アナハタ・ナーダの聖音とクンダリーニ(超感覚的なキーンという高周波 / 4096Hz / 鈴の音)


アナハタ・ナーダの聖音とクンダリーニ

ヨーガの聖典によると、体にあるエネルギーの通り道「ナディ」が浄化された時に「ナーダ」と言う超感覚的な音が聞こえると言う。それは浄化が一定に達したことを示す「しるし」でもある。特に、背骨を通っている主要なナディであるスシュムナが浄化されたことを示す「しるし」だと言われています。どのような音かというと、多くの鈴が遠くで鳴っている音のようでもあり、フルートのような音でもあり、金属音と言えなくもない。始まりも終わりもなくずっと流れている音だが、静かな場所でないと聞こえにくい。

私が聞こえる音について、とあるヨーガ系の出家者(スワミ)やヨガティーチャーに聞いたところ、上記のような回答を得ました。聖典にもそう書かれています。しかし、一般に「耳鳴り」と言うとその原因はストレスにあると診断されます。肉体的な耳鳴りの場合は耳鼻科に行けば診断できますが、聴覚機能に問題がない場合はストレスが原因と判断されるようです。一方で、スピリチュアル的な耳鳴りというものが存在します。

スピリチュアリスト、あるいはお寺の住職、あるいはヨーガの先生であってもこの耳鳴りの原因がわかる人はそれほど多くないようです。
尋ねた際、単なるストレスだと診断されたことも多々あります。100%の自信でストレスだと言い切る人も少なくありませんでした。一方で、ヨーガの聖典に関する知識を有する人、あるいはスピリチュアルな人はそれぞれ異なる見解を持っているようです。一部の人々はこの種の体験を同じくしており、その体験があるが故に、それは単なるストレスではないと確信を持って答えられるようです。

■ヨーガ
ヨーガ的には「瞑想の時に聞こえる音」として「ナーダ(Nada)」の音であると解釈されます。それは、エネルギーの通り道であるナディが浄化されたことを示す印として解釈されます。具体的にはヨーガのプラナヤーマなどのクリアを毎日数回行えば3ヶ月でこのナーダが聞こえるようになると聖典に記載されています。ヨーガ的には常時聞こえる音としてではなく、瞑想の中で聞こえる音として一般的には解釈されています。

この音は、打つことなく流れる音という意味の「アナハタ・ナーダ(アナハタの聖音)」と言われます。

「瞑想をきわめる(スワミ・シヴァナンダ)」には以下のようにあります。

内なる霊音。「アナーハタ」の音は、深く瞑想している時に聞こえる神秘的な内なる霊的な音です。その音が聞こえると、精神的な生気の回路である「ナーディ」が浄化したことを示します。これはプラーナーヤーマの実践を持続することによって体験できます。その音は、鐘やフルートやティンパニーの奏でる音楽のようであったり、巻貝が割れるような音であったり、雷や蜂の羽音のような自然の音であったりします。アナーハタの音は右の耳から聞こえ、両耳をふさぐとさらにはっきりと聞こえます(ヨニ・ムドラ)。心を集中してこの神秘の音を聞きましょう。この音は心の中にあるプラーナ(生命エネルギー)のバイブレーションです。

常時聞こえない人であっても、耳を塞いで内部の音に集中すれば微かな音が聞こえることがあります。ナウムクヒ・ムドラ(Naumukhi Mudra 九門のムドラ、ヨニ・ムドラとも言うようです)で親指で耳、人差し指で目、中指で鼻孔を塞ぎ、薬指と小指を上下の唇に置いて口を塞ぐと超感覚的な音が聞こえることがあります。それがナーダ音ですが、浄化が進めばそれが常時聞こえてくるようにもなります。浄化が進んでも常時は聞こえない人もいるようです。

ヨーガ的にはこの超感覚的なナーダは後頭部にあるビンド・ヴィサルガ(Bindu Visargha, ビンドス・チャクラ)あるいはヴィシュッダ・チャクラ(喉のチャクラ)で聞こえる音ということになっています。始まりも終わりもない、止まることのない超次元の感覚で聞こえる音です。

書籍により聞こえる場所の記述はまちまちで、ビンド・ヴィサルガ(Bindu Visargha, ビンドス・チャクラ)で聞こえるという記述とヴィシュッダ・チャクラ(喉のチャクラ)で聞こえるという記述がそれぞれありますが、ビンド・ヴィサルガ(Bindu Visargha, ビンドス・チャクラ)はヴィシュッダ・チャクラ(喉のチャクラ)の副次的なチャクラですので、どちらで聞こえると言っても間違いではないような気がします。ビンド・ヴィサルガはマイナーですので普通はヴィシュッダ・チャクラ(喉のチャクラ)で聞こえると言えば十分かもしれません。他の場所で聞こえるという話については少し下に記述します。

以下、「Meditation and Mantra (Swami Vishnu-Devananda著)」の英文を訳しつつ引用します。

アナハタの音(またはメロディー)は、瞑想の習慣の始めの段階でヨギが聞いた神秘的な音です。この主題はナダ・アヌサンドナナ(Nada-Anusandhana)と呼ばれ、神秘的な音に探求されます。これはプラナヤマのためナディ(Nadis, アストラルの流れ)の浄化の徴候です。音はまた、 Ajapa Gayatri Mantra "ハムサ・ソーハム(Hamsah Soham)" を10万回唱えた後に聞こえるかもしれません。耳を閉じてもしなくても、右耳から聞こえます。 閉じた耳を通ると音がはっきりしています。 PadmaまたはSiddha Asanaの、Yoni Mudraで座り、左右の親指で耳を閉じることにより音をしっかり注意して聞くことができます。場合によっては、左耳を介して音を聞くこともできます。 右耳からだけ聞く練習をしましょう。 あなたは右の耳でのみ聞こえますか? 右の耳ではっきり聞こえますか? 鼻の右側にある太陽のナディ(ピンガラ)のために。 Anahataの音はOmkara Dhvaniとも呼ばれます。 それは心臓のプラナの振動によるものです。

同じ本の別の箇所に以下のような記述もあります。英文を訳しつつ引用します。

聞こえるNadaは10種類あります。 最初はChini(Chiniという言葉のような)です。 2番目はChini-Chini、3番目はベルの音、4番目はConch(巻き貝)の音である。 5番目はTantri(リュート)、6番目はTala(シンバル)、7番目はフルート、8番目はBheri(ドラム)、9番目はMridanga(ダブルドラム)、10番目は雲のこと、つまり雷です。

あなたが神秘的な音の梯子の上段に足を置く前に、あなたの内側の神(最高の自己)の声を7つの仕草で聞くことができます。 最初はナイチンゲール(ウグイスに似た鳥)の甘い声のようなもので、仲間と別れる歌を唱えています。二番目はDhyanisの銀のシンバルの音で、輝く星を目覚めさせます。 次は、殻の中に投獄された海の妖精の美しいメロディーです。 そして、これに続いてヴィーナ(Veena)の唱歌が続きます。 あなたの耳での竹のフルートが五番目の音です。 それは次にトランペットの一吹きに変わります。 最後は雷雲の鈍い轟音のように振動する。 7つ目の音は他のすべての音を呑み込む。 それらは死んで、それ以上は聞こえません。

同本には体験談も記載されています:
"1ヶ月間プラナヤマをやった後、フルート、ヴァイオリン、ベル音、鐘のクラスターからのMridang音、ほら貝の音、ドラム音、雷鳴、時には右耳からのみ、時には両方の耳から、甘美なメロディーな音を聞き始めました。" ....

何処でこの音が聞こえるかは諸論があり、上に記載したビンド・ヴィサルガ(Bindu Visargha, ビンドス・チャクラ) 以外にも、アナハタ・チャクラ(ハートチャクラ)から聞こえると言う意見やヴィシュッダ・チャクラ(スロート・チャクラ)あるいはアジナ・チャクラ(第3の目)、はたまたサハスララ・チャクラ(クラウン・チャクラ)から聞こえると言う記述もたまに見かけます。

これに関しては、ヨーガの4つの道であるカルマ・ヨーガ、バクティ・ヨーガ、ラージャ・ヨーガ、ギャーナヨーガのそれぞれで聞こえるチャクラが違うと言う解釈を見かけたことがあります。引用できませんが、たしか、バクティ(敬愛)の道であればアナハタ・チャクラ(ハートチャクラ)から聞こえて、ラージャ・ヨーガの道であればアジナ・チャクラ(第3の目)から聞こえて、ギャーナ(ヴェーダンタの知識)・ヨーガであればサハスララ・チャクラ(クラウン・チャクラ)から聞こえると言う解釈もあるようです。おそらく、進む道によってそれぞれ活性化しやすいチャクラがあって、そのチャクラで聞こえやすい、と言うことでしょうか。

ですが、多くの場合、ナーダ音というとビンド・ヴィサルガ(Bindu Visargha, ビンドス・チャクラ)、ヴィシュッダ・チャクラ(スロート・チャクラ)、アナハタ・チャクラ(ハートチャクラ)のいずれかが原因とされているようです。この中で、ビンド・ヴィサルガ(Bindu Visargha, ビンドス・チャクラ)はヴィシュッダ・チャクラ(スロート・チャクラ)の副次的なチャクラですのでビンド・ヴィサルガ(Bindu Visargha, ビンドス・チャクラ)とヴィシュッダ・チャクラ(スロート・チャクラ)は一纏めにすると、ビンド・ヴィサルガ(Bindu Visargha, ビンドス・チャクラ)あるいはアナハタ・チャクラ(ハートチャクラ)の2つが主要なものになります。

私の場合は頭の中の中央か少し後ろ気味なので、ビンド・ヴィサルガ(Bindu Visargha, ビンドス・チャクラ) から聞こえると言う解釈が一番しっくりきます。ただ、このビンド・ヴィサルガ(Bindu Visargha, ビンドス・チャクラ) とアジナチャクラ(第3の目)の本体である松果体は位置的に近いので、どちらとも取れます。アジナチャクラ(第3の目)と言うと一般的には眉間をイメージしますが、核は松果体にあるので、そこで聞こえているのかもしれません。

■アナハタ・チャクラ(Anahata Chakra)
アナハタ・ナーダ(アナハタの聖音)と同じアナハタという言葉がアナハタ・チャクラ(ハートチャクラ)に使われています。
この語源は同じで、どちらも「打たない」という意味です。
「an」は否定、 「ahata」は「叩く」や「打つ」を意味しているから、アナハタは「打たざる」と言う意味になる。

ヨーガの本山博先生によると、「アナハタ・チャクラでは非物理的、超越的次元の、止まることなく絶えることのない、初めも終わりもない音、アナハタナーダ(アナハタの聖音)と呼ばれる音が聞こえるといわれます。」とのことです。

■気圧の可能性
天気によって気圧が変わると耳鳴りをする時があります。
ただし、それは肉体的な不快感を伴うことが多く、この種のスピリチュアルの耳鳴りとは趣が異なるようです。

■身体的な原因の可能性
頭蓋骨の左右のバランスが崩れている時に起こる可能性があります。
それが原因であればヨーガのアサナなどをきちっとすれば治る、とヨーガの先生から言われました。
その先生も過去に耳鳴りをしたことがあり、ヨーガのアサナで治したことがあるらしいです。

■スピリチュアル
スピリチュアル的な解釈としては、途絶えることのない高周波は、天使が近くにいる印、あるいは、自らの波動が高まると聞こえる音だと解釈されます。スピリチュアリストは「もし高周波の音が強すぎて辛い場合は『少し弱めにして下さい』あるいは『辛いのでもう少しだけ離れてください』と天使に頼めば良い」と言います。天使に頼むだなんて、なんともロマンティックな解釈です。また同時に「この高周波は自らを浄化してくれている」とスピリチュアリストは解釈しています。

4096Hzに着目しているスピリチュアリストは、第9オクターブの4096Hzが天使界の扉を開く音と言っている方もいます。地球の振動周波数(8Hz)の9段階目の倍音が4096Hz。

【4096Hz Angel gate 2 地上と天使界をつなぐ音色】クリスタルチューナーサウンド 祝福の音 癒し ヒーリング効果・浄化用BGM 天使の周波数

ちなみに、私が最近ずっと聞こえているのはこの 4096Hz の音に近いです。日によって多少の上下はあります。これと似ていますが、完全に同じではありません。耳で聞こえる音とはちょっと違うので、聞き比べると似ているような気もしますが、なんだか、もっと広範囲の周波数が混ざっているような感じですかね。高い音程と言えばそうですし、もっと低いような気もしないでもないです。自然界の音のように混ざってノイズになるというよりは、超感覚的にそれぞれの音程が頭の中のどこかで「それぞれ」聞こえているという感じで、高い音程があるのはそれはそれで正しいですし、低い音程があるのも、それはそれで正しいのかなと。「なんとなく高い音程が優勢に聞こえるのであればこんな風に聞こえる、そんな雰囲気」としか言いようがないです。このムービーでは音量が大きくなったり小さくなったりしていますが、実際に聞こえるのは音量が一定です。始まりもなくて終わりもない音です。

クリスタルチューナーという4096hzの浄化用音叉も売られているようです (私は使ったことがありません)。

ちなみに、スピリチュアリストが「天使が近くにいる印」と言っているのは、おそらくは天使の波動が高いので天使のオーラに包まれて自分が一時的に高い波動になるから聞こえるのかな、と思っています。というのも、人間と天使の違いは波動の高さと肉体があるかないかという点ですので、人間であっても波動が高い人の近くに行くと同じような高周波が聞こえることがあるので、おそらくは天使だけでなく人間でも霊でも、とても高い波動の魂(スピリット)の近くに行くと自分の波動が感化されて一時的に波動が高まって高周波が聞こえるのかな、と思っております。

■スシュムナとアナハタ音
一つの解釈としては、ヨーガ的なアナハタの音は背骨を貫いているスシュムナと言う一番重要なナディ(エネルギーの通り道)が浄化される時に聞こえる音なのでしょう。それは、浄化されていなくて詰まっている時に聞こえる音とも解釈できます。詰まり方に応じていろいろな音が混ざって聞こえる。やがて浄化が完了すれば聞こえなくなる。主に、ザラザラとした音。ただし、おそらくは完全に詰まっていると全く聞こえなくて、過渡期に聞こえるのかな、と。

仮説ですが、ザワザワした音はスシュムナというよりはイダとピンガラの音に類するもので、ゴーという轟音に類する音はスシュムナに類するもののなのかもしれません。このあたりはまだ想像です。エネルギーの高低によっても音の聞こえ方が違うのは物理的世界の音の鳴り方にも似ているのかもしれません。もっと高い神秘的な音は超感覚的な音で、高位の世界に繋がっているもの。スピリチュアリストが言っているのは主にこちら。チャクラおよびナディ毎に違うような気がします。高次の世界においては世界は「幾何学図形と音だけ」とのことなので、それが見え始めた、聞こえ始めた、と言うことなのでしょう。どちらも類推ですが。ナディの音や、チャクラの音などがそれぞれあるのでしょう。

前述の「Meditation and Mantra (Swami Vishnu-Devananda著)」によると、音が聞こえたことは超感覚的な世界が存在していると言う印であり、サダハ(精神的修行をしている人)にとって大きな精神的な助けになる、とも書かれています。超感覚的な世界を体感できなくてこの世界を離れる人が多い一方、このような「しるし」を見つけることで確信が持てるということでしょう。この音は精神修行(サダナ)においてごく初歩的なマイルストーンとみなされているようです。精神世界に足を1歩踏み入れた、と言ったところでしょう。

■イギリスのスピリチュアリスト協会の講師の話
「霊媒神秘修行 イギリスへ」(開堂慈寛 著))によると、イギリスのスピリチュアリスト協会の講師から説明に基づくと頭痛がするのはスピリチュアルな能力が目覚める前触れだと言う。これは古くからの言い伝えであるとか。霊聴や霊視などの各種霊能力あるいは何らかの能力が出てくる可能性がある。能力は人によるので必ずしも出てくるわけではない。とのこと。スピリット(精霊)が近くにいることを示すので、あまりに辛ければ、少し離れてください、とお願いすればいいとのこと。同書に、頭痛だけでなくて耳鳴りのことも書いてあったような気もするのですが今見直しても見つかりません。気のせいでしょうか。

■ライトワーカー的解釈
「ライトボディの目覚め」によると、とある段階(第8レベル)で脳下垂体と松果体が成長した時に激しい耳鳴りになることがある、と書かれています。又、甲高い口笛のような音が聞こえるときは、おそらく高次元の存在があなたにコンタクトしようとしているのでしょう、とも書かれています。

■禅
禅においては「禅病」として知られる有名な逸話に白隠禅師の夜船閑話があります。
白隠禅師は熱心に修行をした後、禅病になってしまった。その症状の1つとして「激しい耳鳴りで、まるで川のせせらぎの間にいるような状態」(白隠の読み方、より引用)になったと言う。

解釈としては、スシュムナあるいはイダかピンガラを流れるアナハタ・ナーダ(アナハタの聖音)を超感覚的に聞いたのでしょう。

■年寄りの耳鳴り
夜船閑話の解説書「夜船閑話講和(大西良慶著)」によると、「歳をとると耳の奥にセミが鳴いているようにジーと言っているときもあるしガーと言っている時もある。そんな音の聞こえるのは平和なときではない。やはり、のぼせ上がった時の状態」と言っています。この本の著者は、白隠禅師が聞いた耳鳴りは悪い状態を示すサインだと考えているようです。白隠禅師が超感覚な音を聞いたというよりは、単にストレスによる耳鳴りになったという解釈のようです。

ビンドス・チャクラから聞こえる超感覚的な音は精神状態に関わらず常に聞こえて基本的には一定なので白隠禅師の経験した耳鳴りとも、上記のような年寄りの耳鳴りとも違う感じです。次に記載するように、白隠禅師の耳鳴りはクンダリニー体験による轟音であった可能性があります。その場合、アナハタ・ナーダ(アナハタの聖音)に分類されます。上記のように単なる年寄りの耳鳴りだったとはとても思えません。

白隠禅師の書籍をいくつか読んだのですが、その解説書を書いている方も住職だったり禅師だったりするようですが、この耳鳴りをうまく解釈している人はその中にはいませんでした。本に書くようなことではなくて、本には当たり障りのない一般人向けの説明だけが書かれていて、実際にお寺で修行するならばナーダ音は当たり前のことなのかもしれないですが。

本を読む限りは、「白隠禅師は一生懸命修行したら禅病になってしまってストレスによる耳鳴りがするようになってしまった」と書かれてあるものもあります。実際のところ、ナーダ音それ自体は単なる「浄化が一定度進んだという印」であって肯定的なものであり、一方で、白隠禅師がクンダリニのエネルギーを頭に集めてしまっていわゆる禅病になったというのは別の話として解釈するのが良さそうです。

■キーンという高周波がナーダ音なのかストレスによる耳鳴りなのか見分ける方法(質問のお便りがありましたので追記)
キーンという音はヨガの修行が進むと精神状態がとても落ち着いてリラックスして聞こえるものがナーダ音と言われます。心がざわついていて聞こえるものはストレスによる耳鳴りであることが多いですが心がざわついていてもナーダ音が聞こえる方もいらっしゃいます。基本は、リラックスしていればナーダ音でストレスがあるなら耳鳴りであることが多いです。リラックスして聞こえるナーダ音は問題ありませんので基本はほおっておけばよいと思います。ストレスで聞こえる耳鳴りであればストレスを取り除いてリラックスするのが良いと思います。

■ゴーピ・クリシュナによるクンダリニー体験
ゴーピ・クリシュナによると、最初のクンダリニー体験に「滝が落ちてくるような轟音」があったと言う。それは、一筋の光の流れが脊髄を通って脳天にまで達したときの音だったと言う。(ゴーピ・クリシュナ著「クンダリニー」より引用)

この後、ゴーピ・クリシュナはクンダリニ症候群(あるいは禅病)として知られる状態になったのだが、その理由として著者は、「本来ならば脊髄に沿っているスシュムナを使ってクンダリニーを上げなくてはならなかったのだが、それ以外のナディ(エネルギーの通り道)から誤って上がると霊的にも肉体的にも重大な混乱が起こり、治る見込みのない障害者や気狂いになったり時には死ぬこともある。特に酷い場合、右側にあるピンガラを通ってクンダリニーが目覚めると、外から鎮めようとしても全くコントロールの聞かない体内熱のために、最悪の場合、文字通り焼け死んでしまうこともある。」と言う。そこで、この著者は、左側にあるナディ(エネルギーの通り道)であるイダを目覚めさせることを考えついた。それを実行して、助かった。同書には、もう1つの重要な指示が書かれています。「行法を修めている間、行者は胃袋を空にしてはならない。三時間おきに軽い食事を取るべきである」 これに従い、著者は助かったと言う。(「クンダリニー」より)

スシュムナをクンダリニーのエネルギーが上昇する時に轟音が聞こえたと言うことは、これはスシュムナあるいはイダとピンガラに関する音なので、アナハタ・ナーダ(アナハタの聖音)と言って良いでしょう。

ヨーガにおいても、古典的にはプラナヤーマの呼吸法などでスシュムナを浄化することを重視しています。スシュムナを浄化しておくことにより、不意にクンダリニーが上昇してしまった時に致命的な事故を防ぐと言う意味合いもあるでしょうし、意識的にクンダリニーを上昇させるための準備として浄化が重要視されているのでしょう。同書にはそのようなことも書かれています。

どこに書いてあったのかは忘れましたが、何かの聖典にも右のピンガラからクンダリーニを上げることの危険性について言及していたような気がします。

クンダリニー体験で聞くアナハタ・ナーダ(アナハタの聖音)と、クンダリニー制御が不完全な場合に起こるストレス・精神不安定が原因の耳鳴りは全く異なるものだと思います。白隠禅師の聞いた轟音はクンダリニー体験のアナハタ・ナーダ(アナハタの聖音)だったように思いますが、それ自体がストレスの耳鳴りではなく、白隠禅師は有り余るエネルギーの制御が時に不安定になったがためにクンダリニ症候群(あるいは禅病)になったのであり、アナハタ・ナーダ(アナハタの聖音)が聞こえるからと言ってクンダリニ症候群(あるいは禅病)であるとは限りません。白隠禅師の体験したクンダリニーのアナハタ・ナーダ(アナハタの聖音)を指摘して後世の解説者はクンダリニ症候群(あるいは禅病)だと解釈していることが多いですが、これは解釈の誤りだと思います。

■クンダリニーヨーガ的な音
行法の1つに、体内でのプラーナ(生命エネルギー)循環を行う方法があるが、この時、ビンドゥ・チャクラ(ビンド・ヴィサルガ, Bindu Visargha)から超感覚的な音が聞こえる。(「クンダリーニ・ヨーガ」より)

■3ヶ月で浄化され、ナーダ音が聞こえる
「ハタ・ヨガ・プラディーピカ(Hatha Yoga Pradipika、Swami Vishnu-Devananda著)」には以下のようにあります。

(2章10番) アヌローマ・ヴィローマ [片鼻交互呼吸法]により 3ヶ月で一定の浄化を達成することができます。満足、平和、満足感があります。 あなたがヤマとニヤマを遵守している限り、これはすべて達成されるでしょう。 単に左右の呼吸だけでは十分ではありません。誰もがプラナヤマを練習することができますが、もしヤマとニヤマがなければ、心は正しい方向に進まないので、成功は容易には達成されないしょう。

ヤマと二ヤマというのはヨガの八支則(はっしそく)の最初の2つで、基本的な道徳について言及されています。条件下でプラナヤマのクリア(浄化)を行うことにより3ヶ月でナーダ音が聞こえるまでに浄化されると聖典の古典に述べられています。ただ、周囲を見ると何年も何十年も聞こえてこない人も大勢いるので、古代の人々にとってはそうであっても、現代の人に3ヶ月が適用できるかどうかは良く分かりません。少し下に詳しく記載するように、私個人としては毎日ヨガを始めてからだいたいそのくらいで聞こえてきたのですが。最初の10ヶ月は週1回90分レッスン、その後3ヶ月はほぼ毎日ヨガ90分をしたら聞こえてきました。

■スピリチュアリストの著書「オーラ13の魔法の法則(小宮ベーカー・純子著)より
この著者は、額のアジナチャクラから蝶形骨にかけてバイブレーションが響き始めて、その影響で耳鳴りがするようになったとのことです。耳鼻科での診察は問題なし。悪いどころか聞こえすぎるとの診断だったそうです。時期としてはチャネリングやオーラ感知ができるようになった頃から耳鳴りが始まったとのことです。ちなみに、私も耳鼻科に行きましたが診断は問題なしでした。

■スピリチュアリスト、ドリーン・バーチューによる解釈
おそらく、この高周波による耳鳴りを「天使の声」と言い出したのは彼女でしょう。あるいは、彼女がこのことを広めたのでしょう。神や天使の声を聴くことをクレアオーディエンス(Clairaudience, 透聴能力)と言いますが、天使界からのメッセージをダウンロードしている時に聞こえる音だという解釈のようです。彼女の場合、この音は「左耳」から聞こえるそうです。

