がちょっと本気を出せばそんなのは簡単なことです。<br /> <br /> もう1つ手があって、人々が周囲の困っている人を助けるようになれば政治が弱体化して行きますけど、それはきっとしばらくはないでしょうね。<br /> <br /> おそらくね、神様は、現状のように人間に欲望を追求させたらどうなるのか興味があるのではないでしょうかね? だから本気を出さずに観察だけしている。そんな気が致します。<br /> <br /> 今の政治は神に基づくものではなくて欲望に基づくものですからね。本来、そんなことは人間自身に任せておけばいいのです。欲望と政治とは本来は無関係であるべきです。<br /> <br /> 昔からね、政治は国王や王族同士で話し合われて行われていて、国民はほとんど関係がなかったのですよ。それでもうまく回っていました。国民の意見を聞いても欲望ばかりで、満足度や困っていることを聞くという点では意味がありますけど政策を任せてもできるわけがないですよ。<br /> <br /> 国民が困っていたら政治が助ける、というのは昔から行われてきましたけど、助けるというのはあっても欲望の追求を政治が推進することは真っ当な王族はしなかったものですよ。その基準としては、「豊かではないが貧しいというわけでもない」という程々のところで安定させて、人々の欲望を拡大させない方向に調整するのが政治の役割でした。<br /> <br /> 政治は雲の上で行われているものでしたが、今は選挙で政治家になることができて、一般人が自身の権力欲やら財産のために政治家をしています。政治家が欲望を追求していれば政策も欲望を満足させるものになります。<br /> <br /> 政治もマスコミもショー化してきて、欲望中心の政治になっています。<br /> <br /> 今の世の中、本当に政治を行っている人もそこそこいますが、ショーとしてそれっぽい事を言う人が多くなってきています。<br /> <br /> このあたり、神様もどうしようか迷っているようです。人間の作った仕組みをうまく使って制御するか、あるいは、今の政治より更に上に仕組みを作ることも考えているようです。<br /> <br /> 後者に関しては、わざわざ作らなくても既に神界というかあの世には既にありますけどね。それを地上に下ろすための形作りをもっと進める計画もあるようです。<br /> <br /> 私は今生では基本的に高みの見物というか特に使命はありませんので見ているだけですけどね。ほんと政治は茶番を繰り広げていますよね。<br /> <br /> Wed, 24 Jun 2020 00:00:00 +0900 度々取り憑かれている意識体を引き抜く https://w-jp.net/2020/1967/ <br /> もうこれは定期的な現象になってしまっていますけど、ここ最近日常的なヴィパッサナー状態が安定しないな... と思っていて瞑想中に確認しましたところ、何やら透明な意識体が体の右半身に取り憑いていました。またですか。<br /> <br /> 最近は体の中から違和感を感じていて、何だろう... と思っていました。<br /> <br /> そこで、瞑想中に、オーラの手で体の各所を掴むようにしてゆっくりと体の右側に引き抜くようにしたら急に右肩の緊張が取れました。<br /> <br /> 更に、「私の魂の由来ではないものは体から出て行ってください」と念じたら、何やらおぼろげにお爺さんのような魂の炎のような、白黒の半透明な魂の炎にお爺さんの顔が写っているかのようなものが見えたので「出て行ってください」と言ったのです。<br /> <br /> それだけでなく、どこで拾ってきたのか虫のような変なものが体の各所に挟まっていたり埋まっていたりして、非常に気持ち悪い!!! 普通の人はこんなの気にしないでしょうから、もっと埋まっていたりするのでしょうね。<br /> <br /> その気持ち悪いものをオーラの手で掴んだり探ったりして一つづつ引き抜きました。それで更に楽になりました。<br /> <br /> 体の各所を探って、大きなものは取れた感じです。<br /> <br /> こういうのって、外に出ると気付かずに拾ってきてしまう感じなので定期的な掃除が欠かせない感じが致します。<br /> <br /> 一旦引き抜いた炎のお爺さんはなかなか近くから離れないようでしたから「まとわりつくようならば消滅させますよ」と言ったら渋々と離れて行ったようですが、こういうのってしつこいですから度々チェックが必要です。いきなり消滅させるのはよろしくなくて、きちんと警告を何度かしてそれでも警告を無視するのならばこちらに落ち度はありませんから消滅なりなんなりしてあげるのが良いですが、そんな場合でも全部を一気にするのではなく部分的に消滅させればびっくりして逃げてゆくことがほとんどです。<br /> <br /> Tue, 23 Jun 2020 00:00:00 +0900 神様は地震を起こすか迷っている https://w-jp.net/2020/1966/ <br /> 昔のように家が脆弱で甚大な被害が出るのであれば神様はもう地震を起こしていると思います。最近は耐震構造や免震構造ができてきましたので、本来ならば満遍なく万人に影響が出るように地震を起こしたいのですが免震構造を持つビルなどに住む裕福層だけが被害を免れるような状況になってしまいますので地震を起こすかどうか迷っているようです。<br /> <br /> パラレルワールドにおいていくつも実験をして、ちょっとした関東直下型地震、もう少し強いパターン、更に強力な直下型地震を試しましたが、相当に強く揺らさないと免震構造を持つビルを倒壊させるには至らず、そうなると都心の被害もかなり甚大なものになってしまい、人々を目覚めさせるという意図から外れたものになってしまうようです。<br /> <br /> 本来、地震とか災害というものは人々の慢心を諫めるために神々によって用いられていたもので、神が滅ぼそうと思った時の地震と諫めるための地震とはレベルが相当違うということです。<br /> <br /> 滅ぼそうと思った時はアトランティスのように土地そのものが消滅したりします。一方、日本の場合は諫めるための地震ですからそれなりの揺れで構わないわけです。しかし、特に精神的に目覚めて欲しい裕福層に影響がなくて、被害がない分、むしろ裕福層が更に助長するような状況は避けたいと思っているわけです。<br /> <br /> ですから神々が手加減をしているというか、そこそこの揺れで十分と思っていたからこそそこそこの地震で済んでいたわけですが、最近は人間の方が勘違いをし始めて「人間の叡智が地震に打ち勝った」とか思い始めているわけですから、ちょっとそれはどうかなあ、とも考えているようです。所詮は人間なんて地球の薄い皮の上に住んでいるのですから自然には逆らえないのですけど、その辺りがよくわかっていないようです。<br /> <br /> ですが、神々の意図はあるにせよ、三次元的な地球の大陸プレートの移動とかもありますので起こることは自然に起こるわけで、その延長線上で起こるべき地震は起こるのかな、というところです。それが関東大震災やら東海地震だったりするわけですが。<br /> <br /> Mon, 22 Jun 2020 00:00:00 +0900 霊能力を持っている人を怒らせてマスコミ産業は衰退した https://w-jp.net/2020/1964/ <br /> マスコミはインタビューの一部を取り上げて本来の意図とは違った報道をして面白おかしく視聴率優先でネタを作り上げていますけど、そのネタにされて捏造報道されてしまった方はたまったものではありません。<br /> <br /> そう言う被害者本人、あるいはその守護霊が能力を持っていたりしますと、かなりの確率で仕返しされます。<br /> <br /> 直接的には無害で何も言い返さなかったりするかもしれませんけど、わからないようにしつこくしつこく仕返しをしたりします。<br /> <br /> ですから、捏造報道をする人は気をつけた方がいいと思います。特に矢面に立つ人は真っ先に狙われます。本人はきっと、単に運が悪かっただとか思うだけで原因はわからないでしょうけど、人に恨まれるってのはそう言うことです。<br /> <br /> 狙われた方は「正々堂々と言ってこい」とか思うかもしれませんけど、正々堂々と抗議したのに貴方が無視したから能力を使ってことごとく人生を破壊しに行っているわけで、最初の1回目の警告を無視したらもうそれで終わりなのです。<br /> <br /> 2度目の警告があると思わない方が良いです。<br /> <br /> 最初の警告をした時に「なんだこいつ」と思って無視したら最後、人生が破綻するまで足を引っ張ったり転ばせたりします。呪われる、とはそう言うことです。<br /> <br /> マスコミ産業はそのような恨み・呪いが蔓延していますから、足の引っ張り合いや転ばし合いを繰り返すことでどんどんと衰退して行っています。<br /> <br /> 本来のマスコミの在り方は「真実の報道」と言うことでしたが、今はもやはやそれは自己正当化のための言い訳あるいはアリバイにしかなっておらず、実態は捏造報道が蔓延しています。それは視聴率優先ということですが、本来の根っこの思想が固まっていないからそのようなことになっているのでしょう。「面白さ」と言いつつも他人の足を引っ張ることに喜びを見出すマスコミ関係者がマスコミを崩壊させて行っていると言えます。<br /> <br /> 真実の報道がしたいと思っているマスコミ関係者もいらっしゃいますけど、このような足を引っ張る人たちが生み出した恨み・呪いはその直接的原因を作り出した人のみならず業界全体を呪ってそれらしき人を次々に巻き込みますから、特に能力のある人が恨んだり呪ったりしたら業界が丸ごと転ぶことになります。<br /> <br /> 現状のマスコミはそんな感じなのではないでしょうか。バブル時代のテレビには二度と戻らないでしょうし、それは本人たちが自分で招いた結果であるわけです。<br /> <br /> そんな業界のことなんて私はあまり気にしていなくて好きにすればいいと思っていて、放っておけばいいとしか思っていないですけど、ただ、一つ言えることは、人に呪われたり恨まれたりするようなことをしない方がいい、ということです。<br /> <br /> 呪いというのは厄介で、一度呪われたらかなりの長い期間、引きずりますからね。マスコミの捏造報道が原因で被害者から呪われて人生を棒に振った人がかなりいると思いますし、人だけでなく会社が潰れることだってあります。<br /> <br /> むしろ、力のある能力者の場合は人ではなく会社を狙いますから、会社が傾くような呪いをかけて不祥事やら被害やらが出たりするようになります。実際、世間を騒がせている有名どころはそういう呪いが原因のところもあると思いますよ。<br /> <br /> まあ、あんまり他人に呪われるようなことをしないことです。特に高貴な人、能力のある人を怒らせない方がいいと思います。そういう人はそうそう怒らないですけど怒って呪ったりしたらかなり怖いです。そんじょそこらの上場企業が傾くなんて普通にありますからね。<br /> <br /> 20年くらい前にね、NHKの記者と話をしたことがあって、私が「NHKの中には捏造報道や中韓よりの人がいますよね」と言ったら、その記者は「NHKの人全員が捏造報道をするとか全員が中韓寄りだなんていう貴方とはもう話をしません」とか言ってきて、この人は一体何を言っているんだろう? と呆れ返ったことがあります。私は「NHKの中にはそういう人がいますよね(一部にはそういう人がいますよね)」と言ったのであって「全員」がそうだとは一言も言っていないのにNHK記者は文脈を取り替えて自己正当化してきたのです。<br /> <br /> NHK記者は言葉の専門家でしょう。言葉の専門家が他人の言っていることを正しく理解しないでどうやって仕事をしているのでしょうかね。<br /> <br /> 私の文脈を読み取ることができなかったのであれば記者として基本的な日本語理解能力が欠けているということで問題外ですし、わかっていて文脈をすり替えたのであれば自己正当化あるいは目的の記事を作るためには現実をねじ曲げても良いというスタンスがそこにあることがわかります。どちらにしても記者としてまともだとは思えません。こうして捏造記事が作られていくのだなあ、というのがよくわかった出来事でした。マスコミの捏造記者には関わらない方がいいですね。他人の話を理解するよりも自分の主張のために現実をねじ曲げるのだということがよくわかった出来事でした。知らないマスコミの記者とはそもそも話をしない方がいいですよ。自分のエゴが強すぎて、主張を通すために他人のあら探しをするような人たちでした。あんなの、誰にも相手されなくなってゆくのではないでしょうか。日本企業は甘いですよね。なんで首を切らないのでしょうか。<br /> <br /> 私は呆れたくらいですみましたけど、これを大々的に日本中に報道されたらかなり怒って仕返ししていたでしょうね。直接的に三次元的には何もしないですけど呪って、例えばアクセルを踏み間違えさせて崖から転落させるとか自動車運転中に気を散らせてトラックに衝突させるとか、やろうと思えばいくらだってできますからね。<br /> <br /> まあ、それほどの恨みや仕返しをする時はこちらもそれなりの覚悟を持ってしますから普通はしないですけどね。その人が本来する筈だった目的とか全部キャンセルになってしまうわけですから、そんじょそこらの恨みや呪いじゃそこまではしませんけど、そうして始末されていく人も実際、この世の中にはいるわけです。<br /> <br /> 人に仕返しするよりも会社にダメージを与える方がジワジワと効いていいですよね。<br /> <br /> そう言えば20年くらい前に悪徳商法に引っかかって会社を遠回しに潰したこともありますが・・・ それは呪いだけじゃなくてネットの力も使いましたけどね。そうして会社も簡単に傾くので、甘く見て他人に呪われない方がいいと思います。案外、会社は脆いもので、すぐに傾きます。