スピリチュアル: 瞑想録 https://w-jp.net/topics/スピリチュアル: 瞑想録/ スピリチュアル: 瞑想録 マインドの思考を働かせる感覚と瞑想 https://w-jp.net/2021/2428/ <br /> 自分の意識はハートのアナハタを中心にして周囲へと広がっており、自分の少し外側にまでその領域が達していますが遠くになるにつれて次第に薄くなって行きます。<br /> <br /> 一方、思考する心であるマインドが働く時も同様にハートのアナハタから水面の波紋あるいは衝撃波のように波が作られ、それが周囲へと広がってゆきます。<br /> <br /> 意識はより微細ではありますけど、思考する心とも一部重なっていて、意識がマインドに働きかけることによって意識よりもう少しだけ粗雑なマインドの機能が働いて思考の波を同じアナハタに作り出します。<br /> <br /> 意識が動く時も小さな波が作られますけど、マインドが動く時はもっと大きな波が作られます。<br /> <br /> 意識としての感覚はマインドよりももっと遠くにまで広がっていて、周囲から聞こえる心の声のような波をキャッチします。それははっきりと「外側」として感じられ、又、強さとしてはとても弱い思考の波です。<br /> <br /> 自分のマインドが黙って静かにしていても、そのような「外側」から来る心の声の波は止まることがないわけです。自分が黙ることができるのは自分のマインドの思考についてだけで、周囲から不意にやってくる思考の波を止めることはできないわけです。と言いますのも、「意識」は常に観察し続けるからです。<br /> <br /> とは言いましても基本的には周囲からの雑音のような心の声はとても弱くて基本的には意識の妨げになりません。ただ、その雑念に共感してしまって自分の心のマインドを働かせてしまった場合は周囲からの雑念がトリガーとなって自分の思考のループが始まってしまいますけどそれなりに浄化が進めばそのようなループになることはなくて、ただ自分のマインドが静かに黙って意識が観察し続けるという瞑想をすることができるわけです。<br /> <br /> そのように、明示的にマインドの思考を働かせるという感覚があるわけですけど、瞑想が進んでいない場合はその感覚がよく分からないわけです。<br /> <br /> 明示的、ということは、意識がそう意図することでマインドを働かせない、ということも意識的に行うことができるわけで、それは意識を働かせるというよりは意識を制御して律することでマインドを動かさない、という状態なわけです。それはマインドを動かさない、というよりは、意識を観察状態に保って意識をマインドを動かすように意図しない、ということでもあります。<br /> <br /> マインドの思考を働かせるという感覚それ自体は観察ですけど、その一方で、意識は「働きかけ」という作用もありますので、意識でマインドに働きかけない、という状態がマインドが黙っている状態なわけです。<br /> <br /> マインドが黙っても「観察」の状態は続きますので、意識は自分のマインドが黙っていることを観察して、それと同時に、周囲から入ってくる小さな雑念も観察しますけど、意識はマインドを働かせずに観察の状態を保ちます。それが瞑想です。<br /> <br /> Wed, 04 Aug 2021 00:00:00 +0900 マインド(思考する心)が黙っている状態でも意識は働く https://w-jp.net/2021/2427/ <br /> 肉体の口が何も喋らず黙っているのと同じように、思考する心であるマインドも黙ることができます。<br /> <br /> そのようにマインドが黙った状態でも意識は働いていて、観察をしています。<br /> <br /> しかしながら、瞑想をそれほどしていなくて意識が曇っている場合はマインドが黙ることはほとんどないですし、意識の観察もほんの僅かにしか動いていないわけです。それは厚い雲で覆われているかのように意識が見えなくなっている状態で、厚い雲の中に含まれている感情が度々マインドに現れてきて心の声・雑念がループしている状態になっているわけです。<br /> <br /> その厚い雲を取り払う手法としてヨーガなどではクリア(浄化)の手法があったり瞑想そのものを訓練して少しづつ意識を覆い隠している覆いを取り除いていくわけです。<br /> <br /> これらのことはヨーガの聖典であるヨーガ・スートラに述べられているように「心の波を止めること」ではあるのですけど、ここで止めるのはマインド(ヨーガでいうチッタ)の揺らぎを止めることであって、日本語訳では「止滅」とか表現されていますけど、文字通り捉えてしまうと「心をなくしてしまうこと」みたいな誤解がよくあるのですけど、そういうことではないのですよね。<br /> <br /> 止滅というよりは、もっと簡単なお話で、日常生活において道徳的な人は無駄なお喋りをせずに黙って静かにいることができますよね。道徳で言っているのは肉体の言葉として黙ることですけど、ヨーガスートラでは心の声を黙って静かにいましょう、と言っているだけなのです。<br /> <br /> もちろん、肉体の口が黙っていたとしても必要な時は喋ることができますし、それと同様に、マインドとしての心の声が黙っていたとしても必要な時はマインドが動いて思考することができるわけです。<br /> <br /> よくある誤解として、「心をなくしてしまって、一体どうするつもりなのだろうか」という批判がありますけど、ヨーガ・スートラで言っているのはそういうことではなくて、もっと単純で、肉体の口が黙って静かにいるのと同じように、心のマインドも静かにしましょう、と言っているだけなのですよね。<br /> <br /> そうして、心の声が静かになって黙ることができるようになる時、ヨーガスートラではその次の節で「その時、見るものはそれ本来の状態に留まる」と書いてあって、文字通り読むとよくわからなかったりしますけど、これも文字通りというよりはもっと単純なことで、意識を覆い隠している厚い雲を取り除けばその奥にある意識がそれ本来の状態に戻って意識が働き出す、と言っているだけなのですよね。<br /> <br /> ですから、そのように心の声が静かになることと厚い雲を取り除くことは割と同時に進展して行くことということもできますし同じことを違った表現しているだけ、とも言えるわけです。<br /> <br /> そうして、マインドの心が黙ることができるとその奥にある意識がありありと現れてきて、意識がマインドを動かして、かつ、意識がマインドを観察している、ということがはっきりと識別できるようになるわけです。<br /> <br /> そのように、意識が背後にある状態でマインドが意識的に黙ることもできますし、意識的にマインドを使って思考することもできるわけです。マインドが意識的に黙る、というのは語弊があるかもしれませんけど、意識的に黙る、というよりは、意識を明示的に働かせずに静かな状態に保つことによってマインドを動かさない状態に意図する、というのが表現的には正しいかもしれません。<br /> <br /> それは肉体の口が黙るのと同じで、肉体の口が黙る時は2つの方法があって、何か他のものに意識を集中させることで黙る方法と、あとは、単に静かに座って黙る方法とがありますけど、ここで言っているのは後者に近くて、意識がマインドを働かせないことによって黙ることができるわけです。<br /> <br /> 最初は、マインドとしての心の動きがなくなってしまうと何もないかのように感じられてしまって「自分がない」状態として感じられるかもしれません。それは意識が厚い雲に覆われていて意識があまり現れていないからそのように思うわけで、そのような状態では次々にマインドを働かせることによって「自分」としての存在を維持しているわけです。ですけど、ヨーガやヴェーダンタが伝えるところによればマインドは「自分」ではないのですよね。マインドはただの「道具」にしか過ぎなくて、「自分」は意識の方なわけです。<br /> <br /> マインドとしての自分しか感じられなくて意識の方の自分を感じられない人が割と現代には多くて、そのような状態ですと、「マインドとしての自分をなくしてしまったら、それで一体どうすればいいというのか」みたいな誤解をしてしまうわけです。マインドは道具でしかなくて意識の方が自分なのですから、マインドが黙ったとしても意識としての自分は存在し続けるわけで、ですから、マインドが黙っても全く問題なくて必要な時に必要な思考をすれば良いだけなのですけど、マインドが自分だと思っている人は次々に思考を繰り広げて思考を止めようとしないわけです。そのようなマインドの働きの作用が「自分」という錯覚を作り上げているというのはヨーガ的に言えば「アハンカーラ」の働きで、マインドを働かせた反作用として本来ないものである感覚が生まれて「自分」という錯覚を作り上げているわけです。<br /> <br /> そのような錯覚を乗り越えて、マインドが働かなくても自分が「意識」として存在していることを認識すればマインドが黙ろうが働こうがあまり関係がなくて、慣用句で言われているように「意識的な生活」を送ることができるわけです。<br /> <br /> Wed, 04 Aug 2021 00:00:00 +0900 極度の集中状態(ゾーン)にて歓喜が沸き起こる https://w-jp.net/2021/2426/ <br /> 瞑想というよりも技術職や職人など何かの作業に上達して極度に集中するとゾーン状態になり、歓喜が沸き起こります。自らの心の中全てがその集中の対象と一体になり、感情としての喜びが奥底から湧き出てきます。<br /> <br /> それは最初は何ヶ月かに一度あるいは1年に数回あるいは数年に一回、というように時々にしか起こりませんが、やがて、集中することによりすぐに何度でも毎日でも歓喜が沸き起こるようになります。<br /> <br /> その状態では自らの奥底と繋がりますのでトラウマや何やらも含めて無意識の面が表に出てくるのですが、その一方で、作業の効率は上がりますし歓喜が沸き起こって喜びのオーラに満ち溢れます。集中して作業をすることがエネルギーを高める手段になり、奥底からエネルギーが沸き起こってくるのを感じます。ゾーン状態で何かに集中して作業することにより喜びと結果とが同時に現れてくるわけです。<br /> <br /> これは味方によっては瞑想ですが明示的な瞑想をしていなくてもこのような歓喜が起こる時があって、とはいいましても瞑想をしていた方がよりはっきりと意図的にゾーン状態に入れるように思います。<br /> <br /> 瞑想をすることでポジティブになり、集中力が上がり、喜びに満ち溢れ、結果も出せるようになるわけです。<br /> <br /> この種のことはマインドフルネスとして結果を追い求める瞑想という位置付けで多様に紹介されていますけど、実際のところ、そのような表面上の現れというのは瞑想における副産物であって悟りの道で現れる現象に過ぎないわけです。とは言いましてもこの現代社会を生きる上において役立つ道具であるのは確かなわけで、この種の現世利益を否定する人も大勢いますけど、私は、そんなこと言っていないで普通に利用したらいいと思っています。<br /> <br /> 特に最近の人はわざわざ瞑想とかいうと敬遠してしまいますし、普通に仕事をしながら効率よくポジティブにすることができて、いつの間にかそれが悟りの道に繋がっていた、というくらいでもいいと思うわけです。一番最初から悟りとか言っている必要はないと思いますし、気がついていなくても悟りの道を歩んでいることだって多々あるわけです。そしてふと気がついて真実を知ることもあるでしょうし、そんなに目的とかうるさく問わなくてもいいと思っています。そもそも仏教などの初心は割とブッダの出家時の悩みに即したものだったりしますし、ブッダの悩みが全てかと言えばそうでもないわけで、ブッダのストライクゾーンに当てはまらないからと言って否定する必要はないと思います。<br /> <br /> 話を戻しますと、この種のゾーン状態が瞑想の入り口になるわけです。<br /> <br /> 瞑想というと座って息を観察するだとかマントラを唱えるだとか皮膚の感覚を観察するだとか仏をイメージするとか色々ありますけど、それよりも、ゾーンに入るのが一番の早道だと思うわけです。特に最初の段階としては。<br /> <br /> 私の場合、瞑想やヨガを本格的に始める前は仕事においてゾーンに入って歓喜とエネルギーを感じていました。その頃でも子供の頃から色々と勉強はしていましたけど座った瞑想を本格的にはまだしていなくて、それでも、ゾーンくらいには入れていましたね。たぶんゾーンに初めて入ったのは高校生の頃で、大学とか就職してからもゾーンに入って仕事をしていて、最初は時々ゾーンに入るという感じでしたけど上に書きましたように割とすぐに毎日でもゾーンに入れるようになりました。<br /> <br /> その後、ゾーンに入った時の歓喜が薄くなってきて、それは効果が薄れてきたというよりは自分の状態が良くなってきたのでゾーンの必要が次第になくなってきて、とは言いましてもゾーンは毎日のように続いていて、ゾーンの時とそれ以外の時の変化が次第に少なくなってきた、ということです。<br /> <br /> 私の場合、これが基礎にありますね。<br /> <br /> その基礎の上に瞑想やヨガを始めたら割と数ヶ月でナーダ音が聞こえてきましたし、進歩も早かった気が致します。<br /> <br /> Tue, 03 Aug 2021 00:00:00 +0900 喉に通るエネルギーを止めると静寂の境地になる https://w-jp.net/2021/2425/ <br /> 一つのテクニックとして、喉を上下に流れているエネルギーを喉の少し上で止めると頭の思考が止まって静寂の境地になります。喉そのものではなく、ちょっと後頭部に近い方の箇所にバルブのようなものがあって、そこを意識して締めるような感じにしてあげるとエネルギーが頭の方に行かなくなって思考が止まります。<br /> <br /> そのまま止めたままにしてしまうと頭の光のオーラがなくなってきてしまいますので思考が止まった後はすぐに締めを開放してあげてエネルギーを再度通すようにします。<br /> <br /> こうすることで、頭の思考が一旦止まって、それによって頭のモヤモヤあるいはモヤモヤとまでは行かないまでも水垢のように薄くついている汚れがかなり取れて意識がクリアになります。<br /> <br /> これは、瞑想をそれほどしていない場合はそもそも喉のところのエネルギーが通っておりませんのでやろうとしてもほとんど感覚もなくて効果もないわけですけれども、基本はエネルギーを通す状態にしておくのが良いのですけど、一時的にエネルギーを止めることで頭のあたりのエネルギーを枯渇させて思考を止めて、モヤモヤとしたものあるいは水垢のような汚れですらもそれは基本的にはエネルギーの一形態ですから、エネルギーが枯渇しようとするとそのような汚れであっても消費されるわけです。池の水を一旦抜くと底が見えて掃除もできるのと同じように、汚れた水は一旦抜いて、再度水(エネルギー)を満たしてあげることで意識がクリアになります。<br /> <br /> 最近は私は2つの方向性のどちらに向かうか決めかねているのと同時にそれ自体が何なのかを見極めようとしているのですが、その1つは静寂の境地で、もう1つは、割と雑多な想念の基礎として浸透しているアートマンを追求するという方向性です。<br /> <br /> 静寂の境地を基本として更なる静寂の境地を追い求める方が良いのか、あるいは、雑多な想念を入れてその奥底にあるアートマンを見出す方が良いのか。そこは微妙なところです。<br /> <br /> どちらもそれなりの根拠と効果があるような気がしてきていて、最近は割と「静寂の境地→雑多な想念とアートマン」という理解でいましたけど、もう終わりかと思っていた静寂の境地のそのまた奥に何かあるような気が最近はしてきていて、ひょっとしたらグルグルと回っているのかもしれない、という気もしてきています。<br /> <br /> それは、ある段階において静寂の境地と思われていたものが次の段階になればそれは雑多な想念であるし、次の段階としての静寂の境地になっても、もしかしたらそれすらも次のレベルからしたら雑多な想念であるかもしれないわけです。<br /> <br /> 静寂の境地から雑多な想念に戻ってその奥底のアートマンを見出す、という理解でいたのですけど、実際には、静寂の境地だと思っていたものが次のレベルの雑多な想念だったのかもしれない、という理解になりつつあります。この辺りはとても微妙で、自分の感覚でしかないので、静寂の境地と思っていたものも主観的な感覚ですので、戻っていたと認知していた感覚が実は同じものを見ていて、よりはっきりと見えるようになってきたが故に戻っているように感じられていた、ということかもしれないわけです。静寂の境地だと思っていたものをはっきりと見極められるようになるとその静寂の境地は実はもう少し微細な雑多な想念でできていて、感覚としては戻ったような気がしていましたが、実は同じものかもしれないわけです。<br /> <br /> 喉の少し上でエネルギーを止めるというテクニックは喉にエネルギーが通った後であれば割とどの段階でも使えるような気がしてきていて、雑多な想念があるなと思ったらエネルギーを一時的に止めてみると思考が止まって、もしかしたらこれがヨーガでいう「ラヤ」状態かもしれませんけど、その状態で更に静寂の境地が深まるわけです。そして、静寂の境地が深まったら締まりを緩めてエネルギーを再度通してあげます。<br /> <br /> Tue, 03 Aug 2021 00:00:00 +0900 瞑想は有から無、そしてまた有になる https://w-jp.net/2021/2424/ <br /> 瞑想は最初は具体的な対象があるところから始まります。呼吸だったり眉間だったり何がしかの集中する対象があるわけです。そしてやがては集中が極まり、いわゆるゾーンのような状態になって、そこまで集中が高まると今度は無の境地へ入っていきます。<br /> <br /> 無の境地はそれ自体である程度の達成で、その段階では顕在意識が集中してゾーンに入ることで物事がありのままに見れて心が静まった状態になるわけです。<br /> <br /> このゾーンを無というのか有の集中とするのかは言い方だけのお話で状態としては同じで、雑念が消えて心が静まるので無ではあるのですけど集中の対象はありますので完全な無ではなくて集中の対象としての有はあるのですけど無心と言ってもいい状態かと思います。<br /> <br /> そのように、最初は何かの具体性のある「有」としての瞑想から始まって、有を極めると「無」の世界へと入っていくわけです。<br /> <br /> その「無」の世界は何もないかというとそうではなく実際にはゾーン状態において対象を識別している心が働いているわけですけれども雑念に惑わされない状態になっているが故にアスリート等が高パフォーマンスを出すことができる領域なわけです。<br /> <br /> ですから、無心とは言いつつも心はあって、ですけど、強い集中のゾーン状態に頼っている無心の状態なわけです。それをゾーンというのか無心というのかは言い方の違いだけで割と同じことだと思います。<br /> <br /> そのように、有と無の極みとしてのゾーン状態があるわけですけれども、それは瞑想で言いますとダーラナ(集中)あるいはディヤーナ(瞑想)という状態なわけで、まだサマーディ(三昧)ではないわけです。<br /> <br /> サマーディの前までは割と「無」としての心の平安、静寂の境地と言ったものに頼っています。<br /> <br /> しかし、サマーディになりますと急にその「無」だった筈の世界が「有」として開けてきます。この段階になる以前は自分の内側に入っていって「無」の境地を探究していたのが、サマーディになると「外側」の世界が自分と少しづつ同等になってきて世界を「有」として認識し始めます。<br /> <br /> これはとても微妙なお話で、サマーディ以前に「外側」というと欲望の世界を意味しますが、サマーディであれば「外側」も「自分自身」なわけです。その、自分自身である世界を「有」として少しづつ認識し始めるのがサマーディの段階なわけです。<br /> <br /> 心を鎮めましょう、というお話はサマーディ以前であっても以後であっても基本ではありますけど心を無にするというお話はサマーディ以前のことで、サマーディ以後であれば心は常に存在していて世界を認識していますから無にはならないわけです。<br /> <br /> 最初はサマーディの力が弱くてサマーディから落ちた時に無になってからサマーディ状態に戻る、ということはありますけど、サマーディ状態であればそれは有なわけです。<br /> <br /> 瞑想を始める前の有の状態とサマーディの有とは全く違う状態ではあるのですけど傍目から見たら違いが分かりにくく、瞑想を始める前に外側の世界を楽しむことは単なる遊びでしかないですけどサマーディで外側の世界を遊ぶことはそれ自体がある種の修行のようにもなるように思います。サマーディ状態を保ったままどれだけ外側の世界で活動できるか、という行動の範囲はサマーディの深さに比例すると思いますし、最初は静かな行動でもサマーディ状態から落ちてしまいますけど、次第に、段階的に、少しづつ複雑な作業においてもサマーディ状態を保てるようになってきているような気が致します。これが、チベット仏教でいうところの「サマーディを生活と混ぜてゆく(セワ)」ということなのかな、という気も致します。<br /> <br /> Sat, 31 Jul 2021 00:00:00 +0900 心を鎮める段階と心を動かす段階 https://w-jp.net/2021/2423/ <br /> 瞑想は止観と言われていますように「止(シャマタ)」と「観(ヴィパッサナー)」の要素があるわけですけれども、サマーディ(三昧)に至る以前であれば基本的にシャマタの段階なわけで、そこでは、心を鎮める、ということを行います。<br /> <br /> 静かに生活し、心を穏やかにして、雑念がなるべく入ってこないようにします。とは言いましても雑念は止まることがありませんからこの段階ではまだ雑念に悩まされることも多々あるのですけど、なるべく静かな環境を選ぶことで心を穏やかにします。穏やかにすることで心のコントロールがしやすくなります。瞑想を続けることで雑念が減って、心が静まった瞬間が休まる時間になります。雑念は途切れ途切れに現れますけど、雑念が出てから次の雑念が出るまでの間が広がってゆき、その、雑念が出ていない「隙間」にとても寛げるようになります。これがシャマタの段階です。<br /> <br /> シャマタにおいては「心の静止」が重要になってきます。心が動いているときは「苦」で、心が止まった時は「楽」になります。<br /> <br /> その段階を経て、サマーディにまで達すると、段階的な変化ではあるのですが、心が動いている時でも休まるようになってきます。<br /> <br /> 私の場合、最初は物理的な体に対する観察(ヴィパッサナー)としてのサマーディから始まったように思います。その後、最近は心を観察するサマーディの段階に少しづつ入ってきたように思います。<br /> <br /> これはとても微妙なお話で、例えるならば昔は「砂の上に文字を書くような心の動き」で、今もそれは基本的にはそうなのですけど瞑想をしていると砂の文字の濃さが減ってくる瞬間があって、その時は心をその背後から観察できていて、背後から観察できているときは心のヴィパッサナー状態で、そのように心のヴィパッサナーができている瞬間は心の動きが「砂の上の文字」ではなく、「空中に浮いている文字」のように、自由な心として認識されるわけです。<br /> <br /> これは、シャマタの段階で心を鎮めていた時とは全く違って、心の観察ができる範疇において逆に心を意識的に動かしてゆく、ということが訓練になるように思います。<br /> <br /> 心を鎮める、という動作も基礎として必要で、心のサマーディ状態から落ちてしまった場合に心を鎮めることで心のサマーディ状態に引き戻す、ということを行います。その基礎があった上で、心のサマーディを強くしていくために可能な限り心を意識的に動かす、ということをするわけです。<br /> <br /> それは割と普段の生活において行えることで、仕事をしながらなるべく心のサマーディを保つ、ということができるかと思います。<br /> <br /> まだ私の場合は心のサマーディの力が弱くてそれほどではありませんけど、ことあるごとに気付きを深めることになります。<br /> <br /> これは、この前段階であるシャルドルにおいて「時々、ただ気付きを再確認するだけで自動的に雑念が自己溶解する]]ということとは違って、心を動かし続けていて、その背後からなるべく観察してあげよう、というお話です。<br /> <br /> おそらくは、シャルドルにおいてはまだ心のトラウマがまだそれなりに残っていたのですが、最近になって最後の大きなトラウマが解消されたように思えて、それ以降、シャルドルのように雑念が自己溶解というよりは、心が動いたままで観察するという心のサマーディの段階に少しづつ入ってきて、少しづつではありますがランドルに入ってきたようにも思います。<br /> <br /> 究極的な自己解脱の能力は、ランドルと呼ばれる。これは「自然にみずからを解放する」ことを意味し、蛇が自分のどくろをやすやすと、瞬間的に、素早く解くようすにたとえられている。「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」<br /> <br /> これは、文字通り読むと雑念のことかとも思っておりましたが、雑念やトラウマと大きく対峙するのはシャルドルまでで、この段階になると、雑念やトラウマはまだほんの少し残ってはいるもののそれに悩まされることはほとんどなくなって、トラウマの力もかなり弱くなって、そうなると心のサマーディ状態が可能になってくるのかな、と思います。<br /> <br /> ただ、究極的とは言ってもランドルの中にも段階があって、ランドルの初期状態としては心のサマーディはまだ弱くて、少しこの状態が続きそうな感じです。<br /> <br /> Thu, 29 Jul 2021 00:00:00 +0900 雑念が出ても放っておく、という教え https://w-jp.net/2021/2422/ <br /> 瞑想の流派によっては「雑念が出ても放っておきましょう」という教えがありますけど、その教えは瞑想の集中状態あるいはサマーディの、特に心のサマーディの観照状態において正しいように思います。<br /> <br /> ですけど、それ以前であれば、それは単なる標章としてしか機能しないように思います。<br /> <br /> 雑念が出ても放っておく、という教えに従って本当に放っておくならば雑念が拡大していって雑念のループにより雑念が強くなり、怒りや憎しみ、嫉妬などの思いがより強くなるのが(瞑想をあまりしていない人にとっては)普通のように思います。<br /> <br /> 雑念が出ても繰り返さない、という教えをしているところもありますけど、それは「結果」としてはその通りですけど、そのようにしようとしてもできるものではありません。<br /> <br /> もし、心でそのことを意図するのならば、瞑想ができているイメージを作り上げて「私は雑念が出ても放っておくことができています」「私は雑念が出てきても繰り返しません」という、雑念でしかない心の思いを何度も繰り返すことでその気になる、というようなことも簡単に起こります。これは瞑想初心者にありがちなことで、おそらくは誰しもが通る道ですのでそれほど悪いことではなく、むしろ、瞑想をして少し経験を積んだ証となるものですけど、そこで立ち止まるわけにはいかないのですよね。<br /> <br /> 結果として雑念をループさせない、というのは良いとして、それ自体が「手段」ではないのですよね。<br /> <br /> ですから、雑念をループさせないための手段を考える必要がある訳です。<br /> <br /> それは聖典に記載されていて、マントラを唱えるとか、眉間に集中するとか、聞こえる人であればナーダ音を聞くことで心を一点に縛りつける、というようなことをおこないます。これらは手段としては違いますが、いずれにしても彷徨う心を縛り付けて1点に集中させる、という点においては共通しています。これらの手段のうち、通っている流派で教えている方法があればそれをすればいいですし、あるいは、選べるならば自分に合ったやり方をすれば良い訳です。この段階において良し悪しはさほどなく、好みと、自分に合った志向があるだけです。<br /> <br /> この段階では「雑念が出ても放っておく」ということはなくて、雑念が浮かぶ場所である心の動きを封じ込めて1点に縛りつけることで他のことが心に浮かばないようにするわけです。マントラを唱えて集中しているときは雑念が入ってきませんが、油断すると雑念が入ってきますのでそこは意思の力でマントラに集中を何度となく戻す、ということをおこないます。眉間に集中する場合もそうです。眉間に集中していると雑念が入ってきて眉間への集中が途切れたりしますが、ふと気づいて意思の力で眉間への集中を戻してあげます。これは目を瞑っているとなかなか気付けない場合もありますが、急いでいなくて時間に余裕がある場合は少しづつ行えばいいと思います。ナーダ音に関しても同様で、ナーダ音に集中することが基本で、雑念が入ってきてもそれは放っておいて、ふと気づいてナーダ音に意識を戻してあげます。<br /> <br /> この種の、雑念が入ってきてもそれを追わずに放っておいて瞑想の集中に戻す、というのが基本としてあります。このお話は、心は基本的に1つしか考えることができない、ということをベースにしています。瞑想の集中の対象にフォーカスして、雑念が入ってきてもそれを追わずに放っておいて瞑想の対象に集中しましょう、という教えです。<br /> <br /> 瞑想において雑念が出ても放っておく、というのは基本的にはこういうことを言っているわけですけど、その先に、サマーディ状態において心の観照状態というのもあって、それも表現としては割と似ていて雑念が出ても放っておく、ということにはなるのですけど、心のサマーディにおいては心の背後にあるアートマン(真我)が観照している状態ですので、状態としてはかなり違うわけです。<br /> <br /> Tue, 27 Jul 2021 00:00:00 +0900 心の観照の2つの段階 https://w-jp.net/2021/2421/ <br /> 観照においては心の動きをはっきりと把握できますが、それは瞑想が進んで心の動きが緩やかになった時に可能になります。<br /> <br /> その、はっきりとした心の動きの観照というのはどうやら2種類あるようです。<br /> <br /> 1つは、心そのものを観察できること。この段階では、心の動きはまだぼやっとしたものとしか感じられませんが、それでも観照と言えば観照です。<br /> <br /> もう1つは、心の動きをその背後にあるアートマン(真我)がダイレクトに動かして観察していることを感じられること。これが本来の観照のような気がしてまいりました。<br /> <br /> この2つは実際にはかなり明確に違っていて、最初のものは最初こそ観照かと思ったのですが今から思えば観照というよりは観察していた、というくらいのものだったようにも思います。<br /> <br /> 観照となると、はっきりとその背後にあるアートマン(真我)を認識できるようになります。<br /> <br /> アートマン(真我)は、単に見ているだけでなく、意図を送り出してくる源でもあります。その両方の面があります。<br /> <br /> 心のように具体性はそこまでありませんが、意図がそこに感じられて、意図の源でありかつ観察者であります。<br /> <br /> その、心の背後にあるアートマン(真我)を認識できて、働きかけてくる意図と観察という両面があることがはっきりと自覚できている状態が観照だと思います。<br /> <br /> Tue, 27 Jul 2021 00:00:00 +0900 体のサマーディから心のサマーディへ https://w-jp.net/2021/2420/ <br /> 今までは基本的に物理的な体をダイレクトに動かすというサマーディでした。<br /> <br /> それは、ヴェーダンタでいうところのアートマン(真我)が「私」の本体で、物理的な体が「動かされているもの」という関係です。<br /> <br /> ここでアートマン(真我)のことを少し説明しておきますと、物理的な体および心(マインド)はアートマン(真我)ではないのですが物理的な体あるいは心あるいはその両方がそれ自身を「私」だと誤認していて、誤認している自分自身のことをヴェーダンタでは「ジーヴァ」と言います。ここで、ジーヴァとしての私とアートマン(真我)としての私、の2つの私が出てくる訳です。<br /> <br /> 上で言っているのは、アートマン(真我)の方の私が物理的な体をダイレクトに動かしている実感のあるサマーディ状態、ということです。<br /> <br /> 心が司令して体を動かす、というのは普通のことで、それはサマーディのお話ではありません。一方、アートマン(真我)がダイレクトに体を動かす、というのはサマーディのお話です。<br /> <br /> そのようにアートマン(真我)と物理的な体、という関係だった訳ですけれども、最初は割とそのアートマン(真我)と物理的な体は離れていて、やがて、それは近付いてきました。<br /> <br /> アートマン(真我)と物理的な体とは割と別物といえば別物なのですが一体になって動いていて、最初は離れていると感じられていたものが、最近はその感覚がかなり密着してきた、ということです。肉体の体に以前より更に密着して存在しています。<br /> <br /> アートマン(真我)はダイレクトに動かすだけでなく感覚として認知もしていますから、体を動かすと同時にそれを把握している訳です。心が行うように明示的な指示というよりは体の各所の感覚を同時に感じている訳です。<br /> <br /> そのアートマン(真我)の感覚は少し前までは肉体だけで、心に関しても以前より更に自由になったとはいえ、心に関してはそのくらいでした。<br /> <br /> しかし、ここにきて、ほんの僅かではありますが、アートマン(真我)が心(マインド)をダイレクトに動かしているという実感が瞑想中にだけ少し感じられるようになりました。<br /> <br /> 肉体よりも心はもっと微細で微妙なものですので感じるのは難しいのですが、瞑想をしていると、マインド(心)の奥底にあるアートマン(真我)がマインドを動かしていることをわずかに感じられます。<br /> <br /> 日本語で心と言ってしまうと魂とかアートマン(真我)に相当するところまで含まれてしまうかのような広い意味がありますけど、ここで言っているのは、思考する心である英語のマインドのことです。そのマインドとしての心が肉体と同じようにアートマン(真我)によって動かされているのだ、という実感が出始めています。<br /> <br /> 肉体の方は日常生活においてもアートマン(真我)が動かしているという実感がありますけど心の認知の方はまだ弱くて、瞑想中にしか感知できていない状況です。とは言いましてもその感覚がわかってしまえば同じことだと思いますので、あとは深めれば良い、と思っております。<br /> <br /> Tue, 27 Jul 2021 00:00:00 +0900 ヨーギーにとってのアートマンがヴィパッサナー(観) https://w-jp.net/2021/2419/ <br /> ヴィパッサナーというと仏教のような印象がありますが、実際のところヴェーダンタで語られているアートマンがヨーギーにとってのヴィパッサナー(観)なわけです。<br /> <br /> 仏教はその教義において「無我」(アートマンがない)ことを標章していたりしますけど、その境地においてはヴィパッサナー(観)を言っていて、実際のところ、同じことだったりします。<br /> <br /> これはどういうことでしょうか。<br /> <br /> そもそも、ブッダがアートマンを否定してアートマンによる解脱を解くバラモンたちを説き伏せたのは、本当にアートマンを否定したのでしょうか。言い伝えによればブッダはそこでアートマンを否定して、それを根拠に仏教は無我、アートマンがない、ということを根拠にします。<br /> <br /> しかしながら、ブッダは非想非非想処を超えた境地に達したということであればそれは心と体を超えた境地に達したということであり、ヴェーダンタによれば心の次にはまだ段階が少しあるものの、その先にはアートマンがあるわけです。ですから、ブッダが体や心の段階を超えてアートマンに達したと考えるのは筋が通っているわけです。<br /> <br /> ヴェーダンタによれば人間の体は5つの鞘(パンチャ・コーシャ)に分かれていると言います。<br /> <br /> ■パンチャ・コーシャ(5つの鞘)<br /> 1. アンナマヤ・コーシャ(annamaya-kosa)物理的な体<br /> 2. プラーナマヤ・コーシャ(pranamaya-kosa)エネルギー(プラーナ)の体<br /> 3. マノマヤ・コーシャ(manomaya-kosa)マインドと5つの感覚器官にの体<br /> 4. ヴィニャーナマヤ・コーシャ(vijyanamaya-kosa)知性と5うの知覚器官の体<br /> 5. アナンダマヤ・コーシャ(anandamaya-kosa)カーラナ(原因)体、コーザル体。<br /> <br /> ブッダが非想非非想処を超えた時には少なくともマノマヤ・コーシャとヴィニャーナマヤ・コーシャは超えている訳で、であればおそらくはアナンダマヤ・コーシャも超えたのでしょうからそこはアートマンの世界な訳です。<br /> <br /> このように、アートマンの世界にブッダが達したのがおそらく確実であると思われる以上、上記の会話だけを取り出して「ブッダはアートマンを否定した」とは言えないと思う訳です。であればブッダが言っていたことは以下の2つの可能性に絞られます。<br /> <br /> ・ブッダはヴェーダンタを勉強していなかったので言葉がすれ違っていた。<br /> ・ブッダはヒンドゥが作り出した階級社会にあぐらをかくバラモンを批判した。<br /> <br /> ブッダは王子の生まれですのでおそらくヴェーダンタもそれなりに勉強していたのではないかと推測されますが、そこはよくわかりません。<br /> <br /> 私はそれよりも、2つ目の、バラモンという特権階級に対する批判としてアートマンを否定して見せて「あなたの修行は足りないのではないか」と辛辣に指摘して見せたのではないでしょうか。<br /> <br /> ブッダほどの人がアートマンを理解していなかったとはとても思えません。アートマンを理解した上で、体制にあぐらをかいて修行も大してしないバラモンとは一線を引く立場だったのではないかと想像するのですがどうでしょうか。<br /> <br /> それを後世の人が誤解してアートマンの否定と解釈するのは個人の自由ですけど、境地を見てみると仏教が説くヴィパッサナー(観)とヴェーダンタが説くアートマンはとても似ていて、同じと言っても差し支えない気が致します。<br /> <br /> 誤解がないように申し上げておきますと、それぞれの流派の人はおそらく別物として捉えていると思います。ですから、流派の人に「同じでしょう?」と言っても通じないと思います。あくまでも私の解釈として、同じに見える、ということです。<br /> <br /> Mon, 26 Jul 2021 00:00:00 +0900 満ちているものが体をダイレクトに動かす https://w-jp.net/2021/2418/ <br /> 体と重なって体およびその周囲に満ちているものがアートマン(真我)です。その満ちているものが体をダイレクトに動かしているのですが、もともと誰しもがそのようになっている筈ではあるのですが自覚があるのがサマーディ(三昧)の状態で、自覚がないのだとしたら普通の状態です。満ちているものが感じられなくて体を動かしている場合は普通の状態です。ですから、普通に「ダイレクトに体を動かす」と言われた時に「まあ、そうだよね」となりがちなのですけど、満ちているものを感じられているかどうかが大きな違いなわけです。<br /> <br /> 満ちているものはアートマン(真我)なわけですけど、その質としてはブラフマン(全体)と同一であると聖典には書かれてあります。アートマン(真我)とは個としてのブラフマン(全体)であり、実際にはアートマン(真我)とブラフマン(全体)は同一です。ですけど限られた意識においてはアートマンが切り離された個として認識されているためにアートマンが個とはなってはいるものの、それは実際にはブラフマン(全体)と同一であるということです。<br /> <br /> このダイレクト感は最初は割と切り離されたものとしてはっきりと認識されます。<br /> <br /> ですから、最初は、アートマン(真我)と物理的な体が別物として存在しているかのように感じられ、特に最初は体とは重なっておらず「外側」に存在していて外側から段々と近づいてくるかのように認識されます。私の場合は最初は胸の少し離れた後ろにあって、感じ始めた最初の瞑想の中で少しづつ身体に近づいてきました。<br /> <br /> 最初はそれは単に創造・破壊・維持の意識として始まり、最初はそれが体をダイレクトに動かしているという感覚はなく、単にそのような3つの意識、特に創造と破壊としての意識が強く感じられた状態でした。<br /> <br /> その後、不意に意識が高まり、意識(アートマン)が体をダイレクトに動かしていると実感するようになりました。<br /> <br /> 最近は更に進んだのかあるいはもしくは後戻りしたのかもしれませんけど、おそらくは安定してきたのか、割とこの状態が普通になってきて、普通、と言うのは、特別感が薄れてきたと言うことで、アートマンとしての意識と体とが更にぴったりとくっついてきて、ダイレクトと言うよりはアートマンの意識が体にぴったりとくっついた感じになってきました。<br /> <br /> 体をダイレクトに動かしていると言う時は、まだ少しアートマンとしての意識と体とがほんのちょっと離れた状態で、離れているからこそ「動かしている」と言う感覚があって、それ故に「ダイレクトに動かす」と言う実感がありました。<br /> <br /> ですけど、最近は、更にアートマンが体と一体になってきましたので、言葉としては割と同じ「ダイレクトに動かす」と言う言葉で表現するくらいしか言葉が見つからないのですけど、距離が近くなってきて、割とアートマンと体とが一体になってぴったりとくっついて動かすような感覚に変わってきました。<br /> <br /> これはとても微妙なお話で、状態そのものを見ると割と昔と変わらないと思うかもしれませんし、普通のことだと思われるかもしれませんけど、少し前にアートマンが離れていてダイレクトという感じだった時はその時々において気付きを入れてあげることにより雑念が溶解すると言う感じだったのが、ここに来ると、まだ力は弱いものの、体や心がどのような状態であろうとアートマンの意識が浸透する、という状態の前兆のようなものを感じます。<br /> <br /> シャルドルにおいては気付きを再確認することで雑念が溶解する状態だったのですが、それは、アートマンの意識と体とが一体にならずに離れてるが故にそのように気付きを入れた方が安定する段階だったと言える気が致します。<br /> <br /> その次の段階であるランドルは書物によれば瞬時の雑念の自己溶解と説明されていて、そのような表現もできるように思いますけど、そう表現するよりは、もはやアートマンが離れておらず体や心に浸透しているが故に瞬時に観念や五感の入力及び雑念も含めてアートマンが直接的に瞬時に体や心を認識できる状態であり、それ故に雑念が瞬時に溶解すると言うこともできますけど、溶解すると言うよりは、アートマンが体や五感及び心に浸透しているが故に瞬時に気付けるが故に心の認識が素早く完了する状態というのが基本にあって、それゆえに雑念も素早く気づけて次の雑念を自分が生み出すことが少ない状態、ということなのかと思います。<br /> <br /> それは消える、というよりは、素早く目の前を通り過ぎるようになります。雑念の繰り返しが起こらないが故に素早く消え去るように感じられるようになります。雑念そのもののスピードが早まるというわけではなく、単にそれをありのままに見られるようになって単に通り過ぎてゆくだけになりますので、繰り返しが起こらないが故に素早く消え去る、ということです。<br /> <br /> ですけど私の場合、そのようにアートマンと体とが一体になっている力がまだ弱いため、しかしながら、力が弱いのにも関わらずアートマンの意識が更に体や心と密着して一体になりつつあって、おそらくは過渡期のようなもので、一時的に多少の不安定さがあるのかな、という気が致します。<br /> <br /> このように段階を経る時の一時的な不安定さはスピリチュアルの成長にはつきもので、意識が朦朧としたり、色々な症状があるように思います。<br /> <br /> まあ、あるいは、このように解釈しているだけで、実際にはちょっと後戻りしているだけ、という場合もあるにはあるかと思います。そのような可能性も含めて、これから状態を見ていきます。<br /> <br /> Sun, 25 Jul 2021 00:00:00 +0900 最近の瞑想の手順 https://w-jp.net/2021/2417/ <br /> 基本:あぐらをかいて座り、眉間に集中する。<br /> <br /> 1.雑多なオーラを下半身から上半身に上昇させる。この時、上昇するように意図することはなくて、行うこととしては、単にあぐらをかいて眉間に集中するのみ。集中していると、不意にこのようなオーラの上昇が発生するので発生するまで眉間への集中を続ける。<br /> 2.もう少し固まったオーラが下半身から上半身に上昇する。行うことは同じ。上昇を意識することなく、単に眉間に集中する瞑想を続ける。頭の方にまでオーラが上昇する。まだこの段階では頭の全てがオーラで満たされなくても良い。頭の下半分だけでも良い。<br /> 3.頭の中あるいはその近くにあるモヤモヤとした雨雲のような薄黒い煙のようなタマスのオーラを喉のヴィシュッダに吸い込ませる。この時も、吸い込むことを意識することなく、ただ単に眉間に集中を続けるのみ。眉間に集中しているとやがてこのような状態が発生し、頭のモヤモヤが取れる。不意に発生して急に吸い込まれて意識がはっきりする。<br /> 4.体の中でオーラが行き届いていない場所があればそこにオーラを満たすよう意識する。この時は集中の場所をその該当場所に合わせる。この時は眉間に集中する必要はありませんが、常にその場所に意識しても良いし、眉間への集中とを交互に行っても良いです。例えば、私の場合は割と頭の頭頂あるいは頭の左上など局所的にオーラが行き届いていない時があって、それは「感覚がない」として認知されており、例えば頭頂あるいは頭の左上の感覚がないということはそこにオーラが行き届いていないということですから、そこにオーラが満たされるようにその「感覚がない」場所あるいはその周囲に集中します。感覚がないのですから厳密にはその場所そのものには集中できないのですが、その周囲に集中して、オーラをその「感覚がない」場所にも届かせるようにオーラを移動させるように圧力のようなものをかけてあげます。その後、すぐに反応があることもあれば、何回か瞑想をしてから変化が起こる場合もあります。変化としては、その場所に急に不意にオーラが満たされることと、それと同時に、意識の面においてもリラックスが相応に深まります。緊張が取れます。<br /> 5.同様のサイクルを続ける。最初は割と大きな変化から始まり、やがては少しの変化になります。そして、安定が深まっていきます。そこにおいても基本は眉間への集中の瞑想です。体全体への観察・観照状態が深まって常時サマーディ状態で行動できるようになれば座った瞑想をする必要がありませんので座った瞑想を解きます。そうは言いましてもしばらくすれば少しづつサマーディ状態から落ちてきたりもしますので座った瞑想で整えてあげるということは必要ですし、自分の状態を確かめるために座った瞑想をするということは続けます。ですけど、次第に座った瞑想というものが必要なくなってゆきます。<br /> <br /> 状態が悪い時は1から始まって状態が良ければ4から再開、というようにその時々に応じて行うことは変わりますけど、基本は単に眉間に集中するだけですし、必要なことが自然に起こりますから、特に何をするという意図をしなくても基本は眉間に集中した瞑想をするだけで良いわけです。1まで落ちることはそうそうなくて数ヶ月に1度あるかないかですけど、4番のように体の一部分、特に頭頂あるいは頭の左上のあたりにオーラが行き届いていない時は割とあって、そのような時に瞑想をしてオーラを充満させてあげる、ということはよくしますけど、その時も、一応はオーラが充満するように意図はしますしその周囲を意識するということは行いますけど基本は眉間への集中の瞑想を常に行うわけです。<br /> <br /> 補足<br /> この瞑想の手順とは別に、瞑想以前の問題として、もし調子が凄く悪い場合は死霊が(右肩に)ついている可能性があるので右肩(あるいは人によって違うかもしれませんが)を探って死霊あるいは何かの意識体をオーラの手のようなもので掴んで引き抜いておきます。そうすることで急に緊張が取れてリラックスできるようになります。何かに取り憑かれている場合は瞑想をして状態が回復してもすぐにまた調子が悪くなりますのでこれをするのは重要です。瞑想とか言う場合にこの種のお話はほとんど聞くことがありませんけど、経験上、取り憑かれていて瞑想の妨げになっている時は時々ある気が致します。特に街に住んでいて様々な悪霊に遭遇する頻度が高い場合に起こりやすいと思います。田舎の人はさほど心配いらないかもしれません。瞑想してうまくいかない場合はこれが原因であることも度々ありますので、右肩を探って掴んで引き抜いてみて、何も反応がなければなんでもないと言うことですし、もし急に緊張が取れたのでしたら何かが憑いていたということになります。時々、その意識体が胸のハートにまで触手を根のように伸ばしていてエネルギーを吸い取っている場合もありますので、その根も含めて引き抜いてあげると急に緊張が取れてリラックスできる、と言うような変化も時には起こります。このように取り憑かれている場合は鏡を自分で見てみれば目に緊張があって、慣れるとわかりますし、他人と目があった時にそらされる場合が多い時は取り憑かれている時が多い気が致します。特にスピリチュアルでなくても誰しもがこの種のことを直感的にわかっていると言うことだと思います。ただ、わかることと対処法は別ですので、取り憑かれている場合はしっかりと対処してあげる必要があります。古典的なヨガ瞑想とかではこのようなお話はなくて割とスピリチュアルの範疇ですけど、これは瞑想以前のものとして割と重要です。マインドフルネス瞑想などは科学的だと謳っているのでこのようなお話はできないみたいですけど、瞑想と言うのは目に見えない世界と対峙しますから、実際のところ、この種のお話とは切り離せないのです。科学的な瞑想と言っているところは、理解できない現象が起こったら例外として除外するかあるいは現実に目を背けて「そんなことは起こらない」と言って現実を否定したりしますけど、本当に瞑想を深めようと思うならば現実に向き合って対処する必要がありますし、そうなると、この種の死霊の問題を避けては通れないわけです。このようなことが起こらなかったり遭遇しないあるいは遭遇しているのに気が付かないのだとしたら瞑想がそれほど深まっていない、と言うことでもあります。そういえば本山博先生は「修行を進めていくと必ず魔に遭遇する。必ずね」と言っていましたが、それは真実だと思います。その時の対処方法は知っておく必要があります。実際には、誰しもが魔に遭遇していてもそれに気づいていなくて瞑想をすると気付き始めて対処もできるようになる、と言うことだと思います。漫画から言葉を借りるならば、瞑想をそれほどしていなくて魔に遭遇している状態は「極寒の地で全裸で凍えながらなぜつらいのか分かっていないようなもの(元はハンターハンターの台詞)」と比喩することもできるかと思います。<br /> <br /> Wed, 21 Jul 2021 00:00:00 +0900 サマーディ状態でオーラの調整をする https://w-jp.net/2021/2416/ <br /> サマーディでは雑念は割とすぐに消えてゆきますが、オーラの状態の調整は昔と変わらずした方がいいように思います。<br /> <br /> 雑念に関しては3段階あって、弱い力のチェルドル、中間のシャルドル、最終的なランドルとあるわけですけど、私の今の状態はシャルドルで、ランドルになるとどうかはわかりませんけど、少なくとも今の状態においてはオーラの調整が必要のようです。<br /> <br /> オーラの状態は揺らいでいて、何をするかというと特に今までと変わらず座ってあぐらをかいて瞑想をしながら眉間に集中するわけですけど、眉間に集中することでオーラが安定してきます。<br /> <br /> この状態ですと、自分がまどろみの中にいることを感じたりします。<br /> <br /> オーラが安定していない状態においては以前は雑念が出てきましたけど、今はただ単にオーラの揺らぎを感じてそれを見ているだけです。感じる、と言いますけど、目ではないですけど一応は視覚のようなもので煙あるいは濃い霧のような異空間のような不思議な空間が瞑想中の視界のようなものに入ってきて、その煙の中に様々な意識体が不意に現れては何かを主張したり不意な行動をしたりどこかに行ってしまったり、という揺らぎの空間があって、それを観察しているわけです。<br /> <br /> これはおそらく、オーラが安定していないと見なくてもいいものが見えてしまう、ということだと思います。見えているのはアストラル的な異空間かと思いますが、それはそれほど高い次元のものではなくて、単に人間の想念あるいは死後の意識体などが生活しているアストラルな空間のように思います。<br /> <br /> それは見る必要が本来なくて、もっと高い波動になればそのようなところにフォーカスしなくなるわけです。<br /> スピリチュアル的に言うと、波動が少し落ちているからそのようにアストラル的なものが見えてしまうわけです。<br /> <br /> スピリチュアルの波動の法則で言われているように、人が見えるものは自分の波動に即したものでありますから、アストラル的なものが見えるということは波動が落ちているわけです。<br /> <br /> そのような時は瞑想をして普通に眉間に集中してしばらくするとエネルギーが満ちてきて、やがてはオーラが安定してゆきます。オーラが安定していない時はエネルギーは下半身が優勢になっていますが瞑想をすることでバランスを取る、あるいは、頭の方にまでエネルギーを上げてあげます。そうするとオーラが安定して、アストラル的なものも見えなくなります。<br /> <br /> そのようにオーラが不安定の時は頭のあたりにもやもやとしたオーラの雲がかかっている状態ですので、瞑想をして眉間に集中することでそれらを取り払うことができます。取り払うと言ってもどこかに捨ててしまうということではなく、単に安定させて、特にそのような浄化されていない頭のオーラは吸い込まれるように喉のヴィシュッダで浄化されるようです。<br /> <br /> 瞑想をしていると、概ね2段階のエネルギーの上昇があります。最初は雑多なエネルギーの上昇、やがてはしっかりとしたエネルギーの柱の上昇、そして、その2つ目の上昇の後に頭にあったモヤモヤとしたオーラが急に喉のヴィシュッダに吸い込まれていきます。吸い込まれるときは少しづつというよりはスイッチが入ったかのように急に吸い込まれていく感じです。これが他に人にも同じかどうかはわかりませんが、私の場合、割とこの3段階を踏むことが多い気がします。日によってはオーラが安定していれば3段階目だけだったり2段階目と3段階目だったりしますけど、オーラが安定しない場合は3段階を踏んでオーラを安定させます。<br /> <br /> これらの状態変化は割と昔からあったのですが、アートマンの意識が現れ始めて以降、これらの状態変化と並行して、常に自分の体のオーラの状態を観察しているアートマンの意識が現れています。<br /> <br /> アートマンの意識があるからと言ってオーラが常に完璧に安定しているというわけではなく、アートマンの意識というのは奥深いところの意識でありますから、人間として生きる上でのオーラの安定は今まで通りメンテナンスしてあげる必要があるようです。当たり前と言えば当たり前のことですね。<br /> <br /> 一方で、アートマンの意識があると上記のようにシャルドルなどの状態になって「観察力」は激しく向上していますから、雑念の解決あるいはオーラの状態は昔よりもずっと詳細に把握できて、結果、解決も早いわけです。<br /> <br /> Mon, 19 Jul 2021 00:00:00 +0900 胸の内にまだ残る「個」の核を包んでいるつぼみが開けてくる https://w-jp.net/2021/2407/ <br /> おそらくアートマンの独存という段階に私はいて、まだ私は「個」として存在しています。「個」とは言いましても自分の内なるアートマンの質はブラフマンと同一だと自覚していて、自分の周囲の数mまでは自己同一視できている状態ではあるのですが、未だ、いわゆる「全て」と同一にはなっていない状態です。<br /> <br /> その、同一できていない状態はと言いますと、まだ「個」が残っている、ということでもあります。その「個」とは、概ね感覚的なもので、胸の中にまだ「個」が残っていると認識されていて、その「個」は、感覚で言いますと若干の緩やかな「緊張」のようなものとして認識されています。<br /> <br /> 緊張と言っても少しの緊張ではあります。体の周囲はいわゆる「無限」「空」あるいはアートマンとも言える「空間」に溶け込んではいるのですが、胸の内に至るまではまだその無限と完全に溶け込んではおらず、それは感覚としては「緊張」に似たようなものとして感じられているということです。<br /> <br /> それはトラウマとはまた違ったもので、この段階に至ってもまだトラウマというのはあるようで、とは言いましても以前よりトラウマの解消はとても早くなってきており、10秒とか30秒でほぼ解消できて、以前のように数分ということはないですし、かなり以前のように数日とか数ヶ月悩まされてるということも、もちろんないです。トラウマの解消の方法も変わってきていて、トラウマが出てきてもすぐに気付けるというのが第一で、それに加えてトラウマを結晶化して抜き出すということをしています。最近はお腹のあたりにモヤモヤと眠っていたトラウマを水晶あるいはダイヤのような形に結晶化して取り出しました。ですけど、ここで感じている胸の中の「緊張」のようなものは、トラウマとはまた違った種類のものです。内なるガイドによれば少し前に取り除いたダイヤのような結晶が最後の大きなトラウマだった、ということのようですから、今回のはトラウマとはまた違うようです。<br /> <br /> それは、比喩的に言えば「空じられていない私」ということになるかと思いますが、まだ最後に残された「私」が感覚的には「緊張」として認識されていて、もっと具体的に言えば、胸の中それ自体は緊張というよりもコアのような感じで、それがあるゆえにその周囲の、例えば肩のあたりにほんの少しの緊張が生まれている、という感じです。<br /> <br /> ヨーガではリラックスすることが重要とか言われていますけど、この肩の緊張は単に肉体的な緊張ではなくて「私」が存在することによる弱い緊張ですので、それが完全にリラックスできる日が来るのかはよくわかりませんけど、なんとなく、この「私」という胸の内の感覚が完全に空じられてブラフマンと一体化すると完全なるリラックスができるのでは・・・? と思っておりますが、どうでしょうかね。<br /> <br /> 階梯で言いますと私はアートマンの独存という状態にいて、まだブラフマンとは合一していない状態かと思います。<br /> <br /> 十牛図で言いますと「第五図 牧牛」から「第六図 騎牛帰家」ですね。<br /> <br /> ■第五図 牧牛<br /> 気付きによって真実を得ることもあるが<br /> 迷いによって我を忘れてしまうこともある<br /> 対象のせいでそうなるのではなく、ただ心より生じている<br /> だから鼻索を強く引いてためらわないようにせよ「悟りに至る十牛図瞑想法( 小山 一夫 著)」<br /> <br /> ここで真実と言っているのは心の本性(セムニー)が覚醒状態(リクパ)にあるということで、気付きの状態(リクパの覚醒状態)で真実であるアートマン(あるいはプルシャ)の自覚を得る、ということです。迷いによって我を忘れる、というのはリクパの状態から落ちてしまう時もある、ということです。ですから、この段階では時々、ただ気付きを再確認するということが必要です。<br /> <br /> ■第六図 騎牛帰家<br /> 牛と童子がぶつかり合うこともなくなり、ついに1つとなって家山へと帰ってゆく。(同書より)<br /> <br /> 同書によれば牧牛の段階はプルシャの独存で、騎牛帰家は(一時的な)ブラフマンとの合一、ということのようです。同書では騎牛帰家の段階で「プルシャ(アートマン)の離脱」が起こってブラフマンと合一すると書かれてありますけど、私にはその自覚はないですから、それはまだですかね。理屈で言っているだけで実際はただブラフマンとの合一、ということなのかなとも解釈できますけど、どうなのでしょう。実際にプルシャの離脱として認識されるのですかね。そこはまだわからないです。<br /> <br /> おそらく、牧牛の段階ではプルシャ(アートマン)が主に胸の内に存在していてまだブラフマンと合一していない、ということかと思います。私の場合、アートマンは胸の内に強く感じられて自分の周囲数mまで自己として認識できているものの、まだ胸の内に上記のようなコアがあるような感覚で、それは十牛図のように強く「ぶつかる」という感じではないですけど、そのコアはまだ上記のように若干の弱い緊張としてありますので、まあ、それを「ぶつかる」と表現できなくもない、という感じです。自分では「ぶつかる」とは言いませんけど、表現として、十牛図の言い方で言うと確かに一致しているかな、とも思います。<br /> <br /> 私は第五図 牧牛から第六図 騎牛帰家に進む段階のようです。<br /> <br /> これは、座った瞑想をしばらく1時間とか2時間すると緊張それ自体は解けて肩も柔らかくなるのですけど、それ自体がそのままブラフマンの合一というわけではないようです。<br /> <br /> 更に瞑想を度々しつつ何日かすると、緊張が解けるだけでなく、花の「つぼみ」が段々と開けてくるような胸の感覚が出てきます。<br /> <br /> それは、チャクラでよく言われているような「花びら」が一枚一枚開く、という感覚ではなく、それよりも、硬く小さく纏まっている花弁のつぼみが少しづつ広がっていく感覚と同時に、皮が何枚もむけてゆくような感覚とが同時に起こります。つぼみが広がる、と言えばそうですし、緊張が解ける、と言えばそうですし、胸が「広がる」と言えばそうも言えますし、皮が何枚も何回もむける、ということもできます。この微妙な感覚を表現するならばいく通りもの表現方法がありますが、簡単に比喩的に言えば「広がる」ということでもありますし、胸にあった塊の皮が何枚もむけて「剥き出し」になる、とも言うこともできます。<br /> <br /> これがいわゆる「チャクラが開く」ということなのかどうかはわかりませんけど、そうとも言えるかもしれません。そもそも、マニプラとかアナハタなどのオーラが優勢になる、という段階であればかなり前から体験してきていますけど、今回のように明らかに何かが開けてくる感覚はその時にはなくて、同様に、少し前に創造・破壊・維持の力を胸に感じた時は「開く」という感覚とはまた違っていました。<br /> <br /> 最初は「緊張」として胸の中に認識されましたけど、それは緊張というよりは、アナハタが開き始めた、と言えるのかもしれません。でもまあ、まだ様子見ではありますけど。<br /> <br /> Fri, 09 Jul 2021 00:00:00 +0900 スピリチュアルの言う「感じること」 https://w-jp.net/2021/2406/ <br /> ニューエイジやスピリチュアルでは「感じること」が重要視されていて、普通に読むと五感と言うことですけど、実際には、そこでは心の本性による覚醒の働きであるリクパのことを意味しているわけです。<br /> <br /> それを、比喩的に、わかりやすくいうと「感じること」になるのかなと思います。<br /> <br /> ただ、そこには誤解の入る余地があるように思います。<br /> <br /> 普通にこれを聞くと、体の感覚や視覚など五感を感じればそれでいい、みたいなお話になってしまいますけど、そうではないわけで。<br /> <br /> ただ、このあたりは説明している側もよく分かっていないことが多くて、五感で感じてゆっくり生活すればそれがスピリチュアル、みたいな理解が基本にある気がしますけど実際はそれが普通の五感でのお話なのかそれとも心の本性のお話なのかでかなり違ってくるわけです。<br /> <br /> もしこれを五感のお話だと理解してしまうと、何もかもを受け入れてくれるような静かな環境に依存してしまうようなことになります。最初の初心者のうちは仕方がないのですけど、本来のスピリチュアルは心の中にあるものですので、周囲の環境に依存した静かな心ということであれば、環境に依存してしまっているということでもあります。それが初心者であるという自覚があるならばまだいいのですけど、スピリチュアルを静かな環境を選択したり作り出す道具として用いてしまい、他人を攻撃する口実としてスピリチュアルを使ったり、あるいは、感覚の激しさに耐えきれなくなって爆発してしまうようなキレやすいスピリチュアルになってしまいます。結果、自分の心地の良い環境を追い求めて山の中に籠ったり、自分に対して心地よく接してくれる人を追い求めた挙句に自立していなくて他人をコントロールしようとする変なスピリチュアル教祖にハマってしまったりするわけです。<br /> <br /> 心の本性を用いて覚醒(リクパ)をする場合は五感も感じますけど五感を見る者としての心の本性が働くわけです。その観照の働きのことを覚醒と言ったりリクパと言ったり悟りと言ったりもしますけど、とても微妙なお話で、比喩的に言えば簡単に「感じること」ということもできますけど、「感じる」と言ってしまうと誤解が混じってしまう余地があるわけです。<br /> <br /> スピリチュアルな教師から「感じれば良いのですよ」と言われたら「ああ、そうか!」と、物分かりがいい簡単なお話かのように思えて、既にそれができているかのような錯覚に陥ってしまう可能性があるわけで、このような簡単な表現はわかりやすい一方で、よくわからない状態に陥ってしまう危険性もあるわけです。<br /> <br /> かと言って、厳密に言ったところで誰も興味を持たずにスルーしてしまう可能性も大きいわけで。なかなか難しいですね。<br /> <br /> わかりやすく言って誤解を招くようなスピリチュアルな教師は必要悪なのかもしれませんね。そういう人と私とは個人的な関わり合いはないですけど。<br /> <br /> Thu, 08 Jul 2021 00:00:00 +0900 アートマンの独存からブラフマンへ https://w-jp.net/2021/2405/ <br /> 私が内なるガイドから教えて頂いたところによれば、これはもはや、深さと広がりの面で終わりがないお話だ、ということのようです。それ以前は段階的な変化が割と大きくありましたが、これからは程度問題であって、終わりがない、ということのようなのです。<br /> <br /> と、言いますのは、まず、その一歩手前であるアートマンあるいはプルシャの独存という段階は心の本性あるいは仏の心と言っても良いものが現れてくる段階で、そこには大きな変化があります。それ以前はまだアートマン(あるいはサンキャ的に言えばプルシャ)は現れておらず、アートマンの独存の段階で新たなる世界へと踏み出したわけです。それは顕在意識と対比するところの無意識の世界ということもできますけど、アートマンが出てくるということは、元々無意識だった世界の一部が意識の世界へと変わるということでもあります。<br /> <br /> その時、最初はまず自分の体の近くから始まって、やがて広がってゆくわけですけど、その時、主に2つあるいは3つの観点から広がってゆきます。<br /> <br /> ・自分からの距離(物理的な距離と時間的な距離の両方)<br /> ・深まり<br /> <br /> 最初は感覚は薄くて、やがて、感覚が深まっていきます。<br /> <br /> また、最初は自分のほんの近くの、体のハートの部分だけだったものが体全体に広がり、体から周囲数m、というように次第に広がっていきます。それは距離的なものもあれば、時間的なものもあります。<br /> <br /> このどちらもそれぞれ起こりますので、深まりつつ、広がってゆくわけです。最終地点というのはヴェーダンタで言われていますように一応は「全体」としてのブラフマンに辿り着くということにはなっていますけど、距離が広がることと、その感覚が深まることにおいては、終わりがない、ということのようなのです。ですから、アートマンの独存に関しては「達成」があるのですけど、ブラフマンに関しては程度の違いだけがあって、「終わり」というものがない、ということのようなのです。アートマンの独存がスタート地点と言っても良いかもしれません。<br /> <br /> 人によっては自分の周囲が自分と同一視できるのであればその距離感と深まりにおけるアートマンですし、あるいは、地域、あるいは国全体が自分のアートマンになる人もいるかもしれません。完全なる「全体」ではないのであれば人によってはずっとアートマンと言い続けるかもしれませんし、ちょっと広がったらブラフマンと言う人もいるかもしれません。ですけど、アートマンとブラフマンのお話は相対的なお話で、ブラフマンを知るとは言ってもアートマンを知ることによって同じ質であるブラフマンを知る、ということですから、ブラフマン自身に本当になるのは生きている人間にとってはないのかなと思います。そのように教わりました。完全なる宇宙全体のブラフマンは生きている人間には不可能で、概念としてのブラフマンは宇宙全体のことですから、修行者がアートマンからブラフマンへ、というように言うときは相対的なお話でブラフマンを知った、という状態のようです。<br /> <br /> ヴェーダンタでは個人としてのアートマンが実はブラフマンと同一であると解いていて、そのことは真実ではあるのですけど、どうやら、どの程度までそのように認識できるのかは個人差があるようなのです。これは聖典の記述とも一致します。聖典や過去の聖者の文献によれば、アートマンの質を知ることでブラフマンを知ることができる、と書かれてあったりします。それは、本質としてブラフマンと同一なものが自らにあって、自らの質であるアートマンとブラフマンとが同じであることを実際に体感して知るのが一応のウパニシャッド(ヴェーダンタ)の最終地点になっています。そのことを「ブラフマンを知る」とか「ブラフマンになる」みたいに比喩的に書かれていますけど、実際には、アートマンが広がっていくことによってブラフマンを少し知る、と言うことのようです。<br /> <br /> ヴェーダンタをただ読んだだけではゼロイチのお話のように解釈することもできて、アートマンの次はブラフマンを知る、という意味に読めたりしますけど、そこには程度のお話があるということのようです。最初はアートマンを知って、それがブラフマンと同質のものであることを知るわけです。その後、次第にその範疇が広がっていって、ブラフマンの全体に近づいていくわけです。近づくと言うこともできれば、同質化すると言うこともできますし、ブラフマンに溶け去る、と言うこともできます。川の水が大海に溶け込む、という比喩を用いたりします。<br /> <br /> ですから、どうやら、ここから先は深まりと距離において成長があるだけ(だけ、というよりももっと重大なことではありますけど)ということのようです。ここで、距離、と言っていますけど、量子力学において言われているように時間と空間とは対になっていますから、遠くの距離まで見れるということは、遠くの時間まで見れる、ということでもあるようです。<br /> <br /> 文字通り「全体」としてのブラフマンになることはこの短い人生において達成することはなくて、比喩的なブラフマンとしてある程度の広がりを体験してゆくことになるようですから、これからは、この深まりを楽しむ段階にあるようです。<br /> <br /> 私の場合、体の周囲がそれとなくほんの少しわかる程度ですのでまだまだな感じではあります。<br /> <br /> 川から海にたどり着いてみたらあまりもの大きさに圧倒されている、という感じもあります。<br /> <br /> 一応、これが「故郷」と比喩してもいい場所かもしれません。長い旅路の一つの終着地点に到達して、新たなるスタートを切ったわけです。<br /> <br /> Sun, 04 Jul 2021 00:00:00 +0900 禅定からプルシャの独存、そして「空」との合一へ https://w-jp.net/2021/2404/ <br /> 仏教で禅定は色界4つ(形のあるものが4つ)・無色界4つ(形のないもの=心の世界が4つ)の合計8つで、その後、滅盡定を経て金剛定にてプルシャ(アートマン)の独存、最後は「全体」としてのブラフマンへの合一というステップになります。<br /> <br /> このあたりは明確に記されている書物が少なくて、きちんとこの辺りを理解して書いている書物は手元にあるものでは2つあり、1つは本山博先生の書物で、もう1つは油井真砂先生の「信心と坐禪」です。<br /> <br /> テーラワーダ仏教も色界禅定から無色界禅定の途中までは割合とわかりやすいのですが、無色界の後の方の記述は曖昧で、はっきりとしません。<br /> <br /> ヨーガはその最終目的地がプルシャの独存で、ヨーガスートラなどが詳しいです。<br /> <br /> インドのヴェーダンタは最終目的地である「個」としてのアートマン(サンキャ哲学におけるプルシャに近いもの)と「全体」としてのブラフマンに関する記述はとても詳しいです。<br /> <br /> チベット仏教、特にゾクチェンの見解は瞑想をする上で理解の役に立ちます。<br /> <br /> どれも1つで全てをカバーしているわけではないのですが、手に入りやすい文献としては本山博先生の見解がとても参考になります。<br /> <br /> 最後の段階は「空」とも比喩されますけど、いわゆる「悟り」と同義だと思って頂いて良いかと思います。それまでは「空」を垣間見たり理解する段階ですけど、最後にはその「空」と一体になるわけです。この最後の段階は「覚醒」とも言えるかもしれませんけど、覚醒という言葉だけであればもっと早い段階で起こるといえば起こりますので、全体のブラフマンとしての自覚であれば最後の段階にならないと起こらないわけです。<br /> <br /> 本山博先生の著作はヨーガだとか超能力だとかそういうテーマも多いのでチャラチャラしているかのように誤解されることもあるのですけど、インドのスワミとの交流もあってかなりヨーガに詳しいですし、文献を読むと、この人はわかっている、というのが伝わってきます。<br /> <br /> 私が最近になってようやく理解した上記の階梯にしても本山博先生の著作でその裏付けがなされたわけですし、その著作は30年以上前に書かれたものだったりします。まさに大家ですね。<br /> <br /> 最近読んだ本山博先生の著作によれば、仏教は元々ブッダが愛に飢えていた節があり、色界と無色界に分けるだけで良いものを、色界に含まれている欲界をわざわざ別にしていたり、最終目的地にて愛を説くというのは結局はブッダが愛に飢えていて、それは母親が早くに死別して無償の愛を受けられなかった欠乏感によるものだ、と述べていて、そうかもしれない、と思わされました。<br /> <br /> それによれば、仏教の禅定の最後の方を通り抜けてブッダが明らかに悟っていて、それはまさに上記のような階梯であるということです。<br /> <br /> ブッダに関しては色々と誤解があってヴェーダ系と対立していたとか言われていたりもしますけど、境地からすれば同じ境地に達していたのだと思います。であれば、世間で言われているような、仏教がヴェーダ系よりも上だとかヴェーダの方が仏教の方が上だとか比べるのはあまり意味がなくて、どちらも同じ境地なわけですよね。<br /> <br /> そのことが、本山博先生や油井真砂先生の著作を読むとよくわかるわけです。<br /> <br /> Sun, 04 Jul 2021 00:00:00 +0900 アートマンの意識は自己の周囲にあまねく満ちている https://w-jp.net/2021/2403/ <br /> あまねく、とは言いましても今は自分の周囲数m程度の範囲ではありますが、意識が満ちていることが良く分かります。「満ちている」ということを別の言い方で言えば「ダイレクトに満遍なく繋がっている」ということもできますし、昔ながらの瞑想的な言い方であれば「観照」ということもできます。<br /> <br /> これらは、対象があってどこかから見ている、という普通の目のお話ではなくて、満ちている意識それぞれが満遍なくそれぞれの場所にダイレクトに繋がっていて特に体であればその満ちている意識が体の隅々(とは言いましても濃淡は多少ありますが)まで広がっていて体それぞれの部署とそれぞれに満遍なく意識が繋がっているわけです。リモコンみたいに繋がっているわけではなくて、満ちている意識が体と重なっていて、というか体もその意識そのものであるかのように感じられて、意識と体、そして、意識と周囲の空間とがそれぞれ繋がっているわけです。<br /> <br /> 何もない空気だけの空間であっても同じで、そこにも意識が満ちています。<br /> <br /> この意識のことをインドのヴェーダンタでは「アートマン(真我)」あるいは「ブラフマン」と言って、古来から、その実在性が聖典で伝えられてきました。<br /> <br /> 実際のところ、インドで伝わっているこの種のお話は基本的には勉強のお話ですが、ヨーガや瞑想などをすることによってこれらを勉強だけでなく実際に経験できて継続的にその状態になることができることを最近は実感しています。<br /> <br /> 瞑想で言えば「観察」ということもできますけど、顕在意識による観察ではなくて、アートマン(真我)による観察のことです。それを言い換えれば「観照」ということもできます。<br /> <br /> このアートマン(真我)をハイヤーセルフということもありますけど、ハイヤーセルフは様々なコンテキストで使われていて定義がはっきりしないため、アートマン(真我)の方が適切かと思われます。。<br /> <br /> 意識が空間に満ちていて、その空間には自分の体も含まれて、その意識が体をダイレクトに動かしていることを実感し、それと同時に、体の感覚が希薄になっています。<br /> <br /> これは、言葉だけを聞くと「ロボットみたいになったこと?」と思われるかもしれませんが、逆で、アートマンと肉体および普通の心(顕在意識)とが一体になっている状態ですので、より人間らしくなっていると言えるかもしれません。かといって特に愛想が良くなったとかそういうことはそんなにはなくて意識の状態だけのお話ですけど、アートマンと人と心を言い換えればキリスト教で言うところの三位一体と同じことかなという気も致します。<br /> <br /> キリスト教では三位一体として父(神)・子(キリスト)・聖霊が1つとうたっていますけど、(キリスト教徒にこんなこと言うと怒られてしまうかもしれませんけど)それぞれがアートマン(としての意識)と人間の肉体と普通の心が一体になることを表現しているのだとすれば、同じことであると言えると思います。<br /> <br /> 比喩的に言えば神の意識と言ってもそう間違いではないアートマンの意識が自分の周囲に満ちていて、体と心および周囲の空間をも貫いて一体になっているわけです。<br /> <br /> Fri, 02 Jul 2021 00:00:00 +0900 体の感覚が希薄になる https://w-jp.net/2021/2402/ <br /> 昔、瞑想中に度々そういう状態に一時的になることは前からよくありましたけど、最近は、普段の生活において体の感覚が希薄になってきました。<br /> <br /> 自分の体や周囲の目に見えるものが幻であるかのように思えてきました。<br /> <br /> そのこと自体はスピリチュアルやヴェーダンタが言うように「この世は幻」と言うことではあるのですけど、知識自体は30年以上前から良く知っていて、「まあ、そうなんだろうな」とずっと理解していて、もはや常識みたいに「そうなのでしょうけど」と思ってはいたのでしょうけど、最近になって、こう言うことか、と言う自覚が出てきました。<br /> <br /> 体の感覚が希薄になって、希薄になったところをふと目で確認してみるときちんと体はあるのですが、あるのは五感としての皮膚の感覚だけで、「存在」としての感覚が希薄になっているのです。<br /> <br /> それはどう言うことかと言いますと、おそらくは、「存在」としての自分の形を心の中で作っていて、それが体の全体に対して、濃淡はあるもののそれなりに体の各所に対してその「存在」が満ちていたように思うのです。それはいわゆる普通の「私」としての自覚および感覚であって、「私」と言う個体が切り離されていると言う自覚の大元になっているものが私の体の形に似たものとして肉体に重なって存在していたように思います。<br /> <br /> その、「私」の感覚が、最近はとても希薄になっていて、スカスカの状態になっているので、五感としての感覚はあるのですけど、それ以外の、今まであった「私」と言う感覚における体の感覚があまりない感じなのです。ふと「あれ?体がないかな?」と思って見てみるときちんと存在はしていて皮膚で何かに触れるとその感覚があるときちんとあるので目で見えている体はきちんとあるようなのですが、自分の肉体に重なって存在していた、いわゆる「私」と言う感覚が希薄になっているように思います。<br /> <br /> 今の状態は五感が割と鋭くなっていて皮膚の感覚は以前よりもダイレクトに入るようになってきていますので、五感という意味では希薄になっていなくてむしろ鋭くなってはいるのですけど、ここで言っているのは、目に見えずに肉体の私に重なって存在していた「(割と重い)私」と言う感覚が希薄になってきているということです。<br /> <br /> よくスピリチュアルでは、肉体がなくなる前にオーラが先に抜けるとか言いますけど、死ぬ前兆だったのだとしたら嫌だなとはちょっとは思います。手足がなくなる前兆だとしても嫌ですけど、とりあえず、感覚的には死ぬこともなさそうですし手足がなくなるわけでもないかな、と思っていますけど。どうでしょうね。体の感覚が希薄になったからといって特に生活に不都合なくて、むしろ快適ではあるのですけど、ちょっと先がまだ見通せないので多少の心配がなくはない、と言ったところです。<br /> <br /> 体の感覚が希薄になるのと同時に、意識が周囲の数mにまで広がってきて、周囲の空間が何かに満たされていることを感じています。それと同時に自分の体の感覚が希薄になってきた感じですので、まあ、こんなものかな、と今は思っています。<br /> <br /> Thu, 01 Jul 2021 00:00:00 +0900 知るもの、知られるもの、知ること(手段) https://w-jp.net/2021/2401/ <br /> ヨーガやスピリチュアルではこれら3つのお話が度々出てきます。<br /> <br /> 最初の2つは割と自明ですけど、最後の「知ること(手段)」は、文献によっては「進行形(〜ing)」のことだったり「手段」として説明されていて、あまりはっきりとしません。<br /> <br /> スピリチュアルでもこれが引用されていて、ヨーガの説明やヴェーダンタ的な解釈とはそれぞれ微妙に異なっていたりします。ですけど、概ね、以下の2つの解釈に分類できると思います。<br /> <br /> ■解釈1:普通の心を軸に説明したもの。ヨーガスートラ的解釈。スピリチュアルでたまに見る解釈<br /> ・普通の顕在意識の「私」が「知るもの(者)」<br /> ・物体や認識・知識の対象としての「知られるもの」<br /> ・「知ること(〜ing)」あるいは「知る手段」(としての行動を基にした)としての「(普通の)心の認識」<br /> <br /> ヨーガスートラではこれら3つが1つになる時がサマーディ(三昧)という説明がされています。<br /> <br /> それは確かにその通りかとは思うのですけど、これら3つ全てを観察するものとしてのアートマン(プルシャ、心の本性)が現れた状態がサマーディ、ということですので、1つになる、というのはわかりにくい表現かと思います。最初はアートマンとしての意識は出ていませんけど、アートマンの意識がこれら3つを観照する状態になることがサマーディということです。<br /> <br /> このことが分かりにくければ、とりあえず、「知ること(〜ing)あるいは、知る手段」がいわゆるアートマン(プルシャ、心の本性)に置き換わる、と考えてもひとまずは良いかとは思います。この場合の解釈としては、アートマンが「私」としての「知るもの(者)」も「知られるもの」のどちらも含めて知っている状態(認識状態)になるのがサマーディということです。それは「観照」ということもできますけど、「知るもの(者)」も「知られるもの」の両方を観察している状態がサマーディということであり、それをヨーガスートラでは「これら3つが1つになる」と説明しているわけです。表現として難解ではありますけど、こういうことだと解釈すればすんなり理解できます。<br /> <br /> この時、「知ること(〜ing)あるいは、知る手段」は物理的な行動のことだけでなく心の作用についても言及しているわけです。ですから、実際には「知るもの(者)」も「知られるもの」の2つだけでなく、「知ること(〜ing)あるいは、知る手段」としての普通の心の作用も含めてアートマンは観察しているわけです。ですから、本質で言えば3つ全てを観察しているのがアートマンということではあるのですけど、とりあえず、理解のためには2つだけをアートマンが観照するようになる、と理解しておいてもそう間違いではないと思います。<br /> <br /> ■解釈2:アートマン(プルシャ、あるいは心の本性)とそれ以外を説明したもの。ヴェーダンタ的解釈<br /> ・アートマンが「知るもの(者)」<br /> ・アートマン以外のこの世の全てが「知られるもの」<br /> ・認識対象を受け取る「手段」としての「心」(普通の心、顕在意識) <br /> <br /> これはこれで明確なのですけど、この場合、3つのものが1つになるとかそういうことはなくて、単に3つの分類として説明されているだけです。<br /> <br /> ですから、似たようなこの3つのお話が出てきた時、「知るもの(者)」が普通の心の顕在意識のことを意味しているのかあるいはアートマンのことを意味しているのかで解釈が大きく変わってきますので、スピリチュアルやヨーガおよびヴェーダンタの文献を読むときはそのコンテキストに注意が必要かと思います。<br /> <br /> Thu, 01 Jul 2021 00:00:00 +0900 周囲の空間が何かに満たされていることを感じる https://w-jp.net/2021/2400/ <br /> その何かとは意識であり空間そのものあるいは愛であるとも言うことができると思います。人が愛するような愛ということではありませんので愛というと語弊があるようにも思えるのですが、愛と言ってもそう差し支えないようにも思えます。<br /> <br /> ただ、そのような比喩的な言い方よりも、インドのヴェーダンタの説明であるところのサット・チット・アーナンダのうちのアーナンダのことだと解釈する適切のように思います。<br /> <br /> これはこの世に普遍的に満ちているアートマンあるいはブラフマンのことで、世界に満ちているアートマンあるいはブラフマンがサット・チット・アーナンダだとヴェーダンタでは言われているのですが、サットが時間に制約されず過去現在未来に渡って永遠に存在するという永続を意味し、チットは純粋意識、アーナンダは一般的には「歓喜」と訳されていますが、それと同時に「満ちている」と言う意味もあります。<br /> <br /> これらのうち、私は当初は意識と言う面に即してアートマンの実在を感じるようになりましたが、ここにきて、アーナンダの面における「満ちている」および「歓喜」を実感するようになりました。<br /> <br /> ヴェーダンタでは、最初は自己・個として分かれているアートマンとして自覚した後、それが実際には普遍的なブラフマンであることを自覚する、と説明されています。<br /> <br /> この順番はおそらく正しくて、当初はただ単に自己の意識としてアートマンを自覚しておりましたが、ここにきて、まだ周囲の数メートル程度の範囲ではありますけど、その近くの空間が「満ちている」ことを認識するようになりました。<br /> <br /> ■アートマン(ブラフマン)<br /> サット 過去現在未来に関わらず継続する → まだ<br /> チット 純粋意識  → 最初<br /> アーナンダ 満ちている。(歓喜・愛)→ 今回<br /> <br /> アーナンダは一般的に言われているように歓喜といえばそうなのですけど、私の実感で言うと、元々の意味である「満ちている」の方が適切のように思います。<br /> <br /> 普遍的なアーナンダの「満ちている」と言う意識が育ってくると他人も自分のように感じますから、他人を手助けするのも普通になります。ですけど、この世知辛い世間を生きるには誰それ構わず助けるということではなく、知恵が必要のように思います。<br /> <br /> この「満ちている(歓喜・愛)」と言う意識はちょっと一般社会の人生を送る上では危ないように思えて、世間には油断ならないずるい人や悪意に満ちている人がいるのですけど、そのような人に対しても普遍的に愛や満ちている感覚をそれなりに感じてしまいますので、この意識で生きていると騙されたり利用されたりすることも多いのかもしれないな、と思ってしまいます。悟りの意識が騙されやすい性質に繋がる可能性もあるように思います。<br /> <br /> 社会を理解せずに感覚のまま手助けすると悪意のある人あるいは他人を利用しようとしている人にうまく使われる危険性がありますので、社会を生きる上では知恵が必要のように思います。気持ちのまま手助けしてうまくいっていない、という例は多いように思いますね。NGO・NPOの慈善活動も空回りしているように思います。普遍的に手助けしたい気持ちが純粋にある人がいる一方で、そのように無償で働く人をうまく誘導して利用したいだけの人がいます。<br /> <br /> 本人は純粋意識で動いているだけだった筈なのにどこか特定の利益のために動くようになってしまう、というおかしな例はそれなりにあると思います。政治家では山本太郎のような人が空回りしている気が致しますね。あの人はおそらくは元々は純粋意識から動いていたように思いますけど、知恵が足りなくて、特定の左翼団体の利益のために動いてしまっているような節があります。これは勿体無いです。普遍的意識があるのであればもっと大衆のために尽くせる筈なのですけど。<br /> <br /> このアーナンダの「満ちている」意識が育ってくるにつれて、周囲の人に普遍的に手助けする気持ちも育ってきますが、ここは、一つの分岐点のような気が致しますね。<br /> <br /> 最初はチットとしての純粋意識であって、それは個としてのアートマンの意識でしかないわけです。その時点ではアーナンダの満ちていると言う感覚は自分の体の範囲に留まります。<br /> <br /> そして、ブラフマンというほどの世界全体に満ちたわけではまだないですけど少なくとも周囲数メートルの範囲においてアーナンダの「満ちている」と言う感覚が出てきたことにより、ヴェーダンタの言っている、アートマンとしての個から全体としてのブラフマンへの変化というものを確かに感じることができるわけです。<br /> <br /> これは、周囲にあるものに対して意識がとても薄く浸透した、ということもできて、意識が浸透したからと言って体のようにダイレクトに動かしているという感覚は周囲の物体に対してはないのですけど、動かすことはできないですけど、何か薄いものが浸透している、ということをなんとなく思えるわけです。オーラのようにしっかりとした感覚ではなくて、何かが浸透している、という感覚です。オーラの場合はもっとはっきりとしていて、オーラは融合したりすると激しい化学反応のようなものを起こしますけど、基本はオーラは体の近くに留めておきますので、オーラを伸ばした場合のお話とは異なるわけです。<br /> <br /> オーラではなく、意識が周囲の空間に満ちていて、その満ちる感覚が体の周囲だけの範囲から、自分の周囲数メートルに広がった、というのが現在の状況です。<br /> <br /> 今は近くにいる人に対してだけ「自分」を感じますけど、これがどんどんと広がっていって誰それ構わず「自分」を感じるようになったらどうしよう、という気もしますけど、まあ、そんなこと今から心配していてもしょうがないですね。なるようになります。おそらくは。<br /> <br /> Tue, 29 Jun 2021 00:00:00 +0900 覚醒の意識の現れである金剛定 https://w-jp.net/2021/2399/ <br /> 金剛定は詳しく記されている書物が少ないのですが、油井真砂さんの「信心と坐禪」が参考になります。<br /> <br /> 金剛定に至る直前で、心を滅してしまう滅尽定(めつじんじょう)に落ち込まないようにとの注意も同書には述べられていますが、おそらくはこの滅尽定はいわゆる心の本性であるリクパの覚醒意識が現れていない状態なのかなと思います。仏教では割と滅尽定のことを悪者扱いしているような感じではありますけど、見たところ、リクパが現れていない時が滅尽定で、リクパが現れると金剛定ということかなと思います。ですから、それほど悪者にすることもないのかなという気も致しますが、どうでしょうか。<br /> <br /> 感覚的な私の理解では、非想非非想処の後にリクパがまだなければ滅尽定となり、リクパが現れると金剛定、ということだと思います。ですから、滅尽定を飛ばして金剛定になることもあり得るわけです。私の場合、おそらくは滅尽定はほとんどなかったような気が致しますけど、どうでしょうかね。言いようによっては「静寂の境地」が滅尽定と言えなくもないですけど、私の場合、雑念が静寂になっただけで意識はありましたのでその時も多少はリクパの意識が働いていましたので滅尽定というわけではないような気が致します。滅尽定はそれほど悪者にすることもないと思うのですけどね。どうでしょうか。<br /> <br /> 個人的には、一時的にそのような「無」とも言える静寂に落ち込むことはあっても、胸の奥から突き動かさされるような鼓動によって「眠ってはいけない」と強制的に起こされてきましたので、滅尽定とかあるいは無想定といったものも含めて、そう心配することはない気が致します。意識でいくら眠ろうと思っても強制的に起こされる力にはあがらうことはできませんし、起きて成長してしまった方が寝て停滞するより遥かに楽なのが現実です。<br /> <br /> 同書によればこの金剛定は一応は覚醒の意識ではあるのですが、まだ、僅かな煩悩が薄雲のようにかかっている状態とのことです。これは、まさに私の状態と一致します。<br /> <br /> 「信行最後の煩惱」といふものが、またそこへふうつと薄雲のやうにかゝつて來るのである。夫れは、例へば、潔癖の人が潔に著するといふやうに、(中略)清濁一如の妙機が得られて居ないから、夫れで、つい空に著するといふことになるのである。即ち、無常でなければならない空が、何んとしても恒常の空のやうに思はれるといふ煩惱が、ふつとそこへ涌いて來ることになるのである。これが、空によつて生ずる「空病」としての煩惱である。「信心と坐禪(油井真砂 著)」<br /> <br /> このあたりが私の今の課題ですね。とは言いましても、課題というほどの課題でもないですけど。これが禅で言う「空病」だと言われれば、確かにそうなのかもしれない、という気も致します。ただ、この段階はわざわざ「病」と言うほどのものでもない気も致しますが。昔の言葉のニュアンスはもっと軽い意味だったのかもしれませんね。ただの専門用語と思えばそんなものかなという気も致します。<br /> <br /> ここで大切なのは、チベット式に言えば日常生活と「まぜる(セワ)ということかなと思います。日常生活の清濁を乗り越えてサマーディの境地と混ぜ合わせて行くことがこの段階を突破する鍵のような気がしております。<br /> <br /> このあたりで大切なことはチベット系か禅系の同書が参考になります。<br /> <br /> 往々にして、このあたりにくると自分が既に悟っているかのような錯覚も時々生じてきたりはするのですけど、これらの本を読むとまだまだだということがよくわかります。<br /> <br /> 金剛定に至るまでの階梯についても記録しておきたいと思いますが、私の状態を禅の階梯に当てはめてみると微妙で、解釈が2通りできると思います。<br /> <br /> 創造・破壊・維持の意識が現れる以前は無所有処で、出た後は非想非非想処で、意識(アートマン)が体をダイレクトに動かしていると実感を得たことにより非想非非想処から金剛定に至ったという解釈と、創造・破壊・維持の意識が現れる以前は無所有処か非想非非想処で、創造・破壊・維持の意識が出てきて意識(アートマン)が体をダイレクトに動かしていると実感を得たことにより非想非非想処から金剛定という割と最後の段階に入ってきた、という解釈がそれぞれあります。<br /> <br /> このあたりはとても微妙で、これらは禅においては順番に並んではいますが普通の意識のお話と心の本性のリクパの覚醒のお話は割と並行していて、まだ普通の意識がそれほど成長していなくてもリクパの覚醒がある場合があります。<br /> <br /> 非想非非想処までは無色界のお話ですから、普通の心の平穏さが非想非非想処と言えると思います。一方、金剛定になりますと心の本性のリクパの覚醒のお話だと解釈できます。リクパの覚醒は実のところ普通の心とは割と独立して存在していますから、普通の心が非想非非想処に達しなくても心の本性のリクパの覚醒があれば金剛定に一応はなったように見えるわけです。この辺りに混乱があるように思います。<br /> <br /> 非想非非想処がいわゆる「静寂の境地だったのかなと思います。静寂の境地に最初に至るところが無所有処で、静寂の境地が安定するのが非想非非想処という解釈もできます。おそらくはそんな感じだったのかなと思います。<br /> <br /> 非想非非想処までは普通の意識のお話で、心の本性のリクパの覚醒が出てくるのが金剛定の段階だと解釈できます。ですから、仏教の、例えばテーラワーダ仏教においては「非想非非想処などの無色界の禅定は必ずしも習得する必要がなく、それがなくても悟ることができる」、とされているのだと思います。その意味としては、普通の心の平穏さをそこまで突き詰めなくても心の本性のリクパの覚醒はなされる、ということだと解釈できます。<br /> <br /> チベット系では普通の心と心の本性リクパが分けられているのですけど、他の流派においては一緒にしているので混乱があるのかなと思うのです。<br /> <br /> 私の見たところ、非想非非想処から金剛定に進むのがやりやすい気も致しますし、非想非非想処がなくてリクパの覚醒を先にして金剛定に行ってしまうと普通の心の制御が完全ではありませんので、何かやり残したような感じになってしまわないかと思うのですけど、どうでしょうかね。世間のスピリチュアルな修行においてリクパの覚醒だけを目的としてしまうと非想非非想処の静寂の境地がなくて覚醒だけが先行してしまうので、何か、とても不思議な感じの、不安定だけれども覚醒している、という、ちょっと変わったスピリチュアルになってしまうような気も致します。<br /> <br /> Sat, 26 Jun 2021 00:00:00 +0900 全く普通の人として人生を生きるのが瞑想であり三昧 https://w-jp.net/2021/2398/ <br /> 悟ると何か特別な人になるのではなくて、全く普通な人として生きるようになるのかな、と今は思います。<br /> <br /> 特にシャルドルで静寂の境地への依存から離れたことにより、それまでは、瞑想をしてから静寂の平穏の境地という特別な状態にすることで心の平安と特別な感覚を味わっていました。<br /> <br /> しかし、シャルドル以降は、その平穏の境地が日常生活とどんどんと融合して行っているように思います。<br /> <br /> 日常生活が瞑想状態そのものになり、日や時間によって程度の違いこそあれ、割と、平穏な状態が日常生活にまで広がり、視野が広がって微細に物事を観察できるようになりました。<br /> <br /> シャルドル以前も度々そのようなことがあり、それが割と長い時間続くこともあったように思いますが、「努力なし」という観点から言えば、シャルドル以降こそが日常生活の瞑想状態の始まりとして適切であるように今なら思います。