クンダリーニ経験後、クンバカが苦手に(同テーマ&時系列の前記事)

風のルンの竜巻とアナハタ・チャクラ

2019-07-05
トピック:スピリチュアル: ヨーガ

この記事は 「アナハタ・ナーダの聖音とクンダリーニ」の続きです。

2019年7月5日、ちょっとしたクンダリーニっぽい経験がありました。
実は今、足首を骨折していますので家でストレッチしたりしてリハビリ中なのですが、今朝もストレッチした後にうとうとして横になっていました。

すると、ふと、夢うつつの状態で、成瀬雅春先生というヨーガ行者のおじいちゃんが夢に出てきて腰をグルグルうずまき状に回しているではありませんか。実際に会ったことはないですけど、「あれー? この人は確か・・・」と思っていたのですが、何故か真似しようと思い始め、自分も腰を動かそうとしたのですが寝ているので腰が動きません。夢の中ですけどね。一応、体は横に寝ているので体は動かないのです。夢の中ですから動いても良さそうなものですけど。 そこで、どーしようかなー と思ったらふと閃いて、指を使って水面にうずまきを作るかのように(自分を中心に)その指(確か右手の人差し指?)を自分の周囲にグルグルと回し始めました。肉体の手は寝たままです。というか、具体的には、体の左側を下にして横に向いた寝返りの状態のままです。確か最初、ちょっと左回りを試したら何も動かないので、それじゃあ、ということで、反対向きの右回りで指を動かし始めました。すると、体の周り、特に腰の周りに竜巻が起こり始めました。なんだこれ! あくまでも夢の中のお話です。指はこの時もずっと回転をしてうずまきし続けています。それは、体の周囲に「風」とでもいうような軽い空気の塊の流れができて、まるでうずまきです。その作られた竜巻をどうしようかなーと思って、試しに上の方にちょっと指を動かしてみると、竜巻が上に動くではありませんか! とりあえず、腰から胸のちょっと下まで動かしました。更に上に上げるのは最初ちょっと躊躇したのです。というのも、こういうのは基本的に「背筋をまっすぐ」にしていないと危険だと思うので、今は寝返りして横向いているから体がまっすぐでないかもしれないので、何かおかしなことになったら嫌だから一旦体の向きを変えるべきかな? とも思ったのですが、どこからか意識が「いいや、上げちゃえ」と決断して、と同時に、更に指を上に動かしたら胸を通過して喉を通過して頭のあたりまで竜巻が来たところで頭の周囲で発散して消えました。特に変なことにはなっていない模様。危険性はなさそうです。竜巻が舞っている間は音がちょっとだけしていて「シュルシュルシュルシュル」って感じだったような? ここでさすがに目が覚めて、「うーん、夢だったのかな?」と思ったら、胸のあたりにちょっとだけジンジンする感覚が数分残っているのと、背筋の上の方、うなじのちょっと下の突き出た骨のあたりの血液がドクドクと波打っていました。うなじの下の血液がドクドクする感覚は、昔クンダリーニ経験(第2回目)をして腰の後ろのちょっと下側あたりで血液がドクドクした感覚に似ていましたので、その時に比べるとずっと弱い感覚ではあるのですが、やはりこれはクンダリーニに関連した経験だったのかなー? と、とりあえずは解釈することにしました。前回のに比べると随分と小さなパワーでしたけどね。シバナンダ先生がおっしゃるように、何度も何度もクンダリーニを上げてアジナ以上に保つことができるようにならないといけないのかもしれない、と、ふと思いました。であれば、今回は全然保てていないです。とは言いましても、コツと言いますか、渦巻きの使い方というか作り方の感覚がちょっと気付けたので良かったかなと。前記事に詳しく書きましたが前回は自分の体が全身で左回転したのですが、今回は体は静止したまま指で右回転の渦巻きを作った、という違いがあります。どちらも、パワーの流れる方向は実は同じなのかもしれないです。体が左回転ということは周囲のパワーは右回転してるわけですし。実は同じことなのかも? 面白いです。前回はクンダリーニ後にとても暖かかったのですが、今回は小さい体験ですし、ほとんど前後で差はない感じです。

■風のルン
直感ではこれは「風」のエネルギーだと思いました。「風」というとアナハタ・チャクラのエネルギーですよね。アナハタでジンジンした感覚はそういうことだったのかもしれません。ここでいう「風」とはチャクラの属性の「風」の意味です。ヨガの5大元素:地・水・火・風・空はそれぞれチャクラに対応していますけれどもアナハタ・チャクラは風(Air)です。

夢の中では「風のルン」って何回か誰かが私に語りかけていました。「竜巻」というのは私の感覚が解釈したものですから、元々のこの現象の呼び名は「風のルン」が正しいのかもしれません。「ルン」ってなんぞや? どこかで聞いたことあるけれども・・・ と思って調べたら、チベットにおいて生命エネルギーのようなものの呼び名が「ルン」で、その意訳が「風」とのことです。こんなこと全く知らなかったですよ! 気功で言うところの「気」やヨーガでの「プラーナ」に近いもののようです。

■うなじ下はどのチャクラと関係?
最初、うなじ下はアナハタともヴィシュッダともちょっと離れているのでよくわからない感じでした。ヴィシュッダ・チャクラというと「喉」かと思っていましたし、アナハタ・チャクラは胸ですから。ヴィシュッダ・チャクラの場所ははっきりしていて、(今日のことではなくて)以前から度々ジンジンと感触があるのは喉仏のあたりでしたので、反応している喉仏のあたりがヴィシュッダ・チャクラなのかなあと漠然と思っていたのです。ですから、背筋のうなじ下はヴィシュッダでもないしアナハタでもないし、何だろう・・・ と思っていたのです。チャクラは背骨のスシュムナ沿いにあるのですから、これこそが実はヴィシュッダ・チャクラなのかもしれない? と、最初は仮定してみたのです(すぐに認識改めますけど、この時点では)。感覚と先入観でヴィシュッダ・チャクラは「喉」だというイメージが色濃くあったので何か最初はわからなかったのですが、うなじ下がヴィシュッダ・チャクラだと考えると一応は筋が通っています。まあ、書物によって図が色々あって、神智学は喉仏がヴィシュッダだったりしますがヨーガ系の書物を改めてみてみたら喉仏よりもずいぶん下のあたりがヴィシュッダなんですよね。この時点では、「先入観で喉仏と思っていただけで、実はうなじ下がヴィシュッダだったのかも?」という感じがしてきました。 → 後ほど考え直し。「うなじ下」とチャクラとの関連はとりあえず考えないことにしました。

ちなみに、各書にあるチャクラの図は例えばこんな感じになっています。

↑ シバナンダ先生の「ヨーガとこころの科学」にはこうなっています。こう見ると、喉仏のようにも見えますし、その裏側の「背筋のうなじ下」こそがヴィシュッダなのかも? という気もしてきます。


↑ シバナンダ先生の弟子であるヴィシュヌデバナンダ先生の「Meditation and Mantra」に記されている図も同じ感じです。


↑ こちらは神智学の「神智学大要 第1巻 エーテル体(アーサー E.パウエル 著)」にある図です。これですと喉仏なのが明らかですね。


↑ これは神智学の「チャクラ(C.W.リードビーター 著)」にある図ですが、一番しっくりきます。背筋のうなじ下からアナハタ・チャクラに伸びています。今までアナハタ・チャクラの感覚はあるようでないようで、あまりちゃんとしていなかったのですが、どうやら、うなじ下のナディ(エネルギーの通路)の詰まりが解消されてアナハタまで通じるようになったと解釈するのならば全てがしっくりきます。まあ、まだ当日ですからそれほど変化はないですけど。

うなじ下のエネルギー・ルート(ヨガで言うところのナディ)が開いたとすると、その先に繋がっているアナハタ・チャクラとヴィシュッダ・チャクラの両方に関係している、と考えるのも理にかなっている気がしてきました。これが最終的な理解かもしれません。まだ様子見ですが、喉のあたりのヴィシュッダ・チャクラも以前よりザワザワした感覚が続くようになりましたので、影響している気がします。以前は、時々ザワザワするだけでしたが今はザワザワが続いている感じですので(少なくともこれを記入した数日後までは)、変化を感じます。アナハタも影響を感じますので、ナディが開けてアナハタとヴィシュッダが変化した、と言うところでしょうか。

■許す瞑想
そう言えば竜巻の当日は普段と違う事があって、普段私は沈黙の瞑想かナーダ音に集中する瞑想を行なって静寂に入るのですが、その日に関しては、足首の骨折をしたのはカルマだったかもしれないし、最近はちょっと雑念も出てきているので、カルマ解消のために今日は「許す」瞑想をしようと思って、「〇〇を許します。△△を許します。あの人(具体的な人)を許します。あの人(具体的な人)も許します。」と念じながら、昔の記憶を頼りに色々なカルマというか、まだ残っている雑念の元に対して「〜を許します」という瞑想をしたのでした。私は普段この種の瞑想はしないので、今朝に限ってそれが違う点でした。それがどの程度これと関係があるのかわかりませんし、たまたまかもしれませんけど。上の経験は瞑想中に起こったことでなくて、瞑想の数時間後に起こった事です。この瞑想をした時は、普段の瞑想と違って静寂さこそ足りませんでしたけど深いところにある何かシミのようなものが一つづつ解消されてゆくような感覚を感じました。瞑想中なのでなんとなく、の話ですけど。

これがどれだけ影響していたかは実際のところわかりませんが、きっと多少は影響していたような気がしますし、だとすれば、意外に変化というものは自分の意図によってすぐに作り出せるものなのかもしれないと思いました。長い間待ったり修行したりする必要がある気がしていても、実際のところ、割とすぐに変化できるのかもしれません。これまた、なんとなくそう思った、という仮説の話ですが。

■「許す」ことの意味
今日まで、私はもしかしたら「許す」ということの意味をきちんと理解していなかったかもしれないです。許すとは頭や心で理解することではなく、文字通り、その人に対して反感を「全く」抱かなくなることであり、「許す」とは完全なる平穏な心が伴うものなのかな、と。であれば、例えばキリスト教などで許すお祈りがあったとして、その本当の意味はこういう完全な許しなのかな、と。

■アナハタ・ショック
アナハタ・チャクラにあるヴィシュヌ・グランティが破れる時は俗に「アナハタ・ショック」と呼ばれるような強烈な衝撃があると聞いており、人によっては口から白い泡を吹いて倒れたりするらしいので、私の場合はそんな激しい衝撃は全くと言っていいほどなくて、アナハタがジンジンしたのとうなじ下の血液が強く脈打つ以外は別に普通な感じです。人によるのか、それともまた違う現象ですかね。単なる夢かもしれないですけど。とりあえず様子見です。半日後でも多少は胸のあたりにジンジンするものが残ってるくらいですね。倒れるほどでは全くないです。

そういえば、昔から何度か、このアナハタ・ショックに関して私の内なるガイドが瞑想中に教えてくれていたことを思い出しました。アナハタ・ショックをしてしまうと時には内部の微細な機関を傷つけてしまって、事と次第によっては今生での霊的な成長ができなくなるほどのダメージを受ける事があるのでアナハタ・ショックのような過激な方法でヴィシュッダ・グランティを突き破るのは好ましくない、と教えてもらっていたことを思い出しました。まあ、瞑想中の事ですのでこれが絶対的に正しいとは限りませんけど、たぶんそうかなあ、と思っています。ですから今回、ちょっとチクチクするくらいでさほどショックなしに切り抜けられたのだとしたら良かったと思いたいです。


[2日後 2019年7月7日]