<br /> <br /> Sat, 20 Jun 2020 00:00:00 +0900 ゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想は五感を鋭くするサマタ瞑想(集中瞑想) https://w-jp.net/2020/1963/ <br /> 数年前に受けたゴエンカ式はヴィパッサナー瞑想(観察瞑想)と謳っていますが、実際には五感、特に皮膚の感覚を使った集中瞑想(サマタ瞑想)です。<br /> <br /> ですから、ゴエンカ式をやればやるほど五感が鋭くなって細かな感覚に敏感に反応するようになり、それがコントロールできる範囲を超えてしまうと禅病の如く、怒りの沸点が低くてすぐにキレてしまうようになるわけです。<br /> <br /> 受けた時は何故にゴエンカ式を受けた人のエゴがそれほどまでに拡大して自尊心あるいは自虐心の塊になって他人に対してすぐにキレたり精神混乱になったりするのか理解できずにいました。<br /> <br /> たわいのないことを言うだけですぐに大声を出してキレたり自己嫌悪に陥ったりする受講者を見て、なんだこれ・・・ と疑問に思っていたものでした。<br /> <br /> 今、数年経ち、その謎がほとんど解けたように思います。<br /> <br /> ヴィパッサナー瞑想は五感を超えたものですが、ゴエンカ式は五感、特に皮膚の感覚でヴィパッサナー瞑想をしていると思い違いをしているのです。<br /> <br /> 皮膚の感覚をいくら敏感にしたところでそれは五感のお話で、それは本来なら分類するのであれば集中瞑想(サマタ瞑想)に分類されるのです。<br /> <br /> 受講した時はその辺りの言説が微妙に理解し難く思いましたが、そのように捉えてみるとゴエンカ式の説明の内容に納得がいきます。<br /> <br /> ゴエンカ氏は瞑想はしておりましたがヴィパッサナーの領域にまで達したのかあるいは達しなかったのか、それは分かりません。本人が到達していてもうまく伝えることができなかった、ということはあります。ですが、少なくともあそこで行われているのは単なるサマタ瞑想(集中瞑想)であって、ヴィパッサナー瞑想ではありません。<br /> <br /> こんなことを本人たちに言っても激しく否定されるだけでしょうから、そんな野暮なことは本人には言いませんけどね。そもそも私がゴエンカ式を受けたことすら他人に言いたくはないほどゴエンカ式の人はエゴが増大して、「私も受けた」とでも言おうものなら自分の優越感が傷つけられたかと思って私を精神的に延々と攻撃してくることすらありますから、ゴエンカ式を受けたなんて言わずに単に他人のゴエンカ式経験者に対しては「そうなんだ。どうでした?」というくらいにしておいて、自分が受けたことを言わない方がいいと思います。ゴエンカ式を受けた人でめんどくさい人が多すぎます。<br /> <br /> ヴィパッサナー瞑想は五感を超えているのに五感がその入り口なのかどうかというと、確かに最初はサマタ瞑想(集中瞑想)で心を落ち着かせる必要があります。ですがそれはあくまでも集中瞑想なのであって、ヴィパッサナー瞑想ではありません。<br /> <br /> 思うに、そうそうヴィパッサナーなんて辿り着かないのですからヴィパッサナーなんて言う必要すらないと思います。あそこで行われていることのほとんどはサマタ(集中)瞑想に属することです。<br /> <br /> ヴィパッサナー瞑想は各種の流派がありますが、ゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想だけが皮膚の感覚をヴィパッサナーだと思っているわけです。<br /> <br /> 他のヴィパッサナー瞑想は基本的に次のように考えています。<br /> <br /> ヴィパッサナー瞑想は、思考を止めて、事実をありのままに観ることができれば、一切のドゥッカ(苦)から解放されるだろう、という理論に基づいています。「ブッダの瞑想法(池橋優雄著)」<br /> <br /> これは、半分はサマタ(集中)瞑想のことです。サマタ(集中)瞑想をしてからヴィパッサナー瞑想に入るのです。ミャンマーのマハーシ長老によるヴィパッサナーも同様のようです。<br /> <br /> 確かに、ゴエンカ式でも似たような段階が取られています。最初の3日くらいは息を観察するサマタ瞑想、そのあとはヴィパッサナー瞑想だと言っていますけど、実際のところは両方ともサマタ瞑想(集中瞑想)であるわけです。そこがゴエンカ式の大きな勘違いです。ヴィパッサナー瞑想だと思ってやっているのは実際はサマタ(集中)瞑想なのです。<br /> <br /> ヴィパッサナー瞑想の流派の中には、手法として体の感覚を観察するという瞑想をする流派があります。しかしそれはヴィパッサナー瞑想に入るための方便(手法)ですので、それ自体がヴィパッサナー瞑想ではありません。<br /> <br /> 流派としてヴィパッサナー瞑想をしていて、最初に体の観察をする瞑想を教えられたからと言ってそれがヴィパッサナー瞑想であるとは限らないですし、流派によっては、最初からヴィパッサナー瞑想を教えてもわからないからヴィパッサナー瞑想っぽいサマタ瞑想をヴィパッサナー瞑想として教えているところがあります。本人に気付かせるという意図があるのかもしれませんね。全てをわかっていながら皮膚の感覚をあえて本来の意味とは違ってヴィパッサナー瞑想だと言っているところもあるということです。<br /> <br /> そんな中、ゴエンカ式だけが皮膚の感覚をヴィパッサナーだと思っています。<br /> <br /> ここが、ゴエンカ式とその他の流派の違いです。<br /> <br /> ですから、ゴエンカ式をしたところで五感が鋭くなるだけで混乱し、エゴが拡大して他人にキレやすくなるわけです。<br /> <br /> Fri, 19 Jun 2020 00:00:00 +0900 鎌倉の低地が津波で流され、渋谷のビルが傾く https://w-jp.net/2020/1962/ <br /> 瞑想中で見たことですので、本当かどうかはわかりません。単なるメモ書きです。予言ではありません。先日の続きです。<br /> <br /> この正月に鎌倉の鶴岡八幡宮を初詣した際、境内を出て鎌倉駅に歩いていくと周囲の街並みが津波で流されているビジョンを見ました。これは関東大震災なのかあるいは東海地震による津波なのかまではわかりませんが、鎌倉駅周辺の低地は津波で流されるようです。鶴岡八幡宮の周囲の低地が影響範囲で、それより上の北鎌倉駅の方までは行かないようです。<br /> <br /> 鎌倉市のハザードマップを見ると鶴岡八幡宮の周辺までは来ないことになっていますね。鶴岡八幡宮と鎌倉駅の中間地点くらいまではハザードマップの津波避難対象地域に入っていますが、私の見たビジョンでは鶴岡八幡宮の周囲まで津波が来ていました。どちらにせよあのあたりは低地ですからそのくらいの誤差はあるのかもしれません。<br /> <br /> 鎌倉の神社巡りをした際にどこかで読んだのですが過去には鶴岡八幡宮の低地まで津波が来たこともあるようですのでその辺りまで流されても不思議ではありません。鎌倉市のハザードマップが楽観的すぎるだけなのかもしれないです。<br /> <br /> 渋谷の方はコロナで人の減ったところを通りかかったわけですが、何かゾッとするものを感じました。<br /> <br /> この感覚は、あの時に似ています。<br /> <br /> 東北地方太平洋沖地震の起きる数年前、釜石などの太平洋岸を旅行した時に感じた「気の無い土地」の感覚です。当時は「なんだこれ???」と思ったものでした。土地から生気が抜けて、気の抜けた、単なる三次元的な物体だけが残された町のように感じたのです。釜石あたりのホテルに泊まった時も変な感じでした。<br /> <br /> 渋谷の雰囲気は、まだそこまでではありませんが、方向性は似ています。<br /> <br /> 渋谷に関しては単なるコロナでの影響なのか、あるいは本当に地震の影響があるのかまではわかりません。コロナ後にもう一度行って感覚を確かめてみる必要がある気がします。<br /> <br /> もともとの感覚では、ビルが傾くのは横浜あたりまでであって、渋谷も多少は揺れますけど倒れるほどではないと思っていました。それでも老朽化したビルは耐震に問題が出て建て替えの必要が出てくるのかもしれませんね。そこまでは分かりませんけど、ひとまずこれは感覚のメモ書きとして残しておきます。<br /> <br /> Thu, 18 Jun 2020 00:00:00 +0900 特定の人や会社と付き合うことを守護霊が拒絶させることがある https://w-jp.net/2020/1960/ <br /> 面接や何かの機会で誰かに会う時、守護霊がそのお付き合いをしない方がいいと判断したら何某かの方法で関係を絶たせようとします。<br /> <br /> 例えば、就職の面接に向かうとします。守護霊がその会社に入らない方がいいと判断したら面接の直前から具合が悪くなって顔色が悪くなり、表情は硬くなり、言葉も出なくなって面接に落ちます。面接官からしたらそんなことはわかりませんから「この人はダメな人」と嘲笑って面接を落とすこともあるでしょうし、面接に赴いた人は自分のことに自信がなくなるかもしれません。ですが、それは往々にして守護霊が「ここはダメ」と判断しているのです。その判断は守護霊がすることもありますし、自分のハイヤーセルフというかグループソウルがすることもありますし、自分のスピリットが時空を超えていわゆる過去あるいは未来からインスピレーションを送っている時もあります。<br /> <br /> 面接なんてのは呼ばれれば割と通りますけど守護霊が介入してきたらほぼ通らないです。<br /> <br /> 本来であれば応募する前にインスピレーションを感じるべきことではありますが、何となく見過ごしてしまったり関係性で断れずに関わりを持ってしまいそうになった時に、いざとなればどうにかして関係を持たないように介入してくるということです。<br /> <br /> 面接官あるいは相手の立場からしたら、そんな初対面の人の判断をファーストインプレッションでするわけですけど、相手の態度がおかしかったら自分が拒否されていると思った方がいいと思います。この世の中に、変な人はそんなにいませんよ。<br /> <br /> 割と面接官は自信家ですので相手を判断して「この応募者はこのような人でした」とレポートを出すわけですけど、月日が経つにつれて実際の姿と違っていることが分かってきて、世間では「面接なんて意味あるのか」と言われたりしますけど、面接はやっぱり必要だと思います。そこで応募者を選別していると思っている会社側は、実際は応募者によって選別されているわけです。<br /> <br /> この一時的なことが原因で面接官が応募者を見下したとしたら、応募者は単に入社しなければいいだけのことです。面接官は往々にして人事担当者ですから、そんな人生経験が足りなくて見る目のない人事がいる会社にでも入ったら人事評価で正しく見られることはありませんから入社しないのが正解なわけです。面接官が業務担当者だったとしても同じことで、上司に正しく評価されないのであれば入社しない方がいいわけです。<br /> <br /> 会社は応募者を選別していると思っているかもしれませんが、実際は応募者によって会社が選別されているということです。<br /> <br /> とてもいい会社に見えてもその人の人生に不利益だと思えば守護霊は面接でどうにかして失敗させたりします。普段しないのにどうしてあんな変な態度を面接でしてしまったのだろう・・・ と思い悩むよりも、それは失敗して良かったのだと思った方がいいです。<br /> <br /> どんな会社にいようとも、それは、その環境が一番良いからそこにいるわけです。<br /> <br /> ・・・確かに、本当に単純に失敗した、ということはあります。入社する筈だったのにできなかった、ということはあります。単純なアクシデントの失敗はあります。ミッション失敗で入社できなかった、ということはあります。でも、実際はそこまで難易度は高くありませんので、本来入るべきところには入れます。合わないと感じるところは守護霊が避けさせていることがほとんどです。・・・とは言いましても、積極的に関与してくる守護霊と、見守る方針の守護霊がいたりしますので、この表現はちょっと語弊があるかもしれませんが、少なくとも守護霊の意思は働きます。<br /> <br /> 人付き合いにしても同様で、異性とのお付き合いや結婚などは顕著にそれが働きます。<br /> <br /> ですから、初対面の人への振る舞いで何か失敗して関係が作られなかったとしてもそれを自分のせいだと自責の念に駆られる必要はあまりないですし、変な人と会ったとしても、初対面だけで相手を判断するよりは自分が避けられているのだと思った方が良いです。<br /> <br /> ・・・実際は、本当に根本から変な人は一目でそうだとわかりますし、何か一時的におかしくなって関係を持たないように相手が拒否しているのだな、というのもはっきりとわかります。これらを見分けることができないのは人生経験が足りない、とも言えるかもしれませんね。ただ、見分けられていると思っていても初対面で見間違えることがあります。120%の自信があって相手を判断していると思っていても明らかに間違っている場合も多々あります。そんなもんです。<br /> <br /> ですから、安全のためにも相手をそう簡単に判断しない方がいいと思うわけです。そもそも相手の人生なのですから、あなたがどうこう思い悩んだり卑下したりする必要はなくて、放っておけばいいだけのお話です。<br /> <br /> 印象を受け取ったら、それは相手の姿ではなく自分あるいは自社がそう相手から判断されていると思った方がいいと思います。相手にいい印象があれば、相手が自社あるいは自分にいい印象を持っているということ。逆も同様。それは一時的な姿でしかないわけです。<br /> <br /> 人生の奥深さがわからなくて簡単に相手を判断してしまう人も多いので、そういう人と会って自分や自社が表面的に判断されたら、逆に相手の人生経験の浅さを思ったりもします。とは言っても、それすらも実際は本質とは関係ない、所詮は雑念ですので、根本的にはやはり、単に相手は放っておけばいいだけのお話です。<br /> <br /> 実際のところ、会社の面接であればそのように守護霊が強く関与して拒絶させるような人は積極的に会社に入れるべきだと思いますけどね。