ヨーガの大家が「右耳」と言っているのに対して彼女は「左耳」と言っています。ちなみに私は左寄りで聞こえますが、両方から聞こえている感じでもありますので、どちらか一方ではありません。頭の中央のやや左寄りから聞こえています。これを左耳と言えばそうなのかもしれませんが。

主要ナディであるイダとピンガラは、右にあるピンガラが交感神経で太陽がシンボルで活力を司り、左にあるイダが副交感神経で月がシンボルで癒しを司りまます。諸説あるようですが、ピンガラは肉体的エネルギーを司り、イダは精神的および高次のエネルギーを司ると言う解釈もあります。この解釈に従うと、ヨーガの大家は肉体的エネルギーに近いところのクンダリニーやそれに類するエネルギーを活性化して右の鼻に繋がっているピンガラの音を右耳と言うか右側から聞いたのに対し、スピリチュアリストは高次の精神エネルギーを活性化して左の鼻に繋がっているイダの音を左耳と言うか左側から聞いたのだ、とも解釈できますね。

ヨーガの言うナーダ音は主に瞑想中に聞こえる音ですが、スピリチュアリストが言う高周波の耳鳴りは常日頃から聞こえるものを意味します。

■左右の解釈
ヨーガ的には、右にあるナディ(エネルギーの通り道)をピンガラ、左をイダと言います。右のピンガラは太陽がシンボルで活動的であり交感神経、左のイダは月がシンボルで鎮める役目の副交感神経です。これを音と合わせると、左から聞こえる音はイダ的で癒し、右から聞こえる音はピンガラで活動的、とも解釈できます。 ただし、これは体の中を鼻から始まってムーラダーラチャクラ(会陰部あたり)に繋がっている「ナディ(エネルギーの通り道)」に関することです。これに関する音であればこのような解釈でいいのだと思います。

■左右とチャクラ
ヨーガ的には、胸のあたりに副次的なチャクラであるスーリア・チャクラ(太陽のチャクラ)とチャンドラチャクラ(月のチャクラ)があります。

■古代エジプトの左右の目
「フラワー・オブ・ライフ」によると、古代エジプトには3つの神秘学派があったとのことです。
男性性の学派は「ホルスの右目」女性性の学派は「ホルスの左目」、そして「ホルスの中央の目」
ここでも、右が男性、左が女性になっていますね。

■古典的なスピリチュアリストによる解釈(混乱しないように注意)
シャーリー・マクレーンの「ゴーイング・ウイズイン」によると、「第3の目(チャクラ)は脳の下半分、神経組織、耳、鼻、人格の目である左目を支配している。」「王冠のチャクラは松果腺と対応しており、脳の上半分と右の目を支配している。」と記載があり、左目がアジナチャクラ(第3の目)、右目がサハスララチャクラ(クラウンチャクラ)に対応しているとのことで興味深いですが、この書籍以外でこのような記述をほとんど見かけないので、このような説もあると言う理解でとりあえず頭の片隅に置いておくくらいがいいと思います。

余談ですが、松果腺は、ヨーガ的にはサハスララチャクラ(クラウンチャクラ)ではなくてアジナチャクラ(第3の目)と関連していますので、その部分の解釈も異なっています。

更に余談ですが、「フラワー・オブ・ライフ」で紹介されている古代エジプトにおける13チャクラシステムによると、松果体は3つのチャクラに繋がっているといいます。「第3の目(アジナチャクラ)」「クラウンチャクラ」およびその中間にある「45°のチャクラ」に繋がっているとのことです。現代で一般的な8チャクラシステムと13チャクラシステムは別の理論体系のようなので基本的には併用できないようですが、真実は1つなのでそれぞれの側面から解釈できそうです。

これらは解釈がそれぞれ微妙に違っていて混乱を招くかもしれませんし、ヨーガなどで一般的な話とちょっと離れているので、一旦忘れた方がいいかもしれません。

■ナーダ音に集中して瞑想するナーダ・ヨーガ
上と同じ「Meditation and Mantra」から訳しつつ引用します:

あなたは瞑想の間、様々な種類のアナハタの音である鐘の音、ケトルドラム、雷鳴、コーチ、ヴィーナやフルート、ハチの鳴き声などを聞くことができます。 心をこれらの音のいずれかに固定することができます。 これもSamadhiにつながるでしょう。

これはいわゆるナーダ・ヨーガとしての瞑想だと解釈できます。ナーダ音に集中して瞑想する方法でもサマーディに到達できるようです。

■ヴェーダンタ流派の解釈
又、同本「Meditation and Mantra」によるとヴェーダンタ系の流派は違った解釈をするようです。瞑想の間に現れる光や音を幻覚(マーヤー)だとして無視するようです。訳しつつ引用します:

ヴェダンタの道にいる学生は、これらの音と光を無視します。 彼はすべての形を否定することによって、ウパニシャドの偉大な発言の意義を熟考しています。 "太陽はそこに輝いておらず、月や星も輝いてはいない。また、この稲妻は輝かない。そして、この火が輝く可能性もっと低い。彼が輝く時、彼に続いて全てが輝く。彼の光によってすべてが光ります"。 彼は次のように瞑想します:"均質な本質の中で、空気は吹いていません。火はそこで燃えていません。音や触感、臭いも色も、心もプラナもありません。私は満足しているSiva、私は満足しているSiva",

これも、日常に聞こえる音のことではなく瞑想中に聞こえる音のことを言及しています。

・・・と以前書きましたが、その後、ヴェーダンタをインドで習った方にお話を伺ったところ、ヴェーダンタは経験を無視しないし体験を否定しないので、「経験を無視する」「経験を否定する」というのは良くある誤解だとのことです。ヴェーダンタでは経験のその先を見ているので、経験は否定しないものの経験に重きを置かない、ということのようです。ヴェーダンタを習うと周囲や本からこのような体験を見聞きすることも多いので、そんな経験もおそらくあるだろう、とのことで、否定はしないものの、ヴェーダンタの道にいる人はその先を見ているので、経験にはあまり興味がないようです。ヴェーダンタでは「サット・チット・アーナンダ(Sat-Cit-Ananda)」という言葉で表される、現象のその先、常に変わらないものを求めているようです。現象や経験には始まりがあって終わりがあるが、ヴェーダンタではそのような有限なものではなく永遠の至福を求めているようです。そのゴールを表す言葉がサット・チット・アーナンダ(Sat-Cit-Ananda)であり、全てのものや現象に永遠性と至福を見出せるよう道を歩んでゆくようです。

■ヘミシンク体験者
日本のヘミシンク関係者の書籍でも、似たような高周波について言及がありました。静かなところで作業をしたり本を読んでいる時に聞こえる高周波のようで、似たものだと思われます。ヘミシンクを行ったからと言って必ずしも聞こえるわけではないようですが。

■仏教系の解釈
仏教では世界を3つに分けているようです。
人が住む欲界、中間的な色界、欲望を超越した無色界

仏教的には、瞑想で聞こえるヴィジョンや音は「色界」に属するものであって、それはまだ欲望が残っている世界に属するものであると解釈するようです。(出典はどこか忘れました)

■ナーダ・ヨーガにおけるアナハタ・ナーダ(Anahata-Nada)とアナハダ・ナーダ(Anahada-Nada)
スワミ・サッチヤナンダ(Swami Satyananda)の弟子であるジョーティルマヤナンダ(Jyotirmayananda)の著作「タントラ・ヨーガ瞑想法」によると、アナハタ・ナーダ(Anahata-Nada)とアナハダ・ナーダ(Anahada-Nada)は若干異なるようです。

ヨーガでは体は大まかな3つの階層で構成していると考える。「肉体(物質とプラーナ)」「細身(メンタル質とアストラル質)」「真我(コーザル体)」ですが、それぞれの体が違った音を聞く、ということになっています。「細身」で聞こえるのがアナハタ・ナーダ(Anahata-Nada)であり、「真我」で聞こえるのがアナハダ・ナーダ(Anahada-Nada)とのことです。最初に聞こえ始めるのがアナハタ・ナーダ(Anahata-Nada)であり、後に聞こえるのがアナハダ・ナーダ(Anahada-Nada)になる。

■禅の公案「隻手の声(せきしゅのこえ)、隻手音声(せきしゅおんじょう)」
上記のジョーティルマヤナンダ(Jyotirmayananda)は「タントラ・ヨーガ瞑想法」において禅の公案である「両掌で叩いて音あり、片掌で叩いて何の音があるか」と言う問いに対して明快に答えています。もちろん、肉体においては片手で叩いても肉体が聞こえる音は出ない。ジョーティルマヤナンダによると、これはまさにアナハタ・ナーダ(Anahata-Nada)が聞こえる修行段階に至ったかどうかを試す公案なのだと言う。これは頭で考えることではなく、実際に聞こえるようになるまで修行し、実際に体験すべきことなのだと言う。

アナハタ・ナーダ(Anahata-Nada)の「an」は否定、 「ahata」は「叩く」や「打つ」を意味しているから、アナハタは「打たざる」と言う意味になる。肉体で打たずして聞こえる音であるアナハタ・ナーダ(Anahata-Nada)が聞こえるかどうかで修行の進み具合を確認したのでしょう。

白隠禅師の禅宗では、かなり初期の段階でこの公案を解かされるという。
であれば、このナーダ音が聞こえると言う「しるし」はかなり初歩的なものであると思われる。

■ナーダ・ヨーガを長年勉強した人に隻手の声(せきしゅのこえ)について聞きました
ヨガ・オブ・ボイスというナーダ・ヨーガとその他を組み合わせた手法を提唱している、大学院教授でもあるシルビア・ナカッチさんのワークショップがあったので参加したことがあり、その際に上記の禅の公案「隻手の声(せきしゅのこえ)」について聞いてみました。彼女によると、禅の片手拍手の話は元がサンスクリットなので同じことを意味しているという。アナハタが「打たない」だから、その話が公案になったのだろう、とのこと。 推測なのか、あるいは、そういう常識なのか?

私は、この禅の公案は白隠禅師の発案かと思っていましたが、たしかに、サンスクリットのアナハタの意味が先にあったと解釈した方がしっくりきます。そのように解釈した方が良さそうです。

■ヨガナンダの自叙伝によると
パラマハンサ・ヨガナンダの「あるヨギの自叙伝」には「神秘的なオームの音は、ヨガの初心者でも、しばらく練習を積めば聞くことができるようになる。この至福に満ちた霊的鼓舞を受けるとき、修行者は、実際に聖なるものとの触れ合いが出来たことを確認するのである。」と書いてあります。ここで言うオームの音とはアナハタ・ナーダ(Anahata-Nada)の音であると推測できます。

■アナハダ・ナーダ(Anahada-Nada)
アナハタ・ナーダ(Anahata-Nada)と混同されやすいアナハダ・ナーダ(Anahada-Nada)はジョーティルマヤナンダ(Jyotirmayananda)によると「境界のない」とか「特質のない」と言う意味になる。これは宇宙の始源的な響き、あるいは、内なる沈黙の響きであるとされ、瞑想の最も深いサマーディに関係した沈黙の音になるが、日常で何も聞こえていない状態の普通の沈黙という意味とは全く異なる、音としてしか感知できない沈黙の響きになる。この認識が「マントラのオームが宇宙の根本原理」という理解や、あるいは、宗教は違えども聖書における「はじめに言葉あり」のような理解にも繋がってゆくらしい。このように、ナーダを使って悟りを得ようとするナーダ・ヨーギたちの一派がいるようです。

これまた興味深い。私の場合、アナハタ・ナーダ(Anahata-Nada)は聞こえるがアナハダ・ナーダ(Anahada-Nada)はまだこれから、という感じですね。ようやく状況が見えてきました。

■アナハタ・ナーダ(Anahata-Nada)とアナハダ・ナーダ(Anahada-Nada)はやはり同じ?
上記のようにアナハタ・ナーダ(Anahata-Nada)とアナハダ・ナーダ(Anahada-Nada)は違うものである、と著名なスワミがおっしゃっていますが、その一方で、ナーダ・ヨーガを30年も勉強した大学院教授でもあるシルビア・ナカッチさんに聞いてみたところ、アナハタ・ナーダ(Anahata-Nada)とアナハダ・ナーダ(Anahada-Nada)は同じだ、とのこと。ナーダ・ヨーガの専門家がそう言うのですから、やはり発音違いで同じものなのかもしれない? 混乱します。 彼女によると、元はサンスクリットなので、「タ(ta)」と「ダ(da)」の違いは問題ではなく、同じだ、とのこと。 うーむ。 本当はそれが正しいのか、あるいは、そもそも、このことはあまり知らなくてもいい知識なのかもしれない。 一般的にはアナハタ・ナーダ(Anahata-Nada)しかない、ということでいいのかもしれません。 これが違うと主張したところで、それを体験していなければ説明のしようがないですし。 体験せずに主張したらトリビアっぽくなってしまうかもしれません。

あるいは、ヨーガ行者など神秘行全般によくあることだが、私のような、セミナーに参加しただけの部外者の質問には曖昧に答えて誤魔化しているだけで、やはり別物であることを本当は知っているのかもしれない? 確信を持って話しかけてきた人にだけ本質を伝える、と言うやり方なのかもしれない。 あるいは弟子入りしないと本質は教えない、とか。 一般的には同じということにしてアナハタ・ナーダ(Anahata-Nada)しかない、としてしまった方が説明としてもわかりやすいし、説明したところで理解できる人は限られています。アナハタ・ナーダ(Anahata-Nada)の先に到達できそうな人にだけ秘密を明らかにする、というのがヨーガ的なやり方でもあるかもしれないです。 謎は残る。 ここからは、自分でアナハダ・ナーダ(Anahada-Nada)を体験してみるしかないかもしれません。

■ナーダ・ヨーガの修行法
上記のジョーティルマヤナンダ(Jyotirmayananda)の書物にはナーダ・ヨーガの修行法が紹介されています。その注意書きに以下のようにあります。

「しばらく実習を続けているうちに、昼間何もしていない時に突然音が聞こえてくるようになる。そうしたら、その段階でこの方法を中止する。しかし、これは決して幻聴などではない。ただこの音が、実習者の日常生活の邪魔になり、何ら有益なものをもたらすことがないので、止めるに越したことはないわけである。非常に熟練したヨーギーなら、目覚めている間中、ずっと一日中でも、霊的な声を聞き続けていることができる。ただこのためには、ここでは言及していない非常に特殊な準備をして、グルの直接的な指導を仰ぐ必要がある。しかしそこまでゆくと、これはもうシッディ(神通)に属する未知の声を聴こうとするための修行になってしまう。」

ということで、一般的には、この音を聞く訓練はやり過ぎないのが肝心のようです。私は別に、ナーダ系の特殊な訓練をしていたわけではないですけどね・・・。私の場合、聞こえてくるようになった理由はおそらくヨガの普通のプラナヤーマです。インドのアシュラムや一部の上級者がやるようなバストリカのような難しいものではなく初歩的なものしかやったことがありません。それでも基本的な浄化(クリア)がされるには十分なのかもしれません。

■音がずっと聞こえるようになってしまった場合
「シャンバラからの伝言(成瀬雅春著)」によると、ナーダ・ヨーガの実習を行なっていると音が耳に残ってしまうことがあり、その時は「カパラバティ・クリア」を行うと治ると言う。

■ナーダ・ヨーガによる音の4分類
成瀬雅春先生による「精神世界の扉」ではナーダ・ヨーガによる4種類の音の分類を紹介しています。
「ナーダはサンスクリット語で『流れ』とか『音』を意味してい。流れというのは音の流れでもあり、意識の流れでもある」とのこと。
その4種類とは
ヴァイカリー 通常の耳で聞こえる音
マディヤマー 聞こえる音と聞こえない音の中間。神妙な囁きのような音
パシャンティー(パシュヤンティー) 耳で聞こえる音ではなく「観える音」
パラー 聞こえない音、沈黙の音というような意味であるが、宇宙の始原的な響きであり、瞑想の最も深い部分
と説明しています。

マディヤマーがいわゆるナーダ音であると解釈できます。

ジョーティルマヤナンダ(Jyotirmayananda)によると「ヴァイカリーからマディヤマーへ移行する段階の中間的な次元の音がアナハタ・ナーダ(Anahata-Nada)」と書いてありますので、文字通りに解釈するとヴァイカリーとマディヤマーの間ということになりますが、意味を考えるとマディヤマーがそもそも中間的な音という意味ですので、ヴァイカリーからパラーへと向かう時に中間的なマディヤマーの段階で聞こえる音、と解釈することにします。おそらく翻訳が微妙なだけでしょう。

アナハダ・ナーダ(Anahada-Nada)は「真我(コーザル体)」で聞こえる音ということですので、明確に記載はないですが、おそらくはパシャンティーやパラーが該当すると思われます。

「瞑想と霊性の生活3(スワーミー・ヤティシュワラーナンダ著)」には以下のように記載があります。

私たちが話すとき、私たちが耳で聞くものは、ヴァイカリーと呼ばれる、粗大な形の音にすぎない。それは、声帯、舌、その他の動きから生まれる。その背後に、思考過程の産物である言葉がある。これはマディヤマ音である。思い自体は、パシャンティ音と呼ばれる、もっと精妙な衝動から生まれている。パシャンティは非顕在のシャブタ・ブラフマンから発するのであって、その音の過程はパラーと呼ばれている。それゆえ人の思いの生活は、パラーから発して、パシャンティとマディヤマを通り、ヴァイカリーに至るまでの領域を持っている。

■Vaikhari/Madhyama/Pashyanti音の分類
Hatha Yoga Pradipika (Swami Muktibodhananda著, Swami Satyananda Saraswati監修)P559には例と共に明確な説明が記載されています。
物理的な耳で聞こえる音: Vaikhari音。誰かがフルートを吹いていて誰かが聞く場合。
耳で聞こえるような気がするが実際には心(マインド)で聞く音: Madhyama音。どこか離れたところで誰かがフルートを吹いていて、誰かがフルートを吹いているのを貴方が感じる場合。
他人には聞こえず瞑想の中で聞こえる音: Pashyanti音。誰もフルートを吹いていないのに貴方がそれを聞く場合。

■金蔵の書
神智学協会の設立者であるH・P・ブラヴァツキーがチベットで修行した時に入手した「金蔵の書」の邦訳が「沈黙の声」に掲載されているのですが、そこにも上で紹介した7種類の音について記載があります。

 「Meditation and Mantra」の記述「沈黙の声」の記述
1ナイチンゲール(ウグイスに似た鳥)の甘い声鶯の声
2銀のシンバル銀のシンバル
3殻の中の海のメロディ貝から聞こえる海のメロディ
4ヴィーナの唱歌ヴィーナの歌
5竹のフルート竹の笛
6トランペットの一吹きラッパの音
7雷雲の鈍い轟音のように振動轟々たる雷鳴
7つ目の音は他のすべての音を呑み込む。
それらは死んで、それ以上は聞こえません。
第七の音はその他の音一切を呑み、
一切の音は消えて、早きこえず。

音に関してはほぼ類似で、おそらく出典がほぼ同一なのですが、こちらには更に説明があります。それによると、最後の第7の音が聞こえるのとそれ以前の6番目の音とは決定的な違いがあるそうです。第6の雷鳴の音までは低次の人格と結びついており、第7に達すると低次の人格が克服されて内なる真我(アートマン)が現れたことを意味するそうです。その時、いわゆるサマーディ状態になるとのことです。解釈が難しいところではありますが、同書によると、クンダリーニが上昇するにつれて段階的にこれらの音が聞こえて最終的にサマーディになる、とも読めます。

又、同書にはこれとは別に、「高き瞑想の神秘的階調」と表現しているアナハッド・シャブドというエーテルの世界の音にも言及されていますが、詳しい説明はありません。

私の場合、ナーダ音が普段から割と聞こえており、日常生活のほとんどは支障が無いものの、クラシックコンサートやオペラを聞きに行く時にナーダ音がコンサートの音と混じって聞こえてコンサートだけを楽しむのに支障があったり、あるいは、コンサート中は自分が周囲に迷惑をかけないように息の音まで気をつけないといけないのにナーダ音がずっと聞こえているが故に呼吸の音も含めて完全に音が消えているかどうかを自分で確かめ辛い、といった、音に関する日常生活の不便がたまにあるので、この音を意識的に消すことができればいいなあ... とたまに思うのです。なにせ、ナーダ音とは「始まりも終わりもない音」でずっと流れていますから、特別それが不快ではないにせよ、むしろ心地いいものではあるのですが、時にその音を消したいなあと思うこともあるわけです。 前置きが長くなりましたが、そういうわけで、この文脈です。最後のところに、「第7の音はその他全てを飲み込んで、もはや聞こえなくなる」、と記載があります。一生ずっとこのナーダ音と付き合うことになるのかな... とも思っていたのですが、どうやら次のステージに進めば聞こえなくなるようです。そう思えば、ちょっと安心してきました。

そういえば、ドリーン・バーチューの本にも高周波はそのうち聞こえなくなって言語化して聞こえるようになるとか何とか記載があった気がします。どこに記載があったのかは見つけられませんが。

1番目のウグイスの声。これは、微かに聞こえるナーダ音のことでしょう。私は最初は気のせいかと思っていましたので、この段階ははっきりとは認識していません。エアコンの音かと思っていた微かな音が実はそれだったかもしれません。具体的に気付き始めたのは2番からで、この1番目のウグイスの声単体ではチ・チ・チ・チ・チ・チという微かな音なので単体ではそれと気付きにくい気がします。

2番目の銀のシンバル。だいたい2017年11月頃からこの音を認識し始めました。ヨガを始めて1年くらい経った時のことです。そのうち最初の10ヶ月は週1回90分レッスン、その後3ヶ月はほぼ毎日90分レッスン、と言う頻度でヨガをしていました。最初は1番のウグイスの声のようなチ・チ・チ・チという音から始まって(エアコンの音と似ているのでそれだったかもしれませんし、ナーダ音だったかもしれません。ここは微妙です)、次第に高周波のピーという音が聞こえてきて、時々シャリシャリという感じの多くの鈴(神楽鈴の音程をもっと低くしたような静かな音)が遠くで鳴っている音というか田舎の秋のスズムシやバッタ等の虫の音を遠くで聞くようシャンシャンした音が聞こえました。あるいは、遠くでかなりの数のミンミンゼミが鳴いているような音(耳につくような音ではない感じ)の時もあります。それは、自然が奏でる曲とも言えなくもないです。メロディはないですが不快ではなく、聞いていて落ち着く音の時があります。基本的にはそうではなくて単なるピーという音なのですが。人によっては「モータ音」と言うかもしれない。或いは「サーサー」と言う音。振幅はほとんどないので「サーーーーーーー」と言う感じですが。これは、3番目の貝の海のメロディと言えなくもないです。1番のウグイスの声はエアコンなのかナーダ音なのかどちらなのか微妙なところではありますが、2番以降はナーダ音としか考えられないですね。どこに行っても聞こえるのでナーダ音の可能性が高いです。

4番のヴィーナのような低い音は良くわかりませんが、重なって聞こえているとすればそういう音もあるかもしれません。単体ではよくわからないですね。5番目のフルートの音は高周波としてはずっと聞こえています。私の場合、ふと気づいた時には既に2番から5番までが聞こえていた感じですね。6番目のトランペットは、たまに片耳から聞こえますが頻度は低いです。トランペットというよりはもっとゆっくりとした音の音量が次第に大きくなって、次第に音量が小さくなってゆくという感じです。

私個人は上に書いたようにヨガのシャバアサナの時に聞こえてきてその後は常時聞こえるようになりましたので「座禅の瞑想中の時だけ」聞こえるようなナーダ音は経験しておらず、常時聞こえるようになってからは座禅の瞑想中でももちろんずっと聞こえるようになりましたので、座禅の時「だけ」聞こえるような一時的なナーダ音は経験していないのですが、もしかしたら人によっては座禅の瞑想中にだけ聞こえるナーダ音というものがあるのかもしれません。一般的には「瞑想中に聞こえる音」としてナーダ音が紹介されていることが多いようですので、推測するに、座禅をして瞑想をすると聞こえるようになった人が多いのかなあと推測しますが、私はもはや常時聞こえるので確かめようがありません。

2018年初め頃から2番の銀のシンバルや3番の海のメロディが聞こえなくなってきました。5番のフルートは変わらず聞こえます。状態が進むにつれて聞こえる音に変化があるのでしょうか。

2018年6月、頭の中で「プツ」「プツ」と言う細かな気泡が弾けるような小さな小さな音が時々することに気付きました。ナーダ音に比べて音量が1/3~1/5くらいの小さな音。骨が鳴る音と似ていますが、感覚的には骨が鳴る音とはちょっと違う感じ。もしかしてこれをトランペットの一吹きと言うのかもしれませんが、(6番の)トランペットにしては時間が随分と短いです。日本人が一吹きと聞くと10秒や20秒の長い音をイメージしますが、この著者はとても短い一吹きの0.2秒とかそういう音を意味していたのだとしたらこれが該当するかもしれません。あるいは、時々聞こえた長い音がトランペットなのかもしれません。ちょっとこれは微妙ですね。まだ聞こえていないだけかもしれません。

7番目は心当たりがないのでまだですかね?