■呼吸がしやすくなりました
別記事で書きましたが、クンダリーニ(2回目)経験後から呼吸が浅くなり、クンバカが極端に苦手になっていました。同様に、以前は自動的に息が止まるケヴァラ・クンバカという自動的なクンバカ(息止め)が瞑想中や休憩中に普通に起こっていたのですが、クンダリーニ(2回目)以降はケヴァラ・クンバカも起こらなくなっていました。ケヴァラ・クンバカは落ち着いた静寂な心があると自動的に起こるとされています。ずっと息が止まっているわけではなくて、必要とあれば自動的に呼吸が再開されるような種類のものです。私の場合、ヨガを始めてしばらく経った後、ナーダ音が聞こえ始めた頃だったか、その前後くらいから心が落ち着いてきて自動的に息が止まるケヴァラ・クンバカがよく起きていました。その後、クンダリーニ(2回目)によってパワーは向上してポジティブになったので心は基本的に落ち着いてはいるのですが、何故か呼吸だけは浅くなってケヴァラ・クンバカが起こらなくなったのです。

ですが、今日のこの経験後から急に呼吸が深くなり、クンバカもかなりしやすくなりました。まだ当日なのでケヴァラ・クンバカとまでは行きませんが、かなり呼吸が違うのを感じます。昨日までは、胸のあたりが詰まっていてそこに呼吸が入らない感じでしたが、今は胸いっぱいに息を吸う事ができます。こんな急に変わるものですね・・・。不思議です。

■息が浅いのは「何かが詰まっている」状態?
別記事に追記しましたように「器÷エネルギーの強さ=クンバカの時間」の関係があるようで、第2回目クンダリーニではエネルギーが強まって息が相対的に浅くなってクンバカが短くなりましたが今回は器が大きくなって息が深くなってクンバカも長くなった感じです。

スピリチュアルでは息が浅い状態は「何かが詰まっている状態だから詰まりを取る必要がある」と言われていて、基本的な意味は「詰まっていなかったものが詰まってしまったから取り除く必要がある」ですが、それに加えて上記の計算式の「器」と「エネルギーの強さ」も加味して解釈すると「エネルギーが強まったので器が小さく感じるようになってしまったから器を大きくする必要がある」「エネルギーが強まったので今まで意識していなかった場所に詰まり(ブロック)があることが分かった(もともと詰まっていたが気付かなかった)。新たに判明した詰まり(ブロック)を外す必要がある」という意味にも解釈できそうです。それはまるで、気球に空気がちゃんと入っていなかったのに気付かなかった状態から改めて空気を入れてちゃんと膨らませて布が伸びること、あるいは、風船にちゃんと空気が入っていなかったのがもっと空気を入れることでゴムの端っこも伸びてハリが出るようになったようなもの、とでも言えるでしょうか。

■ケヴァラ・クンバカと背筋をまっすぐにする姿勢の関係
呼吸がしやすくなったのと同時に、再度、ケヴァラ・クンバカ(自動的に起こる息止め)も時々起こるようになりました。時には、起こりすぎて息がずっと止まってしまい、意識的に吸気をしてあげなくてはいけない時があって、そんなときは「面倒だなあ」と思うくらいになりました。でも、同じケヴァラ・クンバカでも自動的に無意識に吸気できている時もあって、意識的に吸気をしないといけない時とは何が違うのかなあ・・・と思っていたのです。観察したところ、どうやら背筋がまっすぐのときは呼吸が自然にできており、背筋が曲がっているとケヴァラ・クンバカの後の吸気がうまくできないことに気付きました。瞑想や普段の生活で背筋をまっすぐにすることがこれほどまでに呼吸に影響するなんて、以前はそんなことありませんでした。敏感になったのでしょうか? このあたりは、ちょっと様子見です。それにしても、ヨガなどで「背筋をまっすぐ」という教えにこんな微細な影響があったなんて驚きです。てっきり、スシュムナを真っ直ぐにしてクンダリーニ等のエネルギーを通りやすくするくらいの意味なのかなと思っていました。それだけではなかったのですね。まあ、あくまでもそんな気がするだけですが。

■ケヴァラ・クンバカと「枕」の関係
寝る時もケヴァラ・クンバカが自動的に起こるのですが、枕をして上を向いて仰向けで寝ると、上に書いたのと同様、吸気がうまくできません。横になって背筋をまっすぐにすると吸気が問題ないのですが仰向けにするとケヴァラ・クンバカの後の吸気がうまくできないのです。これは、第2回目クンダリーニ前に起きていたケヴァラ・クンバカのときは問題なくて、今回初めて問題になりました。一体どうしたものか・・・ と思ったのですが、試しに枕を取って布団の上にそのまま寝てみたところ吸気がうまくできるようになりました。枕をしていると少し猫背になってしまっていたのかもしれません。枕なしにすることで背筋がまっすぐになったのかもしれないです。今まで布団の上にそのまま寝ると調子が悪くなってしまっていたので枕なしで寝るのはあまりしたことがなく、せいぜい薄い枕を試すくらいだったのですが、どうやら今日のところは問題なさそうです。これもちょっと様子見ですね。過渡期だけの問題かもしれませんし。まだ数日なのでこれから様子を見ます。

■アナハタ・チャクラが開いた?
これがいわゆる「開いた」状態かどうかはわかりません。様子見です。前よりは胸に空気が入りやすくなりましたので、一応少し開いたと言えなくもないです。一気に開くというよりは徐々に動き出すようですから、最初はこのくらいでもいいのかもしれません。

■楽観的でポジティブであるべき
ヨーガの本山博先生は「密教ヨーガ」にて、サッチャナンダの言説を引用しつつ「アナハタの目覚めを志す人は、希望に満ちた楽天家であるべき。」 「一切を善とみなす態度こそ、アナハタを目覚ます行法の1つ」と述べています。

■アナハタ以上に至ればカルマに従わない
「密教ヨーガ(本山博著)」によると、マニプラまではカルマに影響されていますが、アナハタ以上に至った人は基本的にカルマには従わないと言います。アナハタに至ればカルマが現実であるのを知ってはいるが超越して自由でいられる、と言います。その点がマニプラまでとアナハタとの大きな違いとのことです。マニプラは情を司っており基本的にはカルマに支配されているものの意思の力でそれをコントロールすることができます。一方、アナハタになると基本的にカルマに束縛されないとのことです。

このことは、上記のように私が過去のトラウマに対して「〇〇を許します」と瞑想した時の感覚の違いに現れていると思います。先日の竜巻の経験の前では、過去のトラウマを思い出す度に多少ながら神経にショックが走っていました。このトラウマは子供の頃から蓄積されていたものであり、物によっては何十年も度々思い出してきたトラウマでした。ですから、なるべく思い出さないようにして、思い出したとしてもそのトラウマの反応を自分で律していました。なるべく早く気付いて律するのが基本でありました。最近は随分とトラウマのショックが小さくなってきたな、と思ってはいたのですが、それでもゼロではありませんでした。

それが、先日の竜巻の後は、トラウマのことを思い出してもショックが起こらないようになりました。ショックがゼロでした。しかも、全てのトラウマに対して。いくつもトラウマがあった筈ですが、ショックが起こらないのが不思議でしたので、試しにその他のトラウマも意識的に色々と思い出してみたところ、どれもショックが起こらなかったのです。確かに、ほとんどのトラウマは月日が経つにつれて段々と小さくなってはいましたがそれぞれのトラウマは多少ながら残っていましたので、先日の竜巻の後にその全てのトラウマに対して全く反応しなくなったのが不思議です。

まあ、ゼロとは言いましても、トラウマ的な記憶を思い出しても反応がゼロという意味で、トラウマの元になる記憶は残っていますので時折その記憶は奥底から浮かび上がってきます。その記憶の浮上は依然として時々ありますので、それはさほど変わりがありません。ただ、その記憶が浮かんだ時の反応がゼロになった、という意味です。でも、よく観察してみるとゼロは言い過ぎかもしれないと言う気もします。先日の竜巻の前後で10分の1以下になってほとんどゼロに近い、というくらいが正しいでしょうか。意図的にこのトラウマを呼び覚まそうとしない限りは特に問題ない程度にまで反応が下がった、というところでしょうか。

実はカルマというのはヨーガ的にはサムスカーラ(サンスカーラ)という微細な「印象」であって、印象がカルマとして輪廻転生に導きます。過去のトラウマがあるが故に同様の問題にも引き込まれますし、過去の喜びを覚えている、すなわち「印象」を覚えているからこそ未来の喜びを求めてカルマが発芽して新たな喜びや苦しみを生み出すわけですが、トラウマがなくなったということは、それはすなわち「印象」が消え去ったということであり、記憶はあるものの「印象」がなくなりましたので、少なくともトラウマに関するカルマはかなり解消されたのかな、と解釈しています。補足しますと、これはあくまでもトラウマに対してのことであって、他人に嫌なことをもし言われたら不愉快というほどでもないにせよ多少は面倒に感じると思います。でも、その程度です。

最初アナハタの説明を読んだときは「ふうん」と思っていたのですが、実際こうなってみると随分と状態が違うものだと思います。確かに、アナハタに関してはカルマを超える部分が多いにあるように思います。

そうは言いましても、思考のパターンと言いますか「癖」が多少は残っていますので、トラウマの反応はほとんどないにせよたまについネガティブに考えそうになることがなくはないです。そこは流石にまだ成長の途中のようです。そんなことがあったとしても以前より遥かにコントロールしやすくなっていますので、昔の思考パターンの癖が出そうになってもその度に「おっと、ネガティブ思考の癖が出てしまった。これも許します。これも許します。」と言ってあげることにしました。記憶はまだありますし癖もありますし思考パターンも割とそのままなのですが「印象」だけが消えてトラウマがほとんど消えただけなので、思考パターンの癖を戻すのはまだ続けないといけないようです。まあ、それだけでもかなりの進歩です。

ちなみに、第2回目のクンダリーニでは光の筋が2つ上がったのですが、その時はエネルギーの向上・生命力のアップが起こりまして、ネガティブも一時的にほとんど消えたのですがそれは生命力アップによるネガティブの解消でした。第2回目クンダリーニ経験の直後が最もエネルギーが高くてその後徐々に生命力が下がって行ったのですが、生命力が下がるにつれてネガティブが少し出てきていました(それでも昔より生命力が高いですしネガティブは少ないですが)。その、残っていたネガティブがこうして竜巻の経験を経ることによって更に劇的に減少した、というところです。

ちなみに、同書およびいくつかの書物、確かサッチャナンダの書物にも他のヨーガの書物にも書いてあるアナハタに関する有名な警告があります。
・アナハタを目覚めさせると思考に基づいて良いこと悪いこと全てが実現するので、ポジティブに考えるべきである。これが、「ポジティブに考えるべき」という事項に対する密教的な解釈のようです。

同書には、サッチャナンダによる別の警告も書いてあります。
・クンダリーニがマニプラまで上がり、その後下がってしまっても再度ヨーガ行などで上げることができる。しかし、一旦アナハタまで上昇してからネガティブな思考のためにムーラダーラまで下がってしまうと再び上昇させることは非常に困難。

■熱から暖へ
第2回目のクンダリーニではまさに「熱」を強く感じていました。その後、次第にその熱が下がってきており、私はそれがエネルギー低下と解釈していました。下がってきたと言ってもそれ以前よりはエネルギーレベルが高いのですが、それでも下がっている気がしていました。その根拠は主に「熱」を基準にしており、ポジティブさの度合いも判断基準でした。場所は、お腹のあたりを中心に熱がありました。

おそらく、この理解は確かにその通りでエネルギー低下もあったのだとは思いますが、変化はそれだけではなく、エネルギーの質が同時に「熱」から「暖」に変わったこともあるのだと最近は理解するようになりました。

