スピリチュアル https://w-jp.net/topics/スピリチュアル/ スピリチュアル ゾクチェンの修行法を記した「イェシェ・ラマ」 https://w-jp.net/2019/1717/ <br /> 「知恵の遙かな頂(ラマ・ケツン・サンポ 著)」によりますと、イェシェ・ラマという本にゾクチェンのことが詳しく書かれてあると言います。原本は入手できていませんが興味深いです。<br /> <br /> ゾクチェンの瞑想は2つでできていて、「テクチュウ(突破する)」と「トゥカル(跳躍する)」でできており、イェシェ・ラマに詳しく述べられていると言います。<br /> <br /> テクチュウの瞑想は心の雑念を取り払って清々しい清浄なる空(くう)を体験することが目的で、そのために特別なマントラを唱えたりもするようです。<br /> <br /> 同書には以下のように記されています。<br /> <br /> テクチュウでは目が見たり、耳が聞いたりするイメージや、自分の心に浮かんでくる感情や思考という形をとるイメージのすべてを「突破(これがテクチュウという言葉の意味だ)」して、チベットの空のように雲一つない真っ青で透明な本性を持った、裸の状態にある心に、たどり着いていくために、激しい瞑想をおこなう。そして、それができるようになると今度は、青空や太陽をみつめながら、「跳躍(トゥカルとはそういう意味を持っている)」の瞑想に入っていく。「知恵の遙かな頂(ラマ・ケツン・サンポ 著)」<br /> <br /> その時の経験を、同書では以下のように述べています。<br /> <br /> 透明な空性(くうしょう)からは、途切れることなく、光の滴がわきあがってくるのだ。(中略)裸の心が、ありありと体験される。そのまっただ中から、今度はトゥカルの瞑想が、空性のはらむダイナミックな運動の本性を、光の体験として、私たちの前にしめすのである。「知恵の遙かな頂(ラマ・ケツン・サンポ 著)」<br /> <br /> このあたりを読むと、やはり「空(くう)」の次は光の体験が続くのだな、ということがわかります。<br /> <br /> 具体的にどうすれば良いのかは謎が残りますが、そのうち他の書籍も調べていきたいと思います。他のスピリチュアルとそこまで変わらないのかもしれませんが、何かヒントが眠っているかもしれませんし。<br /> <br /> Fri, 15 Nov 2019 00:00:00 +0900 ゾクチェンとヴェーダンタ https://w-jp.net/2019/1715/ <br /> これら2つに共通点があるような気が致しました。<br /> <br /> ゾクチェンとはチベットにおけるボン教の最高の教えですが、「チベッタン・ヒーリング(テンジン・ワンギェル リンポチェ 著)」によりますと、ゾクチェンの境地とは清らかな境地、空(くう)と光明の状態だと説明されています。更には、現象というものに対していわゆる無常のような境地も説いています。実際には境地というよりも現象の説明と言った方が良いでしょうか。<br /> <br /> これは、どこかヴェーダンタに似ています。おそらくは根本は共通なのでしょう。ヴェーダで解く世界観と、チベットのボン教が説く世界観とが私の中で奇妙な一致をしたのです。もちろん完全に一緒ではありませんが、本質は同一だと直感でピンと来たのです。<br /> <br /> 以前から何冊かゾクチェン関係の書籍を読んだりヴェーダの勉強をぼちぼちしてきましたが、今まではこれら2つが共通だと思うようなことはなかったように思います。<br /> <br /> それが、ここに来てその本質が同一だと思うようになったきっかけは、上で参照した書籍の説明でした。<br /> <br /> ゾクチェンとは何なのか・・・ それを簡単に説明するのはとても困難です。上の書籍はそれでもわかりやすく述べていると思います。私の手元にある他の本は、私にはそのニュアンスをしっかり引き出すことができませんでしたが、上の書籍でようやくピンときた感じが致します。<br /> <br /> ゾクチェンの説く「空性」とは、確かにそれは人が悟ることができるものではあるのですが、それよりも、この世界の本質が「空(くう)」であり、いわゆる無常であり、それがそのまま「光明」であり、スピリチュアルでよく言われている「この世界は光でできている」ということであり、全てが光り輝いているという本質を説明しているのがゾクチェンという教えのようです。人が悟ると言うよりも、この世界のありようを説明しているものだと思うのです。そして、それが自分と関連したときに光明だとか悟りだと言われたりする。<br /> <br /> ダライ・ラマなどもゾクチェンを説明していますが、それは仏教的な観点から説明されており、読み解くのがとても困難です。それよりもチベット古来のボン教の教えは仏教化されていないような気がしていまして、仏教化されたゾクチェンとしての解説を読むよりもボン教のゾクチェンを読んだ方がすんなり理解できるような気が致します。<br /> <br /> どちらにせよ本質は一緒なのかな... というのを改めて感じています。<br /> <br /> 今回はボン教のゾクチェンとヴェーダンタとの一致を見たわけですけれども、そうとなれば、仏教の本質も同じ筈ですし、もちろんヨーガの行き着く先も同じ(というかヴェーダンタそのもの)です。<br /> <br /> 上の本とは別ですが、ボン教のゾクチェンにある1つの詩を引用します。<br /> <br /> 多様な現象の本性は、不二だ。<br /> ひとつひとつの現象も、心の作り出す限界の彼方にある。<br /> あるがままのものを定義できる概念などありはしない。<br /> にもかかわらず、顕現はあらわれ続ける。すべてよし。<br /> 一切はすでに成就しているのだから、努力の病を捨て去り、あるがままで完全な境地の中にとどまること、それが三昧だ。<br /> 「ゾクチェンの教え(ナムカイノルブ 著)」より<br /> <br /> これはゾクチェンやヴェーダンタの知識がないとすぐに理解するのは難しいですが、各所にヴェーダンタ的な要素およびヨーガ的な要素が現れていて興味深いです。<br /> <br /> 三昧はサマーディのことですから、本来はヨーガのサマーディも同様の理解に辿り着くことができる筈です。サマーディと言うと色々と種類がありますが、この詩の意味のサマーディであればゾクチェンやヴェーダンタの境地と同一のサマーディであるわけです。<br /> <br /> ゾクチェンはもともとチベットに長く伝わっている教えで、本来は宗教によらないと言います。であればこそダライラマがゾクチェンに通じていたりもしますし、ヴェーダンタの本質がゾクチェンによく似ていたりするのも当然なのかもしれません。ただ、伝え方が文化によって異なるだけで、本質は同じということなのでしょう。<br /> <br /> Wed, 13 Nov 2019 00:00:00 +0900 チャクラを開く際の体験 https://w-jp.net/2019/1714/ <br /> チベットの古代ボン教の教えによりますと、以下のようにあります。<br /> <br /> チャクラが開く際に必ずしも何らかの体験が起こるわけではない。「チベッタン・ヒーリング(テンジン・ワンギェル リンポチェ 著)」<br /> <br /> これに関して、以下のように説明されています。<br /> <br /> ・西洋の人は感情と関連づける文化のため感情的なカタルシスを伴うことがある。<br /> ・チベットの文化ではエネルギー的な現象として現れる。震え、揺れ、ひきつけ、発汗、めまいなどが起こることがある。<br /> ・起こるにまかせ、消えていくにまかせなさい。<br /> ・何かが起こるということは浄化の体験にほかならず、それにしがみつく必要はまったくない。<br /> 「チベッタン・ヒーリング(テンジン・ワンギェル リンポチェ 著)」より<br /> <br /> これは興味深いですね。<br /> <br /> 西洋の、例えば神智学に代表されるスピリチュアルではチャクラを開くことやその経験を重視していますが、チベット的には経験は重要ではないとのことです。<br /> <br /> それに、同書を読みますと、チャクラの位置付けがヨーガとも多少異なるように感じられます。<br /> <br /> ヨーガではエネルギーのルートであるナディとチャクラを、もちろん関連はしていますが別のものとして定義しているように思えます。<br /> <br /> 一方、同書によりますとチベットの古代ボン教では、脈管(ナディ相当と思われる)とチャクラをそれほど区別しておらず、中央脈管(ヨーガで言うスシュムナ相当と思われる)が樹の幹で、チャクラは枝、と比喩されています。<br /> <br /> 確かに、ヨーガでもそのように解釈できますが、その点はチベットの古代ボン教の方がよりはっきりと述べているように理解しました。<br /> <br /> であれば、西洋の神智学やスピリチュアルのようにチャクラを開くとどうなるか、みたいな神秘的なお話はチベットの古代ボン教にとってはあまり興味がなく、むしろ、何か起こったならばそれは浄化の体験であるから執着する必要はなく、必ずしも起こるわけではない、ということのようです。<br /> <br /> 体験をさほど重視しない、というのはヴェーダンタ的な観点とも似ていて興味深いですね。<br /> <br /> チベットの古代ボン教では脈管(ナディ相当)とチャクラを開くのは浄化の一環であり、浄化の結果として現れる、同書が言うところの「広々としたこだわりのない心と開放感」や「空の体験」こそが大切だと言います。<br /> <br /> 身体的な変化や、イメージの顕現、あるいは感情の解放といった体験があろうがなかろうが、最終的には空の体験とともに伝統の教えが伝える叡智のさまざまな面が体現されるのだ。空の体験とともにこだわりのない広々とした心やポジティブな質があなたを満たす。「チベッタン・ヒーリング(テンジン・ワンギェル リンポチェ 著)」<br /> <br /> チャクラの体験は書物に色々と書かれてありますけれども、それは確かに「サイン」として参考にできますが、必ずしも体験が起こるわけではなく、最終的な「空の意識」「広々とした心」が実現できさえすれば、過程はそれほど気にしなくて良いのかな、というところが最近ようやく譜に落ちて来た感じが致します。<br /> <br /> 私事になりますが、どうも、今までステップを素早く進まずに一つ一つ確かめるようにしてヨーガなり瞑想なりをして来たのは、もしかしてこのことを理解するためだったのかな、という気が致します。このことを理解していなかったからこそ、一つ一つ確かめながら進んできたのかなと。この最終的な理解が正しいということが真にわかっていたならば途中の体験をひとつづつ確かめながらゆっくり進む、なんてことをわざわざしなくても良かった・・・ といますか、そんな確かめながら進むなんてことをそもそもせずに高速でステップを終えていたことでしょう。 今回の人生では色々と課題が設定されていて、その一つは、このステップを学ぶと言いますか理解することが目的でしたが、ようやくステップを小刻みに歩んで理解が進み、最終ステップまであと一歩、という気が致します。(実はまだまだなのかもしれないですけどね)こう言ってはなんですが、前世では、私はそれほど悩みがなくて、それ故に、他人の悩みがよく理解できない人だったような気が致します。今生では無理やり自分を問題の中に放り込んで、色々なステップを踏ませることで人々が抱えている悩みを理解したり、ヨーガのステップを最初から1つ1つ理解しよう、とした生前の広大な計画があったように思っています。ですから、きっと私は意図的に自分をよくわからない状態に貶めていたのだと思いますが、ようやくここにきて、きっと前世ではそうだった、晴れやかな状態に戻って来たのかな、という感じがして来ています。まあ、これは言い出すともっと複雑なのですけど、単純に短く記すとこんな感じです。<br /> <br /> <br /> <br /> Tue, 12 Nov 2019 00:00:00 +0900 世界の30%が自分のことのように感じられる https://w-jp.net/2019/1712/ <br /> 最近は、身の回りの出来事や出会う人々のうち30%ほどが自分の分身のように感じられます。<br /> 70%はやっぱり他人なわけですが、30%は自分だと思う... と言いますか、そもそも空間が同一で繋がっているあるように感じられるのです。<br /> <br /> 世界と言っても地球のことではなく、世界地図のことでもないのです。あくまでも、私の生活の周囲の現実のうちの30%という意味で、世界の隅々の30%がそう感じられるわけではありません。<br /> <br /> 空間が繋がっている、とでも言いますと、まるで線が伸びているかのように印象付けてしまうかもしれませんが、そのような線があるわけではありません。透明の空気のようなところですらも「なにか」がぎっしりと詰まっていて、物質があるところにもその「なにか」が詰まっていて、空気の部分であろうと物質の部分であろうと関係なく身の回りの生活の空間の認識できる範囲すべての30%が自分であるように感じられるのです。<br /> <br /> この30%というのは、「ここは感じられるけれどもここは感じられない」とかいうものではなくて、半透明にホログラフィック的に全体が満遍なく30%くらいの濃度と言いますか濃さと言いますか、そのように空間全てがおそらく均一の濃度で大体30%くらいは自分で感じられている、という意味です。<br /> <br /> これは主に瞑想中にそう感じられるわけですけれども、明示的に瞑想をしていなくても意識が瞑想状態に近ければ同じように感じられます。<br /> <br /> ですから、完全に周囲の全てが自分と感じられるわけではないにせよ、多少ながらすべて自分である、という現実を認識しながら生活する今日このごろなわけです。<br /> <br /> これは、頭で考えるとなかなかに複雑に思えてしまうかもしれませんが、感情的にも意識的にも、かなり淡々としています。<br /> <br /> そもそも最近の瞑想ではどんどん雑念が減って透明な感覚の、いわゆる「無」の瞑想を続けることが多くなってきていますので、その延長線上で、他人の姿が意識に入ってきたとしても雑念がひとつあるのとそうは変わらないのです。ですから、世界の30%が自分として認識したとしても、それはホログラフのように半透明で認識されて惑わされることもあまりなく、それでいて他人や周囲の環境が自分として認識できるので今までとは違った意識の持ち方ができるのです。<br /> <br /> これは、マニプラ的な「情緒」の繋がりとは異なる感じです。淡々としていて、それでいて、しっかりと繋がっている感覚です。<br /> <br /> こうなると、もはや以前の私の振る舞いをすべてやり直したくなるくらい意識が変わってきてしまっているわけですけれども、流石にやり直すことができるわけもなく、これからの振る舞いを意識的に新しいものに適合していくくらいしかできないわけですけれども。<br /> <br /> 以前の意識で作ってしまった古い習慣を取り除いて新しい習慣に作り直してゆく時期に来ているのかもしれません。<br /> <br /> もしかしたら仕事のありようも同様で新しい習慣に作り直すといいますか選択し直してゆく時期に来ているのかもしれません。<br /> <br /> Sun, 10 Nov 2019 00:00:00 +0900 ナーダ音の外側に広がる世界 https://w-jp.net/2019/1711/ <br /> 今までは呼吸ですとかナーダ音に意識を合わせて気持ちを落ち着かせていわゆる「無」に近く瞑想をしてきたわけですけれども、それに加えてエネルギーワークも重要なのはそうなのですが、無の瞑想とエネルギーワークを続けていたところ、どうやらナーダ音や感覚の外側に、比喩で言いますと「地平線が見えそうなくらいずっと平らに続く世界」が広がっているような気がしてきました。<br /> <br /> 先日見えたような論理思考と体の感覚と想念の世界が真ん中くらいにポツンポツンと存在していて、その、体と言いますか感覚といいますか、いわゆる「わたし」の世界の外側にもっと広い世界が広がっているようです。<br /> <br /> ただ、その外側の世界がどのようになっているのかはまだ見えません。ただ、暗闇と言うか、単に地平線っぽいものがシルエットで見えるだけです。もしかしたら何かがありそうな、山のようなシルエットを感じることもあります。<br /> <br /> 瞑想を続けると、次第に雑念が消えてゆき、雑念の力が微かになり、雑念の頻度も下がり、簡単に呼吸や雑念を力を入れずに観察することができるようになっています。<br /> <br /> その状態では、観察する対象が先日書きましたように「半透明」な感じになっていて、あるようなないような、不思議な感じです。<br /> <br /> 世界は「外側」と書きましたが、もしかしたら重なっているのかもしれません。ですが、今のところは「外側」のようにも感じます。<br /> <br /> 視線が前を向いているとして、肉体の目で見える範囲があるとします。瞑想中は目を瞑っていますから肉眼は見えていないのですが、目を開けると見えるはずの範囲の外側に何かを感じて、意識を、比喩的に言うならば「ちょっと引いて、それから、ちょっと右側(あるいは左側)を見る」と、普段見ている世界の「外側」がそこにあるような気がするのです。<br /> <br /> その「外側」とは、ナーダ音の響いている外側の世界でもあります。<br /> <br /> ですが、上に書いたように、まだそれははっきりとは見えないのですが。もうちょっと様子見ですけど、この種の「実験」「興味本位」「探究心」の気持ちすらも最近は消えてきていて、更に瞑想を続けたらどうなってしまうのでしょう、という感じではあります。<br /> <br /> Sun, 10 Nov 2019 00:00:00 +0900 トラウマは向き合うことで消える https://w-jp.net/2019/1710/ <br /> 先日の続きです。<br /> <br /> トラウマは否定せずに味わうと消える、というお話でしたけれども、プレアデスのワークの中にも似たようなお話しが書いてありました。<br /> <br /> つらく感じたときには、それを無理に追い払おうとしないで、その気持ちと一緒にいてあげることが大切なの。うんと深く呼吸して、もっとその気持ちを感じるようにしてごらんなさい。すると本当に魔法のように、数分後に突然そのつらい気持ちがなくなって、いつ消えてしまったのかもわからないくらいよ。(中略)だけど、そのつらい気持ちが消えてなくなるまで十分に感じてあげなければ、それはそのまま身体の奥深くに居すわって、あなたたちが気がついてくれるのをずっと待ちつづけるわ。だから、それが戻ってくるのをこわがっているよりも、いま感じてあげるほうがいいのよ。「プレアデス覚醒への道(アモラ・クァン・イン著)」<br /> <br /> これは、スピリチュアルなワークであることはもちろんですが、同書によればむしろ「瞑想」の一部として紹介されています。<br /> <br /> ヨーガ的な瞑想においては雑念の観察が重視されていて、「雑念は重視せず、受け答えせず、受け流す」というのが基本ですが、プレアデス系では観察というよりも「味わう」という感情面に重きが置かれている印象を受けます。表現を変えれば「癒し」ということにもなりますが、「癒し」にはヨーガ的な「観察」が基本として横たわっているような気が致しますし、逆に、ヨーガ的な「観察」の根底には「癒し」といいますかヨーガ的には「パワー」「エネルギー」と言うべきポジティブな力が横たわっていて、言葉こそ違ども、「癒し(パワー、エネルギー)」と「観察」とは密接な関係があるのだな、と思いました。流派によって重視すべきところは違えども、それはその流派の気質の違いによるもので、基本はどちらも一緒なのかなと思いました。<br /> <br /> 流派によりますが一部のヨーガあるいは一部のスピリチュアルでは「観察」のみに重点を置いている気がしないでもありませんし、逆に、一部の流派は「癒し」あるいは「エネルギー」に重点を置きすぎている場合もあるように思いますが、その重点に目をとられて基本を押さえていないと先には進めないのかな、と言う気が致しました。<br /> <br /> 「観察」のみをしていてエネルギー不足でしたら成長しにくそうですし、エネルギーを高めても「観察」が不足していたらそのエネルギーの使い方に無理・無駄・ムラが生じて転んでしまいそうです。<br /> <br /> 両方大事ですね。<br /> <br /> 外から眺めただけですので勘違いかもしれませんが、例えばヴィパッサナー瞑想の一部の流派は観察重視のような気も致しますし、クリヤヨガの一部の流派はエネルギー重視のような気が致します。<br /> <br /> 余談になりますが、クリアヨガはヨガの中でも特殊で、瞑想の観察や集中ということには重きをおかず、エネルギーを高めれば良いというスタンスが特徴的です。クリアヨガは流派が分裂していて色々ありますので全てがそうかはわかりませんが。<br /> <br /> スピリチュアルでは「癒し」と言う観点からエネルギー・ワークが突出している流派が多い気も致します。<br /> <br /> それぞれの特徴がありますので自分に合ったところを選べば良いのかなとは思いますが、それでも、基本は「観察」と「エネルギー」かな、と最近は思います。そもそも対比するものでもない気もしますしね。どっちを選ぶとか、そう言うものではない筈なのに、何故か分離して見えてしまっていますね。両方大切だと思います。<br /> <br /> トラウマの話に戻しますが、トラウマは「観察」だけでは消えず、「エネルギー(癒し)」だけでも消えず、「観察」と「エネルギー(癒し)」の両方があって初めて消えるのかな、とそう思います。<br /> <br /> 個人的な経験で言いますと、すぐに1回の瞑想で消えるような軽いものはトラウマとは言わない気が致します。トラウマのうち少しを味わって消して、次の瞑想でまた少し味わって消して、を繰り返すのかなと思います。<br /> <br /> ちょっとしたわだかまりであれば瞑想中にちょっとこの種のワークをすれば消えてしまいます。<br /> <br /> 本来は、可能であれば子供の頃からこのようなワークに親しんでトラウマをそれほど溜め込まないのがいいかとは思います。<br /> Sun, 10 Nov 2019 00:00:00 +0900 プレアデスのエネルギー・ワークと白隠禅師の軟酥の法 https://w-jp.net/2019/1709/ <br /> 書籍を探っていたところ、プレアデス系のワークに似たようなものがありました。<br /> <br /> <br /> 「プレアデス覚醒への道(アモラ・クァン・イン著)」<br /> <br /> これはオーラを保護する方法のようです。グラウンディングして、オーラの卵を作るレッスンのようです。そして、同書によれば「境界の色」をイメージすることをお勧めするとのことです。色は時々の状態や目的によって多少異なるようです。<br /> <br /> ・基本は黄金<br /> ・その上に、目的に応じて色を重ねる。不安定な時は高貴なブルー。外出したり人を迎える時はスミレ色。<br /> ・ある程度のレベルに達すればこれらは不要になるが、それまではこの「境界」は有用<br /> <br /> 詳しくは同書を参照して頂ければと思いますが、ヨーガのプラクティスや他のスピリチュアルのワークにも通じるものがあります。色に対する言及はスピリチュアル系に多い気が致します。<br /> <br /> 以前少し言及しました白隠禅師による禅病に対する対処法である「軟酥の法(なんそのほう)」がとてもよく似ている気が致します。白隠禅師は白幽という仙人から授かったとのことですが、案外根幹はスピリチュアルと似たところなのかもしれないですね。単なる推測ですけど。<br /> <br /> Sat, 09 Nov 2019 00:00:00 +0900 無の瞑想と暖かい光 https://w-jp.net/2019/1708/ <br /> 最近の瞑想は息を観察しているかあるいは微かな思いや考えを観察するくらいで、とても静かな、いわゆる”無”とも言える状態で瞑想をしています。その上で、エネルギー・ワーク的に天のエネルギーを下ろしたり地のエネルギーと繋がったりしているわけです。<br /> <br /> その状態でハートに目を向けると、ふと大広間と雛壇のような階段の上に王様が座るような椅子があるのが見えました。これが、スピリチュアルやヨーガやベーダで言われている「ハートの奥の小部屋」なのでしょうか?<br /> <br /> それが見えている状態で瞑想を続けましたところ、ふと、2つの空間が重なって存在しているように感じたのです。<br /> <br /> 1つは、以前書いたような論理思考と体の感覚と想念・思念が感じられる空間。<br /> もう1つは、草の茂った原っぱに太陽の暖かい光が挿している空間。<br /> <br /> その2つが、重なって存在していて、お互いが半透明のホログラフのように目の前に同時に存在しているのです。この時点になったら、大広間と椅子は見えなくなっていました。<br /> <br /> これは一体どういうことでしょう? ちなみに、今は夜です。<br /> <br /> 無の瞑想に関してはここ最近ずっとそんな感じで、雑念が出ても観察しているだけで、周囲に広がった無の漆黒の空間の中で、私が中心にいる瞑想をしています。<br /> <br /> 一方、時々その同じ空間のどこかがパッと明るく感じられることは度々あったのですが、本日のように、2つの空間が重なって存在しているように感じられたのは初めてでした。<br /> <br /> これは興味深いです。<br /> <br /> しかも、その空間だけでなく、ハートの奥の小部屋も関係しているようです。<br /> <br /> 空間が重なったというのが正しいのか、あるいは、ハートの奥の小部屋に入った事による変化なのかもしれません。<br /> <br /> このハートの奥の空間は人によって見え方が違うようで、一定の空間で見える人もいればそうでもない人もいるようです。私はまだ見え始めたばかりな感じです。あるいは気のせいかもしれないですけどね。まだまだ様子見です。<br /> <br /> Thu, 07 Nov 2019 00:00:00 +0900 緊張と瞑想中の光 https://w-jp.net/2019/1707/ <br /> 先日に意識体に憑依されてからちょっと体に緊張が走っていたわけですけれども、瞑想をするにつれて緊張が取れてきました。<br /> <br /> その時ふと気がついたのですが、どうやら緊張が解消される瞬間に瞑想中の場合は視界に光を感じるようですね。<br /> <br /> 緊張というものがエネルギー的な淀みなのかあるいはエネルギー的な凝縮なのか、その具体的なところはわかりませんが、少なくとも緊張が解けることと光を感じることの間には多少の相関関係があるような感じがしてきました。<br /> <br /> ヨーガにおける瞑想の基本としては瞑想中に見聞きすることは重要ではないので気にしない、ということはもちろんあるわけですけれども、それでも、多少はこのように相関関係があるのかもしれないな、と気が付きました。<br /> <br /> ただし、これは本当に「たまたま」かもしれませんけどね。それでも、多少の相関関係はあると思うのです。<br /> <br /> <br /> Thu, 07 Nov 2019 00:00:00 +0900 床屋で取り憑いてきた意識体 https://w-jp.net/2019/1706/ <br /> 昨日床屋に行ったとき、散髪中に急に緊張が走って顔が強張ったので周囲をぐるりと「切る」動作をしました。以前に書いたように、イメージで刀のようなものを作って、それを体の周囲に回してオーラのケーブルを切る動作です。それと、結界のようなものも意識して作ってみました。<br /> <br /> それで多少は回復したのですが、すぐにまた元に戻ってしまいました。<br /> <br /> 久々に、この種の「顔が強張る」ほどの状態になりました。これはやばい。<br /> <br /> そのまま帰宅したのですが、調子はそんなによくありません。<br /> <br /> 翌朝、目が覚めてみるとどうも調子が悪く、体の中で何かが詰まった感覚になっています。<br /> <br /> 最近は骨折でヨガのアサナもしていないし、何か変なものでも食べたかなぁ... カット野菜はやはり薬品漬けで良くないのかな? とか思っていたのですが、どうやら今回はそれが原因ではなさそうです。<br /> <br /> 今朝の瞑想で体の中を探ってみると、右肩から心臓のあたりに緊張と詰まりがあるように思われましたので、意識の「手」でそのあたりを探って、塊のようなものを摘んでゆっくりと右肩の方に抜いてみました。<br /> <br /> すると、急に右肩の緊張が取れて右肩が動くようになりました。心臓のあたりの詰まりも取れてきました。<br /> <br /> どうやら、意識体が取り憑いていたようです。 いや〜、怖い怖い。<br /> <br /> 緊張は顔に来ていたのですが、瞑想で探ってみると体の左は普通なのに対して右側、特に右肩から肘にかけての筋肉が硬っていて、それが心臓にまで到達していたのです。右肩を中心に取り付いていて、パイプのようなものを心臓に伸ばしてエネルギーを奪い取っていたようです。引き抜いたら、それ以上は抵抗することなく何処かへと去って行きました。<br /> <br /> 床屋で髪の毛を切っているときに理容師を経由して侵入したのかなあ? と推測しています。<br /> <br /> 床屋は顧客のオーラを指から吸い取りやすい、とはどこかで聞いたことがありますね。髪の毛というのはオーラの交換が起こりやすい場所なので、髪の毛を触る理容師は顧客のネガティブを受け取りやすいのだとか。<br /> <br /> もしかしたら、顧客に取り憑いていた意識体が理容師に移って、それが私に取り憑いてきたのかもしれないですね。<br /> <br /> 床屋に行った後に具合が悪くなることが以前も度々あったのですが、今回は特に酷かったです。<br /> <br /> 意識体を引き抜いた後も右手に筋肉痛のような感覚と痺れた感覚が残っています。部屋の中に意識は感じないのでどこかに行ってしまったようですが、油断大敵ですね。久々にこの種の憑依がありました。<br /> <br /> 最近は身内の葬儀などで疲れていてヨガのアサナも瞑想もそれほどできていなかったので脇が甘くなっていたかもしれないですね。<br /> <br /> Mon, 04 Nov 2019 00:00:00 +0900 論理思考は独立して機能している https://w-jp.net/2019/1705/ <br /> 先日の続きです。<br /> <br /> 内なる雲が晴れ渡り、体の感覚と想念をそれぞれ独立して観察している状態では、論理思考が独立して働くようです。この論理思考はヨーガで言うブッディかもしれませんが、確証はありません。<br /> <br /> 今までは、想念や雑念あるいは論理的思考やいわゆる”考え”など、全てがごっちゃになっており、雑念と”考え”との差が”観察”と言う観点からすれば違いがさほどない状態でした。<br /> <br /> もちろん雑念は取り止めがなくて”考え”はロジックに基づいたものではありますのでその内容は別物ですが、”観察”と言う観点からしたら、両方とも同じような感じで想念として観察されていました。雑念で噂話や昔話はたまた流行のことを思い描いて想念になるのと、何かの課題を下に順序立てて結論を出す際に、内的感覚としてはさほど違いがなかったのです。<br /> <br /> それが、最近の瞑想では内面が晴れ渡り、雑念と論理思考が別に働いていることが明らかになったのです。<br /> <br /> 今日の瞑想では空間の中に認識されたのですが、比喩的に言い表しますと以下のようになります。<br /> <br /> <br /> <br /> ・視点は、空中から見下ろしている。(実際は地上の平面があるわけではなくその奥も空間が続いているので、これはあくまでも比喩です)<br /> ・地上(比喩)に、”体の感覚”が動いている。<br /> ・”体の感覚”の少し横で、”雑念”が認識されている。<br /> ・少し浮いたところ、少し座標がずれたところで論理思考(ヨーガで言うブッディ?)が働いている。<br /> <br /> 論理思考(ブッディ)だけでなく、”体の感覚”と”想念”も空間上でこのように別物として認識されています。<br /> <br /> 今までは”体の感覚”も”想念”も”論理思考(ブッディ)”も主観的に把握していましたが、今回の空間では客観的に観察されたと言えるかもしれません。まさか実際に空間として認識されるとは思ってもいませんでした。<br /> <br /> スピリチュアルで「宇宙」だとか「世界」だとか「空間」みたいな言葉を色々なところで聴きはしますけど、それはあくまでも比喩だと思っていたのですが、今回は実際に、いわゆる映像として空間が認識されました。(映像と言うと2次元という印象で聞こえてしまうかもしれないですけど)3Dのホログラフィックな空間としての映像として認識されました。<br /> <br /> Sun, 03 Nov 2019 00:00:00 +0900 内なる雲が晴れわたり、観照へ https://w-jp.net/2019/1704/ <br /> 最近の瞑想では内なる雲が晴れわたり、夜明けのように光を感じるようになりました。<br /> <br /> 長い夜がいよいよ明けるのでしょうか。<br /> <br /> 以前ですと瞑想における「観察」はいずれか1つが対象になっていました。体の感覚を観察するときは感覚のみ。想念・雑念を観察するときも基本的にはそれだけの観察でした。<br /> <br /> しかし、最近の瞑想では2つ以上の観察に変わってきました。<br /> <br /> 例えば、体の感覚と想念の両方を観察できています。聞こえる音・声も観察できていますので3つ以上とも言えるかもしれません。瞑想はあぐらを組んで目を瞑っっているので視覚情報はありません。<br /> <br /> 瞑想中、以前はヴィパッサナー瞑想をしていたとしても体の感覚の観察をしているときは基本的にそれだけ意識しており、想念や雑念の観察あるいは雑念に囚われているときはそれだけの観察でした。<br /> <br /> 今でも雑念に囚われることがゼロではありませんが、基本的には想念や雑念と体の観察および外の音の観察が同時にできています。<br /> <br /> おそらくは、これは内面が晴れ渡ることにより可能になったことなのかな? と思っております。<br /> <br /> ヴィパッサナー瞑想は本来こういうものなのかもしれないですね。<br /> <br /> この状態を「力が抜けた」と言うこともできるかもしれませんが、エネルギー的には高まった状態です。<br /> <br /> 以前は力が入っていてエネルギーが少なくて観察がうまくできていなかったのかな、とも思います。<br /> <br /> 以前との違いですが、以前は感覚を観察したのと同時ではなく時系列で反応的に想念や雑念が観察されていましたが、今は両方が独立して反応しているのを観察している、と言う違いがあります。以前は、体の感覚を観察してサワサワする肌感覚とかチクリとする感覚などを感じることとに精一杯で、感覚がトリガーとなって想念や雑念が発生すると感覚は観察できずに想念や雑念に囚われて、次はまた体の感覚の観察に戻って、と言う行ったり来たりを繰り返していました。当時はそれが観察だと思っていました。今の状態は、体の感覚と想念・雑念が並行に存在していることを同時に観察できています。現象としてはさほど違いがありませんが、観察の仕方に違いがあります。そして、これが可能になったのは、おそらくは上記のような状態になってからだと思うのです。<br /> <br /> マハリシ・マヘーシュ・ヨーギーの弟子であるボブ・フィックスは以下のように記しています。<br /> <br /> 瞑想がはかどり、ストレスやカルマの記憶が消え始めると、内なる空がじつに澄み渡る。「ある瞑想家の冒険(ボブ・フィックス 著)」<br /> <br /> 光は、スピリチュアルやヨーガでよく言われていることで、やがて光源状態になると言われています。私はここ最近しばらくアナハタ優勢ですが、光というのはわかるようでいてわかりませんでした。ここに来て、例えばスワミ・ヨーゲンヴァラナンダが「魂の科学」で言うところの「光輝状態の始まり」が始まりつつあるのかもしれないです。<br /> <br /> 「魂の科学」によれば、クンダリニーの覚醒は2つの形態があると言います。<br /> <br /> (1) 生気の上昇(Pranottana)<br /> (2) 光輝状態の始まり<br /> <br /> 同書によれば生気の上昇とはチャクラで光を伴わずに動き出すことで、覚醒すると光り輝くと言います。<br /> <br /> どうやら私は「生気の上昇」としてのクンダリーニ覚醒をしてオーラがアナハタ優勢になっていたとしても、光輝状態にはまだなっていなかったのかな、と推測しています。<br /> <br /> ボブ・フィックスは上の引用文の後に次のように記載しています。<br /> <br /> 知覚にともなう感覚も高まり、色彩はより鮮明に見え始める。結果として生じるそんな変化が、新たな次元の扉をあけ、見るものや知りたいことをすべて知覚する能力をひらく。それを知覚の鋭敏化と呼んでも良い。「ある瞑想家の冒険(ボブ・フィックス 著)」<br /> <br /> と、言いますのも、本日この観察状態で瞑想を続けていたところ、ふと目の前に学生服っぽい服を着た人のシルエットが見えて、私の方に近づいてきてすれ違いました。それだけのことですけど、これは何でしょう? たまたま通り過ぎただけかもしれません。この部分に関しては様子見ですね。単なる想像かもしれませんけど、何かが横切ったのかもしれません。<br /> <br /> とは言いましても、ボブ・フィックスは次のように記しています。<br /> <br /> しかし瞑想で重要なことは、感覚に生じる種々の妨げを超えて、無限の静寂に吸収される能力だ。(中略)空(くう)は、宇宙を超越している。完全に意識があって、完全に目覚めている。空にいるとき、私たちは宇宙を超え、それをとりかこむ無限の空間にいる。空に慣れてくると、宇宙を外側から観察しているような感じがする。(中略)この体験が、いわゆる観照だ。「ある瞑想家の冒険(ボブ・フィックス 著)」<br /> <br /> 確かに、言われてみれば本日の瞑想は観照(のほんの入り口)のようなものだったかもしれません。わずかながらの経験ですが、随分と瞑想は奥深いものだなと改めて思いました。まさかこのような状態を経験できるとは思ってもいませんでした。<br /> <br /> 内面が澄み渡ると知覚が鋭敏になりつつ光輝状態になり、観照に至る、と。 そう言うことなのかなと解釈しました。<br /> <br /> Sun, 03 Nov 2019 00:00:00 +0900 ハートに寄り添うことを妨げるトラウマ https://w-jp.net/2019/1703/ <br /> 人は誰でもトラウマがあるように思いますが、ハートに入る、あるいはハートに寄り添う時にトラウマが妨げることがあるようです。<br /> <br /> 私の場合、トラウマは次第に小さくなってきていますが未だゼロではありません。ゼロってことがあるのですかね? とも思ったりもしますが。<br /> <br /> そのトラウマの対処法として、以前は時間をかけてネガティブな感情に向き合ったわけですけれども、最近は、トラウマが出てきたらその状態を保持したまま否定せずに味わう(?)ことでネガティブが消えていくようになりました。そろそろ本格的にトラウマがゼロになってゆく前触れかなとも思っていますけれども。以前はトラウマが出たら一旦否定の反応が反射的に自律的に出て、その後にネガティブな反応が出ていましたが、最近は、トラウマが出たら意識的に否定の反応を抑えて否定の反応が出ないようにし、トラウマの状態をあえて維持して味わうことで否定の反応なしにトラウマを味わうようにすることでトラウマを理解し、その状態を味わっているとやがて緊張がほぐれていってトラウマが解消してゆくプロセスを経験できるようになりました。<br /> <br /> もしかしたら、これが仏教で言われている、ブッダが伝えたいわゆる「魔境」かもしれない、とも思っているわけですけれども。魔境かもしれないと言うのは仮説ですが。<br /> <br /> このトラウマは、一般的には、ハートに入ることを妨げているようです。<br /> <br /> ヨーガ、ヴェーダ、あるいはスピリチュアルなどではハートのいわゆるアナハタ・チャクラ(ハート・チャクラ)の奥には更に小さな空間があると言います。私の場合、アナハタ優勢にはなってはいるのですが、この、アナハタの中にある小さな空間、いわゆる聖なる空間に入ることができないでいます。<br /> <br /> ハートの中に入れなかったり、入ってもそこにいられなかったりするのには理由があります。(中略)人生においてトラウマを経験した人々、なかでも特に人間関係や愛情に関して否定的な経験があると、ハートの聖なる空間に入るときに再びその痛みを味わうようです。するとその痛みがつらすぎて、そこにいることに耐えられないのです。「ハートの聖なる空間へ(ドランヴァロ メルキゼデク著)」<br /> <br /> これは確かにそうかもしれない、と感じます。<br /> <br /> 最近は私の次の課題は何かなと探っていたのですが、ハートのこの辺りが次の課題かなあ、と思っている次第です。<br /> <br /> Sat, 02 Nov 2019 00:00:00 +0900 スシュムナを地に伸ばして錨にし、グラウンディングする https://w-jp.net/2019/1702/ <br /> 先日のように、天と地のエネルギーを上下に伸ばした後に何をするべきかと思って書籍を探ったところ、この記述がありました。<br /> <br /> 意識を素早く体内のプラーナ管に移し、それをイメージのなかで地球の核にまで伸ばすというものです。(中略)地球深くに固定されるように意図するだけで、プラーナ管を地球の核にグラウンディングさせることができます。「ハトホルの書(トム・ケニオン著)」<br /> <br /> ヨーガで言うスシュムナを同書ではプラーナ管と呼んでいるようです。<br /> <br /> これを意図してやってみたところ、あっさりとグラウンディングできました。これは良いです。<br /> <br /> と、言いますか、以前は同様にグラウンディングしようとしたら地のエネルギーの気持ち悪い、泥のようなエネルギーが登ってくるのであまりグラウンディングしたいとは思わなかったのです。多少は地のエネルギーを取り入れつつも、天のエネルギーを取り入れることでその気持ち悪さを中和するような感じでした。<br /> <br /> しかし、今日、このエクササイズをしたところ、気持ち悪さもなくあっさりとグラウンディングできました。<br /> <br /> この違いはなんでしょう?<br /> <br /> 先日の時点で、天のエネルギーがすんなりと入ってくるようになりました。これが大きいのではないかと思います。<br /> <br /> それ以前は天のエネルギーが途中で詰まってうまく降りてこない状態でしたので地のエネルギーが優勢でしたが、先日に天のエネルギーがすんなり降りるようになってからは地のエネルギーと天のエネルギーのバランスが取れたように思います。<br /> <br /> この状態であれば地のエネルギーにアクセスしても気持ちの悪さを感じず、すんなりグラウンディングできました。<br /> <br /> グラウンディングは大事だとはよく言われていますが、地のエネルギーだけでなく天のエネルギーもグラウンディングに意外に重要なのだと思いました。<br /> <br /> Fri, 01 Nov 2019 00:00:00 +0900 天のエネルギーを真っ直ぐ下ろして取り入れる瞑想 https://w-jp.net/2019/1701/ <br /> ここ最近は天のエネルギーを上半身に満たしたり、地のエネルギーを取り入れたりしていたわけですけれども、天のエネルギーを取り入れるときはグルグルと回転させて下ろす必要がありました。<br /> <br /> ここ最近の瞑想で、スシュムナを上下に延長したパイプ、一部のスピリチュアルで言われている、自分の上下に繋がるパイプのようなものを感じるようになりました。今までは自分の体の範囲しか把握できていなかったのです。<br /> <br /> その感覚を探っていくと、どうも頭の上のサハスララの上のあたりにゴミのようなものがパイプに詰まっているのを感じ、ここしばらくの瞑想ではその周囲のエネルギーを上下に動かして詰まりを取ろうとしていたのです。瞑想中でそれが取れた感覚はなかったのですが、ふと先日に瞑想をしてその辺りを探ってみたら、いつの間にかその詰まりのゴミがなくなっていて、パイプの中を上下にエネルギーがスムーズに動くようになっていました。<br /> <br /> その状態で瞑想をすると、以前のようにグルグルと天のエネルギーを回して下ろすことなしに、そのまま真っ直ぐ素直に天のエネルギーが降りてくるようになりました。<br /> <br /> 地のエネルギーも同様です。意識するだけで地のエネルギーと天のエネルギーが入ってくるようになりました。<br /> <br /> どうやら、今までは何かが詰まっていて流れが悪くなっていたからグルグルとエネルギーを回転しなくてはいけなかったのかな、と解釈しています。<br /> <br /> であれば、これからは地のエネルギーも天のエネルギーも素直に取り入れることができるのでしょう。<br /> <br /> ■一部のスピリチュアルで言う「カー」<br /> 例えば「ハトホルの書(トム・ケニオン著)」には以下のような図が記されています。<br /> <br /> この図ですと上下の線が切れていて横から入るように見えますけど、私の場合は上下のパイプがそのまま真っ直ぐ上下に伸びている感じです。<br /> <br /> ■上の突っかかりが取れると、緊張しにくくなった<br /> 今までは、瞑想して眉間やサハスララに意識を合わせるとそこに圧力のようなものが生まれて、瞑想を終える前にその意識を頭の下半分あるいはハートなどに下ろしてから瞑想を終えないと不快感が残ってしまうことがありました。場合によってはそれは緊張としても残り、肉体的にはそれは多少の血圧上昇に結びついていたように思います。<br /> <br /> ■緊張と血圧上昇<br /> このように、頭の緊張が残ると血圧上昇することに気づいたのは、たまたま病院で足の骨折のリハビリを受診したからです。リハビリ前に血圧を測るのですが、この緊張状態では血圧が高いことに気がついたのです。<br /> <br /> ■今は、緊張していた頃の癖が残っている状態<br /> 前は眉間や頭上に意識を合わせると緊張していましたので、体がそれを覚えているので抵抗を試みるのですが、そもそも緊張がなくなっているのに抵抗だけが癖として残っている状態です。体としては、昔の感覚がある筈だけれども感覚がない、と言う感じで体が不思議がっています。おそらくこれは、いつも反応していた体が、その反応の元がなくなってしまったが故に反応しなくても良いのに反応しているだけですので、そのうちこの癖はなくなってゆくのかなと思います。<br /> <br /> これで、眉間への集中が、よりしやすくなりました。ただ、どうやらエネルギーが強く流入するようになりましたので、その点、あまり長く集中できない感じになりつつありますけど。集中というよりは軽く意識を当てて観察するだけでいいのかもしれません。これは今後、様子見をします。<br /> Wed, 30 Oct 2019 00:00:00 +0900 地縛霊と守護霊は紙一重 https://w-jp.net/2019/1700/ <br /> 先日の続きです。<br /> <br /> 死んだ後、地上への欲望に縛られると地縛霊になり、天へと帰ることができれば守護霊や高級霊になります。<br /> <br /> 地縛霊は黒いオーラを帯びていて、それはまるで地獄の黒い炎のように見えます。これはもしかしたら仏教でいう地獄の烈火として言い伝えられているものかもしれませんが、オーラが黒くなってゆらゆら揺れているので炎のように私には見えました。<br /> <br /> ■霊を繋ぎ止める<br /> 身内がいよいよ死ぬとなった時、そのまま死んでしまうと霊がどこかに夢見の状態のままフラフラと行ってしまい、行方不明になって救われないと直感で感じましたので、そうなってはいけないので私のオーラと結んで繋ぎ止めておくために私がインドのリシケシで買ってきた木のブレスレットをお守りとしてつけたまま火葬してもらうことにしたのでした。<br /> <br /> そうして身内は火葬して骨壺になってしまったわけですが、その魂はちゃんと繋ぎ止められていました。<br /> <br /> その身内はもともと素行があまり良くないと言いますか、割と一般的な人でしたので世間的な欲望に沿って生きていて、一般社会ではそんなものかなと思ったりもするのですが、そのように悟っていない状態で死んでしまいますとなかなか苦労しそうなことが直感でわかりました。<br /> <br /> 上で書きましたように、まず、死んだ後に未だに地上への未練が残っていますので地縛霊になる可能性が非常に高いです。<br /> <br /> 欲望があってもそれほどでなければ身内が迎えにきて天に登ることもできるのですが、聞く耳を持たない性格ですとか、自分が死後の世界を受け入れないでいると苦労するようです。死んでいるのに死んでいないと思い込んだり、死んだら無になる筈だからとか思い込んでいて身内の呼びかけに答えなかったりするようです。<br /> <br /> ■黒いオーラ<br /> 今回の場合は身内の霊が黒いオーラで囲まれて地獄の黒い炎のようになっていました。このままですと周囲が見えなくて、本人は眠りの状態のように延々と欲望のイメージと言いますか夢のようなものを見るループに落ち込んでしまい、抜け出すことが困難になってしまうかもしれません。<br /> <br /> 人によっては多少は人生の振り返りなんてするようですけど、それはこのようなループに落ち込んでいる場合のことで、ある程度悟っている魂の場合は人生の振り返りなんて生きているうちに済ませていますのでそのまますんなり天に登ることができるようです。<br /> <br /> 今回の場合、まず私が木のブレスレットで結び付けておきましたので、葬儀が終わって家に帰っていたら、どことなくずっと繋がっているのを感じました。ここまでは想定通りです。<br /> <br /> ■夢見のループ<br /> そして、とりあえずその晩は寝たら、その身内が死後の霊の状態で見ているであろう映像が私の夢と繋がって延々とループで見せられました。これはキツい(苦笑)<br /> <br /> まあ、霊が苦しんでいたり悲しんでいたりしないのが幸いですけど、このままループを続けたら更に何も見えない暗闇にもっと落ち込むかもしれません。その危険性があると思いました。<br /> <br /> ■瞑想で状態を見極める<br /> ですので、翌日、瞑想をして状態をまず見極めることにしました。<br /> <br /> そうしたら、まさに上に書いたように魂が黒いオーラを帯びていて地獄の黒い炎のようにゆらゆらと揺れて私の視界全体を覆うくらいの大きさで漂っていたのが直感で見えたのです。しかも、かなりドロドロとしたオーラを帯びていて、そのままにしておいたら地縛霊になってしまうかもしれないと直感で思いました。私の肌がゾゾゾっと感じるくらいの黒い濁ったオーラです。<br /> <br /> 瞑想に入ってすぐにこれが見えたのでちょっとビビりました。<br /> <br /> 他人でしたら自分との間に結界を張ったり九字切りしたりして追い払うところですけど、身内ですので、色々と試してオーラを浄化してみることにしたのです。<br /> <br /> ■浄化する<br /> 最初試したのが、自分のオーラから光を放って地縛霊になりかけの霊に変化がないか見極めました。結果、少しだけ肌感覚に変化があって、最初はかなり肌にゾゾゾっと感じていたのが、少し弱まりました。オーラがちょっとだけ浄化されたようです。<br /> <br /> 次に、ヨーガのマントラを心の中で唱えてみました。これもちょっと効果があるようですが、一定以上の変化はなさそうに感じました。<br /> <br /> 次は、アジナから光を出すイメージをしてみました。これは効果があるのかないのか不明でした。<br /> <br /> そして、先日から行っていたように天のエネルギーを下ろして、自分にではなくその霊の黒いオーラに浴びせたところ、これはかなり効果がありました。何度も何度も行わないと変化がなかなか現れませんでしたが、ひとまず、応急処置としてはかなり浄化ができたかなと思っております。<br /> <br /> 最初感じた肌のゾゾゾっというおぞましい感覚はほとんどなくなりました。<br /> <br /> まだ完全ではないにせよ、いきなり1日で悟るわけもないですし、地縛霊を防ぐという意味ではとりあえず十分ではないでしょうか。<br /> <br /> ■顔が見えるようになる<br /> 霊が黒いオーラに包まれていた時は顔が全く見えなかったのですが、今は半分眠っているような細い目の顔が見えるようになりましたので、まだ意識としては寝ているのかもしれませんけどオーラは浄化されつつあるように思います。先ほどの瞑想である程度の天のエネルギーを充填したので、身内の霊は割と元気になった感じです。<br /> <br /> まあ、まだ霊はこのまま寝ている状態がしばらく続くと思いますので、迎えが来るまでは度々このようにして天のエネルギーを満たしてあげて地縛霊になるのを防ごうかな、と思っております。<br /> <br /> ■葬儀での住職の役割<br /> おそらくは、本来のお寺の住職の葬儀における読経の役割はこんなところにあるのかなぁ、と思ったりしますけど、全員がその能力があるようにも思えませんから微妙なところです。能力があったとしてもお経を何回か唱えたくらいで救われるとも限りませんからね。やらないよりマシというくらいかもしれませんけど。単に見様見真似で唱えても効果があるように思えませんし。<br /> <br /> ■オーラを食する<br /> この種の黒いオーラを帯びている人は自分で地や天のエネルギーを取り入れることができないので、他人のオーラをもらうしかないようです。ですから生きている間は肉を食べたり植物を食べたりしていたわけですけれども、死んでしまうとどうしていいのか最初はわかりませんのでどんどんと黒くなっていくような気が致しました。死んだ後の状態に慣れれば同じように周囲からエネルギーを貰えばいいみたいですけど、オーラを閉ざしているというかエネルギーの通り道が詰まっているとうまく取り入れられないようです。<br /> <br /> そんなこんなで死後にエネルギーを取り入れることができなくて黒いオーラになってしまっていたわけですが、お寺の住職や葬儀でお祈りをする時のエネルギー供給は意外に重要なのかもしれませんね。<br /> <br /> 悟っていればあまり関係ないみたいですけど、悟っていないと死後すぐにエネルギーを供給してもらうのは重要なのかなあ、と今回のことで思いました。<br /> <br /> ■紙一重<br /> ですから、もしかしたら地縛霊と天に登る霊(やがて守護霊や高級霊になる)は紙一重なのかなあ、という気がしました。<br /> <br /> ■職業としてやるのは微妙<br /> これ、今回は身内ですから良いですけど、他人ですとオーラが混ざるので色々なものを拾ってしまうので嫌だなあ、と思いました。実力のある住職とかスピリチュアルのヒーラーとかは時々こういうことしてたりしますけど、めちゃくちゃ大変な割に相手には理解されにくいので大変そうです。<br /> <br /> Mon, 28 Oct 2019 00:00:00 +0900 霊とマニプラ https://w-jp.net/2019/1699/ <br /> 胃のあたり、いわゆるマニプラ、ソーラプレクサス・チャクラと霊との間には関係があるようです。<br /> <br /> ヨーガの大家、本山博先生は以下のように説明されています。<br /> <br /> マニプラチャクラの目覚めは、霊の世界にヨギを目覚ませるように思います。「密教ヨーガ(本山博 著)」<br /> <br /> 実はここ数週間、特に先週から身内の入院・危篤・葬儀まで立て続けに起こり、人の死に立ち向かいました。親戚の葬儀に参列するのと入院中や最後の瞬間に立ち会うのとではかなり認識の違いがありました。親戚の葬儀に参列するだけでは人の死に対して深く思い描く機会も少なかったのですが、今回のことで色々と学びもありました。<br /> <br /> ■マニプラで霊を感じる<br /> 人の最後の瞬間に立ち合い、葬儀をしていると、特に、胃のあたりにジワジワと感じるものがあって、胃のあたりが弱まるのを感じました。胃のあたりにあるのは、いわゆるマニプラ・チャクラです。これは、単に疲れというだけではないと思います。何かメッセージを受信しているような、そんな感じです。疲れてうとうとしている時とか夜の夢の中でイメージを感じたのです。その時、死んだ霊が漂って見ている世界を私が垣間見たような気が致します。それは、死んだ霊が見ている場面を私が感じる、ということです。<br /> <br /> 死んだ霊が特に苦しんでいるというわけではなさそうなのですが、故人の職業の最中に見たであろう視界が色々と延々と見えてくるのです。延々と続いていて、これは夢と言っても、死んだ霊が実際に自分が生きていた頃を回想しているのかなあ... と思いました。それがマニプラのあたりを伝わってイメージとして伝わってくるのです。<br /> <br /> 少なくとも苦しんでいるわけではなく、もうしなくても良い自分の職業を死後の世界でも続けているのかなぁ... と思うと、目覚めていない魂はこうなるのかな... とちょっと悲しくなりました。でも、苦しんでいるわけではないのが救いです。<br /> <br /> 時々、その故人の顔が思い浮かびます。これはきっと、思い浮かぶというよりは実際に漂っている、あるいは、そこに眠っているのかなと思います。苦しんでいるわけではないのですが、まだ意識は眠っている感じです。そのうち目が覚めるのでしょうか。49日になるまで霊は地上を漂うと言いますけど、どうなのでしょう。最長が49日、というお話もありますね。<br /> <br /> ■私の感情<br /> 入院中、意識が少し戻ったりして動いていた体が少しづつ弱まって遺体に変わってゆく最後を何日にもわたって看取るのは初めてでしたので色々と思うことがありました。<br /> <br /> ここ数週間でいわゆる喪失感、悲しみ、思い出などを次々と体験することになったわけですが、勉強したり瞑想したりしてあの世のことや世界のことを学ぶのは必要だとしても、実際に直面してみるとわかるものがあります。<br /> <br /> 頭では霊は転生するとか理解していたとしても、実際の感情面やマニプラのレベルでは喪失感や共感、悲しみといったものをしっかり感じるわけです。アナハタ以上のレベルではそのような悲しみはありませんけど、アナハタ以上の感覚で安定した感覚を保ちつつも下半身のマニプラ以下ではしっかりと悲しみを感じているわけです。人間というのは一枚岩ではなくて、悲しみが全身を覆うのではなく、チャクラによって状態が違うのだな、と今回は学びました。<br /> <br /> もしかした人によっては全身同じ、という人もいるのかもしれませんが、私の場合はこんな感じでした。もしかしたらアナハタが閉じ気味でマニプラ優勢の場合は感情が優先するのかもしれませんけど。<br /> <br /> アナハタ以上の高い波動の神の世界の視点だけで人間が生きているわけではなく、低いマニプラ以下の視点もあるのが人間で、アナハタ以上の高い波動だけでなく低いマニプラ以下の波動も持っているからこそこの地上を生きられるのであって、マニプラにおける感情としての悲しみを感じるのも必要なのだと改めて思いました。<br /> <br /> 人によってそのバランスは違っているにしても、アナハタ以上の高い波動だけ持っていてマニプラの悲しみがない人間というのも何だか違う気がしますし、そもそも人間界に生まれるということは様々な感情を味わうことを学ぶことでもある筈ですから、マニプラもしっかり動かしてみるのがいいのかな、という気も致します。<br /> <br /> それでもきっと、やがては人類の成長はアナハタ以上に進んでいくのでしょうけど、今の世界ではまだまだマニプラ的要素はこの世界で生きるのに必要かなと思います。<br /> <br /> ■やがて迎えがやってくる<br /> 私が子供の頃に幽体離脱して理解したことに基づきますと、死ぬとやがて縁のある人(霊)が迎えにきます。<br /> ですから、きっと今はまだ死んだばかりで夢見のような状態で微睡んでいるのだと思います。<br /> <br /> Mon, 28 Oct 2019 00:00:00 +0900 初見の人と接した際に自らの知らない面が出てくるのではなく自分が相手の鏡になっているだけ https://w-jp.net/2019/1698/ <br /> 先日のオーラ融合による想念受信のお話の続きです。<br /> <br /> オーラ接触すると相手の想念が伝わってくるわけですが、例えば初見の人と接した時にふとしたことで自分が今まで思いもよらなかった考えが心に浮かんでくることがあります。<br /> <br /> 具体的には、私が数ヶ月前に少し話した女性の場合ですと、一言二言話しただけで相手の女性の悩みが伝わってきました。その女性は割と資産家らしく、お金目当ての男性がわらわらと近づいてくるようです。その悩みのオーラがブワッと私の方に降りかかってきて、私の心の中にこの女性を食い物にしている男性のイメージがポンと浮かんできたと同時にその女性も何かトラウマを思い出したように苦しみ出して少しヒステリーになったのですぐにその場を離れたのですが、これはオーラ接触によりその女性の悩みが伝わってきた例ですね。この女性はアルコール依存症のようで、まだ50歳前後だと思うのですが少し手が震えていました。お金持っていても不幸せなことがあるんですね。<br /> <br /> オーラの基本的な知識と観察力があればこれは相手のオーラに含まれる想念だとすぐにわかるわけですけれども、そうでなくとも、それ以前あるいはその後数ヶ月経っても私は同様の思いを描いたことがありませんのでこの想念は相手の女性にまつわる物だったとわかるわけです。ですが、オーラや想念に関する知識がない人ですともしかしたら「ああ、これが私の本性なんだ」と思ってしまうかもしれません。<br /> <br /> 実のところ、ヨーガ的な「私」というのは「思い(想念)」ではありませんので、何を思おうがそれは自己の本質とは無関係なわけです。ヨーガ 的な「私」というのは純粋な観察者ですので、思いとは関係ないわけです。<br /> <br /> ですが、一般的には「何を思うか」によって「私」が形作られています。ですから、一般的にはこのような場合に「ああ、私って実は凄く醜い人間なんだ」と思ってしまうかもしれませんが、それはヨーガ的に言えば間違いなわけです。だって、単に相手のオーラと接触してその情報が入ってきただけですから。<br /> <br /> 誤解して欲しくないのですが、「それなら、何を思ったっていいんですね。上のように女性を食い物にしていいんですね」と思う人がいらっしゃるかもしれませんが、微妙に違います。「何を思っても良い。女性を食い物にしたらそのカルマに巻き込まれますが、それも貴方の自由です。」と言ったところでしょうか。本質を理解していればわざわざそんな面倒なトラブルに巻き込まれることを選択しないとは思いますが、自分の行為のアリバイとして理屈を捏ね回したとしても、結局は自分の行為の尻拭いは自分で取るわけですから、好きにしてください、としか言いようがありません。言い訳をしても何も変わらないわけです。<br /> <br /> 誤解の話はこのくらいにして元の話に戻しますが、その女性はオーラが不安定で発散していたから周囲の他人のオーラと次々に接触していたわけですね。<br /> <br /> オーラの働きを一度理解したならば、このようなことがあったらまず正しく理解して、その想念は自分のものではないことを理解して、あとはくよくよ考えないことです。一般人ですと「あぁ、私ってそんな人間だったんだ...」とくよくよずっと考え続けるかもしれませんが、「考える」ことによってどんどんと自分の性質がそれに近づいていきますので考え続ける方が危険です。<br /> <br /> これらはオーラの働きとしても説明できますし、昔ながらの古典的な例えですと「鏡」だと説明されます。自分は相手を映し出す鏡だ、というわけですね。<br /> <br /> ですが、鏡の説明は色々と誤解がありますので、私個人としては鏡よりもオーラの法則の方が説明としてしっくりきます。<br /> <br /> Sun, 20 Oct 2019 00:00:00 +0900 歯痛や疲れている時は予知の感覚が働かないようです https://w-jp.net/2019/1697/ <br /> 数日前から親知らずの根本が痛み出して抜く予定なのですが、歯が痛いと予知能力が鈍りますね。<br /> <br /> 旅行中に疲れているとスリなどにあいやすいのと同じで、スリにしても元気ですと予知能力が働いてあらかじめ避けられますけど、疲れていると予知能力が働きません。と言いますか、働いているとは思うのですが感知能力が鈍ってしまっているようです。<br /> <br /> ここ数日、自転車に乗ったら他のバイクや自転車の動きが読めずに衝突しそうになったり、歩行者をひっかけそうになったり、ほんの1km前後の移動でしかないのですが、その間に何回か危ない場面がありました。こんな短い距離でそんな頻繁に危ない状況になることは今までほとんどなかったのです。<br /> <br /> ただでさえ歯が痛くて注意散漫になっている上、普段の予知の感覚が働かないので、二重の意味で危なかったです。<br /> <br /> 親知らずを抜いて数日は痛みが続くようなので、抜いた後もしばらく気をつけたいと思います。<br /> <br /> この状態でする瞑想もあまり深くは入れませんので、しばらくは瞑想も軽くするだけですね。<br /> <br /> 病気の時は精神的な成長のチャンスの筈なので良い方向に捉えたいです。<br /> <br /> <br /> [追記 10/19]<br /> 下の親知らずを抜きました。油断大敵。親知らずって怖いですね。<br /> 抜く3日くらい前から親知らずの周辺が智歯周囲炎と言う炎症になって夜もあまり眠れないくらい辛い痛みが数日続き、単なる虫歯かと思っていたら親知らずが原因でした... 親知らずを舐めていました。こんなに辛くなるとは。痛くなったので無理言って当日に診察してもらったら、腫れているし当日は時間がなくて抜けないので抗生物質と痛み止め(ロキソニン)を処方してもらって、その数日後、ようやく昨日抜いてもらいました。<br /> 抜いたら、炎症の痛みはほとんどなくなりました。こんなにスッキリするのならばもっと早く抜いておけばよかったです。<br /> でも、抜いたことによる傷口と炎症がまだ残っているせいか、今日は抜いたところを中心にとても熱っぽいです。脇の下の熱が37.0度なのに口の体温は37.7度もあります(苦笑) 額も熱いし。<br /> 今まで、下の親知らずは抜かない方がいいと言われていたので抜かなかったのです。ブラッシングでマッサージすればなんとかなると言われていたのですが、今回はブラッシングでは無理と言われて抜くことにしました。<br /> 結果としては、抜いて良かった! のですが、今日は熱でツライ...<br /> 来月はもう片方の(下の)親知らずも抜いてもらいます。こっちはもっと埋まっているらしいです...<br /> <br /> 今は、痛みが出たり出なかったり、不思議な状況が続いています。<br /> ・施術中:麻酔の針が気持ち悪い。もともと血が苦手。歯医者も苦手ですが、私が行ったところは新しいのでそれでも痛まない方らしいです。昔はどれだけ辛かったのでしょう...<br /> ・施術後1時間くらい:同じく気持ち悪い。寝込みたいくらい。<br /> ・2時間後:急に気分が良くなってきた。痛みもない。炎症の痛みもなし。<br /> ・その夜:快適<br /> ・翌日の午前中〜午後:快適<br /> ・翌日の夕方:夕食後、急に熱が出てきて上記のように変化<br /> ・と思ったら、その1時間後くらいに急に熱が治ってきたのです。なんだこれ... 過渡的な反応だったのでしょうか... まだ微熱がありますけど。今日は調子が良かったのでちょっと外出して買い物などしていたので抵抗力が落ちていたのかもしれないです。あるいは、食べたものが傷口に挟まったとか、飲み物が炎症に反応したとか。どちらにせよ、あと数日は無理せず落ち着いていた方が良さそうです。<br /> <br /> 私の症状よりももっと酷い場合は大学病院とかで入院する人もいるらしいです。私はそれでもまだ軽傷のうちに歯医者行って薬もらって抜いてもらったのでこのくらいで済みそうです。これが長期旅行中だったりしたらもっと怖かったですね。<br /> <br /> 今年は骨折にしろ何にせよ身体的には辛いことが続いています。一方、精神的には進歩が見られるので辛いことも精神的な成長の糧かなとも思っています。<br /> Thu, 17 Oct 2019 00:00:00 +0900 偶発的な霊視 https://w-jp.net/2019/1695/ <br /> 神智学協会のC.W.リードビーターによりますと、完全な目覚めには至らなくても偶発的に透視が起こると言います。<br /> <br /> 完全な目覚めに至らなくても、人はしばしばアストラル的領域を垣間見ることがある。特別に強い波動は、蛇の火が全く活動していなくても、いつでもチャクラを活動させることがあるからである。また蛇の火がいくらか活動を始めて、発作的な透視がしばらく生じることもある。(中略)次第に深く掘り下げてゆくことによって、この火の表層が刺激されるだけに止まらず、火の核心そのものが全面的に活動するまでに至るのである。「チャクラ(C.W.リードビーター 著)」<br /> <br /> これは私にも覚えがあって、ふとした拍子に他の人のオーラの表層にとてもはっきりと視覚的にその人の生活の一面を垣間見たことがあります。10秒前後続きました。その間、一瞬消えることはありましたが10秒ほどの間、ずっとその人の生活の一部が見えていました。<br /> <br /> それはたしかクンダリーニ覚醒の第2回目、マニプラ優勢になったばかりの頃だったと思います。その後はそんなこともありませんので、おそらくは一時的にアジナかどこかが活性化して透視の能力が出たのかなと思います。これぞ偶発的な透視、というものだと思いました。ちょうど1年くらいまえの事ですかね。<br /> <br /> 一種の勘のようなものでしたら以前からずっとありましたし、直感としての透視であれば想像上のものであってずっとありましたけど、その時はまるで物理的なディスプレイが現れたかと思 うくらいはっきりと肉眼で見えるかのように見えていました。<br /> <br /> てっきり、透視ができるようになっても想像とか夢とか、その種の直感的なものかとばかりずっと思っていましたので、その時は、まるで肉眼で見えるかのように見えたのには驚きました。こういう風に見えることもあるんだ、と。<br /> <br /> その人はちょっと情緒不安定でしたのできっとオーラが発散していて読み取りやすい状態になっていたのかなぁ、という気もしますし、相手の守護霊があえて見えやすくしていた可能性もあるにはありますけど。<br /> <br /> どちらにせよ、あんなにはっきり見えたことには驚きました。<br /> <br /> とは言いましても、おそらくあれは肉体のレベルに近い、いわゆる低いレベルの透視だったのかなぁ、と今は思います。見えているのは単に生活の一部ですし、深い洞察やその場面の裏側に横たわっている背景までが見通せるわけでもありません。ただ単に過去の一場面を見たというだけで、それはそれで面白いことではありますけど、見たからと言ってその人や私の精神的成長の役に立つかと言われると、ほとんど役に立たないと思われるわけです。<br /> <br /> おそらくは本当の上位の透視はそんな生活の場面ではなくもっと深いところが見えるのだと思っています。<br /> <br /> そこまで行くのはまだまだ遠い道のりな気がしますけど。<br /> <br /> <br /> <br /> Sun, 13 Oct 2019 00:00:00 +0900 寝るときに聞こえた不気味な呟く声 https://w-jp.net/2019/1694/ <br /> 寝る時に体が帯電していてハートから電気というかオーラが身体中に飛び出てゆらゆら動いているような感じになっていました。<br /> <br /> 今日は遠出をしたので疲れたのかな... と思ってそのまま寝ようとしたのですが、その状態で目を瞑っていたら、何やら意識が「後ろ」に次第に引き込まれていって、視線も後ろに行く感じで、まるで(スタートレックやスターウォーズでの)「ワープ」の逆方向(後ろ方向へ進む)のような感じになっていました。<br /> <br /> そして、ふとその速度が上がって意識が圧縮された不思議な感じになったかと思ったら、おそらくオーラというか幽体がちょっと体からズレた状態になったのでしょうかね。幽体っぽいものがちょっとだけ頭の上、頭の斜め上方向にズレた感じになりました。<br /> <br /> 何とも中途半端な感じで幽体離脱っぽくなったかな??? と思っていたのですが、その状態はあまり心地の良いものではありませんでしたのでおそらく30秒もしないうちに意識的に感覚を戻して元に戻ったのですが、その何十秒かの間に、ちょっと不気味な感じになりました。<br /> <br /> 特に不気味だったのが、頭の右上すぐのところで、明らかに他の意識体の声で、まるで念仏のようにブツブツと呟く声が聞こえてきていたのです。ちょっとゾッとしました。内容的には延々と、途切れなく「アリガトウゴザイマスアリガトウゴザイマスアリガトウゴザイマスアリガトウゴザイマス...」と繰り返す感じなのですが、こんな均等のトーンで繰り返す内容でもないので、まるで感情の入っていない念仏のようで不気味です.... 何だこれ...<br /> <br /> まるでホラーでした(苦笑)<br /> <br /> Fri, 11 Oct 2019 00:00:00 +0900 電車で眠くなったら座席に結界を張る https://w-jp.net/2019/1693/ <br /> 以前の話の続きです。<br /> <br /> オーラのケーブルを切りつつ、意識すればそれは結界にもなります。<br /> <br /> 本日電車に乗っていたら、席が空いていた時は快適だったのですが人が増えてきたら何処かからエネルギーを抜かれている感じがしてきました。具体的にはちょっと眠い感じになったのですが、眠くなったらそれはエネルギーを抜かれている可能性があります。<br /> <br /> 何となくイメージできますよね。元気であればそんなに眠くはなりませんが、エネルギーがなくなってきたら回復のために眠くなるのです。<br /> <br /> ですから、電車に座っていて急に眠くなってきた場合。それも、人が少ない時は何でもなかったのに急に眠くなったのであれば、それはエネルギーを抜かれている可能性があります。<br /> <br /> そんな時、普通の人は何の手立てもなく抜かれるがままなのがこの世の中です。エネルギーとかオーラに関する知識がありませんからね...<br /> <br /> エネルギーを抜かれているのならば、それはオーラのケーブルが繋がっているということですので、例えば自分が座っている座席の四方を囲んで意識の「刀」でぐるりと一周すればケーブルは切れます。<br /> <br /> 今日の場合も同様にして急に眠気がなくなりましたので、オーラのケーブルは切れたようです。<br /> <br /> それだけでは再度ケーブルが繋がるかもしれませんので、意識して薄い壁のようなものを作って結界にしました。これは、単にそうイメージするだけで効果がある筈ですが、他の人がうまくできるかどうかは知りません。<br /> <br /> この種のエネルギーの移動ってよく行われていることですけれども、エネルギーが枯渇している人は何かで無駄遣いしているかあるいはまた他の人に抜かれているので、エネルギーをあげてもキリがないのですよね。<br /> <br /> エネルギーを抜かれるのを防ぐのは「分離の意識だ」っていう人もいますけど、それは相手がスピリチュアルな人の場合だけであって、この世の中はエネルギーを高めていこうとしている人とエネルギーを奪って消費しようとしている人とに二分されると思いますので、前者にエネルギーを与えるのはたまには良いですが後者に与えても無駄にするだけです。後者は、例えるならば水道の蛇口が全開になっている人、あるいは、お風呂の栓が止まっていないのにお湯を貯めようとしている人なのですから、いくらエネルギーを注ぎ込んでも抜けてしまって貯まらないのです。であれば、エネルギーを与える前に本人のエネルギーの無駄使いあるいはエネルギーの他の人への奪われを阻止してからエネルギーを注ぎ込まないと状況は良くならないですよね。ですから、私は外で見知らぬ人にエネルギーを抜かれたらすぐにオーラのケーブルを切ってエネルギーを奪われるのを阻止しているのです。エネルギーを与えるのならば意識的にしたいですし、相手が、自分の意思でエネルギー的でスピリチュアル的な成長をしていこうと思っていなければあまり意味がないように思います。<br /> <br /> <br /> Fri, 11 Oct 2019 00:00:00 +0900 癒しとはエネルギーの高まり https://w-jp.net/2019/1686/ <br /> 女性的に言えば癒しですし、男性的に言えば男らしさ。それがエネルギーの高まりです。<br /> エネルギーの高い女性に近づけば癒しを感じますし、エネルギーの高い男性に近づけば男らしさを感じます。<br /> <br /> 男性性、女性性という視点を取っ払えば、両方ともエネルギーの高まりです。<br /> <br /> ですから、女性がエネルギーの高い男性に近づけば癒しを感じてエネルギーをもらって女らしくなるのです。<br /> 逆に、男性がエネルギーの高い女性、女らしい女性に近づけば自分がエネルギーを受け取ることで男らしくなるわけです。<br /> これはあくまでも例でわかりやすく男と女の話で言っているだけで、LGBTのパターンもあると思います。<br /> <br /> 私の場合、ヨガを始める前はエネルギーが少ない状態で、様々な葛藤や問題があってエネルギーのルート(ヨガ的に言うナディ)が詰まった状態で生活していましたのでエネルギー枯渇状態だったこともあります。ヨガを始める前は旅行などでエネルギーチャージをしていましたが、ヨガを始めてから体の各所のエネルギーの詰まりが少しづつ取れてきてエネルギーが通るようになってきました。<br /> <br /> それで多少はエネルギーが入るようになったのですが、根本的に変わったのはクンダリーニの覚醒です。<br /> 最初は下半身が熱くなってエネルギーが高まりました。これだけでかなりエネルギーが高まりました。ヨーガ的に言うところのマニプラ・チャクラが優勢の頃です。<br /> <br /> 次に胸が引いてエネルギーの質が変わりました。ヨーガ的にいうとアナハタ・チャクラが優勢になりました。<br /> その後、頭のあたりまでエネルギーが通ってきました。<br /> <br /> この時点までは下の方のエネルギー、いわゆる地のエネルギーを使っていました。<br /> <br /> しかし、頭までエネルギーが通った後、少しだけですが天のエネルギーを使えるようになってきました。<br /> 地のエネルギーのように本格的な覚醒はしていないものの、天のエネルギーを少しづつ体にまで下ろしてエネルギーを満たせるようになってきて、体のエネルギーの質が変わってきています。<br /> <br /> 色々と「愛」だとか「平和」だとか言われていますけど、結局のところ、エネルギーが高まればほとんどは解決するのかなあ... という気も最近してきています。<br /> <br /> 物理的世界でも世界の抗争の原因はオイルなどのエネルギーの奪い合いでしょう。<br /> <br /> 精神的にも他人のエネルギーを奪ったり奪われたりという争奪戦が繰り広げられていますけど、世界の構図も人間の構図も一緒なのかなあ... という気も致します。結局はエネルギー問題なのかな、と。<br /> <br /> 人間のエネルギーも他人から奪ったりしている人、いわゆるエネルギー・ヴァンパイアもいますけど、世界にも他人のエネルギーを奪っている人がいますよね。<br /> <br /> 本当はエネルギーなんてそこらに溢れていて奪う必要なんてない... というところに状態が進んでいけば世界の抗争も人間の争いもほとんど解決するような気が致します。<br /> <br /> Sun, 06 Oct 2019 00:00:00 +0900 テレパシーとオーラ融合による想念受信との違い https://w-jp.net/2019/1685/ <br /> 先日 オーラの交換について書きましたが、オーラ交換をするとオーラに含まれている情報が伝わってきます。一方で、テレパシーによるコミュニケーションもあります。以前、テレパシーについても少し書きました。<br /> <br /> ■オーラ交換(融合)の場合<br /> 自分が意図的にエーテルの筋(オーラの筋)を伸ばしていって情報交換する場合もあれば、他人のオーラと混ざって情報が伝わってくる場合もあります。無意識に他人のオーラと混ざる場合もありますし、他人が意図的にこちらに接触してくる時にこちらが気付く場合もあります。<br /> <br /> 一番単純な場合では、浮いているオーラと自分のオーラが接触する場合です。この場合、自分の体のちょっと外側、体の周囲の50cm~1mほど離れたあたりでオーラの接触があって、そこから情報が伝わってきます。<br /> <br /> 今日の瞑想中にあったことで言いますと、頭のちょっと上、50cm前後離れたところでフワフワっとエネルギーの反応があって思考といいますか想念が化学反応のように出てきて、情報が入ってきました。その想念はおそらくそこらへんの空中に浮いてプカプカとどこかから飛んできたものですので、情報的はとりとめのない単なる雑念だったのですが、まあ、今日はそんなオーラの雑念を受け取りました。<br /> <br /> ■テレパシーの場合<br /> 一方で、今日の瞑想中に首の後ろあたりで直接的な想念も受信しました。これは、感じが違います。いきなり想念が出てくる感じです。<br /> <br /> 上記のオーラ交換(融合)の場合は科学反応みたいなザワザワした感覚があって、それは一瞬の間ですがその感覚があった後に状態が落ち着いて、続いてすぐに情報が伝わってきます。一方、こちらのテレパシーの場合は何もない空間にいきなり声が浮き出てくる感覚です。音の出ていなかったスピーカーがいきなり振動して声が聞こえるのに似ています。その受信機は、もしかしたら首の後ろにあるのかもしれません。<br /> <br /> 喉のヴィシュッダ・チャクラは声だけでなく耳の方も司っていてテレパシーの送受信の機能があると言われていますけど、今回の場合、喉からはちょっとだけ離れてはいますが、オーラは体と重なっているとはいえ少しズレたりすることもありますのでこのくらいは誤差かもしれませんし、あるいは、ちゃんとその場所に何かがあるのかもしれません。どちらにせよ、首の後ろの少し上のあたりで想念を受信したのですが、それは体の外側で感じるものとは別物でした。<br /> <br /> その首の後ろは体の内側ではなないのですが、オーラ的に言えばオーラの外縁部ではありませんのでオーラ的には内側と言えると思います。オーラの外縁部から情報が伝わってくるという感じではありませんでした。<br /> <br /> もともと昔から悪い予感や見えない存在からの何かの忠告がありそうな時には喉仏のあたりがグリグリとしていましたので、喉仏には何かがあって、そこがヴィシュッダ・チャクラかなあ、と前から思っていたのですが、今日の瞑想でテレパシーっぽいものを受信したのは喉仏ではなく首の後ろでした。何か違いがあるのでしょうか。<br /> <br /> テレパシー受信した時、その直前と直後はラジオのノイズのようにザワザワした感じで音量ONでボリューム有りの状態で、声になって聞こえている間だけ意味のある日本語で聞こえました。前後が音量ゼロだったわけではなく、前後共に音量があって、ラジオで言うところのチューニングされている状態のノイズから急にチューニングが合って音量がゼロに近づくと同時に声が聞こえ始めて、声が終わるとまたチューニングが外れて音量はそのままでラジオのようにノイズが聞こえているような感じでした。ノイズと言うのは比喩で、ラジオのようにうるさい感じではなくて、ノイズはノイズですけれども意味のないザーーと言う感じのノイズになると言うことです。<br /> <br /> ナーダ音の高周波がテレパシーになるのかどうか・・・? は、そこまで気付きませんでした。一部のスピリチュアルやヨーガではナーダ音がそのうち意味のある声として聞こえてくると言われたりしていますけど、今回のは急でしたのでその変化までは気付けませんでした。<br /> <br /> ■宇宙人のテクノロジーによるテレパシー<br /> 一方で、子供の頃に宇宙船の宇宙人とテレパシーをした時は、おそらくはそれは能力というよりも宇宙人のテクノロジーでそういう機械があって、その機械を使えば誰でもテレパシーできるのだとは思いますが、その場合は頭の上方、斜め上の50cm前後から響いて、指向性スピーカーのように内なる声として、上から聞こえる声として聞こえていましたね。これは、能力で行うテレパシーともまた違ったものかもしれません。想念的なものを指向性で飛ばしているような気がいたします。だから、上から下にテレパシーが聞こえるのだと思いますし、範囲も半径1mくらいにいれば他人でもそのテレパシーを盗み聞きできてしまいますので、使い方に制限のあるテレパシーの技術なんだなあ、と思います。これはテレパシーというよりも想念を使った指向性スピーカーと思った方が良さそうですね。<br /> <br /> <br /> 宇宙人のテクノロジーはもはや検証できませんのでとりあえず置いておくとして、オーラの融合はたぶんそんな感じかなあ、と思っていて、これからもっと謎解きしたいのは首の後ろあたりで感じたテレパシーですね。オーラの交換によるテレパシーですと毎回情報交換するのも大変ですし、情報の伝達も一方的になりますし、そもそもオーラ交換なんてそう度々したくないですし。単に感覚的なもの・振動的なものだけでテレパシーできた方がオーラ交換するよりも健全な気も致します。<br /> <br /> 首の後ろだけでなく後頭部のあたりで感じることもありますので、これは何なのかなぁ、と。そういう違いについても少し観察をしてゆきます。<br /> <br /> <br /> Sun, 06 Oct 2019 00:00:00 +0900 マインドフルネスな欧米企業と頭の回転を重視する日本企業の違い https://w-jp.net/2019/1684/ <br /> マインドフルネスな欧米企業には例えばグーグルなどがありますが、以下のように業務の効率を最大化しています。<br /> <br /> <br /> ・雑念を取り払い、彷彿状態(トランス状態)を作り出す。<br /> ・インプットを「ありのまま」(雑念に囚われる事なく)受け取ります。<br /> ・必要な事項のみを(雑念に囚われることなく)高速に処理(論理思考)します。<br /> ・アウトプットを「ありのまま」(雑念に囚われる事なく)作成・提供します。<br /> ・「思考していない状態」(マインドフルネス)を受け入れている。オンとオフの切り替えがうまい。<br /> ・行動よりも結果で評価。<br /> <br /> <br /> よって、グーグルでは仕事は「とても楽しい」ものになります。<br /> <br /> 一方、多くの日本企業の場合は、以下のようになるでしょう。<br /> <br /> <br /> ・雑念の溢れる中で必要な事のみをピックアップする。例えば居酒屋などで世間話を挟みながら必要な情報を引き出す。<br /> ・インプット(見聞きする事)に雑念が含まれる。思い込みや自分の拘りなどで入力データが曇る。<br /> ・雑念が論理思考を邪魔して正しい論旨を組み立てることに時間がかかる。雑念で論理が捻じ曲げられる場合すらある。<br /> ・アウトプットに雑念が含まれる。思い込みや自分の拘りが含まれる。出力データが曇る。<br /> ・「思考していない状態」(マインドフルネス)は「働いていない」「怠けている」と判断されて評価が下がる。オンとオフの切り替えが下手。常に手を動かしていないと評価が下がる。<br /> ・無駄な頭の回転だったとしても動き続けることが評価される。結果での評価ではなく行動自体が評価される。結果主義(結果を評価する主義)ではなく努力評価主義(努力自体を評価する主義)。<br /> ・そもそもマインドフルネスができないし、何なのか分かっていない。自分の思考や会話を止めたら雑念が止めどなく出てくるので思考を途切れさせるのを嫌がる。よって、マインドフルネスができる人のことを嫌う。思考を次々に出せる人こそが頭が良いと勘違いしている。<br /> ・結果、日本企業が益々マインドフルネスから遠ざかる。<br /> ・であるから、日本企業の業務効率は改善しない。<br /> <br /> <br /> ちょっと極端なこともありますし、そうでない会社も色々とあるとは思いますが、私の知っている限りではこんな感じだと思います。<br /> <br /> 日本企業ではマインドフルネスはいわば「敵」ですので、マインドフルネスを妨げるような行為、例えば騒音ですとか大声を出すとか、そういう行為も思いっきり許容されます。<br /> <br /> 悲しいくらい日本企業はマインドフルネス的ではありませんね。<br /> <br /> ■創造性とマインドフルネス<br /> 他から持ってきた理屈を論理思考することと、新しい事を創造するのはやり方が根本的に違います。<br /> <br /> <br /> ・他から持ってきた理屈を論理思考することは、一見すると「知識があって」「頭が良い」「頭の回転が良い」とみなされますが、それだけです。やがてはAIに取って代わられるかもしれません。日本企業で評価される頭の良さとはこれです。頭や口をフル回転させてグルグルと思考を動かし続ければ続けるほど「頭が良い」とみなされます。<br /> ・新しい事を創造するには、一旦「停止」する事が必要です。それはマインドフルネスです。思考を停止させ、自分の奥底から「出てくる」瞬間を「待つ」必要があります。その時、「何もしていない」期間が必要なのです。<br /> <br /> <br /> 後者は、時々異論があるかもしれません。「いや、世の中に出ている新しいものというのは、実際には昔のものの組み合わせに過ぎない」と。確かにそれは基本としてはその通りではあるのですが、2つのものが「組み合わさる」時は、組み合わせ方にセンスがいるわけで、そのセンスが生まれ出る根本のところがマインドフルネスなわけです。ロジックで生み出そうとする場合は組み合わせの何千もの組み合わせの中から最適なものを選ばなければなりませんが、マインドフルネスで答えを「内」から「出てくる」ことによりロジックを超えたところで「創造」することができます。<br /> <br /> ここで色々と誤解があって、新製品を作った時の組み合わせ方すらも既に世の中にある応用だとすればそれはここで言う「創造」ではなく単なるロジックの組み合わせということになります。これは、後から見ると全てこう見える、ということもあります。後から見て分析をしたらその組み合わせ方は他の何かの応用でしかない、ということになることがほとんどです。ですが、ここでいう創造とはそういうことではなく、あらかじめ勉強したり知ることなしに「内」から「浮かび上がってくる」ものを意味しているのです。<br /> <br /> 多くの場合、組み合わせすらもノウハウ化されていて発明のノウハウ化などもされており、「組み合わさり方」すらも既に世の中にあるのであれば、そのノウハウを使って作った新製品や新サービスは一見すると新しい創造ですが、本当は創造ではなくて組み合わせて見た目を変えているだけです。まあ、一般的にはそれでも創造と言いますし商売では十分かもしれません。<br /> <br /> マインドフルネス的な「創造」とは、もっと経験的で彷彿的なものです。結果としては似たようなものができてしまうかもしれませんが、全く新しいものができるかもしれません。その、創造の幅の広さがマインドフルネス的な創造のメリットです。<br /> <br /> グーグルがマインドフルネスで新しい事を創造しようとしているのはそのレベルで何かを作ろうとしているのであって、組み合わせで見た目が新しいものを作り出すのであれば他の企業がいくらでもやれると思います。そのあたりが一流と二流の違いという事でしょうか・・・。<br /> <br /> その筋の一流は瞑想をしてマインドフルネスを理解しますが、三流は瞑想をしないしマインドフルネスもよく分からないのだと思います。二流は何となく分かっているという人でしょうかね。<br /> <br /> どちらにせよ、日本でマインドフルネスは当分理解されないでしょうし、やろうとすら思わないでしょう。日本企業の闇は深過ぎます。もう1世代変われば随分と違ってくるでしょうが。<br /> <br /> 日本の場合、アイデアは自分で浮かぶものではなくて奪うものになっているような気がいたします。以前少し会議のアイデアとオーラの関係について書きましたけど、本来、同レベルの人が集う会議で浮かび上がってくるアイデアに自分も相手もないのです。日本では飲み会などで相手のオーラをふにゃふにゃにして引き出してアイデアを奪うようなことが日常茶飯事で行われているような気が致します。そんな状況が続くとすれば今後も日本の状況はそうそう変わらないでしょうね。<br /> <br /> Sat, 05 Oct 2019 00:00:00 +0900 シュタイナーの説く「境域の守護者」 https://w-jp.net/2019/1683/ <br /> シュタイナーは以下のように述べています。<br /> <br /> 高次の世界に向かって上昇するとき、私たちは「境域の守護者 Huter der Schwelle」と出会うという重要な体験をします。境域の守護者は1人ではなく、実際には「境域の小守護者」と「境域の大守護者」の2人がいます。「いかにして高次の世界を認識するか(ルドルフ シュタイナー 著)」<br /> <br /> 最初に遭遇する「境域の小守護者」について、以下のように描写しています。<br /> <br /> 恐ろしい幽霊のような存在が学徒の前に立っています。「いかにして高次の世界を認識するか(ルドルフ シュタイナー 著)」<br /> <br /> これは、先日の瞑想の中で見たぞっとする小悪魔のことかもしれません。同書の説明は以下のように続きます。<br /> <br /> どんなに恐ろしい姿をしているとしても、それは学徒自身の過去の人生の結果であり、学徒の外で独立した生活を営むようになった、学徒本人の特性なのです。(中略)このように、自分自身が霊的な存在を生み出した、と初めて感じることこそが、すでに学徒にとって意味深い体験になります。このとき学徒はまったく恐怖を抱かないで、恐ろしい姿を見ることに耐えなければなりません。「いかにして高次の世界を認識するか(ルドルフ シュタイナー 著)」<br /> <br /> そして、この状態で行う活動は全て、個人的なものだけでなく家族や民族や人種にまで影響を及ぼすとのことです。ですので、この状態に達したら民族や人種の使命のために働くべきだ、とも述べられています。そして、以下のような警告が記されています。<br /> <br /> 目の前に広がる暗闇を自分自身で照らし出さなくてはならない、ということを理解するまで、あなたは私の領域を超えてはなりません。(中略)これまであなたが頼りにしてきた、導き手たちのランプは、これから先の未来においては存在しないのです。「いかにして高次の世界を認識するか(ルドルフ シュタイナー 著)」<br /> <br /> これらは最初読んだ時は単なる比喩表現かと思って流して読んでいたのですが、改めて読み返してみると、先日見た小悪魔に通じるものがあって興味深いです。<br /> <br /> 私の場合は、これが見えたかと思ったらすぐに消えてしまったので、超えたのか何なのかはいまいちよくはわかりませんが。すぐに消えてしまったということは通って良いということだと理解して良いのかどうか。どうでしょうかね。<br /> <br /> このあたりは様子見です。<br /> <br /> Thu, 03 Oct 2019 00:00:00 +0900 Youtubeで見たスピリチュアルなスクール https://w-jp.net/2019/1679/ <br /> とあるスピリチュアルなスクールの映像をYoutubeで見ていて、「ふ〜ん。そんなに遠くもないし、通ってみるのもいいかもね〜。でもお高そう」とか思っていたら、急にその映像のイメージと本人の声が頭の中に現れて、「え〜? 貴方、来る必要ないじゃない。べつに来ても良いですけど。(来るものは拒んでいないので)」みたいなかなりリアルなテレパシーが伝わってきました。<br /> <br /> さすがこういうスクールしていると普通にテレパシーで伝えてきたりするのですね・・・。受講候補生まで感知するとは。<br /> <br /> ただの白昼夢かもしれませんけど、本人の声と瓜二つでYoutubeの感じと凄く似ていたので、可能性としては本当に本人(おそらくそうかな?)か、あるいは内なるガイド・守護霊がそれっぽいイメージを使って伝えてきたのかもしれません。<br /> <br /> まあ、何となく言わんとしていることは分かりましたので、(今のところ)通うことはないかな。<br /> <br /> Mon, 30 Sep 2019 00:00:00 +0900 魂(幽体)がそのまま転生する場合と、一旦グループソウル(類魂)と一体になってから分霊を作って転生する場合がある https://w-jp.net/2019/1677/ <br /> 先日の「死んだらどうなるのか?」と「魂と性別とLGBT 」のお話の続きです。<br /> <br /> 先日のお話は死んだらどうなって、霊体が結合したり分霊になったりするお話ですが、それとは別に、幽体の魂がそのまま転生する場合もあります。と言いますが、それが大多数です。<br /> <br /> カウントの仕方にもよるのですが、赤ちゃんの生まれる数の割合で言いますと幽体がそのまま(結合・分霊というプロセスを経ずに)転生する場合の方が遥かに多いように思います。残りは残りは前記のように一旦グループソウルと融合してから分霊になって再度生まれる、とかその他の場合ですね。<br /> <br /> ですから、死んだ後の魂がどうなるのかは諸説あるわけです。転生があるのかないのか? というお話も、あるようでいてないような・・・。全てはものの見方次第です。<br /> <br /> ・幽体がそのまま転生する場合:輪廻転生そのものですね。これが大多数です。<br /> ・幽体と魂(霊体)が一旦グループソウルと融合してから分霊を作って転生する場合:一旦「個」がなくなるので、これを輪廻転生と呼ぶのかは微妙なところです。これは少数のパターンです。<br /> <br /> 発達した魂ほど後者のパターンで一旦グループソウルと一体になってから転生しているような気が致します。人間としての人生にどっぷり浸かっているほど前者のパターンで幽体のまま(結合・分霊というプロセスを経ずに)転生しているような気が致します。<br /> <br /> 魂(霊体)はグループソウルとしての意識もあって、グループソウルの意識は人間の意識を拡大したものですので、それが人間相当だとするとグループソウルが転生を繰り返している、という見方もできます。グループソウルの一部が転生を繰り返して、分霊が1回だけでなく複数回転生してからグループソウルに帰る感じですね。分霊が単体で転生を繰り返すのは何十回やもっと長いこともあるようです。これは流石に把握しきれませんけど。<br /> <br /> 夢で見たここ1,000年くらいのグループソウルの記憶に基づいて言いますと、同じ意識を持った例が度々記憶の各所で出会っていますので、きっと少なくともそのくらいは個別の魂が転生を繰り返すのかな、とも思います。<br /> <br /> 一方で、かなり発達した霊は目的別にグループソウルから分離して各個の使命を果たし、終わったらグループソウルに戻ったりしているようです。<br /> <br /> Sun, 29 Sep 2019 00:00:00 +0900 カタカムナ的な雑念の停止方法 https://w-jp.net/2019/1673/ <br /> オリジナルの記載は眠る時の工夫についてですが、起きている状態で似た仕草として「目を上に向ける」をしただけで簡単に雑念が停止しました。<br /> <br /> (前略)・・・これによって眼球が自然に上方に回り、思考作用が停止状態となる。「カタカムナの道(関川 二郎 著)」<br /> <br /> この仕草、まるでクリヤ・ヨガのババジの肖像画を思い出します。<br /> <br /> <br /> 「Kriya yoga Darshan(Swami Shankarananda Giri著)」より<br /> <br /> クリヤ・ヨガと言えばケチャリ・ムドラですが、私は舌は届かないもののなんとなく舌を上に上げてみましたが、舌を動かすだけでは雑念とは関係ないようです。一方で、眼球を上に上げるだけで雑念が止まります。<br /> <br /> これは、意外に使えます。盲点でした。あまりこんなことしないですからね・・・。他の人も同様にして雑念が止まるかどうかは知りませんが。<br /> <br /> カタカムナ的には眼球が上がるのは結論であって意識的にやらないようですけど、まあ、それはそれとして。<br /> <br /> この仕草は、星が見える場所で宇宙を眺める姿勢に似ていますね。