<br /> <br /> 努力なし、というのは完全にそれが不要というわけではなく、時折、そのことに気付きを入れてあげる必要がまだあります。<br /> <br /> 書物を読むと、次の段階であるランドルになりますとその気付きを入れることすら不要だということではありますけど、シャルドルの段階では努力は不要でも時折気付きを入れてあげる必要があることを実感しています。これは書物で読んだ知識であることはそれはそうなのですが、それよりも、実践として、そのように思うということです。書物で自分状態を確かめられたという点もありますし、書物でやり方を教えてもらった、という両方の側面があります。<br /> <br /> そのように、日常生活で単純な気付きを入れるだけで良い段階になると、どんどんと日常生活が瞑想と溶け合わさってゆき、その状態はもはや「特別」なものではなくなります。<br /> <br /> ここにきて、日常生活の「普通」の状態こそが素晴らしい生き方だと実感できるようになったわけです。<br /> <br /> そもそも、その普通の日常生活がなかなかできないから皆が苦しんでいるわけで、ここが一つの区切りであり、ランドルとまでは行かないまでもシャルドルであればこの「普通」の生活ができるようになったのかなと思います。<br /> <br /> 「セワ」は、チベット語で「まぜる」ことを意味している。自分の三昧の境地を、日常生活のすべての行動に溶け合わせていくのである。ゾクチェンにおいては、何か変えたりする必要などないし、特別な服を身につける必要もない。外見から見て、ゾクチェンの修行中だと思われるようなものは、何一つないのである。本当に修行しているのかどうか、知る方法は何もない。ゾクチェンの修行は、外見とまったく無関係なのである。相対的な条件の中にある全てを修行に取りいれ、両者を一つのものにするのである。「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」<br /> <br /> これは最初、チェルドルくらいの弱いサマーディの力しかない時は努力が必要でも、シャルドルにきて努力がほとんど不要になり、このことが現実になってきたように思います。今まで、このことがいまいちピンとこないまま、そうなんだろうな、と漠然と思っていたのが、ここにきて、確かにこの通りだ、と思うようになりました。<br /> <br /> 私は特別にゾクチェンの流派に属しているわけではないですけど、ヨーガ行者も似たようなことを言っていますし、この内容は真実であるように思います。<br /> <br /> ただし注意しておきたいのは、これは、何もしなくても最初から悟っているから何もしなくてもいい、と言うことではありません。それは道元が活躍した時代にかつての天台宗の教えとして「人は元々悟っているのだから何もしなくてもいい」みたいな思想が誤解されて広まったようなもので、それを道元は否定して修行が悟りのために絶対的に必要だと説いたわけですけど、最終的な状態が普通の人生だとしても、その普通を生きるためには修行が絶対的に必要になってくるわけです。最初から悟っている人もいないわけでもないですけど基本は修行が必要と思います。<br /> <br /> Thu, 24 Jun 2021 00:00:00 +0900 順番に起こる気付きと並列に同時に起こる気付き https://w-jp.net/2021/2397/ <br /> 普通の心である顕在意識による気付きは順番に(シーケンシャルに)起こる気づきで、心の本性による覚醒状態リクパの気付きは同時に並列に起こる気づきです。<br /> <br /> これはどういうことかと言いますと、普通の心である顕在意識は1つのことしかできないのです。<br /> <br /> ですから、五感から何かを感じ取った時にそれを感じた瞬間は単に五感からの入力で、その後、はっ、と気付いて何か認識が心の中に浮かび上がるわけです。入力と気付きとが同時ではなく、順番に起こっています。これはとても微妙なお話ですので、最初はほぼ同時に感じられるかもしれませんけど、そのうち、この微妙な差異というのが瞑想するうちにわかってきます。<br /> <br /> とは言いましても、それに普通の心で気がつくというのはそこまで重要ではなくて、心の本性の覚醒状態リクパと比べるとそうなっている、ということを理解することの方が大切だと思うわけです。<br /> <br /> 普通の心で五感の入力とそれの気付きが分かれているということに気付くというのは、普通の心が早くなったということであり、それはそれで成長ではありますけど、あくまでも普通の心の成長なわけです。そのためにはそれなりの心の平穏が必要なわけで、心の平穏があるということはそれ自体は成長ではありますけど、その時点ではあくまでも普通の心のお話なわけです。<br /> <br /> 心の本性の覚醒状態リクパにおいてこれらは普通に把握できるようになりますので、リクパの状態なしにこれらの分離に気付くことは必須ではないと個人的には思います。気付く人がいるならそれはそれでいいとは思いますが、リクパなしに気付こうと思ったらそれなりの努力が必要になり、それは普通の心の強化でありますから、リクパなしにそれをしてしまうとエゴが拡大してしまう危険性もあるわけです。リクパなしに普通の心が早くなったらキレやすくなったりといった副作用が現れる可能性があるわけです。ですから、これは基本的にはリクパの状態で気付くもので、それ以前に気付く必要はあまりないのかなと個人的には思います。<br /> <br /> 流派によっては階梯の1つとしてこの段階をカニカ・サマーディとか呼んでいるように思いますけど、特にこれを通過しなくてはならないというわけではない気が致します。通過する人もいるかと思います。<br /> <br /> そのように、順番に起こる気付き、というものがあります。<br /> <br /> 一方で、覚醒状態リクパにおける心の本性による気付きというのは、並列に同時に起こります。<br /> <br /> 思考があれば、その思考を同時並行に観察します。<br /> 雑念があれば、その雑念を同時並行に観察します。<br /> 体の五感からの入力があれば、その入力を同時並行に観察します。<br /> <br /> 単に五感が鋭くなっただけではなく、それに同時並行に気付くことができます。<br /> <br /> これを、流派によっては修行の一環としてこのようにしなさい、なんて言っているところもありますけど、これは私の見たところ「結果」であって、「(修行など、何かを達成するための)手段」ではありません。<br /> <br /> このように並列に観察しましょう、と言われても、特に最初は無理なお話だと思います。<br /> <br /> 瞑想とは「するものではなく、現れてくるものだ」とはよく言われたもので、自動的に現れてくるのがこのような瞑想状態ですから、それを説明してその通りにしなさい、と言われてできるものではないわけです。<br /> <br /> 結果ということもできますし、目標ということもできますけど、それは一時的なものではなくて、継続した状態なわけです。<br /> <br /> そのように、覚醒状態リクパにおいては並列の気付きが常時働くようになります。<br /> <br /> Wed, 23 Jun 2021 00:00:00 +0900 スピリチュアル 2.0 https://w-jp.net/2021/2396/ <br /> 普通の心と心の本性を一緒くたにしているのが今までのスピリチュアル1.0です。<br /> それらが分かれているのがスピリチュアル2.0です。<br /> <br /> これは(少なくとも今のところ)個人的な定義で、一般的な定義ではありません。<br /> <br /> 世の中にあるスピリチュアルは、願望実現だとか現実を引き寄せるだとか言っていますけど、それらは普通の心の願望を叶えるのですからスピリチュアル1.0のお話です。<br /> <br /> オーラの法則とかいうお話も普通の心と心の本性を一緒にしておりますのでスピリチュアル1.0です。<br /> <br /> 普通の心による集中状態と観察状態というお話で瞑想が理解されるのが1.0です。<br /> それらと合わせて心の本性が現れた覚醒状態(リクパ)が分かれて理解されているのが2.0です。<br /> <br /> ハイヤーセルフとかのお話は割とスピリチュアル2.0の先駆けではありますけどハイヤーセルフが自分の心の本性のお話ならば2.0ですけど実際はチャネリングのような自分とは分かれた別の存在として解釈されていることも多いですので割と昔ながらのスピリチュアル1.0に巻き込まれてしまっているように思います。<br /> <br /> 自分の思考する心が満足するために行う精神的な行いが昔ながらのスピリチュアル1.0です。<br /> お祈りをしたり祈願をしたりマントラを唱えたり体を動かして心を鎮めたりするのは1.0のやり方です。道徳的なお話も1.0です。<br /> <br /> 心の本性が現れている状態である覚醒状態(リクパ)で行う祈りや祈願やマントラは姿形としては1.0に似ていたとしてもまた違った様相になります。<br /> <br /> スピリチュアル1.0の愛というのはお腹のあたり(マニプラ)の愛だったりハート(アナハタ)の愛だったりします。<br /> スピリチュアル2.0の愛というのはそれらを超えていて、その両者であるとも言えなくもないですけどそれを超えた心の本性の働き(リクパの覚醒)による愛になります。<br /> <br /> 世間でスピリチュアルで活躍されている方はだいたいマニプラかアナハタに分類されて、わかりやすいイメージで言いますと、マニプラの愛はお稲荷さんとかの狐とかが強く現れる夜の世界のホステス的な愛で、お金儲けとか願望実現が得意です。アナハタになりますとまだお金儲けとか願望実現は別の形になりますけどまだ存在しています。これもまたスピリチュアル1.0の姿です。<br /> <br /> ですけど、スピリチュアル2.0になりますと願望実現とかのような個人としてのお話は段々と消えてゆくのです。<br /> <br /> もはや、自分も他人も一緒なのですから、あまり自分の願望実現というものを気にしなくなります。<br /> <br /> 自分の心の本性が現れた状態(リクパの覚醒状態)は、言い換えれば「スピリットが自分を動かしている状態」であるとも言えます。そうであれば、自分の顕在意識というのはスピリットの道具なのですから、顕在意識における願望実現というものは全て消えてゆきます。ただ(自分の)スピリットがこうなりたいからそうする、という状態になります。(自分の)スピリットが望むものはそのようになる、ということを理解します。そうすれば、願望実現などしなくなります。これがスピリチュアル2.0です。<br /> <br /> 自分自身が聖なる道具であることを理解して自らのスピリットに委ね始めます。実際はここではもはや「自分」という感覚はなくてただスピリットなのですけど、読む人にわかりやすいように一応「自分」とつけていますけど、確かにそれは自分のスピリットではあるのですけど、スピリットの意識は偏在しておりますので、あまり自分とか他人とかいう区別はないのですよね。<br /> <br /> ですから、自分の役割があればそれを行う、というだけのお話になります。ですから、他人を見て嫉妬したり区別したりということがなくなってゆきます。そういう嫉妬や区別は顕在意識において今まで通り存在していて、顕在意識が嫉妬や区別することもあるのですけど、スピリットが優勢になるとそのような顕在意識の動きを諌めるようになって、顕在意識の一時的な混乱は割とスムーズに自動的に解決されるようになりますこれがスピリチュアル2.0です。<br /> <br /> 道徳的なお話で自分を律する、というのはスピリチュアル1.0のお話です。<br /> 心の本性が現れてきて、リクパの覚醒状態にある時、それはスピリットが自分を操作するということでもあります。スピリットが自分を動かすようになれば道徳的なお話は単なる道徳ではなくてスピリットのあるべき姿なのだと理解します。それがスピリチュアル2.0です。<br /> <br /> 自我が抵抗していたり自我の欲望を叶えることを美しい言葉で覆い隠してお花畑で囲んであたかもそれが素晴らしいように見せるのもスピリチュアル1.0です。願望実現だとか引き寄せの法則みたいなものも、実際は単なるエゴの満足でしかないものを美しい言葉で着飾って自分を誤魔化している部分も多々ありますのでスピリチュアル1.0です。<br /> <br /> スピリットが望むものは何であれスピリットが望むままになります、というのがスピリチュアル2.0です。<br /> <br /> 顕教を道徳的な枠組みで理解するのがスピリチュアル1.0です。<br /> 顕教をスピリットのあるがままの姿として理解するのがスピリチュアル2.0です。<br /> <br /> チベット仏教のお話はこれらのお話を包括的に説明していて、お話のベースになり得ると思います。<br /> <br /> 新しいようでいて古いお話なわけです。<br /> <br /> Tue, 22 Jun 2021 00:00:00 +0900 ヴェーダンタの言う「マーヤー(この世は幻)」の意味を理解する https://w-jp.net/2021/2395/ <br /> 自分のスピリット(アートマン)に少しづつ委ね始めた頃から顕在意識とスピリット(アートマン)の意識との違いを認識できるようになり、それにより、ヴェーダンタの言う「現実は全てアートマンのもの」「この世はマーヤー(幻)」の意味を理解できるようになりました。<br /> <br /> マーヤーとは五感で感じるこの現実世界そのもののことであり、特別な何かが自分の外側に新たに存在しているわけではなかったわけです。ですけど、今までは、ヴェーダンタのマーヤーの解説を聞くと何か別世界が存在しているような気がしていて、どこか腑に落ちないでいました。それが、ここにきてはっきりと理解できるようになりました。<br /> <br /> マーヤーは、心の本性による覚醒した意識(リクパ)がない状態においてはこの現実世界そのものであると認識されます。その状態においては幻ではなくて全くの完全なる現実として認識されます。そして、リクパが現れてきた後であって初めて幻であると気がつくわけです。<br /> <br /> ですから、リクパが現れる前にマーヤーを本当の意味で理解しようと思っても無理なお話で、その時点においては頭の理屈でのお話の理解に留まるわけです。ですけど、当時の私はどうにかしてマーヤーの本質を理解しようとしておりましたが、それは到底、無理なお話だったわけです。そのことに気がつきました。<br /> <br /> これは、ヴェーダンタを教える人の側にも混乱があるように思えて、インドでヴェーダンタを学んできた人の中には「ヴェーダンタは経験する一時的なものではなくて理解によって得られる境地です」みたいなことを言う人がいますので、今からすればそのニュアンスがわかるのですけど、そこには誤解があるように思えるのです。結局、要点はというとリクパの意識で見るかどうかというところであり、リクパの意識で見ればヴェーダンタのお話も理解できるのです。しかし、リクパがない状態でヴェーダンタを理解しようとしてもあくまでも頭の理屈のお話でしかないわけです。リクパというのは意識ですからそれは肉体を持ったこの世の経験とはちょっと離れたものではあるのですが表現としては経験ということもできなくもありませんので経験と言ったり言わなかったりするのですが、経験というと一時的という意味が入ってきてしまうので経験というのを避けようとする人たちが一定数いて、そのような人は経験ではなくて理解、という言葉を使ったりします。ですけど、リクパの覚醒のお話をしているという点においては同じなのですよね。<br /> <br /> そのリクパの意識が現れてリクパの状態で見ることができるのがヴェーダンタのいう本当の現実で、顕在意識が五感を使って感じて認識するものをヴェーダンタではマーヤー(幻)と呼んでいるわけです。<br /> <br /> これは理屈のお話だけではなくて、実際にそのように自分の認識が変化するというお話であり、そのことを覚醒と言ったり「理解」と言ったりしますけど、同じことと言えば同じことかもしれませんし人によっては違うことを言っているのかもしれませんけど、本質で言えばリクパの覚醒のお話という点に関しては同じなのかなと思います。<br /> <br /> リクパの意識が現れるまではヴェーダンタでマーヤーのお話を何度聞いてもしっくりこない感じでしたが、今思えば、それも当然だったと思えます。<br /> <br /> マーヤーというのは、理屈で言っても、実際の境地からしても、顕在意識の経験する世界がマーヤーであると言えます。<br /> <br /> 以前は、理屈ではわかっていても、何かしっくり来なかったのです。<br /> <br /> しかしながら、ここにきて、意識(アートマン)が体をダイレクトに動かしていると実感することにより、そのアートマンとしての意識が経験するものこそが真実の世界であり、顕在意識が経験する世界はマーヤー(幻)なのだと理解できるようになりました。ここで言っている理解とは、単に頭の理屈で聞いて考えて理解するというだけでなく、実感としてそのことが真実だとわかるという意味も含めた理解です。<br /> <br /> これは、例え話としては色々とあるのですけど、それよりも、実際にこれは体験しなければわからないものなのかもしれない、と今は思います。<br /> <br /> ヴェーダンタ哲学では理解が重要とされていて、そこでは、「経験」は一時的なものなので理解ではない、みたいなことがよく言われます。それは、頭で理解することプラス実感することが真実の知識である、という意味です。ですので、単に理屈を勉強しただけでは不十分で、それを実感することが大切なわけです。<br /> <br /> このことが、いまいち私にはピンときていませんでしたが、今は、表現は違えども同じことを言っていたのだということがわかります。<br /> <br /> 文字通り捉えてしまうとヴェーダンタ哲学の言っていることは頭の勉強だけが重要で瞑想やヨガのアサナの瞑想は一時的なものなので重要ではない、みたいに解釈してしまうこともあって、実際、インドでヴェーダンタを勉強してきた人の中にもそう言っている人がいましたけど、私が今思うに、それは途中経過であって、最初は一時的なところから始まってやがてずっと続く「状態」になりますので、一時的なものであったとしても問題ないのです。インドで勉強してきた人の中にはことさらにヨガのアサナを否定したりヨーガスートラを否定したりして、瞑想は一時的なものだから意味がなくて理解だけが必要、みたいなことを言っている人がいますけど、私の今の理解に基づけば、ヨーガ・スートラもヴェーダンタもラマナ・マハルシも同じことを言っていると思うわけです。文字面の違いにあまり拘らない方がいいと思います。<br /> <br /> ヴェーダンタ哲学がいうところの「理解が重要」だというのは、表現としてはわかりにくいですけど、実際のところ、意識(アートマン)が全てを動かしていることを実感することを「(本当のヴェーダンタの)理解」と比喩的に言っているのかなと思うわけです。これはインドで勉強してきた方に言わせれば異論があるかもしれなくて、ヴェーダンタ哲学の方々は「聖典の勉強をすることで知識が現れてくるものだ」ということを言いますけど、私から言わせれば、そこで言っている知識というのはアートマンとしての意識の表れでありますから、同じことを言っていると思うわけです。<br /> <br /> アートマンが現れたからと言ってすぐに全知全能というわけでは全くなくて、文字通りの知識というのはまだまだ聖典などに頼っています。ここで言っているのは、聖典のお話が理解できるようになった、というお話です。ヴェーダンタの流儀に従えば「知識が現れてきた」みたいな言い方もできますけど、それよりは、「理解できるようになった」と言ったほうがしっくりきます。<br /> <br /> そのように、アートマンの意識が現れると、ヴェーダンタの各種のお話がすんなり理解できるようになり、その一環としてマーヤー(この世は幻)というお話も実感を伴って理解できるわけです。<br /> <br /> Sun, 20 Jun 2021 00:00:00 +0900 チャネリングで知識を得ると自分が何者かになった錯覚をするので気をつける https://w-jp.net/2021/2394/ <br /> これはチャネリングの良くない点として挙げられます。<br /> <br /> 実際のところ、チャネリングというのは誰か生きている体のある人間と話すことと変わりがありませんので、大切なのは誰と話したかと何を話したか・聞いたかという点になるわけです。<br /> <br /> ですけど、スピリチュアルの方々は往々にしてチャネリングを絶対化して、言われたからそうすべきだとか、神様のお告げだとか、そういう勘違いをしてしまいますけど、チャネリングで伝えてくる存在はそれほど高い次元の存在ではありませんので、具体的であればあるほどそれは人間的ということです。<br /> <br /> 高次になりますと善悪も消え去って、ただ悟りの境地だけがありますから小難しいことを言う必要がないわけです。悟り、あるいは言い換えれば光明があるだけですから、高次の存在であればそういうお話だけしかなくて、細かい知識を伝えてくるのは割と人間的な神様なわけです。<br /> <br /> 実際のところ、霊のような存在が、例えば修行僧だとか尼さんだとかが神様として伝えてくる場合は多いように思います。過去生でスワミのような精神修行をしている人も神様っぽく振る舞う時があります。ですけど、それは目に見えないだけで実際は生きている人間と変わりがないわけです。<br /> <br /> あるいは、宇宙人であればテレパシーをするようなテクノロジーがありますから、一方的にチャネリングで話しかけてきて、こちらが言っている内容もきちんと向こうが聞くことができます。それは宇宙人の能力でする場合もありますし、テクノロジーで行う場合もあります。<br /> <br /> それは割とランダムに選ばれることもあって、言うなれば、旅行先でたまたま目の前にいた人に話しかけるようなものです。ですから、チャネリングがあったからと言って「選ばれた」みたいな選民意識を持つのは馬鹿馬鹿しいことで、たまたまそこにいたからラッキーで話しかけられた場合の方が割と多いわけです。<br /> <br /> あるいは、守護霊や近くにいる友人知人の霊が話しかけてくることなんてのはしょっちゅうで、それは割と「近所のお節介おばさん」だとか「色々と世話してくる家族」あるいは「世間話が好きな友人」みたいなものです。そういう人が周りにたくさんいますから、思念波のうちのある程度はそういう人たちがごにょごにょと話しかけてきているわけです。<br /> <br /> 時折、その延長線で誰かにスピリチュアルなお話を教えてもらえることもありますけど、それは誰かから聞いただけですので、その知識が素晴らしかったとしても、自分のものになったわけではまだないわけなのですよね。<br /> <br /> スピリチュアルな階梯においてこのチャネリングによる知識は実に厄介なことがあって、「自分はわかっている」「自分はできている」という錯覚に容易に落ち込んでしまうわけです。<br /> <br /> 流派によってはチャネリングは良くないものとしていますけど、それはこのような危険性があるからで、実際にはそれは誰かと話すこととそうは変わらないのですからわかってしまいさえすれば特に問題はないのですけど、勘違いや、あるいは、安易にそれの指示に従ってしまう危険性があるわけです。<br /> <br /> Sat, 19 Jun 2021 00:00:00 +0900 「手放し」と「意識の覚醒」は両輪 https://w-jp.net/2021/2393/ <br /> スピリチュアルではよく「手放しましょう」みたいなことが言われていますけど、それは物事の半分しか説明されていなくて、それと同時に意識の覚醒がなければ手放したところで何も起きないわけです。何も起きないならまだマシですけど、手放しをすることで顕在意識が勘違いしてしまって既に手放しているかのように錯覚してしまうことがあります。<br /> <br /> このような錯覚はスピリチュアルの道において大敵で、一旦その状態になってしまうと理屈と記憶においてはそのことが一応は理解されていますから「わかっています」と心が思ってしまうわけです。この場合、「既に私は手放せています」と思ってしまうわけです。<br /> <br /> これはとてつもない落とし穴で、手放しているつもりが全然手放せていないわけですね。<br /> <br /> でも、そう思い込んでいる人に何を言っても無駄に終わることが多くて、自分が気づかないといけないことですので、周囲から気づかせようという努力が無駄になってしまうわけです。<br /> <br /> こうして、往々にして、スピリチュアルの幻影にハマって、しばらくすると「目が覚めた」とか言ってスピリチュアルの馬鹿馬鹿しさに幻滅する人が一定数いるのですけど、それはとてももったいないことだと思います。<br /> <br /> この種の「手放し」は顕在意識の手放しのことで、それはそれ単体で存在しているわけではなくて、意識の覚醒をその基礎にしています。<br /> <br /> 意識の覚醒というのは、言い換えれば心の本性であるリクパと言う覚醒の働きのことを意味していて、割と普通のぼんやりとした人生あるいは煩悩に支配されている人生を送っている人の場合、このリクパは動いていないわけです。<br /> <br /> 手放しをすると顕在意識が働かなくなりますから、それと同時に、このリクパの覚醒がなければよって立つところがなくなってしまいます。リクパの覚醒がない状態でただ手放しをするとただのぼんやりとした状態になってしまいます。<br /> <br /> それとわかっていさえすれば手放しだけしてリクパの覚醒を待つと言う方法もあるのですけど、リクパの覚醒はなかなか起きませんし、リクパの経験がなければ何がリクパかもわからないですので、これがリクパかな、あれがリクパかな、もうリクパなのかな、と、迷ってしまったり、迷うだけならいいですけど、色々と考えた結果、もうリクパがあると勘違いしてしまうこともあります。<br /> <br /> 基本的には、リクパの覚醒が起きていない以上は、自分がリクパの覚醒状態にあるのかどうかわからないですよね。ですけど、顕在意識というのは理屈をあれこれとこねくり回して、自分が既に達成できているかのように自分を納得させることがよくあるのです。それは特に瞑想の初期においてよく起こります。この種の自己欺瞞がスピリチュアルの落とし穴として存在していて、それにハマると、上に書いたようにしばらくしてふと自分が置かれた状況に気がついて「目が覚めた」とか言ってスピリチュアルをやめてしまったりするわけです。勿体無いですよね。<br /> <br /> 手放すと言うのは顕在意識のお話と、リクパの覚醒という2つの意味があるわけです。<br /> <br /> 顕在意識を働かせるのをやめましょうという意味における手放しと、顕在意識が主になって働いている状態からリクパの覚醒をすることでリクパが主になって働いている状態に遷移しましょうという意味における手放しがあるわけです。<br /> <br /> 実際のところ、リクパの覚醒という意味においてはどちらも同じことを意味しているわけですけれども、顕在意識の手放しだけでは半分でしかないわけです。それをしたところで、リクパの覚醒がなければただ単に顕在意識が動かなくなったというだけのことになってしまいます。<br /> <br /> 顕在意識というのは「私(アートマン)」の道具であり、本質においては顕在意識を動かすとか動かさないだとかいうことは関係がないのですけど、スピリチュアルな精神修行の一過程においてリクパの覚醒をもたらすために一時的に顕在意識を停止させるあるいは一時的にゆっくりにさせるという修行方法があるということです。<br /> <br /> ですから、スピリチュアル的な「手放し」というのもそのコンテキストにおいて理解されるべきだと思っていて、最終的な状態が「手放し」ではないわけです。この辺りにも誤解があるように思います。<br /> <br /> 例えば、スピリチュアルでは嫌なものや不快なものを「手放しましょう」みたいなことが言われますけど、わざわざ手放しをしなくてはならないのは最初だけで、手放しが起きるのは一時的なお話で、最終的にはそれは避ける必要もなく勝手に自分の周囲から消えてゆくわけです。消える、というと語弊があるかもしれませんけど、顕現としては変わらなくて、ただ、自分の認識として不快に思わなくなる、あるいは、不快に多少思ったとしてもすぐに消えてゆくようになります。<br /> <br /> 一方、わざわざ手放しを行わなくてはならない段階がいわゆる「キラキラ系」のスピリチュアルで、何か不快なことを避けるために「手放し」をするだとか、否定的なものを遠ざけるために「手放し」するみたいなことを言っていますけど、そうして自分が避けようとしているということは、まだそれに影響されているレベルでしかないわけです。<br /> <br /> 自分の周囲というものは全て自分の中が周囲に顕現したものですから、手放しをする必要があるということは顕在意識にまだ深く問題を抱えているということです。<br /> <br /> 実際には、その顕在意識の静まりだけでなくて、心の本性であるリクパとしての覚醒が現れて来さえすれば、そのような周囲への顕現は現れてはやがて消えてゆく一時的なものだと悟ることができます。<br /> <br /> 顕現というものはエネルギーの現れですので無限に続くことを理解して、顕現が現れてきたとしても観察しさえすればすぐに自然に消える(自己解脱)ということを理解するだけでなく実際に認識の面においてもすぐに自然に消えることを体感するようになり、顕現に悩まされることもなくなっていきます。<br /> <br /> 顕現がなくなることはない、ということを理解することは重要で、「手放し」という意味の中には「顕現がなくなる状態が良い状態」というニュアンスが多少は含まれていているような気がいたしますが、実際には顕現はなくなることがありませんので、自分の現れとして周囲の顕現は無限に続いてゆきます。それはエネルギーの現れですから、止まることがないわけです。<br /> <br /> 手放し、というのは、意識的に行うことではなくて、自然に起こることだ、ということもできます。それは、顕在意識が意識的に行うことではなくて、リクパの動きにより自然に起こることだ、ということです。それは心の本性としてのリクパの動きを基礎としていて、ざっくり言ってしまえば覚醒ということでもあり、覚醒があれば手放しも自然に起こる、ということでもあります。<br /> <br /> Sat, 19 Jun 2021 00:00:00 +0900 静寂の境地から自分が水面に浮かぶ境地へ https://w-jp.net/2021/2392/ <br /> 元々、静寂の境地に「私」はありませんでした。<br /> <br /> しかしながら、その静寂の境地に、最近は「私」が加わるようになりました。<br /> <br /> これは文字通り読んでしまうと「私」が出てきたということで、もしかしたら後退のように見えてしまうかもしれませんけど、そうではありません。<br /> <br /> 世間で言われている普通の「私」というのはブッディ(思考する能力)の反応として生み出されたアハンカーラ(いわゆるエゴイズム)の感覚(錯覚)であり、実際には存在しないものですので錯覚だとヨーガだと説明されています。<br /> <br /> ここで言っている「私」というのはアートマン(真我)のことです。スピリットのことです。<br /> <br /> 静寂の境地になっているというのは思考する能力(ブッディ)などが鎮まっている状態で、そのような静寂な境地を基本として、「私」というアートマン(真我)がその平な水面のような上に浮かんで大の字になって空を見上げているような状態です。<br /> <br /> 平な水面にはほとんど波はなく、静かなものです。<br /> <br /> 時折浮かぶ思考の波もその水面を揺らすことはありません。思考の波というのは静寂の境地とは割と独立した波であり、最初こそ静寂の境地と思考の波というのは相反するものでありますが、最近は、思考があったとしても静寂の境地はさほど乱されません。<br /> <br /> その静寂の境地は最初は思考の静まりを意味しておりましたが、最近は、気付きの感覚が続く、という状態になってきております。思考があったとしてもそれに気付いて心の奥底に静かなものが続く状態が静寂の境地なわけです。<br /> <br /> 聖者たちが口々に言っていた言葉が真実であると感じます。<br /> <br /> ・思考を止めようが止めまいが関係がない<br /> ・思考を観察しようがしまいが関係がない<br /> ・ありのままの状態を説明できる言葉などありはしない<br /> ・ただ、ありのままの状態を保っているだけで(思考や雑念は)自己解脱する<br /> <br /> この境地が更に進んだものが禅で言われている心身脱落ということなのかもしれません。<br /> <br /> 瞑想をしていて、体の感覚がなくなるというのは割と早く体験できて、特に目を瞑った瞑想においては思考のみが流れるようになりますので体の脱落というのはすぐに現れるように思いますし、座った瞑想では瞑想は体を使いませんので特にそれはしやすいと思います。<br /> <br /> ですけど、心の脱落というのはそうそう起こるものではなくて、それは一応は静寂の境地がそれと言うこともできなくもないですけど、脱落というのは、おそらくはこの「ありのままの状態」を示しているように思えるのです。<br /> <br /> 普段の生活を送りながら身も心もなくなったかのようになってこの世界と同一になる、と言うのは、上に書いたように、静寂の境地を基本としながらそこにアートマン(真我)がいていわゆる真我独存している状態になっているその先に、おそらくは、私はまだですけど、アートマン(真我)がブラフマンになって全てと同一になる段階があると思うのです。そのブラフマンの状態こそが心身脱落の完成かな、という気が致します。<br /> <br /> 今はまだその前段階の、アートマン(真我)がいる状態です。<br /> <br /> これらは聖典において割と理論で教えられてきたことで、聖典を教える方々の間では「これは人間にとっては五感で知ることのできないこと」と説明されています。これは文字通りその通りで、このことを持ってして「人間にとっては直接的に知ることができない」と解釈してしまいがちですけど、そうではなくて、人間の心というのは五感を超えることができて、五感を超えたところにあるのがアートマン(真我)なわけです。しかしながら多くの人にとってアートマン(真我)は動いていなくて、実際には動いているのですが聖典が語るところによると覆いが被さっているので見えない状態になっているだけで、全ての人にアートマン(真我)はいるわけです。<br /> <br /> いるはいるのですけど、最初は識別できていなくて、やがて、アートマン(真我)が現れてくるわけです。この状態が、上に書いたように、静寂の境地を基本としてアートマン(真我)が存在している状態で、私の今の状態になります。<br /> <br /> おそらくはこの後、アートマン(真我)が個としての感覚からブラフマン(全体)の感覚へと成長するのかな、と思います。聖典にはそのように書かれてあります。<br /> <br /> これは、割と聖典ではお話で理解して終わりだとか「きちんと理解すればいい」みたいに理屈上の勉強のお話として扱われることではありますが、実際には、それは理論のお話ではなくて、実際に自分がそうなることができる、というお話なのだと思います。<br /> <br /> これは一時的な経験のお話ではなくて、自分が変化する、というお話です。変化、と言いましたけど、実際には、聖典が言うところには変わるものは何もなくて、変わったように見えるのはジーヴァ(個として存在しているかのように思っている錯覚としての自分)がそのように認識しているだけで、アートマン(真我)の側からすると何も変わっていないわけです。アートマン(真我)は変わることがなく、生まれることがなく、死ぬこともない自分自身の本質ですから、それは文字通り、変わるとかそう言うことには無縁なわけです。ただ、ジーヴァとしての私が変わったかのように認識するだけです。<br /> <br /> アートマン(真我)としては変わることはないのですけど、ジーヴァとしてはアートマン(真我)を個の存在として認識しているのが今の段階です。聖典が言うには実際はアートマン(真我)とブラフマン(全体)は一体で同じだ、と言うことですけど、これもおそらくは聖典で勉強して頭で理解するだけのことではなくて実際に体験というか変わるというか、ジーヴァが体験してジーヴァの認識が変わることができるものの種類だと思います。しかしながら繰り返しになりますがアートマン(真我)としては変わることがなくてブラフマン(全体)としてももちろん変わることがなくて生まれることもなく死ぬこともなく永遠の存在なわけです。<br /> <br /> そのような永遠の存在であるブラフマンと本質は同じである筈の、個として分離しているかのように見えるアートマン(真我)が静寂の境地をベースに現れているわけです。<br /> <br /> Fri, 18 Jun 2021 00:00:00 +0900 時々、ただ気付きを再確認するだけで自動的に雑念が自己溶解する https://w-jp.net/2021/2391/ <br /> まだ完全に自動的に雑念が即時に溶解するというわけではなく、多少、時々、気付きの再確認が必要の様です。<br /> <br /> 気付きを再確認するだけで、自然に雑念が自動的に消えてゆきます。<br /> <br /> 全ては空(くう)であり、形あるものとして雑念が生まれ、やがて、また空に戻ってゆきます。それは般若心経の空即是色のことで、形のない空(くう)から形ある色が生まれて、そして、また空へと戻ってゆくわけです。<br /> <br /> この世の全ては夢まぼろしのものだとはよく言われますが、この段階になると、そのことがありありと感じることができます。<br /> <br /> ただ、それはほぼ自動的なものになってはいるものの、完全に気付きが完璧になったというわけではないようで、今の段階では、時々、再確認のための気付きを入れる必要があります。ですけど、その程度しかする必要がなくて、基本的には割と自動的に雑念は形のない空に戻ってゆきます。<br /> <br /> これは、雑念を流すということもできますけど、実際には、その雑念をしっかりと見ています。ですから、雑念を見ないようにするということではなく、逆で、いわゆる心の本性(リクパ)の働きにより雑念をありありと、ありのままに見ることによって自然にその見つめる力、光と言っても良いですけど、その観察する力によって雑念が自己崩壊してゆくわけです。このことを、自己解脱、とか言ったりします。雑念が崩壊して自己解脱するわけです。<br /> <br /> これを法性(ほっしょう)とか仏性(ぶっしょう)とか言ったりすることもできると思います。<br /> <br /> 瞑想のやり方で、時々、「雑念を追いかけなければ自然に消えてゆきます」みたいな説明を聞くことがありますけど、そのようにできるのはこの自己解脱の力が多少なりともある場合のみで、そうでない場合はなかなか消えてゆかなくて雑念に翻弄されてしまうことになります。<br /> <br /> その力は、強さによって何段階かに分かれます。<br /> <br /> ・ほとんどない状態<br /> ・チェルドル(ほんの少しある状態。努力して自己解脱する段階)<br /> ・シャルドル(中間的な状態。自動的な少しの時間をかける自己解脱)<br /> ・ランドル(瞬時の自己解脱)<br /> <br /> 思うに、チェルドルの様に時間をかけて雑念を自己解脱する段階では、まだ真理を見出したとは言えないか、あるいは、一瞥の状態にあると思います。<br /> <br /> 私の最近の状態はおそらくシャルドル相当ですけど、ここにきて、ようやく聖典の記述が本当であることが体感できています。普通の日常生活を送る分にはこのくらいで十分すぎるくらい十分ですね。<br /> <br /> シャルドルの場合、とくに注意力をはたらかせる必要はないし、努力もほとんど必要ではない。しかし、まだ、リクパの境地から離れたら執着に陥ってしまうということを、そのたびにしっかり思い出す必要がある。その意味では、完全な自己解脱とは言えない。真実の自己解脱(ランドル)は、この能力が完全に成長した時に生じる。「チベット密教の瞑想法(ナムカイ・ノルブ著)」<br /> <br /> この記述は本当にその通りだと特に最近は思うわけですが、ただ、それと同時に、ごく最近は、このような分類とか説明とかどうでもよくなってきました。<br /> <br /> 「ただ、ありのままでいるだけで自己解脱する」<br /> <br /> このくらいのシンプルなお話なのだ、ということがわかってきました。<br /> <br /> Thu, 17 Jun 2021 00:00:00 +0900 雑念が自然に消えてゆく状態が覚醒の始まり https://w-jp.net/2021/2390/ <br /> ここで言う覚醒とは心の本性(いわゆるリクパ)が現れている状態のことです。<br /> <br /> 覚醒というとはっきりとした定義がないので色々なコンテキストで使われていて、例えばクンダリーニ覚醒のことだったりエネルギー的に高まったことを意味したり、人によって色々なお話があるかと思います。<br /> <br /> ここでは感覚器官を引き金とした雑念あるいは突如の雑念が自然に消えてゆく状態のことを覚醒と言っています。<br /> 状態的にはこのことをシャルドル等ととも言います。<br /> <br /> スピリチュアルでは割と光と闇の対比として世界を位置付けることがありますけど、ヨーガやヴェーダではそのような対立軸は存在しなくて、ただ「無知」が真実の覆いを隠しているだけで我々の本性は清浄なものだと説いています。<br /> <br /> ですから、全ての人の中には常に比喩に対比されるところの闇もあれば光もあるのです。<br /> <br /> そこで闇として比喩されているのは雑念のようなものですが、それを対処せずに放っておくから闇のようになるのですが、それは覚醒状態が無知によって覆い隠されているために起こっているだけで、無知を取り外せば人の本性は完全で清浄なものなのです。<br /> <br /> ですから、本質的に言えばこの世界に闇は存在しないのですが、それでも、闇の存在としてこの世の中に現れている人々がいるのは無知によってそのように振る舞っているだけなわけです。<br /> <br /> 闇の存在は、ただ、無知のヴェールに覆われているだけでその本質も実は清浄なわけです。<br /> <br /> ですから、光の存在と闇の存在と言う対立軸が存在しているのではなくて、無知のヴェールに覆われていない(あるいはヴェールが薄い)人を光の存在と呼んで、無知のヴェールに厚く覆われている人を闇の存在と呼んでいるだけなのです。<br /> <br /> 人は本来、清浄なものであるとヴェーダやチベット仏教などは教えています。<br /> <br /> ですから、この世に生まれて肉体や顕在意識が自分だと思い込んで誤解しているジーヴァ(普通の人間)は時に闇の存在のように振る舞うこともありますが、無知のヴェールを取り外せばそのような人であろうとも光の存在になるのです。全ての人に悟って覚醒する余地があります。<br /> <br /> ただ、この世の秩序を守るために一時的に秩序回復のために闇の存在を光の存在が成敗すると言うようなことも起こりますけど、それはこの世の力関係によって行われますので、逆に、光の存在が闇の存在に脅かされる、と言うようなことも起こるわけです。一時的な秩序回復はただの力関係になってしまい、闇の存在の力が勝るなんてことはよくあります。<br /> <br /> 光の存在にしてみても、これらの理屈を誤解して、自らの内に現れてくる闇の部分を否定し続けてしまうとそれが育っていってしまいいつの間にか闇の存在になってしまうようなこともあります。光が大きければ大きいほど闇が育つ余地があるわけです。そこには無知と誤解があります。<br /> <br /> 覚醒とは、一瞬一瞬において光が無知のヴェールを取り外すことです。<br /> <br /> ここで無知と言っていますけど、歴史的にそういう単語を使っていると言うだけのことで、日本語で言うところの「あなたは何も知らない」と言う意味の無知ではなくて、ヴェールで覆い被さっていることを無知と言っているだけです。ですから、知識を得れば無知がなくなるということもあるにはあるのでしょうし、ヴェールで覆い隠されていることを比喩的に「知識を得れば無知がなくなる」と説明することもあって、それほど間違いでもないのですけど、それは本筋ではなくて、本筋は、心の本性(いわゆるリクパ)を働かせて覚醒の境地に生きることそれ自体が無知のヴェールを取り外すことなわけです。心を覆い隠しているものを心の本性(リクパ)によって取り外すわけです。掃除するとか浄化するということもできますけど、浄化というと意図するものの様に思われてしまうかもしれませんけど、このリクパの動きはもっと自動的なものです。その自動的なリクパの動きによって無知と呼ばれているヴェールを取り外せば物事がありのままに見られるようになって、結果、知識も入ってきやすくなります。<br /> <br /> 人は、覚醒状態を保とうとしてネガティブな思いを否定したり抑圧しようとすることがありますけど、そのように顕在意識を働かせてしまうのは本筋ではなくて、顕在意識を働かせてしまうと、逆に、闇を育ててしまうことがあると言うことです。<br /> <br /> この時、「祈り」によってその様に自然に覚醒状態が保てるよう意図することは多少は助けになりますし、顕在意識より高次の自分(アートマン、プルシャ)に委ねると意図することは時に必要ではありますけど、それは許可するだけのことで、本筋としては、心の本性(リクパ)が自動的にその様な働きをするだけのことなのです。<br /> <br /> 本来のあり様としては、自然に観察しているだけで雑念が消え去ってゆく状態が覚醒であり、その消えるスピードと強さは覚醒の度合いによります。<br /> <br /> 時に、無知だけが一人歩きして機械のような無秩序を自動的に起こすときがあります。AIにその危険性があります。この時、AIに人間と同じような意識としての光は本来的に存在しませんので無秩序を作り出す危険性はあります。理屈で言えばこの世の全てはアートマン(ブラフマン)なのですからAIにすらも意識がある筈ではあるのですが機械の理屈というのは固定的な未熟なものですので闇を固定化する危険性はあります。<br /> <br /> 人間にしても、ルールに縛られて機械的に生きることで闇に近づく危険性があります。<br /> <br /> 機械やAIについては未知のところがありますが、少なくとも人間には本来的に光が備わっていて、無知を取り外せば光が現れ、光が現れている時に、雑念は自動的に消えてゆくわけです。<br /> <br /> Mon, 14 Jun 2021 00:00:00 +0900 主であるアートマン(真我)の僕(しもべ)であると自覚をする https://w-jp.net/2021/2389/ <br /> 私がアートマン(真我)だという自覚と共に顕在意識の側は主の僕(しもべ)としての自覚も生まれるわけです。<br /> <br /> これはどういうことかと言いますと、アートマン(真我)が自らの肉体及び顕在意識をダイレクトに動かしていると自覚するのと同時に、顕在意識の側も、アートマン(真我)をはっきりと意識するようになるからです。<br /> <br /> アートマン(真我)からすれば肉体と顕在意識をダイレクトに動かしており、逆に、動かされている側の顕在意識からすればアートマン(真我)によって動かされているわけです。<br /> <br /> もちろんこれは顕在意識がなくなるということではなく、顕在意識は存在していて、思考や感情は普通にあります。その裏で、アートマン(真我)が全てを把握していて意図していることを「(アートマンの)意識」として感じられるわけです。そこには、観察としての観照状態と、意図としての意識の両方の面があります。<br /> <br /> 顕在意識からすると、「アートマンから見られている」「アートマンの意識によって動かされている」という2つの面が自覚されているわけです。観照状態で満遍なく普遍的に常にダイレクトに見られているという自覚と、意図を持った意識によってダイレクトに動かされているという自覚が顕在意識の側にあるわけです。これは理屈のお話ではなく、実際に、顕在意識がそのことを自覚している、というお話です。<br /> <br /> そして、それを比喩的に言い表すと、顕在意識の側からすれば「主の僕(しもべ)であることを自覚する」ということになります。<br /> <br /> とは言いましても、この時の顕在意識とアートマン(真我)の意識は表裏一体であり、実際にはひとつづきの心でありますので、心の一面の動きとしてのそのような自覚があるわけです。もっとはっきり言うならば、思考する器官(ブッディ)と感じる心とは少し違う場所にあって、アートマン(真我)の動きを自覚しているのはその感じる方の心の動きになります。顕在意識と言ってしまうと思考する心と思われるでしょうし、それはそれほど間違いでもないのですけど、それよりは、感じる側の心がこうしたアートマンの自覚をすることになります。<br /> <br /> 実際は、顕在意識が思っているところの「私」と言う感覚は幻想であるとヨーガやヴェーダンタでは教えていて、もっと具体的に言いますと、いわゆる「心(顕在意識)」に相当するものはマナス(意)とブッディ(決定する能力)で、このうち、ブッディがあるからこそその反応としてアハンカーラ(エゴイズム)と言う「自分」と言う錯覚が生まれると言います。ですから、その錯覚としての「私」の感覚が現れるや否や、すぐにこうした「アートマンに見られている」「アートマンに動かされている」と言う感覚によって「私」の感覚がすぐに消滅するわけです。<br /> <br /> 実際のところそれはとても素早くて、思考をする度にその反応として「私」と言う感覚は常に少しづつ現れては来るのですが、その度にすぐに「ああ、私はアートマンに見られている」「アートマンに動かされている」と言う感覚がそこに加わりますので、思考が私であるという錯覚はそれ以上育たずにすぐに消えてゆくわけです。この反応は機能的なものですので常に化学反応のようにアハンカーラと言う動きとしてエゴイズムがその瞬間瞬間に生まれてはくるのですけど、すぐにこうしたアートマンの自覚によりすぐにその「私」と言う錯覚は消えてゆくわけです。<br /> <br /> そのことを比喩的に言うならば「主の僕(しもべ)」と言えなくもないと思うわけです。誤解は多そうですけど。<br /> <br /> それは全く真実ではあるのですけど、キリスト教の一部の流派が言っているようにどこか遠くの救世主のキリスト様に委ねるとかそういうお話ではなくて、ここで言っているキリストとは(一部のキリスト教の流派が主張しているような)誰の中にでも存在して誰しもが直接繋がることのできる「キリスト意識」のことで、ヨーガやヴェーダでいうところのプルシャとかアートマン(真我)などに対応するかと思います。<br /> <br /> そのようなキリスト意識に委ねることを「主の僕(しもべ)」と呼ぶのであれば、半分は同じことを言っていると思われます。<br /> <br /> 半分、というのは、実際のところこの状態というのは顕在意識の側だけではなくアートマン(あるいはキリスト意識)の側からの働きかけもありますので、両方の側面があるわけなのですよね。<br /> <br /> アートマン(キリスト意識、プルシャ)の側からすればダイレクトに体や顕在意識を動かしているということであり、一方、顕在意識からすれば主であるところのアートマンから動かされていますので僕、となるわけです。<br /> <br /> ですけど、これは両方が対になっているものですので、片方だけを言ってしまうとよくわからないことになるわけです。<br /> <br /> こういうお話をするとキリスト教徒の方々に「それは違う」みたいなお叱りを受けるかもしれませんし、キリスト教っぽく聞こえてしまうかもしれませんけど、これは比喩的な表現を借りてみた、というくらいのお話です。<br /> <br /> 確かに、現在の状態の半分を表現するにはこの表現もありのような気が致します。<br /> <br /> Sun, 13 Jun 2021 00:00:00 +0900 心の動きを観察することが悟りへの鍵 https://w-jp.net/2021/2388/ <br /> 全ての修行はこのシンプルな働きに繋がっているのだと今はわかります。<br /> <br /> 心の制御をする修行、例えば心の動きを静止させようとする修行(シャマタ、止)ですとか心の動きを観察しようとする修行、例えばヴィパッサナー瞑想などは全てこのシンプルな心の観察の状態に至るための前段階であると言えます。<br /> <br /> ここで、最初は「しようとする」という意図が入ってきています。これは普通の意図する心の動きで、それ自体は普通の心の働きです。<br /> <br /> その先に、そのような意図なくして心の動きを観察できたり心それ自体が意図してくる段階があるわけです。<br /> <br /> そして、そのような心の観察こそが悟りへの鍵であると今は感じます。<br /> <br /> ・・・これはとても誤解を生むお話ではあるのですが、この種の「観察」は実際にそうなった時にそれとわかるもので、それ以前は、この「観察」は現れておりませんので何のことかわかりません。最初はそれは一瞬の体験であるでしょうが、しばらく続けていくうちにその時間が増えてゆくわけです。<br /> <br /> 心を静止するにも心を観察するにも、土台となる本性ができていなければそれを達成することはできません。その本性が何なのかというと空(くう)であるわけですが、一般的な普通の心の奥底に眠っている空(くう)としての心の本性(いわゆるリクパ)が普通の心を観察することこそが悟りへの道なのだと今ははっきりとわかります。<br /> <br /> ですから、最初は特に難しいのですが、ただ心の動きを観察することが悟りへの道であると思うわけです。<br /> <br /> ただ、この道はとても落とし穴が多く、ハマってしまう方も大勢いられるように思います。<br /> <br /> ですから、まずこのことを理解しておきつつも、最初はシャマタ(止、シネー)の瞑想から始められるのが段階としてはいいように思います。<br /> <br /> 普通の心を静止(シャマタ、シネー)してから、少しづつその静止を解いてゆくのです。そして、解いてゆく間、心の静寂さと心の気付きを保つようにするわけです。それは、いきなり心の動きを観察するよりずっと簡単です。<br /> <br /> もちろん、できるのであれば普通の生活においていきなり心の動きを観察しても良いでしょう。しかしながら、瞑想に上達していない普通の人の場合はその心の動きに囚われてしまって幾度となる来る思考の波にずっと翻弄されることになります。一方、一旦心の動きを静止(シャマタ、シネー)してから少しづつ緩める、ということをすれば、心の動きの観察を自分ができる範囲で制御しながら行うことができます。それがコツです。<br /> <br /> 実際のところ、シャマタ(止、シネー)の瞑想はそれ自体で一応は完結していてその結果としては静寂の境地があります。それはそれで心が休まって安らかになる境地ではあるのですが一時的なもので、やがては普通の雑多な心に少しづつ戻っていってしまうものなのです。<br /> <br /> それは一時的なものではあるのですが、その時、心の動きを観察できる余地が出てくるわけです。<br /> <br /> 日常生活においては激しすぎて難しい心の観察を、一時的に動きを鎮めて静止させた状態においてある程度の制御下に置きながら心の観察をするわけです。<br /> <br /> やがて普通の状態に戻っていくでしょうが、それは無駄なことではないわけです。<br /> <br /> このことを、一部の流派がことさらに「シャマタ(止、シネー)の瞑想は一時的なものに過ぎない」みたいにあげつらいますけど、実際のところ、瞑想とは手法であり、道具なのですから、ものは使いようなわけです。<br /> <br /> 最終的な状態は心の本性(いわゆるリクパ)が剥き出しになって常に日常生活において瞑想状態を保って観照を続けることですから、そのために、普通は難しいその観照を修行によって一時的に達成するのは無駄なことではないわけです。<br /> <br /> その観照こそが目的でありますから、静寂の境地という一時的な状態にしがみついたりするのは間違いですから指摘する必要はありますけど、そうは言いましても、ものは使いような訳で、最初はしがみついていたとしても、それなりに自分で物事を考える行者であればやがて自分のしていることに気がついてゆくわけです。まあ、理解力のない方もいらっしゃるとは思いますけど、聖典を勉強していて常に疑問を持っていれば色々と気が付くことがあるはずなのです。何事も、他人に言われたままではなく自分で納得するまで考えるのが良いと思います。<br /> <br /> ですから、聖者たちがどの段階について言っているのかを理解するのは重要で、特に、この種の観照のレベルを語っている聖者のお話を聞くことで凡人がシャマタの瞑想(心の静止の瞑想、シネー、止)との矛盾点を洗い出してシャマタ瞑想は意味がないとか言い出すわけです。実際には、どちらもそれなりの意味があって、段階が違えば違う視点が出てくるだけなのです。<br /> <br /> 特に最初はシャマタ(止、シネー)の集中瞑想から始めるのが基本です。<br /> <br /> ですけど、ゴールとしてはそこではない、ということを抑えておけば十分かと思います。<br /> <br /> 実際、心の本性(リクパ)による観照の場合は、普通の心の動きの裏側で普通の心の動き全てを観察したり意図したりする働きのある意識として現れてきます。<br /> <br /> ですから、普通の心が何かを考えていても心の本性(リクパ)による観照状態はありますし、普通の心が何も考えていない状態においても心の本性(リクパ)はその、何も考えていない普通の心というものを観察して意識しているのです。<br /> <br /> ですから、本質を言ってしまえば普通の心の働きと心の本性(リクパ)の動きは別物ということもできて、普通の心が静止(シャマタ、シネー)していようが、あるいは普通の心が動いていようが、心の本性(リクパ)の動きには関係ないのですよね。<br /> <br /> 普通の心が動いていようが止まっていようがその全てを観察し続けるのが心の本性(リクパ)の動きなわけです。<br /> <br /> ですけど、最初はそれは難しいですから、心の静止(シャマタ)の瞑想の修行から始めるのが基本なわけです。<br /> <br /> 本当はその普通の心と心の本性(リクパ)はひと続きなのですけど、修行としては、別々のものとして説明した方がわかりやすいですし、特に最初はそのような現れになっていて心の本性(リクパ)の動きはほぼないも同然ですから、それほど間違っているわけでもないわけです。<br /> <br /> Sun, 13 Jun 2021 00:00:00 +0900 不還果と阿羅漢とサマーディ https://w-jp.net/2021/2387/ <br /> 仏教の言い方で不還果(ふげんか)とか阿羅漢(あらかん)という悟りの階梯の段階がありますけど、これは、仏教の説明に基づきますと煩悩が消滅とかそういう表現の言い方をしますので両者ともに違いが分かりにくいところがありました。<br /> <br /> 不還果は仏教の悟りの4つの階梯の一つで、流派によって細かいところは違うようですけど、概ね、以下のように分類されています。<br /> <br /> 1.預流果 (よるか)<br /> 2.一来果 (いちらいか)<br /> 3.不還果 (ふげんか)<br /> 4.阿羅漢(あらかん)<br /> <br /> 私は仏教は専門ではありませんので詳しくはやりませんけど、大体の私の理解は以下の通りです。<br /> <br /> 1.預流果 (よるか)<br /> 悟りの一瞥。<br /> <br /> 2.一来果 (いちらいか)<br /> 集中瞑想の上達。シャマタ(止、シネー)の熟達。<br /> <br /> 3.不還果 (ふげんか)<br /> サヴィカルパ・サマーディ。対象のあるサマーディ。<br /> <br /> 4.阿羅漢(あらかん)<br /> ニルヴィカルパ・サマーディ。対象のないサマーディ。煩悩の消滅。<br /> <br /> 仏教系では「煩悩の消滅」だとか「私の消滅」みたいなお話がよく出てきて、現象としてはその通りなのですけど、それよりは、実際には大我の目覚めとして理解するのが正しいように思います。大きな私が現れてくることを(小さな)私の消滅、と呼んでいるわけです。仏教の言い方はこのあたりがコンテキスト依存で、とても分かりにくいように思います。<br /> <br /> テーラワーダ仏教系のこの種のお話や書物を聞いた時には、これらの内容がいまいち理解できませんでしたが、今から見直せば、確かにその通りだと感じます。今となっては実際にそれがどういうことなのか分かりますので内容をコンテキストに則して理解できますけど、昔は、なかなかこの辺りの概念を理解するのが難しかったように思います。<br /> <br /> 個人的に思うのは阿羅漢とか仏教の言い方は「結果」のお話だということであり、それはそれとして正しいのですけど、それよりは、チベット系のお話の方がしっくりきます。<br /> <br /> 世間で、仏教の階位や称号として阿羅漢とかもあるみたいですけどここで言ってるのは称号のことではなくて実際の境地のお話です。<br /> <br /> Fri, 11 Jun 2021 00:00:00 +0900 日常生活とサマーディを掛け合わせてゆく https://w-jp.net/2021/2386/ <br /> シャルドルで静寂の境地への依存から離れたことにより、日常生活とサマーディの状態を次第に共存できるようになってきたような気が致します。<br /> <br /> それまでは、基本的にはサマーディは静寂の境地を土台としており、静寂の境地とは瞑想で言えばシャマタ(止、あるいはチベット語でシネー)の状態でした。<br /> <br /> 心の声は無限に繰り返されますが、シャマタ(止)の状態では心の声と次の心の声との間が長くなります。完全にゼロにはなり得ませんけど、間隔が広がるわけです。そのことをシャマタ(止あるいはシネー)と呼びます。<br /> <br /> これは瞑想の基礎であり、とても重要な基礎であるわけですけれども、テーラワーダ仏教などのヴィパッサナー系流派はこれをさほど重要視せず、「集中はある程度は必要だけれども基本的には観察さえしていれば良い」という立場を取ります。このことが私は今まで腑に落ちないでいたのですが、どうやら、これはそれなりに高い境地からの説明が瞑想の最初の初心者向けの説明とごちゃ混ぜになっているのだと気が付きました。<br /> <br /> 最近の、サマーディのシャルドルの状態であれば確かにその通りで、「集中はある程度は必要だけれども基本的には観察していれば良い」というのは文字通り正しくて、サマーディの力が発達しさえすればそれで良いのですけど、最初からそうするのは無理だと私は思うのです。<br /> <br /> とは言いましてもこれは主観的なお話ですから、自分がさほど集中していないと思えばきっとそうでしょうし、集中しているつもりでもさほど集中していない、あるいは、集中していないと思っていてもとても集中している場合もあります。ですから、このような瞑想のお話の主観のお話はほどほどに聞いておくのが良くて、あまり真に受けない方がいいと個人的には思います。こんなこと言うと流派を真面目に修行している人に怒られてしまうかもしれませんけど、この種の精神修行は真面目過ぎない方がいい、と言うのが私のスタンスで、結局は自分がその境地に至れば理解できるのだから、説明としての理解はとりあえず横に置いておいて参考程度にするかあるいは確かめに使うくらいで良いと思っています。<br /> <br /> そのように、ヴィパッサナーの流派では初心者に対して言っていますが私はそれは初心者向きの説明とは思っていなくて、ある程度のサマーディの力が育った人に対する説明なのだと思っています。まあ、その流派の人に言わせてみれば「それは違う」と言うことなのでしょうけど、まあ、いいのです。これは「混ぜ合わせ」しているのではなくて、単に「表現を借りてきた」だけのことです。<br /> <br /> それと、私の守護霊の1人はチベットで修行して悟った修行僧なので系列としてはチベット系のお話と相性が良いのでチベット密教だとかゾクチェンおよび最近はヴェーダンタ等の理解も軸にしている感じです。<br /> <br /> 私は基本的に自分の瞑想体験を基本としていて、その説明のために流派それぞれの理屈及び説明を必要としているだけですから、流派を混ぜ合わせとかそう言うのはあまり関係ないのです。傍目には混ぜ合わせに見えるかもしれませんけど。どの流派にも近い流派との混合というのはそれなりに見られますしね。ですけど、根本というのは一緒ですから、塩水の味を知っていれば地中海の水も大西洋の水も太平洋の水もそれぞれ味や見た目はかなり違いますけど共通して塩辛いことが理解できるわけです。<br /> <br /> まずはシャマタ(止)があって、その基礎の上にヴィパッサナーがあると言えなくもないですけどヴィパッサナーと言うと幅広い意味がありますので、それよりは、シャマタ(止)の後にサマーディ(三昧)があって、最初はシャマタ(止)による静寂の境地に依存したサマーディ(サヴィカルパ・サマーディ、チェルドル)から始まって、やがてサマーディが深まるにつれて静寂の境地に依存しないサマーディ(ニルヴィカルパ・サマーディ、シャルドル)に移行するわけです。<br /> <br /> そして、このシャルドルの状態になると静寂の境地への依存から離れて、ヴィパッサナーの流派が言うところの「集中はある程度は必要だけれども基本的には観察していれば良い」と言う状態になって、それはヴィパッサナーの流派から言わせればヴィパッサナー状態なのかもしれませんけどそれよりはむしろ普通にサマーディ状態(ニルヴィカルパ・サマーディ、シャルドル)と言った方がわかりがいいわけです。<br /> <br /> この状態になると、ゾクチェンが伝えるところの「サマーディと日常生活をセワ(混ぜる)」と言うことが重要になってくるような気が致します。<br /> <br /> シャルドル以前では、これはなかなか難しかったように思います。いわゆるサヴィカルパ・サマーディの状態では自分自身の意識が多少は働いている状態でしかサマーディを保てず、サマーディ状態から落ちたらまた瞑想をして静寂の境地に戻ってからサマーディ状態に復帰していました。<br /> <br /> ここにきて、サマーディの力がそれなりに強くなり、日常生活とサマーディを混ぜることができるようになったように思います。そうは言いましてもサマーディの力がまだ凄く強いわけではありませんので少しづつではありますけど、以前より随分と日常生活でサマーディ状態を保てるようになったように思います。<br /> <br /> 「セワ」は、チベット語で「まぜる」ことを意味している。自分の三昧の境地を、日常生活のすべての行動に溶け合わせていくのである。ゾクチェンにおいては、何か変えたりする必要などないし、特別な服を身につける必要もない。外側から見て、ゾクチェンの修行中だと思われるようなものは、何一つないのである。(中略)相対的な条件の中にあるすべてを修行に取りいれ、両者を1つのものにするのである。もちろん、そのためには三昧が確固たるものである必要がある。「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」<br /> <br /> 相対的な条件、と言うのはまだ外側のものとして認識している日常生活の全てで、それら一つ一つを一元論のサマーディの境地に掛け合わせてゆくことがこの段階では必要になってくるように思います。<br /> <br /> 実際のところこれは瞑想に熟練したヨーガ行者でも同じようなことが言われており、ゾクチェンに特有のものではないとは思います。<br /> <br /> ここ最近は基本的にはこのように日常生活でのサマーディを保つように心がけており、そうは言いましてもサマーディ状態から少しづつ落ちてきますので、時折、明晰な静寂の境地に一旦戻してリセットしてから再度日常生活でサマーディを保つようにする、というサイクルをしています。<br /> <br /> それはもちろん静寂の境地が目的ではなくて目的としては「セワ」ですので、スタート地点としての静寂の境地(シャマタ、止、シネー)なわけです。<br /> <br /> Mon, 07 Jun 2021 00:00:00 +0900 スピリチュアルにおける鏡と心 https://w-jp.net/2021/2385/ <br /> スピリチュアルにおいて鏡は心を説明する比喩として使われることがあり、心とは周囲を映し出す鏡のようなものだ、とよく言われます。<br /> <br /> 実際のところ、この比喩は様々な文脈で用いられますので、何度となく読んだり聞いたりしたように思いますが、大体はその説明に具体性がなくて、個人的にはそのほとんどを「ふうん」という感じで「だから何?」と思って割とスルーしていました。<br /> <br /> 例えばスピリチュアルでは「他人は自分を映す鏡」という比喩を使います。まあ、「そうかな」という感じで割とスルーです。この文脈の意味としては、「他人に感じる感情は実はあなた自身の内にあるのです」みたいな意味合いですけど、それはそうなのですけど、まあ、私はそれだけでは満足しないのです。ありきたりすぎてスルーしてしまいます。これを知ったところで問題は解決しないのです。仏教の顕教の道徳みたいなお話ですよね。これを言われたところで人はそうそう変われません。実際には変わらなくてはいけないような自己なんてないのですけど、そういった本質にすらこれでは気付けません。<br /> <br /> 又、ヨーガ系においては心は鏡、という比喩が使われます。これは、上記のようなスピリチュアルな解釈も含んでいて他人なども心に映すのですがそれよりも「真の自分(ヨーガ的にはプルシャ)」を映すための鏡としての心があります。<br /> <br /> このヨーガ的な解釈はスピリチュアルや仏教の顕教の解釈よりも一歩進んでいて、心の鏡が他人を映すだけでなく本当の自分(プルシャ、あるいは真我・アートマン)を映す鏡として存在していることを説明しています。ヨーガが説くところによると、自分自身の心に色(汚れ)がついているので真の自分(プルシャ)を見ることができない、と言います。よって浄化を進めれば心によって自分自身の本性(プルシャ、あるいはアートマン)を心によって確かに純粋に見ることができる、と言います。<br /> <br /> これはこれで真実ではあるのですが、まだまだ外側からアートマンを見ている状態です。この浄化された状態ではアートマンそのものを捉えたわけではなく、心に映った純粋なアートマンを見ている状態です。ですから、この視点では心の本性(プルシャ、アートマン、リクパ)そのものをまだ捉えられてはいません。<br /> <br /> あるいはヴェーダンタでは同様に心と鏡の比喩を説明し、同様に浄化のお話もします。そして、浄化のためにヴェーダンタの教えを道具として使って曇りを取り払う、ということを言ったりします。あるいは、真実を映すための鏡としてヴェーダンタがある、と言っている流派もあるようです。<br /> <br /> それはそれで比喩としてはどれも正しいとは思いますが、どれも私を満足させません。<br /> <br /> 私を唯一満足させる鏡の比喩としては、ゾクチェンのものです。<br /> <br /> ゾクチェンは「鏡そのものであること」が二元論的な視点を突破する鍵だとして鏡の比喩を用いています。<br /> <br /> ・鏡そのものである状態は、心の本性リクパが働いていて一元論のサマーディ状態にある<br /> ・鏡を覗き込んでいる状態は、普通の心が動いていて二元論的な状態に留まっている。<br /> <br /> 鏡が曇っている場合は普通の心ははっきりと対象を映し出さず、浄化されて心が綺麗になれば他人や自己(プルシャ、アートマン)を綺麗に映し出すが、それは外側から見ているに過ぎないわけです。<br /> <br /> 鏡そのものであるということと、鏡のなかをのぞきこんでいるというのは、まったくちがう。もしも自分が鏡そのものであれば、二元論的な顕現は存在しない。(中略)鏡の状態に入っていれば、どんな像が映し出されても、何も問題ない。(中略)それが自然解脱だ。何も変化させたり、修正したりしない。ただ自己の本質にとどまりつづけるのである。「叡智の鏡(ナムカイ・ノルブ著)」<br /> <br /> これは、一部のニューエイジやスピリチュアルによって語られていたことでもあります。<br /> <br /> しかし、実際にこの状態になるのと、理屈で理解するのとでは全く違いますので、実際にこの状態にならなければ理解できないものであると思います。<br /> <br /> 個人的には、このゾクチェンの鏡の比喩が理解できるようになったのは自己解脱するシャルドルという能力が育ってからのことです。それまでは、わかるようでいてよくわからない状態でした。ここにきて、はっきりとこの比喩が正しいということがわかります。<br /> <br /> Mon, 07 Jun 2021 00:00:00 +0900 ケヴァラ・ニルヴィカルパ・サマーディ(≒シャルドル) https://w-jp.net/2021/2384/ <br /> サマーディ分類で今の状態を何と言うのか確認してみました。<br /> <br /> 最初:視界がスローモーションで認識される<br /> 次:胸の奥の「創造・破壊・維持」の意識の目醒め<br /> 最近:意識が体をダイレクトに動かしていることの実感<br /> <br /> これらの状態はそれぞれサマーディと一応は言っても良い状態かなとは思いますが、既存の言い方に当てはめようとすると苦労します。<br /> <br /> 一応は全てサマーディと呼んでも良い気が致しますが、本当にサマーディに相応しいのは最近の状態かなという気が致します。最初のは特に五感としての「対象」がありますのでサヴィカルパ・サマーディ(対象のあるサマーディ)です。2つ目と3つ目は個として感じられるアートマンとしての感覚が主で、その時に五感ももちろんありますけど、五感の奥にある意識がメインになっていますのでニルヴィカルパ・サマーディ(対象のないサマーディ)と呼んでいい気が致します。この時、ニルヴィカルパであっても五感は無くなりません。この辺り、五感がなくなるのかどうかで誤解があるようにも思います。<br /> <br /> サマーディには色々種類があってヨーガ・スートラのサマーディ分類が有名かとは思いますが、個人的にはヴェーダンタにおける分類の方がしっくり来ます。ヴェーダンタでは基本的に対象があるサマーディと対象のないサマーディに分けられます。<br /> <br /> ・サヴィカルパ・サマーディ 対象のあるサマーディ<br /> ・ニルヴィカルパ・サマーディ 対象のないサマーディ<br /> <br /> これらは、文字通り定義を読むと「対象があるかないか」ということですけど、それよりは「五感を主たる基礎としているのか=普通の心を主たる基礎としているのか」あるいは「第二の心=宇宙意識=心の本性リクパを主たる基礎としているのか」と言うお話なのかなと思います。それはゼロイチではなくて割合によって実際の状態はそれぞれ異なるように思います。「対象」と言う観点で言えば心の本性リクパがそれなりに動いている状態であっても五感及び普通の心は別の階層にて存在し続けていますので、最初こそ静寂の境地を基礎としていますのでそのように「対象」を基礎として分類することも可能ではありますけど、そのうち普通の心と心の本性リクパが同時並行で動くようになりますので、「対象」を基礎としてしまうと混乱が生じてしまいます。ですから、「対象」として理解しようとすると理解が難しくなりますので、それよりは、普通の心を主たる基礎としているのか心の本性リクパを主たる基礎としているのか、という点で分けるのが良いと思います。サマーディですから多少は心の本性リクパが働いていなければサマーディにはなり得ないので、まだ心の本性リクパが弱い状態では普通の心が主になっていますのでそれがサヴィカルパ・サマーディ(有想三昧、分別三昧)と呼ばれる、と言うことだと思います。<br /> <br /> その割合や特徴としている資質によって各種のサマーディの種類ができていてそれぞれ違った名前で呼ばれている、と言うことだと思いますが、大きく分けると上記の2つに分けられる、と言うことだと思います。<br /> <br /> このヴェーダンタの分類を基礎として、ラマナ・マハリシは以下のように3分類にサマーディを定義しています。<br /> <br /> ・サヴィカルパ・サマーディ 努力によって保たれているサマーディ<br /> ・ケヴァラ・ニルヴィカルパ・サマーディ 真我の一時的な自覚と、一時的だが努力を要しない自己覚醒<br /> ・サハジャ・ニルヴィカルパ・サマーディ 原初の、純粋な、自然な状態のなかに努力を要せずとどまっていること<br /> 「あるがままに(ラマナ・マハルシの教え)」<br /> <br /> これはよく理解できて、チベット仏教のゾクチェンに基づくチェルドル・シャルドル・ランドルに相当するような気が致します。<br /> <br /> ・サヴィカルパ・サマーディ (≒ チェルドル)→ 視界のスローモーション<br /> ・ケヴァラ・ニルヴィカルパ・サマーディ (≒ シャルドル)→ 創造・破壊・維持の意識による体をダイレクトに動かしていることの実感<br /> ・サハジャ・ニルヴィカルパ・サマーディ (≒ ランドル) → 私はまだ<br /> <br /> 真我の自覚は、最初の段階である創造・破壊・維持の意識から体をダイレクトに動かしていることの実感までは半年くらい期間が空いておりますが、最初の段階の言い方として言葉では一応「創造・破壊・維持の意識」と言うように「意識」と言う言葉を使ってはいても「意図」は最初は感じられず、ただ、「創造・破壊・維持」の意識だけを感じておりました。それが意識だということは直感では分かりましたがそこに「意図」は感じられませんでした。最初は、後で感じるような「体をダイレクトに動かしているという感覚」と言うような「意図」は特になく、ただ、世界を創造して破壊してそして維持をしている根源としてハートの奥底に感じておりました。<br /> <br /> その後、体をダイレクトに動かしているという感覚が出てきて、そのような「意図」を実感したことでようやく「ああ、これは真我(アートマン)だったのか」と気付いたわけです。それまでは、単に「創造・破壊・維持の意識」というだけで真我(アートマン)だとは思いませんでした。そうかもしれない、というくらいで確証はありませんでしたが、「意図」が出てきてそれがアートマンだと自覚しました。<br /> <br /> ですので、今の段階はケヴァラ・ニルヴィカルパ・サマーディ(≒シャルドル)なのかなと思います。<br /> <br /> Sun, 06 Jun 2021 00:00:00 +0900 サマーディは大我の目覚め https://w-jp.net/2021/2383/ <br /> ヨガナンダの弟子である「ヨガ行法中伝」の著者はまずヨーガ・スートラに基づいてダーラナ(集中)・ディヤーナ(瞑想)があり、その結果としてサマーディが現れると説明しています。<br /> <br /> 基本的な構造としては、一般的な普通の心の滅却によって現れる第二の心、その第二の心が現れた状態がサマーディと言うことです。<br /> <br /> 行者の心が全く波動を中止して、無我・無私の状態に持続せられる時、その心の側に眠っていた第二の心が目を醒ます。この「第二の心」の目醒めをサマディというのである。「ヨガ行法中伝(関口野薔薇著)」<br /> <br /> これは、私の状態と当てはめてみると次の3段階が当てままる気が致します。<br /> <br /> 最初:視界がスローモーションで認識される<br /> 次:胸の奥の「創造・破壊・維持」の意識の目醒め<br /> 最近:意識が体をダイレクトに動かしていることの実感<br /> <br /> これらは基本的に「静寂の境地」を基礎としていますが、最近の段階になりますと静寂の境地への依存から離れるという状態になってきています。ですが、基本は静寂の境地を基礎にしています。静寂の境地とは「心の一時的な静止」です。これに基づいてヨガナンダの弟子は説明しています。<br /> <br /> サマディは小我の休息ではあるが、大我の目醒めであって、人間そのものの死を涅槃というのではない。別言すると涅槃は、個人の心中における宇宙意識の覚醒である。(中略)この宇宙意識のことを神または仏というのであるが、(中略)人間にあってはこの内部に神または仏が棲息し給うけれども、常人の体内では常に休息してい給うのである。人間に内在する神、これこそ誠の人間、誠の自我なのである。だがその神は常人の内部では、およそ眠ってい給う。この眠れる神を目醒めしめて、「人が神と共に住み、神が人と共に働く境地」を開発した時、その境地をこそ、天国または極楽と呼ぶのである。人間がこの極楽の境地に入ると、それがあらゆる宗教の目的であり、またヨガ行法の最後の目的でもあるのである。「ヨガ行法中伝(関口野薔薇著)」<br /> <br /> 静寂の境地を基本として宇宙意識が覚醒することがサマーディであって、それを神や仏と呼ぶ、と説明しています。そしてそれが天国あるいは極楽だと言うことです。普通の人においてはこの宇宙意識は眠っていて、目醒めた状態がサマーディである、と言うことです。<br /> <br /> これは、言い方は色々あるとは思いますが、基本的には私の感覚と一致しています。<br /> <br /> ただ、大我とは言っても、割と日常生活は普通です。そんなもんだと思います。特に変わったところはありません。ただ、今まで眠っていたのが意識的になった、というくらいです。こう言ってしまうと誤解が生じるかもしれませんけど、要は特別感はないということです。地味なものです。<br /> <br /> Sun, 06 Jun 2021 00:00:00 +0900 シャルドルで静寂の境地への依存から離れる https://w-jp.net/2021/2382/ <br /> それまでは、ある程度まで静寂の境地に頼っていました。<br /> <br /> 自己解脱するシャルドルの能力が育ち始めてから、静寂の境地への依存がかなり減ったように思います。<br /> <br /> それまでも、観察すると雑念が消失するチェルドルにおいて静寂の境地から多少は離れることができていましたが、基本的には静寂の境地に頼っていました。<br /> <br /> 今は、心の動きとはそれなりに離れたところで想念が自己解脱する状態になっています。<br /> <br /> 特にヴィパッサナー系の瞑想の流派において「心の静止は必ずしも必要ではない」とか「集中力はある程度は必要だが集中によるシャマタ(止)は必ずしも必要ではない」などと言われていて、そこでは「静寂の境地は必ずしも必要ではない」みたいな文脈で物事が語られていますけど、それはこの段階においては確かにそうかなと思います。しかし、それ以前の段階においては静寂の境地は必要だったように思います。<br /> <br /> 確かに、理屈としてはヴィパッサナー系の流派のいう通りかなとは思うのですがそれはかなり困難で、特に現代のような雑多な世界においては特にそうで、今は特に段階を踏んで瞑想をする必要があるのかなと個人的には思います。昔のようにシンプルな社会においては特に集中をそれほどしなくてシャマタ(止)の静寂の瞑想をせずともいきなり観察状態のシャルドルにまで達することができたのかもしれませんけど、現代においてはそれは難しいのではないでしょうか。<br /> <br /> ヴィパッサナーという言葉には手垢がついていて色々な解釈ができてしまいますけど、シャルドルという言い方からすれば意味は1つしかなくて明確な気が致します。<br /> <br /> この段階に至れば、確かに、静寂の境地への依存から離れ始めたような気が致します。<br /> <br /> かといって雑念だらけになるというわけでもなく、そこは自己解脱の能力がありますから、ありのままの状態を保つだけで雑念が自己解脱してサマーディの状態に保たれるわけです。<br /> <br /> Sun, 06 Jun 2021 00:00:00 +0900 雑念・煩悩が自己解脱するシャルドルというサマーディの能力 https://w-jp.net/2021/2381/ <br /> 少し前までは、時間をかけて少しづつ思考・雑念が溶けて行く、という感じでした。<br /> <br /> 五感の感覚で言いますと、スローモーションの視界を感じて映画のように感じられたり日常生活を観察状態(ヴィパッサナーあるいはサマーディ)でそれなりに送るということをしてきましたが、その状態はそれほど長くは続かず、いつの間にか状態が落ちていたような感じでした。<br /> <br /> そのようなサマーディ状態は多少の意識を必要とし、集中と言うほどでもないですけど多少の意識の気付きを意図することでそれらの状態を保っていました。一旦その観察状態になるとしばらくはそれほど意図せずとも状態が続いておりましたが、そのうち元に戻っていました。<br /> <br /> しかし、今は、割と意識しなくてもその観察状態が継続しています。<br /> <br /> この、サマーディに意図を必要とするかどうかの大きな境目としては意識が体をダイレクトに動かしていると実感し始めた時で、それ以前は多少の意図を明示的に行わなければサマーディになりにくかったように思います。それほど意図していなくても日によっては自然にサマーディになることもありましたが、基本的には多少の意図が必要だったように思います。<br /> <br /> それが、その境目を超えてからは、明示的な意図がなくても割と普通にサマーディ状態になるようになりました。<br /> <br /> とは言いましてもそれはそれほど強くはなく、ハイキングで尾根を歩いているようなものです。それほど大変ではないにせよ多少の注意を必要として、それでいて視界は良好な感じです。<br /> <br /> これらのことは、チベット仏教的な解釈に基づけばおそらく以下の状態に該当するのではないかと思います。<br /> <br /> 1.チェルドル → 今まで。自己解脱の僅かな力。<br /> 2.シャルドル → 今の状態。<br /> 3.ランドル → まだ<br /> <br /> シャルドルは中間的な能力であり、海に降ると同時に溶ける雪のイメージによって表現される。この場合、雪は感覚をつうじた対象との関係、すなわち煩悩を意味し、シャルドルは「生じると同時に解放する」ことを意味している。(中略)煩悩によって制約されることはなくなる。ゾクチェンにおいては、あらゆる煩悩や、カルマから生じるあらわれも、ただの飾りになると言われるのはこのためである。執着することなく、単にあるがままのものとして、すなわち自分のエネルギーのたわむれとして、それを楽しむのである。「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」<br /> <br /> まさにこの記述が私の最近の理解にぴったりで、本来ならばこういうのはラマに伺いを立てて自分の状態を確かめるべきなのでしょうけど、ひとまず、読む限りではこの状態のように思います。今までは、読むことで「そうなのかな?」と思ったりすることはありましたけど以前は理解するだけで確証はなく、今はもっとはっきりとこのことがわかって確信があります。<br /> <br /> 同署によればこの先に完全なる二元論の克服があるようで、この時点ではまだ完全に二元論を脱したわけではない、ということですが、そこの点においても私の感覚と一致します。この段階でようやく二元論を脱する手がかりを得て「全ては1つ」であることを体感し始めたものの、まだ完全にその境地に浸りきっているわけではありませんので、この記述がそのまま私に当てはまります。<br /> <br /> この状態ですと基本的にはそのように自然に煩悩が自己解脱するのですが、それでもまだ二元論の幻想に包まれることがあり、特に朝の目覚めた後には煩悩やタマスな感覚が残ってしまっているように思いますのでそれらを取り払うためにまだ座った瞑想は必要なように感じています。<br /> <br /> Sun, 06 Jun 2021 00:00:00 +0900 不二の意識により聖典の知識が明確に理解できるようになった https://w-jp.net/2021/2380/ <br /> 最近のダイレクト感のある内なる意識が目覚めたことにより聖典の記述がとてもよく理解できるようになりました。特に不二の意識のサマーディおよびアートマン(真我)の説明がその通りだと感覚の実感を伴って理解できるようになりました。<br /> <br /> と、言いますか、ダイレクト感のある内なる意識というのは感覚で表現したものですけど、それを聖典風の言葉で言い表すと不二の意識とかサマーディとかいう言い方になって、表現は違いますけど同じことを意味しています。<br /> <br /> 歴史的に、この状態をサマーディとか不二の意識と言っていたということが今となってはよくわかります。<br /> <br /> この種のお話はよく神学論争や哲学の議論あるいは宗派論争になりやすいお話ではありますけど、実際に自分が不二の意識であるいわゆるサマーディになってみると何が正しいのかはっきりとわかるようになりますので、特に異論などなくなるわけです。<br /> <br /> ただ、そこには分かりやすい記述と誤解を与えやすい記述あるいは言葉が長すぎて本筋が見えにくくなっているお話があったりして、それぞれ特徴はありますけど、それでも真実というものはあるわけです。<br /> <br /> 例えば、シヴァ派の聖典であるシヴァ・サンヒターの記述があります。<br /> <br /> この宇宙万象のうちにアートマンはあまねく行きわたって存在する。アートマンは唯一者にして、実在性と智恵と至福とから成り、充実して、欠けたところが無く、対立するものもたない。(中略)アートマン以外に照明者は無いから、それは自己照明者である。自己照明者であるから、それは光明を本質とするものである。照明というのは意識性のことである。(中略)アートマンには、時間と空間を本質とする限定が絶対に存在しないから、アートマンは誠に完全円満である。(中略)アートマンには滅亡が無いからアートマンは永遠であって決して滅びることはない。この世界にはアートマン以外のものは存在しないから、常に唯一のアートマンが存在する。それ以外のものは偽妄であって、アートマンだけが実在である。「続ヨーガ根本経典(佐保田 鶴治著)<br /> <br /> このように言われてしまうと「なんのこっちゃ」という感じで、あまり関係のない神学論あるいは哲学のお話かなと思ってスルーしてしまいがちですけど、ここには実際の瞑想の境地がそのまま表現されているのです。<br /> <br /> この記述は神学論といえばそうですけど机上の空論ではなくて、哲学にも色々あって実在的なものもあるでしょうけど机上の空論系の頭だけで考えた類の哲学とは違っていて、そのような理屈をこねて出されたものではなくて、これらが事実だからこそ聖典に真実として記されているわけです。<br /> <br /> この聖典は割と近代に入ってから流派のグルによって書かれたもののようですけど、その根本を辿っていきますとそもそも人間が考えたものではなくて昔の賢者が神々あるいは絶対的な存在(宇宙人かもしれません)から与えられたものを根拠としています。ですから相当に歴史があるわけで、そこには実在の真実が記されているわけです。<br /> <br /> これらは瞑想をするうちに実際の真実として実感できるようになるわけです。<br /> <br /> 具体的には、不二の意識になって意識が体や顕在意識を動かしていることが実感できるとそれがアートマンだということが聖典によって確認できます。<br /> <br /> そして、瞑想では輪郭がわかるわけですけれども、その全体像が聖典によって確認できるわけです。<br /> <br /> 全く実感のない状態で聖典を読むと「ほにゃらら」という感じではありますが、全部とまでは行かないまでも基本的なベースとしての不二の意識のサマーディがある状態で聖典を読むとその記述が真実であることがよく理解できるのです。<br /> <br /> Sat, 05 Jun 2021 00:00:00 +0900 不二の意識になってから特別感が消え失せた https://w-jp.net/2021/2379/ <br /> 意識が体をダイレクトに動かしていると実感し始めてから不意に気がついたのですが、特別感がかなり消え失せていました。<br /> <br /> 今までもそこまで特別感があったわけでもなかったように思いますが、どこか心の片隅に残っていた特別感が今回の変化を経たことでかなりの割合で消え失せたように思います。<br /> <br /> この特別感は特にスピリチュアル初心者には強く現れているもので、段階を経てかなり減ってきてはいたのですが、そうは言いましてもごく最近にまで少しはその特別感がほんの僅かに残っていたように思います。<br /> <br /> それは現象としては優越意識として現れ、自分のやっている修行が特別で優れているものだと考えることに繋がります。このような優越意識は特にスピリチュアル初心者に強く現れるもので、次第に減ってゆきます。これはあるのが普通で、悪いものではなく、修行の進み具合を確かめる印として使えると思っております。よく優越意識が悪者にされますけど、あるのが普通だと思いますので他人を不快にさせないように気をつければいいと思っております。今から思えば、少し前のことですら今と比べてみると多少は特別感があったのかなという気も致します。<br /> <br /> その特別感あるいは優越意識は修行をするうちにどんどんと減ってゆくものなのですが、それは程度問題で、人間ですからどこまで行っても完全にゼロにはならないようにも思いますが、ここにきて不二の意識になることでかなり特別感がない状態に近づいたように思います。<br /> <br /> この不二の意識は具体的には体をダイレクトに動かしているという実感のあるハートの意識でありアートマン(真我)あるいはプルシャなどと呼ばれているものですけど、この不二の意識が出てくるとそれは瞑想状態としてはサマーディ(三昧)状態になります。サマーディとは不二の意識のことですが、(不二の意識に対比されるところの)通常の顕在意識においては見る者・見られる者・見る手段、という3つに分割されているとヨーガでは説明されています。そのように、普通の意識では分割されているものが、サマーディ状態になると「見るもの」と「見られるもの」が合一すると説明されています。そのことを不二の意識、と言ったりします。<br /> <br /> 不二の意識は今までもそれなりに体験していたと今までは思っていて、特に瞑想中においてそれっぽい感じになったり、視界がスローモーションで感じたり映画のように感じたりした時に不二の意識を感じてはいたのですが、それらの今までの不二の意識は最近のダイレクト感のある意識状態と比べると随分と生ぬるいものだったのかな、という気がしてきました。<br /> <br /> 今までは不二の意識のサマーディを垣間見ていただけで本当のサマーディではなかったように思います。サマーディには各種の種類がありますが、まだ入り口のサマーディだったということのようにも思います。<br /> <br /> その時の感覚からすれば、不二の意識というのは多分そうなのだけれども、確実に不二の意識というのには確信が足りないような状況でした。<br /> <br /> 一方、最近のダイレクト感のあるサマーディは、確かにこれは不二の意識だ、という確信があります。<br /> <br /> 不二の意識とは文字通り2つではない、ということであり、1つだ、ということです。<br /> <br /> ヨーガの説明では元々分かれていたものが1つになる、というような説明でしたけど、実際にこの状態になってみると、どうやらそれは誤解があるように思うのです。<br /> <br /> この不二の意識は、文字通り、分かれていない、というお話であり、2つにあるものが1つになる、というお話ではないのです。<br /> <br /> 確かに、顕在意識では2つに分かれているように見えますけど、不二のサマーディの意識から見ると1つなのです。全ては意識で繋がっていて、意識しかないわけです。そこに、2つのものが1つになる、というような概念は存在しないのです。<br /> <br /> <合一>という言葉のかわりに、<不二>という表現をよく使う。その理由を理解するには、<合一>という言葉が意味している内容を理解する必要がある。それは、まず最初に二つの異なるものがあって、それを合一させなければならない、ということだ。これに対して、<不二>という場合、何かを二つに分け、それをふたたび統一するという考え方とは無縁だ。「ゾクチェンの教え(ナムカイノルブ 著)」<br /> <br /> ヨーガ風の説明においては「不二」というお話と「合一」というお話が出てきますが、ゾクチェンにおいては「不二」だけです。ヨーガ風の「合一」のお話はどうも腑に落ちないでいましたが、今思えば、このゾクチェンの説明が正しいと思えます。<br /> <br /> 合一のように見えるのは顕在意識によってこの心の本性の不二のサマーディの意識を理解しようとしているからで、合一のように見えている時点でそれは顕在意識からの視点なわけです。一方、実際に心の本性(いわゆるリクパ)の現れとしてサマーディ状態になれば、そこにはただ不二の意識だけがありますから自明で、全く迷いがないわけです。<br /> <br /> 顕在意識がある状態ですと2つに分かれていますからそこに特別感というものが生じる余地があるように思います。そしてその特別感というものは本質の心の本性からどれだけ離れているかによって生じているように思います。心の本性のサマーディから離れていれば離れているほど2つに分かれているように感じて特別感が出てくるわけですね。<br /> <br /> 一方、心の本性であるいわゆるリクパあるいはアートマン(真我)あるいはプルシャの意識と顕在意識が重なり合うようになるにつれ、意識が不二の意識として動き始め、特別感というものがいよいよなくなってゆきます。<br /> <br /> この辺りは説明が微妙なのですが、顕在意識としては顕在意識としてあるのですが、心の本性であるリクパあるいはアートマン(真我)あるいはプルシャがダイレクトに私の体及び顕在意識を動かしていますので、アートマンと体及び顕在意識が割とぴったりとくっついている状態なわけです。ですから顕在意識としてはそれはそれとしてあるのですけど、アートマン(真我)の意識とダイレクトに繋がっていて、アートマンの意識が不二の意識ですから、その不二の意識が働いていることにより特別感が消失するわけです。<br /> <br /> これはおそらくサマーディの深さに関係するように思えて、感覚は一定ではなくて時間によって違いますけど、概ね、このようになっています。<br /> <br /> Fri, 04 Jun 2021 00:00:00 +0900 内なる意識とダイレクトに繋がることのみが本質 https://w-jp.net/2021/2378/ <br /> 聖典の知識とか意識の静寂さなどほとんどの瞑想の境地は外側で、内なる意識とダイレクトに繋がることこそが内側だと最近は思うようになりました。内なる意識はアートマン(真我)と呼ばれたりハイヤーセルフと呼ばれたりプルシャあるいは神意識などと呼ばれたりしますが言い方は重要ではなくその内なる意識とダイレクトに繋がることこそが次なる意識の段階へ進む鍵だと最近は確信するようになりました。<br /> <br /> この、意識とダイレクトに繋がった状態では全てが「ありのまま」であると感じられます。<br /> <br /> ゾクチェンの詩にあるように「ありのまま」を表現する方法などありはせず、全ては現れては消えてゆき、そのままで完全なのだから努力の病を捨て、サマーディの自然の状態に留まるだけで全ての顕現は現れては自然に消えてゆく繰り返しである、と。<br /> <br /> 多様な現象の本性は、不二だ。<br /> ひとつひとつの現象も、心の作り出す限界の彼方にある。<br /> あるがままのものを定義できる概念などありはしない。<br /> にもかかわらず、顕現はあらわれ続ける。すべてよし。<br /> 一切はすでに成就しているのだから、努力の病を捨て去り、<br /> あるがままで完全な境地の中にとどまること、それが三昧だ。<br /> 「ゾクチェンの教え(ナムカイノルブ 著)」<br /> <br /> すべての始まりから、<br /> あらゆるものは<br /> そのままで完全だということがわかれば、<br /> 何かを達成しようとする努力は、すべて放棄される。<br /> あるがままの自然の状態にとどまっているだけで、<br /> 不二の三昧の境地が自然に生じつづける。