「ヨガと冥想(内藤 景代 著)」には、ムーラダーラからマニプラまでは「熱」で、アナハタが「暖」で、ヴィシュッダからサハスララが「冷」と言う分類をしています。

まさにこれで、第2回目のクンダリーニは主にマニプラまでの経験だったように思います。ムーラダーラのクンダリーニが活性化し、それが主にマニプラにまで上がってエネルギーレベルが上昇してポジティブになったのだと理解しています。その時は、エネルギーがアナハタ以上に上がろうとしてもアナハタに詰まっている何かがそれを遮っているような感覚がありました。アナハタにエネルギーが上がると記憶の奥底に眠っているネガティブが出てきてエネルギーの上昇を妨げており、アナハタにエネルギーが行くことは多少あったとはいえ基本的にはアナハタの手前でエネルギーが遮られていたように思います。

それが今回の第3回目のクンダリーニのよってその障害が取り払われ、アナハタまでエネルギーが通ったように思いますが、それは第2回目のような「熱」のエネルギーというよりは、それよりも「暖」というくらいの温度の違いを感じます。基本的には内的な温度の感覚で肉体的な体温ではないのですが、第2回目の後は熱っぽくてポカポカして暑いくらいだったのが、最近はそこまで暑くはありません。それを言葉で言い表すと「暖」とでも言えるでしょうか。場所としても、以前と違って胸のあたりを中心に「暖」があります。

■時系列
前回の形式で、今までの流れを時系列で記載しておきます。

  • 2015年1月 インドのアシュラムで生まれて初めてのヨガ 2週間 合宿。その後しばらくブランク。
  • 2016年10月 日本の近所でヨガ再開。1週間ごと1回90分
  • 2017年8月 ヨガの頻度を上げ、ほぼ毎日90分
  • 2017年10月 雑念が減ってくる。ようやくヨガをしている感じになってくる。ヘッドスタンドが短時間だがようやくできるようになる。
  • 2017年11月 ナーダ音が聞こえ始める。ヨガをほぼ毎日し始めてから約3ヶ月後
  • 2018年1月 第1回目のクンダリーニ体験。ムーラダーラの電気ショックとアジナ・チャクラの爆発。ほんの少しのエネルギー。
  • 2018年11月 第2回目のクンダリーニ体験。クンダリーニ本体はまだ上がっていない雰囲気。2つの光の筋が上がっただけ。仙骨か尾骨のあたりに熱を帯びて血液が激しく脈打つ。かなりポジティブになる。性欲が解消されて自然な(努力のいらない)ブラフマチャリア(禁欲)の達成。睡眠時間の短縮。声が出しやすくなる。
  • 2019年5月 第3回目のクンダリーニ経験。(五大要素の)「風(Air)」のエネルギーによる竜巻が腰から頭まで上昇。光の筋はなし。竜巻は頭の周囲で発散(頭上および前後左右に発散)。うなじの下に少しの熱を帯びて血液が脈打つ。ハートがジンジン。第2回目ほどの変化はなし。
■風のルンを感じる
今回のでコツがなんとなく掴めましたので、同様に竜巻を起こすことでシバナンダ先生がおっしゃるように何度もエネルギー上昇させることができるのかもしれません。そのうち気をつけながら少し試してみようかなとも思います。

具体的なやり方は、まず、体の腰の周囲に空気というかエネルギーをグルグルと回転させる。意識で手の平を動かすイメージ。体は実際には動かさないで手の平を動かすイメージだけ行います。イメージ上で手の平を腰の少し前方、腰の右、腰の後ろ、腰の左、と言う順番でスムーズにグルグルと回転させて空気というかエネルギーの渦を作ります。5回転くらいさせた後、イメージの手の平が腰の左から腰の前方に来たら次は手の平を胸の前を通って顔の前を通って頭上まで動かすイメージをして、その時、回転している空気の渦を手の平と一緒に上に上げるイメージをします。すると、何かスーーーっとした感覚が胸の中と背筋、頭の後頭部のあたりまで上がって体の中をすり抜けます。まあ、だからと言ってすぐ何かが変わるわけでもないですが、これは有名な瞑想法の「ソー・ハン」や「小周天」とかと似ている気がします。これを誰かにお勧めする訳ではないですけど、私が夢の中で起きたことを再現するとこんな感じです。

■ベジタリアンでないと感じにくい
上のようなイメージをした時に風のルンが体の中を通過する感覚は、少なくとも私の場合はベジタリアン食をしていないと感じにくいようです。私は今は完全にベジ食ではありませんがベジを意識した食事を取っており、ベジ食を続けていた時は感じやすかったのですが、たまにお肉を食べると体内エネルギーが乱されて感じにくくなるような気が致します。ものにもよるのかもしれませんが。肉体を持っていますのでベジ食だけですと栄養バランスを崩すと思いますので雑食を心がけてはいるのですが、少なくとも精神にとってはベジ食がいいような気が致します。


[3日後 2019年7月8日]

■アーランバ段階
「ヨーガ根本経典(佐保田 鶴治著)」に掲載されているハタ・ヨガ・プラディーピカには以下のように記されています。

4-69) [ヨーガの四段階] アーランバ、ガタ、パリチャヤ、ニシパティはすべてのヨーガにおける四つの段階である。
4-70) [アーランバ段階] 梵天の結節が調気の修行によって破られた時、心臓の虚空のなかに生じた、たえなる、さまざまな、装飾具のふれ合う音のようなアナーハタ・チャクラの音がカラダのなかで聞こえてくる。

節とは体に3つあると言われているグランティ(結節)のことで、梵天の結節とはアナーハタ・チャクラのなかにある結節です。ヴィシュヌ・グランティについての考察を話したいのですが、基本的な説明をまずしたいと思います。そうしないと理解が難しいと思いますので。

■グランティ(結節、結び目)
グランティは3つあります。グランティとはエネルギーのブロックあるいはエネルギーが滞っている場所で、サンスクリットで「霊的な結び目」という意味です。ブロックが解かれることでエネルギーが通るようになります。そのことを「グランティを破る」とか「壊す」とか「突き破る」とか「解く」とか言ったりしますが、何かが壊れるのではなく、そのブロックが取り除かれることを意味します。

  • ブラフマ・グランティ 通説ではムーラダーラ・チャクラの中にあります。「密教ヨーガ(本山博著)」によると、このグランティが解かれるとクンダリーニが覚醒するとのことです。ムーラダーラがどこにあるのかは時代によって変わってきたようです。現代での通説はムーラダーラは会陰(男女で若干違う)にあります。ちょっと前の時代に書かれた神智学系の「チャクラ」(C.W.リードビーター著)には、ムーラダーラは仙骨だと記されています。どこかの文献によると、「古代においてはクンダリーニはスワディスタナ・チャクラに眠っていて、その後、ムーラダーラに移動した」と読んだ記憶があるのですが、私はずっとこのことを文字通り解釈していて、時代を経るにつれて人間が変化して、クンダリーニの居場所が文字通り変わったのだと理解しておりましたが、今思えば、真理がそんなに変わるわけもありませんね。これは誤訳かあるいは伝言ミスで、ただ単に、同じ場所を違う名前で言うようになった、と推測すれば筋は通ります。ヨーガの方が歴史が古そうなのに「昔はムーラダーラ」と言うのはよくわかりませんが、著者にとっての昔がムーラダーラと呼ばれていたのかもしれません。クンダリーニの眠る場所は仙骨あるいは尾骨のあたりであることは私の経験上、そうなんだなと思います。スワディスタナ・チャクラがどこにあるかと言うのは「密教ヨーガ(本山博著)」によると仙骨あるいは尾骨のあたりであり、多くのヨーガ行者はこの場所だとしているようですが、スピリチュアル系では違う場所を言っているのも散見されます。ヨーガ的には古代のムーラダーラである現代のスワディスタナにクンダリーニが眠っていて、グランディもそこにある、と解釈するのが良さそうです。ただし、これは私の個人的な解釈ですので、一般的にブラフマ・グランティはムーラダーラの中に眠っていてムーラダーラは会陰ですので、このことを誰かに言っても理解されにくいとは思います。私も他所ではあまりこんなこと言わないと思います。私の個人的な解釈です。
  • ヴィシュヌ・グランティ 通説ではアナハタ・チャクラの中にあります。どこかの書籍では「マニプラとアナハタの間にある」とも書かれてあったかと思いますが、通説はアナハタの中です。さて、ようやく本題。ヴィシュヌ・グランティの場所は通説ではアナハタ・チャクラですが、グランティ(結び目)が解ける時に熱が発生して血液が強く脈打つ、と言うのが私の(勝手な)解釈です。これはどの書物にも書かれてありませんので推測になりますが、熱が発生して血液が脈打つ場所がグランティであるとすれば、ヴィシュヌ・グランティは「(背筋の)うなじ下」にあると解釈できます。ここは、上のチャクラの図で言うとマニプラ・チャクラとアナハタ・チャクラとヴィシュッダ・チャクラの合流地点であり、どこかの書籍で読んだ「マニプラとアナハタの間にある」と言うのも、あながち間違いではありません。通説の「アナハタの中にある」と言うお話も、場所的に近いので、それほど間違いでもありません。アナハタの場所はハートなのはそうだとは思いますが、うなじ下そのものがアナハタではないとは思いますので、通説の「アナハタの中にある」と言うよりは、体感そのままに「ヴィシュヌ・グランティは(背筋の)うなじ下にある」と個人的には解釈することにします。もちろん、他所でこんなこと言わないですけどね。
  • ルドラ・グランティ 通説ではアジナ・チャクラの中にあります。これはまだ未体験です。
「ヨーガ根本経典(佐保田 鶴治著)」によると以下のように諸説あるとのことです。私も幾つかの書物で時々違う場所を読んだ記憶があります。
三つの結節の位置については諸説がある。尾てい骨、心臓、眉間の3所、或いは尾てい骨、ヘソ、ノドの三所、或いは胸部、ノド、眉間の3所

今回の「風のルンの竜巻」では喉に近い「うなじ下」にあるグランティが外れたと仮定すると、そこを何と呼ぶのかは微妙ですが、とりあえずはヴィシュヌ・グランティの結束が外れたと仮定しておきます。

■アナーハタ・チャクラの「装飾具のふれ合う音」
上に引用した「ヨーガ根本経典(佐保田 鶴治著)」の文章に戻りますが、「装飾具のふれ合う音」についてです。

私としては、私の状態が確実にこの段階かどうかはまだわかりませんが、似ている部分が見受けられます。私は上に書きましたように「シュルシュルシュルシュル」という音を風の音だと解釈し、エネルギーの流れ的にも竜巻のように感じましたので風の音かなとも思ったのですが、ここに記されている「装飾具のふれ合う音」と言えなくもないかな、とこれを読んで思いました。同書によると、この段階では気が満ちてきて博愛心などの高尚な素質が開発される、と書いてありますが、経験した直後の今としてはそれほど変化ありません。今後、そういう感じになってゆくのでしょうか。既にクンダリーニ1回目と2回目をしてかなりポジティブになりはしましたが、まだ有名人のナイチンゲールですとかマザーテレサなどに比べたら全然そんな博愛なんて私には足りてない気がしていますので、今後、そういう博愛精神が開発されてゆくのならばそれは楽しみです。私がこの段階かどうかまだ確証はないのですが。

■ヨーガの四段階とその時に聞こえるナーダ音
「ヨーガ根本経典(佐保田 鶴治著)」に基づきますと以下のようになります。

  1. アーランバ段階 ヴィシュヌ・グランティが解けた状態。アナーハタ・チャクラの「装飾具のふれ合う音」が聞こえる。
  2. ガタ段階 ヴィシュッダ・チャクラが活性化。「無上の歓喜を予示するところの混合音と太鼓の音のような音とが喉のチャクラの空処で起る」
  3. パリチャヤ段階 アジナ・チャクラが活性化。「眉と眉の間にマルダラ(鼓の一種)の音のような音がはっきりと知覚される。」
  4. ニシバティ段階 ルドラ・グランティ(結節)が破られた状態。「フルートの音やヴィーナーと弾ずるような音が聞こえる」ラージャ・ヨガと呼ばれる。
流派や書物によってこの段階は微妙に違うようですが、基本はこのような感じのようです。

