スピリチュアル: ヨーガ https://w-jp.net/topics/スピリチュアル: ヨーガ/ スピリチュアル: ヨーガ 何も起こらない瞑想から空と観照へ https://w-jp.net/2019/1662/ <br /> 最近の瞑想は、自分から意図的にエネルギーを動かそうとしなければ何も起こらないようになってきています。<br /> <br /> 以前は雑念やら葛藤やらが出てきて制御するのに困ったことになったりもしましたが、今は、雑念や想念は「半透明」な感じで認識されますので、それほど瞑想の邪魔にはなりません。<br /> <br /> マハリシ・マヘーシュ・ヨーギーの弟子であるボブ・フィックスによる著書には以下のようにあります。<br /> <br /> 瞑想に時間を費やせば費やすほど、ストレスが解放されて行った。マハリシはこの解放を、過去の記憶の解放と表現した。(中略)カルマが解放されて初めて、悟りに達することができるのだ。その理解のおかげで、わたしは "何も起こらない” 瞑想を受け入れられるようになった。「ある瞑想家の冒険(ボブ・フィックス 著)」<br /> <br /> この記述は、どうやら私の今の状態に近いような気が致しました。自分から何かを意図的に起こさない限り基本的には”何も起こらない”瞑想になってきていますので。<br /> <br /> 同書によるとこの時彼は瞑想コースの途中だったようで、コースを進めてゆくうちに以下の状態になったと言います。<br /> <br /> 2ヶ月コースの4週間目に入る頃には、瞑想があまりにも深くて、すべてが消えていった。わたしは内なる宇宙というとてつもなく大きな領域のなかで迷子になり、自分の身体がどこにあるのかもわからなかった。(中略)私の意識内に現れるものは何であれ、透明でホログラフ状だった。わたしはあらゆる対象の内側を見ることができるのと同時に、外側の四方からと上から下までも見ていた。「ある瞑想家の冒険(ボブ・フィックス 著)」<br /> <br /> 私はこの状態にはまだ達していませんが、この「透明でホログラフ状」という記述は目印になります。 私の場合、今のところ想念などが「半透明」で認識されますので、一部は似たようなことを体験しているように思われます。そのうち私もこんな感じになるのでしょうか?<br /> <br /> 瞑想で重要なことは、感覚に生じる種々の妨げを超えて、無限の静寂に吸収される能力だ。(中略)究極的には、自分の全存在が無限の平和へと溶けこみ、思考が無限の空間のなかへ消えてゆく。この無限の空間がいわゆる空(くう)だ。(中略)空に慣れてくると、宇宙を外側から観察しているような感じがする。(中略)この体験が、いわゆる観照(かんしょう)だ。「ある瞑想家の冒険(ボブ・フィックス 著)」<br /> <br /> 私の場合、無限の静寂を「外側」で感じてはいても、まだ「吸収」されていない感じです。これらの記述は今後の目印になります。<br /> <br /> ■サハスララの体験<br /> ヨーガ行者の本山博先生によるサハスララの体験が似ている気が致します。<br /> <br /> 自分の意識が、登頂の門を抜けてしだいに高みにのぼり、はるかはるか彼方の上方におられる神のもとに還っていくのがわかるのです。(中略)えもいわれない法悦と平安のうちに、自分の霊的な全存在が埋没しているような状態が続きます。「密教ヨーガ(本山博著)」<br /> <br /> この、サハスララから抜け出て宇宙を感じる感覚に、ボブ・フィックス氏の体験がどこか似ているような気が致します。<br /> <br /> ■観照が深まると眠りがなくなる<br /> これはヨーガ聖典で言われていることです。<br /> <br /> 観照が増えるにつれ、睡眠に大きな変化が起こった。自分としては完全に冴えているのに、身体が眠っていたのだ。わたしは冴え渡っているのに、深い眠りの真っ暗闇のなかで、思考のスイッチはオフになっていた。それから、その暗闇のなかで、夢が現れたり消えたりする様子に気づいていた。(中略)睡眠中に意識がなくならないということは、悟りの重要な兆しだ。「ある瞑想家の冒険(ボブ・フィックス 著)」<br /> <br /> 私はまだこの段階まで来ていません。クンダリーニ活性化の時点で睡眠時間が短くなってあまり眠らなくても良くはなりましたが、このような感じにはまだなっていません。<br /> <br /> ■ボブ・フィックス氏の悟り<br /> ボブ・フィックス氏の体験を読むと、上記の睡眠の後、以下のような状態に変化するようです。<br /> <br /> わたしはつねに、無限とともに在ることになった。宇宙の広大無辺な意識と、永遠に一体となったのだ。「ある瞑想家の冒険(ボブ・フィックス 著)」<br /> <br /> なかなか読み解くのが難しいですが、同書によれば、この段階で「全く違う自分になっていた」と書いてありますので、この最後の段階はかなり大きな変化なのだと思われます。<br /> <br /> 観照やサハスララだけでもそれなりの悟りと言えるような気が致しますが、この段階まで来て本当の悟りなのかもしれません。<br /> <br /> <br /> Thu, 19 Sep 2019 00:00:00 +0900 瞑想中における頭頂部上方の熱感 https://w-jp.net/2019/1661/ <br /> 最近、頭の下半分と額や前頭部までは熱感が出てきたのですが後頭部の特に上側の感覚が出ていないので瞑想中に色々と探ってみていました。<br /> <br /> 現在の状態について、今までの状態を元に仮説を作ってみました。<br /> <br /> 事実:<br /> ・クンダリーニ活性化前はお腹の熱感はほとんどなかった。<br /> ・クンダリーニ活性化後、まずお腹のマニプラ熱感が出て優勢になった。その時、胸のアナハタはまだ優勢ではなく、マニプラとアナハタの間に温度差があって壁(いわゆるグランティ)があるような感じだった。<br /> ・アナハタ優勢になった時はその壁(グランティ)がなくなった。<br /> ・アナハタ優勢になった後は頭の下半分まで熱感が出てきた。<br /> ・頭の真ん中あたりに壁(グランティ)がある感覚。頭の上半分に熱感がまだ出ていない。<br /> <br /> 仮説:<br /> ・頭の真ん中にある壁(グランティ)を突破する必要がある。<br /> ・壁(グランティ)を突破すれば頭の上半分、特に後頭部に熱感が出てくる。<br /> <br /> 昔、マニプラ優勢だった頃に何をしたのか思い出してみますと、普通にヨガのアサナをして瞑想したりしましたが、前にも書きましたように、夢の中のガイドを元に「回転」をしてエネルギーをアナハタまで上げました。この「回転」が鍵かなという気がしてきました。<br /> <br /> 又、エネルギーの定着が、アナハタだけでなく頭の下半分にも充満するようになりましたので、小周天のようにエネルギーを下の方から一気に上げるのではなく、数段階に分けて上げるのが良いような気がしてきました。似たような瞑想にソーハン瞑想もありますが、この基礎的な瞑想がここにきて何気に効果的な感じです。<br /> <br /> ■ソーハン瞑想法と小周天<br /> 古典的な瞑想にソーハン瞑想があります。ソー(So)で息を吸ってハン(Ham)で息を吐きます。その時、ソー(So)でお腹の下の方から頭の上に向かって背筋を通ってエネルギーを上げます。最初はイメージだけでもOKです。その後、ハン(Ham)で天空あるいは宇宙から自分の登頂に向かってエネルギーを下ろし、体に浸透させます。これが基本です。Soが"That(それは)”の意味で、Hamが"I am(私です)"という意味になります。<br /> <br /> 似たようなものに小周天があって、お腹の下の方から背筋を通って頭の上に上げ、その後、体の前を通ってお腹の下まで下ろします。これは各種のバリエーションがあるようです。<br /> <br /> これらは割と基礎的と言いますか古典的な瞑想になりますが、今までは「そんなものかな」という感じでしてきましたが、ここに来てこれらが効果的になってきました。ただ、そのまま使うわけでもありませんが。<br /> <br /> ■分割<br /> エネルギーの上げ方として、私の場合は以下のように分割するのがしっくりきます。<br /> <br /> ・マニプラからは、以前書きましたように、まずマニプラで右回転の渦を作った後に勢いを付けて一気にアナハタあるいは頭の前面にまで上げる。これを何回か繰り返す。息を吸う時に回転させて、吐くタイミングで一気に上げます。<br /> ・その後、頭の前面に溜まったエネルギーを、息を吸うタイミングでもっと頭の前面に溜めて、吐くタイミングで後頭部を経由して後頭部の上の方に上げます。<br /> <br /> これは、きっとエネルギーの質の違いだと思います。マニプラのエネルギーを一気に上げると質の違い(あるいはルート的な問題?)があって不快感が出ますが、段階的に上げますと不快感がほとんど出ません。<br /> <br /> 今のところ、私の問題は頭の後頭部の上の方で詰まっている感じがするところですので、そこを重点的にエネルギーを通すように瞑想中に何度もエネルギーを入れてあげています。この時、色々と「回転」をバリエーションつけて試してみたりしています。縦回転や横回転など。<br /> <br /> 私の昔の瞑想は割と想念や雑念をどう対処するかという点に重点が置かれていましたが、最近の瞑想はエネルギー・ワークになってきた感じが致します。<br /> <br /> こうしてエネルギーを後頭部の上の方に何度も通そうとしていたら、昨晩、小さな小さな「カチッ」という音というか感覚がして、頭の後頭部の上のあたりの詰まりが更にちょっとだけ解消した感じがしました。それでも完全に通ったというわけではありませんが。<br /> <br /> この壁と詰まりの感覚には覚えがあって、マニプラ優勢だった頃にアナハタとの間に壁(ヴィシュヌ・グランティ)があった感覚を思い出しますと、同種の「詰まり」がそこ(マニプラとアナハタの間)にもあったように思います。<br /> <br /> 頭の中にあるのはいわゆるルドラ・グランティですが、頭の中においても似たようにその「詰まり」を取っていく必要があるのかなと思います。そうして、エネルギーが徐々にサハスララの方にまで通るようになってゆくのでしょう。<br /> <br /> であれば、ソーハン瞑想法や小周天は有名で古典的で基礎的と言われてはいますが、実はかなり重要で長く使えて役立つ瞑想だからこそここまで長く伝わっているのかなという気がしてきました。有名だからこそ初心者からいきなりやらされたりしますけど、本格的にするのは初心者には敷居が高くてなかなか難しい、というような気もしてきています。<br /> <br /> ■オーム瞑想<br /> ヨガでオームを唱える瞑想がありますが、後頭部の固まっているところに「響くように」心の中で唱えてあげると壁というか障害というか詰まりが少しづつ柔らかくなっていく気が致します。<br /> <br /> ■ブラーマリ瞑想(ブラマリ瞑想、蜂の羽音の呼吸法)<br /> 口を閉じたまま息を吐いて「ムーーー(んーーー)」と唱える瞑想でも同じように詰まりが取れていく気が致します。<br /> <br /> <br /> Wed, 18 Sep 2019 00:00:00 +0900 サハスララに集中する瞑想 https://w-jp.net/2019/1660/ <br /> ヨガの瞑想の基本は眉間への集中ですが、ヨーガあるいはスピリチュアルでサハスララに集中する瞑想があります。その幾つかを見ますと、以下のような共通した事項が見てとれます。<br /> <br /> ・頭のてっぺんから少し上に集中する<br /> ・瞑想後は意識を眉間あるいはお腹のあたりまで戻す。そうしなければ目眩や不快感あるいは情緒不安定などを引き起こす可能性がある。<br /> <br /> 特に後者の注意について、単にサハスララに集中したまま瞑想を終えると不安定になるという注意が色々な流派に共通して言われているのが興味深いです。<br /> <br /> 例えば、以下のような注意書きが書籍に記されています。<br /> <br /> 第8のチャクラ(サハスララ)に到達した大意識を、再び第一のチャクラに向かって降下させる。(中略)大意識を一気に第一のチャクラに戻す。(中略)大意識を第8のチャクラ(サハスララ)に留め置いたまま、次のステップに踏み込んではならない。アートマンが肉体より離脱する時に、大意識と交錯させてはならないからである。(中略)これを違えると、瞑想が不首尾に終わることがあるばかりか、後に不快感が残ることが、ごく稀にある。「瞑想ヨガ 魂のやすらぎ(ワスデーヴァ・ナイア・アイアンカー 著)」<br /> <br /> ここに記載されている、「アートマンが肉体より離脱する時に、大意識と交錯させてはならないから」という部分は非常に興味深いです。<br /> <br /> 意識は「心」だとして、いわゆる「光の筋」だとして、その心の光の筋は触覚みたいなものですので、それとアートマン(いわゆる魂。微妙に違いますがとりあえず)と交錯させてはいけない、というのは興味深いです。波動が違うということでしょうか。<br /> <br /> なんとなく感覚として思うのが、サハスララにあるいわゆる「ブラフマンの門」と呼ばれている境界線というか蓋というか門があって、瞑想中はそれが開いて意識が外に出るときがあるような気がいたします。外に意識が出たのであればそれを体の中に戻さなくてはいけないのに外に置き忘れてしまったら意識が変になるのも当然な気も致します。そんな気がするだけで仮説ではありますけど。<br /> <br /> 思えば、ヨガ始めてから今までの間、ふとした時に無自覚で同様にブラフマンの門の外に意識を置き忘れて不快感や不安定な状態が続くことが度々あったように思います。<br /> <br /> 私も最近、ちょっと油断してサハスララに集中した後にそのまま瞑想を終えたら、瞑想後しばらくは平気だったのですが数時間後から意識が少し頭の方に圧迫されたかのような不思議な不快感に襲われましたので、瞑想直後は平気だと思っても基本的にはこの注意を守った方が良さそうです。最近はこんな不快感になることもほとんどなくなっていましたので、油断していました。<br /> <br /> であればこの注意は重要で、門から外に出たのならば門から中に戻って、更には、きちんと門を閉めて戸締りをすることが必要なのかもしれません。まあ、仮説ですけど。<br /> <br /> スピリチュアル系では例えば以下のような説明があります。<br /> <br /> ■ナクラ瞑想<br /> クラウンチャクラの上にあるこのポイントに意識の焦点を合わせると、次元を超える通路に入っていくことになります。慣れ親しむにつれて、くつろいで楽に移行を体験できるようになるでしょう。もし途中で頭痛や緊張が生じたら、その原因はたいてい集中のしすぎです。意識を集中させるのではありません。ただそこに気づき、そのポイントにそっとあなたの意識を寄り添わせるだけでいいのです。(中略)大切なのは、この瞑想のあとには肉体の神経系にしっかり適応しなおすことです。(中略)むやみに急ぐと、頭痛その他の痛みが生じたり、気分が悪くなることもあるからです。「アルクトゥルス人より地球人へ(トム・ケニオン 著)」<br /> <br /> この宇宙人が本当にいるかどうかは置いておいて、この瞑想の内容は興味深いです。<br /> <br /> どちらにせよ、サハスララに集中する瞑想は注意および熟練が必要のようですね。<br /> <br /> ヨガの本にも「サハスララへの集中は注意が必要です。眉間への集中は安全です。」と書いてあった気がしますので、そういうことなのだと思います。<br /> <br /> ■白隠禅師の禅病<br /> なんとなく白隠禅師の禅病も、本を読む限りは似たような症状の気が致しますが、どうなのでしょう。<br /> 白隠禅師は軟酥の法(なんそのほう)でこの症状に対処しましたけど、同様であれば上記のような注意に沿うことで対処できる気も致します。<br /> <br /> 軟酥の法は超簡単に言いますと、頭の上に丸い玉の形をしたヒーリング・ボールを想像した後、それが溶けて頭の方から体を伝って足元まで体全身を水が滴るように浸透させつつ、悪いものを流してしまうようにイメージするという方法です。これはこれでいいと思いますが、やっていることは割と似ていて、サハスララの意識を下に下ろす、ということですよね。要はグラウンディングです。<br /> <br /> 手法としては色々であっても、基本は一緒なのかなという気が致しました。<br /> <br /> Tue, 17 Sep 2019 00:00:00 +0900 聖ラーマクリシュナの語る「クンダリーニの5つの動き」 https://w-jp.net/2019/1659/ <br /> 一般的にはクンダリーニは激しく上昇するようなイメージがあるかと思いますが、聖ラーマクリシュナによると5つのクンダリーニの動きがあると言います。<br /> <br /> クンダリニは同じような動きと震えで常に登りません。聖典によれば、クンダリニには五つの動きがあります。<br /> 1.蟻のような動き ー 足から昇る長く続く震えの感覚があります。<br /> 2.蛙のような動き ー 足から大脳に不規則な動きで登ります。<br /> 3.蛇のような動き ー とぐろを巻いていた蛇が、獲物を見つけたりおびやかされたりすると、ジグザグ形の動きで突進します。<br /> 4.鳥のような動き ー 目的に到達するまでは決して止まることなく、時には上空に、時には低空にあちこちに鳥達を導きます。<br /> 5.猿のような動き ー 猿は木から木へと跳びながら1つの木から他の木に移ります。<br /> 「ラーマクリシュナの教え(ジャン・エルベール 編纂)」より<br /> <br /> とすれば、クンダリーニ経験者の話がそれぞれ異なっているのも理解できます。<br /> <br /> いずれの場合でも大脳に到達するとサマーディに入る、と同書には記載されています。<br /> ただし、原本の聖典がどれなのかはわかりません。<br /> <br /> クンダリニーはヨーガで言うところのスシュムナを上昇するとされており、スシュムナの詰まりを取るのがヨーガ修行の根幹でもあるわけですが、完全に浄化されていなかったりするとエネルギーが色々な挙動をするであろうことは容易に想像できます。スシュムナが主要なナディ(エネルギーの通り道)ですが、体にはその他にも多くのナディが存在しておりますので、詰まっているナディと詰まっていないナディがあったとして、エネルギーの動き方がそのナディの浄化具合に応じて変わって知覚されるであろうのも容易に想像できます。それが、上記のような動きとして知覚されると言うことなのかなと思います。<br /> <br /> <br /> Sun, 15 Sep 2019 00:00:00 +0900 禅定(サマーディ)の階梯の謎 https://w-jp.net/2019/1658/ <br /> テーラワーダ仏教では禅定(サマーディ)を色界禅定と無色界禅定に分けて、色界の第四禅定からヴィパッサナー瞑想(観瞑想)で悟る、としているようです。例えば「悟りの階梯(藤本 晃 著) 」には以下のようにあります。<br /> <br /> 禅定の達人=心解脱だけでは、通常とは違う特別に心地よい世界を知ってはいますが、それでも悟りとは何の関係もありません。悟りには、真理を理解する智慧が必要なのです。(中略)不還果や阿羅漢果に悟るときに、多くは止瞑想(サマタ瞑想)で色界第四禅定まで進んでから観瞑想(ヴィパッサナー瞑想)に移行して悟ると先に述べました。(中略)これはおそらく、無色界禅定にまで入ってしまうと心だけのはたらきになってしまい、何らかの対象を観察して無常を悟る観瞑想にはならないので、悟る直前の心の状態や不還果が転生する領域は、阿羅漢果に悟れるように自然に色界の範囲内になっているのだと思われます。「悟りの階梯(藤本 晃 著) 」<br /> <br /> 阿羅漢とはいわゆる「悟った人」のことです。テーラワーダ仏教的にはどの禅定も悟りではない、としているようですが、禅定は悟りの助けになる、というスタンスでもあるのようです。<br /> <br /> 色界第一禅定まででも、心を育て鍛えて集中力が身につくと、観瞑想に移行したとき、すぐにでも悟りが開けるほどの力になるのです。「悟りの階梯(藤本 晃 著) 」<br /> <br /> ■チベット仏教の禅定<br /> 一方、チベット仏教では色界の第四禅定から悟るという記述は見つからず、無色界禅定を経て悟る、というように読めます。このあたり、「ダライ・ラマ智慧の眼をひらく」によると輪廻の説明のところに以下のようにあります。<br /> <br /> 無色の禅定を発展させ知覚の究極まで心を集中したものは第二の所に再生し、第三のクラスは阿羅漢となり、この世界の最後の寂滅(じゃくめつ)に至って再びこの世に戻らないものたちだけのものである。「ダライ・ラマ智慧の眼をひらく」<br /> <br /> 記述的に、テーラワーダ仏教のように第四禅定でヴィパッサナー瞑想をして悟る、とは読めません。普通に読むと、色界禅定の後に無色界禅定を熟達して悟る、というように読めます。禅定そのものが悟りとは書いていないようですが、割と近い位置付けのように解釈できます。<br /> <br /> このあたり、同じ仏教でもテーラワーダ仏教とチベット仏教で禅定の位置付けが異なるようです。<br /> <br /> ■色界第四禅定<br /> 先日の「グラウンディングされた瞑想」で、「卵状の漆黒の空間」が見える前の落ち着いた状態が色界第四禅定なのかなと言う感じが致します。<br /> <br /> ■無色界禅定の最初「空無辺処定(くうむへんしょじょう)」<br /> この説明は、以下のようになっています。<br /> <br /> 物質という命綱を頼りにして、でも物質と関係のない無重力の宇宙遊泳をしていた宇宙飛行士が、その物質的制限という命綱を切り離して、ただ、宇宙に漂う漢字です。体が定まらないと困りますので、「漂っているのだ」と「定める」のです。「悟りの階梯(藤本 晃 著) 」<br /> <br /> この説明を読み直した時、先日 の「心が息に寄り添う、グラウンディングされた瞑想」で「卵状の漆黒の空間」が見えている状態がこれに該当することに気が付きました。なるほど、これが無色界の禅定なわけですね・・・。私の場合、「定めた」わけではなくてありのまま見たらそう認識できた、と言うお話ではありますけど。<br /> <br /> この時の感覚で言いますと、まだ「卵状の漆黒の空間」という感じで認識されておりますので、いわゆる「境目」が存在しています。<br /> <br /> 同書によりますと、この次は以下のようなもののようです。<br /> <br /> 無色界第二の禅定は、識無辺処定(しきむへんしょじょう)という名前です。その領域は、識無辺処です。先の空無辺処定の虚空とは「物質がない」ということなのですが、その虚空でも、まだ心の外側に意識されているものです。(中略)今度は「識は無辺である」と認識するのです。「悟りの階梯(藤本 晃 著) 」<br /> <br /> これはヒントになります。私が認識したのは「卵状の漆黒の空間」ですから、それはいわば「境目がまだある」ということです。今後、境目のない状態になる、ということでしょうか。 まあ、あまり先を見ても仕方がない気もしますが。 淡々とやるだけです。<br /> <br /> ■考察<br /> 私の感覚的にも、無色界の瞑想はちょっと違う感じがします。 認識される範囲が心とアートマンっぽい空間がメインになります。 先日は「心臓の鼓動に寄り添う瞑想」から始まって「息に寄り添う瞑想」からこの状態に遷移しましたので、これってもしかしたら、ハートチャクラの中に意識が没入した時の瞑想状態のような気もしますが、どうでしょう・・・。周辺が卵状の漆黒の空間として認識されてその周囲にオーラとナーダ音が認識されるということは、自分の意識が頭ではなくハートの中に移動というか没入したと仮定すると説明がつきます。<br /> <br /> スピリチュアルな人の中には、ハートチャクラの中に「聖なる空間」があると言っている人たちもいます。聖なる空間は最初の部屋と、さらに小さい部屋の二段階と言っている方もいらっしゃいますので、小さい部屋に入ると周辺の漆黒の空間の境目がなくなって認識されるのかもしれません。<br /> <br /> これらを踏まえると、色界第四禅定と無色界の禅定との違いがなんとなく見えてきた気がいたします。結論を出すのはまだまだこれからですけど。 確かに、色界第四禅定から悟る、と言うのもわからなくはありません。無色界禅定は悟りとはちょっと違う感じが致しますが、違うと言うよりも、目的が違うのかもしれません。いわゆる色界第四禅定から悟った場合は現世を悩みなく生きることができるようになる一方で、無色界の先にこそ広い世界が広がっている気がしますが、どうでしょうか。 無色界の先に謎が色々とありそうです。<br /> <br /> 無色界は悟りがなくても行けるようですが、悟りがヴィパッサナーの力だとして、無色界はいわゆる心だけの世界だとしたら無色界はアストラルやメンタルの世界であり、悟りのヴィパッサナーなしの無色界=アストラルやメンタルの世界は危険な気も致しますが、どうでしょうか。観察(ヴィパッサナー)ができなくて制御もきかない状態でアストラルやメンタルの世界に突入したらかなり酷いことになりそうです。<br /> <br /> 一般的に悟りとか言われてますけど、要は観察力(ヴィパッサナー)のことかな、とも思ったりすることもありますが、若干意味が異なるので、またおいおい違いを観察していきます。<br /> <br /> まあ、いろいろ仮説も含みますが、今後、このあたりも様子を見ていきます。<br /> <br /> <br /> <br /> Sat, 14 Sep 2019 00:00:00 +0900 グラウンディングされた瞑想 https://w-jp.net/2019/1657/ <br /> 先日 の「心が息に寄り添う瞑想」の続きです。<br /> <br /> グラウンディング力が高まって以降、瞑想も変化しました。<br /> それはいわば先日の記事で言うところの「手放す」と言うことではあるのですが、以下のような違いがあります。<br /> <br /> <br /> ・以前は、平穏な瞑想を行って”意識”が平らになると、心がすることがなくなって”何もしなくて本当に良いのだろうか?”と言わんばかりに動揺するかのような挙動が時々あった。<br /> ・今は、平穏な瞑想を行って”意識”が平らになった時、心が落ち着いている。心が”何もしなくて良いのだ”と安心しきっています。<br /> <br /> <br /> ここで言う”心”とは、何かを認識するための”光の筋”であり、いわば”(光の)触覚”のようなものです。<br /> <br /> 以前は、瞑想で意識が平らになって、いわば”水面が平らな状態”になったとしても、心がありのままに落ち着くことができず、少し落ち着きがない状態でした。そうは言いましても、瞑想を続ける以前からしたら随分と落ち着いてはいるのですが、どこか、心の奥底で本当にこんなに落ち着いてしまって良いのか、という心の抵抗のようなものを感じていました。<br /> <br /> 今は、”心が安らいでいていいのだ”という安心感に満ちていて、一段階深い平穏さの状態になったように思います。<br /> <br /> これは、いわば「何も起こらない瞑想」と言い換えても良いと思います。特別な刺激もなく、想像に楽しむわけでもなく、ただただ平穏で、何も起こらない瞑想。そういう瞑想に変わってきました。<br /> <br /> 先日書きましたように、意識が心臓や呼吸などに寄り添い続けている瞑想はほんの入り口だったように思います。一旦それらに寄り添って落ち着いた状態になったらそこにしがみ付いている力を「手放して」、そのまま「ぷかぷかと」瞑想を楽しんでいます。以前はきっと、手を離したら雑念に飲み込まれてどこかへ流されていってしまったのかもしれませんが、今は、手を離しても心臓や呼吸のすぐそこに留まっていることができます。それ故に、手を離しても大丈夫なのです。<br /> <br /> ムーラダーラとかグラウンディングって今までちょっと軽視していたかもしれませんが、今は見識を改めました。これは瞑想にはかなり重要ですね。<br /> <br /> 今、平穏な状態で瞑想が続き、その時、いわゆる心である”光の筋”はほとんど揺れ動かずに、一箇所に留まっているのを感じます。意識は、思考を映し出す”鏡”あるいは”湖”にも例えられます。その鏡あるいは湖が瞑想中も若干揺れ動いてはいるのですが、その静寂のレベルが若干(といっても、それはそれなりの違い)変わったということです。<br /> <br /> それにしても、この光の筋は、なんて言ったらわかりやすいですかね? 違う名前で言った方がいい気もしてきました。光の筋というより、普通に”オーラ”と言った方がいいかもしれませんけど、体の周囲にゆらゆら動いているオーラのことではなくて意識的に動かせるオーラですので、ちょっと違うイメージを与えてしまうと何ですが。<br /> <br /> ヨーガスートラのサンキャ哲学的には以下の用語ですね。以前 少しまとめたことがあります。<br /> <br /> チッタ(Citta, 心)に現れる「想いの波」はヴリッティ(ス)(Vrttis)と言う。語源は「渦巻き」。<br /> 例えるなら、湖がチッタ(Citta, 心)、波がヴリッティ(ス)(Vrttis)。<br /> <br /> 心(チッタ,Citta)の構成要素<br /> ・ブッディ(Buddhi, 覚)<br /> ・アハンカーラ(エゴイズム, 我慢)<br /> ・マナス(Manas, 意)<br /> <br /> これらの内容は謎が多くてはっきりとは理解できませんが、わかっている範囲で当てはめると以下のようになります。<br /> <br /> 湖であるところのチッタ(Citta, 心)に波であるところのヴリッティ(Vrttis)がほとんどない瞑想を行っています。<br /> 心(チッタ,Citta)自体の動きはほとんどなくなっているのですが、グラウンディング力が高まる前はマナス(Manas, 意)が若干、落ち着きがない状態でした。高まった後はそれも落ち着きました。<br /> <br /> こんな感じでしょうか? 落ち着きがないのがマナス(Manas, 意)なのかアハンカーラ(エゴイズム, 我慢)なのかブッディ(Buddhi, 覚)なのかは微妙なところですが、アハンカーラ(エゴイズム, 我慢)は本来存在しなくて反作用であると言われていますので残るはマナス(Manas, 意)とブッディ(Buddhi, 覚)ですが、ブッディ(Buddhi, 覚)は対象物の印象が届いた後に働くものですので、ここでは根本の働きであるマナス(Manas, 意)が落ち着きがないのかなと推測しました。<br /> <br /> <br /> Fri, 13 Sep 2019 00:00:00 +0900 エネルギーのサハスララへの上げ方・ルート https://w-jp.net/2019/1656/ <br /> インドのアイアンカー家の瞑想法を解説した「瞑想ヨガ 魂のやすらぎ(ワスデーヴァ・ナイア・アイアンカー 著)」には、エネルギーの上げ方を以下のように解説しています。<br /> <br /> クンダリーニ・エネルギーや大意識を第8のチャクラ(サハスラーラ・チャクラ)へ上げる時、額部ではなく、額部から水平移動した後頭部を通す。決して間違ってはならない。「瞑想ヨガ 魂のやすらぎ(ワスデーヴァ・ナイア・アイアンカー 著)」<br /> <br /> アイアンカー家では第7のチャクラ(アジーナ・チャクラ)を「眉間の少し上の額部(第3の目)から後頭部にかけての一帯」としています。この辺り、流派によって細かなところが異なるのが興味深いです。<br /> <br /> 上記の説明は突如として出てきて詳しい説明はなく、図もないのですが、おそらくはスピリチュアル系のフラワー・オブ・ライフと同様のことを言っている気が致します。<br /> <br /> これは以前「フラワー・オブ・ライフ 第2巻(ドランヴァロ・メルキゼデク著)」から引用した図です。<br /> <br /> 呼び方は違いますが、概ね似たようなことを言っている気が致します。ヨガとスピリチュアル系で割と似たことを言っているところも興味深いです。<br /> <br /> 同書には以下のように書かれてあります。<br /> <br /> 4番目から7番目までのチャクラを経験し、それらを充分使いこなせるようになった後、ついにもう1つの壁に到達します。(中略)ここを抜ける道がわかれば、本当にこの3次元世界を超えて次なる世界に行けるのです。(中略)それは行くべき「どこか」というより、実際にはむしろある存在状態と言えるものです。「フラワー・オブ・ライフ 第2巻(ドランヴァロ・メルキゼデク著)」<br /> <br /> 更に、同書によれば過去に違った方法を用いた存在もいたようです。<br /> <br /> まず松果体に達し、それから脳下垂体へ向けて意識を放ち、それをそのまま頭の前の空間にあるチャクラに送ります。一旦このチャクラに入ると、90度方向転換して真上に向かいました。これによって別の世界に行くことができたのです。「フラワー・オブ・ライフ 第2巻(ドランヴァロ・メルキゼデク著)」<br /> <br /> しかし、同書ではこのやり方は難易度が高いと紹介されており、上に引用した、額から後頭部を経由して登頂に向かう方法を推奨しています。<br /> <br /> どうやら、ヨガの多くの流派や各書のアジナ・チャクラ覚醒方法は概ねこの後者の難易度が高い方法を用いているような気がしてきました。同書では、額からそのまま90度方向転換して登頂のサハスララに送る方法は難易度が高く、額から後頭部を経由してサハスララを経由して45度づつ方向転換させる方が簡単だ、と解説していますが、なるほどなと思いました。<br /> <br /> Thu, 12 Sep 2019 00:00:00 +0900 息を頼りにアートマンに近づく https://w-jp.net/2019/1655/ <br /> 先日 の、心が息に寄り添う瞑想の続きです。<br /> <br /> ■2つの寄り添う瞑想での「手放し」<br /> 先日、以下の2つを行いました。<br /> <br /> ・心臓の鼓動に寄り添う瞑想<br /> ・息に寄り添う瞑想<br /> <br /> 最初は「心臓の鼓動に寄り添う瞑想」を行いましたが、心臓の鼓動はムーラダーラ活性化の直後は激しく鼓動していましたが時間が経つにつれて鼓動が弱くなっていきましたので、試しに「息に寄り添う瞑想」をしてみたら感覚が同じでしたので息に切り替えました。鼓動が弱くなってゆくのはクンダリーニの初回の時もアナハタ優勢になた時も同様でしたので予想がつきました。ですので、息で大丈夫ならば息で良いと判断して切り替えました。<br /> <br /> この時、「心」を「手綱」にして心臓の鼓動あるいは息に自分の意識を繋ぎ止めました。海に浮かんでいるボートから伸びているロープを掴んで安定させるようなイメージです。<br /> <br /> そうして意識が安定してきたら、試しにその手綱の手を少しづつ緩めてみました。すると、その手綱に力を入れなくても「心」が安定することに気がつきました。これは、以前はこのようにはなりませんでした。以前は例えば何かに集中するですとか、ナーダ音をずっと聞いているですとか、手綱のようなもので何がしかに繋ぎ止めておかないと心が安定しなかったのですが、今回、手綱を緩めても、「わたし」という存在は心臓の鼓動あるいは息のすぐそこに留まって安定していました。<br /> <br /> ここでいわゆる「手放し」が行われたわけです。<br /> <br /> 一般的には「手放し」の意味はどこかへ捨てたり知らない彼方へ彷徨わせることのようなイメージがあると思いますが、ここでの「手放し」とは、心が揺れ動かないのでもはや手綱は必要なく、手綱を手放しても心はその場に落ち着く、という種類のものです。<br /> <br /> ■卵状の漆黒の空間の出現<br /> そして、手放してみたら先の記事のように三つの要素が現れました。<br /> <br /> ・肉体としての自分<br /> ・卵状の漆黒の空間(肉体の自分の周囲に存在)<br /> ・卵状の漆黒の空間の外側に広がる現象の世界。例えばナーダ音は外側でのみ響いている。<br /> <br /> ■摑もうとして「力を入れると」、握り潰してしまう<br /> なかなか微妙なところではありますが、やはり瞑想の最初は「集中」であるわけですけれども、その集中の行き着く先はこうして「手綱」なのかなと理解致しました。<br /> <br /> 禅の十牛図ともイメージが似ていますけれども、最初はそうして心を手綱で引き止めて、暴れる心(十牛図では牛に相当)を落ち着ける必要あるのでしょう。<br /> <br /> そうして、心が落ち着いたら、「力を抜いて」「手放す」ことをする。すると、見えてくるものがある。<br /> <br /> そういえば、一部の十牛図の解説書に、どの書籍か探すことができませんが、「確固たる意志で真我(アートマン)を繋ぎ止める」というようなことが書いてありました。その説明では、「真我(アートマン)は彷徨っているので、確固たる意志で繋ぎ止める必要がある」というように書いてあったかと思います。まあ、実際はそれはきっと正しいのでしょうけれども、自分の「感覚」からすると最初は真我(アートマン)が彷徨っているかどうかなんて分かりませんので、「真我(アートマン)を探す」とか「真我(アートマン)を繋ぎ止める」というような内容が書いてあっても、当時は「何のこっちゃ」という感じでした。書籍に書いてあった要点は以下ですね。<br /> <br /> ・アートマンは彷徨っている。<br /> ・”私”が彷徨っているアートマンを見出す。探し出す。<br /> ・”私”が彷徨っているアートマンを繋ぎ止める。彷徨っているアートマンを掴む。<br /> <br /> 私の今日の瞑想の感覚で言いますとその逆です。<br /> <br /> 手綱を「手放した」ときにアートマンといいますか卵状の漆黒の空間が現れて安定したような気がいたします。力を入れてアートマンを掴む、みたいなお話はよくわかりません。流派にもよるのでしょうか。それとも、私が勘違いしているだけで別物のお話かもしれません。禅の十牛図では「真我(アートマン)を確固たる意思で捕まえる」みたいな説明があって、あたかも真我(アートマン)が動いているような説明になっていますけど、私の今回の感覚では逆でした。真我(アートマン)は動かなくて、自分が真我(アートマン)に捕まる、という感じでした。その後、手を離しても安定している、という感じです。まとめますとポイントは以下ですね。<br /> <br /> ・アートマンは彷徨っている。 → もしかしたら実際にはその通りなのかもしれないですが、今回、アートマンは肉体の私の周囲に常に存在しているように感じた。常に存在しているが普段はその存在に気付いていないだけのように感じた。ヴェーダではアートマンこそが本当の”私”だが、その存在に普段は気付いていない。<br /> ・”私”が彷徨っているアートマンを見出す。探し出す。 → ヴェーダ的な”私”は別の意味(アートマンのこと)になってしまうので、十牛図的な”私”は”心”や”意識”のことであると解釈。いわゆる”私”であるところの”心”や”意識”がアートマンを見出す、と読み替える。(アートマンは実際には彷徨っているのかもしれないですが)私の感覚では自分と常に共に存在しているように感じられましたので、そうであればどこかを探す必要はなくて、普段から自分と共にあるアートマンを自分自身の中に見出す。<br /> ・”私”が彷徨っているアートマンを繋ぎ止める。彷徨っているアートマンを掴む。 → 逆。アートマンは動かずにどっしりと存在している(と今回感じられた)。十牛図的な解釈ではアートマンが何か付随物のような印象を受けてしまうが、アートマンが盤石な巨石というイメージ。ですから、十牛図的な”私”であるところの”心”や”意識”がアートマンを繋ぎ止めるのではない。逆に、盤石な巨石のアートマンに彷徨っている”心”や”意識”を繋ぎ止める。実際はアートマンそのものではなく、アートマンに近いところの”心臓の鼓動”や”息”に繋ぎ止める。<br /> <br /> ■息とアートマン<br /> ”息”はアートマンそのものではないですがアートマンに近いものであると一部の流派では理解されていて、息の観察こそが高い意識への道であるという流派もあります。例えばクリアヨガなどですね。<br /> <br /> そこで言う「息の観察」こそが高い意識へと導くと言う教えは、今までは「そうなのかな???」と半信半疑でしたけれども、今回、息を繋ぎ止める瞑想をしてアートマン(違うかもしれませんが)のような卵状の漆黒の空間を見出したことにより、「息」はかなり奥深いのだな・・・ と思わされました。<br /> <br /> クリアヨガの書籍には例えば以下のように記載されています。<br /> <br /> <br /> 「Kriya yoga Darshan(Swami Shankarananda Giri著)」より<br /> <br /> この図の意味としては、コーザル体においては「父なる神 → プラーナ/神の子 → 息」という順番で顕在化する。コーザル体の「息」からアストラル体の「チッタ(いわゆる心)」が作られる。 という意味だと思います。<br /> <br /> クリアヨガは以前少し勉強してその後放置していましたが、このあたりをもう少し突き詰めると面白いのかもしれません。<br /> <br /> <br /> <br /> <br /> Wed, 11 Sep 2019 00:00:00 +0900 心が息に寄り添う瞑想 https://w-jp.net/2019/1654/ <br /> 先日 の続きです。心が心臓の音に寄り添う瞑想と同様に、心が息に寄り添う瞑想も可能になりました。<br /> <br /> 息と一体になるとまではいきませんが、以前は息を観察するにしても、少し離れたところから心(の光の筋)を伸ばして息を観察していたような感じでしたが、今は、心が息に寄り添う感じです。<br /> <br /> おそらくは寄り添う対象は何でもいけるのではないかな、とは思いますが、今のところ自分の体より外側のものに寄り添うのはちょっと難しいというか心的ダメージが大きそうですのでやらない方が良さそうな感じです。<br /> <br /> ■息に意識を集中することで雑念が少ない状態になる<br /> 先日書きましたように雑念が半透明な感じで感じられるようになりましたので雑念が瞑想の邪魔をすることも少なくなってきているのですが、心を息に寄り添わせると、雑念がほとんど出ない状態になりました。<br /> <br /> ・・・ふと、昔のことを思い出しました。<br /> <br /> 私がヨーガを始めたばかりの頃、ヨーガの先生が「心の実験をしましょう」とか言って、「息を観察しましょう。観察している間は雑念が出ませんよね。周りの音を聞いてみましょう。電車の音などに集中している間は雑念がないです」とか「息を止めましょう。止めている間は雑念がなくなります」とか言っていましたけど、私にはどちらも腑に落ちなかったのです。「息を観察していても雑念は出るし、音を聞いている間も雑念は出るし、息を止めていても雑念は出る。確かに、一瞬はなくなりますけど」と心で思いつつもスルーしていたのですが、これ、「ヨーガをある程度修行すると、そうなる」というお話であって、初心者が実験しても「何のこっちゃ?」というお話なのだな、と今は思います。<br /> <br /> 息を止めている間ずっと集中が続けば確かに雑念はほとんどなくなりますが、息を止めた状態で集中を途切れさせたら雑念が出てきます。その時の先生は「息と心は相互関係があり、息を止めれば心も止まります」とか言っていましたけど、全く納得できませんでした。関係はありますけれども、息と心は基本的には別物だと思います。ただ単に、心を息に繋ぎ止めておけば雑念が減る、というだけのお話であればわかりますけど、「息を止めれば心(の雑念)が止まる」というお話は、もしかしたらヨーガのグルが目標地点がそこだというお話をして弟子が一般的にそうだと勘違いをしたような気もするのですが、どうでしょうか。<br /> <br /> 今回、息に意識を寄り添わせることで雑念が少ない状態になったわけですが、この状態を指して「息に意識を寄り添わせつつ呼吸をすると息を止めた時に心の動きも止まる」ということであれば納得ですが、何もしていない初心者が息を止めても息を止めたら集中が途切れて雑念が出てくるだけなのかなと思います。<br /> <br /> 同様に、周囲の音に集中しても集中している間は雑念が出ないものの初心者は集中が続かなくて雑念が出てくることでしょう。当時の私は「電車の音を聞いていても雑念は出るのだけれども、一体どういうこと?」と思っていました。ヨーガの先生のお話は初心者向けに実験するようなことでもなくて、やがて集中力が高まれば例えば周囲の音に集中を続けることで心を固定して雑念が介入しなくなる、というお話だと思います。<br /> <br /> その実験の効果が、今回の変化でよく感じられました。特にアナハタ優勢になって以降は割と同様の感じで息や集中と心の関係が理解できるようになってきましたが、今回の変化で、それが更にきめ細やかにしっかりと感じられるようになったように思います。<br /> <br /> これ、日本のヨーガの先生だけでなくインドのリシケシのヨーガの先生も似たようなことを言っていましたので、おそらくは有名な先生あるいは書物がそういうことを言っているのだと思いますが、かなりミスリードな気が致します。ヨーガを練習すればそうなる、というお話をあたかも初心者もそうであるかのように紹介したらヨーガに対する誤解が生じる気が致しますが・・・。少なくとも私も最初は「何かおかしい」と思いましたし。<br /> <br /> こういう違和感を感じた時に、盲目的に受け入れないことは重要ですね。世間一般の盲目的な宗教では「そのまま経典や先生のことを受け入れる」というのが行われているように思いますけど、違和感を感じたら一旦保留して自分の理解が生じるまでは先に進まないのが本来の宗教家の在り方だと思います。宗教というとドグマを押し付けるイメージがありますけど、本来の宗教は科学と同様に一歩一歩自分が理解して成長してゆくものだと思いますので。<br /> <br /> 例えば、私が当時、ヨーガの先生から言われた時に違和感を感じてもそのまま受け入れていたとしたら成長なんてなかったかもしれませんし。よくわからないことは「わからない」として理解を保留することが大切に思います。それが「正しいと思うが、今はわからない」ことなのか、あるいは「何かおかしいと感じるので、わからない」と感じるのかによっても対処方法が違ってくると思います。どちらにせよ、理解を押し付けてくる先生は大した先生でもないので、自分の態度としては「わからない」という態度で良いと思います。<br /> <br /> 人によっては生まれた時からある程度の悟りがあると思いますので、そのような方がそのままグルになったら初心者の気持ちもわからないのかな、とも思います。私の場合、生まれてきた時はともかくとして、幼稚園と小学校で苦労する環境にいてどん底まで一旦落ちましたので色々と理解できます。というか、そのように色々と底辺まで理解することが今回の人生の計画でしたので、計画通りうまく行った感じです。一旦、どん底まで落ちてみないとそのような人の気持ちはわからないのだと理解できました。ですから、最初からある程度悟っているグルがこのような勘違い・無理解に基づいた指導をしてしまうのも無理はないのかな・・・ とも思います。<br /> <br /> ネタ元がどこなのかは想像ですけど、ネタを聞いたグルが「その通り」と思って拡散することはあり得ると思いますので、まあ、当たらずとも遠からずなのかなと思います。<br /> <br /> ■心という手綱を手放す<br /> 心が息に寄り添う瞑想をしている時、いわば息を拠り所にして瞑想をしているわけです。この時は心が安定しているので一見すると心を拠り所にして瞑想をしているような感じにもなってきますが、よく見ると、心が息を捕まえている感じなのです。心の方は割と動きやすいのです。例えるなら「心が手綱」のような感じです。その手綱が、息というものを捉えて離さないことにより心が安定しているのです。<br /> <br /> 一旦、手綱である心を使って心を息の近くに寄り添わせることで安定した瞑想ができるわけです。心は光の筋のようなものなので、手綱に例えてもそれっぽい感じです。<br /> <br /> 心が息に寄り添っている時、「自分」から見えているのは「心(手綱)」と「息」だけで、「自分」自身は見えていません。<br /> <br /> この状態で、「心」という手綱を「手放す」ことをしても、既に心が息の近くに留まることができて心は安定していますので、心は揺れ動かずに息の近くにい続けることができます。「心」を息に繋ぎ止める努力をやめて「手放す」ことで、非常に安定した瞑想の状態に入ることができました。<br /> <br /> ■漆黒の空間と「自分」とナーダ音<br /> 一方で、「別の視点」から瞑想状態を眺めると、自分の体全体が卵状の「漆黒の空間」に包まれているのを感じます。そして、その漆黒の空間の真ん中に「自分」がぽっかりと浮かんでいます。先日 のネバーエンディングストーリーの例えのように、世界が無になっても自分が何故か存在してぽっかりと浮かんでいる感覚に似ていますけど、今日の場合は卵状の空間だけが漆黒の空間になっているという違いがあります。その、漆黒な空間の真ん中に自分がいます。<br /> <br /> そして、卵状の漆黒な空間の外側にナーダ音が聞こえています。このようにナーダ音が聞こえる空間の区別ができたのはこれが初めてですね。漆黒な空間の中にはナーダ音は響いておらず、漆黒な空間の外にだけナーダ音は存在しています。その、区別がはっきりと感じられます。ナーダ音は漆黒の空間の中に入ってきません。<br /> <br /> ふと、以前 引用した「アナハタ音(ナーダ音)のないところ」の記述を思い出しました。<br /> <br /> (4章101番) アナーハタ音のひびきが聞こえる間は虚空についての想念はまだ存在している。かの音も無いところが至上の梵、至上の我であるとうたわれている。音の形で聞こえるものはシャクティに他ならない。すべての存在の没入する場であり、そしてなんらの形相の無いものこそが至上神(アートマン)である。 「ヨーガ根本教本(佐保田 鶴治著)」<br /> <br /> シャクティとは「力(パワー)」と訳されます。この記述自体は謎めいていて「虚空についての想念」が何なのか読み解くのが難しいですが、以下のように解釈できます。<br /> <br /> ・卵状の漆黒の空間の外にはシャクティ(パワー)が満ちていて、ナーダ音が響いている。<br /> ・卵状の漆黒の空間の中にアートマンはいる、あるいは卵状の漆黒の空間がアートマンそのもの。<br /> <br /> という解釈も一応は成り立つと思いますが、私の場合は卵状の漆黒の空間の真ん中に自分らしきものがぽっかりと浮かんでいる感じがあったりするので、「形相の無いものこそが至上神(アートマン)」というのとはちょっと違うのかもしれませんが。<br /> <br /> ここでインスピレーションが入ってきたのですが「卵状の漆黒の空間の真ん中に自分がぽっかりと浮かんでいるのは、状況を分かりやすくするために以前見た物語の挿絵のイメージを送ったのであって、それは理解のためだけのものであり、本来は形などない。実際に卵状の漆黒の空間を見たときに真ん中に何もなかったと思う。」とのことです。<br /> <br /> これとハタヨガプラピディカの「アートマンには形相の無い」という記述を踏まえると、「卵状の漆黒の空間の中にアートマンがいる」よりも「卵状の漆黒の空間がアートマンそのもの」という解釈を採用して、以下のように考えると良さそうです。<br /> <br /> 「卵状の漆黒の空間の中に浮かんでいるのは瞑想している主体である『肉体』としての『自分』であって、アートマンとしては形などない。肉体を包むようにアートマンが卵状の漆黒の空間として広がっており、アートマンは形相がないからこそ漆黒の空間として認識される。そのアートマンとしての卵状の漆黒の空間の周囲にシャクティ(パワー)が広がっていて、周囲でのみナーダ音が響いている。」<br /> <br /> まあ、これでもいくつか疑問というか細かな不思議な感覚(違和感というほどでもないもの)が残るのですが、その感覚が何なのかも含めておいおい見極めてしてゆきたいと思います。例えば「卵状の漆黒の空間の中にアートマンがいる」というのも正しいように感覚的には思います。ヴェーダ的にはアートマンもブラフマンも実は同じだというのが最終理解ですので、視点が違うだけのお話で両方正しいといえば正しそうではありますが。<br /> <br /> ■卵状の漆黒な空間がアートマンだと判断した理由<br /> そう判断した理由としては上記のヨーガ根本教本の引用文にある、アナーハタ音(ナーダ音)が聞こえないところが至上神(アートマン)だとする記述に基づきます。実際にそんな感じでしたので。<br /> <br /> しかし、直感では必ずしもそうだとは判断できませんので微妙なところです。これはまだ仮説です。<br /> <br /> ヴェーダ的には人間はいわゆる5つの鞘で囲まれているとも言われていますので、今は至上神(アートマン)の外側を見ているのかもしれません。<br /> <br /> <br /> Tue, 10 Sep 2019 00:00:00 +0900 ムーラダーラ活性化による瞑想の変化 https://w-jp.net/2019/1652/ <br /> 先日 ムーラダーラが活性化したことによりグラウンディング力が若干向上し、瞑想が安定するようになりました。<br /> <br /> その状態で、何が変化したのかと思って心で変化した場所を探そうとしても、見つかりませんでした。<br /> 心は、いわゆる光の筋が伸びているわけですが、その光の筋で頭の中を探っても見つからないのです。<br /> <br /> 今までは、「喜び」とか何らかの形で変化が感じられたわけですが、どうも、変化が見つかりません。<br /> <br /> たしかに瞑想はこのような「心」の動きを停止して落ち着くのが基本ではあるのですが、今回のような大きな変化があった際にはその心を止めずに変化を見極めるための道具として用いてきたわけです。ですが、今回は、わざわざ心を意図的に動かして変化を探っても、その変化が見つかりません。<br /> <br /> ・・・すると、ふと、心に対して「もう休んでいいのですよ」というかすかな気持ちが湧き出ました。<br /> <br /> 心で感じられる変化は、もうほとんど残っていないのかもしれません。<br /> <br /> いつも、変化が起こるたびに「感覚」で何が変化したのか見極めようとしていたのですが、見極めるための道具としての「心」は、もしかしたら、もはや機能しなくなってきているのかもしれません。<br /> <br /> であれば・・・、「心」は一休みしてもらうことにしました。そうするのがいい気がしました。<br /> <br /> 「心」には一休みしてもらうことにして、瞑想を続けました。<br /> <br /> <br /> ・・・すると、やがて、ぽっかりと、真っ暗な「無」の中に「わたし」が浮かび上がってきました。<br /> <br /> 無の中にいる「わたし」は一応は人間の形をしているのですが、視点としては第三者として外から見下ろしているような格好です。<br /> <br /> やがて、微かな光を感じました。<br /> <br /> <br /> ・・・ふと、確かネバーエンディングストーリーでしたか、そのラストシーンに似ている気がして、もしかしてここから何かが浮かんでくるのかな・・・ という気もしましたが、ちょっとの光を感じただけでとりあえず今日の瞑想は終了。映画ですと明るいエンティングで雰囲気が違うのですが、書籍版ですと、世界が全てなくなってしまった「暗闇の無」にぽっかりと浮かんだ自分がいて、自分の想像力によって世界が新たに生まれる、というような内容だったように思うのですが。記憶違いですかね・・・。私が記憶しているのはオリジナルじゃなくてパクリ版の方っぽい感じですが、たぶん基本は同一だと思うのですが。<br /> <br /> また様子を見ます。<br /> <br /> <br /> ■心が心臓の音に寄り添う瞑想<br /> 同日の夜の瞑想で、こんな感じになりました。<br /> <br /> もともとアナハタ優勢になって以降は雑念が劇的に減って安らかな瞑想に入れるようになっていたのですが、ここにきて、また一段階、安らぎ・・・ という言葉で表すのは陳腐な気がするくらいの、言葉では「安らぎ」としか言いようがない「平ら」な瞑想になってきています。<br /> <br /> 先日のムーラダーラ活性化によって、アナハタ優勢になった時と同様に血液の脈動が活性化して瞑想中に心臓の鼓動がはっきり聞こえるようになったのですが、その音に心が寄り添って、意識が心臓の鼓動の音を安らかに聞き続けることで雑念がほとんど浮かんでこない瞑想になっています。<br /> <br /> 実際には、もともと昔からずっと聞こえているナーダ音も聞こえてはいるのですが、そのナーダ音と心臓の鼓動とが同じくらいの音量で聞こえています。ですが、ナーダ音は聞き慣れている(苦笑)とでも言いますか、あまりナーダ音のことは意識に入らないようになってきており、たまにこのような心臓の音が聞こえる状態になると心が心臓の音に寄り添うような感じになっています。<br /> <br /> アナハタ優勢の時に聞こえた心臓の音ではこんな感じにならなかったので、きっとムーラダーラ活性化によってグラウンディング力がアップしたのかな、という気が致します。<br /> <br /> 雑念の感じ方も変わってきて、昔は割と心の声というかいわゆる雑念がかなりはっきりと聞こえて瞑想をかき乱していたのですが、今は、心の声が「半透明」とでもいう感じの、「薄い」感じで聞こえてきていて、雑念があったとしても秋の枯葉が舞い落ちるような弱々しい雑念として感じられています。<br /> <br /> ですから、瞑想中の雑念はほとんど心をかき乱さなくなりました。<br /> <br /> 一応、念のために書き添えておきますと、昔の記憶のトラウマが出てきた時は多少なりとも反応しますけどれども、基本はこのように「薄い」「半透明」な雑念がほとんど、ということです。<br /> <br /> これを簡単に「安らぎ」と言ってしまうと、それはそうなのですが、リゾートや湖畔でリラックスするような「安らぎ」とはかなり違う状態になってきている感じです。なんといえばよいのでしょうね。なかなかいい言葉が見つかりませんが。<br /> <br /> ■眩しい感覚<br /> 瞑想から出ている時は平気なのですが、瞑想中だけ目を瞑ると眩しい感覚がして目がしょぼしょぼします。窓から入る光がとても明るく感じられて、目を瞑っているのに鋭い刺激として目に入ってきます。これは昨日ムーラダーラが活性化される前まではこんなことありませんでした。ムーラダーラ活性化によって身体中の感覚が過敏になっている気が致します。<br /> <br /> ■髪の毛の静電気<br /> 頭のてっぺん辺りの髪の毛が静電気を帯びたような感じになってきました。以前はこんなことほとんどなかったように思います。<br /> <br /> Mon, 09 Sep 2019 00:00:00 +0900 光が胸から湧き出てくる感覚とムーラダーラの活性化 https://w-jp.net/2019/1651/ <br /> ■ハイヤーセルフに「見られている」感覚<br /> 早朝の瞑想を終えて食事を済ませた後、ハイヤーセルフに「見られている」感覚が10秒ほど続きました。その感覚がある間は、私の顕在意識とハイヤーセルフの意識がその間だけ一緒になり、ハイヤーセルフの意識が私の中に流れ込んできます。<br /> <br /> これは、度々起こってきたことで、「あ、また来た」と言う感じでした。<br /> <br /> 時間的に短かったのであまり読み取れませんでしたが、そろそろ何かある、と言う感じは受けました。タイミングを見計らっているような感じでした。<br /> <br /> ■光が胸から湧き出てくる感覚<br /> その後、9時頃に瞑想していると胸がまるで、泉の底から透明な水が湧き出てくるような感覚になってきて、何度か波を感じる度に閉じている目の下の方が明るく満たされた感覚がありました。<br /> <br /> 湧き出てくる感覚は、視覚的には「光」ですが、光が出ようとしているのに何かに邪魔されて出てこれなくて、少しづつ出てきている感覚でした。<br /> <br /> ちょっと他に例えが見つからないのですが、吐き気がして吐きそうになる感覚とちょっと似ているのですが、吐き気の場合は悪いものを出すために吐くわけですけれども、今回の場合は、出てこようとしているのは光で、光が中から押し出そうとしていて、途中に何か淀みあるいは蓋のようなものがあって、それが吐く感覚のようなものとして認識されていました。基本的には光ではあるのですが、その光の性質に、何かドロドロとした吐き気のあるものが含まれている感じがしました。<br /> <br /> そうして光が溢れてきて、やがて、意識が朦朧としてきて、横になりたくなったので瞑想の胡座の状態を終えて、リクライニングチェアに横たわりました。<br /> <br /> ■ムーラダーラの活性化<br /> リクライニングチェアに横たわったら、更に意識が朦朧としてきて、半覚醒の状態で軽い眠りの状態になりました。体全体が朦朧としたオーラに包まれて、意識がはっきりとしません。そのまま横になって様子を見ていましたが、やがて眠ってしまいました。<br /> <br /> しばらくして、約1時間くらい経ったでしょうか。外に台風の強い雨が降り始めたことにより音に気が付いて起きました。その時、意識が回復しつつありましたが、夢で、何か本を読んでいました。そこに人名が二つくらい出ていましたが、すぐに忘れてしまいました。<br /> <br /> まだ体が朦朧としたオーラに包まれており、ふと気がつくと、お尻の割れ目の少し右のお肉の部分の血液がドクドクと脈打って、そのお尻の脈打ちの鼓動の音がはっきりと聞こえてくるくらいでした。気が付いた時には既に右側が脈打っており、少しした後、左側もちょっとだけ波打って、最後に会陰に電気ショックのようなものが走りました。この時の会陰の感覚は、ピリッときたというか静電気でビリビリくる感覚。片側(上だったか下だったか)から始まって会陰全体が静電気を帯びた後、全体均一に静電気が消えてゆきました。<br /> <br /> この時、お尻だけでなく背骨全体、特に腰とうなじ付近が血液の鼓動でドクドクと脈打っていて、いわゆるスシュムナに沿って活性化していることを感じました。<br /> <br /> やがて、体全体を包んでいた朦朧としたオーラが抜けてきて、意識が戻ってきました。血液の脈動も治ってゆきました。<br /> <br /> この血液の感覚は何度かあって、最初のクンダリーニ活性化の時は腰の後ろの少し下寄りのところの血液が脈打って、次にアナハタ優勢になる時にうなじ下のあたりが同様に血液が脈打ちましたので、感覚的に同じような感じでした。ただ、私が寝ていて気付かなかっただけなのかもしれませんけど、時間的にはそれら過去の2回に比べると短かったような感じです。<br /> <br /> おそらくはこれはムーラダーラなのかな、と判断しました。今回は直感でそう言われたわけではありませんが、場所的にそういうことかなと判断しております。既にムーラダーラは活性化されていたと思っていましたが、どうやらそうでもなかったようです。<br /> <br /> どうやら私の場合、最初のクンダリーニ活性化でスワディスタナが活性化し、やがてマニプラが活性化し、次にアナハタ優勢になったようです。<br /> <br /> クンダリーニってムーラダーラに眠っていると世間では言われているのでムーラダーラが活性化したのかと思っておりましたが、どうもそうでもなかったようです。一説によりますと、以前にブラフマ・グランティについて考察しましたように、古代においてはクンダリーニはスワディスタナに眠っていた、という記述もありますし、クンダリーニが背骨の一番下の尾骨あたりに眠っているとするとそれは今のスワディスタナに眠っている、というのが解釈として一番しっくりきます。であれば、最初のクンダリーニでスワディスタナが活性化したと解釈するのが良さそうです。<br /> <br /> ですので、私の場合はスワディスタナ→マニプラ→アナハタとヴィシュッダ(少し)→ムーラダーラ、という順番で活性化してきているのかもしれません。<br /> <br /> そう言えば、先日の「癒しフェア」のカウンセリング でチャクラを見てもらいましたところ、ムーラダーラとアジナとサハスララがまだ活性化していない、と言われましたので、アジナとサハスララはそうかなと思っておりましたので納得したのですがムーラダーラはどういうことでしょう??? と思っていましたが、今回のことでそれが腑に落ちました。<br /> <br /> 次はアジナかな、と思っておりましたが、その前にムーラダーラが来たのは意外でした。<br /> <br /> ■ムーラダーラは「地」、「におい」<br /> ムーラダーラが活性化した後、匂いに敏感になって、部屋の不快な泥のような感覚が気になるようになりました。本山博はこれに関連した以下のように述べられています。<br /> <br /> 古来からのヨーガ経典によると、ムーラダーラは地の原理に属するといわれています。この地の原理の属性は「におい」です。したがって、ムーラダーラ、地、におい、においの器官である鼻は、たがいに関係しているのです。「密教ヨーガ(本山博著)」<br /> <br /> いやはや、今朝までは部屋の匂いなんて気になりませんでしたのに、今はどうも部屋の匂いが気になってしまいます。もともと部屋にはお香を焚いたりアロマオイルを匂わせたりはしていたのですがずっとしているわけでもありませんので、これから消費量が増えそうです。<br /> <br /> まあ、気になるのは今だけで、そのうち慣れるのかもしれませんけど。<br /> 変な匂いに今まで以上に敏感になってしまい、自分の部屋の匂いでちょっと気分が悪くなりかけています。これはまずいです。アロマでも焚きます。とりあえずルームスプレーでなんとかしますかね。<br /> <br /> 今までもいい匂いが好きではありましたけど、生理的にここまで変わってしまうとは思いませんでした。<br /> <br /> ■味<br /> 匂いだけでなく、何か味のようなものも感じます。あまりいい味ではないです。粘土か泥、それもちょっと腐っているヘドロを舐めたか嗅いだような感覚です。それほどきつくはなくて軽く臭って味覚を感じるだけなのが救いです。これって、都会の臭気を感じているということなのか、あるいは、部屋の問題か、あるいは、立地の問題でしょうか。確かに幹線道路から数百メートルの場所ですし都会の中ですし、1階は特に夏はちょっとジメジメしていて臭気がする時もありますけど私の住んでいるのは3階なので今までそれほど気にはならなかったのですが、今回のことで感覚が鋭くなってきたのかもしれません。場所を変えて感覚を観察しつつ、何が問題なのかぼちぼち探っていくつもりです。<br /> <br /> ■足の感覚が鋭くなった<br /> 意識が回復した後にリクライニングチェアから立ち上がって歩いてみると、気持ち、足の感覚が鋭くなっているような感じを受けました。気のせいかもしれませんけど、ちょっとした違いがあります。瞑想とかで足を組むと足の皮膚とか爪とかが敏感になって感じられて、ちょっと気になる感じです。慣れの問題ですぐに問題なくなると良いのですが。普段の生活で以前は足はほぼ無意識で動かしていたのですが、細かな感覚がより感じられるようになりました。ちょっと動くだけでも足の細かな動きの感覚がわかります。<br /> <br /> 他の人はもともとこんな感じで、私が感じていなかっただけなのでしょうかね・・・??? 肉体労働者とかはムーラダーラがすごく活性化しているような気もします。<br /> <br /> ■手の感覚<br /> 足だけでなく、手の感覚も少し敏感になったような気もします。手の方は足ほどの違いはありませんけど、基本的な感覚で何かちょっと変化したような気がします。体全体の気付きの力の上昇とでも言うのでしょうか。<br /> <br /> ■頭の感覚<br /> 頭の中の感覚を見ると、いわゆるオーラが揺れずに安定するようになったような気が致します。今までは、思考というかオーラが揺れると逆方向に振り子のように戻るのが割と普通でしたが、オーラが揺れるというか少し動いたら、逆方向に振り子のように戻らずにそのままの場所で活動停止というかオーラが定着する、というような違いがあります。オーラがブワッと薄く発散していたものがヨーガをするにつれて少しづつ粘りっけというかしっかりしたものに変わりつつあって、今回のムーラダーラ活性化によって更に(オーラの?)定着力が上昇したような気が致します。このことをグラウンディングというのであればネーミングセンス的に「なるほどね」という感じも致します。すごく良い名前で、実態を表しています。<br /> <br /> オーラが揺れ動かないので、思考も揺れにくくなってきました。これもいわゆるグラウンディング効果の一つですね。これによって、瞑想も更に安定するようになりました。<br /> <br /> ■ムーラダーラとアジナは直結している<br /> 本山博先生がスワミ・サッチャナンダの言説を「密教ヨーガ(本山博著)」で引用されているのですが、そこには以下のようにあります。<br /> <br /> アジナチャクラは、ムーラダーラチャクラと直結していて、一方で生じたどんな変化も、必ず他方に生ずるといわれます。「密教ヨーガ(本山博著)」<br /> <br /> ムーラダーラはアジナと直結しているのは、きっとそうかな、という感じがします。というのは、ムーラダーラの今回の経験の後、後頭部のあたりの感覚がよりはっきりしてきたからです。だからと言ってすぐにアジナで何かがあるわけでもありませんけど、まあ、一つづつ越えていけばいいのかなという感じです。<br /> <br /> ■胸から出てきた光に淀んだものが含まれていのは、きっとムーラダーラだから<br /> ハートからの光と淀んだ泥は別物として認識されていましたけど、出てくるところはハートあたりで一緒でした。泥はムーラダーラに関係していると感覚的にそう思いましたけれども、出てきたところはハート(アナハタ)でした。不思議です。<br /> <br /> 時系列から言ってもこの胸からの光と淀んだ泥が出てきたのとその後のお尻あたりの血液の脈動とが数時間以内に続けて起こったことですので、関係があると推測できます。まず最初に光と淀んだ泥が出てきて、その後、お尻あたりの血液の脈動が起きました。<br /> <br /> 現象的には胸のハートのアナハタチャクラとムーラダーラのことは一見別物ですけれども、アナハタは全てのチャクラを司る、いわゆる「統合されたチャクラ」として全てのチャクラを飲み込むと一部では言われていますので、今日の主な活性化ポイントがムーラダーラだとしてもそれに反応してアナハタがそんな感じで呼応するのは、あり得るのかなと思っております。まあ、なんとなく、のお話ですけどね。仮説です。あるいは、頭からみてハートとムーラダーラが重なって知覚された、という可能性もありますけど。あるいは、ムーラダーラからハートに登って知覚された、とか。<br /> <br /> ■ムーラダーラとカルマ<br /> ムーラダーラには過去全ての人生のカルマが眠っていると言います。本山博先生は以下のように言います。<br /> <br /> ムーラダーラの内に眠っているクンダリニー、すなわち個人のなかのムーラプラクリティ(自然の根源力)がヨーガの行によって目覚めると、ちょうど地震によって、地下から多くのものが地表にあらわれでてくるように、人間存在の無意識の領域から、それについては人間意識は何も知らない無数のものが爆発的にどっと現われでてきます。その中には、ムーラダーラの無意識の海の中に、種子の状態で貯えられている何生もの前世のカルマ(因縁)も含まれています。これらの前世のカルマを、私たちはふつうコントロールすることができません。それで、このカルマのコントロールが可能となるアジナチャクラを、まず目覚めさせることが肝要になるわけです。「密教ヨーガ(本山博著)」<br /> <br /> 確かに、私の場合はアジナは動いていないものの少なくともアナハタ優勢になってからムーラダーラが動き出したのでよかったものの、いきなりムーラダーラが動き出したらこれに飲み込まれてしまっても不思議はないような気が致します。<br /> <br /> であれば、下手にヨーガを修行して人生を狂わせる場合があるのもよく理解できます。<br /> <br /> ■硬い感覚<br /> このムーラダーラ活性化の翌日から、急に以下2箇所に「硬い感覚」が現れました。<br /> <br /> ・眉間 → 集中しなくても何かがある感じです。<br /> ・ハート(アナハタ)とおへそ(マニプラ)の中間点 → 時々、筋肉が痙攣します。<br /> <br /> 片方だけなら普通の病気かもしれないと疑うところですが、ムーラダーラの翌日から2箇所同時に変化したので病気ではなくてヨーガ関係の何かのように思います。あまり聞いたことありませんけど。<br /> <br /> 何でしょうね。<br /> <br /> ■時系列<br /> 以前に書いたものに追記しておきます。<br /> <br /> <br /> ・2015年1月 インドのアシュラムで生まれて初めてのヨガ 2週間 合宿。その後しばらくブランク。<br /> ・2016年10月 日本の近所でヨガ再開。1週間ごと1回90分<br /> ・2017年8月 ヨガの頻度を上げ、ほぼ毎日90分<br /> ・2017年10月 雑念が減ってくる。ようやくヨガをしている感じになってくる。ヘッドスタンドが短時間だがようやくできるようになる。<br /> ・2017年11月 ナーダ音が聞こえ始める。ヨガをほぼ毎日し始めてから約3ヶ月後<br /> ・2018年1月 第1回目のクンダリーニ体験。ムーラダーラの電気ショックと眉間の皮膚から数センチ離れた空中(アジナ・チャクラ?)でのエネルギーの爆発。ほんの少しのエネルギー。<br /> ・2018年11月 第2回目のクンダリーニ体験。マニプラ優勢になる。クンダリーニ本体はまだ上がっていない雰囲気。2つの光の筋が上がっただけ。仙骨か尾骨のあたりに熱を帯びて血液が激しく脈打つ。かなりポジティブになる。性欲がかなり解消されて自然な(努力のいらない)ブラフマチャリア(禁欲)の達成(性欲10分の1)。睡眠時間の短縮。声が出しやすくなる。<br /> ・2019年7月 第3回目のクンダリーニ経験。アナハタ優勢になる。(五大要素の)「風(Air)」のエネルギーによる竜巻が腰から頭まで上昇。光の筋はなし。竜巻は頭の周囲で発散(頭上および前後左右に発散)。うなじの下(大椎?)に少しの熱を帯びて血液が脈打つ。ハートがジンジン。第2回目ほどの変化はなし。性欲が更に10分の1 (第2回目クンダリーニ以前と比べると100分の1) <br /> ・2019年9月 ムーラダーラの活性化。 足の気力が少し増加。足の感覚が少し敏感になる。手の感覚も足ほどではないが少し敏感になる。「におい」に敏感になる。「におい」だけで「味」も感じるようになる。淀んだ空気(の匂い?)が苦手になる。いわゆるグラウンディングの力が若干上昇。他人の淀んだオーラによる自分への悪影響が低下し、自立力が高まる。優勢なのは依然としてアナハタ。<br /> <br /> <br /> <br /> Sun, 08 Sep 2019 00:00:00 +0900 瞑想中、心が光の帯として感じられる https://w-jp.net/2019/1649/ <br /> それはまるで、光の帯が「舌」のように頭の中心から伸びている感覚です。<br /> <br /> 瞑想で心を落ち着かせている時は、その光の帯が頭の中心に収まっています。<br /> 一方、心が体の各所を探っている時は、その光の帯が伸びていってその場所を光の帯の先で探るのです。<br /> <br /> まあ、光と言っても、ぼんやりとそんな感じがする、という程度ではありますが。<br /> <br /> 頭の各所を探る時はよくわかります。<br /> 体を探る時は、一筋の線が細く伸びている感じです。先っぽが感覚が強いですね。<br /> <br /> 今まで、体の感覚を探る時は先っぽだけの感覚でしたけど、光の筋が伸びている感覚が最近してきました。<br /> <br /> そういえば、昔も度々そんな気がしたこともあったのですが、最近少しづつその感覚がはっきりしてきた感じです。<br /> <br /> ■ゴーピ・クリシュナの体験<br /> そういえば、似たような体験が書いてある書籍のことを思い出しました。<br /> <br /> 私を当惑させたものは、私の身体組織の機能にたえず働きかける光の触手である。脊髄やその他の神経を伝わって、その触手が心臓とか肝臓とか胃などにのびてゆき、奇妙な仕方でそれらを統制していた。(中略)複雑な神経組織を完全に熟知し、身体のゆがみやねじれがあると、どんなところまでもさっと動いていく触手のみごとさに、幾度となく驚かされた。「クンダリニー(ゴーピ・クリシュナ 著)」<br /> <br /> 私はここまではっきりとした感覚はありませんが、割と似た内容であるように思われます。<br /> <br /> <br /> <br /> Sat, 07 Sep 2019 00:00:00 +0900 耳から聞こえる、炎の柱か雷鳴のような音 https://w-jp.net/2019/1644/ <br /> 耳から聞こえる、炎の柱か雷鳴のような音<br /> <br /> 今朝から、リクライニングチェアでうとうとしていると「ズンッ」と言う「炎の柱に入って炎を全身で受け止めるかのような振動」といいますか、あるいは、雷鳴を体全身で受け止めた音、あるいは、雷鳴が遠くで落ちた音の音程を低くしたような低く鈍い音が耳で聞こえました。ズッサァァァァーーという、ザラザラとした、ゲームの効果音でありそうな音です。今日はいつもより早く4時くらいに起きてしまったので9時くらいになったらちょっと眠気が出てしまっていたのです。<br /> <br /> 実際の雷の音のようにびっくりする大迫力の大音量ではなく、雰囲気が似ている、というくらいです。音としてはズンッって感じですけど、感覚的にはバリバリ、という、何かが割れるような音も重なって聞こえていたかもしれません。ズンッが8割、バリバリ割れる音と感覚が2割くらいでしょうか。<br /> <br /> これは、以前引用した「Meditation and Mantra」あるいは「沈黙の声」に書かれてある7番目の「雷雲の鈍い轟音のように振動」に似ている感じです。<br /> <br /> まず、頭の中にある「気」か何かの「圧力」が高まって、圧力が高まると共に頭の中がキーンと圧迫された感じになり、そうするとおそらく自然現象として圧力が抜け出るところを探すように頭の半分くらいまで圧力が高まり、やがてふと圧力が抜けると同時にズンッッッッという低い鈍い音がする感じなのです。このように意図したわけではなく、自然にこうなりました。イメージもしていません。<br /> <br /> この感じですと、一旦圧力が抜けたらもうこの音は聞こえなくなるのかな? という気もしますが・・・ どうでしょう? そうであれば先日引用した同書の記述通りではあるのですが。<br /> <br /> これは、高周波のナーダ音と違って、ずっと聞こえているという感じではありません。まだ高周波のナーダ音は聞こえ続けています。<br /> <br /> 気付いたのは今朝が初めてなので、まだまだ様子見です。<br /> 30分か1時間くらい散発的に聞こえていて、今は聞こえていません。<br /> <br /> この音はアジナあるいは松果体に関係しているとどこかで読んだ気がしますけど、まだ大きな変化はありません。<br /> <br /> そういえば先日(確か昨晩)に家でヘッドスタンドしていた時に左耳から似たような音が聞こえていましたけど、その時は骨か何かの圧迫音かなぁ と思ってスルーしていました。今までそんな音が聞こえたことはなかったのですが、ヘッドスタンド終わったら音が消えたのであまり気にしていなかったのです。ここしばらくは骨折していてヨガのアサナしていませんでしたし、ヘッドスタンド再開したのもここ1週間くらいなので、久々にやったらちょっと変わってたなあ、くらいでスルーしていました。ですが、今朝、同じ音が再度聞こえたので、ようやく、何だろう、と思うようになったわけです。<br /> <br /> 昨晩と今朝聞こえただけなので、これから様子を見ます。<br /> <br /> <br /> Tue, 03 Sep 2019 00:00:00 +0900 オーラ的に見たサマーディとサムヤマの謎解き https://w-jp.net/2019/1643/ <br /> サマーディの定義は様々ですが、その一つにヨーガスートラ4章1〜3節があります。<br /> <br /> 4章1〜3番)ダーラナーとは、心をある特定の対象に集中することである。その対象の知識の不断の流れが、ディヤーナである。それがすべての形をすてて、意味だけを映すようになったとき、それがサマーディである。「ラージャ・ヨーガ(スワミ・ヴィヴェーカーナンダ 著)」<br /> <br /> このサマーディの定義は、わかるようでいてわからない、謎の多い言葉でした。又、サムヤマも以前に引用したように、ダーラナー(集中)・ディヤーナ(瞑想)・サマーディ(三昧)が同時に起こととされていますが、これまた謎の多い言葉です。<br /> <br /> ですが、最近のオーラ的な見方をサマーディやサムヤマに当てはめてみると意外にスッキリ理解できることに気がつきました。これは私の仮説で、本で読んだものではないのでそのまま信用しないでください。<br /> <br /> まず、プラティヤハーラ(制感)から段階的に行きます。<br /> <br /> ■プラティヤハーラ(制感)<br /> これは感覚を制御して五感を引っ込めること、と説明されています。ヨーガスートラの八支則のうちこのプラティヤハーラ(制感)からいよいよ内面の世界に突入するわけです。<br /> <br /> これをオーラ的に見ると、「オーラを安定させる」となります。オーラが安定せずにブワッと発散した状態ですとはみ出たオーラが他人やそこらに浮かんでいるオーラと接触して色々な情報を無作為に拾ってしまいます。オーラを安定させることで外の情報を無意識に拾わないようにします。<br /> <br /> ■ダーラナ(集中)<br /> オーラ的には、「オーラを一定の形に保つ」ことです。<br /> <br /> ■ディヤーナ(瞑想)<br /> ダーラナ(集中)が長く安定すればそれはディヤーナ(瞑想)になります。それは「オーラを一定の形に、より長く安定して保つ」ことです。瞑想にも色々ありますが、現実の現象や物・人について瞑想する場合は「対象」がありますので、「オーラを伸ばして、対象と接続する。その状態を保つ」というところまで含まれると思います。<br /> <br /> ■サマーディ(三昧)<br /> 上記のヨーガスートラの定義には「すべての形をすてて、意味だけを映すようになったとき、それがサマーディ」とあります。「すべての形をすてて」ということは、オーラ的に言えば「相手という形を持ったオーラと、自分という形を持ったオーラが、接触することによって混ざり合い、形を失う。オーラが混ざり合うことで『意味』が出現し、意味が写し出される。」と解釈できます。であれば、サマーディとはオーラが接触して相手と混ざり合うことだ、と言えます。<br /> <br /> ここでちょっとした疑問が生じます。オーラの接触であれば修行せずとも誰それ構わず普段から生じています。それなのに何故、わざわざサマーディ(三昧)が大事なものとして扱われているのでしょうか? それはおそらく、修行していなければ「それに気付かない」からなのではないかな、という気が致します。一般人がオーラの接触をして雑念が生じてもそれがサマーディで相手の状態だとはわからず、単に雑念として処理してしまうのではないでしょうか。<br /> <br /> ある程度の浄化ができていなければオーラが混ざり合ってもオーラの中身を読み解くことができませんので、前提条件として浄化とか集中ができて初めてサマーディで「意味」が浮き出る、とすればすんなり理解できます。<br /> <br /> ただ、サマーディの定義は他にも色々あって混乱しますので、今のところはサマーディの全てを網羅しようとはしない方が良さそうです。ここでは、ただ、オーラの接触がサマーディと同じ性質を持つ、というくらいの理解でいいのかなと思います。<br /> <br /> ■サムヤマ(サンヤマ、綜制)<br /> サムヤマの定義は上に記載しましたようにダーラナー(集中)・ディヤーナ(瞑想)・サマーディ(三昧)が同時に起こととされています。これをオーラ的に読み解くと以下のようになります。<br /> <br /> まず前提として<br /> ・浄化<br /> ・プラティヤハーラ(制感) オーラを安定させる<br /> <br /> サムヤマは以下の三つが同時に起こること。<br /> ・ダーラナー(集中) オーラを一部に集中させる<br /> ・ディヤーナ(瞑想) オーラを一部伸ばして対象に突き刺すことで対象を「想う」。<br /> ・サマーディ(三昧) 接触したオーラから「意味」を読み取る。<br /> <br /> このように考えますと、それぞれ役目が違うのですから、よく理解できます。元々のヨーガスートラの意味では理解できなかったことが、オーラの理解に基づくと、より深く理解できる気が致します。<br /> <br /> 繰り返しますけど、どこかの本で読んだわけではないので、あくまでも仮説です。<br /> <br /> さて、サムヤマがこのようなものであれば、ヨーガスートラの以下も理解できます。<br /> <br /> 3-5) (サムヤマによって)知識の光がくる。「ラージャ・ヨーガ(スワミ・ヴィヴェーカーナンダ 著)」<br /> <br /> 上記のようなサムヤマであれば、確かに「知識」がやってくることでしょう。<br /> <br /> まず大前提として自分のオーラが浄化されており、安定しており、意思の力でオーラを自由に制御できるようになり、更にはオーラの感覚が敏感になることでオーラの内容を読み取ることができるようになる。その時、「サムヤマ」が可能になるのでしょう。であれば、サムヤマによって「知の光」が来る、と言うのもよく理解できます。<br /> <br /> そして、ヨーガスートラによれば「まず最初は粗大なものから始め、より微細なものへとサムヤマの対象を段階的に進めるべき」と書いてありますが、これも納得です。わかりやすいものからオーラの読み取りを始め、感覚が鋭くなるにつれて微細なものを読み取れるようになるということなのでしょう。<br /> <br /> サムヤマの謎が大分解けてきた感じが致します。仮説ではありますけど。<br /> <br /> <br /> <br /> 関連記事: サムヤマの謎(サンヤマ、綜制)<br /> <br /> <br /> Tue, 03 Sep 2019 00:00:00 +0900 頭で詰まる感じはマニプラで詰まる感じと似ている https://w-jp.net/2019/1626/ <br /> マニプラ優勢だった時はマニプラとアナハタの間に壁があるような感じがしていて、マニプラで詰まって上に行かないような感じでした。<br /> <br /> 今はアナハタ優勢になっているのですが、エネルギーが頭の半分くらいまでは来ているのですが、そこから上には行かなくて、マニプラ優勢だった時と同様に、頭の途中で詰まっているような感じです。<br /> <br /> ■グランティ(結節、結び目)<br /> マニプラとアナハタの間にはヴィシュヌ・グランティ、アジナとサハスララの間にはルドラ・グランティがありますが、それぞれの段階で「詰まる」感覚があるのだと思っております。<br /> <br /> ■一気に抜けてしまう人もいる<br /> グランティは私の場合は一つづつ通過していますが、本を読むと、最初のクンダリーニ覚醒時に一気にこれらのグランティを通過してしまう人もいらっしゃるようです。<br /> <br /> 以前 書きましたようにクンダリーニの覚醒は3種類あるように思われますが、グランティを解放してからクンダリーニが上がる場合と、グランティ解放前にクンダリーニを上げてすぐにはグランティが解放されない場合と、クンダリーニ覚醒と同時にグランティも破壊する場合と、クンダリーニ覚醒後にゆっくりとグランティを超えてゆく場合とがあるように思われます。<br /> <br /> 私の場合はクンダリーニ覚醒時に完全にクンダリーニが動いたというよりは2つの光の筋が通っただけでクンダリーニが完全に動いた感じはありませんでしたので、クンダリーニは少しづつ動き出して、グランティも一つづつ超えている感じです。<br /> <br /> ちなみに、クンダリーニって何か特殊なもののような感じがしていましたが、今はただ単に、エネルギーのルートができて活性化するだけのことな気がしてきています。比喩的に蛇の力とか何とか言われていますけど、人によってエネルギーの質も強さも違うのですからクンダリーニと言っても人それぞれなのは当然なのかなと今は思います。<br /> <br /> <br /> <br /> Tue, 27 Aug 2019 00:00:00 +0900 アナハタ優勢になると万人が悟っているように感じる https://w-jp.net/2019/1625/ <br /> 以前 にも書きましたが、特に2ヶ月前にアナハタ優勢になってからは「実は周囲の多くの人が実は悟っているのでは・・・?」という気になってきました。その時はちょっと控え目な書き方しましたが、実は、(地域によっては)住民のほとんどが悟っているのではないかな・・・ と、日本国内ですらそう思うようになったのです。「あれ? 実は私が悟っていなかっただけで、みんな実は既に悟っていたのかもしれない???」というような気持ちになったのです。今はそれが錯覚のようなものだと気付いてきましたし、感覚も薄れてきたのですが、それでも、今もそのような感覚はあります。<br /> <br /> 「正法眼蔵 参究(門脇 佳吉 著)」には以下のようにあります。<br /> <br /> 人の、さとりをうる、月に水のやどるがごとし。(中略)「人が悟りをうると、月が水に宿るがごとく、本証が万物に宿ることがわかる」という意味になる。「もし人が、三昧に端坐するとき、宇宙万物ことごとく悟りとなる」と同じ事態を指している。この場合、月が水に映るように、本証(悟り)が人・万物に映っているのではない。人も万物も、もともと仏法であるから、本証であったのである。ある人が悟ることによって、人・万物が本証であることが顕になるのである。<br /> <br /> であれば、私の感じた「万人が悟っている気がする」感覚は、ある種の悟りの片鱗を垣間見たのだと思われます。<br /> <br /> 「さとり」には何段階もありますが、ここでの「さとり」はおそらくアナハタ以降のことを言っているのかな、と私個人的には思います。きっともっと深まれば強くこのことを感じて確信に至るのでしょうが、アナハタくらいですと「そんな感じがする」というくらいなのだと思います。<br /> <br /> マニプラ優勢の頃までは、このことを頭で理解していても体感することはあまりありませんでした。マニプラ優勢の頃は「頭で理解して、体感せず」という感じだったのです。<br /> <br /> 一方、アナハタ優勢になってからは「頭で考える以前に、体感で万人が悟っている気がする。でも、頭で考えると、そんな筈はないと思い留まる。」という感じです。頭で考えなかったら素直に「みんな悟ってる!」とすんなり受け入れてしまいそうになりますが、そんな筈はないですから。体感的にはみんな悟っている気がするのですけど、行動を分析したり観察したりすると悟っている訳はないとロジックで理解するわけです。<br /> <br /> もしかしたら、その変な行動すらも含めて「悟り」なのかもしれないですけど。思い悩むことも怒ることも悲しむことも笑うことも喜ぶことも全て含めて「さとり」であるのだとすれば、周囲の人はやっぱり全員既に悟っていて、きっとそれに自分では気づいていないだけなのでしょう。<br /> <br /> <br /> Mon, 26 Aug 2019 00:00:00 +0900 瞑想中に生じるイメージや音は重要ではない https://w-jp.net/2019/1624/ <br /> ヨーガの瞑想では瞑想中に見たり聞いたりするものは重要ではないので無視するように指導されます。<br /> 類似のことが仏教においてもありますが、わかりやすい説明がありましたのでメモしておきたいと思います。<br /> <br /> 瞑想中に生じる明るい光は、サマタ瞑想において、ただ純粋な集中を通して起こり得ます。また、それらはヴィパッサナー瞑想の洞察智によっても起こり得る。理解がたいへん明晰で鋭くなるので、あなたは自己の内側に、非常な輝きを感じるのです。(中略)一部の人は、ブッダの姿や安らぎに満ちた景色といった、それぞれ異なったイメージを見ることもあります。(「自由への旅: マインドフルネス瞑想 実践講義(ウ・ジョーティカ 著)」)<br /> <br /> この2種類の指摘は面白いです。ヨーガでも似たような説明がありますね。同書は次のように続きます。<br /> <br /> 場合によっては、それを解釈しても構いません。しかし、解釈は重要ではない。(中略)こうしたイメージは、ニミッタ(nimitta)と呼ばれます。(「自由への旅: マインドフルネス瞑想 実践講義(ウ・ジョーティカ 著)」)<br /> <br /> 以下は同書で引用している聖典の言葉です。<br /> <br /> 色々なものを見た時、それが何であれ、ただそれらに気づきを入れるか、あるいは注意を払うだけにして、何事も解釈しないようにしてください。というのも、解釈する時、あなたは考えていることになる。考える時、あなたは気づきと集中を失って、マインドフルネスの水準は、下がっていくことになるのです。(「自由への旅: マインドフルネス瞑想 実践講義(ウ・ジョーティカ 著)」)<br /> <br /> これは明確な指摘だと思いました。イメージや音は心が生み出しているものなので現在の心の状態を知る手助けにはなるが、それよりもマインドフルネス(ヴィパッサナー、気付きの瞑想)の状態を保つことが重要とのことです。<br /> <br /> ■クンダリーニ・ヨーガや仙道での光<br /> クンダリーニ・ヨーガの流派によっては瞑想中に見える光の中に飛び込んだりするらしいですけど、私はよくわかりません。<br /> 同様に仙道でも似たような行法があったりするようですが、こちらもわかりません。<br /> <br /> これ、瞑想中に見える光のことではなくて、幽体離脱の時にサハスララあるいは後頭部あたりからいわゆる魂が抜け出る時に見える光というか目印になる「いわゆる」光(のようなもの)、抜け出る方向を示す、方向指示器のような・・・、あるいは、三次元の目から幽体の目に切り替わる(というか両方動いているが幽体の目が優勢になる)タイミングで過渡的に光が見える感じがする、そういう、いわゆる「光」でしたらそういうのもあるのかな、と思うのですが、瞑想中に見える光に飛び込む、というのはどうもコンテキストが違う文脈を一緒くたにしている気がします。普通に瞑想している時に見える光に関しては無視でいいと思います。<br /> <br /> <br /> <br /> <br /> Sun, 25 Aug 2019 00:00:00 +0900 悪口の根絶は不還果=アナハタ優勢の時に起る https://w-jp.net/2019/1622/ <br /> テーラワーダ仏教に基づきますと、悟りの第三段階である不還果(ふげんか)によって悪口(あっく)が根絶されると言います。<br /> <br /> 第三の段階に至ってはじめて、瞑想者は貪りと怒り、そして欲求不満を完全に克服することができます。誤った思考(miccha-sankappo, 邪思惟)、中傷(pisunavaca, 両舌)、ひどくきつい言葉(pharusavaca, 悪口 あっく)が根絶されます。(「自由への旅: マインドフルネス瞑想 実践講義(ウ・ジョーティカ 著)」)<br /> <br /> 第三の段階とは不還だと解釈できます。<br /> <br /> 私の場合、もともと汚い言葉は好きではありませんでしたが社会に何十年と暮らすにつれて言葉が悪くなってきてしまっていましたが、2ヶ月前の風の体験でアナハタ優勢になって以来、汚い言葉を聞くのも話すのも無理になってしまいました。汚い言葉を聞くと調子が悪くなって頭痛がしたりしますし、汚い言葉を話すのは無理な感じになってきております。<br /> <br /> 悟りの第三段階である不還果で悪口が根絶されるということは、私の場合に当てはめると、不還果がアナハタ優勢の状態に対応するのだと思います。<br /> <br /> アナハタ優勢になれば悪口ができなくなる、というのは理にかなっていますし、実際そんな感じです。これは躾とか道徳というものではなくて、感覚的に汚い言葉は無理な感じで、生理的に受け付けなくなってきました。ある意味、とても生き辛くなってしまったのです。<br /> <br /> 他の人がどうかは知りません。私の場合はこんな感じです。<br /> <br /> ■四沙門果とチャクラの対応<br /> あまりこう言う対応付けはしないのかもしれませんが、私の感覚を元に四沙門果をチャクラに対応付けてみますと以下のようになります。<br /> <br /> ・預流果:クンダリーニ覚醒前。チャクラ感覚ほとんどなし。<br /> ・一来果:クンダリーニ覚醒後。マニプラ優勢<br /> ・不還果:アナハタ優勢。<br /> ・阿羅漢果:アジナかサハスララ優勢と推測(私はこれから)<br /> <br /> これらの内容については以前の記事で引用したことがあります。<br /> <br /> ■違う切り口<br /> 上で引用した書物は同じテーラワーダ仏教でも以前に引用した「悟りの階梯(藤本 晃 著) 」とは切り口が違うので興味深いです。例えば、預流果と一来果について以下のように説明しています。<br /> <br /> <br /> ・欲望、貪り、怒りあるいは欲求不満は、悟りの第一の段階によっては根絶されず、ただ誤った見方と疑いだけが根絶される。<br /> ・悟りの第二段階は煩悩を弱めるだけ。貪り、怒り、欲求不満が弱められる。<br /> ・(第三の段階(不還)は上に引用した通り)<br /> ・綺語(無益なお喋り)、即ち「新聞に書いてあるような、ニュースやゴシップについて語ること」と、邪精進(誤った努力)、邪定(じゃじょう、誤った禅定)、邪解脱(誤った解脱)、邪智(誤った知識)については、第四の洞察智によって初めて、根絶することが可能です。(「自由への旅: マインドフルネス瞑想 実践講義(ウ・ジョーティカ 著)」)<br /> <br /> <br /> 私には第四段階のものが具体的には分かりませんので、まだ第四段階ではないことがこれでわかります。<br /> <br /> 同書では第1〜4という数字での言い方が多く、この部分に明確に四沙門果の名前は書いてありませんが、内容的に第一の段階は預流者、第二段階は一来、第三段階は不還、 第四とは阿羅漢果だと解釈できます。<br /> <br /> <br /> <br /> Sat, 24 Aug 2019 00:00:00 +0900 虚空に響き渡るオーム https://w-jp.net/2019/1620/ <br /> 先日から眉間の集中ポイントで玉っぽい感覚が出来てきましたが、その後、お腹のあたりにも何か大きな玉のようなものが感じられるようになりました。お腹のあたりがキュッと締まって玉を抱えているような感覚です。その状態で瞑想を続けていると、眉間の玉が無あるいは虚空のような空間と繋がっているような気がしてきました。<br /> <br /> 私は瞑想する時は沈黙の瞑想をすることも多いですが、オームを心の中で唱える瞑想をする時もあります。眉間に玉の感覚がある状態でオームを心で唱えると、以前との変化を感じることができました。<br /> <br /> 以前は、眉間のオームをすると眉間の肌がザワザワした感じになりました。単に眉間に集中しただけでも眉間の肌がザワザワきますが、オームを唱えるとそのザワザワがより強くはっきりと感じられていました。<br /> <br /> 眉間に玉がある状態では先日の記事で書きましたようにザワザワした感じがほとんどなく、オームを唱えてもやはりザワザワした感じはないのですが、オームを唱えると眉間の玉の中にオームが響き渡る感じになってきました。眉間の玉が無あるいは虚空の空間に繋がっている、とでも言いましょうか。オームを唱えると眉間の玉の無あるいは虚空の空間の先に響き渡る感じなのです。<br /> <br /> そういえば「密教ヨーガ(本山博著)」に以下のようなアジナチャクラの覚醒方法が書いてあります。<br /> <br /> 心(意識)を眉間のアジナチャクラに集中し、眉間からプラナを吸い取ると念じながら、オームを心の中で唱え、息をゆっくり深く吸い取ります。次に、アジナチャクラからプラナを宇宙に吐き出すと念じながら、オームを心の中で唱え、息をゆっくりと吐き出します。これをできるだけ長時間繰り返します。<br /> <br /> これを前に読んだ時は「プラナを吸い取る」とか「宇宙に吐き出す」みたいな感じがよく分からなかったのです。今は、吸い取るとか吐き出すとかの明確な感覚はないにせよ、もしかしたらこの部分は無あるいは虚空へと繋がる感じのことを言っているのかな? という気がしました。<br /> <br /> 瞑想の調子次第ですので、毎回このような感じになるわけでもないですが。この感覚、なかなか微妙で感じるのが難しいです。<br /> <br /> Fri, 23 Aug 2019 00:00:00 +0900 集中と雑念の分離と客観視 https://w-jp.net/2019/1619/ <br /> 先日の続きです。<br /> <br /> フォーカスポイントに玉のような感覚が出来て雑念が浮かびにくくなったわけですけれども、それに加えて、次のような変化がありました。<br /> <br /> 以前は、集中と雑念がそれぞれ依存関係にあると言いますか、集中すれば雑念がそれに引っ張られて雑念が止まったり、あるいは、雑念が起これば集中が途切れる、というように相関関係が見られました。<br /> <br /> 今回の変化の以降は、この結びつきがかなり緩くなりました。<br /> <br /> 集中は集中として眉間のフォーカスポイントに玉を作り続け、かと言って、その集中が時折聞こえる雑念・・・ ともまた違う感じですがとりあえず雑念としておきますが、その雑念を妨げないのです。逆も同様で、とりあえず雑念としておきますが雑念のような何かのインプットがあっても集中を妨げずに眉間のフォーカスポイントに玉を作り続けるのです。<br /> <br /> 雑念よりももっと微細な意思のような気もしますので、雑念と言ってしまうといわゆる心というかマインド的なものを意味しますけど、それよりも微細な感覚な気が致します。