<br /> 「虹と水晶(ナムカイ・ノルブ著)」<br /> <br /> このことが今までは理性では理屈で理解できても、いまいち実感が持てないでいました。<br /> <br /> しかしながら、ここにきて、少し実感が伴ってきたのが胸の奥にて夜明けを感じて創造・破壊・維持の意識が深まってきた頃からで、更に、この詩の内容が確実に正しいと確信したのはごく最近で意識が体をダイレクトに動かしていると実感してからのことです。<br /> <br /> この、一見すると全く関係ないかのように見えるこれらの事柄は実は関連していて、自らの内側にある意識とダイレクトに繋がることで上記の詩の内容が理解できるようになるのです。<br /> <br /> 全ての始まりから、あらゆるものは、そのままで完全、というのは、全てが意識による創造物ということです。何物も意識によって意図されて作られたということがこの段階ではわかりますので、あらゆるものは、それがどのようなものであったとしてもそのままで完全であるということがわかります。これは変わってはいけないということではなく、むしろ逆で、いかなる形に変わろうとも、あるいは、全く形のようなものを取っていなくて原材料のようなものであってもそれすらもあらゆるものに含まれますのでそのままで完全であるということです。そのことが、自らの内なる意識に繋がることで理解できるわけです。<br /> <br /> 確かに、繋がったのはまだ自らの意識であって周囲の物の全てに繋がったわけではないと言えばそうですけど、自らの内なる意識と外側にある物体や他の人との本質が同じだと「わかります」ので、同じなのだという理解に基づいて、そのようなことがすんなりと理解できるわけです。自らを理解することで世界の成り立ちを理解するわけです。<br /> <br /> この過程は聖典に書かれてあり、自らを理解することで世界を理解する、という聖典の記述は正しかったのだと今はわかります。<br /> <br /> そして、何かを達成しようとする努力は、全て放棄される、ということもほぼ同様で、ありのままなのだから全ては意識のなすがまま。全てが良い、ということになります。<br /> <br /> ここで、努力の放棄と言っているのは顕在意識の努力の放棄のことで、内なる意識の意図は残りますが、基本的には無駄な努力という観点からの努力は放棄されるわけです。<br /> <br /> そして、あるがままの自然の状態に留まっているだけで不二の三昧の境地が自然に生じ続けるということもその通りで、あるがままの自然の状態と不二の境地というのは表裏一体であり、不二の境地で自らの内側に繋がっているからこそあるがままの自然の状態になっているとも言えて、それと同時に、文字通り、あるがままの自然の状態に留まるから不二の三昧の境地が続く、という面もあるわけです。<br /> <br /> この詩はサマーディの境地の説明でもありますけど、サマーディというと色々な種類がありますけど、ここでの説明は、それなりに深い境地のサマーディのお話だと思います。<br /> <br /> <br /> Fri, 04 Jun 2021 00:00:00 +0900 我思う、ゆえに我あり、の2つの側面 https://w-jp.net/2021/2377/ <br /> デカルトが言ったというこの言葉は、おそらくは元々の意味としては顕在意識のことを言っていたのかなと思います。私は彼について詳しくはありませんが、自分や周囲の実在を疑った時に自分の自意識だけは存在していることを確信したようです。<br /> <br /> それ自体は哲学のお話ですので異論はないのですが、この同じ言葉を使って2つの側面を説明できると思うのです。ここでは、デカルトが言った本来の意味としてではなく、言葉通りを解釈した時に現れる2つの側面について言っています。(デカルトも同じことを言っていたのかもしれませんがそれはさておき)<br /> <br /> 1つは、顕在意識としての「私」<br /> もう1つは、心の本性(いわゆるリクパ)としての「私」<br /> <br /> 実際のところ、ヨーガやヴェーダンタでは顕在意識としての「私」は一時的に現れては消えてゆくもの、としています。それはサンスクリットでチッタ(心)とかブッディ(決定する能力、思考力)と言われています。それに加えて、ブッディが存在することによって本来は存在していない「私」という感覚「アハンカーラ(エゴイズム)」が現れる、と説明しています。<br /> <br /> ここで実在しているのは以下のものです。<br /> <br /> ・心の本性(リクパ)<br /> ・顕在意識としてのチッタ(心)、及びブッディ(決定する能力)<br /> <br /> そして、以下が存在しないものです。<br /> <br /> ・アハンカーラ(ブッディが存在することによって現れる「私」という錯覚)<br /> <br /> ここで、デカルトがどれのことを言っていたのかはわかりませんが、言葉の意味としては以下の2つが考えられます。<br /> <br /> ・心の本性(リクパ)が意思を持つが故に私が存在している。<br /> ・顕在意識があるが故に私が存在している。顕在意識としてのチッタ(心)及びブッディ(決定する能力)が意思を持つが故に私が存在しているというアハンカーラ(という錯覚)が生じている。<br /> <br /> 実際のところ、それなりに瞑想をしたりあるいは一部の人でなければ心の本性(リクパ)が意思を持つことを認識できませんので、デカルトが瞑想なり熟考して同様の答えに達した可能性はあります。<br /> <br /> あるいは、普通に考えられるのは、顕在意識としての私が存在するという結論に達した、という可能性ですね。<br /> <br /> どちらにせよ可能性としてあるのは概ね2つで、心の本性のリクパが意思を持つことに気づいた可能性と、あるいは、普通に顕在意識が私だという結論に哲学的に達したという可能性です。<br /> <br /> 実際のところ私は哲学にはそれほど興味はないのですけど、こうして、所々にヨーガやヴェーダンタのお話とクロスするところが出てきて時々興味深く感じたりもします。<br /> <br /> Thu, 03 Jun 2021 00:00:00 +0900 ハイヤーセルフとグループソウル https://w-jp.net/2021/2376/ <br /> ハイヤーセルフはスピリチュアルで「普通の心」と「高次元の心(ハイヤーセルフ)」がいると言う文脈で語られますが、私が幽体離脱した認識ではハイヤーセルフというものは存在していなくて、それに該当するものはグループソウルかなと解釈しておりました。ですので、今まで、私はハイヤーセルフとグループソウルは割と同じものとして捉えていたわけです。魂あるいは霊魂の集合体あるいは個体として自分というものが存在していて、幽体離脱した時に自分というものを見るとハイヤーセルフらしきものはなくて自分は自分でしかなくて、又、顕在意識の自分からしてもハイヤーセルフとはグループソウルと同じに見えるのです。<br /> <br /> しかしながら、そういう解釈ですとハイヤーセルフというものがどうも掴みにくい感じで、ちょっとぼやけた感じで認識しておりました。スピリチュアルの言うことですので、まあ、そう言う人もいるのかなと思って割と大雑把に捉えてスルーしていたわけですけれども、ここにきて心の本性(リクパ)が体をダイレクトに動かしている感覚が強くなってきました。<br /> <br /> この、心の本性(リクパ)が現れた状態で改めてハイヤーセルフのことを解釈し直すと、この心の本性(リクパ)のことをハイヤーセルフと呼ぶのがスピリチュアル的には正しい気がして参りました。<br /> <br /> これは割と元々の定義に戻った感じではありますけど、この混乱はおそらくスピリチュアルな人の表現方法にあるかもしれなくて、スピリチュアルではハイヤーセルフは元々の定義そのものよりも割と「自分とは分離した理想的な存在」として描かれていて、実際のところ人によってその表現方法は多様ですけれども、離れた自分ということであればグループソウルのことだと解釈していたわけです。あるいは、ハイヤーセルフをチャネリングの文脈に即して解釈している人もいます。ですから、スピリチュアルにおいては元々の定義から離れて割と自分とは分離した存在としてハイヤーセルフが解釈されてきたように思います。<br /> <br /> しかしながら、私の最近の瞑想の実感に基けば、この自分自身の心の本性(リクパ)をハイヤーセルフと呼んでも良い気が致します。<br /> <br /> ハイヤーセルフのことを言う時はよく「普通の心」と「高次元の心(ハイヤーセルフ)」がいると言う言い方をしますけど、そうであれば心の本性であるいわゆるリクパがそれに相当すると思います。ですけど、多くのスピリチュアルな方々はもっと神秘的にこのことを表現していて、あたかも自分の外側に天使や神様のような高次元の自分がいるかのような表現をしている時があります。比喩としてはそういう表現方法で概略を伝えると言うのはありなのかもしれませんけど、そのような煌びやかなイメージが今は先行してしまっていて、実際の姿が隠れてしまっているようにも思えてしまいます。<br /> <br /> 確かにこの心の本性リクパが現れてきた状態は自由で活気に溢れていて穏やかでいわばキラキラしているといえばそうとも言えますけど、それよりも、もっと基本としては割と地味なキラキラなわけです。地味とキラキラという相反することを言っていますけど実際にそうなので仕方がなくて、地味だと言うことが基本にあって、それでいて内面はキラキラしているわけです。<br /> <br /> 表現するならば、外から見ると地味だけれども自分の内面はキラキラしている、と言えば良いでしょうか。そうは言いましてもその内面のキラキラは滲み出ますので見る人が見れば全然違うわけですけれども、基本は地味なわけです。<br /> <br /> まあ、そうは言っていますけど、同じことを、逆に捉える人もいるわけです。<br /> <br /> スピリチュアルな人の中には、外見をキラキラで内面は静か、と表現している人もいます。実際、同じことです。<br /> <br /> 同じことなのに表現が逆なのは一体どう言うことかと思う方もいらっしゃるかと思いますけど、それは見る人の視点が違うだけで、実態は同じなわけです。<br /> <br /> そのように、ここにきて、ようやくハイヤーセルフというものの実態が掴めてきました。<br /> <br /> 私が30年くらい前にハイヤーセルフという概念を知った時は元々の定義である「普通の心」と「高次元の心」があるというお話でしたけど、その後、瞑想をしたり社会生活を送ったり幽体離脱した中で見たものといえばハイヤーセルフというのは実際にはいなくて、ハイヤーセルフではなく私の魂の本体であるグループソウルのように見える存在がいただけでした。そのグループソウルのように見える存在というのは人の形をしていて、私が分霊として分かれた大元である魂です。ハイヤーセルフと言うとグループソウルが該当しているように幽体離脱からの経験からは思えました。<br /> <br /> 長らくその実体験に基づいて解釈してきたわけですけれども、ここにきて、最初の定義である「普通の心」と「高次元の心(あるいは心の本性リクパ)」と言う定義に戻した方がスッキリするように思えて参りました。<br /> <br /> ぐるりと回って元に戻ってきた感じですね。<br /> <br /> 実際のところ、本当は本当は2つの心なんてなくてひとつづきの心があるだけですので、幽体離脱で見た解釈は正しいと今でも思えるわけですけれども、ハイヤーセルフと言う概念それ自体は霊魂の実態に関するものではなくて、顕在意識からハイヤーセルフというものが存在しているかのように錯覚する、と見なす方がスッキリします。<br /> <br /> これは微妙なお話で、本当はスピリットとしての自分が本当の自分なわけでそれしか存在していないわけですけれども、顕在意識が誤って顕在意識自身のことを自分と思い込んでいるからハイヤーセルフという概念が必要になってくるわけです。<br /> <br /> このことをヴェーダンタでは「ジーヴァ(顕在意識の自分)が無知によってジーヴァを自分だと勘違いしている」、みたいに言ったりします。ですから、ハイヤーセルフがいるというのは本当の実態ではなくて錯覚なわけです。<br /> <br /> 私はわざわざ本当の実態に即してハイヤーセルフを解釈しようとして、ハイヤーセルフに該当するものは幽体離脱中に見つけられなかったのでハイヤーセルフをグループソウルと同一のものとして解釈しようとしましたけど、そうする必要はなくて、単にハイヤーセルフはこのような錯覚のお話と心の本性(リクパ)のお話だと解釈するのがスッキリするように思えてきました。<br /> <br /> Thu, 03 Jun 2021 00:00:00 +0900 ラントン(観、ヴィパッサナー)の宗派における違い https://w-jp.net/2021/2375/ <br /> 止観の2つの段階はチベット語でシネー(止、シャマタ)とラントン(観、ヴィパッサナー)に分かれているわけですけれども、特にラントン(観、ヴィパッサナー)は流派によって解釈が異なっています。<br /> <br /> ゾクチェンの「心の本性の部」におけるラントンは、覚醒の境地と思考の動きが一体になっているレヴェルを指している。この境地は<不動の境地(ミヨワ)>とも呼ばれる。この境地に至れば、どんな動きによっても妨げられなくなる。「ゾクチェンの教え(ナムカイノルブ 著)」<br /> <br /> これに対して、顕教と密教は立場を異にしています。<br /> <br /> ・顕教 → 静寂の境地(シネー、止)の後にラントン(観)が自動的に生じる。<br /> ・密教 → 悟りの一定の段階。シネーが空、ラントンが光明に対応して、両者の合一が密教の到達点。<br /> ・チベットのゾクチェン → 覚醒の境地と思考の動きが一体になっている不動の境地がラントン。<br /> (同書より抜粋)<br /> <br /> この他にも多様な解釈があって、テーラワーダ仏教(上座部仏教)などヴィパッサナー系の流派においてはシャマタ(止、シネー)は多少は必要だけれども本来的にはそれほど不要でヴィパッサナー(観、ラントン)があれば良い、としている流派もあります。<br /> <br /> これに加えてサマーディが何なのかという定義のお話が加わってきて、サマーディが単なる集中(シャマタ、シネー)なのかそれとも観(ヴィパッサナー、ラントン)なのか、あるいは覚醒の境地である心の本性(リクパ)の状態のことを意味しているのかで解釈が違ってきます。<br /> <br /> このように、シャマタ(止、シネー)がいいのかヴィパッサナー(観、ラントン)がいいのかというお話は瞑想をする人たちの間でいつも話題になって、流派及びその立場、あるいはその経験によって様々なお話があって、時に流派やそれぞれの人の間で対立してしまうこともあるようです。<br /> <br /> 最近思うのは、チベット系、特にゾクチェンに基づいた分類が一番スッキリするということです。<br /> <br /> 最近は各派におけるシャマタ(止、シネー)とヴィパッサナー(観、ラントン)の違いがはっきりとわかってきましたので、この辺りの理解がクリアになりました。<br /> <br /> Wed, 02 Jun 2021 00:00:00 +0900 自分のスピリットに少しづつ委ね始める https://w-jp.net/2021/2374/ <br /> 瞑想中、自分の体と一部重なって、自分の少し前方に自分のスピリットがいるのを感じます。<br /> <br /> 形としてはほぼ自分と同様ですが、少し前方にズレていて、スピリットの体は肉体の体より少し大きくて、その、少し大きなスピリットの体が私の前方向に少しズレて浮遊して存在しています。<br /> <br /> その前方にある少し大きなスピリットの意識が私の肉体及び顕在意識としての意思や思考を動かしているのを感じますが、まだ完全にスピリットが私の肉体及び顕在意識を制御しているというわけではなく、ほんの少し、ほのかにスピリットの意識を感じている状態です。そのスピリットの意識が私の肉体及び顕在意識としての意思や思考を動かしているのだと感じたり時にはスピリットの意識がダイレクトに感じられている状態ではありますが、それほどその結びつきはまだ強くありません。<br /> <br /> それに対して、顕在意識の私としての意識はまだまだ存在していて、スピリットが実は私の肉体や顕在意識を動かしているということを理解しつつも、まだ、スピリットの意識と顕在意識としての私という認識はそれなりに分かれている状態です。<br /> <br /> 瞑想中、顕在意識としての私はスピリットとしての私こそが本当の自分だということを理解していて、スピリットを受け入れている状態です。<br /> <br /> 顕在意識はスピリットを受け入れていて特に恐怖とか抵抗とかはないのですが、存在としてまだまだ一体にはなっていないと感じます。<br /> <br /> そこで、顕在意識の私としては、瞑想中、自分のスピリットに対して「委ねる」と言うことを意図します。<br /> <br /> 私の本体はスピリットの私ですから、顕在意識としての私は幻想でしかなくて、顕在意識の私はスピリットである本当の私に委ねます。<br /> <br /> このようなことを意図して瞑想をします。<br /> <br /> このスピリットのことをヨーガではプルシャと言ったりヴェーダンタではアートマンとか言ったりするのかなと思います。ヴェーダンタではアートマンは不可知で識別不能となっておりますのでヴェーダンタでもプルシャと言うのが正しいのかも知れませんけど、そのような、自らのスピリットあるいは魂としてのプルシャのようなものが本当の自分であり、それに対して委ねることで本来の自分が顕現してゆくのかなと思います。<br /> <br /> 本当の自分は時空に囚われることがなく意識そのものであり、スピリットです。しかし、顕在意識がこの世のまやかし(マーヤー)に惑わされて自分だと勘違いしていただけだったわけです。このことはヨーガや聖典でよく言われていることですけど、最近になって意識が体をダイレクトに動かしていると実感し始めたことで本当にそのことが真実でスピリットこそが本体だと実感するようになりました。<br /> <br /> この時点ではまだスピリットと顕在意識がそれぞれ存在しているような状態で、日常生活を送るうちに顕在意識のみの状態に少しづつ戻ってきてしまうような感じではありますけど、こうして瞑想をすることでスピリットとしての自分を取り戻して、更には、スピリットに自分を「明け渡して」行くことができます。<br /> <br /> この種の明け渡しとか委ねるとかいうお話は他人に対することではなくて自分自身に対する明け渡しですから危険はないわけです。<br /> <br /> 実際のところ、このような自己への明け渡しは自発的に起こるものですので、他人に説得されて行うようなものでは全くないわけです。<br /> <br /> 一応は、理屈で言えば他人ですら自分なのだから他人に委ねたり他人に明け渡すことも同じと言えばそうなのですけど、この種の理屈を逆手に取って他人を操って操作・依存の状態にしようとする人が大勢いますので、他人に対する明け渡しや他人に委ねる、みたいなことは基本的にしない方がいいと思いますね。そういう屁理屈をこねて他人から何かを奪おうとしている詐欺師は大勢いますからね。エネルギーだったり人だったり物だったりお金だったり何がしか理屈こねて自発的に他人から何かを引き出そうとしている人は大勢います。<br /> <br /> 実際にこの段階に来れば自己のスピリットへの信頼もできていますしスピリットが導くまま行動しますから危険性はないのですけど、まだ迷っている段階では「スピリットに委ねる」とか「スピリットに明け渡し」なんてものは起こりませんから、段階が全く違うのに同様の「委ねる」とか「明け渡し」なんてことを言ってきて同調圧力や行動の誘導みたいなことをしてくるのであれば注意して対処する必要があると思います。<br /> <br /> 実際にこの段階に来たら全くの迷いなくそれとわかって自己のスピリットの明け渡しが正しいとわかりますから、迷っているような状況であれば何か違うわけです。特に、この種のことは他人に説得されて行うものでは全くありませんので、他人の説明というのは有用ではありますけど、実際に自分が明け渡しを行うのはその段階に来てからですので、早急な明け渡しや早急な委ねは依存や操作の関係になるだけだと思います。<br /> <br /> 基本的には、自分の好きにすればいいと思っています。何をするのも自由。その自由があって初めてスピリットの成長があるわけです。自由を束縛しない状態が基本にあって、そこに自分のスピリットへの委ねや明け渡しが来るわけです。それは他人に強要されて行うようなものでは全くありませんし、他人と比べる必要も全くありませんし、自分がピンとこなければ別にする必要のないものです。<br /> <br /> ただ、そこに行くためのステップというものがあって、その準備をしてからステップを進めば自然と自分がそれとわかってスピリットへの委ねが起こるものだと思います。その説明としては他人にしてもらうのはいいとは思いますけど実際に行うのは自分ですから、自分が自分のスピリットに対して委ねるのであって、他人に委ねるのではないのですよね。<br /> <br /> 自分のスピリットに対する委ねの後に他人に対する委ねもあるのかもしれないですしきっとあるのかなとは思いますけど順番としては自分のスピリットに対する委ねが先ですよね。その順番を無視して、他人も自分も同様なのだから他人に対する委ねが必要とか言って説得してくる怪しい詐欺師のような団体の妄言には付き合わない方がいいと思います。<br /> <br /> 自分でやっている分には私はこういうことにはほとんど無縁ですけど、一応、ここは誰が読むのかわからないので注意も書いておきました。<br /> <br /> 実際にこの段階に来たらきっと全くこういうことに悩まずにそれとわかりますので、悩むのなら明け渡しとか委ねるとか、そういうことはしない方がいいと思います。<br /> <br /> 元々そういう注意をしたかったわけではなくて、ここで言っているのは、最近の瞑想では自己のスピリットに委ねる、という感覚が強くなってきています、ということなわけです。<br /> <br /> これは一見すると自分から何か他所の方向あるいは他所の何かに明け渡しているように見えてしまうかも知れませんけど、自分の軸としては中心に居座っていて、顕在意識の自分がいる中心軸に対して目の前に浮かんでいる自分自身のスピリットが前の方向から近づいてきているわけです。ですから、自分からスピリット(あるいは、いわゆる「全体」)という方向ではなく、スピリット(全体)から自分に向かうような状態になっていて、スピリットの側は意識として前の方向から肉体のある顕在意識の中心軸の側にただ近づいているだけでそこには明け渡しとかあまり関係なくてただ意識が少し前から体の方に近づいてきているだけで、「明け渡し」を行うのは顕在意識の方で、肉体のある顕在意識の側が前から近づいてきているスピリットを受け入れるために「明け渡し」が行われているわけです。<br /> <br /> このことを時に比喩的に「明け渡しを行う」とか簡単にざっくり言ったりもするかもしれませんけど、簡単に言ってしまうことは多分に誤解が生じてしまう余地があるわけです。<br /> <br /> Tue, 01 Jun 2021 00:00:00 +0900 シャマタとシネーが止、ヴィパッサナとラントンが観 https://w-jp.net/2021/2373/ <br /> ■「止」の瞑想<br /> サンスクリット語:シャマタ<br /> チベット語:シネー<br /> <br /> ■「観」の瞑想<br /> サンスクリット語:ヴィパッサナ<br /> チベット語:ラントン<br /> <br /> 意識集中による禅定は(中略)ある対象に意識を鋭く集中し、それから、その集中した注意をゆっくりとリラックスさせるような修行を、サンスクリット語でシャマタ、チベット語でシネー、すなわち「静寂の瞑想」(止)と呼ぶ。これに対して、思考の動きに取り組んでいく時には、サンスクリット語でヴィパシャナ、チベット語でラントンと呼ぶ。「チベット密教の瞑想法(ナムカイ・ノルブ著)」<br /> <br /> 同書を読むと、どうやらチベット密教的な分類からすると「観」のヴィパッサナーの状態も三昧(サマーディ)あるいは禅定として分類されていないようです。<br /> <br /> これは、確かに、気がついてみれば理屈に合った分類だと今更ながら気付かされました。<br /> <br /> 今まで、止観のうち止は集中でサマーディではなく観の方がサマーディとして分類して捉えておりました。そして、観のサマーディのときに心の本性であるリクパが働く、という分類で捉えておりました。<br /> <br /> しかしながら、この分類に当てはめてみると、「止」も「観」もどちらも禅定(あるいはサマーディ、三昧)ではなく、どちらも思考の動きに関する取り組み方を表現したに過ぎないことになります。<br /> <br /> これは目に鱗で、(私のこの理解が間違っている可能性もありますけど、)上記のように分類し直すことでより状態がはっきりと見えるようになったような気が致します。<br /> <br /> 確かに、「観」としての取り組み方と心の本性(リクパ)は全く違うものですので、チベット密教のこの分類の方がスッキリするように思います。<br /> <br /> ■今まで<br /> 観察瞑想(ヴィパッサナー)はコンテキストによって意味合いが違って、手法としての観察瞑想(ヴィパッサナー)は実際は集中瞑想と同じで、ヴィパッサナーがサマーディを意味している時もある、という理解。<br /> 集中瞑想はシャマタやシネー及び観察瞑想(ヴィパッサナー)の手法が該当(もちろんこれはサマーディではない)<br /> <br /> ■チベット密教に基づく分類<br /> 観察瞑想は上記の通り思考の動きに取り組む瞑想のことでサマーディは含まない。<br /> 集中瞑想はシャマタやシネーが該当(もちろんこれはサマーディではない)。<br /> <br /> のように分類するのがスッキリします。<br /> <br /> 確かに、世間で色々と説明されているお話の中で「観察瞑想」がサマーディと関連して説明されていますのでその理解に引っ張られていましたけど、サマーディが心の本性のリクパによるもので、それ以前の思考に取り組む瞑想が上記のものとするのがスッキリします。<br /> <br /> ■サマーディ以前<br /> 意識の集中(シャマタ、シネー)による瞑想。<br /> 思考の動きを観察(ヴィパッサナ、ラントン)する瞑想。<br /> <br /> ■サマーディ<br /> 心の本性であるリクパが動いている覚醒状態<br /> <br /> 流派によって色々と分類はあるとは思いますが、このように分類するのがスッキリするような気がしてまいりました。<br /> <br /> ゾクチェン系の本でラントンのお話を何度も読んではいたのですがラントンに関する記述はいまいちピンとこなくて割と今まではスルー状態だったのです。それがここにきて、ラントンというものがはっきりと見えてきた気が致します。テーラワーダ系のヴィパッサナー(観)の解釈とチベット系からのラントン(観)の解釈が私の中で繋がってきました。<br /> <br /> テーラワーダ仏教などヴィパッサナー系の説明では禅定(サマーディ、三昧に相当)がヴィパッサナーの説明と関連して出てきます。今まではそちらの説明に基づいて理解してまいりましたが、どうもそれは混乱が大きいような気がするのです。それよりは、このチベット系の分類の方が自分自身の感覚と一致します。<br /> <br /> テーラワーダ仏教などヴィパッサナー瞑想系の分類ですと「悟り」(=阿羅漢の悟り)についてどうも曖昧で、都合よく解釈すればそうなれてしまうかのようなぼんやりとした定義のように思えてなりませんでした。(実際に修行されている方はごめんなさい。個人的な感想です。)テーラワーダ系の記述も今となってはどういうことなのか理解できますのでそれはそれで正しい記述とは思うのですが、テーラワーダなどヴィパッサナー系の流派の表現は解釈が困難で、私には誤解があったように思います。<br /> <br /> 一方、このチベット系の定義に基づきますと「悟り」と言う言葉は言いませんけど覚醒したサマーディの意識が心の本性であるリクパが働いている状態ということで、それはとても明白で、はっきりしたものです。<br /> <br /> 瞑想をして実際にその境地なるまでは何が正しいのかいまいち判断がつきませんでしたが、どうやらこのチベット系の記述が表現の仕方としてより正確で誤解が少なくてより正しい記述のように思えてまいりました。<br /> <br /> Mon, 31 May 2021 00:00:00 +0900 観察のサマーディから意識のサマーディへ https://w-jp.net/2021/2372/ <br /> 元々、長い間、心の本性であるいわゆるリクパが出てくるサマーディは「観察」として私は認識しておりました。<br /> <br /> まず心を穏やかにして平らになった時、ふっ、と、リラックス状態及び静寂の境地が現れます。その静寂の境地においては集中は不要で、静寂の境地になるために眉間などに集中するという瞑想を行いますが静寂の境地になったら集中をやめて観察状態になります。その観察状態においては体の各所の感覚が皮膚だけでなく体が動いているという観察の微細な細かな状態として認識されておりました。<br /> <br /> そして最近、同様に最初は集中瞑想をするのですがリラックス状態になった後に更にその静寂の境地を続けていると、そこからもう一段先があって、その状態においては「観察」ではなく「意思」としてのサマーディが存在しておりました。<br /> <br /> 瞑想はよく集中と観察の2面から語られ、その両者を一言で言うと止観と言うことになります。その両者の解釈は微妙なところでありますが基本的には集中は顕在意識の普通の考える心の集中として理解されます。ヨーガで言うところのブッディあるいはマナスと呼ばれるものによる意識の集中です。<br /> <br /> この辺りで意思だとか意識だとかいう言葉がたくさん出てきますので混乱してしまうかも知れませんが、瞑想において普通に集中と言った時は顕在意識の普通の考える心としての意識を一点に集めて集中すると言う意味において使われます。同様に、観察と言う場合も同じ顕在意識の五感で感じることが基本で、それに加えて、観察という点においては更に微細な内的な感覚も加わってきます。<br /> <br /> これが基本で、集中あるいは観察は顕在意識が基本となって観察だけは更に微細な感覚を伴って、サマーディにおいては自らの心の本性であるリクパが存在していてリクパが体を認識して観察している、という理解でいました。<br /> <br /> しかしながら、ここにきて、そのリクパは観察するだけでなく、意識があって、その意識こそが体や思考など私の全てを動かしているのだと気づくようになりました。<br /> <br /> これは段階があって、心が雑多な疲れた状態でいるとそのリクパの意識というものはそれほど感じられなくてやはり観察としてのリクパが主になるのですが、再度瞑想をして静寂の境地になると再度、観察だけでなく意思としてのリクパも出てくるようになりました。<br /> <br /> これは瞑想の進み具合とも関連しているように思えて、以前は、静寂の境地になって初めて観察としてのリクパが出てきていたような状態でした。<br /> <br /> 最近は、観察としてのリクパは割と常に存在していて、それに加えて、静寂の境地になると意思としてのリクパが現れるようになったように思います。<br /> <br /> この意思としてのリクパは割と継続性があって、観察としてのリクパが現れ始めた時は割と短い時間でその状態から落ちていたように思いますが、この意思としてのリクパはその時よりも長い間、継続しているように思います。それでもしばらくすると少しづつ状態が落ちてゆきますから、再度、瞑想をして静寂の境地になることで意思としてのリクパに戻ってゆきます。<br /> <br /> この意思としてのリクパは言い換えればサマーディと言うことにもなりますが、具体的に言うと意識が体をダイレクトに動かしていると言う実感であり、私のありようの基本的な変化です。<br /> <br /> ですから、それ単体でどうこうというわけではなく、自らの基礎としての変化であるわけです。<br /> <br /> ここで変化と言いましたけど、実感としては変化、と言うことになります。<br /> <br /> ただし、聖典が伝えるところには、これは変化ではなく、元々備わっている性質でただ隠れていただけだと言います。<br /> <br /> そうは言いましても、瞑想において私と言う個人が認識するところにおいては変化として認識されるわけです。聖典の知識においてそれは変化ではなく元々あったものが現れただけだ、と説明できるわけですけど、そうして聖典としての説明をする時と実感としての実践的な面で説明をする時とで説明が違ってきたりもしますけど、実際には同じことを言っています。<br /> <br /> そのように、心の本性であるリクパが出てくると最初は観察の働きとしてそれは現れてきて、やがて、それは意識として現れてくるようです。<br /> <br /> これをスピリチュアル的に言うのであれば、心の本性であるリクパはスピリットあるいは魂とも言うことができて、比喩的に言うのであれば「スピリットに自らを委ねる」と言うことになるかと思います。<br /> <br /> スピリチュアル的に言うと「委ねる」と言いますけど実際にはそのスピリットであるリクパあるいは魂と呼ばれるものが本体で、自分の顕在意識で生きていると思っていたのはそれは幻想であったとこの前後の段階で気付くわけです。ですから、「委ねる」とか言っているのは今まで自分だと思っていた顕在意識の心が「委ねる」と思っているだけで、実際には、最初からスピリットが自分の本体でスピリットが自分を動かしていたのに、顕在意識が顕在意識自身のことを私だと思い込んでいただけだったのですね。<br /> <br /> 書物を読むと、このスピリットとしての自分が動いている状態が目覚めの状態で、そうではなく顕在意識が私を制御している状態のことを「無知」と言うようです。<br /> <br /> ですから、「無知」と言うとあたかも知識のことかと思ってしまうかもしれませんけど、実際にはここで言っている「無知」とは知識のことではなく、このような自己認識のことを意味しているわけです。<br /> <br /> この辺りは流派によって理解が異なっていて、しっかり勉強すれば理解によって無知は取り払われる、としている流派もあります。そのような流派にも更に色々あって、理解によって実際に無知を取り払うことで心の本性であるいわゆるリクパあるいはスピリットあるいは他にも言い方があるでしょうがそのようなサマーディあるいはモクシャ(自由)を達成しようとしている流派もありますし、その一方で、文字通り捉えてしっかり理解すればそれだけでいいと言っている流派もあったりします。<br /> <br /> 私からすれば、ただ単に理解するだけでは十分ではなく、本当に「無知」の状態からスピリットが自分である状態に遷移することこそが重要であると思うのです。<br /> <br /> 流派によっては聖典の(ヴェーダンタの)知識は無知を取り払うための道具だと言っているところもあって、確かに、知識そのものが重要と言うよりは知識と理解によって無知の状態から脱却してスピリットの自分として生きるようになることこそが重要だと思うわけです。<br /> <br /> そのように聖典も無知の状態から脱却する助けになりますし、もちろん瞑想も基礎として重要になってくるわけですが、瞑想それ自体にしても聖典であっても手段であって、結局のところ、結果として無知が取り払われて心の本性であるいわゆるリクパが現れてきたサマーディの状態になることでスピリットとして生きるようになるのが大切なのかな、と思うわけです。<br /> <br /> Sun, 30 May 2021 00:00:00 +0900 瞑想的な観点における自己認識の階梯 https://w-jp.net/2021/2371/ <br /> 1.物事への集中。ゾーン状態。激しい歓喜と熱中。エネルギーが不安定な状態。<br /> 2.静かな喜びへの変化。視界が映画のようになる。<br /> 3.(一時的な)静寂の境地。エネルギーの安定。深い静けさとの共存の始まり。<br /> 4.ハートの目覚め。「創造・破壊・維持」としてハートの奥に現れる。<br /> 5.ハートの「意識」が体を動かしていてそれこそがアートマン(真我)であると自覚する。いわゆる自己に目覚めた状態(Self Realization)。身心一如の状態。<br /> <br /> 実際はもっと細かな段階があるわけですけど、大きなところをざっくりとピックアップするとこのような階梯になるでしょうか。<br /> <br /> エネルギーが不安定だったり安定したりというお話をヨーガではクンダリーニの目覚めとかエネルギーがブロックされているとか様々な表現で言ったりします。エネルギーが安定するまでの段階においてはアサナ(体操)としてのヨーガはとても助けになって、瞑想においても「集中」が基本になります。<br /> <br /> 瞑想とは基本的には「集中」から始めるもので、静寂の境地が達成されるまでは「集中」をずっと続ける方が好ましいと思います。<br /> <br /> 最初の段階でも瞑想の集中は効果があって、特に最初は雑念が多いですから集中することも困難でありますけど、その少しの集中を続けることでやがてエネルギーが安定してきます。エネルギーが安定するだけでなく、エネルギーが体の各所でブロックされていたりしますのでそれらを取り除くためにヨーガのアサナ(体位)が助けになったりします。<br /> <br /> そうして、まずはエネルギーの安定をして静寂の境地に達するわけです。<br /> <br /> その後はハートの目覚めがあって、最初は単に熱感を伴った感覚として、特に「創造・破壊・維持」として認識されるわけですけど、特に最近になって、そのハートが「創造・破壊・維持」から「意識」としての認識にに変わって、「意思」こそが「アートマン(自我)」なのだと自覚するようになりました。<br /> <br /> ここまで来てようやく「私はアートマン(自我)である」ことを認識できるわけですね。<br /> <br /> これこそが「自己認識」と言うのであれば、自己認識というのはなかなかに深い言葉なのだなと今更ながら思います。<br /> <br /> 言い方によって「深い静けさ」と言うこともできますし「沈黙」あるいは「自己認識」または「自己実現」と言ったり「私はアートマン(自我)です」と言ったりして、一見すると別々のお話のように見えますけど、瞑想の階梯から見ると割と同じ段階のことを言っているわけですね。<br /> <br /> 私はアートマンだと自覚するSelf Realization(自己実現あるいは自己認識)の段階がヴェーダンタで言うモクシャ(自由)と同じ段階のような気もしますけど確実に同じかどうかはまだわかりません。そこは今後の検証が必要なところです。現状では「個」としてのアートマンを自覚した段階ですので、理屈から言えばこの先に「全体」であるブラフマンとの合一という段階がありますので、モクシャ(自由)はブラフマンとの合一の方を意味しているのかもしれませんけど、そうは言いましても、この自己認識によって各種の束縛からほぼ開放されますのでヴェーダンタで言う最終目標のモクシャ(自由)に近いもののような気がしております。この辺りは様子を見たいと思います。<br /> <br /> ちなみに、このSelf Realizationはよく「自己実現」として訳されていますけどそれは誤解があるような気がして、自己実現というのはスピリチュアル業界で定着してしまっている気が致しますけど元々は誤訳のような気がしてなりません。この状態のことを意味するのであれば「実現」ではなくて「自己認識」と言った方が正しいと思います。Self Realizationとは自己をアートマンだと自覚することなわけです。もちろんこの用語は色々なところで使われていますので違う意味で使われているところもあるでしょうけど、悟りという文脈で用いるとするならばこの解釈が正しいように思えます。自己実現(Self-Actualization)は心理学の用語で別の意味で使われていて、Self Realizationを誰かが自己実現と誤訳してしまって広まったのではないかなと思うのですけど、どうでしょうかね。<br /> <br /> このSelf Realization(自己認識)としてのアートマンの自覚の段階を悟りとか覚醒とか言うこともできるのかもしれませんけど、この自己認識の段階はもっとシンプルで素朴で地味なものですので、よくある悟りだとか覚醒だとかいう煌びやかなイメージにはちょっと似合わない気が致します。地味すぎて見逃しがちですけど、実際のところ、この自己認識が一番重要なもののように思います。<br /> <br /> ただ、地味ではありますけど頭の回転としては良くなりますし、ものがよく見えるようになります。ですから覚醒とか悟りとかいうのもあながち間違いではないですけど、本人からすればとても地味な感じなわけです。地味ですけど明晰でスッキリしていますので、本人は「普通」とか「みんなと一緒」とか「ただの当たり前のことでしかない」みたいな風に言いますけど、実際は、覚醒前とは違ってしまっているわけですね。世間で噂されているような煌びやかな悟りや覚醒のイメージとはちょっと違っていて、割と地味なものが実態なわけです。そう言っておかないと誤解が生じます。<br /> <br /> 地味さと明晰さが共存している状態とでも言えば良いでしょうかね。<br /> <br /> 結局のところ、変わったものと言えば自己のアートマンを自覚するようになったかどうかという違いだけで、それに付随して意識がクリアになったり明晰に物事を見て考えられるようになったりとか色々とあるにはありますけど、根本から言えばアートマンの自覚だけの違いでしかなくて、それは実のところ聖典が言うには自覚していないだけで最初からそうなのであって、何も変わっていなくて、ただ自覚しただけなのです。ですから存在としては変わったものは何もないということもできて、認識だけが変わった、あるいは、認識だけが変わる、とも言えるわけです。<br /> <br /> ただ、本質的な意味においての「悟り」はまだな気が致しますね。おそらく「悟り」とはブラフマンとの合一あたりを言うのではないかなと思います。流派によって色々な悟りがありますけど、個人的にはそのくらいが悟りというのにふさわしい気が致します。<br /> <br /> 私の今生の目的はカルマの解消と覚醒への階梯を確かめることの2つですが、ここにきて、大体の階梯が明らかになって目的はほぼ達成したと言えると思います。<br /> <br /> Sat, 29 May 2021 00:00:00 +0900 ヨーガ・スートラとラマナ・マハルシは同じことを言っている https://w-jp.net/2021/2370/ <br /> ヨーガ・スートラはその最初で次のように言っています。<br /> <br /> (2) 心の作用を止滅することが、ヨーガである。<br /> (3) そのとき、見る者(自己)は、それ本来の状態に留まる。<br /> 「インテグラル・ヨーガ(スワミ・サッチダーナンダ著)」より<br /> <br /> (2) ヨーガは、心(チッタ: Chitta)がさまざまの形(ヴィリッティ(ス): vrittis)をとるのを抑制することである。<br /> (3) そのとき(集中したとき)、見る者(プルシャ)は、彼自身の(変られていない)状態におちついている。<br /> 「ラージャ・ヨーガ(スワミ・ヴィヴェーカーナンダ 著)」より<br /> <br /> 一方、ラマナ・マハルシは「私は真我(アートマン)である」と言っています。<br /> <br /> 静かな心によって存在-意識を絶えず経験している状態、それこそがサマーディである。(中略)活動中でも、静かな落ち着いた状態のままとどまる。あなたはより深い内なる真我によって動かされていることを悟る。(中略)自我のない静寂だけが真理の知識の頂点、マウナ・サマーディ(沈黙のサマーディ)だと賢者たちは言う。無我の状態であるマウナ・サマーディに達するまでは、「私」を消滅させることだけをあなたの目的として探究しなさい。「あるがままに(ラマナ・マハルシの教え)」<br /> <br /> これらの、一見すると全く違う言葉が実は同じことを言っています。<br /> <br /> ヨーガ・スートラでは心の「揺らぎ」を鎮めるとその奥にあるプルシャ(見る者)が現れる、と言っています。<br /> 一方、ラマナ・マハルシは静かな心の状態のままに留まると深い内にある真我によって動かされていることを悟る、と言います。<br /> <br /> ヨーガ・スートラはサンキャ哲学に基づいて言っていますのでプルシャと言う言葉を使うのですが、概念に多少の違いはあるのですが大雑把に概要を捉えるのであればとりあえずアートマン(真我)あるいは魂と同じようなものだとひとまずは考えておけばいいと思います。<br /> <br /> どちらも、心の揺らぎを鎮めるとその奥にあるプルシャ(見るもの)あるいはアートマン(真我)が現れる、と言っています。<br /> <br /> これは、段階は多少は違うのですが、概ね、同じことを言っています。<br /> <br /> ですから同じことではあるのですけど、実際には、世間ではこれらは割と別のお話として理解されているように思います。<br /> <br /> ヨーガ・スートラは体を動かすヨーガ系のお話で、ラマナ・マハルシはヴェーダンタ系のニャーナ(知識)探求の道として理解されています。<br /> <br /> 確かに方法論としては違っていてラマナ・マハルシはアサナ(体位)としてのヨーガはしなくて真我の探求という方法で人々を導いています。<br /> <br /> しかし、結果を見ると、どちらも心を鎮めてプルシャあるいは真我(アートマン)を見出す、という点に関しては同じなのです。<br /> <br /> こう言ってしまうと厳密な方からはお叱りを受けることもあるのですけど、とりあえずはこう言う理解でいいと思います。一見すると違って見えても、本質というものは実はシンプルですので実は同じことを言っている、ということも多々あるのです。<br /> <br /> この点に関して言えば、例えばインドのヴェーダンタ系の学派の人はヨーガ・スートラをほとんどと言っていいほど認めていなくて、彼らに言わせてみればヨーガ・スートラはその一部だけが切り取られていて元の形が残っておらず、後の人がエゴのために歪んで伝えてしまっているので信用してはいけない、みたいなことを言っていたりします。<br /> <br /> ですけど、私が思うには古典が全部残っていないことなんて普通ですし、一部しか残っていなくても、そこに真理はあるものです。<br /> <br /> この種の聖典の真偽の論争はどこにでもあって、キリスト教の聖書ではよくこの種のことが言われていますけど、そうは言いましても真実のお話は残るわけです。<br /> <br /> 実際のところ、自分の頭で考えて自らの経験に基づいて判断しないと何を読んでもうまくいかない、と言うのは現実世界においてビジネスであっても学問であっても真理の探究においても同じなのかな、と思います。書物を絶対的なものとして信じてしまう人と、書物を信頼はしているけれども最終的な判断は自分自身が持ち続ける人との間ではその成長に違いが出てくるものと思います。<br /> <br /> 私が見たところ、ヨーガ・スートラの内容は概ね正しいと思われますがその解釈はかなり誤解があったりして、そのまま読むのはなかなか大変なように思います。<br /> <br /> 実際のところ、ラマナ・マハルシは聖者として認められていて基本的にはヴェーダンタのニャーナ(知識)探求の部類に分類されてはいますけど実際には正統なヴェーダンタの学派とは異なりますので、言っていることがヴェーダンタ学派とは異なっています。その辺りに誤解があるのですよね。<br /> <br /> ヴェーダンタ学派の方々は経験というものを重視しておらず、むしろ厳格に「経験」と言うものを否定して「知識のみ」が最終目標であるモクシャ(自由。いわゆる悟りの状態)を達成することができると考えています。<br /> <br /> ですから、ラマナ・マハルシは割と柔軟でヨーガのことに関しても理解があるのですが、ヴェーダンタを厳格に学んだ人であればあるほどヨーガの特にヨーガ・スートラのことは受け入れていない、と言うのが現状のようです。<br /> <br /> ヴェーダンタ学派の言うモクシャとは自由な状態ですが、モクシャ(自由)はラマナ・マハルシがおっしゃるところの真我の実現と同じことかなと思っております。(私はまだそれほどヴェーダンタを深く勉強したわけでもありませんが今のところはこういう理解です。)<br /> <br /> ですので、私が見たところ、ヨーガ・スートラもヴェーダンタも同じことを言っていると思うのですが、どうでしょうかね。<br /> <br /> 説明としては確かにヴェーダンタの方が理路整然としておりますので理屈としてはヴェーダンタの方が現代人にも理解できる内容かと思います。そして、最終的な状態で言うのならば同じことで、道として現在世の中に広まっている体操あるいは体位(アサナ)としてのヨーガの道から進むのであればヨーガ・スートラから入って最終的には同じ目的地であるサマーディあるいはモクシャに到達するのかなと思います。<br /> <br /> 一見すると違って見えもしますけど、私からすれば、ラマナ・マハルシもヨーガ・スートラもヴェーダンタも割と同じように見えます。<br /> <br /> インドは意外に保守的でカースト制度が廃止されてはいるもののまだ社会にはカーストが根深く残っていて特に保守的なヴェーダンタの学派はバラモンの上級階層によって構成されており、一方、アサナ(体位)のヨーガをしているのは割と下級階層の人たちですので、根本的なところで相容れない、というインドの事情もあります。<br /> <br /> ですから、インドでこれらの異なったヴェーダンタとヨーガが一緒になって理解し合うには時間がかかって、外から見ている私たち日本の人たちだからこそこうして両者の共通点を見出せるのかなと思います。インドのリシケシなどに行きますと基本的には保守的でカーストごとの団体を構成しているのですが、英語を話して特に外国人と接する人たちの間で最近は両者への相互理解も進んできているように思えて、外国人を受け入れているアシュラムの先生たちと話すとヨーガ(体位)をしている人がヴェーダンタを勉強していたりヴェーダンタ学派の人もヨーガへの理解が進んできているのを見て取れます。ですから、それほどお互いが喧嘩しあう必要もないのかな、と思っています。ですけど、インドの社会に分断が根強くあるのは事実です。<br /> <br /> そのような社会の階層の違いを踏まえないと、例えば、インドのヴェーダンタで学んだ人がインドの流儀や考え方を日本に持ち込んで「ヨーガ・スートラは良くない聖典だ」みたいなことを言ったりしますけど、それはインドのカーストが分断されていてお互いに交流がないのでお互いに理解がないだけのことで、我々、日本人であればどちらにも行けますので、お互いの良いところを理解し合うのがいいのかなと思います。<br /> <br /> 個人的に思うのは、そのようなインドのカーストや保守に基づいた悪いところを日本に持ち込まずに、ヴェーダンタやヨーガの良いところだけを日本に持ち帰ってください、と思っています。<br /> <br /> そのように外国人として日本人としてインドのヨーガ・スートラとヴェーダンタあるいはラマナ・マハルシを見た時に、方法論は違えどもどちらも到達点は同じように見えるのです。<br /> <br /> インドで保守的に勉強した人に言わせればこの意見には異論があるでしょうけど、私が見たところ、私の実体験に基づいて言えば、同じであると言えると思います。<br /> <br /> Sat, 29 May 2021 00:00:00 +0900 意識(アートマン)が体をダイレクトに動かしていると実感する https://w-jp.net/2021/2369/ <br /> 意識が体をダイレクトに動かしているという実感により私がアートマン(真我)であると自覚し始めました。<br /> <br /> ざっくり言うと「私はアートマン(真我)である」と自覚するようになったわけです。<br /> <br /> ここ最近、ただ単に視界がゆっくりとスローモーションに認識されるだけでなく、ただ単に皮膚や体の感覚が微細に感じられるだけでなく、そこから更に一歩踏み込んで、胸の奥にあるハートの意識が直接的に体の各所を動かしていると言う実感が出てきました。<br /> <br /> これは、話で聞いても「ふーん」と言う感じの種類のことかもしれませんし、話で聞いたところで「そりゃそうでしょ。何が特別なの?」とか「普通じゃないの?」と言われる種類のことかもしれません。意識あるいは心が人を動かしている、というお話は特に日本人にとっては普通の知識で、そう聞けば「ふーん。そうなんじゃないの?たぶん」みたいにスルーされてしまうお話かもしれません。<br /> <br /> そのように、知識でなんとなく知っているのと、実際にそうなるのとでは全く違う状態であると言えます。<br /> <br /> 実際に意識が体を動かしていることを直接的に認識することは、言い換えれば心が体を動かしているということもできて、心というと意識や認識や感情や記憶など色々なものが入ってきますけどそれよりは意識と言った方がより適切で、意思のある意識が体を動かしているのです。<br /> <br /> これは、意識がハート付近が特に濃厚にありますけどそこから体の全体にまで意識は広がっていて、意識が体の全体に満ちていて、その体に満ちている意識が体をダイレクトに動かしているのです。何かどこか遠くにところにある意識が体をリモコンのように離れて操縦しているのではなく、意識はまさに体に重なっていて、意識が体に重なった状態でダイレクトに体を動かしています。<br /> <br /> このことが、以前は知覚できていませんでした。<br /> <br /> 論理的に考えれば昔もきっとそうだったからこそ体を意識で動かせていたのかなとは思いますが、論理的に推理してきっとそうだと結論付けられたとしても、以前は実際にそのことを今のようにありありと実感することはなかったように思います。<br /> <br /> 体の動きそのものに対してのダイレクトに操作しているという感覚は、視界がスローモーションで感じられるようになった時から少しづつ現れてきていて、その時ですらそれ以前と比べると随分と体の感覚を微細に感じられていると当時は思っていたように思いますが、今のこのダイレクト感と比べるとその時の感覚はまだまだ鈍かったように思います。<br /> <br /> 言葉で言い表すと割と似たようなものになってきてしまうこともあるかと思いますが、割とコマ割りで視界が見えるようになった時のダイレクト感と今のダイレクト感とでは数段階の違いがあるということです。昔は、視界がスローモーションで見えるとは言ってもハートに眠っているアートマンを識別できていませんでしたし、ただ単に五感が鋭くなっただけだったように思います。<br /> <br /> 今回は、五感も多少はそれから鋭くはなりましたけどそれよりも重要なのがハートの奥底にアートマン(真我)のような創造・破壊・維持の意識が出てきて、そのアートマンは今まではただ単に存在感として胸の奥にあるだけでしたけど、ここにきて、そのアートマンが「意識」として動き出したように思えるのです。<br /> <br /> ヴェーダンタの知識でアートマンはサット・チット・アーナンダだと教えられて、よく言われているのがサットが存在でチットが意識でアーナンダが至福(満ちている)ということですけど、今まではただの熱感及びエネルギーとして認識されていただけでしたが、ここにきてチット(意識)が現れてきた、ということなのかなと思います。<br /> <br /> その、アートマンのチット(意識)が体を動かしているという実感が現れてきたということなのかなと思います。<br /> <br /> ヴェーダンタの人が言っている「貴方(自分)はアートマン(真我)である」ということの意味は、こういうことなのかなとも思います。<br /> <br /> ただ、そうは言いましてもアートマンの要素はそれだけでなくサットとアーナンダがあって、サットとアーナンダはそれぞれ存在と至福という訳が一般的ですけどその本当の意味としてはサットは過去や未来という時にまたがって変わらずずっと存在しているもの、という意味ですので、まだ私のアートマンは意識的に時を超えられてはいないのかな、という気もいたします。夢とか瞑想の時に不意に時を超えることはあっても、意思を持って時空を超えられていない、ということはあるかと思います。そこはまだまだですね。これからもっと意識的に時を超えるようになる段階があるであろう、という推測があります。<br /> <br /> それと、アーナンダは一般には至福と呼ばれていますがその本意としては「満ちている」ということですので、私の自分の体の個としての範疇においては「満ちている」という感覚が出ていますけど、まだ周囲の世界に対してそのような「満ちている」という感覚は出ていないので、そこもまだまだなのかなと思います。ヴェーダンタ的に言えば、自分自身としての個としての存在の段階はアートマンで、アートマンとは個としてのサット・チット・アーナンダであるわけですけど「全体」としてのサット・チット・アーナンダもあってそれはブラフマンと呼ばれていますけど、最初は自分はアートマンだと思っていたけれども実はアートマンとブラフマンが一緒だと気づくというのがヴェーダンタやヨーガで言われていますので、私はまだ個としてのアートマンに気付いただけの段階であると言えます。<br /> <br /> よく人馬一体なんて言いますけどこの場合は人と馬ではなくて自分の心と人の体ですから心人一体あるいは身心一如とでも言える状態のように思います。<br /> <br /> 身心一如とは道元の言葉ですけど、少し調べても元々の道元の言った身心一如と言う言葉の意味は色々とあってこのような意味ではない気もしますが、言葉そのものの意味からすれば同じことを言っている可能性もあります。道元の言葉には真理が各所に現れていて、この言葉もそのうちの1つかもしれません。<br /> <br /> こういうことを言っていると「どこかで聞いたお話をそれっぽく思っているだけだよ」「想像しただけだよ」「ファッションでそう言うとかっこいいとでも思っているだけだよ」みたいに言う人が一定数いるのですけど、実際のところ、この言葉はラマナ・マハルシが良く言う言葉ですのでとても有名で昔から知っていて、本もいくつか読んだことありますし、同じことはヴェーダンタでも言われているのでずっと前から知ってはいましたし、その当時から、特にそのことで自分がその気になって自分がアートマンだと思ってそれっぽく想像したりファッションでそう言ったりすることはありませんでした。記憶している限り、大抵は「ふうん」「まあ、そうなんだろうけど」「正しいとは思いますが、なぜにそこまで何度もしたり顔でそのことを繰り返して言うのだろう」と、どこか不思議な気持ちと冷ややかな態度で私は接していたように思います。<br /> <br /> ですから、今更このことを持ち出してファッションっぽく感じたり想像でそれっぽく思い描いたり、ということはあり得ないのです。私にとってはとても古い知識で、あの有名なラマナ・マハリシがそういえばそんなこと言っていたなあ、というくらいの認識でしかなかったわけです。ヴェーダンタを学ぶ時にも同じお話は出てくるのですが、その時も「ふうん。まあ、そうなんでしょうけど」と言う感じで割とスルーしていました。<br /> <br /> ですけど、自分が実際にその状態になってみると、まさにその言葉が適切でそのものズバリなわけです。「私はアートマンです」この言葉こそ現在の状態である意識と体とがダイレクトに繋がっている状態をよく示すものであると思うわけです。<br /> <br /> これはもちろん、生まれながらにこのように生きている方もいらっしゃるでしょうし、当然のようにこのように生きている方も大勢いらっしゃると思います。その場合、とても当たり前だと思います。自分は自分のことしかわかりませんので、自分の当たり前の中で生きるわけで、自分が当たり前だと思っているこの状態が実際にその通りで当たり前なこともあれば、その一方で、自分では当たり前だと思っていても実際にはそうでない場合もあるわけです。その辺りが認識の難しいところで。<br /> <br /> 自分の頭で理解していることや知っていることと、実際にその状態になるのとはとても違うと言うことです。理解だけすれば悟れるとかそう言うことではなく、理解は基礎あるいは説明のための理屈でしかなくて、実際に意識であるアートマンが体とダイレクトに繋がると確信を持って「私はアートマンである」と言えるようになるわけです。<br /> <br /> Thu, 27 May 2021 00:00:00 +0900 普通の心より心の本性の働きの方が強くなった https://w-jp.net/2021/2368/ <br /> 最近は、普通の心の働きよりも心の本性の働きの方が強くなったように思います。少し前まではそうではありませんでしたので、つい最近、これらの優勢がひっくり返って心の本性のリクパの動きの方が強くなってきたのです。それで具体的に何が変わるのかと言いますと、普通の日常生活をしているときに瞑想状態に引き戻される力の方が瞑想状態から離れる力よりも強く働くようになった、ということを実感します。<br /> <br /> そうは言いましてもとても疲れている時とかはそうでなかったりもするのですが特に負荷がかかっていない普通の生活においては意識が瞑想状態に引っ張られる力が常に働いているようになりました。<br /> <br /> 今までは瞑想状態から離れる力の方が強くて、最近は割と拮抗してはいたのですけどそれでも優勢という観点から言えば瞑想状態から離れる方が今までは強くて、ここ最近になって、そこまでまだ強くはないですけど瞑想状態になる力が日常生活の中において常に働くようになったように思います。<br /> <br /> ですから、今までは瞑想を終えてから日常生活を送っているといつの間にか瞑想状態から落ちてしまっていて、今も仕事中とかはそうでもなかったりもしますけど、割と仕事中でも時々は気がついたり、あるいは、日常生活においてはもっと簡単に瞑想状態に引き戻されるような感覚がしています。<br /> <br /> この状態になると、自分が肉体ではなくて意思(サット)としてのアートマン(真我)だということをはっきりと認識できるようになりました。<br /> <br /> 意思としてのアートマンが行動するときは行動そのものが自らの心の本性のリクパあるいはアートマン(真我)と呼ばれているものと一体化します。<br /> <br /> それは一体化と呼ぶこともできますし、ヨーガ式に言えば「自分の中心軸を見つける」だとか「自分の中心軸を意識する」みたいな言い方になるかと思います。ヨーガでいう中心軸はサンキャ哲学に基づいて「プルシャ」と呼ばれることもありますけど、同じことだと思います。<br /> <br /> その、アートマンあるいはプルシャが自分の本性だとはっきり自覚できるようになって、思考する心よりアートマン(あるいはプルシャ)が優勢になってきたことでますます解放されて自由になってきたように思います。<br /> <br /> 以前、ここまで瞑想が進んでいないうちは私はアートマンを「熱感」だとか「観察する意識」として認識されてきたわけですけど、ここ最近は、アートマンが実際に自分の内に存在していて自分を動かしている意思あるいは意識としてはっきり認識しています。<br /> <br /> アートマン(真我)こそが私を生かしていて、アートマンの意思が私の体を動かし、何をするのかもアートマンが決めて、アートマンこそが私であるのです。アートマンは実際に私の胸の内に存在していることがはっきりと分かるのです。それはただの熱感ではなく、実際の「意思」として体を動かし思考を動かすための根源の意思としてアートマンが実在していることがはっきりと疑いなく分かるのです。<br /> <br /> これは理屈ではありません。理屈で考えてきっとそうだと理解したりあるいはとても勉強して腑に落ちるとかそういう面もなくはないですけどあくまでも勉強は説明のためだけのもので、本質はというと実際に瞑想で体験して、一時的な体験だけでなく、永続的な状態として身につけてこそこのことがわかるのかな、と最近は実感しております。<br /> <br /> 流派によっては同じことを説明するために「理解」という言葉を使いますけど、これは単なる理解ではなく実感でありますので、理解という言葉は不十分な気が致します。流派によっては「知識が現れる」「知識が起こる」みたいな言い方をすることもありますけど、それでも不十分で、はっきりと知覚することは永続的な体験でしかありませんので、それは頭で理解することではなくて、むしろ、体感することが重要で、疑いがなくなるほどの確実な永続的な不可逆的な状態変化であると思うのです。言葉で言い表すと長くなってこういう説明にもなりますけど本質はもっと単純で、聖典の言葉が真実であるとはっきりと分かる、という、それだけのことでもあります。<br /> <br /> それは、静寂の境地においてはっきりと認識できるものです。浄化が進んで静寂になり、やがてアートマンを自覚するわけです。<br /> <br /> アートマンと認識は分離されていなくてアートマンそれ自身が認識そのものですので、私の知覚がアートマンを認識すると言うような分離があるのではなく、そこに分離はなく、胸の内にあるものが認識そのものでありそれがそのままアートマンだと自覚するわけです。ですから、アートマンというものを持っているわけではなくて、自らの認識そのものがアートマンだと自覚するようになるわけです。<br /> <br /> Wed, 26 May 2021 00:00:00 +0900 普通の心とリクパは最初は意思と観察として瞑想中に認識される https://w-jp.net/2021/2367/ <br /> 普通の心は思考する心であり雑念や物思いにふける行動する側の心ですが、心の本性はリクパとも言って観察する側の自分の心です。<br /> <br /> これは、瞑想が進むと違って見えてくるのですが、最初はこのように見えます。<br /> <br /> 瞑想がそれほど進んでいないうちは意思というと普通の心のことで、心の本性のリクパは全く知覚できないかあるいは知覚できたとしても観察する心として認識されます。ですから、上の分類のようになります。<br /> <br /> ・普通の心 → 思考する心<br /> ・心の本性(リクパ)→観察する心<br /> <br /> 大きくざっくりと分けるとそういうことですけど実際には普通の心にも行動としての意思と観察する認識力がそれぞれあって、心の本性であるリクパにも現実に働きかける行動する意思と認識する観察の働きがあります。ですから、意思と認識とがそれぞれあるので、実際のところ本当は2つの心なんてなくてひとつづきの心があるだけなのです。ですけど、確かに働きとしては違ったもののように見えもしますので、瞑想の基本としてはこれらはざっくりと大きく分けて思考する普通の心と観察する心の本性として分類されています。その分類は流派によって多少は違いますけど、概ね、表層にある普通の思考する心と奥に存在している観察する心あるいは意思、という分け方になっています。<br /> <br /> ですから、思考と観察という分類になってはいますけど、それをそのまま解釈するよりは、本当はひと続きの心であるけれども表層の心と心の本性とがあって、表層の心が一応は思考する心として説明されていて深層の心が観察する心として説明されている、と読み替えればいいと思います。実際には上記の通りそれぞれに観察と意思とが存在しているわけですけれども、確かに様相は違いますので、割とこのような分類を瞑想の業界ではすることが多いように思います。<br /> <br /> 瞑想で言いますと、集中する瞑想というと普通の心に属することで、観察する瞑想というと心の本性に関する瞑想であることが多いです。瞑想の流派ではそのような分類になっていることが多いです。とは言いましても、実際には上に書きましたように普通の心にも心の本性にもそれぞれの特徴は違えども意思と観察とが両方とも存在しています。<br /> <br /> ・集中する瞑想 → 普通の心<br /> ・観察する瞑想 → 心の本性(リクパ)<br /> <br /> 集中瞑想と観察瞑想、という違った瞑想として分けている流派もあれば、1つの瞑想の集中と観察という面として説明している流派もあるのでこの辺りが更にわかりにくいものになっています。<br /> <br /> 集中瞑想というと普通の心を意味することが割と多いですけど、意思の集中は心の本性のリクパにおいても存在していますので、実際のところ、心の動きの集中という働きに関する瞑想が集中瞑想です。<br /> <br /> ・集中する瞑想 → ひと続きの心(普通の心と心の本性(リクパ)の両方)<br /> <br /> また、観察瞑想というと普通の心を意味する時もあれば、心の本性のリクパに関する意味の時もあります。これまたコンテキスト次第ですのでわかりにくいです。<br /> <br /> ・観察瞑想 → 普通の心、あるいは、心の本性のリクパ<br /> <br /> 1つの瞑想を集中と観察という面で分けている時は、基本はやはり普通の心の集中と観察という面を取り上げていますけど、瞑想が進めば同じ説明がそのまま心の本性のリクパにも適用できることが多いです。<br /> <br /> ・心の本性(リクパ)→ 集中と観察<br /> <br /> 流派の説明としておそらく一番わかりやすのが、チベット式とヴェーダンタ式かなと思います。チベット式は普通の心と心の本性(リクパ)を分けて考える方法で、ヴェーダンタ式あるいはヨーガ式では思考する心はアンタッカラナ(内なる道具)と言って心の認識力(五感)と思考力(ブッディ)などがこのアンタッカラナとして説明されています。一方で、心の本性はヴェーダンタではアートマンの3つの要素であるチット・サット・アーナンダのうちのサットが「意思」として説明されています。サットは思考ではなく意思ですので、確かに、瞑想で認識されるひと続きの心のうちの奥底に部分は思考というよりも意思ですのでしっくりきます。<br /> <br /> ・普通の心 → アンタッカラナ(ブッディ=認識力、チッタ)<br /> ・心の本性(リクパ)→ アートマン(チット・サット・アーナンダ)<br /> <br /> これらの説明は複数の流派の説明を混ぜ合わせていますのでその筋の流派の人が見たら「なんじゃこりゃ」と思うかもしれませんけど、実践的な観点からするとこのような共通点を押さえておくのは理解に役立つと思います。<br /> <br /> Wed, 26 May 2021 00:00:00 +0900 目を開けた瞑想の方がしやすい段階に至ったのかもしれない https://w-jp.net/2021/2366/ <br /> 今までは、断然、目を閉じた瞑想の方がしやすかったです。<br /> <br /> 目を閉じなければ視界に色々なものが見えてきてそれらにまつわる雑念が出てきますし、視覚から入ってくる情報は瞑想状態に入るための妨げになっていたように思います。<br /> <br /> 一旦、目を閉じた瞑想を続けてから静寂の境地になり、その後に日常生活をしばらく静寂の境地で続ける場合は目を開けていても瞑想状態がしばらく保たれてはいましたけど、その場合にしても、静寂の境地を支える基礎としての目を閉じた瞑想というものがありました。<br /> <br /> 流派によっては瞑想を目を開けたまま行う手法がありますけど、私にはそれがあまりピンとこなくて、目を開けた瞑想は難易度が高いと思っておりました。<br /> <br /> しかし、ここにきて、目を開けた瞑想の方が雑念に惑わされなくても済むのでやりやすいのでは、という気になってきました。<br /> <br /> これは、基礎としての静寂の境地があって初めてこのような理解になったように思います。<br /> <br /> 静寂の境地で日常生活を過ごすことができるようになって初めて目を開けた瞑想の方がしやすいのでは、という理解に至りました。<br /> <br /> 静寂の境地になっていれば視界から入ってくる情報がありのままに自らの奥底にまで入ってきて、自らが行動そのものになって生活を送ることができ、その日常生活と座っての瞑想というものが割と同じものになってきます。<br /> <br /> 一方、そうであっても、目を閉じた瞑想をすると、一応は静寂の境地に達しているとは言っても少しは雑念というものが出てきます。例えばクラシックの音楽がリピートされるとか、ちょっとした観念が浮かぶ、なんてことはポツポツとあります。それによって惑わされたり苦しめられるということはもはやほとんどないわけですけど、静寂の境地というのは完全に思考が消えた状態ではなくて思考が消えた状態が思考がある状態よりも遥かに長く続く状態であると言えますから、多少は観念が現れてくるわけですよね。<br /> <br /> そのように、目を閉じると細かな観念が出てくるわけですけれども、目を開けることによってその観念がとても小さなものに感じられてきます。<br /> <br /> これは、おそらくは何をフォーカスして瞑想するかの違いでしかなくて、目を閉じた瞑想をすることでもっと細かな部分に入ってゆく必要もあるかとは思うのですが、やりやすさだけを見てみると目を開けた方が瞑想がしやすい段階に入ったように思えるのです。<br /> <br /> Wed, 26 May 2021 00:00:00 +0900 静寂の境地で生きると自らが行動そのものになる https://w-jp.net/2021/2365/ <br /> 多くの場合、日常生活をするときに自動的な動作及び何か他のことを考えながら行動していたりします。<br /> <br /> その時、行動そのものを感じられる状態になってはいないわけです。行動そのものから離れている状態を「雑念の中に生きている状態」だとか「雑念が多い」とか「煩悩で生きている」とか、流派によっては「無知に包まれている」みたいに言ったりもします。<br /> <br /> これらは全て同じことを言っているわけですが、共通点としては、機械的な行動になってしまっているということです。<br /> <br /> 一方、静寂の境地に至ると、行動そのものが自らの意思と一致するようになります。<br /> <br /> これは五感の皮膚の感覚を感じることとは異なります。似ていないこともありませんので誤解が時々あるのですけど、皮膚の感覚を感じることとこのこととはかなり違う状態です。<br /> <br /> 皮膚の状態を感じる瞑想はそれはそれであって、ヴィパッサナー系の流派で「動く瞑想」として行われいるものがそれで、例えばゆっくり歩きながら単に動きを観察するような瞑想だったり、あるいは、歩きながら感覚を実況中継するような瞑想などがありますけど、ここで言っている「行動そのもと意思との一致」とは、そのような一部のヴィパッサナー系流派で行われている「実況中継」の瞑想ではありません。<br /> <br /> 行動している状態そのものが自らの意思と一致する時に、たまたま皮膚の感覚があることも当然あるでしょう。しかし、割と皮膚の感覚と言うものは重要度が低く、体を動かしている意思そのものを観じられる状態こそがここで言う「行動そのものが自らの意思と一致した状態」なわけです。<br /> <br /> それは、普通の生活においては体というものが常に存在していますので体を使った行動そのものが自らの意思と一致するというように認識されますけど、おそらくは、本当はそういうことではなく、自らの内に存在している意思そのものを知覚し始めた段階なのではないか、という気がしてきています。<br /> <br /> これは、魂ということもできますし、流派によっては例えばヴェーダンタではアートマン(個別に存在している個としての意識)とか言われていたりヨーガではプルシャと呼ばれているものなのかもしれません。<br /> <br /> 体の行動そのものを知覚し始めた、と言う認識で知覚されてはいますけど、それよりはむしろ、魂あるいはアートマンのようなものを知覚し始めた、と考えた方がしっくりきます。<br /> <br /> Wed, 26 May 2021 00:00:00 +0900 静寂の境地になって体の邪気を浄化する https://w-jp.net/2021/2364/ <br /> 静寂の境地になると自分の体の中のどこに黒いモヤモヤがあるのか知覚できるようになります。<br /> <br /> それ以前は、しばらく瞑想をして不意に浄化が起こって静寂の境地になったり急にリラックス状態になったりしていましたが、静寂の境地が割と普通になってくると、自分のどこに原因があって緊張やモヤモヤが生まれているのか知覚できるようになってきます。<br /> <br /> そうなると、まず瞑想に入った後、その黒いモヤモヤを探し当ててから引き抜くなり意識を当てて浄化するなりして素早く不調和の原因となっている問題を解消することができるようになります。<br /> <br /> 具体的には、私の場合は割と右肩に何かが取り憑く場合が多いのですが、その場合、右肩の緊張として現れてきます。右肩には死霊がついていることが多いため、何か変な意識体のイメージが出てきます。例えば子泣き爺とかですね。そのイメージが出てきたら右肩からオーラの手で何かを引き抜くようにすると急に緊張が取れてきます。<br /> <br /> その他には、瞑想中のイメージで背骨の後ろにアウトドアの寝袋を小さくしたような形をしたものが詰まっているのが見えてきて、寝袋と言っても封筒形ではなくて本格的なマミー型(人形型)ですけど、それを小さくしたようなものが背骨の後ろにあって、ちょっと黒い色をしていて、しかもそれは本当に袋に入っている感じでしたので引き抜くことができそうに感じて試しに首の後ろあたりを持って引き抜いてみると実際に引き抜けました。そうすると急に緊張が取れて背骨が伸びてきました。背骨のあたりに詰まっていたもので背筋が曲がっていたわけですね。その時、自分の後ろの空間にその寝袋が取り出されたわけで、そのまま捨ててしまっても良かったのですけど、その時は意識的にそれを粉々にして浄化してオーラの姿に戻しました。<br /> <br /> 更に観察を進めると、頭の中にいくつか黒いモヤモヤがあることに気がつきましたので、特に頭の左側にいくつかある黒いモヤモヤに意識(スピリチュアルで言われているところのいわゆる「光」)を当ててそれをなくしていくと更に意識がクリアになりました。<br /> <br /> 他には特に大きな黒いモヤモヤはないようでしたが、一応、体の各所をチェックすると、皮膚の表面に少しモヤモヤがついていましたのでそれも浄化しました。<br /> <br /> これらは静寂の境地にならなくても行うことができますけど、静寂の境地で行うとそれが視覚的にイメージで瞑想の中で知覚しやすいので何かとやりやすいように思います。<br /> <br /> 静寂の境地に達するにはとりあえず集中してそこに達するのでそれなりの瞑想の期間が必要なわけですけど、一旦静寂の境地に達してしまえば割と浄化はしやすいように思います。<br /> <br /> Wed, 26 May 2021 00:00:00 +0900 アナハタの普遍的な愛とマニプラの情による愛 https://w-jp.net/2021/2363/ <br /> マニプラはソーラープレクサスとも言い、お腹のあたり、丹田のあたりで感じる愛で、情による愛です。<br /> <br /> 一方、アナハタの愛はハートによる愛です。<br /> <br /> そこには明確な違いがあります。<br /> <br /> マニプラの下にはスワディスタナ(セイクラル)がありそれは性による愛があって、それぞれの階層において愛の形が違ったものとして存在しています。<br /> <br /> それは一応は全て愛として言い表されているものではありますけど、それぞれ、かなり違った様相を表しています。<br /> <br /> 生まれた段階でどれかの段階から始まるわけですけど、そこから次第に上の愛を学んでいくわけです。<br /> <br /> 例えば最初はスワディスタナの性的な愛から始まって情の愛であるマニプラの愛を学んでいくわけです。あるいはマニプラの情の愛から始まってそれなりに普遍的なアナハタの愛を学んでいくわけです。<br /> <br /> 地球においては、だいたいこの3段階がほとんどのように思います。キリストとかブッダとか聖者のようにそれ以上の段階ということもあるとは思いますが、大抵の人は性的な愛か情の愛に生きているように思います。<br /> <br /> これはどれが良いとか悪いとかそういうことではなくて、それぞれの段階で学ぶものがある、ということだと思います。<br /> <br /> だいたい2段階くらいがメインになって、性的な愛ばかりの人、性的な愛と情の愛が半々の人、あるいは、情の愛が主要な人、あるいは、情の愛と普遍的な愛が半々の人、そして、普遍的な愛が優勢な人がいるかと思います。<br /> <br /> この時、2段階違っているものはあまり優勢にはならなくて、例えば、性の愛がそれなりに動いている場合は普遍的な愛はそれほど動きませんし、逆に、普遍的な愛が働いている時は性の愛はあまり動かない、というのが基本です。<br /> <br /> そうは言いましても性の愛を行おうと思えば行うこともできますし、それはパートナーの段階と自分の段階の差に応じて愛の形も変わってくるわけですけど、地球上を見ると、性的な愛が優勢な地域と情による愛が優勢な地域に分かれるかと思います。<br /> <br /> 性的な愛にすら達していないというのはあまりなくて、だいたいが性的か情の愛の段階にあるかと思います。<br /> <br /> これら、段階の違う人の間においては愛の形が違いますから、すれ違いということもよく起こります。<br /> <br /> 普遍的な愛を身につけている人の場合は誰しもが素敵に見えますから、顔がそれなりであればそこそこモテる場合もあるかと思います。ですけど、それは必ずしも誰かを好きになったとかそういうことでもなく、単に普遍的な愛があるということです。<br /> <br /> 情の愛は日本においてはわかりやすくて、日本の人の大勢はこの段階にいるかと思います。<br /> <br /> 性による愛が優勢で情による愛がまだわからない人の場合は割と唯物論的に自分のことばかり考える生き方になりますけど、それは悪いということではなく、そのような唯物論的な人たちがあまり好き勝手に生きすぎないようにもっと精神的に成長している人たちが歯止めをかけてあげることも必要かと思います。<br /> <br /> これらの段階において、性による愛で唯物論的立場で生きている人間と、ハートによる普遍的な愛で生きている人間とを見てみると明確な差があるのですが、実際のところ、性による愛で生きているのにも関わらず育ちの良さと躾によってマナーを身に付けた人間はハートによる普遍的な愛で生きている人間と一見すると見違えてしまう、といったことが起こります。これは不思議なことで、面白いことでもあります。ですけど、実際にはその差は顕著ですから全く違うのですが、両者とも情から離れているという点においては共通していて、割と論理と理屈に基づいて行動しますから、一見すると似ているわけです。<br /> <br /> カップルの組み合わせとして色々なパターンがあります。<br /> ・性による愛に生きている男性と情による愛に生きている女性の組み合わせ<br /> ・男性が情の愛に生きていて女性が性の愛に生きている組み合わせ<br /> ・男性も女性も性の愛に生きている組み合わせ<br /> ・男性も女性も情の愛に生きている組み合わせ<br /> ・男性が普遍的な愛に生きていて、女性は情の愛に生きている組み合わせ<br /> ・男性が情の愛に生きていて、女性は普遍的な愛に生きている組み合わせ<br /> ・男性も女性も普遍的な愛に生きている組み合わせ<br /> <br /> この時、2段階違う場合は付き合うのが難しい気が致します。<br /> <br /> 理想的なのは両方とも同じ段階なわけですけど、家族として暮らしているうちに片方が上の愛に目覚める、ということもありますから難しいところですね。<br /> <br /> 私としましては、1段階くらいの違いは相手を受け入れることで許容するのが良いのではないかと思います。2段階違う場合は不幸ですので離婚ということもあるのかもしれませんけど、1段階くらいの違いは仕方がないのかなと思います。<br /> <br /> 段階とは言ってもそれは割ともっとなだらかな少しづつの変化が起こるものですので、男女間で多少の違いが出るものですから、多少の1段階くらいの違いは許容しても良いのではないかと思います。<br /> <br /> パートナーに自分より上の段階を求めたとしても、逆にそのパートナーから見れば相手は下の段階ということになりますから、どうしても片方は少しの段階の差を受け入れる必要が出てきます。差というものはどうしても生まれるものなのですよね。であれば、1段階くらいの差は受け入れるのが良いのではないかと私などは思います。そうでないと結婚なんてできません。とは言いましても今世では諸事情あって私は結婚はしていませんけど。私の過去生で一緒だった妻たちが大勢あの世で楽しく暮らしていて、その時の記憶を元に話しています。<br /> <br /> あの世に行っても来世でも一緒に楽しく暮らしたいと思える妻と一緒になるのがいいと思います。<br /> <br /> 長くいるうちにそのうち情も湧いてきますし、よくない面があっても仕方がないと受け入れることができるようになったり、あるいは、来世で一緒になって自分がより良い方向に導いてあげる、みたいな気持ちも出てきます。<br /> <br /> 例えば、少し前の5つか6つかそれよりもっと前の人生においては私は男で、最初に付き合った女性が性による愛が優勢で、愛欲に溺れたことがあったのです。めちゃくちゃ美人で何度も体を求めていたように思いますけど、自分が情やそれより上の愛を持っていたとしても相手が性による愛が優勢だとそれに引っ張られてしまうわけですよね。パートナーの関係性というのはそういうところがあって、両者の段階それぞれに応じて自分が相手の段階に引っ張られる、ということが起こります。その人生においては、性による愛はもう懲り懲りかなと思っていた時に前の人生で一緒だった妻の転生と出会って好きになるわけですけど、性による愛から離れられなくて、その時はまだ結婚していなかったわけですけど二股状態になってしまったわけです。それが後でバレるというか明示的にバレるようにしたわけですけど、割と泥沼になってしまったわけです。でも、前の人生で一緒になった妻はそんなことがあっても死んでからあの世に言ってもまた一緒だったわけです。その長い付き合いの元妻は、その後、そんな愛欲から私を開放してあげたい! と思ったらしく、次に私が転生しようかなと言った時に「それじゃ、私がお母さんになってあげる!」と立候補してくれました。このように、長い付き合いになると必ずしも結婚という形の愛だけでなく、周囲において、友達あるいは家族として相手に寄り添う、ということが起こります。<br /> <br /> パートナーに引っ張られて時に性による愛に溺れてしまうこともありますけど、基本的には自分が元いた段階に戻ってゆくものだと思います。<br /> <br /> そして、基本的には上の愛を学んでゆくものなのですよね。<br /> <br /> 1段階違うだけで愛の形というものはそれなりに違いますし、2段階違うとかなり違って、お互いのことが理解できないと思います。ですから、そんなものだ、と思うしかないですね、おそらくは。<br /> <br /> 日本や世界では恋愛による愛によって結ばれることが基本とか言われていますけど、それは性や情による愛におけるお話で、アナハタのハートの普遍的な愛になるとそのような愛とは離れていきますから、そうなると恋愛それ自体の形も変わってきますので、そもそも恋愛というものが盛り上がらなくなってきますし、結果として、恋愛による結婚というのがかなり難しくなってくるように思います。<br /> <br /> 恋愛においては性や情による感情がないとそれは恋愛ではないという固定観念と言いますかそういう人がほとんどであれば恋愛というものがそういう形になりますから、アナハタの普遍的な愛で生きていると、わざわざ性や情による愛にまで降りてこないと恋愛ができないことになってしまいますから、それはある種、辛い状態になってしまうわけです。<br /> <br /> アナハタの普遍的な愛の人は割と少なくて、顔が悪くなければそれなりにモテますから恋愛に苦労しないかと思いきや、意外に、そういう人は恋愛に興味がないことが多くて、もちろん普遍的な愛がありますから基本的には誰でも好きなわけですけど、それは性や情による愛とは違うわけです。<br /> <br /> このアナハタの普遍的な愛の人が増えてくれば恋愛というものが減るのは当然で、そうなってくると昔のように家同士のお見合い結婚やあるいは紹介による結婚というものも増えてくるのかもしれません。誰でも愛せるが故に、相手に求めるものは基本的な礼節であったりとか知性であるとか習慣とか、どのような生活環境で生活しているのか、と言った点が焦点になってくるわけです。それは側から見ればお金目当てに見えるかもしれませんけど、もちろん生活を支える上での経済面も重要ではありますけど、主な関心は相手の基本的な成長の段階なわけです。段階が違いすぎると合いませんし、完全に同じというのはあり得ませんけど、ある程度近いのが良くて、1段階以内の違いに収まっていることが基本になるわけです。<br /> <br /> たまに、元皇族かどこかのお家柄で性的な愛に溺れている女性をどこかの地方の神社の妻にあてがった、というお話を聞いたことがありますけど、情の愛の男性が性的な愛に溺れている女性を引き取るというのはそれなりに大変な気がします。1段階ですらかなり大変なのですから、2段階となりますとほぼ不可能に違いでしょうし、お互いに理解も難しいのではないかと思います。<br /> <br /> 据え膳食わねば男の恥、なんて言いますけど、アナハタの普遍的な愛に目覚めた男性は据え膳であっても食べなくなります。そうすると、周囲で見ている性欲だらけの男性あるいは女性たちがこぞって「男じゃない」とか「ホモなんじゃないの?」みたいなことを言いますけど、そういうことではないのですよね。性欲が優勢な段階と普遍的な愛とでは2段階も違いますから、そうなってくると、特に下から上のことはほとんど理解できないわけです。上から下を見た場合はそれなりに理解できますから普遍的な愛を持った人が性欲まみれの人のことも理解できるのですが、生活の態度としては性欲からは離れているわけですよね。ですから、性欲まみれの人が普遍的な愛を持っている人のことを理解できなかったとしても、それはもう、人として全く別の段階にいるのですから、理解できなくても仕方がないわけです。<br /> <br /> Sat, 22 May 2021 00:00:00 +0900 宇宙の共同体のあらましはスタートレックを見れば大抵わかる https://w-jp.net/2021/2362/ <br /> そのものではないにせよ、基本的な宇宙における共同体の考え方がスタートレックで一通り学べますので、また見ていない方は今はストリーミングで見ることができますので主要なところだけでも見ると良いと思います。<br /> <br /> 最近新しいシリーズがリブートしましたけど、そちらよりも昔ながらの「新スタートレック」シリーズが基本で、そこから踏み込んで多様性のある世界を学ぶには「ディープ・スペース・ナイン」がお勧めですけど、新スタートレックだけでも十分です。一番最初のシリーズであるカーク船長が主人公のTOSはこの目的のためには見なくても大丈夫だと思います。新スタートレックだけ見ておけば基本的な宇宙の考え方がわかります。<br /> <br /> 実際の宇宙の基本ルールとスタートレックが共通しているのは以下の点です。<br /> <br /> ・惑星への非干渉の原則。<br /> <br /> スタートレックでは日本語で「艦隊の誓い」として訳されることが多いですけど実際は艦隊司令の最重要項目であり英語では Prime Deirective ですから最優先指令ということになり、艦隊として守らなくてはならない基本的な立場になります。それが他の惑星社会に対する非干渉・非介入の原則です。<br /> <br /> これはSFの単なる設定としてスルーしてしまう人も多いとは思いますけど実際に宇宙ではこの原則が守られており、それ故に、地球に対しても適用されています。<br /> <br /> スタートレックを見ると、進んだ文明がどのようにワープ以前の文明に対して接すればいいのかの基本的な考え方を理解することができます。<br /> <br /> もちろんドラマですからあり得ないことも起こるわけですけど、それを引いて見れば、原則としては割と現実と即しています。<br /> <br /> まあ、私一人がそう言っていたとしても勝手にそう思ってるだけでしょ、ということにもなるかもしれませんけど、根拠としては2つあって、子供の頃に幽体離脱した時に過去生とかグループソウル繋がりの他の魂の人生も色々と見て、未来を見たりもしたのですけど、その中に、中世ヨーロッパにおける思想家で晩年に家を出てプレアデス系の宇宙船に移住して一生を終えた人生が混じっていましたので、その時の魂がグループソウルに合流した結果、その魂の記憶がわずかながら私にも分霊の一部として入っていますのでその記憶を辿ることで彼らの基本的な考え方がわかる、というのが1点です。<br /> <br /> まあ、スタートレックみたいにかっこいいことばかりではなくて、ほんと単純で、単に、観察することだけを義務とする、というようなお話なのですけど、プレアデスの宇宙船は基本的に空中に浮いていて地球を観察しているだけで、何も干渉しません。理屈を言うと上のように非干渉の原則、と言うことになるのですけど、スタートレックの物語のようにその原則で葛藤するとか例外を作るとかそういう悩みはなくて、もう、当たり前のルールとしてそこにある、と言うお話だったように思います。<br /> <br /> ですから、非干渉のルールは当然で当たり前で、空気のようなものなわけです。<br /> <br /> もう1つの根拠としては、スイス系のUFOコンタクティの記録を読むと似たようなことが書いてある、と言うのも根拠の1つですけど、このスイス系はアダムスキー系と仲が悪くて一部では嘘の記録として非難されていたりしますけど、まあ、それが嘘かどうかは私にはいまいちわかりませんけど、少なくとも、その内容を読む限りは宇宙の原則とかその辺りの記述は私の記憶と一致します。<br /> <br /> スタートレックでは宇宙は割と理想的な平和な姿として描かれていますけど、実際には同じ原作者のアンドロメダというドラマの方が現実に近くて、宇宙には無法者が大勢いて、それなりに高度な技術で守ることができない種族にとっては宇宙はとても危険な場所です。<br /> <br /> 地球にも無法者がたむろしている惑星や地域がありますけど、宇宙も似たようなもので、危険な地域が多くありますし、一方、平和な地域ももちろんあります。<br /> <br /> 地球が今後、愛の星として統一することができれば宇宙に愛を広げて平和に導くというミッションにも繋がるのですけど、どうでしょうかね。未来のお話ではありますけど。どうなりますか。<br /> <br /> まあ、そうは言いましても、瞑想やその他で見聞きしたことですので完全に正しいかどうかは不明ではありますけど、きっとそうかな、と思っております。<br /> <br /> そういった理解に基づきますと、今、直接的に地球に関与するということは基本的にはないわけですけれども、間接的にであっても、宇宙の存在が例えばチャネリングやその他の方法で日本あるいは世界の人々に対してメッセージを送るというのは基本的には禁止されているわけです。<br /> <br /> ですから、Youtubeや書籍などで「〇〇宇宙人からのメッセージ」「〇〇司令官からの緊急指令」みたいなお話は、基本的には、してはいけないことなわけですから、本当にそういうことがあったのかもしれませんのでその可能性は否定はしませんけどあったとしても書籍にするようなものでは本来なくて、Youtubeで広く広めるとかそういうものでもなくて、基本的にはそのようなメッセージは個人的なものでしかなくて、あくまでも地球側が主体で動くのが基本だということです。<br /> <br /> 直接的に関与するということになりますと宇宙のルールに違反したということになって何がしかの処分の対象にもなります。そうは言いましても許可を取ってこぢんまりと接触していたりすることはあるにはあると思います。<br /> <br /> Sun, 16 May 2021 00:00:00 +0900 オーラの融合によるワンネスは本来のワンネスではない https://w-jp.net/2021/2361/ <br /> 本来のワンネスとは逆にオーラを自分の近くに留めて発散させずに体の近くに留めて安定させた上で周囲の空間の全てである無限と一体になることです。<br /> <br /> 一方、オーラの融合によるワンネスとは時間と空間に限られていて、特に近くにいる人とのオーラを一体化させて行うワンネスがスピリチュアルな業界においてよく行われていますけど、それはそこにいる人たちの間におけるワンネスであって本来の意味における根本の無限と繋がるワンネスとは違うわけですよね。<br /> <br /> 根本の無限は「全て」ですからもちろん私も貴方も知らない人も目では認識していない「空気」としての空っぽの空間や物・物質すらもその全てが本来のワンネスの対象になるわけですけど、オーラの融合のワンネスの場合は特に生きている存在との間における、しかも近くにいる人とのワンネスの融合であるわけです。<br /> <br /> これは、そのようなワンネスを否定しているわけではなくて、そういうのもありだと思います。ただ、違います、と言っているだけです。<br /> <br /> オーラとしてのワンネスをして起こるのはエネルギーの一体化であり、カルマの一体化です。悩みも苦しみみカルマもオーラを通じて行き来しますので、そうは言いましても全てが一体化するということはなくて一部ではありますけど、それであったとしても、エネルギーと共に一部のカルマが行き来してしまうわけです。<br /> <br /> 元気だった人がエネルギーを奪われたり、逆に、エネルギーの少ない人がエネルギーの高い誰かからエネルギーをもらって元気になります。<br /> <br /> 一方、誰かが抱えていたカルマと葛藤の塊が誰かのところに渡ってしまう、ということも起こります。そのような時、スピリチュアルなセミナーなどでオーラとしてのワンネスを体験してその時は素晴らしいと思って身が軽くなったような気がしていても、実際には、そのエネルギーは誰か他の人から貰ったものだったり、また同時に、自分のカルマと葛藤を誰かに受け取ってもらった結果として自分が元気になっているだけだったりするわけです。<br /> <br /> 本来のスピリチュアルというものは自立を基本としていて、そのようにオーラの融合をせずに自分の問題は自分で対処し、自分で新たなカルマをなるべく作り出さないようにする、という立場を取ります。<br /> <br /> ワンネスとか言ってオーラ融合してしまうと何か解決したかのような錯覚に陥ってしまいますけど、実際は、周囲の人に助けられているだけなのですよね。それを良しとして自分の行動や考え方を改めないのならばまた新たな葛藤やカルマを作り出すことになります。<br /> <br /> この世の中には秘法としてこの種の技術をうまく使って世渡りをしている人がいて、自分は好き勝手に生きているのにも関わらずカルマや葛藤を誰かに押し付けたり自分でエネルギーを生み出すことができないので周囲の人のエネルギーを奪って一見すると元気に生きている人がそれなりにいますので、その人が自覚的かどうかはそれぞれですけどワンネスとかスピリチュアルとか言ってエネルギを奪おうとしていたりカルマを押し付ける相手を探していたりするような変なスピリチュアルや変な宗教団体には関わらないことですね。<br /> <br /> この種のオーラの融合としてのワンネスは家族など一蓮托生の覚悟を決めた場合はそれでもいいとは思いますけど、あまり自覚なしにオーラのワンネスをしない方がいいと思います。<br /> <br /> 本来のワンネスとは繰り返しになりますけど自分のオーラはむしろ閉じてしっかりと安定させた上で周囲にある「全て」の「無限」と一体になって繋がることです。それは繋がる、ということもできますけど、元々自分とそれらとは一体だったものが何か別物のように感じられていただけで、実際に感覚として離れている感覚はあるのですけど、その何かを求めるということをすれば無限なる全体が自らの方に近づいてきて一体になることができます。それが本来のワンネスなわけですよね。その時、特にハートが輝きます。<br /> <br /> オーラの融合の時もそれなりにハートが輝きますけど、オーラ融合の場合はどちらかというと周囲にぼんやりと広がってモヤモヤとした境界がよくわからない感じになって、意識が広がると言えば広がった感じになってオーラが繋がった対象のことが印象あるいはインスピレーション・直感として入ってきます。