<br /> <br /> 普段の生活で上を見ていると「あの人どうしたのだろう?」と思われてしまうかもしれないですけど。そこまで力一杯上を向かなくても、ちょっと上方向を向けるだけでも十分雑念は止まるような気が致します。<br /> <br /> これはいい情報でした。<br /> <br /> 最近は普段の生活で雑念にそれほど振り回されなくなったとはいえ、雑念を消す方法がいくつもあるに越したことはありません。<br /> <br /> 息に集中することでも雑念は消えますけど、目を上に向けるやり方の方がそれよりも簡単な気がしました。<br /> <br /> ただ、息に集中・観察した方がずっと瞑想っぽくなる感じではありますが。私の場合、息に集中する場合は心臓あたりの胸の動き全体に意識を合わせますので、そのままアナハタへの瞑想に繋がるので息に集中・観察した方が瞑想の時は良さそうです。一方で、瞑想中以外の場合などで単純に思考をすぐに止めたい場合は上を向く方法が良さそうです。<br /> <br /> <br /> <br /> Thu, 26 Sep 2019 00:00:00 +0900 トニー・パーソンズの悟り https://w-jp.net/2019/1672/ <br /> 私はこの人は知りませんでしたがたまたま図書館の関連図書リストに表示が出たので借りてざっと読んでみました。<br /> <br /> この人の悟りの経験は公園で起こったと記されています。<br /> <br /> 歩きながら、起こるか起こらないかわからない未来の出来事に対する期待で頭が完全に占領されていることに気がついた。(中略)自分が歩くのを観察している自分から、歩きがただあるということへの移行が起こった。(中略)ありとあらゆるものから時間がなくなり、私はもう存在していなかった。私は消え、経験する者はいなくなっていた。(中略)いついかなる場所でも、私は静寂、無条件の愛、一元性(ワンネス)に完全に包まれ、抱擁されている。「オープン・シークレット(トニー・パーソンズ 著)」<br /> <br /> これ、アナハタ優勢になって少し後に記したこの記事「雑念が減り、『いま』に生きる」の内容に似ていますね。<br /> <br /> 「自分が歩くのを観察している自分」とは文字通りでは解釈が困難ですが、その前後の文脈を読み取ると次のように解釈できます。<br /> <br /> ・最初は、雑念が多い状態だった。<br /> ・雑念が消えたとは明記してありませんが、雑念が消えたと解釈できます。雑念が消える前が「自分が歩くのを観察している自分」だとすれば、雑念が消えた後が「歩きがただあるということ」の状態であり、前者から後者への移行がこの公園で起こったと解釈できます。<br /> ・その結果、「時間がなくなり」、「私はもう存在しなくなる」「私は消え、経験する者がいなくなる」という状態になった。<br /> <br /> 本人は「何もしていないのに起きた」と記していますが、私には彼が偶然にヴィパッサナー瞑想に入ったように見えます。であれば、何もしていないのではなく、文字通りしっかり「観察」をしたのだと思います。本人は修行とかをしなくていきなりその状態に入れたので修行方法とかわからないようですけど。<br /> <br /> これは、本人が「勝手に自動的に起きた」と思っているだけで、物凄く合理的な話だと私なんかは思います。修行方法もきちんとありますし。<br /> <br /> 一昔前であればこのくらいでも「悟りを開いた」とか言って団体作ったりセミナーしたりしていたのかもしれないですけど、最近ならこのくらいは割と普通に達成できる段階のような気が致します。悟りにも色々な段階がありますね。<br /> <br /> 雑念のうち「過去」に関するものは自分のカルマというかサムスカーラという「印象」によって何度も呼び起こされますし、「未来」に関する雑念は想像で期待なんかをして頭の中で想念が何度も繰り返されるわけです。この二つを止めれば「いま」に生きて同様の状態になるのは明らかです。ヴィパッサナー的なお話でもありますし、ヨーガのお話でもあります。<br /> <br /> まあ、何度か詳しく書いた気がしますので繰り返しませんけど。<br /> <br /> <br /> Thu, 26 Sep 2019 00:00:00 +0900 魂と性別とLGBT https://w-jp.net/2019/1669/ <br /> 魂には性別はありませんが、幽体は肉体がないだけで人間とほぼ同様ですので性別があります。<br /> <br /> ですので、幽体のコミュニティには人間の地上界の生活と同様の男女関係があります。<br /> 女性がご飯を作ったり旦那が寛いだり。女性たちが楽しそうに歓談したり。<br /> お金の煩わしさもありませんので、ある意味、理想的な社会とも言えます。<br /> ただ、本来は制限はないのですが、「思い込み」で制限を作っていたりします。<br /> <br /> 性別もその制限だ・・・ とまでは言いませんが、性別というのは、ある意味、幽体にとってみれば「思い込み」みたいなものになります。<br /> <br /> 幽体の上の霊界などに行くとグループソウル(類魂)の概念があって、魂がグループソウルと一旦溶け合ってから再度分霊を作る、みたいなことになりますが、幽体の段階では基本的にそれぞれの幽体は個別の幽体としての体を保持しており、幽体同士が結合したり分霊をしたり、ということはあまりありません。意識的にあるいは無意識的に結合や分霊が行われたりもしますが、それは割合としては少ないように思います。<br /> <br /> 魂が霊界のレベルでグループソウルと溶け合う時、幽体としての記憶もある程度は保持されます。ですが、分離した時は、幽体の時の体もそれぞれの割合で分割されます。<br /> <br /> これは、幽体のレベルでも実は結合や分霊ということは同様に行われるのですが、霊界のレベルに意識が達しないとそのような選択肢がなかなか生じないからのようです。<br /> <br /> このあたり、理解がこんがらがるかもしれませんが、意識が幽体のレベルでは結合や分離という概念がほとんど出てきません。というのも、幽体では「分離」の意識状態だからです。幽体の意識状態で結合・分離をするのと霊界で結合・分離をした時と「現象」としては同じなのですが、幽体の意識レベルではその選択肢が出てこないということです。<br /> <br /> 一方、意識が霊界のレベルになると結合や分離が自然に行われます。<br /> <br /> それは、例えるならば空中に浮かんでいる雲、あるいは、空中に浮かんでいる水の塊のようなものがグループソウルだとして、最初はそれと溶け合うのです。これが結合です。結合後は、個別の意識は一旦はなくなり、グループソウルの意識だけになります。その後、グループソウルとしての意思が働いて一部分を分離して分霊を作り、独立した意識体としての霊体・幽体を作り出します。<br /> <br /> この時、元になった幽体が男か女かで男女比が一旦は固定されます。<br /> <br /> 男女比が10:0や0:10ということはあまりないように思います。8:2ですとか2:8、あるいは6:4や5:5になるかもしれません。<br /> <br /> グループソウルが分霊を作り出すとき、「意図」が必ずあって、目的が設定されます。<br /> その目的に即して分霊が作られますので、男女比は色々なものになります。<br /> <br /> 生まれてきた時は前世での幽体の性質を受け継ぎますので、肉体として男か女かというお話に加えて、男の比率が高いか女の比率が高いかというお話が加わります。<br /> <br /> そして、生まれてきた目的がそこに重なります。<br /> <br /> 生まれてきた目的は色々ですが、どちらの性別がやり易いか? というお話がまずあります。その上で、現在の幽体の性質が関係してくるわけです。これは、色々なパターンが考えられます。<br /> <br /> ■幽体は男が優勢だが、女の性を学ぶために女性として生まれる場合。逆の場合も同様。<br /> この場合、生まれてから少女時代はきっと「男っぽい女の子」でしょう。ですが、女性の性を学ぶために「私は女なんだ」と「自覚」して女性を生きるかもしれませんし、そうではないかもしれません。最近ではLGBTとか言われていますように、この場合は「私って体は女性だけど実は男だ」と開き直るかもしれません。それが良いかどうかは本人の意図次第です。本人の生まれてきた目的が性別と関係なければそれはそれでいいかもしれませんが、女性の性を学ぶ筈だったのが開き直って学ぶのを辞めてしまったら人生失敗になるわけです。生まれてきた時に決めた目的がわからなければこのあたりの良し悪しはわかりませんし、生き方は自分が決めることですから他人がどうこういう必要もないのですが、本人のスピリットは本来の目的を達成したいと思っている筈です。<br /> <br /> 例えば、生まれた時は幽体は男が優勢でも、女性として生まれて女性の性を学ぶにつれて女性の性質が優勢になってきたりします。幽体の性質は意思で変えることができるようです。<br /> <br /> ■女として生まれたかったが、女として生まれると差別があるので仕方なく男として生まれる場合。<br /> 幽体の性質としては女ですが、この地球では女として生まれると出来ないことや、あるいは性的な虐待などが原因で男性を選ぶ場合があるようです。この場合はLGBTになったりならなかったり色々のようです。<br /> <br /> ■幽体の性質が男で、男を極めたい<br /> これは好きにしてくれればいいと思います。<br /> <br /> ■幽体の性質が女で、女性を極めたい<br /> これも素敵なことです。女神を目指しているのでしょう。<br /> <br /> ■性別のない状態<br /> LGBTなどにも性別がない分類がありますが、男女の性質が拮抗している場合はそのようになるかもしれません。<br /> 一方で、魂のレベルが上昇すると同様に性別がなくなってゆくように思います。<br /> <br /> とは言いましても、肉体を持って生まれているのですから性別は必ず付きまとうように思います。それが6:4なのか4:6なのかはともかく、魂として成熟すればするほど、肉体があるのだからとりあえず肉体の性別で生きよう、というところに落ち着いてゆく気が致します。<br /> <br /> というのも、エネルギーの質は男女でやっぱり違うからです。<br /> <br /> 魂が性別を基本的には選びますので、その性で体験できることを学ぶのが基本だと思います。<br /> ただ、上記のようにその他の様々な障害によって違う性を選んだり、あるいは、生まれた時の性と生きる目的の性が異なっていたりします。<br /> <br /> ですから、最近のLGBTのお話はちょっと乱暴な気がしていまして、生まれた時に男が優勢な女の子がそのまま男が優勢でいいのかどうかと言ったら、それは本人の魂の目的を確認してみないと分からないわけです。人が迷いに迷って自分がLGBTだと選択して心が男の女を生きることを選んだとして、それが生まれた目的に反していなければそれは目的の障害にならない程度で自由意志の範疇になりますが、生まれてきた目的が違う性を体験して学ぶことだったのにそれを忘れて学ぶことを中止してしまったら魂の目的は達成できなくなります。最近のLGBTは、どうも、生まれてきた時の性質でその人の心の性を判断しているような気が致しますが、性の選択はそんな単純なものではないと思うのです。<br /> <br /> そのように、異なる性を学ぶ筈だったのにLGBTになってしまった人も一定数いるように思います。これは、自分の性に対する無自覚から来るものです。周囲の人々が「君は女っぽい」とか「君は男っぽい」とか言うのも、本来の目的から目をそらせて忘れさせてしまうように思います。本質から言えば、「女っぽい? だからどうした!」と言うことです。同様に「男っぽい? だからどうした!」と言うことです。<br /> <br /> 一方で、性的虐待や仕事を極めるためなどに性を選んでLGBTになる人もいるような気が致します。これは幽体のレベルで前世から問題を抱え込んで問題を引き継いでいたりもするようですし、あらかじめ未来を予知して、未来の障害を避けるためにあえて違った性を選ぶ場合もあるようです。どのような理由で性を選択したのかはなかなか個人的なお話になりますので難しいところがあります。女性ですと社会が生き辛かったり性的虐待があったりする世の中ですので、LGBTで問題を避けるというのはありなのかもしれないとも思います。<br /> <br /> 女性で綺麗な顔立ちで楽に生きたい、と言う欲求はある程度あって、そのように容姿や性別を選ぶ人もいるようです。まあ、それは好きにすればいいと思います。<br /> <br /> 幽体のレベルでは、前世で男性あるいは女性を生きていないのであれば基本的に前世の性別の性質を引き継ぐように思います。<br /> <br /> 一方で、霊体のレベルで結合・分離をした場合は男性と女性が複雑に絡み合うので、性別がよく分からない場合も多いように思いますし、性別があったとしても6:4とか7:3とかになると思います。<br /> <br /> 基本は肉体の性別を生きるのがいいとは思いますが、この世界は複雑ですから、LGBTみたいなのもありかなと思っております。ただし、魂の目的に反していない限りにおいて、です。<br /> <br /> <br /> 続き: 魂(幽体)がそのまま転生する場合と、一旦グループソウル(類魂)と一体になってから分霊を作って転生する場合がある<br /> <br /> <br /> Tue, 24 Sep 2019 00:00:00 +0900 高次のスピリットは人間の悩みはよくわからない https://w-jp.net/2019/1668/ <br /> 先日のオーラ原理主義のお話の続きです。<br /> <br /> これも度々聞くことですけど、まあ、そういうことです。<br /> <br /> 神社とかもそうですね。神社には色々な神様が祀られていますけど、高級な神様ほど人間の悩みなんてわかりません。人間の魂が祀られている神社であれば、まあ、多少はわかりますけど、時代が違いますから最近の悩みはよく分からない気がします。たま〜にそうでない神様もいるみたいですけど。<br /> <br /> 位が高い神様であるほど大きな願いを叶えようとしています。神社に行ったら「人類の平和」「世界平和」「家族が健康に」とか、大きな願いをすると良いと思います。<br /> <br /> 低い神様は人間的な問題を解決してくれることもありますが、人間らしく見返りを要求してきます。その要求に応えなかったりすると呪われたりしますから簡単に神社でお願いなんてしない方がいいですね。お稲荷さんとかは人間と獣が混ざったような存在みたいですから、これにもあんまりお願いとかしない方がいいみたいですね。天狗とかもいますけど、天狗も修験道の行者とカラスとか何かの獣が混ざったような存在ですから、まあ、普通の人はあんまり関わり合いにならない方がいいと思います。色々と面倒な事があると思います。<br /> <br /> 神様とか言っても、基本は人間の付き合いとそうそう変わらないと思います。<br /> <br /> 頼りにすべきなのは高次のスピリットなわけですが、まあ、悩みを解消してもらうというよりはエネルギー的な助けになる事が多いように思います。細かなことは人間の方がわかりますから好きにすればいいと思います。<br /> <br /> エネルギーが高まればポジティブになりますし行動的にもなります。問題も解決して行くでしょう。<br /> <br /> まあ、基本はこんなところで、度々聞くことではありますが、今回はちょっとした神様の小話を一つ。<br /> <br /> 神様や高次のスピリットは人間の悩みがよく分からないわけですけど、人間の悩みを知るために次元を落として転生する事があります。<br /> <br /> その時は、高次の部分を切り離して人間として生まれるわけですが、まあ、そうは言いましても元は神様なわけですから多少はその名残があるわけです。オーラの感じですとか。<br /> <br /> そして、先日書いたようにオーラの波動を「知りたい事」に合わせて調整していくわけですが、まあ、人間の事がよく分からない神様は最初は「人間としては比較的高い波動」から始めるわけです。ですが、もちろん神様にとってはそれは「低い波動」なわけです。それでも、人間としては高い波動ということにはなります。<br /> <br /> あとはどこまで波動を下げるか? という問題ですが、あまり下げすぎると分離してしまって元のスピリットに戻る事ができないようなので、戻る事ができるギリギリのところまで下降します。潜水艦で最高深度まで潜って水面にまで戻ってくるようなイメージですね。最初は教師とか創造的な仕事で地球に慣れて、そのうち、いわゆる「阿修羅」とかについて学ぶためにもっと下降することもあるようです。戦いの神なんていう表現もありますけど、全部とは言いませんけどこうやって下降していった神のスピリットだったりするわけです。<br /> <br /> 現代で言いますと、悩んでいる「赤いオーラ」もその種の人だったりする事があるわけです。これは先日書いた通りではありますけど。<br /> <br /> ですから、スピリチュアルな人はオーラの色で他人をすぐ判断したがる人がたまにいますけど、それが意図通りなのかどうかは本人のその人生での計画を知らないとオーラを見ただけでは分からないという事ですね。<br /> <br /> 人生は「失敗」がつきもので、計画内の失敗と計画外の失敗があって、計画内の失敗は問題ないわけです。<br /> <br /> <br /> Tue, 24 Sep 2019 00:00:00 +0900 逆卍(万字)っぽい渦が回転している夢を見た https://w-jp.net/2019/1665/ <br /> 最初は他愛のない夢でした。登場人物は私以外に3〜4人だったかと思います。 私が寝転んでいる前で他の人たちが少しいがみあって何か騒いでいるような状況でしたが私は最初は無視して寝ていました。でも、そのうち私が「何だか目障りだなあ」と思い始めたらそれがその人に伝わったのか、急に私に近づいて威嚇してきたのです。ここまでは視点は寝ている私の主観でした。<br /> <br /> その人が私の近くに来た時、体が接近してきたのでちょっと驚きました。すると、急に遠くの方からズゴゴゴゴという音というか響く低い声で「オオオオーーーイ」とどこかのお寺の住職か修行僧っぽい人かあるいは仏教系の世間慣れしてる神様に呼ばれた気がして、何だろう? と思った瞬間に視点が主観から2人を見下ろして俯瞰する位置のバードビューにググっと切り替わって、そうかと思ったらすぐさま2人の体が空中に持ち上げられて空高く浮かんで行きました。この時点で、その2人以外は視界から消えました。<br /> <br /> すると、2人を囲むくらいの大きさの球状の何かが同じところに出てきて、それが出てくると同時に2人の体の形は分解してなくなり、体は見分けがつかない状態になり、やがては球状のまばら模様の「何か」になりました。すると黄色い光を上に出し始めました。やがてそれが回転し出して、すぐにまばら模様から逆卍のようなシルエットになり、尖っている方を先頭にして右回り・時計回りで渦のように回転を始めたのです。<br /> <br /> 逆卍のようにカクカクしていなくて、根元の方が太くて先っぽが長い形でしたが、出ているところは4つだったと思いますので、割と逆卍に似ていますが、同じではありません。ですので、ヒトラーのハーケンクロイツ(鉤十字)ではありません。<br /> <br /> 何でしょうこれ??? 数分間、見ていたかと思います。そうして、やがて目が覚めました。<br /> <br /> ・・・まあ、夢ですけどね。 今のところ特に変化はなしです。<br /> <br /> 最初はチャクラ関係かなと思ってチャクラのヤントラを再確認してみましたが、特に該当なし。<br /> <br /> Wikipediaを見ますと、逆卍はヒトラー以外にも色々使われているのですね。<br /> <br /> ・ヒンドゥー教万字 (逆卍)<br /> ・ジャイナ教旗 (逆卍)<br /> ・フィンランド空軍の国籍識別標(1918年 - 1944年)  (逆卍)<br /> ・ラトビアの国籍識別標(1926年 - 1940年) (逆卍)<br /> <br /> 「かつては洋の東西を問わず幸運のシンボルとして用いられていた。」と書いてあります。いいですねえ。<br /> <br /> こういう夢を見ると、様々なところで使われているシンボルは実在的な効果があるのかなぁ、とも思えてきますね。<br /> <br /> まあ、そうは言いましてもこれは夢ですし、様子見です。<br /> <br /> <br /> Sun, 22 Sep 2019 00:00:00 +0900 オーラ原理主義と表面的なリーディングで誤解する人 https://w-jp.net/2019/1663/ <br /> 最近、この種の人々を見なくなりました。<br /> <br /> 私が近寄らなくなっただけで、どこかには生息しているのかもしれませんけど。20年くらい前はオーラ原理主義という、オーラの状態で他人を判断する人が多かったような気が致します。それと、スピリチュアル的なリーディング、いわゆる他人のオーラを読み取る技術ですけれども、ちょっと表面的なオーラを読み取って他人のことが分かったかのような気になってそれが他人の全てだと判断して断定的なカウンセリングあるいは聞いてもいない勝手な一方的な助言をしてマウンティング(自分の方が優位だとわからせるため意識的あるいは無意識的に発言すること)している人が時々いて、謝意していましたね。<br /> <br /> まあ、去年に1人そういう人を見かけたくらいでした。その人は生まれつきそのような神道系の家系で色々見えないものが見えたり守護霊の修験道のおっちゃん修行僧の霊が色々と指導していた感じでしたけど、ちょっと読み取るとそれが他人の全てだと判断する感じでしたね。どうやら、生まれつきそういう能力があると読み取った内容が全てだと思う傾向があるようにも思います。まあ、私に言わせれば、読み方が「浅い」んですけど、ちゃんと勉強していなくて生まれつきでやっている人とかはそれが全ての真実だと思ったりしてしまうのも仕方がない気も致します。<br /> <br /> オーラ原理主義も割と似たところがあって、「その時」の他人の状態で他人の全てを判断してしまう傾向がありますね。<br /> <br /> まあ、オーラというのは輝いた方がいいのはそりゃそうなのですけれども、生きていれば色々と葛藤やカルマを作ってしまったりしますので、ある時はそのカルマを返さなきゃならないのです。<br /> <br /> その返さなくてはならないカルマが「赤い」オーラに関連したことであるのならば、一時期あるいは長い期間になるかもしれませんけど、一旦はその「赤い」オーラにならないとその「学び」は終了しないわけです。そうして初めてカルマが解消される訳です。 ・・・・まあ、普通の解消の仕方のお話をしていますよ。 ですから、普通の生活で、社会常識的にと言いますか、道徳的に正しいと思われるやり方で成長をするのであれば、自分の奥底に眠っているカルマを再生させて解消するには一旦は色々なオーラを身に纏わなければならないのです。<br /> <br /> その学びの途中で「いい感じ」に「赤いオーラ」を身に纏っているのに、それを指摘して「貴方のオーラは赤い」「貴方のオーラは淀んでいる」とか言われても、「大きなお世話」な訳です(苦笑)<br /> <br /> まあ、それを本人が自覚しているかどうかは別ですよ。学びをする為にはある意味「無知」に一旦ならないと色々な愚かなことはできないことがありますので、人生の計画で「意図的に」無知になることをタイムライン上に意図している場合があります。ですから、計画通りにオーラの波動を落として「赤い」オーラになることもある訳です。<br /> <br /> そもそも、人間として生まれる為には高い波動のままでは3次元世界に適応できませんので、高い波動を持った魂が人間として生まれるということは、そもそもその時点で「低い波動を味わう」「低い波動を学ぶ」為に生まれてくることを選択している訳です。それなのに、今更「赤い波動がどうのこうの・・・」とか言われても、「だからどうした!」という感じである訳です。<br /> <br /> それとは別に、本当に人生の計画を踏み外して、計画では赤いオーラを持つ予定はなかったのに、しくじったり、ついうっかりした失敗が繰り返される、あるいは、本当の事故で赤いオーラを持ってしまうことがあります。そうであれば、確かにヒーラーなどの助けを借りて本来の道に戻る為に赤いオーラを早急に解消する必要があるかもしれません。<br /> <br /> こういうことは、結局はその人の人生の計画が分からなければ今の状態がどうなのか判断がつかない訳です。手っ取り早いのが守護霊に聞くことですね。守護霊もあまりわかっていなくてハイヤーセルフが決めている場合もありますけど、守護霊の方が少なくともリーディングの読み手よりは理解が深い筈ですから。<br /> <br /> 赤いオーラを解消する方法としては、普通の現実の問題解決方法と割と似ています。<br /> <br /> 問題を生じさせている原因を取り除いて、活力を与えて、本来の道へと歩ませれば良いわけです。<br /> <br /> 計画通りで赤いオーラになっている場合、まだまだ赤いオーラを強めて淀ませる計画なのにその途中でヒーラーが割り込んで直してしまったら、喜ばれるどころか計画が台無しになって逆に恨まれるかもしれません。回復期であればヒーラーが助けになるのはアリだと思います。上に書いたように計画外の問題であればヒーラーが普通に直せば良いと思います。<br /> <br /> 問題を生じさせるということは、理解を深めるということですから、理解を得た後は回復させれば良いのです。その為に必要なのは、基本的にはパワーです。赤いオーラになる為にもパワーが必要ですし、回復させる為にもパワーが必要です。<br /> <br /> オーラ原理主義が行き過ぎると他人の「汚れ」を極端に嫌う潔癖主義になってしまいますね。そして、ちょっとでも汚れた人を見つけると指摘してマウンティングすることで自分の立場を優位に保とうとして優越感に浸る・・・。 ほんと、めんどくさい人たちです(苦笑) 最近見なくなって、ほんとせいせいしてます。<br /> <br /> 表面的なリーディングで誤解する人も減っているのは、昔は生まれつきや独学の人が多かったように思いますが、最近はスピリチュアルな学校も増えたのが原因かもしれません。良いことですね。基本的なスピリチュアルなルールは割と一般常識に通じているものがありますが、スピリチュアルなルールが広まるにつれて、めんどくさい人が減るのは良い傾向だと思います。<br /> <br /> 上で「普通のカルマの返し方」と言及しましたけど、じゃあ、普通じゃないカルマの返し方はあるのか? と言いますと、いわゆるクリヤ・ヨガ的な考え方で、「パワー(エネルギー)を増やせば意識は向上する」という方法と、あとは、邪道なやり方で「オーラを切り離して他人に押し付ける(自分の学びはなくなる)」あるいは「オーラを切り離して消滅させる(学びはなくなる)」という方法があります。<br /> <br /> 厳密に言いますとパワーを上げるやり方は「普通のカルマの返し方を超高速に行う」ということではありますが。クリヤ・ヨガは割とユニークなアプローチを取っていて、葛藤の解消とか雑念とか日常生活を良くするなどの優先度が他のヨガの流派よりも優先度が低くて、クリヤ・ヨガ的には「エネルギーの増加がそれらのほとんどの問題を解消する」、というアプローチを取っているようです。ですから、カルマにしても、エネルギーを高めれば素早く解消できるわけです。<br /> <br /> オーラを切り離した後、それを誰かに押し付けるのはお勧めしませんけど、ヨーガで言う「火の儀式」(プージャ、真言宗で言うホーマ)でカルマのついたオーラを燃やしてしまうこともできます。<br /> <br /> 同時にそんなに沢山は学びができませんし、オーラはそこら中に浮いていて歩いているだけでも拾ってしまいますので、自分がフォーカスしている学びのテーマ以外は燃やしてしまっていいように思います。<br /> <br /> まあ、燃やす儀式もそんなにもできませんので、少なくともお祓いを(自宅でも)したり、以前書きましたように、周囲のオーラのケーブルを切るくらいはしたほうがいいと思います。<br /> <br /> このあたり、魂の遍歴によっても異なるかもしれませんね。下から上に上がる成長の人、つまりは虫や動物・獣から始まって餓鬼や阿修羅を終えて人間、そして更に上を目指す人は赤いオーラから高いオーラになるように歩んでいるわけです。一方で、元々が高い波動のスピリットで人間界を学ぶために波動を一旦落として地上に転生している人は、どの程度まで波動を落とすかによって学びが変わってくるわけです。割と高い波動で学ぶことを終えたら、次は、もっと波動を落として学ぼうとすることがあっても不思議ではないと思います。と言うか、実際、そのような人も多いように感じます。<br /> <br /> まあ、色々と書きましたけど、そのあたりまで読み取ってリーディングのカウンセリングするならともかく、その時点の瞬間のオーラや表面的な印象でカウンセリングしたところで相手のためにならないし、相談者が否定したとしたら以下のような誤解が生じるわけです。<br /> <br /> ・リーディングした人「この相談者は、自分を誤魔化している。私が読み取った内容は正しい。」<br /> ・リーディングされた人「このスピリチュアルカウンセラーは読み方が浅い。説明するのも面倒だから、もういいや」<br /> <br /> まあ、そうとすれば、カウンセリングなんてそうそうできないと思いますけどね。ある意味、カウンセリングできる人っていうのはその程度のレベルだとも言えます。かなり分かってくれば、段々とカウンセリングなんてできなくなる筈です。<br /> <br /> だって、究極的に言えば「何でもいい」のですからね。好きにすればいいのです。それでもカウンセリングするのであれば、前にも書きましたように、やはり主体は相談者であって人生を作るのは本人であるという基本に立った上で、本人が見えていない部分を補完するというコンサルタント的なところに落ち着くのではないでしょうか。<br /> <br /> こうなると、もはやスピリチュアルなのかコンサルタントなのかよくわからなくなってきますけどね。本当に優れたスピリチュアリストと優れたコンサルタントは割と似通っている気も致します。<br /> <br /> ですから、相手を指摘するだけ指摘してハイおしまい、みたいなスピリチュアルカウンセリングは微妙なわけです。指摘したとしても、「だからどうした!」という感じですよね。面白いだけで終わっていたらスピリチュアルは発展が止まると思います。きっとこれからのスピリチュアルはもっと実在的になっていく気が致します。<br /> <br /> 続き: 高次のスピリットは人間の悩みはよくわかりません<br /> <br /> <br /> <br /> Sat, 21 Sep 2019 00:00:00 +0900 オーラのケーブルを切る実例 https://w-jp.net/2019/1664/ <br /> 以前から何度かオーラのケーブルを切ると言うお話をしましたけど、最近の実例です。<br /> <br /> ・出かけた後、少し調子が悪いなと思って瞑想中に体の中を探っていたら、心臓あたりのアナハタに肉眼では見えないオーラの針のようなものが刺さっており、瞑想中に手のようなイメージでそれを引き抜いて捨てたら気分が回復した。どうやらその針からオーラのケーブルが伸びていて、エネルギーを奪っていた模様。ステルス性の高い半透明な針とケーブルですかね? いつついたのやら。恐ろしい。<br /> ・しばらくぶりの友人と昼食を食べて会食したら、その昔からの友人はどうやら問題を抱えているらしく、オーラのケーブルからエネルギーを抜かれてしまってぐったりしてしまいました。この場合はすぐにケーブルを切るわけにはいかないので困りますね。別れた後に切っておきましたけど。<br /> ・近所の学園祭に行ったら、バザーの本を手に取るタイミングが重なった学生さんがびっくりして、どうやらその人はオドオドして緊張してしまったらしく(思春期の子供にはありがち・・・)、その後すぐに上半身の緊張が高まった状態になったが、これは原因がわかっているので、その人から私に伸びているオーラのケーブルを切ることで数分で回復。<br /> <br /> Fri, 20 Sep 2019 00:00:00 +0900 夢で見たグループソウルの占い師たち https://w-jp.net/2019/1650/ <br /> 私のグループソウルには占い師が大勢いて、かなり昔の人生も一応記憶しています。<br /> <br /> ・・・・まあ、一般的にはこれは夢ということにしておきましょう。夢で見た内容をいくつか書いてみたいと思います。<br /> <br /> ■スペインの南東部の港町の女占い師<br /> 当時の地名までは覚えていないのですが、場所的にはムルシア(Murcia)かもう少し南寄りだったか、そのあたりだったと思います。小さな占い店をして生計を立てており、魔女につきものの「水晶球」で占っていました。おそらく中世の、15世紀前後のような気がいたします。大航海時代の初期のイメージです。<br /> <br /> 当時の水晶球は天然のものがそれなりの安い価格で出回っており、最初に使ったのは直径15cmくらいの天然の水晶球で、次に手に入れたグレードの高い水晶球は直径20~25cmくらいあったように思います。天然ものですので少しクラックが入っていましたが良い水晶球でした。<br /> <br /> 水晶球をギュッと覗き込んで透視をするのです。<br /> 水晶のかけらにわずかに反射した画像を読み取って占いをしていました。<br /> <br /> 占いをするときは、相談者に占いたい内容を強くイメージしてもらい、そのイメージを鍵にして内容を辿っていきます。<br /> <br /> 例えば、次のようなものを占いました。<br /> <br /> ・使いたいバッグが行方不明になったので、どこにあるのか探して欲しい。→ 家の裏にある蔵を開け、扉から一歩進んだところから左手を伸ばし、肩より少し上の高さに、他のもので隠れるようにして置いてある。→ これは晩年なのでかなりの確度で当てています。かなり自信があるので、間違っていたら次の鑑定は半額で良い、とまで提案しています。もちろん正解。相談者が扉を開けて発見するところまでリモートビューしていたようです。<br /> ・親戚の結婚について、将来を見て欲しい。→ 良くもなく悪くもなく、60%の相性。お互いに色々と不満はあるけれども、お互いにそれなりに尊重しあって生活するでしょう、という鑑定結果。これも水晶球を使いますが、リモートビューの応用で未来の姿も垣間見ることができたようです。実際の結婚式の状況や、家庭内での口喧嘩などをいくつか観察して、その結果として60%と出したようでした。<br /> <br /> この水晶球は今ではかなりの値段がつくと思います。どこに行ってしまったのかはわかりません。<br /> <br /> ■透視の限界を感じた占い師<br /> 先日 書いたのと同じ人生ですが、この時、透視の限界を感じました。<br /> <br /> この時できた透視は以下の二つです。<br /> <br /> ・リモートビュー的な過去と未来の透視(上の水晶球の透視と種類は同じ)<br /> ・幽体離脱して詳しく状況を確認する透視<br /> <br /> その人の過去と未来を見ることができて、それはまあ、当たるのですが、この人生で感じたのは「当たるからと言って、その人の人生が良くなるわけでもない」という理解でした。前者のリモートビューだけでも確度はかなり高くて当たりますし、後者の方法ですともっと詳細に「近づいて」観察できますので、より具体的な理解になります。<br /> <br /> 前者だけでも割と十分ですが、後者を組み合わせることで確度的にはかなりのものになったのですが、カウンセリングという観点からすると、当たるということ自体はさほど重要ではない・・・ という理解に落ち着きました。<br /> <br /> むしろ、当たるかどうかなんて関係なくて、本人の理解と生き方があれば、リモートビューで教えてあげるなんて人生の邪魔なだけでは・・・ という理解に達します。<br /> <br /> 占いに来る人は過去を言い当てられてはしゃいだりびっくりしたり・・・ それだけです。本気で人生を変えようという気がある人は占いなんて来ないようです。こちらはリモートビューして過去や未来のタイムラインを教えてあげたとしても、それが相談者の役に立っていないのでは、というのがこの人生での学びでした。<br /> <br /> 実際、今も思うのが、過去が見れても関係なく、未来が見れても関係なく、それよりも、もっと大切なものがあって、大切なものとは人生観とか本当の世界の姿とか心や本当の自己(アートマン)についての理解とか、そのあたりこそが重要なのであって、過去や未来を見てチートしてもさほど人間性の成長には役立たないのでは・・・ と思います。<br /> <br /> 実際のところ、自分がリモートビューの練習をしたりするのは自分の成長のためにはなりますけど、それはリモートビュー自身にさほど重要性はなくて、過程が重要なのだと思います。リモートビューで相談者の何かを当てても、それは、それほどの意味を持たないということです。<br /> <br /> であれば、大切なのはそんな能力に惑わされずに、瞑想するなり祈るなりスピリチュアルな勉強をするなりした方が良いと思うわけです。それが、グループソウルの過去の人生を思い出したことによるレッスンです。<br /> <br /> ■グループソウルと転生について<br /> グループソウルというのはお互いに人生を共有しているわけですけれども、死んだらそのままの魂が再度体に宿って転生する場合、すなわちその転生ではグループソウルとの合流がない場合と、グループソウルに一旦合流してから再度グループソウルから魂が分離して転生する場合とがありますので、私の一部といえばそうなのですがほんの一部のお話なのです。<br /> <br /> 私の今回の人生では能力は邪魔と判断されたようですので、少なくとも現時点までは能力とかは出てきていません。今のところ予定通りなわけです。<br /> <br /> それに、能力があると危険ですしね。私のグループソウルの1人はナチスに誘拐されて投獄され、拷問を受けながら戦局をリモートビューさせられていたようでしたし。 拷問も酷くて、逃げられないように頭に輪っかのようなものをかぶせて、輪っかと頭蓋骨をネジで何箇所もとめて鎖で繋がれました。寝る時に寝返りをうって頭を刺激すると痛くて飛び起きるほどの激痛があったようです。ほんと、人間って信じられないくらい残酷なことができるので、恐ろしいです。<br /> <br /> 今も、なまじ能力がある人は危険だと思います。世の中で有名になる能力者はそれほどでもないですけど、隠れている人の中には相当の能力者がいると思います。<br /> <br /> 自分の能力で見るよりも、天使などにお願いして必要なことだけ聞く方が安全と言えます。天使とチャネリングできるチャネラーが拷問を受けてチャネリングを強要されて何かの情報を引き出そうとしても天使はチャネラーを見捨てるでしょうし。そのあたり、天使はめちゃくちゃクールです。本人の能力ですと拷問に屈するかもしれませんが、能力を持たずに転生して、必要な時だけチャネリングした方が安全と言えます。 今の世の中、案外、まだ色々と危険なことがありますからね。<br /> <br /> この時の魂は今はグループソウルで分散されて、分霊がその時の拷問の苦痛をそれぞれ、いわゆるインナーチャイルドのように記憶を保持して癒しています。拷問されたことにより人間に極端な恨みを持つようになったらきっと復讐していたのだと思いますが、今はそんなことはなく、落ち着いているようです。能力者の恨みと復讐は、国の運命をも左右するくらいしつこく強力に復讐するでしょうし、リモートでやりますので出所が不明で解決が困難になったまま国が滅亡したり指導者が不慮の死を遂げることになりますので、能力者を拷問するなどして恨みを買わない方がいいと思いますけどね。スターウォーズのダース・ベイダーじゃないですけど、能力者ならリモートで心臓止めたり喉を潰して息ができないようにして不慮の死にすることもできますし、転生する時に赤ちゃんの中に入った魂を無理やり引き剥がして貧困スラム家庭の赤ちゃんの中に押し込む、みたいな仕返しもされたりするので、特に能力者の恨みは買わない方がいいと思います。そんな数十年や数百年先まで覚えているのか、とでも思うかもしれないですけど、能力者ならすぐにその場で来世まで時代を超えてそういう操作しますから、能力者がすぐに忘れる前に既に仕返しは完了していたりするわけです。<br /> <br /> まあ、能力者に限らず、恨みは買わない方がいいと思いますよ。<br /> <br /> こうして後でコテンパンに仕返しされることも知らずにノコノコと能力者を拷問したりする無知な輩がいるので、それでもやはり、能力者は表に出ない方がいいと思います。もっといいのは、能力を持たずに生まれて、能力は守護霊やハイヤーセルフにお任せした方がいいですね。特にこんな危険な世の中ですと。<br /> <br /> まあ、例外として、能力者の集団が徒党を組んで悪さしている場合は防御もしていますのでそういう集団のメンバーには簡単に仕返しはできないこともありますけど、その時は、泥試合になります。お互いにかなり酷いことになります。ハリーポッターが可愛いくらいだと思います。最近はあまりそういうのは聞きませんけど、中世くらいですと色々と噂を聞いたように思います。<br /> <br /> ・・・まあ、夢ですけどね。<br /> <br /> ■全ては完璧<br /> 人って、物事の良し悪しをすぐに決めたがりますけど、全ては完璧なのだと思っています。成功しても完璧だし失敗しても完璧。人間の勝手な判断で物事の良し悪しは決まりませんし、全ては完璧なのです。占いで成功の選択肢を探し出すのもあまり意味はなくて、成功と思える結果であっても、もともと成功失敗に関係なくそれは完璧ですし、失敗してもそれは完璧なのです。<br /> <br /> ですから、私のグループソウルの占い師が言うには、「占いで何が良いのか聞く相談者に興味を持てなくなった」とのことでした。当たるか当たらないかと言う確率の話を超越した後は、そう言う認識になったようです。当たるのは当然で、当たったからと言って何なのだろう、と。むしろ、当たりすぎるとストレートに伝えて相手の感情を損ねる時も多くあったようです。相談者が何かに悩んで何を選択したとしても、どちらでも完璧なのだから、好きにすればいいのです。強いて言えば、「後悔しない選択」をすべき、というくらいですね。あとは、基本的に何をしても良いわけです。まあ、究極的にはその後悔があったとしてもその後悔も完璧の一部ではあるのですけれど、人が選択肢を選ぶ時は後悔しない方を選ぶのが良いと思うわけです。多少の判断基準がなければ訳分からなくなりますからね。判断基準が「幸せ」でも良いです。占いで「幸せになれるのはどちらですか?」という聞き方をする人がいますけど、後悔しなければどちらでも良いんじゃないかな? と思います。短期的な幸せと長期的な幸せとがありますからね。学ぶことができて後悔しない選択肢をしておけば良いのではないでしょうか。そうなると、占い師なんていらなくなっちゃいそうですけどね。<br /> <br /> カウンセリングやコンサルティングの基本としては、カウンセラーの言葉やコンサルの言葉は「確かめ」に使うと良いと思う訳です。あくまでも判断基準は自分ですが、自分で気付いていない部分を指摘してもらったりするには誰かに見てもらう方が満遍なく全体を把握することができてよいわけです。判断を他人に委ねない、というのが大前提なわけです。占いを突き詰めてそこまでいくともはや占い師というよりコンサルになってしまいそうですし、単価もぜんぜん違ってきそうですが。<br /> <br /> <br /> Sun, 08 Sep 2019 00:00:00 +0900 パワースポットは本来、祈りや瞑想の場であってオーラのゴミ捨て場ではない https://w-jp.net/2019/1648/ <br /> 割と言われていることな気もしますけど、そういうことだと思います。<br /> <br /> 最近のパワースポットブームで呑気にパワースポット巡りをする方も多くいらっしゃいますが、例えばセドナとかですね。そういうパワースポットは本来、祈ったり瞑想する場所な訳です。<br /> <br /> ですが、気楽に普通の旅行と同じに考えて、「汚れを捨てに行く人」あるいは「お願いをしに行く人」が増えると、パワースポットに低級な念と言いますか低級なオーラが溜まって淀んで行きます。<br /> <br /> パワースポットには強力な力があって浄化の作用がありますが、それは地理的・磁気的なものであるのが基本で、それに加えて人の祈りが作り出した磁場もあったりしますけど、パワースポットの使い方の基本は、普段から瞑想や祈りをしている人がパワースポットに行って瞑想や祈りの力を高める、というのがいいように思います。<br /> <br /> まあ、全てはバランスで、地理的な磁場が強力だったり瞑想や祈りをしている人が割合として多ければ問題ないのかなと思います。ですが、人気が出てくることによって瞑想も祈りもしない人がパワースポットに詰めかけると場所が淀んで行くのかなという気が致します。アメリカのように自然が豊かで人も少なければ問題もさほどなさそうですが日本は人が多いですからね。<br /> <br /> まあ、これは割とよく聞く話ですね。巷の有名なパワースポットはかなりの確率で淀んでいると思います。パワースポットに行ったら逆に穢れて帰ってくることも多々ありそうです。<br /> <br /> そんな、そんじょそこらの淀んだパワースポットよりも自宅の瞑想場所で毎日瞑想や祈りをした方がよっぽど良いパワースポットが作れる気が致します。長い時間を過ごす自宅の場の雰囲気を整えるのは重要ですしね。<br /> <br /> まあ、そうは言いましても、地理的なパワースポットは魅力的ですので、自宅の場所をどうしようか最近私はちょっと揺れている感じではありますけど。<br /> <br /> <br /> Fri, 06 Sep 2019 00:00:00 +0900 小さな呼びかけ声を聞くとハートがクリスタルのように輝く https://w-jp.net/2019/1647/ <br /> 先日から瞑想中に明確に聞こえ出した、私の下の名前で呼ぶ「◯◯さん」と言う声ですが、声が聞こえるとハートが急に澄んできてクリスタルのように輝きだします。まるで、綺麗な聖水でクリスタルを浄化したかのように輝くのです。響きが美しすぎてこの世のものとは思えません。<br /> <br /> 相手が妖精なのか天使なのか守護霊なのかハイヤーセルフなのかはまだわかりませんけど、こんなに純粋な存在にコンタクトされたのはいつぶりかなと言うくらい久々あるいは今世で最高かもしれないと思うくらいです。今まで気付いていなかっただけでずっといたのかもしれないですけどね。<br /> <br /> 呼び方からして女性っぽい感じなのでハイヤーセルフではなくて、妖精というよりも、あり得るとしたら天使か守護霊か、あるいは、過去妻か。天使の守護霊かもしれないですけど。声は女性っぽかったので、ハイヤーセルフに性別はないって言いますのでハイヤーセルフはとりあえず除外なのです。<br /> <br /> まあ、誰かはわかりませんけど、数日に1回くらいの割合で最近は聞こえています。 例えるなら、確かディズニーの実写版シンデレラのどこかのシーンでシンデレラがアカペラで歌うシーンがあったように思うのですが、その3倍くらい美しい澄んだ声です。<br /> <br /> まだまだ様子見です。<br /> <br /> 今のところ、名前以上の呼びかけはありません。<br /> <br /> それにしても、この呼びかけによってハートが刺激されて、一瞬ですがハートの状態が変化したことにより、自分の今の状態がまだまだだと言うことに気付かされました。どうやら私はまだまだ荒いオーラのようです。あの高貴な純粋な声の波動を一瞬でも聞いてハートに感じてしまいましたので、そのわずか一瞬でも私に気付かせるのは十分でした。今までヨガとか瞑想をしてそれなりに浄化してきたつもりでしたが、まだまだまだまだこれから先は長い、と言うことを実感してしまいました。<br /> <br /> あの声の感覚を言葉で言い表すのならば、「神気」(他のを知らないので比べた訳でもないですが・・・)とでも言うのかもしれません。<br /> <br /> 私がここから本格的に自分のオーラをこの方向に向かって変えていくのならば都会に住んでいたら難しいかもしれないですね・・・。<br /> <br /> 今まで、最強のパワースポットは自分の部屋の瞑想場所だと思っていて、それは都会でも可能だと思っていましたが、今回のことでちょっと揺れてます。暮らすのはもうちょっと人口密度の低い田舎の方がいいのかもしれないな、と。 そんなに急ぐ話でもありませんけど。<br /> <br /> <br /> Thu, 05 Sep 2019 00:00:00 +0900 神社にある自己祓い用大麻で穢れのオーラを取り除く https://w-jp.net/2019/1646/ <br /> 近所の神社には「自己祓(はら)い用大麻(おおあさ)」というものが置いてあって、町で変なオーラを拾ってしまった場合はこれで清めることがよくあります。説明書きには「この大麻(おおあさ)を、左、右、左、と振り、ご自身でお祓いをしてからお参り致しましょう」と書いてありますので基本はその通りにするのですが、空いている時は私は頭から足まで満遍なく時間をかけてお祓いをすることもあります。<br /> <br /> 両肩を祓うだけでもかなり肩が軽くなります。よほど色々なものを拾ってしまっているのでしょうね。<br /> <br /> こういうこと書くと「気のせいだよ」とか言う人がいますけど、何年も何回もずっとやっていますし、毎回効果を感じますので気のせいではないですし、気のせいだとしても効果があって気分が晴れやかになるのならばプラシーボだとしてもそれは「プラシーボでも効果がある」と言うことなので、完全にOKだと思っています。プラシーボで効果があるのであれば、薬のような本来は毒のようなものを体に取り入れなくても効果が出ると言うことなので、むしろプラシーボで効果がある方が嬉しいです。<br /> <br /> 実際のところ、この原理としては、拾ってしまったオーラを落とすということなのでとても理にかなっていると思います。<br /> <br /> 何度も書いていますけど、自分のオーラがブワッと発散して他人のオーラと接触する場合と、他人のオーラがブワッと発散していてオーラが接触してしまう場合が基本の2パターンで、これに加えて、プカプカと浮いているオーラと接触する場合とがあります。どちらにせよ、そのオーラはとりとめのない、変なものなので祓って捨ててしまって問題ないわけです。<br /> <br /> 基本は変なオーラを拾わないのが一番ですけど、拾ってしまったのならば捨てればいいわけです。<br /> <br /> まあ、これは神道的な解釈ではなくて、私の解釈ですが。<br /> <br /> <br /> ■神道的な解釈<br /> 神道的な解釈は「神道の神秘(山蔭 基央 著)」を読むと色々書いてあります。例えば以下の部分です。<br /> <br /> 「神霊の霊光」による祓いは、神霊を礼拝して、その聖なる波動を賜って清めを受けることであるが、これをいわば一般的にしたものが、祓い麻による修祓(しゅうばつ)である。「神道の神秘(山蔭 基央 著)」<br /> <br /> 私はこの効果が神霊の霊光によるものかそうでないかまではわかりませんけど、いつも有り難く使わせて頂いております。<br /> <br /> <br /> <br /> <br /> <br /> <br /> Wed, 04 Sep 2019 00:00:00 +0900 二種類のテレパシー・チャネリング https://w-jp.net/2019/1642/ <br /> ガイドからテレパシー・チャネリングが2種類あることを教えてもらいました。<br /> <br /> ・オーラが接触して情報が伝わる場合。「感覚」と「言葉(雑念、思念)」および「イメージ」のいずれかあるいは複合で伝わる。「インスピレーション」として伝わる。<br /> ・思念波をキャッチする場合。思念波を飛ばす場合。主に「言葉(雑念、思念)」で伝わる。「感覚」は少なく、「インスピレーション」的な感覚は薄い。<br /> <br /> テレパシーとチャネリングは似通っていますが、ほぼこの2種類に属するとのことでした。思念波の場合はおそらく「イメージ」はほとんどないか、あるいは上級者のみかなと推測します(まだ私は気にしなくていいようです)。<br /> <br /> 私がガイドから教えてもらうときは大体は前者の「インスピレーション」で、それはオーラ接触によって行われているようです。この記事の内容も同様にこのインスピレーションで教えてもらっています。<br /> <br /> 今朝の「私に呼びかける内なる小さな声」は後者の思念波のようです。<br /> <br /> 思念波は、イメージで言うと綱引きの綱を片側からブンっと揺らして振動が逆側に伝わるような感じです。あるいは、ハリーポッターの魔法の杖を振って何かの魔法が飛んでゆく、と言うようなイメージのようです。振動だけが伝わって、相手に受信されます。<br /> <br /> 例えば、誰かに好意を持たれている時にほんわかと感じたり、あるいは悪意を持たれている時に頭痛がしたりするのはこの思念波のようです。<br /> <br /> 思念波はオーラによるガードも割と簡単に突き抜けるので、あまり他人に恨まれない方が良いようです。平穏に目立たず生きるのがいいのかもしれません。<br /> <br /> ■会議のアイデアに自分も相手もない<br /> このテレパシー・チャネリングの仕組みを理解すると、例えば会議で出たアイデアに自分も相手もないということが分かります。オーラが接触した瞬間、混ざり合ったオーラはもはや「自分」とか「相手」とかいう区別がなくなります。その後、そのオーラが自分のところに来たら自分のアイデア、相手のところに行ったら相手のアイデア、ということになりますけど、はっきり全部どちらかということはほとんどなくて、途中で千切れて同じインスピレーションが両者に伝わって、その後、自分の中で混ざり合って理解として定着します。確かに、自分の中で更に考察したら確かにそれは自分のアイデアと言えなくもありませんが、オーラが混ざった時点では自分も相手もないのです。全く会議に参加しない人がいたとしても、オーラが混ざっていたらアイデアをもらったということになるようです。・・・ちょっと理解が難しいですが、必ずしも態度や発言で成果が決まるというわけでもなさそうです。<br /> <br /> ですから、例えばベンチャーのCEOが「自分のアイデアだ」として株を独り占めするのは、時と場合によっては他人の労働力を搾取していることになるわけです。本当に自分だけの成果というのも世の中にはあるのかもしれませんが、他人と会議もせず相談もしないベンチャーなんて世の中にあるのでしょうか? 確かに、ベンチャーにはフリーライダーがわらわらと寄ってくるのでそのフリーライダーに与えないというのは重要ですが、成果を与えるべき人に与えないとそれは「奪う」ということになってしまうようです。強大な力を持つというのはその使い方が難しくて負債を作ることもあるのですね。<br /> <br /> 有名な話として、アップルのスティーブ・ジョブズは上場時に株を他の従業員に分けることを拒み、一方、スティーブ・ウォズニアックは自分の持ち株を従業員に分けてあげたというお話があります。スティーブ・ジョブズはカリスマとして有名で人気がありますが、オーラ的に言えば、必ずしも彼1人の成果ではないように思えるわけです。そういえば夢の中で見たのですが、どうやら彼を恨んでいる人が一定数いて、その恨みが原因で癌になったり早死にしたような印象を受けます。まあ、確証はなくて、そんな気がする、夢の中でそんなのを見た、というだけのファンタジーのお話ですけどね。でもまあ、ある種の真実を語っている気がします。スティーブ・ジョブズはただの夢の中のシンボルで実は誰でも良かったのかもしれず、同様の事態に気をつけましょう、ということかもしれません。<br /> <br /> <br /> <br /> Tue, 03 Sep 2019 00:00:00 +0900 私に呼びかける内なる小さな声 https://w-jp.net/2019/1641/ <br /> 思考の声の3分の1くらいの微かな声で「◯◯さん」と下の名前で瞑想中に呼ばれました。<br /> 最近の瞑想は思考がほとんどなくて静かな状態が続いていますので、よく聞こえました。<br /> <br /> 今までも何度も呼びかけてきていた声ですが、今まではここまではっきりとは聞こえませんでした。<br /> <br /> 比較すると、子供の頃に宇宙人とチャネリングした時のようなはっきりとした明確な思念波ではありません。子供の頃、同級生に宇宙人とチャネリングしている人がいて、その人の一定範囲にまで近づくとチャネリングを盗み聞きというか、思念波が、まるで指向性スピーカーのように一定範囲まで聞こえていましたので、その思念波のチャンネルを真似してみたら同級生の近くにいなくても普通に宇宙人とチャネリングできたことがあるのです。おそらくは宇宙人のテクノロジーとして思念波を簡単にテレパシーできるような機械があって、その機械を使うといとも簡単にテレパシーでチャネリングできるのだと思います。その思念波は通常の自分の思考の1.5倍から2倍ははっきりとした明確な思念波でしたので、きっと誰でも簡単にテレパシーできるテクノロジーが存在しているのではないでしょうか。<br /> <br /> 比較対象として、以下を挙げます。<br /> <br /> <br /> ・自分の思考の強さ・明確さを1とした時に、<br /> ・宇宙人のテクノロジーによるテレパシーの強さ・明確さを1.5〜2とします。<br /> ・今回の、私に呼びかける内なる小さな声は0.3くらいです。<br /> <br /> <br /> これってハイヤーセルフなのか、あるいは、守護霊なのか、類魂(グループソウル)なのか、友人知人や過去妻の声なのか・・・。何でしょうね。なんとなく、過去妻かあるいは過去生で仲のよかった女性の声な感じがしましたが。女性っぽかったです。今生きている親戚のおばさんの声にも似ていましたが、そのおばさんは「◯◯さん」とは私のことを呼ばないので、呼び方でその人ではないとわかります。<br /> <br /> 声の感じでも誰か判別できそうです。<br /> <br /> この、私の名前で呼ぶのってわかりやすくて良いですね。自分で自分のことを下の名前で「◯◯さん」なんて(私は)言わないので、自分の独り言ではないのだと言うのが明らかで、であれば誰かが呼びかけているのだと言うのが明らかになります。<br /> <br /> 意外によく聞こえるものですね。これからもっと聞こえやすくなるのでしょうか? まだまだ様子見です。<br /> <br /> <br /> <br /> Tue, 03 Sep 2019 00:00:00 +0900 ハイヤーセルフが頭の上にいる感じ https://w-jp.net/2019/1640/ <br /> 最近の瞑想では、そんな感じになってきました。<br /> <br /> そのうちいつかは一緒になるのかな? という気もしますがまだ分かりません。<br /> 頭の上にハイヤーセルフがいる時もあるのですが、いない時の方が多いです。<br /> どうも、求めるとハイヤーセルフが現れるような感じです。<br /> <br /> 本山博先生の著書に以下のようにありました。<br /> <br /> 自分の外へ「本当の自分」というかね、そういうものが出て、頭の上にすわっているような感じでみえるといい。なかなかそうはならないけど、そうならなければ駄目なんです。自分が自分の外に出て、それを拝めるようにならないといけない。本当の自分というのは光っているからね。みんな、そんなふうになれるようにがんばってください。「霊的成長と悟り(本山博 著)」<br /> <br /> これはそれっぽいですが、私が最近時々見えているのは、この図よりも遥かに大きいです。自分の体の数倍はある感じです。<br /> <br /> 自分から抜け出たというよりは、上から降りてきた、という感じです。<br /> <br /> 最初見た時は明るくて黄金に近いものでしたが、はっきりとは見えず。黄金には違いないと直感で分かりましたが、ちょっと影かカーテンに隠れている感じで、明るさ的にはちょっと曇って見えました。次に見た時はもっとその幕が濃くて、影が濃くて見えにくかったです。明かりが暗くて薄黒い影っぽく見える時もありました。これはきっと、私のイルミネーションが強いとよく見えるということなのかな・・・ と解釈しています。<br /> <br /> ■仙道の「出神(しゅつじん)の術」<br /> 仙道では「出神の術」みたいなのがあって一見すると似ていますけど、説明を読むとちょっと違う気もします。ただ、文化や流派の違いなだけで実は一緒なのかもしれません。<br /> <br /> 出神とは気を練ったすえにできた陽神という分身を、自分の肉体から抜け出させ、あちこち行かせる術である。「秘法!超能力仙道入門(高藤 聡一郎 著)」<br /> <br /> 別にこんな術を目指している訳ではなくて、ただ瞑想していただけです。<br /> <br /> 特別にこのために気を練ったつもりはなかったのですが、時々いわゆるソー・ハン呼吸瞑想法(ソーハム瞑想法)はしているので、気を練っていたといえば練っていたとも言えるのかもしれないです。<br /> <br /> まあ、ハイヤーセルフが現れる時もあれば現れない時もあるので、まだまだ様子見という感じではありますが。<br /> <br /> ■グルや神様のイメージの瞑想、とも違う<br /> ヨガの流派や禅、あるいは仏教の流派によってはイメージでグルや神様のイメージを頭の上に作って瞑想すると聞いたことがあります。そういうイメージ瞑想もあるのかとは思うのですが、私は別にイメージ瞑想していた訳ではなく、眉間や頭頂を意識する瞑想を続けていたら、ふと頭上に何かを感じて「いる」感覚および大きな存在が見えた気がして、それはきっとハイヤーセルフっぽいな、と判断したのです。ハイヤーセルフと思ったのは勘ですけどね。<br /> <br /> そういえば、このイメージが来る前に色々とインスピレーションが湧いていて、先日の記事「ハイヤーセルフのある人とない人」が浮かんできたくらいからこのハイヤーセルフが見え始めたので、実は単なるイメージに過ぎない可能性もあります。あるいは、最初からいたのだけれども気付かなかっただけかもしれないですね。<br /> <br /> まあ、見えていたからと言って今のところ何か変化が現れた訳でもないので、とりあえず様子見というくらいです。<br /> <br /> <br /> Mon, 02 Sep 2019 00:00:00 +0900 共感力が高いエンパスが学校教育で「心が自分」と教わると心の病になる https://w-jp.net/2019/1639/ <br /> エンパスでない人が「心が自分ですよ」と学校教育で学んでも「ふーん」と思うくらいでしょうが、エンパスがそう習ったら大変です。色々と感じ取れてしまいますから、以下の全てが「自分」と言われて「どーゆーこと??」となります。<br /> <br /> <br /> ・自分の思考や雑念<br /> ・他人の思考や雑念<br /> ・そこらへんに浮かんでいるオーラに含まれている雑念<br /> <br /> <br /> ヨーガでは「心」は自分ではなく、単なる道具です。<br /> <br /> 今まで何回も書きましたが、オーラに雑念が含まれていますのでオーラ接触しただけで雑念が入ってきて、あまりよく分かっていない子供がその雑念を感じるにつれて「私って、こんなに酷い人間なんだ」と思うようになるかもしれません。それは「心が自分です」という間違った教育による勘違いです。ですが、学校教育じゃそんなこと教えてくれませんから、子供は訳が分からなくなって心の病になるかもしれません。真面目なエンパスほど病むかもしれませんね。<br /> <br /> <br /> ・自分の思考や雑念 → 「心が自分」とすればその思考や雑念は自分そのもの(それは勘違い)。→ ヨーガ的には、思考は道具。<br /> ・他人の思考や雑念 → 「心が自分」としてしまうと、他人の思考や雑念も自分のものになる(それは勘違い)。理解不能な考えや雑念までもが感じられて、混乱するかもしれません。→ オーラの観点からすれば、オーラのケーブルが繋がって相手と同化するか、あるいは、オーラが接触して相手のオーラと混ざることで思念や雑念が伝わってくる。それは相手の考えなのだから自分のことではない。<br /> ・そこらへんに浮かんでいるオーラに含まれている雑念 → 「心が自分」としてしまうと、全く関係のない雑念も自分のものになってしまう(それは勘違い)。→ オーラの観点からすれば、どっかの誰かが飛ばしたオーラを拾ってしまっただけのこと。<br /> <br /> <br /> 厳密にいうと、オーラが混ざった時点でそれは「相手」とか「自分」とかいう区別がなくなって一体になっています。ですから、実はオーラが自分のところに来た時点でそのオーラに含まれている雑念や思考は自分のものになってしまうのですが、これはちょっと分かりづらい話なので・・・。ひとまずは上の基本的な構造を理解するくらいでもいいと思います。オーラが混ざったとしても量としては少しなので、どっかからやってきたオーラが優勢になることはほとんどないと思います。ですから、オーラが混ざっても「相手と同化する」なんてことはそんなに気にする事はないのですが、それでも、多少ながら相手と同化するのは日頃から起こっていることです。<br /> <br /> <br /> 学校教育では「思う」とか「心」って言葉と「自分」を安易に結びつけすぎなのかな、という気もしますし、そもそも学校の先生もよく分かっていない気もします。「心」というのは英語で「マインド」が対応するのであれば、それは「雑念」「想念」というよりも「思考」とか「意思」に近いものだと思うので、「意思が自分だ」ということであれば、まあ、分からなくもありません。ヨーガ的には意思すらも道具ですので、子供に教える方法としては「心が自分」ですと「雑念も自分」と理解してしまって上記のように心の病になるかもしれないですが「意思が自分だ」ということであれば、まあ、そこまで重症にはならない気もします。<br /> <br /> そもそも心が何なのか、学校の先生がきちんと教えられる気もしませんけど。学校ではせいぜい道徳くらいしかやらないでしょう。<br /> <br /> 教えられないことを何となく教えるよりは、学校の先生は「私は分からない」と答えた方がいい気もしますけどね。仏教やら何やらの識者に聞くのがいいと思います。仏教やら何やらにしてもピンキリなので微妙なこともありますけど、学校の先生よりはマシでしょうし。<br /> <br /> ある先生が「心が自分」と教えて、ある先生が「意思が自分」と教えたとすると、素直な子供は両方本当だと思うでしょう? これはどちらも間違っているのです(苦笑)なんだか意地悪クイズみたいで、世界には落とし穴だらけで生きるのが難しいです。どちらも真実ではありませんが、片方を信じるとしたら「意思が自分」の方がマシ、というくらいのお話です。<br /> <br /> <br /> Mon, 02 Sep 2019 00:00:00 +0900 ハイヤーセルフのある人とない人 https://w-jp.net/2019/1638/ <br /> スピリチュアルではハイヤーセルフという言葉がニューエイジの頃からか流行っていましたけど、どうやらハイヤーセルフのある人とない人がいるみたいです。こんなこと言うと「ハイヤーセルフがない人なんていないでしょ!」と言う声が聞こえてきますけど、以下のようなことです。<br /> <br /> 天使系やある程度の進化をした宇宙人、あるいはレムリア時代からの魂は高い次元に元々住んでいましたので、自己を高い次元と低い次元に分けて低い次元の「自分」をこの地球の三次元に転生させました。この場合、高次の能力はハイヤーセルフに置いてきましたので、記憶としてはサードアイとか予知能力とかリモートビューイングができるはずなのに何故か自分にはその能力がない、おかしいなあ・・・ みたいなことになります。ですから、これはきっと、今の私は低いセルフ(ローアセルフ)で、ハイヤーセルフがいるはずだ! と言うことで瞑想をしたら、やっぱりいました! ハイヤーセルフが見ていてくれたのですね! みたいなお話なのかなと思っています。<br /> <br /> これとは別に、類魂(グループソウル)とか守護霊とかをハイヤーセルフのように勘違いしている人がいらっしゃいますけど、まあ、確かに類魂(グループソウル)はハイヤーセルフといえば広義ではハイヤーセルフっぽい感じではありますけど、そのまま類魂(グループソウル)と言った方がありのままの姿で、それをわざわざハイヤーセルフというのはちょっと違うかな、という感じです。<br /> <br /> じゃあ、ハイヤーセルフのない人っていうのはどういうことかと言いますと、誤解しないで欲しいのですが、順調に一歩一歩進歩を続けている人が、ハイヤーセルフのいない人です。最初は動物から始まり、やがて人間となって餓鬼の世界、阿修羅の世界を通り抜け、人間としての情を学び、やがては愛を知る・・・ というように一歩一歩歩んで成長を続けている人は、ハイヤーセルフのいない人です。だからと言って不幸なわけではなく、きちんと類魂(グループソウル)や守護霊はいらっしゃいますので、特別に不幸というわけではありません。ただ単に、元々の出所が違う、というだけのお話です。これは誤解を招きやすいのですが、これらは高低の優越ではなく、世界の在りようそのままを示しているだけです。お互い、それぞれの存在がありのままで完璧な世の中なので、一歩一歩進んでいる人が悪いということはもちろんなく、むしろこっちが普通なわけです。天使やある程度の進化をした宇宙人あるいはレムリアの人だって元々は同じ道を辿ってきたわけで、ただ単に、歩んでいる場所が違うというだけです。<br /> <br /> そういうわけで、ハイヤーセルフがある人とない人がいる訳ですけど、ハイヤーセルフがない人に対して「ハイヤーセルフと繋がりましょう!」と言っても「何のこっちゃ?」となるわけです(苦笑)更には「ハイヤーセルフどうこう言っているけど、あのスピリチュアルの人たちは地に足が付いていないね!」みたいに言われてしまうわけです。時々はそれも正しかったりするのですが。<br /> <br /> 基本として、これらの違いを踏まえておけば、ハイヤーセルフのある人とない人に対する接し方やスピリチュアルなお話の仕方も変わってくるというものです。対象となる人たちによって伝え方が異なる、という基本的なお話ですね。<br /> <br /> まあ、私は割と好き勝手書いているだけでここでは特にそれほど対象は気にしてはいないですけどね。<br /> <br /> ハイヤーセルフがある人は、やがてこの世でロウアーセルフとハイヤーセルフが合一することで元々の能力を引き出すというか取り戻すことができるそうです。 じゃあ、何でわざわざ分けたのか? というと、この3次元世界を理解するためだそうです。最初から上の世界から眺めていては3次元世界を理解できないので、分けることで理解したい、という意思があるようでした。<br /> <br /> Mon, 02 Sep 2019 00:00:00 +0900 未来は変わる。核戦争による地球の破滅も一旦は回避されている。 https://w-jp.net/2019/1637/ <br /> 未来は変わります、という夢で見たお話の続きです。<br /> <br /> 先日書きましたように未来は変わるし、やり直す場合もあるのですが、織田信長の場合は、もっと大きな意思が働いていたようですね。個人的な辛さとかだけであそこまで歴史は変わらないとも思います。もちろん織田信長のサイキック能力も凄いので白羽の矢が立った訳ですが、そのもっと大きな意思とは、地球滅亡の阻止です。<br /> <br /> ん〜。いきなり大きな話になりましたね・・・。 先日の話と同様、これも夢のお話でファンタジーですからね。そのつもりで。<br /> <br /> 元々のタイムラインでは、どうやら日本が中国を併合して大日本帝国としてアジアに君臨していたようです。大日本帝国内では割と平和だったのですが、問題はヨーロッパや中東だったようですね。そのタイムライン上ではどこかの国が戦争を仕掛けて地球の半分あるいはほとんどが吹っ飛んで地球滅亡になってゲームオーバーだったようです。<br /> <br /> そこで、偉大なる意思が働いてタイムラインを数十年と巻き戻して「やり直し」「やり直し」「やり直し」を繰り返していたのですが、何度やり直してもヨーロッパと中東は必ずどこかで戦争になって核戦争に発展し、地球終了あるいは地球の半分が吹っ飛ぶ将来になってしまったようです。<br /> <br /> ですので、地球を管理している主も困り果てて、いやはやどうしようかと悩みに悩んだようです。<br /> <br /> そこで、数十年を何度巻き戻してもヨーロッパと中東で紛争になるのだから、もっと巻き戻そう、ということで色々試して、今のタイムラインが存在しているようです。その線で、いわば「実験」として信長のタイムラインも存在しているようでした。地球の管理者は信長の支配を望んでいたというよりは、歴史に揺さぶりをかけることで将来の地球破滅を食い止めたかったようです。<br /> <br /> どうやら地球の管理者と言っても細かな歴史までは決めることができなくて、大きな歴史の流れをコントロールするくらいしかできないようです。そこはやはり、基本は人間の自由意志が尊重されているということでしょう。滅亡するのも人間の自由意志という訳です。<br /> <br /> もし今のタイムライン上で地球滅亡になったら、また地球の管理者はリセットして時間を巻き戻してやり直しをするようですが、地球の管理者も、何度繰り返しても地球が滅亡するような核戦争が起きるので、これは一体どうしたものかと困り果てているような感じです。もしかしたらそのうち「巻き戻してやり直し」以外の選択肢になるのかもしれませんが、基本的には今のタイムラインでうまく行って欲しいようです。<br /> <br /> この「やり直し」は、個人の身近なところでも実は小さな違いとしていくつもタイムラインが存在すると思います。<br /> <br /> そして、「夢」や「想念(雑念)」として頭に思い浮かぶ平行宇宙のイメージは、もしかしたらそれは他のタイムラインの状況を垣間見ている可能性があります。あるいは、現在のタイムライン上の未来かもしれませんし、過去かもしれません。色々見えたとしても、現在のタイムライン上のお話とは限らないわけです。<br /> <br /> サイキック的に慣れてくると、別のタイムライン上のお話が「教訓」として見えてきますから、例えばあらかじめ気をつけることが見えたりします。それは、失敗した方のタイムラインを覗き見ていることになります。そして、そのタイムラインに乗るのか違うタイムラインを新たに作り出すのかは自分の選択次第というわけです。<br /> <br /> あの時の選択をしていたらこうなったとか、そういうイメージは、妄想として片付けることもできますが、タイムライン上の未確定の姿ということもあるわけです。タイムライン上のイメージは確定していないので、変えることもできれば、あるいは、そもそも基点のタイムラインが違うので前提条件が違っていて絶対そのタイムラインには将来行かないなんてこともあるわけです。ですから、参考になるようでいて参考にならないことも多々あります。まあ、参考程度に心に留めておくくらいでいいのかなと思います。<br /> <br /> こういうのって昔は巫女とかシャーマンでないと見れなかったようですけど、今は割と普通に多くの人が見ている気がするのですが、どうなのですかね。あんまり他の人とこういう情報交換しないので、どの程度の人が見えているのか割合とかよく分からないですが、そんなに難しいお話でもない気がしますけど。<br /> <br /> ・・・・まあ、夢のお話ですけどね。<br /> <br /> <br /> <br /> <br /> <br /> Sun, 01 Sep 2019 00:00:00 +0900 未来は確定していない https://w-jp.net/2019/1636/ <br /> これまた夢や子供の頃に幽体離脱した時に見たお話。ファンタジーだと思っておいてもらえれば良いです。<br /> <br /> SFではよくあるお話ですけど、そういうことです。<br /> もっと言えば、現在をリセットして過去からやり直す、というパターンもあります。<br /> <br /> 例えば、どうやら織田信長は最初の人生では桶狭間の戦いで負けて捕虜になり、今川義元が勢力を伸ばします。織田信長許されて元の領地の支配を任されますが今川義元にお金を貢ぐ立場になってお家は没落して行きます。そうして、元々織田信長をよく思っていなかった一部の部下や徳川家康に軽くみられるようになり、これは人生失敗した、ということでリセットして最初からやり直し、「あんなことになるくらいなら、もう遠慮はしない。精一杯やるぞ!」と思って人生を生き、それから天下を取りに行ったようです。2度目の人生だったからこそ、ああして子供時代はすねていたのかもしれないです。色々と足かせがあると桶狭間で負ける、と思っていたのかもしれません。織田信長はある種のサイキックだったとも言えます。そうであっても、油断してしまうと本能寺の変のようなことが起こってしまうようです。<br /> <br /> 余談ですが、織田信長や有名な剣士は未来を見ることができる小人を肩に乗せていたようです。仙道で出神とか言われている術で作り出すことができるのですが、織田信長の場合は自分で作ったのではなく、生まれる前にとある存在から借り受けたようです。その小人は5〜10秒くらい先を見ることができ、剣の勝負であれば通常の反射神経を超えての対処ができたため、相当強かったようです。どうやら上級の剣士になるとこの小人がいる場合がほとんどらしく、「剣の基本能力+小人の先読みの力」で強さが決まるので、両方とも小人がいる場合は基本能力で勝負がついたようです。織田信長の場合は剣は標準よりも強かったのは確かですが小人の先読みの力で戦場でうまく戦っていたようでした。剣がそこそこでも小人がいるだけで相当強いみたいですから、剣の基本能力も鍛えていた織田信長が小人の力も借りて戦場で戦えばそうそう負けなかったのも理解できます。どうやら、織田信長が暗殺者を返り討ちにした時はお互い小人がいたようですね。そういう場合もあります。<br /> <br /> ・・・まあ、夢ですよ?<br /> <br /> それと、これまた別のお話で、私のグループソウルの1人の過去生のお話です。<br /> <br /> 時代はおそらく18世紀半ば。1750年ごろでしょうか?<br /> <br /> そのグループソウルの1人は女性で、結婚してパリ郊外に住んでいました。いわゆる霊能力者で、本人はあまり表に出たがらなかったので夫が霊能力者ということにして暮らしていました。夫が霊能相談して生計を立てていたのですが、妻(私のグループソウルの過去生)の方は未来も見れたので、前日にあらかじめ未来を見て相手を占ってから夫に伝えて、それで霊能相談ということにしていました。<br /> <br /> ある日、パリで大規模な霊能者のパーティーが行われることになりました。<br /> <br /> かなりの大人数が参加するので、あらかじめ前日に内容を夫が把握するために前日の準備は6時間くらいかかったのですが、当日に会う順番や相手の内容を一通り把握して、パリに出かけてゆきました。<br /> <br /> 沢山の人がいて楽しげではあるのですが、妻(私のグループソウルの過去生)の方は先日見た風景と同じで、同じ会話が繰り返されるので、退屈でなりません(苦笑) 一応、お話に付き合っていましたが、やがて、面倒になって「私はちょっと疲れたのであそこで座ってるから後は任せたわ」と言って、本来のタイムラインから離れた行動を取りました。本当は、そのまま話に付き合うのが昨晩に見たタイムラインだったのですが、面倒になったのでやめたのです。<br /> <br /> そうしたら、その瞬間まで先日見た通りだったのに、その直後からちょっとづつタイムラインが変わって行きました。妻(私のグループソウルの過去生)が休んでいたら、話しかけられる筈のない人から話しかけられたり、残された夫の方は、「何か様子が違う」と言って戻ってきます。ふと未来を読み直してみると、どうも会う順番が変わってしまっているようでした。<br /> <br /> なんとか臨機応変に対処してその日は終わったのですが、このことで妻(私のグループソウルの過去生)の未来に対する認識が変わりました。<br /> <br /> それまでは、未来で見たことは確定している事実だと思っていました。<br /> しかし、このパーティーの出来事で、未来は変えられるのだ、と気付きました。<br /> その日までは、未来を透視したら確定した事実と思って相手に伝えていましたが、その日以降は、未来は変えられる、という認識で伝えるようになりました。<br /> <br /> 未来を正確に見れるからと言って、未来が確実にその通りくる訳ではない、というお話です。<br /> <br /> ・・・まあ、夢ですけどね。<br /> <br /> SFではこのネタが割と定番ですし、スピリチュアルでもそういう話を度々耳にしますけど、それはきっと本当なのでしょう、というお話でした。<br /> <br /> <br /> <br /> Sun, 01 Sep 2019 00:00:00 +0900 オーラと共に移動するカルマ https://w-jp.net/2019/1635/ <br /> カルマの法則について色々なところで言われています。例えばヨーガではサンスカーラという「印象」がカルマの輪を回すと説きます。しかし、多くの人は「カルマの法則を正しく理解するのは難しい」というところで一致しているように思います。<br /> <br /> 私も同様にカルマの理解は難しいと思いますが、理解するヒントとして、オーラとカルマの関係を理解すると現世で生きるのに役立つと思います。<br /> <br /> カルマの基本的な仕組みは、まず、楽しいとか苦しいとか怒りとか悲しみとか全ての「印象」によって蓄積され、その「印象」が奥深くに眠り、やがてはその「印象」が刺激されることで再度現象として表に現れてきます。その輪がぐるぐると回るわけです。ヨーガでは以下のカルマがあると説きます。<br /> <br /> ・サンチッタカルマ 過去の輪廻で貯められたカルマ<br /> ・プララブタカルマ 今生の転生のきっかけになったカルマ。今生でのメインテーマ<br /> ・クリヤマナカルマ 今生でのカルマ。コントロール可能なカルマ<br /> ・アーガミカルマ 来世に引き継がれるカルマ<br /> <br /> まあ、それはいいのですが、我々今生に生きている人にとって大切なのは今生での生き方です。<br /> <br /> 今生に関係するのはプララブタカルマとクリヤマナカルマですね。<br /> <br /> そして、実は、カルマはオーラと共に移動します。サンチッタカルマが移動するかどうかはちょっと不明確です。しかし、プララブタカルマとクリヤマナカルマは移動する感じがします。ちなみに、こんなこと言っている人は見たことありません。これは私の実体験と子供の頃に幽体離脱および過去生の記憶らしきものを繋ぎ合わせて類推するとこうなる、というお話です。ですから、あまり信じないで下さい。いわゆる仮説です。私はたぶんこうだろう、とは思っていますが、読者が信じる必要はなくて、「ふうん」とでも思っておいて頂ければ良いです。<br /> <br /> さて、オーラでカルマが移動する、とは一体どういうことでしょう?<br /> <br /> 簡単な例で言いますと、例えばとても葛藤があって怒りや悲しみに満ちている人がいたとします。オーラも真っ赤で、オーラがブワッと発散して近く人は誰それ構わずオーラが接触します。以前書きましたように、オーラの接触とはつまりは「混ざる」ということですから、混ざった瞬間に相手も自分もなくなって、どこで切り離されるかによって自分のところに来たオーラが自分のものになるわけです。ですから、もともと相手のオーラでも、そのオーラが接触して「混ざって」、感知すると「雑念」やらになるのが基本ですが、そのオーラが真っ赤ですとそのまま「荒み」にもなって悪影響を及ぼします。そして、その「荒み」が激しい場合は、もともとそのオーラを持っていた人と同質化して同様に自分のオーラが赤に少し染まるわけです。少しの接触なら少し赤に染まるだけですが、ずっと毎日(学校や職場などで)荒んでいる人の近くにいたら周囲でオーラ接触している人の方が参ってくる訳です。それは、ただ単に荒むだけでなく、まさにカルマも引き受けてしまっているのです。ですから、ずっとオーラの接触が起こっているとオーラが同質化して、例えば、今まで平穏に暮らしていた人が次第に怒りや悲しみに満ちたりするようになるのです。これは「同質化」という現象でも捉えられますけど、それと同時に「カルマの移動」にもなっているわけです。<br /> <br /> 怒りのカルマが溜まっている人のオーラを、他の人が引き受けた訳です。そうすることで、元の人の怒りは少し落ち着きますし、カルマも減りますが、その分、周囲の人にカルマを分けている訳です。トータルのカルマの量では変わっていないと言えます。<br /> <br /> ですから、自分の悪い行いが自分に返ってきますよ、という、一部で言われているカルマの法則は半分本当ですが、このように、誰かにカルマを押し付けることで避けることができてしまうのです。ほんと、世の中って不公平だと思いますよ。ですから、自分がとても気をつけて生活をしなくてはなりません。<br /> <br /> これを悪用した場合、自分はカルマを作り出し続けて怒りや悲しみを作り続け、周囲の人にカルマを渡し続けることで自分の活動を維持しようとする悪人ができてしまいます。実際、例えばエネルギーヴァンパイアはエネルギーを吸い取るだけでなくて自分の悪いオーラをいじめられっ子あるいは奴隷相当の人に押し付けることで自分の葛藤を抑えていたりします。エネルギーヴァンパイアは、例えばいじめっ子や、意地悪い上司やパワハラ上司や、あるいは、ドメスティックバイオレンスな家庭などが典型だと思います。<br /> <br /> ですから、オーラの仕組みを知らないが故に他人のカルマを引き受けてしまっている人が世の中にはとてもとても大勢いるのだと思っています。なんでそんな理不尽な扱いに我慢し続けるのか、理解に苦しみますが。おそらくは学校で奴隷としての教育を受けてエネルギーを与え続けるウサギ役として調教され、社会においても一部のボスに従うように調教され続けている人が多いのでしょう。<br /> <br /> オーラの仕組みを知っていれば、そんな他人のオーラ(カルマ)を引き受ける必要なんてないと分かる訳ですが、これは広く知られると社会の仕組みが根底から崩れてしまうので、知られてはまずい知識に属するのでしょう。いや、考えすぎですかね。<br /> <br /> カルマを引き受ける代わりに多額の報酬とかもらえているのならば納得の上ということになるのでしょうが、そんな高い報酬なしに安月給で我慢している人が多いのではないでしょうか。<br /> <br /> すぐには逆らえないにしても、先日書きましたように時々オーラのケーブルを切ってエネルギーヴァンパイアさせないようにして、それに加えてオーラの壁を作って相手のオーラを受け取らないようにすれば、エネルギーを奪ったりカルマを他人に引き受けさせようとする人は自然にエネルギー枯渇と自分のカルマに押し潰されて自滅すると思います。案外、これは時間かからないと思いますよ。どっちか片方だけでも効果がありますが、両方やるとすぐ効果があると思います。<br /> <br /> もちろん、自分に繋がっているオーラのケーブルを切るのと、自分がオーラのカルマを受け取らない、というのが基本です。<br /> <br /> それに加えて、自分が煩わしいと思っているエネルギーヴァンパイアあるいはパワハラ君に対しては、こっそりと(意識の中でやるだけです)その人のエネルギーのパイプを切ってあげてエネルギー枯渇させると良いです。家族からエネルギー抜いている場合は時間かかるかもしれませんけど、このご時世、そんなに我慢し続ける家族も少なくなっていると思いますが。そうすることで、勝手に自滅していく場合がほとんどだと思います。<br /> <br /> これ、みんながやるだけで意外に世の中変わっていくと思いますよ。<br /> <br /> ■それじゃ、ヒーラーはどうなの?<br /> この仕組みが分かった時、「じゃあ、ヒーラーは悪者の延命をしているだけなのですか?」という疑問が浮かんできました。これに対して私のガイドから回答があったのですが「ヒーラーは、何に対して奉仕するのか、という目的意識が重要になります。目的は、例えば、苦しんでいる人を助けたい、とか、そういうことになるでしょう。ヒーラーのレベルに対してこのくらいの荒みならば良い方向に導ける、という程度問題があって、本当の悪者、すなわち自分のキャパシティを超えている者に対しては体が無理だと拒絶する筈です。理屈で言えば無制限に受け入れて良い方向に導けるべきですが、そうは言っても、キャパシティの問題はあるでしょう。ヒーリングする時にはオーラの接触があって、ある程度は同質化しますが、どの程度の同質化を許すのかはヒーラーとしてコントロールできなくてはなりません。無制限に相手の荒みを受け入れてしまうようなヒーリングは避けるべきで、ヒーリングの質と量をコントロールできるのがヒーラーの技術として必要になります。」とのことでした。納得です。まあ、私はヒーラーではないですけどね。<br /> <br /> <br /> <br /> Sat, 31 Aug 2019 00:00:00 +0900 心は相手を映し出す鏡。ヨーガの心のオーラ的な解釈 https://w-jp.net/2019/1634/ <br /> スピリチュアルやヨーガ(あるいはヴェーダ)では心(ヨーガで言うところのチッタ)は相手や対象物を映し出す鏡のようなものだと言われています。<br /> <br /> 例えばヨーガスートラの解説書には以下のようにあります。<br /> <br /> 人間は心に映った自分の像を自分とみなす。「インテグラル・ヨーガ (パタンジャリのヨーガ・スートラ) (スワミ・サッチダーナンダ 著)」<br /> <br /> 心が歪んでいたら歪んだ自分だと考え、晴れやかな心であれば晴れやかな自分と考え、喜びに満ちた心であれば喜びに満ちた自分だと考える・・・。そのように一般教育では教わります。しかし、これは誤解だとヨーガは説きます。真の自分は心ではない。真の自分は心に影響されず、心は道具であるから、心がいかように動いても真の自分に影響はないと説きます。喜んでいる時でも落ち込んでいる時でも真の自分は不変であるとヨーガ(あるいはヴェーダ)は説きます。<br /> <br /> ”見る者”つまり真のあなたは、あなたの鏡である”心に映る”。しかし、普通あなたは、真の”自分”を見ることができない。心に色が着いているからだ。「インテグラル・ヨーガ (パタンジャリのヨーガ・スートラ) (スワミ・サッチダーナンダ 著)」<br /> <br /> よって、心を落ち着かせて波のない水面のようにすれば真の自分を見出せる、というのがヨーガの説くところです。まあ、これはこれとしてヨーガでは割と通説になっていると思うのですが、現象としては確かにそうなのですが、鏡と言いつつも鏡っぽくない時もあるので、ちょっと腑に落ちない部分もありました。<br /> <br /> ですが、これをオーラ的に解釈すれば割とスッキリすることに気が付きました。<br /> <br /> ■心とオーラの関係<br /> 以前から数回に分けて書きましたようにオーラが伸びて相手のオーラと混ざると相手のことがわかる、という仕組みですが、これってそのまんまこの「鏡」の話ですね。流派がちょっと違って、オーラは割とスピリチュアルな話で心(チッタ)はヨーガなので割と別々の話として理解していましたが、ふと閃いて両方を比べてみたら割と同じことを言っているのに気がついたのです。そりゃそうですよね、真実は同じ筈ですから。<br /> <br /> ヨーガスートラでは「心の作用を止滅させることがヨーガ」と述べられていて、それがそのままヨーガの定義になっています。いくつかの訳を引用します。<br /> <br /> (2) 心の作用を止滅することが、ヨーガである。<br /> (3) そのとき、見る者(自己)は、それ本来の状態に留まる。<br /> 「インテグラル・ヨーガ(スワミ・サッチダーナンダ著)」より<br /> <br /> (2) ヨガとは心の活動を抑えることです。<br /> (3) その時(思考波が静止している時)、知覚者は自分自身の真の状態に留まります。<br /> 「Meditation and Mantra (Swami Vishnu-Devananda著)」より翻訳<br /> <br /> (2) ヨーガは、心(チッタ: Chitta)がさまざまの形(ヴィリッティ(ス): vrittis)をとるのを抑制することである。<br /> (3) そのとき(集中したとき)、見る者(プルシャ)は、彼自身の(変られていない)状態におちついている。<br /> 「ラージャ・ヨーガ(スワミ・ヴィヴェーカーナンダ 著)」より。<br /> <br /> ■オーラ的なヨーガスートラ定義の解釈<br /> 上記のヨーガスートラの有名な文をオーラ的に読み替えると以下のようになると思います。<br /> <br /> 「自分のオーラの動きを安定させること(がヨーガ相当)です。<br />  その時(オーラの動きが安定して体の近くに留まっている時)、見る者(自己、プルシャ)は落ち着いた状態になる。」<br /> <br /> ヨーガスートラで言う「心が作用している時」とは「オーラがふらふらと発散して動いている時」あるいは「オーラが線のように伸びて相手に繋がっている時」とオーラ的には解釈できそうです。であれば、オーラを安定させてオーラと相手(対象)との接続(ケーブル)を切ることで自己が落ち着いた状態になる、と言うのはオーラ的にみてとてもわかりやすいです。<br /> <br /> ■鏡について<br /> 「鏡」についても同様で、オーラが線のように伸びたり、あるいは不意にオーラが接触して相手(対象)と繋がると相手の情報が伝わってくるのですから、相手の情報が伝わってくる現象を「鏡」と比喩することもできるわけです。私的には「鏡」の比喩よりもオーラの動きで考えた方が随分と分かりやすくてしっくりきます。これは個人差もあるのかもしれませんので、分かりやすい方で理解すればいい気もします。<br /> <br /> オーラと心の動きの関係を理解すればヨーガスートラもすっきりと理解できそうです。<br /> 古典って昔の言葉で読み解くのは難解ですけど、真実がそんなに複雑なわけもないので、実際のところはシンプルなんだな、と言うのが実感です。<br /> <br /> もともと引っかかっていたのは、「鏡」と言いつつも「鏡」のように作用しない時も多々あるので、本当に「鏡」なの??? と言う疑問がズーーっとあったのです。おそらく、子供の頃からずっとこの「鏡」の例えを微妙に思っていました。初めて聞いたのはいつかはもはや覚えていないですけど。半分本当っぽいけど、そうでもない気もしていましたので。識者に聞いても「まあ、鏡というのは比喩ですからねえ」と曖昧な返事しか貰えず。比喩だからなんとなくの理解でいいのかな・・・ と、少しモヤモヤしていたのですが、オーラで考えるとあっさり解決したのです。<br /> <br /> 最初から「鏡」なんて言わずにオーラで説明してくれればこんなに悩むこともなかったのに(苦笑)<br /> <br /> <br /> Sat, 31 Aug 2019 00:00:00 +0900 レムリア時代のアセンション https://w-jp.net/2019/1633/ <br /> 夢で見たファンタジーのお話ですけど、私、おそらく古代レムリアの時代に一度アセンションしてます。 そういう夢を見ました。<br /> <br /> その時、民族の大多数が一気にアセンションしたので、私は特別に修行しているわけでもなかったのですが皆の意識に合わせることで一緒に自然にアセンションしていました。 あれれれれ? って感じで、一気に世界が変わったのです。<br /> <br /> 当時はおそらく今みたいな3次元の世界ではなく、もっとふわふわとした、いわゆる幽体あるいはアストラル体に近い世界だったと思いますので、その世界でアセンションと言っても、少し雰囲気が変わる、みたいな感じ(それでも大きな違いですが)だったように思います。一段階上がるわけですから、それはそれは大きな違いではありますが、今の世界のように3次元ではないのでずっとアセンションしやすい世界だったように思います。<br /> <br /> 近い将来にアセンションが再度あるとしたらまた体験したくて生まれてきているという面も少しありそうです。<br /> <br /> ・・・繰り返しますけど、これは夢のお話ですよ?<br /> <br /> そのまま上の世界で暮らすこともできたのですが、地上の世界に興味があったので地上をふらふらと様子を見に遊びにきて、そのうち興味本位で転生を繰り返した魂が私の過去生みたいです。<br /> <br /> ですから、私の場合は一旦アセンションした後に下の次元に下降した訳です。<br /> <br /> 昔は理由が興味本位だと思っていましたけど、言い換えればそれは学びがまだ必要だったということでもありますね。レムリアの時はみんなと一緒のアセンションだったので一部まだ学び足りない、遊び足りない部分があったのかなと。なので再度、地上に遊びに来た訳です。真面目に言い換えれば「学ぶため」とも言えますけど、学ぶというよりはむしろ遊ぶため、という感じですね。<br /> <br /> そろそろまたアセンションがあるとかないとか言われていますけど、3次元の世界がなくなるような気はしませんね。3.5次元くらいのふわふわした感じの世の中に変わる可能性はある気がしますけど、基本はそう変わらない気もします。(この次元数は単なる比喩なので厳密な数字ではありません。)<br /> <br /> 2つの将来像が見えるのですが、1つはアセンションしない未来で、もう1つはアセンションする未来です。<br /> <br /> どうやら、未来がどうなるのかまだ確定していないような感じです。どうなるのでしょうね。<br /> <br /> ■コギ族のマモス<br /> 本当かどうかはわかりませんが「ハートの聖なる空間へ( ドランヴァロ・メルキゼデク 著)」という本には、1999年までに起こる筈であった大変革がマカバによって回避された事が書いてあります。それによると、元々の計画ではテクノロジー中心文明の人は地球の別次元に行き、先住民族や自然派の人が物理的な地球を受け継ぐ筈だったそうです。この回避は、肯定的なこととして受け止められています。<br /> <br /> これがアセンションと関係があるのかどうかは記載がありませんが、私の夢の内容を踏まえると、アセンションはこれとは無関係のような感じです。<br /> 大改革が回避されたとしても、それでも、やはりアセンションがあるかどうかは未確定のようです。<br /> <br /> 可能性はまだ半々で、アセンションがずっとないか、あるいは、あるとしても、誰しもがもはやアセンションなど起こらないと思うようになるほど遠い未来に起こる感じです。おそらく、あるとしたらあと数十年以内でしょうか。<br /> <br /> 上のような大改革はなくても、天変地異はあるかもしれないです。それも含めて、まだ未確定のような感じです。<br /> <br /> ・・・・夢ですよ。<br /> <br /> 夢を見たのはいつ見たのか覚えていないくらい昔で、たぶん子供の頃だったと思います。 でも、ふとした時に思い出すのです。<br /> <br /> <br /> Fri, 30 Aug 2019 00:00:00 +0900 オーラと子供の教育 https://w-jp.net/2019/1632/ <br /> 先日のオーラと雑念 の話とその続きのお話 を踏まえた、子供の教育のお話です。<br /> <br /> 学校で子供が苦しんでいるのも、オーラの知識がない大人の理不尽な対応のせいである場合も多い気がします。<br /> <br /> 例えば、学校で「仲良く」というのは本来オーラを安定させて体の近くに留めて「自分」を確立してから自由意志を持って相手と繋がるべきであるのに、学校教育では表面上の仲良さを重視していますのでオーラ的に言えば「オーラを繋げる」教育をしていますので、しっかりしていた筈の真面目な子も悪い子に引っ張られて落ちて行き、いじめっ子がエネルギーヴァンパイアになって支配する構図を助長しています。ここでポイントになるのは「自由意志の尊重」であり、支配体制を作るような関係は避ける必要があるのです。<br /> <br /> 学校というのは社会の縮図であり、社会が支配体制であるが故に学校もその支配体制を維持する為に「オーラを繋げる」「自由意志を尊重しない」という教育になっているのだと思います。きっと学校の先生はこれに反論するでしょうが、オーラ的に言えばそうなっています。<br /> <br /> あるべき国のあり方や、グループのあり方、友達のあり方、学校のあり方。基本的に考え方は同一で、「自由意志の尊重」「オーラの安定、独立」というところを元にすれば、自ずと解決策は出てきます。例えば国であれば「自由意志が尊重される単位で国を分割する」ということになりますし、学校でも「自由意志が尊重される単位でクラスを分割する」ということになるでしょう。<br /> <br /> 子供の自由意志やオーラを無視し、ごちゃ混ぜにして「仲良く」とか言う言葉でオーラをつなげてしまって表面上は仲の良い従属関係を作り、自由意志をなくしてハイハイ従わせる為の教育が世間にまかり通っていますので子供が苦しんでいるのだと思います。<br /> <br /> ただ、社会もこの構図で出来ていますので、子供が抜け出たとしても大人になってから社会の一員で働くのが辛くなってしまうのが困ったところ。