言葉にするとどちらも「心」だったり「マインド」だったり「雑念」と言うことになるのかもしれませんけど。<br /> <br /> そのように、「集中」と「雑念(心、マインド)」が分離してきたわけです。 <br /> <br /> 「集中と雑念(心、マインド)が分離」と言う表現はちょっと誤解がありそうですので、別の表現をすると以下のようになります。<br /> <br /> 「集中」は顕在意識における「思考」としての心、マインド、雑念と結びついており、集中している間は「思考」は止まり、同レベルにおける雑念も止まる。<br /> 一方、集中して思考が止まっている間であっても「想念」としての心、マインド、雑念は動いている。あるいは、その想念はどこかから流れたりしてきている。<br /> <br /> と、このようなことなのかな? と言う気が致します。<br /> <br /> 以前は「思考」と「想念」がごっちゃになっていて、今回のことで「想念」が見えてきた、と言うことなのかもしれません。<br /> <br /> 「想念」と言う言い方が必ずしも正しいとは限りませんけど、対比して言うならばこんな感じです。<br /> <br /> ■客観視<br /> これを、人によってはもしかしたら古来から「客観視」とか言ってきたのかもしれないですけど、この感覚をそのまんま表現するならば客観視と言うのは語弊がある言い方のような気が致します。と言うのも、客観視というと「自分」がどこか「彼方」から、例えばゲームキャラクタのように俯瞰することをイメージしてしまいがちですけれども、この種の想念の観察は自分がどこにも行かなくて、むしろ完全に「ここ」にいて、「いま」「ここ」にいるからこそ想念が見えるので、それを客観視と言ってしまうと「なんのこっちゃ?」となる気が致します。分かっている人同士ならば「ああ、客観視ですか。ああ、そうですね」と納得できるでしょうが、その状態を知らない人に対する説明として「客観視」は誤解がかなりあると思います。ミスリードしてしまいそうな表現です。<br /> <br /> 本当の客観視は幽体離脱のように外から見ることだと個人的には思います。<br /> <br /> 客観視と言うよりも、状況そのままに言えば「思考と想念が分離して認識できるようになり、それが思考ではなく想念だと認識しつつ想念の観察が可能になった状態」とでも言いますか。<br /> <br /> きっと古来からこのことを客観視だとか言ってきたのかなあ、という気がしました。古来から、という部分は推測で仮説ですけど。「自分」というのはどこにも行ったりせずに「いま、ここ」にいて「想念の観察」をしているので「客観」というのはよく分かりませんけど、この種の「想念の観察」のことをきっと「客観視」と世間では言ったりするのかなと思います。流派にもよるのかもしれないですけど。<br /> <br /> <br /> Fri, 23 Aug 2019 00:00:00 +0900 想念とフォーカスポイントと雑念 https://w-jp.net/2019/1618/ <br /> 以前書きましたように、瞑想の質が変化してきてからは眉間に集中すれば2〜3秒で雑念が消えるようになりました。それは、眉間にあるザワザワした感覚と言いますかエネルギー的な何かが雑念を打ち消してしまうのですが、最近までその眉間のザワザワ感が何かよく分かりませんでした。<br /> <br /> どうやら、その眉間のザワザワ感は、集中(フォーカス)が十分にできていないことによるエネルギー的な「ブレ」な気がしてきました。<br /> <br /> 特にここ1週間はちょっと頭の上に壁がある感じがしており、それを不安定と言えばそうなのかもしれませんけど不安定というと語弊があるかもしれない状態でした。以前よりは遥かに安定してい流のですがその安定の中であっても頭の上に壁があって、瞑想するときにその壁と言いますか何かが安定感を損なわせている感じだったのです。<br /> <br /> そこで、ここ1週間くらいはその壁が何なのかな・・・ と思いつつも眉間に集中する瞑想を続けていましたところ、急に眉間の集中の度合いが深まって、眉間にちょっとした玉が出来たような感じになりました。それはいわゆるフォーカスポイントとでも言うべき集中の点ですけれども、そのフォーカスポイントの玉が出来た瞬間に、雑念のレベルが急に更に減りました。<br /> <br /> どうやら瞑想が終わってもその効果が続いているようです。<br /> <br /> 眉間のザワザワ感がほとんどなくなって、代わりにフォーカスポイントに玉が出来た感じです。<br /> ザワザワ感は振動幅が大きいことによる感覚で、今は振動幅が狭くなって周波数が高くなったような感じがしています。<br /> <br /> 以前は眉間の周りが沸騰する水のように色々なところからザワザワと浮き沈みがあり、浮き沈みの一つ一つの振動幅が今よりも大きくて、周波数も今よりも低い感じでした。その感覚がある範囲は円ではなく割と幅広い感じでした。今は範囲が玉というか球のような感じで、沸騰の浮き沈みはほとんど感じられないくらい振動幅が小さくなって周波数も上がった感じです。<br /> <br /> おもちゃで、円盤に紐がついていて両手で引っ張るとビューンと回るのがあったと思いますけど、そういうイメージです。そのおもちゃは、あまり勢いなくゆっくり回っているとブレが大いですけど勢いよく回すと中心で安定する、という感じが今回のと似ています。「びゅんびゅんマスター」みたいな。<br /> <br /> 雑念のレベルには浮き沈みがありますけど、1ヶ月くらい前に書きましたように雑念が減って「いま」に生きる感じになってきましたが、ここ1週間はちょっとリバウンド気味で雑念が少し増えていると言いますか上に書きましたように壁がある感じでした。雑念が増えたと言っても、数ヶ月前に比べると随分と減っているので、1ヶ月くらい前に比べると少しリバウンド、と言うことではありますが。<br /> <br /> そんな状態でここ数日瞑想をしていたら、上に書いたような変化があったのです。<br /> <br /> 1ヶ月前は「瞑想中に雑念が出てきても眉間のザワザワで2〜3秒で雑念が消える。瞑想している間だけ効果あり。」と言う感じでしたが、今日の瞑想では「フォーカスポイントの玉がある間は雑念がそもそも湧きにくい。瞑想の後にも効果が持続する。」と言う違いがあるようです。<br /> <br /> 雑念なく生きることが「いま」に生きることですから、今回の変化で更に雑念が湧きにくくなったことにより「いま」に生きることがより簡単になったとも言えます。程度問題ではありますけれども。<br /> <br /> <br /> Thu, 22 Aug 2019 00:00:00 +0900 何故瞑想するのか? シバナンダの答え https://w-jp.net/2019/1608/ <br /> スワミ・シバナンダおよびその弟子のスワミ・ヴィシュヌ・デヴァナンダは次のように説明しています。<br /> <br /> 瞑想の助けがなければ、あなたは自己(Self)の知識を得ることができません。 その援助がなければ、あなたは神の状態に成長することはできませ ん。それがなければ、あなたが心の不調から解放され、不滅を得ることはでき ません。瞑想は、自由を得るための唯一の王道です。それは、地球から天国へ、過ちから真実へ、闇から光へ、痛みから至福へ、落ち着きのなさから平和へ、無知から知識 へと至る謎のはしごです。 死から不死まで 。<br /> <br /> これが宗教的な最終的な目標になります。<br /> <br /> 瞑想を通して、心の遊びが目撃されます。 初期段階では、自我が絶えず自分自身を表明していることを発見する以上のことは起きません。しかし、そのゲームに慣れ親しむにつれ、満足した平和な状態を好み始めます。自我が静まった時、個人の成長と他者の奉仕のために エネルギーを建設的に利用することができます。<br /> <br /> これが途中経過です。一般的にはこの段階を得るだけでも十分、人生を建設的に生きることができます。欧米で流行っているマインドフルネスなどもこの段階を目的にしています。ビジネスの効率を上げたりストレスの解消はこの段階で達成されます。<br /> <br /> 道は数多くありますが、真実は一つだと言われています。定期的に瞑想することによって、心はより明確になり、より純粋な動機が得ら れます。潜在意識は、より良い理解を可能にする隠された知識を解放します。 自我はゆっくりと消滅します。 最終的には潜在意識やエネルギーが解放され、知恵と平和のある生活に変わってゆきます。<br /> <br /> 最初の目的がビジネスや心の平穏であったとしても、最終的に瞑想はこれらの状態に導くことでしょう。それを求めるかどうかは各人次第ではありますが。<br /> <br /> 引用元:「Meditation and Mantra (Swami Vishnu-Devananda著)」から翻訳<br /> <br /> Thu, 15 Aug 2019 00:00:00 +0900 ピタゴラス派の「天球の音楽」と「ナーダ音」 https://w-jp.net/2019/1607/ <br /> 以前、ナーダ音について書きました。その後、ピタゴラス派とナーダ音 について書きました。今回はその続きです。<br /> <br /> 「ピュタゴラスの音楽(キティ・ファーガソン 著)」を読みました。これはヨーガの本ではありませんのでナーダ音のことは出てきませんが、各所にそれらしき表現が読み取れるのが興味深いです。同書では「天球の音楽」を以下のように記しています。<br /> <br /> アルキュタスを通してプラトンへと受け継がれたピュタゴラス派の考え方のなかでもとくに広く知られ、長い間、大きな影響力をふるい続けたのは、「天球の音楽」という概念だった。アルキュタスとピュタゴラス派の先人たちは、惑星が天空を勢いよく進みながら音楽を奏でていると考えた。(中略)ピュタゴラス派の伝承によると、この音楽を聞くことができるのはピュタゴラスだけだった。<br /> <br /> これは興味深いです。ピュタゴラスだけが聞くことができる音楽!<br /> 「天球の音楽」は「天上の音楽」(以前引用した記事)とか「天空の音楽」など色々な訳があって訳が一意ではなさそうです。<br /> <br /> どうやら、この「天球の音楽」から音楽の楽譜やオクターブの概念が作られたそうです。<br /> <br /> 天体の動く速さは一様でないように見える。ピュタゴラス派は動きが速いほど、立てる音は高くなると考えるにいたり、天体どうしの相対的な距離の比を音程に呼応させる際にこの点を考慮に入れていたと、アリストテレスは書いている。天体が全部合わさると、全音階のオクターブがすべてそろった。<br /> <br /> 現在の音階の元となる概念を作ったのがピュタゴラス派で、天球の音楽とはもともとそれを指していたのでしょうか? それだけだったのでしょうか? ナーダ音的な意味合いはなかったのでしょうか? と思って読み進めましたところ、やはり、ありました。ピュタゴラスやアリストテレスのような偉人はやはり、薄々とかもしれませんがナーダ音のことを意識していたのだと推測できます。<br /> <br /> アリストテレスによれば、ピュタゴラス派は天体が動いて実際に音が出ていると信じていた。アリストテレスは普通の人間が聞こえない理由としてピュタゴラス派が挙げたと彼が思っていることを述べた。<br /> この音に誰も気づいていないという難点を彼らはこう説明している。その音は生まれたときから私たちとともにあるため、比較対象となるような静けさがない。声と静けさは互いに対になって初めて認識されるのであり、人間はみな、長年のうちに雑音にすっかり慣れて無頓着になった銅細工職人と同じような経験をしている。<br /> <br /> これは、ナーダ音も同じくずっとそこにあるが気付かない、という点と類似しています。<br /> <br /> キケロも似たような説明をしています。<br /> <br /> 非常に高い山々から水が落下する、ナイル川のカタドゥパと呼ばれる場所に暮らす人々は、轟音のせいで聴力を失った。たいていの人に天球の音楽が聞こえないのは、それと同じように耳が聞こえなくなっているからだと説明する。<br /> <br /> 同書によれば、15世紀と16世紀のイタリアにおいても、「宇宙の音楽」という概念が好まれたといいます。そんな時代、ガッフリオという人が「ピュタゴラスだけが聞こえる」という概念を「ずばぬけて高潔な者だけが聞くことができる」と修正したそうです。<br /> <br /> 当時、音楽理論の最高権威だったフランキーノ・ガッフリオは、真のピュタゴラス派になろうと手を尽くした。彼は、まるで古代人が蘇ったかのように、ボエティウスが協和音程と認める音程以外はいっさい考慮しようとしなかった。(中略)言い伝えによれば、ピュタゴラスだけが天球の音楽を聞くことができるということだったが、ガッフリオはそれをわずかに修正して、ずばぬけて高潔な者だけが聞くことができるとした。<br /> <br /> これはまさに、ナーダ音の概念に類似しています。「ずばぬけて高潔な者だけが聞くことができる」という概念も、ナーダ音が「浄化が進めば聞こえるようになる」という概念である点と類似しています。<br /> <br /> その後17世紀、天文学者のケプラーが天文学的な法則から天球の音楽を楽譜上に落とし込む努力もしています。この時代は、音楽と天文学とが一体になっている、興味深い時代だったようです。今もチャクラ理論などで音楽の楽譜が出てきたりするのはこの時代の流れが関わっていそうで興味深いです。ただし、ケプラー自身は天文学においては名声を得たものの、この音楽理論を発表したことで珍品扱いされた、と記されています。<br /> <br /> その後、ピタゴラスの天球の音楽はシェイクスピアの物語に比喩として登場したり、各所でその概念は生き続けているようです。確かに、言われてみればそのような比喩を度々聞いたことがありますね。今では改めて意識しなければすぐに忘れてしまうくらいの比喩ですが、中世においてはかなり有名で人々が熱中した概念だったようです。<br /> <br /> ただ、それらの物語ではあくまでも比喩であり、人の耳では聞こえないのが前提として描かれているようです。<br /> <br /> そうして20世紀になり、天文学者が再度「天球の音楽」に目を向けるようになります。<br /> <br /> 1962年、太陽を研究している天文学者たちが、太陽内部を通過する音波が、目に見える太陽の表面、すなわち光面を泡立たせていることを発見した。彼らはそれを「太陽の交響曲」と表現したが(中略)、太陽は無数の倍音を発しているからだ。もちろん、私たちの太陽だけがこのように振動する恒星というわけではない。<br /> <br /> 又、ブラックホールも類似の交響曲を奏でている、という趣旨のことを言っている人もいるようです。であれば、宇宙には音が蔓延しているということでしょう。これは、近年の宇宙のドキュメンタリーなどで我々にはそれなりに親しみのある概念かとは思いますが、中世まではこのような概念はピタゴラス派に基づくものだったようです。<br /> <br /> ■天球の音楽とナーダ音は同じ?<br /> 同書の記述を見る限り、天球の音楽がそのまま100%ナーダ音と同じ概念ではないものの、類似性が見て取れます。「浄化されれば聞こえるようになる」という点から、人間の精神性の成長という観点から言えばおそらくナーダ音に近い性質を持っていると判断できます。ただし、ピタゴラス派(今もいるのでしょうか?)の人が「天球の音楽はナーダ音です」と言っているのは聞いたことがありません。<br /> <br /> 昨今、ヨーガをしている人はこの「天球の音楽」がナーダ音のことだと言ったりしますし、ヨーガの文献にもそう書かれてあったりします。私も基本的にはそう思っています。ですから、ヨーガ的には天球の音楽とはナーダ音のことだ、と解釈して良いのではないかと思います。<br /> <br /> ナーダ音が何なのか? という点に関しては前記事を参照してください。<br /> <br /> <br /> <br /> Tue, 13 Aug 2019 00:00:00 +0900 クンダリーニの覚醒、3分類 https://w-jp.net/2019/1602/ <br /> 昔書いた記事の続きです。<br /> <br /> 神智学系の「クンダリニ(ある奥義体験)(G.S.アランデール 著)」に以下の記述がありました。<br /> <br /> クンダリニの発達には、全体として二つの系統があるように思う。その一つは、ゆっくりときわめて緩やかに、注意深く少しづつ進みながら、恐らくは高次の生にまで拡大してゆき、ふつうの成長と”同じ歩調”で発達する。もう一つは、最後の瞬間までクンダリニの積極的な覚醒をやらないでおくのであって、いわばまあ全てが安全で、大師が宣言を発せられるとクンダリニが一気に目覚めるのである。この方法は、ある意味からすると、もっとずっと危険をはらんでいるが、しかし個人が慎重を期せば、少しも危険なことはないだろう。(中略)後の方法はごく稀に行われるだけで、大部分は前の方法がとられる。<br /> <br /> これは、他の書物で言われているような「クンダリニの性急な早すぎる目覚めが危険」と言う文脈とは若干異なり、最後まで覚醒しないで最後に急激に覚醒する、と言う位置付けのようです。と言うことは、3分類あるのでしょうか。<br /> <br /> <br /> ・性急なクンダリーニの目覚めにより轟音と共に一気に上がる急激型。危険。一部のハタヨガや仙道の方法? 実は三つ目と同じ?<br /> ・少しづつ上がる緩慢型。(神智学では)大部分はこれ。おそらく私もこのパターン。<br /> ・最後まで覚醒しないでおいて、最後に一気に目覚める方法。(神智学で)稀に選択。実は一つ目と同じ?<br /> <br /> <br /> 以前にも少し書いていたと思いますが、クンダリーニが目覚めた時の「熱」のエネルギーをそのまま登頂にまで上げる方法は危険だと思います。「熱」はマニプラ、「暖」はアナハタ、と言うようにエネルギーの質が違うのですから、クンダリーニの「熱」をアジナにまで上げておかしくなるのは当然のような気も致します。 <br /> <br /> <br /> <br /> Fri, 09 Aug 2019 00:00:00 +0900 ヨーガスートラの八支則とクンダリーニ https://w-jp.net/2019/1601/ <br /> これはパタンジャリのヨーガスートラ八支則(アシュタンガ・ヨーガ)とクンダリーニの関係のメモです。<br /> <br /> <br /> ・ヤマ Yama(禁戒)<br /> ・ニヤマ Niyama(勧戒)<br /> ・アーサナ Asana(坐法)<br /> ・プラーナヤーマ Pranayama(調気、呼吸法)<br /> ・プラーティヤハーラ Pratyahara(制感、感覚の制御)<br /> ・ダーラナー Dharana(疑念・集中)<br /> ・ディヤーナ Dhyana(瞑想)<br /> ・サマーディ Samadhi(三昧)<br /> <br /> <br /> 前記事の通り、これらはヨーガスートラ3章7〜8番に基づいて2分割あるいは3分割できます。<br /> <br /> <br /> ・準備段階の5つ:ヤマ、ニヤマ、アサナ、プラーナヤーマ、プラティヤハーラ<br /> ・内的な3つ:ダーラナ、ディアーナ、サマーディ<br /> ・真のサマーディ:ニルビージャ・サマーディ(無種子三昧)<br /> <br /> <br /> これにクンダリーニやナーダ音などを加えます。<br /> <br /> <br /> ・ヤマ。自己統制。間違った行為の抑制。<br /> ・ニヤマ。正しい遵守。宗教的遵守。<br /> ・アサナ。正しい態度、姿勢。<br /> ・プラーナヤーマ。呼吸の調整、抑制。プラーナの通り道であるナディを浄化<br /> ・雑念の減少。”苦”から”苦の少ない状態”に変化。<br /> ・ナーダ音が聞こえ始める。私の場合ヨガをほぼ毎日し始めてから約3ヶ月後<br /> ・プラティヤハーラ。感覚の撤退。内的世界への入り口。この段階の最初でナーダ音が聞こえ始め、どんどんと聞こえやすくなる。<br /> ・クンダリーニの覚醒。ムーラダーラの活性化。マニプラ優勢の状態。私の場合ナーダ音が聞こえ始めてから約1年後。ポジティブになる。睡眠時間の短縮。声が出しやすくなる。性欲がかなり解消されて自然な(努力のいらない)ブラフマチャリア(禁欲)の達成(性欲10分の1)。体がポカポカになる。<br /> ・”苦の少ない状態”から”楽”の状態に変化。<br /> ・ダーラナ。集中。一点集中。マインドの固定。<br /> ・”楽”から”苦もないが楽もない状態”に変化<br /> ・ディアーナ。瞑想。集中の連続。正しいマインドの利用。<br /> ・クンダリーニの上昇(というか移動?)。アナハタ優勢の状態。私の場合クンダリーニ覚醒の約9ヶ月後。性欲が更に10分の1(クンダリーニ覚醒前と比べると100分の1)。脳の活性化の開始。瞑想の深まり。”いま”に生きる。<br /> ・サマーディ。観照。分離性や個我を認識しなくなる。形を認識しなくなり意味だけを認識。十牛図の「見牛」と心身脱落。<br /> ・真のサマーディ:ニルビージャ・サマーディ(無種子三昧)(私はこれから)<br /> <br /> <br /> クンダリーニは謎が多いですし、この段階は私の経験を元にしたものですので、誰もが必ずしもこうなるとは限らないと思います。<br /> <br /> <br /> Thu, 08 Aug 2019 00:00:00 +0900 ヨーガスートラはマニプラ以下を主に扱う? https://w-jp.net/2019/1600/ <br /> ヨーガスートラの主目的は低次サイキック領域(マニプラ以下)から高位サイキック領域(アナハタ以上)に移行することだと解釈しました。<br /> <br /> これはインド系ヨーギの解釈というよりは、神智学的な解釈になります。実際のところ同じなのかとは思いますが幾つかの解説書を確認したところ、ここまではっきりと同様のことを記載してあるのは神智学系の「魂の光(アリス・ベイリー 著)」くらいでした。他の解説書でも高次の認識について記載があるので言及はされているのですが、ヨーガスートラの八支則(アシュタンガ・ヨーガ)は基本的に低次サイキック(マニプラ以下)の克服について記載されています。高次サイキック(アナハタ以上)はウパニシャッドの領域になると思われます。<br /> <br /> ヨーガスートラ3章7〜8番にて、八支則の位置付けが示されています。<br /> <br /> 3章7〜8番)これら3つ((ダーラナ、ディアーナ、サマーディ)は、その前のもの(ヤマ、ニヤマ、アサナ、プラーナヤーマ、プラティヤハーラ)よりもっと内面的である。しかしそれらさえ、種子のないもの(サマーディ)の外側である。(「ラージャ・ヨーガ(スワミ・ヴィヴェーカーナンダ著)」)<br /> <br /> これは、神智学的には次のように解釈できます。<br /> <br /> ・八支則の最初の5つ(ヤマ、ニヤマ、アサナ、プラーナヤーマ、プラティヤハーラ):準備段階<br /> ・八支則の最後の3つ(ダーラナ、ディアーナ、いわゆるサマーディ(サビージャ・サマーディ、有種子三昧)):内的なもの。低位サイキック領域(マニプラ以下)<br /> ・八支則を超えたもの。真のサマーディ(いわゆるニルビージャ・サマーディ。無種子三昧)。高位サイキック領域(アナハタ以上)<br /> <br /> ヨーガスートラは基礎なわけですね。何事も基礎が重要なのだと思います。<br /> <br /> ヴィヴェーカーナンダは真のサマーディ(ニルビージャ・サマーディ。無種子三昧)に至る前段階のサマーディについて以下のように記しています。<br /> <br /> 3章9番の解説)サマーディのこの最初の段階では、心の変化は制御されているが完全にはではない。なぜならもし完全に制御されていたなら、様相もないだろう。もしそこに、感覚を通ってとびだすよう心をうながす変化があり、ヨーギーがそれを制御しようと努めるなら、まさにその制御自体が一つの変化であろう。一つの波がもう一つの波でとめられる。ゆえにそれは、すべての波が静まる真のサマーディではないだろう。制御それ自体が一つの波なのであるから。それでも、このより低いサマーディは、心が泡立ち騒いでいる時よりは遥かに、より高いサマーディに近いのである。<br /> <br /> と、言うことは、多少の心の波があったとしても基礎的なサマーディと呼んで良いと言うことなのですね。サマーディは色々と種類があり過ぎてどれがどうなのかいまいち解りづらいですが、少なくとも最後の目標地点はこれでかなり明らかになったように思います。瞑想にしてもそうですが、サマーディも自称であったりする場合が多いので、なかなか解りづらいところがあります。<br /> <br /> これは、「魂の光(アリス・ベイリー 著)」では以下のように説明されています。<br /> <br /> 3章9番)メンタル的な状態は以下のようにして連続して起こる。つまり、見たものにマインドが反応し、マインドによる統御の瞬間がそれに続く。さらに、チッタ(マインド・スタッフ)がこの両方の要素に反応する。そして最終的に、これらは消え去り、知覚する意識が完全に支配する。<br /> <br /> これまた、分かるような分からないような微妙なお話です。私はこのあたりをもう少し瞑想する必要がありそうです。マインドはいわゆる心で顕在意識であり、チッタはサンスクリットで言うところのマインド相当(微妙に違いますけど)。ちょっと訳が微妙と言いますか。英語とサンスクリットを混ぜずにいっその事全部サンスクリットで書いてもらった方が有難いのですが。ですが、きっと元々のサンスクリットが微妙なのでしょう。<br /> <br /> 「インテグラル・ヨーガ (パタンジャリのヨーガ・スートラ) (スワミ・サッチダーナンダ 著)」では以下のように訳されています。こちらの方が分かりが良いかもしれません。<br /> <br /> 生起してくる印象(サンスカーラ、雑念)は、それに代わる新たな心の作用を生むところの抑止の努力の出現によって、止滅される。この、新たな作用と心の結合の刹那が、二ローダ・パリナーマ(止滅転換)である。<br /> <br /> どうやら、これこそが「二ローダ」のようです。と言いますのも、ヨーガスートラの最初の方にある有名なヨガの定義にこの「二ローダ」が言われているからです。以前 引用した文章が以下です。<br /> <br /> 「心(チッタ、Citta)の作用(働き、諸状態)を止滅することがヨーガ」(Yogaヨーガ・Chittaチッタ・Vrittiヴィリッティ・Nirodhahニローダ)<br /> 「そのとき、見る者はそれ本来の状態に留まる」(Tadaタダ・Drashtuhドラシュトゥ・Svarupeスワルーパ・Vasthanamヴァスターナ)<br /> <br /> と、言うことは、真のサマーディ(ニルビージャ・サマーディ。無種子三昧)に達することで二ローダが達成できる、と言うことなのだと解釈できます。<br /> その次に続くヨーガのもう一つの定義は軽視されがちですけどこちらも重要で、これはいわゆる「アートマンの出現」のことだと思います。<br /> <br /> 瞑想をしてサマーディに達し、真のサマーディ(ニルビージャ・サマーディ。無種子三昧)に達することで二ローダ(止滅)を達成して、アートマンを出現させる、と言うところがヨーガスートラの範疇であると考えられます。これは以前 禅の十牛図 を調べた時にヨーガスートラとウパニシャッドの領域がそれぞれ明らかになりましたが、同様のことを意味していると思われます。<br /> <br /> <br /> <br /> <br /> <br /> <br /> Wed, 07 Aug 2019 00:00:00 +0900 サムヤマで光が輝き出る https://w-jp.net/2019/1598/ <br /> ヨーガスートラ3章5番。書物によってサンスクリットの訳が異なっています。<br /> <br /> それ(サムヤマ)をかち得ると、知識の光が来る。(「ラージャ・ヨーガ(スワミ・ヴィヴェーカーナンダ著)」)<br /> サンヤマ(綜制)の修了によって、知の光が生まれる。(「インテグラル・ヨーガ (パタンジャリのヨーガ・スートラ) (スワミ・サッチダーナンダ 著)」)<br /> <br /> これがよく見る意味で、おそらくはサンスクリット的にはこのような内容なのかなと思います。<br /> 神智学系の「魂の光(アリス・ベイリー 著)」ではこれを以下のように意訳しています。<br /> <br /> サンヤマの結果として、光が輝き出る。(「魂の光(アリス・ベイリー 著)」)<br /> <br /> 同書では以下のように説明されています。<br /> <br /> 魂の性質は光であり、魂は偉大なる啓示者であるという概念が含まれている。ヨギは、瞑想の着実な実践によって、自らの存在そのものから発する光を意のままに、どの方向にも向けられるようになり、どのような対象でも照らすことができるようになる。したがって、彼にとって隠されたものは何もなく、あらゆる知識が彼の手中にある。<br /> <br /> 最初の訳の「知識の光が来る(生まれる)」の内実がこのような意味であるのならばよく分かります。「知識の光が来る」とだけ言われてもよく分かりませんが、魂が光で、光が輝き出ることで知識が明らかになる、と言うことであればすんなり理解できます。<br /> <br /> サンヤマの効果として、以下のようにも記されています。<br /> <br /> この過程(サンヤマ)がより頻繁になり、しっかりとしたものになるにつれて、肉体人間の中に変化が起こる。彼はますます魂と同調するようになる。伝達における時間という要素は背後に退き、魂の光による知識領域のイルミネーションと、肉体脳の啓発が瞬時の出来事になる。頭部内の光はそれに対応して増大し、第三の目が発達し機能するようになる。アストラル界とメンタル界でもそれに対応する「目」が発達し、このようにしてエゴつまり魂は魂の領域だけでなく三界すべてにイルミネーションをもたらすことができるようになる。<br /> <br /> 瞑想(ディヤーナ)とサマーディ(三昧)、そしてサンヤマ(サムヤマ)へと続く一連の流れはついに第三の目に辿り着きました。アジナ・チャクラが活性化するのはサムヤマの段階と対応しているのだと解釈できます。同書を読み解くと、マニプラ以下の段階では低次サイキックな性質のみが開発され、低次サイキックな性質は高次サイキックな性質の開発の妨げになると書いてあります。マニプラ以下からアナハタ以上に「移動」(比喩的な言い方)して初めて高次サイキックな性質の開発が可能になると言います。ですから、サムヤマもアナハタ以上になってからようやく可能なものだと解釈できます。<br /> <br /> <br /> <br /> <br /> <br /> Tue, 06 Aug 2019 00:00:00 +0900 サムヤマの謎(サンヤマ、綜制) https://w-jp.net/2019/1597/ <br /> サムヤマ(サンヤマ、綜制)とはヨーガスートラで述べられているもので、ダーラナー(集中)・ディヤーナ(瞑想)・サマーディ(三昧)が同時に起こるとそれはサムヤマ(サンヤマ、綜制)と呼ばれますが、これは謎が多いです。<br /> <br /> ヨーガスートラによると、サムヤマによって「知識の光」が来る、と言われています。(スワミ・ヴィヴェーカーナンダの「ラージャ・ヨーガ」より)<br /> <br /> それにより、物の知識や人の心、未来や過去生に関する知識を得られると言います。同書によれば、言葉や意味や知識の上にサムヤマを作ることでそれらの知識が得られると言います。また、カルマの根源であるサムスカーラ(印象)の上にサムヤマを作ることで過去と未来を知ることができると言います。と言うことは、サムスカーラ(印象)を作り出した原因の過去の出来事を知ることができるのと、未来に関してはタイムマシン的な意味はなくサムスカーラ(印象)がもたらすであろう未来を垣間見ることができるのだ、と解釈できます。ただ、未来に関しては私の解釈で仮説です。別のヨーガスートラ解説書「インテグラル・ヨーガ (パタンジャリのヨーガ・スートラ) (スワミ・サッチダーナンダ 著)」には未来に関することはスルーされていました。過去であればサムスカーラですからその理由を考えれば明らかですが、未来を知ることができる、と言うのは謎が残ります。私の解釈が正しいのであればそれはそれでいいのですが、それでも、サムヤマの正体が全て明らかになったわけではありません。特に、「サムヤマとはサマーディとどう違うのか?」と言う点が明らかではありません。サマーディでは知識は来ないと言うのでしょうか? どちらも知識が来るのであれば、何が違うのでしょうか?<br /> <br /> 神智学系の「魂の光(アリス・ベイリー 著)」には幾つかのポイントが書かれてあります。<br /> <br /> 3章4番)「集中と瞑想と観照が一つの連続的な行為になったとき、サンヤマが達成される。」これを達成することで、ヨーギは対象とそれが覆い隠しているものとの違いを見分けるようになる。彼はすべての覆いを貫いて、その背後にあるリアリティーに接触するようになる。つまり、二重性についての役立つ知識を達成したのである。<br /> <br /> とあります。ここで「覆い隠しているもの」とは、そうとは明言してありませんがおそらくヴェーダで言うところのマーヤのことかなと思われます。流派によってはマーヤの覆いは特定のサマーディを達成することで取り払われると言われています。例えばヨガナンダの「あるヨギの自叙伝」には以下のように、ニルビカルパ・サマディでマーヤの覆いを破ることができると書かれています。<br /> <br /> マーヤのヴェールを引き剥がすことは、創造の神秘を解き明かすことである。こうして宇宙の実相を見た者こそまことの一神論者であり、ほかの者はみな、異端の偶像を崇拝しているのである。人は、大自然の二次元的幻影のとりこになっている間は、二面のマーヤの女神に仕えねばならず、唯一のまことの神を知ることはできない。人間の中に働く欺瞞的マーヤをアヴィディアといい、無知(迷い、”つみ”)として現れる。宇宙的幻術(マーヤ)も人間的無知(アビディア)も、知識による分析や確信だけでは決して破られるものではない。それは、ニルビカルパ・サマディという意識状態にはいることによってのみ破ることができるのである。<br /> <br /> 言い方は違いこそすれ、サムヤマとニルビカルパ・サマディの間に共通点がありそうな気が致します。<br /> <br /> ちなみに、ヴェーダの学派によっては知識のみで悟ることができてサマディは不要と言う流派もあるようですので、上記の記述は参考にこそすれ、それほど鵜呑みにする必要もないとは思います。とは言いましても、各流派の言い分にはそれぞれ真実が見え隠れするのが興味深いところです。<br /> <br /> 「魂の光(アリス・ベイリー 著)」に記載してあるダーラナ(集中)とディアーナ(瞑想)とサマーディ(三昧)の定義はよく聞く定義と基本的に同じで、集中とその集中の継続がディヤーナ(瞑想)であり、心(チッタ)が対象と同一化することがサマーディだと記されています。ですから、基本的には同じなのですが、同書で興味深いのは、サマーディのことを「観照」だと言っている点です。<br /> <br /> 別の書物、例えばスワミ・ヴィヴェーカーナンダの「ラージャ・ヨーガ」では以下のように説明しています。<br /> <br /> 4章1〜3番)ダーラナーとは、心をある特定の対象に集中することである。その対象の知識の不断の流れが、ディヤーナである。それがすべての形をすてて、意味だけを映すようになったとき、それがサマーディである。<br /> <br /> 同種の定義を見ることが多い気がします。「形を捨てて、意味だけを映す」と言う定義では、サマーディはとても謎の多いものになりますが、「魂の光(アリス・ベイリー 著)」のように「観照」だとすればそれは明らかです。その意味に基づくと、ダーラナ(集中)とディヤーナ(瞑想)は顕在意識(いわゆる”意”)で行うものであり、サマーディは無意識(いわゆる”識”)で行うものだ、と解釈できます。止観と言う観点からすれば、ダーラナとディヤーナで止が達成され、サマーディで観が達成される、とも言えます。<br /> <br /> ここまで来れば、サムヤマが何なのか謎が大分解けてきます。<br /> <br /> ・ダーラナ(集中)とディヤーナ(瞑想)でマインド(顕在意識)を固定する。<br /> ・サマーディ(三昧)で魂の領域から観照する。<br /> <br /> 「魂の光(アリス・ベイリー 著)」にはサムヤマの状態について説明が記されていますが、これらの前提があれば読み取ることができる一方で、なければ読み解くのがかなり難解な文章になっています。細かくは同書にも色々と書かれてありますが、マインド(顕在意識)と魂(の領域と同書は言っている。無意識)の両方で物事を認識することがサムヤマだ、と解釈できます。<br /> <br /> であれば、サマーディはサムヤマの一面を取り上げたまでであり、サマーディを達成することができればサムヤマもおそらくは達成できると解釈できます。<br /> <br /> 少し謎が解けてきました。瞑想中に時々視界に(おそらく太陽の光とは別の)光を時々感じるのは、もしかしたらこの種の光なのかもしれません。まあ、ただの魔境の光かもしれませんので油断は禁物ですけど。<br /> <br /> <br /> <br /> 関連記事: オーラ的に見たサマーディとサムヤマ<br /> <br /> Mon, 05 Aug 2019 00:00:00 +0900 2分のディヤーナと感謝の瞑想 https://w-jp.net/2019/1596/ <br /> ■2分でディヤーナ(瞑想)、30分でサマーディ(三昧)<br /> 今朝、雑念なく息を観察する瞑想がしばらく続きました。雑念がないのでカウントすらできませんが、おそらくは数分以内だったように思います。スワミ・ヴィヴェーカーナンダの「ラージャーヨーガ」に以下のようにあります。<br /> <br /> もし心がその中心に12秒間集中することができるなら、それはダーラナー(集中)であり、12のそのようなダーラナーはディヤーナ(瞑想)であり、そして12のそのようなディヤーナはサマーディであろう。<br /> <br /> 実のところはよく分かりませんが。意識がなかっただけでもっと長かったのかもしれません。スワミ・ヴィヴェーカーナンダの定義によりますと「心が集中」ということですが、私の場合「息を観察」という違いはありますけど、おそらく本質は同じことを意味しているかなと思っております。言い換えるならば、「息を観察して12秒続けばダーラナ(集中)、その12倍続けばディヤーナ(瞑想)、その12倍続けばサマーディ」という感じでしょうか。2分でディヤーナ(瞑想)、30分でサマーディ(三昧)、という換算ですね。であれば、私の場合は今の所ディヤーナ(瞑想)の段階にいると判断できそうです。途中で雑念でちょっと途切れた場合などをどうカウントするのかというお話は微妙なところですが。瞑想していてそのような気付いていない中断はちょこちょことありそうです。<br /> <br /> ■凄いと思われなくなってようやく一流<br /> 先日読んだ「参禅入門(大森 曹玄 著)」にそのようなことが書いてあったのを思い出しました。<br /> 周囲から凄いとか思われているうちはまだまだで、何にも思われなくなってスルーされるようになってようやく一流であると。<br /> <br /> 思うに、チャクラ的に言うとマニプラ優勢の場合はエネルギッシュで傍目から見ても元気そうに見える気がします。<br /> しかし、アナハタ優勢になるとそのエネルギッシュさが静かな物になります。マニプラが「熱」だとすればアナハタが「暖」であり、であればマニプラの「熱」の方が一見すると凄そうに見えるのもわかる気がします。<br /> <br /> マニプラくらいであれば「暖」なのでなんとなくわかるのですが、それ以上のヴィシュッダとかアジナとかになると書物によればどうやら「冷」になるようなので、きっとますます傍目には分からなくなる気が致します。私は割と今はアナハタ優勢ですので「暖」の状態で、なんと言いますか・・・、割と「普通の人」になってきた感じが致します。特段私が「凄い」とかそう言うことは全然ないですし、むしろ、そこらで歩いている普通のおじさんやおばちゃん、おじいちゃんやおばあちゃんの方がよっぽど真理がわかっているんじゃないかなあ・・・ と思うくらいです。ここ数年は、「あれ? かなりの人は実は既に悟っていて、私の成長が遅れていただけだったのかも?」とすら思っています。特にマニプラ優勢になって以降はそんな思いが強いです。ですから、意外にこの世は悟っている人が多いんじゃないのかなあ・・・ という気もしています。まあ、日本のお話ですけどね。<br /> <br /> ■瞑想とナーダ音と息<br /> ハタヨガプラピディカにはナーダ音に集中する瞑想も書いてありますけど、今朝の場合は息を観察する瞑想をしていますのでナーダ音は気にしていませんでした。と言いますか、息を観察しているとナーダ音のことが気にならないと言いますか、意識の中にナーダ音が入ってきません。かと言ってナーダ音がなくなったわけでもなく、息の観察が途切れるとナーダ音があることに気づくとでも言いましょうか・・・。普通の音でもそうですよね。ずっと鳴っている何かの音だとしたら特別意識しないでもその音はずっとそこにあるわけですけれどもあまり意識しなくなります。それと同じで、ナーダ音もずっとそこにあるわけですが、息を観察している間は意識からナーダ音は外れると言いますか。<br /> <br /> ひょっとしたら、これこそがハタヨガプラピディカの以下の記述に繋がっているのかもしれません。<br /> <br /> 4章101ー102番)アナーハタ音のひびきが聞こえている間は虚空についての想念はまだ存在している。かの音がないところが至上の梵、至上の我であるとうたわれている。およそ音の形で聞こえるものはシャクティに外ならない。すべての存在の没入する場であり、そしてなんらの形相の無いものこそが至上我である。(アナーハタ音とはナーダ音のことです。至上我とはアートマンのこと。「ヨーガ根本経典(佐保田 鶴治著)」より。)他著者のバーションもあります。過去記事参照。<br /> <br /> 今日の瞑想では、まず、息を観察して瞑想していると自身が静かになってゆきました。息の観察が途切れて顕在意識が動くとナーダ音が聞こえます。息の観察によって顕在意識がほとんど動いていない状態であればナーダ音は意識に入ってきません。現在の瞑想がアートマンを掴んだとは到底思えていませんが、これらの、顕在意識とナーダ音の聞こえ方の関係から、上記のハタヨガプラピディカの記述そのものではないにせよ、部分的に似通った部分があることがわかります。引用文の「虚空」は解釈が微妙ですが、「ナーダ音が聞こえている間は想念は存在している」ということであれば「ナーダ音が聞こえている間は顕在意識は動いている」と読み替えることができると思います。ナーダ音が聞こえないところはどこか・・・? それは「息」。このあたりに秘密がありそうです。<br /> <br /> ■感謝の瞑想<br /> 先日まで「許す瞑想」をしてきましたが、今日は感謝の瞑想に自然になりました。特に計画をしていたわけでもないのですが、なんとなくしっくりくるからしただけです。先日と同じように「〇〇さんありがとうございます。〇〇さんありがとうございます。」を色々と繰り返して、人だけでなく物や自然や地球さんなども気が向くままに感謝をします。先日の方式に倣って、最初は「(私が)〇〇さん ありがとうございます」から始めて、やがて「(神様が)感謝しています」「(神様によって)感謝されています」のように主体を切り替えてみました。<br /> <br /> この瞑想をすると眉間に意識が集まって、何やら眉間のところで螺旋状の竜巻みたいなものを感じます。やがて、エネルギーが眉間に集まるのですが、お腹のマニプラあたりに何かネガティブなものが溜まっているらしく、感謝の瞑想をするとそこのエネルギーの通りがあまり良くなくてちょっとじんわりときていましたが、感謝の瞑想を続けるにつれてマニプラあたりのエネルギーの通りも割と良くなってきました。<br /> <br /> 先日の竜巻の経験 でアナハタ優勢に変わりましたが、その時はまだヴィシュッダやアジナにそれほどエネルギーがある感じではありませんでした。そもそも竜巻の経験の前はヴィシュッダやアジナにエネルギーがあまりなかったので、竜巻の経験でエネルギーが頭の方まで通るようにはなったのですが、それでも、それほどエネルギーがある感じではなかったということです。その後も、瞑想中は集中することでエネルギーがアナハタからヴィシュッダやアジナに一時的には集まるのですがやはりアナハタ優勢でした。だいたい2対8くらいの割合でアナハタ優勢だったでしょうか。<br /> <br /> しかし、この感謝の瞑想をしたら4対6くらいに比率が変わりました。依然としてアナハタ優勢ではありますが、ヴィシュッダやアジナにエネルギーが留まりやすくなったように思います。感謝の瞑想に何かの鍵がある気がしてきました。まあ、昔から良いとされてきた感謝の瞑想ですので、悪いわけがないとは思います。この感謝の瞑想をすると、瞑想が終わった後もアジナに静電気のような感覚がしばらく残っています。<br /> <br /> <br /> Sun, 04 Aug 2019 00:00:00 +0900 懐かしい欲求と無意識の水面の下 https://w-jp.net/2019/1595/ <br /> ■懐かしい欲求<br /> かつて戯れていた、かつて楽しんでいた、かつて欲していた。その懐かしい気持ち。<br /> 懐かしい何か。忘れてしまった何かを取り戻したいという微かな欲求。<br /> その欲求が、ひらひらと瞑想の只中でそよ風のように私の中に流れている。<br /> <br /> それは、かつてあったもの。かつて私の中に、当然として占めていたもの。<br /> その欲求はもはや風前のともし火となり、懐かしい欲求として秋風のように微かな風としてしか私の中に残ってはいない。<br /> <br /> そのそよ風は、私の心の水面を軽く揺らしている。<br /> 水は無意識であり、無意識の表面が心だとすれば、私の心を今揺らしているのはかつての懐かしい欲求であろう。<br /> <br /> 無意識は、懐かしい欲求によって微かに揺られている。と同時に、私の心も揺さぶられている。<br /> <br /> しかし、その欲求は瞑想の中で、やがて強さを失って消えて行った。<br /> 完全に消えたかどうかは分からない。しかし、先日よりも確かに弱まっている。<br /> <br /> 欲求がおさまるにつれ、心は平穏になってゆく。<br /> <br /> ふと、周囲の家から子供の楽しげな声が聞こえてきた。週末の夜だ。<br /> 瞑想中にそれが聞こえてきてもいい。その楽しそうな声があろうとなかろうと、私の心は平穏そのものだ。<br /> 相当な騒音ではない限り、瞑想の状態はそう変わらない。<br /> <br /> 心を揺らすのは、今や息をする時の観察する心のみ。<br /> 息をするとき、心がそれを観察している。すると、観察する時の波紋が心に広がる。それのみ。<br /> <br /> 言い換えると、無意識という湖の表面である心に微かな波紋が広がって、やがては波紋は消えてゆく。<br /> 懐かしい欲求はかつてその何倍もの波紋を作っていた。しかし、今や自分の息を観察する波紋のみになった。<br /> <br /> ■無意識の水面の下<br /> 今、ようやく、無意識という湖を覗き込んだ。しかし、中はまだ濁っている。<br /> <br /> 水面が静かになっても、今まで無意識が風によって動いていたために、無意識がまだ濁っているようだ。<br /> もしかしたら、これは十牛図で言うところの見牛における「微かに牛を見つける」と言うことなのかもしれない、とふと閃いた。<br /> <br /> これから、平らな水面を保持した時、無意識の中が見えてくるのだろうか・・・?<br /> <br /> まだ、無意識の湖の底は見えない。<br /> <br /> 湖のように、風のない日々が長く続けば続くほど汚れが湖底に沈んで無意識の水が澄んでくるのだろうか?<br /> <br /> 水面は、以前は波立ちやすいサラサラとした液体のようだった。小さな風で大きな波紋ができていた。<br /> 今は、水そのものというよりは、透明ではあるものの、粘質がある液体のようになってきた。<br /> 粘質があるので、風が吹いて波紋が広がってもすぐにその波紋は静まってしまう。それでいて透明な液体。不思議な感覚だ。<br /> そもそも風があまり強く吹かないので、波紋がほとんど広がらない。<br /> <br /> これは、オーラの質とも関係しているのでしょうか? そんな気がしなくもないです。<br /> <br /> ■静か<br /> 瞑想の中だけでなく、瞑想が終わってからも世界が静か。<br /> <br /> 息を感じるだけ。息が心を揺らすだけ。風が窓から入り、皮膚を撫でる。その感覚が心を揺らすだけ。<br /> <br /> その感覚に、特に付け加えることもない。何かを付け加えようとすれば蛇足になるだけだ。<br /> <br /> ただ静かにいるだけ。それだけでいい。<br /> <br /> ■過去の記憶を探る<br /> 無意識はヨーガで言うところのサムスカーラ。いわゆる過去の記憶。<br /> 無意識を探ると思わず叫びだしたくなるものも眠っている。なるほど、これが魔境か。<br /> <br /> 思えば、昔から常に探っていた。<br /> 無意識からの追憶はこの段階に限ったものでもないが、今は静けさと共に探ることができる。<br /> <br /> <br /> Sat, 03 Aug 2019 00:00:00 +0900 チャクラの花びらと浮き上がった感覚 https://w-jp.net/2019/1593/ <br /> ■チャクラの花びら(蓮の花)<br /> 後頭部のあたりから前方方向に花びらのようなオーラが広がっている感覚。赤ちゃんの頭巾やフードのように頭の周囲にひらひらと何かが漂っている感覚。頭巾とは違って花びらのように1本づつ分かれています。最初は割とまとまりがなくて上下左右に広がって揺れていました。これはオーラの形がなんとなくそういう感じに見えた(気がする)というだけで、本当の花びらがあるわけではありません。ひまわりの花のようにも見えます。伝統的ヨーガのチャクラでは蓮の花びらですが、オーラの花びらが咲いているかのような感覚。最初はゆらゆら動いていましたが、定(じょう)が深まって集中力というか観察力が高まるにつれてそのオーラの花びらの先っぽまで気が行き届くような感覚。最初は風に揺られるように規則性がなく揺られているだけでしたが、定が高まるとそのオーラの花びらは、まるで、刺激を受けて気が入った動物の尻尾のようにオーラの花びらの先っぽまで意識が入り込んだ感じがします。そうすると、オーラの花びらはだんだんと筒状になるというか根元からピンと伸びてきて、花びらの先っぽが前方向を向きました。今までそれは後頭部のチャクラのお話でしたが、花びらの数は数えられませんでしたが10以上はありました。アジナは二つなのでアジナではないのかもしれません。後頭部のような気がしましたがヴィシュッダだったのかも? ヴィシュッダだとしたらもしかしたら16かもしれません。そんな状態に続いて、ハートの花びらも同様にひらひら状態だったのが意識が入るにつれて先っぽが前方を向くようになりました。定が深まって集中力と観察力が更に高まると、お腹のあたりもちょっと硬くなる感じがしました。お腹の花びらは感じませんでした。今回、花びらは後頭部とハートだけです。今回の定(じょう)の安定度は今までより高かったように思います。花びらの動きは、集中力と観察力に応じて形が変わる気がしました。まあ、瞑想中のお話ですので、そんな気がする、というくらいですけど。<br /> <br /> ■浮き上がった感覚<br /> 上記のチャクラの花びらの瞑想の後の方で、体は座ったままなのですが、意識の体だけ数センチ浮き上がった感覚が何回かありました。<br /> これはヨーガ行者の経験談で度々聞くお話です。それほど珍しいことでもないようです。今まであまり気にしていませんでしたが、何かの段階の「しるし」だったかもしれませんので、そのうちまた書物を確認してみます。たしかヨーガ根本経典あたりで実際の肉体が宙に浮くお話はあった気がしますが、「意識だけ」のお話はどこにありましたかね・・・。まあ、魔境の一つとして無視しといても良いのかもしれません。これだけ熱心に書物を探すほどでもないですが、何かの折にたまたま見つけたら確認する、というくらいの低い重要度です。<br /> <br /> ■消しゴム<br /> そういえば20年くらい前にどこかのスピリチュアル本で読んだことをふと思い出したのですが、エゴを消すにはイメージで消しゴムを使ってエゴを消したり、体と周囲の境界線をイメージ上の消しゴムで消したり、トラウマを消しゴムで消してゆけば良い、と書いてあったことを思い出しました。何故こんなことを思い出しかと言いますと、「悟りに至る十牛図瞑想法( 小山 一夫 著)」の心身脱落の説明のところに、周囲との境界を消してゆく、という方法が書いてあったからです。瞑想中に周囲との境界線を消して溶け込ませてゆけば自我がなくなる、という方法のようです。特別私はこれをお勧めはしませんけど、思い出しましたのでメモ書き。<br /> <br /> ■魔境<br /> 先日の続きですが、根拠は不明確で今後更に確認が必要なところではありますが、私の内なるガイドが瞑想中に教えてくれたことによりますと、いわゆる魔境というのは瞑想の仕方が間違っている(あるいは組み合わせが良くない、あるいは瞑想とその人の相性によって生じる。しかしながら瞑想の仕方が間違っていることがほとんど)とのことです。例えば、周囲との境界線を消して溶け込ませるという方法が人によっては魔境を作り出すと言います。私の場合は多少ながらその傾向があるので、消しゴムとかを使って瞑想中に周囲との境界線を消すことはしなくて良い、みたいな指示がありました。その時のインスピレーションの説明では、周囲との境界線を消すのは自然に起こることなのでわざわざ消しゴムを使う必要はないし、消しゴムや意思の力で境界線を消そうとするとオーラが発散してしまう。境界線を消してエゴを消すよりもオーラを発散させないことの方が重要なので、オーラの質を純化することが手段で周囲との境界線が消えるのは結果であり、わざわざ消す必要がなくて、オーラは自分の周囲に留めておくこと。オーラが発散してしまうと先日の神道の神秘の鎮魂のお話のように周囲の雑多な印象を取り込んでしまうことがあり、それが魔境を引き起こす。というようなお話が内なるガイドからありました。<br /> <br /> 先日の書物の理解ですと無意識に眠っている、ヨーガ的なサムスカーラと思われる「印象」が表に出てきて魔境になるのかと思っておりましたが、その説明とは若干この説明は食い違っています。まあ、このあたりも様子見です。両方あるのかもしれないですね。理屈で言うならばサムスカーラは溜まっているものですから有限で浄化のしがいもありますけどオーラが不安定になって周囲から拾うのであれば限りなく続いてしまうので、前者はどうにかなりますけど後者はその点はどうにもならないので後者の方はオーラを閉じるというか自分の周囲に留めるしかない気もします。<br /> <br /> Fri, 02 Aug 2019 00:00:00 +0900 魔境 https://w-jp.net/2019/1592/ <br /> 先日書きましたように、最近は瞑想をして眉間に集中をすることで意(顕在意識)が出てもすぐに消えていわゆる「定(じょう)」とでも言うべき安定した状態には入れるようになったのですが、その状態で、何か奥底からザワザワとしたものが出てきて揺さぶられたり、何かちょっとした重要ではないイメージが見えたり、外が一瞬見えた気がしたり、今更ながら急に雑念がザワッと出てきたりして、なんだこれ??? と思っていたりしました。何かが間違っていて、逆戻りして瞑想が変になった可能性も含めて瞑想を観察して、なるべく取り込まれないように「定(じょう)」に立ち戻ろうとしていましたが、なんだかうまくいかない日もあったりして、どうしたものかと思っていました。ヨーガの瞑想の基本は、何か見えたり聞こえたりしても重要ではないので無視すること、と言うのが基本にありますので何を見たかと言う点に関してはそれほど重要視はしていないのですが、それよりも、このような現象一般が起こることに対しての全般的な理解が欲しかったのです。<br /> <br /> そんな時、調べ物をしていたところこの記述を発見しました。私の状態が似ているかもしれません。<br /> <br /> 誰でも坐に慣れてある程度定力が熟してくると、まず手の感覚がなくなり、次に足の感覚がなくなる、といった具合に自分と外界との隔てがだんだんとなくなってくるであろう。(中略)そのいい気持ちになって陶酔できるほどに定力が練れてきたころになると、定中にいろいろな現象が現れることがある。その現象にはよいものもあれば悪いものもあるが、それらをひっくるめて古来「魔境」と呼んでいる。 (中略)魔境の起こるのは禅定力がある程度熟した証拠であることは間違いない。<br /> <br /> 先日 から、体の感覚がなくなる、と言う感じになってきたかと思ったら急に次は魔境です。まだ魔境というほど酷い魔境には出くわしていないですが、これから酷くなるのでしょうか? 魔境が禅定力が熟した証拠と言うことは、いわゆる雑念で混乱している状態のことは魔境とは言わないのですね。<br /> <br /> われわれが座禅三昧にはいると、いわゆる意馬心猿(いばしんえん、煩悩・欲情・妄想)が静まってくる。静止状態になるのである。そこで潜在意識の煩悩の活動が表面化され、そこにいわゆる魔境を現出するのである。意識の動きが休止して、その底にひそむ無意識層が表面に現れるのだから、これを定力の効験だといっても、いっこうさしつかえないわけである。<br /> <br /> 無意識に眠っている、ヨーガ的に言えばサムスカーラと言う「印象」が深いところから出てきて魔境を作り出すのだ、と解釈できます。著者は次のように続けます。<br /> <br /> 真実の自己を悟るために座禅するのだから、いかに無意識界だといっても翻弄されているわけにはいかない。そこで「仏に逢うては仏を斬り、祖に逢うては祖を斬る」で、勇猛心をふるい起こして定中に幻出する一切の現象を粉砕してゆかねばならないのである。(中略)禅定中には、仏が現れても、光明を見ても、絶対の無が現れても、善境悪境ともにひっくるめてこれを魔境と心得、木っ端微塵に粉砕してしまうがいいのである。<br /> <br /> 仏を斬るのは魔境についてのお話で、いわゆる普通の雑念を斬るのとはちょっと違うのかもしれませんね。両方なのかもしれませんが。ここまで言い切る著者の大森曹玄氏はどのような方かと思いましたが、臨済宗で花園大学学長も勤められた方だとか。そのような方がおっしゃるからには、きっとそう言うことなのでしょう。<br /> <br /> おそらくは、基本は今の瞑想を続ければいいのだと解釈しました。<br /> <br /> Thu, 01 Aug 2019 00:00:00 +0900 十牛図とナーダ音 https://w-jp.net/2019/1591/ <br /> 幾つかバージョンがあるようですので複数引用します。<br /> <br /> ■第一図「尋牛(じんぎゅう)」<br /> 尋ねゆく みやまの牛は見えずして ただうつせみの声のみぞする<br /> 尋ねいる 牛こそ見えぬ夏山の こずゑにせみの声ばかりして<br /> (「参禅入門(大森 曹玄 著)」より)<br /> <br /> ■第一図「尋牛(じんぎゅう)」<br /> (前略)心身ともに力尽きたが、見当もつかない。ただ楓樹(ふうじゅ)に晩蝉(ばんせん)の声を聞くばかりだ。<br /> (「悟りに至る十牛図瞑想法( 小山 一夫 著)」より)<br /> <br /> ■第一図「尋牛(じんぎゅう)」<br /> (前略)力尽き元気も涸(か)れ、求める牛は見つからない。聞こえるのはただ夜の森に鳴く蝉の声ばかり<br /> (「究極の旅(OSHO著)」より)<br /> <br /> ■第三図「見牛(けんぎゅう)」<br /> 青柳の糸の中なる春の日に つねはるかなる形をぞ見る<br /> 吼(ほ)えけるをしるべにしつつ荒牛の 影みるほどに尋ねゆきけり<br /> (「参禅入門(大森 曹玄 著)」より)<br /> <br /> ■第三図「見牛(けんぎゅう)」<br /> 声に従って入り口に足を踏み入れれば、見の境地でその源に逢う。<br /> (中略)枝に止まる うぐいすの声が聞こえる。<br /> (中略)荘重なその牛の角は描こうとしてもなかなか描けない。<br /> (「悟りに至る十牛図瞑想法( 小山 一夫 著)」より)<br /> <br /> ■第三図「見牛(けんぎゅう)」<br /> 私は鶯(ナイチンゲール)の歌を聞く。<br /> (中略)その声を聞けば、人はそれの源を感じ取ることができる。六感が溶け合うやいなや、もう門の中に入っている。どこから入ろうと、人は牛の頭を見る。<br /> (「究極の旅(OSHO著)」より)<br /> <br /> これらに共通しているのは「蝉の音」と「鶯の鳴き声」です。インド各国では鶯によく似たナイチンゲールと言う鳥がいるそうですので、日本語で考えるならば全部ウグイスでいいと思います。<br /> <br /> 先日ナーダ音について引用した中に7種類の音に関する言及がありますが、その1番目の音がそのものズバリ「ナイチンゲール(ウグイスに似た鳥)の甘い声」で、一致しています。ですので、仮説ではありますが、第三図「見牛(けんぎゅう)」の「鶯の鳴き声」はナーダ音のことを言及しているのかなと思います。<br /> <br /> 一方、第一図「尋牛(じんぎゅう)」の「蝉の音」ですが、聖典にはそのものズバリはありません。私自身の記録で言うと一番最初に聞こえてきたのが(一番最初に気づいたのが)「チ・チ・チ・チ・チ」と言う鶯の声っぽい音でしたので、それ以前は気付きませんでした。ですが、「続・ヨーガ根本経典(佐保田 鶴治著)」を始め各種書物を読むと必ずしも先に引用した7つの順番とは限らないようですので、人によっては「蝉の音」が最初に聞こえるのかもしれません。<br /> <br /> 「蝉の音」がナーダ音だと言う確証を得られませんでしたので、もしかしたら「蝉の音」もナーダ音かもしれませんがの判断は保留で、第三図「見牛(けんぎゅう)」の「鶯の鳴き声」がナーダ音だと(個人的には)考えることにします。<br /> <br /> ちなみに、上記で引用した本のどれにもこれらの音がナーダ音だとは書いてありませんでした。<br /> <br /> 唯一それらしき詩の引用が「参禅入門(大森 曹玄 著)」の第三図「見牛(けんぎゅう)の説明の中にありました。<br /> <br /> 「やみの夜に、鳴かぬ鳥の声きけば、生まれぬさきの父ぞ悲しき」(一球禅師)というが、「凡ての牛が黒くなる暗夜」に心牛の声を聞くことができれば、それが「源に逢う」というもので、自己の根源にふれたといえよう。(中略)見牛とは、この源に逢うこと、つまり見性のことである。ただしこの段階では見ることは見たのだが、霞の中にボーッと牛の影を見たのか、同じ見たと言っても、その見た程度は人によってさまざまであろう。<br /> <br /> このあたりは微妙なところですので、わかっていても書物にははっきりとは書かなかったのかもしれませんね。<br /> <br /> 先日の十牛図とヨーガスートラとウパニシャッドの考察の通り、第三図「見牛(けんぎゅう)が自己の本性というかアートマンを見る段階である、と言うのは共通していそうです。ただ、十牛図には幾つかバージョンがあるようですので、これと一致していないものもありました。第三図の説明で「牛の姿をはっきりと描けない」とか「はっきりとは見えない」と言っているのは、この段階ではアートマンをしっかりと見ることができない、と言う点でも共通しています。<br /> <br /> <br /> <br /> Wed, 31 Jul 2019 00:00:00 +0900 心身脱落と禅定との関係 https://w-jp.net/2019/1590/ <br /> 今朝、息や体の感覚を観察しつつ執着や貧欲が体のどこかに眠っていないか探るように瞑想していました。すると、いつの間にか足の存在の感覚が半分くらい薄れて、手を足に乗せているところが触れている感覚だけが残っていました。完全に足がないわけではありませんが、感覚が薄れています。今回は「体の一部がなくなる感覚」と言えばそうなのですが、今まではそもそも体の感覚がそれほど認識できていなかったのが、今回は体の全体に意識が行き届いたために体の一部がないかのような感覚になった、とでも言いますか。体が意識できていなければそもそも「なくなる感覚」なんてできないので以前はこんな感じにはなりませんでした。言葉でうまく表現できているかどうかわかりませんが。今までは息の観察や体の観察をするにしても部分的に観察をしていました。息であれば鼻とか肺とか、気の流れであれば体の内的感覚であるとか、皮膚の感覚であれば皮膚の反応があった時にそこを観察するとか。ですが、今朝の場合は体全体に薄い感覚が広がっていて、オーラっぽいものが体の全体に広がっているのを感じつつ、瞑想中に足の一部が何か薄れて存在がなくなるかのような感じになったのです。これはひょっとしたら、なくなったのではなくて、そこだけオーラが薄れたとか、エネルギー的な偏差が体の一部で生じたとか、そのようなものかもしれないと思いました。様子見ではありますけど。<br /> <br /> 「悟りに至る十牛図瞑想法( 小山 一夫 著)」には、「最初の身の脱落は、空間に溶けてゆく感覚だが、そこに全身全霊で浸りきることが、心の作用の止滅へと繋がってゆく。」とあります。<br /> <br /> 先日引用した部分に相当しますね。私のやっていることの方向性は合っていそうですのでこのまま続けてみることにします。座った方がしやすそうですが必ずしも座った瞑想中でないとできないようなものでもなさそうですので、普段の生活でも感覚を眺めつつ様子をみることにします。同書によりますと「体」の脱落が先で「心」の脱落が後だと言います。個人的にはこれは同じもので体が脱落すれば心も脱落すると言いますか全部一度に落ちるわけではなくて体が少し落ちれば心も少し落ちて、心が少し落ちれば体も少し落ちて、というように協調して落ちて行く気がしていますが、今後は体が先に脱落するようになるのでしょうか? 同書の理屈でいえばその順番になるのは理屈ではわかる気もしますけど、実際のところどうなのかな? という気もします。まあ、この辺りも様子見ですね。<br /> <br /> ■心身脱落と禅定との関係<br /> 先日の続きです。書籍ではこのような分類は見つけられませんが、私自身の感覚に基づいて心身脱落と禅定との関係をまとめてみます。他で言っても通じないとは思います。メモ相当です。<br /> <br /> <br /> ・ステップ1(禅定以前):心身脱落前の(意・顕在意識による)サマタ瞑想あるいは心身脱落前の(意・顕在意識による)ヴィパッサナー瞑想で基本的な集中力と基本的な観察力を鍛える。<br /> ・ステップ2:心身脱落前の(意・顕在意識による)サマタ瞑想で第一禅定(心はまだ動いており、基本的な集中による喜びの感覚があります)<br /> ・ステップ3:心身脱落前の(意・顕在意識による)サマタ瞑想で第二禅定(心が静寂になり統一され、本当の意味での禅定の達成)<br /> ・ステップ4:心身脱落の初期段階で第三禅定を達成し、識(潜在意識)によるヴィパッサナー瞑想が可能になる。<br /> ・ステップ5:(今後)おそらくは・・・ 心身脱落の完成によって意・顕在意識が完全に落ちて第四禅定に至り、識(潜在意識)によるヴィパッサナー瞑想の状態になるのだと推測します。ヴィパッサナー瞑想的に見ればこれは禅定とは言わずにヴィパッサナー瞑想なのでしょうが、先日の記事のような視点でサマタ瞑想的に見れば第四禅定となり、実際の状態は同じなのではないでしょうか。もともとブッダの言葉で第四禅定が悟りになっているのはこの種の意味で第四禅定であれば確かに悟りとも言えるのかな、という気もします。禅定とヴィパッサナー瞑想が別々にあるのではなく、実質は一緒なのかな、という気がします。<br /> <br /> <br /> 今はサマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想が手法や流派によって分かれているので理解が難しいことになっていますが、実際のところ、ブッダはこのような区別はしていなかったのではないか・・・??? という気がしています。もちろん、これは私がそう勝手に思っているだけで、書物で見たことはありませんので、他のところで言っても通用しないと思いますが。単なる個人的な推測です。<br /> <br /> サマタ瞑想論者は「集中していけば第四禅定に至って悟ることができる・・・」と思っているかもしれませんし、一方で、ヴィパッサナー瞑想の論者は基本的な集中力の必要さは認めているものの「観察さえしていけば悟ることができる・・・」と思っているかもしれません。少なくとも、私の基本的な両者への理解はこんな感じです。ですが、ブッダがそんな分類なんてしていなくて、本当に単純なことを言っていただけだったような気がします。それは例えば「意(顕在意識)を止めて心身脱落すれば(それまでは隠れていた)識(潜在意識・アートマン)が現れてきて、識(潜在意識・アートマン)で観察をすれば悟りに至ることができる」というようなことかなという気がいたします。<br /> <br /> ■心身脱落なし(心身脱落前)でのサマタ瞑想<br /> 対比のために、心身脱落なし(心身脱落前)でサマタ瞑想を考えてみます。<br /> <br /> <br /> ・ステップ1(禅定以前):上と同じ<br /> ・ステップ2:上と同じ。第一禅定<br /> ・ステップ3:上と同じ。第二禅定<br /> ・ステップ4:第三禅定は心身脱落なし(心身脱落前)に可能なのでしょうか・・・?<br /> ・ステップ5:第四禅定も、心身脱落なし(心身脱落前)に可能なのでしょうか・・・? <br /> <br /> <br /> 第三禅定と第四禅定が心身脱落なしに可能だとしたら、よく見る禅定の説明にあるように「(心身脱落前のサマタ瞑想による)禅定は一時的な安らぎ」というのも、そうなのかもしれない、という気がします。<br /> <br /> ■心身脱落なし(心身脱落前)でのヴィパッサナー瞑想<br /> 対比のために、心身脱落なし(心身脱落前)でヴィパッサナー瞑想を考えてみます。この場合、意・顕在意識による観察ということになります。この場合、心身脱落なし(心身脱落前)ですので識(潜在意識)による観察はできません。<br /> <br /> <br /> ・ステップ1(禅定以前):上と同じ<br /> ・ステップ2:ヴィパッサナー瞑想と言いつつも意・顕在意識による観察ですから集中力がある程度にまで高まれば第一禅定には至る気がします。<br /> ・ステップ3:ステップ2と同様。実のところ集中瞑想をして第二禅定に至ることはある気がします。<br /> ・ステップ4:第三禅定は心身脱落なし(心身脱落前)に可能なのでしょうか・・・? <br /> ・ステップ5:第四禅定も、心身脱落なし(心身脱落前)に可能なのでしょうか・・・? <br /> <br /> <br /> おそらくは、ヴィパッサナー瞑想と言いつつも実態は集中をある程度高めないとステップを進まない気がしますが・・・ どうなのでしょう。<br /> <br /> それぞれ簡単に考察してみましたが、サマタとかヴィパッサナーとか拘らずにステップごとに必要なものを学んだ方がいいような気がします。そもそもブッダの原文を見ますとそれほどこの分類に拘っているような感じは受けませんし。ブッダの禅定の発言の中にもヴィパッサナー的な視点は読み取れますし、ブッダのヴィパッサナー瞑想の説明の中に禅定的な視点も読み取れます。<br /> <br /> ヴィパッサナー論者は「観察瞑想とは言ってもある程度の集中は必要」と言いますが、サマタ瞑想とかヴィパッサナー瞑想とかいう区分けを取っ払って、第二禅定に至るまではサマタ(観察)瞑想8割、ヴィパッサナー(観察)瞑想2割くらいで基本は集中瞑想にして心を平穏にして、第三禅定以降でヴィパッサナー瞑想の割合を増やして行くのがいいのかな、という気もします。流派によってはサマタ瞑想を最初にやってヴィパッサナー瞑想をその後にするそうですが、その理屈はこんなところかもしれません。その流派にこの辺りを聞いたことはありませんが、そのうち機会があれば聞いてみたいとは思います。サマタ瞑想からヴィパッサナー瞑想への移行はそれなりに瞑想が進まないと移らないとすれば、サマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想の切り替えは数ヵ月から年単位になる気がします。<br /> <br /> <br /> <br /> <br /> <br /> Tue, 30 Jul 2019 00:00:00 +0900 七つの目覚めの要員(七覚支)と執着の放棄・貧欲の終わり・欲の止滅 https://w-jp.net/2019/1589/ <br /> 私はこれから具体的にどうすれば良いのでしょう? と思っていて、調べてみました。すると、手がかりが「ブッダの〈呼吸〉の瞑想(ティク・ナット・ハン 著)」に掲載されているヴィパッサナー関連の経典にありました。それは、アーナンダ尊者による質問という形式になっています。<br /> <br /> 「修行が実を結んだ暁に、四種の気づきの確立(四念処、身体・感覚・心・心の対象に対する気づき)と、七つの目覚めの要員(七覚支)と、智恵と解放というふたつの要因を保ち続ける力を獲得できるような、そうした修行の仕方はあるだろうか?」<br /> <br /> ・・・(中略)・・・活力(精進)という要因が完成したとき、それは喜び(喜)という目覚めの要因を成就するための道を開く。それによって、心が自然に喜びに満たされるからだ。<br /> <br /> これは、明示はしてありませんが、第一禅定に似ています。この経典は一般ではヴィパッサナー瞑想として解釈されていると思いますけど、先日書きましたようにヴィパッサナー瞑想もサマタ瞑想もそうは変わらないと仮定しますと、一般的にはサマタ瞑想だと考えられている禅定とこの説明が結びつくわけです。これは個人的な解釈ですので、他所で言っても通じないと思います。あくまでも仮説です。<br /> <br /> (中略)安らぎという要因が完成したとき、身心は満たされ、それは集中(定)という目覚めの要因を成就するための道を開く助けになる。<br /> <br /> これも、明示はしてありませんが、第二禅定に似ています。<br /> <br /> (中略)集中という要因が完成したとき、貧欲は消え、それは平静(捨、しゃ)という目覚めの要因を成就するための道を開く。<br /> <br /> これも明示はしてありませんが、第三禅定に似ています。<br /> <br /> 「高潔な弟子が、感覚において感覚の観察を行い、心の活動において心の活動の観察を行い、現象において現象の観察を行うとき、ちょうど身体において身体の観察を行うのと同じように、七つの目覚めの要員を完成させることができる。」<br /> 「アーナンダよ、これは七つの目覚めの要員の観察を目指すための四種の気づきの確立の修行と呼ばれる」<br /> <br /> と、言うことは、第三禅定(明記はありませんが)に到達するために行うのは四念処(身体・感覚・心・心の対象に対する気づき)だと言うことになります。もちろん前提条件としてヴィパッサナー瞑想とサマタ瞑想が前記の意味でほぼ同じという仮定が成り立つ場合においての話です。<br /> この後、アーナンダはいわゆる「悟り」であると思われる「理解と解放」に至る方法を訪ねています。<br /> <br /> 「七つの目覚めの要員によって理解と解放を完成するには、どんな修行をすればいいのでしょうか?」<br /> <br /> ブッダはアーナンダに説いた。<br /> 「比丘(びく、男子修行者)が、目覚めの一要因である気づきを、執着の放棄をよりどころに、貧欲の終わりをよりどころに、欲の止滅をよりどころにして修行するとき、彼は平静さへと向かう道を歩み、気づきという目覚めの一要因の力によって、くもりなき理解と解放の修行の成就に至るだろう。比丘が、執着の放棄をよりどころに、貧欲の終わりをよりどころに、欲の止滅をよりどころにして、その他の目覚めの諸要因 ーーー 現象の識別、活力、喜び、安らぎ、集中、平静の修行をするとき、これらの目覚めの諸要因の力によって、同じように、くもりなき理解と解放の修行の成就に至るだろう。」<br /> <br /> 以前の記事( 1, 2, 3 )で引用しましたが、第四禅定の要件はこれとは微妙に異なりますね。拡大解釈すれば同じとみなせなくもないですが、第三禅定まではかなり似ていて第四禅定だけ違うのはどういうことでしょう? 謎です。その差は保留するにしても、ここでのポイントは「執着」「貧欲」の克服ですね。これは「煩悩」ですので悟る前に煩悩があるのは当然で、悟ることで煩悩がなくなる、という方向性が理解できます。であれば、ここでブッダが説いているのは悟りへの道ですね。このブッダの言葉をそのまま解釈すれば、第三禅定相までで悟るための「目覚めの要員、七覚支」は一通り揃うことになります。その上で、その目覚めの要員(七覚支)を使うことで悟り(あるいは第四禅定?)に至ることができる、と読めます。<br /> <br /> 「悟りの階梯(藤本 晃 著) 」に基づきますと、アビダンマ仏教では第四禅定が悟りではありません。ですが、仏教原典では度々、第四禅定で悟りのように読めなくもない表現に遭遇します。解説書よりも原典の方がスッキリしていてシンプルですし、実は悟りとはかなり単純なものなのかもしれない気がしています。<br /> <br /> もしかしたら一般的に「悟り」と言われているのは第四禅定くらいのことを意味しているのかもしれません。<br /> <br /> 先日、十牛図とヨーガスートラとウパニシャッドの段階を引用しましたけど、第四禅定より先があるのにも関わらず一般的には第四禅定が悟りと見なされるのだとすれば、それはそうかもしれない、という気もします。<br /> <br /> もちろんここで言う第四禅定とは、先日考察しましたようにサマタ瞑想だけの第四禅定ではなくヴィパッサナー的な第四禅定のことで、身心脱落していて”意(顕在意識)”が止まっていて”識(潜在意識、いわゆるアートマン)”が現れている第四禅定のことです。<br /> <br /> ■許す瞑想<br /> 先日の続きです。<br /> 一連の「許す瞑想」の変化ですが、最後の「(太陽に)許されています」から「(太陽に)癒やされています」に変わりました。癒やしとはこういうことかもしれません?<br /> <br /> 昼間はそんな感じですけど、夜は「(星々に)癒されています」という感じです。<br /> <br /> 最初から変化を書きますと「(私が)許します」→「(神よ)許してください」→「(主体なしに)許されています」→「(太陽に)許されています」→(昼間は)「(太陽に)癒やされています」&(夜は)「(星々に)癒されています」に変化してきました。<br /> <br /> <br /> Mon, 29 Jul 2019 00:00:00 +0900 サマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想と”意”と”識” https://w-jp.net/2019/1587/ <br /> ■心が一枚岩だという誤解によりヴィパッサナー瞑想が生まれた?<br /> 先日引用した「釈尊の生涯 (中村 元 著)」の通り、仏教経典には第四禅定で悟りになっているようです。禅定というのはいわゆるサマタ瞑想です。一般にはそのように考えられています。アビダンマ仏教などではヴィパッサナー瞑想という概念を使って、禅定の後に観察瞑想を行うことで悟りに至ると説明されています。<br /> <br /> ブッダが第四禅定で悟ったとは、一体どういうことでしょう? 仮説ではありますが、ブッダの時代の禅定はヴィパッサナー瞑想相当だった、とも考えられます。 このあたり、本当に混乱するのですが、前提条件として「心」が何なのかが異なっていると意味合いも異なってくるのです。まず、心が「顕在意識(いわゆる論理思考の表面な意識)」のみであるという前提がサマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想という2つの概念を作り出しているような気がします。一方で、ブッダの言う「心」は「顕在意識」のみならず「潜在意識」をも含み、むしろ「潜在意識」を中心に「心」と言っているのでサマタだとかヴィパッサナーだとか言う区分はなくなると思います。<br /> <br /> ■サマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想と”意”と”識”<br /> 区分けしてみますと、本当にスッキリします。<br /> <br /> 意(顕在意識)身心脱落識(潜在意識)1ありなし(未達)なし(隠れている)2あり/なしあり(可能)あり<br /> ・顕在意識での瞑想がサマタ瞑想。瞑想初心者はここから開始。禅定で達成できるのもサマタ瞑想の禅定のみ。<br /> ・潜在意識での瞑想がヴィパッサナー瞑想。先日の記事の「身心脱落 」に至ることで潜在意識が表に出てくるとすれば、その段階に至って初めてヴィパッサナー瞑想が可能になるのだと思います。それ以前は潜在意識でのヴィパッサナー瞑想は不可能。それ以前は形式だけヴィパッサナー瞑想だとしても潜在意識を使ったヴィパッサナー瞑想は不可能だと思います。この状態での禅定で達成できるのはヴィパッサナー瞑想的な禅定。最近の用語ではこれは禅定とは言わないようですが、推測ですがブッダの時代にはこれも禅定と言っていたのではないでしょうか。仮説ですが。自分で禅定を体験してみると、禅定の状態でも潜在意識は停止しませんので、よく書籍で見るように「禅定はサマタ瞑想だから心が停止してしまうだけなので一時的な安らぎに過ぎない」とか書いてあることの意味がわかるようでいてしっくりきません。先日の引用記事にて、ヨーガで止滅させるのは”意”であって”識”ではない、とありますが、この説明を流用して、「禅定はサマタ瞑想だから意が停止します。身心脱落に至っていれば識がありますが至っていなければ識はまだありません(あるいはぼんやりとしています)」とだけ言ってもらった方がスッキリします。一時的な安らぎとかなんとか言われても、なんだかお茶を濁しているように感じてしまいます。禅定で「意」が止まると言うことならそれはそうですけど、身心脱落の後であればそれでも同時に「識」は動いていますから、その禅定は同時にヴィパッサナー瞑想でもあるわけです。その状態になった時、その瞑想をサマタ瞑想と呼ぶのでしょうか? それともヴィパッサナー瞑想と呼ぶのでしょうか? 微妙ですよね。<br /> <br /> 同じ禅定で”意”を停止した場合、”識”が動いていなければ(身心脱落の前)それをサマタ瞑想と呼んで、”識”が動いている(身心脱落の後)のであればそれをヴィパッサナー瞑想と呼ぶのであれば、それはそうかなと思いますが、そのような区分けは聞いたことがありません。従来の瞑想の区分けですと、”意”で観察している時も(形式によって)ヴィパッサナー瞑想と呼んでしまうので、何が何だかよく分からなくなります。”識”で観察している時だけヴィパッサナー瞑想と呼べばいいのにと思うのですが、それよりも瞑想の形式でヴィパッサナー瞑想と呼んだりしていると思います。<br /> <br /> 今の混乱した用語のままですと、”意”を停止させてサマタ瞑想をしていても”識”が動いているのであればヴィパッサナー瞑想相当ですが本人は自分の瞑想のことをサマタ瞑想と言ったりするかもしれません。もしかしたら仏教原典に書かれたブッダの禅定とはこのことかなと推測するのですが。であれば、身心脱落により”識”が動いているブッダが禅定でサマタ瞑想に入って”意”を止めて”識”だけで観察するヴィパッサナー瞑想で悟った、と言うのはすんなり理解できます。<br /> <br /> どうも、この種の用語はブッダ本人ではなく、後の世代の人が身心脱落に至ることなく、”識”とは何なのかを体感することなく”意”のみでブッダの瞑想を理解したことによってサマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想という区分が出来てしまったのではないかと推測したりするのですが、どうですかね。もちろん仮説ですけれども。仮説はさておき、サマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想との区分けは今日の考察で私的には随分とスッキリしました。<br /> <br /> <br /> <br /> <br /> Sat, 27 Jul 2019 00:00:00 +0900 後頭部と眉間の鼓動 https://w-jp.net/2019/1586/ <br /> ■後頭部と眉間の鼓動<br /> 朝、枕につけている後頭部が脈拍の倍くらいの速度で脈動していました。と同時に、同じくらいの速度で眉間が細かく震えていました。<br /> 頭の中の下の方での脈拍は先日と同じように感じていますが、確認してみると、先日のような「うなじ下」の脈動はなし。脈拍と同じスピードでの鼓動が頭の下の方であるのと、脈拍の倍くらいの脈動が後頭部と眉間にあります。これら3箇所には何か連動があるのかもしれませんけど、一応別物です。まあ、様子見です。<br /> <br /> ■今日の許しの瞑想<br /> 先日まで変化してきた許しの瞑想ですが、今日はそういう感じになりませんでした。特にそれで不都合もなく、ただの平穏な瞑想でした。<br /> <br /> ■目覚め<br /> クンダリーニ経験後は基本的に目覚めは良かったのですがここ最近、目覚めが悪かったのです。ですが、昨日今日は割と普通に起きられました。許しの瞑想が関係しているのでしょうか? それとも、何か別の要因でしょうか。様子見です。<br /> <br /> Sat, 27 Jul 2019 00:00:00 +0900 クンダリーニがアナハタまで上がった。許されています。アートマンはどこに? https://w-jp.net/2019/1563/ <br /> ■クンダリーニがアナハタまで上がった<br /> 先日の「風のルンの竜巻」 の経験以降アナハタが優勢になっています。ちゃんとは書いていませんでしたがこのことがいわゆる「クンダリーニがアナハタまで上がった」状態かなと思っております。第2回目クンダリーニでいわゆるクンダリーニっぽい経験があって、今回の竜巻では同種の感覚ではなかったものの、アナハタ優勢になっています。初回は「熱」が中心でしたが、今回は「風」が上昇した感じです。エネルギーの違いかなと思っております。<br /> <br /> クンダリーニヨガ系の書物を見るとクンダリーニを数十分〜数時間の行法でムーラダーラからアナハタを超えてアジナやサハスララまで上げる方法などが書かれてあったりしますが、そのように短時間でクンダリーニを上げる行法のことは私にはよく分かりません。書物で読んだことはありますが私自身の体験としてそのような短時間でのクンダリーニの移動は経験がありません。第2回目クンダリーニの「熱」をそのままアナハタ以上に上げるのはエネルギーの種類が違うのであまりよくない気もするのですがどうなのでしょう?<br /> <br /> ここで「クンダリーニがアナハタまで上がった」と言っているのは、クンダリーニの「居所」がムーラダーラ(あるいはマニプラ)からアナハタまで移動した(上がった)ということで、そのことを、きっと「クンダリーニがアナハタまで上がった」と言うのかな、と思っております。この辺りは流派によって色々とあるかもしれませんね。クンダリーニの居所が変わることを「上がった」とは言わない流派もありそうですし。<br /> <br /> 上がるだけではなく、エネルギーの質も「熱」から「暖」に変わっています。<br /> <br /> 当日の記事を読むとこの辺りは「夢の中」で起こったことになってますので、読んだ方は「え。現実ではなくて夢でしょ?」とお思いになるかもございませんが、ヨーガやスピリチュアル的には夢も現実なのです。ですので、私にとって夢での経験が現実に影響することは全く違和感がないのです。<br /> <br /> ■許しの瞑想の続き<br /> 先日書いた「許しの瞑想」の続きです。<br /> 最初は(自分が)「許す瞑想」(該当記事) でした。<br /> 次は (神様に)「許しを請う瞑想」 (該当記事) に変わりました。<br /> <br /> 今日は、その許しの瞑想が(主体なしに)「許されています」に変化しました。<br /> <br /> 「神様に許されています」ではありません。<br /> 「誰かに許されている」ではありません。<br /> <br /> ただ、「許されています」に変化しました。<br /> <br /> 冠詞はなくても良いですし、主体はなくても良いのですが、あえて主体をつけるのであれば「太陽に許されています」ならアリです。「太陽の光に許されています」よりは「太陽に許されています」の方がしっくりきます。<br /> <br /> 特に付け加えることはほとんどないのですが、あえて説明のために言うならば「存在することを許されている」「太陽に存在することを許されている」「太陽が許さなければこの世のものは何者も存在できない」と言う感じがします。であれば、この地上に存在するだけで、それは太陽に存在を許されていると言うことなのかもしれません。この地上に存在すると言うだけで、それは既に太陽に存在を許可されているとは凄いことです。許容力が絶大ですね。<br /> <br /> ■アートマンは十字架の姿?<br /> 先日の「アートマンはどこにいる?」 (該当記事) の続きです。<br /> アートマンを今日も探したところ、自分の正面にいるのは同じなのですが、その姿が「十字架」っぽい気がしました。十字架の形で何かがあって、後光が差している感覚。十字架のところだけ若干暗いです。これが何なのかまだ掴めていませんので、もう少し様子を見ます。<br /> <br /> ■第三禅定と第四禅定<br /> 先日の第三禅定と第四禅定のお話の続きです。<br /> ほぼ同一ではありますが、「釈尊の生涯 (中村 元 著)」に第三禅定と第四禅定の描写があります。<br /> <br /> 第三禅「平静であり、念あり、安楽にとどまっている」<br /> 第四禅「楽を捨てて苦を捨てるがゆえに、先に喜びと憂いとを滅したので不苦不楽であり、平静と念とによって清められている」<br /> <br /> ここまではほぼ同一なのですが、先日のアビダンマ仏教では第四禅定が悟りではなくてその先があるのですが、こちらの原文を見ますと、第四禅定で悟りになっています。原文とは言いましてもブッダ本人の著作ではなくて弟子の残した文章ですので必ずしも正しいとは限りませんし、ブッダは語る相手によって言論を使い分けていたと言いますから鵜呑みにはできませんが、第四禅定で悟りにしている点は興味深いです。<br /> <br /> <br /> Fri, 26 Jul 2019 00:00:00 +0900 神に許しを請う祈りとは? https://w-jp.net/2019/1562/ <br /> ■「私」という感覚の希薄化に伴う「神に対する祈り」への変化<br /> 先日 許す瞑想 について書きましたが、その時の主体は「私」で、私が許します、という瞑想でした。ですが、私という感覚の希薄化に伴って、(私が)「許します」という瞑想 から(神よ)「許してください」という瞑想に自然に変化してきました。<br /> <br /> 竜巻の経験の前は自分という感覚(自我)がまだそれなりにあったので「私が」許します、という瞑想だったのです。今は、「私」という自我の感覚が薄まったので「私が」許すというのは違和感があるので「神よ、許してください」というのがしっくりきます。論理的に考えてそうなったというよりは、どちらが「しっくり来るか」というお話です。しっくりくる言葉が自然に湧き上がってきます。これは他人(あるいは人格神)に依存するということではなくて、自我がなくなった時の許しはこうするしかない、という感覚です。自我がある時はおそらくは「私が許します」で問題ないのかなと思います。<br /> <br /> キリスト教の許しを請う祈りはこのレベルなのかもしれないです。自我が薄まるまではその許しと祈りの本質は理解できないのかもしれません。神様に祈って許しを請うのは、過去のカルマを解消するにはそれ以外に方法がないからです。神様以外に、一体誰に許しをもらえるというのでしょう? 特定の神様のイメージはありません。他に表現することができないのでとりあえず神様と言っているだけで、ブラフマンとか大自然とか宇宙とか言ってもいいかもしれませんけど、私にとっては普通に神様というのがしっくりとくるというだけのことです。些細なことであっても、今までしてきたことに対して、それの許しがもらえるとしたら神様以外に思い浮かびません。まあ、人によっては「守護霊様」とか「大心霊様」とか「天照大御神様」とか「キリスト様」とか「アッラー」とか、なんでもきっと同じなのだと思います。<br /> <br /> 自我がまだある状態で無理やり許しの瞑想を誰かにさせられたらキリスト教の悪い習慣のように神様に対して恐怖を感じてしまうのかもしれませんが、本来の意味は自我がなくなった状態でのこの種の許しを自発的にすることだとすればそこに強制はなくて恐怖もなくて、ただただ安らぎ(と言う言葉すら違和感がある平穏さ)だけがあるのでしょう。言葉にすればそれは何か違う感じになってしまいますが、神様に委ねるしかない、という気持ちです。繰り返しますけど、神様への依存ではないです。自我がなくなった時の祈りを表現するとしたら神様への祈りとしか言いようがない、という、表現だけの問題です。<br /> <br /> 過去を振り返りますと、過去の大きなトラウマに関しては「自分」に対して許す瞑想でかなり解消してきていました。それをベースにして、まだ残っているとても小さな小さな出来事に対しても完全に浄化するには、これはもう神様に祈るしかないな、という感覚です。最初から自我が少ない人であれば最初から神様に祈ればいいのかもしれませんが。<br /> <br /> ここでは「神」という言葉はブラフマン的な意味で言っており、大自然や宇宙とも言える大きな存在ですので人格神ではありませんが、神様が「人」だと頑なに思っている人、あるいは、神様がなにがしかの「自分以外の意志や存在」、あるいは、絶対的な人格神だと頑なに思っている人は、これは逆じゃないかと思うかもしれません。その種の人々は、「大きな罪は神様に助けてもらって小さな罪は自分でなんとかする」、いうように逆に考えるかもしれません。ですが、ここで言っている神は人格神ではありませんので、ここで言っているのはそういうことではなくて、自我が強いか弱まっているかという観点で瞑想というか祈りのやり方を変えているだけです。祈りも瞑想も本質は同じです。この祈りの本質は「許し」で、本質的には自分も他人もないのですから自我なんて幻想ですので、ただ単に、自我が強ければ「私が許す」とするしかないし、自我が弱まれば自然に「神様(自分も実は含まれる)が許す」という観点になるのは自然なことだと思います。この辺りを勘違いしてしまうとモラルハザードになってしまう可能性がありますので難しいところではあると思います。勘違いして「自分が許す」とか言ってしまうと「自分が後で許すんだから何をやってもいい」とか考えてしまう人もいらっしゃるかもしれませんが、自分が酷いことをしたらカルマの法則で自分が後で酷い目にあうだけです。その危険性は置いておいて、ここで言いたいのは、自我の減少に伴って神に対する祈りが瞑想中に自然に出てきた、ということです。<br /> <br /> ■「好き」の感覚は治まりました<br /> 先日から感じていた「好き」の感覚は次第に治まりました。あまりにも波が減って、過去の感情の起伏がちょっと懐かしいような(執着?)気もちょっとするのですが、まあ、これはこれでいいかな、という感じです。瞑想中も「喜び」はほとんど感じなくなりました。次の段階に進んできたのでしょうか。<br /> <br /> ■「好き」の感覚と第3禅定、第4禅定<br /> 「悟りの階梯(藤本 晃 著) 」に基づきますと、第3禅定で「喜悦感から離れて平安(捨)な心になる。幸福感はまだあります」と言います。第4禅定で「最後に残った幸福感さえもなくします。と言っても不幸になるのではなく、苦、喜び、憂いなどはとっくに消えていますので、心は不苦不楽の本当に清らかな平安(捨)の状態になるのです。しかも、心はこの平安状態をしっかり確認して、気づき(念)は途絶えません。喜びや幸福感さえも静まった心の平安だけを味わいます。」とあります。私が「好き」の感覚が治ったということは、この第3あるいは第4禅定のどちらかに来ていると思われます。<br /> <br /> 「悟りの階梯(藤本 晃 著) 」はテーラワーダ仏教ですがチベット仏教系の「ダライ・ラマ智慧の眼をひらく」にも同じようなことが書かれています。第3禅定で「よろこびの感情のない幸福感(捨)」が達成されるとのことです。<br /> <br /> 私はおそらく第3禅定なのかなと思っております。「何かがちょっと足りない」感じがあります。<br /> <br /> 「ダライ・ラマ智慧の眼をひらく」によりますと、第4禅定で「4つの限りない心(四無量心)」を得ると言います。<br /> <br /> <br /> ・慈しみの心(慈、じ)<br /> ・あわれみの心(悲、ひ)<br /> ・他に対する喜びの心(喜、き)<br /> ・平静な心(捨、しゃ)<br /> <br /> <br /> そして、第3禅定には「感覚の基体(意)によって生まれる心の快楽と苦痛」という欠点があると言います。上記の第4禅定に足りていないところはこの辺りかなと思います。心の平静さに落ち着いてはいるものの、どこか、心の奥底でかつての喜怒哀楽を懐かしんでいる気持ちがまだあるのです。きっと第3禅定と第4禅定の違いはそのあたりにあるのかなと思います。<br /> <br /> ■「意識で感じること」の補足<br /> 先日の「感じること」の補足です。<br /> 「意識で感じること」と「(五感の)皮膚で感じること」とは別物です。記事で扱っているのは前者の意味です。<br /> <br /> ■アートマンはどこにいる?<br /> 瞑想中、先日読んだ「悟りに至る十牛図瞑想法( 小山 一夫 著)」に従って禅の十牛図「身心脱落」(先日の記事 )から「純粋観察者(真我、アートマン)の出現」を目指して、瞑想中に心を平穏にしてからアートマン(純粋観察者)がどこにいるのか探してみました。最初は胸のあたりかなと思ったのですが、胸は確かに「暖」と言えるくらい暖かい状態ではあるのですが、アートマンがそのものかどうかどうかはよくわからず。感覚で探ってみたら、胸の前から顔の少し前にかけて浮かんでいる? ような気がしました。私の体より少し前方に、体と少し重なって丸く存在? 楕円で、顔の前くらいから胸のちょっと前あたりまで。まあ、これはまだ様子見です。まだちゃんと見つけた気はしません。<br /> <br /> <br /> <br /> <br /> <br /> <br /> Thu, 25 Jul 2019 00:00:00 +0900 西洋の心「マインド」と無意識 https://w-jp.net/2019/1561/ <br /> ■西洋の心「マインド」<br /> 先日の ”心”と”意識” の続きです。英語でマインド(心)と呼ぶ時、基本的には顕在意識を意味し、潜在意識(無意識)を含みません。しかし、時折、深く精神を語る時には潜在意識(無意識)もマインド(心)の一部として語られます。ここに混乱があります。例えば、先日引用したヨーガスートラ 3章1~3の中で「マインド」という言葉が潜在意識の意味で使われていたりします。<br /> <br /> 一部の論者は言葉を使い分けて、例えばOSHOラジニーシは通常の心(顕在意識)に対して潜在意識(無意識)をノー・マインド(無心)などと言ったりします。使い分けてもらえるとわかりやすいのですが、両者を共にマインド(心)と言ってしまうところにこの種の話の混乱があるように思います。<br /> <br /> 私が先日書いた文章も似たような言葉を使っているので混乱があって申し訳ないのですが、先日の記事の”心”は顕在意識で、先日の記事の”意識(で感じる)”は潜在意識(無意識)に対応します。そのまま顕在意識と潜在意識と書いてしまうと精神分析っぽく聞こえてしまって本来言いたいことが伝わらなかったりしますので難しいところです。このあたり、一般的に用語が統一されれば良いのですが。<br /> <br /> ■銀河鉄道999<br /> たしか銀河鉄道999で「心」がどうのこうの、という印象的な詩的表現があったかと思いますが、詩的表現は潜在意識(無意識)の心(マインド)の方だと思います。<br /> <br /> ■心と「1なる心」<br /> 精神分析のユングは顕在意識と潜在意識を研究した立役者の1人ですが、彼の著書「東洋的瞑想の心理学(C・G・ユング 著)」の中で次のように分析しています。<br /> <br /> 世間でふつう心とよばれているものについての知識は、広くゆきわたっている。<br /> これは、顕在意識を「ふつう」の心と言っていて、それに対比して説明を試みているようです。<br /> <br /> 一なる心は、まさに空であり、何らの基礎も持っていない。人の心は、同じように、天空のようにからっぽである。(中略)真なる状態における心は、創造されず、自ら輝いている。(中略)一なる心と無意識が同一であることについて、なお疑いをもっている読者には、この節はその疑いをぬぐい去ってくれるはずである。<br /> <br /> ユングは、ヨーガにおいてアートマンとかブラフマンとか呼ばれているいわゆる「魂」を「心」とか「一なる心」と表現しています。時に「心」と言ったり「一なる心」と言ったり紛らわしいところではありますが。そして、心の表現を以下のように羅列しています。<br /> <br /> 心に与えられた名称<br /> それに与えられていたさまざまの名は、数えきれない。<br /> ある人びとはそれを「心の自己」とよぶ。<br /> ある者たちは、それを「自我」(アートマン)とよぶ。<br /> 小乗の者たちによって、それは「教えの本質をなすもの」とよばれる。<br /> ヨーガ学派によって、それは「智恵」とよばれる。<br /> ある人びとはそれを、「彼岸の知恵に達する方法」(般若波羅蜜、プラジュニャー・パーラミタ)とよぶ。<br /> ある人びとはそれを、「仏陀の本質」とよぶ。<br /> ある人びとはそれを、「偉大なる象徴」とよぶ。<br /> ある人びとはそれを、「唯一の種子」(ビンドゥ)とよぶ。<br /> ある人びとはそれを、「真理の潜在的可能力」(法界、ダルマダートゥ)とよぶ。<br /> ある人びとはそれを、「すべての基礎」とよぶ。<br /> 日常の言葉では、それにはまた、別な名がつけられている。<br /> <br /> 中には、ちょっと違うのではないかと思われるものも含まれていますが、ユングが西洋人としてアジアを理解しようとしたのが見てとれますのでこれはこれで興味深いです。