■アーランバ段階の「装飾具のふれ合う音」
「装飾具のふれ合う音」と言うのかどうかはわかりませんが、最近私が聞こえているナーダ音は細かく波打っていて、装飾具の触れ合う音にはちょっと遠いのですが、無理して解釈すればそう言えなくもないです。少し前までは高周波の「ピー」と言う一定音だったのですが、高周波が最近は細かく波打っている感じです。高周波のままですがブーンと言う感じの波打った感じの高周波になっています。「ピー」の上に「ブーン」と言う波が乗っていると言いますか。紐が両側についていて引っ張って回転を速くしたり遅くしたりしてブンブン回して遊ぶおもちゃが出すような音が高周波の上に乗っかっています。まあ、様子見ですけれど。 同じ音を「ミンミンゼミの大合唱」と表現できなくもないです。以前もしばらくの間ミンミンゼミっぽい音が聞こえていたことがありますが、その時とは音の密度というかミンミンゼミの数が数倍は違う感じです。以前はミンミンゼミの音だけでしたが、今は基音と言いますか基本的なピーと言う音の上にミンミンゼミというかブーンという音が乗っています。以前はミンミンゼミの音の音量の上下というか振幅幅がとても大きかったのですが、今は基本的なピーという音がそれなりの音量でしていて、その上にミンミンゼミ大合唱というかブーンという音が以前よりは小さな振幅幅の音で乗っかっています。昔の方がよほどミンミンゼミっぽかったです。ピーという高周波の上にミンミンゼミ大合唱というかブーンという低い音というかザワザワザワというか、そんな音が乗っています。ザワザワって感じが「装飾具の触れ合う音」と言えなくもないですね。様子見です。ただ、この音は今回の竜巻の前後で変わったというわけではなくて、最近はこういう感じで聞こえている、というお話ですけど。むしろ、今回の竜巻の1ヶ月くらい前から当日くらいまでこういう風にザワザワが加わって聞こえていた、という方が正しいかもしれません。竜巻の後はむしろ高周波のみに戻ってきた感じです。ヴィシュヌ・グランティが破られ始めるとザワザワした音が聞こえて、破られるとその音は消える、とも推測できます。


[4日後 2019年7月9日]

■ガタ段階の「太鼓の音のような音」
その次のガタ段階の「太鼓の音のような音」というのは具体的にどんな音なのか微妙なところですが、竜巻の後は静かにしていると異様に「心臓のドクンドクンという振動音」が聞こえてきます。「これはナーダ音ではなくて肉体の心臓の音ですよね・・・」 と自分で解釈しているのですが、この心臓の音が「太鼓のような音」と言えなくもないです。でも、自分の心臓の音なんて今までそうそう聞こえたことないので、一体どういうことなのかなあ、と不思議に思っています。上に記載しました通り竜巻の後は呼吸がし易くなって呼吸時に胸が開くようになりましたので、それが影響している可能性もなくはないです。ナーダ音というのは内なる音ですがアナハタ・ナーダはアナハタ・チャクラから聞こえてくる音なので、心臓から聞こえてきても不思議ではないですが。この心臓音は竜巻の前は聞こえなかったと思います。単なる肉体の音かなぁと思いつつもナーダ音かもしれない、という感じで、これまた様子見なのです。「喉のチャクラの空処で起る」とありますけど、音的に胸の周辺で鳴っているような気がしますが喉かどうかは場所が微妙で特定できません。言われてみれば喉のような気もしますけど、気のせいかも? 鳴っているのは確かだと思いますけど。喉で鳴るというよりは耳たぶが脈打って心臓の鼓動を聞いている、という感じですが。耳たぶから下方向の音を聞いている、という感触がなくはないですけど、振動だけが下方向から感じるものの、音は耳で聞いているような感じです。やっぱりこれは肉体の心臓の鼓動音かなあ? という感じではありますが。今までずっと聞こえていた、明らかに超感覚で聞こえるピーという高周波のナーダ音とはまた違った雰囲気がします。

その後、瞑想中に脈拍の音の出所を探ってみましたがどうも、先日「うなじ下」にて熱と共に脈拍が波打った場所でまだ少しその活動が続いていてそこから脈拍の振動が頭にまで伝わっている気がしていました。確証はなくて、なんとなくですが。

この「太鼓のような音」はハタ・ヨガ・プラディーピカでしか見かけたことがありませんので、マイナーな音なのかもしれません。なかなか微妙です。心臓の鼓動音をナーダ音と言って良いものかどうか。広義には含んでも良いのかもしれませんが、肉体の音で聞こえる音であるならば基本的にはナーダ音ではないですよね。

・・・ふと気付けば、ハタ・ヨガ・プラディーピカではこの音がナーダ音だとは言っていませんね。単に、そう言う音が聞こえるとだけ書いてありますので、肉体の音だと解釈しても良さそうです。どうも、ナーダ音と言う定義に固執していたのかもしれません。もっと柔軟に読み解くべきですね。まあ、こう言う記述のほとんどはナーダ音と思った方がいいと思いますけど、例外もあるのかもしれない? ということで。

■瞑想の質の変化
竜巻の経験の前でも雑念はかなり減っていて雑念が出ても影響されることはほとんどなくなっていたのですが、竜巻後に瞑想したところ、瞑想が深まるにつれて、雑念が出てきても「ひらがな2〜3文字目」には砂上の文字が消え去るが如く雑念が発散して消えてしまい、雑念が文章として成り立つ前に雑念が消え去ることが多くなりました。意識的に何かに意識して雑念というか思考をしようと思えばすることができるのですが、意識的にではないただの雑念であれば雑念が出てきても上記のようにひらがな数文字目からバラバラになって発散して雑念が消えてしまうようになりました。瞑想の質が深まった、とでも言うのでしょうか。瞑想がある程度深まった時のお話ですが。なんだか不思議な感覚です。念の為補足しておきますが、もちろんこれは「大体の雑念は」と言うことで、多少長引く雑念や、もっとすぐに消える雑念もありますので、全部が全部きっちり2〜3秒で消えるわけではありません。大したことのない雑念はかなりすぐに発散するようになった、と言うところです。

この状態こそが瞑想において「集中できている」状態だと言う気がしました。すると、瞑想中にどこからか声がして「ダーラナだ」と言われた気がしました。恐らくは私の内なるガイドの声です。このダーラナ(集中)というのはヨーガ・スートラの八支則の段階の1つで、ディヤーナ(瞑想)の1つ前の段階になります。どうやら、今まで私は瞑想していたつもりだったのですが、実はダーラナ(集中)にすらまだ至っていなかったのかもしれません。私が瞑想していたつもりだったのはヨーガ・スートラ的にはディヤーナではなく、ダーラナでもなく、プラティヤハーラだったのかもしれません。

これらの説明で「ダーラナ・ディヤーナ・サマーディは一続きのものです」みたいな話を昔から聞いていて、「そうなのかな。多分そうだと思います。頭では理解できます」みたいな漠然とした感じで今まで考えていたのですが、実際にこのダーラナの状態を体験してみると、それは正に「深い状態に引きずり込まれてゆく」「雑念がプチプチと千切れてゆく。雑念が自動的に自ら崩壊してゆく」「自動的に瞑想が深まる」と言う種類のものでしたので、今では、確かにその通りなのだなと思います。きっと、そのことが体感できていないうちはダーラナにすら達していないのかもしれません。今までは、ダーラナというのは単なる1点集中かとばかり思っていました。確かにこの状態を1点集中と言えなくもないですが、心が1点集中すると言うよりは心の雑念が晴れて心が揺れ動くことがなくなることを1点集中と言っているのか、あるいは、心が揺れうごかなくなった状態で魂の意識が揺れ動くことがなくなる事による意識の集中(心の集中ではなく)のことをダーラナと言うのであれば、それは確かにそうかなと言う気もします。まあ、これはただの推測ですが。

となると、ヨーガ・スートラのダーラナやディヤーナは既に原始仏教で言うところの第一禅定に相当するのかもしれないとふと思いました。てっきり今まではヨーガ・スートラのサマーディがそのまま原始仏教の禅定や三昧に相当するのかとばかり思っていましたが・・・。もちろん定説はサマーディが三昧や禅定なのですが、 流派によって少し違うのでしょうかね。 以下のような感じでしょうか?

  • プラティヤハーラ 雑念を受け流す努力をしている段階。(私見では)この段階でも時々第一禅定(思考が残っている集中状態)や第二禅定(いわゆる無の状態)に至る。(私見では)いわゆるゾーン(ZONE)による集中力向上&判断力向上もここ(これ以上集中してしまうと思考も止まってしまうためここが限界)。マニプラ・チャクラが優勢。(関連記事を昔書きました
  • ダーラナ (私見では)第一禅定の安定化、第二禅定の深まり。アナハタ・チャクラが優勢。ヴィシュッダ・チャクラも活性化。一般的にはこれは「集中」の意味。
  • ディヤーナ おそらくはアジナ・チャクラが優勢(未体験)。一般的にはこれは「瞑想」の意味。
  • サマーディ 定説ではこれだけが禅定および三昧。おそらくはサハスララ・チャクラが優勢(未体験)
上では「ダーラナ・ディヤーナ・サマーディ」の3つは一続きのもので瞑想が深まるにつれて「段階的に移行」すると言うお話でしたが、ヨーガではもう1つ「サムヤマ」と言う言葉があって、サムヤマは上記3つが「同時に起こる」とされています。これは、瞑想が深まるにつれて最初はダーラナだけ、次はダーラナとディヤーナ、次は3つ全てになる、と言うことだと理解しています。ちなみに、私がインドのリシケシでヨガ哲学のヴェーダに詳しい先生に聞いたところではその前の段階も入れて「プラティヤハーラ・ダーラナ・ディヤーナ・サマーディ」の4つが一続きで、この4つが瞑想において連続して起こると言う説明でした。原始仏教では感覚および心理学的視点が導入されていて、別ページに書きましたように「どのように感じるか」で禅定などを判定しますので、実際、ヨーガ・スートラのこの分類にきっちり当てはまらないような気がしています。きっと、過去の人が分類した時にヨーガ・スートラと原始仏教の中身を分類した時にサマーディを禅定に当てはめたのでしょうが、どうも、微妙に視点が違うような気がしています。

以下のような表現がわかりやすいかもしれません。なんとなくですけどね。

  • 原始仏教の第一禅定 プラティヤハーラ熟練度50%、ダーラナ熟練度20%、ディヤーナ熟練度10%、サマーディ熟練度5%
  • 原始仏教の第二禅定 プラティヤハーラ熟練度80%、ダーラナ熟練度50%、ディヤーナ熟練度30%、サマーディ熟練度20%
  • 原始仏教の第三禅定 プラティヤハーラ熟練度100%、ダーラナ熟練度80%、ディヤーナ熟練度50%、サマーディ熟練度30%
  • 原始仏教の第四禅定 プラティヤハーラ熟練度100%、ダーラナ熟練度100%、ディヤーナ熟練度80%、サマーディ熟練度50%
これは、通説を覆そうとしているわけではなくて、通説はサマーディが禅定や三昧のままで良くて、私はただ単に、この種のお話は内的感覚が重要になってくるので書物に書いてあることを鵜呑みにするのではなくて一つづつ自分の感覚と比べながら言語あるいは理解そのものに落とし込んで行くのが重要だと思っているだけであって、上記はいわば自分の理解を深めるための言語化なわけです。気付きの内容を確認して理解を深めるための言語化とも言えます。ですから、通説は通説のままで良くて、ただ単に、自分自身の中の真実を積み上げていっているだけなのです。内的な理解が深まりさえすれば良くて、通説がどうであろうとあまり関係がありません。通説はどこかの学者かスワミにでも任せておけば良いと思います。最終的な理解は通説と同じになるかもしれませんし、それであっても全く問題ありません。