<br /> <br /> 一方、本来のワンネスの場合はそのようなオーラ融合としての直感や何かがわかる感覚というものはほとんどないのですが、一方、違った感覚というものはあり、単純に、目に見えない地平線がそこにあるかのように感じられて、それは地平線なのですから遠くのような気もするのですけど地平線が割とすぐそこに見えていて、無限なる地平線が割とすぐそこにある、という感覚になります。そして、この世の何かがわかるということはなくて、単純にそのような無限なる地平線のような全体と言っても良い深遠さがそこら中に広がっている、ということがわかります。<br /> <br /> スピリチュアルというと何か相手のことがわかったり見抜いたり、という物珍しい面がよく取り立たされますけど、それはどちらかというとオーラ融合における各種様相のお話で、本来の基本の根源のスピリチュアルにおいてはあまり不思議なことはないのですよね。<br /> <br /> 禅の道元禅師も「不思議なしの悟り」みたいなことを言っていたと思いますし、本来の悟りの基本は不思議なことがないものなのだと思います。<br /> <br /> このあたりは私も30年前から少しづつ認識が変わってきたところで、最初こそは不思議なものに目を惹かれたりもしましたけど、そういった物珍しさは本質とは違うものですので、本質はというと、不思議のない状態こそが根本の基本のお話なのだと思います。<br /> <br /> Sun, 16 May 2021 00:00:00 +0900 心に神の姿イシュタ・デーヴァターを観想して自らを明け渡す https://w-jp.net/2021/2360/ <br /> 「全体」あるいは「無限」と言っても良い存在あるいは満ちている意識そのものに対して自らを瞑想及び日常生活中において明け渡しを行い、または、祈りを捧げます。<br /> <br /> この時、単に無限なる広大な地平線まで続く広い空のような空間そのものが自らに迫ってくるわけですが、その時、ヒンドゥにてイシュタ・デーヴァター(Ishta Devata)あるいは単にイシュタ・デーヴァと呼ばれている心の中に浮かぶ神の姿を観想しながら行うとそれがやりやすいように思います。<br /> <br /> これはおそらくは原型としては心の中に像を浮かべて瞑想をするチベットあるいは日本の仏教の瞑想のやり方の一つと共通している面があるとは思いますが、今回は、特にそれを意識してやっていたわけではなく、ふとしたことに「無限」と出会って自然に祈りを捧げる境地になってみたら、ふと、自らの心の中にあった神様の姿が目の前に現れて来たのです。<br /> <br /> おそらく私はヨーロッパ等での転生もそれなりにあって、ヒンドゥの神様とかチベットの神様あるいは日本の神様よりも、割とキリスト教の白人バージョンのありがちなキリストの姿の方がイシュタ・デーヴァターとしてしっくりくるのです。かと言って今はキリスト教徒ではありませんしそれほど聖書を勉強しているわけでもなく、教会には観光で行くくらいですけど、それでも、神様というと白人バージョンのキリストの姿がしっくりきます。<br /> <br /> 色々なところで言われているように元々キリストは白人ではなくて黄色人種の生まれだったので白人の肖像画は歪曲されているとかいうお話もあって、確証はないですがたぶんそうなのかなと私も思っていますけど、実際のところ、ここでいう肖像としてのイシュタ・デーヴァターは割と誰でも良くて、自分がそれに対して神性を感じていて思い浮かべやすければぶっちゃけなんでもいいと言えばいいわけです。マリア様でもいいですし金剛力士でもいいわけですし、チベットの神様でもいいわけです。そんな大差はないと思います。<br /> <br /> 重要なのは、それが瞑想の助けになるかということで、それを観想することで「全体」あるいは「無限」に対して「明け渡し」ができるのであればそれは助けになるということです。<br /> <br /> このような観想は本質的には無用ではあってもツールとしては有用で、ふとした時に「全体」あるいは「無限」に繋がりたい時にその神様を観想すれば無限と繋がることができます。普段の生活において瞑想の深い状態から少し落ちて顕在意識が働いているときに、深い意識に持っていくための橋渡しとして神様の像であるイシュタ・デーヴァターの観想というテクニックが使えるのかなと思います。<br /> <br /> ぶっちゃけ、想像上の人物で実際にはいない方が現実の人間の泥臭い部分を抜きに信頼することができますので、実際に生きた人間臭いイエスキリストよりも想像上のイシュタ・デーヴァターとしてのキリスト像の方がこの用途としては向いていると言えると思います。他のイメージも同様で、現実よりもむしろ理想的な神様の像を使った方が純粋に明け渡しを行うことができるように思います。<br /> <br /> 個人的には、最初に現れてくるのが白人バージョンの理想的なキリスト像で、しばらくすると手塚治虫の漫画に出てきそうな愛着のある不動明王像に変わります。そうするうちにやがてはチベット系の神様のタンカっぽい姿に変わったかと思いきや、その後、(私の記憶の中にある)地球の静止軌道上にいる、大天使の姿に最後には変わります。<br /> <br /> 禅では「仏に出逢ったら仏を切れ」みたいなことが言われていますけど、これはおそらくは瞑想中の境地を言い表していて、今回の場合、このようなイメージが出てきたら基本的にはそれは一時的な助けに過ぎないわけです。ですから、「切れ」というのは言い過ぎな気もしますけど、イメージに頼りすぎることがないように、ということだと思います。私の場合、この言葉を思い出して試しに切ってみたら、切れるものは切れましたが、次のイメージが出てきました。その順番としては上の通りで、白人バージョンのキリストを切ると白骨だけが残ってそのままなくなるかと思えばすぐに不動明王像が出てきて、不動明王を切るとチベットの神様が出てきて、チベットの神様も切ったら大天使に変わりました。ですけど、大天使は切れないのです。切ろうと思ってもその存在が現実としてありありと存在していて、切れません。思い立って切ろうと刃を伸ばしてみますけど、それでも、大天使のすぐ頭のあたりで止まるか、あるいは、いよいよ切ってはみても、切れたかと思いきや切れ目が入ったかのように見えても切れなくてずっとそこにいます。切ろうと思っても、ハートがそれは良くない、と主張していて切る気になれませんけど、一応は禅の教えなのでそれでも切らなくてはならないかと思って一応は試してはみましたけど、どうやら最後の大天使は切る必要がなくて、むしろ、切ってはいけない大切な存在なのかなと解釈しています。切ろうと思っても刃の方がふにゃふにゃになって大天使の周囲でぼやけた霧のようになってしまいます。<br /> <br /> このことから、おそらくは、私の御本尊がこの大天使かな、という気がしています。まあ、そういう理解でずっといたわけですけど、切ろうと思ってもやはり切れないので、これが本体なのかな、と思います。<br /> <br /> そうなると、イメージしやすい姿としての神の姿であるイシュタ・デーヴァターとして白人キリストとか色々いて、その背後にいる御本尊がとある大天使、ということなのかなと思います。<br /> <br /> イメージとしての神様と、実在としての御本尊は別物なのかなと思います。<br /> <br /> 御本尊はあまりにも尊くて素晴らしいので普段は隠しておいて触れないようにして、日常生活にはイメージが周囲から影響しても差し支えないイシュタ・デーヴァターとしての神の像を使うというのは理にかなっているように思います。<br /> <br /> この時注意が必要で、油断していると自分のオーラを他の存在と混ぜてしまうことがありますので、あくまでも自分のオーラは自分の近くで留めておいて発散しないような状態にしたままで「全体」に対して明け渡しを行うわけです。<br /> <br /> この辺りはスピリチュアルでとても誤解があるところで、自分のオーラを広げることがワンネスだとか愛だとかそういう誤解がありますけど、オーラのお話と、全体に対して明け渡すというお話とはかなり違うのです。オーラは全体にまで広がることはあり得ません。オーラを広げようと思えばそれなりには広がりますけど離れれれば離れるほど薄くなってゆくのがオーラの性質です。それは無限たる「全体」にはなり得ないのです。一方、「全体」に対して明け渡しをするときはもう一段階深いところで起こりますので、オーラとはあまり関係がないのですよね。もちろんオーラそれ自体も全体の一部ではありますけど、全体の一部だからこそ、わざわざオーラを広げる必要もなく最初から全体の一部なわけです。そのように、元々全体の一部だった自分が全体であることを受け入れるのが「明け渡し」なわけで、その時、オーラを広げているかどうかはほとんど関係がないのですよね。<br /> <br /> Sat, 15 May 2021 00:00:00 +0900 全体に明け渡すことがスピリチュアル https://w-jp.net/2021/2359/ <br /> 全体には自分も含まれていて自分が全体に溶け込むこと、言い換えれば明け渡すことがスピリチュアルであって、誰か自分とは分離された外側の存在である別の人あるいは団体あるいは物あるいは考え方に対して明け渡すことがスピリチュアルではないのです。<br /> <br /> よくスピリチュアルや宗教では自分を明け渡すことが怖いというお話が出て来ますけど、誰か別の存在に全てを委ねるのであればそれは危険なことで、実際のところ、それは本当のスピリチュアルではなく、本当の意味における純粋な宗教でもありません。それはただの依存であって、自分が考えなくなって自分というものが相手の言いなりになって道具のようになってしまうようなスピリチュアルは本来のスピリチュアルではありません。そのような誤解が大いにあるように思います。<br /> <br /> 実際のところ、言葉ではそのようなことをどこも割と言っていると思いますが、本当に全体に対して明け渡すことができているかどうかが問題なわけです。口でそうは言っていても誰かの利益のためにそう言っているだけのこともありますので、実際のところ、他人に対して明け渡す、というようなことはその人がどんなに立派であってもすべきではありません。しかしながら、誰かに対してではなく、全体に対して明け渡すのであればそれは依存にもなりませんしその全体には自分も含まれているわけですから、特に損得のないお話になります。<br /> <br /> そうは言いましてもこの世の中は色々とずるい人がいますから、処世術としては明け渡しなどは他所ではしない方がいいとは思います。<br /> <br /> ここでは、心の持ちようとして全体に明け渡すというスピリチュアルな態度および祈りをすれば十分で、自分の心が全体に溶けてゆくような心持ちを持ちながら生活すればそこには違いが出てくると思います。<br /> <br /> 対象のない「全体」あるいは「無限」と言っても良いですが、そのような全体あるいは無限に対して自らを明け渡すのが祈りなわけです。ですから、変な団体が訴えているように「誰か」という対象のある明け渡しではないのですよね。<br /> <br /> もちろんそれは「全体」ですからその「誰か」すらも「全体」の一部であって、とても純粋な意味からすればその「誰か」とか「なにか」すらも全体の一部としての明け渡しということですので間違いということではありませんけど、この世界にはずるい人が沢山いて、そのような言葉巧みに「明け渡し」を要求してきて何かを奪ってゆくような人がゴロゴロしているわけです。<br /> <br /> ですから、この種の「明け渡し」には注意が必要で、明示的に自らの意思で明け渡すのであればそれは自己責任ということになりますけど、誰かに明け渡しを要求されて明け渡しを行う、なんてのは本筋ではないのですよね。例えば懺悔とか誰かへの信頼というのは自らの気持ちの内側から生じてくるもので、言葉巧みに明け渡しを要求してきたり、直接的には言わないまでもマインドコントロールしてくるような変な団体はそこらじゅうにあるのです。<br /> <br /> まあ、とりあえず、自分一人で瞑想をして瞑想中に周囲の存在に感謝して全体あるいは無限なる存在に対して明け渡しをしている分には危険はないと思います。<br /> <br /> その時、向きが重要で、自分から相手に対して、という方向ではなく、全体あるいは無限が自分に対して向かってきて自分と接触して自分が全体あるいは無限の一部になるのであればそれは本来のワンネスにおける明け渡しなのだと思います。<br /> <br /> 自分から相手、という方向の場合は自分の中心軸が揺らぐことにもなりかねませんし、誰かに言われてそうするのであれば依存関係を生み出す危険性もあります。一方、無限あるいは全体が自らに向かってくるのであれば自分としての中心軸はあり続けますし自分も全体の一部なのですからそのような依存にはなり得ません。このことを簡単に「明け渡し」とか言ったりすることもできますけど、そこには誤解の入る余地があるのかなと思います。<br /> <br /> Sat, 15 May 2021 00:00:00 +0900 求めたら広大な天空の空が私の方へ降りてきた https://w-jp.net/2021/2358/ <br /> 朝の目覚めの前のうとうととした自動思考をぼんやりと横になりながら観察していました。脈略のない幾つかの考えが浮かんできていて、最近読んでいる本のこととか、オーラの広がりについてのお話が頭に浮かんできていました。<br /> <br /> こうこうしていると、ふと、不意に頭の中に、目的や対象というものは特になかったように思いますが、急に目の前の「なにか」に対して「求めます」という言葉が浮かんできました。<br /> <br /> すると、その言葉が頭の中の自動思考に出た瞬間、それは特に顕在意識が明確に意識して発した言葉ではなかったのですが、まるで呪文のように効果を発揮し、青空のようなイメージが急に現れてきて、それは雲ひとつなく遠くまで広がっていて、そして、その青空全てが下降してきて私の方に近づいて来ました。<br /> <br /> 先人はもしかしたらこのことを空(くう)と表現したのだとしたら、何ともうまい表現をしたものだなあ、と思います。<br /> <br /> これは一見すると想像やイメージのことかと思われるかもしれませんが、最初こそ印象としてぼんやりとした青空、とは言ってもいうほど青くはなくてたぶん青だと思う、というくらいのぼんやりとした空でしかないのですが、イメージというよりも印象で、青空かのように思えたその空は、最初は一瞬、遠くのようにも見えましたが実はそれほど遠くなくて、近づくときは一瞬で私の方に近づいて来ました。それは、最初に少し静止していた時は遠くのようにも見えましたが、実は遠くなくて近くに元々あって、近くにあるのですが私とその天空の青空との間には何か空間が存在していて空間的には少し分離のある状態でした。その最初の状態の後、私が「求める」と言うことをしたら、天空の青空の全体が下降してきたのです。遠くから近づいて来たと言うよりは元々近くにあったものが少し動いただけのような感じが致します。<br /> <br /> 自分から移動したり近づいたり、ということはしていません。空の方が私の方に近づいて来ました。<br /> <br /> そうして降りて来た青空ですが、これを一体、なんと表現したら良いでしょうか。<br /> <br /> いいようによっては、これが「空(くう)」だと言うこともできますし、あるいは、「無限」と言ってもいいと思います。存在はしていますので「無」ではないですね。であれば空か無限ということになるかと思います。<br /> <br /> あるいは、これは考えようによっては「全体」あるいはヨーガあるいはヴェーダンタで言うブラフマンのことと言うこともできるかもしれません。<br /> <br /> アートマンが個人としての無限なる存在なのに対し、実はアートマンはブラフマンという全体の一部であるというヴェーダンタの理解は、この無限なる空との一体化のことを説明しているとも言えるかもしれません。<br /> <br /> 空と一体になるとは言っても完全に溶け切ったわけではなく、全体としての空あるいは無限あるいはブラフマンと呼ばれているものが降りてきて私と繋がりました。私の周囲に広がって行ったと言うよりは元々全体としての無限なるブラフマンの方が私に近づいてきて繋がり、全体との繋がり感じられました。私の個としてのアートマンの心は特に心臓のハートのアナハタのあたりにあるようで、アナハタの深くで熱感を持ってその繋がりを感じられています。そして、アナハタだけでなくアジナのあたりでもその熱感はあり、他の体全体でもブラフマンあるいは空あるいは無限と呼ばれるものを感じています。<br /> <br /> これは、いわゆるオーラを広げる、という種類のものとは異なるように思います。オーラを融合させるのは割と肉体に近いエーテルのお話ですけど、このブラフマンはもっと微細なところでの融合で、肉体及びオーラはそれほど変化がなくて体の周囲に留まっているだけで、とは言いましてもこのことでオーラが活性化して少しは広がってはいますが肉体に紐づいているエーテルとしてのオーラが無限になるということはなくて、オーラとしてではなく、階層を異にするブラフマンの永遠あるいは無限が私に近づいて来た、という感じが致します。<br /> <br /> 無限とは言っても最初は私の前方上方にあるように感じていましたので空間的な隔たりがあるという意味では空間全てという意味における無限ではなく、上空に広がっているという意味においては空の方が適切ですけど、一旦空あるいはブラフマンと呼んでも良さそうなものが降りて来て自分と一体化してしまった後は空は空間的に限られたものではなくて私の周囲全てに広がっているものだと実感できて、同時に、そうであれば無限であることもわかって実感できるわけです。<br /> <br /> 最初は限られた認識における天空に広がる空が、降りて来て私のアートマンと一体化した後はそれは限りのない空あるいは無限あるいはブラフマンだということが実感できるわけです。<br /> <br /> これらは、ヨーガやヴェーダンタの聖典で語られていることと一致していて、それらは割と神秘的な表現で語られていて、ヨーガやヴェーダンタの先生のお話を聞くとそれは説明のものであって実際はそういうことはない、みたいに言う人もいますけど実際に体験してみるとそれら聖典の表現は比喩と言えば比喩ですが経験できないものではなくて実際に経験そのものを過去の修行者が書き留めた事実であることがわかります。<br /> <br /> 同様に、それら聖典での説明は知識で理解するもので体験するものではないとか説明されることもありますけど実際にこれらを体験してみると、実際にそのようなブラフマンの知識というのは単に勉強をしっかりして頭の理解で噛み砕くものというのは確かにそうだとしてもそこで終わるものではなく実際に瞑想をするなりして体験及び実感して自らの生活の一部にできるものなのかなと思います。<br /> <br /> 思えば、同じような体験として以前に創造・破壊・維持の意識が胸のアナハタの中に浮かんできたことがありますが、思えば、これは個としてのアートマンとしての体験あるいは存在としての目覚めだったように思います。<br /> <br /> 元々存在していたのかといいますときっと認識していなかっただけで多少は存在していたのかなとも思いますが、アートマンが出てくる以前は、例えクンダリーニを経験してオーラがアナハタ優勢になったとしても同様の胸のアートマンとしての意識はほとんど現れていなかったように思います。<br /> <br /> これは、神智学における成長の階梯に当てはめてみると、まず最初にクンダリーニが上がって下方及び上方のチャクラをまずは調整し、その後、一旦降りて来てアナハタを目覚めさせる、という階梯に相当するように思います。<br /> <br /> アナハタの目覚め自体は個としてのアートマンとしての目覚めで、それは神智学的に言えば低我の目覚めということもできて、一方、今回のブラフマンとの一体化は完全に一体化したという漢字でもなくて接触した、というくらいのような気もしますので、神智学の階梯に当てはめてみると「変容、高我と低我の一時的結合」ということになるのかなと思います。<br /> <br /> 神智学の表によるとこの段階がアジナチャクラの活性化ということですけど、確かにアジナも多少は活性化されたとは思いますがアジナに何か凄い変化があったというわけでもありませんので、まあ、アジナに関しては様子見でしょうかね。それよりもアナハタが以前よりも働いてきて、周囲との空間とより一体化したような感じがいたします。<br /> <br /> それはオーラとしての広がりとしてではなくて、オーラは広げずに体の近くに留めておきながら、それでも周囲との空間が一体化している感覚があります。<br /> <br /> 感覚としてはそういうことですが、そのことを、きっとヨーガやヴェーダンタではアートマンとブラフマンが一体化する、そして再度離れる、一時的な融合、みたいに表現しているのかなと思います。<br /> <br /> 神智学の階梯に基づけば、もっと進めば一時的ではなくもっと継続的に高我(ブラフマン)と一体化できるようです。<br /> <br /> これは、言葉を借りて詩的に表現するならばキリストの言った「求めよ。さらば与えられん」という言葉がぴったりです。元々の文脈はどのような場面なのかは知りませんけど、言葉としてはまさにこれ、という感じが致します。<br /> <br /> あるいは、キリスト教徒であればこのような体験は「主を求める」「主であるキリストに祈る」という言い方をするのかもしれません。キリストの光が天から舞い降りてきて主であるキリストの恵みに浸る、という表現は比喩的でもありますけど感覚的には似ています。<br /> <br /> あるいは、クリヤ・ヨーガの一派で昔習った瞑想中に行う観想方法もどこか似ています。<br /> <br /> ヨーガやヴェーダンタでは元々自分自身はアートマンでありブラフマンだがそれを知らないだけ、あるいは、無知によって覆い隠されていて見えなくなっている、みたいなことを言いますけど、私の体験では私としてのアートマンがブラフマンに近づくというよりはブラフマンとしての空の方が私の方に近づいて来ましたので、私としてのアートマンがどこかに行くとブラフマンが見つかるとかどこかにブラフマンが隠れているというよりはブラフマンというのは全体ですから私としてのアートマンの周囲に常に存在しているものなわけですよね。そのブラフマンとアートマンとの間に空間的と言っても認識的とも言っても良い隔たりがあったわけですが、その隔たりのことをヴェーダンタ的に無知と呼ぶこともできるのかもしれませんけど、無知というよりは、私の感覚的には、単に隔たりがあった、というだけのような気がいたします。そして、アートマンの意識の「求め」によってブラフマンと一時的にではあっても融合できて、余韻はまだ残っていますので完全に分離したという感じでもなく、繋がりがどの程度あるか、という違いなのかなという気も致します。<br /> <br /> ヨーガやヴェーダンタあるいは十牛図がいうように一時的な融合というよりは、少しづつ深まる、という言い方の方がしっくりきます。<br /> <br /> これは言い方を変えれば、確かヨーガスートラに記されていた「放棄をすれば知識がやってくる」ということもできると思います。そのような言葉が度々、不意に降りて来ていました。すぐに探してみましたがざっと見たところすぐには見つけられませんでしたけど、意味合いとしては、放棄というのはブラフマンに対する自己のアートマンの受け渡しのことで、知識というのは全体であるブラフマンと繋がることなのかな、とも思います。<br /> <br /> かと言って何かすぐにわかることが増えたとかそういうことはなくて、まだ何か空間と時間に壁のようなものがあって、その薄い壁を超えることができれば時空を超えて色々と見聞きできるようになるのかな? という予感のようなものはしますけど、現時点ではさほど変わりがなくて、とは言いましてもブラフマンをより深く、徐々にではありますけど少しづつ体感を深めることで、いいようによってはブラフマンに対する「知識(ニャーナ。暗記や記憶ではなく)」を深めることができているのかなと思います。<br /> <br /> Fri, 14 May 2021 00:00:00 +0900 永遠を知ってるかどうかで理解が異なってくる https://w-jp.net/2021/2357/ <br /> ヨーガやヴェーダンタの言い方とはちょっと違いますけど、比喩的に言えば、永遠を知ってるかどうかで理解が異なってくるわけですね。<br /> <br /> 永遠を知らない理解であればそれは一時的な理解にすぎず、永遠を知った上で一時的な理解と永遠の理解がわかるとそこに違いが出てくるわけです。<br /> <br /> 顕教とかヴェーダンタ等を勉強してくると永遠のお話がたくさん出て来ますけど、永遠を勉強したからと言ってここで言っている比喩的に永遠を知るというお話にはそのまま繋がらなくて、言い換えれば、永遠を体験した上でその体験とは知識ともいいようによっては言うことのできる認識面における経験であって、そのような体験を伴う知識の体験で永遠を知った上での理解であれば違いが出てくる、と言うことです。<br /> <br /> 体験による永遠の認知なくしていくら永遠を語ったとしてもそれは表層のお話にすぎなくていくら深淵なる経典を語っていたとしても本質の面において永遠を語っていることにはならないのですよね。<br /> <br /> これはある程度の見る側の準備が必要なところではあって、見る側に準備がなければ見ることができない、という一面もあります。<br /> <br /> 一方で、語る側にしても、自分では永遠を知っているつもりであっても単に勉強しただけ、という場合もあって、このあたりは微妙ですので、見分けるのが難しい場合もあります。きちんと勉強をすれば永遠を正しく語ることができるにはできますから、そうしてきちんと勉強した場合と本当に自分の奥底から出てくる理解で話しているのかで違いが出ることもあるのですが、きちんと勉強している方が正当なきちんとした論理になりますのでただ勉強しただけの方が立派に見える、と言うこともあります。その場合、それほど勉強せずに永遠だけ知った人の場合は粗雑に見えることもありますけど、実際は、永遠への理解で言ったら逆の場合もあるということですね。<br /> <br /> どちらにしても、他者の本質を見抜くことは難しいですが、自分からしてみれば相手が悟っているかどうかは実際のところ学ぶという観点から言えばそれほど関係がなくて、悟っている人の方がいいといえばいいですけど学問に通じているわけではなく、あまり気にせずに近くにいる人から学べばいいのかな、と私などは思うのですが。どちらにせよある程度からの答えは自分自身でしか探求できないのですから途中までの道程はそんなに大差ないと思うのです。<br /> <br /> Wed, 12 May 2021 00:00:00 +0900 瞑想における体験・経験と知識の解釈は流派によって異なる https://w-jp.net/2021/2356/ <br /> 瞑想におけるシャマタ(止)からサマーディへの過程は基本的に勉強だけでなく実際に瞑想をして体験してゆくものになりますが、体験とか経験とかいう言葉は流派によって異なっていて、勉強系の学派(顕教やヴェーダンタ等)では経験という言葉は否定されていることがあって代わりに勉強するという言葉を使うイデオロギーがあるようですけど、実際のやっていることを見るとサンスクリットや仏典のチャンティングだったりしますので実態はそう変わらないように思います。<br /> <br /> ヴェーダンタ等、学派によっては経験という言葉が否定されていて勉強するという言葉が使われていますが、その理由としては経験というのは一時的なものなので最終目標である悟りあるいはモクシャ(自由)あるいは目指すべきアートマン(真我)は一時的なものではないので経験という一時的なものに頼るのではなく「理解」によってのみそれらに到達できる、という基本的な考えがあったりしますけど、私が思うにはそれは言い方と理屈だけのお話で、そうは言っても理解ですら一時的な理解でしかない事もあって、最終的に悟りに達したらもう後戻りはせずに悟りの状態に留まり続けるというだけのお話であれば、いくら「理解」という言葉を使ったとしても普通の頭の理論での理解と最終的な悟りの理解は違うわけですから理解ですら一時的ということもできますので、ことさら「理解」という言葉にイデオロギーを持って扱う必要はないと私なんかは思うのですが、それが流派のやり方なのでしょうからそれは好きにすればいいと思います。<br /> <br /> 流派によっては「理解」と「理解が起こる」という言い方の区別がされていてとてもわかりにくいですけど、この場合、ただ「理解」というと一時的な理解である場合と永続的な理解という意味の場合があってコンテキストによって異なっていて、一方、「理解が起こる」というと永続的な理解を意味していたりするようです。<br /> <br /> 個人的には、同じ単語を使い回すよりも一時的なものと永続的なものとで単語を分けてくれた方が理解がしやすいと思うのですが、それは流派のやり方のようですので私にはどうすることもできません。<br /> <br /> 流派によって色々と独特の言い回しがありますけど、一時的なものと永続的なものとに分かれているという点に関しては割と共通だと思います。流派の独特の言い方に惑わされないことですね。実態はどれも、一時的な体験あるいは一時的な理解から始まって永続的な体験あるいは永続的な理解へと遷移してゆくということだと思います。<br /> <br /> コンテキストの読み解きが複雑な場合もありますけど、結果としてこれら2つのうちどちらを意味しているのだろう、と思って読み解けば意外に単純な場合も多々あります。<br /> <br /> ヨーガ系の流派であれば瞑想をする、ということになりますし、勉強系の流派であれば勉強をする、とか、儀式やチャンティングの義務あるいは聖典の勉強をする、とか、色々と言い方はありますけど、実態としては概ね上のような分類と順番になるように思います。<br /> <br /> Wed, 12 May 2021 00:00:00 +0900 シャマタ(止)の瞑想からひと続きの心のサマーディへと移行する https://w-jp.net/2021/2355/ <br /> シャマタは西洋の言い方で言うとトランスと言うこともできて普通の思考する心を静止させることで奥深い心の本性(流派によってはリクパと呼ぶ)を表に出す効果があります。<br /> <br /> 概ね、以下の順番で瞑想が深まってゆくように思います。<br /> <br /> 1.顕教あるいはヴェーダンタ等の勉強系の学派による「理解」による悟り。これは顕在意識の普通の思考する心から悟りを理解しようという試みです。これはリクパとは基本的には無縁で、リクパが働いていない場合が多いですが働いている場合もあるにはあります。<br /> 2.心のシャマタ(静止)あるいはトランスの状態。ヨーガ・スートラの目的の1つ。普通の心を静止させることで心の本性であるリクパを一時的に働かせる技法。これを瞑想と呼ぶときもあればサマーディ(三昧)と呼ぶこともありますが、この段階ではまだ一時的な体験にすぎないです。<br /> 3.普通の思考する心と心の本性であるリクパの両方が働いていて心がひと続きに繋がった状態。この状態に遷移すると体験は一時的なものでなく継続的なものになります。どのくらい継続的かというと瞑想の深まりには依存してきますが普段の生活にまで瞑想のサマーディ状態を継続することができます。<br /> <br /> 一般的には瞑想は集中とか観察とか言われていて、その両者も瞑想の一番最初の段階から存在しているものですが、そのどちらの要素も瞑想が深まるにつれて違った様相を表してゆくということです。<br /> <br /> 最初に勉強をする場合もあればしない場合もありますけど、瞑想の実践においては(心の)シャマタ(静止)から初めてサマーディ(三昧)あるいはヴィパッサナー(観察)へと移行します。<br /> <br /> そして、サマーディあるいはヴィパッサナーの状態というのは心の方は普通の心とリクパが割とひと続きになっていて、分断があまりない状態になっているわけです。それらは心の作用として別物になっており、思考としての作用と観察としての作用がそれぞれ存在しているわけですけれども、シャマタの段階においては普通の思考する心の作用を静止させなければリクパの奥深い心の観察する動きがなかなか出てこれなかったのが、サマーディの段階になれば普通の思考する心とリクパが共存することができるようになります。共存するということもできますけど、それはどちらも心の中の動きでありますので、実際には、共存というよりは心の中で普通の心とリクパとがひと続きになって存在していることがわかるようになるわけです。<br /> <br /> それらは分断されたものではなく心の中の作用として存在している、あるいは、レイヤー(階層)が違っていて、細かく現実を見るのは普通の思考する心ですが、リクパはもっと広範囲に五感を司って観察及び指示をもしている心の階層なわけです。リクパというと観察ばかりがフォーカスされますがリクパとしての割と大雑把な方向性としての意志は持っており、それを直感とか感覚とか言うこともできますけど、リクパとしての心の作用としては波動を感じて波動に働きかけるものになります。その波動の働きかけに応じて思考の方向性及び行動の方向性が決められるわけです。<br /> <br /> 普通の心とリクパが分離しているあるいはリクパが働いていない状態ではそのような直感とか感覚が鈍っていて思考だけで働くことになります。<br /> <br /> シャマタの段階では普通の思考する心が停止してリクパの直感と感覚だけが優勢に働く状態になりますので論理的思考が弱くなります。<br /> <br /> 一方、ひと続きの心を持って普通の心と奥深い意識(リクパ)が繋がって動作している時は普通の考える心(思考)と直感としての感覚とがどちらも働いている状態になるわけです。<br /> <br /> 瞑想の順序としては最初にシャマタから初めてリクパの働きをあらわにし、その後、ひと続きの心として普段の生活にまでサマーディを広げる、という順番になります。<br /> <br /> Wed, 12 May 2021 00:00:00 +0900 顕教の背後には密教があり密教の結果として顕教がある https://w-jp.net/2021/2353/ <br /> 最初は顕教のわかりやすい教えから始まります。それは道徳だったり仁義だったり礼儀だったり作法だったり風習だったりします。<br /> <br /> わかりやすい例として、食事の時はあまり喋らずに静かに食べましょう、というお話があります。<br /> <br /> このお話をマナーあるいは道徳や風習と捉えるならばそれは顕教です。<br /> 一方、修行の結果として捉えるのであればそれは結果としては密教です。<br /> <br /> 密教としての修行は別にありますが、密教の結果としてマナーや風習のような姿に行き着くわけです。<br /> <br /> これは単なる風習あるいは習慣として片付けられているようなお話かもしれませんけど、このような普段の当たり前のお話の中にも顕教と密教が隠されているわけです。<br /> <br /> ですから、顕教が単に顕教としてマナーや風習あるいは道徳のお話で終わっているならばそれは薄っぺらい教えで、一方、背後に密教の教えがあって結果として顕教を教えているのであればそれは深い教えになります。<br /> <br /> よく、仏教とは道徳的なものだとか風習を作ってきただとか礼儀的なものだとか言われたりしますけど、形としてはそのようにマナーや風習として残ってきた、ということだと思います。<br /> <br /> 一応は仏教徒は仏教大学とかで勉強はしているとは思いますけど、一見すると、それら顕教の教えは当たり前すぎてその背後にある姿がよく分からない場合が多いように思います。<br /> <br /> これは、仏教徒からしても同じことで、あたかも単なる道徳や風習と思っていてもその背後に密教の教えがあるわけで、それがわかっている仏教徒と単に道徳や風習としか理解していない仏教徒とが実際にはいるということです。<br /> <br /> 本来、顕教と密教とには分かれておらず顕教と密教が一対になって初めて仏教ということだったかと思います。少なくとも私はそのように理解していて、その原型は原始仏教ということになるかと思いますが、密教的な要素は今は真言宗に受け継がれていますが、それよりも、インドに残っているヴェーダやチベット系仏教にこそそれらの雛形があるように思います。<br /> <br /> 雛形はそのようにしてあり、今は、特に日本では密教の部分と顕教の部分が分離して存在していて、流派によって顕教だけあるいは顕教を主に教えていて、一方、密教だけあるいは主に密教を教えている流派があったりしますけど、本来は、表裏一体なものなのですよね。これには異論があるかもしれませんけど少なくとも私はそう思っています。<br /> <br /> 密教的な教えは、簡単に言えばサマーディ(三昧)のお話になります。<br /> <br /> そして、サマーディに達するとそれは最初は単なる修行中の一時のお話に過ぎませんが修行が進んでゆきますと日常生活にまでサマーディが広がり、普段の生活にまでサマーディが広がってゆきます。その時、修行と日常生活が出会うのですよね。<br /> <br /> サマーディが日常生活に出て、例えば、上記の例で言いますと食事ですけど、食事の時に食事をありのままに見て食材をそのまま直接的に「むきだしの心(いわゆるリクパ)」で味わうことこそがそのままサマーディでもあるし瞑想でもあるし流派によってはそれをも修行だと言っています。<br /> <br /> サマーディ以前の場合、普段の普通の心は彷徨っていてあちらこちらを漂って想像を繰り返したりしていて目の前のありのままを見つめることが難しい状態になっており、ありのままに一瞬見ることができても次の瞬間には心が彷徨ってしまって食事そのものをずっとありのままに継続して感じて受け入れて体験し続けることが難しい状態になっているわけです。<br /> <br /> 一方、サマーディが一時的あるいは日常生活で継続的なものになれば普段の生活にも広がって、食事の時は心が彷徨い歩かずに食事だけを楽しむことができるようになります。楽しむと言っても歓喜ではなく、ありのままに食事を「むき出しの心(リクパ)」が直接的に、途中に想像を挟むことなく、機械的に自動的に動かすことなしにリクパがそのまま食事と目の前に対峙して間に何も挟むことなく体験、行動することができるわけです。<br /> <br /> これは単なる理解でもなく実際の行動であり体験であり、実際の起こり得るものです。単にきちんと理解したからそうなるというものでもありません。ただ、理解ということで言えば、これらの体験・経験は感覚的なものですので、違ってくるのは理解と認識のみでありますので、一部の流派が主張しているようにそれら全てのことをトータルに見れば「理解」とか「知識」とか言えなくもありません。頭の中で起こることではありますので、一応はそのことを「理解」と呼べなくもないですし、確かにそういう面はありますけど、より一般的には、知識とか理解とかいうよりも、体験が継続的に現れる、と表現する方がわかりやすいかと思います。<br /> <br /> そのように、サマーディは単なる机上の空論あるいは聖者だけが行えるものではなくて誰しもが可能で、実は普通の人が何気なく行っている行動そのものがサマーディだったりするわけです。<br /> <br /> サマーディとは何か遠くの世界にぽつんと存在しているのではなくて、日常生活と結びついているのです。<br /> <br /> それは理解を超えたものと言うこともできますけど違ってくるのは認識のみですのでそのことを理解とか知識とか呼ぶこともできるということです。ロジカルな普通の考える心(ヨーガやヴェーダでいうチッタあるいはブッディ)を超えるものではありますけどアートマン(真我)としての意識(チット)が現れるのがサマーディであるわけです。日本語で心というと幅広いですけど、簡単に考えるなら普通の心と高次の心という2つの心がある、と考えるのが分かりやすいです。高次の心が現れてきた時に自らの行動が異なってくるのですが、それが今の日本における道徳や習慣、風習といったものに現れているのです。であれば、昔の日本の人々はそれなりの覚醒を持って目覚めて行動して生きていたのだということになります。<br /> <br /> そして、顕教が教えているのは道徳的なものである一方で、同時に、密教の特にサマーディの結果としての日常生活のあり方を表現してるわけです。<br /> <br /> 顕教の教えとしてわかりやすい日常生活の道徳とか躾を教えるのは有用ではありますけど、あたかもそれだけでサマーディが達成できるかのような教えを顕教の方は時にしたりしますけど、あくまでも顕教の教えは修行した結果としての当たりの前の日常の姿であって、修行は別にあるということです。<br /> <br /> 密教というと呪術のイメージがありますけど実際には本質は呪術ではなくもっとシンプルなところにあるわけです。<br /> <br /> 顕教を行っている方がそれをどこまで理解して行っているかどうかはわかりませんけど、顕教の教えに従って道徳的な教えや躾及び義務に従った生き方をするのは基礎にはなりますけど修行としては不十分だと私なんかは思うのです。ただ、この辺りは流派ごとの教えがありますので基本は好きにすればいいと思うのですけど、お坊さんであればそれなりに勉強をする人もいるでしょうからそれでもいいのかもしれませんけど、本来、仏教というのは自分たちが修行するという面もあるにはありますけど真理を求める人々を導くという役目もあるわけで、そのような人たちがただ顕教の教えを行うだけで人々が救われると思っていたら大間違いなのだと私などは思うのです。<br /> <br /> 顕教の人は道徳や道理及び躾を説きますけど、そうして礼儀正しく振る舞っていると実際のところ本当に悟っている人となかなか見分けがつかないことがあります。きちんと勉強していればあたかも悟っている人と同様の論説を解くことができて、論説だけを見ると本当に悟っているのかあるいはきちんと勉強しただけなのかが見分けがつかないことが時々あります。悟っていても表現する言葉がないだけの場合もありますし、逆に、悟っていないのに言葉は達者な場合もあります。<br /> <br /> とは言いましても、一般的には顕教は道徳的なところで止まっているように思います。それはそれで大切ではありますけど、私からしたら、道徳だけで満足はできないのです。<br /> <br /> 顕教の人に話を聞いて、回答として「本質は当たり前の日常にある」と返答があったとしましょう。顕教のお坊さんはとても簡単な日常生活のお話をして人々を啓蒙するようなお話をすることが割とよくあるように思います。普通の人はそれを聞いて満足して帰るのでしょうけど、個人的に思うのは、それが、現状に眠り込むためあるいはただの受け売りであれば生臭坊主あるいは真面目だけれどもよくはわかっていない人で、本当に悟っている人が同じ言葉を言ったらもっと鋭く「響く」わけです。同じ言葉でも言葉の響きが違うわけです。現状維持を肯定するだけの同じ言葉を聞いても何も面白くはなく真実ではなく、真実はもっと奥に刺さるものなわけです。<br /> <br /> 刺さると言ってもとんちんかんな指摘をして困らせる場合もあります。それは割と仏教の人がよくやることで、本人は指摘しているつもりなのでしょうけど、言われた方は困るだけで全然響かないことが多いのです。例えば、よくある指摘で「それは想像しているだけで本当にそうなったわけではない」みたいな事をヨーガとか仏教の人は好んで言いますけど、ほんとありきたりの指摘で、面白くも何ともありません。確かにそういうお話はありますけど、言葉が全然響かないのですよね。生臭坊主あるいはよく分かっていない人がこういう事をいうと単なるマウンティングになってしまいます。指摘することで自分の優位を確保しようとしているわけで、意識的か無意識で行っているのかまではわかりませんけど、それは愚かな事です。誇大妄想狂というと言い過ぎですけど自分を過大評価している人ほどこうして相手を指摘して面白がります。顕教の教えにはそういう危険性があります。わかっていないのにわかったつもりになってしまうのです。側から見たら何か凄い人のように見えることもあるでしょうけど、言われた側からすると単なるマウンティングでしかなくて困るだけのことも多いのです。<br /> <br /> 顕教のお坊さんあるいはインドで勉強してきた人に色々と質問すると「それは貴方に準備が出来ていないからだ」みたいなことを言われることがあります。まあ、それはそうなのかもしれませんけど、言葉が響かないのですよね。生臭坊主あるいはよく分かっていなくてただ勉強しただけの人にそれを言われても・・・。と思ってしまいます。まあ、本当に悟っている人という可能性はなくはないですけど、大抵は、きちんと真面目に勉強してそれで悟りだと思っている人が多いです。顕教あるいはインドのヴェーダンタ学派ではきちんと勉強して身につければその理解が悟りだったりモクシャ(自由)になるというお話をする人がぼちぼちいますけど、本当の悟りと単に道徳あるいは勉強して身につけただけの人の差はなかなか微妙で見分けにくい時もあるのですよね。<br /> <br /> 見分け方としては、悟っている人の指摘は「静か」で「淡々」としています。そこに静寂さがあります。一方、ただ学んだだけの生臭坊主あるいは真面目で勉強したけれどもあまりよく分かっていない人の指摘はうっすらと(表情を隠しながらかもしれませんけど)面白がったり相手と勝負したりするような態度が表に出ます。真面目で相手を傷つけない人の場合もありますけど、相手を傷つけないからと言って悟っているわけではないのが難しいところです。実際に見てみれば一目瞭然で全然違うのですけど、言葉だけを見ていると割と似ているので、指摘することで自分が何者かになったかのように勘違いしてしまう人もいるのですよね。まあ、それはよくあることですので、微笑ましいと言えばそうなのですけど。顕教は密教の結果であるからこそ、あたかも道理をわきまえて生活していれば悟っているかのような錯覚に陥ってしまい、それ故に、道理と躾で他人を指摘するという茶番を繰り返してしまうことがあるわけです。本人にその気がなくても、流派としてのやり方があると勘違いして行ってしまうこともあります。<br /> <br /> 個人的に思うのは、異論はあるかもしれませんけど今の日本の顕教や密教はそうした型にはまっている面がそれなりにありますので、原型であるインドのヴェーダやチベットの教えに本質があるように思います。とは言いましてもそれらインドやチベットの流派の人が必ずしも分かっているというわけでもないのが難しいところですが、原型がより多く残っているように思います。<br /> <br /> 顕教をインドやチベットのサマーディの視点で見ると、サマーディの状態で日常生活を過ごすことと日常生活を道理を持って静かに過ごすことは似ているようでいて微妙に異なることがあるということがわかります。同じことを意味している場合もありますけど、同じことを意味しているのならばそれは日常生活がサマーディになっているということですので、基本的には別物と思った方がいいと思います。<br /> <br /> 瞑想の「集中」に関する解釈も同じようなことがあって、瞑想の基本は集中から始まってやがては日常生活がサマーディになるわけですが、サマーディに達していなくてもマナーや作法が洗練されているとサマーディのように見えることがあって、瞑想の修行で集中を訓練とかしてこなくてもあたかもサマーディを達成したかのように見えてしまって、瞑想の集中が不要であるかのような勘違いが生じてしまう可能性があるわけなのですよね。顕教やヴェーダンタの勉強系の流派において瞑想の「集中」が不要というお話(あるいはサマーディが集中だと定義している流派においては集中としてのサマーディは不要というお話)はちらほら散見するように思われますけど、それは顕教のマナーがあたかもサマーディ状態あるいはモクシャ(自由)を達成した状態かのように見えてしまう、という誤解が元になっていたりするわけです。<br /> <br /> これは、顕教あるいはインドのヴェーダの学派あるいは特権階級のブラフミン(バラモン)がその特権をグループ内で囲い込んで維持するために誰かに悟りあるいはモクシャ(自由)というステータスを与えるシステムとこれらの考え方が組み合わさることで凡人でも悟りあるいはモクシャ(自由)を得ることができる教え(システム)になっているという面もあると思います。ですから、システムとして社会の階級制度あるいは特権階級を維持するために詭弁として述べられているお話と、本当に悟りやモクシャ(自由)になる方法とを混在しないことが重要ですね。ブラフミンは長い間特権階級を享受して来て、今はだいぶその権勢は失われてはいますけど、それでも、長い間続いてきたシステムが残っているということだと思います。それらインドの悪習もあるにはあって、一方で、原型としての悟りやモクシャ(自由)のお話もありますので、日本人としてはインドの悪習とは無縁でありますから、本来の原型だけを学ぶことができるわけです。勉強しさえすれば悟りやモクシャ(自由)に至れるというのは私から見るとインドの悪習の詭弁のようにも見えて、流派の一門に生まれた出来の悪い人であっても流派の中で高いステータスを得て役職を得ることができるためにそのように言っているだけ、というように私には見えるのです。元々そのように割と詭弁として始まったものがその後、何世代も重ねるうちに忘れられて、教義としての形式が固まってしまったのではないかと推測するのですが、どうでしょうか。確かに、サマーディというのは認識だけが異なりますので考えようによっては「知識によって悟りあるいはモクシャ(自由)になる」、という言い方をすることもできなくはないですが、ちょっとこじつけな気がします。こじつけのように私には見えるのですが流派によっては大真面目でそのように言っていますのであまり言いたくはないのですが、ちょっと違う気がします。顕教やインドのヴェーダンタなどの勉強系の流派のお話を聞くときは、このような割と悪習の部分を取り除いて原型の部分だけ見るようにすると割と話がすっきりと見えてきます。ただ、本人が悟ってはいなくとも伝統において勉強して次の世代に教えを代々繋げてくれたという点に関しては功績が大きかったと言えますので、一概にそれが悪習だとも言い切れない面もあると思います。<br /> <br /> サマーディになって日常生活にまで常に観察が行き渡ってありのままを見て感じられるようになるとそこには見ようによっては「集中」なんてなくてリラックスしながら物事を微細に詳細に感じられる丁寧な日常生活になるわけで、そうなると、瞑想の基本である「集中」とは異なったような状態になるわけで、それがサマーディなわけですけれども、一見するとそれは瞑想とは違ったものであるかのように見えますけど実際のところ、瞑想を「集中」から始めて突き詰めた結果としての観察状態のサマーディの日常生活の状態になるわけです。<br /> <br /> サマーディと言っても瞑想中だけサマーディになる段階から日常生活そのものがサマーディになって瞑想と日常生活の区別がつかなくなるような段階まであるわけで、日常生活がサマーディになるともはや瞑想の「集中」とは無縁になる、と言うと語弊がありますが、機敏な微細な鋭い感覚が常に働いている状態になりますので、ずっと集中している、とも、あるいは、集中していない、とも表現することができて、どちらも正しい表現方法であるわけです。一点に集中してはいないですが常に満遍なく意識は集中状態にあるわけです。フォーカスする1点という種類の集中ではないですが意識が散漫になっておらず常に気付きの状態にあるという意味では集中なわけです。集中と言っても緊張はしておらずリラックスしていて、リラックスしているのと同時に意識はしっかりとしているのです。ですから、集中と言ってもその両者の意味があって、瞑想では概ね1点集中ですけどサマーディでは1点ではない意識の幅広い集中になるわけです。1点集中ではないと言ってもある程度の意識の方向性はあります。心というものは意識を向けた方向に向かうものですけど、ここでは心の奥にある意識が働き出した状態で、それは全てを把握しているというわけではないですけど意識が常にあって、それはある程度の方向性のある集中ではあっても一点集中ではないのです。ですから、サマーディのことを集中と呼ぶこともできますし集中と呼ばないこともできて、流派によっては集中ではなく観察だ、と表現したりしますけど、表現方法の違いだけであって、どれも同じ状態の筈なのです。流派によってはこのようなサマーディ的にリラックスしている1点集中ではない満遍な集中状態のことを瞑想と呼んだりもします。瞑想が一点集中なのは割とヨーガ系ですけど、サマーディ的なリラックスの瞑想を瞑想と呼ぶ流派もありますので、瞑想とかサマーディだからと言って一点集中だけかというとそうでもないのです。<br /> <br /> このようなサマーディですから、顕教において日常生活があたかもサマーディのように見えてしまうことがあります。実際は凡人がマナー良く生活しているだけだったりするのですが、それでも、振る舞いの上品さなどからサマーディのように見えることがあります。一方、サマディのようにそれほど見えなくても実はサマーディ状態、ということもあったりします。<br /> <br /> そうは言いましても一応はその人が気付きを持って行動しているかどうかという点で見分けがつくと言えばつきますけど、なかなかわかりにくい時もあります。<br /> <br /> そのような洗練されたマナーにおいてサマーディ状態かのように勘違いしてしまうことがあり、特に顕教は行動が洗練されていたりしますから、サマーディ状態でないのに素晴らしく見えたりサマーディ状態に見えたりするわけです。<br /> <br /> 普通の場合、マナーや作法が洗練されてくるとまず入る境地がいわゆる「ゾーン」で、とてつもなく集中した状態になって歓喜あるいはエネルギーが沸き起こり、一時的にその集中の大将との一体感を感じることがあります。そのゾーン状態は極度の集中によって起こりますのでまだそれはサマーディではなく、ゾーンが終われば普通の状態に戻ってゆきます。そうしてゾーンを繰り返しながら瞑想を深めてゆくわけです。ここで瞑想と言っていますけど瞑想は座って行うものだけでなく行為の中にも瞑想がありますので、作法やマナーという入り口からも瞑想に入れるわけです。そうしてゾーンに入ることができます。ヨーガ的に言えばダーラナ(集中)の段階ですかね。<br /> <br /> ですけど、それはまだサマーディではなく、サマーディはゾーン(ダーラナ、集中)に入ることが常になってからゾーンの歓喜が穏やかになって、そうして常に集中の状態が平常状態で保てるようになってようやく現れてきます。始めは短期間のサマーディから始まって、やがて、日常生活のサマーディになるわけです。そうするとようやく顕教のマナーや作法といったものの本当の意味を理解するに至るわけです。<br /> <br /> サマーディになったからと言っても作法が完全に身につくとかそういうことではなくて作法とかマナーはそれはそれとして学ぶ必要がもちろんあるのですが、その奥底に眠っている意味にサマーディになると気付けるようになるということと、サマーディになった上で学んだ作法というのはよく身に付いたり、学んだ作法にサマーディが加わると作法が深まる、という違いがあるわけです。<br /> <br /> Mon, 10 May 2021 00:00:00 +0900 アジナにコルクの蓋がしている感覚がある https://w-jp.net/2021/2352/ <br /> アジナに集中して瞑想をしていると、時に、コルクの蓋がしてあるかのような感覚になることがあります。そのコルクの蓋から少しエネルギーが漏れている感じがして、少しはエネルギーの通り道があるようなのですが、9割は塞がっている状態のような気がしています。<br /> <br /> これは瞑想中のお話ですのでそんな気がする、というくらいのことですが、眉間あるいは鼻頭に意識を集中して行う基本的な瞑想においてそのような感覚になる時が時々あるということです。<br /> <br /> まず、座って瞑想を開始すると最初からそのようになる時もあれば、その前段階がある時もあります。<br /> <br /> 前段階としては、例えば意識が少し揺らいでいて集中状態にない場合があります。その時はしばらく眉間に集中していると不意に意識が平らになって集中状態になります。そうすると眉間にも変化があって、眉間の周囲のもやもやも消え去って眉間のアジナの状態がよく見えてきます。そのような時、割と多くあるのが、眉間の周りに何かドロドロしたゴミのような腐敗物が詰まっている場合です。<br /> <br /> アジナのエネルギールートは後頭部のあたりから眉間にかけて直線的に伸びていて、そのルートが割と詰まり気味なことが多い気がいたします。少なくとも私の場合は。<br /> <br /> というか、私はきっとアジナの上はルートがうまく開いていなくて、エネルギーが通っていないと詰まり気味になるというのは水量が少ない川と同じでゴミが溜まりやすいのかなと思っています。アジナの上をもっと開くのが私の今の課題ですね。<br /> <br /> そのような状態でアジナに意識を向けると、まず、ヘドロとまではいかないですけど家庭の排水溝に溜まったドロドロのゴミのようなものがアジナへのルートに溜まっているのがわかって、ちょっと匂いがする感覚もして、鼻をつまみたくなってしまいます。<br /> <br /> そもそもある程度の瞑想の平穏状態に達していないとこれは気付けなくて、まず平穏状態のそれなりの静寂の状態に達するとこれらに気付くことができます。<br /> <br /> そうしてドロドロのゴミが溜まっていることに気が付いたら、意識を当てつつオーム(あるいはご自身のマントラでもいいと思いますが)を何度も唱えてあげて眉間のルートにエネルギー(プラーナ)を通してゆきます。<br /> <br /> 何度もオームを繰り返し唱えているとやがて不意にゴミがなくなってゆきますので匂いもいつの間にかなくなります。なくなるのか単にどこかに行ってしまうのか、そこはよくはわかりませんが、割とスーっとなくなってゆきます。<br /> <br /> その状態で更にオームの瞑想をしていると、眉間の中が空っぽの空洞のように感じられてきます。空洞なのですが、エネルギーがあまりそこから動くことができず、そのままオームを続けているとエネルギーが多少は高まるのですが、何かに遮られている感覚になります。<br /> <br /> エネルギーが遮られていて、それでも多少は動きますし、エネルギーが少しは通るのですが、眉間の前方向に何かコルクのようなものが詰まっていて、そこから抜けていかない感じです。1割くらいはエネルギーが通るのですが、9割はコルクで塞がれています。<br /> <br /> これはきっとアジナが開いていない、ということなのかな、と思っています。<br /> <br /> エネルギーをサハスララに満たすと静寂の境地になるのですが、最近は、サハスララに満たすというよりもこのようにアジナにエネルギーを通すようにしています。と言いますのも、静寂の境地はそれはそれでいいのですがアジナのあたりがまだ何か感覚が鈍いので、そちらを重点的に意識してみています。<br /> <br /> Sun, 09 May 2021 00:00:00 +0900 情の上と下は一見すると同じように見える https://w-jp.net/2021/2351/ <br /> 日本は情の国で、ハートの愛ももちろんありますけど、どちらかというと情が支配している国のように思います。<br /> <br /> 情はある人にはありますし、一方、ハートの愛もある人にはあります。<br /> <br /> 一方、どちらも、ない人にはないですし、ない人に情は理解できませんし、ハートの愛も理解できません。<br /> <br /> 情があるかないか、あるいは、ハートの愛があるかないかは一見するとそれ単体でお話がされますが、ここには階梯があって、情がないところから始まって情に入り、情からハートの愛に変わってゆき、ひとまずはハートの愛が最終地点と考えて良いと思います。<br /> <br /> そして情がこの日本の国のメインの感情になっていますから、情を中心として、情がない状態から情そしてハートの愛、という3段階があるわけです。<br /> <br /> 1.情がない状態(の人)<br /> 2.情(の人)<br /> 3.(情が昇華して)ハートの愛(を持つ人)<br /> <br /> この時、よく分かっていない人が見た場合は1番と3番が割と同じに見えるのです。ハートの愛は情と時々混同されますが、ハートの愛は全てを包み込むようなワンネスの愛ですから、時に厳しいこともします。情でためらうようなことであってもハートの愛から必要なことでしたらためらいなく行うのがハートの愛です。<br /> <br /> ですけど、ハートの愛は一見すると非情のようにも見えることがあります。実際、情を卒業していますので文字通り「非」の「情」ではあるのですが、残虐というわけではなく、ただワンネスの厳しさを持っているわけです。善も悪も兼ね備えた厳しさがハートの愛にはあります。<br /> <br /> 一方、情がない人の場合はいわゆる唯物論的な立場を取ることが多く、情というものが理解できませんし、ルールで決まっていなければ何をやってもいいという機械のような考え方をしますし、ましてやハートの愛が何なのかを全く理解することができないわけですが、それでも、非情という面においては意外にハートの愛と時々似通った性質を持つことがあるのです。<br /> <br /> それが不思議なところですが、情から離れているという意味においては情がない人もハートの愛も割と同様で、割とロジカルに行動できるのが両者の共通点です。<br /> <br /> ですから、唯物論者が物事を数字だけで考えて仕組みを考えることと、ハートの愛を持つ人がロジカルに物事を考えるのは、寄って立つところは違うのですが、意外に同じ手法で分かり合えるところがあったりするわけです。ですけど、根本的な行動原理が違いますから突き詰めていきますと根本の考え方は全く違うのですが、手法としては似ていますので、ハートの愛の人と情にすら達していない人との間で引き合う、という面白い現象が起きるわけです。特にプロジェクトではそうで、情に達していないロジカルな人とハートの愛の人が組み合わさって成功するなんてことはこの世の中には良くあります。非情なジョブスとハートの愛に満ちたウォズニアックの組み合わせがわかりやすいでしょうか。ジョブスを神格化している人は多いですし、禅に興味があったのはいいことですけどアップルの利益を最大化して人々を煽って格差を拡大させた手法は商売としては最高に上手だったとは思いますがウォズニアックが神のようなハートを持っていたことと比べるとジョブスは心が全く貧相だったように思います。アップルが上場するとき、ウォズニアックは持株を従業員に分けてあげましたがジョブスはウォズニアックが何度も説得してもそれを拒否しました。その後も、製品の良さを煽って売り上げを伸ばすことばかりに夢中になり、自分は多少はシンプルな生活を求めたようですけど、結局、病気になって死んでゆきました。多くの人はジョブスを神格化しますけど、ウォズニアックに比べたらとても人格者とは言えない人物です。ジョブスを神格化したければ勝手に神格化すればよくてその人の好きにすればいいのですけど個人的にジョブスの性格には問題があると思っています。<br /> <br /> そのように、上と下とが時に同じように見えて、情にすらまだ達していない人が時に素晴らしく見えることがあります。<br /> <br /> 社会活動家などもそういう傾向があって、ハートの愛を持っている人が活動を支えて、情にすらまだ達していない唯物論者が活動を煽る、という組み合わせもぼちぼち見かけます。そして、情にすらまだ達していない人がリーダーになったり尊敬を得るわけです。不思議なものです。とても興味深いです。<br /> <br /> これは、べつに誰が良くて何かが悪いとか言っているわけではなくて、世の中のありようを見ると興味深いということです。<br /> <br /> 世界を見ると情にすら達していない人々が大勢いて、情に達していなければ唯物論的な考え方にしがみつくことになり、お金が最上という価値観、あるいは自己を守るために他人をコントロールしようとし始めます。日本にも割と唯物論的な考え方の人が増えてきて、情なんていらなくてルールに反していなければ何をやってもいいという考えの人がぼちぼち増えてきていますけど、それはただ単に情を知らないというだけのお話なわけです。<br /> <br /> ですから、情というのは大切で、情にまだ達していないのであればまず情を達成して、その後、少しづつハートの愛を目覚めさせてゆけばいいわけです。<br /> <br /> これは見る側の見る目も大切で、一見するとハートの愛のように見えても実は情すらも知らなくてハートの愛ももちろん知らない、なんて場合も多々あります。一方、非情のように見えて実はハートの愛から動いている、という場合もあるわけです。<br /> <br /> 見る目ですね。見る目がなければ何も見えない、ということですね。<br /> <br /> Sat, 08 May 2021 00:00:00 +0900 意識の分離により地球が滅びた https://w-jp.net/2021/2350/ <br /> 別のタイムライン(パラレルワールド)にて、そこは太平洋沿岸を日本が統治していて楽園のようでしたけどその後、地球が核爆発で吹っ飛ぶか大陸が吹き飛んでいました。地球が終わるのはだいたい今頃で20世紀終わりから21世紀の初めにかけての頃だったように思います。<br /> <br /> その時間軸を見ますと日本(太平洋沿岸)は平和だったのですがアメリカ東海岸とヨーロッパでは未だ奴隷制度が続いており、世界は平和で天国みたいな地域と地獄のような地域に二分されていました。<br /> <br /> これは単純に見れば善と悪ということになりますが、実際のところ、一見善に見える日本(太平洋沿岸)と一見悪に見えるアメリカ東海岸からヨーロッパにかけての白人国家の間で意識の分離が起きていて地球が滅びたということです。<br /> <br /> スピリチュアルで意識の分離というと意識の内面がフォーカスされて自分の中の意識の統合というお話になりますけど、ここで言っているのは国民の意識が国の間で分離状態になっていたと言うことです。<br /> <br /> その時間軸では割と日本の住民が白人国家を悪の権化みたいに扱っており、口々に白人国家を罵って「酷い国だ」というのが常になっていました。そこには、意識の分離がありました。時には自らの日本の良さを言うために白人の国家を悪く言うこともありましたが、基本的には現実として白人国家の奴隷制度は酷いものでした。<br /> <br /> その時間軸にはリンカーンのような奴隷解放という動きにはならず、太平洋沿岸は自由の楽園、大西洋近辺は地獄のような暗黒な統制状態になっておりました。<br /> <br /> これは、一見するとスピリチュアルにおいて単に前と悪として理解されてしまいがちなことですが、実際のところ、根源のスピリチュアルには善も悪もありませんので、善と悪と見ているということはその見ている人に分離があるということです。<br /> <br /> 実際のところ、誰かが太平洋沿岸の日本国にいて大西洋沿岸の白人国家に対して罵る時に善と悪という図式を当てはめているわけですが、実は全てはワンネスでありますからその国家統制に善も悪もなくて、実際のところ、白人国家を悪とみなしている心こそがスピリチュアルにおける「分離」になってしまっていたわけです。<br /> <br /> これは、スピリチュアルな人にとって理解し難いことかもしれませんけど、スピリチュアルの人は自分が浄化して綺麗になってピュアになることがスピリチュアルだと思っていますけど、実際のところ確かにそういう段階はあって否定はしませんけど、一旦ワンネスの理解に達したならばもはや善も悪も存在しないのですよね。<br /> <br /> 自分自身の曇りを取り去ってありのままに見るために浄化やピュアになることが必要なわけですけど、周囲の世界はそもそも何も変わることはなくて、最初から全てはありのままで素晴らしくて何も変える必要がないわけです。例え奴隷制度の暗黒な国家であったとしてもそれはそれでありのままであるわけで、ありのままを受け入れるという意味においては善も悪もないのです。もちろん自分がその奴隷制度に組み入れられるべきとは言っていなくて、それなりにスピリチュアルに発達した人であれば奴隷制度など無用の長物ではありますが、その時代のその国において存在しているということはそれがありのままの姿なわけで、そこに本来は善も悪もないのです。<br /> <br /> そのタイムラインにおいては人々がそのようなワンネスの理解に達することができず、「分離」の意識を続けたがために太平洋沿岸の日本国の純粋なピュアを求める意識と大西洋沿岸の暗黒の奴隷と操作・搾取を求める気持ちとがどんどん分離していって臨界点に達したところで白人国家が暴発して核爆弾で地球を吹っ飛ばしてしまったわけです。<br /> <br /> そのタイムラインにおいてもライトワーカーたちは大勢いましたが、主に日本国で活動していて奴隷を日本国に逃すなんてことはしておりましたが積極的に白人国家に関わろうとはしておらず、遠くから白人国家を罵ることくらいしかしておりませんでした。ライトワーカーたちは本来ならばワンネスの意識に到達して暗黒の白人国家の中枢に飛び込んで行くミッションが与えられていたのにも関わららず天国のような太平洋沿岸の日本国でのんびりと過ごして時間を費やしてしまったがために地球が滅びてしまったのです。<br /> <br /> これは、ワンネスだけでなく、ライトワーカーで使命があるのであれば暗黒の国家に対しても飛び込んで行って変えてゆく必要があるという手痛いレッスンになったように思います。<br /> <br /> Sat, 08 May 2021 00:00:00 +0900 ナチスに拷問された魔女の魂を救出して短剣を作る https://w-jp.net/2021/2349/ <br /> 私の属しているグループソウルに魔女の系統があって、ナチスに拉致されて拷問を受け、頭に丸い輪っかをネジで頭蓋骨につけられて投獄されていた魔女がいたわけですけど、私の奥底からその叫びが時々湧き上がってきて、それは現象としてはトラウマとして現れていました。トラウマというと生易しいですけど、恨みの念で「(ナチスに対して)死ね、死ね、死ね」という怨念が眠っていたわけです。<br /> <br /> このトラウマは今世の原因としてはあまり心当たりがなくて、時々不意に湧き上がる感情の源が何なのか分からないでいたのですが、ふと、これはどうやら救出しなくてはならない種類のものだと気付きました。<br /> <br /> 今まで、これはインナーチャイルドに属するもので特に根拠のないトラウマだからエネルギー量を増やしてポジティブになるという方法で解決可能だと思ってきましたし、実際そのことでそれなりに解決はしてきて普段の生活に支障が出ることは基本的にはなかったのですけど、それでも、時々はその同じトラウマが出てきて、これは一体何なのだろうかと思っていました。<br /> <br /> その時の記憶を辿るとおそらくオーストリアかその周辺に住んでいたように思います。当時はナチスが支配する暗い時代で、魔女とわかるとナチスがすかさず拉致していきました。<br /> <br /> そして、霊視で敵の部隊の居所を探る作業をさせられていたわけですけど、実際には、霊視というより、手のひらからエネルギーを出して可視化できる形で空中に浮かぶホログラム映像のようなものを出していました。<br /> <br /> それはエネルギーを使いますので衰弱しますし、牢獄は環境も悪いので体力も奪われていきました。<br /> <br /> そして、ある日、脱獄しようとしたら見つかってしまい銃で撃たれて捕まり、逃げられないように頭に輪っかをつけられてネジ止めされたのです。<br /> <br /> その記憶がよく甦ってくるのですが、そもそもその時の魂は、その死後、一旦はグループソウルに帰って合流したため、その直接の後世というものはありません。ですけど、グループソウルに溶け込んでからはその一部が分霊の中に流れ込みますので記憶の一部を受け継ぐことになるのです。<br /> <br /> その記憶を辿っていたところ、どうやら、その時の魂の一部がまだオーストリアに残っているので私はいつかオーストリアに行ってその魂を回収してくる必要があるような気がしてきました。今はコロナですからそうそう出かけられないですし、オーストリアではなくチェコあるいはその周辺地域かもしれず、該当地域は広いので、具体的な場所が判明するまで出かけることはなかなかできないように思います。<br /> <br /> そう思っていましたところ、体の中に、胸のちょっと脇のあたりにクリスタルのようなものが瞑想中に見えてきました。何でしょう・・・ と思って瞑想中にオーラの指のようなもので探りながらゆっくりと引き抜いてみると、短い刀のようなものが出てきました。形としては中華包丁のような長方形がベースになって先っぽは出刃包丁のように少し角張っていてアニメに出てきそうな形をしています。クリスタルかと思ったら短刀でした・・・。しかもめちゃくちゃ厚い。それでトラウマがますます減った感じがしましたし、この短刀はどうしましょうかと思いましたが、とりあえず、体の腰の後ろあたりにおいておくことにしました。何だか、いわゆる呪いが形を持って(瞑想の中とはいえ)短刀の形になるのは最近流行りの呪術廻戦っぽい感じです。これは武器として使えるのかどうかわかりませんけど。以前には光の剣をもらったことはありますけどそれは長くてちょっとしたことに使いにくい感じですけどこれは短刀ですので使い勝手は良さそうです。とは言いましても特にすぐに何かに使うということはなさそうですが。<br /> <br /> 後日、それが悪さしたのか腰の調子が少し悪くなってしまいましたけど少しヨガのアサナをしたら回復しました。こういうのは扱いに注意ですね。保管にも注意が必要です。追加で、鞘のようなものをイメージしてそれに短刀を入れて右腰の後ろ側に装備することにしました。これできっと普段の動きに支障はありません。<br /> <br /> まあ、瞑想中のお話ですので単なるシンボルという可能性もありますし、見えたものそのものズバリではない可能性もあります。本当かどうかは完全には判断できませんけど、話半分に理解しています。<br /> <br /> こういうのは、割と独立した物語として理解するくらいが丁度良くて、現実の生活とどうこう、という感じにはそのまま直結させないのがいいと思っています。<br /> <br /> 悪魔避けのお守りとかアクセサリーとかも似たような役割をするものがあるかもしれないですね。<br /> <br /> 一応、こうしてクリスタルを抜き出して短剣に変えたところ同じ要因のトラウマの気持ちが半分かそれ以下になりました。ほんの少しの声しか聞こえなくなりました。効果があったようです。<br /> <br /> この世の中は普通に世間を出歩いていても見えない存在の危険が沢山ですから、光の剣のような大層なものだけでなく短剣のようにすぐに使える見えない剣を用意しておくのは有用そうです。すぐに使えますから。最近では六本木で子泣き爺みたいな亡霊に憑かれたことがありましたが、その時に持っていたら違っていたかもしれません。<br /> <br /> Sat, 08 May 2021 00:00:00 +0900 意識が目覚めてくると周囲の全員が悟ってるように思えてくる https://w-jp.net/2021/2348/ <br /> あたかも全員が悟っていて、目覚めた人ばかりであるように思えてきます。一方、自分自身のことは「よく分からない」という感じではありますけど、少なくとも周囲にいる人は既にみんな目覚めていて悟っているかのような気になってきます。<br /> <br /> ですから、周囲の人を判断してあれが良くないこれが良くないと言っている人の中には悟っていないでそう言っている人もいるわけです。もちろん自分が悟っていて他人を指摘している場合もありますけど、自分が悟っていないが故に周囲の人が悟っていないように見えている場合も多々あるわけです。<br /> <br /> 悟りの差というのは自覚的かどうかという点だけで、悟りの質という点に関しては全員が既に悟っていて皆が悟りの衝動によって突き動かされてありのままの人生を送っているだけです。ただ、顕在意識でそのことに意識的になれているかどうかの違いがあるだけです。<br /> <br /> スピリチュアルの世界にいると、スピリチュアルの勉強をしていたり流派に属している人が優れているような錯覚に陥ることがありますけど、悟りに関しては上記の通りで全ての人が文字通り悟っていて、一方、自覚的かどうかという点に関しては、割と一般の人の方も悟っていたりするように思います。<br /> <br /> 割合で言うとスピリチュアルな業界にいる人の悟りの率は意外と高くはなくて、むしろ悟っていないから修行とかそういうことに興味を持つわけです。<br /> <br /> 一般社会において、特に子供とか、特に女性は悟りの芽があって、例えば、何気ない草木を愛でることができる心などはそのまま悟りの心になります。<br /> <br /> 悟りとは超常的力というお話もあるにはありますけど、それよりも、身近な生活を満足して楽しんで景色の美しさをありのままに受け止めたり素敵な匂いを感じて感情を昂らせたりといった何気ない生活の中にこそ悟りがあるわけです。<br /> <br /> 花が好きな女性は悟りの境地にいると言えますし、山歩きにしても、近所の散歩にしても、家でくつろいでいるときであっても悟りはあります。もちろん仕事にも悟りはありますし、ものを作ること、書類を整理すること、勉強すること、生活の全てに悟りがあるわけです。<br /> <br /> そのように悟りとは当たり前のものであるからこそ良く分からないものになっており、特に自分自身のことなので、自分が悟っているかどうかが良く分からないが実は悟っている、みたいなお話は良くあるのです。<br /> <br /> 笑い話のようなものですけど、誰かが、悟りとは何か、悟りとは何か、と探し求めて、実は最初から知っていた、みたいなお話があります。<br /> <br /> これは2つのパターンがあって、悟りとは何かを実は知っていて身近な生活も満足で不満もなく自覚的で生きていたものの悟りという言葉の定義を知らなかっただけのお話。これはただ単に自分自身の状態が悟りだと知ったら終わりです。<br /> <br /> もう1つは、全ての人に現れている悟りはもちろん持ってはいたものの意識が曇っていて自覚的に生きることができていない場合。これは、悟りの状態に対して自覚的ではないのである種の修行が必要なパターンです。これは悟りの言葉の定義を知っただけでは不十分なパターンです。<br /> <br /> どちらにせよ悟りとは全ての人に既に最初から現れていて、自覚的かどうかだけが違うわけです。既に自覚的な人は悟りの定義を知ったらそれで悟りは終わりなわけです。既に自覚的な生活を送っている場合は悟りとは当たり前のお話になりますけど、そうでなければある種の修行が必要になってきます。<br /> <br /> そうは言いましても多くの場合は修行が必要になってくるわけですけど、その一方で、大勢の一般人が修行やスピリチュアルとは関係のないところで普通の生活を送りながら悟りと自覚的な意識とを覚醒させて生きているのも事実なわけです。<br /> <br /> Sat, 08 May 2021 00:00:00 +0900 別のタイムラインの出来事を修正する https://w-jp.net/2021/2347/ <br /> タイムラインとは元々順番に起こるもので、よく言われているように単に別のバージョンの並行世界があるというよりは時代的に過去であっても未来であっても全てタイムラインの順番としては「前」に起こったことなわけです。<br /> <br /> ですから、別のタイムライン、それは前のタイムラインで起こったわけですけど、その、前に起こった出来事を今回の今いるタイムライン上で回避あるいは修正する、と言ったことが行われます。<br /> <br /> 別のタイムラインで失敗だったと思った出来事は今回のタイムラインでは起きないようにすることができるわけです。<br /> <br /> これは、別のタイムラインそのものを書き換えるのではなくて、途中から新しいタイムラインを作り出す、ということです。<br /> <br /> 例えばビジネスの失敗や友人との約束、あるいは個人的な目標の未達成など、やり直すことで成功にできることは多くあります。<br /> <br /> それは必ずしもそうしてやり直すというものではなくて、意思を持ってやり直すと決めてタイムラインをもう一度辿る決心をした場合にやり直しになるのであって、そうは言いましても割と多くの場合は1回やってそのまま、となるように思います。<br /> <br /> やり直すのはスピリチュアルにそれなりに発達しないとできなくて、意識が時間軸を超えることができるとやり直しをしたり一時停止をして別のタイムラインを一旦経験して再度同じところに戻ってくる、ということができるようになります。<br /> <br /> その一環で、別のタイムラインで、例えばビジネスで損害を出したり、意地悪な相手の付き合いをして疲れてしまったり、色々と失敗がありますけど、やり直して修正することができます。<br /> <br /> 例えば、とあるビジネスの取引があって、どこまでやるかで揉めて訴訟寸前になって結局こちらが100万円の損害になった際、相手の社長が薄ら笑いを浮かべて「クックック」と勝利の雄叫びを上げていたとしましょう。そして今回のタイムラインでその同じ会社と商談になってその相手と出会ったらその時のことを覚えていますので、今回の今いるタイムラインでは初見であっても別のタイムラインで前にどのような対応をしたのかはっきりと覚えていますので、そのような会社と特にそのような社長と付き合うことはせず、門前払いして追っ払う、という選択をすることができるわけです。この辺りはカルマがありますから一応は最初の接触くらいまでは行われるのですがその後は自由ですから、あとは取引しないで門前払いすれば良いわけです。こちらからすると別のタイムラインで散々酷いことをされた記憶をはっきりと覚えていますからその時の怒りやフラストレーションも出ますし、相手がとんでもない相手だということもわかりますから最初の最初で門前払いするのですが、相手からすれば訳もわからず混乱したり、時にはこちらが失礼だと思って罵ったりする場合もあったりしますけど、別のタイムラインで悪どくこちらに損失を出させた相手ですので門前払いが正解な訳です。<br /> <br /> これは、スピリチュアル的にある程度成長しないと見抜けないことですし、大抵の人はそもそもやり直しなんてしませんので何のことか分からなかったりします。<br /> <br /> ある程度のスピリチュアルになって、間違いは細かく修正してやり直しできるようになると、それほど人生にトラブルはなくなります。このくらいになると、スピリチュアルでよく言われているように、人生は自分で選ぶものになります。<br /> <br /> 私からすれば、人生は自分で選ぶというよりは、とりあえず目標に向かってやってみて、偶然に起こる出来事も多々ありますけど、うまく行かなかったらやり直して、それなりに満足した結果を最終結果とする、という感じですね。<br /> <br /> 例えば会社を起こしてみたけれども株主に利益を吸い取られるばかりで労力に見合っていないタイムラインを一度経験したのならば今回のタイムラインではそんなことはすっぱりとやめてしまう、そもそも起業しない、あるいは、違った業態にする、みたいに満足行くまでいかようにも何度でもやり直しをすることができます。<br /> <br /> これはどのくらい拘るか、ということですので、あまり気にしないならそのまま確定しますけど、恨みとか後悔とかその種のものはやり直しすることも多いのです。<br /> <br /> あるいは、それはそれで良いとして別の環境で試す場合ももちろんあります。この時はタイムラインを遡るのではなく単純に別の環境でやり直すだけですね。<br /> <br /> ですけど、ちょっと拘っている場合は、タイムラインを遡ってやり直すのです。<br /> <br /> Sat, 08 May 2021 00:00:00 +0900 ワンネスはハートの繋がり https://w-jp.net/2021/2346/ <br /> ワンネスは色々ありますけど、基本的なワンネスはハートのアナハタ・チャクラの活性化によるワンネスの繋がりです。<br /> <br /> ですけど、その後、誤解されたワンネスが出てきて、ワンネスという言葉が良くわからないことになっています。<br /> <br /> 基本的なワンネスは胸の奥底で繋がっている根源意識のことで、言い換えればアートマンとか悟りとか色々と言い方はありますけど、全ての存在が繋がっているという意識のことです。<br /> <br /> そのことを誰かが体験して、そこまでは良かったのですが、その体験を表現した時にワンネスという言葉を使って、それを聞いた人がワンネスという言葉を違って解釈したように思います。<br /> <br /> 元々のワンネスは根源意識ですから、姿形のことは言っていなくて、どんなものであっても、特に人間に関しては繋がっていてどのような人であっても根源意識で繋がっている、というのがワンネスの考え方です。<br /> <br /> 元々のワンネスには姿形や文化や風習、ものの考え方は含まれていなくて、ワンネスは世界のあらゆる文化及び風習そして宗教をも超えてワンネスであるという意識、体験、実感のことを意味していたわけです。そこには体験があって、その体験を表現するためにワンネスという言葉を用いていたわけです。<br /> <br /> 体験と言ってもアナハタの意識は一時的なものではなく、アナハタの意識が出る前はワンネスがある意味それほど感じられていなかったという意味においては永遠のものではないですが、少なくともアナハタの意識が目覚めてきた後に関してはずっと永続的に感じ続けられるものになります。<br /> <br /> ですから、これは考え方次第ですが、元々永遠にそれはあったものの、単に隠れていただけだった、と考えることもできます。インドのヴェーダンタなどはアートマンに関してこのような考え方をしています。<br /> <br /> そのように、ワンネスとは本来、永遠の意識、それをアートマンと呼ぶか魂と呼ぶか悟りと呼ぶかワンネスと呼ぶかはそれぞれですが、ハートの奥底の根源意識を表現するために用いられたもので、実際の人間のありようを説明したものではなかったのですね。<br /> <br /> ですが、後でワンネスを知った人が解釈して、ものの考え方や文化、風習、儀式、宗教など各種を同一にすることがワンネスだという誤った考え方を持ち込んだわけです。まあ、その人なりの考えという意味においては何であれ間違っているということはないのですが、自分で考えたのではなく他人の考えを間違って解釈したのであればそれは間違いであると言えます。<br /> <br /> そのように、ワンネスを誤解してこの世に広めてしまった人が少なからずいるのですよね。割とこれは微妙な問題で、みな同じようなことをしなければ悪いかのような同調圧力にもなってきますし、本来のワンネスとは異なり、この間違ったワンネスは束縛として機能しているように思います。<br /> <br /> この間違ったワンネスはスピリチュアルの一時代においてマウンティングとして用いられたことがあり、今も多少はそのような風潮があって、風習や文化及びものの考え方に関して他人に指摘してマウンティングするために間違ったワンネスの束縛を用いることがあるわけです。なんという喜劇でしょうか。同じような同調圧力がマウンティングとして使われてそれがスピリチュアルであると誤解している人はスピリチュアルを他人を操作する手段として用いているわけで、それはスピリチュアルに対する冒涜であるわけです。<br /> <br /> 例えば、何かをするときにこうするのが当然、とか、ものの考え方はこうするのが当然、というマウンティングのためにワンネスの同調圧力が用いられたりします。<br /> <br /> この辺りのことを理解していない人はワンネスの同調圧力が正しいと思ってしまいがちですけど、実際には、ワンネスとはそういうことではないのですよね。<br /> <br /> Sat, 08 May 2021 00:00:00 +0900 人類幽体離脱計画 https://w-jp.net/2021/2345/ <br /> 世間を見ると欲望や情事にうつつを抜かしている人がいて、もともと私はどちらかというとそのような内情を知りたくて転生してきた口で、欲望のままに生きている人に興味があったわけですけれども、最近は知りたいという欲求にはひと段落して、そういった欲望まみれの人たちを目覚めさせるためにはどうしたら良いのか、ということを時々思い描いたりしています。<br /> <br /> まず最初は教育として新世代の宗教、世界統一的な宗教というお話もあったのですが、それはプランとしては割とありきたりで、多くの人がそれを目指して実際に運動を立ち上げつつも全て挫折している状況かと思います。<br /> <br /> やがて個人がスピリチュアリティ(霊性)に目覚めたならば最終的には宗教はなくなってゆくわけですが、現段階では宗教は必要ということだと理解しております。と、いうことは、宗教の統一という時代はまだ来ていない、ということになるかと思います。時代が追いついていないのならば今やっても実現しません。<br /> <br /> であれば今、必要なのは何かというと、ふと思いついたのが、気付けていない人に幽体離脱を体験してもらえばいいのでは、というアイデアです。<br /> <br /> 肉体だけが全てでお金や欲望を追求してそのあとは無になるだけだと思い込んでいる多くの人々に幽体離脱を体験させれば肉体以上の世界があるのだとわかり人生観が大きく変わるであろう、という想定です。<br /> <br /> 例えば、私が大学生の頃に知人の女性を手助けして幽体離脱してあげたことがありましたけど、その時、はっきり言ってその知人は「わかっていない」人でしたけど幽体離脱して色々見聞きしたことで自分が何も分かっていなかったことを自覚しましたね。<br /> <br /> ですから、このことからも分かるように幽体離脱というのは一時であったとしても人生観を大きく変える効果があるのだと思います。<br /> <br /> 実際の作業面で言いますと、そうして幽体同士で幽体の手を使って他人の幽体を引き抜く場合はオーラが接触してその部分が融合してしまうので、お互いに相手のオーラをもらい合うことになってしまい、お互いのカルマを共通化してしまうことになりますので良くありません。これは家族や恋人ならば一蓮托生ですので割と問題にならないのですが、他人であるとお互いにカルマを交換するのは好ましくありません。ですので同じような手法はこの場合に適用できないのですが、幽体の世界の「紐」みたいなものを用意して脇の下に引っ掛けて幽体を引き抜く、という手法はできるかもしれません。<br /> <br /> 理想的には全人類の全てに幽体離脱を体験させることが好ましいですが、実務面では、影響力の大きい人から選んで行われます。<br /> <br /> 既に実験的に少し行われており、結果として本人の自覚があったりなかったり、ただの夢だと思い込んでいたり、全く覚えていなかったり、理性でそのような体験を否定して昔通りの生活を送ろうと意識が抵抗していたり、人によって効果は色々ですが、概ね、多少の効果はあるようです。<br /> <br /> これは割と地道に行われていて、時間はかかりますがこの計画により全人類の8割の人々に幽体離脱を体験させることができると目論んでいます。相当な数ですよね。<br /> <br /> 幽体離脱してしまうと体の方に危険な意識体が入り込んでしまうかもしれませんのでこの計画の実行中は守護霊や友人知人の霊達が肉体を守ることになります。そうして、この計画では体のそう遠くまでは行かず、時空を超えることもせず、単に同じ時間軸の同じ部屋の中あるいは近所にまで幽体離脱をさせるだけで、肉体を超えた世界を少し意識させるだけで終わりになります。時間的にも短いものです。どんどん手際良く人々に体験させているようです。<br /> <br /> たったそれだけでもかなりの意識の変革にはなり、肉体だけで全てと思い込んでいる現代人がほんの少しでも意識の変革になりさえすればよく、計画の趣旨としてはそれだけでも目的は達成されたと言えます。<br /> <br /> この計画は時間軸上ではまだまだこれから実行されることではありますけど、未来を読みますと、それなりに効果が出るような気がしております。<br /> <br /> 誰も見ていないように思えても実際には死んだお婆ちゃんや昔(前世で)仲の良かった友人知人がずっと近くで見守ってくれていたりすることがわかれば恥ずかしいことはできなくなります。まあ、実際には、見守っているというより、仲の良かった友人知人が貴方の近くで楽しく暮らしていて地上で生きている人をネタにしてどんちゃん騒ぎして面白おかしく暮らしている、というのが実情ではあります。ですから見守ってくれていると言ってもじっと見つめて微笑んでいるというよりは、みんな楽しく暮らしている中に地上で生きている人もいる、ということです。<br /> <br /> そのような、見守ってくれている楽しい家族たちが近くにいて、幽体で死んではいると言えばそうですけど生きているようなものですけど、大家族でわいわい騒ぎながら暮らしているようなものだということがわかります。そうして、地上では一人でいると思っていても家族がずっと見ているので、悪いことしたらどこかから誰かがコラっ!と怒ったりするわけです。<br /> <br /> 幽体離脱すればそのような家族が見えたり聞こえたりしますので、一時ではあっても気付きにはなるわけです。まあ、意識がまるっきり眠っていて気付かない人もいればただの夢だと思う人もいるでしょうけど、多少の効果はあるということだと判断されています。<br /> <br /> 仲の良い家族というものは前世からの繋がりで仲が良いのであって、その時に、欲望にまみれた人生を送っていると友人知人も似たような欲望まみれの人になり、周囲で見守っている人も欲望に沿った考え方になります。一方で、良き行いをしようと心がけたり妻を大切にした場合はあの世でも今世になってもその妻は自分を見守ってくれたりします。<br /> <br /> ですので、あの世のお話ではありますけど、いま生きている今世での人の付き合いは今世だけで終わるものではないわけで、仲が良ければその付き合いは死後も続くわけです。ですから今世での人の付き合いは大切にしてあの世や来世にまで続くような付き合いになるのが理想的なわけですけど、そこまでの理解にすぐに辿り着かないにしても、少なくとも幽体離脱をすればそのような今世を超えた人の付き合いがあるということを多少は認識できますので、程度に違いこそあれ、幽体離脱を経験させることが意識の変容に有用だと判断されています。<br /> <br /> この計画はこれから割と広範囲で行われ始めて、霊界の特殊な「紐」を持ったスタッフが各所を回って、その紐で脇の下を引っ掛けてくいっと持ち上げて幽体離脱させますので、希望する人がいれば体験できると思います。希望と言っても本人は眠っていてそのような意図はわかりませんので基本的には守護霊に聞いて、守護霊が良いよ、と言えば守護霊が見守りつつ体験させてあげる感じのようです。<br /> <br /> これは、計画は大天使で、実行部隊の多くは日本神界のスタッフで一部の天使と一部のチベット系行者の魂もいるにはいますかね。<br /> <br /> <br /> ・・・一応書いておきますが、これは瞑想で見聞きしたことですので本当のことかはわかりません。物理的な証拠など何もないのです。<br /> <br /> Sat, 08 May 2021 00:00:00 +0900 サマーディは集中で悟りは別としている流派 https://w-jp.net/2021/2344/ <br /> ヴェーダンタ派とヴィパッサナー系のサマーディはただの集中瞑想で悟りではありません。一方、サマーディを悟りに位置付けている流派もあります。これは一見するとヴェーダンタやヴィパッサナーの方が上のように思えてしまうかもしれませんけど、実際のところ、そうではありません。サマーディという言葉の定義が異なるのです。<br /> <br /> サマーディという言葉は謎めいていますけど、その定義は実のところ流派によって異なっています。<br /> そのように、言葉の定義が違いますから、実際の境地という観点を基準にすれば、言葉と表現は違えども、どちらも悟りという位置付けからしたら最終目標は同じだと私は考えております。<br /> <br /> 特にヨーガ系ではサマーディが悟りとほぼ同等に扱われていて、日本ですと禅が三昧がサマーディに相当します。サマーディの日本語の当て字がサマーディですので発音も似ていますね。サマーディに至って悟り、という位置づけです。<br /> <br /> 一方、特にヴェーダンタ学派とヴィパッサナー系においてサマーディはただの集中瞑想だと位置づけられていて、それぞれ悟りに相当する段階に別の言葉があてがわれています。<br /> <br /> ですから、ヴェーダンタ学派やヴィパッサナー系の流派に属している人が「サマーディを達成しても一時的なものなので、サマーディ瞑想が終わってしまったら元に戻ってしまうのであればそれは悟りあるいはヴェーダンタ学派におけるモクシャ(自由=悟りに相当)あるいはヴィパッサナー系のヴィパッサナー(観察=悟りに相当)ではない」、みたいなお話をするわけです。もちろんそれぞれの流派は自分の流派のことだけを言うわけですが、言葉の定義は違っていても、これらの流派はこの点について似通っているように思います。<br /> <br /> インドではこれらの流派とヨーガの系統の間で仲が悪い場合もあり、例えばヴェーダンタ学派の人がヨーガ系の人に対して「サマーディなぞ一時的なものだ」とか言ったりします。本人は罵ったつもりはなくて自分の流派に忠実に表現しているだけなのでしょうけど、そう言われたヨーガ系の人はカチンと来て喧嘩になったりするわけです。まあ、そうして喧嘩になるということはその人達の程度も知れるわけですけど、そもそも、そうして誤解が生じるのかというと言葉の定義が流派によって違うからです。<br /> <br /> 喧嘩というわけではないですけど、例えば、インドのヴェーダンタ系で勉強した人が日本のとある勉強会で「サマーディなんて一時的なものだからモクシャ(自由=悟りに相当)ではない」なんてしたり顔で言っていたのを聞いたことがあります。これはきっと本人が知らないだけなので悪気はないと思いますし自分が勉強したヴェーダンタ系の流派ではそのように教えられているのですからそれ自体は真実なのですけど、ヨーガ系やその他の流派に喧嘩を売っていると思われても仕方がないように思います。本人がどの程度自覚的かどうかは知りませんけど。<br /> <br /> 大抵の人は1つの流派でしか勉強しないでしょうから、このような誤解も生じるわけです。少なくとも、大切な言葉の定義くらい別の流派との違いを把握しておいてほしいものだと思います。他の流派で大切にしている言葉を軽く扱われたら嫌なのはどの流派だって一緒だと思いますが。<br /> <br /> ヴェーダンタ系あるいはヴィパッサナー系のサマーディの定義は上に述べた通りですけど、ヨーガ系はどのように表現しているかと言うと割と秘密主義で、サマーディが何なのかは流派に属してそれなりに修行を受けないと伝授してもらえません。<br /> <br /> ですけど、この時代であれば書物からその一端は垣間見ることができます。<br /> <br /> 肉眼だけでなく、心の眼によって目標がしっかりと捕獲された時、それをまことの精神集中と呼ぶのであって、即ちそれがディヤーナ(ダヤナ)の達成である。(中略)単に生理的機能として観たる「人間の心」は、決してサマディの境地には移行し得ない。人間には「生理的な心」とは別に、それに超越した「仏の心」というものがあり、此の仏心が自己顕現を行うことによってのみ、サマディの心境が顕れて来るのである。「ヨガ行法中伝(関口野薔薇著)」<br /> <br /> この著者はヨガナンダの流派で修行された方ですが、この記述は真実を示していると思います。であれば、サマーディとは単なる集中ではなく、心の本性とも言うべき深い心が現れてきた状態であると言えます。<br /> <br /> 禅の三昧(サマーディに相当)もこれと同様に、ただの集中ではありません。禅では日常生活の全てを禅として捉え、三昧(サマーディ)を日常生活にまで広げることを良しとしています。掃除をしている時も禅ですし食事をしている時も禅、何をしている時も禅なわけです。そして、そのような三昧の状態を一続きのものとして継続的に維持することが悟りの境地のしるしの1つとして説明されています。これは、ヴェーダンタ学派やヴィパッサナー系の言うような「サマーディとは一時的なもの」という立場とは異なっており、たしかにサマーディに達した修行の最初のうちは一時的なものですが、やがてそれが日常生活に広がってゆくものなのです。<br /> <br /> 同様の、日常生活そのものをサマーディにするというお話はヨーガ系の流派でも言われており、また、チベット系のゾクチェンでも言われています。<br /> <br /> ヴェーダンタ学派はサマーディをただの集中瞑想としていますが、私の見たところ、ヴェーダンタ学派が目標としているモクシャ(自由)がその他ヨーガ系などの流派のサマーディに相当しているように思います。