スピリチュアル: 瞑想録 https://w-jp.net/topics/スピリチュアル: 瞑想録/ スピリチュアル: 瞑想録 感謝の気持ちが湧き上がってきたりそうでなかったり https://w-jp.net/2022/2606/ <br /> 日によっては瞑想をしても単に平穏な状態が続くだけで感謝の気持ちが自発的に湧き上がってこなかったりします。至福の感謝にはすぐには至らないと言うこともありますので手順を追って体のオーラをチェックしたりオーラを循環させたりマントラを唱えたりします。<br /> <br /> しかし、それでも大して変化がない時もありますので、その時は、執着せずに「そんなものか」と思って平穏なまま瞑想を続けます。<br /> <br /> これら感謝の気持ちにせよエネルギーの高まりにせよ、認知できるものは全てカーラナ次元(コーザル次元、原因体としての次元)あるいはそれより下のアストラルの次元(主に感情)に関するものですので、たとえ感謝の気持ちが湧き起こってきたとしてもそれは一時的な「体験」であると心得るべきだと思います。<br /> <br /> カーラナ次元であればそれはカルマの根源でもあり、分類としてはカーラナ次元より下は「物」として扱われますので、感謝の気持ちと至福が湧き起こってきたとしてもそれはまだ「物質」の世界に関連した体験であるわけです。<br /> <br /> 実際にはそれを超えて、つまりは「物体」の次元を超えて純粋精神の世界であるプルシャの段階へと至ることが次の目標でありますので、一時的な体験としての至福がなくてもそれに執着すべきではないと思うわけです。<br /> <br /> 実際のところ深い感謝の気持ちと至福がないと言うのは比較のお話であって既にそれなりのレベルでの幸せと平穏の気持ちは常に維持できておりますので、ここで言っているのは感深まった状態における深い自発的な感謝と至福のお話なのです。そのように、割と一時的な体験から始まって常時に続く至福と平穏に至るという一時的から平時と言うお話もありますし、それ以前に、そもそも体験として現れて来るものに執着すべきではない、というお話もあります。<br /> <br /> スピリチュアル的に言えば「手放す」と言うことでもあって、至福ですらも手放すことで次の段階である純粋精神の世界(プルシャの世界)に至ることができるのかな、と思います。<br /> <br /> 至福や自発的な感謝の気持ちは一時的なものから平時のものになればそれほど気にならなくなりますし、そもそもそのような気持ちは手に入れようと思って求めるものでもなくて自発的に湧き起こって来るものでありますから、あまり気にしていなくてもベースとなる基本の感謝の気持ちは少しづつ上がってきていて、平穏の状態も一時的な深まりとしての平穏から平時の平穏に変化してきておりますので、至福や平穏も「体験」としての深まりが減ってきたとしてもあまり気にするものでもないように思います。<br /> <br /> スピリチュアル的に言えば「手放して」「次元を上げる」とでも言うのかもしれません。<br /> <br /> そのことが、体験としては「感謝の気持ちが湧き上がってきたりそうでなかったり」と言う感じで現れてきていて、心の動きとしては「ま、いっか」と言う感じで、あまり気にしていない感じではあります。<br /> <br /> ここで一応書いておいたのは、少し前までの記事を読んだ人が「そうか。いつも常に至福の状態でずっと感謝の気持ちを持ち続けている必要があるのか」みたいに勘違いしてしまうと良くないなと思ったからで、確かに感謝の気持ちが自発的に湧き起こってくればそれはそれで好ましいことだったり素敵なことだったりしますけど、至福や感謝の気持ちがそこまででなかったとしてもそれは主観として相対的に、普段の状態と比較してのその時の状態の浮き沈みがどれだけあるかで至福だとか感謝の気持ちが「体験」として現れてくるのであって、普段から常に至福や感謝の気持ちで生きている人がわざわざ「至福です」とか「感謝しています」なんて言わないのと同様に、「至福の状態で生きています」とか「感謝の気持ちを持ち続けています」なんてわざわざ言う必要がなくて、そのように思うのであればそれは特別な一時的な「体験」でしかなかったりしますので、まあ、至福だとか感謝だとか、大切は大切ではありますけど、あまり気にしない方がいいと思います。<br /> <br /> あまり気にしていなくても、瞑想やヨーガなどを続けていけばベースとなる感謝や至福の気持ちは少しづつ上がっていくのが普通だと思います。<br /> <br /> Sun, 23 Jan 2022 00:00:00 +0900 プルシャの世界へと入るのが次の目標 https://w-jp.net/2022/2605/ <br /> 私はまだおそらく未体験ですけど、最近になってようやくプルシャの世界というものがどのようなものなのか理解できるようになってきました。今までは雲を掴むようでぼんやりと捉えていたのですが、階梯の中でプルシャの段階がどのようなものか理解できたことにより次は何をしなくてはならないのかがはっきりしたように思います。<br /> <br /> プルシャの段階は、サンキャ哲学においては単に純粋精神として説明されているもので、それはプラクリティ(物質)と対になっている概念で、純粋精神のプルシャと物体のプラクリティが合わさって世界が構成されているわけです。<br /> <br /> 一方、本山博先生の言うところのプルシャは単なる説明ではなくて悟りへと至る階梯の一つとして説明されていて、プルシャよりも上の段階もあるのですけど、一応、このプルシャの段階をもってして「悟り」と定義されているようです。<br /> <br /> そのプルシャの段階においてはそれ以前とは違って「物」から脱した状態であり、プルシャすなわち純粋精神が働く段階ということのようです。そのことで、それ以前のカーラナの段階においてはまだカルマに左右されていたものがプルシャの段階に至ると物そしてカルマから解放され、純粋精神としてのプルシャとして動き出す、ということのようなのです。<br /> <br /> その段階に至るためには何よりもそれ以前の段階を否定しなくてはならず、アストラル的な感情面、カーラナ的な知的面そして光および至福の性質をも否定して初めてプルシャの純粋精神に至ることができるようです。<br /> <br /> であれば、私がするべきことはこのままカーラナの至福をも超えてプルシャの純粋精神に至るというところである、と理解できます。<br /> <br /> その、カーラナの至福すらも超えるからこそそれを「解脱」と呼んで、特別なことであると称されているのだと思います。<br /> <br /> 本山博先生の説明によりますと、ヨーガのサンキャ哲学においてはプラクリティ(物)はプルシャ(純粋精神)によって「観照」される、と言うことで、その一方で、本山博先生が説明するには本来はそれだけではなく、もう一歩進んで、観照だけでなく「働きかける」という動きがあると言います。<br /> <br /> プルシャ(純粋な精神)がプラクリティの中に入っていって、それに即して働くことによって(中略)だんだんに目覚まし活性化して、(中略)次第に物が創造される。「本山博 著作集8」<br /> <br /> そして、そのプルシャの世界に入るためにはそれ以前の段階、アストラルやカラーナの段階をいわば「否定」して次の段階に進まなければならない、と言います。否定とは言いますけど言葉を拡大的に解釈するならばそれは超克あるいは超越する、ということなのかなと思っております。<br /> <br /> 私はまだプルシャの段階にはないですけど、次の段階は私はこのあたりが課題になるかな、と思っております。<br /> <br /> <br /> Sat, 22 Jan 2022 00:00:00 +0900 私が転生する前に導師が言っていたこと https://w-jp.net/2022/2604/ <br /> 私自身はグループソウルから分離した後に2回しか転生していない割と若い霊といえばそうなのですけどグループソウル由来の記憶は色々なものがあり、私のコアになっている魂の一部のラインのとある前世においては霊能力のことで悩みがあったようです。<br /> <br /> そのラインの前世ではそれなりに霊能力を持っていて、悪霊を霊視して避けて歩いたり包帯のようなものでグルグル巻きにして退治したり、予知能力も使って生活の糧には困らなかったり、割とやりたい放題でした。<br /> <br /> しかし、グループソウルに戻る前の数回の転生では割と疲れてきており、見えすぎるが故に魑魅魍魎がたむろしているこの世界を生き抜くことが大変な状況にありました。<br /> <br /> それは、今から思えばいわゆるアストラル次元の感情などを扱う霊能力者だったのであって、それより上の、カラーナやプルシャの次元に超えられていないが故に苦しんでいたように思います。<br /> <br /> そもそも私の過去の魂の経歴からすると元々は神霊に近い存在で、かなり昔のラインの人生の記憶を辿ると今のようにカラーナの次元あるいはもっと高い次元の意識で生きていて、意識が多次元にわたって広がっている状態が元になっていたように思います。しかしながら、転生を重ねるうちに波動が落ちてきて次第に神霊としてのプルシャの意識からカラーナ次元に落ち、やがてはそれよりも落ちてアストラルの感情的な次元に落ちて、アストラルの次元というのは悪霊とか幽霊とかが住んでいる世界ですから、日常生活においてそのような変な妖怪や魔界のような風景を見て暮らしていたわけですから、疲れてしまうのも仕方がないと言えます。<br /> <br /> そのように疲れていた私ですけれども、一旦はグループソウルに戻って、また分霊を作って、その分霊は元の私とは少し違っていたわけですけれどもそれなりに課題は継承していて、そんな私に霊の導師が言ってきたことがあります。<br /> <br /> その導師が言うには、霊的能力をなくしてしまって感情や悪霊あるいは変な意識体を避けずに全てを受け入れることで克服することができる、とのこと。具体的には特殊な霊界のマントをつけて転生すればよくて、昔はこのマントを使って強制的に霊能力をゼロにして転生することで修行していた人が大勢いた。今はほとんど使われてはいないが、使ってみないか? 良い修行になる筈だ、と言うのです。<br /> <br /> マントには特殊な封印の機能が備わっていて、特殊なマントラを唱えるかあるいは誰かがビリビリに破れば元に戻るようなので、まず試しにまとってみたところ、周囲の霊的な存在、魑魅魍魎や普通の霊も含めて全く見えなくなり、まるで盲目で生きているかのようで恐怖を覚えたのでした。そして教えられていたマントラを唱えたら封印が解けてマントが外れたのですけど、あまりにも動揺した私に向かって導師が言ったのでした。<br /> <br /> きちんとは覚えていないのですが、たしかこのようなことだったと思います。<br /> <br /> 感情的なこと、霊的なこと、魑魅魍魎、悪霊、それら全てを受け入れ、生きているうちにそれらが近寄ってきて何をしたとしても全ては大自然の一部なのだと理解すること。これは全て修行なのだよ。このマントをまとって生きるともはや悪霊を避けることもできないが、悪霊と時に対峙することで貴方は鍛えられる。しかも、その意味もわからず貴方は苦しむことになる。しかし、既に貴方は悪霊が大勢いるこの世界で苦しんでいて、それを克服したいと思っているのでないのかね? このマントは貴方の修行の助けにもなるし、一方で、貴方の体とオーラを守る盾にもなるので、苦しみにより遭遇する機会が増える一方で、貴方はマントによって守られているのでそこまで心配はいらないのだ。このような荒業をすることで貴方は苦しむだろうが、その分、早く成長することができるようになる。この修行によって、感情的な世界から抜け出し、神の世界へと戻る手がかりを得ることができるだろう。<br /> <br /> たしか、こんな話だったように思います。その時の私は、このまま魑魅魍魎の世界にひっそりと隅で生きるよりはそれらと対峙して悪霊にも影響されない自分を作りたい、と願ったように思います。実際、かなり今世は大変でたぶん1000回くらいは自殺したいと思ったような辛い子供時代ではありましたけど何とか切り抜けて生き延びることができ、今に至っています。<br /> <br /> 今から思えば、最近まで、能力的なものを否定できておらず、能力に頼っていたように思います。それが、マントによって強制的に能力を無くした状態になることで能力を否定して次の段階へと進むことができるように思います。<br /> <br /> プラクリティから、つまり物の世界から純粋精神の世界へ飛躍するには、必ず、物の世界に属していた性格、あるいはその力、能力というようなものがすべて脱落をするというか、いったんは消えてしまわないと、純粋精神の世界には入れない。しかしそれらを否定するということは、そう簡単にはできない。死んでも生きても一切を神に任せるというような、自分のあらゆる放擲、自分を捨ててしまうということが徹底しないと、プルシャの世界にはなかなか入り込めないのです。「本山博 著作集8」<br /> <br /> プラクリティとは物のことで、純粋世界というのはプルシャのことでカラーナの次元の次にある神霊にやや近い個人としての段階になります。そのプルシャの段階の前であるアストラルおよびカラーナの次元までは物としての性質が強く働いていて、特にアストラルにおいては霊との関わり合いがあって魑魅魍魎が大勢いて、一方でカラーナは光っていて知的で至福ではありますけどそれすらも否定していかなければ神の世界へと辿りつくことはできない、ということだと思います。<br /> <br /> 私はまだそこまでのレベルではないですけど、方向性として、ヨーガ・スートラにおいても「能力が出てきても能力に執着してはいけない」みたいなことが言われていたように思いますので同様の方向性であると理解できます。<br /> <br /> 私の場合は割と生まれる前の計画でマントをまとって生まれてきたわけですけど、たぶん能力があると能力に頼って楽に生きようとしてしまっていたかもしれず、それは、ある程度の段階に達した後であればそれでもいいとは思いますが最初は努力をすべきなのかなと思います。<br /> <br /> 導師はそれほど多くを語ってはくれなかったですけど、割とライオンの子供を千尋の谷に突き落とすようなことをしてくれて、今から思えばなかなかスパルタだったように思います。<br /> <br /> ですけど、そのおかげで、今まで霊能力、特にアストラルの次元の能力に頼って生きていた自分を否定することができてより高い段階へと進むことができたように思います。<br /> <br /> それは、生きるも死ぬも神様にお任せ、と言う気持ちで決めたようにも思います。<br /> <br /> いわば、今世を始める前にある種の覚悟を持って生まれたわけで、既に死ぬ用意ができている、とも言えると思います。大体の山場は超えたように思いますので、今のところ割とその決断は成功だったように思います。<br /> <br /> Sat, 22 Jan 2022 00:00:00 +0900 カーラナ次元の霊との一致 https://w-jp.net/2022/2603/ <br /> 本山博先生の分類に基づきますと、私の「6次元のハイヤーセルフと繋がった状態」はカーラナ次元に相当するようです。<br /> <br /> カーラナ次元の霊との一致の時には、感覚的なものや感情的なものではなくて、光に満ちて至福のような状態になる。だから初めのうちは、これは神様と一つになったのだというふうに感じられる。しかしこれはやはりまだ神様の世界ではない。一種の恍惚的な至福をもたらすが(中略)、まだ、神様の世界ではないのです。(中略)そういうカラーナ次元の、非常に知的な次元の存在と一つになって至福の状態、恍惚としたような状態になっても、やはりそれに落ちてはいけない。やはり、それから出てそれを超えていかないといけないのです。「本山博 著作集5」<br /> <br /> 本山博先生の分類に基づきますと、以下の順番になります。<br /> <br /> ・肉体<br /> ・アストラル次元(主に感情、アストラルとしてのチャクラがある。匂い、色、形、音、感情としての幸福)<br /> ・カラーナ次元(コーザル次元、知的、原因、カルマ、カラーナとしてのチャクラがある。透明、光、思考、理念、至福)<br /> ・プルシャ(本山博先生の言うプルシャとヨーガ一般のプルシャは少し異なるようです)<br /> ・創造神(神様)<br /> <br /> ヨーガ的にはプルシャとは純粋精神でありサンキャ哲学としてのプルシャですけど、本山博先生はプルシャを一つの段階として位置付けていて、具体的には、純粋精神としての性質が魂の働きとして出てくる段階として位置付けているようです。それにより、プルシャが願えば現実が動く、という効果が現れることになります。<br /> <br /> それと、先生の著作でたしかカラーナ次元の一致(三昧)が起こるかプルシャの一致(三昧)が起こるかは人それぞれ、みたいなお話を読んだように思います。<br /> <br /> (略)...によって、カラーナの次元の存在と接触一致するか、或いは個人のカルマを超えたプルシャの次元の存在と接触、一致するかが定まる。「本山博 著作集8」<br /> <br /> これは今からすると納得できて、そもそも、これらは一応は分類されているものの、そこまで切り離せるものでもないと思うのです。結局、重なっているので、アストラルの次元まではアストラルが強く働いているけれども、カラーナの次元から先になるとカラーナとプルシャとがそれなりに重なっているように思うのです。この部分は先生の言うことではなくて私の解釈でありますけど、カラーナとプルシャの入り混じったハイヤーセルフが繋がってきて、分類として、あるいは、優勢な段階としてカラーナの特徴が出ているように思うのです。結局はカラーナもプルシャもどちらも同時に存在するものですから、必ずしもカラーナだけ、あるいは、プルシャだけ、とはならないように思うのです。<br /> <br /> そして、最初はどちらも重なってはいるもののカラーナとしての特徴が先にでて、やがてはプルシャの特徴が出るように思うのです。<br /> <br /> と、言いますのも、私が子供の頃に幽体離脱した時の記憶で言いますと、私にこのハイヤーセルフとしての自分のオーラをくっつけたときに、カラーナとプルシャとを区別していなかったように思うのです。ただ、3分の1くらいを先にくっつけて活性化させて、オーラを定着させようとしたようです。私の今の段階はここになります。その後、残りのオーラを注ぎ込んで更に覚醒させて多次元の目を開く段階が将来にある筈ですけど、その時に、カラーナとプルシャとかを分けてはいなかったように思うのです。あえて分けるのだとしたら最初に定着させるためにオーラを分けただけであり、元のオーラは同じものなわけです。同じオーラを分けて最初に注ぎ込んで、その結果としてカラーナのような特徴が出て、おそらくはもう少し将来に残りのオーラを注ぎ込むことでプルシャとしての意識の覚醒をして多次元の目を開くように思います。<br /> <br /> まあ、未来のことですので本当にそうなるのかはまだわかりませんけど、少なくとも今のところはカラーナとしての特徴が優勢に出ている状態と解釈して良さそうに思います。<br /> <br /> Sat, 22 Jan 2022 00:00:00 +0900 至福の感謝にはすぐには至らない https://w-jp.net/2022/2602/ <br /> 道徳での感謝から始まり、至福の感謝に至るのだと思います。<br /> 最初は単に感謝の仕草を教えられて、やがては感謝というものを知るのだと思います。<br /> <br /> 一般的な教養や道徳あるいは顕教の仏教などで教えられる割と常識みたいなものとしての感謝のお話と本当の感謝との間の線が見えなくなっていて、それはまるで人類の歴史で猿から人間へと至る進化の道がわからなくなっているミッシング・リンクのようなもので、道徳における感謝と本当の感謝の間の道が見えなくなっていてミッシング・リンクになっていると思われるのです。<br /> <br /> その一方で、密教やスピリチュアルの視点からその間の説明が可能のように思います。最初と最後は変わらず感謝であるわけですけれども、その間は、スピリチュアルの説明によって結ぶことができるように思います。<br /> <br /> 最初:(道徳における)感謝<br />  ↓<br /> ミッシング・リンク<br />  ↓<br /> 最後:(自発的な)(至福の)感謝<br /> <br /> スピリチュアル的な階梯は以下のようになるように思います。<br /> <br /> ・(道徳における)感謝 → ヨーガ的にはヨーガ・スートラのヤマ・ニヤマ、あるいは仏教の顕教の教えの一部に相当。頭での理解、するべきこと、するべきではないこと、の理解と実践。<br />  ↓<br /> ・健康的な生活。食事、習慣、生活環境を見直すことによる(ヨーガで言うところの)プラーナを増やして元気になる段階。<br />  ↓<br /> ・精神統一における瞑想。いわゆるゾーン。歓喜の状態。思考の浄化、雑念の減少<br />  ↓<br /> ・クンダリーニの覚醒、チャクラの活性化(下から順番に)<br />  ↓<br /> ・クンダリーニがサハスララに満ち、静寂の境地に至る<br />  ↓<br /> ・アナハタ(胸)の後ろからハイヤーセルフと繋がる。<br />  ↓<br /> ・クンダリーニがサハスララに到達しやすくなる。<br />  ↓<br /> ・ハイヤーセルフとクンダリーニがアジナとサハスララ及びアナハタまでをも含んで一体になり、至福に至る。光に包まれている感じになる。<br />  ↓<br /> ・ハートでただ「ありがたい」と言う自発的な感謝の気持ちが沸き起こってくるようになる。<br /> <br /> その日の状態に応じて少し前から段階を踏むわけですけれども、日によっては座ってすぐに「ありがたい」と言う感謝の気持ちが自然に湧き出てくることもあれば、ちょっと体のどこかのエネルギールート(ヨーガで言うところのナディ)が詰まっていて筋肉痛あるいは肩こりみたいになっているためにそのエネルギーのよどみを先に解消しなければならない時もあります。<br /> <br /> 段階を踏むにしても以前よりも遥かに短い時間でステップを踏むことができて、少し前まではもう1つ前のステップ止まりだったわけですけれども最近は感謝の気持ちの段階まで進むことができているわけです。そもそもこの感謝の段階に至らないとその段階があることすらわからなかったわけで、到達して初めてこの感謝の段階があることが認知できたわけですけれども、ここが最終地点なのか、それとも次のステップがあるのかすら今のところよくわからなくて、とは言いましてもここが最終地点のわけがありませんし、過去生の記憶を辿るともう少し色々と細々としたことがありそうな感じですので、この瞑想を更に進めてみたいと思います。<br /> <br /> こうして文章に書くと割とあっさりしていますけどそれぞれの段階で色々とあったように思います。<br /> <br /> Sat, 22 Jan 2022 00:00:00 +0900 感謝の気持ちは涙と繋がっている https://w-jp.net/2022/2601/ <br /> 「あぁ、ありがたい」と思うと涙が滲み出てきます。<br /> <br /> 特に理由もなく、ただ涙が出てきます。<br /> <br /> よく、この種のお話で「理由」とかを持ち出す人がいますけど、感謝に「理由はいらない」と思うのです。<br /> <br /> 理由を聞かれるからその時の状況を語っているだけで、根源をいうながら感謝に理由などないのです。<br /> <br /> 本当に理由を言うのならばスピリチュアルを持ち出さざるを得なくて、それはヴェーダンタの言うところの「Sat Cit Ananda サット・チット・アーナンダ」、Sat=存在、Cit=意識、Ananda=満ちているから至福、と言うところが強いて言えば理由になります。<br /> <br /> 強いて言うのであれば、意識としての存在が自分あるいは周囲の空間に満ちているから至福になって、至福に満たされているから感謝の気持ちが出てきて、それと同時に涙も出てくるのです。<br /> <br /> ただ感謝だから涙が出る、と言うのは言葉足らずで、満ちているから至福が溢れていて感謝の気持ちが沸き起こっていてそれ故に涙が出てくるような状態なわけです。<br /> <br /> そのことを比喩的に言うならば「あぁ、ありがたい」と言うことになって、それと同時に涙も出てくるわけです。<br /> <br /> 単に「ありがとう」と言って涙を流すと言うだけでは言葉足らずになってしまうわけですけれども、満たされているからこそ涙が出て感謝の気持ちが自然に湧き上がってくる状態がヴェーダンタの言うところの「Sat Cit Ananda サット・チット・アーナンダ」なわけです。<br /> <br /> この種のお話は割とヨーガの哲学として語られることが多くて、割と実践と切り離された理論的なお話として語られることが多いように思いますけれども、実際の実践と深く結びついたお話なのかなと思います。<br /> <br /> あるいは同様のことがヨーガの神秘的な雲の上のお話として非現実的な空想のように伝説的に語られる語られることも時々ありますけれども、この種のお話は現実から離れた空想上のお話ではなくて、かなり現実的な、本質に近い、本当に実在する事柄なわけです。<br /> <br /> 言葉で言い表すならばそのようにサット・チット・アーナンダになったりするわけですけれども、そう言われて説明しても「ふうん」とスルーしてしまいがちだったりしますけど、それよりも、日本人にとっては感謝が身近にありますから、そのような理屈っぽいお話よりも、ただ「ありがたい」と思って涙が出る、みたいなお話の方がより直感的に理解できるわけです。<br /> <br /> 実際にはこれらのお話は同じことを言っているわけですけれども表現方法が違うと全く別物のように感じられて、しかしながら実のところ同じなわけです。<br /> <br /> 説明するとそのような言い方もできますけど、それよりは、直接的に満たされて「あぁ、ありがたい」と感深まって涙が出る、と、そのようなものが感謝であると思うのです。<br /> <br /> それは特に理由なくそのように感謝することができて、その根源の理由をあえて言うのであればサット・チット・アーナンダであり、存在・意識が満たされているから至福、と言うことになるわけです。<br /> <br /> このような意識というのは普段の生活で感じられるならばそれは良いですけど、技能的に行うのであれば瞑想、ということになります。座った瞑想で感謝を感じて涙が出るくらいの至福を味わうことで自らの存在が少しづつ高みへと近づいてゆくのを感じることができます。<br /> <br /> Fri, 21 Jan 2022 00:00:00 +0900 ありがとうございます、と、ただ感謝を伝える瞑想 https://w-jp.net/2022/2600/ <br /> 誰に対してというわけでもなく、強いていえば地域、今住んでいる都市に対して感謝をする瞑想をします。<br /> <br /> まずは自分自身に対して。そして、何か思い入れのある人に対して感謝をします。例えば妻とか、母とか、お世話になった人に感謝をします。<br /> <br /> この感謝の気持ちというのはエネルギーの上昇を引き起こします。<br /> <br /> 瞑想をする上で基本は座って眉間に集中してオームあるいは個人のマントラを唱えるという手法はありますけど、それの代わりに何かを思い描いて、あるいは、特に思い描かなくても胸のハートなどを意識しながら「ありがとうございます」と感謝を伝えます。<br /> <br /> 言葉は自分がしっくりくるものを選べばよくて、「ありがたい」とか「感謝」とか「ありがとうございます」とか、自然に湧き上がってくる言葉を使えば良いと思います。<br /> <br /> ただ、私のガイドが示唆してくれたことによると、まだそれほど自分の感情が浄化し切れていない状態の時はこのような一般的な言葉を使ってしまうとトラウマとそのような一般的な言葉とがイメージで結びついてしまい、必ずしもそうなるとは限らないようなのですけど、そのように結びついてしまうと一般的な感謝の言葉を聞くとトラウマを想起してしまうような状態になりますので、瞑想を始めてまだ日が浅い場合は一般的な感謝の言葉ではなくオームとか誰かから教えてもらった自分のマントラを使うのが良いようです。<br /> <br /> ただ、そうは言いましても日本の場合は習慣として日常生活やビジネスにおいて感謝の気持ちを伝えるということが一般的になっていて、そのような日常生活を送っているだけでも割とこのような瞑想と同じ効果が出てくるとのことです。<br /> <br /> そのように、日本の文化というものは本来はもの凄い効果を持っていて、日本の文化圏で生きていて日本の商文化でビジネスや商売をしているだけで精神が浄化されて悟りへと近づくという素地があるようです。<br /> <br /> 瞑想においては座ってあぐらをかいて目を瞑ってマントラの代わりに感謝の言葉を心の中で思い浮かべるわけですけれども、マントラを唱えるだけでも身体中にエネルギーが沸き起こってくるのですけど、感謝の言葉を唱えるとマントラ以上にエネルギーが身体中に満たされてくるのを感じます。<br /> <br /> 上記のように一般的な感謝の言葉とトラウマが結びついてしまう危険性はありますけど、そこまでトラウマがない一般の人の場合は特に気にせずに直接的に感謝の気持ちを伝えるだけでいいようにも思います。<br /> <br /> そうなれば、いわゆる顕教の言っている一般的な道徳で悟ることができるというお話もあながち間違いではなくて、ただ感謝を伝えているだけで悟ることができるというのもあるのかな、と思います。<br /> <br /> 個人的にはそれだけでなく密教やそれ以外の道(ヴェーダンタやゾクチェン、神智学、スピリチュアル)なども有用だとは思いますけど、いろいろな道がありますから、道徳的な生活と感謝で悟るという人も大勢いるように思います。<br /> <br /> 身近なお話で例を言いますと、特に修行とかをしていなくても、(結婚した女性の)妻が満たされていて毎日を感謝の気持ちで暮らしているとやがては悟る、ということは割とあるように思います。女性の場合、まず男性に愛されることで満たされて、何度も夜の生活でスワディスタナ・チャクラなどが活性化され、やがてはマニプラ・チャクラが目覚めて「情」に満たされ、そうしているうちに日常生活の「感謝」を通じてアナハタ・チャクラに至り、悟りに近づく、と言う道を辿るように思います。<br /> <br /> これは私とあの世の霊界で一緒にずっとコミュニティを作って生活している人たちを観察してもそう思えて、私の過去生の妻あるいは仲の良かった友人あるいは近所の仲の良かった人などで構成されているコミュニティがあるのですけど、私の過去生の妻が、最初は割と普通の可愛い女らしい女性だったのですけど、次第にオーラに満ち溢れるようになって何かを悟った感じになってあの世で至福の微笑ましい表情を浮かべながら生活(というほど動きはないのですけど)している、ということがあります。<br /> <br /> 他の女性も、これまた別の人生での私の妻だった人ですけど、生きているうちに既に満たされて微笑ましかったわけですけれども、あの世のコミュニティで皆が笑顔で微笑ましく暮らしていたらもうそれで満足で幸せだと思うようになって、次第に悟りに明らかに近づいている、と思えるような人(過去性の妻の一人)もいます。<br /> <br /> あるいは、もともと貴族の通い婚の時代(平安時代かな)に仲良くなった女性たちは元々そのように微笑ましくて十分に満たされていて最初から何も不満も知らずにずっと満たされていて嫉妬もなく皮肉とかいうこともなく全てがポジティブで笑い方も「おほほほほ」という感じで至福に包まれています。そのように、特に修行していなくても満たされるだけで悟ることができるのかなと思います。<br /> <br /> 元々悟っているかのような至福の女性がいる一方で、割と最近では一般的な元気な女性もコミュニティにはいたりします。そのように、割と昔の時代の平穏な時代の静かな女性と、割と最近の元気な女性とが入り混じっていて、割と最近はみんなが一緒になって楽しく笑い合って暮らしているような状況で、とても微笑ましいです。そのようなコミュニティで、特に修行をするわけでもないですけれども、笑顔で暮らしているだけで次第に悟りに近づいている人が増えていっているように思います。<br /> <br /> それはそれとして、修行する道、と言うのもあるとは思いますけど、修行というのは割と男性のもので、女性の場合はそれほど修行とかしなくても「感謝」をしながら日本で道徳的に普通に生きているだけで割と悟れるようにも思います。<br /> <br /> もちろん男性も感謝による悟りの道というものがあって、基本は男女共に変わりがないように思いますけど、人や環境によってやりやすさ、というのはあると思います。<br /> <br /> Fri, 21 Jan 2022 00:00:00 +0900 感謝を伝えていたら、東京に巣を張っていた巨大な虫の蛹が消え失せた https://w-jp.net/2022/2599/ <br /> ハートでただ「ありがたい」と思う瞑想をしていました。<br /> <br /> その気持ちは最初は自分自身の自発的な気持ちから始まり、やがては周囲に対する感謝、身近な人に対する感謝へと変わってゆきました。<br /> <br /> その感謝の範囲が、個人的なものから、身近な環境、身近な人、そしては地域的なものへと広がっていっているように思います。<br /> <br /> これはおそらく、本当にその地域の全てを浄化したということではなく、私自身の中の認知上の何かの障害を取り除いた、ということなのかな、と解釈しておりますが、その、私の認知上における東京に巣食っていた、蛹のような繭を作っていた巨大な虫の巣が突然消え失せて、蛹が瞬時になくなって、巣の痕だけが残った状態になりました。<br /> <br /> 最初は、単にハートで「ありがたい」という瞑想をしていて、過去生の妻だとか未来の妻になるかもしれない人、あるいは母などに感謝を伝えていたわけですけれども、やがて、その感謝の対象は自然と今住んでいる地域、ここは東京ですけれども東京そのものへと変わってきたわけです。<br /> <br /> そうして東京を見渡して東京に対して感謝を伝えていると、東京の、目黒か高田馬場あたりかと思いますが、そのあたりのイメージと共に、何やら巨大な繭があって、東京からエネルギーを吸い取っているように思えたのです。<br /> <br /> 特にそれを退治しようとかそのような気持ちは起こっておらず、ただ単に、「なんだこれ」と少し思いつつ、変わらずその瞑想、つまりは「感謝」「ありがたい」の瞑想をただ続けていたわけです。<br /> <br /> 何やら変な繭みたいな虫の巣があって、本来ならば気持ち悪いものなのかなとは思いますけどそれほど気持ち悪さは感じなくて、割とニュートラルな感じで、この繭は一体なんだろうな・・・ と思いつつ「感謝」「ありがたい」を繰り返していたら、ふと、急にその繭が半透明になって消えていったのです。<br /> <br /> そうして残されたのは繭の糸だけが少し残された、巣の痕みたいなものだけだったのですけど、その状態になったら急に体の緊張のようなものがスッと更に抜けて、意識のざわつきも一段減って、更に静寂の境地が深まったように思います。<br /> <br /> この種のイメージはおそらくは本当の東京の姿というよりは私の中にある認知としての何かがイメージとして現れていたのであって、本当の東京の何かを解決したのではないのかな、と今のところ解釈していますけど、実のところ本当に何かを解決していたのだとしたらそれはそれで望ましいことですので、本当はそうであっても良いのですけど、少なくとも今のところは確証もありませんので本当の東京というよりは自分自身の中の認知において何かの解決に至ったのかな、と思っております。<br /> <br /> Wed, 19 Jan 2022 00:00:00 +0900 私が悟るには何が足りないのか https://w-jp.net/2022/2598/ <br /> そのような疑問を心の中で投げかけるとすぐに「感謝だ」と答えが返ってきました。<br /> <br /> ここ最近は、瞑想を始めるとすぐに感謝の気持ちが湧き上がってきます。「ありがたい、ありがたい」を何度も繰り返すような気持ちにすぐなります。<br /> <br /> 瞑想を終わった後も割とそのような感覚が続くのですけど、どうやら、感謝の気持ちがまだ足りない、ということのようです。<br /> <br /> 感覚的には1万回でも感謝をすればいい、みたいな答えをもらったような気が致します。<br /> <br /> ですけど、修行の回数としては1万回なんてとても少なくて、人や加行の種類によっては10万回とか100万回なんてのもざらですので、たった1万回でいいの? という感じではありますけど。<br /> <br /> 瞑想を始めてすぐに感謝の気持ちが湧き上がってきて、特に意図せずに「ありがたい」「ありがたい」という感じになりますので、あまり回数を気にせずにその瞑想を今は続けています。<br /> <br /> 満たされている、心地よい、感謝している。そのような気持ちになります。<br /> <br /> 瞑想の座った姿勢で手は前の下の方で合わせているわけですけれども、心の中では手のひらを胸の前で合わせて感謝をしています。<br /> <br /> 「ありがたい、ありがたい」「感謝、感謝」<br /> <br /> そのような言葉を心の中で繰り返します。<br /> <br /> 自然にそのような気持ちが湧き出てきて、心の中の声と同調します。何も違和感がありません。自然に感謝が湧き出てきます。<br /> <br /> 今まで関わってきた全ての人たちに対して感謝をします。<br /> <br /> 心の中に、特に関わり合いの深かった人たちが現れてきて、心の中で感謝を伝えます。<br /> <br /> 特に、過去性からの繋がりであの世でずっと一緒に暮らしているコミュニティにいる、私の過去性で妻だった大勢の過去妻たちに特別の感謝を伝えます。一緒にいてくれてありがとう、という気持ちを伝えます。<br /> <br /> 未来に妻になるかもしれない人に対しても先に感謝を伝えます。母にも感謝を伝えます。<br /> <br /> そうして、瞑想は単なる自分自身の感謝の思いから、身近な人、近くの環境に対する感謝へと、少しづつその幅を広げてゆきます。<br /> <br /> 最初は個人的な感謝から、少しづつ、身近な出来事、身近な人に対する感謝へと、その感謝の範囲が次第に広がっていくように思います。<br /> <br /> Wed, 19 Jan 2022 00:00:00 +0900 ハイヤーセルフは意志を持っているのか? https://w-jp.net/2022/2597/ <br /> 6次元のハイヤーセルフは、ハートでただ「ありがたい」と思う感覚として認知されます。それは言葉を超えていて、論理を超えていて、存在そのものであり、ありのまま、そのものであるわけです。愛そのものであり、感謝そのものであり存在の根源であるわけです。<br /> <br /> ですから、それは論理という意味における理知的な顕在意識としての知覚・意識を持ってはいないといえばそうなのですけど、もう少し奥まったところにある、認知そのものと繋がった潜在意識とも言える意志としての意識は持っているわけです。<br /> <br /> ですから、ハイヤーセルフはハートで感じて「愛」「感謝」そのものであるわけですけれども、それと同時に、根源としての意識は持っているわけです。<br /> <br /> それはヴェーダンタではSat Cit Anandaとして表される要素でありますけど、存在(Sat)・意識(Cit)・満ちている(Ananda, 満ちているから至福)、という3つの要素のうちの1つなわけです。<br /> <br /> その、Citとしての意識を持っていて、それは意思でありますので顕在意識より更に深いところにある根源としての意識なわけですけれども、それはAnandaとして満ちていますから、それを顕在意識が知覚すると「ありがたい」「愛」という感覚になるわけです。<br /> <br /> 一方で、ハイヤーセルフがハイヤーセルフとして「意図」を伴った知覚も持っていて、それは普通の人間の顕在意識では知覚がしにくくて、普通は上記のように単に「愛」「感謝」「ありがたい」として知覚されるわけですけれども、実のところハイヤーセルフとしての意図・意識はそれはそれとしてあるわけです。単に、普通の人間の顕在意識としては知覚しにくいだけで、実のところあるわけです。<br /> <br /> それは愛・感謝に含まれた顕在意識のようなもので、実のところ普通の人間の顕在意識より掴みにくいものではありますけど、それはぼやっとしたものではなく、割と明快に鋭い思考になっているのですけど、しかしながら、普通の人間の顕在意識ではなかなか捉えにくいものであるわけです。<br /> <br /> ですから、ハイヤーセルフの意志は存在して鋭く理知的ではあるのですけどそれは普通は愛と感謝に包まれていてなかなか普通の人間の顕在意識では認知しにくくなっているわけです。顕在意識から制限が取り払われて、トラウマも消え去って、ベースとなる波動が高まることによりハイヤーセルフと顕在意識が次第に融合し、やがて、最初は愛と感謝としてしか認知できなかったハイヤーセルフの思考が少しづつ顕在意識で認知できるようになってゆく気が致します。<br /> <br /> そうして一体になる前の段階では一瞬の「直感」としてハイヤーセルフの意志は認知され、それは実のところ瞑想をしていなくてもほとんど全ての人がおそらくは時折感知しているもので、ふとした時に「そういえばこのことを直感で受けていた気がするけど忘れていた」なんてことはほとんどの人が経験しているようにも思いますけど、その種の直感が直感を超えて普通の意識として現れる状態というのはすなわちハイヤーセルフと繋がるということでもあって、ハイヤーセルフと繋がって愛と感謝がベースになって生きるようになれば直感が直感としてではなく顕在意識でその直感を割とそのまま認知できるようになり、それはすなわち、高次元と繋がり始めた、ということでもあると思います。<br /> <br /> Wed, 19 Jan 2022 00:00:00 +0900 ハイヤーセルフの更に上位の存在 https://w-jp.net/2022/2596/ <br /> 6次元のハイヤーセルフと繋がって一体になるプロセスを徐々に経てきているわけですけれども、そのハイヤーセルフの更に大元になるようなグループソウルがあります。そのグループソウルとは、ハイヤーセルフから見たら「雲」のようなモヤモヤしたものですけど、実際には、そのグループソウル自体が一人の人格を持っていて、例えるならば、ハイヤーセルフは容量の小さな電池でグループソウルは容量的に大きな電池、と言うこともできます。ですから、その質としてはそれほど変わらないように思うのです。<br /> <br /> 自分のハイヤーセルフがグループソウルから分離して分霊になるわけですけれども、その分霊はまたグループソウルに戻ることが期待されています。そのまま分離したままの場合もありますけど、割と多くの場合はグループソウルにまた戻るように思います。<br /> <br /> そのようにハイヤーセルフとグループソウルという関係がある時、グループソウルからしたら自分から一時的に分かれた分霊が別の人生を送っているわけで、時折、その分霊の人生を興味を持って「外」から眺めることになります。<br /> <br /> そして、ハイヤーセルフとしての、分霊としての人生を終えたらグループソウルと一体になり、その後は「同化」することにより経験を取り込みます。その時、分霊のまま連続して何回か人生を繰り返してからグループソウルに戻ることが多いように思えて、戻る時は、単に戻る時と昇天して戻る時があるように思います。<br /> <br /> 戻り方には色々なパターンがあって、結局はオーラの同一化、融合化ですのでどのようにも一体化は可能なのですけど、ハイヤーセルフの方が能動的に単に戻る時は自身のことを忘れていない時で、その時は波動が落ちていない場合が多くて、波動が落ちている時はハイヤーセルフは自分というものを忘れていて昇天という形で実のところグループソウルからの導きでようやく戻ることができるように思います。その一方で、波動に関係なくお互いの意思・同意で戻る時も多々あるように思います。<br /> <br /> そんなグループソウルなのですけれどもハイヤーセルフからしたら雲のようにも見え、と同時に、グループソウルとしての人格、人の形をした存在のようにも見えます。どちらも正しくて、ハイヤーセルフとしての分霊の自分を生きていると、時折、グループソウルが自分(ハイヤーセルフ)の人生を上から覗き込んでいる、と感じる時があります。<br /> <br /> その時は、生きている自分からしたらちょっと上空から「大きな顔」が現れて、ちょっと「下」を覗き込んでいるような感じで下目になってこちらを上から興味深く見下ろしているのを時折感じます。その瞬間は「見られている」のを感じて、どんな存在がこちらを見ているのかもはっきりとわかるわけですけれども、グループソウルとしての意識体が大きな顔、それは具体的なイメージを伴った顔なわけですけれども、大きな顔がこちらを見下ろして、しかも、感想をその都度何か言って(思って)いるのまで伝わってくるわけです。<br /> <br /> その感想はこちらの参考にもなって、時空を超えた存在であるグループソウルの意思、それは人格としての自分の根源の意志でもあるわけですけれども、その認知は大概の場合は自分より優れていますので参考になるわけです。とは言いましても、そもそも自分としてのハイヤーセルフが分霊として分かれたのはグループソウルが何かを知りたかったからなのであって、今の人生で細かく知ろうとしている事柄に関してはグループソウルよりも自分の方が詳しかったりします。まだ分霊として分かれた状態ではその細かな部分の知見はグループソウルに伝わっていなくてきちんと伝わるには死後に分霊がグループソウルに融合するまで待たないといけないですけど、それでも、グループソウルが時空を超えて感想を伝えてくれることは分霊の自分としては生き方の参考になるわけです。<br /> <br /> Wed, 19 Jan 2022 00:00:00 +0900 身口意が統合されたサマーディ https://w-jp.net/2022/2595/ <br /> ハートでただ「ありがたい」と思う瞑想は、ゾクチェンの言うところの以下の境地そのものであると言えます。<br /> <br /> あるがままのものを定義できる概念などありはしない。(中略)一切はすでに成就しているのだから、努力の病を捨て去り、あるがままで完全な境地の中にとどまること、それが三昧だ。「ゾクチェンの教え(ナムカイノルブ 著)」<br /> <br /> 密教、あるいはゾクチェンなどでは「身」「口」「意」と言う3つがよく語られます。これらは流派によって解釈が微妙に異なっていて、例えば「体と口と心」あるいは「行動・言葉・意志」はたまた「体・エネルギー・意識」などと解釈されます。<br /> <br /> しかし、それは説明のためだけのことで、私の今の感覚で言うと、「既にそれらは統合されている」と感じるのです。<br /> <br /> これはどう言うことかと言いますと、かつてはそれらの3つの要素それぞれについて考えてきました。しかし、この(6次元の)ハイヤーセルフはそれら3つの要素の次元を超えているようなのです。ですから、もはやそれら3つの要素は統合され、形すら見えず、統合されているのです。<br /> <br /> それはざっくり言うとサマーディということでもありますけど、サマーディという言葉があまりにも多く使われすぎていて何のことだか逆にわからなくなってしまっており、しかしながら、言葉で表現するならばサマーディであることには違いがないわけです。<br /> <br /> 密教などの修行をすると身口意に対応するそれぞれに対峙する機会があって、例えばエネルギー的なマントラであるとか、静寂の境地を追い求めて経験することになります。そして、経験としての「楽」などを体験することになります。<br /> <br /> それらの要素は一つ一つとしてあるのですけど、この段階になると統合されていて、既に要素として分けることができなくなってしまうように思います。<br /> <br /> 要素に分けようとしても分けることができず、以前のように、単に「楽」だけ、あるいは「静寂の境地」だけ、などと分けることができなくなっている以上に、かつて理解していた「言葉としてのそれぞれの要素の説明」も、全ての説明が一応は正しいものの、完全な説明とは言い難いものであると感じられるわけです。<br /> <br /> この段階になると言葉としての説明は便宜上のものでしかないとはっきりわかるようになるように思います。<br /> <br /> もちろん理屈としてはそのことは割と最初からわかっていたわけですけれども、それでも、今までは何とか言葉で言い表そうとしてきて、それでも何とか言い表せているつもりでした。<br /> <br /> しかしここにきて、もはや言葉できちんと表現することは無理だ、という、言葉からの離脱のようなものが現れてきて、そうなれば、わざわざ自分でしっかりと表現する努力をするよりも、既存の説明を使いまわしても同じなのではないか、という気もしてくるのです。どちらにせよ、ありのままを表現できる言葉などありはしないのだから、表現する努力を捨てる、という選択肢もあるのかもしれない、という、表現に対するある種の諦めのようなものも出てきています。<br /> <br /> 既に書物や言葉では十分に語られていて、わかる人にはわかるし、到達できる人であれば到達できる筈です。言葉の表現としてはもう十分かな、という気が何となくしてきております。<br /> <br /> 書物に記された謎のようなものも大体は個人的には解いた感じで、表現としてはそれぞれですので解釈の余地は残りますけど、全体的な概要としての方向性で更に探求したいものはそれほど残っていない感じです。<br /> <br /> 書物を探してみても私の今の段階より先を書いた本はほとんどないですし、言葉などで表現するにはこのくらいが限界なのかもしれません。残るは神智学で示された段階あるいはライトボディで示された階梯を後は進めばよくて、もはや言葉の説明はそのくらいで十分のように思えてきました。<br /> <br /> Tue, 18 Jan 2022 00:00:00 +0900 ちっぽけな家(部屋)でも 有難い、と感じて涙が出る https://w-jp.net/2022/2594/ <br /> 小さな家、小さな部屋で小さな人生を送っていても、特に何があるというわけでもなく、ただ 有難い と感じて涙が少し出てきます。そのような瞑想をします。<br /> <br /> これは、有難いと思うとか、そのような行為は不要で、ただ、結果として感謝の気持ちが出てくるものです。ですから、感謝をしようだとか、感謝をしなくてはならないだとか、そういうことではなくて、ただ、行動として瞑想をすると、特に感謝を意図することもなく、ただ不意に結果として感謝が湧き出てくるわけです。同様に、特に涙を意識したわけでもなく、涙を意図したわけでもなく、涙を流そうとしたわけでもなく、ただ単に瞑想をした結果として感謝が表れて、その感謝に伴って涙が出てくるわけです。<br /> <br /> 特に対象があるわけでもなく、条件があるわけでもなく、条件なしに、例えば「○○だから感謝をする」だとか「○○に対して感謝をする」というようなことではなく、ただ単に感謝をして涙が出るわけです。<br /> <br /> 目の前に大きな仏像があるわけでもなく、立派な祭壇があるわけでもなく、大自然があるわけでもありません。(私の部屋には、片隅に小さな祭壇があるくらいです。)<br /> <br /> 強いて言うならば最近は天気が良くて朝日を浴びるとエネルギーが更に満ちてくる、ということはあります。その太陽のエネルギーで更に感謝と涙が深まる、と言うのはあるにはあります。ですから、理由があるとすればエネルギーの高まりであり、エネルギーの高まりが故に感謝と涙が出てくる、と言うお話はあるにはあります。<br /> <br /> そもそもこの感謝のエネルギーの源は(6次元の)ハイヤーセルフであり、それは創造・破壊・維持の意識として比喩されるところの神意識でもあるわけですけれども、条件があるとすればエネルギー的に体全体に「満ちる」と言うことは必要に思います。<br /> <br /> 瞑想をして、クンダリーニをサハスララにまで上げることとハイヤーセルフを身体中に満たすと言うことをすると自然とハートでただ「有難い」と思う状態になります。<br /> <br /> それは、何か大きな家に住むだとかリゾートで安泰に暮らすだとか海岸沿いで綺麗な静かな浜を見るだとか、そのような条件なしに発生するものです。家にいて、ちっぽけな家に住んでいてもそれは可能なわけです。<br /> <br /> とは言いましても最低限の環境というものは必要でそれなりの清潔さだとかカビっぽくないだとか、あまりにもジメジメしていないだとか、そういう基本的なお話はありますけど、そこまで高いハードルなしにこの種の感謝はできるものなわけです。<br /> <br /> Tue, 18 Jan 2022 00:00:00 +0900 悟りに禅定は必要か? https://w-jp.net/2022/2593/ <br /> テーラワーダ系の仏教においては禅定と悟りの改訂が割と詳しく定義されていて、それなりの参考になります。ですが、それは確かに道標にはなるのですけど、最後の方になるとなかなか曖昧なお話になってきて、わかるようなわからないようなお話になってしまいます。<br /> <br /> よく、テーラワーダ系あるいはヴィパッサナー系の南伝仏教・上座部仏教においては集中瞑想なのか観察瞑想なのか、というお話が話題になります。<br /> <br /> 瞑想の階梯を禅定に当てはめて、色界禅定と無色界禅定に分けているわけです。色とは形あるもののことで、ざっくり言えば物質ということです。色がない無色界とは要は精神の世界のことです。<br /> <br /> そして、テーラワーダ系においては基本的に色界(物質界)の禅定から始まって欲望の世界を脱し、やがては無色界の世界の禅定に入ってから悟りの阿羅漢に至る、となっております。しかしながらテーラワーダ系あるいはヴィパッサナー系の流派においては色界の禅定だけが必須になっていて、無色界の禅定は推奨かつ基本路線ではあるものの必須とはなっていないのです。<br /> <br /> この辺りの理屈を持ち出すことで、テーラワーダ系あるいはヴィパッサナー系の瞑想をしている人たちの間では度々「悟りに集中の瞑想は不要」みたいなお話が出てくるわけです。<br /> <br /> その説明においては「無常」を体験して一気に阿羅漢まで悟る、みたいなお話になっています。<br /> <br /> それで流派に認められて阿羅漢の称号、すなわち悟りの称号を得てそれなりの位に就く人がそれなりにいるかと思います。<br /> <br /> これは、説明としてはなかなか分かり辛いお話で、私は昔は「この説明はいかがなものか」と思っていたたちでありますけど、今となっては「どちらにせよ到達すればスッキリと理解できるのだから、到達していない人に向けた説明が多少分かり辛くても、それは修行の妨げにはならないのではないか」と、柔軟に考えております。<br /> <br /> ですから、この種のテーラワーダ系の説明は、実際のところ本当のところと比べると説明としては不十分でなかなかに誤解を生じさせるお話かとは思うのですけど、だからと言って修行の妨げになるかというと、そうでもないように思うのです。<br /> <br /> 結局、そういう言い方もそう間違いではなくて、と同時に、それなりに間違ってはいるお話ではあるのですけど、知らない人向けの説明としては、それはそれでありなのかな、と今は思っております。自分がするならもっと違う説明をしますけど、他の人がそう説明しているからと言って、それをわざわざ否定してもっと良い表現があるなどというような野暮なことはしなくてもいいのではないか、と最近は思います。<br /> <br /> たまに気が向けばもう少し書いてみたいとは思いますけど、結局、五感の感覚でしか瞑想を捉えていないから集中があるとかないとかいうお話に終始してしまっているのであって、「行動」としては集中でよくて、「結果」として「起こる」瞑想としては観察なわけです。<br /> <br /> ですけど、テーラワーダ系の説明に基づくと、観察すらも「行動」になってしまっているからよくわからないお話になっていて、「観察、という、行動」を瞑想で行うことを目標としてしまうのですけどそれは行動としては行うことはできなくて、ヴィパッサナーという観察状態は「起こる」ものなわけです。その、起こった状態においてはある種の深い意識の観察というものが一応は深いところで意図的に発生しますからその深い意図を意図として行動と見立てることもできますけど、それは顕在意識での通常の意思決定とは異なるレベルにあるわけです。<br /> <br /> テーラワーダ仏教の定義に従うと悟りに禅定、すなわちそれは集中ということですけど、その説明に基づけば悟りに集中は不要、ということになりますけど、そういう言い方も一応はできて、あながち間違いではないですけど、なかなかに説明不足かな、と思います。<br /> <br /> この辺りは何度も書きましたけど、気が向いたらまた書いてみたいと思います。<br /> <br /> Mon, 17 Jan 2022 00:00:00 +0900 神様が人間の生活のことをどう思っているのか? https://w-jp.net/2022/2592/ <br /> 私が把握している限り、それは色々です。そう言ってしまうと話が終わってしまいますのでもう少し書きますと、人間に興味がない神様は全く興味がないです。人間界に何となく遊びで転生をして好き勝手に生きていて人間にあまり興味ない神様もいれば、とても心配してお父様やお祖父様あるいはお節介おばさまのようにあれこれと元気よく口出ししている神様もいらっしゃいます。<br /> <br /> それはどちらも基本的には人格神としての存在で、それよりも高次になると人間界とは関わり合いがなくなって人間界に全くと言って良いほど興味を失うのですけど、それなりに人格が残っている神様の場合は人間界に多少は関与するわけです。<br /> <br /> 人として生きていて関係を持つのは大抵はこの人格神というもので、それ以上の関わりというのはほとんどないと言って良いと思います。<br /> <br /> 人格神であったとしても普通の人間からしたら愛に溢れていて言葉では言い表せないくらいの存在感と彷彿のエネルギーに満ちていて、それすらも「言葉を超えた」存在として認知されることもありますけど、そういう存在であっても階層があって、言葉を超えた部分と、言葉でコミュニケーションが可能な部分と、その両方を備えているものなのです。<br /> <br /> いわゆる王族とか貴族とかある程度の高貴なお方というのはその傾向があって、高貴な家だからと言って必ずしも魂が高貴とは限らないのですけど、土壌として高貴な魂が宿ることができる環境があるとそこに高貴な魂が降りてきて下さる、ということはあるわけです。ですから、今の現在でそれほど徳がなさそうな人たちが貴族をしていたとしても子供ができた時にそこに高貴な魂が降りてくることができる土壌があることは大切で、今現在の貴族や王族があまり親しみのない人だからと言って制度としての貴族や王族は存続させる方が良いのです。連続してそのような高貴な魂が降りてくるわけでもないので貴族や王族が世俗的になってしまうことも時にはありますけど、そのような場合であっても、制度として存続していさえすれば神様の魂が降りてきてくださる、ということは十分にあり得ます。<br /> <br /> よく、人間は平等だ、なんて言いますけど、全く平等ではありません。不公平という言葉を使うのは適切ではなくて、そもそも魂の成熟度合いがそれぞれかなり違っていてものの考え方や価値観などもそれぞれかなり違っているのに、そのように魂の成熟度がかなり違う人たちを十把一絡げにして人は平等とか言ってしまうことに無理があるわけです。<br /> <br /> 選挙で一人一票とかしてしまうと衆愚政治になってしまいますし、それよりは、王家あるいは貴族がノブレスオブリージュで国を納めた方がよっぽど良いとは思うのですけど、王家とは言っても政治の才能が必ずあるとは限りませんので、例えば昔の藩と殿様をそのまま存続させて殿様の中から政治の才能に優れた人が国を収める、という方法が理想的のように私には思います。殿様であれば基本的にノブレスオブリージュがあるわけで、そうは言いましても必ずしも政治の才能がなかったりしますので、ノブレスオブリージュのある中で政治の才能に優れた人を選挙で選べば良いわけです。<br /> <br /> このようなことを言うと昔の貴族院や長老の制度を持ち出してきて否定してくる人がいますけど、現在の民主主義で変な政治家がたむろしている状況を見るならば、それよりも少なくともノブレスオブリージュがある統治の方がよっぽどマシであると言えます。<br /> <br /> 一部の神様は実のところある程度はそのように考えていて、今の民主主義は意図せずしてそうなってしまったけれども、どうにかしないと、と思っております。<br /> <br /> 神様と言ってもこの種の神様は人格神ですので全知全能の神様ではないので、ある程度の方向付けはすることはできても、細かな制御はできないのです。<br /> <br /> ここ数百年で王政が倒されてしまったことにより神様の魂が転生して政治を動かすということがしにくくなってしまい、なかなか神様の意図した通りに国が動いていかない、と思っているようです。<br /> <br /> そのように色々と悩んでいる神様がいる一方で、割と自由に生きている神様もいて、神様と言ってもそれぞれなわけです。<br /> <br /> ・・・とは言いましても、これは瞑想などで見聞きしたことですので本当のことかどうかはわかりません。<br /> <br /> Mon, 17 Jan 2022 00:00:00 +0900 愛に理由はいらないが、分かち合いは軽々しくしない https://w-jp.net/2022/2591/ <br /> 世間一般で「愛によって分かち合いをする」みたいなお話がよくありますけど、スピリチュアルであればあるほど、そういうお話に関わらない方が良いのです。<br /> <br /> と、言いますのも、そのような場所は最初こそ崇高な考えや思想に基づいて行われることが多々あるものの、「制度」「組織」と化してしまうと、そこはもはやフリーライダーの入り込む余地を作ってしまうからです。<br /> <br /> そもそも、感謝や愛に理由や対象や行為はいらないというお話と「分かち合い」みたいなお話は本質的にはあまり関係がなくて、分かち合いをしていようがしていまいが、その状態に関係なく全ては愛ですし、同様に、分かち合いをしていようがしていまいが、そこには感謝があるわけです。<br /> <br /> ですから、「分かち合い」を「条件」にしてしまって、分かち合いがある時だけ感謝をする、ということでは本来ないですし、同様に、分かち合いがある時だけ愛がある、ということでは本来ないわけです。<br /> <br /> 分かち合いをしようがしまいがそこには愛があって、同様に、感謝も存在するのです。<br /> <br /> ですから、分かち合いをするかどうかは本来的に「必要としているか」という点だけであって、機能的に分かち合いをする組織・団体が作られたならばそこには常に愛があるのはもちろんですけれども、かといって、その機能・組織・団体がなくてもそこに常に愛があるわけです。<br /> <br /> 愛や感謝というものを「条件」にしてしまったが最後、その条件が取り払われた時に愛や感謝がなくなってしまう、ということでは本来ないわけですけれども、そうは言いましても、世間一般には愛や感謝というものは「条件」として扱われていて、愛や感謝というものを作り出すために「与える」だとか「分かち合い」みたいなお話が度々出てくるわけです。愛や感謝の形を示すために与えたり分かち合いをしてみせて、その行為がなくなったら愛や感謝がなくなった、と判断するのが世間一般のお話かと思います。<br /> <br /> 本当に自分がたくさん持っていて分かち合いをすべき時にはするべきですけど、自分が困っているのに愛や感謝を示すために与えることをする必要はないわけです。そのような行為に関係なく愛や感謝というものは存在しているわけです。<br /> <br /> 何故、このようなことが大切かと言うと、割と宇宙系の人やライトワーカーの周囲にはフリーライダーが近寄ってきやすくて、そのような精神性の高い人は周囲に協力者が沢山いてお金にも割と不自由しないわけですけれども、そのような宇宙系あるいはライトワーカーの人は割と世間知らずで騙されて財産を奪われたりずるい人のフリーライドを許してしまったりするからです。<br /> <br /> この辺り、宇宙系やライトワーカーの人は人生をもっと学ぶ必要があって、世の中にずるい人は山ほどいて、そのような人が困っているそぶりを見せたからと言って軽々しく分かち合いや何かを与えることをしてしまうとどんどんとエスカレートして全部奪うまでやめない、だとか、与えることをやめたら今度は「なんて酷い人だ」と攻撃するようにすらなってしまうからです。はっきり言って「図々しい」人はどこにでもいるものですけど、対等ですらない状態で与え続けられた後にそれが停止したら、与えられることが当然だと思っている人は今まで与え続けてくれた人に対して非難をして激しく罵ることになるでしょう。であれば、最初から与えることなどせずに、関わらないことです。軽々しく「分かち合い」などしないことです。それが、本来は分かち合いが自然にできる筈の宇宙系やライトワーカーにとって少し苦しい状況になることもありますけど、長期的に見て関わらない方が良い人というのは山ほどいますので、軽々しく「与える」などということをしない方がいいわけです。<br /> <br /> 具体例で言いますと、人ではありませんけど日本に対する韓国が好例です。日本が韓国に対して与え続けた結果、韓国が勘違いしてしまって、韓国は日本から延々と与え続けてもらわなければ気が済まず、日本が「もうめんどくさいから韓国あっち行け」と言っても韓国は「日本はどうして今までのように色々と面倒見てくれないのだ。なんて日本は酷い国なんだ」と罵ってくるわけですけれども、これは、本来は自立すべき韓国が自立していないために日本に付きまとっているわけです。人間関係においても、軽々しく与えてしまったが故に与える関係というものが常套化してしまい、独立した関係になれない時があるかと思います。ずっと隷属の関係を続けるということもできませんし、韓国が独り立ちしてもらわなければならないのと同様に、人と人の付き合いにしても、たとえば神と純情な神の下僕としての人間の関係性のようなものではなくて、一人と一人の付き合いを割と対等にしてゆくためには分かち合いは軽々しく行うべきではないわけです。あるいは神と神の下僕の関係ならまだマシですけど変に付き纏われたり、あるいはストックオプション等の制度をうまく使われてフリーライドを許してしまうと人あるいは組織の資源を食い潰すことにもなりますし、本来貢献することができたことより遥かに小さな結果しか生み出せないことになってしまったりするわけです。結局、そのようなもらいっぱなしの人あるいはフリーライドを狙っている人というのはその先に他に与えるということをしないで自分が抱え込んでしまいますから、資源が末端まで行き渡らなくなってしまうわけです。それなのに他の人が「与える」まで付きまとってきたり、与えないことに対して「なんて酷い人なんだ」などとフリーライドでしかないのに勘違いして罵ってきたり、やもすれば自分がしてもいない貢献を想像で積み上げて成果を誇ったりして、その想像が膨らむことで爆発し、やがては怒ったり激しく呪ったりしてきますから、そのような不要な呪いを受けることを避けるためにも勘違い君と長引く面倒な付き合いをするべきではなくて、そもそも最初から関係を持たなければいいので、勘違いされたりカモ扱いされないためにも軽々しくすぐに与えない、気軽に分かち合いをしない、などと言ったこの世での処世術が必要になってくるわけです。それによって、最初から面倒な人との関わり合いを持たないでいることができます。<br /> <br /> この世の資本主義は奪うという面において分配が滞る面もありますけど、その一方で、一応は資本主義に従うことによって分配も可能という一面もあるわけです。ただ単に無条件に分かち合うということが現代においてフリーライドや隷属関係あるいは呪いに繋がってしまう以上、一応は資本主義という形式に則った上で少数が大多数に与え続ける社会に移行するしかないかな、と今は漠然と考えております。まだ形には全然なっておりませんけど、この種のことは大多数の資本を持つ一部が決断すれば割とすぐに変わることですので、そこまで悲観はしておりません。<br /> <br /> Sun, 16 Jan 2022 00:00:00 +0900 感謝や愛に理由や対象や行為はいらない https://w-jp.net/2022/2590/ <br /> 特定の対象、恋人だとか仏像だとかキリスト像だとか礼拝所だとか、そのような対象なしに、ただ単純に感謝をすること。「する」という行為すらなしにただ単に「感謝」の状態にあること。そうなれば、行為なしの感謝、対象なしの感謝、理由なしの感謝の状態になります。<br /> <br /> それはとても単純なことですけれども、それは状態としてはそれで正しいわけですけれども、手法としてはそのまま直接的にそうなろうとしてもなかなか難しいわけです。<br /> <br /> それは「状態」でありますから、その状態になるための「手法」はまた別にあるわけです。<br /> <br /> この状態だけを見て手法もそれ自体だけでいいと思ってしまったり、或いは誰かから「その状態になりなさい」などと言われて勘違いをしてしまうと彷徨い歩いてしまったり、なかなか答えを見つけられないかもしれません。<br /> <br /> 手法としては単純で、とは言いましても手法は色々とあって、瞑想の場合には、普通に瞑想をしたりすれば良いわけです。それでこの状態になる・・・ というのは正しくもあればそうでもないということもできて、たどり着くことはできるのですけれども、すぐに辿り着けるかというとそれは人それぞれになるかと思います。<br /> <br /> 対象なしに感謝しろと言われてもよくわからないお話かもしれませんし、理由なしに愛せよと言われたら勘違いして盲目的な愛になってしまうかもしれません。<br /> <br /> 結局、この種のお話というのは「結果」としてそうなるというお話で、「手段」ではないわけです。<br /> <br /> 手段と勘違いしてしまうと「理由なしに感謝すればいい」などと勘違いしてしまったり、或いは、「理由なしに愛すれば良い」という思い違いをしてしまうかもしれません。この種の勘違いは、それらを「結果」としてではなく「手段」だと誤解してしまうことにあります。<br /> <br /> 手段としては実は割と普通のスピリチュアルで言われているお話になってきて、(集中の)瞑想をするだとか、道徳的に生きるだとか、そのようなお話になります。<br /> <br /> 基本的なところは社会生活で常識と言われていることと変わりなくて、社会通念的な常識に従って道徳的に生きることだとか、「理由あり」で感謝をすることだとか、「理由あり」で愛することだとか、そのような、行為のある愛、理由のある感謝、というものが基本になります。それらの、理由のある愛や対象のある行為を否定しているわけではないのです。<br /> <br /> あくまでも、結果として「理由なし」の愛や感謝に行き着くというお話であって、それらは社会の道徳的なお話と相反するものではないわけです。<br /> <br /> スピリチュアル的には、一番重要なのは瞑想で、瞑想の基本は眉間に集中することでありますから、瞑想をするにつれて感謝の気持ちも高まり、それは理由や対象があっても全然良くて、ただ結果として、ふと気が付くと対象がなくなっていたり理由がなくなっていてただ愛や感謝だけがある状態になっている、というお話なわけです。<br /> <br /> Wed, 12 Jan 2022 00:00:00 +0900 ハートでただ「ありがたい」と思う瞑想 https://w-jp.net/2022/2589/ <br /> 最近はハートにてハイヤーセルフを感じているわけですけれども、瞑想において、眉間に集中するのが瞑想の基本ではあるのですけどハートに意識を合わせる瞑想というのもあって、最近は割とハートに意識を置く方がしっくりきます。<br /> <br /> そうしてハートに意識を合わせていると胸が厚みを帯びてくる感じになって、その意識が体全体を満たするようになって、例えば腕などの所々にまだオーラが行き渡っていない状態から行き渡った状態へと変化してきます。<br /> <br /> そのように、ハートを意識して瞑想をしていると、ハートの意識が広がってきて、ただただ「ありがたい、ありがたい」、という気持ちになります。<br /> <br /> 「ああ、ありがたい。ありがたい」<br /> <br /> それを何度となく繰り返します。それで十分なわけです。<br /> <br /> これは、特にそのように有り難がろうとかそういう瞑想があるとか、そのように形から入ったものではなく、ただ単に、ハートのアナハタに存在しているハイヤーセルフを意識しながら瞑想をしていたら、次第に、自然とそのような気持ちが湧き上がってきたのです。