と、言うことで、これからの瞑想が益々楽しみです。

■シャクティ・チャーラナ・ムドラー
竜巻の経験の数日後、軽くシャワーを浴びていたら急に「シャクティ・チャーラナ・ムドラーをしましょう」と心に指示がありました。何でしたっけこれ・・・ と思って調べましたところ、「続・ヨーガ根本経典(佐保田 鶴治著)」のゲーランダ・サンヒター(P73, 3章49~59)とシヴァ・サンヒター(P236, 4章105~109)に記載がありました。どうやらクンダリニーを動かすための行法で、これを行えば寿命が延びて病気がなくなり、ヨーガで言ういわゆるシッディ(諸能力)を得るとのことです。ただ、その内容はなかなか解読が難しそうです。

これですが、考察が「クンダリーニ・ヨーガ(成瀬 雅春著)」に詳しく解説が載っていました(少し番号が違いますが同じ内容のようです)。成瀬先生の手法では、ムーラバンダを中心とした技法になっています。同書を読むと、なかなか大変なようなので、ちょっと様子見ですかね。一人で試すのは気がひけると言うか、一人ではしないでくださいと注意書きがありますし。

■うなじ下と「エネルギーの漏電」
シャクティ・チャーラナ・ムドラーを確認するために「クンダリーニ・ヨーガ(成瀬 雅春著)」を読んでいてたまたま発見したのですが、背筋でエネルギーが動くのは「エネルギーの漏電」だそうです。ただ、私の場合は「動く」わけではなくて、ただ単にうなじ下が熱を持ってずっと熱いだけですので、これが同じことを言っているかどうかはわかりませんが、一応、気に留めておきます。


[5日後 2019年7月10日]

■フラワー・オブ・ライフに基づくグランティの解釈
スピリチュアル系の「フラワー・オブ・ライフ 第2巻(ドランヴァロ・メルキゼデク著)」では、おそらくグランティに相当するものを「半歩」として紹介しています。それは2つあって、「マニプラ・チャクラとアナハタ・チャクラの間」と、「アジナ・チャクラとサハスララ・チャクラの間」にそれぞれ存在しています。「ひとたびエネルギーがこの半歩(マニプラとアナハタの間)を発見し、そこを通過すると、(エネルギーが)心臓や喉や脳下垂体、松果体に流れて行きます。そしてまた新たな壁または半歩に突き当たり、流れが止められます。今度の壁(半歩)は後頭部と脳下垂体の間にあります。」とのことです。又、興味深い記述としては、ハート・チャクラとヴィシュッダ・チャクラの間で同書の言うところの「虚空(Void, ボイド)」を通過して極性が 「女性」から「男性」に変わるとの記述があります。ムーラダーラから女性のエネルギーが入ってきてアナハタまでは女性で、その次に「虚空(Void, ボイド)」を通過してヴィシュッダ以降に男性の極性に変わります。位置的に「虚空(Void, ボイド)」および「極性の変換」と「うなじ下」は何か関係があるのかもしれませんので気になりますが答えは同書にはなさそうです。

同書の解釈に基づいて私の内的感覚を解釈すると、該当箇所のグランティそのものの感覚はないのですが、2回目のクンダリーニ経験の後はマニプラでエネルギーが止まっていてそれ以上になかなかエネルギーが上がっていかない感覚がありましたので、マニプラとアナハタの間にグランティと言いますか「壁(半歩)」があると言うのは納得できます。これは言い方の問題で、通説のように「アナハタの中にある」と言ってもさほど違いはないのかもしれませんが、以前はアナハタの感覚があまりなかったのに対して今は感覚がありますので、「アナハタの中」にあるとすればグランティが破れる前であってもアナハタの感覚があっても良さそうです。であれば、マニプラとアナハタの間にあるとする方がしっくりきます。

同書によれば、スピリチュアル的に成長するまではマニプラまでで人生を過ごし、「壁(半歩)」を超えるとアナハタ〜アジナの霊的生活を送るようになる、と言います。確かに、よく書物で見るように1つづつチャクラが進むと言う説明文は内的感覚と比べて違和感がありましたが、このように、セットで段階を進むと言う方がしっくりきます。チャクラと「壁(半歩)」の関係を踏まえて「壁(半歩)」を超えると大きく霊的に成長するとする同書の主張は現実に合っている気がします。

■統合されたチャクラ
そう言えば「Meditation and Mantra (Swami Vishnu-Devananda著)」や「ハタ・ヨガ・プラディーピカ(Hatha Yoga Pradipika、Swami Vishnu-Devananda著)」にも「チャクラは1つづつ発達するのではない」と言う説明がありましたね。こちらには「壁(半歩)」の説明はあまりなくて、グランティの説明として、グランティを破らなければ霊的成長はない、と言うような説明だったと思います。こちらの書物では「チャクラは1つづつ発達するのではなく全てのチャクラが融合して働く」と記載してあったと思います。確かにそれは「壁(半歩)」を超えた後ではそうなのかなと思いますし、第2回目クンダリーニ経験してしばらくはそんな気がしていましたが、やはり基本はこの「壁(半歩)」は存在していますし、いくら第2回目クンダリーニで多少のエネルギーが壁(半歩)を超えて上がったような気がしていても、やはり今回改めてきちんと「壁(半歩)」を超えるまではちゃんとは超えていなかったのかな、と言う気がしています。この、チャクラが連携というか統合して全てが大きなチャクラになることとグランティや壁(半歩)の関係は、体験して見るまではなかなかピンときていませんでしたが、今はまあ、たぶんこんな感じだなというのがわかりますが、なかなか説明が難しいところがあります。

別のスピリチュアル系の書物「ライトボディの目覚め」によると、とある段階(第七レベル)になるとハート・チャクラ(アナハタ・チャクラ)が優勢になり、やがて他のチャクラもすべて開きだし、チャクラ・システムが溶け合って「統合されたチャクラ」と呼ぶものになるとのことです。尚、同レベルでは松果体と脳下垂体が開き出すとありますので、上記の書物の記載とも段階的に整合性があるような気がします。おそらくは同じ段階を違う表現をしているだけなのかなと思います。ヨーガ的で言うところのヴィシュヌ・グランティを超えてハート・チャクラ(アナハタ)が開き出した段階を、スピリチュアル的に表現しているようです。それぞれの視点があって参考になります。

第2回目のクンダリーニ後はお腹のあたりが中心に熱を帯びて体がポカポカしていたのですが、その時もこの「統合されたチャクラ」と言おうと思えば確かにそんな感じに言えなくもないような、体全体が包まれて全体がチャクラ化しているような、どこがチャクラかよくわからないくらい体全体が活性化された状態になっていたのですが、それはマニプラ中心の体全体のポカポカであって、それは「ライトボディの目覚め」で言うところの「統合されたチャクラ」とは違って、同書における「統合されたチャクラ」はその次の段階の、アナハタ(ハート)チャクラによって統合されたチャクラの状態を言うのだと思います。


[6日後 2019年7月11日]

■「ムーラダーラ・スワディスタナ・マニプラ」の段階から「アナハタ・ヴィシュッダ・アジナ」の段階へ
上記を総合すると、どうやらこの後はアナハタ・ヴィシュッダ・アジナが段階に進むと言うよりはアナハタとヴィシュッダとアジナの3つが協調して成長する段階だと解釈できます。これは、最近の瞑想でアナハタだけでなくヴィシュッダやアジナ(眉間、後頭部など)の感覚が竜巻経験後に急に色々と感じられているので、きっとそうなのかなと言う気がしています。この3つが次第に優勢になってゆくのかな、と言う気がしています。

■感情の変化。「熱」が喜びで「暖」は落ち着き。禅定との関連。
感情的にも変化があって、第2回目のクンダリーニ後はとにかく喜びがありましたが、今は喜びよりも落ち着きがあります。前記事に記載したように第一禅定が「喜び」で第二禅定が「思考が止まり、楽になる」ですが、禅定の深まりがチャクラの段階と似ているのが興味深いです。言うなれば第2回目のクンダリーニ後・竜巻前が第一禅定と似ていて「喜び」で、竜巻後が「思考が止まり、楽になる」という感覚と似ています。

第2回目のクンダリーニ後は「ムーラダーラ・スワディスタナ・マニプラ」が優勢になり、感情的にも「喜び」になり、今はとりあえずアナハタ優勢で、ヴィシュッダとアジナはそれほど優勢ではありませんが感覚が出てきており、感情的にも「落ち着き」と言うか、鏡で自分の表情を見ても割と普通な感じになってきています。第2回目のクンダリーニ後は変化が激しくて、とにかく嬉しくて表情に喜びが出るくらいでしたが、今は表情は割と普通な感じです。それでも胸のポカポカはあるのですが、外目にはもしかしたら以前の第2回目クンダリーニ後・竜巻以前の方が輝いて見えていたかもしれませんね。人間っぽさを醸し出すいわゆる情とか感情的な愛着を司るのはマニプラで、アナハタは愛を司るとは言っても情とは違う愛を司るので、なかなかこの感覚を表現するのは難しいかもしれません。感情的に言うなれば竜巻後は上のように第二禅定での「思考が止まり、楽になる」とでも言うのでしょうが、マニプラでは物事に対して良い悪いの区別があってそれに「共感」をして情で癒すような愛着のような執着のような感覚があったのに対し、アナハタにおいては良いことも悪いことも全て宇宙の法則に従って動いているのだから何一つ悪いこともないのだと言う平安な境地が得られるのだと思います。マニプラにおいては他人に同情して助けたりする感情や哀愁が働きますが、アナハタにおいては感情や哀愁で動くと言うよりはもっと深いところからの訴えというか要求が伝えられた時に必要ならば助けるというか勝手に体が動く、というような違いがあると思います。

■性的欲求の違い
前記事に書きましたように第2回目クンダリーニでは性的欲求がかなり減ってエネルギーがポジティブなものに変化と言いますか性的なものに根元エネルギーが使われずによりポジティブなものに使われるようになりましたが、それでも、多少は性的欲求は残っていました。その時点でかなり性的欲求は減り、コントロールがとてもし易くはなったものの、性的な欲求に惹かれると時々は下の世界に落ち込むこともあったように思います。その都度、ポジティブなものに集中し直したり瞑想したりして一時的に下の世界に落ち込んでいた自分の状態をポジティブで上向きな状態に引き戻していました。今回の竜巻の経験の後はその落ち込み具合が軽傷になったと言いますか、性的欲求自体が一段上のポジティブな状態に変化したような気がします。もともと第2回目クンダリーニの時点でかなり性的欲求はポジティブなものに解消され、数値化するならば性欲が10分の1になってその分だけポジティブなエネルギー、生命力に使われるようになって元気になりましたが、その時点では残された性欲のコントロールやその質の「ポテンシャル」はまだ元の質で性欲の量だけが10分の1になったように思います。竜巻後は、その残された性欲の質自体が変わってきたように思います。以前は、性欲が減ったとはいえ質は元のままで、性欲が優勢になると割と昔ながらの肉欲と言いますか普通の性的欲求がそれでも残っている感じではありましたが、今は、完全とは言えませんが性欲の質自体がポジティブなエネルギーに変わってきましたので、今の状態で性欲が優勢になったとしてもそれはポジティブなエネルギーの活性化に近いものに変わってきたように思います。この辺り、なかなか言葉で説明するのが難しいです。性欲自体がなくなったわけではないのですが。