子供だけでなく社会の仕組みもこの種の隷属関係を抜け出ないと大人も子供も生き辛い世の中が続くと思います。<br /> <br /> 問題の基本は、大人も子供も対多数が「瞑想をしない」ところにあると思います。瞑想をすることでオーラの発散を抑えてオーラを体の近くに安定させることが全ての基本であるべきなのに、それをしないからオーラが発散したままになり、おかしくなるのです。<br /> <br /> 「いじめ」と言う現象だけを見ていてもこのあたりはわかりません。いじめっ子の目的は言葉では色々と説明があるでしょうし、本人の自覚はないかもしれませんが根本は「オーラのパイプを繋げてエネルギーを吸い取ること」が目的です。その根本を理解しさえすれば、「いじめる(あるいは、嫌がらせ、あるいは、怒鳴る)」とか言う行為は「エネルギーのパイプを繋げる、あるいは、維持する為の手段」になりますから、「いじめる」という行為は従わせる為の「手段」であり、いじめられっ子が大人しく従っている間は「いじめる(あるいは、嫌がらせ、あるいは、怒鳴る)」行為をする必要がないわけです。いじめっ子からすればエネルギーヴァンパイアをする為あるいは維持する為にこそ行動が必要であり、最初は頻繁ないじめが必要かもしれませんが、一旦エネルギーのパイプを繋げてしまえば時々いじめをすればいいだけですから、維持だけでしたら影で時々嫌がらせをするだけでもいいわけですからね。であれば、学校の先生なんてほとんど気付けなくなる場合もあるでしょう。<br /> <br /> 時々は大人が代わりにこのエネルギーのケーブルを切ってあげる必要があると思いますけどね。大人は子供のそのくらいの面倒は見るべきだと思います。「いじめ」という行為を見抜けなくても、オーラに対する理解さえあれば、要はエネルギーヴァンパイアを防げば良いのですから生徒1人1人をしっかりと自立させれば良いわけです。その為に、時々はエネルギーのパイプを切ってあげて、オーラを安定させる助けをすれば良いわけです。色々と現象としては出てくるとは思いますが、根本は結局これだと思います。<br /> <br /> 大人は「いじめる目的は何なのだ?」と子供を問い詰めるかもしれませんし、子供は色々な回答をするかもしれませんけど、そんなこと聞かなくても根本はエネルギーヴァンパイアであることがほとんどです。場合によっては本人の混乱でそういうことしている場合もあるかもしれませんけど、継続的な「いじめ(あるいは、嫌がらせ、あるいは、怒鳴る)」であればほとんどの場合エネルギーヴァンパイアが目的でしょう。<br /> <br /> 大人がこの根本の理解をせずに表面上の仲良さだけを見ていても子供の苦しみは分かりません。基本は、いじめっ子といじめられっ子がいたらお互いに引き離して接触させないことです。表面上の仲良さなんてのも不要です。接触を断ちます。今の学校では「無視」と思われてしまって悪い印象になるのかもしれませんが、オーラ的に自立してきちんと対応できるようになる為には接触させるべきではないのです。数ヶ月あるいは数年という単位になるかもしれませんが。それをしなければ、エネルギーヴァンパイアの関係になるかあるいは不登校になるのかのどちらかです。この場合、自立するまでは「仲直り」などは不要で、きちんと自立するまではむしろ「しばらくの間、お互い相手には接触しないという同意」が必要になります。<br /> <br /> 学校の先生がこのことに理解がなくて改善が見られなければクラス替えの要求あるいは転校しても良いと思います。<br /> <br /> あるいは、今の学校はクラス全員の同質化を前提にしていますから、そもそも変な人がいない学校に行くことですね。田舎では難しいかもしれませんけど。<br /> <br /> 子供が孤立していた時、この種のオーラに理解のない大人は事あるごとに「仲良く」させようとしますけど、オーラの理解があれば「仲良く」なんてのは大きなお世話どころか、害が大きいことがわかるでしょう。オーラに理解のない大人の薄っぺらな「仲良く」なんて、多くの場合、子供からしたら従属関係の強要になってしまうのです。<br /> <br /> 教師が教育をとても勉強すればこのあたりも問題なくなるのかもしれませんが、そんなに色々と勉強しなくても、このオーラの法則さえわかっていれば他の法則を次々に自分で導き出せる筈です。実際、日本の学校では学級崩壊が問題になっていますし、であれば、教師はそんなに勉強できていないのが実情なのではないでしょうか。オーラの法則は簡単ですので、ただ単にその存在を受け入れて理解するのはあっという間です。でも、もしかしたら素養がないとその簡単な法則すら理解できないのかもしれませんけど。<br /> <br /> やっぱり、学校教育から精神世界を追い出してしまったのが問題ですよね。であれば、偏りは色々とあるのかもしれませんけど宗教系の学校、キリスト教とか仏教とか、そういう母体があるところに行かせるのが無難なのかもしれません。精神的な素養がない教師に教えられた子供は荒みますから。<br /> <br /> <br /> Fri, 30 Aug 2019 00:00:00 +0900 霊視とオーラ https://w-jp.net/2019/1631/ <br /> 先日の霊感・霊視のレベルに関する記事の続きです。<br /> <br /> 低級な霊視はオーラが発散している場合にオーラが接触して不意に起こることがあります。<br /> <br /> 以前、オーラと雑念について書きましたが、オーラには各種の情報含まれていますのでオーラが接触した時に入ってくるいわゆる「雑念」とは、いわば相手の状態なわけです。オーラは最初に感覚として入力され、その感覚を心で読み取ることで雑念として言葉として現れてきたり、あるいは、単にその感覚を味わったりします。どちらにせよ、そのオーラの接触により相手のことが分かるわけです。それは、低級な霊視であるとも言えます。<br /> <br /> 単なる感覚や雑念として伝わってくることが多いとは思いますが、受け取る側にその素質があれば映像として見える時もあります。この時、原理は雑念の時と同じです。受取手次第で読み取れる情報が変わってきます。<br /> <br /> ですから、雑念がオーラと関係があるのと同様に、霊視もオーラと関係があります。<br /> オーラの接触で雑念が不意に起こるのと同様に、オーラの接触で霊視が不意に起こることがあります。<br /> <br /> そして、このオーラの接触は、なるべく避けるべきです。<br /> <br /> ■オーラの発散について<br /> 前にも書きましたが、いわゆる霊媒・ミディアム・サイキックな人の中にはオーラが発散して周囲に広がっている人がいますので他者のオーラや漂っているオーラと不意に接触して数々の情報が入ってきますが、本来はオーラを発散させるのではなく、オーラを体の近くにギュッと密接させておくべきなのです。<br /> <br /> オーラを発散させておくとオーラがアンテナになって感覚が鋭くなった気がするかもしれませんが、本来の鋭さとは、ほんのちょっとの接触で多くの情報を引き出せることを言うのであって、やたらとオーラを接触させて情報を無秩序に拾うことを鋭いとは言わないと思います。<br /> <br /> ■霊障<br /> 前の記事で、エーテルというかオーラの筋がスススッと伸びて情報を拾うことと、その時に、オーラが混ざって相手にも自分のオーラが若干残るし、情報を得る時に相手のオーラが自分と混ざる、というような事を書きましたけど、いわゆる霊媒・ミディアム・サイキックが霊障のような症状に悩むのはこのオーラの発散と混合が原因であることが多いです。<br /> <br /> 自分のオーラが発散している場合と相手のオーラが発散している場合とがありますが、少なくとも自分のオーラは何とかしたいところですよね。<br /> 相手のオーラが発散している時は、変な雰囲気を感じたら近寄らないことです。ですが、自分のオーラが発散していたら周囲の人のオーラと次々とぶつかってしまうのでどうしようもありません。<br /> <br /> オーラが発散しないように気をつけていたとしても、カウンセリングで霊視する際には相手のオーラと混ざるので相手の邪気を受け取ってしまうと霊障のような症状に悩むことがあるかもしれません。<br /> <br /> ■「鋭く」「少し」オーラを混ぜて情報を取る<br /> カウンセリングで相手を見るためにオーラを混ぜる際、ほんのちょっとの自分のオーラで「鋭く」相手のオーラのサンプルを取ればいいのに、ごっそりとオーラを混ぜると相手の邪気もごっそり受け取ってしまうわけです。<br /> <br /> まあ、自分がサイキック能力があると思っていてもこの種のオーラの仕組みが分かっていない人も大勢いらっしゃるようですので、あまりオーラの接触なんて気にしていないような人も多い感じではありますが。<br /> <br /> 霊視は、ほんのちょっとのオーラで霊視すればいいのに、ごっそりとオーラ接触しないと情報が取れないようでは、そんな状態でカウンセラーになってカウンセリングするのはまだ早いんじゃないかな・・・ と個人的には思いますが。<br /> <br /> ■意外にこのあたり知られていない?<br /> この種のオーラの仕組みについては意外にスピリチュアル系の人もあんまり言っていなくて、私個人としては子供の頃に幽体離脱して色々な事をその時に勉強したのでもはや常識みたいなものですが(まあ、子供の頃はしばらく忘れていたりもしましたが)、意外にこのオーラ関係の知識が世の中にないなあ・・・ と言うのが印象です。<br /> <br /> 大雑把な知識はあるにしても、どっか微妙にズレているというか。まあ、私の理解も完全ではないとは思いますけど。<br /> <br /> ■基本は、オーラを発散させない事<br /> まず、個人の自分のオーラを体の近くに留める、というのは基本ですよね。<br /> <br /> ■次に、オーラをどう使うのか?<br /> オーラが発散しなくなったら、次は、オーラをどう使うのか? というお話。<br /> <br /> ■オーラのケーブルを切る<br /> オーラのケーブルを繋げたら、切るのが基本。<br /> 勝手に繋がってしまったら、切るのが基本。<br /> <br /> 有名どころで言うと「九字切り」みたいなものがありますけど、そんな大層な事をせずとも、意識の刀で全方向軽く接続を切るだけですし、それは体を動かさずとも意識で行うだけですし。九字切りしている人はめっちゃ気合い入れてるイメージですけど、そんなに気合いもいらなくて明確なイメージがあればいいだけです。<br /> <br /> そういえばカバラ十字とかも四方に結界を張ってますね。<br /> 最近のスピリチュアルですと卵のような殻を体の周囲に作って鏡のようにする、みたいなのもありますね。<br /> 常に防御できる力とイメージの持続力があればいいですけど、多くの人はそんなに意識が続かないでしょうし、一般人は都度切るくらいの方がいいとは思いますが。<br /> <br /> 私が意識していなかっただけで、それぞれの伝統で実は似たような手法があるのかもしれないですね。<br /> 儀式は残ったけれどもその意味が失われた、という事もあるかもしれません。魔法的に「結界」とかいう言葉はよく聞きますね。<br /> <br /> ■邪気<br /> 邪気を受け取ってしまったら、切り離せる場合は切り離します。<br /> エネルギーを入れることがすなわちヒーリングですので、そうして邪気を解消することもできます。<br /> <br /> ■オーラの知識の重要さ<br /> オーラの知識はかなり重要で、これを知っていれば例えば学校での子供の対処も色々と変わってきますし、社会での人との対処方法もかなり違うものになります。<br /> <br /> <br /> 案外、スピリチュアルな人でもこの辺りのオーラの知識って手薄な気がしてきました。<br /> <br /> <br /> Fri, 30 Aug 2019 00:00:00 +0900 霊感・霊視のレベル https://w-jp.net/2019/1630/ <br /> 「神道の神秘(山蔭 基央 著)」で述べられている山陰神道では「霊視」の段階を以下のように分けているようです。<br /> <br /> 1.妄想 ヴィジョンが霞んだ白黒の映像で現れる。的中率は3割以下<br /> 2.幻想 カラーの映像。的中率5割以下<br /> 3.思通(しつう)白黒の中の透明映像。的中率7割以上<br /> 4.観通 山陰神道の先代がわずかに垣間見た程度<br /> 5.霊通 辿り着ける人はほとんどいない<br /> 6.神通 辿り着ける人はほとんどいない<br /> 「神道の神秘(山蔭 基央 著)」より<br /> <br /> 同署によればたいていの霊能者は2番の「幻想」であり、人によってはこの段階で喜んで自らを神のように勘違いするが、そのような勘違いはしないよう諌めている。<br /> <br /> ■低級霊に注意<br /> 狐や狸などの低級霊でも多少の未来は見ることができます。同書ではその辺りも警告しています。<br /> <br /> ■大地の母<br /> 出口王仁三郎と大本教のドキュメンタリーである「大地の母(出口 和明 著)」を昔パラパラと読んだ時に狐に騙されるお話が載っていました。お告げで金銀財宝が埋まっていると言われて探しに行き、大騒ぎをしたものの結局見つからず、狐に騙されていたのだろう、とか、そういうお話だったと思います。<br /> <br /> 昔から、色々なところで色々な人が「狐や狸に騙される」とかいうお話をしているのを聞いたり読んだりしていましたが、おそらくはその話の出所はこの大本教かなと思います。<br /> <br /> ■審神(さにわ)<br /> 神道にはこれらの低級霊を見分けるための審神という伝統があります。<br /> 神道の場合は独立した1人が担当しますが、現世において低級霊に惑わされないためにも誰しもが基本的な審神ができる方が良いと思います。<br /> <br /> 神道的には色々とあるのでしょうが、とりあえず素人が心がけるべきは、「言葉のまやかし」です。一見して高級に見えるメッセージであっても、そこから感じ取れる高級な神妙な清々しい雰囲気がなければさほど高級な存在ではないでしょう。高級な存在であればあるほど神社と同様の清々しい雰囲気を醸し出しています。言葉に惑わされず、雰囲気を感じると良いと思います。<br /> <br /> Thu, 29 Aug 2019 00:00:00 +0900 眉間と鼻頭とアジナチャクラ https://w-jp.net/2019/1629/ <br /> 書物や流派によりアジナチャクラが何処なのか諸説あります。<br /> <br /> <br /> ・眉間(あるいは鼻頭)<br /> ・脳下垂体<br /> ・松果体<br /> <br /> <br /> 脳下垂体も松果体も頭の中央付近の近くにありますが脳下垂体の方が目に近くて松果体の方が頭の中心にあります。<br /> <br /> ■松果体がアジナと言う説<br /> 「密教ヨーガ(本山博著)」には以下のようにあります。<br /> <br /> アジナは脊髄の終わったところに対応して位置し、三つのナディが合流して、ちょうど糸のように結び目のようになっています。この結び目は、ルドラ・グランティまたはシヴァの結び目と呼ばれています。肉体の上ではアジナは松果腺に対応するといわれます。体表の部分では、眉間がアジナと密接な関係にあります。そのため、アジナに精神集中する場合、ふつうは眉間に集中します。「密教ヨーガ(本山博著)」<br /> <br /> これがヨーガで割と一般的な認識のように思います。<br /> <br /> ■脳下垂体がアジナで松果体がサハスララと言う説<br /> 流派によってはこの論も時々目にします。<br /> <br /> ■アジュナ(アジナ)と第三の目が異なると言う説<br /> 「伝導瞑想(ベンジャミン・クレーム著)」には以下のようにあります。<br /> <br /> アジュナ・チャクラは第三の目ではありません。第三の目(心眼)は実際に頭の内部にありますが、アジュナ・チャクラは前面にあります。第三の目、心眼というものは、その弟子自身の活動によって創造されるものです。鼻柱の背後に位置する脳下垂体はアジュナ・チャクラに関係しており、頭の中心にある松果腺は頭部センター(頭の頂点)に関連しています。「伝導瞑想(ベンジャミン・クレーム著)」<br /> <br /> 伝導瞑想は私は詳しくありませんが、この流派は独特の言葉の定義があるようです。用語はヨーガの定義そのものではありませんが、内容は興味深いです。以下のように続きます。<br /> <br /> 瞑想は、これらの分泌腺の活動を徐々に増大します。脳下垂体と松果腺の活動が瞑想を通じて活発になるにつれ、各々から発する輝き、光が拡がり、両者の間に磁気的接触ができ、二つのセンターが重なり合うところに一つの場ができます。そこに第三の目が生まれるのです。そして高度な霊視が利くようになります。これはアジュナ・チャクラそのものとは異なったものです。「伝導瞑想(ベンジャミン・クレーム著)」<br /> <br /> これは興味深い記述です。用語を抜きにしてこの内容を踏まえると、脳下垂体と松果体の両方が重要になるわけですね。この流派の瞑想方法は以下のように説明されています。<br /> <br /> ですから、伝導瞑想をするとき、あなたは注目を第三の目に保持するのではなく、眉間にあるアジュナ・チャクラに保つのです。そこに何か圧迫を感じるのは、エネルギーがそのセンターを通じて流れているからです。「伝導瞑想(ベンジャミン・クレーム著)」<br /> <br /> この指示は「密教ヨーガ(本山博著)」の内容と類似していて興味深いです。<br /> <br /> ■眉間と鼻頭<br /> バガバッド・ギータの6章は瞑想について記載されており、6章13節には「鼻先を凝視する」と書かれてあります。このことをもって、流派によっては眉間ではなく鼻頭に集中しているようです。その流派には流派なりのやり方がありますのでとやかく言うことではありませんが、「あるヨギの自叙伝」でスリ・ユクテスワは以下のように説明しています。<br /> <br /> 言語ナシカグラム(鼻の先)の真の意味は、いわゆる鼻の頭ではなく、”鼻の上”のことだ。つまりそれは眉間の霊眼の位置をいっているのだ。「あるヨギの自叙伝( パラマハンサ・ヨガナンダ 著)」<br /> <br /> ここでもやはり、眉間の集中のことが言及されています。<br /> <br /> アジナチャクラの位置については諸説あれども、実際のところは何処も変わらなくて、言い方が違うだけなのでしょう。いわゆる第三の目が脳下垂体と松果体の間にできるとすれば諸派によってアジナチャクラが脳下垂体だったり松果体だったりするのも頷けます。どちらも半分当たっているということでしょう。<br /> <br /> ■神智学<br /> 「神智学大要 第1巻 エーテル体(アーサー E.パウエル 著)」には、眉間がアジュナー(アジナ)であると書かれています。<br /> <br /> 同じ神智学系の「チャクラ(C.W.リードビーター 著)」にもアジナーが眉間だと書かれています。<br /> <br /> ■13チャクラ システムにおける脳下垂体と松果体<br /> 「フラワー・オブ・ライフ 第2巻(ドランヴァロ・メルキゼデク著)」には脳下垂体と松果体と13チャクラ システムに関する興味深い洞察が記載されています。<br /> <br /> どうも松果体が「見る」とき、すなわち脳下垂体にエネルギーを投射するとき、第三の眼の知覚が生じるようなのです。「フラワー・オブ・ライフ 第2巻(ドランヴァロ・メルキゼデク著)」<br /> <br /> これも、上記の伝導瞑想の記述と類似していて興味深いです。<br /> <br /> <br /> Thu, 29 Aug 2019 00:00:00 +0900 イグナチオ・デ・ロヨラ(イエスズ会創立者)の内的理解 https://w-jp.net/2019/1628/ <br /> 世俗的な思いは心を虚ろにし不安にするが、霊的な思いは深い平安と喜びをもたらす。不安に満ちた虚ろなあらゆる思いをかき立てるのは悪魔で、静かな喜びを伴う霊的反省を呼び起こすのは神であるという結論に達した。(中略)キリストは王であり、聖人たちはその騎士、そして人間の心は悪魔と神との決戦の戦場である。「イエズス会の歴史(上)(ウィリアム・V・バンガート 著)」<br /> <br /> これはイエスズ会を創設した第一人者であるイグナチオ・デ・ロヨラの基本的な理解のようです。彼が執筆した「霊操(れいそう)」はキリスト教における基本文献の一つになっているようですので、これは彼だけでなくキリスト教を理解する助けになりそうです。<br /> <br /> 「霊操」の日本語訳はいくつかバージョンがあるようですが、手元にあるホセ・ミゲル・バラのバージョンには以下のようにあります。<br /> <br /> 霊操とは、良心の糾明(きゅうめい)、黙想、口祷(こうとう)と念祷(ねんとう)のあらゆる方法を意味する。散歩したり歩いたり走ったりするのを体操と言うが、同じように、霊魂を準備し整えるあらゆる方法を霊操と言うのである。その目的は、まず、乱れたあらゆる愛着を捨てることであり、その後、霊魂のたすかりのために、自分の生活を整えることについて神のみ旨を探し、確かめることである。「霊操(イグナチオ・デ・ロヨラ、ホセ・ミゲル・バラ 著)」<br /> <br /> 同書にはこれ以外にも興味深いことが記載されていて、例えば心の有り様を表現しています。<br /> <br /> 自分の心に現れてくる考えに3種類あることを前提とする。1つは自分のものであり、ただ自分の自由な望みから生まれるものである。他の2つは外からのものであり、一つは善霊から、一つは悪霊から来る。「霊操(イグナチオ・デ・ロヨラ、ホセ・ミゲル・バラ 著)」<br /> <br /> これを理解するとキリスト教の基本的な立場が理解できます。古典的なキリスト教にはハイヤーセルフあるいはアートマンのような概念はなくて、自分かそれ以外か、と言う分類なのですね。この場合、いわゆるハイヤーセルフは善霊に含まれているのでしょう。<br /> <br /> <br /> Wed, 28 Aug 2019 00:00:00 +0900 体のオーラに取り憑いているエネルギー体 https://w-jp.net/2019/1627/ <br /> ここ数日はちょっと体が重くて瞑想しても微妙な感じでしたので、瞑想中に体のオーラを探ってみました。すると、やっぱりいました。<br /> <br /> まず、アナハタチャクラに爬虫類のカマキリみたいなのが取り憑いていてエネルギーを吸っていたのでイメージ上の腕で片側を持ってゆっくりと引き抜いたらハサミで威嚇されました(汗)引き抜いてポイっと捨てたら随分と気分が楽になりましたね。肩の辺りには顔だけの亡霊っぽいのがくっついていました。おー、怖い怖い・・・。これは、意識したら発見されたのに気付いたらしくて自分から離れていきました。肩が重い感じがなくなりました。首には何やら赤い腫れ物のような、血の充血した塊みたいなのがくっついていました。これは取り除くというよりはエネルギーを当てて治す必要がある部分のようです。頭が硬かったのですが、前頭葉の左側からカラスのような黒い鳥が何十匹もバタバタと音を立てて出てきて飛んでゆきました。頭の上には鳥の巣があって、最初は可愛いペンギンの子供かと思ったのですがガチョウの子供のようで、餌を欲しがっていましたので座っている横に移動させました。右脳には可愛いキタキツネと深海魚っぽい魚と縮尺小さめのクジラがいましたので出てきてもらいました。<br /> <br /> 体の色々なところに動物がいるなんて、古事記とかインドの神話っぽいです。瞑想中のお話ですけどね。<br /> <br /> これで、随分とスッキリしましたね。<br /> <br /> こういうのはイメージでしかないですけど、アストラルの世界は何でもありですので、何か混沌としたエネルギーが具現化して取り外しやすくなったのだ、と解釈しています。きっと、本当にそれ自体が寄生していたのではなくて、エネルギー的なものが溜まったかあるいはどこかから拾ってしまって、それが分かりやすい形でイメージ上で具現化したのだと思っています。エネルギーがその質に応じて具現化するのはよくあることです。誰かの術の可能性もありますけど、おそらくは自然発生的なものかなと。<br /> <br /> そういえば、アナハタ優勢になる前日くらいにも似たようなことをしましたね(該当記事)。以前と同様、プラシーボかもしれないですけどそれで効果があるなら全然OKなのです。この種のセラピーも世の中にはあって効果が出ていますしね。人間には科学的に分からないことも多いのですから、科学で証明された以上のことがあっても不思議ではないのです。<br /> <br /> <br /> Tue, 27 Aug 2019 00:00:00 +0900 2つの喜びの謎 https://w-jp.net/2019/1617/ <br /> 感情の喜びと、感情を超えた喜び。<br /> <br /> 感情の喜びはマニプラに結びついている。<br /> 感情を超えた喜びはアジナに結びつている(と推測)。<br /> <br /> 私の場合は後者はまだです。<br /> 先日のカウンセリングやセミナーで見聞きした内容を踏まえると、アジナへの鍵は「喜び」にありそうです。<br /> <br /> クンダリーニに結びつけると、クンダリーニが覚醒してマニプラ優勢になった頃は、とにかく楽しくてポジティブでした。「熱」という感じです。それは内から湧き出る喜びでした。感情が豊かになりました。<br /> <br /> その後、アナハタ優勢になった今は、マニプラ優勢の時ほど楽しい感情はないですが「暖」という静かな感覚があります。風のような清々しさがあります。清々しさと「暖」は相反するように思うかもしれませんけど、熱感としては「暖」で、感覚としては清々しいので合ってます。清々しいと言うより雑念が少ない、と言った方がわかりが良いかもしれません。<br /> <br /> これからアジナに行く鍵は何かと思って探っていましたが、書物によってはアジナより上は「冷」と結びつけられているので、前は「感情を抑えるのかな・・・?」と思っておりましたが、そうではなく、どうやらアジナ以上への鍵は「喜び」にあるのだとわかってきました。<br /> <br /> マニプラ優勢の時は割と外へと発散する感じでしたが、アナハタ優勢にて少し内側に留まるようになりましたので、この方向性であれば次はもっと内側になるのかなと思います。熱感で言うと外が「熱」であれば中間は「暖」で内は「冷」なのは理にかなっています。オーラの外・内が熱感に対応するとすれば、オーラが内に収まった際のアジナの感覚が「高い波動」「喜び」「満ち溢れる」あたりにある気がしてきました。アナハタ優勢の話と同様に、熱感としては「冷」でも感覚として喜びというのはあり得ると思います。まだ仮定ですけど。<br /> <br /> どうやら「古事記」にもそのあたりの鍵があって、天岩戸の物語はアジナの目覚めを象徴しているのだと先日のセミナーで聞きましたので、なるほどなあ、と思っております。天岩戸は、外の喜びを感じて扉(アジナ)が開く、というお話ですので、天岩戸が開く前は真っ暗で何も見えないのは当然なのだと妙に納得しています。<br /> <br /> <br /> Thu, 22 Aug 2019 00:00:00 +0900 神界の住民と日本人の関係(夢で見たお話) https://w-jp.net/2019/1616/ <br /> いわゆる神界と呼ばれている世界に昔、遊びに行ったことがあります。夢ですけど。<br /> <br /> ■神界の住民と昭和的な日本人<br /> ここが神界か、と思って様子を見たのですが、雰囲気は意外に日本と同じでしたね。昭和的な日本人とでも言いますか。その時に知り合ったおじちゃん・おばちゃんが私の両親として転生したわけですけど。<br /> <br /> 繰り返しますけど、夢ですよ?(笑)<br /> <br /> そこの住民はちょっと頑固だったり、ちょっと人をからかうところなども、まさに日本人(苦笑)<br /> 噂話とか、楽しく過ごすところなども日本人な感じです。<br /> <br /> それより下の餓鬼界とか阿修羅の世界ですと争いや妬みなどが充満しているようですけど、神界になるとそういう低次の欲望は克服されているものの、それでも、他人との軋轢は多少はあるようです。日本の住民の多くは神界出身なのではないかな・・・ と思います。 日本は神の国とか言ったりしますけど、神界と日本は魂の転生で繋がっているようです。<br /> <br /> ですから、神界の住民は天使のような高貴な存在というわけではないようですね。<br /> それよりも、ちょっと頑固な昭和のオヤジ、というイメージが合っています。<br /> 神界にいる女性も日本の元気なおばちゃんみたいな人が多いです。九州の元気なお母ちゃんだったり。みんなパワフルです。<br /> 神界の住民は活力に溢れている気がします。<br /> <br /> ■神界と天使<br /> 天使はまた別のようですね。名前だけで比べますと神界と天使とを結びつけてしまうかもしれませんが、神界と天使は直接的には関係なさそうです。もちろん天使は色々なところに出現しますので神界にもいますけど、神界の住民は日本人ぽい魂が多いのです。<br /> <br /> 50年以上前の私が生まれる前の話ですけど、神界に天使がいるとナヨナヨしている感じを受けるらしくて、ちょっと小馬鹿にされたり、ちょっと疎んじられたりします。その点、日本の社会で天使っぽい人が疎んじられるのと似ている感じがしますね。天使にとって神界や日本はそれほど心地の良い場所ではなさそうです。神界にしても日本にしても、昭和の頑固オヤジっぽい人が人気のようです。今の神界も少しは変わったのかもしれないですけど。<br /> <br /> 今ではそうでもなくなりましたけど、昭和の頃は可愛いものに対してバカにする風潮がありましたよね。ちょうちょとか、妖精とか、花とか、女らしくて美しいのに対する興味は平成とか令和になってから重視されている気がしますけど、昭和の頃はそれよりも元気さ優先だったように思います。昭和の頃は女性の女らしさも男らしさの視点から解釈されていましたが今は女性の視点でそのまま解釈されていますよね。日本の住民と神界の住民とで精神の程度がシンクロしていると言いますか、魂が生まれ変わりによって入れ替わりを繰り返しているのだと思います。<br /> <br /> ですから、天使の住む天使界は別にありますね。アンドロメダな気もしますけど。<br /> 天使界は、地球の進化過程のライン上とはちょっと別な気がするんですよね。<br /> 神界は地球に近い話ですけど、天使界はちょっと離れている気がします。<br /> <br /> ■日本の神々と神界<br /> 神界の中で力をつけて神のように扱われるようになった存在もいれば、もともと大天使から派生して神として扱われる存在とがあるようです。<br /> 神界の生え抜きと天使の神との違い、とでも言いますか。ですので、日本の神々は神界の中でも力のある魂たちとそれぞれ対応しているのが基本ではありますが、日本の神々は必ずしも神界にいるわけではないのです。地上の日本人は「日本の神々」と一括りにしてしまいがちですけれども、神界の神々と天使の神々とで別になっているわけです。<br /> <br /> <br /> これは、夢とは言っても実際には子供の頃の幽体離脱の時に知った内容とその後見た夢で知った内容とを統合しています。<br /> 30年くらい前の話なのでどこからどこまで幽体離脱で知ってどこが夢で知った話かは詳しくは覚えていないのですが、だいたいこのような内容だったと思います。<br /> <br /> <br /> <br /> Wed, 21 Aug 2019 00:00:00 +0900 死んだらどうなるのか? https://w-jp.net/2019/1615/ <br /> 割と色々なところで言われていますけど、死んだらどうなるのでしょうか? というお話です。<br /> <br /> ■死んだらどうなるのか?<br /> 死ぬと魂が体から抜け出ます。<br /> 死んだら無に戻るわけではありません。<br /> <br /> 死ぬことを異常に恐れている人も大勢いらっしゃいますけど、死ぬこと自体はそこまで大変なことでもありません。<br /> 死ぬこと自体よりも、やりたいことを果たせずに死ぬことの方が強いカルマを来世に残すような気が致します。<br /> やり残して途中で死んだり殺されたりしたらその後悔や恨みの念が残ります。そして、それはカルマとして来世にまで引き継がれます。<br /> <br /> 体が死んで魂が抜け出ると、周囲の景色が見えます。そして宙に浮かんで葬式などを眺め、参加している人々が悲しんでいるのかそうでもないのか、何を話しているのかも含めてぷかぷかと浮かびながら観察することになります。よくある臨死体験みたいなものですね。それと同じようになります。<br /> <br /> ですから、自分が男だったとして、妻が夫(自分)の死に対して喜んでいたら夫の魂は「ムキー」ってなるわけです(苦笑)<br /> 逆も同様で、自分が女だったとして、夫が妻(自分)の死に対して悲しんでいないなら夫の愛が本物じゃなかったことに悲しむわけです。<br /> <br /> ですから、死ぬ時まで、そして、死んだ後も結婚相手は好きでいるのが理想ですよね。<br /> そこまでお互いに好き合うのであれば、死んだ後もあの世で一緒に暮らすことになります。<br /> <br /> ■死後の幽界のコミュニティ<br /> あの世の寿命はとても長いので、友人知人や元妻・元夫などの集まるコミュニティは割と巨大になっていくことがあります(苦笑)<br /> <br /> 例えば、元妻が何十人もいたり・・・。それはそれで大勢、ワイワイガヤガヤやって楽しいですけどね。地上みたいにお金の制約もないですし、特に苦労もなく楽しくずっと過ごすことが出来ます。<br /> <br /> 結婚相手が嫌いなら、死ぬと同時にバイバイです。それもまた自由。<br /> <br /> 魂に戻ったらその状態でどこにでも行くことが出来ますけど、基本は友人知人や元妻・元夫など仲が良い人たちがいるところで暮らすことになるのです。<br /> <br /> ちなみに、死んだ時には、ある程度意識が進んだ魂であれば全て心得ていますので移動も自由自在で自分でみんなのいるところまで移動しますが、そこまで目覚めていない魂の場合は誰かが迎えに来ますので迎えにきた人(というか魂)に付いて行って懐かしい人たちと再会します。<br /> <br /> 目覚めの具合にもよりますが、あまり目覚めていないと死んだ後に周囲が見えなくて「真っ暗」で、ほんの少し先までしか見えなかったりします。目覚めの度合いに応じて遠くが見えます。たまに臨死体験で「真っ暗だった」とか言っている方がいらっしゃいますけど、どの程度見えるのかは精神の目覚めのレベル次第かなあ、という気がします。<br /> <br /> 死んだ後、かつての友人知人や元妻・元夫のところに戻るのは嫌だー と思えば、好きにすれば良いです。今生で生きている間に知り合った、気の合う異性とずっと共に過ごしても良いのです。まさに自由です。自由意志次第です。気の合う人たちと一緒にずっと暮らして、また地上に生まれたいと思ったら好きなように生まれ変わります。<br /> <br /> 生前に仮面夫婦を続けていて嫌で嫌でしょうがなかった元夫や元妻と一緒に暮らす必要はありません。<br /> <br /> ■死後の姿<br /> ちなみに、死後の体は自分の好きなように変化できますので、自分が一番美しかった年齢の姿でいることが多いように思います。<br /> ですから、めちゃくちゃ美人さんであればずーっと美人さんの姿のままです。素晴らしい世界。<br /> ちょっとコンプレックスあれば姿を変えるのも自由自在ですけど、割と特徴はそのまま、ということが多い気がします。そうでないと相手が誰なのかよくわからなくなってしまいますし。<br /> <br /> ■精神的な自立が大切<br /> ただし、生前に精神的に従属させられてしまった人の場合は死後もその関係が続く場合があります。<br /> ですから、精神的な自立というのは何よりも大切だと思います。死後まで精神的に従属して強制・操作の関係を続けるなんて嫌ですよね?<br /> <br /> ■幽界から地上を助ける<br /> ちなみに、ある程度のサイキックの力があればあの世から地球の出来事が覗けます。なんとなーく、感じるわけです。何かあれば友人知人や元妻・元夫たちが地上にまで降りてきて、地上に生まれ変わった人の手助けをします。それは、生きている時の手助けも死んだ瞬間(魂が抜け出た時)の手助けも同様です。基本は、友人知人や元妻・元夫たちが助けてくれます。<br /> <br /> 守護霊だけが守っている場合もありますけど、こうして友人知人や元妻・元夫たちが気になって地上の様子を見に来ていることも多いのです。守護霊は地上の生活に疎いこともありますので、地上の生活に詳しいのは友人知人や元妻・元夫の方です。<br /> <br /> 仏教とかで言いますとこのように人間の形が残っている死後の世界は割と低層の世界で、いわゆる幽界なわけですけど、そうは言っても、基本はこのように低い世界である幽界と地上を何度も何度も往復するのが基本なのではないかと思います。そうして、ある程度の浄化と言いますか、ある程度のレッスンを積んでレベルが上がったら更にもう一つ上の類魂のところに戻って、そして再度分霊を作って地上へと降りたり、あるいは、違う世界へとスピリットとして肉体としての体を持たずに生まれ変わったりするようです。<br /> <br /> 仏教では霊の気配があると未浄化霊とか悪霊の扱いをして成仏させようとしますけど、それは無駄だと思います(苦笑)<br /> 成仏というのは何度も何度も何百回も(何千回も?)転生してようやく次の世界へと行くわけですから、そりゃ、幽界に大勢の魂がいて当然なわけです。幽界の魂がいなくなるわけがありません。<br /> <br /> ■守護霊<br /> 守護霊ですけど、割と低い世界である幽界の霊が守護している場合もあるようですけど、それでもかなり修行を積んだ幽界の霊が付いているようです。割合まではわかりませんけど、本当に強力な守護霊は幽界ではなくて霊界のスピリットの方だと思います。人それぞれ、幽界の守護霊がついていたり霊界の守護霊がついていたりするようです。<br /> <br /> 修験道の修行者だったり仏教の行者だったり神道の巫女のような守護霊がついている場合は幽界の中でも上位のクラスの守護霊になりますね。一方、霊界の守護霊ですと地上のことに疎かったりしますけど色々とスピリチュアル的には頼りになります。<br /> <br /> ■生まれる時の計画<br /> どんな人生を送るのか詳しく計画して生まれてくる場合もあれば、なんとなく面白そう、ということで生まれてくる場合もあります。<br /> そして、死ぬ時に残ったカルマを幽体が引き取ります。<br /> ですから、生きている間に苦しい生活はしない方が良いです。それは来世まで引きずりますから。<br /> ということであれば、生まれる時に興味本位だけでなく、きちんと計画した方が良いです。経済的な面だけでも、最低は。<br /> <br /> ■感情や情愛に支配された世界<br /> 幽界はそれほど高い世界ではありませんので、感情や情愛が強い魂が多いです。<br /> 私の属しているコミュニティもその傾向が強くて、みんなワイワイ楽しく暮らしていつも笑っています。<br /> それ以上の世界へとやがては行くわけですけど、幽界のコミュニティであっても十分楽しいところなわけです。<br /> まあ、時には嫉妬とかも出ますけど、基本的にはみんないい人ばかりです。<br /> <br /> ■魂の消滅のお話<br /> それとは別に、ちょっと怖い話をします。<br /> <br /> 地上に生まれている修行者・能力者たちの中には荒っぽい人がいて、空中を幽体の魂が飛んでいると誰それ構わず攻撃して「無」に戻してしまう人がいます。こうなってしまうと魂が根元まで消滅してしまい、生まれ変わりすらできません。まさに文字通り「消滅」です。こんな荒っぽいことはすべきではないと個人的には思うのですが、そのような方が実際いらっしゃるのですから危険性を表明しておくのは無駄ではありません。<br /> <br /> これは地上に体を持って生まれてきている場合は特に心配はいりませんが、体がなくて幽体で地上を彷徨っている時はこのような荒っぽい人に消滅させられてしまう危険性があるということです。ですから、例えば幽体離脱してふらふらとそこらをうろつくのは、実はちょっと危険があるのです。死後に幽体の魂で人の姿をして地上をうろつくのも同様の危険があります。そうそうこんな荒っぽい人はいないですけど、いるにはいるので、運が悪いと遭遇するかもしれません。<br /> <br /> 守護霊として誰かについているのならば攻撃されることはほとんどないようですけど、一人で(1人の魂で)うろついていると未浄化の浮遊霊や悪霊と思われてしまって攻撃される危険性があるということです。消滅してしまうと生まれ変わることが出来ませんので、注意が必要です。知り合いの人生を手助けするなど守護霊的な立場で地上に関わる分にはさほど危険はないと言えます。<br /> <br /> 地上を探検して楽しみたいのならば幽体の霊のままでなくて、生まれてくるのが一番だと思います。三次元の制約はあって色々と大変ではありますけど、この種の「消滅」の危険性はありませんし。何百もの転生の経験が全て無に戻ってしまうと残念という言葉では言い表せないほどの悲劇になってしまいますから。<br /> <br /> <br /> これは私が子供の頃に幽体離脱した際に知ったことを元にしています。<br /> 本当かどうかは保証しません。ただの夢かもしれませんしね。<br /> <br /> <br /> 続き: 魂(幽体)がそのまま転生する場合と、一旦グループソウル(類魂)と一体になってから分霊を作って転生する場合がある<br /> <br /> <br /> Wed, 21 Aug 2019 00:00:00 +0900 私に必要なのは、もっと楽しむこと https://w-jp.net/2019/1614/ <br /> 癒しフェア(東京ビッグサイト)のブースでカウンセリングをいくつか受けました。<br /> <br /> 私に必要なこととして 共通して言えることは、「もっと楽しむこと」だそうです。<br /> <br /> サイキックの方にチャクラも見てもらいましたが、ヴィシュッダまでは活性化しているけれどもアジナとサハスララが淀んでいるとのこと。<br /> <br /> これからアジナに上がっていくためのヒントが「楽しむ」であって、楽しめば頭のてっぺんからポーンと突き抜ける、みたいなことを伺いました。<br /> <br /> こういうのは当たっている時もあれば外れている時もありますので検証が必要ですが、何人かに聞いて共通したお話でしたし、自分でもそれっぽく感じましたので、まあ、当たっているのかなと。確かに、最近はちょっと深刻さが増えていましたので、もっと楽しむことが必要かなと。<br /> <br /> 語弊があるかもしれませんけど、アナハタが優勢になって以降は基本的には元気でポジティブなんですけど、それはあくまでもハートがポカポカとしているとでも言いましょうか。ハートは活性化しても、頭のアジナはちょっとまだ重たいとでも言いましょうか。もともと頭の深刻さがそれなりにあったのです。<br /> <br /> 最初はマニプラ優勢から始まって、その時は「熱」で元気な状態で、次はアナハタ優勢で「暖」で元気でポジティブで、それでもまだアジナはそれほど活性化されていなくて、今後のヒントとしてカウンセリングしてみたらアジナとサハスララのためのポイントが「楽しむ」というキーワードだったのです。<br /> <br /> 以前にも書きましたが、アナハタ優勢になるまでは頭の中の感覚はそれほどなくて、アナハタ優勢以降に頭の中の感覚が出てきましたので以前より頭は随分と活性化されてきてはいるのですが、サイキックの方に見てもらったら、それでもまだアジナとサハスララはそんなに活性化されていないというお話でしたので、妙に納得しました。<br /> <br /> そんなわけで、最近は夢の中で楽しんだり、天使界の物語を思い出したり、宇宙に思いを馳せたり森に行ったりして楽しむよう心がけたいと思っています。まだ足首の骨折が完治していないのであまり遠出はできないですけど。<br /> <br /> <br /> ちなみに、サイキックの方は当たり外れがありますけど、最近は勘でなんとなく良し悪しがわかりますのでそんなにハズレは引きません。以前は色々と試しましたけど。<br /> <br /> ついでにカウンセラーの方に簡単にヒアリングしましたけど、生まれつき素養のある方もいればそうでない方もいて、素養がもともとそれほどなくても学校に通って能力磨いた方が今回は多かったです。サイキック系のスクールの講師をしていらっしゃる方のカウンセリングも受けましたが、それっぽかったですね。<br /> <br /> ■サイキックなカウンセラーとの付き合い方<br /> 基本は、「確かめ」に使うのが良いです。自分の瞑想や夢で見た内容が合っているかどうかの確かめにサイキックなカウンセラーは役に立ちます。ですので、答えが自分の認識と同じかどうか質問してみると良いでしょう。もちろんカウンセラーが間違っていることもありますが、自分が間違っていることもあります。どれが正しくてどれが間違っているのか? 最初は判断が難しいですけれども、カウンセラーというのはサイキックに限らず「確かめ」に使うものだと私は思います。コンサルタントも同じですよね。あくまでも自分が主体で、コンサルタントはその補助なわけです。<br /> <br /> <br /> Tue, 20 Aug 2019 00:00:00 +0900 マリア姫とミカエル <夢で見た天使界の物語> https://w-jp.net/2019/1613/ <br /> その世界では王様と騎士、それにお姫様が王国を治めていました。<br /> 遥かに広がる田園風景。ぽつんぽつんと家があり、そして、城下町があり、お城がありました。<br /> <br /> <br /> <br /> その世界の人は、地球上の人とは違って、より霊体に近い存在でした。<br /> 傷もしばらくすれば治りますし、頭から背筋の部分がコアになっていて、体がほとんどなくなってしまってもコアがある程度残っていれば1週間くらいで復活できるような人たちでした。ですから、意図的に誰かが極限にまで粉々にして破壊してしまわない限り、不死にも近い長い寿命を持っていました。<br /> <br /> 地球の人間から見たら、もしかしたらそれは神々、あるいは、天使のように見えたことでしょう。ここでは、様相および性質の類似からひとまずその生命体を天使としておきますが、キリスト教の天使と同一とは限りません。<br /> <br /> ある城下町に、貴族の天使たちが大勢住んでいました。いわゆる大天使たちです。<br /> 後に貴族や王族になる何人かの天使。そして、城下町や農村には商人や農民たちが住んでいました。<br /> <br /> 貴族の1人は天使の長のような立場で、友人たちはその天使を慕っておりました。仮にその天使をルシファーとしておきましょう。<br /> もう1人、自由な心を持ち、遊び心を持った天使ミカエルがいました。<br /> (キリスト教の聖書の伝説とは関係がないです。夢ですから)<br /> <br /> ルシファーは、日本で言うアマテラスオオミカミのような太陽神に象徴される強力な天使で、その礼儀正しさと秩序を保つ正義感に溢れておりました。イメージとしては徳川家康のような感じです。<br /> <br /> 一方、ミカエルは遊び心を持ち、千里眼の能力を持ち、テレポーテーションの能力を持っていました。<br /> ミカエルはルシファーを始め、他の天使たちと遊ぶのを楽しんでおりました。<br /> 両方とも性別は男性です。<br /> <br /> 皆、大天使の貴族ですので、かなりの高貴な魂を持っており、一人一人がとても住民に尊敬されていました。<br /> ですが、そんな優れた生命体、天使のような存在であっても色々と問題は起こるようです。<br /> <br /> ■ミカエルのいたずら<br /> ある日、ルシファーがミカエルのいたずらに不快感を示しました。<br /> <br /> ミカエルは、遥か昔は千里眼もテレポーテーションの能力も持っていなかったのですが、遥か古代のある日、その能力が開花したのです。そして、その開花した能力で遊んでいたところ、ルシファーがそのいたずらに怒り出したのです。その当時、ルシファーやその他の天使に千里眼やテレポーテーションの能力はなく、それらの能力はミカエルだけのものでした。<br /> <br /> ミカエルは千里眼の能力が現れただけでなく、気分的にも爽快になり、何事をも楽しむようになります。以前よりも遥かに強く深く楽しんだのです。<br /> <br /> ルシファーの友人たちは、ミカエルの変貌ぶりに驚き、理解に苦しみ、やがて、きっとミカエルは悪の心を持ってしまったのだろう、と考えるように至ります。これは実際のところ、誤解ではあるのですが。<br /> ミカエルはただ遊んでいただけですので、そんなルシファーたちの不快感に気付きつつも遊びを続けました。<br /> <br /> 次第に、ミカエルは自分や自分を慕う天使たちと共にとある田園地方に引越しをし、その地方を治め始めます。<br /> ミカエルとルシファーの派閥はそれぞれ分断し、しばらくはその状態で月日が流れました。<br /> <br /> やがて、時々ミカエルとルシファーが接触する度に問題が生じるようになります。<br /> ミカエルの発言を、ルシファーが事あるごとに不快感を示すようになり、戦争の一歩手前にまで事態は進展します。<br /> <br /> ■天使界での戦争勃発<br /> ミカエルは戦争するつもりもありませんでしたが、戦争の火種は住民たちが起こしました。<br /> ある日、ルシファーの農民の軍隊が大挙してミカエルの田園地帯に攻め入ったのです。<br /> <br /> 大天使たちは強大な力を持っており、魔法で戦うことができました。<br /> 一方、農民の軍隊たちは一兵卒として槍や剣で戦いました。<br /> <br /> 最初の戦いは農民の軍隊が衝突し、多くの住民が倒れました。<br /> 霊体に近い存在ですので傷ついても復活できるとは言っても、コアの部分までやられてしまうと復活できません。<br /> ルシファーの軍隊は、ミカエルの農村の住民をコアまで破壊し、復活できない状態にしてしまいます。これが、ミカエルを怒らせました。<br /> <br /> 当初、農民の軍隊の人数は多くなく、せいぜい数百人の軍隊が攻め合う程度でした。<br /> ですので、ミカエルに従う大天使たちが加勢に入って農民の軍隊を助ける、というような状況になったのです。<br /> <br /> ある程度、情勢が決まれば撤退していきました。<br /> <br /> ルシファーの軍隊はテレポーテーションできませんし、千里眼もありませんでしたので、ミカエルは千里眼で敵の進軍を察知し、交戦地帯に数人の大天使と共にテレポーテーションすることで、実際はミカエル側の軍勢はとても少ないのにも関わらずミカエル側は進軍を食い止めていました。<br /> <br /> ミカエルはルシファーに対して怒りはあまり持っておりませんでしたが、住民を復活不可能なまでにコアを破壊する行為は許し難いと思っておりました。<br /> <br /> ミカエルの戦法として、防御を続けて相手が引くまで要所を守るという方法が取られました。前線の敵をテレポーテーションで丘の向こうにまで移動させれば前線の敵の数は減ります。そのうちに敵が諦めてくれるのを待ったわけです。とは言いましても農民兵は数が多かったため、テレポーテーションで敵を遠くにいちいち移動させていてはらちがあきません。そうこうしているうちに、次々にミカエルの農村の住民はコアをやられていくことになります。<br /> <br /> そんな争いを繰り返しているうちにお互いの住民の中に怒りが蓄積されてゆきます。<br /> <br /> 人数の多さに対処しきれなくなり、コアがやられる住民が増えるにつれ、ミカエルはテレポーテーションではなく、住民を宙に浮かせてバラバラに引き裂くことで敵を恐怖させ、撤退させることを選択します。戦局が長引けば長引くほどお互いの犠牲者が増えるばかりです。それよりは、1人の敵をバラバラに引き裂くことで敵を撤退させることができれば、その方が良いと考えました。<br /> <br /> ミカエルの気持ちとしては、こんな戦いは意味がないと思っておりましたが、ルシファーは農民兵がバラバラにされたことを聞いて怒り狂い、ルシファーの周囲の天使たちもミカエルは堕天使になってしまったのだと噂し始めます。ミカエルについてきた天使たちがミカエルの気持ちを本当に正しく理解していたかどうかはよくわかりません。ある程度は理解していたと思いますが、それでも、敵との戦いで気持ちは精一杯だったと言えるでしょう。<br /> <br /> その後、戦いがあっても、農民兵が進軍するとすぐにミカエルがテレポーテーションし、今で言うところの悪魔サタンのような恐ろしい格好をして農民兵を戦わずして退却させていました。「バラバラにしてやるぞ」と脅せば農民兵は退却するだろうと考えたのです。<br /> <br /> これはすぐに効果が現れ、農民兵の戦いはやがてなくなってゆきます。<br /> <br /> 一方で、ミカエルは悪魔として知られるようになります。ミカエルにサタンのイメージが熟成されつつありました。<br /> 実際のところ、ミカエルはそれでもまだ、遊んでいただけでした。やがて遊びも終わって、元の平和な日々に戻るだろうと楽観視していたのです。しかし、そう簡単にはいきませんでした。<br /> <br /> ■マリア姫<br /> その頃、ルシファーの陣営に、とても高貴なお姫様がいました。そのお姫様は、仮にマリアとしておきましょう。<br /> <br /> ミカエルは戦いの最中にも、そのお姫様のマリアがとても気になっており、ある日、千里眼でマリアが部屋に入ったところを見計らってテレポーテーションでマリアに会いに行きました。マリアは突然のミカエルの訪問に驚き、おののきました。ミカエルは、話に来ただけだと言い、マリアの素晴らしさをとうとうと述べ始めます。「その高貴な精神、美しい姿、類稀なる意志の強さ。そなたは私の妻に相応しい・・・」マリアは突然のプロポーズに驚き、回答は保留します。戦時中ですから、敵方に嫁ぐなど考えたこともなかったでしょう。ミカエルが一歩二歩と間合いを詰めると、ミカエルがそのまま自分をさらって行くのかと思って、ドアから逃げようとするマリア。それに気づいたミカエルは、「いや、さらいに来たのではない・・・。話に来ただけだ。わかった。この線からそちらには行かないと約束しよう」と言って、しばらく話をしたい旨を伝えます。<br /> <br /> 実際のところ、マリアにはボーイフレンドがいました。騎士の天使で、アークトゥルスに象徴される勇者の魂を持った男でした。マリアは「私にはボーイフレンドがいます」と伝えました。ミカエルはもちろんそれを知っており、それでも考えておいてくれないかと伝えたのです。マリアは、「考えておきます。しかし、今後、私の部屋には来ないで下さい」と言います。ミカエルはそれに対し、「しかし、他のところでは誰かがいるので私がいることを見られたら厄介なことになる。マリア姫が部屋に入るタイミングで、私が今いるところにテレポーテーションするというお約束はどうだろう」と提案し、了解を得ます。マリアはもう一つ注文を付けます。「千里眼の能力で私の部屋を覗かないで頂けますか?」と言い、それも了承します。<br /> <br /> ミカエルは戦時中、堕天使と見なされておりました。ですので、何もかも他人に強要する悪い天使なのだと誤解されていたのです。その事も理解してもらうために、ミカエルは説明しました。「マリア姫は私のことを誤解しておる。私は自由を重んじている。マリア姫の自由意志に反して結婚を強制したりはしない。マリア姫がアークトゥルスと結婚したいというのならばそれで構わない。全てはマリア姫、お主の意志次第なのだ」と伝えました。<br /> <br /> ミカエルは再度テレポーテーションでその部屋を離れましたが、ミカエルが屋敷の中に直接テレポーテーションしてきたという事実はルシファーの陣営を恐怖させました。<br /> <br /> 実際のところ、ミカエルの力を持ってすればルシファーが油断している時にテレポーテーションして一撃で仕留めることもできたのですが、そのようなことはミカエルはしたくありませんでした。そのまま戦局が治ってくれればと思っていたのです。<br /> <br /> その後、何度かマリア姫の部屋で話がありましたが、マリア姫は返事をせず、やがてはボーイフレンドのアークトゥルスが物陰に隠れてテレポーテーションして来たミカエルを襲うようになりましたのでやがてマリア姫の部屋での対話はなくなりました。<br /> <br /> 戦局は変わり、農民兵は戦わなくなり、天使同士が戦うようになりました。マリア姫の恋人のアークトゥルスとミカエルも戦いました。実際のところミカエルの方が実力は何倍も上だったのですが、もはやミカエルに戦う気は失せていました。<br /> <br /> ルシファーの陣営は士気が高まり、士気というより怒りに近いものに変わってゆきます。<br /> <br /> 戦いだけで言えばミカエルは勝つことができました。しかし、両陣営に多大な被害が出ます。ミカエルはそのようなことをしたくありませんでした。そこで、ある時、マリア姫の恋人のアークトゥルスに捕まることにしたのです。ミカエル側の陣営は驚きました・・・。そのようなことがあるわけがない。<br /> <br /> しかし、それで戦いは終わったのです。<br /> <br /> ■終戦<br /> ミカエルは捕らえられ、ルシファーの前で辱めを受けました。<br /> <br /> 周囲を見渡すと、戦いの功労者であるアークトゥルスの横にマリア姫がいました。ミカエルからしたら屈辱の敗北で、マリア姫もミカエルを一旦は見放した状態でしたが、それでも戦いは終わったのです。ミカエルはそれで良しとしました。ミカエルは反逆者として裁かれました。<br /> <br /> ミカエルの領土はルシファーの領土に併合され、住民たちもそれに従いました。<br /> ミカエルは遠くの丘の上にある牢獄に収容されることになりました。その牢獄にはアークトゥルスが結界を張って逃げられないようにしました。<br /> <br /> 月日は流れ、数年。穏やかな日が戻ってきました。ただミカエルを除いて。<br /> <br /> ミカエルは牢獄でずっと座り、自らの内に眠っている怒りを見つめて瞑想していました。<br /> 流石のミカエルも、この戦いで精神が苦しんでいたのです。<br /> <br /> ミカエルは堕天使として扱われ、時にはサタンとして罵られました。地球上にあるサタンの伝説はこの時のミカエルの評価によるものです。<br /> <br /> ・・・時々、ルシファーやアークトゥルス、マリア姫が見にやってきました。そして、時々ミカエルを罵ったのですが、ミカエルはそれに耐えました。時々、牢獄の結界を破るのではないかと思われるほどの怒りがミカエルから発せられましたが、ある時まで、それは破られることはありませんでした。<br /> <br /> 実際、ミカエルだけでなく、ルシファーやアークトゥルスも友人たちを失って悲しんでいました。<br /> <br /> ある日、アークトゥルスが来て、怒りをミカエルにぶつけました。お前があのような戦いを仕掛けなければ私の友人は死ななかったのだ、と。ミカエルからしてみればルシファーとの誤解がきっかけであり、農民兵の暴走から始まった戦争でしたが、身近な友人を失った悲しみをアークトゥルスはミカエルにぶつけに来たのでしょう。<br /> <br /> 前回はアークトゥルスの怒りを我慢しましたが、2度目は我慢しませんでした。<br /> 時期にしても、終戦からしばらく経っており、もう牢獄の中にいる必要はないとミカエルは自身で判断したのです。<br /> <br /> アークトゥルスが張った結界など、ミカエルにとって脱出は容易でした。<br /> しかし、アークトゥルスは自分がミカエルを実力で破ったと思っており、ミカエルより力が上と思っていますから、とても驚きました。<br /> アークトゥルスは「ミカエルが結界を破れる筈はない・・・」と思い、脱獄者は死刑でしたし、友人たちが亡くなったことでとても怒っていましたので、アークトゥルスの強力な魔法でミカエルを灰にしようとします。 ・・・しかし、その強力な魔法は効きません。これにもアークトゥルスはとても驚き、動揺します。<br /> <br /> ミカエルは言います。「手加減したのだろう? お主は優しい。私が復活できるように、懲らしめるくらいの威力に手加減したのだろう? 構わぬ。私はもう消えて無くなってしまっても良いのだよ。お主の優しい心で手加減などしなくても良い。リミッターを外せ。私が許すのだ。力の限りで私を復活できなくなるくらいまで粉々に吹き飛ばしてはくれないか? 私からのお願いだ。」<br /> <br /> 実際はアークトゥルスはほぼ全開でしたので動揺していますが、「きっとそうだ。気付かぬ内に手を緩めたのだ」と思いました。そして、「わかった」と言い、再度、最大の力の魔法でミカエルを吹き飛ばそうとします・・・。<br /> <br /> 魔法により砂埃が立ち、ミカエルの姿は砂埃に隠れました。きっと吹き飛んだ筈です。魔法が終わり、砂埃が消え、吹き飛んだ筈のミカエルの姿がまだそこにあった時、流石にアークトゥルスは驚きました。しかも、ミカエルは全く防御をしていなかったのです。<br /> <br /> ミカエルとの力の差を見せつけられ、しかも、茶番に付き合わされたアークトゥルスは混乱しました。<br /> <br /> ミカエルがそれに続きます。「クックック・・・。それで終わりか? それではこちらから行くぞ?」<br /> <br /> アークトゥルスは防御しましたが、全く防御が役に立ちません。アークトゥルスの体がどんどんと崩壊して行きます・・・。やがて、アークトゥルスの頭だけが残りました。コアである頭の部分が残っていれば復活ができるのです。もちろん頭まで吹き飛ばすことができましたが、ミカエルは手加減したのです。<br /> <br /> 決着がつき、一部始終を見ていた門番にミカエルが伝言をお願いしました。<br /> <br /> 「戦争は実際のところ私が勝つことができたのだが、犠牲を少なくするためにあえて捕まったのだ。アークトゥルスの首を見ればその真実が理解できよう。<br />  この戦いは何故起きたのか、それが理解できるだろうか? 多くの者たちは私(ミカエル)が戦いを仕掛けたと言うが、私は元々戦うつもりがなかった。戦いは、お主たちの心の中で生まれたのだ。私は、お主たち(ルシファーたち)の行動に対して、なるべく被害がないように対処していただけだ。<br />  私はこれから別世界へと行く。そこは地球という美しい星だ。地球の面倒を見ることに決めた。この天使界はしばらくルシファーに任せる。<br />  何かあったら、私を呼ぶが良い。」<br /> <br /> ■ミカエル、地球へ<br /> そうして、人間の月日で言うと何十億年、何百億年もの遥か昔、天使界からミカエルが銀河を超えて地球にやってきたのです。おそらくは天使たちはアンドロメダ銀河から地球へとやって来ました。<br /> <br /> 実際のところ天使は5次元以上の存在ですので人間的な時間の感覚は薄いので、月日で言うと近代とも言えますし遥か昔とも言えます。それは天使にとって重要ではありません。遥か昔に、このようにしてミカエルがこの地球へとやってきました。<br /> <br /> 天使界では、ミカエルが牢獄から脱獄したことで住民たちがパニックに陥ります。<br /> 捜索をしましたが、天使界には見つかりません。<br /> <br /> もともとミカエルについていた天使たちはミカエルの元に集いました。地球に天使たちが続々と集結することになります。<br /> <br /> 天使界は随分と寂しくなりましたが、それでも大勢の天使たちが天使界で暮らしていました。天使界ではやがてミカエルのことは忘れられ、伝説になって行きます。とは言いましても、天使は長齢ですからルシファーもずっと健在でした。<br /> <br /> しばらく後、天使界に再度、争いの火種ができました。<br /> <br /> 今度は、別の王がルシファーに対立したのです。やがて争いになるのは時間の問題でした。<br /> <br /> 地球の面倒を見て楽しんでいたミカエルは千里眼でそれを察知しました。<br /> そこで、天使界のルシファーに使いを送ることにしました。次のような内容です。<br /> 「ルシファーよ。別の王との間で問題があるようだな。私が問題を解決しよう。それで仲直りとはいかないだろうか」<br /> <br /> 伝言者がルシファーに伝え、ルシファーが同意しました。<br /> そうして、ルシファーとミカエルの謁見が実現したのです。<br /> <br /> ミカエルが謁見の間に現れ、ルシファーに提案します。<br /> 「私が敵の王をここに連れてこよう。それで仲直りと行こうではないか」<br /> <br /> ルシファーは合意します。<br /> <br /> ミカエルは歩いて謁見の間から出て、扉を閉めたらすぐにテレポーテーションし、敵の謁見の間の王の前に片膝をついて跪き、謁見の仕草をしました。<br /> 敵の王は突然の謁見に驚き、いつの間に来たのか気付かなかったので「なんだ、お前は」と問いただしました。<br /> <br /> ミカエルは顔を伏せたまま、「〇〇王でいらっしゃいますか?」と聞き、「そうだ」と回答があるやいなや、「私はミカエルと申します。私とルシファーの元にご同行頂けますでしょうか」と言うとすぐに駆け寄り、敵の王と共にルシファーの元にテレポーテーションしたのでした。<br /> <br /> ミカエルの謁見が終わったばかりのルシファーの謁見室は、諸侯が周囲の柱の近くにたむろして噂話をしておりました。これからどうなるのだろうか、と。<br /> <br /> そんな噂話が終わらぬうちにルシファーの前に敵の王がミカエルと共に差し出されたのですから、ルシファーおよび諸侯の驚きは想像以上で声が出ないほどでした。<br /> <br /> 警備兵が敵の王に気付き、敵の王を捉えようとしたのをミカエルが静止し、敵の王に問いただしました。「再度尋ねる。お主は〇〇王でいらっしゃいますでしょうか?」「いかにも。私は〇〇王だ」。そこでミカエルはルシファーの方を向き、「どうでしょう。〇〇王をここにお連れいたしました。これで仲直りということでよろしいかな?」と聞き、ルシファーの「うむ」という気迫のない返事で仲直りしたのでした。<br /> <br /> ミカエルは一旦そのまま立ち去ろうとしましたが、ルシファーの衛兵が〇〇王を捉えようとしたのを見て、次のように提案しました。<br /> <br /> 「どうかの? これは私からのお願いなのだが・・・。今回はお互いに誤解などあったのだろう。何も武力を使う必要はないではないか。話し合いで解決したら如何だろうか?」と聞き、この理解しがたい状況に呆気に取られていたルシファーと敵の王は「わかった」と同意したのでした。<br /> <br /> ミカエルは謁見の間から離れるために再度歩き出したのですが、ふと、横の遠くの柱の近くにマリア姫と恋人のアークトゥルスがいるのに気が付き、話しかけます。<br /> 「おお。アークトゥルス殿ではないか。心配したぞ。ちゃんと復活できたのだな。手加減して頭を吹き飛ばさずにおいたが、きちんと復活できるか心配しておったぞ。ワハハハハ・・・」<br /> すると、アークトゥルスは自信を失い、俯いたのです。マリア姫はそんなアークトゥルスを見て動揺しました。<br /> <br /> ミカエルはそれを見届けたら、「では、さらばだ!」と叫んでテレポーテーションして去りました。<br /> <br /> 天使界はその後、ルシファーが長らく治めましたが、やがて、ルシファーの権威が落ち、新たな王が望まれるようになってゆきます。<br /> <br /> と言うのも、天使界の住民は遥かに進んだ精神性を持っておりましたので、やがてはミカエルの気持ちを正しく理解するに至ったのでした。元々の争いの原因はルシファーを始め住民たちの中に眠っていた不和が原因であり、ミカエルはそれを映し出す鏡として、私たち住民全員の不和を大天使ミカエルにぶつけてしまっただけなのだ。問題は私たち一人一人の中に眠っている不和こそが争いを作り出しているのだ、と。<br /> <br /> この理解に至ることにより、天使界ではミカエル待望論が巻き起こります。<br /> <br /> ミカエルはその後ずっと地球に留まり、他の星系から来た多くの生命体と共に地球を見守り、時に分霊を地球に降ろして地球の行く末をコントロールしてきました。数多くの宇宙の存在が地球に関わっていますが、そのような高度に発達した存在であってもミカエルの存在に気付くまではかなりの時間を要したようです。今もミカエルはこの地球に関与し続けています。<br /> <br /> やがて、天使界の様相も変わるに連れ、ある日、マリア姫がミカエルのところにやって来ました。ミカエルからしたらマリア姫は敵方でしたのでしばらくは様子を見ていましたが、その後、かなりの長い間、マリア姫はミカエルと共に地球を見守っています。ついにマリア姫もミカエルを選んだのです。<br /> <br /> 天使界もすっかり変わり、かつての天使界の大戦争も伝説として語られるようになりました。<br /> ミカエルにしても、ルシファーにしても、アークトゥルスにしても、今は争ってはいません。<br /> そもそも、皆、かなり高い精神性を持った優れた存在たちなのです。<br /> <br /> ミカエルの分霊は、時には哲学者、時には科学者、時には武将、時には政治家、時には宗教家としてこの地球を導いて来ました。<br /> 同様に、他の天使の分霊もこの地球を導いて来ました。<br /> <br /> 天使界で新たな王が望まれるようになってからはルシファーの王国は既になくなり、王不在の期間が長く続いていました。<br /> 今、ミカエルが王として天使界への帰還が待ち望まれています。<br /> 地球の人類の精神性がある程度の成長を果たし、周囲からの手助けが不要になった時、ミカエルは天使界に帰ります。<br /> <br /> その時、ミカエルはマリア姫と結婚し、天使界の王になるのです。その時は、どうやら近いようです。<br /> <br /> <br /> ・・・・夢ですよ。夢に加えて、私が子供の頃に幽体離脱した時に見聞きしたことを融合しています。流石に30年前くらいの話ですので細かいところはうろ覚えですけど。 まあ、夢だと思ってください。 夢にしてはよくできたお話ですけど。名前は仮です。<br /> <br /> そして、マリア姫(の分霊?)が私の守護霊の1人なのです。<br /> <br /> <br /> <br /> Mon, 19 Aug 2019 00:00:00 +0900 夢で登った霊山とこの世のものとは思えない巨大な大仏 https://w-jp.net/2019/1612/ <br /> 夢でとある霊山にやってきました。すごくリアルな夢で、まるで現実のようです。<br /> <br /> <br /> <br /> 電車に揺られ、バスに乗り、山のふもとで降り、そこからまる一日の山登り。最初はトンネルの階段を登ります。まだ朝で真っ暗です。<br /> <br /> <br /> <br /> ショルダーバッグには水が500ml入っています。トンネルになっている階段を出て登山道かと思っていたらいきなり頂上付近に出ました。<br /> <br /> まる一日登るつもりで朝早く出たのでまだそこは真っ暗です。ライトをつけて標識を見ると、すぐそこにお寺があるようです。<br /> <br /> 近づくとチケット売り場の電気がつき、チケットを売ってくれました。持っているパンフレットを手に、今はどこかをチケット売り場の人に訪ねたらパンフレットが違うらしく、別の厚いパンフレットをくれました。山の各所には50を超えるお寺がぎっしりあるようです。<br /> <br /> ちょっとだけ明るくなってきて、薄っすらとお寺や何かが見えてきました。ひとまずすぐそこにあるお寺に入ろうとして、ふと上を見上げると、とてもとても大きな仏像がお寺の中から顔を出しています。この世のものとは思えない(夢ですけど 笑)大きさと立派さです。<br /> <br /> <br /> <br /> そのお寺にはエレベーターもあるけれども階段もあると言われ、階段から登ることにします。その一階には食堂がありました。食堂には、何故かコイン式双眼鏡のコイン入れだけぽいものが食堂の席についていました。なんだこれ?? 食堂はまだ朝早くてやっていないようで、ひとまず上に登ることに。階段を登っていると朝日が登ってきたようで、日の光を感じました・・・<br /> <br /> <br /> <br /> 朝日を見ようと階段を登っていたら、いいところで目覚しが鳴って起きてしまいました。うーん。登ったところの景色を見たかった・・・。そのうちまた夢で見れるかな。<br /> <br /> <br /> <br /> Mon, 19 Aug 2019 00:00:00 +0900 トランステック(TransTech)と古神道の出会い https://w-jp.net/2019/1611/ <br /> 癒しフェア(東京ビッグサイト)で見かけた興味深いブース。<br /> <br /> <br /> <br /> neten(ネッテン)と言うブースでは古神道を技術で再現すると言うコンセプトにて手軽に瞑想状態を作り出す機械を数多く出していました。私は購入しておりませんが、ちょっと試したところ少しネガティブなものが「抜けた」とでも言いましょうか、少しだけ「お祓い」と同じ効果があったような、なかったような? 展示会ではガヤガヤしていますし、確実な効果がわかったかどうかは微妙なところですが、なんとなく効果があったような気がしました。(主観です)<br /> <br /> 同じノウハウを使ったお水を飲んだらピリピリと感じるものがあって、機械の方よりも水の方が効果ありそうな気もしましたが、ウォーターサーバーはかなりのお値段ということで簡単に手が出る価格ではありませんでした。<br /> <br /> 無料講演会を聞きましたが、古神道の基本的な概念が使われていて、なるほどなー と妙に納得しました。<br /> <br /> 今回の癒しフェアの講演会をいくつか聞きましたが、時代的なものなのか、人々が同期して成長しているのか、無意識というか無というか全体というか、意識より上のレベルに関するお話がこれに限らず多かったような気がします。ですので、他で聞いた話がこっちでも繋がっていて、同じことを違う面から言っていたりして、シンクロしているところも興味深かったです。みんな同じ壁を同時期に超えてきていて、一斉にスイッチが入ってきている感じですね。<br /> <br /> ここの機械は買いませんでしたけど、これに限らず今シリコンバレーで流行してきている TransTech というジャンルは今後とも注目していきたいです。<br /> <br /> <br /> Sun, 18 Aug 2019 00:00:00 +0900 5つの代表的な宇宙人の特徴 https://w-jp.net/2019/1610/ <br /> 「癒しフェア」(東京ビッグサイト)に行ってJCETIという団体の公演を聞きました。中で、興味深いことを言っていました。うろ覚えですので間違っているかもしれませんけど。<br /> <br /> ■シリウス出身者<br /> 猫のような顔(!)<br /> ヨガを好む(!)<br /> <br /> ■プレアデス<br /> 有名<br /> <br /> ■アルクトゥルス(アークトゥルス)<br /> 映画のアバターみたいな顔のイメージ。公演者のグレゴリー・サリバンもここの出身<br /> <br /> ■アンドロメダ<br /> 天使(!)<br /> <br /> ■オリオン<br /> 太鼓や祭り好き<br /> オリオン大戦(宇宙戦争)の生き残り<br /> <br /> <br /> <br /> これが真実だとは私は言いませんけど、動物占いのように星座で人の特徴が表せられるところが興味深いです。シリウスが猫のような顔でヨガを好む、というのは知っている人にその特徴がいくつか見受けられて面白かったです。公演者もアークトゥルス出身だと自分で言っていて、「それっぽい」感じでした。アンドロメダが天使、というのは、なるほどなー と妙に納得。オリオンが太鼓や祭り好き、というのはオリオンビールじゃないですけど、イメージ合ってます。<br /> <br /> この団体はよくわからないですけど、その団体が出版していた 「UFOテクノロジー隠蔽工作」は昔買って(ざっと読んだけですけど)家に置いてあったので方向性は理解したのです。と言うのも、「伯家神道の祝之神事(はふりのしんじ)を授かった僕がなぜ ハトホルの秘儀 in ギザの大ピラミッド(保江 邦夫 著)」という本の中で紹介されていましたので興味本位で買ってみたのでした。 <br /> <br /> 私が子供の頃に幽体離脱して過去生を見た時に宇宙人との繋りもあったので、個人的には宇宙人は親しみがあるものの、今生では直接的な繋がりはないです。そういえば、子供の頃の同級生の父親が翻訳の仕事(ボランティア?)をしていて、スイスのUFOコンタクティのビリー・マイヤーとか言う人の本を訳していて、同級生の友人がしきりにその内容を私に自慢(苦笑)してくるのがうざったかったことはありますけど。そう言えば大学生の頃に興味でUFO見学会(苦笑)とかに行ったりもしましたっけ。懐かしい。<br /> <br /> そう言えば思い出したのですが、小学生の頃の同級生の1人が宇宙人らしき人とチャネリングしていて、その人の一定範囲に入ると指向性スピーカーのように思考が漏れてきていて、こちらから話しかけるとそのチャネルを流用できたりしましたっけ。盗み聞きというか盗み思念キャッチとでも言いましょうか(苦笑)。こちらから話しかけたら「誰だ、君は?」とか言われたり。その時は子供なのでその後、変なこと言ったらチャネル切られちゃいましたけど。今から思えば、宇宙船のテクノロジーで強制的にチャネルをオープンしてチャネリングできるのだと思います。子供の頃に簡単にできたので、宇宙人の方からやろうと思えばいとも簡単にチャネリングできると思います。ですから、チャネリング自体は大したことではないですね。めちゃくちゃはっきりした思念波なので、子供の頃で瞑想していなくても明らかに「それ」とわかりますし。ハイヤーセルフの声というか意思の方を読み取るのは難易度がそれよりは高いとは思いますけど、宇宙人とのチャネリングは向こうがテクノロジーでチャネル開いてくれたら誰でも(文字通り誰でも)できると思います。選ばれて役割が与えられたら誰でもできるので、チャネリングしていても特別とは思わないことですね。チャネリングしていて優越意識が育ってきたらお役御免でチャネル切られて終わりだと思います。その人の意識を高める目的でチャネリングしている場合もあれば、役目のためにチャネリングしてくる場合もあると思うので、宇宙人はこちらより何枚も上手ですから、まあ、チャネリングがあっても小手先でどうこうせずに基本に素直でいればいいと思います。そう言えば、「ある瞑想家の冒険( ボブ・フィックス 著)」の中で、著者の師匠のマハリシ・マヘーシュ・ヨーギーがチャネリングに否定的な見解を締めしていましたけど、基本はそうだと思います。普通の肉体のおしゃべりと変わらない、というのが基本ですし。<br /> <br /> 過去生では、その頃はたぶん中世くらいでその宇宙人にとって地球は未知の場所で、地球を知るために地球人とコンタクトしてきて、その時に私の過去生が宇宙人と接触したり、その後、半生を宇宙船で過ごしたり、その後の転生で宇宙船に生まれたり、任務で他の惑星に転生したり・・・ そんな記憶というか幽体離脱した時にそんな過去生も見ましたけど、実際のところどこまで本当かどうか分かりませんからね。宇宙人はもっと昔から地球にコンタクトしている気もしますし。その団体というかグループがその頃からコンタクトを始めたのか、あるいは、私のただの想像の夢でしかないか。まあ、証拠もないですしね。<br /> <br /> 今生では特にその系での使命があって地球に生まれてきたわけではない感じですし。これから何かあるなら、それはそれでいいですけど。<br /> <br /> そう言えば、「アルクトゥルス人より地球人へ」という本は昔買って、興味深く読みました。<br /> <br /> ■マインドフルネス<br /> その団体が出している本で、マインドフルネス瞑想が強調されていました。<br /> 代表者のグレゴリー・サリバンに話を聞いたところ、どうやら最終的な目的は人類の意識を高めることのようです。<br /> であれば、方向性は理解できます。<br /> <br /> <br /> <br /> <br /> Sat, 17 Aug 2019 00:00:00 +0900 スピリチュアルの3つの系統。インド系、キリスト教系、薔薇十字系 https://w-jp.net/2019/1609/ <br /> 「いかにして高次の世界を認識するか」(ルドルフ シュタイナー 著、松浦 賢 訳)の訳者あとがきによると、霊的な訓練を行うには大きく分けて三つの流れがあると言います。<br /> <br /> ・インド系<br /> ・キリスト教系(グノーシス系)<br /> ・薔薇十字系(神智学等)<br /> <br /> インド系は自我を消し、全てをグル(師匠)に委ねます。<br /> キリスト教系は、キリストの鞭打ちや十字架の磔などを想像して追体験します。この時、キリストが究極のグル(師匠)とみなされ、人間のグルは仲介役になります。特に感情の強い人に有効とのことです。<br /> 薔薇十字系では自我と自由と自主性が重んじられ、グルは存在せず、友人として助言する師がいるだけとのことです。<br /> <br /> どちらにせよ最終的には慈悲の心や人類への貢献の気持ちが芽生えるとのことで、最終地点は同じのようです。<br /> <br /> <br /> 私はインド系とスピリチュアル系の中間くらいな感じです。必ずしも全てグルに委ねているわけでもなく、というか、確固としたグルがいるわけでもなく、それでいて基本はインド系で自我をなくす手法を取りつつも方向的にはスピリチュアル系です。私自身はインド系かなと思っていましたが、グルに委ねないという点で、私はその点では薔薇十字系なのかもしれないです。<br /> <br /> キリスト教系は私自身はしたことがありませんが、イエズス会の創立者の1人の書いた「霊操(イグナチオ・デ・ロヨラ 著)」という書物には具体的な瞑想方法(修行方法)が書かれてあって興味深いです。<br /> <br /> スピリチュアル系がどれに入るのかは微妙なところですが、どちらかというと薔薇十字系(神智学等)になるのだとは思います。スピリチュアル系はいいとこ取りなので、良いところはどれでも取り入れるのだと思います。自我をなくすと言ってもグルに委ねるわけでもなく、キリストの追体験をして神を知ることをしているスピリチュアリストもいますし、自我と自主性を重んじるスピリチュアリストも大勢いますので、薔薇十字系6割+キリスト教系2割+インド系2割、というところでしょうか。肌感覚的なものですが。<br /> <br /> <br /> <br /> Fri, 16 Aug 2019 00:00:00 +0900 雑念とオーラとエーテルコード https://w-jp.net/2019/1605/ <br /> 先日のオーラ交換の記事の続きです。<br /> <br /> 同じ仕組みで、雑念も伝わってきます。<br /> 例えば、遠くで誰かがこちら(私、自分)の噂話をしていたとします。<br /> その際、エーテル体(幽体)が細い線になって伸びてきています。<br /> ですから、噂をすれば相手も気付くのです。よほど鈍感ではない限り。<br /> <br /> こういうのはいわゆる「雑念」ではあるのですけれども、雑念は必ずしも「自分(私)」が原因ではないのです。ですから、雑念が現れたとしても、あまり深刻になる必要はないのです。<br /> <br /> オーラが千切れて飛んできてそれをキャッチしてしまっただけでも雑念は発生します。<br /> ましてや、付き合いのある人が噂話をすれば自分(私)とその人の間にケーブルが繋がるので雑念が入り込んでくるのです。<br /> その雑念がポジティブなら聞いていてもいいのですが、ネガティブな場合は意図的にそのケーブルを「切る」と良いです。やり方は、そう念じるだけで良いです。具体的にカッターのようなものを画像でイメージして、ケーブルっぽいものを切るようにイメージしましょう。それだけで十分効きます。エーテルの世界は念次第でどうにでもなりますから。<br /> <br /> これを、人によってはエーテルコードとか言ったりします。<br /> <br /> 雑念くらいならいいのですが、ネガティブな噂話、しかもそれがこちらを馬鹿にするようなものでしたらかなりきついです。相手がこちらのくだらない噂話をしたりこちらのことをバカにしていたりしますと、その不快な感覚がケーブルを伝わってきます。同じく思念波でやり返すと相手にそれが伝わるのですが、前の記事で書いたように、結局はそれはオーラの交換でしかないのでお互い同じくらいのところに落ちてゆきます。であれば、やり返すべきではなく、落ちないための対処方法は「切る」しかないですよね。<br /> <br /> 相手が精神的な成長を目標にしているのならばともかく、そこらの一般人の噂話に付き合う必要はありません。たとえそれが雑念の上であったとしても。本当にその人と一蓮托生とまではいかないまでもある程度一緒に歩むつもりがあるならばネガティブな雑念に付き合うのも時にはありかもしれませんが、基本的には「切る」のがいいと思います。<br /> <br /> なんでこんなことを書いたかと言いますと、そろそろお盆の長期休みに入りますのでみなさん仕事がなくなって噂話に熱が出る時期だからです(苦笑)<br /> <br /> せっかく長期休みだと思って瞑想でもしてみたら、どっかの誰かが噂話していて雑念が途切れない、なんてことになったら不幸ですので対処方法をちょっと書いてみました。<br /> <br /> 他の対処方法として、オーラで「鏡」のような銀のシールドを卵の形のように360度張り巡らす、という方法もあるみたいですけど、これは初心者は全方向にこんなシールドするのは難易度が高いと思います。挑戦してみてもいいと思いますけど、初心者はきっとうまくいかないです。<br /> <br /> それよりは、雑念が現れたら「切る」方がよっぽど簡単です。<br /> <br /> ちなみに、自分で作り出してしまっている雑念でしたらこの対処方法じゃ駄目ですけどね。雑念の原因は大きく分けて二つあって、どっかから流れてくる(この記事の場合)と、自分の中に眠っている場合です。前者は防御すれば良いですけど、後者はきちっとカルマの元になっているヨーガで言うところのサムスカーラという「印象」に向き合って瞑想するのがいいと思います。<br /> <br /> なんとなくそれと分かった時に切るのが基本ですけれども、そうでなくても、毎日してもいいかもしれません。いつの間にかネガティブなものに繋がっているなんてこともありますから。スピリチュアルって楽しいイメージですけれども、実は結構怖いことも多いのです。<br /> <br /> 悪意を持っている相手でしたら徹底的に対処した方が良いですけどね。でも、雑念程度ならばこんなものです。<br /> <br /> <br /> Mon, 12 Aug 2019 00:00:00 +0900 オーラの交換と浄化と心のふらつき https://w-jp.net/2019/1603/ <br /> ■オーラの交換<br /> 誰かを気にする時、エーテル体(幽体)が伸びてゆき、一部が混ざる。<br /> 混ざることにより相手のことがわかる。<br /> 接続を切り離すと、自分に相手のオーラが残る。相手にも自分のオーラが残る。<br /> <br /> よって、相手を思うだけでオーラ交換がなされる。<br /> これが基本的な仕組み。<br /> <br /> エーテルの筋を自分が伸ばす場合もあれば、向こうから伸びてくる場合もある。<br /> <br /> であれば、自分があまり汚れずに相手を知るには細いエーテルの筋を伸ばす。<br /> 鋭く、細く意識する。なるべく少ないオーラで相手と繋がり、少ないオーラの交換で多くを知る。<br /> <br /> 又、意識しなくとも誰かの近くにいだけで自然にオーラ交換が行われます。<br /> <br /> ちなみに、憎い相手を思えば思うほど同一化するのもこの仕組み。<br /> 逆に、自分より精神的に進んでいる人と付き合うと成長するのもこの仕組み。<br /> <br /> この真実性はオーラが見えなければわからないかもしれないですが。<br /> <br /> ■カフナ式<br /> 上記は私が子供の頃に幽体離脱した時に知ったことですが、似たようなことが「精神世界の教科書(松村 潔 著)」にも書いてありました。<br /> <br /> カフナ式に言えば、エーテル体をターゲットに突き刺す。すると自動的に内容物は漏れ出てくる。この時に、対象をじっと見ている体制で情報は入ってくる訳ではない。(中略)ターゲットにエーテル体という情報ケーブルを接続した後、情報は他者的に流れ込んでくるのではなく、あたかも自分の体験として受け止められる。<br /> <br /> このカフナ式の説明が私の内容にとても似ています。ちなみにこの後、著者は量子論だとか自我とか自己意識だとかに結びつけてこのことを説明していますけど、カフナ式の話はそういうことでもなくて単純にオーラの使い方と性質を言っているだけだと思います。量子論はオーラの元になっている分子の一つ一つのもっと細かなお話ですし、自我だとか自己意識というのもかなり微細なお話ですけど、このカフナ式のエーテルの話はかなり肉体に近いオーラの性質のお話だと思います。エネルギーの法則的なところに似ていると思います。ケーブルが繋がれば情報が流れるしエネルギー的に高いところと低いところが混ざり合って一定に落ち着く、という単純なお話です。<br /> <br /> 完全に混ざり合うことはほとんどないですが、心を許せば許すほど同一化します。繋がって勝手に同一化するのが基本で、自分が許せばそれが加速される、という感じです。<br /> <br /> ■愛し合う人<br /> 恋人同士が同一化するのも同じ仕組みです。<br /> <br /> ■奪う人、奪われる人<br /> 他人の活力を奪って活動する人の仕組みも同じ。周囲にエネルギー供給者を配置して、強制あるいは操作あるいは共依存で離れないようにした上でエネルギーを吸い取る。パワハラな人ほど出世するのもこの仕組み。周囲からパワーを奪う仕組みを構築している。<br /> <br /> ■「個」が重要<br /> だから、精神的に成長すればするほど「個」が重要になる。そうでないと足を引っ張られる。個を重視するのは穢れを避けるため。エネルギーを奪われないようにするため。精神的に成長すればするほど「根源」と繋がって落ち着いてゆきますが、穢れた人との接触が成長を妨げるようになってゆきます。<br /> <br /> ■他人を気にするのをやめる<br /> であれば、電車の中で他人を気にするのはやめる。そうすると穢れが抑えられる。エネルギーのレベルが低い人との付き合いは辞める。そうすることでエネルギーを奪われないようにする。他人からエーテルの筋が伸びてきた場合は意思で叩き落とします。そうすることで穢れを妨ぎます。あるいは鏡のような防御膜を作ってエーテルの筋突き破らせないようにします。あるいは守護霊にお願いしてエーテルの融合が起こらないように監視してもらいます。最後のはそう心の中でお願いするだけです。<br /> <br /> そこまで行かなくても、基本的には細々とした雑念に惑わされるのはやめる。テレビのニュースもあまり気にしない。芸能人にウキウキしない。<br /> <br /> 芸能というのは、その人を(遠隔であっても)気にかける人が多ければ多いほどオーラ同一化して芸能人のエネルギーが高まるのです。その最たるものが戦前の昭和天皇で、日本全国民のエネルギーを集めて奇跡が行えたと言います。戦後に天皇に対する信仰が薄れればエネルギーレベルも下がり、奇跡を起こせなくなったのも当然と言えます。<br /> <br /> 人々がこれらのことに無頓着ですので、例えば品のない芸能人が脚光を浴びることで善人からエネルギーを奪い取るシステムが長らく構築されてきました。芸能ほどではないですが会社の上司部下というシステムもエネルギーを奪い取る構造が見て取れます。<br /> <br /> 本来はエネルギーを奪わないシステムが必要なのですが、この世の中はそうはなっていません。奪い合うシステムに組み込まれている人はなかなか抜け出せない。精神的に穢れている人ほど他人の共感を必要としていますが、共感すれば共感した側も闇に引きずり込まれてゆきます。引きずり込まれるということはカルマでもあるわけですけれども。<br /> <br /> ■精神不安定とオーラ<br /> オーラが混ざるのは、精神的に混乱している時が一番混ざりやすいです。ですから、とても嫌なパワハラ上司が純粋な部下と溶け合って両方の中間くらいに落ち着く、みたいなことがよく起こりえるわけです。精神的に未熟で他人から奪うことで生きている上司がいたとして、その上司を助けようとしても実際はオーラが混ざり合うのです。混ざり合わずにお互いがそれぞれ成長するか、あるいは混ざるか、の二択ではあるのですが、助けるという選択をしただけで助ける方も引きずり込まれてゆきます。<br /> <br /> ■学校教育とオーラ<br /> ですから、特に子供は付き合う相手を選ばなくてはなりません。朱に混じれば赤くなる、というのは真実ですから。<br /> <br /> 学校教育はその点、協調を重視していますから精神性にとっては最悪です。エネルギーヴァンパイアの隣の席を強要されたらどんどん穢れてゆきます。その一方でエネルギーヴァンパイアは回復してゆくでしょうけど、巻き込まれる方はいい迷惑です。拒否できませんし。虐待に近いですよ。一旦混じり合うと、かつて精神的に安定していた人が穢れて簡単に落ちてゆくのです。学校が荒れているのも当然ですよね。真面目だった人がキレるようになるのも同じ仕組みです。そりゃ、穢れを貯め続ければキレもしますよ。<br /> <br /> これからネガティブが世界的に増加するでしょうが、付き合う相手を選ぶのがますます重要になってくるでしょうね。学校選びも重要。同じ学校の生徒は同レベルに均一化します。<br /> <br /> 社会や学校で、エネルギーを奪いたい人は言葉巧みに「交流」だとか「社交性」とかいう罠を張ってきますが、それが本物なのかあるいは強制・操作・共依存のエネルギーヴァンパイアなのか見極める必要があります。子供はなかなか厳しいですけど、登校拒否と転校をもっと気軽できるシステムが必要だと思いますし、学校内でも同一化を先生が強要せずに学校というジャングルの中でそれぞれのグループを守るような運用が必要ですよね。社交とかは同程度のレベルの人の間で行えばいいのです。程度の低い人ほど社交だとか人付き合いとか言ってエネルギーを奪ってゆきますから気をつけねばなりません。<br /> <br /> ■防御法<br /> エーテルの管が延びてきたら、それを避けるかエーテルの何かで防御します。ブログではなかなか書けませんが、守護霊に聞けば教えてくれると思います。エネルギー的なストーカーへの対処は迅速に。何か違和感があれば瞑想してエーテルの管をまず切ること。気付かぬうちにエネルギーのパイプを繋がれていてエネルギーを抜かれている時があります。基本は、エネルギーのパイプを断ち切る、と意識するだけで良いです。<br /> <br /> 世の中には酷い人がいて、平気で足を引っ張ってきます。そのような人への対処は色々と考えられますが、直接対応しますとこのような同一化で自分も引きずり込まれますから、それよりも、守護霊に頼んでその人が自主的に離れるよう仕向けた方がいいと思います。もちろん自分で精神的なバリアを張って物理的に離れるのが大前提ではありますけど。精神的に奴隷にならないようにするのも大事です。最終手段として攻撃あるいは封印に近い方法もありますけどお勧めはしませんしできる人も限られてきます。<br /> <br /> ■経済的自立の必要性<br /> 穢れないためには、経済的自立も本当に重要です。経済的自立していなければ上司の強要に精神的に屈服せざるを得なくて穢れてゆきます。<br /> <br /> ■パワハラとカルマ<br /> メンタルやられる人はかなりの高確率で他人の穢れを沢山引き受けたと思われますし、パワハラでメンタル壊す人の場合は上司の穢れを引き受けているわけですから、本来は上司自身にその穢れを引き受けさせるべきなのです。実際はオーラが部下に移って部下がカルマの償いをすることになります。<br /> <br /> これって、道徳的に考えると上司が何か罰則を受けそうな気もしますけど、部下が「受け入れる」ことをしたがためにカルマは部下に移るわけです。カルマの法則って時に不平等に見えますね。上司は穢れを作り続け、カルマは部下が引き受けるわけです。部下がパワハラで退職しても上司は部下を取り替えるだけです。この世の姿は仮の姿で自分も相手も実は一緒ですからこんなことも起こり得るわけです。まあ、一旦仕組みをわかってしまえばパワハラ上司には関わらずに会社辞めるか部署移動するのが一番だとわかるわけですけど。そんなカルマをわざわざ引き受ける必要はないわけです。基本は自由意志に基づきますので、カルマを引き受ける代わりに高い給与をもらうことを受け入れるとか、そういう判断はできます。ただ、世間では安月給とパワハラが結びついていることが多いように思いますので、この種のカルマの引受は割に合わない気が致します。<br /> <br /> ■2種類の人:穢れの人と浄化の人<br /> この世の中は2種類の人でできていて、穢れを作り出す人と穢れを浄化する人がいます。穢れは誰でも作りますし、浄化もしています。1人の人を一定期間見たときに、穢れを作り出すよりも浄化する方が多ければ「浄化の人」で、浄化よりも穢れを作る方が多ければ「穢れの人」です。数式は「既に溜まっている穢れ」+「穢れの増加」 ー「穢れの浄化」のようになります。穢れが段々と増えるか、段々と減るのかの違いです。「浄化の人」が世界に必要ですが、「穢れの人」の方が勝っている気がします。であれば世の中に穢れはどんどんと増えてゆきます。これからどんどん危なくなっていきそうです。<br /> <br /> ■付き合う相手を選ぶ。自分を成長させるのが基本。他人にカルマを渡さない。<br /> メンタル的に不安定で穢れを増加させるような人とは付き合うべきではなく、個人のすべきこととして自分自身の浄化と心の平静を訓練し、心のふらつきをなくすように努めるべきです。メンタル的な不安定を解消させるために他人と交わるのは穢れを分散させているだけであり、穢れの正しい浄化方法ではありません。今はこの辺りの理解が低いために穢れを引き受ける方が意図せずして穢れを引き受けているだけで、仕組みがよく理解されたら、穢れている人とは誰も付き合いたくなくなると思います。既にその兆候は現れてきていて、底辺のオーラを持った人には近づき難くなっていますよね。底辺のオーラの人とも等しく付き合いなさいとか言うのは学校の先生と道徳の授業くらいで、実際には、そのような穢れを引き受ける必要はなくて、単に離れているべきです。基本は自分の浄化をすることですから、自分の浄化すらできていない人と付き合う必要はないわけです。<br /> <br /> ■オーラを鎮める<br /> オーラが発散していると周囲の穢れたオーラと混ざってしまいますから、以前書いたようにオーラを体の近くに留める必要があります。実際は、その記事のようにお腹に集めるというよりは、皮膚の近くに留める、という感じです。HUNTER x HUNTER の「纏(テン)」の方がイメージに近いです。<br /> <br /> ■穢れは誰のもの?<br /> ですから、穢れている人がいた時、それがその人自身が作った穢れなのか、もらってしまった(貰うことを強要された)穢れ(=カルマ)なのか、という点が重要になるわけです。自分で作った穢れを他人に引き受けてもらいたい人とは付き合うべきではありませんが、他人から穢れを引き受けてしまった人は単に可哀想な人です。後者は助ける意義がありますが、前者は孤立させて自分で穢れを対処させるべきです。実際には複合要因になるわけですけれども。上の数式に加えますと、「既に溜まっている穢れ」+「(自分が原因の)穢れの増加」 ー「(自分による)穢れの浄化」+「他者からもらった穢れ」ー「他者に引き取ってもらった穢れ」のようになります。<br /> <br /> ■穢れを引き受ける人<br /> 時々、他人の穢れを引き受ける役割を持った宗教関係者のような方もいらっしゃいますが、なかなか大変な役割を引き受けてご苦労かとは思いますが、穢れを大量生産して何とも思わない人(本人は苦しんでいるのでしょうが)の苦労を引き受けても、当人は現状のままでいいと思うだけなのでよろしくないと思うのですけれども。それよりも、本人の穢れは本人に任せてカルマの何たるかを本人にわからせる方がよっぽど世のためになるかと思いますけど。まあ、カルマを引き受けるのもその人の自由ですので私が禁止はできないのですけれども。この世は自由意志が優先される世界ですから。<br /> <br /> ■全部自分のせいだと思わなくて良い<br /> 自分で作り出す穢れよりも、拾ってきたり押し付けられた穢れの方が大きいのが現代では普通です。社会がストレスに溢れていて、穢れがバケツリレーのように人から人へと移っています。街を歩けば穢れを拾い、誰かが自分の穢れを引き受けてくれたりします。それが普通の人たちの人生で、社会に翻弄されて生きる人生が大半です。ですから、穢れを自分でなるべく作らないようにして、穢れをなるべく浄化するのは基本ではありますが、穢れを全部自分が原因だと思う必要はないです。<br /> <br /> ■オーラを発散させない<br /> スピリチュアルのことを一旦知ったのならばオーラを発散させずに生活することを基本にします。他人のオーラが発散しているのはどうしようもありませんから、なるべく人混みには近づかない。混雑している電車にはなるべく乗らない。