<br /> <br /> これは割と再現性があって、瞑想をしていなくてもある程度そのような気持ちになっていますし、瞑想で座った状態になるとよりそのような気持ちに自然になってゆきます。<br /> <br /> その感謝の対象は色々で、例えば、私の過去生からの繋がりで私とずっと一緒にいる大勢の過去生の妻たちの心遣いに特に感謝したり、或いは、細かな身近な出来事に対して感謝したり、或いは、特に対象もなく、ただただ「ありがたい」という言葉が自然に出てくるのです。<br /> <br /> かと言って生活の中で100%ずっとそのような気持ちのまま生きられるわけでもありませんけど割とその気持ちを忘れずに生きられる状態が続いて、そしてその気持ちが若干薄くなるとは言っても完全になくなるわけではなくて基本的には継続していて、そしてまた瞑想をして「ありがたい、ありがたい」という気持ちを強く思い出すわけです。<br /> <br /> こういう気持ちって、普通の人生ではおそらく一生に何回かあれば良い方で、 そういう気持ちにならずに生きている場合の方が多い気も致しますけど、この状態というのはたまたまではなくて継続性があって再現性があって、座ってハイヤーセルフに満たされればすぐに「ありがたい」「ありがたい」「ありがたい」という気持ちになれるのです。<br /> <br /> それに応じて多少の想像が湧き上がる時もありますけど、基本的には何も理由なく何も想像もなく、ただただ「ありがたい」というだけの気持ちなのです。<br /> <br /> こういうお話をすると、そのありがたいという気持ちに理由はあるのかとか意味付けを探す人がいますけど、思うに、意味付けは特になくて、ただ単にありがたい、というだけのお話のように思います。<br /> <br /> こういうお話を世間で聞くのは道徳や宗教でそういう機会が多い気が致しますけど、そのような時には「〜だから(〜という理由で)、ありがたい」みたいに条件付けがされていることがほとんどな気がして、それは聞く側にわかりやすいということはあるのでしょうけど、実際のところ、この状態の場合、特に理由がなくて、ただ単に「ありがたい」というだけなわけです。<br /> <br /> ですけど、おそらくは話をする側としては色々と長く話をする必要がありますし聞く側に一応の理解をしてもらわなければなりませんし、或いは子供に言い聞かせるには一応の物語にした方が記憶に残りますから理由とか物語風にすることもあるのでしょうけど、実際には、この種の「ありがたい」というお話は、特に理由がないのです。<br /> <br /> 理由がない、とかいうと、じゃあ、宗教みたいに盲目的に信じることなのか、というとそうではなくて、理由がなくてただ単にありがたいだけですので、それは信じるとか盲目的とかは関係がなくて、信じる必要はなくて、盲目的になる必要もなくて、文字通り、ただ単に「ありがたい」というだけなのです。<br /> <br /> それを瞑想と言えばそうですけど瞑想というほどかしこまったものでもなくて、単純に、ただただ「ありがたい」「ありがたい」と感じるだけのお話なのです。<br /> <br /> これは、何がしかの「対象」もないお話です。<br /> <br /> 宗教ですと仏像とか神様など何がしかの対象に対して「ありがたさ」を感じることがあるかもしれませんけど、私の言っているのは、そのような対象なしに、ただただ胸の奥の厚さと暖かさを感じて、特に対象もなく、とは言いましても一応はハートという対象はあるにはありますけどそれは自分のハートで、他人のハートでもなくて神様のハートでもなくて自分のハートだけが対象になっていて、とは言いましてもハートですから対象はあってないようなもので、いわば対象なしに、ただただ感謝の気持ちで「ありがたい」「ありがたい」と思うだけのお話なのです。感謝とかそのようなかしこまった言い方ではなく、単に、とても単純に「ああ、ありがたい」と思うだけのお話なのです。 <br /> <br /> 瞑想をしてすぐにそうならない時もありますけど、まずは眉間に集中する普通の瞑想をしたりクンダリーニをサハスララに満たしたりハイヤーセルフを身体中に満たしたりしているとクンダリーニのアナハタのオーラが充実してきて感謝の気持ちに満たされるようになります。<br /> <br /> Tue, 11 Jan 2022 00:00:00 +0900 十牛図、人牛倶忘と返本還源 https://w-jp.net/2022/2588/ <br /> これは、クンダリーニがサハスララに到達して静寂の境地、無になる段階から創造・破壊・維持の意識である6次元のハイヤーセルフが現れる段階にかけてを説明しているように思います。<br /> <br /> ■人牛倶忘<br /> いわゆる悟り、静寂の境地、無、など各種に言われている境地、寂静の世界がこの段階のように思います。悩みは消え去り、そこは正法眼蔵で言われているような静寂の状態になります。<br /> <br /> ■返本還源<br /> 一方、これは一般的には「悟りを得た後の状態」と理解されていて、それらの解釈によれば「悟りの寂静の境地、無を知った者は日常生活を普通の人として、しかしながら生まれ変わった人のように生き生きとした現実の中で生活するようになる」みたいに説明されているように思います。<br /> <br /> このような解釈も成り立つとは思いますが、しかし、それだけでは私が思うに、この状態を表現するのに不十分だと思うのです。そういうことであるならば、わざわざ返本還源を持ち出すことなく、人牛倶忘に至った人がその寂静の世界を日常生活にまで延長して豊かに生きることができる、ということで十分のように思うのです。この状態を言い表すならば、わざわざ次の段階を持ち出す必要はなく、人牛倶忘がゴールとして相応しいと思うのです。<br /> <br /> 私の解釈によるならば、わざわざ返本還源という段階を付け加えたのは、それが明らかに違うもので、具体的には創造・破壊・維持の意識であるところの、いわゆるハイヤーセルフ或いはコスミック・ハイヤーセルフ・クンダリーニなどと言われている段階に達したからこそ、この段階が意味あるものとして生きてくるように思うのです。<br /> <br /> 人牛倶忘の段階においては悟りはまだ「静寂の境地」で、現実との接点にあたっては、「はっきりと物事が見えるが、何か、現実と認識の間に薄い光の膜がある」という状態になります。それは一応は悟りの一種と見做しても良いかもしれなくて、一応の到達と言えますけど、その段階ではまだ、現実に対していわゆる「地に足をつけた」状態にはなっていないわけです。<br /> <br /> ハイヤーセルフのエネルギーは普段は空高く浮いていて、返本還源に至る前の人牛倶忘或いはそれ以前の段階においては「天のエネルギーとして認識されます。一方、返本還源に至ると自分と融合して一体になって動き始めます。<br /> <br /> この種の、ハイヤーセルフのエネルギーは本来は天のエネルギーですので「地に足がついた」というようなこととは基本的には無縁であった筈なのですけど、その天のエネルギーがアナハタを通じてやがては体全体と結びつくことにより、天のエネルギーであるところのハイヤーセルフと、地のエネルギーであるところのクンダリーニとが結びついて新たな認識の状態に至るのです。そのことで、認識としては「地に足がついた」ということになりますけど、それは単純にクンダリーニが活性化した時に起こるような「地に足がつく」状態とはまた違ったもので、基礎としての「静寂の境地」がありつつも、それと同時に「地に足がつく」という状態になります。<br /> <br /> このように、クンダリーニがサハスララまで満たさることによる人牛倶忘の静寂の境地を基礎としていつつも天のエネルギーであるところのハイヤーセルフと繋がった状態が返本還源であると思うわけです。<br /> <br /> であれば、私はまだ次の段階である入鄽垂手はわかるようでいてわからないですけどなんとなく先は見えていて、この今の返本還源が進めばやがては現実と更に融合するわけで、そうなれば入鄽垂手で言われているような状態になるのかもしれない、と思っております。<br /> <br /> Sun, 09 Jan 2022 00:00:00 +0900 ハイヤーセルフ或いはコスミック・クンダリーニによる健康 https://w-jp.net/2022/2587/ <br /> ヨーガのプラーナによる健康或いはクンダリーニによる健康だけでも日常生活を送る上では割と十分と言えるのですけど、一般的に言われているクンダリーニの次の段階に、ハイヤーセルフあるいはコスミック・ハイヤーセルフ・クンダリーニなどと呼ばれるようなエネルギーの段階も存在しています。これはクンダリーニよりも更にスピリチュアルなエネルギーで、もちろんプラーナよりもスピリチュアルなエネルギーになります。<br /> <br /> この辺り、用語が分かりづらいかもしれませんので肉体に近い方から表現しますと以下のような順番になります。<br /> <br /> 肉体 → プラーナ → (一般的な)クンダリーニ → ハイヤーセルフ(或いはコスミック・ハイヤーセルフ・クンダリーニ)<br /> <br /> このように、最初は食物や生活習慣と言ったプラーナ的な改善から始まって、やがてはクンダリーニのエネルギーに目覚め、そしてはハイヤーセルフの意識に目覚めるわけです。<br /> <br /> 生活習慣や食物を見直すことでプラーナを充実させ、ヨーガや祈りをすることで浄化をし、やがてはクンダリーニに目覚めるわけです。クンダリーニが動き出した後の数ヶ月とか半年とか体全体が熱い状態になって健康的に過ごすことができるようになるのですけど落ち着いてくるとマニプラ優勢の状態になり、そこからは段階的な階梯が始まって、マニプラ優勢の状態の次はやがてアナハタ優勢、そしてアジナ優勢へと変わってゆくわけです。これらは全てクンダリーニのエネルギーとしての優勢であって、後の段階で起こるようなハイヤーセルフのエネルギーとは別物なわけです。<br /> <br /> そのように、クンダリーニのエネルギーは神智学などで言われているように、最初は下半身の活性化から始まって上半身、やがてアジナやサハスララに到達するのですけど、そのようにクンダリーニのエネルギーとしてのマニプラ優勢、アナハタ優勢、アジナ優勢、と言う状態と、その後の、ハイヤーセルフのエネルギーとしてのアナハタ優勢などとの状態とはかなり違っているわけです。感じ方がかなり異なりますのでエネルギーそのものが異なっていることが明確に分かります。<br /> <br /> まず最初はクンダリーニが上昇して、ですけどそれはあくまでもクンダリーニとしてのエネルギーのお話で、クンダリーニが上昇するごとにマニプラを活性化して、アナハタを活性化して、アジナを活性化して、そしてサハスララに到達することで静寂の境地に達したわけです。<br /> <br /> その後、ハイヤーセルフと繋がることにより、再度、アナハタに戻るような形でアナハタ中心に再度活性化するわけですけれども、それはそれ以前の段階でアナハタがクンダリーニとして活性化していた段階とは異なり、ハイヤーセルフ、あるいはコスミック・ハイヤーセルフ・クンダリーニなどとも呼ばれるようなより上位と思われる意識が活性化しているのであり、それはチャクラ的には活性化、とも言えますけど、それよりは、背中の方からハイヤーセルフが入ってくる、或いは、背中の方から入ってきたハイヤーセルフと繋がる、と言うように認知されました。<br /> <br /> その入ってきたハイヤーセルフは最初は感覚的には創造・破壊・維持の意識として認識されたのですけど、その一方で、今まであったクンダリーニのエネルギーは変わらず存在していて、それと合わせて、また違ったエネルギーが入ってきた、或いは、繋がったものとして認識されたのです。<br /> <br /> ハイヤーセルフの意識は色々な言葉で表現されていて、ヨーガやヴェーダンタなどではプルシャとかアートマンとか言われたりもするかとは思いますけど、ヨーガやヴェーダンタでは割と概念的なお話に留まっていて、この段階になりますとより実践的なのはスピリチュアルな各種の教えになるように思います。<br /> <br /> ヨーガなどの体系においてはこの種のプルシャ或いはアートマンとの融合は一時的な経験として説明されていることが多くて、それはいわゆる「秘技」において行われていて、一時的に瞑想中にプルシャ或いはアートマンと融合して再度分離する、という秘技が存在することは以前から承知していました。ですけど、具体的にどうすればいいのかは私は教えてもらったことがなくて、きっとそれができる人も限られていて、教えることができる人も限られるわけですけど、そのような秘技としてのプルシャ或いはアートマン、それは言い方を変えればハイヤーセルフと同義かとは思うのですけどそのような秘技としての一時的な合一も可能は可能かとは思うのですけど、私の場合はそのような一時的な合一ではなくて、常に繋がっている、という点に違いがあります。<br /> <br /> これは私が子供の頃に幽体離脱した時にもこの種のことを既に行っていて記憶があって、自らの本体のハイヤーセルフのエネルギーを3分割して、最初の段階で3分の1を私の未来、それはつまり今の現在の自分ということですけど、子供の頃に未来の自分に対して、ハイヤーセルフの3分の1をまず融合させる、と言うことを自分が自分に対して行ったわけです。<br /> <br /> それによって、ハイヤーセルフのオーラを時間をかけて定着させる、と言う効果を期待したようです。<br /> <br /> そして、次には残りの2分の3を融合させるわけですけれども、この種のハイヤーセルフとの融合は失敗すると取り返しがつかない状況になるようで、それは私が幽体離脱した時の記憶からもそれはそうなのだとは思うのですけど、そう言うこともあって、様子を見て、少し時期を見計らっているようです。<br /> <br /> その記憶に基づくと、もう1回、更にハイヤーセルフとの融合が将来的にあるのかなと思うのですけど、時期とかは忘れてしまったと言いますか、スピリットの状態ですと時間軸とかはあまり関係ないので何年後に起こるのかとかはよくわからない状況であります。どちらにせよ、子供の頃のスピリットの判断力次第で私の将来が決まるわけで、文字通り、自分の行ったことは全て自分の責任で、結果も自分次第ということで、それはそれで問題ないかな、と思います。<br /> <br /> ですから、私は修行したからというよりは子供の頃に自分で幽体離脱をして計画をしたことが根本にありますので、他の人に同様に起こるかどうかは分かりません。そのことを付け加えておきたいと思います。<br /> <br /> この種の事って、ある程度は乗り越えることができない壁のようなものが存在してて、生まれる前に自分で計画していれば簡単でも、元々自分で計画していないのならばほとんど不可能、というのはよくあることです。ですから、今回の人生で色々と分かったのならば、来世においてはしっかりと計画する、というのもありかと思います。或いは、幽体離脱してリセットするという方法もありますけど、幽体離脱したからと言って必ずリセットできるかどうかは私には分かりません。どちらにせよ幽体で自由に動き回って時空を越えることができるだけの意識の状態が必要になってきますから、幽体で流されるがままぼっと過ごすだけでは来世も流されるがままの人生になるだけかなと思います。であれば、あまり人生のことをどうこう考えるよりは生きている間にできるだけの瞑想をするなり奉仕をするなりして意識を向上させるくらいで十分のような気も致します。<br /> <br /> Sat, 08 Jan 2022 00:00:00 +0900 ヨーガのクンダリーニによる健康 https://w-jp.net/2022/2586/ <br /> ヨーガのプラーナによる健康の次に、クンダリーニによる健康があります。<br /> <br /> 実際のところ、これは人によって状態は違っていて、人によっては生まれながらにクンダリーニが動いていたりしますので、プラーナのエネルギーと見分けがつかないこともあります。<br /> <br /> そうは言いましても一般的な通説に基づきますと一応はクンダリーニは最初は動いていないものとされていて、確かに、人数で見ますとそのようにクンダリーニが最初から動いていない人の方が遥かに多いわけではありますけど、必ずしもクンダリーニが最初から動いていないわけでもないわけです。<br /> <br /> クンダリーニが動いている人は前世でそれなりの徳を持って生きていたとか、あるいは、人間よりも高次の存在が転生したとか色々な事情がありますけど、そのようにクンダリーニが生まれながらに動いていない場合、ヨーガで言われているスシュムナという、背骨沿いに存在しているエネルギーのルートが詰まっていてエネルギーが通っていない状態になっているわけです。<br /> <br /> クンダリーニを動かすためにはまずそのスシュムナの浄化をする必要があって、実際のところこれはかなり困難で、以前にも少し書きましたけど、私の場合は自分のスピリットが時空を超えて自分のスシュムナに詰まっている汚れを掃除することでクンダリーニが動く状態にしました。<br /> <br /> これをやっていなければ自分の場合は後10年かそれ以上はずっとクンダリーニが動かない状態が続いていたと思われます。私の場合は他の人生あるいは子供の頃から何度か幽体離脱をして未来生とも言える状態までスピリットの状態で行き来して、あのタイミングで自分のスシュムナを掃除しなければ停滞することがよく分かりましたので、自分で自分の未来生に対してスシュムナの掃除をしたのでした。<br /> <br /> 実際のところ、最初に起こったのはスシュムナそのものではなくて2本の光の筋が上がったということが最初で、それはイダとピンガラの目覚めだったのかと思います。イダとピンガラというのはスシュムナの左右にそれぞれ存在しているエネルギーのルートで、通説では螺旋状にあるとか言う場合が多いようですけど私の場合は直線でした。<br /> <br /> クンダリーニは最初、体全体が熱くなって元気になる状態から始まるわけですけれども、やがて落ち着いてくると最初はマニプラ優勢になり、やがてアナハタ優勢と、少しずつ上昇してゆきます。優勢な場所が上昇するにつれ精神的にも変化が訪れ、心理的にもより安定したものへと変わってゆきます。上昇するにつれネガティブに影響されにくくなり、よって、よりポジティブになり、表情も良いものへと変わってゆきます。それだけでなく、体もよく動くようになって、肉体的にも健康になります。<br /> <br /> このように、クンダリーニのエネルギーとポジティブな生き方、及び、体が軽くなって、一般的に見ても心身共に健康に生きることができるようになります。<br /> <br /> Sat, 08 Jan 2022 00:00:00 +0900 ヨーガのプラーナによる健康 https://w-jp.net/2022/2585/ <br /> ヨーガでは人体エネルギーのことをプラーナと言い、プラーナを増やすことで健康になる、と言います。3つのグナという概念が持ち出され、純粋なものであるサットヴァなものを積極的に取ることによりプラーナを増やして健康になる、とされています。<br /> <br /> 3つのうち他の2つはタマスとラジャスで、タマスは愚鈍なものでありプラーナを減らし、ラジャスもプラーナを消費するものとして説明されています。タマスは固くて動きが鈍いものであり、ラジャスは活動的、そしてサットヴァが純粋なものとされています。<br /> <br /> 食べ物、あるいは、人、物、全てがこれら3つのグナの分類にて説明でき、人生において関わる物事にサットヴァを増やして健康になることが推奨されます。<br /> <br /> さて、これらプラーナのお話は割と人体に近いところのエネルギーの話であり、いわゆる「気」などと言われるものと似通っています。<br /> <br /> 人体の体の周囲に漂っているオーラ、そのオーラのことをプラーナと言うこともできます。<br /> <br /> 実際にはオーラというともっと多層なものもあるのですけど、一応は、プラーナをオーラと言うことは間違いではなく、一般的にはそのようにプラーナとはオーラのことであると理解しておいて良いと思います。<br /> <br /> そのように、プラーナは「気」であり「オーラ」であり、それはエネルギーであるのですけど、そのプラーナによって健康を保つことができます。<br /> <br /> これらはクンダリーニのようによりスピリチュアルなエネルギーと比べるとより人体に近いところに存在するエネルギーで、食物や、物質などに強く紐付いたエネルギーであると言えます。<br /> <br /> Sat, 08 Jan 2022 00:00:00 +0900 眉間に改めて集中が定まる https://w-jp.net/2022/2584/ <br /> 眉間に集中するのは瞑想の基本であるわけですけれども、改めて感覚の違う集中になりつつあります。<br /> <br /> クンダリーニのエネルギーを後頭部及びその近くにある「半歩」を経由させて頭頂に上げ、それと同時にコスミック・クンダリーニあるいは6次元のクンダリーニあるいは6次元のハイヤーセルフなどと呼ばれているエネルギーを素直に胸のアナハタ付近からそのまま身体中、特に頭頂にまで充満させます。<br /> <br /> そうするとムーラダーラなどの下方から上がってきて後頭部を経由したクンダリーニのエネルギーと、6次元のハイヤーセルフのエネルギーが頭頂付近で融合し、その融合したエネルギーは行き場を求めて眉間へと流れ込んでいきます。<br /> <br /> 瞑想の間、基本的には大体いつも眉間にそれなりに意識を合わせているわけですけれども、必ずしも眉間にそこまで頑張って集中する必要はなくて、その時々に応じてエネルギーを通したい場所、例えば頭頂だとか腕だとか各所に意識を移したりすることはあるわけですけれども、この場合、クンダリーニのエネルギーとハイヤーセルフのエネルギーはその意識の方向づけに応じるように頭頂付近にてまずは融合し、その後、特にそこまで眉間を意識していたわけでもないのですけど、その融合したエネルギーが行き場を求めて眉間に流れ込んでいるのです。<br /> <br /> 頭頂のサハスララにはクンダリーニのエネルギーとハイヤーセルフのエネルギーが充満して、もともとハイヤーセルフのエネルギーは次元が一つは違うようでクンダリーニのように特に後頭部や「半歩」を経由するルートを取る必要はなくてそのままアナハタからサハスララへと通じるわけですけど、その、次元を異にするハイヤーセルフのエネルギーが元々のクンダリーニのエネルギーと融合して、また新たなエネルギーの状態、オーラの形として現れ、そのエネルギーは眉間に流れ込んでいるようなのです。<br /> <br /> この状態で瞑想を続けると、単にクンダリーニをサハスララに上げた時に起こる静寂の境地とはまた違った状態になり、静寂の境地においては若干、この世離れしているような感覚もあったのですけど、眉間に集中を新たにしたこの状態においてはより地に足がついているような気が致します。<br /> <br /> そこから、次元を異とした何かに繋がりそうな感覚もあるにはあるのですけどそれはまだ予感だけで、今の所、特別に変わったところといえばこの感覚くらいです。<br /> <br /> Sat, 08 Jan 2022 00:00:00 +0900 天のエネルギーは真っ直ぐ降りてくる https://w-jp.net/2022/2583/ <br /> クンダリーニのエネルギーはムーラダーラあるいはスワディスタナの近くから始まって背骨沿いにあるスシュムナを通って上昇するわけですけれども、一般的な通説においてはそのまま真っ直ぐサハスララに上がります。<br /> <br /> ですけど、各種の神秘主義の言い伝えによればそれは正しくなく、実際には、眉間のアジナにまで上がった後は一旦後頭部にまで経由してから再度上昇する、というルートになります。<br /> <br /> クンダリーニの経験談などを読むとクンダリーニが上がった時にそのまま頭頂まで突き抜けてエネルギーが頭頂のサハスララから抜けるようになった、などというお話を度々読むことがありますけど、私にしてみれば、これは良くない形でエネルギーが暴走してしまったのであって、自分の中にあるエネルギーのルートが異常な状態になってしまうこともあるように思えます。そうは言いましてもそれは時と場合によりますし症状次第ですので必ずしもそうとは言えないのですが、その危険性はあると言えます。<br /> <br /> 一方、クンダリーニではなく、ハイアーセルフ・コスミック・クンダリーニあるいは6次元のハイヤーセルフなどと呼ばれているエネルギーはそのようなルートに妨げられず、直線的に天から自分の体を通って地まで通じているように思います。<br /> <br /> 特にこの6次元のハイヤーセルフは最初はアナハタの後方から体と繋がってきて、その後、それは広がって天と地だけでなく周囲にまでその意識が広がっていくわけですけれども、その同じエネルギーの種類は、ハイヤーセルフと融合する以前であっても一応存在していて、ハイヤーセルフと融合する前においてそれは天のエネルギーとして認知されているように思うのです。<br /> <br /> その天のエネルギー、あるいは、ハイヤーセルフのエネルギーは融合前であれば天から真っ直ぐ降りてきて自分の体をエネルギーで満たしたり浄化したりします。<br /> <br /> 一方、自分の体とアナハタを通じて繋がった後はそのアナハタのエネルギーがそのまま天や地と繋がるようになります。<br /> <br /> Sat, 08 Jan 2022 00:00:00 +0900 プラーナとクンダリーニとハイヤーセルフ https://w-jp.net/2022/2582/ <br /> プラーナとはヨーガで言われている、いわゆる「気」のことで、生命エネルギーの一種であり、体により近いところで働く人の根源エネルギーになります。これは食物を取ることでも補給できますし、自然の近くにいることでも充実させることができます。<br /> <br /> 一方、クンダリーニは人の内側から沸き起こる根源エネルギーであり、ムーラダーラ(ルート・チャクラ)から現れてサハスララ(クラウン・チャクラ)にまで上昇します。<br /> <br /> これらは時に同じようなものとして表現されますけど別物で、プラーナの方は割と最初から存在していますけど修行などをしていない普通の人の場合はプラーナは弱く、充実していません。修行あるいは良い食べ物を取ることでプラーナが充実し、健康的に生きることができます。<br /> <br /> プラーナは健康的に生きるだけでなくクンダリーニの覚醒にも重要で、プラーナをまず充実させることでクンダリーニが動く素地が出来上がります。<br /> <br /> そしてクンダリーニが動き出すと根源エネルギーと繋がって今までとは別のオーラの状態になります。<br /> <br /> クンダリーニは最初はムーラダーラから始まって次第に優勢な箇所が上昇しますけど、そうしてサハスララにまで達すると静寂の境地へと至ります。<br /> <br /> これはすぐに起こるものではなくて数ヶ月とか数年かけて少しづつ変化します。<br /> <br /> クンダリーニが活性化することで一応はスピリチュアル的な成熟を得るのですけど、その後、ハイヤーセルフが降りてきて顕在意識と融合します。<br /> <br /> これらはそれぞれ、一応は全て異なる「オーラ」として認知され、プラーナとしてのオーラ、クンダリーニとしてのオーラ、ハイヤーセルフとしてのオーラとして、それぞれ別物として認知されます。<br /> <br /> オーラというとこれまた語弊があるかもしれませんけど、全ては「感じる」ものとして認識され、異なる状態、異なる感覚を伴って「それ」として認識されるわけです。<br /> <br /> Thu, 06 Jan 2022 00:00:00 +0900 論理のスピリチュアルから合一のスピリチュアルへ https://w-jp.net/2022/2581/ <br /> 論理であるカーラナ(コーザル、原因)の段階はスピリチュアルの1つの重要な段階ですが、論理は論理でしかなくて、それはまだ個というものに囚われています。論理というものは物理的な次元に囚われていて、論理は時空を越えるというところには至らないわけです。<br /> <br /> ヨーガ系の聖典であるヨーガ・スートラにおいては「合一」の段階をサマーディ(三昧)としておりますが、実際にはその合一はアストラルの感情の次元とカーラナ(コーザル、原因)の次元とプルシャ(神霊)の次元それぞれで起こります。<br /> <br /> アストラルの感情の次元で合一が起これば感情的な歓喜が沸き上がって高揚します。<br /> 一方、カーラナの論理の次元で合一が起これば理解したことによる歓喜が沸き起こります。<br /> <br /> そして、プルシャ(神霊)と合一した時は「自分」というものが消え去るように思うのです。<br /> <br /> これは、私自身の感覚では以下のように理解されます。<br /> <br /> ・アストラルの感情面:マニプラのクンダリーニによる歓喜及びそれによる感情の克服<br /> ・カーラナの論理面:ヴィシュッダに至ったクンダリーニに伴う真理の理解の始まり、及び、クンダリーニがサハスララに至ることによる更なる理解<br /> ・プルシャ:アナハタから入ってきた6次元のハイヤーセルフがプルシャ相当であり、アナハタとの融合がプルシャの合一の始まり。その後、ハイヤーセルフ(プルシャ)がアジナにまで満ちて、クンダリーニとハイヤーセルフがアジナで溶け合うことにより少しづつ「自分」が消え去る。<br /> <br /> 自分が消え去る感覚は時折起こっているわけですけれども、どうやら、そのトリガーとなるのは自分の中に元々あったクンダリーニのエネルギーとアナハタから始まったハイヤーセルフ(プルシャ)のエネルギーがアジナにおいて少しづつ融合するにつれて自分の意識が消え去るように思います。<br /> <br /> そして、それは自分の顕在意識の一時的な忘却ではあるのですけど、おそらく、それにより新たなる次元の扉が開きそうな予感もしております。<br /> <br /> それは見方を変えれば三浦関造氏による神智学的な解釈に基づいても同様と解釈できて、一旦は上がったクンダリーニが一旦アナハタに戻ってから再度上がる、という解釈もできるのですけど、私の見たところそれらは同じエネルギーではなくて、あくまでも元からあってムーラダーラから上がるのはクンダリーニで、背中の方からアナハタに繋がって身体中に広がるのはハイヤーセルフ(プルシャ)のエネルギーで、似てはいるものの別物かな、と思っております。別物というのはエネルギー的にも違うものとして感じられますし、おそらくは次元を異にしているのかな、という気も致します。<br /> <br /> Mon, 03 Jan 2022 00:00:00 +0900 感情のスピリチュアルと論理のスピリチュアル https://w-jp.net/2022/2580/ <br /> 感情はアストラルに対応し、論理はコーザル(カーラナ、原因)に対応します。<br /> <br /> そして、どの段階を扱うかによってスピリチュアルの形も変わってきます。<br /> <br /> これはどれが正しくてどれが間違っているかということではなく、それぞれの段階のうちどれを重視するかという違いでしかありません。とは言いましても、一応の段階を踏むことになりますので、一応はどれも同じという建前にはなってはいますけど、実際は階梯というものは基本的に存在しております。<br /> <br /> まず、物理的なところから始まります。肉体は全ての基礎ですから、スピリチュアルな人であっても肉体を疎かにはできないわけです。例えば肉体の健康を重視しているヨーガのアーサナ(姿勢、体操)があります。<br /> <br /> その後、感情としてアストラルを扱います。カウンセリングなどが良い例で、カウンセリングを行うスピリチュアルはアストラルを扱っている、ということになります。アストラルはそのままアストラルと言ったり感情(体)と言ったりしますけど、感情を克服して次の段階へと向かうようなスピリチュアルがこの段階になります。<br /> <br /> 感情をコントロールできない状態から始まり、感情をコントロールすることを学ぶわけです。それと同時に豊かな感情を学んだりします。<br /> <br /> 同じヨーガでも団体によって重点を置いている段階が異なっていて、感情的な克服を目指している流派もあったりします。例えばヨーガ的なカウンセリングを行なったり教えている団体がこの段階で、感情であるアストラルを扱っているわけです。その段階では往々にしてヨーガの「アヒムサ(傷つけない)」を基本にしており、感情のコントロールの目的が「自分が傷つかないこと」及び「感情でお互いに傷つけ合わないこと」になっていたりしますから、自分の感情をコントロールしたり、お互いに相手を傷つけないための表現手法を学んだり、カウンセリングで相手の感情をコントロールしたり、ということを学んでゆくわけです。<br /> <br /> アストラルの段階にいて感情に対峙している人々にとっては感情は大ごとで、自分が傷付けられたくないから自分の感情をコントロールしようとしますし、団体においては自分が傷付けられたくないから相手に同じように気をつけるように教育して、なおかつ表現方法に関して「同意」を取ろうとしているような団体も中にはあるようにも思うのです。そのように、同じような手法で表現してお互いに傷つけ合わない同意が取れたらその同意が取れた人たちの間でコミュニティができますけど、それはアストラルの段階の人が集まっている以上、結局はお互いが気をつけるしかなく、ある程度の注意と「同意」に基づいて存在しているコミュニティは感情のもつれがよく発生し、完全に感情を克服し得ないのがアストラルの段階にいる人および団体の特徴であると言えます。<br /> <br /> アストラルの段階では「同意」や「ルール」が数多く作られ、いわゆるそこらの宗教団体も大抵はこの段階です。ですから団体の中での同意やルールにこだわり、同意が取れていないよその人に対しては拒否をするわけです。その拒否の理由としてはヨーガ・スートラや仏教で言われているように「不徳の人は無視しましょう」みたいなところが根拠として使われるのですけど、そのようにして、アストラルの段階では他者とあまり関わることなく個別の道をゆくことになります。これは時に悪い習慣のように語られることもありますけどそれほど悪いことではなくて、必須ではありませんけど、ある程度の段階に至るまでは自分と自分を理解してくれる人というそれなりに小さなグループで守られるということも時に必要だと思っております。羊が守られる段階ですね。<br /> <br /> 次の段階は論理で、コーザル(カーラナ、原因)に相当します。この段階においては物事の根源にある論理、その原因を直接的に認識するようになります。この段階になると感情的なお話はなくなってきて、論理が感情を圧倒するようになります。<br /> <br /> コーザルに達した人にとっては感情を扱っているアストラルのヨーガは周りくどくて、話が3周回ってもなかなか真実に到達しない、と感じてしまって合わないのが実情です。そのくらい、この段階の認識は異なってきます。<br /> <br /> コーザルの認識はとても直接的で、コーザルの認識からするとアストラルの段階の人たちがやっていることはとてつもなく回りくどくて、例えば自分の感情を克服したり相手を傷つけないように表現に気をつけるだとか色々としているのを見ては遠回り過ぎると感じてその遅さに苛ついてしまうこともあったりします。<br /> <br /> コーザルの認識に至った人は時に感情というものをあまり考慮しませんから、まだアストラルの段階にいる人たちにとってはコーザルの段階の人は時にちょっと怖く写ったりもするようです。とは言いましても普通に教養がある人であればそんなことはないとは思います。<br /> <br /> これらは、いくつかある段階のうちの感情面と理性面のスピリチュアルとして理解されます。<br /> <br /> Mon, 03 Jan 2022 00:00:00 +0900 少数が大多数に与え続ける社会 https://w-jp.net/2022/2579/ <br /> 瞑想で見えてくる、一つの未来の可能性です。<br /> <br /> 今は資本主義社会で少数が大多数から搾取し続ける構造になっておりますけど、今後、可能かどうかは別として、少数が大多数に与え続ける社会に変革する必要があると思っております。<br /> <br /> とは言いましてもそれは人の認知が変化しただけのことで個々の労働という観点からすると実はさほど違いがないものになります。<br /> <br /> それは、一体どういうことでしょうか?<br /> <br /> 今の資本主義の構造においては資本家が資本を蓄積し、人々は自由の名の下に「やりがい」というものを与えられて低賃金の労働につくことになります。最近の新自由主義などの台頭により人々が自由にやりがいを感じていさえすればいくらでも安く労働させて良いという風潮が広がっているわけです。<br /> <br /> 労働者は社畜となり資本家のための奴隷に近い存在になるわけです。<br /> <br /> 一方、似てはいるものの、資本家が大勢に与え続ける社会においては、資産家とは言ってもその労働は資本家以外の人が行うものですから、実質、労働という観点からすると今までとさほど変わらないわけです。<br /> <br /> ですけど、異なるのは人々の認知で、資本主義においては人々は「自由」と「やりがい」によって社畜が正当化されていた一方で、与え続ける社会においては、人々は資産の分配のための作業員になるわけです。<br /> <br /> 与え続ける社会においても実際は労働者は必要で、個々の業務という観点からすると実は今までとそう変わりはないのですけど、認知において「資源の分配のための公のスタッフ」として現状の会社員も公務員も全てがそのように認知されるようになると社畜というものは消え、会社ですら公共の資源を分配するための組織に変わるわけです。<br /> <br /> 今でもそのような認知をしている会社があり、長く続いている老舗のような企業であったりするわけですけれども、最近では資本的に続かなかったりして破綻したりしています。と言いますのも、現在の経済システムに従っている以上、税金や利息あるいは諸費用の負担が大きすぎて、相応の資本があって経営にこなれていなければほぼ破綻するような状況になってしまっているからです。まともに経営しようとすると新自由主義のように労働者搾取しなければ企業の存続すら危ぶまれてしまう状況になってしまっているわけで、それ以外の選択肢はほぼなくなってしまっていると言えます。<br /> <br /> このような状況下では、少数が巨大な資本を持って大多数に与え続ける社会を作るしか打開策はないのではないか、と私は今のところ考えております。これはまだ最終的な結論ではなくて私の認知上の変化でもあるのですけど、資本主義というものがどのようなものかわかってきてからは、次第にこのように考えるようになり、それは、わかりやすく言うのであれば「国王、あるいはそれに準ずる人が国民全員に対して与え続ける社会」が理想的なものになります。今の社会には国王はいませんので、現実的には相応の資本家が自らの可能な範囲において自分ができる範囲で人々に与え続ける社会、というのが現実的な解になります。<br /> <br /> 実際のところ、私がここ最近の一連の転生を行う前は資本主義というものがそもそもよく分かっていなくて、特に今回の最後の転生をする前は「貧乏人」というものがどうして存在して貧乏人がどのような思考をするのかほとんど理解できずにいましたので、実のところ前の人生までは貧乏というものはほとんどしたことがなくて裕福だったわけですけれども、今回の人生の目的の1つがカルマの解消だったためにどん底に自分を叩き落とすついでに今まで経験したことのない「貧乏人」というものを体験してみることで人々を理解する助けにしようと思ったのでした。<br /> <br /> 今回の人生を割と貧乏で過ごすことにより貧乏人がどうして「ひねくれ者」なのか多少なりとも理解することができるようになりましたし、貧乏人が欲望を繰り返すことにより更に貧乏になってストレスが高まるというサイクルをも理解することができました。これらはモデルとして「勉強」することはもちろんできるわけですけれども、モデルとして理解するのは不十分で、実際にどのようなことなのか身近で体験したり多少は自分でその輪の中に入ってみたりすることでかなりの学びがありました。<br /> <br /> 就職してからは実際に社畜として働く人々と一緒になって働いてみたりして、社畜がどのようにして飼われてメンタルを壊して捨てられてゆくのかの実際の姿を理解することもできました。<br /> <br /> この種のお話は次々に新しい認知が生まれてきており、社畜を社畜として回転させるために上記の「やりがい」だけでなく新たな「理由」が与えられて認知が上書きされてゆくことで搾取し続けるシステムであると理解しました。「やりがい」という理由が使えなくなれば次の理由を与えて社畜を存続させる構造なわけです。<br /> <br /> そのような資本主義のシステムを肯定してしまうと自分が社畜になるかあるいは搾取する側に回るしか選択肢がなく、搾取する側に回ることが人々のゴールになってしまっていて、全員が幸せになるというところになかなかならないわけです。<br /> <br /> そのような自由な資本主義に未来はなく、一部の有力者が富を与え続ける状況に転換するしか打開策はない、というのが私の今の考えです。<br /> <br /> これは国がそのような方向に転換できれば一番良いですけど、今の状況においては搾取が一層加速される危険性もありますのでなかなか難しいと思っており、そうであれば、圧倒的な資本を持った資産家が出てきて大勢に与え続けるという影響範囲を可能な限りで広げてゆくしか今の状況を打開する策はない、と思っております。<br /> <br /> これは一見すると「そんなこと不可能なのでは」と思えてしまうお話ではありますけど、それよりもむしろ、とても力を持った存在が「よし、やってやるか」と「決断」するかどうかのお話でもあります。これが可能な人は限られているわけですけど、可能な人が決断すれば実はそう難しくはなく、そのような人が少しづつ増えるだけでこの社会は変わってゆくわけです。<br /> <br /> 人々が社畜から「分配する人」に変わるわけです。<br /> <br /> Sun, 02 Jan 2022 00:00:00 +0900 ハイヤーセルフのエネルギーは「半歩」に妨げられない https://w-jp.net/2021/2577/ <br /> クンダリーニのエネルギーが後頭部を通ってサハスララに抜ける時、ルートとしてはいわゆる半歩を超えてエネルギーが上昇します。ですから、クンダリーニの場合は直線的にエネルギーが行き渡るのではなく、ある程度のルートを通って行き渡るわけです。<br /> <br /> クンダリーニのエネルギーは意識で操作することができて、意識を使ってまずは眉間に集中するわけですけれども、眉間に集中するのと同じ意識を使って後頭部及びその手前にある「半歩」を抜けてサハスララに上昇するわけです。<br /> <br /> そうは言いましても、部分的にはそのルートを通らずにそのまま直進して上昇するエネルギーもあって、今まではそれが何なのか区別がつかずにいました。無意識のエネルギーはルートに妨げられずにスッとサハスララにエネルギーが、文字通り「いつの間にか」上昇していたように思います。<br /> <br /> 日によってはエネルギーがルートや壁に妨げられずにそのままサハスララにまで上がる場合もあったわけですけど、割合で言いますとそれは少なくて、大抵の場合はルートを通ってエネルギーが上昇していたように思います。<br /> <br /> 特に無意識になっている時にはルートに左右されない気がしていましたので、違いとしては、意識を使ってエネルギーを上げるか無意識を使っているか、という点がポイントだったように思います。<br /> <br /> 今まではそのように、無意識でふとした拍子に上がる、という感じでしたが、最近は、今まで無意識に近いところで上げていたハイヤーセルフのエネルギーも意識的に動かすようになってきました。<br /> <br /> 過去の記録を見ると最初から自分の意思でハイヤーセルフのエネルギーも動かせたような感じですけど、最初こそそれを試したものの、その後は、そもそも動かすというところをそれほどしていなかったと言いますか、動かすことを意図していなかった、という感じでした。<br /> <br /> 最近になってふと気がついて、このハイヤーセルフのエネルギーをそのまま動かせばいいのでは? とふと気がついて、やってみたら「半歩」や後頭部のルートに妨げられずにスッとエネルギーがサハスララにまで上がりました。<br /> <br /> 実際のところ、この違いは何だろうか、という点に関して、そこまで気にしていたわけではないのですけど、最近になってクンダリーニのエネルギーとハイヤーセルフの違いを明確に意識するようになってきています。元々違うエネルギーの質ということは気がついていたわけですけれども、そこまで分類していたわけではありませんでした。<br /> <br /> 同じクンダリーニの一種かな、というくらいに理解しておりましたが、昔からあったエネルギーでエネルギーのルート(ヨーガでいうところのナディ)を通るのはクンダリーニで、ナディとは関係なく身体中に満ちることができるのがハイヤーセルフのエネルギーのように思います。<br /> <br /> 妨げられずに上昇するエネルギーはハートにある創造・破壊・維持の意識、それは言い換えればハイヤーセルフの意識のことで、それは基本的に胸の周りにあるわけですけれども、その同じエネルギーを腕ですとか頭頂のサハスララにまで意識で広げて浸透させることを意識すればナディに妨げられずにエネルギーが浸透し、それによりクンダリーニがサハスララに上昇した時とはまた違った静寂の状態に至るわけです。<br /> <br /> Tue, 28 Dec 2021 00:00:00 +0900 子供に「心が自分」と教えない https://w-jp.net/2021/2576/ <br /> 一般的には「自分とは心」と信じられていて、親や学校などではそのように教えられていると思います。<br /> <br /> 実際のところ、ヨーガなどでは心は「道具」と教えられていて、心は「自分」が使う道具に過ぎないわけです。<br /> <br /> ここに、とてつもなく大きな認識の違いが存在しています。<br /> <br /> 心が自分だと教えられた場合、例えば酷い考えや卑猥な考えが頭に浮かんだとして、その考えが心の姿という解釈になりますから自分というものがそのように醜くて卑猥な存在であると認知するようになるのです。<br /> <br /> 一方で、心は自分ではなく道具だと教えらた場合、醜い考えや卑猥な考えが頭に浮かんだとしてもそれは五感の拡張でしかなくて、例えば目に醜い言葉や卑猥な言葉が不意に飛び込んできたり、あるいは、道を歩いていたりテレビを見ていた時に酷い言葉や卑猥な言葉が聞こえてきた時と同様、ただ単にそのような言葉が頭に浮かんだ、キャッチされた、と捉えるわけです。<br /> <br /> これらの間にはかなりの違いがあって、学校で「心は自分」だとか「我思う故に我あり」だとかいう言葉を表面上の説明で教えられてしまうと次第にこの社会生活の中で自分が酷い人間だと思うようになり、自己嫌悪に陥ってしまうことになります。<br /> <br /> それから逃れるためには主に2つの道があって、1つはよく勉強して真実を理解すること、もう1つは、あまり深く考えずに直感に従って生きることです。<br /> <br /> 割と多くの人がこのどちらでもなくて、ただ教えられた通りに解釈して頭を混乱させて生きているように思いますけど、その根本を辿れば、このように「自分」と「心」というものに対する理解が最初から食い違っているところに原因があるように思うのです。<br /> <br /> 直感に従って生きる道は割と女性向きでスピリチュアル的な考え方と言えなくもありませんけど、同様に直感に従うことで反抗期のようになったりもします。直感に従うことで自分の本性が出ますから、単に教えられたことに従うことを辞めた時にどのような生き方が現れるかはその人の精神性の根源に依存するわけです。<br /> <br /> それなりにスピリチュアルな基礎がある人が直感に従って生きるようにしたならばそれなりの落ち着きを持った生活になりますけど、基礎がないのであれば社会の道を踏み外すことも考えられ、そうであればもしかしたらコントロールされて生きていた方が幸せだったかもしれません。<br /> <br /> 一方で、何かおかしい、と気づいて勉強して真理を見出す人もいるでしょうけど、それもまた大変なお話のように思います。<br /> <br /> どちらにせよ、「心が自分」などという間違った考え、おそらくは教えている大人や学校の先生であってもそのことをよく分かっていないようなお話をおいそれと子供に教えるべきではないと思います。それにより自分がよく分かっていないことを子供に教える罪というものを大人や学校の先生は背負うことになるわけです。<br /> <br /> 子供はそんなことよりも自分のなすべきことである勉強をしたり心身を鍛えたり心を落ち着かせたりと言った実践的なことをすべきで、「心が自分」などという、実は間違っていて大人自身にとってもわかるようなわからないようなお話を教えるべきではないと思うのです。<br /> <br /> 何かを教えるのならば日本であれば仏教的な教え方もできるでしょうし、近くのお坊さんを呼んできても良いでしょう。あるいは色々な考え方を紹介して「心が自分」という考えだけでなく「心は道具」という考え方も紹介しても良いとは思いますけど、そのように幾つも教えても子供は理解せずに1つだけが頭に残るということも多いですので、そのことはお坊さんに任せるとか、あるいは、どうせ教えるなら「心は道具」という考え方にしておく方が良いと思います。その方が子供が自己嫌悪に陥らずに済みます。<br /> <br /> 学校の先生は、子供が荒れている理由がよく分からない、みたいなことを言いますけど、その原因の1つがこのことだと私は思います。「心は道具」と教えるだけで子供の心は穏やかになっていって理知的になって思考力も格段に上がります。そのくらい重要な知識であるのに、何故か、学校の現場では「心が自分」などと言った、実際はその考え方はただ単に1流派の考え方に過ぎないのに、何故か「心が自分」こそが絶対的に正しいかのように学校で教えられているが故に、その間違った考えを教えているが故に子供が混乱して学級崩壊などに繋がる一旦になっていたりするわけです。<br /> <br /> Tue, 28 Dec 2021 00:00:00 +0900 6次元のハイヤーセルフを身体中に満たす https://w-jp.net/2021/2575/ <br /> 胸にある創造・破壊・維持の意識はいわゆる6次元のハイヤーセルフのことだったようで、そのハイヤーセルフを身体中に満たすと意識の面でも変化が起こります。<br /> <br /> ここで言う次元数は該当図書の言う次元数で、実際のところ何故に6次元なのかは私にもそこまでよくわかっているわけでもありませんけど、とりあえず6次元としておきます。<br /> <br /> そのハイヤーセルフはおそらく次元を超えているわけですけれども、それでも体感としては肉体の各部位と言う「場所」の属性も持っているわけです。6次元と言ってもこの世とは全く関係のないどこか遠くの場所に存在しているわけではなくて、その次元のうち現在のこの次元と重なり合う部分があるのだと解釈しています。<br /> <br /> そのように、ハイヤーセルフにも「場所」という属性があるわけですけれども、ざっくばらんに言うとそれは「オーラ」として認識されます。それも、割と「漆黒」のオーラとしてハイヤーセルフは認識されるように思います。<br /> <br /> そして、それをこの次元の感覚で解釈すれば創造・破壊・維持の意識として感じられ、そこには創造だけでなく破壊などの儚い部分も同時に存在しているわけです。<br /> <br /> その漆黒のオーラを体の各所に満たすようにすると、意識の面でも変化が現れます。<br /> <br /> 腕などに通しますとその部分に意識が通って、より細かな感覚や動きを把握できるようになります。<br /> <br /> 頭に通しますと意識が一層クリアになり、視界や思考がより高速に細かく認知できるようになります。<br /> <br /> これをしなくてもクンダリーニのオーラを頭に行き渡らせればそれなりの静寂の境地になりますけど、この漆黒の創造・破壊・維持の意識、それはハイヤーセルフの意識であるわけですけれども、それは胸、特に背中の方から私の今の肉体の体と繋がって、クンダリーニのエネルギーとも徐々に統合されるわけですけれども、その、胸のハートから広がるエネルギーが体の各所に行き渡ることで変化が現れるわけです。<br /> <br /> 単にクンダリーニのエネルギーを体の各所、特に頭に浸透させるだけでもそれはそれで有用で静寂の境地になり寂静になって般若を得たかのような感覚に一応はなりますし、それはそれでとても重要な一歩かとは思いますけど、このハイヤーセルフの意識はそれを一段階超えているように思います。<br /> <br /> クンダリーニのエネルギーを満たすだけでも静寂の境地であることは間違いないわけですけれども、クンダリーニのエネルギーの場合は意識にノイズがまだ乗っていて、ハイヤーセルフの意識ではそのノイズがかなりのところで取り払われますので、ハイヤーセルフの意識こそが静寂の境地、寂静の世界というのに相応しい気も致します。<br /> <br /> とは言いましても、次の世界を知るまでは知り得たところまでが最上でありますので、クンダリーニのエネルギーが経験した最上であればそれが静寂の境地ということになりますし、これから更に深い静寂の境地を経験するかもしれませんので、このハイヤーセルフの意識すらも相対的なものなのかな、と思っております。<br /> <br /> Tue, 28 Dec 2021 00:00:00 +0900 象と盲目の人、の譬え話 https://w-jp.net/2021/2574/ <br /> 「盲人と象」あるいは「群盲象を評す」というインドで有名な昔話があります。このお話は仏教経由で日本にも広まり、多くの人がことあるごとに引き合いに出しています。<br /> <br /> 簡単に言いますと、何人かの盲人が象を触って「象とはこういうものだ」と口々に言うのですがそれは象の一部分しか表しておらず実際の象の姿とは異なる、と言うお話です。部分を持ってしてそれがあたかも全体であるかのように語る盲人は全体像が見えていない、というお話で、それを引き合いに出して、特に宗教者が自分達の教義を説明する時に使うことがよくあるわけです。<br /> <br /> 私自身もこのお話を30年以上前から度々色々なところで色々なニュアンスで聞く機会があったのですが、最初こそ「ふむふむ」と単純に納得していたのですが、次第に、言う人によって様々なニュアンスがあることに気がつきました。<br /> <br /> 大きく分けるとそれは2つで、<br /> <br /> ・(該当宗教の)権威付けのための引き合いにしている場合<br /> ・部分であっても真理であるから小さな真理を積み重ねれば全体としての真理に至ると言う例え<br /> <br /> 前者の場合、該当宗教団体の教祖などが有難い教えを享受するから有り難く受け取るべし、と言う形で表現されることが多くて、それを聞く人は単純に「そのような真理を聞くことができて私はなんて有難いのでしょう」と感謝を持って聞くことになります。その感謝はどちらかというと宗教的な感謝で、やがては盲目的な信仰に繋がってゆくものです。やがてその考え方はエスカレートして、該当宗教の教えは一般庶民には理解できない崇高なものであるという権威付けが強化され、盲人である一般庶民の理解と崇高な教えを受けた教団の人々の理解の間に断絶があって、教団員は象の全体を知っているが一般庶民は盲人のように部分だけを見て全体の真理を語っている、というように解釈されます。<br /> <br /> このように、前者の方には断絶があり、宗教団体や教義を権威付けしようとする人たちがよく用います。<br /> <br /> 後者は部分であったとしてもそれは真理の一部を言い表しているのでそのような探求を続ければやがては真理の全体に至る、というお話です。<br /> <br /> 実際には、これら2つは重なっていて、完全にどちらか一方、というお話にはならないのですけど、場合によってどちらに重きを置いているのか、あるいは、途中まで片方に重きを置いていたかと思ったら急に話をすり替えてもう片方のお話になっている、と言う時もありますので注意が必要です。<br /> <br /> 前者には断絶があり、後者には断絶がない、と言うこともでき、これらの2分類から更に分化することもできます。<br /> <br /> 1.断絶あり → 神は不可知とする考え方<br /> 2.断絶あり → 神は認知可能だが難しい、とする考え方<br /> 3.断絶なし → 神・真理は緩やかに段階的に認識する、と言う考え方<br /> 4.断絶なし → 神は存在しない、自らの認知が全て、という考え方<br /> <br /> 1.断絶あり&神は不可知、の場合は知ることができないのですから信仰だけがそこにあります。<br /> 2.断絶あり&神の認知は難しい、とする場合は宗教団体の教祖など選ばれた人、あるいは修行をすることで神の認知をする、というお話になったりします。それにより宗教団体の権威が強化されたりします。一応は万人に神の認知の道は開かれていますけど断絶があって難しい、という考え方です。<br /> 3.断絶なし&緩やかな認識、の場合は万人に神の認知が開かれていて、ちょっとの認識を繰り返すことでやがては心理に至る、と言う考え方です。この場合、宗教団体の権威付けはしにくくて、神の経験は個人的なものになります。これが、この象の譬え話の解釈として一番適当に思います。<br /> 4.断絶なし&神は存在しない、と言うのは無神論者のお話ですからここでは話をしなくていいと思います。<br /> <br /> この種の譬え話を聞くときは注意が必要で、話し手のニュアンスによっていかようにでも変わってしまうものです。<br /> <br /> そもそも、私の理解では、この譬え話は真理の全体を説明するものではなくて、インドのヴェーダンタの説明において「全体」としてのアートマンとそれを認知する際の人間の限られた五感を説明するためのもので、広く一般的に理解されているような真理の全体というお話ではなかったように思うのです。<br /> <br /> とは言いましてもこれは古い譬え話ですから本当のところで最初にどのような意味だったのかを確かめることはできませんけど、元々の出所を見ると、どうも、ヴェーダンタのアートマンの説明が世間に広まって一般的な真理のお話として広まった、と解釈するのが適当に思います。<br /> <br /> アートマンのお話であれば、それはただ単に認知のお話をしているだけですので権威とかは全く関係がなくて、単に認知できるかどうかのお話です。それであれば普通に理解できるのですけど、象のお話は往々にして権威と結びつきやすく、聞くときに注意が必要に思います。<br /> <br /> Sun, 26 Dec 2021 00:00:00 +0900 他の人のアセンションの体験 https://w-jp.net/2021/2573/ <br /> ふと開いた本のページにそのような記述があり、それが私自身のレムリアのアセンションの記憶と類似していて興味深かったです。<br /> <br /> 最初にまず身体が軽くなって浮くような感じを体験します。そして実際にアセンションが始まるにつれて、細胞内の光の波動が高まってゆき、(中略)私は歓喜と光を感じ、深い放下(ほうげ)の感覚を体験しました。やがて私の身体は純粋な光となって空中を浮きながら、物質世界から姿を消して、定められた目的地である高い次元へと到達したのでした。そのあいだ歓喜と光、放下の感覚はずっと私のなかにあふれていました。 「プレアデス覚醒への道」より<br /> <br /> この方は物質的な体からアセンションしたようですけど、私の場合はレムリア時代に半物質の少し宙に浮いたような状態からアセンションしましたので、元々浮いていたのが更に上昇した、という違いはありますけど概ね似ているように思います。<br /> <br /> 現代において同様のアセンションが起こるかどうかは良く分かりません。<br /> <br /> この世界は無限の可能性があって、このようなことも普通に起こり得ると思っています。文字通り、制限はないわけです。どんな事でも起こり得ます。ただ、それが人の認知に入ってくるかは別のお話ですけど。<br /> <br /> 私の記憶によれば、レムリアの時にアセンションできなくて地上に残された人がその後、いわゆる先住民として地球に残ってアメリカンインディアンになったり南米の先住民、あるいはオーストラリアのアボリジ二になったりしたわけです。<br /> <br /> それらの人々は現代の人々と比べると比較的に精神性の高い暮らしをしているという面も多いにあるのは確かですけれども、実際のところ、レムリアの時にアセンションできなくて地上に残された人たち、という面もあるわけです。<br /> <br /> その後、アセンションした人たちのほとんどは別の世界に行きましたけど一旦アセンションしたもののこの地上での経験をもう少し積みたい人あるいは何がしかの理由があるほんの少数だけこの世界に残っていて、霊的な存在としてこの地球を導いたり、あるいは、わざわざまたこの世界に転生して人々を導いたり、単に経験を積むために地上の生活をしていたりします。ですけど、そもそもレムリアでアセンションしたのにわざわざこの世界に残っている人というのがかなりの少数派で、アセンションした大多数は新たなる次元で高次の精神性を伴う生活をしているわけです。<br /> <br /> 一方、そもそもアセンションできなくて地上に残された人々、というのも大勢いるわけです。<br /> <br /> ですから、そもそもレムリア系の人々はこの地上の全人類の中で割と少数派ではあるのですけど、元々少ないレムリア系の中でも割と大部分がアセンションできなかった人たちで、レムリア系でアセンションしたのにわざわざまだ残っていて霊的存在として関わっていたり転生していたりする人たちはレムリア系の中でも割と少数派のように思います。<br /> <br /> 今後、地球で同じような大規模な大多数のアセンションが起こるような気はしなくて、あるとしても個別になるのではないかな、と思っています。<br /> <br /> <br /> (2021/1/2 少し追記)<br /> Sat, 25 Dec 2021 00:00:00 +0900 背中からハートに繋がるハイヤーセルフ https://w-jp.net/2021/2572/ <br /> 本をパラパラとめくっていたところ、このような図が目に飛び込んできました。<br /> <br /> <br /> 「プレアデス覚醒への道」より<br /> <br /> このページには「6次元のハイヤーセルフから伸びてきて...」と説明があります。<br /> <br /> 私が約1年前に創造・破壊・維持の意識を感じた時、それは「背中から」近づいてきてハートの中に入っていきました。実際のところ、この種の説明はこの書物以外ではほとんど見たことがなくて、背中から入ってきたこれは一体何なのだろう・・・? と思っていたのですが、ふと記述を見つけて、入ってきたのはハイヤーセルフだったのかと妙に納得しました。ただ、次元数は何なのか良く分かりませんけど。<br /> <br /> 背骨沿いの上下のエネルギールートのお話はよく耳にして、いろいろな書籍、ヨーガですとかスピリチュアルなどで頻出していますけど、このように「背中」のお話はほとんど見たことがありませんでした。<br /> <br /> この書物それ自体は以前から所持していたのですけどこの部分は割とスルーしていて、ふと見てみたらこのような図があって驚いたのです。その記述によりますと、まず、頭頂や松果体が活性化すると次にこのように背中からハートに対してハイヤーセルフと繋がるとのことです。このワークにはもう一段階あって、会陰・お腹、そしてハートのつながりを感じてエネルギーが入ってくるようにします。<br /> <br /> 実際のところこの流派の教えを受けたわけではありませんので全く同一ではないのかもしれませんけど、内容的に似通っていて、とても興味深いお話であります。<br /> <br /> この種のお話って、ワークに参加してもガイダンスがあるだけで、ガイダンスを聞いてなんとなくそれっぽい気になって「そんなものなのかな?」と漠然としてしまうことも多いと思いますけど、実際のところ、この種のお話ははっきりとした実感を伴っていて必ず「それ」とわかる確信に満ちたものがありますので、時にはちょっと勘違いした別物の確信だったりすることもありますけど、確信違いの場合を除けば、基本的にはこの種は確信を持ってして成し遂げたとすべきで、なんとなくセミナーで言われて「できた」と思わない方がいい種類の事であるように思います。<br /> <br /> この種のお話は本で読んだりワークでガイダンス受けたとしてもすぐに腑に落ちないことも多々あって、そういう時は「そのような状態や変化もあるのかも知れない」と一旦は判断を保留にすることが重要で、自分が体感できないからといって嘘とは限らなくて、単に自分に準備が整っていないだけの場合も多々ありますので、真理の言葉は鵜呑みにはせずに自分で理解して体感して腑に落とすことが重要として一旦は判断を保留することが重要に思います。そこまで真面目に考えなくても、スピリチュアルのお話は多岐に渡っていますので、良くわからないお話は(否定はせずに)一旦はスルーするくらいでもいいと思います。<br /> <br /> Sat, 25 Dec 2021 00:00:00 +0900 ウイグルと漢民族のどちらが悪いのか https://w-jp.net/2021/2571/ <br /> 数日前にアメリカでウイグル強制労働防止法が成立して120日後から施行されるとのことですけど、その背景にはウイグルで強制労働だけでなく大量虐殺をしたり夫を処分した後の女だけの家庭に漢民族の男を送り込んで漢民族の混血の子を作らせたりとやりたい放題なわけですけれども、この種のお話は単純に片方が被害者で片方が加害者と言い切れない部分があります。<br /> <br /> とは言いましてもこれは瞑想中に降りてきたことですので本当のことかは分かりません。<br /> <br /> 史実を見てみても古くはジンギスカンの時代より遥か昔から延々と漢民族は北方の騎馬民族の脅威にさらされていて、有名な万里の長城も北方の騎馬民族の侵入を防ぐために作られたものでしたし、昔から漢民族だけなく中国本土とモンゴル方面との争いは続いていたと言えます。<br /> <br /> そして、時代によっては北方民族が支配したり漢民族あるいは他の民族が支配したりという歴史を繰り返したことによりカルマが積み重さなっている状況のようです。今の時代は漢民族が支配しているけれども、将来的にはウイグルがまた優勢になる時代も考えられるわけで、その時に今度は逆のことが起こる可能性が大いにあるわけです。放っておけばそのようにお互いに相手を虐殺し合う関係が中国の各民族とモンゴルの間でカルマとして積み重なっているようです。<br /> <br /> その関係に終止符を打つには、瞑想中に明らかになった答えとしては「どちらかが最初にダルマ(良い行い、正義、秩序)に目覚める必要がある」とのことでした。そして、最初に目覚めた方が正しい秩序ある状態に導いてお互いの不和を解消してゆくことが肝心である、とのことです。<br /> <br /> ダルマとはインドや仏教で教えられている宇宙の法と秩序のようなもので、インドの物語ではよく王様をダルマの化身、秩序の象徴として例えられることがあります。そのように、いわば公平な法を司ることがダルマであって、それにどちらか片一方が目覚めることによりこのように一方がもう一方を虐殺するような状況に終止符を打つことができるとのことです。<br /> <br /> このようなカルマの循環がなされている状況ではどちらか一方を罰するということはできなくて、直接的に罪を問うことができるのは今現在の加害者である中国政権側で被害者としてはウイグル側であるわけですけれども、現代の法制度で問うことができるのはそこまでで、それをするのは直接的には必要なことではありますけど、それだけだと、安全になったウイグル側が勢力をつけて今度はまた逆のことを行う将来の可能性もあるわけです。<br /> <br /> その時、今度は勢力的に優位に立っている側がダルマに目覚めてくれるかどうかが鍵になるわけで、勢力の入れ替わりは時代を経るごとにサイクルが繰り返されますけど、ダルマに目覚めていなければまた虐殺や混乱に戻ってしまって加害者が今度は被害者になるわけです。<br /> <br /> 今の直近では加害者が中国政権側で悪いのはもちろん共産党側ですけど、中朝的的に見るとどちらも加害者になり得るわけです。<br /> <br /> そのサイクルを止めるためにはダルマに目覚める必要があって、目覚めるのはどちらでも良くて、今加害者で悪い側である中国共産党であっても良いわけです。テレビのドラマや映画とかですと被害者の中からヒーローが現れるというのが定番になっていますけど、実際のところ、ダルマに目覚めるのはどちらでも良いのです。<br /> <br /> いま加害者で悪いことをしていてたとしても、このようにカルマのサイクルが回っている状態ではどちらが良いか悪いかということはダルマに目覚めるという視点からすればあまり関係がなくて、どちらであってもダルマに目覚めた人が国を収めるあるいは国を収めている人がダルマに目覚めることでカルマのサイクルから脱却してゆくようで。<br /> <br /> そういうこともあり、今現在も、神様やライトワーカーは中国共産党の幹部などに積極的に介入しているようです。<br /> <br /> これはやもすれば加害者側に加担しているのではと思われる人もおられるかも知れませんけどそうではなくて、結局のところポイントとなるのはダルマに目覚めた人が国を収めるかどうかの点であって、であれば、既に国を統治している人をダルマに目覚めさせる、ということも十分に選択肢の1つになるわけです。<br /> <br /> Sat, 25 Dec 2021 00:00:00 +0900 知る必要があるのかどうかをまず考える https://w-jp.net/2021/2570/ <br /> 何だろう、と思ってもすぐに「知りたい」とは思わないことがスピリチュアル的には重要なわけですけれども、世の中のマーケットや他人から何かを奪いたい人はこの辺りの仕組みをうまく活用していて、「何だろう」みたいな不思議から始まって他人に消費を自発的にさせたり、あるいは、他人から何かを奪うようなことをあたかも自発的にさせたりするのです。それは操作とも言えますけど割と最近はこの種の手法は洗練されていて本人は自発的と思っていても実際にはマーケターの計画に従って消費させられていることがかなりあるわけです。<br /> <br /> あるいは、他人から何かを奪う際に執拗に何かを主張して「〜はすごいだろう」ということに対して同意させるということを行います。その種の「理解の同意」に関してはなかなか否定することが難しくて、特に田舎や家族あるいは親戚あるいは学校の付き合いのような閉ざされた社会においては付き合いでその種の「同意」が半ば強制されることがあり、その同意さえ取れてしまえば「それなら、〜したいだろう」というところまで階段が用意されているわけです。そこまで来れば他人から消費を引き出したり他人から何かを奪いたい人にとっては好都合で、あとは「〜したい」という他人の欲望に何度も何度も働きかけていけば他人の中にその感情が高まって願望になりますので、そうなったら他人が思う通りに動くわけです。そうして他人のものや財産を手に入れることができる、という構図になっています。<br /> <br /> これは短期的には販売員の手法としても使われているわけですけれども、直接的には広告という形あるいは中長期的にはマーケッティングという形でこの社会に浸透しています。<br /> <br /> それは「何だろう」という疑問から始まって「〜知りたい」というところまで来ると願望になり、その後に待っているのは「消費行動」なわけです。<br /> <br /> 身近なところでは何かを買わせたい近所のズル賢い商売人だとか、他人から奪いたいだけの五月蝿い家族の一員、あるいは親戚などがこの種の行動を取ったりします。その種の人たちはまず「〜何だろう」というところから始めて「〜したいだろう?」というところまで執拗に話しかけてきて同意を取ります。後は上記の通り、最後の「消費」行動あるいは何かを「渡す」まで、それはつまりズル賢い人が奪う、ということですけど、それをターゲットがあたかも自発的に行うまでそのマーケティングを執拗に繰り返すわけです。<br /> <br /> その最初が「知りたい」という点であり、「何だろう」と思っても「知りたい」と思わないことが現代においては重要なわけです。<br /> <br /> もちろん、知る必要があることもありますから、そこは選択的に行うということです。知る必要がないことを、他人が「これ何だと思う?」とか「凄いだろ」とか言ってきたとしても、それを知りたいと思うかどうかは自分の判断次第ということです。<br /> <br /> まず最初に「知るべきかどうか」「知る必要があるのかどうか」を判断する必要があるわけです。