2018年7月、ナーダ音が、左と右で聞こえ方が違う。左はフーという感じの高音で、右は左よりちょっと低い音と左よりちょっと高い音とザラザラ音との3つの音が混ざっている感じ。左は音量がわずかに大きくなったり小さくなったりして、ちょっと波打っています。1つの周波数の音量が増減しているというよりは、音量一定の周波数が複数混ざり合っていて、その波形が重なって大きくなるタイミングと小さくなるタイミングがあるような感じ。左は右ほど周波数分かれてはいないので別々の音が重なっているようには聞こえず、単に波打っているように聞こえるが、やはり複数の音が重なっていると思うのが理屈に合っています。でも、それは7番目の「雷雲の鈍い轟音のように振動」というほどのものではない。やはり7番目はまだのようです。

2018年9月以降、時々ですが大きな体の蜂がそこら中でブンブン言っている音をたまに聞くようになりました。その時は、体が活性化しているので何かの変化の予兆かもしれません。

■ナーダ音の言語化
幾つかの書籍によると、最初はナーダ音として高周波が聞こえるだけだが、やがてはそれを解釈する構造が自分の中にできてきて言語化されて聞こえるようになると言います。ただし、「言語化」と言うのは、そう表現するしかないから言語化と言っているだけで、超感覚的に直接的に意味が解釈されるような種類のもののようです。

例えば、先に述べたスピリチュアリスト、ドリーン・バーチューも似たようなことを言っています。高周波が聞こえている状態においては、意味がわからなくともプログラムをダウンロードしているのだとか。そしてやがてはその意味がわかるようになる、と言っています。

ライトワーカーによる「ライトボディの目覚め」によると、やがて頭部上方に言語解釈の霊的なクリスタルが作られて意味が解釈できるようになると書かれています。

ヨーガ的にはナーダ音はビンド・ヴィサルガ(Bindu Visargha, ビンドス・チャクラ)と言う副次的なチャクラで聞こえることになっていますが、このチャクラは「副次的」とあるようにヴィシュッダ・チャクラの副次的なチャクラであり、ヴィシュッダ・チャクラは喉にあって言語や浄化を司るチャクラですので、ナーダ音の言語化にはこれらのチャクラが使用されると解釈できます。ただし、ヨーガ的には「ナーダ音が言語化されて解釈される」と関連付けて解釈することは少ないようです。 それらはほとんどの場合独立して語られ、単に、ビンド・ヴィサルガ(Bindu Visargha, ビンドス・チャクラ)でナーダ音が聞こえる、と言う事項と、それと独立するような形で、ヴィシュッダ・チャクラで言語およびテレパシーを扱う、と言うように、別々のこととして述べられていることがほとんどです。あるいは、ビンド・ヴィサルガ(Bindu Visargha, ビンドス・チャクラ)のことは持ち出さずに、単に「耳はヴィシュッダ・チャクラの領域」とだけ言われることもあるようです。

「ダライ・ラマの密教入門」にはこのことを示唆していると思われる記述が見つかります。
「喉のところにある滴は、単なる音の現れを意識に生じさせる機能を持っています。それは通常の状態では不浄な音の現れを生じさせています。この滴の機能を用いると、修行中には『無敵の音』が得られ、『仏陀の境地』を達成する際には、この無敵の音によって、『究極の言語』が得られるのです。」
滴というのはチャクラと解釈できます。最初は意味のない高周波が聞こえるが、修行によって音が変わり、やがてはその音は言語として解釈できるのだ、と読めます。

ここは、私は以下のように解釈しました。

「肉体(物質とプラーナ)」で聞こえるのは普通の音。
「細身(メンタル質とアストラル質)」で聞こえるのが高周波のアナハタ・ナーダ(Anahata-Nada)です。ここでは言語化はされていません。
「真我(コーザル体)」で聞こえるのが(いわば)言語化された、アナハダ・ナーダ(Anahada-Nada)で、ダライ・ラマの言うところの「究極の言語」。

「ダライ・ラマの密教入門」によると、瞑想のサマーディや身体のヨーガによって心を鎮めて行くと「微細なレベルが機能し始める」と書かれてあります。これは文脈的に「真我(コーザル体)」のことであると解釈します。
同書によると、微細な意識のレベル(おそらく真我、コーザル体)では、「心(意識)」と「エネルギー」は一体のものになるようです。対象を「知る」という観点からは「心(意識)」になり、運動するという観点からは「エネルギー」になるが、それは一体である、とのことです。

その状態に至るまでにきちんと瞑想やヨーガで修行していないと危険な状態に至るとも書かれています。
「修行が完成していない状態で光明を現そうとすると、喉のところにあるエネルギーセンター(受用輪)が圧迫され、光明が現れるどころか死に至る危険すらあるのです。このように、ある種の技法はとても危険を伴うものなのです。」(「ダライ・ラマの密教入門」より)
修行のためには経験を積んだ師に頼ることが重要ということが強調されています。喉の圧迫感は私にも度々あるので、修行(或いは「浄化」)がもっと必要のようです。私はこういう修行を大して積んだ訳でもないし、近くにこういう指導ができる師匠も見つからないので手探りに浄化をしてみます。仕方がないです。この喉の圧迫感は前から謎だったので、こういう理由だとようやく分かったのでこれで対策が打てます。

瞑想のサマーディやヨーガでは、心の死滅、或いは心の安定、という状態がゴールになります。その先に「真我(コーザル体)を目覚めさせる」、という段階が待っているのだと読み取れます。スピリチュアリストにせよ、ライトワーカーにせよ、ヨーガのジョーティルマヤナンダ(Jyotirmayananda)にせよ、ダライ・ラマにせよ、宗教や流派は違えども、意外と皆、似たようなことを言っているようですね。

■瞑想とナーダ音
瞑想には色々とやり方がありますが、「Meditation and Mantra」に記載のあるヨーガ系の瞑想手法の場合、このナーダ音が聞こえてきても無視するように指導されます。この手法はマントラ(オーム、あるいは伝授された個人的なマントラ)を唱えて集中するのですが、ナーダ音が聞こえてきたとしても元々集中していたマントラに集中を戻すように指導されます。あくまでもこの手法(流派)の場合の話です。

同書およびHatha Yoga Pradipikaには、このナーダ音をそのまま瞑想に使用できると記載があります。その場合、ナーダ音に集中することで瞑想を行います。呼吸やマントラに集中するのではなくてナーダ音そのものに集中します。その手法でもサマーディを達成できるとのことです。

■ラマナ・マハルシの見解
著書「不滅の意識」によると以下のようにあります。

質問者: ナーダ・ヨーガ(nada-yoga 音に対する瞑想)を修練している時、私は鈴やこだまのようなサイキックな音を聞きます。
マハルシ:その音がラヤ(laya 心が一時的に休止している空白の状態)に導くのでしょう。これらの音を聞いているのは誰か注意して見るのを忘れないようにしなさい。もしあなたがあなたの内なる真我をしっかりと捕まえて手放さないならば、あなたが音を聞くか聞かないかは重要なことではないでしょう。主体を見失わないように保っておきなさい。ナーダ・ヨーガは確かに集中の1つの方法ですが、それを達成した後は真我に焦点を合わせなさい。もしあなたが主体を見失うと、あなたはラヤに入って行くでしょう。


真我とは神智学で言うコーザル体あるいはヨガ的なアートマンのことですから、この記述からも、ナーダ音は(ここに明確な記載はありませんが)細身(メンタル質とアストラル質)に属するものであって、真我(コーザル体、アートマン)に属するものではないと解釈できます。

同書には、同様の質問がもう1つ掲載されています。

質問者:集中された心が静止する前に、あるいはその後に、ヴィジョンを見たり神秘的な音を聞くことがありますか。
マハルシ:それらは前にも後にも現れます。重要なのはそれを無視し真我にのみ注意を払うことです。瞑想の間に見えるものや聞く音は、心を乱し、心を誘惑するものと見なさなければなりません。それらが求道者を惑わすことと決して許してはなりません。ヴィジョンは瞑想に妙味を添えますが、しかし、それ以上の何ものも与えることはありません。


ここでも、上に乗せた瞑想手法の解釈と似たようなことが述べられています。

どうやら、ナーダ音は集中の手助けにはなるが、それ以上のものではない、と言うのが複数の覚者による見解のようです。ナーダ・ヨーガ的な瞑想では物理的に聞こえる音、あるいは、ナーダ音に集中することで意識を深めてゆくのでしょう。瞑想のために利用する物理的な音やナーダ音など諸々は、いわば補助道具なのでしょう。そして、ある程度の段階に至ったのであればそこから先は(補助器具であるところのナーダ音などを手放して)真我を見出してゆくのだと思います。

この記述だけを見たら、「そうか。真我を見出せばいいのか」とだけ思ってしまいがちですが、まずその前に、きちんと段階を追って、ナーダ音やヴィジョンが現れる段階を得てからようやく真我を見出す段階に至るのであって、いきなり真我を見出そうと瞑想しようとしても、かなり無理があると思います。ヨーガ・スートラに述べられているように、まずはヤーマやニヤマという道徳的なところから始まり、呼吸法のプラーナヤーマ、姿勢のアサナ、感覚から自由になるためのプラティヤハーラ、そして集中のダラーナ、瞑想のディアーナ、そして至福状態のサマディに至るわけですが、真我を見出すと言うのは最後のサマーディの段階ですし、ナーダ音が聞こえると言うのは瞑想のディアーナ段階ですから、段階をきちんと踏むことが重要であるのは大前提であるわけです。

瞑想の解説で「ヴィジョンや音などは重要ではない」と言う記述は多くの書物で見ますし、瞑想に詳しい人もそう言うことが多いので、それはそうなのでしょう。この解釈としては、「現実は現実として、それが心の中で聞こえたり見えたりしているのだから否定する必要はない。ただ、それは重要ではないので、特別な注意を払う必要がない」と言う程度のものだと思うわけです。

後日、同じラマナ・マハルシの別の書籍から言及している箇所を発見したので引用します。

ナーダはヨーガの聖典に述べられています。しかし神はそれを超えているのです。血液の循環、呼吸作用、その他の身体的機能は必然的に音を生み出します。その音は不随意で継続的です。それがナーダなのです。「ラマナ・マハリシとの対話 第1巻」(ムナガーラ・ヴェンカタラーマイア著)

ここだけを読むと「ナーダ音は肉体が出している音である」と解釈してしまいそうになりますが、「ナーダ音は真我(アートマン)が出している音ではない」と解釈した方がスッキリします。というのも、彼はこの文節では「体か、あるいは、真我(アートマン)か」という2択で話をしているように解釈できるからです。彼の話をするのであれば文字通りでいいのかもしれませんが、他の聖典との整合性を考えるとこのように解釈した方がスッキリすると思いました。

■ナーダ音が聞こえ出した最初の時

私がナーダ音が最初に聞こえたのはヨガの最後のシャバアサナの時でした。

最初は、いつものように呼吸や思考を観察していただけでした。ヨガをするにつれて思考の波が穏やかになってゆき、やがては、散発的に連続5秒前後くらいならば思考がない状態で息だけを静かに観察できるようにはなっておりましたので、その程度で息だけを観察しているだけでも十分にリラックス出来てはいたのですが、更に深くリラックスしたいと思い、たしか息を吸ってからちょっと止めて少しずつ吐きながらその息に少し注意を払うことで思考の波をより深く鎮めようとしました。心の言葉にならない程度の細かな波をグッと静めようとしたわけです。最初は試行錯誤で、特に何も変わりませんでした。ですが、とある日、変化が起こりました。もともと目を閉じていたので視界は一応暗かったのですが、思考の波を意思の力で鎮めることにより、より一掃の暗闇の静寂に包まれたのです。それは、視界が暗闇に包まれただけでなく、体全体が暗闇の静寂に包まれたのです。その瞬間、息のことも意識になくなり、視界が暗闇に包まれ、深い深い静けさの暗闇の中に「無」とも言える意識が漂ってきて、とても心地よかったことを覚えています。

それが日をあけて数回続いたでしょうか。一旦慣れればその状態にシャバアサナからすぐ移行する事ができましたので、何回かそんな事が続きました。それはそれは落ち着いた深いリラックスだったわけですが、その静寂の「無」の中から、急に音が聞こえてきたのです。それがナーダ音の始まりでした。

段階的にまとめます。
1. 最初は、心のお喋りのなすがまま。心のお喋りに反応することで心のお喋りを増幅させてしまう段階。
2. 心のお喋りに付き合うことなく、心のお喋りを観察できる段階。
3. 呼吸に意識をすることで心のお喋りを止めて呼吸の観察に戻すことができる段階。
4. 呼吸だけを意識して心のお喋りがない状態を最低5秒間は継続できる段階。
5. 思考の波が十分に静まる、あるいは、意思の力で思考の波を沈めて体全体が暗闇の静寂に包まれる段階。
6. シャバアサナの時、暗闇の静寂の中からナーダ音が聞こえて来た。
7. シャバアサナの時だけでなく、日常生活においても普通にナーダ音が聞こえるようになった。

上に書いたようにナーダ音には複数の種類があり、一番最初の「ウグイスの声」はこの静寂の暗闇の前にもシャバアサナの時に聞こえていたような気もしますが、このウグイスの声は微妙な音なので、なかなか日常生活の音との見分けが難しかったような気がします。高周波のピーと言う音や鈴の音は暗闇の静寂を経験した後に聞こえて来たような気がします。これらの高周波は分かりやすい音です。

音それ自体は、地方に旅行した時などで音が全くしない場所で静寂のキーンという音が聞こえるような感覚に似ていたり、あるいは、ヨーガの手法「ナウムクヒ・ムドラ」で耳・目・鼻・口を塞いだ時に聞こえる音(これもアナハタ・ナーダだと言われる)に音自体は似ているので、聞こえるかどうかの話で言えば昔から聞こえたのですが、意識の状態はかなり違います。

ナウムクヒ・ムドラをすれば一般人でもかなりの確率でナーダ音を聞くことができると思いますし、地方に旅行して静寂のキーンという音を聞いたことのある人は一般人でもかなり大勢いるでしょう。そのような一時的な体験でナーダ音が聞こえたと言うのと、意識の静寂と共に常に聞こえるナーダ音の間には随分と差がある気がします。どちらも「静かなところで聞こえる」という点に関しては一緒ですが、その内容はかなり違うと思うわけです。意識の静寂と共に聞こえるナーダ音は常に聞こえますから、誰かと会話していても重なって常に聞こえる高周波です。音量は日によって多少変わるもののある程度は一定ですから周囲がかなり騒がしいと被ってしまって聞こえにくくなりますが、静かな場所で話す時の人の会話と同じくらいの音量で常に聞こえる高周波なので、音量はそれなりにあります。地方の旅行での静寂のキーンは特殊な体験ですが、意識の静寂と共に聞こえるナーダ音は日常生活の延長です。普通に生活していて、例えばネットで調べ物をしたり会話したりしていても普通にナーダ音も聞こえ続けています。

その後、何人かとナーダ音について話したのですが、それでふと思うのは、ナウムクヒ・ムドラや地方の静かな場所でナーダ音を聞いて「私はナーダ音が聞こえる」と言っている人がぼちぼちいるということです。「それは、ナウムクヒ・ムドラや地方の静寂で聞こえる、アレでしょ?」みたいな感じ反応してくる人もいて、「そのくらい、私にも聞こえるよ?」みたいな反応をする人もいて、その一方で、「ナウムクヒ・ムドラなら私もそれっぽい音が聞こえるよ? 普通じゃないの?」みたいな、あまり特別なものではないという反応が多く、私の言うことにもあまりピンと来ないようです。私の説明の仕方が悪いのかもしれませんけど、ナウムクヒ・ムドラや地方の静寂で聞こえるナーダ音であれば聞こうと思えばおそらくほとんど全ての人が聞こえると思います。人によっては家が静かなのでいつも聞こえるという人もいるでしょう。

ナウムクヒ・ムドラであれば私が子供の頃に同様の遊びをした際にもナーダ音っぽいものが聞こえていた気がしますし、私もヨーガを始める前に地方の旅行をした時も静寂の音を聞いたことがありますので、何人かと話をしてもやはり同様の感触を受けましたので、きっと割と普通のことなのでしょう。ですから、私が周囲にナーダ音のことを言っても、説明すると「私もたぶん聞こえる」みたいな反応があったりして、ちょっと話が噛み合いません。私が言っているのは、ナーダ音そのものよりも、意識の状態の変化が重要だと思うわけです。意識の状態で言うと、単にそれらで聞こえる状態と静寂の意識からナーダ音が広がるのとではかなり違うと思うのですけどね。こう言う説明をいくらしても理解してもらえないのかもしれないです。

上記のような無を体験した上でのナーダ音は特殊な手法や環境に依存するものではなく、その心の静寂はヨーガの時間だけでなく普通の生活の時間にまで広がってゆきました。心の静寂の副作用でナーダ音が聞こえたとしても、この心の静寂があるのであればナーダ音くらい許容できます。人によってはナーダ音を禅病のように忌まわしいものとして認識していますが、心の静寂を伴うナーダ音が忌まわしいものであるわけがありません。この種の行法は落とし穴が沢山あるので、進むにつれ落とし穴に落ちることもあるかもしれません。とは言え、ナーダ音それ自体は心の静寂と結びついていると思うわけです。

ヨーガの書物を見ると、この心の静寂に逃げ込むな、と言う教訓が書かれている事があります。確かに、その通りかもしれません。この心の静寂は必ず通るものだと思いますので、それ自体は一定の地点に到達した「しるし」であることには違いないと思いますが、それに安住していたら成長はありません。この世界に生きていると言うことは心の静寂を保つだけでなく、教訓を学んだり平和を広めたり、その目的がある筈で、心の静寂を得たら行動してゆく事が必要なのでしょう。このように書くと、もしかしたら「心の静寂と言う方向は間違っている」と解釈する人がいるかもしれませんが、心の静寂、あるいは無という状態は、きっと誰しもが通るものなのでしょう。それは成長に必要なもので、それに留まらず精進を進めましょう、と言う事なのかなと思います。


■ナーダ音と耳を塞いだ時に聞こえる音との関係

ナウムクヒ・ムドラ(Naumukhi Mudra 九門のムドラ、ヨニ・ムドラ)で目、口、耳を塞いだ時に聞こえるのもナーダ音なのかとしばらくの間そう思っておりましたが、それを否定している記述を「瞑想と霊性の生活3(スワーミー・ヤティシュワラーナンダ著)」で後ほど発見致しました。

それはあなたが指で耳をふさいだ時に聞こえるハミング音ではない。

ただ、「ハミング音」と言っているのが少し引っかかります。強く耳を塞いで感覚が変になる時に聞こえる音ではないですよ、と言っているだけかもしれません。であればナウムクヒ・ムドラ(Naumukhi Mudra 九門のムドラ、ヨニ・ムドラ)で聞こえる音はやはりナーダ音と言うことになりますが。これはちょっと微妙なので、判断は保留ですね。

■ハタ・ヨガ・プラディーピカ

このヨガの根本経典「ハタ・ヨガ・プラディーピカ(Hatha Yoga Pradipika)」は古典に属するもので、文章自体はネットで公開されていますが、その解説がないと読解が困難な代物です。上記の「Meditation and Mantra」と同じ著者のSwami Vishnu-Devanandaが書いた解説書にはいくつかナーダ音について言及があります。 これは詳しく読まないと理解が困難なのですが、ナーダ音に関する箇所のみ訳しつつ抜粋します。

(1章57番) (特定の修行では) ナーダ(アナハタチャクラまたはソーラープレクサスから来るアナハタ音)に集中します。
(2章20番の解説) 何人かはナーダ(内面の音)を聞き、他の人は光を見る傾向があります。 〜(中略)〜 外的な経験は、人それぞれ違った形ではっきりと現れます。〜(中略)〜 経験は違っても、1つだけ共通な事があります。それは、心がとても落ち着いて平和であると言う点です。これは、ナディが浄化されたことを示す重要な中心的なポイントです。

この他にもハタヨガにおけるナーダ音の言及がいくつかあり、古典においても割と同様のことが言及されているようです。それと、ハタヨガの訓練において、各種の行法とナーダ音とは関係があることが言及されています。

(4章1番の解説) ナーダは音や波のエネルギーを意味します。 Binduは点を意味します:ここで点は中心または核です。 カーラとは超越的な波であることを意味し、時代を超越した状態、無空間状態、非二重の状態で終わります。 ナーダとビンドゥはシヴァとシャクティのようなものです。 ビンドゥは原子の中の核のようであり、ナーダは核の周りを旋回する電子であり、エネルギーはカーラです。 ナーダとビンドゥの波長が変わると、それはエネルギーになります:純粋な波です。 シヴァ主はすべてを凝縮しました。 ナーダ(音のエネルギー)、ビンドゥ(静的な力)、カーラ(超越的なエネルギー)。

おそらく、このあたりが最終的に理解されることなのでしょう。今はただの知識ですが。
ナーダの状態を更に超越するとカーラになる、と言うことでしょうか。

(4章29番) 感覚器官よりも心が優れている。 プラナは心の主です。 プラナのラヤ(Laya/吸収)が優れていて、ラヤはナーダ(内側の音)に依存しています。

これまた謎めいています。ラマナ・マハルシもラヤ(Laya/吸収)について言及しています。このあたりに更なる秘密がありそうです。

(4章31番)吸気と呼気の停止があると、感知の物体に向かう誘惑が破壊される。 心身の活動がないとき、ヨギは吸収(ラヤ/Laya)に成功します。
(4章32番)精神的活動と肉体的活動の両方が静まると、記述不可能な状態のラヤ(Laya/吸収)が起こります。これは直感的にしか実現できず、言葉では記述できません。
(4章34番)人々はラヤ、ラヤと繰り返し言い続けます。しかし、それはどのように定義されるのでしょう? ラヤはväsanas(性格に影響を与えるすべての意識下の力)が再燃しないこと、すなわち感覚における対象の再起が起こらないこと。

大胆に意訳すると、ラヤとはカルマの再燃が起こらないように起こる「吸収」の作用と言える。それはサマーディ状態のラヤと非サマーディ状態のラヤ(ブラフマンによるラヤ)がある、と言うことでしょうか。それは全体的な自己(Self)のラヤと、個人に基づくラヤの2種類だとも解釈できます。

一方、「ラヤ(吸収)はナーダ(内側の音)に依存している」と言うことは、ナーダ音が聞こえるようになると(個人に基づく)ラヤ(吸収)が発生し、浄化が進む、とも解釈できます。おそらくはブラフマンによるラヤは普通に存在しており、それはそれで少しずつ浄化されるが、多くの人の場合はそれでは十分ではなく、個人に基づくラヤが起こることで浄化が加速される、とも推測できます。あくまでも推測です。

ラマナ・マハルシの見解によると、ラヤ(吸収)に入らずに真我(コーザル体)に焦点を合わせるよう書いてあります。一方、このハタ・ヨガ・プラディーピカ(Hatha Yoga Pradipika)ではラヤ(吸収)を達成するようにかかれてあります。これはどういうことでしょうか。 解釈としては、ラヤ(吸収)は細身(メンタル質とアストラル質)のお話で、ラマナ・マハルシはもっと高い真我(コーザル体)に意識が合っているのだと思います。そうは言っても、まだ浄化が十分にされていない人はまずラヤ(吸収)で誘惑などを飲み込んでカルマの輪廻を止めるのが先なのかな、とも思います。ラヤ(吸収)である程度の浄化が達成されたらラマナ・マハルシの言うように真我(コーザル体)に焦点を合わせるのでしょう。

更に続きます。細かい行法は割愛して概要だけ引用します。

(4章66番)シヴァ神はラヤの達成のための方法を数多く与えた。
(4章67番)muktasanaに座ってsambhavi mudrãをし、その中の音に集中して耳を傾けるべきです。 これらは右の耳から聞こえます。
(4章68番)耳、鼻、口、目を閉じます。 すると、純化されつつあるスシュムナで明確な音がはっきりと聞こえます。

muktasanaはスカアーサナっぽい座禅の座り方で、sambhavi mudrãはナウムクヒ・ムドラに似た、顔を覆うムドラです。

(4章69番)すべてのヨガの実践には、アーランバ、ガタ、パリチャヤ、ニスパッティの4つのステージがあります。
(4章70番)アーランバワスター:(最初の段階で)、ブラフマ・グランティ(ムーラダーラ・チャクラにあるブラフマの結び目)の開幕があります。 それから、空白(Void)から生まれる至福があります。 それと同時に、(飾りのような)さまざまな甘い音や、(心の中のアーカーシャから生まれた)アナハタ・ドヴァーニ(Anähata Dhvani)のような乱れのない音が体の中で聞こえます。

グランティとは主要ナディであるスシュムナにあるとされている3つのブロックのことです。あまり意識していませんでしたが、いつの間にかムーラダーラ・チャクラのブラフマ・グランティが解放されていたのでしょうか? これは、気付く場合もあるし気付かない場合もあるようです。