<br /> <br /> <br /> <br /> Wed, 24 Jul 2019 00:00:00 +0900 禅の十牛図「身心脱落」からヨーガスートラとウパニシャッドへ https://w-jp.net/2019/1560/ <br /> ■禅の十牛図「身心脱落」(しんじんだつらく)<br /> 「悟りに至る十牛図瞑想法( 小山 一夫 著)」には以下のようにあります。<br /> <br /> 最初の心の脱落は、肉体が周囲の空間に溶け込んだ時に起こる。感覚を受け止めるフィールドは残っているが、独特の調和が保たれることで、ほとんど雑念が湧いてこない。あたかも静かな泉の水面(みなも)を淡々と眺めているだけのような感覚だ。心中、嵐もなく波紋も起こらない。意識は判然としていて心の平静を自覚している。<br /> <br /> これは先日書いた内容ととても似ています。どうやら私はこの段階にいるようです。第三図の「見牛」に相当します。同書は次のように続きます。<br /> <br /> だが、本当の意味での心の脱落とは、一定の調和によって雑念などを起こらなくさせることではなく、ヨーガスートラ第1章にあるように心の作用そのものを止滅させることなのだ。(中略)これは「騎牛帰家」から「忘牛存人」に至るプロセスに他ならないのである。<br /> <br /> この最終的な状態は私にはまだよくわかりません。と言いますか、てっきり前者のお話がヨーガスートラの「心の作用の止滅」かと思っておりましたので、今の私の状態はまだ半分なのだとこの本で気付かされました。<br /> <br /> ■禅の十牛図とヨーガスートラ・ウパニシャッドの比較<br /> 同書ではこれらの比較も行なっています。<br /> <br /> <br /> ・(十牛図)心身脱落 = (ヨーガスートラ)心の作用の止滅 = (初期仏教)止<br /> ・(十牛図)見性 = (ヨーガスートラ)純粋観察者の出現(真我を見る) = (初期仏教)観<br /> ・(十牛図)得牛〜放牛 = (ヨーガスートラ)真我独存 = (初期仏教)還<br /> ・(十牛図)騎牛帰家 = (ウパニシャッド)真我の離脱 = (初期仏教)還<br /> ・(十牛図)忘牛存人 = (ウパニシャッド)宇宙の最高原理との合一 = (初期仏教)還<br /> ・(十牛図)忘牛存人 = (ウパニシャッド)穢れを離れる = (初期仏教)浄<br /> ・(十牛図)人牛倶忘 = (ウパニシャッド)死を超越する = (初期仏教)浄<br /> <br /> <br /> これを見ると、ヨーガスートラの位置付けがはっきりします。一般に思われているヨーガスートラの最終地点である「心の作用の止滅」は解脱の最終地点ではないわけですね。ヴェーダンタはウパニシャッドを扱いますのでヴェーダンタの位置付けも分かります。ただ、ほとんどの人にとってはヨーガスートラが合っているのではないでしょうか。なかなかヨーガスートラの次の段階には達しないような気が致します。<br /> <br /> ヨーガスートラで言うところの「心の作用の止滅」が半分ではあるものの体感できるようになってきて、「次はどうすれば良いのだろう?」と思っておりましたので、道筋が見えてきました。<br /> <br /> ■主観と客観、意と識の分離、客体と自体<br /> 「悟りに至る十牛図瞑想法( 小山 一夫 著)」では、先日書いた「心で観察するか、意識で観察するか」に関して次のように説明しています。<br /> <br /> ヨーガで止滅させる対象は”意”であって”識”ではない。なぜなら”識”は、意の働くフィールドであって、ヨーガの技術によっても止滅させることはできないからだ。つまり、識なくして個の存在もない。またこの識は、個を超えて全体とも繋がっている。だからこそそこに全体との合一と融合つまりウパニシャッドへの道が開かれるわけだ。ヨーガは意と”個の段階の識”を対象とし、ウパニシャッドは”個”を超えたより深く広い領域を対象としている。<br /> <br /> これまた興味深い記述です。この”意”と”識”という表現はこの著者の編み出した言い方のようです。上の段階と合わせるとよく理解できます。同書では、同じ”意”と”識”について別の観点からも紹介しています。<br /> <br /> ヨーガスートラには「(中略)客体ばかりになり、自体をなくしてしまったかのようになった時が、三昧とよばれる境地である」とある。佐保田博士は「心理学的に言えば、主観の状態が忘れ去られて、客体だけが意識の野を占領する状態」と説明されている。<br /> <br /> 上記の原文を探しましたところ、「ヨーガ根本経典(佐保田 鶴治著)」のヨーガ・スートラ 3-3 に記載がありました。三昧の説明としてこれが記載されていますが、それがこの”意”と”識”と結びつくのは私にとってはちょっと意外でした。と言いますのも、三昧の定義は「主体と客体が同一になる(二元性がない)」ことだと思っていたからです。であれば私は既に三昧(の一種)に既に到達していることになりますけど、あまりピンときません。三昧は種類が沢山あって、どれがどうなのか文章だけではイマイチわかり辛いのも難点です。手元の書物を改めて確認してみましたところ、どうやら最初の三昧(サマーディ)は主体と客体の二元性がまだ残っており、次第に二元性のない三昧(サマーディ)に移ってゆくとのことです。サマーディはあまりにも高い目標とばかり思っていましたのでサマーディのことはノーマークでしたが、基本的なサマーティの要素はいつの間にか達成していたようです。<br /> <br /> 私は”心”と”意識”という言葉で表現しましたが、こうして見ると色々と表現方法があるものです。<br /> <br /> 人はよく客観視という言葉を気軽に使いますけど、ヨーガ的というか心理学的な狭義の「客観」がこの種の状態を意味するのであれば狭義の客観ができている人はかなり絞られると思います。広義の客観が技術的・論理的なものであるとしたらここで言う狭義の客観はまるで別物ですね。興味深いです。まあ、この辺りを突っ込みだしたら色々とあるでしょうし定義によっても異論も色々あるでしょうからこのくらいにしておきます。客体とか主体とか客観とか主観という言葉の定義を色々調べ出したら、上の引用文も論理的にどうなのでしょう? という気もしてきましたので。自分の瞑想で「答え」を知っているので「ああ、あのことを言いたいのかな」と類推できますけど、そうでなければこれはなかなか理解し辛い表現だと思います。<br /> <br /> ■息の「観察」の変化<br /> 先日書いた「息の観察」について補足します。かなり以前は瞑想で「息を観察」する場合に「心」で「吸っています」「吐いています」あるいは擬音で「スー」「ハー」と「心の声」を出すようにしておりましたが、それは「観察」とは言わないような気が最近はしています。昔はこの辺りの表現がごちゃ混ぜだったかもしれませんので、昔の記事を読むと混乱があるかもしれません。かなり以前は心による現象の追っかけ動作も「観察している(筈)」と思っていましたが、いつ頃からか、息の「観察」と言うと「意識で」観察することだと今は思っています。よって、上に書いた「心を動かさずに息などを観察していると〜」と言うのは心で息の動きを言語化することではなくて、「意識」で(心はほとんど動かさずに)息を観察することを意味します。この違いは大きいです。この「意識」の動作は「感じること」と言い換えても良いです。<br /> <br /> ■ヨーガスートラにおけるサマーディ<br /> 幾つかの書物を探ってみます。<br /> <br /> <br /> ・ヨーガスートラ 3章1~3) 「集中(ダーラナ)とは、心を1つの場所、対象、あるいは観念に縛りつけておくことである。瞑想(ディアーナ)とは、そうした対象への認識作用の絶え間ない流れである。三昧(サマーディ)とは、この瞑想(ディアーナ)そのものが形を失ったかのようになり、その対象がひとり輝くときのことである。」瞑想には、3つの要素がある。つまり、瞑想者と瞑想と瞑想される対象である。しかしサマーディには、対象か瞑想者かの、どちらかしかない。そこには、「私はこれこれのものに瞑想している」という感じがない。「インテグラル・ヨーガ (パタンジャリのヨーガ・スートラ) (スワミ・サッチダーナンダ 著)」<br /> ・ヨーガスートラ 3章1~3) 「ダーラナー(集中)とは、心をある特定の対象に集中することである。その対象の知識の普段の流れが、ディヤーナ(瞑想)である。それが全ての形をすてて、意味だけを映すようになったとき、それがサマーディである。」それは、瞑想中に形、すなわち外側の部分がすてられたときにやってくる。かりに私がある書物を瞑想していたとする。そして徐々に心をそれに集中し、内面の感覚、すなわち形ではまったく表現されていない意味だけを知覚することに成功した時、ディヤーナのその状態が、サマーディとよばれるのである。「ラージャ・ヨーガ(スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ 著)」<br /> ・ヨーガスートラ 3章1~3) 「凝念(ぎょうねん)とは、心を特定の場所に縛りつけておくことである。静慮(じょうりょ)とは、同一の場所を対象とする想念がひとすじに伸びていくことである。その静慮が、外見上、その思念する客体ばかりになり、自体を無くしてしまったかのようになった時が、三昧とよばれる境地である。」心理学的にいえば、主観の存在が忘れられて、客体だけが意識の野を占領する状態である。「ヨーガ根本教典(佐保田 鶴治 著)」<br /> ・ヨーガスートラ 3章1~3) 「心(マインド)と物体との間の途切れない認識の流れがディヤーナ(瞑想)です。瞑想では、心(マインド)は気を散らすことなく、着実に集中の対象を掴んでいます。 他の考えは心(マインド)に入りません。主体と対象の意識が消えて意味だけが残るとき、サマーディと呼ばれます。」サマーディは、瞑想の対象の本質に心(マインド)を結びつけるものです。その純粋な意識以外には何も存在しません。「Meditation and Mantra (Swami Vishnu-Devananda著)から翻訳」<br /> <br /> <br /> 気になる箇所をピックアップしてみます。<br /> <br /> <br /> ・「対象か瞑想者かの、どちらかしかない」ということは「瞑想」が抜け落ちるので、瞑想という「動作」が抜け落ちて「主体がなくなる」「心の動きがなくなる」と解釈できます。この種の3つのお話はヨーガでは時々あって、見る者/見られる者(物)/見ること(動作)という3つのセットなのでそのうち1つが抜け落ちると解釈できます。<br /> ・「私はこれこれのものに瞑想している、という感じがない」というのは、心の停止・雑念の停止を意味すると解釈。<br /> ・「意味だけを知覚」とは 「意識」で「感じること」と同等と解釈。<br /> ・「客体ばかりになる」というのは「意識で感じる」ことであり、「自体を無くしてしまったかのように」とは、「心がなくなる(停止した)」状態、と解釈。<br /> ・「主観の存在が忘れられて」とは、主観となる「心」の動きが停止することだと解釈。「客体だけが意識の野を占領する状態」とは、「意識」で「感じる」状態だと解釈。<br /> ・「主体と対象の意識が消えて意味だけが残る」とは、原文の「意識」という言葉が混乱しますが、本来の意味を考えればこれは「心の動きが止まり、意識で意味を感じる」と解釈。同様に「瞑想の対象の本質に心(マインド)を結びつけるものです。その純粋な意識以外には何も存在しません。」も混乱しますが、「瞑想の対象の本質に意識を結びつけるもの。その純粋な意識以外には何も存在しません。心は停止しています。」と解釈できます。<br /> <br /> <br /> こう見ますと、本来の状態や意味を知っていないとなかなか解釈が難しいことがありますね。<br /> <br /> <br /> <br /> <br /> <br /> Tue, 23 Jul 2019 00:00:00 +0900 心と意識 https://w-jp.net/2019/1549/ <br /> [風のルンの竜巻の経験から17日後]<br /> <br /> ■意識の拡大? 光の広がり・強まり?<br /> 心を動かさずに息などを観察していると胸の意識が拡大してきました。胸のあたりが「グッ」と広がる感覚。と同時に、意識がよりはっきりしてきました。それを「意識の拡大」とも言えるかもしれないし、「光の広がり・強まり」とも言えるかもしれないです。<br /> <br /> ■心の無常の体感について補足<br /> 先日書いた「心の有限さを感じること」を少し補足します。今回、ヴィシュヌ・グランティを超えてアナハタ(ハート)優勢になることでいわゆる「意識」が活性化していわゆる「心」の半分から同程度にまで意識が表に出てきました。その状態で「意識」が「心」を観察することで無情を(ハートで)体感する、という意味になります。アナハタ優勢になる以前は「意識」がはっきりしておらず「心」が「意識」よりも優勢な状態ですので瞑想で「心」を観察しようとしても「観察する側(見る側)」である「意識」がぼんやりとしているのでうまく観察できなかったのです。アナハタ優勢になることで「観察(見る)側」である「意識」が活性化して、その状態でようやく「心」を観察できるようになりました。<br /> <br /> ■アナハタ優勢になるまではヴィパッサナー瞑想(観察瞑想)とサマタ瞑想(集中瞑想)は同じ?<br /> 以前にも書きましたが、ヴィパッサナー瞑想とサマタ瞑想の基礎は同じだと思います。この辺りは「悟りの階梯(藤本 晃 著) 」にも記載があって、外見的なやり方や必要な集中力はほとんど同じであると書かれています。どの辺りから違いが出てくるのかあまりピンときていませんでしたが、どうやら今回のアナハタ優勢になる段階くらいで違いが出てくるような気がしてきました。<br /> <br /> ただ、これは流派によって違う言い方をすることがあって、実際のところヨガ系瞑想(一般にはそれはサマタ瞑想だと思われている)であっても内実はヴィパッサナー瞑想だったりしますので、一般論としてのお話をそのまま流派での瞑想の手法とをそのまま結びつけることはできないことを補足しておきます。<br /> <br /> ■心で観察するか、意識で観察するか。<br /> 今回竜巻の経験でアナハタ優勢になる前には、上に書きましたように「意識」がぼんやりとしていて観察がうまくできなかったのですが、それでもヴィパッサナー瞑想を試みる時は「心」で「感覚」を観察しようとしていましたが、これはうまくいきませんでした。そして、アナハタ優勢になった後は「意識」が「見る側(観察する側)」になったように思います。これは大きな違いです。<br /> <br /> 「心」で見るというのは、随分と回りくどい(というか本質的ではない?)ことだと今は思います。感覚が体のどこかで感じられて「意識」にザワッと来るのをそのまま観察すればいいだけなのに、わざわざそこから「心」が反応して「触れた」「離れた」「チクチクする」「サワサワする」とか、いわゆる雑念を作り出さなければならないからです。その心の動きにはエネルギーが必要ですから、意識で感じるだけであればとても省エネですし。<br /> <br /> むしろ、「心」すらも「見られる側」であるとすればスッキリします。「意識」が「感覚」だけでなく「心」も観察するのであれば、感覚の動きも心の微細な動きもよく観察できることになります。この状態においては、ありきたりの感覚は意識で観察して終わりですけど、普段あまり感じていない感覚が来た時に心が言語化するところまで観察できます。どのように感じていて、心がその感覚をどのように言葉として解釈するのかまで事細かに見るのがヴィパッサナー的瞑想だと思います。「感覚」は「ありのまま」で、「心」が「解釈」を司る仕組みを分離できることは、「ありのまま(の感覚)」は変化させずに後から「(心の)解釈」だけをやり直すことだってできますから。<br /> <br /> それはそうで、ヨガ的には「心」は「道具」であって、見る側(観察する側)ではありません。更には、ヨガでは「心は自分ではない」と言いますが、世間一般の精神分析などでは「心が私」とか言いますので、このあたりに混乱があります。ヴィパッサナー瞑想(観察瞑想)では「観察」という言葉に惑わされて、「私(であるところの心)が観察する」と勘違いしてしまいがちですが、実際は「心」ではなく「意識」で観察するということです。この辺り、人によっては「心」を「心と意識」という意味で使っていたりしますのでコンテキストの解釈が難しい時もあるのですが、ここでは心が「道具」で雑念や分析を司るとすれば、それを観察する側が「意識」という位置付けで書いています。<br /> <br /> ■「統合されたチャクラ」と「チャクラがわからない」感覚<br /> 以前何度か(1回目,2回目)「統合されたチャクラ」を取り上げましたけど、この種の状態ではチャクラがわからなくなることもありました。私のチャクラに関する感覚を以下にまとめておきます。<br /> <br /> <br /> ・クンダリーニ2回目経験前はチャクラの感覚がほとんどなく、特に下半身の感覚はゼロ。せいぜい瞑想やマントラ時に眉間がザワザワというかジワジワとした感覚になる程度。ムーラダーラは電気ショックのようなジワっというかピリピリした感覚が時々あり(特にプラナヤーマの時)。ハートに何かあるような無いようなぼんやりとした感覚のみ。他人の思いを感じると喉のあたりがイガイガすることあり。この段階は「チャクラが(ほとんど)わからない」状態だったと言えます。<br /> ・クンダリーニ2回目以降は体全体がポカポカと「熱」を浴びて熱かったです。特に下半身が熱かったですがムーラダーラからアナハタくらいまでの区別なく満遍なく暖かかったです。以前の記事2回目に書きましたように、オーラが発散している状態だったのだと思います。この時も、割と「チャクラが分からない」状態でした。<br /> ・やがて熱が収まり、今回の竜巻の経験で「暖」の状態になってアナハタ優勢になりました。ここに来てようやくアナハタとマニプラの区別がよくつくようになりました。その一方で、アナハタが優勢に変わっていわゆる「統合されたチャクラ」として次第に他のチャクラと合わさってゆくのを感じます。ただ、それはチャクラの区別がないのではなくて調和してチャクラが動作する種類のものです。ですから、チャクラは確かに存在するけれども、(私の場合は)チャクラの区別がつくようになったら割とすぐに「統合されたチャクラ」として協調して動き出したので、またすぐにチャクラが分からない状態になるのかな・・・ という気もします。<br /> <br /> <br /> ■ベジタリアン<br /> 私は完全なベジタリアンではないですが、今回の竜巻の経験の数ヶ月くらい前からお肉はほとんど食べなくなっていました。ベジタリアンは栄養に不安がありますしお肉やお魚もバランスよく食べたいとは思っていましたが、2年くらい前から少しだけお肉の頻度が下がって鶏肉中心に選ぶようになり、その後、1年くらい前から更にお肉の頻度が下がり始め、ここ数ヶ月に至ってはほとんど食べなくなっていました。とは言いましても日本では調味料や出汁および醤油などに魚などが使われていますので、厳密なベジタリアンを目指していたわけではありません。主なモチベーションとしては、単純に「お肉を食べると気持ち悪くなるようになってきた」というものです。ただ単に、食べてフレッシュできる新鮮な野菜や果物や何かを食べたいと思うようになっただけのことで、それがたまたまお肉の頻度を減らしただけのことでした。<br /> <br /> 特に豚肉は苦手で、たまに栄養のために味噌で味付けして食べたりもしましたが、最近はほとんど食べません。牛肉も栄養のために食べたりもしましたが、以前は美味しく食べていた気がするのですが、最近は食べても美味しく感じませんし、牛肉のステーキなどを食べたいとも思わないようになってきています。鶏肉はそれでも最近までたまに食べていたのですが、頻度はかなり落ちています。お肉が美味しいというよりもタレが美味しく感じていただけかもしれないです。昔の記憶で美味しい高い焼肉屋とかの記憶とかはありますけど、別にそんなの食べなくてもいいかな、という感じです。まあ、高い焼肉屋はそれはそれで美味しいのだとは思いますが。たぶん。<br /> <br /> ベジタリアン食に関しては今回の竜巻がはっきりとした境になっているわけではありませんが、お肉の頻度が下がってきてある程度の閾値に達したところで今回の竜巻の経験が起きたような感じです。竜巻の経験の前後にはお肉はほとんど食べたいと思わなくなっており、貰い物や外食などで頂くときは食べますが、積極的にお肉を食べたいというモチベーションはほとんどなくなっています。<br /> <br /> そもそも、最近の食事があまりにもシンプル過ぎて、特徴もなくなってきているというのもあるのですが。それでも修行者のように「おかゆと塩と1品」ってことはないですけどね。そこまでシンプルではありませんので、たぶん十分なのだと思います。<br /> <br /> <br /> <br /> <br /> Mon, 22 Jul 2019 00:00:00 +0900 「感じること」の意味 https://w-jp.net/2019/1548/ <br /> [風のルンの竜巻の経験から16日後]<br /> <br /> ■スピリチュアルでの「感じること」の意味<br /> 竜巻の4日後くらいから瞑想が変化して、その頃から眉間に意識を当てて感覚の観察をすると雑念が「ひらがな2〜3文字」で消えるようになりましたが、今日は雑念がほとんどなしで感覚を観察し続ける瞑想がある程度(30秒〜数分?)続きました。時間ははっきりとはわからないのです。と言いますのも、心でカウントしたりマントラ唱えたりするんのであればどのくらいの長さかわかるのですが、「感覚」の観察をして、その間の雑念が出てきてもすぐに雑念をなくす方向に意識が動いていますので時間はよく分からないのです。とても表現し辛いのですが、この観察瞑想の基本は「感覚」で、具体的には「息」を「感覚で感じる(観察する)」ことが基本で、それに加えて体の各所の感覚を感じます。その観察は意識の「深い」ところで行なっているのですが、その一方で、意識の「浅い」ところでいわゆる「心」が雑念として動き出すのですが、浅いところで「心」が動くと何かちょっと苦しさを感じるので雑念が「ひらがな1文字」出るか出ないかで体が拒否反応を示して「心」の雑念を押さえ込んでしまいます。この時、雑念がいわゆる「心」として出てくると「トゲトゲしい」感覚があって拒否してしまうのです。それは、雑念が「ひらがな0.5文字くらい」で消える感じです。こうなるのは瞑想が深まった時のお話で常にそうというわけでもないのですが、この種の状態になると観察だけがずっと続いて時間の感覚が薄れてゆきます。その上で、いわゆる「心」の荒い感覚には興味がなくなってゆきます。おそらくは、微細な感覚にフォーカスが当たっているのでそれよりも荒い心の動きは激しすぎて苦しく感じてしまうのかなとも思います。リラックスと言えばそうなのですが、喜びというのとはちょっと違っていて、安堵や安らぎと言った方が近いです。意識が「感覚」を観察し続けることが「細かな」感覚だとすれば、「心」の動きは「荒い」感覚です。昔はこの「心」と「意識」の違いがあまり区別できなかったのですが、最近は割とこの「細かな感覚」と「荒い感覚」の違いがよくわかります。これが、スピリチュアルでよく言われる「感じること」の意味なのかもしれません。この種の「微細な意識」は、いわゆる雑念を「(心で)聞く」とか「(心で)思う」とは違っていて、もっと根源の「感じる」感覚です。<br /> <br /> 心であれば「聞く(受信)」と「思う(発信)」が対になっていますが、今のところ、微細な意識に関しては「感じる(受信)」のみです。心が「発する」機能もあるのであれば「感じる(受信)」だけでなく感覚を「送る(送信)」機能もきっとあるのではないかと思いますが、それはまだわかりません。今は相手がいなくて1人で座って瞑想しているだけなので「(感覚を)送る(送信)」は今は試せていません。とりあえずは「感じる(受信)」ことをもっと続けてみたいと思います。<br /> <br /> ■いわゆる「無」と今回の状態の違い<br /> 以前に書いた「いわゆる無」は割と雑念が多い時のお話で、(微細な)意識も(荒い)心も両方「ギュッ」と抑えて停止させて一時的なくつろぎを得ていました。しかし、今回の場合は微細な意識は動いたままで、心はほぼ停止するものの以前のように力強く意思の力を働かせて「ギュッ」と抑え込む必要なしに心に雑念が浮かぶか浮かばないかの瞬時のうちに感覚的に自動的に「なにかの触媒」に反応してその心の動きが勝手に止まってゆく、と言う種類のものです。その状態を、(意識と比較すると荒い)心の動きのみに注目すれば「いわゆる無」と似てはいますが、意識で押さえ込んでいるわけではありませんし、今回の場合「意識」は動いていますので、今回の状態を「いわゆる無」とは言えない感じです。言うなればヴィパッサナー瞑想と言えるのかもしれませんが、私の知っている各流派のヴィパッサナー瞑想とも細かなところが違うので、そのまんまヴィパッサナー瞑想とも言い辛い感じです。別に、何か学んでこうした訳ではありませんが、色々と違う感じです。<br /> <br /> Sun, 21 Jul 2019 00:00:00 +0900 雑念が減り、「いま」に生きる https://w-jp.net/2019/1547/ <br /> [風のルンの竜巻の経験から15日後]<br /> <br /> ■「今に生きる」ことと「雑念」の相関関係<br /> 雑念がほとんどなく、心が曇りの少ない鏡、あるいは、風の少ない水面のように穏やかな状態こそが「今に生きる」ことなのだと思いました。と、言いますのも、雑念は往々にして「過去」あるいは「未来」に心を引っ張っていってしまうからです。未来の希望を想像したり、過去の思いに浸ったり。「雑念」と「今」とはなかなか結びつかないものだと思います。前に書いた、生活上でのヴィパッサナー瞑想(観察瞑想)も同じようなことを意味しています。今に生きているからこそ日常生活において全身を観察する瞑想ができますし、全身を観察できている時は雑念は少なくて落ち着いていて安らぎを感じられている筈です。<br /> <br /> 雑念がなければ「今」に生きていて体の状態が隅々まで観察できていて喜びあるいは安らぎを感じることができます。逆に、雑念がある時は「今」に生きていなくて体の状態も隅々まで観察できていなくて喜びあるいは安らぎをあまり感じられないのです。「今に生きる」ことと「雑念」には相関関係があるようです。<br /> <br /> スピリチュアルで「今に生きる」ことは重要だと散々色々なところで言われていますし、頭ではその事を理解していましたが、今回は体で強烈にこのことを体験しています。もちろん以前にも段々と雑念が減って、言おうと思えば「今に生きる」と言えなくもない変化もありましたが、それはあくまでも「点(その一瞬だけ)」としての「今」だったことが多く、今回のように「線(10秒以下の連続)」として「行動の間しばらく今に生きている状態を保つ」と言う意味においては竜巻の経験の後で初めて達した状態のように思います。竜巻の経験後、このくらいの状態がスピリチュアルでいう「今に生きる」ことなのかもしれないと自分の中で腑に落ちました。<br /> <br /> 今後、これが更に時間が伸びるのかあるいは面になってゆくのかわかりませんが、これまた、ありのまま「今」を観察していきたいと思います。ここで私は「今後の変化に期待したいです」とは言わないです。そう言う気持ちもなくはないですが、期待というのは未来への雑念ですので、今に生きるのであればその気持ちは本来不要な筈ですので。<br /> <br /> 「ライトボディの目覚め」によると、とある段階(第七レベル)において、はるかに「いま」のなか行動するようになると言います。<br /> <br /> このカルマ・ゲームではあなたの精神体は未来のなかで生きています。それはいつも「もしもこうなれば」というふうに生きているのです。感情体は過去の中で生きていて、あなたがかつて体験したことによって引き金が引かれます。だから、目の前で起きていることは、正確に言うとほとんど体験していないことになります。ライトボディ第七レベルにおいて、あなたは「いま」を体験しはじめます。それは本当に気持ちのいいものです。<br /> <br /> この書籍で言うところの第七レベルが私の状態に近い気がします。このレベルはアナハタ・チャクラが活性化し始める段階です。この文章で言うところの「精神体」とは未来への願望や希望、「感情体」は過去のトラウマなどと考えるとよくわかります。未来への希望や願望を考えることで今に生きることが難しくなり、過去のトラウマがあると今に生きることが難しくなります。確かに、このように2つに分けた方が分かりやすいですね。そして、このレベルに達して初めて「今」に生き始めるのだとすればなかなか面白い段階にまでようやく至ったとも言えると思っています。<br /> <br /> このことに気づいてから、瞑想の位置付けが少し変化したように思います。今までは雑念を減らしたり安らぎや平穏の境地が目的でしたが、ここにきて「今に生きる」ために瞑想を使うようになってきました。「今に生きていない時に瞑想をして今に生きるように自分を調整し直す」とでも言いましょうか。もちろん、今までのような瞑想がなくなったわけではなくて目的と言いますか使い方が1つ加わったと言うことですが。<br /> <br /> これは、竜巻の経験でアナハタ優勢になる前は(私にとって)なかなかできなかったことです。<br /> <br /> 「ライトボディの目覚め」の言葉を借りると「なんとなく追いついた」感じがしています。「いま」に生きることもそうですし、魂(スピリット)に従って生きることもそうです。以前は、頭でそうは分かっていてもどこかピンときていないところがありました。アナハタ優勢になって初めて「いま」に生きることや魂(スピリット)に従って生きることが体全体で理解というかしっくりくるようになって、今まで頭で考えて理解しいたところにようやく体全体の実際のオーラの状態がなんとなく「追いついた」のだと感じれています。「いま」に生きることも魂(スピリット)に委ねて生きることも、今まではどこか深く分かっていなかったのが、この書籍で言うところの第七レベルでようやく実際にそうなってきた、と言う感覚です。<br /> <br /> <br /> <br /> <br /> Sat, 20 Jul 2019 00:00:00 +0900 音の色。音の意味の言語化。エゴが小さくなる https://w-jp.net/2019/1543/ <br /> [風のルンの竜巻の経験から13日後]<br /> <br /> ■音の色<br /> 高周波のピーというナーダ音の上にザラザラしたザザザザザという音が上に乗っているのが「銀」で、それがもっとパワフルになると「金」という感じがしました。書籍とかで、音には色がある、という意味はこういうことかもしれません? 他の色はまだわかりませんけど。<br /> <br /> ■夢で作曲<br /> 夢の中で和音と合唱の額面を作曲していました。和音と声楽が組み合わさったメロディーがとても心地の良く、作曲を続けていたら何か気付きがあって「そういうことか!」と思った気がしますけど一瞬のことで気付きが足りなくて言語化できず、目が覚めたらすっかり忘れていました。聖典に書いてあります「音の言語化」に繋がるのかもしれないとも思いましたが、まだまだです。<br /> <br /> ■エゴが小さくなる<br /> 私はアサナ(体操)があまりできないのでヨガの先生になる選択肢はなかったのですが、理由はそれだけではなく、もし私が先生になったら「先生になった」というエゴが出てきてしまうので先生になるのは今の自分にとってはマイナスだと思っていました。しかし、今回の竜巻の経験でアナハタが優勢に変わったことにより、そのエゴのかなりの部分が克服されたかと思いますので、あとはアサナのスキルさえ上がればヨガの先生をやってもいいかな、という気になってきました。<br /> <br /> <br /> Thu, 18 Jul 2019 00:00:00 +0900 眉間の瞑想が安定。「統合されたチャクラ」とマニプラ。ヴィパッサナー瞑想と四沙門果 https://w-jp.net/2019/1542/ <br /> [風のルンの竜巻の経験から12日後]<br /> <br /> ■眉間で安定<br /> 竜巻の経験の前は眉間に集中すると安定しないことが時々あり、後頭部への集中の方が安定していました。頭の上の集中についても同様で安定しませんでしたが、竜巻の経験の後は眉間も頭の上も、どちらも安定します。今は、特別に後頭部への集中ということを意識することもなくなりました。竜巻以前はマニプラ優勢でしたが今はアナハタ優勢ということと、竜巻以前は今ほど後頭部に何かがある感じはしていませんでしたが今は後頭部を特別に意識しなくても何かが常にある感じですので後頭部へ意識を集中する必要がなくて、ただ単に眉間に意識を置いて集中するかどうかだけのシンプルなお話になりました。<br /> <br /> ■「統合されたチャクラ」とマニプラ<br /> 以前引用した「統合されたチャクラ」はアナハタ中心のお話ですが、それ以前にも第2回目クンダリーニ後にマニプラが優勢になった時はチャクラがよくわからない感じになり、マニプラ中心という違いこそあれ「統合されたチャクラ」と言えなくもないものの似て非なる状態になった気がします。一部にチャクラ不要論とかありますけど、この状態なら勘違いするかもしれないです。<br /> <br /> このあたりに思いを巡らせていたところ(おそらく私の内なるガイドから)インスピレーションが来て「(第2回目の)クンダリーニ開放直後はオーラが発散していただけだ」と言う説明と「神道の神秘(山蔭 基央 著)」にある「自分の御霊(オーラ)をお腹に収める」図が浮かんできました。同書によると「一般の人々の魂は、身体の周りにブワーッと錯乱している。それを凝集させるのが”鎮魂”である 」とあります。<br /> <br /> 同書によれば、最近のスピリチュアルやいわゆる霊感が強いと言われている人は実際にはオーラがだらしなく発散していて中心に収まっておらず、発散しているオーラが周囲と無秩序に反応しているだけで、それで霊感が強い気がしているが実際はコントロールされていない、修行が全然足りていない危険な状態だと言います。修行によって御霊(オーラ)を自分の中心(お腹)に収める必要がある、とのことです。あのままクンダリーニ直後で何もせずに「これで完成」とか勘違いしていたら同じようにだらしないオーラのままだったのかもしれない、とふと思いました。オーラは身体に被さるように離れて存在しており、同書の言うようにオーラがお腹の中にすっぽり収まるというのは私には良くわかりませんが、少なくともそれほど発散していない状態に最近はなってきたと思っています。クンダリーニ直後はオーラが発散しがちなのでコントロールが難しいですがそれでもしっかりオーラをコントロールしてチャクラがわかるような状態になって、それからヴィシュヌ・グランティを越えてアナハタに移行してからようやく「統合されたチャクラ」の状態ができてくると解釈しました。<br /> <br /> ■「心」は有限で無常だった。では、「私」も有限で無常とはどういうことか?<br /> 前に書きましたように、瞑想中に眉間の感覚を観察することで「雑念」が「ひらがな3文字」くらいで崩れ去る状態には割とすぐに入れるようになりました。これはいわば「心」が有限で無常であることを体感することだったと思います。今まで、聖典などで心は有限で無常だから心は魂(ヨガやヴェーダで言うアートマン)ではない、などと言う知識はあったものの、具体的にそれがどう言うことなのかあまりわからずにいました。今回、心のあらわれである雑念あるいは何がしかの思いが現れては消えることをまざまざと観察できたことにより、今まで知識だった「心とは無常である」と言うことを「体感」できたと思います。これによって、かなり私の中で「心」に対する執着と言いますか心に対する謎と言いますかベールが取れて、よりスッキリしたように思います。おそらく、単に瞑想して雑念が消えるのを観察しただけでは無常だと体感することはなくて前提条件としてヴィシュヌ・グランティを超えていたから無常だとわかったのだと思います。単なる集中力で観察することとハートで無常を体感することは違うとでも言いますか。<br /> <br /> これで、心は有限で無常だと言うことが瞑想で確かめられました。でも、これで瞑想の道が終わりとは思えません。次は何をしたら良いのでしょうか? と思って書籍をあたったところ、次の課題は「私」が無常であることを体感することだと思いました。一応、書籍には答えがそのものズバリ書いてはあります。「悟りの階梯(藤本 晃 著) 」には「『私』がいると思っていたが誤解だった。ものの無常だけではない。この『私』さえも、消滅を続ける心・認識の連続だけだった」と書いてあります。これは割と書籍でよく見るお話です。私は今の所「心の無常さ」は体験したものの、ここまでの境地には至っていません。昔に何度も読んだときは「心の無常」がまだ体験できていませんでしたのでこの認識に至る前提条件がまだ整っていなかったように思います。今、「心の無常」を経たことによって、この前提条件が一つ整ったのでは? と言う気がしています。他にも前提条件がまだ必要なのかもしれないのですが、少なくとも1つは前提条件を満たしたと思います。<br /> <br /> これは、いわゆる「私とは何か?」「私は誰か?」の瞑想だと思います。ラマナ・マハルシがよく問いかけていますね。そのあたりに更なるヒントがあるかもしれません。同じ書籍でも、自分の認識が変わってから再度読むと新たな発見があって面白いです。<br /> <br /> ■うなじ下(大椎?)の脈拍&ポカポカと、首後ろのポカポカはほとんど消えました<br /> うなじ下(大椎?)の脈拍とポカポカは前に書きましたように早い段階で消えて、つい数日前まで残っていた首後ろのポカポカはほとんど消え、まだ若干暖かく残っているくらいです。<br /> <br /> ■日常生活における「努力のいらない」観察瞑想(ヴィパッサナー瞑想)<br /> まだ常にそうできると言うわけではないものの、特に瞑想を終えた後、雑念がなくてそのまま日常生活の動きを続けられるようになってきました。そのとき、「努力のいらない(集中する必要のない、観察しようと思わなくても良い)観察瞑想(ヴィパッサナー瞑想)」ができている感じです。今までは、行動するときは何かの衝動あるいは雑念と共に行動してきましたので、観察すると言うよりは心を見ながら体を動かしていたと思います。しかし、体が動いている時に雑念がなければ努力なしに体の動きを細部まで観察することができることに気が付きました。今まで、ヴィパッサナー瞑想と言うと息だとか思考だとか感覚だとか「何か1点」を観察することだと思っていましたが、このような雑念がない状態ではもっと広く自分の動きを観察できますね。例えば、意識的にこの状態に入るために深呼吸をして最初は息に集中して雑念を停止させ、雑念は停止させたままで、息に対する観察をなるべく体全体に広げて行動します。すると、体が何やらふわふわと浮いているような、とても軽い、不思議な感覚になります。その時、体の各所、皮膚の上に薄くオーラが感じられます。ただ、まだそれほど気付きが深くありませんのですぐに状態が途切れてしまうのですが。<br /> <br /> 以前には目に意識を集中して似たように視野において隅から隅まで全部の動きを俯瞰するような観察瞑想をして面白く感じたことがありますが、今回は視野ではなく体の感覚で全身を観察瞑想するような感じです。流石に視野と体の感覚の両方は一度には観察瞑想は今のところできませんけど。<br /> <br /> ■四沙門果(ししゃもんか)<br /> 「悟りの階梯(藤本 晃 著) 」にはテーラワーダ仏教に基いた悟りの4ステージが説明されています。同書から引用します。<br /> <br /> <br /> ・預流果(よるか)無常だとわかったので「私」や「私の生涯」や「私の家族」や「私の所有物」などについて、何となく諦めがつくようになる。説法を聞くだけで至ることもできる。世間的な欲や怒りは、まだまだかなりある段階。<br /> ・一来果(いちらいか)煩悩がかなり弱まる。相変わらず欲しくなったり怒ったりするのですが、すぐに「まあいいか。こんな程度のこと」などと醒めてしまって、欲や怒りが大きくならない。欲しがっても、すぐに「まあ、別にいらないね」と思い直して気持ちが治る。怒っても、怒鳴ったりとか、夜中にわら人形を打つほどの執念はなく、「まあ、いいか。このくらいのこと」と、すぐに気分が穏やかになる。<br /> ・不還果(ふげんか)煩悩が断ち切れる。お腹が空くなどと言う感覚は残るが、欲望は消える。異性への関心がなくなり、心が揺れ動かなくなる。禅定に熟達している人がほとんど。「私」と言う感覚はまだ残っている。<br /> ・阿羅漢果(あらかんか)「私」がなくなる。「私」と言う感覚が消え、錯覚・誤解だったとわかる。「私」がなくなることで煩悩も完全に消える。完全に清らかな状態。<br /> <br /> <br /> これらと私の状態を比較してみます。<br /> <br /> <br /> ・預流果は私の基本で、生まれてこの方、こうではなかった時は思い当たりません。人生においてストレスを感じて調子を崩したりもしましたが、立ち戻るところは常にここでした。(表現としては預流果と言うのは当時は知らなかったとはいえ)<br /> ・一来果は第2回目クンダリーニ後の状態と似ている気がします。<br /> ・不還果は今回の竜巻の後は似た状態になっている気がします。特に性欲。<br /> ・阿羅漢果は「私」に関する謎解きはこれからの課題ですね。<br /> <br /> <br /> <br /> <br /> <br /> Wed, 17 Jul 2019 00:00:00 +0900 うなじ下(大椎?)と首の裏と盆の窪(ぼんのくぼ) https://w-jp.net/2019/1541/ <br /> [風のルンの竜巻の経験から9~11日後]<br /> <br /> ■うなじ下(大椎?)と「首の裏」と「盆の窪(ぼんのくぼ)」<br /> 数日くらい前から脈拍の場所がうなじ下(大椎?)から少し上の首元に移動しておりましたが、本日確認したところ、脈拍は手で感じられない程度にまで治ってきている一方で、暖かさはまだ首元に残っていました。手で脈拍は感じられないものの、頭の下の方にある脈拍のような音と感触はまだ続いています。第2回クンダリーニの時の尾骶骨あたりの血液の脈動の時も一過性のものでしたが、今回も一過性のようです。ただ、以前もしばらく暖かい感じは続いていましたので、今回も同様に周囲が多少暖かい感じは続いているようです。<br /> <br /> そこよりも少し上に上がれば「盆の窪(ぼんのくぼ)」とか「大孔」とか呼ばれている場所になりますけど、暖かい箇所はそこまで上ではありませんね。誤差かもしれませんが。<br /> <br /> ■シャクティパッド<br /> 瞑想中のインスピレーションで教えられました。「ヨガの流派によってはグルによって弟子にシャクティパッド(Shakti Pat)(グルが弟子の額に手の指を当てて特別なオーラを送り込んで霊的成長を加速させること。流派によってはイニシエーションと呼んだりもする)が行われる。ある程度の浄化がされていることを条件にしている流派もあるが、弟子入りしてすぐに行う流派もある。条件があったとしてもシャクティパッドはクンダリーニ経験以前に行われることがほとんどで、多くの場合それはヴィシュヌ・グランティを超える段階(今回の竜巻の経験、第3回目クンダリーニ)より前、ムーラダーラのクンダリーニの経験(私の場合は第2回目のクンダリーニ)よりも前に行われるが、その場合、弟子の準備ができていない可能性が高く、弟子が調子を崩す可能性が多々ある。それ故にグルの監視とケアが不可欠で、グルがサイキックな目で監視をして遠隔で常に弟子の様子を見て、調子が悪ければサイキック的に遠隔あるいは直接的に整えるというきめ細かな対応が必要になる。インドではグルが不可欠と見なされているのは文化的背景のみならず、このあたりが理由になっている。しかし、今回の場合は段階を踏んでいるのでそういった危険性は少ない。ムーラダーラのクンダリーニを経て、次は今回のヴィシュヌ・グランティを経て、今はアナハタの段階というように順番を踏んでいるため、危険は少ない。これは(私の守護霊の)チベット系の方法。シャクティパッドの方がスピードは早いが途中の過程を飛ばすので途中のことは分からなくなる。(メッセージ主の意見としては)長期的な成長を考えるとシャクティパッドは良くない。時間をかけた方が良い。」どこまで本当かどうか確かめることができない事項も含まれていますが、とりあえずメモして、機会があれば文献を確認します。<br /> <br /> ■アナハタのピリピリ<br /> 瞑想中、胸のアナハタの皮膚あたりがピリピリと静電気を帯びていました。こんなことあまりないので不思議です。何でしょうか。様子見です。<br /> <br /> ■顔のピリピリ<br /> 今朝の瞑想中、顔全体がブルブル静電気で震えている感じ。特に左の頬が若干強め。こういうことは今まであまりなかったと思います。<br /> <br /> <br /> <br /> Sun, 14 Jul 2019 00:00:00 +0900 グランティ(半歩、壁、結節)は壊さずに調整弁として活用 https://w-jp.net/2019/1540/ <br /> [風のルンの竜巻の経験から8日後]<br /> <br /> ■グランティ(半歩、壁、結節)は調整弁<br /> 瞑想中、グランティは調整弁であると言うイメージが降りてきました。瞑想中のお話なのでこれまた根拠はなくておいおい聖典で確認していきたいですが、そのインスピレーションによると、それは調整弁であるから基本的な機能はオーラをその範囲に留めておくことで、上(アナハタ〜アジナ)のオーラはその中で混じり合い、下(ムーラダーラ〜マニプラ)のオーラはその中で交じり合うのが基本のようです。その上で、上(アナハタなど)で発生した低い波動のオーラは自動的にヴィシュヌ・グランティ(アナハタとマニプラの間)を通って下(ムーラダーラ〜マニプラ)に抜けるし、逆に、下で発生した軽いエネルギーはヴィシュヌ・グランティを通って上に行く。このことで、それぞれの場所に適したオーラを保ちつつも調整弁がフィルターの役割を果たしてそれぞれのエリアに適したオーラの純度が高まってゆくのだと思います。ですから、この調整弁がないとオーラが上下で混ざってしまってそれぞれに適した波動を「練る」あるいは「保つ」のが難しくなるのかな、と言うのが瞑想で得た理解です。<br /> <br /> ハタヨガではグランティ(結節)を「破壊」あるいは「解く」するのが基本となっていますし、西洋ではキリスト教の神秘主義の流派やいわゆる魔法と呼ばれているものを扱う秘術の流派は同様にこのグランティを「破壊」するのを基本としていますが、それは時に「アナハタ・ショック」とも言われる衝撃を胸に与えることになります。その結果、場合によってはオーラが混ざってしまうので荒いオーラが下(ムーラダーラ〜マニプラ)から上(アナハタ〜アジナ)にそのまま登ってしまえば意識がおかしくなるのも当然かなと言う気が致します。逆に、上(アナハタ〜アジナ)のオーラが下(ムーラダーラ〜マニプラ)に下がってしまえば本来は高度な神秘のエネルギーが程度の低い欲求やカルマと結びついて一見奇跡的ではあるけれども高度な理解や精神性に基づいていない神秘を作り出し、最終的には心身共に疲れ果てて自分も周囲にも破壊的な結果をもたらすであろうことが理解できます。<br /> <br /> 最近のスピリチュアルではこの種のグランティの破壊あるいは解くことはあまり重要視されていないと言いますか、ほとんど言及がないような気が致します。これは、グランティは本来「破壊」「解く」ものではなくそのまま利用するものではないか、と言うのが今回の瞑想における理解です。その理解は、私の今回の竜巻の経験の後の状態を観察したことによる考察も含んでいます。<br /> <br /> それとは別に、ヨガで言うところのナディ(エネルギーのルート)が詰まっているのならば詰まりを取らなければいけない、と言うのは似ているようでいてちょっと違うお話かなと思います。確かに、調整弁でありますから構造が複雑でそこは詰まりやすいのではありますが、構造が複雑であるからこそ慎重に掃除やメンテナンスをしなければならないのであって、調整弁が錆び付いていて固まっているからと言って調整弁を丸ごと壊して通過してしまうのは乱暴なのかなと思います。<br /> <br /> まあ、こんな解釈はどこにも見たことがありませんので、私はここにメモ的に書くだけで、わざわざ他所で言ったりしませんけどね。<br /> <br /> ■ハタヨガではグランティを破壊するのに「バストリカ」呼吸法を使う<br /> ハタ・ヨガ・プラディーピカには、「グランティを破壊するにはバストリカしかない」と記載されています。バストリカは危険な呼吸法と言われており、流派によっては「経験豊富なグルが監視している時以外は、一人でバストリカを行なってはいけない」とされていたりします。これも、上記のことを考えれば当然なのかなと思います。本来は機能すべき調整弁を壊して神秘的な成長(?)のために活用するのですから、普通ではないことをするのであればその行法に精通したグルがいないとおかしくなるのも当然かなと思います。<br /> <br /> ■胸のエネルギーの高まり<br /> 竜巻の8日後(2019年7月13日)、横になって休んでいたらムーラダーラの会陰がピリビリし初めて、何か電気の塊が下から入ってきたかと思えばゆっくり背筋を通って胸まで上がりました。上がる途中、細い管を無理やり広げながら通っている感じで、ちょっと圧迫感がありました。アナハタあたりで止まりましたが、その後、胸や上腕および頭の下半分がとてもポカポカするようになりました。何でしょう、これ。以前は似たようなポカポカが下腹部あたりでずっとありましたが、今は似たようなポカポカが胸であります。熱と言うほどではなりませんが、竜巻の経験の後の「暖」よりはちょっとだけ「熱」に近い感じです。第2回クンダリーニの後の熱と竜巻の後の「暖」を足して2で割ったくらいの中間的なポカポカでしょうか。<br /> <br /> ■喉のガラガラ感が薄れました<br /> 竜巻の前も、事あるごとに喉がガラガラする詰まったような感覚が度々あって、恐らくは私はヴィシュッダが弱いのだとは思いますが、特に竜巻の後はずっとガラガラする詰まったような感覚が続いていたのですが、竜巻の8日後(2019年7月13日)の瞑想中に喉の感覚が変わって、喉が弾力のある肌に変わって乾燥っぽいガラガラ感が減って随分と楽になりました。これでヴィシュッダが優勢になったわけでもなさそうですが今まで弱かったのが多少ながら普通にまで回復してきた感じです。<br /> <br /> ■クンダリーニを「上げる」時間軸とその範囲<br /> ハタ・ヨガ・プラディーピカなどヨーガの聖典ではクンダリーニを「上げる」ことを重視していますが、その時間軸と上げる範囲が流派によって異なる気がしてきました。要点は以下でしょうか。<br /> ・グランティを破壊するのか、残して活用するのか<br /> ・クンダリーニを上げる時間軸はどのくらいか<br /> ・クンダリーニを上げる幅は、どこからどこまでか<br /> <br /> ハタヨガ系は「グランティは破壊する」「クンダリーニを上げる時間軸は数十分〜数時間」「クンダリーニを上げる幅は、ムーラダーラから上げられるところまで。アジナやサハスララを目指してサハスララから上にクンダリーニを逃す」と言う感じでしょうか。古典的なキリスト教神秘主義の流派や魔法などの流派もヨーガを学んでいますので実際はこの辺りは割と似通っている気がいたします。一方、一部のスピリチュアル系(神智学系も?)は「グランティは破壊しない」「クンダリーニを上げる時間軸は数ヶ月〜数年」「クンダリーニがムーラダーラ〜マニプラにある段階と、アナハタ以上にある段階に分ける」と言うように特徴が違う気が致します。これは、流派によってかなりバリエーションがあると思いますので必ずしもこの通りとは限りませんが、大体の方向性はこんな感じかなと思っております。<br /> <br /> ■流儀と情緒不安定<br /> ハタヨガ系のヨーギは、素晴らしい方もいらっしゃいますが怒りの沸点が低い方も散見されます。これを上記のグランティの視点から考えますと、グランティを破壊してしまうと情緒を司るマニプラと高度な意識であるアナハタとが混ざってしまって情緒不安定になるのも当然かなと言う気が致します。グランティが破壊されていますとムーラダーラの低いエネルギーがアジナの方にまで流れてしまいますので、意識が成長していない状態でもムーラダーラのエネルギーがアジナまで流れるのでそれでもアジナの力は出せるのかもしれませんが、エネルギー的にムーラダーラとアジナとは調和しませんのでムーラダーラのエネルギーでアジナを使うとおかしくなるのも当然かなと言う気が致します。同様に、アジナやアナハタの高いエネルギーがマニプラに流れ込んで霊的な能力であるとか呪術などに応用して一見すると奇跡のようなことを起こせるかもしれませんが、その結果はやはり情緒不安定なのかなと思います。<br /> であれば、グランティは破壊せずに、呪術や魔術なども求めずに、清正と基本に忠実にそれぞれの段階に応じた精神修行をしてゆくのが一番いいのかなと思います。<br /> <br /> ■「ムーラダーラとアジナは直結している」の謎は解けた?<br /> 有名なスワミ・サッチャナンダの説明が「密教ヨーガ(本山博著)」に掲載されていますが、それによると「ムーラダーラはアジナと直結している」と言います。これは、主要ナディであるスシュムナ・イダ・ピンガラが直結しているからと説明がありますが、そうであれば他のチャクラも直結しているので、なぜムーラダーラとアジナだけが特別なのかと疑問であり、この説明には納得がいきませんでした。実際、第2回クンダリーニが起こってムーラダーラが活性化してもアジナが活性化したように私は思えませんでした。スワミ・サッチャナンダの説明に基づけば、アジナ・チャクラを目覚ますためにムーラダーラをまず目覚めさせると言います。今思うのは、これはバストリカ等でグランティを破壊しているヨーギにのみ適用可能な方法なのかなと想像しております。確証はありませんけど。グランティが破壊されていればムーラダーラのエネルギーがアジナまでおそらくそのまま通じますのでムーラダーラを目覚めさせることがアジナの目覚めの行法にそのまま通じるのだと想像できます。であれば、グランティを破壊していなければいくらムーラダーラを活性化してもアジナの目覚めには繋がらないのも納得です。<br /> <br /> 実際、いまアナハタが活性化した状態にあってはエネルギーはムーラダーラ優勢ではなくアナハタ優勢ですので、アナハタとアジナは近いので、わざわざムーラダーラを活性化させる必要があるようには思えません。まあ、私はアジナはまだ動き出していないので今のところは仮定でしかないのですが。<br /> <br /> ■クンダリーニの居処<br /> 基本的にはクンダリーニの居所は背骨の一番下、尾骶骨のあたりに眠っていますが、どうやらクンダリーニが目覚めた後は居所それ自体が移動することもあるようです。このあたりは秘技のようなので書物では詳しくは述べられていませんが、「チャクラ」(C.W.リードビーター著)の以下の記述からこの辺りが読み取れます。<br /> <br /> 瞑想を終わるときには、クンダリニーをムーラダーラへと戻す。ただし、ある場合には、心臓のチャクラに戻す。そこで、クンダリニーの部屋とよばれる場所に入れるのである。クンダリーニは臍のチャクラにあると記した文献もあるが、ふつうの人では、クンダリニーはここには見られない。これは、既にクンダリニーを目覚めさせた人たちのことを言っているのであって、このチャクラの中に「蛇の火」のエネルギーが貯えられていることを言っているのであろう。 <br /> <br /> これ以上の説明はありませんが、これだけでもかなりの情報が読み取れます。<br /> ・普通(クンダリーニをまだ目覚めさせていない人の場合)はクンダリーニは尾骶骨に眠っている<br /> ・クンダリーニを目覚めさせた後は、クンダリーニは次第に尾骶骨からマニプラに向かって移動して、そこを居所とする(と私は解釈する)<br /> ・クンダリーニの居所は更に上昇し、(ヴィシュヌ・グランティを超えた後は)アナハタ・チャクラ(ハート・チャクラ)に移動してそこを居所とする(と私は解釈する)<br /> <br /> ここで言う「そこを居所とする」とは、瞑想中やヨーガ行法中だけでなく普段の生活においても24時間常にそこにエネルギーが居続けると言う意味です。クンダリーニのエネルギーが行法中は意識で移動することがあるとしても、基本は上記の場所にエネルギーが居続けると言う意味です。ただし、これは恐らくは流派によっても違うのかなと思います。グランティを破壊してしまった場合はこうはならずに常にムーラダーラやマニプラあたりに居留まる気もしますが、私はグランティ「破壊」は体験していないのでただの仮定です。<br /> <br /> ■グランティは「破壊」? 結束を「解く」?<br /> 私はヨガをしていますのでこれからバストリカとかも練習する機会がある気がしますが、ここまで理解してしまったならば、バストリカ等で今更グランティを「破壊」しようとは私は思わないです。一応、課題が与えられたら練習するとは思いますが・・・。<br /> 昔は聖典を読んでグランティ破壊(結束を解く)ことを「へえ」と思っていたのですが、これまた聖典の難しいところで、もしかしたら原典の意味は文字通り「結束を解く」ことなのかもしれないですね。それを、後の人が間違って解釈して「破壊」だと解釈してしまった。そうとも想像できますけど、昔のことですので想像でしかありません。<br /> もしかしたら、間違って破壊してしまわないようにグルが監視するのかもしれません。流派次第なのかもしれませんが。<br /> <br /> <br /> <br /> <br /> Sat, 13 Jul 2019 00:00:00 +0900 ナーダ音は臍(ヘソ)から発する https://w-jp.net/2019/1568/ <br /> ■ナーダ音は臍(ヘソ)から発する<br /> 同様の記述を発見しました。私がインドのリシケシでTTCを受けた時に先生が同じようなことを言っていて、書物で同様の内容を見つけられずにいたのですが見つけられて良かったです。<br /> <br /> 臍輪(さいたい、俗にいう へその緒)から生じた神秘なパラー音はヴィシュッダ・チャクラ部分でヴァイカリー音と言う耳に聞こえるような音に変えられます。(中略)絶対者ブラフマンの音、パラー音をマディヤマー音からヴァイカリー音という実際に聞きうる音に変えるのがヴィシュッダ・チャクラであるからなのです。 「魂の科学(スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ著)」(P167)<br /> <br /> Fri, 12 Jul 2019 00:00:00 +0900 瞑想の深まり。ディヤーナへ? https://w-jp.net/2019/1539/ <br /> [風のルンの竜巻の経験から7日後]<br /> <br /> ■瞑想の深まり。ディヤーナへ?<br /> 上記のように、竜巻の経験の直後から瞑想の質の変化が起きて瞑想が深まるようになっていたのですが、1週間後くらいから更に変化がありました。竜巻の直後は雑念はまだ浮かび上がっていて、浮かび上がるけれども「ひらがな3文字」くらいで発散して消えてなくなるような状態でした。それはそれで以前と比べると瞑想の質は深まっていたのですが、ここにきて、風のほとんどない水面のような、時々、アメンボ(と言っても通じないかな? 水面を移動する小さな虫です)が作り出す波紋が広がる程度の静かな瞑想に変わってきました。<br /> <br /> 何が変わったのかと言えば、簡単に言えば「瞑想が深まった」と言うことなのですが、どのように深まったかを観察してみると、その鍵は「感覚を観察すること」だったように思います。雑念が上がった時に雑念を観察すると多少ながら心に波紋ができます。雑念を観察する場合は雑念に反応しなくても雑念が行き過ぎるまで雑念そこにある状態になります。はたまた、ナーダ音に集中する瞑想の場合は心は落ち着いているのですが雑念は同様に行き過ぎるまでそこに存在しています。しかしながら、「感覚」を観察すること、具体的には眉間や頭の冠状にピリピリと帯電している感覚を観察していると、何故かは分かりませんが、前に書きましたように「ひらがな3文字」くらいで雑念がバラバラになって消えてなくなります。1週間前は単に瞑想の深まりかと思っておりましたが、必ずしもこのように「ひらがな3文字」で雑念がバラバラに消えるわけでもなく、雑念がバラバラに消えるための条件は何かと思って色々試したところ、どうやら「感覚」を観察すると雑念がバラバラになることに気が付きました。ただし、竜巻の経験の前は同様に感覚を観察してもこんな感じに雑念がバラバラにはならなかったので、何か前提条件があるのだとは思います。竜巻直後は「うなじ下(大椎?)」に脈拍の感覚がありましたが次第にその位置が上がってきており、1週間後には両耳の中央および眉間に近いところまで脈拍の感覚が感じられるようになってきていました。眉間の少し中で脈拍を感じるのは以前はなかったことですし、と同時に、冠状に頭をぐるりと帯電しているような感覚も出てきました。その眉間の脈拍と冠状の帯電を観察していると雑念がバラバラになるのです。これは不思議です。<br /> <br /> そして、瞑想中にそのようにして雑念がバラバラになるのをしばらく観察していたら、やがては雑念のない時間が次第に増えてゆきました。風の吹かない水面の状態です。その時は、私の意識は眉間の脈拍をただ観察し続けています。すると・・・、急にどこかから意識が飛んできました。「定のある・・・」「(それが)ディヤーナだ」。ディヤーナとはヨガ・スートラの1つの段階で、邦訳は「瞑想」ですけれども、これは割と狭義の瞑想を意味します。世間一般で言われている広義の瞑想は座って目を瞑ることだったり色々意味しますが、ここで言うディヤーナは精神がそれなりに安定した状態を指します。私はこのディヤーナを本来の意味で初めて体験したのかもしれません。「定」は広義ではサマーディのことも意味したりしますがここでは単に心が静まっていると言うくらいの意味だと思います。とは言っても瞑想中のインスピレーションですので間違っていることも多々ありますので「そうかもしれない」と言うくらいの仮定にはなりますが。瞑想中の直感はその正しさを後から確かめる必要があるのですが、まあ、当たらずとも遠からずかなと言う感じはします。<br /> <br /> ここで、私は「感覚を観察」してみたのですが、実はそれは原始仏教のヴィパッサナー瞑想に発想を得ていて、今まではヴィパッサナー瞑想の「感覚を観察」することがそれほどピンときていなかったのですが、こんなにも絶大な効果があるのならばこれは良さそう、と今回思いました。ただ、前提条件が厳しそうな感じはします。<br /> <br /> ■脈拍の場所が頭の下の方に移動<br /> 1週間経ちましたが、前に書いた「耳たぶが波打って音を聞いている」感覚はそのまま残っているのですが、音の出所が「うなじ下(大椎?)」からちょっと上がって頭の下の方に移動したような感じです。聞こえ方としては耳の周囲から聞こえているような気もするのですが脈拍の感覚は頭の下の方にあります。様子見です。<br /> <br /> <br /> <br /> <br /> <br /> <br /> Fri, 12 Jul 2019 00:00:00 +0900 マニプラからアナハタへ。「好き」の感覚。性欲の昇華。 https://w-jp.net/2019/1538/ <br /> [風のルンの竜巻の経験から6日後]<br /> <br /> ■「ムーラダーラ・スワディスタナ・マニプラ」の段階から「アナハタ・ヴィシュッダ・アジナ」の段階へ<br /> 上記を総合すると、どうやらこの後はアナハタ・ヴィシュッダ・アジナが段階に進むと言うよりはアナハタとヴィシュッダとアジナの3つが協調して成長する段階だと解釈できます。これは、最近の瞑想でアナハタだけでなくヴィシュッダやアジナ(眉間、後頭部など)の感覚が竜巻経験後に急に色々と感じられているので、きっとそうなのかなと言う気がしています。この3つが次第に優勢になってゆくのかな、と言う気がしています。<br /> <br /> ■感情の変化。「熱」が喜びで「暖」は落ち着き。禅定との関連。<br /> 感情的にも変化があって、第2回目のクンダリーニ後はとにかく喜びがありましたが、今は喜びよりも落ち着きがあります。前記事に記載したように第一禅定が「喜び」で第二禅定が「思考が止まり、楽になる」ですが、禅定の深まりがチャクラの段階と似ているのが興味深いです。言うなれば第2回目のクンダリーニ後・竜巻前が第一禅定と似ていて「喜び」で、竜巻後が「思考が止まり、楽になる」という感覚と似ています。<br /> <br /> 第2回目のクンダリーニ後は「ムーラダーラ・スワディスタナ・マニプラ」が優勢になり、感情的にも「喜び」になり、今はとりあえずアナハタ優勢で、ヴィシュッダとアジナはそれほど優勢ではありませんが感覚が出てきており、感情的にも「落ち着き」と言うか、鏡で自分の表情を見ても割と普通な感じになってきています。第2回目のクンダリーニ後は変化が激しくて、とにかく嬉しくて表情に喜びが出るくらいでしたが、今は表情は割と普通な感じです。それでも胸のポカポカはあるのですが、外目にはもしかしたら以前の第2回目クンダリーニ後・竜巻以前の方が輝いて見えていたかもしれませんね。人間っぽさを醸し出すいわゆる情とか感情的な愛着を司るのはマニプラで、アナハタは愛を司るとは言っても情とは違う愛を司るので、なかなかこの感覚を表現するのは難しいかもしれません。感情的に言うなれば竜巻後は上のように第二禅定での「思考が止まり、楽になる」とでも言うのでしょうが、マニプラでは物事に対して良い悪いの区別があってそれに「共感」をして情で癒すような愛着のような執着のような感覚があったのに対し、アナハタにおいては良いことも悪いことも全て宇宙の法則に従って動いているのだから何一つ悪いこともないのだと言う平安な境地が得られるのだと思います。マニプラにおいては他人に同情して助けたりする感情や哀愁が働きますが、アナハタにおいては感情や哀愁で動くと言うよりはもっと深いところからの訴えというか要求が伝えられた時に必要ならば助けるというか勝手に体が動く、というような違いがあると思います。<br /> <br /> ■性的欲求の違い<br /> 前記事に書きましたように第2回目クンダリーニでは性的欲求がかなり減ってエネルギーがポジティブなものに変化と言いますか性的なものに根元エネルギーが使われずによりポジティブなものに使われるようになりましたが、それでも、多少は性的欲求は残っていました。その時点でかなり性的欲求は減り、コントロールがとてもし易くはなったものの、性的な欲求に惹かれると時々は下の世界に落ち込むこともあったように思います。その都度、ポジティブなものに集中し直したり瞑想したりして一時的に下の世界に落ち込んでいた自分の状態をポジティブで上向きな状態に引き戻していました。今回の竜巻の経験の後はその落ち込み具合が軽傷になったと言いますか、性的欲求自体が一段上のポジティブな状態に変化したような気がします。もともと第2回目クンダリーニの時点でかなり性的欲求はポジティブなものに解消され、数値化するならば性欲が10分の1になってその分だけポジティブなエネルギー、生命力に使われるようになって元気になりましたが、その時点では残された性欲のコントロールやその質の「ポテンシャル」はまだ元の質で性欲の量だけが10分の1になったように思います。竜巻後は、その残された性欲の質自体が変わってきたように思います。以前は、性欲が減ったとはいえ質は元のままで、性欲が優勢になると割と昔ながらの肉欲と言いますか普通の性的欲求がそれでも残っている感じではありましたが、今は、完全とは言えませんが性欲の質自体がポジティブなエネルギーに変わってきましたので、今の状態で性欲が優勢になったとしてもそれはポジティブなエネルギーの活性化に近いものに変わってきたように思います。この辺り、なかなか言葉で説明するのが難しいです。性欲自体がなくなったわけではないのですが。 数値で書くと以下のようになります。<br /> <br /> <br /> ・ヨガを始める前は性欲150で制御が困難な状態<br /> ・ヨガを初めて性欲がコントロールしやすくなる。性欲100、その後少しづつ低下<br /> ・第2回目クンダリーニで性欲10へ<br /> ・今回の竜巻の経験で性欲1へ<br /> <br /> <br /> ■特に対象はないのですが、とにかく「好き」な感覚が続きます<br /> 第2回クンダリーニ後はポジティブになって「喜び」の状態が続きました。それは愛とも言えますが相手に対する愛ではなく自分自身への愛でしたので誰かと話してニコニコしていて外目には私がその人を好きかのように見えたとしても、そのニコニコと喜びは誰に対しても同じく感じるニコニコと喜びでしたので、勘違いされているかもしれない場面もありました。その時の「喜び」は情愛というほどドロドロしてはいなくて割とクールな喜びではありますが、それでも「熱」のある喜びでした。そんな感じで、近くにいるものや人に対して自然に分け隔てなく喜びを感じていました。自分自身がポカポカして喜んでいるのが基本にあって、割と周囲のものや人に対しても同じように接しているような感覚です。誰がいるから好きだとか、そういう条件付きの感覚ではありません。でも、それはその後次第にその感情は落ち着いてきて、「喜び」は感情の少ないものに変わってきて、時々平衡感覚を失って調子が狂う時もあったのですが、今回の竜巻でこのあたりに大きな変化がありました。<br /> <br /> 今回の竜巻の後は、とにかく「好き」な感覚が続くようになりました。前の「熱」ほどはポカポカしていませんが、「暖」というくらいがちょうど良いかもしれません。「好き」とは言いましても、特に何か対象がある訳でもありません。不思議な感覚です。私の心はこの種の感覚を味わったことがあまりないので、困惑しています。困惑しているので、心は何か対象を求めてしまっている感じです。心が言うには、「これは何か理由があるのだろうか。この好きな感覚の対象はどこにあるのだろうか」と。昔ながらの癖で何か対象を求めてしまいがちですが、好きであることに特に何か理由がある訳でもなさそうです。誰かを好きになったり何かを楽しみにしていたり何かに期待していたりという訳でもなく、とにかく理由もなく「好き」なのです。あえて言うのであれば「地球さん大好き」とでも言うのでしょうが、確かにこの地球は素晴らしいとは思うのですが、この「好き」の感覚は特に対象がなくてもいいというか実際に対象はないので「地球さん大好き」と言うのも微妙に違う気もします。恋愛などにおける「情」に基づいた「恋」や「好き」とは違う感じです。理由はありませんがとにかく「好き」なのです。家族愛に近いものでしょうか? 家族が近くにいるとこんな感じかもしれません。この感覚は家族がいるいないに限らず続く、不思議な感覚です。まだ竜巻経験後数日しか経っていないので様子見ではありますが。おそらくは、私の心の「癖」がまだ残っていて、今まではこの感覚に対して対象があったので昔の癖で「心」が「対象」を求めてしまっているのだと思います。しかし、やがて心は対象を探すのに疲れるかあるいは探すのを諦めて、「好き」の状態のまま留まるのかな、という予感がしています。今はちょっと過渡期なので心が混乱していますし、心がその対象を探してもどこにも見つかりませんし、「好き」の対象は「ハート」でもなくて心それ自身でもなくて、どこを探しても見つかりません。今の所は、瞑想と同じように心を集中して落ち着かせることで混乱を治めていますが、おそらくはそのうち落ち着くだろうという予感がしています。又、これは瞑想中だけでなく平素の生活の中で心を落ち着かせる段階、いわば生活そのものを瞑想としてゆく段階にそろそろ来ているのかもしれないと感じています。その予感もあります。<br /> <br /> ■目に見えない自分の体から異物を取り除く<br /> そういえば、この竜巻の経験をした日の前日の晩だったか当日の朝でしたか、とても気分が悪かったことを思い出しました。このことと風のルンの竜巻とがどれだけ関係しているのかは分かりませんが、これらは時間的に半日以内に起きたことですので、一応、書いておきます。その時、根拠はないのですが何か体の上半身から右腕にかけて引き裂かれているような気がしていました。この感覚は、外出後にたまにある感覚です。おそらくは外で何か目に見えない重いものを拾ってきたのかなと理解していました。大体の場合は軽くシャワーを浴びれば治るのですが、この時はまだ感覚が残っていました。その時、布団の中で横たわりながら、私はそれは何なのかイメージを試みていました。おそらく、としか言えませんが、右腕の肘の上あたりから心臓にかけて、蔓のような、あるいは、触覚のある意識体かもしれない何かが絡んでいるイメージが出てきたので、これまたイメージで右手をピースの形にしてから人差し指と中指を少し折り曲げて絡んでいる蔓のようなものを引っ掛けて引っ張り出して外に放り投げたところ、楽になりました。頭のズシンとした感覚が急に緩んで緊張が取れたので、これは確かなものです。何かエネルギーを吸い取られていたのかもしれません。スピリチュアルなことって最近は楽しいことばかりフォーカスされていますけど、この種の異物に限りませんけど割と怖いことが多いと言うのが私の印象です。蔓を出したことで大分楽にはなったのですがまだ何か体の中に残っていないか更に探りを入れて、心臓のハートのあたりにまだ絡んで残っている細い糸のようなものも引き抜いて、ハート周囲にあるネバネバとした蜘蛛の巣あるいはネットのようなものも掃除しました。引き抜いた後はイメージ上でその傷跡を埋めるような感じで表面を揃えて処置完了しました。まあ、イメージ上のことですけど、緊張は急に取れましたし、これだけでもかなり心境は違うのです。実際はプラシーボかもしれませんけど、たとえプラシーボだったとしてもメンタル的に効果があるのならばそれはそれでOKだと思っています。スピリチュアル的な観点から言えば、エネルギーを好物にしている異界の変な意識体が絡みついてきた可能性、あるいは、誰かの能力で他人からエネルギーを吸い取るパイプを植え付けられた可能性があります。まあ、ほとんどの人はこう言うことに無頓着で、信じられない人も多いでしょうけどね。スピリチュアル的な「技」ってのはかなり危険で、自分が力をつけるかあるいは強力な守護霊に守られてでもいないと割とこの世界は危ないと思います。前にも書きましたが、術としての強さと霊的な成長とは比例しないので邪悪で強い存在もいますから怖いのです。<br /> <br /> <br /> <br /> <br /> Thu, 11 Jul 2019 00:00:00 +0900 統合されたチャクラと「半歩」(グランティ相当) https://w-jp.net/2019/1537/ <br /> [風のルンの竜巻の経験から5日後]<br /> <br /> ■フラワー・オブ・ライフに基づくグランティの解釈<br /> スピリチュアル系の「フラワー・オブ・ライフ 第2巻(ドランヴァロ・メルキゼデク著)」では、おそらくグランティに相当するものを「半歩」として紹介しています。それは2つあって、「マニプラ・チャクラとアナハタ・チャクラの間」と、「アジナ・チャクラとサハスララ・チャクラの間」にそれぞれ存在しています。「ひとたびエネルギーがこの半歩(マニプラとアナハタの間)を発見し、そこを通過すると、(エネルギーが)心臓や喉や脳下垂体、松果体に流れて行きます。そしてまた新たな壁または半歩に突き当たり、流れが止められます。今度の壁(半歩)は後頭部と脳下垂体の間にあります。」とのことです。又、興味深い記述としては、ハート・チャクラとヴィシュッダ・チャクラの間で同書の言うところの「虚空(Void, ボイド)」を通過して極性が 「女性」から「男性」に変わるとの記述があります。ムーラダーラから女性のエネルギーが入ってきてアナハタまでは女性で、その次に「虚空(Void, ボイド)」を通過してヴィシュッダ以降に男性の極性に変わります。位置的に「虚空(Void, ボイド)」および「極性の変換」と「うなじ下(大椎?)」は何か関係があるのかもしれませんので気になりますが答えは同書にはなさそうです。<br /> <br /> 同書の解釈に基づいて私の内的感覚を解釈すると、該当箇所のグランティそのものの感覚はないのですが、2回目のクンダリーニ経験の後はマニプラでエネルギーが止まっていてそれ以上になかなかエネルギーが上がっていかない感覚がありましたので、マニプラとアナハタの間にグランティと言いますか「壁(半歩)」があると言うのは納得できます。これは言い方の問題で、通説のように「アナハタの中にある」と言ってもさほど違いはないのかもしれませんが、以前はアナハタの感覚があまりなかったのに対して今は感覚がありますので、「アナハタの中」にあるとすればグランティが破れる前であってもアナハタの感覚があっても良さそうです。であれば、マニプラとアナハタの間にあるとする方がしっくりきます。<br /> <br /> 同書によれば、スピリチュアル的に成長するまではマニプラまでで人生を過ごし、「壁(半歩)」を超えるとアナハタ〜アジナの霊的生活を送るようになる、と言います。確かに、よく書物で見るように1つづつチャクラが進むと言う説明文は内的感覚と比べて違和感がありましたが、このように、セットで段階を進むと言う方がしっくりきます。チャクラと「壁(半歩)」の関係を踏まえて「壁(半歩)」を超えると大きく霊的に成長するとする同書の主張は現実に合っている気がします。<br /> <br /> ■統合されたチャクラ<br /> そう言えば「Meditation and Mantra (Swami Vishnu-Devananda著)」や「ハタ・ヨガ・プラディーピカ(Hatha Yoga Pradipika、Swami Vishnu-Devananda著)」にも「チャクラは1つづつ発達するのではない」と言う説明がありましたね。こちらには「壁(半歩)」の説明はあまりなくて、グランティの説明として、グランティを破らなければ霊的成長はない、と言うような説明だったと思います。こちらの書物では「チャクラは1つづつ発達するのではなく全てのチャクラが融合して働く」と記載してあったと思います。確かにそれは「壁(半歩)」を超えた後ではそうなのかなと思いますし、第2回目クンダリーニ経験してしばらくはそんな気がしていましたが、やはり基本はこの「壁(半歩)」は存在していますし、いくら第2回目クンダリーニで多少のエネルギーが壁(半歩)を超えて上がったような気がしていても、やはり今回改めてきちんと「壁(半歩)」を超えるまではちゃんとは超えていなかったのかな、と言う気がしています。この、チャクラが連携というか統合して全てが大きなチャクラになることとグランティや壁(半歩)の関係は、体験して見るまではなかなかピンときていませんでしたが、今はまあ、たぶんこんな感じだなというのがわかりますが、なかなか説明が難しいところがあります。<br /> <br /> 別のスピリチュアル系の書物「ライトボディの目覚め」によると、とある段階(第七レベル)になるとハート・チャクラ(アナハタ・チャクラ)が優勢になり、やがて他のチャクラもすべて開きだし、チャクラ・システムが溶け合って「統合されたチャクラ」と呼ぶものになるとのことです。尚、同レベルでは松果体と脳下垂体が開き出すとありますので、上記の書物の記載とも段階的に整合性があるような気がします。おそらくは同じ段階を違う表現をしているだけなのかなと思います。ヨーガ的で言うところのヴィシュヌ・グランティを超えてハート・チャクラ(アナハタ)が開き出した段階を、スピリチュアル的に表現しているようです。それぞれの視点があって参考になります。<br /> <br /> 第2回目のクンダリーニ後はお腹のあたりが中心に熱を帯びて体がポカポカしていたのですが、その時もこの「統合されたチャクラ」と言おうと思えば確かにそんな感じに言えなくもないような、体全体が包まれて全体がチャクラ化しているような、どこがチャクラかよくわからないくらい体全体が活性化された状態になっていたのですが、それはマニプラ中心の体全体のポカポカであって、それは「ライトボディの目覚め」で言うところの「統合されたチャクラ」とは違って、同書における「統合されたチャクラ」はその次の段階の、アナハタ(ハート)チャクラによって統合されたチャクラの状態を言うのだと思います。<br /> <br /> <br /> <br /> <br /> <br /> Wed, 10 Jul 2019 00:00:00 +0900 ガタ段階の「太鼓」と血液の脈動音。瞑想の質の変化 https://w-jp.net/2019/1536/ <br /> [風のルンの竜巻の経験から4日後]<br /> <br /> ■ガタ段階の「太鼓の音のような音」<br /> その次のガタ段階の「太鼓の音のような音」というのは具体的にどんな音なのか微妙なところですが、竜巻の後は静かにしていると異様に「心臓のドクンドクンという振動音」が聞こえてきます。「これはナーダ音ではなくて肉体の心臓の音ですよね・・・」 と自分で解釈しているのですが、この心臓の音が「太鼓のような音」と言えなくもないです。でも、自分の心臓の音なんて今までそうそう聞こえたことないので、一体どういうことなのかなあ、と不思議に思っています。以前記載しました通り竜巻の後は呼吸がし易くなって呼吸時に胸が開くようになりましたので、それが影響している可能性もなくはないです。ナーダ音というのは内なる音ですがアナハタ・ナーダはアナハタ・チャクラから聞こえてくる音なので、心臓から聞こえてきても不思議ではないですが。この心臓音は竜巻の前は聞こえなかったと思います。単なる肉体の音かなぁと思いつつもナーダ音かもしれない、という感じで、これまた様子見なのです。「喉のチャクラの空処で起る」とありますけど、音的に胸の周辺で鳴っているような気がしますが喉かどうかは場所が微妙で特定できません。言われてみれば喉のような気もしますけど、気のせいかも? 鳴っているのは確かだと思いますけど。喉で鳴るというよりは耳たぶが脈打って心臓の鼓動を聞いている、という感じですが。耳たぶから下方向の音を聞いている、という感触がなくはないですけど、振動だけが下方向から感じるものの、音は耳で聞いているような感じです。やっぱりこれは肉体の心臓の鼓動音かなあ? という感じではありますが。今までずっと聞こえていた、明らかに超感覚で聞こえるピーという高周波のナーダ音とはまた違った雰囲気がします。<br /> <br /> その後、瞑想中に脈拍の音の出所を探ってみましたがどうも、先日「うなじ下(大椎?)」にて熱と共に脈拍が波打った場所でまだ少しその活動が続いていてそこから脈拍の振動が頭にまで伝わっている気がしていました。確証はなくて、なんとなくですが。<br /> <br /> この「太鼓のような音」はハタ・ヨガ・プラディーピカでしか見かけたことがありませんので、マイナーな音なのかもしれません。なかなか微妙です。心臓の鼓動音をナーダ音と言って良いものかどうか。広義には含んでも良いのかもしれませんが、肉体の音で聞こえる音であるならば基本的にはナーダ音ではないですよね。<br /> <br /> ・・・ふと気付けば、ハタ・ヨガ・プラディーピカではこの音がナーダ音だとは言っていませんね。単に、そう言う音が聞こえるとだけ書いてありますので、肉体の音だと解釈しても良さそうです。どうも、ナーダ音と言う定義に固執していたのかもしれません。もっと柔軟に読み解くべきですね。まあ、こう言う記述のほとんどはナーダ音と思った方がいいと思いますけど、例外もあるのかもしれない? ということで。<br /> <br /> ■瞑想の質の変化<br /> 竜巻の経験の前でも雑念はかなり減っていて雑念が出ても影響されることはほとんどなくなっていたのですが、竜巻後に瞑想したところ、瞑想が深まるにつれて、雑念が出てきても「ひらがな2〜3文字目」には砂上の文字が消え去るが如く雑念が発散して消えてしまい、雑念が文章として成り立つ前に雑念が消え去ることが多くなりました。意識的に何かに意識して雑念というか思考をしようと思えばすることができるのですが、意識的にではないただの雑念であれば雑念が出てきても上記のようにひらがな数文字目からバラバラになって発散して雑念が消えてしまうようになりました。瞑想の質が深まった、とでも言うのでしょうか。瞑想がある程度深まった時のお話ですが。なんだか不思議な感覚です。念の為補足しておきますが、もちろんこれは「大体の雑念は」と言うことで、多少長引く雑念や、もっとすぐに消える雑念もありますので、全部が全部きっちり2〜3秒で消えるわけではありません。大したことのない雑念はかなりすぐに発散するようになった、と言うところです。<br /> <br /> この状態こそが瞑想において「集中できている」状態だと言う気がしました。すると、瞑想中にどこからか声がして「ダーラナだ」と言われた気がしました。恐らくは私の内なるガイドの声です。このダーラナ(集中)というのはヨーガ・スートラの八支則の段階の1つで、ディヤーナ(瞑想)の1つ前の段階になります。どうやら、今まで私は瞑想していたつもりだったのですが、実はダーラナ(集中)にすらまだ至っていなかったのかもしれません。私が瞑想していたつもりだったのはヨーガ・スートラ的にはディヤーナではなく、ダーラナでもなく、プラティヤハーラだったのかもしれません。<br /> <br /> これらの説明で「ダーラナ・ディヤーナ・サマーディは一続きのものです」みたいな話を昔から聞いていて、「そうなのかな。多分そうだと思います。頭では理解できます」みたいな漠然とした感じで今まで考えていたのですが、実際にこのダーラナの状態を体験してみると、それは正に「深い状態に引きずり込まれてゆく」「雑念がプチプチと千切れてゆく。雑念が自動的に自ら崩壊してゆく」「自動的に瞑想が深まる」と言う種類のものでしたので、今では、確かにその通りなのだなと思います。きっと、そのことが体感できていないうちはダーラナにすら達していないのかもしれません。今までは、ダーラナというのは単なる1点集中かとばかり思っていました。確かにこの状態を1点集中と言えなくもないですが、心が1点集中すると言うよりは心の雑念が晴れて心が揺れ動くことがなくなることを1点集中と言っているのか、あるいは、心が揺れうごかなくなった状態で魂の意識が揺れ動くことがなくなる事による意識の集中(心の集中ではなく)のことをダーラナと言うのであれば、それは確かにそうかなと言う気もします。まあ、これはただの推測ですが。<br /> <br /> となると、ヨーガ・スートラのダーラナやディヤーナは既に原始仏教で言うところの第一禅定に相当するのかもしれないとふと思いました。てっきり今まではヨーガ・スートラのサマーディがそのまま原始仏教の禅定や三昧に相当するのかとばかり思っていましたが・・・。もちろん定説はサマーディが三昧や禅定なのですが、 流派によって少し違うのでしょうかね。 以下のような感じでしょうか?<br /> <br /> <br /> ・プラティヤハーラ 雑念を受け流す努力をしている段階。(私見では)この段階でも時々第一禅定(思考が残っている集中状態)や第二禅定(いわゆる無の状態)に至る。(私見では)いわゆるゾーン(ZONE)による集中力向上&判断力向上もここ(これ以上集中してしまうと思考も止まってしまうためここが限界)。マニプラ・チャクラが優勢。(関連記事を昔書きました)<br /> ・ダーラナ (私見では)第一禅定の安定化、第二禅定の深まり。アナハタ・チャクラが優勢。ヴィシュッダ・チャクラも活性化。一般的にはこれは「集中」の意味。<br /> ・ディヤーナ おそらくはアジナ・チャクラが優勢(未体験)。一般的にはこれは「瞑想」の意味。<br /> ・サマーディ 定説ではこれだけが禅定および三昧。おそらくはサハスララ・チャクラが優勢(未体験)<br /> <br /> <br /> 上では「ダーラナ・ディヤーナ・サマーディ」の3つは一続きのもので瞑想が深まるにつれて「段階的に移行」すると言うお話でしたが、ヨーガではもう1つ「サムヤマ」と言う言葉があって、サムヤマは上記3つが「同時に起こる」とされています。これは、瞑想が深まるにつれて最初はダーラナだけ、次はダーラナとディヤーナ、次は3つ全てになる、と言うことだと理解しています。ちなみに、私がインドのリシケシでヨガ哲学のヴェーダに詳しい先生に聞いたところではその前の段階も入れて「プラティヤハーラ・ダーラナ・ディヤーナ・サマーディ」の4つが一続きで、この4つが瞑想において連続して起こると言う説明でした。原始仏教では感覚および心理学的視点が導入されていて、別ページに書きましたように「どのように感じるか」で禅定などを判定しますので、実際、ヨーガ・スートラのこの分類にきっちり当てはまらないような気がしています。きっと、過去の人が分類した時にヨーガ・スートラと原始仏教の中身を分類した時にサマーディを禅定に当てはめたのでしょうが、どうも、微妙に視点が違うような気がしています。<br /> <br /> 以下のような表現がわかりやすいかもしれません。なんとなくですけどね。<br /> <br /> <br /> ・原始仏教の第一禅定 プラティヤハーラ熟練度50%、ダーラナ熟練度20%、ディヤーナ熟練度10%、サマーディ熟練度5%<br /> ・原始仏教の第二禅定 プラティヤハーラ熟練度80%、ダーラナ熟練度50%、ディヤーナ熟練度30%、サマーディ熟練度20%<br /> ・原始仏教の第三禅定 プラティヤハーラ熟練度100%、ダーラナ熟練度80%、ディヤーナ熟練度50%、サマーディ熟練度30%<br /> ・原始仏教の第四禅定 プラティヤハーラ熟練度100%、ダーラナ熟練度100%、ディヤーナ熟練度80%、サマーディ熟練度50%<br /> <br /> <br /> これは、通説を覆そうとしているわけではなくて、通説はサマーディが禅定や三昧のままで良くて、私はただ単に、この種のお話は内的感覚が重要になってくるので書物に書いてあることを鵜呑みにするのではなくて一つづつ自分の感覚と比べながら言語あるいは理解そのものに落とし込んで行くのが重要だと思っているだけであって、上記はいわば自分の理解を深めるための言語化なわけです。気付きの内容を確認して理解を深めるための言語化とも言えます。ですから、通説は通説のままで良くて、ただ単に、自分自身の中の真実を積み上げていっているだけなのです。内的な理解が深まりさえすれば良くて、通説がどうであろうとあまり関係がありません。通説はどこかの学者かスワミにでも任せておけば良いと思います。最終的な理解は通説と同じになるかもしれませんし、それであっても全く問題ありません。<br /> <br /> と、言うことで、これからの瞑想が益々楽しみです。<br /> <br /> ■シャクティ・チャーラナ・ムドラー<br /> 竜巻の経験の数日後、軽くシャワーを浴びていたら急に「シャクティ・チャーラナ・ムドラーをしましょう」と心に指示がありました。何でしたっけこれ・・・ と思って調べましたところ、「続・ヨーガ根本経典(佐保田 鶴治著)」のゲーランダ・サンヒター(P73, 3章49~59)とシヴァ・サンヒター(P236, 4章105~109)に記載がありました。どうやらクンダリニーを動かすための行法で、これを行えば寿命が延びて病気がなくなり、ヨーガで言ういわゆるシッディ(諸能力)を得るとのことです。ただ、その内容はなかなか解読が難しそうです。<br /> <br /> これですが、考察が「クンダリーニ・ヨーガ(成瀬 雅春著)」に詳しく解説が載っていました(少し番号が違いますが同じ内容のようです)。成瀬先生の手法では、ムーラバンダを中心とした技法になっています。同書を読むと、なかなか大変なようなので、ちょっと様子見ですかね。一人で試すのは気がひけると言うか、一人ではしないでくださいと注意書きがありますし。<br /> <br /> ■うなじ下(大椎?)と「エネルギーの漏電」<br /> シャクティ・チャーラナ・ムドラーを確認するために「クンダリーニ・ヨーガ(成瀬 雅春著)」を読んでいてたまたま発見したのですが、背筋でエネルギーが動くのは「エネルギーの漏電」だそうです。ただ、私の場合は「動く」わけではなくて、ただ単にうなじ下(大椎?)が熱を持ってずっと熱いだけですので、これが同じことを言っているかどうかはわかりませんが、一応、気に留めておきます。<br /> <br /> <br /> <br /> <br /> <br /> Tue, 09 Jul 2019 00:00:00 +0900 アーランバ段階、アナーハタ・チャクラの「装飾具のふれ合う音」 https://w-jp.net/2019/1535/ <br /> [風のルンの竜巻の経験から3日後]<br /> <br /> ■アーランバ段階<br /> 「ヨーガ根本経典(佐保田 鶴治著)」に掲載されているハタ・ヨガ・プラディーピカには以下のように記されています。<br /> <br /> 4-69) [ヨーガの四段階] アーランバ、ガタ、パリチャヤ、ニシパティはすべてのヨーガにおける四つの段階である。 <br /> 4-70) [アーランバ段階] 梵天の結節が調気の修行によって破られた時、心臓の虚空のなかに生じた、たえなる、さまざまな、装飾具のふれ合う音のようなアナーハタ・チャクラの音がカラダのなかで聞こえてくる。 <br /> <br /> 節とは体に3つあると言われているグランティ(結節)のことで、梵天の結節とはアナーハタ・チャクラのなかにある結節です。ヴィシュヌ・グランティについての考察を話したいのですが、基本的な説明をまずしたいと思います。そうしないと理解が難しいと思いますので。<br /> <br /> ■グランティ(結節、結び目)<br /> グランティは3つあります。グランティとはエネルギーのブロックあるいはエネルギーが滞っている場所で、サンスクリットで「霊的な結び目」という意味です。ブロックが解かれることでエネルギーが通るようになります。そのことを「グランティを破る」とか「壊す」とか「突き破る」とか「解く」とか言ったりしますが、何かが壊れるのではなく、そのブロックが取り除かれることを意味します。<br /> <br /> <br /> ・ブラフマ・グランティ 通説ではムーラダーラ・チャクラの中にあります。「密教ヨーガ(本山博著)」によると、このグランティが解かれるとクンダリーニが覚醒するとのことです。ムーラダーラがどこにあるのかは時代によって変わってきたようです。現代での通説はムーラダーラは会陰(男女で若干違う)にあります。ちょっと前の時代に書かれた神智学系の「チャクラ」(C.W.リードビーター著)には、ムーラダーラは仙骨だと記されています。どこかの文献によると、「古代においてはクンダリーニはスワディスタナ・チャクラに眠っていて、その後、ムーラダーラに移動した」と読んだ記憶があるのですが、私はずっとこのことを文字通り解釈していて、時代を経るにつれて人間が変化して、クンダリーニの居場所が文字通り変わったのだと理解しておりましたが、今思えば、真理がそんなに変わるわけもありませんね。これは誤訳かあるいは伝言ミスで、ただ単に、同じ場所を違う名前で言うようになった、と推測すれば筋は通ります。ヨーガの方が歴史が古そうなのに「昔はムーラダーラ」と言うのはよくわかりませんが、著者にとっての昔がムーラダーラと呼ばれていたのかもしれません。クンダリーニの眠る場所は仙骨あるいは尾骨のあたりであることは私の経験上、そうなんだなと思います。スワディスタナ・チャクラがどこにあるかと言うのは「密教ヨーガ(本山博著)」によると仙骨あるいは尾骨のあたりであり、多くのヨーガ行者はこの場所だとしているようですが、スピリチュアル系では違う場所を言っているのも散見されます。ヨーガ的には古代のムーラダーラである現代のスワディスタナにクンダリーニが眠っていて、グランディもそこにある、と解釈するのが良さそうです。ただし、これは私の個人的な解釈ですので、一般的にブラフマ・グランティはムーラダーラの中に眠っていてムーラダーラは会陰ですので、このことを誰かに言っても理解されにくいとは思います。私も他所ではあまりこんなこと言わないと思います。私の個人的な解釈です。<br /> ・ヴィシュヌ・グランティ 通説ではアナハタ・チャクラの中にあります。どこかの書籍では「マニプラとアナハタの間にある」とも書かれてあったかと思いますが、通説はアナハタの中です。さて、ようやく本題。ヴィシュヌ・グランティの場所は通説ではアナハタ・チャクラですが、グランティ(結び目)が解ける時に熱が発生して血液が強く脈打つ、と言うのが私の(勝手な)解釈です。これはどの書物にも書かれてありませんので推測になりますが、熱が発生して血液が脈打つ場所がグランティであるとすれば、ヴィシュヌ・グランティは「(背筋の)うなじ下(大椎?)」にあると解釈できます。ここは、先日引用したチャクラの図で言うとマニプラ・チャクラとアナハタ・チャクラとヴィシュッダ・チャクラの合流地点であり、どこかの書籍で読んだ「マニプラとアナハタの間にある」と言うのも、あながち間違いではありません。通説の「アナハタの中にある」と言うお話も、場所的に近いので、それほど間違いでもありません。アナハタの場所はハートなのはそうだとは思いますが、うなじ下そのものがアナハタではないとは思いますので、通説の「アナハタの中にある」と言うよりは、体感そのままに「ヴィシュヌ・グランティは(背筋の)うなじ下にある」と解釈することもできます。もちろん、他所でこんなこと言わないですけどね。仮定です。→ 後で思い直せば、どうもしっくりきません。ちょっと保留です。<br /> ・ルドラ・グランティ 通説ではアジナ・チャクラの中にあります。これはまだ未体験です。<br /> <br /> <br /> 「ヨーガ根本経典(佐保田 鶴治著)」によると以下のように諸説あるとのことです。私も幾つかの書物で時々違う場所を読んだ記憶があります。<br /> 三つの結節の位置については諸説がある。尾てい骨、心臓、眉間の3所、或いは尾てい骨、ヘソ、ノドの三所、或いは胸部、ノド、眉間の3所<br /> <br /> 今回の「風のルンの竜巻」では喉に近い「うなじ下(大椎?)」にあるグランティが外れたと仮定すると、そこを何と呼ぶのかは微妙ですが、とりあえずはヴィシュヌ・グランティの結束が外れたと仮定しておきます。グランティは通説があるようでいてないので謎が多いです。<br /> <br /> ■アナーハタ・チャクラの「装飾具のふれ合う音」<br /> 上に引用した「ヨーガ根本経典(佐保田 鶴治著)」の文章に戻りますが、「装飾具のふれ合う音」についてです。<br /> <br /> 私としては、私の状態が確実にこの段階かどうかはまだわかりませんが、似ている部分が見受けられます。私は前に書きましたように「シュルシュルシュルシュル」という音を風の音だと解釈し、エネルギーの流れ的にも竜巻のように感じましたので風の音かなとも思ったのですが、ここに記されている「装飾具のふれ合う音」と言えなくもないかな、とこれを読んで思いました。同書によると、この段階では気が満ちてきて博愛心などの高尚な素質が開発される、と書いてありますが、経験した直後の今としてはそれほど変化ありません。今後、そういう感じになってゆくのでしょうか。既にクンダリーニ1回目と2回目をしてかなりポジティブになりはしましたが、まだ有名人のナイチンゲールですとかマザーテレサなどに比べたら全然そんな博愛なんて私には足りてない気がしていますので、今後、そういう博愛精神が開発されてゆくのならばそれは楽しみです。私がこの段階かどうかまだ確証はないのですが。<br /> <br /> ■ヨーガの四段階とその時に聞こえるナーダ音<br /> 「ヨーガ根本経典(佐保田 鶴治著)」に基づきますと以下のようになります。<br /> <br /> <br /> ・アーランバ段階 ヴィシュヌ・グランティが解けた状態。アナーハタ・チャクラの「装飾具のふれ合う音」が聞こえる。<br /> ・ガタ段階 ヴィシュッダ・チャクラが活性化。「無上の歓喜を予示するところの混合音と太鼓の音のような音とが喉のチャクラの空処で起る」<br /> ・パリチャヤ段階 アジナ・チャクラが活性化。「眉と眉の間にマルダラ(鼓の一種)の音のような音がはっきりと知覚される。」<br /> ・ニシバティ段階 ルドラ・グランティ(結節)が破られた状態。「フルートの音やヴィーナーと弾ずるような音が聞こえる」ラージャ・ヨガと呼ばれる。<br /> <br /> <br /> 流派や書物によってこの段階は微妙に違うようですが、基本はこのような感じのようです。<br /> <br /> ■アーランバ段階の「装飾具のふれ合う音」<br /> 「装飾具のふれ合う音」と言うのかどうかはわかりませんが、最近私が聞こえているナーダ音は細かく波打っていて、装飾具の触れ合う音にはちょっと遠いのですが、無理して解釈すればそう言えなくもないです。少し前までは高周波の「ピー」と言う一定音だったのですが、高周波が最近は細かく波打っている感じです。高周波のままですがブーンと言う感じの波打った感じの高周波になっています。「ピー」の上に「ブーン」と言う波が乗っていると言いますか。紐が両側についていて引っ張って回転を速くしたり遅くしたりしてブンブン回して遊ぶおもちゃが出すような音が高周波の上に乗っかっています。まあ、様子見ですけれど。 同じ音を「ミンミンゼミの大合唱」と表現できなくもないです。以前もしばらくの間ミンミンゼミっぽい音が聞こえていたことがありますが、その時とは音の密度というかミンミンゼミの数が数倍は違う感じです。以前はミンミンゼミの音だけでしたが、今は基音と言いますか基本的なピーと言う音の上にミンミンゼミというかブーンという音が乗っています。以前はミンミンゼミの音の音量の上下というか振幅幅がとても大きかったのですが、今は基本的なピーという音がそれなりの音量でしていて、その上にミンミンゼミ大合唱というかブーンという音が以前よりは小さな振幅幅の音で乗っかっています。昔の方がよほどミンミンゼミっぽかったです。ピーという高周波の上にミンミンゼミ大合唱というかブーンという低い音というかザワザワザワというか、そんな音が乗っています。ザワザワって感じが「装飾具の触れ合う音」と言えなくもないですね。様子見です。ただ、この音は今回の竜巻の前後で変わったというわけではなくて、最近はこういう感じで聞こえている、というお話ですけど。むしろ、今回の竜巻の1ヶ月くらい前から当日くらいまでこういう風にザワザワが加わって聞こえていた、という方が正しいかもしれません。竜巻の後はむしろ高周波のみに戻ってきた感じです。ヴィシュヌ・グランティが破られ始めるとザワザワした音が聞こえて、破られるとその音は消える、とも推測できます。<br /> <br /> <br /> <br /> <br /> Mon, 08 Jul 2019 00:00:00 +0900 胸(アナハタ)が開いて呼吸がしやすくなりました https://w-jp.net/2019/1534/ <br /> [風のルンの竜巻の経験から2日後 ]<br /> <br /> ■呼吸がしやすくなりました<br /> 別記事で書きましたが、クンダリーニ(2回目)経験後から呼吸が浅くなり、クンバカが極端に苦手になっていました。同様に、以前は自動的に息が止まるケヴァラ・クンバカという自動的なクンバカ(息止め)が瞑想中や休憩中に普通に起こっていたのですが、クンダリーニ(2回目)以降はケヴァラ・クンバカも起こらなくなっていました。ケヴァラ・クンバカは落ち着いた静寂な心があると自動的に起こるとされています。ずっと息が止まっているわけではなくて、必要とあれば自動的に呼吸が再開されるような種類のものです。私の場合、ヨガを始めてしばらく経った後、ナーダ音が聞こえ始めた頃だったか、その前後くらいから心が落ち着いてきて自動的に息が止まるケヴァラ・クンバカがよく起きていました。