■特に対象はないのですが、とにかく「好き」な感覚が続きます
第2回クンダリーニ後はポジティブになって「喜び」の状態が続きました。それは愛とも言えますが相手に対する愛ではなく自分自身への愛でしたので誰かと話してニコニコしていて外目には私がその人を好きかのように見えたとしても、そのニコニコと喜びは誰に対しても同じく感じるニコニコと喜びでしたので、勘違いされているかもしれない場面もありました。その時の「喜び」は情愛というほどドロドロしてはいなくて割とクールな喜びではありますが、それでも「熱」のある喜びでした。そんな感じで、近くにいるものや人に対して自然に分け隔てなく喜びを感じていました。自分自身がポカポカして喜んでいるのが基本にあって、割と周囲のものや人に対しても同じように接しているような感覚です。誰がいるから好きだとか、そういう条件付きの感覚ではありません。でも、それはその後次第にその感情は落ち着いてきて、「喜び」は感情の少ないものに変わってきて、時々平衡感覚を失って調子が狂う時もあったのですが、今回の竜巻でこのあたりに大きな変化がありました。

今回の竜巻の後は、とにかく「好き」な感覚が続くようになりました。前の「熱」ほどはポカポカしていませんが、「暖」というくらいがちょうど良いかもしれません。「好き」とは言いましても、特に何か対象がある訳でもありません。不思議な感覚です。私の心はこの種の感覚を味わったことがあまりないので、困惑しています。困惑しているので、心は何か対象を求めてしまっている感じです。心が言うには、「これは何か理由があるのだろうか。この好きな感覚の対象はどこにあるのだろうか」と。昔ながらの癖で何か対象を求めてしまいがちですが、好きであることに特に何か理由がある訳でもなさそうです。誰かを好きになったり何かを楽しみにしていたり何かに期待していたりという訳でもなく、とにかく理由もなく「好き」なのです。あえて言うのであれば「地球さん大好き」とでも言うのでしょうが、確かにこの地球は素晴らしいとは思うのですが、この「好き」の感覚は特に対象がなくてもいいというか実際に対象はないので「地球さん大好き」と言うのも微妙に違う気もします。恋愛などにおける「情」に基づいた「恋」や「好き」とは違う感じです。理由はありませんがとにかく「好き」なのです。家族愛に近いものでしょうか? 家族が近くにいるとこんな感じかもしれません。この感覚は家族がいるいないに限らず続く、不思議な感覚です。まだ竜巻経験後数日しか経っていないので様子見ではありますが。おそらくは、私の心の「癖」がまだ残っていて、今まではこの感覚に対して対象があったので昔の癖で「心」が「対象」を求めてしまっているのだと思います。しかし、やがて心は対象を探すのに疲れるかあるいは探すのを諦めて、「好き」の状態のまま留まるのかな、という予感がしています。今はちょっと過渡期なので心が混乱していますし、心がその対象を探してもどこにも見つかりませんし、「好き」の対象は「ハート」でもなくて心それ自身でもなくて、どこを探しても見つかりません。今の所は、瞑想と同じように心を集中して落ち着かせることで混乱を治めていますが、おそらくはそのうち落ち着くだろうという予感がしています。又、これは瞑想中だけでなく平素の生活の中で心を落ち着かせる段階、いわば生活そのものを瞑想としてゆく段階にそろそろ来ているのかもしれないと感じています。その予感もあります。

■目に見えない自分の体から異物を取り除く
そういえば、この竜巻の経験をした日の前日の晩だったか当日の朝でしたか、とても気分が悪かったことを思い出しました。このことと風のルンの竜巻とがどれだけ関係しているのかは分かりませんが、これらは時間的に半日以内に起きたことですので、一応、書いておきます。その時、根拠はないのですが何か体の上半身から右腕にかけて引き裂かれているような気がしていました。この感覚は、外出後にたまにある感覚です。おそらくは外で何か目に見えない重いものを拾ってきたのかなと理解していました。大体の場合は軽くシャワーを浴びれば治るのですが、この時はまだ感覚が残っていました。その時、布団の中で横たわりながら、私はそれは何なのかイメージを試みていました。おそらく、としか言えませんが、右腕の肘の上あたりから心臓にかけて、蔓のような、あるいは、触覚のある意識体かもしれない何かが絡んでいるイメージが出てきたので、これまたイメージで右手をピースの形にしてから人差し指と中指を少し折り曲げて絡んでいる蔓のようなものを引っ掛けて引っ張り出して外に放り投げたところ、楽になりました。頭のズシンとした感覚が急に緩んで緊張が取れたので、これは確かなものです。何かエネルギーを吸い取られていたのかもしれません。スピリチュアルなことって最近は楽しいことばかりフォーカスされていますけど、この種の異物に限りませんけど割と怖いことが多いと言うのが私の印象です。蔓を出したことで大分楽にはなったのですがまだ何か体の中に残っていないか更に探りを入れて、心臓のハートのあたりにまだ絡んで残っている細い糸のようなものも引き抜いて、ハート周囲にあるネバネバとした蜘蛛の巣あるいはネットのようなものも掃除しました。引き抜いた後はイメージ上でその傷跡を埋めるような感じで表面を揃えて処置完了しました。まあ、イメージ上のことですけど、緊張は急に取れましたし、これだけでもかなり心境は違うのです。実際はプラシーボかもしれませんけど、たとえプラシーボだったとしてもメンタル的に効果があるのならばそれはそれでOKだと思っています。スピリチュアル的な観点から言えば、エネルギーを好物にしている異界の変な意識体が絡みついてきた可能性、あるいは、誰かの能力で他人からエネルギーを吸い取るパイプを植え付けられた可能性があります。まあ、ほとんどの人はこう言うことに無頓着で、信じられない人も多いでしょうけどね。スピリチュアル的な「技」ってのはかなり危険で、自分が力をつけるかあるいは強力な守護霊に守られてでもいないと割とこの世界は危ないと思います。前にも書きましたが、術としての強さと霊的な成長とは比例しないので邪悪で強い存在もいますから怖いのです。


[7日後 2019年7月12日]

■脈拍の場所が頭の下の方に移動
1週間経ちましたが、上に書いた「耳たぶが波打って音を聞いている」感覚はそのまま残っているのですが、音の出所が「うなじ下」からちょっと上がって頭の下の方に移動したような感じです。聞こえ方としては耳の周囲から聞こえているような気もするのですが脈拍の感覚は頭の下の方にあります。様子見です。

■瞑想の深まり。ディヤーナへ
上記のように、竜巻の経験の直後から瞑想の質の変化が起きて瞑想が深まるようになっていたのですが、1週間後くらいから更に変化がありました。竜巻の直後は雑念はまだ浮かび上がっていて、浮かび上がるけれども「ひらがな3文字」くらいで発散して消えてなくなるような状態でした。それはそれで以前と比べると瞑想の質は深まっていたのですが、ここにきて、風のほとんどない水面のような、時々、アメンボ(と言っても通じないかな? 水面を移動する小さな虫です)が作り出す波紋が広がる程度の静かな瞑想に変わってきました。

何が変わったのかと言えば、簡単に言えば「瞑想が深まった」と言うことなのですが、どのように深まったかを観察してみると、その鍵は「感覚を観察すること」だったように思います。雑念が上がった時に雑念を観察すると多少ながら心に波紋ができます。雑念を観察する場合は雑念に反応しなくても雑念が行き過ぎるまで雑念そこにある状態になります。はたまた、ナーダ音に集中する瞑想の場合は心は落ち着いているのですが雑念は同様に行き過ぎるまでそこに存在しています。しかしながら、「感覚」を観察すること、具体的には眉間や頭の冠状にピリピリと帯電している感覚を観察していると、何故かは分かりませんが、上に書きましたように「ひらがな3文字」くらいで雑念がバラバラになって消えてなくなります。1週間前は単に瞑想の深まりかと思っておりましたが、必ずしもこのように「ひらがな3文字」で雑念がバラバラに消えるわけでもなく、雑念がバラバラに消えるための条件は何かと思って色々試したところ、どうやら「感覚」を観察すると雑念がバラバラになることに気が付きました。ただし、竜巻の経験の前は同様に感覚を観察してもこんな感じに雑念がバラバラにはならなかったので、何か前提条件があるのだとは思います。竜巻直後は「うなじ下」に脈拍の感覚がありましたが次第にその位置が上がってきており、1週間後には両耳の中央および眉間に近いところまで脈拍の感覚が感じられるようになってきていました。眉間の少し中で脈拍を感じるのは以前はなかったことですし、と同時に、冠状に頭をぐるりと帯電しているような感覚も出てきました。その眉間の脈拍と冠状の帯電を観察していると雑念がバラバラになるのです。これは不思議です。

そして、瞑想中にそのようにして雑念がバラバラになるのをしばらく観察していたら、やがては雑念のない時間が次第に増えてゆきました。風の吹かない水面の状態です。その時は、私の意識は眉間の脈拍をただ観察し続けています。すると・・・、急にどこかから意識が飛んできました。「定のある・・・」「(それが)ディヤーナだ」。ディヤーナとはヨガ・スートラの1つの段階で、邦訳は「瞑想」ですけれども、これは割と狭義の瞑想を意味します。世間一般で言われている広義の瞑想は座って目を瞑ることだったり色々意味しますが、ここで言うディヤーナは精神がそれなりに安定した状態を指します。私はこのディヤーナを本来の意味で初めて体験したのかもしれません。「定」は広義ではサマーディのことも意味したりしますがここでは単に心が静まっていると言うくらいの意味だと思います。とは言っても瞑想中のインスピレーションですので間違っていることも多々ありますので「そうかもしれない」と言うくらいの仮定にはなりますが。瞑想中の直感はその正しさを後から確かめる必要があるのですが、まあ、当たらずとも遠からずかなと言う感じはします。

ここで、私は「感覚を観察」してみたのですが、実はそれは原始仏教のヴィパッサナー瞑想に発想を得ていて、今まではヴィパッサナー瞑想の「感覚を観察」することがそれほどピンときていなかったのですが、こんなにも絶大な効果があるのならばこれは良さそう、と今回思いました。ただ、前提条件が厳しそうな感じはします。


[8日後 2019年7月13日]

■グランティ(半歩、壁、結節)は調整弁
瞑想中、グランティは調整弁であると言うイメージが降りてきました。瞑想中のお話なのでこれまた根拠はなくておいおい聖典で確認していきたいですが、そのインスピレーションによると、それは調整弁であるから基本的な機能はオーラをその範囲に留めておくことで、上(アナハタ〜アジナ)のオーラはその中で混じり合い、下(ムーラダーラ〜マニプラ)のオーラはその中で交じり合うのが基本のようです。その上で、上(アナハタなど)で発生した低い波動のオーラは自動的にヴィシュヌ・グランティ(アナハタとマニプラの間)を通って下(ムーラダーラ〜マニプラ)に抜けるし、逆に、下で発生した軽いエネルギーはヴィシュヌ・グランティを通って上に行く。このことで、それぞれの場所に適したオーラを保ちつつも調整弁がフィルターの役割を果たしてそれぞれのエリアに適したオーラの純度が高まってゆくのだと思います。ですから、この調整弁がないとオーラが上下で混ざってしまってそれぞれに適した波動を「練る」あるいは「保つ」のが難しくなるのかな、と言うのが瞑想で得た理解です。