確かに、半年以上前に会陰のムーラダーラ・チャクラからアジナ・チャクラまで軽い電気ショックが走ってアジナチャクラから軽い空気爆発しつつエネルギーが抜けたことがあったので、その時に何かあったのかもしれません(詳しくはこちら)。

空白(Void)から生まれる至福については、確かに、上で書いたように私がシャバアサナで感じた深い暗闇の静寂は空白(Void)とも言えるかもしれません。至福は昔より感じますけど、絶対的かと言うとそこまででもない気がします。

(4章71番)アーランバワスター段階では、ヨギは彼の心が(至福で)満ち溢れており、輝く身体を得ています。 彼は光り輝く甘い香りを放ち、すべての病気から解放されています。

私はこんなに体が丈夫ではないし風邪も引くので、自分がこうだとは到底言えないですね。私とはちょっと違う感じです。

(4章72番)ガタバワスター:第2段階では、プラナは(アパナ、ナーダ、ビンドゥ)と一体化し、中央(スシュムナ)に入る。 それから、ヨーギはアサナがしっかりとし、彼の知性はより鋭くなり、彼は神々と等しくなります。

私はこんな感じではないですね。まだまだのようですね。

(4章73番)最高の空虚(Void)にあるビシュヌ・グランティが貫かれたとき、それは素晴らしい幸福を示す。 それからケトルドラムのような轟音があります。

ビシュヌ・グランティはアナハタ・チャクラ(ハート・チャクラ)にあります。
これは私はまだのようですが、上記にあるケトルドラムの言及と被っているのが興味深いです。7段階の音で言うと「雷鳴」が似ているのかもしれません。
私の次の課題はビシュヌ・グランティかも。アナハタ・チャクラが抜けていない感じなのが課題です。

(4章74番)パリチャヤバワスター:第三段階では、マルダラ(インドの打楽器、小さなドラム)のような音が耳鳴りの中で聞こえます。
(4章76番)ニスパッティ-アバスター(第4の状態):プラナが(アジナ・チャクラにある)ルドラ・グランティを突き抜けると、それはイシュワラの座席に行きます。 その後、ヴィーナの共鳴を想像するかのようなリュートの音が聞こえます。

これらはまだまだのようです。でも、それぞれの段階ごとに音が割り振られているのが興味深いです。その音で進歩の段階を知ることができるわけですね。

(4章80番)私は、眉間の瞑想が、短時間でサマーディを達成するための最善の方法だと思う。 ナーダ(ヨガ)によってもたらされる吸収(ラヤ)は、ラージャヨガの状態を達成するための簡単な手段です。
(4章81番)ナーダの集中を通してサマディを練習する偉大なヨーギは、全ての表現を上回るほどの深い喜びがハートから溢れ出る経験をするでしょう。
(4章82番)彼の両手で耳を閉じて音を聞くムニ(ヨーギ)は、定常状態に達するまで心を固定しなければならない。
(4章83番)この(アナハタ)音を聞くと、次第にその音量が上がり、やがては外部の音を圧倒するでしょう。心の不安定さを克服したヨギは15日間で満足と幸せを得るでしょう。

この83番は納得できます。

(4章84番) 練習の初期段階では、様々な顕著な内面の音が聞こえます。 しかし進歩が起こると、それらはますます微妙になります。

この後、類似の、各種の音の例が続きます。

(4章89番)心がどんな内面的な音に最初に集中するとしても、それは安定状態に達して、最後にはそれと1つになります。
(4章92番)心がナーダの音に縛られ、その移り気をあきらめたとき、それは優れた安定性を達成します。

「Meditation and Mantra (Swami Vishnu-Devananda著)」にもナーダ音を使った瞑想方法が記載されてあったような気がしますが、そこでは「ナーダ音を使った瞑想方法もある」と言う程度の簡単な紹介でした。一方、この古典「ハタ・ヨガ・プラディーピカ(Hatha Yoga Pradipika)」では、ナーダ音を使った瞑想をかなり推奨していますね。最後の方でこれほどまでにナーダ音のことを言及するとは思いませんでした。この後も、しばらくナーダに関する記述が続きます。

ナーダ音が特殊なものではなく、このような古典できちんと細かく語られていることに安心しました。

■右耳で聞く
上記の通り、「瞑想をきわめる(スワミ・シヴァナンダ)」「Meditation and Mantra (Swami Vishnu-Devananda著)」「ハタ・ヨガ・プラディーピカ(Hatha Yoga Pradipika、Swami Vishnu-Devananda著)」いずれも、ナーダ音は右耳で聞くとあります。

私の場合、いつも聞こえているのは中央の少し左寄りで響いているような感じで、右耳で聞いているわけではありません。以前は右耳に意識を向けても特に変化がなかったのですが、最近(2018年9月末)は右耳に意識を向けると、中央左寄りで響くナーダ音と似ている音、ただし音量が小さい音(3分の1くらい?)が右耳から聞こえるようになりました。両方から聞こえているような感じですが右耳の方は意識しないと存在をあまり感じません。

上記のように「Meditation and Mantra (Swami Vishnu-Devananda著)」には「右耳でのみ聞く訓練をしましょう」「右耳はピンガラと関係」とあり、同著者によるハタ・ヨガ・プラディーピカの4章67番には単に右耳で聞こえるとだけ書いてあります。

「ヨーガ根本教本(佐保田 鶴治著)」にもハタ・ヨガ・プラディーピカが掲載されており、右耳という点に関しては同じですが、それはピンガラではなくスシュムナーから聞こえるとあります。

4-67 右の耳で、内部の[スシュムナー気道から発する]音を一心に聞くべし

括弧で括ってあるということは、[スシュムナー気道から発する]の部分は著者の解釈でしょうか?

「ヨーガ根本教本(佐保田 鶴治著)」には、このあたりのことが「ハタ・ヨガ・プラディーピカ(Hatha Yoga Pradipika、Swami Vishnu-Devananda著)」よりも詳しく書かれていて興味深いです。

又、「瞑想と霊性の生活3(スワーミー・ヤティシュワラーナンダ著)」には以下のようにあります。

アナーハタ・ドゥワニはスシュムナーの働きと結びついている

とのことですのでナーダ音はスシュムナーとの関連と思って良さそうです。

■ナーダ音とスシュムナ
「瞑想と霊性の生活3(スワーミー・ヤティシュワラーナンダ著)」には以下のようにあります。

スシュムナ(菅)は多くの人々の場合には、閉ざされたままの状態にある。浄化、強烈な求道心、および心の集中によって、この管は開かれ得る。霊性の流れはそのとき、その管の中を上昇し、精妙な霊的な音楽を生み出す。古代ギリシアのピタゴラス派の神秘家はそれを、「天上の音楽」と呼んだ。ヒンドゥの信者たちは、ときにそれを「クリシュナの笛」と呼ぶ。永遠のクリシュナの笛がそれである。宇宙霊から発せられる神の音楽は魂を魅了し、霊意識のより高い境地に導く。
このように精妙な宇宙の脈拍は、心が静まり、霊性の流れが意識のより高いレベルに昇ったときにのみ、きくことができる。しかしそれは、霊性の道を歩む人すべてが、必ずきく、というものではない。心がそのリズムに同調している人にだけ聞こえるのである。それとは別の経験をする、高度な魂たちもいるだろう。

■ホーリー・マザー「クンダリニーが目覚める前に、人は、アナーハタ音を聞きます。」(サーラダー・デーヴィー )

■クンダリーニ
クンダリーニの前段階のちょっとした経験として、2018年1月に電気ショックがムーラダーラ・チャクラ(会陰)に走って、その後アジナ・チャクラ(眉間)の眉間の肌の少し上の空中で爆発してエネルギーが抜けたことはあります(詳しくはこちら)。クンダリーニかどうかは微妙なところで、単に刺激が走っただけな感じです。人によっては「まどろみ型クンダリーニ」と呼ぶ場合もあるようですが。急激型だと一気に上がるらしいですが、急激型ではない感じです。(その後のクンダリーニ体験続きは下記参照)

ナーダ音とクンダリーニの関係につて、上の「沈黙の声」にも少し言及がありますが、「瞑想と霊性の生活3(スワーミー・ヤティシュワラーナンダ著)」に面白い記述があります。

ホーリー・マザー(サーラダー・デーヴィー )「クンダリニーが目覚める前に、人は、アナーハタ音を聞きます。」

このアナーハタ音はナーダ音のことであると解釈できます。なかなか面白いです。

この本は出版している団体の出展ブースで買ったのですが、そこで売り子をしていた何人かにこのアナーハタ音について聞きました。すると、その時点で出版準備中のプラナヤーマの本にナーダ音について少し書いてあると言っていました。そして、その他の本にも少し言及されていたと思いますが、特別これに焦点を当てた特集はなかった筈とのことでした。散らばっているのを探すしかないようですね。

例えば、「続・ヨーガ根本経典(佐保田 鶴治著)」に掲載されている古典のゲーランダ・サンヒターに記述があります。

(5章79~80) 右の耳のなかで内から発する心地よい音が聞こえるであろう。初めにコオロギの音、次にはフルートの音、それから、雷、太鼓、蜂、ドラ、さらに進むと、トランペット、湯沸かし太鼓、ムリダンガ鼓(南インドの両面太鼓)等の騒音楽器の音及び太鼓の音が聞こえてくる。
(5章81~82) そしてしまいには、かのアナーハタの音の響きが聞こえ、その音のなかに光が存在し、その光の中にマナス(こころ)が存在し、そしてこころはそのなかで消えてしまう。これがヴィシュヌ神の高御座に達した境地である。かくの如く三昧(サマーディ)に達するであろう。

てっきりナーダ音とアナハタ音(アナハタ・ナーダ)とは同一だと思っていたのですが、ゲーランダ・サンヒターでは区別して記載されています。言われてみると、分けて考える方がしっくりきます。

広義でのナーダ音は超感覚的な聖音・霊音全てを指すと思いますが、ゲーランダ・サンヒターの言うアナハタ音はアナハタ・チャクラに結びついた特別の音と光を意味しているようです。
ただ、私が最初に理解していたように、アナハタ音が広義のナーダ音の意味として使われていることも多い感じなのでコンテキスト次第ですかね。

それを踏まえますと、ホーリー・マザー(サーラダー・デーヴィー )の発言は2つの可能性があります。
・広義のナーダ音が聞こえ出した場合の話
・ゲーランダ・サンヒターで言うところのアナーハタ音が聞こえ出した場合の話
元の文だけではどちらなのかは区別できませんが、どちらにせよ通る道のようなので、今のうちからあまり気にすることもなさそうです。そのうち謎は解けるでしょう。

私の場合、広義のナーダ音は聞こえているものの、ゲーランダ・サンヒターで言うところのアナーハタ音はおそらくまだです。聞こえている音のいずれかがそれなのかもしれませんがハート(アナハタ・チャクラ)から聞こえていると言う感覚もないですし、音の中に光は見えませんので。

「ハタ・ヨガ・プラディーピカ(Hatha Yoga Pradipika、Swami Vishnu-Devananda著)」を見ると、以下のようにあります。

(2章20番)ナディが(完全に)浄化されたら、内側の音(アナハタ)が聞こえ、完全な健康が達成されます。

これは、最初読んだ時は「聞こえてくる音は全てアナハタ音」と解釈していたのですが、その可能性ももちろんありますが、ここにわざわざ「完全に」と記載していると言うことは、ゲーランダ・サンヒターで言うところのアナハタ音を意味しているのかもしれません。完全ではない時にも聞こえてくるナーダ音があることを前提にして、完全に浄化されるとアナハタ音が聞こえる、とも読めなくもないです。そうはいっても、「浄化されたら聞こえる」と言う言い方からすればそれは深読みし過ぎかもしれませんが、元はサンスクリットなので解説者の意訳が入っている可能性もあります。

■思いそれ自体がナーダ
同書から引用します。

耳に聞こえる音より精妙な音は、ラジオ波のような電磁波である。思いそれ自体がナーダ・ブラフマン(又はシャブダ・ブラフマン)、すなわち宇宙心の、永遠の、超感覚的、広大な拍動の、一つの現れなのである。

■オームとイーシュワラ
ヨーガ・スートラやヴェーダではオーム音は神聖とみなされており、宇宙全体を意味する「イーシュワラ」と同一とみなされています。例えばヨーガ・スートラの1.27には次のようにあります。

1.27 イーシュヴァラをことばで表したものが、神秘音オームである (「インテグラル・ヨーガ(スワミ・サッチダーナンダ著)」)
1.27 「彼」のあらわれたことばは、オームである(「ラージャ・ヨーガ(スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ著)」)

前者は意訳で、後者が原文のサンスクリットに近いようです。サンスクリットでは明確に神がオームであるとは言っていませんが、解説者のスワミがそれをそのままイーシュヴァラと言ってしまうほどオームとイーシュヴァラとの概念は一体になっているようです。

「瞑想と霊性の生活3(スワーミー・ヤティシュワラーナンダ著)」にも明確に「パタンジャリもまた、彼のヨーガ・スートラの中で、オームはイーシュワラ、すなわち神の象徴である、と述べている」とあります。

■オームとイーシュワラから始まり、ナーダとして現れる
ヴァイカリー(通常の音)、マディヤマー(思考過程の産物である言葉)、パシャンティー(思いそれ自体)、パラー(ブラフマンから発せられる音)ですので、オーム音やイーシュワラはパラーの階層であると解釈できます。一方、ナーダ音は狭義ではマディヤマーですから、それよりは数段階落ちるわけですね。それでも、ナーダ音はオームやイーシュワラへと導いてくれるのだ、と言うことなのでしょう。

補足:広義でのナーダ音はマディヤマー以降の神秘的な音全てを指していると思います。その場合、ヴァイカリー(通常の音)かそれ以外の神秘的な音か、と言う2分割になるので、ここで言いたいことを表すには不十分です。


ホーリー・マザー(サーラダー・デーヴィー )が言及しているように、ナーダ音とクンダリーニとは関係があります。
それを理解するためにはいくつか前提の知識が必要です。

■スシュムナと浄化の関係
スシュムナは普通の人の場合、不純物が詰まっていて働いていません。
浄化をする事でスシュムナが開き、そこにプラーナ(生命エネルギー)が流れ込みます。
これは、特に「ハタ・ヨガ・プラディーピカ(Hatha Yoga Pradipika、Swami Vishnu-Devananda著)」で多く述べられています。

(2章4番)ナディが不純物でいっぱいになると、プラーナが中央のナディ(スシュムナ・ナディ)に入ることはありません。

■スシュムナの浄化とナーダ音
スシュムナの浄化がされるとナーダ音が聞こえます。
「ハタ・ヨガ・プラディーピカ(Hatha Yoga Pradipika、Swami Vishnu-Devananda著)」には以下のような記述があります。

(2章72番の解説) プラナがスシュムナに入ると、あなたは内面の音を聞くことができ、平和な状態を感じることができます。

内面の音とはもちろんナーダ音です。

■スシュムナの浄化をしてからクンダリーニの覚醒
上記のように古典では(主要ナディである)スシュムナの浄化をまずしてからクンダリーニの覚醒と言う順番になっています。
そのスシュムナの浄化が達成されつつある「しるし」がナーダ音であるわけです。
ナーダ音が必ずしも誰しもが聞くものではないとはいえ、聞こえる人であるならばナーダ音が「しるし」として使えるわけです。

であれば、スシュムナが浄化されていない状況、すなわち、スシュムナが不純物で詰まっている状態でクンダリーニを覚醒させるととてつもなく危険である事が理解できます。

■クリヤ・ヨガ的な解釈
Swami Shankarananda Giri著の「Kriya yoga Darshan」には以下のようにあります。

  • (瞑想中に見える)光は物理的な体(Gross Body)の反応によるもの。振動はメンタル(アストラル, Astral)に属するもの。そして音はコーザル体に属するもの
  • 音は5つのエレメントの1つである無(Void, 虚無,Vacuity,空)から来る。
  • この音が聞こえるようになれば、もはや外部の雑音に影響されなくなる。
  • 光、振動、音は5つのエレメントである火(Fire)、空気(Fire)、エーテル(Ether, Vacuity)にそれぞれ対応している。他の2つのエレメントである水(Water)と地(Eatrh)は物理的な体に対応している。火はそれ自体で顕現することなく、何かの燃料を投下する必要がある。内部あるいは外部の光を作り出すことにより過去の行動や考えの結果作られたカルマを焼くことができる。
  • 瞑想の目的は光(物理的な肉体に対応, Kalatitam)、振動(アストラル体に対応, Bindu)、音(コーザル体に対応, Nada)の先に行くことにある。最終的な状態(Paravastha)では光も振動も音もない。光、振動、音は精神的修業(サダナ)の初期の段階では重要だが、サットヴァ・ラジャステ・タマスの質の先の段階に進めばそれは重要ではなくなる。光、振動、音は我々の日常生活から意識を解き放つために必要な助け舟であり、光や色などを頼るのは、とある段階では非常に重要になる。
それぞれ3つの体に対応しているという解釈は初めて見ました。他で見た記憶がありません。

雑音に影響されにくくなるのは、確かにその通りだと思います。周辺の物理的なノイズが多くても内部のナーダ音に耳を傾ければ心境はあまり影響されません。それでも、静かな方が集中できて良いのは変わらずその通りではありますし、ナーダ音が聞こえていたとしても、特定の周波数というか特定の高音だけ異常に頭に響いて頭にダメージが来るので、一般的に雑音に影響されなくなるとはいえ、やはり瞑想は激しい刺激がないような静かな環境で行う方がいいと思います。例えばドアがうまく閉まっていなくてカタカタなっていて、時々大きくカタンと鳴るような音が私は苦手です。

明確にナーダ音だとは書いてありませんのでもしかしたらナーダ音とは違った音のことを意味しているのかもしれないと思い、アシュラムでクリヤ・ヨガガを長くやっている人に聞いてみたところ、別の書物のことですから明確に「同一だ」とは言わなかったものの、「その音を聞いたところで精神修行(サダナ)に妙味を加えるくらいで、特に意味はないものだ」、という話と、「その音を聞いたのであればその音がどこから来ているか探ってみると良い、もしかしたら肉体の音かもしれないし、チャクラかもしれない。しかしチャクラの音は最初は聞こえない」、という話でしたので、他の流派でもナーダ音について似たような質疑応答があって瓜二つなので、やはりこれはナーダ音を意味していると判断しました。

光でカルマを焼くいう解釈は初めて見ました。確かに、ヒンドゥ教のプージャ(火の浄化の儀式)ではカルマを浄化するようなことが言われていますし、真言宗の護摩やその他の仏教でも火の儀式はカルマを燃やすという解釈は度々見るところではありますが、瞑想中に見える光でカルマを焼くとはちょっとした発見です。確かに、宗教の火の儀式が人間の内部で行われている精神的活動を象徴するものだとすれば瞑想中に見える光でカルマを焼くというのは理にかなっています。文面は解釈が2通りできて、火を燃やしてカルマを焼く(燃料は別にある)のか、カルマ自体が燃料なのか、どちらかなのかはこの文面では分からないですが、どちらにせよカルマを減らすことができそうです。クリヤ・ヨガをやっている人に聞いたら、この種の火はマニプラチャクラ(ソーラープレクサス・チャクラ)で出るそうです。その火と光との関係がどこまであるのか微妙です、というのも、「これから先は体験してみるように」、と詳しい人から回答があったので明確な答えはその時はもらえませんでしたので。

とある流派では単に「瞑想中に光や音を聞いても重要ではないので無視すること」と教えているのに対して、クリヤ・ヨガでは(ある段階までは)それに頼りなさい、と言っています。私としてはこのクリヤ・ヨガ的な解釈の方がしっくりきます。そういえばハタ・ヨガ・プラディーピカにもナーダ音を使った瞑想方法が書かれてあったのを思い出しました。そうとなれば、やはり無視するよりは(とある段階に達するまでは)きちんと頼った方が良さそうですね。

ここでは音だけにフォーカスしていますが、その前段階の光や振動にもフォーカスされていて興味深いです。私は心のイメージを使った瞑想が苦手というか、そもそも光もあまり見えないしイメージも苦手な方なので心のイメージを使った瞑想はしてこなかったのですが、それが得意な方もきっといらっしゃると思います。振動の瞑想ってあまり聞かないですけど、例えば、マイナーな例になってしまいますけど霊動法とかがそうなのですかね? 私は霊動法の経験はないので見当違いかもしれないですけど。或いは、滝行などでブルブルっと震える修業とか? でも、滝行はちょっと違うかな。私の場合、ヨガのプラナヤーマやアサナで(おそらく)ある程度浄化されてからナーダ音にたどり着いたので、他の道のことはあまり分からないです。きっといろいろなやり方があるのでしょう。

ちなみに、シバナンダ系のスワミに聞いたら「音は無視してチャクラ(アジナチャクラ)に集中して瞑想しなさい」と言われましたが、同じ流派の文献を読むと2通りの解釈があって、「色や音は無視しなさい」というのが瞑想系の本「Meditation and Mantra (Swami Vishnu-Devananda著)」に書いてある一方で同じ著者の「ハタ・ヨガ・プラディーピカ(Hatha Yoga Pradipika、Swami Vishnu-Devananda著)」にはナーダ音によって最終的なサマーディに導かれる、という内容が解説されています。もしかしたら意識の成長段階によって何が良いのか違うのかもしれませんね。

■ヨギにとってのナーダ音の意味

同書 Hatha Yoga Pradipika (Swami Muktibodhananda著, Swami Satyananda Saraswati監修) には「ヨギにとってナーダ音は(クンダリーニ・シャクティなどの)シャクティと意識の上昇を意味している」という記述もあります。

■グランティを破る時に聞こえる音

同書 Hatha Yoga Pradipika (Swami Muktibodhananda著, Swami Satyananda Saraswati監修) Verse70〜71(P567)の説明には、ムーラダーラチャクラにあるブラフマ・グランティというエネルギー・ブロックが破れる音が「ベルの音」あるいは「蜂が飛ぶ音」と書いてあります。私がナーダ音が聞こえ始めた最初の頃に聞こえていた音が実はブラフマ・グランティに関係していたなんて、ようやく謎が解けた気持ちです。自分の状態がようやくわかりました。随分と長く聞こえていた気がしますので、一瞬で破るわけではなさそうです。もしかしたら私がそうだったというだけで、一瞬で破るような人もいるのかもしれませんが。これは本文ではなくて解説のところに記載されてあるのですが、この著者はどうやってこれを知って確かめたのか、その情報元が気になるところではありますが。

凄く細かい点ですけど、ブラフマ・グランティがどこにあるのかという点において解説書によって若干の違いがあります。一般的にはこれはムーラダーラチャクラにあるとされています。

  • 「ハタ・ヨガ・プラディーピカ(Hatha Yoga Pradipika、Swami Vishnu-Devananda著)」は、解説のカッコ書きの中で「ブラフマ・グランティはアナハタ・チャクラ あるブラフマの結び目」と書いてあります。これを読んだ時にあれっ?て思いました。
  • 「ヨーガ根本教本(佐保田 鶴治著)」に、解説文にて「梵天の結節はアナーハタ・チャクラのなかにある結節」と書いてあります。これを読んだ時にもあれっ?て思いました。
  • Hatha Yoga Pradipika (Swami Muktibodhananda著, Swami Satyananda Saraswati監修) Verse70(P567)には、解説文に「ブラフマ・グランティを破ってムーラダーラチャクラが動き出す」「ムーラダーラにあるクンダリーニから音が現れる」「聖典にあるUnstruckという単語はアナハタを意味するがこれはアナハタ・チャクラを意味していない。アナハタ・チャクラはもっと後の段階になる。」と書いてあります。この最後の説明がしっくりきます。よって、通説の「ブラフマ・グランティはムーラダーラチャクラにある」は合っていると解釈できます。聖典を読んでいると通説とは違う記述が度々現れますので、都度確認が必要だと思います。
同書 Hatha Yoga Pradipika (Swami Muktibodhananda著, Swami Satyananda Saraswati監修) Verse73(P569)には、「アナハタ・チャクラにあるヴィシュッダ・グランティを破るとケトルドラムの音が聞こえる」とあります。私はドラムの音はあまり聞こえていない気がします。まだまだなのですかね。これは解説文ではなく本文の方なので他の本にも書いてあります。例えば「ヨーガ根本教本(佐保田 鶴治著)」には「無上の歓喜を予示するところの混合音と太鼓の音のような音とがノドのチャクラの空処で起る」とあります。「ハタ・ヨガ・プラディーピカ(Hatha Yoga Pradipika、Swami Vishnu-Devananda著)」には「最高の空虚(Void)にあるビシュヌ・グランティが貫かれたとき、それは素晴らしい 幸福を示す。 ケトルドラムのような轟音があります。」とあります。

Verse76(P574)の説明には、「アジナチャクラにあるルドラ・グランティを破るとフルートの音が聞こえる」、とあります。これまた明確な記述で、自分の状態を知るのにとても助けになります。私は高周波が今も常に聞こえている訳ですが、フルートというとそうかもしれないですが、フルートならば私が聞こえている音よりもっと高い音のような気もしますけど、今の音がフルートと言われればそうと言えなくもないのでそこは微妙なところです。これも本文ですので他の書物にも記載があります。「ヨーガ根本教本(佐保田 鶴治著)」には「フルートの音やヴィーナーを弾ずるような音が聞こえる」とあります。「ハタ・ヨガ・プラディーピカ(Hatha Yoga Pradipika、Swami Vishnu-Devananda著)」には「ヴィーナの共鳴を想像するかのようなリュートの音が聞こえます。」とあります。

ブラフマグランティを破っていた時の音が聞こえていた時のことを思い出すと、破ると聞こえるというよりは破られ始めると聞こえ出す、あるいは、破っている間は聞こえる、と解釈するのが良さそうです。 グランティというのはエネルギールート上にあるブロックですから、ブロックが破れだしたら音が聞こえるとして、ちゃんと破れるまで時間がかかるというのが私の理解です。ちゃんと破れてからクンダリーニ経験が起きたのだとすると、もうちょっと様子見で気長に待つのが良さそうです。 それにしても、音とグランティの関係が書いてある本をようやく見つけられて良かったです。

■スワミも激しい耳鳴りに悩まされることがある

Hatha Yoga Pradipika (Swami Muktibodhananda著, Swami Satyananda Saraswati監修)P586によると、スワミも日常生活で常時続く激しい耳鳴りに悩まされることがあると言います。

スワミMuktanandaはある時、睡眠とナーダ音を両立できなかったがために14日連続で眠ることができなかった。彼の体はどのようなナーダ音であったとしても反応した。"この天国の音楽の段階では、ヨーギはダンスの芸術を獲得する" 彼は働いている時、動いている時、食べている時ですらずっとナーダ音を聞いていた。そして、ナーダ音が激しくなってくると怒りを感じたこともあった。

スワミであっても激しいナーダ音に怒りを感じることがあるのですね。興味深いです。流石に14日連続で眠れなければストレスもたまりますよね。

■右耳か左耳かは重要ではない

Hatha Yoga Pradipika (Swami Muktibodhananda著, Swami Satyananda Saraswati監修) チャプター4 Verse 67 P563によると、「聖典には右耳で聞こえると書いてあるが、左右どちらの耳で聞こえるかは重要ではない」と質疑応答と共に記載されています。私は中央の左寄りで聞こえますけど、左右についてはあまり気にする必要はないようです。この本はビハール・スクールの本なので信頼できますし、有名なSwami Satyananda Saraswayi監修ですのでまずは信用していいと思います。

引用:(Chapter 4, Verses 67-68) ナーダは右耳で聞こえると記載されていますが、実際のところ、それは心の中で聞こえる音ですので、どちらの耳で音を識別するかは重要ではありません。GaneshpuriのBaba Muktanandaはかつてグルに聞いたことがあります。(中略) Sri Nityanandaは「右耳で聞くか左耳で聞くかは重要ではない。何故なら、ナーダ音はサハスララ・チャクラのアーカーシャ、すなわち最上の意識から発生しているからだ」と答えました。 Hatha Yoga Pradipika (Swami Muktibodhananda著, Swami Satyananda Saraswati監修)

■クンダリーニとは?