その後、クンダリーニ(2回目)によってパワーは向上してポジティブになったので心は基本的に落ち着いてはいるのですが、何故か呼吸だけは浅くなってケヴァラ・クンバカが起こらなくなったのです。<br /> <br /> ですが、今日のこの経験後から急に呼吸が深くなり、クンバカもかなりしやすくなりました。まだ当日なのでケヴァラ・クンバカとまでは行きませんが、かなり呼吸が違うのを感じます。昨日までは、胸のあたりが詰まっていてそこに呼吸が入らない感じでしたが、今は胸いっぱいに息を吸う事ができます。こんな急に変わるものですね・・・。不思議です。<br /> <br /> ■息が浅いのは「何かが詰まっている」状態?<br /> 別記事に追記しましたように「器÷エネルギーの強さ=クンバカの時間」の関係があるようで、第2回目クンダリーニではエネルギーが強まって息が相対的に浅くなってクンバカが短くなりましたが今回は器が大きくなって息が深くなってクンバカも長くなった感じです。<br /> <br /> スピリチュアルでは息が浅い状態は「何かが詰まっている状態だから詰まりを取る必要がある」と言われていて、基本的な意味は「詰まっていなかったものが詰まってしまったから取り除く必要がある」ですが、それに加えて上記の計算式の「器」と「エネルギーの強さ」も加味して解釈すると「エネルギーが強まったので器が小さく感じるようになってしまったから器を大きくする必要がある」「エネルギーが強まったので今まで意識していなかった場所に詰まり(ブロック)があることが分かった(もともと詰まっていたが気付かなかった)。新たに判明した詰まり(ブロック)を外す必要がある」という意味にも解釈できそうです。それはまるで、気球に空気がちゃんと入っていなかったのに気付かなかった状態から改めて空気を入れてちゃんと膨らませて布が伸びること、あるいは、風船にちゃんと空気が入っていなかったのがもっと空気を入れることでゴムの端っこも伸びてハリが出るようになったようなもの、とでも言えるでしょうか。<br /> <br /> ■ケヴァラ・クンバカと背筋をまっすぐにする姿勢の関係<br /> 呼吸がしやすくなったのと同時に、再度、ケヴァラ・クンバカ(自動的に起こる息止め)も時々起こるようになりました。時には、起こりすぎて息がずっと止まってしまい、意識的に吸気をしてあげなくてはいけない時があって、そんなときは「面倒だなあ」と思うくらいになりました。でも、同じケヴァラ・クンバカでも自動的に無意識に吸気できている時もあって、意識的に吸気をしないといけない時とは何が違うのかなあ・・・と思っていたのです。観察したところ、どうやら背筋がまっすぐのときは呼吸が自然にできており、背筋が曲がっているとケヴァラ・クンバカの後の吸気がうまくできないことに気付きました。瞑想や普段の生活で背筋をまっすぐにすることがこれほどまでに呼吸に影響するなんて、以前はそんなことありませんでした。敏感になったのでしょうか? このあたりは、ちょっと様子見です。それにしても、ヨガなどで「背筋をまっすぐ」という教えにこんな微細な影響があったなんて驚きです。てっきり、スシュムナを真っ直ぐにしてクンダリーニ等のエネルギーを通りやすくするくらいの意味なのかなと思っていました。それだけではなかったのですね。まあ、あくまでもそんな気がするだけですが。<br /> <br /> ■ケヴァラ・クンバカと「枕」の関係<br /> 寝る時もケヴァラ・クンバカが自動的に起こるのですが、枕をして上を向いて仰向けで寝ると、前に書いたのと同様、吸気がうまくできません。横になって背筋をまっすぐにすると吸気が問題ないのですが仰向けにするとケヴァラ・クンバカの後の吸気がうまくできないのです。これは、第2回目クンダリーニ前に起きていたケヴァラ・クンバカのときは問題なくて、今回初めて問題になりました。一体どうしたものか・・・ と思ったのですが、試しに枕を取って布団の上にそのまま寝てみたところ吸気がうまくできるようになりました。枕をしていると少し猫背になってしまっていたのかもしれません。枕なしにすることで背筋がまっすぐになったのかもしれないです。今まで布団の上にそのまま寝ると調子が悪くなってしまっていたので枕なしで寝るのはあまりしたことがなく、せいぜい薄い枕を試すくらいだったのですが、どうやら今日のところは問題なさそうです。これもちょっと様子見ですね。過渡期だけの問題かもしれませんし。まだ数日なのでこれから様子を見ます。<br /> <br /> ■アナハタ・チャクラが開いた?<br /> これがいわゆる「開いた」状態かどうかはわかりません。様子見です。前よりは胸に空気が入りやすくなりましたので、一応少し開いたと言えなくもないです。一気に開くというよりは徐々に動き出すようですから、最初はこのくらいでもいいのかもしれません。<br /> <br /> ■楽観的でポジティブであるべき<br /> ヨーガの本山博先生は「密教ヨーガ」にて、サッチャナンダの言説を引用しつつ「アナハタの目覚めを志す人は、希望に満ちた楽天家であるべき。」 「一切を善とみなす態度こそ、アナハタを目覚ます行法の1つ」と述べています。<br /> <br /> ■アナハタ以上に至ればカルマに従わない<br /> 「密教ヨーガ(本山博著)」によると、マニプラまではカルマに影響されていますが、アナハタ以上に至った人は基本的にカルマには従わないと言います。アナハタに至ればカルマが現実であるのを知ってはいるが超越して自由でいられる、と言います。その点がマニプラまでとアナハタとの大きな違いとのことです。マニプラは情を司っており基本的にはカルマに支配されているものの意思の力でそれをコントロールすることができます。一方、アナハタになると基本的にカルマに束縛されないとのことです。<br /> <br /> このことは、上記のように私が過去のトラウマに対して「〇〇を許します」と瞑想した時の感覚の違いに現れていると思います。先日の竜巻の経験の前では、過去のトラウマを思い出す度に多少ながら神経にショックが走っていました。このトラウマは子供の頃から蓄積されていたものであり、物によっては何十年も度々思い出してきたトラウマでした。ですから、なるべく思い出さないようにして、思い出したとしてもそのトラウマの反応を自分で律していました。なるべく早く気付いて律するのが基本でありました。最近は随分とトラウマのショックが小さくなってきたな、と思ってはいたのですが、それでもゼロではありませんでした。<br /> <br /> それが、先日の竜巻の後は、トラウマのことを思い出してもショックが起こらないようになりました。ショックがゼロでした。しかも、全てのトラウマに対して。いくつもトラウマがあった筈ですが、ショックが起こらないのが不思議でしたので、試しにその他のトラウマも意識的に色々と思い出してみたところ、どれもショックが起こらなかったのです。確かに、ほとんどのトラウマは月日が経つにつれて段々と小さくなってはいましたがそれぞれのトラウマは多少ながら残っていましたので、先日の竜巻の後にその全てのトラウマに対して全く反応しなくなったのが不思議です。<br /> <br /> まあ、ゼロとは言いましても、トラウマ的な記憶を思い出しても反応がゼロという意味で、トラウマの元になる記憶は残っていますので時折その記憶は奥底から浮かび上がってきます。その記憶の浮上は依然として時々ありますので、それはさほど変わりがありません。ただ、その記憶が浮かんだ時の反応がゼロになった、という意味です。でも、よく観察してみるとゼロは言い過ぎかもしれないと言う気もします。先日の竜巻の前後で10分の1以下になってほとんどゼロに近い、というくらいが正しいでしょうか。意図的にこのトラウマを呼び覚まそうとしない限りは特に問題ない程度にまで反応が下がった、というところでしょうか。<br /> <br /> 実はカルマというのはヨーガ的にはサムスカーラ(サンスカーラ)という微細な「印象」であって、印象がカルマとして輪廻転生に導きます。過去のトラウマがあるが故に同様の問題にも引き込まれますし、過去の喜びを覚えている、すなわち「印象」を覚えているからこそ未来の喜びを求めてカルマが発芽して新たな喜びや苦しみを生み出すわけですが、トラウマがなくなったということは、それはすなわち「印象」が消え去ったということであり、記憶はあるものの「印象」がなくなりましたので、少なくともトラウマに関するカルマはかなり解消されたのかな、と解釈しています。補足しますと、これはあくまでもトラウマに対してのことであって、他人に嫌なことをもし言われたら不愉快というほどでもないにせよ多少は面倒に感じると思います。でも、その程度です。<br /> <br /> 最初アナハタの説明を読んだときは「ふうん」と思っていたのですが、実際こうなってみると随分と状態が違うものだと思います。確かに、アナハタに関してはカルマを超える部分が多いにあるように思います。<br /> <br /> そうは言いましても、思考のパターンと言いますか「癖」が多少は残っていますので、トラウマの反応はほとんどないにせよたまについネガティブに考えそうになることがなくはないです。そこは流石にまだ成長の途中のようです。そんなことがあったとしても以前より遥かにコントロールしやすくなっていますので、昔の思考パターンの癖が出そうになってもその度に「おっと、ネガティブ思考の癖が出てしまった。これも許します。これも許します。」と言ってあげることにしました。記憶はまだありますし癖もありますし思考パターンも割とそのままなのですが「印象」だけが消えてトラウマがほとんど消えただけなので、思考パターンの癖を戻すのはまだ続けないといけないようです。まあ、それだけでもかなりの進歩です。<br /> <br /> ちなみに、第2回目のクンダリーニでは光の筋が2つ上がったのですが、その時はエネルギーの向上・生命力のアップが起こりまして、ネガティブも一時的にほとんど消えたのですがそれは生命力アップによるネガティブの解消でした。第2回目クンダリーニ経験の直後が最もエネルギーが高くてその後徐々に生命力が下がって行ったのですが、生命力が下がるにつれてネガティブが少し出てきていました(それでも昔より生命力が高いですしネガティブは少ないですが)。その、残っていたネガティブがこうして竜巻の経験を経ることによって更に劇的に減少した、というところです。<br /> <br /> ちなみに、同書およびいくつかの書物、確かサッチャナンダの書物にも他のヨーガの書物にも書いてあるアナハタに関する有名な警告があります。<br /> ・アナハタを目覚めさせると思考に基づいて良いこと悪いこと全てが実現するので、ポジティブに考えるべきである。これが、「ポジティブに考えるべき」という事項に対する密教的な解釈のようです。<br /> <br /> 同書には、サッチャナンダによる別の警告も書いてあります。<br /> ・クンダリーニがマニプラまで上がり、その後下がってしまっても再度ヨーガ行などで上げることができる。しかし、一旦アナハタまで上昇してからネガティブな思考のためにムーラダーラまで下がってしまうと再び上昇させることは非常に困難。<br /> <br /> ■熱から暖へ<br /> 第2回目のクンダリーニではまさに「熱」を強く感じていました。その後、次第にその熱が下がってきており、私はそれがエネルギー低下と解釈していました。下がってきたと言ってもそれ以前よりはエネルギーレベルが高いのですが、それでも下がっている気がしていました。その根拠は主に「熱」を基準にしており、ポジティブさの度合いも判断基準でした。場所は、お腹のあたりを中心に熱がありました。<br /> <br /> おそらく、この理解は確かにその通りでエネルギー低下もあったのだとは思いますが、変化はそれだけではなく、エネルギーの質が同時に「熱」から「暖」に変わったこともあるのだと最近は理解するようになりました。<br /> <br /> 「ヨガと冥想(内藤 景代 著)」には、ムーラダーラからマニプラまでは「熱」で、アナハタが「暖」で、ヴィシュッダからサハスララが「冷」と言う分類をしています。<br /> <br /> まさにこれで、第2回目のクンダリーニは主にマニプラまでの経験だったように思います。ムーラダーラのクンダリーニが活性化し、それが主にマニプラにまで上がってエネルギーレベルが上昇してポジティブになったのだと理解しています。その時は、エネルギーがアナハタ以上に上がろうとしてもアナハタに詰まっている何かがそれを遮っているような感覚がありました。アナハタにエネルギーが上がると記憶の奥底に眠っているネガティブが出てきてエネルギーの上昇を妨げており、アナハタにエネルギーが行くことは多少あったとはいえ基本的にはアナハタの手前でエネルギーが遮られていたように思います。<br /> <br /> それが今回の第3回目のクンダリーニのよってその障害が取り払われ、アナハタまでエネルギーが通ったように思いますが、それは第2回目のような「熱」のエネルギーというよりは、それよりも「暖」というくらいの温度の違いを感じます。基本的には内的な温度の感覚で肉体的な体温ではないのですが、第2回目の後は熱っぽくてポカポカして暑いくらいだったのが、最近はそこまで暑くはありません。それを言葉で言い表すと「暖」とでも言えるでしょうか。場所としても、以前と違って胸のあたりを中心に「暖」があります。<br /> <br /> ■時系列<br /> 前回の形式で、今までの流れを時系列で記載しておきます。<br /> <br /> <br /> ・2015年1月 インドのアシュラムで生まれて初めてのヨガ 2週間 合宿。その後しばらくブランク。<br /> ・2016年10月 日本の近所でヨガ再開。1週間ごと1回90分<br /> ・2017年8月 ヨガの頻度を上げ、ほぼ毎日90分<br /> ・2017年10月 雑念が減ってくる。ようやくヨガをしている感じになってくる。ヘッドスタンドが短時間だがようやくできるようになる。<br /> ・2017年11月 ナーダ音が聞こえ始める。ヨガをほぼ毎日し始めてから約3ヶ月後<br /> ・2018年1月 第1回目のクンダリーニ体験。ムーラダーラの電気ショックと眉間の皮膚から数センチ離れた空中(アジナ・チャクラ?)でのエネルギーの爆発。ほんの少しのエネルギー。<br /> ・2018年11月 第2回目のクンダリーニ体験。クンダリーニ本体はまだ上がっていない雰囲気。2つの光の筋が上がっただけ。仙骨か尾骨のあたりに熱を帯びて血液が激しく脈打つ。かなりポジティブになる。性欲がかなり解消されて自然な(努力のいらない)ブラフマチャリア(禁欲)の達成(性欲10分の1)。睡眠時間の短縮。声が出しやすくなる。<br /> ・2019年7月 第3回目のクンダリーニ経験。(五大要素の)「風(Air)」のエネルギーによる竜巻が腰から頭まで上昇。光の筋はなし。竜巻は頭の周囲で発散(頭上および前後左右に発散)。うなじの下(大椎?)に少しの熱を帯びて血液が脈打つ。ハートがジンジン。第2回目ほどの変化はなし。性欲が更に10分の1 (第2回目クンダリーニ以前と比べると100分の1)<br /> <br /> <br /> ■風のルンを感じる<br /> 今回のでコツがなんとなく掴めましたので、同様に竜巻を起こすことでシバナンダ先生がおっしゃるように何度もエネルギー上昇させることができるのかもしれません。そのうち気をつけながら少し試してみようかなとも思います。<br /> <br /> 具体的なやり方は、まず、体の腰の周囲に空気というかエネルギーをグルグルと回転させる。意識で手の平を動かすイメージ。体は実際には動かさないで手の平を動かすイメージだけ行います。イメージ上で手の平を腰の少し前方、腰の右、腰の後ろ、腰の左、と言う順番でスムーズにグルグルと回転させて空気というかエネルギーの渦を作ります。5回転くらいさせた後、イメージの手の平が腰の左から腰の前方に来たら次は手の平を胸の前を通って顔の前を通って頭上まで動かすイメージをして、その時、回転している空気の渦を手の平と一緒に上に上げるイメージをします。すると、何かスーーーっとした感覚が胸の中と背筋、頭の後頭部のあたりまで上がって体の中をすり抜けます。まあ、だからと言ってすぐ何かが変わるわけでもないですが、これは有名な瞑想法の「ソー・ハン」や「小周天」とかと似ている気がします。これを誰かにお勧めする訳ではないですけど、私が夢の中で起きたことを再現するとこんな感じです。<br /> <br /> ■ベジタリアンでないと感じにくい<br /> 上のようなイメージをした時に風のルンが体の中を通過する感覚は、少なくとも私の場合はベジタリアン食をしていないと感じにくいようです。私は今は完全にベジ食ではありませんがベジを意識した食事を取っており、ベジ食を続けていた時は感じやすかったのですが、たまにお肉を食べると体内エネルギーが乱されて感じにくくなるような気が致します。ものにもよるのかもしれませんが。肉体を持っていますのでベジ食だけですと栄養バランスを崩すと思いますので雑食を心がけてはいるのですが、少なくとも精神にとってはベジ食がいいような気が致します。<br /> <br /> Sun, 07 Jul 2019 00:00:00 +0900 風のルンの竜巻でマニプラ優勢からアナハタ優勢に変化 https://w-jp.net/2019/1511/ <br /> この記事は 「アナハタ・ナーダの聖音とクンダリーニ」の続きです。<br /> <br /> 2019年7月5日、ちょっとしたクンダリーニっぽい経験がありました。<br /> 実は今、足首を骨折していますので家でストレッチしたりしてリハビリ中なのですが、今朝もストレッチした後にうとうとして横になっていました。<br /> <br /> 夢うつつの中、実際に会ったことはないですけど成瀬雅春先生というヨーガ行者のおじいちゃんが夢に出てきて腰をグルグルうずまき状に回しているではありませんか。「あれー? この人は確か・・・」と思っていたのですが、何故か真似しようと思い始め、自分も腰を動かそうとしたのですが寝ているので腰が動きません。夢の中ですから動いても良さそうなものですけど動きません。ですので、どーしようかなー と思ったらふと閃いて、指を使って水面にうずまきを作るかのように(自分を中心に)その指(確か右手の人差し指?)を自分の周囲にグルグルと回し始めました。肉体の指を使うのではなくて夢の中で指をグルグルと動かしたのです。最初ちょっと左回りを試したら何も動かないので、それじゃあ、ということで、反対向きの右回りで指を動かし始めました。すると、体の周り、特に腰の周りに竜巻が起こり始めました。なんだこれ! あくまでも夢の中のお話です。驚きつつも指はずっと回転をしてうずまきし続けています。体の周囲に「風」とでもいうような軽い空気の塊の流れができて、まるでうずまきです。その作られた竜巻をどうしようかなーと思って、試しに上の方にちょっと指を動かしてみると、竜巻が上に動くではありませんか!最初は腰のあたりで回転していましたので、とりあえず、胸のちょっと下まで上げました。更に上に上げるのは最初ちょっと躊躇したのです。というのも、こういうのは基本的に「背筋をまっすぐ」にしていないと危険だと思ったからです。今は寝返りして横向いているから体がまっすぐでないかもしれないので、何かおかしなことになったら嫌だから一旦体の向きを変えるべきかな? とも思ったのですが、もたもたしていると竜巻が消えてしまうかもしれない気がしましたので、「まあいいや、上げちゃえ」と決断して、更に指を上に動かしたら無事胸を通過して喉を通過して頭のあたりまで竜巻が来たところで頭の周囲で発散して消えました。特に変なことにはなっていない模様。危険性はなさそうです。竜巻が舞っている間は音がちょっとだけしていて「シュルシュルシュルシュル」って感じだったような?<br /> <br /> ここでさすがに目が覚めて、「うーん、夢だったのかな?」と思ったら、胸のあたりにちょっとだけジンジンする感覚が数分残っているのと、背筋の上の方、うなじのちょっと下の突き出た骨のあたり(大椎、だいつい?)の血液がドクドクと波打っていました。うなじの下(大椎?)の血液がドクドクする感覚は、昔クンダリーニ経験(第2回目)をして腰の後ろのちょっと下側あたりで血液がドクドクした感覚に似ていましたので、その時に比べるとずっと弱い感覚ではあるのですが、やはりこれはクンダリーニに関連した経験だったのかなー? と、とりあえず解釈することにしました。前回のに比べると随分と小さなパワーでしたけどね。<br /> <br /> シバナンダ先生がおっしゃるように、何度も何度もクンダリーニを上げてアジナ以上に保つことができるようにならないといけないのかもしれない、と、ふと思いました。であれば、今回は全然保てていないです。 → 最初はこんなことも思いましたが、後ほど認識が変わりました。この日以降、アナハタ優勢に変わりましたので。<br /> <br /> 今回、コツと言いますか、渦巻きの使い方というか作り方の感覚がちょっと気付けたので良かったかなと。瞑想中に似たような感じで回転をイメージすれば再度エネルギーを上げられそうです。<br /> <br /> 前記事に詳しく書きましたが前回は自分の体が全身で左回転したのですが、今回は体は静止したまま指で右回転の渦巻きを作った、という違いがあります。どちらも、パワーの流れる方向は実は同じなのかもしれないです。体が左回転ということは周囲のパワーは右回転してるわけですし。実は同じことなのかも? 面白いです。<br /> <br /> 前回はクンダリーニ後にとても暖かかったのですが、今回は小さい体験ですし、ほとんど前後で差はない感じです。今のところは。<br /> <br /> ■風のルン<br /> 直感ではこれは「風」のエネルギーだと思いました。「風」というとアナハタ・チャクラのエネルギーですよね。アナハタでジンジンした感覚はそういうことだったのかもしれません。ここでいう「風」とはチャクラの属性の「風」の意味です。ヨガの5大元素:地・水・火・風・空はそれぞれチャクラに対応していますけれどもアナハタ・チャクラは風(Air)です。 <br /> <br /> 夢の中では「風のルン」って何回か誰かが私に語りかけていました。「竜巻」というのは私の感覚が解釈したものですから、元々のこの現象の呼び名は「風のルン」が正しいのかもしれません。「ルン」ってなんぞや? どこかで聞いたことあるけれども・・・ と思って調べたら、チベットにおいて生命エネルギーのようなものの呼び名が「ルン」で、その意訳が「風」とのことです。こんなこと全く知らなかったですよ! 気功で言うところの「気」やヨーガでの「プラーナ」に近いもののようです。<br /> <br /> ■うなじ下(大椎?)はどのチャクラと関係?<br /> 最初、うなじ下はアナハタともヴィシュッダともちょっと離れているのでよくわからない感じでした。ヴィシュッダ・チャクラというと「喉」かと思っていましたし、アナハタ・チャクラは胸ですから。ヴィシュッダ・チャクラの場所ははっきりしていて、(今日のことではなくて)以前から度々ジンジンと感触があるのは喉仏のあたりでしたので、反応している喉仏のあたりがヴィシュッダ・チャクラなのかなあと漠然と思っていたのです。ですから、背筋のうなじ下(大椎?)はヴィシュッダでもないしアナハタでもないし、何だろう・・・ と思っていたのです。<br /> <br /> ちなみに、各書にあるチャクラの図は例えばこんな感じになっています。<br /> <br /> ↑ シバナンダ先生の「ヨーガとこころの科学」にはこうなっています。こう見ると、喉仏のようにも見えますし、その裏側の「背筋のうなじ下(大椎?)」こそが実はヴィシュッダなのかも? という気もしてきます。<br /> <br /> <br /> ↑ シバナンダ先生の弟子であるヴィシュヌデバナンダ先生の「Meditation and Mantra」に記されている図も同じ感じです。<br /> <br /> <br /> ↑ こちらは神智学の「神智学大要 第1巻 エーテル体(アーサー E.パウエル 著)」にある図です。これですと喉仏なのが明らかですね。<br /> <br /> <br /> ↑ これは神智学の「チャクラ(C.W.リードビーター 著)」にある図ですが、一番しっくりきます。背筋のうなじ下(大椎?)からアナハタ・チャクラに伸びています。今までアナハタ・チャクラの感覚はあるようでないようで、あまりちゃんとしていなかったのですが、どうやら、うなじ下(大椎?)のナディ(エネルギーの通路)の詰まりが解消されてアナハタまで通じるようになったと解釈するのならば全てがしっくりきます。まあ、まだ当日ですからそれほど変化はないですけど。<br /> <br /> うなじ下(大椎?)のエネルギー・ルート(ヨガで言うところのナディ)が開いたとすると、その先に繋がっているアナハタ・チャクラとヴィシュッダ・チャクラの両方に関係している、と考えるのも理にかなっている気がしてきました。これが最終的な理解かもしれません。まだ様子見ですが、喉のあたりのヴィシュッダ・チャクラも以前よりザワザワした感覚が続くようになりましたので、影響している気がします。以前は、時々ザワザワするだけでしたが今はザワザワが続いている感じですので(少なくともこれを記入した数日後までは)、変化を感じます。アナハタも影響を感じますので、ナディが開けてアナハタとヴィシュッダが変化した、と言うところでしょうか。<br /> <br /> ■許す瞑想<br /> そう言えば竜巻の当日は普段と違う事があって、普段私は沈黙の瞑想かナーダ音に集中する瞑想を行なって静寂に入るのですが、その日に関しては、足首の骨折をしたのはカルマだったかもしれないし、最近はちょっと雑念も出てきているので、カルマ解消のために今日は「許す」瞑想をしようと思って、「〇〇を許します。△△を許します。あの人(具体的な人)を許します。あの人(具体的な人)も許します。」と念じながら、昔の記憶を頼りに色々なカルマというか、まだ残っている雑念の元に対して「〜を許します」という瞑想をしたのでした。私は普段この種の瞑想はしないので、今朝に限ってそれが違う点でした。それがどの程度これと関係があるのかわかりませんし、たまたまかもしれませんけど。上の経験は瞑想中に起こったことでなくて、瞑想の数時間後に起こった事です。この瞑想をした時は、普段の瞑想と違って静寂さこそ足りませんでしたけど深いところにある何かシミのようなものが一つづつ解消されてゆくような感覚を感じました。瞑想中なのでなんとなく、の話ですけど。<br /> <br /> これがどれだけ影響していたかは実際のところわかりませんが、きっと多少は影響していたような気がしますし、だとすれば、意外に変化というものは自分の意図によってすぐに作り出せるものなのかもしれないと思いました。長い間待ったり修行したりする必要がある気がしていても、実際のところ、割とすぐに変化できるのかもしれません。これまた、なんとなくそう思った、という仮説の話ですが。<br /> <br /> ■「許す」ことの意味<br /> 今日まで、私はもしかしたら「許す」ということの意味をきちんと理解していなかったかもしれないです。許すとは頭や心で理解することではなく、文字通り、その人に対して反感を「全く」抱かなくなることであり、「許す」とは完全なる平穏な心が伴うものなのかな、と。であれば、例えばキリスト教などで許すお祈りがあったとして、その本当の意味はこういう完全な許しなのかな、と。<br /> <br /> ■アナハタ・ショック<br /> アナハタ・チャクラにあるヴィシュヌ・グランティが破れる時は俗に「アナハタ・ショック」と呼ばれるような強烈な衝撃があると聞いており、人によっては口から白い泡を吹いて倒れたりするらしいので、私の場合はそんな激しい衝撃は全くと言っていいほどなくて、アナハタがジンジンしたのとうなじ下(大椎?)の血液が強く脈打つ以外は別に普通な感じです。人によるのか、それともまた違う現象ですかね。単なる夢かもしれないですけど。とりあえず様子見です。半日後でも多少は胸のあたりにジンジンするものが残ってるくらいですね。倒れるほどでは全くないです。<br /> <br /> そういえば、昔から何度か、このアナハタ・ショックに関して私の内なるガイドが瞑想中に教えてくれていたことを思い出しました。アナハタ・ショックをしてしまうと時には内部の微細な機関を傷つけてしまって、事と次第によっては今生での霊的な成長ができなくなるほどのダメージを受ける事があるのでアナハタ・ショックのような過激な方法でヴィシュッダ・グランティを突き破るのは好ましくない、と教えてもらっていたことを思い出しました。まあ、瞑想中の事ですのでこれが絶対的に正しいとは限りませんけど、たぶんそうかなあ、と思っています。ですから今回、ちょっとチクチクするくらいでさほどショックなしに切り抜けられたのだとしたら良かったと思いたいです。<br /> <br /> <br /> <br /> Fri, 05 Jul 2019 00:00:00 +0900 クンダリーニ経験後、クンバカが苦手に https://w-jp.net/2019/1510/ <br /> この記事は 「アナハタ・ナーダの聖音とクンダリーニ」 の続きです。<br /> <br /> 前記事で書き忘れましたが、クンダリーニ経験後、ヨーガの呼吸法であるプラナヤーマにおける息止めである「クンバカ」がとてつもなく苦手になりました。もともとそれほど得意ではなく、それでもかろうじて1分半から2分間はクンバカできていたのですが、息苦しくない範囲では30秒、かなり頑張っても50秒〜1分が限界になってしまいました。不思議です・・・。<br /> <br /> 呼吸も浅くなって、深呼吸すら苦手になりました。何これ・・・。<br /> <br /> かと言ってストレスが溜まっている風でもなく、クンダリーニ症候群(こちらの記事参照)という感じでもなく、前記事に書いたように元気になりましたので、この呼吸とクンバカの苦手具合だけ謎です。未だに謎は解けていません。<br /> <br /> ヨーガの先生に聞いたら「雑念が多いのでは?」と言っていましたが、もともとクンバカが苦手で、その時はその指摘は当たっていましたが、クンダリーニ前後の差に関して言えば雑念は関係なさそうな感じがします。雑念がクンダリーニ前後でそこまで変わったとも思えないのにクンバカの時間が3分の1から2分の1に短くなったのは、その理由が雑念ではなくクンダリーニにあるのは明らかだからです。<br /> <br /> 追記:<br /> その後、たまたま見つけたブログで「器÷エネルギーの強さ=クンバカの時間」と書いてある記事を見かけました。であれば、クンダリーニでエネルギーが強くなったが故に器がすぐに一杯になるようになり、クンバカの時間が短くなった、と考えれば納得がいきます。同ブログでは、短くなったクンバカを伸ばすには器を大きくするために修行に励めば良い、と書いてあります。これまた納得です。<br /> <br /> ■ケヴァラ・クンバカ<br /> クンダリーニ(2回目)以前は自動的に息が止まるケヴァラ・クンバカがよく起こっていて、それは大抵の場合は安定した心の平穏さと共に自動的にクンバカが起こるような感じでしたが、クンダリーニ(2回目)以降は息が浅くなってしまったのでケヴァラ・クンバカも起こらなくなってしまいました。<br /> <br /> <br /> → その後、解消しました。その時の記事はこちら<br /> Thu, 04 Jul 2019 00:00:00 +0900 カジューシャスの火とクンダリーニ https://w-jp.net/2019/1509/ <br /> この記事は 「アナハタ・ナーダの聖音とクンダリーニ」 と 「仙道におけるクンダリーニ、性的欲求の克服(馬陰蔵相)」 と 「ナーダ音が聞こえるのは右か左か、それとも両方か?」 の続きです。<br /> <br /> ■カジューシャスの火<br /> 「クンダリニ― ある奥義体験(G.S.アランデール 著) 」には、クンダリーニと非常に似通った「カジューシャス」について記載されています。これはギリシア神話で「ケーリュケイオン」とか「カドゥケウス」とか言われている羽のついた蛇の絡まっている杖の姿で象徴されますが、同書によると、どちらも「火」と「活力」という点においては共通で、カジューシャスは単独で目覚めうるそうです。両者は混同しやすく、同じものと受け取りがちとのことです。この内容に基づけば、私が経験したのはクンダリーニではなくカジューシャスだった、という仮説が成り立ちます。<br /> <br /> 同書では比喩として、カジューシャスの火は「解放の道」をもたらし、クンダリニの火は「成就の道」をもたらす、という違いがあるとも述べられており、カジューシャスはその杖のシンボルに象徴されるように中央の「スシュムナ」と左右の「イダとピンガラ」のセットのことであり、同書によるとカジューシャスは低次処体内への拘束から解放する通路である一方、クンダリニの本質はより大きい意識と1つになるための案内役である、と記載されています。カジューシャスが低次の欲求や混乱から解放するものである一方で、クンダリーニはより高い次元へと導くのでしょう。<br /> <br /> ということであれば、前記事で記載したような私の体験は、どちらかというと低次の欲求の解消の面が大きかったと思いますので、実際はクンダリーニではなくカジューシャスの体験だった、とすれば納得がいきます。とは言いましても、このように分けているのは神智学の一部の書物だけで、それも、同じ神智学でも「神智学大要」などにはこの記述はなくて「クンダリニ― ある奥義体験(G.S.アランデール 著) 」くらいにしか出てきませんので、多くの場合はクンダリーニとして一纏めにされているのが現状のような気がいたします。ヨーガ系でもこれら2つは分けられていませんし、これはトリビアとして心の端に留めておくくらいがいいのかもしれません。<br /> <br /> それにしても、クンダリーニの経験は「ヨーガ行者には解脱を、愚者には束縛を与える。」と言いますし、一人でのクンダリーニ経験は危険ですから、私の経験がクンダリーニではなくカジューシャスだったということは、グルがいない私としてはこれで良かったのかもしれません。まあ、実は似たり寄ったりかもしれませんが。<br /> <br /> ■クンダリーニを2回に分ける<br /> 瞑想中に得たインスピレーションによると、私の場合にはクンダリーニ経験を2回に分けるというテクニックが使われているようです。それは私の守護霊の1人がヨガ系のガタイの良い修行僧みたいな人(霊)で、恐らくはシバ派あるいはどこかの流派のやり方のようなのですが、他の多くの流派では一回でクンダリーニを上げるので準備が整っていない人はクンダリーニ症候群になっておかしくなることが多々あるようですが、それを避けるために、私の守護霊の流派では伝統的に2回に分けてクンダリーニの上昇が行われるようです。その期間は数ヶ月開ける事もあればもっと長い事もあるようですが、最初は緩くクンダリーニを上げるようです。具体的には、1回目は左右1本づつ合計2本クンダリーニを緩く上げて、その後、時間をかけて体をクンダリーニに順応させます。まだ完全に準備が整っていなくても、1回目のクンダリーニでおかしくなることはほとんどないようです。このあたり、どのような感じだったかは 前の記事に書きました。(ちょっと紛らわしいですが、前の記事に書いた2回目がここで言う1回目で、ここで言う2回目は私は未体験です。)そして、体の準備が整ってから2回目の本番でクンダリーニ本体を上昇させるとのことですが、私の場合は2回目はまだです。2回目はやり直しがきかない一発勝負で、それが失敗したらかなり悲惨なことになるし、失敗すれば今生での霊的成長がかなり滞ってしまう、あるいは、完全に無理になる事もあるようなので2回目をいつ行うのかは守護霊が慎重に見極めているとのことです。私も、2回目をいつ行ってくれるのかは教えられていません。それはずっと後かもしれませんし、2回目は無理と判断されるかもしれないです。私の意志よりも守護霊の判断が重要のようです。瞑想の中での話なので本当かどうかはわかりませんけど、私はこれを「仮説」として理解しています。<br /> <br /> これはある流派の秘儀であり、一般的には公開されていなくて、同様の情報を見つけるのは困難なようです。多くの流派は1回のクンダリーニで上げようとするようですから。私の場合は人間のグルはいなくて守護霊がかなり上級のヨガ行者のようなので割と見極めてもらっていると思っています。そこに確証はないですけど、たぶんそうだとなんとなく思っています。基本的にはグルがいないとこの種のことは危険かなとは思います。私の場合、クンダリーニの上昇は守護霊およびハイヤーセルフの意思がなければおそらく起こらなかったと思います。私はハタヨガなどの秘儀は書物は一応ハタヨガプラピディカとか読みましたが実践という意味ではそんなに通じていませんし、私が自己流でハタヨガを修行してクンダリーニを意思の力で上昇させるのが危険なのは明らかですから、私の場合、安全にクンダリーニ経験するには「あちら側」にいる霊やハイヤーセルフの意思に委ねるのが安全だったといいますか、そもそも私の意思なんて無関係で「あちら側」にいる霊やハイヤーセルフが全部お見通しで筋書き立てて経験させたのだろうと思っています。だからおかしくならなかったのかなと。そんな安全な筈のやり方であっても時々バランスを崩した事もあるので、2回に分けるやり方でなかったらどうなっていたのだろうかとも思いますが。補足しますと、「あちら側」にいる守護霊やハイヤーセルフに委ねたのは確かですけど、この世界は自由意志が尊重される世界ですので自分の意思とは無関係に勝手にクンダリーニ経験を与えることは許されておりません。その筈です。瞑想中に何度か守護霊やハイヤーセルフにコンタクトを取って、計画と言いますか、お願いおよび許可を出して、それを元に色々としてもらった、という感じだと理解しています。ですから、たまに聞く「瞑想していたら(運よく? 事故で?)クンダリーニが上がってしまった」とかいう状況とは私の場合はかなり違うのかな、と。<br /> <br /> 私が瞑想中に得たインスピレーションでそう思っているだけですので他の人はクンダリーニ修行など好きなようにしても良いと思いますが、私はこんな感じで理解しました。<br /> <br /> この2回に分けることは広義においては文字通りクンダリーニを2回に分けることだと思いますが、神智学の「クンダリニ― ある奥義体験(G.S.アランデール 著) 」に記載されているように「カジューシャスの火」と「クンダリーニの火」に分けて考えると随分としっくりきます。これは言い方の違いだけで、おそらく同じことを意味しているのかなと思います。<br /> <br /> <br /> <br /> <br /> Mon, 01 Jul 2019 00:00:00 +0900 ヨガ瞑想、サマーディ、マインドフルネス、ヴィパッサナー等について https://w-jp.net/2019/1508/ <br /> ■目的<br /> ・心の平穏を得るため。<br /> ・いわゆるゾーン(ZONE)と呼ばれる状態にまで集中力を高めて仕事の効率を劇的にアップするため。<br /> ・宗教的には悟りが目的ですが、ビジネスにはリラックスによるストレス解消とゾーン(ZONE)が目的で悟りは不要。<br /> <br /> ■瞑想とは?<br /> ・基本は「集中」。いわゆるサマタ瞑想。<br /> ・応用は「観察」。いわゆるヴィパッサナー瞑想。いわゆるマインドフルネス瞑想。基本の集中に加えて観察を加える。<br /> ・いわゆるゾーン(ZONE)に入る時は集中が極限にまで高まり、集中の対象と自身の心(マインド)が一体になり、集中の対象に関する物事が詳細に理解できるようになる。いわゆるサマーディ(三昧)の初期の段階。仕事での課題に対する理解力及び判断力が格段にアップする。<br /> ・サマーディを更に極めると悟りにまで繋がるが、仕事の効率アップのためのゾーン(ZONE)体験にはそこまでは不要。<br /> ・ヴィパッサナー瞑想を近代化して悟りなどの宗教色を消した上でビジネス分野で使いやすくした瞑想がマインドフルネス瞑想。<br /> ・ヴィパッサナー瞑想は広義では観察瞑想。狭義では特定の流派の瞑想を意味したり原始仏教のブッダ瞑想を意味します。コンテキスト次第です。日本ではゴエンカ式が有名ですがヴィパッサナー瞑想と言うと基本は単に観察瞑想のことを意味します。ヴィパッサナー瞑想の由来は原始仏教のブッダ瞑想ですが、流派の瞑想を意味することもありますので混乱があります。<br /> <br /> ■座り方<br /> 古典的には足をクロスさせて胡座(あぐら)を組む。東洋風。<br /> 西洋風は椅子に座る。どちらの場合も重要なのは背筋をまっすぐ伸ばすこと。<br /> 西洋風の場合は足を組まずに足は平行にして膝は90度近くに曲げる。膝よりも背筋をまっすぐにする方を優先する。<br /> どちらの場合も頭は背骨の上にちょこんと乗せる。<br /> 西洋風の場合は椅子の背もたれに寄りかからない方が良い。<br /> <br /> ■基本的なやり方<br /> 集中から始める。手法は数多くあります。<br /> 集中瞑想(サマタ瞑想)の場合は何かに集中する。例えば眉間やハート。その際、古典的ヨガ瞑想ではオームというマントラや(持っている場合は)個人的なマンドラを唱える。マーラーという数珠を使ってカウントする流派もあります。オームで瞑想する場合は吸う息でオーム、吐く息でオームを心の中で唱えます。<br /> ヴィパッサナーは流派によってまちまち。先に集中(サマタ)瞑想をしてからヴィパッサナーに入る流派や最初から観察(ヴィパッサナー)瞑想をする流派もあります。<br /> マインドフルネスも流派によりますが、簡単な方法としては、息を観察する瞑想があります。座ってただ息をずっと観察するだけですが、それでも十分効果があります。<br /> <br /> ■最初は難しいです<br /> 瞑想しようと思って座っても、最初は雑念が次々に出てきて瞑想なんて出来ないでしょう。瞑想初心者にはそれが普通です。心配する必要はありません。<br /> 流派によっては瞑想初心者に長い瞑想をさせるのを禁止していますが、それは、瞑想初心者が長い瞑想をすると雑念に圧倒されてネガティブな思いに押し潰される危険性があるからです。どの程度が長い瞑想になるのかは人によって異なりますが、初心者は最長20分を目安にすると良いと思います。初心者は5分も座っていられないと思いますのでまず座ってみて、雑念に圧倒されそうになって耐えられなくなったらすぐに瞑想を止めるくらいでも最初は良いと思います。最初は5分でも十分です。<br /> <br /> 流派によっては、初心者には瞑想よりも奉仕(ヨガでいうカルマヨガ)を重視しているところも多くあります。初心者が瞑想できるだけの下地を作るために無私の奉仕をすることで心の中を落ち着かせる効果があります。無私の奉仕をすることで心が落ち着いてくれば、やがては瞑想できる時間も長くなってゆくでしょう。<br /> <br /> あるいは、ヨガのアサナ(体操)を行うのも効果的です。もともと、ヨガのアサナ(体操)は瞑想の準備の段階として位置付けられていますので、そのままストレートに瞑想の準備になります。このあたりはアシュタンガ・ヨガ(流派の名前ではなくて、パタンジャリのヨガ・スートラに記載されている八支則のこと)に記載されている8段階の話になります。詳しくはそのあたりを調べていただけば良いですが、あまり難しいことを考えずとも、世間一般で体操と思われているヨガのアサナ(体操)は瞑想のための準備段階の1つだと理解すればここでは十分です。<br /> <br /> ■雑念とは戦わない<br /> 瞑想中に雑念が出てきても、戦わないのが基本です。雑念を否定すると雑念が新たな大きな雑念になって襲いかかってきます。瞑想中にはトラウマも現れるでしょう。それも自然なことです。きちんとした瞑想の先生であればこの辺りのことを理解している筈ですので、雑念がすぐに湧いて一人での瞑想が難しい場合はグループ瞑想が効果的です。<br /> <br /> ■次第に雑念が減ってゆく<br /> ヨガのアサナ(体操)をしたり奉仕(ヨガでいうカルマヨガ)をしているうちに心が静まってゆきます。心が静まることにより集中や観察ができるようになってゆきます。<br /> それ以前は、雑念が抗し難い力で頭を支配し、瞑想すると言うよりは雑念に心を弄ばれているかのような状態になることが多いです。やがて雑念の力が弱まってゆくと心が雑念に勝てるようになります。雑念が浮かんできても、意思の力で心を制御して、雑念に心が支配されないように、心が勝手に動くのを許さないように制御できるようになります。この状態で初めて、集中や観察ができるようになります。例えば眉間であるとか、あるいは、呼吸に集中することができるようになります。雑念が多いと瞑想中にあれこれ思いを巡らせて頭を使ってしまいますので疲れてしまっていましたが、雑念が減ることにより瞑想でくつろぐことができるようになります。雑念に心を奪われないようにして眉間や呼吸に集中することで、心が休まり、頭を休めてくつろぐことができるようになります。<br /> <br /> ここまで来れば、瞑想の楽しさを知ることが出来る筈です。それまでは苦しいですが、楽しく感じる状態に達するための方法として、おそらく一番簡単なのはヨガのアサナ(体操)をすることだと思います。奉仕(カルマヨガ)も良いと思います。この状態になる以前は集中にせよ観察にせよ雑念との戦いですのでかなり苦しいですが、それをやり遂げるだけの意義はあると思います。<br /> <br /> ■基本は、毎日<br /> 伝統的には、瞑想は朝6時前が一番効果的とされています。それと夕暮れ時も効果的です。就寝前も深い眠りのために効果的です。<br /> <br /> ■近代的な瞑想<br /> 瞑想状態を作り出す効果的な音楽が数多く出ていますので好みに合ったものを探すのも良いと思います。特に初心者には助けになると思います。音楽だけのものや、音声の入った誘導瞑想などもあります。これらの音楽は自転車を練習するときの補助輪のようなものだと考えると良いと思います。最終的には自分で瞑想できるようになるべきだと思いますが、特に初心者には助けになると思います。一部のCDは強制的に瞑想状態を作り出すために、自分のキャパシティを超えて瞑想状態になってしまうことがありますので注意が必要です。とは言いましても、連続してずっと聴いたりしない限りは市販されているものは基本的に問題ないとは思います。<br /> <br /> ■20分の瞑想があっという間になる<br /> 慣れると20分くらいの瞑想はあっという間に感じられるようになりますので時間を延ばします。<br /> <br /> ■色々試してみましょう<br /> 瞑想の手法は色々あって、人によって合う合わないがあります。色々試すと良いと思います。<br /> <br /> ■集中瞑想(サマタ瞑想)<br /> 集中瞑想では、雑念が出てきたら半ば強制的に集中ポイントに意識を戻します。眉間であれば眉間に戻します。ハートに集中すると決めていたらハートに戻します。雑念で集中が途切れても、途切れたと気付く度に何度も何度も意識を集中ポイントに戻します。上に書きましたように、最初は苦しいですが、雑念が減ってきて、心の制御が容易になるにつれ瞑想でくつろげるようになります。<br /> <br /> ■簡単なマインドフルネス瞑想(ヴィパッサナー瞑想)<br /> 息を観察する方法が簡単です。息を吸っている、吐いている、と言う状態を常に観察し続けます。雑念が上がってきたら集中瞑想(サマタ瞑想)と同じように意識を息の観察に戻します。<br /> <br /> ■マインドフルネス瞑想(ヴィパッサナー瞑想)のためにもある程度の集中は必要<br /> 集中瞑想(サマタ瞑想)と観察瞑想(ヴィパッサナー瞑想、マインドフルネス瞑想)は初歩的なところでは実はさほど違いがありません。どちらもある程度の集中を基礎として、どちらもある程度の観察は行います。特にビジネス向けのマインドフルネス瞑想であればこのあたりは顕著です。言い方の違い、流派の違いだと思っていれば十分だと思います。基本はどちらも、ある程度の集中とある程度の観察を行います。それが瞑想の基礎です。<br /> <br /> ■変容意識に囚われないように<br /> 瞑想を続けるうちに頭の中に特殊な状態が生まれてくることがあります。古典的には、頭の中で何か起こっても基本は無視をします。それは重要ではないからです。イメージが見えたり何か声が聞こえる気がすることがあるかもしれません。多くの場合は心が幻想や幻聴を作り出しているだけで、それは記憶を元にしていることが多く、瞑想を続けるうちにやがてその経験は消えてゆきます。<br /> <br /> ■心に惑わされないように<br /> 瞑想していると、心が自分自身を騙す時があります。「私はとてもよく瞑想できています。無の心になっています。無限と一体になっています」と、心が貴方に語りかけることでその気になり、初心者はすぐに騙されてしまいます。心配はいりません。これは初心者によくあることです。このような意識が心に現れたら、それが本当かどうか確かめる簡単な方法があります。「貴方は、とても平和で幸せですか?」本当によく瞑想できているならば貴方は必ず幸せです。幸せでないのならば、何かが間違っているのです。それと同時に、エゴが拡大していないかも確認してみてください。瞑想が進むにつれ、他人の言葉で害されることが少なくなってゆきます。一見幸せになったと思っていても、他人との関係性ですぐに幸せが消えてしまう場合は、これもまた、何かが間違っているのです。本当の幸せは他人に左右されない永続的なものです。瞑想をするにつれ、「条件・前提のある幸せ(その条件や前提が消えたら幸せではなくなってしまう)」から「条件・前提のない幸せ(常にある至福)」へと変わってゆきます。<br /> <br /> ■瞑想しすぎで怒りの沸点を下げないように<br /> 初心者のうちから瞑想をしすぎて、怒りの沸点が下がってしまった人が稀にいらっしゃいます。これは、本人は瞑想に上達したと思っているのですが実際にはそうではなくエゴが拡大した状態ですので本人も周囲も不幸です。特に最初は、初心者のうちは不快感が瞑想中に現れたらすぐに瞑想を中断します。これは重要です。<br /> <br /> ■無理をして継続しない<br /> 「ヨーガとこころの科学(スワミ シバナンダ 著)」には以下のようにあります。<br /> 頭痛が起きたらすぐに精神集中を中止すること。無理をして継続するのは良くない。<br /> <br /> ■瞑想の3段階<br /> 最初、「苦」が出てきます。それは苦しいものです。<br /> 次に、「楽」が出てきます。それは楽しいものです。<br /> 次に、「苦でもなく楽でもない感覚(無知とも言われる)」が出てきます。それは重いものです。<br /> 3つとも、やがては消え去ります。消え去った後に、絶対的な至福が現れます。瞑想中だけでなく常に心が晴れやかで平和な状態が継続するようになります。<br /> <br /> これは、1回の瞑想で全てを体験すると言うよりは、長く瞑想を続けるうちにこのような状態をそれぞれ通過する、と言う種類のものです。<br /> 最初、瞑想を始めてすぐは苦しいです。やがては瞑想が楽しくなってきます。ビジネス向けのゾーン(ZONE)体験であればこの「楽しい」段階以降が必要になります。瞑想が楽しいと言うことは雑念が減って集中できるようになったと言うことであり、仕事において集中力や判断力が高まるにつれて成果が格段に向上するでしょう。<br /> <br /> 瞑想にせよゾーン(ZONE)体験にせよ、楽しかった経験がやがては普通になってゆきます。感情の高まりなしに普通に集中できるようになります。ここで、昔体験した「楽」の経験がなくなったからと言って後戻りしたわけではなく、より微細な「無知(苦でもなく楽でもない感覚、重い感覚)」を解消する段階に来ていると言えます。「無知」も解消されれば、更に集中できるようになります。仕事も集中できて判断力も高いですが、もともと「喜び」の段階で経験していたゾーン(ZONE)体験のように強い喜びは無くなっています。喜びが無くなっても後戻りしたわけではなく、この段階で「無知」が消えるに従って次第に、更に絶対的な至福が現れてきます。喜びの種類が変わってゆきます。<br /> <br /> 「苦」は原因があって苦しみがあった。「楽」は原因があって楽しみがあった。「無知」は原因があって暗闇の中に落ち込んでいた。それらが解消されると、絶対的で常に存在する至福が自らの中に現れます。<br /> <br /> ビジネスのゾーン(ZONE)体験では「楽」の段階がフォーカスされており、仕事の効率アップおよび判断力アップ、そして従業員のモチベーションアップのためにはゾーン(ZONE)に入ることはありだと思います。やがてはそのゾーン(ZONE)体験者が次第に次の段階へと進むにつれて「楽」が無くなってゆきます。瞑想に理解のない人が見たらモチベーションダウンと判断するかもしれませんが、実際のところそれは成長であるわけです。やがて「無知」の段階を通り過ぎれば絶対的な至福が現れてきます。ただ、ビジネス向けのマインドフルネス瞑想でそこまで達成できるかどうかはわかりませんが。マインドフルネスでは基本的なストレス解消と、ごく一部のセンスの良い人がゾーン(ZONE)を使う、と言うくらいではないでしょうか。<br /> <br /> ■瞑想の禁戒<br /> 瞑想中の人を驚かせてはいけません。瞑想中の騒音や大きな音は精神に致命的なダメージを与えてしまうことがあります。<br /> <br /> ■ゾーン(ZONE)の禁戒<br /> 意識がゾーン(ZONE)に入ることにより集中力および判断力が高まった際、気をつけないといけないことがあります。それは瞑想と同じ状態ですので、周囲の人はゾーン(ZONE)に入っている人を驚かせてはいけません。瞑想と同じく、ゾーン(ZONE)に入っている人を驚かせてしまうと精神に致命的なダメージを与えることがあります。仕事においては、瞑想やゾーン(ZONE)に対する理解のない職場でゾーンを行うのはとても危険であると言えます。ゾーン(ZONE)に入っていると集中力が極限にまで高まって意識が仕事にのみ向いていますから周囲の呼びかけにも答えないことがあります。それを見て「無視している」とは考えないでください。とても集中しているときは周囲のことなど意識には入らないのです。呼びかけに応えなくても大きな声を出して怒らないで下さい。集中している人を妨げないで下さい。シリコンバレーなどではゾーン(ZONE)に入って仕事をすることが多いと聞いていますが、日本でゾーン(ZONE)の意識に入って仕事をするのはまだまだ危険であるように思います。<br /> <br /> ■道徳的生活が瞑想の基礎<br /> 心を穏やかにすることが瞑想の基礎です。そのためには道徳的生活を送る必要があります。道徳的生活を送れば悩みも減り、雑念も減ってきます。<br /> <br /> ■瞑想に「努力」は本来必要ではありません<br /> 心が穏やかになれば雑念も減り、そうなれば瞑想も「自動的」に起こります。よく、「瞑想とは自動的に起こるものであって、瞑想をするわけではない」という説明がされることがありますが、これは文字通りそのままの意味です。雑念が減った状態で座って目を瞑れば自動的に瞑想状態に導かれてゆき、「安らぎ」を感じることができます。それは文字通り自動的に起こるのであり、瞑想しようとすると激しい雑念に邪魔されて苦しいのであればまだ初級の段階と言えます。ヨガ的には、雑念が多い時に瞑想に引き戻す作業は「プラティヤハーラ」です。それは悪いことではなく、瞑想に向けた準備段階の1つです。プラティヤハーラとは、感覚器官(五感:視覚、触覚、嗅覚、味覚、聴覚)を外から内へと引っ込めて、外の雑念や感覚から切り離すことを意味します。雑念が出てきて心が外へ外へと向いてしまうのを内へと引き戻すのがプラティヤハーラです。プラティヤハーラの段階では瞑想は「自動的」には起こりませんが、それはそれで誰もが通る段階ですので通り抜ける必要があります。成長の一つの段階です。プラティヤハーラで感覚が内へと向かうと、次は集中(ヨガで言うダーラナ)ができるようになり、集中(ダーラナ)ができるようになると、次第に瞑想が自動的にできるようになってゆきます。これは1回の瞑想で状態が遷移するものというよりは、瞑想を続けてゆくうちに状態が少しづつ変わってゆく、という種類のものです。慣れないうちはプラティヤハーラまで到達し、やがてはプラティヤハーラとダーラナの2つが連続してすぐに起こるようになります。そしてやがては、プラティヤハーラと集中(ダーラナ)と瞑想(ディヤーナ)の3つが続けて起こるようになります。上達した後は、これら3つのものは連続してほぼ同時に起こりますが、最初のうちはプラティヤハーラだけをして感覚器官(五感:視覚、触覚、嗅覚、味覚、聴覚)を内へ内へと向けることにだけ集中します。そして瞑想を続けるうちに、やがては瞑想が自動的に起こるようになります。<br /> <br /> ■特別な体験を求めない<br /> 瞑想に特殊な体験を期待する人がいますが、ほとんどの場合、特別な体験は起こらないか、あるいは、夢見と同じように想像している場合が多いです。ヨガ的には、基本は「たとえ本当の神秘体験をしたとしてもそれが悟りでないのならば重要ではない」と説きます。実際には神秘体験の中のいくつかは成長の「しるし」として認められるものもあるのですが、それは経験豊富なグル(教師)にしか見抜けないものですし、それを体験したからと言ってすぐにどうこうなるものでもありません。実際の成長には長い年月がかかるものなので、すぐに何かを体験できると期待しないのが基本です。特別な体験はエゴを拡大することもありますから、それはそれで危険です。瞑想においては、体験を求めずに心の平安・平和を求めるのが基本です。<br /> <br /> ■食べ物<br /> 刺激のある食べ物は瞑想の妨げになると言われています。食べ物は絶対的なルールではありませんが、体の快・不快によって瞑想のやりやすさは変わりますので健康的な食べ物を取るのが基本です。古典的にはベジタリアン食が良いとされています。<br /> <br /> ■禅定とサマーディ(三昧)、そしてゾーン(ZONE)<br /> 広義においては基本的に同一とみなして良いですが、厳密には、第一禅定はサマーディ(三昧)ではなく第二禅定以降(第4禅定まで)がサマーディ(三昧)です。マインドフルネスでゾーン(ZONE)に入ったというのは第一禅定の状態を指しますので、厳密にはサマーディ(三昧)ではありません。上で、ゾーン(ZONE)がサマーディ(三昧)の初歩の段階、と書いたのはこのことです。(参考文献:悟りの階梯(藤本 晃 著) 、瞑想経典編(アルボムッレ・スマナサーラ 著) )<br /> <br /> <br /> ・第一禅定=マインドフルネスで言う「ゾーン(ZONE)」=広義の(いわゆる)サマーディ(三昧)<br /> ・第二〜四禅定=狭義のサマーディ(三昧)<br /> <br /> <br /> ■まずは、いわゆる「無」で雑念を消し去る<br /> 禅定とか言うと難しく感じられますが、まず最初の目標はいわゆる「無」になって雑念を消し去るところです。瞑想を始めたばかりの頃は雑念がとめどなく現れてきて瞑想どころではありませんが、上に記載したように無私の奉仕(カルマヨガ)やヨガのアーサナ(体操)などをするにつれて雑念が減ってゆきます。その段階での目的地は、まず「無」を体験することです。心の動きを止めて、雑念がない状態を体験することです。雑念がない状態では「くつろぐ」ことが出来ます。その「無」の状態から抜け出ると再度雑念が湧き出てくるでしょうからその「無」は絶対的な悟りというわけではなく、一時的な「くつろぎ」ではあるのですが、今までずっと雑念が湧き出てきてずっと頭を働かせることで疲れ果てている頭にとっては、その一時的な休息であってもとても助けになることでしょう。まずは、その「無」の状態を目指します。雑念が強い場合は「無」を体験するのは偶発的な運に任せるしかありませんが、雑念がある程度減ってくれば、雑念が弱まった状態で「えいっ」と心を一点に集中(サマタ瞑想)することで「無」の状態に入れるようになります。ここまで来れば、瞑想がとても楽しくなる筈です。そのくらいになれば、睡眠の質も変わってきます。良い睡眠が取れるようになり、以前より短い時間で疲れが取れて回復するようになります。気持ちが晴れやかになり、表情も変わってきます。<br /> <br /> 私の場合、いわゆる「無」を経験した約1週間後からナーダ音(別記事参照)が聞こえるようになりました。<br /> <br /> ■マインドフルネスの「ゾーン(ZONE)」(第一禅定)のためにも集中が必要<br /> いわゆる「無」の場合は集中して雑念を消し去りますが、ビジネス向けのマインドフルネスにおけるゾーン(ZONE)の場合は課題に対して集中をし、課題と一体になります。集中するという手法は似ているのですがその使い方が若干違います。ゾーン(ZONE)の場合は無ではなく、課題の中に入り込みます。その際、絶対的な至福が感じられます。仕事に集中して楽しくなり、更には成果も上がるということでシリコンバレーなどではマインドフルネスおよびゾーン(ZONE)がもてはやされているようです。<br /> <br /> ■いわゆる「無」とゾーン(ZONE)の違い<br /> 仕事の効率アップが目的であれば瞑想で対象へ集中して用いてゾーン(ZONE)状態を作りますが、リラックスあるいは悟りが目的であれば瞑想で「無」状態を作ります。<br /> <br /> ゾーン(ZONE)は雑念がある程度残っていても仕事の内容に熟練すれば割と簡単に入ることが出来ますが、「無」の状態に入るためにはある程度まで雑念を減らす必要がある、という違いがあります。というのも、ゾーン(ZONE)であれば対象がありますので心(マインド)をその対象に向け続ける集中力がある程度あればゾーン(ZONE)状態を保つことが出来ますが、「無」の場合は雑念を「押しのけて」(という表現が適切かどうかは微妙なところですが)「ぐいっ」と意識を押し込めて「無」の状態を作るのである程度雑念が減らないと難しいからです。<br /> <br /> とは言いましても、ゾーン(ZONE)状態だけでも対象と一体となっている間はとてつもない至福状態になりますので、それはそれで気力的には充実したものになります。ゾーン(ZONE)による至福と「無」によるリラックスはかなり違うものではあるにせよ、瞑想の「集中」テクニックとしては割と似ています。雑念の度合いによって出来る出来ないの違いがあるくらいです。<br /> <br /> ■「無」とは心のコントロール<br /> 「無」というと何もかも無くなってしまうかのような印象を受けるかもしれませんが、そういうことではありません。「無」を経験するとは、心をコントロールして一時的に「無」の状態にする、ということです。心のコントロールを解けば「無」の状態は解除され、再度、心(マインド)が働き始めます。雑念が次々に出てくる無秩序の状態では「無」は偶発的にしか起こりませんが、心がコントロールされている状態になれば意識的に心を停止させて「無」の状態を作り出せるようになります。<br /> <br /> 「無」それ自体が通過点ではありますが、ヨーガでは「無の状態にずっと逃げ込んでいてはいけない」とも言います。一時的な「無」を経験できるほどの心のコントロール力をつけるのは雑念を減らすためにも必要ですが、「無」とは心の停止状態ですので、ずっと心を停止させてしまうのはヨーガの目的ではない、と古来から伝えられているようです。「無」は通過点として最初の目標ではありますが、最終目的地ではないということです。心が疲れた時に一時的に「無」になって休息するのは問題ありません。<br /> <br /> 西洋の心理学や哲学の一部では「心こそが自分自身」である、と説きますが、ヨーガでは「心(マインド)は自分自身ではなく、魂(ヨーガで言うアートマン)こそが自分自身であり、心は魂(アートマン)の道具である」、と説きます。瞑想は後者の見解に根ざしています。魂が心を制御して一時的に静止状態にするということは、魂(アートマン)が心(マインド)を制御できるようになる、ということです。<br /> <br /> ■「無」とは、何かをイメージすることではない<br /> 上記のように、心の動きを静止させるのが「無」ですので、「無」と言う何かをイメージするわけではありません。「ギュッ」と心の動きを抑えて静止させるだけですので、何かをイメージしているとしたらそれは「無」ではありません。<br /> <br /> ■「無」の次は「意識を拡大」する<br /> 「無」で意識をギュッと自分の中心に押し留めることができるようになると、意識が拡大してきます。周囲がキラキラ輝くものとして見えるようになり、ありふれた風景すらも美しい風景に変わってゆきます。匂いなども敏感になり、タバコの煙が耐えられなくなる一方で、草花の香りや雰囲気に敏感になります。他人や周囲のもの、草花なども含めて、全てが自分自身「かもしれない」という感覚が芽生え始めます。このくらいになると、他人を傷つけることはできなくなります。他人を傷つけると自分のハートが瞬間的に傷つくので、他人を傷つけることが不可能になります。食べるものに対しても敏感になり、次第にベジタリアン食に変わってゆきます(日本ではなかなか難しいでしょうが)。<br /> <br /> ■「意識の拡大」とは、何かをイメージすることではない<br /> 「無」の場合と同様に、意識の拡大とは実際に意識が広がることですので、「広がった何か」をイメージするとか、「無限性をイメージ」することではありません。<br /> <br /> ■「意識の拡大」とは、心が広がることではない<br /> 「心(マインド)」の基本的な属性は「集中」です。心は何かに集中(散漫な時もありますが)あるいは「無」になるのかのどちらかです。「心が広がる」とか「心が拡大」するわけではありません。心は制限されており、心が何かを認識するためには集中のポイントが必要になります。一方、「意識の拡大」とは、「心の奥底にある、魂とでも言うべき意識がその認識範囲を広げる」と言う種類のものです。ただ、人によっては両方を心と呼んでいたりするのでコンテキストが混乱していることもあります。ここでは心と魂(意識)を分けています。<br /> <br /> 雑念が多かったり「無」を未体験の状態ですと意識の範囲が狭い範囲に限られていますが、「無」を経験して雑念が減ってくると、その奥にある「魂」の意識が表に出てきます。その結果、意識が拡大するのです。瞑想が深まって、静けさがどんどん深まるにつれ、魂による意識の認識範囲が広がって行きます。人によって視野だったり聴覚だったり触覚だったりします。通常の五感を超えたところで意識が働くようになります。<br /> <br /> 意識が拡大して敏感になると、この世は生きにくいと感じられることが多くなるかもしれません。例えば仕事であればゾーン(ZONE)に理解のある職場で働くと言うのも選択肢の1つかもしれません。ゾーン(ZONE)くらいまでであれば日常生活を送ることも割と普通にできますし仕事の集中力や判断力も高まって良いことづくめですが、ある程度以上を目指そうとするとやはり、ヨガであればアシュラム(道場)のようなところで静かに過ごす方が安全だと思います。と言うのも、このように意識が拡大してしまうと不必要に他者の感覚を敏感に受け取ってしまうようになりますので、日常生活で度々困難が生じることがあるからです。時には情緒不安定な時期もあり得ますので、理解のあるグル(師匠)の元で困難な時期を過ごした方が良いことも多いです。<br /> <br /> ■いわゆる「無」と禅定およびゾーン(ZONE)の関係<br /> 「瞑想経典編(アルボムッレ・スマナサーラ 著) 」によると、第二禅定で思考が止まって「楽」の状態になります。ですから、「無」とは第二禅定のことだと推定できます。第一禅定では思考がありますのでマインドフルネスのいわゆるゾーン(ZONE)で仕事をすることができますが、「無」である第二禅定では思考が止まってしまいますので仕事はできません。とは言いましても、第二禅定にまで達したのであれば普段の雑念も相当減っていますから、ゾーン(ZONE)に入らずとも通常の状態で普通に仕事が集中できて判断力も高まっている筈です。その場合、必要があればゾーン(ZONE)に入ることもできますが、第二禅定に達する前であれば通常状態とゾーン(ZONE)の状態の差がとても大きかったのに対し、第二禅定に達した後は通常状態とゾーン(ZONE)の差がとても小さくなっていますので、通常状態で普通に仕事をすれば十分かもしれません。<br /> <br /> 同署によると、第一禅定では「心が喜びに満ち、思考が残っている状態」、第二禅定は上の通り、第三禅定では「喜びが消えて楽だけが残る、たいへん高度な安らぎ」、第四禅定は「楽の波も止める。苦も喜も楽もない、統一した状態:捨(しゃ)」(と言う安らぎ)とのことです。<br /> <br /> <br /> ・第一禅定=マインドフルネスで言う「ゾーン(ZONE)」=広義の(いわゆる)サマーディ(三昧)=心が集中し、心が喜びに満ち、思考が残っている状態。<br /> ・第二禅定=いわゆる「無」=狭義のサマーディ(三昧)=思考が止まり、心が喜びに満ち、思考が止まり、「楽」になる。<br /> ・第三禅定=狭義のサマーディ(三昧)=喜びが消えて楽だけが残る、たいへん高度な安らぎ。<br /> ・第四禅定=狭義のサマーディ(三昧)=楽の波も止める。苦も喜も楽もない、統一した状態:捨(しゃ)。対象のある禅定の中では最高のもの。<br /> <br /> <br /> ■いわゆる「無」と「全体/無限」との関係<br /> この関係は時々混乱して表現されます。なんとなくそれっぽく聞こえて語呂合わせは良いのですが、例えば「無こそが全体」とか「無こそが無限」と言う表現は一見すると聞こえは良いのですが意味を考えると混乱します。これは、次のように考えると分かりやすいです。「無」とは認識に限界のある「心」に関するものであり、心が止まるといわゆる「無」になると言うのは上に書いた通りです。一方、「全体」と言うのは心のことではなく、魂の意識が感じられる範囲ですから、それは全体でもあり、無限でもあります。最初の言葉を言い直すと「心が静止すれば(意識が)無を感じ、心が静止して心が無になれば魂の意識が全体や無限を感じる」とでも言えば良いでしょうか。ただしこれは、コンテキストによって「無」が何を意味するかによって意味合いが変わってきますので注意が必要です。念のため記載しておきますと、今回のこの記事では「無」は心に属するお話として記載していますから、この記事のコンテキストにおいては「無こそは全体」にはなりませんし、「無こそが無限」にはなりません。<br /> <br /> (追記) 後日、「悟りの階梯(藤本 晃 著)」の記述をたまたま発見したのですが悟りを得た「阿羅漢」であれば心を一時的にではなく心を滅することができ、それを「滅尽定(めつじんじょう)」と言うそうです。もしかしたら「無こそが全体」あるいは「無こそが無限」と言う表現はこの滅尽定のことを意味しているのかもしれません。であればこの文面のまま正しいのかもしれません。ただ、私は滅尽定の体験はしておりませんので明確ではありません。この記事では滅尽定ではなく前記の意味の第二禅定でいわゆる「無」を表現しております。<br /> <br /> ■いわゆる「光」とは<br /> 「悟りの階梯(藤本 晃 著)」によると、第二禅定以降が「光」の世界と称されています。これは原始仏教で言う「光」ですが、面白いことに、近代のスピリチュアルでも人の魂の本質は「光」であると主張しています。興味深いところに共通点があるようです。私自身の経験においても、第二禅定のいわゆる「無」を経験して以降に光といいますか熱と言いますか愛と言いますか、言葉ではいかようにも言いあらわせるのですが、それを「光」と言うのであればそうかもしれない、と言う感覚を伴っていますので、第二禅定のいわゆる「無」を経験した以降が「光」の世界だと言うのは納得がいきます。同署によれば、第二禅定の中でも3段階(少光天、無量光天、発光天)に分かれて、光が少ない方から多い方に3分割されているようです。第三禅定ではより高い光の世界の分類(浄光)になっています。禅定が進めば光が増える、と言うことのようで、理にかなっています。<br /> <br /> ■悟りではない<br /> 悟りの階梯(藤本 晃 著) や瞑想経典編(アルボムッレ・スマナサーラ 著)によると、テーラワーダ仏教的には第四禅定が悟りではないようです。内容的にも納得できます。ただし、禅定はそれ自体でとてつもない平穏な状態ですので、悟りではないにせよとても寛いでいる状態なのは確かです。どうすれば悟れるのか? と言う点には流派によって主張が異なります。同署のテーラワーダ仏教的にはヴィパッサナー瞑想によって悟ります。一方、ヨーガは流派にもよりますがニルビカルパ・サマーディで真我(アートマン)と一体化することでこの世の幻想(マーヤー)を打ち砕いて悟ることができる、と言う流派もあります(「あるヨギの自叙伝」より)。一方で、ヴェーダンタを勉強している人は知識によって悟る、と主張します。<br /> <br /> ただ、悟るとか言うお話はとても高い目標ですので、瞑想をする目的としてはとりあえず置いておいて良いと思います。ひとまずは雑念を減らして、禅定で幸福感を味わい、運よく悟りに近づければラッキー、くらいに思っていた方が良いような気がいたします。<br /> <br /> ■ゾーン(ZONE)に入るだけだと、ゾーン(ZONE)から抜けると苦しい<br /> 仕事で集中すれば、時にゾーン(ZONE)に入ることができます。やがて熟達すれば任意にゾーン(ZONE)に入ることができるようになりますが、それだけだとゾーン(ZONE)から出て通常の状態に戻ると苦しいのです。もともと苦しい状態だったのが、ゾーン(ZONE)に入ることで一時的な喜びを味わうことができたわけです。その喜びは一時的なものですから、ゾーン(ZONE)から出ると苦しさが戻ってきます。<br /> <br /> マインドフルネス瞑想でゾーン(ZONE)に入ることが目的の方はこのジレンマに遭遇します。ゾーン(ZONE)に入れば仕事も集中できて捗りますし判断力も高まるのですが、通常状態とのギャップに苦しむわけです。これは、実のところ何年もずっとゾーン(ZONE)に入り続けていれば次第に解消してきます。ただし、上に書いたようにゾーン(ZONE)の禁戒である「集中を妨げられないこと。精神にダメージを負わないこと」が大前提です。ゾーン(ZONE)とは第一禅定ですから、それに熟達すれば次第に精神が浄化されて第二禅定へと進んでゆきます。第一禅定のゾーン(ZONE)では通常状態に戻った時に苦しいですが、次第にそのギャップが小さくなってゆきます。上にも書きましたように、次第にゾーン(ZONE)の彷彿感や喜びそれ自体は減ってゆきますが、正常なことです。やがて、その落ち着いた状態が日常生活にも広がってゆきます。一時的な彷彿感・喜びから、生活全体に常にある喜びへと変わってゆきます。<br /> <br /> ■瞑想すればするほど、他人を傷つけることができなくなってゆく<br /> きちんと瞑想できているか、と言う見分け方です。瞑想が進んだ筈で自分ではそう思っているのに変わらず他人を傷つけても平気であれば自分の瞑想の仕方や瞑想の進み具合を見直す必要があります。<br /> <br /> ■瞑想すればするほど、自分自身の言葉遣いに気をつけるようになる<br /> これも同様です。例えば、他人を「怒鳴る」ことができなくなります。瞑想していたりスピリチュアルを謳っていても他人に怒鳴ることができるのであればそれはスピリチュアル初心者です。これは、「激しい言葉を使わないようにしましょう」などと言う標語ではなく、実際にハートが荒々しい言葉を発するのを拒否すると言う実質的な状態であり、ちょっとでも激しい言葉を使おうと心が意図するだけでハートが痛み出して、ハートが言葉を発するのを拒否して荒々しい言葉を発するのをやめてしまう、と言う種類のものです。怒りも同様で、そもそも怒り自体が減っていますのでそうそう怒ることはなくなってはいるのですが、それでも怒りの感情がちょっとでも出ると自分自身のハートが痛むのですぐに怒るのを辞めてしまいます。<br /> <br /> ■不徳の人に会ったら無関心になりましょう<br /> 上記のようなハートがすぐに反応する状態になると、自分ではそう思っていなくても、ずる賢い人から見たら「カモ」扱いされるようになりますので注意が必要です。人付き合いには気をつけて、ずる賢い人の近くに近づかないようにしましょう。マインドフルネス瞑想でマインドコントロールの危険性が叫ばれていますが、職場の一部でマインドフルネスを取り入れると精神性の高い人が増えますから、瞑想しない人は勘違いをするかもしれません。瞑想を取り入れた職場では一方的な搾取にならないように監督することが大事になります。<br /> <br /> これで思い出されるのは仏教やヨーガ・スートラにも書かれている四無量心(慈悲喜捨)の「捨」お話です。ヨーガ・スートラ 1-33に基づくと、これは以下のようなことです。(「インテグラル・ヨーガ (パタンジャリのヨーガ・スートラ) (スワミ・サッチダーナンダ 著)」より)<br /> <br /> ・幸福な人に会ったら友愛の心を持つ(慈)<br /> ・不幸な人に会ったら哀れみの心を持つ(悲)<br /> ・徳の高い人に会ったら歓喜する(喜)<br /> ・不徳の人に会ったら無関心になりましょう(捨) ← これ<br /> <br /> この4つ目がこの場合、重要になります。瞑想が深まるにつれ、不徳な人と対峙することが文字通り不可能になります。喧嘩などできなくなります。荒々しい言葉で対処ができなくなります。であれば、無関心になりましょう。<br /> <br /> 過渡期においては自分がこのように成長しても相手はしばらく昔の行動を続けることがありますが、過渡期を過ぎれば周囲から不徳な人は次第に消えてゆきます。カルマの歯車はすぐには不徳な人を周囲から消し去りはしませんが、時間が経つにつれて不徳な人との繋がりは消えてゆきます。それは職場の部署異動かもしれませんし転職かもしれません。どちらにせよ、瞑想が深まるにつれて周囲の環境も変わってゆきます。<br /> <br /> これは「搾取を許して良い」と言うことではありません。人間の自由意志は最高に尊重されるべきことでありますから、自由意志を奪うような搾取は許されません。しかし、搾取を許すと言う自由意志もありますから搾取を許している人が多いのも事実です。瞑想するにつれて現実の理解も深まりますから、気付いていなくて搾取されているような関係もどんどんと解消されてゆきます。<br /> <br /> ある程度の境地に達すれば、完全に自分の自由意志を発揮することができるようになります。「するように言われたから」ではなく「自分がしたいからこれをする」と言うようになります。エゴが欲望や論理でそう言うこともありますが、これはエゴよりももっと深いレベルの魂の意識でそのように認識できるようになると言うレベルです。このレベルになれば、かつて強制や操作・共依存などによって結びついていた周囲の人は急速に貴方から離れてゆきます。と言うのも、周囲の人は貴方ともはや昔のレベルで貴方と結びつくことができなくなるからです。貴方は魂(アートマン、スピリット)と繋がり、魂に従って動くようになります。そのレベルに達するまでは不徳な人と会っても完全に無関心でいることは難しいですが、それでも、無関心でいる努力が必要です。<br /> <br /> ■過去のストレスの解放<br /> 瞑想の初期は、色々な体験をするでしょう。上にも書きましたが、何かが見えたり何かが聞こえたりするかもしれませんが、基本的にはそれらは全て重要ではありませんので無視をするのが古典的ヨーガの解釈です。と言うのも、瞑想するとまずストレスが解放されますのでトラウマや疲れがどっと出てきます。それは強烈な体験を伴うことがあります。カルマの解放です。瞑想と言うとそのような強烈な体験をイメージされる方もいらっしゃいますが、それは特に最初の過渡期に起こり得るものであり、瞑想の一部です。<br /> <br /> 通常の生活においては、生活を送るために過去のトラウマやストレスは抑圧されています。その抑圧は悪いものではなく、ある程度の抑圧は日常生活を送る上で必要なものです。瞑想においてはそのトラウマやストレスを徐々に解放して解消してゆくことができます。ですから、一部の瞑想は、通常抑圧されているものを一気に解放するために強烈な動きを伴ったり、体を自由に動かしたりします。これは人によって合う合わないがありますので、座る瞑想が好みの方もいれば、動く瞑想を好む方もいるでしょう。<br /> <br /> どちらにせよ、ある程度の解放が済めば、最終的には”何も起こらない”瞑想になってゆきます。瞑想の本質は刺激的な体験や変容意識にあるのではなく、魂を浄化することにあります。<br /> <br /> ■瞑想をする様々な目的<br /> 瞑想と一言で言っても、人によってその目的は様々です。<br /> <br /> ・神を求める。浄化<br /> ・ゾーン(ZONE)によるビジネス上の効率アップおよび判断力アップ<br /> ・意思の強化、メンタルの強化<br /> <br /> 目的によって瞑想のテクニックも多少異なってきますし、結果も異なってきます。古典的な瞑想は神を求めて精神を浄化するためのものでしたが、近年はマインドフルネス瞑想でビジネス向けのゾーン(ZONE)を使うことで効率と判断力アップを目的に瞑想する人も増えています。一方で、メンタルが弱いために自己の意思の強化のために瞑想をする人もいます。<br /> <br /> ■意思の強化、メンタルの強化<br /> この目的で瞑想をする場合、もしかしたらその目的は「エゴの強化」であるかもしれませんが、瞑想をすることで得られるのは実はエゴの強化ではなく、「エゴなど実はなかった」という「楽」な心境です。それはいわば「エゴなんて何もないのだから、負けることはない。負けることがないのだから自然で振る舞えばよい。芯がないようでいて実は強い」という種類のものです。ですから、メンタルを強化してエゴを強くしようとして瞑想をするのは、真理には叶ってはいるものの、実のところその目的であるエゴの強化は達成できませんので、瞑想という手段に頼るべきではないかもしれません。ヨガ的にはエゴなど存在しない幻想ですのでその幻想をありのままに体験してしまいますので、目的は達成できないかもしれませんが、心境的には楽になると思います。それでも良いのであれば瞑想すれば良いと思いますが、エゴの強化という目的は達成できません。<br /> <br /> ただし、間違って瞑想を行うと、その副作用としてエゴが拡大することはあります。副作用を利用してエゴを強化するのは黒魔術に属する手法ですのでお勧めしません。目的が浄化であれば、気付かないうちにエゴが拡大しないように気をつけます。<br /> <br /> 瞑想をして何かを求めているうちは、求めると言う行為には「私」が必要ですからいつまで経っても目的地にたどり着くことはないでしょう(例外として神や真理は求めても良いですが)。他人からの批判や非難があっても、「私」がいないのですから何も傷つかない心境になることで、それはいわばメンタルが「強い」と言えなくもない状態にはなりますが、一般でイメージされるような意思の強さ・メンタルの強さとは若干趣が違う強さが瞑想で得られます。<br /> <br /> ■何を求めるのか? 目的が重要<br /> 神を求めて瞑想をするのであれば、雑念を振り払う瞑想であっても時間はかかりますが浄化されてゆきます。その際、上に書きましたように、雑念に圧倒されないように気をつけて瞑想を行うのは大前提になります。しかし、目的が浄化ではなく何らかのエゴの強化であるとすると神に到達することはありません。快楽が貴方の心の大半を占めている時、瞑想をして集中をするとその快楽が強化されることがあります。あるいは、雑念が多い状態で瞑想をして集中をするとその雑念に関するエゴが強化されることがあります。「人は求めれば与えられる」と聖書にあるように、まさに、浄化が目的で神を求めて瞑想をするのであれば浄化が与えられ、一方で、快楽やエゴの強化を目的として瞑想をするのならばその通りの不幸な結果が与えられます。それは良い悪いと言うよりは、人には自由意志があるのだから求めれば求めたものが与えられる、と言う単純な真理。瞑想とはテクニックであり、いかようにも用いられます。仕事のためのゾーン(ZONE)が目的なのか、あるいは、神と浄化が目的なのか、あるいは、エゴの強化で勝負に勝つ(?)ことが目的なのか。それによって目的地は異なってきます。最終的な山の頂上の目的地は変わらないにせよ、とりあえずの目的地と言いますか中継地点が変わってくるということです。<br /> <br /> ■浄化の印<br /> 瞑想を神を求める目的で行ってゆくと、次第に浄化されてゆきます。奉仕(カルマヨガ)やヨガのアサナ(体操)をすることでも同様です。すると、以下の浄化の印が次第に現れてきます。(一部は「ハタ・ヨーガ・プラディーピカー(Swami Vishnu-Devananda著)」によります)<br /> <br /> ・平和な心になる。<br /> ・穏やかな顔になる。顔が輝く。顔色が冴える。<br /> ・体が柔らかくなる。体が痩せる。<br /> ・曇りのない綺麗な目になる。<br /> ・体が丈夫になる。<br /> ・元気になるので、睡眠時間が短くなる。<br /> ・自然な(努力のいらない)禁欲の達成。性欲に悩まされることが激減する。<br /> ・食欲が旺盛になる。<br /> ・瞑想中にナーダ音という特殊な音が聞こえるようになる。(聞こえない人もいます)<br /> ・浄化がかなり進むとクンダリーニ経験をする(グルの指導なしにはお勧めしませんが不意に経験する人もいます)<br /> <br /> ■瞑想の熟達者が必ずしも人格者ではない<br /> 原始仏教のアビダンマ講義「悟りの階梯(藤本 晃 著)」によると、禅定の熟達で一時的に悟りの状態になることができる凡夫と、本物の解脱をした人格者を分けています。「一時的な悟り」では高度な禅定に熟達して一時的に心が平安(捨)の状態になるものの禅定を抜けると元どおりの雑念および煩悩状態に戻ってしまいます。この場合、いくら禅定に熟達してもまだ凡夫のままです。一方、本当の悟りがある人は常に心が平安(捨)であり、人格者です。同書によると、大抵の場合は禅定に熟達してから悟るが、禅定に熟達しなくても悟ることができる、と書かれてあります。よって、「悟った人のほとんどは禅定に熟達しているが、必ずしも禅定に熟達しているわけではない。一方、禅定に熟達しているからと言って悟っているとは限らない。」ということがわかります。<br /> <br /> ■禅定に熟達すればサイキックな能力(千里眼など)が得られる<br /> 原始仏教に基づくと、第四禅定にまで熟達すればサイキックな能力(千里眼など)が得られるとあります。実際のところは私は体験しておりませんので何とも言い難いですが、スピリチュアル業界でサイキック能力を持つ人には大勢会ったことがありますのでサイキック能力自体は実在するのは確かだと思っております。<br /> <br /> ■サイキック能力があるからと言って人格者とは限らない<br /> 上に記載した通りサイキック能力は第四禅定で得られますが、禅定に熟練したからと言って悟っているとは限りません。実は私が長らく疑問に思っていたことがありました。スピリチュアル業界でサイキック能力を持ったり知識が沢山あったり透視能力が多少はある人が、必ずしも人格者というわけでもなく怒りの沸点が低かったり精神的に情緒不安定である人を度々見てきたのですが、何故だろうと思っていたのです。サイキックなスピリチュアル業界でよく言われていることですが、「サイキックの能力と霊的成長の度合いは関係がない」というお話です。これが長らく疑問だったのですが、今回の理屈で説明がつきます。<br /> <br /> サイキック能力を得るためには第四禅定があれば十分だとすれば、悟りではなく禅定のみを熱心に訓練すれば能力が得られます。巷でスピリチュアルなスクールやサークルがありますが、方向性として、悟りではなく能力を目的として第四禅定を目的としているのであれば、その基本的な方向性は「集中」による禅定の強化です。であれば、第四禅定で一時的な平安(捨)を得ている間はいいのですが禅定から抜ければ凡夫になるので、サイキックの能力と霊的成長の度合いは関係ない、というのも容易に理解できます。<br /> <br /> 中にはサイキック能力を目的に瞑想をする人もいらっしゃいますが、サイキック能力だけを目的にすると凡夫の苦しみから抜けることはないと思います。ヨーガの経典であるヨーガ・スートラでも言われています。能力に魅力を感じて能力を得てしまうと解脱まで行かずに寄り道してしまうので、更に人生の苦しみを味わうことになる。能力が得られそうであってもその魅力に取り憑かれてはならない、と。伝統的なヨーガでは、サイキックな能力は霊的な成長の妨げとして考えられています。一方で、同じ伝統的なヨーガでは、悟りさえすればサイキックな能力は自動的に向こうからやってくる、とも言われています。このあたり、原始仏教における悟った後の話とリンクして同じような事を述べていて興味深いです。<br /> <br /> 「ラージャ・ヨーガ(スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ 著)」には次のように書かれています。「オカルト・パワーというものを持つと、世間が強烈になり、ついには苦痛が強烈になるだけである。力を得ても解脱は得られない。それは快楽をもとめる世俗的な欲求であって、快楽の探求は全て無駄である。それは、人が容易には理解することのできない、古い古い教訓である。それを理解したら、彼は宇宙を脱出して自由になるのだ。」<br /> <br /> 悟る場合の多くは禅定にも熟達していることが多いものの禅定は必須ではありませんので、第四禅定で得られるサイキック能力を持たずに悟る人もいらっしゃるようです。ですから、サイキックな能力がないからと言って霊的成長の上下を図ることもできません。結局、基本的なところである「心が平安かどうか」で人を見るのが間違いが少ないと言えます。<br /> <br /> このように、能力を目的に第一禅定から第四禅定まで「集中力」を強化して頑張るのは心の平安が伴わない場合がありますのでお勧めしません。一方、それぞれの禅定の状態を一つづつ体験して、心の平安を目的に禅定を深める方がよほどやりやすいです。それぞれの段階の基本的要素は上に記載した通りですが、まずは第一禅定は何かに集中し第二禅定では心の動きを止めて楽になり、第三禅定では喜びが消えて楽だけが残り、第四禅定で楽も消えて平安(捨)になる、というステップを踏みます。このステップを踏まずに第四禅定相当のサイキック能力を求めるというのは、いわばそれは裏技であって、たとえ能力を得ても悟りには遠いというのが古典が述べているところです。昨今はスピリチュアルが楽しいものとして言われておりますが、実際に踏み入れると怖いこともありますので、このあたりは覚悟も必要です。基本的にはグル(師匠)がいないと踏み入れるべきではないとは思いますが、能力を求めずにある程度の禅定をするくらいであればさほど危険はないと思います。<br /> <br /> ■仕事や奉仕(カルマヨガ)と禅定<br /> 仕事において対象と一体になりゾーン(ZONE)に入ること、あるいは、奉仕(カルマヨガ)で奉仕の対象と一体になること、その意義は第一禅定の達成にあります。奉仕をすることでエゴをなくしてゆき、やがては対象物と一体になり愛を感じるようになります。最初は第一禅定ですから愛というよりは愛着のようなものではありますが、やがては第一禅定から第二禅定に移ることで純粋なものになってゆきます。<br /> <br /> ■禅定を繰り返すだけでも浄化される<br /> 一部の瞑想指導者は「禅定をするだけでは悟れない」と言い、禅定よりも違ったもの、例えばヴィパッサナー瞑想だとかジャーナ(ギャーナ、知識)だとかベーダンタだとかを論じますが、禅定はそれ自体で浄化の作用がありますので、決して無駄ではありません。<br /> <br /> 確かに、段階を追うにつれて禅定だけでは先に進めない段階というのはありますが、それはずっと先のお話ですので、ほとんどの人は禅定(多くは第一禅定)をして浄化するのが良いと思います。たとえ仕事目的のゾーン(ZONE)で第一禅定だけだったとしても浄化の作用はあります。最初は仕事目的の筈だったのにいつの間にかその先の境地に導かれていた、などはよくある話ですので、あまり禅定を悪者扱いしなくても良いとは思います。<br /> <br /> 昨今は、例えばヴィパッサナー瞑想の論者がブッダの悟りの過程を持ち出して集中瞑想(サマタ瞑想)では悟れないとか言いますが、それはとてつもない高いレベルの話であって、我々多くの一般人にはほとんど関係のない話だと思います。一方で、ヴェーダンタでは知識のみが重要視されていて禅定のサマーディでは悟れないから知識こそが悟りへと導くとかいうお話がされていますが、それは禅定などをして極限にまで浄化された人がその先に行くためにどうすれば良いのかというお話をしているのであって、我々ほとんどの人にとってはあまり関係がなく、浄化をするために禅定をするのがほとんどの場合は適切なやり方であると思います。<br /> <br /> ヴィパッサナー瞑想とかベーダンタの理論は確かに高い境地を説明してはいますが、基礎はやっぱり禅定ですので、「禅定しても仕方がない」とか言ってヴィパッサナー瞑想とかベーダンタとかの良さを主張する人は本当に高い境地に達しているのか甚だ疑問です。<br /> <br /> ■ヴィパッサナー瞑想(観察瞑想)とサマタ瞑想(集中瞑想、ヨガの基本の瞑想)<br /> 観察瞑想も集中瞑想も、初心者にとっては実はほとんど同じです。どちらもある程度の観察とある程度の集中を必要とします。ですから、初心者がヴィパッサナー瞑想をしているつもりで例えば息を観察しているとして、一方で、初心者がサマタ瞑想をしているつもりで眉間を集中しているとして、その両者の初心者がやっていることは実は大差ありません。やがては差が出てきますが、それはちょっと先のお話ですので、最初はあまり違いを気にしなくて良いと思います。<br /> <br /> ビジネス向けのマインドフルネス瞑想にしてもヴィパッサナー瞑想に基づく息の観察と思いきやゾーン(ZONE)に入るということであればそれは禅定のサマタ瞑想とも言えるやり方を取り入れていますので、そのくらいであればサマタ瞑想もヴィパッサナー瞑想も大差ありません。禅定においては集中しているから動けないと思われている方も多いようですが、そんなことありませんしね。明確に区別するならサマタ系の禅定とヴィパッサナー系の禅定とを分けるべきなのかもしれませんけど、そこまで大差があるようには思えません。分類するならゾーン(ZONE)をヴィパッサナー系(観察系)の禅定としても良いのかもしれませんが、そこまで差があるものでしょうかね。第一禅定であれば心が静止していませんので心は動いていて、それでも禅定ですから一応はサマタ系の禅定であっても集中の(広義の)サマーディと呼ばれますけど、第一禅定では心が動いていますから人によってはそれはヴィパッサナー瞑想だと思われるかもしれませんけど、ヴィパッサナー瞑想というのは心ではなく魂の意識で観察することなので、心が動いているかどうかは本質的ではなくて、第一から第四禅定全てでヴィパッサナー瞑想は可能ですから、第二禅定以降であればヴィパッサナー瞑想の違いが出てきますが、第一禅定であるゾーン(ZONE)までであれば明確な区別はあまり意味がないように思います。<br /> <br /> ヴィパッサナー瞑想かサマタ瞑想かの違いとしては「流派の違い」であって、特に初心者にとっては実質的にあまり差がないと思われるのが良いと思います。<br /> <br /> ■グル(師匠)の必要性<br /> ヨーガでは古典的にグル(師匠)の必要性を解きます。しかし、現代はそのグル(師匠)のスタイルよりも先生としての付き合いが多いような気が致します。実際のところ私は今のところ私のグル(師匠)を見つけることができていませんし、今後もそこまで期待はしておりません。「先生」であれば数多くの先生がいらっしゃいましたが、全てを委ねて良いと思ったグル(師匠)はいませんでした。昨今ですとオウムのようなこともありましたし、グル(師匠)は必須ではないのかも・・・ とも思っております。ニセ覚者とも遭遇したことがありますし、判断力がきちんとつくまではグル(師匠)を選ぶのは危険性も大きいのではないかと思っております。選ぶのであれば伝統的なところが危険性は少ないような気も致します。仏教で修行された方を師匠に選ぶというのは無難かとも思います。ヨーガであれば伝統的なスワミですね。伝統的にはグル(師匠)は一度決めたら一生その人のみ、というのが筋ですが、実際のところ、伝記を読むと複数人のグルに教えを受けている方も多々いらっしゃいますので、そこまで気にすることはないのかもしれません。個人的にはグル(師匠)は今のところ不要で、先生さえいれば良いかな・・・ と思っております。いきなりグルに会うかもしれませんが、その時はその時です。<br /> <br /> 昨今では瞑想のスクールも多々ありますがその多くはグル(師匠)ではなく単なる先生ですし、現代のスタイルとしてはそれが標準だと思います。<br /> <br /> ■違和感を大切に<br /> 長い間スピリチュアルと関わり続け、時には細々と時には多少密接に接した者としましては、自分の身を守る唯一のセンサーは「違和感」です。何かちょっとでも違和感を感じたら様子を見ましょう。文字通り「ちょっとでも」違和感があるのであれば、そこには何かがあるのです。親切そうに見えて共依存や強制・操作によって結びつこうとしているエセ・スピリチュアルな人は大勢いますから、いくら注意してもしすぎることはありません。<br /> <br /> ■強力な力に魅了されて自己の自由意志を手放さないように<br /> スピリチュアルなサイキックな力を持つ人と出会う時、まるでその人が神の生まれ変わりであるかのように思うことがあるかもしれません。それは上で書いたような「力」だけを得て悟りを得ていない人かもしれません。グル(師匠)との関係の基本は、グルの指導に何であれ従うということです。そのグルは、真っ当で正統派のグルであれば個人の自由意志を潰すようなことは決してしません。しかし、この世にはグルという名を使って強制や操作・依存などで繋がってパワーを得ようとしている人が大勢いるのです。<br /> <br /> 人は生まれながらに、内なる神と波長を合わせるという権利を持っていますが、偽グルを崇拝すると内なる神と波長を合わせることを忘れてしまうかもしれません。同様に、人は誰しもが生まれながらに持っている権利である、威圧的な力に対して個人的な力を自主的に用いて対抗したり無視したりできるという権利を捨ててしまうかもしれません。パワーに魅了されて、自分自身のこれらの基本的な権利を手放した代償は高くつくことでしょう。グルは相当の精神性を持っているべきであり、他人の権利を奪うことができる立場であっても奪わないだけの自制力を持った人格者でなければなりませんが、今の時代にそんな人はそうそういません。判断力がないうちは、凄いグルだと思っても実際はそうでないこともあります。そんな時は、やはり、小さな違和感を感じるかどうか、というところに頼るしかありません。<br /> <br /> 瞑想の世界はマインドに強く影響しますので、このあたりをいくら注意しても注意しすぎることはありません。私も何度か偽グルに騙されて操作されそうになったことがあります。今まで平気でも、将来的に操作や強制されないとも限りません。明日は我が身かもしれません。この種のものは、海外旅行で被害に会うのと同様で、狙われたらかなりの確率でやられます。いくら気をつけていても、やられる時はやられます。まるで株式投資で初心者がいきなりラスボスにやられるようなこともあります。そのくらい敵は強力で、マインドのコントロールやスピリチュアルに熟練した人は山ほどいて、上には上がいます。ここまで来ると、もはや自分では守ることができない領域も存在しますが、なるべく自分で気をつけるのが基本で、あとは守護霊に守ってもらうしかないです。この世界は、意外と怖い面も多くあります。海外旅行と同じで、かなりの人は大丈夫ですが運が悪いとやられます。<br /> <br /> 少し驚かせてしまったかもしれませんが、普通に瞑想して雑念を減らして平和な心を求める分には危険はないので大丈夫です。悪いことを考える人は雑念の多い人やパワーを求めるエゴが大きい人を狙って迷わせてきますから、パワーを求めずにだんだんと雑念が減って平和な心になればなるほど危険は減ってゆきます。<br /> <br /> ■初心者は、不活性な状態(ヨガで言うタマス)に入り込まないように<br /> 心の動きを鈍くして不活性な状態(タマス)に入り込むのは、瞑想でよくある間違いです。心の周囲に雲のようなモヤモヤを集めて包みこめば心は不活性になり、あたかもそれで雑念が減ったかのような錯覚を覚えるかもしれませんが、それは本来の瞑想でやりたいことの逆をしています。瞑想では心の曇りを取りたいのであって心の曇りを増やしたいのではありません。<br /> <br /> このように、心を不活性にして心の動きを鈍くすることが「無」ではありません。「無」とはある程度の心の浄化ができた状態で心の動きを「ギュッ」と意識して止めてしまうことです。心がそれほど純化されていなくても強烈な意思の力で心の動きを止めることが出来る方もいらっしゃるようですが、普通はある程度の純化をしないとそれはなかなか難しいと思います。<br /> <br /> 上に記載したように、ある程度の純化をしないと瞑想で混乱しやすいので、無理に瞑想するとこのように不活性な状態(タマス)に入り込む危険性があります。最初は瞑想を長くはせず、ヨガの体操(アサナ)や奉仕(カルマヨガ)をすると良いと思います。<br /> <br /> 瞑想を長くやっていらっしゃる方でも、時々この罠にはまっているように見受けられる方もいらっしゃいます。特に、上に書いたように「怒りの沸点が低い」方にその傾向が見られます。普段そうして心を不活性な状態(タマス)に包んでしまっているので、いざ自分の心が表に出たらそれに耐えきれなくてすぐに怒りの沸点に達してしまうのでしょう。あまりいないのですが、同様に瞑想で激動(ヨガでいうラジャス)に包むことで心を包んでしまっている方もいらっしゃいます。これも同じく「怒りの沸点が低い」傾向があります。実のところヨガでいう3つのグナのうち2つがここに出てきましたが、残る1つの純粋性(ヨガでいうサットヴァ)がとりあえずの目的地にはなるのですが、実はそれすらも最終的な悟りの道には乗り越えないといけないのですが、その話は別項にて。<br /> <br /> ■もしかしたら初心者にはヴィパッサナー瞑想が向いている?<br /> 私はそうはしなかったのですが、もしかしたら一番最初はヴィパッサナー瞑想のやり方の方が初心者には向いているのかもしれません。観察だけして集中はせず、雑念が出てきてもそれを受け入れるというヴィパッサナー瞑想のやり方は初心者と上級者に向いているのかもしれません。そうなると、「初心者向けの最初は集中瞑想(サマタ瞑想)を短くするかヨガの体操(アサナ)をするか奉仕(カルマヨガ)をするか」という選択肢に加えて「ヴィパッサナー瞑想をする」、という選択肢もあるかもしれません。そうして、ある程度の浄化ができてきたら集中瞑想(サマタ瞑想)に入って禅定を見極め、その後の段階で再度ヴィパッサナー瞑想をする、というのがいいのかもしれません。初期の段階では集中瞑想(サマタ瞑想)もヴィパッサナー瞑想(観察瞑想)もさほど差がありませんので、これはこれでありなのかもしれないです。<br /> <br /> 思えば、私の場合は20年ほど前に今ほど洗練されていない原始的なヴィパッサナー瞑想(単なる想念の観察をする瞑想)を教わってからその後は仕事で日々何度もゾーン(ZONE)に入って作業をすることである程度の浄化を済ませ、2年半ほど前からヨガを始めてアサナ(体操)で更なる浄化をし、次にヨガのサマタ瞑想(集中瞑想)に入って行きましたので、もしかしたら最初はヴィパッサナー瞑想がいいのかもしれません。