<br /> <br /> Sat, 25 Dec 2021 00:00:00 +0900 何だろう、と思ってもすぐに「知りたい」と思わない https://w-jp.net/2021/2569/ <br /> 子供心、探究心あるいは出来心で「何だろう」と思うことは多々あるとは思いますが、その時、何に対して「知りたい」と思うのかを選択的に意識的に行うことは重要で、闇雲に「知りたい」と思わないことが重要です。<br /> <br /> この時、「知りたい」と思ってそれがある程度高まった時にカルマの歯が回り出し、現実化に向かいます。<br /> <br /> 何かを知りたいな、だとか、何かの職業に就きたいだとか、その種の願望はこの「選択」が最初のトリガーになります。<br /> <br /> そのトリガーが発動する前の「何だろう」という段階でやめておけばカルマは動き出しません。<br /> <br /> ですから、「何だろう」と思ったときに、それを知りたいかどうかをまず判断して、「知りたい」と思うかどうかを選択的に行うことが必要なわけです。そのためには意識的な人生にする必要があって、無意識が生活の大半を占めているような生き方ではその種の「知りたい」という選択すらも無意識でおこなってしまって、カルマの歯が回り続けることになります。<br /> <br /> とは言いましても大抵の人の人生はそんなものですのでそこまで気にする必要はないのですけど、カルマの歯車から抜け出したいと思うのであればまず意識的になってこの種の「〜したい」という願望から逃れる必要があるのですけど、それは大雑把に言えば「願望」ということでありますけど、それは本来は願望というよりは「選択」なわけです。意識で「〜したい」という選択がまず行われてそして「願望」というより具体的な形へと変化するわけです。ですから、最初にまず「〜したい」という選択を行わなければ願望も表れてこなくて、カルマの歯車から逃れることができるわけです。<br /> <br /> Sat, 25 Dec 2021 00:00:00 +0900 創造の意識が持続する https://w-jp.net/2021/2568/ <br /> 約1年前から胸の奥にて夜明けを感じて創造・破壊・維持の意識が深まってきたわけですけれども、ここ最近は割と落ち着いたもので、少し状態が昔に戻ってきた感じがしておりました。<br /> <br /> この種の「戻る」感じは度々起こっていたことで、マニプラ優勢からアナハタ優勢になる前もどこか似たような停滞感を感じていたわけですけれども、これはおそらくは停滞というよりはスポーツや武道および勉強などで言われている一種のプラトー状態なのかと思います。そしてプラトー状態が少し続いた後に一気にレベルアップする筈で、今まではそんな感じでした。<br /> <br /> ですので、この種の停滞感はポジティブな面として捉えています。<br /> <br /> ここ1年ほどで創造・破壊・維持の意識が表れてきてそれが割と普通になってからは、それがどこかへと消えてしまってなくなったかのような感覚になっておりました。半年くらいはその感覚がはっきりとわかったのですけど、ここ最近はそのような意識を明確に感じなくなり、少し戻った感じになっておりました。<br /> <br /> そこにきて、ふと、静かな形でぽっかりと穴が空いたかのように深淵が見えて、そこに至ると何もなくて、心が消え去ってしまう状態になってきているわけです。<br /> <br /> それは、元々は一時的あるいは急激な変化という形で創造・破壊・維持の意識として私は認識したわけですけれども、1年前に急激な変化が来て、その同じ変化ではあるのですけどある程度の安定状態になって、その同じ変化が安定した形で更に深まったのかな、と解釈しております。<br /> <br /> ですから、1年前は急激に来たからこそ創造・破壊・維持として認識されたわけですけれども、今は安定しておりますので、同じ意識ではあるのですけど、面としては創造の意識が強く感じられます。<br /> <br /> それはエネルギーであり、全ての根源でありますから破壊や維持もあるのですけど、それよりは、創造という面が表に出ているように思うのです。<br /> <br /> 確かに破壊や維持という面もあって、それは一時的に表れはしますけど、それよりは創造というのが実情に合っているような気も致します。<br /> <br /> 今後、瞑想が深まるにつれて違う面も出てくるのかもしれませんけど、今の状態としては平穏な静寂の境地から更に深まって深淵の「穴」を垣間見て心というものが消え去りますので、働きとしては破壊と言えなくもありませんけど、それよりは、エネルギーの本質としては創造であるように思います。<br /> <br /> Fri, 24 Dec 2021 00:00:00 +0900 意識は与えられているものであることを理解する https://w-jp.net/2021/2567/ <br /> 普通の状態、瞑想がそれほど深まる前では人の意識というものは雑然としていて混乱しています。その状態では雑念が次々に湧き出て例えば考え事や想像、あるいは自己批判のループに陥っていたりします。<br /> <br /> そのような状態では心が休まることがなくて常に疲れた状態になっているわけですけど、瞑想をするにつれて心が静まっている状態が増えていきます。心が動いていない状態が静まった状態でありリラックスできる状態なわけです。<br /> <br /> そのように心が鎮まるというのが第一の段階であるわけですけれども、その状態というものが更に深まってゆくと静寂の境地になり、心が文字通り水面のように静かになっていることを体感します。<br /> <br /> 実際のところ、この状態の解釈は顕教と密教あるいはヴェーダンタやチベットのゾクチェンなどでは解釈がそれぞれ異なっています。<br /> <br /> 顕教:心が静まった状態を増やしてゆくことで解脱する<br /> 密教:思念を変容させることで解脱する<br /> ヴェーダンタやゾクチェン:心が動いていてもいなくても同じと考える<br /> <br /> ヴェーダンタでは心を超えたものをアートマンあるいはブラフマンとか呼んでいたりしますけどそれは全体の一部あるいは全体そのものであり、それと(おそらくは)同じことをゾクチェンで心の本性(セムニー)と言っていたりするわけです。<br /> <br /> 心が静まってリラックスするだけでも十分に瞑想の効果としては十分なのですけど、その心の静寂が深まると、やがて、心がない状態というものが何なのかを理解するようになってきます。<br /> <br /> ただ単に表層で心の静寂、寂静になっているだけでなく、その奥底が見えてくるわけです。<br /> <br /> その奥底が見えた瞬間、心というものが単に静寂になるだけでなく、心の中にポッカリと穴が空いたようになってその空いた穴から底が見えることによって心の限界が一時的にでも取り払われ、心あるいは意識というものが与えられたものであることを理解するわけです。<br /> <br /> その瞬間はただ単に静寂の境地でリラックスしているのとはかなり違いますけど、土台としてはその静寂の境地のリラックスがあって、その状態が深まることで静寂の境地の中、真ん中、真正面のすぐ下、斜め下の空間にポッカリと穴が空いて、その奥底が見えるのです。<br /> <br /> そして、その瞬間、静寂の境地にあってもまだ存在していた自分の「心」というものがその部分だけ全くないことに気づくのです。<br /> <br /> 静寂の境地それ自体でも自分の心というものはかなり薄くなっていて半透明になっていてそれなりに浄化されていますけど、このように正面に穴が開けてくる状態ではその穴の部分には自分の心がないことに気づいて、まだ自分の周囲や体に近い部分には心というものがありますけど、穴が開くことで心がない、という部分がわずかながら理解できるわけです。<br /> <br /> そして、それと同時に、自分の心というものが与えられているものであることを理解します。<br /> <br /> 元々、自分の周囲に見ていたものは全て私の意識を通して見ていたものであり、そこには必ず私の意識というフィルターが存在していたわけですけれども、少なくともその穴の部分に関しては私の意識というものが存在していないわけです。<br /> <br /> それを見ている自分の意識は元々あって、静寂の境地ではサマーディとしての観察の意識は続いていたわけですけれども、その穴が開く瞬間、私のサマーディとしての観察の意識も含めて無限の深淵に同化してしまってサマーディの観察するヴィパッサナーの意識も含めてほぼ完全に消えてしまいます。<br /> <br /> まだ少し残っている私の意識は、「ああ、このまま死んでしまうのかな・・・」と思ったりしつつ、それでも、少なくとも今のところは完全に意識がなくなってしまうことはなく、少しすると意識が戻ってきます。<br /> <br /> これは次のような変化を経るように思います。<br /> <br /> 0.(瞑想を始める前の)雑多な意識の状態<br /> 1.集中のゾーン状態<br /> 2.静寂の境地、サマーディ(三昧)のヴィパッサナー(観察)状態。観察が常時継続する状態<br /> 3.心が消え去る状態<br /> <br /> 瞑想というものは雑多な感覚から無、そして有に至るわけですけれども、その先に、心が消え去る状態があるわけです。<br /> <br /> 最近はそれを度々体験していて、心を超えた世界を垣間見ると、私という意識は与えられているものだということがわかるわけです。<br /> <br /> Fri, 24 Dec 2021 00:00:00 +0900 お金があれば大抵のことができる時代が終わる https://w-jp.net/2021/2566/ <br /> スピリチュアルな人はポジティブな言葉でこのようなことを言いますけど、実際には、政治家が庶民に好き勝手させないためにこのように時代を変えてゆきます。<br /> <br /> これは瞑想で何となくそうなるかな、と感じていることですので本当のことかどうかはわかりません。<br /> <br /> 同様のことは江戸時代にも行われましたし、近代になってからも行われました。それは政治家が庶民を家来としてこき使う為に画策するという面もありますし、庶民にあまり好き勝手にさせてしまうと国が乱れてしまうという長期的な観点もあって割とポジティブな考えで行われるという面もあるわけです。<br /> <br /> そのうち政治家がお金の価値というものをリセットしますので、前澤友作さんのようにお金を持っているような人の影響力がなくなっていきます。<br /> <br /> 相対的に家系・血筋だとか物理的なモノ・土地の価値が上がってゆくわけです。<br /> <br /> スピリチュアルな人は精神の時代とか良いように言いますけど、実際には、政治家が庶民の自由を奪うためにお金の価値を下げるわけです。<br /> <br /> 貨幣経済自体は続きますけどお金で好き勝手できないようになります。<br /> <br /> これはある意味、良い面もあって、例えば中国が日本の土地を買い漁ることが難しくなったりしますので、日本の土地・文化が守られるという面もあります。<br /> <br /> その一方で、お金がいくらあってもそれほどでもなくなりますので自分も好き勝手できなくなるわけです。<br /> <br /> お金を儲けて好きに生きたいと思っている人や成功者と言われている人たちには不都合でしょうけど、実際には、ただ単に戦前の時代に戻るだけで、実際にはもちろんテクノロジーや今まで培った土壌がありますので、そこまで不幸にはならないわけです。<br /> <br /> コロナ前に日本の土壌を荒らしまくっていた中国系の不動産業者もあまり来なくなり、土地の売買も安定したものになります。<br /> <br /> ただ、既に買われてしまった土地は不問になってそのままになってしまう、という面もありますけど、人とモノの流動性がなくなってある程度の比率で外国人が留まるのであれば世代を重ねるうちに日本化していきますので時間が解決すると言えます。<br /> <br /> その頃になると、今の時代を思い返して「そういえば、お金があれば何でもできそうな時代が昔はあったな」と懐かしむことになります。<br /> <br /> 岸田首相あるいはそれに似た政治家が、本人はおそらくはただ単に「庶民の自由を奪って国を好き勝手にしよう」という野心家・あざとい心理からするのですけど、その政策はある意味、中国寄りだったり韓国寄りだったりしてマスコミから人気があるためにテレビ・新聞で叩かれずに国民の人気は高い状態が保たれ、実際にはただ単に支配したいだけで、保守層からは叩かれるわけですけど、マスコミが応援してある程度の人気が保たれるために極端な政策も取れてしまう、という状況になるようですね。<br /> <br /> その流れで、お金の価値をある意味リセットする政策が行われ、特にお金持ちをターゲットにして資産の凍結に近いことが行われますので、おそらく10億円以上の資産を持っている人が狙い撃ちにされるような気も致します。<br /> <br /> それは酷いことではあるのですけど共産主義が資本家を攻撃したようにまさか日本で同じようにお金持ちが悪者にされてマスコミも同調してお金持ちを糾弾するという状況になるわけです。そうして資産持ちの資産の没収が世論として受け入れられて実行に移されるわけです。<br /> <br /> こんなことをすると海外に逃げられてしまうのでは、とか、金とかの現物に変えられてしまうのでは、思われるかもしれませんし、既に大金持ちはそうしているわけですけれども、日本へのお金の流通がより厳格に管理されてゆきますので大きなお金を動かしにくくなるわけです。それに、海外の資産もその国でリセットされたりしますからどこにお金を逃していいのかわからない混乱した時代になるように思います。海外の資産が突然凍結、ということも起こるようです。日本だけで起これば大変なことになりますが今のコロナのように世界的に同調して行われるようです。<br /> <br /> 結果、土地の価値が高まって不動産など現物に資産が流れ込みますが、それを見越す形で不動産の取得税も今より高額になって、おそらく40%とか50%とかになって流動性が下がるように思います。<br /> <br /> ただ、時代にしても、庶民にしても、そう簡単に思い通りに動かないわけです。段階的に変わってゆきますし、人の方にしても、政治家の思い通りに貧乏に甘んじるということはなくて、時代の変化を察知した人は、お金というものの価値を相対的に低いものと見るようになって、現物の価値あるいは人付き合いの価値というものを高めてゆきます。<br /> <br /> その結果、政治家は貧乏人を増やして労働者を増やしたかったのかもしれないですけれども実際にはそれほど働かなくても普通には生活できる人が増えて、政治家の思惑とは逆に、生活にゆとりのある時代がやってくるわけです。それでいてお金を持った外国の勢力の侵略も防ぐことができるようになります。<br /> <br /> それはある意味、政治家の思いもよらない結果でもあるわけです。日本人は表面上は従順に従っているように見えて、しっかりと正しい選択を個々がすることで時代が変革するのだと思います。政治家が時代を動かすという面もありますけど、日本人の個々の選択が新たな時代を作り出すわけです。<br /> <br /> お金持ちになって好きに生きたい人たちにとっては生き辛い世界になると言えなくもありませんけど既に元々それが変わるわけでもなくその悩みはそのままですので、困るのは今の資産持ちだけで一般大衆にはそこまでの変化はなく、変化の結果としてスピリチュアル的に少しだけ漁夫の利を得る形になるわけです。<br /> <br /> これは瞑想をする中で将来はこうなるかな、と漠然と感じていることですので、特にそれ以外の根拠があるわけでもありません。ただのメモ書きになります。<br /> <br /> Tue, 21 Dec 2021 00:00:00 +0900 瞑想が深まると1日がとても長く感じる https://w-jp.net/2021/2565/ <br /> 子供の頃、おそらくほとんどの人は1日がとても長かったかと思います。<br /> 年を取るにつれて1日が短くなり、時間が短く感じられるようになり、月日があっという間に過ぎるようになります。それが大抵の人に当てはまるのかなと思います。<br /> <br /> 無意識で生きていた頃は私も似たようなもので子供の頃は1日が長かったですけどその後に次第に無自覚になり無意識のまま生きる時間が長くなり、結果、月日が流れるのがとても早くなりました。<br /> <br /> とは言いましても辛いことがあればその分だけ月日が流れるのが遅くなり、1日がとても長く感じられたこともありました。<br /> <br /> とは言いましても、ここで言いたいのは辛いという理由で日を長く感じるとかそういうことではなくて、瞑想が深まるにつれて1日がとても長く感じられるようになる、ということです。<br /> <br /> 瞑想が深まるということはいわゆるサマーディ状態が継続するということであり、微細な感覚を自覚できるようになります。<br /> <br /> そうなりますと、今まで体を動かすにしても無自覚にロボットのように動かしていた状態から自覚的に細かく動かすようになります。<br /> <br /> すると、時計の時間の動きはもちろん変わらない筈なのですが意識が認知できる事象が増えて細かく把握すること及び細かく行動することができるようになったが故に、その結果として、1日が長く感じられるわけです。<br /> <br /> 朝が始まって昼になり、夜になる。<br /> <br /> その間、自分の認識というものがどんどんと変わっていって朝と夜とは割と細かいところで別の認識状態になっていたりします。物事に関する認識の変化や、自分自身の健康状態、あるいはオーラの状態などにも変化が現れます。たった1日でも随分と変化があるものです。<br /> <br /> そうしてまた翌日、また1日、と過ごすのですが、無意識的に暮らしていた頃と比べると随分と長い1日を過ごしているものだなと思います。<br /> <br /> これは、嫌なことがあって1日がとても長く感じるのとは全く違っていて、認知が行き届くが故に長く感じる、ということなわけです。<br /> <br /> 夜になってその日の朝のことを思えば随分と長い時間を1日で過ごしてきたものだ、と感慨深くなることもあるわけです。<br /> <br /> ただ、それと同時に、遠く離れた時間の出来事であっても同時並行で存在していると感じるようにもなりますので、ここで言っているのは遠い時間を想像して感慨深くなるというよりは、ほんのりと見える今日という日を省みて哀愁漂う感覚に似ているわけです。<br /> <br /> Sun, 19 Dec 2021 00:00:00 +0900 私は光、という実感が強まる https://w-jp.net/2021/2564/ <br /> スピリチュアルではよく「私は光です」みたいなことが言われますけど、実際のところ、そのような理屈はよく理解できるのですがそこまで深く実感を伴うということはあまりなかったように思います。<br /> <br /> 光それ自体は瞑想中に「見たり」「感じたり」ということはしょっちゅう、あるいは、ほぼ毎回しているわけですけれども、私自身が光であるという実感は時々あったとは思いますがそこまで深く真に思い入るということはあまりなかったように思います。<br /> <br /> 最近、サハスララにエネルギーを上げることにより光が見えるという状態になって、その後、サハスララからオーラを広げて自分を卵状に包むという状態になってきたところで、ふと、自分の頭の上の方から光が差し込んできているような感覚になって、そうしているとふと、体全体が光に包まれた状態になって、「あれ。私って光のような気がする」という感じになってきました。<br /> <br /> 光とは言っても無色透明で全部消えてしまうというわけではなく、将来的にはそういう感覚にもなるのかもしれませんけど、少なくとも今のところは、光に包まれた実感のある光の存在としての自覚が少し出てきた、という感じです。<br /> <br /> 自覚とは言っても自我の自覚とは違って奥底の無意識で「そうだとわかる」という感覚で、ふと、気づいたらそうだった、という感じです。<br /> <br /> スピリチュアルでの祈りで「私は光です」みたいなフレーズがよく出てきて、表現方法や言葉としてはそれぞれなのですけど多くの祈りでこの部分は一致していて、特に優越があるようにも思いませんので自分に合っていて唱えやすいものを選べばそれでいいのだとは思いますけど、その多くでこの「私は光」という部分が一致しているわけです。<br /> <br /> その、多くの祈りで共通の「私は光」という理解と実感とはこういうことだったのかがわかる段階にようやく達した、ということなのかもしれません。<br /> <br /> スピリチュアルの段階として、概ね3段階あるいは4段階があります。<br /> <br /> ・アストラル次元。感情を扱う<br /> ・コーザル次元(カーラナ次元)。論理を扱う<br /> ・プルシャの次元(個としての神意識)<br /> ・全体としての神意識<br /> <br /> 最後の段階はそうそう達しませんので大体は最初の3段階になるわけですが、このうち、まずアストラル次元では「水」として実感されたりします。白隠禅師の軟酥の法は頭の上から光の水のようなものを身体中に流して浄化するのですけど、ここで「水」として比喩されているということはアストラル次元のお話です。<br /> <br /> 昔はこの「水」の比喩と「光」の比喩との違いが良くわからなかったのですけど、最近は割と明快です。<br /> <br /> 「水」はアストラル次元。<br /> 「光」はコーザル次元(カーラナ次元)より上、コーザルやプルシャの次元など<br /> <br /> 水であってもそれなりに光っていて、コーザル(カーラナ)やプルシャになるとそれぞれ光を発していてより光の本筋に近いものになります。<br /> <br /> スピリチュアルのワークではこの「水」と「光」が割と混同されていて、時に「水」のアストラル次元だったり「光」のコーザル次元以上だったりするわけです。どちらにせよ実態としては「光」なわけですけれども、段階に応じて感覚が違うわけです。<br /> <br /> また、コーザル次元を普段は体感していたとしても肉体を持ってこの地上に生まれている以上はアストラル次元の体も持っていますので、コーザル次元だけになってしまうということはなくて、最初はアストラル次元を主に扱っていて、次はコーザル次元を主に扱うようになりますけどそれに加えてアストラル次元も必要に応じて扱うわけです。<br /> <br /> どちらにしてもその本質は「光」であるわけです。<br /> <br /> Sun, 19 Dec 2021 00:00:00 +0900 辛い人生は運命なのかどうか? https://w-jp.net/2021/2563/ <br /> スピリチュアル的にそれなりに成長した魂であればそれは自分が課した課題です。<br /> <br /> 基本的に全ての意識は自分の自由意志が尊重されていて何をすることもできるのですけど、集合意識もありますので好き勝手にすることはできなくて、自分の意識の強さに応じた自由というものが許されているわけです。<br /> <br /> ですから、意識が弱い場合は自分が課したというよりは集合意識の側から「役割」として与えられた人生になって、その役割を全うすることが人生の中で求められます。<br /> <br /> その上で、「自分はこれは嫌だ」とか「もっとこうなりたい」とか思うことがあるでしょうけど、基本的には元々のスタート地点がそうだったのですから、そのルートからそれほど外れることはないわけです。<br /> <br /> そのような意識が弱い人が大半なわけですけれども、その場合は、自分が課した課題というよりは集合意識から与えられた課題をこなす人生になるわけです。集合意識とは言っても自分もその一部ですから一応は自分が決めたということにはなるのですけど、切り離された自分という意識がその役割を果たしている、ということになります。集合意識から分離をしてしまった後は割と個別の意識に包まれて、それ以外の集合意識のことはよくわからなくなるわけです。<br /> <br /> もしかしたら自分もそれなりに成長した魂だったかもしれなくても、生きているうちに疲れてよくわからなくなってしまう、なんてことも普通にあります。<br /> <br /> 自分が生まれた理由を知ることはそれなりに有用で、瞑想で見出すこともできます。<br /> <br /> そうすれば、自分に何ができて何が課題かを見極めることができるようになりますので目的に対して迷いがなくなります。<br /> <br /> その目的と照らし合わせれば、もしかしたら辛い人生が目的外のことで全く避けるべきことかもしれませんし、あるいは、それこそが人生の目的で正面から対峙して突破すべきことかもしれません。<br /> <br /> ですから、元々の目的がわからなければ人生の良し悪しというものは判断できないわけです。<br /> <br /> ですけど、そういう、元々の予定というものはあるにはあるのですけど人生というのは途中で変わるから面白いもので、不意に発生した予定外のことであっても突破することができるのならば突破してしまうのが基本は良いように思います。<br /> <br /> スピリチュアル的に慣れてくると生まれる前にそれなりに計画して生まれるわけですけれども、その場合でも突発的な変化というものは起こりますし、全く計画通りということはありませんから、トラブル対処というものは常に発生するわけです。<br /> <br /> 特に障害もない人生は割と初心者の人生で障害があればあるほど上級者向けと一応は言えて、それは基本は地上の生活という観点ではあるのですけど、そのこととは割と独立した形でスピリチュアルの成熟度が絡んできますので、地上の生活に慣れていなくて苦労していてもスピリチュアル的には成熟、という場合もあるにはあるわけです。<br /> <br /> ですけど、スピリチュアル的に慣れてくると最初に人生を計画するようになって、人生の所々に「補給ポイント」をあらかじめ設定しておいて、そこで地上生活に必要な補給を行う、というようなことも最初に決めておいたりします。<br /> <br /> 一方で、それほど地上の生活に慣れていなくてとりあえずこの世界に転生した場合は苦労することが多いようにも思います。スピリチュアル成熟度とは無関係に、誰しも最初の人生は慣れていなくて苦労することが多いのではないでしょうか。<br /> <br /> Sat, 18 Dec 2021 00:00:00 +0900 サハスララからオーラを広げて自分を卵状に包む https://w-jp.net/2021/2562/ <br /> 有の静寂の境地に至るということはサハスララにまでオーラが満ちるということでもあります。これらは両方同時に起こります。つまり、どちらか片方が先に起こるというものでもなく、片方が起こると同時にもう片方も起こる、ということです。これらは別々のことではなく、意識の観点とオーラの観点、それぞれから同じことを表現しているわけです。<br /> <br /> その状態になるとサハスララにオーラが満ちているわけですけれども、単にサハスララに満ちているだけでなく、そこから体の周囲に向かって卵状のオーラの羽のようなものを作り出します。<br /> <br /> これはスピリチュアルやヨーガの世界でよく図式されていることで、特にオーラの説明の図で見ることが多いですけど、サハスララは高次元への入り口になっているのと同時に体を包むオーラの膜を作る重要な起点となっているわけです。<br /> <br /> それは地球の地軸と似たようなもので、北極から南極の間には電磁気の線が地球の周囲を通っていてヴァン・アレン帯としてフィールドを作っているのと同じように、人間の体にも電磁気のフィールドが存在しています。<br /> <br /> これはスピリチュアルだけでなく科学的な実験によっても実証されていたかと思いますが実際にそのようなフィールドが存在していて、それは特に修行などしていなくても誰にでも存在しているものですけど、サハスララにオーラが満ちるとこのフィールドが強化されるように感じるわけです。<br /> <br /> そのフィールドを強くしてゆくと、例えば、体の各所に出来ているオーラ的な「傷」が次第に癒されて傷口が少しづつ塞がってゆくように思います。その傷の周りにはオーラ的な汚れがつきやすくなっているように思うのですが、サハスララのエネルギーが強化されたことによりその汚れが取りやすくなったという効果もあるように思います。<br /> <br /> 瞑想状態で観察すると、私のフィールドはまだまだ弱くて強化が必要だと感じます。実際のところそれでも昔に比べればかなり強化はしてきてはいるのですけど、まだまだ弱い分類に入るように思います。<br /> <br /> 単に瞑想をして意識の向上を行うだけでなく、このようなオーラの管理も重要だと感じます。<br /> <br /> Sat, 18 Dec 2021 00:00:00 +0900 「有」の静寂の境地に何度も至る https://w-jp.net/2021/2561/ <br /> 瞑想をしていて、意識がはっきりしてくると「無」の静寂の境地にはもはやならず、常に「有」の静寂の境地になります。<br /> <br /> 「有」であるということは奥深い意識が常に働き続けていることで、それがベースとなった上で表層の意識あるいは言い換えれば表面に出ている雑多なオーラのザワザワ感が静まって一段階づつ静寂の境地が深まるわけです。<br /> <br /> この種の静寂の境地は最初は極端に感じられて「無」とも言える寂静の世界に導かれるわけですけれども、最初こそそれは寂静の世界と思えた世界ではありますが、次第にその寂静の世界に対する見識が開かれてくるとそれは決して寂静ではなく、寂静のように見えつつもそこには微細なざわつき感のある世界になっているわけです。<br /> <br /> 瞑想ではそれは文字通り「世界」として感じられるのですが、そうは言いましても感じられるのは私の肉体及び意識を中心とした自分自身の世界ですから、最初こそそれは世界として感じられますけど、それは実際には自分自身のオーラの状態なわけです。<br /> <br /> 元々自分自身のオーラがざわついていて、最初に「無」の静寂の境地に入るときはかなりの「壁」を超えたように感じれますが、やがて「有」としての静寂の境地になってくるとオーラがそれなりに安定していることは普通になってきて、更に少しづつ静寂の境地を深められるようになります。その時、感覚としては同様に静寂の境地として感じられるものの、段階の違いとしてはそれほど大きくなくて、少しづつ深めてゆく感じになります。<br /> <br /> 最初は「無」の静寂の境地に入っても日常生活で割とすぐに元の状態に戻ってしまいますけど、また瞑想をすることで同様の境地に入ることができます。それを繰り返すうちに安定してきて、次第に静寂の境地が日常生活にまで広がってゆきます。<br /> <br /> そうしてベースが出来上がってゆくと瞑想をする時にもより一段階深い静寂の境地に入ることができるようになってくるのですが、そのベースというのはいわば瞑想状態の継続のことであり、比喩的に言えばそのことが「有」になるわけです。その、「有」としての瞑想状態の日常生活における継続、そのことを日常生活におけるサマーディとも表現できるわけですけれども、その、ある程度の覚醒状態が日常生活にまで続いた上で、更に瞑想をすると「有」の覚醒状態・サマーディ状態をベースにしてもう少し瞑想を深めることができるわけです。<br /> <br /> Sat, 18 Dec 2021 00:00:00 +0900 真珠湾攻撃と命の重さ https://w-jp.net/2021/2560/ <br /> 開戦の数ヶ月前にアメリカは日本の資産を没収、石油の禁輸をしました。<br /> <br /> 1941年7月25日 ルーズヴェルト大統領、米国対日資金凍結<br /> 1941年8月1日 石油の禁輸<br /> 1941年12月7日 真珠湾攻撃<br /> <br /> 現代において同じことが起こったら戦争になるのではないでしょうか。例えばアメリカが在米の中国の資産を凍結して中国に対する石油の禁輸を世界的に行ったら中国は開戦するでしょう。あるいは中国が日本の資産を凍結して日本への石油の禁輸を世界的に行ったら今の日本はへっぴり腰ですので開戦するかどうかは微妙なところですけど、戦前の日本は開戦したということです。<br /> <br /> その後、アメリカが勝ったことで元々の原因が覆い隠されて真珠湾攻撃で騙し討ちをしたという宣伝がなされましたけど、要は勝てば官軍ということです。<br /> <br /> まあ、その歴史的経緯はあるのですけど、ここで言いたいのはもっとスピリチュアルなことです。スピリチュアルの観点からすれば、この真珠湾攻撃は別の面が出てきます。<br /> <br /> それは、歴史家や政治家の間でも常に議論になる、「命の重さが第一なのか、命以上のものがあるのか」という命題です。いつもこの2つが天秤にかけられてきたわけですけれども、スピリチュアルの観点からすれば命以上のものがある、という見解になります。<br /> <br /> 一般的に信じられているスピリチュアルは「命の重さ」を重視しておりますので、命の重さが第一ではないのかと思われるかもしれませんけど、確かに命の重さというものもありますけど、第一ではないわけです。<br /> <br /> 例えばヨーガでは「アヒムサ」ということが言われていて「(他者を)傷つけないこと」が第一になっております。ですから命の重さというものが第一にあるわけですけど、それは傷つけない、ということであって、命の重さとは実は直結していないのです。生命としての肉体としての命は割と簡単になくなってしまいますけど、それで魂が傷つくかどうかということとは割と別問題であるわけです。<br /> <br /> 本当に大切なのは魂が傷つくかどうか、という点であり、肉体に傷がつくかどうかということはそれに比べたら大きなお話ではないわけです。肉体や命も普通に大切なものではありますけど、スピリチュアル的には命は循環しており、命は大切ではありますけど死ぬことで完全に消滅するものではないわけです。<br /> <br /> 人が生きて成長するには多くの人の助けが必要で、命は貴重で、そう簡単に捨てるべきものではないですけど、それでも、命というものは循環しているわけです。<br /> <br /> 自分一人の人生だけを見てみても来世あるいは何世代も先に渡るまで奴隷化の精神で生きるのか、そうでないのか、というお話になるわけです。<br /> <br /> 長い目で見た時に、次の世代あるいは何百年、民族あるいは国の将来にわたって延々と続く「奴隷化」という魂の傷を作ってまでも「(肉体としての)命」を第一に考えて大人しく従うのか、あるいは、命よりも大切なものである魂を守るため、というところで大きく違いが出るわけです。表現としては、矜持にかけて戦いに挑むのか、みたいな言い方になってしまうこともありますけど、矜持のようにプライドのためというよりは、もっと奥深いところの、魂に傷をつけるのかどうか、というお話になるわけです。<br /> <br /> 当時の人が頑張ってくれたからこそ、今の日本人の名前が「ジョン」とか「デイビッド」とかにならずに済んだわけです。<br /> <br /> 最近、真珠湾攻撃をした元特攻隊隊員へのジャニーズ・櫻井翔のインタビューが世を騒がせておりますけど、肉体だけを見たら彼のように「どうして人を殺したのですか」みたいな稚拙な質問になってしまいますし、日本の矜持を守るため、日本を侵略から守るために特攻をしてでも、勝てないまでも精神的に負けない状態にまで持っていくために特攻ということをしたわけです。<br /> <br /> 元特攻隊員の方は、自分が守った日本に彼のような気概のない人が育ってしまったことを心底残念がっただろうと思います。こんな日本を作るために自分達は命をかけたのか、と、がっかりしたのではないでしょうか。<br /> <br /> スピリチュアル的な観点からするとどちらも一応は正しいのですがより大切なのは元特攻隊員のような理解になります。命というものは循環していて、命も大きなものが存在していることを理解しているからこそ特攻もできたわけです。<br /> <br /> 日本は戦後の植民地政策でスピリチュアルなことが忘れ去られて肉体としての命が第一だと教えられてきたがために気概を失っていますけど、肉体としての命が第一ということは刷り込みがされておりますのでなかなかそれを取り除くのは困難かとは思いますが、ひとまずその同じ前提に立ったとしても肉体より大切なものがあることは理解できるはずですので、少しづつ呪縛から解き放たれてゆければいいと思います。<br /> <br /> かと言って戦争が正しいとは思わないですけど、肉体としての命の話は元特攻隊員に聞くようなことではないわけです。肉体の命以上のものを信じて特攻に挑んだ人に肉体の命の話をするなんて見識が軽すぎます。<br /> <br /> スピリチュアルをやっている人の中にも戦争というとヒステリーになったりする人がいたりしますけど、そういう人は往々にして戦争で悲惨な体験をされているわけで、それは解放する必要がありますし戦争というのはない方がいいですけど、そもそもスピリチュアル的には戦争を避けることができて、戦争に巻き込まれるような人生はそもそも選ばなければいいので、戦争に巻き込まれているということは本人に何がしかそこから学ぶ必要があるということでもあります。<br /> <br /> Tue, 14 Dec 2021 00:00:00 +0900 邪霊を片っ端から消滅させている人たち https://w-jp.net/2021/2559/ <br /> 修行者のうち、荒っぽい人たちは自分の周囲に近づいてきた邪霊を片っ端から消滅させています。それは感覚として荒い重々しい波動を有する意識体であれば何であれ捕まえて消滅させておりますので、それが狐だろうが人間の浮遊霊だろうが関係がないようです。<br /> <br /> と、いうことは、成仏できなくて悶々とした気持ちでこの地上を彷徨う霊がいたとして、ちょっとでも悪霊っぽい雰囲気を見せていたら消滅の対象になるということです。<br /> <br /> そのような荒っぽい人は、まるで漫画や物語の陰陽師とか邪悪な存在に立ち向かうファンタジーものの主人公のように呪術を使って悪霊を消滅させていきます。<br /> <br /> 実際には漫画や物語のように楽しいことばかりではなくてかなり生々しくて、これは文字通り「消滅」させておりますので、消滅させられた魂はもはや転生もなく、ただ無に返るだけです。<br /> <br /> それが良いことなのか悪いことなのか、昔は私も「それは良くないことなのでは」と思ったこともありましたけど、今は、それもまたこの宇宙のサイクルの一つなのか、と理解するようになりました。<br /> <br /> 消滅とは言ってもこの宇宙の根源のエネルギーに返るだけで、そこからまた長い年月を経て実体化してこの宇宙に実体化するわけで、邪悪になってしまった魂を一旦は宇宙の根源に返すという作用も宇宙に存在しているのだと思います。<br /> <br /> ただ、実際にそれに巻き込まれた方は悲惨で、今まで何度も転生を重ねて積み上げてきた叡智も消えてしまい、無に返ってしまいますので、消滅させられたくなければ邪気を持った人はそのような荒っぽい人の周囲に近づかないことですね。<br /> <br /> 霊体のままこの地上を彷徨ったり旅したりすることも普通にできるのですけど、所々にこのような荒っぽい人がいて、不意に遭遇して邪気を察知されてしまうと消滅の対象になってしまいますので注意が必要です。<br /> <br /> それよりも肉体を持ってこの世界に転生した方が安全で、体があれば邪悪なオーラを持つ人であっても消滅の対象にはなりませんから、この地球を楽しみたいのなら転生する方が安全と言えます。それに、邪気を持っていても地上に転生することで肉体の制約が加わって否応にも成長のサイクルに入りますし、望めば修行もできますので、悶々とした気持ちで漂う浮遊霊あるいは悪霊のままでいるよりは転生した方が良くなるスピードは早いと言えます。安全なだけでなく、転生することで希望も出てくるわけです。<br /> <br /> Tue, 14 Dec 2021 00:00:00 +0900 瞑想は雑多な感覚から無、そして有に至る https://w-jp.net/2021/2558/ <br /> 最初はモヤモヤとした雑感・雑念の多い状態と対峙して、やがて無の境地に至り、次はまた有になります。<br /> <br /> 無にも概ね2つのプラトーの段階があって、最初はいわゆる集中の歓喜の状態、言い換えればゾーンの状態です。これは無と言うほどまだ無ではありませんけどそれなりに無想が現れてきている状態で、ゾーンですと割と短期間なことがほとんどですけど、集中が高まって対象と一体となって歓喜が湧き起こります。そのゾーン状態がまずありますが、次の段階である、本当の無とも言っても良いのが静寂の境地です。<br /> <br /> 静寂の境地になりますと体の感覚もほとんどなくなって、一番わかりやすいのは体の感覚ではありますけどそれだけではなくて意識としても消えて、思考が一時的にでもなくなったかのような感覚になります。これらは「無」の段階で、流派によってはこれもサマーディと言っていますしサマーディには色々と種類がありますのでサマーディであることには変わりがありませんけど、サマーディのうちでも割と初めの段階のように思います。<br /> <br /> その静寂の境地だけでも日常生活を豊かに暮らすには割と十分で、ポジティブに軽やかに人生を送ることができるようになります。その前の段階ですとゾーンをたまに体験するくらいですので、静寂の境地に入ることが(度々でも)できると言うだけでも人生が豊かに幸せに穏やかになるわけです。<br /> <br /> それだけでも十分ではあるのですがその先に至ると、サマーディの次の段階に相当して、そこではもはや「有」になります。その前の静寂の境地ですと体の感覚やら思考とかが「消える」と言う状態でそれ故に「無」に相当する段階でしたけど、この「有」の段階になると、静寂の境地で静かになった顕在意識、普通の意識、表層の意識の更に奥に、文字通り奥深い意識というものが潜在意識あるいは無意識の側から湧き出てきて、元々無意識だった部分の一部が顕在意識の端っこの方に仲間入りをするようになるのです。その、奥深い意識は文字通り意識でありますから何がしかを認識する能力を持っており、静寂の境地そのものは顕在意識にとっては実はこの段階になっても変わらないのですが、顕在意識が静寂の境地で静かになっている、そのまた奥で、文字通り奥深い意識が体や思考などを背後から自動的あるいはシステム的あるいは機能的と言ってもよいくらいの動きと力で背後で強く働いている意識というものがあるのです。文字では自動的と言っても機械的というわけではなくそこは有機的な働きになっていて、有機的な人間の意識の奥深いものが、システム的と言ってしまうと語弊があるかもしれませんけどかなり有機的かつ機能的にシステムのように奥深い意識が常に働き続けているわけです。<br /> <br /> その段階になると表層の顕在意識を働かせようがあるいは表層の顕在意識を静寂の境地で沈めようがあまり関係がなくなってきて、そうは言いましても最初は影響がありますけど次第に影響がないようになってきて、奥深い意識、それは最初は観察として現れますけど実際には意図としての意識の面もあって、その奥深い意識が常に観察あるいは意図をするようになってくるわけです。<br /> <br /> そうなってきますと、もはや奥深い意識というのは基本的に常に動いている状態になって、あまりにも顕在意識が惑わされていたりしない限りは奥深い意識は動き続けていて、その状態はもはや「無」と言い表すんには不適当で、であればそれを言い表すいい表現はないかというと、比喩的ではありますけど「有」ということになるわけです。<br /> <br /> 瞑想にそれほど熟達していない場合は雑多な混乱した意識しかなくてそれを表現としては「有」と言えなくもありませんけど、ここで言っているのは「混乱した有」から「無」に至り、次には「無と同居することもできる有」あるいは「整理された有」とでも言える状態に変わってゆく、ということなわけです。<br /> <br /> これは単なる哲学の理屈のお話ではなくて、そういう哲学もあるのでしょうけど、この種のお話は実際に自分で瞑想をして見出すべきことであるわけです。<br /> <br /> Sun, 12 Dec 2021 00:00:00 +0900 ケチャリ・ムドラと半歩とサハスララ https://w-jp.net/2021/2557/ <br /> ケチャリ・ムドラはハタヨガなどで行われている行法のうちの一つで、端的に言えば舌を上げることではありますけど、実際のところそれはエネルギー・ルートに大きく関係しているように思います。<br /> <br /> 眉間のアジナからサハスララへと通るルートは一旦は後頭部を経由して上わけですけれども、その時、「半歩」とも呼ばれる壁を通り抜ける必要があります。<br /> <br /> その半歩を通るために、どうやらこのケチャリ・ムドラが有効に働いてくるように思うのです。<br /> <br /> とは言いましても文献を見ても明確にそうであるとは書いておらず、これは割と私の実体験に基づくもので、万人あるいは一般的にそうであるとは限らないのですけど、少なくとも最近の感覚で言いますとケチャリ・ムドラをするとこの「半歩」を超えてエネルギーが眉間のアジナからサハスララに通りやすくなるように思います。<br /> <br /> また、ケチャリ・ムドラそのものをしなくても、喉の奥を大きく開けるようにするだけで割と同様にエネルギーが通りやすくなるように思います。<br /> <br /> ケチャリ・ムドラでは舌を上げるわけですけれども、舌の先を上げるというよりは喉の部分を大きく上げる、というところが効果が出るポイントかな? という気が致します。これまた文献にそう書いているわけでもなく、流派によっては単純に舌を上げる、くらいにしか教えられておらず、例えばクリヤヨガでも特に深い注意点などはなかったように思いますので、これはあくまでも私の感覚で言うとこうである、というお話です。<br /> <br /> そのように喉元を開けるようにするとエネルギーが「半歩」を超えてサハスララにまで上がりやすくなるように思うのです。<br /> <br /> Sun, 12 Dec 2021 00:00:00 +0900 瞑想で体に張り付いているアメーバを取り除く https://w-jp.net/2021/2556/ <br /> 瞑想で体の各所の緊張状態を探ると私の場合は割と右肩周辺で多少の緊張状態になっていることが多くて、右肩は死霊が憑く場所でもあるわけですけどそこから死霊を意識の手で摘んで引き抜くことが第一ではあるのですけど、引き抜いた後も残留物が残っていたりするわけです。<br /> <br /> まずは引き抜くことでかなりのエネルギー的な解消がなされて不快感としてはかなりなくなるわけですけど、一旦侵入された箇所は防御が弱くなっておりますのでまた入りやすい状態になっているわけです。そうして何回も侵入されているとそこに残留物が残ったり古い角質のようにオーラがボロボロになってしまったりするわけです。<br /> <br /> 私の場合は過去の経緯から右肩が古傷のようになっているわけですけど、最近また瞑想でその辺りの多少の緊張状態を探ってみると何やらニキビのようになっていて、最初はニキビのように見えたのですがよく見ると核があって、その核が何なのか更に見てみると、貝あるいはフジツボのように岩に張り付いている系の二枚貝のような形をしていました。これは気持ち悪いです。<br /> <br /> これは取り憑いているというよりも古いフジツボが残ってしまっていて、もはや貝殻だけが残っているような状態ではありましたがこれがエネルギールート上にあって右手へのエネルギーの流れを阻害しているように感じられましたので、意識でハンマーのようなものを作って根本を叩いたり、貝を取る先の尖った道具のようなものを意識して叩いて取り外しました。少し根本が残りましたが、そこは光の剣を使って、ライトセイバーの先っぽを当てて熱で焦がすようにしてそれなりに取り除いたところ、随分と右肩の緊張が取れて右手へのエネルギーが通りやすくなったように思います。<br /> <br /> 死霊が取り憑いている場合はそんなものではなくてかなりの不快感とエネルギーの損失がありますけど、この種の残存物でも多少のエネルギーの阻害がありますし、右肩の防御を固める意味でも残存物を取り除くのは重要のように思います。<br /> <br /> 同様に首筋に残っている残存物、この場合はフジツボではなくてアメーバのようなもおでしたけど、首の右筋に残っているアメーバのようなものを取り除いたところ、これまた首筋のエネルギーの通りが良くなって、その結果、背筋がその瞬間に少し伸びました。<br /> <br /> 瞑想の深さと背筋の伸びにはかなり相関関係がありますけど、単に瞑想をしてエネルギーの流れが良くなるのを待って背筋が伸びる、という通常の瞑想の深まりの段階と合わせて、このようにエネルギールートを阻害している要因を取り除くことでエネルギーの流れが良くなって背筋が伸びる、ということもあるのだと思っています。エネルギー的には同じことではありますけど単に待つよりはエネルギーを阻害している原因を直接に取り除くことでより早くエネルギー的な通りを良くすることができるわけです。<br /> <br /> Sun, 12 Dec 2021 00:00:00 +0900 霊能者などに除霊をお願いしても無駄 https://w-jp.net/2021/2555/ <br /> 本物もいるにはいますけど大抵は無駄で、形通りの儀式をして、何も効果がないことがほとんどです。感覚的には99%以上は効果がないのではないかと思いますけど実際に数えたわけではありませんので単なる主観です。<br /> <br /> お寺や寺院などで定期的にやっている儀式のほとんどは術主に力がありませんのでそのような商業的な儀式のほとんどは効果がなく、よって、本物はそれ以外ということになりますけど、それ以外のよくわからない霊能者のかなりの数は眉唾物ですので本物はかなり少ないと思って良いと思います。<br /> <br /> 大抵は「自分は本物」とか言いますけど、実際はそうではないことがほとんどです。<br /> <br /> この種のお話の見分け方としては、現実と即してみて効果のあるコンサルティングのようになっているかどうか、という点が1つのポイントになります。スピリチュアルなのに何故にコンサルティングかと言いますと、実際のところ、本当に現実的で地に足についているスピリチュアルと本物のコンサルティングは究極的には見分けがつかないからです。とは言いましてもそこまでのレベルの方はそうそういませんから、やはり、ほとんどの場合は霊能者や術者あるいは神主や僧侶に頼んでも無駄ということになります。<br /> <br /> お寺や神主に頼むと数十万で効果がなくて、よくわからない事象霊能者に頼むと50万以上とかザラですけど、大抵は効果がありません。<br /> <br /> それよりも、私のお勧めは、近所に住んでいる「元気なお節介おばさん」に相談することです。そういう人は自分は霊能力を自覚していなくても周りを巻き込んで問題をどんどんと解決していきます。近所付き合いにもなりますし、そのような元気なおばさんに頼ればこちらも守ってもらえるようになります。その場合、霊能力とか術者とか、そういうこととは全く関係なしに、普通に近所付き合いをするだけで霊的な問題も解決してゆくわけです。その時、霊に取り憑かれているとか霊的な説明をする必要はなくて、ただ単に、物理面から相談をすれば十分です。眠れないだとか何か心配事があるだとか、そういう普通の相談で十分です。元気なお節介おばさんはそんな悩みを笑い飛ばして、急に相談者の悩みも吹っ切れたりしますし、多少は悩みがなくなったりします。その人と付き合いを続ければ相談者も次第に元気になってゆくわけです。<br /> <br /> ですから、自称能力者などに頼むのは大抵はお金の無駄でしかなくて、近所の元気なお節介おばさんがその土地・地域に対しては一番の影響力を持っていて、そのおばさんが取り憑いている変な霊に対して説教すれば取り憑いている霊なんて大抵は根性がありませんからしょぼしょぼと退散して、今まで体調が悪かったり鬱っぽかった人が急に治るなんてこともよくあるわけです。霊に説教、と書きましたけど、霊が本当に取り憑いている場合は相談者と人格が一時的に一致していますので相談者に対して叱るという形態を取りますけど、相談者が叱られることで取り憑いている霊の方がまいってしまい、相談者に取り憑くのをやめて離れていく、ということがよく起こるわけです。そうすると急に相談者の人格が明るくなって、今まで何をしていたのだろう、となるわけです。本人に自覚はなかったりしますけどよくない霊が取り憑いていたわけです。<br /> <br /> 元気なお節介おばさんが周囲に対してお節介をやけばやくほどその土地の人たちが明るくなってゆきます。その時、大抵の場合、そのお節介おばさんはユーモアたっぷりにその状況を笑い飛ばしてくれますので問題解決するだけでなく元気になってお互いに楽しい気持ちになります。まるでギャグやジョークのようにどんどんと問題を解決してゆくわけです。そもそもそのようなお節介おばさんにとっては問題であるとすら感じていなくて易々と解決していくわけですけど、周囲の人たちにとってはそれが助けになるわけです。<br /> <br /> 元気な人、特に元気なおばさんが住んでいる土地に精神病の人があまりいないのはそういう理由もあるわけです。<br /> <br /> たまに、そういう元気おばさんを頼って元気のない人が集まってきていたりもしますけど、基本的には元気なおばさんは周囲を元気にするわけです。<br /> <br /> そういう元気なお節介おばさんは時に霊能力っぽいものも持っていて色々わかったりしますけど、それは特に霊能力とは言わなくても勘が鋭い、くらいに本人は考えている場合もあって、客観的に見てみれば未来予知だとか他人の過去を見たりだとかできる人であっても本人はそれが能力だとは自覚していない場合も多いわけです。私の見たところ、女性はかなりの割合で多少ながら能力を持っていますので、日本人の女性のうちかなりの人が巫女の素質を生まれて持っているように思います。私の周囲で言いますと相当の確率で能力を持っていて、能力がなくて鈍い人の方が少ないくらいです。よそは知りませんけど。<br /> <br /> 女性にとってはおそらくそのような勘は当たり前すぎて割と特殊な能力だと自覚していない時もありますし自覚している時もありますし、能力がそれほどない場合もありますけど、基本的にはそのような元気なお節介おばさんが問題を解決してくれますので、神主やお寺の住職に頼むより何十倍も頼りになるわけです。<br /> <br /> Sat, 11 Dec 2021 00:00:00 +0900 エネルギーを蝕む霊体の虫を駆除する https://w-jp.net/2021/2554/ <br /> 体の調子が悪くて緊張が走ったり不快感が出ている時、もちろん肉体の不調であることも多々あるのですけど、霊体の虫が取り憑いていてエネルギーを蝕んでいる時があります。<br /> <br /> この他にも、死霊が右肩につきやすいので引き抜いたりする必要がありますけど、死霊の場合は割とわかりやすくて手探りすればすぐに感触があって引き抜きやすい状態になっていますのですぐに効果がありますが、霊体の虫の場合は見つけにくい気が致します。<br /> <br /> 今回の場合、数日前から少し調子が悪くて何が原因か探っていたのですがなかなか掴めず、今日になって瞑想で探っていたところ、胸の少し右の前面に霊体の虫がついていて、それがエネルギーを蝕んでいるようでした。これは分かりにくいです。<br /> <br /> 本当の虫くらいの大きさで、形も虫に似ていて、とても気持ちが悪いです。<br /> <br /> 形は芋虫とかクマムシとかに似ていますが体の円周と同じくらい大きな口と歯が円周上にずらっと並んでいて、とても気持ち悪いです。トンネルを掘る採掘機(シールドマシン)についている歯のように激しい歯が丸い口の全面についていて、エネルギーを蝕んでいました。<br /> <br /> とても小さいのですが認識できればあとは簡単で、摘んでポイッと捨てるのですけど、更には光の剣で切って浄化してあげると消えてゆきました。成仏したのですかね。<br /> <br /> こういうのは健常者につくだけでなくメンタルに不調をきたしている人に多く取り憑いている時があって、身体中が霊体の虫で覆われているときもあって、そのような人はとても気持ちが悪い時があります。<br /> <br /> メンタルに不調がある時は精神科とか体調とか色々な分析がなされると思いますが、この種の取り憑きに関しては人は割と無関心で、ですけど、かなり重要な要素のように思います。<br /> <br /> こういうのは他人に任せることではなくて自分で行うことが重要で、体の汚れは毎日お風呂やシャワーで綺麗にしているのに対して霊的な汚れを取ることを人はあまり知りませんので放置され、メンタルの不調に繋がるという時があります。<br /> <br /> ただ、この種のお話があるからと言ってお寺や神社あるいは自称霊能力者のところに行ってお祓いをしてもらおうと思っても役に立たないことがほとんどで、高いお金を払って何も変わらない、ということがかなりの場合かと思いますので、他人に頼るということはしない方がいいと思います。<br /> <br /> それより、自分で瞑想をして、自分で処理することです。<br /> <br /> こんな虫なんてとても小さな力しか持っていませんから、存在を認知できさえすれば自分で簡単に除去できます。<br /> <br /> 力だけで言えば死霊の方がよっぽど強い力を持っていますけど、虫なんて摘めばすぐに取り出せます。<br /> <br /> ですけど、虫の場合は小さいので認知が死霊に比べるとちょっと難しくて、そうは言いましても瞑想で見つけることができますので、体の調子が悪い時は探して取り除くと良いと思います。<br /> <br /> Sat, 11 Dec 2021 00:00:00 +0900 マントラを奥深い意識で唱える https://w-jp.net/2021/2553/ <br /> かなり昔、マントラを教えてもらった時に唱えたのと全く同じマントラが今は違う効果を表しています。マントラは3つの方法でそれぞれ効果を発揮するように思います。<br /> <br /> ・声に出して唱えるマントラ<br /> ・表層の意識で唱えるマントラ<br /> ・奥深い意識で唱えるマントラ<br /> <br /> 声に出す場合はいわゆる気とかプラーナとか言われる肉体に近い次元で働きます。オームを唱えると眉間が震える、眉間がグリグリする、などというところでマントラの効果を感じることができます。<br /> <br /> 声に出す時は声だけでなく表層の意識も使っていて、声に出さなくても表層の意識でマントラを唱えることができますので、その時も声に出す時と同様の効果が現れます。<br /> <br /> 表層の意識がうまく働くと、体にあるエネルギーのルート、ヨーガでいうところのナディの活性化が起きます。体の各所でエネルギーの流れが悪い場合にはマントラの効果でその箇所のエネルギーが活性化され、体の各所に意識が通っていなかった場合でも少しづつそこにエネルギーが満ちるようになり、その場所に感覚が出てきます。次第に身体中の細かな場所の認識ができるようになるわけです。<br /> <br /> 表層の意識でマントラを唱えるだけでも十分な効果を発揮しますが、奥深い意識でマントラを唱えるようにするとまた違った効果が現れます。<br /> <br /> 実際のところ、言葉で表すと表層の意識と同じように身体中のエネルギーを通す、という効果ということもできるのですけど、この場合、エネルギーの質自体が繊細な微細なものになっていて、表層の意識は割と荒い波動でできていて、一方、奥深い意識はその意識そのものが微細になっており、マントラをその奥深い意識で唱えると体中にその微細な波動が伝わるのです。<br /> <br /> この、荒いとか微細とかいうのは理屈で言っていることではなくて、実際にそのように感じられることで、はっきりと違いがあることが確実に実感としてわかるわけです。<br /> <br /> 微細なところで奥深い意識が出てくる前はそのような意識を使ってマントラを唱えることができませんので声ですとか表層の意識でしかマントラを唱えることができず、それでも十分な効果を発揮するわけですけど、奥深い意識が表れてきたらそこでマントラを唱えることで体の各所にまで微細な意識を浸透させることができるわけです。<br /> <br /> その時唱えるのは同じマントラであるわけですけど、違う効果が現れるわけです。<br /> <br /> マントラにも色々あってそれぞれ違う効果があるわけですけど、同じマントラであっても唱える意識の階層によって違う効果が現れるわけです。<br /> <br /> 以前は、それほど効果がないのではないかと思っていたマントラであっても奥深い意識で唱えるとかなり効果があったりして、奥深い意識の場合は割と微細なところで働きますので昔は地味と思っていた短いマントラの方が効果がある時もあり、割と軽視していたマントラを見直したりもしています。<br /> <br /> そのように奥深い意識で唱えるときは、体の背面に近い方、後頭部とか、その辺りにまず奥深い意識がコアのように表れて、そこから頭頂部とか各所に浸透していくように思います。<br /> <br /> 表層の意識は前頭葉とか頭の前面で考えていて、表層はより物理的な思考になる一方で、奥深い意識の方でも物事を考えることができますけど、より本質に近いところを捉えることができるように思います。<br /> <br /> ですけど、奥深い意識はそれだけでなくて、言葉を超えたところにも繋がっていて、奥深い意識のうち、言葉で言い表す部分というのは奥深い意識の入り口でしかなくて、奥深い意識に入ってゆくと言葉を超えた世界になっているように思います。<br /> <br /> Fri, 10 Dec 2021 00:00:00 +0900 後頭部を経由してサハスララにまでエネルギーを上げる https://w-jp.net/2021/2552/ <br /> クンダリーニのエネルギーは頭頂までは割と直線的に上がります。マニプラのところで少しブロック(グランティ)がありますけどそれは一旦は超えてしまえば後は割と直線的に眉間のアジナ(サードアイ)までエネルギーが上がります。<br /> <br /> それぞれ、胸の付近及び喉の部分にもブロック(ヨーガでいうグランティ、結び目)があって、通説ではムーラダーラにブラフマ・グランティ、マニプラとアナハタの間(あるいはアナハタの中)にヴィシュヌ・グランティ、そしてアジナにルドラ・グランティ(あるいはシバ・グランティ、シバの結び目)があります。<br /> <br /> 今まで超えてきたムーラダーラのブラフマ・グランティ及びヴィシュヌ・グランティは一旦超えてしまえば割とその後はエネルギーが通った状態になる感じでしたけど、アジナのルドラ・グランティは超えたような超えていないような、微妙な状態が続いていました。<br /> <br /> 時折、サハスララにまでエネルギーが通る感じの時もありましたけど割とエネルギーがサハスララからなくなっている時もあって、瞑想の度に割としっかりと時間をかけてサハスララにまでエネルギーを上げる必要がありました。<br /> <br /> 私の場合、普通にクンダリーニのエネルギーを上昇させるとアジナのところで一旦は壁のようなものに突き当たって、サハスララにまでそのまま直上しないのです。<br /> <br /> そして、時間をかけてアジナにずっと意識を合わせて瞑想をしていると不意にエネルギーがサハスララに通って静寂の境地になって光が見える感じになって、そうなるとサマーディ状態が強化されて日常生活にまで意識が浸透して生活できるようになっていました。<br /> <br /> それはそれで十分で、それだけでも瞑想の効果としては十分ではあるのですけど、アジナにクンダリーニが満ちた時の圧迫感とサハスララにまでエネルギーが上がるのに時間がかかるのが一応の課題になっていて、どうにかならないかな、と思っておりました。<br /> <br /> 瞑想の基本は眉間に集中することで、意識を眉間のアジナに合わせてクンダリーニを集めるということが基本ではあるのですけど、エネルギーが眉間の周囲に集まった時にそれ以上エネルギーがどこにも動けなくて圧迫感と共に少し不安定な感じになる時があるのが課題になっていたのです。<br /> <br /> その状態であっても時間をかけてずっと眉間に意識を合わせる瞑想を続けていれば不意にサハスララにエネルギーが抜けてリラックスが深まり、無意識で緊張していた部分が更に解けるわけですけれども、その、不意にエネルギーが抜けるまでの時間がなかなか読み辛くて、いつも不意に起こるので、時に1時間、あるいは2時間ほどずっと瞑想を続けてサハスララにエネルギーが満ちれば良いですけど、日によっては2時間でも足りない時もありました。<br /> <br /> この辺りをどうにかできないかな、と思っていたのですけど、その解決の鍵になる気付きが最近ありました。<br /> <br /> そもそもこの知識そのものは以前から知っていて、実際、色々なところで目にしていて、例えば神聖幾何学フラワー・オブ・ライフを研究しているドランヴァロ・メルキゼデクによるとアジナとサハスララの間は統合されたチャクラと「半歩」(グランティ相当)で結ばれているとのことですけど、他の流派でも眉間から後頭部を通ってからサハスララに上げるみたいなことはよく言われています。<br /> <br /> ハタヨガ・プラピディカにも確か似たようなことが書かれてあったような気が致しますし、クリヤ・ヨーガの理論やタントラ系のヨーガでも同様のことが言われていると聞いたことがあります。スピリチュアルでも同じようなことを言っている方は割と多い気が致します。<br /> <br /> ですから、アジナからサハスララへのルートは後頭部経由で、アジナから後頭部を経由してからサハスララ、ということは割と有名で、以前から知ってはいたのですけど、実際のところ、それほどピンときてはいませんでした。<br /> <br /> それよりも、単に眉間に集中してサハスララにオーラが満ちるのを待つような瞑想を行なっていました。<br /> <br /> ですけど、今回、ふとしたことでピンときて、単に後頭部を経由するのではなくて、むしろ、喉のヴィシュッダ・チャクラを経由すれば後頭部を通ってサハスララにエネルギーがすぐに上がることに気がついたのです。<br /> <br /> これは、今まで似たようなことをしていても同様にはならなかったので、私の中での状態が変化したことも関係しているかもしれません。確か以前から似たようなことを何度も試しているような気がするのですけど、そうはうまくいっていなかったような気が致します。<br /> <br /> ルートとしては、喉から直接上げるというよりは、眉間及び眉間より少し奥のところにエネルギーが集まった状態から喉のヴィシュッダを経由して後頭部を通り、頭頂のサハスララに抜ける、というルートで、一番近いのがフラワー・オブ・ライフに乗っている図ですけど、この図を見るだけですと単に壁があるというくらいですけど、それよりもガッツリと喉のヴィシュッダの方を経由している感じです。<br /> <br /> (図は「フラワー・オブ・ライフ 第2巻(ドランヴァロ・メルキゼデク著)」より)<br /> <br /> この半歩はスピリットの準備が整い、新しい世界での位置を達成した時にはじめて存在が明らかになるのです。肉体の中に宿るスピリットには、この半歩は隠されて識別しにくくなっており、その時にならないとわからないのです。 (同書より)<br /> <br /> 喉のヴィシュッダはアナハタからアジナにエネルギーが上がるためのルートにもなっていますけど、割と同じところがそのアジナに行くルートと、頭の真ん中の松果体かそのあたりから少しヴィシュッダの方を経由して後頭部を通ってサハスララに抜けるルートと、その両方で使われているか、あるいは近いように感じられるだけで実際は別々なのかもしれません。<br /> <br /> 感覚的にはどちらもヴィシュッダのように感じられて、図のように半歩を経由するというよりは、7番から喉のヴィシュッダを経由して後頭部、そして頭頂、というルートが感覚に近いです。<br /> <br /> ですから、ハタヨガやクリヤ・ヨーガあるいはその他のスピリチュアルで言われているように眉間から直線的に後頭部に行く、というのは少なくとも私の場合には当てはまらなくて、それを何度も試してみてもうまくいかなくて、それよりも、この「半歩」よりガッツリとヴィシュッダに近い方を経由するルートになっているようです。<br /> <br /> 例えば神智学系のグレート・ホワイト・ブラザーフッド(白色大同胞団)では「眉間から斜め後方に直線的なルートを通って、後頭部を上昇してサハスララにルートを通す」みたいに伝えられていたように思います。以前はそのようなことを聞いてもそれっぽく感じられただけで今ほどはっきりとした実感はなかったわけですけれども、確かに今となってみればこれはそのように「斜め後ろに」という事もできて、そういう言い方も間違いではなくてかなり実態に合ってはいるのですけど、それよりは、フラワー・オブ・ライフ的な「半歩」の方が実態に近いような気が致します。フラワー・オブ・ライフの図では最初は眉間から中央まで直線的ですけど、確かに、眉間やその奥のアジナの本体である松果体などの近くにまずは集中することが必要で、それによって最初はヴィシュッダからそのままエネルギーがアジナまで上昇して、その後、「半歩」を超えて少しヴィシュッダの方を迂回してから後頭部を通り、サハスララに至る、というのが実態に近い気が致します。<br /> <br /> これは微細なお話ですから人によって違うのかもしれませんけど、私の場合、この「半歩」の迂回が図にあるより割と大きかったように思います。私の場合はガッツリとヴィシュッダの近くを迂回しているように思います。<br /> <br /> この微妙な違いが割と大きくて、直線的にエネルギーをサハスララに上げようとしてもほとんど上がらなくて、眉間から一直線に後頭部に通そうとしてもうまく通らなくて、この、ちょっと下の方を経由する、というところがポイントのようです。<br /> <br /> 実際のところこのフラワー・オブ・ライフの図は何度も見ていて、「半歩」も知識としては知ってはいたのですけど腑に落ちていなかったわけです。どうやら、ハタヨガなどの直線的ルートより私はこちらのフラワー・オブ・ライフの半歩の方が実態に近いようで、ここ最近の大きな発見だったように思います。<br /> <br /> これによって瞑想にかかる時間が短縮されて、今まではサハスララにオーラが満ちるのを待つために数時間とか費やす時もあったわけですけれども、割とコツ的なものでサハスララにまでエネルギーを通せるようになったような気が致します。それでもアジナにまでエネルギーが満ちる時間は必要ですけど、その後のステップは早くなったように思います。<br /> <br /> エネルギーが上がるようになっただけでなく、アジナや頭の真ん中あたりにエネルギーが溜まりすぎて圧迫感のようなものが感じられる時もありましたので、その解消のために長く瞑想をしてサハスララにエネルギーが抜けるのを待つ必要が減って意図的にサハスララにまでエネルギーを通せるようになりましたので、ただ単にエネルギーが上がったということ以上に、エネルギーの安定性の面でも重要な変化だったように思います。<br /> <br /> ただ、まだそこまでこなれていないのか、日によって、うまくすんなりと上がる場合と、そうでもない日があります。これから更に様子を見ていきたいと思います。<br /> <br /> Tue, 07 Dec 2021 00:00:00 +0900 エネルギーが頭頂まで上がると光が見える https://w-jp.net/2021/2551/ <br /> 瞑想をして静寂の境地になるとエネルギーが頭頂まで上がった状態になります。そうすると視界に光が見えるようになります。<br /> <br /> これはどちらが先というものでもなく、エネルギーが頭頂まで上がれば静寂の境地になりますし同時に光が見えるようになります。ですから、これらは同時に起こるもので、最初に光が見えるということでもありませんし最初にエネルギーが頭頂に上がるということでもありませんけど、ここで言っているのは頭頂、という点に限ったお話であって、エネルギー的には頭頂に至るまで少しづつ上がりますので、もっと段階的に言えば、最初にエネルギーが胸や喉及び口の奥、後頭部を通って頭頂に上がることで静寂の境地に至る、という事もできます。<br /> <br /> ですから、頭頂という観点からすれば同時ですけど、エネルギー的には段階的なわけです。<br /> <br /> また、意識としても一応は段階的で、少しづつ意識がクリアになっていって最終的に静寂の境地になるわけですけれども、それも段階的ではありますけど一応のプラトーのような平穏状態になるのは頭頂まで上がった静寂の境地のところであるように思います。<br /> <br /> そして、光に関してはそれまでも時折見えたりすることもありますけど基本的には頭頂に上がる事で光が見えるように思います。