ハタヨガではグランティ(結節)を「破壊」あるいは「解く」するのが基本となっていますし、西洋ではキリスト教の神秘主義の流派やいわゆる魔法と呼ばれているものを扱う秘術の流派は同様にこのグランティを「破壊」するのを基本としていますが、それは時に「アナハタ・ショック」とも言われる衝撃を胸に与えることになります。その結果、場合によってはオーラが混ざってしまうので荒いオーラが下(ムーラダーラ〜マニプラ)から上(アナハタ〜アジナ)にそのまま登ってしまえば意識がおかしくなるのも当然かなと言う気が致します。逆に、上(アナハタ〜アジナ)のオーラが下(ムーラダーラ〜マニプラ)に下がってしまえば本来は高度な神秘のエネルギーが程度の低い欲求やカルマと結びついて一見奇跡的ではあるけれども高度な理解や精神性に基づいていない神秘を作り出し、最終的には心身共に疲れ果てて自分も周囲にも破壊的な結果をもたらすであろうことが理解できます。

最近のスピリチュアルではこの種のグランティの破壊あるいは解くことはあまり重要視されていないと言いますか、ほとんど言及がないような気が致します。これは、グランティは本来「破壊」「解く」ものではなくそのまま利用するものではないか、と言うのが今回の瞑想における理解です。その理解は、私の今回の竜巻の経験の後の状態を観察したことによる考察も含んでいます。

それとは別に、ヨガで言うところのナディ(エネルギーのルート)が詰まっているのならば詰まりを取らなければいけない、と言うのは似ているようでいてちょっと違うお話かなと思います。確かに、調整弁でありますから構造が複雑でそこは詰まりやすいのではありますが、構造が複雑であるからこそ慎重に掃除やメンテナンスをしなければならないのであって、調整弁が錆び付いていて固まっているからと言って調整弁を丸ごと壊して通過してしまうのは乱暴なのかなと思います。

まあ、こんな解釈はどこにも見たことがありませんので、私はここにメモ的に書くだけで、わざわざ他所で言ったりしませんけどね。

■ハタヨガではグランティを破壊するのに「バストリカ」呼吸法を使う
ハタ・ヨガ・プラディーピカには、「グランティを破壊するにはバストリカしかない」と記載されています。バストリカは危険な呼吸法と言われており、流派によっては「経験豊富なグルが監視している時以外は、一人でバストリカを行なってはいけない」とされていたりします。これも、上記のことを考えれば当然なのかなと思います。本来は機能すべき調整弁を壊して神秘的な成長(?)のために活用するのですから、普通ではないことをするのであればその行法に精通したグルがいないとおかしくなるのも当然かなと思います。

■胸のエネルギーの高まり
竜巻の8日後(2019年7月13日)、横になって休んでいたらムーラダーラの会陰がピリビリし初めて、何か電気の塊が下から入ってきたかと思えばゆっくり背筋を通って胸まで上がりました。上がる途中、細い管を無理やり広げながら通っている感じで、ちょっと圧迫感がありました。アナハタあたりで止まりましたが、その後、胸や上腕および頭の下半分がとてもポカポカするようになりました。何でしょう、これ。以前は似たようなポカポカが下腹部あたりでずっとありましたが、今は似たようなポカポカが胸であります。熱と言うほどではなりませんが、竜巻の経験の後の「暖」よりはちょっとだけ「熱」に近い感じです。第2回クンダリーニの後の熱と竜巻の後の「暖」を足して2で割ったくらいの中間的なポカポカでしょうか。

■喉のガラガラ感が薄れました
竜巻の前も、事あるごとに喉がガラガラする詰まったような感覚が度々あって、恐らくは私はヴィシュッダが弱いのだとは思いますが、特に竜巻の後はずっとガラガラする詰まったような感覚が続いていたのですが、竜巻の8日後(2019年7月13日)の瞑想中に喉の感覚が変わって、喉が弾力のある肌に変わって乾燥っぽいガラガラ感が減って随分と楽になりました。これでヴィシュッダが優勢になったわけでもなさそうですが今まで弱かったのが多少ながら普通にまで回復してきた感じです。

■クンダリーニを「上げる」時間軸とその範囲
ハタ・ヨガ・プラディーピカなどヨーガの聖典ではクンダリーニを「上げる」ことを重視していますが、その時間軸と上げる範囲が流派によって異なる気がしてきました。要点は以下でしょうか。
・グランティを破壊するのか、残して活用するのか
・クンダリーニを上げる時間軸はどのくらいか
・クンダリーニを上げる幅は、どこからどこまでか

ハタヨガ系は「グランティは破壊する」「クンダリーニを上げる時間軸は数十分〜数時間」「クンダリーニを上げる幅は、ムーラダーラから上げられるところまで。アジナやサハスララを目指してサハスララから上にクンダリーニを逃す」と言う感じでしょうか。古典的なキリスト教神秘主義の流派や魔法などの流派もヨーガを学んでいますので実際はこの辺りは割と似通っている気がいたします。一方、一部のスピリチュアル系(神智学系も?)は「グランティは破壊しない」「クンダリーニを上げる時間軸は数ヶ月〜数年」「クンダリーニがムーラダーラ〜マニプラにある段階と、アナハタ以上にある段階に分ける」と言うように特徴が違う気が致します。これは、流派によってかなりバリエーションがあると思いますので必ずしもこの通りとは限りませんが、大体の方向性はこんな感じかなと思っております。

■流儀と情緒不安定
ハタヨガ系のヨーギは、素晴らしい方もいらっしゃいますが怒りの沸点が低い方も散見されます。これを上記のグランティの視点から考えますと、グランティを破壊してしまうと情緒を司るマニプラと高度な意識であるアナハタとが混ざってしまって情緒不安定になるのも当然かなと言う気が致します。グランティが破壊されていますとムーラダーラの低いエネルギーがアジナの方にまで流れてしまいますので、意識が成長していない状態でもムーラダーラのエネルギーがアジナまで流れるのでそれでもアジナの力は出せるのかもしれませんが、エネルギー的にムーラダーラとアジナとは調和しませんのでムーラダーラのエネルギーでアジナを使うとおかしくなるのも当然かなと言う気が致します。同様に、アジナやアナハタの高いエネルギーがマニプラに流れ込んで霊的な能力であるとか呪術などに応用して一見すると奇跡のようなことを起こせるかもしれませんが、その結果はやはり情緒不安定なのかなと思います。
であれば、グランティは破壊せずに、呪術や魔術なども求めずに、清正と基本に忠実にそれぞれの段階に応じた精神修行をしてゆくのが一番いいのかなと思います。

■「ムーラダーラとアジナは直結している」の謎は解けた?
有名なスワミ・サッチャナンダの説明が「密教ヨーガ(本山博著)」に掲載されていますが、それによると「ムーラダーラはアジナと直結している」と言います。これは、主要ナディであるスシュムナ・イダ・ピンガラが直結しているからと説明がありますが、そうであれば他のチャクラも直結しているので、なぜムーラダーラとアジナだけが特別なのかと疑問であり、この説明には納得がいきませんでした。実際、第2回クンダリーニが起こってムーラダーラが活性化してもアジナが活性化したように私は思えませんでした。スワミ・サッチャナンダの説明に基づけば、アジナ・チャクラを目覚ますためにムーラダーラをまず目覚めさせると言います。今思うのは、これはバストリカ等でグランティを破壊しているヨーギにのみ適用可能な方法なのかなと想像しております。確証はありませんけど。グランティが破壊されていればムーラダーラのエネルギーがアジナまでおそらくそのまま通じますのでムーラダーラを目覚めさせることがアジナの目覚めの行法にそのまま通じるのだと想像できます。であれば、グランティを破壊していなければいくらムーラダーラを活性化してもアジナの目覚めには繋がらないのも納得です。

実際、いまアナハタが活性化した状態にあってはエネルギーはムーラダーラ優勢ではなくアナハタ優勢ですので、アナハタとアジナは近いので、わざわざムーラダーラを活性化させる必要があるようには思えません。まあ、私はアジナはまだ動き出していないので今のところは仮定でしかないのですが。

■クンダリーニの居処
基本的にはクンダリーニの居所は背骨の一番下、尾骶骨のあたりに眠っていますが、どうやらクンダリーニが目覚めた後は居所それ自体が移動することもあるようです。このあたりは秘技のようなので書物では詳しくは述べられていませんが、「チャクラ」(C.W.リードビーター著)の以下の記述からこの辺りが読み取れます。

瞑想を終わるときには、クンダリニーをムーラダーラへと戻す。ただし、ある場合には、心臓のチャクラに戻す。そこで、クンダリニーの部屋とよばれる場所に入れるのである。クンダリーニは臍のチャクラにあると記した文献もあるが、ふつうの人では、クンダリニーはここには見られない。これは、既にクンダリニーを目覚めさせた人たちのことを言っているのであって、このチャクラの中に「蛇の火」のエネルギーが貯えられていることを言っているのであろう。

これ以上の説明はありませんが、これだけでもかなりの情報が読み取れます。
・普通(クンダリーニをまだ目覚めさせていない人の場合)はクンダリーニは尾骶骨に眠っている
・クンダリーニを目覚めさせた後は、クンダリーニは次第に尾骶骨からマニプラに向かって移動して、そこを居所とする(と私は解釈する)
・クンダリーニの居所は更に上昇し、(ヴィシュヌ・グランティを超えた後は)アナハタ・チャクラ(ハート・チャクラ)に移動してそこを居所とする(と私は解釈する)

ここで言う「そこを居所とする」とは、瞑想中やヨーガ行法中だけでなく普段の生活においても24時間常にそこにエネルギーが居続けると言う意味です。クンダリーニのエネルギーが行法中は意識で移動することがあるとしても、基本は上記の場所にエネルギーが居続けると言う意味です。ただし、これは恐らくは流派によっても違うのかなと思います。グランティを破壊してしまった場合はこうはならずに常にムーラダーラやマニプラあたりに居留まる気もしますが、私はグランティ「破壊」は体験していないのでただの仮定です。

■グランティは「破壊」? 結束を「解く」?
私はヨガをしていますのでこれからバストリカとかも練習する機会がある気がしますが、ここまで理解してしまったならば、バストリカ等で今更グランティを「破壊」しようとは私は思わないです。一応、課題が与えられたら練習するとは思いますが・・・。
昔は聖典を読んでグランティ破壊(結束を解く)ことを「へえ」と思っていたのですが、これまた聖典の難しいところで、もしかしたら原典の意味は文字通り「結束を解く」ことなのかもしれないですね。それを、後の人が間違って解釈して「破壊」だと解釈してしまった。そうとも想像できますけど、昔のことですので想像でしかありません。
もしかしたら、間違って破壊してしまわないようにグルが監視するのかもしれません。流派次第なのかもしれませんが。


[9日後 2019年7月14日]

■うなじ下と「首の裏」と「盆の窪(ぼんのくぼ)」
数日くらい前から脈拍の場所がうなじ下から少し上の首元に移動しておりましたが、本日確認したところ、脈拍は手で感じられない程度にまで治ってきている一方で、暖かさはまだ首元に残っていました。手で脈拍は感じられないものの、頭の下の方にある脈拍のような音と感触はまだ続いています。第2回クンダリーニの時の尾骶骨あたりの血液の脈動の時も一過性のものでしたが、今回も一過性のようです。ただ、以前もしばらく暖かい感じは続いていましたので、今回も同様に周囲が多少暖かい感じは続いているようです。

そこよりも少し上に上がれば「盆の窪(ぼんのくぼ)」とか「大孔」とか呼ばれている場所になりますけど、暖かい箇所はそこまで上ではありませんね。誤差かもしれませんが。


[10日後 2019年7月15日]