ですから、ヴェーダンタ学派がモクシャ(自由)と言った時はヨーガ系のサマーディの言葉に置き換えて、同様に、ヴェーダンタ学派がサマーディと言った時はヨーガ系のダーラナ(集中)あるいはディヤーナ(瞑想)だと思えばいいわけです。<br /> <br /> ヴィパッサナー系もほとんど同じで、ヴィパッサナー系がヴィパッサナーと言ったらヨーガ系のサマーディに相当して、ヴィパッサナー系のサマーディはヨーガ系のダーラナ(集中)あるいはディヤーナ(瞑想)なわけです。<br /> <br /> ■ヴェーダンタ系のモクシャ(自由)= ヴィパッサナー系のヴィパッサナー(観察)= ヨーガ系のサマーディ(が日常生活にまで継続している状態)<br /> ■ヴェーダンタ系のサマーディ = ヴィパッサナー系のサマーディ = ヨーガ系のダーラナ(集中)あるいはディヤーナ(瞑想)<br /> <br /> であれば、これらの超感覚とも言うべきヨーガ系のサマーディの状態が日常にまで広がる、という特徴は割と多くの流派に共通していて、ただ、言い方が異なっているだけと言えると思います。<br /> <br /> そうは言いましても、境地が共通していてそれなりに大勢の人が同じような境地に達しているのならばお互いの流派はもっとわかり合える筈で、表現の違いで不仲になるということは、そのような境地に達している人が割と少ないのでは、と勘ぐってしまうのですが、どうなのでしょうか。聖者は喧嘩をしませんし、相手の境地もわかり合えるわけで、であれば、ヴェーダンタ学派とヨーガ系が特にインドで不仲になっているということは、それほど聖者は大勢はいない、ということなのではないでしょうか。たまに聖者が出てきてその流派が出来て、やがて真実が失われて教本だけが残っているようにも思います。そもそも聖者は流派や宗教を自分では作りませんからね。ブッダにしてもキリストにしても後に残った人が色々と解釈して流派を作ったわけで。きっと悟りの境地は共通していて、喧嘩する必要のないものだと私なんかは思います。<br /> <br /> 少なくともインドでは割とこれらの流派のうちいくつかは仲が悪いのですが、最近、その流派で勉強した人が日本に戻ってきているのですが、インドの争いのカルマを日本に持ち込まないで頂きたいと思っています。そもそもこの種の不和は日本にはありませんでしたから、インドで勉強した人が持ち込まなければ日本でそのような不要な争いは起こらない筈なのです。<br /> <br /> 少なくともそれなりの悟りに至るまでは謙虚でいたいものです。それなりの悟りに達すれば自然に謙虚になるといいますかそもそも争う必要のないことだと理解するわけですから、謙虚でいることに気をつけるのは最初だけでいいわけです。<br /> <br /> このあたりの説明はチベット系が一番明確でわかりやすいように思います。特にゾクチェンによる説明は明確です。<br /> <br /> 三昧(サマーディ)と修習は、まったく別のものであり、はっきり区別する必要がある。リクパすなわち覚醒した本来の叡智は、制限された存在のありようや時間の中の過程の外部にあり、それを超えている。本来の叡智は、心を超えている。それに対して修習は心のはたらきにかかわっている。だからそれは制限されたものだし、時間の中の出来事であるといえる。「チベット密教の瞑想法(ナムカイ・ノルブ著)」<br /> <br /> このように、心とそれ以上とを別物として捉える前提に立てば、サマーディが心を超えているということが理解できます。<br /> <br /> そして、その前提があってこそのサマーディが多くの流派で言われているのですが、流派によってはサマーディが普通の心の働きの特に集中に関する事項であると定義しているわけです。この、全く異なる事柄をごっちゃにして述べていたらサマーディが何なのかも全くわからないことになります。<br /> <br /> ■普通の心の動き = ヨーガのダーラナ(集中)= ヨーガのディアーナ(瞑想)=ヴェーダンタ学派のサマーディ=ヴィパッサナー学派のサマーディ<br /> ■(普通の心を超えた)覚醒した心の本性(リクパ)=ヨーガのサマーディ(がずっと続く状態)=ヴェーダンタ学派のモクシャ(自由)=ヴィパッサナー学派のヴィパッサナー(観察)<br /> <br /> このように分類すればどちらのことを言っているのか明確です。であれば、上記のようにヴェーダンタ学派の人がサマーディと言っても普通の心のことを言っているということがわかりますし、ヨーガ系の人がサマーディというときは覚醒した心の本性であるリクパのことを言っているということがわかるのです。<br /> <br /> 厳密に言えばヨーガのディアーナ(瞑想)は普通の心と覚醒した心の本性(リクパ)の橋渡しのような状態ですのでそれぞれ半分ではあるのですがそうは言いましても瞑想と言うと基本は集中ですので一般的には上記の分類でそうは間違っていないと思います。<br /> <br /> 覚醒した心の本性は少しづつ動き出して確固たるものに育ってゆくのですが、勉強する上では「いきなり覚醒する」みたいな教え方をする場合が多々あります。そのように急激な覚醒という場合もあるのでしょうけど、基本的には少しづつ育つもので、最初は覚醒した心の本性(リクパ)が瞑想中にだけ少し動いている状態になり、やがて少しづつ瞑想を終えてからも覚醒が続くようになり、やがては日常生活全てが覚醒した心の本性(リクパ)によって意識されるようになります。<br /> <br /> これらは往々にして言葉の定義による誤解なわけで、もっと本人たちが言葉の定義にきをつけて説明してくれればと私なんかは思ったりするわけですけど、そこは私にはどうすることもできませんから、私はこうして書くくらいしかできないわけです。<br /> <br /> Fri, 07 May 2021 00:00:00 +0900 他人の怒りを感じる https://w-jp.net/2021/2343/ <br /> 他人に意識を向けたり、あるいは、自分に対して意識を向けられたりすると他人の怒りを感じることがあります。<br /> <br /> それは、内なる自分自身の怒りとは異なるものです。<br /> <br /> スピリチュアル的にまだ成熟しておらず心が不安定な場合は相手の怒りと自分の怒りとを見分けることができませんので全て自分の怒りとして受け取ってしまうことが往々にしてありますけど、実際には怒りやフラストレーションは相手のものであることもかなり多いので、相手の怒りを自分のもののように勘違いする必要は全くないのですよね。<br /> <br /> 一時的に相手の怒りを感じたならばすぐに離れればいいだけで、向こうが一方的に自分に対して怒りを向けているのならばそのまま無視して去るのを待つのが基本で、しばらくすれば興味を失って去っていくことがほとんどです。<br /> <br /> 誰かが一方的に自分に対して怒りを向けてきた時は無視が正しい判断だというのは古典や仏教などでも言われていますが、その理由としては、このように、意識が怒りを伝搬するからなのですよね。<br /> <br /> こちらが相手に対して何か考えるとその意識は相手に繋がりますから、その相手は私のことを考えて、それが怒りの感情であれば怒りが再発し、その怒りは私の方へと再度やってきます。<br /> <br /> 2人の間でテレパシーによる怒りの増幅みたいなことが行われることもよくあります。もちろん離れていてもこれは行われます。距離はあまり関係ありません。<br /> <br /> 相手の怒りは私はどうすることもできませんから、ほおっておくしかないわけです。ですから、古典の聖典や仏教などでは怒る人に対しては無視をしましょう、と言われているのです。<br /> <br /> (1-33) 友情、慈悲、喜ぶこと、無関心。(中略)もし思いの対象が不幸なものであれば、それに対し、慈悲深くなければならない。もしそれが良いものであれば、われわれは喜ばなければならない。それが悪いものであればわれわれは無関心でなければならない。「ラージャ・ヨーガ(スワミ・ヴィヴェーカーナンダ著)」<br /> <br /> 聖者であればもしかしたら愛を送るとかそういうこともあるのでしょうけど、一般人からしたら無視が基本でいいと思います。と言いますのも、怒りの対処は基本的に自分自身がすべきで、怒りの後始末を他人がしてしまうと十分に学べない時もあるからです。怒りが増幅して手がつけられない時に介入もありかなとは思いますけど基本はほおっておくのがいいと思います。<br /> <br /> Thu, 06 May 2021 00:00:00 +0900 お金が最上だという価値を見直す必要性 https://w-jp.net/2021/2342/ <br /> ここ最近、度々、このようなメッセージが降りてきています。これは個人的なお話もありますけど、どちらかというと社会的なメッセージとして広く降りてきているように思われます。<br /> <br /> そもそもお金とは道具であるとはよく言われていることですが、そうは言いましてもこの世の中はお金がなければほとんど何も出来なくなっているわけです。<br /> <br /> お金とは何かというと結局はただの紙切れで、権力とはそのような紙切れを好きなだけ刷ることができる政府が握っているということです。<br /> <br /> 日本国ならまだマシですけど中国が好きなだけ紙幣を擦りまくって日本の土地や会社を買いまくっています。<br /> <br /> 会社はまだマシですけど一番売ってはいけないのが土地で、土地というものは一旦手放したらそうそう戻ってこないものだと認識する必要があると思います。昔から、土地は手放すものではない、土地を貸したら戻ってこない、みたいなお話は言われていますけどそれは真実で、特に中国に土地を売ったり貸したら二度と戻ってきません。<br /> <br /> ですから、一時のお金のために土地を売ってはいけないのです。<br /> <br /> お金に関するメッセージで、特に何度も降りてきているのは土地に関する注意ですね。とにかく土地を売ってはならない、と言っています。<br /> <br /> とは言いましても個人的にはそんな土地はほとんど持っていませんので私自身に対するメッセージというよりは地域的な広範囲へのメッセージのように解釈しています。<br /> <br /> 日本の土地は外国やよくわからない人に売らないようにしなさい、とのことです。<br /> <br /> そこから邪気が入ってくる、という説明もあります。売った人がポータルになってもともと所有していた土地と新たな持ち主とが結びつき、土地が荒らされる、ということのようです。もともと持っていた所有者は土地と親和性がありますから、土地も油断していて、侵食されやすいので注意、とのことでした。<br /> <br /> その他にも、食べ物に関して人々が無頓着すぎて、お金と食べ物を結びつけすぎている、というメッセージも来ています。<br /> <br /> 食べ物が首輪あるいはアメとムチのアメのように使われており、安い食事を与えることでうまく人々をコントロールするというシステムが出来上がっています。お金が最上だから安い食事が最上ということになり、不健康な冷凍食品を温めただけの安いレストランが蔓延しており、それ故に、人々が更に不健康になって真理から離れるという状況です。<br /> <br /> いずれも昔から言われていることで特に目新しいお話ではないとは思いますけど、ここ最近、この種のメッセージが少し増えたかな、と思っています。<br /> <br /> 個人的には、農作物に関しては共有にするシステムが出来てもいいのではと思っています。農作物は順調な時はいいですけど台風でやられたら全滅したりしますのでいい時と悪い時の差が激しくて、例えば農地を共有にして農民は公務員にした上で農作物は国民に配るシステムにしてもいいと個人的には思っています。<br /> <br /> もちろん、現時点でそのようなことが実現する可能性は限りなくゼロなわけですけど、昔から、農民の一揆は不作時における年貢の取り立てが厳しかったことに発端がありますので、農民からしても公務員になることは悪い話ではないとは思うのですが。<br /> <br /> そして、そうすることで、人々から食事に関する不安を取り除き、お金が最上だという価値観を揺るがせることができるわけです。<br /> <br /> もちろん、手をかけて作った無農薬の作物をお金で売ることは否定しませんし、公務員にならないという選択肢もあっていいと思います。食堂に関しては今まで通り有料でいいとは思いますが、加工していない生の食材に関しては、普通の農協に流通しているようなものに関しては国民に配るのは悪くないお話のように思います。<br /> <br /> これだけで、十分とは言えませんし少しではありますがお金の価値観を揺るがせることができるわけです。<br /> <br /> このままお金が最上という価値観を作っていくと国の有り様に問題がある、という警告に対する政策としては個人的にはありかなと思っています。<br /> <br /> Wed, 05 May 2021 00:00:00 +0900 悟っているのに悟りを探す人たち https://w-jp.net/2021/2341/ <br /> 真理を追求する人を見ていると、私からすると悟っているように見えるのに悟りを追い求めている人が大勢います。<br /> <br /> 悟りとは遠くにはなくて近くにあって見えていないだけというのは昔からよく言われているたとえ話ですが、近くにあるというよりは全ての人、その人そのものが真理を体現していて、悩んでいようがいまいが既に悟っていて真理そのものなわけです。<br /> <br /> ただ違うのは眠っているかどうかの違いであって、いわゆる悟っている人は目覚めていて真理に自覚的で全てが真理で悟っていると認識していて、眠っている人は自覚的ではないということです。<br /> <br /> どちらにしても全ては真理で全ての存在は悟っているのは変わりがないのですが自覚的であるかどうかだけが違うわけです。<br /> <br /> そのような状況の中、真理を探す人は何かを求めたり変わろうとしていますが、もともと悟っているわけですから何者にもなる必要はなく、既に悟っていることを自覚すればいいわけです。<br /> <br /> これは昔の仏教でも禅が出てくる前の時代に誤解されていたことがあったようですが、既に悟っているのだから何もしなくてもいい、と言う考え方が当時の仏教の一流派にあったことに対し、禅は、本来悟っているからこそ悟りを自覚的に顕現するために修行が必要である、としていて、修行や真理の勉強とはそういうものなのだと思います。<br /> <br /> そうは言いましても、端から見れば、既に悟っている人たちが悟りや真理あるいはモクシャ(自由)を求めたり勉強しているのはある意味滑稽で微笑ましくもあります。基本的な生活に苦労がさほどなくてそのようなことに時間を使えるのは平和だと言うことでもあります。<br /> <br /> 自分が真理だと知る方法はいろいろあって、座禅だったり勉強だったりいろいろあります。ですけど、どちらにしても既に悟っているわけですから、ある意味、微笑ましく見えるわけです。<br /> <br /> 誰かに貴方は既に悟っていますと言ってもピンとこなかったりしますけど、悟りとはそもそも指摘できるようなものではないのて誰かに言われてわかるものではそもそもなくて、悟っている人でも誰かに悟っていると言われたら「なんじゃそりや」となるのが普通で、悟りとは自覚的であるからこそ、指摘がしにくいです。もし誰かに悟っていると言われてその言葉か響くのであればそう言っている人が悟っていて自分は気付かされているわけです。あるいは、自覚的に生きていて悟っているのであれば悟っている人にそう言われても何も変化がありませんから最初から悟った気付きの状態から変わらないわけです。言われてハッとして悟りを垣間見るのは悟っていない人が悟っている人にそう言われるパターンで、それ以外は何も起こらないわけです。よく、真理の業界で偉い先生と同じことを真似して言っても響かないのはそこに悟りの違いがあるわけです。<br /> <br /> この種の自己探求こそが悟りへの道なわけですけど、表現としてはいろいろあって、神の道とか自由を知ることとか自分を知ることとかいろいろ言われていたりしますが、真理の世界は割と自己探求の世界ですので、教えられたことが全てと思う人は向いていなくて、自分で探求しないとある程度の境地には達しなくて、だからこそ形としての手順や教義の違いはさほど重要ではなくて、全ての宗教やスピリチュアルの教えは大差ないと私は思うわけです。<br /> <br /> 形にこだわる人は別物だと思うでしょうし、一般的に言えば教えが違えばゴールは違うとお思いかもしれませんけど、そもそも真理の教えと言うのは表現が困難で文化的背景を元に説明されてきましたので、同一の根源の教えを違う表現をしているだけなのです。<br /> <br /> もちろん人によって誤解もあるでしょうしその教えの純度も違うでしょうけど、基本的な考え方としては最終的なゴールは一緒で、どの部分の教えがどの人に対して行われているかのみが異なっているわけです。どちらにしてもゴールは一緒なわけです。<br /> <br /> そして、そのゴールとは、実は全ての存在は悟っていて既にそのままで完璧でありのままで素晴らしい、という自由な視点・理解にあるわけです。その理解のために、まだ顕現していない、まだ理解していない、まだ気付けていないその真理を理解するために勉強したり修行したりするわけです。<br /> <br /> Wed, 05 May 2021 00:00:00 +0900 直感には2種類あるいは3種類あるので気をつける https://w-jp.net/2021/2340/ <br /> よくスピリチュアルで「直感に従うように生きると人生がスムーズに進みます」とか言いますけど、そもそも直感には大きく分けて2つあって、1つがいわゆるチャネリング系のお話で、もう1つは自分のハイヤーセルフあるいは高次の守護霊からのメッセージを受信している場合です。<br /> <br /> そして、人生がスムーズに進むのはハイヤーセルフあるいは高次から受けてる場合で、チャネリングであってもそれなりにうまく行く場合も多々あるにはありますけどその場合はどこかの生きている人間のだれかが言っているのとそう変わらなかったりします。<br /> <br /> これはどういうことかと言いますと、直感というのは言葉で言うと簡単ですけど、普通の場合に受けるチャネリング系の直感というのは誰か他の人の思いなわけです。チャネリングなんてしてないよ、と思っていても、自分の頭の中で浮かんでくる思いが実はチャネリングだという場合も多々あるわけです。それがチャネリングだと認識しているかどうかの違いこそあれ、受信自体は割と誰でもしているように思います。<br /> <br /> チャネリングと似たようなお話で、オーラの融合で他人の思いが伝わってくる、という場合もありますけど、それも直感として認識される場合があります。これはチャネリングとは違うのですけど他人の思いであるという点に関してはチャネリングと同じ分類になります。<br /> <br /> この、2種類、あるいは3種類の分類があるわけですが、ハイヤーセルフあるいは高次の守護霊からのメッセージを受けることが本来直感と呼ぶに相応しい直感で、チャネリングで受けている場合はただ単に誰か他の人の意見をテレパシーで聞いているということです。<br /> <br /> 1.ハイヤーセルフあるいは高次の存在、高次の守護霊などから受ける直感あるいは心の声<br /> 2.チャネリングで他者の意見をテレパシーで受ける場合<br /> 3.オーラ融合で他者の思いや意見を雑念あるいは直感として受信する場合<br /> <br /> ただ、人によって言い方は色々あって、どのような実態を何と言っているのか、それぞれに特徴があるので注意が必要です。<br /> <br /> オーラの融合の場合は直感というよりは意味不明な思いが突如浮かんで来ますので雑念に近いものになり、たまたま自分の関心事に近い場合のみ直感のように思われたりもしますけど殆どの場合はただの雑念になって直感と言うにはほど遠いものになります。たまに、例えば誰かと近くにいてお互いのオーラが不安定になる時にオーラが融合して相手の意見が自分の中に飛び込んでくる場合があり、それも直感として扱われる場合が時々あるにはあります。飲み会あるいは会議などで他人のオーラと融合して他人の意見を読み取る、というような場合ですね。オーラが不安定できつい性格な人が早く出世するというのはこのあたりにも理由があって、他人のオーラと融合することで他人の意見を奪い取っているわけですね。殆どの場合はお互いにオーラに関する理解が足りないでしょうから先に言ったもの勝ちになって、意見を言う人が出世することになりますけど、往々にしてオーラが不安定で他人の意見を吸い取っているだけで自分の考えではない、ということがよくあります。<br /> <br /> このオーラの融合はスピリチュアル業界でも理解が薄いような気がしていて、ワンネスだとかヒーリングだとか何かに理由をつけてオーラの融合が行われていて、オーラ融合をすることで他人のことを理解してカウンセリングで伝えることで優秀なカウンセラーとみなされている場合もあります。これは、カウンセラーが受けている直感にしても3種類のそれぞれの種類があるということです。オーラ融合する場合はお互いのカルマが多少は行き来してしまいますので、未熟なカウンセラーのカウンセリングを受けること自体が実はリスクがあるわけです。スピリチュアルなカウンセラーでオーラがとても広がっているような人の場合は相手のことを鋭く指摘して一見すると優秀に見えたりしますけど、実のところこのようなオーラの融合を基礎としているのであれば相手を理解して指摘するということ以上のことはなかなか言えないのが現実です。それと加えて高次と繋がっている場合もありますけど、高次と繋がっているのであればオーラ融合は不要なのではないかと私などは思うのです。オーラ融合に関しては、ワンネスといいつつ自分のカルマを相手に押し付けるようなスピリチュアルなやり方も存在していて、本人がそうと意識しているかどうかはそれぞれですし、本人はそうは言わないでしょうけど実はスピリチュアルなセミナーとかにはそのような被害を受ける危険性もあるわけです。カウンセラーがオーラ融合で相談者を読み取ろうとすると相談者のカルマを引き受けてしまう場合もあるわけです。<br /> <br /> ハイヤーセルフあるいは高次の存在からの直感を受ける場合、自分のオーラを安定させて他人のオーラと接触させない、ということが基本になります。その上で、他人からのチャネリングであればはっきりとチャネリングだと認識し、その場合は心の声だからと言って何でもホイホイ従うのではなくて他人から言われたのと同じような対応をすることが重要です。そして、ハイヤーセルフあるいは高次の存在からのインスピレーションを受けた場合はそれと認識して、それが直感であると認識した上で行動に移すことが大切です。<br /> <br /> 高次から来た直感というのはすぐにそれが正しいとわかります。その指示に従わない場合は後でちょっと後悔するような種類のものです。直感を受けて、「あれ? それって必要?」と疑問に思ったり、あるいはすぐに忘れてスルーしてしまうような種類のものです。<br /> <br /> いわば、「こだま」のように小さく響くのが高次のメッセージの特徴で、心をそれなりに静かに保っていないと聞き取りにくいのが特徴です。<br /> <br /> 一方で、チャネリングになりますとはっきりと心の声として大きく頭の中に響いてきますので、それは直感というよりもただ単に誰か他の意識体から話しかけられているだけです。チャネリングしたからと言って凄いとかそういうことは全くなくて、ただ単に話しかけられているだけですので、時には、うっとおしいだけのこともあったりします。チャネリングなんて近所のお節介おばちゃんみたいなものだったり、あるいは頭の固い両親にしつこく言われるようなものだったりもするわけです。指示に従っても何かうまくいかなかったり自分のことをしっかりと理解していなかったり、どこかズレていたりします。これは直感というよりもただ単に誰か他の人の意見というだけです。チャネリングにしても色々あって、とてつもなく大きな声だったり、あるいは、ちょっと聞こえにくい声だったりすることもありますけど高次のメッセージの「こだま」ほど小さくはなくて基本は聞こえやすいです。<br /> <br /> 高次の直感の方は時空を超えて未来の行く末に影響します。大抵は些細なことですけど、時に大きな違いを生むことがあります。<br /> <br /> これを、直感に従う、ということもできますし、心の声に従う、ということも出来ます。言い方の違いだけで同じことですけど、どちらにしても、高次のインスピレーションとしての直感あるいは心の声と、チャネリングあるいはオーラ融合によるテレパシーあるいは直感とはかなりの違いがあるということです。<br /> <br /> Mon, 03 May 2021 00:00:00 +0900 眉間に集中する瞑想から胸および体全体を意識する瞑想へ https://w-jp.net/2021/2339/ <br /> 元々、基本は眉間に集中する瞑想をしておりましたが、胸のハートを意識しつつ体全体のオーラを整える瞑想へと変化してきました。<br /> <br /> 眉間と言っても後頭部の方が安定している時期があったり、眉間に文字通り集中する瞑想をしていた時期もあったりと色々ではありますけど、特に最近で言いますと眉間に集中する瞑想から胸のハートを意識する瞑想へと変わってきています。<br /> <br /> 胸の奥の創造・破壊・維持の意識が基本になって、その創造・破壊・維持の意識が眉間に流れ込み、やがては体全体を包むようになり、しばらくは今までの延長線上で眉間に集中してサハスララにオーラを通す瞑想などをしてきましたが、ここにきて、サハスララにそれほど興味がなくなってきた、というと語弊がありますが、サハスララよりも胸を意識して体全体を創造・破壊・維持の意識で包んでそのいわゆるオーラが肉体の周囲からそれほど離れないように意識するような瞑想に自然に変わってきました。<br /> <br /> サハスララ自体は静寂の境地と繋がっていてそれが高次の意識と繋がっているといえばそうなのかなとは思いますが、それはあくまでも自分がいま生きているこの地上の次元とは少し異なっていて文字通り高次元のお話ですので、私が私として存在するのはあくまでもこの地上の世界であって、それはハートの奥底に眠っていた創造・破壊・維持の意識こそが私の根源であると思うのです。<br /> <br /> 創造・破壊・維持の意識はオーラと言えばそうですけど、昔と比べてオーラの質自体も変化したように思います。昔はオーラと言っても単にエネルギーの層のような薄いものでしたけど、創造・破壊・維持の意識が出てきてからは、オーラが単なるエネルギーの層というよりも創造・破壊・維持の意識を体現するものへと変化してきました。これは理解が変わったというだけでなく実際にオーラの質が変わったと理解しております。エネルギーの量自体も増加したように思います。<br /> <br /> もともとクンダリーニが活性化し始めてから体がぽかぽかしてマニプラ優勢からアナハタ優勢へと変わってきましたが、創造・破壊・維持の意識はアナハタ優勢の時に胸の奥で感じていたエネルギーともまた異質のものです。<br /> <br /> マニプラ優勢およびアナハタ優勢だった頃は今から思えば少し粗いエネルギーが激しく波打っている感じで、熱を発していました。この創造・破壊・維持の意識も熱感はありますけど、より上等の熱になったと言いますか、粗が減った熱と言いますか、素直な熱になっています。アナハタ優勢だった頃と比べると、静かな熱さの熱に変わってきています。<br /> <br /> その、静かな熱である創造・破壊・維持の意識が胸から最初広がって頭および体全体を包むようになってきており、その体全体のオーラを意識して自らの体の周囲に安定させるような瞑想に最近は変わってきています。<br /> <br /> こうしたからと言って特に静寂な境地になるとかそのような変化はなくて、静寂の境地は眉間や特にサハスララのエネルギーと関連していますのでこのような状態と組み合わせてサハスララにエネルギーが満ちれば静寂の境地にもなりますけどそれとこれは独立したお話で、ここでは体全体のオーラを意識すれば単に安定する、というくらいのものではありますけど、たったそれだけのことでありますけど、それが新たな世界での知覚を開かせる鍵かな、という気がしてきております。<br /> <br /> 霊視や霊聴というとアジナ・チャクラだとか松果体だとか脳下垂体とかのお話がよく出てきますけど、松果体はただ単に肉体に対応している器官がそれが相当するというだけのお話で、実際は、微細体としての働きは体全体のオーラで動くのだと思います。そこに肉体は関係ないですし、肉体の五感で認識するのならば対応する器官である松果体を使うということにもなるのでしょうけど、それ以前に、きちんとアストラルの体を制御して動かすことができなければどうしようもないわけで。<br /> <br /> いわゆるアストラル体あるいは幽体みたいな次元で動くことと、アジナ・チャクラとか松果体とかは、それ自体は独立したお話なわけです。<br /> <br /> アジナ・チャクラはアストラル体にあってそれに対応した肉体の器官が松果体だったりするわけですけど、松果体は肉体の階層で直感や霊感あるいは霊視を行うためのもので、アストラルの世界で幽体が動くというお話は松果体とは別のお話であるわけです。アストラル体がそれ自体で動くことはできて、それを五感で知覚するかどうかは別のお話なわけです。<br /> <br /> 一応は五感と言っていますけど松果体のお話は第六感みたいなところにはなりますけど、そうは言いましても肉体で認識していることに変わりはありません。<br /> <br /> アストラルの世界で動く事ができるのかどうかは五感とは関係がありませんのでアジナ・チャクラとか松果体とかは直接は関係がなく、アストラルのお話は体全体のオーラが一体となって動くことができるかだけのお話になりますので、ハートを足がかりにして体全体のオーラを意識することがアストラル体としての活動になるのかなと思います。それが基本になって、五感あるいは六感で認識するためにアストラルとの橋渡しをする松果体とかがあるのかなと思うわけです。<br /> <br /> Sun, 02 May 2021 00:00:00 +0900 スピリチュアルでオーラを繋げる危険性 https://w-jp.net/2021/2338/ <br /> スピリチュアルと言いますと「一緒に」だとか「ワンネス」みたいなお話がよくありますけど、それはオーラを繋げるということで、一蓮托生になるということです。カルマも一緒になって苦労も喜びも分担して一緒に成長してゆくというお話はありますのでそれは否定しませんけど、それと意識せずに実質そのようなカルマや喜びの一体化を同調圧力でさせられているのがスピリチュアル業界の実態かなと思います。<br /> <br /> これは、オーラあるいはエーテルと言っても良いものに関する知識の不足が原因です。<br /> <br /> 人は基本的には個別の存在であって、カルマや学びおよび人生の目的も違ったりするのに他人のそれらと一緒くたにすることがスピリチュアルだったりワンネスだと理解されています。実際、そのような説明の仕方はないでしょうし、説明としては個人の人生を生きましょうとか言ってこれらのことを否定して「そうではなくて、個人として生きるのです」みたいなことを口では言ったりもするでしょうけど、オーラという観点から言ってワンネスを主張していたり同調圧力で一緒になるのが当然みたいなスピリチュアルをやっているとカルマやら学びやら人生の目的が他人と一緒になってごっちゃになってしまいます。<br /> <br /> これは化学反応みたいなもので、いくらその人が「私は私」と思っていたとしても、オーラが接触してオーラが融合してしまうとそこで他人と一緒になってしまってカルマや学びおよび人生の目的が他人と共有されてしまうわけです。そこに個人の意思としての個の追求があったとしてもオーラとして融合してしまえばそのような意思すらも他人と共有してしまうことになるわけで、ですから、オーラの接触およびワンネスみたいなお話は単にお話を聞くだけならオーラの接触がないから危険性はないですけどワークショップや学びのグループなどで他人と一緒になる時にそれをしてしまうとオーラが融合してしまってカルマが一体化してしまうのです。<br /> <br /> これらの危険性がスピリチュアル業界ではあまり認識されていなくて、オーラが広がった方がいいという誤解、あるいは、他人の事がわかるようになると凄い、と言うような間違ったヒエラルキーが出来上がっているような団体もあります。<br /> <br /> 他人のことがわかるというのは2つあって、1つはオーラが接触して融合することで他人のことがわかって同時に自分のことが他人にも伝わるというお話。もう1つは純粋な意識に繋がって他人のことが分かったり意識がテレパシーとして伝わってくるというお話とがあります。前者は単にオーラが融合しているだけで割と誰でもできることです。後者はスピリチュアルがそれなりに発達しないとできません。前者のやり方で他人の事がわかったとしても大したことがないのですが、そのことでスピリチュアルのワークショップをしたりして面白がっている人たちも大勢いますけど、それはオーラの接触をしておりますので、本来、危険なことです。<br /> <br /> そうしたワークショップではオーラを広げる、ということをしています。そうして広げたオーラに他人のオーラが接触して情報交換がなされるわけです。接触した部分はもはや「自分」とか「他人」という感覚がなくなって、離れた時に残った部分が自分ということになるのですが、融合したオーラの部分は元々自分だったオーラと他人だったオーラとがごっちゃに混ざっています。そこに他人のカルマがあったとしたら他人のカルマを抱えてしまうことにもなります。<br /> <br /> 正しいスピリチュアルの場合は、むしろオーラを閉じて体の表面 6mm くらいの幅で収めることを学びます。普通の人の場合は数cmだとか落ち着いた人でも1cmくらいはありますけど、6 mm、あるいは、もっと集中して 2 mm 前後にまでオーラの幅を狭めると他人と触れ合ってもオーラが外に出て他者とオーラの融合をしなくなります。そうすることで健康に生きられるわけです。<br /> <br /> 霊媒体質みたいなお話はオーラが安定していなくてゆらゆらと広がっており、他者のオーラと接触してしまうが故に他人のことが意図せずして分かったり不快感および死靈のようなものに影響されてしまうわけですが、霊媒体質はお祓いをして治すというのは一時的なもので、そのようなお祓いは効果がないことも多くて、根本的に治すには自分のオーラを安定させて他人と接触させないようにすることが必要です。そうなると他人に頼ることはできなくて自分で瞑想するなどしてそのようにする必要が出てきます。<br /> <br /> スピリチュアル業界ではそのように霊媒体質で何か見えないものがわかると凄いという風潮がありますけど、実際には、それがオーラの接触で理解しているというレベルであれば逆にそのことはオーラが不安定だというマイナス要素であったりするわけです。<br /> <br /> それとは別に、オーラは凄く安定していて体の表面から 6 mm くらいにいたままで、必要に応じてオーラを伸ばす、ということもできますけど、その場合もオーラが他者と融合してしまいますのでお勧めしません。<br /> <br /> オーラを安定させたまま、オーラを伸ばしたりもせず、自分の奥底の高次の感覚と繋がることで他者を理解することも出来ます。これが本当のスピリチュアルですね。<br /> <br /> あるいはもっと別な方法で、幽体離脱で他者の過去と未来をも含めて時空を超えて俯瞰することもできますけど、これは割と生きている人間が他者を観察することに近いです。<br /> <br /> その組み合わせで、オーラを安定させたままオーラを伸ばしたりせず自分の奥底と繋がったまま高次の感覚を働かせつつ幽体離脱した場合は時空を超えた先でもその高次の感覚が働いておりますので、具体的に過去や未来のその人の生きざまを観察しつつ高次の状態を把握することができますが、そうは言いましても、言葉で説明したところでオーラの融合とこの高次の感覚との違いは言い表すのが困難ですのでこのくらいにしておきます。 <br /> <br /> どちらにせよ、オーラを接触させて情報を引き出したりするのは割とスピリチュアルの良くないやり方であると私は思っているわけですけど、割と有名な人であったとしてもこのやり方をしていて著名セミナーとかでも教えられたりしていますので、オーラの融合によって情報を引き抜く方法はスピリチュアル業界では割と常識みたいに扱われていたりしますけど、実際のところ、危険が多いので私はお勧めしません。<br /> <br /> オーラを一旦融合させてしまうと「分離」というのは出来ませんので、後悔しても無駄です。他者を理解して、結婚みたいに一蓮托生すると覚悟を決めてからのオーラの融合ならばありだと思いますけど、よくわからない他人とオーラの融合をするのは危険しかないと思います。個人的には結婚相手すらもオーラはそれほど融合しない方がいいと思っていますけど、それは人にもよるかもしれませんね。一緒に暮らしていると多少はオーラが融合しますので完全に分離というのはできないですけど、それでも、基本は個人は個別の人生を生きているわけですからカルマや人生の目的は別になるわけです。<br /> <br /> Sun, 02 May 2021 00:00:00 +0900 瞑想とは心の波を静かにすること https://w-jp.net/2021/2337/ <br /> 瞑想について色々と言われていますけど、基本はそういうことで、同じことを「集中」と言ったり「観察」と言ったりカタカナでヴィパッサナー(観察)とかサマタ(集中)とか言っているだけのことで、同じことです。<br /> <br /> これは流派によって解釈に違いがあって、それでも実態は同じことかなと私なんかは思っておりますが、日本の場合は天台小止観で語られていることが基本になっているようでそこでは題名の通り止観であって「止(シャマタ、集中)」と「観(ヴィパッサナー、観察)」が瞑想のことだと定義されています。<br /> <br /> あるいは、流派によっては瞑想とは集中のことだと定義されていて、例えばヴェーダンタ派ではそのような解釈になっていてサマーディ(三昧)も集中のことだと説明されていたりもします。<br /> <br /> 一方で、ヴィパッサナー系の流派では瞑想とは観察のことであると定義されていて、集中は瞑想ではなくて観察が瞑想だと解釈されています。<br /> <br /> チベット系にもこのような集中と観察という区別はありますけど、それよりもゾクチェンの見解を元にした「普通の心」と「心の本性(リクパ)」による働きとしてこれらが説明されています。<br /> <br /> どれも同じことを言っているわけですが、人によっては違ったものだと理解するかもしれませんし、流派による解釈は異なっていることもあるかと思います。それはその流派に属しているならば好きに解釈すればいいかとは思いますが、私は同じだと思っております。<br /> <br /> これらは色々と説明はあれど、基本は心の波を静かにすること、という点では共通しています。<br /> <br /> 流派によっては、特にヴィパッサナー系の流派ではこのことは重要視されていない場合があって、ヴィパッサナー系にも色々とありますから流派にもよりますけど、流派によっては、心の波を静かにすることを重視しない流派があります。<br /> <br /> とは言いましても、基本としては、これら全てに共通していることとして、心の波を静かにすることがあるわけです。異論はあったりするでしょうけど、基本はそうだと私は考えております。<br /> <br /> これはどういうことかと言いますと、チベット系の見解に即して考えるのが一番すっきりするかと思います。<br /> <br /> 心の波を静かにするというのはチベット系の言うところの「普通の心」のお話です。<br /> <br /> 一方、「心の本性(リクパ)」は、しっかりと働き始めたならば普通の心に惑わされずに常に働き続けるようになりますので、そうなりさえすれば心の波が静かかどうかというのはさほど関係がなくなってくるのですが、普通の場合はこの心の本性(リクパ)はあまり動いておらず、普通の心の雑多な働きでリクパは覆い隠されて見えなくなってしまっているわけです。<br /> <br /> ですから、瞑想の基本的な順序として、普通の心の雑多な動きを沈めて静かにする、という手順が先に来るわけです。<br /> <br /> その最初の手順を「集中」と呼ぶのかあるいは修行の前段階の「加行(けぎょう)」と呼ぶのか流派によって色々と違いはありますけど、本質的なところで言うと心の動きを鎮める、という段階が最初に来るわけです。<br /> <br /> そうして心の動きが静まってくるとやがてリクパの動きが出てくるわけですが、それが流派によっては色々と言い方の違いはありますけど、例えば「観察(ヴィパッサナー)」と呼ばれたりするわけです。<br /> <br /> これは一般用語で言いますと「客観視」と呼ぶこともできます。<br /> <br /> 客観視と言うと頭で考える論理の客観のことを想像してしまうかもしれませんけど、頭で考える論理の客観および客観視は瞑想などしなくても普通のこととして存在しているわけですけれども、ここでいう瞑想における意味としての客観視は最初は誰しもが出来るわけではなくて、瞑想としての客観視はこうした心の本性(リクパ)によるものですから、最初はとてもその力が弱いかほとんどない状態なわけです。<br /> <br /> 流派によっては集中瞑想や心の動きを鎮める段階をスキップしていきなりリクパに働きかけます。<br /> <br /> そうは言いましてもどの流派でも基本はステップを踏むわけですが、流派によっては、例えばチベット系の流派によってはまずリクパの本質に働きかけて、足りない部分を補うために基本の修行を行う、ということが行われたりするようです。<br /> <br /> 一方で、流派としてこうした基本のステップを踏み越えて、あるいは、一定の修行をしてしまえばそれで良しとして早急に心の本性(リクパ)のステップに進む流派もあったりします。<br /> <br /> こうした段階というのはあるべくしてあるわけで、まだ準備が整っていない場合に先の修行をしたとしても全く理解できなかったりあるいは混乱を引き起こすことすらあります。<br /> <br /> この種のお話は速度を競うものではないので、早く進んだ方がいいとか遅いから駄目だとかそういうことは全く無いのです。あるべくところでなすべきステップにいればいいだけのお話で、基本ができていなければそれをすればいいだけです。<br /> <br /> 早急に先に進もうという流派に属している人は、往々にして早いステップを進もうとして先で詰まってしまい、結局、戻ってやり直しになったりします。本人がそれに気付かずに先のステップに進んだと思っていても全然それができていなかった、なんてこともあります。<br /> <br /> 流派のやり方として、集中瞑想は初歩の段階だから観察だけが重要で観察をすることが早く成長できる、と言って集中瞑想をおろそかにして、集中瞑想をしないわけではないのでしょうけど観察瞑想を主にしていれば良いと言って観察瞑想の真似事で例えば体の観察とかして観察瞑想っぽいことをしていたりもしますけど、体の観察は五感に属するものですのでここで言っているリクパの観察瞑想とは異なるわけです。体の観察は観察という言葉を使っていたとしても五感の観察であるならばそれは集中瞑想でありますけど、流派によってはそれを観察瞑想と言っていたりしますから混乱があります。<br /> <br /> 観察瞑想と称して体の観察を行ったりすると不思議な感覚および認知をすることがあり、そうした体験はたまには瞑想の一時の味付けとして妙味を出してくれることはありますけど、そうした不思議な感覚は五感に属するもので、あくまでも集中瞑想の範疇なわけです。最初は心が安定していなくて静寂の境地にも達していない時にこうした不思議な感覚が出てくると何か凄いことのような印象を受けてしまいますけど、たしかにそれは瞑想をしたことで瞑想をする以前とは異なっていてそれなりの成長の印ではありますけど、そのような妙味の感覚は、静寂の境地がないのであればまだ集中の瞑想の段階であってリクパによる観察状態ではないわけです。<br /> <br /> 瞑想の基本は心を鎮めることであって、そうした妙味の瞑想は心を鎮めるどころか心が興奮してしまうことすらありますので、たまには面白いですけど、ほとほどにしておく必要があり、そうした瞑想における心の興奮すらもやがては収まってきて静寂の境地に達します。<br /> <br /> そうして静寂の境地に達して、最初はただ単に静寂で、歓喜が沸き起こる状態なわけですけれども、やがてはその歓喜が静まってきて、静かな喜び、至福というものに変わってゆき、そうした段階を経てゆくとやがては心の本性(リクパ)の働きが出てきます。<br /> <br /> リクパに達するにはそのような段階を踏むのであって、最初からいきなり観察瞑想をしてどうこうなるわけでもなく、であれば、集中瞑想がどうとか観察瞑想がどうとか言うのは本質から言ったら特に最初はあまり違いがなくて、とりあえず座って心を鎮めればいい、ということになります。<br /> <br /> 瞑想は説明するならばそのようにとても単純なお話で、瞑想の基本は集中だと説明されると「ふーん」とか「たったそれだけ?」とか思ってしまったりもするかもしれませんけど、実際のところ、その集中が進んで静寂の境地に達するにはステップが必要なわけです。<br /> <br /> 集中と言われてしまうと一点集中のことになりますけど、最初はそれでも良くて、ですけど、少し瞑想が進んでくると「集中」を少し違って解釈して、「波立っている水面を鎮めること」を集中だと解釈すれば良いと思います。<br /> <br /> まず最初の一点集中はアスリートあるいは仕事的な集中で、それはいわゆる「ゾーン」ということでもありますけど、一点集中をすることで心がそれだけになり雑多な雑念に惑わされなくなり物事のそれだけに集中して歓喜が沸き起こります。その段階ですと一点集中に至るまでに時間がかかったり数ヶ月あるいは数年に一度だけ一点集中のゾーンに入れる、みたいな断片的な集中になります。<br /> <br /> やがて、その一点集中のゾーンに意識的に入れるようになって、仕事においてゾーンに入って仕事をする、みたいなことが普通に出来るようになります。<br /> <br /> それを繰り返しているとゾーンとしての集中が静まってきて、割と日常の生活においても意識が敏感になってきます。それが「波立っている水面を鎮めること」という段階です。この段階ではまだリクパが完全には働いてはいませんが、少し出てきた段階です。とは言いましても瞑想的に言いますとまだリクパどうこうと言うよりは普通の心がかなり優勢に動いている状態になります。<br /> <br /> そうして瞑想を進めてゆきますと静寂の境地に達します。これはあくまでも普通の心のお話で、リクパが出ているかどうかは実のところ静寂の境地そのものとは直接的には関係がなかったりするのですが、静寂の境地で普通の心が静まった状態になると、心の奥底にあるリクパを探れるようになって、リクパとしての心の本性を意識的に動かせるように訓練できるようになります。<br /> <br /> それ以前は意識を動かすと普通の心が動いてしまっておりましたが、心を沈めて静寂の境地に達することで普通の心がほぼ止まった状態になることで心の本性であるリクパがどこにあって、そのリクパを動かすためには意思をどのように働かせればリクパが動くのか、瞑想中で確認できるようになります。そうしてリクパを動かし始めるといよいよヴィパッサナー状態(観察状態、サマーディ)になるわけですが、最初はまだその動きが弱い状態で、特に最初は普通の心を鎮めて静かにしておかなければリクパの動きはすぐに消え去ってしまいます。<br /> <br /> と、そのように瞑想は進んでいくわけですが、いよいよヴィパッサナー状態あるいはサマーディになったとしても最初は普通の心が静まっているという条件下においてのみリクパが働くわけで、かなり最初の段階から多少進んだ段階においても尚、心を鎮めるということは重要になっているわけです。<br /> <br /> 流派によっては心を鎮めるということをそれほどせずに「ある程度の集中は必要」とか言っている流派もありますけど、この種の静寂の境地は特に最初は特別の集中を必要として、それなりに瞑想が進めがそれほど集中は必要ではないですけど、瞑想のステップとして初心者に教える時にも「ある程度の集中は必要」などという説明では誤解があると私は思っていて、その程度の集中で済むということであれば最初からそれなりに瞑想状態にある人に対してしか有効ではない教えなのかな、とも思ったりするわけです。瞑想の素養が最初からそれなりにあれば「ある程度の集中は必要」と言われて「ああ、そうか」と納得もできるのでしょうけど、現代社会の雑多な騒がしい世の中で暮らしている人にそのようなことを言っても伝わらないのではないでしょうか。昔はそれでも良かったのかもしれませんし、その流派に独特の、それを補うような修行があったりするのかもしれませんので、それは流派次第なのかもしれませんが私にはよくわかりませんし、いくつかの流派で瞑想の説明を聞きに行った限りでは私はこのように解釈しました。<br /> <br /> 特に最初は色々と見聞きしましたけど、やはり瞑想の基本は心を鎮めることかな、と思うわけです。<br /> <br /> Sun, 02 May 2021 00:00:00 +0900 別のタイムラインでは地球が核爆弾で吹き飛んでいる https://w-jp.net/2021/2336/ <br /> 前にも少し書いた気がいたしますけど、そのように認識しております。<br /> ただ、瞑想や夢で見たお話ですので本当のことかどうかはわかりません。<br /> <br /> そのタイムラインでは日本が太平洋の沿岸諸国を合衆国として統治しており、北アメリカ大陸も西半分が日本の領土になっています。そこでは現代に至ってもアメリカ東部において奴隷制度が残っており、ヨーロッパも暗黒の中世がそのまま続いていました。一方、日本を中心とした太平洋沿岸部は平和そのもので、天国のような世界になっています。<br /> <br /> 日本国に中国も合併しており、アジア諸国および太平洋沿岸部および南米の太平洋岸まで統治が広がっております。領土内においての経済の自由および移動の自由が担保されていて、経済も活発で不景気知らずの状態です。<br /> <br /> 現在のタイムラインでは南米ボリビアのポトシ銀山の財をスペインが吸い上げておりましたが、日本がそこを制圧してからヨーロッパは貧乏になったのです。世界の大きな銀山である石見とポトシの両方を日本が抑えることでヨーロッパは急に貧乏になり、太平洋に手出しをしてこなくなったのです。<br /> <br /> それはそれで良かったのですが、不満を募らせたヨーロッパ諸国およびアメリカ東部が争いを始め、細かくはいくつかタイムラインがあるのですが、悪ければ地球をふっ飛ばしてしまい、良くても大陸が丸ごとなくなるようなタイムラインしかありませんでした。<br /> <br /> 私の見立てでは、おそらくはそのタイムラインから弾き飛ばされた魂がこの現在のタイムラインに流れ込んできて人口増加になっているような気が致します。<br /> <br /> 何故に地球が吹き飛ばされてしまったのかというと、直接的にはもちろんヨーロッパ諸国とアメリカ東部の白人国家が愚かにも核戦争を始めた、というのが原因ではあるのですけど、何故にそれを止めることができなかったのか、というと、本来はその役目を果たすべきだったライトワーカーが日本の暮らしに満足しきっていて、ヨーロッパの白人社会の奴隷制度とかその汚さに対して批判こそすれ積極的に止めに行かなかったのが止めるのに失敗した理由だったように思います。<br /> <br /> スピリチュアルな人は自分が汚れるのを避けて綺麗なまま暮らしたい、という欲求を持ってしまうことがありますけど、この場合、自分が汚れてでも積極的に汚い白人社会に関与してその中に飛び込んでいって止める勇気と行動力が必要だったということです。その行動力がそのタイムラインのライトワーカーに欠けていたが故にヨーロッパ諸国の核戦争を許してしまって地球が吹き飛んでしまうような事態になってしまったのです。<br /> <br /> その場面をはっきりと見ましたけど、そのタイムラインのライトワーカーは例えばアメリカ東部で使役させられている奴隷の解放のため、奴隷に話しかけて逃げるように説得し、協力者を辿りながら日本国に逃すことで奴隷から人間にする、という人道的な救助活動をしておりました。せいぜいそのくらいだったのです。それ事態は素晴らしい活動ではありますけど、それでは白人社会の核戦争を止めることはできなかったのです。<br /> <br /> ライトワーカーは白人と関わるのを避けて、せいぜい奴隷を助けるくらいのことしかそのタイムラインではしていなかったのです。<br /> <br /> そうして、日々、奴隷を助けながら「白人は酷い人たちだねえ」と罵りながら暮らしていたら、ある時、急に大きな地震が起きて、地面に座り込んでしまうような巨大な地震で驚いていたのですが、実は地球のコアが割れてしまい、やがて空が暗くなってきて、重力が軽くなってきて浮き始めたかと思えば空気が薄くなってきて気を失い、宇宙に漂いながら地球の全人類が滅亡したのです。<br /> <br /> そのすぐ前まで他人事のように白人の横暴を批判していたライトワーカーたちも全て巻き添えで地球丸ごと滅亡しました。<br /> <br /> これが、私の見た別のタイムラインで、いくつかバリエーションがあって地球が吹き飛ぶ場合あるいは大陸が吹き飛ぶ場合などいくつもあります。<br /> <br /> 聞く側としてはとりあえずこれはファンタジーと思っておいてもらえればいいのですけど、私としては割と現実にあるタイムラインかな、ともそれなりに思っていて、夢にしてはリアルすぎますので、現実とも思えてしまいます。<br /> <br /> 真理の世界では現実も夢も違いがないというのは古典の聖典でも言われていますので同じといえば同じなのでしょうけど、それにしてもリアルな感触で、人々が宇宙に放り出されて地球が滅亡するというのは恐ろしいものがあります。<br /> <br /> もし可能であればそちらのタイムラインを助けることで今いるタイムラインの人口爆発を解決することができるのでは、とも思っていますけど、どうでしょうかね。そちらの世界は日本国は平和で天国みたいな環境ですので、この現在のタイムラインより遥かに魅力的ですのでそちらが存続していさえすれば大勢がそちらに移ることでこの現在のタイムラインの人口問題は解決する気もしておりますけど、どうなのでしょうか。<br /> <br /> まあ、こんなこと言っても普通は荒唐無稽なお話に聞こえるでしょうから、とりあえず夢やファンタジーのお話と思って聞いて頂ければ十分ではあります。<br /> <br /> Sat, 01 May 2021 00:00:00 +0900 本当に神様らしい存在は天使くらいなもの https://w-jp.net/2021/2335/ <br /> 八百万の神として神様と呼ばれている存在は数多くいて、日本の神様とか自然の神様とか色々といますけど、本当に神様のような崇高な存在は天使くらいなものかな、と私は勝手に思っております。<br /> <br /> 大抵の神様は人間臭くて、特に日本の神様は荒々しくてこだわりが強くて、特に日本は日本神界から転生してきた人が数多く暮らしておりますので、雰囲気はまるで古き良き日本のような世界になっています。<br /> <br /> 歴史上の人物で神様になっているような存在がそのまま日本神界に暮らしていて、その本人がいたりもしますけど、特に有名でなくても徳がある人が多いですけど、特に有名な神様は割と荒々しいことが多いです。<br /> <br /> 海外の神様にしてみても人間臭くて、一般人が神様と想像した時の神様というよりもどこかの爽快な若者だったりこだわりのある職人だったり、この地上とそう変わらないと言えます。<br /> <br /> 神様というのは人とそこまで変わらないといえばそうですけど、徳のない人は神様とは呼ばれない感じな気がいたしますので、一応は神様と言うとそれなりの基準があります。だれそれが基準を決めているわけでもありませんのでなんとなく神様と言われたり言われなかったり、それぞれですけど、人間臭いというのは変わりません。<br /> <br /> 一方で、天使になりますと人間臭さが抜けて、それでも一応は人格というものはありますけど、人間界で例えるならば、育ちが良くて苦労がしたことがなく皮肉や愚痴などとは無縁の生活を送っている人が天使に一応は似ていると言えば似ています。<br /> <br /> 天使はあまり人間界に関わり合いを持たず、興味本位で人間界を眺めているのが基本です。<br /> <br /> ですけど、一部の天使は国の行く末に関与することもあって、例えばミカエルが自らの分霊をジャンヌ・ダルクとして転生させて国の行く末を変えたりもしますが、大半の天使は見守っているだけのような気が致します。<br /> <br /> ですから、天使と言えども人間臭さと無縁ではないですけど、神様あるいはそれに類した言葉で呼ばれている存在の中で純粋な神様に近い存在と言えば天使くらいかな、という気が致します。<br /> <br /> ちなみにミカエルは割と性急な性格ですぐに物事を動かそうとしますので、例えばジャンヌ・ダルクが短気な性格だったり織田信長もミカエルの分霊ですので気が短かったように思います。他の天使たちはそこまで急がない感じです。<br /> <br /> 性急な性格だったりして人間臭さはあっても基本的な純粋さを見ると天使くらいが神様と呼ぶに相応しいと個人的には勝手に思っております。<br /> <br /> Sat, 01 May 2021 00:00:00 +0900 瞑想をすれば普段の生活が楽になる https://w-jp.net/2021/2334/ <br /> マインドフルネスだとかサマーディだとかヴィパッサーだとか大層なことを言わなくても瞑想をすれば日常の普通の生活が楽なものになります。それだけでも瞑想をするメリットがあると思います。<br /> <br /> 重い沈むような気持ちや不快な感情および繰り返し浮かび上がってくる憎悪や不快な気持ちなどが瞑想をすることによって徐々に解消されてゆき、やがては日常生活が快活で心地のよいものに変わってゆきます。<br /> <br /> 仕事の成果だとか頭の回転だとか超越意識だとか小難しいことを言わなくても、それだけでも瞑想をするメリットがあると思います。<br /> <br /> 瞑想の最初はこうした不快な気持ちや感情および疑念の思いの繰り返しに直面しますので苦しい面もあるのですが、やがてはそれらが解消されてゆき、快活な快適な気持ちに変わってゆきます。<br /> <br /> 座っての瞑想それ自体が難しいのであれば、仕事に集中する、という手もあります。それもまた瞑想への準備になって、極度の集中というのは瞑想の一形態でもあります。職人が仕事に熱中したり、コンピュータエンジニアがプログラミングに集中することで瞑想状態に近くなって深い歓喜を感じたりします。アスリートが言う「ゾーン」という言葉に近いものがあります。<br /> <br /> そのゾーン状態そのものは瞑想状態の一形態ではあるものの本来の瞑想はもっと穏やかなもので静寂および静かな深い歓喜に満ちたものになります。その状態で日々を過ごすことで気持ちも穏やかに生活することができるようになるわけです。<br /> <br /> 朝は朝日が美しいことをそのまま感じる。<br /> 花が綺麗に咲いている。<br /> 山の連なりに雲が幻想的にかかっている。<br /> 空がとても青い。<br /> <br /> そんな単純なことが瞑想状態であるわけです。<br /> <br /> それは、聞けば「当たり前」であるかのように思えて「当たり前ではない」状態で、ありのままにこの世を感じられているのが瞑想状態であって、聞いて当たり前だと思うことと実際にありのままの状態に生きることとは異なるわけです。<br /> <br /> 聞いて当たり前だと思うのは思考のお話であって、実際にありのままを感じるのは思考よりももっと深いところで感じることのお話です。感じられているかどうかのお話が瞑想かどうかというお話であって、思考でその通りとわかるかどうかのお話ではないわけです。もちろん思考は準備としては有用ですけど瞑想状態としては感じられているかどうかのお話になるわけです。<br /> <br /> そうして、単純な当たり前のことをが当たり前に感じられるようになることが瞑想状態であるわけで、そうなれば不快な感情にあまり振り回されることなしに生きることができるようになります。それはもちろん程度問題ではありますけど瞑想をしていない頃と比べて他者に煩わされることが劇的に少なくなるわけです。<br /> <br /> 瞑想を始めるまでは他人から何か言われて不快に思うと何日もそのことが頭の中に残って次にあったときに仕返ししてやろうとか思う人はそこら中にいて、親戚や知人および同級生などとの面倒な付き合いが延々と繰り返されているのがこの世の中です。その面倒なループから抜け出す手段が瞑想であり、多くの人が瞑想をすることでそのループが断ち切られて人々が快適に暮らすことができるようになるわけです。<br /> <br /> 瞑想をすることで頭の回転が良くなったりスポーツのパフォーマンスが上がったりとかいう副次的な効果はありますけど、これらの何気ない普段の生活の変化の方がより重要に思います。<br /> <br /> Tue, 27 Apr 2021 00:00:00 +0900 私のグループソウルはこの時代の下準備をしてきた https://w-jp.net/2021/2333/ <br /> これまた瞑想や夢や幽体離脱の時に知ったお話ですので本当のことかどうかはわかりません。<br /> <br /> 私の転生の理由およびグループソウルの過去生の記憶を辿るとどうやらそのようで、この時代には手助けなしに地球にいる人達が自分たちの足で立ち上がってあるき出さなくてはならない、ある意味、とても辛い時期に来ているように思います。<br /> <br /> 時代にして約100年ほど前までは私のグループソウルはあれやこれやと各所でスピリチュアルな活動をして現代に至るスピリチュアリティの下準備をしてきたように思います。<br /> <br /> ある時はインドのグルになったり、ある時はイギリスで魔女をしたり、あるいは政治や国を動かしたこともあったように思います。<br /> <br /> それは、私のグループソウルの中に眠っている記憶として私の中にあり、私それ自身ではないですけれどもそのようなことがわかります。<br /> <br /> かと言って私が素晴らしいかと言えばそうではなくてあくまでも私は私で独立しているわけですけれども、そうは言いましても、一応はわかるわけなのですよね。<br /> <br /> 前にも少し書きましたけど、私はグループソウルの中に眠っていたゴミのような不快な雑多ないらないかのように思えたカルマのかき集めとして転生して、目的としてはカルマの解消と覚醒への階梯を確かめるという2つを持って生まれてきました。ですので、各人生のところどころが残片的にシーンとなって記憶として残っているわけです。時に色々な使命があってそのために溜めてしまった葛藤や他人からの嫉妬の感情の受け皿としてのカルマの蓄積はそれぞれの人生で使命を優先したがためにカルマの解消は後回しにしており、ようやく100年ほど前にあとは地球の人々が自らの足で歩むべきだ、と判断したが故にここにきてようやくカルマの解消をする余裕ができたと言えます。それまでは自分のカルマの解消どころではなく使命を果たさなければこの地球はどうにかなってしまう感じでしたので使命を優先させましたが、今の世の中は多くの人が目覚めてきておりますのでようやく手間のかかる下準備の時期を終えて独り立ちし始めた、というのが実感です。<br /> <br /> とは言いましても私はカルマの寄せ集めで特に際立った能力があるわけでもなく、基本はカルマのある程度の解消と覚醒への階梯を確かめさえすれば私の人生はクリアということになっており、それはとりあえず合格点は既に取ったのかなと思っております。<br /> <br /> 私がしたというよりは、私のグループソウルがかつてそのような役割を果たしており、今も多くのグループソウルが各所にいますけど、今の時代には多くの目覚めた人が現れておりますので、昔ほどひとりひとりの重要さはない時代になってきているように思えます。昔は目覚めた人がわずか一握りしかおらず、自らのカルマの解消などする暇がないほどだったと思います。<br /> <br /> ですので、これは別に私のグループソウルがかつてやってきたことをどうこう言っているのではなく、現在はそのように良い時代になった、ということです。<br /> <br /> 現代は目覚めた人がそれなりに点在してて、割と普通の生活を送ったりしています。<br /> <br /> 私のグループソウルはこの時代をしばらく見届けたら、おそらく私も含めて元々いた出身の星系の惑星にある田園風景の美しい惑星に帰るのかな、と思っております。本当のことかどうかはわかりませんけどね。<br /> <br /> Sun, 25 Apr 2021 00:00:00 +0900 瞑想の準備において邪気を引き抜くことは重要 https://w-jp.net/2021/2332/ <br /> 何かもやもやして瞑想状態に入りにくい時は、何かに取り憑かれている可能性がありますので邪気あるいは悪霊を引き抜く必要があるように思います。<br /> <br /> あるいは、オーラのケーブルが繋がっていてエネルギーを引き抜かれている可能性もありますので、何か繋がっていないか体の周囲全体をチェックします。<br /> <br /> 私の場合、もしかしたら他の人も同様かもしれませんけど私は右肩が弱くて、右肩を経由して邪気あるいは死霊のようなものに取り憑かれやすいです。<br /> <br /> 何かもやっとした感じになっていると、とりあえず右肩をチェックしてオーラの手のようなものを意図して何かを「引き抜く」感じで右肩から右方向に引き抜くと、急に緊張が取れてもやっとした感じもなくなります。<br /> <br /> これは、毎回全ての原因をチェックしてはいないのですけど大まかに分けて2つの可能性があって、1つは死霊のような意識体が取り憑いていてエネルギーを吸っている場合。もう1つはエーテルのようなオーラのケーブルが突き刺さっていてエネルギーを吸っている場合があります。<br /> <br /> オーラのケーブルは体のどこにでも繋がって、下半身のマニプラとかに繋げてくる場合もありますので、急にお腹の調子が悪くなったりした時は誰かがマニプラ経由で繋げてきている場合があります。<br /> <br /> オーラのケーブルの場合は防御膜を張ったりケーブルを切るような所作をするわけですけど、しつこい時は何度も繋げて来る場合もありますけど大抵はすぐに離れてくれます。<br /> <br /> 死霊は満足するまでエネルギーを吸うかあるいはこちらからつまみ出さないと離れていきませんので、調子がおかしいと思ったらすぐに右肩をチェックして死霊を引き抜いたりしています。<br /> <br /> このチェックは何もなくても定期的な自己チェックにした方が良くて、ちょっと意識するだけで体調がかなり改善しますのでオススメです。<br /> <br /> この世の中は怖いもので、知らずに生活していたら一生ずっとエネルギーを吸われ続けていてエネルギー源にされていた、ということも普通にそこらにありますので、こんなちょっとしたことで改善できるのですからすぐにした方がいいと思います。<br /> <br /> そして、そのようなオーラ的な安定は瞑想にも重要なのですよね。<br /> <br /> エネルギーを奪われていたりオーラが不安定な時に瞑想をしても瞑想が深まるためにとても長い時間を要してしまいます。<br /> <br /> まずは自分のオーラを安定させることが重要で、そのために、死霊を引き抜いたりオーラのケーブルを切ったりすることが準備として必要になってくるわけです。<br /> <br /> それをざっくばらんに言うと邪気を抜く、という言い方もできますけど、やっていることは同じことです。<br /> <br /> また、別の言い方で、同じことを「自分を開く」とか言っている人もいる気もしますけどね。どうでしょうか。<br /> <br /> Sat, 24 Apr 2021 00:00:00 +0900 何でも受け入れることがスピリチュアルではない https://w-jp.net/2021/2331/ <br /> よくある誤解で、(従順というニュアンスにおいて)「素直」なことがスピリチュアルだとか、大人しいことがスピリチュアルだとか、にこやかに何でも受け入れることがスピリチュアルだとかいう誤解がありますけど、確かにそのような面もあるにはありますけど、本質で言えばそのような態度をするかどうかとスピリチュアルかどうかは厳密に言えばあまり関係がないのです。<br /> <br /> これは他人に対する評価および自分がどのような態度を取るべきかという両方の面において関連してきます。そのどちらも、何でも受け入れることがスピリチュアルだという判断基準にしてしまっている人がそれなりにいるわけなんですよね。<br /> <br /> 更にはこれはそれぞれ2つに更に分けられて、単に勘違いしている場合と、操作されている関係にある場合とがあります。<br /> <br /> 勘違いして素直なことがスピリチュアルだと考えている場合と、勘違いして他者のスピリチュアル度合いを素直かどうかで判断する場合と、操作することがスピリチュアルになってしまっている場合と、操作されることがスピリチュアルになってしまっている場合があります。<br /> <br /> これは微妙な差異で、スピリチュアル的に操作と依存の関係は良くないとはよく言われていますのでそれ自体を自分たちが納得はしておらず指摘されても否定するような状態ではありますけど、素直かどうかという判断基準は結局は依存・操作でしかなくてオブラートに隠されているだけだということです。<br /> <br /> ですから、意図的に操作したりしようとするのは論外ですけど、このような罠にかからないためには自身が素直に何でも受け入れることをやめて、一方、他人に対する評価については、他者がスピリチュアルかどうかを判断する際に他者が拒否したからと言って簡単にスピリチュアル的に低いと判断すべきではない、ということになります。相手が拒否したと感じたその態度とは健全なものであり、一方、他人が受け入れてくれているように見えたとしても本当のスピリチュアルであれば他人を受け入れてくれているのではなくて自分と相手の間に確固とした違いがあることをはっきりと認識しているので相手をありのまま存在させてくれているのであり、それは必ずしも受け入れてくれているということではなく、ありのままをありのままとして受け止めているのであって、必ずしも相手を受け入れる必要はなくて、むしろスピリチュアル的に成熟していればいるほど相手を受け入れるということはしない傾向にあるように思います。ありのままに相手を認識してありのままでいさせてくれるものの、相手の生き方はその人のものでありますのでそれを尊重していて、かつ、自分の生き方も尊重していますので自分の生き方を相手に譲り渡すようなことはしません。ですので、素直に何でも聞いてくれるかのように見えても、それはありのままを見てくれているだけであって、相手と同化しているわけではないのですよね。<br /> <br /> ここに誤解があって、スピリチュアルというと相手に全てを差し出すだとか、相手と自分の間に違いはないのだからエネルギーでも何でも差し出すとか、全て無条件に愛でも物でも差し出すとか、それがスピリチュアルなんだという誤解がありますけど、スピリチュアルとはそういうことではないのですよね。<br /> <br /> 割と一般には素直で何でも言うことを聞いてくれる従順な人がスピリチュアルで素晴らしいかのように理解されていますけど、それは割とスピリチュアルの罠のようなもので、他人からエネルギーあるいは結果を奪おうとしている人の誘導にうまくはまってしまっているとも言えるわけです。これが罠だと見抜ける人がどの程度いるでしょうかね? ずっと素直に従順に生きていればそのうち「ご褒美」があって「楽しく幸せに裕福に」暮らせる筈だと、いつ来るかもわからない未来を夢見て辛い日々をシンデレラの可愛そうな少女のように清く貧しく暮らしているのがスピリチュアルだと勘違いしてはいないでしょうかね。<br /> <br /> かと言って傲慢になることでもなくて、あるいは、よくあるスピリチュアルの別の誤解のように中間の選択をすることがスピリチュアルでもないわけです。2つの選択があった時に真ん中を選ぶことが仏教の「中道」と勘違いしないことです。そういうことではないのですよね。もし中道がそのようなものであると思っているならば、あらかじめ2つの極端な選択肢を提示されてその中間を選択させられて罠にはまってしまいます。<br /> <br /> スピリチュアルとは、どのような周囲にも惑わされない自分の中心に居座ることです。ですから、周囲がどう思ってどのような態度を取っていたとしても自分は影響されませんし、他人を否定もしないわけです。そうなると、他人から見たら「受け入れている」と見えるかもしれませんけど、自分がしっかりとしていると言うこともできます。ただ、柔軟性がないわけでもなくて、必要に応じて柔軟で、しかし、他人にすぐに左右されたりもしないわけです。意思でいかようにも自分を変えられますので、意図的に他者の意見を取り入れることもあれば、ただ相手を理解してそれは他人であるから自分とは違うと考えるのもそれまた自由にできるわけです。<br /> <br /> ですけど、スピリチュアルというととにかく従順で他人から言われたことを受け入れて何でも与えて全て他人の思い通りにしてあげることというステレオタイプが広まっていて、そのようなステレオタイプがあるが故に、その通りに行動しなければ他者に対してスピリチュアルの低い人だという評価を与えてしまったりするわけです。誰かのスピリチュアリティを疑っている人がいる時に実際にどのようなことなのか見てみると、スピリチュアルを誤解している人が他者の行動を批判しているだけだということがよくあります。<br /> <br /> それは自己の強さとして説明することもできますけど、戦いの強さではなくて根源と繋がっているかどうかの度合いであり、男性的な戦いの強さのことではないのですよね。<br /> <br /> 人によってはこれのことを愛と呼ぶ人もいて、なんであろうとも受け入れて自分は自己の根源を信頼していて揺るがない状態なわけで、それを愛と呼ぶのであればそうとも言えると思います。愛とは本来は条件付けされないものですので、条件付きの愛ではない本当の愛というのは他者をどうこう以前に自らへの深い信頼が伴っているものなわけです。誰かを愛することだけが愛なわけではないのですね。自らの根源を信頼していてそれが愛と呼んでも良いレベルで動作していさえすれば他者から見たら周囲への愛に満ちていると見えるかもしれませんけどそれは他者を無条件に受け入れてくれるような愛ではなくて自らの根源に繋がっていて揺るぎがないという種類の愛なわけです。そうであれば、他者を理解してありのままに受け入れている、と、表現としてはそのように言うことは間違いではないですけど、その表現には多少の誤解が生じる余地が含まれているわけで、たしかにありのままに受け入れていると言えなくもないですけど実際にはありのままを認識していてそれを否定せずにありのままを見てもらえているということであって、それが受け入れてもらえている、と言っても間違いではないですけど、何かをお願いしたら何でもホイホイと全てしてもらえるという種類の愛とはちょっと違うわけです。<br /> <br /> 愛とは本当は自己愛と呼ぶこともできて、そのように言っている人もいますけど、自分勝手の愛とも違って、自らの根源に繋がっていることが愛なわけですので、それを自己愛と言うこともできて、そうなると、他者もありのまま受け入れられるようになるわけです。言い換えれば、他者のことをありのままに認識して、視覚でありのままの姿を見るがごとく、相手の表情や声、雰囲気、匂いに至るまでありのままを認識することがありのままを受け入れる、ということであるわけです。<br /> <br /> それはひょっとすると冷たく感じてしまうかもしれませんけど、情と比べたら熱感が足りないと思うかもしれないのは確かにそうで、情というのは感情による熱愛ですから、そういう情としての愛も世の中にはありますけど、ここで言っている自己信頼とはそれよりももっと胸の奥のアナハタで感じるような自己愛ですので、情とはちょっと違うわけです。<br /> <br /> 情の段階では相手を完全に受け入れたり相手に完全に受け入れてもらったりという人間的な情による愛をして、それはそれでありだと思いますし否定はしませんし、アナハタとしての愛を持ったとしてもそのような感情を抱くことはありますけど、情を単体で感じてアナハタの愛がない場合には熱愛や盲目的な愛になるのに対し、アナハタの愛が含まれていればそれは自己愛がベースになっていますから、それほど盲目的にならずに相手をありのままに愛すことができるわけです。<br /> <br /> アナハタの愛になると、相手にその理解力がなければ「冷たい」「愛がなくなった」と思ってしまう場合が多々ありますので、このあたりは見抜く側の見る目も必要になってきます。<br /> <br /> 素直という言葉も2つの意味があって、ありのままを受け止める素直さはアナハタの愛ですけど、従順という意味での素直さは誤解された従順さです。この、誤解された従順さがスピリチュアルかどうかの判断基準として広まってしまっている気がするのです。何かを言った時に黙って受け入れてくれる人がスピリチュアルだ、というお話は、上に書きましたように、ありのままを受け入れるという意味においてはそうですけど、かと言って、従順になってその通りに従うのであればそれはスピリチュアルとは違うわけですけど、従順でないとスピリチュアルではないかのような誤解が広まっているわけです。この判断基準に従ってしまうと他人を従順にすることを強要したりあるいは自分が従順になるように自ら意図したりしてしまいます。<br /> <br /> ナチュラルという意味において素直になることはスピリチュアルにおいては重要で、フラットになって他人にも穏やかな態度で接することは一般社会と同様に普通に尊重されますけど、間違ったスピリチュアルでは、素直という意味が従順として理解されていて、他人にも自分にも強要するようになりますので、それはいわば抑圧でもありますので、一見すると素直だけれども心のストレスが沸点に達するとすぐにキレてしまうというようなおかしなスピリチュアルになってしまうわけです。<br /> <br /> 結局、自分は自分以上のものになれないのですから、まずは自分を受け入れるしかないのでありますが、何か自分と違ったものになろうとして自分の感情を抑圧したり自己愛を従順さと取り違えて例えば神などに従順になればどうにかなると勘違いしているスピリチュアルがあったりしますけど、そのような人は見れば何かオーラが薄い感じでグラウンディングが弱いのです。ナチュラルで素直になるためにはまず自分の全てを受け入れる必要があって、変わることを意図するというよりは今まで自分と思い込んでいた他人の思いを手放した時に自然に自分の姿に戻ってゆくのであって、そうすれば素直だけれども芯があるような状態になって、他人からのコントロールからも離れて、同時に、自分が他人をコントロールしようとは思わなくなります。<br /> <br /> 補足しておきますと、情それ自体は階梯の1つとして重要で、そもそも情以前の人がいますからその場合はまず情を身につける必要があるのですが、情の先はハートのアナハタの愛になる、というお話です。<br /> <br /> Fri, 23 Apr 2021 00:00:00 +0900 本当は2つの心なんてなくてひとつづきの心があるだけ https://w-jp.net/2021/2330/ <br /> 瞑想の基本的な考え方は2つの心があるという考えに立脚しており、普通の心と心の本性(リクパ)のそれぞれがあって、リクパは最初は多くの人にとっては厚い雲に囲われていて隠れているので覆われているものを取り除く(浄化)することでリクパを表す、というような説明がなされたりしますけど、実際のところ、心というものは1つしかなくて、ただ、グラデーションのように幅広く心に階層があるだけなのです。<br /> <br /> そうは言いましても大きく分けて思考する普通の心と微細なものに分けた方が説明がしやすいので分けている面と、普通の心が多くの人にとっては強く働きすぎていますので例えばトランスや瞑想の集中で一旦は抑えてあげないとリクパが出てこない、というのが実態だったりします。<br /> <br /> ですので、本来は一続きであったとしても、普通の心を抑えるという過程がないとなかなかリクパは表に出てこないわけです。<br /> <br /> しかし、時間が経つにつれて普通の心を抑えるという段階を踏まなくても普通の心とリクパが一続きのものとして動作するようになってきます。<br /> <br /> 普通の心を抑える動作が必要な段階と、それほど必要でない段階と、必要でない段階とに分かれるわけです。<br /> <br /> 普通の心を押さえてリクパを表すことを西洋ではトランスとか呼んだりして、手法としては色々ありますけど、副作用のある薬のある方法なんかもあるみたいですけど私はしたことがないのでよくわかりませんけど、他には、音楽を使った方法もあったりします。スピリチュアルを求めている人が特に西洋では何故か騒がしい音楽を好んでいたりするのは、そのような段階ですと普通の心を抑えるために手法が必要で、騒がしい音楽を聞くことで普通の心を忙しくさせておいてその奥のリクパを出させようとしているのでしょう。私はそういう手法は取りませんし、単にうるさい音楽としか思わないのですけど、そのような手法が西洋ではよく取られているように思います。そうは言いましても、そうしてトランス状態にするために普通の心を抑え込む必要があるということは、まだ瞑想がそれほど進んでいない、ということであり、いつまでもそれに頼るべきではないと私は思うのですが、それしか知らない人は死ぬまでトランスに頼ることもあるように思います。<br /> <br /> 普通に瞑想をしていけばそのようなトランスに頼る段階から抜け出て、次第にトランスに頼らないようになっていきます。そして、それが健全なわけです。<br /> <br /> 最終的には、普通の心とリクパとが一続きになって、普通の心が働いていようがいまいがリクパが働くようになり、そうなればトランスして普通の心を抑えるということは不要になります。<br /> <br /> Thu, 22 Apr 2021 00:00:00 +0900 生まれ変わるまでにどのくらいの期間を必要とするのか? https://w-jp.net/2021/2329/ <br /> 実際のところ、意識の大本である魂の状態になってしまえば時空を超えることができますので、この地上の感覚で期間というものではないのですが、それなりに長い期間、あの世で割と早く時間を過ごすことになります。<br /> <br /> あの世の時間というのはこの地上時間よりも時間の経過が早く、割とあっという間に何年も過ぎていることがあります。<br /> <br /> ですけど、いざ転生しようとしたら時空に囚われる必要はなくていつでも転生できるわけです。<br /> <br /> とは言いましても、それほどスピリチュアル的に成長していない魂、あるいは時代をそれほど気にしていない魂、あるいは、たまたま現在の時間軸に生まれたいと思って生まれることにした魂があって、そのような場合は、特に時空を超えることなしにその時の時代に生まれることになります。<br /> <br /> ある程度は時代を選んで生まれることができますので、次の転生が前の転生と被る、なんてことも普通に起こりますし、時代を逆転することもあります。<br /> <br /> 仏教とかキリスト教とかですと転生の期間が定められていて何十年とか何百年とか色々と説がありますけど、たしかにそのような場合も多いですけど、実際のところ、時空は超えられますのでそのような場合ばかりではないのですよね。<br /> <br /> 確かに、数的に言えばそのくらいの期間を開ける場合が多いのかもしれませんけど、それなりにスピリチュアルが成長していれば時空は超えられますので地上的な期間で転生の間隔を図ることはできないわけです。<br /> <br /> その一方で、魂あるいは幽体の状態でそれなりに長い期間過ごす、というのは確かにその通りで、まずはあの世に行くと体の形を保ったまま友人知人および元のパートナーなど仲の良かった人たちの住んでいる場所に行くことになります。自分で行ける場合もあれば、死ぬと友人知人あるいは元のパートナーが迎えに来てそこに行く場合も多くあります。<br /> <br /> そのように、あの世で割と天国のような時間を過ごす、というのがまずあります。<br /> <br /> 転生は、魂(幽体)がそのまま転生する場合と、一旦グループソウル(類魂)と一体になってから分霊を作って転生する場合がありますので、割と多くのパターンにおいて、魂(幽体)がそのまま転生するように思います。たまにそのまま分霊を作って転生、という場合もありますし、一旦グループソウルに戻ってから再度分霊を作る、という場合もあります。<br /> <br /> あの世で友人知人および元パートナーと仲良く過ごす時間はそれなりに長くて、数十年とか数百年とか普通にありますけど、いざ転生しようとしたらその時に時空を超えて転生することもできますので、地上からしたらその元の魂がどこの時代から来たのかわからなかったりするわけです。<br /> <br /> とは言いましても、魂からしても割と時代を順番に追わないとその次代で当たり前になっている技術とか文化とかガジェット(機械のおもちゃ)とかの「当たり前」が理解できませんので、多くの人が歴史を辿って経験している、という面もあります。<br /> <br /> 同じ時代に割と被って転生している人もいれば、少し時代を開けたりする人もいます。<br /> <br /> それは、地上の時間からしたら数十年とか数百年離れて転生というように見えるだけで、実際には、あの世ではもっと短いあるいはもっと長い時間を過ごしてきた、ということも普通にあります。<br /> <br /> ですから、地上の感覚から物事を計って、「前世の人物が生まれていた期間が被っているから嘘」とか「たった十数年しか離れていなくてすぐに転生することなんてあり得ないからそれは嘘」みたいに判断はできないのですよね。<br /> <br /> 仏教とかキリスト教とかで言われている転生の期間というのは時間軸が一定であの世もこの世も一旦進んだら戻らないという前提に立っていますけど、実際は、意識の大本の魂は時空を超えていますから、たしかに幽体の時間としては何十年とか何百年の転生期間が空くのが普通なのですけど、地上の時間軸でそれを図ることはできないのですよね。<br /> <br /> 悔いがある人などは割とすぐに転生したりしますし、あの世で幽体のまま楽しく何百年も過ごす人もいますし、あるいは、もう人生に完全に満足して幽体からグループソウルに溶け込んで人格が一旦ほとんどグループソウルの集合意識になった後に意識が分離して分霊となって再度生まれる、という場合もあります。<br /> <br /> 幽体の場合でそのまま転生するのであれば転生の期間がそれなりにわかりますけど、グループソウルと溶け込んだ場合は、もともとグループソウルだった部分の転生の期間なんて測ることは不可能ですよね。もともとグループソウルでいて、そこに合流もすれば分離していますので、分離した分霊の前の転生の期間とか言っても、そんな厳密には出てこないわけです。<br /> <br /> とは言いましても、グループソウルから分霊ができる場合は人格のコアみたいなものがあってそこに集まって分霊になりますので、そのコアのようなものはある程度の使いまわしと言いますか前に生きていた人生のコアがグループソウルの中に残っていて、その周囲に意識が集まって分霊になる、ということが行われますので、コアの転生期間ということであれば測れなくもありません。その場合は、それなりに長い期間の間ということにはなりますけど、割とまどろみの中にいて、しかし、そのまままどろんでいたらあっという間に何百年とか立ちますけど、地上あるいは幽体の人の意識が自分を呼んでいることに気がついたら割と早い時間で目覚めてその呼びかけに応えるべく分霊を作ったりします。<br /> <br /> そのように、グループソウルに溶け込む場合もあれば幽体のまま転生する場合もあって、仏教やキリスト教が教えるように一概に転生期間を地上の時間で測ることはできないわけです。<br /> <br /> Wed, 21 Apr 2021 00:00:00 +0900 心とサマーディは別物だと理解してから瞑想する https://w-jp.net/2021/2328/ <br /> 実際にそうだと体感するのはそれなりに瞑想を日々続けてからのことにはなりますが、あらかじめ心とサマーディは別物だと理解しておくことが重要のように思います。<br /> <br /> 大きな違いとしては、心には集中がありますがサマーディには集中がない、ということです。<br /> <br /> たまに、瞑想の流派で集中を否定していたりしますけど、それは最初からサマーディのお話をしているのであって、その根底を見ていくと、心とサマーディとが同じものであるかのような理解をしている混乱に行き着くわけです。<br /> <br /> 心の動きというのはフォーカスであり、目標に意識を向けするということであり、言い換えればそれは集中ということです。<br /> <br /> そのような流派にしても大抵は「集中はある程度は必要」と言っていたりしますけど、その一方で、「集中はしない。観察する」とか説明していて、実際の教えを受けたりすると、どうも心とサマーディの違いがわかっていないのか、あるいは、わかってはいるけれども教える時にはそう説明しているだけなのかもしれないですけど、少なくともそのような流派において、最初に教えを受ける側としてはこれら心とサマーディの違いをはっきりと説明されることがあまりないわけです。<br /> <br /> 呼吸を観察する、とか、皮膚の感覚の観察をするとか、色々な手法がありますけど、心とサマーディの違いを説明されることはあまりないような気がしますし、瞑想の定義としてサマーディとはただの集中に過ぎないと説明される場合もあります。聖典にもそのように書かれてある時があって、文字通りに理解してしまうのもわからなくもありません。<br /> <br /> サマーディの代わりにヴィパッサナという言葉を使っている流派もありますけど、どちらにせよそのようなサマーディあるいはヴィパッサナという状態に至るには手順があるわけで、至る前に、一応は心とサマーディ(あるいはヴィパッサナーと呼ぶこともある)の違いを理解しておく方がいいと思うわけです。<br /> <br /> そうしないと、細かいところで瞑想の誤解が生じてしまいます。<br /> <br /> 例えば、サマーディには集中がないのだから瞑想において集中しない、という瞑想の説明がされたりしますが、これは聞く側にとてつもない混乱をもたらします。全てわかって説明しているなら説明不足で片手落ちですので教師として未熟ですし、あるいは、わかっていなくてこれが正しいと思っているのならば理解不足です。どちらにせよこのような説明を真に受けるべきではありません。<br /> <br /> 実際には、上に書いたように、心には集中があってサマーディには集中がない、ということですから、瞑想において心は集中して何かに繋ぎ止めておいて、その一方で、サマーディの状態に至るのならばサマーディとしての集中なしの観察状態が同時に発生する、ということです。<br /> <br /> これは、心とサマーディが別物でありますから、心が集中していようがいまいがサマーディとして観察状態が続きますが、瞑想をそれなりに続けた方でしたら心がそれなりに強化されていてさまよい歩くことがあまりなくなっていますから、心をそれほど強化して集中して繋ぎ止めておかなくてもさほど動かなくなっているわけです。そのような心の力がある上で「手中しない」というのはありですけど、それに至っていないのならば心をしっかりと繋ぎ止めておく必要があるわけです。<br /> <br /> 流派によっては準備が整っていない人に対しても「集中しない。観察だ」とことさらに観察だけをさせようとしますので、心を繋ぎ止めておくことを否定されてしまうと心があちらこちらにさまよい歩き、ネガティブな思いあるいは活動的な反応的な思いの連鎖に囚われて混乱をきたしてしまうわけですね。<br /> <br /> 言葉としての説明ひとつひとつを見ていくと一見して正しいように見えても、全体を見ると間違って理解されている流派があるわけです。理屈を聞くとたしかに合っているかのように見えても、そこにいる人達の理解のほとんどが間違っている、ということもあるわけです。<br /> <br /> まあ、喜劇のようなものですよね。あまりにもその誤解が広がっていて、何が正しいのかも判別できなくなっているのかもしれないです。<br /> <br /> そうして誤解するだけならまだいいのですが、その流派で実際に瞑想をすることで、具体的には集中を否定されて瞑想をした結果、心を繋ぎ止めておくことを否定されて、精神的に混乱をきたしてしまう人が続出してしまうわけです。<br /> <br /> 瞑想の基本は集中だ、というのは、心を繋ぎ止めておく必要がある、ということです。心は訓練していない状態では猿のようにあちらこちらにふらふらと動く、という説明がよくされたりしますけど、サマーディの前に心を鍛える必要があるわけです。<br /> <br /> 実際のところ、心とサマーディは別物でありますから、心を鍛えなくてもサマーディだけ育てる、ということは理屈としては可能で、そのように直接的にサマーディを育てようとしている流派もあります。ですけど、心が訓練されていない覚者というのはいわば子供が悟っているようなもので、この世に生まれたのでありますから心も合わせて訓練した方がいいと私は思ったりするわけですけど、それは流派や個人の自由ですから好きにすればいいとは思いますが。<br /> <br /> サマーディに達したら集中がなくなる、というのは、心とサマーディとが別物ではなく同じものだと誤解しているのであれば心で集中しなくなる、というような間違った理解をしてしまいます。そうではなくて、心は心で、サマーディはサマーディです。サマーディがあったとしても心の集中は存在していて、心の集中がなされていたとしてもサマーディとしての集中なしの観察が同時並行で存在できるわけです。<br /> <br /> ですから、そのような状態を説明するために「ある程度は集中が必要」とか言うことは間違ってはいないですけど、そもそも心とサマーディとは別物だということをしっかりと理解しておかなければ心での集中は不要だとかいう誤解が生じてしまうわけです。<br /> <br /> 流派によっては集中瞑想をことさらに毛嫌いしているところもあって、そのような流派で「どうして集中瞑想がいけないのですか」と聞くと一瞬でキレられて怒鳴られる時もあります。キレるという時点で瞑想がそれほど進んでいなくて、単に不快な感情を抑圧しているだけの瞑想をしていることがわかるわけですけど、集中瞑想を否定している流派では瞑想が間違って教えられていて、感情を抑圧してサマーディっぽい観察状態を心の観察でそれっぽく作り出す、ということがなされていたりするわけです。これは何を言っているのか伝わらないかもしれないですけど、そもそも心とサマーディが別物だということがしっかりと理解されていない状態でサマーディを目指したのならば、心で観察するしかないわけです。それはサマーディという状態は最初は自分にはありませんから、ないのにも関わらず、説明だけ聞いてサマーディを真似しようとしたら心を抑圧して心でそれっぽい皮膚の観察状態を作り出すということをしてしまうわけです。これは疑似サマーディみたいなもので、本当のサマーディではなく、それっぽく真似ているだけです。このような不思議な状態が瞑想でできてしまうわけです。それも、心とサマーディとは別物だという理解が浸透していないが故に起きてしまう喜劇なのかなと思います。<br /> <br /> 心とサマーディというと、心は「働き」で、サマーディは「状態」ですので、それぞれ違うものを並列に並べていることに違和感を持たれた方もいらっしゃるかもしれません。このあたりは、チベット式の説明の方がすっきりするかもしれなくて、心とリクパ、という並べ方の方がいいかもしれません。<br /> <br /> 心はありきたりな思考の心のことで、リクパは心の本性のことで、リクパは最初は厚い雲に覆われていて多くの人には働いていないけれども誰にでも最初から存在していて心の浄化を進めることによって働きが現れてくるもので、リクパによってサマーディの状態が現れます。<br /> <br /> 心には集中があって、リクパには集中がなくて観察だけがあります。<br /> <br /> 実際にはリクパにもそれなりの集中というのがあって意識を向けたりもできますけど、心のように明確なものではありませんので、一応はこのように説明しておいていいと思います。<br /> <br /> そのように、心のお話と、リクパ(あるいはサマーディ)のお話をごっちゃにしている流派がこの世にはそれなりにあるわけですけど、一方で、その違いをしっかりと認識してから瞑想するのが大切だと思うわけです。<br /> <br /> 実際のところ瞑想はただの集中だけではないのですけど、そうは言いましても特に最初は単なる集中で十分なわけですから、瞑想とは集中である、と言ってもそう差し支えなくて、伝統的にはそのように説明されているように思います。ですけど集中だけが瞑想ではなくて、リクパを働かせて観察状態になることでようやく本当の瞑想になるわけです。<br /> <br /> ですから、瞑想で浄化という面もありますけど、瞑想と並行して浄化のための活動をすることも重要になってくるわけです。<br /> <br /> Wed, 21 Apr 2021 00:00:00 +0900 マンデラエフェクトで肋骨(あばら骨)がくっついて驚いたお話 https://w-jp.net/2021/2327/ <br /> ふと、たまたまおばさんのYoutubeを見ていたら「マンデラエフェクトであばら骨が前にくっついていてびっくりした。昔は離れていたのに」とか言うので、このおばさんは一体何を言っているのだろうかと思って肋骨の絵を検索してみたら本当にくっついていて驚きました。<br /> <br /> ・・・これ、何を言っているか伝わらないかもしれません。<br /> <br /> 私は、このおばさんと同様、あばら骨は離れていると思っていたクチです。<br /> <br /> 段階的に言いますと、子供の頃、小学校低学年の頃に見たテレビではあばら骨は体の前面に突き出していて真ん中のところまで繋がっていませんでした。かなり離れていました。ですので、交通事故とか喧嘩とかした人は肋骨が折れて肺に突き刺さって大変なことになっていました。その痛々しい映像をはっきりと覚えていますので間違いということはないと思いますし、テレビのコメンテーターも肋骨が折れると肺に突き刺さって危険です、みたいな説明を図と共にしていましたので、その頃はあばら骨は単に体の前面に伸びているだけで真ん中と繋がっていはいなかったと思います。30年以上前ですかねえ。<br /> <br /> しかし、中学か高校の時に見たテレビでは肋骨の前側が随分と先っぽの方にまで伸びてきていて、真ん中の骨と今にもくっつきそうなくらいにまで伸びていました。ちょっとは繋がっていたのかもしれません。この時、とてつもない違和感を感じて、「あれ? 肋骨って、もっと離れていたと思ったのに、こんなに近かったっけ?」と思った記憶があります。すごく気持ち悪かったのではっきりと覚えています。<br /> <br /> 小学校の頃、胸の体の前に骨がなくて平気なのすごいなあ、とかまじまじと興味深く眺めていたのです。それほど興味深く見ていたのに、その後、いつの間にかがっつりと骨ができているのが気持ち悪いです。<br /> <br /> いま検索すると、今でも骨の標本の種類によっては前が繋がっていないので、たまたまそういうのを見ていただけで最初から繋がっていた、という可能性はもちろんあります。ただの勘違いの可能性ももちろんあります。<br /> <br /> ですけど、高校の時に鮮明に違和感を覚えてまじまじとレントゲン写真とか標本写真を眺めた時にはほんのちょっと肋骨が体の前面で繋がっているだけだったのが、いま見てみたらがっつりとしっかり繋がっていますので、そこもとてつもない違和感があります。<br /> <br /> 高校生の頃はこんなにがっつりと繋がっていませんでしたし、小学校の頃はかなり離れていました。<br /> <br /> 高校生の頃はこのことに違和感を感じて、今もすごく違和感を感じるのですが、まあ、そうは言いましても私にはこれがマンデラエフェクトだという確証はありません。そうかもしれないなあ、というくらいです。