穢れがつかないように人混みでは他人に興味を持たず、自分のオーラをより皮膚に近付けて他の人となるべくオーラが混ざらないように気をつけます。<br /> <br /> ■波動の法則よりもオーラ接触の方に気をつける<br /> よく聞くお話で「似た者同士の法則」だとか「波動が似ていると引き付け合う」だとか言われることがありますけど、もちろんそれもありますが、それよりも、自分のオーラが発散しているか相手のオーラが発散していてオーラ同士が接触して穢れが移ることの方が現代ではよほど多いと思います。昔は人口も少なかったので波動の法則とかの方が重要だったかもしれませんが今は都会の電車も満員ですし道に人が溢れています。地球の人口は爆発してきています。現代においては波動の法則よりも、単にオーラが接触してしまうことで起こる現象の方を気をつけた方がいいと思います。<br /> <br /> <br /> 続き: 雑念とオーラとエーテルコード<br /> <br /> <br /> Sat, 10 Aug 2019 00:00:00 +0900 ゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想は宗教でした[千葉で受講] https://w-jp.net/2018/1478/ <br /> <br /> <br /> そもそも原始仏教ですから宗教そのものですよね。何故に無宗教を名乗っているのか疑問ですが、最近の新宗教はそんなものでしょう。<br /> <br /> ここには信仰と教義があって、異論を許さないので実質は宗教だと判断しました。<br /> 瞑想手法それ自体はアリだと思いましたが、ここに信頼できる指導者はいませんでしたので宗教としても微妙です。<br /> <br /> 私は色々と気付くところがあって面白かったのですが、多くの参加者が混乱してメンタルをやられていましたので、瞑想初心者がいきなりこんな長い瞑想をすべきではないと強く思いました。初心者が長い瞑想を行うと不快な思いが心を支配して混乱をきたすためとても危険です。怒りの沸点が下がってしまって日常生活に支障をきたすかもしれません。一番の問題点は、ここに信頼できる指導者がいないことです。混乱した人を適切に処置せず、処置する意思もなくスルーする方針のようですので、特に初心者はいきなりここで長い瞑想をやらない方が良いと思います。心に混乱をきたしている方に対する運営側のケアは皆無でしたので、知人に聞かれたとしても私がここを勧めることはないでしょう。<br /> <br /> 各種の問題はきちんとした瞑想指導者、グルの存在がいれば適切に方向修正できるものだと思いましたが、信頼できる指導者がいなかったのが何よりも問題だと思いました。<br /> <br /> 長い瞑想を初心者にさせるべきではないとつくづく思いました。瞑想に興味があるなら近所の信頼できる瞑想指導者に定期的に指導を受けるのが良いと思います。瞑想初心者がここに行く意味はあまりないと思いました。ここには、瞑想や精神世界につきものの各種の落とし穴にハマっている人が多く見受けられました。<br /> <br /> 精神世界の初心者によくあることですが、自分のやっている精神修行、例えばこのゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想について特権意識を育ててしまっている人も見受けられました。その特権意識も精神的な混乱の1つで、特権意識やら何やらにしがみつかないと心の平静を保てないのでしょう。であれば、それは「瞑想できていない」ということになるのですが、そのような指導をきちんとしてくれる感じではありませんでした。<br /> <br /> 他のヴィパッサナー瞑想も色々ありますし、指導者がきちんとしているところに定期的に通うのがいいと思いました。その後で、そのグルがここを勧めるならやってみてもいいかもしれませんが、いきなり初心者がこんな長い瞑想を受けたら混乱をきたすか特権意識を持つか、何がしかおかしくなる可能性があります。<br /> <br /> 無宗教を謳っていますが、それは表面上のことで、実際のところは原始仏教を基本にしておりますのでまさに宗教そのものです。<br /> ゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想は上座部仏教(小乗仏教)ですので大乗仏教と違って勧誘はほとんどありません。勧誘がないから宗教ではないと思っている人もいらっしゃるようですが、宗教かどうかはそんなところで決まるわけではありません。<br /> <br /> ゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想は原始仏教なので「神」の概念が希薄なだけで実際のところ宗教であり、いわば「神の概念がない宗教」だと思いました。神を拝めていないから宗教ではないと言う理解は正しくはありません。原始仏教では神を拝めるのではなく自分自身が悟りを開くために修行するのでありますから、それは宗教なのではないでしょうか。方針なり教義なりに帰依するところがあるのでここは宗教です。ここが宗教ではないとしたら仏教も宗教ではなくなります。<br /> <br /> 無宗教を装っていますが、それは単に方便に過ぎませんね。ちゃんと宗教の教義が存在しますし、教義ですから議論など受け付けずに一方的に押し付けますし、他の瞑想などの他の精神修行をしている人を歓迎しないところはそんじょそこらの宗教よりもよほど宗教です。心理学など、宗教以外の学問の分野であれば「何故」の質問について徹底的に答えてくれますが、ここは質問をしても質問を遮って一方的に「そんなことより、指示されたことだけをしていれば良い」と圧迫してくるので、とても宗教的です。ここが宗教なら宗教でもいいので、最初から無宗教なんて言わずに宗教だと言えば良いのです。無宗教なんていうから変なことになるのです。<br /> <br /> ただのセミナーに見せかけていますし、上座部仏教(小乗仏教)ですので勧誘はないですが、思想は宗教なのです。大乗仏教でしたら他人を助けることが自分を助けることに繋がるので勧誘がありますが、上座部仏教(小乗仏教)は他人を助ける前に自分が悟らないと助けられないという思想ですので勧誘は基本的にないわけです。でも、手段が違うだけでどちらも宗教ですよね。特に戦後は、宗教法人なのに宗教ではないと主張する団体もあったり、宗教ではない団体なのに宗教っぽい団体がいたりしますよね。ここが無宗教だなんて信じ込むのは世間知らずか、自分が信ずる宗教が他にあるので方便をわかっていつつもその理屈に乗っかって受講する人か、宗教嫌いかだと思いますよ。でも、他の信仰をここの人に明かしたらいい顔されないでしょうけどね。だって宗教ですから。明確に、他の瞑想をしている人は拒否する方針が書かれてありますし、実際に話をした際もそうでした。「他の瞑想」と書かれてありますが、自分たちが宗教を名乗っていないから「他の宗教」と言えないだけで、実質的には「他の宗教や他の瞑想は拒否します」と言うことだと理解すればいいと思います。ですから、排他的なところもしっかり宗教なのです。そんじょそこらの宗教よりもよほど宗教していますよ。これは、ある意味、褒め言葉です。堂々と宗教を名乗ったら良いと思いますよ。新規受講を考えている方は、ここが宗教だと思っていた方がいいと思いますよ。やっている本人たちは激しく否定するでしょうけど、それをあえて聞くのは野暮というものです。<br /> <br /> <br /> <以下、細かく記載しますが、とても長いです><br /> <br /> <br /> ■予習<br /> ゴエンカ式ヴィパッサナー (Vipassana) 瞑想 受けることにしたのでまずは予習です。<br /> <br /> 昔、私がインドのダラムサラに旅行した時に偶然に瞑想センターの前を通りかかり、その時は何なのかよくわからなかったのだが閉ざされた門から奥を覗き見た時のとてつもないオーラに圧倒されて、「よく分からないが、ここは凄いところだ」と思って後ほど調べてみたらそれがヴィパッサナーの瞑想センターだったのです。<br /> <br /> 本当はそこで受けようかと思っていたのですが最初の説明は日本語で聞いた上で疑問点も日本語でクリアにして正しいやり方を知った方がいいなということでまずは日本で受けることにしました。ダラムサラであれば日本語の音声テープが聞けるという話だったので一通りの説明は日本語でわかりそうでしたし、時期が合えば日本人のスタッフも常駐しているという噂のダラムサラでしたが、スタッフ事情に詳しい友人がいるわけでもなく、であれば、必ず日本人がいるとも限らないので、まずは日本で受けてみようと思ったわけです。英語は普通に話せるので英語で受けても良かったのですが、この種の専門用語の説明を英語で聞いてどこまで理解できるか微妙だったのです。<br /> <br /> 結局、日本で色々と本を読んで予習したので今となってはインドで受けても良かったかなという感じではあるのですが、ダラムサラはまたの機会があれば受ければいいので、とりあえず日本で受けます。<br /> <br /> ヴィパッサナーに関する説明などは色々と本やWebがあるのでそれを見てもらうとして、いくつかメモ的にだけ書きます。<br /> <br /> *** 予習です。まだ受けていませんので間違っているかもしれません。 ***<br /> <br /> ■瞑想の種類<br /> 大分類としてサマタ瞑想(集中の瞑想)とヴィパッサナー瞑想(観察、気づきの瞑想)があります。<br /> <br /> サマタ瞑想:集中型の瞑想。瞑想の対象に意識を集中して対象と合一させる。主体と客体が融合した意識の状態がサマーディ。<br /> ヴィパッサナー:狭義では、気付き(サティ)による瞑想。広義では、サティやサマタ瞑想及び道徳など広範囲の事柄を含む。<br /> <br /> ■最初の3日<br /> 息に意識を集中する。本によっては「鼻腔に意識を集中する」と書いてあるが、意識の集中よりも息に意識を集中することが本質のようです。<br /> <br /> 「ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門」を予習で読んだら「鼻腔に意識を集中する」と理解したのですが、バンテ・H・グナラタナ著の「マインドフルネス」を読んだら、本質は息を観察することのようです。後者の著書「マインドフルネス」の説明はとても分かりやすくて本質が書かれてあるように思えました。<br /> <br /> この最初の3日間は、基本的な集中(サマタ)を育てるためのもの。ヴィパッサナーに入るための準備期間。<br /> <br /> ■4日目以降<br /> 段階を追ってヴィパッサナーを実習してゆく。指導者の指示に従って進めるとのこと。本には詳しく書いていないが、意識を体の各所に当てたりするらしい。<br /> <br /> ■最終日<br /> 期間中にヴィパッサナーのほんの一部でも垣間見ることができればラッキーで、何も意識が変わらずに終わる人もいるようですが、それでも、やり遂げれば何がしかの変化はある筈だそうです。<br /> <br /> ■ゴエンカ式のヴィパッサナー<br /> ヴィパッサナーにも流派があるようなのですが、有名なのはゴエンカ式。<br /> <br /> ■ヨガとヴィパッサナー<br /> ゴエンカ式のヴィパッサナー瞑想はヨガの瞑想と相入れないようです。<br /> ただし、ヨガの体操の部分とヴィパッサナー瞑想は一緒に行っても良いとのことです。<br /> <br /> これはちょっと微妙なところです。<br /> <br /> ゴエンカ式のヴィパッサナーをしている団体の主張として相入れないと言っているのです。<br /> 一方、ヨガの方からすれば、人に合う瞑想は色々あるのですから、好きなものをすれば良いというのが基本にあって、ヨガ式をするのであればマントラとかそれをすべき、という、かなり懐の広い解釈です。<br /> <br /> ■[受講前にまとめた] 現在までの私<br /> 今から約2年前にヨガを始めたのですが、ヨガを始めてから瞑想も始めました。ヨガは段階を追ってサマーディを目指すので、とても理論的です。とは言いましても、しばらくは瞑想も「こんな感じなのかな? 」と、腑に落ちない感じでやっていました。ヨガを始めてから約1年、ヨーガスートラなど書物を漁ったり、センターで瞑想したりしていたらちょっとしたレベルアップがあって、ある時、思考を「止める」と言ったら正しいのか微妙なところですが、「意識が呼吸だけに向いていて考え事がない状態での至福」を感じられるようになり、それを境にして、瞑想がとてつもなく楽しくなってゆきました。<br /> <br /> 瞑想を始める前、あるいは最初は、心が勝手にお喋りして止まらない状態が普通です。呼吸に意識を向けなさい、と言われても、それが最初は出来ているかどうか見分けがつかないことが多いです。そんな時の状態は、だいたい2種類に分けられます。1つ目は「呼吸を観察しているぞ」と心の中でお喋りをして観察している気になっている状態。これは観察できていないです。もう1つの状態は、呼吸を絶え間無く観察し続けて、一瞬一瞬の呼吸の感覚が絶え間無く認識できて、その間中ずっと『心のお喋りをしない』状態を保てているのであれば、観察できています。<br /> <br /> 前者の状態は、割と昔から瞑想で「できていない例」で言い伝えられていることです。心が自己主張し始めて「私は呼吸を観察できている」「瞑想できている」と言い出すのです。心(エゴ, マインド)が自己主張して「私はできている」と言い出すのです。本当に観察できているのであれば、そのような心の動きすらも見つめて、そのまま受け流すことができるようになるわけです。観察できているのであれば、心の動きに惑わされない「静けさ」の雰囲気がその人から漂ってきます。人によっては、その静けさから「高貴な匂い」を漂わせることもあります。これは全て感覚的なものですが、その絶対的な認識は、明らかに「違い」として現れます。最終的な悟りに達していなくても、観察があまりできない人と、それなりにできる人とは、やはり雰囲気が違うものだと思います。これは、オーラの違いとしても現れます。オーラは一次的な感情の乱れによっても変わりますから、オーラがそのまま意識のレベルにはならないのですが、ある程度の判別にはなります。観察できていない人のオーラは大抵濁っていますが、観察できている人のオーラは基本的に綺麗で、日々の生活で時々汚れますがすぐに綺麗な状態に戻ります。<br /> <br /> 昔から、私は瞑想とは関係なしにサマーディをしていたのですが、最近になるまでそれがサマーディだったのだとは知りませんでした。サマーディとはどのような状態なのかずっと分からずにいたのですが、ヨーガスートラに書かれた段階を追って瞑想をするにつれ、サマーディ自体は昔から度々経験していたことを知ったのです。とは言いましても、サマーディにも多くの種類があり、私が何かに打ち込む時に現れるサマーディ、主体と客体が一体化するような種類のサマーディは割と低い段階のサマーディであることも知りました。それはそれである程度(とは言ってもかなりの)至福ではあるのですが、それだけではとても「悟り」などと言えるような種類のものではありません。仏教でもサマーディは段階に分かれています。<br /> <br /> 又、ヨガを始めて少し経った頃から「ナーダ音」が聞こえるようになりました。これは、ある程度の浄化が進んだ「しるし」とされています。(詳しくはこちらを参照)<br /> <br /> クンダリニーに関しては上がっていないものの、俗に「まどろみ型クンダリーニ」と言われるような小さな小さなクンダリーニ経験はしたことがあります。ムーラダーラ・チャクラ(会陰)に電気ショックが走って、その後、アジナ・チャクラ(眉間のサードアイ)に抜けて小さくボンッと爆発するようにしてエネルギーが抜けたことはありますが、噂に聞くような本格的なクンダリーニ経験という訳でもなかったですね。今年の1月6日のことです。クンダリーニは1回で大爆発を起こして上がる場合と少しづつ何度も上がる場合とがあるようなので、後者だとすれば最初の1回目としてはこんなものかもしれません。かと言って、特別何かが変わった訳でもないのですが。今のところ。おそらくはクンダリーニそのものが上がったと言うよりも殻が割れて準備が整ってきた、と言うくらいのものだったと思います。あるいは、(クンダリーニそのものではなく)クンダリーニのシャクティ(性力)が上がったと言う解釈もできますが、そのあたりの明確な判断はできません。<br /> <br /> 今までそれと認識することはなかったですが、生活の中で「集中」という意味でのサマーディは数多く経験していたように思います。ただし、そのサマーディは、サマーディ中は至福になるものの、サマーディを終えてしまうと元に戻る、という一時的なものでした。<br /> 20年以上前から、例えば自転車で旅行している時にたまに訪れる至福の状態ですとか、プログラミングを組んでいる時にロジックと一体になることによるサマーディ。などなど。20年前の私は、言葉として「サマーディ」とは言わないものの、似たような状態を求めていました。<br /> サマーディの体験はカタストロフィに似たものがあって、通常の状態とのギャップが大きければ大きいほど至福が大きくなる、という種類のものでした。ですから、元々ストレスが多かった私にとってサマーディ状態はとてつもない至福だったわけですが、歳をとるにつれ、通常の状態が落ち着いてくるとサマーディ体験は割と軽いものになってゆきました。サマーディ体験を連ねるにつれて、至福の状態に対して違和感も感じるようになってゆきました。このサマーディが永続的になるのかどうかという点に関しても疑問でしたし、サマーディ状態そのものに対しても、外界からの刺激にとても弱いサマーディの状態でしたので24時間続けるには不向きだったのです。サマーディ状態はちょっとした外乱や敵対的勢力の意思で簡単に崩されるだけでなく、驚かされたりすると心身の奥底までとてつもない傷を負いますから、仕事場や外で行うのは危険なことだと思うようになりました。アメリカのように個室ならばいいのですが、日本だと集中している時に意識に邪魔が入ると心にとつてもないダメージを負います。実際に深いダメージも受けたことも多々あります。日本の職場は意識の集中状態に対する認識が薄くて、むしろ、相手を驚かせるほどの元気さが逆に評価されるような「集中できない」「サマーディには危険な環境」の職場や日常生活で無理やりサマーディを追い求めていた訳です。10年くらい前からは、「このままでは危ないと」いう認識に至りましたので色々と環境を変えたり、職場を離れて個人活動することで精神的な安定を取り戻してゆきました。サマーディは、集中力を使って無理矢理に一体状態を作り出しますので、その状態においてはとても能力が高まって、例えばプログラミング等の能力が飛躍的に高まりますが、それは非常に脆いものであるわけです。最近はそれを「ゾーン」状態とも言うのかもしれません。その頃は、自宅あるいは安心できる環境以外ではサマーディ状態にはならないようにしていました。とは言いましても、多くサマーディを体験していると、普段の状態にもそのサマーディが浸透してくるようで、それほど能力低下もなく普段の活動はこなせましたが、やはり集中して結果を出すにはサマーディの方が良いようです。<br /> <br /> というわけで、こんな状態で、ヴィパッサナー (Vipassana)瞑想 受けてきます。さて、どうなりますか。<br /> <br /> <br /> <br /> ■受講しました<br /> <br /> ヴィパッサナー瞑想合宿終了。11泊12日。<br /> 毎日色々な発見があって一人で面白がっていました。<br /> <br /> <以下は個人的な勝手な感想です><br /> <br /> ■面白かった点<br /> <br /> <br /> ・アーナパーナ瞑想は、集中を養うための瞑想という説明だったが、実際には、ヨガでいうところのナディ、気功で言うところの気脈を開く瞑想なのかな? と感じた。<br /> ・アーナパーナ瞑想で主要ナディであるイダとピンガラが実在することを鼻からマニプラ・チャクラ(臍のあたりにあるソーラープレクサス・チャクラ)まで始めて実感。<br /> ・アーナパーナ瞑想で主要ナディであるスシュムナ(背骨に沿って存在)が鼻からアジナ・チャクラ(眉間のサードアイ・チャクラ)、ヴィシュッダ・チャクラ(喉のスロート・チャクラ)、アナハタ・チャクラ(胸のハート・チャクラ)くらいまで通じている感覚があった。<br /> ・意識を当てて緩めるというヨガ手法に通じるものがあった。<br /> ・長く座っていられるようになった。股間が開いてきた。背筋が真っ直ぐになってきた。<br /> ・ヴィパッサナー瞑想は浄化の為の瞑想という説明だったが、それよりも、体内エネルギーのワークのような感じがした。体内エネルギーを感じたり動かしたりして、詰まりを取り除くことで結果として浄化が起こるのかなと。<br /> ・4日目くらいから森の景色が変わってきた。最初は森を見ても狭い範囲しか見えていなかったのが広範囲を同時に見れるようになり、風に揺れる葉の動きが視界全体でそれぞれ動いているさまを俯瞰すると、まるでアメリカ国立公園の美しい風景を見ているようで、千葉の単なる田舎であっても「この世界、自然はなんて美しいのだ」と感じることができた。同じ景色を初日はありふれた日本の田舎だと思っていたので、見方一つで随分と変わるものだなと思った。そういえば似たようなことを南米旅行中に感じたかもしれないことを思い出した。日本にいても見方一つで世界は美しくなるのだなと改めて思いました。視界があまりにもはっきりしてきたため、視界上部を遮っているまつ毛が微妙に視界の邪魔になってきて、まつ毛を切ってしまおうかとも思ってしまったくらいでした。<br /> <br /> <br /> ■席の割り当てについて<br /> <br /> <br /> ・席が狭いので近くにエネルギーヴァンパイアがいたらかなり疲れる筈。今回はいなかったけれども、運が悪いと消耗しそう。と言うのも、席は最初に一方的に指定されてしまって固定なので。<br /> <br /> <br /> ■瞑想方法の指導者(先生)はいるけど精神的グル(導師)はいない<br /> <br /> <br /> ・指導者はいるけどグルがいないから皆が勝手にやっているという感じ。指導者はいて、決められたやり方を守るように指導はするけれども、個人ごとの状態を見るわけではなさそうなので、私はちょっと微妙に思った。グルであれば個人の状態を見て適切な指示を下す筈。<br /> ・指導者はグルではないです。私が指導者に対して質問をして回答を得た後、確認のため「私はこんな感じの経験をしました。まず最初に...」と説明しようとしたら言葉を遮られ、「そんなことはするな。試すな。言われたことだけをやれ」と一方的に言われて、自分のことを説明する感じではなかった。一段上に座っているところから話しかけられるので、話を聞いてもらうという感じではない。この一方的な感じは弟子に寄り添うグルではなく、単にやり方を教えつける「教師」でしかない。<br /> ・指導者は外国人。何となくホームシックっぽい? ある程度の真理を得ていると言う感じでもなく、海外にいるそこらのおっちゃん。オーラもあまり感じない。よくいる教師という感じ。<br /> ・指導者に質問をした時、鼻でフッと笑って見下している感じが伝わってきて微妙だった。瞑想指導者と言えばそれなりに高い瞑想の境地にあって静寂の極致にあるのかなと勝手な想像をしていたのですが、実際には、瞑想初心者(スピリチュアル初心者)にありがちな特権意識が育ってしまっている感じでした。瞑想でその特権意識を無理やり抑えているけれども指導をする時は顕在意識が出てくるのでエゴが見え隠れするのかなあ、という気もしました。グル(精神的指導者)というよりも、テクニカルな瞑想手法を教えてくれる教師と思った方が良さそう。<br /> <br /> <br /> ■アーナパーナ瞑想が軽視されている印象<br /> <br /> <br /> ・アーナパーナ瞑想からヴィパッサナー瞑想に移行するタイミングは人それぞれ違う筈で、それをグルが見極めると本当は良さそう。指導者はいるけどグルはいない。人によっては何年もアーナパーナ瞑想でもいい筈。全然集中できなかったと落ち込んでいる人がいました。<br /> ・アーナパーナ瞑想はここでは割と軽視されているような印象ですが、実際のところ、かなり奥深いと思いますよ。<br /> <br /> <br /> ■イダとピンガラおよびスシュムナの感覚<br /> <br /> イダとピンガラはヨガで言うナディ(エネルギーの通り道、気道)で、スシュムナ(背骨に沿って存在)の周囲をぐるぐる回って存在しています。この3つのナディが主要なものです。一番重要なナディがスシュムナ、次にイダとピンガラです。<br /> <br /> <br /> ・書籍によってイダとピンガラの経路は微妙に違いがあるのでどれが正解なのかよく分からなかったのですが、今回感じた自分の実感と照らし合わせてきっとこれだ、と言う感覚を掴むことができました。<br /> ・スシュムナも今まであまり感じることはなかったのですが今回は少し感じました。<br /> <br /> <br /> ■本来はサマーディを極めた後に行う瞑想<br /> <br /> <br /> ・ブッダの瞑想。本来は集中のサマーディを極めてからやる瞑想だがそれ以前にしてしまってもそれなりの効果はありそうですが、あまりにも早すぎると魂の密度が薄くなって空っぽになってしまいそう。何故そう思ったのかと言うと、ヴィパッサナ受講者やスタッフの、特に女性を見ていてそんな気がしたから。存在が薄い感じがします。ヴィパッサナー瞑想は本来は、奥底に最後に残ったサンスカーラ(カルマの種)を浮かび上がらせる瞑想なのでしょう。95%浄化されている人が残りの5%を浄化するために奥深くのサンスカーラ(カルマの種)を浮かび上がらせるのでしょう。でも、50%浄化されている人が残りの50%を浄化しようとしたら空っぽになり兼ねません。後者であればヴィパッサナーの前にアーナパーナ瞑想なり何なりで浄化をまずすべきなのかなと。オーラ的に説明すると、まずは自分のオーラをしっかりと中心に集めて安定させてからでないと次のステップに進むべきではないと思います。精神やオーラの安定がアーナパーナ瞑想で、それだけをすべき段階の人が先走って次の段階であるヴィパッサナー瞑想をするから空っぽになるのかな、と。 とは言いましても、勝手に私がそう思っただけですけどね。行うべき瞑想を見極められるグルがいれば素晴らしいのに、グルがいないのが残念なところ。他のヴィパッサナーはどうなのかな。ゴエンカ式ではないヴィパッサナーもあるので。<br /> <br /> <br /> ■他瞑想をしている人に対する態度<br /> <br /> <br /> ・他の瞑想をしている人はあんまりウェルカムじゃないのは噂通り。<br /> ・ヨガをしたら聞こえるようになったナーダ音について聞こうと思っていたのですが、指導者に他の質問をした際にヴィパッサナー以外を聞ける雰囲気でなかったので結局聞かなかった。コースマネージャーにも聞こうとしたが、前置きとしてヨガ瞑想していると言ったら一方的に話を遮って話し始めて、ヨガ瞑想してるならそれをすれば良くて、両方するのは良くないですよ、と言われて一方的に壁を作られたのでこのような特殊なことを聞く感じではなかった。<br /> ・ゴエンカ式のヴィパッサナーは他の瞑想をしている人を拒絶しますが、どうやらテーラワーダ式のヴィパッサナーやキリスト教的ヴィパッサナーはそうでもないっぽいです。<br /> ・私は、「手法」としては他の瞑想と組み合わせることは基本的に問題ないと感じましたが、それよりも、この宗教団体モドキの「教義」によって禁止されているのだと理解しました。宗教団体モドキですから、教祖モドキが禁止と言えば禁止なわけです。<br /> ・ゴエンカ式ヴィパッサナーやっている人は指導者をグルとは言わないみたいですが、グルっぽいゴエンカ氏あるいはグルっぽい人に従うのなら、それはそれで良いでしょう。それも一つの選択です。でも、ゴエンカ自身が「自分はグルではない」と言っているようだから受講者自身がグルを頼ることができなくなり、理屈を自分でこねなくてはならなくなり、自分で他の瞑想がダメな理由を言わなくてはならず、それ故に、ドツボにハマっているような気がします。受講者は、それがわかるレベルにはそうそう達しないでしょう。グルであれば「グルがそう言っている。私はグルを信頼している」で終わりなのに、変に理屈をつけてドツボにハマる。だからヒステリーになる。グルグルと回ってしまうわけです。ゴエンカ氏も罪作りですね。<br /> ・上に書きましたように、ヴィパッサナー瞑想をすることで自然がとても美しく見えてワクワクしている気分で最終日を迎えたのにも関わらず、コースマネージャーにちょっとヨガ瞑想のことをたったの「1分」質問しただけで簡単に半ギレされて軽く怒鳴られて、それは私にとって予想外のことだったのでハートに防御が入っていなくてかなり神経がやられてしまった。1分でキレるなんておかしいでしょ。よって、その半ギレによって「自然がとても美しく見えてワクワクする気分」がどこかに吹き飛んでしまい、コースマネージャの半ギレをそのまま受け取ってしまったオーラが最終日は私の中に少し残ってしまった。よって、私と話した他の人もそのどす黒いマネージャーのオーラを間接的に受け取ってしまっていたかもしれない。他の精神ワークをしてはいけないと言う禁止事項があったので通常であればこんな時にするような浄化などをすることができず、仕方なく期間中に教わったことで対処しようとしたが、それだと半ギレされて受け取った黒いオーラを完全に浄化するには至らなかった。やれやれだ... 勘弁してくれ。ゴエンカ師はよく怒鳴っていたというので、おそらくゴエンカ式は怒鳴るのが許されているのでしょう。それが最初からわかっていればそもそもここに行かなかったかもしれないのに。怒鳴ることが正当化されているような団体はロクでもないです。<br /> ・私の昔からの知り合いで、京都のセンターが出来る以前から瞑想していて、建設のために寄付したような人であっても同様のことを言われて足が離れたと聞いていましたので、千葉と京都とどちらも同じ方針のようです。ゴエンカ氏が明確にそう言っていますし、規約でも「他の瞑想をしている人は奉仕者として参加できない」と言っています。その、私が話を聞いた、他の瞑想をしている人は、「今回は参加しても良いですが、どちらか片方の瞑想だけにして下さい。何があっても責任を取れません」と言われたのだとか。次回はマネージャ次第で参加を断られる可能性を示唆しているっぽい感じだったそうです。責任のことを言うのは、やはり、集中して瞑想を続けると窮地に陥る時も多々あるのでしょう。瞑想に関しては危険性は確かにあるので、自身が把握していない瞑想をしている人に関しては責任が取れない、というのはわかります。であれば、そう言えば良いのであって、他の瞑想についてゴエンカ氏がつらつらと問題点を連ねるのは微妙です。それよりも、自分たちがやっている手法以外のことは分からないので責任が取れないから受講させることはできない、ということであればはっきりとそう言ってくれた方がわかりが良いです。グダグダと理由をゴエンカ氏が並び立てるよりよっぽどわかりが良い。瞑想には確かに多くの危険性があると思うので。講義の中でも安全性について説明が多くありました。グルがいれば安全なやり方を組み合わせて弟子にやらせることができるのですが、それでも瞑想であるからには危険性は残るでしょう。それだけの覚悟が本来は瞑想に必要なわけですが、それを技術的な手法にしてしまったのは一長一短ありますね。ここのヴィパッサナーやっている人が他の瞑想がいけない理由をいくら連ねても説得力に欠けます。それを判断できるのはグルのレベルの人だけなのですから、素直に「自分はよく分からないけれども、グルのゴエンカ氏がそう言っているので従っている」とでも言ってくれた方がよほど素直でわかりが良いです。同様に、グルにヴィパッサナーを勧められたのだとしたらその理由を真似っこして言うのではなく、そのまま「グルが勧めたのでやっている」とだけ言えばいいのであって、グルが言った理由をおうむ返しで言っても説得力がないのです。グルが自分にヴィパッサナーを勧めたと言う人が受講者にいて話をしたのですが、他の瞑想のことを馬鹿にしてくる感じでした。他の瞑想は意味がなくて、日本人にはヴィパッサナーだと信じ切っており、他の瞑想をしている人を見下している感じでした。せっかくヴィパッサナーを10日間受けたのに結果がこれでは残念すぎます。これも素直に「グルが私に勧めたので、私はグルに従っている」と言えばそれで十分なわけです。グルは貴方にそう言ったのであって、他の人に勧めたわけではないのですから、ヴィパッサナーが貴方に良いとグルが言ったとしても、グルとしては他の人に言ったわけでは決してないでしょう。それを、他人も同様と思ってしまうのであれば、その受講生は所詮はそのレベルです。<br /> ・そう言うわけで、他の瞑想をしている人に対しては組織は意外に排他的。いや、噂どうりなのかも。他の人の話を聞くと、「そのことを言うと面倒なので最初から他の瞑想していることを言わないで参加する」と言う人や、奉仕者をしている人であっても同様に「言わずに参加している」と言う人もいます。私は正直に直球の質問をしてみたら、上のように、あっけなく壁を作られてしまいました。<br /> <br /> <br /> ■かつて、ブッダの時代はヴィパッサナー瞑想は特別だった。<br /> <br /> <br /> ・ゴエンカ式ヴィパッサナーは、ブッダの時代にまで遡って、ブッダの時代にはヨーガよりブッダの方が優れていたと主張し、だから今でもブッダの手法が優れていると主張しています。何故かは知らないが、今もヨーガは当時のままであることを前提に話をしています。ゴエンカ式ヴィパッサナーと比べるべきは当時のヨーガではなく現在のヨーガではないのか?<br /> ・ヨーガはブッダの時代を経てシャンカラチャリヤや大勢の偉人により柔軟にブッダの意見を取り入れており、ヨガの瞑想はもはやブッダの時代のように「集中のみ」ではなくなっています。というか、ヨガの瞑想が集中というのはある種の誤解というか分かりやすさのための初心者向けの方便であって、最初はそういう理解で良いけれども、聖典(古典)の解説書や修行が進んでいる人の本を読むとそんな薄っぺらではないことがわかります。各種の書物を読むと、ブッダの言っているヴィパッサナーの手法もヨガ瞑想には余すところなく取り入れられており、ゴエンカ式ヴィパッサナーの言うところの「ヨーガは(マントラなどで)集中しか行わない単純な瞑想」なんてのはかなりの偏見に満ちています。ヨーガにとって「(マントラへの)集中」は瞑想のほんの始まりにすぎない。<br /> ・現代においては、ヨーガと原始仏教を区別することにそれほどの意味があるとは思えない。どちらも古典ではないか。<br /> ・私には、ヴィパッサナー瞑想とヨガ瞑想がそれほど違うとは思えない。もちろんやり方は違うが、本質は同じではないか。これは、私が短くも瞑想を体験して、特にナーダ音に関する認識を経て感じた現時点での結論。<br /> <br /> <br /> ■ヨガ系の人から見たヴィパッサナー瞑想<br /> <br /> <br /> ・マントラなどのヨガ瞑想も集中系(サマタ系)だとよく言われますが、それは「最初」だけの話で、瞑想が進むにつれヴィパッサナー瞑想になってゆきますので、実際のところ、ヨガ瞑想とヴィパッサナー瞑想はそうは変わりません。<br /> ・ヨガ系の人の話を聞くと、ヴィパッサナーについて概ね肯定的。他の瞑想者の参加を拒否しているのはヴィパッサナー側のみ。ヨガ系の人はあまり「よくない」ということを言わなくて、「良い」と「凄く良い」しか言わない人が多いので、そういう意味でヴィパッサナーを「良い」と言っている人が多い感じです。もちろん「凄く良い」と言っている人もいて、ヨガをしていても、瞑想に関してはヴィパッサナーが良いと言っている人も中にはいるようです。ヨガ系の人の基本スタンスとしては、合う合わないは人によってそれぞれあるのですから、色々と試してみて自分にあったものを選べば良い、と言います。ヴィパッサナーの人も説明としてはそういうのですが、ヨガの人はナチュラルにそのことを言うのに対して、ヴィパッサナー側は少しヒステリー気味に反応してくるところが、何故なのかはよく分からないところです。言葉としては同じだけれども、ナチュラルの程度に差があります。<br /> ・ブッダが生きていた時代はたしかにヨガ瞑想と言えば集中系(サマタ系)でサマーディを求める瞑想でしたので、ブッダの時代でいえばヴィパッサナーとそれ以外の瞑想、という対比は成り立ちます。しかし、既にブッダの時代から2500年以上経っていますから、ヨガ瞑想もヴィパッサナーを取り入れており、今や、そう変わらないと思います。ゴエンカ式は古典に基づいていますから、今のヨガ瞑想ではなくブッダの時代のマントラなどのヨガ瞑想を題材にあげてヴィパッサナーの良さを論じています。ここに誤解の生じる点があるわけです。<br /> ・あまり勉強せずにただゴエンカ式の説明だけを聞いた人は、ヨガ瞑想とは集中系(サマタ系)だからゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想が優れていると思ってしまうかもしれません。その思考は「集中しか行わないサマタ瞑想、サマーディ瞑想」と「ヴィパッサナー瞑想」の対比に簡単に陥ります。それは、「ブッダの時代のヨガなどの瞑想」と「ブッダ式ヴィパッサナー瞑想」を比べているわけです。実際のところヨガ瞑想はブッダ式ヴィパッサナーをも取り入れて、今やヴィパッサナーと言っても遜色ないのですが、それでも、ゴエンカ式を信奉する人の中には「ヨガ瞑想はただのサマタ瞑想で集中しかしない」などと言う人がいます。<br /> ・ゴエンカ式ヴィパッサナーをしている人がこういう点を知らないだけならいいんですけど、上に書きましたように、(ゴエンカ式)ヴィパッサナー瞑想こそが最上で他の瞑想は駄目なんて言っている人は、自分の無知で他人を馬鹿にしているのであり、とても愚かだと思います。<br /> ・最初に述べたように、精神世界の初心者は特権意識を育ててしまうことがよくあります。せっかく悟りを目指すヴィパッサナー瞑想しているのに特権意識が育つなんて、とても残念すぎます。初心者はある程度仕方がないのかもしれないです。誰しもが通る道なのかもしれません。<br /> <br /> <br /> ■グルの不在<br /> <br /> <br /> ・瞑想手法や哲学はブッダに沿っているし良いものだとは思いますが、やはり、弟子の見極めができるグルがいないのがとてつもなく残念。もっと遥かに良くなる素質がある気がしました。グルはいないけれども伝統を変えずにひたすらに守っている、と言う感じです。それはそれで悪くはないし、必要なことではあるように思いますが、ちょっと物足りない。守るために多くのものを捨てている印象。<br /> ・指導者がきちんと補って追加説明をすればいいのに、ただ座っているだけで、ゴエンカ氏のオーディオを「プレイ」するスイッチをカチっと入れるのが日課であり、質問時間は細かく聞く感じでは全然なくて壁がある。教科書を読んで聞かせるだけのただの平凡な教師でしかない。<br /> <br /> <br /> ■昔習った、体系化されていない、広義のヴィパッサナー瞑想<br /> <br /> <br /> ・20年ほど前にスピリチュアル系で心の観察による瞑想を習ったことがあったので、懐かしい感じを受けた。それは、仏教のヴィパッサナーほどは体系化されていなかったが、おそらく、その大元はテーラワーダ仏教などの「動きながら全てを把握する瞑想」だったのかなと。それは広義ではヴィパッサナー瞑想に含まれるのかなと。食事をするのも瞑想、歩くのも瞑想、思想を観察して受け流すのも瞑想、という感じは、仏教系ほど専念されてはいないけれども、ポイントは同じ感じでした。ですので、すんなりと入っていけました。ただ、ヴィパッサナーの場合は心の観察だけではなくて感覚が重要としているのが違うところで、講和の中でその点を重視しています。<br /> <br /> <br /> ■心の観察だけでなく、体の感覚を使う<br /> <br /> <br /> ・ヴィパッサナー瞑想では心の観察だけでなく、体の感覚を使います。前者の心の観察は特に初心者にとっては観察における強弱だけの問題なので集中のサマーディがあるなしに関わらず頑張って心の観察をするか、あるいは慣れてくれば自然に観察しさえすれば良いのですが、後者の体の観察は、いわゆるオーラの観察でもあるわけで、集中のサマーディがあるなしで大きく違ってくる印象を受けました。集中のサマーディが達成、あるいは、ある程度の集中ができる場合はオーラが体の周辺に留まります。その留まっているオーラが体の各所を海流のようにうねうねと各方向に波打っては消えてゆくのを観察するのがヴィパッサナー瞑想なのですが、集中ができない状態ではオーラが針のように周辺に発散してしまって周囲に不快な印象を撒き散らし、本人はと言うと激しい思想の流れで苦しいだけのように思います。そこは頑張って集中するのでしょうが、であれば、そのような人にはヴィパッサナーではなく10日間ずっとでもアーナパーナ瞑想で観察だけさせていれば良いと思うわけです。その方がずっと成長するはずです。少なくとも、アーナパーナ瞑想で息を観察して最低5秒間は息だけを観察して無心になれるくらいでないとヴィパッサナーに入るべきではないのかなあと個人的には思いました。無心と言っても、無理やり抑えているのと自然に心が落ち着いた無心とは随分と違うのですが、どうにかして5秒間も無心にできないのであればまずは集中を学ぶべきでしょう。<br /> <br /> <br /> ■ヨーガでは段階的に瞑想に進む<br /> <br /> <br /> ・ヨーガでは段階的に瞑想に進みますが、ヴィパッサナーは最後のステップとして使えるのではと思いました。既に瞑想はある程度できていて、その先に使う瞑想ですね。ですから、きっと多くの人にとっては、ヴィパッサナー瞑想をしているつもりでいるが実際は本当のヴィパッサナー瞑想ではなく単なる集中の瞑想に実質なっているのではないかな、と思いました。最近はヴィパッサナーとかマインドフルネスが流行っているのでこれが人気になっていますけど、本来は瞑想と言うと集中から始めるわけです。<br /> ・ヨーガの目的はヨーガスートラにあるように「心の制御(死滅)」と言うことで、その8段階の最後にはサマーディがありますが、そのサマーディは一つの到達点ではあるのですがそれがそのまま悟りではありません。ヴィパッサナーではサマーディを「基礎」として悟りへと至らしめる瞑想であるわけですが、まず、ヨーガスートラで言うところのヤマやニヤマと言った道徳的な面、あるいは仏教でいうところのシーラによる基礎があって、その上に集中のサマーディがあり、サマーディで「心の制御(死滅)」があってようやくこのヴィパッサナーに至るわけです。このことをは頭ではとりあえず理解すべきでありますが、本質は体験して見ないと分からないので、まだヴィパッサナーの段階に至っていない人がいたずらにこの瞑想をしてもさ迷ってしまうのでしょう。何人かに話を聞きましたが、明らかに迷っている人が見受けられました。本来はグルがいて適切な導きをするべきなのですが、基本的に各人に任されていて放置なのでケアはなされません。単に場とやり方の指導をするだけなので、適切な効果を出せない人も多いのでしょう。<br /> <br /> <br /> ■サマーディの集中の度合い<br /> <br /> <br /> ・仏教ではサマーディに8段階あるようで、サマーディは集中を極めること、と広義では説明されていました。印象としては、仏教のサマーディは集中9割観察1割と言う印象です。ヨーガのサマーディはコンテキストによって様々ですが、集中9割と言うことはないように思います。ヨーガのサマーディはコンテキストによって集中3〜7割を意味している印象ですので、仏教で「サマーディをしているだけでは悟れない」と言っても、それは「集中9割の瞑想をしても悟れない」と言う意味に置き換えると良さそうです。ヨーガではサマーディにはいくつも種類があるので、言葉だけでは分からず、きっとグルの言うニュアンスを聞かないとどれを指しているのかよく分からない気がします。ヨーガでは、最初は強い集中から初めて心が落ち着かせ、心が落ち着いてきたら次第に集中を弱めて行って観察を増やして行くのかなと。ヨーガでは強弱のバランスを取るのに対して、ヴィパッサナーは手法自体を切り替えているのかなと。ヴィパッサナー瞑想合宿においては集中はアーナパーナ瞑想、観察はヴィパッサナーと役割を分けていましたが、もっとアーナパーナ瞑想が注目されても良いのではと思いました。<br /> <br /> <br /> ■メッターバーバナ瞑想をして愛を広める?<br /> <br /> <br /> ・ヴィパッサナーの最後にメッターバーバナ瞑想をして周囲に愛を広げる、と言うことでした。これって、講義の中で散々批判していた「自分の周囲にカバーをして覆い隠してしまう瞑想」そのものでは? と思いました。 ちょっと矛盾を感じます。自分のやっていることを誤魔化すために他を批判するのは良くあることですけど。実際、スタッフなども薄っぺらいカバーをしている人が散見されました。スタッフは単なるボランティアなので普通の人とあまり変わらないとはいえ、この方法に共感したのだからそこからある種の傾向は見て取れるでしょう。私はメッターバーバナ瞑想そのものは素晴らしいと思いましたが、単に、主張に一貫性がないなと思っただけです。精神世界は何でもありですから、こう言う小さな違和感を見逃してしまうと間違った方向に導かれると思います。<br /> ・勝手な想像ではありますが、メッターバーバナ瞑想は、ブッダはヴィパッサナー瞑想をした結果として「そのような状態になった」という種類のもので、元々は瞑想ではなかったのではないかなと受講中にイメージが降りてきました。悟りを得た後、愛の状態になったのかなと。受講中は調べ物などもできないですし、指導者にやり方以外のそのような余談を聞くフレンドリーな雰囲気ではなかったので聞いていないので本当のことはわかりませんけどね。そういうわけで、メッターバーバナ瞑想には違和感があります。あくまでもヴィパッサナー瞑想で悟りを得たら愛が溢れた状態になったのであって、メッターバーバナ瞑想で愛を想像するのは上に書いたように「心にカバーをかける」種類の瞑想なのかなと思いました。このあたりが、ヴィパッサナーのスタッフに違和感を感じた理由かもしれません。宗教ではないと言っておきながら、どこか宗教チックな盲目的な雰囲気なのです。個人的な主観的な印象ですけどね。メッターバーバナ瞑想で覆いをかけて、異論を唱える人は追い出すような雰囲気です。相談しようとして話すだけでも何か不思議な拒絶反応があるので、おかしな感じです。あそこのスタッフのようになりたい、とは思いませんでした。惹かれません。指導者にも魅力を感じませんでした。うまくヴィパッサナー瞑想ができない人をそのまま返すと問題になるのでメッターバーバナ瞑想をくっ付けて取り作った、と言うようにも想像できてしまいます。どちらにせよ、講義の内容とこのメッターバーバナ瞑想の間には違和感があります。再度繰り返しますが、メッターバーバナ瞑想それだけならば異論はありません。そう言う愛の瞑想も「アリ」だと思います。ただ、講義の内容と矛盾している、と言うお話です。こう言う矛盾を見逃すと精神世界において囚われることになりかねません。<br /> <br /> <br /> ■ダラムサラとの比較<br /> <br /> <br /> ・元々は、私がインドのダラムサラを旅行している時に通りかかった瞑想ホールがヴィパッサナーとは知らずに凄いオーラだけを感じて、「これは何だろう」と思って調べてヴィパッサナー施設だったという話から受講を考えました。それ以前にも何度かヴィパッサナーのことは聞いていましたが受けるほどではなく、実際に施設を見て受けようと思ったのでした。ですので、本当はダラムサラで受けようかと思っていたのですが、最初の1回は説明を日本語で聞きたかったので日本の千葉で受けたのでした。雰囲気としては、日本のそんじょそこらよりは良いけれども、ダラムサラの圧倒的なオーラと比べると寂しい感じです。日本ではもう受けることはないかな。<br /> <br /> <br /> ■今回の受講生は真面目?<br /> <br /> <br /> ・今回は、他の回と比べて随分と真面目な受講生だったらしいです。初めての参加だったので良くわかりませんが。<br /> <br /> <br /> ■同じことはヨガでも達成できる<br /> <br /> <br /> ・10日間座る環境はなかなかないので貴重ですし良い経験にはなりましたが、これを受講しなくても同じようなことはヨガで達成できそうな気がしました。そういう意味では、ヨガの良さも再認識しましたし、一度に長く座ることの良さもありました。確かに、最終的な悟りのためにはこのような瞑想も必要なのかもしれませんが、この世の99.99999%の人は悟りなど遥か遠い筈です。であれば、間違いの少ない瞑想をした方が良いです。<br /> ・もともとヨガをしていましたので、これを受けなくても、実はヨガで十分だったのかもしれないです。ヨガをしていなければかなり劇的な差があったのかもしれませんが、もしかしたらとてつもない致命的な落とし穴にハマって一生を台無しにしていた可能性もあります。ヨガをしていたからこそ致命的で絶望的な破壊的な結果を避けられたのは確かだと思っています。だからこそ、初心者にゴエンカ式は勧めません。<br /> <br /> <br /> ■怒りの沸点が低い<br /> <br /> <br /> ・ヴィパッサナー愛好者の中には、いらつきや怒りの沸点が異常に低い人がいます。会場でも会ったし、上に書いたマネージャーもそうでした。過去の受講生にもそういう人がいました。これはどういう事でしょう? ヨガにせよヴィパッサナーにせよ、非暴力は基本的な道徳として語られています。ヴィパッサナーであればシーラ、ヨガであればヤマのアヒムサーです。それは物理的に傷付けないだけでなく、言葉で傷付けないことも含まれます。更には、思考で相手に悪い思念を送らないことも含まれます。ヴィパッサナー愛好者が悟りのために努力する過程で簡単にキレて相手を傷つけるのは基本的な道徳に反しています。こういう矛盾点は精神世界ではきちんと押さえないと変な方向に進む。違和感があるということは、何かが間違っているのだと思います。<br /> ・ヴィパッサナー瞑想を本来の形であるところの深いサムスカーラ(カルマの種)を浮かび上がらせるための瞑想としてではなく、葛藤を手早く捨て去るための瞑想として使っている人が多いのでは、という気がしました。だから葛藤はなくなってもその根っこにある葛藤の種であるサムスカーラ(カルマの種)を根絶するところに至らず、単に表面的な葛藤を消し去って終わりになる。すぐに表面的な葛藤を捨て去るようになると、葛藤をきちんと受け止めることに慣れなくなる。根源の種が残っているから慣れない葛藤がやって来ると簡単にキレる。怒りの沸点が低くなるのはこういうことなのかなと。<br /> ・精神世界には怒りの原因を遠ざけてピースを保とうとする人が少なからずいるのです。怒りの原因を否定しまくって自分の周囲をピースっぽく保ちたいけれども不愉快なことがちょっとでもあるとすぐにキレる、という感じです。ピースのことを履き違えているのかなと。そう言う人たちが言うピースかどうかなんてのは所詮は感情レベルですから、本当に客観視できれば感情は重要ではないとわかるし、もちろん成長すればピースな状態は増えるけれども、それは不愉快を否定して得られるものではない。むしろ、不愉快は過去のサムスカーラ(カルマの種)を明らかにしてくれる重要な大切なものです。精神世界に凝っている人の中には不愉快を避け続ける人がいるけれども、普段はピースでもちょっと傷つけられてすぐにキレるのは本当のピースではない。種のサムスカーラのうちに滅することができれば良いですが、出てきてしまった現象には対峙するしかないわけです。否定ではなく、しっかりと見て理解する。キレて避けていたら、何度でも同じレッスンがやって来ます。<br /> ・この種の人々は、ピースをネタにしてヒエラルキーを作ることがあります。他人の葛藤を指摘してヒエラルキーを作るような人たちはピースのことを履き違えています。ちょっと引っ掻かれただけで崩れるようなピースを一生懸命守りつつ、同様の考え方をした同等レベルの人が集まってピースのヒエラルキーを作っている団体が精神世界には一定数います。ここは完全にそうだとは言い切れませんが、少しその傾向が垣間見られました。<br /> <br /> <br /> ■やはり、グルの不在が根本原因<br /> <br /> <br /> ・上にも書きましたように、手法はいいのだからグルがいて適切なタイミングで適切な瞑想を与えたり支持するのであればとても効果的だと思います。ですから、とてつもなく惜しいです。もっと良くなる筈なのに勿体無いです。こういうのは人の意識と密接に関わっているのでタイミングがとてつもなく重要なのに、思想面の制約を優先させてしまっているからグルの存在を否定してしまい、結果、グルがいないがゆえに変な方向に行ってしまう人が後をたたないのでしょう。<br /> ・きちんと効果を判断できて、適切な時期に受けるのであれば効果はあります。でも、グルがいないのであればそれはほとんど雲を掴むようなものなのでは? だからこそ惜しいです。ホント。<br /> <br /> <br /> ■無宗教の仮面を被った宗教団体<br /> <br /> <br /> ・ヨーガでは神様がいるので守られている感じがあります。ヨーガとヴィパッサナーのどちらも「宗教ではない」と言っている点に関しては同じですが、その立ち位置が随分と違う気がしました。ヨーガでは多神教、ヴィパッサナーは無神教寄りの印象です。ヴィパッサナーでは「悟った人」と言う意味での「ブッダ」を頂点に置いていますのでそれは非人格化されているのですが、非人格化の手法としてヨーガでは多神教、ヴィパッサナーでは無神教を選んだと言うことであれば重点の置き方が違う気がします。ヨーガでも仏教でも世界を「ブラフマン」などと読んで「全てが神」と言う世界観を作っている一方で、その点は変わらないのですが、ヴィパッサナーでは「ブッダ」を頂点に置くと同時に非人格化かつテクニック化しています。ここのヴィパッサナーでは「全てが神」と言う視点が薄くて、「自身が悟る」と言う「テクニック」にフォーカスしているわけです。これは他の宗教を信仰している方でも参加できるようにする配慮だった筈が、やがては多神教という視点を失わせてしまったという感じでしょうか? 推測ですが。<br /> ・ヴィパッサナーは無宗教をうたっていますが、実際は、思想を矛盾なく組み立てるためには無宗教にせざるを得なくて、だから無宗教と言っていますが、その思想以外を排除しているので立派な宗教だと個人的には思うのです。例えば、個人がそれぞれ悟る必要があるからグルの存在が否定されて指導者だけがいます。グルがいないから個人に沿った修行が与えられずに決めたれたカリキュラムを受講生が選ぶスタイルになっています。思想を絶対化している宗教が仕方なく無宗教を標章しているのだと判断しました。おそらく関わっている本人たちは否定するでしょうが。思想を優先させすぎてシステムがうまく動いていないように見える。もしかしたら小さくゴエンカ氏がやっていたときはじグルっぽく指導していたのかもしれないが、今となっては決まったシステムを維持するだけの団体になっているような気がした。とある詳しい人に聞いたら、やはり組織が大きくなると硬直化するし、やっぱりきちんと指導できるグルがいないのですかね、と言っていました。ゴエンカ氏はグルなのにグルではないと自分では言っていたのではないか。そして思想を優先させてしまい、本来いた筈のグル相当の自分がいなくなっておかしなことになっています。単なる理屈でグル不要と言っているだけであればグル相当の人を違う呼び名でも良いから担当させるべきでは。<br /> ・詳しい人が言うには、ヴィパッサナーは大乗仏教とも違って無我の思想に基づいているためにその後出てきたヨガのシャンカラチャリアと違って見えるそうです。時代の違いを思えば、ヴィパッサナーはブッダの時代のものですから当時は未分化だったり説明が不十分な点もあるでしょう。技法を復活させるつもりが、古い時代の思想も復活させてしまって混乱を導いているのかもしれません。後の時代の人々の努力は無視してブッダに帰依しているのでしょう。でも、本当は帰依なのに思想的に帰依と言えないから色々な矛盾が出てくる。後の時代のシャンカラチャリアのような偉人の努力もここには反映されていないわけです。<br /> ・思想で無宗教を謳っているので本来は受講生の疑問や異論を受け止めるべきだと思うのですが、実態は宗教なのに思想的に無宗教と言わざるを得ないためにシステムとして指導者のエリアを厳密に分け、手法以外の質問は一切受け付けない仕組みにしたのでしょう。質問を受け付けてしまうと矛盾が明るみに出て、本当は根拠が「ゴエンカ氏を信じる」ところにあるのにも関わらずそのゴエンカ氏本人から「宗教ではないので信じずに自分で判断しなさい」と言われているので自己矛盾に陥り、キレるのでしょう。自己矛盾から目を逸らして生きていたのに、その自己矛盾を突きつけてくる人に対してキレて壁を作る。たしかに精神世界には面倒な人が多くいますが、ほぼ初対面で二言三言話しただけの私にいきなりキレてくるのはどういう事でしょう。一般のボランティアならともかくマネージャーの態度がそれですし。ありのままを言ってもらえた方がわかりが良いです。例えば「ゴエンカ氏は自分で判断するようにと言っていますが、自分はまだ理解が十分ではないので、ゴエンカ氏の意向に反してはいるが今のところはゴエンカ氏の発言を信じて活動しています。だから、これこれのことは、私はまだはっきりとはわからないが、ゴエンカ氏がそう言っているので従っている。」というように。それは「二兎を追う者は一兎をも得ず」みたいなことわざを半ギレになりながら言われるよりもずっとわかりが良いのです。でも、それができないんですよね、おそらく。<br /> ・ある程度の瞑想の境地に達したら、自分が怒鳴ったらそのダメージは相手ではなく自分の方に大きく跳ね返ってくることを体感的に知っていますので、一定レベル以上の人は他人を傷つけることができなくなる筈なんですけどね。怒鳴ることができるのであれば、そういうレベルなのでしょう。ヨガで言うヤマのアヒムサ(非暴力)、ヴィパッサナー瞑想でのシーラがなければいくら瞑想しても上に境地にたどり着くことはないのかな、と思います。ここで言っている「自分に大きく跳ね返ってくる」とはカルマのような理論的な話ではなくて、頭で理屈で考えることではなくて、体感的に、その怒鳴った瞬間に体と心で瞬時にその通りに大きく跳ね返ってくる結果を、文字通りそのままの意味で体感することを意味しています。<br /> <br /> <br /> ■グラウンディングとヒステリー<br /> <br /> グラウンディングとはスピリチュアル用語で、地面あるいは地球を信頼して繋がりを作り、繋がりを保つことです。<br /> <br /> <br /> ・ここのヴィパッサナー瞑想は「アーナパーナ瞑想」「ヴィパッサナー瞑想」と「メッターバーバナ瞑想」で成り立っていますが、いわゆるグラウンディングに関するワークが抜けているため、エネルギーが頭に集まりがち。指示されていない精神的なワークを自分ですることは許されていないため、10日間の間ずっと頭にエネルギーが偏ることになる。普通であればグラウンディングしてエネルギーを下におろすような状況でも自分でのワークは許されていないので頭にエネルギーが溜まりがちになる。瞑想の指示は「観察するように」とだけなっていて、「エネルギーを動かす」とはなっていないので、頭に溜まっているエネルギーを何日も観察することになるのです。これは健康に悪いです。こんな時もグルがいれば適切な指示がされる筈ですが、機械的で硬直的なカリキュラムでは危ないです。上達して軽く観察するだけの状態であれば問題ないのかもしれませんが、「観察できていない箇所があったら数分観察しなさい」と指示があるので、意識をそこに集めると頭にエネルギーが多少集まります。単に私が力を入れすぎなだけかもしれないですが、ヴィパッサナー初心者だからこそうまくできていない時のケアが必要な筈で、実際はそのようなケアは皆無ですので、10日程度なら致命的にはならないとはいえ、それなりに危険です。ヒステリー気味になっていた人もいました。<br /> ・7日目くらいまでは面白かったのですが、8日目くらいから飽きてきて集中が途切れたところをバランス若干崩してしまいました。それでも色々と発見があったので興味深かったのは確かですが。もっと柔軟性のあるスケジュール、あるいはグルがいれば一旦休憩とか柔軟にできたと思うのですが。そういえば、他の人はグループ瞑想以外の自由瞑想時間にホールにいなくて部屋で寝ていたりしたので、私も全てに参加せずに少し休めば良かったのかもしれません。<br /> <br /> <br /> ■クンダリーニ<br /> <br /> <br /> ・クンダリーニに関係する体験はありませんでした。いつもあるようなムーラダーラ(会陰)の感覚は変わらずありました。上に書いたように各種ナディのエネルギーの流れは感じましたが、ムーラダーラからのクンダリーニは感じませんでした。<br /> <br /> <br /> ■浄化<br /> <br /> <br /> ・ヴィパッサナーの目的は「心の浄化」なのですが、思っていたより変わりませんでした。上に書いたようにグラウンディングに関する不具合で、逆にちょっとエネルギーのバランスを崩してしまいました。自分でそれを補正するような精神的ワークが禁止されていましたので安定を崩したままになり、ちょっと微妙でした。<br /> <br /> <br /> ■ヴィパッサナー瞑想によるマインドコントロール<br /> <br /> <br /> ・最近は職場でヴィパッサナー瞑想を薦める場合があるとのことですが、もし上司がパワハラや虐待の常習犯で部下にこのヴィパッサナー瞑想を受けさせるとしたら、その目的はおそらくマインドコントロールでしょう。その場合、部下は瞑想についての知識などほとんどなく受けることになるでしょうから、結果としては本来の深いサムスカーラ(カルマの種)を浮かび上がらせる瞑想としてではなく、表面的な葛藤を取り除くに留まる。表面的な葛藤を取り除くためにヴィパッサナー瞑想を使用した場合、一見するとピースになって良い結果を生み出したように見えるが、おそらくは上記のように怒りの沸点が下ってストレス耐性は下がるでしょう。そこに上司のパワハラがぶつかれば簡単に心が折れて従順になるでしょう。上司からすれば部下のストレスをうまく取り除いた上に自分に都合の良いようにマインドコントロールできてイエスマンができあがるわけだからパワハラ上司からすればとても有り難いセミナーだと言える。この種の瞑想はある程度の信頼関係がある環境で生活することを前提にしているため、もし強いストレスとピースを交互に与えられると仕事場ならばパワハラ、子供であれば虐待になるわけですが、臨界点を超える前に再度ヴィパッサナー瞑想を受けさせればとりあえずのストレスは解消され、再度搾取できるようになる。精神世界は明るくてピースなイメージがあるが、そこにつけ込んで搾取しようとしている人々も詰めかけているため、気を付けないと精神的に奴隷になって一生他人に搾取され続ける可能性があります。それに気付かないでいる人も多い。このヴィパッサナー瞑想それ自体は悪いものではなく、使い方によっては強力な結果を生み出すが、そのようなパワーのあるところに搾取者が近寄ってくるのは世の常かもしれません。それに気付いて搾取されないようにするのも精神世界における一つのレッスンであるわけです。<br /> <br /> <br /> ■ゴエンカ氏はよく怒鳴り散らしていた<br /> <br /> <br /> ・ゴエンカ氏はよく怒鳴り散らしていたようですので、この団体は怒鳴る風土なのかもしれませんね。ゴエンカ氏は自身が怒鳴ってもケロっとしていたようですので、ここでも、怒鳴った方はケロっとしているのかも。些細なつまらないことで怒鳴られるなんて、そんな団体とはつきあっていられません。無宗教の皮をかぶった宗教団体ですから、教義に合わないことに対しては怒鳴っても良いのでしょう、としか解釈できません。宗教団体で良くあるように、私が何を言ったところで、私を悪者にして自分たちを正当化するだけでしょうから、何を言ったとしても無駄です。聞く耳があるのであれば言葉を遮って半ギレになったりしないです。自分たちが主張しているように宗教団体ではなくて手法を教えているだけの団体であれば聞く耳があって改善してゆく意思がある筈ですが、やり方を信じるか信じないかの2択であればそれは宗教です。自分たちでは「10日間受けた後、これが良いかどうか判断しましょう」と言っていますのでこの言葉だけを見れば非宗教ですが、実際のところ、疑問に答えようとしなくて、疑問の内容をしっかりと聞こうともしなくて、やり方だけ伝えて、不都合があれば怒鳴ってマインドコントロールしようとするのであれば、それは宗教でしょう。こう言う団体とは、言っても無駄とわかったまま付き合うか、離れるかの2択です。でも、マインドコントールにかかってしまった人はこの2択すら選べないです。ヨーガなど他の瞑想をしていながら隠して奉仕者したり受講したりしている人は前者なのでしょうね。でも、そういう2重性を持ったまま瞑想をするのは良くないと思いますけど。心を隠したまま瞑想をしたところで成長はなかなか難しいと思います。その点に関しては、もし隠すのであれば「二兎を追う者は一兎をも得ず」と言うマネージャーの話は確かに正しいと思いますが、私の感覚では、単なる使い分けだけの問題なので他の瞑想と適材適所で使えば良いと解釈できたので、隠したりはしないです。そんなことを言うと無宗教の皮を被った宗教団体のここに激しく拒絶されるのでしょう。ここは、他の瞑想と使い分けようとする人がいれば、ゴエンカ氏のように躊躇せず怒鳴ってくるのでしょう。宗教団体と怒鳴るのが組み合わされるのは、ほんと最悪ですよ。愛とムチの使い分けですから、それって「虐待」「悪い意味での躾け」「パワハラ」の種類ですからね。心が萎縮して、言うことをハイハイ聞く人ができても仕方がないです。どうも、それをやられたかのような萎縮している奉仕者がちらほら見られました。上に書きましたように、多少のマインドコンロールが入っているのかもしれません。宗教団体に入る人は自ら望んでマインドコントロールされ、それで心の平安と自分では思い込んでいる状態に落ち込んで行くのですから、他人がどうこう言っても仕方ありませんけど。<br /> ・最終日に参加者の心のケアをせずにそのまま解散にして終了になったのですが、私としてはこの「放置」とも言えるやり方を見て、かなりこのシステム及び団体に疑問を感じた。最終日(帰る日の1日前)の夜以降は指導者との質問の時間がなくて、生活場所も分かれているから指導者との接点もなく、かと言ってマネージャーに話をしたら半ギレされてまともに対応してもらえないし、結局、多くの人は参加者同士でとりとめのない話をしていたような感じで、最重要の瞑想に関する肝心な質問を最後の最後でできずに参加者はそのまま解散になっていたのが印象的だった。最終日の昼間までの普通の質問時間における他の参加者の質問もいくつか聞いていたが、指導者が外国人だからか何なのか、いまいち的を得ない返答で、質問者は「は、はあ・・・」みたいな感じで納得度が低かったのも印象的。途中での理解度がその程度なのですから、そんな参加者のケアを最後の最後でこそしっかりと行うべきなのに、最後の対応を放棄してしまう団体のあり方は、私の常識にはそんな終わり方なんてないのでかなり衝撃的でした。「放置してしまっていいんだ!?何だそりゃ?」てな感じのショッキングな最終日でした。上に書きましたように、思想的に個人を重要視しているからグルの存在を認めないのでしょうね。上に書いたように実際はゴエンカ氏が「グルではないと自分では言いつつも実質はグル」だったのですから、であれば、ゴエンカ氏がいなくなった後も「実質的なグル」が必要なのにそれを欠いているのでしょう。<br /> ・質問時間の質疑について「哲学的議論はせずに、瞑想のやり方の質問だけにすること」と注意書きがあるが、多くの人は哲学的議論をしたいのではなくて、ただ単に納得したいだけだと思いますよ。それを「哲学的議論」とか言って質問者を切り捨てているところにこの団体の化けの皮が見え隠れします。結局は「やり方」しか教えません、と言いさえすえば済むのに、哲学的議論とか言って話を誤魔化しています。確かに講義オーディオでは仏教的な話を聞かせていますが、それはただの録音であって生きた講義ではない。その生きた講義及び教えをするための指導者かと思っていたのに、指導者は座っているだけで、講義は録音オーディオを流すだけで、質問タイムには「やり方」の質問しか受け付けないというのであれば、自分たちが言葉でいくら誤魔化していても、単に「やり方」しか教えないと言うのがこの団体の方針なのでしょう。だから、最終日(帰る1日前)の午後以降は指導者への質問タイムがないのです。そもそも指導者とは生活エリアが分かれているので終わった後に個別に質問したり挨拶したりもできない。なんとも「放ったらかし」の印象を受ける。10日間(前後も合わせれば12日間)も拘束する合宿で、最後のこの放ったらかしはかなりショッキングです。凄く違和感があります。運営側はそれでいいと思っているのだろうか? ゴエンカのシステムが生まれた国では後のフォローがあったのかもしれないが、フォローも大してない日本で、自ら勉強したり再度瞑想会などに参加しないと理解も進まないような合宿で、最後の最後にも微妙な面を突き付けられました。これは、他の人に勧めることはできないです。上に書きましたように、個人主義だから個人が勝手にやればいい、と言う趣旨なのでしょう。実際は宗教団体なのに、思想的に個人主義だからシステムとして放置するのでしょう。そう言う主義主張の、非宗教の皮を被った宗教団体ということでしょう。こんなことをいくら言っても、おそらくキレられたり怒鳴られたりするのが想像できるので、わざわざこんな非宗教の皮を被った宗教団体に指摘することはしません。私はここの実態がわかったので、この団体は自分たちで勝手にやっていてくれればいいのです。私は、この団体に何か言いたいのではなく、私が理解したことを書いているだけです。もっと変な団体はいくらでもあるし、この国は自由の国なのですから、誰しもが自分の好きに信仰すればいいのです。無宗教ですと言われてハイそうですかと考えもせず信じ込むことも個人の自由なので好きにすればいいのです。<br /> <br /> <br /> ■ゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想者は他人に興味がない?<br /> <br /> <br /> ・長くヴィパッサナー瞑想をやっているように見受けられる女性マネージャーがボソッと「色々な人がいますねえ」と興味なさそうに呟いていたが、他人に対するゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想者の基本的なマインドの持ち方をよく表しているような気がしました。自分がまず悟ろうとする上座部仏教がベースになっているからでしょうか? 他人にあまり興味がないように見受けられました。ですから、精神的に混乱をきたしている人がいても放置なのでしょう。会場はただの「場」であって、他人と交流する場所ではないと最初の説明オーディオで言っていましたが、文字通り、そう言うことなのでしょう。それは、他の参加者との交流だけでなく、指導者との交流すらもする場所ではない、と言うことのようです。基本的にここは「放置」が方針のようです。<br /> ・私なんかは、精神的に混乱をきたしている人を放置する方針の運営側に対してイラっとしてしまうたちなので、こことはあまり合わないですね。方向性の違いですかね。世の中にはこういう方針の団体もあるのですね。もっと変な団体も山ほどあるので、たまたま人生の通りすがりに見た変わった景色だと思うことにします。<br /> <br /> <br /> ■ヴィパッサナー瞑想依存症?<br /> <br /> <br /> ・もしかしたらこのような浅い瞑想を繰り返すことでヴィパッサナー瞑想依存症になるかもしれない。やがては何かがおかしいと気付けば良いのですが、気付かない人もいるかもしれない。精神世界には数多くの落とし穴があるので、ハマって成長が鈍化することもあるかもしれません。結局は自己責任ではあるのですが、致命的で取り返しのつかない落とし穴が多いのも精神世界です。何世代もかけて培ってきた英知を無駄にすることもあるかもしれません。<br /> <br /> <br /> ■浄化の2つの道<br /> <br /> <br /> ・魂のオーラは、光を注ぎ込んで浄化するか消滅によって浄化させるかの2択です。レッスンを活かして成長の糧にするのが光による浄化、もうどうしようもないオーラを切り離して無に返すのが消滅による浄化。しっかりと奥底の種であるサムスカーラを見て理解するのが光による浄化です。安易に葛藤を切り離して無に返すのは消滅による浄化です。後者にはレッスンによる学びがありませんから、上に書きましたように、同じようなことが起こると沸点が低くキレてしまいます。成長とは学びですから、一見すると浄化されていてピースでもその実態がどうなのかがとてつもなく重要だと思うわけです。<br /> ・レッスンが重要とわかっている人は、一時的な葛藤も仕方がないものとして受け止めます。消滅による浄化を常にしている人はちょっとの葛藤も悪として受け止めますから、後者のようなコミュニティの中では非常に些細なことで傷付かないように気を付け合うことになります。お互い沸点が低くてすぐにキレますからね。そして、ちょっと葛藤がある人を責め立てることでヒエラルキーを作る。前者のようなコミュニティでは許容範囲がとてつもなく広いために葛藤も一時的なものとして受け入れられますから、そのピースさは後者とは別次元のものになります。そもそも前者のようなコミュニティでは他者の葛藤にそこまで興味がなくてそれぞれが自分のピースを楽しんでいますから、多少の葛藤はそもそも問題にならないのです。後者のような許容範囲の狭いコミュニティはピースのために多大な努力を払い、そしては疲れてゆくのでしょう。そんなコミュニティがあるなんて、ほんと世界は広いです。両方とも一見するとピースに見えるが見分け方は簡単です。前者は独立した個々個人がピースで他人にはあまり干渉しない。後者はピースをネタにヒエラルキーを作っています。前者は風通しが良くて気持ちがいいが、後者はピースと苛つきが交互に来る。後者のコミュニティでは相手の問題を指摘することでヒエラルキーを形成しようとする。後者のコミュニティからは独立が失われ、依存によるピースのヒエラルキーが形成される。前者のコミュニティには意見の多様性があり、それでもピースを保つよう個々が努力しています。後者のコミュニティでは意見の多様性が失われ、考える力を失い、リーダーの意見に従うことが正しいとされるようになる。これはまさに宗教ではないか? であれば後者を宗教と呼んでも差し支えないでしょう。私はこのヴィパッサナー瞑想団体を非宗教の皮をかぶった宗教団体の実態だと認定しました。<br /> <br /> <br /> ■やはり、無宗教の皮を被った宗教団体<br /> <br /> <br /> ・この種の団体に関わっている人は自分ではおかしい点を絶対に認めなくて、いろいろと理屈をこねてきます。話を聞くと「そうかなあ?」と思ってしまうこともありますが、所詮は宗教ですので違和感を感じたら離れることが重要です。もしかしたらマインドコントロールされてしまって離れにくいかもしれません。それも全て自身のカルマですね。<br /> ・良いことも悪いことも全てカルマですが、やってきたカルマはレッスンとしてそこから学ばないと再度やって来ます。カルマを捨てているつもりが、実際には感情を切り離しているだけだから上記のように変になるんですね。一般的に宗教に関わっている人は変ですが、ここは非宗教なのに宗教っぽいのです。こればっかりは言葉でいくら説明してもわからない人にはわからないかもしれませんね。<br /> ・私は宗教もOKだと思っていますので、ヴィパッサナー 瞑想が宗教を名乗っても全く問題ありません。近代に入ってから、無宗教と主張している宗教団体が数多くありますしね。そう言うのも全て宗教だと私は思っていますから、ヴィパッサナー 瞑想が今更宗教だと言い出したところで何ら驚きません。<br /> <br /> <br /> ■日本と海外のヴィパッサナー瞑想<br /> <br /> <br /> ・私が参考にした人は全て日本人ですし日本での受講なので、他の国のことはわかりません。<br /> ・私が直接は知らないとあるインド人のグル(あるいはただのヴィパッサナー瞑想の先生)がヴィパッサナーは日本人向きだと言っていたと小耳に挟みましたが、インド人がどれだけ日本人のことを理解しているのか疑問です。とある人はそのインド人グルの言葉を真に受けて他の瞑想を小馬鹿にしていましたが、そんなところを見ると、どうもその考えは底が浅いように思います。深い考えであれば伝え聞くだけでも叡智が伝わってくる筈です。日本人なら簡単にマインドコントロールにかかるから効果が出やすいので日本人向きだと言っているのならばあり得ます。表向きはそうは言わないでしょうけどね。一応はグルなのに瞑想に対してそこまで深い理解がないだけかもしれません。効果だけを注目するのであれば、日本人にとってヴィパッサナーやマインドフルネスは効きすぎて危険な部類の瞑想に属するのかなとも感じます。あるいは、なんとなく勧めるために言った発言を日本人が曲解しているだけかもしれません。上に書きましたように、ヨガ瞑想を本当にやっている人であればヨガ瞑想は結局のところヴィパッサナー瞑想に通じていて、どちらもそうは変わらないことを知っている筈なのですがおかしいですね。発言の奥を見れば「おかしい」と感じ取れる筈なのに、インド人がそう言ったからと言って、さほど深い理解もせずにそれをそのまま受け止めて自分の意見にしてしまうのでは、瞑想に対する理解もその程度なのでしょう。<br /> <br /> <br /> ■よく分からずヴィパッサナー瞑想を受けた方がラッキーな効果が出る?<br /> <br /> <br /> ・私が通っているヨガのクラスで一緒になる子が昔海外でヴィパッサナー受けたことがあるそうなので話を聞いてみたのですが、最後の方までずっと頭の中でお喋りが続いてトラウマとかが出てきて大変だったと言っていました。察するに、これは本来のヴィパッサナー瞑想ができていなくてアーナパーナ瞑想の呼吸観察による心の観察が最後までずっと続いたのだと思われる。この子は最後には落ち着いてきたとのことだったが、であれば、本来ならばグルが見極めてアーナパーナ瞑想だけずっとやらせるべきだった。何人かの知り合いの感想といくつかのブログの記事を見る限り、ヴィパッサナー瞑想と言いつつも最後までアーナパーナ瞑想の心の観察だけを行ったと思われる人が随分と多いように思える。どこまでヴィパッサナー瞑想を理解しているかはそれぞれですが、効果を見る限り、アーナパーナ瞑想の効果を見てヴィパッサナー瞑想の効果だと言っているように思える。ヴィパッサナー瞑想は瞑想初心者がいきなりはできないと思いますよ。いわば、始めての瞑想チャレンジで運任せでこのセッションを受けてラッキーなことに危険な方向に行かずにたまたまアーナパーナ瞑想の効果が出てヴィパッサナー瞑想が良かったという的外れな感想をしている人が見受けられます。これは本来危険なことで、よくわからず生半可にヴィパッサナー瞑想してしまうと上に書いたように表面的な葛藤を無くすために使ってしまい、変な方向に向かいます。実際、英語がなまじできるが故に海外で理解して受けてしまってキレやすくなった子もいました。元々はカバーをかけていたのが表に出やすくなってしまったのでしょうか。海外で説明が英語でよく理解せずに受けてしまった方が単なる心の観察がメインになるような気もしますので、もしかしたらその方が危険は少ないのかもしれません。ヴィパッサナー瞑想ではなく、アーナパーナ瞑想10日間したと言ったほうが良さそうなブログも多々あるわけです。よくわからずに受けた方がヴィパッサナー瞑想がピンと来なくて実質アーナパーナ瞑想していたけれども自分はヴィパッサナー瞑想していたつもりでした、という感じですかね。きっと自分ではそうそう気付かないでしょうけど。それは結果としてラッキーだっただけで、危険性は依然として存在するわけです。本来瞑想は危険を伴うのでグルの指導が欠かせないのです。一方で、準備ができていないのにヴィパッサナー瞑想をしてしまっておかしくなったりキレやすくなる人も多くいるわけです。ゴエンカ氏の時代にはそれも「なるようにさせておきなさい」と放置したようですので、方針は変わっていないのかもしれません。きちんとグルが見て指導すれば良いのですが、ゴエンカ氏がそうだったのであれば今後も方針が変わることを期待できませんから、準備がある程度できた人以外はヴィパッサナー瞑想は避けた方がいいと思うわけです。ラッキーに期待して受講するのはお勧めできません。<br /> <br /> <br /> ■「悟り」なんて求めない<br /> <br /> <br /> ・「悟り」なんて遠いこと言ってる人はどこかフラフラしていたり、ちょっと胡散臭いことが多い。ここは、胡散臭いとまではいかないが、キレやすいのでフラフラしていると言って良いでしょう。胡散臭くはないので、そこは自制が効いているのでしょう。自制が効いている点は評価できるのでは。悟りなんて遠いこと言っている割にはフラフラ度合いが低いので、頑張っているような感じも受けます。ゴエンカ式に惚れ込んで、無宗教の皮を被った宗教として信仰を深めてゆけば、本当にある程度の浄化ができるのでは、とは思いました。ただ、色々書いたような落とし穴を避けることができればの話ですが。宗教団体には、そう言う面もあるでしょう。どんなにおかしく見えても、それで救われる人もいるわけです。どんなことであれ、実際にやってみると言う段階が先にあり、それをやってみた結果、理解をしたら最後には「手放す」と言う段階に来て、そして卒業してゆくわけです。私が違和感を感じたからと言って、他の人の行動をとやかく言うつもりはありません。それぞれに学びがあってやっていることでしょう。<br /> ・少なくとも自分は現時点では日本ではもう受けるつもりはありませんが、組織や指導に問題はあったとしてもそれを頼らずに受けるのであれば苗床としての場としては使える訳です。そういう観点からまた受けるかもしれませんが、今のところ受講予定はありません。それでも日本は微妙なので受けるとしたら海外ですかね。ヨガでも効果は同様だとわかりましたのでわざわざ受けない可能性も大いにあります。もともとは悟りのための瞑想ですが、99.9999999%は悟りなんて無理ですし、私が求めているのは悟りではなく「ある程度の」浄化ですので。ヴィパッサナー以外にも多くの選択肢があります。<br /> ・いくら悟りを語ったり求めたりしても、基本的な道徳のシーラやアヒムサーができていなければそれは単に心のエゴを増大させるだけの結果になるのでしょう。いわゆる「聖者のエゴ」が拡大して、「私は聖者だ。私は悟っている」みたいなことを言い出す最悪のエゴが育つことになります。そして、自分の考えにそぐわなかったりしたらキレて怒鳴って相手を追っ払い、心の静寂を保つのでしょう。実態は宗教ですから自分たちの考え方にそぐわなければ怒鳴ってもいいと思っているのでは。であれば、誠に滑稽だと思います。ルールに従って大人しくしていれば安泰に過ごせるということであれば、実態は宗教です。上に書いたように私は宗教もOKだと思っていますので、素直に宗教だと名乗ればいいのです。宗教であれば、ルールは「宗教だから」「これが教義だから」で終わりなのです。なまじ非宗教の仮面を被っているから変なことになる。実態は宗教なのに、非宗教を名乗っている宗教が本当に多いです。素直に宗教を名乗ればいいのですよ。こんなのを見て「宗教とは無関係」とか本気で言っているのは世間知らずだけだと思いますよ。わかっている人は「あー、ここも実態は宗教か」と思って、思っても何も言わない人がほとんどだと思いますよ。<br /> <br /> <br /> ■再受講?<br /> <br /> <br /> ・色々と違和感はありますが、色々とわかったこともあったので、私はまたいつか機会があれば海外のダラムサラとかで受けてもいいかなと思いました。でも、ヴィパッサナー運営側が他瞑想をしている人を拒否してくるなら微妙ですが。それか、他の方式のヴィパッサナー瞑想も良いかもしれません。<br /> ・私の場合、ここは宗教なのに無宗教を装っている「嘘」が見えてしまうので、その嘘が見えてしまった以上、ここに深入りすることは私の心に嘘をつくことになりますので千葉のここに通うのは今の所ないですね。海外でやるとしても、再受講生用の3日間コースとかですかね。ダラムサラが日本と違うのかどうかという点に興味が少しあります。<br /> <br /> <br /> ■他のテーラワーダ仏教 論者<br /> <br /> <br /> ・後日、タイのテーラワーダ仏教論者のプラユキ・ナラテボー師 のセミナーを受けましたが、同じヴィパッサナー瞑想とは思えないほどスタンスも説明も違って見えました。もちろん「気付き」と言う意味においては同じなのですが、こちらは他の瞑想を否定しないですし、かなりオープンです。ゴエンカ式とはかなり別物に見えます。ゴエンカ式だけを見てヴィパッサナー瞑想があーだとはとても言えないですね。ゴエンカ式はヴィパッサナー瞑想の代名詞のようになっていますが、あくまでもゴエンカ式の瞑想がたまたまヴィパッサナーだったと思った方が良さそうです。ゴエンカ式は無宗教をうたっておきながら宗教っぽい盲目的な感じで、プラユキ・ナラテボー師は仏教バリバリの筈ですが宗教っぽくないオープンな感じです。<br /> <br /> <br /> ■サマタ瞑想のサマーディを否定していい気になっている人たち。実際はサマーディは悟りの役に立つ。<br /> <br /> <br /> ・この種の人種がゴエンカ式には多少ながらいるような気がしました。サマーディには「物」と同一化するサマーディと非物質と同一化する概念上のサマーディがあり、藤本晃氏の本によると前者は悟りの役に立つが後者は悟りに役に立たないと言う。同書によると、サマタ瞑想のサマーディなしにヴィパッサナー瞑想で悟りを求めることは可能だがとてつもなくハードルが高く、仏教の経典にはまず「物」に対するサマーディを経てから何段階かを辿り、悟りに辿り着くという。やはり、ブッダ自身はサマーディを否定しておらず、後の解釈を行った人物がサマーディを否定しているのだとわかる。その理由は、否定することで優越感に浸れるから、と言うのが一定数あるのでは。或いは、単に無知なだけか。もちろん、私の理解が間違っている可能性もあるし後者の無知は責められるものではないが、前者の優越感は愚です。そんなことで瞑想をしても迷走するだけ。一方、確かに、サマーディの彷彿感に浸ってしまって成長が妨げられることも大いにあるので、サマーディの落とし穴に関する危険性は間違ってはいない。やはり、問題の根本原因はこのようなことを正確に教えてくれるグルがいない、と言うところに結局辿り着くのかもしれない。<br /> ・サマーディは段階があり、最初は彷彿感があるが、次第にその彷彿感が減って行くそうです。これは私の体験でも確かにそうだと思いますし、幾つかの書籍でもそのようなことを読んだ気がします。彷彿感が減るのは後退ではなく進歩だそうです。最後には彷彿感のほとんどない統一に至るそうです。「物」に対するサマーディで彷彿感がない段階まで至った後、悟りに向かうのがブッダの説いた道だそうです。だとすると、サマーディをある意味で否定しているゴエンカ式は悟りを語りつつも本当は悟りではなく現世利益を目的としているのかもしれません。<br /> ・色々書きましたが、ゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想が悟りを求める瞑想とは言いつつも、多くの人は実は悟りなんて求めていなくて、単に楽になりたいだけだとすれば、その要求はとりあえず満たしているので、これで十分と思っているのかもしれません。本気であればこんな違和感なんてすぐに気付くでしょうから。<br /> <br /> <br /> ■初心者の長い瞑想は危険<br /> <br /> ヨガ系の「瞑想と霊性の生活3(スワーミー・ヤティシュワラーナンダ著)」に以下のようにあります。<br /> <br /> 初心者には、瞑想だけをおこなう修行法は固く禁じられるべきである。私たちの僧団では、決してこれを許さない。あなたが自分のさまざまの思いを完全に制御することができない間は、霊的生活の初期においてあまりにも多く瞑想することはあなたにとって危険である。こころを静めようとすると、禁じられた不快な思いが心中に浮かびはじめて混乱を引き起こす。これらは、あなたを圧倒してしまうことさえある。初期の段階では、瞑想に割り当てる時間は短くするのがよい。残りの時間は、仕事、奉仕、または勉学に費やされるべきである。<br /> <br /> この発言の前提は集中系(サマタ系)のサマーディ瞑想ですが、ヴィパッサナー瞑想の指導者は違う見解を持っているかもしれません。それでも、これは示唆に富んだ発言だと思います。特に初心者は集中系(サマタ系)と観察系(ヴィパッサナー系)の違いもよくわからないでしょうし、長い瞑想をいきなりするのは危険だと思います。と言うのも、10日目に話をした何人かは明らかにこの種の混乱に陥っている事が容易に見て取れたからです。何人かはストレスフルになっていましたし、自己嫌悪に陥っている人もいました。それに対してスタッフや指導者のケアはほぼゼロで、放置です。指導者は最終日は顔を出さないですし、解散の時間になったらさっさとタクシーでスタッフもそそくさと帰宅していました。こんな状況であれば尚更、知り合いにはこんな放置するのが方針のヴィパッサナー瞑想合宿なんて薦められないのです。この日本は自由の国なので、やりたければ好きにやればいいです。それは基本です。知り合いに勧めないと言うだけのことです。<br /> <br /> どちらにせよ、大半の98%の人はそれほど深い瞑想の境地に達することができないのですから、短い期間であればとりあえず何をやっても大差ないと思われます。やりやすいものをやれば良いのです。長い時間を瞑想して窮地に陥る危険があるとしても、ここは自由の国ですから好きにすればいいのです。 <br /> <br /> 瞑想は本来神秘行に属するものなのですが、この団体は、単に表面的なストレス解消が目的なのかもしれないですね。そんな気がしてきました。そう思った理由は、奉仕者が話をしているのを最終日に聞いた時に、浄化が目的みたいなニュアンスを何人かから聞いたからです。であれば、単に葛藤を捨てるだけのことですから上記のように感情を切り離す瞑想で十分なんでしょうね。カルマの根であるサムスカーラを根絶する本来のヴィパッサナー瞑想の使い方ではないですけど、表面上の葛藤を切り捨てるためにヴィパッサナー瞑想を使うのであれば、それもまた個人の自由ですしね。「浄化」という言葉は色々と解釈できますが、このように私が判断したのはその人となりとその口調ですので、あくまでも主観的な判断です。ふわふわとしていて存在が薄い感じでしたので、上に書きましたように、葛藤をすぐに切り捨ててしまって空っぽになっている人なのかなあと思いました。別にそれを否定するわけでもなくて、物や手法が世界の各地を移動する時にその目的が変わることもよくありますから、日本に来た時に、説明は同じだとしても、その活用方法が異なってしまうのも、それはそれで文化としてよくあることですし、私としては否定もしませんし、単に興味深く眺めるだけのことです。表面的なストレス解消が目的であれば、それはそれで好きにすればいいんじゃないでしょうか。でも、瞑想のお題目としてはたいそうなことを言っていますけどね。実際はそんな実態なのでは。とは言っても、上に書きましたように、瞑想初心者は葛藤に圧倒されてしまって危険な状況に陥ることも多々あると思いますけどね。それもまた、自由の国の自由な選択で起きている喜劇であるわけです。私は気付いたことを書いているだけで、他の人に変わってほしいなどとは思わないですが、本来の目的と表面的なお題目が違うのであればお題目を変えて、きちんとストレートに表現すべきだとは思っています。表面的な葛藤をなくす瞑想です、とはっきり言えばいいのです。サムスカーラという種を燃やしてカルマで転生がどうのこうのなんて言っても、そんな瞑想はそうそうできないでしょう。あそこにいた指導者ですらそういうレベルではないことが一目でわかりますし。<br /> <br /> ■共通点は「体験」<br /> <br /> 私の内なるガイドが言うには、「体験」に基づくのであれば共通点が見えてくるだろう、とのことです。確かに、言葉や論理では違って見えても、「体験」であれば似たものが見えてくるはずです。各種の状態や認識を言葉にすると違って見えるかもしれませんが、本質はきっと同じなのだと思います。 又、よくある例えですが、精神的成長という「山」を登る道はいくつもあるので、登った先の頂上からの眺めは同じであるわけです。見た目の違いで他の手法を区別したりしますが目的地は同じなわけです。精神的訓練をしてゆけば何がしかの経験がある筈で、それこそが共通点になる筈だと思います。<br /> <br /> ヴィパッサナー瞑想も各種ヨガ瞑想も本質はそうは変わりません。少なくとも私はそう思います。<br /> <br /> ■その後、インドのリシケシでヴィパッサナー瞑想の瞑想会を主催している人と話をしました<br /> 日本でヴィパッサナー瞑想というとゴエンカ式ですがリシケシでヴィパッサナー瞑想というと単に沈黙の瞑想を意味するらしいです。リシケシでヴィパッサナー瞑想の瞑想会を主催している人と話す機会があったのですが、「ゴエンカなんて知らない」って言われました。ヴィパッサナー瞑想を主催していてもゴエンカなんて知らないそうです。日本とはヴィパッサナー瞑想の意味するところが違うのかもしれないですね。興味深いところです。<br /> <br /> ■ゴエンカ氏から直接指導を受けたインド人の瞑想指導者と話をしました<br /> 私が千葉で受講した約4か月後、インドのリシケシでヨガを勉強した際にインド人の瞑想指導者と話をする機会がありました。そのインド人はゴエンカ氏から直接指導を受けて数ヵ月の瞑想をし、現在はヴィパッサナー瞑想のみならず各種の瞑想指導をしていました。話を聞いたところ、いくつか分かったことがありました。<br /> <br /> <br /> ・「どうしてゴエンカ式はヴィパッサナー瞑想と他の瞑想を組み合わせてはいけないのか?」と聞いてみました。回答としては2つ。1つはテクニカルな話で、ヨガのプラナヤーマとヴィパッサナー瞑想は手法的に同時にはできない、というのが1点。もう1点は、ゴエンカ氏は本気だったので自分のヴィパッサナー瞑想をとことん突き詰めてそれだけを集中して行いたかったので他の瞑想をしている人に入ってきてほしくなかった、という背景を聞きました。ゴエンカ式の説明で、私はてっきりテクニカルな話をしていると解釈していたのですが、どうやらテクニカルな話は重要ではなくて、むしろ、ゴエンカ氏の意図が反映されてあのような他瞑想を排除する規約になっているようですね。テクニカルな話であれば理屈でもって変わることもありそうですが、ゴエンカ氏の意図であればカリスマのゴエンカ氏が亡くなった今となっては他瞑想を排他する規約は半永久的に続きそうですね。<br /> ・ゴエンカ氏から直接指導を受けたインド人もまた、怒りの沸点が低かった。私がいくつか質問をしたところ不愉快な表情になって苛ついて声の調子が変わり、やがては私の言葉を遮り始めましたので、ゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想をしている人の多くが怒りの沸点が低くてキレやすいというのは、このようにゴエンカ氏から直接指導を受けて瞑想指導をしているような人であってもそうであるのですから、多くの場合に当てはまりそうです。おそらくはゴエンカ式をすると何らかの理由で怒りの沸点が下がる可能性がある、と思った方が良さそうです。ゴエンカ式をしているのであれば怒りの沸点が低い可能性がある、とも心の片隅に止めておいた方が良さそうです。そうでないと簡単にキレられてこちらが謝意してしまいますから、ゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想をしている人には不用意に近付かない方がいいかもしれない、と改めて思いました。瞑想は心のピースを育てるためにしている筈なのに怒りの沸点が下がってしまってしまう人が多発しているということは、それは、手法のどこかが間違っているのだと思うわけですが、本人たちは現状に問題点を感じないのでしょうか? 不思議なところです。<br /> <br /> <br /> ■ネパールでゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想を受けたドイツ人と話をしました<br /> 上で書いた瞑想指導者と話したのと同時期に話をする機会がありましたが、この人もどちらかというと怒りの沸点が低くて、エゴが強くて、それでいてピースな環境を求めているタイプ。ピースは自らの内にあると言いつつもそのことがよく分かっていなさそうなタイプで苛つく沸点が低くてその度にピースを語っていました。めんどくさくてあんまり付き合いたくないタイプです。<br /> 自分がゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想を受けたことを誇りにしているらしく、ゴエンカ式は最も厳格で厳しいんだみたいなことを他の人に自慢していました。瞑想って自慢するようなものじゃないと私は思うんですけどね。瞑想を自慢している時点で既に瞑想のステージがあんまり進んでいないことを自ら暴露しているようなものです。上にも書きましたが、精神世界(スピリチュアル)の初心者によくありがちな落とし穴で、自分があたかも凄いような錯覚を感じてしまうのは、それが錯覚だとしても初心者はなかなかそれに気付けないものです。<br /> ゴエンカ式の経験者の中にはこのような精神錯乱者が度々いるので、きっと多くの人がうまく瞑想できずに10日間を過ごして、最終的に「俺はやり通したんだ」というエゴが拡大したり、あるいは、精神錯乱になったり、あるいはその混合タイプになったりするのでしょうね。<br /> 上にも書きましたが、ある程度瞑想が出来てからでないと10日間なんていう長い瞑想はしない方がいいと思うんですけど。エゴが駆り立てて「チャレンジ」する人もいるみたいですけど、そんな「チャレンジ」なんて言ってる時点で瞑想初心者ですから辞めておいた方がいいと思います。このドイツ人みたいにチャレンジの結果を誇りにしてエゴが拡大でもしたら逆効果ですし、エゴ拡大だけならともかく精神錯乱したら日常生活に支障が出ますしね。<br /> 私がそのインド人に「私も受けたよ」と言ったら自分のプライドが傷つけられたのか何なのか敵意のある視線と苛ついた表情、それに突き刺さるような思念波を送ってきていきなり頭痛がしました。余計なことを言わずに「凄いですねー」とか言って適当に流しておけば良かったですよ。なんでちょっと話しただけでその後もことあるごとに恨みの視線と攻撃的な思念波を受けなきゃならないのか。こっちが被害者ですよ。ゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想の経験者とはあまり関わり合いもたない方がいいなあ、と改めて思いましたよ。私も自分がヴィパッサナー瞑想経験したなんてあまり他人に言いたくなくなってきます。<br /> <br /> ■インドやネパールでは宗教が生活に根付いている<br /> インド周辺国では宗教が生活に根付いていて日本で言うところの宗教的な概念は薄く、例えばインドはヒンドゥー教徒が多いと言われていますがヒンドゥー教は日本で言うところの宗教団体はなくて生活の一部であり神道のようにあって当たり前のものです。ネパールやミャンマーも宗教が根付いていますから、それらの国の人がゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想を宗教ではない、というのは分からなくもありません。しかし、日本から見たらそれは原始仏教でありますから、明らかに宗教なわけです。日本の人が神道を道徳的なものとして理解している一方で海外から見たら興味深い宗教であるのと同様の構図なのかなと思います。ふと気付けば、ゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想をしている人はゴエンカ氏の言葉を真に受けて「宗教ではない」と言っているようにも思えますので、「原始仏教だから宗教でしょう」と言い返すのは大人気がないのかもしれません。とりあえず「そうですか」と答えておけばいい気もします。<br /> <br /> 私は宗教を否定しておらず、むしろ肯定していますので、ここが宗教なら宗教でもかまわないのです。<br /> <br /> 少し勉強すればここが原始仏教だと気付く筈なので、もしそれに気付かずにゴエンカ氏の言葉を真に受けて宗教ではないと思っているのだとしたら(そんな人は稀だと思いますが)やっていることと言っていることが合っていないということになりますから、行動と思考が分離した状態ではいくら瞑想をしても一定以上の境地に達することはないのではと推測いたします。思考と行動が一体になって初めて高い境地に達するのだと思います。原始仏教の時代には宗教という概念は希薄でしたし、人々に強制もしておらず、自由意思で修業をしたわけですから、強制や脅しがないという点では良いのですが、原始仏教を基本として精神的修業をする団体ということであればそれは宗教ですよ。堂々と宗教を名乗ったら良いと思います。最近は宗教を名乗らない宗教が多いですよね。<br /> <br /> ■サマーディ(集中)瞑想とヴィパッサナー(観察)瞑想<br /> (ゴエンカ式ではなく)テーラワーダ仏教(スリランカ上座仏教)の識者が書いた「沙門果経」(アルボムッレ・スマナサーラ著)を読んだところ、当時のブッダが置かれていた状況およびサマーディ瞑想(集中によるサマタ瞑想)とヴィパッサナー(観察)瞑想の位置付けがよく分かりました。少し引用します。<br /> <br /> 当時はサマーディ瞑想で禅定に達した修行者が、輪廻転成を乗り越えて解脱に達するためにヴィパッサナー(観察)瞑想に入ったのです。現代ではそのような回り道はしないで、ヴィパッサナー瞑想を実践しています。ヴィパッサナー瞑想だけで、集中力やさまざまな智慧など、解脱に必要な条件はそろうのです。「沙門果経」(アルボムッレ・スマナサーラ著)より<br /> <br /> ゴエンカ式のところでマネージャーにこの辺りのことを聞こうとしたらキレられたのですが、こちらのテーラワーダ仏教はとても理性的っぽい感じで好感が持てます。こちらが本物な気がします。<br /> <br /> ■生命力(パワー)が上がれば集中力(サマタ系)も観察力(ヴィパッサナー系)も高まる<br /> その後、再度のクンダリーニ経験(詳しくはナーダ音の記事を参照)をしたりインドのリシケシでクリヤ・ヨガを行ったところ、この認識に至りました。