いわゆる「運の強い人」でもあるわけで、様々に強運や縁を呼び込む人材であるわけです。守護霊に拒絶されているのだから会社の方に問題があるか、あるいは、応募者のやりたいことに合わないわけですから、あまり深く考えずに「縁がなかったのだ」、と思うくらいで十分かもしれないですね。<br /> <br /> Tue, 16 Jun 2020 00:00:00 +0900 否定形で非我を表現すると自我が分かったつもりになる https://w-jp.net/2020/1958/ <br /> 非我と自我とは似て異なるものなのに、否定形で表現すると自我が分かったつもりになるので満足してしまいますが、実際は非我と自我は相入れないものなので自我が非我を理解することはありません・・・ というと語弊がありますが、非我が現れ始めた後であれば非我と自我がわかり合うことができますが、非我が出てくる前に自我が非我を理解することはありません。その場合、否定形で非我を表現したところで自我が分かったつもりになるだけです。<br /> <br /> 自我が理解するのはそれはそれで重要な一歩ではあるわけですが、実際に分かったのとは異なる状態ということです。<br /> <br /> ですので、分かったつもりになるのは大切なわけですけれども、その理解と非我が働き始めるのとは異なる状態だということです。<br /> <br /> たまにはボーディダルマの言葉を引用してみましょう。<br /> <br /> この無心が仏だ。この無心を超えて仏は見出せない。この無心を超えて悟りや涅槃は求めえない。「無心」とは、本性の実在、因果の不在をいう。自らの無心が涅槃だ。「ボーディダルマ(和尚OSHO)」<br /> <br /> 原文には「心」と書いてあるところを解説者が「無心」と置き換えて説明しています。<br /> <br /> 心が自我だとすれば原文のままですと自分の自我がそのまま悟りや涅槃ということになってしまいます。<br /> <br /> ・・・確かに、それは最終的な理解においては正しいのですけど、実際はそこまでの意識にない人がほとんどでしょうからこうして否定形を用いることで自我を超えた何ものかが存在することを表現しているわけです。<br /> <br /> そうすることでまず自我が納得して、それから、それを実感するために瞑想するなりして確かめるわけです。<br /> <br /> Sun, 14 Jun 2020 00:00:00 +0900 未来が見えたところでそれを指摘するなんて野暮なことはしない https://w-jp.net/2020/1957/ <br /> 所詮はゲームなのですから失敗しようが成功しようがあまり変わりがないことです。明日失敗することが見えていたとしてもそれをわざわざ指摘するなんて野暮なことはしないです。<br /> <br /> 深刻になる、というゲームをみんなが真剣にやっているのにそれを邪魔しちゃ悪いでしょ。遊ぶ時はとことん遊べばいいのです。<br /> <br /> 芸能人とかでも、おそらくは未来が見えていそうな人はいらっしゃいますよ。<br /> <br /> それで、人によっては自覚があって未来が見えると自分で言う人もいるし、単に勘が鋭いと思っているだけの人もいます。自分で未来が見えると思っていても実際には勘が鋭いと思っているだけの人より能力が劣っている場合もあります。<br /> <br /> 基本的には、みんな何某かの予知能力があると思っていた方がいいですし、わかっていて選択しているのですから、放っておけばいいのです。それもまた勉強というか遊びです。<br /> <br /> 勉強というと教訓のように聞こえてしまいますけど、教訓なのはそうだとしても、もっと広い視野で見ればそれは単なる人生のお遊びにしかすぎないわけです。<br /> <br /> ですから、他人から見て失敗のように見えることがあっても、それをわざわざ指摘なんてするのは影響を与えたいというエゴの仕業かあるいは人生というものがよく分かっていないのです。<br /> <br /> 放っておけばいいんです。この世界は自由なのですから、成功して楽しむ人もいれば失敗して深刻になることで遊んでいる人もいるんです。もちろんその瞬間においては苦しかったりするかもしれませんけど、それはその人が人生の選択をしてそうなったのです。<br /> <br /> この世の中は残酷ですので成功もキリがなければ失敗もキリがないです。<br /> <br /> 実際、誰かからの助けなんてのはあるようでいてなくて自分で助かろうと思えば一瞬で助かるわけですが、そもそもの動機は何かというと「知りたい」というところにたどり着きます。<br /> <br /> 悩んでいる人がいるのを見て「なんで悩んでいるのだろう?」と思ったら、人生のとある時、あるいは未来において自分が同じ悩みに落ち込んでその悩みを深く知ることができるようになります。<br /> <br /> 一方で、金持ちを見て「お金儲けの何が面白いのだろう?」みたいに「知りたい」と思えばそうなります。金持ちも楽しいばかりじゃないということがわかれば金持ちに興味がなくなり、自分もお金がそんなには必要じゃないと分かったりするかもしれません。<br /> <br /> そんな感じで、失敗するということは基本的には失敗を知りたいからするわけです。<br /> <br /> ですから、失敗してその失敗を深く知りたいと思っている人の邪魔をすることはないわけです。失敗することが目的なはずなのにそれを邪魔しては悪いです。放っておくべきであるわけです。<br /> <br /> とは言いましても、そうではなく、単に、本当のアクシデントによる失敗というものはあります。これは、指摘して構いません。目的とは違いますからね。<br /> <br /> ですが、普通の人はその差なんてわからないのではないでしょうか?<br /> <br /> ですから、基本的には他人の未来が分かったとしても放っておけばいいわけです。<br /> <br /> Sat, 13 Jun 2020 00:00:00 +0900 どうやら、天変地異で地球を浄化するタイムラインがあるようです https://w-jp.net/2020/1956/ <br /> 少し前にアセンションとかパラレルワールドについて書きましたが、どうやらタイムラインのうちの1つでは以下のようになるようです。<br /> <br /> ・・・夢でみたお話ですのでファンタジーだと思ってください。<br /> <br /> 天変地異で地球を浄化し、そこに、いわゆる「面倒な」スピリチュアリストが移住する。このパターンでは宇宙船が生き残りを助けに来ます。そして、死亡した大勢の魂は前に書きましたように500年前に枝分かれした別のパラレルワールドに遷移します。<br /> <br /> どうやら、これが少し前までの既定路線だったようですね。<br /> <br /> 今は現在のタイムラインでどうにかなるのでは・・・ というところを模索しているようです。<br /> <br /> ですが、今後、神様の気持ちが変わって、遅れはしたけれどもやはり既定路線で行こうか・・・ となる可能性もそれなりにあるようです。<br /> <br /> 実際はパラレルワールドが作られるだけですので、現在の地球を継続するパターンも残ります。というのも、人口増による破滅や混乱がどのような結果をもたらすのか神様が学びたいと思っていますから。<br /> <br /> 神様はタイムラインを切り替えできますから、知りたいと思ったらタイムラインをどんどん増やしてゆきます。このまま人間に任せたらどうなるのかな・・・? という、「知りたい」という欲求で神様のタイムラインが作られてゆきます。<br /> <br /> 一方で、メインになるタイムラインを切り替えもします。<br /> <br /> 意識は時空を超えていますから、メインではないタイムラインは継続はしますが神様の意思が希薄な世界になります。実際は神様は沢山いて、そちらのタイムラインに興味を持っている神様もいらっしゃるのでメインとかそうでないかというのは神様にとっての主観ですのでそれほどメインとかそうでないとかは気にする必要はないと思いますが、説明としては、メインとそれ以外が存在するわけです。力を持った神様が決めると他の神様もそれに従いますからね。<br /> <br /> と、いうことで、まとめます。3つのパターンに分かれます。<br /> <br /> ・今の地球が継続するタイムライン。<br /> ・天変地異で今の地球の地上は破壊され、生き残りは宇宙船が助けに来て、その後の地球で「面倒な」スピリチュアリストと共に暮らすタイムライン。<br /> ・上記の天変地異によって死亡した人たちの多くは500年前に枝分かれした、日本がカリフォルニアも含む太平洋沿岸の多くを支配しているタイムラインに移る。<br /> <br /> 2番目に行きたい人たちがアセンションとか言っている気もしますね。確かにアセンションと呼んでも良いような時期が来てはいますけど、それは、単に意識が変わるだけであって、天変地異とはさほど直接的な関係はないような気が致します。<br /> <br /> Fri, 12 Jun 2020 00:00:00 +0900 ゾーンでの激しい歓喜とその先の静かな歓喜 https://w-jp.net/2020/1955/ <br /> アスリートやコンピュータエンジニアリングなどではゾーンと呼ばれている歓喜を伴う極度の集中状態がよく知られています。人によっては一生に一度だけかもしれませんが、瞑想をしますと割と簡単にその状態に至れるようになります。<br /> <br /> 瞑想をしない場合は仕事や趣味などに没頭してそれと一体になることでゾーンに入ります。<br /> <br /> 私の場合はもともとスピリチュアルで子供の頃に幽体離脱とかしていたわけですけれどもその頃はまだ瞑想をしていたわけではなくて、むしろ、コンピュータのプログラミングを集中して行うことでゾーンに入って歓喜を得ていたような気が致します。<br /> <br /> 仕事においてもゾーンに入っていたわけですが、昔にも少し書いたように日本の会社は集中できない環境でことあるごとにゾーンを破るような人が話しかけてきますから、ゾーン中に(意図的にせよそうでないにせよ)ゾーンを急に破るような人が多い場合は精神的にも不安定にもなります。<br /> <br /> このあたり、日本であまりにもゾーンの理解が薄くて日本の仕事は単なる単純作業でしかないことが多い、ということの現れだと思います。<br /> <br /> ゾーンに入ると入る前の理解を超えたものが自然に現れてきて、ゾーンに入る前の計画以上のものが手に入りますから、周囲からしてみるとそれは本人がやったようには見えなくてただ何処かから持ってきただけに見えるのですよね。<br /> <br /> 実際、ゾーンに入ることで自分の意識が広がって、ある意味、時空を超えて未来からの観点も含めて微細なイメージを受け取って次々に判断や新たな視点が繰り広げられて行きますので、ゾーンに入ったことのない人やゾーンにほとんど入れないような人には理解できないでしょう。<br /> <br /> そんな中でも、割とコンピュータはゾーンに入りやすい気が致します。<br /> <br /> 日本の企業の習慣はゾーンに入っている人の集中を途切れさせてしまいますのでゾーンに入ること自体が危険ではあります。ゾーンをことあるごとに途切れさせてしまうと、時々いるような、ちょっと精神不安定なコンピュータエンジニアができてしまうのです。本人が悪いのではなく会社の環境が悪いことが多いような気が致します。このあたり、日本の企業がいかにゾーンに対して理解がないのか、ということの現れだと思います。だから、日本の企業の生産性が上がらない。<br /> <br /> 一方、幸いにしてゾーンが妨げられずに歓喜の状態で作業が続けられた場合、それは効率的な結果をもたらすわけです。<br /> <br /> これは、瞑想でいうところの「集中」「シャマタ」という状態です。瞑想において極度の集中をすれば歓喜に至ります。<br /> <br /> ですから、瞑想をしていなくても仕事で極度の集中をして歓喜に至ることができればそれは瞑想でシャマタをしているのと同じことになります。<br /> <br /> そして、そのゾーン状態を続けていると、年単位の時間経過が私の場合には必要でしたが、やがて、その歓喜が静まって行きます。<br /> <br /> これは私だけの状況ではなく、一般的にもそうであるようです。<br /> <br /> 歓喜が鎮まったからと言って特に不幸になったわけでもなく、次第に、静かな歓喜がそれに取って代わるようになりました。<br /> <br /> この当時は瞑想をしておりませんでしたので、激しい歓喜から静かな歓喜に移行するのはゾーンを体験するごとに次第に少しづつ遷移する、という感じのゆっくりとした遷移ではありました。しかし、はっきりとした変化であり、元に戻ることはありませんでした。<br /> <br /> もともとの激しい歓喜の状態こそがおそらくはゾーンと一般的に呼ばれているもので、静かな歓喜もゾーンと呼んでも良いのかもしれませんが、それはもはやわざわざゾーンとは呼ばなくても良い気が致します。<br /> <br /> これらの2つのゾーンが実際にはあるのですが、前者のゾーンであったとしても、日本の企業ではあまり知られていないように思います。<br /> <br /> Thu, 11 Jun 2020 00:00:00 +0900 ヴェーダにおける4つの意識の状態 https://w-jp.net/2020/1954/ <br /> ヨーガあるいはヒンドゥ教では意識の4つの状態を言い表しています。<br /> <br /> ・目覚めの状態(ジャーグラト)<br /> ・夢見の状態(スワプナ)<br /> ・熟睡の状態(スシュプティ)<br /> ・覚醒意識(第四の状態、トゥーリヤ)<br /> <br /> 具体的にはマーンドゥーキヤ・ウパニシャッドにて次のように記されています。アートマンとはざっくりいうとヨーガでいう魂のようなものです。