<br /> <br /> 時期的に言うと、小学校高学年の頃に幽体離脱を何回かして時空を超えて未来と過去とを行き来したりパラレルワールドを見て人生設計をし直したりしましたので、もしかしたらその時に、戻ってくる際にでも時空を間違えて戻ってきてしまったのかもしれません。今となっては確かめようがないですけど。<br /> <br /> それ以外にも、起こる筈のことが起こらなかったりしていますので私はいま違う時空に来ている可能性はぼちぼちあります。<br /> <br /> Tue, 20 Apr 2021 00:00:00 +0900 サハスララにエネルギーが満ちると心の声がクリアに聞こえる https://w-jp.net/2021/2326/ <br /> エネルギーが満ちると言うこともできますしオーラが満ちる、あるいは光が満ちる、と言うこともできます。同じことです。心の声と言っても良いですしハイヤーセルフの声あるいは人によっては神様の声のように聞こえるかもしれませんが、遠くの方から微かな小さな声がクリアに聞こえてきます。<br /> <br /> 言い方としてはいろいろあって、「心の声を聞く」ということも、「ハイヤーセルフの声を聞く」ということも、あるいは「神様の声を聞く」ということもできると思いますが、この声は誰かから話しかけられているという感じはなくて、距離的には割と近くて内側あるいは少し体とズレた少し上の方から聞こえてきますが、距離としては近い気がするのに声の聞こえ方としては山で「こだま」を聞くかのような、音としては遠くて音量は小さいのですが声自体ははっきりとした感じで突如聞こえてきます。<br /> <br /> 守護霊の声を聞く、というお話もそれはそれであるのですけど、その場合はもっとはっきりと明確な声で聞こえてきます。守護霊あるいは近くで友人知人の霊が喋りかける時はかなり明確に聞こえて、実はほとんどの人は特に修行していなくても普通に聞こえているのですが、それが雑念や自分の思考の声と混ざってしまって気付いていないかあるいは自分の考えだと思ってしまっている場合がほとんどのように思います。実際のところ、アイデアのようなものの多くは守護霊や近くの友人知人の霊が与えてくれたものであるわけで、真実を知ればそれが自分のアイデアだと固執する必要はないのですけど、現代社会においてはそのあたりが気付かれていなくて肉体としての自分が作ったアイデアは著作権や版権で守るとか言うお話になってしまいますけど、実際は、霊の世界ではアイデアなんて割と溢れているわけですよね。そもそも霊は少し進化すれば時空を超えられますので未来からアイデアを持ってくればすぐにアイデアマンっぽく振るまえてしまいますしね。それって面白いのですかね? 興ざめだと思いますけど。<br /> <br /> そのように、守護霊や友人知人の霊から話しかけられる場合の明確な声とは違い、「こだま」のように響く声は、流派によっては「神様の声」あるいはスピリチュアルでは「ハイヤーセルフの声」と言われています。「天の声」と言っている流派もあるかもしれません。<br /> <br /> この声が聞こえてくる状態としてはそれほど修行していなくても実は最初から聞こえてはいるわけですけど、サハスララに光が満ちていない状態では雑念が多くて空に雲がかかったかのような状態になっていてうまくそれを識別できないわけです。雑念の間にふとアイデアが降ってきた、みたいな場合はそのほとんどは守護霊や友人知人の霊が教えてくれた「明確」な心の声なわけで、その明確なインスピレーションは「直感」と言うこともできますけど、直感と言う時に、守護霊や友人知人が教えてくれる明確な直感とは別に、遠くから「こだま」のように響いてくる声があるわけです。<br /> <br /> この、「こだま」の方にしても実は最初から聞こえてきているわけですけど、ほとんどの人は雑念の間に埋もれてしまっていて、あまりうまく拾えていないのですよね。後になって「そういえばそんな気がしていた」みたいなお話は誰にもよくあることだと思いますが、そんな後になって気付くのではなく、その時にすぐにその「こだま」の声に気付けるかどうかが需要だと思うのです。<br /> <br /> そして、その、ハイヤーセルフあるいは単に心の声、人によっては特に英語圏では大文字のSELF(セルフ)と言い表すような心の本性と言っても良い奥底の微細な声に対して敏感にすぐに気付いて反応してすぐさまそれに従って行動して行けるようになるのがサハスララにエネルギーに満ちてきた段階かなと思うのです。<br /> <br /> それ以前であってもそれなりに聞こえていて、段階ごとに聞こえやすくなるわけですけど、サハスララにエネルギーが満ちているかどうかがその声にしっかりと気付けてそれにフィードバックして自身の行動を変えて行けるかどうかの一つの境目のような気が致します。<br /> <br /> 声が聞こえる自体はそれ以前にあったとしても、それにしっかりと反応出来る段階、というわけです。<br /> <br /> これはよくチャネリングと誤解されますけど、チャネリングの場合はこのような割と高次のチャネリングの場合もあるにはありますけど多くの場合は守護霊や友人知人の霊あるいは宇宙人とお話をすることになりますので、その場合、遥かに聞こえやすくて「こだま」なんて感じではなくてスピーカーで誰かが喋っている感じの時もあります。特に宇宙人はテレパシーに何かの技術的な機械を使っているらしく、かなり増幅してわかりやすい言葉で伝えてきますので、宇宙人と話す時はこちらに修行が全くいりませんので宇宙人とチャネリングしたとしても勘違いしない方がいいと思います。宇宙人が地球人とチャネリングするのは、普通の日本人がアマゾンとかの未開のジャングルに行って原住民とコンタクトを試みるように興味本位あるいは調査あるいは啓蒙など各種理由がありますので、こちら地球人側としてはあまり特別感を感じる必要はないと思います。まあ、たまには面白いかもしれないですけど、そういう事があったからと言って自分が「選ばれた」とか勘違いするべきではなくて、それは「たまたま」目についたから気まぐれで話しかけてみた、という場合も多いわけです。使命がある人なら生まれたからすぐに自覚しているわけで、一般人は使命とか選ばれたとかそういう勘違いをするべきではないと思います。<br /> <br /> そのような明確なテレパシーによるチャネリングとは違って、自分の奥底の心の声を「こだま」のように聞く、というお話があるわけです。<br /> <br /> 私は現段階でサハスララにエネルギーが満ちたりそうでなかったりを繰り返している過渡期ですけど、過渡期は停滞と言うよりは単にそういう段階にいる、ということで、このような過渡期はその前後の状態が明確に区別して理解できて興味深いです。今回のお話も、サハスララにエネルギーが満ちていない状態と満ちている状態とで心の声がどのくらい違って曇って聞こえるかの差を識別するのが興味深いわけです。<br /> <br /> Mon, 19 Apr 2021 00:00:00 +0900 私はどうやら覚醒するかコロちゃんで死ぬかのどちらかの様子 https://w-jp.net/2021/2325/ <br /> 瞑想や夢で見たお話ですので本当のことかどうかはわかりません。<br /> <br /> 覚醒して自分で自分の病気を治すか、あるいはコロちゃんで死ぬか、という二択のようです。そこまでわかっているならば誰かに頼んで治してもらうという選択肢もあるのかなとは思いますけど今すぐかどうかもわかりませんし、自覚症状がなくてコロっとコロちゃんにかかって夜寝たらいつの間にかお無くなりかもしれませんし。おそらくは瞑想中にコロっと行ってしまう感じな気がします。<br /> <br /> ポックリと死ぬというのは私の理想の1つで、体が痛くて動かなくて介護されながら延命なんてのは一番嫌で、直前まで元気でポックリ死にたいなと思っておりますから、そういう意味では理想が叶うわけです。<br /> <br /> あるいは、覚醒して自分の体を自分で治せば全快する、とのことです。<br /> <br /> 死ぬパターンの場合にしても、おそらくはタイムラインを遡って子供の頃からやり直すのかなあ、という気がしています。<br /> <br /> あるいは、生きるパターンの場合は覚醒しますので人生が大きく変わります。<br /> <br /> どっちがいいのですかねえ。どっちも悪くない気がしますけど。<br /> <br /> 最近は1年以上、喋る時に咳き込んだりしてたぶんコロナの初期型にかかってそのままな気がしますけど病院に相談しても門前払いですし、無症状患者を治療する気が誰もないというか隔離施設もないような病院では受け入れも困難なのかもしれません。<br /> <br /> そんな状況なのに健康診断では問題なしで、こんなのなら無症状のまま誰も診療してくれずにコロっとコロちゃんにやられる可能性も大いにあります。<br /> <br /> まあ、それはそれでいいですけどね。その場合は、単にやり直すだけです。<br /> <br /> 今生で経験したかったことはある程度は達成しましたので、そのために設定した人生の土台が今となっては邪魔になってきていますので、それらの不要な条件を人生から取り除くことができるならば一旦死んでリセットもありかもしれませんね。<br /> <br /> 治療してくれるなら治療受けてもいいですけど、コロちゃんであっという間にコロっと行くのであればそれはそれでありかなと。<br /> <br /> 一方で、覚醒できるならそれはそれでよくて、その時は自分で治療してしまえるようですので、それでもまあ、いいかなという気が致します。<br /> <br /> 今だと半々くらいの確率ですかねえ。<br /> <br /> こういうのって、肉体を持って生まれている私という個人の意識からしてみるとどうしようもないところがあって、私の今後をどうするのかは本質的なところでは私自身のスピリットが決めているので、私のスピリットが時空を超えた観点から覚醒すると決めれば覚醒しますし、人生をやり直そうと思えばコロちゃんが発症してコロっと行ってしまうのだと思います。<br /> <br /> 私はどうすることもできませんね。私のスピリットがどちらを選択するかですね。<br /> <br /> 実際のところ、私の自由意志というのは幻想で、私のスピリットが人生を決めていて、私という意識は単なる顕在意識の部分でしかないので、私のスピリットがまだ半々の気持ちで決断していないので、今後どちらに転ぶかはわかりませんね。<br /> <br /> どちらも見えるのですよね。<br /> <br /> ただ、タイムライン的には、やり直す人生がまずあって、順番としては次に覚醒するというのを選んでいるので、もしかしたら、やり直す人生を体験した後に再度ここに戻ってきて覚醒する人生を選び直す、ということなのかもしれません。<br /> <br /> どちらもタイムラインの順番としては昔に既に起こったことかもしれないです。コロちゃんで死ぬタイムラインは既に終わっていて、人生のやり直しのパターンも既に終わっていて、今の人生は再度ここからやり直していて「やっぱり覚醒しよう」というタイムラインに今はいる気も致します。<br /> <br /> ですけど、どうですかね。そう思っていても実はやっぱり最初のタイムライン上にいるかもしれないですけど。あるいは、単なるアストラルなものかもしれません。<br /> <br /> このあたりは今後、様子を見て行きます。その頃には死んでいるかもしれませんけど。<br /> <br /> ・・・と書いたのは少し前のことで、現時点では割と治す方向に傾いてきておりますので割と過去のお話ではあるのですけど、しばらく、この2択なのかなぁ、と思って暮らしておりました。<br /> <br /> Sat, 17 Apr 2021 00:00:00 +0900 スピリチュアルな成長において日本神界の神々との出会いは落とし穴の一つ https://w-jp.net/2021/2324/ <br /> ある程度のスピリチュアルの基礎が出来て、他人のオーラがわかったり(見えるとは限らない)、オーラを感じることができて、他人の心の声や守護霊の声あるいはハイヤーセルフの意思が多少なりともわかってくると、往々にして日本神界の神々に目をつけられることがあって、それがスピリチュアルな成長の1つの落とし穴になるような気が致します。<br /> <br /> 日本神界の神様は自分では肉体を持っていませんから、自分の意思を伝えることができて、しかも、実際に行動することができる「しもべ」を求めています。<br /> <br /> 神様ですからそれなりに精神性が高く、昨今の基準で言えば「覚醒」はしており、ある程度の悟りもあるにはありますけど、本質において最終段階の悟りを得ているとは限らないのが神様たちです。<br /> <br /> こんなこというと不快に思う神様もいると思いますのであまり言いたくはないのですけど、悟りという意味であれば、最終段階の悟りを得ている神様はそうそういないのでは、というのが実感です。<br /> <br /> まあ、こんなこと言っても「何を言っているんだ」と思われるだけな気もしますのであまり言いたくはないのですけど、神様とは言っても、徳の高い人間と似たようなものです。その人を悟っていると言うかどうかは悟りとは何かという定義によりますし、人間としての一応の最終的な段階の悟り(それ以上ももちろんありますけど)をそのように崇められている神様が得ているかどうかで言うと、必ずしも最終的な悟りを得てはいないのが神様です。<br /> <br /> 神様と言っても、徳の高い人、みたいな感じの人が大勢います。<br /> <br /> 特に日本神界はそんな感じで、いわゆるあの世にある「いわゆる神界(=日本神界)」は、言ってしまえば、いま日本で生きている育ちの良い家庭とか伝統的な地域社会そのものです。日本神界から日本に転生してきている人がかなり大勢いますので、雰囲気も似ています。<br /> <br /> 日本の国土にはそれ以外の人もいますからごちゃごちゃしていますけど、日本神界の雰囲気は日本の伝統的なコミュニティそのものです。<br /> <br /> そのようなところに生きている人・・・、いや、体を持っていないので死んでいるとも言えますけど、肉体はなくても意識体としては生きている人、魂というか幽体として生きている人たちがいるわけです。<br /> <br /> それは怖い世界ではなくて、割とこの地上と同じです。普通にみんな楽しく暮らしています。お金の制約がなくなった分、気の合う人達と一緒に暮らしていますのでみんな笑顔です。<br /> <br /> そんな日本神界がありますけど、昔の日本を思い出せばわかりますけど、気性の荒い人もいたかと思います。割とそんな人が日本の神様なんですよね。土着の神様と言いますか。最近流行りの鬼滅の刃に出てくる鬼殺隊も荒っぽい感じですけど、割と雰囲気が似ています。<br /> <br /> スピリチュアルである程度の微細な感覚が発達してくると、そういう存在から目をつけられるのです。<br /> <br /> そして、そのようないわゆる「神様」からコンタクトがあって、神様の指示で特別な儀式とか指示されると有頂天になって「私もついにここまで来たか」と勘違いしてしまうのですよね。<br /> <br /> 生まれながらにネイティブで知っているわけでもなくて、たまたまコンタクトしてきた存在が本当に神様かどうか、どのように判断しているのでしょうかね? 良い波動と思えたとしても、ふりをしているだけかもしれませんしね。 そこまで見抜けないのなら儀式とかするべきではないと思いますし、見抜いて本物の神様だと思ったとしてもそれすらもフリで、騙されているだけかもしれませんしね。見えない存在の方が何倍も何倍も上手です。<br /> <br /> ここが、スピリチュアルにおいて一つの山場になる気がいたしますね。<br /> <br /> このようないわゆる「神様」に囚われると、往々にして神様に「使い捨て」にされます。儀式とかさせたり、言葉を下ろしたりして最初は良くても、エゴが育ってきたり儀式の後遺症あるいは儀式を妨害してくる存在との戦いで疲れたりして使い物にならなくなったら神様は離れていきます。能力者で神様に使い捨てにされたり、あるいは、神様と名乗る変な存在の欲望を叶えるために延々と煽られ続ける、みたいな状態に陥っている人をたまに見ます。<br /> <br /> 日本神界の神様はとても力強くて、守護霊もそれなりのレベルにないと守護霊が怖気づいてしまったりもしますからね。そうなると日本神界の神様の思うままに使われてしまうわけです。<br /> <br /> 別にね、本人がそれでいいと思うのなら何をするにせよ自由がありますので好きにすればいいというのが基本ではありますけど、あまりにも日本の神様に使い捨てにされている人が多いと、なんだかなぁ、という気が致しますけどね。<br /> <br /> あまりそういうのに関与せずに、もっと高い悟りの状態を目指した方がいいと私なんかは思いますけどね。<br /> <br /> スピリチュアルでよく言われていることですけど、自分の波動と同じくらいの存在と繋がる、というのは真実です。日本の神様に繋がるということは自分のスピリチュアルなレベルがそれなりに成長したということで喜ばしいことではありますけど、実際のところ、日本の神様は最高のレベルにあるというよりも、日本の神様は徳の高い人、という感じなわけです。<br /> <br /> 人には色々な成長度合いがありますから、今生ではここまで、というのがあります。その視点から見て今生では自分の成長段階において勉強になる日本の神様とかかわり合いを持とう、と決めて生まれてきている人もいて、それはそれで好きにすればいいと思います。<br /> <br /> ただ、今生でそれなりの悟りを求めていて、実際、自身にそのような素養があって、計画でもそれなりの悟りを求めようと思っている人が日本神界の神様の、いわゆる「徳の高い人」のレベルの神様と関わり合って留まっているとしたら、それは停滞でもあるわけす。<br /> <br /> この、日本の神様というのはとてもパワフルで、言葉も男らしくて、女性の神様にしてもエネルギーがあって美しさと強さを兼ね備えていますから、日本の神様から接触されて、しかも、何かお願いされたら有頂天になるのも無理はないかもしれません。<br /> <br /> 嘘っ子で神様のふりをしている存在もいれば、一方で、本当の神様というのもいて、どちらにしても、自身のスピリチュアルな段階に近いものが現れます。<br /> <br /> そのような存在と、あまり関わらないことですね。それが基本です。<br /> <br /> 神様とかいうと特別な存在に聞こえてしまいますけど、他人と一緒ですよ。仲のいい友人もいればそうでもない友人もいて、用事がある時だけ関わる人もいます。<br /> <br /> 徳の高い人と接するのと同様に神様と接すればいいわけです。<br /> <br /> であれば、自身のスピリチュアルな成長のためにはそのような人と必要以上に接したりその人の願いを聞いて儀式をして、みたいなところはほどほどにしておくべきなのかなと思います。<br /> <br /> ヨーガの経典であるヨーガ・スートラには、ヨーギが悟りに近づくと神様が近づいてきて誘惑をするのでそれを退けなさい、という節があります。それは真実なのだと思います。<br /> <br /> まあ、退けなさい、というのはやりすぎにしても、時と場合において、知人と接するように神様とも接すればいいと思います。何でもホイホイ聞いてあげるのではなく、それが何をもたらすのか、とか、何故自分がすべきなのか、とか、相手を日本の神様だからといってことさら特別視する必要はなくて、とは言いましても徳の高い存在ですので願いを叶えてあげたいという気持ちが生じるのは自然のことで、何かしてあげてもいいのですけど、それは現実で知人や徳の高い人からお願いされて行動するのと同様に節度を持って行動すべきなのであって、日本の神様の言う通りに何でもしてあげるべきとかそういうことではないのですよね。<br /> <br /> このあたりを超えられるかどうかがスピリチュアルな成長において一つの山場になっているような気が致します。<br /> <br /> 迷ったら、自分の守護霊に聞くことですね。それが基本で、ハイヤーセルフの声が聞こえるならそれをしても良いです。もっと直接的に知るには幽体離脱するのも一つの手かもしれません。<br /> <br /> そのような場合でも、特に儀式とかそのあたりは、気安くするべきではないと思います。とは言いましても、神様からコンタクトがあって行動してしまう人は自信家だったりしますから自分は正しいと思って行動しているのでしょうから言っても無駄ではあるかもしれませんけどね。確かに正しい儀式というのはありますけど、そうでもない儀式もあったりします。<br /> <br /> まあ、悩むならやらないことですね。と、同時に、躊躇するくらいならすべき、という面もあります。行動すべき時に悩んで行動せずに失敗した、ということもありますし、逆に、悩んで行動して成功した、ということもあります。ですから、言葉ですとなかなか表現しにくいのですが、そのうち何が正しいのかわかってきますよ。<br /> <br /> 最初は何が正しいかも分からないかもしれませんけど、正しいのは何かがわかってきて、そうすると、もう神様とかと関わり合いがなくなってきて、頼られなくなります。というのも、もっとコントロールしやすい人は世の中に大勢いますからね。<br /> <br /> もっと言ってしまえば、儀式とかして世の中に貢献する場合は生まれた時から自覚していることが多くて、そのようにネイティブで最初からスピリチュアルなことがわかっている人と、生まれた後にスピリチュアルで多少成長したくらいで日本の神様と自称する存在からコンタクトされて有頂天になる人とは雲泥の差があるわけです。<br /> <br /> まあ、最近は人材不足ですのでそのような人も使わざるをえない状況というのもある気も致しますね。でも、基本は上に書いた通りですので、あまり日本神界の神様とかと関わらない方がいいと思います。とか書いても、実際にコンタクトしてきたらとてつもなく魅力的に見えたりするので言っても無駄なことも多いだろうなとは思いつつも、一応書いておきます。<br /> <br /> 日本の神界の神様はいわゆるカミナリオヤジみたいな感じで、ドスが効いていて、いわゆる神様のイメージとはちょっと異なりますから、生理的に受け付けない、という人はそのように拒否すればいいだけだと思います。<br /> <br /> スピリチュアルな団体に日本神界の神様が接触してきて雰囲気をまるっきり変えたり教えを変えたり・・・ ということも割と起こります。<br /> <br /> このあたりがスピリチュアルの一つの危機なのですよねえ。<br /> <br /> Fri, 16 Apr 2021 00:00:00 +0900 スピリチュアルで願望実現するのかどうか https://w-jp.net/2021/2323/ <br /> スピリチュアルとか占いでは願望実現の方法が多様に語られています。<br /> 手法は色々とあれど、基本は運気を読んでそれを強化及び行動する、というところに尽きます。<br /> <br /> これはどういうことかというと、以下の2つのパターンがあります。<br /> <br /> ・アストラルな想いの世界に雛形があるのでそれを強化して現実化する。<br /> ・既にパラレルワールドで実現されているのでそれをなぞる。<br /> <br /> パラレルワールドというのは色々と誤解がありますが、ここで言っているのはパラレルワールドは基本は全て過去というお話で、時間的に今の時点から見れば未来に相当しているパラレルワールドもありますけどそれは時空を超えて戻ってからやり直している場合がありますので未来のように見えるだけで、パラレルワールドには順番がありますから、いうなればパラレルワールドは全て過去のようなものであるわけです。ここで言っているのはその応用と言いますか、そのように順番的に過去であるものの一般的な時間に沿って見るならば未来に相当しているパラレルワールドがあって、そこで実現している、といいますか、そのタイムラインにおいては既に実現した現実を今回も再現すればいいわけです。<br /> <br /> そのように過去のタイムラインをなぞらえて同じような未来を今回のタイムラインでもなぞる場合もあれば、まだアストラルな雛形しかなくて今回のタイムラインで初めて現実化するような場合もあります。<br /> <br /> 初めて現実化するパターンにおいてスピリチュアルで願望実現と言うと、その雛形を強化するために想いの力を使い、具体的にイメージして頭の中でまず具現化し、そして現実のものとするために実際に行動が必要になります。<br /> <br /> 一方、前のパラレルワールドで既に実現したことであればいわば体験済であるわけで、それをなぞるのは難しくはないでしょう。<br /> <br /> また、前のパラレルワールドで実現した時の経験および反省を元に、「あれは失敗だった。もっと良くしたい」と思えばそのように新たな未来が作られるわけです。<br /> <br /> スピリチュアルとか占いはこのあたりがごっちゃになっており、願望実現の法はまだ存在していない未来を作り出す方法、スピリチュアルで未来を見抜く場合はどちらの場合もありえます。<br /> <br /> ただ、どちらの場合にしても行動が必要なわけです。<br /> <br /> とは言いましても、大抵のスピリチュアルや願望実現の法の目的は文字通り願望実現なことがほとんどですけど、それは結局のところ、現世で欲望を満たすことでありますので、大したことではないのです。<br /> <br /> 大きな視点で言えば、そのような願望が実現しようがしまいが人生は続きますし、大差ないと言えます。<br /> <br /> 占いとかスピリチュアルで願望実現をするのは、ある意味、趣味みたいなものなのかな、と思います。<br /> <br /> 実際にはスピリチュアルにはもう1つ道があって、「願望を克服する」というお話があります。こうなると、願望実現は不要になるわけです。願望が次なる願望を生み出すというループのラットレースから抜け出すという道ですね。<br /> <br /> ラットレースから抜け出すとか言うと「金持ち父さん」のお話が有名で、まるでお金儲けのお話のように見えてしまうかもしれませんけど、ここで言っているのはお金とは全く関係がなくて、願望そのものを次々に追い求めるループから自由になる、ということです。生きる上でお金は必要ですのでお金を否定しているわけではありませんけど、ここで言っているのとは無関係ということです。<br /> <br /> スピリチュアルで願望実現とかするのは現実を生きるテクニックで、趣味みたいなものですのでそれを否定する必要はないと思います。そうしてスキルを使って人生を楽に生きて、願望のループから抜け出て生きるというのも一つの選択肢だと思います。<br /> <br /> この世界は遊園地みたいなものですから、「貧乏ってどういうことなのだろう?」「なんでみんなあんなくだらない願望のために一生懸命働いて苦しんでいるのだろう?」と興味を持って試しにそのループに入ってみるというのもまた一つの趣味です。<br /> <br /> 一方で、興味がないから願望のループの存在すらも気付かない、というのも一つの生き方です。<br /> <br /> 一言でスピリチュアルと言っても色々なレベルの違いがあるわけです。<br /> <br /> Fri, 16 Apr 2021 00:00:00 +0900 ガヤトリマントラで体が左回転した https://w-jp.net/2021/2322/ <br /> 今朝の瞑想で眉間に集中しているとアジナの付近にオーラが集まってきてしばらくするとそれがサハスララに抜け、それと同時に体の緊張が少し緩み、次にまたアジナにオーラを集めてはまたサハスララに少し抜けて再度体の緊張が緩み、というサイクルを何回か繰り返していました。<br /> <br /> そうしていると、ふとガヤトリマントラが頭に浮かんできて、少し久しぶりに心の中で唱えてみたところ眉間の奥のアジナに核のようなものが出来て効果を感じました。<br /> <br /> それだけで終わらず、そのまま何回か唱えていたところ、眉間から正面を向いた方向を軸にイメージの中であぐらをかいたまま体が何回か左回転しました。<br /> <br /> 左回転というのは、普通にあぐらを書いている状態から頭の部分は動かさずに正面を向いたまま下半身が右の方に来て、次にそのまま回転を続けて前を向いたまま下半身が上に来て、次にまた回転を続けて下半身が左に来て、下半身が下に戻る、というような動きで、それがたぶん3回転かそのくらいしたかと思います。<br /> <br /> もちろんこれはイメージ上でのことで、肉体が回転したわけではありません。<br /> <br /> もともと、似たようなことでクンダリーニが上がった時に背骨を軸に左回転したりマニプラ優勢からアナハタ優勢に変わった時に背骨を軸にして体を左回転したことがありましたが、どちらも背骨が軸になっての回転でした。<br /> <br /> 今回は、眉間から前に伸びた線を軸に体が左回転しましたので、軸の違いがあります。<br /> <br /> 以前の時も、何か「ねじれ」が取れた感じがしてエネルギーが通った気がしたのですが、今回は多少のエネルギーの流れを感じるものの以前の時ほど劇的な違いはないようです。<br /> <br /> 2回転目くらいまでは自然に回転したのですが3回転目の途中くらいから減速したので、完全には回っていないのかもしれません。そこはよくわかりません。<br /> <br /> ですけど、久々に唱えたガヤトリマントラで今回は面白い効果が出たのでした。<br /> <br /> Tue, 13 Apr 2021 00:00:00 +0900 空間が泡で出来ていることが見える https://w-jp.net/2021/2321/ <br /> 瞑想して、この世の全てが知識で満ちていて、かつ、空間が歪んで見えた時、それが泡で出来ていることも同時にわかります。<br /> <br /> 空間の中に泡がある時、泡の周辺が少し黒くなっていて、泡の中は東名で、泡と泡の間が黒くなっています。黒とは言っても漆黒よりも灰色に近い黒ですが、白と黒の中間の灰色よりは黒寄りですので、色としては黒です。人によっては灰色と言うかもしれませんが、私にはどちらかというと黒というように見えました。<br /> <br /> そのように、泡が空間に詰まっていることがわかったのですが、全方向の視界全てがそれで見えたわけではなくて、一部分がそうであることが見えて、おそらく他のところも同一だろう、と感覚的にわかった感じです。<br /> <br /> もともと、空間が歪んで見えたのも視界の一部ですし、この世の全てが知識で満ちているという認識が感じられたのも視界の一部、どちらも私の視界の前方の少し上側で、最初は少し右上方向、とは言っても基本的には正面でやや右よりのところで空間が歪んで見えました。その後、視界の半分以上が知識で満ちているのを感じて、次に、正面のやや左寄りのところで空間が泡で満ちていることがわかりました。視覚としてぼんやりとうっすらと浮かんで見えた感じです。<br /> <br /> 物質のようなはっきりとした視覚ではありませんけど、うっすらと泡のようなもので空間が満ちているのを感じました。<br /> <br /> これ、どこかで聞いたことあるなあ・・・ と思ったら、私は詳しくないですけれどもノーベル賞を取った湯川先生の素領域理論がそんな感じだったような気もします。どうでしょうかね。<br /> <br /> Mon, 12 Apr 2021 00:00:00 +0900 時折、他人の思考がはっきりと聞こえる https://w-jp.net/2021/2320/ <br /> かなり以前からもなんとなくそう思う時は多々ありましたけど、ここに来て、特にこの世の全てが知識で満ちている感覚になってからは他人が誰かのことを思っている思考がはっきりと聞こえるようになりました。<br /> <br /> とは言いましても全て聞こえるわけではなくて、もしそうであれば騒がしすぎますけど、幸いなことに、時折はっきりと聞こえる、というくらいです。<br /> <br /> 一般的に、人は思考を延々と繰り返していて日に何万も考え事をするとか言われていますけど、それら全てが聞こえるわけではなくて、誰かがすぐ近くにいる人に対して思うことが(その人に対してではなく)私に対して(心の中で)言っているように聞こえる、という感じで認識されます。<br /> <br /> 実際には、明確な意思での思考はそれほど多くないのかもしれませんし、単に誰かの思考を聞いている、という場合も多々あるように思えます。心の中で発している明確な意思での思考のうち、他人に対する思考が私にも聞こえるようなのです。ただ、全て聞こえるわけではなく、条件があるようです。おそらくは波動的に近い人の声が聞こえるのかなと思っておりますがこのあたりは更なる検証が必要です。<br /> <br /> そのように、「呼びかけ」の思考がまるで自分(私)に(心の声で)語りかけているかのように聞こえるのですが、最初は、「あれ? 私にそんなこと関係あるのかな?」みたいに、よくわからない状況でした。<br /> <br /> 例えば、近くで「久しぶりかも?」という声が私に聞こえてきて、最初は「え? 私と久しぶりに会う人がいるの? 誰でしょう?」と思っていたら、他の2人がお互いに昔の知り合い同士で久々に会う、ということがありました。<br /> <br /> 他にも、ちょくちょく似たようなことがあります。毎回、「あれ? 私にそんなこと関係あるのかな?」と思っていたが他の人同士のことだったりしますけど、心の声としては「私に対して言っている」かのように聞こえますので、最初は「え? 私に関係あること? なにそれ?」と、ちょっと不思議に思います。<br /> <br /> ですけど、それは誰かが誰かに対して思っている心の声でありますので私にはあまり関係ないわけですね。<br /> <br /> 以前から似たようなことはたまにありましたけど、最近は頻度が違いますね。それと、かなりクリアにその声が聞こえるようになりました。<br /> <br /> みんな、心の声は意外に大きいのですね。周りにまで聞こえまくります。<br /> <br /> これは、似たようなお話で「オーラを融合させて他人の思考を読み取る」というやり方とは全く違って、これは思考を単に読み取る、というお話です。別物です。<br /> <br /> 意図的に「聞きたくない」と思えば聞こえませんし、感覚を開いていれば聞きやすいです。ですから、聞こえすぎて困る、ということは今の所ありませんね。そもそも他人の心の中のおしゃべりにそんなに興味ありませんし、たまたま聞こえてきてしまった、というだけのお話です。<br /> <br /> これ、特に女性は生まれながらにしてテレパシー持ちの人が多い気が致しますけどね。どうでしょうかね。<br /> <br /> 空間が満ちていることに普段から気がつくようになったタイミングでこのテレパシー能力が出てきたということは、空間がずっと繋がっている、ということなのでしょうね。今の所は受信側だけで、発信側はあまり試したことありませんけど。そんなに試す機会もありませんしね。<br /> <br /> Sun, 11 Apr 2021 00:00:00 +0900 スピリチュアル: バガヴァッド・ギーター https://w-jp.net/topics/スピリチュアル: バガヴァッド・ギーター/ スピリチュアル: バガヴァッド・ギーター ヨガの道は神の実現への独立した手段でもあり知識の道の補助にもなり得る https://w-jp.net/2021/2414/ <br /> <ギーター解説書の続きを読んでいきます。><br /> <br /> 次の質問は、「ヨガの道は神の実現への独立した手段ですか、それとも知識の道の補助として神の実現に貢献しますか?」です。この質問に対する私たちの回答は、ギーターがこれらの両方の見解に同意しているということです。言い換えれば、ギーターは、ヨガの道を、神の実現または解放への独立した手段でもあり、又、知識の道の補助でもありますから、両方であると考えています。努力者がそう望むなら、彼は学問知識の助けなしに、カルマヨーガの実践を通して直接最高の完成度を達成することができます。または、カルマヨーガを通して知識の道へのアクセスを得て、彼は知識の道を踏むことによって神を実現することができます。彼が採用すべき2つのコースのどちらかは、彼の好みまたは素因によって異なります。ヨガの道が独立した手段であるということは、V.4と5、そしてXIII.24で主によって明確に確認されています。神のみのために働き、神に心を留め、神の恵みによって神を悟る者は、いくつかの場所で主によって宣言されています(VIII.7; XI.54、55; XII.6-8)<br /> <br /> 無関心な行動と崇拝の両方が、知識の道の補助としての役割を果たすこともできます(V.6; XIV.26)。 しかし、ニャーナヨーガ(Jñānayoga, 知識のヨーガ)は崇拝者が神を自分自身と見なす崇拝の形態を特徴としているため、知識の道はバクティヨーガ(献身のヨーガ)あるいはヨガの道を補助することはできません。と言いますのも、それらの道では崇拝者が神を彼とは異なるものと見なすからです。知識の道の信者が後で彼の傾向や意見が変わったことに気づき、知識の道をあきらめてヨガの道に行き、そしてヨガの道を通して神を実現するならば、それは全く別のことです。<br /> <br /> Tue, 13 Jul 2021 00:00:00 +0900 2つの神のための行動 https://w-jp.net/2021/2413/ <br /> <ギーター解説書の続きを読んでいきます。><br /> <br /> 「神のための行動」も2種類あります。<br /> <br /> 経典によって課せられた義務。それは神の願いに従って、神の実現または神の愛の達成を目的として、あるいは神の喜びのために、そしてあるいは主のイメージなどに崇拝を捧げることを目的として行われる。もう1つの崇拝の形は礼拝と瞑想です。それは神のみのために行われ、見た目からも神と関係がありますが、どちらも「神のための行為」に含まれています。 これらのタイプの行動は両方とも、ギーターでは「マトカルマ(Matkarma)」と「マダルサ-カルマ(Madartha-Karma)」という用語で呼ばれています(XI.55; XII.10)。<br /> <br /> 排他的な献身として語られてきたもの (VIII.14, 22; IX.13, 14, 22, 30, 34; X.9; XIII.10; XIV.26) は、「Bhagavadarpaņa」(神に捧げられた行動)と「Bhagavadartha」(神のための行動)という言葉で表される2種類の行動にも含まれています。 これらすべての果実である神の実現は同じです。<br /> <br /> <br /> Tue, 13 Jul 2021 00:00:00 +0900 3種類のカルマヨーガヨガ https://w-jp.net/2021/2412/ <br /> <ギーター解説書の続きを読んでいきます。><br /> <br /> 知識の分野が上記のように4つのタイプに分けられたましたが、 それでも、ヨガの分野は主要な3つに分類されるかもしれません:–<br /> (1)行動に特に重点を置いたカルマヨーガ。<br /> (2)献身とブレンドされたカルマヨーガ。<br /> (3)献身に支配されたカルマヨーガ。<br /> <br /> (1)行動に特に重点を置いたカルマ・ヨーガは、社会の学年と舞台生活を十分に考慮して経典に定められた義務を遂行することであり、すべての行動と世俗的な物に対する果物と愛着への欲求を完全に放棄します。このタイプのカルマヨーガに関する教えの中で、主はいくつかの場所で果物だけの放棄を主張しました(V.12; VI.1; XII.11; XVIII.11);他の場所では、彼は愛着の放棄だけに重点を置いています(III.19; VI.4)。さらに他の場所では、彼は果物の放棄と愛着の放棄を要求しました(I.47、48; XVII.6、9)。果物の放棄だけに重点が置かれている場合、愛着の放棄も同じものでカバーされていると見なされるべきです。愛着の放棄だけが主張されてきた文脈では、果物の放棄もその中で暗示されているようにとらえるべきです。規律ある行動は、果物と愛着の両方が放棄されたときにのみ実際に実現することができます。<br /> <br /> (2)献身と融合したカルマヨーガ:この分野では、努力者は、神を全宇宙に存在すると見なして、彼のヴァルナ(社会の学年)に適した職務の遂行を通じて神を崇拝するように求められました(XVIII.46)<br /> <br /> (3)献身が支配的なカルマヨーガ:それはさらに次のように分けられます:–<br /> (a)神への行動の提供<br /> (b)神のための行動。<br /> <br /> 神への行動の提供も2つの方法で実践されます。 「完全な降伏」として知られているものでは、努力者はすべての行動に関して、私があるという感覚、愛着、そして果物への欲求を放棄します。 彼は、すべてが神のものであり、彼も神のものであり、彼によって行われるすべての行為も神であり、興行師が彼の人形によって物事を成し遂げるときに彼によってすべてを成し遂げているのは神であると信じています。 そして、この信念をもって、彼は彼の願いに従って、そして彼の喜びだけのために、聖典(Sāstras)で規定された義務を果たします(III.30; XII.6; XVIII.57,66)<br /> <br /> これに加えて、最初に神以外の他の動機で行われた行為は、後の段階で神に提供されるかもしれません。 活動の過程でも、あるいは、実行の途中でさえも提供される場合があります。 完了した後すぐに提供される場合もあります。 またはその果実だけが提供されるかもしれません。 これらはすべて、初期段階に過ぎませんが、神に自分の行動を提供する非常に多くの形です。 上記の「完全な降伏」の段階に最終的に到達するのは、これらの予備段階の継続的な実践を通じてです。<br /> <br /> <br /> <br /> Tue, 13 Jul 2021 00:00:00 +0900 求道者(サダカ)の自己実現 https://w-jp.net/2021/2411/ <br /> <ギーター解説書の続きを読んでいきます。><br /> <br /> 求道者(サダカ)が上記の精神状態を達成できるようにするために、主はさまざまな手段や複数の場所で自己(Self=ブラフマン)が見る者であり鑑賞者であり意識そのものであり永遠であるという真実をサダカの心に教え込まれました。客観的に見える身体などのすべての物質の存在(現れるすべて)は一時的であり、したがって現実ではありません。自己(Self)だけが本物です。この見方を支持するために、主は第2章の11節から30節を、永遠の、純粋な、目覚めた、形のない、変化のない、行動のない、超越的な自己に関する議論に捧げます。神を自分自身と見なす求道者(サダカ)は、魂がこれらの特徴を持っていると見なして精神的な自己鍛錬(サダナ)を進めた場合にのみ、自己実現を達成します。どんな行動・活動が起こってもグナの遊びに他なりません。自己はそれらの行動・活動とは何の関係もありません(V.8、9; XIV.19)- 自己それ自体は何もしませんし、何かを起こすようなこともありません。これの気付きを得て認識することで、求道者たちは絶えず永遠に自分自身の中で最高の喜びを感じます(V.13)。<br /> <br /> 上記のニャーナヨーガの4つの慣習のうち、最初の2つはブラフマンの崇拝に関連しており、3番目と4番目は崇拝者が神を自分自身と見なす崇拝の形態と結びついています。 ここで疑問が生じます:上記の4つの実践は、抽象的な瞑想の終わりに、または瞑想自体の間に実行されるべきですか? または、両方の状態に関連がありますか? この質問に対する私たちの回答は、上記のセクション(4)の終わりに描かれた、V.9に示されている行に進むプロセスのみが、世界に対処しながら実践されるべきであるということです。 一方、セクション(2)の冒頭で与えられ、第V章の17節に従って実践されなければならないことは、瞑想の間だけ続けられるべきです。 残りは通常、両方の側面で実施できます。<br /> <br /> これに関連して、ギーターからの以下の抜粋が私たちの特別な注意を引き付けます。<br /> (1)वासुदेवःसर्वमिति-現れるものは何でも神と同じです(VII.19)<br /> (2)सर्वभूतस्थितंयोमांभजत्येकत्वमास 確固として確立された人は、'私'を人々の自己(Self)としてすべての存在に住んでいるものとして崇拝します」(VI.31)。ここで質問する人がいるかもしれません:上記のセクション(1)で説明したプロセスに関連してこれらが言及されていないのはなぜですか? この質問に対する私たちの答えは、これらの聖句は両方ともバクティの文脈で発生し、両方とも神が実現した魂に関連しているということです。 したがって、それらは最初の実践に関連して言及されていません。 しかし、だれかがこれらの聖句を知識の道に関係しているものとして扱い、それに従って実践を続けたいと願うなら、それに異議を唱えることはできません。<br /> <br /> <br /> Tue, 13 Jul 2021 00:00:00 +0900 全てのものはブラフマンであるという原則 https://w-jp.net/2021/2410/ <br /> <ギーター解説書の続きを読んでいきます。><br /> <br /> 原則は、次のように詳しく説明することができます。<br /> (1) この世界に現れる生物や無生物のもの全てはブラフマンです。それは、 確実なる真理、意識、至福である神と何ら変わりはありません。 私たちが実行する行動が何であれ、その行動の手段と道具、そして実行者自身など、そのすべてがブラフマンです(IV.24)。 海に浮かぶ氷の塊が内側も外側のどちらもそれぞれ水と水だけで浸透しており、塊自体が水に他ならないのと同じように、すべての生物と無生物の内側と外側の両方がそれぞれ神と神だけであり、神によって存在し、神のみが存在し、神がそれらすべての存在の形で存在するのです(XIII.15)。<br /> <br /> (2) すべての驚異的な存在を幻想的で瞬間的でやがては消え去るものとして否定し、それらすべての基盤、つまり神だけが存在し、神以外には何も存在しないことを認識し、精神と知性さえもブラフマンに統合されるべきです。 したがって、神との同一性を確立するために、求道者(サダカ)は直接の実現(気付き)を通して神と一体になるべきです(V.17)。<br /> <br /> (3) 生物と無生物の創造物全体がブラフマンであり、そのブラフマンは私自身です。 したがって、すべては私自身です。 この考え方に従って、求道者(サーダカ)はすべての生物と無生物を自分自身と見なす必要があります。 上記の実践を続ける求道者(サーダカ)の目には、ブラフマン以外に何も残っていません。 ブラフマンは彼の内にある確実なる知識と至福と同じものであることを識別することで彼は喜びに満ち溢れます。(V.24; VI.27; XVIII.54)。<br /> <br /> (4) 全ての現象的な存在およびそれから生じる活動の全ては永遠ではなく、滅するものであり変わりゆく幻想であり、また、3つのグナの産物であると見なし、本当の「私」とは離れたものであると見なし、それら全てを完全に否定しつつ、「私(Self=ブラフマン)」のみが本当に存在している唯一のものであると識別すべきです (XIII.2、34)。<br /> <br /> <br /> <br /> Mon, 12 Jul 2021 00:00:00 +0900 知識の道にある4つの原則 https://w-jp.net/2021/2409/ <br /> <ギーター解説書の続きを読んでいきます。><br /> <br /> 実際に知識の道を歩むために、主はいくつかのプロセスを提案しました。そのすべてにおいて、真実であるところの神の実現、確実なる意識と至福を得るという成果は同じです。 多くの副次的な種類がありますが、知識のヨガは、4つの主要な種類に分けることができます。 それらは、以下の原則によって表されることがあります。<br /> <br /> (1) 全てのものはブラフマンであり、存在するのはブラフマンだけです。<br /> (2) すべての現象的な存在は幻想です。 実際、真実、意識、至福であるブラフマン以外には何も存在しません。 <br /> (3) 現れるもの全ては私自身です – それは私です。 <br /> (4) 現れる全てのものは幻想的で一時的なものであり、実際の存在ではありません。 私である、永遠の意識のある自己だけが存在します。 <br /> <br /> これらの中で、最初の2つはヴェーダの公式 'Tattvamasi' (Thou art That)の Tat (That) を参照しています。最後の2つは同文の Tvam (Thou) を参照しています。<br /> <br /> <br /> <br /> Mon, 12 Jul 2021 00:00:00 +0900 2つの道の本質的な特徴 https://w-jp.net/2021/2408/ <br /> <久々ぶりに、ギーター解説書の続きを読んでいきます。><br /> <br /> (1)すべての物体は、蜃気楼で見られる水、あるいは夢の世界のように幻想的または非現実的です。心、感覚、および体から生じるすべての行動は、マーヤー(自然)から生まれたグナの動きに他なりません。感覚などの形で、さまざまな感覚の対象の形でグナの中に生じます。 これを理解することで、知識の道の信者はもはやそれらの行動の実行権を主張しません(V.8-9)。 そして、真実であり意識と至福でありすべてに浸透している至高の精神または神とのアイデンティティを常に確立したままで、彼は神以外のものの存在を認識することをやめます(XIII.30)。 これが知識の道、またはサーンキャニシュター(Sānkhyanişthā)と呼ばれるものです。 ニャーナヨーガ(Jñānayoga)またはカルマサンキャーサ(Karmasannyāsa)とも呼ばれます。<br /> <br /> (2)一方、ヨガの道の信者は、すべてを神のものと見なします。 彼は成功と失敗の準備ができており、愛着と実の欲望を放棄し、神の願いに従ってすべての行動を実行します(II.47-51)。 または、思考、言葉、行動において神に身を任せ、信仰と敬意を持って、彼の名前、美徳、栄光とともに、神の形について絶えず瞑想を実践します(VI.47)。 これがヨガの道を構成します。 サマトヴァヨガ(Samatvayoga)やブッディヨガ(Buddhiyoga)など、他のさまざまな名前で指定されているのはこの道です。 <br /> つまり、平静のヨガ「タダルサカルマ(Tadartha Karma)」または「マダルサカルマ(Madartha Karma)」、すなわち神のために働くこと。Sāttvika Tyāga(Sāttvikaの種類の放棄)。<br /> <br /> ヨガの道では、バクティまたは献身は、一般的な方法、あるいは、規則の原則として役割を果たします。 ギーターで発表されたヨガの道は常に献身から離れていません。 献身の神(II.47-51)について明確に言及していない節でさえ、いかなる場合でも主の戒めに従うことを含んでいます。 そしてそれもまた神の実現を助長します。 この意味で、バクティは間接的にそこも考慮しています。<br /> <br /> Mon, 12 Jul 2021 00:00:00 +0900 コロナ https://w-jp.net/topics/コロナ/ コロナ イベルメクチンでコロナ後遺症が改善されました https://w-jp.net/2021/2415/ <br /> 1年半悩まされ続けていたコロナ後遺症らしき咳き込みがイベルメクチンを飲んで数日で改善され、症状が半分以下になったように思います。たまたまかもしれませんし、他の理由があるかもしれませんので確実なことは言えませんし、プラシーボかもしれません。ですけど、いつまで経っても治らなかった不快な咳き込みが激減したのは事実です。<br /> <br /> 元々、私は2020年2月頃におそらくコロナにかかったのですけど医療機関に言ってもスルーされ続けて誰も治療するつもりがないし本当にコロナかどうか検査するつもりもなかったようなので自分が本当にコロナかどうか確かめるのを諦めた口です。<br /> <br /> 症状が現れたその日、骨折の経過観察のために大きな病院に行ってレントゲンを撮ってもらいました。その病院というのは私が受診した1週間後に初期のコロナ患者が出て死亡し、看護婦も感染して病院自体が丸ごと閉鎖された場所だったのですけど、受診が午前中で、その同じ日の午後から急に強い咳が出始めて次の日には熱も出始めましたのでタイミングとしては抜群です。その後の経過は以下です。<br /> <br /> ・午前中に大きな病院を受診<br /> ・同日の午後から強い咳が出始める<br /> ・翌日、咳に加えて熱も出始める。その日の夕方、近くのかかりつけ医者を受診。コロナかどうかはわからないですがとりあえず普通の抗生物質を処方して様子を見ましょう、ということになりました。<br /> ・その翌日、熱は下がって強い咳は出なくなりましたが喉が詰まった感覚と、喋るとすぐに咳が出る状態になりました。少し喋るだけですぐにゴホゴホしますので喉に力を入れておかなくてはならず、力を入れても不意に咳き込む状態が続きました。<br /> <br /> 私の場合、かなり初期段階で世間がコロナのことがわかっていない段階で感染したので不幸中の幸いだったように思います。もう少し後であればPCR検査をした後にホテルに缶詰になって、そこでは薬を与えられることもなく自己の免疫だけで直さなくてはならなかったように思います。<br /> <br /> 私の場合、近所のかかりつけ医から抗生物質を渡されて表面上の症状は改善されました。<br /> <br /> 色々と調べてみましたところ、コロナはウイルスですので抗生物質の効き目はない、とのことですけど、コロナの菌が腸に入って感染した後にその他の何かと結びついて、それが肺に来て呼吸困難を引き起こすらしいですので、抗生物質がコロナそれ自体には効かないのはその通りらしいですけど、コロナと結びついた生きている菌が肺に来た段階であれば肺にいる菌を抗生物質で退治することができるので効果がある、ということのようです。私の場合、抗生物質を飲んでから劇的に症状が改善しましたので、この理屈は納得が行きます。<br /> <br /> ですけど、上に書きましたように、当時のコロナの理解では抗生物質はコロナに効かないということになってしまいましたから、もしかしてコロナに感染する時期がもう少し遅ければ抗生物質を与えられることなしに、下手をすればホテルあるいは病院で人工呼吸器をつけられたまま殺されていたかもしれないわけです。タイミングのちょっとの違いで抗生物質で助かっていた、ということかもしれないわけです。抗生物質が効かないとか言われていますけど、ダメもとで処方すればいいのに、と思うのですけど。なんだか変なお話です。抗生物質でコロナの肺の症状が治るというお話はとあるYouTubeで聞いたのですけど、かなり初期の段階ですので今は違うのかもしれませんけど、その動画の中ではどこかの東京の大学の偏差値の高い医学の教授もそう言っていたということで、信憑性はそれなりにあります。個人的な経験から言っても抗生物質に助けられたと思います。<br /> <br /> ただ、後遺症はその後も続いて、最初の3ヶ月くらいは特に酷くて、喋るとすぐに咳が出るので他人からコロナかと思われる疑いの目が厳しかったです。<br /> <br /> 半年経つと少しは減ってきましたがずっと続いていました。<br /> その後、1年経過する頃には更に減ってきましたが、それでも咳は続いていました。<br /> <br /> 今、おおよそ1年半経過して、だいぶ良くはなってきましたけど喉の変な感じは続いていました。<br /> <br /> 世間ではワクチンが騒がれていますけど私はまだ打っていなくて、というか、そもそもコロナにかかっているので今更ワクチンを打ってどうなるのだ、という感じでもありますし、治験も3ヶ月かそこらしかしていない実験薬を打つのも微妙ですし世界初のmRNAワクチンを世界規模で治験しているという意味不明な社会実験に付き合うのも微妙です。<br /> <br /> そんなところにイベルメクチンの噂を聞いて、薬自体はとても古いもので副作用も少ないようですし、病院での処方はできないですけど自己責任で飲むことはできるようですので海外から取り寄せました。リスクがあるのはもちろん承知の上ですが、私がコロナかどうかを誰も診断してくれないですし、診断しようとする意図も感じられなくてスルーされ続けてきましたので自己責任でイベルメクチンを試すことにしたのです。いざコロナになれば医療機関の方々は親切に対応してくれるようですけど治療薬もなくて隔離状態で放置されるだけのようですし、それなら医療機関や保健所を頼るより自己責任でイベルメクチンを試してもいいと判断しました。<br /> <br /> イベルメクチンは空腹の時に取る必要があることと、体重に応じた量を取らなくてはならないようでしたが、私の場合、取り寄せたのが12mgの錠剤でしたので体重に対して少し少なめではあるのですけどそれを飲んで様子を見ることにしました。<br /> <br /> 夕食後2時間空けて、寝る前くらいに水で飲みました。牛乳とかはダメみたいです。<br /> <br /> その翌日と翌々日にかけて、もしかしたらイベルメクチンの副作用かと思われる、頭が少しぼうっとする症状が少し出ましたけどその後は問題ありませんでした。<br /> <br /> そして、何より良かったのが、不快な喉の咳き込みが急に回復したことです。<br /> <br /> 上に書きましたように、たまたまかもしれませんし、他のことが何か良い影響を出したのかもしれません。ですけど、タイミングとしては絶妙で、今日はイベルメクチンを飲んで4日目ですけどかなり喉の調子が良いです。まだほんの少し症状があると言えばありますけど薬を飲む半分以下の症状になったように思います。<br /> <br /> ただ、完全に回復したかどうかはまだわかりません。外を出歩くと一時的に喉がガラガラすることはありますけど、そのくらいのガラガラ感はコロナ以前からも時折あったように思いますから普通のガラガラ感は昔とは変わりません。ですけど、急に咳き込むような感じのコロナ後遺症と思われる不快なものはかなり解消されたように思います。<br /> <br /> まだ4日目ですので様子見で、他の病気に対してのイベルメクチンの処方としては1回処方と2週間の間を空けた2回処方という方法があるようですので、一応、2週間目も飲もうかと思っております。<br /> <br /> 私が良くなったからと言って、他人にお勧めはしません。<br /> <br /> 私の場合、医療機関に問い合わせてもスルーされて誰も助けてくれませんでしたし薬らしきものもないままに1年半ほどずっとコロナ後遺症らしき咳き込みに悩まされてきましたので自己責任で使いました。<br /> <br /> イベルメクチンが効果があると言う人がいる一方で、イベルメクチンは効果がないと言っている人もいますけど、少なくとも私には効果がありましたね。完全に治る特効薬でなくても、これだけ症状が改善されれば十分良い薬のように思います。<br /> <br /> Thu, 08 Jul 2021 00:00:00 +0900 スピリチュアル https://w-jp.net/topics/スピリチュアル/ スピリチュアル ナーダ音かと思ったらまず耳鼻科を受診しましょう https://w-jp.net/2021/2354/ <br /> ナーダ音とは瞑想などにより浄化がそれなりに進むと聴こえてくる高い音ですが、ヨガ等をしていて聞こえる方もそれなりにいらっしゃるかと思います。<br /> <br /> これに関して自分が聴こえているのがナーダ音かもしれないと時々問い合わせが入るのですが、まず基本的にリモートでは全く診断はできませんし、直接の診断とか指導は行っていませんので、気になるなら耳鼻科をまず受診してくださいと伝えています。<br /> <br /> 何か聴こえてきたら耳鼻科を受診して耳に異常がなかった時に初めてそれがナーダ音かもしれない、と一応の仮説を立てます。<br /> <br /> 耳鼻科で診てもらえるのは物理的な耳だけですので、耳鼻科で問題なしと言われてもこの時点ではまだナーダ音かどうかはわかりません。<br /> <br /> ストレスを受ける生活をしている時は耳に異常がなかったとしてもストレス要因による耳鳴りが起こる場合があります。<br /> <br /> あるいは、頭蓋骨の状態や何かの骨の位置が原因で耳鳴りが起きている可能性だってあります。<br /> <br /> どちらの場合も耳鼻科ではわかりません。<br /> <br /> ですから、何か不思議な音が聞こえてきてもそれがナーダ音だと早合点しないことですね。<br /> <br /> ナーダ音かどうかの判断基準は一応はありますけど、そうは言いましても最初は普通の病院で診てもらうことをお勧めしますね。<br /> <br /> メールでの問い合わせには一応は簡単に答えたりはしていますけど、それは指導ではなくてメールの内容への感想とか感想メールに対するお礼です。私は医者ではありません。色々書いてはいますけど特に指導とかしているわけではありません。<br /> <br /> ナーダ音だと早合点して病院に行かずして悪化させてしまったとしても何も責任取れませんのでまずは病院に行っていただければと思います。<br /> <br /> <br /> 関連 → アナハタ・ナーダの聖音とクンダリーニ<br /> <br /> Mon, 10 May 2021 00:00:00 +0900 他人への同情への強制はエネルギーの低い人がする行為 https://w-jp.net/2021/2299/ <br /> 同情という行為は選択的に行われるべきであり、エネルギーの低い人に対しては安易に同情すべきではありません。<br /> <br /> 同情とは基本的には割と同じ水準のオーラを持った人同士が相手を許して受け入れた時に行う行為であり、エネルギーの差がある人との間で同情を行うとエネルギーの同質化が起こりってお互いに多大な影響を与えますので、安易にするものではないのです。<br /> <br /> 自分よりエネルギーの高い人に対して行うのは同情ではなく尊敬であり、一方、自分よりエネルギーが低い人に対しては同情するのではなく愛を感じることです。<br /> <br /> 同情というと世間では良いことのように言われていますけど、実際は、同情とはエネルギーの低い人が他人からエネルギーをもらうために行う行為、あるいは、エネルギーの高い人がエネルギーの低い人にエネルギーを与えるために行うです。しかもそれはオーラの深いところから行われますので、ただ与えるだけでなく、お互いのオーラが均一化して、お互いにお互いの課題や何やらを共有することになります。<br /> <br /> ですから、こういった行為を安易に行うことはあまり褒められたものではありません。<br /> <br /> こう言うと反発する人が一定数いて、それは私にとって面倒なことだったりもしますのであまり世間では言わないですけど、実際、同情を必要としている人というのは他人のエネルギーに依存していて他人のエネルギーを必要としている場合があったりするのですよね。それを隠すため、あるいは、他人に気が付かせないために同情とは良いものだという同意を誘ったりすることもありますけど、安易に騙されないことが肝心です。あるいは、相手にそのような疑念を抱かせないために同情が良くないものというお話をしただけで怒鳴ってくるような場合も同様です。怒鳴るということはそのような真実に触れられたくはないという心理の表れで、盲目的に同情を続けさせることでエネルギーを奪い続けたい、という心理が自覚していようがいまいがそこには横たわっています。世間ではこのように、同情というものが良いものということにしておきたい人が一定数いて、それ故に、同情ということに対する真実があまり世間に出にくい状況になっています。<br /> <br /> これは、同情を誘うと言う意味でもそうですし、自分が同情する、という意味においても同じです。<br /> <br /> これはどういうことかと言うと、繰り返しになりますが、同情というのはオーラの一体化が本質であるからです。<br /> <br /> 同情するということは一体化をするということでありますから、エネルギーが高い方から低い方へと流れます。<br /> <br /> 同情というのは情というくらいですから愛よりも低いエネルギーです。そのレベルの低いエネルギーがお互いに感応し合って融合し、その時、エネルギーの均一化が起こる。それが同情の仕組みです。<br /> <br /> 同情することで両者のエネルギーレベルやカルマまでもが一体化します。<br /> <br /> 世間で言われているように同情することで他人を助けるなんて言ってしまうと聞こえが良くなってしまいますけど、実際そこで起こっていることは、他人と自分とのオーラが一体化して均一化しているということです。その真実を知ったら安易に同情なんてできなくなると思いますが。<br /> <br /> 世間では同情が良いものかのように言われていますけど、実際は、安易に他人に同情すべきではない、ということでもあります。<br /> <br /> 同情、という言葉だけでなく、相手に対する理解、ということでもその人の意識のレベル・覚醒の度合いによっては割と同じお話になります。<br /> <br /> 状況的に同情というか相手のことを理解しなくてはいけない場面がこの世には多々あって、時にはその一時の同情をしたことによってその後の何年も自身のオーラに影響を与えてメンタルを壊し、逆に、相手が元気になって健康になる、ということも起きます。<br /> <br /> エネルギーが枯渇していて他人のエネルギーに頼っている人、また、相手を操作しなければ自身が生きられないような骸骨あるいはヴァンパイアのような人生を送っている人がこの世界には多数いて、例えば、仕事の上司などで部下からエネルギーを貰うことで生活しているような人も多数います。<br /> <br /> そのような場合、奪っている側の上司は割と健康で、メンタルを壊すのは部下の方になります。出世するのも上司で、部下を使い捨てにすることで昇進してゆくわけですね。<br /> <br /> パッと見た目は上司の方が元気に見えたり部下がメンタルおかしく感じたりもしますのでこのような場合に何が起きているかを見抜くのは人生経験が必要で、それも、ただ年寄りならば理解できるというわけでもなく、何回も何十回も何百回も転生を繰り返さなければこのようなことは見抜けないように思います。<br /> <br /> ですから、世間の一般社会ではこのような場合に上司が一見すると立派に見えて部下がメンタルおかしく見えたりしますけど、実際には上司のスピリチュアルがかなり低くて部下の方が遥かに高い、なんてことも普通に沢山あるわけです。<br /> <br /> 世間ではオーラに対する理解が薄いのでこのようなことになるわけですね。<br /> <br /> 会社は「辞めてはいけない」なんていう考え方は文化的な歴史的なところもありますけど、今の現代における同様の考えを維持しているのはある程度はこのようにエネルギーを奪いたい人、例えば上司が安易に部下を逃げられないようにすることでエネルギーの供給源を保つ、という意味合いもあったりするわけです。<br /> <br /> スピリチュアルな理解がある人ならば、エネルギーを奪うような人が上司の下にいるのならば安易に同情しませんけど、上司からすると「協調性がない」とか言って評価を下げて協調を強要して、そのことで、意識的に行っているのか無意識的なのかどうかはそれぞれですけど同情というレベルにおいてエネルギーを均一化させてエネルギーを奪おうとしている、という構図があるわけです。<br /> <br /> 最近の若い者は協調性がないとか言われていますけど、私からすればそれは健全になったということで、エネルギーを奪いたい年寄りが騒いでいるだけ、という面もあると思います。<br /> <br /> 日本は他人に対する同情が度を越しておりますので、同情を誘って他人から奪うような生き方をする人にエネルギーを与えない、というレッスンが日本全体に与えられているような気が致します。<br /> <br /> 重要なのは2点あって、1つは自身のエネルギーを高めること。2つ目は他人に安易にエネルギーを奪わせないこと、です。<br /> <br /> 瞑想など精神的訓練をすることで同情の度合いは格段に減って、自立し、より高いレベルにおける愛による一体感を味わうようになります。そうして、同情というレベルにおいては選択的に行うようになります。<br /> <br /> Wed, 24 Mar 2021 00:00:00 +0900 心を一点に集中させるのは間違っているという教え https://w-jp.net/2021/2290/ <br /> 流派によっては心を一点に集中させるのは間違っている、と教えています。<br /> <br /> これはこれでよく理解できて、理屈としては正しくて、サマーディに近づいたレベルであればそれは正しくて、あるいは、素質がそれなりにあったり、現代社会のように雑多な社会でなければきっとそれは可能なのだと思います。<br /> <br /> 心がさまよい出ていかないように、すべての思考を遠ざけ、寂静の境地や楽にとどまろうと、心を一点に集中するのも間違いだということをはっき知っておく必要がある。この「集中」そのものも、またもうひとつ別の思考にほかならないからだ。心をリラックスさせ、ただ、気がそれたり忘れてしまったりせずに、自分の真の境地そのものを目覚めさせたままにたもち、いかなり思考にも支配されないようにするのだ。本当にリラックスしているとき、心はあるがままの自然な状態にある。「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」<br /> <br /> これはこれで一貫性があって、本質で言えばこれは正しいと思います。<br /> <br /> しかし、本質では正しくあっても、特に最初はこれは実行が困難だと私は思っていますし、著者も同様のことを認めています。<br /> <br /> 修行を始めたばかりの時には、長い時間、こうやって気が散らないようにしながら、思考をあるがままに認めてやるのは困難だ。(中略)みずからの心の状態にとどまり、寂静な境地や思考の波の動きがあらわれてくるまま、一瞬一瞬を味わいつづける。それ以外に修習はない。あるがままの自己を知り抜き、自分自身の真のリクパの境地にとどまりつづけるのだ。それ以外に、何か非常にすばらしい経験や輝きを追い求める必要はない。「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」<br /> <br /> これはこれで正しくて、こうしてグル(あるいはラマ)に言われたらそのまま納得するしかないですけど、実際にはそれは割と高いレベルで物事を語っているように私には思えるのです。<br /> <br /> リクパの境地はいわゆるサマーディを短期間でも行えるというレベルですから、リクパの境地に留まるのが困難な人であれば確かにこの理屈で合っていますけど、リクパが出てきていない人であればこれは困難なわけです。こういうことを言うと、リクパの境地は誰にでも備わっているから誰でも可能、という声が聞こえてきた気がしますけど、たしかにそれはそうですけど一般人のリクパの境地はとても弱くて、一瞬しか続かないわけです。<br /> <br /> きっと近くにグルがいて一緒に生活するような環境ではそれが可能なのかもしれません。よく、精神修行にはグル(精神的な教師)が必要と言われていますけど、グルがいる環境であればそれはそれで正しいように思います。<br /> <br /> 特に初心者は、この覚醒した意識を常に保ち続けるのはとてつもなく困難です。簡単に挫折してしまうほど困難なわけです。グルが近くにいない環境であれば特にそうです。<br /> <br /> 一方で、グルがいたとしてもいなかったとしても、これらの説明を誤解して解釈してしまう可能性もあります。観察と言われると、これらで言っているリクパの境地とは五感を超えているのに対し、説明だけを読むと五感、特に皮膚の感覚を観察することがリクパの境地であるかのように勘違いをしてしまう可能性もそれなりにあります。<br /> <br /> 皮膚の観察をすることや、特に鼻のあたりの呼吸を観察すること、あるいは、眉間に集中することなどは五感の観察あるいは心の観察、心の集中という観点からすると大差なくてどれも全て五感を用いた心の集中であるのですが、皮膚の観察をしているとリクパの境地でサマーディ状態かのような勘違いをしてしまうわけですよね。特にグルがいない環境ではそうです。<br /> <br /> ですから、私としては、上記の説明はとても正しいのですが、言葉の説明を聞くだけではとても勘違いしてしまうので、特に注意が必要なお話かな、とも思います。<br /> <br /> それよりも、誤解も少なくて実行も可能である「集中瞑想」の方がその前段階の入口として瞑想手法として優れていると思っています。<br /> <br /> ここで、一見すると矛盾したことを言っているように見えるかもしれませんけど、ある意味、この集中瞑想というのは確かに最終的なサマーディの状態においては集中というのは不要ですので、上記の説明のように「集中瞑想というのは間違っている」とも言えるのですが、そうは言いましても上に書きましたようにこのお話はとても誤解が生じやすいことですし、ましてや、いきなりリクパを使ったサマーディの練習なんて普通の人には実行がとてつもなく困難なわけです。<br /> <br /> それであれば、集中瞑想から始めて「静寂の境地」くらいまで達してその後やがてリクパが出てきたところで上のようにサマーディに遷移すれば困難も少ないわけで、ただ、最初に注意事項として集中瞑想がゴールではないということだけ理解しておけば十分かな、と思うわけです。<br /> <br /> 上記のように色々と説明を聞いてしまうとまるで集中瞑想が悪者かのように解釈してしまうかもしれませんけど、実際のところ多くの流派で集中瞑想は初段階の瞑想として広く用いられていますし、観察瞑想と言っているところですらその内容を見ると特に最初は単なる集中瞑想が実態だったりします。その説明として矛盾しないように集中瞑想を否定していたりしますけど、実態を見れば集中瞑想でしかなくて、理屈を合わせるために集中瞑想を否定して観察瞑想と言っているだけだったりします。<br /> <br /> これは弟子たちの理解不足にも問題があるのかもしれませんけど、最初は集中瞑想で全く問題ないわけです。そもそもサマーディというレベルに達していないのにサマーディに入っていく説明で集中瞑想を否定しているだけなのに、最初から集中瞑想が不要かのように弟子たちが理解してしまう、あるいは、瞑想の先生と言われる立場であっても割とこのあたりを理解していないことも多々あるように思えるのですよね。<br /> <br /> 瞑想とは心の中で行うものですから、このあたりを理解せずとも一応コースを受ければ瞑想の先生にもなれてしまいますけど、実際にサマーディに達したらこのあたりのことはすっきり理解できるのですけど、そこに達しなければ集中瞑想を否定しまうような誤解が生じてしまうのだと思います。<br /> <br /> そうは言いましても、今の私の感覚からすれば集中瞑想はどうでもよくて、リクパのサマーディを日常生活で保つことにだけ最近は興味がありますから、最初に引用した説明の方がしっくりきているのは事実です。<br /> <br /> ただ、過去の記憶を辿ってみると集中瞑想も有用だった時期もありますので、その時の記憶を元にお話をしていますが、たしかに、例えば生まれながらにそれなりの境地で生まれたら最初に引用したように集中瞑想を全否定してしまうのも致し方ないのかな・・・ とも思います。人によっては、特に偉大なグルはそのような場合も多いですしね。<br /> <br /> ですけど、凡人はいきなりそのレベルにありませんので、集中瞑想から始めるべきだと思うわけです。<br /> <br /> 私は割と好き勝手にやっているのでこういうこと言えますけど、流派に属していると集中瞑想が絶対だったり、観察瞑想が絶対だったりして、堅苦しい面もあると思います。そこはまあ、個人的に思うのは流派のやり方は適当に聞き流しておいて自分の理解を元にやるのがいいと思いますけど、そこは人それぞれかと思いますのでそれもまた好きにすればいいと思います。<br /> <br /> 実際、上記の引用元であるゾクチェンでは、サマーディに入るための修行というものも存在していて、必ずしも上記の通り弟子に過酷な現実を叩きつけるだけではないように思えます。そこはきっと流派やグル(ラマ)の考え方、やり方に依存していて、上記のように考えるグルもいるということだと思います。<br /> <br /> ですから、上を読んですぐに「そうか。集中瞑想は間違っているのか」と早とちりしないことが肝心だと思います。<br /> <br /> 繰り返しになりますけど、今となっては集中瞑想はちょっと気持ち悪くて不快感すら感じるくらいになっており、もともと停止していない心というものを無理やり止めたり一点集中して雑念が湧きにくい状況にするのは今は違和感しかないのですが、それでも、雑念が多くて雑念に振り回されている時は集中瞑想で心を一時的に止める瞑想も有効だったと思います。それの極地が「無」の瞑想なわけですけれども、そこで留まることをせずに一時的な休息であるのならば十分に効果を発揮できたわけです。<br /> <br /> Sun, 14 Mar 2021 00:00:00 +0900 音楽で他人をコントロールしようとしている人がそれなりにいることに気付く必要性 https://w-jp.net/2021/2289/ <br /> 良い音楽も沢山ありますが、その一方で、他人をコントロールしようとしている意図がある音楽も沢山ありますので注意が必要です。とは言いましても、音楽家の本人たちは好きに表現しているだけのことも多くありますし、プロヂュースの過程で本人の意図とは裏腹にそのような意図が乗ってしまう場合もあるかと思いますので、これは個人への指摘としてではなく、現実としてそのような音楽が沢山ありますのでそれに気付きましょう、ということです。<br /> <br /> スピリチュアルの道は自由が根本にありますから、他人をコントロールしたいと思って生きている人のことも否定しませんし、そのように他人を操作して利益を得たりすることを勧めはしませんけど、その人が好きでそのような選択をして他人をコントロールする人生を送っているのであれば好きにすればいい、という立場を取っています。それもまた、本人の自由なのです。<br /> <br /> 他人をコントロールするような人生を勧めはしませんし、それと同時に、私に対しての操作に対しては拒否をします。他人をコントロールしようとする人は好きにしてくれて構わないですけど、私の方としても、それを受け入れる自由もあれば拒否する自由もあるわけです。私は他人からコントロールされる人生とは無縁でいたいと思っておりますので、拒否するということです。<br /> <br /> そうは言いましても、いわゆる高次元、私のいわゆるハイヤーセルフあるいはグループソウルとしての意図からの操作は私に対して行われていてそれは受け入れますけど、それは他人からの操作ではなくいわゆる高次元からの私自身からの自分自身に対する操作ですのでそれは別物なわけです。<br /> <br /> ここで言ってるのは、この人間界において同じレベルの人間同士における操作と操作される者という関係とは私はなるべく無縁でいたい、ということです。<br /> <br /> その操作は様々なところに隠れていて、わかりやすい状況として他人を説得して操作する場合や、脅して動かす場合などもありますけど、わかりにくいのは音楽で他人をコントロールする場合です。<br /> <br /> 一般的には音楽とはいいものだと言われていて、確かに良い音楽も沢山ありますけど、他人を操作して同一の行動を取らせようとする音楽も多々あるということです。<br /> <br /> スピリチュアルな立場としては、その意図に気付くことが重要で、音楽を聞いた時にそこに乗っている意図をなるべく読み取ることで特定の音楽に同調しないよう気をつけることができます。<br /> <br /> それは、人と話す時にその裏を読み取るということと同意ですので、人の気持を読み取れる人は音楽の奥に乗っている意図もそれなりに読み取れる素地はありますけど、音楽の場合はもっと微妙で、メロディや歌詞および抑揚などで芸術的に歌い上げたり演奏している場合はその奥底にあるコントロールする意図をなかなか見抜けない場合もあるわけです。<br /> <br /> 一見すると素晴らしい音楽で、確かに純粋に素晴らしい音楽もありますけど、その音楽自身にコントロールが隠されている場合もありますし、音楽自身は純粋だけれどもその音楽が使われている場面や前後の表現でコントロールしようとしている場合もあります。後者の場合でも、団体の集合意識でコントロールの意識が音楽に乗ってくると元々音楽自身が純粋でもいつの間にかその音楽にコントロールの意図が染み付く、という場合もあります。<br /> <br /> ですので、最初は良い音楽と思っていても、時間が経つにつれて集合意識が書き換わってその音楽にコントロールの機能が付け加わる場合があるので注意が必要です。<br /> <br /> これは、音楽を楽しむのがいけないと言っているのではなくて、純粋な音楽を邪悪な意図で利用しようとしている人がいますので注意しましょう、ということです。音楽は音楽で楽しむのは良いことでありますけど、音楽を使ってコントロールしようとしている人が一定数いますので、それに注意しないとスピリチュアルから離れて行っていつのまにか他人にコントロールされる人生を送ることになりますよ、それでもいいのですか、というお話です。<br /> <br /> この世界は割と残酷で、罠にはまったら当分抜け出せない、なんてこともよくありますからね。見えない蜘蛛の巣がそこら中に張り巡らされていて、捕まったらずっと長い間、他人のコントロールされ続ける、なんてのもおくあるお話です。<br /> <br /> 他人は好きにすればいいとは思っていますけど、その好きにすればいいというのは個人の自由意志で好きにすればいいというお話であって、他人にコントロールされる人生は自分の自由意志を使っていない人生ですので、それはやめた方がいいと思うわけです。<br /> <br /> べつにこれは「見抜かなくてはならない」というお話ではなくて、スピリチュアルやってるなら見抜いた方がいいんじゃないの、というくらいのお話です。<br /> <br /> 個人的には、こうした種類の影響からかなり離れることができたと実感したのはナーダ音が聞こえるようになってナーダ音があれば普段聞く音楽はいらなくなった頃からコントロールする系統の音楽から自由になれた気が致します。これは、地味ですけど個人的にはかなり大きな変化だったように思います。<br /> <br /> Sat, 13 Mar 2021 00:00:00 +0900 男女は不平等なのがが当たり前 https://w-jp.net/2021/2286/ <br /> そもそも人は不平等です。男女では体の作りがそもそも違いますし、適した役割も異なります。<br /> <br /> 人間として転生した経験が少ない人は女として人生ゲームを始めて、ゲームの設定が「イージー」で開始したりするわけです。専業主婦で幸せな家庭でそのまま亡くなる、という人も意外に多くいらっしゃいます。<br /> <br /> そして、女としてなにかやりたくて生まれる場合もあるでしょうし、男で何かしたいことがあるから男で生まれる場合もあります。<br /> <br /> 男に適した仕事もありますし、女に適した仕事もあります。<br /> <br /> そもそもエネルギーが男女で全然違いますよね。エネルギーの違いがそのまま仕事の違いになるのであって、適していない仕事をしたら不適格になります。それが違和感として現れたりします。<br /> <br /> 西洋で始まった男女平等という考え方を厳密に適用したら女も力仕事をすべきということになりますし、女の負担も50%で、女の義務も50%で、女が専業主婦なんておかしい、ということにもなりますし、女を助けなくてもいい、ということにもなります。<br /> <br /> ですけど、繰り返しになりますけど、人生ゲームがイージー設定の場合は女性として生まれて、家庭もそれなりに裕福で、お金にもさほど困らず、贅沢はできないかもしれませんが普通に生まれて普通に亡くなっていったりするわけです。<br /> <br /> ですけど、男女平等だから女も働かないといけない、みたいなお話になってくるとイージー設定が亡くなっていって、人間としての経験が少ないのにいきなりノーマル難易度設定で始まったら難しすぎて詰まってしまったりするかもしれません。<br /> <br /> 人生経験が少なくて男で生まれる場合ももちろんあって、家庭が裕福だったりしますけど、それもまあ、その時々ですので必ずしもそうとは言えませんけど、それなりに考慮されたりします。<br /> <br /> ですがまあ、あまり考えなしに生まれる場合はとりあえず生まれてみて、生まれた後に「あ、失敗だった」ってときもあるにはあります。<br /> <br /> どちらにせよ、そこに人生の難易度の違いがあって、助ける側と助けられる側が存在するわけですね。<br /> <br /> 例えば、財政面で言えば男が女を助ける、ということにもなるでしょうけど、子育てとか家事に関しては女が男を助ける、という構図だったわけです。それは分業ということでもありますけど、財政面でも子育てでも家事でも今は50%づつ、みたいなことが言われていますけど、専業の方が上達もするでしょうし、何より本人たちが楽だと思うのですけどね。なぜにわざわざ分業で50%づつして、自分の不得意なこともしなくてはいけないのか意味がわからないです。それなら最初から結婚なんてしなければいいと思いますけど。<br /> <br /> そもそもこれは男女の違いというお話ではなくて、家族であっても他人だから助けない、という根本的な態度が根底にあるように私には思えます。<br /> <br /> というのも、男女平等という皮をかぶりながら、実際のところ、「他人は助けません」と言っているのに等しいと私には思えるからです。自立だとか尊厳だとかいろいろと男女平等のお話で言われていますけど、それは仕事や役割が50%分担というお話ではなくて、単に、専業であったとしても自立だとか尊厳とかは満たせるわけで、男女平等というお話が何故に分担50%というお話になっているのか、そこの不思議を見抜く必要があると思います。<br /> <br /> 結局、自分のことしか考えない、というお話が西洋の根底にあって、それ故に男女平等というお話になっていると思えるのですよね。<br /> <br /> 昔は女で生まれれば割とイージーモードで、それのどこが悪いのでしょう? と私なんかには思えるのですけど。<br /> 女で生まれて結婚できないと困窮したりもしますけど、それは男で生まれたって似たようなものですし、困窮と男女平等とを並べない方がいいと思いますが。<br /> <br /> 男で生まれるにしても女で生まれるにしても、慣れてくると生まれて来る前に大体の計画をたてて、どのような人生にするのか決めてから生まれてきます。ですけど、初心者の場合ですと適当に決めるか何も決めずになんとなく生まれて、それで失敗して困窮したりしますけど、それは初心者の場合あるいは不注意だったのが理由ですので、それはもう、どうしようもありませんね。<br /> <br /> あるいは、計画で困窮を体験したりする場合もありますけど、それは割と少ない気が致します。あるいは、自分ではあまり意識しなくともそれが勉強だからと言われて困窮を経験したりする人もいるかもしれません。<br /> <br /> どちらにせよ、今の男女平等で言われている女の貧困問題は男女平等で解決するのではなく、それの逆で、男女にしても男だろうと女だろうと関係なくて、人としてそもそも不平等で、経験も違うし役割も違っていて、それ故に、男女平等だから自助努力で50%を目指すのではなくて、そもそも人として違うし財産も役割も得意なことも違うので、それ故に強き者が弱き者を助ける、というところに行き着かないとこの世界の問題は解決しないと思うわけです。<br /> <br /> 自助努力で自分が独立した存在で男女であっても平等という考えから今の男女平等の50%負担というお話になりますけど、そもそも負担なんてほとんどせずに受け取るだけの人がいてもいいわけです。たくさん持っている人は与え続けてもいいわけです。平たくいえば、強き人が弱き人を助ける、というお話で、金銭面のお話もあるでしょうし、女が適している役割であればもちろん女が男を助ける、みたいなお話もあります。<br /> <br /> そもそも人が不平等なのですから、男女平等50%みたいなお話に飛びつかない方がいいと思いますけどね。<br /> <br /> Wed, 10 Mar 2021 00:00:00 +0900 事故するのは運命なのか? https://w-jp.net/2021/2285/ <br /> スピリチュアルではよく運命論が言われていて、「自分で決めていたのです」みたいなお話がありますけど、確かにそのように決めてそうなった場合もあれば、本当にたまたま事故する場合もあります。<br /> <br /> それは時々ですので、それぞれの場合を見てみないとわかりません。<br /> <br /> 予定通りに事故する場合もありますし、予定はなかったけれども何らかの理由があって事故することを選ぶ場合もありますし、一方で、予定にはなかったけれども偶然に事故してしまう場合もあります。<br /> <br /> それぞれの場合において、顕在意識がその理由を知ることもあれば知らないこともあります。<br /> <br /> ですから、上記の例で言うと3通り×2通り=6通りのパターンがあるわけです。<br /> <br /> 予定通り事故して顕在意識でそれと分かる場合と、わからない場合。<br /> 他の場合にしても同様に顕在意識でそれと分かる場合と、わからない場合があるわけです。<br /> <br /> ですから、顕在意識でそれとわからなかった場合にどれかを判断するのは困難で、それの時にスピリチュアルな人がしがちなのが運命論や「決められていたこと」と判断してしまったりするわけですが、わからない場合には「わからない」と受け止めるべきであって、運命論に結びつけるべきではないのですよね。<br /> <br /> 色々な理由がありますし、実際、その理由が1つとも限らないわけです。とは言っても大体は主要な理由は1つですけど、複雑な場合だってあります。<br /> <br /> ミッション失敗で想定外に事故してしまう場合もありますしね。上の場合だけではありません。それぞれです。<br /> <br /> Sun, 07 Mar 2021 00:00:00 +0900 六本木地域の邪気 https://w-jp.net/2021/2284/ <br /> 先日、都内を自転車で徘徊していたところ、六本木地区の邪気を強く感じました。<br /> <br /> 昔は山手線の中は割と邪気に満ちているところが多かったように思いますが特にコロナの後はその邪気が弱まっていて、コロナも混乱の一方で土地に対しては良い効果もあるのだなと思っていたのですが、それと直接的関係があるのかはわかりませんが六本木の地域は以前よりも邪気が増したように思います。<br /> <br /> 以前は六本木の地域は割とマシで、山手線の内側の場所としてはぼちぼち普通のオーラがありましたけど、先日行ったら、東京ミッドタウンのあたりが邪気に包まれていました。<br /> <br /> そのエリアだけが異様な雰囲気になっていて、調査と興味本位を含めてミッドタウンに入ってみたところ、急に視界がぼやけてきて呼吸が乱れてきました。<br /> <br /> 急に、少し風邪を引いたみたいになって鼻水が出てきます。あまりにも急です。<br /> <br /> まあ、これは、ハウスダストとか壁に使われている薬品や香料が原因だったりしますのでたまたまの可能性もありますけど、コロナの状況でお客もそれほど多くありませんし、改装された様子もなさそうです。コロナのために消毒はしているかもしれませんけど、消毒は他のビルだってしているはずです。ここだけ消毒が違う、ということはないとは思いますが。<br /> <br /> あまりにも鼻水が出ますし目もシバシバしてきましたので花粉症かと思ってトイレで鏡を確認してみたところ、最近にしては珍しく目が少し充血していました。<br /> <br /> これは呼吸が乱れて邪気を感じている時によくあることで、これ以上ここにいるとやばいと思ってミッドタウンを出ました。<br /> <br /> 周囲の人々を観察してみるとそれほど邪気にやられているという感じでもなく、何なのでしょうかね。<br /> <br /> 私がたまたま邪気にあたっただけ、という可能性もあります。<br /> <br /> その後、自転車で家に帰る途中、ふと肩が硬くなっていることに気がついて、ひょっとしたら取り憑かれているのではと思って、右肩(死霊は右肩につきます)のあたりをオーラの手で掴んで引き抜いてみたところ、「子泣き爺」のようなものが出てきました。こわっ!<br /> <br /> 子泣きじじい、と言えばそうですけど、昆虫のサナギに人の顔がついていて、その周囲からツルのようなものがいくつも出ていて私の体の周囲に取り憑いています。これ、人間なのですかね? 人間と昆虫が合体したもののようにも見えますけど、人の怨念のようにも見えます。<br /> <br /> このコロナ渦ですし、六本木地域で経済的に困窮して何かを呪った時の怨念がミッドタウンを徘徊していて、それが取り憑いてきた、と考えるのが理にかなっています。そんな気がします。<br /> <br /> 自転車をこいでいましたので、それを引き抜いた後に光の剣のようなものでくっつているツルを切って引き離して、オーラの布というかオーラの包帯のようなもので包んでポイッと道に捨てました。その後はどうなったのかはわかりません。消滅させたほうが良かったのかもしれませんけど、もともと何者なのかもよくわかりませんしね。<br /> <br /> その後、体にまだ少しついているツルの枝のようなものをポイポイっと掴んでそれも道に捨てました。<br /> <br /> 自動車でたまたまその道を走っていてその怨念を拾ってしまう人もいるかもしれないですけど、それは私としても同じことですし。一応はオーラの包帯で包んでありますのでしばらくは平気ですけど。<br /> <br /> 自分のオーラが強くなってきて、特に創造・破壊・維持の公の意識が出てきてからは邪気にあまり左右されなくなってきて、都内のこうした邪気が強い場所でも体調を崩すことはほとんどなくなってきたのですけど、今回は久々に多調を崩すくらい邪気にやられました。<br /> <br /> どうやら、これは程度問題で、邪気がかなり強ければやはりやられてしまう、ということのようですね。<br /> <br /> それにしても、六本木のミッドタウンを徘徊して思ったのが、以前は六本木であっても普通の一般人もそこらに歩いていたのに、最近は綺麗な新品の服を来ている人と外国人ばかりが目に付きましたね。コロナ渦で近所の人しか来ないのかもしれないです。私は自転車用のちょっと古いアウトドア服だったので浮いていたかも。以前は一般人も多かったので服の違いなんて気にならなかったですけど、今はそのように綺麗な服を着た人ばかりで私が多くの人と違う感じだったので目立って怨霊が目をつけた、という可能性はあります。<br /> <br /> 怨霊とは言っても普通の人の感覚とそう違わなくて、なんとなくそこらをうろついていて、目立つものがあればそれに惹かれるわけです。そうしてターゲットを見つけたら取り憑くわけですけれども、邪気のあるところで目立つ行動をしていると取り憑かれる可能性も増えるわけです。<br /> <br /> その時、自分のオーラが強ければ相手が引き下がって取り憑かなかったりしますけど、邪気の方が強ければ普通に取り憑いてきます。自分の体調によっても自分のオーラは変わりますし、一概には言えないですけど基本はそうです。<br /> <br /> それと合わせて、以前は気になりませんでしたけど六本木を改めて歩いてみると「自分の地位を保つ」意識が充満していて息苦しいですね。コロナ渦で遠方から来ている人が少なくて近所の人が多いので六本木の人のオーラが純粋にわかったのかもしれません。綺麗な服で着飾って良い家に住んで綺麗な嫁を囲うというステータスを守っている人がそこら中に歩いていて、ミッドタウンで見るカップルなんてほとんどそんな感じで、なんじゃこりゃ? と思いました。ああいうところが邪気に覆われているということは、やっぱり嫉妬から来た怨念だったのですかねえ。そんな感じがしました。嫉妬って恐ろしいですね。となると、六本木に住むというのはそのような人に囲まれて住むということで、私はそういうのは微妙に感じてしまいます。<br /> <br /> Sun, 07 Mar 2021 00:00:00 +0900 陰謀論とかディープステートみたいなお話には関わらない方が良い https://w-jp.net/2021/2283/ <br /> 陰謀論やディープステート(影の政府)みたいなお話は世界を支配したい人間が混乱を目的として創作したわけです。<br /> 少なくとも、一般人であれば基本的にはこのようなお話には関わらない方が良いと思います。あまり関係のないことですから。<br /> <br /> 夢や瞑想で見たお話ですので本当のことかはわかりませんが昔から割と高次の存在が地球の政治や支配に関与してきて、いわゆる神界だとか言われている階層で政治や平和についての話し合いがなされた上で誰かが地上に転生をして王族になって地球を治めてきました。<br /> <br /> それは、地球で最初から進化を遂げた魂というよりはむしろ地球外からやってきた高次の存在であるわけで、地球で育った魂というのは動物から進化した魂でありますから、昔はもっと猿みたいに知能がなかったわけですよね。今でこそ世界的に多少の教育はしていますけれども、そのように地球育ちの魂は基本は猿なわけです。ですから理論的・論理的なお話はわかっても倫理的なところが理解できないのでルール以外のことはよくわからないという猿みたいなお話が出てくるわけです。<br /> <br /> もともとは割と高次の存在だったり地球外から転生してきた存在が地上を治めていたわけですけれども、次第に、そのように猿から進化した魂が地上の支配をし始めるわけですよね。<br /> <br /> 最初は暴力で奪ったり、最近は選挙という方法で小賢しく実権を奪ったりします。<br /> <br /> 高次の存在は地球外のことをわかっていて平和を求めているわけですけれども、地球で進化した魂は根本のところは猿ですから欲望ばかりが先に立つわけですよね。<br /> <br /> 世界中で市民革命とか言って王族を悪者にして民主主義とか言って人民が人民を治めるだとか権力者に対抗するだとか言って民主主義が良いものだと宣伝されていますけど、民主主義にも良い悪いがあるし、王政であっても良い悪いがあるわけです。<br /> <br /> 民主主義が良いものだと宣伝した上で民主主義という仕組みを使って好き放題しているのが現状なわけで、宣伝しさえすれば民衆はそう思い込んでしまう、という教育の効果も出ているわけです。<br /> <br /> それは、もともとは高次の存在が地上を治めていたものを地球で成長した猿が奪い取って、それを正当化している、という構図なわけです。<br /> <br /> ですから、陰謀論とかディープステートのお話は現実とちょっと違っていて、現実はというと、実権を奪い取った猿が昔のように高次の存在に権力を戻したくないが故に闇の政府だとかアヌンナキだとか言う悪い宇宙人の関与を持ち出して悪の組織が地上を支配しているだとかいう陰謀論を広めて現状の体制を否定しつつも実際には自分たちの権力を強めるために利用しているわけです。分断工作と言いましょうか。現実をよくわからないように情報撹乱して混乱させているわけですね。<br /> <br /> 確かに、宇宙から来た魂でもそれほど程度の高くない魂もいますけど、それでも、地球で猿から進化した暴力的な魂に比べればよほど道理をわきまえていると思います。陰謀論の方々が悪者にしているアヌンナキだってそうです。<br /> <br /> 地上に生まれている権力のある魂たちの中には宇宙由来の人達が大勢いて、地球の人々のために働いていたりします。<br /> <br /> 一方で、欲望の塊である猿がある程度の権力を持っていて、市民革命や民主主義というシステムで得た権力を離したくない、というのが現実なのですよね。<br /> <br /> 絶対王政や民主主義というのはそれぞれイメージがありますけど、現実にはちょっと違っていて、絶対王政に悪いイメージがあるのは現代人の教育によるもので、現実には絶対王政であっても良い王様がいてくれれば平和なわけです。一方で、悪い王様がいると市民は困ったりしますけどそうは言っても堅固なシステムのある国家であれば王様が多少悪くてもそうそう悪いことはできないですし自浄効果も働くわけです。ローマでは困った皇帝がいてもシステムは盤石でしたし、タイの王政はうまく動いていますよね。日本の天皇制だってそうです。<br /> <br /> 王政を転覆させたいという人の根本には、猿から進化した地球由来の魂が欲望のままに地上を支配したい、という願望が横たわっています。