ガタ段階の「太鼓」と血液の脈動音。瞑想の質の変化

2019-07-09 記
トピック:スピリチュアル: ヨーガ

[風のルンの竜巻の経験から4日後]

■ガタ段階の「太鼓の音のような音」
その次のガタ段階の「太鼓の音のような音」というのは具体的にどんな音なのか微妙なところですが、竜巻の後は静かにしていると異様に「心臓のドクンドクンという振動音」が聞こえてきます。「これはナーダ音ではなくて肉体の心臓の音ですよね・・・」 と自分で解釈しているのですが、この心臓の音が「太鼓のような音」と言えなくもないです。でも、自分の心臓の音なんて今までそうそう聞こえたことないので、一体どういうことなのかなあ、と不思議に思っています。以前記載しました通り竜巻の後は呼吸がし易くなって呼吸時に胸が開くようになりましたので、それが影響している可能性もなくはないです。ナーダ音というのは内なる音ですがアナハタ・ナーダはアナハタ・チャクラから聞こえてくる音なので、心臓から聞こえてきても不思議ではないですが。この心臓音は竜巻の前は聞こえなかったと思います。単なる肉体の音かなぁと思いつつもナーダ音かもしれない、という感じで、これまた様子見なのです。「喉のチャクラの空処で起る」とありますけど、音的に胸の周辺で鳴っているような気がしますが喉かどうかは場所が微妙で特定できません。言われてみれば喉のような気もしますけど、気のせいかも? 鳴っているのは確かだと思いますけど。喉で鳴るというよりは耳たぶが脈打って心臓の鼓動を聞いている、という感じですが。耳たぶから下方向の音を聞いている、という感触がなくはないですけど、振動だけが下方向から感じるものの、音は耳で聞いているような感じです。やっぱりこれは肉体の心臓の鼓動音かなあ? という感じではありますが。今までずっと聞こえていた、明らかに超感覚で聞こえるピーという高周波のナーダ音とはまた違った雰囲気がします。

その後、瞑想中に脈拍の音の出所を探ってみましたがどうも、先日「うなじ下(大椎?)」にて熱と共に脈拍が波打った場所でまだ少しその活動が続いていてそこから脈拍の振動が頭にまで伝わっている気がしていました。確証はなくて、なんとなくですが。

この「太鼓のような音」はハタ・ヨガ・プラディーピカでしか見かけたことがありませんので、マイナーな音なのかもしれません。なかなか微妙です。心臓の鼓動音をナーダ音と言って良いものかどうか。広義には含んでも良いのかもしれませんが、肉体の音で聞こえる音であるならば基本的にはナーダ音ではないですよね。

・・・ふと気付けば、ハタ・ヨガ・プラディーピカではこの音がナーダ音だとは言っていませんね。単に、そう言う音が聞こえるとだけ書いてありますので、肉体の音だと解釈しても良さそうです。どうも、ナーダ音と言う定義に固執していたのかもしれません。もっと柔軟に読み解くべきですね。まあ、こう言う記述のほとんどはナーダ音と思った方がいいと思いますけど、例外もあるのかもしれない? ということで。

■瞑想の質の変化
竜巻の経験の前でも雑念はかなり減っていて雑念が出ても影響されることはほとんどなくなっていたのですが、竜巻後に瞑想したところ、瞑想が深まるにつれて、雑念が出てきても「ひらがな2〜3文字目」には砂上の文字が消え去るが如く雑念が発散して消えてしまい、雑念が文章として成り立つ前に雑念が消え去ることが多くなりました。意識的に何かに意識して雑念というか思考をしようと思えばすることができるのですが、意識的にではないただの雑念であれば雑念が出てきても上記のようにひらがな数文字目からバラバラになって発散して雑念が消えてしまうようになりました。瞑想の質が深まった、とでも言うのでしょうか。瞑想がある程度深まった時のお話ですが。なんだか不思議な感覚です。念の為補足しておきますが、もちろんこれは「大体の雑念は」と言うことで、多少長引く雑念や、もっとすぐに消える雑念もありますので、全部が全部きっちり2〜3秒で消えるわけではありません。大したことのない雑念はかなりすぐに発散するようになった、と言うところです。