<br /> <br /> ■アートマンの四位<br /> ・覚醒位(jagarita-sthana)における普遍位(vaisvanara)<br /> ・夢眠位(svapna-sthana)における光明位(tajiasa)<br /> ・熟睡位(susupta-sthana)における識所成我(prajna)<br /> ・第四(caturtha)位の我、聖音オーム(om=a.u.m.)、吉祥、絶対不二(advaita)<br /> 「ウパニシャッド(辻 直四郎 著)」より<br /> <br /> 原典の翻訳には以下のようにあります。<br /> <br /> ・アートマンの第一のすがたは(中略)ヴァイシュヴァーナラである。覚醒状態にあり、(中略)、感覚器官からよろこびを受け取って、それを享受する者である。<br /> ・アートマンの第二のすがたは、その精神的な状態における普遍的人格、タイジャサである。(中略)彼は夢見状態にある。(中略)自分の過去の行為が思考期間に残した微細な印象を享受する者である。<br /> ・アートマンの第三のすがたは、熟眠状態における普遍的人格、プラージュニャである。プラージュニャは夢を見ず、欲望を持たない。(中略)あらそいも不安も経験しないのだから、彼は至福に満ちており、至福の経験者である、と言われる。プラージュニャは全てのものの主である。彼はすべてのものを知っている。彼はすべてのものの心臓に住む。彼はすべてのもののはじめである。彼は全てのものの終わりである。<br /> ・第四のすがたは、(中略)感覚を超え、理解を超え、表現を絶したもの、それが第四のすがたである。(中略)それはアートマンである。<br /> 「ウパニシャッド(日本ヴェーダンタ協会 著)」<br /> <br /> こうしてみますと、一般的に言われている最初の定義と実際の内容とでかなりの違いがあることがわかります。<br /> <br /> 最初の4つの定義は割とヨーガ業界では有名で色々なところで語られていると思います。<br /> <br /> 私が思うに、特に4つ目の「トゥーリヤ」はスピリチュアル業界で有名で、おそらくは和尚ラジニーシ(OSHO)が講話でことあるごとに繰り返して本にも多数載っていることでこのトゥーリヤが超越状態を意味することが広く知れ渡ったのだと私は思っています。<br /> <br /> しかし、実際に本文を見てみると、ちょっと意味合いが違うことがわかります。<br /> <br /> 第四の状態を目指すというのは確かにそうですが、実際は、それぞれの状態全てにきちんと重きが置かれるべきだと思うわけです。3つそれぞれをきちんと理解して体験して、そして初めて第四の状態に導かれてゆくのであって、最終目的地の第四の状態をいくら繰り返したところで覚醒には至らないのかな、と今では思います。確か20年以上前のスピリチュアルやニューエイジのブーム時代には和尚ラジニーシ(OSHO)の講話の本が人気になってトゥーリヤという言葉も一般的になったかと思いますが、その時は、このような細かな説明は聞かなかったような気が致します。私が読み飛ばしていただけかもしれませんが。<br /> <br /> 簡単にポイントを記載すると、以下のようになります。<br /> <br /> ・目覚めの状態(ジャーグラト)アートマンの一面、ヴァイシュヴァーナラ。感覚器官を受け取る者。<br /> ・夢見の状態(スワプナ)アートマンの一面、タイジャサ。微細な印象を受け取る者。<br /> ・熟睡の状態(スシュプティ)アートマンの一面、プラージュニャ。至福の存在。<br /> ・覚醒意識(第四の状態、トゥーリヤ)これこそがアートマン。<br /> <br /> 第四の状態であるトゥーリヤがアートマンであるとはどういうことでしょうか? 聖典の本文によると、以下のように続きます。<br /> <br /> すべての言葉を超えたこのアートマンは、オームという音節である。この音節は分割できないが、3つの文字、すなわちア・ウ・ムから成っている。「ウパニシャッド(日本ヴェーダンタ協会 著)」<br /> <br /> 同書によれば第一から第三までの状態がそれぞれア・ウ・ムであり、第四の状態であるトゥーリヤがアートマンであるところのオームだと言うのです。<br /> <br /> であれば、これらの意味もはっきりとします。<br /> <br /> 和尚ラジニーシ(OSHO)の講話は、当時は「トゥーリヤという凄い状態があるのだな」と思って読んでいましたが、今から読むとインパクトのあるところだけを取り出して弟子たちを喜ばせていたという面もあるのかな... というショービジネス的な面が見え隠れしているのが見て取れます。スピリチュアルで2周・3周・4周くらいしてくると色々な視点が持てるものです(苦笑)<br /> <br /> 参考までに神智学から見たこれらの状態の定義を記載しておきます。<br /> <br /> ・ジャーグラト(Jagrat)は普通の、目が覚めている時の状態。<br /> ・スヴァプナ(Svapna)はアストラル体の中で働き、その経験を脳に刻印しうるような夢意識。<br /> ・スシュプティ(Sushupti)はメンタル体の中で働く意識で、その経験を脳に伝えることはできない。<br /> ・トゥリヤ(Turiya)は三昧(サマーディ)の状態で、ブッディー体(純愛と叡智)の中で働く意識であるが、脳とは離れすぎているため、簡単に思い出しうるものではない。(中略)深い瞑想(三昧、サマーディ)によってのみ連携あるいは思い出せる。<br /> 「神智学大要 第2巻 アストラル体[上](A・Eパウエル 著)」<br /> <br /> これらは神智学におけるアストラル体等の定義を知らないとなかなか読み辛いものにはなっているものの、内容的に違う面から語れていて示唆に富んでいると思います。<br /> <br /> Wed, 10 Jun 2020 00:00:00 +0900 関東大震災が先で東海地震が後 https://w-jp.net/2020/1953/ <br /> こういうのはそれぞれ個別の物語としてインスピレーションが来ることが多いですが、それと関連した他のストーリーを元に推測すると、どうやら関東大震災が先で東海地震が後と考えるのが筋が通っているように思えてきました。<br /> <br /> 先日、関東大震災と東海地震は2021年1月後半かなというお話をしましたが、どうやら関東大震災が1月後半で、東海地震は初夏の、おそらく6月か7月頃なのではないかと思います。<br /> <br /> ・・・とは言いましても、これは予言ではありません。ただのインスピレーションのメモ書きです。<br /> <br /> 大抵は当たりませんからね、こういうの。<br /> <br /> インスピレーションには2つあって、1つは想念形態として地上にぷかぷか浮いているものをキャッチするケース。もう1つはその奥に眠っている、まだこの世に形として現れていない形態を読み取るケースです。<br /> <br /> 前者の場合は想念形態ですから誰かが勝手に想像したものをキャッチしただけですのでまず当たりません。後者にしても人々の思いや歴史のタイムラインの選択によってすぐに未来は変わりますから、そんなには当たりません。地震なら当たるだろうと思われるかもしれませんが、どの未来のタイムラインを選ぶかという点において神の選択がなされますので、神の選択いかんによってはタイムラインが変わる・・・ というか、別のタイムラインが選択されるわけです。<br /> <br /> ですから、我々人間からしたら当たるか当たらないかしか分からないわけですけれども、前者であればまず当たりませんし、後者であっても神様が別の選択をしたならば当たらないわけです。<br /> <br /> というわけで、こういう地震とかのお話は、話半分くらいに聞いておくので十分だと思います。<br /> <br /> 関東大震災の震源は前にも書いた通り三浦半島近辺で横浜あたりまで大きな被害が出ます。東海地震は愛知と静岡などに被害が出ます。三重県や和歌山も被害が出ますけど被害が大きいのは静岡や愛知とかですね。湾岸の平地があるところが危ないです。これは自治体の津波予想が割と当たっていますので、自治体で津波予報の範囲に含まれている人は早めに引っ越した方がいいと思います。<br /> <br /> 今回は割と時間に猶予がありますので、逃れようと思えばいくらでも逃れられるはずです。<br /> <br /> → 続き<br /> <br /> Tue, 09 Jun 2020 00:00:00 +0900 否定的思いを打ち消すために反対である肯定的思いを用いるのは悪いことか? https://w-jp.net/2020/1952/ <br /> 最近は色々と理屈っぽい人が多くなって、古典に書かれてあるこの手法を否定する人がそれなりに世間にいるように思います。<br /> <br /> 大元のお話はヨーガスートラに記載されています。<br /> <br /> 2.33 否定的想念によって撹乱されたときは、反対のもの(肯定的想念)が念想されるべきである。「インテグラル・ヨーガ(スワミ・サッチダーナンダ著)」<br /> <br /> これは古典ですが、最近の精神セラピーでも同様の手法が取られていると思います。<br /> <br /> しかし、意外にもこれを否定する人が多いのです。言わんとしていることはわからないでもありませんが、しっかりと理解していないように思われるのです。<br /> <br /> まず、これを否定する人の言論は以下のようなものです。<br /> <br /> ・思いは否定されるべきではなく観察されるべきものだ。<br /> ・否定的想念を肯定的想念で打ち消すのは本当の瞑想ではない。それは間違っている。<br /> <br /> これらの発言には共通点があって、おそらくはヴィパッサナー瞑想やスピリチュアルな本で学んで感化されて、しかしながらきちんと理解していないのかな、という印象を受けます。<br /> <br /> まず、はっきりさせておくべきことは、意識の段階においてそれぞれ何が正しいのかが違うということです。<br /> <br /> 瞑想は「集中」と「観察」の両方の要素がありますが、集中が出来ていない人に観察だけを示唆しても瞑想はうまくいきません。<br /> <br /> 否定的想念が出てきたらそのまま放っておけばなくなる、というのは中級者以上のお話です。否定的想念が出てきたら反対の想念(肯定的想念)を出して打ち消す、というのは初心者のお話です。<br /> <br /> このヨーガスートラの話を聞くとすぐにヒステリーになって否定しだす人がぼちぼちいて、なぜそんなにヒステリーになるのか私には全く理解できませんが、そのようにヒステリーに否定する人が実際にこの世の中にいますので、そのような人は瞑想の段階としてはまだ理解が全然足りていないのかな、という印象を受けます。<br /> <br /> 確かに、瞑想の意識が進んでヴィパッサナー状態になると否定する必要もなくて観察すれば良いですし、否定的想念を肯定的想念で打ち消すのは本当の瞑想ではないという人の意見も分からなくはないですけど、私なんかからすればどちらも瞑想で、それぞれ深さが違うだけだと思うのです。<br /> <br /> そんなにヒステリーになって否定することもないと思うのですけどねえ。<br /> <br /> そういえば最近手に入れた本で以下のような記述がありました。<br /> <br /> 真の瞑想とは強いることなき自然なものである。物質的なことであれ霊的なことであれ、瞑想から何かの見返りを得ようと、決まった時間に決まった想いに心を集中させることによって、対立するすべての想いを打ち消そうと悪戦苦闘するのが瞑想ではない。「チベット永遠の書(テオドール・イリオン著)」<br /> <br /> これ、読む人によって違った印象を与えるでしょうね。<br /> <br /> 瞑想をよく分かっていない人が読むと「偽物の瞑想があるんだ! 私は真の瞑想を知っている」と思って、偽物の瞑想を吊し上げてヒステリーになってしまうこともあるでしょう。同書では著者が大袈裟に「真の瞑想」とか「偽の瞑想」とか書いているので、これを読んでいる人は真に受けて偽物を吊るし上げようとするかもしれないですね。こういうのはいけないですね。理解不足ですね。<br /> <br /> 瞑想をよく分かっている人が読むと、「そりゃそうです」としか思いません。特に凄いことが書いてあるわけでもないし、当たり前のことです。<br /> <br /> このような、何か凄いことのような印象を与える宣伝が一部でなされていて、それによって不愉快な思いを受ける人がそれなりにいるのは悲しいことです。<br /> <br /> 以前にも書きましたけど、瞑想に不慣れな最初は力を入れて集中して思いを打ち消すのです。そういうものです。その後、やがてはヴィパッサナー状態になってゆきますけど、それは瞑想がそれなりに進んだ後のお話です。<br /> <br /> Mon, 08 Jun 2020 00:00:00 +0900 チャクラは左回転、かも https://w-jp.net/2020/1951/ <br /> 今日の瞑想では、ふと気がつくと空から落ちていました。空から手を広げて大の字になって頭から地上に落ちてきていました。地上まであと数百メートルになった時、ふと手とお椀(何故か持っていた)を前に向けたらその中に風が入り、やがて周囲が光に包まれて落下が止まり、空を浮き始めました。そして再度、地上の空高く舞い上がったのです。<br /> <br /> その時、何か渦のようなものが見えました。<br /> <br /> <br /> <br /> 白黒で、私の顔の真正面から見ると円のように見えましたが、渦が左回転(反時計回り)をして、中心が手前(私の方)に向かってぐるぐると竜巻のように伸びているのが見えました。<br /> <br /> その光を浴びたことによって浄化されたような感じになったのです。<br /> <br /> この渦巻がチャクラかどうかはわかりませんけど、昔、本で見たチャクラの図に似ている感じです。<br /> <br /> <br /> 「チャクラ(C.W.リードビーター 著)」<br /> <br /> この渦巻は、かなりの速さで回転していることがはっきりと分かりました。<br /> <br /> 花弁らしきものはありませんでした。同書にはチャクラごとに図がありますが、回転のくびれ部分を数えて花弁、としているのですね。