<br /> <br /> ■ヴィパッサナー瞑想と禅定<br /> 「ダライ・ラマ智慧の眼をひらく」によると、第一禅定から第三禅定には欠点があると言います。第一禅定の欠点は「検討作用と識別作用」です。実際のところゾーン(ZONE)においてはこの検討作用と識別作用が残っているからこそ仕事の効率がアップするのでありますが、悟りの観点からすればそれは一時的な過渡期の状態です。次の第二禅定の欠点は「5つの感覚の基体から生まれる幸福感」です。第三禅定の欠点は「心の快楽と苦痛」です。第四禅定ではこれらの欠点が解消されて清らかな状態になります。<br /> <br /> ヴィパッサナー瞑想の基礎は「感覚」を使って悟ることにありますが、それはこの第二禅定の欠点の5つの感覚器官を超えるところにあります。その場合でも、第一禅定を飛び越していきなり第二禅定にはなりませんから、必ず、ある程度(と言っても相当の)精神集中を伴った第一禅定を経験してから第二禅定へと入るわけです。そこに達するまでは、「感覚」を観察したところで結局は第一禅定を目指して集中力を高めているに過ぎません。上にも書きましたが、基礎としては集中瞑想(サマタ瞑想)も観察瞑想(ヴィパッサナー瞑想)も大差ないのです。第一禅定(いわゆるゾーンZONE)まではどちらも大差ないと言えます。ただし、上に書きましたように、ヴィパッサナー瞑想の方が危険性は少ないとは言える気がします。集中瞑想(サマタ瞑想)で雑念に圧倒されて混乱してしまうよりはヴィパッサナー瞑想で始めた方がいいのかもしれません。グルがいる場合は別だと思いますが。<br /> <br /> 一部のヴィパッサナー瞑想の流派では浄化をせずにいきなり基礎のサマタ瞑想(例えばアーナパーナ瞑想)をして集中力を高めてからヴィパッサナー瞑想に入ろうとします。それは順序としては一見正しいのですが、サマタ瞑想(集中瞑想)には上に書いたように雑念に圧倒されて混乱してしまうリスクがありますので、最初はサマタ瞑想(集中瞑想)を長くやるべきではないのですが、一部の流派はスケジュール重視でサマタ瞑想を強制しますので、とても危険なこともあるかと思います。このあたり、やはり瞑想はグルあるいは教師がきちんと生徒の状態を見てあげないと特に初心者は危ないと思います。初心者に瞑想(特に集中瞑想・サマタ瞑想)を長くさせるべきではない、というのは昔から伝わる教訓のようです。初心者が無理やり長い瞑想をした結果、瞑想の目的であるエゴの浄化ではなく「俺はやったぞ。俺は凄い瞑想をしたんだ」というようなエゴを拡大させる逆の結果に至ることもあります。それは悲しいですし周囲も迷惑ですよね。一見するときちんと瞑想をしているようなところであっても実態は変なこともありますので、精神世界の業界は特に注意深くあらねばなりません。基本的には、自分自身の直感と「違和感」を大切にします。直感と違和感の両方があったら違和感を優先させるくらいで良いと思います。安全第一です。<br /> <br /> ■ヨーガ・スートラと禅定<br /> ヨーガ・スートラは八支則(はっしそく、アシュタンガヨーガ=流派ではなく8つの段階のこと)に基づいており、最後がサマディですのでそれは禅定・三昧になります。ヨーガ・スートラの全体像は1章の2番と3番に集約されています。この訳は微妙ですのでいくつかの書物から引用します。<br /> <br /> योगश्चित्तवृत्तिनिरोधः॥२॥<br /> Yogaścittavṛttinirodhaḥ||2||<br /> <br /> तदा द्रष्टुः स्वरूपेऽवस्थानम्॥३॥<br /> Tadā draṣṭuḥ svarūpe'vasthānam||3||<br /> <br /> (2) 心の作用を止滅することが、ヨーガである。<br /> (3) そのとき、見る者(自己)は、それ本来の状態に留まる。<br /> 「インテグラル・ヨーガ(スワミ・サッチダーナンダ著)」より<br /> <br /> (2) ヨガとは心の活動を抑えることです。<br /> (3) その時(思考波が静止している時)、知覚者は自分自身の真の状態に留まります。<br /> 「Meditation and Mantra (Swami Vishnu-Devananda著)」より翻訳<br /> <br /> (2) ヨーガは、心(チッタ: Chitta)がさまざまの形(ヴィリッティ(ス): vrittis)をとるのを抑制することである。<br /> (3) そのとき(集中したとき)、見る者(プルシャ)は、彼自身の(変られていない)状態におちついている。<br /> 「ラージャ・ヨーガ(スワミ・ヴィヴェーカーナンダ 著)」より。<br /> <br /> 補足: プルシャはサーンキヤ派の言い方で、厳密には違うのですがとりあえず魂だと思っておけば良いと思います。サーンキヤ派は二元論でプルシャ(純粋観察者:精神)とプラクリティ(物質)とに分ける流派です。その後のシャンカラチャリアがヴェーダンタ学派で不二一元論(アドヴァイタ・ヴェーダーンタ)を作りましたので、ヨーガスートラのベースになっているサーンキヤ学派の二元論とヴェーダ的な世界観は異なるので注意が必要です。ただし、普通に読むにはそこまで厳密にならなくても、そのあたりをひとまとめにして「魂」あるいは「真我(アートマン)」だと思っておけば良いと思います。厳密に考える人にはツッコミ入れられる解釈ですけど、ほとんどの人はそんなところまで考えなくても良いと思います。<br /> <br /> さて、本題に戻りますが、ヨーガ・スートラの目的地はこの1章2番と3番で述べられているように心の作用を止滅と言いますか停止させることです。止滅というと心がなくなってしまうかのように誤解する方もいらっしゃいますが、心を無くして植物人間になれと言っているわけではありません。実際、心を無くしてしまうのは悟りを得た人にも無理と言いますか、心は無くならないものです。言葉の語弊と言いますか、修行の過渡期と言いますか、心が自由気ままに動いているものを一旦止めましょう、と言っているに過ぎません。心をコントロールできるようになりましょう、と言っているだけに過ぎません。これで、ヨーガスートラの目的地が心の作用の停止であることがわかりました。そして、ヨーガスートラでは8段階にそのステップを作っていて、最後はサマーディ(禅定・三昧)であり、サマーディ(禅定・三昧)に至れば心の作用は停止する、ということです。そして、心の作用が静止した時にどうなるのかは3番に「見るもの」がそれ本来の状態に留まる、と書いてありますけど、この「本来の状態に留まる」というのは分かりにくい表現ですが、この本意は、「観察者が表に出てくる」ということです。今まで心が動き過ぎていて心が自分自身だと思っていたが、その裏には観察者がいることに気付く、というのがヨーガ・スートラの最終目的地です。<br /> <br /> さて、これを上に記載した第一禅定〜第二禅定に当てはめてみましょう。心の作用の静止とは、上で書いたいわゆる「無」の第二禅定の段階のことです。ですから、ヨーガ・スートラの最終地点は第二禅定であり、第二禅定でいわゆる「無」を経験すれば、心の裏に隠されていた「純粋観察者」「精神」「意識」とか言われるもの(表現だけの違いですが)が表に現れてきます。第二禅定に達するまでは心しか見えなかったのが、第二禅定でようやくその心が静かになってその裏のものが見えるようになると言いますか表に現れてくるのですね。<br /> <br /> 昔ながらのたとえ話で湖と波紋のお話があります。心を湖に例えると心がざわついているというのは湖が常に波打っていることであり、サマーディ(禅定・三昧)で湖の波を沈めるとその奥にあるものが見えてくる、というお話です。あるいは湖に映る自分自身が見えてくる、という表現もあります。どちらにせよ、サマーディ(禅定・三昧)で心を鎮めるのがひとまずの目的地になります。ただし、サマーディ(禅定・三昧)というのは一時的に心を静止させることですのでサマーディ(禅定・三昧)を抜けると心がまた動き出します。ですから、常時穏やかな心を保つためには何度も何どもサマーディ(禅定・三昧)をして心を鎮める必要があります。これは、ヨーガ・スートラ1.4で述べられていることです。<br /> <br /> 1.2 [ヨーガの定義] ヨーガとは心の作用を止滅することである。<br /> 1.3 [真我] 心の作用が止滅されてしまった時は、純粋観察者である真我は自己本来の状態にとどまることになる。<br /> 1.4 その他の場合にあっては、真我は、心のいろいろな作用に同化した形をとっている。<br /> ヨーガ根本教典(佐保田 鶴治 著)より<br /> <br /> 人によっては、「サマーディ(禅定・三昧)は一時的な心の静止だからその方法では悟れない」とか言う人もいますけど、私はそうは思いません。一度のサマーディ(禅定・三昧)で少し浄化され、次のサマーディ(禅定・三昧)でもう少し浄化され、確実に進んでいます。方法の問題というよりも回数および雑念の蓄積の量の問題だと思います。人によっては「サマーディ(禅定・三昧)をしても無駄」とか言い切る人もいますけど、そんなことはありません。サマーディ(禅定・三昧)を何度も体験して、第一禅定ではまだ心が動いているが何度も禅定を体験するにつれて心も静止する第二禅定に移行し、やがては深い安らぎに包まれていって第三禅定・第四禅定に入るのであって、そんなに急ぐものでもありません。一時的な心の静止というのは確かにそうですが、現実世界に戻った時にその安らぎは多少ながらに残っています。次の瞑想後にはまたその安らぎはもう少しだけ深まります。そうして成長してゆくものだと思います。<br /> <br /> 少し補足しておきますと、サーンキヤ派は二元論を元にしているのでプルシャ(純粋観察者)とプラクリティ(物質原理)が基本にあって、観察をするのはプルシャですが、一方でその後に成立したシャンカラチャリアのヴェーダンタでは不二一元論ですので個人のいわゆる魂というか意識はアートマン(真我)と言い、一方で、いわゆる宇宙の意識はブラフマン。ですので、第二禅定で観察するのはサーンキヤ派に基づけばプルシャですがヴェーダンタに基づけばアートマンになります。世間ではサーンキヤ派(ヨガ・スートラ派)とヴェーダンタ派(不二一元論)とでどちらが正しいのか論争になることもあるみたいですが、我々凡夫(苦笑)にとってはそんなハイレベルなことを意識しても仕方がありません。まずは第二禅定に達してからそれからどちらが正しいのか自分で確かめれば良いだけの話です。そこまではヨーガ・スートラのやり方の方が詳しいでしょうし、その先はヨーガ・スートラの範疇を超えてきますのでその時は別のやり方を探せば良いと思いますが、とりあえずの目標は第二禅定(サマーディ・三昧)だと思います。きっと、シャンカラチャリアのようなレベルになれば第二禅定を超えていますので不二一元論になるような気もしますが、そのレベルに達するまではあまり関係ないような気もします。例えば、ヨーガの大家でインドのリシケシにあるヨガニケタンを作ったスワミ・ヨーゲンヴァラナンダはその著書「魂の科学」にて、どちらが本当に正しいのかを自身の感覚で考察しています。その中で、「両者の論を元に実際のところを観察してみたが、どうもこの部分に関してはサーンキヤ学派の方が正しいような気がします」と書いてあったりします。私のレベルではその正しさを理解できませんが、少なくともこのヨーガの大家は聖典に書いてあることを鵜呑みにするのではなくて一つづつ確かめながら自分の知識にしているようです。このように、他者から言われたから信じるのではなくて自分自身で確かめてゆくのがスピリチュアルの正しい姿であり、本来のヨーガ的な生き方であって、いわゆる宗教のように「そのように教えられているのでそれを信じます」というのは本来のスピリチュアルではありませんし本来の宗教でもないですし、最近の間違った宗教が盲目的にさせているだけだと思います。意外とスピリチュアルと科学とは分析と観察・考察という点で似ていると思います。というわけで、第二禅定を達成してその先に進むまではどちらの論が正しいのかなんてわからないのですから、「そうかもしれないが、まだわからない」とだけ思って判断を保留して、とりあえず第二禅定に向かって瞑想を続けるのが良いのだと思っています。私がこういうことを言うと、たまに「そんなことありません。ヴェーダンタはサマーディなしで知識のみで悟ることができます。」と言う人がいますけど、私の内なるガイドが教えてくれたところによるとヴェーダンタで言う「知識」とは「光」のことであって、上に記載したように第二禅定以降の世界は「光の世界」と言われますが、その世界では知識がひとりでにやってくると言うか意識するだけで知識が与えられる、意識するだけで知識がやってくるので、その状態においては確かに知識のみで悟ることができますが、それはサマーディの世界のお話であって、どこぞの誰かが勝手に解釈して「サマーディなしで」と言う間違った解釈を付け加えたのであって、本来は「知識のみ」と言うのはサマーディの光の世界の知識のことを意味しているのだ、と教えられました。私はこうして内なるガイドから聞いて「なるほどなあ」と納得はするのですが、基本は上のように「そうかもしれないけれども、信じることなく、後で確かめる」と言う立場を取って、これは知識としては記憶しておきますが確定はせずに保留しておくのが私のやり方です。まあ、感覚的にもこれが正しい気がしていますけど。少しづつ確信を増やしてゆくのが私のやり方です。<br /> <br /> ■瞑想とカルマ、そして過去生<br /> 瞑想によってカルマが解消されます。スピリチュアルの言い方で言うと「癒される」とでも言うのでしょうが、瞑想をするにつれて奥深くに眠っていたヨガでいうところのサムスカーラという「印象」が表に出てきます。表に出た後、それを理解することで「印象」は解消され、すなわちそれはカルマの解消になってカルマは消え去ります。その「印象」は、過去の記憶やトラウマ・怒り・喜びなどと結びついていますが、今生だけでなく過去生の記憶だったりします。実は、過去生の記憶というのは基本的に、解消されていなカルマと結びついています。過去生を思い出すというのは、その本質は、そこにカルマがあるということです。カルマがあるということは、成長のためにはそのカルマを解消する必要があります。瞑想で過去生の記憶を見た場合、そこには何がしかの課題が眠っています。 ただし、サマーディを体得してヨーガでのいわゆるシッディで見る場合はもちろんこれに当てはまりません。シッディで見る場合はそのようなレベルを超越しているからです。<br /> <br /> ■私の簡単な瞑想プロフィール<br /> ヨガ歴2年半。浄化の印であるナーダ音が聞こえるようになる。(詳しくは別記事参照)<br /> 精神世界歴は20年以上ですが、就職後は現世利益と精神世界を行ったり来たりして最近はヨガ中心の生活を送っています。<br /> ヨガを教えてはいませんが一応 全米ヨガアライアンスの先生のライセンス(RYT 200)は持っています。<br /> <br /> Sun, 23 Jun 2019 00:00:00 +0900 プラナヴァ(Om)の音とナーダ音 https://w-jp.net/2019/1567/ <br /> この記事は 「アナハタ・ナーダの聖音とクンダリーニ」の続きです。<br /> <br /> ■プラナヴァ(Om)の音<br /> 他の記述と被りますが、「ラーマクリシュナの教え」(ジャン・エルベール 編さん)で見つけた記述を引用しておきます。<br /> <br /> アナーハタ(スシュムナーの中の第四の中心、心臓の位置)の音はそれ自身で絶えず振動します。それはプラナヴァ(Om)の音です。プラナヴァは至高のブラフマンから生じます。そしてヨガ行者達を経て聞かれることが可能です。軽薄な人間はそれを聞くことが出来ません。ヨガ行者は、その音が一方では臍の部分から、他方では乳海(ヴェーダ聖典に由来する)上に休んでいるブラフマンから生じることを理解することが出来ます。<br /> <br /> Sat, 22 Jun 2019 00:00:00 +0900 霊的金縛りと耳鳴り https://w-jp.net/2019/1566/ <br /> この記事は 「アナハタ・ナーダの聖音とクンダリーニ」の続きです。<br /> <br /> ■霊的金縛り<br /> 「あなたの呪縛を解く霊的儀礼( 江原 啓之 著)」に以下のような記述がありました。<br /> <br /> 霊障による金縛りは、必ず時空の乱れから始まります。時空が変わるときというのは、ゴーッという耳鳴りがするような感覚を覚えるのです。(中略)霊的金縛りは起こり得るとはいえ、極めてまれです。<br /> <br /> これは一時的な音のような記述ですのでナーダ音ではない感じではありますが、前ページに引用したゴーピ・クリシュナのクンダリーニ体験の音と似ていて興味深いです。<br /> <br /> Sat, 22 Jun 2019 00:00:00 +0900 奉仕への招集とナーダ音 https://w-jp.net/2019/1565/ <br /> この記事は 「アナハタ・ナーダの聖音とクンダリーニ」の続きです。<br /> <br /> ■奉仕への招集<br /> 神智学系の書籍「至聖への道(ジュワル・クール大師 著)」に以下の謎めいた記述を発見しました。<br /> <br /> あらゆる注意深い弟子たちの耳の中でトランペットのように鳴り響いている。奉仕への召集がなされている。<br /> <br /> これは神智学を知ればなるほどと思える話ですが、話が長くなりますので奉仕への召集が何を意味するのかはここには記載しません。ただここでは、ナーダ音に関連付けて、ナーダ音の1つの音であるトランペットがここに記載されていることが興味深いので取り上げました。トランペットは前ページで6番目に記載された音ですね。大師様(マスター)に仕えて奉仕するにはナーダ音を経験して通り抜けないといけない(少なくともその流派ではそのように考えている)、と言うことなのかなと思います。<br /> Sat, 22 Jun 2019 00:00:00 +0900 うぐいすの声のナーダ音と音符 https://w-jp.net/2019/1564/ <br /> この記事は 「アナハタ・ナーダの聖音とクンダリーニ」の続きです。<br /> <br /> ■うぐいすの声<br /> 後日、「あるヨギの自叙伝」を読み返していたら以下のような記述を発見しました。<br /> <br /> インドの神話は、オクターブの7つの基音をそれぞれ、色彩と、鳥や獣のなき声に関係づけている。すなわち、「ド」は緑色でくじゃくの声、「レ」は赤色でひばりの声、「ミ」は金色でやぎの声、「ファ」は黄白色であおさぎの声、「ソ」は黒色でうぐいすの声、「ラ」は黄色で馬のいななく声、「シ」はあらゆる色の結合色で像の声、といったぐあいである。<br /> <br /> ここで、「ソ」の「うぐいすの声」が気になります。というのも、前記事に引用したようにナーダ音で最初に聞こえてくる音がうぐいすの声だからです。とは言いましても、私は音感があまりないので音程とかわからないのですけれども。<br /> Thu, 20 Jun 2019 00:00:00 +0900 仙道におけるクンダリーニ、性的欲求の克服(馬陰蔵相) https://w-jp.net/2019/1499/ <br /> この記事は 「アナハタ・ナーダの聖音とクンダリーニ」の続きです。<br /> <br /> ■仙道におけるクンダリーニ<br /> 高藤 聡一郎氏の「秘法!超能力仙道入門」には仙道の修行段階が紹介されていますが、最もポピュラーな北派「伍柳派」の修行法に興味深い記述があります。全体の流れとしては「小周天→大周天→出神→タオと一体化」 となるのですが細かい説明をするのはこの記事の主旨ではありませんので「小周天」に関しては同書あるいは「密教ヨーガ(本山博著)」を読んで頂くとして、大周天に関しては諸説あるもののとりあえずクンダリーニやスシュムナに関する行法と思っておけばまずは十分かと思います。<br /> <br /> 興味深いと思ったのは「大周天の実際の姿」という節であり、クンダリーニ・ヨーガの内容と類似しているのです。何故そう思ったかという決め手は、その2つ目の記述「馬陰蔵相(ばいんぞうそう)」です。<br /> <br /> 馬陰蔵相(ばいんぞうそう) - 気が精に変わらなくなり、睾丸やペニスが、子供のように奥に引っ込んでしまい、産精機能がなくなった状態。このとき、気が体内を巡るのが大周天。 <br /> <br /> これはまさに私がクンダリーニ経験(2回目)をした時から急にそのように変化した部分です。以前は割と性の問題に悩まされることも多かったのですが、今は性機能を意識的にコントロールできるようになりました。エネルギーの無駄使いをしないように基本的には性的な感性は出さずにエネルギーを体の上部の方に焦点を当てることで体の下部(ムーラダーラやスワディスタナ)にエネルギーが行かないようにしています。昔はこの制御が完全ではなくて性的欲求が出てきてしまったのですが、今はほぼコントロール下にありますし、時折バランスが崩れそうになっても瞑想などをすればコントロールは容易に戻るようになりました。性エネルギーが完全にゼロになったわけでもなく、性的な情報が目から入ってくればそれなりに性的な活力が活性化されたりもしますが、制御は以前より遥かにしやすい状態にあると言えます。<br /> <br /> パタンジャリの「ヨーガ・スートラ」に出てくるヨーガの八支則(アシュタンガ・ヨーガ)の1つ目「ヤマ(Yama)禁戒」の中に「ブラフマチャリヤ(Brahmacharya)禁欲」というのが出てきますが、大周天あるいはクンダリーニ経験(あるいはその他の状態?)の後でなければ本当のブラフマチャリヤはできないのでは、と今は思います。少なくとも私の場合はそうです。<br /> <br /> 以前のブラフマチャリヤは性の欲求を意思の力で押さえつけて性の問題が表に出ないように自分自身を律しており、それこそがブラフマチャリヤなのだと思っておりましたが、クンダリーニ(2回目)経験の後はブラフマチャリヤがとてもやりやすくなり、ブラフマチャリヤこそが自然の状態だと思えるようになりました。性の問題に悩まされていた頃の性欲を100とすれば以前のブラフマチャリヤによって60くらいにまで意思の力で性欲を無理やり押さえ込んでいたのですが、クンダリーニ(2回目)後の性欲は10前後で、必要に応じて意思の力で性欲を活性化させることもできますが基本は性欲が少ない状態になっています。これは活力が失われたということではなく、エネルギーがマニプラよりも上に来ていてスワディスタナへのエネルギーが制御されているために性欲が暴走しなくなっているのだと思います。エネルギーが上の方のチャクラに集まることで以前よりもポジティブなエネルギーの状態になっていますので、性欲がなくなったからと言って活力が失われたということではなく、性の方に費やされていたエネルギーがポジティブなエネルギーに変わることでエネルギーの無駄使いが減り、活力としては以前よりも確実に充実しています。<br /> <br /> 仙道的な説明で言うと「気と精のどちらにエネルギーを使うか」あるいは「気と精のエネルギー変換」というところになるかと思います。仙道の流派によっては「エネルギーを精(性)に使わずに気に使う」と解釈する流派や、視点を変えて「精(性)エネルギーを気に変える」とか解釈したりするようです。仙道には詳しくないので本を読んだ限りの理解ですが、「性エネルギーを気に変える」と言うのは違和感がありますね。根元のエネルギーがあって、それを性に使うのか気としてオーラとして使うのか、と言う視点の方がしっくり来ますが、このあたりは流派によって解釈がきっと異なるのでしょう。<br /> <br /> この書籍には大周天の要件が他にも書かれてあるのですが、その視点はクンダリーニ・ヨガにも応用できるといいますか基本は同一なのではないかと思いました。ヨーガとは表現方法は違いますが似たようなことが言われていますし、視点を変えてみてみると私に足りないものが見えてきた気がします。そのような意味で、この仙道の修行方法は興味深くて勉強になります。<br /> <br /> 仙道の「出神」とは自分の分身を出現させることですが、これを読んだだけだと奇抜な特殊なお話のように聞こえますが、ヨーガと関連してこれを読むと、これは肉体の分身ではなくて、ヨーガで言うところの「サハスララから自分の幽体を外に出す段階」に相当すると思われます。「密教ヨーガ(本山博著)」には本山博先生がサハスララから体の外に出る経験のことが書かれてありますが、同様の修行段階にあるのだと思われます。とすれば、表現方法が違うだけで類似の修行段階があると言うことで、仙道にせよヨーガにせよ根本は共通ということで興味深いものがあります。<br /> <br /> ■ハタ・ヨガ・プラディーピカに記されている「精力の克服」<br /> 上記と似た記述がハタ・ヨガ・プラディーピカにも見られます。3バージョンから引用します。<br /> <br /> <br /> ・(2章78番) ハタヨガの完成の兆候は次の通りです: (I)体が曲がるようになる、(II)顔が輝く、(III)明瞭な言葉、あるいは、内面の音(アナハタ音)が聞こえるようになります。 (IV)視力が明確になる。(V)身体のすべての病気から解放される。(VI)精液が制御される。(VII)消化の炎が刺激される。(VIII)ナディが浄化される。 (ハタ・ヨガ・プラディーピカ(Hatha Yoga Pradipika、Swami Vishnu-Devananda著))<br /> ・(2章78番) ハタ・ヨーガに成功したというしるしは、(1)身体が痩せる (2)顔色が冴えてくる (3)例の妙音がはっきり聞こえる (4)両目に曇りがない (5)無病 (6)ビンドゥ(精液)の克服 (7)消化力の旺盛 (8)気道が詰まっていない、等である。「ビンドゥの克服」というのは、注釈家によれば精力の消耗がないという状態のことだという。ある訳者は「精液を集中する」ことと解している。 (ヨーガ根本教本(佐保田 鶴治著))<br /> ・(Chapter 2 Verse 27) ハタヨガが達成されるのは次のような時です: 身体が痩せる。静かな表情。内なる音の現れ。きれいな目。無病。ビンドゥ(精液あるいは卵子)の制御。活発な消化の炎。ナディの浄化。 (Hatha Yoga Pradipika (Swami Muktibodhananda著, Swami Satyananda Saraswati監修))<br /> <br /> <br /> それぞれ同種のものをまとめて分かりやすい言葉に変えると以下のようになると思います。<br /> <br /> <br /> ・体が曲がるようになる。身体が痩せる。<br /> ・顔が輝く。顔色が冴えてくる。静かな表情。<br /> ・ナーダ音/アナハタ音が聞こえるようになる。<br /> ・曇りのない綺麗な目になる。<br /> ・体が丈夫になる。<br /> ・自然な(努力のいらない)ブラフマチャリア(禁欲)の達成。<br /> ・消化力のアップ<br /> ・ナディ(エネルギー/プラーナ/気の通り道)の浄化<br /> <br /> <br /> これらが現れることがハタヨガの完成の兆候であるならば、ハタヨガの先にまだまだあるということですね。一般的には、社会を健康に元気に過ごすためにはこのくらいで十分すぎるくらい十分なのかもしれないですが。<br /> <br /> <br /> (追記)<br /> <br /> ・・・これでこの話は終わりかと思っておりましたが、その後、更に劇的に性欲が減りました。詳しくは [別記事: 風のルンの竜巻でマニプラ優勢からアナハタ優勢に変化] にて。<br /> <br /> <br /> 上記の「別記事」の中で書きましたように、この続きがありました。第2回目クンダリニ(この記事)では性欲が10分の1になり、上記の「別記事」の中の体験では更に10分の1になり、トータルで100分の1になりましたが、それでも完全に性欲がゼロになった訳ではありません。ですが、基本的な方向性としてはこれは馬陰蔵相なのかなと思っております。肉体的に引っ込んだ状態についてもこの性欲の減少と同じくして、肉体的に完全に引っ込んだというわけではなく、性欲の減少の割合に応じて割と引っ込んだ状態になっております。<br /> <br /> <br /> <br /> <br /> Mon, 03 Jun 2019 00:00:00 +0900 ナーダ音が聞こえるのは右か左か、それとも両方か? https://w-jp.net/2019/1498/ <br /> この記事は 「アナハタ・ナーダの聖音とクンダリーニ」 と 「仙道におけるクンダリーニ、性的欲求の克服(馬陰蔵相)」 の続きです。<br /> <br /> ■再度、「左右」のお話<br /> 飛び飛びに記載していましたので、ここにまとめておきます。<br /> <br /> <br /> ・「瞑想をきわめる(スワミ・シヴァナンダ)」 → 右耳(前のページに引用)「アナーハタの音は右の耳から聞こえます。」とあります。<br /> ・「Meditation and Mantra (Swami Vishnu-Devananda著)」 → 右耳(前のページに引用)「右耳でのみ聞く訓練をしましょう」という立場。<br /> ・「ハタ・ヨガ・プラディーピカ(Hatha Yoga Pradipika、Swami Vishnu-Devananda著)」 → 右耳。「右耳で聞こえる」とだけ書いてあります。<br /> ・「ヨーガ根本教本(佐保田 鶴治著)」 → 右耳。「右耳で聞くべし」と書いてあります。<br /> ・Hatha Yoga Pradipika (Swami Muktibodhananda著, Swami Satyananda Saraswati監修) → 左右は重要ではない、という立場。(前のページに引用)<br /> ・スピリチュアリスト、ドリーン・バーチュー → 左耳(彼女の体験)<br /> ・「オーラ13の魔法の法則(小宮ベーカー・純子著) → 左右の記述なし<br /> <br /> <br /> 前のページに書いたように「右から聞こえるのがピンガラ。左から聞こえるのがイダ」と最初は解釈しました。最近の(私の)仮説は「ハタ・ヨガ・プラディーピカの著者は右側のピンガラが優性だった。左側のイダが優性だと左側から聞こえる。両方活性化されていると左右両方から聞こえる」のかなと思っています。であれば、ヨーガ行者の多くが男性であれば右のピンガラが優性な人が多いのもうなずけますし、女性が左のイダが優性で左耳から聞こえやすい、というのは理にかなっています。<br /> <br /> ただ、書籍によっては左右の記述はなく、単に内なるアナハタチャクラの音を聞く、とだけ記載されていたりもします。<br /> <br /> ちなみに私の場合、最初は明らかに「左耳」で聞こえていたのですがやがては両方の耳から聞こえるようになり、今は左耳の方が音量が大きい、という状態です。 自分がこんな感じに聞こえていなければ(おそらく)ここまで拘ったりしないです。 聖典と違うのは何かが問題なのか、あるいは、それでもいいのか、と言うのは微妙ですがそれなりに重要なお話です。<br /> <br /> 他の(私の)仮説は、そもそもこの「右耳」の話はハタ・ヨガ・プラディーピカ 4章67版に書かれてあるのが元と思われますので、実はそこは単に右耳から聞こえるというだけでなく、アサナの説明の中で右耳から聞こえる、と書いてありますので、そのアサナを練習すると右耳から聞こえるようになる、とも解釈できなくもないです。でも、それほど右耳に特化しているアサナのようにも思えませんが。<br /> <br /> ですが、やはり Hatha Yoga Pradipika (Swami Muktibodhananda著, Swami Satyananda Saraswati監修)の「左右は重要ではない」と言う説明が一番それっぽいです。考えすぎですかね。<br /> <br /> ■新しいナーダ音<br /> 2019年5月末。その後、新しいナーダ音が聞こえ始めました。これがナーダ音かどうかは微妙なところですが、普段聞こえている高周波(4096Hzに近い)のピーという音に加えて、それよりは音量が更に 1/5 くらいのとても微妙な音が聞こえ始めました。それは、微かな「グワン、グワン、グワン」という感じの音で、とても音量は小さいけれども「大きめのシンギングボール」が「低めの音」で、「遠くからかすかな音」で聞こえている感じです。<br /> <br /> 私の場合、普通のナーダ音は普段の生活でも普通に聞こえているのですが、この新しいナーダ音は周囲が聞こえないと気付かないくらいとても繊細な音です。最初は遠くの音かとも思いましたが、ヨガスタジオや家でも変わらず聞こえますので、微妙なところではありますがとりあえずナーダ音認定してあります。「Meditation and Mantra (Swami Vishnu-Devananda著)」にも、「小さな音量のナーダ音を聞くようにしましょう」みたいなことが書かれてあったような気がしますので、私は基本はこれに従って、なるべく小さな音量のナーダ音の方を聞くようにしています。<br /> <br /> これは、今まで聞いた他のナーダ音のように一定の音ではなく、まるで声か音楽のようにリズムがあります。トンネルの中の空気の圧力というか音がこだましたグワングワンした感覚にちょっと似ていなくもないですが、そこまで大きい音ではないです。<br /> <br /> 何か、今まで聞こえてきたいくつかのナーダ音とはどこか違っている感じを受けます。今まで聞こえていたのは自然界あるいは肉体あるいはアストラル体の構造的なものから一定の微細な音が聞こえる、という雰囲気でしたが、今回は、どこかリズムがあるような気がします。喋る時の抑揚に似ているかもしれません。言語としては理解できないのですが。<br /> <br /> これがひょっとしたら、いくつかの書籍で書かれていた「ナーダ音の言語化」に繋がってゆくのですかね? まだ意味の解釈はできませんが。<br /> <br /> ■六角形の結晶のナーダ音<br /> つい先日、いつものピーと言う高周波のナーダ音が違って聞こえることがありました。音だけでなく、まるで六角形の結晶が何百個も何千個も寄り添ってそれぞれ振動して響いているかのようなイメージも感じました。いつものピーと言う高周波を細かく見聞きするとそんな感じになるのかな、と。ナーダ音は耳で聞こえるものなのに、何故かこの時は映像のイメージで見えたのです。イメージと音とを同時に見聞きしました。高周波のピーと言う音はそれを聞いて終わりではないのかもしれません。もしかしたら古典や聖典に書かれてある「微細なナーダ音を聞くようにしましょう」とは、微細なナーダ音が別にあるのではなくて既存のナーダ音をしっかりと細かく見ると別の音や姿で見える、と言うことなのかもしれません。 一回見ただけなのでまだそれほど確証はありませんけど。<br /> <br /> これは、すぐ上にある「新しいナーダ音」とは別物で、完全に既存のナーダ音を詳細に見聞きしたものです。<br /> <br /> 初期に聞こえていたベルの音だとか虫の音の変形バージョンとも言えなくもないですが、それよりも遥かにパワフルな感じです。実は元々同じ音で、聞こえやすくなったから音が重なってピーという高周波に聞こえていたけれども細かく見ればそれは元々一緒の音なのかもしれません? ベルの音や虫の音を「音の波形編集ツール」とかで何重にも重ねたらきっとそれは高周波成分になってただのノイズというかピーという高周波に近づくかもしれません? でも、それぞれの音を分解してみるとまたベルの音や虫の音に戻る? 元々聞こえなかった音が心で聞こえるようになって、聞こえすぎるからピーという高周波になって、更に集中が進んで細かく見れるようになるとそれぞれが結晶で見えてくる、という仮説を立ててみます。 音が沢山重なっているからピーという高周波はパワフルなのも理にかなっています。まだ仮説ですけど。<br /> <br /> ■言語<br /> 例えば、以下のように、ナーダ音はやがて言語化されて理解されるようになる、と多くの書籍に記載されています。<br /> <br /> クンダリーニが動き出す時、時々、内部の声あるいはそれに類する音が意識の深いところで聞こえるようになります。実際の現象は理屈で説明するのはとても難しいのです。と言うのも、それは物理的な音というよりは感覚的なものだからです。それは時には2つの木がお互いに話しているかのようなものです。これは、高い意識の状態です。最終的に、内部の声は純粋な振動になり、映像でもなく考えでもなく音でもないものになります。しかし、それでも、それを通じて理解することができます。まるで言語を話しているかのように。 (Hatha Yoga Pradipika (Swami Muktibodhananda著, Swami Satyananda Saraswati監修) P564)<br /> <br /> 他には、上に引用した「ダライ・ラマの密教入門」にも類似のことが書かれてありますし、覚えきれないくらい当たり前のように色々な書籍で見る気がします。実際にそこまで到達する人はそれほど多くなさそうですけれども。<br /> <br /> 私が最近聞こえ始めた、新しいナーダ音が「それに類する音」かもしれない? まだ様子見です。<br /> 「2つの木がお互いに」と言う記述は、「六角形の結晶のナーダ音」に近いものなのかもしれません。こちらも、まだ様子見です。<br /> <br /> ■音楽っぽいナーダ音<br /> 2019年5月末。基本はピーという高周波であることには変わりがないのですが、ここ最近、何やら、音楽っぽく聞こえてきました。<br /> <br /> 上にも書きましたがナーダ音は「天空の音楽(ピタゴラス派)」とか「クリシュナの笛(ヒンドゥ教)」とも言われていますが、今までのナーダ音は「音楽という感じでもない」と思っていましたので、どうもこの表現が腑に落ちなかったのですが、ここ最近は音楽っぽくなってきましたので、この表現はなかなかそのものズバリの表現かもしれない、という感じになってきています。<br /> <br /> 聞こえているナーダ音はピーという高周波が基本で、高周波には変わりがないのですが高周波の中の狭い周波数のレンジ内で音程が多少は上下していました。今まではその上下はあまり気にしていなかったと言いますか、とても長い周期でちょっとづつ変わっていくような感じだったと思います。なので、基本は割とピーという一定音っぽい感じで聞いていたのですが、今までよりちょっとだけ短い周期で音程が上下するようになった気がします。<br /> <br /> 何ですかね、この違いは。例えて言うのであれば、コンサートホールのアリーナほどははっきり聞こえないにせよ、外100mで漏れ聞こえる音とコンサートホールのエントランスで漏れ聞こえる音との違い、とでも言いましょうかね? 今までは、 何やらノイズっぽい音が雰囲気と共にコンサートホールの外100mまで流れ出て聞こえてはいるものの音楽とはあまり識別できないでいたのに対して、最近はエントランスまで近づいて昔より音楽っぽく聞こえてきた、と言いますか。<br /> <br /> それと当時に、聞く側の私の心の変化もあると思います。ナーダ音が聞こえるようになる前は音楽を聴いたりしていましたが、ナーダ音が聞こえてからは音楽をほとんど聞かなくなりました。昔はクラシックであっても多少は旋律がはっきりしたものが音楽という固定観念があったのに対して、今はどんどんと好みがマイルドになってきて、それ故に、こんなシンプルなナーダ音であっても音楽のように聞こえるようになった、という違いもある気がします。音楽だけでなく食べ物も飲み物も薄味になってきています。昔であればこんなシンプルなナーダ音の旋律は音楽とは認識していなかったと思います。その心の変化もあると思います。<br /> <br /> 今までも音量が変わったり聞こえ方が若干変化したりはしていましたので、おそらくは元の音はそれほど変わっていないような気もします。昔も、時には変わって聞こえたり音程が変わったりしていた気がしますので、今までもたしか同じように変化しつつ聞こえていたと思います。音程が変化するという点に関しては前から変わらないにせよ、言葉で言い表すのは難しいのですが、何か、聞こえ方と言いますか、聞こえる感覚が違っているのです。昔は音程が変化してもあまり気にならずに「そんなものか」と流していたと言いますか、音程が多少上下しても心はそれを「一定」と認識していたのですが、今は、同じように音程が変化する音を「音楽」として認識し出したのです。ということで、ナーダ音が変わったというよりも、それを聞く側の認識と言いますか心が変化したのかもしれません。あるいは、両方かもしれないです。<br /> <br /> 以前聞こえていたナーダ音をはっきりとは再現できないのですが、比較対象として上にリンクのある4096HzのYoutubeと比べてみたところ、ちょっと合わない感じです。であれば、やはりナーダ音もちょっとだけ変化したのかもしれません。<br /> <br /> ここから更に音楽っぽく聞こえるようになるのか、あるいは、ここで終わりなのかはちょっとわかりませんけど。まだまだ様子見です。<br /> <br /> 上に引用した「7種類の音」に分類するならば、今まではっきりと認識できたのは1番「ウズイスの声」、2番「銀のシンバル」、3番「貝から聞こえる海のメロディ」までははっきりと認識できており、最近までの聞こえ方がヴィーナなのかフルートなのか区別が付きにくかったのですが、どうやら新しく聞こえてきたのは「フルート」っぽい感じですので、最近まで聞こえていたピーという高周波はきっと4番の「ヴィーナの歌」なのでしょうね。ヴィーナは日本人には親しみがないですがYoutubeで検索するとそれほど高い音程でもなくて割と中間の音程っぽい感じですので、5番のフルートあるいは竹の笛の音よりも低い音だとすれば、最近までが4番の「ヴィーナの音」で、ここ最近ようやく5番「竹の笛、フルート」が聞こえつつあるのかな、という感じがします。以前書いた上の方の記述には5番のフルートが聞こえたような記述もありますけど、それは4番のヴィーナに訂正ですかね。<br /> <br /> 今5番だとすれば、あとに続くのが6番の「ラッパの音、トランペットの一吹き」と7番の「轟々たる雷鳴」ですね。ナーダ音が聞こえ始めて1年半ほど経ちましたが、ちょっとづつ進んで行くのですね。面白いです。<br /> <br /> 2017年11月前後〜2018年始め:1番「ウズイスの声」、2番「銀のシンバル」、3番「貝から聞こえる海のメロディ」音量は最小<br /> 2018年始め〜2019年5月中旬:4番「フルート」普段の生活でも常に聞こえるようになる<br /> 2019年5月後半〜:5番「竹の笛、フルート」。感覚の変化。音楽っぽい感じ<br /> <br /> <br /> <br /> <br /> Mon, 03 Jun 2019 00:00:00 +0900 クンダリーニをサハスララまで上げる https://w-jp.net/2019/1559/ <br /> この記事は 「アナハタ・ナーダの聖音とクンダリーニ」 の続きです。<br /> <br /> (以前にも少し書きましたが)クンダリーニ経験をしたら終わりではなく、その後、更に練習を続けてクンダリーニをサハスララまで上げる必要があります。<br /> <br /> クンダリーニが目覚めたとしてもほとんどの場合それは直接サハスララにまで登りません。1つのチャクラからもう1つ上のチャクラへと登らせるためには集中と忍耐が必要です。時には後退し、再度多大な努力を使って再度登らせなくてはならないかもしれません。クンダリーニがアジナ・チャクラまで登ったとしても、それを保持するのは難しいでしょう。Sri Ramakrishna、Sri Aurobindo、 Swami Sivananda のような偉大なヨーギだけが長時間そこに保つことができました。最終的にクンダリーニがアジナからサハスララに登った時、合一(ユニオン)が起こります。しかし、その状態は最初のうちは長い時間続きません。長い期間、継続的な練習が行われた後でのみ純粋で革新的な合一の経験がやがては永遠のものとなり、そして最終的な解脱(モクシャ)に至るのです。「Meditation and Mantra (Swami Vishnu-Devananda著)」<br /> <br /> ここでチャクラの話が出てきますが、クンダリーニの目覚めは以下のようなものが正しいと思います。<br /> クンダリーニの目覚めは、あなたの振動レベルが上がることを意味します。「ああ、私のクンダ リーニは第 3のチャクラに達しました - 第 4のチャクラ - 今度は第 5のチャクラのほんの 2 インチです」などと考えないで下さい。 このようにクンダリーニが目を覚ますのではありません。 実際には、波動の周波数が増加すると変化するのはオーラの状態なのです。 これが実現されると、あなたの平和と喜びは比例して増加します。 普通の人が幸せだと思っているのは、貴方にとって痛みでしかなくなります。 官能的な経験はだるくて退屈になり、あなたはもはや飲酒、喫煙、賭博を必要としなくなります。その状態になると、クンダリーニが目を覚ましたことを意味します。 「ハタ・ヨガ・プラディーピカ(Hatha Yoga Pradipika、Swami Vishnu-Devananda著)」(読みやすいようにセンテンスの順番を少し入れ替えました)<br /> <br /> チャクラの感覚というのはそれはそれとしてありますが、クンダリーニの目覚めとしてはこのようなものだと思います。人によっては、この記述を持ってして「チャクラの感覚はないのが正解」と思ってしまう人もいるようです。実際にヨーガの先生でそのような人がいました。ですが、この文章では、クンダリーニの目覚めはチャクラで分割されるようなものではない、と言っているだけだと私は理解していますし、自分の経験としてもそうだと思います。一方で、各チャクラの感覚というものはそれはそれとしてあります。<br /> <br /> ヨーガ行者の本山博先生はスワミ・サッチャナンダの主張を引用して以下のように伝えています。<br /> 目覚めたクンダリニーのエネルギー、シャクティが上昇しますが、ほとんどの場合、マニプラチャクラまで上昇すると、またムーラダーラチャクラに下降します。もし実習者がマニプラをこえて登頂までエネルギーが上がったような感じでも、それはシャクティの全体が上がったのではなく、そのわずかな一部が上昇したにすぎません。<br /> マニプラをこえてクンダリニーが上昇するには実習者は繰り返し繰り返し、熱心にクンダリニーを目覚めさせることが大切です。マニプラをこえてクンダリニーが上昇すると、もうなんの障害もないのですが、クンダリーニがムーラダーラやスワディスタナチャクラを目覚ましただけでは、いろいろな障害が生じると、サッチャナンダは言っています。 「密教ヨーガ(本山博著)」 ここで言うサッチャナンダとは、参考文献を見るとビハールスクールのSwami Satyananda Saraswatiのことのようです。私の手元には彼の著作物/監修として、上で引用した Hatha Yoga Pradipika (Swami Muktibodhananda著, Swami Satyananda Saraswati監修) があります。いま手元にはないですが「Kundalini Tantra」もSwami Satyananda Saraswatiの著作ですね。<br /> <br /> <br /> Thu, 28 Mar 2019 00:00:00 +0900 覚醒の形態 https://w-jp.net/2019/1558/ <br /> この記事は 「アナハタ・ナーダの聖音とクンダリーニ」 の続きです。<br /> <br /> スワミ・ヨーゲシヴァラナンダは「魂の科学」の中で以下のように記しています。<br /> <br /> クンダリニーの覚醒には、次の2つの形態があります。<br /> (1) 生気の上昇 (Pranotthana)<br /> (2) 光輝状態の始まり。「魂の科学(スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ著)」<br /> <br /> このうち、(1)の生気の上昇 (Pranotthana)の中にナーダ音があります。基本的には今まで調べた事と類似ですが、細かいニュアンスに違いが見てとれます。<br /> <br /> 「生気の上昇」の説明が以下のように続きます。<br /> <br /> 身体下部で動くアパーナ気は瞑想修行によって興奮状態となり、ムーラダーラ・チャクラ内の神経を刺激します。蟻が這ったり湯や蒸気が動いているかのように感じられたり、時には、冷たく感じられ、体全体がゾクゾクしたり頭髪が逆立ったりもします。この生気の上昇は特別な調気法や身体浄化法(Shat Karma)によっても引き起こされる場合があります。浄化された後では、脊髄中にあるスシュムナー菅の基底部から上部に至るまでアパーナ気が動くのを感じられます。やがてその動きは早くなり、そのため、行者の四肢がよく痙攣したりします。他にも、ベルの鳴る音や、鳥がチイチイ鳴く声、コオロギの声、ドラムやシンバルの音、リュートやフルートの音、それに雷の音などを聞く者もいます。こうした音は、何年にもわたって聞こえ続けるのです。こうして修行を休みなく続けてゆけば、やがては諸々の障害が除かれ、スシュムナー菅の中を脳に至るまで、生気が自由に、しかも適量に流れるようになってきます。「魂の科学(スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ著)」(P150~ 抜粋しつつ引用)<br /> <br /> この本では、ナーダ音の立ち位置がはっきりと示されています。この著者はインドのリシケシでヨガニケタンというアシュラムを作った聖者の筈なので、さすがに凄い見識ですね。 ニュアンスとして「完全に浄化されればナーダ音は聞こえなくなる」と読み取れます。実際のところはそこまで私が到達してみないとわかりませんが。 この本には、これに続く段階も記されています。<br /> <br /> やがて修行の段階が進めば、半覚醒の状態(Tandra)、よく眠った状態(Nidra)そして暗性優位の三昧(Tamasik Samadhi)といった境地を体験できるようになってきます。こうした境地はヨーガ・ニドラ(Yoga Nidra)と呼ばれることがあります。この段階では真の叡智を得ることは不可能ですので、これに続いて、叡智の光が輝きわたり意識もはっきりしているより高い三昧(サマーディ)の境地に入って行かなければ、解脱とか絶対者ブラフマンを知るといったことは不可能なままになってしまいます。「魂の科学(スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ著)」<br /> <br /> 浄化の後にサマーディが続く、ということのようです。この後の段階でようやくチャクラが出てくるようです。<br /> <br /> (クンダリーニの)生気の上昇でチャクラに触れた感じはするかもしれません。しかし、それでもまだチャクラの姿は視ることができないでしょう。たとえ生気の上昇があった後でも、チャクラが暗性によって被われている間はチャクラの姿を視ることはできませんし、チャクラ内に隠されている力を経験することもできないのです。そうした状態のことを比喩して、蓮の花はまだ蕾のままで開花せずにいると言ったりします。しかし善性(Sattwa)の光が増してくれば花は開き、チャクラも見えてくるようになってくるというわけです。「魂の科学(スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ著)」<br /> <br /> まとめますと、順番として以下になるでしょうか。<br /> <br /> <br /> ・浄化<br /> ・体の震え。ナーダ音が聞こえる(聞こえない人もいる)。 <br /> ・クンダリーニの1段階目「生気の上昇 (Pranotthana)」<br /> ・暗性(Tamas)優位の状態。チャクラの感覚の始まり(触れた感じ)。(まだチャクラは見えない) (私は今ここ)<br /> ・半覚醒の状態(Tandra)、よく眠った状態(Nidra)、暗性優位の三昧(Tamasik Samadhi)などを経験する人もいる。<br /> ・クンダリーニの2段階目「光輝状態の始まり」<br /> ・ 善性(Sattwa)優位の三昧(サマーディ)、チャクラの開花(見えてくる)(私は未体験)<br /> <br /> <br /> まだまだ先は長そうですね。<br /> クンダリーニ体験である程度の段階まで来たような気がしていましたが、まだ頂上は遠いことに気付いた感じです。<br /> <br /> 補足:<br /> 最初これを書いた時はクンダリーニの1段階目「生気の上昇 (Pranotthana)」について「これは普通クンダリーニ とは言わない気がします」と書きましたが、誤認だったようです。1段階目がいわゆるクンダリーニ の上昇体験ですね。クンダリーニの2段階目「光輝状態の始まり」はどうやらサハスララに関するもののようで、私は未体験のようです。「ヨーガの極意(小山一夫著)」には著者の1段階目の経験および2段階目について書かれてあるので私の認識間違いに気付きました。こういう時に師がいないと勘違いしやすいですね。<br /> <br /> <br /> Thu, 14 Mar 2019 00:00:00 +0900 音のないところ https://w-jp.net/2019/1557/ <br /> この記事は 「アナハタ・ナーダの聖音とクンダリーニ」 の続きです。<br /> <br /> ハタ・ヨガ・プラディーピカ(Hatha Yoga Pradipika)4章101~102番に「音のないところ」の境地が描かれています。この記述は難解な部分もあるので幾つかの書物を見比べてみます。<br /> <br /> (4章101~102番) アナーハタ音のひびきが聞こえる間は虚空についての想念はまだ存在している。かの音も無いところが至上の梵、至上の我であるとうたわれている。音の形で聞こえるものはシャクティに他ならない。すべての存在の没入する場であり、そしてなんらの形相の無いものこそが至上神(アートマン)である。 「ヨーガ根本教本(佐保田 鶴治著)」<br /> (4章101~102番) アーカーシャの概念(音の生成)は、音が聞こえている限り存在する。音の無い状態はパラ・ブラフマンあるいはパラ・アートマンと呼ばれている。ナーダとして聞こえる音は何であれ、それはシャクティであるに過ぎません。最高の真実は形がないものです。それこそがParamesvara(至上の主、Supreme Lord)です。「ハタ・ヨガ・プラディーピカ(Hatha Yoga Pradipika、Swami Vishnu-Devananda著)」<br /> (4章101~102番) アーカーシャの概念(音の本質)は音が聞こえている間は存在する。音のない状態こそが最上の真実であり、至上のアートマン(Supreme Atma)と呼ばれている。神秘的なナーダの働きとして聞かれるものは何であれシャクティに過ぎない。全ての要素(panchatatva: panch + tatva, 五大元素, Prithvi (Earth), Jal (Water), Agni (Fire), Vayu (Air) and Akash (Space))が中で溶解しているもの、それこそが形のない存在(formless being)であり、至上の主(Supreme Lord, Parameshwara)である。「Hatha Yoga Pradipika (Swami Muktibodhananda著, Swami Satyananda Saraswati監修)」<br /> <br /> Swami Muktibodhanandaによる解説を引用します。<br /> 五大元素はそれぞれの質(quality)を持っている。音はアーカーシャ・タットヴァの質であり、五大元素のうち最高で最も繊細なものです。音が存在していることを意識していたり、あるいは、貴方が音そのものであったとしても、そのような状態であるうちはまだ貴方は最高の状態の中に溶け込んではおらず、まだ最高の状態になってはいません。アートマンの中では"これ/存在する(is)"とか"これではない/存在しない(is not)"という概念は存在しない。よって、"音が存在する"とか"音が存在しない"という概念も存在しない。よって、音が聞こえているということはアートマンの中にはいないことがわかります。「Hatha Yoga Pradipika (Swami Muktibodhananda著, Swami Satyananda Saraswati監修)」<br /> <br /> おそらく、このあたりがナーダ音の真実の最終理解なのでしょう。意識の壁を突破しなければこの最終的な状態は理解できないのかなと思います。<br /> <br /> 同書では、この後にスピリチュアルで有名なたとえ話「波と海」が紹介されています。<br /> 個人としての存在は例えるなら海における波です。波は海とは隔てられているように見えるかもしれませんが、しかしながらそれは全体の一部であります。「Hatha Yoga Pradipika (Swami Muktibodhananda著, Swami Satyananda Saraswati監修)」<br /> <br /> このたとえ話は有名すぎてスルーしてしまいそうなところですが、ナーダ音の最終理解と結びついてこの話が出てくるところがとても興味深いです。このたとえ話はわかるようでいてわからない話で、とりあえず頭で理解することはできますが、いくら理解してみたところで私という存在はあくまでも個人として分かれているし、それが一緒だと言われても最初はよくわからないわけです。世間で多くの場合はこのたとえ話は「道徳」として語られているように思えますが、このハタ・ヨガ・プラディーピカでそれがまさにナーダ音との繋がりとして説明されているところがとても興味深いわけです。<br /> <br /> 瞑想はやがてサマーディになる。その時、意識は瞑想の対象(Object)と一緒になり、二重性は融解する。「Hatha Yoga Pradipika (Swami Muktibodhananda著, Swami Satyananda Saraswati監修)」P452<br /> <br /> よって、ナーダ音の場合はナーダ音そのものが瞑想の対象(Object)であり、ナーダ音との二重性を融解させるところが次の目的地になります。<br /> <br /> アートマンの属性はサッチダナンダ(satchdananda, Sat:存在 + Chit:意識 + Ananda:至福)として知られている。私は存在(Sat)している、私は意識(Chit)している、私は至福(Ananda)だ、私は執着していない、私は光に満たされている、私は二重性に囚われていない、という状態。音を対象(Object)としたサヴィカルパ・サマーディです。「Hatha Yoga Pradipika (Swami Muktibodhananda著, Swami Satyananda Saraswati監修)」P589<br /> <br /> 音と同一化して、音が聞こえないところにまで到達することがサマーディである、と解釈できます。サマーディには各種あってサヴィカルパ・サマーディはその1つです。<br /> <br /> そう言えば、クリアヨガの先生とナーダ音について話をした時に、「その音の発生元を確かめなさい」と言われたのを思い出しました。その意図としては、「物理的な音でないことをまず確認しなさい。ナーダ音であるならば内から聞こえている筈で、その場合でも、内なるナーダ音がどこから聞こえているか確認しなさい」と言われて、前半部分はともかく、後半部分の理解がその時はあまりできなかったのですが、今思えば二重性やサマーディに関することを言っていたのかなと推測できます。<br /> <br /> こうして「ナーダ音のないところにまで達するべきだ」「ナーダ音の発生源を見つける」「ナーダ音やその発生源と一体化する」、と道が示されました。その先にはサマーディが続きます。サマーディによってナーダ音は消え去る筈です。おそらく。もしかしたらサマーディ中だけ消え去るということなのかもしれませんが、そこはまだ体験していないので分かりません。<br /> <br /> <br /> <br /> <br /> <br /> Thu, 07 Mar 2019 00:00:00 +0900 クンダリーニがアジナ・チャクラに届くと主の声が聞こえる https://w-jp.net/2019/1556/ <br /> この記事は 「アナハタ・ナーダの聖音とクンダリーニ」 の続きです。<br /> <br /> ■クンダリーニがアジナ・チャクラに届くと主の声が聞こえる<br /> 同書には以下のような記述があります。<br /> 書籍「沈黙の声」にはクンダリニーが眉間のチャクラに達してそれを十分に活気づけると主の声(この場合は高次の声を意味する)を聴く力が開ける、と記されています。それは、眉間にある脳下垂体が働くようになるとアストラル体と完全に繋がり、それを通じて内部より発する意思をすべて受信しうるようになるからである。「神智学大要 第2巻 アストラル体[上]」(アーサー E.パウエル著)<br /> クンダリーニがエーテル体を活性化することによって肉体からエーテル体を通じてアストラル体と繋がる、ということだと思います。クンダリーニがエーテル体だけでなく全ての根元のエネルギーだとしても、主に我々に関連するのはこの辺りなのでしょうね。<br /> <br /> ここで、「沈黙の声」の原典(邦訳版)に実際にどのように書かれているかを確認してみると、以下のようにあります。<br /> クンダリーニを心臓の部屋、世界の母の住み給う懐にあらしめよ。しかるとき、心臓より力興って第六の天、即ち汝の眉間に登らん。力が一なる大霊の呼吸とならば、万有に満つる声は汝の<至上我>の声なり。「沈黙の声」(H・P・ブラヴァツキー 、竜王出版のバージョン)<br /> 原文より神智学大要の方が随分とわかりやすいです。<br /> <br /> ただ、「神智学大要 第2巻 アストラル体[上]」(アーサー E.パウエル著)には「大抵の人は、このチャクラの覚醒に初めて着手したとすれば、それを今生で実現するのは不可能である。」と、絶望的な事も記載されています。<br /> <br /> Wed, 27 Feb 2019 00:00:00 +0900 神智学的な解釈に基づくクンダリーニ https://w-jp.net/2019/1555/ <br /> この記事は 「アナハタ・ナーダの聖音とクンダリーニ」 の続きです。<br /> <br /> ■神智学的な解釈に基づくクンダリーニの効用<br /> 「神智学大要 第1巻 エーテル体」(アーサー E.パウエル著)には以下のように記載されています。<br /> クンダリニーは「世の母」などといろいろな呼ばれ方をしている。<br /> 人間の肉体、エーテル体(幽体)、アストラル体、メンタル体その他はクンダリニーによって賦活(それに活力を与える)されているので、「世の母」という名称はふさわしくもある。クンダリニーは現在われわれに知られている限りではあらゆる界層に存在している。<br /> ただ、これは雲を掴むような話ですので、ひとまず私たちに手が届きそうな範囲でもっと具体的には以下のように関係するようです。<br /> クンダリーニの主な動きは、各エーテル(幽体)中枢を経由しながら賦活(それに活力を与える)して、アストラル経験を肉体意識にもたらすことである。アストラル体の感ずる力、すなわち、正確な理解というところまではいかないが、ともかく感受する力を呼び覚ます。<br /> 前提として、神智学においては肉体の次にエーテル体(幽体)そしてアストラル体と続きますので、クンダリーニによって肉体とアストラル体を結ぶ部分のエーテル体(幽体)が活性化されます。<br /> 「神智学大要 第2巻 アストラル体[上]」(アーサー E.パウエル著)では少し表現を変えて同様のことを以下のように説明しています。<br /> クンダリーニの主な機能は、エーテル体のチャクラを通過することによってチャクラに勢いを与え、これらのチャクラと肉体とアストラル体との連結門として活用できるようにすることである。<br /> <br /> ■クンダリーニは生まれ変わるごとに上げる必要がある<br /> 以下のような記述があります。<br /> クンダリーニは生まれ変わってくるごとにこれを支配する努力をくり返さなければならない。それは真我である霊はもちろん常に同一であるが、各体は生まれ変わるごとに新しいものとなっているからである。しかし、いったん完全に支配してしまえば、次の生からは反復も容易になってくる。「神智学大要 第1巻 エーテル体」(アーサー E.パウエル著)<br /> <br /> Fri, 22 Feb 2019 00:00:00 +0900 クンダリーニ・シャクティと3つの体との関係 https://w-jp.net/2019/1554/ <br /> この記事は 「アナハタ・ナーダの聖音とクンダリーニ」 の続きです。<br /> <br /> Hatha Yoga Pradipika (Swami Muktibodhananda著, Swami Satyananda Saraswati監修) には以下のように説明されています。<br /> ・肉体はプラーナ・シャクティの保存庫。<br /> ・心(マインド)はマナス・シャクティの保存庫。<br /> ・アートマはアートマ・シャクティの保存庫。<br /> 私たちはこれら3つから出来ており、互いに影響し合っている。心が何がしかに惹きつけられる時、これら3つの全てがその中に吸い込まれる。我々が何を願うかという意思をはっきりさせる必要があるのはこのためであり、それ故に、高い意識と知識を求める人が進歩するのはこのためである。<br /> <br /> Thu, 21 Feb 2019 00:00:00 +0900 クンダリーニは諸刃の剣 https://w-jp.net/2019/1553/ <br /> この記事は 「アナハタ・ナーダの聖音とクンダリーニ」 の続きです。<br /> <br /> 特に神智学系の人が好んで引用する一文がハタ・ヨガ・プラディーピカ(Hatha Yoga Pradipika)3章107番(バージョンによっては106番)にあります。<br /> <br /> <br /> ・「それ(クンダリニー)はヨーガ行者には解脱を、愚者には束縛を、与える。」(「神智学大要 第1巻 エーテル体」(アーサー E.パウエル著))<br /> ・「クンダリーニの覚醒は、ヨギには解脱を与え、愚者には苦悩のくびきを与える」(「チャクラ」(C.W.リードビーター著))<br /> <br /> <br /> この引用部分について原文には以下のようにあります。<br /> <br /> <br /> ・「クンダリー・シャクティはカンダの上方で眠っている。このことは、ヨーギーにとっては解脱の因となり、痴人には束縛の因となる」(ヨーガ根本教本(佐保田 鶴治著)の訳。これは3章の106番。107番ではなく。)<br /> ・「クンダリーニ・シャクティはカンダ(ナディが結合して離れている臍の近くの場所)の上に眠っています。 それはヨーギにムクティ(解放)を、愚か者には束縛を与える。 シャクティを知っている人は、ヨガを知っている人です。」(ハタ・ヨガ・プラディーピカ(Hatha Yoga Pradipika、Swami Vishnu-Devananda著))<br /> ・「クンダリーニ・シャクティはカンダの上で眠っている。このシャクティはヨーギにとっては解放の手段であるが、無知な人にとっては束縛となる。」(Hatha Yoga Pradipika (Swami Muktibodhananda著, Swami Satyananda Saraswati監修) ) <br /> <br /> <br /> カンダについては3章113番あるいはバージョンによっては112番で解説されており、簡単に言うと「アヌスの上」となっています。<br /> <br /> Thu, 21 Feb 2019 00:00:00 +0900 クンダリーニとチャクラ https://w-jp.net/2019/1552/ <br /> この記事は 「アナハタ・ナーダの聖音とクンダリーニ」 の続きです。<br /> <br /> ■クンダリーニとは?<br /> 「あるがままに(ラマナ・マハリシ著)」によると「クンダリーニとはアートマ、真我あるいはシャクティのもうひとつの名前にすぎない。我々はクンダリーニを身体のなかにあるように語る。なぜならわれわれ自身をこの身体によって限定された存在として見なしているからである。だが、実際クンダリーニは真我と異ならず、内側にも外側にも存在しているのである。」とあります。私の直感としてはこれは正しいと思います。一般的にはこれらはそれぞれ別のものとして認識されていると思いますが、ラマナ・マハリシ師の見解はどこか「しっくり」きます。<br /> <br /> 同様に「ヨーガの極意(小山一夫著)」によると「クンダリーニの覚醒とは単にエネルギーが高まりそれを制御できるようになったというだけの話です。クンダリーニの価値はそれをどう使うかにかかっているのです。」「クンダリーニが覚醒すれば人格が一変し聖者の如く立ち振る舞う、かのような話はあまり当たっていないと思います。」とありますが同感です。同署の中で他書「魂の科学(スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ著)」の引用として「たとえクンダリーニが目覚めたとしても、それは大抵の場合、その一部が目覚めたに過ぎない」と書かれてあります。これも同感です。<br /> <br /> 「密教ヨーガ(本山博著)」では著者の体験談として初めてのクンダリーニ上昇経験が書かれてありますが、最初のクンダリーニ経験ではムーラダーラが目覚めただけで他のチャクラは更に開発しなくてはならなかったようなことが記載されています。又、「ムーラダーラチャクラの内に住むクンダリニーの目覚めなしには、どのチャクラも目覚めない」とも記載されています。私の感覚から言っても、クンダリーニ経験前は体の中の気の流れがほとんどない場所が多かったのが今は感じられるようになりましたので、クンダリーニ経験が全ての始まりであり、クンダリーニなしには何も始まらない、というのはその通りかなという気がします。<br /> <br /> 「ヨーガの極意(小山一夫著)」では気功の見解を紹介して「先天の気」と「後天の気」について解説しています。「クンダリーニとは先天の気を言います。この先天の気とは母胎内で流れていた気(元気)と生を受けた時に初めて得た気(真気)に分かれます。もしクンダリーニが全く動いていないとすれば人間の生命活動は途絶えてしまいます。つまりクンダリーニとは生命を維持するための根源的な力を意味するのです。これに対して後天の気とは生後に外部から取り入れる気の総称だと言えるでしょう。それは呼吸、水、太陽光、食べ物等に含まれる気に他なりません」<br /> <br /> 推測ですが、クンダリーニがアートマ/真我(いわゆる「魂」)であって先天の気でもあるとするならば、クンダリーニ体験をすることで魂がこの世にきちんと顕現されるということであり、その時に現れるのは過去の人生で培ってきた自分自身の魂であるのですから、過去の人生できちんと修行してきた人のクンダリーニ経験後とそうでもない人のクンダリーニ経験後では違いが出るのも当然なのかな、という気もします。 おそらく、生まれてきた時点では完全に魂が顕現していないのでしょう。生まれた時点では肉体とアストラル体やコーザル体の繋がりが弱くて、繋がることがクンダリーニ経験なのかな、という気がします。その繋がり方にもレベルや順序があって、まずはムーラダーラのような肉体的なところから繋がり始めて徐々にその秩序を保ちながら上のレベルで繋がってゆくのかな、という気がします。<br /> <br /> ■チャクラ<br /> チャクラが流行していますが、本格的にチャクラが重要になるのはクンダリーニ経験後です。クンダリーニ以前はチャクラの感覚があまりないことが多いと思います。クンダリーニ以前のチャクラはファッション(流行)なのかなとも思います。以前引用したホーリー・マザーの言葉通りなのかなと思います。<br /> <br /> ラーマクリシュナも同様のことを言っています。<br /> 霊的目覚めはクンダリニがその眠りから起こされない限り生じることはありません。(「ラーマクリシュナの教え」(ジャン・エルベール 編さん))<br /> <br /> シバナンダ系のとあるスワミは(又聞きですが)「チャクラはクンダリーニ経験がなければ単なる想像に過ぎず、クンダリーニ経験がなければチャクラのことを考えても意味がないからチャクラの話で盛り上がるのはやめなさい」と弟子たちに伝えているようです。本筋である「浄化」に集中しなさい、ということなのかなと理解しています。本筋ではない「チャクラ瞑想」とか「(ビージャ・マントラでチャクラを刺激する)クンダリーニ・ヨガ」などに時間を費やさないようにとの弟子への説教ということで理解しています。<br /> <br /> 私自身の経験から言うと、確かにチャクラがきちんと感じられるようになったのはクンダリーニ経験後です。でも、クンダリーニ以前でも例えば喉がガラガラして声が出し辛いとかハートが暖かいとか苦しいとかいう感覚は感じることはあったので、チャクラを「感じる」という観点は持っていてもいいのかなと思います。クンダリーニ以前のチャクラの修行とかは時間の無駄に終わることが多いと思いますが。<br /> <br /> ヨーガ的には「浄化」→「ナーダ音(聞こえない人もいる)」→「クンダリーニ」→「チャクラ」の順番ですね。<br /> <br /> <br /> <br /> <br /> Thu, 14 Feb 2019 00:00:00 +0900 ナーダ音の左右は重要ではない https://w-jp.net/2019/1585/ <br /> ■右耳か左耳かは重要ではない<br /> Hatha Yoga Pradipika (Swami Muktibodhananda著, Swami Satyananda Saraswati監修) チャプター4 Verse 67 P563によると、「聖典には右耳で聞こえると書いてあるが、左右どちらの耳で聞こえるかは重要ではない」と質疑応答と共に記載されています。私は中央の左寄りで聞こえますけど、左右についてはあまり気にする必要はないようです。この本はビハール・スクールの本なので信頼できますし、有名なSwami Satyananda Saraswayi監修ですのでまずは信用していいと思います。<br /> <br /> 引用:(Chapter 4, Verses 67-68) ナーダは右耳で聞こえると記載されていますが、実際のところ、それは心の中で聞こえる音ですので、どちらの耳で音を識別するかは重要ではありません。GaneshpuriのBaba Muktanandaはかつてグルに聞いたことがあります。(中略) Sri Nityanandaは「右耳で聞くか左耳で聞くかは重要ではない。何故なら、ナーダ音はサハスララ・チャクラのアーカーシャ、すなわち最上の意識から発生しているからだ」と答えました。 Hatha Yoga Pradipika (Swami Muktibodhananda著, Swami Satyananda Saraswati監修) <br /> <br /> <br /> → 左右に関するまとめはこちら<br /> <br /> <br /> Sun, 03 Feb 2019 00:00:00 +0900 スワミも激しいナーダ音の耳鳴りに悩まされることがある https://w-jp.net/2019/1584/ <br /> ■スワミも激しい耳鳴りに悩まされることがある<br /> Hatha Yoga Pradipika (Swami Muktibodhananda著, Swami Satyananda Saraswati監修)P586によると、スワミも日常生活で常時続く激しい耳鳴りに悩まされることがあると言います。<br /> <br /> スワミMuktanandaはある時、睡眠とナーダ音を両立できなかったがために14日連続で眠ることができなかった。彼の体はどのようなナーダ音であったとしても反応した。"この天国の音楽の段階では、ヨーギはダンスの芸術を獲得する" 彼は働いている時、動いている時、食べている時ですらずっとナーダ音を聞いていた。そして、ナーダ音が激しくなってくると怒りを感じたこともあった。<br /> <br /> スワミであっても激しいナーダ音に怒りを感じることがあるのですね。興味深いです。流石に14日連続で眠れなければストレスもたまりますよね。<br /> Sun, 03 Feb 2019 00:00:00 +0900 ヨギにとってのナーダ音の意味とグランティを破る時に聞こえる音 https://w-jp.net/2019/1551/ <br /> この記事は 「アナハタ・ナーダの聖音とクンダリーニ」 の続きです。<br /> <br /> ■ヨギにとってのナーダ音の意味<br /> 同書 Hatha Yoga Pradipika (Swami Muktibodhananda著, Swami Satyananda Saraswati監修) には「ヨギにとってナーダ音は(クンダリーニ・シャクティなどの)シャクティと意識の上昇を意味している」という記述もあります。<br /> <br /> ■グランティを破る時に聞こえる音<br /> 同書 Hatha Yoga Pradipika (Swami Muktibodhananda著, Swami Satyananda Saraswati監修) Verse70〜71(P567)の説明には、ムーラダーラチャクラにあるブラフマ・グランティというエネルギー・ブロックが破れる音が「ベルの音」あるいは「蜂が飛ぶ音」と書いてあります。私がナーダ音が聞こえ始めた最初の頃に聞こえていた音が実はブラフマ・グランティに関係していたなんて、ようやく謎が解けた気持ちです。自分の状態がようやくわかりました。随分と長く聞こえていた気がしますので、一瞬で破るわけではなさそうです。もしかしたら私がそうだったというだけで、一瞬で破るような人もいるのかもしれませんが。これは本文ではなくて解説のところに記載されてあるのですが、この著者はどうやってこれを知って確かめたのか、その情報元が気になるところではありますが。<br /> <br /> 凄く細かい点ですけど、ブラフマ・グランティがどこにあるのかという点において解説書によって若干の違いがあります。一般的にはこれはムーラダーラチャクラにあるとされています。<br /> <br /> <br /> ・「ハタ・ヨガ・プラディーピカ(Hatha Yoga Pradipika、Swami Vishnu-Devananda著)」は、解説のカッコ書きの中で「ブラフマ・グランティはアナハタ・チャクラ あるブラフマの結び目」と書いてあります。これを読んだ時にあれっ?て思いました。<br /> ・「ヨーガ根本教本(佐保田 鶴治著)」に、解説文にて「梵天の結節はアナーハタ・チャクラのなかにある結節」と書いてあります。これを読んだ時にもあれっ?て思いました。<br /> ・Hatha Yoga Pradipika (Swami Muktibodhananda著, Swami Satyananda Saraswati監修) Verse70(P567)には、解説文に「ブラフマ・グランティを破ってムーラダーラチャクラが動き出す」「ムーラダーラにあるクンダリーニから音が現れる」「聖典にあるUnstruckという単語はアナハタを意味するがこれはアナハタ・チャクラを意味していない。アナハタ・チャクラはもっと後の段階になる。」と書いてあります。この最後の説明がしっくりきます。よって、通説の「ブラフマ・グランティはムーラダーラチャクラにある」は合っていると解釈できます。聖典を読んでいると通説とは違う記述が度々現れますので、都度確認が必要だと思います。<br /> <br /> <br /> 同書 Hatha Yoga Pradipika (Swami Muktibodhananda著, Swami Satyananda Saraswati監修) Verse73(P569)には、「アナハタ・チャクラにあるヴィシュッダ・グランティを破るとケトルドラムの音が聞こえる」とあります。私はドラムの音はあまり聞こえていない気がします。まだまだなのですかね。これは解説文ではなく本文の方なので他の本にも書いてあります。例えば「ヨーガ根本教本(佐保田 鶴治著)」には「無上の歓喜を予示するところの混合音と太鼓の音のような音とがノドのチャクラの空処で起る」とあります。「ハタ・ヨガ・プラディーピカ(Hatha Yoga Pradipika、Swami Vishnu-Devananda著)」には「最高の空虚(Void)にあるビシュヌ・グランティが貫かれたとき、それは素晴らしい 幸福を示す。 ケトルドラムのような轟音があります。」とあります。<br /> <br /> Verse76(P574)の説明には、「アジナチャクラにあるルドラ・グランティを破るとフルートの音が聞こえる」、とあります。これまた明確な記述で、自分の状態を知るのにとても助けになります。私は高周波が今も常に聞こえている訳ですが、フルートというとそうかもしれないですが、フルートならば私が聞こえている音よりもっと高い音のような気もしますけど、今の音がフルートと言われればそうと言えなくもないのでそこは微妙なところです。これも本文ですので他の書物にも記載があります。「ヨーガ根本教本(佐保田 鶴治著)」には「フルートの音やヴィーナーを弾ずるような音が聞こえる」とあります。「ハタ・ヨガ・プラディーピカ(Hatha Yoga Pradipika、Swami Vishnu-Devananda著)」には「ヴィーナの共鳴を想像するかのようなリュートの音が聞こえます。」とあります。<br /> <br /> ブラフマグランティを破っていた時の音が聞こえていた時のことを思い出すと、破ると聞こえるというよりは破られ始めると聞こえ出す、あるいは、破っている間は聞こえる、と解釈するのが良さそうです。 グランティというのはエネルギールート上にあるブロックですから、ブロックが破れだしたら音が聞こえるとして、ちゃんと破れるまで時間がかかるというのが私の理解です。ちゃんと破れてからクンダリーニ経験が起きたのだとすると、もうちょっと様子見で気長に待つのが良さそうです。 それにしても、音とグランティの関係が書いてある本をようやく見つけられて良かったです。<br /> <br /> <br /> <br /> Sun, 03 Feb 2019 00:00:00 +0900 クリアヨガ的なナーダ音の解釈 https://w-jp.net/2019/1550/ <br /> この記事は 「アナハタ・ナーダの聖音とクンダリーニ」 の続きです。<br /> <br /> ■クリアヨガ的な解釈<br /> Swami Shankarananda Giri著の「Kriya yoga Darshan」には以下のようにあります。<br /> <br /> <br /> ・(瞑想中に見える)光は物理的な体(Gross Body)の反応によるもの。振動はメンタル(アストラル, Astral)に属するもの。そして音はコーザル体に属するもの<br /> ・音は5つのエレメントの1つである無(Void, 虚無,Vacuity,空)から来る。<br /> ・この音が聞こえるようになれば、もはや外部の雑音に影響されなくなる。<br /> ・光、振動、音は5つのエレメントである火(Fire)、空気(Fire)、エーテル(Ether, Vacuity)にそれぞれ対応している。他の2つのエレメントである水(Water)と地(Eatrh)は物理的な体に対応している。火はそれ自体で顕現することなく、何かの燃料を投下する必要がある。内部あるいは外部の光を作り出すことにより過去の行動や考えの結果作られたカルマを焼くことができる。<br /> ・瞑想の目的は光(物理的な肉体に対応, Kalatitam)、振動(アストラル体に対応, Bindu)、音(コーザル体に対応, Nada)の先に行くことにある。最終的な状態(Paravastha)では光も振動も音もない。光、振動、音は精神的修業(サダナ)の初期の段階では重要だが、サットヴァ・ラジャステ・タマスの質の先の段階に進めばそれは重要ではなくなる。光、振動、音は我々の日常生活から意識を解き放つために必要な助け舟であり、光や色などを頼るのは、とある段階では非常に重要になる。<br /> <br /> <br /> それぞれ3つの体に対応しているという解釈は初めて見ました。他で見た記憶がありません。<br /> <br /> 雑音に影響されにくくなるのは、確かにその通りだと思います。周辺の物理的なノイズが多くても内部のナーダ音に耳を傾ければ心境はあまり影響されません。それでも、静かな方が集中できて良いのは変わらずその通りではありますし、ナーダ音が聞こえていたとしても、特定の周波数というか特定の高音だけ異常に頭に響いて頭にダメージが来るので、一般的に雑音に影響されなくなるとはいえ、やはり瞑想は激しい刺激がないような静かな環境で行う方がいいと思います。例えばドアがうまく閉まっていなくてカタカタなっていて、時々大きくカタンと鳴るような音が私は苦手です。<br /> <br /> 明確にナーダ音だとは書いてありませんのでもしかしたらナーダ音とは違った音のことを意味しているのかもしれないと思い、アシュラムでクリアヨガを長くやっている人に聞いてみたところ、別の書物のことですから明確に「同一だ」とは言わなかったものの、「その音を聞いたところで精神修行(サダナ)に妙味を加えるくらいで、特に意味はないものだ」、という話と、「その音を聞いたのであればその音がどこから来ているか探ってみると良い、もしかしたら肉体の音かもしれないし、チャクラかもしれない。しかしチャクラの音は最初は聞こえない」、という話でしたので、他の流派でもナーダ音について似たような質疑応答があって瓜二つなので、やはりこれはナーダ音を意味していると判断しました。<br /> <br /> 光でカルマを焼くいう解釈は初めて見ました。確かに、ヒンドゥ教のプージャ(火の浄化の儀式)ではカルマを浄化するようなことが言われていますし、真言宗の護摩やその他の仏教でも火の儀式はカルマを燃やすという解釈は度々見るところではありますが、瞑想中に見える光でカルマを焼くとはちょっとした発見です。確かに、宗教の火の儀式が人間の内部で行われている精神的活動を象徴するものだとすれば瞑想中に見える光でカルマを焼くというのは理にかなっています。文面は解釈が2通りできて、火を燃やしてカルマを焼く(燃料は別にある)のか、カルマ自体が燃料なのか、どちらかなのかはこの文面では分からないですが、どちらにせよカルマを減らすことができそうです。クリアヨガをやっている人に聞いたら、この種の火はマニプラチャクラ(ソーラープレクサス・チャクラ)で出るそうです。その火と光との関係がどこまであるのか微妙です、というのも、「これから先は体験してみるように」、と詳しい人から回答があったので明確な答えはその時はもらえませんでしたので。<br /> <br /> とある流派では単に「瞑想中に光や音を聞いても重要ではないので無視すること」と教えているのに対して、クリアヨガでは(ある段階までは)それに頼りなさい、と言っています。私としてはこのクリアヨガ的な解釈の方がしっくりきます。そういえばハタ・ヨガ・プラディーピカにもナーダ音を使った瞑想方法が書かれてあったのを思い出しました。そうとなれば、やはり無視するよりは(とある段階に達するまでは)きちんと頼った方が良さそうですね。<br /> <br /> ここでは音だけにフォーカスしていますが、その前段階の光や振動にもフォーカスされていて興味深いです。私は心のイメージを使った瞑想が苦手というか、そもそも光もあまり見えないしイメージも苦手な方なので心のイメージを使った瞑想はしてこなかったのですが、それが得意な方もきっといらっしゃると思います。振動の瞑想ってあまり聞かないですけど、例えば、マイナーな例になってしまいますけど霊動法とかがそうなのですかね? 私は霊動法の経験はないので見当違いかもしれないですけど。或いは、滝行などでブルブルっと震える修業とか? でも、滝行はちょっと違うかな。私の場合、ヨガのプラナヤーマやアサナで(おそらく)ある程度浄化されてからナーダ音にたどり着いたので、他の道のことはあまり分からないです。きっといろいろなやり方があるのでしょう。<br /> <br /> ちなみに、シバナンダ系のスワミに聞いたら「音は無視してチャクラ(アジナチャクラ)に集中して瞑想しなさい」と言われましたが、同じ流派の文献を読むと2通りの解釈があって、「色や音は無視しなさい」というのが瞑想系の本「Meditation and Mantra (Swami Vishnu-Devananda著)」に書いてある一方で同じ著者の「ハタ・ヨガ・プラディーピカ(Hatha Yoga Pradipika、Swami Vishnu-Devananda著)」にはナーダ音によって最終的なサマーディに導かれる、という内容が解説されています。もしかしたら意識の成長段階によって何が良いのか違うのかもしれませんね。 Wed, 02 Jan 2019 00:00:00 +0900 クンダリーニは必ずしもスシュムナから上げる必要はない? https://w-jp.net/2018/1583/ <br /> ■クンダリーニは必ずしもスシュムナから上げる必要はない?<br /> ピンガラからクンダリーニを上げるとクンダリーニ症候群になる、と上で書いたのですが、Swami Satyananda Saraswati著の「Kundalini Tantra」には、「スシュムナからクンダリーニを上げるのが通例のようになっているけれども」、という前置きの後に「古典には必ずしもスシュムナから上げる必要がないと書いてある」とありました。ピンガラから上げた場合は外的に働きかけるシッディ(パワー)を得て、イダから上げた場合は未来を見通す力を得て、スシュムナから上げた場合はジーヴァンムクタ(生きながらの解脱)を得る、と同署には書いてあります。おそらくは古典の目的が解脱であるためにスシュムナから上げる方法を記載してあるのだ、とSatyanandaは解説しています。イダとピンガラを目覚めさせるのに比べてスシュムナを目覚めさせるのは格段に難しく、特別なノウハウが必要になり、グルの助けあるいは神的な力の助けが必要になるとのことです。であれば、ピンガラのパワー系シッディである物体操作・破壊の力が使えるインドの聖者であるとか、イダの透視系シッディである千里眼や予知能力の力が使える西洋の魔女とかが必ずしも解脱していない、というのも納得できます。イダとピンガラが目覚めるのは早くてスシュムナが難しいのであれば解脱した人を見つけるのが難しいのも理解できます。インドの聖者の特徴として、インドは修行者に男性が多いためにピンガラが開花しやすく、よって物体操作系の話が多いのだと思います。一方、欧米の魔女は女性ですからイダが開花しやすく、よって、透視系の話が多いのも理解できます。もちろん両方あるいは逆の場合もあるでしょうが、多いのはこのパターンかと思います。<br /> <br /> そして、解脱を目的にしている人たちは往々にしてシッディの力を持っているがそれを重要視せずにスシュムナによる解脱を目指しているのも理解できます。解脱が難しいからこそシッディに拘らずに修業をしているのですね。シッディ(力)が目的であればそれに迷わされてしまい、往々にして解脱に辿り着かなくなってしまうのでしょう。<br /> <br /> 私の場合、スシュムナが動いたような感覚はまだなくて、単に2本の光の筋が通っただけなので、解釈としてはイダとピンガラが通ったような気もするのですが、多くの書籍には「スシュムナが浄化されて初めてクンダリーニが目覚める」と書いてあるので、このあたりがよく分からなかったのです。「であれば、私のは何だったのだろうか?」と言う疑問がありました。Satyanandaの解説に基づけば、それも十分あり得ると解釈できます。とは言っても、現時点では上記に書いたように体力がついたり睡眠時間が減ったり意識が向上した以外は得に取り立てた変化もなくて普通に体力がついただけなのとそう変わらない感じなので、まだまだだ、という感じです。一回通っただけでは不十分でその後のメンテナンスが重要とも言いますしね。<br /> <br /> Mon, 10 Dec 2018 00:00:00 +0900 ほとんどの時間は浄化に費やされる https://w-jp.net/2018/1582/ <br /> 「ハタ・ヨガ・プラディーピカ(Hatha Yoga Pradipika、Swami Vishnu-Devananda著)」には以下のような記述があります。<br /> <br /> 浄化することから始めなければならない。 残りは自動的に来ます。 実際、ほとんどの場合、私たちは浄化に時間を費やします。<br /> それは1つの人生、10の人生、1000万の人生、あるいはわずか10秒かかるかもしれません。どれもあり得ます。<br /> <br /> これはおそらく真実だと思います。ヨガや神秘行をして何も変化しない場合、ほとんどは浄化に原因があるようです。<br /> であれば、チャクラがどうのこうの言ってもほとんどの人には実はまだ関係ないのだということがわかります。<br /> <br /> 2回目のクンダリーニ経験の後の至福状態は2週間ほどで大分元に戻ってしまいましたが、それでも、至福とエネルギーに満ちた状態を短期間であっても経験したのは大きいです。ポジティブになるということはあそこまで溢れ出るエネルギーに満ちていることであって、頭でどうこう考えたり思考をマントラとかで押さえ込むこととは全く別次元の状態であり、自分が全く別人になった感覚になりましたので、その状態を維持することが今後の課題ですね。日本で生活をしていると他のネガティブな人と接触したり食事が良くなかったり部屋の環境が良くなかったり、色々な原因で状態とエネルギー・レベルが下がっていってしまいます。ヨガの世界で言われているように、クンダリーニなどを扱う時にはアシュラムで泊まり込みして食事や生活習慣をきっちりとしないと崩れていってしまう可能性が高い、というのは、その通りなのかな、とも思います。幸いにして私の場合はクンダリーニ後に大変な思いをしていないので、このくらいのエネルギー低下で済んでいるのは、割と良い方なのかなという気もします。<br /> <br /> <br /> <br /> <br /> Sun, 11 Nov 2018 00:00:00 +0900 クンダリーニが目覚めなければ何も始まらない https://w-jp.net/2018/1581/ <br /> 「瞑想と霊性の生活3(スワーミー・ヤティシュワラーナンダ著)」にはホーリー・マザーの同様の発言があります。<br /> <br /> 弟子「マザー、クンダリーニが目覚めなければ何も得られませんね」<br /> ホーリー・マザー「わが子よ、その通りです。」<br /> <br /> よって、以下の順番になるのでしょう。<br /> 1. 浄化<br /> 2. ナーダ音が聞こえるようになる。 (聞こえない人もいる)<br /> 3. クンダリーニ経験<br /> 4. 意識の変化、チャクラ体験<br /> <br /> であれば、世の中の風潮でチャクラがどうのこうのと言っているのはかなりレベルの高い話であり、ほとんどの人はチャクラなんて関係がないことがわかります。それはヨガ系の教えでもグルからそのように伝えられますし、実際その通りなのでしょう。世の中の流行でチャクラを学んだりしてみても実際の現実の変化にはそうそう繋がらず、であれば、地道に浄化からするしかない、ということなのでしょうね。これは、特別な人のみがチャクラを扱えるという意味ではなくて、おそらく誰でもこの手順でチャクラ覚醒に至ってチャクラを扱えるのだが、その段階に達している人が少ないという意味です。<br /> <br /> <br /> Sun, 11 Nov 2018 00:00:00 +0900 ヨーガ行者・本山博先生のクンダリーニ上昇経験 https://w-jp.net/2018/1580/ <br /> 「密教ヨーガ(本山博著)」には先生本人の体験談が述べられておりますが、そのムーラダーラ・チャクラの目覚めのところに以下のようにあります。<br /> <br /> ある朝、いつものように御神前で行をしていると、尾骶骨から下腹部がとても熱くなり、下腹部の中に丸い、赤い、多少黒味がかった光が、熱い白い水蒸気がシュッシュッとみなぎっている真っ只中に、爆発寸前の火の玉のようにオドロオドロしく見えました。すると脊柱を、ものすごい力が頭頂まで突きぬけて、座ったままで自分の肉体が3~5cmほど上昇しました。ほんの1~2秒の出来事でしたが、たしかに自分の肉体が持ち上がったのです。非常な驚きと、恐怖と戦慄を感じました。身体中、頭中が熱くなって、その日は頭痛がして何もできませんでした。2、3日は体が熱かったように思います。また、頭頂や頭内にエネルギーがつまった感じがして、自然に頭頂のブラフマンの門のあたりをこぶしで叩きました。叩くと、いくらか気分が良くなったのです。これが最初のクンダリーニの上昇経験だったのです。<br /> <br /> いくつかの体験談を見ると、このように、最初のクンダリーニ経験で体調を悪くされる方が割と多いように思われます。私の場合は上昇エネルギーが軽かったということもあるのかもしれませんが、エネルギーが頭頂から「抜ける」ということはありませんでしたし、頭痛もありませんでした。ここに2、3日は体が熱かったとありますが、私も、特に最初の2〜3日は体にオーラが充満していて体が熱かったです。日が経つにつれてその熱さは落ち着いていき、1週間くらいしたら熱さが安定しました。経験前よりは遥かに体が暖かいので寒さにも少し強くなりましたが、その熱さがとても強かったのは、たしかに、経験後2〜3日の間だったように思います。私は寝ていたので自分の体が上がったという感じではありませんでした。おそらく、私の場合も、クンダリーニのエネルギーそのものが上がったわけではなくその一部が上がっただけだと思います。クンダリーニのエネルギーの圧倒的な力を感じましたが、背筋の腰の少し上のあたりで感じたクンダリーニのエネルギーの高さと、上昇した一筋の光のエネルギーは比べ物にならないほど違いがあって、上がったのはほんの一部の一筋の光ではありますが、それでも、たったそれだけでも意識と体を活性化させるには(とりあえずは?)十分なほどだと思いました。本山博先生やシバナンダ 先生が言われるように、何度も何度もクンダリーニを上昇させることで上のチャクラを次第に活性化させてゆく必要があるのでしょう。<br /> <br /> 本山博先生によると、クンダリーニ経験を前後していくつかのチャクラが活性化するが、本山博先生の場合は必ずしも下から活性化して行ったわけではないようです。同書に述べられているサッチナンダ先生の見解によると、最初はアジナ・チャクラから活性化させるべきだと言います。ムーラダーラ・チャクラやスワディスタナ・チャクラにはカルマが眠っており、アジナ・チャクラが目覚めることでそのカルマを制御できるようになるので、その前にムーラダーラ・チャクラやスワディスタナ・チャクラが目覚めるとカルマが制御不能になって危険な状態に陥る可能性があるとのことです。<br /> <br /> 私の場合、最初のクンダリーニ経験の後、お腹のあたりがとても暖かかくて意識がかなり変わったので、おそらくはマニプラ・チャクラ(臍のあたりのソーラ・プレクサス・チャクラ)が活性化したように思います。まだ完全にアナハタ・チャクラ(胸のハート・チャクラ)は活性化しておりませんが、少し動いてきた感じがあります。クンダリーニ経験の前はカルマに翻弄されて意識が持っていかれることも時々あったので、多少なりともムーラダーラ・チャクラやスワディスタナ・チャクラが動いていたのだと思います。マニプラ・チャクラが動き出したことにより、カルマに翻弄されることが減った気がします。世間では哲学書や宗教書で「気付き」が深まることによりネガティブが減るという教えがありますが、マニプラ・チャクラの意識は「気付き」ではないですね。意識の波動が切り替わることにより、そもそもネガティブのレベルに落ち込まなくなる、という感じです。おそらくは、「気付き」が重要というのはそれはそれで正しくて、マニプラ・チャクラが目覚めていない状態では「気付き」によって気を付けて自らの発言や行動を抑制するしかない、という経験則による教えなのかなと思います。そうして道徳的な生活を送ることにより浄化してゆくのかな、という気がしますが、それと、マニプラ・チャクラなどで感じる絶対的な意識の変化とはかなり別物のように思います。<br /> <br /> 最初のクンダリーニ経験から数週間経った後、次第に意識のレベルとエネルギーのレベルが下がってきているので、意識とエネルギーが元の状態に落ち込まないように生活習慣や行動にも気をつける必要がありそうです。ですから、まだまだここが終わりではなさそうです。<br /> <br /> <br /> Sun, 11 Nov 2018 00:00:00 +0900 クンダリーニ体験2回目。ナーダ音は普段通りでした。 https://w-jp.net/2018/1579/ <br /> 寝ている時に「まどろみ型クンダリーニ」の2回目が起こりました。2018年11月後半のことです。<br /> <br /> 以前記したように、1回目は2018年1月にムーラダーラに電気ショックが走ってアジナ・チャクラで爆発のようなものが起きてエネルギーが抜けました。私はこれを「まどろみ型クンダリーニ」かと思っていたのですが、第2回目を体験してみると、この第1回目はクンダリーニとはとても呼べる代物ではなく、単に、今までふさがっていたナディ(エネルギーの通り道)の蓋、あるいはチャクラにかかっていた蓋に圧力のようなものがかかってポンと外れたという程度の簡略的なものだったことを理解しました。2回目と全然別物ですね。<br /> <br /> それまでの出来事を簡単に時系列で記しておきます。<br /> <br /> <br /> ・2015年1月 インドのアシュラムで生まれて初めてのヨガ 2週間 合宿。その後しばらくブランク。<br /> ・2016年10月 日本の近所でヨガ再開。1週間ごと1回90分<br /> ・2017年8月 ヨガの頻度を上げ、ほぼ毎日90分<br /> ・2017年10月 雑念が減ってくる。ようやくヨガをしている感じになってくる。ヘッドスタンドが短時間だがようやくできるようになる。<br /> ・2017年11月 ナーダ音が聞こえ始める。ヨガをほぼ毎日し始めてから約3ヶ月後<br /> ・2018年1月 第1回目のクンダリーニ体験。ムーラダーラの電気ショックと眉間の皮膚から数センチ離れた空中(アジナ・チャクラ?)でのエネルギーの爆発。ほんの少しのエネルギー。<br /> ・2018年11月 第2回目のクンダリーニ体験。クンダリーニ本体はまだ上がっていない。2つの光の筋が上がっただけ。<br /> <br /> <br /> 第2回目は1回目から10ヶ月後に起こりました。2回目はそれっぽいクンダリーニ体験で、ベッドで寝ている時に起こりました。1回目はリクライニングチェアでウトウトしている時に起こったので、寝ている時に起こりやすい体質なのかもしれません。体験を簡単に記しますが、最初、寝ている時に夢の中で体全体がグルグルと回転し始めました。回転軸は頭から足に向かって、左回転だったと思います。この「回転」は、「クンダリーニ・ヨーガ(成瀬 雅春著)」にも回転が肝と書いてあるので興味深いところです。