この状態こそが瞑想において「集中できている」状態だと言う気がしました。すると、瞑想中にどこからか声がして「ダーラナだ」と言われた気がしました。恐らくは私の内なるガイドの声です。このダーラナ(集中)というのはヨーガ・スートラの八支則の段階の1つで、ディヤーナ(瞑想)の1つ前の段階になります。どうやら、今まで私は瞑想していたつもりだったのですが、実はダーラナ(集中)にすらまだ至っていなかったのかもしれません。私が瞑想していたつもりだったのはヨーガ・スートラ的にはディヤーナではなく、ダーラナでもなく、プラティヤハーラだったのかもしれません。

これらの説明で「ダーラナ・ディヤーナ・サマーディは一続きのものです」みたいな話を昔から聞いていて、「そうなのかな。多分そうだと思います。頭では理解できます」みたいな漠然とした感じで今まで考えていたのですが、実際にこのダーラナの状態を体験してみると、それは正に「深い状態に引きずり込まれてゆく」「雑念がプチプチと千切れてゆく。雑念が自動的に自ら崩壊してゆく」「自動的に瞑想が深まる」と言う種類のものでしたので、今では、確かにその通りなのだなと思います。きっと、そのことが体感できていないうちはダーラナにすら達していないのかもしれません。今までは、ダーラナというのは単なる1点集中かとばかり思っていました。確かにこの状態を1点集中と言えなくもないですが、心が1点集中すると言うよりは心の雑念が晴れて心が揺れ動くことがなくなることを1点集中と言っているのか、あるいは、心が揺れうごかなくなった状態で魂の意識が揺れ動くことがなくなる事による意識の集中(心の集中ではなく)のことをダーラナと言うのであれば、それは確かにそうかなと言う気もします。まあ、これはただの推測ですが。

となると、ヨーガ・スートラのダーラナやディヤーナは既に原始仏教で言うところの第一禅定に相当するのかもしれないとふと思いました。てっきり今まではヨーガ・スートラのサマーディがそのまま原始仏教の禅定や三昧に相当するのかとばかり思っていましたが・・・。もちろん定説はサマーディが三昧や禅定なのですが、 流派によって少し違うのでしょうかね。 以下のような感じでしょうか?

  • プラティヤハーラ 雑念を受け流す努力をしている段階。(私見では)この段階でも時々第一禅定(思考が残っている集中状態)や第二禅定(いわゆる無の状態)に至る。(私見では)いわゆるゾーン(ZONE)による集中力向上&判断力向上もここ(これ以上集中してしまうと思考も止まってしまうためここが限界)。マニプラ・チャクラが優勢。(関連記事を昔書きました
  • ダーラナ (私見では)第一禅定の安定化、第二禅定の深まり。アナハタ・チャクラが優勢。ヴィシュッダ・チャクラも活性化。一般的にはこれは「集中」の意味。
  • ディヤーナ おそらくはアジナ・チャクラが優勢(未体験)。一般的にはこれは「瞑想」の意味。
  • サマーディ 定説ではこれだけが禅定および三昧。おそらくはサハスララ・チャクラが優勢(未体験)
上では「ダーラナ・ディヤーナ・サマーディ」の3つは一続きのもので瞑想が深まるにつれて「段階的に移行」すると言うお話でしたが、ヨーガではもう1つ「サムヤマ」と言う言葉があって、サムヤマは上記3つが「同時に起こる」とされています。これは、瞑想が深まるにつれて最初はダーラナだけ、次はダーラナとディヤーナ、次は3つ全てになる、と言うことだと理解しています。ちなみに、私がインドのリシケシでヨガ哲学のヴェーダに詳しい先生に聞いたところではその前の段階も入れて「プラティヤハーラ・ダーラナ・ディヤーナ・サマーディ」の4つが一続きで、この4つが瞑想において連続して起こると言う説明でした。原始仏教では感覚および心理学的視点が導入されていて、別ページに書きましたように「どのように感じるか」で禅定などを判定しますので、実際、ヨーガ・スートラのこの分類にきっちり当てはまらないような気がしています。きっと、過去の人が分類した時にヨーガ・スートラと原始仏教の中身を分類した時にサマーディを禅定に当てはめたのでしょうが、どうも、微妙に視点が違うような気がしています。