花弁がないということはアジナチャクラだったのかもしれませんね?<br /> <br /> アジナチャクラの色について以下の記述があります。<br /> <br /> アジナチャクラの光色(オーラ)について、サッチャナンダは興味深いことを述べています。つまり、人によっては透明に見えるというが、自分には煙色、または黒色に見えるというのです。リードビーターは、エーテル体のアジナチャクラのオーラは黒紫色だと言っています。多少のちがいはあっても、二人の間には、暗いという点で一致が見られます。この黒または煙色の光色は、サッチャナンダによると、アストラル体のオーラだということです。「密教ヨーガ(本山博 著)」<br /> <br /> これは、前に引用した瞑想中に見えるアストラル体の色とも繋がります。<br /> <br /> 同書と照らし合わせると、私が見た白黒の回転は「浅い精神集中の状態におけるアストラルの色」に相当するような気が致します。<br /> <br /> 確かに、その時はちょっと疲れていてうつらうつらしていましたので、瞑想というよりもちょっと意識が飛んでいましたのでそういう状態でこそ白黒(灰色)で見えるのかもしれません。<br /> <br /> となれば、チャクラの回転が見えるということはあまり集中できていなくてよろしくない、という解釈にもなります。<br /> <br /> とは言いましても、このあたりは本質ではなくてただのメモ書きですので、あまり気にすることでもなさそうです。結局のところ、もっと意識が進まないと正解もよくわかりませんしね。見えたところで今のところなんてことはないです。<br /> <br /> Sun, 07 Jun 2020 00:00:00 +0900 昔から、世界の統治は一部の霊たちによって行われてきた https://w-jp.net/2020/1950/ <br /> 霊の集会があって、国の行末はそこで話し合われた上で自薦あるいは他薦で国王あるいは首相が転生して国を収めてきました。<br /> <br /> 民主主義になってもそれは同じで、基本的にはとある霊の集団が基本的には今も国を治めています。<br /> <br /> その集団にもいくつかあって、中国を統治している霊の集団だとかフランスからイタリア周辺までを管理している集団、イスラム圏、などいくつかあります。<br /> <br /> それぞれのやり方はあるにせよ、地上で争っているのとは異なり、霊の集団同士は互いに人材の交流も頻繁にあったりしてかなり仲が良いです。お互いがお互いを尊重しあって、例えばローマで皇帝をした人が中国の皇帝になったりしています。<br /> <br /> ですから、民主主義なんて幻想で、建前がそういう形にしているだけです。<br /> <br /> 国民の興味は「食う、寝る、遊ぶ」ですから、統治なんて興味がないでしょう?<br /> <br /> 統治と言っても、国を治める基本はここで、人々が楽しく幸せに暮らすための方策を考えているわけです。統治というのは苦労が多くて、自分のためだと思っていたらやっていられないことが多いわけですが、それでも人々の幸せのために統治する人が必要なわけです。<br /> <br /> 国のトップやそれを輩出した霊の集団の真意はそこにあったとしても、権力の周囲には自分の利益のために近付いてくる権力・金銭の亡者がうようよしていますから、それらの人のことをまともに聞いていたらまともな統治ができないわけです。<br /> <br /> 霊の集団や皇帝が平和を望んでいてもその取り巻きたちが愚かで自分のことしか考えないと中国のとある皇帝のように取り巻きから何も知らされないままいきなり反乱が起きて国が潰れてしまうことすらあります。<br /> <br /> 民主主義なんて本当に真面目に実行していたら国がいくつも簡単に潰れてしまうわけです。<br /> <br /> 民主主義が生まれたのはフランス革命からで、それは霊の集団の真意ではありませんでした。いわゆるアクシデントで生まれたのが民主主義で、基本はとある霊の集団が今も国を治めているわけです。<br /> <br /> 普通の人がいくら考えたところで「食う、寝る、遊ぶ」以上の政策ができますか? 民主主義は衆愚政治になる、とよく言われますが、それは正しいです。民主主義という形であったとしてもトップはそれなりの人が今もついています。<br /> <br /> ただ、霊の集団がいくら考えたとしても地上の人々との考えとはちょっとズレていることが多い気がします。政治家たちがズレているというよりは、霊の集団がズレていることもそれなりにあるような気が致します。政治家のエゴでズレる場合も多々ありますけどそれは当たり前で、それと合わせて、霊の集団がちょっとズレている場合もあるわけです。<br /> <br /> 平凡な政治家を操作してうまく政策を実行させるのも霊の集団の役目だったりします。ですから、普通な政治家であったとしても役目として霊の集団にその後に選ばれることがあればその時は非凡な才能を発揮したりもするわけです。<br /> <br /> Sat, 06 Jun 2020 00:00:00 +0900 能力があっても他人に言わない https://w-jp.net/2020/1949/ <br /> スピリチュアル業界とかヨーガとかしていますと、ちょっとした能力がある人を時々見かけます。<br /> <br /> スピリチュアルな人は割とオープンで自分のことを他人に言ったりしますけど、ヨーガの人は能力があっても他人に言わない、というのが歴史的・文化的・伝統的にそうみたいです。<br /> <br /> ヨーガの人に言わせると、能力は修行の妨げになるとかエネルギーの無駄使いだとか色々言っていますけど、物事はもっと単純なんですよ。<br /> <br /> それは、能力を見せてしまうと面白がってくる野次馬が単に面倒なだけです。それが理由の90%くらいで、ヨーガの人とかがしたり顔で論じてくるような、能力は修行の妨げだとかエネルギーの無駄使いだとか・・・ そういうのも確かにありますけど、それよりは、野次馬がめんどくさい、というのが見せない理由だと思いますよ。<br /> <br /> あるいは、見せている能力はほんの一部、という場合もありますね。<br /> <br /> どちらにせよ、大そうな理由はあんまりないです。<br /> <br /> たぶん、多くの人はそんなものじゃないかな・・・。<br /> <br /> 昔は魔女狩りとか有力者に誘拐されて能力を使われたりしましたのでリスクがかなりありましたが今はお金で動いてくれる有力者がたくさんいますしそのような人がどこにいるのか情報も出回っていますから、以前のように誘拐リスクもほとんどありませんしね。昔はこのような怖い理由で能力を言わなかった人も多かったです。<br /> <br /> 例えばナチスが魔女をさらって遠隔視をさせていたりしましたからね。怖い時代でした。<br /> <br /> 今は、単に面倒なだけ、という理由が多いのではないですかね。あるいは、今後また怖い時代が来ると予見して言わない人もいるかもしれないですね。<br /> <br /> Fri, 05 Jun 2020 00:00:00 +0900 人はみんな神様! とか思っていても実際には鉱物霊とかもいます https://w-jp.net/2020/1948/ <br /> 割合は少ないですけど鉱物霊とかもいますし、人の魂の出どころを知らないと神様なんて安易には言えません。<br /> <br /> 人の魂は神様と一緒で万能なのに忘れているだけ! とか言っている人がいますけど、そういう人がいるというだけで、そうでない人もいます。<br /> <br /> 現実として自分の立場はそうは変わらないですし、鉱物霊とまでは言いませんけど、精霊出身だったり妖精出身だったり爬虫類出身だったりするわけです。割合として国ごとに同じ出自の人が多いのであまり気にすることはないですけど、多種多様な魂が混在している、という表現の方が実態に近いです。<br /> <br /> 神様は分け隔てなく全てに行き渡っている・・・ とか言う人がいますけど、それは確かにそうですけど、あまり個人には関係のないことかなとも思います。知識として知っておけばそれはそれでいいですけどね。相手に与えたものは返ってくる・・・ それは本当ですし、そのくらいの知識でとりあえずは十分かと思います。<br /> <br /> 人はみんな神様とか思ってしまうと分け与えたりすることに躊躇しなくなってゆきますけど、変な人の相手をしていたらキリがありませんし、割合として奪う人がこの世界に多いので、そんな人の相手をしていたら持ちません。<br /> <br /> 自分と分かり合える人と静かに暮らすくらいがちょうど良いと思います。人はみんな神様なのは根元においてはそうでしょうけど、魂としては出自がそれぞれ違いますから、合わない人とはやっぱり合わないのです。<br /> <br /> Thu, 04 Jun 2020 00:00:00 +0900 神様はここ500年をリセットするかどうか迷っている https://w-jp.net/2020/1947/ <br /> 昨年、パラレルワールドで織田信長がアメリカ西半分を日本の領土にして平和に国家を作り上げたというお話をしましたが、今回もそれに関連したお話です。<br /> <br /> ・・・夢で見たお話です。現実ではないですよ? ファンタジーだと思っておいてください。<br /> <br /> その時のお話は色々とごちゃ混ぜになっていましたが、まず、織田信長にまつわるパラレルワールドはいくつかあります。時系列に並べます。パラレルワールドは時空を超えている筈なのに時系列というと変に聞こえるかもしれませんが、最初にこのパラレルワールドを試して、それでうまく行かなかったからもう一度、という感じでパラレルワールドは時系列で作られます。<br /> <br /> 1.まず普通に織田信長で謙虚に生きてみた。今川に敗れ、命は助けられてそのまま尾張の領主でいられたが今川に上納金を納めなくてはならず困窮。桶狭間の時に部下が今川に通じていたりして、その部下がことあるごとに小馬鹿にしてきて、更には、他の武将にも見下される。それで、「こんなに謙虚に生きているのに周囲は私を馬鹿にする。見ていろ!」と思って歴史をリセット。やり直し。<br /> 2.今度は色々と試してみる。大体の筋道はわかってきたところで再度リセット。<br /> 3.本能寺の変で討死。これもまた失敗でリセット。(これは現在のタイムラインではありません。)<br /> 4.あらかじめ天皇や武内宿禰に本意を伝え、本能寺の変を回避。北海道のアイヌの長老で一番力のある人物を呼び寄せて北海道を併合。アイヌは土地の所有とかが当時はよくわかっていなかったので、今後100年(50年だったかも)は和人が北海道の土地を所有することを禁止し、商取引で不平がないように監視官を派遣。アイヌの若者を教育のために呼び寄せ、逆に、教育者を北海道に派遣してアイヌの教育を行う。アイヌを優遇しすぎとの声もあったが北海道をスムーズに併合し、アイヌの助けも借りてアラスカやアメリカ西海岸への移住を開始。やがてはアメリカ東部から迫ってくる白人と衝突するが西洋諸国に書簡を送ったり兵を派遣したりしてアメリカ西半分を勢力下に収める。織田信長の死後は自らの意思で中国が併合したいと言い出し、中国も日本になる。しかし、前に書いたようにこのタイムラインでは西洋で争いが絶えず、核によって地球が破滅、あるいは、大陸の大半が吹っ飛ぶのでこのタイムラインも断念。<br /> 5.本能寺の変のあたりまでは同じで、明智光秀に連絡して「俺を倒したことにして天下はお前にやるよ」と言って織田信長は死んだことにし、本人はバチカンへ。明智光秀は天下を守れなかった。これが今のタイムライン。<br /> <br /> と、話は長くなりましたが、現在のタイムラインについても神様は「微妙だな〜」と思っていて、どこか不満げです。<br /> <br /> 話は飛びますがスタートレック(ディープスペースナイン)の物語の中で、時空の乱れに巻き込まれた宇宙船が惑星に不時着し、その後300年の繁栄をしたが、実はその時空の乱れは300年前にタイムスリップするワームホールで、300年後にその惑星の軌道上にやってきた宇宙船と300年後の子孫がお話をする・・・ というストーリーを思い出しました。宇宙船の乗組員は惑星に降り立ち、300年後の子孫と話をします。その間に作られた歴史があるわけです。しかし、宇宙船のその後の行動如何によってはその未来は無くなる訳です。300年の歴史が消えてなくなるのです。この物語には他の要素も含まれていますが、私が興味深いと思ったのはこの部分です。この視点が、神様の視点によく似ているのです。<br /> <br /> 神様は、ここ500年の現在のタイムラインを捨てて、上記4のタイムラインに戻そうかと悩んでいます。<br /> <br /> その世界は少なくとも日本と太平洋沿岸の諸国は平和で穏やかな生活をすることができています。4では日本やその周辺諸国はとても良い状態です。織田信長の政策により文化や宗教は各地で尊重されることになり、政治と宗教の分離がなされ、宗教は宗教だけをするようになります。国は国民の細かいところに口を出さず、地方分権による、合衆国のような緩い統治方法になっています。仕組みや制度だけ統一して領内の流通は自由化することで国はどんどんと豊かになりました。4での日本はローマのような黄金期であるわけです。<br /> <br /> ただ、4で問題なのは、西洋諸国が核戦争をして地球を吹っ飛ばしてしまうことです。<br /> <br /> 今のタイムラインも微妙になってきましたので、このまま続けるか、あるいは、4のタイムラインにした上で、西洋諸国が問題なのであればそこにテコ入れをしようかどうしようか・・・ と神様は悩んでいるようです。<br /> <br /> そうなれば、現在のタイムラインは下層に追いやられて、単なるアストラルのただの「想像」に近いものになり、一方で、上記4の世界が現実になります。その場合は、時間も巻き戻されますから、西洋諸国で核戦争を起こさせないために大師たちを使った介入が行われることになるでしょう。<br /> <br /> しかし、それすらもうまくいくかどうかはわかりません。