「あるがままに(ラマナ・マハリシ著)」によると「クンダリーニとはアートマ、真我あるいはシャクティのもうひとつの名前にすぎない。我々はクンダリーニを身体のなかにあるように語る。なぜならわれわれ自身をこの身体によって限定された存在として見なしているからである。だが、実際クンダリーニは真我と異ならず、内側にも外側にも存在しているのである。」とあります。私の直感としてはこれは正しいと思います。一般的にはこれらはそれぞれ別のものとして認識されていると思いますが、ラマナ・マハリシ師の見解はどこか「しっくり」きます。

同様に「ヨーガの極意(小山一夫著)」によると「クンダリーニの覚醒とは単にエネルギーが高まりそれを制御できるようになったというだけの話です。クンダリーニの価値はそれをどう使うかにかかっているのです。」「クンダリーニが覚醒すれば人格が一変し聖者の如く立ち振る舞う、かのような話はあまり当たっていないと思います。」とありますが同感です。同書の中で他書「魂の科学(スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ著)」の引用として「たとえクンダリーニが目覚めたとしても、それは大抵の場合、その一部が目覚めたに過ぎない」と書かれてあります。これも同感です。

「密教ヨーガ(本山博著)」では著者の体験談として初めてのクンダリーニ上昇経験が書かれてありますが、最初のクンダリーニ経験ではムーラダーラが目覚めただけで他のチャクラは更に開発しなくてはならなかったようなことが記載されています。又、「ムーラダーラチャクラの内に住むクンダリニーの目覚めなしには、どのチャクラも目覚めない」とも記載されています。私の感覚から言っても、クンダリーニ経験前は体の中の気の流れがほとんどない場所が多かったのが今は感じられるようになりましたので、クンダリーニ経験が全ての始まりであり、クンダリーニなしには何も始まらない、というのはその通りかなという気がします。

「ヨーガの極意(小山一夫著)」では気功の見解を紹介して「先天の気」と「後天の気」について解説しています。「クンダリーニとは先天の気を言います。この先天の気とは母胎内で流れていた気(元気)と生を受けた時に初めて得た気(真気)に分かれます。もしクンダリーニが全く動いていないとすれば人間の生命活動は途絶えてしまいます。つまりクンダリーニとは生命を維持するための根源的な力を意味するのです。これに対して後天の気とは生後に外部から取り入れる気の総称だと言えるでしょう。それは呼吸、水、太陽光、食べ物等に含まれる気に他なりません」

推測ですが、クンダリーニがアートマ/真我(いわゆる「魂」)であって先天の気でもあるとするならば、クンダリーニ体験をすることで魂がこの世にきちんと顕現されるということであり、その時に現れるのは過去の人生で培ってきた自分自身の魂であるのですから、過去の人生できちんと修行してきた人のクンダリーニ経験後とそうでもない人のクンダリーニ経験後では違いが出るのも当然なのかな、という気もします。 おそらく、生まれてきた時点では完全に魂が顕現していないのでしょう。生まれた時点では肉体とアストラル体やコーザル体の繋がりが弱くて、繋がることがクンダリーニ経験なのかな、という気がします。その繋がり方にもレベルや順序があって、まずはムーラダーラのような肉体的なところから繋がり始めて徐々にその秩序を保ちながら上のレベルで繋がってゆくのかな、という気がします。

■チャクラ

チャクラが流行していますが、本格的にチャクラが重要になるのはクンダリーニ経験後です。クンダリーニ以前はチャクラの感覚があまりないことが多いと思います。クンダリーニ以前のチャクラはファッション(流行)なのかなとも思います。このあたり、ホーリー・マザー(サーラダー・デーヴィー )の言葉通りなのかなと思います。

ラーマクリシュナも同様のことを言っています。
霊的目覚めはクンダリニがその眠りから起こされない限り生じることはありません。(「ラーマクリシュナの教え」(ジャン・エルベール 編さん))

シバナンダ系のとあるスワミは(又聞きですが)「チャクラはクンダリーニ経験がなければ単なる想像に過ぎず、クンダリーニ経験がなければチャクラのことを考えても意味がないからチャクラの話で盛り上がるのはやめなさい」と弟子たちに伝えているようです。本筋である「浄化」に集中しなさい、ということなのかなと理解しています。本筋ではない「チャクラ瞑想」とか「(ビージャ・マントラでチャクラを刺激する)クンダリーニ・ヨガ」などに時間を費やさないようにとの弟子への説教ということで理解しています。

私自身の経験から言うと、確かにチャクラがきちんと感じられるようになったのはクンダリーニ経験後です。でも、クンダリーニ以前でも例えば喉がガラガラして声が出し辛いとかハートが暖かいとか苦しいとかいう感覚は感じることはあったので、チャクラを「感じる」という観点は持っていてもいいのかなと思います。クンダリーニ以前のチャクラの修行とかは時間の無駄に終わることが多いと思いますが。

ヨーガ的には「浄化」→「ナーダ音(聞こえない人もいる)」→「クンダリーニ」→「チャクラ」の順番ですね。

■クンダリーニは諸刃の剣

特に神智学系の人が好んで引用する一文がハタ・ヨガ・プラディーピカ(Hatha Yoga Pradipika)3章107番(バージョンによっては106番)にあります。

  • 「それ(クンダリニー)はヨーガ行者には解脱を、愚者には束縛を、与える。」(「神智学大要 第1巻 エーテル体」(アーサー E.パウエル著))
  • 「クンダリーニの覚醒は、ヨギには解脱を与え、愚者には苦悩のくびきを与える」(「チャクラ」(C.W.リードビーター著))
この引用部分について原文には以下のようにあります。

  • 「クンダリー・シャクティはカンダの上方で眠っている。このことは、ヨーギーにとっては解脱の因となり、痴人には束縛の因となる」(ヨーガ根本教本(佐保田 鶴治著)の訳。これは3章の106番。107番ではなく。)
  • 「クンダリーニ・シャクティはカンダ(ナディが結合して離れている臍の近くの場所)の上に眠っています。 それはヨーギにムクティ(解放)を、愚か者には束縛を与える。 シャクティを知っている人は、ヨガを知っている人です。」(ハタ・ヨガ・プラディーピカ(Hatha Yoga Pradipika、Swami Vishnu-Devananda著))
  • 「クンダリーニ・シャクティはカンダの上で眠っている。このシャクティはヨーギにとっては解放の手段であるが、無知な人にとっては束縛となる。」(Hatha Yoga Pradipika (Swami Muktibodhananda著, Swami Satyananda Saraswati監修) )
カンダについては3章113番あるいはバージョンによっては112番で解説されており、簡単に言うと「アヌスの上」となっています。

■クンダリーニ・シャクティと3つの体との関係

Hatha Yoga Pradipika (Swami Muktibodhananda著, Swami Satyananda Saraswati監修) には以下のように説明されています。
・肉体はプラーナ・シャクティの保存庫。
・心(マインド)はマナス・シャクティの保存庫。
・アートマはアートマ・シャクティの保存庫。
私たちはこれら3つから出来ており、互いに影響し合っている。心が何がしかに惹きつけられる時、これら3つの全てがその中に吸い込まれる。我々が何を願うかという意思をはっきりさせる必要があるのはこのためであり、それ故に、高い意識と知識を求める人が進歩するのはこのためである。


■神智学的な解釈に基づくクンダリーニ

「神智学大要 第1巻 エーテル体」(アーサー E.パウエル著)には以下のように記載されています。
クンダリニーは「世の母」などといろいろな呼ばれ方をしている。
人間の肉体、エーテル体(幽体)、アストラル体、メンタル体その他はクンダリニーによって賦活(それに活力を与える)されているので、「世の母」という名称はふさわしくもある。クンダリニーは現在われわれに知られている限りではあらゆる界層に存在している。
ただ、これは雲を掴むような話ですので、ひとまず私たちに手が届きそうな範囲でもっと具体的には以下のように関係するようです。
クンダリーニの主な動きは、各エーテル(幽体)中枢を経由しながら賦活(それに活力を与える)して、アストラル経験を肉体意識にもたらすことである。アストラル体の感ずる力、すなわち、正確な理解というところまではいかないが、ともかく感受する力を呼び覚ます。
前提として、神智学においては肉体の次にエーテル体(幽体)そしてアストラル体と続きますので、クンダリーニによって肉体とアストラル体を結ぶ部分のエーテル体(幽体)が活性化されます。
「神智学大要 第2巻 アストラル体[上]」(アーサー E.パウエル著)では少し表現を変えて同様のことを以下のように説明しています。
クンダリーニの主な機能は、エーテル体のチャクラを通過することによってチャクラに勢いを与え、これらのチャクラと肉体とアストラル体との連結門として活用できるようにすることである。

■クンダリーニは生まれ変わるごとに上げる必要がある
以下のような記述があります。
クンダリーニは生まれ変わってくるごとにこれを支配する努力をくり返さなければならない。それは真我である霊はもちろん常に同一であるが、各体は生まれ変わるごとに新しいものとなっているからである。しかし、いったん完全に支配してしまえば、次の生からは反復も容易になってくる。「神智学大要 第1巻 エーテル体」(アーサー E.パウエル著)

■クンダリーニがアジナ・チャクラに届くと主の声が聞こえる

同書には以下のような記述があります。
書籍「沈黙の声」にはクンダリニーが眉間のチャクラに達してそれを十分に活気づけると主の声(この場合は高次の声を意味する)を聴く力が開ける、と記されています。それは、眉間にある脳下垂体が働くようになるとアストラル体と完全に繋がり、それを通じて内部より発する意思をすべて受信しうるようになるからである。「神智学大要 第2巻 アストラル体[上]」(アーサー E.パウエル著)
クンダリーニがエーテル体を活性化することによって肉体からエーテル体を通じてアストラル体と繋がる、ということだと思います。クンダリーニがエーテル体だけでなく全ての根元のエネルギーだとしても、主に我々に関連するのはこの辺りなのでしょうね。

ここで、「沈黙の声」の原典(邦訳版)に実際にどのように書かれているかを確認してみると、以下のようにあります。
クンダリーニを心臓の部屋、世界の母の住み給う懐にあらしめよ。しかるとき、心臓より力興って第六の天、即ち汝の眉間に登らん。力が一なる大霊の呼吸とならば、万有に満つる声は汝の<至上我>の声なり。「沈黙の声」(H・P・ブラヴァツキー 、竜王出版のバージョン)
原文より神智学大要の方が随分とわかりやすいです。

ただ、「神智学大要 第2巻 アストラル体[上]」(アーサー E.パウエル著)には「大抵の人は、このチャクラの覚醒に初めて着手したとすれば、それを今生で実現するのは不可能である。」と、絶望的な事も記載されています。

■音のないところ

ハタ・ヨガ・プラディーピカ(Hatha Yoga Pradipika)4章101~102番に「音のないところ」の境地が描かれています。この記述は難解な部分もあるので幾つかの書物を見比べてみます。

(4章101~102番) アナーハタ音のひびきが聞こえる間は虚空についての想念はまだ存在している。かの音も無いところが至上の梵、至上の我であるとうたわれている。音の形で聞こえるものはシャクティに他ならない。すべての存在の没入する場であり、そしてなんらの形相の無いものこそが至上神(アートマン)である。 「ヨーガ根本教本(佐保田 鶴治著)」
(4章101~102番) アーカーシャの概念(音の生成)は、音が聞こえている限り存在する。音の無い状態はパラ・ブラフマンあるいはパラ・アートマンと呼ばれている。ナーダとして聞こえる音は何であれ、それはシャクティであるに過ぎません。最高の真実は形がないものです。それこそがParamesvara(至上の主、Supreme Lord)です。「ハタ・ヨガ・プラディーピカ(Hatha Yoga Pradipika、Swami Vishnu-Devananda著)」
(4章101~102番) アーカーシャの概念(音の本質)は音が聞こえている間は存在する。音のない状態こそが最上の真実であり、至上のアートマン(Supreme Atma)と呼ばれている。神秘的なナーダの働きとして聞かれるものは何であれシャクティに過ぎない。全ての要素(panchatatva: panch + tatva, 五大元素, Prithvi (Earth), Jal (Water), Agni (Fire), Vayu (Air) and Akash (Space))が中で溶解しているもの、それこそが形のない存在(formless being)であり、至上の主(Supreme Lord, Parameshwara)である。「Hatha Yoga Pradipika (Swami Muktibodhananda著, Swami Satyananda Saraswati監修)」

Swami Muktibodhanandaによる解説を引用します。
五大元素はそれぞれの質(quality)を持っている。音はアーカーシャ・タットヴァの質であり、五大元素のうち最高で最も繊細なものです。音が存在していることを意識していたり、あるいは、貴方が音そのものであったとしても、そのような状態であるうちはまだ貴方は最高の状態の中に溶け込んではおらず、まだ最高の状態になってはいません。アートマンの中では"これ/存在する(is)"とか"これではない/存在しない(is not)"という概念は存在しない。よって、"音が存在する"とか"音が存在しない"という概念も存在しない。よって、音が聞こえているということはアートマンの中にはいないことがわかります。「Hatha Yoga Pradipika (Swami Muktibodhananda著, Swami Satyananda Saraswati監修)」

おそらく、このあたりがナーダ音の真実の最終理解なのでしょう。意識の壁を突破しなければこの最終的な状態は理解できないのかなと思います。

同書では、この後にスピリチュアルで有名なたとえ話「波と海」が紹介されています。
個人としての存在は例えるなら海における波です。波は海とは隔てられているように見えるかもしれませんが、しかしながらそれは全体の一部であります。「Hatha Yoga Pradipika (Swami Muktibodhananda著, Swami Satyananda Saraswati監修)」

このたとえ話は有名すぎてスルーしてしまいそうなところですが、ナーダ音の最終理解と結びついてこの話が出てくるところがとても興味深いです。このたとえ話はわかるようでいてわからない話で、とりあえず頭で理解することはできますが、いくら理解してみたところで私という存在はあくまでも個人として分かれているし、それが一緒だと言われても最初はよくわからないわけです。世間で多くの場合はこのたとえ話は「道徳」として語られているように思えますが、このハタ・ヨガ・プラディーピカでそれがまさにナーダ音との繋がりとして説明されているところがとても興味深いわけです。

瞑想はやがてサマーディになる。その時、意識は瞑想の対象(Object)と一緒になり、二重性は融解する。「Hatha Yoga Pradipika (Swami Muktibodhananda著, Swami Satyananda Saraswati監修)」P452

よって、ナーダ音の場合はナーダ音そのものが瞑想の対象(Object)であり、ナーダ音との二重性を融解させるところが次の目的地になります。

アートマンの属性はサッチダナンダ(satchdananda, Sat:存在 + Chit:意識 + Ananda:至福)として知られている。私は存在(Sat)している、私は意識(Chit)している、私は至福(Ananda)だ、私は執着していない、私は光に満たされている、私は二重性に囚われていない、という状態。音を対象(Object)としたサヴィカルパ・サマーディです。「Hatha Yoga Pradipika (Swami Muktibodhananda著, Swami Satyananda Saraswati監修)」P589

音と同一化して、音が聞こえないところにまで到達することがサマーディである、と解釈できます。サマーディには各種あってサヴィカルパ・サマーディはその1つです。

そう言えば、クリヤ・ヨガの先生とナーダ音について話をした時に、「その音の発生元を確かめなさい」と言われたのを思い出しました。その意図としては、「物理的な音でないことをまず確認しなさい。ナーダ音であるならば内から聞こえている筈で、その場合でも、内なるナーダ音がどこから聞こえているか確認しなさい」と言われて、前半部分はともかく、後半部分の理解がその時はあまりできなかったのですが、今思えば二重性やサマーディに関することを言っていたのかなと推測できます。

こうして「ナーダ音のないところにまで達するべきだ」「ナーダ音の発生源を見つける」「ナーダ音やその発生源と一体化する」、と道が示されました。その先にはサマーディが続きます。サマーディによってナーダ音は消え去る筈です。おそらく。もしかしたらサマーディ中だけ消え去るということなのかもしれませんが、そこはまだ体験していないので分かりません。

■覚醒の形態

スワミ・ヨーゲシヴァラナンダは「魂の科学」の中で以下のように記しています。

クンダリニーの覚醒には、次の2つの形態があります。
(1) 生気の上昇 (Pranotthana)
(2) 光輝状態の始まり。
「魂の科学(スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ著)」

このうち、(1)の生気の上昇 (Pranotthana)の中にナーダ音があります。基本的には今まで調べた事と類似ですが、細かいニュアンスに違いが見てとれます。

「生気の上昇」の説明が以下のように続きます。

身体下部で動くアパーナ気は瞑想修行によって興奮状態となり、ムーラダーラ・チャクラ内の神経を刺激します。蟻が這ったり湯や蒸気が動いているかのように感じられたり、時には、冷たく感じられ、体全体がゾクゾクしたり頭髪が逆立ったりもします。この生気の上昇は特別な調気法や身体浄化法(Shat Karma)によっても引き起こされる場合があります。浄化された後では、脊髄中にあるスシュムナー菅の基底部から上部に至るまでアパーナ気が動くのを感じられます。やがてその動きは早くなり、そのため、行者の四肢がよく痙攣したりします。他にも、ベルの鳴る音や、鳥がチイチイ鳴く声、コオロギの声、ドラムやシンバルの音、リュートやフルートの音、それに雷の音などを聞く者もいます。こうした音は、何年にもわたって聞こえ続けるのです。こうして修行を休みなく続けてゆけば、やがては諸々の障害が除かれ、スシュムナー菅の中を脳に至るまで、生気が自由に、しかも適量に流れるようになってきます。「魂の科学(スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ著)」(P150~ 抜粋しつつ引用)

この本では、ナーダ音の立ち位置がはっきりと示されています。この著者はインドのリシケシでヨガニケタンというアシュラムを作った聖者の筈なので、さすがに凄い見識ですね。 ニュアンスとして「完全に浄化されればナーダ音は聞こえなくなる」と読み取れます。実際のところはそこまで私が到達してみないとわかりませんが。 この本には、これに続く段階も記されています。

やがて修行の段階が進めば、半覚醒の状態(Tandra)、よく眠った状態(Nidra)そして暗性優位の三昧(Tamasik Samadhi)といった境地を体験できるようになってきます。こうした境地はヨーガ・ニドラ(Yoga Nidra)と呼ばれることがあります。この段階では真の叡智を得ることは不可能ですので、これに続いて、叡智の光が輝きわたり意識もはっきりしているより高い三昧(サマーディ)の境地に入って行かなければ、解脱とか絶対者ブラフマンを知るといったことは不可能なままになってしまいます。「魂の科学(スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ著)」

浄化の後にサマーディが続く、ということのようです。この後の段階でようやくチャクラが出てくるようです。

(クンダリーニの)生気の上昇でチャクラに触れた感じはするかもしれません。しかし、それでもまだチャクラの姿は視ることができないでしょう。たとえ生気の上昇があった後でも、チャクラが暗性によって被われている間はチャクラの姿を視ることはできませんし、チャクラ内に隠されている力を経験することもできないのです。そうした状態のことを比喩して、蓮の花はまだ蕾のままで開花せずにいると言ったりします。しかし善性(Sattwa)の光が増してくれば花は開き、チャクラも見えてくるようになってくるというわけです。「魂の科学(スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ著)」

まとめますと、順番として以下になるでしょうか。

  1. 浄化
  2. 体の震え。ナーダ音が聞こえる(聞こえない人もいる)。
  3. クンダリーニの1段階目「生気の上昇 (Pranotthana)」
  4. 暗性(Tamas)優位の状態。チャクラの感覚の始まり(触れた感じ)。(まだチャクラは見えない) (私は今ここ)
  5. 半覚醒の状態(Tandra)、よく眠った状態(Nidra)、暗性優位の三昧(Tamasik Samadhi)などを経験する人もいる。
  6. クンダリーニの2段階目「光輝状態の始まり」
  7. 善性(Sattwa)優位の三昧(サマーディ)、チャクラの開花(見えてくる)(私は未体験)
まだまだ先は長そうですね。
クンダリーニ体験である程度の段階まで来たような気がしていましたが、まだ頂上は遠いことに気付いた感じです。

補足:
最初これを書いた時はクンダリーニの1段階目「生気の上昇 (Pranotthana)」について「これは普通クンダリーニ とは言わない気がします」と書きましたが、誤認だったようです。1段階目がいわゆるクンダリーニ の上昇体験ですね。クンダリーニの2段階目「光輝状態の始まり」はどうやらサハスララに関するもののようで、私は未体験のようです。「ヨーガの極意(小山一夫著)」には著者の1段階目の経験および2段階目について書かれてあるので私の認識間違いに気付きました。こういう時に師がいないと勘違いしやすいですね。

■クンダリーニをサハスララまで上げる

(以前にも少し書きましたが)クンダリーニ経験をしたら終わりではなく、その後、更に練習を続けてクンダリーニをサハスララまで上げる必要があります。

クンダリーニが目覚めたとしてもほとんどの場合それは直接サハスララにまで登りません。1つのチャクラからもう1つ上のチャクラへと登らせるためには集中と忍耐が必要です。時には後退し、再度多大な努力を使って再度登らせなくてはならないかもしれません。クンダリーニがアジナ・チャクラまで登ったとしても、それを保持するのは難しいでしょう。Sri Ramakrishna、Sri Aurobindo、 Swami Sivananda のような偉大なヨーギだけが長時間そこに保つことができました。最終的にクンダリーニがアジナからサハスララに登った時、合一(ユニオン)が起こります。しかし、その状態は最初のうちは長い時間続きません。長い期間、継続的な練習が行われた後でのみ純粋で革新的な合一の経験がやがては永遠のものとなり、そして最終的な解脱(モクシャ)に至るのです。「Meditation and Mantra (Swami Vishnu-Devananda著)」