<br /> <br /> ここで言っている生命力(パワー)とはエゴのことではなく、根源から湧き上がってくる力、基本的な生命力のことを言います。観察系瞑想と集中系瞑想があると言われていますが、それは瞑想の2つの側面をそれぞれ表しているだけであって、体のパワーが高まれば観察も集中もどちらも高まるし雑念も消えるのかなと。<br /> <br /> 絶対的な視点から見ると観察系瞑想も集中系瞑想も同一で並列ですが、個人から見た相対的な視点からすれば個々の性質に応じてどちらがやりやすいかという方向性があるので、相対的には観察系瞑想と集中系瞑想で良しあしが発生するのかなと。そこで言う良しあしとは人それぞれ向いているか向いていないかという個人的な視点だけであって、向き不向きあるいは好みの問題で良しあしが発生するが、絶対的にはどちらも同一なのかなと。「こっちが良い」とか言うと、あたかももう片方が悪いかのような印象を与えてしまいがちですが、そこで言う良しあしとは、単に個々の指向を言っているだけなのかなと。たとえば、もしかしたら集中が苦手ならば観察系瞑想が得意かもしれないし、そうなれば観察系瞑想が良いとその人は思うかもしれないが、集中が苦手だからこそ集中系瞑想をすべきかもしれない、という面もある。逆もまたしかり。人によっては片方だけやって一生を終えるかもしれないし、両方やるかもしれないが、瞑想は内面で起きていることなので、集中瞑想やっていても観察は高まるだろうし、観察瞑想やっていても集中が高まるでしょうから、どっちもあまり大差ないのかなと。テクニックとしては色々あるのでそれぞれ良しあしはあるだろうけれども、概念としては観察系も集中系も視点が違うだけなんだと理解しました。<br /> <br /> 生命力(パワー)っていうのはクンダリーニだったり他のものだったりするようですが、どちらにせよ、目的は観察や集中ではなくて、観察や集中はアクション(行動)であってHow to(どのように実行するか)だからテクニックの部類なんですね。目的はパワーを高めることなのかな、と。パワーというと語弊があるかもしれないので、生命力を高める、と言った方が分かりやすいかな。生命力を高めることが目的で、その手段として観察瞑想や集中瞑想がある。<br /> <br /> もっと言えば、その根本はと言うと気脈(ナディ)開発なのかな、と。そんな気がしました。見方にもよりますが、気脈(ヨガで言うところのナディ)開発の観点からすればいろいろな瞑想の本質が見えてくる。結局のところ想念観察だとか観察瞑想とか言うのは結果というか現象や経験のお話であって、大切なのは気脈(ナディ)を開発してエネルギーアップすることであり、エネルギーアップすれば自然に雑念も消える。とある瞑想では想念観察とか全く言わないで気脈(ナディ)の開発に焦点をフォーカスしていたりします。<br /> <br /> 元気になればネガティブが消えるのは誰しもが経験して知っていることだと思いますが、それが高度なレベルで起きたときに覚醒だったり神経験がきっと起こるのであって、想念観察したり観察瞑想したからと言って覚醒するわけでもないのかな、と。重要なのは元気になること、というシンプルな点が実はかなり奥深いのかなと。<br /> <br /> 集中系(サティ)とか観察系(ヴィパッサナー)とかに長らく惑わされてきましたが、最近、本質は結局ここなのかな、という気がしてきました。<br /> <br /> <br /> → 関連記事: サマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想と”意”と”識”<br /> <br /> <br /> Thu, 02 Aug 2018 00:00:00 +0900 ハイヤーセルフ、ミドルセルフ、ロウアーセルフ https://w-jp.net/2017/1454/ <br /> ■ハイヤーセルフの一般的な解釈<br /> 時代によって意味するところが変化しています。<br /> <br /> ・1990年代のニューエージブームにおける意味:「本当の自分」と言う自我<br /> ・現代主流で使われている意味:魂<br /> <br /> このことを理解するには、1990年代の時代背景を理解する必要があります。<br /> <br /> 当時は物質社会に生きる人々の多くが行き詰まりを感じており、その行き詰まり感からニューエイジブームが生まれました。そこでは、本来は統一感のある唯一の自我である自分自身が「物質社会に邁進する自分」と「それではいけないと感じて真実の生き方を求めている自分」に分離されていました。その分離が社会現象として起こっていましたので、共通認識として存在したわけです。ですから、ハイヤーセルフと言えば後者の「真実を求めている自分」と言う自我のことを指していました。そして、ハイヤーセルフが魂との橋渡しをしていたのです。<br /> <br /> 以下のような構図です。<br /> <br />  物質的な自我(メイン) 真実を求める自我(ハイヤーセルフ, まだ覚醒されていない意識) 魂<br /> <br /> 当時は、物質的な自我が魂に近づくためにハイヤーセルフと言う概念を必要としていました。<br /> しかし、この分離が解消されてバランスの整った状態になると、ハイヤーセルフと言う概念は消滅します。本来、どちらも自我だからです。<br /> 自我の分離が解消されると、単に自我と魂との繋がりになります。 このとき、ハイヤーセルフと言う言葉は行き場を失い「魂」を指すように意味が変化します。<br /> <br />  自我 魂(ハイヤーセルフ?)<br /> <br /> ハイヤーセルフの元々の意味は消滅しつつあるものの、慣習でハイヤーセルフと呼ぶようなことは続いています。昔と同様に「真実に近い認識を持つ自我」を指す時もあるのですが、それよりも、直接的に「魂」をハイヤーセルフと表現している場合が最近は増えているような気がします。ですので、最近書いた文章ではコンテキストによってどちらを意味しているのか認識する必要があります。<br /> <br /> ハイヤーセルフとのチャネリングの多くは魂に「直接」繋がったものではなく、「物質的欲求など常識の枠を取り去った時に自分の自我が真実に基づいてどのように考えるか」と言う自我とのコミュニケーションであることが多かったように思います。<br /> <br /> そうしてゆくうちに自我の分離が解消され、自我が透明な心を取り戻した場合には「魂に繋がる」と言う意味におけるハイヤーセルフとのチャネリングに移行してゆくこともあるのですが、それは元の意味とは異なってきます。ハイヤーセルフと言うのは元々「自我の分離」を前提とした概念が基本にあったのです。<br /> <br /> ■ハワイの先住民族によるハイヤーセルフの解釈<br /> 書籍「フラワー・オブ・ライフ」によると、ハワイの先住民族の解釈では「3つ」の層があります。<br /> <br /> ・ハイヤーセルフ(高次自己)<br /> ・ミドルセルフ(中位自己)<br /> ・ロウアーセルフ(低次自己)<br /> <br /> これは、一般的な「自己とハイヤーセルフ」という2層解釈とは異なっています。<br /> <br /> 2次元性の意識がミドルセルフ。<br /> ロウアーセルフは地球。端的に言うとロウアーセルフとは「無意識」。無意識は地球上全ての人と繋がっている。ユングの言う集合無意識。<br /> ハイヤーセルフは「すべてのもの」。<br /> <br /> 同書によると、ロウアーセルフに繋がってからでないとハイヤーセルフと繋がることはできないとのことです。<br /> ハワイ先住民によると、地球は2〜6歳くらいの子供であり、ロウアーセルフと繋がるためには無邪気に子供になって遊ぶ必要があるとのことです。スピリチュアリストがグラウンディングを重要視したりインナーチャイルドを「癒す」と言う言葉で表現しているのは、実はこのことのようです。「癒す」と言うと個人の心に傷があるかのような誤解をするかもしれませんが、傷があろうがなかろうが地球と繋がるためには無邪気になって遊ぶ必要がある。そのことをインナーチャイルドとか表現しているようですが、本質はインナーチャイルドではなくて地球と繋がるというところにあるようです。<br /> <br /> そして、地球であるロウアーセルフと完全に繋がった時、地球が貴方にハイヤーセルフと引き合わせてくれるとのことです。<br /> Tue, 21 Nov 2017 00:00:00 +0900 クンダリーニ症候群、或いは禅病 https://w-jp.net/2017/1452/ <br /> 「クンダリーニの覚醒は、ヨギには解脱を与え、愚者には苦悩のくびきを与える」(*1)<br /> <br /> クンダリーニ症候群(または禅病)を調べてみました。<br /> <br /> 症状<br /> ・体の中に熱が篭ってしまい、注意散漫になったり日々の生活に支障を生じる<br /> ・頭痛、神経過敏、高血圧、不整脈、集中できなくなる<br /> ・熱が篭る場所としては下半身、心臓(ハート)、頭など。強烈な熱感或いは圧迫感を伴う。<br /> ・手足が冷たくなる<br /> ・涙が止まらなくなる<br /> ・時に幻覚・妄想・不眠症を伴う<br /> ・いわゆる自律神経失調症のような症状<br /> ・時には死に至る<br /> <br /> 症状の原因としては以下<br /> ・グランウンディング(地に足をつける)が足りない<br /> ・体の中のエネルギーの流れが滞っている。ネガティブな思想がエネルギーの流れを遮っている。<br /> <br /> 解決法<br /> ・エネルギーを体の中で循環させる。<br /> ・円天法などと呼ばれている方法で、背骨を伝わってムーラダーラ(Muladhara)チャクラからサハスララ(SAHASRARA)チャクラまでエネルギーを上げた後に、体の前面を通ってエネルギーが下に降り、またムーラダーラチャクラから循環させるようにしてバランスを取ります。エネルギーを体の前から下に下ろす場合はグラウンディングを意識します。<br /> <br /> この円天法はシンプルですがとても効果があります。クンダリーニ症候群の人は体の中に熱が篭っている状態なので、上記のようなエネルギー循環をするだけで劇的に回復したり、数週間で回復したりもできるようです。<br /> 円天法は一部のヨガでは基本に含まれていますので、クンダリーニ症候群とまでは行かないまでも体の中にエネルギーが滞っている場合など普段からして頂ける方法だと思います。<br /> <br /> エネルギーのブロック要因は各チャクラ特有のもののようです<br /> ・下半身のムーラダーラ(Muladhara)チャクラ。性的欲求の克服が必要。過去生も含めたカルマの克服が必要。<br /> ・下半身のスワディスタナ(Svadishthana)チャクラ。性的欲求の克服が必要。無意識で眠っているカルマの克服が必要。<br /> ・ハート(心臓)のアナハタ(Anahata)チャクラ。ネガティブな感情が渦巻いているとここで詰まってしまいますので楽観的になることが重要。<br /> ・喉のヴィシュッダ(Visuddha)チャクラ。<br /> <br /> このようなクンダリーニの覚醒は本来は師匠について行うべきものですが、時に、準備ができていない人に偶発的に覚醒してしまうことがあり、様々な症状が出てしまうとのことです。特にムーラダーラ(Muladhara)チャクラやスワディスタナ(Svadishthana)チャクラが目覚めるとあらゆる抑圧された感情が爆発的に現れ、いわゆるクンダリーニ症候群になりやすいそうです。このような時は適切な指導者が必要です。<br /> <br /> クンダリーニのエネルギーは、広く一般には下半身から頭に向かって上昇するもの、というシンプルな捉え方をされていると思います。しかし、この一般的な理解だけですとエネルギーが頭で詰まってしまうのです。場合によっては頭上にあるサハスララ・チャクラが開いてエネルギーが外に出ることで事なきを得る場合もあるようですが、エネルギーが抜けずに詰まってしまうとクンダリーニ症候群とか禅病などと言われているものになってしまいます。<br /> <br /> クンダリーニは背骨を通って上昇します。そこで頭の上に抜けたところから、次は体の前を通って下に回します。この部分がいわゆる「グラウンディング」と呼ばれているもので、地に足をついた生活をしているほどグラウンディングでエネルギーが下に回ります。ふわふわした生活をしているとなかなかエネルギーが下に下がりません。社会生活を投げ出して神秘主義に没頭した場合などもグラウンディングし辛いかもしれません。<br /> <br /> 円天法は色々とバリエーションがあるようですが、単純に体の前後を回すだけも効果があります。バリエーションによっては、体の後ろと前をそれぞれ通過させた後に再度頭まで背中を伝わって持ち上げ、次は体の内面を通って丹田まで下ろす、というようなやり方もあるようです。<br /> <br /> どちらにせよ円天法の基本は背中から上昇して体の前面から下降(グラウンディング)です。たったこれだけでクンダリーニ症候群あるいは禅病の症状が改善されるようです。<br /> <br /> 文献:<br /> タオ人間医学<br /> 密教ヨーガ<br /> <br /> ■追記<br /> その後、ナーダ音について調べていた時に意外にもクンダリーニついても色々とわかってきました。詳しくはこちらに記しますが、ざっくりと言うと、ヨーガで言うところのナディ(体にあるエネルギーの通り道、経脈)のうち、背骨に沿って存在しているスシュムナが不純物で詰まっているとクンダリーニ症候群になるようです。<br /> <br /> 円天法そのものがクンダリーニ症候群を防ぐというよりも、円天法のような行法はいわゆる浄化(クリア)に類する物で、クンダリーニを目覚めさせる前に各種のクリアをして浄化をしてからクンダリーニを目覚めさせないととてつもない混乱を引き起こす、ということのようです。詳しくは上記リンク先の最後の方に記してあります。<br /> <br /> ■追記2<br /> その後、クンダリーニ経験ぽいことが起きました。上リンク先と同じナーダ音に関する記事のページに追記してあります。<br /> <br /> ■追記3<br /> 最近気付いたのですが、意識が頭頂にズレてしまうとクンダリーニ症候群と言いますか意識がぼうっとしてしまう気がします。そんな時は意識を後頭部に動かすというか後頭部まで下ろしてあげると落ち着いていわゆるグラウンディング状態になって意識がはっきりしてクンダリーニ症候群っぽく無くなります。これそのものがクンダリーニ症候群という訳でもなさそうですが、単に小周天をするだけではなくて意識をどこに据えるかで随分と感覚が変わるのだなと思いました。<br /> <br /> 通常、いわゆるグラウンディング状態では魂というか意識の居所が後頭部にある気がします。前はそんな意識の場所なんて認識しなかったと言いますか、どこにあるのかもよくわからなかったのですが、最近は意識の場所が分かってきて、意識を体のどこかに向けると意識の居所がちょっと動いたりします。<br /> <br /> スピリチュアル系のワークで「地球を感じましょう」とかイメージするのともちょっと違っていて、確かに地球をイメージすると意識が多少は下方に下がるのでそれにつられて意識も頭頂から後頭部に下りるかもしれないですけど、地球をイメージするかしないかに関係なく、単に意識の居所を意思の力でグッと頭頂から後頭部まで下ろしてあげるとグラウンディング状態になる気がしました。<br /> <br /> これは私の場合であって、他の人も同じようになるかどうかはわかりません。<br /> <br /> 後頭部の上の方にビンドゥ・チャクラというのがありますけど、そこではなくて、もっと下の、いわゆる松果体のあたりがグラウンディングの位置ですね。更に下のヴィシュッダ・チャクラの近く、マイナーですけどチブーカム・チャクラ(Chibukam Chakra)のあたりまで下げても安定しています。ヴィシュッダ・チャクラまで下げてしまうと下げすぎな感じです。チブーカム・チャクラは「瞑想ヨガ 魂のやすらぎ(ワスデーヴァ・ナイア・アイアンカー著)」に書かれてあるものであまり他では見ないですが著者のアイアンカー家ではこのように伝えられているそうです。チブーカム・チャクラはヴィシュッダ・チャクラと松果体の中間より少し下寄り後方ですね。<br /> <br /> ■追記4<br /> 「ヨーガの極意(小山一夫著)」には、クンダリーニ 症候群あるいは禅病への対策としてリードピータ師の書籍を引用して「瞑想を終わる時には、クンダリーニ をムーラダーラへと戻す」と書いてあります。原文の「チャクラ(C.W.リードビーター 著)」を確認してみますと、以下のようにありました。<br /> <br /> クンダリーニ は、ヨギが瞑想のために意思を集中するに連れて、少しづつ、チトリニ気道を昇ってゆく。一度くらいでは大して昇らないが、次にはもう少し昇るから、これを何度もくり返す。(中略)瞑想を終わるときには、同じ道を通ってクンダリーニ をムーラダーラ(根のチャクラ)へと戻す。ただしある場合には、心臓のチャクラまで戻す。「チャクラ(C.W.リードビーター 著)」チトリニ気道とはスシュムナ(主要ナディ)の中にある気道のこと。<br /> <br /> 私の場合、ムーラダーラに戻すよりも後頭部の方が落ち着きます。というか、ムーラダーラまで戻すと逆にバランス崩すような予感がするので後頭部に戻すようにしています。<br /> <br /> <br /> <br /> (*1) ハタ・ヨガ・プラディーピカ(Hatha Yoga Pradipika)3章107番より。訳は「チャクラ」(C.W.リードビーター著)による<br /> Sun, 03 Sep 2017 00:00:00 +0900 スピリチュアルの「3倍返しの法則」 https://w-jp.net/2017/1434/ <br /> スピリチュアルの世界で、他人を恨んだり妬んだりすると自分に3倍で跳ね返ってくる、という法則がある。同様に、他人を判断すると自分に3倍で跳ね返ってくる、という法則もある。どちらも、その思念を飛ばせば自分に戻ってくる、という法則だ。<br /> <br /> それが実感できる人にとっては「その通り」で終わりなのだが、感覚に敏感でないとその意味するところは不明かもしれない。<br /> <br /> でも、考え方としては単純です。<br /> <br /> 他人を恨んだり妬んだり判断する時、その時必ず「集中」する筈です。その集中は、意識的にせよ無意識的にせよ、自らの波動を相手に合わせて行われるのです。自らの波動をラジオのようにチューニングしてわざわざ低くしてしまい、自らの波動が相手の低い波動に合ってしまうのです。ですから、跳ね返ってくる、というよりも、自らが低い波動にチューニングされてしまい、同様のトラブルが次々と舞い込むようになる、というわけです。ミイラ取りがミイラになる、というわけです。<br /> <br /> ですから、何か嫌なことがあっても、すぐにそれを「手放す」ことは重要です。手放さなければ、自らがその低いオーラと同調してしまいます。<br /> <br /> スピリチュアルな理解に従えば、「想い」とは単なる感覚器官の1つに過ぎず、「自分」ではありません。<br /> 例えば騒がしい土地を訪ねて騒音がとても煩い時に、人はその騒音を自分自身だとは思わないですよね。騒がしい土地だ、賑やかな場所だ、と思う筈です。それと同じことです。<br /> <br /> スピリチュアルな理解がない場合、「想い」が自分自身だと勘違いしています。別の言葉で言えば、「心が自分自身だと勘違いしている」とも言えます。心は周囲を感じるための道具でしかない、というのがスピリチュアルな立場です。「自分」とは心を超越したものであり、心の感情とは無関係に永遠に存在します。「魂」とも言えます。魂は心ではありません。魂は心を超越したものであり、心がポジティブになっていてもネガティブになっていても、魂は変わらずそこにあります。<br /> <br /> 魂が自己であり、心は感覚器官でしかありません。しかも、魂は実のところ周囲の人々と繋がっています。ですから、近くにいる人が怒っていたり妬みを感じていれば、まるで自分が感じるかのごとく怒ったり妬みを感じてしまうものなのです。もし自分が誰かに関して怒りや妬みの感情を発するならば、周囲の人に対して心の騒音を撒き散らしているのと同様になるのです。であれば、周囲の人はイライラし始め、同じような感情を発するようになるかもしれません。そして、その感情は自分に返ってきます。それがいわば「3倍返しの法則」になるわけです。<br /> <br /> そして、ある程度の内面の純化が起こった後は、上記のプロセスが加速します。他人に対してネガティブな思いを発すると、即座に自分に返ってきます。純化していなければ自らの思いは強くないのでネガティブな思考であっても届きにくいし、戻って来るときもそれなりです。しかし、純化されている状態でネガティブな思考を発するとその思いは強いので、自らに返って来る思考も強烈になります。純化すればするほどネガティブな思考を避けるべきです。その状態になれば、自ずとこの法則がわかりますから誰に言われなくてもネガティブな思考は避けるようになります。<br /> <br /> ネガティブな思考を発すると自分の心が曇りますので思考の力も弱まります。純化が進めば進むほどネガティブな思考を避けるようになり、思考の力も強くなります。この世界はよくできていると思います。<br /> Sat, 02 Sep 2017 00:00:00 +0900 科学と宗教、そして唯物論 https://w-jp.net/2017/1431/ <br /> 現実が1から100あるとする。<br /> 科学とは理論が証明された1から20の範囲を扱うものであり、時が経つにつれて20から21、22へとその範疇を増やしてゆく。範疇を増やす行為こそが研究であり、科学者が日々行なって謎を究明している。<br /> <br /> 科学の立場からすれば、証明されていない21から100までの範疇は「わからない」と言うのが科学としての正しい立場になる。<br /> 或いは、科学の立場から「仮説」を立てて証明を試みたりする。<br /> 証明された事実(1から20の範囲)と、証明されてはいない仮説(21から100の範囲)を扱って、仮説を証明して科学の範疇を増やしてゆくのが科学の基本的な立場だ。<br /> <br /> 一方で、宗教とは1から100全てを扱うものだ。だから、科学的に証明されているとは限らない。<br /> <br /> <br /> ここで話が終われば明確だ。<br /> <br /> しかし、厄介なことが現実には生じている。特に厄介なのは「唯物論」だ。<br /> <br /> 科学の立場からすれば、証明されていない理論は「仮説」或いは「わからない」としか言えないが、証明されていない内容に対して「間違っている」或いは「存在しない」と判断するのが唯物論だ。<br /> <br /> 科学的に証明された内容と宗教が矛盾している場合に科学的立場を主張するのは普通の科学の立場であり、論理的矛盾もなく、倫理的矛盾もなく、何の問題もない。ここで唯物論が問題になるは、科学の基本的スタンスを歪めて、科学が将来的に証明するかもしれない内容に対しても「存在しない」などと判断してしまう点にある。<br /> <br /> 例えば、ほんの数十年前まで「思いの力」は科学としては「仮説」或いは「わからない」とされてきたが、一部の人が科学的証明を試みてきて今は「思いの力」は存在することが科学的に証明されている。その一方で、唯物論者は長らく「そんなもの存在しない」と切り捨てていた。科学の立場と唯物論は異なるものであり、唯物論に立ったが最後、科学的進歩は終了してしまう。何故なら、科学が既に証明した内容以外は存在しないと自ら諦めてしてしまうからだ。ここに進歩はない。唯物論者は科学的進歩の在りようには目を瞑り、誰かが科学的に証明したら自らのスタンスを変えることで癌のように生き残る。<br /> <br /> 本来の科学の立場は最初に書いたように「仮説」或いは「わからない」と言う前提に立って科学の範疇を増やしてゆこうと努力し研究を続けてゆくものなのに、唯物論は世界の在りようを貶めるだけでなく、科学的進歩をも否定している。この隔たりはとてつもなく大きい。<br /> <br /> 唯物論は、形を変えた宗教として現在に存在しており、特に日本においては、あたかも唯物論こそが本来の科学の姿であると世間で信じられているという、おかしなことになっている。<br /> <br /> 科学が発展してきたヨーロッパやアメリカなど、たいていの国では唯物論など大っぴらに語られてはいない。<br /> 宗教的な理解および振る舞いがない人は、いくら頭が良くても尊敬されないのが世界のスタンダードだ。<br /> そして、宗教的な理解とは、上に書きましたように、科学の範疇と宗教の範疇をしっかりと分離して区別するところにある。<br /> 宗教の範疇と、科学の範疇と、それぞれわきまえているということだ。<br /> <br /> 本来の科学としては、上に記したように「証明されていない事項は、本質的には『わからない』としか言えず、言えるのは仮説のみ」であるのにも関わらず、科学で証明されていないからと言って「存在しない」とみなしてしまう唯物論は、科学の皮を被った宗教でしかない。<br /> <br /> <br /> これが科学だけでなく宗教的にも多いな影を投げかけている。特に大きなものは「人の魂は存在するのかどうか」だ。<br /> <br /> 科学の立場からすれば、魂の存在とは「仮説」でしかなく、本質的には「わからない」としか言えない。<br /> 一方で、宗教の立場からすれば魂は絶対的に存在しているものだ。<br /> <br /> 唯物論的な立場としては、魂は科学で証明されていないので存在しないとみなす。魂が死後も継続するかどうかは宗教によっても解釈が違うが、魂が存続して転生輪廻が存在するとしている宗教の立場に立った場合、もし唯物論の立場になって「魂は存在しなくて生き物が死とともに終了する」と考えるのであれば、人間とは「偶然に生まれた単なる肉の塊」でしかなくなり、人から尊厳は失われてしまう。そこに根ざさなくても尊厳は存在すると考えるかもしれない。しかし、肉の塊でしかないのならばどうして人を殺すのがいけなくて人を傷つけることもいけないのか、という基本的な道徳に対する答えに対して延々と論理で対応しなくてはならなくなってしまう。唯物論では人間とは頭で考える論理的な生き物になってしまい、単なるロボットやコンピュータと変わらなくなってしまう。<br /> <br /> 一方で、宗教の回答はそうではない。多くの宗教において、人間の本質は魂であり、魂は論理を超えたものであるという立場を取っている。<br /> <br /> Fri, 01 Sep 2017 00:00:00 +0900 スピリチュアル遍歴 https://w-jp.net/2013/1594/ <br /> ■小学生<br /> 小学校の頃に全身が光に包まれて体から抜け出していわゆる幽体離脱をし、守護霊やハイヤーセルフと出会い、未来を探検して自分の人生を俯瞰して再設計をする経験を二回以上体験する。私の過去生のある程度の遍歴や、今生に何のために生まれたのかを知る。今生の目的や、いわゆる並行世界(パラレルワールド)における数々の失敗や、どうして今回この時間軸(複数ある並行世界のうちの1つ)を選んだのか、という見解を鳥瞰的に知る。自分の過去の人生における繋がりを知る。他にも細かな不思議な出会いや出来事がありました。過去の記憶と思われるものもかなり思い出しました。もちろん確証はそれほどありませんが、相手が覚えていなくても過去生との繋がりのわかる子供時代でした。それには過去の人生における妻や友人ももちろん含まれます。私の場合、過去生の妻の繋がりが多いようです。思うに、過去生の記憶を持っている人って、世間で思っているよりもかなり多い気がするのですが・・・。教育で過去生なんてないと教えられますから気のせいだと思っている人も多い気がしますが、少なくとも、私の周囲には過去生を覚えている人はかなりいたと思います。未来にそうなる気がしていても、実は並行世界を見ていることも多いのだという事を知りました。そんな感じで当時からスピリチュアルには興味がありましたが田舎では大した書物もなくて当時はネットもなくて情報も少ないながらも多少ながら神秘体験を経て一旦は成長しますが次第に環境諸々に潰されてマイナス面が強い日々を過ごします。<br /> <br /> ■宇宙人とチャネリング<br /> 子供時代、同級生に宇宙人とチャネリングしている人がいました。本人はそんな事他人に言いませんでしたけど、一定の距離に近くと指向性スピーカーのように思念派を盗み聞きできてしまうのです。どのくらい音漏れ(思念漏れ?)に本人たちは気づいていたのですかね・・・。宇宙人(と言っても人型なので割と人間と同じ)のサポートで、他の人がどんな状態なのかとか、将来どうなのか、とか、基本的なスピリチュアルについて学んでいるようでした。ある日、興味本位でそのチャネルに横から繋いで宇宙人とチャネリングした時に「なんだお前は?誰だ?」って言われて、宇宙人は全生徒のことを調べ尽くしているらしくてその人しか知らないことを教えてくれましたけど、私がそのことをネタにくっだらないことしたら宇宙人を怒らせてチャンネル切られちゃいましたけど。同じく同級生の父親が、宇宙人とコンタクトしているスイス人のビリー・マイヤーの本の翻訳をしていたりしました。時代的にもニューエイジですけど、普通こんなに面白い人が沢山同級生にいるものですかね?<br /> <br /> ■過去妻(過去生での元の妻)<br /> 過去生での元の妻も複数人、同級生にいましたし。本人はそれに気付いていたり気付いてなかったり。あの世では割とこの世と同じように生きているのですけど、地上に生まれたら過去生の事をかなり忘れてしまうものなのかもしれないです。あの世で話したことを覚えていたり覚えていなかったり。そうそう。あの世でも嫉妬や横恋慕はあるもので、私が地上で結婚して妻(の魂)と一緒にあの世に帰って行くと、過去生の妻の中には嫉妬する人もいたりして・・・。大抵は仲良くしてくれるのでいいのですが、時々面倒に感じてしまって。ほとんどの過去妻はとてもいい人なのですけど、それでも、時々嫉妬はするものです。そんな人が地上に生まれてきて同級生や1学年違いとかで同じ地域に生まれると、それはそれであの世とこの世が連鎖した変な恋物語になったり・・・。あれまあ。なんてことでしょう。ただでさえこの世の恋は面倒なのに前世からの繋がりなら、もっと厄介です。他の人は、前世との繋がりとか知らずに苦労していたりするかもしれないですけど、私の場合は思いっきり理由も何もかもわかっていますから、よくあるように他人に責任を被せて被害者面もできず・・・。私のカルマですね。過去妻からのアプローチは割と激しかったのですが、私は今生で達成すべきことがあるので独身を貫く・・・ と言いますか、メンタル的にそんな余裕も次第になくなってゆきます。<br /> <br /> 過去妻の半分くらいは、私が新しい妻を連れて行っても気にしないで楽しくやってくれるのですが、4分の1くらいは何も言わないですがちょっと不満もあるらしく、残りの4分の1は積極的に「私を連れてって」って言ってくる感じです。でも、どうも私の輪廻転生の回数も残り少ない(ひょっとしたらこれが最後かも)感じで、過去妻の世話をどうしようかと言う感じです。過去妻はいい子が多いですけどまだ地上で学ぶことが多い子もそれなりにいるので。<br /> <br /> 過去妻だけでなく仲の良かった人も一緒に暮らしている感じで、来るものは拒まず、と言う感じです。どうやら男とは喧嘩したりするので男はいなくて、いるのは過去妻だらけです・・・。チャネラーとかにリーディングしてもらうと、「出てくるのが女の人ばっかり!?」とか驚かれてしまいます。<br /> <br /> ■ニューエイジ<br /> 大学時代からはUFOやニューエイジ等に興味を持ち、各種団体に顔を出しますが、本質には到達せず。この頃、小学校の時に自分で俯瞰した将来像を度々垣間見たので体験が本物であったことを実感する。過去生で私が女だった頃に夫だったこともある人(チャネラーになってました)と会いましたね。一目見ただけで色々思い出しましたが、過去生で辛いことを私がその人にしてしまったので私とは距離を置いてました。まあ、性別も変わっていますしね。<br /> <br /> ■恋愛と性欲<br /> 性欲は割とコントロールできない方でした。恋愛も、基本的に誰でも好きになってしまう方でした。ヨガを始めてから次第に性欲のコントロールが可能になって、性欲がよりポジティブなエネルギーへと変容しました。<br /> <br /> 小学生は恋愛のことはよく分からなかったですが過去妻が言い寄ったり仲良くなったりもしましたが今生では私の計画がありましたのでそこで恋愛や結婚をしてしまうと計画に支障が生じるのでそれは断ち切りました。中学生の頃は周囲との葛藤があったりして恋愛どころではなく、高校生も同様でした。このあたり、並行世界を垣間見ると、高校生のあの子と恋愛になっていたら将来ああなって結婚するものの、最終的には仲が険悪になって全部私が悪いことになって離婚で、周囲には私だけが咎められるし最悪なので根本から切ったりしました。<br /> <br /> 大学時代は恋愛というよりも他人を小馬鹿にする性格の悪い女をとっちめるためにあれこれ気を回していたらいつの間にか好きなような気になってしまったけれども実は好きでもなんでもなかった、という経験もしました。恋愛かと思ったら勘違いでした、というようなことも人生にはあるようです。<br /> <br /> 大学卒業後は恋愛どころではなかったです。何人か候補もいましたけど、やはり並行世界を垣間見るとあまりよろしくない将来が見えたのでやめました。どうやらそれが正しかったことがわかったのはヨガを始めてからです。<br /> <br /> 性欲がほぼ理想にまで昇華されたのはヨガを始めて数年後のことで、それまでは性欲に悩まされ続けました。<br /> <br /> ■大学時代<br /> 大学時代はマイナス面の強い性格のために周囲との軋轢を生む。この辺りは時代的なものも影響していたかもしれません。自分ではどうにかしてマイナス面をプラスに持って行きたくても、高校時代までのストレスがヘドロのように固まってこびりついていたので大学時代でそれを全て浄化するには至らず。自分の意思とは無関係にマイナスが体から出てしまう日々。当時は、私の内なるガイドにたまに怒鳴られていたと思います。大学時代に、とてもスピリチュアルに詳しそうだが違和感のある偽覚者と出会い、自分の判断力をつける重要さを実感します。他人に強制したり他人を操作したり共依存な関係になってはいけないというレッスンを学ぶ日々。辛いメンタル時代でしたしそれがレッスンでしたが、時々、それに私が押し潰されそうになっている時、きっと私のガイドはそんな私を見てイライラしていたのでしょうね。人によってはガイドがつきっきりで教えられる場合もあるようですが、私の場合は課題の1つに自主性を養うことが入っていましたのでガイドの案内は最小限でした。このあたりはその後、私が生まれてきた理由を瞑想で探ることで納得したので今は解決済です。<br /> <br /> ■スピリチュアル受難の時代<br /> 大学時代にスピリチュアルの「頭での理解」を一応しますが、覚醒にはほど遠い状態。大学時代にオウム事件があり、大学卒業してからもしばらくはスピリチュアルや精神世界というだけで馬鹿にされたり見下されたり嫌われる時代で、なかなか厳しい時期でした。<br /> <br /> ■過去の夫<br /> 私が過去生で女だった時に夫で、私の心を貶めて奴隷状態にして何も考えさせないようにして「ハイ」と言うまで精神的に追い詰めて奴隷化してきた過去生での夫と大学時代にばったり出会い、私は二度と関わり合いたくありませんでしたし男で相手も男でしたので会ったのは1回きりでそれ以上は何もなかったのですが、一瞬にして私は(おそらく相手も)過去のことを思い出しました。相手からすれば、カモをようやく探し出したのに今世では男同士だったのにカモにすることができなかった、と言う残念な気持ちがはっきりと伝わってきました。過去生ではその男が私をいわゆる「強制」「操作」していたわけですが、そのような状態には二度とならない、と言うレッスンだったと思います。この男に限らず、私を見ると精神的にカモだと思って強制・操作してくる男(だけでなく女も)がいたりして、私を見るだけでそう言う男は私をカモだとすぐに認識できるらしくて、ニヤニヤと気持ちの悪い顔をして近寄ってくるのがおぞましかったです。ですから、大学時代のレッスンとしては他人に強制されたり他人に操作されない、と言うのがありました。この「強制」「操作」「共依存」からほぼ解消されるのはその20年後の40歳前後になってからなわけですが、その間、他人を強制・操作しようとする人に会うことが度々あって、その度に自立を保つのが大変でした。いつも、精神的に折れそうになると助けが入ったり相手が勝手に失敗して目の前からいなくなったりして、見えない存在の導きを強く感じました。おそらくは見えない存在はやろうと思えばそんな厄介な相手をトコトンまで完全に潰すことが簡単にできるのですが、私に学ばせるためにギリギリのところまで手は下さずに私の成長を見守っているようでした。まあ、今でも私は割と脇が甘いのですけど、それでも、生まれた時に決めた及第点のレベルはクリアしている感じですので、とりあえず良いかな、と思っています。<br /> <br /> ■カルマの解消<br /> 私の過去生においては対外的に成し遂げないといけない使命がいくつもありましたが、使命を優先させて結果重視にしたことで軋轢を産んでカルマを貯めてしまっていたのですが、そのようにして貯めたカルマを今生で返したのです。ですから、今生では私の成し遂げないといけない使命はほとんどなく、カルマをある程度(と言っても大量ですが)解消すればとりあえずの人生の目的は達成されたことになります。解消するカルマのうちには「貧者の気持ちを知ること」も含まれていましたので、あまり過去生で体験したことのないバランスシートを体験してなかなか辛かったこともありましたが、良い経験だったと思います。<br /> <br /> まあ、カルマと言っても、私のグループソウルが溜め込んだものですので、私個人としてそれほど罪やカルマの重荷を感じることはない、と言われています。今生の目標としては全てではなくある程度のカルマ解消さえできればOKですし、残ったカルマもグループソウルで吸収して分散してそれぞれの分霊が対処すれば良いくらいにまで薄まる予定ですので。色々と過去生のカルマがトラウマのような形で思い出されますけど、それを全て1人で抱え込む必要はないようです。とは言いましても今生はそれなりにキツくて、グループソウルの分霊の中でもかなりカルマの苦しみは辛かった方だったようですが。他の分霊は使命重視で動いていますが、私はカルマの解消を重視している、という違いはあります。<br /> <br /> ■過去生での使命とお金<br /> 使命がある時は使命優先でお金はどんどん入ってきますが、今回はカルマの解消が優先ですのでそのような貧者の気持ちや弱者の気持ちを知ることが重視されています。今生では貧困を知ることが課題の1つでもあったために今生には付いてこないように過去妻たちには理解してもらったのですが、今生で付いてきても苦労をかけてしまうから結婚はできないと言ったのに興味本位で地上に転生して付いて来る人がいたりして、ちょっと困りました。私の過去妻は育ちが良い子ばかりですし基本的にお金は困らない人生を送ってきた人がほとんどですので今生で私がしようとしていることに付き合わせるのは難しいですし。基本的に、過去妻の多くにはお金の制約をかけたことはほとんどなくて、ほとんどの妻にお金は好きに使うように言ってありましたので過去妻はお金のない人生にはあまり慣れていないので。まあ、最近はそれでも無制限とはいかなくてそれなりに制約があることが多かったですが、基本的には、それほどお金に不自由はなかったと思います。<br /> <br /> ■輪廻転生と類魂・グループソウル<br /> よく輪廻転生がどうこう、と言われていますけど。輪廻転生はあります。昔から輪廻転生は言われていましたし、最近のスピリチュアルではグループソウルとかの概念があります。宗教によっては輪廻転生はありませんが、個人的には人間の魂の輪廻転生はあると思っています。パターンは二つです。<br /> <br /> パターン1:魂がそのまま輪廻転生する<br /> パターン2:一旦グループソウルに合流してから分霊を作って輪廻転生する。<br /> <br /> 大きく分けてこれらの2パターンがあって、魂がそのまま他の体に入って生まれ変わるケースと、類魂(グループソウル)と一緒になってから再分裂してから体に入る場合とがあります。私の今生の場合は後者のパターンで、過去生の記憶は必ずしも自分の魂100%の過去生ではありません。<br /> <br /> ですので、輪廻転生はどちらか一方ではありません。スピリチュアリストによっては必ず一旦グループソウルに合流してから輪廻転生するとか、あるいは、グループソウルなんてない、という人もいらっしゃいますが、両方パターンがあります。これは私の過去の記憶や幽体離脱した時に得た知見によるものですので、証明しろと言われても難しいです。信じないなら信じないで問題ありません。<br /> <br /> ■グループソウルと過去生の遍歴<br /> 小学校の頃の幽体離脱で私の類魂(グループソウル)の根源も見ました。全部は書ききれないですし、ものによっては微妙なものもあるので。ただの夢かもしれませんし。私の今の魂の40%はしばらくここ日本で転生を続けていた男(ビジネスマン)の魂で、その魂はそれなりに学びを終えて、一旦は一つ上の段階の世界に移ったのですがその世界で自分がまだ足りていないことを知って、再度学習するために地上に生まれてくる時に、一旦類魂(グループソウル)と一緒になってから再分裂したのです。他の40%は女だった魂。残りの20%は雑多なカルマを持った各種の魂で、判別が難しいですね。でも、大体の系統はありますけどね。女の人生だったり別の男の人生だったり、色々とくっついています。歴史上に名前を残した人もいますけど、無名ももちろんいます。別に私の今の魂100%がそのままではないので自分の過去生だとはなかなか言いにくいですけどね。<br /> <br /> 類魂(グループソウル)にも意思があって、今回の私の転生の意図としては、これまでの使命において使命を優先させたことによって溜めてしまったカルマや学びが足りないところを学ぶ、と言う課題が設定されました。はっきり言って、今回は私の苦手なところばかりをここぞとばかりに課題として詰め込みましたので、かなり大変な人生でした。おそらくは、今まで類魂(グループソウル)が生きてきた全ての人生の中でもトップクラスに苦しい人生だったように思います。きっとそれは類魂(グループソウル)も認めてくれると思います。「そうそう」と言う同意の意思がどっかから聞こえてきますよ(苦笑)ですから、過去で使命を持った人生よりもかなり今の魂は貧弱です。カルマ解消重視ですから。<br /> <br /> ■ヴェネチアあたりの教会の大司教<br /> とても申し訳なく思っている過去生があって、たぶんヴェネチアあたりの教会で大司教だった時があるのですが、その時に、昨今でも問題になっている「キリスト教で神の名の下に恐怖を植え付けてしまう」問題の根源を作ってしまったような感じで、とても後悔しています。今の庶民としての人生ではそれを変えることはなかなか難しいですけど。神の意志に従って正しく生きないと神罰が下ると言うような内容で人々を恐怖に陥れてしまいました。その当時、人々のモラルが問題になっていましたが、教化の仕方がまずかったと思っております。死んだ後に、葬式の儀式の時に無人で鐘を鳴らし、その数年後と十数年後、合計3回くらい、私が見守っていることを示すために鐘を揺らして知らせたように思います。まあ、これも、ただの夢かもしれませんけどね。教会の記録を調べて裏を取りたいと思いましたけど、教会もたくさんありますし、そのような記録の調べ方もわかりません。<br /> <br /> ■宇宙船で暮らした時のお話<br /> まあ、本当かどうかはわかりませんけど、幽体離脱した時や夢の中で知ったお話。私のグループソウルの分霊の1人が中世にヨーロッパで聖職者か論者か何かをして暮らしていましたが、まだ地球人に詳しくない宇宙人が地球人調査のために接触してきて中年以降の半生は宇宙船で暮らしました。その宇宙人は人型でした。その次の転生も宇宙船で生まれましたけど、その時はそのまま生まれ変わった訳ではなくて一旦グループソウルに合流してから再度分霊になって転生。その時はなかなかやんちゃな人生だったようで、子供の頃から他の宇宙人の子供とよく喧嘩になって困らせていたりしました。時期的には割と最近のお話です。次の転生は地球に生まれたいなあ・・・ って感じで次に地球に(今回)生まれました。そのまま生まれたというよりは、やっぱり一旦グループソウルと合流してから分霊になったので上に書いたようにパーセンテージで言うとそのまま私自身ではないですけどね。そういえば、その時の任務で他の惑星の霊的成長を助けるために私の魂がその星の生物の体に入ったこともありました。地球よりも同じか若干それよりも精神的な成長が遅れている星で、嫉妬や争いが絶えない星で苦労しました。まあ、今世では今のところ宇宙船との絡みはないですけど、可能なら任務に戻ってもいいかなと言う気もしていますが。最近は地球で動くスタッフも増えてきたようなのでそれほど人手不足な気もしませんが、実際どうなのでしょう?<br /> <br /> 魂が連続で肉体は一時的なものですので、例えば他の星の任務に就くために転生する場合は今の肉体を分子に至るまで消滅させてから魂が移動してターゲットの肉体に宿ります。この時は寿命を待つ訳ではなくて肉体がなくなれば魂だけになるので自分で移動して赤ちゃんに宿る訳です。帰ってくる時は普通に寿命を迎えてから魂が宇宙船にまで戻ると、元の体を再構成した中に魂が宿ります。記憶とかは魂が持っているので記憶は継続しているわけです。ちなみに、その惑星の生物はタマゴのような形に小さな手と足がついたようなキュートな生物でした。漫画に出てくるような(苦笑)まあ、単なる夢かもしれないですけどね。でもまあ、若い頃にUFO関係の団体を巡った時に絡みのある記憶を持った人とも出会ったりしたので、私一人の記憶という訳でもなさそうです。<br /> <br /> ■私につきまとう、しつこい魂<br /> 私をカモだと思ってしつこく私の人生の周りに転生してくる魂もあって、最近ではその対処方法も慣れたもので、近くに住んでいても基本は無視でか、引っ越すことで無関係です。まあ、他人をカモにして生きている人もいるのですね。あまりにもしつこいので、私の近くに来ると酷いことが起きるように罠を仕掛けたりするようになりましたけど。いつまでもカモで大人しく従っていると思ったら大間違いなのです。まあ、その辺りも今回の人生のレッスンの一つでカルマ解消の必要があるのですよね。<br /> <br /> うまく計画通りに行けば、いずれ起こる東海地震の津波でその人の家は流されて、本来はその人も津波に流されて死ぬ運命にあるようですけど、私は慈悲深い(皮肉です)のでインスピレーションを送ってその人を助けることにします。地震が起こる少し前に買い物に行くように仕向けて車に乗らせ、家から離れて安全な高台に逃れさせます。優しいでしょう?(皮肉)ですが、きっと死んでいた方が楽で、家を無くして財産も無くして避難所生活になって残りの数十年を暮らしますので、生きられるとはいえ、辛い人生になる筈です。それで、私につきまとってもしょうがない、とついに諦めてくれる筈です。命を助けることでしつこい縁を切ることもできるなんて、なんて素晴らしいのでしょう。うまく行くといいですけど。<br /> <br /> 私をカモだと思って近づいてくる人は、私は表立ってはそんなに拒否はしないですけど、こんな感じで裏でその人の人生を大きく変えることで私から突き放します。どうやら私にはこのようなやり方が合っているようです。当人は私がそんなことしているなんて考えもしないでしょうから恨みがこちらに来ることはほとんどないでしょうし。私がしている、と言っても、私の顕在意識がしているわけではなくて、私のグループソウル(類魂)がそのあたりに手を回してチャチャっとやってくれるような感じで、私の顕在意識は後から知らされるだけですけど。私のグループソウル(類魂)の方が何枚も上手なのだと思います。そりゃそうですよね。私はカルマ解消のために弱点を集めて転生することでカモなところだけをさらけ出して生きているだけで、グループソウルの方は基本的に私より何倍も優秀なのだと言うのはよく分かります。私がカモに見えても、それはレッスンを受けるためであって、私を本当にカモだと思って近づいてくる人は基本的に裏からしてやられていると思いますし、程度を超えてくる人に対してはこっぴどくやり返していたり私の知らないところで私から離れるように調整しているようです。ほんと、私のグループソウルはそのあたりプロフェッショナルだと思います。私の今世の顕在意識がほんのちっぽけの凡人に見えてくるくらい私のグループソウルは優秀すぎるのです。まあ、実際、私の今生は割と凡人ですけどね。それはカルマの解消のために仕方がないです。<br /> <br /> あとは、私の過去妻たちも私の周囲の人々に怒ったりします。特に、私に近寄ってくる変な虫(女)には睨みつけて頭痛起こして退散させたりします(苦笑)ですから、私に近づいて仲良くなる女性は、私だけでなく、私の過去妻にも気に入られないといけないのです。きっとこれはハードルが高いです(苦笑)基本的に、めちゃくちゃいい子であることが第一条件なのですが、態度が上辺だけかどうかは過去妻がその女につきまとって調査しますから全てお見通しなのです。いやー、チェック厳しいです。でもまあ、上に書きましたように、今生では目的がありますから私は独身を貫きましたので、気の回しすぎではあるのですけど。<br /> <br /> ■お墓はいらない<br /> そうそう、そんな感じですので、実際のところ「墓」はいらないのかなと思っております。死んだ後に墓に行くことなんてほとんどないと思います。大抵は類魂たちのところに行って賑やかに楽しそうに暮らすでしょうから。<br /> <br /> ■地球の人口<br /> グループソウルという観点からすれば分霊も合体も可能ですので、魂の人数という観点からは地球の人口が増えたとか減ったとかはそれほど気にしなくても良いと思っています。地球の許容量としてどうなのか、というお話はあります。津波や地震やポールシフトで大量に死んだとしても、確かに一時的には息苦しいとか傷が痛いとかはもちろんありますけど、魂という観点からは継続するので、その点は心配しなくとも良いと思います。<br /> <br /> ■他人の立場で考えること<br /> 生まれ変わりは存在しますし、必ずしも現在の家系に生まれ変わるとは限らないと言いますか、むしろ現在の家系に再度生まれる方が珍しいので、現世でしこたまお金を溜め込んでも来世にはあまり関係がありません。とは言いましてもグループソウル(類魂)の繋がりがありますし、優秀なグループソウル(類魂)がいるのであれば来世の計画も立てますのでそうそう変なことにはなりませんが。例えば、やろうと思えば酷い魂を赤ちゃんの体から無理やり引っぺがして貧困家庭に放り込む、みたいなことも可能なのです。ですから、あまり他人に恨みを買うようなことはしない方がいいと思います。そこまでされるとなるとよっぽどのことだとは思いますけど。<br /> <br /> ■男女の違い<br /> 魂には本来性別はありませんが、何度も転生を繰り返すうちに「慣れ」とでも言うべき性的な特徴ができてきます。それは、グループソウルに一旦合流した時もそのコアの部分はそれほど混じらずに残ります。グループソウルから分霊が分離する際は、元になった部分が元々男だったのか女だったのかによって大体の性の特徴がまずできます。9対1の場合もあれば6対4だったりすることもあります。性別は、来世での使命や目的に従って選ぶのが基本です。ですので、目的に応じた性別と魂の前の性別が一致するときもあればしない時もあります。基本は納得して性を選ぶので生まれてから次第にその性別になって行くのですが、そうでない場合もあります。最近では性別が二つでなくて細分化されていますが、本来、性別は自分で選んで生まれるものであれば選んだ性別を全うするのが基本ですが、女で生まれると使命が果たし辛いので男性を選んだり、あるいは、女性で生まれると虐待が怖いなどの理由で男性を選ぶ場合もあるようです。これらの幾つかの場合は、例えば、魂の以前の性別と今世で本来生まれたかった性別と実際の肉体の性別とが一致しないなどの理由により昨今のように複雑な性が生まれているように思います。とある男性の場合は本来は女性で生まれたかったのだが並行宇宙での未来のアストラル・ビジョンによるともし女性で生まれていたら性的虐待で苦しんだり男性から強制されたりするのが嫌で男性を選んだ、みたいな場合もあるようです。今生の酷い世の中の問題を避けるために性を選ぶ、という場合もあるようです。そのような複雑なケースも最近はありますが、本来の平和な世の中になれば自分がなりたい性別に生まれることにより複雑な性は減って行くはずだと思います。そのほかには、国の政策や社会的事情で特定の性別が少なくて違う性別で生まれると言うケースもあるにはあるようですが。たまに聞くように、列に並んで順番で用意された体に入る、みたいなお話もあるのかもしれませんが私はよくわかりません。私の場合は基本的に自分やグループソウルが人生を設計していますので。この世の中には色々な出自の魂がいますので、そのように順番で決めると言うグループもあるのかもしれませんので、特に否定はしませんけど。<br /> <br /> ■男と独占欲<br /> 友人にせよ夫にせよ何にせよ、男として生まれると独占欲が強くなるらしくて、そう言う人は男だろうと女だろうと私は好きではないのです。それでも女性はそのあたりをなんとかしてくれるのか、あるいは私との相性が良いだけなのか、女性の方が独占欲は少ない気がします。そう言うこともあってか、死後の世界の私の周囲には女性が多い(というかほとんど)のようです。男は独占欲があるし強制・操作しようとするのでめんどくさいのです。<br /> <br /> ■就職後<br /> 就職後はスピリチュアル受難な時代でしたしスピリチュアルな余裕もなく仕事で心が疲れてゆく日々ですが、何回か転職をすることで一応落ち着きます。<br /> <br /> ■コンピュータとスピリチュアル<br /> コンピュータも意外にスピリチュアルな面もあって、日本ではそうでもないですけどシリコンバレーとかですと瞑想は割と普通ですしいわゆるゾーンとか言われている集中と判断力が高まった状態で楽しく仕事をすることもあるので、一般にはコンピュータとスピリチュアルは遠いと思われがちで日本の場合はスピリチュアルではないIT業界が大部分ですけど、一部では割とそうでもないのかなと思っています。このあたりもレッスンの1つで、私は過去生までスピリチュアルに偏っていましたので論理的思考を強化するためにコンピュータを学ぶことにしたようです。論理的思考が弱いと理屈が通らないことを情緒的に誤魔化してしまうことが過去生であったようで、矯正すべき課題の1つでありました。私の周囲に同様に誤魔化しがちな人が度々出現したのも、自分の悪い点を客観的に知るために近くに現れたのだと思っております。<br /> <br /> ■ヨガ<br /> そして、インドから帰任する直前に生まれて初めてヨガを少し行い、その後ブランクはありますが世界一周後にヨガを再開し、今に至ります。子供の頃の幽体離脱で人生の目的を知った訳ですが、知ることと、実際にそれを行うのはとても違いましたので、かなり苦労しました。今回はカルマの浄化の集大成としてかなり課題を詰め込んでおり、過去生で少しづつ溜め込んでいたマイナスを一気に解消しようという目的がありましたので、かなり大変でした。<br /> <br /> ■及第点<br /> だいたい40歳くらいまでにカルマの解消の合格点は一応クリアしたのかなと思っております。平行世界での失敗を踏まえたり、今生で達成せずに魂を分離していわゆる分霊を作って別の人生で特定のレッスンをクリアする、などということも行なっていたようです。「ようです」というのは、私の顕在意識はその辺りは関与しませんので、並行世界とかの調整や分霊を作るという決断はハイヤーセルフというか私の無意識というか魂のレベルで行なっていますので、私の顕在意識は時折その事を知って「あ、そうなんだ」と思うだけだからです。<br /> <br /> [2019/7/28追記]<br /> ■ヨガ<br /> 今は意識のレベルアップが課題ですので、最近の興味はヨガばかりの毎日です。そんなこんなで、教えてはいませんが勉強のために全米ヨガアライアンスの先生の資格 RYT200 をインドのリシケシで取りました。ここしばらくは日々の瞑想が日課です。ヨガをしてから浄化の印であるナーダ音が聞こえ始め、その後、いわゆるクンダリーニ経験を経て、今に至ります。ようやく、今まで犠牲にしていたものが報われた、という気持ちです。今まで何十年もメンタルで苦労していましたが、ここに来て晴れやかな気持ちになり、気力も充実して、平穏な日々を過ごせるようになりました。これこそが、私が今生でクリアしようとしていた課題で、カルマの解消でした。大体の及第点は取ったのだと思っております。でも、ここがスタート地点で、ここから始まるという感じもありますけど、まだ何が始まるのかはちゃんとは分かりません。<br /> <br /> ■ヨガ遍歴<br /> <br /> <br /> ・2015年1月 インドのアシュラムで生まれて初めてのヨガ 2週間 合宿。その後しばらくブランク。<br /> ・2016年10月 日本の近所でヨガ再開。1週間ごと1回90分<br /> ・2017年8月 ヨガの頻度を上げ、ほぼ毎日90分<br /> ・2017年10月 雑念が減ってくる。ようやくヨガをしている感じになってくる。ヘッドスタンドが短時間だがようやくできるようになる。ヨーガで言うプラティヤハーラの段階。<br /> ・2017年11月 ナーダ音が聞こえ始める。ヨガをほぼ毎日し始めてから約3ヶ月後<br /> ・2018年1月 第1回目のクンダリーニ体験。ムーラダーラの電気ショックと眉間の皮膚から数センチ離れた空中(アジナ・チャクラ?)でのエネルギーの爆発。ほんの少しのエネルギー。<br /> ・2018年 肉食の頻度が減ってゆく<br /> ・2018年11月 第2回目のクンダリーニ体験。クンダリーニ本体はまだ上がっていない雰囲気。2つの光の筋が上がっただけ。仙骨か尾骨のあたりに熱を帯びて血液が激しく脈打つ。かなりポジティブになる。性欲がかなり解消されて自然な(努力のいらない)ブラフマチャリア(禁欲)の達成(性欲10分の1)。性欲に悩まされることが激減する。睡眠時間の短縮。声が出しやすくなる。ムーラダーラ・チャクラからマニプラ・チャクラが優勢。時間が経つにつれてマニプラ・チャクラ優勢に。ようやく「普通」になった、という感じがしました。<br /> ・2019年1月 インドのリシケシでハタヨガTTC200卒業<br /> ・2019年 ベジ食の率が高まる。雑念がかなり弱まり、ヨーガで言うダーラナ(集中)と思われる段階へ。<br /> ・2019年7月 第3回目のクンダリーニ経験。 (五大要素の)「風(Air)」のエネルギーによる竜巻が腰から頭まで上昇。第2回目のような光の筋はなし。竜巻は頭の周囲で発散(頭上および前後左右に発散)。うなじの下(大椎?)に少しの熱を帯びて血液が脈打つ。ハートがジンジン。第2回目ほどの変化はなし。性欲が更に10分の1 (第2回目クンダリーニ以前と比べると100分の1)になり、性欲に悩まされることがほとんどなくなる。アナハタ・チャクラが優勢。頭の中も血液が鼓動して微細な振動がして活性化。瞑想の質が高まる。ヨーガで言うディヤーナ(瞑想)と思われる段階へ。<br /> <br /> Fri, 01 Mar 2013 00:00:00 +0900 韓国 https://w-jp.net/topics/韓国/ 韓国 夢で見た日韓関係 https://w-jp.net/2019/1716/ <br /> 夢で見たのか瞑想で見たのか忘れてしまいましたが随分前に見た日韓関係のお話です。本当かどうかはわかりませんけど。<br /> <br /> 戦後ずっと日本と韓国の間はギクシャクしているように感じますが、実際のところ、次のようなことのようです。<br /> <br /> 日本と韓国はかつて契約を結んで、擬似的な結婚関係になった。それは戦前の韓国併合のことであるわけですけれども、それは日本が夫で、韓国が専業主婦になる、と言う擬似的な結婚関係だったようです。<br /> <br /> このことは今も一部の論者が主張していますし、どこかで聞いたことがあります。<br /> <br /> そして、現在の日本は離婚して(離婚させられて)今は無関係な男として生きているわけです。<br /> <br /> 一方、妻である韓国としては、自分は本当は離婚したくなかったのに無理やり離婚させられて、一生ずっと自分(韓国)の生活の面倒を見てくれると言った筈のかつての夫(日本)に対して夫としての責任を果たせ、と言っているようなのです。<br /> <br /> これは、日本に住んでいる私にはちょっと理解に苦しむところがあります。<br /> <br /> 実際は、韓国の中で日本の支配に対して反抗して独立しようとした勢力もあって、今はどちらかと言うと独立勢力が強くなっているのかな... と思っていたのですが、どうやら、韓国の国としてはいまだに女性としての性が優勢で、国が女性ですから、日本が面倒みてくれないのであれば他の国に面倒を見てもらうしかなく、本当は日本がいいのに夫に戻ってくれないので仕方なく中国とかロシアとか北朝鮮とかにおべっかを使って生活の面倒をどうにか見てもらいたい... という魂胆があるようなのです。<br /> <br /> ....まあ、夢で見た話ですよ?<br /> <br /> 韓国としても、戦後にいきなり敗戦国になって日本が撤退して貧困のどん底に突き落とされ、日本を恨んだのはそうなのでしょうが、その理由としては、日本の支配に対して怒ったというよりは、面倒を見てくれると約束した夫である日本が失敗して貧困に陥ったので恨んだり怒ったりした、という構図のようなのです。<br /> <br /> ですから、名目上は日本の支配に対して怒ってはいますけど、実際は、離婚させられた妻の恨み辛みが形を変えて表に出ているようなのです。<br /> <br /> 夢ですから、本当かどうかはわかりません。本気にしないでください。私もこれが本当かどうかはよくわかりません。余談くらいに思っておいて頂ければなと思います。<br /> <br /> Thu, 14 Nov 2019 00:00:00 +0900 インド https://w-jp.net/topics/インド/ インド インドのハタヨガTTCとクリヤヨガの思い出 https://w-jp.net/2019/1713/ <br /> 昨年末にインドのハタヨガTTCを受講したのですが、その時に色々とありました。詳しくは書けていなかったのですがメモをまとめておきます。<br /> <br /> 2018/9/27<br /> 冬のインド計画。瞑想を学ぶスクールへ1ヶ月通う[計画中]<br /> ・ヨガ系の瞑想。哲学(ダルシャン)、解剖学(サリーヴィギャン)、ヨガ(ヨグ)、心理学(マノビガヤン)、チャクラ瞑想、沈黙の瞑想、ヴィパッサナ瞑想。流派は特にないらしいがビハール系が色濃い印象?<br /> ・場所:インドのリシケシ。<br /> ・時期と期間:来年1月(寒いかも)、スクールは1ヶ月だが12月から2ヶ月くらい滞在? リシケシでヨガと瞑想。<br /> ・少人数制なので目が行き届いて良い。これは良し悪し。<br /> ・知識は本でも入手できるが、集中して実際に経験することの方が大事かなと。<br /> ・スクール認定の先生ライセンスがもらえるらしいが、もらっても先生だとは(当分)名乗らない予定。たった1ヶ月勉強しただけじゃそんなの名乗れない[と思う]。<br /> ・1ヶ月でシングルルーム+食事3食+レッスン全て込みでUSD1,000$(税込)なので良心的。<br /> <br /> 11/2<br /> 少し早いけれどもインド大使館でビザ入手。<br /> 11月26日~2月8日の滞在予定。<br /> まずリシケシに移動してから2ヶ月滞在して、ヨガしつつ1月に上のコースを受講します。<br /> 2月の1週間は近場をちょっと回ってから帰る予定です。ここは変更あるかも。とりあえず3回目のアーグラ(タージマハール)と3回目のバラナシの宿を予約。バラナシから日帰りでAllaHabad往復してクンバメーラ見るかも?<br /> <br /> 11/26<br /> これからリシケシに行きます。<br /> 羽田(深夜便)→ソウル→デリー(1泊)→リシケシ<br /> リシケシでヨガと瞑想を2ヶ月、その後、1週間くらいどこか旅行してから2月9日に帰ります。<br /> <br /> シバナンダ のDevine Life Societyの前にあるラクシュマンジュラ橋を渡った南側のラクシュマンジュラ・エリアに宿泊予定。シバナンダ ・アシュラムまで徒歩10分前後のようですが坂があるので15分くらいかな。基本は私が通うスクールの授業を受けて、時々Divine Life Societyにも行こうかなと。メインは1月の瞑想ワークショップ(1ヶ月)のコース。<br /> <br /> 今回はスカイチームのマイレージを使って久々の大韓航空。たまにはソウル経由もいいかな。着く時間も悪くないし。普通に買うには高いルートですが。<br /> <br /> 11/27<br /> いつもならプライオリティパスで無料ランチなのだが更新忘れていて失効していたので普通に食事。あって当たり前のプライオリティパスがないと意外に面倒だし空港の食事はとても高いな。仁川は無料シャワーあるけど空港ラウンジでのシャワーは貴重なんだよね。<br /> <br /> 11/27<br /> デリー19時到着。<br /> この生ぬるい空気と淀んだ空気を吸うとインドに帰ってきた感じがする。<br /> デリーめちゃくちゃ暑い。インドにしては寒いと思うのだけれども日本から来ると暑い。リシケシはもうちょっと寒いっぽい。最近は昔より寒さに強い感じなので何とかなりそう。<br /> <br /> 11/27<br /> 空港からデリー駅まで特別急行で30分ほどが60ルピー(約94円)。普通の地下鉄はその半額くらいの感覚。他の人はこれを聞いて安いと思うのかもしれないけど、昔の物価と物価上昇を考えるとインドの物価が日本を抜かすのも時間の問題ですね。このアベノミクスが継続するのであれば円安誘導で日本の物や人やサービスをグローバルで売りまくるのが政策なのでしょうから。10年後のインド物価はびっくりする水準まで上がると思います。中国みたいに安いものはある程度安いままで、全体的に物価が上がるようなイメージ。インド人が中国人みたいに海外で爆買いする未来が来てもおかしくはない。<br /> 年々インド人のマナー向上を感じますので経済水準も上がっているのでしょう。<br /> <br /> 11/28<br /> 電車でデリー駅まで来た後、ホテルまで歩こうと思っていたらオートリクシャが話しかけてきて駅の反対側のホテルまで50ルピー(約80円)でいいというので案外良心的かなと思っていたら逆方向に走り出して、これはもしや人気のないところに連れて行って身包みはがされるパターンかと思って飛び降りようかと思ったら急に反転、どこに行くのかなと思ったら再度方向転換して、最初にいたところから100mくらいしか離れていないところで止まった。なんだこりゃ、と思ったら、駐車場の入り口でゲートが閉じている。そこで仲間が話しかけてきて、「君の行こうとしているエリアはいま暴動が起きていて閉鎖されている。このゲートの向こうには行けないよ。そのホテルのエリアはとても危険だ。」とか言うけど、単なる駐車場のゲートなのにこの男は一体何を言っているんだ?「無理無理。閉鎖されているからこのゲートは越えられない」とか言ってくるけど、ひょっとして、デリー駅から100mも離れていない駐車場を通路の閉鎖ゲートに見立てようとして駅向こうのホテルのエリアに行かせないように仕向けているのかな? 思いっきり駐車場って書いてあるじゃん。これで騙されるような人がいるのかな? こんな茶番に付き合っているのも馬鹿馬鹿しいのでリクシャを降りようとしたら「金!」と言って荷物をつかんでくるので、「たった100mしか離れていないぞ」と言って10ルピー(17円)を投げつけて荷物を無理やり引っ張って歩きだしたら「ファック!」と罵られたけど、こんな詐欺師にそんなことを言われる筋合いはない。私もちょっと油断したかな。まあ、オートリクシャならスピード遅いから渋滞につかまった時に飛び降りればいいので逃げられるからいいけど、ちょっと危なかったな。前にアーグラで似たようにタクシーからドア開けて飛び降りたことがあったのを思い出した。日本人はカモだから狙われるのかね?<br /> その後、ホテルまで歩いたが、もちろんこのエリアに暴動なんてナシ。そりゃそうだよね。<br /> 空港の両替レートは悪いので1000円分だけ両替したがそれでは足りないのでまずは両替して、リシケシ最寄りのハリドワールまでの電車を予約。意外に席が随分と空いていました。冬だからかな。<br /> ホテルの旅行カウンターで鉄道予約しようとしたら席がないからタクシーにしろと言われたのに他のところにお願いしたら普通に席があった。なんだかなあ。タクシー売りたかっただけっぽい。<br /> デリー駅は一番危ないというけど、慣れて油断していたかも。毎回毎回、懲りないインド人に付きまとわれるよ。<br /> <br /> そしてSIMカードを購入して食事して本日は終了。<br /> 明日は朝早く電車に乗ってハリドワール経由でリシケシに行きます。<br /> <br /> 11/28<br /> リシケシ着いたけどコース人数が少ないから他のところを紹介したいとか言われた。いま調整中らしい。どーなることやら。<br /> <br /> 小さい安いところはこういうのがあるよね。<br /> 冬の閑散期だしねえ。<br /> <br /> ちょっと寒いし、返金なら少しリシケシ滞在してからどっか別の都市に行こうかなあ。<br /> <br /> 11/28<br /> Kriya Yoga Ashram を勧められました。1泊シングルルームで1,000ルピー(1,700円)。おそらく食事とレッスン付き。<br /> ここ、例の「あるヨギの自叙伝」のヨガナンダのとこかな? コルカタが拠点かと思っていたら、リシケシにもあったんだ。<br /> これからスクーター・タクシーででっかい荷物抱えてどっかに移動しなきゃならないらしい。荷物落ちそう。<br /> (後ほど知りましたが、同じクリヤヨガでもいくつか流派があるようです。通常料金は600ルピーらしいです)<br /> <br /> 11/28<br /> 他所ではもう少し安いところもありますが、シングルルームで食事付きなので一応は良心的な価格だと思います。ただ、ここの夕食はとてもシンプルでした。同じ値段で食事の充実しているところはあるしヨガレッスン付きのところもあるので、特別安い訳でもないですが瞑想ホールは立派で大きいので瞑想したい人向けですかね。<br /> 食事がシンプルなのも、瞑想の邪魔にならないという点においてはメリットな気がします。<br /> <br /> 11/29<br /> Kriya Yoga Ashramに移動しましたが、ここは瞑想主体なので体操のアサナはないようです。瞑想ホールが立派で、ここでは基本的にあまり喋らずに静かに過ごすのがルール。今は冬で人も少ないのでこれはこれでいいですね。<br /> <br /> Kriya yogaの呼吸法が謎めいていて、瞑想中にウジャイっぽい音が聞こえてくるが真っ暗なのでよくわからない。ちょっとその音は耳障りで微妙。<br /> <br /> その後マネージャーといろいろ話した結果、1月の瞑想コースは開催するかどうなるかわからないのでとりあえずお預けで、12月のヨガクラスも一旦全部リセットで、変わりに別のスクールで5〜6人の少人数TTC200に混ざって12月に受けることになりました。そこは直接申し込むとUSD1,400ドルですが瞑想コースと同じUSD1,000ドルでいいみたいです。<br /> <br /> もともと体操のアサナは苦手ですし、先生になるつもりもその技術もないのでTTC200(ティーチャーズ・トレーニング200時間=約1ヵ月)はあまり興味がなくてしばらく取るつもりもなかったのですが、これから物価が高くなるインドで安いうちに取っておくのも良いし、割と安めのUSD1,000ドルだし、ほかにすることもあまりないし、まあ、せっかくなので勉強のために受けるかなという感じです。結局1月に瞑想コースを受けるかどうかは未定で、受けるにしても別のところになりそう。受けなければどこかに移動かな。とりあえず開催確定のTTC200を受けます。なんだか、過疎ってるのならもう受けなくていいかなという気になってきました。別のところに移動でもいいかなあ。瞑想コースの筈がTTCになってしまった。TTC取っても先生名乗るつもりは今のところないけれども。<br /> <br /> とりあえずTTC200の場所を見に行ってみましたが、とても山奥でシバナンダ・アシュラムに歩いていくのはきつそう。それはデメリット。マネージャーなのに「うちよりもこっちの方が先生がいいよ」とかぶっちゃけている。おいおい、自分のとこのコースが微妙って認めてどうするの、という感じ。新しいところはベテランの先生が山奥で1人でやっているようです。<br /> <br /> 一応はTTC200受けるような話になっているけれども、まだ時間があるのでやっぱりやめて返金してもらうかも。<br /> <br /> なんだか、色々あるけれども最初から素直にいま日本で通っているとこの系列の系列のケララのアシュラムに行っておけばよかったかな、とか思い始めました。あそこなら行ったことあるので心配ないし、今回のリシケシみたいな人気のない過疎ってる状況もそうそうないでしょうし。やっぱり人気のある活気のあるところに行かなきゃだめなのかな、という気がしてきました。物事はホットスポットで起こるわけですし。次からは素直にケララかなあ。今の時期は混んでるからそれはそれで微妙かもしれないですが過疎ってるよりマシかも。<br /> <br /> 11/29<br /> とりあえずDevine Life Societyに来てみました。一日中何かやっていますね。<br /> <br /> <br /> 11/29<br /> 有名なParmarth Niketan Ashramでも一日中何かやっていますね。ここはAratiが有名らしいです。<br /> 食事なしアサナ1時間2回で各種チャンティングなどが付いてダブルルームが800ルピー約1300円らしいです。ここも選択肢の一つですが1人でも2人でも値段は変わらないようですので1人だと微妙な値段です。<br /> <br /> <br /> 11/29<br /> マネージャーが人をよこして、スクーター・タクシー状態でもう1つの選択肢のスクールに行ったけれどもまだ建物が工事中。なんじゃこりゃ。これでスクール開催なんてできるのかな? 来月までには工事を終わらせてここで授業をするとオーナーは言っているけれども、これはきっと間に合わなくて授業と工事が平行して行われるパターンですね。インドではよくあることです。そのオーナーが言うインドの大丈夫は大抵は大丈夫ではないのはインド経験すれば誰しもが知っていることなので工事中のところなんて論外です。オフィス移転日に間に合わなくて移転しても工事が続くなんてよくあることです。<br /> <br /> マネージャーの策略で絶対にダメなところを比較対象で見せられて最初のところの選択肢に誘導させられた気もするけど、とにかく、その後、最初に紹介されたスクール Sanskar Yoga Shalaへ再度行き、オーナーのNaveenと話をしました。<br /> <br /> 次の12月コースは5人くらいの少人数で行うそうなので先生の目が行き届いて良さそうとのこと。瞑想コースはそもそもヨガの一部なので最初にTTC200を受けるべきだから、という、ごもっともな話をしてもらって、そもそもTTC200と瞑想コースはそんなに違わなくて瞑想にちょっと重きを置くくらいだ、みたいなぶっちゃけ話も飛び出たところで、それじゃTTC200を最初に受けて、瞑想コースを受けるかどうかは後で決めてもいいよね、みたいな話になったのです。そもそも瞑想コースは受講者が少ないらしく、最初に受けようとした瞑想コースは開催しないし、ここの瞑想コースも来月に開催するかどうかもわからないし、開催決定している12月のTTC200をとりあえず受けると良いのでは、ということで... TTC200を受けることになりました。瞑想コースの筈がやはりTTC200になってしまいました。<br /> <br /> どうも、瞑想コースは開催者の意向が大きく出るらしく、最初のところでは瞑想ガッツリっぽかったのですが、ここのオーナーの意向としてはTTC200とそんなに変わらないようです。TTCはアメリカのYogaアライアンス準拠なのでカリキュラムが大体決まっていますが瞑想コースはスクール独自なので先生次第のようですね。まあ、それならそれで仕方がないです。少人数であればフレキシブルな分だけ、逆にラッキーなのかも?<br /> <br /> あまりにも決まらなければもう予定早めてとっとと帰ろうかなとも思い始めていたし、ケララ行こうかなとも半分思い立っていたし、あちこち歩きまわされて疲れていたのでだんだん思考力が落ちてきたところでここのTTC受講に決定。これが良い結果につながるかな?<br /> <br /> ちょっと町から遠いかなと思っていましたが、意外に大通りまで500mくらいなので歩いてすぐに出られる距離なのに割と静かなので、意外にいいところかも?<br /> <br /> 我ながら、失敗も成功も全て含めて完璧な人生だと思っているので、最初のスクールが開催中止でくじかれてからここに導かれたのも完璧なステップだったのかもしれないです。元々のスクールの値段で受けるので、普通に受けるより安いですしね。USD1,400→USD1,000<br /> <br /> オーナーのNaveenは山の中のコミュニティにこもってヒマラヤの聖者を師匠にして修業したことがあるようなので、そこらにいるなんちゃってヨガ先生とはちょっと違う感じです。<br /> <br /> どうも、瞑想コースは受講生が少ないので多くのスクールの瞑想コース受講生を一か所に集めて合同で開催しているような雰囲気ですね。このあたりの小さなスクールはそうやって受講生を融通しあっている感じがしますね。そういう意味では、小さいところはどこもそんなに変わらないのかもしれないですが、ここはオーナーがよく修業していそうな雰囲気ですので他よりも良いのかも。最初のスクールのマネージャーもここのNaveenは凄いと言っていてこのあたりだと一番いいとか(大げさかもしれないですが)言っていたので、ここが当たりだと良いです。<br /> <br /> こういうことがあると日本しか知らない温室暮らしの人はスケジュール通りに行かないところを指摘してダメ出ししてくるけど、インドにしてみればこんなの普通だし、ビジネスの基本を押さえてなんとかやりくりしようとしているので優秀な方だと思いますよ。予約人数が少なくて開催できないのは仕方ないですが、インド経験者からしたら許容範囲内ですしね。予約人数なんてコントロールできないですしね。インド人のせいではないですよ。人気ないマイナーなところを選んだ私の失敗かも。それは大した問題ではないですし、このトラブルのおかげでより良いところに導かれたかもしれないわけです。まあ、まだ結論はわかんないですけどね。<br /> <br /> 一部の日本人は遠目で冷ややかに眺めて裏で馬鹿にする人もいるようなインド・アルアルですけど、何年も住んだ身からすれば、流れに身を任せてより良いところに行くこともあるのだとわかるわけです。<br /> <br /> 流れ行く先がインド駅での詐欺のようなものならそこで拒否すればいいだけのことなので、これはこれで大した問題ではないです。むしろ、もうキャンセルで帰ろうかと思っていたのに別のプランを提示してきたマネージャーが優秀で素晴らしい程ですよ。<br /> <br /> 11/29<br /> リシケシ にはもちろん牛さんがいっぱい<br /> <br /> <br /> 11/29<br /> 日本でヴィパッサナー瞑想というとゴエンカ式ですがリシケシでヴィパッサナー瞑想というと単に沈黙の瞑想を意味するらしいです。ゴエンカなんて知らないって言われました。<br /> <br /> 私が最初に予約したスクールのマネージャーはここでヴィパッサナー瞑想のサークルを主催しているくらいにヴィパッサナー瞑想に詳しいらしいのですが、ヴィパッサナー瞑想を主催していてもゴエンカなんて知らないそうです。<br /> <br /> 日本とはヴィパッサナー瞑想の意味するところが違うのかもしれないですね。興味深いところです。<br /> <br /> 11/30<br /> Kriya yoga ashramの瞑想ホールにある祭壇。シンプル。<br /> <br /> <br /> ホールは70人くらい入るらしいです。<br /> <br /> <br /> このクッションが凄く良くて1時間くらい座っていてもあまり足にダメージが残らない。<br /> さすが瞑想主体のインドのアシュラムです。<br /> 座布団だけではなくてその下の床も絶妙な硬さと柔さを兼ね備えた布になっているので、おそらくはとてつもないノウハウがあるのでしょう。<br /> <br /> この快適さは「苦行」とは無縁で、リラックスそのものですね。まさか座るのがこんなに楽だとは。日本ではだいたい30分もすれば足が辛くなるのにここでは倍以上持ちますしダメージもほとんど残らないのです。<br /> <br /> 日本の禅宗の苦行の座禅とか正座とは方向性が違う感じがします。ファーストインプレッションでの話ですので後で意見は変わる可能性はもちろんあります。<br /> <br /> 11/30<br /> 今いるKriya Yoga Ashramは基本的に沈黙で過ごすルールになっていて滞在者同士もあまり話しません。<br /> <br /> 瞑想系のアシュラムで沈黙のルールは普通なんですかね? 前に日本で受けたヴィパッサナー瞑想でも基本は沈黙でコミュニケーションなしでしたけど。<br /> <br /> 確かに、コミュニケーションを取ってしまうと誰がに何か言われたとか細かいところで気になって瞑想の妨げになるというのは一応は理屈は分かりますけど、そのコミュニケーションで発生した雑念を観察することも含めて瞑想であって、コミュニケーションした方がむしろ瞑想が捗って良いのではという気もするのですけど、まあ、きっと歴史的経緯とノウハウと文化があってそうしているのでしょう。<br /> <br /> 瞑想系以外のとこでは、場所によっては初心者に長い瞑想をさせないところもあるようなので、方針次第ですかね。ここでは朝晩それぞれ1.5〜2時間の瞑想をしますけど、この長さだと初心者が雑念に囚われて混乱してしまいそうなので、初心者の混乱を防ぐための沈黙ルールなのかな、と思います。ある程度瞑想していれば会話くらいでどうこうならないと思いますし。<br /> <br /> それとも私の考え違いで、上級者が更なる深い瞑想に入るための沈黙のルールかもしれないですね。<br /> <br /> あるいは両方かな。<br /> <br /> 11/30<br /> リシケシを彷徨い歩いている犬がヨダレ垂らしてるけど、これが噂の狂犬病の犬なのかな? 始めて実物見ましたよ。<br /> 大人しくて人を噛む感じではないといいますか至近距離を通り過ぎても何もしてこないしインド人も普通に横を歩いてる。<br /> 狂犬病の犬って狂っていて近くの人をすぐに噛み付くと思っていたけど、実際はこんなものなのかな? それとも、末期症状になると噛み付くようになるのかな?<br /> 油断しているとこんな危険がすぐそこのインド。慣れた頃が危ない。慣れても危ない。<br /> <br /> <br /> 11/30<br /> シバナンダ・アシュラムの太鼓リズムが印象的<br /> 「ドン・ドン・ドドドン」+「チャン・チャン・チャチャチャン」って延々と続きます。<br /> <br /> 11/30<br /> シバナンダ・アシュラム<br /> <br /> <br /> 11/30<br /> 修行者っぽいけど半分はビジネスっぽいサドゥーのおじいさんがいました。<br /> <br /> <br /> 11/30<br /> ちなみに今滞在しているKriya Yoga Ashramはこんな感じの立派な建物。さすがは世界的に有名なヨガナンダ。(と思っていましたが、どうやら微妙に流派が違うようです)<br /> 幹線道路が横に走っているので騒音があるけれども瞑想ホールの壁は厚いのでさほど騒音の問題はないです。朝晩は割と静かですし。<br /> <br /> <br /> 12/1<br /> 思いがけずクリア・ヨガの瞑想手法を明日教えてもらえることになりました。<br /> <br /> 伝授はなしでテクニックだけ教えてくれるそうです。伝授っていうと大げさな話で、弟子と師匠の関係ですからそんな簡単には行かないのですがテクニックだけ教えてくれると、向こうから話が舞い込みました。<br /> <br /> ヨガナンダの自叙伝を読んで気になっていたので急に教えてもらえることになってラッキーです。<br /> <br /> 認定のマスターじゃないと他人に教えることはできないようなので私は他の人に内容を伝えられないですけど。<br /> <br /> 12/1<br /> Kriya Yoga Ashramの朝食<br /> <br /> <br /> Kriya Yoga Ashramの昼食<br /> <br /> <br /> Kriya Yoga Ashramの夕食<br /> <br /> <br /> こんなシンプルでも意外と普通に美味しいです。ベジだめな人はだめかもしれないですが。<br /> インドのベジはどこか癖になります。この味が日本でもあれば日本でもベジで十分と思えてきます。<br /> <br /> Kriya Yoga Ashramの朝食。ちょっと甘い。ミルクっぽい<br /> <br /> <br /> Kriya Yoga Ashramの夕食。シンプル<br /> <br /> <br /> 外のレストランで食べた昼食のターリ。これは豪華なセット220ルピー(約400円)もしました。<br /> <br /> <br /> 12/1<br /> こんな感じのArati儀式をしてから瞑想します。<br /> <br /> <br /> 12/1<br /> クリア・ヨガの瞑想方法を教えてもらいました。ここまでは伝授(イニシエーション)なしでテクニックとして教えてもらいました。<br /> <br /> 教えてもらったのは7ステップのうちの1つ目だけですが、それでも普通は十分な気がします。第2ステップに進める人はそうそういないのでは... 先生は第3ステップまでやっているところだと言いますが、まだ第1ステップも完全に理解したとは言えないと言っていましたので、とりあえず手法は先んじて教えてもらえるようです。<br /> <br /> 内容は秘密にしないといけないのですが、方向性としては呼吸(プラナヤーマ)とヨガの幾つかのアサナおよびヨガ/密教/気功での気脈開発の手法ですね。基本は呼吸法ですかね。<br /> <br /> 昔は門外不出の秘法だったのだと思いますが今は各種の本が詳しすぎるくらい解説していますので手法そのものはさほど目新しいものはなかったといえばそうですが、ヨガの古典に書かれてある手法を実際に実践している人たちがいるというのが興味深いです。<br /> <br /> これは仏教のマインドフルネスとは方向性が違って、名前通りヨガ寄りの手法ですね。<br /> <br /> 行こうと思っているクンバメーラにここのキャンプがあって滞在できるというのでちょっと問い合わせしてみようかと思います。<br /> <br /> 12/1<br /> ヨグマタって女の人がいますけど、説明をしてくれた人から日本の聖者も知っているぞ、みたいな話の流れでヨグマタの名前が出て、予想外のことで驚きましたよ。<br /> <br /> 私は名前くらいしか知らなくてノーマークだったといいますか、あまりいい印象がなかったのであまり気にしていませんでした。接点があると言えば、展示会でブースが出ていて立ち寄ったらスタッフが「はっきり言って他の人は全然本物じゃなくて彼女だけが本物です」とかドヤ顔で言うものだから宗教っぽくて面倒そうなので微妙に思ったこととか、ヨグマタのビデオをちょっと見たら岩の割れ目の中から出てきたところが凄く衰弱して見えてぜんぜん聖者に見えずに印象が悪かったといいますか、ほとんどスルーしていたのですが、こんなところでヨグマタの名前を聞くとは思いませんでした。<br /> <br /> まあ、日本で有名なのとはまた違うヨグマタ違いかもしれませんけどね。(→同じでした)<br /> <br /> 12/2<br /> その後、写真を見せたら「そうだそうだ、彼女だ」と言っていたのでご本人に間違いないようです。<br /> <br /> 「君はヨグマタと話すべきだ」とかここの先生に言われたけど、どーゆーこと? よくわからん・・・。 ここのグルとヨグマタとはお友達らしい。ヨグマタって意外にそこまで有名だったんだ・・・。<br /> ん~ あまり気が進まないといいますか、ここって宗教団体なのであまり関わり合わない方がいい気もするけど、あまり第一印象で決めすぎるのもよくないのでナチュラルでいようかな。<br /> 第一印象としてはあんまり関与しない方がよさげな気もするけど。展示会のブースで、スタッフがめんどくさかったんだよね・・・。まあ、それは一部なのかもしれないですが。(→後日、別の展示会でお話しした人は普通でした。先日の人が特殊だったのかもしれませんね)<br /> <br /> ここの先生に「君はヨグマタに会うべきだ」と言われたけど、人気ある人だからそうそう会えないと思うけれども。今のところ、特に会うつもりはないし会いたいとも思っていないけれども。本当に会うべき人ならそのうちに何も意図しなくても会う機会が巡ってくるのでは。会う機会があればそれはそれで何かの縁があったのだということでその時にまた考え直します。<br /> <br /> ヨグマタって73歳なんですね。年齢より若く見えますね。この年齢だといつ亡くなっても不思議ではないですね。<br /> <br /> 11/2<br /> Kriya Yoga Ashramで瞑想方法を教わっている時の先生との会話(マンツーマンです):<br /> <br /> 先生「君は未婚なのか。じゃあ僧侶(モンク)になれるな」<br /> どーゆーこと? よく分からん・・・。なんでそんな話になるのか・・・。<br /> <br /> 私「瞑想方法を教えて頂きましたが、少なくともインドにいる間に実践するのは難しいです」<br /> 先生「わかった。それは君の問題だ。私が(遠くにいる)グルデブから言い渡されたのはテクニックを教えることだ」<br /> はい? どーゆーこと? グルデブってここにいないし... 遠く離れたグルデブが私にテクニックを教えるように指示したようにも聞こえるけれども。そんなことわざわざ指示するもの? 普通教えてくれるのではないの...? まあ、私の考えすぎか。単に、彼がそういう役割を与えられている、と解釈もできる。<br /> <br /> 私「日本にKriya Yoga Ashramはないですよね」<br /> 先生「日本にKriya Yoga Ashramはない。君が作るんだ」<br /> はい? どーゆーこと? なんで作るとかそういう話が出るの?<br /> <br /> 先生「この教本の日本語訳はない。君が訳せばよいのだ」<br /> はい? 私が訳すってどーゆーこと?<br /> <br /> (クンバメーラの話が出て、キャンプがあるから私も滞在できるという話が出た後)<br /> <br /> 私「私はクンバメーラに行っても洗礼(イニシエーション)を受けるかどうかはわからないですが」<br /> 先生「いや、君は必ず受ける。グルデブは全てを見通している。グルデブに会うまではそういう気持ちにはならないだろう」<br /> はい? どーゆーこと? 洗礼(イニシエーション)とかめんどくさいことあまりしたくないんですが... 確かに、今のところ洗礼(イニシエーション)は気が進まないですよ。一生に1人だけグルを決める、ってのもどうなのかなあ、という気がするので。しかも日本から遠く離れたインドでしょ。<br /> <br /> まあ、まだ先のことなのでどうなるかわからないですけどね。なんだかよくわからん会話...<br /> <br /> 12/2<br /> まあ、見方にもよりますが、気脈(ヨガで言うところのナディ)開発の観点からすればこのクリヤ・ヨガ第一段階にせよゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想にしても、どちらも気脈(ナディ)開発だと私は思いました。結局のところ想念観察だとか観察瞑想とか言うのは結果といいますか現象や経験のお話であって、大切なのは気脈(ナディ)を開発してエネルギーアップすることであり、エネルギーアップすれば自然に雑念も消える。だからクリヤ・ヨガ第一段階では想念観察とか全く言わないで気脈(ナディ)の開発に焦点をフォーカスしているのは本質的なのかも。<br /> <br /> 元気になればネガティブが消えるのは誰しもが経験して知っていることだと思いますが、それが高度なレベルで起きたときに覚醒だったり神経験がきっと起こるのであって、想念観察したり観察瞑想したからと言って覚醒するわけでもないのかな、と。重要なのは元気になること、というシンプルだけれどもかなり奥深い、本質的なところに真面目にフォーカスしているという印象です。ここのやり方は。<br /> <br /> そうは言っても第一段階の中にも7ステップあって、どれもハードルが高いので普通の人はきっとこの第一段階を一生やって人生終わるのかなあ、という気もします。次のステップに進める気が全くしないですしね。<br /> <br /> これが全ての源流だからこれを理解すれば他の流儀が全て理解できるようになる、という説明はあながち嘘ではないかも。<br /> <br /> 12/2<br /> 観察系瞑想と集中系瞑想があると言われているけれども、それは瞑想の2つの側面をそれぞれ表しているだけであって、体のパワーが高まれば観察も集中もどちらも高まる。<br /> <br /> 絶対的な視点から見ると観察系瞑想も集中系瞑想も同一で並列だが、個人から見た相対的な視点からすれば個々の性質に応じてどちらがやりやすいかという方向性があるので、相対的には観察系瞑想と集中系瞑想で良しあしが発生するんだな。そこで言う良しあしとは人それぞれ向いているか向いていないかという個人的な視点だけであって、向き不向きあるいは好みの問題で良しあしが発生するが、絶対的にはどちらも同一なんだな。こっちが良いとか言うと、あたかももう片方が悪いかのような印象を与えてしまいがちだが、そこで言う良しあしとは、単に個々の指向を言っているだけなんだな。たとえば、もしかしたら集中が苦手ならば観察系瞑想が得意かもしれないし、そうなれば観察系瞑想が良いとその人は思うかもしれないが、集中が苦手だからこそ集中系瞑想をすべきかもしれない、という面もある。逆もまたしかり。人によっては片方だけやって一生を終えるかもしれないし、両方やるかもしれないが、瞑想は内面で起きていることなので、集中瞑想やっていても観察は高まるだろうし、観察瞑想やっていても集中が高まるだろうから、どっちもあまり大差ないんだな。テクニックとしては色々あるのでそれぞれ良しあしはあるだろうけれども、概念としては観察系も集中系も視点が違うだけなんだと理解した。<br /> <br /> パワーっていうのはクンダリーニだったり他のもの(?)だったりするようだが、どちらにせよ、目的は観察や集中ではなくて、観察や集中はアクション(行動)であってHow toだからテクニックの部類なんですね。目的はパワーを高めることなのかな、と。パワーといいますか、生命力を高める、と言った方が分かりやすいかな。生命力を高めることが目的で、その手段として観察瞑想や集中瞑想があるけれども、その根本はと言うと気脈(ナディ)開発なのかな、と。そんな気がしました。<br /> <br /> 12/2<br /> 自分用のヘナ(黒)を入手。<br /> 1回分 15g が 10ルピー(約18円)です。日本だと自分でやっても500円くらいなのでそれでもいいっちゃいいんですがヘナは体にも優しいしこの値段なので良いこと尽くめです。前にスーパーで買ったのより安いし使ったことないので効果が心配ですが、まあ、ダメなら仕方がないです。前のと同じのがあれば良いのですが見当たらないので。<br /> <br /> 12/2<br /> ポップコーン食べながら川を渡っていたら猿が奪いに来て、とっさに手で払い除けて猿を突き飛ばしたら吊り橋から猿が落ちそうになって、猿は運動神経いいのでギリギリでつかまって助かったけれども、突き飛ばされたから威嚇してきて、お互いににらみ合い状態に。威嚇してきたので更に強く突き飛ばしてやろうかと思ったけれども、下に落ちたら川で、この高さなら死ぬなと気が付いたのですぐに我に返って、相手するのやめました。とっさの反応で突き飛ばしてそのまま猿が川に落ちていたらどうなっていただろうかと思うと怖いな。<br /> <br /> 危うく猿殺しになるところでした。ポップコーンの仕返しで殺したりたらさすがにやり過ぎでこっちが悪くなってしまう。あぶないあぶない。<br /> <br /> 猿が怒ってきたけど、もとはと言えば自分が悪いのに、やっぱりそこは猿ですねえ。本能に従っていますよ。あ、この写真の猿は別の猿です。<br /> <br /> <br /> 12/2<br /> Sanskar Yoga Shalaに移動。外見は普通の建物です。ちっちゃなスクール。<br /> <br /> <br /> アラティ(火の儀式)を行う場所<br /> <br /> <br /> 祭壇<br /> <br /> <br /> スタジオ<br /> <br /> <br /> 12/2<br /> ヨガバック入手。200ルピー(350円)。あまり使わないですが、たまに必要ですし今持っているのは洗濯したらスレてしまったので。<br /> <br /> <br /> 12/3<br /> こんな感じでこじんまりです。3コースが平行に走っていて、3コース全部合わせても6人です。TTC受けるような人はみんな結構できるのかと思っていましたが、最初の段階では普通な感じですね。ヘッドスタンドもあまりできないですし。とは言ってもこの人数じゃサンプル数が足りないですけど。先生はもっとガンガンAdvanceをやりたそうなので内心は「どうしたものか」と思っているのかも。<br /> <br /> <br /> 大きいところは立派で綺麗で良いですし、ここのように小さくても工夫しているところは快適です。ただ、大きいところの方が談笑に使える場所や庭や芝生とか瞑想ルームとかがあったりするので施設が小さいデメリットもあります。<br /> <br /> 12/4<br /> 同じトコで他の人が「クンダリーニ・ヨガTTC」とか言うコースを数人が受けてます。<br /> 書籍は一応著名人スワミの著書を使っているのでそれなりに本格的っぽいですけど。クンダリーニって名前は凄いですけど結局はハタヨガのアドバンスのことですけどね。<br /> まあ、私はコースにそんなに興味はないけどその書籍の内容はちょっとチェックしてみたいかな。どの方向性かくらいは。<br /> <br /> 12/5<br /> ここの主催者Naveenに聞いたところ、クンダリーニ経験が何回もあると言っていました。ヨガ経験17年とのこと。<br /> 意外に多くの人がクンダリーニ経験しているのかな? 森でヒマラヤの聖者と修業しているコミュニティには多くのクンダリーニ経験者がいると言っていました。なるほどねえ。でも、経験者はそんなに多くはない、とも言っていました。<br /> であればここのスクールは小さいながらもちゃんとしたスクールなのかも?<br /> 経験の仕方はそれぞれで、有名なところでいう背骨を下からクンダリーニが上がる、というのはインドも日本も同じだそうですが、それだけでなく、目がよく見えるようになったりよく聞こえるようになったり遠くまで声が届くようになる、とか言っていたけれども、それはつまり千里眼やテレパシーのことかな、と解釈。肉体のことではなくサイキックボディのことだとか。<br /> クンダリーニという言葉がエネルギー上昇のことだけでなくそれに付随して起こる様々な変化も含めてクンダリーニと言っているような感じですかね。言葉のニュアンスが日本とちょっと違うかな。それともコミュニケーションのすれ違いか。<br /> まあ、自己申告なので経験したと思ってるだけかもしれないけど表情の明るさから言って、何某かは得ている感じ。<br /> 哲学の教師はここのオーナーNaveenの父親だけれども、日本に何回か行って高尾山で5日間の瞑想合宿したり東京タワーの近くでセミナーしたと言っていたので、小さいけれども意外にしっかりしているのかも。<br /> まあ、少なくともそこらにあるなんちゃってスクールよりはしっかりしている感じ。<br /> <br /> 12/6<br /> クンダリーニ・ヨガTTCという謎コースを受けている受講生にそれとなく聞いてみたら、やはりこれはハタヨガのAdvanceをかいつまんで説明および実践するもので、内容としてはハタヨガとそんなに変わらないらしい。<br /> <br /> 私が初日に「クンダリーニ・ヨガはハタヨガですよね?」と受講生に聞いたら「いや、違うんだこれは」と自信満々で言っていたのに、受講生の一人は「貴方の言っていることは正しかった。ハタヨガと同じことをするようだ」と言ってきたので、早々に気付いたらしい。<br /> <br /> 実際はハタヨガだから地道にやっていく、というのに気付いただけでも受講生はきっといい勉強だったのかな、と。<br /> <br /> もう1人の受講生はヨガも初心者なので、上記に気付いた結果、「私はどうやら基礎からやり直した方が良さそう。これはハタヨガだ」と言っていた。<br /> <br /> まあ、受講生がそれに気付くということは受講内容としてはたぶん真面目なんだなと推測。