<br /> <br /> おそらくはこの光は視界の肉体の器官がエネルギー的なものを受けて実際の目が感知しているもののような気がしていて、この光それ自体はヨーガ的に言えばプラーナ、あるいはクンダリーニのエネルギーを感じているだけですので光が見えることそれ自体にそれほど深い意味はないのかなと思っているのですけど、そうは言いましても、エネルギーが頭頂まで上がった「しるし」ではあるのかな、と思っております。<br /> <br /> そして、その光が更に強くなってくると銀色のようになって鏡のように映し出すようになる気がしてきていて、そこは私はまだこれから、という感じではあります。<br /> <br /> Sun, 05 Dec 2021 00:00:00 +0900 意識を集中して無意識が観察する瞑想 https://w-jp.net/2021/2550/ <br /> よくある誤解で「瞑想とは観察することだ。だから集中は瞑想ではない」というお話がありますけど、実際のところ観察だけでなく集中も瞑想の重要な一部なわけです。<br /> <br /> 日本語に誤解があるようにも思いますが観察という言葉で言い表しているのは観察が「起こる」と言うことであって意識で観察することではないわけです。観察することを期待しても良いですけど瞑想状態における観察そのものは行動にはならなくて、行動としては集中することしかできないわけです。行動として観察しようとしてもそれは集中でしかないわけで、言葉ではいかようにも表現できてしまいますからその行動としての集中も観察と言うこともできてしまいますけど、瞑想の表現としては誤解があるように思います。<br /> <br /> 観察ということもできますけど、行動としては結局は集中でしかないわけです。それは意識での観察、あるいは、顕在意識での観察と言い換えることもできて、顕在意識の観察というのは集中とも言えるわけです。その、集中としての瞑想と、それと同時に、無意識の観察、というものも同時に瞑想中に状態として存在しています。<br /> <br /> 顕在意識の観察は集中と言い換えることができますけど、無意識の観察は集中と言い換えることができません。そこは言葉と表現ですから言おうと思えば無意識の観察であっても集中と言えなくもないですけど適切な表現ではないように思えますから、無意識の観察は集中とは言い換えできない、という前提に立った上で無意識の観察というものが存在することをまずは受け入れることが必要に思えます。<br /> <br /> 最初はこの無意識の観察というものは本当に弱い力しか持っていなくて、一瞬それが現れてはすぐに消えて、というくらいの働きしかありませんけど、その働きは次第に強くなってきて、日常生活にまでその状態が広がってゆきます。それはいわゆるサマーディ状態というもので、サマーディと言っても色々な段階がありますけど、観察が瞑想中に不意に短時間起こるようなサマーディから、日常生活にまで続くサマーディとまであるわけです。そのサマーディの働きが「無意識の観察」で、その一方、顕在意識としては集中が依然として存在するわけです。<br /> <br /> 瞑想では顕在意識を何かに集中させた上で、無意識が観察状態になることを待ちます。あるいは、意図しても良いですけど、基本的には無意識は顕在意識のコントロール下にありませんから顕在意識としては待つことしかできないわけです。<br /> <br /> 言葉それ自体を言うと無意識とは意識していない部分なのだからその無意識で観察などできるのだろうかと論理的には考えてしまいますけどそれは言葉のあやと言うもので、瞑想をするにつれて元々無意識だった部分が次第に顕在意識に組み込まれていって、そうは言いましても顕在意識の部分と無意識に近い部分とはグラデーションのように認識の強さが違っていいますので、顕在意識の強い部分が意図して集中して、一方で、無意識に近い顕在意識で観察をする、と言うこともできます。<br /> <br /> それでは全部顕在意識なのではないかと言ってくる人もいるでしょうが、そこは心の観察と言語の機微というもので、どちらにせよ言葉としては分けて表現するしかありませんのでこうして分割して表現してはいますけど実際にはグラデーションのようになっていて、無意識と言いつつも瞑想状態が進んでくると次第に表層に上がってきて顕在意識に近いものになってくるわけです。<br /> <br /> そういう意味では両方とも集中のような状態に次第になってくるわけですけれどもそうして両方とも集中と言ってしまうと何が何だかわからなくなってしまいますしやはりそれでもグラデーションのような濃淡がありますので、やはり顕在意識としては集中で無意識が観察、と言った方が本来の状態に近いように思います。<br /> <br /> 次第に集中が不要になってきて無意識側の観察だけで済むようになってはきますけどそれでも集中というものはかなりずっと必要になってきて、集中とは言っても力を入れることではなくて意識を向けるという程度のことではありますけど、瞑想で集中が不要になるということは基本的にはないと思います。<br /> <br /> ただ、サマーディ状態になれば集中というものが忘れられて(元々無意識だった)観察の方が優勢になりますからその状態では集中がない、という事もできますけど、それでも、無意識の働きが観察をしている状態を広義での緩やかな集中と言えなくもありませんし、それはただ単に「(広範囲を)認識している状態」という事もできますけど、そのように広範囲を認識している状態であっても無意識の側で意図して「(広範囲を)認識している状態」から何処か一点に集中する状態に切り替える事もできますし、そうであっても基本的にはサマーディ状態は失われなくてその一点をよりはっきりと認識する状態になったという違いだけですので一点集中という事もでき、そうなりますと集中いうものと観察とが同居するようになりますので、言いようによっては広範囲に対する集中と表現できなくもありません。<br /> <br /> そうは言いましても、そうなると何が言いたいのかわからなくなりますので、普通に表現するときは顕在意識の集中と無意識の観察、あるいは、もっと簡略化して単に集中と観察、と言ったりするわけです。瞑想の基礎は「集中と観察」なわけですけど、実際のところ、その違いはあるようでいて時にサマーディ状態では違いはそれほどなかったりするわけです。<br /> <br /> Sun, 05 Dec 2021 00:00:00 +0900 自分の心は鏡のように銀色に光って世の姿を反射して映している https://w-jp.net/2021/2549/ <br /> 三種の神器のうちの1つである鏡は、神道だけでなくスピリチュアル全般で心の性質を言い表すものとして古代から語り継がれております。心は本来清浄でそれ自体は汚れることはなく周りを映し出す鏡のようなものだ、とはよく聞くお話です。<br /> <br /> とは言いましても、実際のところ、古い鏡にはウロコがついて曇ってしまっているのと同様、実際の心にはウロコよりもがっちりとこびりついている垢あるいは黒い汚れのようなものが厚い層をなしているのが普通なわけです。<br /> <br /> ですから、普通の人がスピリチュアルのお話を聞きかじって「そうか。私の心は清浄なのか。そして、スピリチュアルの言うように何をやってもいいのなら、私は自由だ」みたいなことを思ったとしても、確かに心の本性の部分は清浄ですけどその上に厚い雲が黒く覆い被さっておりますので、自由と思っていたとしても実際には心がその厚い雲でプログラミングされた通りの決まった動きに従ってしまっているだけなわけです。<br /> <br /> ですから、自由だ、という言葉そのものが心の上に厚い雲として乗ってしまい、自由だと思って行動するというプログラミングが一つ加わっただけで、実際には厚い雲はそのまま残ってしまっているのが大半の状況なわけです。<br /> <br /> 実際には、その厚い雲を本当に取り除いていく必要があるわけですけど、それは時間をかけなくてはなかなか取れないもので、いわゆる浄化の作用を継続的に行う必要があるわけです。<br /> <br /> そうして浄化がある程度進めば清浄な意識が現れてきて、最初は私の場合は単なる心の平穏、雑念のほとんどない静寂の境地、いわゆるサマーディ状態にまずは達したわけですけれども、それが割と普通になってきて日常生活にまでサマーディが広がってくると、次第にそのような心の雑念としての静寂の境地だけでなく、実際に心そのものが銀色に光っている鏡のようなものであることがありありと見えてくる瞬間が時折ではありますが出てきたように思います。<br /> <br /> 具体的には、自分の心あるいは本体が胸を中心に胴体から顔あたりにかけて楕円あるいは卵型の鏡のようなものでできていて、それがまるでブラインドが時折開くかのように時々その銀色の本性が現れていて、銀色の鏡のような本性が現れたときは周囲の物事、それは実際の現実の世界そのものでありますけど、周囲の現実、世界の出来事が自分の心の鏡に映し出されていることがはっきりとわかるわけです。<br /> <br /> それはまだブラインドが時々開く、あるいは、いつも太陽に雲がかかっていて時折雲が晴れて太陽の光がふと差し込むかのように、瞬時に現れるけれどもまた割とすぐに隠れてしまうかのような状態です。<br /> <br /> これは上記に書いた意識の静寂とは別物で、静寂の境地はそれはそれとして継続していて、それとは別に、このような、心の鏡がブラインドあるいは時折太陽の日がさす薄曇りの日のように感じられることが瞑想中に時折現れているわけです。<br /> <br /> これはおそらくは心の有り様を示していて、本来心というものは何でも見通すことができるけれどもこの世にあたっては曇っていて認識が限られているのかな、という気がしています。<br /> <br /> とは言いましても現状では時折その鏡が動く程度で、そこに見えるものも一瞬見えるだけですので何のことか理解するには至らず、実際の役には立ちませんし、(少なくとも今のところは)自分で見るものを選べるわけでもないですので、何かが写っている、というくらいのものでしかないわけですけれども。<br /> <br /> Sat, 04 Dec 2021 00:00:00 +0900 ライトワーカーたちが光の剣で権力者を切る https://w-jp.net/2021/2548/ <br /> これは傷付けるということにはならなくて、するのは権力者の周りに黒いモヤモヤあるいはヘドロのようにドロドロになっていたりこびりついていたりする闇の部分を切ることで光を差し込んであげることになるのです。<br /> <br /> ですからこれは闇の退治ではなく人助けであり、欲望や嫉妬、妬み、権力欲に包まれている権力者が好き勝手にしている状況から少しでも光のさす状況へと転換できるようにすることで状況を好転させ、その人だけでなく結果として多くの人を助ける行為でもあるわけです。<br /> <br /> これは私だけがすることではなくて、日本中あるいは世界中のライトワーカーが各自でするべきことで、今までもライトワーカーは祈りの力で浄化をしてきたわけですけれども、それでも尚、この世界を支配している階層の人たちに対してはアンタッチャブルなところがあったかと思います。<br /> <br /> 実のところ別のタイムラインではライトワーカーが分離の状態のまま権力者に踏み込まなかったがために地球が滅亡したという状況もありますので、その失敗も踏まえて、ライトワーカーはもっと権力者に積極的に関わってゆくべきなのだと思います。<br /> <br /> それは直接的に近くに行くとかそういうことだけではなくて、むしろもっと重要なのは、遠隔でライトワーカーたちが瞑想の中で光の剣を用いて邪悪な権力者たちの闇を切ってゆくべきなのです。<br /> <br /> それは誰も傷つけませんから、光の剣をもらったライトワーカーはその各自が光の剣を十分に使って権力者たちの闇を切ることが求められているわけです。<br /> <br /> 瞑想の中で、この日本あるいは世界、もしくはもっと地域的な闇の存在を見出して、その存在の姿が浮かび上がったら光の剣を明確にイメージして、闇の部分を切ったり突き刺して闇を取り除いてゆくことをするべきなのです。<br /> <br /> そうしなければこのまま日本あるいは世界は更に闇に包まれ、為政者は自分達の利益しか考えず、ますますこの世界は暗くて恐怖及び不安に包まれたものになってしまいます。<br /> <br /> ライトワーカーたちは自分達の安全確保はもちろん第一ですけど、これは山奥にいてもできることですので、日本の暗闇に対して光の剣を使うことが求められているわけです。<br /> <br /> ただ、可能であれば都会など闇の近くに住んだ方が効果は高くて、近くの方がよりはっきりと波動や人々の不安を感じられますので、その方が世の中のためには望ましいのですけど、それは各自のライトワーカーが可能な範囲で行えばいいと思います。<br /> <br /> Sat, 04 Dec 2021 00:00:00 +0900 本気で時間がないと信じる https://w-jp.net/2021/2547/ <br /> 自分ではそんな自覚はなかったのですけど、私はそうらしいです。<br /> <br /> ふと先日、スピリチュアルの集まりみたいなところに行ってちょっとしたカウンセリングと言いますか過去のことなどについての確認をしていたところ、ふとカウンセラーからそう言われました。<br /> <br /> 「ここまで本気で時間がないと信じている人を見るのは初めて」<br /> <br /> と言われましたので、自覚はなかったのですけど、そうなのかもしれないです。私が過去とか未来のことを言ったというわけでもなく、ただ単に、過去のお話とか何かわかったりしますか? みたいにざっくばらんに聞いてみただけですので、このようなお話になるとは意外でした。特に色々こちらから聞くわけでもなく、最初に言われたのでした。<br /> <br /> スピリチュアルではよく「時間と空間は本当は存在しない」というようなことを言いますけど、本気でそう思って生きている人はあまりいないらしいです。<br /> <br /> どうやら、普通の場合は過去の影響を現在が受けている、ということなのですけど、私の場合、時間関係なしに未来からの影響が現在及び過去に対しても入り乱れていて、普通の時間軸の、過去から未来の方向への影響だけでなく、時間軸関係なしに影響し合っているようです。<br /> <br /> 個人的に思うのは、誰しもがそうかな、と思っていたのですけど・・・。私の感覚としては、誰しもがそうやって時空関係なしに未来からの影響を現在や過去が受けている、と思っていたわけですけれども、多くの人を見ているカウンセラーからすると、私のような人は珍しい、というか、初めて会ったそうです。<br /> <br /> 違った意味で私にとっては意外で、皆は普通はそこまで過去・現在・未来という時間軸に囚われて生きているのだな・・・ と、ちょっとびっくりしました。もっと皆さん、自由に時間軸関係なしに暮らしているものとばかり思っていました。<br /> <br /> 例えば、とあるタイムラインで微妙な選択したことを踏まえて私は今のタイムラインを生きているわけですけれども、普通はそうはならないようです。多少はそういうこともあるのかなと私なんかは思うのですけど、私のような生き方は割と珍しいようです。<br /> <br /> 例えば、違うタイムラインではあの可愛い子と結婚していたり別のタイムラインではあの子、また違ったタイムラインではまた違った子と結びついたりしたわけですけれども、今はそのどのタイムラインとも違った道を歩んでいたりしますけど、普通はそうはならないようです。<br /> <br /> そのカウンセラーは「信じる」という言葉を使ったのですけど、信じているというよりはそれが当然だと思っているわけで、それは信じるといえばそうですけど、信じるというよりは真実だからそうなのであって、信じるというよりは真実を認識しているだけなわけですけど、言い方は色々とあるかもしれません。<br /> <br /> Thu, 02 Dec 2021 00:00:00 +0900 病気になって精神衰弱する https://w-jp.net/2021/2546/ <br /> 先週末から喉の調子がまたおかしくなって、次第に風邪の初期症状のようなものも出始めて多少の発熱も繰り返していたわけですけれども、その後数日経った後、夜中にふと目が覚めたら割と精神衰弱の状態になっていて、久々にこのような状態になりましたので興味深い状態ではありました。<br /> <br /> とは言いましても精神衰弱の状態においてはそのような生やさしい状態ではなくて、夜中の2時くらいに目が覚めた時は意識が動かなくて、ただ「自分」が全くなくなった状態、それは「意識」がほとんど動かない状態で、ただタマス(愚鈍な性質)の中に漂っている状態でした。<br /> <br /> かと言ってネガティブな思いが湧き出てくるということはなく、ただ単に、タマスの中に沈んでいて、思考のない状態、それはつまり自分がないということと同義ですけど、思考がないからこそ自分というものがそこには存在しなくて、ただタマスの中に自分らしきものが微かにいました。<br /> <br /> その時、意識が現れて来なくて、何かを思う、という機能それ自体がほとんど働いて来なくて、このまま意識がなくなったら私は死ぬのかもしれない、とふと思いました。<br /> <br /> 昔、子供の頃に精神衰弱した時は確か、変なイメージやネガティブな思いが次々と出てきて疲れ果てたような気がしたのですけど、今回の場合、何もない水面のような精神そのものがタマスの愚鈍な性質でできていて、その中に自分の精神が埋まっているというかまだ現れていないような状態で、思考というものがほとんどできない状態でした。<br /> <br /> これは、瞑想中に現れるサマーディにおける覚醒とは違うもので、瞑想にまつわる歓喜の性質というものもなく、エネルギー的にはそこまで悪くないのですけど、体全体がタマスの愚鈍な、例えるならば粘土のような体のように感じられました。<br /> <br /> その粘土のような体が横たわっていて、精神がほとんどまだ現れていない状態、それがタマスなのだと理解しました。<br /> <br /> 実際のところ病気それ自体はそこまで重くはなくて薄い影になって意識を覆っているという感じではありますけど、精神面にこのような変化が現れるとは意外でした。<br /> <br /> まるで、私の精神のうちの大半が体を抜け出して、体の部分には少しだけしか残されていないかのような、そんな感覚もあります。<br /> <br /> もしかしたら、それが本当かもしれなくて、実のところ夕べの瞑想の前に予感があって、夕べの瞑想において精神のある程度の部分は幽体離脱のようになって他の人生を体験して、その経験を積んだ精神がまた私の体に戻ってくる、みたいな予感がありましたので、私の体の方は、その残された方の精神なのかもしれません。<br /> <br /> であれば精神衰弱のように感じられるのも当然のことで、その後、割と回復してはきましたけど、何か、半分は抜け殻のような感じもしています。<br /> <br /> このような時は自分の大元であるグループソウルあるいはハイヤーセルフと言っても良いですけど、そのような自分にまつわる神様に頼るくらいしかすることがなくて、そういえば本山博先生が「瞑想が深まってくると悪に出会ったり色々なことがあるので、どうしても神に頼るという信仰心が必要になってくる」みたいなことを言っていたように思いますが、生きている人間に頼ることもできず、神頼みしかないという状態は確かにあるものだと思います。<br /> <br /> 今回の場合、すぐに死ぬとかそんな状態でもなかったようにも思いますけど、そのままタマスの深淵に引き込まれて自分というものが消えてゆく、という感覚になって、そのタマスというものはある意味この地球そのものではありますので地球と一体化するというのも悪くはないようにも思いましたが、私の場合、それが本当に良い・望ましいことなのかわかりませんでしたので、とにかく自分の御本尊であるとある天使やずっとあの世で一緒に暮らしている元妻とかの意識体のことを思って祈ったり助けを求めたりして夜に横になっていました。していたことは割とそのものズバリで「お導きください」「助けてください」とかそんな感じですけど、その願いが通じたのか、次第にタマスの愚鈍な泥のような感覚は減ってゆきました。<br /> <br /> これは、病気というトリガーはあったものの、もしかしたら病気になって精神が弱ったことでこの世のベースになっている地球の泥のような意識と繋がったのかもしれません。地球の意識というのはムーラダーラ・チャクラと繋がっていてそれは土の性質ですので、泥として感じられたということは、地球と一体化した、ということなのかもしれません。仮説ですが。<br /> <br /> Wed, 01 Dec 2021 00:00:00 +0900 日常生活と人里離れた瞑想 https://w-jp.net/2021/2545/ <br /> 特に都会ではざわざわしていて、仕事をしていればそれなりに葛藤もありますけどそのような日常の全てもサマーディへと融合してゆくように思います。<br /> <br /> 一方、人里離れた場所で静かに瞑想する、というお話もありますけど、そうは言いましても結局は導く師匠としての意識体などがそこにいる、みたいなことがほとんどですので、真の意味で人里離れた場所で一人で修行、ということにはならないように思います。<br /> <br /> そうであれば、見える肉体を持った存在であっても見えない存在であっても誰がしかが近くにいるということであれば場所はあまり関係なく、それと同時に、日常生活というものもどこに住んでいても存在しているわけで、それ自体がサマーディと融合するという観点からするとそこまで変わりがないようにも思います。<br /> <br /> 特に都会は騒がしいですので修行になって、騒がしいからこそ精神が揺さぶられたり極度の緊張を強いられたりして、それでもサマーディを保つというところに修行の一環があるわけです。<br /> <br /> 修行とまでは言わないまでも普通に健康に過ごすという観点から言っても日常生活をどのように過ごすのかは重要で、瞑想というと座ってすることが基本ではありますけど、サマーディが深まるにつれて日常生活における瞑想状態が続いて行きますので、日常生活とサマーディを融合することが大切に思います。<br /> <br /> その上で、極度に緊張することがあったとしても呼吸を保ってサマーディを保つ、みたいなお話もあると思いますし、そこまで行かないまでも、普通に覚醒を保ちながら暮らすだけでも十分、日常生活が豊かなものになるかと思います。<br /> <br /> Wed, 01 Dec 2021 00:00:00 +0900 意識の剣で邪悪な存在を切る https://w-jp.net/2021/2544/ <br /> 瞑想の中で、自分の意識が広がって土地や地域に関する意識の視点と繋がってくると問題となってくるのがその土地あるいは地域に被さっている黒い邪悪な意識です。混沌に包まれたヘドロのような厄災が地域に覆い被さっているわけです。<br /> <br /> 例えば私の近くの市町村である武蔵野市に関して瞑想中に意識を飛ばしてみると、土地に黒いモヤモヤがかかっていて住民たちの判断が鈍ってしまい、松下玲子市長のような邪悪な存在が土地を支配してしまうわけです。<br /> <br /> 厄災は祓い退ける必要があるわけで、それは、瞑想で行うことができます。<br /> <br /> 意外に自分の意識は土地にまで繋がっていて、まず、意識の剣で土地に覆い被さっている黒いモヤモヤとしたヘドロを切ると少し切れて離れますので、それは火星にでもポイっと捨ててしまいます。<br /> <br /> その後、そのまま瞑想を続けて、しばらくすると割と綺麗になって、そうすると今までモヤモヤのヘドロに包まれていて見えなかった松下市長のような邪悪な存在の姿が見えてくるのですがヘドロで包まれていてよく見えませんので、今度はその覆い被さっているヘドロのような黒い塊を意識の剣で切り落とします。そうすると少し姿がまた見えるようになって、更にまた剣でヘドロを切り落とすことを繰り返すことで姿が見えてきます。<br /> <br /> 実際のところ、このくらい黒い塊のヘドロのような厄災に包まれてしまうともはや自分本来の清浄な魂とヘドロの怨念・厄災との区別がつかないくらいになってしまいますので、ヘドロがなくなったことにより自分という存在がなくなってしまったかのような錯覚になってしまうわけですけど、実際のところ、瞑想で切り落としただけですので実社会にどれだけ影響が出ているのかわかりませんので、その辺りは割と実験的な感じで、今後、松下市長にどのような変化が出てくるのか興味深いところです。<br /> <br /> ついでに、と言ってはなんですけど目についたところではニトリ社長が中国賛美していましたので試しに同様に少し切ってみて、あとは、岸田首相も移民政策推進したり変なこと言い出しましたので少し切ってみたのですがこのお二人は松下市長と比べてそこまで邪悪というわけでもないようですが発信力や権力があって気をつけてほしいのと勘違いを正すためにほんの少しお灸を据える程度しかしていませんけど。<br /> <br /> 今日やったばかりですので、特に変化がないのか、あるいは、どうなるのか。今後観察して行きます。<br /> <br /> こういう他人は瞑想と意外に関係があって、最初はあんまり関係ないですけど、意識が広がってくると土地や権力あるいは多くの人々の意識というものが瞑想の妨げになってきますので、自分の瞑想が進むにつれてこういう土地や民族・社会集団の問題も解決する必要が出てくるように思います。<br /> <br /> Tue, 30 Nov 2021 00:00:00 +0900 極度の緊張状態でも呼吸を保つ https://w-jp.net/2021/2543/ <br /> エネルギー及び意識の覚醒を保つために、例え極度の緊張状態でも呼吸を保つことが重要に思います。<br /> <br /> これはおそらく武道をしている方にとっては当たり前のことのような気も致しますが、武道をしてこなかった私にとってはなかなかこれは実のところ難しく、今まで、理屈で分かってはいても上手くできていませんでした。<br /> <br /> 極度の緊張になると呼吸が止まるかゆっくりになり、その結果、エネルギーの通りが悪くなって意識も少しづつ覚醒を失って時には朦朧となる、ということが度々起こっていたように思います。<br /> <br /> 今も基本的にはその理屈や構造はそのままで、呼吸と意識の覚醒とは密接に結びついているという点に関してはそのままなのですけど、最近は、極度の緊張状態が起こったとしても呼吸を意識的に保つことが少しづつ可能になってきたように思います。<br /> <br /> そうは言いましても日常生活において普通に生活していればそのような極度の緊張状態になるということは少ないのですけど、それでも、時折起こる状態、あるいは意図的にそのような環境に身を置いたときの意識の保ち方に変化が生じてきたように思います。<br /> <br /> 具体的には、変な意識体に街中で不意に遭遇してしまった時に以前であれば呼吸が乱れて意識が朦朧となり、いわゆる悪霊に取り憑かれたとか成仏していない不浄霊に憑依されたみたいな状態になるのですけど、その時も、呼吸を保つことで意識を保つことができ、冷静になって自分の周囲を意識の剣で切るとか、自分のオーラの指で取り憑いている意識体を引き抜くみたいなことが割と素早く可能になってきます。<br /> <br /> その訓練、というわけではないのですけど、ゲームで緊張状態になることもその意識の状態を保つのに一役買っているような気が致します。同じゲームをした時に以前と比べてどれだけ意識を保つことができるのか、という点においてゲームは現実に対する意識の訓練として少しは役立つようにも思います。同じことはおそらくドラマなどでも行うことができて、ドラマに没頭して意識が吸い込まれてしまう状態、あるいは、極度の緊張状態になって呼吸が止まってしまうのか、あるいは、意識の覚醒を保ち続けるのか、という点においてドラマも同様に覚醒を保つ訓練に一役買うような気が致します。<br /> <br /> Wed, 24 Nov 2021 00:00:00 +0900 ヴィパッサナー状態を保つための努力が減る https://w-jp.net/2021/2542/ <br /> これは程度問題なのですが、ここ最近、またもやヴィパッサナー状態(観察状態)を保つために必要な努力の量が減ったように思います。<br /> <br /> 特に意識しなくても基本は薄いヴィパッサナー状態が保たれて、更にもう少し注意を向けるとヴィパッサナー状態が深まるのですが、それほど意図しなくてもそれなりの観察状態が継続されます。<br /> <br /> 例えば、階段を登る時、外を歩く時、ヴィパッサナー状態において視界や皮膚など観察されるものの感受の感覚は少し前とさほど変わらないといえばそうなのですが、その観察のために要する努力がまた一段と減って、特に意図しなくても薄い観察状態が続いています。<br /> <br /> 今後、おそらくは更に濃い観察状態へと少しづつ遷移してゆくのかなと思うのですが、その観察の深さは以前は努力を使って一時的に保たれていたのが、ここ最近は、これはもはや程度問題になってしまうのですけど、少し前ほどの努力が不要で、そもそも努力することなくても多少の観察状態が継続しています。<br /> <br /> ですから、これを持ってして努力なしの観察状態、などと言ってしまっても良いのかもしれませんけど、それでも意図的にもっと深い微細な観察状態に入ることもできますので、まだまだ深まりがある以上は、この段階を持って「努力なし」と言うにはまだまだ早いような気も致しますし、その一方で、一応は努力なしといえばそうなのですから、努力なしの観察状態及びその深さ、と言う組み合わせで表現してもいいような気も致します。<br /> <br /> ヨーガの本などを見ると単純に「努力なしのサマーディ」とだけ書かれてあったりしますけど、実際に体験してみるとそのような一枚岩ではなくて、今は努力なしですと薄い観察状態のサマーディになっていて、その今の状態をベースにして更に意図することで深いサマーディに入ってしっかりと観察することもできますので、意思の力の入れ具合によってサマーディの変化があると言う段階なのであればまだ過渡的な状態と言うことなのかもしれません。<br /> <br /> ただ、そうして意図をしたりして思うのは、おそらくはサマーディの本質はそのような観察の「意図」及び「観察の深さ」そのものではなくて、観察の意図や深さからどんどんと離れてゆくことで、逆説的ではありますけど、離れてゆくが故に意図や観察の深さとは無縁になって観察状態が続くようになり、そのように観察と心や五感の働きが離れるが故にしっかりと全てを把握することができるようになる気が致します。<br /> <br /> ヴィパッサナー状態が始まった頃は視界がスローモーションで感じられ、最初はそれ自体がヴィパッサナーかと思ったのですけど、その五感の動きそのものがヴィパッサナーというよりはその背後にある観察の動きが現れてきたが故に五感の動きをしっかりと把握できるようになった、ということです。理屈を考えればそれはその通りで、五感そのものは肉体やプラーナあるいはアストラル次元と結びついていて高次元のカーラナやプルシャのものではありませんのでヴィパッサナーやサマーディとは言ってもまだアストラル次元の働きでしかないわけです。<br /> <br /> 今回のことを思うに、日常生活で努力なしにヴィパッサナーの観察状態が続くということは観察の働きが強まったということであり、それは肉体やアストラル次元の五感や感情ではなくて少なくともカーラナ次元以上の働きが出てきた、ということかなと思っております。<br /> <br /> その状態において以前のようにスローモーションで見ようとしたりしてもその意図や努力はあくまでも肉体やアストラル次元の五感に属するものですので、本来の観察の働きのカーラナ次元以上の動きとはあまり関係がないわけです。<br /> <br /> そうは言いましてもそれらは密接に結びついておりますので現在の状態を測る上でこのような働きの状態を観察するのは無駄ではないと思います。<br /> <br /> Tue, 23 Nov 2021 00:00:00 +0900 オーラ視は目で見るような見ないような感覚で見る https://w-jp.net/2021/2541/ <br /> オーラは、目で見ているような気もするけれども見ていないような気もする、という感覚で見ます。肉眼で見ようとすると自然にオーラも目に入りますけど、肉眼では見えていないような気もするけれども見えているような気もする、という感じでオーラが見えます。<br /> <br /> オーラが「目で」見えているか? と聞かれると、目で見ているような気もするけれども目ではない何かで見ているような気もする、という感じで、はっきりとしたことは分かりません。<br /> <br /> 肉眼では見ていないような気もしていて、直感で見ているような気もしますけど、それも含めて肉眼のような気もしないでもありません。もしかしたら直感で見ていて肉眼で見ていないのかもしれませんけど、実はきっちりと肉眼で見えているのかもしれません。<br /> <br /> 古典的なオーラ視の方法として、少し暗くして他人の輪郭を見る、という方法があります。<br /> <br /> それはオーラの中でも肉体に近いところのエーテルあるいはプラーナとか呼ばれている部分を見るもので、肉体の輪郭に沿ってうっすらと膜のようなものが見えます。<br /> <br /> 実際のところ、これはちょっと慣れれば誰にでも見えるもので、それがあるのが普通すぎてオーラと言われるまでそれがオーラだと気づいていない場合も多々あるように思います。オーラが元から見えていたとしても「そんなもの」としてスルーしている場合も多いように思います。<br /> <br /> そんな、見える人にとっては当たり前のオーラですけど、実際、その存在に気づいていない人も多いわけです。<br /> <br /> 肉体とは別にエネルギー的な厚み及び強さがオーラの性質を決定していて、肉体が同じように見えていても、オーラがきちんと整っている人と、肉体優位でオーラがほとんど肉体の外側に出ていない人がいます。<br /> <br /> オーラが弱い人は肉体の中及び皮膚の近くにほんの少しだけオーラの層があるだけの状態で、実のところ、地球に住んでいるほとんどの人はこの状態です。日本人はそれでもオーラが強い方ではありますけど、それでも、割と弱いオーラの人がほとんどだと思います。<br /> <br /> 特に男性はオーラが弱くて女性はオーラが元々強いのですけど、女性にしても夜の仕事をしている人はオーラが弱い傾向にあるように思います。女性は夜の仕事をするとオーラを削りながら生活することになりますのでエネルギーの枯渇が早いわけです。<br /> <br /> 一方、主婦はエネルギーをあまり消耗しませんのでオーラが綺麗に保たれてる傾向が強いですけど旦那にエネルギーを吸い取られたりしますとそれなりにエネルギーを消耗したりします。<br /> <br /> いわゆる聖者あるいはそれなりに修行している人はオーラが強くて、肉体の輪郭の周囲に白いオーラの層が浮き出ていて、それが後光のようになっています。<br /> <br /> これは、実のところわざわざオーラどうこう言わなくても何となく感じ取っている人が多くて、オーラを感じられないのであれば鈍い人、という感じだと思います。<br /> <br /> 一応は世間一般ではオーラなんてなくて肉体だけだ、みたいなお話になってはいますけど、日本人であればオーラを感じられるのが割と普通で、外国人とか、鈍い人とかがオーラなんてなくて物質しかないとか言っていたりしますけど、そんなことを言う人は鈍いだけなのであまり間に受けてオーラがあるとかないとか考えずに自分が感じるところに素直にいればいいだけだと思うわけです。<br /> <br /> オーラの感知能力は瞑想の深さとも関連していて、瞑想を特にしていなくても日本人であれば感受能力が比較的高かったりしますから空気を読む延長線上で他人のオーラを感じ取ることができるわけです。その時、後光が見えたりオーラの強さが視覚情報と合わさって見えるかどうかは人それぞれなわけですけど、基本的には、瞑想状態でサマーディになって静寂の境地になっていれば視覚情報として他人のオーラを見るのも簡単のように思います。その逆に、意識が曇っているとこのようなオーラの感覚もそれに応じて鈍るように思います。<br /> <br /> とは言いましても上に書きましたようにほとんどの人のオーラは弱いですので普段はあまりオーラを意識することはないのですけど、オーラが強い人が視界に入るとすぐにそれと分かります。<br /> <br /> ヨーガや精神修行の団体にいる人の中でもオーラが強い人は実はそれほど多くなくて、それでも、いるにはいますので、なかなかこの世界も捨てたものではないと思います。<br /> <br /> Tue, 23 Nov 2021 00:00:00 +0900 エネルギーが頭頂まで上がれば静寂の覚醒に至る https://w-jp.net/2021/2540/ <br /> エネルギー上昇と静寂と覚醒とは表裏一体で、意識がクリアになればエネルギーが頭頂まで上がったということですしそれは同時に覚醒している、ということでもあります。覚醒というと色々と段階がありますけど、ひとまず、静寂の境地という段階における覚醒であればエネルギーが頭頂まで上がることによって起こるわけです。<br /> <br /> 覚醒という言葉だけですとお腹のマニプラ辺りにまでエネルギーが高まったとしても一応覚醒といえばそうで、胸のアナハタにまで上がっても一応覚醒ということもできますけど静寂の伴う意識の覚醒であれば頭にまでエネルギーが上がる必要があるわけです。<br /> <br /> 実際のところ、頭までエネルギーが上がったとしても悟りではなくて、3段階のうちの2つ目、アストラル次元、カーラナ次元、プルシャの次元という段階のうちカーラナ次元が頭頂のエネルギーに至ることによる覚醒に相当するわけです。<br /> <br /> アストラル次元は感情と結びついていて、マニプラだとかスワディスタナ、あるいはアナハタであっても感情のそれぞれの面と結びついていて、マニプラやスワディスタナであれば性愛や愛着の愛だったりアナハタであればもう少し普遍的な愛になりますけどそれらはあくまでも感情面が主で、ヴィシュッダやアジナに至るとそれは静寂だったり論理だったり知的あるいは理屈の根源的なところに至るわけで、ヴィシュッダが境目でアストラル上界、そしてアジナに相当するのがカーラナ次元なわけです。<br /> <br /> カーラナに至っても悟りではなくて、そうは言いましてもそのくらいに達すればそれなりの覚醒に至っていて、静寂の境地により物事はクリアに考えることができますし洞察力もあり、直感もよく働きます。<br /> <br /> 世間でゾーンとか言われている状態は一時的にカーラナに至った場合が多くて、ゾーンというからには継続するものではないことがほとんどですけど、ゾーン的な状態が当たり前になって割と常時覚醒の意識で生活することも可能なわけです。<br /> <br /> このカーラナ次元の覚醒をサマーディということもできて、サマーディにも色々な段階がありますけど、一時的なサマーディによるゾーンを時々体験するような段階から始まって、やがてサマーディが当たり前になって、日常生活とサマーディが融合するわけです。<br /> <br /> そのために、具体的には座った瞑想などをして、イダとピンガラにもエネルギーを通して頭頂にまでエネルギーを行き渡らせます。<br /> <br /> 日常生活を送るうちにエネルギーの通りが悪くなることもあり、瞑想をして、頭の近くにだけ通っていない時はそこだけ重点的に行えば頭頂にエネルギーが通りますし、あるいは、もっと調子が悪ければ胸の上のあたりから重点的にエネルギーを上げ直してあげる必要があるときもあります。それはどのような日常生活を送ったのか、日々の過ごし方にも影響を受けて、その時々においてエネルギーが通っていないところを通してあげてから、最終的には頭頂にまでエネルギーを上げることで静寂の境地に至るわけです。<br /> <br /> 実際、これがゴールではなくてあくまでもカーラナ次元のサマーディでしかありませんので、とは言いましてもそれなりに有効な状態ではありますけど、更なる上を目指す必要があるわけです。<br /> <br /> Mon, 22 Nov 2021 00:00:00 +0900 邪悪な存在は火星に送られて数億年後まで隔離される https://w-jp.net/2021/2539/ <br /> 火星が今後、牢獄として使われるようです。そして、数億年後の火星の再生の時まで牢獄の何もないところで暮らし、「植物」からやり直すようです。植物とは言っても意識がうっすらとある存在として転生し、転生というよりも植物に取り憑くような状態になり、「笹の葉」あるいは「ススキの葉っぱ」みたいな植物がお互いに陣地を取り合って一生懸命喧嘩をしているような人生をまずは送るようです。そうは言いましても植物ですから大したことはできないのですけど、その植物くらいしか意識が宿ることができるところが最初はないようで、植物として自分のエゴを細々と満足させることになるようです。<br /> <br /> これは瞑想中に降りてきたことですので本当のことかはわかりません。<br /> <br /> 数億年後とは言いましても意識体になった後のあの世の時間の流れは早いですし、意識だけになれば時空を越えることが一応はできますので、数億年ごとは言っても意外にあっという間、ということもできます。<br /> <br /> その間、何もない荒野の火星をただ漂って、自分のエゴを満足させる相手も大してなく、ただ自分の意識があるだけの時間を延々と過ごすことになります。火星は広いですし火星の霊界はほとんど何もありませんので同様に火星送りになった他の意識体を見かけることはほとんどなく、ただ無の世界のようなところで延々と過ごすようになるようです。<br /> <br /> 実際のところ、死後、意識だけになれば火星から地球に移ったり、あるいは、もっと遠くの恒星から地球に移動するということも可能にはなるのですけど、邪悪な存在は意識が曇っていて意識がそれほど遠くまで行き渡りませんので、よって、自分がどこにいるのかもわからず、ずっと火星に閉じ込められた状態になって、どこにも行けないようです。<br /> <br /> そして、実質的に閉じ込めるものは何もないのにも関わらず閉じ込められた状態になって、転生する肉体も火星には存在しませんので意識体のままずっと火星で暮らし、悶々としたまま数億年を過ごすようです。<br /> <br /> これは最近世間を騒がせている武蔵野市の「松下 玲子」市長のことを見ていたら降りてきたもので、霊視とまではいきませんけどぼんやりと遠隔で瞑想中に「この人は一体何者なのだろう」と遠目で観察していたのですけど、まず最初に分かったのはこの人はとにかく邪悪な存在ということですけど、その次にふと降りてきたのが、今後、と言いますか既に霊界では実行中のようでありますけど、この人のように邪悪な存在は死後に隔離されて、具体的にはというと特殊な霊界警察みたいな人が火星に連れてゆき、そこに魂が放たれるようなのです。<br /> <br /> 今まではこのようなことは起きていなかったわけですけれども、実際のところ、今は地球が滅びるか、あるいは日本民族が侵略されて滅ぼされるか、みたいな瀬戸際まで来ておりますので、邪悪な存在は隔離することが決定されたようです。<br /> <br /> 実際のところ、地球の転生サイクルからすれば人類が滅ぼうがどうなろうが地球に生まれた人はまた割と地球に生まれるという転生サイクルに組み入れられているわけですけど、その地球の人生サイクルにそぐわない人は火星の転生サイクルへと強制的に移動させられるようなのです。<br /> <br /> この隔離で地球滅亡や日本滅亡が阻止できるかどうかは別問題で、地球や日本が現在のタイムラインで滅亡したとしても終わりではなく別のタイムラインに意識が移るわけで、その時も同じ魂で転生サイクルが繰り返されるわけですけど、あの世の意識体のアストラルな世界では時空は超えておりますので別のタイムラインに移ることはできるのですけど、その場合でも、こうして火星に移動させられた意識体(いわゆる魂)はもはや火星の転生サイクルに閉じ込められるようなのです。<br /> <br /> ですから、地球滅亡したり日本滅亡したとしてタイムラインが移動したとしても火星に移動させられた邪悪な魂が地球に戻ることはなく、火星に隔離された魂は火星で暮らすようになり、火星は牢獄のように今後使われるとのことで、実際、今も既にそのように使われ始めているようです。火星は荒野で何もありませんけど魂としての意識体であればあまり関係がなく存在し続けることができますけど、意識体の密度と言いますか、あの世の世界にも意識体がほとんどない状態ですので、邪悪な存在がずっと何も他に誰もいない世界で生き続けるわけです。ある意味、それは自由であるわけですけど、他に意識がない状態で、無為に、ずっと何億年も過ごすわけです。そうしているうちに意識が薄くなってゆき、もはやどうでもよくなってゆきます。<br /> <br /> そうして隔離しなければ地球がますます破壊されてゆくから行われるわけです。隔離しなければ一部の邪悪な存在が市長のような力のある役職について邪悪な意図を持って社会を潰すようなことが継続されて行きますので、地上のことは地上の人の判断に任せられておりますのですぐにどうこうということはないようなのですけど、市長という立場にあって市を外国に売り渡すような外国人住民投票条例を早急に制定するようなことは大罪に値するので、死後、魂になったら隔離される、ということです。<br /> <br /> 実際、この宇宙というものはスピリチュアル的にも自由が保障されており、万人は何をすることができます。だからこそ、自分の行った自由というものには責任がつきまとうわけで、あまりにも身勝手な邪悪な行為に対してはこのように火星送りで数億年の牢獄生活を送ってもらい、その後は植物からやり直してもらう、という判断が行われたようです。<br /> <br /> 邪悪な存在が「この世界の人生は死ねば終わりで無に戻るだけだ」と思っているのであれば自由にそう思えばよくて、死後は関係ないのだと思うなら好きにすればいいだけのお話で、実際はこうして火星に隔離されたとしても本人は意識が曇っていて自分がどうなったのかすら気がつくことができない状態なわけですから、自分が火星にいようがどこにいようが、ただその状態を生きるしかない、受け身な状態なわけですから、火星に移動させられたとしても移動させられたことにすら気がつかないことだって多々あると想定されているわけです。実際、本人が気づくかどうかはあまり関係がなくて、とにかく強制的に移動させるだけのお話です。<br /> <br /> この世界は本人の自由意志が尊重されていて基本は自分の自由意志に反して他人の魂を自由にすることはできないのですけど、力を持った立場で邪悪な意志を使って人々を混乱と恐怖そして搾取の手段として使ったのであれば大罪ですから、そのような邪悪な存在は審議の上、火星に隔離してほぼ無の状態に戻すのもやむなし、と判断されているようです。<br /> <br /> 実際、あの世は時空を超えておりますので数億年後の植物生活もうっすらと見えるのですけど、上記の通り、ただの「ススキの葉」みたいな存在に意識が宿っており、何も喋ることができず、意識ももはや人間の時のことは覚えておらず、原始的な存在に帰ってやり直しを行うようです。この地球の人生においては害されることもなく人生を桜花することができるかもしれませんけど、それは花火が消える前に少し強く輝く最後の光のようなもので、激しく光ったかと思えば、その邪悪な魂は隔離されて、一見すると輝かしく思える人生はこれで終わりなわけです。<br /> <br /> この市長だけでなく、大陸系の徳のない人々、特に力を持った政治家、売国奴の政治家はマークされていて、ほぼ例外なく魂が火星送りになるようです。<br /> <br /> とは言いましても、瞑想中に見えたことですので、本当のことかどうかはわかりません。<br /> <br /> 地球がそれで助かるかというと微妙なところで、割と焼石に水のようなところもあって、それでも、別のタイムラインでやり直す時に多少はマシになるように少しづつ、目立つところから、影響の大きなところから火星送りが実行されているようです。<br /> <br /> 邪悪なことをしていても火星送りにならなくてラッキーという人もいるでしょうし、逆に、それほどでなくてもたまたま目についたから火星送り、という場合もあるでしょう。そのあたり、もはや対象が多すぎて対処しきれなくなっており、目についたら割と構わず火星送りになっているようです。<br /> <br /> 霊界に邪悪な仲間がいて防御されている場合もありますけど、割と邪悪な存在というのは個別で分離、一人を好みますので隙が多くて、個別に捕まえて火星に送ることは割としやすい状況ではありますが、何せ数が多くて、全てを把握できない状況ですのでなかなか火星送りが追いついていない状況なわけです。<br /> <br /> ですので、そもそも邪悪なことをしない方がいいのはそうなのですけど、たまたま邪悪なことをして監視員の目についたらすぐに火星送りになることもあるかと思いますので気をつけた方がいいと思います。この辺り、割と主観で動いているようです。客観的にリストを作って、みたいな悠長なことを言っていられる段階は既に超えていて、とにかく目についたところから構わず掃除をして火星送りにしていて、それでもまだ尚、これだけ邪悪な存在が多く地球を蝕んでいる状態のようなのです。<br /> <br /> 実際、スピリチュアル的な観点から言えば邪悪な存在すらも聖なる存在とその根源は一つでワンネスではあるのですけど、それはこうした数億年あるいはもっと長いスパンで言えばそうであるというお話で、根源のワンネスはさておき、数十年、数百年、数億年というスパンにおいては邪悪な存在は隔離して根源に戻す、ということも違和感なく霊界では行われているわけです。<br /> <br /> それでも、まだこの地球や日本が滅亡する可能性がこのタイムラインで濃厚ですので油断できない状況なわけです。<br /> <br /> 実際のところ、日本列島の地域的意識の観点からすれば、日本列島を覆っている厄災を祈りによって浮き上がらせつつ弓か剣で叩いて少しづつ消す、あるいは、動物の体に寄生するダニを摘んで取り除くような感覚で掴んだ指で厄災をそのままに火星に放り捨てる、という感覚のように思いました。松下玲子のような厄災を火星送りにするのはそのようにダニを掴んで放り投げる感覚そのものでしたし、同様に、大阪の橋下徹のような詐欺師たちも火星送りの有力候補のようです。<br /> <br /> 瞑想の中で、日本列島からダニを摘んで引き離すだけで意識がクリアになって静寂が深まります。その上で、その掴んだものを押し潰してしまうのも忍びないですし汚いものが掴んだ手に広がって汚れても嫌ですので、火星にポイッと捨てるくらいがちょうどいいように思います。<br /> <br /> 実際のところ、今までかつて存在したタイムラインにはもっと邪悪な存在がいて今は割とマシな方のようですけど、それでもまだ小賢しい小悪人が沢山いて、松下玲子も橋下徹も所詮は小悪人の程度のようです。<br /> <br /> そもそも、地球がコナゴナになって吹き飛んでいないのは日本のおかげなのにそんな日本から搾取しようとしてじわじわと侵略するなんて感謝が全然足りていないのではないですかね。日本がなかったらとっくの昔に地球は終わっていましたのに。<br /> <br /> Sat, 20 Nov 2021 00:00:00 +0900 日本列島が厄災の怨念に蝕まれている https://w-jp.net/2021/2538/ <br /> 瞑想中に見えたのですが、日本列島のほとんど、特に本州から九州北部の日本海側にかけて怨念のようなもので包まれているのが見えます。<br /> <br /> それは、イメージでいうのならば、ゼルダの伝説・ブレスオブザワイルドに出てくる「怨念」の感じに似ていて、ドロドロとしたヘドロのような泡のような黒いモヤモヤが日本列島を覆っているわけです。<br /> <br /> 所々にその怨念が丸く膨らんでいて、ヘドロの海から泡が湧き出て破裂を繰り返すかのごとく日本列島から怨念の泡が幾度となく湧き出ているわけです。<br /> <br /> ただ、それをよく見ると、それはどうやら日本列島から出ているものというよりは、外側から怨念が覆い被さっているようなのです。特に中国や韓国など半島や大陸系の怨念が大きいでしょうか。<br /> <br /> ゼルダでは怨念は厄災ガノンから発せられて王国が蝕まれているという設定になっていますが、日本列島が厄災の半島や大陸から発せられた怨念に蝕まれている、という、割と似た感じになっています。<br /> <br /> ですから、日本列島としては元々は清浄なのですけど、外側から来た怨念が覆い被さっている状況なわけです。<br /> <br /> そのような状況でも日本を守る力というものがあって、それは何かと思って見てみると分かったのですが、それは「祈り」でした。<br /> <br /> 基礎として日本の人それぞれが発している祈りというものがありますが、それと合わせて重要なのが天皇陛下など特に霊的に強い力を持った人が発する祈りが日本列島を守っているようなのです。<br /> <br /> それによって、怨念が日本に覆い被さってはいるものの少しづつ怨念が取り払われている状況で、そうは言いましてもまだまだ厚く怨念が被さっている状況なわけです。<br /> <br /> 現状を見ると、これからどうなるのかなかなか見通しが立ちませんね。そのようなこう着状態であると言えます。<br /> <br /> ただ、どうやら、この怨念の厚い雲によって日本人の判断、特に重要なのが政治における判断なのですが、選挙における政治家を選ぶ判断が鈍らされているようなのです。それによって訳のわからない反日の政治家や売国奴を選ぶ、ということが多くなっているように思います。<br /> <br /> そもそもの話をすれば、この世界は波動の法則が成り立っていますから、波動がかなり違えばお互いに「見えなくなって」ゆく訳です。ですから、日本列島がかなり高い波動を保っていれば半島や大陸の人々から日本は見えなくなってゆくわけで、似たような波動の部分があるからこそ共鳴してしまい、半島や大陸から怨念を受けたり(見える形あるいは見えない形での)侵略を受ける、ということになるわけです。その上で、たまにふらりと侵入してくる邪悪な存在に対しては「切る」ことで排除するわけです。<br /> <br /> 厄災で日本列島を覆うことで波動的に少しづつ一致させ、それによって日本列島の波動を下げて大陸や半島人から容易に識別できる土地になり、移住を可能にさせる、という段階を踏んでいるような気が致します。<br /> <br /> それは単純に言えば侵略ということになりますけど、目に見える形での侵略だけでなく、日本列島の波動を下げるということがセットになっているわけです。<br /> <br /> 日本列島を怨念で覆うことで半島や大陸と波動的に一致させ、波動を一致させてしまえば侵略も苦労なく自然に行うことができるわけです。<br /> <br /> 日本側の対抗手段としては、まず怨念を断ち切ること。怨念を切るには「剣」が必要で、それに加えて、エネルギー的なパワーの源として「祈り」も必要になります。具体的な退散させる力としての剣、根源と繋がるための祈り、それに加えて、怨念に影響されないために、基礎としての、自らの清浄さを保つ心、それは「鏡」として象徴される心ですけど、鏡のような透明な、それでいて曇らされない、見た目には周囲の色を映していても鏡自体は曇りがないかのように、心も、心は周囲の色を映すけれども心自体は曇ることがない、そのような境地で怨念を受け取らないことが肝心になるわけです。<br /> <br /> 日本列島の場合は土地の全体が怨念に包まれていますから、特に力を持った人がまずは断ち切る必要があるわけです。<br /> <br /> 見たところ、基本は祈りの力がよく効くように思えて、このくらいになるともはや自分というのか日本列島を司る土地神というのかはわかりませんけど、そのような集合意識のようなものが日本列島に生きる人々、それは今上天皇のような霊的に優れた人ももちろん含まれていますけどそのような集合意識としての祈りが怨念を解除して行っているようなのです。<br /> <br /> 私もその集合意識に合致して祈りの気持ちに乗ってみると、その祈りというのはよく効いていて、その集合意識としてはもはや私というのか集合意識としての全体というのかもはやわからない感じになっているのですけど、私の意識ということも一応はできますけど集合意識として日本列島の怨念を退散させる手助けができるわけです。<br /> <br /> どうやら、瞑想でそれなりの状態に達していても日常生活を送る上で割とすぐに意識に雲がかかり始めるのはこの日本列島を覆っている厚い怨念が一つの要因としてあるような気もしてまいりました。<br /> <br /> であれば、怨念の雲が薄い北海道の特に太平洋岸に行くとか、東北でも割と太平洋岸はそれほどでもないですし、紀伊半島や四国及び九州の中央から南方にかけてもそうでもありませんので、そのようなところに行くのも瞑想にとっては良いかもしれません。<br /> <br /> ですけど、そうは言いましても日本列島に被さっている厚い怨念の雲はどうにかしなければ更に厚くなりかねませんので、祈りというのが今は特に重要になっていると思います。<br /> <br /> 祈りと言っても難しく考える必要はなくて、要は浄化で、対象を思ってその邪念が祓われますようにと思いを向ければ浄化は自動的に起こってゆきます。それは自分で行う自分に対する瞑想と同じことで、その意識が広がってゆけば意識の中で日本列島が見えてきて、日本列島の浄化も同じように行うことができるわけです。<br /> <br /> Sat, 20 Nov 2021 00:00:00 +0900 同調圧力をする間違ったスピリチュアル https://w-jp.net/2021/2537/ <br /> 意外にこの手の人は多くて、しかも、自分は相手に対して同調圧力をかける一方で自分は自由に生きたい、という二元性を持ちます。<br /> <br /> そのような人が一緒になった時、スピリチュアルなことを言っているにも関わらず相手に対して同調圧力をかけるという不思議な状況が生まれます。<br /> <br /> 本質的に言えば、何をしようがそれはワンネスであって、獣のような人であっても天使のような人であってもどちらもワンネスなわけです。分け隔てをして、獣のような人はワンネスではなくて天使のような人がワンネス、というわけではないわけです。<br /> <br /> ワンネスとかそういうことは、相手に求めることではなくて、自分の内に見出してゆくものなわけです。<br /> <br /> 自分でワンネスを見出したら同調圧力なんてかけなくなりますし、他人が獣のようであったとしてもワンネスとして認識されますから、獣のような人であっても天使のような人であってもワンネスなわけで、そうなったら同調圧力なんてかける必要がないわけです。<br /> <br /> じゃあ、獣のような人と一緒にいた方が良いのか、というと、そういうことを言っているわけではなくて、それは波動の同調の法則がありますから、割と同じ波動の人が集まることになって、獣のような人と本来のワンネスで生きている人とはお互いに生活圏が異なるようになり、実際、お互いに「見えなくなって」行きます。<br /> <br /> お互い、あまりにも波動が違う人のことを認識できなくなるわけです。<br /> <br /> 波動が高まってワンネスで生きるようになれば獣のような人とは割と無縁の生活になっていって、そもそも関わり合いがないのですから同調圧力とかからも割と無縁になります。<br /> <br /> Sat, 20 Nov 2021 00:00:00 +0900 チャクラが開けばLGBTから男か女になる https://w-jp.net/2021/2536/ <br /> 若い頃、特にまだ異性とそれほど接していなくて性が未分化な頃は、大概、そういう時はチャクラが開けていないのです。<br /> <br /> 特に男性性と女性性を司るスワディスタナ・チャクラ(セイクラル・チャクラ)が開けていないと男女の違いが出てこなくて、ただの生きている人間、という感じになります。それは生まれたばかりの頃に最初から開いているというわけでもなくて、人によっては最初からかなり開いていたりしますけど、大概の場合、異性と何度も接しているうちに不意に開けることが多いように思います。その瞬間、自分の性に目覚めるわけですけど、それまでの間は、自分が本当に何の性に生きているか自覚が本当の意味で持てないわけです。<br /> <br /> ですから、生まれて若い頃、あるいは、まだ性をそれほど体験していない頃に自分がLGBTかもしれないと思う必要はそれほどなくて、それはただ単に、チャクラが開けていないだけなわけです。<br /> <br /> それは美人だからとかイケメンだからとか、そういう容姿とはそれほど関係がなくて、どんな顔であっても、生まれつきどの程度開いているかどうかは人それぞれな訳です。<br /> <br /> それで、美人やイケメンなら異性と接する機会が多くて、特に美人の女性は男に何度も愛されることでチャクラが開きやすい、という性質はあります。<br /> <br /> 女性の場合、男性を心の底から信頼するとチャクラが開きやすいですので、あまり多くの相手と関係を持つよりは一人の人と関係を深めた方がチャクラ的には、特に女性の場合は良いように思います。女性の場合は男性と信頼関係を持つことでチャクラが開けるわけです。<br /> <br /> 男性も基本的には同じではありますけど、男性の場合は性的関係を持つとエネルギーが発散してしまいますので割と禁欲が重要になってきます。あるいは、女性のエネルギーを使ったチャクラ開発方法とかもありますけど難易度が高くて普通は上手くいかないと思います。<br /> <br /> チャクラが開ける前は割と自分の性を意識することは少なくて、そんな時に、世間の風潮に習って「私ってLGBTかも」とか思ってしまったりすることもあると思いますけど、実際、そんな風に思う必要はなくて、単に気のせい、という程度のお話なことがほとんどなわけです。<br /> <br /> 魂と性別のお話をするのならば、前世までしばらく一つの性を何度も続けてきた人が性を変えると最初は馴染まない、みたいなことはよくある話です。そんな時に現代の人はLGBTだ、みたいなことを言ったりしますけど、そんなこと気にせずに、自分の肉体の性に馴染めばそれで終わりなわけです。最初は違和感あるかもしれませんけど、まあ、そんなもんだと思って気にせず生きれば良いだけなわけです。<br /> <br /> そして、男にしても女にしても物凄く魅力的な異性を見つけたら性の関係を持つなりして、それでも最初はチャクラが開けていなくて「性ってこんなもんか」と思ったりするかもしれませんけど、チャクラが開けてくれば性的関係を持たずとも普段の生活において自然にエネルギーが湧き上がってくるようになり、自分の性を自覚するようになるわけです。<br /> <br /> 生物学的な性別とエネルギーの質というのは密接に結びついていて、男なら男としてのエネルギー、女性なら女性としてのエネルギーというものがありますから、一般人ならともかく、スピリチュアルでそれなりに高いレベルに達しようと思っているのであれば自分の肉体の性別と自覚している性別を一致させておかないとその不一致が深いところでブロックになって高いところに達することは難しくなるわけです。<br /> <br /> どちらにせよ、一般人であったとしても、LGBTなんてのは未熟な精神状態ということもできますから、そんなことで悩むより、自分の性を自覚した方がよっぽど人生を謳歌して生きることができるわけです。<br /> <br /> それは性的な生活に限らなくて、肉体関係があってもなくても楽しく人生を生きるためにはチャクラが開けることが重要で、心の状態が落ち着いて自分の性という基本的なところで腑に落ちていない人はどこか精神的に不安定なわけです。<br /> <br /> そして、精神的に安定するには自分の性を自覚するのが早道で、性の自覚というのはチャクラが活性化することとほぼ同意なわけです。<br /> <br /> 女性の場合、自分の性を自覚する前、チャクラが開く前は「恥じらい」という感じが強いです。ですけど、性的あるいは普段の生活で女性として扱われるうちにチャクラが少しづつ開いてきて、チャクラが開いた後、特にスワディスタナが開くことで性的な自覚に至るわけです。それは大雑把に言えば「歓喜」ということでもありますけど、それは単なる歓喜ではなくて、日本女性の、元気なお母さん像そのものであったりするわけです。<br /> <br /> 日本人は割とチャクラが開いている人が多くて、生まれながらにそれなりに開けている人も多くて、性の自覚がある人が多かったりします。しかし、性の自覚がない人もそれなりにいて、それはチャクラが開けていないということで、その場合、自分のことをLGBTとか思ってしまうかもしれませんけど、スピリチュアル的にはそういうことではないわけです。<br /> <br /> Fri, 19 Nov 2021 00:00:00 +0900 邪念を拾った場合は体の周囲を円状に意識の剣で切ります https://w-jp.net/2021/2535/ <br /> どこか外で変な意識体あるいは良くない想念を拾ってしまった場合、イメージの剣のようなものをイメージして体の周囲をぐるりと回転させるとエーテルコードが切れて急に緊張が解けます。<br /> <br /> あとは、体の各所で緊張や筋肉の痛みがある場合はイメージの手でそこから何かを引き抜くような感じにしてあげると、そこに何かが取り憑いている場合は引き剥がされてその部分の緊張や筋肉の痛みが急になくなったりします。<br /> <br /> これはもちろん原因にもよって、単に動きすぎの筋肉痛の場合は何も変わりませんけど、原因がよその知らない霊だったりそこらに浮かんでいる変な想念の雲だったりする場合は自分から引き離してあげると緊張が解けたり筋肉痛が劇的に治ったりするわけです。<br /> <br /> 西洋医学ではこの種のことは証明されていませんけど、実際、これはとてもよく効きます。<br /> <br /> このようなことを物理的なことしか見えない唯物的な人に言うと「そんなことあるわけないだろ」とかゲラゲラ笑われたりしますけど、三次元の物理的な世界に生きている機械のような人にとっては見えない世界は存在しないに等しいのですから、物質しか見えていない人がそのように言ったところで、全く気にする必要はないわけです。<br /> <br /> この種のお話はハンターハンターの比喩が割と正確で、「極寒の中に裸でいるのにそれに気がついていないようなもの」なわけです。物理的なことしかわからない人が「自分が裸だって? そんなことあるわけない」とか言っていても、気が付いていない人が何を言おうが関係ないわけです。そのように、気がついていない人はエネルギーを外部の意識体に奪われ続けますから元気がなくなっていって屍みたいになるか、あるいは他人からエネルギーを奪って生きるエネルギー・ヴァンパイアと化しますから、そのように物理的なことしかわからない人と付き合わない方がいいわけです。<br /> <br /> 見えない存在がそこら中にいて、特に都会にはうようよそんな意識体が漂っています。自分のエネルギーと波動が高まればあまり影響されなくはなりますけど時に自分のエネルギーが不意に下がるとその隙をついてすぐに変な意識体が取り付いてきます。ですから、エネルギーと波動が高まると影響されにくくなるので油断してしまいがちですけど、耐性が上がったというだけで変な意識体と想念の雲は変わらず存在していますから、自分が平気だと思っていても定期的に変なものがついていないかチェックするのがいいように思います。<br /> <br /> 最近の私のお話でいうと、左の脇腹が急に痛み出して、何か筋肉痛か何かかなと思ってマッサージやヨガで伸ばしたりしてみましたけど緊張がなかなか抜けなくて、これはもしや何か左の脇腹に刺さっているのではないかと思って意識の手で摘むようにして何かを引き抜いたら急に脇腹の緊張が取れたのです。そういう時もあります。<br /> <br /> 最近はエネルギーが高まってあまりそういう意識体に影響されにくくなっていましたので油断しておりました。<br /> <br /> また、体全体が何かの雲に覆われて足を引っ張られているような感覚がしておりましたので、特に下半身から足にかけて、体の周囲をぐるりと回転するように意識の剣のようなもので切ったところ、急に意識が下に引っ張られる感覚が減って、肩が軽くなり、緊張がかなりほぐれました。死霊や悪霊は下の方から足を引っ張る感覚が強いように思いますけど、掴んでいるケーブルあるいは手のようなところを切れば簡単に離れます。死霊は元々ふにゃふにゃなオーラの体しかありませんから切っても問題ないわけです。<br /> <br /> このように意識体に一旦取り憑かれるとケーブルを切ったり意識体を引き抜くだけでは十分ではなくて、その後、オーラの状態を安定させるべく瞑想する必要があるように思います。ですけど、ただ瞑想するだけでは回復に時間がかかりますので、第一の対処としてエーテルのケーブルを切ったり意識体を引き抜く、という外科手術的なことを最初にした方がいいように思います。<br /> <br /> この種のお話は、知らなかったり認知できなかったりすると一生ずっとエネルギーを死霊や悪霊に吸い取られることにもなります。本人が唯物論者であったとしても現実はこの通りですから、唯物論者とか物理的なことしかわからない人たちは死霊や悪霊にとってみればカモでしかなくて、対処もしないでずっと寄生させてくれる嬉しい存在なわけです。<br /> <br /> ですけど、ある程度のスピリチュアルの理解があるならばそのような非生産的な存在と関わっていても仕方がないと理解して、肉体は毎日必ず汚れますから毎日お風呂やシャワーを浴びるのと同様に、このような死霊や意識体はどうしても生活すれば多少は憑いてきてしまいますので取り憑かれたものを定期的に切り離すことが必要になるわけです。<br /> <br /> Sat, 13 Nov 2021 00:00:00 +0900 ワンネスと悪を区別する https://w-jp.net/2021/2534/ <br /> この、一見すると似ても似つかないものが実社会では割と混同されていて、悪なのにワンネスだからと言って容認されている状況があります。と、言いますのは、悪というのは一見するとそうだと見抜きにくく、社会経験がないと悪がワンネスかのように見えてしまうからです。何故なら、悪の存在はワンネスを主張することで自分の悪を覆い隠そうとするからです。<br /> <br /> ですけど、決定的なのは、悪は最初こそ柔和な態度を取っていますけど最終目標が達成できるようになるにつれて横暴な態度に出るようになります。大阪の橋下徹や大阪府知事の吉村 洋文などは割と本性が出てきた方で、もはや隠す必要もなくなって親中を表に出していますし大阪を中国に売り払うつもりなのでしょう。<br /> <br /> このようなことを大阪の人が許すのは、表面上は経済だとか人口だとか色々と言われていますけど、根底としては、ワンネスと悪との区別がついていないからなのです。<br /> <br /> その区別ができていない、というのは、世間知らず、ということでもあります。日本の中でだけ通用する、義理と人情などというものはあの種の外来種にはありませんから、色々と穏やかなことを言って人々を納得させた後に貰うものさえしっかり取ってしまったらそれを返すことはなく、人々は永遠に失って初めて怒りが湧き出ますけど、中国は一度手に入れたものは二度と返すことはなく、取り返すには戦争しかありません。<br /> <br /> そうなる前に大阪の人は選挙で維新を落とすべきなのに、ワンネスと悪の区別がついていないから、そのことをもっとざっくりと言うのならば世間知らずですから全てを奪われようとしているのにそれを許してしまうわけです。<br /> <br /> 悪は時折キレて自分のわがままな主張を貫こうとする点ですから、そこをしっかり見抜いて、選挙で落とす必要があるわけです。<br /> <br /> これはきっと、日本人の全てが学びとして通り抜けないといけない点なのかなと思っております。誰か英雄が出てきて排除してしまうと日本人の学びができませんので、悪と言うものは表面上は優しくて、それはまるでスターウォーズで皇帝が議会の喝采を持って独裁を受け入れたのと同様、世間知らずが悪の演説に魅入られることで社会を悪へと導き入れてしまうわけです。<br /> <br /> スピリチュアルというとワンネスで全てを受け入れる、みたいなお話が常識みたいに思われていますけど、本当のスピリチュアルであれば悪を見抜いて悪を切るようになります。常識で思われているスピリチュアルと実態の姿とはかなり違うわけです。<br /> <br /> 本当のスピリチュアルというのは何であっても全てはワンネス、ということですから、表面上で他人を受け入れようが受け入れまいが何をしようが全てはワンネス、ということです。ですから、世間で言われているように、他人の意見を受け入れるかどうかは本来のワンネスとは関係がないわけです。<br /> <br /> 本質で言えば他者のものを全て奪おうとして表面上は柔和な態度を取っている人であっても、その本質はワンネスということではありますけど、だからと言って常識で思われているようにワンネスだから受け入れなさい、ということにはならなくて、実際は、ワンネスだからこそ何をしようが選択肢は全てオープンで全ての選択肢に対して自分の行動というものは開かれているわけです。