以下のような表現がわかりやすいかもしれません。なんとなくですけどね。

  • 原始仏教の第一禅定 プラティヤハーラ熟練度50%、ダーラナ熟練度20%、ディヤーナ熟練度10%、サマーディ熟練度5%
  • 原始仏教の第二禅定 プラティヤハーラ熟練度80%、ダーラナ熟練度50%、ディヤーナ熟練度30%、サマーディ熟練度20%
  • 原始仏教の第三禅定 プラティヤハーラ熟練度100%、ダーラナ熟練度80%、ディヤーナ熟練度50%、サマーディ熟練度30%
  • 原始仏教の第四禅定 プラティヤハーラ熟練度100%、ダーラナ熟練度100%、ディヤーナ熟練度80%、サマーディ熟練度50%
これは、通説を覆そうとしているわけではなくて、通説はサマーディが禅定や三昧のままで良くて、私はただ単に、この種のお話は内的感覚が重要になってくるので書物に書いてあることを鵜呑みにするのではなくて一つづつ自分の感覚と比べながら言語あるいは理解そのものに落とし込んで行くのが重要だと思っているだけであって、上記はいわば自分の理解を深めるための言語化なわけです。気付きの内容を確認して理解を深めるための言語化とも言えます。ですから、通説は通説のままで良くて、ただ単に、自分自身の中の真実を積み上げていっているだけなのです。内的な理解が深まりさえすれば良くて、通説がどうであろうとあまり関係がありません。通説はどこかの学者かスワミにでも任せておけば良いと思います。最終的な理解は通説と同じになるかもしれませんし、それであっても全く問題ありません。

と、言うことで、これからの瞑想が益々楽しみです。

■シャクティ・チャーラナ・ムドラー
竜巻の経験の数日後、軽くシャワーを浴びていたら急に「シャクティ・チャーラナ・ムドラーをしましょう」と心に指示がありました。何でしたっけこれ・・・ と思って調べましたところ、「続・ヨーガ根本経典(佐保田 鶴治著)」のゲーランダ・サンヒター(P73, 3章49~59)とシヴァ・サンヒター(P236, 4章105~109)に記載がありました。どうやらクンダリニーを動かすための行法で、これを行えば寿命が延びて病気がなくなり、ヨーガで言ういわゆるシッディ(諸能力)を得るとのことです。ただ、その内容はなかなか解読が難しそうです。

これですが、考察が「クンダリーニ・ヨーガ(成瀬 雅春著)」に詳しく解説が載っていました(少し番号が違いますが同じ内容のようです)。成瀬先生の手法では、ムーラバンダを中心とした技法になっています。同書を読むと、なかなか大変なようなので、ちょっと様子見ですかね。一人で試すのは気がひけると言うか、一人ではしないでくださいと注意書きがありますし。

■うなじ下(大椎?)と「エネルギーの漏電」
シャクティ・チャーラナ・ムドラーを確認するために「クンダリーニ・ヨーガ(成瀬 雅春著)」を読んでいてたまたま発見したのですが、背筋でエネルギーが動くのは「エネルギーの漏電」だそうです。ただ、私の場合は「動く」わけではなくて、ただ単にうなじ下(大椎?)が熱を持ってずっと熱いだけですので、これが同じことを言っているかどうかはわかりませんが、一応、気に留めておきます。