<br /> <br /> 12/6<br /> ココの瞑想の先生のお爺さんがかつてゴエンカ氏から直々に指導を受けながらヴィパッサナー瞑想を数ヵ月行ったことがあるというので、前々から気になっていた、「どうしてヴィパッサナー瞑想と他の瞑想を交互に行っては行けないのか?」を聞いてみました。<br /> <br /> 回答としては「ヴィパッサナー瞑想をやる目的は深く深く瞑想に入ることなので、深く瞑想に入るためにはいろいろではなく同じものを続ける必要がある。ゴエンカ氏がそう言っていた。」とのこと。<br /> なるほどねえ。この先生は若い頃から瞑想をしていて経験豊富で、言葉に説得力がある。ゴエンカ氏は本気だったから他の瞑想をする人が入ってきて邪魔されたくなかったんだな。そういうことならば納得。<br /> <br /> というのも、それを千葉の瞑想センターでマネージャーに聞いたら、聞いたとたんにすぐキレられたからです。怒りの沸点が低かったらしい。千葉のマネージャーに限らず、ヴィパッサナー瞑想経験者で怒りの沸点が低い人がたまにいます。千葉での不愉快な対応とは対照的で、ここの先生のように瞑想もできていてよく分かっている人に静かに深く、シンプルだが分かりやすく本質だけを説明してもらえれば「なるほど」と納得できる。キレるくらいだから千葉のマネージャーの瞑想はまだまだなんだな、ということで理解した。ここの先生のような本質的でシンプルで説得力のある回答であれば納得だ。<br /> <br /> ここの先生は静かで、長い間瞑想をしていてヴィパッサナー瞑想もしたことがある人なので、まったくベースが違うので、比べても仕方がないといえばそうだけれども。<br /> <br /> 12/7<br /> インド人からしてみたらビギナーレベルの余裕クラスっぽいが外国人からしたらプチきつい、プチ・スパルタな授業を4日くらい受けたところで「パドマアサナだ!」と指示があったので「できないっすよ」と思いつつも一応試してみたら服にちょっと引っかかる感じでなんちゃってパドマアサナができて、これならあとちょっとでちゃんとしたパドマアサナできるかも? という気になってきましたよ。<br /> ちょっと前まではパドマアサナなんて無理くさ! と思っていたのだが、いつの間にこんな変化が! 驚きです。人間の体って意外に変わるものですね... たまにはプチ・スパルタもいいものです。<br /> <br /> 12/8<br /> <br /> 今日は、今のスクールのオーナーと先生共通のグルが来て1時間の特別レッスンをしてくれました。そのグルは、オーナーと先生の通ったヨガ大学の主催者だそうで、近くに1つと100km遠方にそれぞれ大学があり、カナダのトロントにも学校があるとのこと。<br /> <br /> そのグルジは有名人で、かつてプロレスラーでインド代表だったこともあるそうです。グルジは特別なパワー(シッディ)を持っていて、板を紙のように粉々に砕くことができたり、他のこともできたりするそうです。さすがに今日は見れませんでしたけど、オーナーがそう言っていたので、それはそうなのでしょう。<br /> <br /> まあ、この種の芸の話を聞くと、ヨガナンダ本の面白いストーリーを思い出すのです。ヨガナンダは各種のパワー(シッディ)が使える聖者の元に行き、例えば花の匂いを作り出せる聖者の元にいき、そのパワー(シッディ)を見るやいなや、「そんなことして何の役に立つのだ。」と言って放ったという。<br /> <br /> 彼ならば「板を紙のように砕くことができて、一体何の役に立つのだ?(苦笑)」とでも言いそうです。<br /> <br /> まあ、それはさておき、それなりに修業を積んだということでしょう。お腹が出ているおじさんですけど意外に動きは軽やかです。<br /> <br /> レッスン内容は各種のプラナヤーマです。その方面の専門家でもあるしアユールベーダの専門家でもあるとのこと。<br /> <br /> ヨガ大学は一般人でも参加できるが、大学院相当で、数年のコースだそうです。やることはサンスクリットでの聖典の理解とか、そういうことを主にやるそうです。<br /> <br /> 今回はこの種のパワー(シッディ)を持っている人を意外にぼちぼち見聞きしますね。それを見るために来たわけでもないのですが。そういうパワー(シッディ)を持っている人が意外に多いのかもしれないですね。<br /> <br /> まあ、これは私の感覚と似ていて、実はいろいろできる人はそこら中にそれなりにいると思うんですよね。魔女狩りが怖いとか知られると利用されたり、他人をコントロールしようとする人がわらわらと寄ってくるとか不快なことがあるので言わない人はかなりいると思いますよ。<br /> <br /> 親切そうな顔して近づいて他人をコントロールしようとする人は山ほどいますからねえ。 そういう、他人から奪って生きている人にパワーを与えないこともパワーを持っている人の義務だったりもすると思うんですけど、そこのとこよく理解していない人もかなりいますからね。<br /> <br /> まあ、そういうとこも含めて人生は学びがいっぱいで、成功も失敗も含めて面白いっちゃ面白いんですけど。搾取者が自分で「してやった」「してやってる」と思い込んでいても周囲から見たらバレバレで、裸の王様で誰も本気で相手にしていなかったりしますからね。途中まで誠実でも途中で気が変わって搾取者になることだってありますからね。人って面白いものです。<br /> <br /> まあ、そういうパワーのあるところには変な人がわらわらと近寄ってきているので、基本的には関わり合いもたないのが一番安全ではあります。<br /> <br /> 12/9<br /> 朝日を見にリシケシ近くの山の上にあるKunjapuri Templeにスクールのツアーで行ってきました。標高1600mなので眺めは良くてヒマラヤの山脈も遠くにちょっとだけ見えて良かったです。定番っぽくて外国人が沢山でした。終わりには簡単なプージャとプラサードをもらってから帰宅。<br /> ガンゴドリ氷河とか片道20km歩いて参拝するKedarnath Templeの話を聞いたのでいつか夏に挑戦してみたいな、とも思います。<br /> <br /> <br /> 12/9<br /> 有名なParmarth Niketan AshramのAritiを見てきました。夕方は寒かった...<br /> <br /> <br /> 12/9<br /> リシケシのGanga Artiを楽しみました。<br /> 炎をガンジス川(ガンガー)に捧げるのです。<br /> 手が焼けないように水を濡らしたタオルで手を守っています。<br /> <br /> <br /> 12/11<br /> 今受けているスクールでインド音楽の演奏会がありました。<br /> 有名なマントラを歌にしています。<br /> 場所(アシュラム、地域、人)によって歌い方が変わるのが興味深いです。<br /> この人たちはトッププレイヤーだそうです。<br /> <br /> <br /> 12/14<br /> 今通っているスクールのヨガ哲学の先生のお爺さんは紙も見ずにヨガスートラやヴェーダの有名なところを暗唱しながら説明してくれます。伝統的なサンスクリットの学習ではメモ禁止で全部暗記が絶対だったという噂は聞いていましたが、このお爺さんは実際にそれを体現していますね。初めてこういう人見ました。しかも分かりやすいし面白く話してくれます。この辺りではヴェーダンタの先生として有名な人らしいです。<br /> <br /> 1日2時間弱をかけ、2週間ほどでヨガのとても基本的なところの説明から一気にヴェーダンタの入り口まで来たのですが、説明の流れに無理がないです。知識としては本で読んで大体は知っていたところでしたが実際に聞いてみるとまた感じが違います。<br /> <br /> 今日はヴェーダンタの基本かつ結論でもある Sat Chit Ananda の説明をさらっとしたのですが。明日からはその前段階の説明をして理解を深めてゆくそうです。あと2週間でどこまで進むのか? 興味深いです。<br /> <br /> 12/15<br /> リシケシの川を見渡せるカフェでベジ・バーガー。とても美味しくてベジで十分です。<br /> <br /> <br /> 12/16<br /> リシケシから100km離れたKotdwaraのアシュラムに来ています。アユールベーダとヨガが専門のマスター・スクールです。今リシケシで通っているスクールのオーナーのグルが運営しているアシュラムで、カナダにもアシュラムがあるそうです。森の中にあって環境は最高ですね。普通は数年コースらしいですが週末ツアーで訪れました。<br /> ここのグルジは先日リシケシのスクールにも訪れましたがプラーナ・クリアの専門家でもあります。<br /> <br /> <br /> ここのグルジに筋肉ストレッチには何のオイルがいいか聞いたらセサミオイルとのこと。食用でいいのでマッサージ用の1/5の価格。TIL OILてのがセサミオイルっぽいです。試してみます。<br /> <br /> グルジはアユールベーダの専門家なのでドーシャ判断をしてもらいました。私はピッタ(Nature)とヴァータ(ワタに聞こえる)らしいです。専門家が言うのですからきっとそうなのでしょう。Natureであるピッタは生涯変わらなくて2つ目以降は変わることがあるそうです。<br /> <br /> 12/19<br /> 日本でヴェーダンタのセミナーを受けてもヴェーダンタのポイントがよく分からなかったのですが、この先生の講義はヴェーダンタの全体像が良く見えて、しかもシンプルで分かりやすいのです。難しいことを簡単に話しているから分かりやすく聞こえるだけでもっと深いのだと本人は言うのですが、それはきっとそうなのだとしても、詳しく分かった上で、それを簡単に話すスキルがとても高い先生です。<br /> <br /> 授業が進んで「本当のSelf(Atma)とは何か?」の話が少し進んできたのですが、本を読むだけではよく分からなかったニュアンスが明らかになって、色々発見があります。ヨガのとても基本的な概念の各所にSelf(Atma)の概念が見え隠れしているんだなあ、というところが面白いです。<br /> <br /> ヴェーダンタの人はよく「~ではない」という話し方を良くしますが、日本で有名な京都のチェータナ先生の話を3日間プラス3日間、合計6日間聞いたり他の人のセミナーを受けても「だから何なんだ」と思ってイマイチポイントがよく分からなかったのですが、この先生の話はどれも分かりやすくて腑に落ちます。この講義ノートを使って私が説明しても、きっと聞く人はよく分からないでしょう。分かっている人から聞くと細々としたニュアンスがよく伝わってきます。<br /> <br /> 日本で聞いたヴェーダンタの授業はヨガの基本的な理論であるヨガの八支則(アシュタンガ・ヨガ)とかヨガの4つの道(カルマ・ヨガ、バクティ・ヨガ、ニャーナ・ヨガ、ラージャ・ヨガ)などとは切り離されて、まったく別物であるかのような位置づけでヴェーダンタの話をその時は理解したのですが、この先生はヨガの基本的な道の延長線上にヴェーダンタを位置付けているのでヨガの基本的な話からヴェーダンタまでスムーズに繋がっていて説明に無理がないのです。<br /> <br /> 日本で聞いた話は、いきなり概念的な話から入って、単語の説明1つに数時間かけるような偏りのある授業だったり、最終的に結論がよく分からないままセミナーが終わったりして時間が3日間とか長いわりには内容が少なくて満足度が低かったのですが、ここの先生は毎日1時間半の中にとても盛沢山に話題を提供してくれて興味深いのです。こういう先生が伝統的なヴェーダンタの先生なのだなあ、と、ようやく分かりました。<br /> <br /> ニャーナ・ヨガの人が最終目標であるSelf(Atma)を求めているのもよく分かりましたし、その途中で手に入ることがある超能力に重きを置かない、という余談も実例を含めて話してくれました。この種の話は何度も聞くので、内容自体は目新しいものはないにせよ、分かっている先生からニュアンスも含めて聞くとまたかなり違ったものがあります。ここリシケシには特殊能力を持った人が沢山いて、先生の友人などでも、例えばトラタカという目での集中能力で少し離れたところにある鏡を粉々に砕くことができたり、ガラスを飲み込むことができたり、ここのスクールのオーナーのグルジも目を閉じてからその上に鉄の棒を付けて重いものを押すことができたり、とある人はパドマアサナをして瞑想すると空中に浮くことができたりするそうです。そのような特殊能力はここリシケシでは珍しくはなくて先生も目の前で多くを見てきたけれども、多くの場合はパワーを求めてさ迷ってしまうとのことでした。クンダリーニ・ヨガなども1つの道ではあるが伝統的なヨガの4つの道には含まれておらず、クンダリーニヨガをする多くの人はパワーを求めてしまっているので最終目標のSelf(Atma)を求めることは少ない、と嘆いていました。それでも、そのうちに「この能力、この源は何だろう」という疑問からやがてはニャーナ・ヨガを求め始め、ヨガのどの道を進んでいたとしても最終的に行き着くのはニャーナ・ヨガでの最終目的Self(Atma)であり、特殊能力はその道の途中での余興に過ぎない、みたいな話も聞きました。であるから、ニャーナ・ヨガの最初に生徒に尋ねる4つの資格(前提条件)で、最終目標であるモクシャ(解脱=Self/Atmaの発見)を求めている人のみがニャーナ・ヨガの道に入ることができる、という条件を設けているのも納得です。<br /> <br /> このスクールはもともとアサナ目的でしたが、実はこのヴェーダンタ授業が一番実りあるかも。<br /> <br /> 12/23<br /> リシケシマーケット近くの河原でバガバッドギータの劇っぽいのが行われていて、みんな踊っていました。<br /> <br /> <br /> 残念ながらヒンディー語なのでよくわからず... まあ、それでも楽しめました。<br /> <br /> 12/24<br /> リシケシで一番大きいGanga Arti (ガンジス川に火を捧げる儀式)を見に行きました。先日見たものより数倍は規模が大きいです。冬の閑散期だからかバラナシに比べると寂しい感じではありますが割と空いていて近くで見られるので良いです。観光エリアから少し離れているので地元民が多い気もします。<br /> <br /> <br /> 12/26<br /> Sanskar Yoga ShallaでのハタヨガTTC200(Teaches Training Course 200時間)を卒業してKriya Yoga Ashramに戻ってきました。勉強のために受けたのでTTC資格を使う予定はなくてしばらく封印です。人が少ないので60分クラスを2回実習できましたが普通はこんなに演習できないそうです。フローはなんとなく慣れてきたものの、自分が難しいポーズできないと先生として格好がつかないのでこのまま先生は難しそうですが勉強にはなったし、もともと勉強のみのつもりだったので予定通りですし、体の柔軟性も前より上がったので良かったです。とは言ってもまだまだ硬いですが。<br /> 来月の瞑想TTC(1ヶ月)は正式に開催中止になってホームページからも消されていました。瞑想TTCはあまりなくてどんどんコースが消えてますから人気がないのかも。それよりKriya Yoga Ashramで毎日瞑想した方が遥かに良さそうな感じです。<br /> 瞑想TTCがなくなって来月の予定が空きましたのでもともと2月頭に行くつもりだったクンバメーラに早めに行けそうですし、ここで瞑想すれば当初の予定はだいたい達成できるので結果としてはキャンセルになって良かったかな。やはり、良い事も悪いことも含めて完璧です。Sanskar Yoga ShallaのTTCは26日で定価USD1,400ですが私は別のところが開催中止になって振替で受けたのでUSD1,000で割とリーズナブルでした。レッスンだけでしたらアシュラムに行けばもっと安いですがTTC200の資格が取れる外国人向けコースではこれは最安価格帯かなと。<br /> クンバメーラの方はまだ交通チケットは取っていませんが、どうやらここから直通バスをアシュラムで手配するかもしれないので、少し様子見です。何日滞在するかもまだ流動的です。<br /> <br /> 12/28<br /> リシケシでパンチャカルマ(マッサージ)を1.5時間 x 7日間受けることにしました。特に悪いところはないのですが筋肉をストレッチして柔軟性を高めるセラピーをリクエスト。今回は薬はなくてマッサージだけのようです。最初はドクターとのコンサルが30分ほどあってそれからマッサージを受けますが、これまた寒い! 想像以上の寒さです。服を着ていたからこの寒さに気付かなかった... マッサージは良いのですが寒さに耐えながらの1時間半(苦笑)<br /> <br /> 3日間: 標準的なマッサージ(Abhyangam) + Shirodara<br /> 4日間: 丸めた布でポンポン当てながら温かいオイルを練りこむBandleマッサージ + Shirodara<br /> いずれかの日に: 目へのオイルと鼻の通りを良くするのオイルをそれぞれ1回づつ (これ、忘れられそうな予感あり)<br /> <br /> ドクターにドーシャ診断して頂きましたが、基本(Nature)のドーシャはピッタで先日訪れたグルジと一致していたのですが、2番目のは違っていてカッパと言われました。1つ目は変わらなくて2つ目は変わるといいますが、こんな短期間に変わるものなのか、あるいは診断者によって判断が違うのかな。<br /> 食べて良いもの、悪いもの、などを一通り聞いた後、マッサージ。<br /> この担当者、腕は確かでした。当たりを引いたかも。オイルもたっぷり使ってくれるし。<br /> 寒いのは仕方がないです。<br /> <br /> ドクターコンサル 700Rs (約1,200円) 30分強<br /> アユールベーダマッサージ 1.5時間 1,200Rs(割引価格, 約2,000円) x 7回<br /> 合計9,100Rs (約15,000円)<br /> <br /> <br /> <br /> 12/30<br /> 数日前 Kriya Yoga Ashram (リシケシ) に戻ってきましたが、同じリシケシでもTTCを受けたSanskar Yoga Shallaとここでは雰囲気が全く違います。Sanskarはハタヨガのアクティブ(ラジャス)な感じが強くて、ここは落ち着いた(サットヴァ)な感じですが、どちらもインドですしここは幹線道路の横なので早朝以外は(瞑想ホールの外では)クラクションの音が聞こえてきますのでそこは微妙なところです。私は割と慣れているからいいのですが、静かさだけで言えばもっといいところがありそうです。ここの瞑想ホールは静かですしクッションが良いので瞑想はやりやすくて、日本だと30分もすれば辛くなってきますが、ここは2時間くらい割とすんなり瞑想できます。もちろん途中で足は組み直したりした上での時間です。<br /> <br /> 今後、もともと受けるつもりだった瞑想ワークショップが(完璧な運命のごとく)中止になって1月の予定が空いたので新しい予定を考えていたのですが、少しづつ固まってきました。<br /> <br /> ■1月上旬 Kriya Yoga Ashram (リシケシ) で朝晩約2時間づつ瞑想、昼間は自由時間<br /> ■1月中旬 クンバメーラ(Kumba Mela) アラーハーバード(Allahabad, イラーハーバード)<br /> <br /> 具体的には<br /> ・1/13 Kriya Yoga Ashram → Haridwar(リシケシ近郊)から鉄道 → 1/14 早朝 Allahabad (クンバメーラ開催地) 到着。Kriya Yoga Camp滞在<br /> ・1/14-15 クンバメーラ: Makar Sankranti (1St shahi Snan) 主要イベントの1つ<br /> ・1/16-20 クンバメーラ : 滞在中にイニシエーション(日時不明)<br /> ・1/21 クンバメーラ: Paush Purnima 主要イベントの1つ。Kriya Yogaでセレモニーを実施<br /> ・1/22 クンバメーラ 最低1週間滞在<br /> ・以降は未定<br /> ・2/9帰国 予定より早めに日本に帰るかも?<br /> <br /> ■候補<br /> ・同じくクンバメーラで1/27-2/2にSanskar Yoga Shallaのヨガキャンプがあるのでクンバメーラで1週間ヨガする<br /> ・コルカタに行ってダクシネーシュワル・カーリー寺院などを見る(コルカタ2回目)<br /> ・プーリに行ってクリヤヨガのアシュラム行く<br /> ・遥々とチェンナイ近郊ティルヴァンナーマライまで足を運んでアルナーチャラ山登る(北インドから行くのはちょっと遠い)<br /> ・チェンナイ近郊に新しくできたシバナンダのアシュラムでヨガする(ちょっと遠そう)<br /> ・バラナシでヨガする(観光地なので意外とヨガは高い)<br /> <br /> などなど案はありますが、クンバメーラで満足してお腹いっぱい、あるいは、人込みで疲れ果てて早く帰りたくなる気がしなくもないです。クンバメーラを見れば今回の旅の目的達成なので、これ以上特になければフライト変更して早めに帰る可能性があります。<br /> <br /> イニシエーションはここのグルジであるシャンカラナンダジに会わないと最終的な踏ん切りがつかないけれどもスケジュールはとりあえず入れてもらいました。ここのアシュラムに今いるスワミは静けさのレベルが違うし、良い意味で宗教っぽくないし、こういうとこなら弟子になるのもありかも? という気がしてきました。まあ、まだイニシエーションまで時間あるしわからないですけどね。弟子になったところで表立った義務もなさそうですし、お金も請求されていないし、ここの瞑想するかどうかも自分がやる意思があるかどうか次第の自由意志な感じですので。<br /> <br /> ここの方法は、弟子を観察して準備が整ったらグルが次を与えるという古典的手法ですので、そこも共感が持てます。<br /> <br /> 私が例えば他のヨガ流派や宗教でイニシエーション受けたかどうかは聞かれていないので、そこは関係ないっぽい? 雰囲気です。まあ、そういうところまでグルジはお見通しだから聞く必要ないのかな? そのあたりの業界の常識はわかるようでいて細かなところがわからないことがあります。イニシエーション受けていても本物のイニシエーションなんて数少なくて儀式的な宗教への入信は本質とはあまり関係ないのかも、という気もします。<br /> <br /> なんだか、よくわからないうちにこのアシュラムに放り込まれて、なんだかよくわからないうちにクンバメーラ行って、よくわからないうちにイニシエーション受けることになりそうです(結局は受けませんでしたが)。まあ、直感は「問題なし」と言ってるので今はこのまま進みます。<br /> <br /> <br /> <br /> 2019/1/5<br /> なんちゃって登山用ザック 90L を入手。<br /> ここにはキャリーバッグで来ましたが、荷物は全部こちらに入れ替えです。<br /> <br /> <br /> クンバメーラは常設テント用の巨大な敷地が全部砂地らしいのでキャリーバッグで行ったら簡単に死ねます。<br /> <br /> 古くなった巨大キャリーバッグは角が破けて壊れそうなのでこちらで捨ててゆきます。ちょうど良いタイミングですね。家に置いておくのも場所を食うので前からどうにかしたかったのです。中型ハードケースは別途ありますしね。<br /> <br /> 日本だとキャリーバッグ処分も面倒ですし、ちゃんとした登山用ザックを日本で買うとめちゃくちゃ高いので。こだわる人に言わせれば違うのかもしれないですが旅行で使うことが多いので軽い方がいいし壊れるので安い方が良いです。なんちゃって登山くらいには使えそうです。<br /> <br /> 前に60Lを買ったインド製ケシュアは安くて軽いのに意外に丈夫でしたが、これはどうですかね。<br /> <br /> 90L 2,500Rs(約4,000円)<br /> <br /> (結局、クンバメーラでもどうにかすればキャリーバッグでも大丈夫でした。昔は砂でしたのでリュックでないと困りましたが、今年は政府が頑張って鉄の板が至るところに敷き詰められていましたのでキャリーバッグでもなんとかなりそうでした。ただ、隙間はあるので転がす時に鉄の板にぶつけてかなり損傷しそうな感じでしたが。古いキャリーバッグで壊れても良いのなら平気なのではないでしょうか。)<br /> <br /> 2019/1/6<br /> ここの師匠-弟子の系統はこうなっているようですね。<br /> <br /> クリヤヨガ初代 Babaji Maharaji ババジ<br />    ↓弟子<br /> Lahiri Mahasay ラヒリ・マハサヤ<br />    ↓弟子<br /> Sri Yukuteswaji ユクテスワ<br />    ↓弟子<br /> Swami Narayana Giri (Prabhuji) (ヨガナンダの兄弟弟子)<br />    ↓弟子<br /> Swami Shankarananda Giri (スワミ・シャンカラナンダ) 写真の人物。ここKriya Yoga Ashram(リシケシ)のグルジ<br /> <br /> グルジ(シャンカラナンダジ)はプーリ(オデッサ)が故郷でそちらのアシュラムにいることが多いようです。今はクンバメーラ準備中で現地にいるそうなので、私もまだ会っていません。<br /> <br /> 噂程度ですが、ここにいる先生にグルジの話をいくつか聞きました。<br /> <br /> ■グルジは眠らない。今でこそ老体の休息が必要になってきたが、横になっても意識は起きているし、基本、10呼吸前後で(何分も経たずに)回復してすぐに起きる。昔は全く寝なかった。<br /> <br /> (感想)→ 覚醒した聖者の睡眠時間が数時間というのはよく聞く話です。意識がずっと起きていて寝ないというのは覚者の印ですが、それでも体は休めると伝え聞くことがほとんどなので、肉体も全く寝ないというのは初耳かもしれません。私もヨガ初める前は8〜9時間睡眠だったのが6〜7時間で良くなってきましたが、そんなのとは全然レベルが違いますね。<br /> <br /> ■グルジは占星術の全ての知識を夕方だけ(数時間)で全て理解した。<br /> <br /> (感想)→本来、占星術とはこうして直感的に理解するものなのかも? そう言えば前にもこの種の話を聞いたような気がします。<br /> <br /> ■グルジはバガバッドギータの意味を神に尋ねることができる。グルジの解釈はとても独創的でここでしか聞けない。<br /> <br /> (感想)→普通の解釈を知らないのでグルジの解釈が独創的かどうかよく分かりません。<br /> <br /> ■グルジのヨガスートラ解釈やヨガ哲学も独創的でクリヤヨガのみの解釈<br /> <br /> (感想)→教科書っぽい本を読んでいますが独創的解釈満載です。最初に普通のヨガ哲学勉強していないと混乱しそう。<br /> <br /> ■グルジはサマーディに入るとき呼吸が止まる。クリヤヨガ手法の何段階か以降は呼吸を止めての瞑想になる。<br /> <br /> (感想)→クリヤヨガではサマーディが意外に早い段階から出てきます。1段階目や2段階目の低いレベルのクリヤヨガでもサマーディが出てくるので、多くの人はその要求の高さに引くのでは。サマーディにもいくつかあって、基本的なサマーディであっても難しいです。サマーディになると呼吸が止まって、その状態のまま瞑想中に何かしないといけないようです。このあたりは「あるヨギの自叙伝」にもいくつかストーリーがあります。<br /> <br /> ■高いクリヤヨガは、チッタ(心)を見出してからでないと伝授できないらしいです。<br /> <br /> (感想)→謎めいています。わかるようでいてわからない。今ここリシケシにいるスワミのクリヤナンダジは高いクリヤ専門で、教えを受けるためにはチッタを見出す必要があるそうです。一方、ここのグルジであるシャンカラナンダジは高い意識があるのに初心者にも教えてくれるお方で、そういう方はあまりいないそうです。<br /> <br /> ■高いクリヤの教えは言葉なしに行われる。<br /> <br /> (感想)→そういう世界なのですね。<br /> <br /> 1/8<br /> 先日から初心者向けのQ&amp;Aセミナーが数人に対して行われているので参加していますが、説明する方も自分で「私はグルではなくて初心者だから」と言っていて、なんだか変だなー という感じではあるものの、それでも私はこの団体について知らないことだらけなので参加していました。<br /> <br /> そのQ&amp;Aセミナーがおかしな感じで、ヨガナンダの「あるヨギの自叙伝」を読んでいなくてヨガもしていなかったら面倒そうなカルト団体だなあと思ってスルーしていた可能性が高いです。クンバメーラのこともなければ今すぐチェックアウトしていたかもしれません。自叙伝を読んでいたからある程度耐えられますが、ちょっと一般の理解を超えているといいますか、ちょっと変です。<br /> <br /> クンバメーラで他にあてはないのでここのキャンプに滞在してクンバメーラを見たいし、グルジに会うまでは判断は保留で良いかな... と思っていたところ、本日、年配のベテランが食堂でこそっと話しかけてきました。<br /> <br /> 「彼はグルではない。彼は頭のおかしい男だ。気をつけろ!」<br /> <br /> なるほど・・・。 そういうことですか・・・。 今までの違和感の理由が分かってきましたよ。 やっぱり、こういうところにはいるんですよねえ、ちょっと変わった人が。<br /> <br /> となると先日彼から聞いた不思議な話も一端リセットして何もないフラットな状態でいた方が良いですね。まあ、単にクンバメーラ見て帰れれば十分だと思っておきます。今後のクリヤヨガの私の中での位置付けもクンバメーラ行くまでは一端保留。今後クリヤヨガの瞑想を続けるかどうかの判断もひとまず保留。グルジの噂話も話半分で聞いておきます。<br /> <br /> セミナーでは教本の内容について質問しているのですが、回答があったりなかったり長々と他の話に脱線して答えがよく分からなかったりして、なんだか微妙です。まあ、それでも、グルジの話が又聞きではあるもののなんとなく聞けるので一応は有益ではあります。<br /> <br /> ことあるごとに「グルジはこんなに凄いんだ」とか言う話になるのですが、その雰囲気はと言うと先日ヨグマタについてちょっと書いた時のスタッフに似ていて、ヨグマタの展示会ブースに行くと面倒そうなスタッフが話しかけてきて「ヨグマタだけが本物でヒマラヤのマスターに認められていて、他のヨガは全部偽物です」とか言ってウザったい人が何回かいたのですが、そのスタッフとちょっと感じが似ていなくもないです。ヨグマタのスタッフの方が何倍もうざったかったですのでこちらはよほどマシですけど、雰囲気はちょっと似ています。はっきり言って、こんな面倒な説明されたら、いくら内容が正しくてもクリヤヨガとは関わり合いたくなくなります。<br /> <br /> 同じ人から何度か説明を受けましたがいつもそんな感じなので、ここは微妙かなあと思い始めたのです。<br /> <br /> 理論の説明を受けている筈なのに途中から「経験しないと分からない」みたいな話ではぐらかしてきたりします。その度に「経験しないといけないのはその通りだが、今は講義の時間なので理論が聞きたい。結局、回答は何? Yes?それともNo?」と突っ込んでも曖昧な回答といいますか、回答になっていなかったり、こちらが類推して確認するとようやく「そうだ」って返ってくる。なんだか回りくどすぎて時間ばかりが流れる。質問に対して答えずに連想ゲームになっている。<br /> <br /> 連想ゲームが続いて回答がないと思っていたら急に「理解したか?」と聞かれるけれども、全然回答になっていないので再度「そもそもの質問の回答は何ですか?」と聞くが、回答の代わりに「君は理論重視だ。頭ばかりが働いている」とか言われてしまう。なんだこりゃ。今は講義の時間であって実習の時間ではないのに体験重視とばかり言われると、ここの姿勢を疑います。雰囲気重視なので、私が瞑想方法や教本から理解したクリヤヨガとはかなり食い違っています。先日のTTCのヴェーダンタの先生は明確に説明してくれて分かりやすくて深い内容でしたが、こちらは薄っぺらいです。こんなのがクリヤヨガだとしたらクリヤヨガの本質を疑ってしまいます。よくあるスピリチュアル初心者の集いみたいな感じで、興味がありません。<br /> <br /> スピリチュアル業界にはあることないことそれっぽく話す人が大勢いますから、その度にまともに取り合っていたらきりがないのです。重要でなかったり直近で関係なければとりあえずスルーです。<br /> <br /> こういう人がいるから「自分の経験をむやみに話さない方が良い」と言うのも理解できます。変な人に自分の経験を話したらネタにされてしまいますし、比較対象にされて「君はまだまだだ」とか意味不明なことを言われてしまいます。他人のレベルがわかるのはマスター/グルのレベルだけであって、このような、自分で自分のことを初心者と言うような人から指摘されても「はあ? ああ、そうですか・・・」という感じで、引いてしまいます。意見なんて全く聞いていないのに勝手に話されても困惑します。<br /> <br /> まあ、グルジはこんなんではない筈、と思ってまだ判断は保留です。<br /> <br /> クリヤヨガは上のレベルは凄そうですが敷居がとても高いので上のレベルに達する人はほとんどいないのではないかと思ってしまいます。そういう敷居の高さもあってクリヤヨガへの興味も下がってきたので、クンバメーラ見て帰国すれば十分と思って、ニュートラルでいることにします。<br /> <br /> クリヤヨガの理論は独特すぎて一般的なヨガ哲学とはかなりかけ離れているので、理屈の面ではヴェーダンタの方が遥かに勝っている気がしなくもないです。クリヤヨガだけで通じる理屈が多いので、クリヤヨガはクリヤヨガで完結している特殊な独特の世界を単独で作っている、という気もします。他の人に言ったら引かれそうなこととか平気で話していたりしますし... 今のところ、微妙。「ヨギの自叙伝」は割と普通に読めたのですけどねえ、ここで聞く話はなんだか微妙です。<br /> <br /> 1/9<br /> オーム(AUM)入手。<br /> 言い値500Rs(約800円)、購入価格150Rs(約250円) 7割引<br /> それでも高いと思うけどこの観光地リシケシならこんなものでしょう。<br /> 汚れを取ればかなり綺麗になりそう。<br /> <br /> <br /> <br /> 1/11<br /> <br /> こんな巨大な写真がアシュラムの各所に飾ってあります。最初は亡くなった方の写真かと思っておりましたがここの存命中のスワミ・シャンカラナンダジの写真だそうです。既に亡くなった偉人の写真と並列に飾ってあったりもします。こういう感覚ってよくわからないですね。死後に弟子が飾るのなら分かりますけど、自分のアシュラムに自分の写真をデカデカと数多く飾るのって、どういう感覚なのでしょうか。インドだと普通なのかな。<br /> 弟子である先日の先生が言うにはグルジは光明を得た方だからどうのこうのと言っていますので過去に光明を得たとされている偉人と並列に飾るのは弟子にとっては普通なのかもしれません。まあ、ちゃんとはよくわからないですけどね。<br /> 本人のエゴがゼロで飾るのなら、まあ、ありなのかもしれませんけど。普通に見たら自分のエゴで誇示しているようにも見えなくもないです。<br /> <br /> これって、クリヤヨガの基本哲学であるところの「パワー(生命力)こそが全ての本質」という文脈で理解可能かもしれません。エゴかどうかなんて、きっとクリヤヨガ的にはあまり関係がないんです。重要なのはパワー(生命力)を高めることだから写真は問題がないどころか意識のパワーをグルジに集めるための効率的な方法なのかなと。単に1つの解釈の可能性というだけですけどね。<br /> <br /> あるいは、インド人によくることですけど自分がナンバーワンだとすぐに言う人がインドには多くて、その種類なのかもしれません。ITエンジニアや起業家でインドがナンバーワンだと吹きまくる(実際は使えないか普通)人は数えきれないくらいいますし、インドでヴィーダンタ学んだ京都の某者もヴィーダンタが世界で唯一とか吹いてましたし、リシケシの瞑想クッション屋が普通のクッションをインドでナンバーワンだと吹きまくってました(そう言いつつも別のをそんなに知らない)し、カジュラホのアクセサリー屋ではボロボロのアクセサリーをハイクオリティだと吹いてましたし、インド・クオリティをナンバーワンだと吹きまくるのはインドではよくあることです。先日ここの先生もグルジのことを「バガバッドギータを正しく解釈できる数人のうちの1人」とか自信満々のドヤ顔で吹いていて違和感満載でしたし。でも、人の良い日本人はそんなこと言われると「そうかなあ」とか思ってしまう人がいるんですよねえ。信者の類いならそれでもいいのかも。<br /> <br /> こんなことをここで言ったら身に危険があるかもしれないので黙っていますし、まだグルジに実際に会っていないので判断はニュートラルでいますけどね。そうでないと顔に出ますから。<br /> <br /> クンバメーラで孔明の罠があるかもしれません。どうなることやら。<br /> <br /> クンバメーラでグルジからの伝授を受ける可能性は50%です。まあ、グルジに会った時の直感で決めます。<br /> <br /> ドネーションが必要だそうで、いくらでもいいらしいですけど、そういいつつも値段指定されたら拒否するかも。<br /> <br /> 古典的には花とフルーツらしいです。<br /> <br /> 参考までに、別のとこですけどマハリシのTM瞑想の伝授は日本で10年前は30万円、今は16万円くらい、北欧では今はマハリシTM瞑想伝授が900USDくらいだとここに来ている人から雑談で聞きました。<br /> <br /> 私はインドの結婚式の祝儀と同じくらいの金額で2,000Rs(2,200円)〜5,000Rs(8,500円)をイメージしていたので、祝儀で出せるのは最高USD100までですねえ。<br /> <br /> もし同じ金額出すのならTM瞑想を選ぶと思います。まあ、出さないですけど。<br /> <br /> 先生に聞くと「気にするな。お金なんて関係ない」とか言いつつも「ほう。そうか。君はそういうところに住めるのか」みたいに懐具合を探ってくる感じが微妙。一緒に来ているアジアからの来訪者と対応が微妙に違って、お金のありそうな人優先なのかもしれないな、と。<br /> <br /> 先生が理解に苦しむ話をしたのです。「ガネーシャに10ルピー出して大きなお願いする人が多いが、そんなことで願いが叶う筈がない。沢山求めるなら沢山払うべきだ」と言っていましたが、サッパリ理解できません。私の理解では、現世利益を叶えてくれる神様は程度の低い神様でキツネかタヌキの類いに何か捧げ物すれば等価交換してくれるかもしれないのと同レベルの話に聞こえます。ガネーシャってそんな程度の低い神様だったの? 本当に位の高い神様はお金なんていらないし、そもそも位の高い神様は現世利益のことをあまりよくわからないので現世利益にはあまり関係がない筈です。 この先生はインド人ではなくてロシア人なのでそこは勘違いかもしれませんが、それにしても、これは、「伝授受けたいならたっぷり払え」と言っているように聞こえます。<br /> <br /> 最近、「君はグルジから伝授を受けたいと思っているかもしれないが、私から受けても同じだ」とか不思議なことも言い出しました。といいますか、自分で自分のことを初心者とか言いながら伝授するっての理解不能なのですけど。伝授すればドネーションの中から分け前が出るのかなと推測します。<br /> <br /> まあ、キャンプの滞在自体は固定金額なのでイニシエーションに高い金額言われたら受けずに滞在だけして帰ると思いますし、理解不能な不思議な先生から伝授は拒否すると思います。<br /> <br /> この先生が変なだけであって、伝授すれば分け前で儲かるから金ありそうな人に接触してきているのかな、というのが今の理解です。<br /> <br /> 孔明の罠とまでは行かないですけど、罠でしょうねえ。私はもしかしたら飛んで火に入る夏の虫になるのかな?<br /> <br /> 1/12<br /> ここのクリヤヨガの先生の目的が金だと推測できる理由が1つ増えました。先月TTCで一緒だったアジアの友人が先日からここに滞在しに来たのですが、最初は先生はその人をクンバメーラに熱心に誘っていたのです。瞑想テクニックもいくつか教えていました。<br /> <br /> でもどうやら、最初先生はその人を(私の友人だから)日本人と思っていたらしく、お金のことは心配ないだとかいろいろ言っていました。でもその後、日本人ではないとわかって、しかも、クンバメーラに行かないことを伝えたら態度が変わって、その友人が先生に瞑想テクニックを教えてほしいと伝えたところ冷たい態度で「明日か明後日にはもしかしたらクンバメーラに行かないといけないかもしれないからきっと明日教えるのは無理です」と断られたそうです。でも、翌日その先生は普通に他の人の相手をしていて時間はあるように見えます。特に急いでいるようにも見えません。翌日だけでなく、3日経っても普通にアシュラムにいます。どこが忙しいのでしょう?意味不明です。きっと、態度を相手の懐具合で変える先生なのかなあ、と友人と話をして、きっとそうだと結論が出ました。<br /> <br /> アジアの来訪者がクンバメーラ行かないとわかった瞬間に、翌日から理由つけて指導をやめたのも背景が分かりやすいです。クンバメーラに誘っていたのは、行ってしまえばそこで何か理由をつけて出費させようとしているのでしょう。罠ですねえ。最終的に大きく出費させるために瞑想を教えていたのでしょうね。<br /> <br /> ここに滞在中の年配者が雑談で「瞑想を教えるのはお金が目的でしょうねえ」と口を滑らせていたので、もしかしたらここの実態をよく知っているのかもしれません。<br /> <br /> ここのアシュラムの滞在費はとても安くて、こんなのでやっていけるのかな・・・ と思っていたのですが、伝授のドネーションという大きな収入源が隠れているのかもしれないですね。<br /> <br /> そもそも瞑想ってお金ほとんどいらないですし、なんでそんなお金が必要なのか理解できないです。<br /> <br /> ちなみに、Webで検索したところ、クリヤヨガの伝授の儀式はヨーロッパでは100ユーロくらいが相場だそうです。そりゃそうですよねえ。そんなもんですよね。でも、ここはインドですからね。クリヤヨガの団体はいくつかあるようですから方針が同じかどうかは分かりませんけどね。<br /> <br /> 私が最初にテクニックの説明を聞いた時に、日本にクリヤヨガの施設がないから「君が作るのだ」とか先生が吹いていたことを思い出すのですが、それはきっと、一部の誇大妄想者にそう言うことによってその気になって、あたかも自分が救世主か何かだと勘違いして伝授を受けることを決心する可能性があるので、決まり文句でそう言っていたのかなあ、と今は思います。どうやらこの種の瞑想施設には自分が世界を救うのだとか偉大な教師だとか勘違いしいている誇大妄想狂が時々来るみたいですからねえ。そういう人が高いお金(1,000ドルとか2,000ドルとか?)を出してでも伝授を受けて世界を救うという妄想に浸ってしまうのかなあ、とも思います。そのお金で世界を救えるのなら安いものだ、とか思ってしまうのですかね? そんな簡単に世界救えるのならここのグルジがとっくに救っていると思いますよ。本当に救えるのだとしても、そんな煽られて動くような人が救うことは絶対にないと思います。実際のところ、そういう志があったとしても、本物はものすごく地味だと思いますよ。表立って煽るのは偽物っぽいです。先生がいろいろ訳わからない話をしていたのは頭が悪いわけではなくてどの種の話題に食い付くか試していた可能性があります。救世主的な妄想に食い付くかどうか試していたとか? でも、それは読み過ぎですかねえ。単に頭が悪いか、あるいは、英語があまりできないだけ、という可能性もありますけど。あるいは勘違い君ですかねえ。<br /> <br /> やっぱり罠ですかね。クンバメーラに行けば正解がわかることでしょう。<br /> <br /> 1/12<br /> それとは別の罠。ここはクリヤヨガの瞑想アシュラムなのに何故かマハリシのTM瞑想の先生をしている人がいて、ある日私に食堂で話しかけてきました。他の人にTM瞑想の伝授もしているそうです。彼は瞑想ホールではTM瞑想をしていると言っていたのですが、実際には瞑想ホールでこの人を見たことがないので謎な人だと思っていました。私がここに来て2週間になりますが、1回も瞑想ホールで見たことがないのです。たったの1回も、ですよ。言っていることとやっていることが違うのは、何かがおかしいです。<br /> <br /> その後観察してみると、どうやら新しくアシュラムに来てここのことがよくわからない人をターゲットに話しかけている感じで、どの人も不思議そうな顔をして話を聞いているのがよく分かりました。<br /> <br /> その人が言うには、TM瞑想をすると意識が「無」の絶対虚無(Absolute)な状態になると言います。最初マントラを数分唱えた後、意識が、風のない水面のように静かになって無の状態になり、超越意識に導かれるとのことです。名前通り超越(Transcendental)するそうです。有名人も多く行っていて、ここリシケシにあるビートルズアシュラムもそのマハリシが作ったもので、ビートルズだけでなくテスラ社のイーロンマスクも行っている、と言っていました。<br /> <br /> 私は ふーん と聞いていたのですが、その伝授にかかる料金が北欧オスロで900USDくらい。日本だと16万くらいのようですが日本の10年前はたしか30万くらいだったという話をすると世界的にも価格は下がって来ているとのことです。もともと私は存在は知っていて本もちょっと読んだことがあって展示会ブースで話を聞いたこともあるので一応の簡単な知識は持っていました。だから、ふーん、と聞いていました。確かにTM瞑想でそういう意識になるのかもしれないですけど、それは普通の瞑想していてもその境地には達するので、私からすれば、それはTM瞑想特有のものではないと判断できます。超越、というのも、絶対無の状態にまで瞑想が深まったというだけの話で、別にTM瞑想が特殊ではなくて、そういうテクニックがあるだけだと私は理解しています。<br /> <br /> この話を聞くだけならそれで終わりなのですが、ここが瞑想系のアシュラムでその人がTM瞑想の先生をしていて、しかも新規の人に話しかけていてTMの伝授の話をする、ということは、これは、瞑想に興味がある人が数多く来るであろうこのアシュラムをターゲットにしてTM瞑想の伝授の勧誘をしている、と私は結論付けました。だってそうでしょう。普通のヨガアシュラムに行って勧誘するより瞑想系のアシュラムに行った方が潜在顧客が多くいるのですから効率的です。<br /> <br /> その人と雑談している時にぽろっと口を滑らせたのです。私が「人々が瞑想をする理由は何でしょうね?」と言ったら、こらえ笑いをしながら「そりゃ、お金でしょう」とボソっと言ったのを私は聞き逃しませんでした。こういうところに本音が出るんですよねえ。この人が瞑想をする理由はお金なんでしょうねえ。<br /> <br /> その人は世界各国を旅してきていて、色々な都市でセミナーをしてTM瞑想の伝授をしつつお金を稼いでいるそうです。TM瞑想の伝授が1人900USDだとして、昔はもっと高かったそうですから、相当儲かった筈です。であれば世界各国を何カ月も各都市に滞在しながら旅できるのも頷けます。<br /> <br /> こんなところでなんでTM瞑想の話を聞くのかと思ったら、実は勧誘でした、というお話でした。ちょっと話をしてマントラ伝授して900USD稼げるなら、そりゃ、フレンドリーに話かけて一生懸命にもなりますよね・・・。たぶん。<br /> <br /> 私がTM瞑想を元から知っていてTM瞑想のマントラ伝授を受けるつもりがないとわかったらさっさと離れて他の人に熱心に話すようになりましたよ。こういうの、わかりやすいですねえ。<br /> <br /> ちなみに、そのTM瞑想の教師はちょっと意識がズレていて、最近のイーロンマスクの顔みたいにちょっと斜めを向いている感じでした。説明を聞いていて直感で思ったのですが、TM瞑想はマントラを使うので、そのマントラが実は効果がありすぎて意識を飛ばしてしまって超越状態に導くので、TM瞑想に頼りすぎると意識がズレてしまうのかも? TM瞑想も使い方を間違うと変になるのかなあ、と直感で思いましたが、ただの直感ですので確証はまだありません。<br /> <br /> それにしても、今回は、罠が多いですねえ。<br /> <br /> 1/12<br /> ビートルズアシュラムは何もないのに入場料600Rs(約950円)も取る(インド人は150Rs,250円)のでチケット買わずに裏の敷地外からちょっと見て終了。これで十分ですよ。中は空っぽですしね。ビートルズファンでもないですし。<br /> 明日リシケシを出発してクンバメーラに向かいます。<br /> <br /> <br /> <br /> 1/14<br /> 夜行列車でもうすぐ到着。<br /> <br /> 1/14<br /> クリヤヨガのクンバメーラ・キャンプに到着。まるでスラムみたいなところで軽くショック。<br /> <br /> <br /> <br /> 最初にグルジのところに連れて行かされましたが、ベッドでグルジが寝ているので起きるまでじっと椅子で待つことに... グルジって眠らないのではなかったの? 寝ても10呼吸で起きるのではなかったの? 聞いてたことと違うんですが。 昼食持ってきた弟子といいますか付き人も横でじっと起きるのを待っています。まあ、これはスワミとしては普通な気もしますけど、弟子を付き人にしてるという時点で軽くカルチャーショック。<br /> <br /> ようやく起きたかと思えば動きも鈍く、最初に花を手に渡されたかと思えばそれを食べるかのようなジョークをしたのですが、なんだかジョークの顔に品がないです。なんじゃこりゃ。こんなこと思っていること感づかれたら怖いから必死に無表情でいる私。<br /> <br /> やがてグルジが昼食を食べ始めたので私はそのまま待ち続けましたが、私は一端外に出てくれと言われました。<br /> <br /> その間、ずっとグルジの顔を観察していましたが、単なるヨボヨボのおじいちゃんという感じで、食事も下に沢山落としています。手の動きも悪いです。おじいちゃんだとしても昔の聖者だった筈の人がこんなものなの? ちょっと微妙。グルとして教えを貰うイメージが全く湧かないです。この人は私のグルではない。たぶん。<br /> <br /> グルジの部屋を出たところで私が座っていると他のスワミのおじいさんが来てプラサードのせんべいっぽいお菓子をくれました。やがて他の欧米参加者が座ってきて、スワミに食事などに関する問題発生を相談し始めたのです。「食事がないと言われたかと思えば10分後に他の人に提供している」みたいな内容でしたがスワミはスルー。なにこの無関心のスワミ。このスワミも微妙。欧米人が戸惑ってます。<br /> <br /> 他のスワミで魅力的な人がいないかなと思いましたが、見かけた限りでは興味を引く人は見かけませんでした。何だこりゃ... 他のテントにいる弟子たちもあまり楽しそうではないです。ごく一部は凄く楽しそうですが。<br /> <br /> それにしてもテントがボロボロです... なんじゃこりゃ。 スラムをちょっと小綺麗にした感じ。電源コンセントもないなんて聞いていないし、めちゃくちゃ狭い汚い暗い砂っぽいテントに雑魚寝のギュウギュウ詰めです。1人あたり畳一枚+バッグを置くだけのスペースしかありません。荷物を広げる場所はゼロ。なにこれ? 何かの冗談? これでインドで一泊40ユーロ(5,000円)ってどういうこと?<br /> <br /> <br /> <br /> トイレとシャワーもボロボロ。シャワーは自室のバケツ持参で浴びるそうです。周辺は砂ですし埃っぽいし...<br /> <br /> これで5日以内200ユーロ(25,000円、1泊5,000円)、7〜12日が300ユーロ(38,000円、一泊3,200〜5,000円)ってのはめちゃくちゃ高いです。友人がメールで5日とは4泊5日のことなのか5泊なのか5泊や6泊はいくらなのか聞いたら明確な回答がなくて、事務対応微妙だと言っていましたが、実物を見たら1泊の違いなんて関係ないのだなとわかりました。そもそもちゃんと管理していないのでは?<br /> <br /> おそらく、ですけどテント代表の人が最初にお金出してそこに泊まった人の分はテントごとの代表の懐に入るのでは? 何故そう思ったかというとかなりギュウギュウ詰めなのと、誰々はこちらのグループだとかアピールしていたのでお金と縄張り争いがあるのだなと直感しました。<br /> <br /> 到着直後、皆で水を買うからという名目で100ルピー集金されたのですが、調子に乗っていろいろな名目で集金されるのではないかという予感がピンと来ましたよ。そんなイメージが来ました。<br /> <br /> なんだかいろいろと微妙といいますか、微妙を通り越して何かの冗談な感じなので、どうしたものかなあ、と思って、決断し、顔見知りの人がいない瞬間を見計らってキャンプ脱出しました! 滞在時間1時間弱でした。私って判断早いんです。 中途半端に滞在してしまうと最低料金の200ユーロ請求されかねないので脱出するなら今しかありません。<br /> <br /> こんなところに滞在は無理です。<br /> <br /> グルジが私のこと全く気にかけてくれそうにないですし、もういいやと思いました。もちろんイニシエーション(伝授)もなし。このグルジからイニシエーション(伝授)は有り得ないと思いました。いらないです。<br /> <br /> まあ、本気の人はグルジに猛アタックして教えを乞うのでしょうけど、私は、別にいいやと思いました。<br /> <br /> もし運命があるのでしたらクンバメーラの会場でばったり出くわすでしょう。その時はその時です。<br /> <br /> その後、会場から割と近いホテルにチェックイン。<br /> <br /> <br /> <br /> ダブルルームで食事なし、ホットウォーター用のギザはないですがお願いすればバケツで貰えるそうです。一泊2,500ルピー(3,900円)です。この綺麗さでテントよりも安いってどーゆーことですか(苦笑)<br /> <br /> 他の都市に比べてべらぼうに高いのはクンバメーラだからです。クンバメーラ中のこの立地であればリーズナブルというかかなり安いと判断しました。<br /> <br /> 最低1週間滞在してクンバメーラ散策します。<br /> <br /> 1/16<br /> 私は最初クリヤヨガのキャンプをちょっと綺麗めのスラムかと思いましたが、他の団体のキャンプを見ると本当のスラムみたいで、本物のスラムと見分けがつかないです。区画できちんと区切られているし川から近くてカンファレンスホールのすぐ横なので本物のスラムじゃなくてキャンプだと思うんですけどね。でっかいテントに雑魚寝の団体もあったりするので、クリヤヨガのキャンプは立派だったみたいです。立派なスラム風キャンプ。あるいは区画ごとに分断されているのかもしれないですが、見分けがつかないです。<br /> <br /> <br /> 続き → クンバメーラ2019 早朝パレード見学 <br /> <br /> <br /> Mon, 11 Nov 2019 00:00:00 +0900 インド進出で10億円が行方不明。インパクトHDのコンビニ事業 https://w-jp.net/2019/1606/ <br /> インドのコンビニを元セブンイレブンのメンバーで立ち上げると噂されていたインパクトHDが今月初旬にいよいよ一号店を開店したそうですが、一号店オープンの前日にパートナーであるCafe Coffee Dayのシッダールタ氏が川で死亡し、インパクトHDが現地法人に貸し付けていた資金10億円が行方不明で問い合わせても門前払い(イマココ)だそうです。またしてもインドにしてやられてますよ。元セブンイレブンですらしてやられるんですねえ。ドコモで数千億円取られた話もそうですけど、日本はいいカモになっていますよねえ。現地法人にお金吸い取られるのは日本のお家芸かも。社長の記事をいくつか読むとかなり全力でコミットしていたのにそれでもやられるのですから、インドのことに興味がない日本の本社がインドにお金を毎年数億とか吸い取られ続ける事例があるのも当然な気がします。<br /> <br /> インドコーヒー王の遺体、川辺で発見 世界で1700店以上展開<br /> インパクトHD IR<br /> <br /> これを読むと、10億円を奪われるだけでなく、経営権も奪われようとしているようです。その可能性がなければ決算資料でこんなこと言いませんよね? インドからすれば資金は頂いたしセブンイレブンの運営ノウハウも貰ったから、もう日本いらない、ってことかもしれませんね。日本人は甘いですから、最後の最後になるまで騙されたと気付きません。とんだお人好しなわけです。仕掛けたインド人は笑いが止まらないでしょうね。こんなの許したら今後、日本企業のインド進出に支障が出ると思いますよ。こんなの許したままインドに進出するならカモ確定と言うことでしょう。業界というかインド進出している関係者が総出でどうにかしなきゃならない案件だと思いますけどね・・・。私はもう日本に帰ってきていますので当事者という程ではないですけど。今はきっと、日本側の出方を見ているのでしょうね。追求して来ないのなら経営権も資金ももらってトンズラし、インドのコンビニは誰かが引き継ぐだけのことで、日本が外されて終わりになるでしょう。インドはまだまだヤクザな世界です。発展途上国は1万円前後で人が死にますからね。そんな世界に10億円もポンと出したらどうなるかすぐにわかりそうなものですが。対外的にはVIP対応で平静を装うでしょうけどね。日本人は表面にすぐ騙されますからねえ。交渉の表に出てきている人は何も知らない善人あるいはエージェントということもあるし、それで信用しきってしまったが、実は後ろで手を引いているのが悪人ということもあり得ますしね。インドは一筋縄ではいかないのに。日本ですら色々と面倒なことがあるのに、インドなんて(苦笑)ノコノコと調査に行ってうっかり重要な情報掴んでしまって口封じで殺されなきゃいいですけどね。ちなみに、インドは1万円で人が死にますけど私が関わっているフィリピンは五千円で人が死にます(苦笑)<br /> <br /> 2019年12月期第2四半期決算説明資料<br /> <br /> <br /> <br /> ■続報 8/20<br /> 続報で、先日の懸念を完全に否定してきました。<br /> 2019年8月14日付「2019年12月期第2四半期報告書の提出期限延長に関する承認申請書提出についてのお知らせ」における一部内容の情報更改とお詫びについて<br /> それが真実で、実際は問題ないならそれはそれで良いですけどね。<br /> 報道を鵜呑みにして確かめもせずにIR出す上場企業は問題だと思いますけど(苦笑)<br /> <br /> ■続報: 東証が監理銘柄(確認中)に指定 9/17<br /> キタキタ・・・。テレビではいいこと言っていましたが上場廃止になったらかなりヤバい。リミットはあと1週間。9/27がリミット。<br /> インパクトHD-ストップ安売り気配 東証が監理銘柄(確認中)に指定<br /> <代表メッセージ>2019年9月17日 2019年12月期第2四半期報告書の提出遅延及び当社株式の監理銘柄(確認中)指定の見込みについて<br /> <br /> ■続報: 上場廃止は回避 9/26<br /> 損失19億円(特別損失11億円+投資損失8億円)で報告を出してギリギリ上場廃止は回避。悪いインド人がどこかで大笑いしていることでしょう。もしかしたらまだ取り返すつもりなのかもしれないですが、どうでしょうね。<br /> 特別損失(貸倒引当金繰入額)及び営業外費用(持分法による投資損失)計上に関するお知らせ<br /> <br /> [追記 11/14]<br /> 一旦はドブに捨てた10億円ですが、インドのことですから意外に政府が真面目に動いてくれて忘れた頃に10億円が戻ってくる可能性がなくはないですね。一部は意外にしっかりと働くのです。今回のことでどうなるのかはわかりませんけどね。こんなことがあってもインド事業が淡々と進んでいるので案外うまくいくかもしれないですね。<br /> <br /> Sun, 11 Aug 2019 00:00:00 +0900 スピリチュアル: ヨーガ https://w-jp.net/topics/スピリチュアル: ヨーガ/ スピリチュアル: ヨーガ イダとピンガラの覚醒 https://w-jp.net/2019/1696/ <br /> ■スシュムナ、イダ、ピンガラの通説<br /> ヨーガではエネルギーの通り道、いわゆる経絡のようなものをナディと呼んでおりますが、これら3つは主要なものです。<br /> 以下はヨーガ行者の本山博先生の書籍に載っている図です。「密教ヨーガ(本山博 著)」より<br /> <br /> <br /> <br /> このように、スシュムナは背骨に沿っていて、イダとピンガラはそれら周囲を螺旋状に回っています。イダが左、ピンガラが右です。<br /> これがヨーガにおける通説だと思います。<br /> <br /> ■クンダリーニの比喩<br /> インドのリシケシにあるヨガニケタンを創設したスワミ・ヨーゲシヴァラナンダによると、以下のように記されています。<br /> <br /> 脊髄は、中空の管のようになっており、その一般的な形は蛇のような形をしていると言って良いでしょう。ですから、脊髄中にある光り輝く微細な導管が、比喩としてクンダリニーという名前で呼ばれているとも言えるわけです。「魂の科学(スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ著)」<br /> <br /> <br /> <br /> 体の左右にそれぞれスシュムナを図示したものが描かれています。右に描かれている2番が実際にスワミが霊視したもので、左に描かれている3番が通説でヨーギに伝えられているものです。そこに類似性を見て取れます。<br /> <br /> ■イダとピンガラの比喩<br /> イダとピンガラは上図の通りグルグルと螺旋状に回っているとのことですが、私は自分の経験として螺旋状のものを認識できておりません。<br /> <br /> と、言いますか、ちょうど1年くらい前に経験したクンダリーニっぽい経験ですが、どうもこれはクンダリーニではなくイダとピンガラの目覚めだったのではないかと最近思うようになってきました。<br /> <br /> 鍵になるのは、当時の記事にある以下の部分です。<br /> <br /> 腰あたりに2つの小さなエネルギーが発生し、左右それぞれ1本づつ光のエネルギーの光線が腰から目の上の頭蓋骨あたりに向けて2〜3秒かけて真っ直ぐ上昇し、頭蓋骨に当たってちょっと曲がったところで停止。そのまま10秒ほどエネルギーの筋はそのまま保っていたのですが、やがてエネルギーが消えてゆきました。(過去記事より引用)<br /> <br /> こう思うようになったのは、上と同じスワミ・ヨーゲシヴァラナンダによる記載です。<br /> <br /> ■イダとピンガラは直線<br /> スワミ・ヨーゲシヴァラナンダは以下のような図を示しています。「魂の科学(スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ著)」より<br /> <br /> <br /> <br /> スワミは、同書でスシュムナのことは多く記載しておりますが、イダとピンガラが螺旋だとか真っ直ぐだとか、そのあたりに関する記述は見つかりません。スワミは自分の記載は実際に瞑想して霊視したものだと言っておりますので、この図も正確な筈です。それとも、本当はグルグルとスシュムナの周りを回っているのにも関わらずこのような真っ直ぐな図を描いたのでしょうか? そうは思えません。であれば、イダとピンガラは真っ直ぐだ、というのがスワミの主張のような気が致します。<br /> <br /> であれば、私の違和感もなくなります。<br /> <br /> 約1年前にあったクンダリーニっぽい経験ですが、1本ではなく2本の光の筋が「真っ直ぐ」登ったので、これがクンダリーニなのかイダなのかピンガラなのかはっきりと判別できずにいました。<br /> <br /> このスワミ・ヨーゲシヴァラナンダの記述が正しいのであれば、私の約1年前の経験はスシュムナではなくイダとピンガラが目覚めたのだ、と解釈できます。<br /> <br /> このあたり、以前に少しSwami Satyananda Saraswatiの言及を引用しました。同氏のKundalini Tantraによると、スシュムナからクンダリーニを上げることが通例のようになっているけれども、古典には必ずしもスシュムナから上げる必要はないと記載しており、ピンガラからは外部に働きかける力を得て、イダは魔女のような透視能力、スシュムナは生きながらの解脱を得る、と書いてあります。<br /> <br /> 私は今のところそんなすごい変化はまだありませんけど、以前よりも自分の状態に納得がいった感じです。<br /> <br /> その後、真っ直ぐ中央を駆け上るようなクンダリーニ上昇は経験しておりませんけれども、オーラの優勢は上の方に少しづつ変わってきておりますので、私の場合、スシュムナは少しづつ活性化してきているのかなぁ、と思っております。<br /> <br /> ■スシュムナから目覚める人と、イダとピンガラから目覚める人がいる?<br /> 以前引用したゴーピ・クリシュナによるクンダリニー体験ですが、彼はどうやらピンガラから最初上げて死にそうになったようです。<br /> <br /> ヨーギの中にはイダとピンガラより前にいきなりスシュムナから上げる人がいて、だからイダとピンガラに関する記述が少ないのかなぁ... という気がしました。そうであれば納得がいきます。<br /> <br /> 私の場合、おそらくはイダとピンガラを同時に活性化したのでおかしくならなかったのだと思います。もともと私の内なるガイドから説明があって、いきなりスシュムナを活性化させると不安定になるのでこの方法でやるよ、とのお話でしたので、それはこういうことだったのか、とようやく納得できました。内なるガイドの案内なしにイダとピンガラどちらからか活性化させていたらおかしくなっていたかもしれませんし、いきなりスシュムナを活性化させたら、それこそ危険だったような気が致します。<br /> <br /> その上で、おそらくはスシュムナが目覚めればイダとピンガラも(少しづつ)目覚めるし、イダとピンガラが目覚めれば(少しづつ)スシュムナも目覚めるのかな、と思います。そんな気がしています。<br /> <br /> であれば、私の場合はまずイダとピンガラが目覚めた後、少しづつスシュムナが目覚めてきているのかなと思います。<br /> <br /> ■スシュムナ、イダ、ピンガラ、いずれも真っ直ぐだが、行法あるいはエネルギー操作の方法として「回転」がある<br /> そういうことかな? という気も致します。<br /> <br /> ■スシュムナの先は螺旋状になっている<br /> スワミ・ヨーゲシヴァラナンダは以下のように記載しております。<br /> <br /> クンダリニーは(中略)ちょうど蛇のように男根状のものの回りを三巻半しながら、全体が貝殻のような形となって眠っております。「魂の科学(スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ著)」<br /> <br /> このことは通説でも多くのヨーギが言っておりますが、スワミ・ヨーゲシヴァラナンダが言うのですから、それはそうなのでしょう。<br /> <br /> であれば、イダとピンガラがグルグルと回っていると言う通説は間違いであるが、クンダリーニが螺旋状に蛇のように眠っている、と言うのは正しいのだと思います。<br /> <br /> だから、ヨーガのクンダリーニ覚醒行法で螺旋状の動きが重要になってくるのかな、と思います。<br /> <br /> きっと、その行法がごっちゃになってイダとピンガラが回転しているかのような誤解が生まれたのかな... という気も致します。<br /> <br /> まあ、仮説ですけどね。<br /> <br /> ■時系列<br /> 以前に書いたものを少し修正しておきます。<br /> <br /> <br /> ・2015年1月 インドのアシュラムで生まれて初めてのヨガ 2週間 合宿。その後しばらくブランク。<br /> ・2016年10月 日本の近所でヨガ再開。1週間ごと1回90分<br /> ・2017年8月 ヨガの頻度を上げ、ほぼ毎日90分<br /> ・2017年10月 雑念が減ってくる。ようやくヨガをしている感じになってくる。ヘッドスタンドが短時間だがようやくできるようになる。<br /> ・2017年11月 ナーダ音が聞こえ始める。ヨガをほぼ毎日し始めてから約3ヶ月後<br /> ・2018年1月 第1回目のクンダリーニ体験。ムーラダーラの電気ショックと眉間の皮膚から数センチ離れた空中(アジナ・チャクラ?)でのエネルギーの爆発。ほんの少しのエネルギー。<br /> ・2018年11月 イダとピンガラの目覚め(第2回目のクンダリーニ体験)。マニプラ優勢になる。クンダリーニ本体はまだ上がっていない雰囲気。2つの光の筋が上がっただけ。仙骨か尾骨のあたりに熱を帯びて血液が激しく脈打つ。かなりポジティブになる。性欲がかなり解消されて自然な(努力のいらない)ブラフマチャリア(禁欲)の達成(性欲10分の1)。睡眠時間の短縮。声が出しやすくなる。<br /> ・2019年7月 第3回目のクンダリーニ経験。アナハタ優勢になる。(五大要素の)「風(Air)」のエネルギーによる竜巻が腰から頭まで上昇。光の筋はなし。竜巻は頭の周囲で発散(頭上および前後左右に発散)。うなじの下(大椎?)に少しの熱を帯びて血液が脈打つ。ハートがジンジン。第2回目ほどの変化はなし。性欲が更に10分の1 (第2回目クンダリーニ以前と比べると100分の1) <br /> ・2019年9月 ムーラダーラの活性化。 足の気力が少し増加。足の感覚が少し敏感になる。手の感覚も足ほどではないが少し敏感になる。「におい」に敏感になる。「におい」だけで「味」も感じるようになる。淀んだ空気(の匂い?)が苦手になる。いわゆるグラウンディングの力が若干上昇。他人の淀んだオーラによる自分への悪影響が低下し、自立力が高まる。優勢なのは依然としてアナハタ。<br /> <br /> Mon, 14 Oct 2019 00:00:00 +0900 集中の瞑想から観察の瞑想へ https://w-jp.net/2019/1692/ <br /> ■初心者の瞑想<br /> 集中します。集中がこの段階での瞑想です。眉間などに集中します。この段階では、小難しい理屈は考える必要ありません。<br /> この時、あまり長い瞑想をしないようにします。不快感が出てきたらすぐに瞑想を中断します。<br /> <br /> ■瞑想に少し慣れた状態。観察ができてくる前<br /> 心だけが存在していて、観察できていない状態が長い間続きます。雑念が多い状態です。<br /> 心がロジックで「観察している」と自分を誤魔化したりする段階です。<br /> この段階でも、あまり長い瞑想はしません。<br /> 古典的には瞑想はグル(霊的教師)につくべきだ、とされておりますので、気をつけて行いましょう。<br /> <br /> ■観察ができてくる<br /> 観察が全く違う視点で現れてきます。観察しているのは心ではなく、心が観察しているのではなく心の背後に観察者が存在していることを理解します。<br /> <br /> ■観察ができてくると、瞑想とは集中のことではないと理解できてくる<br /> 瞑想のきっかけに集中が使われます。しかし、その後は集中しません。集中することで意識を統一してふらつかないようにした後、観察をするのがこの段階での瞑想です。<br /> <br /> 一般にはサマタ瞑想(集中瞑想)とヴィパッサナー瞑想(観察瞑想)とがあると言われていますが、これは流派の違い、あるいは、段階の違いで表現が異なってきます。流派によっては同じことをサマタ瞑想と呼んだりヴィパッサナー瞑想と呼んだりします。しかし、本質はどちらも変わりません。その筈です。<br /> <br /> 瞑想のために、最初は集中を行います。この段階における集中は瞑想の目的ではなく、手段です。<br /> <br /> 観察の瞑想(ヴィパッサナー瞑想)に辿り着くには手段としての集中が必要です。その集中瞑想をサマタ瞑想と呼ぶかもしれませんし、流派によっては集中であってもヴィパッサナー 瞑想と呼ぶかもしれません。呼び方は流派ごとに違えども、やっていることはそう変わりありません。最終的に瞑想の目的は「観察」になります。サマタ瞑想(集中瞑想)であってもそれは観察になっていくのです。このあたりは以前にも少し書きました。<br /> <br /> 本質はサマタ瞑想でもヴィパッサナー瞑想でも一緒なのですが、観察については流石にヴィパッサナー瞑想の方が詳しく述べられている気が致します。例えば以下の文章です。<br /> <br /> ヴィパッサナーの目的は、何にも妨げられることなくひたすら呼吸に集中することではありません。(中略)ヴィパッサナーの目的は、途切れることなく気づくことです。気づく、この気づくことによってのみ、覚ることができるのです。「マインドフルネス 気づきの瞑想(バンテ・H・グナラタナ 著)」<br /> <br /> 視点が違うだけでサマタ瞑想も同じです。サマタ瞑想の目的は眉間やハートや呼吸に集中することではありません。サマタ瞑想の目的も同様に、途切れることなく気づくことです。言い方が違うだけのお話です。 時々、このことで言い争いになったりしているようですけど、私は、表現が違うだけだと思っております。<br /> <br /> ですから、一般的に瞑想は集中から始めますが、瞑想とは本来、観察のことです。<br /> <br /> 一般的には集中だけであっても瞑想と呼ばれますし、観察も瞑想と呼ばれます。ですから、瞑想と言った時に何を意味するのかコンテキストによって異なってきます。<br /> <br /> 瞑想においてはまず集中することで心を落ち着かせていわゆる雑念を抑え、体の感覚などを観察するのです。あるいは、瞑想中に雑念が出てきたら集中して雑念を抑え、そして再度観察して瞑想を再開するのです。<br /> <br /> その時、眉間に集中したりハートに集中したり息に集中したりします。流派や、人によってやりやすさが異なるでしょうから先生の指示に従うかあるいは選んでも良い流派の場合は選びますし、先生がいなければそれぞれ試してみたりすると良いでしょう。<br /> <br /> <br /> 何度か書いたことではありますが、改めて少し書いてみました。<br /> <br /> Thu, 10 Oct 2019 00:00:00 +0900 地のエネルギーを取り入れる瞑想 https://w-jp.net/2019/1691/ <br /> 以前はクンダリーニの地のエネルギーを頭まで上げつつ天のエネルギーを取り入れて瞑想したわけですけれども、その時、地のエネルギーとは言いましても下半身にあるクンダリーニのエネルギーを使っていたわけですが、ここに来て地下から地のエネルギーを取り入れてみました。今まで地下のエネルギーを使うのは避けていたのです。と言いますのも、以前にも少し書きましたように地下のエネルギーはちょっとネバネバしていてちょっと腐臭といいますかおしっこの匂いがする子供のようなエネルギーですので、ムーラダーラ経由で下半身に取り入れるとお腹が拒否反応を示していたからです。<br /> <br /> 今日、改めて試してみようと思ったのは、天のエネルギーを下半身まで循環させていたので少し違うかなと思ったから試してみたわけですが、結果はといいますと、ある程度は読み通りでした。この状態で地のエネルギーを地下から取り入れるとそれほど不調にはなりませんでした。<br /> <br /> ですが、しばらくすると体の地のエネルギーが若干優勢気味になってきたのか頭がクラクラしてきましたのでバランスを取るために天のエネルギーを取り入れようとしたわけですが、一旦地のエネルギーが優勢になるとなかなか天のエネルギーが優勢にならなかったです。<br /> <br /> 今回試したことにより、今までと違って地のエネルギーも使えることがわかったわけですが、注意が必要なこともわかりました。<br /> <br /> 今まではムーラダーラから自然に流入してくる地のエネルギーが下半身で少しづつ体と順応するに任せていたわけですが、意識的に地のエネルギーを取り入れることもできるわけですね。<br /> <br /> ですが、そのエネルギーの質というものが違いますから、そこは注意が必要なようです。<br /> <br /> 私の場合、上半身が天のエネルギーが優勢でないとフラフラするような感じが致します。他の方はどうなのか知りませんけど。<br /> <br /> Wed, 09 Oct 2019 00:00:00 +0900 ハートを意識する瞑想 https://w-jp.net/2019/1690/ <br /> 最近はハートのあたりがザワザワといいますかチリチリと微細な静電気を帯びた感じになってきています。<br /> 一方で、以前のように眉間に集中しても大した変化はなく、眉間の肉体的な集中感はありますがザワザワ感はほとんどありません。今はザワザワ感はハート中心になってきています。あとは時々、ムーラダーラの会陰で静電気のザワザワ感があるくらいです。<br /> <br /> ハートのザワザワ感を感じて瞑想していると、体の背骨に沿ったいわゆるスシュムナというエネルギー・ルートを感じることができます。<br /> <br /> 特に、喉のあたりに圧力を感じます。以前度々感じたような喉のイガイガ感ではなく、単なる圧力です。喉がプクッと膨らんだような感じですので、おそらくは喉のヴィシュッダ・チャクラのあたりにまでエネルギーが充満してきているのかなと感じます。<br /> <br /> この状態で下半身のエネルギーを回転させてから頭まで上げると、前日書いたような理由からエネルギーが軽くなっていると思われて頭の中でエネルギーがすぐに発散しました。同様に、天のエネルギーを頭から入れて胸のあたりまで詰めようとしても、エネルギーがハートのザワザワ感のあたりで発散してその周囲にすぐに吸収されてしまう感じになりました。<br /> <br /> ですので、今はエネルギーを詰めるという感じではなく、それぞれ地のエネルギーも天のエネルギーもハートの外側の上下でそれぞれ動いていて、ハートがそれらを統合している、という感じになってきています。<br /> <br /> 以下を違和感ない程度にそれぞれ統合して行なっている感じです。<br /> <br /> ・天のエネルギーをサハスララから入れて上半身に満たす。<br /> ・天のエネルギーを下半身や体の隅々まで浸透させてエネルギーを柔軟にする。<br /> ・天のエネルギーと混ざって柔軟になったクンダリーニの地のエネルギーを頭まで上げる。<br /> ・ハート(アナハタ)が地のエネルギーと天のエネルギーを統合する要になる。<br /> <br /> これをしばらくすることでエネルギーが満ちてエネルギーの質も均一化されてくると、次第に天のエネルギーを降ろさなくても充実した感じになってきました。その状態で瞑想をしたのですが、呼吸を吸った時にエネルギーが下半身から頭まで上がり、吐く時に頭から下半身に下ろすようにすると身体中が満たされた感じになって行きました。それでいて以前のように頭のあたりに違和感があったりせず、調子が悪くなることもありません。<br /> <br /> ■これぞ小周天あるいはソーハム瞑想法?<br /> 今まで小周天やソーハム瞑想法(ソーハン瞑想法)をしてきたつもりでしたが、この状態になってようやく小周天あるいはソーハム瞑想法(ソーハン瞑想法)と言えるのかな、という気になってきました。<br /> <br /> この状態ですと、エネルギーの束のようなものが背骨のいわゆるスシュムナというエネルギー・ルート上に充満して充実した感じになっています。そのエネルギーの束の中で上下にエネルギーが循環するのです。<br /> <br /> 小周天のように体の表面を回るという感じではないので、小周天とは言わないのかもしれません。最初の頃に試した小周天は体の表面を空気の集まったようなコインくらいの大きさのものが動く感じでした。今はそんな空気の集まりはなくて、体全体をスシュムナ沿いに上下にエネルギーが動いている感じです。<br /> <br /> ■全身周天<br /> 「秘法!超能力仙道入門(高藤 聡一郎 著)」によると、小周天の後は古典的には大周天ですが、同氏が全身周天と呼ぶものがその中間にあるといいます。<br /> <br /> やがて陽気は、小周天のときのような線状の感じから、棒状の太い感じに変わってくる。(中略)陽気はだんだん太い感じになり圧力をもつ。(中略)小周天を行い頭部に陽気を上げただけで、あとはひとりでに、陽気が腕や足の末端まで流れていくようになる。(中略)全身に満ちた陽気はどんどん強まり圧力をもってくる。「秘法!超能力仙道入門(高藤 聡一郎 著)」<br /> <br /> これはよくわかります。今の状態はエネルギーの圧力が高まってきています。比べてみると、私の場合はもうちょっと手足の先まで満遍なくエネルギーを充満させた方が良いようなことが書かれてあります。私はどうも背骨のスシュムナを意識しすぎているというか周囲までまだ気が回っていないようです。<br /> <br /> これは陽気が体の奥のほうまで達したことを意味する。(中略)ここまでくると、普通は、ひとりでに陽気が体から空間に放射しはじめる。(中略)この空間は、自分の意識ともつながっていて、その縁に触れた気をすばやくキャッチできる。(中略)ここまで達すれば、全身周天はほぼ完成である。あとは、この生体エネルギー的空間を、意識でコントロールできるようにするだけである。「秘法!超能力仙道入門(高藤 聡一郎 著)」<br /> <br /> このあたりは私の場合、まだのようですね。それとも、表現の違いだけで、オーラの接触による雑念の感知とかがこれを意味しているのであればある程度できているとも言えますが。どうなのでしょう。まあ、とりあえずこれはあまり気にせずスシュムナにエネルギーを通す瞑想を続けてみたいと思います。<br /> <br /> <br /> <br /> <br /> Wed, 09 Oct 2019 00:00:00 +0900 天のエネルギーと混ぜたクンダリーニを頭に上げる https://w-jp.net/2019/1689/ <br /> 先日の続きです。先日の時点では、クンダリーニの地のエネルギーは下半身から胸まで、天のエネルギーは上半身、というように区分けをするのが良さそう、と言うお話でした。一方、以前書きましたように天のエネルギーを体中に満たして緊張をほぐす、みたいなことは度々瞑想中に行なっていました。<br /> <br /> 今日、ふと気づくとクンダリーニの地のエネルギーが天のエネルギーと混ざっていて、随分と違う感じでしたので試しにその混ざったエネルギーを頭まで上げてみましたところ、違和感なく上げることができました。<br /> <br /> 順番としては以下になります。<br /> <br /> ・天のエネルギーを身体中に満たして緊張を解す。天のエネルギーをクンダリーニの地のエネルギーと混ぜる。<br /> ・その後、天と地のエネルギーが混ざった状態のクンダリーニを頭まで上げる。<br /> <br /> これをすると、随分と頭の中が充実した感じがして、なおかつ、以前にクンダリーニの地のエネルギーを上げた時のような違和感はほとんどありません。<br /> <br /> 天のエネルギーは軽いので天のエネルギーを上半身に満たしてもそれほど活発な感じにはならないのですが、この混ざったエネルギーは随分と力があって尚且つ天の軽いエネルギーの質も兼ね備えていますので、体にとてもよく合っている感じが致します。<br /> <br /> 以前のようにふらつく感じや違和感、不快感などがほとんどありません。以前は気をつけて行わないと瞑想後にまで緊張感が残ったり目の緊張や意識が合わなくなったりしていわゆる禅病っぽい感じになることもありましたが、今日はそんなことありませんでした。<br /> <br /> ■ムーラバンダでせき止めたエネルギーを使うとどうなるか?<br /> 先日書きましたようにムーラバンダはムーラダーラでエネルギーを止める効果がありますが、天のエネルギーとクンダリーニの地のエネルギーを混ぜる時にムーラバンダして試してみました。・・・結果、うまくいきませんでした。ムーラバンダがうまくいっていないのか、あるいは、しない方がいいのかもしれません。<br /> <br /> やりたかったことは、天のエネルギーから下ろす時にムーラバンダして下半身のエネルギーを充満させてからムーラバンダしたまま頭まで上げると良いのではないかと考えたのですが、実際には、天のエネルギーを下ろそうとしたら下半身のエネルギーが既にそこに詰まっているので下半身のエネルギーがムーラダーラ経由で地下に少し逃げていかないと天のエネルギーが入るスペースができない感じでした。天と地が混ざったクンダリーニを頭まで上げるときにムーラバンダした時にうまく上がらなかったのは、おそらくはムーラバンダしていなければエネルギーを上げる時に下半身にエネルギー的空白ができますのでそこにムーラダーラ経由で地のエネルギーが入ってくるのに対し、ムーラバンダしてしまうと地のエネルギーが入ってこれないからエネルギーが動き辛いのではないかと思いました。エネルギーのルートであるスシュムナが土管あるいは注射器のようなものだとすればムーラバンダしていると言うことは土管の片方が閉じられているようなもので、もう片方を動かしてエネルギーの圧力が高まったり弱まったりするよりはもう片方も開けておいて圧力を調整できる状態にした方がエネルギーが動きやすいのは当然なのかなと言う気がしました。これは実験してみてそう感じたことです。<br /> <br /> <br /> <br /> Tue, 08 Oct 2019 00:00:00 +0900 ムーラバンダが完成すると精が漏れなくなる https://w-jp.net/2019/1688/ <br /> ヨーガでそう言うお話がありますけど、私的には、それっぽい感じでエネルギーを止めてしまうと流れが悪くなって下半身の調子が逆に悪くなります。ヨーガのこういった行法はグルの元で行わないと危険と言われていますけど、うまく行うことができていないのかもしれません。ですので、私はムーラバンダはせずに下へのエネルギーは半解放状態で常に繋げています。<br /> <br /> ムーラバンダというのはヨーガである3つのバンダのうちの1つで、ムーラダーラ・チャクラのあたり(男性は会陰、女性は膣の奥、子宮の入り口)で行うエネルギー・ロックで、エネルギーの引き上げ効果があります。<br /> <br /> その効果として、一部の流派では精が漏れなくなるとか、エネルギーが漏れなくなる、というような解釈をしているようです。その原典がどこに書かれていたのか忘れてしまいましたのですぐには見つけられませんけど。<br /> <br /> その流派のグルに付けばその流派なりの体系があってうまくいくのかもしれませんが、私が試したところでは、ムーラダーラあたりは地のエネルギーと繋がっていて、常にエネルギー交換できる状態にしておかなければ体の中に溜まった悪いエネルギーが外に出ていかないような気が致します。<br /> <br /> ある程度は地のエネルギーから体に取り込まないと体のエネルギーが枯渇してしまいますので完全に閉じるべきではなく、逆に、あまりにも解放してしまうと地のエネルギーが高まって重い感じになってしまうので開けすぎは良くなく、程々に、体の悪いエネルギーが出ていけるくらい解放にしておくのが良さそうな感じです。<br /> <br /> これは、おそらくエネルギーの質にもよるかと思います。ヨーガを始める前はエネルギーの質が「軽い」「発散しがち」(語弊があるかもしれません)という感じでしたので、この状態ではエネルギーが体に保持されにくかったように思います。一方で、ヨーガを始めてから次第にエネルギーの質が「密度のある」「粘着性のある気体」(語弊があるかもしれません)のように変わってきましたので、ムーラダーラから地のエネルギーと繋がっていてもそれほどエネルギーが漏れることはない感じです。<br /> <br /> きっと、エネルギーの質によってムーラバンダで固定してエネルギーを高めるべき時と、そうでもない時があるのかな、という気も致します。<br /> <br /> ムーラバンダについて、ハタヨガプラピディカには以下のように記されています。<br /> <br /> (3-61) [ムーラ・バンダ] カカトで会陰部を圧してコーモンを収縮し、アパーナの気を上方へ引き上げるならば、それはムーラ・バンダとよばれるムドラーである。「ヨーガ根本経典(佐保田 鶴治著)」<br /> <br /> 他にもバンダがありますけど、それらは全てエネルギー制御のためのものです。<br /> <br /> 今までバンダは割とスルーしていましたけど、エネルギー制御という視点から見たらなかなか理に適っている理屈だと今更ながら思うようになりました。<br /> <br /> Mon, 07 Oct 2019 00:00:00 +0900 クンダリーニを頭まで上げてから心臓に戻す https://w-jp.net/2019/1687/ <br /> どの書籍かは忘れてしまいましたので後ほど見つけたら記録したいと思いますが、流派によってはクンダリーニを頭まで上げた後に心臓に戻す流派があるようです。詳しくはグルの指示がなければこの種の行法はすべきではないとは思いますが、これを私なりに解釈すると以下のようになります。<br /> <br /> まず、クンダリーニは以前書きましたように「地のエネルギー」ですので、アナハタくらいまでは適応しますが頭より上には適応し辛く、不安定になることがあると思います。おそらくはクンダリーニが危険と言われている所以はこの辺りにあるのかなと思います。エネルギーに対する感度が上がっていなければこの不調の原因を特定することは難しいように思います。<br /> <br /> ですから、クンダリーニの地のエネルギーを頭に上げるためには段階的に、まずはマニプラで体に順応させ、アナハタで波動を上げて、それからようやく頭に上げる方がいいとは思いますが、何度か書きましたように、それよりは頭には天のエネルギーを下ろした方がよりスムーズでスッキリするように思います。<br /> <br /> サハスララのルートが開いていなければ天のエネルギーが使えませんので、まずはクンダリーニの地のエネルギーを使うことになるでしょう。おそらくはその段階で危険性があるのです。地のエネルギーを頭まで上げることと、頭で地のエネルギーを使うことがまず危険です。更には、地のエネルギーでサハスララのルートを開くことも危険で、少しづつ注意深く行わなくては危ないのかなと思います。<br /> <br /> そうして、地のエネルギーでサハスララへのルートが開けてきたら天のエネルギーにアクセスできますので、あとは地のエネルギーを上げることをやめて天のエネルギーを使って上半身を満たしてエネルギー・ルート(ヨーガで言うところのナディ)を開拓して行くのがいいのかな、と解釈しています。<br /> <br /> ですから、クンダリーニ的にはこのように、最初は頭まで上げて、後ほどアナハタまで戻す、みたいなニュアンスにもなるのかなと思います。<br /> <br /> サハスララへのルートができていなくて天のエネルギーを使えない状態でクンダリーニの地のエネルギーを頭まで上げてアナハタへと戻す、と言うのは、ずっと頭に地のエネルギーを貯めておくと不安定になることがあるので、それはそれで理に適っているような気が致します。そして、サハスララへのルートができたあとは「天のエネルギーを代わりに上から下ろして上半身に満たす」と言うことなのかなと思います。前者はまさに指示そのままですけど、後者も、見方によっては同様に、もともと頭まで上げていたエネルギーをアナハタ(胸)まで戻す、と解釈できなくもないですので、時間軸が短いものと長いもの、両方の視点でどちらもクンダリーニを頭まで上げてからアナハタ(胸)まで戻す、みたいな解釈もできそうです。後者は私の解釈では「戻す」のではなくて、「頭まで上げないようにする」と言うことですけど、神秘行ではあえて(?)分かりにくい表現を使っていたりしますし、まあ、そう言う言い方もできるのかもしれない、と言うくらいに思っています。<br /> <br /> ・クンダリーニ(地のエネルギー)が使える状態で、天のエネルギーがまだ使えない状態:毎回の瞑想の中でクンダリーニ(地のエネルギー)を頭まで上げて、同じ瞑想の中で胸(アナハタ)あるいは下半身(マニプラ、あるいはムーラダーラ)まで戻す。<br /> ・クンダリーニ(地のエネルギー)と天のエネルギーの両方が使える状態:クンダリーニ(地のエネルギー)は胸(アナハタ)まで上げる(流派によってはマニプラとアナハタの中間まで上げる、としているような雰囲気もあります?)。天のエネルギーをサハスララから入れて頭に満たした後にアナハタまでその一部を降ろし、同エネルギーを身体中の隅々まで浸透させる。塊を降ろすと言うよりは頭に充満させた後は水が滴り落ちるかのごとく上から下へ、体の隅々まで浸透させる。<br /> <br /> ですから、一部の流派でクンダリーニのエネルギーをサハスララ(頭のてっぺん)から外に逃がす、みたいなことはしなくてもいいのではないかな... と個人的には思います。何故なら、そもそもクンダリーニの地のエネルギーを使うよりも天のエネルギーを使う方が波動が高くて良いと思うからです。地のエネルギーはアナハタ(胸)まで上げて、上半身は天のエネルギーを使う方がより安定するような気が致します。<br /> <br /> そもそも、クンダリーニというのは見ようによっては俗称だとも解釈できると思っていまして、背骨のエネルギー・ルート(ヨーガで言うスシュムナ)が開いたときにそこを流れるエネルギーを比喩的に表現したものですので、そのエネルギーが地から来るものもあれば天から来るものもあるわけでして... 地のエネルギーだけを使わなければならないなんて縛りはそこには無いはずです。 であれば、天のエネルギーの方が合っていそうであれば使う、と言う、ただそれだけのお話です。<br /> <br /> <br /> Mon, 07 Oct 2019 00:00:00 +0900 瞑想中に一瞬見えた小悪魔の影 https://w-jp.net/2019/1682/ <br /> 先日 の続きです。<br /> <br /> 今日も天のエネルギーを頭のサハスララから下ろして体に満たし、体の組織の塊の隙間に光を通して緊張をほぐす瞑想をしました。<br /> <br /> その時、上から水が体を通って各所を満たすのと同時に、スポットライトのように各所を照らす作業も行うわけですが、ふと体のどこかに洞窟っぽい空間が見え、洞窟の奥が暗闇になっていて、そこをスポットライトで照らしたらシルエットのような黒い雲が見えて目も光って見えたのです。その姿は羽の生えた小悪魔のように見えました。コオロギが立ち上がった姿に似ているかもしれません。中腰なのかもしれませんがシルエットで霧状なのでよくわかりません。一瞬ゾッとしたのですが、スポットライトを照らしてよく見ようとしたら姿は消えてしまいました。どうしたことでしょう。もはや、探しても見つかりません。<br /> <br /> そうこうしているうちに、胸のあたりの少しの緊張が解けて柔らかくなってきました。緊張があるとは思っていなかったところに実は緊張があったようで、胸の少し左あたりの緊張が解けたような気が致します。胸のあたりに何かブロックがあったのかもしれません。<br /> <br /> これは何かのガーディアンだったのでしょうか??? 謎です。 姿はゾッとしたのですが、特に怖い感じはしませんでした。<br /> <br /> どうやら、小悪魔は消えてしまったか、あるいは、退散してしまったように思います。もはや気配も全く感じません。<br /> <br /> ■体が消える感覚<br /> 天のエネルギーで体を包んでいると、次第に体が消える感覚になってきました。完全には消えませんが、存在が軽くなった感じです。<br /> 体がほぐれていくにつれてこんな感じになってゆきました。<br /> <br /> ■母親のテレパシー? 虹色の波紋?<br /> 今日も、日常生活中に事あるごとに天のエネルギーを頭のサハスララから取り入れていました。<br /> <br /> そんなとき、ふと私の母親が私を呼びかけるテレパシーっぽい感覚を受信しました。ただ単に私の名前を呼んでいるだけですが、その時、頭の上3分の1くらいが不思議な感じに光りつつ、そこの中で母親の声がリアルにしていました。イメージはありません。声を聞いている間、頭の上3分の1が活発に動きつつ虹色っぽい感じで不思議に光っていました。完全な虹色ではないのですが虹色がかかったふにゃふにゃな波紋のような感じに見えました。だいたい5〜10秒程度の間だったと思います。<br /> <br /> 声が聞こえる事はあっても、こんな感じで頭の中が活動的になった事は今までほとんどなかったように思います。何か今までとは違う感じを受けます。まだ1回だけですけどね。<br /> <br /> 肉体が光ったわけではなくて瞑想中にそんな感じに認識したということです。<br /> <br /> ■体をほぐす<br /> 先日に続いて、体の各所に天のエネルギーを通して少しづつほぐしていっています。これはもうちょっと時間がかかりそうです。と言いますか、ずっと定期的に続けるべきものかもしれません。<br /> <br /> <br /> Wed, 02 Oct 2019 00:00:00 +0900 首や肩の力が抜け、上半身がよりニュートラルな瞑想 https://w-jp.net/2019/1681/ <br /> 先日の続きです。<br /> <br /> 今朝の瞑想では肩の力が一段と抜けていました。おそらくは首のあたりのエネルギーのブロックが解消されたことによるものかなと思います。<br /> <br /> 天のエネルギーを頭に降ろすと頭の中にまず入るのですがすぐに首を通じて胸のアナハタあたりまで充満するのを感じます。先日に首のあたりのブロックが解消される前は頭だけでエネルギーが溜まっていて少し下に漏れるという感じでしたが、今朝はスムーズにエネルギーが首を通ります。そうして何度か天のエネルギーを頭に下ろし、胸のアナハタあたりから順にエネルギーを充満させ、頭まで天のエネルギーで満たした状態で瞑想をしました。<br /> <br /> サハスララはエネルギーが通るようになったとはいえ、まだ完全ではない感じです。それでも、何度もエネルギーを下ろそうとすれば少しづつエネルギーが入ってきます。<br /> 外のエネルギーをあまり簡単に取り入れない方がいい時もありますので、このくらいでちょうど良いのかもしれませんが。<br /> <br /> 天のエネルギーとは言いましても、地球の周辺のエネルギーですので、大気汚染みたいなものも少し混ざっていて、必ずしも純粋なエネルギーではない感じです。それでも、地のエネルギーに比べれば随分と上等な感じが致します。<br /> <br /> この状態で瞑想をすると、肩の力が抜けているのを感じました。首が自然な角度で頭がちょこんと上に乗っています。ブロックがあった時は頭が割と前に倒れがちでした。<br /> <br /> 特に上半身がよりニュートラルになった感じです。<br /> <br /> 今日は昨日と同様に事あるごとに日常生活の中で天のエネルギーを頭から取り込んでいました。<br /> <br /> これとどのくらい関係があるのかわかりませんが、今日はその他にも以下のことが起こりました。<br /> <br /> ・リクライニングチェアで意識が朦朧としている時にどこかの知らない女の人の全く心当たりのない会話が聞こえた。声のみ。すぐに内容は忘れてしまいました。<br /> ・瞑想中、体の各所が静電気を帯びていた。先日とはまた違った場所。例えば胡坐をかいている足の裏とか、腕とか。あとは全体的にほんわりとした感じです。<br /> ・頭の中で火花かプラズマがバチバチと鳴るような音がした。1〜2秒程度。映像はなし。この時、意識は普通にありました。<br /> <br /> ■天のエネルギーで緊張をほぐす<br /> 天のエネルギーを体に通していると、体が少しづつ柔らかくなるのを感じます。<br /> <br /> 瞑想中は眉間に集中していたとしても肉体的には力を入れないのが基本ではあるのですが、こわばりが多少なりとも瞑想中はできてしまっているようで、今までは度々口を大きく開けたり目を見開いたりして緊張を解いていたのですが、今日の瞑想で天のエネルギーを頭から入れて体に下ろしていると、顔の表情が柔らかくなって筋肉が解けていくのを感じます。<br /> <br /> 顔だけでなく、体の各所、例えば股関節なども緊張が解けるのを感じます。すぐに開脚がすごくできるようになるわけではないのですが、感覚的に緊張が解けてゆく感じです。<br /> <br /> 肉体が大きめの細胞の塊で構成されている隙間に天のエネルギーが細かく入り込んで潤滑油のようになっている感覚があります。まだまだ緊張が解け始めたばかりですが、これからもっと緊張が解けてゆくのだとすれば素晴らしいです。<br /> <br /> Tue, 01 Oct 2019 00:00:00 +0900 天のエネルギーを上半身に満たす https://w-jp.net/2019/1680/ <br /> 天のエネルギーを下ろすのは瞑想中でなくても日常生活しながらでも簡単にできる感じですので、思い出す度に度々エネルギーを下ろしていました。<br /> それと共に、今まで使っていた地のエネルギーと言いますか下半身のエネルギーと天のエネルギーの質の違いが分かってきました。<br /> <br /> お腹のあたりに溜まっているムーラダーラやマニプラなどのエネルギーは質的に地中のエネルギーを少し純化したものですね。<br /> <br /> 地のエネルギーはお腹のエネルギーよりももっと泥っぽくて、ちょっと子供っぽい匂いがします。ちょっとオシッコ臭い子供のような匂いとヘドロの匂いとが合わさったような、あまり快適ではない匂いです。それが地のエネルギーとそのエネルギーの「匂い」です。