狂人というのはどこにでもいるもので、核戦争が一度も行われていない世界で核の力が強大になれば世界で初めての実戦での核爆発によって大陸が吹っ飛ぶこともあるわけで、それがショックが大きければ地球の地軸がずれたり地があり得ないほどに割れて人類のほぼ全てを消滅させることにもなるわけです。そのようなタイムラインは実際にあります。<br /> <br /> と、いうことで、とりあえずは生き延びている今のタイムラインを微妙ながらに続けるのか、あるいは、4に戻して核戦争を回避するのか。そこが神様の悩みどころのようです。<br /> <br /> Wed, 03 Jun 2020 00:00:00 +0900 非我を働かせる、とは良い表現 https://w-jp.net/2020/1946/ <br /> 最近入手した本が意外に瞑想について詳しく書いてありまして、元カトリック教徒の外国人が禅を習った記録とのことですが、そこに「非我を働かせる」と言う表現がありました。<br /> <br /> これはヴィパッサナー状態(観察状態)を示すのにとても良い表現だと思います。そうですか。こう言う表現方法がありましたか。<br /> <br /> そういえばOSHOの本で「無心」と言う表現をしていましたね。西洋の人や、インド人であっても西洋に受け入れられる人の表現は否定形が多いのかもしれませんね。否定形で表すことによって西洋の人に「そうか」と理解されるのかもしれません。<br /> <br /> 日本人にとっては「ふむふむ」と言う感じですし、実際にそれがどう言うことなのか、わかるようでいてわからなかったりする気もします。<br /> <br /> 「非我」にせよ「無心」にせよ、心を超えた何か、あるいは、心ではない何かをどうにかして表現しようとしているように思います。<br /> <br /> ただ単に「非我」「無心」としてしまうと何某かの境地であるように理解されてしまい、それはトランス状態か何か、彷彿状態か何かだと理解されてしまうかもしれません。<br /> <br /> しかし、「非我を働かせる」と表現すればそれは「行動」が伴いますので、超感覚および超思考が働く世界であると言うことが明らかになるわけです。<br /> <br /> それは、顕在意識での行動ではありませんので行動とは言っても違う種類の行動であるわけですし、行動と言うと肉体と五感による活動と理解されてしまいますので私なんかは行動という言葉はあまり使わないようにしておりますが、同書のコンテキストから言えば「非我を働かせる」というのはとてもわかりやすい表現になっているわけです。<br /> <br /> 「非我」ですから通常の心ではなく、しかも、それが活動する、ということは、それができているかどうかが読む人にとって自分で判断できると思うのです。<br /> <br /> 読んでいる人ができているつもりにならずに、これは何某か、自分が知らない何かであるということを理解するには「非我を働かせる」という表現は十分だと思います。<br /> <br /> というのも、この種のスピリチュアルは色々なところで語られていますので、なんとなく自分が高次な意識を持っているかのように錯覚しがちだからです。しかし、「非我を働かせる」という表現は錯覚させないだけのはっきりとした表現になっていると思います。<br /> <br /> 「自我の妨げなしに、行為の秘めた力が働くにまかせる」ということを私は学んでいたのでした。私が学んでいたのは「自我を働かせない」ということではありません。私が学んでいたのは「非我を働かせる」ということでした。「生きているのは、もはや私ではない」ということが、ようやく日々の生活に現れつつありました。「禅入門(イレーヌ・マネキス著)」<br /> <br /> Tue, 02 Jun 2020 00:00:00 +0900 水晶で瞑想と同様の効果 https://w-jp.net/2020/1945/ <br /> 石にも色々あって、形が良くてもパワーストーンではない場合があります。<br /> <br /> 昔、インドで安い石を大量に買って帰ったことがありますけど、それはインドの疲れた石、と言う感じでした。石には現地のオーラが宿るのですね。インドならインド人の感じがしますし、他の土地もそうです。<br /> <br /> 現地の人がそこらで拾った石が外国人には高く売れるらしくてインド人はたいそう喜んでいました。<br /> <br /> かなり昔に水晶が良いと聞いてなんとなく買ってみた水晶は何にもパワーがありませんでした。ですので、水晶と言っても色々のようです。<br /> <br /> 今回は、なんとなくメルカリで購入してみたのです。前は形を重視したのですが、今回は量重視で安いさざれ石を買ってみました。<br /> <br /> すると・・・ これが驚く効果があったのです。<br /> <br /> 部屋にあるだけで、特に頭のあたりに瞑想の効果が出ています。置いておくだけでも効果がありますが、ザラザラと少し動かすだけで更に効果が出ます。<br /> <br /> 仕事中にPCを使っているとどうしても頭にモヤモヤ感が出てきてしまいますが、今回の水晶さざれ石が近くにあるだけでもやもや感が一気に解消したのです。<br /> <br /> これはびっくり・・・。 瞑想で解消しようとすると数時間はかかる効果です。それがものすごく安い水晶でこんな効果が現れるとは。<br /> <br /> 水晶が近くにあるだけで頭、特に後頭部がピリピリしています。首の方や背筋および両肩の方にまでその電気が続いているような感じです。肩こりにも良さそうです。水晶を近づけて少しザラザラと動かすだけで体の各所の血の巡りも良くなりそうな気がします。<br /> <br /> 今回買ったのは500gで送料込千円くらいのブラジル産です。ブラジルと言っても広いですが、今回のは当たりでした。同じものを1kgくらい追加で買ってみます。<br /> <br /> Mon, 01 Jun 2020 00:00:00 +0900 マスコミの役割は真実を明らかにすることだった https://w-jp.net/2020/1944/ <br /> 昔、ジャーナリズムというともっとプライドがあって隠された真実を世の中に広めるという使命感がありましたが今は単なる煽りの道具と化していて、真面目にやっている方々がはなはだ迷惑しているように思います。<br /> <br /> 真面目な方が真実の報道をしている一方で、目立つジャーナリストが煽り記事を広める風潮は今に始まったことではないですけど、そこはやはり歴史的なものがあるのでしょうね。海外ではジャーナリストの歴史としてまず最初にカリスマ的な報道記者がいてその周辺にジャーナリズムのあり方の思想が出来上がってきたのに対し、日本の場合は輸入してしまって単なる宣伝の道具として扱われてきたという大きな違いがあると思います。<br /> <br /> まず最初に思想的なものがないとマスコミの報道も煽りの道具になってしまうのでしょう。<br /> <br /> 既にシステムとして煽りの道具が機能しており、システムが一人歩きして巨大になって制御不能なほど日々動き続けており、そこにはもはや人間の意図が存在せずに、ジャーナリストはシステムの一部としての煽りの機能を持たされているようにも感じます。<br /> <br /> 最初は煽りによって人の目を向けさせるとか世の中を扇動するという意図があったように思いますが、既にシステムとして煽りこそが目的と化しており、目的が存在せずに煽りだけが日々繰り返されるだけの生産性のない状況を生み出しているように思います。<br /> <br /> 日本には戦争がありませんけどアストラルな想念の世界を見てみると戦争に類似したことは起こっており、人々のうっぷんや妬み、怒り、そのようなものがそこら中にぷかぷか浮いていて雲のように漂っており、そこを通過するだけで怒りや悲しみといった感情に支配されてしまうことがあります。オーラが不安定なほどそのような漂う想念の雲の影響にさらされやすいです。<br /> <br /> ですから、用もなくそこらを歩き回るのは、実はあまりお勧めできないです。想念を拾ってしまって不愉快になったりしますからね。<br /> <br /> 今、マスコミはそのような害毒の想念の雲をばらまく機能になってしまっているわけです。マスコミが煽り記事を出すこと自体は無視すればいいのですが、このように、煽り記事に影響されてしまった人々がそこら中にばらまく不快な想念の雲はとても迷惑です。<br /> <br /> 昔は報道機関といえば特別でしたが、今は自分で直接的に広報することができますし、記者にしても会社に属する必要が減っていって個人で発信する方が思想がよくわかって良いわけです。<br /> <br /> そもそも「公平」な報道なんていうのは本人が思想的に公平なところを目指していることが前提になるわけで、その目的が自身で明らかになっていないのであれば公平なんてのはただの言い訳にしか過ぎないわけです。<br /> <br /> 昔のジャーナリストが言っていた「公平」というのは「事実だけを言う」ことではなくて、個人の思想に基づいて双方を判断することでありましたので、相対的なものであるわけです。事実だけを言うジャーナリズムが正しいと思うのならそうすればいいですし、個人の思想を公平と呼んで双方を判断するならそうすればいいわけです。<br /> <br /> 「事実」あるいは「個人の価値観の元の公平な双方の視点」であるなら、煽りよりもよっぽど良いです。<br /> <br /> そのような観点がないなら、今後ますますジャーナリズムは不要なものとして扱われてゆくでしょうね。<br /> <br /> これは、煽り記事に反応する人が減るなら自然消滅するでしょうし、増えるならば大師が手を下して人知れずジャーナリズム解体のプロジェクトを発動させるでしょうね。どちらになりますかね。<br /> <br /> 大師は自分では世の中の動向がわかりませんので目となってこの世に普通に転生している人たちの視点を参考にします。そのような人が誰かは一般的にはわかりませんけど、実は「目」である人に意見が届くように視点や意見を日々発信するのはどの人であっても大切なように思います。<br /> <br /> Sun, 31 May 2020 00:00:00 +0900 コロナで動き出す世界情勢 https://w-jp.net/2020/1943/ <br /> 世界は多極に向けて動き出しているわけですが、人によっては多極の方が安全だと言っている人もいらっしゃいますが、理屈では多極の方がいいとなるのはそうなのかもしれませんけど、実際は多極で地域紛争が多発するようになります。<br /> <br /> 頭のいい方が多極のそれぞれの頭を努めれば確かに論者がおっしゃるように多極で平和な時代が来るということもあるのかもしれませんが、実際は、多極になるとしょぼい頭のリーダーが小さな国・地域を治めることになりますから政治も経済も貧弱になって地域紛争が多発するようになります。何事も理屈通りにはいかないのですよね。<br /> <br /> 今までは大国が世界を分割統治していましたがこれからは小さな国が自国中心主義になります。それを言って理想的だとか多極になって世界が平和になるだとか今まで紛争を起こしていた大国がいなくなるから世界は平和になるんだとか言っている方がおられますが、実際は、地域紛争が多発するようになります。<br /> <br /> これは、理屈がどうこう、と言っているのではありません。理屈で説明されると確かに地域主義で多極になると平和になる、というお話は「ふむふむ」と聞くことができて、確かにそうなると面白いかもしれません。しかし、実際にはならないんですよね。なんでその通りになるのかなんて私には知ったことではありません。ならないものは仕方がない。現実がそうなのだから受け入れるしかないわけです。これは、今後数年かけてその傾向が出始めて、5年から10年経つと世界が不安定になります。時期はもうちょっと前後するかもしれませんが、コロナ前の世界がいかに大国の意図の元で平和を保っていたのかが後になってよくわかるはずです。<br /> <br /> 大国の加護を失った世界は不安定になります。<br /> <br /> しかし、その不安定も悪いばかりではなくて、人口の増加もある程度は抑制されますし、新たな平和の芽、あるいは、今まで経済中心で自己の欲望を満足させるばかりだった人々の目を覚まさせることにもなります。<br /> <br /> ラストチャンスとまでは言いませんけど、目覚めるチャンスでもあるわけです。<br /> <br /> 人口が抑制されなくては地球に人類が生き残る術はなくて、人口抑制のためには中国のように子供を制限する方法もあるわけですけれども、強制ではなく日本のように自然に減るのが一番ではありますが、他の国々を見るとまだ人口は増え続けているわけです。それでいて貧しいから助けろとか言っているわけですけれども、まず大前提として人口を抑制してくれないと助けても助けてもキリがないわけです。<br /> <br /> こういうこというとキリスト教の聖書を持ち出して神は増やせとおっしゃられたとか言ってくる人がいますけど、神はもっと気まぐれですよ。今は増やせとおっしゃられていません。減らせとも言われていません。今、神は人口に興味がないようです。遥か昔、人が少なかった頃のお話と今のお話を同一にしても仕方がないですよ。<br /> <br /> 個人的には、神が人口のことに気がついてこれ以上人を増やさないようにするべきだと思いますけどね。たぶん、神は今はもう人を増やせなんて言っていません。<br /> <br /> 神にも色々あって、本当の神は自由で、好き勝手するものです。言ったことを永遠に守れなんていう神は本当の神ではないですよ。神は気まぐれで人を増やそうとおっしゃられたり、あるいは、気まぐれで増やすなとおっしゃられる。神なんてのはそういうものです。神はこの世界を自由気ままに好き勝手に作って楽しんでいます。<br /> <br /> この地球に人が増えすぎだと神が思えば増えなくなるし、減らそうと思えば減ってゆきます。今は、神はそこにあまり興味がないようです。<br /> <br /> Sat, 30 May 2020 00:00:00 +0900 世界に介入を続ける大師たち https://w-jp.net/2020/1942/ <br /> 一部のオカルトで言われていますけど、そういう大師達が実際にいます。