[風のルンの竜巻の経験から7日後]
■瞑想の深まり。ディヤーナへ?
上記のように、竜巻の経験の直後から瞑想の質の変化が起きて瞑想が深まるようになっていたのですが、1週間後くらいから更に変化がありました。竜巻の直後は雑念はまだ浮かび上がっていて、浮かび上がるけれども「ひらがな3文字」くらいで発散して消えてなくなるような状態でした。それはそれで以前と比べると瞑想の質は深まっていたのですが、ここにきて、風のほとんどない水面のような、時々、アメンボ(と言っても通じないかな? 水面を移動する小さな虫です)が作り出す波紋が広がる程度の静かな瞑想に変わってきました。
何が変わったのかと言えば、簡単に言えば「瞑想が深まった」と言うことなのですが、どのように深まったかを観察してみると、その鍵は「感覚を観察すること」だったように思います。雑念が上がった時に雑念を観察すると多少ながら心に波紋ができます。雑念を観察する場合は雑念に反応しなくても雑念が行き過ぎるまで雑念そこにある状態になります。はたまた、ナーダ音に集中する瞑想の場合は心は落ち着いているのですが雑念は同様に行き過ぎるまでそこに存在しています。しかしながら、「感覚」を観察すること、具体的には眉間や頭の冠状にピリピリと帯電している感覚を観察していると、何故かは分かりませんが、前に書きましたように「ひらがな3文字」くらいで雑念がバラバラになって消えてなくなります。1週間前は単に瞑想の深まりかと思っておりましたが、必ずしもこのように「ひらがな3文字」で雑念がバラバラに消えるわけでもなく、雑念がバラバラに消えるための条件は何かと思って色々試したところ、どうやら「感覚」を観察すると雑念がバラバラになることに気が付きました。ただし、竜巻の経験の前は同様に感覚を観察してもこんな感じに雑念がバラバラにはならなかったので、何か前提条件があるのだとは思います。竜巻直後は「うなじ下(大椎?)」に脈拍の感覚がありましたが次第にその位置が上がってきており、1週間後には両耳の中央および眉間に近いところまで脈拍の感覚が感じられるようになってきていました。眉間の少し中で脈拍を感じるのは以前はなかったことですし、と同時に、冠状に頭をぐるりと帯電しているような感覚も出てきました。その眉間の脈拍と冠状の帯電を観察していると雑念がバラバラになるのです。これは不思議です。
そして、瞑想中にそのようにして雑念がバラバラになるのをしばらく観察していたら、やがては雑念のない時間が次第に増えてゆきました。風の吹かない水面の状態です。その時は、私の意識は眉間の脈拍をただ観察し続けています。すると・・・、急にどこかから意識が飛んできました。「定のある・・・」「(それが)ディヤーナだ」。ディヤーナとはヨガ・スートラの1つの段階で、邦訳は「瞑想」ですけれども、これは割と狭義の瞑想を意味します。世間一般で言われている広義の瞑想は座って目を瞑ることだったり色々意味しますが、ここで言うディヤーナは精神がそれなりに安定した状態を指します。私はこのディヤーナを本来の意味で初めて体験したのかもしれません。「定」は広義ではサマーディのことも意味したりしますがここでは単に心が静まっていると言うくらいの意味だと思います。とは言っても瞑想中のインスピレーションですので間違っていることも多々ありますので「そうかもしれない」と言うくらいの仮定にはなりますが。瞑想中の直感はその正しさを後から確かめる必要があるのですが、まあ、当たらずとも遠からずかなと言う感じはします。
ここで、私は「感覚を観察」してみたのですが、実はそれは原始仏教のヴィパッサナー瞑想に発想を得ていて、今まではヴィパッサナー瞑想の「感覚を観察」することがそれほどピンときていなかったのですが、こんなにも絶大な効果があるのならばこれは良さそう、と今回思いました。ただ、前提条件が厳しそうな感じはします。
■脈拍の場所が頭の下の方に移動
1週間経ちましたが、前に書いた「耳たぶが波打って音を聞いている」感覚はそのまま残っているのですが、音の出所が「うなじ下(大椎?)」からちょっと上がって頭の下の方に移動したような感じです。聞こえ方としては耳の周囲から聞こえているような気もするのですが脈拍の感覚は頭の下の方にあります。様子見です。