地中にあるエネルギーですね。<br /> <br /> その「地」のエネルギーを純化して、匂いがかなりなくなっている状態のものがお腹のあたりに溜まっています。それを更に純化したものが胸のアナハタにあって、更に純化したものが頭のあたりにあるようです。ですので、以前にも書きましたように下半身のエネルギーをサハスララにいきなり上げるのではなく一旦頭の下半分・前半分くらいに集めてから改めてサハスララに上げる、というようなことを以前はしていたわけです。そのことで、比較的荒いエネルギーをいきなりサハスララにあげるのではなく段階的に純化しつつ上げることができていたわけです。その時は天のエネルギーにはまだ繋がっておらず、サハスララのエネルギー・ルートが開いていない状態でしたのでそうやって下の方からサハスララにアクセスしようとしていたわけです。そうして、後頭部のあたりにブロックのような硬い部分があり、それにエネルギーをぶつけて柔らかくしてブロックを解除し、越えようとしていたわけです。<br /> <br /> 今はそのブロックが(全部かどうかは分かりませんが)一応は外れてエネルギーが通るようになりましたので、地のエネルギーを頭に上げるよりは、エネルギーの質的に言っても天のエネルギーをサハスララ経由で頭に入れる方がスッキリするような気がしてきました。<br /> <br /> そうしているうちに、天のエネルギーを頭だけでなく上半身にも少しづつ満たすようになりました。<br /> <br /> ここで、以下のことが起こりました。<br /> <br /> ・エネルギーを何度も頭に充満させていたら、眉間の少し奥あたりで頭痛がしました。偏頭痛とは違う頭痛で、不思議な頭痛です。これが噂に聞く、スピリチュアルな成長に伴う頭痛というものでしょうか? 単なる普通の頭痛かもしれませんので様子を見ています。<br /> ・首の後ろあたりにエネルギーを下ろした瞬間に突き刺すような痛みが一瞬走り、やがて消えました。「ライトボディの目覚め」によりますといくつかの原因が考えられ、エーテル的に何かがブロックしている場合、あるいは、成長に伴う痛みである、と解説されています。<br /> <br /> ■エネルギー酔い<br /> 天のエネルギーを頭に使い出したら地のエネルギーを頭に上げる気がほとんどしなくなりましたが、試しに再度下半身から地のエネルギーを頭まで上げてみたところ、泥っぽいエネルギーが頭に入ってきた瞬間に少しヘドロの匂いを感じ、少し吐き気がして若干のエネルギー酔いみたいな感じになってしまいました。つい先日まで上げていた地のエネルギーの筈なのにこんなに違いを感じるなんて不思議です。<br /> <br /> 今までは天のエネルギーが使えなかったから仕方なく地のエネルギーを使っていただけで、エネルギーの質が違うので地のエネルギーは本来頭に合わないような気がしてきました。頭には天のエネルギーを詰めるのが良さそうです。もしかしたら今までサハスララの瞑想で安定感を失っていたのは地のエネルギーの質が原因なのかもしれません? 以前にサハスララに関する瞑想の記事などでも書きましたようにサハスララに集中する瞑想には色々と注意が必要ですが、もしかしたら、それはエネルギーの質とサハスララがほとんどの人には開いていないから、というところが本当の理由なのかもしれません。まあ、私も完全に開いた感じはしていなくて少し開いたというくらいな気がしていますが。<br /> <br /> 天のエネルギーを使っていてもまだ慣れないせいか少し空間が揺れている感じが続いていますが、天のエネルギーであれば地のエネルギーの時のような吐き気はありません。エネルギー酔いはちょっとはありますが。エネルギーを高めることによる酔いはどちらのエネルギーでもありそうな感じです。地のエネルギーは少し匂いと吐き気があるということなのかもしれません。<br /> <br /> 仮説ですが白隠禅師の禅病もこの辺りを使って説明できるかもしれません。エネルギーの質とサハスララの状態によって吐き気があったりエネルギーが詰まったりしていると禅病っぽくなることは多いにあるような気が致します。<br /> <br /> ■内なるガイドのヒント<br /> 内なるガイドが言うには、この天のエネルギーを使う時にある程度の純化を済ませて雑念を落としておかないとうまくエネルギーが流れない、とのことです。<br /> <br /> 瞑想で天のエネルギーを使う手法は数多くありますが、先に心の平穏を達成しておかなければ感覚が鋭くなるにつれて段々と苦しくなる、とのことです。その例として、超感覚が目覚めたいわゆるサイキックが能力を優先させたことにより情緒不安定に悩んでいる、などの事例があるようです。本来は天のエネルギーの活用の前に心の平穏を達成しておくべきで、そうであれば何ら苦しむことなく先に進める筈なのに、能力を優先させたことにより苦しんでいる人が大勢いる、とのことでした。<br /> <br /> 心の平穏、いわゆるヨーガスートラ的に言えば心の死滅ですしヴィパッサナー的に言えば観察瞑想なわけですが、そのレベルの心の平穏が先でないと苦しむだけだ、とのことでした。<br /> <br /> ■首の突き刺す痛みとエネルギーのブロックの関係<br /> 首の突き刺す痛みがあった後、首のエネルギーが上下に通りやすくなったような気がします。であれば、首にあったエネルギーのブロックが一つ外れたということのような気が致します。<br /> <br /> 先日まで胸単体および頭単体でそれぞれエネルギーが充満してプクッとした感覚があって、特に頭の方はエネルギーが高まるにつれて圧力が高まっている感じがありました。それは、上方向にはサハスララにブロックがあって、下方向にはおそらく首のあたりでブロックがあったのかなと思います。首のあたりのブロックは半分ブロックされていたような雰囲気です。エネルギーは一応下から頭にまで入っていましたから。<br /> <br /> 首の突き刺す痛みがあってエネルギーのブロックが外れたことにより、頭でプクっとした圧力の感覚はあまりしなくなりました。おそらくは、先日までは頭のエネルギー(の圧力)を高めることでサハスララと首のブロックを押して崩そうとしていたような状態だったのかなと思います。それが今日はブロックが一段と外れて、エネルギーが上下に通りやすくなったのかなと思います。<br /> <br /> ■覚醒でもなく、ぼーっとしているわけでもなく、愚鈍でもなく、彷彿でもなく、落ち込んでおらず、喜んでおらず、目は覚めているが活動的でもなく、眠りでもない瞑想<br /> この天のエネルギーを使って瞑想をしていたら、このような状態になりました。意識ははっきりしているのですが、ピカーっと光るような覚醒状態ではなく、かと言ってどんよりとしたぼーっとした愚鈍な感じでもなく、かと言って彷彿でもなく、かと言って落ち込んでいるわけではなく、かと言って喜んでいるわけでもなく、活動的というほどでもなく程々に目が覚めており、眠りではない、そのような不思議な瞑想になっています。なんでしょうこれ・・・。言葉で言い表すのがとても難しいです。<br /> <br /> 基本として、この瞑想の間は想念がかなり減っていて「いま」に生きている状態であるわけですが、状態を言い表そうとすると上記のようになってしまうのです。<br /> <br /> 昔は「いま」に生きる瞑想をすればある程度の彷彿と永遠を感じていたわけですが、どうも、今日の「天のエネルギー」を使った瞑想ではそんな感じになりませんでした。<br /> <br /> なんでしょうね、これ。<br /> <br /> 仮説では、おそらくは世界が広すぎて認識できていないのかな、と。昔は割と世界が狭くて「いま」に生きたとしてその人生観といいますか瞑想の世界は割と狭くて、狭いとは言いましても広くて永遠っぽい空間を認識することができて「彷彿」とか「永遠」とか思っていたわけですが、今はあまりにも広い空間に投げ出されてしまったので、一体どういうことかさっぱりわからない・・・ という状態なのかな? と。そういう仮説です。<br /> <br /> まあ、相変わらず様子見なわけですが。<br /> <br /> <br /> Mon, 30 Sep 2019 00:00:00 +0900 天のエネルギーを頭に充填させる瞑想 https://w-jp.net/2019/1678/ <br /> 先日の続きです。 天のエネルギーを頭まで下ろして充満させ、その状態で瞑想を続けてみました。エネルギーを下ろさないと少しずつ漏れているのか消耗しているのか、エネルギーの圧力が少しづつ弱まっていく感じですので度々エネルギーを再充填させながら瞑想をしたのです。<br /> <br /> 今のところ大きな変化はないのですが、突然少しだけ頭がブルブルブルっと震えましたね。何でしょうか。頭の真ん中あたりの感触も同時にありました。<br /> <br /> 瞑想中はそのくらいだったのですが、瞑想を終えてみると、両目の脇の少し下の内側、頬の上あたりがプクッとした感覚が残っていました。何でしょうね。鏡を見ても変化は自分ではよくわかりませんでしたが、目がぱっちりとしたかもしれません。今日だけのことなのか明日もこんな感じなのかはこれからの様子見です。<br /> <br /> 噂ではサイキックは目の脇あたりで見分けがつくと言いますけどね。まあ、わからないでもありませんけど、自分の顔ではそんな感じはしないです。<br /> <br /> その他にあったのは以下です。<br /> <br /> ・頭の真ん中あたりで、唾を飲み込む時と似たような感触。何かが一瞬だけ膨らんだような?<br /> ・先日と同じように後頭部に鈍く刺すような感触(痛くはないですが)<br /> ・後頭部、口の周り、鼻の横などにザワザワとした細かい振動と微小な静電気のような感覚。<br /> <br /> 天のエネルギーを下ろす瞑想を始めてから先日のサハスララに集中する瞑想における注意で少し言及したような不快感も時々出ていて、その度にグラウンディングしていました。サハスララに集中する瞑想は注意が必要で、天のエネルギーを下ろす時はサハスララを通過させるので同様の注意が必要なのかなと思います。ただ、エネルギーがここ最近は通るようになっておりますので、サハスララが詰まっていた頃に比べれば似たような症状の対処もしやすい感じが致します。<br /> <br /> まだ決定的な何かがあったわけではないので、まだまだ様子見といったところです。<br /> <br /> <br /> Sun, 29 Sep 2019 00:00:00 +0900 天のエネルギーをサハスララを通じて体まで下ろす https://w-jp.net/2019/1676/ <br /> 今朝の続きです。下半身のムーラダーラやアナハタなどのエネルギーを回転させてから頭のあたりまで上げることにより、まず後頭部がプクッというかちょっと硬い感じになってエネルギーが充満している状態になりました。その後、もっとエネルギーを貯めて眉間のあたりまで満たそうと思ったのですが、なかなかエネルギーが溜まらなくて頭の下半分くらいまでは溜まるのですがなかなか眉間にまでエネルギーが充満した感じにはなりませんでした。<br /> <br /> そこで、いわゆるソーハン瞑想法のように下半身のエネルギーだけでなく天(宇宙、星々)のエネルギーを使うことにしました。ソーハン の場合はソーでエネルギーを下半身から頭のあたりまで上げてハンで頭から下半身まで降ろすのが基本ですが、流派によってはハンで天のエネルギーを体まで降ろすことをするように記憶しておりますので、それを真似て色々と試してみました。<br /> <br /> 今日、うまくいったのは息を吸うタイミングで天でグルグルと右回り(天を見上げて時計回り)に回した後に息を吐くタイミングで頭のあたりまで降ろす方法です。夜の空の星々やスタートレックに出てくるような宇宙船をイメージしつつ回転させてから、天のエネルギーを頭のてっぺんを通って頭まで降ろすのです。これで、頭の中に天のエネルギーが簡単に充満しました。一部は首より下まで入る感じですが、基本的には頭でエネルギーを受け止めている感じです。<br /> <br /> 実は、同じようなチャレンジは以前からずっとしていたのですが、こんなにもちゃんとエネルギーが降りてきたのは今日が初めてでした。頭のあたりに何かブロックがあったのかもしれません。今までは、同様の動作でエネルギーを体に取り入れようとしてもエネルギーがほとんど入ってきませんでした。なんとなく、頭の上のあたりで遮られている雰囲気が今までありました。<br /> <br /> 今日、こうして天(宇宙、星々)のエネルギーが多少なりとも使えるようになったことで、エネルギー的な自由度を得た気が致します。ただ、完全に通ったというほどではないにせよ、天のエネルギーへのアクセスルートができたことは大きい気が致します。<br /> <br /> 今まで、最近感じているエネルギーがどこからやってきているかの自覚はあまりなかったのですが、これまではおそらく「地(地球)」のエネルギーが大きかったように思います。マニプラ、アナハタ、ムーラダーラあたりですね。<br /> <br /> 今日、天のエネルギーにアクセスできるようになったのと同時に、登頂のサハスララあたりがすっきりした感じが致します。<br /> <br /> 同時に、登頂あたりにもピリピリした感覚が出てきました。<br /> <br /> かと言いましても、特にこれと言って実生活における変化はあまりないのですが、そういえば、今日スーパーに買い物に行った帰り道、自転車に乗ると同時に事故に気をつけるようにとのインスピレーションを受けましたね。<br /> <br /> この種のインスピレーションは以前からあったのですが、今日のは明確に分かりやすいものでした。シグナルの強度が強くなったというわけではなく、強度は昔と同じくらいではあるのですがセンサーの感度が上がったという感じでしょうか。明らかにそれと分かりました。<br /> <br /> この時、今日はお試しでドラゴンクエストウォークをやっており、自転車に乗る前に目的地や敵をちょっと確認したのでした。流石に自転車に乗りながらスマホは使いませんけど、頭がゲームのことに気を取られて、どのあたりが次の目的地かなとか考えながら自転車に乗っていたら注意散漫になって事故って軽い怪我をするという警告でしたのでゲームは終了させ、スマホはバッグの中に入れて家に帰ることにしたのです。<br /> <br /> そして、どんなタイミングで事故るかまではわからなかったので注意深く周囲を見ながらゆっくり自転車で帰ったのですが、おそらくタイミング的にビルの工事現場から急に作業員が出てくるタイミングが危ない感じでした。警告を無視していたら自転車で衝突して自分が自転車から転げ落ちて怪我をしていたと思います。<br /> <br /> まあ、そんな感じで、感度は良くなっていますね。スピリチュアルですとサハスララはクレアコグニザンス(透知)みたいな能力で言い表わされていますけど、今日のはそんな感じかもしれません。<br /> <br /> そう言えば今日、瞑想で落ち気味だった時に大音量のブザーが鳴って飛び起きましたね。これは昔から度々あります。<br /> <br /> Sat, 28 Sep 2019 00:00:00 +0900 後頭部のジリジリ感によるエネルギーの高まり https://w-jp.net/2019/1675/ <br /> 先日 の記事の続きです。最近は瞑想中に後頭部がジリジリというかザワザワした感じが続いています。<br /> <br /> よく観察してみますと、瞑想の最初はジリジリ感はないのですが、下半身のエネルギーを回転させてから頭の方へと上昇させることをすると後頭部がジリジリするという相関関係があることに気がつきました。1回エネルギーを上昇させた後そのまま見守っていると、やがて後頭部のジリジリ感がなくなってゆきます。そこで再度下半身のエネルギーを回転させてから上昇させると後頭部が再度ジリジリし始めます。<br /> <br /> エネルギーの強さによってその感覚も変わるようです。ジリジリ感がなくなったら次のエネルギーを上げるというサイクルですと同じくらいのジリジリ感が続きますが、なくなる前に次のエネルギーを上げるくらいの少し早いサイクルに変えてみたところ、ジリジリ感から圧迫感のようなものに変わりました。後頭部が少しパンパンになった感じです。<br /> <br /> このパンパンになった感じは、先日の下腹部のプクッとする感覚や、胸のアナハタ付近がプクッとした感じに似ています。今日は下腹部も胸もさほど変化がなくて最初からある程度プクっとしている感じで変化はないのですが、その感覚が似ているということは下腹部やアナハタのプクっとした感じはエネルギーが溜まった感じのような気がしてきました。<br /> <br /> ということは、以下3箇所にエネルギーが溜まりつつあると言えます。<br /> <br /> ・下腹部 マニプラ等  先日、最初にプクッとした<br /> ・胸 アナハタ  先日、(マニプラがプクッとした後に)ザワザワ感に続いてプクっとした<br /> ・後頭部 ザワザワ感がしばらく続いた後、(先日アナハタがプクッとした感じがした後に続いて)今朝プクッとした<br /> <br /> この後頭部のエネルギーの高まりが進むとどうなるのか・・・? はこれからのお楽しみです。<br /> <br /> Sat, 28 Sep 2019 00:00:00 +0900 瞑想でアジナ・チャクラを想う https://w-jp.net/2019/1674/ <br /> 先日の瞑想中のザワザワ感に関する記事の続きです。最近の瞑想では、後頭部にエネルギーを通すことを意識してやっています。頭の力を抜いた状態で、眉間から後頭部にかけて広範囲を意識しています。エネルギーの通し方は以前 書いたように分割して上げています。<br /> <br /> 今日の瞑想で、いつものように下半身のエネルギーを意識で回転させてから上昇させると、ちょっと違った感じになりました。今日はエネルギー上昇と共に急にお腹がプクッと膨らんだ感じになり、(目は瞑想中は閉じているのですが)急に視界が明るくなり、エネルギーが頭に来たことで両耳のあたりがツーンとした感じになりました。両耳はトンネルや飛行機の中で気圧が変わった時の感覚に似ていますが、ツーンとする場所は両耳の付近だけです。両耳がツーンとした後、両耳の、特にまぶたのあたりがピリピリと帯電している感じになりました。そして、鼻の左側(頬の上、目の下)あたりがピリピリと帯電しました。その後、前頭葉から登頂にかけての部分が明るくなったような気がしました。その状態でしばらく瞑想を続けていると、今まで視界になかった筈の左上の部分に何かモヤモヤとしたイメージが出てきた気もするのですがまだよく見えません。いつものように度々、会陰のムーラダーラのあたりでピリピリとした感覚がありました。<br /> <br /> 視界が明るくなるのは度々起こってはいるのですが、今までは外の明るさの変化によるものなのか瞑想によるものなのか区別がつきにくい感じでした。しかし、今回はタイミング的に様々なことが同時に起こった感じでしたので、やはりこの視界の明るさは瞑想によるものだ、という理解に変わってきています。<br /> <br /> お腹がプクっとした感じは、本山博先生の「密教ヨーガ」のアジナチャクラに関する説明の中でさらっと以下のように言及してあります。<br /> <br /> (前略)・・・そして、スワディスタナのあたり、下腹部が鉄のように固くなります。「密教ヨーガ(本山博 著)」<br /> <br /> 鉄というよりはプクっとした感じですが、まあ、ニュアンスは似ているかなと思いますので何がしかアジナと関係があるのかもしれませんし、ないのかもしれません。その後、お腹だけでなく胸もちょっとプクっとした感じになりました。<br /> <br /> 見えている光は、どうもアジナ・チャクラのヤントラに似た形のような気がしてきました。これは、「密教ヨーガ(本山博 著)」によるとイダ・ピンガラ・スシュムナの3つのナディの合流点だと言います。<br /> <br /> <br /> 「密教ヨーガ(本山博 著)」より<br /> <br /> 又、スワミ・ヨーゲシヴァラナンダの解説によれば以下のようにあります。<br /> <br /> アージュナー・チャクラ。瞑想中、この光は丸く視えたり、ランプの炎のように視えたりします。また時には、このアージュナー・チャクラの形が白く光る2つの花弁の形にも視えたりします。(中略)このアージュナー・チャクラがなぜ2枚の花弁によって描かれているかと申しますと、それは眉間で、スシュムナーを中心にしてイダーとピンガラーという3つの導管が1つに合流しているからです。(中略)そしてこれら3つの導管が合流している眉間の少し上、頭蓋骨の空間内にブラフマランドラがあります。ですから、行者がアージュナー・チャクラに上手に瞑想できるようになれば、続いてブラフマランドラ内のサハスラーラ・チャクラへと入ってゆくこともできるようになります。「魂の科学(スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ著)」<br /> <br /> 私の場合、2つの花弁というよりもヤントラの形に似て、真ん中に大きな白い光、その左右にチョコンとそれぞれ光がくっついている感じです。とは言いましても、ぼやけていますのではっきりとした形があるわけではないのですが。<br /> <br /> 今日初めて、頭の上の方の光に気がついたと言いますか、恐らくは昔からあったのですが、今日初めてそれをちゃんと意識して認識できました。<br /> <br /> もともとシルエットのように見えていたのですが、光がつくことで形が浮かび上がってきた感じです。今までも微妙に光っていたのですが外の光が目蓋を突き抜けて見えているだけなのかわからなかったのです。今日も確信とまではいきませんが、まあ、やっぱりこれはそうなんだなと思った次第です。いつも常時光っていると言えばそうなんですが明示的にエネルギーを上げてあげると光るんだな、と。そうは言いましても、ぼんやりと光っているくらいの感じですが。もっと明るくなるのかどうかはわかりません。この場合、スシュムナから供給されるエネルギーが重要なのかなと思います。であれば、スシュムナを浄化してエネルギーが通る状態にしておくのは非常に重要ですね。<br /> <br /> 左上に見えたぼんやりとしたイメージは、夢で見た私のグループソウルの前世の体験に基づくといわゆるアジナの霊視・リモートビューに相当するのだろうとは思いますが、まだ意味のある映像は見えていませんのでこれは仮説の段階で様子見中です。<br /> <br /> どこかの本で、左上は過去で右上は未来とかいうお話もありましたが、どうなのでしょうかね。夢で見た私のグループソウルの過去生では何も使わずに「斜め上」を見ていたり、あるいは水晶球を使っていましたが水晶球の場合は水晶球の中に見えていましたね。<br /> <br /> まあ、見えるときは太陽のように見えるって言いますから、それに比べたら全然な感じですけど。<br /> <br /> そういえば、肉眼で光が見える場合と霊眼で見える場合とがある、ってどこかに書いてありましたね。単なる集中だけでも光が見えることがあるとか。ですから、やっぱりヨーガの基本で言われるように、瞑想中に見えたり聞こえたりしたことは重要ではないのであまり気にすることはない、というのはそうなのでしょうね。<br /> <br /> Fri, 27 Sep 2019 00:00:00 +0900 瞑想中に感じる各所のザワザワ感 https://w-jp.net/2019/1671/ <br /> 瞑想中、ムーラダーラ(会陰)とアナハタと後頭部にそれぞれザワザワした静電気のような感覚があります。これはエネルギーの高まりあるいはエネルギーの通過だと思っております。<br /> <br /> ムーラダーラはヨガを初めた最初の頃からよくザワザワしていましたが、ここ最近はかなり長い時間続きます。アナハタは以前はこんな感じになりませんでしたが、ここ最近はザワザワします。後頭部もここ最近からです。<br /> <br /> 後頭部に関してはスピリチュアル系の以下の記述がありました。<br /> <br /> ライトボディ第7レベルでは松果体と脳下垂体が開き始め、額か後頭部に圧迫を感じるかもしれません。「ライトボディの目覚め」<br /> <br /> まあ、圧迫といえば圧迫ですね、この感覚は。<br /> <br /> この第7レベルでは以前 引用しましたようにハート・チャクラ(アナハタ・チャクラ)が優勢になって、はるかに「いま」のなか行動するようになると言いますので、私の今の段階に近いと思われます。<br /> <br /> それとは別に、今日の瞑想では頭のてっぺんの少し内側(頭頂葉?)の感覚が出てきました。今までそこは感覚がなかったのですが、感覚が出てきたということに加えて中の方で血液の脈動を感じるようになりました。場所的には松果体に近いところではありますが、どうなのでしょうかね。松果体であれば何か変化があっても良さそうですが、まだ明確な変化はありません。<br /> <br /> まあ、様子見といったところです。<br /> <br /> この他にも、アナハタ優勢になって以降はかなり頻繁に両耳の上にザワザワ感がありますが、日によります。<br /> <br /> ■後頭部のジンジンする刺激<br /> 本日瞑想していたら、ザワザワ感だけでなく時々、チクチクとまではいかないですがジンジンと言いますか鈍い刺激が後頭部の中心の先っぽ、ツボで言いますと脳戸(のうこ)のあたりか、あるいはそのちょっと上で刺激がありました。玉枕(ぎょくちん)というツボは2つあるみたいですけどその中間のあたりですね。何でしょうね。しばらくしたら治りましたけど、感覚は続いています。<br /> <br /> これは、以下のことかもしれませんし、そうでないかもしれません。<br /> <br /> ライトボディ第8レベルでは、普通ならグリーンピース大である松果体と脳下垂体が成長し、形が変化しはじめます。それらが成長するにしたがって、ときどき頭のなかに圧迫感を感じるかもしれません。このプロセスのあいだ、断続的に頭痛が起こるかもしれませんし、そうでないかもしれません。(中略)このプロセスでは脳が文字通り「成長する」地点があるので、一人ひとりに合ったやり方をしてください。あなたの脳は大きくなりつつあるのです。「ライトボディの目覚め」<br /> <br /> そうであれば良い前兆ですが、関係ない感じであれば病院で診察してもらうつもりです。とりあえず日常生活に支障はないのでそのままです。<br /> <br /> ■両耳の上のザワザワ感<br /> これも同書に説明があり、両耳ではなくて右耳のお話ですが、右耳の少し上で過去の記憶にアクセスするための構造が活性化されるとのことです。これはまだ自覚はありません。<br /> <br /> Thu, 26 Sep 2019 00:00:00 +0900 色界禅定と無色界禅定は一続きで意識の拡大に繋がる https://w-jp.net/2019/1670/ <br /> そんな気がしてきました。先日書きましたようにテーラワーダ仏教では色界第四禅定で悟りでチベット仏教では無色界禅定を最後まで経験してから悟りになっているようですが、どこから悟るかというお話はひとまず置いておいて、少なくとも、色界禅定と無色界禅定とは一続きのような気がしてきました。<br /> <br /> 色界第四禅定については以前定義を引用しましたが、第四禅定で平安(捨)な心になります。<br /> その状態は、平安ではあるものの、心がまだどこかにしがみ付いている状態だと思うわけです。<br /> <br /> 順番を追って第一禅定から辿りますと、第一禅定で集中力を使って心を対象に強力な意思でしがみ付くと言いますかくっつけて思考を沈めます。第二禅定になりますとそこまで力を入れなくても集中できるようになり、第三禅定、第四禅定と進むにつれて努力なしの集中状態が可能になりますが、それでも、まだ少しは何かにしがみ付いているのです。<br /> <br /> 「色界禅定」というのは「瞑想の対象に物質的な何かがあること」という定義がされているようですが、そうは言いましても瞑想は心の中で行うものですから、そのまま読むと「心で行う瞑想なのに物質的な何かがある、とは一体どういうこと?」と思ってしまいますが、ここは読み替えて、「何がしかの対象に集中してしがみ付いているのが色界禅定」と考えると良いと個人的には思っています。まあ、個人的な解釈ですので他所で言っても通じない気もしますので、仮説だと思っておいてもらっても良いと思います。<br /> <br /> その仮説に基づきますと、色界では心が、例えば「息」「眉間」あるいは「マントラ」に集中することでしがみ付いているのです。<br /> <br /> しかし、無色界になると、しがみ付くことなしに落ち着いて観察することができるようになるのです。この「観察」を同じく「集中」と呼ぶこともできるのかもしれませんが、そこに「しがみつき」はありませんので、まあ、集中と言えば集中状態なのかもしれませんが、しがみ付くことなしに対象を観察できるようになるのが無色界なのだと個人的には思います。<br /> <br /> であれば、色界で最初は強烈な意思の力でしがみ付いて心を制御していたものを、色界第一禅定から色界第四禅定に至るにつれて段々としがみ付く力を弱めて、ついに無色界に到達してそのしがみ付く力が不要になる、とすれば、これは色界と無色界の禅定は一続きのものなのではないでしょうか。<br /> <br /> 比喩的に言えば、色界では「掴んでいた」ものを、無色界にいたることで「手放す(手放し)」が行われたのだ、と表現することもできると思います。<br /> <br /> スピリチュアルな人が時々「手放しましょう」とか言っているのは、もしかしたらこの無色界の禅定の状態を表現しているのかもしれませんね。であれば、それなりに高度な状態を表現しているのであって、なかなかこの種の「手放し」はできないように思います。スピリチュアルな人の「手放し」が全てこれかどうかはわかりません。きっと違うと思います。<br /> <br /> ■無色界第一禅定、空無辺処定(くうむへんしょじょう)<br /> 最初の段階では、私の場合は自分が中心で「卵状の漆黒の空間」に囲まれているような気が致しました。<br /> <br /> ■無色界第二禅定、識無辺処定(しきむへんしょじょう)<br /> この説明は、以下のようになっています。<br /> <br /> 先の(無色界第一禅定の)空無辺処定の虚空とは「物質がない」ということなのですが、その虚空でも、まだ心の外側に意識されているものです。「虚空の無辺を認識できたのだから、自分の意識も無辺になった。では今度は意識の無辺を認識してみよう。」と、空無辺処を超えて、今度は「識は無辺である」と認識するのです。対象ではない、でもまだ心の外側を認識した空無辺処定を今度は依りどころ(対象ではありません)にして、空無辺処定のお陰で無辺になった識を、無辺だと認識するのです。空無辺処定より一段高いこの禅定で、とうとう心は外の何ものにも依らない心になるのです。 「悟りの階梯(藤本 晃 著) 」<br /> <br /> ・・・何が書いてあるのか解読困難ですが、自分の瞑想体験と比べて意訳しますと、単純にこれは「意識の拡大」のことかな、と解釈致しました。<br /> <br /> 色界第四禅定から「手放し」をして無色界の最初の段階に至ることで「卵状の漆黒の空間」が自分の周囲に認識されたのですが、これは要は「境目がある状態」なのだと思います。無色界第二禅定の場合はこの「境目」がなくなるかあるいは「卵状の漆黒の空間」が拡大するのだと思います。<br /> <br /> 私の場合、以下の手順でこの状態に至りました。<br /> <br /> 1.息を頼りに色界禅定に入る<br /> 2.息にしがみ付いている心を「手放し」をすることで無色界第一禅定「空無辺処定」相当であると思われる「卵状の漆黒の空間」を認識する。<br /> 3.「卵状の漆黒の空間」より外を認識しようと意思を働かせる。まずは一方向から始め、少しづつ意識を拡大してゆく。例えば左方向から初めて部屋の壁まで至ることで意識を拡大し、右の意識を拡大して部屋の壁に至り、上、前方、後方、とそれぞれ繰り返すことで部屋の大きさまで意識を拡大しました。方向によっては部屋の外まで伸びましたが、今のところ私はこのくらいが限界のようです。<br /> <br /> 「ダライ・ラマ智慧の眼をひらく」によりますと無色界禅定の定義が若干異なっています。こちらに基づきますと、いわゆる「意識の拡大」まで済ませた状態が無色界第一禅定の「空無辺処定」であるように読めます。<br /> <br /> 第四の禅定に到達しおわってから、修行者は「すべての構成要素(ダルマ、諸法)は限りのない空間に似ている」という観念を発展させ、触覚・視覚・物質的な構成要素を微細なものにいたるまで完全に離れる。修行者はこのことに心を専注し、それを発展させなければならない。それの発展のうえに、かれは無限の空(くう)の領域の禅定(空無辺処定、くうむへんしょじょう)を完成する。これを完成してから、修行者は「意識は限りのない空間に似ている」という観念を発展させなければならない。 「ダライ・ラマ智慧の眼をひらく」<br /> <br /> この表現は、まさに「意識の拡大」ではないでしょうか? 段階ごとの定義が微妙に異なるとは言え、「意識の拡大」が遠からず無色界禅定の最初の段階に関連しているような気が致します。<br /> <br /> <br /> Wed, 25 Sep 2019 00:00:00 +0900 カタカムナ的な松果体の解釈 https://w-jp.net/2019/1667/ <br /> 「カタカムナの道(関川 二郎 著)」では神智学と比較しつつカタカムナ的な松果体と脳下垂体の解釈をしています。<br /> <br /> 人間の性行為には、脳下垂体に刺激を与えて受胎の準備を整えさせる性行為(6次元の性)と、松果体に共振作用を与えて眠れる機能を目覚めさせる性行為(12次元の性)とがある。 「カタカムナの道(関川 二郎 著)」<br /> <br /> ■アジナと低次元の悟り<br /> これを基本として、タントラ・ヨーガの手法とカタカムナの手法を比較しています。<br /> <br /> タントラ・ヨーガの修法では(中略)クンダリーニを目覚めさせる刺激を与え、さらには想念を丹田(示数・6)に集中してクンダリーニの上昇を促す手法は明らかに眉間チャクラ(6)の開眼を目指すもので、言うなれば低次元(6次元)の悟りである霊視、霊聴に繋がるものである。「カタカムナの道(関川 二郎 著)」<br /> <br /> ここで言う6と12という数はカタカムナ的な読み時に使う数字のようです。次元数などは比喩として、ここでポイントになるのは、カタカムナ的にはアジナ・チャクラの開眼を低次の悟りとしている点です。<br /> <br /> これは興味深い解釈です。<br /> <br /> 同書では眉間チャクラ(6)の開眼を目指す方法として「(胡座のシッダアサナで)会陰をかかとで刺激」を紹介しており、タントラ・ヨーガの手法として記載されてはありますが、この手法はタントラ・ヨーガだけでなく体操のアサナや瞑想を行うラージャ・ヨーガや仏教などでも広く知られている手法ですので、カタカムナ的に言わせればそれらは全て低い次元の悟りであるアジナ・チャクラを開くためのものだと解釈できます。<br /> <br /> ■松果体と色情<br /> 同書では、アジナ・チャクラの脳下垂体と対応して、サハスララだとは明記がないものの松果体について以下のように記載しています。<br /> <br /> 松果体の目覚めによって色情の欲求はかえって抑制されるので、それほどの忍耐を必要とすることなく「接して漏らさず」のマイナス・エントロピーの性が自然な形で営まれることになる。 「カタカムナの道(関川 二郎 著)」<br /> <br /> 同書によれば、男性と女性との接し方によって6次元の脳下垂体を共振させるか12次元の松果体を共振させるかの違いがあるとのことです。<br /> <br /> ■カタカムナ的な脳下垂体と松果体<br /> 同書においては以下のような対応であると解釈できます。<br /> <br /> ・脳下垂体 アジナ・チャクラに対応<br /> ・松果体 (おそらく)サハスララ・チャクラに対応<br /> <br /> 何がアジナで何がサハスララなのかは流派によって異なりますので、これは同書の解釈、と言いますか、同書にサハスララと明記はしておらず「頭頂チャクラ」として言及されているところから私がこのように解釈しました。<br /> <br /> ■ヨーガ手法への注意<br /> 同書では、ヨーガの手法について以下のように注意をしています。<br /> <br /> ヨーガのポーズでは情欲が刺激される方向に働くため(中略)情欲に負けてクンダリーニの下降を招いて恐るべき淫獣と化したり、あるいは苦痛に耐えて目標とする空性大楽の境地を垣間みることで「われついに道を極めたり」と錯覚して慢心に陥る等の弊害が伴うことになる。「カタカムナの道(関川 二郎 著)」<br /> <br /> ヨーガの道を誤れば確かにこのようになりますし、この本が書かれたのは遥か昔でしたので昔は今よりももっとこういう人が多かったのかもしれません。今もそれっぽい人がいる感じではありますけど、そんなに目立たない気もします。時代背景を理解すれば理解できますが、現代社会にこんなヨーガ行者はほとんど残っていないと思います。まあ、いるところにはいるのかもしれませんが。<br /> <br /> ■松果体を共振させるべき<br /> 同書の細かいところを読み解くのはなかなか難しいところではありますが、脳下垂体を刺激するのではなく松果体を共振させるべき、と書いてあるように読めます。<br /> <br /> 脳下垂体と松果体はすぐそこにありますので区別もなかなか難しいところでありますし、何がアジナ・チャクラなのかも以前記載しましたように流派によって色々ですので、アジナがどうのこうのと論じても仕方がありませんが、カタカムナ的に言えば脳下垂体がアジナ・チャクラのようですので、アジナというよりは脳下垂体のこういった性質について興味深いレポートがある、として私は読んでいます。<br /> <br /> ■松果体と自然な禁欲<br /> 流派によってはアジナ・チャクラを目覚めさせれば努力のいらない自然な禁欲(ブラフマチャリア)が達成できると書いてあって、その流派のアジナ・チャクラの定義はよくわかりませんがそれが松果体だと仮定すればこちらの話と繋がってきます。<br /> <br /> 私はアジナではなくクンダリーニ活性時にマニプラ優勢になった時とアナハタ優勢になった時にそれぞれ大きな禁欲のステップアップがなされました。以前書きましたように、最初のクンダリーニ活性化の時には光の筋が2つ頭まで上がりましたので、その時に松果体も刺激されたのだとすれば筋が通ります。<br /> <br /> ■色々と見えると修行の妨げになる<br /> 仏教などでも、色々見える段階は「魔境」と解釈されていますが、それはおそらく脳下垂体のアジナ・チャクラが動いている段階を魔境と言っているような気も致します。魔境というともっと広い意味だとは思いますが、このようなアジナの魔境も含まれているように思います。<br /> <br /> 何かが見えたとしても気にせずに修行を続けましょう、というのはヨーガでも仏教でも言われていることだと思います。<br /> <br /> ■霊界の特殊な修行法<br /> これで思い出したのですが、霊界の特殊なマントを使った修行法を思い出しました。<br /> <br /> 既にある人生でアジナ・チャクラを開いたもののその先になかなか進めない人が使う修行法です。アストラルの事が見えると様々な存在と絡むことになり、修行が進まなくなるのです。それらに悩まされて精神不安定になることもあります。アストラルの世界は色々と怖い事が多いですので。その問題を解決するために、アジナの動きを遮って霊眼を使えなくするマントを覆って、肉体的に目が見えない人と同じように霊眼が使えない、見えない人として生まれてきてこの三次元世界を生きる事があります。<br /> <br /> まあ、一般的にはその人が誰なのか見分けがつかないですけど、霊性が高くて霊視ができてもおかしくはない人が霊視できない、という場合はこのマントを使っている可能性があります。<br /> <br /> 昔、一時期はかなり流行ったストイックな修行法らしいですけど、最近はあまり使う人がいないですね・・・ と、霊界の修行僧っぽいおじちゃんが嘆いていました(苦笑)<br /> <br /> とっても良い修行法らしいです。<br /> <br /> ただ、とても怖いですけど。アジナ・チャクラが使えなくなっているのでアストラルの様々な変な存在を避ける事が出来ません。<br /> <br /> 基本的にはこれは一般社会に住む人ではなくて修行僧とかで生きるつもりの人が使うようですけどね。前にこれを使って転生した人の人生を覗き見た時、その人はお寺で修行していました。お寺で座禅しているそのお兄さんはステージが上がらなくて悩んでいるらしく、グルのおじいさんに「まだ何も見えてこないのか? 見えてくるまで座禅を続けなさい」と言われていて、その人は「わかりました。座禅を続けます」と答えて辛抱強く瞑想をしていましたね。この人は前の人生でアジナ・チャクラは開いたのですがその先になかなか行けないのでこのマントを使って転生して修行することを選んだようです。なかなかのストイックなハードな修行ですよね・・・。本来はこの男の人はマントがなければ霊眼が見えるのですが、それは低次の悟りですので、その先を目指して「見えない人」として生まれてきてこのような扱いを受けているわけです。グルのおじいさんからすれば、「全くこの子は、出来が悪いな」と思っているようですが、実際にはこのように、ストイックな修行のためマントを使って「見えない」状態で生まれてきているわけです。この人は今生ではステージが上がらなくて苦労する人生になっているようですが、それも本人が選んだ修行の道のようです。まあ、こんなマントのこと知っている人はそうそういないとは思いますので修行者の違いを見抜ける訳も無い気がします・・・。<br /> <br /> アジナ・チャクラで霊視できたとしても、サハスララで体の外に出て探る方法に比べたら精度は全然落ちますので、アジナ・チャクラが低次の悟りでしかないというのもよくわかりますし、であれば、このマントを使った修行者のような人がこの地上世界で生きていることにも納得できます。<br /> <br /> まあ、この種のことは、きっとアジナ・チャクラを開眼してから何回も転生すればその意味がわかるとは思いますが、一度も開眼した事がなければ「なんのこっちゃ?」という感じかもしれませんが。<br /> <br /> ■2つの生き方<br /> 魂のステージを下から上、獣から進化して餓鬼になり阿修羅になり人間になり・・・やがてアジナを開花した場合にアジナが修行の妨げになる場合があります。その時にこのマントが使われたりします。<br /> <br /> 一方、魂のステージを上から下、高次のスピリットが下降して人間になった場合、最初からサハスララやアジナが開いていることが多いような気がいたします。その場合、人間としての経験をより深めるために一時的にサハスララやアジナを閉じて生きる場合がありますが、そのためにこのマントが使われたりします。サハスララとアジナが両方開いている場合は人生に支障がないのですが、人間的生活を続けるうちにサハスララが機能し辛い状態になるとアジナが優勢になって人生の妨げになる時があります。そのような場合、サハスララを再度活性化させるか、あるいは、このマントのようなものを使って一時的にアジナを使えなくして修行する場合とがあるように思います。<br /> <br /> どちらの場合でもアジナが人生の修行の妨げになる、という点では一致しているようです。<br /> <br /> 地球の場合、やがては高次の意識が優勢な人が増えてゆきますので、アジナなしでの人生を修行するには今くらいの時期が最後かもしれませんね。物質的な生活もそれなりに学ぶ事がありますし、今はアジナなしでの論理的な生き方を学ぶのに適した時期であるように思います。であれば、このようなマントを使うのは今の時期に割と向いているような気も致します。人気はないですけどね。<br /> <br /> Mon, 23 Sep 2019 00:00:00 +0900 アジナの肉体・アストラル・コーザルによる違い https://w-jp.net/2019/1666/ <br /> 本山博先生の「チャクラの覚醒と解脱」によると、以下のような違いがあるようです。<br /> <br /> <br /> ・気の次元や肉体の次元でアジナが活性化した場合:眉間の辺りにピリピリした感じがする<br /> ・アストラル下界で動いている場合:真っ黒<br /> ・アストラル上界で動いている場合:薄いスミレ色<br /> ・カーラナ(アラヤ識)で動いている場合:透明で光って見える<br /> <br /> <br /> とのことです。<br /> <br /> カーラナはサンスクリット語で、「原因体」の意味ですから最近のスピリチュアル(特に神智学の系統)で言うコーザル体に相当します。カーラナはヴェーダ的な言い方ですので一般的にはコーザル体(原因体)の方が知名度がある気もします。<br /> <br /> 同書ではアストラルに関しては更に以下のような説明があります。<br /> <br /> アジナをみていて、それが黒いというか、紫色の黒いような色或いはスミレ色でみえる時は、主としてアストラルで動いている。この状態のときには、テレパシーとかいろいろな能力が出てくるのだが、そういう状態では感情や想念がよけいに激しくなる。音楽家とか画家とか彫刻家等の類の人は、アストラルで動きやすい。そういう場合は色がついている。「チャクラの覚醒と解脱(本山博 著)」<br /> <br /> これは興味深いです。<br /> <br /> 私の場合、ヨガを始めた頃から頻繁に、特にマントラを唱えた時に眉間のあたりにザワザワした感覚がよくありましたが、ピリピリというのは表現の違いだけで同じだとすれば気の次元や肉体の次元で動いていたということになります。両耳の上の方あたりしたらピリピリ感がよくありますけど。<br /> <br /> 真っ黒な色とかスミレ色というのはよく分かりません。私の場合はアジナより上はまだのような感じです。<br /> <br /> ちなみに、コーザル(カーラナ)の話はヨーガスートラの話にとてもよく似ています。<br /> <br /> 3-25) 心臓に綜制(サムヤマ)を向けることによって発現した光をあてるならば、どんな微細なものでも、人目につかないところに隠されているものでも、遥か遠くにあるものでも知ることができる。 「ヨーガ根本教本(佐保田 鶴治著)」<br /> <br /> ここでは「心臓」となっていますけれども、 スワミ・ヨーゲシヴァラナンダによりますとこれは「心臓」というよりは以下のように読み解くようです。<br /> <br /> 3-25) (心の)働きがもつ光源を(綜制・サムヤマによって)照射することで、(ヨーガ行者は)どんな微細なものでも、人目につかぬところに隠されているものでも、遥か遠くにあるものでも知ることができる。「魂の科学(スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ著)」<br /> <br /> これは、スワミ・ヨーゲシヴァラナンダによりますとアジナ・チャクラの動きを説明したものだとのことです。そして、アジナチャクラは「理智鞘」で働くと言います。ヨーガの理智鞘とは最近のスピリチュアル、特に神智学を元にした流れで言いますとコーザル体に相当しますので、本山博先生と同様のことを言っていることがわかります。<br /> <br /> 本山博先生がカーラナ(コーザル、アラヤ識)で光って見えると言っているのは、スワミ・ヨーゲシヴァラナンダの理智鞘(=コーザル)でのアジナ・チャクラの霊眼の話と結びつくわけです。<br /> <br /> <br /> Mon, 23 Sep 2019 00:00:00 +0900 何も起こらない瞑想から空と観照へ https://w-jp.net/2019/1662/ <br /> 最近の瞑想は、自分から意図的にエネルギーを動かそうとしなければ何も起こらないようになってきています。<br /> <br /> 以前は雑念やら葛藤やらが出てきて制御するのに困ったことになったりもしましたが、今は、雑念や想念は「半透明」な感じで認識されますので、それほど瞑想の邪魔にはなりません。<br /> <br /> マハリシ・マヘーシュ・ヨーギーの弟子であるボブ・フィックスによる著書には以下のようにあります。<br /> <br /> 瞑想に時間を費やせば費やすほど、ストレスが解放されて行った。マハリシはこの解放を、過去の記憶の解放と表現した。(中略)カルマが解放されて初めて、悟りに達することができるのだ。その理解のおかげで、わたしは "何も起こらない” 瞑想を受け入れられるようになった。「ある瞑想家の冒険(ボブ・フィックス 著)」<br /> <br /> この記述は、どうやら私の今の状態に近いような気が致しました。自分から何かを意図的に起こさない限り基本的には”何も起こらない”瞑想になってきていますので。<br /> <br /> 同書によるとこの時彼は瞑想コースの途中だったようで、コースを進めてゆくうちに以下の状態になったと言います。<br /> <br /> 2ヶ月コースの4週間目に入る頃には、瞑想があまりにも深くて、すべてが消えていった。わたしは内なる宇宙というとてつもなく大きな領域のなかで迷子になり、自分の身体がどこにあるのかもわからなかった。(中略)私の意識内に現れるものは何であれ、透明でホログラフ状だった。わたしはあらゆる対象の内側を見ることができるのと同時に、外側の四方からと上から下までも見ていた。「ある瞑想家の冒険(ボブ・フィックス 著)」<br /> <br /> 私はこの状態にはまだ達していませんが、この「透明でホログラフ状」という記述は目印になります。 私の場合、今のところ想念などが「半透明」で認識されますので、一部は似たようなことを体験しているように思われます。そのうち私もこんな感じになるのでしょうか?<br /> <br /> 瞑想で重要なことは、感覚に生じる種々の妨げを超えて、無限の静寂に吸収される能力だ。(中略)究極的には、自分の全存在が無限の平和へと溶けこみ、思考が無限の空間のなかへ消えてゆく。この無限の空間がいわゆる空(くう)だ。(中略)空に慣れてくると、宇宙を外側から観察しているような感じがする。(中略)この体験が、いわゆる観照(かんしょう)だ。「ある瞑想家の冒険(ボブ・フィックス 著)」<br /> <br /> 私の場合、無限の静寂を「外側」で感じてはいても、まだ「吸収」されていない感じです。これらの記述は今後の目印になります。<br /> <br /> ■サハスララの体験<br /> ヨーガ行者の本山博先生によるサハスララの体験が似ている気が致します。<br /> <br /> 自分の意識が、登頂の門を抜けてしだいに高みにのぼり、はるかはるか彼方の上方におられる神のもとに還っていくのがわかるのです。(中略)えもいわれない法悦と平安のうちに、自分の霊的な全存在が埋没しているような状態が続きます。「密教ヨーガ(本山博著)」<br /> <br /> この、サハスララから抜け出て宇宙を感じる感覚に、ボブ・フィックス氏の体験がどこか似ているような気が致します。<br /> <br /> ■観照が深まると眠りがなくなる<br /> これはヨーガ聖典で言われていることです。<br /> <br /> 観照が増えるにつれ、睡眠に大きな変化が起こった。自分としては完全に冴えているのに、身体が眠っていたのだ。わたしは冴え渡っているのに、深い眠りの真っ暗闇のなかで、思考のスイッチはオフになっていた。それから、その暗闇のなかで、夢が現れたり消えたりする様子に気づいていた。(中略)睡眠中に意識がなくならないということは、悟りの重要な兆しだ。「ある瞑想家の冒険(ボブ・フィックス 著)」<br /> <br /> 私はまだこの段階まで来ていません。クンダリーニ活性化の時点で睡眠時間が短くなってあまり眠らなくても良くはなりましたが、このような感じにはまだなっていません。<br /> <br /> ■ボブ・フィックス氏の悟り<br /> ボブ・フィックス氏の体験を読むと、上記の睡眠の後、以下のような状態に変化するようです。<br /> <br /> わたしはつねに、無限とともに在ることになった。宇宙の広大無辺な意識と、永遠に一体となったのだ。「ある瞑想家の冒険(ボブ・フィックス 著)」<br /> <br /> なかなか読み解くのが難しいですが、同書によれば、この段階で「全く違う自分になっていた」と書いてありますので、この最後の段階はかなり大きな変化なのだと思われます。<br /> <br /> 観照やサハスララだけでもそれなりの悟りと言えるような気が致しますが、この段階まで来て本当の悟りなのかもしれません。<br /> <br /> <br /> Thu, 19 Sep 2019 00:00:00 +0900 瞑想中における頭頂部上方の熱感 https://w-jp.net/2019/1661/ <br /> 最近、頭の下半分と額や前頭部までは熱感が出てきたのですが後頭部の特に上側の感覚が出ていないので瞑想中に色々と探ってみていました。<br /> <br /> 現在の状態について、今までの状態を元に仮説を作ってみました。<br /> <br /> 事実:<br /> ・クンダリーニ活性化前はお腹の熱感はほとんどなかった。<br /> ・クンダリーニ活性化後、まずお腹のマニプラ熱感が出て優勢になった。その時、胸のアナハタはまだ優勢ではなく、マニプラとアナハタの間に温度差があって壁(いわゆるグランティ)があるような感じだった。<br /> ・アナハタ優勢になった時はその壁(グランティ)がなくなった。<br /> ・アナハタ優勢になった後は頭の下半分まで熱感が出てきた。<br /> ・頭の真ん中あたりに壁(グランティ)がある感覚。頭の上半分に熱感がまだ出ていない。<br /> <br /> 仮説:<br /> ・頭の真ん中にある壁(グランティ)を突破する必要がある。<br /> ・壁(グランティ)を突破すれば頭の上半分、特に後頭部に熱感が出てくる。<br /> <br /> 昔、マニプラ優勢だった頃に何をしたのか思い出してみますと、普通にヨガのアサナをして瞑想したりしましたが、前にも書きましたように、夢の中のガイドを元に「回転」をしてエネルギーをアナハタまで上げました。この「回転」が鍵かなという気がしてきました。<br /> <br /> 又、エネルギーの定着が、アナハタだけでなく頭の下半分にも充満するようになりましたので、小周天のようにエネルギーを下の方から一気に上げるのではなく、数段階に分けて上げるのが良いような気がしてきました。似たような瞑想にソーハン瞑想もありますが、この基礎的な瞑想がここにきて何気に効果的な感じです。<br /> <br /> ■ソーハン瞑想法と小周天<br /> 古典的な瞑想にソーハン瞑想があります。ソー(So)で息を吸ってハン(Ham)で息を吐きます。その時、ソー(So)でお腹の下の方から頭の上に向かって背筋を通ってエネルギーを上げます。最初はイメージだけでもOKです。その後、ハン(Ham)で天空あるいは宇宙から自分の登頂に向かってエネルギーを下ろし、体に浸透させます。これが基本です。Soが"That(それは)”の意味で、Hamが"I am(私です)"という意味になります。<br /> <br /> 似たようなものに小周天があって、お腹の下の方から背筋を通って頭の上に上げ、その後、体の前を通ってお腹の下まで下ろします。これは各種のバリエーションがあるようです。<br /> <br /> これらは割と基礎的と言いますか古典的な瞑想になりますが、今までは「そんなものかな」という感じでしてきましたが、ここに来てこれらが効果的になってきました。ただ、そのまま使うわけでもありませんが。<br /> <br /> ■分割<br /> エネルギーの上げ方として、私の場合は以下のように分割するのがしっくりきます。<br /> <br /> ・マニプラからは、以前書きましたように、まずマニプラで右回転の渦を作った後に勢いを付けて一気にアナハタあるいは頭の前面にまで上げる。これを何回か繰り返す。息を吸う時に回転させて、吐くタイミングで一気に上げます。<br /> ・その後、頭の前面に溜まったエネルギーを、息を吸うタイミングでもっと頭の前面に溜めて、吐くタイミングで後頭部を経由して後頭部の上の方に上げます。<br /> <br /> これは、きっとエネルギーの質の違いだと思います。マニプラのエネルギーを一気に上げると質の違い(あるいはルート的な問題?)があって不快感が出ますが、段階的に上げますと不快感がほとんど出ません。<br /> <br /> 今のところ、私の問題は頭の後頭部の上の方で詰まっている感じがするところですので、そこを重点的にエネルギーを通すように瞑想中に何度もエネルギーを入れてあげています。この時、色々と「回転」をバリエーションつけて試してみたりしています。縦回転や横回転など。<br /> <br /> 私の昔の瞑想は割と想念や雑念をどう対処するかという点に重点が置かれていましたが、最近の瞑想はエネルギー・ワークになってきた感じが致します。<br /> <br /> こうしてエネルギーを後頭部の上の方に何度も通そうとしていたら、昨晩、小さな小さな「カチッ」という音というか感覚がして、頭の後頭部の上のあたりの詰まりが更にちょっとだけ解消した感じがしました。それでも完全に通ったというわけではありませんが。<br /> <br /> この壁と詰まりの感覚には覚えがあって、マニプラ優勢だった頃にアナハタとの間に壁(ヴィシュヌ・グランティ)があった感覚を思い出しますと、同種の「詰まり」がそこ(マニプラとアナハタの間)にもあったように思います。<br /> <br /> 頭の中にあるのはいわゆるルドラ・グランティですが、頭の中においても似たようにその「詰まり」を取っていく必要があるのかなと思います。そうして、エネルギーが徐々にサハスララの方にまで通るようになってゆくのでしょう。<br /> <br /> であれば、ソーハン瞑想法や小周天は有名で古典的で基礎的と言われてはいますが、実はかなり重要で長く使えて役立つ瞑想だからこそここまで長く伝わっているのかなという気がしてきました。有名だからこそ初心者からいきなりやらされたりしますけど、本格的にするのは初心者には敷居が高くてなかなか難しい、というような気もしてきています。<br /> <br /> ■オーム瞑想<br /> ヨガでオームを唱える瞑想がありますが、後頭部の固まっているところに「響くように」心の中で唱えてあげると壁というか障害というか詰まりが少しづつ柔らかくなっていく気が致します。<br /> <br /> ■ブラーマリ瞑想(ブラマリ瞑想、蜂の羽音の呼吸法)<br /> 口を閉じたまま息を吐いて「ムーーー(んーーー)」と唱える瞑想でも同じように詰まりが取れていく気が致します。<br /> <br /> <br /> Wed, 18 Sep 2019 00:00:00 +0900 サハスララに集中する瞑想 https://w-jp.net/2019/1660/ <br /> ヨガの瞑想の基本は眉間への集中ですが、ヨーガあるいはスピリチュアルでサハスララに集中する瞑想があります。その幾つかを見ますと、以下のような共通した事項が見てとれます。<br /> <br /> ・頭のてっぺんから少し上に集中する<br /> ・瞑想後は意識を眉間あるいはお腹のあたりまで戻す。そうしなければ目眩や不快感あるいは情緒不安定などを引き起こす可能性がある。<br /> <br /> 特に後者の注意について、単にサハスララに集中したまま瞑想を終えると不安定になるという注意が色々な流派に共通して言われているのが興味深いです。<br /> <br /> 例えば、以下のような注意書きが書籍に記されています。<br /> <br /> 第8のチャクラ(サハスララ)に到達した大意識を、再び第一のチャクラに向かって降下させる。(中略)大意識を一気に第一のチャクラに戻す。(中略)大意識を第8のチャクラ(サハスララ)に留め置いたまま、次のステップに踏み込んではならない。アートマンが肉体より離脱する時に、大意識と交錯させてはならないからである。(中略)これを違えると、瞑想が不首尾に終わることがあるばかりか、後に不快感が残ることが、ごく稀にある。「瞑想ヨガ 魂のやすらぎ(ワスデーヴァ・ナイア・アイアンカー 著)」<br /> <br /> ここに記載されている、「アートマンが肉体より離脱する時に、大意識と交錯させてはならないから」という部分は非常に興味深いです。<br /> <br /> 意識は「心」だとして、いわゆる「光の筋」だとして、その心の光の筋は触覚みたいなものですので、それとアートマン(いわゆる魂。微妙に違いますがとりあえず)と交錯させてはいけない、というのは興味深いです。波動が違うということでしょうか。<br /> <br /> なんとなく感覚として思うのが、サハスララにあるいわゆる「ブラフマンの門」と呼ばれている境界線というか蓋というか門があって、瞑想中はそれが開いて意識が外に出るときがあるような気がいたします。外に意識が出たのであればそれを体の中に戻さなくてはいけないのに外に置き忘れてしまったら意識が変になるのも当然な気も致します。そんな気がするだけで仮説ではありますけど。<br /> <br /> 思えば、ヨガ始めてから今までの間、ふとした時に無自覚で同様にブラフマンの門の外に意識を置き忘れて不快感や不安定な状態が続くことが度々あったように思います。<br /> <br /> 私も最近、ちょっと油断してサハスララに集中した後にそのまま瞑想を終えたら、瞑想後しばらくは平気だったのですが数時間後から意識が少し頭の方に圧迫されたかのような不思議な不快感に襲われましたので、瞑想直後は平気だと思っても基本的にはこの注意を守った方が良さそうです。最近はこんな不快感になることもほとんどなくなっていましたので、油断していました。<br /> <br /> であればこの注意は重要で、門から外に出たのならば門から中に戻って、更には、きちんと門を閉めて戸締りをすることが必要なのかもしれません。まあ、仮説ですけど。<br /> <br /> スピリチュアル系では例えば以下のような説明があります。<br /> <br /> ■ナクラ瞑想<br /> クラウンチャクラの上にあるこのポイントに意識の焦点を合わせると、次元を超える通路に入っていくことになります。慣れ親しむにつれて、くつろいで楽に移行を体験できるようになるでしょう。もし途中で頭痛や緊張が生じたら、その原因はたいてい集中のしすぎです。意識を集中させるのではありません。ただそこに気づき、そのポイントにそっとあなたの意識を寄り添わせるだけでいいのです。(中略)大切なのは、この瞑想のあとには肉体の神経系にしっかり適応しなおすことです。(中略)むやみに急ぐと、頭痛その他の痛みが生じたり、気分が悪くなることもあるからです。「アルクトゥルス人より地球人へ(トム・ケニオン 著)」<br /> <br /> この宇宙人が本当にいるかどうかは置いておいて、この瞑想の内容は興味深いです。<br /> <br /> どちらにせよ、サハスララに集中する瞑想は注意および熟練が必要のようですね。<br /> <br /> ヨガの本にも「サハスララへの集中は注意が必要です。眉間への集中は安全です。」と書いてあった気がしますので、そういうことなのだと思います。<br /> <br /> ■白隠禅師の禅病<br /> なんとなく白隠禅師の禅病も、本を読む限りは似たような症状の気が致しますが、どうなのでしょう。<br /> 白隠禅師は軟酥の法(なんそのほう)でこの症状に対処しましたけど、同様であれば上記のような注意に沿うことで対処できる気も致します。<br /> <br /> 軟酥の法は超簡単に言いますと、頭の上に丸い玉の形をしたヒーリング・ボールを想像した後、それが溶けて頭の方から体を伝って足元まで体全身を水が滴るように浸透させつつ、悪いものを流してしまうようにイメージするという方法です。これはこれでいいと思いますが、やっていることは割と似ていて、サハスララの意識を下に下ろす、ということですよね。要はグラウンディングです。<br /> <br /> 手法としては色々であっても、基本は一緒なのかなという気が致しました。<br /> <br /> Tue, 17 Sep 2019 00:00:00 +0900 聖ラーマクリシュナの語る「クンダリーニの5つの動き」 https://w-jp.net/2019/1659/ <br /> 一般的にはクンダリーニは激しく上昇するようなイメージがあるかと思いますが、聖ラーマクリシュナによると5つのクンダリーニの動きがあると言います。<br /> <br /> クンダリニは同じような動きと震えで常に登りません。聖典によれば、クンダリニには五つの動きがあります。<br /> 1.蟻のような動き ー 足から昇る長く続く震えの感覚があります。<br /> 2.蛙のような動き ー 足から大脳に不規則な動きで登ります。<br /> 3.蛇のような動き ー とぐろを巻いていた蛇が、獲物を見つけたりおびやかされたりすると、ジグザグ形の動きで突進します。<br /> 4.鳥のような動き ー 目的に到達するまでは決して止まることなく、時には上空に、時には低空にあちこちに鳥達を導きます。<br /> 5.猿のような動き ー 猿は木から木へと跳びながら1つの木から他の木に移ります。<br /> 「ラーマクリシュナの教え(ジャン・エルベール 編纂)」より<br /> <br /> とすれば、クンダリーニ経験者の話がそれぞれ異なっているのも理解できます。<br /> <br /> いずれの場合でも大脳に到達するとサマーディに入る、と同書には記載されています。<br /> ただし、原本の聖典がどれなのかはわかりません。<br /> <br /> クンダリニーはヨーガで言うところのスシュムナを上昇するとされており、スシュムナの詰まりを取るのがヨーガ修行の根幹でもあるわけですが、完全に浄化されていなかったりするとエネルギーが色々な挙動をするであろうことは容易に想像できます。スシュムナが主要なナディ(エネルギーの通り道)ですが、体にはその他にも多くのナディが存在しておりますので、詰まっているナディと詰まっていないナディがあったとして、エネルギーの動き方がそのナディの浄化具合に応じて変わって知覚されるであろうのも容易に想像できます。それが、上記のような動きとして知覚されると言うことなのかなと思います。<br /> <br /> <br /> Sun, 15 Sep 2019 00:00:00 +0900 禅定(サマーディ)の階梯の謎 https://w-jp.net/2019/1658/ <br /> テーラワーダ仏教では禅定(サマーディ)を色界禅定と無色界禅定に分けて、色界の第四禅定からヴィパッサナー瞑想(観瞑想)で悟る、としているようです。例えば「悟りの階梯(藤本 晃 著) 」には以下のようにあります。<br /> <br /> 禅定の達人=心解脱だけでは、通常とは違う特別に心地よい世界を知ってはいますが、それでも悟りとは何の関係もありません。悟りには、真理を理解する智慧が必要なのです。(中略)不還果や阿羅漢果に悟るときに、多くは止瞑想(サマタ瞑想)で色界第四禅定まで進んでから観瞑想(ヴィパッサナー瞑想)に移行して悟ると先に述べました。(中略)これはおそらく、無色界禅定にまで入ってしまうと心だけのはたらきになってしまい、何らかの対象を観察して無常を悟る観瞑想にはならないので、悟る直前の心の状態や不還果が転生する領域は、阿羅漢果に悟れるように自然に色界の範囲内になっているのだと思われます。「悟りの階梯(藤本 晃 著) 」<br /> <br /> 阿羅漢とはいわゆる「悟った人」のことです。テーラワーダ仏教的にはどの禅定も悟りではない、としているようですが、禅定は悟りの助けになる、というスタンスでもあるのようです。<br /> <br /> 色界第一禅定まででも、心を育て鍛えて集中力が身につくと、観瞑想に移行したとき、すぐにでも悟りが開けるほどの力になるのです。「悟りの階梯(藤本 晃 著) 」<br /> <br /> ■チベット仏教の禅定<br /> 一方、チベット仏教では色界の第四禅定から悟るという記述は見つからず、無色界禅定を経て悟る、というように読めます。このあたり、「ダライ・ラマ智慧の眼をひらく」によると輪廻の説明のところに以下のようにあります。<br /> <br /> 無色の禅定を発展させ知覚の究極まで心を集中したものは第二の所に再生し、第三のクラスは阿羅漢となり、この世界の最後の寂滅(じゃくめつ)に至って再びこの世に戻らないものたちだけのものである。「ダライ・ラマ智慧の眼をひらく」<br /> <br /> 記述的に、テーラワーダ仏教のように第四禅定でヴィパッサナー瞑想をして悟る、とは読めません。普通に読むと、色界禅定の後に無色界禅定を熟達して悟る、というように読めます。禅定そのものが悟りとは書いていないようですが、割と近い位置付けのように解釈できます。<br /> <br /> このあたり、同じ仏教でもテーラワーダ仏教とチベット仏教で禅定の位置付けが異なるようです。<br /> <br /> ■色界第四禅定<br /> 先日の「グラウンディングされた瞑想」で、「卵状の漆黒の空間」が見える前の落ち着いた状態が色界第四禅定なのかなと言う感じが致します。<br /> <br /> ■無色界禅定の最初「空無辺処定(くうむへんしょじょう)」<br /> この説明は、以下のようになっています。<br /> <br /> 物質という命綱を頼りにして、でも物質と関係のない無重力の宇宙遊泳をしていた宇宙飛行士が、その物質的制限という命綱を切り離して、ただ、宇宙に漂う漢字です。体が定まらないと困りますので、「漂っているのだ」と「定める」のです。「悟りの階梯(藤本 晃 著) 」<br /> <br /> この説明を読み直した時、先日 の「心が息に寄り添う、グラウンディングされた瞑想」で「卵状の漆黒の空間」が見えている状態がこれに該当することに気が付きました。なるほど、これが無色界の禅定なわけですね・・・。私の場合、「定めた」わけではなくてありのまま見たらそう認識できた、と言うお話ではありますけど。<br /> <br /> この時の感覚で言いますと、まだ「卵状の漆黒の空間」という感じで認識されておりますので、いわゆる「境目」が存在しています。<br /> <br /> 同書によりますと、この次は以下のようなもののようです。<br /> <br /> 無色界第二の禅定は、識無辺処定(しきむへんしょじょう)という名前です。その領域は、識無辺処です。先の空無辺処定の虚空とは「物質がない」ということなのですが、その虚空でも、まだ心の外側に意識されているものです。(中略)今度は「識は無辺である」と認識するのです。「悟りの階梯(藤本 晃 著) 」<br /> <br /> これはヒントになります。私が認識したのは「卵状の漆黒の空間」ですから、それはいわば「境目がまだある」ということです。今後、境目のない状態になる、ということでしょうか。 まあ、あまり先を見ても仕方がない気もしますが。 淡々とやるだけです。<br /> <br /> ■考察<br /> 私の感覚的にも、無色界の瞑想はちょっと違う感じがします。 認識される範囲が心とアートマンっぽい空間がメインになります。 先日は「心臓の鼓動に寄り添う瞑想」から始まって「息に寄り添う瞑想」からこの状態に遷移しましたので、これってもしかしたら、ハートチャクラの中に意識が没入した時の瞑想状態のような気もしますが、どうでしょう・・・。周辺が卵状の漆黒の空間として認識されてその周囲にオーラとナーダ音が認識されるということは、自分の意識が頭ではなくハートの中に移動というか没入したと仮定すると説明がつきます。<br /> <br /> スピリチュアルな人の中には、ハートチャクラの中に「聖なる空間」があると言っている人たちもいます。聖なる空間は最初の部屋と、さらに小さい部屋の二段階と言っている方もいらっしゃいますので、小さい部屋に入ると周辺の漆黒の空間の境目がなくなって認識されるのかもしれません。<br /> <br /> これらを踏まえると、色界第四禅定と無色界の禅定との違いがなんとなく見えてきた気がいたします。結論を出すのはまだまだこれからですけど。 確かに、色界第四禅定から悟る、と言うのもわからなくはありません。無色界禅定は悟りとはちょっと違う感じが致しますが、違うと言うよりも、目的が違うのかもしれません。いわゆる色界第四禅定から悟った場合は現世を悩みなく生きることができるようになる一方で、無色界の先にこそ広い世界が広がっている気がしますが、どうでしょうか。 無色界の先に謎が色々とありそうです。<br /> <br /> 無色界は悟りがなくても行けるようですが、悟りがヴィパッサナーの力だとして、無色界はいわゆる心だけの世界だとしたら無色界はアストラルやメンタルの世界であり、悟りのヴィパッサナーなしの無色界=アストラルやメンタルの世界は危険な気も致しますが、どうでしょうか。観察(ヴィパッサナー)ができなくて制御もきかない状態でアストラルやメンタルの世界に突入したらかなり酷いことになりそうです。<br /> <br /> 一般的に悟りとか言われてますけど、要は観察力(ヴィパッサナー)のことかな、とも思ったりすることもありますが、若干意味が異なるので、またおいおい違いを観察していきます。<br /> <br /> まあ、いろいろ仮説も含みますが、今後、このあたりも様子を見ていきます。<br /> <br /> <br /> <br /> Sat, 14 Sep 2019 00:00:00 +0900 グラウンディングされた瞑想 https://w-jp.net/2019/1657/ <br /> 先日 の「心が息に寄り添う瞑想」の続きです。<br /> <br /> グラウンディング力が高まって以降、瞑想も変化しました。<br /> それはいわば先日の記事で言うところの「手放す」と言うことではあるのですが、以下のような違いがあります。<br /> <br /> <br /> ・以前は、平穏な瞑想を行って”意識”が平らになると、心がすることがなくなって”何もしなくて本当に良いのだろうか?”と言わんばかりに動揺するかのような挙動が時々あった。<br /> ・今は、平穏な瞑想を行って”意識”が平らになった時、心が落ち着いている。心が”何もしなくて良いのだ”と安心しきっています。<br /> <br /> <br /> ここで言う”心”とは、何かを認識するための”光の筋”であり、いわば”(光の)触覚”のようなものです。<br /> <br /> 以前は、瞑想で意識が平らになって、いわば”水面が平らな状態”になったとしても、心がありのままに落ち着くことができず、少し落ち着きがない状態でした。そうは言いましても、瞑想を続ける以前からしたら随分と落ち着いてはいるのですが、どこか、心の奥底で本当にこんなに落ち着いてしまって良いのか、という心の抵抗のようなものを感じていました。<br /> <br /> 今は、”心が安らいでいていいのだ”という安心感に満ちていて、一段階深い平穏さの状態になったように思います。<br /> <br /> これは、いわば「何も起こらない瞑想」と言い換えても良いと思います。特別な刺激もなく、想像に楽しむわけでもなく、ただただ平穏で、何も起こらない瞑想。そういう瞑想に変わってきました。<br /> <br /> 先日書きましたように、意識が心臓や呼吸などに寄り添い続けている瞑想はほんの入り口だったように思います。一旦それらに寄り添って落ち着いた状態になったらそこにしがみ付いている力を「手放して」、そのまま「ぷかぷかと」瞑想を楽しんでいます。以前はきっと、手を離したら雑念に飲み込まれてどこかへ流されていってしまったのかもしれませんが、今は、手を離しても心臓や呼吸のすぐそこに留まっていることができます。それ故に、手を離しても大丈夫なのです。<br /> <br /> ムーラダーラとかグラウンディングって今までちょっと軽視していたかもしれませんが、今は見識を改めました。これは瞑想にはかなり重要ですね。<br /> <br /> 今、平穏な状態で瞑想が続き、その時、いわゆる心である”光の筋”はほとんど揺れ動かずに、一箇所に留まっているのを感じます。意識は、思考を映し出す”鏡”あるいは”湖”にも例えられます。その鏡あるいは湖が瞑想中も若干揺れ動いてはいるのですが、その静寂のレベルが若干(といっても、それはそれなりの違い)変わったということです。<br /> <br /> それにしても、この光の筋は、なんて言ったらわかりやすいですかね? 違う名前で言った方がいい気もしてきました。光の筋というより、普通に”オーラ”と言った方がいいかもしれませんけど、体の周囲にゆらゆら動いているオーラのことではなくて意識的に動かせるオーラですので、ちょっと違うイメージを与えてしまうと何ですが。<br /> <br /> ヨーガスートラのサンキャ哲学的には以下の用語ですね。以前 少しまとめたことがあります。<br /> <br /> チッタ(Citta, 心)に現れる「想いの波」はヴリッティ(ス)(Vrttis)と言う。語源は「渦巻き」。<br /> 例えるなら、湖がチッタ(Citta, 心)、波がヴリッティ(ス)(Vrttis)。<br /> <br /> 心(チッタ,Citta)の構成要素<br /> ・ブッディ(Buddhi, 覚)<br /> ・アハンカーラ(エゴイズム, 我慢)<br /> ・マナス(Manas, 意)<br /> <br /> これらの内容は謎が多くてはっきりとは理解できませんが、わかっている範囲で当てはめると以下のようになります。<br /> <br /> 湖であるところのチッタ(Citta, 心)に波であるところのヴリッティ(Vrttis)がほとんどない瞑想を行っています。<br /> 心(チッタ,Citta)自体の動きはほとんどなくなっているのですが、グラウンディング力が高まる前はマナス(Manas, 意)が若干、落ち着きがない状態でした。高まった後はそれも落ち着きました。<br /> <br /> こんな感じでしょうか? 落ち着きがないのがマナス(Manas, 意)なのかアハンカーラ(エゴイズム, 我慢)なのかブッディ(Buddhi, 覚)なのかは微妙なところですが、アハンカーラ(エゴイズム, 我慢)は本来存在しなくて反作用であると言われていますので残るはマナス(Manas, 意)とブッディ(Buddhi, 覚)ですが、ブッディ(Buddhi, 覚)は対象物の印象が届いた後に働くものですので、ここでは根本の働きであるマナス(Manas, 意)が落ち着きがないのかなと推測しました。<br /> <br /> <br /> Fri, 13 Sep 2019 00:00:00 +0900 エネルギーのサハスララへの上げ方・ルート https://w-jp.net/2019/1656/ <br /> インドのアイアンカー家の瞑想法を解説した「瞑想ヨガ 魂のやすらぎ(ワスデーヴァ・ナイア・アイアンカー 著)」には、エネルギーの上げ方を以下のように解説しています。<br /> <br /> クンダリーニ・エネルギーや大意識を第8のチャクラ(サハスラーラ・チャクラ)へ上げる時、額部ではなく、額部から水平移動した後頭部を通す。決して間違ってはならない。「瞑想ヨガ 魂のやすらぎ(ワスデーヴァ・ナイア・アイアンカー 著)」<br /> <br /> アイアンカー家では第7のチャクラ(アジーナ・チャクラ)を「眉間の少し上の額部(第3の目)から後頭部にかけての一帯」としています。この辺り、流派によって細かなところが異なるのが興味深いです。<br /> <br /> 上記の説明は突如として出てきて詳しい説明はなく、図もないのですが、おそらくはスピリチュアル系のフラワー・オブ・ライフと同様のことを言っている気が致します。<br /> <br /> これは以前「フラワー・オブ・ライフ 第2巻(ドランヴァロ・メルキゼデク著)」から引用した図です。<br /> <br /> 呼び方は違いますが、概ね似たようなことを言っている気が致します。ヨガとスピリチュアル系で割と似たことを言っているところも興味深いです。<br /> <br /> 同書には以下のように書かれてあります。<br /> <br /> 4番目から7番目までのチャクラを経験し、それらを充分使いこなせるようになった後、ついにもう1つの壁に到達します。(中略)ここを抜ける道がわかれば、本当にこの3次元世界を超えて次なる世界に行けるのです。(中略)それは行くべき「どこか」というより、実際にはむしろある存在状態と言えるものです。「フラワー・オブ・ライフ 第2巻(ドランヴァロ・メルキゼデク著)」<br /> <br /> 更に、同書によれば過去に違った方法を用いた存在もいたようです。<br /> <br /> まず松果体に達し、それから脳下垂体へ向けて意識を放ち、それをそのまま頭の前の空間にあるチャクラに送ります。一旦このチャクラに入ると、90度方向転換して真上に向かいました。これによって別の世界に行くことができたのです。「フラワー・オブ・ライフ 第2巻(ドランヴァロ・メルキゼデク著)」<br /> <br /> しかし、同書ではこのやり方は難易度が高いと紹介されており、上に引用した、額から後頭部を経由して登頂に向かう方法を推奨しています。<br /> <br /> どうやら、ヨガの多くの流派や各書のアジナ・チャクラ覚醒方法は概ねこの後者の難易度が高い方法を用いているような気がしてきました。同書では、額からそのまま90度方向転換して登頂のサハスララに送る方法は難易度が高く、額から後頭部を経由してサハスララを経由して45度づつ方向転換させる方が簡単だ、と解説していますが、なるほどなと思いました。<br /> <br /> Thu, 12 Sep 2019 00:00:00 +0900 息を頼りにアートマンに近づく https://w-jp.net/2019/1655/ <br /> 先日 の、心が息に寄り添う瞑想の続きです。<br /> <br /> ■2つの寄り添う瞑想での「手放し」<br /> 先日、以下の2つを行いました。<br /> <br /> ・心臓の鼓動に寄り添う瞑想<br /> ・息に寄り添う瞑想<br /> <br /> 最初は「心臓の鼓動に寄り添う瞑想」を行いましたが、心臓の鼓動はムーラダーラ活性化の直後は激しく鼓動していましたが時間が経つにつれて鼓動が弱くなっていきましたので、試しに「息に寄り添う瞑想」をしてみたら感覚が同じでしたので息に切り替えました。鼓動が弱くなってゆくのはクンダリーニの初回の時もアナハタ優勢になた時も同様でしたので予想がつきました。ですので、息で大丈夫ならば息で良いと判断して切り替えました。<br /> <br /> この時、「心」を「手綱」にして心臓の鼓動あるいは息に自分の意識を繋ぎ止めました。海に浮かんでいるボートから伸びているロープを掴んで安定させるようなイメージです。<br /> <br /> そうして意識が安定してきたら、試しにその手綱の手を少しづつ緩めてみました。すると、その手綱に力を入れなくても「心」が安定することに気がつきました。これは、以前はこのようにはなりませんでした。以前は例えば何かに集中するですとか、ナーダ音をずっと聞いているですとか、手綱のようなもので何がしかに繋ぎ止めておかないと心が安定しなかったのですが、今回、手綱を緩めても、「わたし」という存在は心臓の鼓動あるいは息のすぐそこに留まって安定していました。<br /> <br /> ここでいわゆる「手放し」が行われたわけです。<br /> <br /> 一般的には「手放し」の意味はどこかへ捨てたり知らない彼方へ彷徨わせることのようなイメージがあると思いますが、ここでの「手放し」とは、心が揺れ動かないのでもはや手綱は必要なく、手綱を手放しても心はその場に落ち着く、という種類のものです。<br /> <br /> ■卵状の漆黒の空間の出現<br /> そして、手放してみたら先の記事のように三つの要素が現れました。<br /> <br /> ・肉体としての自分<br /> ・卵状の漆黒の空間(肉体の自分の周囲に存在)<br /> ・卵状の漆黒の空間の外側に広がる現象の世界。例えばナーダ音は外側でのみ響いている。<br /> <br /> ■摑もうとして「力を入れると」、握り潰してしまう<br /> なかなか微妙なところではありますが、やはり瞑想の最初は「集中」であるわけですけれども、その集中の行き着く先はこうして「手綱」なのかなと理解致しました。<br /> <br /> 禅の十牛図ともイメージが似ていますけれども、最初はそうして心を手綱で引き止めて、暴れる心(十牛図では牛に相当)を落ち着ける必要あるのでしょう。<br /> <br /> そうして、心が落ち着いたら、「力を抜いて」「手放す」ことをする。すると、見えてくるものがある。<br /> <br /> そういえば、一部の十牛図の解説書に、どの書籍か探すことができませんが、「確固たる意志で真我(アートマン)を繋ぎ止める」というようなことが書いてありました。その説明では、「真我(アートマン)は彷徨っているので、確固たる意志で繋ぎ止める必要がある」というように書いてあったかと思います。まあ、実際はそれはきっと正しいのでしょうけれども、自分の「感覚」からすると最初は真我(アートマン)が彷徨っているかどうかなんて分かりませんので、「真我(アートマン)を探す」とか「真我(アートマン)を繋ぎ止める」というような内容が書いてあっても、当時は「何のこっちゃ」という感じでした。書籍に書いてあった要点は以下ですね。<br /> <br /> ・アートマンは彷徨っている。<br /> ・”私”が彷徨っているアートマンを見出す。探し出す。<br /> ・”私”が彷徨っているアートマンを繋ぎ止める。彷徨っているアートマンを掴む。<br /> <br /> 私の今日の瞑想の感覚で言いますとその逆です。<br /> <br /> 手綱を「手放した」ときにアートマンといいますか卵状の漆黒の空間が現れて安定したような気がいたします。力を入れてアートマンを掴む、みたいなお話はよくわかりません。流派にもよるのでしょうか。それとも、私が勘違いしているだけで別物のお話かもしれません。禅の十牛図では「真我(アートマン)を確固たる意思で捕まえる」みたいな説明があって、あたかも真我(アートマン)が動いているような説明になっていますけど、私の今回の感覚では逆でした。真我(アートマン)は動かなくて、自分が真我(アートマン)に捕まる、という感じでした。その後、手を離しても安定している、という感じです。まとめますとポイントは以下ですね。<br /> <br /> ・アートマンは彷徨っている。 → もしかしたら実際にはその通りなのかもしれないですが、今回、アートマンは肉体の私の周囲に常に存在しているように感じた。常に存在しているが普段はその存在に気付いていないだけのように感じた。ヴェーダではアートマンこそが本当の”私”だが、その存在に普段は気付いていない。<br /> ・”私”が彷徨っているアートマンを見出す。探し出す。 → ヴェーダ的な”私”は別の意味(アートマンのこと)になってしまうので、十牛図的な”私”は”心”や”意識”のことであると解釈。いわゆる”私”であるところの”心”や”意識”がアートマンを見出す、と読み替える。(アートマンは実際には彷徨っているのかもしれないですが)私の感覚では自分と常に共に存在しているように感じられましたので、そうであればどこかを探す必要はなくて、普段から自分と共にあるアートマンを自分自身の中に見出す。<br /> ・”私”が彷徨っているアートマンを繋ぎ止める。彷徨っているアートマンを掴む。 → 逆。アートマンは動かずにどっしりと存在している(と今回感じられた)。十牛図的な解釈ではアートマンが何か付随物のような印象を受けてしまうが、アートマンが盤石な巨石というイメージ。ですから、十牛図的な”私”であるところの”心”や”意識”がアートマンを繋ぎ止めるのではない。逆に、盤石な巨石のアートマンに彷徨っている”心”や”意識”を繋ぎ止める。実際はアートマンそのものではなく、アートマンに近いところの”心臓の鼓動”や”息”に繋ぎ止める。<br /> <br /> ■息とアートマン<br /> ”息”はアートマンそのものではないですがアートマンに近いものであると一部の流派では理解されていて、息の観察こそが高い意識への道であるという流派もあります。例えばクリヤ・ヨガなどですね。<br /> <br /> そこで言う「息の観察」こそが高い意識へと導くと言う教えは、今までは「そうなのかな???」と半信半疑でしたけれども、今回、息を繋ぎ止める瞑想をしてアートマン(違うかもしれませんが)のような卵状の漆黒の空間を見出したことにより、「息」はかなり奥深いのだな・・・ と思わされました。<br /> <br /> クリヤ・ヨガの書籍には例えば以下のように記載されています。<br /> <br /> <br /> 「Kriya yoga Darshan(Swami Shankarananda Giri著)」より<br /> <br /> この図の意味としては、コーザル体においては「父なる神 → プラーナ/神の子 → 息」という順番で顕在化する。コーザル体の「息」からアストラル体の「チッタ(いわゆる心)」が作られる。 という意味だと思います。<br /> <br /> クリヤ・ヨガは以前少し勉強してその後放置していましたが、このあたりをもう少し突き詰めると面白いのかもしれません。<br /> <br /> <br /> <br /> <br /> Wed, 11 Sep 2019 00:00:00 +0900 心が息に寄り添う瞑想 https://w-jp.net/2019/1654/ <br /> 先日 の続きです。心が心臓の音に寄り添う瞑想と同様に、心が息に寄り添う瞑想も可能になりました。<br /> <br /> 息と一体になるとまではいきませんが、以前は息を観察するにしても、少し離れたところから心(の光の筋)を伸ばして息を観察していたような感じでしたが、今は、心が息に寄り添う感じです。<br /> <br /> おそらくは寄り添う対象は何でもいけるのではないかな、とは思いますが、今のところ自分の体より外側のものに寄り添うのはちょっと難しいというか心的ダメージが大きそうですのでやらない方が良さそうな感じです。<br /> <br /> ■息に意識を集中することで雑念が少ない状態になる<br /> 先日書きましたように雑念が半透明な感じで感じられるようになりましたので雑念が瞑想の邪魔をすることも少なくなってきているのですが、心を息に寄り添わせると、雑念がほとんど出ない状態になりました。<br /> <br /> ・・・ふと、昔のことを思い出しました。<br /> <br /> 私がヨーガを始めたばかりの頃、ヨーガの先生が「心の実験をしましょう」とか言って、「息を観察しましょう。観察している間は雑念が出ませんよね。周りの音を聞いてみましょう。電車の音などに集中している間は雑念がないです」とか「息を止めましょう。止めている間は雑念がなくなります」とか言っていましたけど、私にはどちらも腑に落ちなかったのです。「息を観察していても雑念は出るし、音を聞いている間も雑念は出るし、息を止めていても雑念は出る。確かに、一瞬はなくなりますけど」と心で思いつつもスルーしていたのですが、これ、「ヨーガをある程度修行すると、そうなる」というお話であって、初心者が実験しても「何のこっちゃ?」というお話なのだな、と今は思います。<br /> <br /> 息を止めている間ずっと集中が続けば確かに雑念はほとんどなくなりますが、息を止めた状態で集中を途切れさせたら雑念が出てきます。その時の先生は「息と心は相互関係があり、息を止めれば心も止まります」とか言っていましたけど、全く納得できませんでした。関係はありますけれども、息と心は基本的には別物だと思います。ただ単に、心を息に繋ぎ止めておけば雑念が減る、というだけのお話であればわかりますけど、「息を止めれば心(の雑念)が止まる」というお話は、もしかしたらヨーガのグルが目標地点がそこだというお話をして弟子が一般的にそうだと勘違いをしたような気もするのですが、どうでしょうか。<br /> <br /> 今回、息に意識を寄り添わせることで雑念が少ない状態になったわけですが、この状態を指して「息に意識を寄り添わせつつ呼吸をすると息を止めた時に心の動きも止まる」ということであれば納得ですが、何もしていない初心者が息を止めても息を止めたら集中が途切れて雑念が出てくるだけなのかなと思います。<br /> <br /> 同様に、周囲の音に集中しても集中している間は雑念が出ないものの初心者は集中が続かなくて雑念が出てくることでしょう。当時の私は「電車の音を聞いていても雑念は出るのだけれども、一体どういうこと?」と思っていました。ヨーガの先生のお話は初心者向けに実験するようなことでもなくて、やがて集中力が高まれば例えば周囲の音に集中を続けることで心を固定して雑念が介入しなくなる、というお話だと思います。<br /> <br /> その実験の効果が、今回の変化でよく感じられました。特にアナハタ優勢になって以降は割と同様の感じで息や集中と心の関係が理解できるようになってきましたが、今回の変化で、それが更にきめ細やかにしっかりと感じられるようになったように思います。<br /> <br /> これ、日本のヨーガの先生だけでなくインドのリシケシのヨーガの先生も似たようなことを言っていましたので、おそらくは有名な先生あるいは書物がそういうことを言っているのだと思いますが、かなりミスリードな気が致します。ヨーガを練習すればそうなる、というお話をあたかも初心者もそうであるかのように紹介したらヨーガに対する誤解が生じる気が致しますが・・・。少なくとも私も最初は「何かおかしい」と思いましたし。<br /> <br /> こういう違和感を感じた時に、盲目的に受け入れないことは重要ですね。世間一般の盲目的な宗教では「そのまま経典や先生のことを受け入れる」というのが行われているように思いますけど、違和感を感じたら一旦保留して自分の理解が生じるまでは先に進まないのが本来の宗教家の在り方だと思います。宗教というとドグマを押し付けるイメージがありますけど、本来の宗教は科学と同様に一歩一歩自分が理解して成長してゆくものだと思いますので。<br /> <br /> 例えば、私が当時、ヨーガの先生から言われた時に違和感を感じてもそのまま受け入れていたとしたら成長なんてなかったかもしれませんし。よくわからないことは「わからない」として理解を保留することが大切に思います。それが「正しいと思うが、今はわからない」ことなのか、あるいは「何かおかしいと感じるので、わからない」と感じるのかによっても対処方法が違ってくると思います。どちらにせよ、理解を押し付けてくる先生は大した先生でもないので、自分の態度としては「わからない」という態度で良いと思います。<br /> <br /> 人によっては生まれた時からある程度の悟りがあると思いますので、そのような方がそのままグルになったら初心者の気持ちもわからないのかな、とも思います。私の場合、生まれてきた時はともかくとして、幼稚園と小学校で苦労する環境にいてどん底まで一旦落ちましたので色々と理解できます。というか、そのように色々と底辺まで理解することが今回の人生の計画でしたので、計画通りうまく行った感じです。一旦、どん底まで落ちてみないとそのような人の気持ちはわからないのだと理解できました。ですから、最初からある程度悟っているグルがこのような勘違い・無理解に基づいた指導をしてしまうのも無理はないのかな・・・ とも思います。<br /> <br /> ネタ元がどこなのかは想像ですけど、ネタを聞いたグルが「その通り」と思って拡散することはあり得ると思いますので、まあ、当たらずとも遠からずなのかなと思います。<br /> <br /> ■心という手綱を手放す<br /> 心が息に寄り添う瞑想をしている時、いわば息を拠り所にして瞑想をしているわけです。この時は心が安定しているので一見すると心を拠り所にして瞑想をしているような感じにもなってきますが、よく見ると、心が息を捕まえている感じなのです。心の方は割と動きやすいのです。例えるなら「心が手綱」のような感じです。その手綱が、息というものを捉えて離さないことにより心が安定しているのです。<br /> <br /> 一旦、手綱である心を使って心を息の近くに寄り添わせることで安定した瞑想ができるわけです。心は光の筋のようなものなので、手綱に例えてもそれっぽい感じです。<br /> <br /> 心が息に寄り添っている時、「自分」から見えているのは「心(手綱)」と「息」だけで、「自分」自身は見えていません。<br /> <br /> この状態で、「心」という手綱を「手放す」ことをしても、既に心が息の近くに留まることができて心は安定していますので、心は揺れ動かずに息の近くにい続けることができます。「心」を息に繋ぎ止める努力をやめて「手放す」ことで、非常に安定した瞑想の状態に入ることができました。<br /> <br /> ■漆黒の空間と「自分」とナーダ音<br /> 一方で、「別の視点」から瞑想状態を眺めると、自分の体全体が卵状の「漆黒の空間」に包まれているのを感じます。そして、その漆黒の空間の真ん中に「自分」がぽっかりと浮かんでいます。先日 のネバーエンディングストーリーの例えのように、世界が無になっても自分が何故か存在してぽっかりと浮かんでいる感覚に似ていますけど、今日の場合は卵状の空間だけが漆黒の空間になっているという違いがあります。その、漆黒な空間の真ん中に自分がいます。<br /> <br /> そして、卵状の漆黒な空間の外側にナーダ音が聞こえています。このようにナーダ音が聞こえる空間の区別ができたのはこれが初めてですね。漆黒な空間の中にはナーダ音は響いておらず、漆黒な空間の外にだけナーダ音は存在しています。その、区別がはっきりと感じられます。ナーダ音は漆黒の空間の中に入ってきません。<br /> <br /> ふと、以前 引用した「アナハタ音(ナーダ音)のないところ」の記述を思い出しました。<br /> <br /> (4章101番) アナーハタ音のひびきが聞こえる間は虚空についての想念はまだ存在している。かの音も無いところが至上の梵、至上の我であるとうたわれている。音の形で聞こえるものはシャクティに他ならない。すべての存在の没入する場であり、そしてなんらの形相の無いものこそが至上神(アートマン)である。 「ヨーガ根本教本(佐保田 鶴治著)」<br /> <br /> シャクティとは「力(パワー)」と訳されます。この記述自体は謎めいていて「虚空についての想念」が何なのか読み解くのが難しいですが、以下のように解釈できます。<br /> <br /> ・卵状の漆黒の空間の外にはシャクティ(パワー)が満ちていて、ナーダ音が響いている。<br /> ・卵状の漆黒の空間の中にアートマンはいる、あるいは卵状の漆黒の空間がアートマンそのもの。<br /> <br /> という解釈も一応は成り立つと思いますが、私の場合は卵状の漆黒の空間の真ん中に自分らしきものがぽっかりと浮かんでいる感じがあったりするので、「形相の無いものこそが至上神(アートマン)」というのとはちょっと違うのかもしれませんが。<br /> <br /> ここでインスピレーションが入ってきたのですが「卵状の漆黒の空間の真ん中に自分がぽっかりと浮かんでいるのは、状況を分かりやすくするために以前見た物語の挿絵のイメージを送ったのであって、それは理解のためだけのものであり、本来は形などない。実際に卵状の漆黒の空間を見たときに真ん中に何もなかったと思う。」とのことです。<br /> <br /> これとハタヨガプラピディカの「アートマンには形相の無い」という記述を踏まえると、「卵状の漆黒の空間の中にアートマンがいる」よりも「卵状の漆黒の空間がアートマンそのもの」という解釈を採用して、以下のように考えると良さそうです。<br /> <br /> 「卵状の漆黒の空間の中に浮かんでいるのは瞑想している主体である『肉体』としての『自分』であって、アートマンとしては形などない。肉体を包むようにアートマンが卵状の漆黒の空間として広がっており、アートマンは形相がないからこそ漆黒の空間として認識される。そのアートマンとしての卵状の漆黒の空間の周囲にシャクティ(パワー)が広がっていて、周囲でのみナーダ音が響いている。」<br /> <br /> まあ、これでもいくつか疑問というか細かな不思議な感覚(違和感というほどでもないもの)が残るのですが、その感覚が何なのかも含めておいおい見極めてしてゆきたいと思います。例えば「卵状の漆黒の空間の中にアートマンがいる」というのも正しいように感覚的には思います。ヴェーダ的にはアートマンもブラフマンも実は同じだというのが最終理解ですので、視点が違うだけのお話で両方正しいといえば正しそうではありますが。<br /> <br /> ■卵状の漆黒な空間がアートマンだと判断した理由<br /> そう判断した理由としては上記のヨーガ根本教本の引用文にある、アナーハタ音(ナーダ音)が聞こえないところが至上神(アートマン)だとする記述に基づきます。実際にそんな感じでしたので。<br /> <br /> しかし、直感では必ずしもそうだとは判断できませんので微妙なところです。これはまだ仮説です。<br /> <br /> ヴェーダ的には人間はいわゆる5つの鞘で囲まれているとも言われていますので、今は至上神(アートマン)の外側を見ているのかもしれません。<br /> <br /> <br /> Tue, 10 Sep 2019 00:00:00 +0900 ムーラダーラ活性化による瞑想の変化 https://w-jp.net/2019/1652/ <br /> 先日 ムーラダーラが活性化したことによりグラウンディング力が若干向上し、瞑想が安定するようになりました。<br /> <br /> その状態で、何が変化したのかと思って心で変化した場所を探そうとしても、見つかりませんでした。<br /> 心は、いわゆる光の筋が伸びているわけですが、その光の筋で頭の中を探っても見つからないのです。<br /> <br /> 今までは、「喜び」とか何らかの形で変化が感じられたわけですが、どうも、変化が見つかりません。<br /> <br /> たしかに瞑想はこのような「心」の動きを停止して落ち着くのが基本ではあるのですが、今回のような大きな変化があった際にはその心を止めずに変化を見極めるための道具として用いてきたわけです。ですが、今回は、わざわざ心を意図的に動かして変化を探っても、その変化が見つかりません。<br /> <br /> ・・・すると、ふと、心に対して「もう休んでいいのですよ」というかすかな気持ちが湧き出ました。<br /> <br /> 心で感じられる変化は、もうほとんど残っていないのかもしれません。