別に、回転を意識していたわけでもなく、この本にしても数ヶ月に読んだきりだったので回転のことなんて忘れていましたが不意に夢で回転していたのです。そんな回転の夢を見ていたら、いつの間にか背中の下の方、お臍の後ろあたりが熱くなって脈拍が強く打っているのを感じました。そこだけ脈拍が凄いのです。強いエネルギーも感じて、温度はマグマほどではないにせよ、エネルギーの動き方はマグマと言って良いほどグツグツ煮え立っている感じでした。寝ていましたので、もしかして単なる夢だったのかもしれませんが、体の異常を感じて、さすがに意識が戻ってきました。やがてそのグツグツ感は治まってきて、熱感が抜けてゆきました。どうやら、胸や頭に上昇はせずにそのままの場所で熱は動かずにそのまま消えていった感じでしたので、ふと目を覚まして手をそこに当ててみるとかなり暖かくなっていますが火傷するほどではありません。<br /> <br /> 面白い体験だったなあと思って再度寝たのですが、その夜、約2時間後に急に腰あたりに2つの小さなエネルギーが発生し、左右それぞれ1本づつ光のエネルギーの光線が腰から目の上の頭蓋骨あたりに向けて2〜3秒かけて真っ直ぐ上昇し、頭蓋骨に当たってちょっと曲がったところで停止。そのまま10秒ほどエネルギーの筋はそのまま保っていたのですが、やがてエネルギーが消えてゆきました。細長い風船に空気が入って、空気が入るときは片方から膨らんでいくが、萎む時は全体が同時に萎む、というような感じの動きでした。<br /> <br /> クンダリーニはスシュムナから登るという知識があったので、スシュムナではなくその両脇から2つの筋が真っ直ぐ登ったのが意外でした。イダとピンガラは螺旋状にスシュムナの周りを回っているはずなので、真っ直ぐ登ったということは、それともまた違うナディなのでしょうか? それとも、やはり単なる夢だったのでしょうか? 頭の中にはエネルギーの感覚が少し残っていますが、今のところ、日常生活に変化はありません。<br /> <br /> ゴーピ・クリシュナのようにクンダリーニ症候群になったら嫌だなあと思っていたのですが、数日経ってみても体調はいつも通りなので、とりあえず問題ないようです。彼の場合はピンガラで目覚めてイダを使っていなかったのが問題だったので、少なくとも左右対称に登っているという点は少しは安心していいのかなあ、と解釈しています。<br /> <br /> クンダリーニの体験をしたところで、特に何が変わったわけでもないですが、強いて言えば、ちょっと元気になったかな? という程度のものです。最初に感じたマグマのようなものそれ自体が登ったわけではなく、ほんの小さな2つの光の筋が登っただけなので、エネルギー的にはほんのちょっとなのかもしれません。やがて、この本体が登ると更に変化があるのかもしれません。変化と言えば、前より体がポカポカするので、ちょっとだけ寒さに強くなったかな、という気はしますが元々の寒がりは完全には治りません。<br /> <br /> ゴーピ・クリシュナの体験では「ゴー」という轟音が聞こえたとのことでしたが、私の場合はウトウト夢を見ていたような感じでしたので完全には覚えていませんが、意識が戻った時に聞こえていたのはそのようなゴーという轟音ではなく、いつも通りのピーという高周波のナーダ音でした。半分は寝ていたので曖昧ですが。<br /> <br /> それと、クンダリーニ2回目の後は、性欲が極端に減ったような気がします。体の中のエネルギーのフォーカス・ポイントがハートから上に移ったような感覚があります。今までマニプラ・チャクラ(臍のあたりのソーラ・プレクサス・チャクラ)の感覚は私はほとんどなかったんですけど、そこに何かが存在しているような感覚になりました。体の各所でエネルギーの変化がありますね。全体的に元気になった感じがします。性欲は減っていますけど。元々最近はブラフマチャリア(禁欲)を心がけていて、夢精もしないように気をつけていました。ですので元々性欲は減っていたのですが、更に減った感じです。<br /> <br /> 変化をまとめると<br /> <br /> ・以前より元気になった。もともと元気がない方だったので、ようやく普通になったかも。<br /> ・性欲が極端に減りました。性欲がより高いエネルギーに昇華された、ということ?<br /> ・以前よりお腹と胸がちょっとだけポカポカしてます。寒さに強くなったのかと思いきや、薄着では普通に寒いので、そこまでではないようです。<br /> ・背筋がちょっと固くなったかも?<br /> ・ネガティブが減った。<br /> ・睡眠時間が減った。もともと寝すぎの8時間睡眠が10~20%減で6時間前後へ。<br /> ・声が以前より出るようになった。<br /> <br /> <br /> でも、翌日から少しづつエネルギー・レベルと意識レベルが数%づつ低下しているので、これは初動として捉えた方が良さそうです。この感覚を定着させるベく、生活習慣の見直しやヨガの継続、および、各種の書物にあるように、意識が完全に切り替わるには何度もこのような体験をする必要があるのかもしれません。2週間ほど経過したところ、半分くらい元に戻った感じですが、まだ変化を感じられます。体験直後の状態を維持するには生活習慣をもっと見直した方がいいのかもしれません。<br /> <br /> 人はどんどんと変化できる、というのを毎年のように実感できて、人生面白いです。今の感覚は、子供の頃の意識状態と比べたら全然違いますし。もともと何年かおきに大きく自分を変えてきていますが、最近はそのペースが早まってきたかもしれません。<br /> <br /> 特にクンダリーニ・ヨーガの修行をしたわけでもなく、普通のヨガをしているだけですけどね。プラナヤーマはそれに含まれているので普段からしていますけど、そのくらいです。<br /> <br /> ■クンダリーニとアナーハタ音<br /> ホーリー・マザーの発言 「クンダリニーが目覚める前に、人は、アナーハタ音を聞きます。」 についてですが、私はどれがアナーハタ音なのかはわかりませんが、もしかしたら既に聞こえているのかもしれません。この辺りは微妙なところです。<br /> <br /> いくつか可能性があります。<br /> <br /> ・既にアナーハタ音が聞こえている<br /> ・まだ聞こえていない? 聞こえていなくてもクンダリーニ経験はある? ゴーピ・クリシュナのように、おそらくはナーダ音が聞こえる前にクンダリーニ体験をする場合もあるような感じなので、この可能性もあります。<br /> <br /> <br /> ゲーランダ・サンヒターの記述に基づくと、アナーハタの音は光と結びついていますので、それはアナハタ・チャクラが動き出した後に聞こえる音のようにも解釈できます。あるいは、推測ではありますが、アナハタ・チャクラにあるヴィシュヌ・グランティというナディ上にあるエネルギーのブロックが破壊された後に聞こえる音という推測もできますが、このあたりも微妙です。 もう少し様子を見たいと思います。<br /> <br /> ■超感覚の世界が存在しているという「しるし」<br /> 「Meditation and Mantra (Swami Vishnu-Devananda著)」には、ナーダ音が聞こえることによって超感覚の世界が存在しているという「しるし」を見つけることになり、確信が持てるようになると書いてある。音だけだと耳鳴りの可能性もあるので私の場合は100%信じられずにいたのだが、聖典に書かれてあるクンダリーニに近い体験をすることで、聖典に書かれてある超感覚の世界が実在することにより一層確証が持てるようになりました。<br /> <br /> ■クンダリーニは何回も上げる必要がある<br /> 「クンダリーニ・ヨーガ(成瀬 雅春著)」あるいはシバナンダ師の「Kundalini Yoga」によると、クンダリーニを上昇させて頭に保持できるようになるまで修行を続ける必要があるという。一回だけ上げて終わりというわけではないのですね。これはまたの機会に追記あるいは別途記したいと思います。<br /> <br /> 本当は信頼できる、クンダリーニの経験があるグルが近くにいればいいんですけど、そうそう見つかりませんね。<br /> <br /> ■求めない者に与えられる<br /> 子供の頃から「求めない者に与えられる」と言う言葉の謎解きをしてきました。<br /> 何故かこのキーワードが事あるごと心に浮かんでいだのですが、その確かな根拠が不明でした。<br /> <br /> 今思うにその根拠とは、「求めない者」の部分が無心の純化のしるしであるナーダ音が聞こえる人を指し、「与えられる」の部分がクンダリーニなのかな、と言う気がしてきました。<br /> <br /> グルグルと探し求めた挙句、とてもシンプルな1つの結論に達した気がします。<br /> <br /> 2つの方向性があるような気がします。<br /> <br /> ・シバナンダ先生が仰るように、「リラックス」して「ピースな心」で純化することでナーダ音に至り、「自然に」クンダリーニに至る道。緩慢な道。力を抜く道。<br /> ・特別な経験や体験を「求めて」熱烈な修行をする道。急激な道。純化をあまりせず、ナーダ音に至らずクンダリーニに至る道。修羅の道。力を入れる道。<br /> <br /> <br /> 後者は往々にしてクンダリーニ症候群になって苦しむ可能性があるような気がします。人は往々にして自らの体験を特別視しますが、その体験自体は否定する必要はないにしても、特別視したり何かの体験を求める部分はエゴですので、そのエゴは純化の妨げになるのでしょう。<br /> <br /> 私は前者でいきたいものです。でも、他者から見たらどちらも同じに見えるかもしれないですね。前者も体験が特別である点は変わりませんし、違うのはマインドの使い方のみかなとも思います。力を抜くという点がポイントになりそうです。力技でクンダリーニを目覚めさせたとしても、純化ができていなければ苦しむわけですが、後者の人はその苦しみをも必要なものとして受け入れるのかもしれませんが、前者はそのような苦しみなしにすんなりと成長に至るわけです。おそらくは。<br /> <br /> <br /> <br /> <br /> <br /> <br /> <br /> <br /> <br /> <br /> <br /> Sun, 28 Oct 2018 00:00:00 +0900 再び、ゴーピ・クリシュナによるクンダリニー体験 https://w-jp.net/2018/1578/ <br /> ゴーピ・クリシュナによるクンダリニー体験は急激型だったわけですが、これを再度振り返ってみると、更に気付く事があります。<br /> <br /> まず、クンダリーニ体験をする前の状態ですが、「クンダリニー(ゴーピ・クリシュナ著)」の最初の方のページにそれまでやっていた修行内容が書いてあるのですが、それは蓮の花のイメージに集中して一体になり彷彿感を感じるサマーディ瞑想で、その記述には「音が聞こえた」とは書いてありませんでしたので、少なくともナーダ音の「しるし」は出ていなかったようです。ナーダ音が必ずしも聞こえるわけではないとはいえ、ゴーピ・クリシュナがクンダリーニ症候群に陥ったのであれば スシュムナは浄化されておらず詰まっていたと判断してよいでしょう。<br /> <br /> クンダリーニ経験をした後、ピンガラから上げてしまってイダから上げることを思いついたのは上記の通りですが、その記述で「脊髄をジグザグ状に動いて昇り」と書いてあることにに気づきます。以下の部分です。これは、右側のピンガラからクンダリーニを上げてしまったことに気付いた後にイダからもクンダリーニを上げようと決心して実行する瞬間の記述です。<br /> <br /> パチンと気道に音がしたかと思うと、銀色流れが白蛇の這うがごとく脊髄をジグザグ状に動いて昇り、最後に生命エネルギーの光り輝く滝となって脳髄にふりそそいだのである。<br /> 至福の白光で私の頭は満たされた。<br /> <br /> スシュムナであれば背骨に沿って真っ直ぐですから、ジグザグであると言うことは、記載の通りイダを目覚めさせたのだと思われます。<br /> <br /> 最初読んだときはピンガラとイダの組み合わせを「そんなものかな」と思って素通りしたのですが、スシュムナでクンダリーニを上げたとの明確な記述は見つかりません。であれば、以下のような状態だったのでしょう。<br /> <br /> <br /> ・ピンガラ(右、太陽):最初にクンダリーニが上がった気道<br /> ・イダ(左、月):死にそうになった時に必死の思いで開いた気道<br /> ・スシュムナ:詰まっていて稼働していない気道<br /> <br /> <br /> であれば、 スシュムナが動いていない以上、しばらくの間ずっとゴーピ・クリシュナが一般人とそうは変わらない状態で聖者とは言い難い状態だったのも理解できます。ヨガの本流であれば緩慢型で修行しますので、ゴーピ・クリシュナが同様の事例を識者から聞く事ができなかったのも理解できます。<br /> <br /> ゴーピ・クリシュナの「生命の海」の章を読むと、最初のクンダリーニ体験は「(滝が落ちてくるような)轟音」だったが、クンダリーニ症候群から回復するきっかけになった神秘的な彷彿の神を感じる体験においては「蜜蜂の群が発するような音ともとれる心地よいリズムとメロディ」が聞こえたとありますので、この音が一つの基準になりそうですね。以前引用した「瞑想をきわめる(スワミ・シヴァナンダ)」には、蜂の音がアナーハタの音だとかかれてあります。一方、上記の「続・ヨーガ根本経典(佐保田 鶴治著)」にあるゲーランダ・サンヒターの引用にも蜂の音が書かれてありますが、ゲーランダ・サンヒター的な分類では蜂の音そのものはアナーハタ音ではなくその前に聞こえる広義のナーダ音と言う位置付けですので、ゴーピ・クリシュナがクンダリーニ症候群から回復した時点ではまだゲーランダ・サンヒター的なアナーハタ音は聞いていないのだと解釈できます。であれば、まだスシュムナは完全に浄化されていないということでしょう。<br /> <br /> ゴーピ・クリシュナは、クンダリーニ経験の後に少しづつナディの浄化が起こっていったのだと解釈できます。古典や各種の聖者が伝えるところでは、最初にナディの浄化をした後にクンダリーニを覚醒する順番になっていますがゴーピ・クリシュナは順番が逆だったのでクンダリーニ症候群で苦しんだのでしょうね。それでも、何とかすれば本来の覚醒にまで至れる可能性があるのは希望があります。ゴーピ・クリシュナはクンダリーニ症候群に12年苦しんだ後に自称「神体験」に至ったようですが、その時点では蜂の音を聞いただけでまだ超感覚が目覚めていなかったと記載していますので、まだそれは自身が言うような「神体験」ではなかったのでしょう。<br /> <br /> クンダリーニ症候群から回復するきっかけの体験では音だけでなく「透明な銀色の光」も見たそうです。最初の体験の時は「赤い光の輪」だったと書いてありますので、これらの色も関係しそうですがナーダ音とはあまり関係がないので割愛します。どちらにせよ、まだ完全に覚醒しておらず、単にクンダリーニ症候群にそれほど悩まされない程度にまでナディが浄化されたのだと解釈できます。<br /> <br /> 近年、クンダリーニは急激型で覚醒するのが主流だと思われているようですが、緩慢型こそが本来のクンダリーニ覚醒法だと思います。何故かと言いますと、様々な古典を読むとクンダリーニは「自然に上がる」と書かれており、古典をきちんと読めば緩慢型の道しるべがはっきりと書かれているからです。最初は急激型のことを「自然」と言っているのかなと思っていたのですが、理解が深まるにつれて急激型が「自然」とは思えなくなりました。それは、急激型のイメージが最初に私の中にあったからそう読んでしまっていただけで、実際は緩慢型が書かれいるのだと理解するようになりました。<br /> <br /> 急激型のことなどどこにも書いていないのに急激型がクンダリーニ覚醒の本流のように世間一般で思われているこの状況は危険ではありますが、そうは言っても世間一般でクンダリーニ覚醒はそうそう起きないのでそれはそれで問題ないのかもしれません。あるいは、もしかしたら日本の仏教の一部の流派が急激型を基本としているような気もします。禅宗はそんな気もしますがどうでしょう。少なくともヨーガの古典を読む限りは、聖典のコンテキストは急激型ではなく緩慢型を意味している印象です。ゴーピ・クリシュナは座禅でクンダリーニ体験をしたようですし、禅宗に急激型クンダリーニのイメージが強いので、もしかしたら座禅と急激型は関係があるのかもしれませんがそこは謎のままです。座禅との関係というよりも、浄化(クリア)を行わずに瞑想をしてクンダリーニを目覚めさせるからクンダリーニ症候群になる、という推測はできますが私は禅宗に詳しくはないので単なる想像の範疇を超えません。<br /> <br /> ナーダ音それ自体は単なる浄化の「しるし」ではあるのですが、意外にもそれはクンダリーニと繋がっているのが興味深いです。<br /> このあたりの知識は見解によって多少異なるとはいえ割と似通っているのも面白いところです。<br /> <br /> <br /> <br /> Sun, 28 Oct 2018 00:00:00 +0900 クンダリーニの覚醒、2分類 https://w-jp.net/2018/1577/ <br /> クンダリーニの覚醒には、大きく分けて2つあると言われているようです。<br /> <br /> ・急激型:轟音と共に一気に上がる<br /> ・緩慢型:少しづつ上がる<br /> <br /> <br /> この分類は気功で有名な高藤聡一郎氏による分類のようですが、手元にある高藤聡一郎氏の本には同様の記述は見つけられませんでした。<br /> <br /> これについては「ヨガと冥想(内藤 景代著)」に以下のような記述があります。<br /> とぐろを巻いた蛇で象徴される、クンダリーニは、根源的な火のような生命力です。その炎のようなエネルギーを、一気に登頂まで、呼吸法で上昇させるのは、頭まで熱くなって、気が逆上することで、危険なのです。<br /> 古代からのチャクラ覚醒法は、下から上昇するクンダリーニ・シャクティの荒々しい力で、つぼみのように封印されたチャクラを突き破れば、チャクラは開花するという方法です。まったく、男性原理的な発想で、チャクラの機能が狂ってしまう可能性の方が高いのです。<br /> <br /> 急激型のクンダリーニ覚醒がいわゆる「ヨガ病」あるいは「クンダリーニ症候群」と言われている状態を引き起こすのだと思います。<br /> <br /> それは、 スシュムナが浄化されていなくて不純物で詰まっている状態でクンダリーニを上げようとするからおかしくなるのでしょう。<br /> <br /> ヨガの古典には緩慢型しか述べられていないように感じます。<br /> 世間一般でのクンダリーニのイメージと違い、急激型に関する記述は見つかりません。<br /> <br /> 続き: クンダリーニの覚醒、3分類<br /> <br /> <br /> <br /> Sun, 28 Oct 2018 00:00:00 +0900 ナーダ音とクンダリーニ https://w-jp.net/2018/1576/ <br /> ホーリー・マザーが言及しているように、ナーダ音とクンダリーニとは関係があります。<br /> それを理解するためにはいくつか前提の知識が必要です。<br /> <br /> ■スシュムナと浄化の関係<br /> スシュムナは普通の人の場合、不純物が詰まっていて働いていません。<br /> 浄化をする事でスシュムナが開き、そこにプラーナ(生命エネルギー)が流れ込みます。<br /> これは、特に「ハタ・ヨガ・プラディーピカ(Hatha Yoga Pradipika、Swami Vishnu-Devananda著)」で多く述べられています。<br /> <br /> (2章4番)ナディが不純物でいっぱいになると、プラーナが中央のナディ(スシュムナ・ナディ)に入ることはありません。 <br /> <br /> ■スシュムナの浄化とナーダ音<br /> スシュムナの浄化がされるとナーダ音が聞こえます。<br /> 「ハタ・ヨガ・プラディーピカ(Hatha Yoga Pradipika、Swami Vishnu-Devananda著)」には以下のような記述があります。<br /> <br /> (2章72番の解説) プラナがスシュムナに入ると、あなたは内面の音を聞くことができ、平和な状態を感じることができます。<br /> <br /> 内面の音とはもちろんナーダ音です。<br /> <br /> ■スシュムナの浄化をしてからクンダリーニの覚醒<br /> 上記のように古典では(主要ナディである)スシュムナの浄化をまずしてからクンダリーニの覚醒と言う順番になっています。<br /> そのスシュムナの浄化が達成されつつある「しるし」がナーダ音であるわけです。<br /> ナーダ音が必ずしも誰しもが聞くものではないとはいえ、聞こえる人であるならばナーダ音が「しるし」として使えるわけです。<br /> <br /> であれば、スシュムナが浄化されていない状況、すなわち、スシュムナが不純物で詰まっている状態でクンダリーニを覚醒させるととてつもなく危険である事が理解できます。<br /> <br /> Sun, 28 Oct 2018 00:00:00 +0900 オームとイーシュワラ https://w-jp.net/2018/1575/ <br /> ■思いそれ自体がナーダ<br /> 同署から引用します。<br /> <br /> 耳に聞こえる音より精妙な音は、ラジオ波のような電磁波である。思いそれ自体がナーダ・ブラフマン(又はシャブダ・ブラフマン)、すなわち宇宙心の、永遠の、超感覚的、広大な拍動の、一つの現れなのである。<br /> <br /> ■オームとイーシュワラ<br /> ヨーガ・スートラやヴェーダではオーム音は神聖とみなされており、宇宙全体を意味する「イーシュワラ」と同一とみなされています。例えばヨーガ・スートラの1.27には次のようにあります。<br /> <br /> 1.27 イーシュヴァラをことばで表したものが、神秘音オームである (「インテグラル・ヨーガ(スワミ・サッチダーナンダ著)」)<br /> 1.27 「彼」のあらわれたことばは、オームである(「ラージャ・ヨーガ(スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ著)」)<br /> <br /> 前者は意訳で、後者が原文のサンスクリットに近いようです。サンスクリットでは明確に神がオームであるとは言っていませんが、解説者のスワミがそれをそのままイーシュヴァラと言ってしまうほどオームとイーシュヴァラとの概念は一体になっているようです。<br /> <br /> 「瞑想と霊性の生活3(スワーミー・ヤティシュワラーナンダ著)」にも明確に「パタンジャリもまた、彼のヨーガ・スートラの中で、オームはイーシュワラ、すなわち神の象徴である、と述べている」とあります。<br /> <br /> ■オームとイーシュワラから始まり、ナーダとして現れる<br /> 以前引用したようにヴァイカリー(通常の音)、マディヤマー(思考過程の産物である言葉)、パシャンティー(思いそれ自体)、パラー(ブラフマンから発せられる音)ですので、オーム音やイーシュワラはパラーの階層であると解釈できます。一方、ナーダ音は狭義ではマディヤマーですから、それよりは数段階落ちるわけですね。それでも、ナーダ音はオームやイーシュワラへと導いてくれるのだ、と言うことなのでしょう。<br /> <br /> 補足:広義でのナーダ音はマディヤマー以降の神秘的な音全てを指していると思います。その場合、ヴァイカリー(通常の音)かそれ以外の神秘的な音か、と言う2分割になるので、ここで言いたいことを表すには不十分です。<br /> <br /> <br /> <br /> Sun, 28 Oct 2018 00:00:00 +0900 ホーリー・マザー「クンダリニーが目覚める前に、人は、アナーハタ音を聞きます。」 https://w-jp.net/2018/1574/ <br /> ■クンダリーニ<br /> クンダリーニの前段階のちょっとした経験として、2018年1月に電気ショックがムーラダーラ・チャクラ(会陰)に走って、その後アジナ・チャクラ(眉間)の眉間の肌の少し上の空中で爆発してエネルギーが抜けたことはあります。クンダリーニかどうかは微妙なところで、単に刺激が走っただけな感じです。人によっては「まどろみ型クンダリーニ」と呼ぶ場合もあるようですが。急激型だと一気に上がるらしいですが、急激型ではない感じです。(その後のクンダリーニ体験続きは下記参照)<br /> <br /> ナーダ音とクンダリーニの関係につて、上の「沈黙の声」にも少し言及がありますが、「瞑想と霊性の生活3(スワーミー・ヤティシュワラーナンダ著)」に面白い記述があります。<br /> <br /> ホーリー・マザー「クンダリニーが目覚める前に、人は、アナーハタ音を聞きます。」<br /> <br /> このアナーハタ音はナーダ音のことであると解釈できます。なかなか面白いです。<br /> <br /> この本は出版している団体の出展ブースで買ったのですが、そこで売り子をしていた何人かにこのアナーハタ音について聞きました。すると、その時点で出版準備中のプラナヤーマの本にナーダ音について少し書いてあると言っていました。そして、その他の本にも少し言及されていたと思いますが、特別これに焦点を当てた特集はなかった筈とのことでした。散らばっているのを探すしかないようですね。<br /> <br /> 例えば、「続・ヨーガ根本経典(佐保田 鶴治著)」に掲載されている古典のゲーランダ・サンヒターに記述があります。<br /> <br /> (5章79~80) 右の耳のなかで内から発する心地よい音が聞こえるであろう。初めにコオロギの音、次にはフルートの音、それから、雷、太鼓、蜂、ドラ、さらに進むと、トランペット、湯沸かし太鼓、ムリダンガ鼓(南インドの両面太鼓)等の騒音楽器の音及び太鼓の音が聞こえてくる。<br /> (5章81~82) そしてしまいには、かのアナーハタの音の響きが聞こえ、その音のなかに光が存在し、その光の中にマナス(こころ)が存在し、そしてこころはそのなかで消えてしまう。これがヴィシュヌ神の高御座に達した境地である。かくの如く三昧(サマーディ)に達するであろう。<br /> <br /> てっきりナーダ音とアナハタ音(アナハタ・ナーダ)とは同一だと思っていたのですが、ゲーランダ・サンヒターでは区別して記載されています。言われてみると、分けて考える方がしっくりきます。<br /> <br /> 広義でのナーダ音は超感覚的な聖音・霊音全てを指すと思いますが、ゲーランダ・サンヒターの言うアナハタ音はアナハタ・チャクラに結びついた特別の音と光を意味しているようです。<br /> ただ、私が最初に理解していたように、アナハタ音が広義のナーダ音の意味として使われていることも多い感じなのでコンテキスト次第ですかね。<br /> <br /> それを踏まえると、ホーリー・マザーの発言は2つの可能性があります。<br /> ・広義のナーダ音が聞こえ出した場合の話<br /> ・ゲーランダ・サンヒターで言うところのアナーハタ音が聞こえ出した場合の話<br /> 元の文だけではどちらなのかは区別できませんが、どちらにせよ通る道のようなので、今のうちからあまり気にすることもなさそうです。そのうち謎は解けるでしょう。<br /> <br /> 私の場合、広義のナーダ音は聞こえているものの、ゲーランダ・サンヒターで言うところのアナーハタ音はおそらくまだです。聞こえている音のいずれかがそれなのかもしれませんがハート(アナハタ・チャクラ)から聞こえていると言う感覚もないですし、音の中に光は見えませんので。<br /> <br /> 「ハタ・ヨガ・プラディーピカ(Hatha Yoga Pradipika、Swami Vishnu-Devananda著)」を見ると、以下のようにあります。<br /> <br /> (2章20番)ナディが(完全に)浄化されたら、内側の音(アナハタ)が聞こえ、完全な健康が達成されます。<br /> <br /> これは、最初読んだ時は「聞こえてくる音は全てアナハタ音」と解釈していたのですが、その可能性ももちろんありますが、ここにわざわざ「完全に」と記載していると言うことは、ゲーランダ・サンヒターで言うところのアナハタ音を意味しているのかもしれません。完全ではない時にも聞こえてくるナーダ音があることを前提にして、完全に浄化されるとアナハタ音が聞こえる、とも読めなくもないです。そうはいっても、「浄化されたら聞こえる」と言う言い方からすればそれは深読みし過ぎかもしれませんが、元はサンスクリットなので解説者の意訳が入っている可能性もあります。<br /> <br /> <br /> <br /> Sun, 28 Oct 2018 00:00:00 +0900 ナーダ音は右耳で聞く。ナーダ音とスシュムナ https://w-jp.net/2018/1573/ <br /> ■右耳で聞く<br /> 上記の通り、「瞑想をきわめる(スワミ・シヴァナンダ)」「Meditation and Mantra (Swami Vishnu-Devananda著)」「ハタ・ヨガ・プラディーピカ(Hatha Yoga Pradipika、Swami Vishnu-Devananda著)」いずれも、ナーダ音は右耳で聞くとあります。<br /> <br /> 私の場合、いつも聞こえているのは中央の少し左寄りで響いているような感じで、右耳で聞いているわけではありません。以前は右耳に意識を向けても特に変化がなかったのですが、最近(2018年9月末)は右耳に意識を向けると、中央左寄りで響くナーダ音と似ている音、ただし音量が小さい音(3分の1くらい?)が右耳から聞こえるようになりました。両方から聞こえているような感じですが右耳の方は意識しないと存在をあまり感じません。<br /> <br /> 上記のように「Meditation and Mantra (Swami Vishnu-Devananda著)」には「右耳でのみ聞く訓練をしましょう」「右耳はピンガラと関係」とあり、同著者によるハタ・ヨガ・プラディーピカの4章67番には単に右耳で聞こえるとだけ書いてあります。<br /> <br /> 「ヨーガ根本教本(佐保田 鶴治著)」にもハタ・ヨガ・プラディーピカが掲載されており、右耳という点に関しては同じですが、それはピンガラではなくスシュムナーから聞こえるとあります。<br /> <br /> 4-67 右の耳で、内部の[スシュムナー気道から発する]音を一心に聞くべし<br /> <br /> 括弧で括ってあるということは、[スシュムナー気道から発する]の部分は著者の解釈でしょうか? <br /> <br /> 「ヨーガ根本教本(佐保田 鶴治著)」には、このあたりのことが「ハタ・ヨガ・プラディーピカ(Hatha Yoga Pradipika、Swami Vishnu-Devananda著)」よりも詳しく書かれていて興味深いです。<br /> <br /> 又、「瞑想と霊性の生活3(スワーミー・ヤティシュワラーナンダ著)」には以下のようにあります。<br /> <br /> アナーハタ・ドゥワニはスシュムナーの働きと結びついている<br /> <br /> とのことですのでナーダ音はスシュムナーとの関連と思って良さそうです。<br /> <br /> ■ナーダ音とスシュムナ<br /> 「瞑想と霊性の生活3(スワーミー・ヤティシュワラーナンダ著)」には以下のようにあります。<br /> <br /> スシュムナ(菅)は多くの人々の場合には、閉ざされたままの状態にある。浄化、強烈な求道心、および心の集中によって、この管は開かれ得る。霊性の流れはそのとき、その管の中を上昇し、精妙な霊的な音楽を生み出す。古代ギリシアのピタゴラス派の神秘家はそれを、「天上の音楽」と呼んだ。ヒンドゥの信者たちは、ときにそれを「クリシュナの笛」と呼ぶ。永遠のクリシュナの笛がそれである。宇宙霊から発せられる神の音楽は魂を魅了し、霊意識のより高い境地に導く。<br /> このように精妙な宇宙の脈拍は、心が静まり、霊性の流れが意識のより高いレベルに昇ったときにのみ、きくことができる。しかしそれは、霊性の道を歩む人すべてが、必ずきく、というものではない。心がそのリズムに同調している人にだけ聞こえるのである。それとは別の経験をする、高度な魂たちもいるだろう。<br /> <br /> <br /> → 左右に関するまとめはこちら<br /> → ピタゴラス派の「天上の音楽」に関する続きはこちら<br /> <br /> <br /> Sun, 28 Oct 2018 00:00:00 +0900 ハタ・ヨガ・プラディーピカとナーダ音 https://w-jp.net/2018/1572/ <br /> ■ハタ・ヨガ・プラディーピカ<br /> このヨガの根本経典「ハタ・ヨガ・プラディーピカ(Hatha Yoga Pradipika)」は古典に属するもので、文章自体はネットで公開されていますが、その解説がないと読解が困難な代物です。上記の「Meditation and Mantra」と同じ著者のSwami Vishnu-Devanandaが書いた解説書にはいくつかナーダ音について言及があります。 これは詳しく読まないと理解が困難なのですが、ナーダ音に関する箇所のみ訳しつつ抜粋します。<br /> <br /> (1章57番) (特定の修行では) ナーダ(アナハタチャクラまたはソーラープレクサスから来るアナハタ音)に集中します。<br /> (2章20番の解説) 何人かはナーダ(内面の音)を聞き、他の人は光を見る傾向があります。 〜(中略)〜 外的な経験は、人それぞれ違った形ではっきりと現れます。〜(中略)〜 経験は違っても、1つだけ共通な事があります。それは、心がとても落ち着いて平和であると言う点です。これは、ナディが浄化されたことを示す重要な中心的なポイントです。<br /> <br /> この他にもハタヨガにおけるナーダ音の言及がいくつかあり、古典においても割と同様のことが言及されているようです。それと、ハタヨガの訓練において、各種の行法とナーダ音とは関係があることが言及されています。<br /> <br /> (4章1番の解説) ナーダは音や波のエネルギーを意味します。 Binduは点を意味します:ここで点は中心または核です。 カーラとは超越的な波であることを意味し、時代を超越した状態、無空間状態、非二重の状態で終わります。 ナーダとビンドゥはシヴァとシャクティのようなものです。 ビンドゥは原子の中の核のようであり、ナーダは核の周りを旋回する電子であり、エネルギーはカーラです。 ナーダとビンドゥの波長が変わると、それはエネルギーになります:純粋な波です。 シヴァ主はすべてを凝縮しました。 ナーダ(音のエネルギー)、ビンドゥ(静的な力)、カーラ(超越的なエネルギー)。<br /> <br /> おそらく、このあたりが最終的に理解されることなのでしょう。今はただの知識ですが。<br /> ナーダの状態を更に超越するとカーラになる、と言うことでしょうか。<br /> <br /> (4章29番) 感覚器官よりも心が優れている。 プラナは心の主です。 プラナのラヤ(Laya/吸収)が優れていて、ラヤはナーダ(内側の音)に依存しています。<br /> <br /> これまた謎めいています。ラマナ・マハルシも以前に引用したようにラヤ(Laya/吸収)について言及しています。このあたりに更なる秘密がありそうです。<br /> <br /> (4章31番)吸気と呼気の停止があると、感知の物体に向かう誘惑が破壊される。 心身の活動がないとき、ヨギは吸収(ラヤ/Laya)に成功します。<br /> (4章32番)精神的活動と肉体的活動の両方が静まると、記述不可能な状態のラヤ(Laya/吸収)が起こります。これは直感的にしか実現できず、言葉では記述できません。<br /> (4章34番)人々はラヤ、ラヤと繰り返し言い続けます。しかし、それはどのように定義されるのでしょう? ラヤはväsanas(性格に影響を与えるすべての意識下の力)が再燃しないこと、すなわち感覚における対象の再起が起こらないこと。<br /> <br /> 大胆に意訳すると、ラヤとはカルマの再燃が起こらないように起こる「吸収」の作用と言える。それはサマーディ状態のラヤと非サマーディ状態のラヤ(ブラフマンによるラヤ)がある、と言うことでしょうか。それは全体的な自己(Self)のラヤと、個人に基づくラヤの2種類だとも解釈できます。<br /> <br /> 一方、「ラヤ(吸収)はナーダ(内側の音)に依存している」と言うことは、ナーダ音が聞こえるようになると(個人に基づく)ラヤ(吸収)が発生し、浄化が進む、とも解釈できます。おそらくはブラフマンによるラヤは普通に存在しており、それはそれで少しづつ浄化されるが、多くの人の場合はそれでは十分ではなく、個人に基づくラヤが起こることで浄化が加速される、とも推測できます。あくまでも推測です。<br /> <br /> ラマナ・マハルシの見解によると、ラヤ(吸収)に入らずに真我(コーザル体)に焦点を合わせるよう書いてあります。一方、このハタ・ヨガ・プラディーピカ(Hatha Yoga Pradipika)ではラヤ(吸収)を達成するようにかかれてあります。これはどういうことでしょうか。 解釈としては、ラヤ(吸収)は細身(メンタル質とアストラル質)のお話で、ラマナ・マハルシはもっと高い真我(コーザル体)に意識が合っているのだと思います。そうは言っても、まだ浄化が十分にされていない人はまずラヤ(吸収)で誘惑などを飲み込んでカルマの輪廻を止めるのが先なのかな、とも思います。ラヤ(吸収)である程度の浄化が達成されたらラマナ・マハルシの言うように真我(コーザル体)に焦点を合わせるのでしょう。<br /> <br /> 更に続きます。細かい行法は割愛して概要だけ引用します。<br /> <br /> (4章66番)シヴァ神はラヤの達成のための方法を数多く与えた。<br /> (4章67番)muktasanaに座ってsambhavi mudrãをし、その中の音に集中して耳を傾けるべきです。 これらは右の耳から聞こえます。<br /> (4章68番)耳、鼻、口、目を閉じます。 すると、純化されつつあるスシュムナで明確な音がはっきりと聞こえます。<br /> <br /> muktasanaはスカアーサナっぽい座禅の座り方で、sambhavi mudrãはナウムクヒ・ムドラに似た、顔を覆うムドラです。<br /> <br /> (4章69番)すべてのヨガの実践には、アーランバ、ガタ、パリチャヤ、ニスパッティの4つのステージがあります。<br /> (4章70番)アーランバワスター:(最初の段階で)、ブラフマ・グランティ(ムーラダーラ・チャクラにあるブラフマの結び目)の開幕があります。 それから、空白(Void)から生まれる至福があります。 それと同時に、(飾りのような)さまざまな甘い音や、(心の中のアーカーシャから生まれた)アナハタ・ドヴァーニ(Anähata Dhvani)のような乱れのない音が体の中で聞こえます。<br /> <br /> グランティとは主要ナディであるスシュムナにあるとされている3つのブロックのことです。あまり意識していませんでしたが、いつの間にかムーラダーラ・チャクラのブラフマ・グランティが解放されていたのでしょうか? これは、気付く場合もあるし気付かない場合もあるようです。<br /> <br /> 確かに、半年以上前に会陰のムーラダーラ・チャクラからアジナ・チャクラまで軽い電気ショックが走ってアジナチャクラから軽い空気爆発しつつエネルギーが抜けたことがあったので、その時に何かあったのかもしれません。<br /> <br /> 空白(Void)から生まれる至福については、確かに、上で書いたように私がシャバアサナで感じた深い暗闇の静寂は空白(Void)とも言えるかもしれません。至福は昔より感じますけど、絶対的かと言うとそこまででもない気がします。<br /> <br /> (4章71番)アーランバワスター段階では、ヨギは彼の心が(至福で)満ち溢れており、輝く身体を得ています。 彼は光り輝く甘い香りを放ち、すべての病気から解放されています。<br /> <br /> 私はこんなに体が丈夫ではないし風邪も引くので、自分がこうだとは到底言えないですね。私とはちょっと違う感じです。<br /> <br /> (4章72番)ガタバワスター:第2段階では、プラナは(アパナ、ナーダ、ビンドゥ)と一体化し、中央(スシュムナ)に入る。 それから、ヨーギはアサナがしっかりとし、彼の知性はより鋭くなり、彼は神々と等しくなります。<br /> <br /> 私はこんな感じではないですね。まだまだのようですね。<br /> <br /> (4章73番)最高の空虚(Void)にあるビシュヌ・グランティが貫かれたとき、それは素晴らしい幸福を示す。 それからケトルドラムのような轟音があります。<br /> <br /> ビシュヌ・グランティはアナハタ・チャクラ(ハート・チャクラ)にあります。<br /> これは私はまだのようですが、上記にあるケトルドラムの言及と被っているのが興味深いです。7段階の音で言うと「雷鳴」が似ているのかもしれません。<br /> 私の次の課題はビシュヌ・グランティかも。アナハタ・チャクラが抜けていない感じなのが課題です。<br /> <br /> (4章74番)パリチャヤバワスター:第三段階では、マルダラ(インドの打楽器、小さなドラム)のような音が耳鳴りの中で聞こえます。<br /> (4章76番)ニスパッティ-アバスター(第4の状態):プラナが(アジナ・チャクラにある)ルドラ・グランティを突き抜けると、それはイシュワラの座席に行きます。 その後、ヴィーナの共鳴を想像するかのようなリュートの音が聞こえます。<br /> <br /> これらはまだまだのようです。でも、それぞれの段階ごとに音が割り振られているのが興味深いです。その音で進歩の段階を知ることができるわけですね。<br /> <br /> (4章80番)私は、眉間の瞑想が、短時間でサマーディを達成するための最善の方法だと思う。 ナーダ(ヨガ)によってもたらされる吸収(ラヤ)は、ラージャヨガの状態を達成するための簡単な手段です。<br /> (4章81番)ナーダの集中を通してサマディを練習する偉大なヨーギは、全ての表現を上回るほどの深い喜びがハートから溢れ出る経験をするでしょう。<br /> (4章82番)彼の両手で耳を閉じて音を聞くムニ(ヨーギ)は、定常状態に達するまで心を固定しなければならない。<br /> (4章83番)この(アナハタ)音を聞くと、次第にその音量が上がり、やがては外部の音を圧倒するでしょう。心の不安定さを克服したヨギは15日間で満足と幸せを得るでしょう。<br /> <br /> この83番は納得できます。<br /> <br /> (4章84番) 練習の初期段階では、様々な顕著な内面の音が聞こえます。 しかし進歩が起こると、それらはますます微妙になります。<br /> <br /> この後、類似の、各種の音の例が続きます。<br /> <br /> (4章89番)心がどんな内面的な音に最初に集中するとしても、それは安定状態に達して、最後にはそれと1つになります。<br /> (4章92番)心がナーダの音に縛られ、その移り気をあきらめたとき、それは優れた安定性を達成します。<br /> <br /> 「Meditation and Mantra (Swami Vishnu-Devananda著)」にもナーダ音を使った瞑想方法が記載されてあったような気がしますが、そこでは「ナーダ音を使った瞑想方法もある」と言う程度の簡単な紹介でした。一方、この古典「ハタ・ヨガ・プラディーピカ(Hatha Yoga Pradipika)」では、ナーダ音を使った瞑想をかなり推奨していますね。最後の方でこれほどまでにナーダ音のことを言及するとは思いませんでした。この後も、しばらくナーダに関する記述が続きます。<br /> <br /> ナーダ音が特殊なものではなく、このような古典できちんと細かく語られていることに安心しました。<br /> <br /> <br /> <br /> Sun, 28 Oct 2018 00:00:00 +0900 プラティヤハーラ(制感)、ダーラナー(凝念、集中) 、ディヤーナ (瞑想)、サマーディ (三昧) https://w-jp.net/2018/1571/ <br /> ■プラティヤハーラ<br /> この「心の無」の状態を体験する前は、ヨーガで言うところのプラティヤハーラ(制感)のことがいまいちピンと来ていませんでした。プラティヤハーラとは、簡単に言えば以下のようなものです。<br /> <br /> プラティヤハーラは「向けて集める」の意味。出て行こうとする心の力を引き止め、それを感覚の奴隷から解放することです。(スワミ・ヴィヴェーカーナンダの「ラージャ・ヨーガ」より)<br /> <br /> 無の体験をして、このことがよく理解できるようになりました。 昔は、このこと自体は頭で理解できるのですが、それが現実として自分ができている感覚があまりありませんでした。ヨーガでの段階にはプラティヤハーラ(制感)、ダーラナー(凝念、集中) 、ディヤーナ (瞑想)、サマーディ (三昧)とあるのですが、それぞれの説明はここに詳しくは書きませんけど、無の体験をする前はその違いと状態がわかるようなわからないような、何とも微妙な状態でした。<br /> <br /> そこで、この無の経験をしたら、これこそがプラティヤハーラ(制感)なのかな、と思いました。もしかしたらそれはダーラナー(凝念、集中)と言ってしまっても良かったのかもしれないですけど、これら4つは連続的で、基本的には同質のもののようです。<br /> <br /> ■プラティヤハーラ(制感)、ダーラナー(凝念、集中) 、ディヤーナ (瞑想)、サマーディ (三昧)<br /> スワミ・ヴィヴェーカーナンダの「ラージャ・ヨーガ」から引用します。<br /> <br /> インドリヤ(感覚器官)は外界に向かって働いていて、外界の対象に接触する。それらを意識の支配下に置くことをプラティヤハーラ(制感)という。自己に向けて集める、という意味である。心をハートの蓮華、または頭の中心に集中するのをダラーナー(凝念、集中)と言う。<br /> <br /> この定義からすれば、以前に書いた<br /> 「3. 呼吸に意識をすることで心のお喋りを止めて呼吸の観察に戻すことができる段階。」はプラティヤハーラ(制感)<br /> 「4. 呼吸だけを意識して心のお喋りがない状態を最低5秒間は継続できる段階。」はダラーナー(凝念、集中)<br /> と言うことになりますね。<br /> <br /> スワミ・ヴィヴェーカーナンダの同書によると<br /> ダラーナーの1点集中を基礎として、ある種の心の波が生じる。これらは他の種類の波に飲み込まれることなく、他の全てが退いてついに消えて行く間に、徐々に顕著になって行く。つぎに、これらの波の数々は消えて1つに席を譲り、たった1つの波が心に残る。これがディヤーナ、瞑想である。<br /> 全ての心が1つの波、1つの形になった時、それがサマーディと呼ばれる。ただ、その思いの意味だけが存在する。<br /> <br /> とあります。これは、上に書いた<br /> 「5. 思考の波が十分に静まる、あるいは、意思の力で思考の波を沈めて体全体が暗闇の静寂に包まれる段階。」<br /> このことでしょうか? スワミ・ヴィヴェーカーナンダの説明とも少し違う気もします。 瞑想のやり方が間違っているのでしょうか? 瞑想のためには「対象」となる物あるいは概念がないといけない、みたいな話をヴェーダ系の先生から聞いたことがあるので、もしかしたら、私が対象を何も設定していないからこのような感じになるのかもしれません。だとすれば当然の結果というか、これはこれで良いのかも? このような時にグルがいないと微妙に困りますね。可能性としては、何かが間違っているからナーダ音が聞こえてきた、と言う可能性も一応あることを頭の片隅に置いておきたいです。精神世界は色々な落とし穴がありますから、常に気をつけていないといけません。<br /> <br /> ■プラティヤハーラ(制感)、ダーラナー(凝念、集中) 、ディヤーナ (瞑想)、サマーディ (三昧)は本質的に同じ?<br /> これら4つの段階について、ヨガの根本経典である「ハタ・ヨガ・プラディーピカ(Hatha Yoga Pradipika、Swami Vishnu-Devananda著)」にハタヨガの視点から関連する記載がありましたので、参考までに引用します。<br /> <br /> (4章2番の解説) ラージャ・ヨガには8つのステップがあります。〜(中略)〜 ハタヨガの視点によると、プラナがスシュムナにある一定の時間滞在しているときプラティヤハラ(制感)と呼ばれ、もう少し長く滞在するとダーラナの集中と呼ばれることを意味します。 さらに長い間だと、それはディヤナ(瞑想)と呼ばれます。 さらに長い期間の場合、それはサマディ(三昧)と呼ばれています。<br /> <br /> ここでスワミ・ヴィヴェーカーナンダの「ラージャ・ヨーガ」に戻ると、以下のようにあります。<br /> <br /> もし心がその中心に12秒集中することができるなら、それはダーラナであり、12のそのようなダーラーナ(凝念、集中)(約2分半)はディヤーナ(瞑想)であり、そして12のそのようなディヤーナ(瞑想)(約30分)は、サマーディであろう。<br /> <br /> ハタヨガ的にはプラナの制御、ラージャ・ヨーガ的には心の制御と言う視点の違いはあるものの、これら4つの違いは基本的に時間の長さと言う点が興味深いです。<br /> <br /> 感覚的には、ナーダ音はプラティヤハーラ(制感)を基礎としてダーラナー(凝念、集中) を超えたあたりで聞こえて来るのかな? と言う気がしました。そう言う意味では、一般的に言われているようにディヤーナ (瞑想)で聞こえる、と言っても差し支えないのではないかと、そんな気もします。<br /> <br /> ちなみに、「Meditation and Mantra」にはこれらの区別について以下のようにあります。<br /> 訓練されたヨギにとって、感覚の撤退(プラティヤハラ)、集中(ダーラナ)、瞑想(ディアーナ)、超自然状態の始まり(サマディ)の区別はぼやけている。瞑想に坐るとすべてのプロセスがほぼ同時に起こり、 非常に迅速に瞑想状態になる。<br /> と言うことで、割と同質のものであると読み取れます。説明のためあるいは修行者にとっては段階を踏んで練習してゆくわけですね。<br /> <br /> <br /> <br /> <br /> <br /> Sun, 28 Oct 2018 00:00:00 +0900 ジャダ・サマーディ(jada-samadhi)とラヤ・サマーディ(laya-samadhi) https://w-jp.net/2018/1570/ <br /> 「タントラ・ヨーガ瞑想法」(スワミ・ジョーティルマヤナンダ著)には上で私が体験した静寂の暗闇について、2つの似た状態について記述がありました。<br /> <br /> <br /> ・「古来この『無・意識』の世界はジャダ・サマーディ(jada-samadhi)として知られており、ヨーガではタマスの領域とも呼ばれている。これは肉体上、精神上の、激しい混乱の原因となる。この段階が最も危険である。この段階では、いとも簡単に『無・意識(not-consciousness)』の中に落ち込んでしまう恐れがあるからである。この段階では、先へ進めば進むほど危険性が増大する。そして実習者は、よくしばしば、この『無・意識』の中に落ち込んでしまう」<br /> ・「次の段階の『無・意識』は、ラヤ・サマーディ(laya-samadhi)と呼ばれ、心臓の鼓動がとまってしまう事態も起こり得る。この段階では、シンボル(帰命神の像など)が自動的に浮かびあがってきて、その像が間断なく保持されているかどうかと言うことが、決定的なポイントとなる。」<br /> <br /> <br /> となると、私は像は見ていないので私が経験したのは前者のジャダ・サマーディ(jada-samadhi)ですかね? ネットで検索すると、前者にあるのは無であり沈黙ですが、後者には絶対的な至福が付いて来るのが大きな違いのようです。でも、以前引用したようにラマナ・マハルシによるとナーダ音は「ラヤ(laya 心が一時的に休止している空白の状態)に導く」とありますので、ラヤ・サマーディ(laya-samadhi)だとも解釈できます。どちらなのでしょうね。<br /> <br /> 前者が落とし穴だとして、後者にしてもラマナ・マハルシによればそれすらも求道者を惑わすまやかしであり、どちらも通過点のようです。私のがどちらであったとしても、静寂の暗闇の経て初めて以下に記載するプラティヤハーラの感覚が掴めてきましたので、どちらにせよこの状態にずっと逃げ込んでいてはいけないのはそうなのでしょう。だとしても、この段階はきっと必ず通るのかなと思いました。ただ、私の場合はほんの短い時間ですのでサマーディという名前がつくほど大げさな体験ではないですが。どちらにせよ止まってはいけないという点に関しては同じなので進めば良いだけのようです。<br /> <br /> <br /> Sun, 28 Oct 2018 00:00:00 +0900 ナーダ音と耳を塞いだ時に聞こえる音との関係 https://w-jp.net/2018/1569/ <br /> ナウムクヒ・ムドラ(Naumukhi Mudra 九門のムドラ、ヨニ・ムドラ)で目、口、耳を塞いだ時に聞こえるのもナーダ音なのかとしばらくの間そう思っておりましたが、それを否定している記述を「瞑想と霊性の生活3(スワーミー・ヤティシュワラーナンダ著)」で後ほど発見致しました。<br /> <br /> それはあなたが指で耳をふさいだ時に聞こえるハミング音ではない。<br /> <br /> ただ、「ハミング音」と言っているのが少し引っかかります。強く耳を塞いで感覚が変になる時に聞こえる音ではないですよ、と言っているだけかもしれません。であればナウムクヒ・ムドラ(Naumukhi Mudra 九門のムドラ、ヨニ・ムドラ)で聞こえる音はやはりナーダ音と言うことになりますが。これはちょっと微妙なので、判断は保留ですね。<br /> Sun, 28 Oct 2018 00:00:00 +0900 シバナンダ先生のクンダリーニ・ヨーガ https://w-jp.net/2018/1485/ <br /> シバナンダ先生のDivine Life Societyで配布されている無料本 Kundalini Yogaを読んでいきたいと思います。案内によると、以下のようにあります。<br /> <br /> ■案内<br /> 宇宙の力の根底にある理論は、その最も薄い細糸まで分析されており、個人のこの偉大な根源の力を目覚めさせるための実用的な方法が示唆されている。 この書物は理論を説明し、クンダリーニ・ヨガの実践を説明します。<br /> <br /> ■序文「クンダリーニの目覚めの経験」<br /> 瞑想の間、あなたは神の姿を見て、神の匂い、神の味、神の触れ合いを経験し、神のアナハタの音を聞く。 あなたは神からの指示を受けます。 これらは、クンダリーニ・シャクティが目覚めたことを示しています。 ムーラダーラで騒ぎが起きる時。髪の毛が根元に立つ時。ウディヤナ、ジャランダラ、ムーラバンダが無意識に起こるとき。それによりクンダリーニが目が覚めたことを知ります。<br /> <br /> アナハタの音とはナーダ音のことですね。クンダリーニ・シャクティとは女神に象徴されるクンダリーニの力です。ムーラダーラは根のチャクラ、ルートチャクラです。ウディヤナ、ジャランダラ、ムーラバンダはそれぞれヨガの3つのバンダで、ヨガの手法的にはそれぞれの場所を固定することですが、それが自動的に起こるようです。私の場合、ナーダ音の記事に書いたようにナーダ音は聞こえていて、一度だけですがクンダリーニ・シャクティが少し目覚めた経験があります。バンダが自動的に起こるかどうかはよく分かりません。<br /> <br /> 意識せずに息が止まる「ケーヴァラ・クンバカ(Kevala Kumbhaka)」が自動的に起こるとき、クンダリーニ・シャクティが活性化していることを知ります。プラーナ(微細なエネルギー)の流れがサハスララ(クラウン・チャクラ)まで上がったと感じるとき、あなたが至福を経験したとき、あなたがオーム(のマントラ)を自動的に繰り返すとき、世界の思考が心にないとき、クンダリーニ・シャクティが目を覚ましたことを知ります。<br /> <br /> ケーヴァラ・クンバカ(Kevala Kumbhaka)は瞑想の上達を示す「しるし」の1つで、意識が静まってくると自然に息が止まるようになります。これは私の場合、瞑想中やリクライニングチェア、あるいはヨガのシャバアサナなどで割と自然に起こります。<br /> <br /> 瞑想において、目が眉間の中心のTrikutiに固定するShambhavi Mudraが起こることでクンダリーニが活性化したことを知ります。あなたの体の中のさまざまな部分でプラナ(微細なエネルギー)の振動を感じるとき、電気ショックのような震えを経験するとき、クンダリーニが活動的になっていることを知ってください。 瞑想中に身体がないかのように感じ、まぶたが閉ざされ、汗を流しても開かず、電気のような流れが神経を流れるとき、クンダリーニが目を覚ましたことを知ってください。<br /> <br /> 瞑想においてインスピレーションと洞察力を得るとき、その性質があなたに秘密を広げるとき、すべての疑いが消え、ヴェーダの聖典の意味をはっきりと理解し、クンダリーニが活気づいたことを知ります。あなたの体が空気のように軽くなるとき、騒がしい環境ですら平静の心を保ち続けるとき、仕事のために無尽蔵のエネルギーを持っているとき、それはクンダリーニが活発になっているのだと知ってください。<br /> <br /> 貴方が神への陶酔を得るとき、貴方が演説の力を成長させるとき、クンダリーニが目を覚ましたことを知ってください。 ヨガのポーズである様々なアサナを最小限の痛みや疲れで意識せずに行うとき、クンダリーニが活性化していることを知ります。あなたが美しく崇高な賛美歌と詩を無意識のうちに作ったとき、クンダリーニが活気づいたことを知ってください。<br /> <br /> 古典的なラージャ・ヨガおよびハタ・ヨーガ・プラディーピカーのような古典を元にしているようです。<br /> <br /> ■マインド(心)の少しづつの上昇<br /> チャクラは、重要な力としてのシャクティの中心です。 言い換えれば、肉体においてプラナヴァによって生み出された肉体におけるプラーナ・シャクティの中心であり、それぞれ司っている宇宙的意識に結びついた神々デバタたちであり、それらがこのチャクラ・センターの形で現れる。そのチャクラは物理的感覚では認識できません。それらを組織化する助けになるような肉体の該当部分が知覚可能であったとしても、肉体部分は死と共に崩壊してしまいます。<br /> <br /> プラナヴァの音が聖音オームであると聖典は言うが、その神秘はなかなか理解し辛い。プラナヴァによって魂や霊が顕現するような、神秘に属する知識らしい。<br /> <br /> 心の純粋さがヨガでの完成に繋がります。他人と触れ合うとき、貴方の行動を規制しなさい。他人に嫉妬感をしてはいけません。 思いやりのある人になりましょう。 罪人を憎むな。 誰に対しても親切でありなさい。 ヨガの練習に最大限の力を入れれば、ヨガの成功は急速になります。 <br /> 貴方は解放と強烈なヴァイラーギャ(利欲)を熱望していなければなりません。あなたは誠実で真剣でなければなりません。 サマーディ(瞑想の超越状態)に入るためには、激しい定期的な瞑想が必要です。<br /> <br /> 基本的な欲望と情熱を持つ世俗的な人間の心は、肛門と生殖器の近くにそれぞれ置かれているムーラダーラとスワディスタナのチャクラにそれぞれあります。心が浄化されると心は臍の中心であるマニプラチャクラに上がり、ある程度の力と喜びを経験する。心がより浄化されると心はハートのセンターであるアナハタチャクラに上がり、幸福を体験し、イシュタ・デバタ(理想神)の優雅な姿や守護神が視覚化されます。精神が高度に浄化されるとき、瞑想と献身が激しく深くなるとき、心は喉の中心のヴィシュッダ・チャクラに上がり、ますます多くの力と喜びを経験します。 心がこの中心に到達しても、それが下の中心に降りてしまう可能性があります。<br /> <br /> ヨーギが2つの眉間の中心のアジナ・チャクラに達すると、彼はサマーディを達成し、至高の自己(セルフ)であるブラフマンを実現します。 信者とブラフマンの間には、若干の分かれた感覚があります。もし彼が千枚の蓮子の花弁で象徴される脳の精神的な中心であるサハスララ・チャクラに達するとヨーギは超意識状態であるニルヴィカルパ・サマーディを得ます。彼は非二次元のブラフマンと一体になります。全ての分離感は溶けてなくなります。これは、意識の最高の面である最高のサムプラジュニャータ・サマーディです。 クンダリーニはシヴァと結びついています。<br /> <br /> ヨーギは喉のセンターにまで降りてきて生徒たちに指示を与え、他の人に良いことをします(Lokasamgraha)<br /> <br /> ■クンダリーニを呼び覚ますためのプラナヤーマ<br /> 以下のことを練習するときは、クンダリーニ・シャクティの座席である脊柱の基部にある三角形の形のムーラダーラ・チャクラに集中します。右の親指で右の鼻孔を閉じます。3オームをゆっくりとカウントするまで左鼻孔を通して吸います。あなたが大気でプラーナを描いていると想像してください。次に、右手の小指と薬指で左鼻孔を閉めます。その後、息を12オーム保持します。電流(プラーナ)を脊柱から下ろし、三角形のロータスであるムーラダーラ・チャクラに真っ直ぐに送ります。神経の電流(プラーナ)が蓮に当たり、クンダリーニが目覚めると想像して下さい。そして、6オームを数える間、右の鼻孔を通してゆっくりと吐き出します。同じ単位を使用し、同じ想像力と感覚を持って、上記のように右の鼻孔からプロセスを繰り返します。このプラナヤーマはすぐにクンダリーニを目覚めさせます。朝は3回、夕方は3回行います。あなたの強さと能力に応じて、徐々にそして慎重に数と時間を増やしてください。このプラナヤーマでは、ムーラダーラ・チャクラに集中することが重要です。集中力の程度が強く、プラナヤマが定期的に練習されている場合、クンダリーニは早く目を覚ますでしょう。<br /> <br /> これはアヌローマ・ヴィローマとして知られている片鼻交互呼吸法です。<br /> <br /> ■クンダリーニ・プラナヤーマ<br /> このプラナヤーマでは、プラカ(吸入)、クンバカ(呼吸保持)、レチャカ(呼気)の比率よりバーバナ(意図を心で感じること)が重要です。<br /> <br /> 肉体的な息のコントロールよりプラーナのコントロールが重視されます。<br /> <br /> 東または北に面して、パドマあるいはシッダ・アサナで座ってください。精神的に真のグル(精神的指導者)の蓮の足に平伏し、神とグルを賛美するストートラを朗読した後、クンダリーニの目覚めに簡単に導くこのプラナヤーマを始めます。<br /> <br /> インドの伝統的なヨガでは、何をするにも最初と最後にマントラ等のお祈りを唱えます。<br /> <br /> 深く吸い込み、音を出さないでください。あなたが息を吸うにつれ、ムーラダーラ・チャクラに潜んでいるクンダリーニが目覚め、チャクラからチャクラに上っていくのを感じます。 プラカ(吸入)の終わりに、クンダリーニがサハスララに達したバーバナ(意図を心で感じること)を持ちます。チャクラからチャクラに繋がる視覚化がより鮮明になればなるほど、このサダナ(精神的修行)であなたの進歩はより速くなります。<br /> <br /> しばらくの間、息を止めてください。プラナヴァ(聖なる音オーム)あるいはイシュタ・デバタ(理想神)を繰り返します。サハスララ・チャクラに集中します。母クンダリーニの恵みによって、あなたの魂を包む無知の暗闇が解消されたと感じてください。 あなたの全てが光、力、そして知恵によって浸透していると感じてください。<br /> <br /> ゆっくりと息を吐き出します。あなたが吐き出すにつれ、クンダリーニ・シャクティがサハスララ・チャクラから各チャクラを辿ってムーラダーラ・チャクラに徐々に降下していると感じます。<br /> <br /> ここでもう一度プロセスを開始してください。このプラナヤマを完全に賞賛することは不可能なほど素晴らしいです。 非常に迅速に完璧を達成する魔法の杖です。 数日間の練習でさえ、驚くべき栄光であなたを納得させるでしょう。 今日、この瞬間から始めましょう。神が喜び、至福と不滅であなたを祝福しますように。<br /> <br /> ■クンダリーニ<br /> クンダリーニという言葉は全てのヨガの修行者にとっておなじみのものです。それは力として知られ、7つのチャクラのうちの最初の1つであるムーラダーラ・チャクラに眠っているコイル状のサーペント(蛇)の形をしています。他の6つのチャクラは順番にスワディスタナ、マニプラ、アナハタ、ヴィシュッダ、アジナ、サハスララです。<br /> <br /> ジャパ(マントラ繰り返しの瞑想)、瞑想、キールタン(チャンティング)、祈りの形での全てのサダナ(精神的修行)は全ての美徳の育成と真理・非暴力・自制のような苦行の遵守はこのサーペント(蛇)の力を目覚めさせるために蓄積され、スワディスタナからサハスララへと続く一連のチャクラを通過します。サハスララは蓮の千枚の花びらとも呼ばれ、ムーラダーラに横たわっているシャクティのクンダリーニから離れてしまったサダーシヴァ(Sadasiva)あるいはパラブラフマンあるいはアブソリュート(絶対者)の座席とも呼ばれます。それはやがてクンダリーニが上に述べたように全てのチャクラを通過することで統合に至ります。主との統合をするテクニックであるヨガの修行者の解放がもたらされ、その努力が実って成功します。<br /> <br /> サハスララに住むシバとムーラダーラに住むクンダリーニ・シャクティが通常は離れており、それが合一すると覚醒に至ります。<br /> <br /> 官能的で性的快楽を楽しむ世俗的な人々の場合は、このクンダリーニの力は、霊的修行の形での刺激がないために眠っています。世俗的な富と豊かさを持つことによって得られた他の力ではなく、そのような霊的な練習を通して生み出された力だけがサーペント(蛇)の力(クンダリーニ)を目覚めさせます。 グルとしての称号があり、クンダリーニがすでに目覚めて上のチャクラのサダーシヴァ(Sadasiva)に到達しているスピリチュアルな指導者が同じゴールを達成しようとしている他者を導いて助けているので、先駆者の指示に従って修行者がシャーストゥラ(聖典)で禁じられているすべての規律を真剣に練習することにより、クンダリーニを取り囲むベールの層は晴れ始め、ついには裂かれ、サーペント(蛇)の力は上向きの方向に押されたり動かされたりします。<br /> <br /> 修行者の精神的な目に超感覚的な映像が現れ、言い表せない驚異と魅力を持つ新しい世界がヨーギの前に自らをさらけ出し、幾つもの層が次々にその存在と栄華を修行者の前に表します。そしてヨーギは神の知識と力と至福を得て、それは次々に増大します。クンダリーニがチャクラを貫くごとに、クンダリーニが触れる前にそのチャクラが花開きます。その力を手放さないでください。それは神聖な光と香りを放ち、神の秘密と現象を明らかにします。それは世俗的な人々の目から隠されており、彼らはその存在を信じることを拒否します。<br /> <br /> クンダリーニがヨーギの中心である1つのチャクラに登ると、ヨーギはヨギの階段を1ステップ上がる。もう1ページ、次のページ、彼は神の本を読む。クンダリーニが上に上がるにつれ、ヨーギはまた、精神的な完成であるゴールに向かって前進する。クンダリーニが6番目のセンターであるアジナ・チャクラに達するとヨーギは個人的な神であるサグナ・ブラフマンのビジョンを得て、サーペント(蛇)の力が最後のトップセンターであり十枚の蓮の花弁であるサハスララ・チャクラに達するとヨーギはサット・チット・アーナンダ(実在・純粋意識/知識・至福)の海の中で個人的人格が溶けてゆき、最上の魂である主と1つになります。彼はもはや普通の人ではなく、単純なヨギではなく、無限の神の王国を征服した完全に輝く聖人であり、幻想との戦いで勝利した英雄であり、無知の海あるいは天性の存在を超えて解放された人であるムクタであり、相対世界で苦しんでいる他者の魂を救う権限と能力を持つ優れた人であり、聖典は、可能な限り最高の栄光の道と彼の業績で彼を最も讃えています。 3つの存在であるブラフマ、ヴィシュヌ、シヴァですら天界の存在は彼を羨ましく思います。<br /> <br /> <br /> <br /> Sat, 27 Oct 2018 00:00:00 +0900 アナハタ・ナーダの聖音とクンダリーニ(超感覚的なキーンという高周波 / 4096Hz / 鈴の音) https://w-jp.net/2018/1473/ <br /> ヨーガの聖典によると、体にあるエネルギーの通り道「ナディ」が浄化された時に「ナーダ」と言う超感覚的な音が聞こえると言う。それは浄化が一定に達したことを示す「しるし」でもある。特に、背骨を通っている主要なナディであるスシュムナが浄化されたことを示す「しるし」だと言われています。どのような音かというと、多くの鈴が遠くで鳴っている音のようでもあり、フルートのような音でもあり、金属音と言えなくもない。始まりも終わりもなくずっと流れている音だが、静かな場所でないと聞こえにくい。<br /> <br /> 私が聞こえる音について、とあるヨーガ系の出家者(スワミ)やヨガティーチャーに聞いたところ、上記のような回答を得ました。聖典にもそう書かれています。しかし、一般に「耳鳴り」と言うとその原因はストレスにあると診断されます。肉体的な耳鳴りの場合は耳鼻科に行けば診断できますが、聴覚機能に問題がない場合はストレスが原因と判断されるようです。一方で、スピリチュアル的な耳鳴りというものが存在します。<br /> <br /> スピリチュアリスト、あるいはお寺の住職、あるいはヨーガの先生であってもこの耳鳴りの原因がわかる人はそれほど多くないようです。<br /> 尋ねた際、単なるストレスだと診断されたことも多々あります。100%の自信でストレスだと言い切る人も少なくありませんでした。一方で、ヨーガの聖典に関する知識を有する人、あるいはスピリチュアルな人はそれぞれ異なる見解を持っているようです。一部の人々はこの種の体験を同じくしており、その体験があるが故に、それは単なるストレスではないと確信を持って答えられるようです。<br /> <br /> ■ヨーガ<br /> ヨーガ的には「瞑想の時に聞こえる音」として「ナーダ(Nada)」の音であると解釈されます。それは、エネルギーの通り道であるナディが浄化されたことを示す印として解釈されます。具体的にはヨーガのプラナヤーマなどのクリアを毎日数回行えば3ヶ月でこのナーダが聞こえるようになると聖典に記載されています。ヨーガ的には常時聞こえる音としてではなく、瞑想の中で聞こえる音として一般的には解釈されています。<br /> <br /> この音は、打つことなく流れる音という意味の「アナハタ・ナーダ(アナハタの聖音)」と言われます。<br /> <br /> 「瞑想をきわめる(スワミ・シヴァナンダ)」には以下のようにあります。<br /> <br /> 内なる霊音。「アナーハタ」の音は、深く瞑想している時に聞こえる神秘的な内なる霊的な音です。その音が聞こえると、精神的な生気の回路である「ナーディ」が浄化したことを示します。これはプラーナーヤーマの実践を持続することによって体験できます。その音は、鐘やフルートやティンパニーの奏でる音楽のようであったり、巻貝が割れるような音であったり、雷や蜂の羽音のような自然の音であったりします。アナーハタの音は右の耳から聞こえ、両耳をふさぐとさらにはっきりと聞こえます(ヨニ・ムドラ)。心を集中してこの神秘の音を聞きましょう。この音は心の中にあるプラーナ(生命エネルギー)のバイブレーションです。<br /> <br /> 常時聞こえない人であっても、耳を塞いで内部の音に集中すれば微かな音が聞こえることがあります。ナウムクヒ・ムドラ(Naumukhi Mudra 九門のムドラ、ヨニ・ムドラとも言うようです)で親指で耳、人差し指で目、中指で鼻孔を塞ぎ、薬指と小指を上下の唇に置いて口を塞ぐと超感覚的な音が聞こえることがあります。それがナーダ音ですが、浄化が進めばそれが常時聞こえてくるようにもなります。浄化が進んでも常時は聞こえない人もいるようです。<br /> <br /> ヨーガ的にはこの超感覚的なナーダは後頭部にあるビンド・ヴィサルガ(Bindu Visargha, ビンドス・チャクラ)あるいはヴィシュッダ・チャクラ(喉のチャクラ)で聞こえる音ということになっています。始まりも終わりもない、止まることのない超次元の感覚で聞こえる音です。<br /> <br /> 書籍により聞こえる場所の記述はまちまちで、ビンド・ヴィサルガ(Bindu Visargha, ビンドス・チャクラ)で聞こえるという記述とヴィシュッダ・チャクラ(喉のチャクラ)で聞こえるという記述がそれぞれありますが、ビンド・ヴィサルガ(Bindu Visargha, ビンドス・チャクラ)はヴィシュッダ・チャクラ(喉のチャクラ)の副次的なチャクラですので、どちらで聞こえると言っても間違いではないような気がします。ビンド・ヴィサルガはマイナーですので普通はヴィシュッダ・チャクラ(喉のチャクラ)で聞こえると言えば十分かもしれません。他の場所で聞こえるという話については少し下に記述します。<br /> <br /> 以下、「Meditation and Mantra (Swami Vishnu-Devananda著)」の英文を訳しつつ引用します。<br /> <br /> アナハタの音(またはメロディー)は、瞑想の習慣の始めの段階でヨギが聞いた神秘的な音です。この主題はナダ・アヌサンドナナ(Nada-Anusandhana)と呼ばれ、神秘的な音に探求されます。これはプラナヤマのためナディ(Nadis, アストラルの流れ)の浄化の徴候です。音はまた、 Ajapa Gayatri Mantra "ハムサ・ソーハム(Hamsah Soham)" を10万回唱えた後に聞こえるかもしれません。耳を閉じてもしなくても、右耳から聞こえます。 閉じた耳を通ると音がはっきりしています。 PadmaまたはSiddha Asanaの、Yoni Mudraで座り、左右の親指で耳を閉じることにより音をしっかり注意して聞くことができます。場合によっては、左耳を介して音を聞くこともできます。 右耳からだけ聞く練習をしましょう。 あなたは右の耳でのみ聞こえますか? 右の耳ではっきり聞こえますか? 鼻の右側にある太陽のナディ(ピンガラ)のために。 Anahataの音はOmkara Dhvaniとも呼ばれます。 それは心臓のプラナの振動によるものです。<br /> <br /> 同じ本の別の箇所に以下のような記述もあります。英文を訳しつつ引用します。<br /> <br /> 聞こえるNadaは10種類あります。 最初はChini(Chiniという言葉のような)です。 2番目はChini-Chini、3番目はベルの音、4番目はConch(巻き貝)の音である。 5番目はTantri(リュート)、6番目はTala(シンバル)、7番目はフルート、8番目はBheri(ドラム)、9番目はMridanga(ダブルドラム)、10番目は雲のこと、つまり雷です。<br /> <br /> あなたが神秘的な音の梯子の上段に足を置く前に、あなたの内側の神(最高の自己)の声を7つの仕草で聞くことができます。 最初はナイチンゲール(ウグイスに似た鳥)の甘い声のようなもので、仲間と別れる歌を唱えています。二番目はDhyanisの銀のシンバルの音で、輝く星を目覚めさせます。 次は、殻の中に投獄された海の妖精の美しいメロディーです。 そして、これに続いてヴィーナ(Veena)の唱歌が続きます。 あなたの耳での竹のフルートが五番目の音です。 それは次にトランペットの一吹きに変わります。 最後は雷雲の鈍い轟音のように振動する。 7つ目の音は他のすべての音を呑み込む。 それらは死んで、それ以上は聞こえません。<br /> <br /> 同本には体験談も記載されています:<br /> "1ヶ月間プラナヤマをやった後、フルート、ヴァイオリン、ベル音、鐘のクラスターからのMridang音、ほら貝の音、ドラム音、雷鳴、時には右耳からのみ、時には両方の耳から、甘美なメロディーな音を聞き始めました。" .... <br /> <br /> 何処でこの音が聞こえるかは諸論があり、上に記載したビンド・ヴィサルガ(Bindu Visargha, ビンドス・チャクラ) 以外にも、アナハタ・チャクラ(ハートチャクラ)から聞こえると言う意見やヴィシュッダ・チャクラ(スロート・チャクラ)あるいはアジナ・チャクラ(第3の目)、はたまたサハスララ・チャクラ(クラウン・チャクラ)から聞こえると言う記述もたまに見かけます。<br /> <br /> これに関しては、ヨーガの4つの道であるカルマ・ヨーガ、バクティ・ヨーガ、ラージャ・ヨーガ、ギャーナヨーガのそれぞれで聞こえるチャクラが違うと言う解釈を見かけたことがあります。引用できませんが、たしか、バクティ(敬愛)の道であればアナハタ・チャクラ(ハートチャクラ)から聞こえて、ラージャ・ヨーガの道であればアジナ・チャクラ(第3の目)から聞こえて、ギャーナ(ヴェーダンタの知識)・ヨーガであればサハスララ・チャクラ(クラウン・チャクラ)から聞こえると言う解釈もあるようです。おそらく、進む道によってそれぞれ活性化しやすいチャクラがあって、そのチャクラで聞こえやすい、と言うことでしょうか。<br /> <br /> ですが、多くの場合、ナーダ音というとビンド・ヴィサルガ(Bindu Visargha, ビンドス・チャクラ)、ヴィシュッダ・チャクラ(スロート・チャクラ)、アナハタ・チャクラ(ハートチャクラ)のいずれかが原因とされているようです。この中で、ビンド・ヴィサルガ(Bindu Visargha, ビンドス・チャクラ)はヴィシュッダ・チャクラ(スロート・チャクラ)の副次的なチャクラですのでビンド・ヴィサルガ(Bindu Visargha, ビンドス・チャクラ)とヴィシュッダ・チャクラ(スロート・チャクラ)は一纏めにすると、ビンド・ヴィサルガ(Bindu Visargha, ビンドス・チャクラ)あるいはアナハタ・チャクラ(ハートチャクラ)の2つが主要なものになります。<br /> <br /> 私の場合は頭の中の中央か少し後ろ気味なので、ビンド・ヴィサルガ(Bindu Visargha, ビンドス・チャクラ) から聞こえると言う解釈が一番しっくりきます。ただ、このビンド・ヴィサルガ(Bindu Visargha, ビンドス・チャクラ) とアジナチャクラ(第3の目)の本体である松果体は位置的に近いので、どちらとも取れます。アジナチャクラ(第3の目)と言うと一般的には眉間をイメージしますが、核は松果体にあるので、そこで聞こえているのかもしれません。<br /> <br /> ■アナハタ・チャクラ(Anahata Chakra)<br /> アナハタ・ナーダ(アナハタの聖音)と同じアナハタという言葉がアナハタ・チャクラ(ハートチャクラ)に使われています。<br /> この語源は同じで、どちらも「打たない」という意味です。<br /> 「an」は否定、 「ahata」は「叩く」や「打つ」を意味しているから、アナハタは「打たざる」と言う意味になる。<br /> <br /> ヨーガの本山博先生によると、「アナハタ・チャクラでは非物理的、超越的次元の、止まることなく絶えることのない、初めも終わりもない音、アナハタナーダ(アナハタの聖音)と呼ばれる音が聞こえるといわれます。」とのことです。<br /> <br /> ■気圧の可能性<br /> 天気によって気圧が変わると耳鳴りをする時があります。<br /> ただし、それは肉体的な不快感を伴うことが多く、この種のスピリチュアルの耳鳴りとは趣が異なるようです。<br /> <br /> ■身体的な原因の可能性<br /> 頭蓋骨の左右のバランスが崩れている時に起こる可能性があります。<br /> それが原因であればヨーガのアサナなどをきちっとすれば治る、とヨーガの先生から言われました。<br /> その先生も過去に耳鳴りをしたことがあり、ヨーガのアサナで治したことがあるらしいです。<br /> <br /> ■スピリチュアル<br /> スピリチュアル的な解釈としては、途絶えることのない高周波は、天使が近くにいる印、あるいは、自らの波動が高まると聞こえる音だと解釈されます。スピリチュアリストは「もし高周波の音が強すぎて辛い場合は『少し弱めにして下さい』あるいは『辛いのでもう少しだけ離れてください』と天使に頼めば良い」と言います。天使に頼むだなんて、なんともロマンティックな解釈です。また同時に「この高周波は自らを浄化してくれている」とスピリチュアリストは解釈しています。<br /> <br /> 4096Hzに着目しているスピリチュアリストは、第9オクターブの4096Hzが天使界の扉を開く音と言っている方もいます。地球の振動周波数(8Hz)の9段階目の倍音が4096Hz。<br /> <br /> 【4096Hz Angel gate 2 地上と天使界をつなぐ音色】クリスタルチューナーサウンド 祝福の音 癒し ヒーリング効果・浄化用BGM 天使の周波数<br /> <br /> ちなみに、私が最近ずっと聞こえているのはこの 4096Hz の音に近いです。日によって多少の上下はあります。これと似ていますが、完全に同じではありません。耳で聞こえる音とはちょっと違うので、聞き比べると似ているような気もしますが、なんだか、もっと広範囲の周波数が混ざっているような感じですかね。高い音程と言えばそうですし、もっと低いような気もしないでもないです。自然界の音のように混ざってノイズになるというよりは、超感覚的にそれぞれの音程が頭の中のどこかで「それぞれ」聞こえているという感じで、高い音程があるのはそれはそれで正しいですし、低い音程があるのも、それはそれで正しいのかなと。「なんとなく高い音程が優勢に聞こえるのであればこんな風に聞こえる、そんな雰囲気」としか言いようがないです。このムービーでは音量が大きくなったり小さくなったりしていますが、実際に聞こえるのは音量が一定です。始まりもなくて終わりもない音です。<br /> <br /> クリスタルチューナーという4096hzの浄化用音叉も売られているようです (私は使ったことがありません)。<br /> <br /> ちなみに、スピリチュアリストが「天使が近くにいる印」と言っているのは、おそらくは天使の波動が高いので天使のオーラに包まれて自分が一時的に高い波動になるから聞こえるのかな、と思っています。というのも、人間と天使の違いは波動の高さと肉体があるかないかという点ですので、人間であっても波動が高い人の近くに行くと同じような高周波が聞こえることがあるので、おそらくは天使だけでなく人間でも霊でも、とても高い波動の魂(スピリット)の近くに行くと自分の波動が感化されて一時的に波動が高まって高周波が聞こえるのかな、と思っております。<br /> <br /> ■スシュムナとアナハタ音<br /> 一つの解釈としては、ヨーガ的なアナハタの音は背骨を貫いているスシュムナと言う一番重要なナディ(エネルギーの通り道)が浄化される時に聞こえる音なのでしょう。それは、浄化されていなくて詰まっている時に聞こえる音とも解釈できます。詰まり方に応じていろいろな音が混ざって聞こえる。やがて浄化が完了すれば聞こえなくなる。主に、ザラザラとした音。ただし、おそらくは完全に詰まっていると全く聞こえなくて、過渡期に聞こえるのかな、と。<br /> <br /> 仮説ですが、ザワザワした音はスシュムナというよりはイダとピンガラの音に類するもので、ゴーという轟音に類する音はスシュムナに類するもののなのかもしれません。このあたりはまだ想像です。エネルギーの高低によっても音の聞こえ方が違うのは物理的世界の音の鳴り方にも似ているのかもしれません。もっと高い神秘的な音は超感覚的な音で、高位の世界に繋がっているもの。スピリチュアリストが言っているのは主にこちら。チャクラおよびナディ毎に違うような気がします。高次の世界においては世界は「幾何学図形と音だけ」とのことなので、それが見え始めた、聞こえ始めた、と言うことなのでしょう。どちらも類推ですが。ナディの音や、チャクラの音などがそれぞれあるのでしょう。<br /> <br /> 前述の「Meditation and Mantra (Swami Vishnu-Devananda著)」によると、音が聞こえたことは超感覚的な世界が存在していると言う印であり、サダハ(精神的修行をしている人)にとって大きな精神的な助けになる、とも書かれています。超感覚的な世界を体感できなくてこの世界を離れる人が多い一方、このような「しるし」を見つけることで確信が持てるということでしょう。この音は精神修行(サダナ)においてごく初歩的なマイルストーンとみなされているようです。精神世界に足を1歩踏み入れた、と言ったところでしょう。<br /> <br /> ■イギリスのスピリチュアリスト協会の講師の話<br /> 「霊媒神秘修行 イギリスへ」(開堂慈寛 著))によると、イギリスのスピリチュアリスト協会の講師から説明に基づくと頭痛がするのはスピリチュアルな能力が目覚める前触れだと言う。これは古くからの言い伝えであるとか。霊聴や霊視などの各種霊能力あるいは何らかの能力が出てくる可能性がある。能力は人によるので必ずしも出てくるわけではない。とのこと。スピリット(精霊)が近くにいることを示すので、あまりに辛ければ、少し離れてください、とお願いすればいいとのこと。同書に、頭痛だけでなくて耳鳴りのことも書いてあったような気もするのですが今見直しても見つかりません。気のせいでしょうか。<br /> <br /> ■ライトワーカー的解釈<br /> 「ライトボディの目覚め」によると、とある段階(第8レベル)で脳下垂体と松果体が成長した時に激しい耳鳴りになることがある、と書かれています。又、甲高い口笛のような音が聞こえるときは、おそらく高次元の存在があなたにコンタクトしようとしているのでしょう、とも書かれています。<br /> <br /> ■禅<br /> 禅においては「禅病」として知られる有名な逸話に白隠禅師の夜船閑話があります。<br /> 白隠禅師は熱心に修行をした後、禅病になってしまった。その症状の1つとして「激しい耳鳴りで、まるで川のせせらぎの間にいるような状態」(白隠の読み方、より引用)になったと言う。<br /> <br /> 解釈としては、スシュムナあるいはイダかピンガラを流れるアナハタ・ナーダ(アナハタの聖音)を超感覚的に聞いたのでしょう。<br /> <br /> ■年寄りの耳鳴り<br /> 夜船閑話の解説書「夜船閑話講和(大西良慶著)」によると、「歳をとると耳の奥にセミが鳴いているようにジーと言っているときもあるしガーと言っている時もある。そんな音の聞こえるのは平和なときではない。やはり、のぼせ上がった時の状態」と言っています。この本の著者は、白隠禅師が聞いた耳鳴りは悪い状態を示すサインだと考えているようです。白隠禅師が超感覚な音を聞いたというよりは、単にストレスによる耳鳴りになったという解釈のようです。<br /> <br /> ビンドス・チャクラから聞こえる超感覚的な音は精神状態に関わらず常に聞こえて基本的には一定なので白隠禅師の経験した耳鳴りとも、上記のような年寄りの耳鳴りとも違う感じです。次に記載するように、白隠禅師の耳鳴りはクンダリニー体験による轟音であった可能性があります。その場合、アナハタ・ナーダ(アナハタの聖音)に分類されます。上記のように単なる年寄りの耳鳴りだったとはとても思えません。<br /> <br /> 白隠禅師の書籍をいくつか読んだのですが、その解説書を書いている方も住職だったり禅師だったりするようですが、この耳鳴りをうまく解釈している人はその中にはいませんでした。本に書くようなことではなくて、本には当たり障りのない一般人向けの説明だけが書かれていて、実際にお寺で修行するならばナーダ音は当たり前のことなのかもしれないですが。<br /> <br /> 本を読む限りは、「白隠禅師は一生懸命修行したら禅病になってしまってストレスによる耳鳴りがするようになってしまった」と書かれてあるものもあります。実際のところ、ナーダ音それ自体は単なる「浄化が一定度進んだという印」であって肯定的なものであり、一方で、白隠禅師がクンダリニのエネルギーを頭に集めてしまっていわゆる禅病になったというのは別の話として解釈するのが良さそうです。<br /> <br /> ■キーンという高周波がナーダ音なのかストレスによる耳鳴りなのか見分ける方法(質問のお便りがありましたので追記)<br /> キーンという音はヨガの修行が進むと精神状態がとても落ち着いてリラックスして聞こえるものがナーダ音と言われます。心がざわついていて聞こえるものはストレスによる耳鳴りであることが多いですが心がざわついていてもナーダ音が聞こえる方もいらっしゃいます。基本は、リラックスしていればナーダ音でストレスがあるなら耳鳴りであることが多いです。リラックスして聞こえるナーダ音は問題ありませんので基本はほおっておけばよいと思います。ストレスで聞こえる耳鳴りであればストレスを取り除いてリラックスするのが良いと思います。<br /> <br /> ■ゴーピ・クリシュナによるクンダリニー体験<br /> ゴーピ・クリシュナによると、最初のクンダリニー体験に「滝が落ちてくるような轟音」があったと言う。それは、一筋の光の流れが脊髄を通って脳天にまで達したときの音だったと言う。(ゴーピ・クリシュナ著「クンダリニー」より引用)<br /> <br /> この後、ゴーピ・クリシュナはクンダリニ症候群(あるいは禅病)として知られる状態になったのだが、その理由として著者は、「本来ならば脊髄に沿っているスシュムナを使ってクンダリニーを上げなくてはならなかったのだが、それ以外のナディ(エネルギーの通り道)から誤って上がると霊的にも肉体的にも重大な混乱が起こり、治る見込みのない障害者や気狂いになったり時には死ぬこともある。特に酷い場合、右側にあるピンガラを通ってクンダリニーが目覚めると、外から鎮めようとしても全くコントロールの聞かない体内熱のために、最悪の場合、文字通り焼け死んでしまうこともある。」と言う。そこで、この著者は、左側にあるナディ(エネルギーの通り道)であるイダを目覚めさせることを考えついた。それを実行して、助かった。同書には、もう1つの重要な指示が書かれています。「行法を修めている間、行者は胃袋を空にしてはならない。三時間おきに軽い食事を取るべきである」 これに従い、著者は助かったと言う。(「クンダリニー」より)<br /> <br /> スシュムナをクンダリニーのエネルギーが上昇する時に轟音が聞こえたと言うことは、これはスシュムナあるいはイダとピンガラに関する音なので、アナハタ・ナーダ(アナハタの聖音)と言って良いでしょう。<br /> <br /> ヨーガにおいても、古典的にはプラナヤーマの呼吸法などでスシュムナを浄化することを重視しています。スシュムナを浄化しておくことにより、不意にクンダリニーが上昇してしまった時に致命的な事故を防ぐと言う意味合いもあるでしょうし、意識的にクンダリニーを上昇させるための準備として浄化が重要視されているのでしょう。同書にはそのようなことも書かれています。<br /> <br /> どこに書いてあったのかは忘れましたが、何かの聖典にも右のピンガラからクンダリーニを上げることの危険性について言及していたような気がします。<br /> <br /> クンダリニー体験で聞くアナハタ・ナーダ(アナハタの聖音)と、クンダリニー制御が不完全な場合に起こるストレス・精神不安定が原因の耳鳴りは全く異なるものだと思います。白隠禅師の聞いた轟音はクンダリニー体験のアナハタ・ナーダ(アナハタの聖音)だったように思いますが、それ自体がストレスの耳鳴りではなく、白隠禅師は有り余るエネルギーの制御が時に不安定になったがためにクンダリニ症候群(あるいは禅病)になったのであり、アナハタ・ナーダ(アナハタの聖音)が聞こえるからと言ってクンダリニ症候群(あるいは禅病)であるとは限りません。白隠禅師の体験したクンダリニーのアナハタ・ナーダ(アナハタの聖音)を指摘して後世の解説者はクンダリニ症候群(あるいは禅病)だと解釈していることが多いですが、これは解釈の誤りだと思います。<br /> <br /> ■クンダリニーヨーガ的な音<br /> 行法の1つに、体内でのプラーナ(生命エネルギー)循環を行う方法があるが、この時、ビンドゥ・チャクラ(ビンド・ヴィサルガ, Bindu Visargha)から超感覚的な音が聞こえる。(「クンダリーニ・ヨーガ」より)<br /> <br /> ■3ヶ月で浄化され、ナーダ音が聞こえる<br /> 「ハタ・ヨガ・プラディーピカ(Hatha Yoga Pradipika、Swami Vishnu-Devananda著)」には以下のようにあります。<br /> <br /> (2章10番) アヌローマ・ヴィローマ [片鼻交互呼吸法]により 3ヶ月で一定の浄化を達成することができます。満足、平和、満足感があります。 あなたがヤマとニヤマを遵守している限り、これはすべて達成されるでしょう。 単に左右の呼吸だけでは十分ではありません。誰もがプラナヤマを練習することができますが、もしヤマとニヤマがなければ、心は正しい方向に進まないので、成功は容易には達成されないしょう。<br /> <br /> ヤマと二ヤマというのはヨガの八支則(はっしそく)の最初の2つで、基本的な道徳について言及されています。条件下でプラナヤマのクリア(浄化)を行うことにより3ヶ月でナーダ音が聞こえるまでに浄化されると聖典の古典に述べられています。ただ、周囲を見ると何年も何十年も聞こえてこない人も大勢いるので、古代の人々にとってはそうであっても、現代の人に3ヶ月が適用できるかどうかは良く分かりません。少し下に詳しく記載するように、私個人としては毎日ヨガを始めてからだいたいそのくらいで聞こえてきたのですが。最初の10ヶ月は週1回90分レッスン、その後3ヶ月はほぼ毎日ヨガ90分をしたら聞こえてきました。<br /> <br /> ■スピリチュアリストの著書「オーラ13の魔法の法則(小宮ベーカー・純子著)より<br /> この著者は、額のアジナチャクラから蝶形骨にかけてバイブレーションが響き始めて、その影響で耳鳴りがするようになったとのことです。耳鼻科での診察は問題なし。悪いどころか聞こえすぎるとの診断だったそうです。時期としてはチャネリングやオーラ感知ができるようになった頃から耳鳴りが始まったとのことです。ちなみに、私も耳鼻科に行きましたが診断は問題なしでした。<br /> <br /> ■スピリチュアリスト、ドリーン・バーチューによる解釈<br /> おそらく、この高周波による耳鳴りを「天使の声」と言い出したのは彼女でしょう。あるいは、彼女がこのことを広めたのでしょう。神や天使の声を聴くことをクレアオーディエンス(Clairaudience, 透聴能力)と言いますが、天使界からのメッセージをダウンロードしている時に聞こえる音だという解釈のようです。彼女の場合、この音は「左耳」から聞こえるそうです。<br /> <br /> ヨーガの大家が「右耳」と言っているのに対して彼女は「左耳」と言っています。ちなみに私は左寄りで聞こえますが、両方から聞こえている感じでもありますので、どちらか一方ではありません。頭の中央のやや左寄りから聞こえています。これを左耳と言えばそうなのかもしれませんが。<br /> <br /> 主要ナディであるイダとピンガラは、右にあるピンガラが交感神経で太陽がシンボルで活力を司り、左にあるイダが副交感神経で月がシンボルで癒しを司りまます。諸説あるようですが、ピンガラは肉体的エネルギーを司り、イダは精神的および高次のエネルギーを司ると言う解釈もあります。この解釈に従うと、ヨーガの大家は肉体的エネルギーに近いところのクンダリニーやそれに類するエネルギーを活性化して右の鼻に繋がっているピンガラの音を右耳と言うか右側から聞いたのに対し、スピリチュアリストは高次の精神エネルギーを活性化して左の鼻に繋がっているイダの音を左耳と言うか左側から聞いたのだ、とも解釈できますね。<br /> <br /> ヨーガの言うナーダ音は主に瞑想中に聞こえる音ですが、スピリチュアリストが言う高周波の耳鳴りは常日頃から聞こえるものを意味します。<br /> <br /> ■左右の解釈<br /> ヨーガ的には、右にあるナディ(エネルギーの通り道)をピンガラ、左をイダと言います。右のピンガラは太陽がシンボルで活動的であり交感神経、左のイダは月がシンボルで鎮める役目の副交感神経です。これを音と合わせると、左から聞こえる音はイダ的で癒し、右から聞こえる音はピンガラで活動的、とも解釈できます。 ただし、これは体の中を鼻から始まってムーラダーラチャクラ(会陰部あたり)に繋がっている「ナディ(エネルギーの通り道)」に関することです。これに関する音であればこのような解釈でいいのだと思います。<br /> <br /> ■左右とチャクラ<br /> ヨーガ的には、胸のあたりに副次的なチャクラであるスーリア・チャクラ(太陽のチャクラ)とチャンドラチャクラ(月のチャクラ)があります。<br /> <br /> ■古代エジプトの左右の目<br /> 「フラワー・オブ・ライフ」によると、古代エジプトには3つの神秘学派があったとのことです。<br /> 男性性の学派は「ホルスの右目」女性性の学派は「ホルスの左目」、そして「ホルスの中央の目」<br /> ここでも、右が男性、左が女性になっていますね。<br /> <br /> ■古典的なスピリチュアリストによる解釈(混乱しないように注意)<br /> シャーリー・マクレーンの「ゴーイング・ウイズイン」によると、「第3の目(チャクラ)は脳の下半分、神経組織、耳、鼻、人格の目である左目を支配している。」「王冠のチャクラは松果腺と対応しており、脳の上半分と右の目を支配している。」と記載があり、左目がアジナチャクラ(第3の目)、右目がサハスララチャクラ(クラウンチャクラ)に対応しているとのことで興味深いですが、この書籍以外でこのような記述をほとんど見かけないので、このような説もあると言う理解でとりあえず頭の片隅に置いておくくらいがいいと思います。<br /> <br /> 余談ですが、松果腺は、ヨーガ的にはサハスララチャクラ(クラウンチャクラ)ではなくてアジナチャクラ(第3の目)と関連していますので、その部分の解釈も異なっています。<br /> <br /> 更に余談ですが、「フラワー・オブ・ライフ」で紹介されている古代エジプトにおける13チャクラシステムによると、松果体は3つのチャクラに繋がっているといいます。「第3の目(アジナチャクラ)」「クラウンチャクラ」およびその中間にある「45°のチャクラ」に繋がっているとのことです。現代で一般的な8チャクラシステムと13チャクラシステムは別の理論体系のようなので基本的には併用できないようですが、真実は1つなのでそれぞれの側面から解釈できそうです。<br /> <br /> これらは解釈がそれぞれ微妙に違っていて混乱を招くかもしれませんし、ヨーガなどで一般的な話とちょっと離れているので、一旦忘れた方がいいかもしれません。<br /> <br /> ■ナーダ音に集中して瞑想するナーダ・ヨーガ<br /> 上と同じ「Meditation and Mantra」から訳しつつ引用します:<br /> <br /> あなたは瞑想の間、様々な種類のアナハタの音である鐘の音、ケトルドラム、雷鳴、コーチ、ヴィーナやフルート、ハチの鳴き声などを聞くことができます。 心をこれらの音のいずれかに固定することができます。 これもSamadhiにつながるでしょう。 <br /> <br /> これはいわゆるナーダ・ヨーガとしての瞑想だと解釈できます。ナーダ音に集中して瞑想する方法でもサマーディに到達できるようです。<br /> <br /> ■ヴェーダンタ流派の解釈<br /> 又、同本「Meditation and Mantra」によるとヴェーダンタ系の流派は違った解釈をするようです。瞑想の間に現れる光や音を幻覚(マーヤー)だとして無視するようです。訳しつつ引用します:<br /> <br /> ヴェダンタの道にいる学生は、これらの音と光を無視します。 彼はすべての形を否定することによって、ウパニシャドの偉大な発言の意義を熟考しています。 "太陽はそこに輝いておらず、月や星も輝いてはいない。また、この稲妻は輝かない。そして、この火が輝く可能性もっと低い。彼が輝く時、彼に続いて全てが輝く。彼の光によってすべてが光ります"。 彼は次のように瞑想します:"均質な本質の中で、空気は吹いていません。火はそこで燃えていません。音や触感、臭いも色も、心もプラナもありません。私は満足しているSiva、私は満足しているSiva",<br /> <br /> これも、日常に聞こえる音のことではなく瞑想中に聞こえる音のことを言及しています。<br /> <br /> ・・・と以前書きましたが、その後、ヴェーダンタをインドで習った方にお話を伺ったところ、ヴェーダンタは経験を無視しないし体験を否定しないので、「経験を無視する」「経験を否定する」というのは良くある誤解だとのことです。ヴェーダンタでは経験のその先を見ているので、経験は否定しないものの経験に重きを置かない、ということのようです。ヴェーダンタを習うと周囲や本からこのような体験を見聞きすることも多いので、そんな経験もおそらくあるだろう、とのことで、否定はしないものの、ヴェーダンタの道にいる人はその先を見ているので、経験にはあまり興味がないようです。ヴェーダンタでは「サット・チット・アーナンダ(Sat-Cit-Ananda)」という言葉で表される、現象のその先、常に変わらないものを求めているようです。現象や経験には始まりがあって終わりがあるが、ヴェーダンタではそのような有限なものではなく永遠の至福を求めているようです。そのゴールを表す言葉がサット・チット・アーナンダ(Sat-Cit-Ananda)であり、全てのものや現象に永遠性と至福を見出せるよう道を歩んでゆくようです。<br /> <br /> ■ヘミシンク体験者<br /> 日本のヘミシンク関係者の書籍でも、似たような高周波について言及がありました。静かなところで作業をしたり本を読んでいる時に聞こえる高周波のようで、似たものだと思われます。ヘミシンクを行ったからと言って必ずしも聞こえるわけではないようですが。<br /> <br /> ■仏教系の解釈<br /> 仏教では世界を3つに分けているようです。<br /> 人が住む欲界、中間的な色界、欲望を超越した無色界<br /> <br /> 仏教的には、瞑想で聞こえるヴィジョンや音は「色界」に属するものであって、それはまだ欲望が残っている世界に属するものであると解釈するようです。(出典はどこか忘れました)<br /> <br /> ■ナーダ・ヨーガにおけるアナハタ・ナーダ(Anahata-Nada)とアナハダ・ナーダ(Anahada-Nada)<br /> スワミ・サッチヤナンダ(Swami Satyananda)の弟子であるジョーティルマヤナンダ(Jyotirmayananda)の著作「タントラ・ヨーガ瞑想法」によると、アナハタ・ナーダ(Anahata-Nada)とアナハダ・ナーダ(Anahada-Nada)は若干異なるようです。<br /> <br /> ヨーガでは体は大まかな3つの階層で構成していると考える。「肉体(物質とプラーナ)」「細身(メンタル質とアストラル質)」「真我(コーザル体)」ですが、それぞれの体が違った音を聞く、ということになっています。