ですから、受け入れない、というのもワンネスですし、もちろん受け入れてもワンネスですけど、スピリチュアルを本当に分かっている人はそのような悪の人を本質ではワンネスと理解しつつ現象面では受け入れることはないことがほとんどで、逆に、切ることの方が多いと思います。<br /> <br /> 実際のところ、ワンネスという言葉は本来の意味はあまり理解されていなくて、ただ単に悪が自分の本当の目的を覆い隠すために都合よく使っているだけという現状があります。ですから、実社会で、特に政治などでワンネス風のお話を持ち出す人の三分の一くらいは詐欺師だと思った方が実態には近くて、残りは、よく分かっていないけれどもとりあえず真似をしている人たちや、あるいはごく一部、1割に満たないくらいで本当のワンネスを言っている人もいます。ですけど、割と目立つ主張をしている場合は、目立つということは広告のためにお金を裏で使っているということですから、目立つお話でワンネスというのが出てきたら何か本当の目的、特に悪の目的が裏にあると思った方がいいわけです。<br /> <br /> 私は日本に生まれて日本人ですけど魂の経歴から言えば宇宙系ですので、日本に住んでいるとはいえ、地球観点から言えば私は「ゲスト」に過ぎないわけです。ですから、こうして日本に住んでいて日本の人たちを見て「何を茶番をしているのだろう」とか「どうして日本人は悪をのさぼらせているのだろう」とか思っていますけど、きっと、日本人のそれなりの割合の人が目覚めないといけない時期なのかな、と思っております。<br /> <br /> ただ、今のままいくと日本は中国の属国になりますので、早いうちに多くの人、それは少数の人ではだめで、大多数が目覚めないと、この地球上に存在している日本という楽園が永遠に失われてしまうこともあり得ます。<br /> <br /> 日本人は「分け与える」とか「慈悲」とか「人情」がわかりますけど、外国人は分かりませんから奪うだけ奪ってきて、日本人に同化することはありません。<br /> <br /> 確かに、少数の人が日本に同化するパターンもありますけど、それは割合というもので、日本人と同じくらいの人口の中国人が大挙して日本に押し寄せたら中華街が日本中にできるだけのことで同化はないわけです。<br /> <br /> 今のうちに日本人が目覚めないと、法律あるいは条例ができた瞬間にその法律に則って大挙して中国人がやってきて日本を乗っ取り始めます。<br /> <br /> あるいは、それがなかなかできないとなれば中国人民軍が中国人の資産を守るためとか何か名目をつけて日本に居座ったら甘い日本人はそれを我慢してしまうこともあり得ます。<br /> <br /> どちらにせよ、今は危険な状況で、中国人も日本と同じとか思っていると全部奪われてしまうことになるわけです。<br /> <br /> 悪は本当の目的に気付かれそうになるとまず「そうではない」と否定から始まり、ワンネスを持ち出したり論舌で誤魔化そうとしますがそれもできなくなると攻撃し始めて怒鳴ったり恐喝したり個人攻撃をして反対意見を抹殺しようとするわけです。武蔵野市長の外国人参政権のお話にしても周囲から批判されて今は「そうではない」と誤魔化していますけど、理屈で言い返せなくなってきたらそのうち恫喝が始まりまるのも時間の問題だと思います。<br /> <br /> 今、先兵として日本に来ている人は割と日本に同化したり、あるいは、柔和な人が先に送られてきていますけど、本隊として日本に移住しようとしてきている人は日本人とはかけ離れた性質を持っていますから、そうなったら日本の社会は破綻に近づくわけです。<br /> <br /> リベラルとか言う人も同じで、リベラルと悪の違いを人々は分かっていないわけです。ワンネスだとかリベラルだとか言って自分たちの悪を覆い隠そうとしているわけです。演説で他者を納得させようとする人は、どこか疑ってかかるくらいが今の社会には合っているようにも思います。<br /> <br /> スピリチュアルな人の生き方としては、物事をありのままに捉えて、偏ることなく、演説などに魅入られて本質を見失うことなく、相手が何であるのかを行動と発言を合わせて理解し、必要とあれば悪を切ることも辞さない態度こそが本当のワンネスに根ざした生き方であると言えます。<br /> <br /> 能の敦盛、<br /> 人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり<br /> 一度生を享け、滅せぬもののあるべきか<br /> <br /> この境地というのはワンネスに根ざしており、ワンネスだからこそ何をしてもよく、であれば、悪を切って正義に生きるのも人の本望である、という理解に立っているわけです。<br /> <br /> そして、その理念を姿で現したものが「剣」であり、皇室の三種の神器の1つが剣であるのもこの種の正義を貫いて悪を斬るために必要なわけです。なんでもワンネスでいれば全てが解決すると思っているお花畑の人は、もう一つ進んで、統合された合一のスピリチュアルを基にしたワンネスに進むことでこのことを理解することができるようになります。<br /> <br /> Sat, 13 Nov 2021 00:00:00 +0900 悪というものが何なのか見極める https://w-jp.net/2021/2533/ <br /> 原始的なスピリチュアルを利用して他国を思想的に侵略して骨抜きにするということが諜報部によって行われてきたわけですけど、もちろんそれをやっている国は自分で「そうです。工作しています」なんて言うわけありませんので、各自が自分で判断するしかないわけです。自分が「そんなのはない」と思うならそう判断すればいいだけのことです。<br /> <br /> 実際のところ、そのように工作があるかどうかの判断以前に、もっと簡単な判断基準があります。それは、相手が悪なのかどうかを判断する、ということです。<br /> <br /> スピリチュアルな人は悪もワンネスとか言いたがりますけど、それはとてつもなく高いレベル、アートマンとかブラフマンとかいうレベルではそうですけど、そのレベルからみると、悪を成敗してもワンネスだし、悪を成敗しなくて悪が蔓延ってもそれすらもワンネスなのです。どうせどちらもワンネスなら悪を成敗した方が良いでしょう。そのくらいの簡単なお話なのに、スピリチュアルの悪しき思想で自分の行動に制限をかけてしまっている人は「悪を成敗する」という簡単なお話が理解できないどころか、「なんて酷いことをするのだ」と、悪を擁護したりするわけです。<br /> <br /> 本当にスピリチュアルを理解しているのならば、物事は全て無常であって究極的には善も悪もなく、ただこの現世の夢幻だと理解しておりますので、であればこの日常を清く正しく生きようとしますから、そうなれば、自然と悪は成敗するということになるわけです。<br /> <br /> こんな簡単なことも理解できないでスピリチュアルにハマっている人は、悪というものが何なのか理解できていないわけで、そのように、悪というものを理解しないで生きているといつか悪に全てを奪われて捨てられることになるわけです。<br /> <br /> 国であれば、国土を奪われ、放浪の民になるわけです。ほんの少しの理解がなかっただけでそうなる危険性があるわけです。<br /> <br /> それは「悪」というものが何なのか? そのことを理解せずに、「自分が相手に同情すれば相手もまた同情してくれるだろう」みたいな世間知らずの考えで悪に色々と与えてしまえば、悪は手に入れたが最後、二度とそれを返そうとはしませんから、例えば土地を一度手に入れたら二度と返そうとしませんし、日本の文化に同化しようとも思わないですし、日本人は邪魔だからどこか世界にでも出ていけ、とさえ思うわけです。<br /> <br /> こういうことを言うと「なんて酷いことを言う人なのだ」とか言う人がいますけど、実際、そう言うことがモンゴルや香港、チベット、ポーランドで起こったのに日本は大丈夫なんて思うのはお花畑すぎやしませんか。<br /> <br /> 日本人の多くは「悪」というものを知らない、世間知らずなわけです。<br /> <br /> 悪、と言うのは暴力を振るう人ではありませんよ。そこが勘違いです。<br /> <br /> 悪、とは、表面上はにこやかにしているけれども、いざとなれば怒鳴ってキレて自分の権利のために相手をどん底にまで叩き落として粉々に粉砕して全てを奪おうと裏で考えている人のことです。<br /> <br /> 日本人は、悪と言うものが何なのか理解していないのです。<br /> 輝いていて立派に見えていても悪というのは存在しているのです。<br /> <br /> その一方で、悪ではない人、本当に立派な人もいます。<br /> そのあたりの区別が、目が曇っているとわからないのですよね。<br /> <br /> 日本は、特に政治の面で大阪の維新の会とか旧民主党とか色々なところで侵略されていますけど、それもこれも、国民が悪というものを理解していないからだと私などは思います。<br /> <br /> この状況は、国民が悪というものをそれなりに理解し尽くすまで終わるでしょうね。<br /> 理解なしに、ただ単に天誅でそのような悪を排除したところで国民一人一人が賢くなって悪を排除するようにならなければまた同じことが起こります。<br /> <br /> その理解のために、今のように外国の工作員が好き放題している現状は必要悪なのかもしれませんね。<br /> <br /> ですけど、このままいくと、例えば東京都武蔵野市の外国人選挙のように酷い意味不明な状況になって急激に売国化が進むことになりますから、ある程度の手立ては打つ必要があるとは思います。<br /> <br /> ですけど、大勢としてはこのままの状況を容認して、国民の意識が目覚めるしか売国奴を減らす方法はないように思います。<br /> <br /> もしも売国奴に国を奪われたら、最悪、ユダヤ人のように国を持たない民族になって南米にでも移住する人が増えるかもしれないですよね。<br /> <br /> そんなことあるわけない、とでも思っているのでしょうか? であれば世間知らずですよ。<br /> <br /> 今、自由を謳歌している状況を一人一人が守ろうとしなければ、そうなっても不思議ではないということです。<br /> <br /> Fri, 12 Nov 2021 00:00:00 +0900 他国への侵略のためにワンネスを利用する人たち https://w-jp.net/2021/2532/ <br /> 原始的なスピリチュアルのお話の余談ですけど、この種の原始的な精神性は他国侵略のための道具として現代は使われている気が致します。<br /> <br /> 人々は呑気なもので、陽気に「ワンネス・ワンネス、踊って楽しい」とか言って浮かれていたりしますけど、実際のところ、そのようなワンネスの思想は、油断させて他者に色々提供して欲しい侵略者がばら撒いているものだったりするわけです。<br /> <br /> ワンネスの発祥がいくつかあると前の記事に書きましたけど、先住民族のワンネスはそもそも宣伝なんてしない種類のものですし、宗教家たちにしても細々とやっているくらいです。その種のスピリチュアルは自分の中で完結していて、内面的なものですので、現代のように大々的に宣伝をしてワンネスだとかスピリチュアルだとか言っているのは何か裏があるということです。<br /> <br /> そうは言いましても、そんな魂胆と資金投入でもなければワンネスだとかスピリチュアルだとかが広まらなかったのも事実ですので、外国への工作が最初の理由だったとはいえ、それに乗じてワンネスとかスピリチュアルが広まったのは最初に工作した人にとっても予想外だったことでしょう。<br /> <br /> 今は割とコントロールできなくなっている感じがしますが、それでも、スピリチュアルと聞いて何か胡散臭いのを感じる時があるのは、この種の他国への工作が背後にあったりするわけです。それに乗せられて動く人たちの方は割と純粋ですけど、工作して扇動している人たちがその背後にいるわけです。人々は割と世間知らずですから、そんなのに乗ってしまうわけです。かつて、有名な宗教団体の背後にイギリス情報部がいて立ち上げに関わったとかいう噂もそう間違いではないわけです。<br /> <br /> そうは言いましても、多少は思想を広める土台を作ってくれたのは有難いことではあります。<br /> <br /> Fri, 12 Nov 2021 00:00:00 +0900 原始的なスピリチュアルから合一へ https://w-jp.net/2021/2531/ <br /> 「みんな一緒」とか言うスピリチュアルが息づいているのは世界に少なくとも3つの種類があるように思います。<br /> <br /> 1つは先住民族の精神性<br /> 1つは宗教者たちの精神性<br /> 1つは他国への静かな侵略(工作)をする時に反発を減らすための道具<br /> <br /> まず、割と原始的なワンネスのスピリチュアルは原始的な先住民族の暮らしの中に息づいています。そもそも、原始的な社会においては「所有」の感覚がありませんので、そもそもワンネスという概念が当たり前すぎるわけです。ワンネスというのはその社会においては絶対的に正しいわけです。<br /> <br /> 同様に、先住民族というわけではないですけど韓国のように国全体の精神性が未熟な場合も他者と自分の違いがわからなくて、同様の精神性が根底にあったりします。これは必ずしもスピリチュアルという形で現れないこともあって、生活習慣や周囲の国に対する対応としてそれらの精神性が表れてきます。例えば、日本由来のものを韓国の人が「韓国由来だ」と主張して特許を取ったり普通に韓国発祥として商標登録をしたり商売しようとしますけど、それは精神性がまだ未熟なので、他者と自分の区別ができない、そもそも最初からワンネスの状態で生きていて、他者が行ったものも全て「自分がやった」こととして認識してしまいますから、文章を読んだりしただけで「これは自分の考えだ」と思ったり、ちょっと勉強すると「これは自分が考えた」みたいに本気で思ってしまったりするわけです。韓国のような社会の精神文化はこのように先住民族と比べて考えてみるととてもよく理解できて、社会の根底として、いわばワンネスがあるわけです。これはいい意味ではなくて、先住民族のように自分たちのルールで生きているだけならばいいですけど現代のように他者や他国と交流が盛んな社会において韓国のように「あれもこれも韓国が発明した」みたいなメンタリティで主張されてしまうと周囲としては迷惑なわけです。私は割と、韓国と先住民族を同じカテゴリで考えています。<br /> <br /> スピリチュアルの人は一定数この種の「原始的なところに帰りましょう」という主張に寄り添っていて先住民族のスピリチュアルを信奉していたりしますけど、実際のところ、それは一周遅れのスピリチュアルになります。<br /> <br /> スピリチュアルは合一と分離、また一つ上のレベルでの合一と分離ということを螺旋状のように繰り返しながら成長します。割と原始的なスピリチュアルで合一を経験して、その後、分離を学ぶわけです。そしてその後、また一つ上のレベルにおける合一を学んでゆきます。<br /> <br /> 今の時代はカリユガとも呼ばれている分離の時代で、先住民族は割とそのような中でも合一の精神性を保ってきたわけですけれども、それは、せっかくカリユガで分離を経験できる時代だったのにしっかりと時代に即した学習をしてこなかった、とてももったいない状況なわけです。<br /> <br /> これからどんどんと合一の時代になりますけど、その時、昔ながらの素朴なワンネスでしか生きてこなかった人と、一旦は分離を経験してそれからまた合一になった人との間でもはや乗り越えられない深い溝ができると思います。単なる素朴なワンネスと分離を経験してからの合一に至った人では物事に対する理解の深さが段違いで、素朴なワンネスの意識で生きている人が合一のワンネスに至った人を理解するのはとても困難かもしれません。そのくらい意識に差がありますし、そのくらい違ってしまうと、素朴なワンネスの意識で生きている人が合一のワンネスを全く理解できなくて誤解して解釈してしまうことすらあるように思います。もはやお互いに理解し合うことは難しくなるのかもしれません。<br /> <br /> じゃあ、今世界に大勢いる物質的な物欲的な人はそのような分離のスピリチュアルの段階にいるかというとそうでもなくて、実際は、そのような大多数の物質的な人々はここで言っているお話よりもう1周か2周前の分離の状態にいるわけで、分離の段階とは言っても何周か違っているので、大局から見ればどちらもスピリチュアルの一段階ではありますけど物質しか見えていない人は獣に近くて、精神的なことがそれなりに分かった上で一旦分離を学んで更なる合一のスピリチュアルへと行こうとしている人とは寄って立つところが全然違っていて、似たようでいて全く違ったお話であるわけです。<br /> <br /> Fri, 12 Nov 2021 00:00:00 +0900 「みんな一緒」とか言うスピリチュアル https://w-jp.net/2021/2530/ <br /> それはとても高いレベルでは確かにそうで、ヨーガやヴェーダンタでアートマンとかブラフマンとかプルシャとか言われる段階ではそうですけど、だからと言って、普段の生活で他の人と全てを分かち合うとか「みんな一緒」とかいうお話にはならないわけです。<br /> <br /> それはしっかり勉強すればわかることで、そのようにヴェーダンタ等で言っているのは「どんな人であっても根源としてのアートマンあるいはブラフマン、またはイーシュワラとか言われている存在は同じ」と言うだけであって、例えば、獣であっても人間であっても土であっても石であっても水であっても空気であっても全てはアートマンだ、と言っているわけです。<br /> <br /> 土は土であって、石ではありません。<br /> 同様に、水は水であって、空気ではありません。<br /> 人間は人間であって、獣ではありませんし、石でもありません。<br /> <br /> その根源を見れば全てアートマンですけど、そのことと「みんな一緒に」みたいなお花畑のスピリチュアルとは関係ないわけです。お花畑のスピリチュアルでは「みんな一緒」「ワンネス、楽しい楽しい、みんなで踊りましょう」みたいなことを言っていますけど、そうやって踊っていても踊っていなくても変わりなくみんな同じアートマンで、踊っているからだとか、踊っているからだとか、そのような「条件付け」に左右されないのがアートマンなわけです。<br /> <br /> それはいわば理解するしかないものということもできて、感情的に理解するものではないわけです。<br /> <br /> 感情的なスピリチュアルはお花畑でワンネスとか言っていますけどお花畑であろうと何であろうと、スピリチュアルとは無縁の生活を送っていても、獣のような人であっても、全てはワンネスでアートマンなわけです。そのような条件付けを超えているのがアートマンなわけです。<br /> <br /> よくわかっていない人がやっているお花畑のスピリチュアルは要は「自分が傷つきたくない」というところが拠り所で、自分が傷付けられない条件付けとして色々な制約を周囲に課しているわけです。自分も相手を傷つけませんので貴方も私を傷つけないでください、という、ある種の合意がそこになされるわけです。<br /> <br /> ですけど、実際のところ、何をしても全てはアートマンなのですから、そのような条件付けをすればするほど敏感になってしまい、症状としては「キレやすく」なってしまうわけです。スピリチュアルとか言っておきながらすぐにキレる人の種類のうちの1つはこれが原因です。<br /> <br /> 世の中の宗教者を見ればお互いに仲が悪いでしょう。そのようなレベルにおいては感情面でのスピリチュアルをしていて、お互いに足を引っ張ってしまい、なかなか先に進めないわけです。<br /> <br /> Fri, 12 Nov 2021 00:00:00 +0900 未分化のスピリチュアルから合一へ https://w-jp.net/2021/2529/ <br /> 最初は、単に未分化の、割と原始的なスピリチュアルから始まります。ただ単に分離されていなくて、全てが同一に見えて、その時は、個というものはほとんどなく、所有という観点もあまりなく、ものや考え方などが単に共有されている世界です。<br /> <br /> これは理想のように見えるかもしれませんが、実はただ単に原始的なだけで、今でも先住民族などの社会においてこの原始的なスピリチュアルは生き残っています。<br /> <br /> 先住民族だけでなく、社会としても、例えば韓国のような社会は割とこの傾向があって、社会として未分化のスピリチュアルの段階にいますので分離されていなくて、個というものがあるようでいてなくて、実際のところ、何もかもが自分のように思えてしまう状態な人が多いわけです。そのような状態ですから、韓国の人たちが日本由来の多くの事柄に対して「これは韓国の出自だ」とか主張してしまうのも、日本の人たちからすれば「一体何をバカなこと言っているのだ」ということになりますけど、韓国の当の人たちにしてみればただ単に見解が分離されていなくて、本当に自分がやった成果かのように見えているのです。ですからそれほど悪気があるわけでもなくて、割と本当に自分たちのものだと思っているわけです。現実にはもちろん違うわけですけれども。<br /> <br /> そのような社会は韓国だけでなく、身近なところで言えば沖縄やアイヌの人たちにも同様の傾向があって、そのようなところは先祖の主要な霊たちと交流することが今でもできるわけですけれども、そのようなことができるベースとして、そもそも未分化のスピリチュアルという土台があって、先祖の霊であろうと素直に自分の受け入れる基礎があって、自分の体及び自分の魂と他の魂とを一時的に融合させることでスピリチュアルを実現しているという面があるわけです。<br /> <br /> そのような割と同一の傾向がありますから、最近見た映像でいうと、何故か韓国の人がアイヌの先住民族の儀式に混ざって韓国旗を服につけながら儀式をしているという意味不明なことが起こるのも、韓国のその種の段階にいる人たちはアイヌであろうと何であろうと自分自身のことだと思ってしまう、未分化のスピリチュアルの段階にいて、アイヌの側としても割と同じ傾向があったりしますから、そのような意味不明なことであっても受け入れてしまったりするわけです。<br /> <br /> そのような未分化の状態から、日本など割と先進諸国であるような分離の状態に移行します。この分離の状態は退化ではなくて、それもまた一つのスピリチュアルの段階とみなされます。割とこの分離は悪者扱いされることがスピリチュアル業界では多いような気が致しますけど、この分離を学んでこそ次の段階へと進めるわけです。<br /> <br /> それは説明としてはヨーガやヴェーダでいうカリユガの時代の説明とか、フラワー・オブ・ライフの螺旋状の成長の説明、あるいは神智学による解釈などがそれに相当します。<br /> <br /> これは西洋社会を上に見るためのうがった見方だという批判も一部にはありますけど私が幽体離脱して過去と未来の自分自身の成長を見た結果、どうやらこの種の、一時的にでも分離を経験することはスピリチュアル的にとても重要だと判断しましたので、このお話は、西洋優位という考え方に結びつくのは良くないですけど、単にスピリチュアル的な階梯ということであれば正しいように思います。<br /> <br /> これから日本も含めて世界の社会全体は、一度分離を体験した上での合一のスピリチュアルの段階へと移行します。<br /> <br /> それは元々の未分化のスピリチュアルとは違って、個というものをある程度の基本としつつも合一された、全てが一つであることを知った上でのスピリチュアルになるわけです。<br /> <br /> ですけど、もちろんそれには個人差があって、最初の未分化の段階に取り残されている人とか、分離の状態に取り残される人も出るわけで、その時は、社会全体がまた分離と未分化をサイクルで繰り返すまではなかなか次の段階に行きにくくなりますので、カリユガとかそのような分離の個を体験しやすい時代に個をしっかりと経験しておくのがいいと思います。<br /> <br /> 個というと語弊がありますけど、論理思考と言っても良いです。個の分離と論理思考は割とペアになっていて、実際はペアではなくて合一においても論理は働きますけど、個の分離があると論理思考がやりやすい、という面があります。そろそろ個の分離もしにくくて合一の時代になりますので、まだ未体験の人は論理思考と個の分離をセットに今の時代に経験しておくと今後の時代を生きやすくなると思います。<br /> <br /> Thu, 11 Nov 2021 00:00:00 +0900 両頬を意識してイダとピンガラを活性化させる https://w-jp.net/2021/2528/ <br /> 瞑想中、ほほをそれぞれ意識することでヨーガで言うところのイダとピンガラという主要なエネルギーのルートを活性化することができます。<br /> <br /> イダとピンガラは胸より下の方から首の両側を経由して頬を通り、更には目の真ん中より外寄りを通って頭の上の方にまでエネルギーのルートが通じています。<br /> <br /> イダとピンガラのルートには諸説あって、体の中をぐるぐると螺旋状に回転しているという説も流派によってはありますけど、私の自身の実感及び流派によってはただ単に体の左右を上下に通じているルートなわけです。<br /> <br /> 螺旋状に回っている、という流派の書籍を読むと「イダとピンガラは体の中でどのようなルートになっているのか意識できない」みたいなことが書いてありますけど、そんなことはないです。はっきりとイダとピンガラは意識できますので、意識できないということはそのくらいのレベルの人が書いたお話なのかな、という気も致します。<br /> <br /> 最初はイダとピンガラを意識できませんけど、これらははっきりと意識できるものです。<br /> <br /> 特に、ほほの辺りは意識しやすくて、肉体の見た目には出てきませんけど、エネルギー的にはアニメの「デビルマン」の目から伸びている筋がもっと下の喉の両脇および首、そして体の左右に通じていて、デビルマンの目の下の模様および両方の胸にある2つの模様とかは、ちょっと実際のイダとピンガラとは違いますけど、なんとなく雰囲気は出ていると思います。数十年前の古典バージョンの方のことです。<br /> <br /> ヨーガの呼吸法のアヌローマヴィローマは片鼻づつ行う呼吸法ですけど、呼吸法というよりも実際はプラーナというエネルギーを扱う技法ですので、呼吸を伴わなくても意識でイダとピンガラを意識してエネルギーを透しさえすれば実際は同じことなわけです。<br /> <br /> これは、イダとピンガラを知らなくてそうと意識しなくてもただほほを意識することで割と同じ効果が出たりしますので呼吸法として色々なところで教えられていて、主にリラックス法として伝えられていますけど、単なるリラックスだけではなくて、エネルギーを強烈に活性化させる手法な訳です。<br /> <br /> 最初は呼吸を伴った方がやりやすいと言えばそうで、クンバカ(止息)を伴う片鼻交互呼吸法(アヌローマヴィローマ)によってイダとピンガラが活性化するわけです。そして、ある程度のイダとピンガラの活性化が行われた後はクンダリーニが活性化します。<br /> <br /> ヨーガでは意外に割とイダとピンガラが軽視されていてクンダリーニのことばかり気にされているように思いますけど、実際は、イダとピンガラが活性化することでクンダリーニが動き出すわけで、イダとピンガラなしのクンダリーニなどあり得ないわけです。ですからイダとピンガラをきちんと活性化するのはとても重要で、そのためにアヌローマヴィローマをしたり、あるいは、呼吸法としてではなく、直接的にイダとピンガラを意識することでイダとピンガラを活性化させるわけです。<br /> <br /> 最初は体の方にもルートが通っていませんから、最初はほほを意識しても何も起きないと思います。その時は、体の各所、少しづつ意識をして少しづつルートを通す必要があるわけです。<br /> <br /> 私の場合、最近の課題としては頬から頭頂にかけてのルートが細くなりがちで、瞑想で特に頬を意識することで頭頂のサハスララにまでエネルギーをしっかり通してあげるようにしています。<br /> <br /> 普通に眉間に意識を合わせるのが瞑想の基本ではありますのでそうしてエネルギーを通することで次第にイダとピンガラが活性化してゆきますけど、問題となっている箇所がはっきりしているのならばその箇所、この場合はイダとピンガラ、特に頬のああたりを意識してあげるとすぐにサハスララにまでエネルギーが通りますので、単純に眉間に意識しているより効率がいいように思います。<br /> <br /> イダとピンガラ。「Hatha Yoga Pradipika (Swami Muktibodhananda著) 」より<br /> <br /> <br /> 「魂の科学(スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ著)」の図<br /> <br /> <br /> Wed, 10 Nov 2021 00:00:00 +0900 サマーディにおける想念の観察と動作の観察の割合の変化 https://w-jp.net/2021/2526/ <br /> 以前は、日常生活におけるサマーディが想念の観察か動作の観察か、どちらか一方に比重が偏る感じでした。想念の観察を重視しているときは想念80:動作20くらいの観察になり、逆に、動作の観察を重視するときは想念20:動作80くらいの観察になっていました。それが、ここ最近は想念と動作の両方がそれなりに同時に観察できるようになってきたように思います。<br /> <br /> これは日常生活でのお話ですけど、一応は、座った時の瞑想でもこの割合が効いてきます。ですけど座った瞑想の場合ばこの種のお話はあまり問題にならなくて、座った瞑想状態ではそもそも五感の入力が低下していますし、目を開けた瞑想であれば視覚の入力はありますけど目を瞑った瞑想でもすれば心の面が優位に観察されて五感の観察の割合がどうしても減少します。<br /> <br /> しかしながら、普段の生活においては五感が普通に働きますので、その状態における観察では、五感に集中して五感優位で観察する時と、心の動きが優位で観察する時とがあって、今まではどちらか片方に偏っている状況でした。基本的に心というものは一つのことしか意識できなくて、心を観察するか、五感を観察するのか、どちらか一方が優勢だったように思います。<br /> <br /> しかし、ここにきて、この割合が変化してきました。<br /> <br /> 今は、意識的にこの割合を変えることができて、想念50:動作50、などが可能になりました。<br /> そうは言いましても完全にその割合というわけでもなくて時によって違うわけですけれども、両方の観察が継続するようになったように思います。<br /> <br /> これは単なる割合ということ以上の意味合いがあるように思えて、それは、想念や動作よりも更に一歩上の階層で自分自身を観察(ヴィパッサナー)できるようになってきたのかな、と思っております。<br /> <br /> 表現として「同じ割合」としてしまうと、何か語弊があるような気もしております。<br /> <br /> ヨーガでは肉体(粗大な体、ストゥーラ・シャリーラ)、微細な体(スークシュマ・シャリーラ)、原因体(カーラナ・シャリーラ)、アートマン(あるいはプルシャ)という体の階層がありますけど、サマーディがまだそれほどではない場合は五感の観察はできるものマインドの観察はまだしにくい状態にあって、次第にサマーディが深まってアートマンのサマーディに近づけば近づくほどマインドの観察もしやすくなるのかな、と解釈しています。<br /> <br /> であれば、体感的には「同じ割合」ということにもなりますけど、五感もマインドもどちらも下の階層になって観察(ヴィパッサナー)できるようになればどちらも観察の感覚的には同じ割合、ということになるのかな、と解釈しています。<br /> <br /> こうなるにつれて観察のしやすさも断然変わってきて、努力というものがどんどんと不要になってきて、日常生活と観察(ヴィパッサナー、サマーディ)が次第に融合されていくのを感じます。<br /> <br /> Sun, 07 Nov 2021 00:00:00 +0900 無念無想を繰り返すことで日常生活での瞑想状態が継続するようになる https://w-jp.net/2021/2525/ <br /> 最初は一時的な「経験」なわけです。そのうち、次第に少しづつその瞑想状態は日常生活と融合します。<br /> <br /> 瞑想をして、最初は割と雑多な雑観・雑念が出てきますけどそれは自生のエネルギーの現れですので、それを抑えずにそのまま観察し、流し続けます。これは瞑想の基本で、雑念が現れてもそれに逆らわず受け流すという方法です。<br /> <br /> そうして瞑想を続けていくと、不意に雑念が途切れて、エネルギーが少し高まって、背筋が少しピンと伸びて、頭が少し上に上がり、その直前と比べて少し静寂の境地が深まります。<br /> <br /> これは程度問題で、ある程度の静寂の境地であっても多少の雑念は出てきて、それは自生のエネルギーですので出ては消えてゆく、そのような自然界の現象のようなものなわけです。それでもある程度の静寂の境地ということはできて、その静寂の境地にしても、雑念の量によって深さが変わってくるわけです。<br /> <br /> 雑念が少しあるけれども一応は静寂の境地の状態では、意識の上に薄い幕のようなものがヴェールとして被さっています。<br /> <br /> そうして、上記のように不意にエネルギーが高まって静寂の境地が深まると、その薄いヴェールもう少し薄くなるわけです。元々薄いヴェールが更に薄くなってもまだ少しヴェールはあるのですけど、これは程度問題で、感覚的に、薄いヴェールが更に薄くなったと感じられるわけです。<br /> <br /> 元々はかなり厚い黒い暗いヴェールだったものがある程度の薄さになって静寂の境地と言えるような状態になって、それでも、更にそれを薄くしてゆく段階があるということだと思います。<br /> <br /> 元々静寂の境地というのは日常生活においてヴィパッサナーの観察状態が継続できる基礎になっているわけですけれども、それでも、日常生活でその状態を継続するのには限界がありました。ある程度の日常生活を続けると普通の昔の状態に少しづつ戻ってきて、またヴィパッサナー状態にするために瞑想をする、ということを繰り返してきたわけです。<br /> <br /> 今も瞑想をする必要があるところは変わらないのですけど、以前より、日常生活のヴィパッサナーが続くようになって、観察状態で日常生活をする時に必要な「努力」がかなり不要になってきたように思います。<br /> <br /> これは程度問題ですので同じようなことを以前にも書いたように思いますけど、ここ最近は、程度は違えども、表現的には同じようなことをして静寂の境地を深めつつあります。<br /> <br /> Sun, 07 Nov 2021 00:00:00 +0900 精神修行は一つの流派に絞った方がいいのかどうか https://w-jp.net/2021/2524/ <br /> 最初は直感、あるいは近所にある通いやすいところを選んだらいいと思います。<br /> ヨーガなどは定期的に通うことが必要ですから通いやすくないと続かないわけです。<br /> <br /> その上で、他に興味があったら受けてもいいとは思います。<br /> <br /> 基本は、どの流派であっても同じ(の筈)です。<br /> <br /> ですけど、表現方法はそれぞれ違いがあって、この種の微妙なお話は文脈が重要で、同じ言葉を使ってはいても人によって意味合いが異なったりするわけです。ですから、理解という面においては同じ流派に通う方がいいと思います。<br /> <br /> 自分にそれなりの理解ができてきた後であれば違った表現を聞いても同じことだとわかりますが、そうでないと、同じ意味を言っているのにも関わらず表現方法が違うからと言ってあそことここは違う、みたいな誤解が生じてしまう可能性があります。であれば、それほど理解ができていない段階においては同じ流派に通った方が良いわけです。<br /> <br /> かと言って一生、その流派に居続けるべきかというと、それは人それぞれなわけです。<br /> <br /> 人によっては一生かかってもその流派を学びきれないでしょうし、人によってはポイントだけ掴んで他の流派に行って、ということを繰り返すこともあるでしょう。<br /> <br /> ただ、多くの場合は1つの流派で割と十分で、と言いますは、この種のお話は結局のところ自分で行うことですので、自分が修行できる環境があれば十分と言えばそうなわけで、流派にこだわる必要はさほどないわけです。<br /> <br /> 自分に理解ができていない段階でいろいろなところを彷徨うと時間ばかり使ってしまいますので、とりあえず通いやすいところで何かしてみるのが良いと思います。<br /> <br /> もちろん、選ぶ際は、しっかりした指導者がいて、変な指導者ではない、などという一般常識に照らし合わせることは必要です。<br /> <br /> Sun, 07 Nov 2021 00:00:00 +0900 昇天した時のお話 https://w-jp.net/2021/2522/ <br /> 前にも少し言及したと思いますが、昇天した時のお話をします。<br /> <br /> 私のあの世の住居には過去生の元妻が沢山いて仲良く暮らしているのですけど、ある時、優しい妻たちに囲まれて、とてつもなく幸せで、ただただ平穏で、満足して、充実の極みの状態であの世でしばらく微笑んで暖かい気持ちにずっと包まれていました。<br /> <br /> そうすると、どれほど時間が経ったでしょうか。<br /> <br /> もともとそのような満足の状態では私の体や周囲にいる元妻の体は輝いていて、体の周囲にうっすらと光を放っている状態でしたけど、ある時、更に私の体が激しく光り出したのです。<br /> <br /> もともと人にはオーラというものがあって、少なからず輝いています。肉体をまとっていてもその周囲には必ずオーラの層があって、肉体の周囲というよりはオーラの方が本体でオーラの中に肉体があるような感じではありますけど、死後であっても、そのような、本体としての肉体に近いアストラル・ボディ(微細な体)があって、そのアストラルボディの周囲に白い輝くオーラがあるわけです。<br /> <br /> ここでは死後のお話ですので、本体としてはアストラル・ボディで、その周囲に輝きがあって、光っていて、その輝きが一層、激しく光出したということです。<br /> <br /> 死後の世界というものは階層構造になっていて、まず、死後には幽体とも言われるアストラル・ボディになります。この状態では肉体は失われてはいますけど個というものはまだはっきりとあって、生きている時と実はそこまで変わらない世界でもあります。性別はもちろんありますし、肉体に近い形でアストラル・ボディが存在します。<br /> <br /> この世界では自分の体も意思で自由に変えられますので、自分が理想とする年齢の美しい姿あるいは格好良い姿、あるいはその住んでいる集団で認識されやすい姿を選んで生活しています。時に、相手に思い出してもらうように姿を変えたり、お遊びで形を変えたりして楽しんだりすることもあります。<br /> <br /> そのような、ある意味、地上よりももっと自由なアストラル界、あるいは幽界と言われている世界があって、その世界は地上のような制約がありませんので自分の意思によって自由に作られて、自由に生きることのできる世界になります。<br /> <br /> 地上の生活で観念に囚われていたりするとその制約が死後も続きますし、逆に、地上で自由な生活及び考え方をしていればあの世に行っても更に自由に暮らすことができます。<br /> <br /> 地上では財産や嫉妬など様々な制約があって一夫一婦制が現在は主流ですけど、あの世には数百年くらい生きている人やあるいはもっと古い人がいて、その時代、特に上の階級になればなるほど一夫多妻の社会で暮らしていた経験がありますので、そのような人にとってはあの世で一夫多妻で生活することに何ら違和感がないわけです。<br /> <br /> そもそも、上の階層になればなるほど独占欲とかから無縁になっていきますから、そんな恋愛の奪い合いみたいなお話とは次第に無縁になっていくわけです。死後の世界であっても、地上で生きている間に嫉妬や奪い合いの愛に明け暮れていた人は、死後に制約がなくなって実際には何も奪われるものがなくなったとしても生きている時の観念がしばらくずっと続いて、死後の世界でも奪い合いの恋愛の茶番を繰り返すことになったりもします。仏教で言われているように、食い意地が張っている人は餓鬼の世界みたいな状態に落ち込んだりしますけど、それは誰かが縛り付けているわけではなくて、自分の観念がそのような世界を作り出しているだけなわけです。地獄に落ちるお話も同様で、そのような世界は自分で自分に限界を設けているだけなわけです。<br /> <br /> そのような多彩なアストラル界(幽界)があって、その上に、コーザル界(原因の世界、カーラナ次元)があります。コーザルより上は複数階層になっていて、コーザル界と言っても一つではないのですけど、私が属しているグループソウルの場合は、グループソウルの起点となるのがいわゆるこのコーザル界に相当する世界になります。<br /> <br /> コーザル界にはまだ人格があって、ある種、神に近い存在ではありますけどこの世全てを統べる創造神みたいなところまでは行かなくて、あくまでも人格を持った、神に近い、天使に近いとも言える存在として私のグループソウルは人格神に近い形で存在しています。<br /> <br /> その、コーザル界のグループソウルに帰ることが「昇天」なわけです。<br /> <br /> 死後、しばらくアストラル界で生活していて、アストラル界の寿命が尽きる、というと語弊がありますけど、寿命が尽きて死ぬというよりは、満足して昇天してコーザル界のグループソウルに帰る、という方が正確なように思います。<br /> <br /> そのように昇天するとき、(元々死後のアストラル界では最初から空中に浮いているわけですけれども)光に包まれると共に上空へと登ってゆき、そのまま光の中に消えていったように思います。<br /> <br /> そのように昇天してグループソウルに帰るとアストラル界には何も残らなくて、妻たちが「あれ? 光に包まれて、上に登っていったけど、どこに行ってしまったの?」と、キョロキョロしているのが見えます。<br /> <br /> 私はグループソウルに帰った後、集合意識として、自分の経験をグループソウルの「全体」と共有するわけです。<br /> <br /> ですけど、私の「コア」としての意識は集合意識の中にあって、そのコアの意識はグループソウルとは割と独立して、一部の「部分」としてはそれ単体で動くことができるわけです。そのような多くの「個」の集合としてのグループソウルがあるわけです。<br /> <br /> そうしていると、アストラル界の妻たちが自分を探しているのが見えました。<br /> <br /> 程なくして、どのくらい経ったかわかりませんけど、もう一度、自分の明確な意思を持って、同じコアと、それとグループソウルの一部を引き連れながら再度、アストラルボディとして分離をしたのです。<br /> <br /> そうして、一旦はグループソウルと合流して、コアは同じですのでどこか面影はあるものの、ある種、少し違った感じの私がアストラル・ボディを伴って、いわゆる「分霊」としてアストラル界に現れました。<br /> <br /> この後、いくつかの地上への転生がありましたけどアストラル・ボディとしてはこれが今の私の系統になっていて、もちろんグループソウルとしては多様な人生があるのですけど、分霊になってからの転生はそれほど多くないわけです。それでも、グループソウルとしての人生及び記憶は多々ありますのでそれを含めると色々とわかるわけですけれども、最後に分霊を作ってからは割と短めなわけです。<br /> <br /> 個人的なことにはなりますが、この辺りの経緯は2つか3つくらいシナリオがあって、個人的には細かなところで腑に落ちていない部分がありますのでそこは今後の探求箇所にはなりますけど大まかにはこのような感じになっています。<br /> <br /> Sat, 06 Nov 2021 00:00:00 +0900 清浄な平穏の筈なのにどこか清浄になり切れない境地 https://w-jp.net/2021/2519/ <br /> 基本的には静寂で平穏の筈なのにどこか清浄になり切れない境地の瞑想がここ最近は続いています。<br /> <br /> これは湿気のようなもので、梅雨から晴れて晴れ晴れとした天気になった筈なのにどこかまだ梅雨の余韻と言いますか、何かまだ完全に晴れになり切れていない部分を感じているわけです。<br /> <br /> これは油井真砂先生の著作に似たようなことが書いてあり、空になり切ったという煩悩それ自体が薄雲のようにかかってくる、と表現されていてまさに今の状況のような気が致します。同書によりますと以下のようにあります。<br /> <br /> 清濁一如の妙機が得られて居ないから、それで、つい空に著するといふことになる。(中略)空によつて生ずる「空病」としての煩惱である。「信心と坐禪(油井真砂 著)」<br /> <br /> この後、「空」に対する最後の煩悩が空じられて、色即是空および煩悩即菩薩の境地に至れば大悟徹底される、と同書は説きます。<br /> <br /> 理屈ではその通りだなと思うのですけど、私の場合、まだどこかに薄雲のように最後の煩悩が残っているのを感じます。そのことを自覚できただけでも進歩とはいえますけど、ここが微妙で、手が届きそうで届かない、何か不思議なところであります。<br /> <br /> こうした微妙な機微といふものは、自から言詮の彼方に於て自證(じしょう)・自得される筈のもの「信心と坐禪(油井真砂 著)」<br /> <br /> ということで、確かに、誰かに聞いてもわかるものでもありませんし、書籍にもほとんど書いていなくて、自分だけが頼りな状況です。自分だけが頼りとは言ってもそれは人としてのお話で、信仰面でいえば神様に頼るといういわば他力本願の状況であるわけです。<br /> <br /> 少し今までは、梅雨の間に時折青空が見えて晴れ晴れとした空を見ていてまた梅雨に戻っていた、という感じでした。最近は梅雨が本格的に明けて、しかし、梅雨が開けたばかりの薄雲がかかっている状態なわけです。<br /> <br /> ここから更に突破するには、他力本願で自他同一の境地になる必要があるのかなと思います。<br /> <br /> Wed, 03 Nov 2021 00:00:00 +0900 「怒り」とは何なのか子供の頃は知らなかった https://w-jp.net/2021/2518/ <br /> 周囲には獣のような同年代の子供たちが大勢いて、すぐに血が上り怒り狂って他人に平気で暴力を振るう人が普通にそこらにいる環境で育ちました。<br /> <br /> ですけど、私は、20代後半に至るまで、本質的なところで「怒り」とは何なのか理解できずにいて、そもそも幼児や小学校の頃はそれが何なのかさっぱり知らなくて、周囲の人が何故にあのように怒り狂って獣のような振る舞いをしているのか、全く理解できないでいました。<br /> <br /> そのような獣のような人と一緒に過ごすうちに私のお腹の中にわだかまりが溜まってゆきましたけど、それでも、怒りという形での表現方法をどうして行ったらいいのか全く分からず、お腹の中のわだかまりが溜まるか、あるいは論理で論破するということでわだかまりを解消してゆきました。<br /> <br /> ですけど、獣のような人にとっては論理なんて関係がありませんので、論理とは全く関係のないところで何か「特徴」をけなしてゲラゲラ笑うことで私が獣から馬鹿にされるような少年時代を過ごしました。結局、ああいう獣にとってみれば理由なんてどうでもよくて、単に馬鹿にしたかっただけなのかと今は思います。そして言い返しを避けて他人の口を塞ぐためにすぐにキレて暴力を振るうわけですから話しても意味がないわけです。まさに獣です。<br /> <br /> 学校や田舎社会というのは逃げ場がなくて最悪で、それで鬱っぽくなったりもしたのですけど、それすらも人生の計画の一部であったと今は思います。<br /> <br /> 子供の頃、私は「怒り」というものが何なのかサッパリわからなくて、年齢を重ねるうちに少しづつ理解してはいったのですけど、そのうち怒りを「爆発」させたのは20代後半になってのことで、そこでようやく「初体験」したのでした。<br /> <br /> 結局、その初体験にしても、私の中でそれを知りませんでしたので、怒りを持っている他人からこっそりとオーラを引き抜いて自分の中に入れて、そのオーラを使って初めて怒りを「爆発」させて、20代後半にして初めて「怒り」で「キレる」ことができました。なかなかに興味深い体験でした。私をカモ扱いしてきた元友人に対して、態度の変化を察知したことをトリガーにして怒りを発動したのですが、キレたら向こうの態度が一変したのは興味深かったですけど、最後まで怒りをぶつける前に相手が逃げていったのがその時は少し残念にも思えて、あれだけカモ扱いしてきた元友人が逃げ足だけは早いものだな、と思ったものでした。わざわざ怒りをぶつけるほどでもない小物だったようで、怒りというものはコスパが悪いな、と思ったものでした。怒る価値もないものに対して怒ってみせても相手は逃げるだけで、改善もありません。良かったことといえば、私の方から相手に対してバリアを張れるようになった、ということです。これはこれで有用のように思いますし、社会生活を送る上で必須の能力のように思います。ライトワーカーやスターシードは腹黒い人から搾取されることがあって、当人はそれに気づいていない、みたいなことも多々ありますけど、この種の、ずるい人を拒否する能力というのは特に「怒りを知らない」スターシードにとっては身につける能力のうちの1つのように思います。<br /> <br /> 結局、その後も含め、今に至るまで怒りでキレるというのはその1回限りでそれ以降はなくて、次第に怒りというものを理解してゆき、必要に応じて時に意図的にわざわざ怒りの感情を作り出す、という実験のようなことを実地で行ったりしてみたこともありますけど、ここ10年以上はそのような必要もなく割と平穏な生活を送っております。<br /> <br /> 世間のスピリチュアルを見ると、「怒りを抑えましょう」とか「怒りが湧き上がった時はその逆を考えましょう」とか言われていたりしますけど、そもそもこれって、獣から進化した魂に向けたメッセージなのではないかと思います。スターシードにとっては逆で、怒りという不思議な感情とは何なのか勉強しましょう、というお話になるわけです。<br /> <br /> 私もそれなりにスターシード系だと自覚はしていますけど、スターシードやライトワーカー系の人、例えば元金星人とかの魂は割と「怒り」という感情がそもそもない世界からやってきていて、地球人の「怒り」という感情を全く理解できなくて対処できない、ということがよく起こるようです。これは割と後になって知ったのですけど、最初からわかっていればもっと対処のしようもあったのに、と思ったりもします。<br /> <br /> 獣が怒り狂って暴力を振るような野蛮な人が周囲に多数いる少年時代だったのですが、それは、今世の人生の目的とも一致していて、自分をどん底に落として今まで使命を遂行する間に貯めたわだかまりとしてのカルマを今世で一掃して解消することを目的としていましたので、これは不幸なことではなく、意図通りに周囲に獣がわらわらといる環境に自ら踏み込んで、想定通り、自分を葛藤と自己否定のどん底に叩き落としたわけです。それはうまく働いたように今は思います。<br /> <br /> この環境がなければ今でも私は「怒り」というものが何なのかさっぱり理解できない人でしたでしょうし、その場合、周囲の獣のような人たちに不注意な一言を発してしまって不愉快にさせてしまい、悪い時は恨みを買って怒りの矛先をこちらに向けてしまうことも(今までの人生と同じように)継続させてしまったことと思いますので、相手が何と言われたら不愉快になるのか、それを理解する上でも「怒り」とは何なのか勉強したのは良い経験だったように思います。<br /> <br /> ですから、スピリチュアルな話で「怒り」がテーマの場合、大抵は私は他の人と話が合いません。世間で言われているのは大体は「怒りを鎮めるにはどうしたら良いのか」というお話ですけど、私の場合、怒りというよりは上記のような環境及びおそらく過去生で溜めてしまったトラウマに近いものがほとんどですので、見た目には怒りとトラウマは似ているように思えるかもしれませんけど、怒りの場合は表現して発散するか誰かにぶつけることが多い(らしい)のに対して、トラウマの場合は自分の中で自分が受け止めますから、トラウマの場合は他人にぶつけないのです。一見すると他人にぶつけているように見えていても実際は当人からしたら他人は見えていなくて自分の中と対峙しているのがトラウマなのです。他人にぶつけようとか攻撃しようとする意図が基本的にはなくて、トラウマの場合にはたまたま制御できずにぶつけてしまうだけなわけです。<br /> <br /> スピリチュアルな世界では意外にこの辺りのことを理解していない人が多くて、単にトラウマはよくないもの、みたいな簡単な話しかしていなかったり、あるいは、トラウマの葛藤をぶつけられた人は自分が攻撃されたかと勘違いしてしまいますけどトラウマの場合は単に自分自身と対峙しているだけなのです。スピリチュアルの先生のような立場のような人ですら意外にこの辺りがよくわかっていないのです。私がどうこう言っても「怒りを抑えるべき」みたいな獣向けの教えに終始してしまうので、まあ、話が通じないわけです。<br /> <br /> この種の話で分かり合えるのは割と同じスターシード系で、ライトワーカー系やスピリチュアルな人であってもこのようなことがわからなかったりします。まあ、わかってもらう必要はないので、ベースが違うのならそれはそれで違うというだけで優越はないのですけど。「怒りとは何なのかわからない」なんて相談しても大抵の場合は「はあ?」と言われるだけでしょう。そんな感じでした。今は理解している(筈)ですけどね。<br /> <br /> Sun, 31 Oct 2021 00:00:00 +0900 感情面を使って未来を選択する https://w-jp.net/2021/2516/ <br /> 一つの方法として、感情面を使って未来を選択することができます。<br /> <br /> この場合、修行とか能力とかいうものはさほど必要なくて、必要なのは、将来に成功したとしても失敗したとしてもそれを明らかに表現して特定の感情を実際に出す、という行動こそが必要になります。<br /> <br /> これはどういうことかと言いますと、そもそもスピリチュアル的には時間というものはあまり厳密ではなくて、現在が未来に向かって影響する他に、スピリチュアル的には未来から過去に向かっても影響します。それはどうやってわかるかと言いますと、まず、感情面において未来から「良い予感」あるいは「悪い予感」としてやってきます。<br /> <br /> スピリチュアルにおける人の体の3つの構造、それぞれにおいて未来選択の方法は異なってきます。<br /> <br /> ・肉体 これは時間を超えることはできません<br /> ・アストラル体 これは感情面と結びついていて、過去及び未来の感情を現在において感知するのと同時に、現在発した感情は(劣化しつつ)時間を超えて過去と未来に伝わります。<br /> ・コーザル体 これは理性面と結びついていて、過去及び未来の理性的な思考及び選択を現在において完治するのと同時に、現在発した思考及び選択は(劣化しつつ)時間を超えて時間を超えて過去と未来に伝わります。<br /> ・アートマン(あるいはプルシャ)これは私はまだ未体験ですけど、全ての時間が同時に存在している境地だと聖典などでは説明されています。<br /> <br /> このうち、未来を選択するだけでしたらアストラル次元だけで割と十分で、スピリチュアルとは言いましても割と成功哲学あるいは啓蒙セミナーで言われているようなことにも通じてきてしまいます。スピリチュアル的にはこのような感情面はさほど重要視してはいないのですけど、危険察知あるいは成功を選ぶ一つの手段としてこのような感情面は利用できます。<br /> <br /> この場合、自分が多少は感情的な性格であった方がやりやすく、何が起きても感情的にさほど動かない場合は感情が他の時間軸に伝わりませんのでシグナルになりにくいという欠点があります。<br /> <br /> ですから、何かあれば精一杯喜んだり、あるいは悲しんだり、怒ったり、という感情的な現実に悩まされているスピリチュアル段階の人とこの種の未来選択は相性が良いわけです。<br /> <br /> まだスピリチュアル的に浄化が進んでいなくて感度が低い場合は特に、大袈裟に感情を出すことで他の時間からその結果を感知しやすくなります。特に意識していなくてもそうなることがほとんどの人もいるかもしれません。<br /> <br /> 一方、浄化が進んだ場合は感情の起伏がコントロールされますから、次第にこの種の未来選択をするにはそれ相応に感度を高める必要も出てくるわけです。<br /> <br /> ですけど、実際のところ、スピリチュアル的には何があっても全て完璧ではあるのですから、特にこのような法則を使わずとも全て受け入れる姿勢があれば、それほど意識してこのような法則を使うこともないように思います。<br /> <br /> それに、ある程度のスピリチュアルになれば「心地の良い選択」というのが自然になってきますから、そうなれば障害のない、あるいは少ない選択を次々に行うようになりますので、このような法則をわざわざ意識しなくても手足のように当然のように使うようになります。<br /> <br /> それに、必ずしも心地よい方が正解でもありませんし、そのような総合的な判断が次のステップになるわけですけど、その場合、アストラル体の感情面だけでなく、コーザル体の理性面とも結びついて選択がなされるわけです。<br /> <br /> Sun, 31 Oct 2021 00:00:00 +0900 感情面と理性面のスピリチュアル https://w-jp.net/2021/2515/ <br /> 感情面でのスピリチュアルと理性面のスピリチュアルとがあって、割と感情面のスピリチャルの方が人気があるように思います。<br /> <br /> 特に女性は感情面と結びつきやすくて、喜びのスピリチュアルになっているように思います。<br /> <br /> 一方、理性面のスピリチュアルがあって、それは静寂の境地と結びついています。<br /> <br /> これは、古来からの西洋の視点に基づくスピリチュアルあるいはインドのヴェーダの文化あるいはヨーガなどと比べてみますと、順番としては肉体に近い方が感情面で、更に少し離れた方が理性面のスピリチュアルになります。<br /> <br /> ・肉体(粗大な体、ストゥーラ・シャリーラ)<br /> ・アストラル体(微細な体、スークシュマ・シャリーラ)感情面<br /> ・コーザル体(原因体、カーラナ・シャリーラ)理性面<br /> ・アートマン(あるいはプルシャ、あるいは神、創造神、あるいは全体)<br /> <br /> ですので、これは割と「最初に」感情面、「次に」理性面、として理解されることが多いように思います。<br /> <br /> ですけど、実際に世の中で活躍しているスピリチュアルな人々を見てみると、どうもそのような単純な順番ではないように思います。<br /> <br /> 私の見立てによりますと、感情面と理性面は「順番」ではなくて、むしろ「並列」に存在していて、人によっては感情面から入って、人によっては理性面から入る、というくらいの違いのように最近は思います。<br /> <br /> 肉体にしても疎かにしていいものではなくて、健康を保つためには適切な運動が必要ですから肉体や感情を捨てて理性に進むというよりは、それぞれにバランスが必要なのではないかと思います。<br /> <br /> ですから、人によっては理性が先立って感情面が弱いかもしれませんし、感情が先立って理性が弱いかもしれません。<br /> <br /> 現代社会においては理性面が強調されがちですけど、理性と感情というのは相反するものでもなくて両立できますから、それぞれ、特徴はあれども、どちらも大切のように思います。当然と言えば当然ですけど。ですけど、スピリチュアルの人は割と感情面を重視したり理性面を重視したり、それぞれのように思います。本人はそのつもりはないのかもしれませんけど。<br /> <br /> アートマンあるいは神の視点から見れば、最初の3つのもの、肉体・アストラル体・コーザル体のいずれも「アートマンではない」ものであり、この3つともいわば「物体」に属しているものであり、永遠ではないものなわけです。ですから、アートマンの視点からすればどれも大差なく、アートマンが理性を扱おうがアートマンが感情を扱おうがアートマンが肉体を扱おうが大差ないわけです。<br /> <br /> ですけど、人はそこに区別をしたがりますけど、実際、アートマンあるいは神からしたら大差ないわけです。<br /> <br /> ゴールはそれぞれ違っていて、<br /> ・(肉体であれば健康)<br /> ・アストラル体であれば感情的な歓喜<br /> ・コーザル体であれば静寂の境地及び(静寂の境地をベースにした)理知的な深い見地と洞察<br /> というようになります。<br /> <br /> Sun, 31 Oct 2021 00:00:00 +0900 ソクラテスのイデアとサマーディ https://w-jp.net/2021/2514/ <br /> ソクラテスのイデアとサマーディにはいくつもの共通点があるように思えます。しかしながら、弟子であるプラトンあるいは後世の哲学者の見解には多様なものがあり、それらの中にはサマーディに該当しないものも多数あります。<br /> <br /> 元々のイデアがどのような主張であったのか知る由もありませんが、サマーディとの共通点ということで言えばいくつかあげることができます。<br /> <br /> イデアとは、例えば美しさ多様な美しさがあるがイデアとしての原型は1つしかない、というように、物事にはその原型である世界がこの見えている世界とは別に存在している、というお話です。<br /> <br /> これは、話をそのまま聞いてしまうと天のどこか、あるいはこの世ではないどこか別の場所にイデアという世界があってそこから映像のようにこの世界が投影されているだけだ、というお話にもなってきますし、そのように説明されている文献もあるようですけど、この種の説明はサマーディと同じで、この世界は投影されたものであるというのはサマーディの境地との説明とも同じですし、であれば、ソクラテスとはサマーディのことを言っていたと仮定することができると思います。<br /> <br /> ソクラテスが言っていたのがサマーディであれば話は割と簡単で、認知する時に心がこの世界の幻影を作り出して普段はその幻影しか見ていないということが基本にあって、認知が幻影を作り出さずに直接的に物事を認識することをサマーディあるいはイデアの直視、みたいに言ったりすればいいわけです。<br /> <br /> その場合、原型としてのイデアがどこか別の世界に存在しているわけではなくてイデアという原型を認知の幻影の妨げなしに直接的に認知しているわけです。ただ、そのことが理解でいない人に対して説明するときに別の世界だとかイデアの世界だとかいうお話を持ち出したので実際のサマーディあるいはイデアを知らない人が想像してあたかも別の世界があるかのように解釈しただけで、実際は、イデアというのはこの世界の本質そのものであって、この世界に、いわばまるで重なるように存在しているわけです。<br /> <br /> ただ、幻影を取り除けばイデアの世界が眼前に現れて、そのことをイデアの直視だとかサマーディだとか言ったりするわけです。<br /> <br /> サマーディというとアストラル次元の感情のサマーディとコーザル次元(カーラナ次元)の認知上のサマーディとがありますけど、イデアの直視というのは認知上のお話ですのでカーラナ以上のサマーディであるように思われます。<br /> <br /> Sun, 31 Oct 2021 00:00:00 +0900 集中して歓喜を作り出すのが瞑想あるいは仕事においての基本 https://w-jp.net/2021/2513/ <br /> 基本、とは言いましても、それだけで良いわけでもなく、やがて、歓喜のようなエネルギーに溢れた状態が普通になりますのでわざわざ歓喜などと言わなくなります。歓喜というのはそれが一時的な状態だから歓喜なのであって、常に歓喜であればそれはエネルギーに満ち溢れた状態、あるいは常に充実した状態、などと表現されるわけです。<br /> <br /> 歓喜がない場合、まずは集中から始めるわけですけど、それに一番適しているのは仕事で、仕事に集中して歓喜するのが時間の有効活用の点からも実用面から言っても一番やりやすいように思います。<br /> <br /> 昔のように一日中こもって瞑想ばかりしていられる環境でもあれば良いですけど最近はそういうことも難しいですし、であれば、さほど騒がしくない環境で、特に、何かに集中できる技術とか工芸ですとか、そのような細かな作業に集中できる時間があると良いと思います。スポーツでも良いと思いますが体の疲れには限界がありますので、意識が長く集中できる仕事の方がやりやすいように思います。<br /> <br /> 最初は、集中が極まった時に仕事の対象の事柄が透けて見えて、最初は一瞬ではありますけど仕事の全体像が見えて、それで仕事がうまく行きやすくなりますし、そのような瞬間は歓喜の状態であるわけです。<br /> <br /> それはいわゆる、一種のサマーディ状態になっているわけで、それは言い換えばアストラル次元における感情的な一致の状態になっているわけです。サマーディにも色々と種類がありますけど最初はアストラル次元で感情面で対象と一致するわけです。それにより、対象のことがよくわかるようになります。例えば技術面だったり相手のことだったり、歓喜と共にそういった情報が流れ込んできます。<br /> <br /> このようにして起こる歓喜は長く続かなくて、数分ですぐに消えたり、あるいは数十分、ということもあります。それは集中の上達にも関連していて、最初は短くても、次第に長く続くようになります。<br /> <br /> そうして集中が上達してくると、やがて、一時的な歓喜は治っていって、その奥にある、深い意識の平安へと少しづつですけど導かれてゆきます。<br /> <br /> 瞑想するにしても、このような基礎があるとな意図では大違いで、集中して歓喜、それはいわゆるゾーンということでもありますけど、ゾーンの歓喜に入れる人が瞑想すると上達が早いように思います。<br /> <br /> その歓喜は終わりではなくてその先にはカーラナ次元(コーザル、原因の次元)のサマーディによる平穏な静寂の境地というものがあるのですけど、すぐにそこにまで行かなくても、まず最初は集中瞑想をして歓喜が沸き起こるだけでも割と人生を送る上では十分であったりするわけです。<br /> <br /> 特に、普段の生活でストレスに満ちていていつも頭の中の雑念が消えずに混乱したり怒りが沸き起こったり疲れたりしている人にとっては、この種の集中による歓喜というものがまずは第一に助けになります。<br /> <br /> Sat, 30 Oct 2021 00:00:00 +0900 意識の認知がこの世の実態を作り出している https://w-jp.net/2021/2512/ <br /> 物質のことではなく、ここで言っているのは心の認知のお話ですけど、心、あるいは意識の認知によってこの世界が「存在している」という実感を作り出しているわけです。<br /> <br /> (心が認知するから物質としての物体が存在しているとかそういうことを言っているわけではなくて)心が認知するから何かの対象が存在しているという「実感」が生み出されている、ということです。<br /> <br /> これは心理学や哲学でも言われていることで、まあ、それはそうなんだと思っている方も多いとは思います。<br /> <br /> 瞑想の世界においてもこのようなことが言われていて、具体的には、サマーディの状態に至ることでこれらのことがよく理解できるようになるわけです。<br /> <br /> サマーディの状態においては覚醒を保ちながら物事をありのままに見るわけですが、覚醒した状態というのは、上記のような「存在している」という実感を新たに作り出さない、あるいは作り出しても割とすぐに消えていってしまう状態なわけです。<br /> <br /> この、「存在している」という実感は「幻想」あるいは「夢(のようなもの)」と説明されることもあり、それはヴェーダンタでいう「マーヤー」の一部でもあります。<br /> <br /> 既にこのような「実感」が既に自分の中にあるのならばそれをサマーディの覚醒した境地でありのままに見つめることでそれが実際は幻影であることに気づき、やがてその幻影が消えていって、実際の「ありのまま」の姿を見出すことができます。言い方を変えればそれは無常ということでもありますけど、実態や実感が壊れるまで待つことなく、単にサマーディで観察しさえすればその幻影は消えてゆくわけです。<br /> <br /> サマーディに至れば、幻影がどのように作られてゆくのか理解することができます。<br /> <br /> 例えば視覚であれば、視覚で見た映像とそれと結び付けられている実態・実感・幻影とはセットになっています。サマーディでない状態においては視覚が新たな幻影を作り出し、それは「存在している」という「実感」になり、次々に新たな幻影が作られます。そのような状態においてはコマーシャルあるいはテレビ番組に影響されやすくなり、この世の快楽という願望を外から与えられて操られ、稼いではその分次々に消費する日々を送ることになります。<br /> <br /> サマーディの状態においてはそのような幻想がいかに作られてゆくのか理解するだけでなく、物事の本質をも理解することができますので、幻影が新たに作られることが激減し、既にある幻影も力を失ってゆくわけです。それにより他者によって操られることが急激に減り、他人から与えられたものではない、自分自身の生活を送ることができるようになるわけです。<br /> <br /> Fri, 29 Oct 2021 00:00:00 +0900 心の動きのあるがままを認める https://w-jp.net/2021/2511/ <br /> 顕教は想念と想念の間の何も考えていない時間を伸ばそうと修行します。<br /> 密教は想念をイメージ等で変異させようとします。<br /> <br /> このどちらも、想念を煩悩として捉え、それから離れたり変化させたりすることを目指しているわけですが、チベット仏教の特にゾクチェンの教えだったり、あるいはインドのヴェーダンタの教えにおいては心とその動きの間に善悪もなく、単なる心の働きだと教えています。<br /> <br /> 実際、その教えは単なる教えだけではなくてサマーディの状態がどのようなものなのかという具体的な目標あるいは道標の捉え方にも違いが出ています。<br /> <br /> 心の動きというものは単なる働きですから、それに善悪はない、というところが理解ですけど、実際には多くの人はその単なる働きである想念あるいは煩悩によって悩まされていたりするわけです。<br /> <br /> 静寂の境地が心の土台で、湧き上がる想念は単なるエネルギーの働きですから、そこに善悪はないわけです。<br /> <br /> 寂静な境地は何か達成すべき善で、思考の波は何か捨て去るべき悪だと考えたならば、やはり受容と拒絶という二元論にとらわれている事になる。「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」<br /> <br /> それ故に、サマーディ状態においては思考を捨て去ってしまうのではなく思考があってもなくても覚醒を保てば良いわけです。<br /> <br /> この辺りには誤解もあって、サマーディというのが単なる集中の静寂の境地だと思われてしまっている面もあると思いますけど、サマーディの本質は覚醒の境地であって、静寂の境地はその土台であるわけです。<br /> <br /> Fri, 29 Oct 2021 00:00:00 +0900 歓喜から静寂へと至る瞑想 https://w-jp.net/2021/2510/ <br /> 瞑想で、最初は歓喜が沸き起こります。それは感情としての瞑想で、いわゆる集中瞑想(サマタ瞑想、シャマタ瞑想)によって対象と(サマーディ、三昧にて)一致した時にそれは起こります。<br /> <br /> 段階としては、ヨーガや神智学、あるいはスピリチュアル等で言われているような段階を経てゆきます。<br /> <br /> ・肉体<br /> ・アストラル体(感情を司る)<br /> ・コーザル体(カーラナ、原因の体)(理性を司る)<br /> ・プルシャ、あるいはアートマン(あるいはいわゆる神、創造神)<br /> <br /> このうち、アストラル体の感情面で対象に一致してサマーディの状態になると歓喜が湧き起こります。