ここでチャクラの話が出てきますが、クンダリーニの目覚めは以下のようなものが正しいと思います。
クンダリーニの目覚めは、あなたの振動レベルが上がることを意味します。「ああ、私のクンダ リーニは第 3のチャクラに達しました - 第 4のチャクラ - 今度は第 5のチャクラのほんの 2 インチです」などと考えないで下さい。 このようにクンダリーニが目を覚ますのではありません。 実際には、波動の周波数が増加すると変化するのはオーラの状態なのです。 これが実現されると、あなたの平和と喜びは比例して増加します。 普通の人が幸せだと思っているのは、貴方にとって痛みでしかなくなります。 官能的な経験はだるくて退屈になり、あなたはもはや飲酒、喫煙、賭博を必要としなくなります。その状態になると、クンダリーニが目を覚ましたことを意味します。 「ハタ・ヨガ・プラディーピカ(Hatha Yoga Pradipika、Swami Vishnu-Devananda著)」(読みやすいようにセンテンスの順番を少し入れ替えました)

チャクラの感覚というのはそれはそれとしてありますが、クンダリーニの目覚めとしてはこのようなものだと思います。人によっては、この記述を持ってして「チャクラの感覚はないのが正解」と思ってしまう人もいるようです。実際にヨーガの先生でそのような人がいました。ですが、この文章では、クンダリーニの目覚めはチャクラで分割されるようなものではない、と言っているだけだと私は理解していますし、自分の経験としてもそうだと思います。一方で、各チャクラの感覚というものはそれはそれとしてあります。

ヨーガ行者の本山博先生はスワミ・サッチャナンダの主張を引用して以下のように伝えています。
目覚めたクンダリニーのエネルギー、シャクティが上昇しますが、ほとんどの場合、マニプラチャクラまで上昇すると、またムーラダーラチャクラに下降します。もし実習者がマニプラをこえて登頂までエネルギーが上がったような感じでも、それはシャクティの全体が上がったのではなく、そのわずかな一部が上昇したにすぎません。
マニプラをこえてクンダリニーが上昇するには実習者は繰り返し繰り返し、熱心にクンダリニーを目覚めさせることが大切です。マニプラをこえてクンダリニーが上昇すると、もうなんの障害もないのですが、クンダリーニがムーラダーラやスワディスタナチャクラを目覚ましただけでは、いろいろな障害が生じると、サッチャナンダは言っています。
「密教ヨーガ(本山博著)」 ここで言うサッチャナンダとは、参考文献を見るとビハールスクールのSwami Satyananda Saraswatiのことのようです。私の手元には彼の著作物/監修として、上で引用した Hatha Yoga Pradipika (Swami Muktibodhananda著, Swami Satyananda Saraswati監修) があります。いま手元にはないですが「Kundalini Tantra」もSwami Satyananda Saraswatiの著作ですね。

■うぐいすの声のナーダ音と音符

後日、「あるヨギの自叙伝」を読み返していたら以下のような記述を発見しました。

インドの神話は、オクターブの7つの基音をそれぞれ、色彩と、鳥や獣のなき声に関係づけている。すなわち、「ド」は緑色でくじゃくの声、「レ」は赤色でひばりの声、「ミ」は金色でやぎの声、「ファ」は黄白色であおさぎの声、「ソ」は黒色でうぐいすの声、「ラ」は黄色で馬のいななく声、「シ」はあらゆる色の結合色で像の声、といったぐあいである。

ここで、「ソ」の「うぐいすの声」が気になります。というのも、上に引用したようにナーダ音で最初に聞こえてくる音がうぐいすの声だからです。とは言いましても、私は音感があまりないので音程とかわからないのですけれども。

■奉仕への招集

神智学系の書籍「至聖への道(ジュワル・クール大師 著)」に以下の謎めいた記述を発見しました。

あらゆる注意深い弟子たちの耳の中でトランペットのように鳴り響いている。奉仕への召集がなされている。

これは神智学を知ればなるほどと思える話ですが、話が長くなりますので奉仕への召集が何を意味するのかはここには記載しません。ただここでは、ナーダ音に関連付けて、ナーダ音の1つの音であるトランペットがここに記載されていることが興味深いので取り上げました。トランペットは上記6番目に記載された音ですね。大師様(マスター)に仕えて奉仕するにはナーダ音を経験して通り抜けないといけない(少なくともその流派ではそのように考えている)、と言うことなのかなと思います。

■霊的金縛り

「あなたの呪縛を解く霊的儀礼( 江原 啓之 著)」に以下のような記述がありました。

霊障による金縛りは、必ず時空の乱れから始まります。時空が変わるときというのは、ゴーッという耳鳴りがするような感覚を覚えるのです。(中略)霊的金縛りは起こり得るとはいえ、極めてまれです。

これは一時的な音のような記述ですのでナーダ音ではない感じではありますが、ゴーピ・クリシュナのクンダリーニ体験の音と似ていて興味深いです。

■プラナヴァ(Om)の音

「ラーマクリシュナの教え」(ジャン・エルベール 編さん)で見つけた記述を引用しておきます。

アナーハタ(スシュムナーの中の第四の中心、心臓の位置)の音はそれ自身で絶えず振動します。それはプラナヴァ(Om)の音です。プラナヴァは至高のブラフマンから生じます。そしてヨガ行者達を経て聞かれることが可能です。軽薄な人間はそれを聞くことが出来ません。ヨガ行者は、その音が一方では臍の部分から、他方では乳海(ヴェーダ聖典に由来する)上に休んでいるブラフマンから生じることを理解することが出来ます。

■「左右」のお話のまとめ [2019/06/03]

  • 「瞑想をきわめる(スワミ・シヴァナンダ)」 → 右耳(前のページに引用)「アナーハタの音は右の耳から聞こえます。」とあります。
  • 「Meditation and Mantra (Swami Vishnu-Devananda著)」 → 右耳(前のページに引用)「右耳でのみ聞く訓練をしましょう」という立場。
  • 「ハタ・ヨガ・プラディーピカ(Hatha Yoga Pradipika、Swami Vishnu-Devananda著)」 → 右耳。「右耳で聞こえる」とだけ書いてあります。
  • 「ヨーガ根本教本(佐保田 鶴治著)」 → 右耳。「右耳で聞くべし」と書いてあります。
  • Hatha Yoga Pradipika (Swami Muktibodhananda著, Swami Satyananda Saraswati監修) → 左右は重要ではない、という立場。(前のページに引用)
  • スピリチュアリスト、ドリーン・バーチュー → 左耳(彼女の体験)
  • 「オーラ13の魔法の法則(小宮ベーカー・純子著) → 左右の記述なし
前のページに書いたように「右から聞こえるのがピンガラ。左から聞こえるのがイダ」と最初は解釈しました。最近の(私の)仮説は「ハタ・ヨガ・プラディーピカの著者は右側のピンガラが優性だった。左側のイダが優性だと左側から聞こえる。両方活性化されていると左右両方から聞こえる」のかなと思っています。であれば、ヨーガ行者の多くが男性であれば右のピンガラが優性な人が多いのもうなずけますし、女性が左のイダが優性で左耳から聞こえやすい、というのは理にかなっています。

ただ、書籍によっては左右の記述はなく、単に内なるアナハタチャクラの音を聞く、とだけ記載されていたりもします。

ちなみに私の場合、最初は明らかに「左耳」で聞こえていたのですがやがては両方の耳から聞こえるようになり、今は左耳の方が音量が大きい、という状態です。 自分がこんな感じに聞こえていなければ(おそらく)ここまで拘ったりしないです。 聖典と違うのは何かが問題なのか、あるいは、それでもいいのか、と言うのは微妙ですがそれなりに重要なお話です。

他の(私の)仮説は、そもそもこの「右耳」の話はハタ・ヨガ・プラディーピカ 4章67版に書かれてあるのが元と思われますので、実はそこは単に右耳から聞こえるというだけでなく、アサナの説明の中で右耳から聞こえる、と書いてありますので、そのアサナを練習すると右耳から聞こえるようになる、とも解釈できなくもないです。でも、それほど右耳に特化しているアサナのようにも思えませんが。

ですが、やはり Hatha Yoga Pradipika (Swami Muktibodhananda著, Swami Satyananda Saraswati監修)の「左右は重要ではない」と言う説明が一番それっぽいです。考えすぎですかね。

■新しいナーダ音
2019年5月末。その後、新しいナーダ音が聞こえ始めました。これがナーダ音かどうかは微妙なところですが、普段聞こえている高周波(4096Hzに近い)のピーという音に加えて、それよりは音量が更に 1/5 くらいのとても微妙な音が聞こえ始めました。それは、微かな「グワン、グワン、グワン」という感じの音で、とても音量は小さいけれども「大きめのシンギングボール」が「低めの音」で、「遠くからかすかな音」で聞こえている感じです。

私の場合、普通のナーダ音は普段の生活でも普通に聞こえているのですが、この新しいナーダ音は周囲が聞こえないと気付かないくらいとても繊細な音です。最初は遠くの音かとも思いましたが、ヨガスタジオや家でも変わらず聞こえますので、微妙なところではありますがとりあえずナーダ音認定してあります。「Meditation and Mantra (Swami Vishnu-Devananda著)」にも、「小さな音量のナーダ音を聞くようにしましょう」みたいなことが書かれてあったような気がしますので、私は基本はこれに従って、なるべく小さな音量のナーダ音の方を聞くようにしています。

これは、今まで聞いた他のナーダ音のように一定の音ではなく、まるで声か音楽のようにリズムがあります。トンネルの中の空気の圧力というか音がこだましたグワングワンした感覚にちょっと似ていなくもないですが、そこまで大きい音ではないです。

何か、今まで聞こえてきたいくつかのナーダ音とはどこか違っている感じを受けます。今まで聞こえていたのは自然界あるいは肉体あるいはアストラル体の構造的なものから一定の微細な音が聞こえる、という雰囲気でしたが、今回は、どこかリズムがあるような気がします。喋る時の抑揚に似ているかもしれません。言語としては理解できないのですが。

これがひょっとしたら、いくつかの書籍で書かれていた「ナーダ音の言語化」に繋がってゆくのですかね? まだ意味の解釈はできませんが。

■六角形の結晶のナーダ音
つい先日、いつものピーと言う高周波のナーダ音が違って聞こえることがありました。音だけでなく、まるで六角形の結晶が何百個も何千個も寄り添ってそれぞれ振動して響いているかのようなイメージも感じました。いつものピーと言う高周波を細かく見聞きするとそんな感じになるのかな、と。ナーダ音は耳で聞こえるものなのに、何故かこの時は映像のイメージで見えたのです。イメージと音とを同時に見聞きしました。高周波のピーと言う音はそれを聞いて終わりではないのかもしれません。もしかしたら古典や聖典に書かれてある「微細なナーダ音を聞くようにしましょう」とは、微細なナーダ音が別にあるのではなくて既存のナーダ音をしっかりと細かく見ると別の音や姿で見える、と言うことなのかもしれません。 一回見ただけなのでまだそれほど確証はありませんけど。

これは、すぐ上にある「新しいナーダ音」とは別物で、完全に既存のナーダ音を詳細に見聞きしたものです。

初期に聞こえていたベルの音だとか虫の音の変形バージョンとも言えなくもないですが、それよりも遥かにパワフルな感じです。実は元々同じ音で、聞こえやすくなったから音が重なってピーという高周波に聞こえていたけれども細かく見ればそれは元々一緒の音なのかもしれません? ベルの音や虫の音を「音の波形編集ツール」とかで何重にも重ねたらきっとそれは高周波成分になってただのノイズというかピーという高周波に近づくかもしれません? でも、それぞれの音を分解してみるとまたベルの音や虫の音に戻る? 元々聞こえなかった音が心で聞こえるようになって、聞こえすぎるからピーという高周波になって、更に集中が進んで細かく見れるようになるとそれぞれが結晶で見えてくる、という仮説を立ててみます。 音が沢山重なっているからピーという高周波はパワフルなのも理にかなっています。まだ仮説ですけど。

■言語
例えば、以下のように、ナーダ音はやがて言語化されて理解されるようになる、と多くの書籍に記載されています。

クンダリーニが動き出す時、時々、内部の声あるいはそれに類する音が意識の深いところで聞こえるようになります。実際の現象は理屈で説明するのはとても難しいのです。と言うのも、それは物理的な音というよりは感覚的なものだからです。それは時には2つの木がお互いに話しているかのようなものです。これは、高い意識の状態です。最終的に、内部の声は純粋な振動になり、映像でもなく考えでもなく音でもないものになります。しかし、それでも、それを通じて理解することができます。まるで言語を話しているかのように。 (Hatha Yoga Pradipika (Swami Muktibodhananda著, Swami Satyananda Saraswati監修) P564)

他には、上に引用した「ダライ・ラマの密教入門」にも類似のことが書かれてありますし、覚えきれないくらい当たり前のように色々な書籍で見る気がします。実際にそこまで到達する人はそれほど多くなさそうですけれども。

私が最近聞こえ始めた、新しいナーダ音が「それに類する音」かもしれない? まだ様子見です。
「2つの木がお互いに」と言う記述は、「六角形の結晶のナーダ音」に近いものなのかもしれません。こちらも、まだ様子見です。

■音楽っぽいナーダ音
2019年5月末。基本はピーという高周波であることには変わりがないのですが、ここ最近、何やら、音楽っぽく聞こえてきました。

上にも書きましたがナーダ音は「天空の音楽(ピタゴラス派)」とか「クリシュナの笛(ヒンドゥ教)」とも言われていますが、今までのナーダ音は「音楽という感じでもない」と思っていましたので、どうもこの表現が腑に落ちなかったのですが、ここ最近は音楽っぽくなってきましたので、この表現はなかなかそのものズバリの表現かもしれない、という感じになってきています。

聞こえているナーダ音はピーという高周波が基本で、高周波には変わりがないのですが高周波の中の狭い周波数のレンジ内で音程が多少は上下していました。今まではその上下はあまり気にしていなかったと言いますか、とても長い周期でちょっとづつ変わっていくような感じだったと思います。なので、基本は割とピーという一定音っぽい感じで聞いていたのですが、今までよりちょっとだけ短い周期で音程が上下するようになった気がします。

何ですかね、この違いは。例えて言うのであれば、コンサートホールのアリーナほどははっきり聞こえないにせよ、外100mで漏れ聞こえる音とコンサートホールのエントランスで漏れ聞こえる音との違い、とでも言いましょうかね? 今までは、 何やらノイズっぽい音が雰囲気と共にコンサートホールの外100mまで流れ出て聞こえてはいるものの音楽とはあまり識別できないでいたのに対して、最近はエントランスまで近づいて昔より音楽っぽく聞こえてきた、と言いますか。

それと当時に、聞く側の私の心の変化もあると思います。ナーダ音が聞こえるようになる前は音楽を聴いたりしていましたが、ナーダ音が聞こえてからは音楽をほとんど聞かなくなりました。昔はクラシックであっても多少は旋律がはっきりしたものが音楽という固定観念があったのに対して、今はどんどんと好みがマイルドになってきて、それ故に、こんなシンプルなナーダ音であっても音楽のように聞こえるようになった、という違いもある気がします。音楽だけでなく食べ物も飲み物も薄味になってきています。昔であればこんなシンプルなナーダ音の旋律は音楽とは認識していなかったと思います。その心の変化もあると思います。

今までも音量が変わったり聞こえ方が若干変化したりはしていましたので、おそらくは元の音はそれほど変わっていないような気もします。昔も、時には変わって聞こえたり音程が変わったりしていた気がしますので、今までもたしか同じように変化しつつ聞こえていたと思います。音程が変化するという点に関しては前から変わらないにせよ、言葉で言い表すのは難しいのですが、何か、聞こえ方と言いますか、聞こえる感覚が違っているのです。昔は音程が変化してもあまり気にならずに「そんなものか」と流していたと言いますか、音程が多少上下しても心はそれを「一定」と認識していたのですが、今は、同じように音程が変化する音を「音楽」として認識し出したのです。ということで、ナーダ音が変わったというよりも、それを聞く側の認識と言いますか心が変化したのかもしれません。あるいは、両方かもしれないです。

以前聞こえていたナーダ音をはっきりとは再現できないのですが、比較対象として上にリンクのある4096HzのYoutubeと比べてみたところ、ちょっと合わない感じです。であれば、やはりナーダ音もちょっとだけ変化したのかもしれません。

ここから更に音楽っぽく聞こえるようになるのか、あるいは、ここで終わりなのかはちょっとわかりませんけど。まだまだ様子見です。

上に引用した「7種類の音」に分類するならば、今まではっきりと認識できたのは1番「ウズイスの声」、2番「銀のシンバル」、3番「貝から聞こえる海のメロディ」までははっきりと認識できており、最近までの聞こえ方がヴィーナなのかフルートなのか区別が付きにくかったのですが、どうやら新しく聞こえてきたのは「フルート」っぽい感じですので、最近まで聞こえていたピーという高周波はきっと4番の「ヴィーナの歌」なのでしょうね。ヴィーナは日本人には親しみがないですがYoutubeで検索するとそれほど高い音程でもなくて割と中間の音程っぽい感じですので、5番のフルートあるいは竹の笛の音よりも低い音だとすれば、最近までが4番の「ヴィーナの音」で、ここ最近ようやく5番「竹の笛、フルート」が聞こえつつあるのかな、という感じがします。以前書いた上の方の記述には5番のフルートが聞こえたような記述もありますけど、それは4番のヴィーナに訂正ですかね。

今5番だとすれば、あとに続くのが6番の「ラッパの音、トランペットの一吹き」と7番の「轟々たる雷鳴」ですね。ナーダ音が聞こえ始めて1年半ほど経ちましたが、ちょっとづつ進んで行くのですね。面白いです。

2017年11月前後〜2018年始め:1番「ウズイスの声」、2番「銀のシンバル」、3番「貝から聞こえる海のメロディ」音量は最小
2018年始め〜2019年5月中旬:4番「フルート」普段の生活でも常に聞こえるようになる
2019年5月後半〜:5番「竹の笛、フルート」。感覚の変化。音楽っぽい感じ


ナーダ音は臍(ヘソ)から発する

■ナーダ音は臍(ヘソ)から発する
同様の記述を発見しました。私がインドのリシケシでTTCを受けた時に先生が同じようなことを言っていて、書物で同様の内容を見つけられずにいたのですが見つけられて良かったです。

臍輪(さいたい、俗にいう へその緒)から生じた神秘なパラー音はヴィシュッダ・チャクラ部分でヴァイカリー音と言う耳に聞こえるような音に変えられます。(中略)絶対者ブラフマンの音、パラー音をマディヤマー音からヴァイカリー音という実際に聞きうる音に変えるのがヴィシュッダ・チャクラであるからなのです。 「魂の科学(スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ著)」(P167)



音の色。音の意味の言語化は未だ至らず。エゴが小さくなる

[風のルンの竜巻の経験から13日後]

■音の色
高周波のピーというナーダ音の上にザラザラしたザザザザザという音が上に乗っているのが「銀」で、それがもっとパワフルになると「金」という感じがしました。書籍とかで、音には色がある、という意味はこういうことかもしれません? 他の色はまだわかりませんけど。

■夢で作曲
夢の中で和音と合唱の額面を作曲していました。和音と声楽が組み合わさったメロディーがとても心地の良く、作曲を続けていたら何か気付きがあって「そういうことか!」と思った気がしますけど一瞬のことで気付きが足りなくて言語化できず、目が覚めたらすっかり忘れていました。聖典に書いてあります「音の言語化」に繋がるのかもしれないとも思いましたが、まだまだです。

■エゴが小さくなる
私はアサナ(体操)があまりできないのでヨガの先生になる選択肢はなかったのですが、理由はそれだけではなく、もし私が先生になったら「先生になった」というエゴが出てきてしまうので先生になるのは今の自分にとってはマイナスだと思っていました。しかし、今回の竜巻の経験でアナハタが優勢に変わったことにより、そのエゴのかなりの部分が克服されたかと思いますので、あとはアサナのスキルさえ上がればヨガの先生をやってもいいかな、という気になってきました。



ピタゴラス派の「天球の音楽」と「ナーダ音」

「ピュタゴラスの音楽(キティ・ファーガソン 著)」を読みました。これはヨーガの本ではありませんのでナーダ音のことは出てきませんが、各所にそれらしき表現が読み取れるのが興味深いです。同書では「天球の音楽」を以下のように記しています。

アルキュタスを通してプラトンへと受け継がれたピュタゴラス派の考え方のなかでもとくに広く知られ、長い間、大きな影響力をふるい続けたのは、「天球の音楽」という概念だった。アルキュタスとピュタゴラス派の先人たちは、惑星が天空を勢いよく進みながら音楽を奏でていると考えた。(中略)ピュタゴラス派の伝承によると、この音楽を聞くことができるのはピュタゴラスだけだった。

これは興味深いです。ピュタゴラスだけが聞くことができる音楽!
「天球の音楽」は「天上の音楽」(以前引用した記事)とか「天空の音楽」など色々な訳があって訳が一意ではなさそうです。

どうやら、この「天球の音楽」から音楽の楽譜やオクターブの概念が作られたそうです。

天体の動く速さは一様でないように見える。ピュタゴラス派は動きが速いほど、立てる音は高くなると考えるにいたり、天体どうしの相対的な距離の比を音程に呼応させる際にこの点を考慮に入れていたと、アリストテレスは書いている。天体が全部合わさると、全音階のオクターブがすべてそろった。

現在の音階の元となる概念を作ったのがピュタゴラス派で、天球の音楽とはもともとそれを指していたのでしょうか? それだけだったのでしょうか? ナーダ音的な意味合いはなかったのでしょうか? と思って読み進めましたところ、やはり、ありました。ピュタゴラスやアリストテレスのような偉人はやはり、薄々とかもしれませんがナーダ音のことを意識していたのだと推測できます。

アリストテレスによれば、ピュタゴラス派は天体が動いて実際に音が出ていると信じていた。アリストテレスは普通の人間が聞こえない理由としてピュタゴラス派が挙げたと彼が思っていることを述べた。
この音に誰も気づいていないという難点を彼らはこう説明している。その音は生まれたときから私たちとともにあるため、比較対象となるような静けさがない。声と静けさは互いに対になって初めて認識されるのであり、人間はみな、長年のうちに雑音にすっかり慣れて無頓着になった銅細工職人と同じような経験をしている。

これは、ナーダ音も同じくずっとそこにあるが気付かない、という点と類似しています。

キケロも似たような説明をしています。

非常に高い山々から水が落下する、ナイル川のカタドゥパと呼ばれる場所に暮らす人々は、轟音のせいで聴力を失った。たいていの人に天球の音楽が聞こえないのは、それと同じように耳が聞こえなくなっているからだと説明する。

同書によれば、15世紀と16世紀のイタリアにおいても、「宇宙の音楽」という概念が好まれたといいます。そんな時代、ガッフリオという人が「ピュタゴラスだけが聞こえる」という概念を「ずばぬけて高潔な者だけが聞くことができる」と修正したそうです。

当時、音楽理論の最高権威だったフランキーノ・ガッフリオは、真のピュタゴラス派になろうと手を尽くした。彼は、まるで古代人が蘇ったかのように、ボエティウスが協和音程と認める音程以外はいっさい考慮しようとしなかった。(中略)言い伝えによれば、ピュタゴラスだけが天球の音楽を聞くことができるということだったが、ガッフリオはそれをわずかに修正して、ずばぬけて高潔な者だけが聞くことができるとした。

これはまさに、ナーダ音の概念に類似しています。「ずばぬけて高潔な者だけが聞くことができる」という概念も、ナーダ音が「浄化が進めば聞こえるようになる」という概念である点と類似しています。

その後17世紀、天文学者のケプラーが天文学的な法則から天球の音楽を楽譜上に落とし込む努力もしています。この時代は、音楽と天文学とが一体になっている、興味深い時代だったようです。今もチャクラ理論などで音楽の楽譜が出てきたりするのはこの時代の流れが関わっていそうで興味深いです。ただし、ケプラー自身は天文学においては名声を得たものの、この音楽理論を発表したことで珍品扱いされた、と記されています。

その後、ピタゴラスの天球の音楽はシェイクスピアの物語に比喩として登場したり、各所でその概念は生き続けているようです。確かに、言われてみればそのような比喩を度々聞いたことがありますね。今では改めて意識しなければすぐに忘れてしまうくらいの比喩ですが、中世においてはかなり有名で人々が熱中した概念だったようです。

ただ、それらの物語ではあくまでも比喩であり、人の耳では聞こえないのが前提として描かれているようです。

そうして20世紀になり、天文学者が再度「天球の音楽」に目を向けるようになります。

1962年、太陽を研究している天文学者たちが、太陽内部を通過する音波が、目に見える太陽の表面、すなわち光面を泡立たせていることを発見した。彼らはそれを「太陽の交響曲」と表現したが(中略)、太陽は無数の倍音を発しているからだ。もちろん、私たちの太陽だけがこのように振動する恒星というわけではない。

又、ブラックホールも類似の交響曲を奏でている、という趣旨のことを言っている人もいるようです。であれば、宇宙には音が蔓延しているということでしょう。これは、近年の宇宙のドキュメンタリーなどで我々にはそれなりに親しみのある概念かとは思いますが、中世まではこのような概念はピタゴラス派に基づくものだったようです。