<br /> <br /> フリーメーソンとは関係がなくて、あれはただの組織です。しかし、そのメンバーに大師が関わっていたことがあります。組織自体は大師とは無関係で、むしろ特定の個人との関係があります。<br /> <br /> 一部はヒマラヤにいたりしますけど、割と普通の一般社会に紛れ込んでいます。一部はインドのスワミみたいな出家者ですけど、そうでない人、例えば普通のビジネスマンだったりもします。<br /> <br /> ヒッピーに大師がいるかどうかはわかりませんけど、似たような格好をしている大師はいます。ヒッピーは真似しているファッションであって、ヒッピーになったからと言って大師になれるわけではありません。<br /> <br /> 世界の政治を動かしている人は表には政治家ですけど、政治家の思念に影響を与えて政治を動かすなんて大師たちにとってはお手のものです。<br /> <br /> ただ、どのあたりを動かせば良いのかまでは大師本人には細かくはわからないので、主に2つの手段を持って選択を行っています。<br /> <br /> 1つは、監視役の魂から現状を読み取る。<br /> もう1つは、とある大天使が判断し選択した上で大師に実行を委ねる。<br /> <br /> 前者は、世の中を監視して理解を深めるために転生した、大師と同じグループソウルに属する分霊です。<br /> <br /> その分霊の意識を大本である大師の大師のグループソウル、それは時にハイヤーセルフとも呼ばれる根元の魂ですが、その魂がいわゆる大天使であり、全ての分霊の意識を勘案した上で決断し、実行は大師などに任せるわけです。<br /> <br /> とある大天使の分霊が大師として転生し、分霊である大師および監視役の魂が目になって、グループソウルであるハイヤーセルフであるところのとある大天使が判断し、それを大師に実行させるわけです。<br /> <br /> ですから、大本である大天使、それは大師のハイヤーセルフでもあるわけですが、その大天使がこの世界を動かしているとも言えます。<br /> <br /> 地球には多様な存在が関与していて、地球外生命体も多く来ております。<br /> <br /> その大天使は基本的には地球の衛星軌道上に滞在して地球を空から監視しておりますので最初は気付きにくいのですがやがては大天使の存在に気がついて多数の地球外生命体の訪問も受けているようです。<br /> <br /> Fri, 29 May 2020 00:00:00 +0900 悩みも所詮はゲームの1つ https://w-jp.net/2020/1941/ <br /> 人生にはもともと悩みなんてないですけど、悩むというゲームを皆さんでしているだけです。<br /> <br /> 盲目にならないと夢中になれないですし、盲目にならないと悩むなんてこともできないです。もともと清々しいですが、没入感みたいなものは盲目になるからこそ熱中できるわけです。<br /> <br /> スピリチュアルでは「盲目をやめましょう」とか「清々しく」とか言われていますけど、確かにそれは本来の姿ですけど、単に今の皆さんは一緒になって悩むというゲームをしているだけですので、実際はあまり心配することでもないと思います。<br /> <br /> スピリチュアルな人が「このままだと地球ガーー」とか「悩みの想念ガーーー」とか言って煽ってますけど、煽って楽しいの優越感でもあるわけで、やはりそこにも「分離」の意識が働いているわけですね。<br /> <br /> 悩んでいる人は楽しくて悩んでいるのです・・・ というと語弊がありますが、本来のスピリットは悩みという状態を観察したくて肉体の三次元の意識が悩みという状態に囚われているわけです。<br /> <br /> 確かに、その状態に長くいると元の状態に戻れなくなったりしますので、元の状態を取り戻すためのスピリチュアルというのはありです。<br /> <br /> ですが、それは分離の意識とかではなくて、人生は全てどちらも正解であるけれども、再度、自由で選択のある状態に戻っていこう、というお話であるわけです。<br /> <br /> 悩みだけでなく、熱中して没入感と共に楽しめるのがこの三次元世界であるわけです。所詮はゲームです。<br /> <br /> Tue, 26 May 2020 00:00:00 +0900 一番大切なのは命なのかそれ以外か https://w-jp.net/2020/1940/ <br /> どうやら歴史上、一番大切なものは命なのかそうでないのかで人々は意見を交わしていたようです。<br /> <br /> 人間の体に魂が宿っておりますので命が三次元の物体ということであればそうではありませんけど魂というレベルからしたら確かに命が一番大切です。しかし、命は継続しますけどそれ以外の状況もありますので単純に三次元的な命を延命させる方が良いとも限りません。<br /> <br /> 人間として生まれてくるためには多大なエネルギーが要りますので簡単に肉体を捨てるべきではありません。それは大前提です。ですから自殺は基本的にはいけません。良い場合もあるのかもしれませんが私にはわかりません。<br /> <br /> 自殺とまではいかないでも、高次のスピリットあるいは守護霊の選択として死ぬ方向に導かれる時があります。それを自殺と言うのかなんと言うのかは微妙なところです。<br /> <br /> 例えば、今世の学びを終えて次の学びに行くために大きく環境を変える必要がある時は、生きたまま環境を変えることができないほどの場合、あるいは、生きている環境が閉ざされていて次の可能性がないと高次のスピリットが判断した時に死という洗濯をする場合があります。それは鬱になって自殺するとかそういうお話ではなくて、遥かな未来を見据えて、将来そのまま生きていたら来世にも渡って悪影響があると高次のスピリットが守護霊の意見も参考にしつつ決定することであるわけです。<br /> <br /> ですから、三次元的な命は最高の価値ではなく、一時的なものであるわけです。しかしながら、簡単に捨て去っていいものでもないわけです。<br /> <br /> Mon, 25 May 2020 00:00:00 +0900 不平等なのが当たり前 https://w-jp.net/2020/1939/ <br /> なんていうと世間では風当たりが強いようですけど、平等なのは社会のシステムのことであって、人は不平等なのが当たり前です。<br /> <br /> まず親が違いますし兄弟も違いますし親戚、生まれた場所、周囲の環境、時代、全然違うのに平等だなんて思うから不平不満が生まれるのです。<br /> <br /> 競争社会にしてラットレースさせるために平等だなんて言い出したのでは? とも勘ぐってしまいます。<br /> <br /> 例えばアメリカ建国宣言の神の元の平等というのはキリスト教の信者が平等ということであって、それを真に受けて平等だなんて思わない方がいいです。それ自体は競争社会とは関係ないように見えても、実は影響しているなんてことはよくあります。<br /> <br /> スピリチュアル的な観点で言いますと、人間は死んでも終わりませんから、死んだら友人知人のところにまず帰って、そこで一緒に楽しく暮らす場合もあればグループソウルと合一してから再度分霊になる場合もあります。であれば、その友人知人やグループソウル繋がりの人が助けてくれるのは当然ではないでしょうか。それを不平等とか言っていたら何にもできなくなってしまいます。<br /> <br /> 転生について色々言われていて、死んだら神様のところに戻って3つの人生から選べと言われるような場合もあるでしょうけど、私の場合は割と自分で人生を選んでいて、例えば、友人知人や元妻の霊たちが楽しく暮らしている時に一緒に転生しよう、ということになると一緒の街に生まれたり家族として生まれたりするわけです。<br /> <br /> 家族として生まれるとお互いにサポートするでしょうし、家が違っていてもそのような前世からの繋がりがあると妙に助けてくれたりもするでしょう。<br /> <br /> 仲の良かった人が転生する場合は一緒にあの世で生活している人たちの全員が転生するということはほとんどなくて一部の人が転生しますから、あの世に残った人は転生してきた人をサポートするわけです。それが、人生の節目ごとに不思議な導きという形で現れるわけです。<br /> <br /> それを傍目から見ると恵まれているだとか不平等だとか言うかもしれませんけど、実際は単に仲の良かった人の人生が幸せになるように助けているだけです。<br /> <br /> 人生というのは一つの生で終わりませんから、来世も仲が続くような関係が理想だと思います。<br /> <br /> 他人を見て不平等だとか言う人については、本人が妬むと言うことであれば本人の問題ですから放っておくしかありませんね。関わりを持つべきではありません。<br /> <br /> 他人を妬んで他人を遠ざければ来世まで繋がるほどの人と人との繋がりは生まれませんが、他人を大切にすればそれは今世だけでなく来世にも生きてきます。<br /> <br /> 利益のために他人に親切にする人は友人も同様に利益のために他人に親切にすると言う人が近寄ってくるでしょうし、一方で、無私で奉仕する人の周囲には無私の人が集まってくるでしょう。それが基本です。<br /> <br /> ただまあ、後者の場合は他人からただのカモだと思われるリスクがありますので現世ではなかなかやりにくいですけどね。<br /> <br /> Sun, 24 May 2020 00:00:00 +0900 スピリチュアルが手段になってしまっている人がいます https://w-jp.net/2020/1938/ <br /> どのくらいの確率かわかりませんけどスピリチュアルが何かの目的を達成するための手段になってしまっている人がそれなりにいるような気が致します。<br /> <br /> スピリチュアルとは、この世のあり様を明らかにするだけのことであり、この世のあり様とは、世界の成り立ち、特に自分自身の成り立ちを理解するだけのことです。<br /> <br /> 行動に関して言えば、何をしてもいいのです。生き方なんて、好きにすればいいのです。<br /> <br /> この世の成り立ちや、特に自分自身の立ち位置、過去と未来の行末の真実を理解することがスピリチュアルであって、何かの目的を達成することがスピリチュアルではないのです。<br /> <br /> スピリチュアルはほぼ全てを包括していますのでその小さな小さな一部として目的達成というのがあると言えばあると言えなくもないですけど、その程度のものです。何をするかなんて、勝手に好きに自由にすればいいだけです。わざわざスピリチュアル を持ち出すこともありません。<br /> <br /> 女性であれば祈願をして現世利益を得ようとしたり男性であればビジネスの成功を願ったりするスピリチュアルは、ほんと自分の可能性を自分で摘み取っているようなものだと思います。<br /> <br /> だって、本当のスピリチュアルであれば好きに生きればそんなのはすぐ叶うのに、祈願をしたり誰かに頼んだりグッズを買ったり、そんなのは、スピリチュアルというゲームを楽しむという点において楽しいのであって、本来は、そんなの全部、自分の好きにできてしまうものです。<br /> <br /> この地球上でスピリチュアルというゲームが生まれて、そのゲームにのっとって行動すると面白い! それは否定しないです。 でも、それは所詮ゲームですから、ゲームをゲームとわかっていておもちゃで遊ぶのと、ゲームなのに本気になってスピリチュアルにのめり込んでいるのとはかなり違います。<br /> <br /> 今、流行っているスピリチュアルは一つのゲームという点において面白くて、そのゲームを提供してくれた人には感謝してもいいくらいですが、それと、本来の意味でのスピリチュアルは全く別物だということを認識しておいた方がいい、というお話です。<br /> <br /> 所詮はこの地球上の出来事はみんなゲームなのですから、スピリチュアルというゲームを楽しむ、というくらいがちょうどいいと思います。<br /> <br /> Sat, 23 May 2020 00:00:00 +0900 アセンションとかわざわざ言わなくても既にこの世は壮大なパラレルワールド https://w-jp.net/2020/1937/ <br /> 何やらアセンションとか流行りましたけど、遥か以前から既にこの世界はパラレルワールドが無数に存在しておりますので、単にマーケティングの文句でしかないか、あるいは、瞑想中に受け取ったヴィジョンをそのように解釈した人(時にチャネラーと言う)がいた、というだけだと思います。<br /> <br /> そうは言いましても、確かにこのあたりでだいたい2つのパラレルワールドのどちらに移行するか意識が変革する人が多いのは確かです。<br /> <br /> 移行.... と言いましても、この地球の三次元はこの現在のパラレルワールドではそのまま継続します。<br /> <br /> 現在の一つのパラレルワールドのまま留まるか、あるいは、別の面のパラレルワールドに移動するのか、その選択を迫られる人が多いことは確かです。多くは選択するというよりは自然にそのようになるわけで、それをアセンションという言葉で表したりすることもできるでしょう。<br /> <br /> とは言いましても、この三次元が消えてなくなるということではなく、現在のパラレルワールドとは違うパラレルワールドに意識が一気に移動する、ということです。それは時空を超えておりますので時間で言い表すことは難しいのですがそれほどかかりません。数分あるいは数十分、あるいはもっと長いかもしれませんが、何ヶ月というわけではありません。<br /> <br /> この際、アセンションというと意識が高い人が別のパラレルワールドに行くという固定概念がありますけど、実際は、意識で言いますと3階層に分かれます。一方で、物理次元で言いますと2つです。