<br /> 次に、コーザル体(カーラナ)にてサマーディの状態になると静寂の境地になります。<br /> <br /> アストラル体では割と対象がはっきりしているのですが、カーラナでは対象はぼんやりとしていてはっきりしません。ですから、アストラル体では対象があって集中があってそれでサマーディが起こり、歓喜が沸き起こる、となるのに対してカーラナでは対象がはっきりしませんので、何か集中の対象があるわけでもないので対象としてはぼんやりと、しかしながら意識は明確にはっきりと明晰な覚醒の意識を保ったまま静寂の境地になるわけです。(似てはいますが全く違う状態として、意識が単にぼやっとしている時はサマーディではないわけです。)<br /> <br /> カーラナのサマーディにおいては対象がどこを向いているのか方向としてはよくわからない、と言えばそうなのですけど、そのようにいうよりは、全方向、と表現した方が実態に近くて、アストラルの次元では方向性と対象があるのに対して、カーラナでは方向と対象としてのベクトルはよくわからなくて全方向、になるわけですけれども、カーラナのサマーディにおいては意識ははっきりとしていて、理知的な明確な思考が素早く働く状態なわけです。そして、思考がはっきりと素早く働くベースになっているのが静寂の境地なわけで、静寂の境地においては何も思考できないというわけではなくて思考しようとすればいくらでもすることができるし思考しないと意図すれば思考せずに静寂の境地に居続けられるわけです。静寂の境地というのは雑念に対して主に働きかけていて、雑念が静寂である一方で、明確な思考は意図を元にいくらでも働かせることができるわけです。<br /> <br /> 瞑想を始めてから最初は、集中瞑想から初めます。それが基本で、そのうち集中が臨界に達すると歓喜が湧き起こります。<br /> <br /> ヨーガでサマーディというと1つのように捉えられていますけど実際にはアストラル次元のサマーディとカーラナ次元のサマーディとがそれぞれあって、アストラル次元のサマーディでは歓喜が沸き起こって、カーラナ次元のサマーディでは静寂の境地になるということです。<br /> <br /> それは割と段階のようなもので、世間の瞑想用語に当てはめてみるとアストラル次元のサマーディは止(シャマタ、あるいはシネーの境地)で、カーラナ次元のサマーディは観(ヴィパッサナー、観察瞑想)なわけです。<br /> <br /> これは段階的に起こるもので、瞑想を続けてゆけばそうなります。<br /> <br /> 補足として、似たようなもので「体の皮膚の感覚を観察する瞑想」とかありますけど、それはこのお話とはあまり関係がなくて、混乱の元ですので、切り離して考える方がいいと思います。皮膚の感覚というのは五感であり感覚・感情面と結びついていますから、それは基本としてはアストラル次元の瞑想ではあるのですけどそれなりに瞑想が進めば同じ瞑想がカーラナ次元の瞑想にもなったりしますけど、そうは言っても混乱がありますので、あまりこのお話とごっちゃにしない方がいいと思います。<br /> <br /> Wed, 27 Oct 2021 00:00:00 +0900 無念無想と信仰 https://w-jp.net/2021/2509/ <br /> 無念無想、いわゆる静寂の境地になる前の信仰はそれほど必要ないように思いますが、静寂の境地になると信仰が重要になるように思います。<br /> <br /> 静寂の境地に至る以前の場合は感情や願望(煩悩)が主となっておりますから、その状態で祈ったり信仰したりしても現世利益の方向にしか向かないわけです。一方、静寂の境地に達した後であれば信仰が神様の方へとスーッと通じるように思います。しかしながら、私の段階では、まだ、神様と自分自身の間には少し距離があるように思います。<br /> <br /> 神様と言っていても色々あって、人格神としての神様と「全体」としての神がいるわけで、ここで言っているのは人格神の方ではなくて「全体」としての神様、あるいは、自分の御本尊としての神様の方を言っているわけです。<br /> <br /> 神社とかお寺、あるいは古い歴史を持つ地域の山などには力を持った御本尊あるいは人格神が祀られていて、それはそれぞれですけれども、自分とゆかりのある御本尊あるいは「全体」に対しての信仰が基本になってくるわけです。<br /> <br /> 一方、よくわからない人格神、自分と繋がりのない神社の神様、あるいは、よくわからない宗教の教祖などを拝む必要は基本的にはないわけです。<br /> <br /> 確かに、世界は全てが「全体」としての神様の一部ではありますから理屈で言えばそのようなよくわからない存在であっても神様の一部ということもできますけど、そのように思えるのは悟った後のお話であって、悟る以前であれば、そのようなよくわかない存在をお祀りする必要はないわけです。<br /> <br /> 信仰というのは、静寂の境地に達する以前であればそれは逆にその信仰そのものが煩悩となって、静寂の境地に達する妨げになることすらあるように私には思えます。<br /> <br /> ですから、静寂の境地に達する前は技術的な面にフォーカスして、例えばビジネスの社会でも話題になってきているマインドフルネスのように信仰とを切り離して瞑想をするのもある程度は有効で、しかしながら、静寂の境地に達した後は信仰が重要のように思えるのです。<br /> <br /> 静寂の境地に達する前の信仰というものはよくわからない変な教祖様を信仰してしまうことがあり、そのように間違ってしまうと静寂の境地に辿り着けないこともあったりしますので注意が必要です。それよりは、時間はかかるかもしれませんけど静寂の境地に達する前は信仰なしにスピリチュアルをすることもある程度は有効かもしれませんけど、それでも、神様などを受け入れる姿勢は最初からあった方が良いと思います。<br /> <br /> 人は、立てた目標にまでは達するもので、目標がビジネスの効率アップですとかストレス解消であればその目標を達成したら満足してしまうのが普通なわけです。<br /> <br /> 一方、立てた目標が静寂の境地であればそれがゴールになります。<br /> <br /> そして、目標が神様へと到達することであれば静寂の境地にも留まらない、と言うことになる筈なのです。<br /> <br /> そして、静寂の境地から先は信仰が重要になってくるように思います。<br /> <br /> ここに至ると神様というものがどのようなものなのか、全体としてはおぼろげながら、それでいて以前よりは割とはっきりと理解できるようになりますので、世間で言われているような変な神様や教祖様を信仰する、という方向には行きませんし、信仰、あるいは祈りというものの本質がここに来ると見えてきますから、これが正しい道であると理解できるようになるわけです。<br /> <br /> Wed, 27 Oct 2021 00:00:00 +0900 「引き寄せの法則」を卒業しないと神へは辿り着けない https://w-jp.net/2021/2507/ <br /> 引き寄せの法則が発生するのはカーラナ次元(コーザル、原因)で、プルシャとかアートマンあるいはいわゆる神の次元はその先ですから、引き寄せの法則を使うのをやめなければ神の次元には辿りつかないわけです。<br /> <br /> そのことを、最近よく理解できるようになりました。<br /> <br /> ヨーガなどで言われている3つの体、肉体・アストラル体・原因体(カーラナ、コーザル)のうち、肉体は物理的体ですけどアストラル体は感情面のことで、まず感情的な揺らぎを鎮めるところから始めるわけです。その次に、原因体は言葉通り、この世のカルマの原因でもあり、人が個人の人として存在するに至った根源の理由でもあり、自我を持った個、ヨーガ等でいういわゆるジーヴァ(個)の本性でもあるわけですけど、その原因体は物事の根本である論理、あるいはロゴスとも言える知の根源が存在するのと同じ階層にて存在しているわけですけれども、その原因体の本質というのはカルマでもあって、カルマであるが故に物事の根本原理である理屈・法則がその階層に存在しているわけです。<br /> <br /> そして、そのカーラナ次元においては、カルマの発現というのは、例えば「願う」とか「引き寄せる」ことによって発生します。<br /> <br /> ですから、「引き寄せの法則」で願い通りの現実を引き寄せているように見えるかもしれませんけど、実際は、カルマを発現させているわけです。<br /> <br /> そうして、更なるカルマの車輪のサイクルに組み込まれ、一つの願望が叶えられたらまた次の欲望へと繋がり、また違うカルマを願い、叶い、ということを延々と繰り返すことになるわけです。こうして輪廻転生のカルマの車輪の中に組み込まれてしまうわけですけど、その車輪の一翼をになっているのが「引き寄せの法則」なわけです。<br /> <br /> それはカルマの発現でしかありませんから、単に法則的なものでしかなくて、叶ったからと言って、実際には神の次元からしたら大差ないお話なわけです。ゲームの中でイベントを一つクリアしたか失敗したか、あるいは、やらなかったか、という、そのくらいの違いしかないわけです。<br /> <br /> 神へ到達しようと思うなら、「引き寄せの法則」から離れなければ辿りつかない、というのが私の最近の理解です。<br /> <br /> 考えてみればそれはその通りで、実際のところ、私は割と「引き寄せの法則」は興味がない方でしたので幸いにしてそれを意識的に使うことはほとんどなかったわけですけれども、意図はしていなくても、昔にちょっとしたことで願ってしまっていたことが最近になってぽつぽつと実現していたりして、そのことを思い返すと、「ああ、あの時にもっと深く考えてから願っておけばよかった」と後悔・・・ とまではいきませんけど、もっとうまくやれたのではないかな、と思うことは時々あるわけです。<br /> <br /> 実際のところ、その先のプルシャあるいはアートマンあるいはいわゆる神の次元へと辿り着いた場合は引き寄せの法則をいくら使おうがカルマには影響されなくなっておりますので自由自在になるわけですけれども、そこに辿り着くまでは、まずは引き寄せの法則などのカルマを発動させないようにして生活する必要があると思っております。<br /> <br /> Sun, 24 Oct 2021 00:00:00 +0900 静寂の境地に達したら他人へ奉仕する https://w-jp.net/2021/2506/ <br /> 静寂の境地の次はどうしたら良いだろう、というところで、ふと見つけたのが「他人への奉仕」でした。<br /> <br /> これは、以前にも読んではいたのですけど割とスルーしていたことで、他人への奉仕それ自体は昔からヨーガでは「カルマヨガ」として説明されていて、「見返りを求めずに奉仕すること」であるわけですけど、その意味として、静寂の境地をベースとすれば次の境地として神が宿る、ということのようです。<br /> <br /> これは、道徳的な教え、あるいはヨーガの一部の流派においては「奉仕活動・ボランティア(無料での活動)」を意味してしまっていますけど、本来の意味としては、静寂の境地からその次の神への段階へと進む時のことを表現しているようです。少なくとも、そのように解釈している団体もあるようです。<br /> <br /> ヨガの行をして、心も体も静まり、全体に調和のとれた安定した状態になったときは次に何をするかという問題です。何もしないで、ただそのままでいるだけでは進歩はありません。「輪廻転生の秘密(本山博著)」<br /> <br /> この時、本山博先生が説明するには、自分という殻がまだ残っている状態だから、より大きなもの、それを神と呼ぶかもしれないし絶対者あるいはアートマンと呼ぶかもしれないが、それに「託す」ことで、大きなところから力が加わって、自分の殻が壊れて行く、と説明しています。これは親鸞のいう「他力」と同じものであるとも説明されていて、私もよく理解できます。<br /> <br /> 私はきっと次はこの段階へと進む必要があるのでしょう。無念夢想になって静寂の境地で心が休まったとしてもそれは悟りではなく、神様との間にまだ壁があって、それは個という殻がまだ残っているということでもありますけど、その殻を破ってゆく、いわば個を否定してゆく必要があって、殻が破れた時により大きなものと一体になっている筈なわけです。<br /> <br /> 無念夢想になったら(中略)全部自分を神様というか、絶対の方に向けて捨て切るわけです。ただ任しさえすればいいのです。そうすると、ここで絶対とのつながりができる。(中略)神様に任せる、神様の方に向くということは、取りも直さず”信仰”ということなのです。「輪廻転生の秘密(本山博著)」<br /> <br /> 信仰というと、単に暗黙に信じること、みたいなお話がありますけど、本当の信仰はそういうことではないわけです。<br /> <br /> そして、具体的に、このように自分の殻を破っていく方法として本山博先生は独自の言葉で「超作」ということをするように勧めておりますが、これは造語で、具体的にはヨーガでいうところのカルマ・ヨーガと同じことで、「結果を求めずに本務を行う」ということなわけです。<br /> <br /> Sun, 24 Oct 2021 00:00:00 +0900 胸の奥底で祈る願いをしない https://w-jp.net/2021/2505/ <br /> 願いをしてしまうと現実として現れてきますので、願いをしないように、と最近は注意をしています。願いは割と他愛のないことで、実現してみたのはいいものの厄介ごとを招き込んだり、そもそも不要なことだったり、ほとんどの場合、大したことではないわけです。<br /> <br /> これは人によって印象が違っているとは思いますけど、もしかしたら多くの場合は願いが叶って何が悪いのだろうか、と思うのかもしれませんけど、悟りの道に対してはこのような願いとその実現は割と邪魔なことがほとんどなわけです。<br /> <br /> 願いの中で、悟りの道へと進む方向への願いであれば助けになるわけですけど、それ以外の願いをしたところで意識の成長としては割と妨げになってしまうわけです。<br /> <br /> 例えば、仕事でこれこれこういうことをしたい、と願ったとします。胸の奥、アナハタの願いであれば割とそれは実現します。ですけど、その実現というのは所詮は(と言ってしまうと何ですけど)この現実社会における一時的な泡みたいなものですので、だからと言って、元々の願いが叶ったということ以上の意味はさほどないわけです。<br /> <br /> その願いが叶ったことによって認識が増えたり視点が増えたり願望が一つ消えるという効果があって、特に知識という点でいうと利益になるにはなりますけど、知ったからと言って実際のところ大したことがない知識のことがほとんどなわけです。<br /> <br /> 胸の奥底で祈って何かを願ってしまうと、それはカルマの実現になります。カルマの実現は時間がかかったりすることもありますけどいつかは実現できて、実現できたら、また新たなカルマを作り出します。<br /> <br /> 新たなカルマを作り出すときは胸の奥底でまた願うわけですけど、その現実の、いわば「引き寄せの法則」というものは、単にカルマを実現させているだけの、お遊びみたいなものなわけです。<br /> <br /> 確かに、実現はしますけど、だからと言って、大した意味があるかというと、ほとんどの場合、大した意味はないわけです。<br /> <br /> ですから、このようなスピリチュアルな道に進んでいる人にしてみれば、心の奥底で浅はかな願いをしない、ということがまず重要になります。そして、願うならば吟味の上、引き寄せたい現実だけ引き寄せること。その時は目的が重要で、目的が正しくても手段としての現実の引き寄せが間違っていることもありますから、安易に決定せず、正しく決めてから願うことが必要なわけです。<br /> <br /> Sat, 23 Oct 2021 00:00:00 +0900 清浄になり切らないと感じるのはオーラが一体になっていないため https://w-jp.net/2021/2504/ <br /> 清浄になり切らないと感じるのはサハスララやアジナとアナハタが一体になって動ききっていない為かなと解釈しています。<br /> <br /> 古い神智学系の書物やニューエージ系あるいはスピリチュアルや一部のヨーガの流派においては、クンダリーニは一旦アジナまで上がってからアナハタに下がって、その後は、アナハタとアジナとが繋がって一体になって動き出す、という説明がなされています。上がると言っても、ここで言っているのは何ヶ月あるいは何年かかけて少しづつ優勢の場所が動くというお話であって一瞬で起こるとか数分で起こるとかいうお話とは別です。<br /> <br /> これはスピリチュアル系では「融合されたチャクラ」とも呼ばれているものです。<br /> <br /> ハート・チャクラが優勢になるとほかのチャクラもすべて開きだし、チャクラ・システムが融け合って、私たちが「融合されたチャクラ」と呼んでいるものになります。するとエネルギーフィールドが一体化し、素晴らしい感覚がともないます。「ライトボディの目覚め」<br /> <br /> 今まで、とりあえずサハスララにまでオーラが満ちることができれば静寂の境地に達することができていて、それで良しとしていました。しかしながら、それが割と当たり前になってから、どこか、まだ清浄になり切らない部分があるように思えてきたわけです。<br /> <br /> それを探ってみたところ、どうやら、その原因としては、サハスララやアジナ及びアナハタが一体となって動いていないが故にまだどこか清浄になり切っていない、と感じているように思えてきたわけです。<br /> <br /> それがわかったきっかけとしては、少しづつではありますけどアジナやサハスララのある頭部とアナハタの間が長い筒のような形でオーラが繋がり出した感覚があって、そうなると、少しづつではありますけど、静寂になり切っていないという感覚が薄くなってきたのを感知したわけです。であれば、このアジナやサハスララの頭部とアナハタとの分離が静寂になり切っていないという感覚として現れていたのではないか、と思えるわけです。<br /> <br /> であれば話は簡単で、あまり気にせず、このまま瞑想を続ければいいわけです。<br /> <br /> これは、サハスララにまでオーラが満ちることでまず静寂の境地になって雑念がまず減り、続いて、オーラがサハスララと一体になるだけでなくアジナを通ってヴィシュッダ、そしてアナハタの方までが一体となって以前より動き始めるわけです。まだ筒のように縦に長い感じではありますけど、以前よりチャクラの一体感を感じますので、確かに、古来から言われていたことが真実であることがわかります。<br /> <br /> Fri, 22 Oct 2021 00:00:00 +0900 瞑想中に急にドスンと少し高いところから降りた https://w-jp.net/2021/2503/ <br /> あぐらをかいて瞑想中、明け方でしたけど、ふと急に少し高いところから落ちたような感覚になってすぐ近くにある家具が少し揺れた感じがしました。<br /> <br /> ずっとあぐらをかいていましたので肉体的には自分が浮き上がっていたとは思いませんけど、肉体はずっと変わらず座ってあぐらをかいていたのにも関わらず、少し高いところ、とは言いましてもせいぜい10cmか20cmくらいかとは思いますが、そのくらいのところから一瞬でドスンと地面に降りたような感覚になったのです。<br /> <br /> 意識としてはそれほど変わらなくて、単に体全体にドスンという感覚があったというだけなのですけど、これは、ヨーガ系の書物に書いてある、アストラル体が少し浮いていた状態なのかもしれません。<br /> <br /> その時、瞑想の感覚としてはちょっと霧がかかった状態と言いますか、一応は静寂の境地に近いものになって雑念も思考も止まってはいるのですけど、どこか雲がかかっていて晴れやかになっていないような感覚でした。<br /> <br /> そして、このように急にドスンと降りた感覚があったわけですけれども、感覚があったからと言って意識としてはほとんどそのままで、意識とこのドスンという感覚とは関係がないようにも思います。<br /> <br /> おそらくは、アストラル体が少し浮いた状態になっていて、急に体と噛み合った瞬間に体の方がショックを感じて少し筋肉が一瞬反応したのかも? とも思っていますが、どうでしょうかね。<br /> <br /> 書物によっては、瞑想中にアストラル体だけが宙に浮く、みたいなことが書いてあったりしますし、ものによっては実際に肉体も浮くなんてこともあるようですけど、私はたぶん、アストラル体だけでした。<br /> <br /> これがあったからと言ってどうということはなくて普段のままです。特にこのことと瞑想の進歩とは基本的に無関係かなと思っております。<br /> <br /> Tue, 19 Oct 2021 00:00:00 +0900 清浄になり切らない静寂の境地 https://w-jp.net/2021/2502/ <br /> 静寂の境地とは文字通り頭の中の雑念が消えて周囲の物事、視界や音に関してありのままに認識することですが、そのような状態になっても、まだどこか清浄になり切らない部分が残っているようです。<br /> <br /> 少し前までは、静寂の境地に達したらその状態が割と新しい目新しい状態でしたのでその状態に割と満足していて、かつ、一時的なものでした。<br /> <br /> 基本的にはその状態はサハスララにまでオーラが満ちた状態に対応していて、それは順番に起こるというよりはサハスララにオーラが満ちると同時に雑念も消え去る、というものでした。<br /> <br /> ですので、サハスララのオーラが抜けてゆくのと同時に雑念も戻ってきてしまう感じで、程度問題になってきてしまいますが以前は今よりも抜けるのが早くて、今は抜けにくくなったように思います。サハスララのオーラが抜けにくくなったということは、雑念が消えた状態も長続きするようになったということです。<br /> <br /> その違いは何かというと、今はイダとピンガラが活性化してきていて、それにより、普段の生活においてもサハスララにオーラが満ちた状態を維持しやすくなっているように思います。<br /> <br /> さて、そのような静寂の境地ですけど、一時的にその状態になっていた頃には気付かなかったことですけど、どうやら、サハスララにオーラが満ちて静寂の境地になって雑念が消えたとしても、どこか清浄になり切らない部分が薄くヴェールのように被さっているようなのです。<br /> <br /> この状態にあってもブッディ(理知的な思考)を動かすことはできて、静寂と言っても雑念が消えただけで思考は問題なくできるわけですけど、それとは関係ないところで、何か、根本的なところで何かの薄いヴェールが被さっていることを感じ取ることができるわけです。<br /> <br /> それは、言い表すとすると「空虚」とも言える状態であり、静寂ではあるものの、何か、ヴェールに覆われている状態であるわけです。<br /> <br /> まだ、梅雨があけたばかりのやうなものですわりがついていないから、とにかくこの明朗さに貪著(とんじゃく)したがる習気(じっけ)が浮いて來て、ようやく開顯したばかりの定相を曇らすおそれがあるのである。「信心と坐禪(油井真砂 著)」<br /> <br /> これが、寂静の境地である非想非々想定(非想非非想処)の後に来る滅盡定(滅尽定、めつじんじょう)の状態のようです。<br /> <br /> これはテーラワーダ系仏教では「心の動きを完全に止めてしまう定」として理解されているように思いますが、この著者は禅系で同様に解釈しており、私の感覚からするとこの禅系の説明の方がしっくり来ます。<br /> <br /> この状態になると止まってしまうのは雑念の方で、それはヨーガでいう「チッタ」の動きが止まるのであって、一方で理知的な働きであるブッディは動くわけですけれども、そうは言いましてもブッディの方を動かすかどうかは任意であるわけです。<br /> <br /> ブッディを任意で止めてしまうと静寂の境地になるわけですけれども、基本としてのベースにある静寂の境地それ自体はブッディを動かそうが動かすまいが存在しているわけです。<br /> <br /> ですから、滅尽定が心の動きを止めてしまう定だとするとのは表現的にも説明的にも不十分で、チッタの動きが止まって静寂の境地になるというのは非想非々想定と同様で、その非想非々想定の性質に加えて、上記の説明にあるような曇りがあるのが滅尽定であると思うわけです。<br /> <br /> この油井真砂さんと同様の記述は他でほとんど見かけませんけど、まさにズバリの記述で、道案内としてとても参考になります。<br /> <br /> テーラワーダ仏教や禅ではこの滅尽定を危うい状態と説明していて、この曇った状態に安堵してしまうと先に進まなくなってしまう、みたいな警告をしていますけど、私の見たところ、こんな曇った状態に留まろうと思う人がどれだけいるのか疑問に思います。こんな状態は、実際になってみれば、何かまだ先があるとすぐ気付いて歩むだけだと思いますが、どうなのでしょうか。<br /> <br /> 文字だけを解釈して学者が解釈したらそういうことになるのかもしれませんけど、実際の感覚からすると、これはただ単に、この段階ではそうなりがちだ、というだけのお話で、それ以上の意味はないような気が致します。<br /> <br /> この、どこか清浄になり切らない薄いヴェールを超えてゆくのが今の私の課題のようです。<br /> <br /> 少なくとも、以前はこの薄いヴェールが存在することにほとんど気が付いておりませんでしたので、存在することに気付いただけでも少し前進であると言えると思います。<br /> <br /> Sun, 17 Oct 2021 00:00:00 +0900 瞑想に理屈はあまりいらない https://w-jp.net/2021/2501/ <br /> 語弊があるかもしれませんが、瞑想は割と力技的なところがあります。<br /> <br /> 精神分析とかスピリチュアルでは色々と理屈を考えて頭の中で解決しようとしますけど、瞑想はもっとストレートに力技で全てを解決しようとします。スピリチュアルでいうところの「直感型」に近いですので、女の人はごちゃごちゃと考えるよりもストレートにすんなりと腑に落ちるお話かもしれません。<br /> <br /> こういうのは、きっと男であっても女であっても対して変わらなくてその人の性質によるところが大きくて、理屈っぽい人は割と頭の中でごちゃごちゃと考えてしまって(一応の)ゴールに辿り着かないような気が致します。<br /> <br /> 一応のゴールが静寂の境地としていいとは思いますけど、そこですら、頭の中でごちゃごちゃと考えてしまうとゴールに達しないわけです。<br /> <br /> それよりも、スピリチュアルであれば女の人がきっと得意なように直接的にすんなりと入ればそれで終了なわけで、瞑想的に言えば力技で直接的にゴールに達すればそれで終わりなわけです。<br /> <br /> それを、理屈でゴニョゴニョ言って傷かないようにだとか理解するようにだとか、ごちゃごちゃ言ったところで、ゴールにはなかなか辿り着かないわけです。そうは言っても、階段を一歩一歩進んでいるようなものですので少しづつ近づいているにいるとは思いますが、もっと直接的な方法があるわけです。<br /> <br /> 瞑想の力技にしてもスピリチュアルで直感に導かれる方法にしても、どちらも言葉を超えている、というところに共通点があります。<br /> <br /> 言葉の段階、理屈の段階で色々と考えて理解して手放そうとしたり色々試みたりしても、それは所詮は理屈の段階でしかないわけです。<br /> <br /> こうして、何か物事を書いているときは、そのような理屈の段階に降りてきて書いているわけで、実際に静寂の境地に達してその状態で生きる場合は、このような理屈とは離れていて、理屈の言葉は頭の中に出てこないわけです。理屈の言葉が出てきたらそれは静寂の境地ではないわけで、静寂の境地だとしたらそこに言葉はなくて、直接的な直視とでも言える状態だけが存在しているわけです。あるがまま、ということもできます。<br /> <br /> そのような境地に直接的に踏み込めばそれでゴールなのであって、そのゴールに一瞬でも踏み入ることができればいいですけど、踏み入ることができなかったり、あるいは、長く居留まることができなければそれはそれでまだ修行が足りないわけです。<br /> <br /> 理屈も一応は役に立って、ゴールへの道標にはなりますけど、ある程度進んだらゴールが見えて、あとは割と力技でいい気が致します。瞑想的に言えば力技で、スピリチュアル的に言えば直接的に踏み込むとか色々な言い方がありますけど、表現が違うだけでどれも似たようなお話のように思います。<br /> <br /> Sat, 16 Oct 2021 00:00:00 +0900 瞑想中に不快感が出てきたらどうするか https://w-jp.net/2021/2500/ <br /> 流派によって対処法が異なりますが、多くは「すぐ瞑想をやめて休憩する」と教えているところが多いように思います。<br /> <br /> それはそうで、間違った瞑想をしていたらいけないのですぐに休憩すべきということもありますし、団体とかですと何か変なことになったらいけないので休憩しなさい、瞑想を(一時的に)やめなさい(休憩しなさい)、と教えていることもあります。<br /> <br /> ですけど、実際のところ、瞑想をやめても不快感などがずっと続く場合もあり、それよりは、不快感があろうとそのまま瞑想を続けてしまった方が素早く不快感が解消することの方が多いように思います。<br /> <br /> 時間的制約などで不快感が十分に解消されないこともありますけど、割と大体の場合は時間で解消できて、瞑想をそのまま続けると、時間が1時間とかもっとかかる場合もありますけど、割と瞑想そのもので解消されます。<br /> <br /> 最初は調子が良くても途中で急に不快感が出てきたりすることもありますが、原因にもよりますけど例えば体のエネルギーのルート(ヨーガでいうナディ)がうまく通らない場合に不快感が出てきしまった場合は特に瞑想でないと問題はなかなか解消しにくくて、であれば、不快であろうとそのまま瞑想を続けて体のナディを調整してしまった方がいいわけです。<br /> <br /> 一方、トラウマあるいは雑念に囚われてしまうような場合は瞑想を一旦休止して休憩した方が良くて、それは時と場合によりますね。この場合は不快感ということもできますけど不快感というよりはトラウマあるいは雑念そのものですので、この場合はすぐに休憩してしまって良いわけです。そして、休憩したらまた再開すればいいわけです。<br /> <br /> 一方、エネルギー的な不快感の場合は休憩してもなかなか回復しませんので瞑想で身体中のナディを活性化させてエネルギーを高めることが必要になってきて、そうであれば、不快であってもそのまま瞑想を続けてしまった方が回復が早いわけです。このようなエネルギー的な不快感は横になって休んでも寝てもなかなか回復しないこともありますが、瞑想であれば割と15分とかで回復する時もあります。普段の調子がいい人の場合で不快感が現れた場合、大抵の場合はどこか一箇所が詰まっているとかその程度ですので、すぐに治ります。一方、ずっと不快感が続いて体の調子が良くなったことがないような人であればなかなか時間がかかりますけど、そうであっても、休憩するよりは少しづつ瞑想をした方が体の調子は早く良くなるわけです。<br /> <br /> ですので、基本は、瞑想で不快感を感じたらすぐに瞑想をやめて休憩する、というところではあるのですけど、実際はそうではなく、かといって団体とかで教えていると受講生に「そのまま続けなさい」ということも難しいですので「休憩しなさい」とか言いますけど、そこから先は受講生の自己判断になってしまうわけです。<br /> <br /> 弟子と師匠(グル)とかの関係ですともっと深い理解と繋がりがありますから弟子に「(不快感があっても)瞑想を続けなさい」と指示したりもしますけど、まあ、それであっても昨今の事情を見ると弟子に命令できるグルというのはなかなか少なくなっているのかもしれませんね。<br /> <br /> であれば、自分で判断してやっていくしかないわけですけど、瞑想教室で「不快感が現れたらすぐに瞑想をやめる(休憩する)」と教えられていたとしても、それはケースバイケースだということは頭の片隅に置いておいても良いとは思います。<br /> <br /> Sat, 16 Oct 2021 00:00:00 +0900 日本:関西 https://w-jp.net/topics/日本:関西/ 日本:関西 明けましておめでとうございます。 https://w-jp.net/2021/2578/ <br /> 本年もよろしくお願い致します。<br /> <br /> 年末は多度大社、椿大神社を経由してから伊勢神宮、熊野大社をお参り。その後、本州最南端に到着しましたが雪で道が危うくなりましたので途中で切り上げました。<br /> <br /> 伊勢神宮や熊野は何度目かのリピートですけど多度大社と椿大神社は初。<br /> 伊勢神宮の御神域は以前よりパワーアップしたのかあるいは私の感性が高まったのかはわかりませんけど御神域を昔よりはっきりと感じられたのが興味深かったです。それと、昔は栄えていた多度大社と伊勢神宮の近くにある猿田彦神社の系列の本社らしい椿大神社にも初めて行けました。<br /> 最南端はリピートですけどその近くにあるトルコ記念館は初。ここはトルコ軍艦エルトゥールル号遭難の現場で、物語自体は知っていましたけど現場に来るのは初めてで歴史を感じられました。<br /> <br /> 熊野はリピートですけど遠くて時間がかかるので前回も今回も時間が十分に取れておらず、 玉置神社は山一体が粉雪に覆われていて近づくこともできませんでしたのでまた来ます。<br /> <br /> Sat, 25 Dec 2021 00:00:00 +0900 スピリチュアル https://w-jp.net/topics/スピリチュアル/ スピリチュアル 自分がLGBTだと思うからLGBTになる https://w-jp.net/2021/2527/ <br /> スピリチュアル的な解釈をすれば、自分がLGBT(かもしれない)と思うからLGBTになるのです。ですから、LGBTのことなんて考えなければ普通に生物学的性別に落ち着きます。<br /> <br /> 世間でLGBTとか色々宣伝しているから「あれ? 私ってそうかも」とかいう「勘違い」が生まれて、考えれば考えるほど「きっとそうだ」という概念を自分で作り上げてしまってその性別の自分を作り上げてしまうわけです。これはある種、社会を混乱させる一因なわけです。<br /> <br /> LGBTのことを宣伝されてLGBTが一般的になって喜ぶ人より、男女の自覚を周囲からしてもらえなくなって男女をきちんと自覚できなくなることで弊害を被る人の方が遥かに多い筈です。<br /> <br /> LGBTのマイノリティーを守るために、本来はきちんと男女を自覚できていた大勢のマジョリティを混乱の渦に叩き落とすのであればLGBTなんて推進しない方が社会のためになると思われます。<br /> <br /> そのお話とは別に、魂と性別とLGBTに書いたことが基本ではありますので、それはそれとしてありますから、久々に性別を変えた魂とかは最初は違和感があって当然で、そうは言いましても生活していくうちに自分の性別が「馴染んで」くるわけです。そんなものです。<br /> <br /> 人は生まれながらにしてその性別になるのではなく、意図的に意識して自分の性別を生きるわけです。<br /> <br /> 生まれたばかりの、まだ幼い頃は自分のことが男か女なんてそんなに意識しないことが多いと思います。ですけど、男っぽい女の子が小学校高学年の頃に「○○ちゃんは、女の子なんだよ」と先生等から言われて「おお! 俺って女だったんだ!」と「自覚」をして、自覚をした後に急にしおらしくなって女の子っぽくなる、というのはよくあるお話です。<br /> <br /> 男にしても、「男なら」とか言われて「おお! 私って男だった!!!」と「自覚」をして男っぽくなる、というのもよくあるお話です。<br /> <br /> それが割と普通のことで、自覚する前は自分の性をそれほど意識していない、まだ未分化の「子供」なわけです。声変わりもしていない状況で男女のホルモンも出ていない状況から、ホルモンが出て男女を意識し始めるときに同様の「自覚」が周囲の大人から投げかけられ、性別を自覚していくわけです。<br /> <br /> ですけど、昨今はそのような「自覚」が良くないものだとされて、LGBTでも良いとかいう宣伝がなされていますけど、性別とその性質というのは社会が作り上げるものでもありますから、LGBTの宣伝というのは文化破壊に繋がっている面もあります。男女への自覚を妨げられて男女の性に目覚めることができない人が増えたら、混乱した人々だらけの意味不明な国になりますよ。そんな社会を目指したいのですかね?<br /> <br /> [link:/2019/1669/ 以前]]に書きましたように、生まれた経緯から男女の自覚がしにくい、という人はいます。ずっと女で生きてきて久々あるいはたまに男で生きたら最初は女っぽいでしょう。ですけど、そんなものですよ。逆もまた然りです。ですけど、その性別で生きていたら次第に生物学的な性別っぽい性質に変わってゆくものです。それは個人でそのようになるだけではなくて、男が女から男として扱われることで変わったり、あるいは、女が男から女として扱われることで変わる、ということもあります。それが、LGBTだからどっちでもいいとか言ってごちゃ混ぜにしていたらホルモンとマインドが相反し合って混乱をきたします。<br /> <br /> 本人がそれでもいいというのならばこの世界は個人の自由がありますので好きにしてください、ということになりますけど、スピリチュアルを目指す人であれば、「体」と「心(マインド)」が「一致」することがとても重要なわけです。体とマインド(そしてもっと微細なところ)が一致していなければ高いレベルに達することができません。<br /> <br /> これには例外があって、元々性別がない世界から転生してきたとか、性別がないレベルにまで達している場合はそうでもなかったりしますけど、大半の場合は性別のある段階にいますので、男女どちらかよく分からない性質であれば、大概は、そんな大したレベルではないわけです。<br /> <br /> アストラルの感情の段階はいわゆる幽体で性別がありますけど、カーラナ(コーザル、原因)になりますと性別はないわけです。ですけど、スピリチュアルの人は割と自分を上の段階で考えるきらいがあって、そういう人は既に自分がカーラナのレベルで性別を超越していると考えがちだったりしますけど、そんな風に思うのは割と初心者で、ちょっと成長すればまだまだ自分がそんなレベルではないと気付くわけですね。ですから、大半の場合はスピリチュアルな人であってもアストラル的な感情および性別があって、であれば、基本的には、人には性別があるわけで、性別がないような中性の人というのはほとんどの場合はまだ未分化の未熟な状態なわけです。男にも女にもなり切れていない、まだ成長の段階を踏んでいないわけです。<br /> <br /> LGBTっぽい性格だから自分はスピリチュアル的に成長していると思っている人が一定数いますけど、大抵の場合はそんなことはないわけです。気のせいなわけですね。<br /> <br /> LGBTだと思うのも気のせいですし、スピリチュアル的に成長していると思うのも、どちらも気のせいなわけです。<br /> <br /> LGBTなんて考えるのをやめて、普通に生物学的な性別で世の中を分けるのが一番健全だと思います。今のLGBT論でトイレのマークを変えるとかお風呂の入る方を変えるとか、そういうお話は止めた方がいいと思います。<br /> <br /> ただ、昨今のLGBTが良い結果だと思えることが一つあって、そのように「まだ男女に未分化」の人たちのことを「差別しない」という点に関しては良いことを言っていると思います。ですけど、対処方法として「受け入れる」というのは上記の通り私はそうすべきとは思っていなくて、そうではなくて、「男女を自覚できるように周囲が導いてあげる」のが良いと思っています。<br /> <br /> スピリチュアル的に解釈するなら、LGBTというのはただの子供の状態なわけです。<br /> <br /> Mon, 08 Nov 2021 00:00:00 +0900 どうやら死神が出現しそうです https://w-jp.net/2021/2517/ <br /> <夢や瞑想で見たことですので本当のことかどうかはわかりません。><br /> <br /> これを書いているときは衆議院選挙の真っ只中ですけど、どうやら、この時代のスピリットではなく、他の時代から時代を超えて未来を見ているスピリットが我慢の限界に達してコロちゃん騒ぎに乗じて天誅し始める未来が見えます。<br /> <br /> すぐではないようですけど、特に、売国系の政治家あるいはマスコミ関係者は注意した方が良いですね。<br /> <br /> 同時代の霊能力者が原因を探ろうとしますけど、そもそもこの時代にいるスピリットではないようですので正体は掴めないようです。<br /> <br /> 世界には時々この種の干渉があって、不思議なことが起きたりしますけど、今回の場合、中国の日本に対する工作がいよいよ完成に近づきつつあって外国人参政権のような致命的な政策ですとか土地問題とか防衛問題、尖閣諸島を隠れ蓑にした各地の土地買収による日本の買い漁りなど、日本を守っているスピリットは我慢の限界にそのうち達するようです。<br /> <br /> スピリットの世界というのは時間の流れが早く、数十年、あるいは数百年というものがあっという間に過ぎますから、戦後ですら割とあっという間で、ですからここ最近の中国の日本への工作にしても気付くまでにそれなりにタイムラグがあるようなのです。<br /> <br /> ですけど、気付くのは遅くても、スピリットというものは時空を超えることができますから、例えば未来、あるいは過去からスピリットが時間を超えて時代に干渉することがあるわけです。<br /> <br /> その時、天誅と言いますのは文字通りの昔ながらの意味ですけど、どうやら一人のスピリットではなくて、あくまでも「目と耳」としてのスピリットが徘徊し始めて、この政治家、あるいはこのマスコミ関係者は問題だと判定したら、他の実行部隊としてのスピリットが実際にことを起こすようです。<br /> <br /> 割と日本の主要となる神々の関係者のスピリットが関係していて、概ね、神々の間で同意がなされた上で大掃除が行われるようです。<br /> <br /> とは言いましても、すぐではないようですけど。今の段階では、誰が本当に反日で、何が問題で、どのようにすべきか練っている状態のようです。ある程度は発言や行動から判断して、その一方で、波動の状態(オーラの色)も使って判断するようです。<br /> <br /> 日本の神々は基本的にこの世界のことに関与しなくて、政治にそこまで深く興味があるわけでもないですけど、日本がチベ○○やウイ○○のように占領されて日本語を封じられて中国語を強制され、日本への愛国心のある人を次々に処刑して見せしめにする事態が来るのであれば時空を超えてあらかじめ手を打つこともあり得るということのようです。<br /> <br /> あるいは、そもそもこの世界は一旦リセットして、第二次世界大戦の頃に毛沢東を日本軍が支援することをやめて蒋介石の国民党に中国を支配させる、という全てをやり直すシナリオもあるようですけど、それは今のところ選択肢にないようです。<br /> <br /> 基本的には全て学びですから何が起きてもこの現世での夢幻ではあるのですが、日本人が生活する基盤である日本を踏み躙ることは神々が許さない、ということのようです。<br /> <br /> これは夢や瞑想で見たことですので本当のことかどうかはわかりません。<br /> <br /> Sun, 31 Oct 2021 00:00:00 +0900 想念形態だけが一人歩きして次の人生を形作ることもあり得る https://w-jp.net/2021/2436/ <br /> ヴェーダンタで言われているように本当の私は真我(アートマン)であるわけですけど、それは日本語でざっくり言うと魂のようなものであると言えます。<br /> <br /> 魂に相当するアートマン(真我)があって、その真我をベースにして(真我の上に)マインド(心)が存在しています。<br /> <br /> 心と言うと思考する機能(マインド)だけでなく魂のことも含意する時が日本語ですと時々文学表現であったりするように思いますけど、ここではマインドは思考する機能という位置付けの心であって、その思考する心(マインド)はアートマン(真我)を基礎に置いています。<br /> <br /> アートマン(真我)という微細な核があって、それよりもほんの少しだけ粗大なものとしてのマインド(思考する心)があるわけです。<br /> <br /> この構造において、想念形態というのはマインド(思考する心)および、アートマン(真我)とまではいかないまでももう少し微細なサムスカーラ(印象としての心)の組み合わせでできていて、この表現の仕方はヴェーダンタというよりは神智学的な表現になってしまいますけど、そのような、マインド(思考する心)とサムスカーラ(印象としての心)が一人歩きしてしまうことがあるのです。それをひとまずここでは想念形態と言っていますけどこれは確立された用語ではなくてどこかで聞いた言葉をとりあえず借りているだけですけど、マインドとサムスカーラのセットが一人歩きしてしまって次の人生を作り出すことがあるのです。<br /> <br /> ヴェーダンタで言えば全てがアートマンであり個としての概念のアートマンが実は全体のブラフマンと同じ、ということですので、実際のところそれらのマインドやサムスカーラであってもアートマンではあるのですけど、実際のところ、引き継がれる成長したアートマンと、そうでもないアートマンがいるのかなと私は考えております。<br /> <br /> これはヴェーダンタで言われていることではなくて私の感覚としてそのように理解しているということですけれども、経験を積んだアートマンはその引き継ぐマインドやサムスカーラも洗練されているけれども経験の少ないアートマンはマインドも機械的でサムスカーラも乱雑としている、というのが印象です。<br /> <br /> 厳密にテクニカルワードで言えばアートマンそれ自身は経験することがなくて永遠の存在ですので経験とは無縁なのですけれども、実際にはアートマンは必ずグナ(粗大な物質の3つの要素であるサットヴァ、ラジャス、タマス)と常に一緒にありますから、経験とも密接な関係を持っているわけです。<br /> <br /> このようなアートマンとグナ及びマインドとサムスカーラの関係に置いて、アートマンそれ自身は純粋であったとしても、マインドとサムスカーラが一人歩きする時があるのです。<br /> <br /> これは単純な輪廻転生として捉えることもできますけど、実際にはアートマンは輪廻転生をせずに永久に存在しますから、輪廻転生するというのは基本的にはサムスカーラとそれに付随するマインドの部分なのですよね。<br /> <br /> これをもっと細かく見ていきますと、まず、人が死ぬ時に、最後まで残ったサムスカーラ(微細な印象)とマインド(思考する心)がそこに残されます。<br /> <br /> 世間で言われているように死んだら無になってサムスカーラ(微細な印象)もマインド(思考する心)も消えてなくなってしまう、というのは嘘で、実際には、サムスカーラとマインドが残ります。<br /> <br /> その上で、それなりに精神的に熟していて落ち着いている人の場合はアートマンとサムスカーラとマインドが一体になって次の人生に入るか、あるいは、解脱にまで達していて昇天できる場合は転生せずにアートマンが「全体」あるいは「グループソウル」と言われているものに合一してサイクルを終えます。<br /> <br /> ですけど、欲望や快楽に満ちた人生を送って精神が分離をしていたりしますと、アートマンと「サムスカーラとマインド」が切り離れるように思います。これは語弊がある表現かもしれませんけど、もっと微細に言いますと、「アートマンと純粋なサムスカーラと純粋なマインド」と「アートマンと混乱したサムスカーラと混乱したマインド」の、大きく分けて2つ(あるいはもっとそれ以上)に分裂するわけです。<br /> <br /> そうして、片方はもう昇天して解脱に満ちた状態になるかもしれませんし、一方で、残された方は以前より悪いところだけになって地上に残され、輪廻転生を繰り返します。<br /> <br /> この後者は、傍目から見ると「アートマンは昇天して、混乱したサムスカーラと混乱したマインドが地上に残された」ように見えます。実際はアートマンは全てのものに浸透してこの世の空間に満ちていますからアートマンでなくなるということはないのですけど、傍目には、混乱したマインドとサムスカーラだけが地上に取り残されて欲望と快楽に満ちた人生を繰り返すことになります。<br /> <br /> こうなると混乱したマインドとサムスカーラは手のつけようがなくなって、切り離されて昇天した方のアートマンからしても悔いが残ることになり、一旦は昇天したけれどもまた微細な印象(サムスカーラ)が生み出されて分霊を作り出し、地上に行くことになったりします。<br /> <br /> これを聞くと、また輪廻転生のサイクルに入るのであればそれは解脱とか昇天というのだろうか? という疑問が生じるかもしれませんけど、ここで行われているのはサムスカーラによる衝動的な欲求ではなくて選択的な判断であり、分霊を助けに行くという選択をすることもありますし、あるいは、グループソウルからするとまだ選択肢があって、もう1つは「見捨てる」、あるいは「(不純な存在であったとしても)グループソウルに合流させて受け入れる」、はたまた最後の手段として「消滅させる」という手もあります。<br /> <br /> 見捨てる場合は、もう、そのままです。放っておきます。もはや関与しません。<br /> <br /> 消滅させる時は、その分霊は失敗作ということで消して終わりです。経験などは直接は引き継がれませんけど、外目から観察はしていますので一応の反省はなされます。<br /> <br /> グループソウルに合流させるという選択もあって、その場合はグループソウルがそのカルマの全てを受け入れて、それぞれのカルマを解消して行くことになります。<br /> <br /> このように、混乱したサムスカーラ(微細な印象)とマインド(思考する心)というのは切り離されてその後はグループソウルの判断に委ねられるわけですけどどちらにせよ、このように分離してしまったサムスカーラとマインドというのは厄介なものでスピリチュアルなことがほとんど理解できなくて肉体が全てで欲望と快楽に生きる人間になりますから、周囲からしたら迷惑な存在であることは確かなわけです。<br /> <br /> そのような機械人間になってしまうことが「分離」とかスピリチュアルでは言われていたりするわけですけど、それは心と魂が分離しているというスピリチュアルな意味も確かにありますけど、それに加えて、このように、本来のグループソウルが意図したところから分離してしまって想念形態が一人歩きして何度も転生を繰り返して欲望と快楽に生きている、という意味合いもあったりするわけです。<br /> <br /> そのような快楽人間・機械のような欲望だらけの人間が増える世界というのがあって、今の世の中は日本以外では割とそれが優勢だったりもしますけど、日本にも外国の悪影響が現れていたりするわけです。<br /> <br /> ここで言っているのは割と日本でよくあるようにスピリチュアル的に成熟したグループソウルの場合で、外国ですとグループソウル自体が欲望にまみれている場合もあったりしますから状況は違うのですけど、程度は違えども基本は一緒で、グループソウルが意図して分霊を作り出して転生するけれどもその転生で失敗したりすると純粋なアートマンだけがグループソウルに帰って行って、混乱したサムスカーラと混乱したマインドが想念形態としてこの世に生き続けて輪廻転生を繰り返し、欲望と快楽に満ちた人生を作り出すことがあるということです。<br /> <br /> Thu, 12 Aug 2021 00:00:00 +0900 意識と肉体が分離すると機械人間になる https://w-jp.net/2021/2434/ <br /> たまたま見た動画で、悪魔に乗っ取られた人、みたいなお話が出ていましたけど、悪魔かどうかはともかくとして、意識と肉体が分離して意識が肉体に戻れなくなっているような人はぼちぼち現代にいらっしゃいますね。<br /> <br /> そのような人の場合、最初、意識が体から離れやすくなって、幽体離脱しやすい状態になります。<br /> <br /> 意識と体が分離し始めているのですよね。<br /> <br /> それは、意識が激しく葛藤しすぎるのと、体と意識とが調和していないために体に意識が定着できなくなって、時折、何かの拍子に体から意識が離れてしまうわけです。<br /> <br /> これは「良くない幽体離脱」の例で、実際のところ意識の方は割と純粋で汚れが割とない存在ではあるのですけど、肉体にまつわるところに汚れが溜まったり、意識の方で意図的に肉体との調和を乱す方向を意図したりすると、最初はその感覚が面白いとか思ったりするかもしれませんけど、ふとある時に肉体と意識との結合が外れて、最初は幽体離脱してしまいます。<br /> <br /> これは幽体離脱ができるとかそういうことを言っているのではなくて、この状態というのは、とても危険な状態であるということです。ですから、幽体離脱するために体と意識を分離させようとする、ということはしてはいけません。<br /> <br /> 幽体離脱しても、最初は意識を体に合わせれば割と戻ることができますけど、しっかりと体と意識の調和が取れている場合はそもそも幽体離脱なんてしませんし、戻る時も、かっちりと繋がることができます。<br /> <br /> しかし、体と意識がズレていたり外れかけている場合は意識が体に戻る時も何やら噛み合わない感じですし、何度も同じことを繰り返しているうちに、戻りにくくなります。<br /> <br /> なんとか戻れているから大丈夫かな・・・ と、たかを括っていると、やがて、不意に、急に体に戻れなくなります。<br /> <br /> 体に戻ろうとしても、体にバリアみたいなものができてしまい、弾かれるようになってしまって、体に戻れなくなります。<br /> <br /> その時、他の意識体に乗っ取られたかというとそうでもなくて、何も意識体が入っていない体が肉体にまつわる反応と本能だけで生きるようになって、意識の方は体に存在しない状態になります。<br /> <br /> ですけど、体は普通にありますので、機械人間のようになって人生は続くわけです。もはやその場合、まともな思考もできませんし、単なる反射的な人生になります。それは人生と呼べるのかすら良くわからない状態になるわけです。ですけど、意外にそのような状態でもすぐに死ぬということはなくて生きながらえるようになるわけです。意識が体に存在していないような人間になってしまうということです。<br /> <br /> 意識が幽体離脱したまま体に戻れなくなった場合、意識はある程度は再チャレンジして体に戻ろうとしますけど、それでも駄目なら諦めて、肉体を捨てることになります。肉体は生き続けますけど意識の方はあの世に戻ったり次の人生で再チャレンジするわけですね。<br /> <br /> ですから、この世を生きて快楽に生きたり、肉体と意識を分離させるような激しい精神ショックを与えたり求めたりするのはとても危険で、植物人間あるいは機械人間を生み出すことになってしまうわけです。そのようなことを他人に強要するのであればそれは罪ですし、自分でそのようなショックを求めるのも愚かなことです。<br /> <br /> 動画で見たような「悪魔」が実際にいるかどうかは微妙なところで、半分くらいは、このように自分の意識が自分の元々の肉体から離れてしまって機械人間として人生を生きている場合も多々あるように思います。そうなりますと特定の習慣に従った行動しか取らないようになって知的な活動は皆無になりますから仕事もまともに行うことができなくなってしまいます。もしかしたらそのような場合に悪魔に肉体を乗っ取られる、みたいなこともあるのかもしれませんね。最初に肉体と精神・意識を分離させて肉体から意識を追い出し、空っぽになったところを悪魔が乗っ取る、というパターンは少ないまでもそれなりにあるように思います。<br /> <br /> その中間はとても多くて、精神・意識が完全に分離はしていないまでも混乱して何をしているか自分でわからず快楽や欲望に耽っている、というのはあり過ぎて例を挙げるまでもありません。<br /> <br /> Tue, 10 Aug 2021 00:00:00 +0900 雑念が出ても放っておく、という教え https://w-jp.net/2021/2422/ <br /> 瞑想の流派によっては「雑念が出ても放っておきましょう」という教えがありますけど、その教えは瞑想の集中状態あるいはサマーディの、特に心のサマーディの観照状態において正しいように思います。<br /> <br /> ですけど、それ以前であれば、それは単なる標章としてしか機能しないように思います。<br /> <br /> 雑念が出ても放っておく、という教えに従って本当に放っておくならば雑念が拡大していって雑念のループにより雑念が強くなり、怒りや憎しみ、嫉妬などの思いがより強くなるのが(瞑想をあまりしていない人にとっては)普通のように思います。<br /> <br /> 雑念が出ても繰り返さない、という教えをしているところもありますけど、それは「結果」としてはその通りですけど、そのようにしようとしてもできるものではありません。<br /> <br /> もし、心でそのことを意図するのならば、瞑想ができているイメージを作り上げて「私は雑念が出ても放っておくことができています」「私は雑念が出てきても繰り返しません」という、雑念でしかない心の思いを何度も繰り返すことでその気になる、というようなことも簡単に起こります。これは瞑想初心者にありがちなことで、おそらくは誰しもが通る道ですのでそれほど悪いことではなく、むしろ、瞑想をして少し経験を積んだ証となるものですけど、そこで立ち止まるわけにはいかないのですよね。<br /> <br /> 結果として雑念をループさせない、というのは良いとして、それ自体が「手段」ではないのですよね。<br /> <br /> ですから、雑念をループさせないための手段を考える必要がある訳です。<br /> <br /> それは聖典に記載されていて、マントラを唱えるとか、眉間に集中するとか、聞こえる人であればナーダ音を聞くことで心を一点に縛りつける、というようなことをおこないます。これらは手段としては違いますが、いずれにしても彷徨う心を縛り付けて1点に集中させる、という点においては共通しています。これらの手段のうち、通っている流派で教えている方法があればそれをすればいいですし、あるいは、選べるならば自分に合ったやり方をすれば良い訳です。この段階において良し悪しはさほどなく、好みと、自分に合った志向があるだけです。<br /> <br /> この段階では「雑念が出ても放っておく」ということはなくて、雑念が浮かぶ場所である心の動きを封じ込めて1点に縛りつけることで他のことが心に浮かばないようにするわけです。マントラを唱えて集中しているときは雑念が入ってきませんが、油断すると雑念が入ってきますのでそこは意思の力でマントラに集中を何度となく戻す、ということをおこないます。眉間に集中する場合もそうです。眉間に集中していると雑念が入ってきて眉間への集中が途切れたりしますが、ふと気づいて意思の力で眉間への集中を戻してあげます。これは目を瞑っているとなかなか気付けない場合もありますが、急いでいなくて時間に余裕がある場合は少しづつ行えばいいと思います。ナーダ音に関しても同様で、ナーダ音に集中することが基本で、雑念が入ってきてもそれは放っておいて、ふと気づいてナーダ音に意識を戻してあげます。<br /> <br /> この種の、雑念が入ってきてもそれを追わずに放っておいて瞑想の集中に戻す、というのが基本としてあります。このお話は、心は基本的に1つしか考えることができない、ということをベースにしています。瞑想の集中の対象にフォーカスして、雑念が入ってきてもそれを追わずに放っておいて瞑想の対象に集中しましょう、という教えです。<br /> <br /> 瞑想において雑念が出ても放っておく、というのは基本的にはこういうことを言っているわけですけど、その先に、サマーディ状態において心の観照状態というのもあって、それも表現としては割と似ていて雑念が出ても放っておく、ということにはなるのですけど、心のサマーディにおいては心の背後にあるアートマン(真我)が観照している状態ですので、状態としてはかなり違うわけです。<br /> <br /> Tue, 27 Jul 2021 00:00:00 +0900 ナーダ音かと思ったらまず耳鼻科を受診しましょう https://w-jp.net/2021/2354/ <br /> ナーダ音とは瞑想などにより浄化がそれなりに進むと聴こえてくる高い音ですが、ヨガ等をしていて聞こえる方もそれなりにいらっしゃるかと思います。<br /> <br /> これに関して自分が聴こえているのがナーダ音かもしれないと時々問い合わせが入るのですが、まず基本的にリモートでは全く診断はできませんし、直接の診断とか指導は行っていませんので、気になるなら耳鼻科をまず受診してくださいと伝えています。<br /> <br /> 何か聴こえてきたら耳鼻科を受診して耳に異常がなかった時に初めてそれがナーダ音かもしれない、と一応の仮説を立てます。<br /> <br /> 耳鼻科で診てもらえるのは物理的な耳だけですので、耳鼻科で問題なしと言われてもこの時点ではまだナーダ音かどうかはわかりません。<br /> <br /> ストレスを受ける生活をしている時は耳に異常がなかったとしてもストレス要因による耳鳴りが起こる場合があります。<br /> <br /> あるいは、頭蓋骨の状態や何かの骨の位置が原因で耳鳴りが起きている可能性だってあります。<br /> <br /> どちらの場合も耳鼻科ではわかりません。<br /> <br /> ですから、何か不思議な音が聞こえてきてもそれがナーダ音だと早合点しないことですね。<br /> <br /> ナーダ音かどうかの判断基準は一応はありますけど、そうは言いましても最初は普通の病院で診てもらうことをお勧めしますね。<br /> <br /> メールでの問い合わせには一応は簡単に答えたりはしていますけど、それは指導ではなくてメールの内容への感想とか感想メールに対するお礼です。私は医者ではありません。色々書いてはいますけど特に指導とかしているわけではありません。<br /> <br /> ナーダ音だと早合点して病院に行かずして悪化させてしまったとしても何も責任取れませんのでまずは病院に行っていただければと思います。<br /> <br /> <br /> 関連 → アナハタ・ナーダの聖音とクンダリーニ<br /> <br /> Mon, 10 May 2021 00:00:00 +0900 他人への同情への強制はエネルギーの低い人がする行為 https://w-jp.net/2021/2299/ <br /> 同情という行為は選択的に行われるべきであり、エネルギーの低い人に対しては安易に同情すべきではありません。<br /> <br /> 同情とは基本的には割と同じ水準のオーラを持った人同士が相手を許して受け入れた時に行う行為であり、エネルギーの差がある人との間で同情を行うとエネルギーの同質化が起こりってお互いに多大な影響を与えますので、安易にするものではないのです。<br /> <br /> 自分よりエネルギーの高い人に対して行うのは同情ではなく尊敬であり、一方、自分よりエネルギーが低い人に対しては同情するのではなく愛を感じることです。<br /> <br /> 同情というと世間では良いことのように言われていますけど、実際は、同情とはエネルギーの低い人が他人からエネルギーをもらうために行う行為、あるいは、エネルギーの高い人がエネルギーの低い人にエネルギーを与えるために行うです。しかもそれはオーラの深いところから行われますので、ただ与えるだけでなく、お互いのオーラが均一化して、お互いにお互いの課題や何やらを共有することになります。<br /> <br /> ですから、こういった行為を安易に行うことはあまり褒められたものではありません。<br /> <br /> こう言うと反発する人が一定数いて、それは私にとって面倒なことだったりもしますのであまり世間では言わないですけど、実際、同情を必要としている人というのは他人のエネルギーに依存していて他人のエネルギーを必要としている場合があったりするのですよね。それを隠すため、あるいは、他人に気が付かせないために同情とは良いものだという同意を誘ったりすることもありますけど、安易に騙されないことが肝心です。あるいは、相手にそのような疑念を抱かせないために同情が良くないものというお話をしただけで怒鳴ってくるような場合も同様です。怒鳴るということはそのような真実に触れられたくはないという心理の表れで、盲目的に同情を続けさせることでエネルギーを奪い続けたい、という心理が自覚していようがいまいがそこには横たわっています。世間ではこのように、同情というものが良いものということにしておきたい人が一定数いて、それ故に、同情ということに対する真実があまり世間に出にくい状況になっています。<br /> <br /> これは、同情を誘うと言う意味でもそうですし、自分が同情する、という意味においても同じです。<br /> <br /> これはどういうことかと言うと、繰り返しになりますが、同情というのはオーラの一体化が本質であるからです。<br /> <br /> 同情するということは一体化をするということでありますから、エネルギーが高い方から低い方へと流れます。<br /> <br /> 同情というのは情というくらいですから愛よりも低いエネルギーです。そのレベルの低いエネルギーがお互いに感応し合って融合し、その時、エネルギーの均一化が起こる。それが同情の仕組みです。<br /> <br /> 同情することで両者のエネルギーレベルやカルマまでもが一体化します。<br /> <br /> 世間で言われているように同情することで他人を助けるなんて言ってしまうと聞こえが良くなってしまいますけど、実際そこで起こっていることは、他人と自分とのオーラが一体化して均一化しているということです。その真実を知ったら安易に同情なんてできなくなると思いますが。<br /> <br /> 世間では同情が良いものかのように言われていますけど、実際は、安易に他人に同情すべきではない、ということでもあります。<br /> <br /> 同情、という言葉だけでなく、相手に対する理解、ということでもその人の意識のレベル・覚醒の度合いによっては割と同じお話になります。<br /> <br /> 状況的に同情というか相手のことを理解しなくてはいけない場面がこの世には多々あって、時にはその一時の同情をしたことによってその後の何年も自身のオーラに影響を与えてメンタルを壊し、逆に、相手が元気になって健康になる、ということも起きます。<br /> <br /> エネルギーが枯渇していて他人のエネルギーに頼っている人、また、相手を操作しなければ自身が生きられないような骸骨あるいはヴァンパイアのような人生を送っている人がこの世界には多数いて、例えば、仕事の上司などで部下からエネルギーを貰うことで生活しているような人も多数います。<br /> <br /> そのような場合、奪っている側の上司は割と健康で、メンタルを壊すのは部下の方になります。出世するのも上司で、部下を使い捨てにすることで昇進してゆくわけですね。<br /> <br /> パッと見た目は上司の方が元気に見えたり部下がメンタルおかしく感じたりもしますのでこのような場合に何が起きているかを見抜くのは人生経験が必要で、それも、ただ年寄りならば理解できるというわけでもなく、何回も何十回も何百回も転生を繰り返さなければこのようなことは見抜けないように思います。<br /> <br /> ですから、世間の一般社会ではこのような場合に上司が一見すると立派に見えて部下がメンタルおかしく見えたりしますけど、実際には上司のスピリチュアルがかなり低くて部下の方が遥かに高い、なんてことも普通に沢山あるわけです。<br /> <br /> 世間ではオーラに対する理解が薄いのでこのようなことになるわけですね。<br /> <br /> 会社は「辞めてはいけない」なんていう考え方は文化的な歴史的なところもありますけど、今の現代における同様の考えを維持しているのはある程度はこのようにエネルギーを奪いたい人、例えば上司が安易に部下を逃げられないようにすることでエネルギーの供給源を保つ、という意味合いもあったりするわけです。<br /> <br /> スピリチュアルな理解がある人ならば、エネルギーを奪うような人が上司の下にいるのならば安易に同情しませんけど、上司からすると「協調性がない」とか言って評価を下げて協調を強要して、そのことで、意識的に行っているのか無意識的なのかどうかはそれぞれですけど同情というレベルにおいてエネルギーを均一化させてエネルギーを奪おうとしている、という構図があるわけです。<br /> <br /> 最近の若い者は協調性がないとか言われていますけど、私からすればそれは健全になったということで、エネルギーを奪いたい年寄りが騒いでいるだけ、という面もあると思います。<br /> <br /> 日本は他人に対する同情が度を越しておりますので、同情を誘って他人から奪うような生き方をする人にエネルギーを与えない、というレッスンが日本全体に与えられているような気が致します。<br /> <br /> 重要なのは2点あって、1つは自身のエネルギーを高めること。2つ目は他人に安易にエネルギーを奪わせないこと、です。<br /> <br /> 瞑想など精神的訓練をすることで同情の度合いは格段に減って、自立し、より高いレベルにおける愛による一体感を味わうようになります。そうして、同情というレベルにおいては選択的に行うようになります。<br /> <br /> Wed, 24 Mar 2021 00:00:00 +0900 心を一点に集中させるのは間違っているという教え https://w-jp.net/2021/2290/ <br /> 流派によっては心を一点に集中させるのは間違っている、と教えています。<br /> <br /> これはこれでよく理解できて、理屈としては正しくて、サマーディに近づいたレベルであればそれは正しくて、あるいは、素質がそれなりにあったり、現代社会のように雑多な社会でなければきっとそれは可能なのだと思います。<br /> <br /> 心がさまよい出ていかないように、すべての思考を遠ざけ、寂静の境地や楽にとどまろうと、心を一点に集中するのも間違いだということをはっき知っておく必要がある。この「集中」そのものも、またもうひとつ別の思考にほかならないからだ。心をリラックスさせ、ただ、気がそれたり忘れてしまったりせずに、自分の真の境地そのものを目覚めさせたままにたもち、いかなり思考にも支配されないようにするのだ。本当にリラックスしているとき、心はあるがままの自然な状態にある。「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」<br /> <br /> これはこれで一貫性があって、本質で言えばこれは正しいと思います。<br /> <br /> しかし、本質では正しくあっても、特に最初はこれは実行が困難だと私は思っていますし、著者も同様のことを認めています。<br /> <br /> 修行を始めたばかりの時には、長い時間、こうやって気が散らないようにしながら、思考をあるがままに認めてやるのは困難だ。(中略)みずからの心の状態にとどまり、寂静な境地や思考の波の動きがあらわれてくるまま、一瞬一瞬を味わいつづける。それ以外に修習はない。あるがままの自己を知り抜き、自分自身の真のリクパの境地にとどまりつづけるのだ。それ以外に、何か非常にすばらしい経験や輝きを追い求める必要はない。「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」<br /> <br /> これはこれで正しくて、こうしてグル(あるいはラマ)に言われたらそのまま納得するしかないですけど、実際にはそれは割と高いレベルで物事を語っているように私には思えるのです。<br /> <br /> リクパの境地はいわゆるサマーディを短期間でも行えるというレベルですから、リクパの境地に留まるのが困難な人であれば確かにこの理屈で合っていますけど、リクパが出てきていない人であればこれは困難なわけです。こういうことを言うと、リクパの境地は誰にでも備わっているから誰でも可能、という声が聞こえてきた気がしますけど、たしかにそれはそうですけど一般人のリクパの境地はとても弱くて、一瞬しか続かないわけです。<br /> <br /> きっと近くにグルがいて一緒に生活するような環境ではそれが可能なのかもしれません。よく、精神修行にはグル(精神的な教師)が必要と言われていますけど、グルがいる環境であればそれはそれで正しいように思います。<br /> <br /> 特に初心者は、この覚醒した意識を常に保ち続けるのはとてつもなく困難です。簡単に挫折してしまうほど困難なわけです。グルが近くにいない環境であれば特にそうです。