「細身」で聞こえるのがアナハタ・ナーダ(Anahata-Nada)であり、「真我」で聞こえるのがアナハダ・ナーダ(Anahada-Nada)とのことです。最初に聞こえ始めるのがアナハタ・ナーダ(Anahata-Nada)であり、後に聞こえるのがアナハダ・ナーダ(Anahada-Nada)になる。<br /> <br /> ■禅の公案「隻手の声(せきしゅのこえ)、隻手音声(せきしゅおんじょう)」<br /> 上記のジョーティルマヤナンダ(Jyotirmayananda)は「タントラ・ヨーガ瞑想法」において禅の公案である「両掌で叩いて音あり、片掌で叩いて何の音があるか」と言う問いに対して明快に答えています。もちろん、肉体においては片手で叩いても肉体が聞こえる音は出ない。ジョーティルマヤナンダによると、これはまさにアナハタ・ナーダ(Anahata-Nada)が聞こえる修行段階に至ったかどうかを試す公案なのだと言う。これは頭で考えることではなく、実際に聞こえるようになるまで修行し、実際に体験すべきことなのだと言う。<br /> <br /> アナハタ・ナーダ(Anahata-Nada)の「an」は否定、 「ahata」は「叩く」や「打つ」を意味しているから、アナハタは「打たざる」と言う意味になる。肉体で打たずして聞こえる音であるアナハタ・ナーダ(Anahata-Nada)が聞こえるかどうかで修行の進み具合を確認したのでしょう。<br /> <br /> 白隠禅師の禅宗では、かなり初期の段階でこの公案を解かされるという。<br /> であれば、このナーダ音が聞こえると言う「しるし」はかなり初歩的なものであると思われる。<br /> <br /> ■ナーダ・ヨーガを長年勉強した人に隻手の声(せきしゅのこえ)について聞きました<br /> ヨガ・オブ・ボイスというナーダ・ヨーガとその他を組み合わせた手法を提唱している、大学院教授でもあるシルビア・ナカッチさんのワークショップがあったので参加したことがあり、その際に上記の禅の公案「隻手の声(せきしゅのこえ)」について聞いてみました。彼女によると、禅の片手拍手の話は元がサンスクリットなので同じことを意味しているという。アナハタが「打たない」だから、その話が公案になったのだろう、とのこと。 推測なのか、あるいは、そういう常識なのか?<br /> <br /> 私は、この禅の公案は白隠禅師の発案かと思っていましたが、たしかに、サンスクリットのアナハタの意味が先にあったと解釈した方がしっくりきます。そのように解釈した方が良さそうです。<br /> <br /> ■ヨガナンダの自叙伝によると<br /> パラマハンサ・ヨガナンダの「あるヨギの自叙伝」には「神秘的なオームの音は、ヨガの初心者でも、しばらく練習を積めば聞くことができるようになる。この至福に満ちた霊的鼓舞を受けるとき、修行者は、実際に聖なるものとの触れ合いが出来たことを確認するのである。」と書いてあります。ここで言うオームの音とはアナハタ・ナーダ(Anahata-Nada)の音であると推測できます。<br /> <br /> ■アナハダ・ナーダ(Anahada-Nada)<br /> アナハタ・ナーダ(Anahata-Nada)と混同されやすいアナハダ・ナーダ(Anahada-Nada)はジョーティルマヤナンダ(Jyotirmayananda)によると「境界のない」とか「特質のない」と言う意味になる。これは宇宙の始源的な響き、あるいは、内なる沈黙の響きであるとされ、瞑想の最も深いサマーディに関係した沈黙の音になるが、日常で何も聞こえていない状態の普通の沈黙という意味とは全く異なる、音としてしか感知できない沈黙の響きになる。この認識が「マントラのオームが宇宙の根本原理」という理解や、あるいは、宗教は違えども聖書における「はじめに言葉あり」のような理解にも繋がってゆくらしい。このように、ナーダを使って悟りを得ようとするナーダ・ヨーギたちの一派がいるようです。<br /> <br /> これまた興味深い。私の場合、アナハタ・ナーダ(Anahata-Nada)は聞こえるがアナハダ・ナーダ(Anahada-Nada)はまだこれから、という感じですね。ようやく状況が見えてきました。<br /> <br /> ■アナハタ・ナーダ(Anahata-Nada)とアナハダ・ナーダ(Anahada-Nada)はやはり同じ?<br /> 上記のようにアナハタ・ナーダ(Anahata-Nada)とアナハダ・ナーダ(Anahada-Nada)は違うものである、と著名なスワミがおっしゃっていますが、その一方で、ナーダ・ヨーガを30年も勉強した大学院教授でもあるシルビア・ナカッチさんに聞いてみたところ、アナハタ・ナーダ(Anahata-Nada)とアナハダ・ナーダ(Anahada-Nada)は同じだ、とのこと。ナーダ・ヨーガの専門家がそう言うのですから、やはり発音違いで同じものなのかもしれない? 混乱します。 彼女によると、元はサンスクリットなので、「タ(ta)」と「ダ(da)」の違いは問題ではなく、同じだ、とのこと。 うーむ。 本当はそれが正しいのか、あるいは、そもそも、このことはあまり知らなくてもいい知識なのかもしれない。 一般的にはアナハタ・ナーダ(Anahata-Nada)しかない、ということでいいのかもしれません。 これが違うと主張したところで、それを体験していなければ説明のしようがないですし。 体験せずに主張したらトリビアっぽくなってしまうかもしれません。<br /> <br /> あるいは、ヨーガ行者など神秘行全般によくあることだが、私のような、セミナーに参加しただけの部外者の質問には曖昧に答えて誤魔化しているだけで、やはり別物であることを本当は知っているのかもしれない? 確信を持って話しかけてきた人にだけ本質を伝える、と言うやり方なのかもしれない。 あるいは弟子入りしないと本質は教えない、とか。 一般的には同じということにしてアナハタ・ナーダ(Anahata-Nada)しかない、としてしまった方が説明としてもわかりやすいし、説明したところで理解できる人は限られています。アナハタ・ナーダ(Anahata-Nada)の先に到達できそうな人にだけ秘密を明らかにする、というのがヨーガ的なやり方でもあるかもしれないです。 謎は残る。 ここからは、自分でアナハダ・ナーダ(Anahada-Nada)を体験してみるしかないかもしれません。<br /> <br /> ■ナーダ・ヨーガの修行法<br /> 上記のジョーティルマヤナンダ(Jyotirmayananda)の書物にはナーダ・ヨーガの修行法が紹介されています。その注意書きに以下のようにあります。<br /> <br /> 「しばらく実習を続けているうちに、昼間何もしていない時に突然音が聞こえてくるようになる。そうしたら、その段階でこの方法を中止する。しかし、これは決して幻聴などではない。ただこの音が、実習者の日常生活の邪魔になり、何ら有益なものをもたらすことがないので、止めるに越したことはないわけである。非常に熟練したヨーギーなら、目覚めている間中、ずっと一日中でも、霊的な声を聞き続けていることができる。ただこのためには、ここでは言及していない非常に特殊な準備をして、グルの直接的な指導を仰ぐ必要がある。しかしそこまでゆくと、これはもうシッディ(神通)に属する未知の声を聴こうとするための修行になってしまう。」<br /> <br /> ということで、一般的には、この音を聞く訓練はやり過ぎないのが肝心のようです。私は別に、ナーダ系の特殊な訓練をしていたわけではないですけどね・・・。私の場合、聞こえてくるようになった理由はおそらくヨガの普通のプラナヤーマです。インドのアシュラムや一部の上級者がやるようなバストリカのような難しいものではなく初歩的なものしかやったことがありません。それでも基本的な浄化(クリア)がされるには十分なのかもしれません。<br /> <br /> ■音がずっと聞こえるようになってしまった場合<br /> 「シャンバラからの伝言(成瀬雅春著)」によると、ナーダ・ヨーガの実習を行なっていると音が耳に残ってしまうことがあり、その時は「カパラバティ・クリア」を行うと治ると言う。<br /> <br /> ■ナーダ・ヨーガによる音の4分類<br /> 成瀬雅春先生による「精神世界の扉」ではナーダ・ヨーガによる4種類の音の分類を紹介しています。<br /> 「ナーダはサンスクリット語で『流れ』とか『音』を意味してい。流れというのは音の流れでもあり、意識の流れでもある」とのこと。<br /> その4種類とは<br /> ・ヴァイカリー 通常の耳で聞こえる音<br /> ・マディヤマー 聞こえる音と聞こえない音の中間。神妙な囁きのような音<br /> ・パシャンティー(パシュヤンティー) 耳で聞こえる音ではなく「観える音」<br /> ・パラー 聞こえない音、沈黙の音というような意味であるが、宇宙の始原的な響きであり、瞑想の最も深い部分<br /> と説明しています。<br /> <br /> マディヤマーがいわゆるナーダ音であると解釈できます。<br /> <br /> ジョーティルマヤナンダ(Jyotirmayananda)によると「ヴァイカリーからマディヤマーへ移行する段階の中間的な次元の音がアナハタ・ナーダ(Anahata-Nada)」と書いてありますので、文字通りに解釈するとヴァイカリーとマディヤマーの間ということになりますが、意味を考えるとマディヤマーがそもそも中間的な音という意味ですので、ヴァイカリーからパラーへと向かう時に中間的なマディヤマーの段階で聞こえる音、と解釈することにします。おそらく翻訳が微妙なだけでしょう。<br /> <br /> アナハダ・ナーダ(Anahada-Nada)は「真我(コーザル体)」で聞こえる音ということですので、明確に記載はないですが、おそらくはパシャンティーやパラーが該当すると思われます。<br /> <br /> 「瞑想と霊性の生活3(スワーミー・ヤティシュワラーナンダ著)」には以下のように記載があります。<br /> <br /> 私たちが話すとき、私たちが耳で聞くものは、ヴァイカリーと呼ばれる、粗大な形の音にすぎない。それは、声帯、舌、その他の動きから生まれる。その背後に、思考過程の産物である言葉がある。これはマディヤマ音である。思い自体は、パシャンティ音と呼ばれる、もっと精妙な衝動から生まれている。パシャンティは非顕在のシャブタ・ブラフマンから発するのであって、その音の過程はパラーと呼ばれている。それゆえ人の思いの生活は、パラーから発して、パシャンティとマディヤマを通り、ヴァイカリーに至るまでの領域を持っている。<br /> <br /> ■Vaikhari/Madhyama/Pashyanti音の分類<br /> Hatha Yoga Pradipika (Swami Muktibodhananda著, Swami Satyananda Saraswati監修)P559には例と共に明確な説明が記載されています。<br /> ・物理的な耳で聞こえる音: Vaikhari音。誰かがフルートを吹いていて誰かが聞く場合。<br /> ・耳で聞こえるような気がするが実際には心(マインド)で聞く音: Madhyama音。どこか離れたところで誰かがフルートを吹いていて、誰かがフルートを吹いているのを貴方が感じる場合。<br /> ・他人には聞こえず瞑想の中で聞こえる音: Pashyanti音。誰もフルートを吹いていないのに貴方がそれを聞く場合。<br /> <br /> ■金蔵の書<br /> 神智学協会の設立者であるH・P・ブラヴァツキーがチベットで修行した時に入手した「金蔵の書」の邦訳が「沈黙の声」に掲載されているのですが、そこにも上で紹介した7種類の音について記載があります。<br /> <br /> &amp;nbsp;「Meditation and Mantra」の記述「沈黙の声」の記述1ナイチンゲール(ウグイスに似た鳥)の甘い声鶯の声2銀のシンバル銀のシンバル3殻の中の海のメロディ貝から聞こえる海のメロディ4ヴィーナの唱歌ヴィーナの歌5竹のフルート竹の笛6トランペットの一吹きラッパの音7雷雲の鈍い轟音のように振動轟々たる雷鳴7つ目の音は他のすべての音を呑み込む。それらは死んで、それ以上は聞こえません。第七の音はその他の音一切を呑み、一切の音は消えて、早きこえず。<br /> 音に関してはほぼ類似で、おそらく出典がほぼ同一なのですが、こちらには更に説明があります。それによると、最後の第7の音が聞こえるのとそれ以前の6番目の音とは決定的な違いがあるそうです。第6の雷鳴の音までは低次の人格と結びついており、第7に達すると低次の人格が克服されて内なる真我(アートマン)が現れたことを意味するそうです。その時、いわゆるサマーディ状態になるとのことです。解釈が難しいところではありますが、同書によると、クンダリーニが上昇するにつれて段階的にこれらの音が聞こえて最終的にサマーディになる、とも読めます。<br /> <br /> 又、同書にはこれとは別に、「高き瞑想の神秘的階調」と表現しているアナハッド・シャブドというエーテルの世界の音にも言及されていますが、詳しい説明はありません。<br /> <br /> 私の場合、ナーダ音が普段から割と聞こえており、日常生活のほとんどは支障が無いものの、クラシックコンサートやオペラを聞きに行く時にナーダ音がコンサートの音と混じって聞こえてコンサートだけを楽しむのに支障があったり、あるいは、コンサート中は自分が周囲に迷惑をかけないように息の音まで気をつけないといけないのにナーダ音がずっと聞こえているが故に呼吸の音も含めて完全に音が消えているかどうかを自分で確かめ辛い、といった、音に関する日常生活の不便がたまにあるので、この音を意識的に消すことができればいいなあ... とたまに思うのです。なにせ、ナーダ音とは「始まりも終わりもない音」でずっと流れていますから、特別それが不快ではないにせよ、むしろ心地いいものではあるのですが、時にその音を消したいなあと思うこともあるわけです。 前置きが長くなりましたが、そういうわけで、この文脈です。最後のところに、「第7の音はその他全てを飲み込んで、もはや聞こえなくなる」、と記載があります。一生ずっとこのナーダ音と付き合うことになるのかな... とも思っていたのですが、どうやら次のステージに進めば聞こえなくなるようです。そう思えば、ちょっと安心してきました。<br /> <br /> そういえば、ドリーン・バーチューの本にも高周波はそのうち聞こえなくなって言語化して聞こえるようになるとか何とか記載があった気がします。どこに記載があったのかは見つけられませんが。<br /> <br /> 1番目のウグイスの声。これは、微かに聞こえるナーダ音のことでしょう。私は最初は気のせいかと思っていましたので、この段階ははっきりとは認識していません。エアコンの音かと思っていた微かな音が実はそれだったかもしれません。具体的に気付き始めたのは2番からで、この1番目のウグイスの声単体ではチ・チ・チ・チ・チ・チという微かな音なので単体ではそれと気付きにくい気がします。<br /> <br /> 2番目の銀のシンバル。だいたい2017年11月頃からこの音を認識し始めました。ヨガを始めて1年くらい経った時のことです。そのうち最初の10ヶ月は週1回90分レッスン、その後3ヶ月はほぼ毎日90分レッスン、と言う頻度でヨガをしていました。最初は1番のウグイスの声のようなチ・チ・チ・チという音から始まって(エアコンの音と似ているのでそれだったかもしれませんし、ナーダ音だったかもしれません。ここは微妙です)、次第に高周波のピーという音が聞こえてきて、時々シャリシャリという感じの多くの鈴(神楽鈴の音程をもっと低くしたような静かな音)が遠くで鳴っている音というか田舎の秋のスズムシやバッタ等の虫の音を遠くで聞くようシャンシャンした音が聞こえました。あるいは、遠くでかなりの数のミンミンゼミが鳴いているような音(耳につくような音ではない感じ)の時もあります。それは、自然が奏でる曲とも言えなくもないです。メロディはないですが不快ではなく、聞いていて落ち着く音の時があります。基本的にはそうではなくて単なるピーという音なのですが。人によっては「モータ音」と言うかもしれない。或いは「サーサー」と言う音。振幅はほとんどないので「サーーーーーーー」と言う感じですが。これは、3番目の貝の海のメロディと言えなくもないです。1番のウグイスの声はエアコンなのかナーダ音なのかどちらなのか微妙なところではありますが、2番以降はナーダ音としか考えられないですね。どこに行っても聞こえるのでナーダ音の可能性が高いです。<br /> <br /> 4番のヴィーナのような低い音は良くわかりませんが、重なって聞こえているとすればそういう音もあるかもしれません。単体ではよくわからないですね。5番目のフルートの音は高周波としてはずっと聞こえています。私の場合、ふと気づいた時には既に2番から5番までが聞こえていた感じですね。6番目のトランペットは、たまに片耳から聞こえますが頻度は低いです。トランペットというよりはもっとゆっくりとした音の音量が次第に大きくなって、次第に音量が小さくなってゆくという感じです。<br /> <br /> 私個人は上に書いたようにヨガのシャバアサナの時に聞こえてきてその後は常時聞こえるようになりましたので「座禅の瞑想中の時だけ」聞こえるようなナーダ音は経験しておらず、常時聞こえるようになってからは座禅の瞑想中でももちろんずっと聞こえるようになりましたので、座禅の時「だけ」聞こえるような一時的なナーダ音は経験していないのですが、もしかしたら人によっては座禅の瞑想中にだけ聞こえるナーダ音というものがあるのかもしれません。一般的には「瞑想中に聞こえる音」としてナーダ音が紹介されていることが多いようですので、推測するに、座禅をして瞑想をすると聞こえるようになった人が多いのかなあと推測しますが、私はもはや常時聞こえるので確かめようがありません。<br /> <br /> 2018年初め頃から2番の銀のシンバルや3番の海のメロディが聞こえなくなってきました。5番のフルートは変わらず聞こえます。状態が進むにつれて聞こえる音に変化があるのでしょうか。<br /> <br /> 2018年6月、頭の中で「プツ」「プツ」と言う細かな気泡が弾けるような小さな小さな音が時々することに気付きました。ナーダ音に比べて音量が1/3~1/5くらいの小さな音。骨が鳴る音と似ていますが、感覚的には骨が鳴る音とはちょっと違う感じ。もしかしてこれをトランペットの一吹きと言うのかもしれませんが、(6番の)トランペットにしては時間が随分と短いです。日本人が一吹きと聞くと10秒や20秒の長い音をイメージしますが、この著者はとても短い一吹きの0.2秒とかそういう音を意味していたのだとしたらこれが該当するかもしれません。あるいは、時々聞こえた長い音がトランペットなのかもしれません。ちょっとこれは微妙ですね。まだ聞こえていないだけかもしれません。<br /> <br /> 7番目は心当たりがないのでまだですかね?<br /> <br /> 2018年7月、ナーダ音が、左と右で聞こえ方が違う。左はフーという感じの高音で、右は左よりちょっと低い音と左よりちょっと高い音とザラザラ音との3つの音が混ざっている感じ。左は音量がわずかに大きくなったり小さくなったりして、ちょっと波打っています。1つの周波数の音量が増減しているというよりは、音量一定の周波数が複数混ざり合っていて、その波形が重なって大きくなるタイミングと小さくなるタイミングがあるような感じ。左は右ほど周波数分かれてはいないので別々の音が重なっているようには聞こえず、単に波打っているように聞こえるが、やはり複数の音が重なっていると思うのが理屈に合っています。でも、それは7番目の「雷雲の鈍い轟音のように振動」というほどのものではない。やはり7番目はまだのようです。<br /> <br /> 2018年9月以降、時々ですが大きな体の蜂がそこら中でブンブン言っている音をたまに聞くようになりました。その時は、体が活性化しているので何かの変化の予兆かもしれません。<br /> <br /> ■ナーダ音の言語化<br /> 幾つかの書籍によると、最初はナーダ音として高周波が聞こえるだけだが、やがてはそれを解釈する構造が自分の中にできてきて言語化されて聞こえるようになると言います。ただし、「言語化」と言うのは、そう表現するしかないから言語化と言っているだけで、超感覚的に直接的に意味が解釈されるような種類のもののようです。<br /> <br /> 例えば、先に述べたスピリチュアリスト、ドリーン・バーチューも似たようなことを言っています。高周波が聞こえている状態においては、意味がわからなくともプログラムをダウンロードしているのだとか。そしてやがてはその意味がわかるようになる、と言っています。<br /> <br /> ライトワーカーによる「ライトボディの目覚め」によると、やがて頭部上方に言語解釈の霊的なクリスタルが作られて意味が解釈できるようになると書かれています。<br /> <br /> ヨーガ的にはナーダ音はビンド・ヴィサルガ(Bindu Visargha, ビンドス・チャクラ)と言う副次的なチャクラで聞こえることになっていますが、このチャクラは「副次的」とあるようにヴィシュッダ・チャクラの副次的なチャクラであり、ヴィシュッダ・チャクラは喉にあって言語や浄化を司るチャクラですので、ナーダ音の言語化にはこれらのチャクラが使用されると解釈できます。ただし、ヨーガ的には「ナーダ音が言語化されて解釈される」と関連付けて解釈することは少ないようです。 それらはほとんどの場合独立して語られ、単に、ビンド・ヴィサルガ(Bindu Visargha, ビンドス・チャクラ)でナーダ音が聞こえる、と言う事項と、それと独立するような形で、ヴィシュッダ・チャクラで言語およびテレパシーを扱う、と言うように、別々のこととして述べられていることがほとんどです。あるいは、ビンド・ヴィサルガ(Bindu Visargha, ビンドス・チャクラ)のことは持ち出さずに、単に「耳はヴィシュッダ・チャクラの領域」とだけ言われることもあるようです。<br /> <br /> 「ダライ・ラマの密教入門」にはこのことを示唆していると思われる記述が見つかります。<br /> 「喉のところにある滴は、単なる音の現れを意識に生じさせる機能を持っています。それは通常の状態では不浄な音の現れを生じさせています。この滴の機能を用いると、修行中には『無敵の音』が得られ、『仏陀の境地』を達成する際には、この無敵の音によって、『究極の言語』が得られるのです。」<br /> 滴というのはチャクラと解釈できます。最初は意味のない高周波が聞こえるが、修行によって音が変わり、やがてはその音は言語として解釈できるのだ、と読めます。<br /> <br /> ここは、私は以下のように解釈しました。<br /> <br /> 「肉体(物質とプラーナ)」で聞こえるのは普通の音。<br /> 「細身(メンタル質とアストラル質)」で聞こえるのが高周波のアナハタ・ナーダ(Anahata-Nada)です。ここでは言語化はされていません。<br /> 「真我(コーザル体)」で聞こえるのが(いわば)言語化された、アナハダ・ナーダ(Anahada-Nada)で、ダライ・ラマの言うところの「究極の言語」。<br /> <br /> 「ダライ・ラマの密教入門」によると、瞑想のサマーディや身体のヨーガによって心を鎮めて行くと「微細なレベルが機能し始める」と書かれてあります。これは文脈的に「真我(コーザル体)」のことであると解釈します。<br /> 同書によると、微細な意識のレベル(おそらく真我、コーザル体)では、「心(意識)」と「エネルギー」は一体のものになるようです。対象を「知る」という観点からは「心(意識)」になり、運動するという観点からは「エネルギー」になるが、それは一体である、とのことです。<br /> <br /> その状態に至るまでにきちんと瞑想やヨーガで修行していないと危険な状態に至るとも書かれています。<br /> 「修行が完成していない状態で光明を現そうとすると、喉のところにあるエネルギーセンター(受用輪)が圧迫され、光明が現れるどころか死に至る危険すらあるのです。このように、ある種の技法はとても危険を伴うものなのです。」(「ダライ・ラマの密教入門」より)<br /> 修行のためには経験を積んだ師に頼ることが重要ということが強調されています。喉の圧迫感は私にも度々あるので、修行(或いは「浄化」)がもっと必要のようです。私はこういう修行を大して積んだ訳でもないし、近くにこういう指導ができる師匠も見つからないので手探りに浄化をしてみます。仕方がないです。この喉の圧迫感は前から謎だったので、こういう理由だとようやく分かったのでこれで対策が打てます。<br /> <br /> 瞑想のサマーディやヨーガでは、心の死滅、或いは心の安定、という状態がゴールになります。その先に「真我(コーザル体)を目覚めさせる」、という段階が待っているのだと読み取れます。スピリチュアリストにせよ、ライトワーカーにせよ、ヨーガのジョーティルマヤナンダ(Jyotirmayananda)にせよ、ダライ・ラマにせよ、宗教や流派は違えども、意外と皆、似たようなことを言っているようですね。<br /> <br /> ■瞑想とナーダ音<br /> 瞑想には色々とやり方がありますが、「Meditation and Mantra」に記載のあるヨーガ系の瞑想手法の場合、このナーダ音が聞こえてきても無視するように指導されます。この手法はマントラ(オーム、あるいは伝授された個人的なマントラ)を唱えて集中するのですが、ナーダ音が聞こえてきたとしても元々集中していたマントラに集中を戻すように指導されます。あくまでもこの手法(流派)の場合の話です。<br /> <br /> 同書およびHatha Yoga Pradipikaには、このナーダ音をそのまま瞑想に使用できると記載があります。その場合、ナーダ音に集中することで瞑想を行います。呼吸やマントラに集中するのではなくてナーダ音そのものに集中します。その手法でもサマーディを達成できるとのことです。<br /> <br /> ■ラマナ・マハルシの見解<br /> 著書「不滅の意識」によると以下のようにあります。<br /> <br /> 質問者: ナーダ・ヨーガ(nada-yoga 音に対する瞑想)を修練している時、私は鈴やこだまのようなサイキックな音を聞きます。<br /> マハルシ:その音がラヤ(laya 心が一時的に休止している空白の状態)に導くのでしょう。これらの音を聞いているのは誰か注意して見るのを忘れないようにしなさい。もしあなたがあなたの内なる真我をしっかりと捕まえて手放さないならば、あなたが音を聞くか聞かないかは重要なことではないでしょう。主体を見失わないように保っておきなさい。ナーダ・ヨーガは確かに集中の1つの方法ですが、それを達成した後は真我に焦点を合わせなさい。もしあなたが主体を見失うと、あなたはラヤに入って行くでしょう。<br /> <br /> 真我とは神智学で言うコーザル体あるいはヨガ的なアートマンのことですから、この記述からも、ナーダ音は(ここに明確な記載はありませんが)細身(メンタル質とアストラル質)に属するものであって、真我(コーザル体、アートマン)に属するものではないと解釈できます。<br /> <br /> 同書には、同様の質問がもう1つ掲載されています。<br /> <br /> 質問者:集中された心が静止する前に、あるいはその後に、ヴィジョンを見たり神秘的な音を聞くことがありますか。<br /> マハルシ:それらは前にも後にも現れます。重要なのはそれを無視し真我にのみ注意を払うことです。瞑想の間に見えるものや聞く音は、心を乱し、心を誘惑するものと見なさなければなりません。それらが求道者を惑わすことと決して許してはなりません。ヴィジョンは瞑想に妙味を添えますが、しかし、それ以上の何ものも与えることはありません。<br /> <br /> ここでも、上に乗せた瞑想手法の解釈と似たようなことが述べられています。<br /> <br /> どうやら、ナーダ音は集中の手助けにはなるが、それ以上のものではない、と言うのが複数の覚者による見解のようです。ナーダ・ヨーガ的な瞑想では物理的に聞こえる音、あるいは、ナーダ音に集中することで意識を深めてゆくのでしょう。瞑想のために利用する物理的な音やナーダ音など諸々は、いわば補助道具なのでしょう。そして、ある程度の段階に至ったのであればそこから先は(補助器具であるところのナーダ音などを手放して)真我を見出してゆくのだと思います。<br /> <br /> この記述だけを見たら、「そうか。真我を見出せばいいのか」とだけ思ってしまいがちですが、まずその前に、きちんと段階を追って、ナーダ音やヴィジョンが現れる段階を得てからようやく真我を見出す段階に至るのであって、いきなり真我を見出そうと瞑想しようとしても、かなり無理があると思います。ヨーガ・スートラに述べられているように、まずはヤーマやニヤマという道徳的なところから始まり、呼吸法のプラーナヤーマ、姿勢のアサナ、感覚から自由になるためのプラティヤハーラ、そして集中のダラーナ、瞑想のディアーナ、そして至福状態のサマディに至るわけですが、真我を見出すと言うのは最後のサマーディの段階ですし、ナーダ音が聞こえると言うのは瞑想のディアーナ段階ですから、段階をきちんと踏むことが重要であるのは大前提であるわけです。<br /> <br /> 瞑想の解説で「ヴィジョンや音などは重要ではない」と言う記述は多くの書物で見ますし、瞑想に詳しい人もそう言うことが多いので、それはそうなのでしょう。この解釈としては、「現実は現実として、それが心の中で聞こえたり見えたりしているのだから否定する必要はない。ただ、それは重要ではないので、特別な注意を払う必要がない」と言う程度のものだと思うわけです。<br /> <br /> 後日、同じラマナ・マハルシの別の書籍から言及している箇所を発見したので引用します。<br /> <br /> ナーダはヨーガの聖典に述べられています。しかし神はそれを超えているのです。血液の循環、呼吸作用、その他の身体的機能は必然的に音を生み出します。その音は不随意で継続的です。それがナーダなのです。「ラマナ・マハリシとの対話 第1巻」(ムナガーラ・ヴェンカタラーマイア著)<br /> <br /> ここだけを読むと「ナーダ音は肉体が出している音である」と解釈してしまいそうになりますが、「ナーダ音は真我(アートマン)が出している音ではない」と解釈した方がスッキリします。というのも、彼はこの文節では「体か、あるいは、真我(アートマン)か」という2択で話をしているように解釈できるからです。彼の話をするのであれば文字通りでいいのかもしれませんが、他の聖典との整合性を考えるとこのように解釈した方がスッキリすると思いました。<br /> <br /> ■ナーダ音が聞こえ出した最初の時<br /> <br /> 私がナーダ音が最初に聞こえたのはヨガの最後のシャバアサナの時でした。<br /> <br /> 最初は、いつものように呼吸や思考を観察していただけでした。ヨガをするにつれて思考の波が穏やかになってゆき、やがては、散発的に連続5秒前後くらいならば思考がない状態で息だけを静かに観察できるようにはなっておりましたので、その程度で息だけを観察しているだけでも十分にリラックス出来てはいたのですが、更に深くリラックスしたいと思い、たしか息を吸ってからちょっと止めて少しづつ吐きながらその息に少し注意を払うことで思考の波をより深く鎮めようとしました。心の言葉にならない程度の細かな波をグッと静めようとしたわけです。最初は試行錯誤で、特に何も変わりませんでした。ですが、とある日、変化が起こりました。もともと目を閉じていたので視界は一応暗かったのですが、思考の波を意思の力で鎮めることにより、より一掃の暗闇の静寂に包まれたのです。それは、視界が暗闇に包まれただけでなく、体全体が暗闇の静寂に包まれたのです。その瞬間、息のことも意識になくなり、視界が暗闇に包まれ、深い深い静けさの暗闇の中に「無」とも言える意識が漂ってきて、とても心地よかったことを覚えています。<br /> <br /> それが日をあけて数回続いたでしょうか。一旦慣れればその状態にシャバアサナからすぐ移行する事ができましたので、何回かそんな事が続きました。それはそれは落ち着いた深いリラックスだったわけですが、その静寂の「無」の中から、急に音が聞こえてきたのです。それがナーダ音の始まりでした。<br /> <br /> 段階的にまとめます。<br /> 1. 最初は、心のお喋りのなすがまま。心のお喋りに反応することで心のお喋りを増幅させてしまう段階。<br /> 2. 心のお喋りに付き合うことなく、心のお喋りを観察できる段階。<br /> 3. 呼吸に意識をすることで心のお喋りを止めて呼吸の観察に戻すことができる段階。<br /> 4. 呼吸だけを意識して心のお喋りがない状態を最低5秒間は継続できる段階。<br /> 5. 思考の波が十分に静まる、あるいは、意思の力で思考の波を沈めて体全体が暗闇の静寂に包まれる段階。<br /> 6. シャバアサナの時、暗闇の静寂の中からナーダ音が聞こえて来た。<br /> 7. シャバアサナの時だけでなく、日常生活においても普通にナーダ音が聞こえるようになった。<br /> <br /> 上に書いたようにナーダ音には複数の種類があり、一番最初の「ウグイスの声」はこの静寂の暗闇の前にもシャバアサナの時に聞こえていたような気もしますが、このウグイスの声は微妙な音なので、なかなか日常生活の音との見分けが難しかったような気がします。高周波のピーと言う音や鈴の音は暗闇の静寂を経験した後に聞こえて来たような気がします。これらの高周波は分かりやすい音です。<br /> <br /> 音それ自体は、地方に旅行した時などで音が全くしない場所で静寂のキーンという音が聞こえるような感覚に似ていたり、あるいは、ヨーガの手法「ナウムクヒ・ムドラ」で耳・目・鼻・口を塞いだ時に聞こえる音(これもアナハタ・ナーダだと言われる)に音自体は似ているので、聞こえるかどうかの話で言えば昔から聞こえたのですが、意識の状態はかなり違います。<br /> <br /> ナウムクヒ・ムドラをすれば一般人でもかなりの確率でナーダ音を聞くことができると思いますし、地方に旅行して静寂のキーンという音を聞いたことのある人は一般人でもかなり大勢いるでしょう。そのような一時的な体験でナーダ音が聞こえたと言うのと、意識の静寂と共に常に聞こえるナーダ音の間には随分と差がある気がします。どちらも「静かなところで聞こえる」という点に関しては一緒ですが、その内容はかなり違うと思うわけです。意識の静寂と共に聞こえるナーダ音は常に聞こえますから、誰かと会話していても重なって常に聞こえる高周波です。音量は日によって多少変わるもののある程度は一定ですから周囲がかなり騒がしいと被ってしまって聞こえにくくなりますが、静かな場所で話す時の人の会話と同じくらいの音量で常に聞こえる高周波なので、音量はそれなりにあります。地方の旅行での静寂のキーンは特殊な体験ですが、意識の静寂と共に聞こえるナーダ音は日常生活の延長です。普通に生活していて、例えばネットで調べ物をしたり会話したりしていても普通にナーダ音も聞こえ続けています。<br /> <br /> その後、何人かとナーダ音について話したのですが、それでふと思うのは、ナウムクヒ・ムドラや地方の静かな場所でナーダ音を聞いて「私はナーダ音が聞こえる」と言っている人がぼちぼちいるということです。「それは、ナウムクヒ・ムドラや地方の静寂で聞こえる、アレでしょ?」みたいな感じ反応してくる人もいて、「そのくらい、私にも聞こえるよ?」みたいな反応をする人もいて、その一方で、「ナウムクヒ・ムドラなら私もそれっぽい音が聞こえるよ? 普通じゃないの?」みたいな、あまり特別なものではないという反応が多く、私の言うことにもあまりピンと来ないようです。私の説明の仕方が悪いのかもしれませんけど、ナウムクヒ・ムドラや地方の静寂で聞こえるナーダ音であれば聞こうと思えばおそらくほとんど全ての人が聞こえると思います。人によっては家が静かなのでいつも聞こえるという人もいるでしょう。<br /> <br /> ナウムクヒ・ムドラであれば私が子供の頃に同様の遊びをした際にもナーダ音っぽいものが聞こえていた気がしますし、私もヨーガを始める前に地方の旅行をした時も静寂の音を聞いたことがありますので、何人かと話をしてもやはり同様の感触を受けましたので、きっと割と普通のことなのでしょう。ですから、私が周囲にナーダ音のことを言っても、説明すると「私もたぶん聞こえる」みたいな反応があったりして、ちょっと話が噛み合いません。私が言っているのは、ナーダ音そのものよりも、意識の状態の変化が重要だと思うわけです。意識の状態で言うと、単にそれらで聞こえる状態と静寂の意識からナーダ音が広がるのとではかなり違うと思うのですけどね。こう言う説明をいくらしても理解してもらえないのかもしれないです。<br /> <br /> 上記のような無を体験した上でのナーダ音は特殊な手法や環境に依存するものではなく、その心の静寂はヨーガの時間だけでなく普通の生活の時間にまで広がってゆきました。心の静寂の副作用でナーダ音が聞こえたとしても、この心の静寂があるのであればナーダ音くらい許容できます。人によってはナーダ音を禅病のように忌まわしいものとして認識していますが、心の静寂を伴うナーダ音が忌まわしいものであるわけがありません。この種の行法は落とし穴が沢山あるので、進むにつれ落とし穴に落ちることもあるかもしれません。とは言え、ナーダ音それ自体は心の静寂と結びついていると思うわけです。<br /> <br /> ヨーガの書物を見ると、この心の静寂に逃げ込むな、と言う教訓が書かれている事があります。確かに、その通りかもしれません。この心の静寂は必ず通るものだと思いますので、それ自体は一定の地点に到達した「しるし」であることには違いないと思いますが、それに安住していたら成長はありません。この世界に生きていると言うことは心の静寂を保つだけでなく、教訓を学んだり平和を広めたり、その目的がある筈で、心の静寂を得たら行動してゆく事が必要なのでしょう。このように書くと、もしかしたら「心の静寂と言う方向は間違っている」と解釈する人がいるかもしれませんが、心の静寂、あるいは無という状態は、きっと誰しもが通るものなのでしょう。それは成長に必要なもので、それに留まらず精進を進めましょう、と言う事なのかなと思います。<br /> <br /> <br /> ■関連記事:<br /> <br /> <br /> ・ホーリー・マザー「クンダリニーが目覚める前に、人は、アナーハタ音を聞きます。」<br /> ・クンダリーニ体験2回目。ムーラダーラ〜マニプラが活性化<br /> ・風のルンの竜巻でマニプラ優勢からアナハタ優勢に変化<br /> <br /> <br /> <br /> <br /> Sat, 28 Apr 2018 00:00:00 +0900 乳海攪拌 - ヒンドゥー教 天地創造神話のヨーガ的解釈(メモ) https://w-jp.net/2018/1457/ <br /> 乳海攪拌(にゅうかいかくはん, Samudra Manthan) - 天地創造神話Durvasaという聖者がいました。<br /> ある時、象に乗ったインドラ神が通りかかり、 Durvasaは花を摘んでインドラ神に花輪を作って捧げました。<br /> インドラ神は一旦受け取った後、象の頭にかけました。その理由は、自分にはエゴがないことを示すためだったのですが、象はそれを拒否して花輪を下に落としました。象は、インドの神話では「真実」を意味するシンボルです。象は、インドラ神がその奥底にはエゴがあることを見抜いていました。だから花輪を下に落としたのです。<br /> それを見たDurvasaは侮辱されたと思ってインドラ神を呪いました。 Durvasaは非常に力のある聖者でしたので、全ての神々が同様に呪われてしまいました。<br /> その呪いにより、神は3つの世界の制御(支配)ができなくなってしまいました。その3つとは、天国・地上・それを取り囲む環境です。<br /> 神様が世界を制御できなくなったので、代わりに悪魔が支配するようになりました。<br /> 神様はヴィシュヌ神にどうしたら良いのか尋ねました。ヴィシュヌ神は、次のように答えました。制御を取り戻すためには、神と悪魔が協力して海をかき混ぜなければならない。そうすれば、 Dhanvantari神がその手にエリクサーを持って現れるでしょう。そのエリクサーを一滴飲めば悪魔を退治して3つの世界を制御することができるようになるでしょう。<br /> 神様はそれを実行に移しました。悪魔もすんなりとそれに協力しました。悪魔もエリクサーを狙っていたからです。神と悪魔は山の周囲を巨大な蛇(サーペント, Serpent)でぐるりと囲み、頭を悪魔が持ち、尻尾を神様が持って、山を海に逆に入れて、蛇を引っ張り合いながら海をかき混ぜました。<br /> 山は海の底にぶつかり、スクリューのように地球を削り始めました。<br /> 彼らは助けが必要になり、ヴィシュヌ神に助けを求めました。ヴィシュヌ神は亀の形に姿を変えて海に潜り、山を背中に乗せました。<br /> その後、再度神と悪魔は巨大な蛇の両方を持って海をかき混ぜました。まるでチーズが牛乳から作られるように、海をかき混ぜたことにより、海は様々な物質に変わりました。<br /> 最初に出てきたのは毒です。その毒は3つの世界を全て破壊する脅威になりました。そこで、シバ神がその毒を手にとって、吸い込みました。神と悪魔がかき混ぜると他にも色々なものが出てきたのですが、最後に出てきたのがエリクサーを手に持ったDhanvantari神でした。<br /> 神も悪魔も、そのエリクサーを欲しがりました。<br /> <br /> 神はエリクサーを見て、「エリクサーを手に入れられる」と思いました。<br /> 悪魔はエリクサーを見た瞬間にエリクサーに飛びつきました。思うより早く体が行動したのです。そして、エリクサーを持ち去りました。しかしその後、悪魔は誰がエリクサーを独り占めするかを巡って争い始め、誰もエリクサーを飲むことができません。<br /> 神々は再度ヴィシュヌ神にどうにかして欲しいと頼みました。するとヴィシュヌ神はとても美しい女性に変身(転生輪廻)して悪魔の前に姿を現しました。そのエリクサーが欲しいと誘惑しました。そうすれば、全員に1滴づつ与えましょう、と提案しました。悪魔はそれに同意し、エリクサーを美女に手渡しました。<br /> 美女の案内に従って神と悪魔が並び、まず神に対して1滴づつ与えました。その後、悪魔にエリクサーを与えようとするその前に、その女性は姿を消しました。悪魔は騙されたと気づきました。とある悪魔はそれに気づいてエリクサーに手を伸ばし、するとエリクサーが2滴だけ落ちました。(この部分に関しては様々なバージョンがあるようです)<br /> <br /> この物語の意味この物語のDurvasaは貴方です。我々は、神の仕打ちに対して怒ります。そして、時に神を呪います。呪うと、神は3つの世界の制御を失います。<br /> その3つとは、体・心(マインド)・意識です。<br /> 神が制御を失うと、悪魔がそれらを制御するようになります。<br /> <br /> 悪魔は貴方のエゴ。<br /> 神は貴方のハイヤーセルフ、賢い貴方自身です。貴方の魂。永遠の自分。<br /> 「体・心(マインド)・意識」の3つは悪魔(エゴ)あるいは神(ハイヤーセルフ、プルシャ、魂)の影響下にあります。<br /> 我々の内に住む神の意識は調和に生きる道に導きます。<br /> 悪魔の意識は調和を失った生き方に導きます。<br /> 神を呪うと、悪魔が自身の行動を決定するようになります。<br /> このため、我々は身体的にも精神的にも磨耗します。<br /> 制御を取り戻すためには、我々は海をかき混ぜなくてはならない。海とは意識。意識をかき混ぜると、最初に出てくるのは毒です。ネガティブ、痛み、怒りなど。<br /> 自身の意識をかき混ぜ続けると、最後に出てくるのがエリクサーを持ったDhanvantari。それは各人の内にある癒しの主。<br /> エリクサーが現れた後、最初にエリクサーを手にするのは悪魔。悪魔はそのエリクサーを自身のために使用するでしょう。やがて、悪魔の前に魅力的な神が現れます。悪魔は永遠の幸せを約束されたかのように思います。エゴは騙されます。<br /> そして、エゴが調和を取るようになります。<br /> 貴方は永遠の調和にくつろぐようになります。調和のためにはエゴが消えさらなくてはなりません。<br /> 最終的に、貴方は全ての存在との一体感を感じることでしょう。<br /> 我々は光に包まれた存在であることを知ります。<br /> <br /> これが、ヨガとアユールベーダで伝えているものです。<br /> この物語は貴方自身の物語であり、我々は皆、この旅路の途中にいます。<br /> <br /> <内容は先日のマーク・ハルペン博士(カリフォルニア・アユールヴェーダ・カレッジ創始者)によるアユールベーダセミナーに基づきます> Thu, 25 Jan 2018 00:00:00 +0900 ヨーガとアユールベーダの関係(メモ) https://w-jp.net/2018/1456/ <br /> アユールベーダはヨガの癒し(ヒーリング)の側面<br /> ヨガはアユールベーダのスピリチュアルな側面<br /> <br /> それは表裏一体<br /> <br /> ヨガを深めて自己認識が高まるとアユールベーダに遭遇する。 何故なら、悟りの道を進むには健康になる必要があるから。<br /> アユールベーダを学び、健康になるために必要なものは何かを突き詰めてゆくと、健康になるためには体だけではなく健康な意識も持たなければならない<br /> どちらの道を進んでいても両者はやがて遭遇する。<br /> <br /> 3つの要素:<br />  ・体<br />  ・心(マインド)<br />  ・意識(意識、ハイヤーセルフ, プルシャ、アートマン、内なる神)<br /> <br /> そのうち、アユールベーダは主に体と心にフォーカスする。<br /> ヨガは心(マインド)と意識(意識、ハイヤーセルフ, プルシャ、アートマン、内なる神)にフォーカスする。<br /> <br /> <内容は先日のマーク・ハルペン博士(カリフォルニア・アユールヴェーダ・カレッジ創始者)によるアユールベーダセミナーに基づきます> Tue, 23 Jan 2018 00:00:00 +0900 ラージャヨーガ(パタンジャリのヨーガスートラ)- 心とは何か? ヨーガの目的と到達点 (読書メモ) https://w-jp.net/2017/1435/ <br /> ヨーガはサーンキャ哲学を基にしており、その用語を使えば心はチッタ(Citta)と言う。<br /> 魂のことをプルシャと呼ぶ。ヨーガにおいて「自己」とはプルシャのことであり、肉体や心(チッタ,Citta)のことではない。<br /> <br /> チッタ(Citta, 心)に現れる「想いの波」はヴリッティ(ス)(Vrttis)と言う。語源は「渦巻き」。<br /> 例えるなら、湖がチッタ(Citta, 心)、波がヴリッティ(ス)(Vrttis)。<br /> <br /> ヨーガの目的と作用は以下2文に集約される。<br /> 「心(チッタ、Citta)の作用(働き、諸状態)を止滅することがヨーガ」(Yogaヨーガ・Chittaチッタ・Vrittiヴィリッティ・Nirodhahニローダ)<br /> 「そのとき、見る者はそれ本来の状態に留まる」(Tadaタダ・Drashtuhドラシュトゥ・Svarupeスワルーパ・Vasthanamヴァスターナ)<br /> パタンジャリの記した「ヨガスートラ」はこの2文について説明している。<br /> <br /> 心(チッタ、Citta)にはグナ(Guna)と呼ばれている3つの状態がある。<br /> ・タマス(tamas)。闇の状態。獣や愚か者。惰性。<br /> ・ラジャス(rajas)。活動。活動的な状態<br /> ・サットワ(sattva)。静けさ。穏やかさ。明知。<br /> <br /> 心だけでなく、自然や宇宙全てがこれらの3つで構成されている。心・自然・宇宙が3つの状態を持つ前の素材は、アッヴィャクタ(定義を持たないもの。個別に分かれていないもの)と呼ばれる。3つの素材から構成される最高のものはマハット(Mahat, 知力、宇宙の知能)と呼ばれ、人間の知力はその一部であり、ブッディ(Buddhi, 覚)と呼ぶ。<br /> <br /> マナス(Manas, 意)は印象を集めてブッディ(Buddhi, 覚)に運ぶ。そしてブッディ(Buddhi, 覚)はそれが何なのか決定する。<br /> ブッディ(決定する能力、Buddhi, 覚)によってエゴイズム(アハンカーラ)が生まれる。ブッディ(決定する能力、Buddhi, 覚)が「動」だとしたらアハンカーラ(エゴイズム)は「反動」。<br /> <br /> 心(チッタ,Citta)の構成要素<br /> ・ブッディ(Buddhi, 覚)<br /> ・アハンカーラ(エゴイズム, 我慢)<br /> ・マナス(Manas, 意)<br /> <br /> 以下の順で知覚が生まれる。<br /> 1. 外の世界からの入力信号が感覚器官(目や耳)を通じて脳にある「器官(インドリヤ(ス))」に運ばれる。<br /> 2. 脳の「器官(インドリヤ(ス))」はそれらの入力信号を心(チッタ、Citta)に伝える。<br /> 3. 心(チッタ、Citta)では、マナス(Manas, 意)によって印象がブッディ(Buddhi, 覚)に運ばれ、印象を決定する。<br /> 4. ブッディ(Buddhi, 覚)による反応によって、アハンカーラ(エゴイズム)が生まれる。<br /> 5. これらの混合がプルシャに渡され、対象を認識する。<br /> <br /> 「内なる道具」(アンタッカラナ)と呼ばれるグループ<br /> ・諸器官(インドリヤ(ス))<br /> ・マナス(Manas, 意)<br /> ・ブッディ(決定する能力、Buddhi、覚)<br /> ・エゴイズム(アハンカーラ)<br /> これらは心(チッタ、Citta)で起こる様々な過程。<br /> <br /> チッタ(Citta, 心)と呼ばれる道具が食物を通じて得た力を使って「想い」(ヴリッティ, Vrttis)として放出する。よって、チッタ(Citta, 心)は知能のあるものではない。それでもチッタ(Citta, 心)に知能があるように見えるのは、背後にプルシャ(魂)がいるから。<br /> <br /> 3つの証明:<br /> 1. 直接の知覚、プラッティヤクシャ(Pratyaksa)。見て感じることで明らかなもの。世界が存在する、など。<br /> 2. 推理。アヌマーナ<br /> 3. 真理を見たヨーギたちによる知覚、アープタワーキャ(アープタ)。アープタの知識はその人自身から来る。文字の意味は「到達した」。<br /> <br /> 色々なヴリッティ(想いの波,Vrttis)<br /> ・ヴィカルパ。言葉の惑わし。真実性のない想い。チッタ(Citta, 心)が弱いと惑わされる。<br /> ・夢。寝ている時のヴリッティ(想いの波,Vrttis)が夢になる。<br /> ・記憶。スムリティ(Smrtih)。記憶とは、主体のヴリッティ(想いの波,Vrttis)が言葉などのきっかけによって意識に戻って来ること。<br /> <br /> ヴリッティ(想いの波,Vrttis)が消えた後に残るのは印象(サムスカーラ(ス), サンスカーラ, 行)。<br /> 印象(サムスカーラ, サンスカーラ, 行)は潜在意識にある想念。<br /> 印象(サムスカーラ, サンスカーラ, 行)が多数になると習慣になり、性格を形作る。<br /> <br /> ヴリッティ(想いの波,Vrttis)を完全に抑制された状態に保とうとする努力が「修行」。<br /> 抑制された状態をヴァイラーギャ(離欲)と呼ぶ。<br /> チッタ(Citta, 心)がヴリッティ(想いの波,Vrttis)に支配されるのを防ぐのがヴァイラーギャ(離欲)。無執着とも言う。<br /> ヴァイラーギャ(離欲)を実現すると、プルシャ(魂、真の自己)の性質が現れて来る。<br /> <br /> チッタ(Citta, 心)はサットワで出来ていますが、ラジャスとタマスで覆われている。プラーナヤーマによって覆いを取り除くことができる。すると、マナス(Manas, 意)が集中できるようになる。集中はダーラナ(Dharana)と言う。<br /> <br /> 集中(ダーラナ, Dharana)するためにはプラティヤハーラも必要。<br /> プラティヤハーラは、自分の心(チッタ,Citta)を神経中枢に意のままにつけたり離したりできるようになること。文字としては「(自己に)向けて集める」の意味。<br /> <br /> 集中(ダーラナ, Dharana)すると時の概念が消滅する。<br /> よって、過去と現在が来て1つになる時、心は集中(ダーラナ, Dharana)した、と言われる。<br /> <br /> 集中(ダーラナ, Dharana)を続けて行うのが瞑想(ディャーナ、Dhyanam)。<br /> 瞑想(ディャーナ、Dhyanam)が更に深まり、瞑想の対象の形が消え去って意味だけを認識することをサマーディ(Samadhih)と呼ぶ。<br /> <br /> サマーディ(Samadhih)は2つに分けられる。<br /> 1. サムプラグニャータ(Samprajnatah)。自然を支配する力の獲得。「種ありのサマーディ」と呼ばれる。輪廻転生を産む種が残っているサマーディ。<br /> 2. アサムプラグニャータ。解脱を与えるサマーディ。「種無しのサマーディ」と呼ばれる。輪廻転生を産む種がなくなるサマーディ。<br /> <br /> ■瞑想及びサムプラグニャータ・サマーディ(Samprajnatah Samadhih) 各種<br /> この段階ではまだ、印象(サムスカーラ, サンスカーラ, 行)は残っており、心が完全には浄化されていない。<br /> <br /> 1. サヴィタルカ瞑想。ヴィタルカは「問い」、サヴィタルカは「問いを持って」と言う意味。力を得ても解脱は得られない。快楽を追求する世俗的な、虚しく無駄なサマーディ(Samadhih)。古い教訓。 ジャブダ(ことば)とアルタ(客体、音の意味)とジュニャーナ(知)が同時に起こる。<br /> ニルヴィタルカ瞑想。「問いのない」と言う意味。要素を時間と空間の外に出し、あるがままを想う瞑想。 ジャブダ(ことば)とアルタ(客体、音の意味)は存在せず、ジュニャーナ(知)だけがある。<br /> 2. サビチャーラ瞑想。「識別を持って」と言う意味。時間と認識の中にあるものとして想う瞑想。<br /> ニルヴィチャーラ瞑想。「識別をしない」と言う意味。サビチャーラの発展系。時間と空間を除き、あるがままの精妙な要素を想う瞑想。<br /> これら2つは、前の段階であるサヴィタルカ瞑想とニルヴィタルカ瞑想の対象を精微なもの(タンマートラ=微粒子、チッタ、自我)に変えたもの。<br /> ニルヴィチャーラ瞑想が純粋と結びつくと、真理によって満たされた叡智(リタムバラー・プラジュニャー、Ritambhara Prajna)を得る。この段階に達した人のことを悟りを開いた聖者・解脱者(ジーヴァンムクタ、ジーヴァントは生ける者、ムクタは解放された、の意味)と呼ぶ。<br /> 3. サーナンダ・サマーディ。至福に満ちたサマーディ。活動性及び惰性を取り除いた状態で行われる瞑想。<br /> 4. サースミター・サマーディ。「肉体を失った」と思うことができる状態。この状態で自然に融合する魂はプラクリティヤラと呼ばれるが、まだ解脱ではない。<br /> <br /> ■解脱を与えるアサンプラグニャータ・サマーディのための瞑想<br /> 思いが入るやいなや思いを取り除き、いかなる思いが心に入ることも許さず、心を真空状態にする。心に対する最大の支配力を示す。<br /> (間違った瞑想は、心をタマスで覆うこと。タマスは無知であり、心を不活発にすることで心を空っぽにしていると勘違いすることのないように。)<br /> <br /> アサンプラグニャータ以前の瞑想では、集中によってチッタのヴリッティ(想いの波,Vrttis)を押さえつけている状態。<br /> 一方、アサンプラグニャータになるとチッタのヴリッティ(想いの波,Vrttis)を作り出す「種」がなくなる。「種無しになる」と言われる。無限とも思える輪廻転生を生み出す種子がなくなる。<br /> <br /> <br /> ■種あり、種なしのサマーディ、という分類<br /> サビージャ・サマーディ  種のあるサマーディ。サムプラグニャータ・サマーディ(Samprajnatah Samadhih)、サヴィカルパ・サマーディ<br /> ニルビージャ(Nirbijah)・サマーディ  種のないサマーディ。アサンプラグニャータ・サマーディ、ニルヴィカルパ・サマーディ<br /> <br /> ■サムヤマ(Samyamah, サンヤマ)<br /> 集中(ダーラナ, Dharana)、瞑想(ディャーナ、Dhyanam)、サマーディ(Samadhih)の3つが同時に達成されるとサムヤマ(Samyamah, サンヤマ)と呼ぶ。サムヤマ(Samyamah, サンヤマ)によってシッディ(霊能)が生まれる。対象または対象となる観念の奥深くへと突き進むとその対象はその秘密を解き放つ。<br /> <br /> ■ダルマメガー(Dharma Meghah)・サマーディ(法の雲のサマーディ)<br /> ダルマメガー(Dharma Meghah):全ての美質がそこにある、と言う意味。<br /> 「高まりたい」と言う欲望さえ消えた時に起こるサマーディ。<br /> 神を求める気持ちが「無欲」によって達成される。ある時点までは努力を続けるが、ここに来ると努力がなくなって無努力になる。そして神を知る。ジーヴァンムクタ(聖者・解脱者)が現れる。<br /> 全ての苦悩(煩悩)とカルマ(業)は終息する。<br /> <br /> ■ニルビージャ(Nirbijah)・サマーディ<br /> 「インテグラル・ヨーガ」(スワミ・サッチダーナンダ著)ではこれがジーヴァンムクタ(悟りを開いた聖者・解脱者)の後に来るものとして最高のサマーディとしており、アサンプラグニャータ・サマーディはさらりと述べているのみ。<br /> 一方、「ラージャ・ヨーガ」 (スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ著) ではこれは一般的な最終状態としての説明の留めている印象。ぼかして書いてあり、これが最高とは明示しておらず、前の方でアサンプラグニャータ・サマーディを最終的に解脱をもたらすとして紹介してある。<br /> よって、ニルビージャ(Nirbijah)・サマーディとアサンプラグニャータ・サマーディおよびサーナンダ・サマーディやサースミター・サマーディとの関係も不明確。<br /> <br /> ■カルマ・アーシャ(カルマの袋)<br /> 過去世も含めて、全てのカルマが蓄えられている。<br /> <br /> ■カルマの3つの種類<br /> ・プラーラブダ・カルマ(生存のカルマ)<br />  現世において経験されるべくカルマ・アーシャ(カルマの袋)から取り出されたカルマ。このカルマに基づいて体を選ぶ。<br />  予期できなかった出来事の理由。偶然石にぶつかって怪我をする、等<br /> ・サンジタ・カルマ<br />  過去のカルマも含めた全ての合計<br /> ・アガーミー・カルマ<br />  新たなカルマ。わかっていて意図的に行ったもの。意図的に石を蹴ってつま先を怪我する、など。<br />  ジーヴァンムクタ(聖者・解脱者)はアガーミー・カルマの影響を受けない。<br /> <br /> ■神<br /> ほとんど完成されたが全ての力を捨てることができずに失敗した多くの魂を「神」と呼ぶ。<br /> そこを越えて絶対的な唯一神は存在しないとするのがサーンキャ哲学。ヨーギの中には絶対神がいるとする人たちもいますが、その場合でも、上記のような失敗した多くの魂を神と呼ぶ点に関しては同様。<br /> 神々の地位や、時の周期の支配者の地位をも望まない魂は解脱を遂げる。<br /> <br /> ■至高の支配者<br /> イーシュワラ(Isvarah, 至高の支配者)は特別のプルシャ(魂)であり、無限の知識を持っている。ヴェーダによれば宇宙の創造者。<br /> ただし、ヨーギたちにとってのイーシュワラ(Isvarah)は宇宙の創造者ではなく、全知全能の無限の知識を神と呼んでいる。<br /> <br /> ■悟り<br /> 「悟り」が真の宗教であって、他の全ては準備にすぎない。<br /> 説法を聞いたり、書物を読んだり、論理を辿ったりするのは基礎の準備をしているだけで、宗教ではない。<br /> <br /> ■エゴイズム<br /> エゴイズムとは、見る道具を見る者だと思うこと。「無知」の状態。<br /> 見るものはプルシャ(魂)、見る道具は心(チッタ,Citta)や感覚器官(インドリヤ(ス))。<br /> 心(チッタ,Citta)や感覚器官(インドリヤ(ス))が自分だと勘違いするところにエゴイズムが生まれる。<br /> 誰もプルシャ(魂)に苦痛を与えることはできない。プルシャ(魂)は心(チッタ,Citta)の理解を越えており、心(チッタ,Citta)が哀しもうが喜ぼうが、変わらずそこにいる。しかし、無知によって我々は自分が心(チッタ,Citta)だと思い、「自分は快楽・苦痛を感じる」と勘違いする。<br /> <br /> ■議論と結論<br /> ・議論がましいもの(ワーダ, Vada)<br /> ・決定的なもの(シッダーンタ, Siddhanta)<br /> 最初は議論(ワーダ, Vada)から入る。しかし結論に達した後はシッダーンタ(Siddhanta)に入り、それを強化する。ヨーギは議論の段階を通り過ぎている。ヨーギは心(チッタ,Citta)を超えたものを欲するので議論(ワーダ, Vada)はしない。<br /> <br /> ■印象(サムスカーラ(ス), サンスカーラ, 行)の分解・制御<br /> ヴリッティ(想いの波,Vrttis)が消えた後に残るのは印象(サムスカーラ(ス), サンスカーラ, 行)。印象(サムスカーラ(ス), サンスカーラ, 行)は心(チッタ,Citta)の中に眠っている。印象(サムスカーラ(ス), サンスカーラ, 行)は根であり原因。印象(サムスカーラ(ス), サンスカーラ, 行)も完全に分解し、制御する必要がある。<br /> 心(チッタ,Citta)やヴリッティ(想いの波,Vrttis)の認識は比較的容易い。しかし、印象(サムスカーラ(ス), サンスカーラ, 行)は深く眠っており、潜在意識として下の方で働いている。<br /> ヴリッティ(想いの波,Vrttis)が粗大に現れる前に、微かな原因であるうちに根元を制御することで種子となる印象(サムスカーラ(ス), サンスカーラ, 行)まで制御し、焼き尽くすことができる。<br /> 精妙な印象(サムスカーラ(ス), サンスカーラ, 行)は瞑想によって焼き尽くすことはできない。印象(サムスカーラ(ス), サンスカーラ, 行)はその原因に分解し、原因であるところのアスミター(asmita)/エゴイズムに分解すると、印象(サムスカーラ(ス), サンスカーラ, 行)はそれらと一緒になくなる。<br /> <br /> まず、印象(サムスカーラ(ス), サンスカーラ, 行)について瞑想することによって表面に浮かび上がらせる。そこで、行為として発現させるべきかどうか判断できる(もちろん、行為にまで発展させないことを選ぶだろう)。次に、瞑想を続けてその原因にまで遡るとアスミター(asmita)/エゴイズムが横たわっていることがわかる。そこで心をより高いサマーディの中へ超越させるとそのアスミター(asmita)/エゴイズムがなくなる。アスミター(asmita)/エゴイズムがなくなれば、その中にある全ての印象(サムスカーラ(ス), サンスカーラ, 行)も一緒になくなる。<br /> <br /> ■精妙な微粒子タンマートラ(ス)<br /> 我々の心が日々、放出している。人々が神を礼拝する場所は良いタンマートラスに満ちている。<br /> <br /> ■グナ(性質, Guna = サットヴァ/ラジャス/タマス, sattva/tamas/rajas)の4つの段階(parvani)<br /> ・「定義のあるもの(visesa)」我々が感覚で捉えられる粗大な要素<br /> ・「定義を持たないもの(avisesa)」タンマートラ(ス)。<br /> ・「暗示だけされているもの(linga-matra)」ブッディ(決定する能力、Buddhi、知力、覚)。自然の最初の現れ。<br /> ・「しるしのないもの(alingani)」<br /> <br /> ■プルシャ(魂)<br /> 全知、全能、偏在。心ではない。物質でもない。自然でもないから変化することもない。<br /> <br /> ■プラクリティ<br /> この世を構成する基本物質。純粋な精神原理のプルシャに対する物質原理のプラクリティ。<br /> プルシャは「見る者」である一方、プルシャ以外の全てはプラクリティであり、「見られるもの」。<br /> <br /> ■プルシャの類義語<br /> サーンキャ哲学ではプルシャという単語を用いますが、ヴェーダンタではブラフマンとアートマンという言葉が出てくる。<br /> ・サーンキャ哲学:プルシャは個別の人の中にも存在するし、同時に遍在する魂。イーシュワラ(Isvarah, 至高の支配者)もプルシャの1つ。<br /> ・ヴェーダンタ:ブラフマンは遍在する絶対的存在。アートマンは個別の魂。しかしヴェーダンタでは最終的にブラフマンとアートマンは同一であることを導く。<br /> ということで、言葉は違うけれども似たようなことを説明しているようです。<br /> <br /> ■チッタ(Citta, 心)とプルシャ(魂)<br /> チッタ(Citta, 心)は主体として外界を見る。或いは、客体としてプルシャ(魂)に見られる。<br /> プルシャ(魂)は常に主体。<br /> 「自分」とは、ある意味では目撃者であり、ある意味では行為者とも言えるが、本当は目撃者。”本当”を見失っていると貴方は行為者になる。<br /> <br /> ■ヨーガの修練とチッタ(Citta, 心)<br /> ヨーガの修練は「チッタ(Citta, 心)」によって行われる。プルシャ(魂)はヨーガの修練を必要としない。プルシャ(魂)は放っておけば良い。ヨーガの修練を必要としているのはエゴ(自我)である自分。教えが与えられるのもエゴ(自我)である自分。<br /> より低い自分であるチッタ(Citta, 心)をエゴの行動から解き放てばプルシャ(魂)の輝きが増して「くつろぐ」ことができる。<br /> 寛ぎが増せば、チッタ(Citta, 心)が動いていない時はもちろん、チッタ(Citta, 心)が動いている時ですらヨーギはくつろぐことができる。ヨーギは行動を「楽しむ」。<br /> 聖典は、単なる知識理解のためのもの。エゴのための真理は、身近な生活にこそある。無私であることを学び、献身的な生活を送ること。行動は他者のために行うことでチッタ(Citta, 心)は平穏を得る。<br /> <br /> ■ジーヴァンムクタ(聖者・解脱者)とグナ(性質, Guna = サットヴァ/ラジャス/タマス, sattva/tamas/rajas)<br /> ジーヴァンムクタ(聖者・解脱者)になると、グナは目的を終えてその働きを辞める。<br /> それまで、グナの目的はプルシャに経験を与えることであった。その目的がなくなり、グナは元々のプラクリティに戻る。グナとして発現していない時はグナはプラクリティのまま。プラクリティが発現するとそれをグナと呼ぶ。その発現が終わると、プラクリティはプラクリティのまま安住する。完全に浄化されて「純然たる意識の力が、自らの純粋な本性の内に安住する」。<br /> <br /> ここに、パタンジャリが最初に述べたヨーガの目的は達成される。「チッタ(Chitta)・ヴィリッティ(Vritti)・ニローダ(Nirodhah)」が修練であり、スワルーパ(Svarupe)・ヴァスターナ(Vasthanam)が経験されること。<br /> <br /> 「心(チッタ、Citta)の作用(働き、諸状態)を止滅することがヨーガ」(Yogaヨーガ・Chittaチッタ・Vrittiヴィリッティ・Nirodhahニローダ)<br /> 「そのとき、見る者はそれ本来の状態に留まる」(Tadaタダ・Drashtuhドラシュトゥ・Svarupeスワルーパ・Vasthanamヴァスターナ)<br /> <br /> <br /> 以上、<br /> 「ラージャ・ヨーガ」 (スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ著) <br /> 「インテグラル・ヨーガ」(スワミ・サッチダーナンダ著)<br /> より Thu, 31 Aug 2017 00:00:00 +0900 スピリチュアル https://w-jp.net/topics/スピリチュアル/ スピリチュアル 夢で見たグループソウルの占い師たち https://w-jp.net/2019/1650/ <br /> 私のグループソウルには占い師が大勢いて、かなり昔の人生も一応記憶しています。<br /> <br /> ・・・・まあ、一般的にはこれは夢ということにしておきましょう。夢で見た内容をいくつか書いてみたいと思います。<br /> <br /> ■スペインの南東部の港町の女占い師<br /> 当時の地名までは覚えていないのですが、場所的にはムルシア(Murcia)かもう少し南寄りだったか、そのあたりだったと思います。小さな占い店をして生計を立てており、魔女につきものの「水晶球」で占っていました。おそらく中世の、15世紀前後のような気がいたします。大航海時代の初期のイメージです。<br /> <br /> 当時の水晶球は天然のものがそれなりの安い価格で出回っており、最初に使ったのは直径15cmくらいの天然の水晶球で、次に手に入れたグレードの高い水晶球は直径20~25cmくらいあったように思います。天然ものですので少しクラックが入っていましたが良い水晶球でした。<br /> <br /> 水晶球をギュッと覗き込んで透視をするのです。<br /> 水晶のかけらにわずかに反射した画像を読み取って占いをしていました。<br /> <br /> 占いをするときは、相談者に占いたい内容を強くイメージしてもらい、そのイメージを鍵にして内容を辿っていきます。<br /> <br /> 例えば、次のようなものを占いました。<br /> <br /> ・使いたいバッグが行方不明になったので、どこにあるのか探して欲しい。→ 家の裏にある蔵を開け、扉から一歩進んだところから左手を伸ばし、肩より少し上の高さに、他のもので隠れるようにして置いてある。→ これは晩年なのでかなりの確度で当てています。かなり自信があるので、間違っていたら次の鑑定は半額で良い、とまで提案しています。もちろん正解。相談者が扉を開けて発見するところまでリモートビューしていたようです。<br /> ・親戚の結婚について、将来を見て欲しい。→ 良くもなく悪くもなく、60%の相性。お互いに色々と不満はあるけれども、お互いにそれなりに尊重しあって生活するでしょう、という鑑定結果。これも水晶球を使いますが、リモートビューの応用で未来の姿も垣間見ることができたようです。実際の結婚式の状況や、家庭内での口喧嘩などをいくつか観察して、その結果として60%と出したようでした。<br /> <br /> この水晶球は今ではかなりの値段がつくと思います。どこに行ってしまったのかはわかりません。<br /> <br /> ■透視の限界を感じた占い師<br /> 先日 書いたのと同じ人生ですが、この時、透視の限界を感じました。<br /> <br /> この時できた透視は以下の二つです。<br /> <br /> ・リモートビュー的な過去と未来の透視(上の水晶球の透視と種類は同じ)<br /> ・幽体離脱して詳しく状況を確認する透視<br /> <br /> その人の過去と未来を見ることができて、それはまあ、当たるのですが、この人生で感じたのは「当たるからと言って、その人の人生が良くなるわけでもない」という理解でした。前者のリモートビューだけでも確度はかなり高くて当たりますし、後者の方法ですともっと詳細に「近づいて」観察できますので、より具体的な理解になります。<br /> <br /> 前者だけでも割と十分ですが、後者を組み合わせることで確度的にはかなりのものになったのですが、カウンセリングという観点からすると、当たるということ自体はさほど重要ではない・・・ という理解に落ち着きました。<br /> <br /> むしろ、当たるかどうかなんて関係なくて、本人の理解と生き方があれば、リモートビューで教えてあげるなんて人生の邪魔なだけでは・・・ という理解に達します。<br /> <br /> 占いに来る人は過去を言い当てられてはしゃいだりびっくりしたり・・・ それだけです。本気で人生を変えようという気がある人は占いなんて来ないようです。こちらはリモートビューして過去や未来のタイムラインを教えてあげたとしても、それが相談者の役に立っていないのでは、というのがこの人生での学びでした。<br /> <br /> 実際、今も思うのが、過去が見れても関係なく、未来が見れても関係なく、それよりも、もっと大切なものがあって、大切なものとは人生観とか本当の世界の姿とか心や本当の自己(アートマン)についての理解とか、そのあたりこそが重要なのであって、過去や未来を見てチートしてもさほど人間性の成長には役立たないのでは・・・ と思います。<br /> <br /> 実際のところ、自分がリモートビューの練習をしたりするのは自分の成長のためにはなりますけど、それはリモートビュー自身にさほど重要性はなくて、過程が重要なのだと思います。リモートビューで相談者の何かを当てても、それは、それほどの意味を持たないということです。<br /> <br /> であれば、大切なのはそんな能力に惑わされずに、瞑想するなり祈るなりスピリチュアルな勉強をするなりした方が良いと思うわけです。それが、グループソウルの過去の人生を思い出したことによるレッスンです。<br /> <br /> ■グループソウルと転生について<br /> グループソウルというのはお互いに人生を共有しているわけですけれども、死んだらそのままの魂が再度体に宿って転生する場合、すなわちその転生ではグループソウルとの合流がない場合と、グループソウルに一旦合流してから再度グループソウルから魂が分離して転生する場合とがありますので、私の一部といえばそうなのですがほんの一部のお話なのです。<br /> <br /> 私の今回の人生では能力は邪魔と判断されたようですので、少なくとも現時点までは能力とかは出てきていません。今のところ予定通りなわけです。<br /> <br /> それに、能力があると危険ですしね。私のグループソウルの1人はナチスに誘拐されて投獄され、拷問を受けながら戦局をリモートビューさせられていたようでしたし。 拷問も酷くて、逃げられないように頭に輪っかのようなものをかぶせて、輪っかと頭蓋骨をネジで何箇所もとめて鎖で繋がれました。寝る時に寝返りをうって頭を刺激すると痛くて飛び起きるほどの激痛があったようです。ほんと、人間って信じられないくらい残酷なことができるので、恐ろしいです。<br /> <br /> 今も、なまじ能力がある人は危険だと思います。世の中で有名になる能力者はそれほどでもないですけど、隠れている人の中には相当の能力者がいると思います。<br /> <br /> 自分の能力で見るよりも、天使などにお願いして必要なことだけ聞く方が安全と言えます。天使とチャネリングできるチャネラーが拷問を受けてチャネリングを強要されて何かの情報を引き出そうとしても天使はチャネラーを見捨てるでしょうし。そのあたり、天使はめちゃくちゃクールです。本人の能力ですと拷問に屈するかもしれませんが、能力を持たずに転生して、必要な時だけチャネリングした方が安全と言えます。 今の世の中、案外、まだ色々と危険なことがありますからね。<br /> <br /> この時の魂は今はグループソウルで分散されて、分霊がその時の拷問の苦痛をそれぞれ、いわゆるインナーチャイルドのように記憶を保持して癒しています。拷問されたことにより人間に極端な恨みを持つようになったらきっと復讐していたのだと思いますが、今はそんなことはなく、落ち着いているようです。能力者の恨みと復讐は、国の運命をも左右するくらいしつこく強力に復讐するでしょうし、リモートでやりますので出所が不明で解決が困難になったまま国が滅亡したり指導者が不慮の死を遂げることになりますので、能力者を拷問するなどして恨みを買わない方がいいと思いますけどね。スターウォーズのダース・ベイダーじゃないですけど、能力者ならリモートで心臓止めたり喉を潰して息ができないようにして不慮の死にすることもできますし、転生する時に赤ちゃんの中に入った魂を無理やり引き剥がして貧困スラム家庭の赤ちゃんの中に押し込む、みたいな仕返しもされたりするので、特に能力者の恨みは買わない方がいいと思います。そんな数十年や数百年先まで覚えているのか、とでも思うかもしれないですけど、能力者ならすぐにその場で来世まで時代を超えてそういう操作しますから、能力者がすぐに忘れる前に既に仕返しは完了していたりするわけです。<br /> <br /> まあ、能力者に限らず、恨みは買わない方がいいと思いますよ。<br /> <br /> こうして後でコテンパンに仕返しされることも知らずにノコノコと能力者を拷問したりする無知な輩がいるので、それでもやはり、能力者は表に出ない方がいいと思います。もっといいのは、能力を持たずに生まれて、能力は守護霊やハイヤーセルフにお任せした方がいいですね。特にこんな危険な世の中ですと。<br /> <br /> まあ、例外として、能力者の集団が徒党を組んで悪さしている場合は防御もしていますのでそういう集団のメンバーには簡単に仕返しはできないこともありますけど、その時は、泥試合になります。お互いにかなり酷いことになります。ハリーポッターが可愛いくらいだと思います。最近はあまりそういうのは聞きませんけど、中世くらいですと色々と噂を聞いたように思います。<br /> <br /> ・・・まあ、夢ですけどね。<br /> <br /> ■全ては完璧<br /> 人って、物事の良し悪しをすぐに決めたがりますけど、全ては完璧なのだと思っています。成功しても完璧だし失敗しても完璧。人間の勝手な判断で物事の良し悪しは決まりませんし、全ては完璧なのです。占いで成功の選択肢を探し出すのもあまり意味はなくて、成功と思える結果であっても、もともと成功失敗に関係なくそれは完璧ですし、失敗してもそれは完璧なのです。<br /> <br /> ですから、私のグループソウルの占い師が言うには、「占いで何が良いのか聞く相談者に興味を持てなくなった」とのことでした。当たるか当たらないかと言う確率の話を超越した後は、そう言う認識になったようです。当たるのは当然で、当たったからと言って何なのだろう、と。むしろ、当たりすぎるとストレートに伝えて相手の感情を損ねる時も多くあったようです。相談者が何かに悩んで何を選択したとしても、どちらでも完璧なのだから、好きにすればいいのです。強いて言えば、「後悔しない選択」をすべき、というくらいですね。あとは、基本的に何をしても良いわけです。まあ、究極的にはその後悔があったとしてもその後悔も完璧の一部ではあるのですけれど、人が選択肢を選ぶ時は後悔しない方を選ぶのが良いと思うわけです。多少の判断基準がなければ訳分からなくなりますからね。判断基準が「幸せ」でも良いです。占いで「幸せになれるのはどちらですか?」という聞き方をする人がいますけど、後悔しなければどちらでも良いんじゃないかな? と思います。短期的な幸せと長期的な幸せとがありますからね。学ぶことができて後悔しない選択肢をしておけば良いのではないでしょうか。そうなると、占い師なんていらなくなっちゃいそうですけどね。<br /> <br /> カウンセリングやコンサルティングの基本としては、カウンセラーの言葉やコンサルの言葉は「確かめ」に使うと良いと思う訳です。あくまでも判断基準は自分ですが、自分で気付いていない部分を指摘してもらったりするには誰かに見てもらう方が満遍なく全体を把握することができてよいわけです。判断を他人に委ねない、というのが大前提なわけです。占いを突き詰めてそこまでいくともはや占い師というよりコンサルになってしまいそうですし、単価もぜんぜん違ってきそうですが。<br /> <br /> <br /> Sun, 08 Sep 2019 00:00:00 +0900 パワースポットは本来、祈りや瞑想の場であってオーラのゴミ捨て場ではない https://w-jp.net/2019/1648/ <br /> 割と言われていることな気もしますけど、そういうことだと思います。<br /> <br /> 最近のパワースポットブームで呑気にパワースポット巡りをする方も多くいらっしゃいますが、例えばセドナとかですね。そういうパワースポットは本来、祈ったり瞑想する場所な訳です。<br /> <br /> ですが、気楽に普通の旅行と同じに考えて、「汚れを捨てに行く人」あるいは「お願いをしに行く人」が増えると、パワースポットに低級な念と言いますか低級なオーラが溜まって淀んで行きます。<br /> <br /> パワースポットには強力な力があって浄化の作用がありますが、それは地理的・磁気的なものであるのが基本で、それに加えて人の祈りが作り出した磁場もあったりしますけど、パワースポットの使い方の基本は、普段から瞑想や祈りをしている人がパワースポットに行って瞑想や祈りの力を高める、というのがいいように思います。<br /> <br /> まあ、全てはバランスで、地理的な磁場が強力だったり瞑想や祈りをしている人が割合として多ければ問題ないのかなと思います。ですが、人気が出てくることによって瞑想も祈りもしない人がパワースポットに詰めかけると場所が淀んで行くのかなという気が致します。アメリカのように自然が豊かで人も少なければ問題もさほどなさそうですが日本は人が多いですからね。<br /> <br /> まあ、これは割とよく聞く話ですね。巷の有名なパワースポットはかなりの確率で淀んでいると思います。パワースポットに行ったら逆に穢れて帰ってくることも多々ありそうです。<br /> <br /> そんな、そんじょそこらの淀んだパワースポットよりも自宅の瞑想場所で毎日瞑想や祈りをした方がよっぽど良いパワースポットが作れる気が致します。長い時間を過ごす自宅の場の雰囲気を整えるのは重要ですしね。<br /> <br /> まあ、そうは言いましても、地理的なパワースポットは魅力的ですので、自宅の場所をどうしようか最近私はちょっと揺れている感じではありますけど。<br /> <br /> <br /> Fri, 06 Sep 2019 00:00:00 +0900 小さな呼びかけ声を聞くとハートがクリスタルのように輝く https://w-jp.net/2019/1647/ <br /> 先日から瞑想中に明確に聞こえ出した、私の下の名前で呼ぶ「◯◯さん」と言う声ですが、声が聞こえるとハートが急に澄んできてクリスタルのように輝きだします。まるで、綺麗な聖水でクリスタルを浄化したかのように輝くのです。響きが美しすぎてこの世のものとは思えません。<br /> <br /> 相手が妖精なのか天使なのか守護霊なのかハイヤーセルフなのかはまだわかりませんけど、こんなに純粋な存在にコンタクトされたのはいつぶりかなと言うくらい久々あるいは今世で最高かもしれないと思うくらいです。今まで気付いていなかっただけでずっといたのかもしれないですけどね。<br /> <br /> 呼び方からして女性っぽい感じなのでハイヤーセルフではなくて、妖精というよりも、あり得るとしたら天使か守護霊か、あるいは、過去妻か。天使の守護霊かもしれないですけど。声は女性っぽかったので、ハイヤーセルフに性別はないって言いますのでハイヤーセルフはとりあえず除外なのです。<br /> <br /> まあ、誰かはわかりませんけど、数日に1回くらいの割合で最近は聞こえています。 例えるなら、確かディズニーの実写版シンデレラのどこかのシーンでシンデレラがアカペラで歌うシーンがあったように思うのですが、その3倍くらい美しい澄んだ声です。<br /> <br /> まだまだ様子見です。<br /> <br /> 今のところ、名前以上の呼びかけはありません。<br /> <br /> それにしても、この呼びかけによってハートが刺激されて、一瞬ですがハートの状態が変化したことにより、自分の今の状態がまだまだだと言うことに気付かされました。どうやら私はまだまだ荒いオーラのようです。あの高貴な純粋な声の波動を一瞬でも聞いてハートに感じてしまいましたので、そのわずか一瞬でも私に気付かせるのは十分でした。今までヨガとか瞑想をしてそれなりに浄化してきたつもりでしたが、まだまだまだまだこれから先は長い、と言うことを実感してしまいました。<br /> <br /> あの声の感覚を言葉で言い表すのならば、「神気」(他のを知らないので比べた訳でもないですが・・・)とでも言うのかもしれません。<br /> <br /> 私がここから本格的に自分のオーラをこの方向に向かって変えていくのならば都会に住んでいたら難しいかもしれないですね・・・。<br /> <br /> 今まで、最強のパワースポットは自分の部屋の瞑想場所だと思っていて、それは都会でも可能だと思っていましたが、今回のことでちょっと揺れてます。暮らすのはもうちょっと人口密度の低い田舎の方がいいのかもしれないな、と。 そんなに急ぐ話でもありませんけど。<br /> <br /> <br /> Thu, 05 Sep 2019 00:00:00 +0900 神社にある自己祓い用大麻で穢れのオーラを取り除く https://w-jp.net/2019/1646/ <br /> 近所の神社には「自己祓(はら)い用大麻(おおあさ)」というものが置いてあって、町で変なオーラを拾ってしまった場合はこれで清めることがよくあります。説明書きには「この大麻(おおあさ)を、左、右、左、と振り、ご自身でお祓いをしてからお参り致しましょう」と書いてありますので基本はその通りにするのですが、空いている時は私は頭から足まで満遍なく時間をかけてお祓いをすることもあります。<br /> <br /> 両肩を祓うだけでもかなり肩が軽くなります。よほど色々なものを拾ってしまっているのでしょうね。<br /> <br /> こういうこと書くと「気のせいだよ」とか言う人がいますけど、何年も何回もずっとやっていますし、毎回効果を感じますので気のせいではないですし、気のせいだとしても効果があって気分が晴れやかになるのならばプラシーボだとしてもそれは「プラシーボでも効果がある」と言うことなので、完全にOKだと思っています。プラシーボで効果があるのであれば、薬のような本来は毒のようなものを体に取り入れなくても効果が出ると言うことなので、むしろプラシーボで効果がある方が嬉しいです。<br /> <br /> 実際のところ、この原理としては、拾ってしまったオーラを落とすということなのでとても理にかなっていると思います。<br /> <br /> 何度も書いていますけど、自分のオーラがブワッと発散して他人のオーラと接触する場合と、他人のオーラがブワッと発散していてオーラが接触してしまう場合が基本の2パターンで、これに加えて、プカプカと浮いているオーラと接触する場合とがあります。どちらにせよ、そのオーラはとりとめのない、変なものなので祓って捨ててしまって問題ないわけです。<br /> <br /> 基本は変なオーラを拾わないのが一番ですけど、拾ってしまったのならば捨てればいいわけです。<br /> <br /> まあ、これは神道的な解釈ではなくて、私の解釈ですが。<br /> <br /> <br /> ■神道的な解釈<br /> 神道的な解釈は「神道の神秘(山蔭 基央 著)」を読むと色々書いてあります。例えば以下の部分です。<br /> <br /> 「神霊の霊光」による祓いは、神霊を礼拝して、その聖なる波動を賜って清めを受けることであるが、これをいわば一般的にしたものが、祓い麻による修祓(しゅうばつ)である。「神道の神秘(山蔭 基央 著)」<br /> <br /> 私はこの効果が神霊の霊光によるものかそうでないかまではわかりませんけど、いつも有り難く使わせて頂いております。<br /> <br /> <br /> <br /> <br /> <br /> <br /> Wed, 04 Sep 2019 00:00:00 +0900 二種類のテレパシー・チャネリング https://w-jp.net/2019/1642/ <br /> ガイドからテレパシー・チャネリングが2種類あることを教えてもらいました。<br /> <br /> ・オーラが接触して情報が伝わる場合。「感覚」と「言葉(雑念、思念)」および「イメージ」のいずれかあるいは複合で伝わる。「インスピレーション」として伝わる。<br /> ・思念波をキャッチする場合。思念波を飛ばす場合。主に「言葉(雑念、思念)」で伝わる。「感覚」は少なく、「インスピレーション」的な感覚は薄い。<br /> <br /> テレパシーとチャネリングは似通っていますが、ほぼこの2種類に属するとのことでした。思念波の場合はおそらく「イメージ」はほとんどないか、あるいは上級者のみかなと推測します(まだ私は気にしなくていいようです)。<br /> <br /> 私がガイドから教えてもらうときは大体は前者の「インスピレーション」で、それはオーラ接触によって行われているようです。この記事の内容も同様にこのインスピレーションで教えてもらっています。<br /> <br /> 今朝の「私に呼びかける内なる小さな声」は後者の思念波のようです。<br /> <br /> 思念波は、イメージで言うと綱引きの綱を片側からブンっと揺らして振動が逆側に伝わるような感じです。あるいは、ハリーポッターの魔法の杖を振って何かの魔法が飛んでゆく、と言うようなイメージのようです。振動だけが伝わって、相手に受信されます。<br /> <br /> 例えば、誰かに好意を持たれている時にほんわかと感じたり、あるいは悪意を持たれている時に頭痛がしたりするのはこの思念波のようです。<br /> <br /> 思念波はオーラによるガードも割と簡単に突き抜けるので、あまり他人に恨まれない方が良いようです。平穏に目立たず生きるのがいいのかもしれません。<br /> <br /> ■会議のアイデアに自分も相手もない<br /> このテレパシー・チャネリングの仕組みを理解すると、例えば会議で出たアイデアに自分も相手もないということが分かります。オーラが接触した瞬間、混ざり合ったオーラはもはや「自分」とか「相手」とかいう区別がなくなります。その後、そのオーラが自分のところに来たら自分のアイデア、相手のところに行ったら相手のアイデア、ということになりますけど、はっきり全部どちらかということはほとんどなくて、途中で千切れて同じインスピレーションが両者に伝わって、その後、自分の中で混ざり合って理解として定着します。確かに、自分の中で更に考察したら確かにそれは自分のアイデアと言えなくもありませんが、オーラが混ざった時点では自分も相手もないのです。全く会議に参加しない人がいたとしても、オーラが混ざっていたらアイデアをもらったということになるようです。・・・ちょっと理解が難しいですが、必ずしも態度や発言で成果が決まるというわけでもなさそうです。<br /> <br /> ですから、例えばベンチャーのCEOが「自分のアイデアだ」として株を独り占めするのは、時と場合によっては他人の労働力を搾取していることになるわけです。本当に自分だけの成果というのも世の中にはあるのかもしれませんが、他人と会議もせず相談もしないベンチャーなんて世の中にあるのでしょうか? 確かに、ベンチャーにはフリーライダーがわらわらと寄ってくるのでそのフリーライダーに与えないというのは重要ですが、成果を与えるべき人に与えないとそれは「奪う」ということになってしまうようです。強大な力を持つというのはその使い方が難しくて負債を作ることもあるのですね。<br /> <br /> 有名な話として、アップルのスティーブ・ジョブズは上場時に株を他の従業員に分けることを拒み、一方、スティーブ・ウォズニアックは自分の持ち株を従業員に分けてあげたというお話があります。スティーブ・ジョブズはカリスマとして有名で人気がありますが、オーラ的に言えば、必ずしも彼1人の成果ではないように思えるわけです。そういえば夢の中で見たのですが、どうやら彼を恨んでいる人が一定数いて、その恨みが原因で癌になったり早死にしたような印象を受けます。まあ、確証はなくて、そんな気がする、夢の中でそんなのを見た、というだけのファンタジーのお話ですけどね。でもまあ、ある種の真実を語っている気がします。スティーブ・ジョブズはただの夢の中のシンボルで実は誰でも良かったのかもしれず、同様の事態に気をつけましょう、ということかもしれません。<br /> <br /> <br /> <br /> Tue, 03 Sep 2019 00:00:00 +0900 私に呼びかける内なる小さな声 https://w-jp.net/2019/1641/ <br /> 思考の声の3分の1くらいの微かな声で「◯◯さん」と下の名前で瞑想中に呼ばれました。<br /> 最近の瞑想は思考がほとんどなくて静かな状態が続いていますので、よく聞こえました。<br /> <br /> 今までも何度も呼びかけてきていた声ですが、今まではここまではっきりとは聞こえませんでした。<br /> <br /> 比較すると、子供の頃に宇宙人とチャネリングした時のようなはっきりとした明確な思念波ではありません。子供の頃、同級生に宇宙人とチャネリングしている人がいて、その人の一定範囲にまで近づくとチャネリングを盗み聞きというか、思念波が、まるで指向性スピーカーのように一定範囲まで聞こえていましたので、その思念波のチャンネルを真似してみたら同級生の近くにいなくても普通に宇宙人とチャネリングできたことがあるのです。おそらくは宇宙人のテクノロジーとして思念波を簡単にテレパシーできるような機械があって、その機械を使うといとも簡単にテレパシーでチャネリングできるのだと思います。その思念波は通常の自分の思考の1.5倍から2倍ははっきりとした明確な思念波でしたので、きっと誰でも簡単にテレパシーできるテクノロジーが存在しているのではないでしょうか。<br /> <br /> 比較対象として、以下を挙げます。<br /> <br /> <br /> ・自分の思考の強さ・明確さを1とした時に、<br /> ・宇宙人のテクノロジーによるテレパシーの強さ・明確さを1.5〜2とします。<br /> ・今回の、私に呼びかける内なる小さな声は0.3くらいです。<br /> <br /> <br /> これってハイヤーセルフなのか、あるいは、守護霊なのか、類魂(グループソウル)なのか、友人知人や過去妻の声なのか・・・。何でしょうね。なんとなく、過去妻かあるいは過去生で仲のよかった女性の声な感じがしましたが。女性っぽかったです。今生きている親戚のおばさんの声にも似ていましたが、そのおばさんは「◯◯さん」とは私のことを呼ばないので、呼び方でその人ではないとわかります。<br /> <br /> 声の感じでも誰か判別できそうです。<br /> <br /> この、私の名前で呼ぶのってわかりやすくて良いですね。自分で自分のことを下の名前で「◯◯さん」なんて(私は)言わないので、自分の独り言ではないのだと言うのが明らかで、であれば誰かが呼びかけているのだと言うのが明らかになります。<br /> <br /> 意外によく聞こえるものですね。これからもっと聞こえやすくなるのでしょうか? まだまだ様子見です。<br /> <br /> <br /> <br /> Tue, 03 Sep 2019 00:00:00 +0900 ハイヤーセルフが頭の上にいる感じ https://w-jp.net/2019/1640/ <br /> 最近の瞑想では、そんな感じになってきました。<br /> <br /> そのうちいつかは一緒になるのかな? という気もしますがまだ分かりません。<br /> 頭の上にハイヤーセルフがいる時もあるのですが、いない時の方が多いです。<br /> どうも、求めるとハイヤーセルフが現れるような感じです。<br /> <br /> 本山博先生の著書に以下のようにありました。<br /> <br /> 自分の外へ「本当の自分」というかね、そういうものが出て、頭の上にすわっているような感じでみえるといい。なかなかそうはならないけど、そうならなければ駄目なんです。自分が自分の外に出て、それを拝めるようにならないといけない。本当の自分というのは光っているからね。みんな、そんなふうになれるようにがんばってください。「霊的成長と悟り(本山博 著)」<br /> <br /> これはそれっぽいですが、私が最近時々見えているのは、この図よりも遥かに大きいです。自分の体の数倍はある感じです。<br /> <br /> 自分から抜け出たというよりは、上から降りてきた、という感じです。<br /> <br /> 最初見た時は明るくて黄金に近いものでしたが、はっきりとは見えず。黄金には違いないと直感で分かりましたが、ちょっと影かカーテンに隠れている感じで、明るさ的にはちょっと曇って見えました。次に見た時はもっとその幕が濃くて、影が濃くて見えにくかったです。明かりが暗くて薄黒い影っぽく見える時もありました。これはきっと、私のイルミネーションが強いとよく見えるということなのかな・・・ と解釈しています。<br /> <br /> ■仙道の「出神(しゅつじん)の術」<br /> 仙道では「出神の術」みたいなのがあって一見すると似ていますけど、説明を読むとちょっと違う気もします。ただ、文化や流派の違いなだけで実は一緒なのかもしれません。<br /> <br /> 出神とは気を練ったすえにできた陽神という分身を、自分の肉体から抜け出させ、あちこち行かせる術である。「秘法!超能力仙道入門(高藤 聡一郎 著)」<br /> <br /> 別にこんな術を目指している訳ではなくて、ただ瞑想していただけです。<br /> <br /> 特別にこのために気を練ったつもりはなかったのですが、時々いわゆるソー・ハン呼吸瞑想法(ソーハム瞑想法)はしているので、気を練っていたといえば練っていたとも言えるのかもしれないです。<br /> <br /> まあ、ハイヤーセルフが現れる時もあれば現れない時もあるので、まだまだ様子見という感じではありますが。<br /> <br /> ■グルや神様のイメージの瞑想、とも違う<br /> ヨガの流派や禅、あるいは仏教の流派によってはイメージでグルや神様のイメージを頭の上に作って瞑想すると聞いたことがあります。そういうイメージ瞑想もあるのかとは思うのですが、私は別にイメージ瞑想していた訳ではなく、眉間や頭頂を意識する瞑想を続けていたら、ふと頭上に何かを感じて「いる」感覚および大きな存在が見えた気がして、それはきっとハイヤーセルフっぽいな、と判断したのです。ハイヤーセルフと思ったのは勘ですけどね。<br /> <br /> そういえば、このイメージが来る前に色々とインスピレーションが湧いていて、先日の記事「ハイヤーセルフのある人とない人」が浮かんできたくらいからこのハイヤーセルフが見え始めたので、実は単なるイメージに過ぎない可能性もあります。あるいは、最初からいたのだけれども気付かなかっただけかもしれないですね。<br /> <br /> まあ、見えていたからと言って今のところ何か変化が現れた訳でもないので、とりあえず様子見というくらいです。<br /> <br /> <br /> Mon, 02 Sep 2019 00:00:00 +0900 共感力が高いエンパスが学校教育で「心が自分」と教わると心の病になる https://w-jp.net/2019/1639/ <br /> エンパスでない人が「心が自分ですよ」と学校教育で学んでも「ふーん」と思うくらいでしょうが、エンパスがそう習ったら大変です。色々と感じ取れてしまいますから、以下の全てが「自分」と言われて「どーゆーこと??」となります。<br /> <br /> <br /> ・自分の思考や雑念<br /> ・他人の思考や雑念<br /> ・そこらへんに浮かんでいるオーラに含まれている雑念<br /> <br /> <br /> ヨーガでは「心」は自分ではなく、単なる道具です。<br /> <br /> 今まで何回も書きましたが、オーラに雑念が含まれていますのでオーラ接触しただけで雑念が入ってきて、あまりよく分かっていない子供がその雑念を感じるにつれて「私って、こんなに酷い人間なんだ」と思うようになるかもしれません。それは「心が自分です」という間違った教育による勘違いです。ですが、学校教育じゃそんなこと教えてくれませんから、子供は訳が分からなくなって心の病になるかもしれません。真面目なエンパスほど病むかもしれませんね。<br /> <br /> <br /> ・自分の思考や雑念 → 「心が自分」とすればその思考や雑念は自分そのもの(それは勘違い)。→ ヨーガ的には、思考は道具。<br /> ・他人の思考や雑念 → 「心が自分」としてしまうと、他人の思考や雑念も自分のものになる(それは勘違い)。理解不能な考えや雑念までもが感じられて、混乱するかもしれません。→ オーラの観点からすれば、オーラのケーブルが繋がって相手と同化するか、あるいは、オーラが接触して相手のオーラと混ざることで思念や雑念が伝わってくる。それは相手の考えなのだから自分のことではない。<br /> ・そこらへんに浮かんでいるオーラに含まれている雑念 → 「心が自分」としてしまうと、全く関係のない雑念も自分のものになってしまう(それは勘違い)。→ オーラの観点からすれば、どっかの誰かが飛ばしたオーラを拾ってしまっただけのこと。<br /> <br /> <br /> 厳密にいうと、オーラが混ざった時点でそれは「相手」とか「自分」とかいう区別がなくなって一体になっています。ですから、実はオーラが自分のところに来た時点でそのオーラに含まれている雑念や思考は自分のものになってしまうのですが、これはちょっと分かりづらい話なので・・・。ひとまずは上の基本的な構造を理解するくらいでもいいと思います。オーラが混ざったとしても量としては少しなので、どっかからやってきたオーラが優勢になることはほとんどないと思います。ですから、オーラが混ざっても「相手と同化する」なんてことはそんなに気にする事はないのですが、それでも、多少ながら相手と同化するのは日頃から起こっていることです。<br /> <br /> <br /> 学校教育では「思う」とか「心」って言葉と「自分」を安易に結びつけすぎなのかな、という気もしますし、そもそも学校の先生もよく分かっていない気もします。「心」というのは英語で「マインド」が対応するのであれば、それは「雑念」「想念」というよりも「思考」とか「意思」に近いものだと思うので、「意思が自分だ」ということであれば、まあ、分からなくもありません。ヨーガ的には意思すらも道具ですので、子供に教える方法としては「心が自分」ですと「雑念も自分」と理解してしまって上記のように心の病になるかもしれないですが「意思が自分だ」ということであれば、まあ、そこまで重症にはならない気もします。<br /> <br /> そもそも心が何なのか、学校の先生がきちんと教えられる気もしませんけど。学校ではせいぜい道徳くらいしかやらないでしょう。<br /> <br /> 教えられないことを何となく教えるよりは、学校の先生は「私は分からない」と答えた方がいい気もしますけどね。仏教やら何やらの識者に聞くのがいいと思います。仏教やら何やらにしてもピンキリなので微妙なこともありますけど、学校の先生よりはマシでしょうし。