■シャクティパッド
瞑想中のインスピレーションで教えられました。「ヨガの流派によってはグルによって弟子にシャクティパッド(Shakti Pat)(グルが弟子の額に手の指を当てて特別なオーラを送り込んで霊的成長を加速させること。流派によってはイニシエーションと呼んだりもする)が行われる。ある程度の浄化がされていることを条件にしている流派もあるが、弟子入りしてすぐに行う流派もある。条件があったとしてもシャクティパッドはクンダリーニ経験以前に行われることがほとんどで、多くの場合それはヴィシュヌ・グランティを超える段階(今回の竜巻の経験、第3回目クンダリーニ)より前、ムーラダーラのクンダリーニの経験(私の場合は第2回目のクンダリーニ)よりも前に行われるが、その場合、弟子の準備ができていない可能性が高く、弟子が調子を崩す可能性が多々ある。それ故にグルの監視とケアが不可欠で、グルがサイキックな目で監視をして遠隔で常に弟子の様子を見て、調子が悪ければサイキック的に遠隔あるいは直接的に整えるというきめ細かな対応が必要になる。インドではグルが不可欠と見なされているのは文化的背景のみならず、このあたりが理由になっている。しかし、今回の場合は段階を踏んでいるのでそういった危険性は少ない。ムーラダーラのクンダリーニを経て、次は今回のヴィシュヌ・グランティを経て、今はアナハタの段階というように順番を踏んでいるため、危険は少ない。これは(私の守護霊の)チベット系の方法。シャクティパッドの方がスピードは早いが途中の過程を飛ばすので途中のことは分からなくなる。(メッセージ主の意見としては)長期的な成長を考えるとシャクティパッドは良くない。時間をかけた方が良い。」どこまで本当かどうか確かめることができない事項も含まれていますが、とりあえずメモして、機会があれば文献を確認します。

■アナハタのピリピリ
瞑想中、胸のアナハタの皮膚あたりがピリピリと静電気を帯びていました。こんなことあまりないので不思議です。何でしょうか。様子見です。


[11日後 2019年7月16日]
■顔のピリピリ
今朝の瞑想中、顔全体がブルブル静電気で震えている感じ。特に左の頬が若干強め。こういうことは今まであまりなかったと思います。


[12日後 2019年7月17日]
■眉間で安定
竜巻の経験の前は眉間に集中すると安定しないことが時々あり、後頭部への集中の方が安定していました。頭の上の集中についても同様で安定しませんでしたが、竜巻の経験の後は眉間も頭の上も、どちらも安定します。今は、特別に後頭部への集中ということを意識することもなくなりました。竜巻以前はマニプラ優勢でしたが今はアナハタ優勢ということと、竜巻以前は今ほど後頭部に何かがある感じはしていませんでしたが今は後頭部を特別に意識しなくても何かが常にある感じですので後頭部へ意識を集中する必要がなくて、ただ単に眉間に意識を置いて集中するかどうかだけのシンプルなお話になりました。

■「統合されたチャクラ」とマニプラ
上の「統合されたチャクラ」はアナハタ中心のお話ですが、それ以前にも第2回目クンダリーニ後にマニプラが優勢になった時はチャクラがよくわからない感じになり、マニプラ中心という違いこそあれ「統合されたチャクラ」と言えなくもないものの似て非なる状態になった気がします。一部にチャクラ不要論とかありますけど、この状態なら勘違いするかもしれないです。

このあたりに思いを巡らせていたところインスピレーションが来て「(第2回目の)クンダリーニ開放直後はオーラが発散していただけだ」と言う説明と「神道の神秘(山蔭 基央 著)」にある「自分の御霊(オーラ)をお腹に収める」図が浮かんできました。同書によると「一般の人々の魂は、身体の周りにブワーッと錯乱している。それを凝集させるのが”鎮魂”である 」とあります。

同書によれば、最近のスピリチュアルやいわゆる霊感が強いと言われている人は実際にはオーラがだらしなく発散していて中心に収まっておらず、発散しているオーラが周囲と無秩序に反応しているだけで、それで霊感が強い気がしているが実際はコントロールされていない、修行が全然足りていない危険な状態だと言います。修行によって御霊(オーラ)を自分の中心(お腹)に収める必要がある、とのことです。あのままクンダリーニ直後で何もせずに「これで完成」とか勘違いしていたら同じようにだらしないオーラのままだったのかもしれない、とふと思いました。オーラは身体に被さるように離れて存在しており、同書の言うようにオーラがお腹の中にすっぽり収まるというのは私には良くわかりませんが、少なくともそれほど発散していない状態に最近はなってきたと思っています。クンダリーニ直後はオーラが発散しがちなのでコントロールが難しいですがそれでもしっかりオーラをコントロールしてチャクラがわかるような状態になって、それからヴィシュヌ・グランティを越えてアナハタに移行してからようやく「統合されたチャクラ」の状態ができてくると解釈しました。

■「心」は有限で無常だった。では、「私」も有限で無常とはどういうことか?
上に書きましたように、瞑想中に眉間の感覚を観察することで「雑念」が「ひらがな3文字」くらいで崩れ去る状態には割とすぐに入れるようになりました。これはいわば「心」が有限で無常であることを体感することだったと思います。今まで、聖典などで心は有限で無常だから心は魂(ヨガやヴェーダで言うアートマン)ではない、などと言う知識はあったものの、具体的にそれがどう言うことなのかあまりわからずにいました。今回、心のあらわれである雑念あるいは何がしかの思いが現れては消えることをまざまざと観察できたことにより、今まで知識だった「心とは無常である」と言うことを「体感」できたと思います。これによって、かなり私の中で「心」に対する執着と言いますか心に対する謎と言いますかベールが取れて、よりスッキリしたように思います。おそらく、単に瞑想して雑念が消えるのを観察しただけでは無常だと体感することはなくて前提条件としてヴィシュヌ・グランティを超えていたから無常だとわかったのだと思います。単なる集中力で観察することとハートで無常を体感することは違うとでも言いますか。

これで、心は有限で無常だと言うことが瞑想で確かめられました。でも、これで瞑想の道が終わりとは思えません。次は何をしたら良いのでしょうか? と思って書籍をあたったところ、次の課題は「私」が無常であることを体感することだと思いました。一応、書籍には答えがそのものズバリ書いてはあります。「悟りの階梯(藤本 晃 著) 」には「『私』がいると思っていたが誤解だった。ものの無常だけではない。この『私』さえも、消滅を続ける心・認識の連続だけだった」と書いてあります。これは割と書籍でよく見るお話です。私は今の所「心の無常さ」は体験したものの、ここまでの境地には至っていません。昔に何度も読んだときは「心の無常」がまだ体験できていませんでしたのでこの認識に至る前提条件がまだ整っていなかったように思います。今、「心の無常」を経たことによって、この前提条件が一つ整ったのでは? と言う気がしています。他にも前提条件がまだ必要なのかもしれないですけど、少なくとも1つは前提条件を満たしたと思います。

これは、いわゆる「私とは何か?」「私は誰か?」の瞑想だと思います。ラマナ・マハルシがよく問いかけていますね。そのあたりに更なるヒントがあるかもしれません。同じ書籍でも、自分の認識が変わってから再度読むと新たな発見があって面白いです。

■うなじ下の脈拍&ポカポカと、首後ろのポカポカはほとんど消えました
うなじ下の脈拍とポカポカは上に書きましたように早い段階で消えて、つい数日前まで残っていた首後ろのポカポカはほとんど消え、まだ若干暖かく残っているくらいです。

■日常生活における「努力のいらない」観察瞑想(ヴィパッサナー瞑想)
まだ常にそうできると言うわけではないものの、特に瞑想を終えた後、雑念がなくてそのまま日常生活の動きを続けられるようになってきました。そのとき、「努力のいらない(集中する必要のない、観察しようと思わなくても良い)観察瞑想(ヴィパッサナー瞑想)」ができている感じです。今までは、行動するときは何かの衝動あるいは雑念と共に行動してきましたので、観察すると言うよりは心を見ながら体を動かしていたと思います。しかし、体が動いている時に雑念がなければ努力なしに体の動きを細部まで観察することができることに気が付きました。今まで、ヴィパッサナー瞑想と言うと息だとか思考だとか感覚だとか「何か1点」を観察することだと思っていましたが、このような雑念がない状態ではもっと広く自分の動きを観察できますね。例えば、意識的にこの状態に入るために深呼吸をして最初は息に集中して雑念を停止させ、雑念は停止させたままで、息に対する観察をなるべく体全体に広げて行動します。すると、体が何やらふわふわと浮いているような、とても軽い、不思議な感覚になります。その時、体の各所、皮膚の上に薄くオーラが感じられます。ただ、まだそれほど気付きが深くありませんのですぐに状態が途切れてしまうのですが。

以前には目に意識を集中して似たように視野において隅から隅まで全部の動きを俯瞰するような観察瞑想をして面白く感じたことがありますが、今回は視野ではなく体の感覚で全身を観察瞑想するような感じです。流石に視野と体の感覚の両方は一度には観察瞑想は今のところできませんけど。

■四沙門果(ししゃもんか)
「悟りの階梯(藤本 晃 著) 」にはテーラワーダ仏教に基いた悟りの4ステージが説明されています。同書から引用します。

  1. 預流果(よるか)無常だとわかったので「私」や「私の生涯」や「私の家族」や「私の所有物」などについて、何となく諦めがつくようになる。説法を聞くだけで至ることもできる。世間的な欲や怒りは、まだまだかなりある段階。
  2. 一来果(いちらいか)煩悩がかなり弱まる。相変わらず欲しくなったり怒ったりするのですが、すぐに「まあいいか。こんな程度のこと」などと醒めてしまって、欲や怒りが大きくならない。欲しがっても、すぐに「まあ、別にいらないね」と思い直して気持ちが治る。怒っても、怒鳴ったりとか、夜中にわら人形を打つほどの執念はなく、「まあ、いいか。このくらいのこと」と、すぐに気分が穏やかになる。
  3. 不還果(ふげんか)煩悩が断ち切れる。お腹が空くなどと言う感覚は残るが、欲望は消える。異性への関心がなくなり、心が揺れ動かなくなる。禅定に熟達している人がほとんど。「私」と言う感覚はまだ残っている。
  4. 阿羅漢果(あらかんか)「私」がなくなる。「私」と言う感覚が消え、錯覚・誤解だったとわかる。「私」がなくなることで煩悩も完全に消える。完全に清らかな状態。
これらと私の状態を比較してみます。

  • 預流果は私の基本で、生まれてこの方、こうではなかった時は思い当たりません。人生においてストレスを感じて調子を崩したりもしましたが、立ち戻るところは常にここでした。(表現としては一来果と言うのは当時は知らなかったとはいえ)
  • 一来果は第2回目クンダリーニ後の状態と似ている気がします。
  • 不還果は今回の竜巻の後は似た状態になっている気がします。特に性欲。
  • 阿羅漢果は「私」に関する謎解きはこれからの課題ですね。

[13日後 2019年7月18日]

■音の色
高周波のピーというナーダ音の上にザラザラしたザザザザザという音が上に乗っているのが「銀」で、それがもっとパワフルになると「金」という感じがしました。書籍とかで、音には色がある、という意味はこういうことかもしれません? 他の色はまだわかりませんけど。

■夢で作曲
夢の中で和音と合唱の額面を作曲していました。和音と声楽が組み合わさったメロディーがとても心地の良く、作曲を続けていたら何か気付きがあって「そういうことか!」と思った気がしますけど一瞬のことで気付きが足りなくて言語化できず、目が覚めたらすっかり忘れていました。聖典に書いてあります「音の言語化」に繋がるのかもしれないとも思いましたが、まだまだです。

■ヨガの先生
私はアサナ(体操)があまりできないのでヨガの先生になる選択肢はなかったのですが、理由はそれだけではなく、もし私が先生になったら「先生になった」というエゴが出てきてしまうので先生になるのは今の自分にとってはマイナスだと思っていました。しかし、今回の竜巻の経験でアナハタが優勢に変わったことにより、そのエゴのかなりの部分が克服されたかと思いますので、あとはアサナのスキルさえ上がればヨガの先生をやってもいいかな、という気になってきました。



クンダリーニ経験後、クンバカが苦手に(同テーマ&時系列の前記事)