<br /> <br /> 一方で、グルがいたとしてもいなかったとしても、これらの説明を誤解して解釈してしまう可能性もあります。観察と言われると、これらで言っているリクパの境地とは五感を超えているのに対し、説明だけを読むと五感、特に皮膚の感覚を観察することがリクパの境地であるかのように勘違いをしてしまう可能性もそれなりにあります。<br /> <br /> 皮膚の観察をすることや、特に鼻のあたりの呼吸を観察すること、あるいは、眉間に集中することなどは五感の観察あるいは心の観察、心の集中という観点からすると大差なくてどれも全て五感を用いた心の集中であるのですが、皮膚の観察をしているとリクパの境地でサマーディ状態かのような勘違いをしてしまうわけですよね。特にグルがいない環境ではそうです。<br /> <br /> ですから、私としては、上記の説明はとても正しいのですが、言葉の説明を聞くだけではとても勘違いしてしまうので、特に注意が必要なお話かな、とも思います。<br /> <br /> それよりも、誤解も少なくて実行も可能である「集中瞑想」の方がその前段階の入口として瞑想手法として優れていると思っています。<br /> <br /> ここで、一見すると矛盾したことを言っているように見えるかもしれませんけど、ある意味、この集中瞑想というのは確かに最終的なサマーディの状態においては集中というのは不要ですので、上記の説明のように「集中瞑想というのは間違っている」とも言えるのですが、そうは言いましても上に書きましたようにこのお話はとても誤解が生じやすいことですし、ましてや、いきなりリクパを使ったサマーディの練習なんて普通の人には実行がとてつもなく困難なわけです。<br /> <br /> それであれば、集中瞑想から始めて「静寂の境地」くらいまで達してその後やがてリクパが出てきたところで上のようにサマーディに遷移すれば困難も少ないわけで、ただ、最初に注意事項として集中瞑想がゴールではないということだけ理解しておけば十分かな、と思うわけです。<br /> <br /> 上記のように色々と説明を聞いてしまうとまるで集中瞑想が悪者かのように解釈してしまうかもしれませんけど、実際のところ多くの流派で集中瞑想は初段階の瞑想として広く用いられていますし、観察瞑想と言っているところですらその内容を見ると特に最初は単なる集中瞑想が実態だったりします。その説明として矛盾しないように集中瞑想を否定していたりしますけど、実態を見れば集中瞑想でしかなくて、理屈を合わせるために集中瞑想を否定して観察瞑想と言っているだけだったりします。<br /> <br /> これは弟子たちの理解不足にも問題があるのかもしれませんけど、最初は集中瞑想で全く問題ないわけです。そもそもサマーディというレベルに達していないのにサマーディに入っていく説明で集中瞑想を否定しているだけなのに、最初から集中瞑想が不要かのように弟子たちが理解してしまう、あるいは、瞑想の先生と言われる立場であっても割とこのあたりを理解していないことも多々あるように思えるのですよね。<br /> <br /> 瞑想とは心の中で行うものですから、このあたりを理解せずとも一応コースを受ければ瞑想の先生にもなれてしまいますけど、実際にサマーディに達したらこのあたりのことはすっきり理解できるのですけど、そこに達しなければ集中瞑想を否定しまうような誤解が生じてしまうのだと思います。<br /> <br /> そうは言いましても、今の私の感覚からすれば集中瞑想はどうでもよくて、リクパのサマーディを日常生活で保つことにだけ最近は興味がありますから、最初に引用した説明の方がしっくりきているのは事実です。<br /> <br /> ただ、過去の記憶を辿ってみると集中瞑想も有用だった時期もありますので、その時の記憶を元にお話をしていますが、たしかに、例えば生まれながらにそれなりの境地で生まれたら最初に引用したように集中瞑想を全否定してしまうのも致し方ないのかな・・・ とも思います。人によっては、特に偉大なグルはそのような場合も多いですしね。<br /> <br /> ですけど、凡人はいきなりそのレベルにありませんので、集中瞑想から始めるべきだと思うわけです。<br /> <br /> 私は割と好き勝手にやっているのでこういうこと言えますけど、流派に属していると集中瞑想が絶対だったり、観察瞑想が絶対だったりして、堅苦しい面もあると思います。そこはまあ、個人的に思うのは流派のやり方は適当に聞き流しておいて自分の理解を元にやるのがいいと思いますけど、そこは人それぞれかと思いますのでそれもまた好きにすればいいと思います。<br /> <br /> 実際、上記の引用元であるゾクチェンでは、サマーディに入るための修行というものも存在していて、必ずしも上記の通り弟子に過酷な現実を叩きつけるだけではないように思えます。そこはきっと流派やグル(ラマ)の考え方、やり方に依存していて、上記のように考えるグルもいるということだと思います。<br /> <br /> ですから、上を読んですぐに「そうか。集中瞑想は間違っているのか」と早とちりしないことが肝心だと思います。<br /> <br /> 繰り返しになりますけど、今となっては集中瞑想はちょっと気持ち悪くて不快感すら感じるくらいになっており、もともと停止していない心というものを無理やり止めたり一点集中して雑念が湧きにくい状況にするのは今は違和感しかないのですが、それでも、雑念が多くて雑念に振り回されている時は集中瞑想で心を一時的に止める瞑想も有効だったと思います。それの極地が「無」の瞑想なわけですけれども、そこで留まることをせずに一時的な休息であるのならば十分に効果を発揮できたわけです。<br /> <br /> Sun, 14 Mar 2021 00:00:00 +0900 音楽で他人をコントロールしようとしている人がそれなりにいることに気付く必要性 https://w-jp.net/2021/2289/ <br /> 良い音楽も沢山ありますが、その一方で、他人をコントロールしようとしている意図がある音楽も沢山ありますので注意が必要です。とは言いましても、音楽家の本人たちは好きに表現しているだけのことも多くありますし、プロヂュースの過程で本人の意図とは裏腹にそのような意図が乗ってしまう場合もあるかと思いますので、これは個人への指摘としてではなく、現実としてそのような音楽が沢山ありますのでそれに気付きましょう、ということです。<br /> <br /> スピリチュアルの道は自由が根本にありますから、他人をコントロールしたいと思って生きている人のことも否定しませんし、そのように他人を操作して利益を得たりすることを勧めはしませんけど、その人が好きでそのような選択をして他人をコントロールする人生を送っているのであれば好きにすればいい、という立場を取っています。それもまた、本人の自由なのです。<br /> <br /> 他人をコントロールするような人生を勧めはしませんし、それと同時に、私に対しての操作に対しては拒否をします。他人をコントロールしようとする人は好きにしてくれて構わないですけど、私の方としても、それを受け入れる自由もあれば拒否する自由もあるわけです。私は他人からコントロールされる人生とは無縁でいたいと思っておりますので、拒否するということです。<br /> <br /> そうは言いましても、いわゆる高次元、私のいわゆるハイヤーセルフあるいはグループソウルとしての意図からの操作は私に対して行われていてそれは受け入れますけど、それは他人からの操作ではなくいわゆる高次元からの私自身からの自分自身に対する操作ですのでそれは別物なわけです。<br /> <br /> ここで言ってるのは、この人間界において同じレベルの人間同士における操作と操作される者という関係とは私はなるべく無縁でいたい、ということです。<br /> <br /> その操作は様々なところに隠れていて、わかりやすい状況として他人を説得して操作する場合や、脅して動かす場合などもありますけど、わかりにくいのは音楽で他人をコントロールする場合です。<br /> <br /> 一般的には音楽とはいいものだと言われていて、確かに良い音楽も沢山ありますけど、他人を操作して同一の行動を取らせようとする音楽も多々あるということです。<br /> <br /> スピリチュアルな立場としては、その意図に気付くことが重要で、音楽を聞いた時にそこに乗っている意図をなるべく読み取ることで特定の音楽に同調しないよう気をつけることができます。<br /> <br /> それは、人と話す時にその裏を読み取るということと同意ですので、人の気持を読み取れる人は音楽の奥に乗っている意図もそれなりに読み取れる素地はありますけど、音楽の場合はもっと微妙で、メロディや歌詞および抑揚などで芸術的に歌い上げたり演奏している場合はその奥底にあるコントロールする意図をなかなか見抜けない場合もあるわけです。<br /> <br /> 一見すると素晴らしい音楽で、確かに純粋に素晴らしい音楽もありますけど、その音楽自身にコントロールが隠されている場合もありますし、音楽自身は純粋だけれどもその音楽が使われている場面や前後の表現でコントロールしようとしている場合もあります。後者の場合でも、団体の集合意識でコントロールの意識が音楽に乗ってくると元々音楽自身が純粋でもいつの間にかその音楽にコントロールの意図が染み付く、という場合もあります。<br /> <br /> ですので、最初は良い音楽と思っていても、時間が経つにつれて集合意識が書き換わってその音楽にコントロールの機能が付け加わる場合があるので注意が必要です。<br /> <br /> これは、音楽を楽しむのがいけないと言っているのではなくて、純粋な音楽を邪悪な意図で利用しようとしている人がいますので注意しましょう、ということです。音楽は音楽で楽しむのは良いことでありますけど、音楽を使ってコントロールしようとしている人が一定数いますので、それに注意しないとスピリチュアルから離れて行っていつのまにか他人にコントロールされる人生を送ることになりますよ、それでもいいのですか、というお話です。<br /> <br /> この世界は割と残酷で、罠にはまったら当分抜け出せない、なんてこともよくありますからね。見えない蜘蛛の巣がそこら中に張り巡らされていて、捕まったらずっと長い間、他人のコントロールされ続ける、なんてのもおくあるお話です。<br /> <br /> 他人は好きにすればいいとは思っていますけど、その好きにすればいいというのは個人の自由意志で好きにすればいいというお話であって、他人にコントロールされる人生は自分の自由意志を使っていない人生ですので、それはやめた方がいいと思うわけです。<br /> <br /> べつにこれは「見抜かなくてはならない」というお話ではなくて、スピリチュアルやってるなら見抜いた方がいいんじゃないの、というくらいのお話です。<br /> <br /> 個人的には、こうした種類の影響からかなり離れることができたと実感したのはナーダ音が聞こえるようになってナーダ音があれば普段聞く音楽はいらなくなった頃からコントロールする系統の音楽から自由になれた気が致します。これは、地味ですけど個人的にはかなり大きな変化だったように思います。<br /> <br /> Sat, 13 Mar 2021 00:00:00 +0900 男女は不平等なのがが当たり前 https://w-jp.net/2021/2286/ <br /> そもそも人は不平等です。男女では体の作りがそもそも違いますし、適した役割も異なります。<br /> <br /> 人間として転生した経験が少ない人は女として人生ゲームを始めて、ゲームの設定が「イージー」で開始したりするわけです。専業主婦で幸せな家庭でそのまま亡くなる、という人も意外に多くいらっしゃいます。<br /> <br /> そして、女としてなにかやりたくて生まれる場合もあるでしょうし、男で何かしたいことがあるから男で生まれる場合もあります。<br /> <br /> 男に適した仕事もありますし、女に適した仕事もあります。<br /> <br /> そもそもエネルギーが男女で全然違いますよね。エネルギーの違いがそのまま仕事の違いになるのであって、適していない仕事をしたら不適格になります。それが違和感として現れたりします。<br /> <br /> 西洋で始まった男女平等という考え方を厳密に適用したら女も力仕事をすべきということになりますし、女の負担も50%で、女の義務も50%で、女が専業主婦なんておかしい、ということにもなりますし、女を助けなくてもいい、ということにもなります。<br /> <br /> ですけど、繰り返しになりますけど、人生ゲームがイージー設定の場合は女性として生まれて、家庭もそれなりに裕福で、お金にもさほど困らず、贅沢はできないかもしれませんが普通に生まれて普通に亡くなっていったりするわけです。<br /> <br /> ですけど、男女平等だから女も働かないといけない、みたいなお話になってくるとイージー設定が亡くなっていって、人間としての経験が少ないのにいきなりノーマル難易度設定で始まったら難しすぎて詰まってしまったりするかもしれません。<br /> <br /> 人生経験が少なくて男で生まれる場合ももちろんあって、家庭が裕福だったりしますけど、それもまあ、その時々ですので必ずしもそうとは言えませんけど、それなりに考慮されたりします。<br /> <br /> ですがまあ、あまり考えなしに生まれる場合はとりあえず生まれてみて、生まれた後に「あ、失敗だった」ってときもあるにはあります。<br /> <br /> どちらにせよ、そこに人生の難易度の違いがあって、助ける側と助けられる側が存在するわけですね。<br /> <br /> 例えば、財政面で言えば男が女を助ける、ということにもなるでしょうけど、子育てとか家事に関しては女が男を助ける、という構図だったわけです。それは分業ということでもありますけど、財政面でも子育てでも家事でも今は50%づつ、みたいなことが言われていますけど、専業の方が上達もするでしょうし、何より本人たちが楽だと思うのですけどね。なぜにわざわざ分業で50%づつして、自分の不得意なこともしなくてはいけないのか意味がわからないです。それなら最初から結婚なんてしなければいいと思いますけど。<br /> <br /> そもそもこれは男女の違いというお話ではなくて、家族であっても他人だから助けない、という根本的な態度が根底にあるように私には思えます。<br /> <br /> というのも、男女平等という皮をかぶりながら、実際のところ、「他人は助けません」と言っているのに等しいと私には思えるからです。自立だとか尊厳だとかいろいろと男女平等のお話で言われていますけど、それは仕事や役割が50%分担というお話ではなくて、単に、専業であったとしても自立だとか尊厳とかは満たせるわけで、男女平等というお話が何故に分担50%というお話になっているのか、そこの不思議を見抜く必要があると思います。<br /> <br /> 結局、自分のことしか考えない、というお話が西洋の根底にあって、それ故に男女平等というお話になっていると思えるのですよね。<br /> <br /> 昔は女で生まれれば割とイージーモードで、それのどこが悪いのでしょう? と私なんかには思えるのですけど。<br /> 女で生まれて結婚できないと困窮したりもしますけど、それは男で生まれたって似たようなものですし、困窮と男女平等とを並べない方がいいと思いますが。<br /> <br /> 男で生まれるにしても女で生まれるにしても、慣れてくると生まれて来る前に大体の計画をたてて、どのような人生にするのか決めてから生まれてきます。ですけど、初心者の場合ですと適当に決めるか何も決めずになんとなく生まれて、それで失敗して困窮したりしますけど、それは初心者の場合あるいは不注意だったのが理由ですので、それはもう、どうしようもありませんね。<br /> <br /> あるいは、計画で困窮を体験したりする場合もありますけど、それは割と少ない気が致します。あるいは、自分ではあまり意識しなくともそれが勉強だからと言われて困窮を経験したりする人もいるかもしれません。<br /> <br /> どちらにせよ、今の男女平等で言われている女の貧困問題は男女平等で解決するのではなく、それの逆で、男女にしても男だろうと女だろうと関係なくて、人としてそもそも不平等で、経験も違うし役割も違っていて、それ故に、男女平等だから自助努力で50%を目指すのではなくて、そもそも人として違うし財産も役割も得意なことも違うので、それ故に強き者が弱き者を助ける、というところに行き着かないとこの世界の問題は解決しないと思うわけです。<br /> <br /> 自助努力で自分が独立した存在で男女であっても平等という考えから今の男女平等の50%負担というお話になりますけど、そもそも負担なんてほとんどせずに受け取るだけの人がいてもいいわけです。たくさん持っている人は与え続けてもいいわけです。平たくいえば、強き人が弱き人を助ける、というお話で、金銭面のお話もあるでしょうし、女が適している役割であればもちろん女が男を助ける、みたいなお話もあります。<br /> <br /> そもそも人が不平等なのですから、男女平等50%みたいなお話に飛びつかない方がいいと思いますけどね。<br /> <br /> Wed, 10 Mar 2021 00:00:00 +0900 事故するのは運命なのか? https://w-jp.net/2021/2285/ <br /> スピリチュアルではよく運命論が言われていて、「自分で決めていたのです」みたいなお話がありますけど、確かにそのように決めてそうなった場合もあれば、本当にたまたま事故する場合もあります。<br /> <br /> それは時々ですので、それぞれの場合を見てみないとわかりません。<br /> <br /> 予定通りに事故する場合もありますし、予定はなかったけれども何らかの理由があって事故することを選ぶ場合もありますし、一方で、予定にはなかったけれども偶然に事故してしまう場合もあります。<br /> <br /> それぞれの場合において、顕在意識がその理由を知ることもあれば知らないこともあります。<br /> <br /> ですから、上記の例で言うと3通り×2通り=6通りのパターンがあるわけです。<br /> <br /> 予定通り事故して顕在意識でそれと分かる場合と、わからない場合。<br /> 他の場合にしても同様に顕在意識でそれと分かる場合と、わからない場合があるわけです。<br /> <br /> ですから、顕在意識でそれとわからなかった場合にどれかを判断するのは困難で、それの時にスピリチュアルな人がしがちなのが運命論や「決められていたこと」と判断してしまったりするわけですが、わからない場合には「わからない」と受け止めるべきであって、運命論に結びつけるべきではないのですよね。<br /> <br /> 色々な理由がありますし、実際、その理由が1つとも限らないわけです。とは言っても大体は主要な理由は1つですけど、複雑な場合だってあります。<br /> <br /> ミッション失敗で想定外に事故してしまう場合もありますしね。上の場合だけではありません。それぞれです。<br /> <br /> Sun, 07 Mar 2021 00:00:00 +0900 六本木地域の邪気 https://w-jp.net/2021/2284/ <br /> 先日、都内を自転車で徘徊していたところ、六本木地区の邪気を強く感じました。<br /> <br /> 昔は山手線の中は割と邪気に満ちているところが多かったように思いますが特にコロナの後はその邪気が弱まっていて、コロナも混乱の一方で土地に対しては良い効果もあるのだなと思っていたのですが、それと直接的関係があるのかはわかりませんが六本木の地域は以前よりも邪気が増したように思います。<br /> <br /> 以前は六本木の地域は割とマシで、山手線の内側の場所としてはぼちぼち普通のオーラがありましたけど、先日行ったら、東京ミッドタウンのあたりが邪気に包まれていました。<br /> <br /> そのエリアだけが異様な雰囲気になっていて、調査と興味本位を含めてミッドタウンに入ってみたところ、急に視界がぼやけてきて呼吸が乱れてきました。<br /> <br /> 急に、少し風邪を引いたみたいになって鼻水が出てきます。あまりにも急です。<br /> <br /> まあ、これは、ハウスダストとか壁に使われている薬品や香料が原因だったりしますのでたまたまの可能性もありますけど、コロナの状況でお客もそれほど多くありませんし、改装された様子もなさそうです。コロナのために消毒はしているかもしれませんけど、消毒は他のビルだってしているはずです。ここだけ消毒が違う、ということはないとは思いますが。<br /> <br /> あまりにも鼻水が出ますし目もシバシバしてきましたので花粉症かと思ってトイレで鏡を確認してみたところ、最近にしては珍しく目が少し充血していました。<br /> <br /> これは呼吸が乱れて邪気を感じている時によくあることで、これ以上ここにいるとやばいと思ってミッドタウンを出ました。<br /> <br /> 周囲の人々を観察してみるとそれほど邪気にやられているという感じでもなく、何なのでしょうかね。<br /> <br /> 私がたまたま邪気にあたっただけ、という可能性もあります。<br /> <br /> その後、自転車で家に帰る途中、ふと肩が硬くなっていることに気がついて、ひょっとしたら取り憑かれているのではと思って、右肩(死霊は右肩につきます)のあたりをオーラの手で掴んで引き抜いてみたところ、「子泣き爺」のようなものが出てきました。こわっ!<br /> <br /> 子泣きじじい、と言えばそうですけど、昆虫のサナギに人の顔がついていて、その周囲からツルのようなものがいくつも出ていて私の体の周囲に取り憑いています。これ、人間なのですかね? 人間と昆虫が合体したもののようにも見えますけど、人の怨念のようにも見えます。<br /> <br /> このコロナ渦ですし、六本木地域で経済的に困窮して何かを呪った時の怨念がミッドタウンを徘徊していて、それが取り憑いてきた、と考えるのが理にかなっています。そんな気がします。<br /> <br /> 自転車をこいでいましたので、それを引き抜いた後に光の剣のようなものでくっつているツルを切って引き離して、オーラの布というかオーラの包帯のようなもので包んでポイッと道に捨てました。その後はどうなったのかはわかりません。消滅させたほうが良かったのかもしれませんけど、もともと何者なのかもよくわかりませんしね。<br /> <br /> その後、体にまだ少しついているツルの枝のようなものをポイポイっと掴んでそれも道に捨てました。<br /> <br /> 自動車でたまたまその道を走っていてその怨念を拾ってしまう人もいるかもしれないですけど、それは私としても同じことですし。一応はオーラの包帯で包んでありますのでしばらくは平気ですけど。<br /> <br /> 自分のオーラが強くなってきて、特に創造・破壊・維持の公の意識が出てきてからは邪気にあまり左右されなくなってきて、都内のこうした邪気が強い場所でも体調を崩すことはほとんどなくなってきたのですけど、今回は久々に多調を崩すくらい邪気にやられました。<br /> <br /> どうやら、これは程度問題で、邪気がかなり強ければやはりやられてしまう、ということのようですね。<br /> <br /> それにしても、六本木のミッドタウンを徘徊して思ったのが、以前は六本木であっても普通の一般人もそこらに歩いていたのに、最近は綺麗な新品の服を来ている人と外国人ばかりが目に付きましたね。コロナ渦で近所の人しか来ないのかもしれないです。私は自転車用のちょっと古いアウトドア服だったので浮いていたかも。以前は一般人も多かったので服の違いなんて気にならなかったですけど、今はそのように綺麗な服を着た人ばかりで私が多くの人と違う感じだったので目立って怨霊が目をつけた、という可能性はあります。<br /> <br /> 怨霊とは言っても普通の人の感覚とそう違わなくて、なんとなくそこらをうろついていて、目立つものがあればそれに惹かれるわけです。そうしてターゲットを見つけたら取り憑くわけですけれども、邪気のあるところで目立つ行動をしていると取り憑かれる可能性も増えるわけです。<br /> <br /> その時、自分のオーラが強ければ相手が引き下がって取り憑かなかったりしますけど、邪気の方が強ければ普通に取り憑いてきます。自分の体調によっても自分のオーラは変わりますし、一概には言えないですけど基本はそうです。<br /> <br /> それと合わせて、以前は気になりませんでしたけど六本木を改めて歩いてみると「自分の地位を保つ」意識が充満していて息苦しいですね。コロナ渦で遠方から来ている人が少なくて近所の人が多いので六本木の人のオーラが純粋にわかったのかもしれません。綺麗な服で着飾って良い家に住んで綺麗な嫁を囲うというステータスを守っている人がそこら中に歩いていて、ミッドタウンで見るカップルなんてほとんどそんな感じで、なんじゃこりゃ? と思いました。ああいうところが邪気に覆われているということは、やっぱり嫉妬から来た怨念だったのですかねえ。そんな感じがしました。嫉妬って恐ろしいですね。となると、六本木に住むというのはそのような人に囲まれて住むということで、私はそういうのは微妙に感じてしまいます。<br /> <br /> Sun, 07 Mar 2021 00:00:00 +0900 陰謀論とかディープステートみたいなお話には関わらない方が良い https://w-jp.net/2021/2283/ <br /> 陰謀論やディープステート(影の政府)みたいなお話は世界を支配したい人間が混乱を目的として創作したわけです。<br /> 少なくとも、一般人であれば基本的にはこのようなお話には関わらない方が良いと思います。あまり関係のないことですから。<br /> <br /> 夢や瞑想で見たお話ですので本当のことかはわかりませんが昔から割と高次の存在が地球の政治や支配に関与してきて、いわゆる神界だとか言われている階層で政治や平和についての話し合いがなされた上で誰かが地上に転生をして王族になって地球を治めてきました。<br /> <br /> それは、地球で最初から進化を遂げた魂というよりはむしろ地球外からやってきた高次の存在であるわけで、地球で育った魂というのは動物から進化した魂でありますから、昔はもっと猿みたいに知能がなかったわけですよね。今でこそ世界的に多少の教育はしていますけれども、そのように地球育ちの魂は基本は猿なわけです。ですから理論的・論理的なお話はわかっても倫理的なところが理解できないのでルール以外のことはよくわからないという猿みたいなお話が出てくるわけです。<br /> <br /> もともとは割と高次の存在だったり地球外から転生してきた存在が地上を治めていたわけですけれども、次第に、そのように猿から進化した魂が地上の支配をし始めるわけですよね。<br /> <br /> 最初は暴力で奪ったり、最近は選挙という方法で小賢しく実権を奪ったりします。<br /> <br /> 高次の存在は地球外のことをわかっていて平和を求めているわけですけれども、地球で進化した魂は根本のところは猿ですから欲望ばかりが先に立つわけですよね。<br /> <br /> 世界中で市民革命とか言って王族を悪者にして民主主義とか言って人民が人民を治めるだとか権力者に対抗するだとか言って民主主義が良いものだと宣伝されていますけど、民主主義にも良い悪いがあるし、王政であっても良い悪いがあるわけです。<br /> <br /> 民主主義が良いものだと宣伝した上で民主主義という仕組みを使って好き放題しているのが現状なわけで、宣伝しさえすれば民衆はそう思い込んでしまう、という教育の効果も出ているわけです。<br /> <br /> それは、もともとは高次の存在が地上を治めていたものを地球で成長した猿が奪い取って、それを正当化している、という構図なわけです。<br /> <br /> ですから、陰謀論とかディープステートのお話は現実とちょっと違っていて、現実はというと、実権を奪い取った猿が昔のように高次の存在に権力を戻したくないが故に闇の政府だとかアヌンナキだとか言う悪い宇宙人の関与を持ち出して悪の組織が地上を支配しているだとかいう陰謀論を広めて現状の体制を否定しつつも実際には自分たちの権力を強めるために利用しているわけです。分断工作と言いましょうか。現実をよくわからないように情報撹乱して混乱させているわけですね。<br /> <br /> 確かに、宇宙から来た魂でもそれほど程度の高くない魂もいますけど、それでも、地球で猿から進化した暴力的な魂に比べればよほど道理をわきまえていると思います。陰謀論の方々が悪者にしているアヌンナキだってそうです。<br /> <br /> 地上に生まれている権力のある魂たちの中には宇宙由来の人達が大勢いて、地球の人々のために働いていたりします。<br /> <br /> 一方で、欲望の塊である猿がある程度の権力を持っていて、市民革命や民主主義というシステムで得た権力を離したくない、というのが現実なのですよね。<br /> <br /> 絶対王政や民主主義というのはそれぞれイメージがありますけど、現実にはちょっと違っていて、絶対王政に悪いイメージがあるのは現代人の教育によるもので、現実には絶対王政であっても良い王様がいてくれれば平和なわけです。一方で、悪い王様がいると市民は困ったりしますけどそうは言っても堅固なシステムのある国家であれば王様が多少悪くてもそうそう悪いことはできないですし自浄効果も働くわけです。ローマでは困った皇帝がいてもシステムは盤石でしたし、タイの王政はうまく動いていますよね。日本の天皇制だってそうです。<br /> <br /> 王政を転覆させたいという人の根本には、猿から進化した地球由来の魂が欲望のままに地上を支配したい、という願望が横たわっています。それを民主主義だとか権力を悪者にすることでごまかしているわけですよね。どちらにせよ地上を治める人がいてその人は権力を持ってはいますから誰がなろうとも権力を持つ人はいるわけで、その人に徳があるかどうかだけが問題なわけです。その時、システムとして王政がいいのか民主主義がいいのかはあまり重要ではなくて、どのような人が治めているかの方が重要なわけです。<br /> <br /> 個人的には、民衆は民主主義で代表を決めて自分たちのことは自分たちで治めて、王政として世襲制が続くようなシステムがいいと思っています。今の世界では王政は残っていても権力がありませんけど、割と対等な権力があるのが理想で、民衆だけに任せていたら欲望のままに決めてしまいますけど、王族が全体のためにその欲望を制御したり皆の利益になるように方向性を与えることで民衆の欲望を叶えつつ全体が良い方向に調整してゆけると思っています。今の世界はそんな感じになっていなくて民主主義で選ばれた人の中には地球由来の猿と高次の存在とか混ざっていて、選挙で選ばれるということは基本的には地球由来の猿の欲望の投票で決まるわけですから、なかなか高次の存在が関与しにくくなっているわけです。王族があればそこに直接高次の存在が転生してきて政治に関与できますから、そのように苗床としての王族は必要だと思うわけです。<br /> <br /> ですけど、欲望のままに地上を支配したい人たちからするとそのような王族は邪魔で、民主主義なり何なりの仕組みを良いものだと宣伝することで高次の存在の関与を妨害しているわけですよね。<br /> <br /> ディープステート(影の政府)みたいなものを宣伝して、悪い政府が背後にいるとか宣伝していますけど、それは地球で進化した猿が手に入れた権力を高次の存在に返したくないから何か悪者のイメージを作り出すことで自分たちの欲望を隠しつつ混乱させて自分たちの方に矛先が向かないようにしているわけです。<br /> <br /> 昔から、基本的にはこの世界は高次の存在である地球外から来た存在に統治されていて、支配というと言葉は悪いですけど猿が成長できるように導いてきたわけです。それが、猿から進化した魂が小賢しい知恵をつけてきて倫理観が足りない猿のような人間が暴力的な市民革命などで王政を倒し民主主義というシステムが正しいと宣伝し、猿たち自身の欲望を満たせるシステムを構築してきたのが現代です。<br /> <br /> そのような状況でありますから、高次の存在が何を考えているかというと、昔のように王政を作って地球の人々を良い方向に導きたい、というのが昔からの希望としてあるわけです。<br /> <br /> ですけど、そのような高次の存在の良い希望も現代の人々にとっては陰謀論やディープステートの悪巧みのように見えてしまうわけです。それこそが地球を今支配している小賢しい猿たちの狙っているところで、王政を悪者にすることで自分たちの欲望を叶え続けることができるシステムを未来永劫継続したいと思っているわけです。<br /> <br /> ですから、各所で世界のために尽力している人を陰謀論のディープステート側の人間だと悪者にしたりすることが起きてくるわけです。<br /> <br /> 実際、欲望まみれの人もいて、欲望まみれの人がディープステートだと言われていることもありますけど、その人は単に欲望にまみれた人であってディープステートではありません。というか、ディープステートなんて実態はないと思った方が良いです。<br /> <br /> ディープステートはないけれども、この世を欲望のままに思いのままにしたいという猿から進化した小賢しい魂たちがいて、そのような意味での影の政府・・・とまではいかないですけど、ある程度、世界を征服したいと思って活動している魂はいるにはいます。<br /> <br /> ですけど、その一方で、世界を良くしたいと思って活動している人も大勢いて、そのような良い意図を持った人と、欲望まみれの人とがごっちゃになって両方とも陰謀論のディープステート扱いされてしまっているわけで、そのような混乱は、現状の欲望のシステムを続けたい人々にとっては思うツボなわけです。<br /> <br /> ディープステートという実体はないけれどもこの世界を支配したいという人々はそれなりにいて実権も持っていて、一方で、この世を良くしたいと思っている人も大勢いて、高次の存在で転生している人も大勢いて、その両方とも、権力を持っていたり持っていなかったりしますので、陰謀論とかディープステートとかいうわかりのいい言葉ですっきりと切り分けできるものでもないわけです。<br /> <br /> 高次の存在であっても地上の欲望にまみれることもありますし、その後、目覚めることだってあります。地球で育った猿であっても良い方向に目覚めることだってありますし、欲望を強化することだってあります。<br /> <br /> まあ・・・、個人的には、そのような全てを受け入れているこの地球という環境そのものが素晴らしくて、多様性に満ちたドラマが繰り広げられている面白い時代だと思いますけどね。<br /> <br /> ですから、ディープステートみたいなわかりのいいお話ではなくて、もっと個人を見た方がいいと思いますよ。<br /> <br /> 例えばビル・ゲイツは陰謀論ではよく悪者にされていますけど、彼自身はいい意図を持っている魂ですけどお金を持つと悪い人がわらわらと寄ってきて絡め取られて身動きができなくなっていくわけです。財団だってあれだけ大規模になるとゲイツ自身がうまく動かせなくて、ゲイツ自身の意思とは異なった方向に資金が使われたりするわけです。ですから、もっと個別の事象をきちんと見ないと何が良くて何が悪いのかはよくわからなくて、この場合でいうとゲイツ自身は基本的には良い存在ですから、その周囲にたむろしている悪い存在をどうにか対処しないといけない、というお話になります。<br /> <br /> 陰謀論に乗せられてゲイツを悪者にしてしまうとゲイツがいなくなった後のゲイツ財団が欲望だらけの人の思いのままになってしまいますから、実はそれこそがゲイツを悪者にしたい人の目的だったりするわけです。<br /> <br /> 日本でも、有名どこが陰謀論とかディープステートとかのお話を宣伝して盛り上がっていたりもしていて、そういうお話は時代を示していて興味深い面もありますけど、上記のように個人をしっかりと見ているというよりはディープステートというストーリーに乗せて誰かを悪者にしているだけだったりしますので、陰謀論とかディープステートとかいうお話には基本的には関わらない方がいいと思います。<br /> <br /> 個人というのはちゃんと見ないとそうそう理解できませんし、ディープステートとか陰謀論とかは猿から進化した権力者が地上支配を継続させるために自分たちに目を向けさせないよう混乱させる道具だと思った方がいいと思います。<br /> <br /> 日本に目を向けますと、もともと高次の存在が多く転生していた支配者層であるお殿様や武士の階級が明治維新によってただの人にされてしまい、全て選挙を通さないといけなくなってしまいましたから、選挙を通すとなると一般人の欲望をより多く満たした人が選挙に勝つという構図になるわけで、大勢のためや長期的視点を持った政策がある人は選挙に通りにくいですし、欲望を満たすためだけに選挙に出る人がうまく宣伝をすることで大衆を操作することも可能になってしまったわけです。<br /> <br /> 外国の場合は革命が起きて王政が倒れて王族が一掃され民主主義という名の一般人が治める政府に置き換わったわけですけど、日本の場合も同様に、お殿様や武士の階級がなくなって民主主義という名の元に一般人が支配する国になってしまったわけです。<br /> <br /> そうは言っても高次の存在は政治になんとか入り込もうと努力していて、政治の世界が全て一般人の欲望だらけの世界かというとそうでもなくて、高次の魂を持った政治家もぼちぼちいらっしゃいますけど、なかなかやりにく状況であるわけです。<br /> <br /> 今のところ、宣伝の力によって民主主義が良いものとされていて、しかも、民主主義の根幹である選挙にしても宣伝でかなり左右できてしまう状況ですから、なかなか高次の存在の介入がしにくくなってきています。例えば、民衆を誘導するためにマスコミをつかって「誰も適任者がいない。誰も頼りにならない。この人しかいない」、みたいな世論誘導がなされて都知事が決まっていたりするわけです。実際のところ、それなりの適任者は色々といるわけですけれども、世論誘導で「誰も適任者がいないですね。もう仕方がないですね」というパターンが日本の場合は有効だとわかっていて、適任者がいたとしても無視するか揚げ足を取るなどして「やっぱり適任者は誰もいないですね」みたいな世論に誘導しているわけです。そうすることで民衆の投票する気力をそいだり、投票するにしてもマスコミが用意した「仕方がないから、この人にいれるしかないですね」みたいなパターンにはまってしまうわけです。こんなにわかりやすいパターンなのにいつまでも有効なのは、日本人は、どうしてしまったのでしょうかね? マスコミが誰かを当選させるために誘導するワンパターンが30年以上も前から延々と繰り返されているのに、どうしてこれを指摘しないのでしょうかね?<br /> <br /> まあ、そんな感じで、王族がいない状況というのは権力を持った一般人が好き放題できる状況なわけです。そんな民主主義であったとしても利用価値はあって、その時次第で有効な仕組みを使っていけばいいとは思うので、民主主義という仕組みを悪者にしているわけではなくて、民主主義のやり方が世論誘導と利益獲得に有効だからこそいまは権力を持った一般人が好き放題しているので、それを理解した上で、もっと上手に回る必要があると思うわけです。<br /> <br /> マスコミ誘導に対してもっと賢くなるということですね。<br /> <br /> ディープステートとか陰謀論みたいなお話と、「政治家にふさわしい人が誰もいない」みたいなお話は割と同列で、政治家にふさわしい人がいないわけないじゃないですか。 政治家にふさわしい人がいない、なんてのは陰謀論と同列でしかなくて、陰謀論をあざ笑っている人ですらも普通に「政治家に相応しい人がいなくて、投票したい人が誰もいない」なんてことを平気で言ったりしています。そのお話こそが陰謀論と似たようなお話なのに、そこに気がついていないのですよね。<br /> <br /> 高次の存在や、猿から進化した人であっても他人に尽くそうとしている人はそれなりにいて、そのような人を支持したり、評価したり、というのは絶対的に必要で、ただ単に陰謀論みたいなお話を持ってきて誰それがディープステートで悪者だとか言ってみたりしてもどうにもならないわけです。<br /> <br /> 宇宙の魂が転生する先の苗床としての貴族あるいは王族というのは有益で、たとえ今の世代が不順な猿であったとしても次世代にて宇宙の魂が転生できてうまく世代交代する可能性があるわけです。民主主義ですとそれがなかなかしにくくて欲望の猿の間で世代交代するという構図になりがちです。<br /> <br /> 日本の皇族はかなり解体されたものの一部が存続しており、日本の皇族の場合はそれなりにまだ昔ながらの形がかろうじて保たれてはいるものの必ずしも全員が高次の存在というわけでもなくて欲望の権化の猿が入り込もうとしているのを皇族側が防いでいる、という面もあったりするわけで、完全な形ではないにせよ、高次の存在が転生して来られる素地ができているわけです。猿から進化した魂であってもそれなりに役割を果たしている場合もありますので必ずしも猿だから悪いというわけではありませんけど、もともと宇宙から来た魂と地球で猿から進化した魂では根本が全然違いますよね。そのような高貴な魂を受け入れられる貴族あるいは王族というのは絶対的に必要で、そのようなシステムは世界を欲望のままに支配したい人々にとっては邪魔でしかなくて、貴族や王族を排除するために権威や支配者層を悪者にしてフラットな民主主義社会および資本主義社会という名の下の世界支配体制を確立することを目的にして陰謀論とかディープステートとかいうお話が宣伝されて広められているわけです。<br /> <br /> 繰り返しになりますけど民主主義や資本主義というシステムそのものが悪いわけでもなく逆にそれが良いというわけでもなくて単なるシステムであって、それを使う人の意図によっていかようにもなるわけです。それらのシステムが今は支配の方向に使われており、その世界を征服する目的のために陰謀論が用いられている、ということです。<br /> <br /> このような不順な意図で陰謀論はもともと始まったようですが、最近は本当のことが陰謀論として語られていることもあって、陰謀論と言っても色々ありすぎてよくわからない状況です。どちらにせよ、上に書きましたように陰謀論みたいな全体のわかりの良いお話ではなくて個別のお話ですから個人をきちんと見るべきだと思いますし、一つ一つ見ていかなければ本質はわからないものだと思います。<br /> <br /> Sat, 06 Mar 2021 00:00:00 +0900 サマーディに入るまでにはシャマタ(心の静止)は必要 https://w-jp.net/2021/2260/ <br /> サマーディにおいては心が動いていようが止まっていようが関係なく、いわゆるリクパ(心の本性)が自らの五感および心の動きを観察する状態になりますので特にシャマタ(心の静止)をする必要はありません。<br /> <br /> 心が動いていて考え事をしていようが雑念のようなものが出てこようがあるいは心が静止していようが違いはなく、心の本性(リクパ)がそれらを常に観察している状態にあります。<br /> <br /> ここで、説明のために一応は「観察」と言いましたけど、観察と言ってしまうと「見るもの」と「見られるもの」という区別があるように思えてしまいますけど、サマーディの状態においてはそのような区別はなくて、サマーディとは「不二の意識」とも言われるように、そのような区別のない意識状態にあるわけです。<br /> <br /> ですけど、そのようなサマーディの状態に入るまでは修行の一環としてシャマタ(心の静止)が必要になるわけです。<br /> <br /> これは、必ず必要というわけではなく、流派によってはこのシャマタ(心の静止)を行わないところもあるようです。<br /> <br /> ですが、多くの流派ではシャマタを経由してからサマーディに至る、ということになっています。<br /> <br /> サマーディという言葉の意味も流派によって色々あって、流派によってはサマーディを単なる手中と定義している流派(ヴェーダンタ派など)もありますが、多くのヨーガの流派やチベット仏教などではサマーディを不二の意識として定義していて、単なる集中ではないとしているところの方が多いと思います。<br /> <br /> そのような、不二の意識および心の本性(リクパ)が動いているという意味においてのサマーディであればその前段階としてシャマタ(心の静止)があるということです。(サマーディの定義が「集中」だとしている流派ではこのような位置付けは意味をなしません。)<br /> <br /> たしかに、サマーディの意識、不二の意識であれば心が動いていようが動いていまいが関係なくて、それこそが本質なのですが、修行方法としてシャマタという段階が伝統的に取り入れられてきたということです。<br /> <br /> 一見すると、サマーディの状態とシャマタの状態は矛盾して見えるかもしれませんけど、サマーディの状態からしてみたらシャマタしていようがしていまいが関係なくて同じですので、サマーディ側から見たらシャマタはあまり重要ではありません。シャマタがあってもいいしなくても問題ないわけです。<br /> <br /> ですから、サマーディ側からみたらシャマタとサマーディとは矛盾していません。<br /> <br /> ただ、シャマタ側からサマーディを見たら矛盾に見えるかもしれません。<br /> <br /> あるいは、サマーディを書物だけで理解している人はサマーディとシャマタに矛盾を感じるかも知れません。<br /> <br /> ですけど、上記の通り、サマーディからしてみたらシャマタがあろうがなかろうが大差なくて、ただ、それでも、まだサマーディに至っていない人がサマーディに至るためにはシャマタが助けになるということです。<br /> <br /> 流派に寄ってはシャマタをことなげに否定している流派もあるようですけど、私はそのあたりはよく理解できませんね。サマーディに達すればシャマタがあろうがなかろうが大差ないのですから、そんなシャマタなんかをことさら否定する必要すらないと思うのですが。<br /> <br /> ただ単に、シャマタが修行の助けになるなら使えばいい、というだけのお話です。<br /> <br /> 不思議なもので、世の中には意外にシャマタを否定する流派が多くて、しかもその一部はヒステリーになって否定したりするのが私にはさっぱり理解できませんけど、まあ、私はこんなふうに考えています。<br /> <br /> これは他人に意見をしてるということではなく、他人がどう考えようが何を信じようが自由だと思っていますから他人は他人の好きにすればよくて、シャマタが良くないと思うなら勝手にそう思えばいい、と思っています。自由にすればいいのです。<br /> <br /> ただ、そのような言説に惑わされてシャマタをしなくなってしまう人がいたら不幸ですのでたまにこうしてシャマタは必要ということを書いています。<br /> <br /> まあ、私が書いたところでどれだけ理解してもらえるかもわかりませんけどね。一応。<br /> <br /> Tue, 16 Feb 2021 00:00:00 +0900 宗教という言葉の集合無意識を書き換える https://w-jp.net/2021/2257/ <br /> 集合的無意識と呼ぶのか単に無意識と呼ぶのか全体意識と呼ぶのかは色々ですが、特に深く考えていない人が宗教と聞いた時に思い浮かぶ概念を書き換えることがミッションとして存在するようです。<br /> <br /> 今の日本は、宗教と聞くとなにか嫌なイメージを持つ人が一定数いますが、宗教という言葉に対する表層の意識を良いものに書き換えることが目的です。<br /> <br /> 例えば、宗教と聞くとヒステリーになったり、宗教なんて見たくもない、という意識を上書きするミッションのようです。<br /> <br /> 同様なものとして、瞑想と聞いた時にかつては一般的には変なものと思われていたのが最近は瞑想と言うとなにか良いイメージがある、というように印象が変わってきています。<br /> <br /> それと同様に、宗教に対してもイメージを書き換えるというミッションが存在しているようです。<br /> <br /> 私はもともと、宗教もスピリチュアルも一緒だと思っていますし、もっと言えば、何かを信じるという意味においては科学も宗教のようなものだと思っていますから、科学的という言葉と宗教的という言葉とスピリチュアル的という言葉の間には手法の違いこそあれどどれもさほど違わないと思っています。<br /> <br /> 科学にしても現実に重きをおきますし、宗教もスピリチュアルも実際には現実に重きをおきます。<br /> <br /> 宗教で思われている「信じなくてはならない」みたいな誤解は科学にもあって、ニュートン力学の時代においてはニュートン力学で説明できないことは存在しないということを「信じなくてはならない」という迷信の時代がありましたし、今でも唯物論という名で科学の冠を被った宗教が存在しています。<br /> <br /> 科学にせよ宗教にせよスピリチュアルにせよ、最初にあるのは現実であって、まず現実を受け入れてからどうしてだろう、とやるのが手順ですけど、間違った科学は「唯物論で説明できないことは存在しない」と言って現実を否定するのですよね。<br /> <br /> 同様に、間違った宗教やスピリチュアルも現実を否定します。<br /> <br /> それらの、科学と名乗ろうが宗教と名乗ろうがスピリチュアルと名乗ろうが現実を否定するようなものは所詮はその程度で、そのような間違いに関してはどれも同様ということで、それぞれ違った領域を扱っているだけで現実重視という点は共通ですし手法は違いますけどどれも大差ないと思えます。<br /> <br /> 本当に科学を分かっている人は、科学で説明できない現実を否定したりせずに、単に、科学では説明できない、と言うだけで現実を受け入れます。ですけど、実際は宗教になっている唯物論者は科学で説明できない現実は存在しないか間違っていると言って現実を否定するわけです。現実を否定するのであればそれは間違った考えであるわけですけど、科学の名の元に現実を否定するのですからたちがわるいです。同様に、現実を否定するような宗教や現実を否定する系のスピリチュアルもたちがわるいです。<br /> <br /> そのように、宗教というものに関する誤解があり、また、科学を名乗っていても宗教のような迷信がありますので、どちらを先に手を付けてもいいのですけど、とあるグループは宗教というものに対する集合意識を書き換えて宗教とはなんぞや、という常識を変えてゆくというミッションが動いているようです。<br /> <br /> これは、もっと大きく捉えれば「宗教の統一」という目的に繋がってくるようで、前にも書いたと思いますけど、こちらもミッションとして存在します。<br /> <br /> Wed, 10 Feb 2021 00:00:00 +0900 ツインソウルと「小さな宇宙人アミ」 https://w-jp.net/2021/2248/ <br /> 昔、流行った頃はさらっと読んだだけでしたが、近くの図書館にあるようなので久々に読もうと思って借りてみました。アミ本編は予約が70人とか並んでいたのでとりあえず借りたのは続編の「もどってきたアミ」ですけど、そこに、ツインソウルのお話が載っていましたね。<br /> <br /> 数十年前、ツインソウルが流行りでツインソウルが運命の相手だとかツインソウルと結婚する、みたいなお話がとにかくブームになっていたことを思い出しました。<br /> <br /> 一応は私はこれを読んでた気がしますが、このあたりはスルーしていたかもしれません。<br /> <br /> 今思えば、ツインソウルのブームを作ったきっかけがアミなのかもしれないですね。<br /> <br /> ですが、その後、ツインソウルのお話は下火で、最近は「ツインソウルなんてありません! ツインソウルなんて嘘です!」という風潮がスピリチュアル界でも定着したように思います。<br /> <br /> 今はほとんど誰もツインソウルなんて言い出さないですし、言ったところで「ああ、あの懐かしの(苦笑)」みたいな冷ややかな反応になる気も致します。<br /> <br /> ツインソウルという言葉に関しては私の感想も似たようなもので、「ああ、そんなものもあったね・・・」という感じですけど、実際のところ、私の場合に当てはめてみると、ツインどころか、ぱっと把握できるだけでも数十の類魂がいますので、「たったのツイン(2人。1組)だけですか?」というのが私の印象です。<br /> <br /> たったのツインだけなんてことがあるのですかね・・・? <br /> <br /> 本にするにあたって、わかりやすいようにツイン、としただけなのではないですかね・・・?<br /> <br /> 転生は、魂(幽体)がそのまま転生する場合と、一旦グループソウル(類魂)と一体になってから分霊を作って転生する場合がありますので、同じグループソウルの分霊同士を、そこだけ取り出してみるとツインソウルと言えなくもない、という程度のお話な気が致します。<br /> <br /> 私の場合、この意味におけるいわゆるツインソウルで結婚なんてしたことないですけどね・・・。そんなことしてどうするのでしょう? 目的がよく分かりませんね。 そもそも同じ時代に同じくらいの年齢で生まれる、なんてこと、したことないかもしれないです。何のためにそんなことをするのかよく分かりませんね。<br /> <br /> ただ、可能か不可能かと言うと、可能です。同じグループソウルから分かれた分霊同士はそれぞれが普通の霊で普通の人間として生まれたりしますから、やろうと思えばそういうこともできますけど。何のためにそうするのかはよく分かりません。私が知らないだけで、そういうことをしている人、というかそういうことをしている魂がいることを否定はしませんけどね。いるのかもしれませんけどね、私の知っている範囲では見たことないですけどね。<br /> <br /> グループソウルに戻る、という意味において、グループソウルにまた溶け込んで一体となる、という状態が結婚と言えなくもないですけど、アミの物語では未来世で結婚する、と書かれてありましたので、同じことと解釈できなくもありません。単に結婚するというよりは、お互いの共通のグループソウルで合流する、とみなした方が自然です。これなら私だってよくしていますし、割と誰でもそうな気がします。私の解釈では、アミの物語はもともとこういうことだったけれども、著者がうまく理解できなくて結婚と書いた、という気が致します。個人的な感想ですけどね。<br /> <br /> 同じグループソウルから分かれた分霊同士はわかりあって、相手の思っていることがわかったり、他の人同士よりも思いが伝わりやすい、というのは本当です。もともと同じ素地がありますから当然です。ですけど、だからと言って地球の感覚で結婚するということにはならないですけどね、少なくとも私の場合は。<br /> <br /> こんな誤解が広がるくらいなら、確かに、ツインソウルなんてないんだ! としてしまった方がとりあえずはいい気もします。<br /> <br /> 久々にアミの本を読んで、ツインソウルという随分と懐かしい話に触れたのでした。<br /> <br /> それにしても、この本に書いてあることはかなり瞑想の確信をついていて改めて凄い本だと思いました。意識の覚醒や行動についての指針もそうですし、しっかり宇宙意識に繋がった瞑想していますし、本当のことを知らなければ書けない内容です。子供向けの本とは思えません。大人が普通に読んでもいい内容だと思います。<br /> <br /> この本の中に、惑星規模で起こった大災害で生き残った人を助けるお話が載っていますけど、このことについて地球の出来事に即して補足しておきますと、私が小学校の頃に幽体離脱して見た、その時点(私が小学校の頃、30年ほど前)でメインになっていたタイムライン上の未来においては、今からおおよそ10年前、だいたい2000年から2010年の間に世界は破滅して大災害が起こり、人類の文明は滅亡し、大勢が死に、この本に書かれてあるところの「救済計画」にのっとってそれなりの意識に達している人が助けられ、一旦は宇宙船に避難し、災害が去った後の地球で新たな文明を始めることになっていたのです。<br /> <br /> その時、空は暗くなり、世界は闇に包まれました。すべての人がただ事ではないことを察知し、やがて、地は激しく揺れ、山のような津波が襲い、文明をなぎ倒してゆき地球の文明はほぼ壊滅することになっておりました。<br /> <br /> しかし、神様の気まぐれ... と言いますか、神様というよりは、この地球を管理している大天使の意思によりその災害は先延ばしにされ、具体的には大天使の使いが様々に働いたおかげで例えば2000年問題は回避されたりその他の災難が重なることなく、現時点まで継続しているわけです。<br /> <br /> 私は幽体離脱をしてその決定およびタイムラインの変化までも見ておりましたが、私が子供の頃に幽体離脱した時の解釈としては、大災害が起こるのが正しくて文明が継続するのはもっと地球で遊びたい人たちおよび助かりたい人々のエゴなのではないか... と思っておりました。その時点では自分が世界の破滅に対してどうこうできるとは思っておらず、自分が助けてしまうのは良くないことなのではないか、滅びようとしているのが運命なのではないか、助けるのは自分のエゴなのではないか、とも思っていました。<br /> <br /> 私がタイムラインで見た大災害は、偶然が重なって人々の不安が積もり、最終的にそれがしきい値を超えて戦争及び大災害に繋がっていたと記憶しております。その偶然の1つでも避けてあげれば意外と戦争および大災害は避けられたわけです。そのタイムラインを見通せる者であれば、そのちょっとした災害を軽減するなんて簡単なことで、実際のところ、そう大したことはしていないのですが、それでも、大災害を避けるには十分だったわけです。ですから、その鍵となる災害を避ける行為をしたのは一部の人だったわけですけど、そのように行動している人が増えてきているわけです。<br /> <br /> 例えば、気まぐれで幽体離脱中に2000年問題を回避したわけですけど、これは、人類を助けるというよりは、タイムライン上を見ると2000年問題が一つのトリガーになって破滅へと向かっているので、これを回避したらどうなるのだろう? という、単純な「興味」から行ったことでした。ですので、決して、人類を救おうだとか、正義のためだとか、世界平和のため... みたいな大層な理由ではなくて、単に興味本位で2000年問題を回避したらどうなるのかな、と思ってやってみたのです。そして、今があるわけですね。危機はそれだけではないですけど、大きな分岐点がそれだったわけです。<br /> <br /> それとね、地球が滅亡してしまうと地球の今の文明および世界でしばらくは遊べなくなってしまう、という、自分のわがままもありました。ですから、大層な理由ではなく、自分がもっと地球で遊びたいから2000年問題を回避したり、他にも何かした気もしますけど、幽体離脱中に工作してみたわけです。<br /> <br /> 地球を救う、なんてその程度のものだと思いますよ。大層な英雄なんていなくて、なんとなく行動して、なんか助けちゃった、みたいな、そのくらいの軽いものだと思います。<br /> <br /> まあ、幽体離脱中にやったことなんて証拠もありませんけど、少なくとも、子供の頃に見た大災害は回避されたタイムラインにいまいるのは確実だと思うわけです。<br /> <br /> 今はこの「もどってきたアミ」に書かれてあるように人々が目覚めて大災害を避けるべくそれぞれが行動し始めて、「ああ、良かったな... いい世界になってきたな... 」というのが今の印象です。<br /> <br /> ただ、大災害が回避されたとはいえ、まだ油断はできませんけど。<br /> <br /> 未だに当時のタイムライン上の地球の破滅とUFOによる救済を待っているグループもあるようですけど、2000〜2010年の破滅はもう回避されたタイムラインに今はいますので、地球の破滅とUFOによる救済を待っても無駄だと思いますけどね... そのシナリオはもうやってこないです。<br /> <br /> まだ油断できないのでまだ起こる可能性もあるにはありますけど、山は越えた気が致します。<br /> <br /> こういうこと書くと、スピリチュアル的に「全てを受け入れる」だとか「全ては愛」とか言う人もいますけど、私の理解における「愛」とは「創造・破壊・維持のあらがえないほどの強大な力のことですから、生ちょろい執着の愛なんて吹っ飛んでいってしまうほど現実的でありのままで厳しい愛の姿です。消滅しようがそれも愛だし創造も愛だし維持も愛で、この世の全てが愛なのですから実際のところ人類が滅亡しようが存続しようがどちらにせよ愛でしかないわけですけど、私はもうちょっと先を見てみたいな、という「興味」で存続の方を選んだ、と、いう、その程度のお話です。<br /> <br /> コロナで悲観的なお話が多いですけど、既に滅亡していた筈の人類が存続しているので既にかなりいい世界のタイムライン上にいると思いますけどね。<br /> <br /> それなりの能力者であれば皆のために障害を排除することは簡単にできますけど、人々が目覚める機会を奪ってしまったらそれこそ犯罪に近いものがあります。能力者からすれば、とてつもなく大きな犯罪は地域・国・この地球が存続できる限りは見守る必要があります。見守って、人々が目覚めるのを助けることはできますが、代わりにしてあげることはできません。とは言いましても、それなりの状況になったら手を出すことは許されます。ある程度の問題にならない限りは代わりにしてあげることはできないということです。<br /> <br /> Tue, 26 Jan 2021 00:00:00 +0900 日本:東京 https://w-jp.net/topics/日本:東京/ 日本:東京 夏目漱石記念館@早稲田 https://w-jp.net/2021/2523/ <br /> 夏目漱石記念館を見学。<br /> <br /> 実のところ学生時代に読んだくらいなのですが一般教養になりました。たまにはこういうのも良いですね。<br /> <br /> 実際来てみると夏目漱石の家は早稲田とは言っても神楽坂のすぐそこで、漱石の生活圏の実感が見えてきます。こういう地理感は来てみるとよくわかります。この辺り、作家が多いのですね。<br /> <br /> ラフカディオハーンや芥川龍之介とも時期が被っていて、時節的な繋がりに実感を持てます。 年取って作品の一文を読んでみると意味合いの解釈が学生時代と違って理解できる気がします。そういえば学校の先生もそんなこと言っていたような。<br /> <br /> 昔、一時期ラフカディオ・ハーンが好きで、出雲大社に参拝した帰りには松江市にあるラフカディオ・ハーンの記念館に何度か立ち寄ったことを思い出しました。<br /> <br /> Sun, 07 Nov 2021 00:00:00 +0900 乃木神社@赤坂 https://w-jp.net/2021/2520/ <br /> 何度となく近くを通っていたのにも関わらず、私自身は乃木坂駅と乃木坂の道を使わずにその上にある道を六本木と青山の間で通り過ぎるだけでしたので乃木神社の存在を今までスルーしていましたが、そういえばよく名前は聞くもののどのようなところか行ったことがないので通りすがりに寄ってみました。<br /> <br /> 境内はそれほど広くないのにも関わらず結婚式が行われていたり、乃木将軍の旧家があったりと、さすが有名なだけあって、意外に、と言っては失礼ですけど、思いのほか充実していました。明治時代の偉人が祀られている神社ということで歴史も浅く、同時代の長州藩の偉人も祀られていました。境内にお稲荷さんの神社もあって、お稲荷さん系はどこに行っても商売繁盛の化け狐の匂いがするのですけどここはそこまで獣臭がしなくて、割と洗練された都会の化け狐、という感じでした。お稲荷さん以外のところは至って普通で、特に邪念もなければ、都会にしては清浄な空気が保たれていて、きちんと管理された、しっかりした神社だと思いました。都会の中にありますので期待しすぎてもいけませんけど、都会の喧騒の中にこのようなそれなりに清潔な場所があるのは貴重なのではないでしょうか。<br /> Wed, 03 Nov 2021 00:00:00 +0900 大宮八幡宮@杉並 https://w-jp.net/2021/2508/ <br /> 東京のへそ、杉並にある大宮八幡宮を参拝。<br /> <br /> ここは東京にしては割と広い敷地で、しかも歴史は960年ということでそれなりに古い部類の神社になります。杉並の林の中に静かにある神社で、よくある人気の神社のように参拝者の邪気まみれということもなく、割と地味ながら歴史もあって、しっかりと管理されている神社のように思います。<br /> <br /> Sun, 24 Oct 2021 00:00:00 +0900 高尾山へ定期参拝 https://w-jp.net/2021/2492/ <br /> 高尾山の薬王院には定期的に参拝しており、特に宗派というわけでもないのですが行きやすいので定期でふらりと通っております。<br /> いつも山頂に登っては降りるだけのハイキング程度ですけど健康を保つのに良い感じです。<br /> <br /> ここのお寺は時期によって参拝者の邪気が溜まっていることもありますし、特に参拝所に吊るしてある紐は掴まない方がいいと思います。というのは、紐を触ると邪気が逆流してくるからです。そうは言いましても東京での低山でのハイキングコースは貴重ですしお寺はさらりと参拝するだけで割とスルーするのであればさほど問題はないように思いますので定期で通っています。<br /> <br /> ここは稲荷が多くて、商売繁盛の現世的な神様も多くいらっしゃるように思いますし、天狗のような少し妖怪じみた存在もいらっしゃいます。東京に相応しいと言えばそうかもしれませんけど。<br /> <br /> Sun, 10 Oct 2021 00:00:00 +0900 東京カテドラル聖マリア大聖堂・カトリック関口教会 https://w-jp.net/2021/2490/ <br /> 少し前に、都内にある同教会に行ってきました。<br /> 前から何となく噂を聞いてはいたのですが実際に行くのは初めてで、主目的はここにあるミケランジェロのピエタ像の複製を見ることです。<br /> ですけど、この建築も珍しいもので、中は静けさもあって祈りに相応しい場所で、なかなか気に入りました。キリスト教徒ではないですけど。<br /> <br /> <br /> <br /> 近くにはここ所管と思われる幼稚園もあって、壁画が可愛らしかったです。<br /> <br /> <br /> <br /> ピエタ像やルルドの泉の複製があったりして、そういえばルルドには行ったことがないので落ち着いたらそのうち行ってみたい気も致します。<br /> <br /> <br /> <br /> マークから見るとここはイエスズ会(IHS)ですね。イグナチオ・ロペス・デ・ロヨラが創設した会で、今でこそカトリックと同一とみなされていますけど一説によれば当時はローマ・カトリックと幾分か対立していて、日本に布教に来た時もローマ・カトリックはイエスズ会(IHS)ではなく本筋のカトリックを布教したかった、なんてことがあったようで、なかなかに面白い昔話です。<br /> <br /> 南米に行った時もイエスズ会(IHS)の協会が多数あったりして、ヨーロッパ以外では世界中にイエスズ会があるという印象があります。<br /> <br /> Sat, 09 Oct 2021 00:00:00 +0900 スピリチュアル: コロナ https://w-jp.net/topics/スピリチュアル: コロナ/ スピリチュアル: コロナ ワクチンパスポートで誰を守るのか? https://w-jp.net/2021/2521/ <br /> ワクチンを打った本人は安全(な筈)ですから、ワクチンパスポートを持っていようが持っていまいが打った本人は関係ない(筈)なわけです。<br /> <br /> ですけど、当然のことながらワクチンパスポートは誰かのために存在しているわけで、それは「ワクチンを打っていない人」です。<br /> <br /> で、私は最初、ワクチンを打たない子供や幼児を守るのかと思っていたのですが、幼児や子供にもワクチン推奨するということですのでどうやらそうではないようです。<br /> <br /> であれば、他に「守りたい人」がいる筈で、具体的にそれが誰かは分かりませんけど、政治に顔が効いて思い通りの政策推進を指示できる人、となるわけです。<br /> <br /> であれば、今、世の中に顔が知れている政治家ではなくて、もっと奥の大物なわけで、私が知る由もないわけです。<br /> <br /> そのような大物、おそらくはそれなりのグループの人数がいると思いますが、その人たちが「守る対象」であって、一般大衆のうちワクチンパスポートを持った人だけそのグループに接触できる、という仕組みを作りたいのだと思います。<br /> <br /> ワクチンパスポートで人々を守るとか言ってますけど、上に書きましたとおり、自分を守りたければ自分がワクチンを打てばいいだけです。ワクチンパスポートは「誰か他の人のため」に存在しているのであって、それは、強大な力を持った人たちが、自分たちはワクチンなど危険で打ちたくないがコロナから身を守るために周囲の人をワクチン打った人で固めたい、と、そういうお話なのだと思います。<br /> <br /> そのために、色々と詭弁を述べてワクチン推奨していますが、これは、ある意味、戦争中だと私は思っています。<br /> <br /> 攻撃してきている国はどことは言いませんけどコロナによる敵国の弱体化を狙っていて、敵国からの攻撃から身を守るために国民にはワクチンを打って、ワクチンの副反応とかはあるのが当然で、副反応があっても隠蔽した上で、戦時中でありますから政治の中枢及びその背後にいる本当の大物を守りたい、というのが本当のところではないでしょうか。<br /> <br /> 大物は治験中の新型ワクチンなど打つつもりがないが、他に手はないので国民にワクチンを打たせて、国民の犠牲はある程度は想定した上で防御及び敵国への反撃をしている状況かと思います。今の戦争はドンパチしないので分かりにくいですよね。<br /> <br /> だから、イスラエルの事例とか提示して「有効率は40%以下だ」とか「ワクチン打っていても重症化する人が大勢いる」とか言っても無駄で、「戦時中なのに何を平和ボケしたことを言っているのだ」と心の中では思われつつ適当な理由をつけてあしらわれるのがオチなわけです。<br /> <br /> こんなのは、自分で気付いて、自分がそうだと思ったらそう判断すればいいわけで、誰かが念押ししてくれるわけでもなく、ましてや政府は絶対に認めないお話ですから、個人で判断するしかないわけです。<br /> <br /> 要は、空気読め、ってやつですね。戦時中なんだから空気を読めと。<br /> <br /> だから、世間で言われているようにコロナが危険だとかワクチンが大切だとか、そんなことは本筋じゃないわけです。 踊る阿呆に踊らぬ阿呆、って、どこかで聞いた歌のようですよ。ワクチン打つ阿呆に打たない阿呆。どっちも大差ない・・・ とまでは言いませんけど、ワクチンが論点じゃないわけです。ワクチンなんて自分で好きに判断すればいいわけです。戦争中に自分を守るためにワクチン打てと政府が言ってきたら、政府を信じて打つのか、自分は関係ないと思って打つのか。<br /> <br /> 私は瞑想と悟りのためにワクチンが妨げになるので打たないですけど、そうでなければ、一般人は好きにすればいいわけです。<br /> <br /> 戦時中とは言っても、本当にやり合っているのは一部の国だけで、他の国は飛び火を受けているような状況なわけで、日本もそちらで、ロックダウンをしているような国にしても本当の理由は表に言わなくて国民を守るためだとか言っていますけど実際は他の国の戦争が治まるのを待っているような状況なわけです。次々に新型の株が出るというのはそもそも変異することが知られていましたし、それだけではなくて、新たに用意されているウイルスをばら撒かれないように各国が警戒している状況なわけです。ですけど、このようなバイオによる戦争は初めてですから宣戦布告もなくて、誰も自分がやったなどと認めないですから、各国は色々と理由をつけて自国を守るしかないわけです。<br /> <br /> そうは言いましても副反応はあるし有効率は40%以下とか散々な状況ですけど、多くの国民の命は割とどうでもよくて本丸を守ることしか頭にないわけですよ。<br /> <br /> そんな状況なのに、空気を読まずに「国は嘘をついている」だとか「ウイルスは弱毒だ」とか「ワクチンで国民を実験台にするな」とか「ワクチンの副反応を隠している」とかチップがどうこうとか、製薬会社の利益のためだ、とか、色々と政府を批判してみせたとしても、戦時中ですし、そもそも国民の命は軽いのですからそんなの相手にされないのは当然なわけです。そもそも政府の背後にいる人たちは全てわかってやっていますよ。<br /> <br /> それに乗じて自分の利益を高めようという小物たちが大勢いて、ワクチンパスポート推進派にしても大阪の橋本とか東京の小池とかはたぶん全くわかっていない方で無知で、民間にしても大きな会社でワクチン推奨しているようなところは無知ですし、そういう小さなお話に付き合っていても仕方がないわけです。<br /> <br /> 自分は小さな個人ですから、自分を守るためにどうしたら良いのか、というお話になりますけど、周囲の皆さんが積極的にワクチン打ってくれるなら自分が守られる、という構図な訳ですから、せっせとワクチン打ってくれて皆さんありがとうございます、ということになります。