<br /> <br /> ある先生が「心が自分」と教えて、ある先生が「意思が自分」と教えたとすると、素直な子供は両方本当だと思うでしょう? これはどちらも間違っているのです(苦笑)なんだか意地悪クイズみたいで、世界には落とし穴だらけで生きるのが難しいです。どちらも真実ではありませんが、片方を信じるとしたら「意思が自分」の方がマシ、というくらいのお話です。<br /> <br /> <br /> Mon, 02 Sep 2019 00:00:00 +0900 ハイヤーセルフのある人とない人 https://w-jp.net/2019/1638/ <br /> スピリチュアルではハイヤーセルフという言葉がニューエイジの頃からか流行っていましたけど、どうやらハイヤーセルフのある人とない人がいるみたいです。こんなこと言うと「ハイヤーセルフがない人なんていないでしょ!」と言う声が聞こえてきますけど、以下のようなことです。<br /> <br /> 天使系やある程度の進化をした宇宙人、あるいはレムリア時代からの魂は高い次元に元々住んでいましたので、自己を高い次元と低い次元に分けて低い次元の「自分」をこの地球の三次元に転生させました。この場合、高次の能力はハイヤーセルフに置いてきましたので、記憶としてはサードアイとか予知能力とかリモートビューイングができるはずなのに何故か自分にはその能力がない、おかしいなあ・・・ みたいなことになります。ですから、これはきっと、今の私は低いセルフ(ローアセルフ)で、ハイヤーセルフがいるはずだ! と言うことで瞑想をしたら、やっぱりいました! ハイヤーセルフが見ていてくれたのですね! みたいなお話なのかなと思っています。<br /> <br /> これとは別に、類魂(グループソウル)とか守護霊とかをハイヤーセルフのように勘違いしている人がいらっしゃいますけど、まあ、確かに類魂(グループソウル)はハイヤーセルフといえば広義ではハイヤーセルフっぽい感じではありますけど、そのまま類魂(グループソウル)と言った方がありのままの姿で、それをわざわざハイヤーセルフというのはちょっと違うかな、という感じです。<br /> <br /> じゃあ、ハイヤーセルフのない人っていうのはどういうことかと言いますと、誤解しないで欲しいのですが、順調に一歩一歩進歩を続けている人が、ハイヤーセルフのいない人です。最初は動物から始まり、やがて人間となって餓鬼の世界、阿修羅の世界を通り抜け、人間としての情を学び、やがては愛を知る・・・ というように一歩一歩歩んで成長を続けている人は、ハイヤーセルフのいない人です。だからと言って不幸なわけではなく、きちんと類魂(グループソウル)や守護霊はいらっしゃいますので、特別に不幸というわけではありません。ただ単に、元々の出所が違う、というだけのお話です。これは誤解を招きやすいのですが、これらは高低の優越ではなく、世界の在りようそのままを示しているだけです。お互い、それぞれの存在がありのままで完璧な世の中なので、一歩一歩進んでいる人が悪いということはもちろんなく、むしろこっちが普通なわけです。天使やある程度の進化をした宇宙人あるいはレムリアの人だって元々は同じ道を辿ってきたわけで、ただ単に、歩んでいる場所が違うというだけです。<br /> <br /> そういうわけで、ハイヤーセルフがある人とない人がいる訳ですけど、ハイヤーセルフがない人に対して「ハイヤーセルフと繋がりましょう!」と言っても「何のこっちゃ?」となるわけです(苦笑)更には「ハイヤーセルフどうこう言っているけど、あのスピリチュアルの人たちは地に足が付いていないね!」みたいに言われてしまうわけです。時々はそれも正しかったりするのですが。<br /> <br /> 基本として、これらの違いを踏まえておけば、ハイヤーセルフのある人とない人に対する接し方やスピリチュアルなお話の仕方も変わってくるというものです。対象となる人たちによって伝え方が異なる、という基本的なお話ですね。<br /> <br /> まあ、私は割と好き勝手書いているだけでここでは特にそれほど対象は気にしてはいないですけどね。<br /> <br /> ハイヤーセルフがある人は、やがてこの世でロウアーセルフとハイヤーセルフが合一することで元々の能力を引き出すというか取り戻すことができるそうです。 じゃあ、何でわざわざ分けたのか? というと、この3次元世界を理解するためだそうです。最初から上の世界から眺めていては3次元世界を理解できないので、分けることで理解したい、という意思があるようでした。<br /> <br /> Mon, 02 Sep 2019 00:00:00 +0900 未来は変わる。核戦争による地球の破滅も一旦は回避されている。 https://w-jp.net/2019/1637/ <br /> 未来は変わります、という夢で見たお話の続きです。<br /> <br /> 先日書きましたように未来は変わるし、やり直す場合もあるのですが、織田信長の場合は、もっと大きな意思が働いていたようですね。個人的な辛さとかだけであそこまで歴史は変わらないとも思います。もちろん織田信長のサイキック能力も凄いので白羽の矢が立った訳ですが、そのもっと大きな意思とは、地球滅亡の阻止です。<br /> <br /> ん〜。いきなり大きな話になりましたね・・・。 先日の話と同様、これも夢のお話でファンタジーですからね。そのつもりで。<br /> <br /> 元々のタイムラインでは、どうやら日本が中国を併合して大日本帝国としてアジアに君臨していたようです。大日本帝国内では割と平和だったのですが、問題はヨーロッパや中東だったようですね。そのタイムライン上ではどこかの国が戦争を仕掛けて地球の半分あるいはほとんどが吹っ飛んで地球滅亡になってゲームオーバーだったようです。<br /> <br /> そこで、偉大なる意思が働いてタイムラインを数十年と巻き戻して「やり直し」「やり直し」「やり直し」を繰り返していたのですが、何度やり直してもヨーロッパと中東は必ずどこかで戦争になって核戦争に発展し、地球終了あるいは地球の半分が吹っ飛ぶ将来になってしまったようです。<br /> <br /> ですので、地球を管理している主も困り果てて、いやはやどうしようかと悩みに悩んだようです。<br /> <br /> そこで、数十年を何度巻き戻してもヨーロッパと中東で紛争になるのだから、もっと巻き戻そう、ということで色々試して、今のタイムラインが存在しているようです。その線で、いわば「実験」として信長のタイムラインも存在しているようでした。地球の管理者は信長の支配を望んでいたというよりは、歴史に揺さぶりをかけることで将来の地球破滅を食い止めたかったようです。<br /> <br /> どうやら地球の管理者と言っても細かな歴史までは決めることができなくて、大きな歴史の流れをコントロールするくらいしかできないようです。そこはやはり、基本は人間の自由意志が尊重されているということでしょう。滅亡するのも人間の自由意志という訳です。<br /> <br /> もし今のタイムライン上で地球滅亡になったら、また地球の管理者はリセットして時間を巻き戻してやり直しをするようですが、地球の管理者も、何度繰り返しても地球が滅亡するような核戦争が起きるので、これは一体どうしたものかと困り果てているような感じです。もしかしたらそのうち「巻き戻してやり直し」以外の選択肢になるのかもしれませんが、基本的には今のタイムラインでうまく行って欲しいようです。<br /> <br /> この「やり直し」は、個人の身近なところでも実は小さな違いとしていくつもタイムラインが存在すると思います。<br /> <br /> そして、「夢」や「想念(雑念)」として頭に思い浮かぶ平行宇宙のイメージは、もしかしたらそれは他のタイムラインの状況を垣間見ている可能性があります。あるいは、現在のタイムライン上の未来かもしれませんし、過去かもしれません。色々見えたとしても、現在のタイムライン上のお話とは限らないわけです。<br /> <br /> サイキック的に慣れてくると、別のタイムライン上のお話が「教訓」として見えてきますから、例えばあらかじめ気をつけることが見えたりします。それは、失敗した方のタイムラインを覗き見ていることになります。そして、そのタイムラインに乗るのか違うタイムラインを新たに作り出すのかは自分の選択次第というわけです。<br /> <br /> あの時の選択をしていたらこうなったとか、そういうイメージは、妄想として片付けることもできますが、タイムライン上の未確定の姿ということもあるわけです。タイムライン上のイメージは確定していないので、変えることもできれば、あるいは、そもそも基点のタイムラインが違うので前提条件が違っていて絶対そのタイムラインには将来行かないなんてこともあるわけです。ですから、参考になるようでいて参考にならないことも多々あります。まあ、参考程度に心に留めておくくらいでいいのかなと思います。<br /> <br /> こういうのって昔は巫女とかシャーマンでないと見れなかったようですけど、今は割と普通に多くの人が見ている気がするのですが、どうなのですかね。あんまり他の人とこういう情報交換しないので、どの程度の人が見えているのか割合とかよく分からないですが、そんなに難しいお話でもない気がしますけど。<br /> <br /> ・・・・まあ、夢のお話ですけどね。<br /> <br /> <br /> <br /> <br /> <br /> Sun, 01 Sep 2019 00:00:00 +0900 未来は確定していない https://w-jp.net/2019/1636/ <br /> これまた夢や子供の頃に幽体離脱した時に見たお話。ファンタジーだと思っておいてもらえれば良いです。<br /> <br /> SFではよくあるお話ですけど、そういうことです。<br /> もっと言えば、現在をリセットして過去からやり直す、というパターンもあります。<br /> <br /> 例えば、どうやら織田信長は最初の人生では桶狭間の戦いで負けて捕虜になり、今川義元が勢力を伸ばします。織田信長許されて元の領地の支配を任されますが今川義元にお金を貢ぐ立場になってお家は没落して行きます。そうして、元々織田信長をよく思っていなかった一部の部下や徳川家康に軽くみられるようになり、これは人生失敗した、ということでリセットして最初からやり直し、「あんなことになるくらいなら、もう遠慮はしない。精一杯やるぞ!」と思って人生を生き、それから天下を取りに行ったようです。2度目の人生だったからこそ、ああして子供時代はすねていたのかもしれないです。色々と足かせがあると桶狭間で負ける、と思っていたのかもしれません。織田信長はある種のサイキックだったとも言えます。そうであっても、油断してしまうと本能寺の変のようなことが起こってしまうようです。<br /> <br /> 余談ですが、織田信長や有名な剣士は未来を見ることができる小人を肩に乗せていたようです。仙道で出神とか言われている術で作り出すことができるのですが、織田信長の場合は自分で作ったのではなく、生まれる前にとある存在から借り受けたようです。その小人は5〜10秒くらい先を見ることができ、剣の勝負であれば通常の反射神経を超えての対処ができたため、相当強かったようです。どうやら上級の剣士になるとこの小人がいる場合がほとんどらしく、「剣の基本能力+小人の先読みの力」で強さが決まるので、両方とも小人がいる場合は基本能力で勝負がついたようです。織田信長の場合は剣は標準よりも強かったのは確かですが小人の先読みの力で戦場でうまく戦っていたようでした。剣がそこそこでも小人がいるだけで相当強いみたいですから、剣の基本能力も鍛えていた織田信長が小人の力も借りて戦場で戦えばそうそう負けなかったのも理解できます。どうやら、織田信長が暗殺者を返り討ちにした時はお互い小人がいたようですね。そういう場合もあります。<br /> <br /> ・・・まあ、夢ですよ?<br /> <br /> それと、これまた別のお話で、私のグループソウルの1人の過去生のお話です。<br /> <br /> 時代はおそらく18世紀半ば。1750年ごろでしょうか?<br /> <br /> そのグループソウルの1人は女性で、結婚してパリ郊外に住んでいました。いわゆる霊能力者で、本人はあまり表に出たがらなかったので夫が霊能力者ということにして暮らしていました。夫が霊能相談して生計を立てていたのですが、妻(私のグループソウルの過去生)の方は未来も見れたので、前日にあらかじめ未来を見て相手を占ってから夫に伝えて、それで霊能相談ということにしていました。<br /> <br /> ある日、パリで大規模な霊能者のパーティーが行われることになりました。<br /> <br /> かなりの大人数が参加するので、あらかじめ前日に内容を夫が把握するために前日の準備は6時間くらいかかったのですが、当日に会う順番や相手の内容を一通り把握して、パリに出かけてゆきました。<br /> <br /> 沢山の人がいて楽しげではあるのですが、妻(私のグループソウルの過去生)の方は先日見た風景と同じで、同じ会話が繰り返されるので、退屈でなりません(苦笑) 一応、お話に付き合っていましたが、やがて、面倒になって「私はちょっと疲れたのであそこで座ってるから後は任せたわ」と言って、本来のタイムラインから離れた行動を取りました。本当は、そのまま話に付き合うのが昨晩に見たタイムラインだったのですが、面倒になったのでやめたのです。<br /> <br /> そうしたら、その瞬間まで先日見た通りだったのに、その直後からちょっとづつタイムラインが変わって行きました。妻(私のグループソウルの過去生)が休んでいたら、話しかけられる筈のない人から話しかけられたり、残された夫の方は、「何か様子が違う」と言って戻ってきます。ふと未来を読み直してみると、どうも会う順番が変わってしまっているようでした。<br /> <br /> なんとか臨機応変に対処してその日は終わったのですが、このことで妻(私のグループソウルの過去生)の未来に対する認識が変わりました。<br /> <br /> それまでは、未来で見たことは確定している事実だと思っていました。<br /> しかし、このパーティーの出来事で、未来は変えられるのだ、と気付きました。<br /> その日までは、未来を透視したら確定した事実と思って相手に伝えていましたが、その日以降は、未来は変えられる、という認識で伝えるようになりました。<br /> <br /> 未来を正確に見れるからと言って、未来が確実にその通りくる訳ではない、というお話です。<br /> <br /> ・・・まあ、夢ですけどね。<br /> <br /> SFではこのネタが割と定番ですし、スピリチュアルでもそういう話を度々耳にしますけど、それはきっと本当なのでしょう、というお話でした。<br /> <br /> <br /> <br /> Sun, 01 Sep 2019 00:00:00 +0900 オーラと共に移動するカルマ https://w-jp.net/2019/1635/ <br /> カルマの法則について色々なところで言われています。例えばヨーガではサンスカーラという「印象」がカルマの輪を回すと説きます。しかし、多くの人は「カルマの法則を正しく理解するのは難しい」というところで一致しているように思います。<br /> <br /> 私も同様にカルマの理解は難しいと思いますが、理解するヒントとして、オーラとカルマの関係を理解すると現世で生きるのに役立つと思います。<br /> <br /> カルマの基本的な仕組みは、まず、楽しいとか苦しいとか怒りとか悲しみとか全ての「印象」によって蓄積され、その「印象」が奥深くに眠り、やがてはその「印象」が刺激されることで再度現象として表に現れてきます。その輪がぐるぐると回るわけです。ヨーガでは以下のカルマがあると説きます。<br /> <br /> ・サンチッタカルマ 過去の輪廻で貯められたカルマ<br /> ・プララブタカルマ 今生の転生のきっかけになったカルマ。今生でのメインテーマ<br /> ・クリヤマナカルマ 今生でのカルマ。コントロール可能なカルマ<br /> ・アーガミカルマ 来世に引き継がれるカルマ<br /> <br /> まあ、それはいいのですが、我々今生に生きている人にとって大切なのは今生での生き方です。<br /> <br /> 今生に関係するのはプララブタカルマとクリヤマナカルマですね。<br /> <br /> そして、実は、カルマはオーラと共に移動します。サンチッタカルマが移動するかどうかはちょっと不明確です。しかし、プララブタカルマとクリヤマナカルマは移動する感じがします。ちなみに、こんなこと言っている人は見たことありません。これは私の実体験と子供の頃に幽体離脱および過去生の記憶らしきものを繋ぎ合わせて類推するとこうなる、というお話です。ですから、あまり信じないで下さい。いわゆる仮説です。私はたぶんこうだろう、とは思っていますが、読者が信じる必要はなくて、「ふうん」とでも思っておいて頂ければ良いです。<br /> <br /> さて、オーラでカルマが移動する、とは一体どういうことでしょう?<br /> <br /> 簡単な例で言いますと、例えばとても葛藤があって怒りや悲しみに満ちている人がいたとします。オーラも真っ赤で、オーラがブワッと発散して近く人は誰それ構わずオーラが接触します。以前書きましたように、オーラの接触とはつまりは「混ざる」ということですから、混ざった瞬間に相手も自分もなくなって、どこで切り離されるかによって自分のところに来たオーラが自分のものになるわけです。ですから、もともと相手のオーラでも、そのオーラが接触して「混ざって」、感知すると「雑念」やらになるのが基本ですが、そのオーラが真っ赤ですとそのまま「荒み」にもなって悪影響を及ぼします。そして、その「荒み」が激しい場合は、もともとそのオーラを持っていた人と同質化して同様に自分のオーラが赤に少し染まるわけです。少しの接触なら少し赤に染まるだけですが、ずっと毎日(学校や職場などで)荒んでいる人の近くにいたら周囲でオーラ接触している人の方が参ってくる訳です。それは、ただ単に荒むだけでなく、まさにカルマも引き受けてしまっているのです。ですから、ずっとオーラの接触が起こっているとオーラが同質化して、例えば、今まで平穏に暮らしていた人が次第に怒りや悲しみに満ちたりするようになるのです。これは「同質化」という現象でも捉えられますけど、それと同時に「カルマの移動」にもなっているわけです。<br /> <br /> 怒りのカルマが溜まっている人のオーラを、他の人が引き受けた訳です。そうすることで、元の人の怒りは少し落ち着きますし、カルマも減りますが、その分、周囲の人にカルマを分けている訳です。トータルのカルマの量では変わっていないと言えます。<br /> <br /> ですから、自分の悪い行いが自分に返ってきますよ、という、一部で言われているカルマの法則は半分本当ですが、このように、誰かにカルマを押し付けることで避けることができてしまうのです。ほんと、世の中って不公平だと思いますよ。ですから、自分がとても気をつけて生活をしなくてはなりません。<br /> <br /> これを悪用した場合、自分はカルマを作り出し続けて怒りや悲しみを作り続け、周囲の人にカルマを渡し続けることで自分の活動を維持しようとする悪人ができてしまいます。実際、例えばエネルギーヴァンパイアはエネルギーを吸い取るだけでなくて自分の悪いオーラをいじめられっ子あるいは奴隷相当の人に押し付けることで自分の葛藤を抑えていたりします。エネルギーヴァンパイアは、例えばいじめっ子や、意地悪い上司やパワハラ上司や、あるいは、ドメスティックバイオレンスな家庭などが典型だと思います。<br /> <br /> ですから、オーラの仕組みを知らないが故に他人のカルマを引き受けてしまっている人が世の中にはとてもとても大勢いるのだと思っています。なんでそんな理不尽な扱いに我慢し続けるのか、理解に苦しみますが。おそらくは学校で奴隷としての教育を受けてエネルギーを与え続けるウサギ役として調教され、社会においても一部のボスに従うように調教され続けている人が多いのでしょう。<br /> <br /> オーラの仕組みを知っていれば、そんな他人のオーラ(カルマ)を引き受ける必要なんてないと分かる訳ですが、これは広く知られると社会の仕組みが根底から崩れてしまうので、知られてはまずい知識に属するのでしょう。いや、考えすぎですかね。<br /> <br /> カルマを引き受ける代わりに多額の報酬とかもらえているのならば納得の上ということになるのでしょうが、そんな高い報酬なしに安月給で我慢している人が多いのではないでしょうか。<br /> <br /> すぐには逆らえないにしても、先日書きましたように時々オーラのケーブルを切ってエネルギーヴァンパイアさせないようにして、それに加えてオーラの壁を作って相手のオーラを受け取らないようにすれば、エネルギーを奪ったりカルマを他人に引き受けさせようとする人は自然にエネルギー枯渇と自分のカルマに押し潰されて自滅すると思います。案外、これは時間かからないと思いますよ。どっちか片方だけでも効果がありますが、両方やるとすぐ効果があると思います。<br /> <br /> もちろん、自分に繋がっているオーラのケーブルを切るのと、自分がオーラのカルマを受け取らない、というのが基本です。<br /> <br /> それに加えて、自分が煩わしいと思っているエネルギーヴァンパイアあるいはパワハラ君に対しては、こっそりと(意識の中でやるだけです)その人のエネルギーのパイプを切ってあげてエネルギー枯渇させると良いです。家族からエネルギー抜いている場合は時間かかるかもしれませんけど、このご時世、そんなに我慢し続ける家族も少なくなっていると思いますが。そうすることで、勝手に自滅していく場合がほとんどだと思います。<br /> <br /> これ、みんながやるだけで意外に世の中変わっていくと思いますよ。<br /> <br /> ■それじゃ、ヒーラーはどうなの?<br /> この仕組みが分かった時、「じゃあ、ヒーラーは悪者の延命をしているだけなのですか?」という疑問が浮かんできました。これに対して私のガイドから回答があったのですが「ヒーラーは、何に対して奉仕するのか、という目的意識が重要になります。目的は、例えば、苦しんでいる人を助けたい、とか、そういうことになるでしょう。ヒーラーのレベルに対してこのくらいの荒みならば良い方向に導ける、という程度問題があって、本当の悪者、すなわち自分のキャパシティを超えている者に対しては体が無理だと拒絶する筈です。理屈で言えば無制限に受け入れて良い方向に導けるべきですが、そうは言っても、キャパシティの問題はあるでしょう。ヒーリングする時にはオーラの接触があって、ある程度は同質化しますが、どの程度の同質化を許すのかはヒーラーとしてコントロールできなくてはなりません。無制限に相手の荒みを受け入れてしまうようなヒーリングは避けるべきで、ヒーリングの質と量をコントロールできるのがヒーラーの技術として必要になります。」とのことでした。納得です。まあ、私はヒーラーではないですけどね。<br /> <br /> <br /> <br /> Sat, 31 Aug 2019 00:00:00 +0900 心は相手を映し出す鏡。ヨーガの心のオーラ的な解釈 https://w-jp.net/2019/1634/ <br /> スピリチュアルやヨーガ(あるいはヴェーダ)では心(ヨーガで言うところのチッタ)は相手や対象物を映し出す鏡のようなものだと言われています。<br /> <br /> 例えばヨーガスートラの解説書には以下のようにあります。<br /> <br /> 人間は心に映った自分の像を自分とみなす。「インテグラル・ヨーガ (パタンジャリのヨーガ・スートラ) (スワミ・サッチダーナンダ 著)」<br /> <br /> 心が歪んでいたら歪んだ自分だと考え、晴れやかな心であれば晴れやかな自分と考え、喜びに満ちた心であれば喜びに満ちた自分だと考える・・・。そのように一般教育では教わります。しかし、これは誤解だとヨーガは説きます。真の自分は心ではない。真の自分は心に影響されず、心は道具であるから、心がいかように動いても真の自分に影響はないと説きます。喜んでいる時でも落ち込んでいる時でも真の自分は不変であるとヨーガ(あるいはヴェーダ)は説きます。<br /> <br /> ”見る者”つまり真のあなたは、あなたの鏡である”心に映る”。しかし、普通あなたは、真の”自分”を見ることができない。心に色が着いているからだ。「インテグラル・ヨーガ (パタンジャリのヨーガ・スートラ) (スワミ・サッチダーナンダ 著)」<br /> <br /> よって、心を落ち着かせて波のない水面のようにすれば真の自分を見出せる、というのがヨーガの説くところです。まあ、これはこれとしてヨーガでは割と通説になっていると思うのですが、現象としては確かにそうなのですが、鏡と言いつつも鏡っぽくない時もあるので、ちょっと腑に落ちない部分もありました。<br /> <br /> ですが、これをオーラ的に解釈すれば割とスッキリすることに気が付きました。<br /> <br /> ■心とオーラの関係<br /> 以前から数回に分けて書きましたようにオーラが伸びて相手のオーラと混ざると相手のことがわかる、という仕組みですが、これってそのまんまこの「鏡」の話ですね。流派がちょっと違って、オーラは割とスピリチュアルな話で心(チッタ)はヨーガなので割と別々の話として理解していましたが、ふと閃いて両方を比べてみたら割と同じことを言っているのに気がついたのです。そりゃそうですよね、真実は同じ筈ですから。<br /> <br /> ヨーガスートラでは「心の作用を止滅させることがヨーガ」と述べられていて、それがそのままヨーガの定義になっています。いくつかの訳を引用します。<br /> <br /> (2) 心の作用を止滅することが、ヨーガである。<br /> (3) そのとき、見る者(自己)は、それ本来の状態に留まる。<br /> 「インテグラル・ヨーガ(スワミ・サッチダーナンダ著)」より<br /> <br /> (2) ヨガとは心の活動を抑えることです。<br /> (3) その時(思考波が静止している時)、知覚者は自分自身の真の状態に留まります。<br /> 「Meditation and Mantra (Swami Vishnu-Devananda著)」より翻訳<br /> <br /> (2) ヨーガは、心(チッタ: Chitta)がさまざまの形(ヴィリッティ(ス): vrittis)をとるのを抑制することである。<br /> (3) そのとき(集中したとき)、見る者(プルシャ)は、彼自身の(変られていない)状態におちついている。<br /> 「ラージャ・ヨーガ(スワミ・ヴィヴェーカーナンダ 著)」より。<br /> <br /> ■オーラ的なヨーガスートラ定義の解釈<br /> 上記のヨーガスートラの有名な文をオーラ的に読み替えると以下のようになると思います。<br /> <br /> 「自分のオーラの動きを安定させること(がヨーガ相当)です。<br />  その時(オーラの動きが安定して体の近くに留まっている時)、見る者(自己、プルシャ)は落ち着いた状態になる。」<br /> <br /> ヨーガスートラで言う「心が作用している時」とは「オーラがふらふらと発散して動いている時」あるいは「オーラが線のように伸びて相手に繋がっている時」とオーラ的には解釈できそうです。であれば、オーラを安定させてオーラと相手(対象)との接続(ケーブル)を切ることで自己が落ち着いた状態になる、と言うのはオーラ的にみてとてもわかりやすいです。<br /> <br /> ■鏡について<br /> 「鏡」についても同様で、オーラが線のように伸びたり、あるいは不意にオーラが接触して相手(対象)と繋がると相手の情報が伝わってくるのですから、相手の情報が伝わってくる現象を「鏡」と比喩することもできるわけです。私的には「鏡」の比喩よりもオーラの動きで考えた方が随分と分かりやすくてしっくりきます。これは個人差もあるのかもしれませんので、分かりやすい方で理解すればいい気もします。<br /> <br /> オーラと心の動きの関係を理解すればヨーガスートラもすっきりと理解できそうです。<br /> 古典って昔の言葉で読み解くのは難解ですけど、真実がそんなに複雑なわけもないので、実際のところはシンプルなんだな、と言うのが実感です。<br /> <br /> もともと引っかかっていたのは、「鏡」と言いつつも「鏡」のように作用しない時も多々あるので、本当に「鏡」なの??? と言う疑問がズーーっとあったのです。おそらく、子供の頃からずっとこの「鏡」の例えを微妙に思っていました。初めて聞いたのはいつかはもはや覚えていないですけど。半分本当っぽいけど、そうでもない気もしていましたので。識者に聞いても「まあ、鏡というのは比喩ですからねえ」と曖昧な返事しか貰えず。比喩だからなんとなくの理解でいいのかな・・・ と、少しモヤモヤしていたのですが、オーラで考えるとあっさり解決したのです。<br /> <br /> 最初から「鏡」なんて言わずにオーラで説明してくれればこんなに悩むこともなかったのに(苦笑)<br /> <br /> <br /> Sat, 31 Aug 2019 00:00:00 +0900 レムリア時代のアセンション https://w-jp.net/2019/1633/ <br /> 夢で見たファンタジーのお話ですけど、私、おそらく古代レムリアの時代に一度アセンションしてます。 そういう夢を見ました。<br /> <br /> その時、民族の大多数が一気にアセンションしたので、私は特別に修行しているわけでもなかったのですが皆の意識に合わせることで一緒に自然にアセンションしていました。 あれれれれ? って感じで、一気に世界が変わったのです。<br /> <br /> 当時はおそらく今みたいな3次元の世界ではなく、もっとふわふわとした、いわゆる幽体あるいはアストラル体に近い世界だったと思いますので、その世界でアセンションと言っても、少し雰囲気が変わる、みたいな感じ(それでも大きな違いですが)だったように思います。一段階上がるわけですから、それはそれは大きな違いではありますが、今の世界のように3次元ではないのでずっとアセンションしやすい世界だったように思います。<br /> <br /> 近い将来にアセンションが再度あるとしたらまた体験したくて生まれてきているという面も少しありそうです。<br /> <br /> ・・・繰り返しますけど、これは夢のお話ですよ?<br /> <br /> そのまま上の世界で暮らすこともできたのですが、地上の世界に興味があったので地上をふらふらと様子を見に遊びにきて、そのうち興味本位で転生を繰り返した魂が私の過去生みたいです。<br /> <br /> ですから、私の場合は一旦アセンションした後に下の次元に下降した訳です。<br /> <br /> 昔は理由が興味本位だと思っていましたけど、言い換えればそれは学びがまだ必要だったということでもありますね。レムリアの時はみんなと一緒のアセンションだったので一部まだ学び足りない、遊び足りない部分があったのかなと。なので再度、地上に遊びに来た訳です。真面目に言い換えれば「学ぶため」とも言えますけど、学ぶというよりはむしろ遊ぶため、という感じですね。<br /> <br /> そろそろまたアセンションがあるとかないとか言われていますけど、3次元の世界がなくなるような気はしませんね。3.5次元くらいのふわふわした感じの世の中に変わる可能性はある気がしますけど、基本はそう変わらない気もします。(この次元数は単なる比喩なので厳密な数字ではありません。)<br /> <br /> 2つの将来像が見えるのですが、1つはアセンションしない未来で、もう1つはアセンションする未来です。<br /> <br /> どうやら、未来がどうなるのかまだ確定していないような感じです。どうなるのでしょうね。<br /> <br /> ■コギ族のマモス<br /> 本当かどうかはわかりませんが「ハートの聖なる空間へ( ドランヴァロ・メルキゼデク 著)」という本には、1999年までに起こる筈であった大変革がマカバによって回避された事が書いてあります。それによると、元々の計画ではテクノロジー中心文明の人は地球の別次元に行き、先住民族や自然派の人が物理的な地球を受け継ぐ筈だったそうです。この回避は、肯定的なこととして受け止められています。<br /> <br /> これがアセンションと関係があるのかどうかは記載がありませんが、私の夢の内容を踏まえると、アセンションはこれとは無関係のような感じです。<br /> 大改革が回避されたとしても、それでも、やはりアセンションがあるかどうかは未確定のようです。<br /> <br /> 可能性はまだ半々で、アセンションがずっとないか、あるいは、あるとしても、誰しもがもはやアセンションなど起こらないと思うようになるほど遠い未来に起こる感じです。おそらく、あるとしたらあと数十年以内でしょうか。<br /> <br /> 上のような大改革はなくても、天変地異はあるかもしれないです。それも含めて、まだ未確定のような感じです。<br /> <br /> ・・・・夢ですよ。<br /> <br /> 夢を見たのはいつ見たのか覚えていないくらい昔で、たぶん子供の頃だったと思います。 でも、ふとした時に思い出すのです。<br /> <br /> <br /> Fri, 30 Aug 2019 00:00:00 +0900 オーラと子供の教育 https://w-jp.net/2019/1632/ <br /> 先日のオーラと雑念 の話とその続きのお話 を踏まえた、子供の教育のお話です。<br /> <br /> 学校で子供が苦しんでいるのも、オーラの知識がない大人の理不尽な対応のせいである場合も多い気がします。<br /> <br /> 例えば、学校で「仲良く」というのは本来オーラを安定させて体の近くに留めて「自分」を確立してから自由意志を持って相手と繋がるべきであるのに、学校教育では表面上の仲良さを重視していますのでオーラ的に言えば「オーラを繋げる」教育をしていますので、しっかりしていた筈の真面目な子も悪い子に引っ張られて落ちて行き、いじめっ子がエネルギーヴァンパイアになって支配する構図を助長しています。ここでポイントになるのは「自由意志の尊重」であり、支配体制を作るような関係は避ける必要があるのです。<br /> <br /> 学校というのは社会の縮図であり、社会が支配体制であるが故に学校もその支配体制を維持する為に「オーラを繋げる」「自由意志を尊重しない」という教育になっているのだと思います。きっと学校の先生はこれに反論するでしょうが、オーラ的に言えばそうなっています。<br /> <br /> あるべき国のあり方や、グループのあり方、友達のあり方、学校のあり方。基本的に考え方は同一で、「自由意志の尊重」「オーラの安定、独立」というところを元にすれば、自ずと解決策は出てきます。例えば国であれば「自由意志が尊重される単位で国を分割する」ということになりますし、学校でも「自由意志が尊重される単位でクラスを分割する」ということになるでしょう。<br /> <br /> 子供の自由意志やオーラを無視し、ごちゃ混ぜにして「仲良く」とか言う言葉でオーラをつなげてしまって表面上は仲の良い従属関係を作り、自由意志をなくしてハイハイ従わせる為の教育が世間にまかり通っていますので子供が苦しんでいるのだと思います。<br /> <br /> ただ、社会もこの構図で出来ていますので、子供が抜け出たとしても大人になってから社会の一員で働くのが辛くなってしまうのが困ったところ。子供だけでなく社会の仕組みもこの種の隷属関係を抜け出ないと大人も子供も生き辛い世の中が続くと思います。<br /> <br /> 問題の基本は、大人も子供も対多数が「瞑想をしない」ところにあると思います。瞑想をすることでオーラの発散を抑えてオーラを体の近くに安定させることが全ての基本であるべきなのに、それをしないからオーラが発散したままになり、おかしくなるのです。<br /> <br /> 「いじめ」と言う現象だけを見ていてもこのあたりはわかりません。いじめっ子の目的は言葉では色々と説明があるでしょうし、本人の自覚はないかもしれませんが根本は「オーラのパイプを繋げてエネルギーを吸い取ること」が目的です。その根本を理解しさえすれば、「いじめる(あるいは、嫌がらせ、あるいは、怒鳴る)」とか言う行為は「エネルギーのパイプを繋げる、あるいは、維持する為の手段」になりますから、「いじめる」という行為は従わせる為の「手段」であり、いじめられっ子が大人しく従っている間は「いじめる(あるいは、嫌がらせ、あるいは、怒鳴る)」行為をする必要がないわけです。いじめっ子からすればエネルギーヴァンパイアをする為あるいは維持する為にこそ行動が必要であり、最初は頻繁ないじめが必要かもしれませんが、一旦エネルギーのパイプを繋げてしまえば時々いじめをすればいいだけですから、維持だけでしたら影で時々嫌がらせをするだけでもいいわけですからね。であれば、学校の先生なんてほとんど気付けなくなる場合もあるでしょう。<br /> <br /> 時々は大人が代わりにこのエネルギーのケーブルを切ってあげる必要があると思いますけどね。大人は子供のそのくらいの面倒は見るべきだと思います。「いじめ」という行為を見抜けなくても、オーラに対する理解さえあれば、要はエネルギーヴァンパイアを防げば良いのですから生徒1人1人をしっかりと自立させれば良いわけです。その為に、時々はエネルギーのパイプを切ってあげて、オーラを安定させる助けをすれば良いわけです。色々と現象としては出てくるとは思いますが、根本は結局これだと思います。<br /> <br /> 大人は「いじめる目的は何なのだ?」と子供を問い詰めるかもしれませんし、子供は色々な回答をするかもしれませんけど、そんなこと聞かなくても根本はエネルギーヴァンパイアであることがほとんどです。場合によっては本人の混乱でそういうことしている場合もあるかもしれませんけど、継続的な「いじめ(あるいは、嫌がらせ、あるいは、怒鳴る)」であればほとんどの場合エネルギーヴァンパイアが目的でしょう。<br /> <br /> 大人がこの根本の理解をせずに表面上の仲良さだけを見ていても子供の苦しみは分かりません。基本は、いじめっ子といじめられっ子がいたらお互いに引き離して接触させないことです。表面上の仲良さなんてのも不要です。接触を断ちます。今の学校では「無視」と思われてしまって悪い印象になるのかもしれませんが、オーラ的に自立してきちんと対応できるようになる為には接触させるべきではないのです。数ヶ月あるいは数年という単位になるかもしれませんが。それをしなければ、エネルギーヴァンパイアの関係になるかあるいは不登校になるのかのどちらかです。この場合、自立するまでは「仲直り」などは不要で、きちんと自立するまではむしろ「しばらくの間、お互い相手には接触しないという同意」が必要になります。<br /> <br /> 学校の先生がこのことに理解がなくて改善が見られなければクラス替えの要求あるいは転校しても良いと思います。<br /> <br /> あるいは、今の学校はクラス全員の同質化を前提にしていますから、そもそも変な人がいない学校に行くことですね。田舎では難しいかもしれませんけど。<br /> <br /> 子供が孤立していた時、この種のオーラに理解のない大人は事あるごとに「仲良く」させようとしますけど、オーラの理解があれば「仲良く」なんてのは大きなお世話どころか、害が大きいことがわかるでしょう。オーラに理解のない大人の薄っぺらな「仲良く」なんて、多くの場合、子供からしたら従属関係の強要になってしまうのです。<br /> <br /> 教師が教育をとても勉強すればこのあたりも問題なくなるのかもしれませんが、そんなに色々と勉強しなくても、このオーラの法則さえわかっていれば他の法則を次々に自分で導き出せる筈です。実際、日本の学校では学級崩壊が問題になっていますし、であれば、教師はそんなに勉強できていないのが実情なのではないでしょうか。オーラの法則は簡単ですので、ただ単にその存在を受け入れて理解するのはあっという間です。でも、もしかしたら素養がないとその簡単な法則すら理解できないのかもしれませんけど。<br /> <br /> やっぱり、学校教育から精神世界を追い出してしまったのが問題ですよね。であれば、偏りは色々とあるのかもしれませんけど宗教系の学校、キリスト教とか仏教とか、そういう母体があるところに行かせるのが無難なのかもしれません。精神的な素養がない教師に教えられた子供は荒みますから。<br /> <br /> <br /> Fri, 30 Aug 2019 00:00:00 +0900 霊視とオーラ https://w-jp.net/2019/1631/ <br /> 先日の霊感・霊視のレベルに関する記事の続きです。<br /> <br /> 低級な霊視はオーラが発散している場合にオーラが接触して不意に起こることがあります。<br /> <br /> 以前、オーラと雑念について書きましたが、オーラには各種の情報含まれていますのでオーラが接触した時に入ってくるいわゆる「雑念」とは、いわば相手の状態なわけです。オーラは最初に感覚として入力され、その感覚を心で読み取ることで雑念として言葉として現れてきたり、あるいは、単にその感覚を味わったりします。どちらにせよ、そのオーラの接触により相手のことが分かるわけです。それは、低級な霊視であるとも言えます。<br /> <br /> 単なる感覚や雑念として伝わってくることが多いとは思いますが、受け取る側にその素質があれば映像として見える時もあります。この時、原理は雑念の時と同じです。受取手次第で読み取れる情報が変わってきます。<br /> <br /> ですから、雑念がオーラと関係があるのと同様に、霊視もオーラと関係があります。<br /> オーラの接触で雑念が不意に起こるのと同様に、オーラの接触で霊視が不意に起こることがあります。<br /> <br /> そして、このオーラの接触は、なるべく避けるべきです。<br /> <br /> ■オーラの発散について<br /> 前にも書きましたが、いわゆる霊媒・ミディアム・サイキックな人の中にはオーラが発散して周囲に広がっている人がいますので他者のオーラや漂っているオーラと不意に接触して数々の情報が入ってきますが、本来はオーラを発散させるのではなく、オーラを体の近くにギュッと密接させておくべきなのです。<br /> <br /> オーラを発散させておくとオーラがアンテナになって感覚が鋭くなった気がするかもしれませんが、本来の鋭さとは、ほんのちょっとの接触で多くの情報を引き出せることを言うのであって、やたらとオーラを接触させて情報を無秩序に拾うことを鋭いとは言わないと思います。<br /> <br /> ■霊障<br /> 前の記事で、エーテルというかオーラの筋がスススッと伸びて情報を拾うことと、その時に、オーラが混ざって相手にも自分のオーラが若干残るし、情報を得る時に相手のオーラが自分と混ざる、というような事を書きましたけど、いわゆる霊媒・ミディアム・サイキックが霊障のような症状に悩むのはこのオーラの発散と混合が原因であることが多いです。<br /> <br /> 自分のオーラが発散している場合と相手のオーラが発散している場合とがありますが、少なくとも自分のオーラは何とかしたいところですよね。<br /> 相手のオーラが発散している時は、変な雰囲気を感じたら近寄らないことです。ですが、自分のオーラが発散していたら周囲の人のオーラと次々とぶつかってしまうのでどうしようもありません。<br /> <br /> オーラが発散しないように気をつけていたとしても、カウンセリングで霊視する際には相手のオーラと混ざるので相手の邪気を受け取ってしまうと霊障のような症状に悩むことがあるかもしれません。<br /> <br /> ■「鋭く」「少し」オーラを混ぜて情報を取る<br /> カウンセリングで相手を見るためにオーラを混ぜる際、ほんのちょっとの自分のオーラで「鋭く」相手のオーラのサンプルを取ればいいのに、ごっそりとオーラを混ぜると相手の邪気もごっそり受け取ってしまうわけです。<br /> <br /> まあ、自分がサイキック能力があると思っていてもこの種のオーラの仕組みが分かっていない人も大勢いらっしゃるようですので、あまりオーラの接触なんて気にしていないような人も多い感じではありますが。<br /> <br /> 霊視は、ほんのちょっとのオーラで霊視すればいいのに、ごっそりとオーラ接触しないと情報が取れないようでは、そんな状態でカウンセラーになってカウンセリングするのはまだ早いんじゃないかな・・・ と個人的には思いますが。<br /> <br /> ■意外にこのあたり知られていない?<br /> この種のオーラの仕組みについては意外にスピリチュアル系の人もあんまり言っていなくて、私個人としては子供の頃に幽体離脱して色々な事をその時に勉強したのでもはや常識みたいなものですが(まあ、子供の頃はしばらく忘れていたりもしましたが)、意外にこのオーラ関係の知識が世の中にないなあ・・・ と言うのが印象です。<br /> <br /> 大雑把な知識はあるにしても、どっか微妙にズレているというか。まあ、私の理解も完全ではないとは思いますけど。<br /> <br /> ■基本は、オーラを発散させない事<br /> まず、個人の自分のオーラを体の近くに留める、というのは基本ですよね。<br /> <br /> ■次に、オーラをどう使うのか?<br /> オーラが発散しなくなったら、次は、オーラをどう使うのか? というお話。<br /> <br /> ■オーラのケーブルを切る<br /> オーラのケーブルを繋げたら、切るのが基本。<br /> 勝手に繋がってしまったら、切るのが基本。<br /> <br /> 有名どころで言うと「九字切り」みたいなものがありますけど、そんな大層な事をせずとも、意識の刀で全方向軽く接続を切るだけですし、それは体を動かさずとも意識で行うだけですし。九字切りしている人はめっちゃ気合い入れてるイメージですけど、そんなに気合いもいらなくて明確なイメージがあればいいだけです。<br /> <br /> そういえばカバラ十字とかも四方に結界を張ってますね。<br /> 最近のスピリチュアルですと卵のような殻を体の周囲に作って鏡のようにする、みたいなのもありますね。<br /> 常に防御できる力とイメージの持続力があればいいですけど、多くの人はそんなに意識が続かないでしょうし、一般人は都度切るくらいの方がいいとは思いますが。<br /> <br /> 私が意識していなかっただけで、それぞれの伝統で実は似たような手法があるのかもしれないですね。<br /> 儀式は残ったけれどもその意味が失われた、という事もあるかもしれません。魔法的に「結界」とかいう言葉はよく聞きますね。<br /> <br /> ■邪気<br /> 邪気を受け取ってしまったら、切り離せる場合は切り離します。<br /> エネルギーを入れることがすなわちヒーリングですので、そうして邪気を解消することもできます。<br /> <br /> ■オーラの知識の重要さ<br /> オーラの知識はかなり重要で、これを知っていれば例えば学校での子供の対処も色々と変わってきますし、社会での人との対処方法もかなり違うものになります。<br /> <br /> <br /> 案外、スピリチュアルな人でもこの辺りのオーラの知識って手薄な気がしてきました。<br /> <br /> <br /> Fri, 30 Aug 2019 00:00:00 +0900 霊感・霊視のレベル https://w-jp.net/2019/1630/ <br /> 「神道の神秘(山蔭 基央 著)」で述べられている山陰神道では「霊視」の段階を以下のように分けているようです。<br /> <br /> 1.妄想 ヴィジョンが霞んだ白黒の映像で現れる。的中率は3割以下<br /> 2.幻想 カラーの映像。的中率5割以下<br /> 3.思通(しつう)白黒の中の透明映像。的中率7割以上<br /> 4.観通 山陰神道の先代がわずかに垣間見た程度<br /> 5.霊通 辿り着ける人はほとんどいない<br /> 6.神通 辿り着ける人はほとんどいない<br /> 「神道の神秘(山蔭 基央 著)」より<br /> <br /> 同署によればたいていの霊能者は2番の「幻想」であり、人によってはこの段階で喜んで自らを神のように勘違いするが、そのような勘違いはしないよう諌めている。<br /> <br /> ■低級霊に注意<br /> 狐や狸などの低級霊でも多少の未来は見ることができます。同書ではその辺りも警告しています。<br /> <br /> ■大地の母<br /> 出口王仁三郎と大本教のドキュメンタリーである「大地の母(出口 和明 著)」を昔パラパラと読んだ時に狐に騙されるお話が載っていました。お告げで金銀財宝が埋まっていると言われて探しに行き、大騒ぎをしたものの結局見つからず、狐に騙されていたのだろう、とか、そういうお話だったと思います。<br /> <br /> 昔から、色々なところで色々な人が「狐や狸に騙される」とかいうお話をしているのを聞いたり読んだりしていましたが、おそらくはその話の出所はこの大本教かなと思います。<br /> <br /> ■審神(さにわ)<br /> 神道にはこれらの低級霊を見分けるための審神という伝統があります。<br /> 神道の場合は独立した1人が担当しますが、現世において低級霊に惑わされないためにも誰しもが基本的な審神ができる方が良いと思います。<br /> <br /> 神道的には色々とあるのでしょうが、とりあえず素人が心がけるべきは、「言葉のまやかし」です。一見して高級に見えるメッセージであっても、そこから感じ取れる高級な神妙な清々しい雰囲気がなければさほど高級な存在ではないでしょう。高級な存在であればあるほど神社と同様の清々しい雰囲気を醸し出しています。言葉に惑わされず、雰囲気を感じると良いと思います。<br /> <br /> Thu, 29 Aug 2019 00:00:00 +0900 眉間と鼻頭とアジナチャクラ https://w-jp.net/2019/1629/ <br /> 書物や流派によりアジナチャクラが何処なのか諸説あります。<br /> <br /> <br /> ・眉間(あるいは鼻頭)<br /> ・脳下垂体<br /> ・松果体<br /> <br /> <br /> 脳下垂体も松果体も頭の中央付近の近くにありますが脳下垂体の方が目に近くて松果体の方が頭の中心にあります。<br /> <br /> ■松果体がアジナと言う説<br /> 「密教ヨーガ(本山博著)」には以下のようにあります。<br /> <br /> アジナは脊髄の終わったところに対応して位置し、三つのナディが合流して、ちょうど糸のように結び目のようになっています。この結び目は、ルドラ・グランティまたはシヴァの結び目と呼ばれています。肉体の上ではアジナは松果腺に対応するといわれます。体表の部分では、眉間がアジナと密接な関係にあります。そのため、アジナに精神集中する場合、ふつうは眉間に集中します。「密教ヨーガ(本山博著)」<br /> <br /> これがヨーガで割と一般的な認識のように思います。<br /> <br /> ■脳下垂体がアジナで松果体がサハスララと言う説<br /> 流派によってはこの論も時々目にします。<br /> <br /> ■アジュナ(アジナ)と第三の目が異なると言う説<br /> 「伝導瞑想(ベンジャミン・クレーム著)」には以下のようにあります。<br /> <br /> アジュナ・チャクラは第三の目ではありません。第三の目(心眼)は実際に頭の内部にありますが、アジュナ・チャクラは前面にあります。第三の目、心眼というものは、その弟子自身の活動によって創造されるものです。鼻柱の背後に位置する脳下垂体はアジュナ・チャクラに関係しており、頭の中心にある松果腺は頭部センター(頭の頂点)に関連しています。「伝導瞑想(ベンジャミン・クレーム著)」<br /> <br /> 伝導瞑想は私は詳しくありませんが、この流派は独特の言葉の定義があるようです。用語はヨーガの定義そのものではありませんが、内容は興味深いです。以下のように続きます。<br /> <br /> 瞑想は、これらの分泌腺の活動を徐々に増大します。脳下垂体と松果腺の活動が瞑想を通じて活発になるにつれ、各々から発する輝き、光が拡がり、両者の間に磁気的接触ができ、二つのセンターが重なり合うところに一つの場ができます。そこに第三の目が生まれるのです。そして高度な霊視が利くようになります。これはアジュナ・チャクラそのものとは異なったものです。「伝導瞑想(ベンジャミン・クレーム著)」<br /> <br /> これは興味深い記述です。用語を抜きにしてこの内容を踏まえると、脳下垂体と松果体の両方が重要になるわけですね。この流派の瞑想方法は以下のように説明されています。<br /> <br /> ですから、伝導瞑想をするとき、あなたは注目を第三の目に保持するのではなく、眉間にあるアジュナ・チャクラに保つのです。そこに何か圧迫を感じるのは、エネルギーがそのセンターを通じて流れているからです。「伝導瞑想(ベンジャミン・クレーム著)」<br /> <br /> この指示は「密教ヨーガ(本山博著)」の内容と類似していて興味深いです。<br /> <br /> ■眉間と鼻頭<br /> バガバッド・ギータの6章は瞑想について記載されており、6章13節には「鼻先を凝視する」と書かれてあります。このことをもって、流派によっては眉間ではなく鼻頭に集中しているようです。その流派には流派なりのやり方がありますのでとやかく言うことではありませんが、「あるヨギの自叙伝」でスリ・ユクテスワは以下のように説明しています。<br /> <br /> 言語ナシカグラム(鼻の先)の真の意味は、いわゆる鼻の頭ではなく、”鼻の上”のことだ。つまりそれは眉間の霊眼の位置をいっているのだ。「あるヨギの自叙伝( パラマハンサ・ヨガナンダ 著)」<br /> <br /> ここでもやはり、眉間の集中のことが言及されています。<br /> <br /> アジナチャクラの位置については諸説あれども、実際のところは何処も変わらなくて、言い方が違うだけなのでしょう。いわゆる第三の目が脳下垂体と松果体の間にできるとすれば諸派によってアジナチャクラが脳下垂体だったり松果体だったりするのも頷けます。どちらも半分当たっているということでしょう。<br /> <br /> ■神智学<br /> 「神智学大要 第1巻 エーテル体(アーサー E.パウエル 著)」には、眉間がアジュナー(アジナ)であると書かれています。<br /> <br /> 同じ神智学系の「チャクラ(C.W.リードビーター 著)」にもアジナーが眉間だと書かれています。<br /> <br /> ■13チャクラ システムにおける脳下垂体と松果体<br /> 「フラワー・オブ・ライフ 第2巻(ドランヴァロ・メルキゼデク著)」には脳下垂体と松果体と13チャクラ システムに関する興味深い洞察が記載されています。<br /> <br /> どうも松果体が「見る」とき、すなわち脳下垂体にエネルギーを投射するとき、第三の眼の知覚が生じるようなのです。「フラワー・オブ・ライフ 第2巻(ドランヴァロ・メルキゼデク著)」<br /> <br /> これも、上記の伝導瞑想の記述と類似していて興味深いです。<br /> <br /> <br /> Thu, 29 Aug 2019 00:00:00 +0900 イグナチオ・デ・ロヨラ(イエスズ会創立者)の内的理解 https://w-jp.net/2019/1628/ <br /> 世俗的な思いは心を虚ろにし不安にするが、霊的な思いは深い平安と喜びをもたらす。不安に満ちた虚ろなあらゆる思いをかき立てるのは悪魔で、静かな喜びを伴う霊的反省を呼び起こすのは神であるという結論に達した。(中略)キリストは王であり、聖人たちはその騎士、そして人間の心は悪魔と神との決戦の戦場である。「イエズス会の歴史(上)(ウィリアム・V・バンガート 著)」<br /> <br /> これはイエスズ会を創設した第一人者であるイグナチオ・デ・ロヨラの基本的な理解のようです。彼が執筆した「霊操(れいそう)」はキリスト教における基本文献の一つになっているようですので、これは彼だけでなくキリスト教を理解する助けになりそうです。<br /> <br /> 「霊操」の日本語訳はいくつかバージョンがあるようですが、手元にあるホセ・ミゲル・バラのバージョンには以下のようにあります。<br /> <br /> 霊操とは、良心の糾明(きゅうめい)、黙想、口祷(こうとう)と念祷(ねんとう)のあらゆる方法を意味する。散歩したり歩いたり走ったりするのを体操と言うが、同じように、霊魂を準備し整えるあらゆる方法を霊操と言うのである。その目的は、まず、乱れたあらゆる愛着を捨てることであり、その後、霊魂のたすかりのために、自分の生活を整えることについて神のみ旨を探し、確かめることである。「霊操(イグナチオ・デ・ロヨラ、ホセ・ミゲル・バラ 著)」<br /> <br /> 同書にはこれ以外にも興味深いことが記載されていて、例えば心の有り様を表現しています。<br /> <br /> 自分の心に現れてくる考えに3種類あることを前提とする。1つは自分のものであり、ただ自分の自由な望みから生まれるものである。他の2つは外からのものであり、一つは善霊から、一つは悪霊から来る。「霊操(イグナチオ・デ・ロヨラ、ホセ・ミゲル・バラ 著)」<br /> <br /> これを理解するとキリスト教の基本的な立場が理解できます。古典的なキリスト教にはハイヤーセルフあるいはアートマンのような概念はなくて、自分かそれ以外か、と言う分類なのですね。この場合、いわゆるハイヤーセルフは善霊に含まれているのでしょう。<br /> <br /> <br /> Wed, 28 Aug 2019 00:00:00 +0900 体のオーラに取り憑いているエネルギー体 https://w-jp.net/2019/1627/ <br /> ここ数日はちょっと体が重くて瞑想しても微妙な感じでしたので、瞑想中に体のオーラを探ってみました。すると、やっぱりいました。<br /> <br /> まず、アナハタチャクラに爬虫類のカマキリみたいなのが取り憑いていてエネルギーを吸っていたのでイメージ上の腕で片側を持ってゆっくりと引き抜いたらハサミで威嚇されました(汗)引き抜いてポイっと捨てたら随分と気分が楽になりましたね。肩の辺りには顔だけの亡霊っぽいのがくっついていました。おー、怖い怖い・・・。これは、意識したら発見されたのに気付いたらしくて自分から離れていきました。肩が重い感じがなくなりました。首には何やら赤い腫れ物のような、血の充血した塊みたいなのがくっついていました。これは取り除くというよりはエネルギーを当てて治す必要がある部分のようです。頭が硬かったのですが、前頭葉の左側からカラスのような黒い鳥が何十匹もバタバタと音を立てて出てきて飛んでゆきました。頭の上には鳥の巣があって、最初は可愛いペンギンの子供かと思ったのですがガチョウの子供のようで、餌を欲しがっていましたので座っている横に移動させました。右脳には可愛いキタキツネと深海魚っぽい魚と縮尺小さめのクジラがいましたので出てきてもらいました。<br /> <br /> 体の色々なところに動物がいるなんて、古事記とかインドの神話っぽいです。瞑想中のお話ですけどね。<br /> <br /> これで、随分とスッキリしましたね。<br /> <br /> こういうのはイメージでしかないですけど、アストラルの世界は何でもありですので、何か混沌としたエネルギーが具現化して取り外しやすくなったのだ、と解釈しています。きっと、本当にそれ自体が寄生していたのではなくて、エネルギー的なものが溜まったかあるいはどこかから拾ってしまって、それが分かりやすい形でイメージ上で具現化したのだと思っています。エネルギーがその質に応じて具現化するのはよくあることです。誰かの術の可能性もありますけど、おそらくは自然発生的なものかなと。<br /> <br /> そういえば、アナハタ優勢になる前日くらいにも似たようなことをしましたね(該当記事)。以前と同様、プラシーボかもしれないですけどそれで効果があるなら全然OKなのです。この種のセラピーも世の中にはあって効果が出ていますしね。人間には科学的に分からないことも多いのですから、科学で証明された以上のことがあっても不思議ではないのです。<br /> <br /> <br /> Tue, 27 Aug 2019 00:00:00 +0900 2つの喜びの謎 https://w-jp.net/2019/1617/ <br /> 感情の喜びと、感情を超えた喜び。<br /> <br /> 感情の喜びはマニプラに結びついている。<br /> 感情を超えた喜びはアジナに結びつている(と推測)。<br /> <br /> 私の場合は後者はまだです。<br /> 先日のカウンセリングやセミナーで見聞きした内容を踏まえると、アジナへの鍵は「喜び」にありそうです。<br /> <br /> クンダリーニに結びつけると、クンダリーニが覚醒してマニプラ優勢になった頃は、とにかく楽しくてポジティブでした。「熱」という感じです。それは内から湧き出る喜びでした。感情が豊かになりました。<br /> <br /> その後、アナハタ優勢になった今は、マニプラ優勢の時ほど楽しい感情はないですが「暖」という静かな感覚があります。風のような清々しさがあります。清々しさと「暖」は相反するように思うかもしれませんけど、熱感としては「暖」で、感覚としては清々しいので合ってます。清々しいと言うより雑念が少ない、と言った方がわかりが良いかもしれません。<br /> <br /> これからアジナに行く鍵は何かと思って探っていましたが、書物によってはアジナより上は「冷」と結びつけられているので、前は「感情を抑えるのかな・・・?」と思っておりましたが、そうではなく、どうやらアジナ以上への鍵は「喜び」にあるのだとわかってきました。<br /> <br /> マニプラ優勢の時は割と外へと発散する感じでしたが、アナハタ優勢にて少し内側に留まるようになりましたので、この方向性であれば次はもっと内側になるのかなと思います。熱感で言うと外が「熱」であれば中間は「暖」で内は「冷」なのは理にかなっています。オーラの外・内が熱感に対応するとすれば、オーラが内に収まった際のアジナの感覚が「高い波動」「喜び」「満ち溢れる」あたりにある気がしてきました。アナハタ優勢の話と同様に、熱感としては「冷」でも感覚として喜びというのはあり得ると思います。まだ仮定ですけど。<br /> <br /> どうやら「古事記」にもそのあたりの鍵があって、天岩戸の物語はアジナの目覚めを象徴しているのだと先日のセミナーで聞きましたので、なるほどなあ、と思っております。天岩戸は、外の喜びを感じて扉(アジナ)が開く、というお話ですので、天岩戸が開く前は真っ暗で何も見えないのは当然なのだと妙に納得しています。<br /> <br /> <br /> Thu, 22 Aug 2019 00:00:00 +0900 神界の住民と日本人の関係(夢で見たお話) https://w-jp.net/2019/1616/ <br /> いわゆる神界と呼ばれている世界に昔、遊びに行ったことがあります。夢ですけど。<br /> <br /> ■神界の住民と昭和的な日本人<br /> ここが神界か、と思って様子を見たのですが、雰囲気は意外に日本と同じでしたね。昭和的な日本人とでも言いますか。その時に知り合ったおじちゃん・おばちゃんが私の両親として転生したわけですけど。<br /> <br /> 繰り返しますけど、夢ですよ?(笑)<br /> <br /> そこの住民はちょっと頑固だったり、ちょっと人をからかうところなども、まさに日本人(苦笑)<br /> 噂話とか、楽しく過ごすところなども日本人な感じです。<br /> <br /> それより下の餓鬼界とか阿修羅の世界ですと争いや妬みなどが充満しているようですけど、神界になるとそういう低次の欲望は克服されているものの、それでも、他人との軋轢は多少はあるようです。日本の住民の多くは神界出身なのではないかな・・・ と思います。 日本は神の国とか言ったりしますけど、神界と日本は魂の転生で繋がっているようです。<br /> <br /> ですから、神界の住民は天使のような高貴な存在というわけではないようですね。<br /> それよりも、ちょっと頑固な昭和のオヤジ、というイメージが合っています。<br /> 神界にいる女性も日本の元気なおばちゃんみたいな人が多いです。九州の元気なお母ちゃんだったり。みんなパワフルです。<br /> 神界の住民は活力に溢れている気がします。<br /> <br /> ■神界と天使<br /> 天使はまた別のようですね。名前だけで比べますと神界と天使とを結びつけてしまうかもしれませんが、神界と天使は直接的には関係なさそうです。もちろん天使は色々なところに出現しますので神界にもいますけど、神界の住民は日本人ぽい魂が多いのです。<br /> <br /> 50年以上前の私が生まれる前の話ですけど、神界に天使がいるとナヨナヨしている感じを受けるらしくて、ちょっと小馬鹿にされたり、ちょっと疎んじられたりします。その点、日本の社会で天使っぽい人が疎んじられるのと似ている感じがしますね。天使にとって神界や日本はそれほど心地の良い場所ではなさそうです。神界にしても日本にしても、昭和の頑固オヤジっぽい人が人気のようです。今の神界も少しは変わったのかもしれないですけど。<br /> <br /> 今ではそうでもなくなりましたけど、昭和の頃は可愛いものに対してバカにする風潮がありましたよね。ちょうちょとか、妖精とか、花とか、女らしくて美しいのに対する興味は平成とか令和になってから重視されている気がしますけど、昭和の頃はそれよりも元気さ優先だったように思います。昭和の頃は女性の女らしさも男らしさの視点から解釈されていましたが今は女性の視点でそのまま解釈されていますよね。日本の住民と神界の住民とで精神の程度がシンクロしていると言いますか、魂が生まれ変わりによって入れ替わりを繰り返しているのだと思います。<br /> <br /> ですから、天使の住む天使界は別にありますね。アンドロメダな気もしますけど。<br /> 天使界は、地球の進化過程のライン上とはちょっと別な気がするんですよね。<br /> 神界は地球に近い話ですけど、天使界はちょっと離れている気がします。<br /> <br /> ■日本の神々と神界<br /> 神界の中で力をつけて神のように扱われるようになった存在もいれば、もともと大天使から派生して神として扱われる存在とがあるようです。<br /> 神界の生え抜きと天使の神との違い、とでも言いますか。ですので、日本の神々は神界の中でも力のある魂たちとそれぞれ対応しているのが基本ではありますが、日本の神々は必ずしも神界にいるわけではないのです。地上の日本人は「日本の神々」と一括りにしてしまいがちですけれども、神界の神々と天使の神々とで別になっているわけです。<br /> <br /> <br /> これは、夢とは言っても実際には子供の頃の幽体離脱の時に知った内容とその後見た夢で知った内容とを統合しています。<br /> 30年くらい前の話なのでどこからどこまで幽体離脱で知ってどこが夢で知った話かは詳しくは覚えていないのですが、だいたいこのような内容だったと思います。<br /> <br /> <br /> <br /> Wed, 21 Aug 2019 00:00:00 +0900 死んだらどうなるのか? https://w-jp.net/2019/1615/ <br /> 割と色々なところで言われていますけど、死んだらどうなるのでしょうか? というお話です。<br /> <br /> ■死んだらどうなるのか?<br /> 死ぬと魂が体から抜け出ます。<br /> 死んだら無に戻るわけではありません。<br /> <br /> 死ぬことを異常に恐れている人も大勢いらっしゃいますけど、死ぬこと自体はそこまで大変なことでもありません。<br /> 死ぬこと自体よりも、やりたいことを果たせずに死ぬことの方が強いカルマを来世に残すような気が致します。<br /> やり残して途中で死んだり殺されたりしたらその後悔や恨みの念が残ります。そして、それはカルマとして来世にまで引き継がれます。<br /> <br /> 体が死んで魂が抜け出ると、周囲の景色が見えます。そして宙に浮かんで葬式などを眺め、参加している人々が悲しんでいるのかそうでもないのか、何を話しているのかも含めてぷかぷかと浮かびながら観察することになります。よくある臨死体験みたいなものですね。それと同じようになります。<br /> <br /> ですから、自分が男だったとして、妻が夫(自分)の死に対して喜んでいたら夫の魂は「ムキー」ってなるわけです(苦笑)<br /> 逆も同様で、自分が女だったとして、夫が妻(自分)の死に対して悲しんでいないなら夫の愛が本物じゃなかったことに悲しむわけです。<br /> <br /> ですから、死ぬ時まで、そして、死んだ後も結婚相手は好きでいるのが理想ですよね。<br /> そこまでお互いに好き合うのであれば、死んだ後もあの世で一緒に暮らすことになります。<br /> <br /> ■死後の幽界のコミュニティ<br /> あの世の寿命はとても長いので、友人知人や元妻・元夫などの集まるコミュニティは割と巨大になっていくことがあります(苦笑)<br /> <br /> 例えば、元妻が何十人もいたり・・・。それはそれで大勢、ワイワイガヤガヤやって楽しいですけどね。地上みたいにお金の制約もないですし、特に苦労もなく楽しくずっと過ごすことが出来ます。<br /> <br /> 結婚相手が嫌いなら、死ぬと同時にバイバイです。それもまた自由。<br /> <br /> 魂に戻ったらその状態でどこにでも行くことが出来ますけど、基本は友人知人や元妻・元夫など仲が良い人たちがいるところで暮らすことになるのです。<br /> <br /> ちなみに、死んだ時には、ある程度意識が進んだ魂であれば全て心得ていますので移動も自由自在で自分でみんなのいるところまで移動しますが、そこまで目覚めていない魂の場合は誰かが迎えに来ますので迎えにきた人(というか魂)に付いて行って懐かしい人たちと再会します。<br /> <br /> 目覚めの具合にもよりますが、あまり目覚めていないと死んだ後に周囲が見えなくて「真っ暗」で、ほんの少し先までしか見えなかったりします。目覚めの度合いに応じて遠くが見えます。たまに臨死体験で「真っ暗だった」とか言っている方がいらっしゃいますけど、どの程度見えるのかは精神の目覚めのレベル次第かなあ、という気がします。<br /> <br /> 死んだ後、かつての友人知人や元妻・元夫のところに戻るのは嫌だー と思えば、好きにすれば良いです。今生で生きている間に知り合った、気の合う異性とずっと共に過ごしても良いのです。まさに自由です。自由意志次第です。気の合う人たちと一緒にずっと暮らして、また地上に生まれたいと思ったら好きなように生まれ変わります。<br /> <br /> 生前に仮面夫婦を続けていて嫌で嫌でしょうがなかった元夫や元妻と一緒に暮らす必要はありません。<br /> <br /> ■死後の姿<br /> ちなみに、死後の体は自分の好きなように変化できますので、自分が一番美しかった年齢の姿でいることが多いように思います。<br /> ですから、めちゃくちゃ美人さんであればずーっと美人さんの姿のままです。素晴らしい世界。<br /> ちょっとコンプレックスあれば姿を変えるのも自由自在ですけど、割と特徴はそのまま、ということが多い気がします。そうでないと相手が誰なのかよくわからなくなってしまいますし。<br /> <br /> ■精神的な自立が大切<br /> ただし、生前に精神的に従属させられてしまった人の場合は死後もその関係が続く場合があります。<br /> ですから、精神的な自立というのは何よりも大切だと思います。死後まで精神的に従属して強制・操作の関係を続けるなんて嫌ですよね?<br /> <br /> ■幽界から地上を助ける<br /> ちなみに、ある程度のサイキックの力があればあの世から地球の出来事が覗けます。なんとなーく、感じるわけです。何かあれば友人知人や元妻・元夫たちが地上にまで降りてきて、地上に生まれ変わった人の手助けをします。それは、生きている時の手助けも死んだ瞬間(魂が抜け出た時)の手助けも同様です。基本は、友人知人や元妻・元夫たちが助けてくれます。<br /> <br /> 守護霊だけが守っている場合もありますけど、こうして友人知人や元妻・元夫たちが気になって地上の様子を見に来ていることも多いのです。守護霊は地上の生活に疎いこともありますので、地上の生活に詳しいのは友人知人や元妻・元夫の方です。<br /> <br /> 仏教とかで言いますとこのように人間の形が残っている死後の世界は割と低層の世界で、いわゆる幽界なわけですけど、そうは言っても、基本はこのように低い世界である幽界と地上を何度も何度も往復するのが基本なのではないかと思います。そうして、ある程度の浄化と言いますか、ある程度のレッスンを積んでレベルが上がったら更にもう一つ上の類魂のところに戻って、そして再度分霊を作って地上へと降りたり、あるいは、違う世界へとスピリットとして肉体としての体を持たずに生まれ変わったりするようです。<br /> <br /> 仏教では霊の気配があると未浄化霊とか悪霊の扱いをして成仏させようとしますけど、それは無駄だと思います(苦笑)<br /> 成仏というのは何度も何度も何百回も(何千回も?)転生してようやく次の世界へと行くわけですから、そりゃ、幽界に大勢の魂がいて当然なわけです。幽界の魂がいなくなるわけがありません。<br /> <br /> ■守護霊<br /> 守護霊ですけど、割と低い世界である幽界の霊が守護している場合もあるようですけど、それでもかなり修行を積んだ幽界の霊が付いているようです。割合まではわかりませんけど、本当に強力な守護霊は幽界ではなくて霊界のスピリットの方だと思います。人それぞれ、幽界の守護霊がついていたり霊界の守護霊がついていたりするようです。<br /> <br /> 修験道の修行者だったり仏教の行者だったり神道の巫女のような守護霊がついている場合は幽界の中でも上位のクラスの守護霊になりますね。一方、霊界の守護霊ですと地上のことに疎かったりしますけど色々とスピリチュアル的には頼りになります。<br /> <br /> ■生まれる時の計画<br /> どんな人生を送るのか詳しく計画して生まれてくる場合もあれば、なんとなく面白そう、ということで生まれてくる場合もあります。<br /> そして、死ぬ時に残ったカルマを幽体が引き取ります。<br /> ですから、生きている間に苦しい生活はしない方が良いです。それは来世まで引きずりますから。<br /> ということであれば、生まれる時に興味本位だけでなく、きちんと計画した方が良いです。経済的な面だけでも、最低は。<br /> <br /> ■感情や情愛に支配された世界<br /> 幽界はそれほど高い世界ではありませんので、感情や情愛が強い魂が多いです。<br /> 私の属しているコミュニティもその傾向が強くて、みんなワイワイ楽しく暮らしていつも笑っています。<br /> それ以上の世界へとやがては行くわけですけど、幽界のコミュニティであっても十分楽しいところなわけです。<br /> まあ、時には嫉妬とかも出ますけど、基本的にはみんないい人ばかりです。<br /> <br /> ■魂の消滅のお話<br /> それとは別に、ちょっと怖い話をします。<br /> <br /> 地上に生まれている修行者・能力者たちの中には荒っぽい人がいて、空中を幽体の魂が飛んでいると誰それ構わず攻撃して「無」に戻してしまう人がいます。こうなってしまうと魂が根元まで消滅してしまい、生まれ変わりすらできません。まさに文字通り「消滅」です。こんな荒っぽいことはすべきではないと個人的には思うのですが、そのような方が実際いらっしゃるのですから危険性を表明しておくのは無駄ではありません。<br /> <br /> これは地上に体を持って生まれてきている場合は特に心配はいりませんが、体がなくて幽体で地上を彷徨っている時はこのような荒っぽい人に消滅させられてしまう危険性があるということです。ですから、例えば幽体離脱してふらふらとそこらをうろつくのは、実はちょっと危険があるのです。死後に幽体の魂で人の姿をして地上をうろつくのも同様の危険があります。そうそうこんな荒っぽい人はいないですけど、いるにはいるので、運が悪いと遭遇するかもしれません。<br /> <br /> 守護霊として誰かについているのならば攻撃されることはほとんどないようですけど、一人で(1人の魂で)うろついていると未浄化の浮遊霊や悪霊と思われてしまって攻撃される危険性があるということです。消滅してしまうと生まれ変わることが出来ませんので、注意が必要です。知り合いの人生を手助けするなど守護霊的な立場で地上に関わる分にはさほど危険はないと言えます。<br /> <br /> 地上を探検して楽しみたいのならば幽体の霊のままでなくて、生まれてくるのが一番だと思います。三次元の制約はあって色々と大変ではありますけど、この種の「消滅」の危険性はありませんし。何百もの転生の経験が全て無に戻ってしまうと残念という言葉では言い表せないほどの悲劇になってしまいますから。<br /> <br /> <br /> これは私が子供の頃に幽体離脱した際に知ったことを元にしています。<br /> 本当かどうかは保証しません。ただの夢かもしれませんしね。<br /> <br /> <br /> <br /> <br /> Wed, 21 Aug 2019 00:00:00 +0900 私に必要なのは、もっと楽しむこと https://w-jp.net/2019/1614/ <br /> 癒しフェア(東京ビッグサイト)のブースでカウンセリングをいくつか受けました。<br /> <br /> 私に必要なこととして 共通して言えることは、「もっと楽しむこと」だそうです。<br /> <br /> サイキックの方にチャクラも見てもらいましたが、ヴィシュッダまでは活性化しているけれどもアジナとサハスララが淀んでいるとのこと。<br /> <br /> これからアジナに上がっていくためのヒントが「楽しむ」であって、楽しめば頭のてっぺんからポーンと突き抜ける、みたいなことを伺いました。<br /> <br /> こういうのは当たっている時もあれば外れている時もありますので検証が必要ですが、何人かに聞いて共通したお話でしたし、自分でもそれっぽく感じましたので、まあ、当たっているのかなと。確かに、最近はちょっと深刻さが増えていましたので、もっと楽しむことが必要かなと。<br /> <br /> 語弊があるかもしれませんけど、アナハタが優勢になって以降は基本的には元気でポジティブなんですけど、それはあくまでもハートがポカポカとしているとでも言いましょうか。ハートは活性化しても、頭のアジナはちょっとまだ重たいとでも言いましょうか。もともと頭の深刻さがそれなりにあったのです。<br /> <br /> 最初はマニプラ優勢から始まって、その時は「熱」で元気な状態で、次はアナハタ優勢で「暖」で元気でポジティブで、それでもまだアジナはそれほど活性化されていなくて、今後のヒントとしてカウンセリングしてみたらアジナとサハスララのためのポイントが「楽しむ」というキーワードだったのです。<br /> <br /> 以前にも書きましたが、アナハタ優勢になるまでは頭の中の感覚はそれほどなくて、アナハタ優勢以降に頭の中の感覚が出てきましたので以前より頭は随分と活性化されてきてはいるのですが、サイキックの方に見てもらったら、それでもまだアジナとサハスララはそんなに活性化されていないというお話でしたので、妙に納得しました。<br /> <br /> そんなわけで、最近は夢の中で楽しんだり、天使界の物語を思い出したり、宇宙に思いを馳せたり森に行ったりして楽しむよう心がけたいと思っています。まだ足首の骨折が完治していないのであまり遠出はできないですけど。<br /> <br /> <br /> ちなみに、サイキックの方は当たり外れがありますけど、最近は勘でなんとなく良し悪しがわかりますのでそんなにハズレは引きません。以前は色々と試しましたけど。<br /> <br /> ついでにカウンセラーの方に簡単にヒアリングしましたけど、生まれつき素養のある方もいればそうでない方もいて、素養がもともとそれほどなくても学校に通って能力磨いた方が今回は多かったです。サイキック系のスクールの講師をしていらっしゃる方のカウンセリングも受けましたが、それっぽかったですね。<br /> <br /> ■サイキックなカウンセラーとの付き合い方<br /> 基本は、「確かめ」に使うのが良いです。自分の瞑想や夢で見た内容が合っているかどうかの確かめにサイキックなカウンセラーは役に立ちます。ですので、答えが自分の認識と同じかどうか質問してみると良いでしょう。もちろんカウンセラーが間違っていることもありますが、自分が間違っていることもあります。どれが正しくてどれが間違っているのか? 最初は判断が難しいですけれども、カウンセラーというのはサイキックに限らず「確かめ」に使うものだと私は思います。コンサルタントも同じですよね。あくまでも自分が主体で、コンサルタントはその補助なわけです。<br /> <br /> <br /> Tue, 20 Aug 2019 00:00:00 +0900 マリア姫とミカエル <夢で見た天使界の物語> https://w-jp.net/2019/1613/ <br /> その世界では王様と騎士、それにお姫様が王国を治めていました。<br /> 遥かに広がる田園風景。ぽつんぽつんと家があり、そして、城下町があり、お城がありました。<br /> <br /> <br /> <br /> その世界の人は、地球上の人とは違って、より霊体に近い存在でした。<br /> 傷もしばらくすれば治りますし、頭から背筋の部分がコアになっていて、体がほとんどなくなってしまってもコアがある程度残っていれば1週間くらいで復活できるような人たちでした。ですから、意図的に誰かが極限にまで粉々にして破壊してしまわない限り、不死にも近い長い寿命を持っていました。<br /> <br /> 地球の人間から見たら、もしかしたらそれは神々、あるいは、天使のように見えたことでしょう。ここでは、様相および性質の類似からひとまずその生命体を天使としておきますが、キリスト教の天使と同一とは限りません。<br /> <br /> ある城下町に、貴族の天使たちが大勢住んでいました。いわゆる大天使たちです。<br /> 後に貴族や王族になる何人かの天使。そして、城下町や農村には商人や農民たちが住んでいました。<br /> <br /> 貴族の1人は天使の長のような立場で、友人たちはその天使を慕っておりました。仮にその天使をルシファーとしておきましょう。<br /> もう1人、自由な心を持ち、遊び心を持った天使ミカエルがいました。<br /> (キリスト教の聖書の伝説とは関係がないです。夢ですから)<br /> <br /> ルシファーは、日本で言うアマテラスオオミカミのような太陽神に象徴される強力な天使で、その礼儀正しさと秩序を保つ正義感に溢れておりました。イメージとしては徳川家康のような感じです。<br /> <br /> 一方、ミカエルは遊び心を持ち、千里眼の能力を持ち、テレポーテーションの能力を持っていました。<br /> ミカエルはルシファーを始め、他の天使たちと遊ぶのを楽しんでおりました。<br /> 両方とも性別は男性です。<br /> <br /> 皆、大天使の貴族ですので、かなりの高貴な魂を持っており、一人一人がとても住民に尊敬されていました。<br /> ですが、そんな優れた生命体、天使のような存在であっても色々と問題は起こるようです。<br /> <br /> ■ミカエルのいたずら<br /> ある日、ルシファーがミカエルのいたずらに不快感を示しました。<br /> <br /> ミカエルは、遥か昔は千里眼もテレポーテーションの能力も持っていなかったのですが、遥か古代のある日、その能力が開花したのです。そして、その開花した能力で遊んでいたところ、ルシファーがそのいたずらに怒り出したのです。その当時、ルシファーやその他の天使に千里眼やテレポーテーションの能力はなく、それらの能力はミカエルだけのものでした。<br /> <br /> ミカエルは千里眼の能力が現れただけでなく、気分的にも爽快になり、何事をも楽しむようになります。以前よりも遥かに強く深く楽しんだのです。<br /> <br /> ルシファーの友人たちは、ミカエルの変貌ぶりに驚き、理解に苦しみ、やがて、きっとミカエルは悪の心を持ってしまったのだろう、と考えるように至ります。これは実際のところ、誤解ではあるのですが。<br /> ミカエルはただ遊んでいただけですので、そんなルシファーたちの不快感に気付きつつも遊びを続けました。<br /> <br /> 次第に、ミカエルは自分や自分を慕う天使たちと共にとある田園地方に引越しをし、その地方を治め始めます。<br /> ミカエルとルシファーの派閥はそれぞれ分断し、しばらくはその状態で月日が流れました。<br /> <br /> やがて、時々ミカエルとルシファーが接触する度に問題が生じるようになります。<br /> ミカエルの発言を、ルシファーが事あるごとに不快感を示すようになり、戦争の一歩手前にまで事態は進展します。<br /> <br /> ■天使界での戦争勃発<br /> ミカエルは戦争するつもりもありませんでしたが、戦争の火種は住民たちが起こしました。<br /> ある日、ルシファーの農民の軍隊が大挙してミカエルの田園地帯に攻め入ったのです。<br /> <br /> 大天使たちは強大な力を持っており、魔法で戦うことができました。<br /> 一方、農民の軍隊たちは一兵卒として槍や剣で戦いました。<br /> <br /> 最初の戦いは農民の軍隊が衝突し、多くの住民が倒れました。<br /> 霊体に近い存在ですので傷ついても復活できるとは言っても、コアの部分までやられてしまうと復活できません。<br /> ルシファーの軍隊は、ミカエルの農村の住民をコアまで破壊し、復活できない状態にしてしまいます。これが、ミカエルを怒らせました。<br /> <br /> 当初、農民の軍隊の人数は多くなく、せいぜい数百人の軍隊が攻め合う程度でした。<br /> ですので、ミカエルに従う大天使たちが加勢に入って農民の軍隊を助ける、というような状況になったのです。<br /> <br /> ある程度、情勢が決まれば撤退していきました。<br /> <br /> ルシファーの軍隊はテレポーテーションできませんし、千里眼もありませんでしたので、ミカエルは千里眼で敵の進軍を察知し、交戦地帯に数人の大天使と共にテレポーテーションすることで、実際はミカエル側の軍勢はとても少ないのにも関わらずミカエル側は進軍を食い止めていました。<br /> <br /> ミカエルはルシファーに対して怒りはあまり持っておりませんでしたが、住民を復活不可能なまでにコアを破壊する行為は許し難いと思っておりました。<br /> <br /> ミカエルの戦法として、防御を続けて相手が引くまで要所を守るという方法が取られました。前線の敵をテレポーテーションで丘の向こうにまで移動させれば前線の敵の数は減ります。そのうちに敵が諦めてくれるのを待ったわけです。とは言いましても農民兵は数が多かったため、テレポーテーションで敵を遠くにいちいち移動させていてはらちがあきません。そうこうしているうちに、次々にミカエルの農村の住民はコアをやられていくことになります。<br /> <br /> そんな争いを繰り返しているうちにお互いの住民の中に怒りが蓄積されてゆきます。<br /> <br /> 人数の多さに対処しきれなくなり、コアがやられる住民が増えるにつれ、ミカエルはテレポーテーションではなく、住民を宙に浮かせてバラバラに引き裂くことで敵を恐怖させ、撤退させることを選択します。戦局が長引けば長引くほどお互いの犠牲者が増えるばかりです。それよりは、1人の敵をバラバラに引き裂くことで敵を撤退させることができれば、その方が良いと考えました。<br /> <br /> ミカエルの気持ちとしては、こんな戦いは意味がないと思っておりましたが、ルシファーは農民兵がバラバラにされたことを聞いて怒り狂い、ルシファーの周囲の天使たちもミカエルは堕天使になってしまったのだと噂し始めます。ミカエルについてきた天使たちがミカエルの気持ちを本当に正しく理解していたかどうかはよくわかりません。ある程度は理解していたと思いますが、それでも、敵との戦いで気持ちは精一杯だったと言えるでしょう。<br /> <br /> その後、戦いがあっても、農民兵が進軍するとすぐにミカエルがテレポーテーションし、今で言うところの悪魔サタンのような恐ろしい格好をして農民兵を戦わずして退却させていました。「バラバラにしてやるぞ」と脅せば農民兵は退却するだろうと考えたのです。<br /> <br /> これはすぐに効果が現れ、農民兵の戦いはやがてなくなってゆきます。<br /> <br /> 一方で、ミカエルは悪魔として知られるようになります。ミカエルにサタンのイメージが熟成されつつありました。<br /> 実際のところ、ミカエルはそれでもまだ、遊んでいただけでした。やがて遊びも終わって、元の平和な日々に戻るだろうと楽観視していたのです。しかし、そう簡単にはいきませんでした。<br /> <br /> ■マリア姫<br /> その頃、ルシファーの陣営に、とても高貴なお姫様がいました。そのお姫様は、仮にマリアとしておきましょう。<br /> <br /> ミカエルは戦いの最中にも、そのお姫様のマリアがとても気になっており、ある日、千里眼でマリアが部屋に入ったところを見計らってテレポーテーションでマリアに会いに行きました。マリアは突然のミカエルの訪問に驚き、おののきました。ミカエルは、話に来ただけだと言い、マリアの素晴らしさをとうとうと述べ始めます。「その高貴な精神、美しい姿、類稀なる意志の強さ。そなたは私の妻に相応しい・・・」マリアは突然のプロポーズに驚き、回答は保留します。戦時中ですから、敵方に嫁ぐなど考えたこともなかったでしょう。ミカエルが一歩二歩と間合いを詰めると、ミカエルがそのまま自分をさらって行くのかと思って、ドアから逃げようとするマリア。それに気づいたミカエルは、「いや、さらいに来たのではない・・・。話に来ただけだ。わかった。この線からそちらには行かないと約束しよう」と言って、しばらく話をしたい旨を伝えます。<br /> <br /> 実際のところ、マリアにはボーイフレンドがいました。騎士の天使で、アークトゥルスに象徴される勇者の魂を持った男でした。マリアは「私にはボーイフレンドがいます」と伝えました。ミカエルはもちろんそれを知っており、それでも考えておいてくれないかと伝えたのです。マリアは、「考えておきます。しかし、今後、私の部屋には来ないで下さい」と言います。ミカエルはそれに対し、「しかし、他のところでは誰かがいるので私がいることを見られたら厄介なことになる。マリア姫が部屋に入るタイミングで、私が今いるところにテレポーテーションするというお約束はどうだろう」と提案し、了解を得ます。マリアはもう一つ注文を付けます。「千里眼の能力で私の部屋を覗かないで頂けますか?」と言い、それも了承します。<br /> <br /> ミカエルは戦時中、堕天使と見なされておりました。ですので、何もかも他人に強要する悪い天使なのだと誤解されていたのです。その事も理解してもらうために、ミカエルは説明しました。「マリア姫は私のことを誤解しておる。私は自由を重んじている。マリア姫の自由意志に反して結婚を強制したりはしない。マリア姫がアークトゥルスと結婚したいというのならばそれで構わない。全てはマリア姫、お主の意志次第なのだ」と伝えました。<br /> <br /> ミカエルは再度テレポーテーションでその部屋を離れましたが、ミカエルが屋敷の中に直接テレポーテーションしてきたという事実はルシファーの陣営を恐怖させました。<br /> <br /> 実際のところ、ミカエルの力を持ってすればルシファーが油断している時にテレポーテーションして一撃で仕留めることもできたのですが、そのようなことはミカエルはしたくありませんでした。そのまま戦局が治ってくれればと思っていたのです。<br /> <br /> その後、何度かマリア姫の部屋で話がありましたが、マリア姫は返事をせず、やがてはボーイフレンドのアークトゥルスが物陰に隠れてテレポーテーションして来たミカエルを襲うようになりましたのでやがてマリア姫の部屋での対話はなくなりました。<br /> <br /> 戦局は変わり、農民兵は戦わなくなり、天使同士が戦うようになりました。マリア姫の恋人のアークトゥルスとミカエルも戦いました。実際のところミカエルの方が実力は何倍も上だったのですが、もはやミカエルに戦う気は失せていました。<br /> <br /> ルシファーの陣営は士気が高まり、士気というより怒りに近いものに変わってゆきます。<br /> <br /> 戦いだけで言えばミカエルは勝つことができました。しかし、両陣営に多大な被害が出ます。ミカエルはそのようなことをしたくありませんでした。そこで、ある時、マリア姫の恋人のアークトゥルスに捕まることにしたのです。ミカエル側の陣営は驚きました・・・。そのようなことがあるわけがない。<br /> <br /> しかし、それで戦いは終わったのです。<br /> <br /> ■終戦<br /> ミカエルは捕らえられ、ルシファーの前で辱めを受けました。<br /> <br /> 周囲を見渡すと、戦いの功労者であるアークトゥルスの横にマリア姫がいました。ミカエルからしたら屈辱の敗北で、マリア姫もミカエルを一旦は見放した状態でしたが、それでも戦いは終わったのです。ミカエルはそれで良しとしました。ミカエルは反逆者として裁かれました。<br /> <br /> ミカエルの領土はルシファーの領土に併合され、住民たちもそれに従いました。<br /> ミカエルは遠くの丘の上にある牢獄に収容されることになりました。その牢獄にはアークトゥルスが結界を張って逃げられないようにしました。<br /> <br /> 月日は流れ、数年。穏やかな日が戻ってきました。ただミカエルを除いて。<br /> <br /> ミカエルは牢獄でずっと座り、自らの内に眠っている怒りを見つめて瞑想していました。<br /> 流石のミカエルも、この戦いで精神が苦しんでいたのです。<br /> <br /> ミカエルは堕天使として扱われ、時にはサタンとして罵られました。地球上にあるサタンの伝説はこの時のミカエルの評価によるものです。<br /> <br /> ・・・時々、ルシファーやアークトゥルス、マリア姫が見にやってきました。そして、時々ミカエルを罵ったのですが、ミカエルはそれに耐えました。時々、牢獄の結界を破るのではないかと思われるほどの怒りがミカエルから発せられましたが、ある時まで、それは破られることはありませんでした。<br /> <br /> 実際、ミカエルだけでなく、ルシファーやアークトゥルスも友人たちを失って悲しんでいました。<br /> <br /> ある日、アークトゥルスが来て、怒りをミカエルにぶつけました。お前があのような戦いを仕掛けなければ私の友人は死ななかったのだ、と。ミカエルからしてみればルシファーとの誤解がきっかけであり、農民兵の暴走から始まった戦争でしたが、身近な友人を失った悲しみをアークトゥルスはミカエルにぶつけに来たのでしょう。<br /> <br /> 前回はアークトゥルスの怒りを我慢しましたが、2度目は我慢しませんでした。<br /> 時期にしても、終戦からしばらく経っており、もう牢獄の中にいる必要はないとミカエルは自身で判断したのです。<br /> <br /> アークトゥルスが張った結界など、ミカエルにとって脱出は容易でした。<br /> しかし、アークトゥルスは自分がミカエルを実力で破ったと思っており、ミカエルより力が上と思っていますから、とても驚きました。<br /> アークトゥルスは「ミカエルが結界を破れる筈はない・・・」と思い、脱獄者は死刑でしたし、友人たちが亡くなったことでとても怒っていましたので、アークトゥルスの強力な魔法でミカエルを灰にしようとします。 ・・・しかし、その強力な魔法は効きません。これにもアークトゥルスはとても驚き、動揺します。<br /> <br /> ミカエルは言います。「手加減したのだろう? お主は優しい。私が復活できるように、懲らしめるくらいの威力に手加減したのだろう? 構わぬ。私はもう消えて無くなってしまっても良いのだよ。お主の優しい心で手加減などしなくても良い。リミッターを外せ。私が許すのだ。力の限りで私を復活できなくなるくらいまで粉々に吹き飛ばしてはくれないか? 私からのお願いだ。」<br /> <br /> 実際はアークトゥルスはほぼ全開でしたので動揺していますが、「きっとそうだ。気付かぬ内に手を緩めたのだ」と思いました。そして、「わかった」と言い、再度、最大の力の魔法でミカエルを吹き飛ばそうとします・・・。<br /> <br /> 魔法により砂埃が立ち、ミカエルの姿は砂埃に隠れました。きっと吹き飛んだ筈です。魔法が終わり、砂埃が消え、吹き飛んだ筈のミカエルの姿がまだそこにあった時、流石にアークトゥルスは驚きました。しかも、ミカエルは全く防御をしていなかったのです。<br /> <br /> ミカエルとの力の差を見せつけられ、しかも、茶番に付き合わされたアークトゥルスは混乱しました。<br /> <br /> ミカエルがそれに続きます。「クックック・・・。それで終わりか? それではこちらから行くぞ?」<br /> <br /> アークトゥルスは防御しましたが、全く防御が役に立ちません。アークトゥルスの体がどんどんと崩壊して行きます・・・。やがて、アークトゥルスの頭だけが残りました。コアである頭の部分が残っていれば復活ができるのです。もちろん頭まで吹き飛ばすことができましたが、ミカエルは手加減したのです。<br /> <br /> 決着がつき、一部始終を見ていた門番にミカエルが伝言をお願いしました。<br /> <br /> 「戦争は実際のところ私が勝つことができたのだが、犠牲を少なくするためにあえて捕まったのだ。アークトゥルスの首を見ればその真実が理解できよう。<br />  この戦いは何故起きたのか、それが理解できるだろうか? 多くの者たちは私(ミカエル)が戦いを仕掛けたと言うが、私は元々戦うつもりがなかった。戦いは、お主たちの心の中で生まれたのだ。私は、お主たち(ルシファーたち)の行動に対して、なるべく被害がないように対処していただけだ。<br />  私はこれから別世界へと行く。そこは地球という美しい星だ。地球の面倒を見ることに決めた。この天使界はしばらくルシファーに任せる。<br />  何かあったら、私を呼ぶが良い。」<br /> <br /> ■ミカエル、地球へ<br /> そうして、人間の月日で言うと何十億年、何百億年もの遥か昔、天使界からミカエルが銀河を超えて地球にやってきたのです。おそらくは天使たちはアンドロメダ銀河から地球へとやって来ました。<br /> <br /> 実際のところ天使は5次元以上の存在ですので人間的な時間の感覚は薄いので、月日で言うと近代とも言えますし遥か昔とも言えます。それは天使にとって重要ではありません。遥か昔に、このようにしてミカエルがこの地球へとやってきました。<br /> <br /> 天使界では、ミカエルが牢獄から脱獄したことで住民たちがパニックに陥ります。<br /> 捜索をしましたが、天使界には見つかりません。<br /> <br /> もともとミカエルについていた天使たちはミカエルの元に集いました。地球に天使たちが続々と集結することになります。<br /> <br /> 天使界は随分と寂しくなりましたが、それでも大勢の天使たちが天使界で暮らしていました。天使界ではやがてミカエルのことは忘れられ、伝説になって行きます。とは言いましても、天使は長齢ですからルシファーもずっと健在でした。<br /> <br /> しばらく後、天使界に再度、争いの火種ができました。<br /> <br /> 今度は、別の王がルシファーに対立したのです。やがて争いになるのは時間の問題でした。<br /> <br /> 地球の面倒を見て楽しんでいたミカエルは千里眼でそれを察知しました。<br /> そこで、天使界のルシファーに使いを送ることにしました。次のような内容です。<br /> 「ルシファーよ。別の王との間で問題があるようだな。私が問題を解決しよう。それで仲直りとはいかないだろうか」<br /> <br /> 伝言者がルシファーに伝え、ルシファーが同意しました。<br /> そうして、ルシファーとミカエルの謁見が実現したのです。<br /> <br /> ミカエルが謁見の間に現れ、ルシファーに提案します。<br /> 「私が敵の王をここに連れてこよう。それで仲直りと行こうではないか」<br /> <br /> ルシファーは合意します。<br /> <br /> ミカエルは歩いて謁見の間から出て、扉を閉めたらすぐにテレポーテーションし、敵の謁見の間の王の前に片膝をついて跪き、謁見の仕草をしました。<br /> 敵の王は突然の謁見に驚き、いつの間に来たのか気付かなかったので「なんだ、お前は」と問いただしました。<br /> <br /> ミカエルは顔を伏せたまま、「〇〇王でいらっしゃいますか?」と聞き、「そうだ」と回答があるやいなや、「私はミカエルと申します。私とルシファーの元にご同行頂けますでしょうか」と言うとすぐに駆け寄り、敵の王と共にルシファーの元にテレポーテーションしたのでした。<br /> <br /> ミカエルの謁見が終わったばかりのルシファーの謁見室は、諸侯が周囲の柱の近くにたむろして噂話をしておりました。これからどうなるのだろうか、と。<br /> <br /> そんな噂話が終わらぬうちにルシファーの前に敵の王がミカエルと共に差し出されたのですから、ルシファーおよび諸侯の驚きは想像以上で声が出ないほどでした。<br /> <br /> 警備兵が敵の王に気付き、敵の王を捉えようとしたのをミカエルが静止し、敵の王に問いただしました。「再度尋ねる。お主は〇〇王でいらっしゃいますでしょうか?」「いかにも。私は〇〇王だ」。そこでミカエルはルシファーの方を向き、「どうでしょう。〇〇王をここにお連れいたしました。これで仲直りということでよろしいかな?」と聞き、ルシファーの「うむ」という気迫のない返事で仲直りしたのでした。<br /> <br /> ミカエルは一旦そのまま立ち去ろうとしましたが、ルシファーの衛兵が〇〇王を捉えようとしたのを見て、次のように提案しました。<br /> <br /> 「どうかの? これは私からのお願いなのだが・・・。今回はお互いに誤解などあったのだろう。何も武力を使う必要はないではないか。話し合いで解決したら如何だろうか?」と聞き、この理解しがたい状況に呆気に取られていたルシファーと敵の王は「わかった」と同意したのでした。<br /> <br /> ミカエルは謁見の間から離れるために再度歩き出したのですが、ふと、横の遠くの柱の近くにマリア姫と恋人のアークトゥルスがいるのに気が付き、話しかけます。<br /> 「おお。アークトゥルス殿ではないか。心配したぞ。ちゃんと復活できたのだな。手加減して頭を吹き飛ばさずにおいたが、きちんと復活できるか心配しておったぞ。ワハハハハ・・・」<br /> すると、アークトゥルスは自信を失い、俯いたのです。マリア姫はそんなアークトゥルスを見て動揺しました。<br /> <br /> ミカエルはそれを見届けたら、「では、さらばだ!」と叫んでテレポーテーションして去りました。<br /> <br /> 天使界はその後、ルシファーが長らく治めましたが、やがて、ルシファーの権威が落ち、新たな王が望まれるようになってゆきます。<br /> <br /> と言うのも、天使界の住民は遥かに進んだ精神性を持っておりましたので、やがてはミカエルの気持ちを正しく理解するに至ったのでした。元々の争いの原因