<br /> <br /> ■物理次元<br /> ・三次元の今の地球<br /> ・地球に人間がまだおらず、森林・荒野・海など自然が豊かな状態<br /> <br /> ■意識の次元<br /> ・マニプラに達していない人たち。情欲がコントロールできない人たち。<br /> ・マニプラに達した人たち。比較的成熟した情欲やそれなりの知識・認識がある人たち。<br /> ・アナハタやアジナ、それ以上に達した人たち。<br /> <br /> 大きく分けて以下の分類になります。<br /> ・三次元の今の地球はマニプラに達していない人。<br /> ・自然が豊かな地球はマニプラに達した人。<br /> <br /> では、アナハタやアジナに達した人はどうするのかというと、どちらでも好きに選んで人生を楽しむのです。<br /> <br /> 自然が豊かな地球を選んだマニプラな人たちは情欲にまみれており、いわば「分離」の世界を生きている人たちです。それでいて自分たちを高級な意識のある存在だと思っている、いわゆる「スピリチュアルで勘違いをしている厄介な人たち」でもあるわけです。実際はマニプラ程度ですと情欲を完全にコントロールできてはいないのですが、ちょうどこのくらいの段階では下級の情欲と上級の情欲の中間地点でありますから、あたかも自分が情欲を完全に制圧してコントロール下にあるかのような勘違いをしてしまうわけですね。そのように制圧だとか高級意識だとか、いわゆる「分離」の意識を持ってしまうのがマニプラの段階なわけです。そのような人がパラレルワールドの1つである自然の豊かな地球を選びます。<br /> <br /> ですから、自然豊かな地球は人間関係がことのほかめんどくさいです。スピリチュアルな規律に対して他人を指摘してぶつぶつ言う人がそこら中にいて、まだまだ完全に悟ったわけでもないのに他人と自分を比べて不満を言ったり他人をあげつらったりする面倒なスピリチュアリストが大勢いるのが自然豊かな地球のあるパラレルワールドです。<br /> <br /> そう言う人はまた何千年、何万年かけて成長してゆく必要があるのだと思います。長い長い旅路の始まりを自然豊かな地球で始めるわけですね。それはまさに「再出発」であると言えます。<br /> <br /> 地球を抜け出して自分たちの世界に閉じこもるのが自然豊かな地球のパラレルワールドのパターンだと思います。<br /> <br /> 一方で、それよりはまだマニプラに達していない人が今の地球に残った方が幸せかもしれません。色々とこの地球には面白いことがあって、多様性もあります。<br /> <br /> アナハタやアジナに達した人は人生や意識ごとにそれぞれの地球を選びますが、多くは現在の地球に残っている、あるいは、残ることを選択するような気が致します。この現在の地球の方が多様性があって面白いですからね。<br /> <br /> アセンションとか言う意識に乗っかって分離の意識に囚われると地球の別の面のパラレルワールドに囚われてしまって何千年、何万年も変化のない時を過ごすことになります。<br /> <br /> 変化がなくて着実な進歩を時間をかけて歩むのか、変化にまみれた多様性な世界で多くのことを次々に体験してゆくのか。どちらが良いのか?<br /> <br /> どれを選ぶのも自由ですけどね。 人それぞれに選択があって、好きにすればいいのです。<br /> <br /> Fri, 22 May 2020 00:00:00 +0900 次元上昇とか高次の世界とか考えるだけ無駄 https://w-jp.net/2020/1936/ <br /> 確かに高次の世界もありますし、地球よりももう少し意識が進んだ世界も存在していて、それは地球の別の面(パラレルワールド)だったり別の星系の惑星だったりするわけですけれども、そういうところに移ろうと思って生活してもあまり意味がないと思います。<br /> <br /> 基本的には類魂(グループソウル)および仲の良い仲間・友達の霊魂たちは一緒に生活をしていて、引っ越す時も割と一緒ですし、バラバラになることもありますけど、割と縁があってまた一緒になったりします。ですから、住む場所を大きく変える時も基本的には同じ仲間・友達・グループソウルと一緒にごそっと移るのが割と一般的だと思います。<br /> <br /> 新しい世界に移ったとしても、その仲間たちは今まで通り楽しく暮らすわけですね。<br /> <br /> ですから、自分が次元上昇だとか高次の世界に行くんだ! とか思って暮らすよりも友人知人の気の合う仲間やグループソウル繋がりの人たちと仲良く暮らしているくらいで割と十分のような気が致します。引っ越す時は集合意識でそれとなくそんな感じになって、わざわざ行くぞとか決断しなくても自然にそうなりますから。<br /> <br /> それに、次元上昇だとか高次の世界とかいう表現って割と「分離」の意識ですよね。自分がどこかに行くと思っている時点で「今、この時点。この瞬間」に生きていられていないのでは? という感じを受けてしまいます。<br /> <br /> それでも、一人だけトコトコと高次の世界に行って生まれてみることはできます。私も随分と前にそうしたことがありますけど、繋がりのある仲の良い友達もいないですし、何より、意識が違いすぎていて、なんだか合わないです。やっぱり、自分が今いるところが一番ちょうどよくて今この地球に転生しているのだなあ、とその時はつくづく思って、すぐに地球に戻ってきましたよ。<br /> <br /> 地球上でも意識の差があって、明らかにうざったくて勝負好きだったり情欲にまみれていたり食欲を我慢できなかったりする意識が割と低めの人たちがいるわけですけれども、惑星全体が高次の意識で満たされている平穏な世界に地球の人が転生してまず思うのは、どこか疎外されている、という感じだったと思います。どこかで私以外の同じような経験をした人と話したような気がしますが、その時にも似たようなことを言っていた気がしますね。<br /> <br /> 高次の世界に地球の人が転生すると、まず、うざったがられます(苦笑)<br /> <br /> 地球で意識の低い人たちをうざったく思うのと同様に、地球である程度の意識を向上させたと自分では思っている人であっても高次の世界に行くとその世界の平均よりは劣っていますから、多くの人たちに意識が下の人として見られ、そのように扱われます。<br /> <br /> 地球にいる人の場合はだいたいはお腹のあたり、いわゆるマニプラ優勢で「(低い)感情」が優勢の人が多いですから、惑星によっては平均がアナハタ以上だったりしますから、そういうところにマニプラの低次の意識で行ったりするとうざったがられたりするわけですね。地球だとマニプラは中間より少し上くらいだと思いますけど、惑星によって平均が違いますから、世界が移った瞬間に下層に位置づけられたりするとなかなか精神的に厳しいと思います。<br /> <br /> ブッダの本を読んでいると、どこそかの意識に達した人はそれより上の世界に一度転生をして、それから戻ってくる.... みたいなことが書かれてありましたけど、もしかしたらそれはこういうことかもしれません。そのうちこの本意を確かめてみたいとは思ってはいますが今はブッダのお話は仮説です。<br /> <br /> そんなわけで、そんなに高次の世界だとか考えない方がいいと思いますし、そんなことよりも、今の人生を楽しく暮らした方がいいと思います。<br /> <br /> Thu, 21 May 2020 00:00:00 +0900 周囲の空間と自分のむきだしの心とを混ぜる https://w-jp.net/2020/1933/ <br /> チベット語でセワ(混ぜる)は特にゾクチェンで二元論を終わらせるための有効な手段であるわけですが、今まで、その感覚がわかるようでいてよくわからない状態でいました。<br /> <br /> スローモーションのヴィパッサナー(観察)が始まって以来、なんとなく周いと混ざるような意識が周囲まで通っているような感覚があったわけですが、それがいわゆる「セワ(混ぜる)」ということなのかなと思っておりました。<br /> <br /> しかし、スローモーションのヴィパッサナー状態ではそんな感じにおそらくなっているだろうな、ということはわかるのですが、意識的にセワ(混ぜる)をする感覚が今まで掴めずにいました。<br /> <br /> 「むきだしの心(リクパ)」とはヴィパッサナー状態で現れる心の本質であるわけですが、それがあって初めて物事をありのままに観察できるわけです。それを、ヴィパッサナー状態でそうなっているだろうということはわかるのですが、意識的にセワ(混ぜる)するという感覚が今まで掴めずにいたのです。<br /> <br /> しかし、今日、ふと気がついたのですが、ここでいうセワ(混ぜる)とは周囲の目に見える物体ではなくて、普遍的にこの世界に広がっている空間と混ぜることなのではないか、とインスピレーションがあったのです。自分で気がついたのか、あるいは、密かに守護霊が微かな示唆をしてくれたのか、どちらなのかは不明です。<br /> <br /> とにかく、そう気がついたからには試してみたわけです。<br /> <br /> 元々、セワ(混ぜる)という言葉を読んだ後に試したのは目に見える周囲の物体とセワ(混ぜる)することだったわけですが、それを、周囲にある、何もない、単なる空気の空間と混ぜるということをしてみました。<br /> <br /> 空気の空間とセワ(混ぜる)をしてみますと、目に見える物体よりは少しやりやすい気がしました。<br /> <br /> そんなものかな・・・ と思っていましたら、ふと、それよりも近くに、自分の体という物があるではないか、と気がつきました。<br /> <br /> ですので、空気の空間から自分の体へとセワ(混ぜる)対象を変えました。<br /> <br /> すると、流石に自分の体ですので、更にやりやすくなりました。<br /> <br /> 理屈で言いますと、自分の体であってもそれはこの地上に一時的に存在しているものですので「本当の自分」ではありません。本当の自分、ヴェーダンタでいうところのアートマンとかそういう自己の本質、ざっくり言えば魂とかそういうものですけど、魂とかから見たら自分の体であっても外側で、自分の体すらも観察する対象なわけです。<br /> <br /> このあたりは盲点でしたね。自分の体と周囲の何もない空気の空間とをまずは手掛かりにセワ(混ぜる)すると良さそうです。<br /> <br /> Mon, 18 May 2020 00:00:00 +0900 関東大震災と東海地震は2021年1月後半 https://w-jp.net/2020/1932/ <br /> 2021年1月20日か28日。関東大震災と東海地震は割と連続して起こります。どちらが先かは分かりません。<br /> <br /> これは今日(5月8日)の瞑想中のインスピレーションで受けたことですけど、こういうのってそんなに当たりませんのであまり気にしない方が良いです。<br /> <br /> 単なるメモ書きですね。<br /> <br /> 夢で見たことだと思っておいてください。<br /> <br /> 心配する必要はないです。来るのならば、それはその時です。どうにかなりますよ。死ぬ人は死にますし生き残る人は全く無傷です。気にしても仕方がありません。<br /> <br /> 大きな建物から物が落ちて来ますので、ビルとかの横を歩かない方がいいと思います。<br /> <br /> 東海地方の沿岸部は津波で流されます。自治体が出している津波予想は割と当たりますので、それらの危険地域に住んでいる方は引っ越しすべきだと思います。<br /> <br /> 東海地震の震源は紀伊半島沖で、関東大震災の震源は大正の時と割と似ていて相模湾付近です。東京も揺れますけど、最近の建物は丈夫ですので古い建物は倒れますけど新しい耐震設計の建物は割と平気だと思います。<br /> <br /> 基本的にはそんなに心配することでもないかなと思いますがそれでも津波の被害は甚大だと思いますし、相模湾付近も相当の被害が出ます。<br /> <br /> こういうのって、特に今回の場合はあらかじめ人々に危険信号がインスピレーションで長らく伝えられていますので、それに従って安全なところに引っ越せばそれほど危険はないと思います。<br /> <br /> まっ、こういうのは話半分に聞くくらいがちょうどいいのです。<br /> <br /> → 続き<br /> <br /> Sun, 17 May 2020 00:00:00 +0900 人との付き合いは死で終わるものではない https://w-jp.net/2020/1931/ <br /> 一般的には死ぬと消えて消滅すると思われておりますが、死んでも意識は幽体でそのまま継続しますので人との付き合いは死で終わるものではありません。<br /> <br /> 死んだ後は、仲の良かった人や妻や親しい親族などとあの世で楽しく暮らすことになります。金銭などの条件付けを超えたところの付き合いは死で終わるものではありません。<br /> <br /> 死ぬと金銭や住宅・食事などの制限から解き放たれますからそれらの制約のために仕方なく一緒に暮らしていた場合は死んだことをきっかけに離れて付き合いがなくなります。特に死後は、金銭や損得関係で生きていた人の人間関係は寂しいものになると思います。<br /> <br /> 人間関係において、他人を操るような強制・操作・共依存をしていた人の場合は例外として関係が続く場合もございますが、そのような関係は基本的に断ち切って自立すべきのものですので、死んで強制・操作・共依存から逃げようとしても無駄であり、生きているうちにこれらは克服する必要があるものです。<br /> <br /> 世の中は多様で、人を操ることで自身に利益をもたらそうとしている人が大勢いらっしゃいます。そういう人とは付き合わないことです。<br /> <br /> 金銭や損得関係は、他人を操ってはいけない、という基本的なルールを守る限りは自由にすべきだと思います。他人が必要としている金銭は基本的に与えるべきなのですが、上記のように人を操ろうとしているレベルの人とは付き合わないようにすべきだと思います。<br /> <br /> まれに、間違えてお金を与えてしまってカモ扱いされてしまったが故に死後も付き纏われる場合がございます。このような人は罠を仕掛け