副反応を受け入れるかどうかは本人の選択ですしね。私は受けませんけど、打つのがいいと思うのなら本人の自由なわけです。<br /> <br /> 実際のところ、大局から見たらワクチン打とうが打たまいが変わりないですよ。コロナで死んでも、それでもいいじゃないですか、と私は思っていますし、生きるならもちろんそれはそれでいいです。<br /> <br /> 死ぬということに大袈裟になりすぎだと思いますけどね。死への恐怖というのは死後の世界とか輪廻転生のことを知らない無知から来ていますから私がどうこう言ってもそこはどうしようもないですけど。<br /> <br /> Thu, 04 Nov 2021 00:00:00 +0900 私のスピリットのコロナ対応 https://w-jp.net/2021/2487/ <br /> 私のスピリットが立てた計画において、コロナのワクチンは悪影響があるので受けさせたくはなく、かと言ってコロナに対しても抗体を作りたいがためにかなり早期の段階で私をコロナに感染させる、ということを意図したようです。<br /> <br /> ですので、一部では「コロナは存在しない」だとか陰謀論だとか騒がれていますけど、私はコロナは実在すると思っていて、それが陰謀かどうかはさておき、少なくともコロナは実在すると思っています。<br /> <br /> 具体的には、数年前に私は足を骨折したのですがその事後検査でレントゲンを取りに近くの大きな病院に行ったときにコロナに感染させることを計画したようです。<br /> <br /> 実際、その病院では私が通院した数週間後にコロナの患者の死者が出て看護師も何人か感染したことにより病院自体が1ヶ月休業状態になりました。私はそこで感染したわけですけど、通院したのが午前中で、同じ日の午後から急に今までしたことがない咳が出始めて熱も完全に上がり切らずに熱が出ているような出ていないような不思議な感じでした。熱がそこまで上がりきらないので翌日も出社したのですが午後から熱が上がり始め、早めに切り上げて近所のかかりつけ医に行って抗生物質を出してもらったら割とすぐに回復したわけですけれども、その後、約1年半くらいかけてコロナの後遺症に対処することになりました。具体的には何か喋ったりすると咳き込むような症状が続いただけですけれども、周囲からすれば急に咳き込むのでコロナなのではないかと勘繰られたりするわけですけど、実際にはそれは後遺症だったわけです。その後遺症も、少しづつ回復してきて、1年過ぎた頃にようやく普通に戻りかけたもののまだ症状は続いていて、そんな時、割と最近、数ヶ月前にインドからイベルメクチンを取り寄せて飲んだところ、まだ少し残っていた後遺症のうちかなりの部分が解消されたように思います。まだ完全ではないものの、このくらいならばほぼ治ったと思っても良いように思います。なかなか長い闘病生活だったように思います。<br /> <br /> それだけ長く後遺症が残ったとしても、ワクチンを打つよりはマシなようです。私のスピリットの判断に従うとすればワクチンは打たないほうが良いと分かって以降、私は今までワクチンは打っていないわけですけれども、将来的に、昔ながらの不活性化ワクチンが出てきたならば打ってもさほど問題はない、ということは分かっています。具体的なところはわからないのですけど、私のスピリットは時空を越えることができて将来を見通した上での判断からすると、打たない方がいい、ということのようなのです。理由は唯一そこであって、世間で騒がれているように陰謀論かどうかは分かりませんし、チップが入っているとかいうお話もよく分かりません。ただ、私からすれば自分のスピリットが未来を見てそう判断したのならばそれで十分なのです。<br /> <br /> いくら医療従事者が安全だとか言ったとしても、はたまた、政府関係者のお偉いさんが安全だとか言ったとしても、自分のスピリットが実際に時空を超えて未来を見てきた上でワクチンは打たない方がいいと判断しているわけですから、他人がどのように安全性を高らかに主張したとしても全く関係ないと言えます。<br /> <br /> これは陰謀論とは全く関係がなくて、元々私が目指している悟りへの道への障害になる、という一点において私のスピリットは打たない方がいい、と判断したようです。具体的には、精神的な安定性、特に、かなり微細なレベルにおける安定性が若干失われる、土台としての部分が揺らぐ、ということのようなのです。そのように、瞑想においてマイナスになるのであれば打たない方が良く、かと言って、コロナは実在しておりますので免疫は早めにつけておいた方が良く、後の方になると毒性も高まっていくようですので、初期の段階の、それほどでもないコロナを早々と感染させることにより抗体を作りたかったようです。<br /> <br /> 抗体は日本にずっとこもっているのならばあまり必要ないようですけど、私の場合、将来的にまだコロナの影響が残っている世界で海外にも行くことを想定しているために抗体を作りたかったようです。<br /> <br /> これで、今後、新たな株のコロナが出てきたとしても基本的な抗体があるためにそれなりに新しい株にも対処できるようになり、いきなり危険なコロナの亜種に感染するより遥かに安全な状態になる、という判断が私のスピリットの側であったようです。<br /> <br /> とは言いましても、これは瞑想で分かったことですので本当かどうかは分かりません、という注釈はつきます。<br /> <br /> 実生活においては仕事場でワクチン打てとうるさく言われていますし、ワクチンを2回以上打つかPCR陽性だけ出社、とか言われていますのでかなり微妙な状況ではありますけど、それでも打つ気はないわけです。<br /> <br /> Tue, 05 Oct 2021 00:00:00 +0900 イベルメクチンでコロナ後遺症が改善されました https://w-jp.net/2021/2415/ <br /> 1年半悩まされ続けていたコロナ後遺症らしき咳き込みがイベルメクチンを飲んで数日で改善され、症状が半分以下になったように思います。たまたまかもしれませんし、他の理由があるかもしれませんので確実なことは言えませんし、プラシーボかもしれません。ですけど、いつまで経っても治らなかった不快な咳き込みが激減したのは事実です。<br /> <br /> 元々、私は2020年2月頃におそらくコロナにかかったのですけど医療機関に言ってもスルーされ続けて誰も治療するつもりがないし本当にコロナかどうか検査するつもりもなかったようなので自分が本当にコロナかどうか確かめるのを諦めた口です。<br /> <br /> 症状が現れたその日、骨折の経過観察のために大きな病院に行ってレントゲンを撮ってもらいました。その病院というのは私が受診した1週間後に初期のコロナ患者が出て死亡し、看護婦も感染して病院自体が丸ごと閉鎖された場所だったのですけど、受診が午前中で、その同じ日の午後から急に強い咳が出始めて次の日には熱も出始めましたのでタイミングとしては抜群です。その後の経過は以下です。<br /> <br /> ・午前中に大きな病院を受診<br /> ・同日の午後から強い咳が出始める<br /> ・翌日、咳に加えて熱も出始める。その日の夕方、近くのかかりつけ医者を受診。コロナかどうかはわからないですがとりあえず普通の抗生物質を処方して様子を見ましょう、ということになりました。<br /> ・その翌日、熱は下がって強い咳は出なくなりましたが喉が詰まった感覚と、喋るとすぐに咳が出る状態になりました。少し喋るだけですぐにゴホゴホしますので喉に力を入れておかなくてはならず、力を入れても不意に咳き込む状態が続きました。<br /> <br /> 私の場合、かなり初期段階で世間がコロナのことがわかっていない段階で感染したので不幸中の幸いだったように思います。もう少し後であればPCR検査をした後にホテルに缶詰になって、そこでは薬を与えられることもなく自己の免疫だけで直さなくてはならなかったように思います。<br /> <br /> 私の場合、近所のかかりつけ医から抗生物質を渡されて表面上の症状は改善されました。<br /> <br /> 色々と調べてみましたところ、コロナはウイルスですので抗生物質の効き目はない、とのことですけど、コロナの菌が腸に入って感染した後にその他の何かと結びついて、それが肺に来て呼吸困難を引き起こすらしいですので、抗生物質がコロナそれ自体には効かないのはその通りらしいですけど、コロナと結びついた生きている菌が肺に来た段階であれば肺にいる菌を抗生物質で退治することができるので効果がある、ということのようです。私の場合、抗生物質を飲んでから劇的に症状が改善しましたので、この理屈は納得が行きます。<br /> <br /> ですけど、上に書きましたように、当時のコロナの理解では抗生物質はコロナに効かないということになってしまいましたから、もしかしてコロナに感染する時期がもう少し遅ければ抗生物質を与えられることなしに、下手をすればホテルあるいは病院で人工呼吸器をつけられたまま殺されていたかもしれないわけです。タイミングのちょっとの違いで抗生物質で助かっていた、ということかもしれないわけです。抗生物質が効かないとか言われていますけど、ダメもとで処方すればいいのに、と思うのですけど。なんだか変なお話です。抗生物質でコロナの肺の症状が治るというお話はとあるYouTubeで聞いたのですけど、かなり初期の段階ですので今は違うのかもしれませんけど、その動画の中ではどこかの東京の大学の偏差値の高い医学の教授もそう言っていたということで、信憑性はそれなりにあります。個人的な経験から言っても抗生物質に助けられたと思います。<br /> <br /> ただ、後遺症はその後も続いて、最初の3ヶ月くらいは特に酷くて、喋るとすぐに咳が出るので他人からコロナかと思われる疑いの目が厳しかったです。<br /> <br /> 半年経つと少しは減ってきましたがずっと続いていました。<br /> その後、1年経過する頃には更に減ってきましたが、それでも咳は続いていました。<br /> <br /> 今、おおよそ1年半経過して、だいぶ良くはなってきましたけど喉の変な感じは続いていました。<br /> <br /> 世間ではワクチンが騒がれていますけど私はまだ打っていなくて、というか、そもそもコロナにかかっているので今更ワクチンを打ってどうなるのだ、という感じでもありますし、治験も3ヶ月かそこらしかしていない実験薬を打つのも微妙ですし世界初のmRNAワクチンを世界規模で治験しているという意味不明な社会実験に付き合うのも微妙です。<br /> <br /> そんなところにイベルメクチンの噂を聞いて、薬自体はとても古いもので副作用も少ないようですし、病院での処方はできないですけど自己責任で飲むことはできるようですので海外から取り寄せました。リスクがあるのはもちろん承知の上ですが、私がコロナかどうかを誰も診断してくれないですし、診断しようとする意図も感じられなくてスルーされ続けてきましたので自己責任でイベルメクチンを試すことにしたのです。いざコロナになれば医療機関の方々は親切に対応してくれるようですけど治療薬もなくて隔離状態で放置されるだけのようですし、それなら医療機関や保健所を頼るより自己責任でイベルメクチンを試してもいいと判断しました。<br /> <br /> イベルメクチンは空腹の時に取る必要があることと、体重に応じた量を取らなくてはならないようでしたが、私の場合、取り寄せたのが12mgの錠剤でしたので体重に対して少し少なめではあるのですけどそれを飲んで様子を見ることにしました。<br /> <br /> 夕食後2時間空けて、寝る前くらいに水で飲みました。牛乳とかはダメみたいです。<br /> <br /> その翌日と翌々日にかけて、もしかしたらイベルメクチンの副作用かと思われる、頭が少しぼうっとする症状が少し出ましたけどその後は問題ありませんでした。<br /> <br /> そして、何より良かったのが、不快な喉の咳き込みが急に回復したことです。<br /> <br /> 上に書きましたように、たまたまかもしれませんし、他のことが何か良い影響を出したのかもしれません。ですけど、タイミングとしては絶妙で、今日はイベルメクチンを飲んで4日目ですけどかなり喉の調子が良いです。まだほんの少し症状があると言えばありますけど薬を飲む半分以下の症状になったように思います。<br /> <br /> ただ、完全に回復したかどうかはまだわかりません。外を出歩くと一時的に喉がガラガラすることはありますけど、そのくらいのガラガラ感はコロナ以前からも時折あったように思いますから普通のガラガラ感は昔とは変わりません。ですけど、急に咳き込むような感じのコロナ後遺症と思われる不快なものはかなり解消されたように思います。<br /> <br /> まだ4日目ですので様子見で、他の病気に対してのイベルメクチンの処方としては1回処方と2週間の間を空けた2回処方という方法があるようですので、一応、2週間目も飲もうかと思っております。<br /> <br /> 私が良くなったからと言って、他人にお勧めはしません。<br /> <br /> 私の場合、医療機関に問い合わせてもスルーされて誰も助けてくれませんでしたし薬らしきものもないままに1年半ほどずっとコロナ後遺症らしき咳き込みに悩まされてきましたので自己責任で使いました。<br /> <br /> イベルメクチンが効果があると言う人がいる一方で、イベルメクチンは効果がないと言っている人もいますけど、少なくとも私には効果がありましたね。完全に治る特効薬でなくても、これだけ症状が改善されれば十分良い薬のように思います。<br /> <br /> Thu, 08 Jul 2021 00:00:00 +0900 日本:名古屋 https://w-jp.net/topics/日本:名古屋/ 日本:名古屋 熱田神宮を参拝 https://w-jp.net/2021/2484/ <br /> いつも名古屋は通り過ぎるばかりでしたがちょっと立ち寄る機会がありましたので熱田神宮に初めて参拝してきました。<br /> 有名なところですけど私はスルーしていてようやく初めて立ち寄ったわけですけど、なるほど。 良いところではありますけど、私にはそんなに縁がないかな・・・? という気が致しました。 昔は縁があった時もあったのかもしれませんけど、少なくとも最近はさほど縁はないようです。<br /> <br /> さすが3種の神器の一つ草薙剣があるところで立派ではありますけど、噂では表に見せるのはレプリカとかも言われていて、実際のところよく分かりません。色々と噂レベルでは聞きますけど。<br /> <br /> ここは奥の方に散策路があって、右奥手で水が湧き出ているところが一番波動が高かったような気が致します。<br /> <br /> <br /> <br /> Sat, 02 Oct 2021 00:00:00 +0900 日本:高山 https://w-jp.net/topics/日本:高山/ 日本:高山 櫻山八幡宮@高山 https://w-jp.net/2021/2482/ <br /> 通り道だった高山の神社に参拝しました。<br /> 高山というと山奥というイメージでしたが意外に普通の街で、神社も街中にありました。ずっと勘違いしていて、地元の人には失礼致しました。<br /> <br /> ここは神社の中心のところは普通の雰囲気でしたけど右側の高台の上には怨念なのか悪霊なのかが取り憑いているところがあって、その周辺だけ雰囲気が違っていました。神社というと神々しいイメージがありますけどここの高台のように怨念を封じ込めている、あるいは、参拝者が怨念を捨てていくような場所がありますので注意が必要ですね。<br /> <br /> <br /> <br /> Thu, 30 Sep 2021 00:00:00 +0900 日本:白川郷 https://w-jp.net/topics/日本:白川郷/ 日本:白川郷 白川八幡神社と白川郷の合掌造り集落(岐阜県白川村) https://w-jp.net/2021/2481/ <br /> 白山周辺の白山神社の途中で白川郷も立ち寄りました。<br /> コロナ禍で空いていると思いきやメインの駐車場が満車になるくらいの盛況ぶり。普通に混んでいました。<br /> おそらく、世界遺産になる前の混雑くらいまでは回復しているような気がしました。<br /> <br /> 暫くぶりに立ち寄ったのですがいくつも高速道路ができていて以前より遥かにアクセスがしやすくなっていました。<br /> ただ、ここは別にアクセス悪くてもいい気もしますけど。そういう場所ですし。<br /> <br /> 白川郷にも白川八幡神社という白川系列の神社があったので参拝しました。<br /> 一つ一つは小さいところも多いですし、白川神社は割と古い建物が多いですけど、それはそれで古い時代を感じることができます。<br /> <br /> <br /> <br /> Wed, 29 Sep 2021 00:00:00 +0900 日本:白山 https://w-jp.net/topics/日本:白山/ 日本:白山 長瀧白山神社 https://w-jp.net/2021/2480/ <br /> 白山周辺の神社として割と主要なところの一つのようです。<br /> 大通り沿いにあって割とアクセスもしやすいところでした。<br /> <br /> 白山への参拝ルートの1つで、昔の人はここから白山中居神社に向かって歩いたようです。<br /> <br /> 白山周辺でよく目につくのは龍の絵ですね。<br /> こういうのは現実を反映していることが多く、白山には(アストラル次元に)龍が本当に住んでいるのだと思います。縁があって見える人には見えるのでしょう。<br /> <br /> 龍というのはとてもパワフルで人にとっては頼りになったり恐ろしかったりと色々ですけど、悟りという観点からすると平均的な人間よりも進んでいるというだけで悟った存在というわけでもないようです。人は龍を祀ったりしますけど、私個人としては龍とはそれほど関わり合いがありませんので、あくまでも隣人のパワフルな存在として感じています。<br /> <br /> <br /> Wed, 29 Sep 2021 00:00:00 +0900 白山平泉寺(平泉寺白山神社) https://w-jp.net/2021/2476/ <br /> 白山周辺の神社巡りで白山平泉寺(平泉寺白山神社)を参拝してきました。<br /> ここは元々神社で、その後寺になり、また近年に神社に戻ったところの様です。<br /> 元々は門前町が広がっていたものの戦国時代の一揆で消失、その後は復興したもののかつての賑わいはないようです。<br /> <br /> <br /> <br /> 今は苔が美しい神社になっており、境内も広く、建物は古くてそろそろ建て替えが必要な気もしますけど素朴ないい雰囲気を出しています。<br /> 白山の神社はどこも素朴ですね。<br /> <br /> <br /> <br /> Sat, 25 Sep 2021 00:00:00 +0900 白山中居神社 https://w-jp.net/2021/2475/ <br /> <br /> <br /> 白山の南方にある白山中居神社にも参拝してまいりました。<br /> 少し山奥といえば山奥ですが車で行けますのでそれほど苦労はないのですが道は部分的に1車線でした。<br /> <br /> ここは、私が参拝した中では珍しい、川を渡った先にある神社でした。<br /> あまり他ではこのような形式を見ない気が致します。<br /> <br /> <br /> <br /> 途中、黄金色に輝くトカゲが何匹かいたりして神域を感じました。<br /> <br /> 古い建物でそろそろ建て替えが必要な気も致しますけどこれだけ参拝者が少なければなかなか難しいのでしょうかね。そもそも人をあまり近づけたくない神社なのかもしれませんけど。<br /> <br /> 祀っている神様としてはイザナギとかイザナミとか、そのあたりの古事記の最初の方に出てくる神様だったように思いますのでかなりパワフルです。<br /> イザナギとかイザナミを祀っている神社は白山の周辺の特に白山神社で時々今回見ましたけど、他所ではあまり見ない気も致します。私があまり気にしていなかっただけかもしれませんけど、なんとなく珍しい気が致しました。<br /> <br /> 白山に興味が出てきて、そのうち登山もしてみるかもしれません。<br /> Thu, 23 Sep 2021 00:00:00 +0900 白山比咩神社 https://w-jp.net/2021/2474/ <br /> 白山神社は日本に多くありますが、石川県と岐阜県の境にある白山の周辺にある白山神社の数々には行ったことがありませんでしたのでこの度行ってきました。<br /> <br /> <br /> <br /> 今まで私の中での神社ランキングは一位が出雲大社で二位が伊勢神宮だったのですが、個別の一つ一つの神社の大きさでは全く敵わないのですけど群としての神社のあり様とか白山の周辺に多くある信仰が残っているという点に関しては白山神社の方が上かな、という気が致しました。出雲大社や伊勢神宮は人が詰めかけすぎてざわざわしている時もあるのですけど、白山神社は空いていて、その点においても神秘的です。<br /> <br /> Thu, 23 Sep 2021 00:00:00 +0900 日本:諏訪 https://w-jp.net/topics/日本:諏訪/ 日本:諏訪 諏訪大社を参拝 https://w-jp.net/2021/2453/ <br /> 出雲系とのことでしたので諏訪大社を参拝してみました。<br /> <br /> 東京方面から<br /> ■JR高尾駅 6:14発(始発) → JR茅野駅 8:49着<br /> <br /> 当初は下諏訪からバスかレンタルサイクルを考えていたのですが意外に距離があるのとバスの本数が少ないため茅野駅から歩くことにしました。歩いても30分ほどですのでそう遠くはありません。<br /> <br /> ■諏訪大社 前宮<br /> <br /> <br /> 最初に見たこの前宮が一番パワフルに感じられました。どうやらここが歴史的にも一番古いとのことで、そのような理由もあるのかもしれません。<br /> <br /> 少し歩くと本宮です。<br /> <br /> <br /> ■諏訪大社 本宮<br /> <br /> <br /> こちらの方が広くて建物は立派ですけど前宮で感じられたようなオーラはそれほど感じませんでした。もっと奥に行くと違ったのかも?<br /> <br /> 見学後、神社の前のお土産物ショップのあたりにある 「上社北参道」バス停から「かりんちゃんバス ③すわ外周線 上諏訪駅方面行き」に乗ります。<br /> <br /> 上社北参道11:02発 → 上諏訪駅諏訪湖口(西口) 11:45着<br /> <br /> 花火など祭りの日は運休のようですので注意。行き先によってバス停が違うようでしたが、私はここから乗りました。<br /> <br /> バス停の付近で麺ものなど軽食も食べられます。ペース良く見学しましたのでバスを30分ほど待つことになり、ここで食べようと思えば食べられましたけど駅前で食べるつもりでしたので食べませんでした。ですけど駅の周囲にあまりお店がなかったため北口の巨大な建物の1階にある大きなスーパーでお弁当を買い、イートインで食べて済ませました。時間的にも電車まで約30分でしたのでちょうど良かったです。<br /> <br /> JR上諏訪駅 12:17発 → JR下諏訪駅 12:21着<br /> <br /> <br /> ■諏訪大社 春宮<br /> <br /> <br /> 春宮も秋宮も駅から歩いて行ける距離にあり、どちらから見ても良かったのですが春宮の方が少し奥にあって周囲に店も少ないのでこちらから先に見ることにしました。<br /> <br /> 御柱が7年に一度のお祭りの時に人の手で運ばれる御柱がここにもあって、どうやら来年にはまた入れ替えになるようです。<br /> <br /> ここも雰囲気が良かったですが前宮で感じたほどのオーラは感じられませんでした。やはり前宮が諏訪大社の中では個人的には一番凄いと思いました。<br /> <br /> とは言いましても、諏訪大社としては4つの宮で優劣はないとのことでした。<br /> <br /> <br /> ■万治の石仏<br /> <br /> <br /> これは面白い石仏です・・・。岡本太郎が愛したというのも理解できる気がします。<br /> <br /> <br /> ■諏訪大社 秋宮<br /> <br /> <br /> ここは敷地的には一番広いでしょうか? 本宮もそれなりに広かったですけど、同じくらいか、もしかしたらこちらの方が広いかもしれません。流石に立派です。お土産物はこの周囲が一番充実していて、羊羹を買ってみたりしました。<br /> <br /> そして参拝後、近くの温泉に入りました。ここは熱いお湯が有名とのことで、44度のお湯は久々に入りましたけど慣れればこれも心地良く感じました。ですけど47度はちょっと熱すぎです。44度の温泉に満足です。<br /> <br /> ネットで調べると電車とバスでの日帰りはきつい、みたいに書いてありましたけど、神社だけであれば日帰りは問題なかったですね。記録として時間も記載しておきました。<br /> <br /> Sun, 29 Aug 2021 00:00:00 +0900 日本:能登 https://w-jp.net/topics/日本:能登/ 日本:能登 UFO博物館・コスモアイル羽咋を見学 https://w-jp.net/2021/2448/ <br /> 金沢・羽咋のUFO博物館、宇宙科学博物館コスモアイル羽咋に来ました。<br /> いつか行きたいと思いつつ、ようやく重い腰を上げて遥々行ってまいりました。<br /> <br /> <br /> <br /> 本物の探査機や一部本物の複製が置いてあって意外に凄いです。<br /> <br /> UFO目撃報告も沢山で、私が子供の頃に見ていた光の球はUFOかなと子供ながらに思っておりましたがやはりその可能性は高いということで貴重なお話を伺うことができました。住んでいた田舎町で夜に自転車を走らせていると、数km離れた山というか丘の中ほどに向かって蛍のような光が降りてきてそのまま留まったり、あるいは同様の蛍の光が空に向かって動き出す、というのようなものは何百回か、少なくとも100回は見ていたかと思うのですけど、白色から暖色系の光は割と典型的なUFOのようです。UFOを見ていても意外にスルーしている人が多いのかもしれないですね。<br /> <br /> 映像資料を見ているとSFに出てくる「ダイソン球」のお話が出てきて、SFに出てくるのはスタートレックの物語で出てきたように(太陽のような)恒星をぐるりと囲む形でエネルギーを全て使う、みたいなものですけどダイソンが実際に提唱したのはそうではなく、太陽のような恒星の周囲を周回する人工衛星をいくつも作ってエネルギー活用する、というお話だったようです。これは目から鱗。<br /> <br /> Thu, 26 Aug 2021 00:00:00 +0900 スピリチュアル: 超能力 https://w-jp.net/topics/スピリチュアル: 超能力/ スピリチュアル: 超能力 四次元パーラー「あんでるせん」のマジックショー (長崎・川棚/喫茶店) https://w-jp.net/2021/2437/ <br /> <br /> <br /> 十年来、度々気になっていた「あんでるせん」にようやく伺うことができました。<br /> <br /> 予約の電話がなかなか繋がらないとのことでしたのでマジックショーが終わる5時すぎにかけるのが基本らしく、片付けなどもあるでしょうから少し時間に余裕を持って7時ごろにかけてみたのですが噂通り1回目は通話中。縁があれば1回で繋がるとのことでしたので縁がないのかなと思いつつも、数分後、2回目かけるときに「かけるのはこれで最後だ。これで繋がらなかったら縁がなかったということで諦めよう」と思ってかけたら繋がりました。<br /> <br /> どうやら縁があったようです。<br /> <br /> ですけど、元々予約を入れたかった日は既に満席で、来月なら空きがあるとのことでしたが来月の予定は立たないのでやめようかと思ったところ、ふと、マスターの方が何やら少し驚いたのか何なのか微妙な間があった後に、「どちらからですか? 何名ですか?」と聞いてきたので「○○(遠方)です。1人です」と答えたところ、予約を入れることができました。<br /> <br /> マスターは能力があって、電話がかかってきた時にその人が来るべき人かどうかわかるらしいですので私が断ろうとしたので あれっ と思って予約を入れてくれたのかな・・・ と思いますけど、どうでしょうかね。<br /> <br /> <br /> <br /> 元々飛行機でパックツアーの予約を入れていたのですがコロナ禍で緊急事態宣言が発令されましたのでキャンセル料無料でキャンセルできて、別ルートを自分で予約し直して行きました。<br /> <br /> これはその時点では何となくの勘でそうしたのですけどおそらく正解で、ちょうどこの時期には九州北部が大雨で交通が色々と不通になっていましたので元々の工程で行ったら移動が更に大変になっていたかもしれません。それでも苦労はしたのですけど、まあ、変更後の方がマシだったと思います。<br /> <br /> 大雨でJRも不通になったり通行止めになったりしていましたけど、私の降り立つ街に関しては基本的に雨が止んでいました。我ながら晴れ男です。今回はたまにはフェリーを楽しみたいと思い、新しく就航した東京九州フェリーで北九州の門司港に行きました。フェリーは快適で大雨の影響は皆無。門司に着いても少し降っているくらいで、翌日の朝は雨が上がっていましたので雨が私を避けてくれているかのようです。<br /> <br /> 翌日、博多経由のJRで最寄りの川棚駅まで移動する予定だったのですけど佐賀駅の先が佐世保及び長崎方面が不通になっておりました。私が予約していた電車は運休になりましたので他の電車に乗ってとりあえず佐賀駅まで移動したのですが、実際のところ佐賀の付近はさほど雨が降っていなくて我ながら晴れ男全開だったのですけどそれでも電車は止まっていますし仕方がありませんので佐賀駅前から川棚駅までレンタカーを借りて向かうことにしました。<br /> <br /> もっと細かく説明しますと、元々小倉から予約していた列車ではなくその一本早い時間に乗れそうでしたので変更して飛び乗って、それは佐賀行きだったのですけど一旦博多で降りて、博多駅で私の乗る予定だった列車が運休とのことでしたのでとりあえず佐賀まで行こうと思って、私が乗ってきた列車が6分停車で同じホームに停まっていましたので再度、同じ列車の自由席に飛び乗ったのでした。これが時間的にちょうどよくて、9時すぎに佐賀駅についてレンタカーを借りて川棚駅まで行ったらちょうど良い時間でした。もう1つ遅い時間の列車を使っていたら12時を軽く過ぎていたかもしれませんので早めの移動をして正解でした。<br /> <br /> この日、同様にJRで移動していて不通になった影響でとても遅れてくる方がいらっしゃいましたので、私も同様に待ち続ければどうにか来れたのかもしれませんけど、そのおかげでマジックショーの開始がおそらく少し遅れた? のかな、という気もしますし、皆に待っていてもらうのも性に合わないのとどんどんと判断するたちですのでレンタカーをすぐ選択して運転して行きました。高速道路は不通でしたので下道でしたけど、何とか11時過ぎには到着することができました。コロナ禍なのかレンタカーが安くて、通常1.5万円くらいの普通車が5000円くらい(+保険)で借りられましたので十分です。<br /> <br /> <br /> <br /> 11時過ぎには来てくださいと言われていて、遠方の方は12時くらいまで待てます、と言われていましたので開店時刻には遅れましたけどそれほど遅れずに到着することができました。<br /> <br /> ですけど、遅れた方の中には1時過ぎに来た方もいらっしゃって、大雨で仕方がないことかなとは思いますけど、帰りが遅くなるといけなくて途中で抜けた方もいらっしゃいましたので、遅れると迷惑をかけるので遅れないのが良いかと思います。<br /> <br /> 私も、レンタカー返却時刻を過ぎてしまって30分くらい営業所の方に電話して待ってもらって返却になりましたので、今回はギリギリ間に合いましたけど、なかなか厳しい日だったように思います。川棚駅前駐車場を出てから佐賀駅のレンタカー屋に着くまでの間、最後に給油する以外はどこにも立ち寄らず2時間ほぼノンストップで雨の中走りましたのでなかなか疲れました。緊急事態宣言で通常20時閉店が19時閉店に変わっていましたのも返却時間が厳しい要因の一つでした。<br /> <br /> <br /> <br /> 年季の入った喫茶店で、レトロなゲーム機の机もあります。<br /> <br /> <br /> <br /> ■基本情報<br /> 店名 あんでるせん<br /> 予約電話  0956-82-2375 完全予約制です。<br /> 場所 長崎県 JR川棚駅前<br /> <br /> 毎日、たしか朝8時から夜8時まで受付ということですけどマジックショーの時間はそもそもマスターと奥さんは忙しいのでその時間を避けるとすると朝と夜で、朝は忙しいでしょうから朝は避けるとして、夜も受付時間はそれほど長くありませんのでショー終了後の時間を狙うとすると繋がりにくいというのも納得です。<br /> <br /> 予約は、他ブログでは2ヶ月前から開始としか書いていなくて、私は2ヶ月前同日だと思っていたのですけど、どうやら毎月の1日に2ヶ月後の月の全部の予約ができるらしく、毎月1日は予約電話が混雑しているとのことでした。毎月1日だけ予約できる、と書いてあるブログもありますけどそれは違っていて、それは予約開始日のようで、前日まで(空いてさえすれば)予約できるとのことでした。とは言いましてももう2ヶ月後まで予約はすぐに埋まるので実質、毎月1日に予約した方が良いようです。カウンター席に座った方は100回くらい挑戦したようです。最近ですとアプリで自動再ダイヤルとかありますから昔ほど苦労はしないとは思いますがそれでも繋がるまで待つ手間はかかりますし他の人も同様にアプリを使うのであれば競争率としてはさほど変わらないと言えるかもしれません。<br /> <br /> 個人的には、そのようにアプリを頼るよりは直感に頼った方がこの喫茶店の趣旨にあっている気も致しますが。とは言いましてもカウンター席狙いであれば私も次はアプリを使うかもしれませんね。毎月1日はそうそう繋がらないでしょうし。<br /> <br /> ■駐車場<br /> <br /> <br /> 私はここに停めました。駅前は一方通行で、駐車場すぐ前の信号からは入れませんでしたので私は赤矢印のよう迂回しました。おそらく緑矢印のように駅前ロータリーからも入れるとは思います。<br /> <br /> ■この日のスケジュール<br /> 11時開店<br /> 2時 会場準備<br /> 2時過ぎ ショー開始<br /> 普段は2時間半ほどのショーのようです。<br /> <br /> この日は盛り上がったのか何なのか3時間半近く披露してくれて5時半頃終わりました。大雨のため開始が遅れた、というのもあったかもしれません。皆のテンションに応じてマスターも乗り気になるのかもしれませんね? そういうブログも見ていましたので、時間はなんとなく、のような気もしました。ですので5時に終わると思ってスケジュールを立てていると私みたいにちょっと焦ることになりますけど、まあ、最後は何とかなりましたので問題ありませんでした。<br /> <br /> 今回の場合、最後に入って来た方は電話であらかじめ注文を済ませていたらしく1時半頃に入ってきてすぐに食事をして、それから会計をして会場準備をしましたので2時10分頃のスタートでした。これは他のブログを見てもかなり遅いスタートだったようにも思います。<br /> <br /> そうは言いましてもショー自体は延長してこの日は3時間以上あって、それがあっという間に感じられるくらいずっと驚かされました。<br /> <br /> ありえないマジック・・・ というより、もはや噂通り超能力です。<br /> <br /> <br /> 実は、このお店に入ってからお腹の丹田のあたり、チャクラでいうとマニプラ・チャクラ(ソーラプレクサス・チャクラ)がずっとウズウズとしていて、お腹をぐりぐりとえぐられるような感覚になっていました。<br /> <br /> これは、それなりの能力者が近くにいるとよく起こることで、お店に入ってすぐこうなるのであればこのマスターはかなりできる人だ・・・ と思っておりましたがやはり凄かったです。インドの著名なスワミの近くに行った時も同様にお腹がぐりぐりと来ましたけど、ここまで強くぐりぐりくる人はインドでもそうそういないです。<br /> <br /> 物質的な能力はマニプラ・チャクラを使うとは言いますけど、実感としても現実的な能力者はマニプラが強いようにも思いますね。何となくの感覚ですけど。<br /> <br /> その下のスワディスタナ・チャクラ(セイクレル・チャクラ)になりますと無意識のチャクラですので意識的な制御はできないのですけど、マニプラになりますと意識的な制御ができるのですよね。<br /> <br /> そうは言いましても、単にマニプラが強いだけですとあのような能力はおそらくできなくて、サハスララまでエネルギーが通じているからこそマニプラを強く動かすことができるようにも思いますね。<br /> <br /> コロナ禍で人数を減らしているとのことで、普段なら30人ほどの観客が今は20人にまで減らしているとのことで、今回は19人でしたのでおそらく大雨で1人来られなかったのではないかと思いますけど、この人数ですとかなりゆったりとはっきりと見ることができました。<br /> <br /> 世間はコロナで大変ですけど空いているというのはこういう時はラッキーに働きます。不幸中の幸いというところでしょうか。<br /> <br /> 私は後ろで立っての鑑賞でしたけど、体を少し動かすスペースもありましたのでそれほど問題にはなりませんでした。<br /> <br /> <br /> <br /> 見たところ、このマスターの能力は以下ですね。<br /> ・物質化能力(およびそれと対になる非物質化能力、テレポーテーション)<br /> ・他人の心(マインド)を読む能力<br /> ・リモートビューイング(空間を超えて見る能力、時間を超えて見る能力)<br /> <br /> それを時々に切り分けて使っていたように思います。<br /> <br /> カードの内容を読むときは、リモートビューイングで見ることもできますけど観客の心を読む方がおそらく楽で多用していたように思いますね。書いた文字を読み取る時はリモートビューイングで、観客に書かせた名前を読むときにその読み方が何なのか「なんて読むのかな? これかな?」と確認していたのはリモートビューイングですね。<br /> <br /> そして、カードを読むときに私が1つ気がついたのは、読み取り手である観客が少し遠くてトランプのマークを読み間違えた時にその間違いがそのままマスターに伝わったことです。具体的には、確か三つ葉のマークだったように思うのですけど観客はスペードだと思っていて、私は割と目が良いので三つ葉だとわかりましたけど確かにスペードと見間違えることもあるかもしれなくて、観客がスペードと思っていたらそれをマスターが読み取って、「あなたのカードはこれでしょ」とスペードの何番かを出して指示された観客が「正解」と言っていましたので、実際には三つ葉だったのですけど、指定された観客がスペードだと思えばそれをマスターが読み取ってスペードだと判断したわけです。私が単に見間違えていた可能性もありますけど。<br /> <br /> おそらく、確かめのためにリモートビューイングで見ることもできるとは思うのですけど、それは使い分けで、両方やっていたら大変ですし、割とマジックはテンポよく進みますのでそればかりしていられないですし、心を読むので十分な時はそれでやっているのかな、と思いました。この、スペードと三つ葉の間違いがあったことで私の推測は割と確信に変わりましたね。<br /> <br /> 心を読むときも、そんじょそこらの能力者の場合は沢山の人の思考が一気に入ってきてしまって混乱してしまいますけど、このマスターの場合はくじで指定した人にカードを読み取らせたりしていますので、明示的に意識的に誰かの思考を読み取ることができるように思います。ということは相当の能力者ということです。<br /> <br /> これまたそんじょそこらの能力者ですと肉体に近い粗雑なオーラを他人と融合させてオーラ結合によって他人の意識を読み取るのですけど、その場合、結合した相手にも自分の意識というのが伝わって融合してしまいますから読み取った相手にも違和感や勘のようなものが伝わってしまいますが、マスターの場合は相手に何も気付かれずに読み取ることができるように思いますから、もっと微細なところで読み取っているようにも思います。指向性アンテナのように他人の思考を聞き取ることができるのでしょう。<br /> <br /> あるいは、仮説ではありますけど、あらかじめ料理を提供して食べさせる、というのが鍵かもしれなくて、その料理でマスターのオーラが観客の体内に取り込まれますから、そのオーラが残っている間はマスターが他人の思考を読み取りやすくなっているのかもしれないですね。<br /> <br /> 世界には凄いマジックをする人が沢山いて、同じようなマジックをするだけであればおそらく他にもいるにはいるのかもしれないですけど、上記のように、各所に本当の能力者かと思わせるような点が多々見受けられました。<br /> <br /> 本能が判断するところによるとこのマスターは本当の能力者ということなのですけど、この世を生きる者としては一応はそうではなくて単なるマジックだ、という選択肢も一応は持っておいた方がいいかとは思います。マスターから来るマニプラへの感覚、及びマジックの内容からしてこのマスターは本物のように思いますけど、過去、多くの著名な方々が「偽の能力者」に何度も何度も騙されてきた経緯もありますので、一応はそのような場合も想定しておくくらいがいいようにも思います。百歩譲ってもし単なるマジックだったとしても「人間にはこのようなことができるのだ」という可能性を広げてくれるのは確かですし、それによって、限界を超えて人間が成長できるのですから大したものだと思います。<br /> <br /> 何より、とても安いですしね。1回の食事代だけで何時間もショーが見れるなんてそうそうありませんよ。<br /> こちらが提供するのは食事代だけですし、旅費はもちろんかかりますけどそれはショーとは関係ないですしね。<br /> <br /> 悪意は全くないですし、私はマスターのことを能力者かなと思いますけど単なるマジックだとしても一見の価値があると思います。<br /> <br /> 途中、お札の番号を控えてから生卵と一緒に袋に入れ、その後、生卵の中にお札を動かす、という意味不明なマジックをやってのけました。もちろん番号は一致している筈ですけど、マスターからしてみたらおそらくは当たり前すぎて、番号確認のステップがめちゃくちゃあっさりしてテーブル席の人に少し見せてからそのまま片付けていたのがお茶目でした。まあ、番号が一致しているのなんて当たり前ですし、きちんと見るまでもない、ということなのでしょうかね。そんじょそこらのマジシャンの場合は信じさせるためにわざわざ番号を時間かけて確認して盛り上げたりしますけど、ここのマスターの場合はそれは一応は確認しているけれども、そもそも本当の能力を使ってやっているので、そのような小手先のテクニックはほとんど使う必要もない、というように思えました。<br /> <br /> ルービックキューブを一瞬で、文字通り1秒であっという間に揃えさせるマジックが本当に意味不明。<br /> <br /> 隠して差し替えるというのではなく、胸の前でこちらに向けた手に持っていたルービックキューブが空間に消えて、そのすぐ下に完成されたルービックキューブが空間から現れてきてまた手ですぐに掴むのです。後ろに隠していてすぐに差し替えるマジックだとしても手の動きが意味不明に素早いということになりますけど、それより、私の目にはルービックキューブが空間に消えたように見えました。そして、ルービックキューブがまた空間から出てきました。手から少し離れた、少し下の空間にルービックキューブが出てきたのです。意味不明です。<br /> <br /> トランプを空中から取り出す、みたいなマジックもありましたけどそれはトランプですからいくらでも隠しようがありますけど、その場合も、私の目には、空間からトランプが一瞬で半透明の状態から出てきたように見えました。<br /> <br /> サイババのように物質化能力があるのでしょう。<br /> <br /> 他のマジックでは、お札が目の前にあって、それが何やらぼやけているのです。なんだろう・・・ と思っていたら、急に普通のお札になります。半物質化の状態だとぼやけて見えるのかもしれませんね。1000円札が10000円に目の前で変わったり、顔がいくつもあるお札が出てきたりします。いくつかは用意しておいたマジックネタで、いくつかは能力かもしれませんね。あらかじめ顔を面白く印刷したお札を用意しておいて、それを半物質化しておいてから物質化する・・・ ということかなと。<br /> <br /> トランプを投げて額の中に入れるマジックはテレポーテーションのように見えましたけど、これは普通のマジックでもできますけど、各種の他のマジックを見る限り、普通に能力使ってやった方がマスターにとっては手間がない気がします。<br /> <br /> <br /> <br /> 最後、終わった後にお土産を買ったのですけど、噂ではESPカード(2,000円)というお土産を買うと頭の上にバチっとやってくれるということでしたけど今はコロナ禍でそれはやっていなくて、ですけど、もっといいものを(特別に?)してあげようと言われて、右腕を出して、その上に離れたところから何やら見えない手で触られて肩の方へとエネルギーを入れてくれた感じでした。何かよく分からないですけど凄いです。<br /> <br /> 最初、腕を出してと言われたので右手を出したのですけど、マスターが前腕を重ねてきて「エネルギーを感じるでしょ?」と言われたものの、「エネルギー? 腕に触れてるだけでしょ? それにしても柔らかい皮膚だなぁ・・・。前腕の全部が重なって触れていて、少しづつ二の腕の方に動かしているのかな・・・。腕が肩の方に動いているのはわかるけど、エネルギーっていうより腕が触れているだけのような」と思ってふと目線を下にしてみたら、なんと、腕が触れていなくて15cmくらい離れているではありませんか。触れていないのに触れているかのような感覚があったのです。ちょっと意味不明で頭が混乱してしまい、「え?」と、言葉になりませんでした。そうこうして混乱してるとマスターが腕を離して、それで終わりになったようです。前腕が重なって触れていて、二の腕の方にまでサワサワと触れている感じでしたけど、最初から全く触れていなかったようです。コロナ禍ですので触れるようなパフォーマンスはしていないということでしたので今回も触れてはいなかったわけですけれども、確かに、触れているにしては随分と柔らかい、ムニャムニャとした不思議な腕の皮膚だなぁ・・・ と思っていたのですが、それはマスターのエネルギー的な腕だったようです。おそらくはマスターのエネルギー体だけが動いて腕に触れてきたのでしょう。いやあ、驚きです。<br /> <br /> そういえば言っていたのですが、マスターは剣道だか何かもすることができて、気合いだけで木を吹っ飛ばしたりすることもできるようです。マジックショーでは危険なのでそこまでやりませんでしたけど、紙を飛ばすくらいのショーは軽くこなしていました。ですので、エネルギー的なものの操作もお手のものなのでしょう。<br /> <br /> どれも驚くショーだったのですけど、一番最初、まだ皆がそれほど集中していない、その隙を狙ってマスターがジョークをしてETのエイリアンのように手の指先をぐにょっと曲げたのですけど、その時、いきなりでしたので皆、固まって何が起こったか沈黙していましたけど、私の目が錯覚ではないのなら、その時、マスターの指が伸びて本当のETのようになっていたように思います。・・・いや、これ、私の見間違いでしたかね。指先に何かつけていたのか・・・。 いや、つけていたとしても、指先が小さくなることはないですよね。指を曲げたまま指の先だけETの指のおもちゃをつけていたのかな・・・? という可能性もあるにはありますけど。マスターの手はずっと出たままでテーブルの下に隠すようなタイミングはなくて、皆の前で手をぐにょっとETみたいに細く長く曲げた後に少し体の方に戻したらその瞬間にはマスターの手が元に戻っていて、私はその手にびっくりして言葉も出なかったので凝視していましたので手に釘付けだったのですけど手が瞬時に元に戻っていて「あれ? 今のETみたいな手は錯覚だったのかな?」と思えるくらい瞬時に手が変化していたのです。<br /> <br /> 指の太さはあんな大きさだったかな・・・ と思って凝視したところ、気持ち、そのまた5秒後くらいにはもう一回り小さくなったような・・・? これって錯覚ですかね・・・? 少なくとも最初のETの手だった時は指が相当に細くて長かったのに、今はもう普通でそれなりに小さな手のような・・・? <br /> <br /> マスターは自分の体を自由に変えられるのでしょうかね・・・?<br /> <br /> ETの手をした直後にもう片方の手で素早く小道具を引き抜いた可能性もあるにはありますけど。次行く機会があればその点も含めて見逃さないようにしたいと思います。<br /> <br /> ですけど、私の見たところ、マスターの手が3段階で長さと太さが変化したように見えて、最初ETの手、その後すぐに、少し長めの指の手、その5秒くらい後にはもうちょっと短くて太めの指、というように段階的に変化したように見えました。ETの手だけであれば小道具でしょうけど、中間の、ETほどではないですけど少し長めの指と、更にもう少し短くて少し太めの指、との間はマジックで見せている部分ではないので、手の指の太さを元に戻すためにちょっと調整していたのではないか・・・ と思えてしまうのですけど、どうでしょうか。自分の体の形を自由に変えられるのではないでしょうか。<br /> <br /> その後、カッターナイフを取り出して、指を半分切ったりして皆が叫んだのですけど血は出なくて、カッターを抜いても刃はそのまま。血もでない。そもそも切れていない。 これはマジックでも可能と言えば可能かもしれないですけど、マスターが能力者だと思った方が全てに合点がいきます。<br /> <br /> 噂では、とても乗り気になった時に時折、腕全体を壁に通すマジック・・・ というかもはや超能力を見せてくれるらしいですけど、この日はありませんでした。腕を壁に突き刺して向こう側まで手を通し、その境目を観客に時間をかけて確認させたこともあったとか・・・。マジックではあり得ないです。とはいえ、似たようなマジックは何度も見ることができました。いや、もう私の中の「(人の能力の)限界」を取り払ってくれた日でした。<br /> <br /> 人間はこのような凄いことができるのだ・・・ と思うと、人間の可能性を感じます。<br /> <br /> 噂では、一時期R国に狙われて”拉○してR国のために働かせよう”という動きがあったみたいですけど自衛隊が数ヶ月かくまって保護した、という伝説があるようです。R国も認知している超能力者で、おそらくは今も自衛隊が常に要人の一人として陰ながら守っているのではないかと思いますが、どうでしょうかね。<br /> <br /> 生きる伝説のうちの1人のショーを見ることができて、十年来の希望を叶えることができました。<br /> <br /> <br /> ・・・その後、検索してみると「これは超能力ではなくマジックです」みたいなお話が山ほど出てきますけど、どうでしょうかね。私には本物のように見えましたけどね。<br /> <br /> 私自身、コップの中のサイコロを自分の好きな数字に変える、というマジックのお手伝いをしましたけど、私は高い椅子の上に最後尾で立っていて上には天井しかなくて、天井には何もなくてコップの中の数字を変えましたけど、何から何に変えた、というのはばっちり当てていました。少なくとも他人の心を読むことができるのは確実です。<br /> <br /> 心を読むだけであれば能力者は割と実はいて、身近なところでは女性は無意識のうちに心を割と読んだりしているのですけど、マスターはかなり正確に読み取っていましたね。<br /> <br /> リモートビューイングも、心を読む以上に難しいことではありますけど他にもできる人はぼちぼちいて、そこまで珍しいことではないですけど正確さから言ってマスターの能力は高いです。<br /> <br /> 一番凄いのは物質化能力で、確かにマジックでも似たようなことはできますけど、私はここ数年来、瞑想を続けるうちに動体視力が良くなって視界が割とスローモーションで認識できますので、それなりに早い動きであったとしても見抜けるのですけど、物体がどこかの方向に動くのではなく薄くなって消えて行って、また空間から半透明な状態に一瞬なった後に物体化していましたので、もしかしたら早過ぎて残像が見えているだけかもしれないですけど、早過ぎる動きだとすればそれはそれで凄いですし、早過ぎで動かすためには腕も動かさないといけないですけど腕は動いていなくて止まったままで物体だけ消えて物体が出てくるので実際の物質化能力であると思います。<br /> <br /> 紙に書いたカードの箱の絵が実体化して、紙から絵が消えた瞬間にすぐ下に物体化してカード入れの箱が出てくる、というマジックは圧巻です。意味不明です。ブログを見ると、食べられるもの(ハンバーガー等)を取り出したこともあったとか。カードの箱くらいなら紙や手で隠せるでしょうけど、重さがあるでしょうから紙の動きが変わってくるでしょうし、私は直接は見ていないですけど元の紙や手で隠しきれないサイズのハンバーガー等が出てくるのは意味不明です。カードの箱にしても、紙の後ろから落ちてきたのではなくて、紙から少し離れた下のところに突如出現して、万有引力の法則がそこから始まったかのごとく、その、紙から少し離れた下のところで持っている手を離したがごとく自由落下が開始されますので、その上の紙や手のところから落としたのではなくて、紙の少し下に突如現れて自由落下をしたとしか思えません。<br /> <br /> まあ、インチキだとか言っている人は、動体視力がどのくらいある人が言っているのかにもよりますよね。目がとてもいい人が「動いてすり替えている」と言っているのなら信憑性もありますけど、同じようなマジックがあって小道具が売られているからマジックだ、というのはあまりにも安直過ぎやしませんかね。スポーツ選手とかで動体視力がいい人が実際にその目で見て「動いてすり替えている」というのなら信憑性がありますけど、みたところ、そういう意見は見当たりませんよね。まあ、マジックだと思うのならそれがその人の真実なのでしょうから、好きにすればいいとは思います。一部の人は「マジックでもできる」というだけでマスターの能力を否定できたつもりのようですけど、マジックでもできるからと言ってマスターの能力の否定にはならないですしね。私が思いつかないだけでマジックでもできるのかもしれないですけど、私が見た範囲では本物だと思いましたね。いくつも、マジックでは不可能と思われるものもありましたけど、私が思いつかないだけでマジックでもできるのかもしれないですけど、まあ、マジックでもできるかどうかとマスターの能力とは本来は無関係ですので。<br /> <br /> 私の動体視力では一瞬だけ半透明になって消えて一瞬で現れているように見えます。半透明、というとあれですけど、アニメや映画みたいに、中央部分に向かってほんの一瞬で収束しつつ同時に一瞬で半透明になって消えていき、現れる時はそのような半透明や大きくなるという感覚なしに瞬時に現れます。ですから、消える時と現れる時で感覚が違うのです。消えている時は収束するように一瞬で消えた、という感じですけど、現れる時は最終的な形態に一瞬で現れます。これはおそらく、視覚的に、現れた後はそのままそこに存在し続けるので残像を見にくい、という違いがあるのではないかと思います。でも、見えにくいだけで、現れる時も、なんとなく、同様に半透明と中央から拡大、という過程を通っている気がしますけど、どうでしょうか。ただ、今から思えば、中央に半透明で消えるパターンと、その場で瞬時に消えるパターンとがあったような気が致します。消える速度とか、マスターの意図とかで消え方、現れ方が違うのかもしれません。<br /> <br /> ルービックキューブを見ないで口頭で言いながら揃えさせる技にしても、観客がぐちゃぐちゃにしたキュービックキューブを観客に動かさせて、しかもマスターはルービックキューブを見ないで完成させた技は凄すぎます。これはマジックだとしても凄い技です。超能力といえばそうなのでしょうけど、普通に頭脳の能力がとても高いです。トランプのカードを一瞬で映像記憶できたりしますからね。<br /> <br /> <br /> 心を読む能力を持つ人は割とそこら中にいて珍しくないですがマスターは正確に読んでいましたので能力は高く、リモートビューイングもぼちぼちいらっしゃいますので唯一無二というわけではないですがマスターのリモートビューイング能力は高く、それに加えて、物体化能力に関しては唯一無二で秀でていると思いました。<br /> <br /> Sat, 14 Aug 2021 00:00:00 +0900 スピリチュアル: バガヴァッド・ギーター https://w-jp.net/topics/スピリチュアル: バガヴァッド・ギーター/ スピリチュアル: バガヴァッド・ギーター ヨガの道は神の実現への独立した手段でもあり知識の道の補助にもなり得る https://w-jp.net/2021/2414/ <br /> <ギーター解説書の続きを読んでいきます。><br /> <br /> 次の質問は、「ヨガの道は神の実現への独立した手段ですか、それとも知識の道の補助として神の実現に貢献しますか?」です。この質問に対する私たちの回答は、ギーターがこれらの両方の見解に同意しているということです。言い換えれば、ギーターは、ヨガの道を、神の実現または解放への独立した手段でもあり、又、知識の道の補助でもありますから、両方であると考えています。努力者がそう望むなら、彼は学問知識の助けなしに、カルマヨーガの実践を通して直接最高の完成度を達成することができます。または、カルマヨーガを通して知識の道へのアクセスを得て、彼は知識の道を踏むことによって神を実現することができます。彼が採用すべき2つのコースのどちらかは、彼の好みまたは素因によって異なります。ヨガの道が独立した手段であるということは、V.4と5、そしてXIII.24で主によって明確に確認されています。神のみのために働き、神に心を留め、神の恵みによって神を悟る者は、いくつかの場所で主によって宣言されています(VIII.7; XI.54、55; XII.6-8)<br /> <br /> 無関心な行動と崇拝の両方が、知識の道の補助としての役割を果たすこともできます(V.6; XIV.26)。 しかし、ニャーナヨーガ(Jñānayoga, 知識のヨーガ)は崇拝者が神を自分自身と見なす崇拝の形態を特徴としているため、知識の道はバクティヨーガ(献身のヨーガ)あるいはヨガの道を補助することはできません。と言いますのも、それらの道では崇拝者が神を彼とは異なるものと見なすからです。知識の道の信者が後で彼の傾向や意見が変わったことに気づき、知識の道をあきらめてヨガの道に行き、そしてヨガの道を通して神を実現するならば、それは全く別のことです。<br /> <br /> Tue, 13 Jul 2021 00:00:00 +0900 2つの神のための行動 https://w-jp.net/2021/2413/ <br /> <ギーター解説書の続きを読んでいきます。><br /> <br /> 「神のための行動」も2種類あります。<br /> <br /> 経典によって課せられた義務。それは神の願いに従って、神の実現または神の愛の達成を目的として、あるいは神の喜びのために、そしてあるいは主のイメージなどに崇拝を捧げることを目的として行われる。もう1つの崇拝の形は礼拝と瞑想です。それは神のみのために行われ、見た目からも神と関係がありますが、どちらも「神のための行為」に含まれています。 これらのタイプの行動は両方とも、ギーターでは「マトカルマ(Matkarma)」と「マダルサ-カルマ(Madartha-Karma)」という用語で呼ばれています(XI.55; XII.10)。<br /> <br /> 排他的な献身として語られてきたもの (VIII.14, 22; IX.13, 14, 22, 30, 34; X.9; XIII.10; XIV.26) は、「Bhagavadarpaņa」(神に捧げられた行動)と「Bhagavadartha」(神のための行動)という言葉で表される2種類の行動にも含まれています。 これらすべての果実である神の実現は同じです。<br /> <br /> <br /> Tue, 13 Jul 2021 00:00:00 +0900 3種類のカルマヨーガヨガ https://w-jp.net/2021/2412/ <br /> <ギーター解説書の続きを読んでいきます。><br /> <br /> 知識の分野が上記のように4つのタイプに分けられたましたが、 それでも、ヨガの分野は主要な3つに分類されるかもしれません:–<br /> (1)行動に特に重点を置いたカルマヨーガ。<br /> (2)献身とブレンドされたカルマヨーガ。<br /> (3)献身に支配されたカルマヨーガ。<br /> <br /> (1)行動に特に重点を置いたカルマ・ヨーガは、社会の学年と舞台生活を十分に考慮して経典に定められた義務を遂行することであり、すべての行動と世俗的な物に対する果物と愛着への欲求を完全に放棄します。このタイプのカルマヨーガに関する教えの中で、主はいくつかの場所で果物だけの放棄を主張しました(V.12; VI.1; XII.11; XVIII.11);他の場所では、彼は愛着の放棄だけに重点を置いています(III.19; VI.4)。さらに他の場所では、彼は果物の放棄と愛着の放棄を要求しました(I.47、48; XVII.6、9)。果物の放棄だけに重点が置かれている場合、愛着の放棄も同じものでカバーされていると見なされるべきです。愛着の放棄だけが主張されてきた文脈では、果物の放棄もその中で暗示されているようにとらえるべきです。規律ある行動は、果物と愛着の両方が放棄されたときにのみ実際に実現することができます。<br /> <br /> (2)献身と融合したカルマヨーガ:この分野では、努力者は、神を全宇宙に存在すると見なして、彼のヴァルナ(社会の学年)に適した職務の遂行を通じて神を崇拝するように求められました(XVIII.46)<br /> <br /> (3)献身が支配的なカルマヨーガ:それはさらに次のように分けられます:–<br /> (a)神への行動の提供<br /> (b)神のための行動。<br /> <br /> 神への行動の提供も2つの方法で実践されます。 「完全な降伏」として知られているものでは、努力者はすべての行動に関して、私があるという感覚、愛着、そして果物への欲求を放棄します。 彼は、すべてが神のものであり、彼も神のものであり、彼によって行われるすべての行為も神であり、興行師が彼の人形によって物事を成し遂げるときに彼によってすべてを成し遂げているのは神であると信じています。 そして、この信念をもって、彼は彼の願いに従って、そして彼の喜びだけのために、聖典(Sāstras)で規定された義務を果たします(III.30; XII.6; XVIII.57,66)<br /> <br /> これに加えて、最初に神以外の他の動機で行われた行為は、後の段階で神に提供されるかもしれません。 活動の過程でも、あるいは、実行の途中でさえも提供される場合があります。 完了した後すぐに提供される場合もあります。 またはその果実だけが提供されるかもしれません。 これらはすべて、初期段階に過ぎませんが、神に自分の行動を提供する非常に多くの形です。 上記の「完全な降伏」の段階に最終的に到達するのは、これらの予備段階の継続的な実践を通じてです。<br /> <br /> <br /> <br /> Tue, 13 Jul 2021 00:00:00 +0900 求道者(サダカ)の自己実現 https://w-jp.net/2021/2411/ <br /> <ギーター解説書の続きを読んでいきます。><br /> <br /> 求道者(サダカ)が上記の精神状態を達成できるようにするために、主はさまざまな手段や複数の場所で自己(Self=ブラフマン)が見る者であり鑑賞者であり意識そのものであり永遠であるという真実をサダカの心に教え込まれました。客観的に見える身体などのすべての物質の存在(現れるすべて)は一時的であり、したがって現実ではありません。自己(Self)だけが本物です。この見方を支持するために、主は第2章の11節から30節を、永遠の、純粋な、目覚めた、形のない、変化のない、行動のない、超越的な自己に関する議論に捧げます。神を自分自身と見なす求道者(サダカ)は、魂がこれらの特徴を持っていると見なして精神的な自己鍛錬(サダナ)を進めた場合にのみ、自己実現を達成します。どんな行動・活動が起こってもグナの遊びに他なりません。自己はそれらの行動・活動とは何の関係もありません(V.8、9; XIV.19)- 自己それ自体は何もしませんし、何かを起こすようなこともありません。これの気付きを得て認識することで、求道者たちは絶えず永遠に自分自身の中で最高の喜びを感じます(V.13)。<br /> <br /> 上記のニャーナヨーガの4つの慣習のうち、最初の2つはブラフマンの崇拝に関連しており、3番目と4番目は崇拝者が神を自分自身と見なす崇拝の形態と結びついています。 ここで疑問が生じます:上記の4つの実践は、抽象的な瞑想の終わりに、または瞑想自体の間に実行されるべきですか? または、両方の状態に関連がありますか? この質問に対する私たちの回答は、上記のセクション(4)の終わりに描かれた、V.9に示されている行に進むプロセスのみが、世界に対処しながら実践されるべきであるということです。 一方、セクション(2)の冒頭で与えられ、第V章の17節に従って実践されなければならないことは、瞑想の間だけ続けられるべきです。 残りは通常、両方の側面で実施できます。<br /> <br /> これに関連して、ギーターからの以下の抜粋が私たちの特別な注意を引き付けます。<br /> (1)वासुदेवःसर्वमिति-現れるものは何でも神と同じです(VII.19)<br /> (2)सर्वभूतस्थितंयोमांभजत्येकत्वमास 確固として確立された人は、'私'を人々の自己(Self)としてすべての存在に住んでいるものとして崇拝します」(VI.31)。ここで質問する人がいるかもしれません:上記のセクション(1)で説明したプロセスに関連してこれらが言及されていないのはなぜですか? この質問に対する私たちの答えは、これらの聖句は両方ともバクティの文脈で発生し、両方とも神が実現した魂に関連しているということです。 したがって、それらは最初の実践に関連して言及されていません。 しかし、だれかがこれらの聖句を知識の道に関係しているものとして扱い、それに従って実践を続けたいと願うなら、それに異議を唱えることはできません。<br /> <br /> <br /> Tue, 13 Jul 2021 00:00:00 +0900 全てのものはブラフマンであるという原則 https://w-jp.net/2021/2410/ <br /> <ギーター解説書の続きを読んでいきます。><br /> <br /> 原則は、次のように詳しく説明することができます。<br /> (1) この世界に現れる生物や無生物のもの全てはブラフマンです。それは、 確実なる真理、意識、至福である神と何ら変わりはありません。 私たちが実行する行動が何であれ、その行動の手段と道具、そして実行者自身など、そのすべてがブラフマンです(IV.24)。 海に浮かぶ氷の塊が内側も外側のどちらもそれぞれ水と水だけで浸透しており、塊自体が水に他ならないのと同じように、すべての生物と無生物の内側と外側の両方がそれぞれ神と神だけであり、神によって存在し、神のみが存在し、神がそれらすべての存在の形で存在するのです(XIII.15)。<br /> <br /> (2) すべての驚異的な存在を幻想的で瞬間的でやがては消え去るものとして否定し、それらすべての基盤、つまり神だけが存在し、神以外には何も存在しないことを認識し、精神と知性さえもブラフマンに統合されるべきです。 したがって、神との同一性を確立するために、求道者(サダカ)は直接の実現(気付き)を通して神と一体になるべきです(V.17)。<br /> <br /> (3) 生物と無生物の創造物全体がブラフマンであり、そのブラフマンは私自身です。 したがって、すべては私自身です。 この考え方に従って、求道者(サーダカ)はすべての生物と無生物を自分自身と見なす必要があります。 上記の実践を続ける求道者(サーダカ)の目には、ブラフマン以外に何も残っていません。 ブラフマンは彼の内にある確実なる知識と至福と同じものであることを識別することで彼は喜びに満ち溢れます。(V.24; VI.27; XVIII.54)。<br /> <br /> (4) 全ての現象的な存在およびそれから生じる活動の全ては永遠ではなく、滅するものであり変わりゆく幻想であり、また、3つのグナの産物であると見なし、本当の「私」とは離れたものであると見なし、それら全てを完全に否定しつつ、「私(Self=ブラフマン)」のみが本当に存在している唯一のものであると識別すべきです (XIII.2、34)。<br /> <br /> <br /> <br /> Mon, 12 Jul 2021 00:00:00 +0900 知識の道にある4つの原則 https://w-jp.net/2021/2409/ <br /> <ギーター解説書の続きを読んでいきます。><br /> <br /> 実際に知識の道を歩むために、主はいくつかのプロセスを提案しました。そのすべてにおいて、真実であるところの神の実現、確実なる意識と至福を得るという成果は同じです。 多くの副次的な種類がありますが、知識のヨガは、4つの主要な種類に分けることができます。 それらは、以下の原則によって表されることがあります。<br /> <br /> (1) 全てのものはブラフマンであり、存在するのはブラフマンだけです。<br /> (2) すべての現象的な存在は幻想です。 実際、真実、意識、至福であるブラフマン以外には何も存在しません。 <br /> (3) 現れるもの全ては私自身です – それは私です。 <br /> (4) 現れる全てのものは幻想的で一時的なものであり、実際の存在ではありません。 私である、永遠の意識のある自己だけが存在します。 <br /> <br /> これらの中で、最初の2つはヴェーダの公式 'Tattvamasi' (Thou art That)の Tat (That) を参照しています。最後の2つは同文の Tvam (Thou) を参照しています。<br /> <br /> <br /> <br /> Mon, 12 Jul 2021 00:00:00 +0900 2つの道の本質的な特徴 https://w-jp.net/2021/2408/ <br /> <久々ぶりに、ギーター解説書の続きを読んでいきます。><br /> <br /> (1)すべての物体は、蜃気楼で見られる水、あるいは夢の世界のように幻想的または非現実的です。心、感覚、および体から生じるすべての行動は、マーヤー(自然)から生まれたグナの動きに他なりません。感覚などの形で、さまざまな感覚の対象の形でグナの中に生じます。 これを理解することで、知識の道の信者はもはやそれらの行動の実行権を主張しません(V.8-9)。 そして、真実であり意識と至福でありすべてに浸透している至高の精神または神とのアイデンティティを常に確立したままで、彼は神以外のものの存在を認識することをやめます(XIII.30)。 これが知識の道、またはサーンキャニシュター(Sānkhyanişthā)と呼ばれるものです。 ニャーナヨーガ(Jñānayoga)またはカルマサンキャーサ(Karmasannyāsa)とも呼ばれます。<br /> <br /> (2)一方、ヨガの道の信者は、すべてを神のものと見なします。 彼は成功と失敗の準備ができており、愛着と実の欲望を放棄し、神の願いに従ってすべての行動を実行します(II.47-51)。 または、思考、言葉、行動において神に身を任せ、信仰と敬意を持って、彼の名前、美徳、栄光とともに、神の形について絶えず瞑想を実践します(VI.47)。 これがヨガの道を構成します。 サマトヴァヨガ(Samatvayoga)やブッディヨガ(Buddhiyoga)など、他のさまざまな名前で指定されているのはこの道です。 <br /> つまり、平静のヨガ「タダルサカルマ(Tadartha Karma)」または「マダルサカルマ(Madartha Karma)」、すなわち神のために働くこと。Sāttvika Tyāga(Sāttvikaの種類の放棄)。<br /> <br /> ヨガの道では、バクティまたは献身は、一般的な方法、あるいは、規則の原則として役割を果たします。 ギーターで発表されたヨガの道は常に献身から離れていません。 献身の神(II.47-51)について明確に言及していない節でさえ、いかなる場合でも主の戒めに従うことを含んでいます。 そしてそれもまた神の実現を助長します。 この意味で、バクティは間接的にそこも考慮しています。<br /> <br /> Mon, 12 Jul 2021 00:00:00 +0900