■天球の音楽とナーダ音は同じ?
同書の記述を見る限り、天球の音楽がそのまま100%ナーダ音と同じ概念ではないものの、類似性が見て取れます。「浄化されれば聞こえるようになる」という点から、人間の精神性の成長という観点から言えばおそらくナーダ音に近い性質を持っていると判断できます。ただし、ピタゴラス派(今もいるのでしょうか?)の人が「天球の音楽はナーダ音です」と言っているのは聞いたことがありません。

昨今、ヨーガをしている人はこの「天球の音楽」がナーダ音のことだと言ったりしますし、ヨーガの文献にもそう書かれてあったりします。私も基本的にはそう思っています。ですから、ヨーガ的には天球の音楽とはナーダ音のことだ、と解釈して良いのではないかと思います。



耳から聞こえる、炎の柱か雷鳴のような音

耳から聞こえる、炎の柱か雷鳴のような音

今朝から、リクライニングチェアでうとうとしていると「ズンッ」と言う「炎の柱に入って炎を全身で受け止めるかのような振動」といいますか、あるいは、雷鳴を体全身で受け止めた音、あるいは、雷鳴が遠くで落ちた音の音程を低くしたような低く鈍い音が耳で聞こえました。ズッサァァァァーーという、ザラザラとした、ゲームの効果音でありそうな音です。今日はいつもより早く4時くらいに起きてしまったので9時くらいになったらちょっと眠気が出てしまっていたのです。

実際の雷の音のようにびっくりする大迫力の大音量ではなく、雰囲気が似ている、というくらいです。音としてはズンッって感じですけど、感覚的にはバリバリ、という、何かが割れるような音も重なって聞こえていたかもしれません。ズンッが8割、バリバリ割れる音と感覚が2割くらいでしょうか。

これは、上記「Meditation and Mantra」あるいは「沈黙の声」に書かれてある7番目の「雷雲の鈍い轟音のように振動」に似ている感じです。

まず、頭の中にある「気」か何かの「圧力」が高まって、圧力が高まると共に頭の中がキーンと圧迫された感じになり、そうするとおそらく自然現象として圧力が抜け出るところを探すように頭の半分くらいまで圧力が高まり、やがてふと圧力が抜けると同時にズンッッッッという低い鈍い音がする感じなのです。このように意図したわけではなく、自然にこうなりました。イメージもしていません。

この感じですと、一旦圧力が抜けたらもうこの音は聞こえなくなるのかな? という気もしますが・・・ どうでしょう? そうであれば先日引用した同書の記述通りではあるのですが。

これは、高周波のナーダ音と違って、ずっと聞こえているという感じではありません。まだ高周波のナーダ音は聞こえ続けています。

気付いたのは今朝が初めてなので、まだまだ様子見です。
30分か1時間くらい散発的に聞こえていて、今は聞こえていません。

この音はアジナあるいは松果体に関係しているとどこかで読んだ気がしますけど、まだ大きな変化はありません。

そういえば先日(確か昨晩)に家でヘッドスタンドしていた時に左耳から似たような音が聞こえていましたけど、その時は骨か何かの圧迫音かなぁ と思ってスルーしていました。今までそんな音が聞こえたことはなかったのですが、ヘッドスタンド終わったら音が消えたのであまり気にしていなかったのです。ここしばらくは骨折していてヨガのアサナしていませんでしたし、ヘッドスタンド再開したのもここ1週間くらいなので、久々にやったらちょっと変わってたなあ、くらいでスルーしていました。ですが、今朝、同じ音が再度聞こえたので、ようやく、何だろう、と思うようになったわけです。

昨晩と今朝聞こえただけなので、これから様子を見ます。



ナーダ音の外側に広がる世界

今までは呼吸ですとかナーダ音に意識を合わせて気持ちを落ち着かせていわゆる「無」に近く瞑想をしてきたわけですけれども、それに加えてエネルギーワークも重要なのはそうなのですが、無の瞑想とエネルギーワークを続けていたところ、どうやらナーダ音や感覚の外側に、比喩で言いますと「地平線が見えそうなくらいずっと平らに続く世界」が広がっているような気がしてきました。

先日見えたような論理思考と体の感覚と想念の世界が真ん中くらいにポツンポツンと存在していて、その、体と言いますか感覚といいますか、いわゆる「わたし」の世界の外側にもっと広い世界が広がっているようです。

ただ、その外側の世界がどのようになっているのかはまだ見えません。ただ、暗闇と言うか、単に地平線っぽいものがシルエットで見えるだけです。もしかしたら何かがありそうな、山のようなシルエットを感じることもあります。

瞑想を続けると、次第に雑念が消えてゆき、雑念の力が微かになり、雑念の頻度も下がり、簡単に呼吸や雑念を力を入れずに観察することができるようになっています。

その状態では、観察する対象が先日書きましたように「半透明」な感じになっていて、あるようなないような、不思議な感じです。

世界は「外側」と書きましたが、もしかしたら重なっているのかもしれません。ですが、今のところは「外側」のようにも感じます。

視線が前を向いているとして、肉体の目で見える範囲があるとします。瞑想中は目を瞑っていますから肉眼は見えていないのですが、目を開けると見えるはずの範囲の外側に何かを感じて、意識を、比喩的に言うならば「ちょっと引いて、それから、ちょっと右側(あるいは左側)を見る」と、普段見ている世界の「外側」がそこにあるような気がするのです。

その「外側」とは、ナーダ音の響いている外側の世界でもあります。

ですが、上に書いたように、まだそれははっきりとは見えないのですが。もうちょっと様子見ですけど、この種の「実験」「興味本位」「探究心」の気持ちすらも最近は消えてきていて、更に瞑想を続けたらどうなってしまうのでしょう、という感じではあります。



ちゃんとタマスな沈み込むような瞑想に熟練する

先日のお話の続きです。

例えばマントラ瞑想とかですといきなりラジャスな瞑想を目指している気が致しますが、私の経験では、いきなりラジャスな瞑想はうまくいかないような気がしております。これは人によるのですかね? もともとタマスだったりするとうまくいくのかもしれないですけど。

私の場合は(同じような人も多いとは思いますが)、最初はタマスというよりも混沌とした状態の瞑想でした。雑念が入り混じれて、タマスなのかラジャスなのかよくわからない状態でした。最初は私はその雑念が入り混じっている状態をタマスかと思って解釈しておりましたが、どうやらタマスはもっと重々しい状態ですので、最初の瞑想状態はタマスですらなかったのかな、と今では思います。

その混沌とした瞑想状態から初めて、最初は「集中」をして「グイッ」と状態を安定させるわけです。

そして、状態が安定してくると雑念も減ってくるわけですが、そこで「無」とも言える状態に次第に近づいていくわけですが、その、押しつぶされたというか愚鈍な状態こそがタマスなのかな、と今では思います。

ですから、ヨーガをしている人の一部の間でタマスがよくないことのようなお話になっていて、まるでタマスが悪者になっていますけど、タマスというのは成長のレベル1のことなのかな? と今では考えております。

ヨーガや瞑想を始める前はレベル0ですので、タマスがレベル1だとしたらラジャスがレベル2、サットヴァがレベル3、サットヴァすらない平穏な状態がレベル4となり、タマスはレベル1ですのでそれ以上のレベルから見たら確かに低いレベルですけどヨーガや瞑想を始める前からしてみたらそれなりに高いレベルなわけです。

実際、その「無」の愚鈍な瞑想状態ですらもそれ以前の雑念が入り混じっている状態と比べたら遥かに平穏で清々しい境地に至ることができている(筈)ですので、タマスのレベル1すらもそれなりの境地なのかなぁ、と思う次第です。

ですから、タマスは悪いかのような扱いをしてタマスな瞑想を避けるべきではなく、むしろ最初はきちんとタマスな瞑想に熟達してから次のラジャスな瞑想に移るのがいいのかな? と最近は思うようになってきました。

まあ、これも割と仮説といいますか試行錯誤の上での現時点での判断ですけどね。

最初からラジャスやサットヴァな瞑想を目指してもうまくいかないような気が致します。あるいは、ラジャスやサットヴァのつもりでも実はタマスな瞑想している人もそれなりにいるような気も致しますが、どうなのでしょう。

一方、サイキックやスピリチュアルである程度の「能力開発」を目的に修行した方などはいきなりラジャスになって能力が現れたことにより本人の目的は達成できたのかもしれないですが、タマスを経て来ていないので精神不安定になってしまっているような気も致します。スピリチュアルでいわゆる「キレやすい」性質を持った人は、もしかしたらこの種の人かなあ... というのが現時点での仮説です。

もちろん、やはりタマスはタマスでしかなくてサットヴァな瞑想でなくては上質な落ち着きのある性質は出てこないのでしょうが、ラジャスやサットヴァだけでは不安定になるのでタマスも必要なのかなあ、という気がしています。

ヨーガの人はサットヴァを目指すことが多いですけど、タマスやラジャスも悪者ではなくて、そもそも目的地としてはサットヴァすらも超えた場所であるわけで、その境地に達したあとはおそらくタマスもラジャスもサットヴァもさほど変わらない性質として鳥瞰できるのかなあ、という感じで理解しています。

サットヴァのことを言う人は、以下の2種類に分かれる気が致します。
・タマスとラジャスを排してサットヴァになってゴール。
・(タマスとラジャスを排するかどうかはともかくとして)サットヴァになり、ついにはサットヴァすら超越する。
ですから、このあたりはコンテキスト次第で読み取るしかないのかな、と言う感じが致します。



タマスな瞑想あれこれ

タマスな瞑想になるのは主に2時期ある気が致します。

・ナーダ音が聞こえる前、雑念が多い時期から雑念を抑えて「無」の瞑想になる時のタマスな瞑想
・ナーダ音が聞こえた後、雑念もかなり減って雑念がほとんどない瞑想になった時。エネルギーのレベルがまだ比較的低い状態の時。自身はサットヴァな瞑想をしていると思っているかもしれない状態。後から見ると比較的タマスな瞑想。相対的にタマスな瞑想だが割とサットヴァが増えてきている状態。これをタマスと呼ぶかどうかは微妙だがタマスと呼べなくはない瞑想。

タマスとかラジャスとかサットヴァとかは主観的なものですので、なかなか誤解があるような気もしています。

私の場合はタマスな「無」の瞑想に入って数日か1週間前後くらいですぐにナーダ音が聞こえ始めましたので、最初「無」のタマスな瞑想に入れたときは「こんな安らぎの瞑想があるのだ」と喜んでタマスな何も感じない、それを安らぎといえば安らぎでもある瞑想に入っていたのですが、1週間前後したらすぐにナーダ音が聞こえ始めてタマスな瞑想に入るのを遮るようになりましたので、最初はナーダ音がむしろ邪魔に思う時もありました。最初は、タマスな瞑想に入るのを邪魔する音だと思っておりました。

ですが、今から思えばそれはタマスな瞑想でしかなくて、ナーダ音を観察することで雑念が消えてゆく体験をしたわけです。

タマスな瞑想をいくらしていても一時的に心が止まるだけで、タマスな瞑想を抜ければまた雑念が復活します。それはそれで安らぎの瞬間ではあるのですが、一時的なものであるわけです。

その後、ハタヨガプラピディカにも記載されているナーダ音の観察を続けてようやく雑念が本格的に減り、現在に至るわけです。



ナーダ音は瞑想中の眠りを許さない

タマスな瞑想は眠りに似ていて、ちゃんと瞑想しているのかタマスの「無」の中に落ち込んで眠りのように無意識になってしまっているのか特に最初は見分けがつかないことがあったように思います。無意識で時間が凄く過ぎているのでしたらタマスな瞑想に落ち込んでいる可能性があると思います。

最初は雑念がそもそも多いのでこの種のタマスな無意識な状態にすらならなかったように思います。タマスな無意識、いわゆる「無」の状態で安らぐことができるのは、それはある程度の成長であると思うわけです。

しかし、その「無」の状態にいつまでも落ちていたら成長がない、というのも確かだと思います。古来、ヨーガの古典はこの種の眠りに陥ることを諫めておりましたが、私が思いますに、ずっと落ちているのはよろしくないものの、通過点としては通る道なのかなと思っております。

そして、私の場合ですが、先にも書きましたようにこの種の「無」の瞑想で無意識に寛げるようになってから割とすぐ、数日か1週間経ったか経たなかったくらいでナーダ音が聞こえてきましたので、その時点で、「無」の瞑想に落ちることをナーダ音が妨げるようになってしまったのです。

これは当時としてはなんだろう、と疑問に思ったものです。せっかく「無」の心地よい眠りのような無意識の瞑想ができるようになったのに、早々にナーダ音がその邪魔をするようになったのですから。

しかし、今から思えば「無」とはタマスな無意識の瞑想に眠りのように落ち込んでいたわけであって、ナーダ音が無意識の眠りに落ち込むのを助けて意識が保つように助けてくれていたように思います。

ですから、ナーダ音は最初は妨げかとも思ったのですが、今から思えば意識を保つための助け舟だったわけです。

その意識の保ちとはヴィパッサナー的な観察瞑想に繋がるのですが、瞑想の目的地は「無」になって無意識に落ち込むことではなく、全てをあるがままに見つめて、見つめつつも心は風のない水面のように平らに保つことでありますので、その目的地に到達するためにナーダ音はとても助けになったわけです。

ナーダ音は瞬間瞬間に変化して心を惹きつけて離しませんから瞑想中はナーダ音に集中する瞑想から始めました。これはハタヨガプラピディカにも書かれてあるナーダ音を観察する瞑想です。

やがて雑念が減り、心が穏やかに平らな水面になるにつれ、ナーダ音に心が引き寄せられなくなりました。心がナーダ音を聞いてはいますし、存在を意識することはあるのですが、以前のようにナーダ音に心を縛り付けておく必要はもはやありません。

しかし、特に最初はナーダ音が意識を保つ助けになりましたし、雑念から心を救ってくれる助け舟になっていたわけです。



ヴィパッサナー状態ではナーダ音は意識から消え去る

最近は景色を眺めて思考なしにスローモーションのように眺めるヴィパッサナー瞑想を良く行っているわけですが、視界にのみ意識を集めるとナーダ音が意識から消え去ることに気がつきました。

視界から再度耳の方に意識を移すと再度ナーダ音が聞こえ始めます。

これは興味深いです。

今までも何かに集中したり思考をしている時はナーダ音のことが意識から消えていましたが、これほど意識的にナーダ音が消せるようになったのはここ最近のことです。

消せる... と言うのは語弊があります。ナーダ音は聞こうと思えばいつでもそこにありますが、視界にだけ意識を集めるとナーダ音が意識から消え去るのです。

今までは、その意識の切り替えがそれほどうまく出来ず、一旦ナーダ音に意識が行ったらその後、消すことが困難でした。

しかし、今は、ある程度のリラックスと集中ができる精神状態という前提条件はつきますが、景色を眺めてスローモーションのヴィパッサナーに入れるような状態であれば割とすぐに視界にのみ意識を集中してナーダ音を意識から消せるようになりました。今までは他のことに気を取られて付随的にナーダ音が意識から消えていましたが、今は、意図して集中してそのようにすることができるようになりました。これは小さなようで大きな違いのように思います。

更に少し試してみたところ、その意識の集中は視界のみならず、例えば、物理的な音に集中すれば意識からナーダ音を消すことができました。同様に、体の感覚、例えば歩いている時や自転車に乗っている時の足の感覚などに意識を集中したらナーダ音を意識か消すことができました。

ただ、音は視覚や感覚と比べて難易度が高い気が致します。

以前から、例えばクラシックコンサートを聞きに行った時に聴覚に集中すると必ずナーダ音が被って聞こえてきてしまうことが悩みだったのですが、今回のテクニックと言いますかやり方を使えば純粋に音としてのクラシックを楽しめるかもしれません。今度、試してみたいと思います。

以前はこれは無意識に行っていて、そうなっているという現象自体は以前から確かめていたことでありますけど、今回の違いは、ヴィパッサナー状態を意図的に作り出すことで意図してナーダ音を意識から消すことができる、という点になります。

以前、ハタ・ヨーガ・プラディーピカーの「音のないところ」についての記述を引用しましたがそれによると、音のないところがヨーガで言うところのアートマンだ、と言われています。

意識がヴィパッサナー状態になって視覚・聴覚・感覚が意識を占めると音がなくなる、というのは、アートマンと意識が一体になる、という解釈も成り立ちます。個人的な推測ですけれども。

ヴィパッサナー状態でナーダ音それ自体に意識を向けることができて、それによってもちろんナーダ音を観察することもできますが、景色や聴覚や感覚を感じるのとナーダ音それ自体に意識を向ける時とではちょっと違う感じが致します。ヴィパッサナー状態でナーダ音を観察し始めた瞬間にヴィパッサナー状態が解除されるような気がするのです。主観ですが。

ハタ・ヨーガ・プラディーピカーによれば、ナーダ音が聞こえるところはシャクティ、いわゆる力・パワーに過ぎない、と言われています。ですから、ヴィパッサナー状態でシャクティであるナーダ音を観察しようとしてもアートマンから離れてしまってヴィパッサナー状態が解除されてしまう・・・ というのは、一応は理に叶っているような気も致します。ただ、どこにもこんなこと書いておらず、私の感覚でのお話になりますが。

一方、それは気のせいでヴィパッサナー状態でナーダ音を観察できているのだとしても、何も困ることはありませんが、やはり、ヴィパッサナー状態でナーダ音に意識を向けるのは何かちょっと違う感じがしております。おそらくは、ナーダ音を観察するのは中間的な意識で、ヴィパッサナーで観察するのはナーダ音を聞いているのよりもちょっと上位の微細な意識なのではないかなと思います。

上で、ヨーガでいう4種類の音について引用しましたが、通常の耳で聞こえる音がヴァイカリーで、次のマディヤマーが「聞こえる音と聞こえない音の中間」で、おそらくこのマディヤマーがナーダ音だとすれば、ヴィパッサナー状態ではそれよりも高い微細な意識状態になっているのだと推測できます。おそらくはパシャンティー(パシュヤンティー)の段階なのかな、と。パシャンティーは耳で聞こえる音ではなく「観える音」と比喩されていますので、ヴィパッサナー状態に相応しい気も致します。

この段階のお話は諸説あって、ヴァイカリーとマディヤマーの間がナーダ音という説もあるようですが、今回のお話で言えば同じことです。一方、アナハタ・ナーダが「真我(コーザル体)」で聞こえる音というお話もあるようで、それは良いとしても、それを元にアナハタ・ナーダがパシャンティーやパラーが相当するのではないかと推測したこともありますが、その推測は今思えばしっくりきません。

今回のヴィパッサナー経験に基づきますと、上記の分類にしておくのがスッキリしそうです。

以前の一覧に追記します。(太字部分)
・ヴァイカリー 通常の耳で聞こえる音
・マディヤマー 聞こえる音と聞こえない音の中間。神妙な囁きのような音。ナーダ音
・パシャンティー(パシュヤンティー) 耳で聞こえる音ではなく「観える音」。スローモーションのヴィパッサナー瞑想で認知されるもの。
・パラー 聞こえない音、沈黙の音というような意味であるが、宇宙の始原的な響きであり、瞑想の最も深い部分



瞑想中、漆黒の雲に包まれる

普段の瞑想では薄明かりを感じることが多いのですが、今日は、最初はいつものように薄明かりを感じていたのですが、ふと目の前に黒い雲が現れ、それが顔の周りを包み込んで視界が急に暗くなり、そのまま漆黒の闇に包まれました。

その雲は、雲というよりも見た目は黒い脳味噌のような有機的な鼓動を打っており、雲であるような脳味噌のような有機的な黒い雲でした。それが顔の周囲、頭のあたりまで包み込んで私を深い意識に送り届けているような感じでした。

今までの瞑想で「無」というと意識がなくなる感じでしたが、これはまた違った「無」とも言えるもので、ですが、意識は依然としてしっかりあって、それでいて意識が深いところに導かれてゆきました。

それは「無」というと語弊があるかもしれません。それよりも、「漆黒」と呼んだ方が的確かもしれません。漆黒の雲あるいは漆黒の磁気嵐の中に意識が入り込んだ感じが致しました。

その意識状態でいると、今までの瞑想とはまた違った、電気的に意識が常に刺激されている感じが致します。

特にそれでトランス状態になるとか彷彿状態になるとか変性意識になるとか、そういうことはないのですが、ただ単に、漆黒の中に意識が入り込む... というか、意識が漆黒の状態に導かれてゆくような感じが致しました。

雲は電気を帯びており、まるで雷雲のような感じも致します。

「無」と言えばナーダ音が聞こえ出す1週間前くらいにも無の中に入り込む経験をしましたけど、その時は意識が停止するいわゆる「ラヤ」状態だったように思います。

今回も似たような「無」ではあるのですが、質としてはおそらく同じ「無」であっても無に包まれた際にも意識が明確なままである、という点が違います。昔は無に包まれるとそのままラヤ状態になって意識がなくなっていましたが、今は起きています。

懐かしい「無」に再開した感じが致しますが、その時は本当に真っ黒で漆黒でしたが今回は電気を帯びていて微かに電気のほとばしりが雲の所々に見えるところが違います。

瞑想はどこまで行っても色々な変化が次々に現れてきますね。



凪の状態の先で、深い意識の平穏と寛ぎが訪れる

かつてナーダ音が聞こえ始める直前の1週間ほどの間、意識をギュッと鎮めて意識を止めることでいわゆる「無」の状態に入って安らげるようになりました。今回の平穏はその時の感覚と似ていますが、今回は意識は動いたままの安らぎです。

その時はヨガをほぼ毎日し始めてから約3ヶ月後のことでしたが、夜に眠る時に非常によくリラックスできて深く穏やかに平穏の意識で眠ることができたのを覚えています。

しかし、その安らぎもわずか1週間のものでした。ナーダ音が聞こえてきたのです。ナーダ音は瞑想中の眠りを許さない自動的な意識の覚醒を伴いますのでそのような「無」の感覚は無くなったのです。

最初は、このナーダ音を苦々しく思ったものでした。せっかく「無」の状態になって安らぐことができるようになったのに、どうしてこのような音が聞こえてきて静寂を邪魔するのだろうか、と。

しかしながら、勉強するにつれ、私が行っていたのはヨーガ行者としては行ってはならないとされている「意識の停止状態で寛ぐ」という種類のものだったのかもしれないと思うようになりました。それをわずか1週間でナーダ音が聞こえてきて強制的に解除されてしまったのは良かったことなのではないかと今では思います。

誤解をして欲しくはないのですが、ナーダ音そのものは「ある程度の浄化がされたことによる成長の印」です。しかしながら、それはより微細な世界への扉をも開いてしまい、意識が敏感になってしまったのです。

かつて、ナーダ音が聞こえる前はかなり鈍感だったように思います。感覚もそれほど微細ではなく、その当時の意識を鎮めることができて安らぐことができました。それはそれで成長だったと思います。

意識が静まると微細な世界が私の目の前に開け、そして、やがてはクンダリーニ経験もしてエネルギーは高まってゆくわけですが、微細な世界が開ける前、クンダリーニ経験をする前に「無」を体験した時に感じた安らぎと、最近私が感じている意識の平穏とが割と似通っているのです。

前回は強制的に意識を抑え込んで「無」の状態にすることでリラックスしました。意識はほぼ止まっており、ナーダ音も何も聞こえず、息の感覚だけがするくらいの意識で「平穏と安らぎ」を感じておりました。そのような深いリラックスはそれまでは意図的に作り出すことができませんでしたが、その1週間はすぐに意識を抑え込むことで簡単にその「無」の状態でリラックスすることができました。

それから何年もの間、同種の「無」のリラックスは体験しておりませんでしたが、今回、意識が凪の状態になって瞑想を続けていたところ、意識は働いているにも関わらず昔体験したような「無」の時のリラックス状態がやってきたのです。

リラックス状態は、ナーダ音が聞こえて以降は意識が敏感になっていてここまで深く入ることが難しかったように思います。

しかし、今回は、意識が働いているのにも関わらず同様のリラックス状態になったのです。

前回の時も、今回の時も、「見る」という意味での観察は変わらない気が致します。一方で、前回は強制的に雑多な意識を抑え込んでいたのに対し、今回は自然にしていながら雑多な意識が鎮まっている、という違いがあります。

前回は雑多な意識を抑え込むことで「無」の状態を作り出し、「観察」は動いたままで深いリラックス状態を体験していました。しかしながら、ナーダ音が聞こえてきた後は意識がナーダ音に囚われてしまうためにそのような深いリラックス状態に入れずにいました。

雑念がナーダ音に引きつけられることで瞑想自体はやりやすくなったのですが、雑念を強制的に止めて「無」に入ろうとしてもナーダ音は意識では止めることができないので完全なる「無」には入れなくなってしまったのです。