<br /> <br /> いつも、変化が起こるたびに「感覚」で何が変化したのか見極めようとしていたのですが、見極めるための道具としての「心」は、もしかしたら、もはや機能しなくなってきているのかもしれません。<br /> <br /> であれば・・・、「心」は一休みしてもらうことにしました。そうするのがいい気がしました。<br /> <br /> 「心」には一休みしてもらうことにして、瞑想を続けました。<br /> <br /> <br /> ・・・すると、やがて、ぽっかりと、真っ暗な「無」の中に「わたし」が浮かび上がってきました。<br /> <br /> 無の中にいる「わたし」は一応は人間の形をしているのですが、視点としては第三者として外から見下ろしているような格好です。<br /> <br /> やがて、微かな光を感じました。<br /> <br /> <br /> ・・・ふと、確かネバーエンディングストーリーでしたか、そのラストシーンに似ている気がして、もしかしてここから何かが浮かんでくるのかな・・・ という気もしましたが、ちょっとの光を感じただけでとりあえず今日の瞑想は終了。映画ですと明るいエンティングで雰囲気が違うのですが、書籍版ですと、世界が全てなくなってしまった「暗闇の無」にぽっかりと浮かんだ自分がいて、自分の想像力によって世界が新たに生まれる、というような内容だったように思うのですが。記憶違いですかね・・・。私が記憶しているのはオリジナルじゃなくてパクリ版の方っぽい感じですが、たぶん基本は同一だと思うのですが。<br /> <br /> また様子を見ます。<br /> <br /> <br /> ■心が心臓の音に寄り添う瞑想<br /> 同日の夜の瞑想で、こんな感じになりました。<br /> <br /> もともとアナハタ優勢になって以降は雑念が劇的に減って安らかな瞑想に入れるようになっていたのですが、ここにきて、また一段階、安らぎ・・・ という言葉で表すのは陳腐な気がするくらいの、言葉では「安らぎ」としか言いようがない「平ら」な瞑想になってきています。<br /> <br /> 先日のムーラダーラ活性化によって、アナハタ優勢になった時と同様に血液の脈動が活性化して瞑想中に心臓の鼓動がはっきり聞こえるようになったのですが、その音に心が寄り添って、意識が心臓の鼓動の音を安らかに聞き続けることで雑念がほとんど浮かんでこない瞑想になっています。<br /> <br /> 実際には、もともと昔からずっと聞こえているナーダ音も聞こえてはいるのですが、そのナーダ音と心臓の鼓動とが同じくらいの音量で聞こえています。ですが、ナーダ音は聞き慣れている(苦笑)とでも言いますか、あまりナーダ音のことは意識に入らないようになってきており、たまにこのような心臓の音が聞こえる状態になると心が心臓の音に寄り添うような感じになっています。<br /> <br /> アナハタ優勢の時に聞こえた心臓の音ではこんな感じにならなかったので、きっとムーラダーラ活性化によってグラウンディング力がアップしたのかな、という気が致します。<br /> <br /> 雑念の感じ方も変わってきて、昔は割と心の声というかいわゆる雑念がかなりはっきりと聞こえて瞑想をかき乱していたのですが、今は、心の声が「半透明」とでもいう感じの、「薄い」感じで聞こえてきていて、雑念があったとしても秋の枯葉が舞い落ちるような弱々しい雑念として感じられています。<br /> <br /> ですから、瞑想中の雑念はほとんど心をかき乱さなくなりました。<br /> <br /> 一応、念のために書き添えておきますと、昔の記憶のトラウマが出てきた時は多少なりとも反応しますけどれども、基本はこのように「薄い」「半透明」な雑念がほとんど、ということです。<br /> <br /> これを簡単に「安らぎ」と言ってしまうと、それはそうなのですが、リゾートや湖畔でリラックスするような「安らぎ」とはかなり違う状態になってきている感じです。なんといえばよいのでしょうね。なかなかいい言葉が見つかりませんが。<br /> <br /> ■眩しい感覚<br /> 瞑想から出ている時は平気なのですが、瞑想中だけ目を瞑ると眩しい感覚がして目がしょぼしょぼします。窓から入る光がとても明るく感じられて、目を瞑っているのに鋭い刺激として目に入ってきます。これは昨日ムーラダーラが活性化される前まではこんなことありませんでした。ムーラダーラ活性化によって身体中の感覚が過敏になっている気が致します。<br /> <br /> ■髪の毛の静電気<br /> 頭のてっぺん辺りの髪の毛が静電気を帯びたような感じになってきました。以前はこんなことほとんどなかったように思います。<br /> <br /> Mon, 09 Sep 2019 00:00:00 +0900 光が胸から湧き出てくる感覚とムーラダーラの活性化 https://w-jp.net/2019/1651/ <br /> ■ハイヤーセルフに「見られている」感覚<br /> 早朝の瞑想を終えて食事を済ませた後、ハイヤーセルフに「見られている」感覚が10秒ほど続きました。その感覚がある間は、私の顕在意識とハイヤーセルフの意識がその間だけ一緒になり、ハイヤーセルフの意識が私の中に流れ込んできます。<br /> <br /> これは、度々起こってきたことで、「あ、また来た」と言う感じでした。<br /> <br /> 時間的に短かったのであまり読み取れませんでしたが、そろそろ何かある、と言う感じは受けました。タイミングを見計らっているような感じでした。<br /> <br /> ■光が胸から湧き出てくる感覚<br /> その後、9時頃に瞑想していると胸がまるで、泉の底から透明な水が湧き出てくるような感覚になってきて、何度か波を感じる度に閉じている目の下の方が明るく満たされた感覚がありました。<br /> <br /> 湧き出てくる感覚は、視覚的には「光」ですが、光が出ようとしているのに何かに邪魔されて出てこれなくて、少しづつ出てきている感覚でした。<br /> <br /> ちょっと他に例えが見つからないのですが、吐き気がして吐きそうになる感覚とちょっと似ているのですが、吐き気の場合は悪いものを出すために吐くわけですけれども、今回の場合は、出てこようとしているのは光で、光が中から押し出そうとしていて、途中に何か淀みあるいは蓋のようなものがあって、それが吐く感覚のようなものとして認識されていました。基本的には光ではあるのですが、その光の性質に、何かドロドロとした吐き気のあるものが含まれている感じがしました。<br /> <br /> そうして光が溢れてきて、やがて、意識が朦朧としてきて、横になりたくなったので瞑想の胡座の状態を終えて、リクライニングチェアに横たわりました。<br /> <br /> ■ムーラダーラの活性化<br /> リクライニングチェアに横たわったら、更に意識が朦朧としてきて、半覚醒の状態で軽い眠りの状態になりました。体全体が朦朧としたオーラに包まれて、意識がはっきりとしません。そのまま横になって様子を見ていましたが、やがて眠ってしまいました。<br /> <br /> しばらくして、約1時間くらい経ったでしょうか。外に台風の強い雨が降り始めたことにより音に気が付いて起きました。その時、意識が回復しつつありましたが、夢で、何か本を読んでいました。そこに人名が二つくらい出ていましたが、すぐに忘れてしまいました。<br /> <br /> まだ体が朦朧としたオーラに包まれており、ふと気がつくと、お尻の割れ目の少し右のお肉の部分の血液がドクドクと脈打って、そのお尻の脈打ちの鼓動の音がはっきりと聞こえてくるくらいでした。気が付いた時には既に右側が脈打っており、少しした後、左側もちょっとだけ波打って、最後に会陰に電気ショックのようなものが走りました。この時の会陰の感覚は、ピリッときたというか静電気でビリビリくる感覚。片側(上だったか下だったか)から始まって会陰全体が静電気を帯びた後、全体均一に静電気が消えてゆきました。<br /> <br /> この時、お尻だけでなく背骨全体、特に腰とうなじ付近が血液の鼓動でドクドクと脈打っていて、いわゆるスシュムナに沿って活性化していることを感じました。<br /> <br /> やがて、体全体を包んでいた朦朧としたオーラが抜けてきて、意識が戻ってきました。血液の脈動も治ってゆきました。<br /> <br /> この血液の感覚は何度かあって、最初のクンダリーニ活性化の時は腰の後ろの少し下寄りのところの血液が脈打って、次にアナハタ優勢になる時にうなじ下のあたりが同様に血液が脈打ちましたので、感覚的に同じような感じでした。ただ、私が寝ていて気付かなかっただけなのかもしれませんけど、時間的にはそれら過去の2回に比べると短かったような感じです。<br /> <br /> おそらくはこれはムーラダーラなのかな、と判断しました。今回は直感でそう言われたわけではありませんが、場所的にそういうことかなと判断しております。既にムーラダーラは活性化されていたと思っていましたが、どうやらそうでもなかったようです。<br /> <br /> どうやら私の場合、最初のクンダリーニ活性化でスワディスタナが活性化し、やがてマニプラが活性化し、次にアナハタ優勢になったようです。<br /> <br /> クンダリーニってムーラダーラに眠っていると世間では言われているのでムーラダーラが活性化したのかと思っておりましたが、どうもそうでもなかったようです。一説によりますと、以前にブラフマ・グランティについて考察しましたように、古代においてはクンダリーニはスワディスタナに眠っていた、という記述もありますし、クンダリーニが背骨の一番下の尾骨あたりに眠っているとするとそれは今のスワディスタナに眠っている、というのが解釈として一番しっくりきます。であれば、最初のクンダリーニでスワディスタナが活性化したと解釈するのが良さそうです。<br /> <br /> ですので、私の場合はスワディスタナ→マニプラ→アナハタとヴィシュッダ(少し)→ムーラダーラ、という順番で活性化してきているのかもしれません。<br /> <br /> そう言えば、先日の「癒しフェア」のカウンセリング でチャクラを見てもらいましたところ、ムーラダーラとアジナとサハスララがまだ活性化していない、と言われましたので、アジナとサハスララはそうかなと思っておりましたので納得したのですがムーラダーラはどういうことでしょう??? と思っていましたが、今回のことでそれが腑に落ちました。<br /> <br /> 次はアジナかな、と思っておりましたが、その前にムーラダーラが来たのは意外でした。<br /> <br /> ■ムーラダーラは「地」、「におい」<br /> ムーラダーラが活性化した後、匂いに敏感になって、部屋の不快な泥のような感覚が気になるようになりました。本山博はこれに関連した以下のように述べられています。<br /> <br /> 古来からのヨーガ経典によると、ムーラダーラは地の原理に属するといわれています。この地の原理の属性は「におい」です。したがって、ムーラダーラ、地、におい、においの器官である鼻は、たがいに関係しているのです。「密教ヨーガ(本山博著)」<br /> <br /> いやはや、今朝までは部屋の匂いなんて気になりませんでしたのに、今はどうも部屋の匂いが気になってしまいます。もともと部屋にはお香を焚いたりアロマオイルを匂わせたりはしていたのですがずっとしているわけでもありませんので、これから消費量が増えそうです。<br /> <br /> まあ、気になるのは今だけで、そのうち慣れるのかもしれませんけど。<br /> 変な匂いに今まで以上に敏感になってしまい、自分の部屋の匂いでちょっと気分が悪くなりかけています。これはまずいです。アロマでも焚きます。とりあえずルームスプレーでなんとかしますかね。<br /> <br /> 今までもいい匂いが好きではありましたけど、生理的にここまで変わってしまうとは思いませんでした。<br /> <br /> ■味<br /> 匂いだけでなく、何か味のようなものも感じます。あまりいい味ではないです。粘土か泥、それもちょっと腐っているヘドロを舐めたか嗅いだような感覚です。それほどきつくはなくて軽く臭って味覚を感じるだけなのが救いです。これって、都会の臭気を感じているということなのか、あるいは、部屋の問題か、あるいは、立地の問題でしょうか。確かに幹線道路から数百メートルの場所ですし都会の中ですし、1階は特に夏はちょっとジメジメしていて臭気がする時もありますけど私の住んでいるのは3階なので今までそれほど気にはならなかったのですが、今回のことで感覚が鋭くなってきたのかもしれません。場所を変えて感覚を観察しつつ、何が問題なのかぼちぼち探っていくつもりです。<br /> <br /> ■足の感覚が鋭くなった<br /> 意識が回復した後にリクライニングチェアから立ち上がって歩いてみると、気持ち、足の感覚が鋭くなっているような感じを受けました。気のせいかもしれませんけど、ちょっとした違いがあります。瞑想とかで足を組むと足の皮膚とか爪とかが敏感になって感じられて、ちょっと気になる感じです。慣れの問題ですぐに問題なくなると良いのですが。普段の生活で以前は足はほぼ無意識で動かしていたのですが、細かな感覚がより感じられるようになりました。ちょっと動くだけでも足の細かな動きの感覚がわかります。<br /> <br /> 他の人はもともとこんな感じで、私が感じていなかっただけなのでしょうかね・・・??? 肉体労働者とかはムーラダーラがすごく活性化しているような気もします。<br /> <br /> ■手の感覚<br /> 足だけでなく、手の感覚も少し敏感になったような気もします。手の方は足ほどの違いはありませんけど、基本的な感覚で何かちょっと変化したような気がします。体全体の気付きの力の上昇とでも言うのでしょうか。<br /> <br /> ■頭の感覚<br /> 頭の中の感覚を見ると、いわゆるオーラが揺れずに安定するようになったような気が致します。今までは、思考というかオーラが揺れると逆方向に振り子のように戻るのが割と普通でしたが、オーラが揺れるというか少し動いたら、逆方向に振り子のように戻らずにそのままの場所で活動停止というかオーラが定着する、というような違いがあります。オーラがブワッと薄く発散していたものがヨーガをするにつれて少しづつ粘りっけというかしっかりしたものに変わりつつあって、今回のムーラダーラ活性化によって更に(オーラの?)定着力が上昇したような気が致します。このことをグラウンディングというのであればネーミングセンス的に「なるほどね」という感じも致します。すごく良い名前で、実態を表しています。<br /> <br /> オーラが揺れ動かないので、思考も揺れにくくなってきました。これもいわゆるグラウンディング効果の一つですね。これによって、瞑想も更に安定するようになりました。<br /> <br /> ■ムーラダーラとアジナは直結している<br /> 本山博先生がスワミ・サッチャナンダの言説を「密教ヨーガ(本山博著)」で引用されているのですが、そこには以下のようにあります。<br /> <br /> アジナチャクラは、ムーラダーラチャクラと直結していて、一方で生じたどんな変化も、必ず他方に生ずるといわれます。「密教ヨーガ(本山博著)」<br /> <br /> ムーラダーラはアジナと直結しているのは、きっとそうかな、という感じがします。というのは、ムーラダーラの今回の経験の後、後頭部のあたりの感覚がよりはっきりしてきたからです。だからと言ってすぐにアジナで何かがあるわけでもありませんけど、まあ、一つづつ越えていけばいいのかなという感じです。<br /> <br /> ■胸から出てきた光に淀んだものが含まれていのは、きっとムーラダーラだから<br /> ハートからの光と淀んだ泥は別物として認識されていましたけど、出てくるところはハートあたりで一緒でした。泥はムーラダーラに関係していると感覚的にそう思いましたけれども、出てきたところはハート(アナハタ)でした。不思議です。<br /> <br /> 時系列から言ってもこの胸からの光と淀んだ泥が出てきたのとその後のお尻あたりの血液の脈動とが数時間以内に続けて起こったことですので、関係があると推測できます。まず最初に光と淀んだ泥が出てきて、その後、お尻あたりの血液の脈動が起きました。<br /> <br /> 現象的には胸のハートのアナハタチャクラとムーラダーラのことは一見別物ですけれども、アナハタは全てのチャクラを司る、いわゆる「統合されたチャクラ」として全てのチャクラを飲み込むと一部では言われていますので、今日の主な活性化ポイントがムーラダーラだとしてもそれに反応してアナハタがそんな感じで呼応するのは、あり得るのかなと思っております。まあ、なんとなく、のお話ですけどね。仮説です。あるいは、頭からみてハートとムーラダーラが重なって知覚された、という可能性もありますけど。あるいは、ムーラダーラからハートに登って知覚された、とか。<br /> <br /> ■ムーラダーラとカルマ<br /> ムーラダーラには過去全ての人生のカルマが眠っていると言います。本山博先生は以下のように言います。<br /> <br /> ムーラダーラの内に眠っているクンダリニー、すなわち個人のなかのムーラプラクリティ(自然の根源力)がヨーガの行によって目覚めると、ちょうど地震によって、地下から多くのものが地表にあらわれでてくるように、人間存在の無意識の領域から、それについては人間意識は何も知らない無数のものが爆発的にどっと現われでてきます。その中には、ムーラダーラの無意識の海の中に、種子の状態で貯えられている何生もの前世のカルマ(因縁)も含まれています。これらの前世のカルマを、私たちはふつうコントロールすることができません。それで、このカルマのコントロールが可能となるアジナチャクラを、まず目覚めさせることが肝要になるわけです。「密教ヨーガ(本山博著)」<br /> <br /> 確かに、私の場合はアジナは動いていないものの少なくともアナハタ優勢になってからムーラダーラが動き出したのでよかったものの、いきなりムーラダーラが動き出したらこれに飲み込まれてしまっても不思議はないような気が致します。<br /> <br /> であれば、下手にヨーガを修行して人生を狂わせる場合があるのもよく理解できます。<br /> <br /> ■硬い感覚<br /> このムーラダーラ活性化の翌日から、急に以下2箇所に「硬い感覚」が現れました。<br /> <br /> ・眉間 → 集中しなくても何かがある感じです。<br /> ・ハート(アナハタ)とおへそ(マニプラ)の中間点 → 時々、筋肉が痙攣します。<br /> <br /> 片方だけなら普通の病気かもしれないと疑うところですが、ムーラダーラの翌日から2箇所同時に変化したので病気ではなくてヨーガ関係の何かのように思います。あまり聞いたことありませんけど。<br /> <br /> 何でしょうね。<br /> <br /> ■時系列<br /> 以前に書いたものに追記しておきます。<br /> <br /> <br /> ・2015年1月 インドのアシュラムで生まれて初めてのヨガ 2週間 合宿。その後しばらくブランク。<br /> ・2016年10月 日本の近所でヨガ再開。1週間ごと1回90分<br /> ・2017年8月 ヨガの頻度を上げ、ほぼ毎日90分<br /> ・2017年10月 雑念が減ってくる。ようやくヨガをしている感じになってくる。ヘッドスタンドが短時間だがようやくできるようになる。<br /> ・2017年11月 ナーダ音が聞こえ始める。ヨガをほぼ毎日し始めてから約3ヶ月後<br /> ・2018年1月 第1回目のクンダリーニ体験。ムーラダーラの電気ショックと眉間の皮膚から数センチ離れた空中(アジナ・チャクラ?)でのエネルギーの爆発。ほんの少しのエネルギー。<br /> ・2018年11月 第2回目のクンダリーニ体験。マニプラ優勢になる。クンダリーニ本体はまだ上がっていない雰囲気。2つの光の筋が上がっただけ。仙骨か尾骨のあたりに熱を帯びて血液が激しく脈打つ。かなりポジティブになる。性欲がかなり解消されて自然な(努力のいらない)ブラフマチャリア(禁欲)の達成(性欲10分の1)。睡眠時間の短縮。声が出しやすくなる。<br /> ・2019年7月 第3回目のクンダリーニ経験。アナハタ優勢になる。(五大要素の)「風(Air)」のエネルギーによる竜巻が腰から頭まで上昇。光の筋はなし。竜巻は頭の周囲で発散(頭上および前後左右に発散)。うなじの下(大椎?)に少しの熱を帯びて血液が脈打つ。ハートがジンジン。第2回目ほどの変化はなし。性欲が更に10分の1 (第2回目クンダリーニ以前と比べると100分の1) <br /> ・2019年9月 ムーラダーラの活性化。 足の気力が少し増加。足の感覚が少し敏感になる。手の感覚も足ほどではないが少し敏感になる。「におい」に敏感になる。「におい」だけで「味」も感じるようになる。淀んだ空気(の匂い?)が苦手になる。いわゆるグラウンディングの力が若干上昇。他人の淀んだオーラによる自分への悪影響が低下し、自立力が高まる。優勢なのは依然としてアナハタ。<br /> <br /> <br /> <br /> Sun, 08 Sep 2019 00:00:00 +0900 瞑想中、心が光の帯として感じられる https://w-jp.net/2019/1649/ <br /> それはまるで、光の帯が「舌」のように頭の中心から伸びている感覚です。<br /> <br /> 瞑想で心を落ち着かせている時は、その光の帯が頭の中心に収まっています。<br /> 一方、心が体の各所を探っている時は、その光の帯が伸びていってその場所を光の帯の先で探るのです。<br /> <br /> まあ、光と言っても、ぼんやりとそんな感じがする、という程度ではありますが。<br /> <br /> 頭の各所を探る時はよくわかります。<br /> 体を探る時は、一筋の線が細く伸びている感じです。先っぽが感覚が強いですね。<br /> <br /> 今まで、体の感覚を探る時は先っぽだけの感覚でしたけど、光の筋が伸びている感覚が最近してきました。<br /> <br /> そういえば、昔も度々そんな気がしたこともあったのですが、最近少しづつその感覚がはっきりしてきた感じです。<br /> <br /> ■ゴーピ・クリシュナの体験<br /> そういえば、似たような体験が書いてある書籍のことを思い出しました。<br /> <br /> 私を当惑させたものは、私の身体組織の機能にたえず働きかける光の触手である。脊髄やその他の神経を伝わって、その触手が心臓とか肝臓とか胃などにのびてゆき、奇妙な仕方でそれらを統制していた。(中略)複雑な神経組織を完全に熟知し、身体のゆがみやねじれがあると、どんなところまでもさっと動いていく触手のみごとさに、幾度となく驚かされた。「クンダリニー(ゴーピ・クリシュナ 著)」<br /> <br /> 私はここまではっきりとした感覚はありませんが、割と似た内容であるように思われます。<br /> <br /> <br /> <br /> Sat, 07 Sep 2019 00:00:00 +0900 耳から聞こえる、炎の柱か雷鳴のような音 https://w-jp.net/2019/1644/ <br /> 耳から聞こえる、炎の柱か雷鳴のような音<br /> <br /> 今朝から、リクライニングチェアでうとうとしていると「ズンッ」と言う「炎の柱に入って炎を全身で受け止めるかのような振動」といいますか、あるいは、雷鳴を体全身で受け止めた音、あるいは、雷鳴が遠くで落ちた音の音程を低くしたような低く鈍い音が耳で聞こえました。ズッサァァァァーーという、ザラザラとした、ゲームの効果音でありそうな音です。今日はいつもより早く4時くらいに起きてしまったので9時くらいになったらちょっと眠気が出てしまっていたのです。<br /> <br /> 実際の雷の音のようにびっくりする大迫力の大音量ではなく、雰囲気が似ている、というくらいです。音としてはズンッって感じですけど、感覚的にはバリバリ、という、何かが割れるような音も重なって聞こえていたかもしれません。ズンッが8割、バリバリ割れる音と感覚が2割くらいでしょうか。<br /> <br /> これは、以前引用した「Meditation and Mantra」あるいは「沈黙の声」に書かれてある7番目の「雷雲の鈍い轟音のように振動」に似ている感じです。<br /> <br /> まず、頭の中にある「気」か何かの「圧力」が高まって、圧力が高まると共に頭の中がキーンと圧迫された感じになり、そうするとおそらく自然現象として圧力が抜け出るところを探すように頭の半分くらいまで圧力が高まり、やがてふと圧力が抜けると同時にズンッッッッという低い鈍い音がする感じなのです。このように意図したわけではなく、自然にこうなりました。イメージもしていません。<br /> <br /> この感じですと、一旦圧力が抜けたらもうこの音は聞こえなくなるのかな? という気もしますが・・・ どうでしょう? そうであれば先日引用した同書の記述通りではあるのですが。<br /> <br /> これは、高周波のナーダ音と違って、ずっと聞こえているという感じではありません。まだ高周波のナーダ音は聞こえ続けています。<br /> <br /> 気付いたのは今朝が初めてなので、まだまだ様子見です。<br /> 30分か1時間くらい散発的に聞こえていて、今は聞こえていません。<br /> <br /> この音はアジナあるいは松果体に関係しているとどこかで読んだ気がしますけど、まだ大きな変化はありません。<br /> <br /> そういえば先日(確か昨晩)に家でヘッドスタンドしていた時に左耳から似たような音が聞こえていましたけど、その時は骨か何かの圧迫音かなぁ と思ってスルーしていました。今までそんな音が聞こえたことはなかったのですが、ヘッドスタンド終わったら音が消えたのであまり気にしていなかったのです。ここしばらくは骨折していてヨガのアサナしていませんでしたし、ヘッドスタンド再開したのもここ1週間くらいなので、久々にやったらちょっと変わってたなあ、くらいでスルーしていました。ですが、今朝、同じ音が再度聞こえたので、ようやく、何だろう、と思うようになったわけです。<br /> <br /> 昨晩と今朝聞こえただけなので、これから様子を見ます。<br /> <br /> <br /> Tue, 03 Sep 2019 00:00:00 +0900 オーラ的に見たサマーディとサムヤマの謎解き https://w-jp.net/2019/1643/ <br /> サマーディの定義は様々ですが、その一つにヨーガスートラ4章1〜3節があります。<br /> <br /> 4章1〜3番)ダーラナーとは、心をある特定の対象に集中することである。その対象の知識の不断の流れが、ディヤーナである。それがすべての形をすてて、意味だけを映すようになったとき、それがサマーディである。「ラージャ・ヨーガ(スワミ・ヴィヴェーカーナンダ 著)」<br /> <br /> このサマーディの定義は、わかるようでいてわからない、謎の多い言葉でした。又、サムヤマも以前に引用したように、ダーラナー(集中)・ディヤーナ(瞑想)・サマーディ(三昧)が同時に起こととされていますが、これまた謎の多い言葉です。<br /> <br /> ですが、最近のオーラ的な見方をサマーディやサムヤマに当てはめてみると意外にスッキリ理解できることに気がつきました。これは私の仮説で、本で読んだものではないのでそのまま信用しないでください。<br /> <br /> まず、プラティヤハーラ(制感)から段階的に行きます。<br /> <br /> ■プラティヤハーラ(制感)<br /> これは感覚を制御して五感を引っ込めること、と説明されています。ヨーガスートラの八支則のうちこのプラティヤハーラ(制感)からいよいよ内面の世界に突入するわけです。<br /> <br /> これをオーラ的に見ると、「オーラを安定させる」となります。オーラが安定せずにブワッと発散した状態ですとはみ出たオーラが他人やそこらに浮かんでいるオーラと接触して色々な情報を無作為に拾ってしまいます。オーラを安定させることで外の情報を無意識に拾わないようにします。<br /> <br /> ■ダーラナ(集中)<br /> オーラ的には、「オーラを一定の形に保つ」ことです。<br /> <br /> ■ディヤーナ(瞑想)<br /> ダーラナ(集中)が長く安定すればそれはディヤーナ(瞑想)になります。それは「オーラを一定の形に、より長く安定して保つ」ことです。瞑想にも色々ありますが、現実の現象や物・人について瞑想する場合は「対象」がありますので、「オーラを伸ばして、対象と接続する。その状態を保つ」というところまで含まれると思います。<br /> <br /> ■サマーディ(三昧)<br /> 上記のヨーガスートラの定義には「すべての形をすてて、意味だけを映すようになったとき、それがサマーディ」とあります。「すべての形をすてて」ということは、オーラ的に言えば「相手という形を持ったオーラと、自分という形を持ったオーラが、接触することによって混ざり合い、形を失う。オーラが混ざり合うことで『意味』が出現し、意味が写し出される。」と解釈できます。であれば、サマーディとはオーラが接触して相手と混ざり合うことだ、と言えます。<br /> <br /> ここでちょっとした疑問が生じます。オーラの接触であれば修行せずとも誰それ構わず普段から生じています。それなのに何故、わざわざサマーディ(三昧)が大事なものとして扱われているのでしょうか? それはおそらく、修行していなければ「それに気付かない」からなのではないかな、という気が致します。一般人がオーラの接触をして雑念が生じてもそれがサマーディで相手の状態だとはわからず、単に雑念として処理してしまうのではないでしょうか。<br /> <br /> ある程度の浄化ができていなければオーラが混ざり合ってもオーラの中身を読み解くことができませんので、前提条件として浄化とか集中ができて初めてサマーディで「意味」が浮き出る、とすればすんなり理解できます。<br /> <br /> ただ、サマーディの定義は他にも色々あって混乱しますので、今のところはサマーディの全てを網羅しようとはしない方が良さそうです。ここでは、ただ、オーラの接触がサマーディと同じ性質を持つ、というくらいの理解でいいのかなと思います。<br /> <br /> ■サムヤマ(サンヤマ、綜制)<br /> サムヤマの定義は上に記載しましたようにダーラナー(集中)・ディヤーナ(瞑想)・サマーディ(三昧)が同時に起こととされています。これをオーラ的に読み解くと以下のようになります。<br /> <br /> まず前提として<br /> ・浄化<br /> ・プラティヤハーラ(制感) オーラを安定させる<br /> <br /> サムヤマは以下の三つが同時に起こること。<br /> ・ダーラナー(集中) オーラを一部に集中させる<br /> ・ディヤーナ(瞑想) オーラを一部伸ばして対象に突き刺すことで対象を「想う」。<br /> ・サマーディ(三昧) 接触したオーラから「意味」を読み取る。<br /> <br /> このように考えますと、それぞれ役目が違うのですから、よく理解できます。元々のヨーガスートラの意味では理解できなかったことが、オーラの理解に基づくと、より深く理解できる気が致します。<br /> <br /> 繰り返しますけど、どこかの本で読んだわけではないので、あくまでも仮説です。<br /> <br /> さて、サムヤマがこのようなものであれば、ヨーガスートラの以下も理解できます。<br /> <br /> 3-5) (サムヤマによって)知識の光がくる。「ラージャ・ヨーガ(スワミ・ヴィヴェーカーナンダ 著)」<br /> <br /> 上記のようなサムヤマであれば、確かに「知識」がやってくることでしょう。<br /> <br /> まず大前提として自分のオーラが浄化されており、安定しており、意思の力でオーラを自由に制御できるようになり、更にはオーラの感覚が敏感になることでオーラの内容を読み取ることができるようになる。その時、「サムヤマ」が可能になるのでしょう。であれば、サムヤマによって「知の光」が来る、と言うのもよく理解できます。<br /> <br /> そして、ヨーガスートラによれば「まず最初は粗大なものから始め、より微細なものへとサムヤマの対象を段階的に進めるべき」と書いてありますが、これも納得です。わかりやすいものからオーラの読み取りを始め、感覚が鋭くなるにつれて微細なものを読み取れるようになるということなのでしょう。<br /> <br /> サムヤマの謎が大分解けてきた感じが致します。仮説ではありますけど。<br /> <br /> <br /> <br /> 関連記事: サムヤマの謎(サンヤマ、綜制)<br /> <br /> <br /> Tue, 03 Sep 2019 00:00:00 +0900 頭で詰まる感じはマニプラで詰まる感じと似ている https://w-jp.net/2019/1626/ <br /> マニプラ優勢だった時はマニプラとアナハタの間に壁があるような感じがしていて、マニプラで詰まって上に行かないような感じでした。<br /> <br /> 今はアナハタ優勢になっているのですが、エネルギーが頭の半分くらいまでは来ているのですが、そこから上には行かなくて、マニプラ優勢だった時と同様に、頭の途中で詰まっているような感じです。<br /> <br /> ■グランティ(結節、結び目)<br /> マニプラとアナハタの間にはヴィシュヌ・グランティ、アジナとサハスララの間にはルドラ・グランティがありますが、それぞれの段階で「詰まる」感覚があるのだと思っております。<br /> <br /> ■一気に抜けてしまう人もいる<br /> グランティは私の場合は一つづつ通過していますが、本を読むと、最初のクンダリーニ覚醒時に一気にこれらのグランティを通過してしまう人もいらっしゃるようです。<br /> <br /> 以前 書きましたようにクンダリーニの覚醒は3種類あるように思われますが、グランティを解放してからクンダリーニが上がる場合と、グランティ解放前にクンダリーニを上げてすぐにはグランティが解放されない場合と、クンダリーニ覚醒と同時にグランティも破壊する場合と、クンダリーニ覚醒後にゆっくりとグランティを超えてゆく場合とがあるように思われます。<br /> <br /> 私の場合はクンダリーニ覚醒時に完全にクンダリーニが動いたというよりは2つの光の筋が通っただけでクンダリーニが完全に動いた感じはありませんでしたので、クンダリーニは少しづつ動き出して、グランティも一つづつ超えている感じです。<br /> <br /> ちなみに、クンダリーニって何か特殊なもののような感じがしていましたが、今はただ単に、エネルギーのルートができて活性化するだけのことな気がしてきています。比喩的に蛇の力とか何とか言われていますけど、人によってエネルギーの質も強さも違うのですからクンダリーニと言っても人それぞれなのは当然なのかなと今は思います。<br /> <br /> <br /> <br /> Tue, 27 Aug 2019 00:00:00 +0900 アナハタ優勢になると万人が悟っているように感じる https://w-jp.net/2019/1625/ <br /> 以前 にも書きましたが、特に2ヶ月前にアナハタ優勢になってからは「実は周囲の多くの人が実は悟っているのでは・・・?」という気になってきました。その時はちょっと控え目な書き方しましたが、実は、(地域によっては)住民のほとんどが悟っているのではないかな・・・ と、日本国内ですらそう思うようになったのです。「あれ? 実は私が悟っていなかっただけで、みんな実は既に悟っていたのかもしれない???」というような気持ちになったのです。今はそれが錯覚のようなものだと気付いてきましたし、感覚も薄れてきたのですが、それでも、今もそのような感覚はあります。<br /> <br /> 「正法眼蔵 参究(門脇 佳吉 著)」には以下のようにあります。<br /> <br /> 人の、さとりをうる、月に水のやどるがごとし。(中略)「人が悟りをうると、月が水に宿るがごとく、本証が万物に宿ることがわかる」という意味になる。「もし人が、三昧に端坐するとき、宇宙万物ことごとく悟りとなる」と同じ事態を指している。この場合、月が水に映るように、本証(悟り)が人・万物に映っているのではない。人も万物も、もともと仏法であるから、本証であったのである。ある人が悟ることによって、人・万物が本証であることが顕になるのである。<br /> <br /> であれば、私の感じた「万人が悟っている気がする」感覚は、ある種の悟りの片鱗を垣間見たのだと思われます。<br /> <br /> 「さとり」には何段階もありますが、ここでの「さとり」はおそらくアナハタ以降のことを言っているのかな、と私個人的には思います。きっともっと深まれば強くこのことを感じて確信に至るのでしょうが、アナハタくらいですと「そんな感じがする」というくらいなのだと思います。<br /> <br /> マニプラ優勢の頃までは、このことを頭で理解していても体感することはあまりありませんでした。マニプラ優勢の頃は「頭で理解して、体感せず」という感じだったのです。<br /> <br /> 一方、アナハタ優勢になってからは「頭で考える以前に、体感で万人が悟っている気がする。でも、頭で考えると、そんな筈はないと思い留まる。」という感じです。頭で考えなかったら素直に「みんな悟ってる!」とすんなり受け入れてしまいそうになりますが、そんな筈はないですから。体感的にはみんな悟っている気がするのですけど、行動を分析したり観察したりすると悟っている訳はないとロジックで理解するわけです。<br /> <br /> もしかしたら、その変な行動すらも含めて「悟り」なのかもしれないですけど。思い悩むことも怒ることも悲しむことも笑うことも喜ぶことも全て含めて「さとり」であるのだとすれば、周囲の人はやっぱり全員既に悟っていて、きっとそれに自分では気づいていないだけなのでしょう。<br /> <br /> <br /> Mon, 26 Aug 2019 00:00:00 +0900 瞑想中に生じるイメージや音は重要ではない https://w-jp.net/2019/1624/ <br /> ヨーガの瞑想では瞑想中に見たり聞いたりするものは重要ではないので無視するように指導されます。<br /> 類似のことが仏教においてもありますが、わかりやすい説明がありましたのでメモしておきたいと思います。<br /> <br /> 瞑想中に生じる明るい光は、サマタ瞑想において、ただ純粋な集中を通して起こり得ます。また、それらはヴィパッサナー瞑想の洞察智によっても起こり得る。理解がたいへん明晰で鋭くなるので、あなたは自己の内側に、非常な輝きを感じるのです。(中略)一部の人は、ブッダの姿や安らぎに満ちた景色といった、それぞれ異なったイメージを見ることもあります。(「自由への旅: マインドフルネス瞑想 実践講義(ウ・ジョーティカ 著)」)<br /> <br /> この2種類の指摘は面白いです。ヨーガでも似たような説明がありますね。同書は次のように続きます。<br /> <br /> 場合によっては、それを解釈しても構いません。しかし、解釈は重要ではない。(中略)こうしたイメージは、ニミッタ(nimitta)と呼ばれます。(「自由への旅: マインドフルネス瞑想 実践講義(ウ・ジョーティカ 著)」)<br /> <br /> 以下は同書で引用している聖典の言葉です。<br /> <br /> 色々なものを見た時、それが何であれ、ただそれらに気づきを入れるか、あるいは注意を払うだけにして、何事も解釈しないようにしてください。というのも、解釈する時、あなたは考えていることになる。考える時、あなたは気づきと集中を失って、マインドフルネスの水準は、下がっていくことになるのです。(「自由への旅: マインドフルネス瞑想 実践講義(ウ・ジョーティカ 著)」)<br /> <br /> これは明確な指摘だと思いました。イメージや音は心が生み出しているものなので現在の心の状態を知る手助けにはなるが、それよりもマインドフルネス(ヴィパッサナー、気付きの瞑想)の状態を保つことが重要とのことです。<br /> <br /> ■クンダリーニ・ヨーガや仙道での光<br /> クンダリーニ・ヨーガの流派によっては瞑想中に見える光の中に飛び込んだりするらしいですけど、私はよくわかりません。<br /> 同様に仙道でも似たような行法があったりするようですが、こちらもわかりません。<br /> <br /> これ、瞑想中に見える光のことではなくて、幽体離脱の時にサハスララあるいは後頭部あたりからいわゆる魂が抜け出る時に見える光というか目印になる「いわゆる」光(のようなもの)、抜け出る方向を示す、方向指示器のような・・・、あるいは、三次元の目から幽体の目に切り替わる(というか両方動いているが幽体の目が優勢になる)タイミングで過渡的に光が見える感じがする、そういう、いわゆる「光」でしたらそういうのもあるのかな、と思うのですが、瞑想中に見える光に飛び込む、というのはどうもコンテキストが違う文脈を一緒くたにしている気がします。普通に瞑想している時に見える光に関しては無視でいいと思います。<br /> <br /> <br /> <br /> <br /> Sun, 25 Aug 2019 00:00:00 +0900 悪口の根絶は不還果=アナハタ優勢の時に起る https://w-jp.net/2019/1622/ <br /> テーラワーダ仏教に基づきますと、悟りの第三段階である不還果(ふげんか)によって悪口(あっく)が根絶されると言います。<br /> <br /> 第三の段階に至ってはじめて、瞑想者は貪りと怒り、そして欲求不満を完全に克服することができます。誤った思考(miccha-sankappo, 邪思惟)、中傷(pisunavaca, 両舌)、ひどくきつい言葉(pharusavaca, 悪口 あっく)が根絶されます。(「自由への旅: マインドフルネス瞑想 実践講義(ウ・ジョーティカ 著)」)<br /> <br /> 第三の段階とは不還だと解釈できます。<br /> <br /> 私の場合、もともと汚い言葉は好きではありませんでしたが社会に何十年と暮らすにつれて言葉が悪くなってきてしまっていましたが、2ヶ月前の風の体験でアナハタ優勢になって以来、汚い言葉を聞くのも話すのも無理になってしまいました。汚い言葉を聞くと調子が悪くなって頭痛がしたりしますし、汚い言葉を話すのは無理な感じになってきております。<br /> <br /> 悟りの第三段階である不還果で悪口が根絶されるということは、私の場合に当てはめると、不還果がアナハタ優勢の状態に対応するのだと思います。<br /> <br /> アナハタ優勢になれば悪口ができなくなる、というのは理にかなっていますし、実際そんな感じです。これは躾とか道徳というものではなくて、感覚的に汚い言葉は無理な感じで、生理的に受け付けなくなってきました。ある意味、とても生き辛くなってしまったのです。<br /> <br /> 他の人がどうかは知りません。私の場合はこんな感じです。<br /> <br /> ■四沙門果とチャクラの対応<br /> あまりこう言う対応付けはしないのかもしれませんが、私の感覚を元に四沙門果をチャクラに対応付けてみますと以下のようになります。<br /> <br /> ・預流果:クンダリーニ覚醒前。チャクラ感覚ほとんどなし。<br /> ・一来果:クンダリーニ覚醒後。マニプラ優勢<br /> ・不還果:アナハタ優勢。<br /> ・阿羅漢果:アジナかサハスララ優勢と推測(私はこれから)<br /> <br /> これらの内容については以前の記事で引用したことがあります。<br /> <br /> ■違う切り口<br /> 上で引用した書物は同じテーラワーダ仏教でも以前に引用した「悟りの階梯(藤本 晃 著) 」とは切り口が違うので興味深いです。例えば、預流果と一来果について以下のように説明しています。<br /> <br /> <br /> ・欲望、貪り、怒りあるいは欲求不満は、悟りの第一の段階によっては根絶されず、ただ誤った見方と疑いだけが根絶される。<br /> ・悟りの第二段階は煩悩を弱めるだけ。貪り、怒り、欲求不満が弱められる。<br /> ・(第三の段階(不還)は上に引用した通り)<br /> ・綺語(無益なお喋り)、即ち「新聞に書いてあるような、ニュースやゴシップについて語ること」と、邪精進(誤った努力)、邪定(じゃじょう、誤った禅定)、邪解脱(誤った解脱)、邪智(誤った知識)については、第四の洞察智によって初めて、根絶することが可能です。(「自由への旅: マインドフルネス瞑想 実践講義(ウ・ジョーティカ 著)」)<br /> <br /> <br /> 私には第四段階のものが具体的には分かりませんので、まだ第四段階ではないことがこれでわかります。<br /> <br /> 同書では第1〜4という数字での言い方が多く、この部分に明確に四沙門果の名前は書いてありませんが、内容的に第一の段階は預流者、第二段階は一来、第三段階は不還、 第四とは阿羅漢果だと解釈できます。<br /> <br /> <br /> <br /> Sat, 24 Aug 2019 00:00:00 +0900 虚空に響き渡るオーム https://w-jp.net/2019/1620/ <br /> 先日から眉間の集中ポイントで玉っぽい感覚が出来てきましたが、その後、お腹のあたりにも何か大きな玉のようなものが感じられるようになりました。お腹のあたりがキュッと締まって玉を抱えているような感覚です。その状態で瞑想を続けていると、眉間の玉が無あるいは虚空のような空間と繋がっているような気がしてきました。<br /> <br /> 私は瞑想する時は沈黙の瞑想をすることも多いですが、オームを心の中で唱える瞑想をする時もあります。眉間に玉の感覚がある状態でオームを心で唱えると、以前との変化を感じることができました。<br /> <br /> 以前は、眉間のオームをすると眉間の肌がザワザワした感じになりました。単に眉間に集中しただけでも眉間の肌がザワザワきますが、オームを唱えるとそのザワザワがより強くはっきりと感じられていました。<br /> <br /> 眉間に玉がある状態では先日の記事で書きましたようにザワザワした感じがほとんどなく、オームを唱えてもやはりザワザワした感じはないのですが、オームを唱えると眉間の玉の中にオームが響き渡る感じになってきました。眉間の玉が無あるいは虚空の空間に繋がっている、とでも言いましょうか。オームを唱えると眉間の玉の無あるいは虚空の空間の先に響き渡る感じなのです。<br /> <br /> そういえば「密教ヨーガ(本山博著)」に以下のようなアジナチャクラの覚醒方法が書いてあります。<br /> <br /> 心(意識)を眉間のアジナチャクラに集中し、眉間からプラナを吸い取ると念じながら、オームを心の中で唱え、息をゆっくり深く吸い取ります。次に、アジナチャクラからプラナを宇宙に吐き出すと念じながら、オームを心の中で唱え、息をゆっくりと吐き出します。これをできるだけ長時間繰り返します。<br /> <br /> これを前に読んだ時は「プラナを吸い取る」とか「宇宙に吐き出す」みたいな感じがよく分からなかったのです。今は、吸い取るとか吐き出すとかの明確な感覚はないにせよ、もしかしたらこの部分は無あるいは虚空へと繋がる感じのことを言っているのかな? という気がしました。<br /> <br /> 瞑想の調子次第ですので、毎回このような感じになるわけでもないですが。この感覚、なかなか微妙で感じるのが難しいです。<br /> <br /> Fri, 23 Aug 2019 00:00:00 +0900 集中と雑念の分離と客観視 https://w-jp.net/2019/1619/ <br /> 先日の続きです。<br /> <br /> フォーカスポイントに玉のような感覚が出来て雑念が浮かびにくくなったわけですけれども、それに加えて、次のような変化がありました。<br /> <br /> 以前は、集中と雑念がそれぞれ依存関係にあると言いますか、集中すれば雑念がそれに引っ張られて雑念が止まったり、あるいは、雑念が起これば集中が途切れる、というように相関関係が見られました。<br /> <br /> 今回の変化の以降は、この結びつきがかなり緩くなりました。<br /> <br /> 集中は集中として眉間のフォーカスポイントに玉を作り続け、かと言って、その集中が時折聞こえる雑念・・・ ともまた違う感じですがとりあえず雑念としておきますが、その雑念を妨げないのです。逆も同様で、とりあえず雑念としておきますが雑念のような何かのインプットがあっても集中を妨げずに眉間のフォーカスポイントに玉を作り続けるのです。<br /> <br /> 雑念よりももっと微細な意思のような気もしますので、雑念と言ってしまうといわゆる心というかマインド的なものを意味しますけど、それよりも微細な感覚な気が致します。言葉にするとどちらも「心」だったり「マインド」だったり「雑念」と言うことになるのかもしれませんけど。<br /> <br /> そのように、「集中」と「雑念(心、マインド)」が分離してきたわけです。 <br /> <br /> 「集中と雑念(心、マインド)が分離」と言う表現はちょっと誤解がありそうですので、別の表現をすると以下のようになります。<br /> <br /> 「集中」は顕在意識における「思考」としての心、マインド、雑念と結びついており、集中している間は「思考」は止まり、同レベルにおける雑念も止まる。<br /> 一方、集中して思考が止まっている間であっても「想念」としての心、マインド、雑念は動いている。あるいは、その想念はどこかから流れたりしてきている。<br /> <br /> と、このようなことなのかな? と言う気が致します。<br /> <br /> 以前は「思考」と「想念」がごっちゃになっていて、今回のことで「想念」が見えてきた、と言うことなのかもしれません。<br /> <br /> 「想念」と言う言い方が必ずしも正しいとは限りませんけど、対比して言うならばこんな感じです。<br /> <br /> ■客観視<br /> これを、人によってはもしかしたら古来から「客観視」とか言ってきたのかもしれないですけど、この感覚をそのまんま表現するならば客観視と言うのは語弊がある言い方のような気が致します。と言うのも、客観視というと「自分」がどこか「彼方」から、例えばゲームキャラクタのように俯瞰することをイメージしてしまいがちですけれども、この種の想念の観察は自分がどこにも行かなくて、むしろ完全に「ここ」にいて、「いま」「ここ」にいるからこそ想念が見えるので、それを客観視と言ってしまうと「なんのこっちゃ?」となる気が致します。分かっている人同士ならば「ああ、客観視ですか。ああ、そうですね」と納得できるでしょうが、その状態を知らない人に対する説明として「客観視」は誤解がかなりあると思います。ミスリードしてしまいそうな表現です。<br /> <br /> 本当の客観視は幽体離脱のように外から見ることだと個人的には思います。<br /> <br /> 客観視と言うよりも、状況そのままに言えば「思考と想念が分離して認識できるようになり、それが思考ではなく想念だと認識しつつ想念の観察が可能になった状態」とでも言いますか。<br /> <br /> きっと古来からこのことを客観視だとか言ってきたのかなあ、という気がしました。古来から、という部分は推測で仮説ですけど。「自分」というのはどこにも行ったりせずに「いま、ここ」にいて「想念の観察」をしているので「客観」というのはよく分かりませんけど、この種の「想念の観察」のことをきっと「客観視」と世間では言ったりするのかなと思います。流派にもよるのかもしれないですけど。<br /> <br /> <br /> Fri, 23 Aug 2019 00:00:00 +0900 想念とフォーカスポイントと雑念 https://w-jp.net/2019/1618/ <br /> 以前書きましたように、瞑想の質が変化してきてからは眉間に集中すれば2〜3秒で雑念が消えるようになりました。それは、眉間にあるザワザワした感覚と言いますかエネルギー的な何かが雑念を打ち消してしまうのですが、最近までその眉間のザワザワ感が何かよく分かりませんでした。<br /> <br /> どうやら、その眉間のザワザワ感は、集中(フォーカス)が十分にできていないことによるエネルギー的な「ブレ」な気がしてきました。<br /> <br /> 特にここ1週間はちょっと頭の上に壁がある感じがしており、それを不安定と言えばそうなのかもしれませんけど不安定というと語弊があるかもしれない状態でした。以前よりは遥かに安定してい流のですがその安定の中であっても頭の上に壁があって、瞑想するときにその壁と言いますか何かが安定感を損なわせている感じだったのです。<br /> <br /> そこで、ここ1週間くらいはその壁が何なのかな・・・ と思いつつも眉間に集中する瞑想を続けていましたところ、急に眉間の集中の度合いが深まって、眉間にちょっとした玉が出来たような感じになりました。それはいわゆるフォーカスポイントとでも言うべき集中の点ですけれども、そのフォーカスポイントの玉が出来た瞬間に、雑念のレベルが急に更に減りました。<br /> <br /> どうやら瞑想が終わってもその効果が続いているようです。<br /> <br /> 眉間のザワザワ感がほとんどなくなって、代わりにフォーカスポイントに玉が出来た感じです。<br /> ザワザワ感は振動幅が大きいことによる感覚で、今は振動幅が狭くなって周波数が高くなったような感じがしています。<br /> <br /> 以前は眉間の周りが沸騰する水のように色々なところからザワザワと浮き沈みがあり、浮き沈みの一つ一つの振動幅が今よりも大きくて、周波数も今よりも低い感じでした。その感覚がある範囲は円ではなく割と幅広い感じでした。今は範囲が玉というか球のような感じで、沸騰の浮き沈みはほとんど感じられないくらい振動幅が小さくなって周波数も上がった感じです。<br /> <br /> おもちゃで、円盤に紐がついていて両手で引っ張るとビューンと回るのがあったと思いますけど、そういうイメージです。そのおもちゃは、あまり勢いなくゆっくり回っているとブレが大いですけど勢いよく回すと中心で安定する、という感じが今回のと似ています。「びゅんびゅんマスター」みたいな。<br /> <br /> 雑念のレベルには浮き沈みがありますけど、1ヶ月くらい前に書きましたように雑念が減って「いま」に生きる感じになってきましたが、ここ1週間はちょっとリバウンド気味で雑念が少し増えていると言いますか上に書きましたように壁がある感じでした。雑念が増えたと言っても、数ヶ月前に比べると随分と減っているので、1ヶ月くらい前に比べると少しリバウンド、と言うことではありますが。<br /> <br /> そんな状態でここ数日瞑想をしていたら、上に書いたような変化があったのです。<br /> <br /> 1ヶ月前は「瞑想中に雑念が出てきても眉間のザワザワで2〜3秒で雑念が消える。瞑想している間だけ効果あり。」と言う感じでしたが、今日の瞑想では「フォーカスポイントの玉がある間は雑念がそもそも湧きにくい。瞑想の後にも効果が持続する。」と言う違いがあるようです。<br /> <br /> 雑念なく生きることが「いま」に生きることですから、今回の変化で更に雑念が湧きにくくなったことにより「いま」に生きることがより簡単になったとも言えます。程度問題ではありますけれども。<br /> <br /> <br /> Thu, 22 Aug 2019 00:00:00 +0900 何故瞑想するのか? シバナンダの答え https://w-jp.net/2019/1608/ <br /> スワミ・シバナンダおよびその弟子のスワミ・ヴィシュヌ・デヴァナンダは次のように説明しています。<br /> <br /> 瞑想の助けがなければ、あなたは自己(Self)の知識を得ることができません。 その援助がなければ、あなたは神の状態に成長することはできませ ん。それがなければ、あなたが心の不調から解放され、不滅を得ることはでき ません。瞑想は、自由を得るための唯一の王道です。それは、地球から天国へ、過ちから真実へ、闇から光へ、痛みから至福へ、落ち着きのなさから平和へ、無知から知識 へと至る謎のはしごです。 死から不死まで 。<br /> <br /> これが宗教的な最終的な目標になります。<br /> <br /> 瞑想を通して、心の遊びが目撃されます。 初期段階では、自我が絶えず自分自身を表明していることを発見する以上のことは起きません。しかし、そのゲームに慣れ親しむにつれ、満足した平和な状態を好み始めます。自我が静まった時、個人の成長と他者の奉仕のために エネルギーを建設的に利用することができます。<br /> <br /> これが途中経過です。一般的にはこの段階を得るだけでも十分、人生を建設的に生きることができます。欧米で流行っているマインドフルネスなどもこの段階を目的にしています。ビジネスの効率を上げたりストレスの解消はこの段階で達成されます。<br /> <br /> 道は数多くありますが、真実は一つだと言われています。定期的に瞑想することによって、心はより明確になり、より純粋な動機が得ら れます。潜在意識は、より良い理解を可能にする隠された知識を解放します。 自我はゆっくりと消滅します。 最終的には潜在意識やエネルギーが解放され、知恵と平和のある生活に変わってゆきます。<br /> <br /> 最初の目的がビジネスや心の平穏であったとしても、最終的に瞑想はこれらの状態に導くことでしょう。それを求めるかどうかは各人次第ではありますが。<br /> <br /> 引用元:「Meditation and Mantra (Swami Vishnu-Devananda著)」から翻訳<br /> <br /> Thu, 15 Aug 2019 00:00:00 +0900 ピタゴラス派の「天球の音楽」と「ナーダ音」 https://w-jp.net/2019/1607/ <br /> 以前、ナーダ音について書きました。その後、ピタゴラス派とナーダ音 について書きました。今回はその続きです。<br /> <br /> 「ピュタゴラスの音楽(キティ・ファーガソン 著)」を読みました。これはヨーガの本ではありませんのでナーダ音のことは出てきませんが、各所にそれらしき表現が読み取れるのが興味深いです。同書では「天球の音楽」を以下のように記しています。<br /> <br /> アルキュタスを通してプラトンへと受け継がれたピュタゴラス派の考え方のなかでもとくに広く知られ、長い間、大きな影響力をふるい続けたのは、「天球の音楽」という概念だった。アルキュタスとピュタゴラス派の先人たちは、惑星が天空を勢いよく進みながら音楽を奏でていると考えた。(中略)ピュタゴラス派の伝承によると、この音楽を聞くことができるのはピュタゴラスだけだった。<br /> <br /> これは興味深いです。ピュタゴラスだけが聞くことができる音楽!<br /> 「天球の音楽」は「天上の音楽」(以前引用した記事)とか「天空の音楽」など色々な訳があって訳が一意ではなさそうです。<br /> <br /> どうやら、この「天球の音楽」から音楽の楽譜やオクターブの概念が作られたそうです。<br /> <br /> 天体の動く速さは一様でないように見える。ピュタゴラス派は動きが速いほど、立てる音は高くなると考えるにいたり、天体どうしの相対的な距離の比を音程に呼応させる際にこの点を考慮に入れていたと、アリストテレスは書いている。天体が全部合わさると、全音階のオクターブがすべてそろった。<br /> <br /> 現在の音階の元となる概念を作ったのがピュタゴラス派で、天球の音楽とはもともとそれを指していたのでしょうか? それだけだったのでしょうか? ナーダ音的な意味合いはなかったのでしょうか? と思って読み進めましたところ、やはり、ありました。ピュタゴラスやアリストテレスのような偉人はやはり、薄々とかもしれませんがナーダ音のことを意識していたのだと推測できます。<br /> <br /> アリストテレスによれば、ピュタゴラス派は天体が動いて実際に音が出ていると信じていた。アリストテレスは普通の人間が聞こえない理由としてピュタゴラス派が挙げたと彼が思っていることを述べた。<br /> この音に誰も気づいていないという難点を彼らはこう説明している。その音は生まれたときから私たちとともにあるため、比較対象となるような静けさがない。声と静けさは互いに対になって初めて認識されるのであり、人間はみな、長年のうちに雑音にすっかり慣れて無頓着になった銅細工職人と同じような経験をしている。<br /> <br /> これは、ナーダ音も同じくずっとそこにあるが気付かない、という点と類似しています。<br /> <br /> キケロも似たような説明をしています。<br /> <br /> 非常に高い山々から水が落下する、ナイル川のカタドゥパと呼ばれる場所に暮らす人々は、轟音のせいで聴力を失った。たいていの人に天球の音楽が聞こえないのは、それと同じように耳が聞こえなくなっているからだと説明する。<br /> <br /> 同書によれば、15世紀と16世紀のイタリアにおいても、「宇宙の音楽」という概念が好まれたといいます。そんな時代、ガッフリオという人が「ピュタゴラスだけが聞こえる」という概念を「ずばぬけて高潔な者だけが聞くことができる」と修正したそうです。<br /> <br /> 当時、音楽理論の最高権威だったフランキーノ・ガッフリオは、真のピュタゴラス派になろうと手を尽くした。彼は、まるで古代人が蘇ったかのように、ボエティウスが協和音程と認める音程以外はいっさい考慮しようとしなかった。(中略)言い伝えによれば、ピュタゴラスだけが天球の音楽を聞くことができるということだったが、ガッフリオはそれをわずかに修正して、ずばぬけて高潔な者だけが聞くことができるとした。<br /> <br /> これはまさに、ナーダ音の概念に類似しています。「ずばぬけて高潔な者だけが聞くことができる」という概念も、ナーダ音が「浄化が進めば聞こえるようになる」という概念である点と類似しています。<br /> <br /> その後17世紀、天文学者のケプラーが天文学的な法則から天球の音楽を楽譜上に落とし込む努力もしています。この時代は、音楽と天文学とが一体になっている、興味深い時代だったようです。今もチャクラ理論などで音楽の楽譜が出てきたりするのはこの時代の流れが関わっていそうで興味深いです。ただし、ケプラー自身は天文学においては名声を得たものの、この音楽理論を発表したことで珍品扱いされた、と記されています。<br /> <br /> その後、ピタゴラスの天球の音楽はシェイクスピアの物語に比喩として登場したり、各所でその概念は生き続けているようです。確かに、言われてみればそのような比喩を度々聞いたことがありますね。今では改めて意識しなければすぐに忘れてしまうくらいの比喩ですが、中世においてはかなり有名で人々が熱中した概念だったようです。<br /> <br /> ただ、それらの物語ではあくまでも比喩であり、人の耳では聞こえないのが前提として描かれているようです。<br /> <br /> そうして20世紀になり、天文学者が再度「天球の音楽」に目を向けるようになります。<br /> <br /> 1962年、太陽を研究している天文学者たちが、太陽内部を通過する音波が、目に見える太陽の表面、すなわち光面を泡立たせていることを発見した。彼らはそれを「太陽の交響曲」と表現したが(中略)、太陽は無数の倍音を発しているからだ。もちろん、私たちの太陽だけがこのように振動する恒星というわけではない。<br /> <br /> 又、ブラックホールも類似の交響曲を奏でている、という趣旨のことを言っている人もいるようです。であれば、宇宙には音が蔓延しているということでしょう。これは、近年の宇宙のドキュメンタリーなどで我々にはそれなりに親しみのある概念かとは思いますが、中世まではこのような概念はピタゴラス派に基づくものだったようです。<br /> <br /> ■天球の音楽とナーダ音は同じ?<br /> 同書の記述を見る限り、天球の音楽がそのまま100%ナーダ音と同じ概念ではないものの、類似性が見て取れます。「浄化されれば聞こえるようになる」という点から、人間の精神性の成長という観点から言えばおそらくナーダ音に近い性質を持っていると判断できます。ただし、ピタゴラス派(今もいるのでしょうか?)の人が「天球の音楽はナーダ音です」と言っているのは聞いたことがありません。<br /> <br /> 昨今、ヨーガをしている人はこの「天球の音楽」がナーダ音のことだと言ったりしますし、ヨーガの文献にもそう書かれてあったりします。私も基本的にはそう思っています。ですから、ヨーガ的には天球の音楽とはナーダ音のことだ、と解釈して良いのではないかと思います。<br /> <br /> ナーダ音が何なのか? という点に関しては前記事を参照してください。<br /> <br /> <br /> <br /> Tue, 13 Aug 2019 00:00:00 +0900 クンダリーニの覚醒、3分類 https://w-jp.net/2019/1602/ <br /> 昔書いた記事の続きです。<br /> <br /> 神智学系の「クンダリニ(ある奥義体験)(G.S.アランデール 著)」に以下の記述がありました。<br /> <br /> クンダリニの発達には、全体として二つの系統があるように思う。その一つは、ゆっくりときわめて緩やかに、注意深く少しづつ進みながら、恐らくは高次の生にまで拡大してゆき、ふつうの成長と”同じ歩調”で発達する。もう一つは、最後の瞬間までクンダリニの積極的な覚醒をやらないでおくのであって、いわばまあ全てが安全で、大師が宣言を発せられるとクンダリニが一気に目覚めるのである。この方法は、ある意味からすると、もっとずっと危険をはらんでいるが、しかし個人が慎重を期せば、少しも危険なことはないだろう。(中略)後の方法はごく稀に行われるだけで、大部分は前の方法がとられる。<br /> <br /> これは、他の書物で言われているような「クンダリニの性急な早すぎる目覚めが危険」と言う文脈とは若干異なり、最後まで覚醒しないで最後に急激に覚醒する、と言う位置付けのようです。と言うことは、3分類あるのでしょうか。<br /> <br /> <br /> ・性急なクンダリーニの目覚めにより轟音と共に一気に上がる急激型。危険。一部のハタヨガや仙道の方法? 実は三つ目と同じ?<br /> ・少しづつ上がる緩慢型。(神智学では)大部分はこれ。おそらく私もこのパターン。<br /> ・最後まで覚醒しないでおいて、最後に一気に目覚める方法。(神智学で)稀に選択。実は一つ目と同じ?<br /> <br /> <br /> 以前にも少し書いていたと思いますが、クンダリーニが目覚めた時の「熱」のエネルギーをそのまま登頂にまで上げる方法は危険だと思います。「熱」はマニプラ、「暖」はアナハタ、と言うようにエネルギーの質が違うのですから、クンダリーニの「熱」をアジナにまで上げておかしくなるのは当然のような気も致します。 <br /> <br /> <br /> <br /> Fri, 09 Aug 2019 00:00:00 +0900 ヨーガスートラの八支則とクンダリーニ https://w-jp.net/2019/1601/ <br /> これはパタンジャリのヨーガスートラ八支則(アシュタンガ・ヨーガ)とクンダリーニの関係のメモです。<br /> <br /> <br /> ・ヤマ Yama(禁戒)<br /> ・ニヤマ Niyama(勧戒)<br /> ・アーサナ Asana(坐法)<br /> ・プラーナヤーマ Pranayama(調気、呼吸法)<br /> ・プラーティヤハーラ Pratyahara(制感、感覚の制御)<br /> ・ダーラナー Dharana(疑念・集中)<br /> ・ディヤーナ Dhyana(瞑想)<br /> ・サマーディ Samadhi(三昧)<br /> <br /> <br /> 前記事の通り、これらはヨーガスートラ3章7〜8番に基づいて2分割あるいは3分割できます。<br /> <br /> <br /> ・準備段階の5つ:ヤマ、ニヤマ、アサナ、プラーナヤーマ、プラティヤハーラ<br /> ・内的な3つ:ダーラナ、ディアーナ、サマーディ<br /> ・真のサマーディ:ニルビージャ・サマーディ(無種子三昧)<br /> <br /> <br /> これにクンダリーニやナーダ音などを加えます。<br /> <br /> <br /> ・ヤマ。自己統制。間違った行為の抑制。<br /> ・ニヤマ。正しい遵守。宗教的遵守。<br /> ・アサナ。正しい態度、姿勢。<br /> ・プラーナヤーマ。呼吸の調整、抑制。プラーナの通り道であるナディを浄化<br /> ・雑念の減少。”苦”から”苦の少ない状態”に変化。<br /> ・ナーダ音が聞こえ始める。私の場合ヨガをほぼ毎日し始めてから約3ヶ月後<br /> ・プラティヤハーラ。感覚の撤退。内的世界への入り口。この段階の最初でナーダ音が聞こえ始め、どんどんと聞こえやすくなる。<br /> ・クンダリーニの覚醒。ムーラダーラの活性化。マニプラ優勢の状態。私の場合ナーダ音が聞こえ始めてから約1年後。ポジティブになる。睡眠時間の短縮。声が出しやすくなる。性欲がかなり解消されて自然な(努力のいらない)ブラフマチャリア(禁欲)の達成(性欲10分の1)。体がポカポカになる。<br /> ・”苦の少ない状態”から”楽”の状態に変化。<br /> ・ダーラナ。集中。一点集中。マインドの固定。<br /> ・”楽”から”苦もないが楽もない状態”に変化<br /> ・ディアーナ。瞑想。集中の連続。正しいマインドの利用。<br /> ・クンダリーニの上昇(というか移動?)。アナハタ優勢の状態。私の場合クンダリーニ覚醒の約9ヶ月後。性欲が更に10分の1(クンダリーニ覚醒前と比べると100分の1)。脳の活性化の開始。瞑想の深まり。”いま”に生きる。<br /> ・サマーディ。観照。分離性や個我を認識しなくなる。形を認識しなくなり意味だけを認識。十牛図の「見牛」と心身脱落。<br /> ・真のサマーディ:ニルビージャ・サマーディ(無種子三昧)(私はこれから)<br /> <br /> <br /> クンダリーニは謎が多いですし、この段階は私の経験を元にしたものですので、誰もが必ずしもこうなるとは限らないと思います。<br /> <br /> <br /> Thu, 08 Aug 2019 00:00:00 +0900 ヨーガスートラはマニプラ以下を主に扱う? https://w-jp.net/2019/1600/ <br /> ヨーガスートラの主目的は低次サイキック領域(マニプラ以下)から高位サイキック領域(アナハタ以上)に移行することだと解釈しました。<br /> <br /> これはインド系ヨーギの解釈というよりは、神智学的な解釈になります。実際のところ同じなのかとは思いますが幾つかの解説書を確認したところ、ここまではっきりと同様のことを記載してあるのは神智学系の「魂の光(アリス・ベイリー 著)」くらいでした。他の解説書でも高次の認識について記載があるので言及はされているのですが、ヨーガスートラの八支則(アシュタンガ・ヨーガ)は基本的に低次サイキック(マニプラ以下)の克服について記載されています。高次サイキック(アナハタ以上)はウパニシャッドの領域になると思われます。<br /> <br /> ヨーガスートラ3章7〜8番にて、八支則の位置付けが示されています。<br /> <br /> 3章7〜8番)これら3つ((ダーラナ、ディアーナ、サマーディ)は、その前のもの(ヤマ、ニヤマ、アサナ、プラーナヤーマ、プラティヤハーラ)よりもっと内面的である。しかしそれらさえ、種子のないもの(サマーディ)の外側である。(「ラージャ・ヨーガ(スワミ・ヴィヴェーカーナンダ著)」)<br /> <br /> これは、神智学的には次のように解釈できます。<br /> <br /> ・八支則の最初の5つ(ヤマ、ニヤマ、アサナ、プラーナヤーマ、プラティヤハーラ):準備段階<br /> ・八支則の最後の3つ(ダーラナ、ディアーナ、いわゆるサマーディ(サビージャ・サマーディ、有種子三昧)):内的なもの。低位サイキック領域(マニプラ以下)<br /> ・八支則を超えたもの。真のサマーディ(いわゆるニルビージャ・サマーディ。無種子三昧)。高位サイキック領域(アナハタ以上)<br /> <br /> ヨーガスートラは基礎なわけですね。何事も基礎が重要なのだと思います。<br /> <br /> ヴィヴェーカーナンダは真のサマーディ(ニルビージャ・サマーディ。無種子三昧)に至る前段階のサマーディについて以下のように記しています。<br /> <br /> 3章9番の解説)サマーディのこの最初の段階では、心の変化は制御されているが完全にはではない。なぜならもし完全に制御されていたなら、様相もないだろう。もしそこに、感覚を通ってとびだすよう心をうながす変化があり、ヨーギーがそれを制御しようと努めるなら、まさにその制御自体が一つの変化であろう。一つの波がもう一つの波でとめられる。ゆえにそれは、すべての波が静まる真のサマーディではないだろう。制御それ自体が一つの波なのであるから。それでも、このより低いサマーディは、心が泡立ち騒いでいる時よりは遥かに、より高いサマーディに近いのである。<br /> <br /> と、言うことは、多少の心の波があったとしても基礎的なサマーディと呼んで良いと言うことなのですね。サマーディは色々と種類があり過ぎてどれがどうなのかいまいち解りづらいですが、少なくとも最後の目標地点はこれでかなり明らかになったように思います。瞑想にしてもそうですが、サマーディも自称であったりする場合が多いので、なかなか解りづらいところがあります。<br /> <br /> これは、「魂の光(アリス・ベイリー 著)」では以下のように説明されています。<br /> <br /> 3章9番)メンタル的な状態は以下のようにして連続して起こる。つまり、見たものにマインドが反応し、マインドによる統御の瞬間がそれに続く。さらに、チッタ(マインド・スタッフ)がこの両方の要素に反応する。そして最終的に、これらは消え去り、知覚する意識が完全に支配する。<br /> <br /> これまた、分かるような分からないような微妙なお話です。私はこのあたりをもう少し瞑想する必要がありそうです。マインドはいわゆる心で顕在意識であり、チッタはサンスクリットで言うところのマインド相当(微妙に違いますけど)。ちょっと訳が微妙と言いますか。英語とサンスクリットを混ぜずにいっその事全部サンスクリットで書いてもらった方が有難いのですが。ですが、きっと元々のサンスクリットが微妙なのでしょう。<br /> <br /> 「インテグラル・ヨーガ (パタンジャリのヨーガ・スートラ) (スワミ・サッチダーナンダ 著)」では以下のように訳されています。こちらの方が分かりが良いかもしれません。<br /> <br /> 生起してくる印象(サンスカーラ、雑念)は、それに代わる新たな心の作用を生むところの抑止の努力の出現によって、止滅される。この、新たな作用と心の結合の刹那が、二ローダ・パリナーマ(止滅転換)である。<br /> <br /> どうやら、これこそが「二ローダ」のようです。と言いますのも、ヨーガスートラの最初の方にある有名なヨガの定義にこの「二ローダ」が言われているからです。以前 引用した文章が以下です。<br /> <br /> 「心(チッタ、Citta)の作用(働き、諸状態)を止滅することがヨーガ」(Yogaヨーガ・Chittaチッタ・Vrittiヴィリッティ・Nirodhahニローダ)<br /> 「そのとき、見る者はそれ本来の状態に留まる」(Tadaタダ・Drashtuhドラシュトゥ・Svarupeスワルーパ・Vasthanamヴァスターナ)<br /> <br /> と、言うことは、真のサマーディ(ニルビージャ・サマーディ。無種子三昧)に達することで二ローダが達成できる、と言うことなのだと解釈できます。<br /> その次に続くヨーガのもう一つの定義は軽視されがちですけどこちらも重要で、これはいわゆる「アートマンの出現」のことだと思います。<br /> <br /> 瞑想をしてサマーディに達し、真のサマーディ(ニルビージャ・サマーディ。無種子三昧)に達することで二ローダ(止滅)を達成して、アートマンを出現させる、と言うところがヨーガスートラの範疇であると考えられます。これは以前 禅の十牛図 を調べた時にヨーガスートラとウパニシャッドの領域がそれぞれ明らかになりましたが、同様のことを意味していると思われます。<br /> <br /> <br /> <br /> <br /> <br /> <br /> Wed, 07 Aug 2019 00:00:00 +0900 サムヤマで光が輝き出る https://w-jp.net/2019/1598/ <br /> ヨーガスートラ3章5番。書物によってサンスクリットの訳が異なっています。<br /> <br /> それ(サムヤマ)をかち得ると、知識の光が来る。(「ラージャ・ヨーガ(スワミ・ヴィヴェーカーナンダ著)」)<br /> サンヤマ(綜制)の修了によって、知の光が生まれる。(「インテグラル・ヨーガ (パタンジャリのヨーガ・スートラ) (スワミ・サッチダーナンダ 著)」)<br /> <br /> これがよく見る意味で、おそらくはサンスクリット的にはこのような内容なのかなと思います。<br /> 神智学系の「魂の光(アリス・ベイリー 著)」ではこれを以下のように意訳しています。<br /> <br /> サンヤマの結果として、光が輝き出る。(「魂の光(アリス・ベイリー 著)」)<br /> <br /> 同書では以下のように説明されています。<br /> <br /> 魂の性質は光であり、魂は偉大なる啓示者であるという概念が含まれている。ヨギは、瞑想の着実な実践によって、自らの存在そのものから発する光を意のままに、どの方向にも向けられるようになり、どのような対象でも照らすことができるようになる。したがって、彼にとって隠されたものは何もなく、あらゆる知識が彼の手中にある。<br /> <br /> 最初の訳の「知識の光が来る(生まれる)」の内実がこのような意味であるのならばよく分かります。「知識の光が来る」とだけ言われてもよく分かりませんが、魂が光で、光が輝き出ることで知識が明らかになる、と言うことであればすんなり理解できます。<br /> <br /> サンヤマの効果として、以下のようにも記されています。<br /> <br /> この過程(サンヤマ)がより頻繁になり、しっかりとしたものになるにつれて、肉体人間の中に変化が起こる。彼はますます魂と同調するようになる。伝達における時間という要素は背後に退き、魂の光による知識領域のイルミネーションと、肉体脳の啓発が瞬時の出来事になる。頭部内の光はそれに対応して増大し、第三の目が発達し機能するようになる。アストラル界とメンタル界でもそれに対応する「目」が発達し、このようにしてエゴつまり魂は魂の領域だけでなく三界すべてにイルミネーションをもたらすことができるようになる。<br /> <br /> 瞑想(ディヤーナ)とサマーディ(三昧)、そしてサンヤマ(サムヤマ)へと続く一連の流れはついに第三の目に辿り着きました。アジナ・チャクラが活性化するのはサムヤマの段階と対応しているのだと解釈できます。同書を読み解くと、マニプラ以下の段階では低次サイキックな性質のみが開発され、低次サイキックな性質は高次サイキックな性質の開発の妨げになると書いてあります。マニプラ以下からアナハタ以上に「移動」(比喩的な言い方)して初めて高次サイキックな性質の開発が可能になると言います。ですから、サムヤマもアナハタ以上になってからようやく可能なものだと解釈できます。<br /> <br /> <br /> <br /> <br /> <br /> Tue, 06 Aug 2019 00:00:00 +0900 サムヤマの謎(サンヤマ、綜制) https://w-jp.net/2019/1597/ <br /> サムヤマ(サンヤマ、綜制)とはヨーガスートラで述べられているもので、ダーラナー(集中)・ディヤーナ(瞑想)・サマーディ(三昧)が同時に起こるとそれはサムヤマ(サンヤマ、綜制)と呼ばれますが、これは謎が多いです。<br /> <br /> ヨーガスートラによると、サムヤマによって「知識の光」が来る、と言われています。(スワミ・ヴィヴェーカーナンダの「ラージャ・ヨーガ」より)<br /> <br /> それにより、物の知識や人の心、未来や過去生に関する知識を得られると言います。同書によれば、言葉や意味や知識の上にサムヤマを作ることでそれらの知識が得られると言います。また、カルマの根源であるサムスカーラ(印象)の上にサムヤマを作ることで過去と未来を知ることができると言います。と言うことは、サムスカーラ(印象)を作り出した原因の過去の出来事を知ることができるのと、未来に関してはタイムマシン的な意味はなくサムスカーラ(印象)がもたらすであろう未来を垣間見ることができるのだ、と解釈できます。ただ、未来に関しては私の解釈で仮説です。別のヨーガスートラ解説書「インテグラル・ヨーガ (パタンジャリのヨーガ・スートラ) (スワミ・サッチダーナンダ 著)」には未来に関することはスルーされていました。過去であればサムスカーラですからその理由を考えれば明らかですが、未来を知ることができる、と言うのは謎が残ります。私の解釈が正しいのであればそれはそれでいいのですが、それでも、サムヤマの正体が全て明らかになったわけではありません。特に、「サムヤマとはサマーディとどう違うのか?」と言う点が明らかではありません。サマーディでは知識は来ないと言うのでしょうか? どちらも知識が来るのであれば、何が違うのでしょうか?<br /> <br /> 神智学系の「魂の光(アリス・ベイリー 著)」には幾つかのポイントが書かれてあります。<br /> <br /> 3章4番)「集中と瞑想と観照が一つの連続的な行為になったとき、サンヤマが達成される。」これを達成することで、ヨーギは対象とそれが覆い隠しているものとの違いを見分けるようになる。彼はすべての覆いを貫いて、その背後にあるリアリティーに接触するようになる。つまり、二重性についての役立つ知識を達成したのである。<br /> <br /> とあります。ここで「覆い隠しているもの」とは、そうとは明言してありませんがおそらくヴェーダで言うところのマーヤのことかなと思われます。流派によってはマーヤの覆いは特定のサマーディを達成することで取り払われると言われています。例えばヨガナンダの「あるヨギの自叙伝」には以下のように、ニルビカルパ・サマディでマーヤの覆いを破ることができると書かれています。<br /> <br /> マーヤのヴェールを引き剥がすことは、創造の神秘を解き明かすことである。こうして宇宙の実相を見た者こそまことの一神論者であり、ほかの者はみな、異端の偶像を崇拝しているのである。人は、大自然の二次元的幻影のとりこになっている間は、二面のマーヤの女神に仕えねばならず、唯一のまことの神を知ることはできない。人間の中に働く欺瞞的マーヤをアヴィディアといい、無知(迷い、”つみ”)として現れる。宇宙的幻術(マーヤ)も人間的無知(アビディア)も、知識による分析や確信だけでは決して破られるものではない。それは、ニルビカルパ・サマディという意識状態にはいることによってのみ破ることができるのである。<br /> <br /> 言い方は違いこそすれ、サムヤマとニルビカルパ・サマディの間に共通点がありそうな気が致します。<br /> <br /> ちなみに、ヴェーダの学派によっては知識のみで悟ることができてサマディは不要と言う流派もあるようですので、上記の記述は参考にこそすれ、それほど鵜呑みにする必要もないとは思います。とは言いましても、各流派の言い分にはそれぞれ真実が見え隠れするのが興味深いところです。<br /> <br /> 「魂の光(アリス・ベイリー 著)」に記載してあるダーラナ(集中)とディアーナ(瞑想)とサマーディ(三昧)の定義はよく聞く定義と基本的に同じで、集中とその集中の継続がディヤーナ(瞑想)であり、心(チッタ)が対象と同一化することがサマーディだと記されています。ですから、基本的には同じなのですが、同書で興味深いのは、サマーディのことを「観照」だと言っている点です。<br /> <br /> 別の書物、例えばスワミ・ヴィヴェーカーナンダの「ラージャ・ヨーガ」では以下のように説明しています。<br /> <br /> 4章1〜3番)ダーラナーとは、心をある特定の対象に集中することである。その対象の知識の不断の流れが、ディヤーナである。それがすべての形をすてて、意味だけを映すようになったとき、それがサマーディである。<br /> <br /> 同種の定義を見ることが多い気がします。「形を捨てて、意味だけを映す」と言う定義では、サマーディはとても謎の多いものになりますが、「魂の光(アリス・ベイリー 著)」のように「観照」だとすればそれは明らかです。その意味に基づくと、ダーラナ(集中)とディヤーナ(瞑想)は顕在意識(いわゆる”意”)で行うものであり、サマーディは無意識(いわゆる”識”)で行うものだ、と解釈できます。止観と言う観点からすれば、ダーラナとディヤーナで止が達成され、サマーディで観が達成される、とも言えます。<br /> <br /> ここまで来れば、サムヤマが何なのか謎が大分解けてきます。<br /> <br /> ・ダーラナ(集中)とディヤーナ(瞑想)でマインド(顕在意識)を固定する。<br /> ・サマーディ(三昧)で魂の領域から観照する。<br /> <br /> 「魂の光(アリス・ベイリー 著)」にはサムヤマの状態について説明が記されていますが、これらの前提があれば読み取ることができる一方で、なければ読み解くのがかなり難解な文章になっています。細かくは同書にも色々と書かれてありますが、マインド(顕在意識)と魂(の領域と同書は言っている。無意識)の両方で物事を認識することがサムヤマだ、と解釈できます。<br /> <br /> であれば、サマーディはサムヤマの一面を取り上げたまでであり、サマーディを達成することができればサムヤマもおそらくは達成できると解釈できます。<br /> <br /> 少し謎が解けてきました。瞑想中に時々視界に(おそらく太陽の光とは別の)光を時々感じるのは、もしかしたらこの種の光なのかもしれません。まあ、ただの魔境の光かもしれませんので油断は禁物ですけど。<br /> <br /> <br /> <br /> 関連記事: オーラ的に見たサマーディとサムヤマ<br /> <br /> Mon, 05 Aug 2019 00:00:00 +0900 2分のディヤーナと感謝の瞑想 https://w-jp.net/2019/1596/ <br /> ■2分でディヤーナ(瞑想)、30分でサマーディ(三昧)<br /> 今朝、雑念なく息を観察する瞑想がしばらく続きました。雑念がないのでカウントすらできませんが、おそらくは数分以内だったように思います。スワミ・ヴィヴェーカーナンダの「ラージャーヨーガ」に以下のようにあります。<br /> <br /> もし心がその中心に12秒間集中することができるなら、それはダーラナー(集中)であり、12のそのようなダーラナーはディヤーナ(瞑想)であり、そして12のそのようなディヤーナはサマーディであろう。<br /> <br /> 実のところはよく分かりませんが。意識がなかっただけでもっと長かったのかもしれません。スワミ・ヴィヴェーカーナンダの定義によりますと「心が集中」ということですが、私の場合「息を観察」という違いはありますけど、おそらく本質は同じことを意味しているかなと思っております。言い換えるならば、「息を観察して12秒続けばダーラナ(集中)、その12倍続けばディヤーナ(瞑想)、その12倍続けばサマーディ」という感じでしょうか。2分でディヤーナ(瞑想)、30分でサマーディ(三昧)、という換算ですね。であれば、私の場合は今の所ディヤーナ(瞑想)の段階にいると判断できそうです。途中で雑念でちょっと途切れた場合などをどうカウントするのかというお話は微妙なところですが。瞑想していてそのような気付いていない中断はちょこちょことありそうです。<br /> <br /> ■凄いと思われなくなってようやく一流<br /> 先日読んだ「参禅入門(大森 曹玄 著)」にそのようなことが書いてあったのを思い出しました。<br /> 周囲から凄いとか思われているうちはまだまだで、何にも思われなくなってスルーされるようになってようやく一流であると。<br /> <br /> 思うに、チャクラ的に言うとマニプラ優勢の場合はエネルギッシュで傍目から見ても元気そうに見える気がします。<br /> しかし、アナハタ優勢になるとそのエネルギッシュさが静かな物になります。マニプラが「熱」だとすればアナハタが「暖」であり、であればマニプラの「熱」の方が一見すると凄そうに見えるのもわかる気がします。<br /> <br /> マニプラくらいであれば「暖」なのでなんとなくわかるのですが、それ以上のヴィシュッダとかアジナとかになると書物によればどうやら「冷」になるようなので、きっとますます傍目には分からなくなる気が致します。私は割と今はアナハタ優勢ですので「暖」の状態で、なんと言いますか・・・、割と「普通の人」になってきた感じが致します。特段私が「凄い」とかそう言うことは全然ないですし、むしろ、そこらで歩いている普通のおじさんやおばちゃん、おじいちゃんやおばあちゃんの方がよっぽど真理がわかっているんじゃないかなあ・・・ と思うくらいです。ここ数年は、「あれ? かなりの人は実は既に悟っていて、私の成長が遅れていただけだったのかも?」とすら思っています。特にマニプラ優勢になって以降はそんな思いが強いです。ですから、意外にこの世は悟っている人が多いんじゃないのかなあ・・・ という気もしています。まあ、日本のお話ですけどね。<br /> <br /> ■瞑想とナーダ音と息<br /> ハタヨガプラピディカにはナーダ音に集中する瞑想も書いてありますけど、今朝の場合は息を観察する瞑想をしていますのでナーダ音は気にしていませんでした。と言いますか、息を観察しているとナーダ音のことが気にならないと言いますか、意識の中にナーダ音が入ってきません。かと言ってナーダ音がなくなったわけでもなく、息の観察が途切れるとナーダ音があることに気づくとでも言いましょうか・・・。普通の音でもそうですよね。ずっと鳴っている何かの音だとしたら特別意識しないでもその音はずっとそこにあるわけですけれどもあまり意識しなくなります。それと同じで、ナーダ音もずっとそこにあるわけですが、息を観察している間は意識からナーダ音は外れると言いますか。<br /> <br /> ひょっとしたら、これこそがハタヨガプラピディカの以下の記述に繋がっているのかもしれません。<br /> <br /> 4章101ー102番)アナーハタ音のひびきが聞こえている間は虚空についての想念はまだ存在している。かの音がないところが至上の梵、至上の我であるとうたわれている。およそ音の形で聞こえるものはシャクティに外ならない。すべての存在の没入する場であり、そしてなんらの形相の無いものこそが至上我である。(アナーハタ音とはナーダ音のことです。至上我とはアートマンのこと。「ヨーガ根本経典(佐保田 鶴治著)」より。)他著者のバーションもあります。過去記事参照。<br /> <br /> 今日の瞑想では、まず、息を観察して瞑想していると自身が静かになってゆきました。息の観察が途切れて顕在意識が動くとナーダ音が聞こえます。息の観察によって顕在意識がほとんど動いていない状態であればナーダ音は意識に入ってきません。現在の瞑想がアートマンを掴んだとは到底思えていませんが、これらの、顕在意識とナーダ音の聞こえ方の関係から、上記のハタヨガプラピディカの記述そのものではないにせよ、部分的に似通った部分があることがわかります。引用文の「虚空」は解釈が微妙ですが、「ナーダ音が聞こえている間は想念は存在している」ということであれば「ナーダ音が聞こえている間は顕在意識は動いている」と読み替えることができると思います。ナーダ音が聞こえないところはどこか・・・? それは「息」。このあたりに秘密がありそうです。<br /> <br /> ■感謝の瞑想<br /> 先日まで「許す瞑想」をしてきましたが、今日は感謝の瞑想に自然になりました。特に計画をしていたわけでもないのですが、なんとなくしっくりくるからしただけです。先日と同じように「〇〇さんありがとうございます。〇〇さんありがとうございます。」を色々と繰り返して、人だけでなく物や自然や地球さんなども気が向くままに感謝をします。先日の方式に倣って、最初は「(私が)〇〇さん ありがとうございます」から始めて、やがて「(神様が)感謝しています」「(神様によって)感謝されています」のように主体を切り替えてみました。<br /> <br /> この瞑想をすると眉間に意識が集まって、何やら眉間のところで螺旋状の竜巻みたいなものを感じます。やがて、エネルギーが眉間に集まるのですが、お腹のマニプラあたりに何かネガティブなものが溜まっているらしく、感謝の瞑想をするとそこのエネルギーの通りがあまり良くなくてちょっとじんわりときていましたが、感謝の瞑想を続けるにつれてマニプラあたりのエネルギーの通りも割と良くなってきました。<br /> <br /> 先日の竜巻の経験 でアナハタ優勢に変わりましたが、その時はまだヴィシュッダやアジナにそれほどエネルギーがある感じではありませんでした。そもそも竜巻の経験の前はヴィシュッダやアジナにエネルギーがあまりなかったので、竜巻の経験でエネルギーが頭の方まで通るようにはなったのですが、それでも、それほどエネルギーがある感じではなかったということです。その後も、瞑想中は集中することでエネルギーがアナハタからヴィシュッダやアジナに一時的には集まるのですがやはりアナハタ優勢でした。だいたい2対8くらいの割合でアナハタ優勢だったでしょうか。<br /> <br /> しかし、この感謝の瞑想をしたら4対6くらいに比率が変わりました。依然としてアナハタ優勢ではありますが、ヴィシュッダやアジナにエネルギーが留まりやすくなったように思います。感謝の瞑想に何かの鍵がある気がしてきました。まあ、昔から良いとされてきた感謝の瞑想ですので、悪いわけがないとは思います。この感謝の瞑想をすると、瞑想が終わった後もアジナに静電気のような感覚がしばらく残っています。<br /> <br /> <br /> Sun, 04 Aug 2019 00:00:00 +0900 懐かしい欲求と無意識の水面の下 https://w-jp.net/2019/1595/ <br /> ■懐かしい欲求<br /> かつて戯れていた、かつて楽しんでいた、かつて欲していた。その懐かしい気持ち。<br /> 懐かしい何か。忘れてしまった何かを取り戻したいという微かな欲求。<br /> その欲求が、ひらひらと瞑想の只中でそよ風のように私の中に流れている。<br /> <br /> それは、かつてあったもの。かつて私の中に、当然として占めていたもの。<br /> その欲求はもはや風前のともし火となり、懐かしい欲求として秋風のように微かな風としてしか私の中に残ってはいない。<br /> <br /> そのそよ風は、私の心の水面を軽く揺らしている。<br /> 水は無意識であり、無意識の表面が心だとすれば、私の心を今揺らしているのはかつての懐かしい欲求であろう。<br /> <br /> 無意識は、懐かしい欲求によって微かに揺られている。と同時に、私の心も揺さぶられている。<br /> <br /> しかし、その欲求は瞑想の中で、やがて強さを失って消えて行った。<br /> 完全に消えたかどうかは分からない。しかし、先日よりも確かに弱まっている。<br /> <br /> 欲求がおさまるにつれ、心は平穏になってゆく。<br /> <br /> ふと、周囲の家から子供の楽しげな声が聞こえてきた。週末の夜だ。<br /> 瞑想中にそれが聞こえてきてもいい。その楽しそうな声があろうとなかろうと、私の心は平穏そのものだ。<br /> 相当な騒音ではない限り、瞑想の状態はそう変わらない。<br /> <br /> 心を揺らすのは、今や息をする時の観察する心のみ。<br /> 息をするとき、心がそれを観察している。すると、観察する時の波紋が心に広がる。それのみ。<br /> <br /> 言い換えると、無意識という湖の表面である心に微かな波紋が広がって、やがては波紋は消えてゆく。<br /> 懐かしい欲求はかつてその何倍もの波紋を作っていた。しかし、今や自分の息を観察する波紋のみになった。<br /> <br /> ■無意識の水面の下<br /> 今、ようやく、無意識という湖を覗き込んだ。しかし、中はまだ濁っている。<br /> <br /> 水面が静かになっても、今まで無意識が風によって動いていたために、無意識がまだ濁っているようだ。<br /> もしかしたら、これは十牛図で言うところの見牛における「微かに牛を見つける」と言うことなのかもしれない、とふと閃いた。<br /> <br /> これから、平らな水面を保持した時、無意識の中が見えてくるのだろうか・・・?<br /> <br /> まだ、無意識の湖の底は見えない。<br /> <br /> 湖のように、風のない日々が長く続けば続くほど汚れが湖底に沈んで無意識の水が澄んでくるのだろうか?<br /> <br /> 水面は、以前は波立ちやすいサラサラとした液体のようだった。小さな風で大きな波紋ができていた。<br /> 今は、水そのものというよりは、透明ではあるものの、粘質がある液体のようになってきた。<br /> 粘質があるので、風が吹いて波紋が広がってもすぐにその波紋は静まってしまう。それでいて透明な液体。不思議な感覚だ。<br /> そもそも風があまり強く吹かないので、波紋がほとんど広がらない。<br /> <br /> これは、オーラの質とも関係しているのでしょうか? そんな気がしなくもないです。<br /> <br /> ■静か<br /> 瞑想の中だけでなく、瞑想が終わってからも世界が静か。<br /> <br /> 息を感じるだけ。息が心を揺らすだけ。風が窓から入り、皮膚を撫でる。その感覚が心を揺らすだけ。<br /> <br /> その感覚に、特に付け加えることもない。何かを付け加えようとすれば蛇足になるだけだ。<br /> <br /> ただ静かにいるだけ。それだけでいい。<br /> <br /> ■過去の記憶を探る<br /> 無意識はヨーガで言うところのサムスカーラ。いわゆる過去の記憶。<br /> 無意識を探ると思わず叫びだしたくなるものも眠っている。なるほど、これが魔境か。<br /> <br /> 思えば、昔から常に探っていた。<br /> 無意識からの追憶はこの段階に限ったものでもないが、今は静けさと共に探ることができる。<br /> <br /> <br /> Sat, 03 Aug 2019 00:00:00 +0900 チャクラの花びらと浮き上がった感覚 https://w-jp.net/2019/1593/ <br /> ■チャクラの花びら(蓮の花)<br /> 後頭部のあたりから前方方向に花びらのようなオーラが広がっている感覚。赤ちゃんの頭巾やフードのように頭の周囲にひらひらと何かが漂っている感覚。頭巾とは違って花びらのように1本づつ分かれています。最初は割とまとまりがなくて上下左右に広がって揺れていました。これはオーラの形がなんとなくそういう感じに見えた(気がする)というだけで、本当の花びらがあるわけではありません。ひまわりの花のようにも見えます。伝統的ヨーガのチャクラでは蓮の花びらですが、オーラの花びらが咲いているかのような感覚。最初はゆらゆら動いていましたが、定(じょう)が深まって集中力というか観察力が高まるにつれてそのオーラの花びらの先っぽまで気が行き届くような感覚。最初は風に揺られるように規則性がなく揺られているだけでしたが、定が高まるとそのオーラの花びらは、まるで、刺激を受けて気が入った動物の尻尾のようにオーラの花びらの先っぽまで意識が入り込んだ感じがします。そうすると、オーラの花びらはだんだんと筒状になるというか根元からピンと伸びてきて、花びらの先っぽが前方向を向きました。今までそれは後頭部のチャクラのお話でしたが、花びらの数は数えられませんでしたが10以上はありました。アジナは二つなのでアジナではないのかもしれません。後頭部のような気がしましたがヴィシュッダだったのかも? ヴィシュッダだとしたらもしかしたら16かもしれません。そんな状態に続いて、ハートの花びらも同様にひらひら状態だったのが意識が入るにつれて先っぽが前方を向くようになりました。定が深まって集中力と観察力が更に高まると、お腹のあたりもちょっと硬くなる感じがしました。お腹の花びらは感じませんでした。今回、花びらは後頭部とハートだけです。今回の定(じょう)の安定度は今までより高かったように思います。花びらの動きは、集中力と観察力に応じて形が変わる気がしました。まあ、瞑想中のお話ですので、そんな気がする、というくらいですけど。<br /> <br /> ■浮き上がった感覚<br /> 上記のチャクラの花びらの瞑想の後の方で、体は座ったままなのですが、意識の体だけ数センチ浮き上がった感覚が何回かありました。<br /> これはヨーガ行者の経験談で度々聞くお話です。それほど珍しいことでもないようです。今まであまり気にしていませんでしたが、何かの段階の「しるし」だったかもしれませんので、そのうちまた書物を確認してみます。たしかヨーガ根本経典あたりで実際の肉体が宙に浮くお話はあった気がしますが、「意識だけ」のお話はどこにありましたかね・・・。まあ、魔境の一つとして無視しといても良いのかもしれません。これだけ熱心に書物を探すほどでもないですが、何かの折にたまたま見つけたら確認する、というくらいの低い重要度です。<br /> <br /> ■消しゴム<br /> そういえば20年くらい前にどこかのスピリチュアル本で読んだことをふと思い出したのですが、エゴを消すにはイメージで消しゴムを使ってエゴを消したり、体と周囲の境界線をイメージ上の消しゴムで消したり、トラウマを消しゴムで消してゆけば良い、と書いてあったことを思い出しました。何故こんなことを思い出しかと言いますと、「悟りに至る十牛図瞑想法( 小山 一夫 著)」の心身脱落の説明のところに、周囲との境界を消してゆく、という方法が書いてあったからです。瞑想中に周囲との境界線を消して溶け込ませてゆけば自我がなくなる、という方法のようです。特別私はこれをお勧めはしませんけど、思い出しましたのでメモ書き。<br /> <br /> ■魔境<br /> 先日の続きですが、根拠は不明確で今後更に確認が必要なところではありますが、私の内なるガイドが瞑想中に教えてくれたことによりますと、いわゆる魔境というのは瞑想の仕方が間違っている(あるいは組み合わせが良くない、あるいは瞑想とその人の相性によって生じる。しかしながら瞑想の仕方が間違っていることがほとん