それを民主主義だとか権力を悪者にすることでごまかしているわけですよね。どちらにせよ地上を治める人がいてその人は権力を持ってはいますから誰がなろうとも権力を持つ人はいるわけで、その人に徳があるかどうかだけが問題なわけです。その時、システムとして王政がいいのか民主主義がいいのかはあまり重要ではなくて、どのような人が治めているかの方が重要なわけです。<br /> <br /> 個人的には、民衆は民主主義で代表を決めて自分たちのことは自分たちで治めて、王政として世襲制が続くようなシステムがいいと思っています。今の世界では王政は残っていても権力がありませんけど、割と対等な権力があるのが理想で、民衆だけに任せていたら欲望のままに決めてしまいますけど、王族が全体のためにその欲望を制御したり皆の利益になるように方向性を与えることで民衆の欲望を叶えつつ全体が良い方向に調整してゆけると思っています。今の世界はそんな感じになっていなくて民主主義で選ばれた人の中には地球由来の猿と高次の存在とか混ざっていて、選挙で選ばれるということは基本的には地球由来の猿の欲望の投票で決まるわけですから、なかなか高次の存在が関与しにくくなっているわけです。王族があればそこに直接高次の存在が転生してきて政治に関与できますから、そのように苗床としての王族は必要だと思うわけです。<br /> <br /> ですけど、欲望のままに地上を支配したい人たちからするとそのような王族は邪魔で、民主主義なり何なりの仕組みを良いものだと宣伝することで高次の存在の関与を妨害しているわけですよね。<br /> <br /> ディープステート(影の政府)みたいなものを宣伝して、悪い政府が背後にいるとか宣伝していますけど、それは地球で進化した猿が手に入れた権力を高次の存在に返したくないから何か悪者のイメージを作り出すことで自分たちの欲望を隠しつつ混乱させて自分たちの方に矛先が向かないようにしているわけです。<br /> <br /> 昔から、基本的にはこの世界は高次の存在である地球外から来た存在に統治されていて、支配というと言葉は悪いですけど猿が成長できるように導いてきたわけです。それが、猿から進化した魂が小賢しい知恵をつけてきて倫理観が足りない猿のような人間が暴力的な市民革命などで王政を倒し民主主義というシステムが正しいと宣伝し、猿たち自身の欲望を満たせるシステムを構築してきたのが現代です。<br /> <br /> そのような状況でありますから、高次の存在が何を考えているかというと、昔のように王政を作って地球の人々を良い方向に導きたい、というのが昔からの希望としてあるわけです。<br /> <br /> ですけど、そのような高次の存在の良い希望も現代の人々にとっては陰謀論やディープステートの悪巧みのように見えてしまうわけです。それこそが地球を今支配している小賢しい猿たちの狙っているところで、王政を悪者にすることで自分たちの欲望を叶え続けることができるシステムを未来永劫継続したいと思っているわけです。<br /> <br /> ですから、各所で世界のために尽力している人を陰謀論のディープステート側の人間だと悪者にしたりすることが起きてくるわけです。<br /> <br /> 実際、欲望まみれの人もいて、欲望まみれの人がディープステートだと言われていることもありますけど、その人は単に欲望にまみれた人であってディープステートではありません。というか、ディープステートなんて実態はないと思った方が良いです。<br /> <br /> ディープステートはないけれども、この世を欲望のままに思いのままにしたいという猿から進化した小賢しい魂たちがいて、そのような意味での影の政府・・・とまではいかないですけど、ある程度、世界を征服したいと思って活動している魂はいるにはいます。<br /> <br /> ですけど、その一方で、世界を良くしたいと思って活動している人も大勢いて、そのような良い意図を持った人と、欲望まみれの人とがごっちゃになって両方とも陰謀論のディープステート扱いされてしまっているわけで、そのような混乱は、現状の欲望のシステムを続けたい人々にとっては思うツボなわけです。<br /> <br /> ディープステートという実体はないけれどもこの世界を支配したいという人々はそれなりにいて実権も持っていて、一方で、この世を良くしたいと思っている人も大勢いて、高次の存在で転生している人も大勢いて、その両方とも、権力を持っていたり持っていなかったりしますので、陰謀論とかディープステートとかいうわかりのいい言葉ですっきりと切り分けできるものでもないわけです。<br /> <br /> 高次の存在であっても地上の欲望にまみれることもありますし、その後、目覚めることだってあります。地球で育った猿であっても良い方向に目覚めることだってありますし、欲望を強化することだってあります。<br /> <br /> まあ・・・、個人的には、そのような全てを受け入れているこの地球という環境そのものが素晴らしくて、多様性に満ちたドラマが繰り広げられている面白い時代だと思いますけどね。<br /> <br /> ですから、ディープステートみたいなわかりのいいお話ではなくて、もっと個人を見た方がいいと思いますよ。<br /> <br /> 例えばビル・ゲイツは陰謀論ではよく悪者にされていますけど、彼自身はいい意図を持っている魂ですけどお金を持つと悪い人がわらわらと寄ってきて絡め取られて身動きができなくなっていくわけです。財団だってあれだけ大規模になるとゲイツ自身がうまく動かせなくて、ゲイツ自身の意思とは異なった方向に資金が使われたりするわけです。ですから、もっと個別の事象をきちんと見ないと何が良くて何が悪いのかはよくわからなくて、この場合でいうとゲイツ自身は基本的には良い存在ですから、その周囲にたむろしている悪い存在をどうにか対処しないといけない、というお話になります。<br /> <br /> 陰謀論に乗せられてゲイツを悪者にしてしまうとゲイツがいなくなった後のゲイツ財団が欲望だらけの人の思いのままになってしまいますから、実はそれこそがゲイツを悪者にしたい人の目的だったりするわけです。<br /> <br /> 日本でも、有名どこが陰謀論とかディープステートとかのお話を宣伝して盛り上がっていたりもしていて、そういうお話は時代を示していて興味深い面もありますけど、上記のように個人をしっかりと見ているというよりはディープステートというストーリーに乗せて誰かを悪者にしているだけだったりしますので、陰謀論とかディープステートとかいうお話には基本的には関わらない方がいいと思います。<br /> <br /> 個人というのはちゃんと見ないとそうそう理解できませんし、ディープステートとか陰謀論とかは猿から進化した権力者が地上支配を継続させるために自分たちに目を向けさせないよう混乱させる道具だと思った方がいいと思います。<br /> <br /> 日本に目を向けますと、もともと高次の存在が多く転生していた支配者層であるお殿様や武士の階級が明治維新によってただの人にされてしまい、全て選挙を通さないといけなくなってしまいましたから、選挙を通すとなると一般人の欲望をより多く満たした人が選挙に勝つという構図になるわけで、大勢のためや長期的視点を持った政策がある人は選挙に通りにくいですし、欲望を満たすためだけに選挙に出る人がうまく宣伝をすることで大衆を操作することも可能になってしまったわけです。<br /> <br /> 外国の場合は革命が起きて王政が倒れて王族が一掃され民主主義という名の一般人が治める政府に置き換わったわけですけど、日本の場合も同様に、お殿様や武士の階級がなくなって民主主義という名の元に一般人が支配する国になってしまったわけです。<br /> <br /> そうは言っても高次の存在は政治になんとか入り込もうと努力していて、政治の世界が全て一般人の欲望だらけの世界かというとそうでもなくて、高次の魂を持った政治家もぼちぼちいらっしゃいますけど、なかなかやりにく状況であるわけです。<br /> <br /> 今のところ、宣伝の力によって民主主義が良いものとされていて、しかも、民主主義の根幹である選挙にしても宣伝でかなり左右できてしまう状況ですから、なかなか高次の存在の介入がしにくくなってきています。例えば、民衆を誘導するためにマスコミをつかって「誰も適任者がいない。誰も頼りにならない。この人しかいない」、みたいな世論誘導がなされて都知事が決まっていたりするわけです。実際のところ、それなりの適任者は色々といるわけですけれども、世論誘導で「誰も適任者がいないですね。もう仕方がないですね」というパターンが日本の場合は有効だとわかっていて、適任者がいたとしても無視するか揚げ足を取るなどして「やっぱり適任者は誰もいないですね」みたいな世論に誘導しているわけです。そうすることで民衆の投票する気力をそいだり、投票するにしてもマスコミが用意した「仕方がないから、この人にいれるしかないですね」みたいなパターンにはまってしまうわけです。こんなにわかりやすいパターンなのにいつまでも有効なのは、日本人は、どうしてしまったのでしょうかね? マスコミが誰かを当選させるために誘導するワンパターンが30年以上も前から延々と繰り返されているのに、どうしてこれを指摘しないのでしょうかね?<br /> <br /> まあ、そんな感じで、王族がいない状況というのは権力を持った一般人が好き放題できる状況なわけです。そんな民主主義であったとしても利用価値はあって、その時次第で有効な仕組みを使っていけばいいとは思うので、民主主義という仕組みを悪者にしているわけではなくて、民主主義のやり方が世論誘導と利益獲得に有効だからこそいまは権力を持った一般人が好き放題しているので、それを理解した上で、もっと上手に回る必要があると思うわけです。<br /> <br /> マスコミ誘導に対してもっと賢くなるということですね。<br /> <br /> ディープステートとか陰謀論みたいなお話と、「政治家にふさわしい人が誰もいない」みたいなお話は割と同列で、政治家にふさわしい人がいないわけないじゃないですか。 政治家にふさわしい人がいない、なんてのは陰謀論と同列でしかなくて、陰謀論をあざ笑っている人ですらも普通に「政治家に相応しい人がいなくて、投票したい人が誰もいない」なんてことを平気で言ったりしています。そのお話こそが陰謀論と似たようなお話なのに、そこに気がついていないのですよね。<br /> <br /> 高次の存在や、猿から進化した人であっても他人に尽くそうとしている人はそれなりにいて、そのような人を支持したり、評価したり、というのは絶対的に必要で、ただ単に陰謀論みたいなお話を持ってきて誰それがディープステートで悪者だとか言ってみたりしてもどうにもならないわけです。<br /> <br /> 宇宙の魂が転生する先の苗床としての貴族あるいは王族というのは有益で、たとえ今の世代が不順な猿であったとしても次世代にて宇宙の魂が転生できてうまく世代交代する可能性があるわけです。民主主義ですとそれがなかなかしにくくて欲望の猿の間で世代交代するという構図になりがちです。<br /> <br /> 日本の皇族はかなり解体されたものの一部が存続しており、日本の皇族の場合はそれなりにまだ昔ながらの形がかろうじて保たれてはいるものの必ずしも全員が高次の存在というわけでもなくて欲望の権化の猿が入り込もうとしているのを皇族側が防いでいる、という面もあったりするわけで、完全な形ではないにせよ、高次の存在が転生して来られる素地ができているわけです。猿から進化した魂であってもそれなりに役割を果たしている場合もありますので必ずしも猿だから悪いというわけではありませんけど、もともと宇宙から来た魂と地球で猿から進化した魂では根本が全然違いますよね。そのような高貴な魂を受け入れられる貴族あるいは王族というのは絶対的に必要で、そのようなシステムは世界を欲望のままに支配したい人々にとっては邪魔でしかなくて、貴族や王族を排除するために権威や支配者層を悪者にしてフラットな民主主義社会および資本主義社会という名の下の世界支配体制を確立することを目的にして陰謀論とかディープステートとかいうお話が宣伝されて広められているわけです。<br /> <br /> 繰り返しになりますけど民主主義や資本主義というシステムそのものが悪いわけでもなく逆にそれが良いというわけでもなくて単なるシステムであって、それを使う人の意図によっていかようにもなるわけです。それらのシステムが今は支配の方向に使われており、その世界を征服する目的のために陰謀論が用いられている、ということです。<br /> <br /> このような不順な意図で陰謀論はもともと始まったようですが、最近は本当のことが陰謀論として語られていることもあって、陰謀論と言っても色々ありすぎてよくわからない状況です。どちらにせよ、上に書きましたように陰謀論みたいな全体のわかりの良いお話ではなくて個別のお話ですから個人をきちんと見るべきだと思いますし、一つ一つ見ていかなければ本質はわからないものだと思います。<br /> <br /> Sat, 06 Mar 2021 00:00:00 +0900 サマーディに入るまでにはシャマタ(心の静止)は必要 https://w-jp.net/2021/2260/ <br /> サマーディにおいては心が動いていようが止まっていようが関係なく、いわゆるリクパ(心の本性)が自らの五感および心の動きを観察する状態になりますので特にシャマタ(心の静止)をする必要はありません。<br /> <br /> 心が動いていて考え事をしていようが雑念のようなものが出てこようがあるいは心が静止していようが違いはなく、心の本性(リクパ)がそれらを常に観察している状態にあります。<br /> <br /> ここで、説明のために一応は「観察」と言いましたけど、観察と言ってしまうと「見るもの」と「見られるもの」という区別があるように思えてしまいますけど、サマーディの状態においてはそのような区別はなくて、サマーディとは「不二の意識」とも言われるように、そのような区別のない意識状態にあるわけです。<br /> <br /> ですけど、そのようなサマーディの状態に入るまでは修行の一環としてシャマタ(心の静止)が必要になるわけです。<br /> <br /> これは、必ず必要というわけではなく、流派によってはこのシャマタ(心の静止)を行わないところもあるようです。<br /> <br /> ですが、多くの流派ではシャマタを経由してからサマーディに至る、ということになっています。<br /> <br /> サマーディという言葉の意味も流派によって色々あって、流派によってはサマーディを単なる手中と定義している流派(ヴェーダンタ派など)もありますが、多くのヨーガの流派やチベット仏教などではサマーディを不二の意識として定義していて、単なる集中ではないとしているところの方が多いと思います。<br /> <br /> そのような、不二の意識および心の本性(リクパ)が動いているという意味においてのサマーディであればその前段階としてシャマタ(心の静止)があるということです。(サマーディの定義が「集中」だとしている流派ではこのような位置付けは意味をなしません。)<br /> <br /> たしかに、サマーディの意識、不二の意識であれば心が動いていようが動いていまいが関係なくて、それこそが本質なのですが、修行方法としてシャマタという段階が伝統的に取り入れられてきたということです。<br /> <br /> 一見すると、サマーディの状態とシャマタの状態は矛盾して見えるかもしれませんけど、サマーディの状態からしてみたらシャマタしていようがしていまいが関係なくて同じですので、サマーディ側から見たらシャマタはあまり重要ではありません。シャマタがあってもいいしなくても問題ないわけです。<br /> <br /> ですから、サマーディ側からみたらシャマタとサマーディとは矛盾していません。<br /> <br /> ただ、シャマタ側からサマーディを見たら矛盾に見えるかもしれません。<br /> <br /> あるいは、サマーディを書物だけで理解している人はサマーディとシャマタに矛盾を感じるかも知れません。<br /> <br /> ですけど、上記の通り、サマーディからしてみたらシャマタがあろうがなかろうが大差なくて、ただ、それでも、まだサマーディに至っていない人がサマーディに至るためにはシャマタが助けになるということです。<br /> <br /> 流派に寄ってはシャマタをことなげに否定している流派もあるようですけど、私はそのあたりはよく理解できませんね。サマーディに達すればシャマタがあろうがなかろうが大差ないのですから、そんなシャマタなんかをことさら否定する必要すらないと思うのですが。<br /> <br /> ただ単に、シャマタが修行の助けになるなら使えばいい、というだけのお話です。<br /> <br /> 不思議なもので、世の中には意外にシャマタを否定する流派が多くて、しかもその一部はヒステリーになって否定したりするのが私にはさっぱり理解できませんけど、まあ、私はこんなふうに考えています。<br /> <br /> これは他人に意見をしてるということではなく、他人がどう考えようが何を信じようが自由だと思っていますから他人は他人の好きにすればよくて、シャマタが良くないと思うなら勝手にそう思えばいい、と思っています。自由にすればいいのです。<br /> <br /> ただ、そのような言説に惑わされてシャマタをしなくなってしまう人がいたら不幸ですのでたまにこうしてシャマタは必要ということを書いています。<br /> <br /> まあ、私が書いたところでどれだけ理解してもらえるかもわかりませんけどね。一応。<br /> <br /> Tue, 16 Feb 2021 00:00:00 +0900 宗教という言葉の集合無意識を書き換える https://w-jp.net/2021/2257/ <br /> 集合的無意識と呼ぶのか単に無意識と呼ぶのか全体意識と呼ぶのかは色々ですが、特に深く考えていない人が宗教と聞いた時に思い浮かぶ概念を書き換えることがミッションとして存在するようです。<br /> <br /> 今の日本は、宗教と聞くとなにか嫌なイメージを持つ人が一定数いますが、宗教という言葉に対する表層の意識を良いものに書き換えることが目的です。<br /> <br /> 例えば、宗教と聞くとヒステリーになったり、宗教なんて見たくもない、という意識を上書きするミッションのようです。<br /> <br /> 同様なものとして、瞑想と聞いた時にかつては一般的には変なものと思われていたのが最近は瞑想と言うとなにか良いイメージがある、というように印象が変わってきています。<br /> <br /> それと同様に、宗教に対してもイメージを書き換えるというミッションが存在しているようです。<br /> <br /> 私はもともと、宗教もスピリチュアルも一緒だと思っていますし、もっと言えば、何かを信じるという意味においては科学も宗教のようなものだと思っていますから、科学的という言葉と宗教的という言葉とスピリチュアル的という言葉の間には手法の違いこそあれどどれもさほど違わないと思っています。<br /> <br /> 科学にしても現実に重きをおきますし、宗教もスピリチュアルも実際には現実に重きをおきます。<br /> <br /> 宗教で思われている「信じなくてはならない」みたいな誤解は科学にもあって、ニュートン力学の時代においてはニュートン力学で説明できないことは存在しないということを「信じなくてはならない」という迷信の時代がありましたし、今でも唯物論という名で科学の冠を被った宗教が存在しています。<br /> <br /> 科学にせよ宗教にせよスピリチュアルにせよ、最初にあるのは現実であって、まず現実を受け入れてからどうしてだろう、とやるのが手順ですけど、間違った科学は「唯物論で説明できないことは存在しない」と言って現実を否定するのですよね。<br /> <br /> 同様に、間違った宗教やスピリチュアルも現実を否定します。<br /> <br /> それらの、科学と名乗ろうが宗教と名乗ろうがスピリチュアルと名乗ろうが現実を否定するようなものは所詮はその程度で、そのような間違いに関してはどれも同様ということで、それぞれ違った領域を扱っているだけで現実重視という点は共通ですし手法は違いますけどどれも大差ないと思えます。<br /> <br /> 本当に科学を分かっている人は、科学で説明できない現実を否定したりせずに、単に、科学では説明できない、と言うだけで現実を受け入れます。ですけど、実際は宗教になっている唯物論者は科学で説明できない現実は存在しないか間違っていると言って現実を否定するわけです。現実を否定するのであればそれは間違った考えであるわけですけど、科学の名の元に現実を否定するのですからたちがわるいです。同様に、現実を否定するような宗教や現実を否定する系のスピリチュアルもたちがわるいです。<br /> <br /> そのように、宗教というものに関する誤解があり、また、科学を名乗っていても宗教のような迷信がありますので、どちらを先に手を付けてもいいのですけど、とあるグループは宗教というものに対する集合意識を書き換えて宗教とはなんぞや、という常識を変えてゆくというミッションが動いているようです。<br /> <br /> これは、もっと大きく捉えれば「宗教の統一」という目的に繋がってくるようで、前にも書いたと思いますけど、こちらもミッションとして存在します。<br /> <br /> Wed, 10 Feb 2021 00:00:00 +0900 ツインソウルと「小さな宇宙人アミ」 https://w-jp.net/2021/2248/ <br /> 昔、流行った頃はさらっと読んだだけでしたが、近くの図書館にあるようなので久々に読もうと思って借りてみました。アミ本編は予約が70人とか並んでいたのでとりあえず借りたのは続編の「もどってきたアミ」ですけど、そこに、ツインソウルのお話が載っていましたね。<br /> <br /> 数十年前、ツインソウルが流行りでツインソウルが運命の相手だとかツインソウルと結婚する、みたいなお話がとにかくブームになっていたことを思い出しました。<br /> <br /> 一応は私はこれを読んでた気がしますが、このあたりはスルーしていたかもしれません。<br /> <br /> 今思えば、ツインソウルのブームを作ったきっかけがアミなのかもしれないですね。<br /> <br /> ですが、その後、ツインソウルのお話は下火で、最近は「ツインソウルなんてありません! ツインソウルなんて嘘です!」という風潮がスピリチュアル界でも定着したように思います。<br /> <br /> 今はほとんど誰もツインソウルなんて言い出さないですし、言ったところで「ああ、あの懐かしの(苦笑)」みたいな冷ややかな反応になる気も致します。<br /> <br /> ツインソウルという言葉に関しては私の感想も似たようなもので、「ああ、そんなものもあったね・・・」という感じですけど、実際のところ、私の場合に当てはめてみると、ツインどころか、ぱっと把握できるだけでも数十の類魂がいますので、「たったのツイン(2人。1組)だけですか?」というのが私の印象です。<br /> <br /> たったのツインだけなんてことがあるのですかね・・・? <br /> <br /> 本にするにあたって、わかりやすいようにツイン、としただけなのではないですかね・・・?<br /> <br /> 転生は、魂(幽体)がそのまま転生する場合と、一旦グループソウル(類魂)と一体になってから分霊を作って転生する場合がありますので、同じグループソウルの分霊同士を、そこだけ取り出してみるとツインソウルと言えなくもない、という程度のお話な気が致します。<br /> <br /> 私の場合、この意味におけるいわゆるツインソウルで結婚なんてしたことないですけどね・・・。そんなことしてどうするのでしょう? 目的がよく分かりませんね。 そもそも同じ時代に同じくらいの年齢で生まれる、なんてこと、したことないかもしれないです。何のためにそんなことをするのかよく分かりませんね。<br /> <br /> ただ、可能か不可能かと言うと、可能です。同じグループソウルから分かれた分霊同士はそれぞれが普通の霊で普通の人間として生まれたりしますから、やろうと思えばそういうこともできますけど。何のためにそうするのかはよく分かりません。私が知らないだけで、そういうことをしている人、というかそういうことをしている魂がいることを否定はしませんけどね。いるのかもしれませんけどね、私の知っている範囲では見たことないですけどね。<br /> <br /> グループソウルに戻る、という意味において、グループソウルにまた溶け込んで一体となる、という状態が結婚と言えなくもないですけど、アミの物語では未来世で結婚する、と書かれてありましたので、同じことと解釈できなくもありません。単に結婚するというよりは、お互いの共通のグループソウルで合流する、とみなした方が自然です。これなら私だってよくしていますし、割と誰でもそうな気がします。私の解釈では、アミの物語はもともとこういうことだったけれども、著者がうまく理解できなくて結婚と書いた、という気が致します。個人的な感想ですけどね。<br /> <br /> 同じグループソウルから分かれた分霊同士はわかりあって、相手の思っていることがわかったり、他の人同士よりも思いが伝わりやすい、というのは本当です。もともと同じ素地がありますから当然です。ですけど、だからと言って地球の感覚で結婚するということにはならないですけどね、少なくとも私の場合は。<br /> <br /> こんな誤解が広がるくらいなら、確かに、ツインソウルなんてないんだ! としてしまった方がとりあえずはいい気もします。<br /> <br /> 久々にアミの本を読んで、ツインソウルという随分と懐かしい話に触れたのでした。<br /> <br /> それにしても、この本に書いてあることはかなり瞑想の確信をついていて改めて凄い本だと思いました。意識の覚醒や行動についての指針もそうですし、しっかり宇宙意識に繋がった瞑想していますし、本当のことを知らなければ書けない内容です。子供向けの本とは思えません。大人が普通に読んでもいい内容だと思います。<br /> <br /> この本の中に、惑星規模で起こった大災害で生き残った人を助けるお話が載っていますけど、このことについて地球の出来事に即して補足しておきますと、私が小学校の頃に幽体離脱して見た、その時点(私が小学校の頃、30年ほど前)でメインになっていたタイムライン上の未来においては、今からおおよそ10年前、だいたい2000年から2010年の間に世界は破滅して大災害が起こり、人類の文明は滅亡し、大勢が死に、この本に書かれてあるところの「救済計画」にのっとってそれなりの意識に達している人が助けられ、一旦は宇宙船に避難し、災害が去った後の地球で新たな文明を始めることになっていたのです。<br /> <br /> その時、空は暗くなり、世界は闇に包まれました。すべての人がただ事ではないことを察知し、やがて、地は激しく揺れ、山のような津波が襲い、文明をなぎ倒してゆき地球の文明はほぼ壊滅することになっておりました。<br /> <br /> しかし、神様の気まぐれ... と言いますか、神様というよりは、この地球を管理している大天使の意思によりその災害は先延ばしにされ、具体的には大天使の使いが様々に働いたおかげで例えば2000年問題は回避されたりその他の災難が重なることなく、現時点まで継続しているわけです。<br /> <br /> 私は幽体離脱をしてその決定およびタイムラインの変化までも見ておりましたが、私が子供の頃に幽体離脱した時の解釈としては、大災害が起こるのが正しくて文明が継続するのはもっと地球で遊びたい人たちおよび助かりたい人々のエゴなのではないか... と思っておりました。その時点では自分が世界の破滅に対してどうこうできるとは思っておらず、自分が助けてしまうのは良くないことなのではないか、滅びようとしているのが運命なのではないか、助けるのは自分のエゴなのではないか、とも思っていました。<br /> <br /> 私がタイムラインで見た大災害は、偶然が重なって人々の不安が積もり、最終的にそれがしきい値を超えて戦争及び大災害に繋がっていたと記憶しております。その偶然の1つでも避けてあげれば意外と戦争および大災害は避けられたわけです。そのタイムラインを見通せる者であれば、そのちょっとした災害を軽減するなんて簡単なことで、実際のところ、そう大したことはしていないのですが、それでも、大災害を避けるには十分だったわけです。ですから、その鍵となる災害を避ける行為をしたのは一部の人だったわけですけど、そのように行動している人が増えてきているわけです。<br /> <br /> 例えば、気まぐれで幽体離脱中に2000年問題を回避したわけですけど、これは、人類を助けるというよりは、タイムライン上を見ると2000年問題が一つのトリガーになって破滅へと向かっているので、これを回避したらどうなるのだろう? という、単純な「興味」から行ったことでした。ですので、決して、人類を救おうだとか、正義のためだとか、世界平和のため... みたいな大層な理由ではなくて、単に興味本位で2000年問題を回避したらどうなるのかな、と思ってやってみたのです。そして、今があるわけですね。危機はそれだけではないですけど、大きな分岐点がそれだったわけです。<br /> <br /> それとね、地球が滅亡してしまうと地球の今の文明および世界でしばらくは遊べなくなってしまう、という、自分のわがままもありました。ですから、大層な理由ではなく、自分がもっと地球で遊びたいから2000年問題を回避したり、他にも何かした気もしますけど、幽体離脱中に工作してみたわけです。<br /> <br /> 地球を救う、なんてその程度のものだと思いますよ。大層な英雄なんていなくて、なんとなく行動して、なんか助けちゃった、みたいな、そのくらいの軽いものだと思います。<br /> <br /> まあ、幽体離脱中にやったことなんて証拠もありませんけど、少なくとも、子供の頃に見た大災害は回避されたタイムラインにいまいるのは確実だと思うわけです。<br /> <br /> 今はこの「もどってきたアミ」に書かれてあるように人々が目覚めて大災害を避けるべくそれぞれが行動し始めて、「ああ、良かったな... いい世界になってきたな... 」というのが今の印象です。<br /> <br /> ただ、大災害が回避されたとはいえ、まだ油断はできませんけど。<br /> <br /> 未だに当時のタイムライン上の地球の破滅とUFOによる救済を待っているグループもあるようですけど、2000〜2010年の破滅はもう回避されたタイムラインに今はいますので、地球の破滅とUFOによる救済を待っても無駄だと思いますけどね... そのシナリオはもうやってこないです。<br /> <br /> まだ油断できないのでまだ起こる可能性もあるにはありますけど、山は越えた気が致します。<br /> <br /> こういうこと書くと、スピリチュアル的に「全てを受け入れる」だとか「全ては愛」とか言う人もいますけど、私の理解における「愛」とは「創造・破壊・維持のあらがえないほどの強大な力のことですから、生ちょろい執着の愛なんて吹っ飛んでいってしまうほど現実的でありのままで厳しい愛の姿です。消滅しようがそれも愛だし創造も愛だし維持も愛で、この世の全てが愛なのですから実際のところ人類が滅亡しようが存続しようがどちらにせよ愛でしかないわけですけど、私はもうちょっと先を見てみたいな、という「興味」で存続の方を選んだ、と、いう、その程度のお話です。<br /> <br /> コロナで悲観的なお話が多いですけど、既に滅亡していた筈の人類が存続しているので既にかなりいい世界のタイムライン上にいると思いますけどね。<br /> <br /> それなりの能力者であれば皆のために障害を排除することは簡単にできますけど、人々が目覚める機会を奪ってしまったらそれこそ犯罪に近いものがあります。能力者からすれば、とてつもなく大きな犯罪は地域・国・この地球が存続できる限りは見守る必要があります。見守って、人々が目覚めるのを助けることはできますが、代わりにしてあげることはできません。とは言いましても、それなりの状況になったら手を出すことは許されます。ある程度の問題にならない限りは代わりにしてあげることはできないということです。<br /> <br /> Tue, 26 Jan 2021 00:00:00 +0900 地球で分離を生きる人生は贅沢 https://w-jp.net/2021/2240/ <br /> 宇宙では分離していない状態が普通で、この地球上でわざわざ「分離」の人生を送ることができるのはある意味「贅沢」なわけですよね。<br /> <br /> この分離の生活を送るために、苦労をかけて「守護霊」というものが付き添ってくれていて人生をサポートしているわけですから、ある意味、地球の人というのはVIPの待遇なわけです。<br /> <br /> こんなに贅沢なことはないです。もっと感謝すべきです。<br /> <br /> 宇宙では基本的に1人です。それは、意識で繋がっている場合では「繋がっている感」のある1人だったり、あるいは、意識で繋がっていない場合の分離状態ですと「繋がっている感のない1人」だったりします。<br /> <br /> どちらにせよ1人です。<br /> <br /> もちろん、友人や知人や過去の妻だった人の霊など多くの身近な霊というか人というか存在がいますけど、この地球のようにVIP待遇で守護霊がきちんとつきっきりなんてことはまずないです。<br /> <br /> 存在は1人で存在するのが基本ですけど、地球の場合、守護霊として高級霊が割とついています。<br /> <br /> まあ、猿から進化した動物みたいな人間には(高級霊は)ついていないですし、それは種族や国ごとに傾向はありますけど、割とついています。<br /> <br /> 守護霊は、高級霊がついていて、それとは別に、友人知人や過去の家族、例えば過去の妻や旦那なども見守っています。<br /> <br /> 高級霊は使命として人生を見守るわけですけど、友人知人や家族の霊は自分が好きだから見守っているという感じですね。<br /> <br /> まあ、高級霊と友人知人家族の霊の違いは主に霊格なわけですけど友人知人家族の霊でも霊格が高い場合もありますし、特に序列が決まっているわけではないのですが、使命として一生(あるいは半生)を見る場合はそれなりに高い意識体が受け持つように思います。<br /> <br /> ですけど、それは宇宙の全てでそうではなくて、霊として意識体として存在している時は普通に1人で、その周辺に友人知人家族たちがいるような感じです。<br /> <br /> ですから、この地球上で守護霊が見守ってくれているというのは贅沢なことなわけですよね。<br /> <br /> その中でも特に、わざわざ「分離」の人生を生きようとしている人はご苦労さまで、そんな人をサポートする霊も大変な思いをしますから、特に贅沢なわけです。<br /> <br /> これは勘違いしてほしくないのですが、欲望のまま分離の人生を生きている人には当てはまらなくて、本当はしたくないのだけれども学びのためにわざわざ分離の人生を選んで自分を苦境に追い込んで勉強しようとしている人がご苦労さまなわけです。<br /> <br /> 欲望のまま生きて落ちてしまう場合は「ミッション失敗(学習失敗)」としてその人生は放置されて、スピリットは離脱して体は衰弱してゆき、守護霊も離れたりします。そうするとまたやり直しです。<br /> <br /> そのような苦労を乗り越えて、障害もなんとか避けながらわざわざ大変な思いをして「分離」の人生を生きるために守護霊がついてVIP対応で人生を歩むわけです。<br /> <br /> これはね、とてつもなく贅沢です。またすぐに同じような贅沢な人生を度々歩めると思わない方が良いです。<br /> <br /> また次の人生でも同じように暮らしたいのであれば守ってくれている意識体に感謝をしたり、また、周囲の人に対してお礼をしたり何なりして自分も尽くすことですね。<br /> <br /> もらいっぱなしであればそのような人の周囲には同様にもらいっぱなしの人が集まって、与え続ければ周囲に与え続ける人が集まってくる、というのは普通の人生と同じです。それがあの世、もっと言えばこの宇宙全体で連なっていて、与え続ける連鎖を行っている存在と、奪い続ける連鎖を行っている存在がそれぞれいるわけです。<br /> <br /> まあ、話はそこまで行かなくても、少なくとも、この地球で生まれたことに感謝をした方がいいと思うわけです。<br /> <br /> 補足をしますと、猿のような人間には猿よりちょっと進化した意識体が守護霊としてついていたりしますけど皆さんは興味ないですよね。自分より意識が進んでいる意識体が守護するのが基本なわけです。<br /> <br /> Mon, 18 Jan 2021 00:00:00 +0900 過去生の記憶の中に今生で解決すべき課題があることもある https://w-jp.net/2021/2237/ <br /> いわゆる悟っている状態では過去生は全て明らかでいくらでも見ることができますけど、悟っていない時の状態で過去生の記憶があったとしたらそれはそこに課題があってその記憶に関連した学びを今生で行っているからこそ記憶があったりするわけです。<br /> <br /> ただ、記憶があるからと言って必ず課題かというとそうでもなく、単に覚えているだけの場合も多々あります。<br /> <br /> 過去生の記憶があった方が優れているわけでもないですし、なくても別に問題ないわけです。あってもなくてもどちらにせよ今生の学びをしているわけで、過去生の記憶があるかどうかは関係なくて、それは割と趣味みたいなもので、守護霊のやり方がそれぞれあるでしょうし、あるいは、自分のスピリットのやり方として過去生の学びをしたいから記憶を蘇らせた方がやりやすい、あるいは、蘇らせない方がやりやすい、といった場合もあるでしょう。選択的に行っている場合もあれば、なんとなくそうしている場合もあるわけです。<br /> <br /> 選択的に行うのはそれなりに経験を積んだ人の場合のことで、初心者さんの場合はそんなに記憶がないかもしれませんし試しに記憶をつけてみたけれども記憶と想像の見分けがつかないかもしれません。初心者さんの場合は色々やってみてより良い方法を見つけるでしょうから、まあ、何でもいいんじゃないですかね。経験者でも、その人生での学びとあんまり関係ない場合は記憶があったりなかったりして、割と適当です。なんとなく覚えていたり、あまり気にしていなかったらいつの間にか忘れてしまうのは普通の自分の人生の昔の記憶と一緒です。<br /> <br /> ある程度悟っていれば実際に意識を飛ばして過去とか未来とか見れますけど、そうではない場合、悟っていなくても単純に記憶しているだけ、ということもあるにはありますけど、割と一般的には、課題があるからこそ記憶してて何度も蘇ってくることの方が多い気がしますね。<br /> <br /> 悟りとまでは行かないにせよある程度の意識の覚醒がないと単純な記憶すらも維持できずに過去生を思い出せないように思います。そして、それほど覚醒していないのに過去生の記憶があったのだとしたらそれはそこに課題があるからこそ浮かんできて、もっと言えば、その課題とは今生にて学ぶべきレッスンだったりするわけです。そして、その課題をクリアしたらその記憶はそれほど浮かばなくなってきて段々と忘れていきます。課題が残っているうちは何度も何度も記憶が蘇ってきます。<br /> <br /> ですから、過去生の記憶はあってもなくても問題ないわけです。<br /> <br /> ヨーガ的には過去生の記憶というのはサムスカーラと言う「微細な印象」として説明されています。このサムスカーラがあるから輪廻転生を繰り返していてこの世のループから逃れられない、だからそのサムスカーラを浄化することで悟りに近づいて輪廻転生から開放されて自由(モクシャ)に至る、というように説明されていたりします。そして、ある程度の悟りに近づいた時のシッディ(超能力)のうちの1つに過去生を見通せる力もあると説明されていたりします。このあたりのお話は仏教にも通じていて、割と同じお話のように思います。ヨーガでは過去生の記憶は、このように、それほど良いものとして扱われていないのが現実です。<br /> <br /> ただ、個人的に思うのはそこまで過去生の記憶を悪者にする必要はなくて、過去生の記憶がある人はあるし、それは自分の人生の子供の頃の記憶があるのと同じようなもので、自分の人生の子供の頃や青年の頃を永遠と誇って「いま」を生きられない人がいるのと同じように過去生を誇って「いま」を生きられない人もいるかもしれませんし、逆に、若い頃の記憶や過去生の記憶を反省材料にして「いま」の人生をより良きものにすべく改善してゆくこともできるわけです。<br /> <br /> 記憶が「いま」の人生にプラスなら覚えていたり守護霊が教えてくれることもあるでしょうし、「いま」の人生に邪魔だから思い出させない、なんて時もあると思います。それは自分の経験次第みたいなところもあるでしょうし、やり方はそれぞれのスピリットや守護霊によって違いますから、そのあたりは割と流儀および趣味の違いみたいなお話になります。<br /> <br /> とは言っても、今生に生まれた理由が過去生繋がりだったりすると割と覚えていたりすると思いますけどね。それは課題というほどの課題ではないですけど、課題というよりも今生に生まれた目的とでも言いましょうか。目的と言っても大したものではない時も多くて、単純に海外旅行して遊んでみたいだとか仲の良かった子とまた地上で楽しく暮らしたいだとか、面白そうだから試しに生まれてみた、だとか、その程度のこともよくあります。一緒に夫婦になるとか、親子になるとか、そう決めて生まれる場合もあって、それすらも、その約束を覚えていたりいなかったり、それぞれです。意識がぼおっとしていると忘れてしまうというか思い出せない場合が多いように思います。意識がクリアならばよく見通せて思い出せます。<br /> <br /> 色々と処要因はありますけど記憶があってもなくても基本的には大差なくて、まあ、そうは言いましても、実際にはそれなりに覚醒に近づけば近づくほど記憶はしっかりと維持されますから、記憶があった方が覚醒に近いという面もあるにはありますけど、覚醒に遠くても課題として記憶が沢山ある場合もありますから、それは一概には言えませんね。<br /> <br /> Sun, 17 Jan 2021 00:00:00 +0900 命の重さ https://w-jp.net/2020/2217/ <br /> それなりに重いのは確かですけど、死んでも消滅するわけではなく、魂的には別にどうってことはありません。<br /> <br /> ただ、死んで再度生まれ変わると子供になってその時代の学習をやり直さなくてはならないのでちょっとめんどくさい、という面はあります。<br /> <br /> ですから、死んだところで大したことないといえばそうなのですが、色々と生まれる前の準備をしたり子供時代に学習をして大人になって、さあ、やりたいことをするぞ、となってから早々に死んでしまうと「おいおい。まだやりたいことをやっていないのに続きをやるためにはまたあの子供の頃の不自由な学習期間をしなくちゃならないのか」という、ちょっとした徒労感とめんどくさいなと思う気持ちが出てきます。<br /> <br /> ですから、まあ、やりたいことができているのならば死なない方がいいと思います。一旦死ぬと同じ魂がそのまま生まれるとは限りませんからね。というのも、魂(幽体)がそのまま転生する場合と、一旦グループソウル(類魂)と一体になってから分霊を作って転生する場合がありますので、後者であれば「わたし」という個は、厳密に言えばもう二度とないからなんですよね。後者であってもコアな部分があって、大体の雰囲気は似ますけど、それでも、全く同じではないですね。前者であれば同じと言えば同じですけど生まれる時代や環境や家族によって大きく性質が影響されますから、大人になった時の安定した感じとは違って、子供時代を通り抜けるというのは多少ながらリスクがあります。<br /> <br /> 前世でやり残したことをやりたいと思っても必ずしもその意思の通り続きができるわけではないのですね。<br /> <br /> であれば、わざわざ死ぬという選択をしなくても、今の人生でやりたいことをできるかぎりした方がいいわけです。<br /> <br /> 人生、本当に詰んでしまった場合は死んでやり直した方がいいという場合もあるのかもしれませんけど、その時にメンタルで病んでいる場合は死ぬのは危険で、欲望や雑念が多いまま死ぬと彷徨う浮遊霊になってしまいます。<br /> <br /> 純粋に雑念なく悔恨なく安らかに死ぬことができるのであれば死んでやり直す、という手も一応は理屈としては可能なのですが、悩んで自殺なんかすると浮遊霊になるのがおちだと思いますので自殺はしない方がいいと思います。それに、その人生に関わった人たちに徒労感を与えることもありますし。ただ、こればかりは時と場合によりますので、なんともいえない面がありますが、割とそういう場合が多いように思います。ですから基本的には自殺はいけないと思いますけど、例外的に死んでやりなおす、という場合もあります。<br /> <br /> 死んでやり直す場合は、自殺ではなく高次の自分がそう判断して事故とか病気で死ぬことになりますから、死ぬという選択肢は自分ではしなくていいと思います。<br /> <br /> 顕在意識でそう判断する場合も一応あるにはあるのですが、それは大体の場合は宇宙人が「もう終了」と思ってそう判断する場合がほとんどのような気がして、ここでほとんどと言っているのは、自分の顕在意識で死を判断するという場合自体がそもそもレアケースで、そのレアケースのうちほとんどは宇宙人の場合、ということで、レアケースの中の更にレアケースというのはほとんどありませんので、まあ、自分で死を判断するなんてのは普通の人にとってはないと思った方がいいと思います。<br /> <br /> 地球人の場合、あるいは宇宙人であっても割と殆どの場合は高次の自分が判断してそれが三次元に降りてくる感じですから、自分で判断する必要はないと思います。<br /> <br /> と、いうことで、死ぬという選択をする場合でも顕在意識で判断する必要はないということですね。それは基本的には高次の自分が判断してくれます。<br /> <br /> 生きているのならばそれは生きられるということです。<br /> <br /> ですから、気持ちが落ち込んで自ら選んで死んでしまうのであれば地縛霊とか浮遊霊、あるいは悪霊さんになるということです。まあ、ご愁傷さまと言うしかないですね。ぼおおおおっと、ふらふらっ、と、この世をさまよい歩くようになっちゃうわけですね。怖い怖い。怖いと言うよりは怪談のように「冷たい」って感じですね。寒気がする霊になっちゃいます。<br /> <br /> ですから、命というのは基本的には重くて1つしかないですよ、というのはある意味当たっていて、本当に自分そのもの、変わらない自分、というのは今回の人生あるいはグループソウルに戻らずにまた転生する場合だけ継続するもので、グループソウルにまで戻ってしまったら個というものは一旦は消え去るわけですね。個というのはこの世では一時的にはきちんと存在していて、ですけど、それはグループソウルに戻ればまた繋がるわけですよね。<br /> <br /> 死んだ後に消滅してしまってなくなってしまうわけではありませんけど、グループソウルに合流すればある意味なくなるというのは正しいお話ではあります。死んでグループソウルに合流すれば「あなた」という存在はなくなってしまいますからね。ですから、死んだら無になる、というお話は、完全な消滅ではなくて存続するという点は違いますけど「個」がなくなる、ということであれば正しいです。<br /> <br /> そのようにグループソウルから分離して生まれた魂というのはエネルギーを持っていて、それなりに尊重されるわけです。ですから、魂の、命の重さというのはあるにはある。ですけど、それは天命と言い換えてもいいですけどグループソウルの時点で与えられた使命あるいは平たくいえば「やりたいこと」があって、その「やりたいこと」があるのであれば基本的には命は継続になるわけですね。それがそのまま命の重さになるわけで。<br /> <br /> やりたいことが達成されれば早々に病気や事故になって死ぬこともあるでしょうし、あるいは、残りの人生は緩やかに生きて人生を楽しむかもしれません。それもまた、その魂の選択ですから、どちらがいいとか悪いとかいうわけでもなく、そうなっている、というだけのお話です。<br /> <br /> 「やりたいことができなければ死んだほうがマシ」なんて言いますけどそれは実のところ本当という面もあるのですけど、ただし、強い不満があったり未練を残したまま自殺すると浮遊霊や悪霊になるので自殺は止めておいた方がいいと思います。例えば子供をコントロールして子供のやりたいことをやらせない親なら子供は反発して親を幻滅させるか、あるいは、自由を得られないのであれば生きているのが無駄と悟って自殺して未浄化霊になったりします。そんなもんです。コントロールなんて不可能ですよ。他人をコントロールすると、結果として死にまで直結するわけです。そして、他人をコントロールしようとした場合、コントロールされる方は抵抗しますから、最後は廃人のように自分を見失うか、あるいは、最後の輝きを放つかのように抵抗を試みます。その抵抗で親なり誰がしかに仕返しをするか、あるいは、自ら死を選ぶ場合もあるわけです。<br /> <br /> ただ、ちょっとこのあたり難しいのは、人生の残りの50年とか80年を他人にコントロールされたまま搾取された人生を送るよりは、しばらく未浄化霊になって彷徨ってから成仏したが結果としてプラスな場合があるにはあるのですよね・・・。これは自殺の幇助と取られてしまうと困るのですが、自殺は基本的に止めたほうがいいというのはその通りです。自殺すると未浄化霊になって、悪くすれば悪霊になったりしますから。ただ、この世に生きていても他人からコントロールされ続けると自分で考える力をどんどんと失ってしまいますから、それが半世紀も続くと考える力が弱まってしまい、次の人生における考える力が足りない状況にもなります。そうなるよりはさっさと逃げるか、逃げられないのならば死んだほうがマシ、というのは現実としてあります。ですけど、基本は死ぬのは良くなくて、逃げるか抵抗すべきだとは思います。<br /> <br /> このあたりを私の場合の実例で少し話しますと、私の今生の30歳くらいまでのテーマは他人にコントロールされることを止めること、という課題がありましたね。私の今生の目的はカルマの解消と覚醒への階梯を確かめることの2つですけど、カルマの方の課題の1つとして、過去生で私をコントロールしてきた人に抵抗する、というノルマがありました。例えばそれは大学時代に隣の部屋に引っ越してきた人がかつて私をコントロールしてきた過去生のパートナーだったり、親は私を強烈にコントロールしようとしましたのでそのコントロールから逃れるのもノルマの1つでしたね。その他にも、ビジネスで大した役割を果たしていないビジネスパートナーにあまりにも大きな利益を与えない、未公開株を与えない、というノルマもありました。ものによっては私の若い頃に何度も自殺を考えたりもしましたけど、ノルマを1つづつこなしていったわけです。私が若い頃は、数え切れないくらい「自殺」を考えて、実際に行為に及んだことはありませんでしたけど、日によっては1日に何度も考えたりしたわけですから1年で少なくとも100回だとして10年前後で1,000回くらいは自殺を考えたと思います。それでも何とか生きてこれましたけど。頭で自死を考えても、それを行動する気には何故かなれなかったのですよね。落ち込んで学校に行く足が動かなくても、まず片腕だけ動かして、もう片方の腕もそこだけ動かして、次は右足だけ一歩踏み出して、次はもう片方の足を動かす・・・ として、何とか学校に行っていた頃もありましたっけ。今では遠い思い出ですけど。基本的には自殺は良くなくて、乗り越えるべきなわけです。昔はね、霊界の警察が自殺者を捕まえて牢獄していた時代があったとは思いますけど、今は自殺しても放置ですからね。地縛霊になったらそうそう助かりません。<br /> <br /> 色々書きましたけど、まとめますと<br /> ・自殺は止めましょう。<br /> ・死ぬべき時には死にます。<br /> ・生きているのならば人生は続行です。<br /> Tue, 29 Dec 2020 00:00:00 +0900 最近はYouTube経由でエネルギーを吸い取る人がいるようです https://w-jp.net/2020/2190/ <br /> 遥か昔から能力を奪うとかエネルギーを奪うとかいうお話はあって、昔は近くにいる時だけにそれが起こったものですけど、最近はYouTubeを見ているだけで視聴者からエネルギーを奪うような器用なエネルギー・ヴァンパイアがいらっしゃるのですね。この種のエネルギーを奪う系の人は昔から一定数いましたけど、最近は進化しているのですね・・・。こんな変な迷惑な進化なんてしなくてもいいのに、と思うのですが。<br /> <br /> 近くに寄ったり映像を見ているだけで疲れるのであればすぐ離れるのが基本ですね。私の場合は、特にお腹がムズムズと凹む感じで痛くなります。チクチクはしませんが、どんよりとお腹から何かを吸い取られるかのようです。きっとこういうことをする人はマニプラ以下が優勢でマニプラで相手からエネルギーを吸っているのですね・・・・。怖い怖い。<br /> <br /> 昔からスピリチュアル界にはエネルギーを吸い取る人がいて、最近ですと覚醒とか悟りを語っているYouTuberの中にエネルギーを吸い取る系のYouTuberがいるようですね。本人は気が付いていないのですかね・・・。迷惑なんですけど。エネルギーを視聴者から奪いながら覚醒を語っていたり宇宙や次元や真理を語っている動画は見ないほうがいいですね。<br /> <br /> ちょっと前はブログでもこういうのはありましたね。ブログを読んだ人から対価としてエネルギーを吸い取るように技をかけているのでしょう。本人が意識的にやっているのか無意識的なのかは知りませんけど、エネルギーが不足している人がブログを書いて視聴者からエネルギー補給するというのは昔からもぼちぼちありましたし、今も普通にあると思います。最近はそれがYouTubeになってきているのですね。<br /> <br /> いくつか最近見たところ、狐の化身っぽい人もいましたね。妖狐とまでは行きませんけど、狐系の美人さんがYouTubeでスピリチュアルしていたりしますね。こりゃ、あまり良くわかっていない人だと貢いじゃうかもしれないですね・・・。他人の勝手なので好きにすればいいですけど。特にそれを阻止したりなんて野暮なことしませんよ。そういう体験も全て学びですし本人の選択だから好きにさせておくのが一番なのです。<br /> <br /> まあ、そういう人に騙される・・・ と言うと語弊がありますけど、人にはそれぞれレベルがありますし、どんな人であっても誰かに教えることはできますし、自分より上のレベルであれば教師として教えてもらえる人は誰がしかいます。ですから別に騙されるという言い方は語弊があるのですけど、悟りを教えている筈の教師が一瞥しかしていないのだとしたらそれは看板に偽りありなのではないでしょうかね。そもそも一瞥の悟りとわかっていてそれを教えているのならばいいですけど、わかってる人なら一瞥の悟りだということをはっきりと述べるでしょうし、そもそもそのくらい自分の事がわかっている人なら一瞥しただけでスピリチュアルのこと教えだしたりはしないと思いますけど。まあ、これは人にもよりますけどね。私はそう思うと言うだけで、やりたきゃやればいいと思います。この世界は何だって自由です。好きにすればいいと思います。<br /> <br /> ですけど、やるのは自由でも、視聴者から意識的か無意識的にやっているのかはわかりませんけどエネルギーを吸い取るようでは所詮はその程度なわけです。<br /> <br /> 先日も書きましたけど、一瞥しただけで自分が真理を悟ったかのように勘違いしている人は適切な師匠がいないことが多くて、いたとしても師匠よりも自分の方が上だと勘違いして、その結果、自分がいわゆる教祖様とかスピリチュアル教師とかになってしまったりするのですよね。<br /> <br /> それが愛を語りつつエネルギーを実は奪っているのなら、まあ、等価交換とも言えなくもありません。理屈で愛を語りながら、愛とはエネルギーの高まりであるのにそのエネルギーを交換で奪っているなんて、なんて皮肉なお話なのでしょう(苦笑) とても興味深いです。<br /> <br /> あるいは、真理を語る筈なのにヒステリーになっていたり、皮肉で真理を語ったりするチャンネルは高確率でエネルギーを吸い取っている気が致します。エネルギーだったり、セミナーの勧誘だったりしますよね。 まあ、それを狙っているのでしょうかね? よく分かりませんけど。そういうチャンネルは見ないほうがいいと私は思いますけど。<br /> <br /> まあ、具体的に誰か、ということは、誤解がありますので特に言いませんけど。まあ、ご自身で自由に判断すると良いと思います。<br /> <br /> セミナーの勧誘ならまだ可愛いです。厄介なのは、ある程度の能力があって遠隔で視聴者からエネルギーを奪い取る系のYouTuberです。YouTube動画を見ただけでエーテルのコードを繋がれてエネルギーを継続的に吸われてしまうこともあります。まあ、こっちが先にその動画を見てYouTuberに対してエーテルのコードを伸ばしたところを蜘蛛の巣にかかった獲物のように素早く捕らえてエネルギーを吸い取るのでしょうね。ほんと恐ろしいです。そういうときは、以前に書いたようにエーテルのコードを切ることが重要です。動画を見た後に具合が悪ければ吸い取られている可能性がありますので、見えなくてもどこかに繋がっているかもしれませんので自分の周囲、全方向のどこかに繋がっているかもしれないケーブルを見えないナイフのようなもので切るそぶりをイメージすると実際にケーブルが切れてエネルギーの吸入が止まり、結果、エネルギーが減らなくなって気分が回復すると思います。<br /> <br /> あまり気が付いていなくても度々やったほうがいいと思います。<br /> <br /> 悟りとか覚醒とか語っていながら一見すると愛に満ちているように見えてもその人を見るとどこか疲れたり、皮肉が多かったり言葉のあやを利用した否定形の真理の語りが目立ったりヒステリーだったり自己啓発系っぽかったりお金儲けの秘訣とか語っているところはエネルギーもこうして吸っている可能性がある気がしますね。人それぞれ色々なパターンがありますけど。<br /> <br /> 怖い怖い。見えなくて気付かないと思ってやっているのか、それとも、自分は気付かないうちに無意識でやっているのかもしれないですけどね。<br /> <br /> 共通して言えるのは、疲れるようなものをわざわざ見る必要ない、ってことです。たとえ愛とか悟りとかを語っていたりしてもね・・・。本物はエネルギーに溢れていて他人から奪わずにエネルギーを分け与えます。偽物もエネルギーに満ちているように見えますけどエネルギーを周囲から奪い続けているわけです。<br /> <br /> 目立つことでそういう人にエネルギー(力)が集まることになりますから、ますます変な存在になります。そういう力を持った存在は霊界にも多くいて、形としては「天狗」とか「稲荷の狐」みたいな存在だったりしますね。キツネつきで他者のエネルギーを吸っている場合もありますね。それは人によって異なりますけど。悟りを語っているYouTuberの正体が妖狐みたいなおぞましい狐だったりします。一見すると美しい娘ですけどね・・・。もちろんその本人は自分ではそんなことを言わないでしょうし、指摘しても否定するでしょうしね。霊体は姿なんていくらでも変えられますから、ばれそうならお気に入りの姿以外のどんな姿に化けてごまかしてくるかもわからないですしね。<br /> <br /> まあ、どちらにせよそのような存在とは関わらない方が良いです。ちょっと慣れれば感覚で本物かどうかなんてすぐわかりますよね。<br /> <br /> そのようなYouTuberであっても体験のいくつかは本物なのだろうとは思いますけど、私がここで言っている本物というのは日常生活で継続的に悟っているかどうかという判定基準ですからね。一瞥の悟りがあったとしてもその後にエネルギーを奪ったりヒステリーになったのならばそれはまだ本物ではないということです。私の個人的な基準ですけどね。<br /> <br /> あとはね、この種のケーブルを切りたければ自分の守護霊に「もし意図しない変な存在とエーテルのコードで繋がっていてエネルギーを吸われているのならば、そのケーブルを切ってください」と定期的にお願いするのも手ですね。<br /> <br /> 本来はこういうのは自分で対処すべきだと私なんかは思いますけど、どうもできないようならば守護霊にお願いするのも手だと思いますし、繋がっていないと思っていても繋がっている時がありますから、そういう確認の意味も含めて切ってもらうのもいいですね。<br /> <br /> 守護霊も、お願いされた時以外は放置の守護霊もいれば過保護な守護霊もいますので性格次第ではありますけどね。基本的には自分で対処して、確認および自分では難しい時は守護霊にお願いするといいかなと私なんかは思いますけどね。まあ、好きにすればいいと思います。<br /> <br /> エネルギーヴァンパイアをしている妖狐系のYouTuberは手に負えないですけど、その一方で、一瞥の悟りをしただけで悟っているかのように勘違いしているだけの人はまだ救いがあります。<br /> <br /> 一瞥の悟りで悟ったかのように思っている人を時に「勘違い系」と言ったりもしますけど、それは別にそれほど悪い意味でもなくて、永続的な最終的な悟りだと勘違いしているのはそうなのですけど、一瞥の悟りであってもそれはそれで素晴らしいですし、後ほどいつかはそのことに気が付いて伝統的な修行の道に進んで永続的な悟りを目指すというのは割と多いケースのように思います。ですから、それほど悪いことではないかなとは思うのですが、そうは言いましても、YouTube動画とかブログを書いてエネルギーを吸い取るのは迷惑でしかありませんので、それはやめて頂きたいということです。少なくとも視聴者側としてはそのような勘違い系の人に対して防御する必要がありますね。<br /> <br /> Wed, 16 Dec 2020 00:00:00 +0900 聖典を理解するだけでは悟ることができないと昔から聖者は言う https://w-jp.net/2020/2189/ <br /> これは古くからの言い伝え。<br /> <br /> 聖典を読んだ後、実践してこそ初めて悟ることができる、と聖者たちは口々に言う。<br /> <br /> とあるスワミは言いました。<br /> <br /> 悟り、が真の宗教であって、他のすべては準備にすぎない。説法を聞いたり、書物を読んだり、論理をたどったりするのは、単に基礎を準備しているにすぎない。それは宗教ではない。(中略)悟りの全領域は感覚の知覚のかなたにある。「ラージャ・ヨーガ(スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ 著)」<br /> <br /> ヨーガでは悟りには誰しもが到達できると言います。<br /> <br /> ヨーガは一部の宗教のように「信じなさい」とか「信じれば救われる」などとは言いませんが、聖典および教師(グル)に対する信頼は必要だと言います。おそらくはそれらの宗教の中には信頼という意味で「信じる」という言葉を使っている流派もあるとは思いますが、そうであれば同じことです。<br /> <br /> 聖典やグルは理解および信頼するものであり悟りは体験して会得するものであるとヨーガは説くわけです。<br /> 古くから、悟りを得た聖者は同様のことを言っています。<br /> <br /> Wed, 16 Dec 2020 00:00:00 +0900 世界宗教会議で「皆、違っているからこそ素晴らしい」と喝破したスワミがいた https://w-jp.net/2020/2184/ <br /> どこで読んだお話か忘れてしまいましたけど、昔、たしか半世紀ほど前にインドからはるばるアメリカに渡って世界宗教会議に出席したスワミがいたそうです。<br /> <br /> 覚えている限りの話を書きますと、まずその世界宗教会議のテーマは普遍的な統一的な宗教、という感じで、今で言うところの「ワンネス」がテーマだったと思います。<br /> <br /> 各宗教の流派が統一的宗教のお話をして、拍手喝采、その会場では「ワンネス」が叫ばれ、各派の宗教者がダンスを踊りながら「みんな一緒、ワンネス素晴らしい」と楽しげにしていたそうです。<br /> <br /> それに違和感を感じたスワミは、次のようなことを言いました。<br /> <br /> 「ワンネスとは、皆が同じようになることではない。皆が違っていて、それでもそのまま素晴らしいのだ。違っているからこそ世界は美しいのだ。そのように宗教が1つになって統合される必要は全くない」<br /> <br /> ・・・その発言に、会場は固まったそうです。<br /> <br /> これは、ヴェーダの教えでもあると私は理解しています。<br /> <br /> ヴェーダでは人間の本質はアートマンで、いわゆる魂のようなものですけど、そのアートマンの本質は実はブラフマンで、ブラフマンとはこの世に偏在していて、ブラフマンこそがワンネスの本質なわけです。<br /> <br /> ですから、人間は個としてのアートマンだと思っているけれども実はブラフマンだ、というのがヴェーダの教えで、その意味するところは、何もしなくても最初からブラフマンであって、アートマンとしての個はそのまま残るわけですよね。アートマンはそれぞれ違っていてそれでよくて、それでもブラフマンとして同一なわけです。ですからヴェーダでは個人を均一化するようなことをしなくて、それ故に、宗教を統一するなんてことはしないのです。そんなことをしなくても最初から全ての人間、人間だけでなくこの世の全てがブラフマンなのですから、最初からワンネスなのです。<br /> <br /> 結局、その宗教会議の本当の目的はワンネスといいつつ実は特定の宗派の拡大を狙っていたのかな・・・ とも勘ぐってしまいます。<br /> <br /> それはさておき、そもそもヴェーダでは個人の均一化を説いていなくて、人は違っていてそれで良い、という考えが基本にあるわけです。<br /> <br /> ですから、ヴェーダは最近における誤解されたワンネスとは相反しており、ヴェーダ的な本質のワンネスがあるわけです。<br /> <br /> Sun, 13 Dec 2020 00:00:00 +0900 悟りの一瞥をしたいのか、あるいは永続的な悟りを得たいのかで修行方法は異なる https://w-jp.net/2020/2183/ <br /> 一瞥をしたいのならばいくらでも方法があります。簡単な方法であれば修行すらいらないです。<br /> <br /> 私はやったことありませんけど後遺症があってもいいのならば幻覚剤を使う方法も使えるかもしれませんし、魔女系の方法、スピリチュアルなトランス、あるいは先日書きましたように誰かに幽体離脱を手伝ってもらって時空を超えるという方法もありますね。全て「一瞥」です。一瞥でいいなら割と修行なんていりません。修行するにしても、魔女的あるいはテクニックを使う方法ですと自我(エゴ)が残っていても一瞥はできますから、ある程度のテクニックとラッキーさがあれば一瞥は可能です。<br /> <br /> ゴールをどこに定めるかですよね。悟りが欲しいという目標があったとしても、一瞥の悟りを求めているのか、それとも永続的な日常的な生活における悟りを求めているのかで違いますよね。<br /> <br /> 瞑想中にだけ感じることのできる悟りは、たとえそれだけであったとしても素晴らしいことは確かです。幽体離脱で体感する悟りも、これまた素晴らしいことは確かです。それはそれで素晴らしいのですが、最終目標をどこに置きますか? というお話です。<br /> <br /> 最終ゴールが継続的な日常生活にまで行き届いた悟りの状態であるのならば、やはりそれは伝統的な方法に従うことになると思います。<br /> <br /> 一瞥であるのならばトランスだとか激しい瞑想だとかショックのある方法だとか・・・ いくらでも方法があります。一番簡単で修行が全くいらないのは、誰かに手伝ってもらって幽体離脱することですかね。<br /> <br /> でも、戻ってきてからの顕在意識と幽体離脱で見聞きした内容のギャップに苦しむかもしれませんけどね。それは当人次第です。問題ないかもしれませんし。<br /> <br /> どちらにせよ、一瞥は所詮は一瞥で、それでゴールにしたいならそれで構わないです。ただ、一瞥なんかが永続的な悟りだと勘違いしても幸せにはなれないと私なんかは思いますけどね。<br /> <br /> 一瞥がしたいなら瞑想なんてする必要がなくて、一時的に精神を落ち着けたり、トランスのように顕在意識を一時的に眠らせることで奥底の意識を浮かび上がらせたり・・・ 詳しくは言いませんけど、いくらでも方法があります。<br /> <br /> どちらが自分のゴールなのか?<br /> <br /> ゴールが継続的な日常生活にまで行き渡った本当の悟りであるなら、やっぱり基本は瞑想ですよね。雑念を減らして沈黙の状態である静寂の意識に入り、宇宙意識に到達する。<br /> <br /> それしかないです。 と、私は思っています。<br /> <br /> YouTubeとかブログを見ると悟りとか覚醒について色々と言っている人がいますけど、一瞥の悟りあるいは一瞥の覚醒を本物の悟りであるかのように説明している方がそれなりにいて、ミスリードだなぁ、とか思ったりもしますけど、そのように偽物を見極めることも修行の1つだと思いますし、まあ、好きにすればいいと思います。そういう一瞥の悟りを求めていらっしゃる方もおられると思いますしね。何をするのも個人の自由です。<br /> <br /> 昔から、一瞥の悟りを得た人は教祖になって、本当の悟りを得た人は教祖にはならない、と言われていますけど、それはある程度は当たっていると思いますね。最近は新興宗教の教祖様ではなくてYouTubeチャンネルの教祖様みたいな感じですけど、スタイルは違えども同じことです。<br /> <br /> 一瞥をしただけで「私は悟りを得ました!!」と言って修行を辞めてしまう方はとても多くいらっしゃいます。そこらのスピリチュアルな集会に顔を出せば「私は悟りを得ています」とか「私は覚醒しました」「宇宙意識を得ました」と言う人なんて割と普通にいます。それが一時的なものなのか継続的なものなのか、見極めが重要ですよね。グルがいれば「君の悟りは一時的なものに過ぎない」とか指摘してもらえますけど、一人でやっていると勘違いもありますよね。<br /> <br /> スピリチュアルとか宗教をやっている人って、悩んでその道に入った人もそれなりにいますけど、ある一定の割合で、子供の頃に神秘的な体験で悟りを垣間見るとかもともと見えないものが見えたとか聞こえたとかいう基礎があって、その方面をもっと知りたいとか悟りを確かなものにしたいという目的があってその道の修行に入ったりするわけです。そのように、一瞥は所詮は一瞥でしかなくて、やがて一瞥で得た感覚が薄くなっていくとそれを求めて修行を始める人もそれなりにいるとは思います。子供の頃に幽体離脱したり臨死体験で真理を見たことがきっかけでスピリチュアルや宗教をやって悟りを求めている方はぼちぼちいらっしゃいますよね。一瞥は一瞥でしかなくても良いきっかけになるわけです。<br /> <br /> スワミ・ヨーゲンヴァラナンダのように若い頃にヒマラヤ大師と出会って感化されて死ぬまで修行に励んだ、という方もいらっしゃいますし。<br /> <br /> 一瞥をしたことで本物を知って感化されて修行を始める人も大勢いらっしゃいますので一瞥であっても無駄ではないですしね。最初は一瞥を求めていても最終的な悟りを求めるようになるということも沢山あると思います。<br /> <br /> Sun, 13 Dec 2020 00:00:00 +0900 悟りの一瞥をするだけで満足しない https://w-jp.net/2020/2179/ <br /> 宇宙意識の悟りがどのようなものなのか一時的にでも知ることは重要で、私の場合は小学校の頃の幽体離脱で知ったわけですけれども、それは始まりに過ぎないわけです。知ることは重要であっても、日常生活の意識で同様の宇宙意識とはまだ繋がっていないわけで、日常生活を送りながら宇宙意識と繋がることができるようにするのが修行であるわけです。<br /> <br /> 伝統的業界ですと瞑想をして意識の平穏を教えるところから段階的に悟りを目指しますけどスピリチュアルなやり方は色々で、特に最近は感情に焦点を当てて感情面から意識を一時的に平穏にして宇宙意識と繋がるという方法も取られているようです。であればその意識の平穏および宇宙意識は一時的なもので、真実を知ってから戻ってきた後にギャップを感じてヒステリーになったり怒りっぽくなるのも当然かなという気が致します。そもそもアプローチが違うので結果も異なるわけですね。「怒り」が結果として残るのであれば一時的に宇宙意識を得たとしてもある意味失敗だったのかなという気が致しますけど、それは個人的な個別のお話ですので、好きにすればいいと思います。長期的に見ればなんだって大差ないですけど、大差ないなら怒りなんてない方がいいと思いますけど。私なんかが思うには日常生活を平穏で過ごすことができないのならば宇宙意識なんて意識が広がるばかりで邪魔でしかなくて意識を乱すだけのものであると思います。伝統的なやり方で悟りの状態に至った場合は意識の平穏を先に達成しますから、意識の平穏を保ったまま宇宙意識と繋がって平穏な意識を保ちますけど、感情を抑えるやり方で宇宙意識と繋がると意識の平穏が不安定ですから感情に左右されて宇宙意識の方からのフィードバックによって感情が爆発してしまうことも多々あるように思います。これは、宇宙意識への意識の拡張が必ずしも幸せに繋がらなかったという悲しい例ですね。悟りを目指す人はそうであってはならないと個人的には思いますけど歴史的には伝統的流派であってもそのように悟ったけれども荒っぽい人はいて、それはそれで一定数の割合でそのような人は出てくるものとは思います。まあ、そういう人は揺り戻しがあって、来世には平凡な人生を送ってからまた悟るということになるのでしょうけど。悟って平穏でいられる人は来世でも悟ったまま生まれて来れたりします。<br /> <br /> 私は小学校の頃に幽体離脱して宇宙意識を知って多次元の時空を超えた視点を得て過去も未来も見れてパラレルワールドも俯瞰して未来も自分で設計し直したりしましたけど、その後、肉体に戻った時の認識はあくまでも人間でしたからね。理解と経験の感覚は残りましたけどね、それがそのまま日常の生活の意識とリンクしているかというと日によってシンクロ率が高かったり低かったり、いろいろでした。宇宙意識のことを話しても誰も理解しませんでしたし、周囲は私のことをニューエイジか何かかと理解したみたいでしたけど、私は一応は説明としてニューエイジの言葉を使いはしましたけど根底にあるものはニューエイジとは関係なくて幽体離脱の時に得た知見でしたので、どちらにせよ話は通じませんでしたね。当時から時空を超えた宇宙意識を知ってはいましたけど、今から思えば、最近で達成した伝統的な悟りへの道でのある程度の達成と、一時的に宇宙意識を知って時空を超えて戻ってきた日常生活の状態では全く状態は異なると断言できます。一時的な幽体離脱で宇宙意識を知ることなら手助けさえあれば割と誰でもできますし、私も大学生の頃に知人の女の子の幽体を引っ張り上げていろいろ見せたことありましたけどその子自身は「わかっていない」子でしたけどね。手助けがあれば見聞きすることはできます。瞑想で一時的な宇宙意識も得られますけど、それもまた日常生活での宇宙意識とは異なりますから、一時的に宇宙意識を知ったところであまり得意気にならないことですね。 まあ、そうは言っても、それは本人の自由ですから、好きにすればいいと思います。私はそう思うというだけです。自由にすればいいと思います。これはただの個人的な感想です。<br /> <br /> ゴールが私の場合は先に示されたようなもので、幽体離脱した時の宇宙意識、時空を超えた意識がまずあって、ゴールが明らかで知ってはいますがそれがそのまま自分の悟りではないわけで。知っただけの状態でも以前とは変化していますけど、それでもあくまでも自分はただの肉体を持った普通の人間でしかないわけです。そのただの人間の状態から、宇宙意識を日常生活を送る中でも繋がったままでいられるようになるために修行があるわけです。記憶の中にある宇宙意識の感覚と自分の現在の意識との乖離があるわけですね。<br /> <br /> ですから、宇宙意識を知っただけで自分は悟りを得たかのように思うのはとても愚かなことで、それは垣間見ただけで、それだけでも十分素晴らしいことではありますけど、日常生活での意識がそこまでではなかったり惨めなものであるならば悟ってはいないのですよね。<br /> <br /> 宇宙意識と一時的にでも繋がって時空を超えられれば人生も思い通りにできますので金銭的にも自由にすることもできますし逆に金銭的に追い込んで厳しい状況で修行することもできます。人生を自由にできたからと言って、貴方が悟っているとは限らないわけです。どちらにせよ、そのように宇宙意識と繋がってしまうと最初は色々と勘違いが生まれてしまいますので「自分は幽体離脱したことがあるし真実を知っています」と言って修行しなくなってしまったりします。これまた愚かなことです。<br /> <br /> 一時的に宇宙意識に繋がって時空を超えた真実を知ったとしても日常生活で宇宙意識と常に繋がるためには長い修行が必要になるのが普通なわけで。素質のある人でも数年は必要で、普通は10年とか数十年なんてのはざらです。<br /> <br /> そのことを指摘しても、「私は知っているから」と言って聞く耳を持たない場合もあるわけです。ですけど、それは違うのですよね。<br /> <br /> 一時的に宇宙意識を知っただけで自分は皆と違っていると思うなんてのは、まあ、それは割とスピリチュアルの罠ですよね。知っているのはそうなのでしょうけど、別にそんなに特別に感じる必要はないわけですけど、最初は特別に感じてしまうものなのですよね。そんなもんだと思います。おそらくは誰しもが一度は通る道です。そこで立ち止まらずに修行を続ける必要があるわけですけど、そこに気が付いているかどうかは知りませんけど、たぶんそのくらいの人ならそのうち気がつくとは思いますけど。<br /> <br /> インドのリシケシでヨガニケタンを作ったスワミ・ヨーゲンヴァラナンダは若い時にヒマラヤ聖者と出会って真理を知り、それを体得するために長い年月を費やしました。修行というものはそういうものだと思います。最初に真理を知ったところでそれを体得しなければ何にもならないわけです。真理を知ったところで、それを体得するのとは別物なわけで。<br /> <br /> 私は小学校の頃に幽体離脱して時空を超えて真理を知り、それを持ち帰ったものの、そのままの状態では悟った状態ではなかったのです。知ってはいるけれども体得していない状態だったわけです。それは幽体離脱とか瞑想とかで体得したものにも当てはまります。一時的な悟りの境地が得られることはそれはそれで素晴らしいことでありますけど、その一時的な悟りの状態を日常生活と共存させるには一般的には修行が必要なわけですよ。<br /> <br /> 確かに、私も幽体離脱してしばらくは自分が真理を知っているから皆とは違うと思い込んでいて、ちょっとした高飛車状態になっていましたね。まあ、小学校とか子供ですしね。そんな一時的な悟りは確かに素晴らしいお話ではありますけど、日常生活と悟りが共存しなければ何にもならず、むしろ、真理を知った意識と顕在意識とが乖離し始めて精神的にきつい状態になってしまいます。物欲だけに生きることもできず真理に生きることもできない。まあ、私の場合は理由はそれだけではありませんでしたけど。<br /> <br /> 幽体離脱した後も、その経験は本物だとしても、その当時は悟りの意識を体得した状態になっておらず、自分自身とその悟りの意識とが乖離していたたわけです。幽体離脱をして時空を超えた真理を知ったところで基本的なところでまだまだスピリチュアル初心者だったわけです。心が、真理を知っている部分と顕在意識の葛藤の部分とで分離して対立していたわけです。その真理の意識と日常生活の顕在意識とを融合するには修行が必要だったわけです。<br /> <br /> 他の人にも同じことがあてはまるかどうかは分かりませんし、他人は自分の好きに生きればいいですけど、私の場合はこうでした。<br /> <br /> Sun, 13 Dec 2020 00:00:00 +0900 2020年のスピリチュアル・バズワード 振り返り https://w-jp.net/2020/2178/ <br /> <br /> ・「覚醒」伝統的業界では今も昔も「悟り」ですけど、スピ業界では覚醒というのが流行りみたいです。前から一般用語として使われていましたが今はバズワードと化している感じが致しますね。<br /> ・「ライオンズゲート」私はよく分からないです。ゲートが閉じるとかいう噂がありましたけど、なんのことやら。<br /> ・「設定」誰が言い出したのかは知りませんけど、色んな所で「人生は設定だ」みたいなお話が増えてきました。「人生はゲーム」というお話の派生版っぽいです。昔は「人生は自分で決めて生まれてくる」みたいな言い方をしていましたよね。言い方は変われども十数年おきに定期的にバズワードに上がってくる話題ですかね。<br /> ・スピリチュアルから目が冷めた、というお話。新興宗教とかスピにハマっていた人が目が覚める系のお話は昔からありますけどYouTubeのおかげか今年は目立った気が致します。<br /> ・「次元」長い人気ですね。長く使われてきたが故か、「次元って意味あるのですか?」みたいな揺り戻しが起きた年だったようにも思います。<br /> ・「風の時代」占星術のお話みたいですけど具体的にはさっぱりわかりません。水瓶座時代みたいなお話ですかね? 誰が言い出したのですかね? よくもまあ、次々に新しいネタを作り出すものですね・・・。<br /> ・「バシャール」10年くらい前から盛り上がっているスピリチュアルな宇宙人で、昔から名前は知ってはいましたけど個人的には興味がなくて一度もちゃんと調べたことがありません。なんでこんなに未だに人気なのかも謎です。<br /> ・「スターシード」ルーツを見ればかなりの地球人がスターシードだと思いますので、特に取り立てて言う必要もないんじゃないかなと思いますけど。個人的には特別感ないですね。<br /> ・「クラリオン星」真偽のほどはよく分かりません。<br /> ・「カタカムナ」細々と人気が続いていますね。そろそろマイナーを脱出してメジャーに?<br /> <br /> <br /> これは個人的な印象です。統計を出したわけではありません。<br /> <br /> 「覚醒」は人によって定義が違っていてよく分からないです。おそらくは静寂の意識のことを意味しているように思いますが悟りという意味で使っている人もいますし。新しい業界の新しいバズワードは人によってコンテキストが違うのが困りものですけど、それはそれで内容を読み解くのが面白いという面もあります。とは言え、もうちょっと定義をしっかりしてから使ってほしいものです。「悟り」にしても流派によっていろいろですのである程度は仕方がない面はあると思いますけど。<br /> <br /> 「ライオンズゲート」は、私には全く心当たりが無いです。何なのかもよく分からないです。私の見えないガイドが教えてくれたことによりますと、「そういうイベントにした方が成長しやすい人がいるのですよ」ということみたいです。ガイドも何のことかよくわからないみたいです。元々はなくて最近作ったものではあるけれども、成長のためにイベントとして盛り上げているグループがあるようです。特に悪い意図は感じなくて純粋なものでしたが、盛り上がるにつれてちょっと金儲けの人も入ってきている、というのはこの業界ではよくあることです。そうして、最初は良くても途中から金儲けの人に乗っ取られてそのバズワードは使われなくなってゆくのですね。今はまだそこまで行っていなくてまだ盛り上がっている感じではありますけど。そういうイベント好きな人もいるので、どっかの天使か宇宙人が企画して盛り上げている感じですね。こういう見えない存在による企画はスピリチュアル業界ではよくあります。アセンションとかもそうでしたね。アセンションは盛り上がりましたね。確かに大きな変革はありますけど、それをアセンションと呼ぶかどうかは別問題なわけで。レムリアのアセンションはアセンションと呼ぶに相応しいものではありましたけど、これから同様のことが起こるかと言えば同じではないと思いますし。ですけど皆さんの目を向けさせて意識を変革するという効果はありましたので、アセンション企画は割と大成功と評価されていると思います。<br /> <br /> 「設定」についてですが、昔から「人生は自分が決めて生まれてきた」みたいなお話はありましたけど、最近のお話ではそれに加えて「魂の経験が豊富な人は厳しい環境に自分を追い込んで苦しい人生を選ぶ」みたいなお話が加わりました。私がまさにこれなんですけど、数十年前まではオーラの色でその人の魂のレベルまで一律に決めつけられてしまう風潮があって、魂の経験が豊富なので苦しい人生で人生経験を沢山積もうと思っている人が辛い系の赤いオーラで頑張っていたりすると昔は「オーラが赤だからスピリチュアル的に程度の低い人」として一律で評価されてしまっていました。まあ、普通の人は優越感を感じたいですから、オーラの色で一律で他人を見下したい、という弱い心がスピリチュアルの罠にハマってしまっていたのでしょうね、特にいま50代以降になっているバブル世代はそういう傾向があったように思います。スピリチュアルを優劣付けのための道具にしている人が昔から一定数いて、昔は特に多くて、そのような人にオーラの色での優越レベルはドンピシャではまって他人をオーラの色で評価しまくっていたように思います。その当時から「人生はゲーム」という言葉はありましたけど最近のバズワードで言う「人生は設定次第」というお話があまり理解されていなくて、例えば私は特殊なマントを被って霊能力なしに生まれてくるということをしていましたしカルマの精算が人生の目的の1つでしたから、私のように一時的に意識的に自分をどん底まで叩き落とした人にとってはそのようにオーラで一律で決めつけられてしまう風潮は生き辛い世の中でした。そういうこともあって、ここにきてようやく「人生は設定」というお話が世間に広まってきて、「ようやく、ですか?」という感はありますけど、このまま広まって常識になってくれればいいと思います。<br /> <br /> スピリチュアルの罠から目が冷めた、というお話は昔も今も一定数ありますけど、昔から真理の世界では「先生は真理を指差すことしかできない(直接的に教えることはできない、完璧に近づけることだけ可能)」というのは昔からあるたとえ話で、最終的な真実は本人が見つけないといけないのですよね。そんな当たり前のお話が意外に浸透していない気がしますね。スピリチュアルの人たちって古典的な精神世界を勉強していないのですかね? 割とどこでも言われているのに、聖典に書かれてある真理を新しくて自分だけが知っている真実かのように語るスピリチュアル・リーダーがぼちぼちいて、違和感しかありません。スピリチュアルの人ってスピリチュアルのことしかやらないのですかね? このような精神修行の世界の基本を抑えておかないと「なんで先生は間違ったことを教えていたのですか」みたいなお話になってしまいます。そもそも真理を直接的に表現して教えることは不可能なのですけどね。真理を知った時に人がどのように行動するのかはだいたい2種類に分かれていて、完全に表現できないけれども何とか自分の知った真理の輪郭を表現しようと努力する人。あるいは、真理を表現することは不可能だと判断して沈黙を守る人です。言葉の表現が上手いグルならいいですけど口下手、表現が下手なグルもいますし。昔からそんなもんです。グルの口数が少なかったり言葉が多かったり。そんなもんです。それでも何とか表現してくれる先生に感謝するのが普通です。先生の中には実際に悟っていない人ももちろんいるでしょうけど、それは自分にはどうだっていいことではないですか。片鱗であっても教えてくれる人には変わりがないです。何も言わなくても態度で教えてくれるグルもいます。それに、明らかに悟っていないような普通に見える人でも悟っていることがあります。精神修行の世界では「良い師匠に出会えるのは幸運である」とも言われているように、そうそう良い師匠に会えることはないです。そんなもんです。思えば私自身の過去の態度についてもこれらは多少ながら反省がありますけど、過去を見て反省する良い機会になりました。<br /> <br /> 「次元」について<br /> 何やら「次元という概念はおかしい」とスピ業界で言われ始めた年のような気が致しますね。改めて次元とは何かと問われると、私は次元の数字についてはよく分からないので数字は私は言いませんね。単純に「高次元」というのであれば私の守護霊やハイヤーセルフの存在している領域はきっと高次元だろう、というくらいの軽い意味で使っていて、そこに明確な定義はないですね。そういえば前に次元が上がると言うよりは次元が下がって消え去るみたいなお話を書きましたけど、次元が下がるという感覚の方が近いです。イメージで言っているわけではなくて幽体離脱で見聞きした領域のことを言っているわけです。ですからそもそも現実が先にあって、それを表現するために何とか言葉を選んでいるわけで、高次元というよりもっと良い表現があるのならば私が知りたいくらいです。「あの世界」と言っても通じないでしょう。「高次元」といいつつ「次元が下がる」なんて、なんのこっちゃ? と思われるかもしれませんが、別に矛盾していません。現実がそうなのですから。でも、数字のことはよくわかりませんね。もし誤解があるのならば別の言葉を使いたいですが、代わりになる言葉が今の所思い浮かばないです。現実は変わらないので、もっと誤解のない直接的な言葉があればその方がいいのですけど。「天使界」とか言った方がいいですかね。でも、べつに他の場所にあるわけではなくてすぐそこにあるのですからね。天使界というと遠くの天国にあるかのような印象を与えてしまいますけど、いわゆる次元のようなものがちょっと違うだけですぐそこにいますからね。やっぱり高次元というのがしっくりきますけど。とは言いつつも感覚としては「次元がなくなる」という方が実感に近いのです。やっぱり聞いていて訳わからないですよね。そんなもんです。私の基本は幽体離脱で時空を超えて見聞きした内容ですから、時空を超えるというお話とそれによるパラレルワールドが無数にあるところまでは理解できますし、高次元というのは存在していますけど、人によって次元という言葉の定義がまちまちで、時に他人がどこのことを次元と言っているのかよくわからないこともあります。特に数字についてはわからなくて、7次元だとか12次元だとかはただ単に「そのくらい進歩した魂」というくらいにざっくりと捉えています。何やら次元が意識のレベルを意味しているようですけど、定義がよくわかりませんからね。私は「高次元」とは言いますけど数字はほとんど言いません。数字はよく分かりませんから。そもそもヨーガやヴェーダや仏教では次元なんてお話は出てきませんし、次元なんて言い出したのはごく最近のお話です。なんとなく概念的に高次元という言い方がしっくり来るので使っているだけです。私の見えないガイドに「数字はどういう意味なのでしょう?」聞いても回答ないですし。数字はあまり関係ないんじゃないかな、と個人的には思ってますけど。<br /> <br /> <br /> 他にも多種のバズワードがありましたけど、よくもまあ新しい言葉が出てくるものですね。ある意味、感心します。<br /> <br /> <br /> ・・・今年も色々とありました。たまには振り返るのも良いものです。<br /> <br /> Sat, 12 Dec 2020 00:00:00 +0900 悟りとは日常生活において常に意識が時空を超えていること https://w-jp.net/2020/2177/ <br /> 一時的に瞑想をしたり幽体離脱して同様の状態になったのは悟りを垣間見たことであり、悟りの状態には違いありませんけど、日常生活でその状態を保ててこその悟りなわけです。垣間見ただけでも素晴らしいことですけどね。<br /> <br /> 幽体離脱で時空を超えることは、他の人に手伝ってもらって幽体離脱すれば割と誰でも体験できます。<br /> <br /> 私も、大学生の頃に知り合いの女の子の魂を体から引き抜いて世界を見せたことがあります。まあ、はっきり言って「わかってない」子でしたけどね。哲学とか勉強はそこそこできましたけどスピリチュアルな事柄に関しては無知というか斜め上を向いて理解していて、本質がわかっていない感じでした。<br /> <br /> そんな子であっても、私が幽体離脱をして、両腕を脇の下から引っ掛けるようにしてその子の幽体を体から引き離してあげたら、最初はちょっと力がいりましたけど体から幽体が離れて幽体離脱状態になりました。<br /> <br /> 自分では動けないようでしたので私がそのまま引っ張って時空を超える形でいろいろ見せてあげましたけどね・・・。<br /> <br /> まあ、あの程度の未熟な魂でも、誰かに見せてもらうという方法であれば時空を超えられるのです。<br /> <br /> ですけどね、肉体に戻ってからも幽体離脱で時空を超えた記憶こそあれ、その子の意識は日常生活では時空を超えることができないわけです。<br /> <br /> 幽体離脱も、悟りの階梯の途中で自然にできるようになるのと、テクニックや他人に手伝ってもらって行うのとではちょっと違うわけです。テクニックは色々とありますけどね・・・。でも、テクニックでやる場合は日常生活との乖離が大きい気がいたします。<br /> <br /> 瞑想も似たようなもので、瞑想中で色々と見聞きするでしょうけど、それが日常生活に活かせてこその悟りなわけです。<br /> <br /> 瞑想には色々とあって、トランスとか静寂とか色々とりますけど、種類によっては自我を麻痺させる種類のものがあります。自我を麻痺させる種類のものですと日常生活と瞑想の差が激しくて、瞑想中の体験と日常生活の間に乖離ができると思います。<br /> <br /> そうではなくて、瞑想中の状態と日常生活との間の差がどんどんなくなるのが理想的なわけです。<br /> <br /> 幽体離脱も一緒で、テクニックで幽体離脱して一時的に宇宙意識や時空を超えた意識になったとしても肉体に戻ってきて日常生活をする時にどれだけ活かせるかが重要なわけで。<br /> <br /> 最終的な悟りの状態というのは日常生活を送りながら意識は宇宙と繋がっていて更には時空を超えて過去や未来およびパラレルワールドやそれらの間の「線(比喩)」までも把握できる状態なわけです。そうなれば過去も未来も、あるにはありますけどただ単に一つづつ順を追って理解したいから存在しているだけ、ということもわかります。意識は時空を超えていますけど、意識が理解するために時間というものがあって分割して物事が理解できるようになっているわけです。時間がなければ物事の理解が「一瞬」でやってきて、分かる人にはわかりますけど新しいことの理解は難しくて、順を追って理解するために分割したらそれが時間というものになっただけなんですね。元々は時間なんてありませんでしたけど、理解したい気持ちが分割するという手段を選んで、それが時間というものになったわけです。ですから本来の意識は時空を超えているわけです。意識が日常生活においても時空を超えて時空そのものを把握しているのが悟りの状態なわけです。その時に三次元の肉体としての意識が失われることはなくて、トランス状態のように意識を失うこともありませんし、日常の普通の意識と悟りの意識とが一続きで繋がっている状態なわけです。<br /> <br /> それが「本来の自分と繋がっている状態」とも表現できますけど、言葉通り読んでしまうとただ単に意識が静まってきた状態のように読めるかもしれませんが、本来はそれはヴェーダで言うところの「アートマン(自分の魂に相当するもの)」が実は「ブラフマン(この世の全て)」と同一だった、という知識のお話で、自分がアートマンだと思っていたけれども実はブラフマンで、確かにアートマンで分かれてはいるけれども宇宙意識としてはブラフマンで繋がっている、それは時空を超えていてパラレルワールドや過去や未来も全て私の意識の中にある、それが瞑想中や幽体離脱中だけでなく日常生活においてもその意識状態にいる、というのが悟りの状態なわけです。アートマンであって同時にブラフマンであるということは、アートマンとしての個の意識は存在していつつもブラフマンとしての宇宙意識も同時に存在しているわけです。どちらか片一方になるわけではないわけです。個としての意識はありつつも宇宙意識とも言える時空を超えた意識もまた同時に存在しているわけです。<br /> <br /> であれば、日常生活中にちょっと意識すれば過去や未来の行く末なんてのもすぐに分かりますし、誰かが平行世界でどんなことをしでかしたのかとか、今生での学びがどのようなものなのか、知ろうと思えばすぐに分かります。ですけどそこは紳士の誇りのようなものがあって誰それ構わず見るなんてことはしないです。悟っている状態なら見ようと思えば何でもわかってしまうわけですけど、我々は肉体を持って生きているわけですからわかったところでそれを構わず言うなんて野暮なことはしないですし、そもそも、興味がなければ見ようとも思わないことも多いです。<br /> <br /> どちらにせよ、そこには顕在意識と宇宙意識とも呼べるものが共存していて、日常生活において悟りが継続してこその悟りの状態なわけです。<br /> <br /> もっと意識が進むとアバターとも言われている状態になって、この世を自由に変換できる能力が現れます。ヒマラヤ聖者の中でも特に突出した聖者がアバターと呼ばれていますけど、アバターにまでなりますと天気なんてのは割と簡単に変えられますし物体も自由自在、いわゆる瞬間移動みたいなこともできます。宇宙意識にしてもレベルの違いがあるわけです。<br /> <br /> 単に意識で宇宙意識と繋がったのが悟りで、この世界を自由自在にできるのがアバターなわけです。<br /> アバターにしてもレベルの違いがあるようでそれすらもゴールではないようです。<br /> <br /> アバターがどのようなものなのか理解することはこのように文章で説明されれば一応は理解できるでしょうし、アバターな人はそんなにはいないですけどどこかの聖者に会えたり幽体離脱して運良くアバターを垣間見ただけでもその凄さがもっと直接的に理解できるわけですけれども、実際に自分がアバターになるのは常人には長い道のりです。まずは悟ってからですね。人生を生きる上では悟りですら十分であると言えると思います。それを言ってしまうと、単にリラックスできたり静寂の意識にいるだけでも十分と言えば十分であるわけで。もっと言えば、この世に生きているだけで十分とも言えるわけで。どのレベルを自分が目指すか、ですよね。悟りを目指すのかアバターを目指すのか。あるいはリラックスで満足するのか。悟りを知って満足なのか、それとも実際に悟りたいのか。<br /> <br /> 私の人生の元々の目的は悟りまでですけど一応は目標は高く持ってアバターとしてあります。きっとアバターには到達できないでしょうけど、それはそうでも構わないわけです。こういうのは目標だけ一応掲げて、あまり片意地を張らないのが重要です。<br /> <br /> Sat, 12 Dec 2020 00:00:00 +0900 <link>https://w-jp.net/2020/2175/</link> <description><br /> </description> <pubDate>Fri, 11 Dec 2020 00:00:00 +0900</pubDate> </item> <item> <title>精神世界の上級者はチャネリングに頼らない https://w-jp.net/2020/2174/ <br /> ヨーギにせよ神道にせよスピリチュアルにせよ、上級者はことごとくチャネリングに頼らない気が致しますね。<br /> <br /> まず神道には「審神者」というものがあって、出てきた存在が神の意識なのか動物などのいたずら物なのか見極める手順があります。ヨーギはそもそもチャネリングに否定的で「時間の無駄でしかない」とばっさり切り捨てています。<br /> <br /> スピリチュアルは色々ですけど、チャネリングを主にしている人もいれば、スピリチュアルでもチャネリングを否定している人もいらっしゃいます。これは新しい分野ですので立場は色々ですね。<br /> <br /> ですけど、上級者になればなるほどチャネリングに重きをおかない、というのは共通しているように思います。<br /> <br /> これは、我々、肉体を持って生きている人間には見えない存在の言っていることの真偽がなかなか判別しにくい、という理由もあるにはあるのですが、それよりも、本質は言うと「物事は自分で確かめるべき」というところに行き着きます。<br /> <br /> チャネリングで聞いたお話を真に受けるのですか? それは自分で腑に落ちた答えではなくてもらった答えでしょう。 例えそれが正しいとしても、それが自分の精神の成長に役に立ちますか? 役に立たない知識ならいりません、ということです。<br /> <br /> ただし、チャネリングと言っても色々で、チャネリングの基本は「誰かと話しているだけ」ということですので、相手によるわけです。<br /> <br /> 人間だって色々で、グル、師匠のような頼りになる人もいますがほとんどの人間はそうではないでしょう。<br /> グルの言葉であれば頼りにすべきですけど、グルとは言ってもグルに依存せずに自分で精神修行をするのが第一です。