今回は、雑多な意識が自然に静まる状態まで瞑想を続け、「観察」は動いたままで深いリラックス状態を体験しています。ナーダ音は変わらず聞こえていますが、ナーダ音が聞こえたとしてもそれに反応して飛びつく雑多な意識というものがそもそも鎮まっていますのでナーダ音が聞こえていたとしてもリラックスは邪魔されません。

これは、似ているようでいてかなり違う状態であるように思います。

最初の状態は単に雑多な意識を強制的に抑え込んでいる状態で、それは「無」と表現するにふさわしい気が致します。もちろん言い方は流派にもよるでしょうが、「無」と呼ぶのが個人的には一番しっくりきます。それによってリラックスを体験し、そのリラックスは非常に有益だったように思います。

しかしながら、微細な世界に入り、更にはクンダリーニが動き出してエネルギーが高まるにつれてナーダ音にしろ体のエネルギー的な不調にせよ様々な悩みが出てきたものでした。

ここにきて、エネルギー的にも調和が取れ、意識としてもナーダ音に左右されないリラックス状態が保てるようになったように思います。

ナーダ音は雑念が多い時に瞑想する際は助けになると思いますし、雑念に飛びつくような雑多な意識はナーダ音が聞こえるとそちらにしがみつくようになりますからナーダ音が聞こえ始めたら瞑想が早く進むようになります。

しかしながら、それに頼っているうちはまだ雑多な心が「何かに飛びつく状態」であることには変わりがないのですね。きっとそうなのだと思います。

瞑想が進み、意識が簡単に外の刺激に飛びつかなくなった状態であれば、ナーダ音にも飛びつかなくなります。そうして意識の平穏が保たれる時にようやく微細な意識のままリラックスできるようになるのかなと思います。

まだ荒い意識のままでリラックスできたとしてもより微細な意識に入ることでリラックスが妨げられ、そして、今回、微細な意識の状態でリラックスができるようになったのかなと思います。

ナーダ音が聞こえなくなったわけではありませんが、ナーダ音が意識に入らなくなった状態でもあります。ナーダ音を探せばナーダ音が聞こえますが、そのことによってリラックスが邪魔されることはありません。

ナーダ音が聞こえ始めてからしばらくの間に瞑想をしていた際は、ナーダ音にしがみつくことによって安らぎとリラックスを得る瞑想でした。しかし、今回は、ナーダ音が横にいて、それにしがみつくことなしに達成できるリラックスです。これは似ているようでいて、かなり違う状態であるように思います。



静寂の境地に浸ることを許さない奥深い意識

少し前までは静寂の境地に至ると平らな状態になっていわゆる平穏あるいは流派によっては涅槃と言うに相応しい状態になっておりました。

今は、静寂の境地に達すると奥深いところに意識が存在するようになって、涅槃の別のバージョンみたいになっています。ただ、これは流派によっては涅槃とは言わないようですが、なんとなくの概念としてとりあえずは涅槃としておきます。

最初は、この状態は少し戻ってしまった状態で再度涅槃に至る必要があるのかなと思っておりましたが、今の理解としては、涅槃には違わないけれども奥深い意識が現れ出したのではないか、と解釈しております。

これは、言葉で説明するとちょっと難しいですね。

涅槃の境地に至る前はある程度の静寂の境地とリラックスが段階的に現れていました。そのような段階的な静寂の境地とリラックスは今もあるのですが、以前との違いとしては、涅槃の境地に相当するところでも地平線の彼方まで見えるという感じではなく、胸の中に何かが脈動している、という感じです。

涅槃の時は胸のあたりに何もなくてお腹のあたりにオーラが凝縮されている状態でした。頭のタマスをハートや下半身に落とすことで静寂の意識に至っていたわけです。

基本は似ていて、今も同様に頭のタマスをハートや下半身に落とすわけですが、昔と今の違いとしては、昔はハートのあたりに感覚がなくて下半身に落ちていたのに対し、今は、ハートがそれらのヴィシュッダで浄化されたタマスを受け取る、という感じになっています。

昔も今も後頭部に集中するというところは変わっていなくて、後頭部に集中しさえすればタマスが集まってヴィシュッダに吸い込まれる、というのは同じであるわけですが、その後、以前は下半身に落ちて涅槃になって、今はハートの核で動いている奥深い意識で受け止めている状態なわけです。

これは、かなり段階は違うのですがかなり昔、ナーダ音が聞こえ始めた頃にも似たようなことが起こったように思います。ナーダ音が聞こえるようになる少し前は「無」の状態になって完全に心が停止して無意識で完全にリラックスした状態になったのですが、1週間くらいでナーダ音が聞こえてきてその「無」を妨げ始めたのです。ナーダ音によって意識が起きている状態を強制してきたわけです。

今回は、その時とは状態はかなり違うのですが、涅槃に留まって安寧に過ごしていたら奥深い意識動き出した、と解釈することができます。

ナーダ音が現れたときは、無の意識に落ち込んでそのまま過ごすことを許さない、という感じでした。ナーダ音が現れる前の1週間は無の意識での完全なるリラックスを楽しんでおりました。しかし、そのような眠り込むような無の意識にずっと留まることを許さない、といわんばかりにナーダ音が聞こえてきました。

今回は、涅槃によって意識が停止して静寂の境地における完全なる無意識いわゆる「空」のような状態を楽しんでいたらその奥底からまた深い意識が現れ始めて、涅槃で無意識に留まることが許されない感じです。

今回はナーダ音のように音というわけではなく、胸のあたりにある、奥底から突き動かされるような感覚です。その感覚が奥深くから私を揺さぶるというか圧力を内から外へとかけている感じで、涅槃の安寧の状態に安楽に留まることをその奥深い意識が許していない感じです。

タマスの無の眠りにせよ、今回のような涅槃の静寂の境地にせよ、どちらも悟りではなくて、まだ先があるということだと思います。


(追記→ どうやら禅宗的にはこれは涅槃と言わなくておそらくは第四禅定です。流派によって涅槃の位置付けが異なるようですね。後日詳しく書きます。)



ナーダ音があれば普段聞く音楽はいらない

どのような素晴らしい音楽よりも上等の音楽が無限にナーダ音で聞こえてきます。それは音楽というには大したメロディではなくて無限の音程と無限に続く高音の連なりではあるのですがそれさえあればそんじょそこらの音楽なんていらなくなります。

JPOPやロックやジャズ、あるいはクラシックなど数多くありますが、このナーダ音以上に素晴らしい音楽はありません。

そのほんの一部だけを取り出したら交響曲ができると言ってしまうと大げさかもしれませんし、実際のところ、交響曲のような複雑なメロディはない・・・ と言ってしまうと語弊があるかもしれませんが、俯瞰して言ってしまうと単純な高音の連なりではあるのですがそれは無数の音楽の連なりでありますので交響曲の何十倍何百倍もの複雑な音楽の奏でが一度にしかも無限に果てしなく聞こえてくるのがナーダ音なわけです。

ナーダ音こそが至上の音楽であって、それ以外はその一部を切り出したもの、と言えなくもありませんが、それではそれはどのようなものかと聞かれたら、再度繰り返しになりますが、一見すると単なる単一っぽいピーという高周波の音でしかなくて、言葉でそう言われてしまうと「なーんだ」と思われてしまうかもしれませんが、実際のところその高周波は細かく変動していて、変動の中身は更に細かい多数の波の連なりで、それはまさに根源の音楽であるとも思えるわけです。

私はナーダ音が常日頃、日常生活で聞こえるようになって以降は音楽を聞くことがほとんどなくなりました。

コンサート等に行って聞くこともありますけど、ナーダ音が常に聞こえてきてしまいますのでナーダ音に意識を合わせずにコンサートの音のみに集中しないとナーダ音とコンサートの音が被ってしまいますのでちょっと不便なところも一応はあるのですが、そうして気をつけつつたまにコンサートを楽しむこともあります。特にオペラがコロナ前まではお気に入りでしたがコロナ以降は行っていません。

そのように、たまに生演奏を楽しむことはあっても、基本的にはナーダ音が私と常に共にある音楽であって、ナーダ音があれば音楽などいらないわけです。

他の人がどうなのかはわかりませんけど、少なくとも、私にとってはナーダ音があれば音楽は不要になっています。

かと言って音楽を否定しているわけではなく、音楽が存在していても、もちろん問題ないと思っています。ただ単に、私には普段聞くような音楽が不要になったというだけのことです。

昔はCDを買って日常に流すなんてことをしていましたけど、今はナーダ音がありますので不要になったということです。

テレビやYoutubeなどのBGMで音楽があることを否定しているわけではなく、雰囲気を表現するための音楽があっても全く問題ないとおもています。それはコンサートと同じで、表現としての音楽なわけで、そのような表現の音楽を否定しているわけでは有りません。

ただ単に、日常生活と共に流しておくような音楽は不要になった、というお話です。それはナーダ音という最高の音楽が常にあって、それが無限に現れ続けていていますから、それ以上のものは不要ということです。



心と五感の観察を同時に行う

最初は心だけ、あるいは五感のうちの1つだけを観察しますが、少しずつ同時に行う感覚になっている時間が増えてきたような気が致します。

特に、視界がスローモーションのヴィパッサナー状態になった時は五感のうちの1つである視覚にだけ意識が集中し、意識はそれで満たされます。

一方で、ナーダ音を聞いている時は意識がナーダ音で満たされます。

どちらにせよそれに集中している状態ですけど、集中と言っても良いですし、観察とも表現できると思います。表現方法の違いだけで、集中と言うか観察というかの言葉の違いだけです。

これらは、集中する時に利用する五感の種類が違うだけでどちらも1つの感覚を主に観察しています。

一方で、心というのはもっと微細で、心と言っても感情面あるいは心の声である想念的なものもありますから、感情はどちらかというと五感に近いものですけど、心の声である想念は五感に近いものからもっと深いところまでグラデーションがあります。

最初は心だけ、あるいは、五感のうちの1つだけを観察することに努めた後、やがて、その組み合わせになってゆくように思います。

やりやすいのは五感の方ですけど、瞑想するのであれば静寂の境地をまずは目標にすべきで、そうであれば想念が対象になるわけで、想念を観察するわけですね。

実際のところ瞑想の最初は静止(シャマタ)から始まるわけですけどとりあえずそのステップを抜かして全体像だけわかりやすく説明しますと、心の観察か五感の観察かという大分類がまずあって、そのうちどれから観察するか、というところが入り口になるわけです。

心は奥深いですから五感から始めても良いですし、心の特定の階層から始める場合もあるわけです。

瞑想で、特にサマーディやヴィパッサナーのような状態になれば観察状態になるわけですけど、その場合でも、心あるいは五感のうちどれか1つのみのサマーディあるいはヴィパッサナーから始まって、やがて、その組み合わせになっていきます。

最初は座っての瞑想ですけど、そのうち、日常生活でのサマーディあるいはヴィパッサナー状態になって、そうなれば、例えば最初は皮膚の感覚あるいは目の感覚だけ微細になって観察状態になり、そのうち、それだけでなく心の声である想念も観察できるようになります。

最初から想念の観察ができればそれをしても良いですけど、心は微細で、五感の方が粗大な感覚ですから五感の方が割とやりやすいわけです。ですけどたとえ五感から始まっても時間が経てば心の観察も自然にできるようになりますので、次第に組みあわせが増えていって、そのくらいになれば特に意識しなくても日常生活で割とサマーディあるいはヴィパッサナー状態を保てる気が致します。

これは、油断しているとその状態から落ちてしまいますけど、落ちたからといって悪いということではなく、どの時点が自分のサマーディの力の限界かを知ることは重要で、普段の日常生活をしていてもどのくらまでサマーディを保つことができるか、という日常生活そのものが修行になっているわけで、日常生活が悪いということはなく、座っての瞑想ばかりしていればいいといわけでもなく、普段の日常生活もそれはそれで大切になってくるわけです。



エネルギーがアジナやサハスララに満ちるのをただ待つだけの瞑想

以前は、瞑想中にエネルギーを操作して陰陽エネルギーを混ぜ合わせるということをしていました。

今は、ただ座って手を膝の上に置くか前で手を組んで眉間に意識を合わせているだけです。

以前はマントラを唱えて効果がありましたし、今もエネルギーが部分的に通っていないと思う時は同じようにマントラを唱えて効果がありますけど、基本的にはマントラは唱えない瞑想を最近はしています。たまに思い出してマントラを唱えてみたりもしますけど効果がないことの方が最近は多いです。効果がないというよりはマントラが効果のある部分に関しては既にエネルギーが通っているので、エネルギーがきちんと通っているかどうかを確認するという意味においては効果があるとは思いますし、エネルギーが通っていなければマントラによってエネルギーが通りますので、確かめのために少し唱えてみるのは有効かなとは思っています。しかしながら基本はあまりマントラに頼ることは最近はなくなりました。

最近の瞑想は、特に呼吸に意識を合わせることもなくなりました。かなり昔は呼吸瞑想と言って呼吸に意識を合わせることもしましたし、それはそれで効果があったと思いますけど、最近はしませんね。

また、ナーダ音に意識を合わせる瞑想というのもしていましたが、最近はしませんね。ナーダ音を使った瞑想はハタヨガプラピディカに書かれていて、ナーダ音に意識を合わせることでサマーディ状態に導く、とあります。それはそれで有効でそれなりに長い間、ナーダー音に意識を合わせる瞑想をしてきました。

瞑想にて意識を無にせず意識を保っておくということは重要で、そのためにナーダ音の果たした役割は大きかったと思っています。しかし、今はそのようなナーダ音に頼ることはほとんどなくなりました。たまにナーダ音に意識を合わせてみたりもしますけど、基本はナーダ音の瞑想は最近はしていません。

最近は、文字通り、座って眉間に意識を合わせてただエネルギーがアジナやサハスララに上がるのを待つだけです。

エネルギーが上がれと念じたりはしませんし、以前のようにぐるぐるとエネルギーをオーラの手のようなものでかき混ぜて上げたり下げたり、ということもしません。

このやり方は割と古典ヨーガで言われていて、瞑想は座って眉間に意識を合わせなさい、とはいうものの、以前はどこかしっくりきていませんでした。多少の効果はありますけど、眉間よりは後頭部の方が意識を合わせる場所としては安定していました。

ですから、この古典ヨーガの眉間に意識を合わせるというやり方はそれなりの納得はあったとは言え、どこか、それは違うのではないかという疑念のようなものがありました。

しかしながらここに来て、古典ヨーガの教える通り、ただ座って眉間に意識を合わせるだけでエネルギーがアジナやサハスララに満ちてきて、特にそうなれと意図しなくてもただ文字通り座って眉間に意識を当てるだけでエネルギーがそのように動く、という感じになってきています。

以前もそうなることはありましたし、眉間や後頭部に意識を合わせていて不意に意識が静寂になったりもしていましたが、最近のように、文字通りただ単に座って意識を眉間に合わせているだけ、というよりは、もうちょっと色々と何かしていたように思います。

かと言って、最初から古典ヨーガのやり方だけをしていたら良かったとは思えなくて、やはり、その時々に合わせたやり方があったのだろう、と思っています。

確かに今となってはこの古典ヨーガのやり方が一番しっくりきていて、それだけで十分なのではないかと思うことも最近はあるにはあるのですけど、かと言って他の人にそれだけしていればいいとは言いませんし、おそらくは古典ヨーガのやり方だけで成長するのは特にこの現代においては困難なのではないかとも思います。

そうは言いましても、今となればこの古典ヨーガのやり方が一番しっくりきているわけで、もしかしたらしばらく経てばそれだけでいい、という理解になるかもしれませんが。

一方で、それだけでなく他の方法もあるかもしれない、という探究心と言いますか選択肢の余地は残しておくべきかなとは思っています。その上で、今はこの古典ヨーガのやり方が一番しっくりときています。

古典ヨーガにおいては、雑念はほおっておけばエネルギーを失って消えてゆく、とも教えていて、その点もしっくりきますけど、それはちょっと別のお話です。

今は、文字通り、座って眉間に意識を合わせるだけの瞑想をしています。エネルギーの操作もせず、雑念が出ても観察状態で意識は保たれて雑念の発生と消滅を観察しています。そうして、意識を眉間に集めているだけで次第にエネルギーがアジナやサハスララに満ちて静寂の境地、観察状態、サマーディ、ヴィパッサナー状態に至るわけです。



ナーダ音かと思ったらまず耳鼻科を受診しましょう

ナーダ音とは瞑想などにより浄化がそれなりに進むと聴こえてくる高い音ですが、ヨガ等をしていて聞こえる方もそれなりにいらっしゃるかと思います。

これに関して自分が聴こえているのがナーダ音かもしれないと時々問い合わせが入るのですが、まず基本的にリモートでは全く診断はできませんし、直接の診断とか指導は行っていませんので、気になるなら耳鼻科をまず受診してくださいと伝えています。

何か聴こえてきたら耳鼻科を受診して耳に異常がなかった時に初めてそれがナーダ音かもしれない、と一応の仮説を立てます。

耳鼻科で診てもらえるのは物理的な耳だけですので、耳鼻科で問題なしと言われてもこの時点ではまだナーダ音かどうかはわかりません。

ストレスを受ける生活をしている時は耳に異常がなかったとしてもストレス要因による耳鳴りが起こる場合があります。

あるいは、頭蓋骨の状態や何かの骨の位置が原因で耳鳴りが起きている可能性だってあります。

どちらの場合も耳鼻科ではわかりません。

ですから、何か不思議な音が聞こえてきてもそれがナーダ音だと早合点しないことですね。

ナーダ音かどうかの判断基準は一応はありますけど、そうは言いましても最初は普通の病院で診てもらうことをお勧めしますね。

メールでの問い合わせには一応は簡単に答えたりはしていますけど、それは指導ではなくてメールの内容への感想とか感想メールに対するお礼です。私は医者ではありません。色々書いてはいますけど特に指導とかしているわけではありません。

ナーダ音だと早合点して病院に行かずして悪化させてしまったとしても何も責任取れませんのでまずは病院に行っていただければと思います。



雑念が出ても放っておく、という教え

瞑想の流派によっては「雑念が出ても放っておきましょう」という教えがありますけど、その教えは瞑想の集中状態あるいはサマーディの、特に心のサマーディの観照状態において正しいように思います。

ですけど、それ以前であれば、それは単なる標章としてしか機能しないように思います。

雑念が出ても放っておく、という教えに従って本当に放っておくならば雑念が拡大していって雑念のループにより雑念が強くなり、怒りや憎しみ、嫉妬などの思いがより強くなるのが(瞑想をあまりしていない人にとっては)普通のように思います。

雑念が出ても繰り返さない、という教えをしているところもありますけど、それは「結果」としてはその通りですけど、そのようにしようとしてもできるものではありません。

もし、心でそのことを意図するのならば、瞑想ができているイメージを作り上げて「私は雑念が出ても放っておくことができています」「私は雑念が出てきても繰り返しません」という、雑念でしかない心の思いを何度も繰り返すことでその気になる、というようなことも簡単に起こります。これは瞑想初心者にありがちなことで、おそらくは誰しもが通る道ですのでそれほど悪いことではなく、むしろ、瞑想をして少し経験を積んだ証となるものですけど、そこで立ち止まるわけにはいかないのですよね。

結果として雑念をループさせない、というのは良いとして、それ自体が「手段」ではないのですよね。

ですから、雑念をループさせないための手段を考える必要がある訳です。

それは聖典に記載されていて、マントラを唱えるとか、眉間に集中するとか、聞こえる人であればナーダ音を聞くことで心を一点に縛りつける、というようなことをおこないます。これらは手段としては違いますが、いずれにしても彷徨う心を縛り付けて1点に集中させる、という点においては共通しています。これらの手段のうち、通っている流派で教えている方法があればそれをすればいいですし、あるいは、選べるならば自分に合ったやり方をすれば良い訳です。この段階において良し悪しはさほどなく、好みと、自分に合った志向があるだけです。

この段階では「雑念が出ても放っておく」ということはなくて、雑念が浮かぶ場所である心の動きを封じ込めて1点に縛りつけることで他のことが心に浮かばないようにするわけです。マントラを唱えて集中しているときは雑念が入ってきませんが、油断すると雑念が入ってきますのでそこは意思の力でマントラに集中を何度となく戻す、ということをおこないます。眉間に集中する場合もそうです。眉間に集中していると雑念が入ってきて眉間への集中が途切れたりしますが、ふと気づいて意思の力で眉間への集中を戻してあげます。これは目を瞑っているとなかなか気付けない場合もありますが、急いでいなくて時間に余裕がある場合は少しずつ行えばいいと思います。ナーダ音に関しても同様で、ナーダ音に集中することが基本で、雑念が入ってきてもそれは放っておいて、ふと気づいてナーダ音に意識を戻してあげます。

この種の、雑念が入ってきてもそれを追わずに放っておいて瞑想の集中に戻す、というのが基本としてあります。このお話は、心は基本的に1つしか考えることができない、ということをベースにしています。瞑想の集中の対象にフォーカスして、雑念が入ってきてもそれを追わずに放っておいて瞑想の対象に集中しましょう、という教えです。

瞑想において雑念が出ても放っておく、というのは基本的にはこういうことを言っているわけですけど、その先に、サマーディ状態において心の観照状態というのもあって、それも表現としては割と似ていて雑念が出ても放っておく、ということにはなるのですけど、心のサマーディにおいては心の背後にあるアートマン(真我)が観照している状態ですので、状態としてはかなり違うわけです。



ナーダ音と目覚めた意識

目覚めた意識があるかないかでナーダ音の位置付けは変わってくるように思います。

心の本性(セムニー)が目覚めた意識(リクパ)を持っているときはナーダ音があってもそれを横から見ている状態になります。

一方、まだリクパが現れていない、あるいはとても弱い場合は、ナーダ音に顕在意識の心(思考する心)がしがみつく形になります。この場合、雑念が現れてくると気分が悪くなったり混乱して頭の中で思考がグルグルと回ることになります。

後者の状態の場合、聖典では「ナーダ音に集中する瞑想」と言うのも言われていて、サマーディに達する前段階の瞑想として、ナーダ音に集中することでサマーディに到達できる、と記されています。

(5章79~80) 右の耳のなかで内から発する心地よい音が聞こえるであろう。初めにコオロギの音、次にはフルートの音、それから、雷、太鼓、蜂、ドラ、さらに進むと、トランペット、湯沸かし太鼓、ムリダンガ鼓(南インドの両面太鼓)等の騒音楽器の音及び太鼓の音が聞こえてくる。
(5章81~82) そしてしまいには、かのアナーハタの音の響きが聞こえ、その音のなかに光が存在し、その光の中にマナス(こころ)が存在し、そしてこころはそのなかで消えてしまう。これがヴィシュヌ神の高御座に達した境地である。かくの如く三昧(サマーディ)に達するであろう。
「続・ヨーガ根本経典(佐保田 鶴治著)」より

サマーディにも色々な種類がありますが、この記述のサマーディはまだアートマンには達していなくて、まだ心の本性(セムニー)の目覚めた意識(リクパ)が出てきていない状態です。それでも、雑念と煩悩に悩まされていた時からすれば遥かな進歩ではあるのですが、まだ終わりではなく、この先に心の本性(セムニー)が現れて目覚めた意識(リクパ)が働き出す段階があるわけです。

ナーダ音が消えてなくなる、というのはまだリクパが現れていない時のお話で、それはそれで一つの成長の階梯として存在しているとは思いますけど、リクパが現れた後はナーダ音は割と常に存在していて、でも顕在意識はそれに惑わされない状態になるわけです。

その、リクパが働き出した状態においてはナーダ音と顕在意識としての心(思考する心)のすぐ横に「見つめる意識」とでも言うものが現れて、ナーダ音が聞こえていることそれ自体と、ナーダ音を認識している普通の心(顕在意識、思考する心)そのものを横から眺める意識というものが存在しています。

この、「見つめる意識」あるいは「観察する意識」とでもいうものは聖典が説くところによれば最初から存在していたもので、元々あったということは何か新たに獲得する能力とかではなくて、文字通り全ての人間に最初から備わっているものなのですけど、混乱したこの世界に生きていると曇りが生じてその心の本性(セムニー)が覆い隠されてしまい、目覚めた意識の働き(リクパ)が働くなっているわけです。そこで瞑想をしたり修行をすることで覆いを取り外せば誰でも悟ることができる、と聖典は言います。これはその通りだと思います。

目覚めた意識の働き(リクパ)が現れるときは、普通の心(顕在意識)とは別に、心の本性(セムニー)が現れて、ナーダ音を見つめるようになるわけです。リクパが現れる前はナーダ音に意識すると普通の心(顕在意識)の全てが持っていかれてしまいましたけど、リクパが現れた後であれば、顕在意識は選択的にナーダ音を意識することもできますしそれ以外にも選択的に認識することができるようになります。そのように選択的に顕在意識を働かせるためには、顕在意識を制御して観察する心の本性(セムニー)が必要で、セムニーによるリクパの働きがあってこそ、顕在意識が無意識で揺れ動かずに選択的に意識的に働くことができるわけです。顕在意識そのものは道具のようなもので、その奥にあるセムニーによるリクパの働きによって意識的に顕在意識が動くことができるわけです。