<br /> <br /> それと同じような位置づけで守護霊が指導してくれるのであればそれをしっかりと受け止めるべきですが、あくまでも成長するのは自分自身であるわけで。<br /> <br /> 生きている人間のグルがいるのであればそちらに頼った方が良いですが守護霊が助けてくれるのならばそれもいいとは思いますが、それはあくまでも依存ではなく、グルとしての指導になります。<br /> <br /> どちらにせよ上級者になったら自立してゆくのですから、自分で見聞きして自分の頭でしっかりと考えることが第一になります。<br /> <br /> ですから、途中で誰かに頼るとしたら相手をしっかりと見極める必要がありますし、どちらにせよ最終的には自立するのですから、チャネリングなんかに頼る必要はなくなるのです。<br /> <br /> まあ、ある程度の精神的成長がなされればチャネリングなんて簡単にできますしね。ただ、それなりに成長していない段階ではチャネリングは修行の邪魔になったりもしますから、それなりにわかってくるまではチャネリングは無視でもいいと思います。<br /> <br /> Fri, 11 Dec 2020 00:00:00 +0900 オーラのケーブルを突き刺して相手の情報を抜き取るのは泥棒と一緒で犯罪 https://w-jp.net/2020/2166/ <br /> 人のオーラはゆらゆらと揺れていて、多くの人の場合はその境界線がはっきりしていませんのでオーラ同士がぶつかると情報交換がなされます。<br /> <br /> 以前にもエーテルコードのお話で言及しましたが、オーラのエーテルが繋がると「一体」になって、お互いで情報交換がなされます。これは一方的というのはあり得なくて、情報を得る時はある程度は自分の情報が相手に伝わりますし、その人の素質それ自体がその分だけ一体化します。とは言いましても合体するわけではありませんので多少のオーラが混ざり合って一体化するだけですが、それだけでも、自分から相手に対してはオーラが奪われ、相手のオーラを自分が多少は奪ってしまう形になるわけです。<br /> <br /> 総量としては変わらなくても一体化してしまったオーラはもはや「相手」とか「自分」がなくなっておりますので、途中で千切れて自分のところに戻ってきたオーラは相手と一体化したオーラの部分であるわけです。<br /> <br /> そのように、日常生活においてオーラの交換というのは割と無意識に起こってしまっていますが、厳密に言うと、そのように相手のオーラを奪い取ることは泥棒と一緒で犯罪になります。<br /> <br /> 地球の場合はオーラが安定していない人が多くて、しかもオーラが枯渇しておりますのでオーラのケーブルが自動的に他人に伸びていってエネルギーを奪うなんてこともよく起こっています。それは意識していないだけで、他人のエネルギーを奪い取る犯罪行為です。いわゆるエネルギー・ヴァンパイアですね。<br /> <br /> スピリチュアル的に成熟した大人であれば自分のオーラはだいたい肌から6mm〜1cmくらいのところで安定しています。人混みあるいは他人と接触しないといけないときは意識的にオーラの幅を狭めて2mm前後にまでオーラを調整することで他人のオーラと混ざらないようにします。その時のオーラの質も、相手と同質化しないようなオーラの質というものがあるわけです。<br /> <br /> ですが、エネルギーヴァンパイアが触手を伸ばしてイカの手のように遠くからエーテルのケーブルを伸ばしてきた時は恐ろしくて、そんなオーラの質とは関係なしに他人にエーテルのケーブルを突き刺してエネルギーを吸い取ってゆきます。かなり早い動きですので背筋が凍るくらい恐ろしいです。飛び上がりますよ。<br /> <br /> 防御方法は一応あって、ケーブルを切ってしまうというのが基本ですね。あるいは弾き返すとか、包帯のようなオーラの布を出してぐるぐる巻きにして動きを封じ込めるとか、その人の能力と経験によって対処法はいろいろとあります。<br /> <br /> そのように他人のオーラからエネルギーを奪いたい場合もあるでしょうし、情報を抜き出したい場合もあります。どちらも犯罪です。<br /> <br /> 例外はあって、お互いに同意した場合だとか、特に家族の場合だとか、霊的に密接な繋がりがあるとか、そういう場合もありますけど、基本的には他人のオーラと混ざらないというのが基本です。<br /> <br /> 何故そのようになっているかというと、個人で学びは異なるからです。割とこれは宇宙に共通したルールだと思います。<br /> <br /> スピリチュアルな能力を開発する場合に、時にオーラを融合して相手の情報を取ったりするやり方がありますけど、このような意味合いにおいて邪道ですね。まあ、それはその流派の好きにすればいいですけど、私とかはそう思います。いくらそれで情報を入手したところで、大した学びにはならないですし、何より自分のオーラが汚れますので費用対効果が悪すぎます。<br /> <br /> Mon, 07 Dec 2020 00:00:00 +0900 <link>https://w-jp.net/2020/2165/</link> <description><br /> </description> <pubDate>Mon, 07 Dec 2020 00:00:00 +0900</pubDate> </item> <item> <title>本能寺の変で殺された後に信長はどうしたか https://w-jp.net/2020/2164/ <br /> 夢で見たお話です。本当のことかどうかはわかりません。<br /> <br /> 信長のタイムラインは生き延びたパターンもいくつかありますが、本能寺の変で殺されるパターンにおいて、信長は死後どうしたのか、これまたパターンがいくつかあります。<br /> <br /> パターン1:死後、何もせずにそのまま霊界に留まり、最初は元部下だった霊たちが沢山周囲にいたが、自分たちが既に信長に縛られていないことに気付いてどんどん離れて行ったパターン。<br /> パターン2:死後、急いで転生し直して再度、天下を狙ったパターン。この場合、今の島根県のあたりで生まれ、そのままお殿様として一生を島根の地で過ごした。ただし、既に平和な世になっており、チャンスはなく、実際に戦もしなかった。この島根のパターンと史実を比べたところ、島根県で生まれた藩主というのは徳川家康と時代が被っていなくて、史実に実在はしていない模様。松平直政は出雲国の前に他の藩主もしているので該当せず、次の松平綱隆は徳川家康と時代が被っていない。裏付けなし。<br /> <br /> 転生は魂(幽体)がそのまま転生する場合と、一旦グループソウル(類魂)と一体になってから分霊を作って転生する場合があるのでそのまま転生したかどうかは不明ですが少し落ち着いた後に中国の皇帝になって国民に虐殺されたような気もしますね。その後は、書いてあるように「国民の、庶民の気持ちを理解する必要がある」と思って庶民として、まずは江戸時代の武士に生まれてみたりしました。そのラインで現代の私まで繋がっていますが、その間にもグループソウルとの合流もありますので完全に一致しているわけではありません。<br /> <br /> Sun, 06 Dec 2020 00:00:00 +0900 使い捨てにされるチャネラーや霊能者たち https://w-jp.net/2020/2163/ <br /> 思うに、神様はチャネラーや霊能者を、言葉は悪いですけど使い捨てにしているように思われます。<br /> 最初、目をつけた人がいたとしたらコンタクトをしてメッセージを伝えます。<br /> <br /> そのうち、その人が得意気になって神の言葉を偽るようになると神は離れてゆきます。<br /> <br /> だいたい、この繰り返しです。私の見た範囲ではそんな感じです。<br /> <br /> 神の言葉を聞けなくなると、今度は自分の頭の中で想像の神の言葉を作り出します。<br /> 新興宗教にありがちですね。最初は良くてもそのうち教祖様になってしまうわけです。<br /> <br /> 「神の言葉です」と言われたら周囲の人はそうそう反論できませんから、ほとんどの人はその真偽を確かめることなしに受け入れざるを得ません。そうするうちに、大人しく従う人だけが集うことになるのです。<br /> <br /> その姿は、本来神が望む姿とはかけ離れています。<br /> <br /> 神道であれば審神者というものがありますし、ヨーガですとそもそもチャネリングを良いものとはしておらず、チャネリングに否定的な流派がヨーガでは主流です。そのような力を持った神々との接触は悟りへの妨げになる、というのがヨーガの基本的な立場です。<br /> <br /> この世には力を持った霊や人間が沢山いて、神のごとき力を持っている人もいます。しかし、最終的な悟りという観点からすると、最高の悟りに達したのであれば力からは開放されています。誤解があるかもしれませんが、最終的な悟りを開いたならばこの世の理から開放されるので、強いも弱いも関係のない世界へと到達するということです。<br /> <br /> 幽霊とか悪霊とか天狗とか神話に出てくるような人格神の力というのはいわゆるアストラルな思いの力によるものです。しかしながら、悟りを開いた人はその次のコーザル(カーラナ、原因)の世界に住むようになりますのでアストラルを超越しています。<br /> <br /> いわゆる人格神としての霊能力はファンタジーに出てくるような魔法の世界で、思いの力を蓄えたり奪ったり利用したりして超常的な力を作り出します。それはそれで凄い能力ではあるのですが、その世界に関わっていると悟りに到達しないのです。<br /> <br /> よく、覚醒という言葉がありますけど、人によってその意味するところは違いますけどアストラル的な能力の覚醒という意味と悟りという意味での覚醒とがあると思います。アストラル的な覚醒であればまだ感情の世界であり、悟りとしての覚醒であればコーザル的なものになります。<br /> <br /> 悟りという言葉も流派によっていろいろですのでアストラル的な悟りの場合もありますけど、言葉の定義というよりは、魔法的なものであればアストラル、魔法や感情を超えた世界であればコーザルですね。コーザルのほうが悟りというのに相応しいと思います。<br /> <br /> どこかの本に書いてありましたが古代のミラレパという聖者はコーザルの悟りを得ており、周囲にいる一般の修行者はアストラルの悟りでしたのでその能力にも違いがあり、例えばアストラルの悟りを得た一般の修行者は空中浮遊で数メートルあるいは数十メートル浮上することができたのに対し、コーザルの悟りを得たミラレパは山の頂上まであっという間に登ることができた、という違いがあるそうです。アストラルの段階では能力にも限界がありますが、コーザルに至るともはやこの世界と一体になったかのような偉大な能力を得るようです。<br /> <br /> アストラルの段階では善と悪があり対立がありますが、コーザルに至ると善悪を超える、という面もあります。<br /> <br /> チャネラーや霊能者は、往々にしてこのアストラル的な覚醒をして神の言葉を受け取るようになります。自らが神の代理人かのように振る舞ったりするわけですけど、そうこうしてうるちに神様の意図をうまく伝えなくなって、そして神様に捨てられてしまうわけです。<br /> <br /> まあ、それも全ては学びなのでしょうね。<br /> <br /> だいたい、ちやほやされて3年持てばそこそこですけど、7年や10年もすればかなりの確率で神様に見放されて過去の栄光で生きるようになる気がします。<br /> <br /> その頃には神様も新しい手足を見つけてそちらと仲良くやっていると思います。<br /> <br /> チャネラーや霊能者は、使い捨てにされると最初から覚悟しておいた方がいいと私なんかは思います。<br /> <br /> 私はそうではない! と思う方もいらっしゃると思いますし、そうではない方も、もちろんいらっしゃると思います。しかしながら、指導霊や神様との付き合いも人間の付き合いと一緒で、ふてぶてしい人や傲慢な人とは付き合いたくないでしょう? それと一緒ですよ。神様が離れたくなるような生活をしていたらさっさと離れてしまいます。<br /> <br /> 離れないまでも、神様は時空を超えることができますので「早送り」をしてその人の一生をざーっと見て終わりにしてしまうかもしれません。一生の守護を約束したからと言って、必ずしも詳細に毎日付き添ってくれるとは限らないということです。ただしこれは神様のレベルによって、時空を超えられない神様っぽい人、天狗とかそのくらいのレベルですと否応なしに付き合うでしょうし、時空を超えられる神様、天使などは割と大雑把に概観しているような気が致します。<br /> <br /> 神様や天狗、天使は割と気まぐれで、お気に入りのチャネラー、霊能者がいるとそこでしばらく遊びますけど、そのうちどっかに行ってしまいます。その人に一生付き従う守護霊はもちろんいますけど、その場合、守護霊だけになると多様な神様が入れ替わりに来るという感じではなくなりますよね。最初は面白がって多くの神様が来ていたチャネラーのところでも、チャネラーが得意気になったりして教祖と化してくると離れてゆき、守護霊だけが残ります。それでも守護霊からメッセージが来たりしますけど、守護霊にしても天狗だったり龍だったりいろいろですよね。<br /> <br /> まあ、そのように、最初は面白がって多くの神様が出入りしているところでも、やがて神様は来なくなって守護霊だけが一生付き従って見守る、というパターンが多い気が致しますね。<br /> <br /> これは個人的な感想ですので、特定の誰かをどうこう言っているわけではありません。<br /> <br /> 個人的に思うのは、チャネリングとか霊媒としての霊能の技能によってメッセージを受ける段階と、自分自身の頭・・・ というと語弊がありますが、自分自身のスピリットが主体的に動いて自分で肉体を動かすなり幽体離脱をするなりして調査することで自分でしっかりとものを見て結論を出す場合とではかなり段階に違いがあるように思いますね。<br /> <br /> 1.肉体の頭が主体となっていてスピリットと繋がっていない段階<br /> 2.肉体の頭と自分のスピリットが繋がり始めた段階。<br /> 3.自分のスピリットが主体になった段階<br /> <br /> これらの段階のうち、どの段階でもチャネリングや霊媒というのは可能です。<br /> <br /> 1+チャネリング → ただのチャネラー<br /> 2+チャネリング → 教祖様<br /> 3+チャネリング → マスター<br /> <br /> 表現としてはいろいろとあるとは思いますけど、3番目の段階に至っていなければ教祖様として生きて終わりです。そして、3番目の段階に至るためには一般的には修行が必要になるわけで、それは必ずしもチャネリングとは関係しないわけで、むしろチャネリングは邪魔になったりもします。<br /> <br /> 1や2の段階で神様に目をつけられてチャネリングや霊媒あるいは教祖様になって、やがて神様に飽きられて守護霊だけが残る、というパターンが多い気が致します。神様は気まぐれですからね。興味がなくなったら割とすぐどっかに行ってしまいます。そして、残されるのは教祖様というわけです。<br /> <br /> Sun, 06 Dec 2020 00:00:00 +0900 光の剣をもらったお話 https://w-jp.net/2020/2160/ <br /> 最近、瞑想をしていたら空から剣のようなものを持ったスピリットが降りてきて受け取りました。それはスターウォーズのライトセイバーのように光っていたのですが形としては日本刀のような感じで、鞘はなかったような気がします。そのような日本刀っぽい光の剣をもらったのです。<br /> <br /> ん〜。あまりにもアニメっぽいので、ただの想像かなぁ・・・??? という気もしたのですけど、とりあえず「まあいいや。もらえるならもらっとこ」と思って受け取って、腰の横にかけました。鞘はあるのかどうかよくわからないですが刃が触れても体が切れるわけではなさそうです。<br /> <br /> 試しにそれを振ってみると、剣のように一方向だけに刃がある感じではなく、実際のところ、刃のある方向はよくわからなくて、どちらの方向でも切れる感じが漠然としました。 とは言いましてもきちんと刃があって刀のようにしなっている気もしますし。伸び縮みもする感じで、ちょっとゆらゆらと動いている気がしますね。切ろうとする方向に動かせばそちらに切れる感じです。<br /> <br /> とりあえず、腰に置いておくことにしましたが、ちょっと収まりがよくないのでどこにしまおうかなと思っていたら、口から入れて喉に入れておくと良いよ、と言われました。まじですか。それって漫画「ナルト」で大蛇丸が持っていた草薙の剣みたいな感じなんですけど。単に記憶が蘇って想像しているだけなのかな? とも思いましたがイメージは生々しいです。教えてくれたスピリットの顔は、どこか大蛇っぽいです。単に大蛇丸の顔を真似して遊んでいるだけかもしれないですけど。<br /> <br /> その後、お仕事で何か理屈に合わないことを言ってくる初対面の人がいて、なんだろ? と思っていたらその後、生き霊の不満のある弱い恨みの念を送ってきたので「お。ちょうどいいや。頃合いの敵が来たので試そう」と思ってお昼休みに瞑想をして、その剣を取り出して私の座っている前、1mくらいにある生き霊をめった切りにしてみたら急に生き霊がバラバラになって念が減ってゆきました。効果抜群のようです。切れまくります。まあ、雑魚といえば雑魚ですが・・・。<br /> <br /> そのバラバラになった生き霊はちょっとした怨念ですので消滅させようとも思ったのですが、それよりも、既にエネルギーの状態になっていて意思はなくなっているようなので普通にヴィシュッダで吸い込むことで浄化というかエネルギーを吸収してしまいました。<br /> <br /> 意外に、そんな他人の怨念の生き霊であったとしても剣でバラバラにした後ならばエネルギーとして吸収できるのですね。単に跳ね返したり防御したりするだけでなく、光の剣を手にしたことによりバラバラにしてエネルギーとして吸収する、という選択肢が増えた感じです。<br /> <br /> とは言いましてもあまり変なエネルギーを吸い込むと消化不良起こしそうですけど。そんな気がしますから、ほどほどにしたいと思います。<br /> 恨まれるのはちょっと面倒ですしね、そもそも恨まれないのが一番です。<br /> <br /> ・・・後日、もう少し試していたら刃こぼれっぽい感じになっていました。どうやら、最初はそれほど強くなくて、自分のオーラで強化しないといけない感じですね。まだ生まれたてであまり強くないみたいです。<br /> <br /> ・・・更に後日、この剣の別の使い方がわかってきました。基本的にこの剣は自分のオーラと対象とを接触させないために用います。目的としては大きく2つあって、相手を浄化する場合と切りつけて懲らしめる場合とがあります。相手を浄化する場合は、剣に天のエネルギーを降ろして剣をエネルギーで満たしてから剣だけを相手に近づけ、剣のエネルギーを相手に与えて浄化します。懲らしめる場合は普通に刃先を鋭くして斬りつけます。斬りつけるとそこで分割されることもありますので個別に浄化するという手もあります。<br /> <br /> この、相手を浄化する方法はかなり有用で、自分のエネルギーを天のエネルギーを光の剣まで降ろすことだけに用いて後は天のエネルギーをそのまま直接あるいは剣を経由して相手に与えるわけです。こうすることで自分のオーラを汚さずに済みます。剣は伸び縮みや切り離しもできるので相手と融合したエネルギーの部分はその部分ごと切り離して相手に与えてしまえばよいわけです。剣の長さはいくらでも元通りになりますし、問題ないわけです。あるいは、光の剣は天のエネルギーを操作することだけに用いて天のエネルギーを直接相手に繋いでも良いです。<br /> <br /> エネルギーを与える使い方をする場合は、剣というよりもハンマーかあるいはシャベルあるいは柄杓のような形になりますね。これはイメージとも関連しているように思います。使い勝手の良い、イメージしやすい形に変わるわけです。剣といえば剣ですけど用途別に姿は変えられるわけです。<br /> <br /> ・・・そして、その後、ふとしたときに繁華街の裏路地で弱い邪気をいくつか感じたので試しにそれぞれを光の剣で切ってみましたが、瞬間的に浄化されますね。これは効果があります。霊視はできないので盲目の剣士みたいに気配だけで切っていますけど、それだけでも意外にいけるようです。見えずになんとなく切っているので時々「危ない」と言われますけど。そんなにぶんぶん振り回さない方がいいみたいです。<br /> <br /> Tue, 01 Dec 2020 00:00:00 +0900 特殊なマントを被って霊能力なしに生まれてくる https://w-jp.net/2020/2159/ <br /> 以前に何回か魑魅魍魎のお話や松果体や霊界の特殊な修行法のところでマントのお話をしましたけど、私の場合、生まれる前に霊界のとあるおじいさんっぽい世話人さんのお勧めでこのマントを被って生まれることにしました。<br /> <br /> 基本的にはそのマントは霊能力を制限する機能があって、それに加えて、他からの霊的な影響を防御する機能も備わっています。とは言いましても自分の霊的能力を制限することが主目的で、霊的能力なしに生まれて修行したい人がこれを使うわけです。<br /> <br /> 前にも書いたかと思いますけど、そのおじいさんが言うには「最近は、これを使う人が少なくなってねえ」と、ちょっと淋しげでした。<br /> <br /> 前世までは魑魅魍魎が見えまくって、それ故に魑魅魍魎がいるとメンタルが揺らぐことが多かったように思います。まあ、しょうがないことと言えばそうなのですけど。魑魅魍魎ですし。<br /> <br /> このマントを紹介された時、そう言えば次のように思ったものでした。<br /> <br /> 「え! 見えなかったら、変な魑魅魍魎がいるところに突っ込んじゃうよ。大丈夫なのかな?」<br /> <br /> そう聞くと「このマントは防御の機能も備えていて、肉体があるのでそれほど影響はされない。」と回答があったのですが、確かに、霊体のまま他の霊体に突っ込んでしまうと邪念や悪霊の気が移ってきてしまって大変ですが、肉体があるとそこまでではありません。・・・・とは言いましても、多少は影響します。霊体のままに比べると影響が少ないというだけで、霊視できない状態だとめちゃくちゃ悪霊にぶつかりまくる、というのが実感です。<br /> <br /> ちょっと試して、「これ、ほんとに大丈夫なのかなあ・・・」と思ったことを覚えています。邪気とか悪魔のたまり場とかに突っ込んでしまいます。<br /> <br /> そして、前にも書いたように思いますが、これってどうなのだろうと思って実際に使っている人の人生を覗き込んでみました。例えばお坊さんになった人が、本来は霊格がそれなりにあって霊視ができてもおかしくはないのですがマントを被っているが故に霊視など霊的能力が現れず、お師匠さんに「まだ何も見えぬのか。まだまだだな・・・」と言われて、そのお坊さんは「はい・・・」と言うしかないような状況でした。それでも修行を続けることで、霊的能力ではない部分の修行に集中するとのことでした。お寺の中でのステージは上がらない感じでしたが、それでも、その本人の修行にはなっていたようです。<br /> <br /> このマントは、被るとぐるりと自分の周囲に自動的に回り込んでロックされるような魔法がかかっています。それを解除するために呪文が必要です。<br /> <br /> 試しにマントを被ってマントラを唱えてみましたら、魔法が解けて元通りのただのマントに戻りました。何度もつけ外しができるようでしたが、度々外していたら修行にならないので、マントラの控えを後頭部の後ろに結びつけて幽体離脱あるいは死んだ後に見れるようにすることと、もう1つは守護霊に持っていてもらうことにしました。<br /> <br /> 基本的には死ぬまでこのままマント付きでの生活ですけど、どうやら、長年使っていたらところどころ破けてきた感じではあるのですよね・・・。<br /> <br /> 霊能力者が意識的に破こうと思えば破ける代物ですけど、ひとまずその必要は感じていません。まあ、今のままでもいいかな、とも思いますし、もし追加で使命がもらえて必要になったらマントラを唱えて解除すればいいかな、という感じです。そのあたりは私のスピリットが判断する感じですね。<br /> <br /> まあ、視界があれば視界で邪気をあらかじめ避けますけど、今は見えないが故に、近くまで行ってようやく邪気を感じて避ける、という感じですので、ある程度は邪気に近づいてしまいますね。もっと感度が上がれば近づかなくてもいいのかもしれないですけど、町中ですと急に何かが近づいてきたりしますからね。方向もよくわからなかったりしますし。見えないというのはなかなか大変です。<br /> <br /> 普通の人は、よくこんな世界で生活していますね・・・。<br /> <br /> 邪気と悪霊がうようよしているのにそれに気が付かずに生活しているのは、どこかの漫画で言っていたように「極寒の地で全裸で凍えながらなぜつらいのか分かっていないようなもの」という例えが合っているような気が致します。<br /> <br /> まあ、マントを被ったとしても主に制限されるのは霊視能力で他の能力はそれなりにありますから、霊視制限特化のマントとも言えるかもしれないですね。<br /> <br /> 魑魅魍魎がいるところに気付かず突っ込んでもその影響を受けないようになるまで自分を鍛える、というのはある意味スパルタ教育な気もします。自分で言うのもなんですけど。<br /> <br /> Tue, 01 Dec 2020 00:00:00 +0900 ヨーガ経歴(2020年12月版) https://w-jp.net/2020/1790/ <br /> <br /> ・2015年1月 インドのアシュラムで生まれて初めてのヨガ 2週間 合宿。その後しばらくブランク。<br /> ・2016年10月 日本の近所でヨガ再開。1週間ごと1回90分<br /> ・2017年8月 ヨガの頻度を上げ、ほぼ毎日90分<br /> ・2017年10月 雑念が減ってくる。ようやくヨガをしている感じになってくる。ヘッドスタンドが短時間だがようやくできるようになる。<br /> ・2017年11月 ナーダ音が聞こえ始める。ヨガをほぼ毎日し始めてから約3ヶ月後。ナーダ音が聞こえ始める1週間前から「無」を経験して寛ぐことができるようになりましたが、わずか1週間で「無」はナーダ音に置き換わりました(詳しい経緯はこちら)。<br /> ・2018年1月 第1回目のクンダリーニ体験。ムーラダーラの電気ショックと眉間の皮膚から数センチ離れた空中(アジナ・チャクラ?)でのエネルギーの爆発。ほんの少しのエネルギー。<br /> ・2018年1月 身体中がオームに包まれる経験(第1回目クンダリーニ体験の約10日後)。<br /> ・2018年2月 ヨガのアサナは元々苦手だったが、ようやく人並みにできるようになる。<br /> ・2018年2月 雑念の減るスピードが上がる。20分の瞑想があっという間に感じられるようになる。<br /> ・2018年2月 日常生活でクンバカ(息止め)が自然に起こるようになる。いわゆるケヴァラ・クンバカ(Kevala Kumbhaka)。<br /> ・2018年3月 ヨガのアサナの1つであるフルブリッジ(チャクラ アサナ、車輪のポーズ)ができるようになる。<br /> ・2018年5月 鼻の詰まりが数十年ぶりに解消された。鼻呼吸が可能になった。プラナヤーマが楽になった。<br /> ・2018年6月 植物や昆虫を傷つけるとハートが痛むようになる。<br /> ・2018年8月 ゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想合宿を経験。宗教でした。<br /> ・2018年11月 イダとピンガラの目覚め(第2回目のクンダリーニ体験)。マニプラ優勢になる。クンダリーニ本体はまだ上がっていない雰囲気。2つの光の筋が上がっただけ。仙骨か尾骨のあたりに熱を帯びて血液が激しく脈打つ。かなりポジティブになる。性欲がかなり解消されて自然な(努力のいらない)ブラフマチャリア(禁欲)の達成(性欲10分の1)。睡眠時間の短縮。声が出しやすくなる。呼吸が浅くなる。ケヴァラ・クンバカが起きなくなる。<br /> ・2019年4月後半から約1ヶ月間、お風呂場での頭からの冷たい水掛けがマイブーム。<br /> ・2019年5月 眠りの質の変化。明確な意識はまだないが多少は意識が刺激された状態のまま眠る感じに変化。<br /> ・2019年5月後半、時々音楽っぽいナーダ音が聞こえるようになる。<br /> ・2019年6月 右足首を骨折して1週間ほど入院。これから約3ヶ月は松葉杖生活。<br /> ・2019年7月 第3回目のクンダリーニ経験。アナハタ優勢になる。(五大要素の)「風(Air)」のエネルギーによる竜巻が腰から頭まで上昇。光の筋はなし。竜巻は頭の周囲で発散(頭上および前後左右に発散)。うなじの下(大椎?)に少しの熱を帯びて血液が脈打つ。ハートがジンジン。第2回目ほどの変化はなし。性欲が更に10分の1 (第2回目クンダリーニ以前と比べると100分の1) 。 悪口の根絶が起こる。骨折による痛みが常にあるので、強制的にヴィパッサナー瞑想しているような感覚。<br /> ・2019年9月 ムーラダーラの活性化。 足の気力が少し増加。足の感覚が少し敏感になる。手の感覚も足ほどではないが少し敏感になる。「におい」に敏感になる。「におい」だけで「味」も感じるようになる。淀んだ空気(の匂い?)が苦手になる。いわゆるグラウンディングの力が若干上昇。他人の淀んだオーラによる自分への悪影響が低下し、自立力が高まる。優勢なのは依然としてアナハタ。<br /> ・2019年11月 古代の唱え方でのオームとチベットのマントラを唱え始める。<br /> ・2019年12月 オーラのエネルギーがアジナ優勢に変化。<br /> ・2019年12月 日常生活上でのヴィパッサナー状態の開始。<br /> ・2020年2月 日常が映画になる。<br /> ・2020年7月 意識の平穏が何段階かに分かれて瞑想中に現れるようになる。<br /> ・2020年9月 頭の愚鈍な意識(タマス)がヴィシュッダ(喉)に吸い込まれることで静寂の境地に至る。<br /> ・2020年12月 サハスララとムーラダーラの陰陽エネルギーのバランスが整う。鼻頭に意識を合わせて呼吸するだけでエネルギーが頭まで上がるようになる。<br /> ・2020年12月 胸の奥に神意識あるいは宇宙意識とも言うべき「創造・破壊・維持の公の意識」が現れ、最初は恐怖を感じたが受け入れた。個から公への転換。最初は胸の部分だけだったが、やがてその意識は体中に広がった。公の意識に変わったことにより、ようやく瞑想初心者を卒業したような感覚になる。今までしてきたことは全て個としての体験で、個の意識であるうちは初心者だった。これからは公の意識として生きます。<br /> <br /> <br /> Tue, 01 Dec 2020 00:00:00 +0900 イギリスでスパルタのスピリチュアル教育をした記憶 https://w-jp.net/2020/2158/ <br /> 夢や瞑想で見たお話ですので本当のことかはわかりません。<br /> <br /> 私のグループソウル(類魂)の記憶を辿ると、中世のイギリスで、とある広い敷地の館でスピリチュアル講師をしていた魂の片割れがいました。いわゆる魔女で、女性として生きていました。霊視や未来予知などができるよくある魔女でしたが、とある弟子を取って、修行させていました。<br /> <br /> その弟子はたしか貴族の若者で、スピリチュアルなことに興味があって、能力開発をしたいということだったかと思います。<br /> <br /> 最初は瞑想をさせて、邪念を捨てさせることから始めました。<br /> 暗闇の中でろうそくを眺めさせたり、誘導瞑想をしたりして心の闇を取り除いていきました。<br /> 次第に精神はクリアになり、弟子はその度に喜んだものでした。<br /> このような晴れやかな気持ちに達したことはない、素晴らしい、嬉しい気持ちだ、と言われたことを覚えています。<br /> <br /> 何年か、5年か8年くらい長く修行したでしょうか。それでようやく、晴れやかな気持ちに達したのです。普通に人生を健康的に過ごすにはそれで十分で、その方はそれでも良かったかもしれません。<br /> <br /> 私は未来が見れましたので、その弟子がその人生で、自身が面倒を見れる間に達することができる境地のゴールが見て取れました。かなり精神的には健康的にはなりますが、霊視までにはたどり着かないようです。私は最初からなんとなくは分かっておりましたが、最初から言ってしまうと修行を辞めてしまうこともわかっておりましたので言わずにいたのですが、修行するにつれてその結果が確定に近づいてゆきました。これ以上、このまま続けたら予定通りの結果にしかならない・・・。<br /> <br /> そこで、ある程度の晴れやかな境地に達した段階で私は提案をしました。<br /> 「私は未来が見れるから、貴方の今生で行き着く境地がわかります。残念ながら、今のままでは霊視にまでは到達しません」<br /> それは最初からわかっていたのですが、最初から言ってしまうとやる気をそいでしまうために言わなかったのでした。<br /> <br /> 更に次のように言いました。<br /> 「もし、今生で2つの人生分の修行をしたいなら、厳しくしなくてはならない・・・」<br /> このことを、何度かの修行で度々繰り返したように思います。<br /> しかしながら、実際に行うまで、その意味を弟子はきちんと理解していなかったように思います。<br /> <br /> 度々、同じことを伝えます。<br /> <br /> 「このまま続けても良いですが、もし、貴方が厳しい修行を望むなら、そうしても構わない。だが、それは私も辛いし、何より、貴方も辛い思いをします。私は貴方にそのような辛い思いをしてほしくはないけれど、厳しくしなければ、貴方の今生では修行は完成しません・・・」<br /> <br /> そのような説明を繰り返し、やがて、その意味を汲み取ったのか、小さく「はい」と答えるようになりました。<br /> <br /> その覚悟のなさを見て、私は「それは本当? 厳しいというのは、言葉遣いも辛いものになるのよ。貴方に命令をして、ここがだめ、そこがだめ、なっていない、こうしなさい、と、とても強い厳しい言葉で言わなくてはならない。そうしなければ1つの人生で2つの人生分の修行なんてできやしないわ・・・。これは、貴方自身が決めること。貴方がやると決めたのならば、私はそれに応じてあげる。 でも、このまま続けたとしてもそれなりの境地に達するでしょう。しかし、来世も私が面倒を見れるかどうかはわかりません。貴方も修行ができるかどうかはわからない。私はできれば今生で達成させてあげたいわ。」<br /> <br /> そして、それを休憩時間に紅茶を飲みながら度々説明したのでした。時には、その厳しい言葉遣いをやんわりと真似したりしました。<br /> その時、弟子の顔に厳しい顔が浮かんだのを覚えています。<br /> <br /> やがて、何ヶ月か後でしたか。覚悟は足りないと思われるものの「決めました。修行させてください」と言ってきました。<br /> それを見て、「わかった。今日はほんの少しだけ試しましょう」と言ったのです。<br /> そして、半分は普通の優しいリラックスの誘導瞑想やその他の儀式を。もう半分は、厳しい修行を行いました。<br /> <br /> 今でも受け継がれている、イギリスのスパルタ式スピリチュアル訓練はおそらくこのあたりにルーツがあるように思います。<br /> <br /> 私はまず、自分のエネルギー(オーラ)を弟子の主に下半身から満たして意識を高揚させました。<br /> それだけで弟子はそれなりに満足しましたが、それはまだまだ入り口に過ぎません。<br /> <br /> 弟子は、師匠のエネルギーを受けて満たされただけで多少は満足してしまうものです。しかし、それだけでは全然足りないのです。<br /> <br /> その状態で霊視をして、エネルギーが通っていないところを指摘します。「エネルギーがお腹に満ちていない! 集中しなさい! オーラが揺れています。オーラを安定させる!」など、細かく状態を次々に指定し、指摘したことができないと「できていない! ◯◯すること!!」と何度も強く言い、できるまで何度も言い続けたりしました。それでできることもあればできないこともありましたが、構わず指摘し続けたのです。<br /> <br /> 弟子は、師匠のエネルギーに満たされて彷彿と満足感を感じつつも厳しい言葉で自分の至らなさを認識するのです。<br /> <br /> というのも、弟子は受け取ったエネルギーをうまく使うことができないのでオーラはとても揺れていますし、その分、エネルギーが漏れて行ってしまっているのです。エネルギーの満足だけで終わりがちですが、しっかりとした師匠はそんな甘い弟子の態度を許しません。<br /> <br /> エネルギーが体のどこに通っていてどこに通っていないのかを見極めるのは重要で、自分で分からなければ指摘してもらう方がいいのですが、指摘できる人はあまりいないように思います。体にエネルギーが通っていない部分があればそこに意識を合わせてエネルギー(オーラ)を通わせることとオーラの安定を基本に教え、実践させました。<br /> <br /> 弟子はオーラの安定もなかなかできませんし、エネルギーを下から上に上げることもなかなかできませんが、普通にリラックスして瞑想するよりはそのようにスパルタ式で指摘し続ける方が実際のところ成長は早いのです。ですけど、弟子はそれに我慢して頑張ってはいるものの、どこか涙が出てきてしまい、その涙を見て私ももらい泣きしてしまいそうになります。ですが、弟子が涙をこらえながら頑張っているのに先生の私が泣く理由にもいかず、涙を浮かべてこらえながら指導したのを覚えています。<br /> <br /> やがて、何年かしてもまだ霊視ができない弟子は、度々諦めることもありました。約束の授業の時間になっても何週間も無連絡で欠席し、落第かと思われたこともありました。<br /> <br /> そのような時は、手紙を書いて、貴方ならできるから、頑張って訓練しに来なさい、という思いを伝えたものでした。<br /> <br /> そのような挫折を繰り返し、精神的にも強くなり、エネルギーの安定度も上昇具合も良くなってきました。<br /> <br /> それは少しづつの進歩でしたが、エネルギーがお腹のあたりから胸のあたり、そこから喉のあたりへと少しづつ上がって行くにつれて、現在のエネルギーの状態はこうなっている、もう少し頑張るのよ! ということを伝えながら一緒に修行したことを覚えています。<br /> <br /> 胸のあたりにまでエネルギーが上がったことで一旦は修行の峠を超えたように思います。それからでも厳しいことを言ったりもしましたが、その度に、「厳しいことを言っているように思うかもしれないけど、最初の頃の下半身でエネルギーが止まっていた時に比べればかなり良くなっているのよ。それは自分でもわかるでしょう。だから諦めずに、途中で辞めることなどせずに、修行を完成させなさい。」と言って励ましたりもしました。<br /> <br /> ただ、胸から喉に上げるのがこれまた一苦労で、なかなかエネルギーが上昇して行きませんでした。<br /> <br /> そこでまた、挫折しかけました。しかし、弟子は細かな成長までは気付いていなかったようですが、かなり進歩してきていること及び現在の状況をきちんと伝えることで挫折の危機を再度切り抜けました。あと少し、あと少し・・・。<br /> <br /> 時々、弟子の状態を見ると急にオーラが前回のレッスンより安定している時があって、途中で少し戻るときもあれば不安定の時もあって、それでも、時には斬新的に成長してゆくように思います。<br /> <br /> そうして、10年か15年か、もしかしたら20年くらい修行に付き合ったでしょうか。<br /> <br /> 最後にエネルギーが眉間にまで上がり、上がってもまだ霊視が始まらない、という状態に至りました。そのような最終段階のレッスンを何度か続けた後、ついに眉間が光のエネルギーで満たされ、その祝福すべきとある日、ついに霊視が可能になったのです。<br /> <br /> 「見えます。周りにある、精霊や天使のようなものが私に見えます・・・」<br /> <br /> その声は震え、その目には涙が浮かんでいました。<br /> <br /> それを聞いて、私も、ついにやり遂げたと歓喜して抱き合ったことを覚えています。<br /> 「よくやりました・・・。貴方は私の誇れる弟子です・・・。貴方は成し遂げました。」<br /> <br /> 辛い修行に耐え、2つの人生の修行を1つの人生で成し遂げた弟子が、ここにいたのでした。<br /> <br /> ・・・その後は、次のように伝えました。<br /> <br /> 「これから、何回かはまたレッスンしに来なさい。でも、基本的にはこれからは自分でできることです。霊視で自分のオーラを見て、不安定なところを確認しなさい。そうして、エネルギーを高めて安定させることが大事です。あと何回かレッスンをして、大丈夫だと思ったらもう来なくて大丈夫です。もちろん、何か相談があればその時は来てください。」<br /> <br /> こうして、弟子が独り立ちしたのでした。私は、満足して、その後、寿命を迎えたように思います。広い敷地の古い館で、魔女の生涯が終わったのでした。<br /> <br /> この弟子は、その後、私が行ったことと同様なスパルタ式のスピリチュアル教育を大勢に対して行ったように思います。<br /> <br /> 本来、ゆっくりとした道と性急な道があって、人によっても性質によっても使命によってもその道は異なりますし選べるものなのですが、私の弟子には性急な道しか教えなかったものですから、イギリス方面でその伝統が続いてしまっているようですね・・・。<br /> <br /> それが良かったのか悪かったのか・・・。今でもイギリスではその伝統が続いているように思います。<br /> <br /> Mon, 30 Nov 2020 00:00:00 +0900 使命として参加するか打診されたお話 https://w-jp.net/2020/2157/ <br /> 現在のところ何も動きはない気もしますが、首都圏イヤシロチ計画の次の段階として、日本をイヤシロチ(神の空間)にする計画があるようです。まじですか。<br /> <br /> 具体的には、全国の社寺を復興させて管理および施設を一新し、人々が祈りを上げたり瞑想など近所の人が日頃から簡単な修行ができる場所を全国各地に作ろう、という計画のようです。<br /> <br /> 神社の形式を基本にしつつも、お寺のように人々が集まれるような場所を作りたいとのことです。ただしお墓は全く関係がない、とのことです。葬式としての仏教ではなく、場としての社寺、特に現在お寺としてある場所の延長線上に、お墓とは切り離された、人々が集って祈りを上げたり瞑想などの日常的な修行ができる場所を全国に作ることで日本全土を祈りのある神を祀る神社のような列島に変えたい、という壮大な計画のようです。<br /> <br /> 更に言うと、目標としては5500の社寺を復興させるとのことです。ちょっと大きすぎて意味不明ですが・・・。<br /> <br /> 誰がやるのでしょう・・・? 首都圏イヤシロチ計画にしてもそんなに進んでいる気もしないですが、その計画というよりコロナで経済活動が不活性になってきたことで自然に浄化されている気も致します。その上、更に日本全土の社寺復興計画ですか。ちょっと話が飛びすぎているような・・・。やるにしても死ぬまで5500は達成できず、とりあえず「大きな数」というくらいのようです。「沢山、できる限り」という意味を込めて5500だそうで、数にきっちりとした意味はないようです。<br /> <br /> そうは言っても、やるとなれば人・物・金のいずれも私には足りないですし、どうなんでしょうかね。やるとなればどんどん動いてゆくのでしょうが。とりあえず今は何もできない気がしますけど。<br /> <br /> 回答としては、社寺を実際に使う周辺にお住まいの人々が半分くらいは行動する、と言っていますね。運動はあくまでもきっかけになりさえすれば良い、ということで計画が進んでいるようです。<br /> <br /> 道路建築で地方にお金をばらまく政策から、社寺を作ってその周辺に観光客や修行の人を呼び込むことで経済を回す、という大きな変革が期待されているようです。<br /> <br /> Mon, 30 Nov 2020 00:00:00 +0900 明け方にやってきたミュージシャンの魂 https://w-jp.net/2020/2155/ <br /> 生きているのかどうかはわかりませんが、売れないミュージシャンの魂が明け方に初めて私のところにやってきて、チラシなのかホームページの画面を私に見せて「買ってくれ、買ってくれ、買ってくれ」と、とてつもなく冷たいオーラと共にやってきました。<br /> <br /> そのトップページにはCDが4つくらいとグッズが幾つか売られているのですが、古典芸能の、雰囲気としては喜多郎? っぽい感じですけど、おそらく本人ではないとは思いますけど。<br /> <br /> とてつもなく冷たいオーラで、冷たいという表現が正しいかどうかは微妙なところで、氷のような冷たさではなくて、まるで風邪にかかったときのような寒気のする冷たさです。重い感じもありましたけど、悪魔のような黒さではなく、風邪の寒気で生気を取られて少し金縛り気味にもなりました。<br /> <br /> CD等が売れなくて、お金に困って困ってもうどうしようもない... という感じが伝わってきました。 コロナの影響を受けている方の生き霊さんでしょうか?<br /> <br /> どうしたものかなあ... 消滅させるのは可愛そうだしそこまで悪気があるわけではなさそうだなあ、とりあえず押し返して体から離れてもらおうかな・・・ と思って少し前方向に押し返してみると離れて、その魂はどこかに行ってしまいました。<br /> <br /> なんで私のところにやってきたのでしょうかね。たまたまですかね。見たことのない作品でしたから、私に縁があるというわけではなさそうですし。<br /> <br /> そこらへんを適当に彷徨っていて買ってくれる人を探しているのでしょうかね。でも、イメージで見せられてもどこで買えばいいのか分からなければ買いようがありませんけど。<br /> <br /> あまりにも買ってくれ、買ってくれ、と風邪のような冷気を出しながらせがむのですからじっくりとCDを見て「どうかなあ・・・」と思っていたのですが、「うーん、よくわからない。いらないかな・・・」と思ったら向こうが諦めかけて、その後、魂を前方向に少し押したり光の剣っぽいもので前方向を少し切る感じにしてみたら私の体から離れてどこかに行ってしまった感じです。<br /> <br /> 死後に単に念だけが残って誰かに買ってもらいたかっただけなのでしょうかね? それとも生きていて本当に困っているのか? それは結局よくわかりませんでしたが、初めてのお客さんでしたので、まあ、きっとまた会うことはない気もします。どうでしょうね。<br /> <br /> <br /> [当日、夜に追記]<br /> <br /> どうやら、今朝の出来事は私の守護霊が私を鍛えるために悪い霊を近くから連れてきて私のベッドに明け方に放り込んだみたいです。そして、どのように対処するのか見ていたのだとか。<br /> <br /> 結果、私の対応は30点だそうです(苦笑)<br /> <br /> 評価としては、浄化するにせよ追い出すにせよ中途半端。浄化するでもなく追い出すでもなく対処がなっていない。我慢するばかりで主体性がない。相手に共感ばかりして話を聞きすぎ。CD買って欲しい思いや願いなんてどうでもいい。オーラを感じれば風邪のような寒気がする時点で良くない存在とわかるはず。そのような者は(人間なら多少は対処法が変わってくるが)生き霊か死霊かもわからない変な存在の相手をする必要は全く無い。<br /> <br /> 消滅させていたら0点あるいはマイナスだった。消滅させなかったのは正解。追い出す選択にしては中途半端な対応。浄化する気はあまりなかったのでしょう。でしたらとっとと追い出すべき。追い出し方にしても、オーラで押し出してしまうと悪い冷たいオーラが入り込んできてしまう。<br /> <br /> 光の柱を天から降ろしてそれを刀のように前に振りかざして追い返そうする対処は良かったがあまりうまくできていなかった。よって30点。<br /> <br /> 自分のオーラを使わずに光の剣を使ったのは良かったみたいですので、この線で、ちょっと何か開発してみましょうかね。<br /> あるいは浄化しようとしても良かったみたいですが、たまたま出会った霊をその度に浄化していたらきりがないので。<br /> <br /> Sun, 29 Nov 2020 00:00:00 +0900 <link>https://w-jp.net/2020/2154/</link> <description><br /> </description> <pubDate>Sat, 28 Nov 2020 00:00:00 +0900</pubDate> </item> <item> <title>サードアイのクリスタルが小さい時は水晶球で強化する https://w-jp.net/2020/2150/ <br /> ある程度育てば不要ですけど、サードアイが小さい人の場合は水晶球で強化できます。<br /> <br /> 水晶球は本物の水晶を使う場合はクラックの角を使ってサードアイのクリスタルと共振させます。クラックがある程度ないとうまく行かないですが、ありすぎてもちょっとやりにくいです。それなりに透明で、クラックもちょっとだけ入った水晶がいいと思います。<br /> <br /> 今は溶解水晶とかありますけど、完全に透明な溶解水晶だとやりにくい気がします。<br /> <br /> ちょっとだけクラックがかすかに入っていて、それでいて、入りすぎないくらいが良いです。世の中にはそんなものはないかもしれないですね・・・。<br /> <br /> 中世くらいの昔はそれなりな本物の水晶球が手頃な値段で売っていましたけど、今は目が飛び出るほど高いですよね。<br /> <br /> 大きさは12cm前後あった方がいいと思います。そこまで大きいものである必要はないですけど、大きいほうがやりやすい、ということはあります。小さいと効果も微妙ですし、ちょっとやりにくいです。<br /> <br /> Thu, 26 Nov 2020 00:00:00 +0900 サードアイのクリスタルは転生を重ねて少しづつ育てる https://w-jp.net/2020/2149/ <br /> 私の記憶では、中世にヨーロッパで魔女をしていた頃の自分のサードアイは親指と人差し指で円を作るくらいの大きさだったように思います。その後、もっと大きく育っています。<br /> <br /> 形としてはダイヤのような形です。正八面体よりはもうちょっと角が多いような、正16面体とはちょっと違うような、綺麗なダイヤがカットされているような感じです。<br /> <br /> クリスタルっぽく見えますけど物理的なものではなくてアストラルなものです。<br /> それが、頭の後頭部の真ん中あたりに収まっています。<br /> <br /> これは、転生を重ねるごとに少しづつ育てるという種類のもので、人によっては「目」と言う人もいるかもしれません。形としては目というよりもクリスタルに似ていると思います。<br /> <br /> 言い方としてはサードアイということになるのでしょうが、日本的な言い方をすれば竜神の目とか天狗の目とか千里眼とか、そういうことになると思います。<br /> <br /> 転生を重なる間にもこのサードアイは受け継がれて、そのまま転生をする場合は同じサードアイを引き継ぎます。一旦グループソウルに合流する場合はサードアイはグループソウルが一旦受け取るかあるいは一緒に動いている守護霊が一旦は預かって、その後、必要な魂、大抵は同じグループソウルの魂ですが、転生する際にそのサードアイのクリスタルを受け取って転生するわけです。<br /> <br /> 私の場合、今生での目的が今生の目的はカルマの解消と覚醒への階梯を確かめることの2つだったので、そういうことであればむしろサードアイのクリスタルは邪魔で、何も見えない方が良いので全く何もクリスタルを持たずに生まれてきました。<br /> <br /> ですけど、このクリスタルというものは何もなかったとしても人生を生きているうちに形成されてゆく種類のものですので、今はちっちゃいクリスタルがあります。そのようにクリスタルを育てる過程も含めて覚醒への階梯を確かめることが今生での目的でありましたので、予定通りとも言えます。<br /> <br /> 今まで私が主に使っていたサードアイのクリスタルは今は私の守護霊に預かってもらっています。そのうち、私が今生で育てた今使っている小さなクリスタルとその元々使っていたクリスタルとを交換しようかな、とも思いますけど、これは私が判断することというよりは、私のハイヤーセルフというかスピリットがその時期も含めて判断することのようですので、顕在意識の私は知る必要がないようですし実際のところその決断権は顕在意識の私ではなくスピリットの方にあるので時期とかは教えてもらっていません。<br /> <br /> 顕在意識の私からするともう十分なのでとっとと覚醒してもいいと思っているのですが、スピリットからすると、せっかくなのでもうちょっと細かく覚醒の階梯を確かめてもいいのでは、と思っているようです。それならそれでいいですけど。顕在意識の私からするとちょっとまどろっこしく感じてしまいますが、調査が今生の目的の1つなので致し方ないという面もあります。<br /> <br /> サードアイのクリスタルがある程度育つと、以下の能力が現れます。<br /> <br /> ・(初歩的な力として)イメージで具体的に想像する力。例えば、頭の中でイメージでそろばんをする能力だとか、部屋や通路の空間をイメージして配置を組み替える能力。あるいは数学の問題をイメージで解く力。<br /> ・(もう少し慣れてくると)映像記憶の能力。<br /> ・(ある程度慣れてくると)周囲にいる霊を見る能力。いわゆる霊視。町中に霊がうようよいることがわかるようになります。<br /> ・(更に進むと。実際はフォースアイとの連携で)千里眼の能力。(同じ時間軸における)リモートビューイング。<br /> ・(熟練すると)時空を超えたリモートビューイング<br /> <br /> 私は久々にクリスタルなしで生まれましたが、霊視ができないというのはある意味、煩わしい霊を見なくて良いので意外にすっきりした印象を最初は受けました。サードアイが見えないということは、こんなにも周囲の景色に惑わされなくても済むのだ、という、意外な驚きがあったように思います。町中には霊がうようよいますし、おぞましい姿をした魑魅魍魎なんて普通にそこら中にいますから、そのような煩わしさがない反面、それらが見えないが故に避けにくい、というデメリットもありますけどね。<br /> <br /> たぶん前世ではちょっと疲れた時に魑魅魍魎が見えることが煩わしく感じていて、それ故に、見えないというのはそれはそれで幸せな気もします。<br /> <br /> エネルギー的な総量とのお話とも関連していて、エネルギーが枯渇していると魑魅魍魎が見えた時にそれに影響されてしまうのですよね。見えるだけでなく、エネルギー的に負けてしまっている。一方で、エネルギー的に充実していると魑魅魍魎が見えたとしても自分の平穏さを保てるのですよね。そういう観点からも、きっと前世でちょっと疲れてしまったが故に今生で一休みの意味も含めて一旦はクリスタルなしで生まれた、という理由もあるような気がいたします。メインではカルマの解消が目的ですけど、いろいろな理由が重なって今生ではクリスタルを持たずに生まれたのだろう、と理解しています。<br /> <br /> ですけど、それは一時的な状態でしかなくていつかは元に戻る必要がありますので、もともとのクリスタルを戻すタイミングはスピリットが見計らっているのだと思います。<br /> <br /> Thu, 26 Nov 2020 00:00:00 +0900 性別は選んで生まれてくるのが普通 https://w-jp.net/2020/2148/ <br /> 基本的には、性別を選んで生まれてきます。初心者は他の人に選んでもらうかもしれないですけど、ある程度の経験があれば自分で選びます。生まれる前に自分の性別を決めればそうなります。目的があって性別を選ぶ人もいるでしょうし、あるいは、どちらかの性別が楽だからとか得だからという現世利益の理由で選ぶ方ももちろんいらっしゃいます。<br /> <br /> この世は全て自由ですので、好きにすればいいのです。<br /> <br /> 自分で選べなくて好みの性別になって生まれなかったのだとしたら、それは経験不足なだけですのでそんなもんだと思って諦めましょう。<br /> <br /> 前に書きましたかね。私のあの世のコミュニティには元妻がたくさんいて、「私がお母さんになってあげる!」という人とか、「お嫁さんになりたい!」と元気に主張してきてくれる過去世の元妻がたくさんいます。そういう場合はもちろん性別を選んで生まれるわけですし、狙った性別にはほぼ100%そうなります。そうならずに性別を失敗した、なんてことは聞いたことがないです。狙って転生をする場合は確実に100%で性別選べると思いますよ。だって、受精卵が育っていって性別がわかった上で体に入るわけですから、間違えるわけがないです。<br /> <br /> 現代でLGBTとかありますけど、以前に書いたように、魂には性別はありませんけど一応は性質があって男っぽいとか女っぽいとかはそれなりにあります。前回の性別と逆の場合は男っぽいとか女っぽいとかありますけど、そうだとしても、生きているうちに肉体の性別の性質が身についてきます。<br /> <br /> 自分でその性別を選んだのであれば、その性別を生きればいいだけのお話です。<br /> <br /> 今生では男と決めたら男で生きればいいのになんでわざわざ女として生きようとしたり、あるいは逆に、女と決めて生まれてきたのならば女として生きればいいだけのお話なのになぜにわざわざ男として生きようとするのかは、特殊な事情があると思います。以前書いたように、本当は女として生まれたいのだけれどもDVの被害に合ってばかりいて怖くなったから男として生まれることを選んだとか、男として生まれたかったのだけれどもトラウマがあって女を選んでしまったとか、何がしか精神的な分裂が生じていることが多いように思います。<br /> <br /> それは現代で理解されているように「女の心なのに男として生まれてしまった」とか「男の心なのに女として生まれてしまった」とか、そんな単純なお話だけではなく、前世とのつながりを見ないと本当の理由はわかりません。<br /> <br /> LGBTはそのように心に問題を抱えている場合もあれば、稀ですけど性別がもともとない宇宙人が転生してきて地球の性別システムに慣れていない場合によくわからずLGBTとして分類されてしまうことがあります。これはもう、仕方がないですね。慣れていただくしかないところです。<br /> <br /> 基本的には男として生まれたら男の有り様を学ぶのが基本で、女で生まれた場合も同様だと思います。<br /> <br /> それが基本にあって、LGBTの何割かはそのような転生の理解を取り入れることで「そういうことなら、私はもっと男の有り様を学びます」とか「女の有り様を学びます」と決断して男らしさ、あるいは、女らしさを身に着けてゆくわけです。<br /> <br /> 生まれたときの心の性質がそのまま性別だと思ったら大間違いで、転生をする中で男として生まれたり女として生まれたりすることは普通にありますので、その度に、「ああ、私は男っぽいのにどうして女なのだろう」とか「女っぽいのにどうして男なのだろう」とか、そんなこと悩むだけ無駄で、今生の体が男なら男らしく生きてみればいいし、女なら女らしく生きてみればいいわけです。<br /> <br /> そもそも、男としての人生を送りたいから男としれ生まれた筈ですし、女としての人生を生きたいから女として生まれた筈です。初心者さんは除きますけどね。ある程度の経験者であればそうなります。<br /> <br /> ですから、女として生まれたあげく、「どうして女は男と同じように扱われないのだろう」とか悩んだり不満を訴えたりするのは私にしてみれば意味不明で、「だったら、最初から男として生まれればよかったじゃないの。どうして女を選んだの?」と、魂に聞いてみたくもなります。初心者さんだったら仕方がないですけどね、転生の仕組みと選択が広く理解されさえすれば男は男らしく、女は女らしく生きる社会に戻ると思いますよ。だって、それがそもそもの選択であり、男がやりやすいことと、女がやりやすいこととは絶対的に異なりますからね。<br /> <br /> あまり考えなしに生まれた後に性別に不満を言うような人は初心者さんなので、それは仕方がないですね。周囲がサポートしてあげればいいでしょう。そして、次の人生で性別をきちんと選んで生まれればいいだけのお話です。あまり初心者さんを甘やかして普通の大勢の人々の迷惑にならないようにした方がいいと思いますけどね。<br /> <br /> 男として生きたければ男として生まれればよくて、女として生まれたければ女として生まれればいいだけです。どこまで行ってもLGBTはマイノリティにしかならないと思いますけど。あとはそのような初心者さんをどこまでサポートするかだけの問題ですね。初心者さんはそれなりに生きてもらって、経験を積むまでは補助輪付きでいいと思いますけど。<br /> <br /> 自分で選んだのに選んだことを忘れてしまって、周囲に流されてしまってLGBTになってしまう、という場合もそれなりにあるように思います。<br /> <br /> それと、恋のライバルを消すために他人に「(女なのに)男らしいね」とか「(男なのに)かわいいね」とか吹いてその気にさせてしまう、という場合も意外にも多い気がしますね。これは、他人に流されすぎですね。他人に自分の人生を左右させていることになります。自分が本来しようとしていた人生が送れなくなったりして、死んだ後に「もう1回、やり直し!」になったりするかもしれません。人生の目的が性別とは関係なければ別にどっちでもいいかもしれないですけどね。でも、どっちでも良ければわざわざ性別を変える必要もなかったりします。<br /> <br /> あと、ほんのちょっとの割合ですけど、最近出てきたLGBTというのがよくわからないけど「面白そう!」と思ってそれに入り込む経験豊富な魂もあります。これは、ほんと例外ですね。あんまりいないと思います。宇宙人パターンと同じくらいの割合ですかね? なんとなくですけど。<br /> <br /> 大抵の場合は地球由来の魂が自分の生まれた目的がわからなくて性別不一致を感じてしまいLGBTになることが多いのですかね。そのように性別不一致を感じるのは、魂の性質上、そんなもんだと思うしかないですよ。前世と逆の性別で生まれたら、そりゃ、最初は性別不一致ですよ。でも、大抵の場合は自分でそれを選んだのですからね。あんまり気にすることはないと思いますけど。<br /> <br /> 男にしても女にしても、人生ゲームを楽しんでいるわけですから、男として生まれたら男のゲーム、女として生まれたら女のゲームをするわけです。試してみて、やっぱり合わないな、となったら次回で別の性別を選んでもいいわけですし。あんまり急いで性別を変える必要はないと思いますけどねえ。それよりも、せっかく生まれた性別に合わせてペルソナ(仮面)のゲームを楽しんだほうがいいと私なんかは思いますけど。<br /> <br /> これは個人的にそう思うだけで、基本は、自分が好きに生きればいいと思っています。ですから、勝手にすればいいんです。他人がどう生きようがほっとけばいいのだと思っています。単なる個人の感想です。<br /> <br /> Wed, 25 Nov 2020 00:00:00 +0900 魂の系統によって学びが異なる https://w-jp.net/2020/2147/ <br /> 肉体としては混ざっているので見分けがつきにくいですが魂の系統としては以下に分類されると思います。<br /> <br /> ■レムリア系<br /> <br /> レムリアの最後に天変地異が起こって半数以上はアセンションし、何割かはアセンションできずに地上に残った。その残りの人たちが各地へと散らばり、スピリチュアルの一角を成している。<br /> 元プレアデスの系統。魔術、特に白魔術に長けている。クリスタルを用いた文明。インスピレーション重視。ふわふわしている。<br /> <br /> アセンションした人たちの大部分は今は上の次元の別の惑星で暮らしている。<br /> アセンションできなかった大抵の人はどちらかというと地球に囚われているという感じ。縄文人に多い。<br /> <br /> レムリアの最後には地上では天変地異が起こって災難が起こったが、アセンションした人たちは割と災難は関係なくてアセンションした時の特異な浮遊体験、上昇体験の強い印象が残っていると思います。<br /> <br /> 一方、アセンションできなかった人たちは地上の災難をもろに受けていますから悲惨な悲しいイメージおよびアセンションできなかったという悲しみが魂の奥深くに眠っているのでその深い悲しみを癒やしてあげる必要があります。<br /> <br /> ちなみに私はレムリアの最後に地球に来てアセンションしたが地球に興味があって残って興味本位で転生を繰り返したレアケース。私がアセンションした時はふわっと浮くような別次元に移行するような面白くてエネルギーに溢れた体験だったような気がします。悲しみとかは全くと言って良いほどないです。素晴らしいという印象だけですね。<br /> <br /> 現代でレムリア系のお話を聞いていると上記のような地上的な災難の悲しみとアセンションできなくて地上に残されたという悲しみの両方があるようです。私にはピンときませんけど、理屈としてはわかります。<br /> <br /> ■アトランティス系<br /> <br /> 理知に優れ、論理および秩序を重視する。<br /> <br /> レムリアの生き残りが神官として関与し、その一方で、別の理知的なシリウス等が関わった文明のようです。地球人を使役もしたようです。<br /> <br /> アトランティス大陸そのものではないにせよ、この系統の人たちがきっとピラミッドも作ったと思います。<br /> <br /> これは、宇宙の存在が神として地上を支配する試みのうちの1つだったように思います。<br /> <br /> 一部はオリオンの星系行われた長きにわたる大戦争いわゆるオリオン大戦にて病んだ魂も地球に来て合流したようです。<br /> <br /> ■地球人<br /> <br /> 魂が主に地球で進化した魂。猿あるいは獣から進化。ごく一部は植物や鉱物などから進化したが大部分は動物から進化。血の気が多い。すぐに力で解決しようとする。不愉快になるとすぐ暴力に訴えて人を殴る。女であればすぐにヒステリーになる。<br /> <br /> <br /> 自分がどの系統に属しているのかを認識できると魂の成長のために何をしなくてはならないのかがよりはっきりとすると思います。<br /> <br /> 例えば、地球生まれの血の気の多い魂にスピ系のお話をしても通じないでしょうし、レムリア系の人に論理の話をしてもうまく伝わらないでしょうし、アトランティス系の人に感性のお話をしてもあまり通じないかもしれません。地球は人種の違いだけでなくそもそも魂の成り立ちが違う人が混在していますので、お互いに理解し合おうと思っても無理な部分は絶対に存在しているわけです。<br /> <br /> 地球に生まれている人の中にはオリオン大戦の経験者もいて、そのような人は二元性の対立の克服をテーマとしているようです。簡単に言えばスターウォーズのようなお話が実際にオリオン星系であって、それはもう終息していますけどその戦いで傷ついた魂が二元性を超えて癒やされる必要性があるということのようです。ですからスピ系の一部では二元性のお話がよく出てきますけど、それも全ての人に当てはまるお話ではなくて、特にオリオン大戦の経験者によって二元性の克服がテーマになっているように思います。<br /> <br /> オリオン大戦の経験者はマニプラ・チャクラ(お腹のあたり)が強くて、アナハタ・チャクラ(胸のあたり)よりもマニプラが優勢な気がします。マニプラくらいですと二元性の性質が強く出て、それより下のムーラダーラ以下の獣および支配の性質とマニプラの肉体的な愛との段階とが対立し合うというのはあると思います。スターウォーズは物語としてよく出来ていますが、もっとオリオン大戦に似せるならば、悪の帝国はムーラダーラのような獣のような性質、善の反乱軍はマニプラの肉体的な愛として描くともっとそれっぽくなると思います。マニプラ優勢の状態ですとまだ二元性を超えられませんが、少しづつアナハタ以上の段階に至ることで二元性を超えるのがこれらオリオン大戦の経験者のテーマのように思います。<br /> <br /> チャクラ優勢に基づいてまとめますと以下になります。<br /> <br /> ・ムーラダーラ以前 獣から進化した地球由来の魂。血の気が多い。<br /> ・ムーラダーラ優勢 オリオン大戦の悪の帝国。ダースベーダのようなイメージ。二元性の世界の悪の側。<br /> ・マニプラ優勢 オリオン大戦の善の反乱軍。ジェダイのようなイメージ。二元性の世界の善の側。レムリアでアセンションできなかった魂。<br /> ・アナハタ優勢、あるいはそれ以上 レムリアでアセンションした魂。二元性を超えた世界。<br /> <br /> スピ系である「思い出そう!」で覚醒できる人はレムリア系とアトランティス系の人のお話で、地球由来の獣から進化した魂にそう言っても「なんのこっちゃ?」という感じです。同様に、「瞑想で静けさを取り戻して愛を思い出しましょう!」とか言われて「ああ、そうか!」なんてすぐに気づいて覚醒できるのもレムリア系かアトランティス系です。これまた、獣から進化した魂に言っても通じません。これはもう、仕方がないですね。だって、思い出すべきものがそもそもないのですから思い出しようがありません。<br /> <br /> ヨーガは割と幅広く応用できて、地球由来の獣から進化した魂であっても急速に進化できるように思います。<br /> <br /> 一方で、スピ系はターゲットをレムリア系あるいはアトランティス系に合わせていることが多くて、地球の獣から進化した魂に同じことを言っても意味不明なことが多いように思われますね。全部ではないですけど、そういう傾向が多いように思います。<br /> <br /> これはメモです。上記が全てではないと思います。<br /> <br /> Wed, 25 Nov 2020 00:00:00 +0900 瞑想で集中しても何にもならない、という人は静寂の境地を知らない https://w-jp.net/2020/2145/ <br /> その可能性が高いです。<br /> <br /> 自分がまだ達していないだけなのに「何にもならない」などと断言できるその自信がどこから来るのか知りませんが、実際に、そのようなことを言う人は瞑想教師のような立場であってもいるものです。<br /> <br /> 例えば「瞑想で集中しても何にもならない。観察が重要だ」とか言っている方がいます。<br /> <br /> あるいは、たまにヴェーダンタとかをインドで勉強された方で「瞑想で集中しても何にもならない。知識が重要だ」とか言っている方もいらっしゃいますけど、これはヴェーダンタは経験を超えたところを目的としているために瞑想の体験は一時的なものだという理解に基づいておりますので私がここで言わんとしていることとはちょっと異なるのでひとまず置いておきます。<br /> <br /> ヴェーダンタのお話を抜きにすれば、瞑想で一般的にある要素は集中と観察で、時に「集中しても何もならない」とか言っている方がいらっしゃいますけど、そのような方の場合は静寂の境地を知らないのだな、と私なんかは思います。<br /> <br /> ご本人はこう言っても否定されるかもしれないですけどね... まあ、私なんかからすればそう見えます。<br /> <br /> 静寂の境地あるいはその一歩手前くらいに達しないと「観察」は出てこないので、静寂の境地を知らずして「観察」はあり得ないのです。<br /> <br /> こう言うと、「いやいや、皮膚の観察とか、想念の観察とか、視界の観察とか、いろいろあるでしょ」とか言いますけど、それは、集中しているのであって、瞑想で言うところの観察状態ではないです。<br /> <br /> まあ、そんな集中であっても流派によっては観察と呼んでいるかもしれないですし、それは自由にすればいいですけど、そうであったとしても集中を否定する必要はないわけです。<br /> <br /> 瞑想で言うところの集中と観察は全く別物です。<br /> <br /> 五感に属する瞑想は、例えば皮膚の観察だとか眉間への集中だとか皮膚の観察だとか視覚の観察だとか、そのような瞑想は、初心者であればやっていることは全部一緒です。初心者が自分のやっている瞑想を「集中だろうか、それとも観察だろうか」などと深く考える必要はないです。自分の流派が集中と呼んでいれば集中と言えばいいし、観察と呼んでいるなら観察と言えばいいだけのことです。初心者の瞑想でそんな違いが出るわけもないです。ですから、どこかでかじった知識を元に「集中しても何もならない」なんて言っている人は初心者である可能性が高いのです。<br /> <br /> もっとはっきり言えば、静寂の境地を知らずして瞑想における深い意味での「観察」はあり得ず、それ以前の瞑想であればそれを集中と言おうと観察と言うと表現だけのお話であって大差ないわけです。<br /> <br /> <br /> [2020/12/30 更新] 元々「涅槃」と書いていたところを「静寂の境地」に置き換えました。<br /> <br /> Fri, 20 Nov 2020 00:00:00 +0900 知覚を内に向けることで純粋な意識の知覚を生じさせる https://w-jp.net/2020/2144/ <br /> 最近の涅槃と言ってもよい状態は、超越瞑想(TM瞑想)の書籍にも同様のことが書いてありました。これらの説明は仏教の涅槃の状態を表しているように思います。TM瞑想の目的はここにあるのですね。<br /> <br /> 内側に向かって心を働かせると、心は超越的な「絶対」の領域に入り、永遠「存在」の力で満たされることになります。次に、心が再び外側に向かって動き出すと、心の活動は超越的な絶対「存在」の光を外界にもたらし、粗大な現象界の知覚における至福を強めるのです。(中略)超越界から出てきた人間は、神の栄光を携えていますので、この世界における実生活のあらゆる分野を輝かすことになります。「超越瞑想(マハリシ・マヘーシュ・ヨーギー著作)」<br /> <br /> これは涅槃の説明のように思います。<br /> <br /> 私の目的は涅槃の次の宇宙意識と同一になった状態ですので涅槃そのものはゴールではありませんけど、これらの表現からは宇宙意識らしき面も読み取れます。誰でも読める本にはきっとそこまでは深く立ち入らず、このくらいの表現にしているのかもしれません。<br /> <br /> 静寂に達する理想的な方法は、神経系の活動を「安らぎに満ちた機敏さ」の状態に持っていくことです。心の状態さえもゼロにして、思考過程をその源の一点にまで減少させることです。この点に達すると、知覚は絶対意識の状態にとどまり、悟りの状態が得られ、絶対の超越「存在」が生命の意識されるレベルにやってきます。逆の言い方をすれば、現在意識のレベルが「存在」の超越的なレベルに達するのです。「超越瞑想(マハリシ・マヘーシュ・ヨーギー著作)」<br /> <br /> 翻訳のせいか回りくどい表現が多いですけど、要するに、神意識が顕在意識にまで上がってきて普通に認識できるようになるということでしょう。<br /> <br /> 神意識のことを流派によっては「キリスト意識」とか「アートマン」とか「ハイヤーセルフ」とか色々言ったりしますけど、同じことだと思います。粗大な顕在意識が静まって静寂の意識、いわゆる涅槃に達することで神の意識が現れてくる、ということだと思います。<br /> <br /> <br /> (追記→ どうやら禅宗的にはこれは涅槃と言わなくておそらくは第四禅定です。流派によって涅槃の位置付けが異なるようですね。後日詳しく書きます。)<br /> <br /> <br /> Thu, 19 Nov 2020 00:00:00 +0900 <link>https://w-jp.net/2020/2143/</link> <description><br /> </description> <pubDate>Wed, 18 Nov 2020 00:00:00 +0900</pubDate> </item> <item> <title>やっている修行によって静寂の境地と煩悩の克服の度合いは異なる https://w-jp.net/2020/2141/ <br /> 仏教では静寂の境地と煩悩の克服の度合いが組み合わさって理解されていることに対し、私の場合はちょっと違うなとは思っていたのですが、私のスピリット・ガイド(見えないガイド、いわゆる守護霊)が教えてくれたことによると、やっている修行によって静寂の境地と煩悩の克服(サムスカーラの解消、カルマの解消)の度合いは異なるようです。<br /> <br /> 仏教など特にマントラを使って修行する流派の場合は概ね仏教が定義しているような順番になって、静寂の境地への到達と煩悩の克服が割と同時期に起きるようです。<br /> <br /> しかしながら、本来は煩悩の克服と静寂の境地への到達は別のもので、最終ゴールとしてはどちらも達成するものの、その到達度合いは必ずしも関連しているわけではないようです。<br /> <br /> 静寂の境地は雑念が抑えられた状態ですので、マントラを唱えていると静寂の境地に達することがあります。これは最初に静寂の境地に達すれば預流果(よるか) ですし、度々達すれば一来果(いちらいか)です。<br /> <br /> ですけど、マントラに頼っている以上、それ以上の上の不還果(ふげんか)にはなかなか到達しない、とのことです。<br /> <br /> マントラは顕在意識を鎮める効果がありますので、マントラを唱え終わったら雑念がまたふつふつと湧いてきて、実際のところ雑念があったとしても本来の安定した静寂の境地に達していればそれにさほど迷わされることがないのですが、マントラで一時的に抑えていた場合はまだ本来のサマーディの力が弱くて煩悩(カルマ)にそれなりに影響されてしまうようです。<br /> <br /> 本来のサマーディの力を強めればマントラに頼らずとも静寂の境地を維持することができますので、そうなると次の段階に進むとのことですが、マントラに頼っている以上は一来果(いちらいか)で足踏みし、不還果(ふげんか)にはなかなか到達しないとのことでした。<br /> <br /> これは私がガイドから聞いたことですので本当にそうなのかどうかはわかりませんけど、理には叶っています。ガイドには「私はそのことはあまり気にする必要はない」と言われていますので、一応の知識として知っておくというくらいです。<br /> <br /> このマントラは、レベルは違うものの、例えば白人のスピリチュアルでは大音量のクラブのミュージックが相当するようです。クラブやテクノあるいはダンスホール等で流れている大音量のDJミュージックのような外部の音を利用して一時的に自分の心をそれに惹き付けたり麻痺させたりして心を停止させる手法が白人たちの間では利用されています。それは、白人たちの自我があまりにも強くてそのくらいしないと自我を停止できない、ということでもあります。日本人の場合はそれほど自我が強くありませんからそこまでしなくてもマントラ程度で素早く自我を静止させることができますが、マントラに頼っている以上はマントラを止めたらまた自我が動きはじめてしまうわけです。<br /> <br /> 自我の奥底にある神の面の自分(ハイヤーセルフ、キリスト意識、アートマン)が目覚めてしまえばそのようなものに頼る必要はないのですが、マントラに頼っている以上、なかなか一時的な静寂の境地である一来果(いちらいか)から先に到達できない、ということのようです。<br /> <br /> マントラに頼ると一来果(いちらいか)の静寂の境地にまでは割と素早く達するものの煩悩の克服が後回しになるので静寂の境地の到達と煩悩の克服への到達が割と同じ時期になることが多いようですが、必ずしも一致するわけではないようです。一来果(いちらいか)から不還果(ふげんか)へのステップでは煩悩がかなり克服されなくてはいけませんので、マントラに頼って素早く一時的な静寂の境地の一来果(いちらいか)に達した場合に煩悩の克服に時間がかかって不還果(ふげんか)へなかなか達しない場合もあるようです。<br /> <br /> 一方で、マントラに頼らず沈黙の瞑想をした場合は煩悩の克服(サムスカーラの解消、カルマの解消)が割と先に来て、しばらく経った後に静寂の境地に達して一来果(いちらいか)になるようです。そして、沈黙の瞑想の場合は静寂の境地に達した段階で煩悩が既にかなり克服されておりますので一来果(いちらいか)から不還果(ふげんか)へのステップで足踏みせずに割とスムーズに移行できるとのことです。<br /> <br /> これはトータルで見れば途中でどちらを先にやるかという違いがあるくらいで、実際のところそれほど違いはなく、好きな方をすればいい、好きな道を通ればいい、好きな順番でやればいい、ということのようです。自分の流派のやり方に従いたければそうすればいいですし、直感に頼りたければそうすればいい、ということにもなると思います。<br /> <br /> 煩悩の克服(サムスカーラの解消、カルマの解消)を重視している流派なのか、あるいは、静寂の境地への到達を重視している流派なのかで視点が異なるということですね。<br /> <br /> <br /> [2020/12/30 更新] 流派によって涅槃という言葉の意味は異なりますので元々「涅槃」と書いていたところを「静寂の境地」に置き換えました。<br /> <br /> Mon, 16 Nov 2020 00:00:00 +0900 最初の静寂の境地への到達は預流道果(よるどうか) https://w-jp.net/2020/2140/ <br /> 今年の9月頃に平穏な静寂の境地に達したわけですが、テーラワーダ仏教であるミャンマーの上座部仏教にあてはめてみると、最初の涅槃への到達は預流道果(よるどうか)と呼ぶようですね。このあたりは流派によって定義が微妙に異なるような気が致します。涅槃という言葉の定義も流派によってまちまちのようです。<br /> <br /> 「ミャンマーの瞑想(マハーシ長老 著)」によると以下のような分類になるようです。<br /> <br /> ・預流道果(よるどうか) 預流とは涅槃に向かう流れの意味。始めて涅槃を発見し達する。<br /> ・一来道果(いちらいどうか)<br /> ・不還道果(ふげんどうか)<br /> ・阿羅漢道果(あらかんどうか)<br /> <br /> 道果(どうか)は流派によって果(か)とだけ言ったり省略したりするようです。<br /> <br /> これら4つの段階は煩悩がどのくらい滅せられるかという分類で今まで理解してきましたし、それも正しいかとは思うのですが、それよりも上記のように涅槃に達しているかどうかという基準の方が重要な気が致します。<br /> <br /> これは同じ上座部仏教でもテーラワーダ仏教とかの書物では見たことがない気が致しますが、入信しないと教えてくれないお話なのでしょうかね?<br /> <br /> 煩悩という観点から判断してしまうと自分が上の段階にいるかもしれないという勘違いを産んでしまうような気が致しますので、それよりも、ここにあるように涅槃に達したかどうかの方がよりはっきりとした基準のように思います。4つの段階のうち一番下の預流道果(よるどうか)に「始めて涅槃を発見」と書いてありますので、まずは涅槃に達しないとこの4つのいずれでもないわけです。涅槃に達していないのに煩悩を基準にして4つの基準と自分を見比べても仕方がないわけです。とは言いましても、この基準は流派によりますから、自分の流派があるのであればその基準に従えば良いとは思います。<br /> <br /> 同書には、涅槃に関する記述はそれなりに詳しいのですが、その先のステップは割とあっさりとした表記で、不還・阿羅漢に関しての記述は詳しくはありません。<br /> <br /> 一来に関しては預流の涅槃に熟練したというような書き方で、預流と一来は熟練度が違うくらいなので預流で涅槃に一度でも達したならば一来には容易に達することができる、と書いてあります。であれば以下のような分類ですね。<br /> <br /> ・預流道果(預流果) 始めて涅槃を発見<br /> ・一来道果(一来果) 涅槃に容易に達することができる者<br /> ・不還道果(不還果) <br /> ・阿羅漢道果(阿羅漢果)<br /> <br /> 更には、不還道果に関しては、「完全に定(サマーディ)を成し遂げた者」との記述がありますので、サマーディの精神集中と静寂な涅槃の状態が更に完全になったら不還道果になるのでしょう。<br /> <br /> 阿羅漢はよく知られているように完全に煩悩を滅却した者です。<br /> <br /> ・預流道果(預流果) 始めて涅槃を発見<br /> ・一来道果(一来果) 涅槃に容易に達することができる者<br /> ・不還道果(不還果) 完全に定(サマーディ)を成し遂げた者。<br /> ・阿羅漢道果(阿羅漢果)全ての煩悩を滅した者<br /> <br /> となれば、私は今年9月頃に始めて涅槃に達して預流道果になったわけですね。<br /> <br /> そして、基本的には預流道果と一来道果は大差ないようですし、涅槃にも割とすぐに達することができるようになった上、同書によるとまだ不安定なところがあるような記述ですから、私は今は一来道果あたりにいるのだと判断するのが理にかなっていそうです。<br /> <br /> 不還道果に達すると色欲(情欲)や怒りなどが消え去るみたいですけど、情欲とか怒りなんてとっくの昔にほとんどなくなっていて、確かに生殖行為はまだ可能ですけどそれが色欲かと言われると、まあ、そうかもしれないですけどかなりなくなっています。不還道果に達して完全にゼロなんてあり得るのですかね? 阿羅漢でも完全にゼロなんてことはないような気がしますけど。<br /> <br /> この辺りの、煩悩の欲望と照らし合わせての説明の部分は話半分に理解しておいた方がいい気もしますね。煩悩という意味ではきっともっと早く達することができて、涅槃という意味ではかなり後のような気が致します。<br /> <br /> おそらくは流派によって解釈が異なっているところがごっちゃになってしまったが故に混乱している気が致しますが、煩悩という意味では涅槃よりももっと手前で起こって、涅槃に関しては2周目か3周目での基準であれば一致している気がしますね。<br /> <br /> これは個人的な解釈ですので、仏教の流派の諸派の解釈とは異なるかもしれません。<br /> <br /> <br /> 追記→ 禅宗的には同状態は涅槃と言わなくておそらくは第四禅定のようです。<br /> <br /> Fri, 13 Nov 2020 00:00:00 +0900 全ての宗教の本質は同一だと主張したヴェネチアのカトリックの大司教 https://w-jp.net/2020/2138/ <br /> 夢で見たお話ですから本当のことかはわかりません。<br /> <br /> 先日に続いて私のグループソウルの一部の過去生がヴェネチアでカトリックの大司教だったわけですけれども、その時、全ての宗教の本質は同じだと主張しました。当時は大航海時代でしたけど、大司教が言い出すまでは、他所でそのようなことはほとんど言われていなかったと思います。割と独自にその時の大司教である私のグループソウルの一部が急に言い始めたことのように思います。今ではそれが全世界のカトリックの基本理念として広まっていると思います。<br /> <br /> キリストも元々はそのようなことを言っていた筈ですし、同時代にも似たようなことは他の人も言っていたかもしれませんが、ヴェネチアの大司教が言い出したということでその影響力は大きかったように思います。<br /> <br /> 今では末端のカトリックでもその基本理念がそれなりに知られており、キリスト教というと他の宗教を弾圧したり改宗させたりというイメージが強いせいかこのような教えは意外に思えるかもしれませんが、大航海時代の頃に説かれた教えですのでカトリックの基本理念としてそれは定着しているように思います。<br /> <br /> ですから、一見するとキリスト教が他宗教に不寛容に見えたとしても、実際のところ、基本理念としては他宗教をも受け入れる素地があると思います。<br /> <br /> かと言ってそれがそのまま他宗教のやり方までも許容するということにはなっておらず、文字通り「本質は同一」という意味合いにおける理解でありますのでありのままを受け入れるということではありませんけど、少なくとも、他宗教を弾圧するようなところからは少し離れて、他宗教をも受け入れる素地がカトリックにはあると言えます。そのように信じたいです。<br /> <br /> 今ではキリスト教も多様化してきており必ずしもその基本理念が理解されているとは限らないと思いますし、今世では私はキリスト教徒ではありませんので日本の実態はそれほど詳しくはありませんが、噂に聞く範囲では同様の「全ての宗教の本質は同一」という理念があることは普通のキリスト教信者にも知られており、少なくとも知識としては基本理念としては定着しているように思われます。<br /> <br /> Wed, 11 Nov 2020 00:00:00 +0900 ほとんどの宗教やスピリチュアルのゴールは一緒 https://w-jp.net/2020/2137/ <br /> 教義が違えばゴールは違うなんて言う方もいらっしゃいますけど、実際のところ、教義を受ける対象の人々の気質が違うから違うように見えているだけで、最終ゴールは一緒です。<br /> <br /> 確かに、教義そのもののゴールが悟りに達していない時もありますから、そのような意味においてはゴールは違うと言えばそうですけど、ここで言っているのは、悟りとしてのゴールは一緒ということです。<br /> <br /> そもそも、ほとんどの教義でゴールは明確に示されておらず、かなり曖昧なことがほとんどです。<br /> <br /> そのような状況で、ゴールは何かというと教義をしっかりと理解することではなく悟りであるわけですので、どちらにせよ教義で途中までしか説明されていないのだとしたら悟りが同一であると思うかどうかは後は信念の問題だけであると思います。<br /> <br /> 私が見たところでは、悟りというゴールを目的にしている宗教であればそのほとんどのゴールは一緒であるように思います。後は信念で同じだと信じるかどうかですね。私はゴールは一緒であるという信念がありますから、流派によってゴールが違うとは思わないわけです。<br /> <br /> 見た目はかなり違いますし、やり方も違うでしょう。しかしながら、ゴールとしての悟りは同じであるという部分は信念として持っているわけです。<br /> <br /> 自分で確かめた範囲としてはその信念に矛盾はなく、全てを確かめることはできませんから、あとは信念になるわけです。それはとりあえずは信じるということですけど、信じたからと言って矛盾が出てきたら現実が優先されるわけです。<br /> <br /> 宗教というと何であっても全部信じなくてはならないと思っている方がいらっしゃいますけど、現実が優先されると思っています。現実が優先されて、よくわからない部分が信念になって信じなくてはならない部分です。これは私だけが言っているわけではなく、元々の宗教も本来はそういうものだと思っています。自分がわからない部分が多ければ信じるしかないわけで、であれば信じる範囲が多かったりしますけど、それは割合だけのお話です。次第に自分のわかる範囲を広げてゆくという努力は継続されるわけです。それを修行と言ったりします。<br /> <br /> 色々な宗派を見ると全く違うように見えたりしますけど、信念として、ゴールとしての悟りは一緒だと思っています。<br /> <br /> 流派によって、相手はそう思ってないかもしれませんけど、これは勝手に私がそう思っているというお話です。<br /> <br /> Wed, 11 Nov 2020 00:00:00 +0900 キリスト教が悪魔や地獄で人々を恐れさせる理由 https://w-jp.net/2020/2136/ <br /> 本当のことかはさておき、瞑想や夢で見たお話を記載しておきます。<br /> <br /> 私のグループソウルの一部は大航海時代のヴェネチアでかつて大司教をしておりました。<br /> <br /> 以前にも少し書いたのですが、教会は、ただ神だけを説くべきだったというのはそれはそれでありますけど、元々のお話を言えば恐怖で支配することが目的だったわけではなく、腐敗した人々および自我や自尊心が拡大してしまった当時のヴェネチアの人々に対して謙虚な気持ちを取り戻すように神の怒りとしての悪魔、あるいは、自我の悪い面としての悪魔を説いたのが最初だったように思います。拡大してしまった悪い自尊心が、その恐怖によって押さえつけられて謙虚になることを期待したわけです。<br /> <br /> 私のグループソウルが教壇に立って悪魔を説いた時、人々の反応としては恐怖が最初に来ました。一部の人はそれを理解しましたが、基本的には、そのお話はあまりうまく伝わらず、一部に根強い反感を生じさせてしまったように思います。<br /> <br /> 最初は、悪魔や地獄を説きました。当時のヴェネチアは世界中から富を集めており、豪華な生活をし、ものは溢れており、性的な欲望から物質的な欲望、および他人を操る欲望まで、ありとあらゆることを叶えたヴェネチアの人々はこの世の春を謳歌しておりました。<br /> <br /> そのように腐敗して謙虚な心を失いかけているかのように見えた人々に対し、大司教であった私のグループソウルの一部は、そんな現世的な欲望にうつつを抜かしていると地獄に落ちて悪魔に食い荒らされますよ、ということを説いたわけです。<br /> <br /> それはそれで理に叶った説教だったと思うわけですが、その説教により、様々な意図しない結果を生み出しました。<br /> <br /> もともとは、その悪魔および地獄に関する説教は他の地域では行われてはおらず、ヴェネチア独特のもの、もっと言えば、その大司教が独自で始めたものだったと言えます。そのように、わずか1人によって始められた地獄、悪魔の説教がその後、全世界でスタンダードになってしまったわけです。<br /> <br /> 私は専門家ではありませんけど、書物を調べてみると地獄や悪魔の説教というものはそれ以前からもされていましたけど、この時ほど強くそれを前面に押し出したことはキリスト教の歴史においてそれほどなかったように思います。確かに、人の心が荒めば地獄のような心境にもなりますし、悪魔のような存在も実際にいます。それは昔から変わらず教えられてきたことですが、地獄と悪魔を前面に出して恐怖で持って説教をするというやり方はこの時において再発明されて洗練されて強く地獄をアピールするようになったように思います。<br /> <br /> いわば、もともとあった地獄と悪魔というものをこの頃から教会で強く主張するようになったわけです。<br /> <br /> それは上に書きましたように、人々のエゴに対するアンチテーゼであり、自尊心が拡大して人の心を失いかけていたヴェネチアの人々に対してきつい説教を与えるという意味合いがあったように思います。<br /> <br /> それ自体は多少はうまく働いたのですが、新しい試みですし、教会に対する反感も大きかったように思います。<br /> <br /> 今から思えば、以前にも書きましたように、教会は、ただ神だけを説くべきだったとは思いますが、当時は、それが正しいと判断しておりました。<br /> <br /> と、言いますのも、ヴェネチアだけのお話しでしたらおそらくそのやり方が正しかったと今でも思うのですが、悪魔や地獄で恐怖させるというやり方がその弟子たちを通じて今や全世界に広まってしまったことが失敗だったと思うからです。地理的・歴史的にその時において正しいことが、習慣化されて別の環境に広まったことで間違いになるということはよくあることです。そのような意味において、全世界における元々の混乱の芽を作り出してしまった、という点において間違いだったと思っているわけです。<br /> <br /> 一応弁護しておきますと、ある程度はその試みはうまく行きました。<br /> <br /> 悪魔や地獄というものは自らの心の状態ですから、自尊心が拡大している状態あるいは混乱したり欲望に満ちている状態こそが地獄や悪魔であるわけです。真理というものは比喩によって言い表されますから、天国というのは心の清らかな状態であって、地獄や悪魔というものは自我(エゴ)のことであるわけです。自我を抑えるために悪魔や地獄を説いて恐怖を与えるということが、当時のヴェネチアの傲慢な人々に対して行われ、ある程度はうまく行ったように思います。<br /> <br /> やり方は現代人には適しませんが、考え方としてはそれは今も変わらないわけです。<br /> <br /> キリスト教が悪魔や地獄を説いているのは心の状態を示す比喩であり、悪魔のような心、地獄のような心境・環境にいるのをやめて天使・天国のような清らかな心になりましょう、と説いていたわけです。すごく簡単なことです。<br /> <br /> しかし、聞く側としてはそれをどれだけ理解したのかは微妙なところで、多くは単に、キリスト教の大司教が人々に対して恐怖を与えている、と解釈されてしまったように思います。<br /> <br /> 欲望が人々の心に現れる時、それは悪魔がやってきているのだ、と説きます。悪魔に従っているとやがて自分も悪魔のようになり、地獄のような心境になり、死後も地獄の状態が続く、というのはそれは真実です。死んでしまったら肉体がありませんから死んだ時の心境がしばらくずっと続いてしまい、死んだ時に欲望まみれで不満だらけですと死後もかなりの長い間、そのような抑圧された心境で過ごすことになります。それは地獄と言って良いのではないでしょうか。<br /> <br /> 一方で、死ぬ時に晴れやかに死ねばその後も天国・天使のような心境で過ごすことができます。<br /> <br /> 言っていることはすごく簡単なことです。<br /> <br /> しかし、それはあまり人々に理解されず、欲望まみれの生活を送っていたヴェネチアの人々は理解するどころか「恐怖で我々を支配しようとするキリスト教(カトリック)」という判断を下したわけです。<br /> <br /> 今となっては色々と反省点はあります。<br /> <br /> 特に、世界中に悪魔・地獄の恐怖を広めたということはカルマとなって今の私にも繋がっていて、根深くて今すぐの解決は無理で時間がかかるようですけど、グループソウルが解決しようとしている長期的な課題の1つであるようです。<br /> <br /> ただ、悪影響もあれば良い面もあって、若い時に悪魔・地獄を教会で植え付けられたが故に自我が拡大せずに若い時期から謙虚に暮らすことができた、というレポートも多く上がっています。その場合、最初に恐怖を植え付けられたので悪魔・地獄がトラウマとして残ってしまいますけど、それがなかったことによって自我が拡大して自尊心や欲望にまみれた生活をするよりはずっと良く、トラウマがあることによって謙虚な生活を保てることができるというのは悪魔・地獄の良い面であると判断されています。悪魔・地獄のトラウマがあったからこそ謙虚な若い時代を過ごすことができたというわけです。<br /> <br /> これは私が判断しているというよりは、グループソウルの総意として、悪い面もあれば良い面もある、という両面が理解されているということです。<br /> <br /> 最初から神を見出して謙虚に生活するのが一番いいわけですけど、それができずに、悪魔・地獄のトラウマがなければ謙虚になることができない人々が多くいるが故に悪魔・地獄のトラウマが有効に働いているわけです。もちろんそれが不要な方もいらっしゃいますけど、今の世の中では必要な方の方が多く、現時点では悪魔・地獄のトラウマは有効なものであると判断されています。それは永久に必要なものではありませんが、現時点の判断はこのようなものであるということです。理想的には悪魔・地獄のトラウマなどなくとも最初から神を見出して生きるべきですが、補助輪としてのトラウマであるわけです。<br /> <br /> そして、ある程度の年齢まで育った時にそのトラウマが不要になった際にはトラウマを取り除くために何がしかのスピリチュアルを頼る、ということも多く行われているようです。<br /> <br /> 全体としては失敗だった悪魔・地獄の恐怖の説教であったとしても、一部ではこのように良い面が残されてうまく使われているようです。<br /> <br /> Wed, 11 Nov 2020 00:00:00 +0900 自分に対しては厳密、外に対しては大らかでいる